
光を光と見なすものは、闇を闇と見なし、闇を光と見なすものは、光を闇と見なす。
まさに光と闇こそは、正邪善悪の正しい認識と、その転倒夢想とを表徴する
最たるものであり、易学も正邪善悪の分別法を「陰陽」に見立てて提示してもいる。
光と闇ほど相違が明白なものは他になく、「光は闇である」「闇は光である」
というような混同が、生まれつきの全盲者でもなければありはしない。
視力を持つ生物は必ず光と闇を見分け、光と闇を見分けるためにこそ視力を持ってもいる。
光と闇を見分けないのなら元から視力などいらないのだから、視力を肯定する以上は
明暗の区別をつける。仏教のように眼識の普遍性を否定して善悪を超越する
のならともかく、視力を肯定するのなら必ずそこに明暗の区別がある。
明暗の区別がある以上は、正しい区別と間違った区別とがある。
光が光であり、闇が闇であることは、視力の肯定者である以上は普遍性を付与すること。
しからばなぜ、光を闇とし闇を光とする過ちが生ずるのかといえば、それは見た者の
脳内での錯覚による。暗いところで見た多少明るいものが、明るいところではむしろ
暗い部類のものに見えたりするように、視覚情報を処理する大脳後頭葉が明暗の区別を錯覚する。
それと同じように、本当は悪の部類に入るものを、善であるかのように錯覚させる
洗脳情報が大脳側頭葉に一時保存され、自我がその情報を是と見なせば前頭葉に長期保存される。
そのような反倫理洗脳が日々蓄積されていけば、本人自身が自発的に善悪を転倒させた
劣悪な思考や言動ばかりをこなすようになって、正しい思考や言動ができなくなってしまう。
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