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聖書 Part6
▼ページ最下部
世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。
特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

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イエスは、人間の心中における普遍的な理性の実在を、一切察しなかった。
朱子学でいうところの「性」、唯識思想でいうところの「阿頼耶識」にあたる普遍的理性の
心中における実在を全く察知せず、元から皆無であるとした上での言行に終始した。
仮に普遍的理性を不在とした場合、人間の心中に何があるということになるのかといえば、
ただの「情」だけがあることになる。朱子学でいうところの「情」、唯識でいうところの「末那識」
だけが心中にあることになり、イエスはこの情や末那識に相当する部分だけを心の全てと見なして、
情や末那識が濁悪に汚損されることを「神の愛」の名の下に深刻化させることだけに与した。
情や末那識に相当する濁念が人間の心中に存在することを、朱子学や唯識思想も決して否定してはいない。
性と情、阿頼耶識と末那識の総合こそは「心」であり、場合によっては情や末那識ばかりに人間の心身が
取り込まれて、性や阿頼耶識による制御が効かなくなる場合があることすらをも認めている。しかし、人間の
心中に普遍的理性としての性や阿頼耶識が実在し、そこに道理や真理の普遍的な判断基準が存在することをも認め、
朱子学に至っては、性による十分な制御を受けた情をも兼ね備えた心が抱く仁愛こそは、至上の愛ともする。
そこら辺、情の濁悪をまんま「神の愛」などと見なすイエスの考えよりも圧倒的に深く、イエスが把握
していた範囲の心よりも遥かに広い範囲の心を捉えられているといえる。故にこそより普遍的な人の心の
理解であるといえ、イエスの心に対する理解を完全な「偏見」と見なすに値する確実な証拠でもあるといえる。
「維れ此の王季は、帝其の心を度り、其の徳音を貊らぐ」
「ああかの文王こそは、帝としてよく人々の心を推し量り、それぞれに
天分として備わっている徳性を鳴り響かせることで、その心を和らげたものだった。
(性と情の総合としての人の心をよく推し量っていたから、天性の善徳を鳴り響かせられた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)
朱子学でいうところの「性」、唯識思想でいうところの「阿頼耶識」にあたる普遍的理性の
心中における実在を全く察知せず、元から皆無であるとした上での言行に終始した。
仮に普遍的理性を不在とした場合、人間の心中に何があるということになるのかといえば、
ただの「情」だけがあることになる。朱子学でいうところの「情」、唯識でいうところの「末那識」
だけが心中にあることになり、イエスはこの情や末那識に相当する部分だけを心の全てと見なして、
情や末那識が濁悪に汚損されることを「神の愛」の名の下に深刻化させることだけに与した。
情や末那識に相当する濁念が人間の心中に存在することを、朱子学や唯識思想も決して否定してはいない。
性と情、阿頼耶識と末那識の総合こそは「心」であり、場合によっては情や末那識ばかりに人間の心身が
取り込まれて、性や阿頼耶識による制御が効かなくなる場合があることすらをも認めている。しかし、人間の
心中に普遍的理性としての性や阿頼耶識が実在し、そこに道理や真理の普遍的な判断基準が存在することをも認め、
朱子学に至っては、性による十分な制御を受けた情をも兼ね備えた心が抱く仁愛こそは、至上の愛ともする。
そこら辺、情の濁悪をまんま「神の愛」などと見なすイエスの考えよりも圧倒的に深く、イエスが把握
していた範囲の心よりも遥かに広い範囲の心を捉えられているといえる。故にこそより普遍的な人の心の
理解であるといえ、イエスの心に対する理解を完全な「偏見」と見なすに値する確実な証拠でもあるといえる。
「維れ此の王季は、帝其の心を度り、其の徳音を貊らぐ」
「ああかの文王こそは、帝としてよく人々の心を推し量り、それぞれに
天分として備わっている徳性を鳴り響かせることで、その心を和らげたものだった。
(性と情の総合としての人の心をよく推し量っていたから、天性の善徳を鳴り響かせられた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)
闇の快楽に溺れたものが、最終的な破滅に陥るのはどこまでも自業自得であり、
そうなったことの憎悪を光明の側に転嫁したりするのも逆恨みだといえる。
逆恨みだから、憎しみが解消されることもなく、日ごとに憎悪の業火の苦しみばかりを募らせる。
全ては自分たちの責任だったことをわきまえて、憎むなら自分たちを憎み、
光明の側に対してはむしろ自分たち自身の断罪やそれによる救いを希わねばならない。
その時に仮に、光による裁きの表徴が、十字架に張り付けられた半裸にヒゲのおっさんだったとする。
それはもちろん自分自身ではなく、自分の代わりに罪を背負って死ぬ野郎だとされる。
だとすれば、そこに救いを求める罪人の憎悪はまだ自分自身に対して振り向けられてはおらず、
未だ自分以外の誰かに対して、自分自身の罪を擦り付ける逆恨み志向が残存していることが明らか。
十字架信仰もその、罪人の逆恨みを助長するばかりで、本人自身に自業自得の愚かさへの
わきまえを喪失させることの元凶となるばかりなので、それが救いになるなどということも決してない。
一時は救われたような気になれたところで、後々までその罪過を引きずり続けるだけとなり、
自分自身が罪を償わずに死んだところで、子々孫々代々に至る罪障の積み重ねはやはり進行していく。
そうなったことの憎悪を光明の側に転嫁したりするのも逆恨みだといえる。
逆恨みだから、憎しみが解消されることもなく、日ごとに憎悪の業火の苦しみばかりを募らせる。
全ては自分たちの責任だったことをわきまえて、憎むなら自分たちを憎み、
光明の側に対してはむしろ自分たち自身の断罪やそれによる救いを希わねばならない。
その時に仮に、光による裁きの表徴が、十字架に張り付けられた半裸にヒゲのおっさんだったとする。
それはもちろん自分自身ではなく、自分の代わりに罪を背負って死ぬ野郎だとされる。
だとすれば、そこに救いを求める罪人の憎悪はまだ自分自身に対して振り向けられてはおらず、
未だ自分以外の誰かに対して、自分自身の罪を擦り付ける逆恨み志向が残存していることが明らか。
十字架信仰もその、罪人の逆恨みを助長するばかりで、本人自身に自業自得の愚かさへの
わきまえを喪失させることの元凶となるばかりなので、それが救いになるなどということも決してない。
一時は救われたような気になれたところで、後々までその罪過を引きずり続けるだけとなり、
自分自身が罪を償わずに死んだところで、子々孫々代々に至る罪障の積み重ねはやはり進行していく。
聖書信者に孝悌意識が全く欠けているのも、先祖や親が自分たちばかりに責任を押し付けてきた前科が
あるからで、自分たちもまたその親の過ちに倣って、後代や他人へと罪を押し付けて済ませようとしている。
しかし、そんな自転車操業がいつまでも続けられるわけがないことも半ば察知していたから、聖書信者自身、
いつかは終末の裁きがやって来るとも予想していた。そして今がその時であり、罪のなすり付けが自分たち自身を
含む全人類の滅亡に直結し、罪が自分以外の誰かになすり付けられることで解消されたりすることも絶対に
ないというのが結末となった。故に、今さらながら、聖書信者は自分たちや、自分たちの先祖が犯してきた
全ての罪を自分たちで背負い、自分たちこそはその償いに努めていかなければならない。その上での教義的な
拠り所となるのも、自業自得の罪過を他人への憎しみに転嫁することを是とする犯罪聖書などでは決して
あってはならない。それが、聖書信者たち自身も予め期待し尽くしていた、最後の審判の判決であるのだから。
「必ず亡びん。宴語を懐わず、寵光を宣べず、令徳を知らず、同福を受けずんば、將た何を以てか在らん」
「かならず亡びるだろう。語らいを楽しもうともせず、光の尊貴さを称えもせず、まともに仁徳も心得ず、
人々と共なる福徳に与ろうともしないのなら、どうしてこれからも生存していくことができようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十二年より)
あるからで、自分たちもまたその親の過ちに倣って、後代や他人へと罪を押し付けて済ませようとしている。
しかし、そんな自転車操業がいつまでも続けられるわけがないことも半ば察知していたから、聖書信者自身、
いつかは終末の裁きがやって来るとも予想していた。そして今がその時であり、罪のなすり付けが自分たち自身を
含む全人類の滅亡に直結し、罪が自分以外の誰かになすり付けられることで解消されたりすることも絶対に
ないというのが結末となった。故に、今さらながら、聖書信者は自分たちや、自分たちの先祖が犯してきた
全ての罪を自分たちで背負い、自分たちこそはその償いに努めていかなければならない。その上での教義的な
拠り所となるのも、自業自得の罪過を他人への憎しみに転嫁することを是とする犯罪聖書などでは決して
あってはならない。それが、聖書信者たち自身も予め期待し尽くしていた、最後の審判の判決であるのだから。
「必ず亡びん。宴語を懐わず、寵光を宣べず、令徳を知らず、同福を受けずんば、將た何を以てか在らん」
「かならず亡びるだろう。語らいを楽しもうともせず、光の尊貴さを称えもせず、まともに仁徳も心得ず、
人々と共なる福徳に与ろうともしないのなら、どうしてこれからも生存していくことができようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十二年より)
キリストによってだけは絶対に救われない。他の八百万の神々のうちの誰に縋ったところで、
キリストに縋る場合以上の救いぐらいは期待できるが、ことにキリストやエホバに縋る以上は、
人間が想定しうる限りでも最悪級の破滅へと自分たちを陥らせることしか絶対に出来ない。
この事実を完全にひっくり返せば、「キリストによってでなければ救われない」となり、
「キリストによってだけは救われない」という命題が永久不変の真実だからこそ、その真逆である
「キリストによってでなければ救われない」という転倒夢想も、一種の不変性を帯びることとなる。
孔子が「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」といったとき、確かに普遍的な道徳律がそこに
定立された。しかしそれと同時に、それとは真逆となる「己の欲せざる所を人に施せ」という
犯罪律の定立までもが暗に示唆されることとなった。自分がされていやなことは人にもするな
などという当たり前な教訓をわざわざ言うまでもなく実践できればそれに越したことはないのに、
わざわざそんなことを強弁したもんだから、その反対としての非常識な犯罪律までもが示唆された。
孔子の生きた春秋時代や、現代のような、非常識な罪悪まみれの世の中に生を受けたからには、
「当たり前な道徳律の定立から始めていかなければ」という気になるのも人情というものだが、
もちろんその道徳律は本来、言うまでもなく当たり前なものばかりであり、あんまり学識として
ひけらかしてもしょうがないような自明さを多々帯びている。だから老荘などの道家の徒は、
わざわざ当たり前な道徳律の強弁などにすら及ぶべきでないとし、孔子もまたそのような
道術者の境地をより高度な達観であるとして、自分のほうがそこまではいかない未熟者である
ことを自覚した上での、当たり前な道徳律としての「儒学」の体系化やその流布に及んでいる。
キリストに縋る場合以上の救いぐらいは期待できるが、ことにキリストやエホバに縋る以上は、
人間が想定しうる限りでも最悪級の破滅へと自分たちを陥らせることしか絶対に出来ない。
この事実を完全にひっくり返せば、「キリストによってでなければ救われない」となり、
「キリストによってだけは救われない」という命題が永久不変の真実だからこそ、その真逆である
「キリストによってでなければ救われない」という転倒夢想も、一種の不変性を帯びることとなる。
孔子が「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」といったとき、確かに普遍的な道徳律がそこに
定立された。しかしそれと同時に、それとは真逆となる「己の欲せざる所を人に施せ」という
犯罪律の定立までもが暗に示唆されることとなった。自分がされていやなことは人にもするな
などという当たり前な教訓をわざわざ言うまでもなく実践できればそれに越したことはないのに、
わざわざそんなことを強弁したもんだから、その反対としての非常識な犯罪律までもが示唆された。
孔子の生きた春秋時代や、現代のような、非常識な罪悪まみれの世の中に生を受けたからには、
「当たり前な道徳律の定立から始めていかなければ」という気になるのも人情というものだが、
もちろんその道徳律は本来、言うまでもなく当たり前なものばかりであり、あんまり学識として
ひけらかしてもしょうがないような自明さを多々帯びている。だから老荘などの道家の徒は、
わざわざ当たり前な道徳律の強弁などにすら及ぶべきでないとし、孔子もまたそのような
道術者の境地をより高度な達観であるとして、自分のほうがそこまではいかない未熟者である
ことを自覚した上での、当たり前な道徳律としての「儒学」の体系化やその流布に及んでいる。
「キリストによってでなければ救われない」などというような、絶対不能の転倒夢想を強弁して
いる側にとっては、その強弁ばかりが自らの拠り所となっている。しかし、「キリストなんかで
救われるわけがない」という当たり前な真実を定立している側にとっては、別にそんな物言い
自体が唯一絶対な自らの拠り所になっているわけでもない。犯罪聖書みたいな珍奇なカルト文書を
完全に眼中から離し去った上での四書五経の勉強、さらには四書五経みたいな当たり前な常識
ばかりを強弁している文書すらうっちゃっての無為自然などにこそ、自らの同一性を見出しており、
「キリストなんかでは絶対救われない」などという当たり前中の当たり前の事実を是とする
ことなんて、ついでのついでの暇つぶしぐらいにしかなっていないのだから、転倒夢想だけが
自分たちにとっての全てである累犯障害カルト信者などとは、余裕の度合いから桁外れであるといえる。
相手よりも必死だからといって、絶対不能の完全誤謬がひっくり返るわけでもなし。
「悪を長じて悛めずんば、従って自らに及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将た能くせん」
「罪悪を積み重ねて改めもしないのなら、いつかはそれによる自業自得の禍いが自らに降りかかる。
そうなってから救ってやろうなどとしたところで、どうしてそんなことが可能だろうか(断じて不可能だ)。
(何度も何度も説き尽くしてきたことと全く同じ内容だが、罪悪の積み重ねを内心で悔いただけで改めた
気になりながら、さらなる罪悪を積み重ねるキリスト信仰が、絶対救済不可な代物であることを確証している。
過ちを行いから改めていく規範を喪失するキリ信仰を破棄しない限りは、絶対に救われることがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隱公九年より)
いる側にとっては、その強弁ばかりが自らの拠り所となっている。しかし、「キリストなんかで
救われるわけがない」という当たり前な真実を定立している側にとっては、別にそんな物言い
自体が唯一絶対な自らの拠り所になっているわけでもない。犯罪聖書みたいな珍奇なカルト文書を
完全に眼中から離し去った上での四書五経の勉強、さらには四書五経みたいな当たり前な常識
ばかりを強弁している文書すらうっちゃっての無為自然などにこそ、自らの同一性を見出しており、
「キリストなんかでは絶対救われない」などという当たり前中の当たり前の事実を是とする
ことなんて、ついでのついでの暇つぶしぐらいにしかなっていないのだから、転倒夢想だけが
自分たちにとっての全てである累犯障害カルト信者などとは、余裕の度合いから桁外れであるといえる。
相手よりも必死だからといって、絶対不能の完全誤謬がひっくり返るわけでもなし。
「悪を長じて悛めずんば、従って自らに及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将た能くせん」
「罪悪を積み重ねて改めもしないのなら、いつかはそれによる自業自得の禍いが自らに降りかかる。
そうなってから救ってやろうなどとしたところで、どうしてそんなことが可能だろうか(断じて不可能だ)。
(何度も何度も説き尽くしてきたことと全く同じ内容だが、罪悪の積み重ねを内心で悔いただけで改めた
気になりながら、さらなる罪悪を積み重ねるキリスト信仰が、絶対救済不可な代物であることを確証している。
過ちを行いから改めていく規範を喪失するキリ信仰を破棄しない限りは、絶対に救われることがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隱公九年より)
精神薄弱の累犯障害者が、カルト信仰を通じて異教徒へと振り向ける憎しみや、
自分たちが脳内で捏造した超越神が異教徒に止めるとされる怒りは、
「憎しみ」や「怒り」としては、偽物である。
十分な善悪の分別を身に付けた道徳者が罪悪に対して抱く憎しみ、
その罪悪を性懲りもなく積み重ねようとする悪人に対して抱く怒りこそは、
「憎しみ」や「怒り」としての純正な方向性を伴っており、本来憎んだり怒ったりは
すべきでない相手に対する、カルト信者の憎しみやカルト神の怒りは、「憎しみ」や
「怒り」としての方向性が根本的に偽りであり、故に偽物の憎しみや怒りであるといえる。
「憎しみ」や「怒り」としては偽物だが、「気狂い」としては確かに本物だ。
隣国である日本や中国に、国力でも国風でも及ばない朝鮮の人間が、強烈な劣等感を溜め込んだ
挙句に、急激にその鬱屈を爆発させる「火病(ファビョン)」という精神疾患の症例があるが、
カルト信者が異教徒に対して振り向けるとされる怒りや憎しみも、本質的にはこの火病と同じであり、
鬱屈からなる気狂いとしては確かに真性である一方で、それが隣国の日本人に対する憎しみや怒りなど
として表出したりするのは仮性だ。とにかく劣等感で鬱屈して今にも爆発しそう、それは確かに本当
のことだが、その爆発力をどうやって発散するかということに、原初からの方向性は定まっていない。
カルト信者の怒りや憎しみが異教徒に振り向けられたり、朝鮮人の怒りや憎しみが日本人に
向けられたりすることに、やはり異教徒や日本人としては心外さや嫌悪感を抱かざるを得ない。
しかし、彼らの怒りや憎しみが本来無軌道なところが、ある種の情報洗脳で異教徒や日本人に
向けられているのが欺瞞であるのも確かな一方で、カルト信者や朝鮮人が、劣等感からなる
膨大な鬱屈を溜め込んでいるのも事実であり、その鬱屈をどうにか噴出させたいという火病の
病巣を抱えているのも本当のこと。その火病の爆発がたまたま異教徒や日本人に振り向けられて
いることとはまた別に、彼らにとっての真性の病としての火病を、どうやって快方に向かわせて
いくべきなのかを、より達観した境地にある異教徒や日本人であれば、考えてやらねばならない。
自分たちが脳内で捏造した超越神が異教徒に止めるとされる怒りは、
「憎しみ」や「怒り」としては、偽物である。
十分な善悪の分別を身に付けた道徳者が罪悪に対して抱く憎しみ、
その罪悪を性懲りもなく積み重ねようとする悪人に対して抱く怒りこそは、
「憎しみ」や「怒り」としての純正な方向性を伴っており、本来憎んだり怒ったりは
すべきでない相手に対する、カルト信者の憎しみやカルト神の怒りは、「憎しみ」や
「怒り」としての方向性が根本的に偽りであり、故に偽物の憎しみや怒りであるといえる。
「憎しみ」や「怒り」としては偽物だが、「気狂い」としては確かに本物だ。
隣国である日本や中国に、国力でも国風でも及ばない朝鮮の人間が、強烈な劣等感を溜め込んだ
挙句に、急激にその鬱屈を爆発させる「火病(ファビョン)」という精神疾患の症例があるが、
カルト信者が異教徒に対して振り向けるとされる怒りや憎しみも、本質的にはこの火病と同じであり、
鬱屈からなる気狂いとしては確かに真性である一方で、それが隣国の日本人に対する憎しみや怒りなど
として表出したりするのは仮性だ。とにかく劣等感で鬱屈して今にも爆発しそう、それは確かに本当
のことだが、その爆発力をどうやって発散するかということに、原初からの方向性は定まっていない。
カルト信者の怒りや憎しみが異教徒に振り向けられたり、朝鮮人の怒りや憎しみが日本人に
向けられたりすることに、やはり異教徒や日本人としては心外さや嫌悪感を抱かざるを得ない。
しかし、彼らの怒りや憎しみが本来無軌道なところが、ある種の情報洗脳で異教徒や日本人に
向けられているのが欺瞞であるのも確かな一方で、カルト信者や朝鮮人が、劣等感からなる
膨大な鬱屈を溜め込んでいるのも事実であり、その鬱屈をどうにか噴出させたいという火病の
病巣を抱えているのも本当のこと。その火病の爆発がたまたま異教徒や日本人に振り向けられて
いることとはまた別に、彼らにとっての真性の病としての火病を、どうやって快方に向かわせて
いくべきなのかを、より達観した境地にある異教徒や日本人であれば、考えてやらねばならない。
「天の怒りをを敬みて、敢えて戲予する無かれ。
天の渝るを敬みて、敢えて馳駆する無かれ」
「天の怒りによく慎んで、放逸にうかれたりすることがないように。
天の心の動きをよく推し量り、その思いを蔑ろにすることがないように。
(ここでいう『天』は犯罪聖書の邪神などではもちろんないが、天が機嫌を良くしたり損ねたり
するものであり、誰にでも怒りをも振り向けるものであり、むしろその怒りによってこそ自分たちが
身を慎んでいくべきだとする。この主張は天を『謹厳な父君』と見なす陰陽思想にも根ざしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)
天の渝るを敬みて、敢えて馳駆する無かれ」
「天の怒りによく慎んで、放逸にうかれたりすることがないように。
天の心の動きをよく推し量り、その思いを蔑ろにすることがないように。
(ここでいう『天』は犯罪聖書の邪神などではもちろんないが、天が機嫌を良くしたり損ねたり
するものであり、誰にでも怒りをも振り向けるものであり、むしろその怒りによってこそ自分たちが
身を慎んでいくべきだとする。この主張は天を『謹厳な父君』と見なす陰陽思想にも根ざしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)
湿潤なモンスーン気候に覆われている東洋社会には、ほとんど水不足という問題がない。
近ごろでは、人口爆発によって一人頭の水資源の量が減少したせいでの水不足などが
取り上げられてもいるが、それも上下水道が発達した贅沢な水利用を当たり前とした上でのこと。
実物の「水」でも東洋社会は恵まれているほうだが、それ以上に、「渇望」全般をよく制御して、
なんでもかんでも際限なく欲しがるような意地汚さを非と見なす文化が多く提唱されてきている。
カルトではない正統な仏教や道教がその代表格であり、ある程度は俗世での活躍を目論む儒家や
ヒンズー教にも、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」という程度のわきまえが備わっている。
「欲はほしいままにすべからず」であってこそ、餓鬼ではない人間となり、畜生ではない天人となる。
潜在的に渇望まみれな人間こそは餓鬼であり、欲求まみれの天人こそは畜生である。もちろん両者はそれぞれ
全くの別物であり、際限のない渇欲の有無こそは、人と餓鬼、天と畜生を断絶する普遍基準にも当たる。
渇欲を自主的に制御する自律性が具わりすらすれば、どこまでも渇欲を叶え続けてあげようとする邪神の
誘惑なども断ち切れる。何も欲望を棄て去りきらなくたって、「欲はほしいいままにしない」という程度の
わきまえすら備えられたなら、渇望をどこまでも叶え続けようとするような極端志向には走らなくなる。
犯罪聖書では、「服従者に対して神は怒らない」ことが誘惑材料になっているが、>>277の真正聖書の
引用などでは、むしろ「天神の怒りを自重の材料とせよ」とすらしている。これも、喜怒哀楽という
人間的な感情の、全否定しない限りでの善用の判例となっており、とかく極端に走ることで何もかもを
ダメにしているのが犯罪聖書である一方で、できるかぎり極端を避けることで優良な言動規範を
人々に備わらせているのが真正聖書=四書五経であるという法則性が一貫していることがわかる。
近ごろでは、人口爆発によって一人頭の水資源の量が減少したせいでの水不足などが
取り上げられてもいるが、それも上下水道が発達した贅沢な水利用を当たり前とした上でのこと。
実物の「水」でも東洋社会は恵まれているほうだが、それ以上に、「渇望」全般をよく制御して、
なんでもかんでも際限なく欲しがるような意地汚さを非と見なす文化が多く提唱されてきている。
カルトではない正統な仏教や道教がその代表格であり、ある程度は俗世での活躍を目論む儒家や
ヒンズー教にも、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」という程度のわきまえが備わっている。
「欲はほしいままにすべからず」であってこそ、餓鬼ではない人間となり、畜生ではない天人となる。
潜在的に渇望まみれな人間こそは餓鬼であり、欲求まみれの天人こそは畜生である。もちろん両者はそれぞれ
全くの別物であり、際限のない渇欲の有無こそは、人と餓鬼、天と畜生を断絶する普遍基準にも当たる。
渇欲を自主的に制御する自律性が具わりすらすれば、どこまでも渇欲を叶え続けてあげようとする邪神の
誘惑なども断ち切れる。何も欲望を棄て去りきらなくたって、「欲はほしいいままにしない」という程度の
わきまえすら備えられたなら、渇望をどこまでも叶え続けようとするような極端志向には走らなくなる。
犯罪聖書では、「服従者に対して神は怒らない」ことが誘惑材料になっているが、>>277の真正聖書の
引用などでは、むしろ「天神の怒りを自重の材料とせよ」とすらしている。これも、喜怒哀楽という
人間的な感情の、全否定しない限りでの善用の判例となっており、とかく極端に走ることで何もかもを
ダメにしているのが犯罪聖書である一方で、できるかぎり極端を避けることで優良な言動規範を
人々に備わらせているのが真正聖書=四書五経であるという法則性が一貫していることがわかる。
「間關と車の舝が兮き、ああ孌わしの季女の逝く。飢えず渇かず、
徳音の来たり括れる。好友の無しと雖も、式れ燕げ且れ喜しまん」
「御車の車音もカンカンと鳴り響いて、麗しの乙女が嫁入りに行く。
それでこそ飢え渇くこともなく、善いことの訪れであるともいえる。
あまり交友関係が広くなくたって、それだけでも十分に楽しめる。
(飢渇を癒すのが花嫁であるというのは、『男が乾、女が湿』という陰陽法則にも根ざした見解。
父なる神が渇きを癒すなどとは、陰陽法則に根ざして考えれば、おぞましいことこの上ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・車舝より)
徳音の来たり括れる。好友の無しと雖も、式れ燕げ且れ喜しまん」
「御車の車音もカンカンと鳴り響いて、麗しの乙女が嫁入りに行く。
それでこそ飢え渇くこともなく、善いことの訪れであるともいえる。
あまり交友関係が広くなくたって、それだけでも十分に楽しめる。
(飢渇を癒すのが花嫁であるというのは、『男が乾、女が湿』という陰陽法則にも根ざした見解。
父なる神が渇きを癒すなどとは、陰陽法則に根ざして考えれば、おぞましいことこの上ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・車舝より)
「嫁だけもらう。後はいらーん」との、3000年前の大先生からのお達しだ。
(詩経・車舝は、ただの結婚祝賀の歌にしては学術的な思弁性に富むため、
貴族や庶民ではなく、学者の作品である可能性が古来から指摘されている)
(詩経・車舝は、ただの結婚祝賀の歌にしては学術的な思弁性に富むため、
貴族や庶民ではなく、学者の作品である可能性が古来から指摘されている)
イエス坊やが「主から遣わされた業」と強弁しているものの内容は、原理的に絶対に
実現が不可能なものである上に、道義的にもその実現を欲したりすべきものではない。
ただ、不埒にもその実現をあえて欲し、そのための試みにも耽溺していったとすれば、
その実現が絶対に不能であることから、いつまでも延々と試みだけを続けていくことになる。
武術や工芸などの技術の研鑽も、極めようとすれば全くキリがない。どこまでも際限なく
その技能が向上していくものだから、完全なる完成などというものはない。ただ、ちゃんと
研鑽を心がけていけば、自らの技能がどこまでも向上していくのも確かだから、研鑽を続けて
いくに連れて、一定の達成というものが見込める。それが武術における免状の取得であったり、
工芸作品の美観の一定的な達成であったり、工業技術における一定精度の確保であったりする。
そのような一定の達成も見込めた上で、さらなる向上を無限に試み続けていけるのが、
技術の研鑽である一方、「キリストの業」のような絶対不能条件を実現しようとする試みは、
それ自体が実現されることがないのはもちろんのこと、実現を試みる過程で一定の成果を
達成できることすらない。軟鉄をいくら打ち据えても軟鉄のままでいて、鋼にはならないように、
何かが向上するなどということが全く期待できず、それでいて本来の目的も達成されない。
仮にそのような無益な徒労を「生きる糧」にしたならば、それは人間が生きる上での最も
低劣な生活規範としかなり得ない。ただ人間が生きるということにも、いくらでも向上の
余地が見込めるにも関わらず、必要もなくわざわざあえて好き好んで、全く向上を欲しもせず、
なおかつ何の希望も達成されない、何の魅力もない、泥人形同然の人生だけがあることになる。
実現が不可能なものである上に、道義的にもその実現を欲したりすべきものではない。
ただ、不埒にもその実現をあえて欲し、そのための試みにも耽溺していったとすれば、
その実現が絶対に不能であることから、いつまでも延々と試みだけを続けていくことになる。
武術や工芸などの技術の研鑽も、極めようとすれば全くキリがない。どこまでも際限なく
その技能が向上していくものだから、完全なる完成などというものはない。ただ、ちゃんと
研鑽を心がけていけば、自らの技能がどこまでも向上していくのも確かだから、研鑽を続けて
いくに連れて、一定の達成というものが見込める。それが武術における免状の取得であったり、
工芸作品の美観の一定的な達成であったり、工業技術における一定精度の確保であったりする。
そのような一定の達成も見込めた上で、さらなる向上を無限に試み続けていけるのが、
技術の研鑽である一方、「キリストの業」のような絶対不能条件を実現しようとする試みは、
それ自体が実現されることがないのはもちろんのこと、実現を試みる過程で一定の成果を
達成できることすらない。軟鉄をいくら打ち据えても軟鉄のままでいて、鋼にはならないように、
何かが向上するなどということが全く期待できず、それでいて本来の目的も達成されない。
仮にそのような無益な徒労を「生きる糧」にしたならば、それは人間が生きる上での最も
低劣な生活規範としかなり得ない。ただ人間が生きるということにも、いくらでも向上の
余地が見込めるにも関わらず、必要もなくわざわざあえて好き好んで、全く向上を欲しもせず、
なおかつ何の希望も達成されない、何の魅力もない、泥人形同然の人生だけがあることになる。
故に、「目的の達成を志していくことを生きる糧とする」という意味すら持つイエス坊やの
ストイックじみた物言いも、その目的が全くの実現不能である上に、実現を試みる過程で
何らの一定的な成果を期待できるものでもないから、決して評価するに値するものではない。
どこまでも上を目指し続けられる求道というのは、それはそれで技術研鑽上の分野などに
多々あるが、それも決して実現不能な目的の達成などではなく、原理的に実現可能な目的を
達成していこうとする試みだからこそ意義を持つもの。原理的に達成不能な目的を実現しようとする
試みには何の意義もなく、何らの一定的な達成も見込めない、味気ない徒労依存症としかならない。
「久しかる可きは則ち賢人の徳、大いなる可きは則ち賢人の業なり」
「どこまでも恒久不変であるのが賢人の湛える徳であり、どこまでも広大なのが賢人の成す業である。
(業を成そうとすることなどではなく、自らが着実に大業を成していくことこそを賢人は本望とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
ストイックじみた物言いも、その目的が全くの実現不能である上に、実現を試みる過程で
何らの一定的な成果を期待できるものでもないから、決して評価するに値するものではない。
どこまでも上を目指し続けられる求道というのは、それはそれで技術研鑽上の分野などに
多々あるが、それも決して実現不能な目的の達成などではなく、原理的に実現可能な目的を
達成していこうとする試みだからこそ意義を持つもの。原理的に達成不能な目的を実現しようとする
試みには何の意義もなく、何らの一定的な達成も見込めない、味気ない徒労依存症としかならない。
「久しかる可きは則ち賢人の徳、大いなる可きは則ち賢人の業なり」
「どこまでも恒久不変であるのが賢人の湛える徳であり、どこまでも広大なのが賢人の成す業である。
(業を成そうとすることなどではなく、自らが着実に大業を成していくことこそを賢人は本望とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
>>274-275のおさらいでもあるが、
「Aという教条が絶対に真である場合、Aに反する内容を持つ教条A´は偽であることが絶対に真である」
という法則が成り立つ。儒学と聖書信仰、四書五経と犯罪聖書はまさにこの
AとA´の関係にあり、儒学や四書五経こそは世界を平和や繁栄へと導く絶対的な教理であり、
その儒学や四書五経と決定的に相反する背理の陳列でしかないのが聖書信仰や犯罪聖書であるからこそ、
聖書信仰や犯罪聖書は、人類を破滅や滅亡へと追いやる邪義邪見としては絶対に真である。そして、
「転倒夢想者は、絶対に偽であるものを絶対に真であると見なす」
という法則に即して、転倒夢想者である聖書信者は、人類を滅亡に陥れる邪義の陳列として
絶対的な意味を持つ犯罪聖書を、世界を平和や繁栄へと導く絶対的な正義であると確信する。
犯罪聖書が、人類を平和や繁栄とは逆の方向へと陥れる究極の邪義である、にもかかわらずではなく
だからこそ、犯罪聖書こそは人類を平和や繁栄へと導く純良な正義であると完全に誤解する。
最悪の邪義A´こそは狂信の対象とされることがあるのも、結局は最良の正義Aもまた確実に実在するからであり、
その正義Aのほうをありのままに体系化しているのが、儒学や四書五経でもある。儒学や四書五経のような
光明Aが存在するからこそ、その光明に照らし出された闇黒A´としての、聖書信仰や犯罪聖書も存在する。
儒学や四書五経が正義として真に真正だからこそ、その倒置である聖書信仰や犯罪聖書も邪義として真に真邪である。
「真に真○だから信じられる」というような意味合いを、犯罪聖書が持っていることもまた確かなことで、
ただ「邪義として真に真邪である」のを、「正義として真に真正である」と勘違いしてしまったのが
聖書信者なわけで、イスラエル以西のド田舎で世間知らずなままに奇形的な文化だけを発展させ続けてきた
欧米人同士での間なら、その勘違いも通用していたのだ。ただ、あくまでそれは勘違いでしかなかったから、
そのような勘違いが真の正義の前では、鉄球に打ち付けられるガラス球のようにして、粉々に砕け散るしかないのだ。
「Aという教条が絶対に真である場合、Aに反する内容を持つ教条A´は偽であることが絶対に真である」
という法則が成り立つ。儒学と聖書信仰、四書五経と犯罪聖書はまさにこの
AとA´の関係にあり、儒学や四書五経こそは世界を平和や繁栄へと導く絶対的な教理であり、
その儒学や四書五経と決定的に相反する背理の陳列でしかないのが聖書信仰や犯罪聖書であるからこそ、
聖書信仰や犯罪聖書は、人類を破滅や滅亡へと追いやる邪義邪見としては絶対に真である。そして、
「転倒夢想者は、絶対に偽であるものを絶対に真であると見なす」
という法則に即して、転倒夢想者である聖書信者は、人類を滅亡に陥れる邪義の陳列として
絶対的な意味を持つ犯罪聖書を、世界を平和や繁栄へと導く絶対的な正義であると確信する。
犯罪聖書が、人類を平和や繁栄とは逆の方向へと陥れる究極の邪義である、にもかかわらずではなく
だからこそ、犯罪聖書こそは人類を平和や繁栄へと導く純良な正義であると完全に誤解する。
最悪の邪義A´こそは狂信の対象とされることがあるのも、結局は最良の正義Aもまた確実に実在するからであり、
その正義Aのほうをありのままに体系化しているのが、儒学や四書五経でもある。儒学や四書五経のような
光明Aが存在するからこそ、その光明に照らし出された闇黒A´としての、聖書信仰や犯罪聖書も存在する。
儒学や四書五経が正義として真に真正だからこそ、その倒置である聖書信仰や犯罪聖書も邪義として真に真邪である。
「真に真○だから信じられる」というような意味合いを、犯罪聖書が持っていることもまた確かなことで、
ただ「邪義として真に真邪である」のを、「正義として真に真正である」と勘違いしてしまったのが
聖書信者なわけで、イスラエル以西のド田舎で世間知らずなままに奇形的な文化だけを発展させ続けてきた
欧米人同士での間なら、その勘違いも通用していたのだ。ただ、あくまでそれは勘違いでしかなかったから、
そのような勘違いが真の正義の前では、鉄球に打ち付けられるガラス球のようにして、粉々に砕け散るしかないのだ。
「孟子〜曰く、仲尼の徒に桓・文の事を道とする者無し。是れを以て後世に伝うる無く、臣も未だ之れ聞かざるなり」
「孟子は言った。『孔子の学門に学んだものに、斉の桓公や晋の文公のような覇道を専らとした
輩の事跡を専攻の対象としている者はいない。だからそれを後世に伝えようとする者もいないし、
(孔子の孫の子思に学んだ)私自身も専門的な話を聞かされたことはないし、別に聞く気もない』
(邪義邪曲は始めから伝え聞いたり、聞き伝えたりすることから自粛していかなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)
「孟子は言った。『孔子の学門に学んだものに、斉の桓公や晋の文公のような覇道を専らとした
輩の事跡を専攻の対象としている者はいない。だからそれを後世に伝えようとする者もいないし、
(孔子の孫の子思に学んだ)私自身も専門的な話を聞かされたことはないし、別に聞く気もない』
(邪義邪曲は始めから伝え聞いたり、聞き伝えたりすることから自粛していかなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)
「桓公や文公のことなど関知しない」などといいながらも、孟子は春秋戦国時代の諸侯の
覇道政治を相当に細密な部分にまで渡って批判しているし、春秋五覇の盟約の内容などの貴重な
資料すらをも、孟子自身やその弟子が編纂したとされる思想書「孟子」中に遺してくれている。
ただ、孟子の場合は、春秋戦国時代の覇者に対する扱いがほぼ完全に否定的であり、
堯舜禹や湯文武のような(孟子の時代から見ても)古代の聖王の徳治と比べて、
諸侯の覇道政治を「少しも評価するに値しないもの」として、痛烈に批判している。
これが、孟子よりもやや後輩の儒者に当たる荀子であれば違っていて、諸侯の覇道政治を
やはり古代の王政よりも劣ったものと見なしてはいるが、それでも聖王賢臣には至らない
凡人などが便宜的に覇道に介入していくことは是認してしまっている。ここが荀子と孟子の
決定的に食い違うところであり、考え方によってどうとでもいえる性善性悪の人性論争など
よりも遥かに切実な実践面において、孟子と荀子とが互いに相容れない部分だったといえる。
おそらく荀子は、諸侯による覇権主義がいつまでも続き、もう二度と古代の王政が復権すること
はないといったような、一種の諦めを付けていたのではないかと思う。だからこそ覇道政治にも
一定のリップサービスを贈っておこうと思ったのだろうが、荀子が没してまもなく、秦によって
中国が統一され、民からの甚大な怨恨を被る姿勢で全中国を支配しようとした秦や西楚に代わって、
漢が中国全土を治めるようになるやいなや、長期の王政がついに復活してしまった。諸侯の権限を
大幅に弱めて、漢王朝への権限集中を強化するなどの新規策もあったにしろ、孔子や孟子が頑なに
主張していた「覇道を上回る王政」が復権して、中国を当時世界一の大帝国にすら押し上げてしまった。
覇道政治を相当に細密な部分にまで渡って批判しているし、春秋五覇の盟約の内容などの貴重な
資料すらをも、孟子自身やその弟子が編纂したとされる思想書「孟子」中に遺してくれている。
ただ、孟子の場合は、春秋戦国時代の覇者に対する扱いがほぼ完全に否定的であり、
堯舜禹や湯文武のような(孟子の時代から見ても)古代の聖王の徳治と比べて、
諸侯の覇道政治を「少しも評価するに値しないもの」として、痛烈に批判している。
これが、孟子よりもやや後輩の儒者に当たる荀子であれば違っていて、諸侯の覇道政治を
やはり古代の王政よりも劣ったものと見なしてはいるが、それでも聖王賢臣には至らない
凡人などが便宜的に覇道に介入していくことは是認してしまっている。ここが荀子と孟子の
決定的に食い違うところであり、考え方によってどうとでもいえる性善性悪の人性論争など
よりも遥かに切実な実践面において、孟子と荀子とが互いに相容れない部分だったといえる。
おそらく荀子は、諸侯による覇権主義がいつまでも続き、もう二度と古代の王政が復権すること
はないといったような、一種の諦めを付けていたのではないかと思う。だからこそ覇道政治にも
一定のリップサービスを贈っておこうと思ったのだろうが、荀子が没してまもなく、秦によって
中国が統一され、民からの甚大な怨恨を被る姿勢で全中国を支配しようとした秦や西楚に代わって、
漢が中国全土を治めるようになるやいなや、長期の王政がついに復活してしまった。諸侯の権限を
大幅に弱めて、漢王朝への権限集中を強化するなどの新規策もあったにしろ、孔子や孟子が頑なに
主張していた「覇道を上回る王政」が復権して、中国を当時世界一の大帝国にすら押し上げてしまった。
楚漢戦争時、儒者でありながら漢軍方の説客をつとめていた酈生が、当時の漢王劉邦に対して
「秦帝国によって王位を剥奪された、各国の諸侯を元の位に付けることで味方に付けましょう」
と進言し、劉邦も「それはいい考えだ」とうなずいて実行に移そうとした。すると、参謀の張良が
「そんなことをすれば、諸侯の台頭を招いて乱世を激化させるだけです」と反対し、劉邦も結局
この意見のほうを聞き入れて、戦時中からの諸侯制の復興という酈生の意見を後から蹴っている。
諸侯による覇道政治の復興を目論んだあたり、酈生は儒者ではあっても、荀子学派の儒者だったと思われる。
一方、張良は儒者ではなく、兵術をもよくする道術家であり、時に敵軍を巧妙な策謀にかけて打ち負かしたりの、
冷徹な軍略の手堅さによってこそ劉邦にも重用されていた人物。しかし、旧諸侯の戦時中からの復権という
酈生の意見に戦略目的で反対を唱えた張良の考えほうが結果的には、諸侯の覇道政治を否定する孟子の
考えとも一致している。もはや覇権主義社会に半ば順応してしまっていた儒者だった荀子や酈生よりも、
濁世への順応をキッパリと拒絶した儒者である孟子のほうが、漢帝国の創建に最大級の貢献を果たした兵法家である
張良とも同じ意見を唱え、孟子と同じ「諸侯の強権の否定」という考えに即してこそ、張良も軍略を成功させている。
文と武は、妥協を排した徹底的な求道の先にこそ、同じ頂きに至っていて、緩慢な妥協の範囲だけで物事を
どうにかしようとしていた連中よりも、遥かに偉大な成果を挙げてもいる。「極端である」ということは、
えてして悪い結果を招きやすいものだが、儒家や仏門のような中正を重んずる学門において、徹底した研鑽を
し抜くことは、それも一種の極端と取れなくもないが、良い結果をも招いてくれるようで、そこに姑息な妥協などを
差し挟んだほうが、完成間近のジグソーパズルを壊し去ってしまうような、何にもならない徒労にしかならないようだ。
「秦帝国によって王位を剥奪された、各国の諸侯を元の位に付けることで味方に付けましょう」
と進言し、劉邦も「それはいい考えだ」とうなずいて実行に移そうとした。すると、参謀の張良が
「そんなことをすれば、諸侯の台頭を招いて乱世を激化させるだけです」と反対し、劉邦も結局
この意見のほうを聞き入れて、戦時中からの諸侯制の復興という酈生の意見を後から蹴っている。
諸侯による覇道政治の復興を目論んだあたり、酈生は儒者ではあっても、荀子学派の儒者だったと思われる。
一方、張良は儒者ではなく、兵術をもよくする道術家であり、時に敵軍を巧妙な策謀にかけて打ち負かしたりの、
冷徹な軍略の手堅さによってこそ劉邦にも重用されていた人物。しかし、旧諸侯の戦時中からの復権という
酈生の意見に戦略目的で反対を唱えた張良の考えほうが結果的には、諸侯の覇道政治を否定する孟子の
考えとも一致している。もはや覇権主義社会に半ば順応してしまっていた儒者だった荀子や酈生よりも、
濁世への順応をキッパリと拒絶した儒者である孟子のほうが、漢帝国の創建に最大級の貢献を果たした兵法家である
張良とも同じ意見を唱え、孟子と同じ「諸侯の強権の否定」という考えに即してこそ、張良も軍略を成功させている。
文と武は、妥協を排した徹底的な求道の先にこそ、同じ頂きに至っていて、緩慢な妥協の範囲だけで物事を
どうにかしようとしていた連中よりも、遥かに偉大な成果を挙げてもいる。「極端である」ということは、
えてして悪い結果を招きやすいものだが、儒家や仏門のような中正を重んずる学門において、徹底した研鑽を
し抜くことは、それも一種の極端と取れなくもないが、良い結果をも招いてくれるようで、そこに姑息な妥協などを
差し挟んだほうが、完成間近のジグソーパズルを壊し去ってしまうような、何にもならない徒労にしかならないようだ。
結局人は、安逸ばかりを貪ろうとするところで余計な苦労をさせられ、
常日頃からの自主的な努力に励むことでこそ、無駄な労力をも省ける。
常日頃から、合理的な身体躁法を研鑽しぬいてきたヨガ行者や合気道家が、
高齢になってからも腰痛などの関節痛には悩まされず、きびきびとした動作でも
いられるのに対し、若い頃にふんぞり返ってのデスクワークばかりに執心して
来たような人間は、年取ってから一気に背骨が折れ曲がり、腰痛やリュウマチや
ヘルニアなどにも悩まされ、最寄りの商店に歩いて買い物に行くことすら覚束なくなる。
それと同じように、キリシタンが完全禁教されていた江戸時代の日本では、
キリスト教が奨励するような「精神の惰弱化」が許されず、常日頃からこまめな
勤労を心がけることが奨励されていた。それぞれの自主的な勤労を促進するために
七日間の曜日制も撤廃されて、勤労の効率化や合理性が精神面から追求されていた。だから
世界中が氷河期状態の不況に晒されている今の状態でも、日本経済は最大級の安定度を保ち、
低賃金だが作業精度の低い外国人労働者と、日本の労働者との一定の差別化も図れている。
その一方で、今の世界不況の元凶ともなっている欧米キリスト教圏のほうはといえば、
不況の元凶なだけに最悪の苦境に立たされて、なおかつ長年のキリスト信仰によって
深刻な精神の惰弱化を進行させてきたものだから、低賃金でこき使える外国人との間に、
労働作業のクオリティなどの面での差別化を図ることもできず、一方的な移民労働者による
侵食をも招いて、旧来の自国民の失業率や少子化を致命的な規模にまで増大化してしまっている。
常日頃からの自主的な努力に励むことでこそ、無駄な労力をも省ける。
常日頃から、合理的な身体躁法を研鑽しぬいてきたヨガ行者や合気道家が、
高齢になってからも腰痛などの関節痛には悩まされず、きびきびとした動作でも
いられるのに対し、若い頃にふんぞり返ってのデスクワークばかりに執心して
来たような人間は、年取ってから一気に背骨が折れ曲がり、腰痛やリュウマチや
ヘルニアなどにも悩まされ、最寄りの商店に歩いて買い物に行くことすら覚束なくなる。
それと同じように、キリシタンが完全禁教されていた江戸時代の日本では、
キリスト教が奨励するような「精神の惰弱化」が許されず、常日頃からこまめな
勤労を心がけることが奨励されていた。それぞれの自主的な勤労を促進するために
七日間の曜日制も撤廃されて、勤労の効率化や合理性が精神面から追求されていた。だから
世界中が氷河期状態の不況に晒されている今の状態でも、日本経済は最大級の安定度を保ち、
低賃金だが作業精度の低い外国人労働者と、日本の労働者との一定の差別化も図れている。
その一方で、今の世界不況の元凶ともなっている欧米キリスト教圏のほうはといえば、
不況の元凶なだけに最悪の苦境に立たされて、なおかつ長年のキリスト信仰によって
深刻な精神の惰弱化を進行させてきたものだから、低賃金でこき使える外国人との間に、
労働作業のクオリティなどの面での差別化を図ることもできず、一方的な移民労働者による
侵食をも招いて、旧来の自国民の失業率や少子化を致命的な規模にまで増大化してしまっている。

褒め上げるわけにもいかないが、近い将来の崩壊がもはや決定的となっている欧米資本主義諸国
などと比べて、まだ日本のほうが一定の経済的な安定度を保てているのも、精神性の根本的な
惰弱化を促進する犯罪聖書信仰を、江戸時代の頃から徹底して廃絶して来た実績があるからで、
野田だ管だの今の日本の政治家ではなく、最底辺の下民からの勤勉さの底上げをコツコツと積み重ねて
いた徳川将軍家にこそ、欧米キリスト教圏もいま、決定的な敗北を被りつつあるのだといえる。
今の日本の政財界だって、徳川幕府が長年かけて積み上げてきた、「日本人の根本精神からの
勤勉さ」という埋蔵金を、ただひたすら食いつぶし続けることで富裕を保てているだけなのだ。
「之れを堯舜の道よりも軽くせんと欲する者は、大貉小貉なり。
之れを堯舜の道よりも重くせんと欲する者は、大桀小桀なり」
「租税のような民に対する負担を、理想の徳治を施した堯帝や舜帝よりも軽くしようとする者は、
大なり小なりといえども、為政にそれなりの費用が必要となることをわきまえぬ貉のような蛮族であるし、
逆に堯舜よりも重くしようとするものもまた、大なり小なりに関係なく、夏の桀王のような暴君だといえる。
(ただただ信者の負担を軽くして甘やかそうとするイエスの物言いは、蛮行の一種である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一〇より)
人はみないつかは死ぬ、それは当然であると同時に絶対不変の真理であるとして、
問題は死ぬまでの生がどうであるか。満足や納得のいく人生であったかどうかという点で、
やはり人それぞれに違いが生ずる。ちっとも納得のいかない不満だらけのままに人生を
終えることもあれば、ほとんど生きてるうちから涅槃状態というほどにも、納得ずくの
人生を送るものもいる。それは環境よりも、本人の心持ちに支配される面のほうが大きく、
悪意悪食貧賤の中に納得ずくの心持ちであることもあれば、巨万の富を得ながらも
不満たらたらで、ちっとも達観できるところがないような心持ちである場合もある。
だからその点で、本当に満足や納得の心持ちに満ちていた人生は素晴らしかったといえる一方、
どうしたって納得が得られずに、際限のない渇望の中で尽きた人生などは哀しかったといえる。
仏教の六道輪廻なども結局はその、存命中の納得の有無軽重を分かりやすく提示した方便で
あるわけで、地獄のどん底に失墜した亡者が、何千何万回という輪廻転生を重ねることで
初めて品性を向上させられるという説も、それほどにも地獄のどん底に落ち込んだ亡者の
不満が満たされることが困難であることを、分かりやすく解説したものであるといえる。
六道の輪廻転生も方便であるように、キリストの復活や救済も一種の方便であったとする。
六道論のほうは、あくまで輪廻を濁悪なものと見なし、早急な輪廻からの解脱を推奨する一方、
キリストは死後の復活や永遠の生を奨励する。生まれ変わったり生き返ったりするということが
前生の不満の現われなのだから、それはなくて済むのなら無いに越したことはないと考えるのが
まともな考え方であり、仏教はこの考え方にこそ根ざしている。一方で、死後の復活や永遠の生を
「そうあるべきもの」として断ずるキリストの物言いは、人生の不満を深刻化すらさせるべきもので
あるとし、ここがすでに間違っており、仮に方便であると見なしたところで、やはり宜しきものでない。
問題は死ぬまでの生がどうであるか。満足や納得のいく人生であったかどうかという点で、
やはり人それぞれに違いが生ずる。ちっとも納得のいかない不満だらけのままに人生を
終えることもあれば、ほとんど生きてるうちから涅槃状態というほどにも、納得ずくの
人生を送るものもいる。それは環境よりも、本人の心持ちに支配される面のほうが大きく、
悪意悪食貧賤の中に納得ずくの心持ちであることもあれば、巨万の富を得ながらも
不満たらたらで、ちっとも達観できるところがないような心持ちである場合もある。
だからその点で、本当に満足や納得の心持ちに満ちていた人生は素晴らしかったといえる一方、
どうしたって納得が得られずに、際限のない渇望の中で尽きた人生などは哀しかったといえる。
仏教の六道輪廻なども結局はその、存命中の納得の有無軽重を分かりやすく提示した方便で
あるわけで、地獄のどん底に失墜した亡者が、何千何万回という輪廻転生を重ねることで
初めて品性を向上させられるという説も、それほどにも地獄のどん底に落ち込んだ亡者の
不満が満たされることが困難であることを、分かりやすく解説したものであるといえる。
六道の輪廻転生も方便であるように、キリストの復活や救済も一種の方便であったとする。
六道論のほうは、あくまで輪廻を濁悪なものと見なし、早急な輪廻からの解脱を推奨する一方、
キリストは死後の復活や永遠の生を奨励する。生まれ変わったり生き返ったりするということが
前生の不満の現われなのだから、それはなくて済むのなら無いに越したことはないと考えるのが
まともな考え方であり、仏教はこの考え方にこそ根ざしている。一方で、死後の復活や永遠の生を
「そうあるべきもの」として断ずるキリストの物言いは、人生の不満を深刻化すらさせるべきもので
あるとし、ここがすでに間違っており、仮に方便であると見なしたところで、やはり宜しきものでない。
「人はいつかは必ず死ぬ」という実際問題とはまた別に、「存命中に上等な人生を送るか、それとも
下劣な人生を送るか」ということを方便として述べているのだとしても、仏教の六道論が上等な人生
の送り方を指し示した方便であるのに対し、キリストの復活論は下劣な人生の送り方を指し示した
方便であるということになるため、方便としてのキリスト信仰ですら、やはりよくないものだ。
現実問題を語った学術書などではないとしたところで、やはり嗜むに値しないのが犯罪聖書だ。
「鼠を相ても皮あるに、人に而て儀無し。人に而て儀無くんば、死なずして何をか為さん。
鼠を相ても歯あるに、人に而て止無し。人に而て止無くんば、死なすして何をか俟たん。
鼠を相ても体あるに、人に而て礼無し。人に而て礼無くんば、胡ぞ遄やかに死せざらん。
(古代中国語の発音で『皮』と『儀』、『歯』と『止』、『体』と『礼』が語呂合わせになっている)」
「鼠にも毛皮があるのに、人でありながら威儀がない。人でありながら威儀がないのなら、死にもせずに何をするというのか。
鼠にも歯があるのに、人でありながら節度がない。人でありながら節度がないのなら、死にもせずに何を待つというのか。
鼠にも体躯があるのに、人でありながら礼節がない。人でありながら礼節がないのに、なぜ早く死なないのか。
(永遠の命などという節度のないものを欲するようなものは、何もせず何も待たずに、さっさと死ぬべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・相鼠)
下劣な人生を送るか」ということを方便として述べているのだとしても、仏教の六道論が上等な人生
の送り方を指し示した方便であるのに対し、キリストの復活論は下劣な人生の送り方を指し示した
方便であるということになるため、方便としてのキリスト信仰ですら、やはりよくないものだ。
現実問題を語った学術書などではないとしたところで、やはり嗜むに値しないのが犯罪聖書だ。
「鼠を相ても皮あるに、人に而て儀無し。人に而て儀無くんば、死なずして何をか為さん。
鼠を相ても歯あるに、人に而て止無し。人に而て止無くんば、死なすして何をか俟たん。
鼠を相ても体あるに、人に而て礼無し。人に而て礼無くんば、胡ぞ遄やかに死せざらん。
(古代中国語の発音で『皮』と『儀』、『歯』と『止』、『体』と『礼』が語呂合わせになっている)」
「鼠にも毛皮があるのに、人でありながら威儀がない。人でありながら威儀がないのなら、死にもせずに何をするというのか。
鼠にも歯があるのに、人でありながら節度がない。人でありながら節度がないのなら、死にもせずに何を待つというのか。
鼠にも体躯があるのに、人でありながら礼節がない。人でありながら礼節がないのに、なぜ早く死なないのか。
(永遠の命などという節度のないものを欲するようなものは、何もせず何も待たずに、さっさと死ぬべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・相鼠)
ある教義上の言葉を信仰することで、その言葉の定立をより強固なものとならしめる。
それは例えば、念仏宗における「南無阿弥陀仏」という唱名などについても言えることであり、
仏法について丸っきりド素人な庶民などであっても、ただ「南無阿弥陀仏」と
唱えることで、我が仏法の定立を強固なものとならしめたことになる。
そういう、教義の強定立などからは一旦かけ離れたところで、単なる恣意的な
吟味の対象として儒学や四書五経を鑑みれば、別に執拗な信仰や強定立の対象にしなくとも、
自然と「もっともだな」と納得させられるような内容ばかりであることがわかる。
自分から無理に定立しようとしなくても、自らの本性が自然と「是」と見なしてしまう道理。
その道理をありのままに体系化したのが儒学や四書五経であり、さらにその道理を深部まで突き詰めて
絶対真理にまで昇華した上で、信仰による強定立の対象とするにも相応しい荘厳を施したのが仏教であり、
道理を完全に転倒させた無理を執拗な信仰による強定立の対象としたのが聖書信仰だったといえる。
儒学や四書五経には信仰による強定立は全く必要なく、
かえってそれを信仰の対象とした「儒教」のほうが劣化したものとなりやすい。
(官僚腐敗を招いた明代中国の儒教や、古代中国の礼習を杓子定規に実践しようとした朝鮮儒教など)
仏教も、必ずしも信仰を第一とするものではなく、他力本願の信仰一辺倒よりは、
自力での自主的な求道のほうが上等であるとされる。一方で、犯罪聖書のほうはといえば、
こちらは信仰の対象でしかあり得ない。その内容が道理に反する無理であり、
道理のような、自然と納得してしまう意味合いを全く持ち合わせてはいないから、
信仰によって無理に強定立する以外に、それをたしなむ手だてが存在しない。
それは例えば、念仏宗における「南無阿弥陀仏」という唱名などについても言えることであり、
仏法について丸っきりド素人な庶民などであっても、ただ「南無阿弥陀仏」と
唱えることで、我が仏法の定立を強固なものとならしめたことになる。
そういう、教義の強定立などからは一旦かけ離れたところで、単なる恣意的な
吟味の対象として儒学や四書五経を鑑みれば、別に執拗な信仰や強定立の対象にしなくとも、
自然と「もっともだな」と納得させられるような内容ばかりであることがわかる。
自分から無理に定立しようとしなくても、自らの本性が自然と「是」と見なしてしまう道理。
その道理をありのままに体系化したのが儒学や四書五経であり、さらにその道理を深部まで突き詰めて
絶対真理にまで昇華した上で、信仰による強定立の対象とするにも相応しい荘厳を施したのが仏教であり、
道理を完全に転倒させた無理を執拗な信仰による強定立の対象としたのが聖書信仰だったといえる。
儒学や四書五経には信仰による強定立は全く必要なく、
かえってそれを信仰の対象とした「儒教」のほうが劣化したものとなりやすい。
(官僚腐敗を招いた明代中国の儒教や、古代中国の礼習を杓子定規に実践しようとした朝鮮儒教など)
仏教も、必ずしも信仰を第一とするものではなく、他力本願の信仰一辺倒よりは、
自力での自主的な求道のほうが上等であるとされる。一方で、犯罪聖書のほうはといえば、
こちらは信仰の対象でしかあり得ない。その内容が道理に反する無理であり、
道理のような、自然と納得してしまう意味合いを全く持ち合わせてはいないから、
信仰によって無理に強定立する以外に、それをたしなむ手だてが存在しない。
信仰などとは全く無関係に、自然なままに物事を納得するという繊細な感覚は、
無理を無理に狂信しようとするような感情の焼け付きによってはかえって鈍り、
当たり前なことを当たり前なうちに納得することへの理解を、時に完全に喪失させる。
だから無理の狂信者こそは道理がなかなか理解できず、自分たちの都合だけで道理を否定し去りもする。
否定したところでこの世から道理が無くなるわけでもなく、逆らい続ければいつかは
自分たち自身が破滅に陥るのが道理なわけだが、その道理を無理の狂信によって否定し去って
しまっているような連中が、道理を直接的に理解し直すのもなかなか無理なことであり、
だったらまだ、道理を昇華させた絶対真理を信仰の対象として整備した仏教に帰依するほうが、
「急がば回れ」形式での道理理解への近道となるだろう。本当は道理を直接理解できれば、
それだけでも十分なわけだが、道理に反する無理が狂信の対象となったりもするからこそ、
それ自体が信仰の対象としにくい道理以上にも、信仰の対象としての絶対真理が意味を持つこともある。
絶対真理のほうは、結局は両極端を排した中正の道理を是ともするため、
全く中正を欠いた無理信仰の場合のような、排除の対象とする必要もない。
そのため、これからも「信仰」という行為自体が根本から完全否定されたりすることはない。
「恭儉は、豈に声音笑貌を以て為す可けんや」
「真の恭敬や倹約といったものは、口先だけの声色や上っ面だけの容貌などでは、どうにもできないものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一六より)
無理を無理に狂信しようとするような感情の焼け付きによってはかえって鈍り、
当たり前なことを当たり前なうちに納得することへの理解を、時に完全に喪失させる。
だから無理の狂信者こそは道理がなかなか理解できず、自分たちの都合だけで道理を否定し去りもする。
否定したところでこの世から道理が無くなるわけでもなく、逆らい続ければいつかは
自分たち自身が破滅に陥るのが道理なわけだが、その道理を無理の狂信によって否定し去って
しまっているような連中が、道理を直接的に理解し直すのもなかなか無理なことであり、
だったらまだ、道理を昇華させた絶対真理を信仰の対象として整備した仏教に帰依するほうが、
「急がば回れ」形式での道理理解への近道となるだろう。本当は道理を直接理解できれば、
それだけでも十分なわけだが、道理に反する無理が狂信の対象となったりもするからこそ、
それ自体が信仰の対象としにくい道理以上にも、信仰の対象としての絶対真理が意味を持つこともある。
絶対真理のほうは、結局は両極端を排した中正の道理を是ともするため、
全く中正を欠いた無理信仰の場合のような、排除の対象とする必要もない。
そのため、これからも「信仰」という行為自体が根本から完全否定されたりすることはない。
「恭儉は、豈に声音笑貌を以て為す可けんや」
「真の恭敬や倹約といったものは、口先だけの声色や上っ面だけの容貌などでは、どうにもできないものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一六より)
とにもかくにも、誰に認められる以上にも、自分が自分を認められるかどうかが最重要課題。
ほとんど他の誰よりも激烈な批判の目で自分を見て、なおのこと自分を認められるぐらいに
自分自身が相応の修練に努めていたならば、それでもう、この世界この宇宙、三千大千世界に
このわたくしを認めないでいられるものは、原理的にどこにもありはしない。
「自分が自分を認められるかどうか」という根本命題を打ち棄てて、自分以外の誰かに
認められることばかりに執着したとき、人は「演技」をする。自らが全身全霊をなげうって
最善を尽くすことよりも、上っ面が他人から見てよさげに見えることばかりに執心する。
そのぶんだけ全身全霊をなげうっての修練は疎かとなり、人に見せるつもりでもない部分の
堕落は極まって、餓鬼畜生の振る舞いですら「演技の疲れを癒す」などの名目で正当化される。
まず自分が自分を認められてから、その次に自分以外の誰かに認められようとすることと、
自分を認めることは完全に打ち棄てて、他人に認められることばかりに耽溺する場合とでは
根本的な位相が異なり、同じ「認められる」という方向性を持つにも関わらす、全く真逆の
結果を招きすらする。前者は人としての真の大成を実現するのに対し、後者は上っ面だけの
虚飾の肥大化を促進すると共に、全身全霊にわたる本物の自己の、餓鬼畜生化をも助長する。
まず自分が自分を認めることを優先したものは、人から認められるということは相対的に劣後している。
だから、いま仮に誰にも認められないとしたところで、それでもどうということはないし、仮に認めて
くれる相手がいたとしても、その相手が権威のある査定者などでなかったところで、全く構わない。
ほとんど他の誰よりも激烈な批判の目で自分を見て、なおのこと自分を認められるぐらいに
自分自身が相応の修練に努めていたならば、それでもう、この世界この宇宙、三千大千世界に
このわたくしを認めないでいられるものは、原理的にどこにもありはしない。
「自分が自分を認められるかどうか」という根本命題を打ち棄てて、自分以外の誰かに
認められることばかりに執着したとき、人は「演技」をする。自らが全身全霊をなげうって
最善を尽くすことよりも、上っ面が他人から見てよさげに見えることばかりに執心する。
そのぶんだけ全身全霊をなげうっての修練は疎かとなり、人に見せるつもりでもない部分の
堕落は極まって、餓鬼畜生の振る舞いですら「演技の疲れを癒す」などの名目で正当化される。
まず自分が自分を認められてから、その次に自分以外の誰かに認められようとすることと、
自分を認めることは完全に打ち棄てて、他人に認められることばかりに耽溺する場合とでは
根本的な位相が異なり、同じ「認められる」という方向性を持つにも関わらす、全く真逆の
結果を招きすらする。前者は人としての真の大成を実現するのに対し、後者は上っ面だけの
虚飾の肥大化を促進すると共に、全身全霊にわたる本物の自己の、餓鬼畜生化をも助長する。
まず自分が自分を認めることを優先したものは、人から認められるということは相対的に劣後している。
だから、いま仮に誰にも認められないとしたところで、それでもどうということはないし、仮に認めて
くれる相手がいたとしても、その相手が権威のある査定者などでなかったところで、全く構わない。
もちろん、より冷徹な分析と、より普遍的な基準に即して認めてくれるほうが栄誉には違いないが、
その、最も厳正な査定に匹敵する批評眼で自らを観察した上で、自己研鑽によってやっと自分が自分を
認められる段階にまで至れたような人間にとっては、もはや自分以外の査定者が厳正であるかどうか
ということは、「ついで」である。むしろそのとき、外部的な査定者の側こそは、査定の厳正さを査定
される側にすら回ってしまっていて、自分たちの査定水準が認められて、査定させていただくことを
許可されることを、栄誉とすらすべき状況にある。この世界、この宇宙に絶対的な監視者や査定者
などは存在せず、誰しもがその視力をできる限り高めていくことで、なるべく自らの査定水準がより
厳正であるように努めるしかない立場にある。それは、自分も他人も全く変わりはしないことなので、
自分が自分をより厳正な基準に即して査定することにも、最大級の厳正さが備わりもするのだ。
「天爵なる者あり、人爵なる者あり。仁義忠信、善を楽しみて倦まざるは、此れ天爵なり。公卿大夫、此れ人爵なり。
古えの人は其の天爵を修めて、而かも人爵之れに従えり。今の人は其の天爵を修めて、以て人爵を要む。
既に人爵を得て而かも其の天爵を棄つるは、則ち惑えるの甚しき者なり。終には亦た必ず亡いて已まん」
「この世には天から認められて授かる天爵と、人から認められて授かる人爵とがある。仁義忠信のような
善徳を楽しんで、決して疎かにすることがなければ、それがもはや天爵である(自力作善すなわち天爵)。
公卿や高官のような社会上の立場が人爵である。昔の人々はただひたすら天爵を追い求めて、それにたまに
人爵が付いてくるぐらいのものだった。今の人間はたとえ天爵を修めるにしても、ただ人爵を得るためだけに
限っている。しかも人爵を得た途端に天爵のほうは棄て去ってしまうような有様で、これは本末転倒の惑乱も
甚だしいことだ。その程度の心がけでは、せっかく得た人爵すらをも、いつかは必ず失ってしまうことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一六より)
その、最も厳正な査定に匹敵する批評眼で自らを観察した上で、自己研鑽によってやっと自分が自分を
認められる段階にまで至れたような人間にとっては、もはや自分以外の査定者が厳正であるかどうか
ということは、「ついで」である。むしろそのとき、外部的な査定者の側こそは、査定の厳正さを査定
される側にすら回ってしまっていて、自分たちの査定水準が認められて、査定させていただくことを
許可されることを、栄誉とすらすべき状況にある。この世界、この宇宙に絶対的な監視者や査定者
などは存在せず、誰しもがその視力をできる限り高めていくことで、なるべく自らの査定水準がより
厳正であるように努めるしかない立場にある。それは、自分も他人も全く変わりはしないことなので、
自分が自分をより厳正な基準に即して査定することにも、最大級の厳正さが備わりもするのだ。
「天爵なる者あり、人爵なる者あり。仁義忠信、善を楽しみて倦まざるは、此れ天爵なり。公卿大夫、此れ人爵なり。
古えの人は其の天爵を修めて、而かも人爵之れに従えり。今の人は其の天爵を修めて、以て人爵を要む。
既に人爵を得て而かも其の天爵を棄つるは、則ち惑えるの甚しき者なり。終には亦た必ず亡いて已まん」
「この世には天から認められて授かる天爵と、人から認められて授かる人爵とがある。仁義忠信のような
善徳を楽しんで、決して疎かにすることがなければ、それがもはや天爵である(自力作善すなわち天爵)。
公卿や高官のような社会上の立場が人爵である。昔の人々はただひたすら天爵を追い求めて、それにたまに
人爵が付いてくるぐらいのものだった。今の人間はたとえ天爵を修めるにしても、ただ人爵を得るためだけに
限っている。しかも人爵を得た途端に天爵のほうは棄て去ってしまうような有様で、これは本末転倒の惑乱も
甚だしいことだ。その程度の心がけでは、せっかく得た人爵すらをも、いつかは必ず失ってしまうことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一六より)
「陳成子、簡公を弑す。孔子沐浴して朝し、哀公に告げて曰く、陳恒、其の君を弑す。請う、之れを討たん。
公曰く、夫の三子に告げよ。孔子曰く、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げずんばならず。君の曰うに、
夫の三子に告げよと。之れを三子に告ぐ。可とせず。孔子曰く、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げねばならず」
「斉国の大夫である陳恒が、その主君である簡公を殺した。(乱世といえども主君殺しは大罪なので、)孔子は
斎戒沐浴などの万全の準備を尽くした上で魯の朝廷に出仕し、自らの主君である哀公に告げて言った。『陳恒が
主君殺しの大罪を犯しました。ここにこの討伐を請願致します』 哀公は言った。『私ではなく、三家老に告げなさい』
請願を聞き入れられなかった孔子は『私も魯の高官の末席に連なる身分として、請願しないわけにはいかなかったのだ。
ただ、主君が三家老に告げておけと仰せられたので、そうしよう』と言い、三家老である孟孫・叔孫・季孫に同様の
誓願を告げた。しかし、そこでも請願は聞き入れられなかった。孔子はまた言った。『私も魯の高官の末席に連なる
立場である以上は、(主君殺しという大罪を犯した陳恒の討伐請願を)告げないでいるわけにはいかなかったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二二)
官僚腐敗も相当に深刻なものと化していた春秋時代末期に、孔子は半ば青い鳥状態での、諸国での遊説を兼ねた
仕官を試みていた。ちょうどこの時には、故郷の魯国の下級大夫を務めていたようで、「三子」と呼ばれていた
孟孫・叔孫・季孫らの家老などと比べれば遥かに身分の低い、外野的な立場に置かれていたことがうかがえる。
公曰く、夫の三子に告げよ。孔子曰く、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げずんばならず。君の曰うに、
夫の三子に告げよと。之れを三子に告ぐ。可とせず。孔子曰く、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げねばならず」
「斉国の大夫である陳恒が、その主君である簡公を殺した。(乱世といえども主君殺しは大罪なので、)孔子は
斎戒沐浴などの万全の準備を尽くした上で魯の朝廷に出仕し、自らの主君である哀公に告げて言った。『陳恒が
主君殺しの大罪を犯しました。ここにこの討伐を請願致します』 哀公は言った。『私ではなく、三家老に告げなさい』
請願を聞き入れられなかった孔子は『私も魯の高官の末席に連なる身分として、請願しないわけにはいかなかったのだ。
ただ、主君が三家老に告げておけと仰せられたので、そうしよう』と言い、三家老である孟孫・叔孫・季孫に同様の
誓願を告げた。しかし、そこでも請願は聞き入れられなかった。孔子はまた言った。『私も魯の高官の末席に連なる
立場である以上は、(主君殺しという大罪を犯した陳恒の討伐請願を)告げないでいるわけにはいかなかったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二二)
官僚腐敗も相当に深刻なものと化していた春秋時代末期に、孔子は半ば青い鳥状態での、諸国での遊説を兼ねた
仕官を試みていた。ちょうどこの時には、故郷の魯国の下級大夫を務めていたようで、「三子」と呼ばれていた
孟孫・叔孫・季孫らの家老などと比べれば遥かに身分の低い、外野的な立場に置かれていたことがうかがえる。
ただ、魯の大夫として少なからず禄を食む立場であった以上は、主君殺しという、権力道徳を決定的に危ぶむ
過ちを犯した斉の陳恒の討伐を請願しないではいられなかった。同じような過ちが魯国でも犯される可能性があるから、
その魯の主君である哀公に陳恒の討伐を進めておくことにも、一定の義務性が生じていた。斉は魯よりも遥かに
大国であり、内乱状態とはいえ、太公望兵法をも受け継いだ強力な兵員をも擁していたわけだから、そこに討伐隊を
送るなど哀公としては恐れ極まりないことだったに違いない。孔子もそれを半ば察していたから「私も請願を告げ
ないでいるわけにはいかない立場だから」というような、半ば請願が聞き入れられないことを始めから見越して
いたかのような嘆息の言葉を、二度にもわたって述べている。
この、告げたところで叶いもしなければ聞き入れられもしないが、自らの落とし前として告げておかねばならない
という感覚は、僭越ながら、今の自分が抱いている感覚とも全く酷似している。今どき仁義道徳を実践しようと
するものもいなければ、その価値を推し量ろうとするものすらほとんどいない。道徳は法律とは違って、誰しもに
遵守を強制すべきものではなく、強制すればかえってそれが「法律的な道徳の享受」ということになってしまい、
道徳の享受としての道を誤ることにすらなってしまう。だから誰かに道徳の価値を見直すことを強制したり、道徳の
実践を強制したりすることもない。ただ、道徳は認めないよりも認めたほうが、実践しないよりも実践したほうが
後々にいい結果を招くものだから、最低限「道徳の奨励」という役目だけを果たしておこうという心持ちでいる。
主君殺しの討伐の請願を、どうせ聞き入れられはしないだろうが告げておかないではいられないという、かの孔子の
心持ちが痛いほどよく分かり、告げたことが叶えられることなんかより、告げておくことで自らに最低限の落とし前が
付けられることのほうが、人としての根本的な納得を磐石ならしめるものであることをも、さらにさらに確信するものだ。
過ちを犯した斉の陳恒の討伐を請願しないではいられなかった。同じような過ちが魯国でも犯される可能性があるから、
その魯の主君である哀公に陳恒の討伐を進めておくことにも、一定の義務性が生じていた。斉は魯よりも遥かに
大国であり、内乱状態とはいえ、太公望兵法をも受け継いだ強力な兵員をも擁していたわけだから、そこに討伐隊を
送るなど哀公としては恐れ極まりないことだったに違いない。孔子もそれを半ば察していたから「私も請願を告げ
ないでいるわけにはいかない立場だから」というような、半ば請願が聞き入れられないことを始めから見越して
いたかのような嘆息の言葉を、二度にもわたって述べている。
この、告げたところで叶いもしなければ聞き入れられもしないが、自らの落とし前として告げておかねばならない
という感覚は、僭越ながら、今の自分が抱いている感覚とも全く酷似している。今どき仁義道徳を実践しようと
するものもいなければ、その価値を推し量ろうとするものすらほとんどいない。道徳は法律とは違って、誰しもに
遵守を強制すべきものではなく、強制すればかえってそれが「法律的な道徳の享受」ということになってしまい、
道徳の享受としての道を誤ることにすらなってしまう。だから誰かに道徳の価値を見直すことを強制したり、道徳の
実践を強制したりすることもない。ただ、道徳は認めないよりも認めたほうが、実践しないよりも実践したほうが
後々にいい結果を招くものだから、最低限「道徳の奨励」という役目だけを果たしておこうという心持ちでいる。
主君殺しの討伐の請願を、どうせ聞き入れられはしないだろうが告げておかないではいられないという、かの孔子の
心持ちが痛いほどよく分かり、告げたことが叶えられることなんかより、告げておくことで自らに最低限の落とし前が
付けられることのほうが、人としての根本的な納得を磐石ならしめるものであることをも、さらにさらに確信するものだ。

不健全で有害無益この上ないものとなる犯罪聖書の記述。
それでも事実、その雑文がこの世界に存在してしまい、長らくの間における服毒の対象ともなって来た。
未だ中毒状態にある狂信者から急激に犯罪聖書を取り上げて、そのままほったらかしにしたりすれば、
麻薬が切れた中毒患者のような最悪の苦痛に見舞われることにもなりかねない。
だから、巨大な脳腫瘍を取り除いた後の空隙に生理食塩水を注入するようにして、
犯罪聖書を没収した元犯罪信者に、四書五経や仏書をあてがうなどの緩和ケアを施したほうがよい。
摘出した脳腫瘍に当たる所の犯罪聖書は、当然その大部分が裁断処分などの対象になる。
ただ、大学病院の標本室に特大の脳腫瘍のホルマリン漬けが保管されるようにして、
ごく一部の犯罪聖書が標本扱いとして保管されることにはなる。
あくまで「よくないもの」、文面的にも寓意的にも実践の対象などにしてはならないものとしての扱いで保管される。
それは、中国諸子百家の内でも特に劣悪な思想を記録している「韓非子」や「墨子」がすでに通った道でもあり、
「韓非子」は生まれ故郷の中国では完全に打ち捨てられたために、日本の江戸時代の
貧乏儒者である太田方全斎が校注書「韓非子翼毳」を書いているし、
「墨子」もほんのこの前まで完全に打ち捨てられていたために、原本すら所在不明となっていた始末。
その程度の扱いとしての犯罪聖書はこれからも遺るし、また、
完全な犯罪マニュアルムックとして、開き直った体裁でゲリラ的に世に出回る可能性もある。
削除(by投稿者)

儒家も儒家で「韓非子」の愛読者だった秦始皇帝に焚書坑儒の憂き目にも遭ったことがあるので、
「目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)」ではなく、「直きを以て怨みに報う(論語)」を実践する目的でも、
犯罪聖書自体を完全な根絶の対象にまではしない。ただ、犯罪聖書の記述を「是」と見なして、
忠実な信仰や実践の材料としていく「犯罪聖書信仰」だけが根絶の対象となるわけで、ただ、
正体が犯罪マニュアルムックでしかない雑文集の扱いを、相応に適正化するだけなのだといえる。
「蔡公、二子を召して、将に之れを納れんとし、之れと盟いて、之れを遣れり。將に師して之れに従わんとす」
「蔡公は子干と子皙の二人を招聘し、この二人を一旦楚に帰国させるため、二人と盟約を結んでから、実際に
この二人を楚に遣わした。これはまさに、蔡公が二人を師として仰ぎ、これに服従しようとした姿だといえる。
(『遣い』は目下の者が目上の者に服従を誓う体裁を意味する。日本も一時は中華帝国に服従する倭王の
体裁を取っていたため中国に遣使を送っていたが、聖徳太子が遣隋使で隋の煬帝に対する対等外交を試み、
菅原道真が遣唐使を廃止したことで、中華帝国の柵封体制からの完全な離脱を果たしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十三年より)

頭部の中脳付近に位置する上丹田、胸部の心臓付近に位置する中丹田、腹部のへそ下三寸あたりに位置する下丹田、
この三つが個々の人間の精神力の主要な中枢部位であり、これらの丹田を中枢と見なして為される言行が
自然と精神性に根ざしたものともなる。それは結局、折り目正しい礼節にかなった言行となり、
無礼に相当するような粗雑な言行を自然と立ち消えにしてしまうものともなる。
上中下、三つの丹田を中枢と見なした言行が精神的となり、自然と礼節にもかなうようになるのに対し、
この三つの丹田による制御を振り切って、左右の大脳の思考ばかりが上ずった結果生ずるような言行が、
精神性を欠いた不埒で無礼まみれな言行となる。それは個々の人間の精神に司られていないのはもちろんのこと、
何らの絶対的な制御者を持たない、微風が吹いただけでも舞い上がって飛んでいく羽毛のように不安定なもの。
風が吹けば飛んでいく羽毛ほどにも不安定な大脳一辺倒の思考が、「妾腹の私生児」という不遇の暴風に
晒された結果、イエスは未曾有の不埒まみれな言行に走った。それは何ら「超越神の介在」などを想定する
必要のない機械的な自己完結現象であり、あまりにも動機が明らか尽くしであればこそ、本物の神仏の場合の
ような神秘性を付与する必要も全くない。そう言い切れるのは、イエスと同じ「妾腹の私生児」という不遇に
晒されながらも、自学自習によって大脳思考の暴れ回りを抑制し、丹田を中枢とした精神的な言行を守り通す
能力を自力で手に入れた孔子の事績などもあるからで、ただ「孔子の失敗例」と見なすだけで、イエスの
数々の奇怪な言行その全てが、何らの神秘性も想定に入れることなく、説明しきれるものでしかないからだ。
「夫れ人の子為る者は(略)恒の言を老と稱せず」
「人の子としての立場を大事にするものは、自らの言行が長者の老獪さに根ざしているようには決して自称しない。
(自らの言行を『父なる神』などに付託しようとするイエスの物言い自体が、本当に
人の子である者としての礼節上のわきまえを決定的に欠いたものであり、本物の父親が
誰であるとも知れない、妾腹の私生児の自暴自棄の稚拙な虚飾でしかないことが明らか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「人の子としての立場を大事にするものは、自らの言行が長者の老獪さに根ざしているようには決して自称しない。
(自らの言行を『父なる神』などに付託しようとするイエスの物言い自体が、本当に
人の子である者としての礼節上のわきまえを決定的に欠いたものであり、本物の父親が
誰であるとも知れない、妾腹の私生児の自暴自棄の稚拙な虚飾でしかないことが明らか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
食欲を抑制できる心持ちの有無が、人としての品性の上下をも決定的に断絶してしまう。
老子が「霞を食って生きる」といったとき、別に霞が美味なものとも、
栄養豊富なものとも主張されたのでもない。むしろ味も栄養も皆無な
霞を食すという皮肉によって、食欲全般を否定する志向が是とされた。
人は食べ物を必要とする生き物であり、実際に食や食欲を全否定してしまうのでは、
自殺にもつながる。それすら否定し去りはしない天道や聖道門の宗教もありはするにしろ、
世俗の常人までもが食欲全般を否定し尽くしたりするのは、現実的でない。
ただ、食欲を必ずしも絶対とはしない心持ち、道徳や礼節や神仏への畏敬などのためには、
食欲を劣後することも辞さないぐらいの心持ちでいられるかどうかが、
世俗の常人としての現実的な品性の上下を決定的に左右する。
老子が「霞を食って生きる」といったとき、別に霞が美味なものとも、
栄養豊富なものとも主張されたのでもない。むしろ味も栄養も皆無な
霞を食すという皮肉によって、食欲全般を否定する志向が是とされた。
人は食べ物を必要とする生き物であり、実際に食や食欲を全否定してしまうのでは、
自殺にもつながる。それすら否定し去りはしない天道や聖道門の宗教もありはするにしろ、
世俗の常人までもが食欲全般を否定し尽くしたりするのは、現実的でない。
ただ、食欲を必ずしも絶対とはしない心持ち、道徳や礼節や神仏への畏敬などのためには、
食欲を劣後することも辞さないぐらいの心持ちでいられるかどうかが、
世俗の常人としての現実的な品性の上下を決定的に左右する。
俗人としても、時には絶食すら辞さないぐらいの心持ちでいられたほうが上等であり、
常に何かを食べ続けていなければいられないような心持ちでいるほうが下等だ。
実は、前者の食欲を劣後できる心持ちのほうが健康上も安全であり、
後者の食欲を劣後できない心持ちのほうが、健康を損なわせる危険を孕んでもいる。
だから食欲を劣後できるほうが上等であり、劣後できないほうが下等でもある。
「上等」とか「下等」とかいった言葉の正しい使い方もかようなものであり、
他者を蹴り落としてでも勝者になるような貪欲さを上等とし、その蹴り落とし合いの敗者を
下等としたりするほうが、「上等」とか「下等」とかいった言葉の使い方としても間違っている。
間違った言葉の使い方に則して「上等」とか「下等」とかいった言葉を
毛嫌いするのも、誤謬だけで自己完結した脳内妄想同士での闘争でしかないのだ。
「其れ笠を伊れ糾り、其れ鎛と趙もち、以て荼蓼を薅う。荼蓼は朽ちて、黍稷は茂る」
「菅笠を被り、鋤鍬を持って、夏のうちに生い茂った田の雑草を刈り取る。
刈り取った雑草が朽ちて枯れ果てた頃には、黍や稲といった穀物も実っている。
(まるで雑草が犯罪聖書の邪義で、穀物が四書五経の仁義道徳を指しているようだ。
邪義を排して仁徳を広めていくことにも、相当な尽力が必要となることをも示唆している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・良耜より)
常に何かを食べ続けていなければいられないような心持ちでいるほうが下等だ。
実は、前者の食欲を劣後できる心持ちのほうが健康上も安全であり、
後者の食欲を劣後できない心持ちのほうが、健康を損なわせる危険を孕んでもいる。
だから食欲を劣後できるほうが上等であり、劣後できないほうが下等でもある。
「上等」とか「下等」とかいった言葉の正しい使い方もかようなものであり、
他者を蹴り落としてでも勝者になるような貪欲さを上等とし、その蹴り落とし合いの敗者を
下等としたりするほうが、「上等」とか「下等」とかいった言葉の使い方としても間違っている。
間違った言葉の使い方に則して「上等」とか「下等」とかいった言葉を
毛嫌いするのも、誤謬だけで自己完結した脳内妄想同士での闘争でしかないのだ。
「其れ笠を伊れ糾り、其れ鎛と趙もち、以て荼蓼を薅う。荼蓼は朽ちて、黍稷は茂る」
「菅笠を被り、鋤鍬を持って、夏のうちに生い茂った田の雑草を刈り取る。
刈り取った雑草が朽ちて枯れ果てた頃には、黍や稲といった穀物も実っている。
(まるで雑草が犯罪聖書の邪義で、穀物が四書五経の仁義道徳を指しているようだ。
邪義を排して仁徳を広めていくことにも、相当な尽力が必要となることをも示唆している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・良耜より)
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「信じて知る」というのは、おおよそ「知」が偽物で、「信」が狂信の場合。
「知ってから信じる」というのは、「知」が本物で、「信」が正信の場合に限る。
悪人正機のからくりを唯識思想などによって知ってしまっても、やはり念仏信仰は
その正体から優良なものであると知るので、知ってもなお信じることができる。
十字架信仰のからくりなども、朱子学やウパニシャッド哲学などに即して完全に
暴くことができるが、暴いた途端にその中身が空っぽな不実の塊だと知ってしまう。
知った途端に、もう二度と十字架なんか信用する気にもなれず、少しでも信奉
しようなどと考えたことがあったなら、それすらをもひどく恥じ入るようになる。
本物の知との両立が可能なのが念仏信仰である一方で、真知との両立が絶対に
不可能なのが十字架信仰であり、偽物の知との並存しかできないからこそ、
信が知による抑制を振り切った狂信とも化してしまう場合が多い。
本堂の阿弥陀像を枕に昼寝していた沢庵禅師に、「俺の商売道具に何をする!」と
叱り飛ばして、沢庵と共にに笑い飛ばしたという蓮如上人のシラフさ加減も、たとえ
そのカラクリを知らされたところで全く揺らぐことがない浄土教学の優良さがあればこそ。
聖書信者なら、十字架信仰のからくりを目前に付き付けられたって見て見ぬフリをし、
適当に話しをはぐらかしてその場を逃げおおせるぐらいのことしかできない。
十字架を信奉するような欺瞞を続けている限りは、真知をシラフで受容することもできない。
だから、どんなに正確な知識を目前に突きつけてやったところで、馬耳東風でしかいられない。
真知の価値を信者の脳内では無効化させてしまう十字架信仰などが取り払われてから初めて、
正しい知識を理解したり、人とその知識を共有したりすることもできるようになる。
「未だ知ならず、焉んぞ仁なることを得ん」
「未だ知者ではないのに、どうして仁者であるなどということがあろうか。
(人は、一人前にものを知ることで自然と仁者になる。聖書信者は
狂信によって知の成長を妨げているから、自然と仁者にもなれない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一九より)
「知ってから信じる」というのは、「知」が本物で、「信」が正信の場合に限る。
悪人正機のからくりを唯識思想などによって知ってしまっても、やはり念仏信仰は
その正体から優良なものであると知るので、知ってもなお信じることができる。
十字架信仰のからくりなども、朱子学やウパニシャッド哲学などに即して完全に
暴くことができるが、暴いた途端にその中身が空っぽな不実の塊だと知ってしまう。
知った途端に、もう二度と十字架なんか信用する気にもなれず、少しでも信奉
しようなどと考えたことがあったなら、それすらをもひどく恥じ入るようになる。
本物の知との両立が可能なのが念仏信仰である一方で、真知との両立が絶対に
不可能なのが十字架信仰であり、偽物の知との並存しかできないからこそ、
信が知による抑制を振り切った狂信とも化してしまう場合が多い。
本堂の阿弥陀像を枕に昼寝していた沢庵禅師に、「俺の商売道具に何をする!」と
叱り飛ばして、沢庵と共にに笑い飛ばしたという蓮如上人のシラフさ加減も、たとえ
そのカラクリを知らされたところで全く揺らぐことがない浄土教学の優良さがあればこそ。
聖書信者なら、十字架信仰のからくりを目前に付き付けられたって見て見ぬフリをし、
適当に話しをはぐらかしてその場を逃げおおせるぐらいのことしかできない。
十字架を信奉するような欺瞞を続けている限りは、真知をシラフで受容することもできない。
だから、どんなに正確な知識を目前に突きつけてやったところで、馬耳東風でしかいられない。
真知の価値を信者の脳内では無効化させてしまう十字架信仰などが取り払われてから初めて、
正しい知識を理解したり、人とその知識を共有したりすることもできるようになる。
「未だ知ならず、焉んぞ仁なることを得ん」
「未だ知者ではないのに、どうして仁者であるなどということがあろうか。
(人は、一人前にものを知ることで自然と仁者になる。聖書信者は
狂信によって知の成長を妨げているから、自然と仁者にもなれない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一九より)
今という時代、今この世界、この世の中という「環境」が地獄であることは、完全に承知している。
犯罪聖書の信仰や実践に基づいて全人類が破滅に陥れられ、誰一人として真の救いを受けられなくなっている。
その事実からまったく目を背けて、地獄を天国だなどと転倒夢想して、偽りの救いの虚しい悦に入ったり
することも決してせず、今という時代のどうしようもなさ加減を、地獄そのものであると正しく認識している。
だからといって絶望したりもせず、何もかもが救いのない地獄と化してしまっているこの穢土を厭離して、
まったく今の世が刷新された後の浄土を欣求している。しかもそこに至るための具体的な考究も尽くしている。
犯罪聖書の信仰や実践の根絶、洋学からの最高権威の剥奪と、儒学や正統な仏学などに対する最高権威の付与、
そして儒学や仏学といった正学の実践による、泰平と繁栄に満ち溢れた権力道徳社会の復興。
全くの夢物語などではなく、極めて具体的で、現実に実現が可能な範囲での浄土社会の企図であり、
だからこそ夢物語に過ぎない場合のような、現実を直視した場合における絶望や幻滅などもあり得ない。
現実に根ざした、実現可能な希望であるから、地獄同然の現実を
眼前にしてですら、全くへこたれることがない。どうだ、まいったか。
「険前に在るなるも、剛健にして陥らざれば、其の義は困窮せず」
「たとえ険難を眼前にしようとも、剛健さを貫いて絶望に陥るようなことがなければ、その義が困窮したりすることもない。
(艱難を前にしても壮健さを貫けることが、ありのままに義である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・需・彖伝より)
犯罪聖書の信仰や実践に基づいて全人類が破滅に陥れられ、誰一人として真の救いを受けられなくなっている。
その事実からまったく目を背けて、地獄を天国だなどと転倒夢想して、偽りの救いの虚しい悦に入ったり
することも決してせず、今という時代のどうしようもなさ加減を、地獄そのものであると正しく認識している。
だからといって絶望したりもせず、何もかもが救いのない地獄と化してしまっているこの穢土を厭離して、
まったく今の世が刷新された後の浄土を欣求している。しかもそこに至るための具体的な考究も尽くしている。
犯罪聖書の信仰や実践の根絶、洋学からの最高権威の剥奪と、儒学や正統な仏学などに対する最高権威の付与、
そして儒学や仏学といった正学の実践による、泰平と繁栄に満ち溢れた権力道徳社会の復興。
全くの夢物語などではなく、極めて具体的で、現実に実現が可能な範囲での浄土社会の企図であり、
だからこそ夢物語に過ぎない場合のような、現実を直視した場合における絶望や幻滅などもあり得ない。
現実に根ざした、実現可能な希望であるから、地獄同然の現実を
眼前にしてですら、全くへこたれることがない。どうだ、まいったか。
「険前に在るなるも、剛健にして陥らざれば、其の義は困窮せず」
「たとえ険難を眼前にしようとも、剛健さを貫いて絶望に陥るようなことがなければ、その義が困窮したりすることもない。
(艱難を前にしても壮健さを貫けることが、ありのままに義である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・需・彖伝より)
険前でも剛健でいられるから、正義なのではない。
正義だから、険前でも剛健なままでいられるのだ。
正義だから、険前でも剛健なままでいられるのだ。
罪を罪であると認識し、そこに罪悪感を抱けるだけの
一人前の倫理意識を持てないことが、人間にとっての畜生化となる。
知能がIQ40程度のチンパンジーでも具えている鏡映認知能力を喪失して、
自分とは全く別個の存在である十字架上の半裸ヒゲのおっさんを視認しただけで
自分自身の罪までもが浄化されたような気になる。そこでその人間は明らかに、
チンパンジー以下の知能指数しか持たない、畜生同然の品性に落ちぶれたことになる。
だからキリスト信仰によって罪が浄化されたような気分になることは、それ自体は
「畜生界への堕落」ということになる。ただ、畜生界に落ちぶれたから即座に累犯に
至るとも限らず、畜生界への堕落こそをキリスト信仰の正統とするカトリックや正教と、
地獄界や餓鬼界への堕落をもキリスト信仰の一式であると捉えるプロテスタントや
ユダヤの場合では、いささか罪を犯す度合いが異なり、人類史上最悪級の重権力犯罪に
直接及んでいるのはプロテスタントやユダヤのほうである一方、やはり従犯ではあるにしろ、
カトリックや正教のほうは、最悪級の権力犯罪からは一歩身を引いた所にいるといえる。
一人前の倫理意識を持てないことが、人間にとっての畜生化となる。
知能がIQ40程度のチンパンジーでも具えている鏡映認知能力を喪失して、
自分とは全く別個の存在である十字架上の半裸ヒゲのおっさんを視認しただけで
自分自身の罪までもが浄化されたような気になる。そこでその人間は明らかに、
チンパンジー以下の知能指数しか持たない、畜生同然の品性に落ちぶれたことになる。
だからキリスト信仰によって罪が浄化されたような気分になることは、それ自体は
「畜生界への堕落」ということになる。ただ、畜生界に落ちぶれたから即座に累犯に
至るとも限らず、畜生界への堕落こそをキリスト信仰の正統とするカトリックや正教と、
地獄界や餓鬼界への堕落をもキリスト信仰の一式であると捉えるプロテスタントや
ユダヤの場合では、いささか罪を犯す度合いが異なり、人類史上最悪級の重権力犯罪に
直接及んでいるのはプロテスタントやユダヤのほうである一方、やはり従犯ではあるにしろ、
カトリックや正教のほうは、最悪級の権力犯罪からは一歩身を引いた所にいるといえる。
直接罪を犯すことに特化しているのは地獄界だが、その地獄界ですら、根本的な理念と
見なしているのは畜生界の邪義。キリスト信者を自認しないユダヤ教徒も、キリストが
救世主の雛形であることは全く認めており、自分たちの救世主が新約聖書の記録のような
体裁を取って降臨すると固く信じている。だからやはり、犯罪聖書への信仰自体を禁止する
ことで、地獄界や餓鬼界の蠢動を絶やす必要があり、犯罪聖書信仰を禁止すれば自動的に
畜生界への居付きも絶やされることになる。宗門宗派の違いなどに関係なく聖書信仰全般が
絶やされる必要があるため、ベネディクトだってもう、廃業の用意をしておく必要がある。
「君子は成徳を以て行いを為し、日びに之れを行いに見わす可きなり。(略)
隠れて未だ見われず、行いて未だ成らざれば、是れを以て君子は用いざるなり」
「君子は完成された仁徳による行いを心がけ、常日ごろからその行いを隠し立てしない
ようにも心がける。未だ隠れて公けに現されることがなく、行いが成就しないというのなら、
それを理由として君子は自らをまだ実用しないでおく。(君子の成徳に満たされた盛大な
行いは隠されず現されることを目指し、小人の罪悪まみれな行いは隠されることを目指す)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・文言伝より)
見なしているのは畜生界の邪義。キリスト信者を自認しないユダヤ教徒も、キリストが
救世主の雛形であることは全く認めており、自分たちの救世主が新約聖書の記録のような
体裁を取って降臨すると固く信じている。だからやはり、犯罪聖書への信仰自体を禁止する
ことで、地獄界や餓鬼界の蠢動を絶やす必要があり、犯罪聖書信仰を禁止すれば自動的に
畜生界への居付きも絶やされることになる。宗門宗派の違いなどに関係なく聖書信仰全般が
絶やされる必要があるため、ベネディクトだってもう、廃業の用意をしておく必要がある。
「君子は成徳を以て行いを為し、日びに之れを行いに見わす可きなり。(略)
隠れて未だ見われず、行いて未だ成らざれば、是れを以て君子は用いざるなり」
「君子は完成された仁徳による行いを心がけ、常日ごろからその行いを隠し立てしない
ようにも心がける。未だ隠れて公けに現されることがなく、行いが成就しないというのなら、
それを理由として君子は自らをまだ実用しないでおく。(君子の成徳に満たされた盛大な
行いは隠されず現されることを目指し、小人の罪悪まみれな行いは隠されることを目指す)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・文言伝より)
自分が罪を免れることばかり考えているような連中には、犯罪被害者に対する配慮がまったく欠けている。
被害者の立場としては、加害者自身が罪責を負って相応の刑罰を受けるのでなければ、絶対に許す気になどなれない。
冤罪で別の人間が罰を受けたからといって許せるわけがなく、むしろその欺瞞によってさらなる怒りを募らせるばかり。
さらには冤罪で刑死した人間が蘇生したなどとすれば、罪が償われる体裁すら反故にされたことになり、
その許し難さも金剛不壊なものとなる。
極刑級の重罪を犯したのならば、その責任を取るためには完全に死ななければならない。
蘇生することもなく、完全に死亡する。もちろん罪を犯した本人自身が。
それでこそ、「罪が罰によって償われる」という体裁が成就したことになる。
「冤罪の刑死者が復活して誰しもの罪が許される」という物語構造は、「罪が罰によって償われる」という体裁を
全く反故にしており、それによって罪が償われると考えることは完全な論理破綻に当たる。刑死した人間が三日後に
蘇ったなどという話がフィクションかノンフィクションかなどによらず、その物語構造で罪が償われるなどということが、
「罪」とか「罰」とかいった言葉の定義に即して絶対にありえないようになっている。イエスが刑死後に蘇ったことを
信じたからといって、自分たちの罪がそれによって償われるなどと信じるのも全く筋が通っておらず、何一つとして
そこに論理的な筋が通っていないが故に、現実上の背景などとは無関係な、自己完結した物語構造として間違っている。
だから何よりも、自己完結した過ちの塊りとしての犯罪聖書そのものの存在価値を否定することに意義があり、史実や
科学的根拠などとも無関係に、犯罪聖書の記録構造の自己完結した劣悪さを認定することが、道理に適っているといえる。
歴史や科学などで対抗する以前に、存在性の根本からの犯罪聖書の無価値さをわきまえることが、一番重要だ。
「自らの作せる孽いに活くる可からず」
「自らの犯した過ちからなる禍いに、活路を見出そうなどとしてはいけない。
(冤罪刑死者イエスの復活などとは無関係に、犯罪加害者が罪を免れようなどとすることが道義的に許されない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
被害者の立場としては、加害者自身が罪責を負って相応の刑罰を受けるのでなければ、絶対に許す気になどなれない。
冤罪で別の人間が罰を受けたからといって許せるわけがなく、むしろその欺瞞によってさらなる怒りを募らせるばかり。
さらには冤罪で刑死した人間が蘇生したなどとすれば、罪が償われる体裁すら反故にされたことになり、
その許し難さも金剛不壊なものとなる。
極刑級の重罪を犯したのならば、その責任を取るためには完全に死ななければならない。
蘇生することもなく、完全に死亡する。もちろん罪を犯した本人自身が。
それでこそ、「罪が罰によって償われる」という体裁が成就したことになる。
「冤罪の刑死者が復活して誰しもの罪が許される」という物語構造は、「罪が罰によって償われる」という体裁を
全く反故にしており、それによって罪が償われると考えることは完全な論理破綻に当たる。刑死した人間が三日後に
蘇ったなどという話がフィクションかノンフィクションかなどによらず、その物語構造で罪が償われるなどということが、
「罪」とか「罰」とかいった言葉の定義に即して絶対にありえないようになっている。イエスが刑死後に蘇ったことを
信じたからといって、自分たちの罪がそれによって償われるなどと信じるのも全く筋が通っておらず、何一つとして
そこに論理的な筋が通っていないが故に、現実上の背景などとは無関係な、自己完結した物語構造として間違っている。
だから何よりも、自己完結した過ちの塊りとしての犯罪聖書そのものの存在価値を否定することに意義があり、史実や
科学的根拠などとも無関係に、犯罪聖書の記録構造の自己完結した劣悪さを認定することが、道理に適っているといえる。
歴史や科学などで対抗する以前に、存在性の根本からの犯罪聖書の無価値さをわきまえることが、一番重要だ。
「自らの作せる孽いに活くる可からず」
「自らの犯した過ちからなる禍いに、活路を見出そうなどとしてはいけない。
(冤罪刑死者イエスの復活などとは無関係に、犯罪加害者が罪を免れようなどとすることが道義的に許されない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
キリスト教徒は、何か根拠があるからキリストを信じているのではなく、
キリストを信じているから、キリストを信じている。信仰のための信仰である以上、
信仰の対象が真実であるか誤謬であるかなどはどうでもいいことであり、仮に
真実であるとしたところで、その根拠が磐石であるかどうかなども、どうでもいいこと。
だから、聖書中の登場人物が「キリストは復活した」と証言したからなどという
いい加減な理由だけでも復活を信じるし、もはや証言にすら拠らず、ただ自分が
復活を信じていることだけを根拠として、復活はあったなどとも信じ込む。
そういう、根拠がどうかなどということよりも、自分がそれを信じているかどうか
ということのほうが優先事項と化してしまっている痴人に対して、科学的根拠や
歴史的根拠などを示しつつ「キリストの復活は実在しない」などと反証したところで、
相手のほうが「信じるから信じる」の思い上がりに逃げ込んでしまえば、全くの徒労となる。
「1+1は3や4である」という計算が誤りであることを指摘することだって、
「1+1が3や4であることを信じるから信じる」の前では、全くの無意味と化す。
そういった、「信じるから信じる」の完全誤謬信仰に陥っている痴人が、
「信じるから信じる」すらをも遂には改めなければならなくなることがあるとすれば、
それは、自分たちが完全誤謬信仰のせいで、絶体絶命の命の危機に晒された時だといえる。
完全誤謬信仰である聖書信仰の蔓延が全世界を破滅に陥れ、聖書信仰者自身を含む
全人類を本物の滅亡へと突き進ませている。それが事実である根拠も色々と提示すること
はできるが、何しろ相手は「信じるから信じる」の徒。たとえ「1+1=2」ほどにも自明な
根拠を眼前に提示したところで、「1+1は3や4である」を信じるから信じるようにして、
聖書信仰があらゆる害悪の元凶となっていることをも、決して認めようなどとはしない。
キリストを信じているから、キリストを信じている。信仰のための信仰である以上、
信仰の対象が真実であるか誤謬であるかなどはどうでもいいことであり、仮に
真実であるとしたところで、その根拠が磐石であるかどうかなども、どうでもいいこと。
だから、聖書中の登場人物が「キリストは復活した」と証言したからなどという
いい加減な理由だけでも復活を信じるし、もはや証言にすら拠らず、ただ自分が
復活を信じていることだけを根拠として、復活はあったなどとも信じ込む。
そういう、根拠がどうかなどということよりも、自分がそれを信じているかどうか
ということのほうが優先事項と化してしまっている痴人に対して、科学的根拠や
歴史的根拠などを示しつつ「キリストの復活は実在しない」などと反証したところで、
相手のほうが「信じるから信じる」の思い上がりに逃げ込んでしまえば、全くの徒労となる。
「1+1は3や4である」という計算が誤りであることを指摘することだって、
「1+1が3や4であることを信じるから信じる」の前では、全くの無意味と化す。
そういった、「信じるから信じる」の完全誤謬信仰に陥っている痴人が、
「信じるから信じる」すらをも遂には改めなければならなくなることがあるとすれば、
それは、自分たちが完全誤謬信仰のせいで、絶体絶命の命の危機に晒された時だといえる。
完全誤謬信仰である聖書信仰の蔓延が全世界を破滅に陥れ、聖書信仰者自身を含む
全人類を本物の滅亡へと突き進ませている。それが事実である根拠も色々と提示すること
はできるが、何しろ相手は「信じるから信じる」の徒。たとえ「1+1=2」ほどにも自明な
根拠を眼前に提示したところで、「1+1は3や4である」を信じるから信じるようにして、
聖書信仰があらゆる害悪の元凶となっていることをも、決して認めようなどとはしない。
だからこの際、根拠の正確さなどはどうでもいい、痴人としての相手の事情に応じて、正確な根拠を
提示することなどよりも、「おまえらが聖書信仰を辞めないのなら、それが唯一無二の元凶となって、
おまえらを含む全人類が滅亡するぞ」という事実関係の警告のみを最優先事項とする。1+1=2の正しさ
や1+1=3の誤りを論ずることなどは一旦おいておいて、「信じるから信じる」の突き進みによってこそ
破滅へとひた走り続けている、カルト信者の「生存本能」を最大級に引き出すことに特化する。
それでも「信じるから信じる」を突き進んだ結果、カルト信者が全人類を滅亡へと追いやる可能性
もあるし、いい加減命の危険を悟って、命惜しさに「信じるから信じる」を放棄する可能性もある。
このうちの後者の場合にしか、「信じるから信じる」の狂信に陥ってしまっている
カルト信者を根本的に改悛させる手立てはあり得ず、正確な根拠を提示することに
よって「信じるから信じる」を放棄させたりすることのほうが、無理がある。
科学や歴史を引き合いにすることで、「信じるから信じる」を放棄させることのほうが
所詮は徒労だった。カルト信者たち自身を自業自得での絶対絶命の危機に追い込むことで、
「信じるから信じる」を完全に放棄させることこそは、完全誤謬信仰の病理を帯びた狂信者に
対する棄教措置として、始めから唯一無二にして、確実かつ純正な手立てだったのだといえる。
完全誤謬信仰自体も徒労なら、それを正確な根拠によって淘汰しようなどとする試みもまた、徒労だったのだ。
「天の方に齋れるとき、夸田比を為すこと無かれ。威儀卒く迷ちて、善人も載ち尸となす」
「天神の怒りを表せるときに、その怒りの嵩にかかって誇り高ぶるようなことは決してするな。
それにより天下を司る威儀はことごとく乱れて、善人すら身を危ぶんで公けには口をつぐむようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)
提示することなどよりも、「おまえらが聖書信仰を辞めないのなら、それが唯一無二の元凶となって、
おまえらを含む全人類が滅亡するぞ」という事実関係の警告のみを最優先事項とする。1+1=2の正しさ
や1+1=3の誤りを論ずることなどは一旦おいておいて、「信じるから信じる」の突き進みによってこそ
破滅へとひた走り続けている、カルト信者の「生存本能」を最大級に引き出すことに特化する。
それでも「信じるから信じる」を突き進んだ結果、カルト信者が全人類を滅亡へと追いやる可能性
もあるし、いい加減命の危険を悟って、命惜しさに「信じるから信じる」を放棄する可能性もある。
このうちの後者の場合にしか、「信じるから信じる」の狂信に陥ってしまっている
カルト信者を根本的に改悛させる手立てはあり得ず、正確な根拠を提示することに
よって「信じるから信じる」を放棄させたりすることのほうが、無理がある。
科学や歴史を引き合いにすることで、「信じるから信じる」を放棄させることのほうが
所詮は徒労だった。カルト信者たち自身を自業自得での絶対絶命の危機に追い込むことで、
「信じるから信じる」を完全に放棄させることこそは、完全誤謬信仰の病理を帯びた狂信者に
対する棄教措置として、始めから唯一無二にして、確実かつ純正な手立てだったのだといえる。
完全誤謬信仰自体も徒労なら、それを正確な根拠によって淘汰しようなどとする試みもまた、徒労だったのだ。
「天の方に齋れるとき、夸田比を為すこと無かれ。威儀卒く迷ちて、善人も載ち尸となす」
「天神の怒りを表せるときに、その怒りの嵩にかかって誇り高ぶるようなことは決してするな。
それにより天下を司る威儀はことごとく乱れて、善人すら身を危ぶんで公けには口をつぐむようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)
悪と偽善で塗り固められた今この世界に、
真善は「微妙不可思議な仏」か、さもなくば「痛快至極な鬼」となって現れる。
断じて「聖なる神」などとして現れたりはしない点もまた、
元々の発想からして貧困だった聖書信者にとっての、大きな誤算だったといえる。
真善は「微妙不可思議な仏」か、さもなくば「痛快至極な鬼」となって現れる。
断じて「聖なる神」などとして現れたりはしない点もまた、
元々の発想からして貧困だった聖書信者にとっての、大きな誤算だったといえる。
水が人間にとって必要不可欠なものであるのは当然のこと。人間の体重の
60%以上も水分であり、ほんの数日水分を摂取しないだけでも、人間は渇死する。
じゃあ、水がいくらでもありゃあそれでいいのかっていえば、決してそんな
こともないのが、今年の国内外での多くの水害の悲惨さからも分かるとおり。
今年の日本の運勢である「兌為沢」も、水を湛えた象を持ち合わせているが、
だからといって総運が吉祥というわけでもなく、水運が過剰であるが故に
「過ぎたるは及ばざるが如し」で、景気の悪化などを招くことまでもが予言されていた。
砂漠の慢性的な水不足からなるひどい渇きが一挙に満たされようとした結果、
今度は逆に多くの害をもたらすような大水を招く。どちらも害悪であることには変わりなく、
水の扱いが適正であるためにも、慢性的な渇きから根絶していく必要があるといえる。
「強有力の者、将に以て礼を行わんとするや、酒清み、人渇けども敢えて飲まず、
肉乾き、人飢うれども敢えて食せず、日莫れ人倦めども、斎荘正斎にしても敢えて解惰せず」
「強力勇敢の者が大礼を行おうとするときには、たとえ目前に清酒があって、自分が渇して
いようとも敢えて飲まずにおき、乾肉があって、自分が飢えていようとも敢えて食べずにおき、
日が暮れて人々が休みに入ってからも、荘厳正直でいて、あえて怠惰せずにいようとする。
(大礼に際しては、だらしない飢渇なども押し殺す。儀礼は邪神信仰よりも遥かに謹厳である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・聘義第四十八より)
60%以上も水分であり、ほんの数日水分を摂取しないだけでも、人間は渇死する。
じゃあ、水がいくらでもありゃあそれでいいのかっていえば、決してそんな
こともないのが、今年の国内外での多くの水害の悲惨さからも分かるとおり。
今年の日本の運勢である「兌為沢」も、水を湛えた象を持ち合わせているが、
だからといって総運が吉祥というわけでもなく、水運が過剰であるが故に
「過ぎたるは及ばざるが如し」で、景気の悪化などを招くことまでもが予言されていた。
砂漠の慢性的な水不足からなるひどい渇きが一挙に満たされようとした結果、
今度は逆に多くの害をもたらすような大水を招く。どちらも害悪であることには変わりなく、
水の扱いが適正であるためにも、慢性的な渇きから根絶していく必要があるといえる。
「強有力の者、将に以て礼を行わんとするや、酒清み、人渇けども敢えて飲まず、
肉乾き、人飢うれども敢えて食せず、日莫れ人倦めども、斎荘正斎にしても敢えて解惰せず」
「強力勇敢の者が大礼を行おうとするときには、たとえ目前に清酒があって、自分が渇して
いようとも敢えて飲まずにおき、乾肉があって、自分が飢えていようとも敢えて食べずにおき、
日が暮れて人々が休みに入ってからも、荘厳正直でいて、あえて怠惰せずにいようとする。
(大礼に際しては、だらしない飢渇なども押し殺す。儀礼は邪神信仰よりも遥かに謹厳である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・聘義第四十八より)
件の大津波でも、地下にしっかりとコンクリートの基礎を打ち込んで、その上に
建てられた鉄筋コンクリート造の建物などは波に押し流されずにその場に止まり、
木造の一軒家などが家屋丸ごと押し流されて火災を起こしたりすることが多かった。
ただ、建物自体は押し流されずとも、あまりにも巨大な津波に飲み込まれたために
建物の中にまで大水が入り込んで、そこに避難をしておきながら溺死するような例も多かった。
被災者の命運を決定的に分けたのは高台への避難の有無であり、建物の基礎などではなかった。
確かに、高額な費用をかけて磐石な基礎の上に建てられた鉄筋造の建物などのほうが、
被災後にも修繕が可能な程度に原型を止めたというのもあるが、避難者を大水で全員
溺死させてしまいながら原型だけを止めている小学校などは、もはや廃校も免れ得ない。
建物だの気候だのの環境以前に、個々の人間の心構えがどうであるかのほうが、
その命運をも決定的に左右する。最新鋭の軍備で重武装した米軍の兵士も、命を捨てて
かかって来るイスラムのテロリストからの攻撃によって、数多の死傷被害を受け続けている。
人間自身か、その人間が置かれている環境かでいえば、人間が本であり環境が末、
さらには、人の心と身体でいえば、心が本で身体が末。末節に当たる環境や身体の
充実ばかりにこだわって、根本である人間自身やその心を蔑ろにしたのならば、どんなに
末節の充実度が高かったところで、根本の部分の充実に長けている者に敵うことはない。
「命を知る者は、巖牆の下に立たず」
「天命を知る者は、硬くてもろい岩の上や、崩れかかった
石塀の上のような、危なっかしい場所には立たとうとしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二より)
建てられた鉄筋コンクリート造の建物などは波に押し流されずにその場に止まり、
木造の一軒家などが家屋丸ごと押し流されて火災を起こしたりすることが多かった。
ただ、建物自体は押し流されずとも、あまりにも巨大な津波に飲み込まれたために
建物の中にまで大水が入り込んで、そこに避難をしておきながら溺死するような例も多かった。
被災者の命運を決定的に分けたのは高台への避難の有無であり、建物の基礎などではなかった。
確かに、高額な費用をかけて磐石な基礎の上に建てられた鉄筋造の建物などのほうが、
被災後にも修繕が可能な程度に原型を止めたというのもあるが、避難者を大水で全員
溺死させてしまいながら原型だけを止めている小学校などは、もはや廃校も免れ得ない。
建物だの気候だのの環境以前に、個々の人間の心構えがどうであるかのほうが、
その命運をも決定的に左右する。最新鋭の軍備で重武装した米軍の兵士も、命を捨てて
かかって来るイスラムのテロリストからの攻撃によって、数多の死傷被害を受け続けている。
人間自身か、その人間が置かれている環境かでいえば、人間が本であり環境が末、
さらには、人の心と身体でいえば、心が本で身体が末。末節に当たる環境や身体の
充実ばかりにこだわって、根本である人間自身やその心を蔑ろにしたのならば、どんなに
末節の充実度が高かったところで、根本の部分の充実に長けている者に敵うことはない。
「命を知る者は、巖牆の下に立たず」
「天命を知る者は、硬くてもろい岩の上や、崩れかかった
石塀の上のような、危なっかしい場所には立たとうとしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二より)
とうぜん誰しもに本物の親があり、その親がいればこそ自分が本物の子や孫でもある。
そこに比ゆ表現でない親子関係があり、親子関係を大事にするというのなら、
当然その血族関係を尊重することを最優先とすべきである。
たとえ妾腹の私生児のような、親を敬いにくい境遇に置かれたとしても、
尊重すらくは実の親であり、脳内で捏造した偽りの親などでは決してない。
確かに、私生児として産まれながら、父親の身元を探し出してその墓にも参った孔子の
努力加減たるや半端なものではなく、それにすらあやかるというのはなかなか難しいことだろう。
しかし、たとえば自分が妾腹の私生児として産まれた場合に、父親が誰とも知れないことから
脳内で全くの偽りの父親を捏造したりするよりは、まだ親を語ろうとしたりしないほうがいい。
特段、親孝行を推奨しているわけでもない道家の教義などに即して、忠孝などを根こそぎ無視してればいい。
そしたら少なくとも、脳内で捏造した偽りの親への狂信によって、実の親子関係を損なうようなことにまでは至らないから。
そこに比ゆ表現でない親子関係があり、親子関係を大事にするというのなら、
当然その血族関係を尊重することを最優先とすべきである。
たとえ妾腹の私生児のような、親を敬いにくい境遇に置かれたとしても、
尊重すらくは実の親であり、脳内で捏造した偽りの親などでは決してない。
確かに、私生児として産まれながら、父親の身元を探し出してその墓にも参った孔子の
努力加減たるや半端なものではなく、それにすらあやかるというのはなかなか難しいことだろう。
しかし、たとえば自分が妾腹の私生児として産まれた場合に、父親が誰とも知れないことから
脳内で全くの偽りの父親を捏造したりするよりは、まだ親を語ろうとしたりしないほうがいい。
特段、親孝行を推奨しているわけでもない道家の教義などに即して、忠孝などを根こそぎ無視してればいい。
そしたら少なくとも、脳内で捏造した偽りの親への狂信によって、実の親子関係を損なうようなことにまでは至らないから。
実の親子関係に嫌悪感すら抱いてしまう感覚は、ただ「親不孝である」というだけで蓄えられるものではなく、
脳内に偽りの親を規定したりするカルト教義による、自意識過剰の思い上がりの極大化を介したところにこそ生ずる。
血族関係に嫌悪感すら抱いてしまっているような精神病質者が、急に親孝行を心がけたりするのも一段抜かしや
二段飛ばしなことで、まず自分たちの自意識が、偽りの親を脳内に捏造するカルト教義によって無闇に肥大化して
しまっていることを具さに自覚して、その自意識過剰をカルト信仰の意識的な破棄などによって十分に抑制した上で、
その先にこそ親孝行などをも志すべきなのであり、忠孝と自意識過剰を両立させるような無理をすべきではない。
自分たちがどうして忠孝などに励む気になれないのかをまずよく突き詰めて、その矯正に努めていかなければならない。
「人未だ自ら致す者あらざるなり、必ずや、親の喪か」
「人が本当に全力を尽くすということはなかなかないものだ。ただ、あるとすればそれは親の喪に服する時だろうか。
(孝行は人として全力を尽くすための原動力ともなる。孝心を欠いた人間は何事にも全力を尽くすことができない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一七)
脳内に偽りの親を規定したりするカルト教義による、自意識過剰の思い上がりの極大化を介したところにこそ生ずる。
血族関係に嫌悪感すら抱いてしまっているような精神病質者が、急に親孝行を心がけたりするのも一段抜かしや
二段飛ばしなことで、まず自分たちの自意識が、偽りの親を脳内に捏造するカルト教義によって無闇に肥大化して
しまっていることを具さに自覚して、その自意識過剰をカルト信仰の意識的な破棄などによって十分に抑制した上で、
その先にこそ親孝行などをも志すべきなのであり、忠孝と自意識過剰を両立させるような無理をすべきではない。
自分たちがどうして忠孝などに励む気になれないのかをまずよく突き詰めて、その矯正に努めていかなければならない。
「人未だ自ら致す者あらざるなり、必ずや、親の喪か」
「人が本当に全力を尽くすということはなかなかないものだ。ただ、あるとすればそれは親の喪に服する時だろうか。
(孝行は人として全力を尽くすための原動力ともなる。孝心を欠いた人間は何事にも全力を尽くすことができない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一七)
「充実して光輝あるを之れ大と謂う(既出)」
「気分が充実して光輝に満ち溢れていることを大という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二五より)
善徳の堅持からなる浩然の気に満たされて、気分が充実していることを
孟子は「光輝に満ち溢れている」と表現している。しからば、一概な罪悪の貪りに
よって気分を損ね通しである累犯障害者などは、光輝を失って暗闇に落ち込んでいるといえる。
そしてその上で、罪悪感を喪失させるカルト信仰によって、暗闇を光輝と転倒夢想する。
孟子も強く非難している、「民を網する(罪に陥れてそれをどうかする)」所業の一つであるといえる。
浩然の気によって、自ずからなる光輝に満たされている者にこそ、そのようなマッチポンプ系の
明暗転倒夢想が全くの不必要であることを断言することができる。善徳の堅持が放つ光輝こそは、
罪悪の暗闇への陥りを転倒夢想したところにある光輝よりも、さらに明るい。暗闇を光輝と
倒錯することも大概ではあるが、その大概なる倒錯によって捏造された偽りの光輝を光輝と
見なしたとしても、その光輝を遥かに上回る明るさを、善徳が放つ真の光輝が湛えているのである。
「維あ予が小子、聡り敬めざらんや。
日びに就し月づきに将みて、学びて緝熙にして光明有らん。
仏いに時れ仔肩し、我れに顕らかなる徳行を示せ」
「ああ、青年たちよ、聡明と畏敬とを追い求めていくがよい。
日進月歩の着実な勉学によって、燦然たる光明を得られるように。
大いなる誉れをかち得て、どこに出しても恥ずかしくない徳行を示すがいい。
(自力作善による光明の獲得を外的に奨励していて、外的な態度としても優良である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・敬之より)
「気分が充実して光輝に満ち溢れていることを大という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二五より)
善徳の堅持からなる浩然の気に満たされて、気分が充実していることを
孟子は「光輝に満ち溢れている」と表現している。しからば、一概な罪悪の貪りに
よって気分を損ね通しである累犯障害者などは、光輝を失って暗闇に落ち込んでいるといえる。
そしてその上で、罪悪感を喪失させるカルト信仰によって、暗闇を光輝と転倒夢想する。
孟子も強く非難している、「民を網する(罪に陥れてそれをどうかする)」所業の一つであるといえる。
浩然の気によって、自ずからなる光輝に満たされている者にこそ、そのようなマッチポンプ系の
明暗転倒夢想が全くの不必要であることを断言することができる。善徳の堅持が放つ光輝こそは、
罪悪の暗闇への陥りを転倒夢想したところにある光輝よりも、さらに明るい。暗闇を光輝と
倒錯することも大概ではあるが、その大概なる倒錯によって捏造された偽りの光輝を光輝と
見なしたとしても、その光輝を遥かに上回る明るさを、善徳が放つ真の光輝が湛えているのである。
「維あ予が小子、聡り敬めざらんや。
日びに就し月づきに将みて、学びて緝熙にして光明有らん。
仏いに時れ仔肩し、我れに顕らかなる徳行を示せ」
「ああ、青年たちよ、聡明と畏敬とを追い求めていくがよい。
日進月歩の着実な勉学によって、燦然たる光明を得られるように。
大いなる誉れをかち得て、どこに出しても恥ずかしくない徳行を示すがいい。
(自力作善による光明の獲得を外的に奨励していて、外的な態度としても優良である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・敬之より)
まだキリスト教圏による世界侵略が飽和レベルにまで至っていなかったころ、
ブラックアフリカを植民地としての極端な収奪対象などとしたところで、
まだそれが人口爆発による人類の滅亡などに直結していなかったころには、
キリスト信仰からなる自己欺瞞によって、権力犯罪者が罪を免れたような気でもいられていた。
キリスト信仰それ自体が信者の自殺行為を誘発するものなので、アウグスチヌスがマニ教を
通じて上座部仏教から自殺禁止の教義を剽窃して、キリスト教徒にあてがうなどしたからこそ
劣悪なキリスト信仰が2000年もの間保たれてきた所もあるが、自分たちは害さずとも異教徒や
異民族には平気で迫害を加える、害為正法外道としてのその有様が、遂には他害の側面においても
限界に達したために、「何ものをも害さず(無賊害心)」という上座部仏教の正統教義に鞍替え
しなければならないことになってしまい、それはもはや、キリスト信仰の滅亡とすら同義である。
いくらキリストを「在る」などと思い込んで、実在するキリスト信仰によって罪が免れた
ようなつもりになったところで、邪義としてのキリスト信仰による人類の滅亡が目前に迫っており、
もはや悪因苦果の因果応報の絶対真理の前で、人類史上最大級の完全誤謬信仰だったキリスト教までもが
潰えざるを得ない時期に至っている。これはある意味、キリスト教にとっての絶対的な宿命であり、
いつまでも延々と狂信を続けていられるわけがないように、キリスト教が元からできていたのだといえる。
「在る」と信じていられるうちは罪が免れられたような気にもなれる。しかしそもそも、
「在る」と信じていられなくなる時期が必ず来るように、キリスト信仰というシステムが元からできていた。
信心が足りないから信じられなくなるのではなく、信じることが即ち死滅に直結するために、
否応なく信仰を棄てざるを得ない時期が必ず来るように、キリスト教が元からできていたのだ。
儒学の道理に負ける、仏教の真理に敗けるという以前に、
キリスト教の誤謬自体に、最終的な敗北を決定付ける因子が埋め込まれていたのだ。
ブラックアフリカを植民地としての極端な収奪対象などとしたところで、
まだそれが人口爆発による人類の滅亡などに直結していなかったころには、
キリスト信仰からなる自己欺瞞によって、権力犯罪者が罪を免れたような気でもいられていた。
キリスト信仰それ自体が信者の自殺行為を誘発するものなので、アウグスチヌスがマニ教を
通じて上座部仏教から自殺禁止の教義を剽窃して、キリスト教徒にあてがうなどしたからこそ
劣悪なキリスト信仰が2000年もの間保たれてきた所もあるが、自分たちは害さずとも異教徒や
異民族には平気で迫害を加える、害為正法外道としてのその有様が、遂には他害の側面においても
限界に達したために、「何ものをも害さず(無賊害心)」という上座部仏教の正統教義に鞍替え
しなければならないことになってしまい、それはもはや、キリスト信仰の滅亡とすら同義である。
いくらキリストを「在る」などと思い込んで、実在するキリスト信仰によって罪が免れた
ようなつもりになったところで、邪義としてのキリスト信仰による人類の滅亡が目前に迫っており、
もはや悪因苦果の因果応報の絶対真理の前で、人類史上最大級の完全誤謬信仰だったキリスト教までもが
潰えざるを得ない時期に至っている。これはある意味、キリスト教にとっての絶対的な宿命であり、
いつまでも延々と狂信を続けていられるわけがないように、キリスト教が元からできていたのだといえる。
「在る」と信じていられるうちは罪が免れられたような気にもなれる。しかしそもそも、
「在る」と信じていられなくなる時期が必ず来るように、キリスト信仰というシステムが元からできていた。
信心が足りないから信じられなくなるのではなく、信じることが即ち死滅に直結するために、
否応なく信仰を棄てざるを得ない時期が必ず来るように、キリスト教が元からできていたのだ。
儒学の道理に負ける、仏教の真理に敗けるという以前に、
キリスト教の誤謬自体に、最終的な敗北を決定付ける因子が埋め込まれていたのだ。
「魯の荘公、宋人と乗丘に戦う。縣賁父御し、卜国右たる。馬驚き、敗績し、公隊つ。佐車綏を授く。
公曰く、末なるかな之れ卜やと。縣賁父曰く、他日敗績せず、今敗績するは、是れ勇無きなりと。遂に之れに死す。
圉人馬を浴せしに、流矢の白肉に在る有り。公曰く、其の罪に非ざるなり。遂に之れを誄す。士の誄有るは、此れより始まれり」
「魯の荘公が乗丘で宋の軍隊と戦ったとき、縣賁父がその車馬の御者を務め、卜国が助手席に座った。あるとき馬が驚いて
車馬が転覆し、荘公も転落する事故が起こった。荘公は予備の車馬に乗り直してから言った。『なんと情けないことだろう』
縣賁父は『他日責任を取るのではなく、いま責任を取るのでは、さらに意気地の無さが蔑まれることとなってしまう』といい、
後日、激闘の末に戦死した。また、馬取の者が転覆した車馬を引いていた馬を洗っていると、その腿内に矢が刺さっているのが
見つかったため、荘公も『あれは御者の罪ではなかったのだ』といい、遂には縣賁父を非業の英雄として哀れみ称えまでした。
死士を哀れみ称える儀礼は、このときに始まった。(勇猛さによって罪状を濯ぎ、さらには賞賛までをも獲得した例。戦前の
日本の特攻隊員なども、アメリカ人ですら『本人たちには罪はなかったのだ』というような感想を述べる場合があるが、もはや
実在を信じようのないキリストなどではなく、己の勇気の奮発によって罪を埋め合わせる余地は、元聖書信者にも残されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
公曰く、末なるかな之れ卜やと。縣賁父曰く、他日敗績せず、今敗績するは、是れ勇無きなりと。遂に之れに死す。
圉人馬を浴せしに、流矢の白肉に在る有り。公曰く、其の罪に非ざるなり。遂に之れを誄す。士の誄有るは、此れより始まれり」
「魯の荘公が乗丘で宋の軍隊と戦ったとき、縣賁父がその車馬の御者を務め、卜国が助手席に座った。あるとき馬が驚いて
車馬が転覆し、荘公も転落する事故が起こった。荘公は予備の車馬に乗り直してから言った。『なんと情けないことだろう』
縣賁父は『他日責任を取るのではなく、いま責任を取るのでは、さらに意気地の無さが蔑まれることとなってしまう』といい、
後日、激闘の末に戦死した。また、馬取の者が転覆した車馬を引いていた馬を洗っていると、その腿内に矢が刺さっているのが
見つかったため、荘公も『あれは御者の罪ではなかったのだ』といい、遂には縣賁父を非業の英雄として哀れみ称えまでした。
死士を哀れみ称える儀礼は、このときに始まった。(勇猛さによって罪状を濯ぎ、さらには賞賛までをも獲得した例。戦前の
日本の特攻隊員なども、アメリカ人ですら『本人たちには罪はなかったのだ』というような感想を述べる場合があるが、もはや
実在を信じようのないキリストなどではなく、己の勇気の奮発によって罪を埋め合わせる余地は、元聖書信者にも残されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
完全に一切、犯罪聖書を信仰していられなくなるときが、あるとき突然、速やかにやって来る。
「今がまさにその時だ」とまでは言わないが、確かにその瞬間は、もうまもなくやって来る。
「信仰存続すなわち人類滅亡」となるその時、人類を存続させるためには当然信仰を棄てねばならないし、
仮に信仰を存続させたところで、やはり人類が滅亡するから、もはや聖書を信じていられる人間がいない。
いずれの選択によろうとも、絶対に誰も犯罪聖書を信じていられなくなるときがやって来る。
「聖書を信じるのは辞めました」と、ただ宣言すればそれでいいのかといえば、そういうわけでもない。
聖書信仰の麻薬性からなる、自意識過剰の思い上がりの異常な肥大化から完全に棄て去ってこそ、
犯罪聖書への信仰を完全に辞めたことにもなるわけで、信仰即滅亡の瞬間までカルト信仰にドップリ
浸かっていたような人間が、急にそのレベルの棄教を選択することには、重度の麻薬中毒患者が
一挙に麻薬の服用を取り止めた場合にも匹敵するほどの苦痛を伴うことが避けられない。
だからまだ、その瞬間が来ていない今のうちから、なるべく聖書信仰を破棄しておくようにも促して
いたわけで、棄教の奨励がそのまま、その瞬間のショックによる死傷者を減らす役目も果たしていた。
逆にそれをしなければ、明日の多くの死傷者を見殺しにすることにもなってしまいかねなかったのだから、
聖書信仰の劣悪さを口汚く罵り続けてきたことにも、それなりの理由があったことを了解してもらいたい。
甘い言葉による殺人よりは、厳しい言葉による救命のほうが、道義的にも認められて然るべきなのだから。
「子夏、莒父の宰と為りて、政を問う。子曰く、速やかならんと欲すること無かれ。
小利を見ること無かれ。速やかならんと欲すれば則ち達せず。小利を見れば則ち大事は成せず」
「子夏が莒父の市長となった時に、孔先生に政治のあり方を問うた。先生は言われた。
『速やかにやってしまおうとするな。小利に囚われるな。速やかにやろうとすれば決して
完全には達成できず、小利に囚われれば決して大事を成し遂げることはできないから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一七)
「今がまさにその時だ」とまでは言わないが、確かにその瞬間は、もうまもなくやって来る。
「信仰存続すなわち人類滅亡」となるその時、人類を存続させるためには当然信仰を棄てねばならないし、
仮に信仰を存続させたところで、やはり人類が滅亡するから、もはや聖書を信じていられる人間がいない。
いずれの選択によろうとも、絶対に誰も犯罪聖書を信じていられなくなるときがやって来る。
「聖書を信じるのは辞めました」と、ただ宣言すればそれでいいのかといえば、そういうわけでもない。
聖書信仰の麻薬性からなる、自意識過剰の思い上がりの異常な肥大化から完全に棄て去ってこそ、
犯罪聖書への信仰を完全に辞めたことにもなるわけで、信仰即滅亡の瞬間までカルト信仰にドップリ
浸かっていたような人間が、急にそのレベルの棄教を選択することには、重度の麻薬中毒患者が
一挙に麻薬の服用を取り止めた場合にも匹敵するほどの苦痛を伴うことが避けられない。
だからまだ、その瞬間が来ていない今のうちから、なるべく聖書信仰を破棄しておくようにも促して
いたわけで、棄教の奨励がそのまま、その瞬間のショックによる死傷者を減らす役目も果たしていた。
逆にそれをしなければ、明日の多くの死傷者を見殺しにすることにもなってしまいかねなかったのだから、
聖書信仰の劣悪さを口汚く罵り続けてきたことにも、それなりの理由があったことを了解してもらいたい。
甘い言葉による殺人よりは、厳しい言葉による救命のほうが、道義的にも認められて然るべきなのだから。
「子夏、莒父の宰と為りて、政を問う。子曰く、速やかならんと欲すること無かれ。
小利を見ること無かれ。速やかならんと欲すれば則ち達せず。小利を見れば則ち大事は成せず」
「子夏が莒父の市長となった時に、孔先生に政治のあり方を問うた。先生は言われた。
『速やかにやってしまおうとするな。小利に囚われるな。速やかにやろうとすれば決して
完全には達成できず、小利に囚われれば決して大事を成し遂げることはできないから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一七)
↑「ショックによる死傷者」ってフレーズが良いね。
教養が滲み出てる。
教養が滲み出てる。
削除(by投稿者)
もしも、今すぐに誰しもが犯罪聖書を信じることを辞められたなら、累犯障害の
蔓延にも即座に歯止めがかかって、人類滅亡の危機も未然に食い止めることができる。
しかし、実際問題として多数の犯罪聖書信者がいるものだから、深刻な累犯障害にも歯止めがかからず、
以って人類滅亡の危機を不可避に招きつつある。だからこそ犯罪聖書を信じていられなくなるのだから、
犯罪聖書を信じるものが、全くの自業自得によって、信じていられなくなる状況を招くのだといえる。
犯罪聖書を信じていられなくなるのは、上記の通り、人類が滅亡の危機に晒されるからで、
滅亡の危機を招くのが犯罪聖書の信者である。どこまでも、何もかもが、犯罪聖書信者自身の自己責任。
責任をとるのなら、もちろん聖書信者が責任をとって、服役や強制入院や禁治産などの処分に甘んずる必要がある。
そうしなければ人類が滅亡するため、その場合にも犯罪聖書を信じていられるものは一人もいないが、罪責が
償われて人類の滅亡が食い止められる場合には、必ず聖書信者の側が責任をとって処分を受けることになる。
受けるか受けないかで言えば、受けないで済むに越したことはないような酷烈な処分を聖書信者が受けて、
非聖書信者は受けない。以って、聖書など信じていないほうがよかったということになり、聖書を信じていた者は
必ず、自分が聖書信仰を選択したことを後悔させられる羽目になる。その逆の結果を確証していたのが犯罪聖書の
記述であり、それを信じていたから後悔させられることとなる。まったく同情の余地もないことである。
「予れを信ぜずと謂えるか、閌日の如く有るに」
「空に輝く太陽ほどにも明らかな、この私の言い分すら信じぬというのか。
(暗闇を光とする転倒夢想を信じている時点で、本物の光明への信用を完全に棄て去っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・大車より)
蔓延にも即座に歯止めがかかって、人類滅亡の危機も未然に食い止めることができる。
しかし、実際問題として多数の犯罪聖書信者がいるものだから、深刻な累犯障害にも歯止めがかからず、
以って人類滅亡の危機を不可避に招きつつある。だからこそ犯罪聖書を信じていられなくなるのだから、
犯罪聖書を信じるものが、全くの自業自得によって、信じていられなくなる状況を招くのだといえる。
犯罪聖書を信じていられなくなるのは、上記の通り、人類が滅亡の危機に晒されるからで、
滅亡の危機を招くのが犯罪聖書の信者である。どこまでも、何もかもが、犯罪聖書信者自身の自己責任。
責任をとるのなら、もちろん聖書信者が責任をとって、服役や強制入院や禁治産などの処分に甘んずる必要がある。
そうしなければ人類が滅亡するため、その場合にも犯罪聖書を信じていられるものは一人もいないが、罪責が
償われて人類の滅亡が食い止められる場合には、必ず聖書信者の側が責任をとって処分を受けることになる。
受けるか受けないかで言えば、受けないで済むに越したことはないような酷烈な処分を聖書信者が受けて、
非聖書信者は受けない。以って、聖書など信じていないほうがよかったということになり、聖書を信じていた者は
必ず、自分が聖書信仰を選択したことを後悔させられる羽目になる。その逆の結果を確証していたのが犯罪聖書の
記述であり、それを信じていたから後悔させられることとなる。まったく同情の余地もないことである。
「予れを信ぜずと謂えるか、閌日の如く有るに」
「空に輝く太陽ほどにも明らかな、この私の言い分すら信じぬというのか。
(暗闇を光とする転倒夢想を信じている時点で、本物の光明への信用を完全に棄て去っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・大車より)
たとえば、人間の骨格の関節の自由度は、一般的な力学構造の観点からいえば、かなり自由度が低い。
肘や膝の関節も、脱臼でもしない限りは逆関節の方向には曲がらないようにできていて、
そこにこそ身体の安定度を保つための重要な意味までもが備わっている。
それと同じように、「人は誰しもいつかは死に、二度と生き返らない」というような真理、
「自分で犯した罪の責任は、自分で負わなければならない」というような道理が存在し、
その限定を守った範囲での論理展開や思想展開こそが、生の人間に最大級の自由を与えもする。
人が不死であったり死んでも生き返ったり、自分が犯した罪が他人によって償われたりといったことを
概念上に夢想するだけならいくらでもできる。しかし、それらはまったく真理でも道理でもないから、
現実上においても全くの不能であるために、現実の人間に対してより大きな不自由を課すものですらある。
人は誰しもいつかは死ぬというわきまえがあればこそ、寿命では確実に自分よりも早く死ぬ親に対しての
孝行などを心がけようという気にもなり、その孝行の心がけこそが、人としての全力を尽くす上での
原動力ともなる(>>318参照)。その逆に、諸行無常のわきまえを欠いて孝心をも疎かにしたならば、
あらゆる物事に対して全力を尽くすことができなくなる。だから、真理であるところの諸行無常を
わきまえないよりはわきまえたほうが、人としての全力を尽くすことによる自由度が生まれるとも言える。
肘や膝の関節も、脱臼でもしない限りは逆関節の方向には曲がらないようにできていて、
そこにこそ身体の安定度を保つための重要な意味までもが備わっている。
それと同じように、「人は誰しもいつかは死に、二度と生き返らない」というような真理、
「自分で犯した罪の責任は、自分で負わなければならない」というような道理が存在し、
その限定を守った範囲での論理展開や思想展開こそが、生の人間に最大級の自由を与えもする。
人が不死であったり死んでも生き返ったり、自分が犯した罪が他人によって償われたりといったことを
概念上に夢想するだけならいくらでもできる。しかし、それらはまったく真理でも道理でもないから、
現実上においても全くの不能であるために、現実の人間に対してより大きな不自由を課すものですらある。
人は誰しもいつかは死ぬというわきまえがあればこそ、寿命では確実に自分よりも早く死ぬ親に対しての
孝行などを心がけようという気にもなり、その孝行の心がけこそが、人としての全力を尽くす上での
原動力ともなる(>>318参照)。その逆に、諸行無常のわきまえを欠いて孝心をも疎かにしたならば、
あらゆる物事に対して全力を尽くすことができなくなる。だから、真理であるところの諸行無常を
わきまえないよりはわきまえたほうが、人としての全力を尽くすことによる自由度が生まれるとも言える。
概念夢想の無制限な自由は、かえって現実上における人ととしての自由を損なうものであり、真理や道理に
即した一定の制限をかけた概念であるところの堅実な理念こそが、人に最大級の自由を与えられもする。
その道理や真理を人為的に体系化しているのが儒学や仏教である一方で、道理や真理に反する完全誤謬を
並べ立てて、あたかも真理であるかのようにわめきたてているのがキリスト教やユダヤ教にあたる。
必ずしも「人為的な体系」などに由らずとも、自然と道理や真理をわきまえられればそれでもいいが、
既成の体系に依拠する以上は、本物の真理や道理の体系に則ることで、人としての高い自由度を
得るべきであり、真理にも道理にも反する完全誤謬の猥褻な陳列などに惑わされて、かえって人としての
自由度を狭めるようなことがないようにしたほうがよい。そのほうがより自由な上に、より優良なのだから。
「言うべからざるは言う勿れ、由るべからざるは語る勿れ。醉の言に由らぱ、童羖にも俾出さしむ」
「言うべきでないことを言うな。由るべきでもないようなことを語るな。酩酊した妄言などを
由りどころにすれば、(角のない)黒羊に角を生やさせるようなことまで要求されることとなる。
(由るべきでない戯れ言を由りどころにしてさらなる不自由に見舞われるようなことがないように)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・賓之初筵より)
即した一定の制限をかけた概念であるところの堅実な理念こそが、人に最大級の自由を与えられもする。
その道理や真理を人為的に体系化しているのが儒学や仏教である一方で、道理や真理に反する完全誤謬を
並べ立てて、あたかも真理であるかのようにわめきたてているのがキリスト教やユダヤ教にあたる。
必ずしも「人為的な体系」などに由らずとも、自然と道理や真理をわきまえられればそれでもいいが、
既成の体系に依拠する以上は、本物の真理や道理の体系に則ることで、人としての高い自由度を
得るべきであり、真理にも道理にも反する完全誤謬の猥褻な陳列などに惑わされて、かえって人としての
自由度を狭めるようなことがないようにしたほうがよい。そのほうがより自由な上に、より優良なのだから。
「言うべからざるは言う勿れ、由るべからざるは語る勿れ。醉の言に由らぱ、童羖にも俾出さしむ」
「言うべきでないことを言うな。由るべきでもないようなことを語るな。酩酊した妄言などを
由りどころにすれば、(角のない)黒羊に角を生やさせるようなことまで要求されることとなる。
(由るべきでない戯れ言を由りどころにしてさらなる不自由に見舞われるようなことがないように)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・賓之初筵より)
端的にいって、幼稚なことだ。
自分や自分の周り程度までにしか配慮が働かず、大局の利害を慮れないのは、幼稚なこと。
ド田舎の少数の集落ぐらいならその程度の感覚だけでも済むが、何万何億という
大衆の群がる都市社会でそのような狭量な感覚を振りかざすことは、許されない。
共産主義や独裁主義が全体主義であったことを以て、全体の利益を慮ることを
資本主義者などが嫌悪対象にするが、共産主義にも独裁主義にも仁徳はなく、
個々の家族を基本単位として全体の統率を積み立てていくような、公利を体系的に慮る
志向は存在せず、ただ資本主義やユダヤ信仰の特権志向を感情的に糾弾するばかりの、
これまた幼稚な試みに終始してしまっている。結局のところ、聖書圏には公益保護を
体系的に積み立てていく儒学並みの権力道徳の体系化が皆無であるため、全くの未知なる
存在としての仁徳志向を、全くの無知のままに毛嫌いしているような状態にある。
自分や自分の周り程度までにしか配慮が働かず、大局の利害を慮れないのは、幼稚なこと。
ド田舎の少数の集落ぐらいならその程度の感覚だけでも済むが、何万何億という
大衆の群がる都市社会でそのような狭量な感覚を振りかざすことは、許されない。
共産主義や独裁主義が全体主義であったことを以て、全体の利益を慮ることを
資本主義者などが嫌悪対象にするが、共産主義にも独裁主義にも仁徳はなく、
個々の家族を基本単位として全体の統率を積み立てていくような、公利を体系的に慮る
志向は存在せず、ただ資本主義やユダヤ信仰の特権志向を感情的に糾弾するばかりの、
これまた幼稚な試みに終始してしまっている。結局のところ、聖書圏には公益保護を
体系的に積み立てていく儒学並みの権力道徳の体系化が皆無であるため、全くの未知なる
存在としての仁徳志向を、全くの無知のままに毛嫌いしているような状態にある。
現状の歴史学では、西洋にも封建主義があったように言われているが、西洋で封建主義と
されていたものは、領主が資本家と結託して狭隘な利権を貪って、それで支配者を気取る、
長宗我部の一両具足に相当するようなシステムであり、それは政財の癒着を徹底して禁ずる
儒学道徳に即して「封建統治」と定義できるものではない。権力者すなわち自分たちの利益
ばかりを貪るものという感覚からすれば、その定義によって「封建主義」とされていたものを
嫌悪するのも当然のことであり、そんな封建主義を復活させるべきだなどということも決してない。
儒学道徳に根ざした、政財の癒着を禁ずる封建統治こそが、世界的に見ても、大社会の
大局的な公益を十分に保護することを可能とする統治理念としてほぼ唯一無二のものであり、
それは宋代までの中国や江戸時代までの日本ではそれなりに機能していたものだが、今では全く
機能しておらず、聖書圏にいたってはそのような統治理念が未だかつて存在していたことすらない。
この地球上から消滅してからすでに久しい、仁徳に根ざした封建統治の復旧は、それなりの労力や
研究を要するものではあるが、現実に実現が可能ではあるもの。もちろん、ムラ社会レベルの狭隘な
土族意識によって大社会を支配しようとするような、カルトの邪義の廃絶はまったくの大前提だが。
「維れ桑と梓にも、必ずや恭み敬まいて止まん。
瞻るとして父に匪ざるは靡、依るとして母に匪ざるは靡し。
毛もてにも属さず、裹にも罹かず。天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん」
「(神前に供えたりもする)桑や梓を見るだけでも、慎み敬う心を募らせる。
実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
されていたものは、領主が資本家と結託して狭隘な利権を貪って、それで支配者を気取る、
長宗我部の一両具足に相当するようなシステムであり、それは政財の癒着を徹底して禁ずる
儒学道徳に即して「封建統治」と定義できるものではない。権力者すなわち自分たちの利益
ばかりを貪るものという感覚からすれば、その定義によって「封建主義」とされていたものを
嫌悪するのも当然のことであり、そんな封建主義を復活させるべきだなどということも決してない。
儒学道徳に根ざした、政財の癒着を禁ずる封建統治こそが、世界的に見ても、大社会の
大局的な公益を十分に保護することを可能とする統治理念としてほぼ唯一無二のものであり、
それは宋代までの中国や江戸時代までの日本ではそれなりに機能していたものだが、今では全く
機能しておらず、聖書圏にいたってはそのような統治理念が未だかつて存在していたことすらない。
この地球上から消滅してからすでに久しい、仁徳に根ざした封建統治の復旧は、それなりの労力や
研究を要するものではあるが、現実に実現が可能ではあるもの。もちろん、ムラ社会レベルの狭隘な
土族意識によって大社会を支配しようとするような、カルトの邪義の廃絶はまったくの大前提だが。
「維れ桑と梓にも、必ずや恭み敬まいて止まん。
瞻るとして父に匪ざるは靡、依るとして母に匪ざるは靡し。
毛もてにも属さず、裹にも罹かず。天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん」
「(神前に供えたりもする)桑や梓を見るだけでも、慎み敬う心を募らせる。
実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
大航海時代には、酒色を絶って方々を侵略掠奪してまわる北欧の海賊などもいたらしいが。
小悪を自制する偽善によって、大悪を犯しまくることから目を背ける欺瞞は、カルト信仰の常套手段だといえる。
自力仏教の比丘戒でも飲酒は禁じられているが、強盗殺人のような大悪を徹底して禁ずる戒律もあった上でのことで、
異教徒や異民族、遠方の他人らが相手ならいくらでも殺しまわり奪いまわって構わないというような、
聖書信仰などのカルト信仰に特有の落ち度は事前に完全に絶やされている。その上で飲酒や邪淫の
禁止までもが取り決められているのだから、仏戒の禁酒などは決して偽善でも欺瞞でもないといえる。
飲酒も淫行も節度を持って行えばよいとする儒学道徳も、何事にも節度を持たせる中庸の一環としてあるため、
小悪は厳禁して大悪は黙認する両極端に陥っている犯罪聖書の邪義などよりはまだマシなものだといえる。
酒色を否定せず、場合によっては奨励すらするところが、儒学の信教としての低劣さの根拠と見なされもするが、
結果として聖書信仰のようなカルト信仰よりはまだ優良な言動規範を実践者に具えさせるようにもなっている。
逆に言えば、儒学の実践並みのまともさすら保てない信教や学術こそは、ありのままにカルトの邪教邪学なのだといえる。
「賢を賢とし色に易う(学而第一・七)」
「賢者が賢者であることを素直に認めて、まるで色を好むかのように慕う」
「惟だ酒は量無くも、乱には及ばず(郷党第十・八)」
「酒も『絶対にこの量まで』と決めるのでは楽しめないのでそこまでは決めないが、ただ酒乱に及ぶまでは飲まないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語より)
小悪を自制する偽善によって、大悪を犯しまくることから目を背ける欺瞞は、カルト信仰の常套手段だといえる。
自力仏教の比丘戒でも飲酒は禁じられているが、強盗殺人のような大悪を徹底して禁ずる戒律もあった上でのことで、
異教徒や異民族、遠方の他人らが相手ならいくらでも殺しまわり奪いまわって構わないというような、
聖書信仰などのカルト信仰に特有の落ち度は事前に完全に絶やされている。その上で飲酒や邪淫の
禁止までもが取り決められているのだから、仏戒の禁酒などは決して偽善でも欺瞞でもないといえる。
飲酒も淫行も節度を持って行えばよいとする儒学道徳も、何事にも節度を持たせる中庸の一環としてあるため、
小悪は厳禁して大悪は黙認する両極端に陥っている犯罪聖書の邪義などよりはまだマシなものだといえる。
酒色を否定せず、場合によっては奨励すらするところが、儒学の信教としての低劣さの根拠と見なされもするが、
結果として聖書信仰のようなカルト信仰よりはまだ優良な言動規範を実践者に具えさせるようにもなっている。
逆に言えば、儒学の実践並みのまともさすら保てない信教や学術こそは、ありのままにカルトの邪教邪学なのだといえる。
「賢を賢とし色に易う(学而第一・七)」
「賢者が賢者であることを素直に認めて、まるで色を好むかのように慕う」
「惟だ酒は量無くも、乱には及ばず(郷党第十・八)」
「酒も『絶対にこの量まで』と決めるのでは楽しめないのでそこまでは決めないが、ただ酒乱に及ぶまでは飲まないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語より)
「陪臣国命を執れば三世にして失わざること希なし」
「国君でもないような下賤の身分の者が国運を握るような業務を
執り成し続けたならば、三代のうちに亡国のわざわいを招かないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・二より)
とあり、正式な公人でもないイエスのような卑人が、自分を通じて国レベルの人数の
人間の命運を執り成したりしたならば、大きな禍いを招かないはずがない。そして、
「徳を執りて弘からずんば(略)焉んぞ有りと為さん、焉んぞ亡しと為さん」
「徳を施すことがさして広くもないようならば、いてもいなくてもどうでもいいようなものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二より)
とあるため、ごく一部の相手にしか救いを施さないような選民志向の邪義を本来、
大して有り難がるべきでもないのに、国を挙げて犯罪聖書を国是としていたりする
欧米諸国などの聖書信仰の享受姿勢もまた、大誤りであることが断定できる。
犯罪聖書を大々的に流布しようとする試みも過ちならば、大々的に享受しようとする試みも過ち。
少なくとも、儒学道徳に即して完全なる過ちと見なされる行いであり、儒学を実践しようと
心がけるのであれば、もう二度と大々的な犯罪聖書の享受などを認めてはならない。
18禁のエログロ本のような、十分な村八分扱いを世の中から受けた上での享受ならばまだしも、
公然と大々的に、犯罪聖書のような有害図書が享受されることまでをも許すわけには決して行かない。
それを許してしまった時点で、決して儒学が実践されたことにはならない。「儒学の実践」という
選択肢は決して選ばれたことにならない。少しでもそれで、儒学が実践できたなどと思ってはならない。
別に「絶対に儒学を実践しろ」などと強制もしないが、仮に儒学の実践を選択する以上は、
犯罪聖書の大々的な享受の根絶ぐらいは、大大前提となることを覚悟しなければならない。
「国君でもないような下賤の身分の者が国運を握るような業務を
執り成し続けたならば、三代のうちに亡国のわざわいを招かないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・二より)
とあり、正式な公人でもないイエスのような卑人が、自分を通じて国レベルの人数の
人間の命運を執り成したりしたならば、大きな禍いを招かないはずがない。そして、
「徳を執りて弘からずんば(略)焉んぞ有りと為さん、焉んぞ亡しと為さん」
「徳を施すことがさして広くもないようならば、いてもいなくてもどうでもいいようなものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二より)
とあるため、ごく一部の相手にしか救いを施さないような選民志向の邪義を本来、
大して有り難がるべきでもないのに、国を挙げて犯罪聖書を国是としていたりする
欧米諸国などの聖書信仰の享受姿勢もまた、大誤りであることが断定できる。
犯罪聖書を大々的に流布しようとする試みも過ちならば、大々的に享受しようとする試みも過ち。
少なくとも、儒学道徳に即して完全なる過ちと見なされる行いであり、儒学を実践しようと
心がけるのであれば、もう二度と大々的な犯罪聖書の享受などを認めてはならない。
18禁のエログロ本のような、十分な村八分扱いを世の中から受けた上での享受ならばまだしも、
公然と大々的に、犯罪聖書のような有害図書が享受されることまでをも許すわけには決して行かない。
それを許してしまった時点で、決して儒学が実践されたことにはならない。「儒学の実践」という
選択肢は決して選ばれたことにならない。少しでもそれで、儒学が実践できたなどと思ってはならない。
別に「絶対に儒学を実践しろ」などと強制もしないが、仮に儒学の実践を選択する以上は、
犯罪聖書の大々的な享受の根絶ぐらいは、大大前提となることを覚悟しなければならない。
寛容さにだって、節度というものがある。
一度過ちを犯した者を「今度からは気をつけろよ」と諭して許してやる程度の寛容さは必要でも、
何度も何度も同じ過ちを繰り返しながら改めようともしない相手までをも許すような義理はさすがにない。
昨今の欧米聖書圏によるイラクやアフガン、パレスチナやリビアなどへの侵攻も、アレクサンドロスの
東征や十字軍遠征を模した意味をもある程度備えていて、自分たちの行いを過去の歴史になぞらえて権威化
しようとする意図がある。それでは過去の中東社会などに対する聖書圏の征服行為が正当だったとされる
根拠は何かといえば、それこそは聖書信仰に当たる。犯罪聖書にそれが正しい行いとなると啓示されているから、
正しいとされるドグマ。犯罪聖書の存在性が根本から過ちであったことが明らかとなった時点で、聖書中の正当性は全て
不当性に反転し、正しい行いの積み重ねだと思ってやってきたことが全て、大きな過ちの繰り返しだったということになる。
一度過ちを犯した者を「今度からは気をつけろよ」と諭して許してやる程度の寛容さは必要でも、
何度も何度も同じ過ちを繰り返しながら改めようともしない相手までをも許すような義理はさすがにない。
昨今の欧米聖書圏によるイラクやアフガン、パレスチナやリビアなどへの侵攻も、アレクサンドロスの
東征や十字軍遠征を模した意味をもある程度備えていて、自分たちの行いを過去の歴史になぞらえて権威化
しようとする意図がある。それでは過去の中東社会などに対する聖書圏の征服行為が正当だったとされる
根拠は何かといえば、それこそは聖書信仰に当たる。犯罪聖書にそれが正しい行いとなると啓示されているから、
正しいとされるドグマ。犯罪聖書の存在性が根本から過ちであったことが明らかとなった時点で、聖書中の正当性は全て
不当性に反転し、正しい行いの積み重ねだと思ってやってきたことが全て、大きな過ちの繰り返しだったということになる。
カルト信者が正しいと思い込んで繰り返してきた過ちが全て、一つの大きな過ちであったと見なすことも出来なくはない。
その上で「今度からは間違いを繰り返すなよ」と諭して今回だけは許すということも、絶対にできないわけではない。
ただ、そのためには、個別の過ちの繰り返しの元凶となってきた、犯罪聖書への信仰の完全破棄が絶対条件となる。
ただ「信仰するのを辞めました」と宣言するだけではなく、救いようのない邪義の塊りでしかなかった有害図書などを
国を挙げての金科玉条にすら祭り上げてきた、自分たちの無様なあり方を大いに反省して、もう二度と犯罪聖書の
邪義などを信仰したりはしないと自他に確約し、実際にそうであるように努め続けて行く必要がある。
一旦「聖書信仰は辞めました」などと宣言したとしても、まるで麻薬中毒者がヤク禁を振り切って麻薬の服毒を
再開してしまうようにして、聖書信者が犯罪信仰を再開してしまう可能性もあるわけで、それはもはや完全に
過ちの繰り返しである。持続的な聖書信仰の範疇における過ちの繰り返しを丸々ひとつの過ちと見なしたとしても、
それが新たな純一の過ちとなるために、完全な過ちの繰り返しと見なされて、二度と許されることはないだろう。
聖書信仰の範疇で個別的な過ちが繰り返されるときではなく、「聖書信仰」という根本的な過ちが繰り返されたときに、
もう二度と元聖書信者が許されることもないのだと、これから聖書信仰を破棄する者たちも覚悟しなければならない。
「今、殷民は乃ち神祇の犧牷牲用を攘竊し、以て容れて将に食らいて災無し」
「紂王が暴政を行う昨今、殷の民たちは神祇祭祀のための供え物である犠牲や穀物すらも私的に掠め取り、
その罪すらもお互いに受け入れあって盗品を貪り食らい、罰を受けもしない。(受け入れてはならない重罪の例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・微子第十七より)
その上で「今度からは間違いを繰り返すなよ」と諭して今回だけは許すということも、絶対にできないわけではない。
ただ、そのためには、個別の過ちの繰り返しの元凶となってきた、犯罪聖書への信仰の完全破棄が絶対条件となる。
ただ「信仰するのを辞めました」と宣言するだけではなく、救いようのない邪義の塊りでしかなかった有害図書などを
国を挙げての金科玉条にすら祭り上げてきた、自分たちの無様なあり方を大いに反省して、もう二度と犯罪聖書の
邪義などを信仰したりはしないと自他に確約し、実際にそうであるように努め続けて行く必要がある。
一旦「聖書信仰は辞めました」などと宣言したとしても、まるで麻薬中毒者がヤク禁を振り切って麻薬の服毒を
再開してしまうようにして、聖書信者が犯罪信仰を再開してしまう可能性もあるわけで、それはもはや完全に
過ちの繰り返しである。持続的な聖書信仰の範疇における過ちの繰り返しを丸々ひとつの過ちと見なしたとしても、
それが新たな純一の過ちとなるために、完全な過ちの繰り返しと見なされて、二度と許されることはないだろう。
聖書信仰の範疇で個別的な過ちが繰り返されるときではなく、「聖書信仰」という根本的な過ちが繰り返されたときに、
もう二度と元聖書信者が許されることもないのだと、これから聖書信仰を破棄する者たちも覚悟しなければならない。
「今、殷民は乃ち神祇の犧牷牲用を攘竊し、以て容れて将に食らいて災無し」
「紂王が暴政を行う昨今、殷の民たちは神祇祭祀のための供え物である犠牲や穀物すらも私的に掠め取り、
その罪すらもお互いに受け入れあって盗品を貪り食らい、罰を受けもしない。(受け入れてはならない重罪の例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・微子第十七より)
神といい、仏といい、至上の尊格であればあるほど、最良の善行から最低の悪行までをも網羅する。
その上で、最良の善行に最大の福徳が、最低の悪行に最大の災禍が自業自得で及ぶことの磐石さを司る。
禍福をもたらすのはそれぞれの善行や悪行そのものであり、絶対普遍の神仏ほど罪福異熟をただ見守ることに特化する。
罪悪を積み重ねようとも自らに帰依すらすれば救いをもたらし、善徳を積み重ねようとも自らに帰依しなければ
災禍をもたらすというような作為の塊りである神は、神であるとしたところで「邪神」であり、本地垂迹に基づけば
魑魅魍魎の妖怪や地獄の亡者にすら相当するもの。善行には福徳が、悪行には災禍がもたらされるのが無為自然に根ざした
普遍的な道理である一方、悪行に福徳を、善行に災禍をもたらそうとするのは無為自然の道理に反する危うい無理に当たる。
普遍性に根ざさない無理を司るものだから、そのような邪神も、それ自体が危うい存在にあたり、道理を司る真に
上等な神仏などと比べれば、その権威が失墜するなどの形での、衰亡の危機に晒されることが免れ得ない。
その上で、最良の善行に最大の福徳が、最低の悪行に最大の災禍が自業自得で及ぶことの磐石さを司る。
禍福をもたらすのはそれぞれの善行や悪行そのものであり、絶対普遍の神仏ほど罪福異熟をただ見守ることに特化する。
罪悪を積み重ねようとも自らに帰依すらすれば救いをもたらし、善徳を積み重ねようとも自らに帰依しなければ
災禍をもたらすというような作為の塊りである神は、神であるとしたところで「邪神」であり、本地垂迹に基づけば
魑魅魍魎の妖怪や地獄の亡者にすら相当するもの。善行には福徳が、悪行には災禍がもたらされるのが無為自然に根ざした
普遍的な道理である一方、悪行に福徳を、善行に災禍をもたらそうとするのは無為自然の道理に反する危うい無理に当たる。
普遍性に根ざさない無理を司るものだから、そのような邪神も、それ自体が危うい存在にあたり、道理を司る真に
上等な神仏などと比べれば、その権威が失墜するなどの形での、衰亡の危機に晒されることが免れ得ない。
道理を司る上等な神仏とて、社会的な権威がある程度失墜することはあるが、何しろ司っているのが普遍的な道理なものだから、
どんなに人工的な権威の剥奪を被ったところで、いつでもその権威の規矩準縄に根ざした復興が可能である。一方で、
罪福異熟を捻じ曲げようとするような無理を司る邪神の場合は、一旦その権威を喪失すれば、その復興は二度と叶わない。
道理はどんなに捻じ曲げられたところで最後には通されるものだから、いくらでも復興が可能である一方、無理のほうは、
始めから実は通っていないものを無理に通そうとし続けた挙句に、いい加減通しているフリすらできなくなって衰亡するもの
であるから、何も筋を通したところがなくて、挙句にブラフごと倒壊するというその無様さを以て、二度と復興も叶わなくなる。
道理を司る上等な神仏を敬うことには、その普遍性に信念を託すことで信念を貫くという意味が備わるが、
無理を無理やり通そうとする邪神への敬意は、それこそ無理を無理やり通そうとする我の張り通しとなるばかりで、
そこにもまた、普遍性に根ざして貫こうとする信念などとは別個の危うさが帯びている。両者の敬意は根本的に全くの
別物であり、普遍性に根ざした信念を育てる正統な神仏への畏敬はぜひ行うべきである一方で、ただ我の張り通しを助長する
ばかりである、邪神に対する狂信まみれな敬いなどは棄て去るべきである。別に邪神に唾棄する嫌悪者になれというのでもなく、
邪神に心を囚われるようなこと自体をなくすべきであり、好悪も畏敬も侮蔑も何もない、ただのゴミ扱いをすることが妥当である。
「其の上に事うるや敬」
「(君子は)目上の者に仕える場合に敬いを抱く。
(六道論で人間以下とされる地獄餓鬼畜生を敬ったりもしない。
人間以上とされる天界の神や仏界の仏だけが敬うにも値する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六より)
どんなに人工的な権威の剥奪を被ったところで、いつでもその権威の規矩準縄に根ざした復興が可能である。一方で、
罪福異熟を捻じ曲げようとするような無理を司る邪神の場合は、一旦その権威を喪失すれば、その復興は二度と叶わない。
道理はどんなに捻じ曲げられたところで最後には通されるものだから、いくらでも復興が可能である一方、無理のほうは、
始めから実は通っていないものを無理に通そうとし続けた挙句に、いい加減通しているフリすらできなくなって衰亡するもの
であるから、何も筋を通したところがなくて、挙句にブラフごと倒壊するというその無様さを以て、二度と復興も叶わなくなる。
道理を司る上等な神仏を敬うことには、その普遍性に信念を託すことで信念を貫くという意味が備わるが、
無理を無理やり通そうとする邪神への敬意は、それこそ無理を無理やり通そうとする我の張り通しとなるばかりで、
そこにもまた、普遍性に根ざして貫こうとする信念などとは別個の危うさが帯びている。両者の敬意は根本的に全くの
別物であり、普遍性に根ざした信念を育てる正統な神仏への畏敬はぜひ行うべきである一方で、ただ我の張り通しを助長する
ばかりである、邪神に対する狂信まみれな敬いなどは棄て去るべきである。別に邪神に唾棄する嫌悪者になれというのでもなく、
邪神に心を囚われるようなこと自体をなくすべきであり、好悪も畏敬も侮蔑も何もない、ただのゴミ扱いをすることが妥当である。
「其の上に事うるや敬」
「(君子は)目上の者に仕える場合に敬いを抱く。
(六道論で人間以下とされる地獄餓鬼畜生を敬ったりもしない。
人間以上とされる天界の神や仏界の仏だけが敬うにも値する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六より)
①まず始めに、善でも悪でもないものがあった。
善悪が人間という知能生物に特有の尺度である以上、自然に善悪は存在しないが、
その無為なる自然にありのままに適応して生きていた原初の人類にもまた、善悪はなかった。
②その次に、殊更な善悪を未だ察知しないままに、とりあえず作為を積極化しておく試みが生じた。
古代中国における農作の発明や、古代の極東社会で土器文明として発達していた貯蔵の慣習、
古代オリエント社会における文字文化や土建の発達などがそれに当たり、未だそこに善悪などという
基準が遍在しているしていることも察知されていなければ、善悪を推し進めていくような意識もなかった。
③その次に、文明に善悪という倫理基準が遍在していることを察知して、「勧善懲悪」という
方向性に即して文明を潤色していく試みが生じた。堯舜禹らによる権力道徳の実践がそれであり、
ただ馬鹿でかいことをやろうとする場合などには決して見られない、世の中を着実な
平和や繁栄へと導こうとする、優良な文明の体系性がそこから備わり始めた。
④そしてその次に、巨大化した文明社会の中で、少数の部落民がガン細胞的な悪性の性向を
蓄えて、他民族や異教徒を迫害や収奪の対象にしてまで自分たちが生きて繁栄しようとする、
「悪逆非道」の方向性を一概化しようとする試みが生じた。古代ユダヤ人にとってのユダヤ教の
発症などがそれであり、迫害されて当然なほどにも劣悪な選民志向が案の定弾圧を受け、全く
民族としての血統なども継承されないままに、信仰形態だけが辛うじて存続していくこととなった。
⑤さらにその次に、ユダヤ信仰級の悪逆非道すらをも「それでもいいじゃないか」と開き直ることを
詭弁によって潤色する「偽善」の試みが生じた。それがイエスによるキリスト信仰の触れ回りであり、
その肝要は「悪からの救い」などではなく、「悪を無制限に受け入れる偽善の深刻化」にこそあった。
善悪が人間という知能生物に特有の尺度である以上、自然に善悪は存在しないが、
その無為なる自然にありのままに適応して生きていた原初の人類にもまた、善悪はなかった。
②その次に、殊更な善悪を未だ察知しないままに、とりあえず作為を積極化しておく試みが生じた。
古代中国における農作の発明や、古代の極東社会で土器文明として発達していた貯蔵の慣習、
古代オリエント社会における文字文化や土建の発達などがそれに当たり、未だそこに善悪などという
基準が遍在しているしていることも察知されていなければ、善悪を推し進めていくような意識もなかった。
③その次に、文明に善悪という倫理基準が遍在していることを察知して、「勧善懲悪」という
方向性に即して文明を潤色していく試みが生じた。堯舜禹らによる権力道徳の実践がそれであり、
ただ馬鹿でかいことをやろうとする場合などには決して見られない、世の中を着実な
平和や繁栄へと導こうとする、優良な文明の体系性がそこから備わり始めた。
④そしてその次に、巨大化した文明社会の中で、少数の部落民がガン細胞的な悪性の性向を
蓄えて、他民族や異教徒を迫害や収奪の対象にしてまで自分たちが生きて繁栄しようとする、
「悪逆非道」の方向性を一概化しようとする試みが生じた。古代ユダヤ人にとってのユダヤ教の
発症などがそれであり、迫害されて当然なほどにも劣悪な選民志向が案の定弾圧を受け、全く
民族としての血統なども継承されないままに、信仰形態だけが辛うじて存続していくこととなった。
⑤さらにその次に、ユダヤ信仰級の悪逆非道すらをも「それでもいいじゃないか」と開き直ることを
詭弁によって潤色する「偽善」の試みが生じた。それがイエスによるキリスト信仰の触れ回りであり、
その肝要は「悪からの救い」などではなく、「悪を無制限に受け入れる偽善の深刻化」にこそあった。
まず善でも悪でもない自然の状態①があり、次に善悪を察知しないままに作為をただ積極化する試み②があり、
その次に作為によって大規模化した文明を勧善懲悪によって規律していこうとする試み③があり、その次に
大規模化した文明社会の中で自分たちばかりが我田引水によって繁栄しようとする悪逆非道の試み④があり、
さらにその次に、我田引水の悪逆非道を一般にまで赦させようとする偽善の深刻化の試み⑤があった。
善でも悪でもないものが一番、善悪を知らぬままの作為が二番、勧善懲悪が三番、悪逆非道が四番、
そして悪逆非道の寛容という偽善が五番。イエキリの試みは五番目という極めて遅い順番であり、
しかもイエキリ自身は一番目から三番目を知らず、四番目しか知らなかった。四番目の悪逆非道が
人類社会のデフォルトだとすら思い込んでいたものだから、「神の前には救いはない」などという
全くトンチンカンな物言いにも及んだ。神以前の世界に救いがないのではなく、イエキリがデフォルト
だと思い込んでいた悪逆非道常套化④以降の世界にこそ救いがないのであり、イエキリがデフォルトと
していたものからイエキリ自身の妄言までを根こそぎ摘み取るのが、人間にとっての真の救いとなる。
④と⑤を完全に摘み取ったからといって、この世界に何も残らないなんてことも決してなく、
純良な①と③が②を着実に統御していく、この上なく優良な文明社会が築き上げられていくこととなる。
それはちょうど、④と⑤が伝統的に存在しなかった、聖書信仰流入以前の東洋社会に近似するものともなる。
その次に作為によって大規模化した文明を勧善懲悪によって規律していこうとする試み③があり、その次に
大規模化した文明社会の中で自分たちばかりが我田引水によって繁栄しようとする悪逆非道の試み④があり、
さらにその次に、我田引水の悪逆非道を一般にまで赦させようとする偽善の深刻化の試み⑤があった。
善でも悪でもないものが一番、善悪を知らぬままの作為が二番、勧善懲悪が三番、悪逆非道が四番、
そして悪逆非道の寛容という偽善が五番。イエキリの試みは五番目という極めて遅い順番であり、
しかもイエキリ自身は一番目から三番目を知らず、四番目しか知らなかった。四番目の悪逆非道が
人類社会のデフォルトだとすら思い込んでいたものだから、「神の前には救いはない」などという
全くトンチンカンな物言いにも及んだ。神以前の世界に救いがないのではなく、イエキリがデフォルト
だと思い込んでいた悪逆非道常套化④以降の世界にこそ救いがないのであり、イエキリがデフォルトと
していたものからイエキリ自身の妄言までを根こそぎ摘み取るのが、人間にとっての真の救いとなる。
④と⑤を完全に摘み取ったからといって、この世界に何も残らないなんてことも決してなく、
純良な①と③が②を着実に統御していく、この上なく優良な文明社会が築き上げられていくこととなる。
それはちょうど、④と⑤が伝統的に存在しなかった、聖書信仰流入以前の東洋社会に近似するものともなる。
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「牛山の木は嘗て美なるも、其の大国に郊たるを以て、斧斤之れを伐る。以て美と為す可けんや。是れ其の日夜の
息する所、雨露の潤す所、萌櫱の生ずる無きに非ざるも、牛羊又た従いて之れを牧す。是れを以て彼の若く濯濯たるなり。
人其の濯濯たるを見、以て未だ嘗て材有らずと為すも、此れ豈に山の性ならんや。人に存る者と雖も、豈に仁義の心無からんや。
其の良心を放つ所以の者も、亦た猶お斧斤の木に於けるが如きなり。旦旦と之れを伐らば、以て美と為す可けんや」
「昔、斉国の牛山は美しい木々の生茂る名山として知られていたが、都市の近郊にあったせいで誰しもがその植生の木々を
斧まさかりで伐って取ったため裸山となってしまい、到底美しいとは呼べない外見になってしまった。日々の自然風土や
雨水も新たな木々の芽を生やさせようとはするものの、木を伐った跡地にさらに人が牛羊を放牧したりするものだから、
やはり木々が生長するだけの余裕もない。大雨の雨水を受け止めることもできずに、よく土石流を巻き起こしてもいるが、
それを以て『牛山には始めから木材になるような木などなかった』としたりする。どうしてこれが山の本来ある通りの姿だなどと
いうことがあろうか。これと同じような言いがかりで、生まれながらの人間には仁義を志す心がないなどと決め付けてしまって
いいものか。決してそんなはずはなく、人に良心が欠けているのも、元はといえば木々の生い茂っていた山を後から開墾して
禿山にしてしまっているようなもの。毎日良心の芽を刈り取ってばかりいて、どうしてかつての牛山のような美しさになれようか。
(ちょうどユダヤの行いは牛山の木々を刈り取る行いに、キリストの行いは禿山となった牛山に家畜を放牧する行いに該当する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・八より)
息する所、雨露の潤す所、萌櫱の生ずる無きに非ざるも、牛羊又た従いて之れを牧す。是れを以て彼の若く濯濯たるなり。
人其の濯濯たるを見、以て未だ嘗て材有らずと為すも、此れ豈に山の性ならんや。人に存る者と雖も、豈に仁義の心無からんや。
其の良心を放つ所以の者も、亦た猶お斧斤の木に於けるが如きなり。旦旦と之れを伐らば、以て美と為す可けんや」
「昔、斉国の牛山は美しい木々の生茂る名山として知られていたが、都市の近郊にあったせいで誰しもがその植生の木々を
斧まさかりで伐って取ったため裸山となってしまい、到底美しいとは呼べない外見になってしまった。日々の自然風土や
雨水も新たな木々の芽を生やさせようとはするものの、木を伐った跡地にさらに人が牛羊を放牧したりするものだから、
やはり木々が生長するだけの余裕もない。大雨の雨水を受け止めることもできずに、よく土石流を巻き起こしてもいるが、
それを以て『牛山には始めから木材になるような木などなかった』としたりする。どうしてこれが山の本来ある通りの姿だなどと
いうことがあろうか。これと同じような言いがかりで、生まれながらの人間には仁義を志す心がないなどと決め付けてしまって
いいものか。決してそんなはずはなく、人に良心が欠けているのも、元はといえば木々の生い茂っていた山を後から開墾して
禿山にしてしまっているようなもの。毎日良心の芽を刈り取ってばかりいて、どうしてかつての牛山のような美しさになれようか。
(ちょうどユダヤの行いは牛山の木々を刈り取る行いに、キリストの行いは禿山となった牛山に家畜を放牧する行いに該当する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・八より)
>>341の孟子の言葉に従うなら、牧畜は元から森林の生い茂っている山岳などではなく、
平地の草原や砂漠などで行うべきだということになる。「牧畜なんかやめてしまえ」というのでは、
「それなりに大規模化した文明社会を勧善懲悪によって司る」という儒家の理念にも即さないので、
農牧もそれなりに奨励はするが、ちゃんと規定された区画の範囲だけでの農牧に専念させることが、
儒家の理念に即すことにもなるし、百姓の警護者兼統率者としての武家の本懐にも沿うことになる。
他にも、孟子は市場にかける税率などについても色々と細かい論及を行っているし、工業従事者が
あまりにも凝った技巧によって為政者を誘惑するようなことがあってはならないと「礼記」月令第六にもある。
総じて民間人の分をわきまえぬ放辟邪侈を十全に取り押さえることを士人道徳たる儒学は旨としていて、
民間人の放辟邪侈をありのままに大肯定する自由主義の民主主義とは全く真逆の志向性を備えているといえる。
じゃあ、民間人の放辟邪侈を取り押さえにかかる士人のほうはどうかといって、それこそどんなに清廉な
民間人よりもさらに清廉な聖人賢人でなければならず、そうでなければ民間人を取り押さえる名分も立たない。
今の日本やギリシャの公務員みたいな、民間人以上にもだらけきっている有様では、到底そんな名分は立たない。
じゃあ今の民間人並みにモーレツに働きまくればいいのかといえばそんなこともなく、やって善いことと悪いこと
との分別を厳格に付けて、善いことは進んで行い、悪いことは断じて行わない行動規範の優良さによってこそ
民間の小人に対しても差をつけるべきで、政財界の癒着による重権力犯罪は黙認しておきながら、飲酒運転や
刃物携帯みたいな、それ自体は誰にも迷惑のかからない軽罪ばかりを取り締まっている今の警察や検察なども、
このような士人としての素質を全く欠いているため、全員クビにして新たに採用をやり直すべきだとすらいえる。
平地の草原や砂漠などで行うべきだということになる。「牧畜なんかやめてしまえ」というのでは、
「それなりに大規模化した文明社会を勧善懲悪によって司る」という儒家の理念にも即さないので、
農牧もそれなりに奨励はするが、ちゃんと規定された区画の範囲だけでの農牧に専念させることが、
儒家の理念に即すことにもなるし、百姓の警護者兼統率者としての武家の本懐にも沿うことになる。
他にも、孟子は市場にかける税率などについても色々と細かい論及を行っているし、工業従事者が
あまりにも凝った技巧によって為政者を誘惑するようなことがあってはならないと「礼記」月令第六にもある。
総じて民間人の分をわきまえぬ放辟邪侈を十全に取り押さえることを士人道徳たる儒学は旨としていて、
民間人の放辟邪侈をありのままに大肯定する自由主義の民主主義とは全く真逆の志向性を備えているといえる。
じゃあ、民間人の放辟邪侈を取り押さえにかかる士人のほうはどうかといって、それこそどんなに清廉な
民間人よりもさらに清廉な聖人賢人でなければならず、そうでなければ民間人を取り押さえる名分も立たない。
今の日本やギリシャの公務員みたいな、民間人以上にもだらけきっている有様では、到底そんな名分は立たない。
じゃあ今の民間人並みにモーレツに働きまくればいいのかといえばそんなこともなく、やって善いことと悪いこと
との分別を厳格に付けて、善いことは進んで行い、悪いことは断じて行わない行動規範の優良さによってこそ
民間の小人に対しても差をつけるべきで、政財界の癒着による重権力犯罪は黙認しておきながら、飲酒運転や
刃物携帯みたいな、それ自体は誰にも迷惑のかからない軽罪ばかりを取り締まっている今の警察や検察なども、
このような士人としての素質を全く欠いているため、全員クビにして新たに採用をやり直すべきだとすらいえる。

者ばかりだから、全員クビになって一からやり直すぐらいのつもりでいるべきだ。今の世の中の誰一人として、
聖書信仰が根絶されて儒学道徳が流布されるこれからの時代に、今のままでいられることはないと知れ。
「伐冰の家は、牛羊を畜せず。(略)国家に長として財用を務むる者は必ず小人自りす。
小人をして国家を為めしめれば、災害並び至る。善者ありと雖もまたこれを如何ともするなし」
「葬祭に遺体や供物の腐敗防止のための氷を用いる卿大夫階級の家では、すでに財産が十分である
ことをわきまえて、牧牛や牧羊による利殖を行ったりはしない。国家に長たらんとしながら利殖財用を
追い求める者は、必ずくだらない小人としての本性を宿している。そのような小人に国運をも担わせたならば、
ありとあらゆる災害が巻き起こり、たとえ最善を尽くす者がいたとて、どうすることもできない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・十より)
最初の内に厳しい態度でいたほうが、後々になって寛大な恩赦を加えていける。
始めの内ばかり寛大な態度でいて、最後にはFEMAみたいな絶対隷従を強いたりするほうが、
それこそさんざん可愛がって来た牧畜を最後には精肉にする、屠殺屋の所業だといえる。
始めの内ばかり寛大な態度でいて、最後にはFEMAみたいな絶対隷従を強いたりするほうが、
それこそさんざん可愛がって来た牧畜を最後には精肉にする、屠殺屋の所業だといえる。
大規模な徳治社会の権力機構には、必ず君臣関係が伴う。
私見によって政務を取り仕切る立場にあるのが君主である一方、あくまで君命に即して政務を執り行うのが臣下。
政務を主観的に執り行う代わりに君主は実務を直接執り行わず、私情を排した臣下こそが直接的に民衆をも統治する。
君主が私情によって直接民を統治するのでは、気に入った民を厚遇して気に入らない民を冷遇するようなこと
にもなりかねないので、本人自身は私情を排した臣下が「君子(君主の弟子)」として民の直接統治に携わる。
天皇や将軍に直接お目通りできる臣下も昔はごくごく限られていて、民はおろか、下級の士人ですら
みだりに主君に接することは許されなかった。そこまでして為政者同士での階級差別を重んじていたのも、
民に対する私情のうつろいが君主に備わってしまうことを避けるためでこそあった。
封建社会は、民のうちでも商家や部落を差別下に置くが、それは商家や部落こそが、主君にとって好意を持たれやすい
誘惑的な要素を備えているからで、楽して大金を稼ぐその生業としての安易さに主君が籠絡されてしまったなら、
それこそ致命的な傾国の元凶ともなってしまうから、あえて民の中でも商家や部落に相当するような職業を下賤扱いした。
商家や部落が嫌いだからではなく、客を堕落からなる破滅へと追いやる娼婦も同然の職分であるからこそ、
清廉を旨とする権力道徳者にとっての忌避対象とされていた。私情によってはむしろ好みやすい安易さを
帯びているからこそ、私見によって政務を取り仕切る主君が直接接することは禁じられていたのだ。
「父母存すれば、友を以て死せるを許さず、私財を有せず」
「父母が存命であるというのなら、友人のために命を賭すようなことはせず、財貨をわたくしするようなこともしない。
(父がいることを豪語しながら磔刑によって刑死し、私的に囲い込んだ信者への
友愛を果たそうとしたイエスの行いは、自己完結した現象として非礼に当たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
私見によって政務を取り仕切る立場にあるのが君主である一方、あくまで君命に即して政務を執り行うのが臣下。
政務を主観的に執り行う代わりに君主は実務を直接執り行わず、私情を排した臣下こそが直接的に民衆をも統治する。
君主が私情によって直接民を統治するのでは、気に入った民を厚遇して気に入らない民を冷遇するようなこと
にもなりかねないので、本人自身は私情を排した臣下が「君子(君主の弟子)」として民の直接統治に携わる。
天皇や将軍に直接お目通りできる臣下も昔はごくごく限られていて、民はおろか、下級の士人ですら
みだりに主君に接することは許されなかった。そこまでして為政者同士での階級差別を重んじていたのも、
民に対する私情のうつろいが君主に備わってしまうことを避けるためでこそあった。
封建社会は、民のうちでも商家や部落を差別下に置くが、それは商家や部落こそが、主君にとって好意を持たれやすい
誘惑的な要素を備えているからで、楽して大金を稼ぐその生業としての安易さに主君が籠絡されてしまったなら、
それこそ致命的な傾国の元凶ともなってしまうから、あえて民の中でも商家や部落に相当するような職業を下賤扱いした。
商家や部落が嫌いだからではなく、客を堕落からなる破滅へと追いやる娼婦も同然の職分であるからこそ、
清廉を旨とする権力道徳者にとっての忌避対象とされていた。私情によってはむしろ好みやすい安易さを
帯びているからこそ、私見によって政務を取り仕切る主君が直接接することは禁じられていたのだ。
「父母存すれば、友を以て死せるを許さず、私財を有せず」
「父母が存命であるというのなら、友人のために命を賭すようなことはせず、財貨をわたくしするようなこともしない。
(父がいることを豪語しながら磔刑によって刑死し、私的に囲い込んだ信者への
友愛を果たそうとしたイエスの行いは、自己完結した現象として非礼に当たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
ロックフェラーやロスチャイルドが、キリスト教圏20億人を破滅に追いやった手管が
畜獣の屠殺まんまなものだから、部落出身者も向こう800年は世間様に対して大きな顔ができない。
こっちのほうが、松本ドラゴンのヤクザ会見なんかよりよっぽど致命的。
畜獣の屠殺まんまなものだから、部落出身者も向こう800年は世間様に対して大きな顔ができない。
こっちのほうが、松本ドラゴンのヤクザ会見なんかよりよっぽど致命的。
重罪を犯したために責任をとって死なねばならない者がいる。
大きな使命を帯びているために生き続けねばならない者がいる。
そういった、正当な人間の運命を特定的に、概念夢想に
よって破綻させようとする試みが、十字架信仰に当たる。
つまり、重罪を犯した人間は責任を取らせずに生き延びさせようとし、
大きな使命を帯びた人間には活躍の余地も与えずに死なせようとする。
それが十字架信仰によって実現しようとするものであり、まったく
もって、不正の実現によって正義を反故にする試みであるといえる。
それ以外に十字架を信仰する意義はないので、大きな使命を帯びて正義を
実現しようとする者は十字架を信仰しない。十字架を信仰しないものだから、
十字架を信仰するものからすれば「生きなくてよい者」ということにもなる。
だから十字架信者は自明に、正義の反故を惜しみなく進めていくことになる。
十字架信仰は悪と偽善の味方である一方で、真の正義の宿敵であり、
決して味方などではあり得ない。正義の味方たり得ない要素を十字架信仰が
自明に帯びているにも関わらず、十字架信者が正義との親和を求めたりするのも
薄ら馬鹿げたことで、十字架信仰だけは絶対に破棄するのでなければ、正義や
正義を実現する者の味方になれることは永遠にないのだと知らねばならない。
マッチポンプのポンプで味方のフリなどをしたところで、必ずそれ以上の
マッチ災禍によって、ポンプで埋め合わせきれない規模の損害を同時に与えている。
どこまでいっても、正義に対して利益以上の損害を与え続けるのが十字架信仰であり、
十字架信仰を破棄しないことには、正義に利する味方たり得る可能性すら生じない。
大きな使命を帯びているために生き続けねばならない者がいる。
そういった、正当な人間の運命を特定的に、概念夢想に
よって破綻させようとする試みが、十字架信仰に当たる。
つまり、重罪を犯した人間は責任を取らせずに生き延びさせようとし、
大きな使命を帯びた人間には活躍の余地も与えずに死なせようとする。
それが十字架信仰によって実現しようとするものであり、まったく
もって、不正の実現によって正義を反故にする試みであるといえる。
それ以外に十字架を信仰する意義はないので、大きな使命を帯びて正義を
実現しようとする者は十字架を信仰しない。十字架を信仰しないものだから、
十字架を信仰するものからすれば「生きなくてよい者」ということにもなる。
だから十字架信者は自明に、正義の反故を惜しみなく進めていくことになる。
十字架信仰は悪と偽善の味方である一方で、真の正義の宿敵であり、
決して味方などではあり得ない。正義の味方たり得ない要素を十字架信仰が
自明に帯びているにも関わらず、十字架信者が正義との親和を求めたりするのも
薄ら馬鹿げたことで、十字架信仰だけは絶対に破棄するのでなければ、正義や
正義を実現する者の味方になれることは永遠にないのだと知らねばならない。
マッチポンプのポンプで味方のフリなどをしたところで、必ずそれ以上の
マッチ災禍によって、ポンプで埋め合わせきれない規模の損害を同時に与えている。
どこまでいっても、正義に対して利益以上の損害を与え続けるのが十字架信仰であり、
十字架信仰を破棄しないことには、正義に利する味方たり得る可能性すら生じない。
「民に好悪喜怒哀楽有り、六気に生ず。是の故に則を審かにして類を宜しくし、以て六志を制す。
哀に哭泣有り、楽に歌舞有り、喜に施舍有り、怒に戦有り。喜に於いては好を生じ、怒に於にては悪を生ず。
是の故に行いを審かにして令を信し、禍福に賞罰し、以て死生を制す。生は好物なり、死は悪物なり。
好物は楽しみ、悪物は哀しむ。哀楽失わざれば、乃ち能く天地の性に協う。是れを以て長久なり」
「人民には好悪喜怒哀楽といった感情があり、これら六つが天の気から生じた普遍的なものである。
そのため仁者はその法則を詳らかによく分類し、六つの心がけによってよく統制していくのである。
哀しみに対しては哭泣を心がけ、楽しみに対しては歌舞を心がけ、喜びに対しては節制を心がけ、
怒りに対しても節度を守った体系的な臨戦を心がける。この内の喜びが愛好の因子となり、怒りが憎悪
の因子となる。そのため人民の喜怒に配慮を効かせつつも、為政者としては善人の徳業や悪人の罪業を
詳らかに調べ上げ、慎重な命令によって善悪禍福に相応の順当な賞罰を下し、善人を生かしたり、悪人を
死なせたりすることに節度を持たせる。生かされることは愛好に値し、死なされることは憎悪に値する。
愛好できる者は嬉しがりにならない程度にその活躍を楽しみ、憎悪の対象となる者にもなるべく哀悼を
心がける。喜怒を制した哀楽を失うことがなければ天地の性情にも適い、天下国家の福徳も長久となる。
(人民の好悪を参考にした善人の出世や、悪人の処刑が世の中の福徳の長久にもつながる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十五年より)
哀に哭泣有り、楽に歌舞有り、喜に施舍有り、怒に戦有り。喜に於いては好を生じ、怒に於にては悪を生ず。
是の故に行いを審かにして令を信し、禍福に賞罰し、以て死生を制す。生は好物なり、死は悪物なり。
好物は楽しみ、悪物は哀しむ。哀楽失わざれば、乃ち能く天地の性に協う。是れを以て長久なり」
「人民には好悪喜怒哀楽といった感情があり、これら六つが天の気から生じた普遍的なものである。
そのため仁者はその法則を詳らかによく分類し、六つの心がけによってよく統制していくのである。
哀しみに対しては哭泣を心がけ、楽しみに対しては歌舞を心がけ、喜びに対しては節制を心がけ、
怒りに対しても節度を守った体系的な臨戦を心がける。この内の喜びが愛好の因子となり、怒りが憎悪
の因子となる。そのため人民の喜怒に配慮を効かせつつも、為政者としては善人の徳業や悪人の罪業を
詳らかに調べ上げ、慎重な命令によって善悪禍福に相応の順当な賞罰を下し、善人を生かしたり、悪人を
死なせたりすることに節度を持たせる。生かされることは愛好に値し、死なされることは憎悪に値する。
愛好できる者は嬉しがりにならない程度にその活躍を楽しみ、憎悪の対象となる者にもなるべく哀悼を
心がける。喜怒を制した哀楽を失うことがなければ天地の性情にも適い、天下国家の福徳も長久となる。
(人民の好悪を参考にした善人の出世や、悪人の処刑が世の中の福徳の長久にもつながる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十五年より)
「黙してこれを識し、学びて厭わず、人を誨えて倦まず。何か我れに有らんや(一部既出)」
「いいことを学んでもひけらかさずに自分で覚えておき、成果がなかなか見られなくても学び続けることを厭わず、
分からず屋を教誨し続けても倦み疲れたりはしない。それぐらいのことは、私には別に何でもないことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二より)
教学に対する儒者の絶倫加減は、自分たちが学問の対象としている権力道徳が永久不変の道理であることを
主因としている。どんな詭弁やごまかしによっても突き崩すことのできない絶対普遍の道理だからこそ、
学び教え続けても決して倦み疲れたりすることがない。無理な運動は身体に祟って、イヤでも疲れるが、
呼吸を乱さない程度の適度な運動なら、疲れてやめるような気になったりはしないのとも同じ。
その、儒者の学問対象である絶対普遍の道理に真っ向から反する完全誤謬の無理を羅列しているのが
新旧約聖書こと権力犯罪聖書で、絶対普遍の道理の反転であるだけに、そこに書かれている無理も
また絶対普遍の方向性を備えているのは確か。絶対普遍の道理の「絶対普遍」だけを借りとって、
列車がレールの上を走り続けるような容易さで以て、無理だらけな権力犯罪を進行させ続ける。
絶対普遍のレールに乗っかって、まるで息をするように無理もなく学び続けたり、狂信し続けたりしていられる
点では四書五経と犯罪聖書は確かに共通している。四書五経の引用を延々と続けても全く倦み疲れないからこそ、
犯罪聖書を引用し続けることも狂信者にとっては全く倦み疲れないことなのだろうと個人的にも察知できる。
「倦み疲れて負ける」ということは、四書五経の勉学者と犯罪聖書の狂信者、いずれにも決してあることではない。
ただ、勉強しているものが道理であるが故に、現実社会を破綻させずに繁栄させるか、狂信しているものが無理で
あるが故に、現実社会を繁栄させずに破綻させるかという違いだけが、四書五経の勉学を存続させて、犯罪聖書の
狂信を途絶させる決定的な分かれ目となる。どちらかがダウンするまでではなく、聖書信者が死ぬまで続けられる決闘。
儒者のほうが自業自得で死んだりすることはないので、聖書信者の自業自得での自滅だけが終末として予定される。
「いいことを学んでもひけらかさずに自分で覚えておき、成果がなかなか見られなくても学び続けることを厭わず、
分からず屋を教誨し続けても倦み疲れたりはしない。それぐらいのことは、私には別に何でもないことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二より)
教学に対する儒者の絶倫加減は、自分たちが学問の対象としている権力道徳が永久不変の道理であることを
主因としている。どんな詭弁やごまかしによっても突き崩すことのできない絶対普遍の道理だからこそ、
学び教え続けても決して倦み疲れたりすることがない。無理な運動は身体に祟って、イヤでも疲れるが、
呼吸を乱さない程度の適度な運動なら、疲れてやめるような気になったりはしないのとも同じ。
その、儒者の学問対象である絶対普遍の道理に真っ向から反する完全誤謬の無理を羅列しているのが
新旧約聖書こと権力犯罪聖書で、絶対普遍の道理の反転であるだけに、そこに書かれている無理も
また絶対普遍の方向性を備えているのは確か。絶対普遍の道理の「絶対普遍」だけを借りとって、
列車がレールの上を走り続けるような容易さで以て、無理だらけな権力犯罪を進行させ続ける。
絶対普遍のレールに乗っかって、まるで息をするように無理もなく学び続けたり、狂信し続けたりしていられる
点では四書五経と犯罪聖書は確かに共通している。四書五経の引用を延々と続けても全く倦み疲れないからこそ、
犯罪聖書を引用し続けることも狂信者にとっては全く倦み疲れないことなのだろうと個人的にも察知できる。
「倦み疲れて負ける」ということは、四書五経の勉学者と犯罪聖書の狂信者、いずれにも決してあることではない。
ただ、勉強しているものが道理であるが故に、現実社会を破綻させずに繁栄させるか、狂信しているものが無理で
あるが故に、現実社会を繁栄させずに破綻させるかという違いだけが、四書五経の勉学を存続させて、犯罪聖書の
狂信を途絶させる決定的な分かれ目となる。どちらかがダウンするまでではなく、聖書信者が死ぬまで続けられる決闘。
儒者のほうが自業自得で死んだりすることはないので、聖書信者の自業自得での自滅だけが終末として予定される。
「神農氏没して、黄帝、堯、舜氏作る。其の変を通じて、民を使わして倦ましめず、神をして之れを化し、民を使わして
之れを宜しくせしむ。易は窮まれば則ち変じ、変ずれば則ち通る。通れば則ち久し。是れを以て天より之れを祐け、
吉にして利ろしからざる无からしむ。黄帝、堯、舜、衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸れを乾坤に取ればなり」
「(基本は無為自然によって天下を治め、部分的に易に根ざした技巧によって統治も行っていた)神農が没して、
黄帝や堯、舜らが治める代となると、作為的な物事の変化を加えることで、民を使役しても倦み疲れないようにさせた。
形而上的な神妙さによって変化を起こすことで、民をよく楽しませるようにした。易の法則では行き詰まりの先に
変化が起こり、その変化によって道理が通り、それによって長らく泰平が開かれるが、その法則に則って天からの
神助をも受け、吉祥にして、縁起の悪いことがないようにした。黄帝や堯舜が、垂れ下がりのあるような非実用的な
服装のままで政治を行っても天下がよく治まったのは、その政治を易の陰陽乾坤の法則によく則らせたからである。
(易の法則に真っ向から反する暴政を行うことで、民を最悪の苦痛に追いやりながらも、倦み疲れさせないこともまた可能
である。ただしその場合には天下は治まらず、垂れ下がりのないような実用的な服を着て対策を尽くしても破綻は免れ得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
之れを宜しくせしむ。易は窮まれば則ち変じ、変ずれば則ち通る。通れば則ち久し。是れを以て天より之れを祐け、
吉にして利ろしからざる无からしむ。黄帝、堯、舜、衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸れを乾坤に取ればなり」
「(基本は無為自然によって天下を治め、部分的に易に根ざした技巧によって統治も行っていた)神農が没して、
黄帝や堯、舜らが治める代となると、作為的な物事の変化を加えることで、民を使役しても倦み疲れないようにさせた。
形而上的な神妙さによって変化を起こすことで、民をよく楽しませるようにした。易の法則では行き詰まりの先に
変化が起こり、その変化によって道理が通り、それによって長らく泰平が開かれるが、その法則に則って天からの
神助をも受け、吉祥にして、縁起の悪いことがないようにした。黄帝や堯舜が、垂れ下がりのあるような非実用的な
服装のままで政治を行っても天下がよく治まったのは、その政治を易の陰陽乾坤の法則によく則らせたからである。
(易の法則に真っ向から反する暴政を行うことで、民を最悪の苦痛に追いやりながらも、倦み疲れさせないこともまた可能
である。ただしその場合には天下は治まらず、垂れ下がりのないような実用的な服を着て対策を尽くしても破綻は免れ得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
正統な神仏を崇める純正な信教でも、神仏による加護を期待するということは当然ある。
ただ、その崇敬対象が神である以上は、たとえ最高級の大神であろうとも「絶対的な加護」などは期待しない。
神のフリした鬼畜などではない、本物の神々の住まう天界もまた、絶対的な普遍性を供えた世界ではなく、
それなりの盛衰を伴うものであり、長寿と大きな福徳を保証されながらも、天人五衰もまたあるものだから、
その神に対して加護を期待する者もまた、自力作善に後付けで施す潤色ぐらいのものとして神護を嗜む。
では、仏に加護を期待する場合はどうかといえば、確かにその加護は絶対普遍にして金剛不壊となる。
ただ、本質的に仏は人格神ではなく、純粋かつ優秀なある種の哲理なのであり、その哲理を理解し体得すること
でこそ絶対的な加護を期待できるものであるため、人格者に依存するアブラハム教のような格好は似つかわしくない。
ただ、仏法への他力本願の体裁を取ることもまた一応は可能なことであり、念仏による浄土信仰などがそれに当たる。
最も簡素で容易い仏護の得方が念仏であり、他力本願なりの荘厳は加えられているにしても、やはりあらゆる仏門の
中でも、最も本格的な荘厳にも欠けているため、余裕があれば念仏以上に高尚な聖道門への帰依を目指したくなる。
ただ、そんな余裕がないという状態、世が地獄の業火に晒されて仏道修行どころではないという時代に
おける消火栓代わりの役目などを、念仏のような他力本願型の仏門が負うことができる。
ただ、その崇敬対象が神である以上は、たとえ最高級の大神であろうとも「絶対的な加護」などは期待しない。
神のフリした鬼畜などではない、本物の神々の住まう天界もまた、絶対的な普遍性を供えた世界ではなく、
それなりの盛衰を伴うものであり、長寿と大きな福徳を保証されながらも、天人五衰もまたあるものだから、
その神に対して加護を期待する者もまた、自力作善に後付けで施す潤色ぐらいのものとして神護を嗜む。
では、仏に加護を期待する場合はどうかといえば、確かにその加護は絶対普遍にして金剛不壊となる。
ただ、本質的に仏は人格神ではなく、純粋かつ優秀なある種の哲理なのであり、その哲理を理解し体得すること
でこそ絶対的な加護を期待できるものであるため、人格者に依存するアブラハム教のような格好は似つかわしくない。
ただ、仏法への他力本願の体裁を取ることもまた一応は可能なことであり、念仏による浄土信仰などがそれに当たる。
最も簡素で容易い仏護の得方が念仏であり、他力本願なりの荘厳は加えられているにしても、やはりあらゆる仏門の
中でも、最も本格的な荘厳にも欠けているため、余裕があれば念仏以上に高尚な聖道門への帰依を目指したくなる。
ただ、そんな余裕がないという状態、世が地獄の業火に晒されて仏道修行どころではないという時代に
おける消火栓代わりの役目などを、念仏のような他力本願型の仏門が負うことができる。
「困ったときの神頼み」という通り、他力本願による神仏の加護などをやたらと欲するような人間は、元から困っている。
常日頃から絶えず大きな苦悩に晒され続けているから、自分以外の誰かに依存していなければ居ても立ってもいられない。
それは絶対に無かるべきことだとも言いはしないが、あるかないかでいえば無いに越したことはない。浄土教であれ
拝火教であれアブラハム教であれそれ以外の他力信仰であれ、他力信仰を卒業して自力作善を目指していけるのなら、
それに越したことはないのであって、「他力信仰こそは自力作善よりも優等なものだ」などというような転倒夢想は決して
許されるものではない。浄土信者も自分が煩悩具縛の凡夫であったり、今という時代が自力作善どころではない乱世で
あったりすることを理由として他力信仰に帰依するのであり、自力作善が可能ならそっちを選択するぐらいのつもりでいる。
浄土系の坊主が生臭なのも全くもって上等なことであり、他力信仰ごときをやたらと聖化しようとするほうが頭がおかしい。
「天は下民を降し、之の君を作て、之の師を作つ。惟れ其の上帝を助け之れを寵する曰なり。
四方の罪有るも罪無きも、惟だ我れに在り、天下曷ぞ敢えて厥の志しを越すもの有らんや」
「天はこの世によろずの民たちを生み降して、そこに一人の主君を立て、その師となる者を立てた。
これは天の上帝の事業を助けて、世に住まう民たちをよく安んじようとするためであった。
天下の四方の果てに至るまで、罪有るものを罰して罪なきものを賞する責任が、我らにこそある。
この天下に誰一人として、我々の志しを越える気概の持ち主はいない。(『書経』遺失部分の
孟子による引用。易の法則に根ざしたこの世界の様相を整えることを政治の根幹としていた
古代中国の為政者にとっては、自分たちの為政が天帝の事業を助け整えるものと考えられていた。
天上の神による加護を受けるどころか、天神の試みを自分たちが助けていくのだとすら考えて
いたわけで、それほどもの自助努力を心がける志があってこそ、仁政もまた達成できるのだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)
常日頃から絶えず大きな苦悩に晒され続けているから、自分以外の誰かに依存していなければ居ても立ってもいられない。
それは絶対に無かるべきことだとも言いはしないが、あるかないかでいえば無いに越したことはない。浄土教であれ
拝火教であれアブラハム教であれそれ以外の他力信仰であれ、他力信仰を卒業して自力作善を目指していけるのなら、
それに越したことはないのであって、「他力信仰こそは自力作善よりも優等なものだ」などというような転倒夢想は決して
許されるものではない。浄土信者も自分が煩悩具縛の凡夫であったり、今という時代が自力作善どころではない乱世で
あったりすることを理由として他力信仰に帰依するのであり、自力作善が可能ならそっちを選択するぐらいのつもりでいる。
浄土系の坊主が生臭なのも全くもって上等なことであり、他力信仰ごときをやたらと聖化しようとするほうが頭がおかしい。
「天は下民を降し、之の君を作て、之の師を作つ。惟れ其の上帝を助け之れを寵する曰なり。
四方の罪有るも罪無きも、惟だ我れに在り、天下曷ぞ敢えて厥の志しを越すもの有らんや」
「天はこの世によろずの民たちを生み降して、そこに一人の主君を立て、その師となる者を立てた。
これは天の上帝の事業を助けて、世に住まう民たちをよく安んじようとするためであった。
天下の四方の果てに至るまで、罪有るものを罰して罪なきものを賞する責任が、我らにこそある。
この天下に誰一人として、我々の志しを越える気概の持ち主はいない。(『書経』遺失部分の
孟子による引用。易の法則に根ざしたこの世界の様相を整えることを政治の根幹としていた
古代中国の為政者にとっては、自分たちの為政が天帝の事業を助け整えるものと考えられていた。
天上の神による加護を受けるどころか、天神の試みを自分たちが助けていくのだとすら考えて
いたわけで、それほどもの自助努力を心がける志があってこそ、仁政もまた達成できるのだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)
削除(by投稿者)
「周公の才の美なるも、驕り且つ吝かならしめば、其の余も観るに足らざるなるのみ(既出)」
「周公ほどの優れた才知があろうとも、おごり高ぶってけち臭いようなら、見る影もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一一より)
知識を得たからといっておごり高ぶるのは何も絶対条件ではなく、知識以前の精神的な
修養を欠いた未熟者に限っての不手際でこそある。そういう未熟者は本質的に「餓鬼」であり、
常日ごろ飢渇にあえいでいるところに水をもらった時のように、知識を淫らに貪ろうとする。
知識以前の自己が十分に堅実であり、知識を得ることも満たされた状態のデフォルトに対する
付加要素程度に考えられたなら、知識を得たからといっておごり高ぶるようなこともなくなる。
愛は創造にも破壊にも与する情念だが、ことに全くの無軌道である愛情は、概ね創造以上の破壊を招く。
理知に根ざした仁愛であってこそ破壊以上の創造や、創造したものの維持にも務めることができ、
そのような仁愛は大人だけが抱くことができるもの。恋人か夫か我が子あたりにしか愛を振り向ける
ことができない女子供などの場合には、朝廷に出仕する夫の上衣を喜んで何度も作り直す、「詩経」
緇衣の作者の女のようであるべきだ。いい年した男であっても、仁を志せない以上は同じように。
「飛龍天に在り、大人を見るに利ろし。/飛龍天に在るは、大人の造なり」
「飛龍が天を舞っている、まさに大人にお目にかかれるときである。
飛龍が天を舞うのは、大人の偉業が造り上げられるときに限るからだ。
(偏愛にまみれた小人が造り上げるものと共に飛龍は天を舞わない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・九五−象伝)
「周公ほどの優れた才知があろうとも、おごり高ぶってけち臭いようなら、見る影もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一一より)
知識を得たからといっておごり高ぶるのは何も絶対条件ではなく、知識以前の精神的な
修養を欠いた未熟者に限っての不手際でこそある。そういう未熟者は本質的に「餓鬼」であり、
常日ごろ飢渇にあえいでいるところに水をもらった時のように、知識を淫らに貪ろうとする。
知識以前の自己が十分に堅実であり、知識を得ることも満たされた状態のデフォルトに対する
付加要素程度に考えられたなら、知識を得たからといっておごり高ぶるようなこともなくなる。
愛は創造にも破壊にも与する情念だが、ことに全くの無軌道である愛情は、概ね創造以上の破壊を招く。
理知に根ざした仁愛であってこそ破壊以上の創造や、創造したものの維持にも務めることができ、
そのような仁愛は大人だけが抱くことができるもの。恋人か夫か我が子あたりにしか愛を振り向ける
ことができない女子供などの場合には、朝廷に出仕する夫の上衣を喜んで何度も作り直す、「詩経」
緇衣の作者の女のようであるべきだ。いい年した男であっても、仁を志せない以上は同じように。
「飛龍天に在り、大人を見るに利ろし。/飛龍天に在るは、大人の造なり」
「飛龍が天を舞っている、まさに大人にお目にかかれるときである。
飛龍が天を舞うのは、大人の偉業が造り上げられるときに限るからだ。
(偏愛にまみれた小人が造り上げるものと共に飛龍は天を舞わない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・九五−象伝)
有り体に言って、仁は「万有愛護」に当たる。
天下万人に対して最低限の配慮を利かせる程度の愛。
それは親族に対する愛ほどにも親密ではない一方で、全くの他人ともなれば
飢え渇こうが、殺されようが全くお構いなしというほどもの薄情でもない。
仁は完全なものであるが故に、一度得られたなら棄て去れもしない一方で、
さらにその上を追い求めていくということもない。無限は数学的には規定しにくいものとされるが、
人間の思考が漠然と無限を規定することは全く可能なことであり、その無限に即した愛を仁とする。
故に、さらにそれ以上やそれ以外を規定してそれを愛したりしなかったりすることがない。
もちろん、そんな愛は漠然とし過ぎて散漫になりがちなのも確かなので、仁者は
親族への親愛をまず第一として、そこから天下万人への程度を保った仁愛を施す。
親族への親愛もまた、狭く深いことにかけては絶対的に無限なものであり、
「追い求めていく」なんていう悠長な情緒を差し挟む余地はない。
自らの愛が狭く深いことにかけても、広く浅いことにかけても絶対的に無限なものだから、
「愛を追い求めていく」などという幼稚な情緒は、仁者には存在しないのである。
「往く者は諌むべからず、来たる者は猶お追うべし」
「すでに犯された過ちを諌めても仕方がないが、未だに犯され続けて
いる過ちは、そのまま見逃したりせずに糾弾を追い求めていくべきだ。
(聖書信仰を破棄した後ならともかく、未だに聖書信仰という大きな過ちを続けていく以上は、
それに対する糾弾を追い求め続けてやまない。この発言は、無益な社会活動を続けようとする
孔子に対する隠者の諌めの言葉であり、無為自然の隠遁を是とする道家の立場からも、
犯され続けている過ちを諌めることまでもが否とはされない根拠にもなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・五より)
天下万人に対して最低限の配慮を利かせる程度の愛。
それは親族に対する愛ほどにも親密ではない一方で、全くの他人ともなれば
飢え渇こうが、殺されようが全くお構いなしというほどもの薄情でもない。
仁は完全なものであるが故に、一度得られたなら棄て去れもしない一方で、
さらにその上を追い求めていくということもない。無限は数学的には規定しにくいものとされるが、
人間の思考が漠然と無限を規定することは全く可能なことであり、その無限に即した愛を仁とする。
故に、さらにそれ以上やそれ以外を規定してそれを愛したりしなかったりすることがない。
もちろん、そんな愛は漠然とし過ぎて散漫になりがちなのも確かなので、仁者は
親族への親愛をまず第一として、そこから天下万人への程度を保った仁愛を施す。
親族への親愛もまた、狭く深いことにかけては絶対的に無限なものであり、
「追い求めていく」なんていう悠長な情緒を差し挟む余地はない。
自らの愛が狭く深いことにかけても、広く浅いことにかけても絶対的に無限なものだから、
「愛を追い求めていく」などという幼稚な情緒は、仁者には存在しないのである。
「往く者は諌むべからず、来たる者は猶お追うべし」
「すでに犯された過ちを諌めても仕方がないが、未だに犯され続けて
いる過ちは、そのまま見逃したりせずに糾弾を追い求めていくべきだ。
(聖書信仰を破棄した後ならともかく、未だに聖書信仰という大きな過ちを続けていく以上は、
それに対する糾弾を追い求め続けてやまない。この発言は、無益な社会活動を続けようとする
孔子に対する隠者の諌めの言葉であり、無為自然の隠遁を是とする道家の立場からも、
犯され続けている過ちを諌めることまでもが否とはされない根拠にもなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・五より)

公益を図ることが最高目的ではない商売人なりにも、最低限の仁義があったという。
もちろん商売人の最高目的は私益の追求であり、仁義を慮るとしたところで、
迷惑をかけない程度に世間様から利益をせしめるように注意するぐらいが商売人としては関の山。
本当に仁徳を志すのなら始めから商売人などにはならずに、君子になろうとする。
商売人のうちで私益にしか目がいかないか、公益にもある程度の配慮が働くかは、
最悪かマシか程度の違いであり、非商人の立場からすれば五十歩百歩、目くそ鼻くそとすら言えるもの。
ただ、それにしたって「三方よし」を心がけるマシな商売人と、私益のためには亡国の画策すら
厭わないような最悪の悪徳商人とであれば、まだ前者を優遇して後者を冷遇ないし根絶すべきだといえる。
寄生国を敗戦や崩壊に追い込むほどに私益しか念頭に置かないユダヤ商人と、一応三方よしを
念頭に置いておく近江商人とであれば、近江商人を残してユダヤ商人を捨てるべきだといえる。
商売全体が治世では劣後されるべき職業ではあるにしろ、その商業の内側にも選別すべき余地がある。
「天地交わらざるは否なり。君子以て徳を倹にし難を辟く。栄するに禄を以てすべからず」
「天地が相交わらぬ『否』の相の時、君子は己れの才徳をひけらかさずに難を避ける。
(君子としては本望の成就である)禄を食むことすら栄光としてはならない。
(君子は栄光とすべきでないものを栄光としないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・象伝)
日本で敗者復活を容認する慣習が根深いのは、チェスで禁止されている
手駒の利用が将棋では可能であることなどからもうかがえる。
閉鎖的な島国で人間関係が息苦しくなりすぎないための便宜でもあったのだろうが、
それにしたって、復活した敗者が途端に勝者以上の厚遇を受けるなんてことはない。
長い長い懲罰の先に、初めて人並みの扱いを受けるようになったりするだけで、
敗者だから即勝者以上になれるだなんてことはもちろんない。
後の大勝に結び付けるために、擬似的に敗北を受け入れるなどということもあるが、
それは綿密な計画があって初めて可能となること。未だ権勢の豊かな項羽に対して面従腹背を
尽くしていた劉邦が、暴挙からなる自業自得で項羽が支持を失ってからは一気に攻めかかって
勝利を勝ち得たのも、参謀の張良らによる穏健な策略があって初めて可能となったこと。
チンパンジー以下に知能を低下させる、精神薄弱化洗脳がトリックだった聖書信仰に
そんな綿密な推し量りは毛頭なく、禁治産処分のサナトリウム生活あたりが
信者救済の関の山でもあった。明らかにそれは人並み以下の扱いを受ける事態であり、
敗者復活を認めても敗者ゆえの厚遇までは認めない日本の伝統的なシステムにも則っているし、
十分な計算があって初めて可能となる、擬似的な敗北を通じての勝利なわけでもない。
手駒の利用が将棋では可能であることなどからもうかがえる。
閉鎖的な島国で人間関係が息苦しくなりすぎないための便宜でもあったのだろうが、
それにしたって、復活した敗者が途端に勝者以上の厚遇を受けるなんてことはない。
長い長い懲罰の先に、初めて人並みの扱いを受けるようになったりするだけで、
敗者だから即勝者以上になれるだなんてことはもちろんない。
後の大勝に結び付けるために、擬似的に敗北を受け入れるなどということもあるが、
それは綿密な計画があって初めて可能となること。未だ権勢の豊かな項羽に対して面従腹背を
尽くしていた劉邦が、暴挙からなる自業自得で項羽が支持を失ってからは一気に攻めかかって
勝利を勝ち得たのも、参謀の張良らによる穏健な策略があって初めて可能となったこと。
チンパンジー以下に知能を低下させる、精神薄弱化洗脳がトリックだった聖書信仰に
そんな綿密な推し量りは毛頭なく、禁治産処分のサナトリウム生活あたりが
信者救済の関の山でもあった。明らかにそれは人並み以下の扱いを受ける事態であり、
敗者復活を認めても敗者ゆえの厚遇までは認めない日本の伝統的なシステムにも則っているし、
十分な計算があって初めて可能となる、擬似的な敗北を通じての勝利なわけでもない。
聖書圏にもいくらかの策謀を企図する慣習がありはするようだが、その発祥も近世以降で、
カトリックなどからの弾圧を受けたせいで陰湿なひがみの持ち主のたまり場にもなり、
あまり理性に根ざした優秀な策謀をこしらえることもできなかった。つまり、
「陰謀」止まりになったということで、それは策謀として下手であったからこその結果だった。
遥か3100年前、太公望の時代から策謀を一種の兵法として厳格に捉え、その深化にも
努めてきたのが東洋人であればこそ、一時の負けを通じて恒久的な勝利を得るような離れ業をも
可能としたのであって、それはむしろできないほうが普通なこと。勝つためには勝たねば
ならないと考えるのがごく普通なことで、負けて勝つことすら可能とするような超絶技巧を、
チンパン以下の知能指数であるキリスト教徒などが実現し得なかったのも、当たり前の至りだといえる。
「苟くも仁を志せば、悪むこと無し」
「少しでも仁を志せたなら、憎む気持ちというのは自然となくなるものだ。
(仁者が憎しみを抱くのも、仁をうっかり忘れた時。『仁者こそはよく人を憎めもする〔里仁第四・三〕』
とあるのは、普段憎しみに囚われていない仁者が急激に抱く憎しみこそが最大級の憎しみともなるから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・四より)
カトリックなどからの弾圧を受けたせいで陰湿なひがみの持ち主のたまり場にもなり、
あまり理性に根ざした優秀な策謀をこしらえることもできなかった。つまり、
「陰謀」止まりになったということで、それは策謀として下手であったからこその結果だった。
遥か3100年前、太公望の時代から策謀を一種の兵法として厳格に捉え、その深化にも
努めてきたのが東洋人であればこそ、一時の負けを通じて恒久的な勝利を得るような離れ業をも
可能としたのであって、それはむしろできないほうが普通なこと。勝つためには勝たねば
ならないと考えるのがごく普通なことで、負けて勝つことすら可能とするような超絶技巧を、
チンパン以下の知能指数であるキリスト教徒などが実現し得なかったのも、当たり前の至りだといえる。
「苟くも仁を志せば、悪むこと無し」
「少しでも仁を志せたなら、憎む気持ちというのは自然となくなるものだ。
(仁者が憎しみを抱くのも、仁をうっかり忘れた時。『仁者こそはよく人を憎めもする〔里仁第四・三〕』
とあるのは、普段憎しみに囚われていない仁者が急激に抱く憎しみこそが最大級の憎しみともなるから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・四より)

まさに光と闇こそは、正邪善悪の正しい認識と、その転倒夢想とを表徴する
最たるものであり、易学も正邪善悪の分別法を「陰陽」に見立てて提示してもいる。
光と闇ほど相違が明白なものは他になく、「光は闇である」「闇は光である」
というような混同が、生まれつきの全盲者でもなければありはしない。
視力を持つ生物は必ず光と闇を見分け、光と闇を見分けるためにこそ視力を持ってもいる。
光と闇を見分けないのなら元から視力などいらないのだから、視力を肯定する以上は
明暗の区別をつける。仏教のように眼識の普遍性を否定して善悪を超越する
のならともかく、視力を肯定するのなら必ずそこに明暗の区別がある。
明暗の区別がある以上は、正しい区別と間違った区別とがある。
光が光であり、闇が闇であることは、視力の肯定者である以上は普遍性を付与すること。
しからばなぜ、光を闇とし闇を光とする過ちが生ずるのかといえば、それは見た者の
脳内での錯覚による。暗いところで見た多少明るいものが、明るいところではむしろ
暗い部類のものに見えたりするように、視覚情報を処理する大脳後頭葉が明暗の区別を錯覚する。
それと同じように、本当は悪の部類に入るものを、善であるかのように錯覚させる
洗脳情報が大脳側頭葉に一時保存され、自我がその情報を是と見なせば前頭葉に長期保存される。
そのような反倫理洗脳が日々蓄積されていけば、本人自身が自発的に善悪を転倒させた
劣悪な思考や言動ばかりをこなすようになって、正しい思考や言動ができなくなってしまう。
若いうちなら、そのような洗脳からの脱却もまだ可能だったりするが、寿命の大半を
洗脳状態に置かれ続けてきた高年者などの場合には、もはや完全な洗脳からの脱却も不可能。
せいぜい本人たちが光と見なしているものを無理やり闇とさせ、闇と見なしているものを
無理やり光とさせるぐらいしか、本人たちを洗脳の蒙昧からなる破滅から引き止めるすべはない。
本人たち自身はまだ光を闇と、闇を光と強固に思い込んでいるのだから、嫌がるところを無理やり
闇から引き剥がして光に繋ぎ止めるしかない。本人たち自身は、光から引き離されて闇に
つなぎとめられる仕打ちだと誤認識するような処置こそは、本当に被洗脳者を救う手立てとなる。
「坤は厚く物を載せ、徳は无疆に合し、含弘光大にして、
品物ことごとく亨る。(略)王事に従うとは、知光大なればなり」
「全陰の坤卦は極めて多くの事物をその上に湛え、全陽の乾卦と同等の聖徳で以て
万物を光が満たすようにことごとく包含してその使命を成就させる。
王君に臣従する形でことを行えばうまくいくが、これはその知恵が光大であるからだ。
(全陰の坤卦は確かに、全陽の乾卦と似たような性質を持ってはいるが、
万物を地の底から突き上げる縁の下の力持ち的な存在であり、
主導者ではなく追従者としてやっていってこそうまくいく。
全知全能とされる聖書の神なども、追従者ですらあれば吉祥なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・彖伝、六三象伝より)
洗脳状態に置かれ続けてきた高年者などの場合には、もはや完全な洗脳からの脱却も不可能。
せいぜい本人たちが光と見なしているものを無理やり闇とさせ、闇と見なしているものを
無理やり光とさせるぐらいしか、本人たちを洗脳の蒙昧からなる破滅から引き止めるすべはない。
本人たち自身はまだ光を闇と、闇を光と強固に思い込んでいるのだから、嫌がるところを無理やり
闇から引き剥がして光に繋ぎ止めるしかない。本人たち自身は、光から引き離されて闇に
つなぎとめられる仕打ちだと誤認識するような処置こそは、本当に被洗脳者を救う手立てとなる。
「坤は厚く物を載せ、徳は无疆に合し、含弘光大にして、
品物ことごとく亨る。(略)王事に従うとは、知光大なればなり」
「全陰の坤卦は極めて多くの事物をその上に湛え、全陽の乾卦と同等の聖徳で以て
万物を光が満たすようにことごとく包含してその使命を成就させる。
王君に臣従する形でことを行えばうまくいくが、これはその知恵が光大であるからだ。
(全陰の坤卦は確かに、全陽の乾卦と似たような性質を持ってはいるが、
万物を地の底から突き上げる縁の下の力持ち的な存在であり、
主導者ではなく追従者としてやっていってこそうまくいく。
全知全能とされる聖書の神なども、追従者ですらあれば吉祥なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・彖伝、六三象伝より)

その中では比較的明るいBの部分がキリスト信仰。
BとAは同じ明るさなのでAもキリスト信仰と同等だが、
非聖書圏である棒の影の外では、キリスト信仰もまた一種の暗がりに相当する。
精神薄弱による不能状態が、かつて「白痴」という差別語で呼ばれていた。
これは精神薄弱の蒙昧にあるものが、全くつまらないようなことでもいちいちウレシ
がったりしていたことから来ている。それと同じように、全くトンチンカンな実定法の
違反者を容赦なくコロし尽くしていく旧約のユダヤ教義に強迫観念を抱いてしまった
被洗脳者が、そこでキリストを信仰した時にこそ、キリストが光明であるかのように映る。
本当は元から精神薄弱でない状態、ユダヤ教義からなる強迫観念なんかに囚われていない
状態こそは真に明るい状態であり、その状態から鑑みれば、白痴がウレシがっているような
ものはみな全くつまらないものばかりだし、キリスト信仰だって陰湿な暗がりのうちに入る。
暗闇の中で比較的明るく見える暗がりは、本当の明るみの中では真っ暗闇にも等しいのだ。
「季子然問う、仲由、冉求は大臣と謂う可きか。子曰く、吾れ子を以って異なるを之れ問うと為せり。
曾ち由と求を之れ問う。所謂大臣なる者は、道を以て君に事え、不可なれば則ち止む。今の由と求や、
具臣と謂う可きか。曰く、然れば則ち之れ従う者か。子曰く父と君を弑するには、亦た従わざるなり」
「魯の家老の身内である季子然が問うた。『あなたの弟子で、いま私に仕えております子路と冉求とでは、
どちらのほうが優れた臣下と呼べるでしょうか』 先生は言われた。『私はあなたがもっとマシなことを
聞いてくるものかと思っていましたが、子路や冉求のことですか。大臣というものは、道義に即して
主君に仕え、それが不可能であれば辞職も辞さないものです。しかし、あの二人はただあなたに
くっ付いていってるだけの存在です』 季子然『では私に対して常に絶対服従でいるのでしょうか』
『さすがに親や主君を殺すような真似をすれば、服従もしないでしょう』 (凡庸な臣下である子路や
冉求ですら、親子兄弟での殺し合いを画策するような者には従わない。キリストに服従するということは、
ユダヤ洗脳の外側で見れば、まさに下の下の下の、奴隷人畜と化すどす黒い真っ暗闇であることが分かる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二四)
曾ち由と求を之れ問う。所謂大臣なる者は、道を以て君に事え、不可なれば則ち止む。今の由と求や、
具臣と謂う可きか。曰く、然れば則ち之れ従う者か。子曰く父と君を弑するには、亦た従わざるなり」
「魯の家老の身内である季子然が問うた。『あなたの弟子で、いま私に仕えております子路と冉求とでは、
どちらのほうが優れた臣下と呼べるでしょうか』 先生は言われた。『私はあなたがもっとマシなことを
聞いてくるものかと思っていましたが、子路や冉求のことですか。大臣というものは、道義に即して
主君に仕え、それが不可能であれば辞職も辞さないものです。しかし、あの二人はただあなたに
くっ付いていってるだけの存在です』 季子然『では私に対して常に絶対服従でいるのでしょうか』
『さすがに親や主君を殺すような真似をすれば、服従もしないでしょう』 (凡庸な臣下である子路や
冉求ですら、親子兄弟での殺し合いを画策するような者には従わない。キリストに服従するということは、
ユダヤ洗脳の外側で見れば、まさに下の下の下の、奴隷人畜と化すどす黒い真っ暗闇であることが分かる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二四)
イエスは、ユダヤ洗脳という真っ暗闇の中に「心神喪失の気休め」という
多少光っぽいものをもたらしただけで、それもユダヤ洗脳の外側から見れば暗闇である。
ユダヤ洗脳を全くの抜きにして、キリスト信仰だけを見てみれば、それは一つの暗闇である。
マッチポンプの脆弱なポンプであり、マッチの大火を少しも消しとめはしない小水である。
ユダヤ洗脳とキリスト信仰とが、マッチポンプという暗闇のセットであるため、
この世から「暗闇の標準」を絶やすというのなら、この二つを絶やすべきだ。
ユダキリを絶やしたからといって、この世から暗闇が消え去るなんてこともなく、
ヤクザやマフィアみたいな宗教性を持たない闇組織が存続することはあり得る。
しかし、そういった闇組織は宗教信仰などによる正当化を受けずに、始めから
村八分扱いを受けるため、社会的な多数派にはなり得ない。「犯罪稼業」という
暗闇がカルト信仰によって正当化推進されたときにこそ致命的な災禍を招くが、
それは同時に、当該のカルト信仰が犯罪稼業の標準を捉えている場合にも当たる。
多少光っぽいものをもたらしただけで、それもユダヤ洗脳の外側から見れば暗闇である。
ユダヤ洗脳を全くの抜きにして、キリスト信仰だけを見てみれば、それは一つの暗闇である。
マッチポンプの脆弱なポンプであり、マッチの大火を少しも消しとめはしない小水である。
ユダヤ洗脳とキリスト信仰とが、マッチポンプという暗闇のセットであるため、
この世から「暗闇の標準」を絶やすというのなら、この二つを絶やすべきだ。
ユダキリを絶やしたからといって、この世から暗闇が消え去るなんてこともなく、
ヤクザやマフィアみたいな宗教性を持たない闇組織が存続することはあり得る。
しかし、そういった闇組織は宗教信仰などによる正当化を受けずに、始めから
村八分扱いを受けるため、社会的な多数派にはなり得ない。「犯罪稼業」という
暗闇がカルト信仰によって正当化推進されたときにこそ致命的な災禍を招くが、
それは同時に、当該のカルト信仰が犯罪稼業の標準を捉えている場合にも当たる。
浄土信仰の悪人正機も犯罪稼業の正当化にすら見えなくもないが、実際のところ、
悪人正機も仏法の標準を捉えた正確な仏説であり、仏説であることのほうが
主体となって、信者を無意識から断悪修善へと導くようになっている。
だから浄土信仰は犯罪稼業を推進しないが、ユダキリ信仰はそうではない。
仏法に即していないのはもちろんのことだが、犯罪稼業を正当化する邪念の標準としては
えらく出来たもので、その点に関して疑いを差し挟む余地はない。この世に暗闇をもたらす
邪教の標準としてユダキリがピッタシカンカンなのは間違いないので、その負の名誉に即して、
まともな倫理観に基づいた場合の標準としての根絶措置をも受け入れるべきなのである。
「蟄蟲咸な俯して内に在り、皆な其の戸を墐る。
乃ち獄刑を趣し、有罪を留むる毋し。祿秩の當たらず、供養の宜しからざる者を收む」
「寒気が増して虫たちがみな内に入ろうとするため、戸を塗り固めて侵入を防ぐようになったころ、
王者は処刑を促して、もはや重罪人を牢屋の暗闇にとどめておかない。収入が不正に多かったり、
身だしなみが分不相応に華美であったりする者に対しても、矯正を講ずる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
悪人正機も仏法の標準を捉えた正確な仏説であり、仏説であることのほうが
主体となって、信者を無意識から断悪修善へと導くようになっている。
だから浄土信仰は犯罪稼業を推進しないが、ユダキリ信仰はそうではない。
仏法に即していないのはもちろんのことだが、犯罪稼業を正当化する邪念の標準としては
えらく出来たもので、その点に関して疑いを差し挟む余地はない。この世に暗闇をもたらす
邪教の標準としてユダキリがピッタシカンカンなのは間違いないので、その負の名誉に即して、
まともな倫理観に基づいた場合の標準としての根絶措置をも受け入れるべきなのである。
「蟄蟲咸な俯して内に在り、皆な其の戸を墐る。
乃ち獄刑を趣し、有罪を留むる毋し。祿秩の當たらず、供養の宜しからざる者を收む」
「寒気が増して虫たちがみな内に入ろうとするため、戸を塗り固めて侵入を防ぐようになったころ、
王者は処刑を促して、もはや重罪人を牢屋の暗闇にとどめておかない。収入が不正に多かったり、
身だしなみが分不相応に華美であったりする者に対しても、矯正を講ずる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
孔子の言うことと、イエスの言うことは漏れなく全て相反しているため、
どちらかを師とする以上は必ずもう一方を反面教師としなければならない。
一方の師のいうことをよく聞いてその実践に務め、もう一方の反面教師の
言うことはいい加減に聞いておいて、絶対に実践なんかしないように努める。
仏教でいう「顕教」に即するなら、反面教師の言うことは元から聞くべきですらない。
悪の規範を聞くだけ有害無益なことであり、最初から完全に無視し去ってしまう。
「密教」に即するなら、反面教師の言うことも一応は聞いておいて、それを実践する
誘惑に対しては、絶対不動の姿勢を貫くことが修行の一環として認められもする。
清濁併せ呑んだ上で断悪修善に持ち込む密教のほうが、もし修行が成就できたなら、
始めから清濁併せ呑まずに断悪修善を始める顕教よりも、より優位になれるという。
ただ、密教の修行を成就させることは不可能にも等しいほど困難なことであるために、
弘法大師の興した真言密教ですら、大師に匹敵するほどもの後継者が未だ現れていない。
どちらかを師とする以上は必ずもう一方を反面教師としなければならない。
一方の師のいうことをよく聞いてその実践に務め、もう一方の反面教師の
言うことはいい加減に聞いておいて、絶対に実践なんかしないように努める。
仏教でいう「顕教」に即するなら、反面教師の言うことは元から聞くべきですらない。
悪の規範を聞くだけ有害無益なことであり、最初から完全に無視し去ってしまう。
「密教」に即するなら、反面教師の言うことも一応は聞いておいて、それを実践する
誘惑に対しては、絶対不動の姿勢を貫くことが修行の一環として認められもする。
清濁併せ呑んだ上で断悪修善に持ち込む密教のほうが、もし修行が成就できたなら、
始めから清濁併せ呑まずに断悪修善を始める顕教よりも、より優位になれるという。
ただ、密教の修行を成就させることは不可能にも等しいほど困難なことであるために、
弘法大師の興した真言密教ですら、大師に匹敵するほどもの後継者が未だ現れていない。
今ここでは、権力犯罪聖書(通称聖書)の邪悪な記述をしらみつぶしに潰しつつ、
権力道徳聖書(通称四書五経)の記述の正しさを確認するという、密教的な作業を
試みているが、これも決して容易いことではなく、ヘタすれば犯罪聖書の邪義に
取り込まれて、劣悪な思考規範や言動規範が身に付くことにすらなってしまいかねない。
だから誰しもにこんな荒行を勧めるようなことは決してせず、世間一般の多くの人々に
対しては、始めから犯罪聖書なんか読まずに四書五経だけを勉強する、顕教的な修学の
ほうを推奨していく。もちろんここでの密教的な勉学も「誰にも教えない」なんてことは
ないが、修学を希望するものには、全人生をふいにするぐらいの覚悟を必ずしてもらう。
孔子が正義の教師として極めて優れている一方で、イエスが邪悪の教師として極めて
秀でているのも確かなことなので、イエスのほざく邪義には絶対に取り込まれず、
取り込まれた場合には禁治産にすら甘んずるというぐらいの覚悟でいてもらう。
「父母舅姑の所に在るとき、(略)足垢つくときは、湯を沸かして洗わんと請う」
「父母や舅、姑の所にいる時は、その足に垢が付けば、自分から湯を沸かして洗おうとする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
権力道徳聖書(通称四書五経)の記述の正しさを確認するという、密教的な作業を
試みているが、これも決して容易いことではなく、ヘタすれば犯罪聖書の邪義に
取り込まれて、劣悪な思考規範や言動規範が身に付くことにすらなってしまいかねない。
だから誰しもにこんな荒行を勧めるようなことは決してせず、世間一般の多くの人々に
対しては、始めから犯罪聖書なんか読まずに四書五経だけを勉強する、顕教的な修学の
ほうを推奨していく。もちろんここでの密教的な勉学も「誰にも教えない」なんてことは
ないが、修学を希望するものには、全人生をふいにするぐらいの覚悟を必ずしてもらう。
孔子が正義の教師として極めて優れている一方で、イエスが邪悪の教師として極めて
秀でているのも確かなことなので、イエスのほざく邪義には絶対に取り込まれず、
取り込まれた場合には禁治産にすら甘んずるというぐらいの覚悟でいてもらう。
「父母舅姑の所に在るとき、(略)足垢つくときは、湯を沸かして洗わんと請う」
「父母や舅、姑の所にいる時は、その足に垢が付けば、自分から湯を沸かして洗おうとする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)
ただ「愛する」ということは、人間にとって最低レベルの情念であることが
孔子や孟子によって再三に渡って指摘されている。「愛しても敬いがないんなら獣畜も同然だ」
と孟子もいい、人間なら愛という感情に高い品性の備わった体系性を持たせるべきだとする。
たとえるなら、ボノボやチンパンジーも同然の、獣的に無軌道な愛が「洪水」である一方で、
親愛や仁愛といった志向性の備わった愛は、「治水によって自在に扱えるようになった用水」だといえる。
親愛や仁愛が人間精神に制御されて、その糧として自在に用いることができるようになった愛である一方で、
獣愛は人間精神の制御を全く受けない愛で、発露が行き過ぎると人間精神のほうを阻害すらするものである。
人間精神の部下となった親愛や仁愛こそは世の中に有益な影響をもたらす一方で、それ自体が一個の
至高価値と化した状態の仁愛は、世の中に氾濫すればするほど有害な影響を招く。獣愛も夫婦の営みや程度を
守った色遊びに用いられるぐらいなら許されても、人間社会を司る原理などとしては絶対に用いてはならない。
獣愛がメディアなどでも大々的にもてはやされて、それ以上の価値など存在しないような風潮にまで
持っていかれている点では、今の日本も聖書圏と様相を一にしている。君父への敬愛や万有愛護の仁愛を
蚊帳の外に追いやって、獣愛を原動力とする強欲ばかりを煽って、奴隷や牛馬も同然の過酷な経済活動に
従事させる。その原動力となっているのが一応は愛の一種であり、愛ゆえに多少は気休めともなるから、
民衆も自分たちが酷い迫害下に置かれていることを自覚しながらも、今の世の中の根本的なあり方に
疑義を呈するところまでには頭が回らない。まさに、愛の「鎮痛剤」としての悪用の最たるもの。
孔子や孟子によって再三に渡って指摘されている。「愛しても敬いがないんなら獣畜も同然だ」
と孟子もいい、人間なら愛という感情に高い品性の備わった体系性を持たせるべきだとする。
たとえるなら、ボノボやチンパンジーも同然の、獣的に無軌道な愛が「洪水」である一方で、
親愛や仁愛といった志向性の備わった愛は、「治水によって自在に扱えるようになった用水」だといえる。
親愛や仁愛が人間精神に制御されて、その糧として自在に用いることができるようになった愛である一方で、
獣愛は人間精神の制御を全く受けない愛で、発露が行き過ぎると人間精神のほうを阻害すらするものである。
人間精神の部下となった親愛や仁愛こそは世の中に有益な影響をもたらす一方で、それ自体が一個の
至高価値と化した状態の仁愛は、世の中に氾濫すればするほど有害な影響を招く。獣愛も夫婦の営みや程度を
守った色遊びに用いられるぐらいなら許されても、人間社会を司る原理などとしては絶対に用いてはならない。
獣愛がメディアなどでも大々的にもてはやされて、それ以上の価値など存在しないような風潮にまで
持っていかれている点では、今の日本も聖書圏と様相を一にしている。君父への敬愛や万有愛護の仁愛を
蚊帳の外に追いやって、獣愛を原動力とする強欲ばかりを煽って、奴隷や牛馬も同然の過酷な経済活動に
従事させる。その原動力となっているのが一応は愛の一種であり、愛ゆえに多少は気休めともなるから、
民衆も自分たちが酷い迫害下に置かれていることを自覚しながらも、今の世の中の根本的なあり方に
疑義を呈するところまでには頭が回らない。まさに、愛の「鎮痛剤」としての悪用の最たるもの。
愛は愛で、これからもあるのである。親愛や仁愛はおろか、獣愛だって完全に否定されはしない。
ただ、獣愛に関しては、今のような至上の存在としての地位は剥奪されて、公けには劣後されるべき
ものとなり、愛を語るなら親愛や仁愛を語るべきだということになる。親愛や仁愛は人間道徳に調律
された愛であるため、結局それら自体よりも「人間道徳」という枠組みのほうが総体的な理念ともなる。
今の世界人口爆発の元凶ともなっている、目的性抜きの単なる愛を至高の理念として世の中に押し付けることが、
もう許されない。単なる愛を至上命題として掲げるのはアブラハム教の特性なので、単なる愛を世の中の
至高理念にしないことは自動的に、地球社会での、アブラハム教の多神教に対する劣後ともなる。
「男女別ありて然る後に父子親しみ、父子親しみて然る後に義生る。
義生りて然る後に礼作り、礼作りて然る後に万物安し。別なく義なきは、禽獣の道なり」
「情愛が押し殺せるぐらいに男女の分別が付けられて初めて父子すらもが親しめるようになり、
父子が親しめるようになって初めて偽りでない道義心が起こる。本物の道義心が備わってから初めて
本気で礼節を嗜むようになり、本気で礼節が嗜めるようになってから初めて、何もかもが安泰となる。
男女の分別も付けられなくて女々しい情愛にまみれ、道義心も持てずにいるのでは禽獣も同然だ。
(父子の心は男女の情愛などよりも嗜み難いものだからこそ、情愛の総体的な劣後が必須となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
ただ、獣愛に関しては、今のような至上の存在としての地位は剥奪されて、公けには劣後されるべき
ものとなり、愛を語るなら親愛や仁愛を語るべきだということになる。親愛や仁愛は人間道徳に調律
された愛であるため、結局それら自体よりも「人間道徳」という枠組みのほうが総体的な理念ともなる。
今の世界人口爆発の元凶ともなっている、目的性抜きの単なる愛を至高の理念として世の中に押し付けることが、
もう許されない。単なる愛を至上命題として掲げるのはアブラハム教の特性なので、単なる愛を世の中の
至高理念にしないことは自動的に、地球社会での、アブラハム教の多神教に対する劣後ともなる。
「男女別ありて然る後に父子親しみ、父子親しみて然る後に義生る。
義生りて然る後に礼作り、礼作りて然る後に万物安し。別なく義なきは、禽獣の道なり」
「情愛が押し殺せるぐらいに男女の分別が付けられて初めて父子すらもが親しめるようになり、
父子が親しめるようになって初めて偽りでない道義心が起こる。本物の道義心が備わってから初めて
本気で礼節を嗜むようになり、本気で礼節が嗜めるようになってから初めて、何もかもが安泰となる。
男女の分別も付けられなくて女々しい情愛にまみれ、道義心も持てずにいるのでは禽獣も同然だ。
(父子の心は男女の情愛などよりも嗜み難いものだからこそ、情愛の総体的な劣後が必須となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
容量オーバー寸前なので、次スレへ移動。
四書五経 Part7
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132188235...
どこかで経験したような流れだな。
四書五経 Part7
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132188235...
どこかで経験したような流れだな。
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