「高等遊民」などという考え方は、明治以降に古代ギリシャの有閑階級を参考したもので、
四民制はもちろんのこと、元祖無為自然の道家思想とも関係がない。
「荘子」では、無為自然・万物斉同の肯定のための当然の帰結として、
醜人や障害者や盗賊の存在すらもが正当化され、無為自然が決して綺麗事ではないことが提示される。
「恒産なくして恒心ある者は、ただ士のみよくすることを為す。民の如きは、すなわち恒産なければ、
よって恒心なし。いやしくも恒心無ければ、放辟邪侈、為さざるなきのみ(「孟子」梁恵王章句上・七より)」
とあるとおり、無為自然の中でも徳性を堅持し、養い育てられるのは一部の君子士人だけに限る。
昔の牢人などは、武士だか無職だか分からないような立場にもいたが、やはり隙あらば
仕官する志しを持ち、放辟邪侈に走らないことも心がけた(それでも盗賊などに身を堕す者はいたが)。
士大夫が士大夫としての地位を確立し、大量繁殖して憚らなくなったのは孔子らの道徳学的後押しがあったからで、
士人道徳も四民制も廃絶された、今の社会の公務員にも無職やニートにも、士大夫たらんとする片鱗すら垣間見られない。
民主主義や資本主義の社会でも、結局ある程度は士人に相当する支配階級が必要になるんだが、
士大夫の存在意義が根底から否定されていることから、その扱いもなおざりなものとなり、
自分たちでも盗賊に見紛うような権力犯罪にまで奔走し始める。
民主や自由の名の下に、存在せざるを得ない支配階級の倫理観までもが崩壊し、
以て全社会の荒廃、行動即犯罪化が達成されてしまう。税金払うだけでも人殺しになる。
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