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聖書 Part13


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001 2013/12/04(水) 18:43:51 ID:PSVDGrHlv6
全世界、全人類にとっての最も模範的な聖書たる儒学の聖書=四書五経こそは、あまりにも
程度が高過ぎるために、人類一般が模範とするのは無理があるようなより高尚な教学や、
その手の教学の聖書を理解して体得して行く上での架け橋的な役割すらをも担えるものである。

道家の老荘列思想やヒンズー教の教え、日本神道の精髄などを理解する上での架け橋ともなるし、
世界でも最優等の教理を有する仏門の教えを学んで行く上での素地ともなるものである。
(そのため、弘法大師も最初期の著書である「三教指帰」から教理大成の書である「十住心論」
に至るまで、四書五経を含む儒学の教えを縦横無尽に引き合いに出したりもしている)

それらのより優等な教学と、「低くて親しみやすい」儒学の教理とが必ずしも
相容れているとは限らない。特に、儒学における忠孝の理念と、仏門の出家主義志向
などが決して相容れるものではなく、そのため宋儒の朱子らが一時は禅門に傾倒
しながらも、最終的には仏門を異端排撃の対象とするなどしてしまったのだった。

中国発祥の儒学とインド発祥の仏教とは、いずれにとっても遠征地となるこの日本においてこそ、
ほぼ全く矛盾を来さない形での融和を果たした。儒学は朝廷や幕府や、一家の後取りとなる
長男らがより重んじた一方で、仏門は養子先もないような次男三男や嫁ぎ先のない女子などが
出家先とした。それにより、個々の家門が厳重に尊ばれながらも、人口管理もまたそれなりに
行き届くといった、非常にバランスの取れた社会体制が実現されたのだった。(明治期
の廃仏毀釈や儒学の簡素化以降はこの均衡が破れたために、国土に不相応な人口爆発や、
その副作用としての食糧自給率の低下や少子高齢化といった大問題を招くこととなった)

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083 2014/01/01(水) 11:49:09 ID:c1z4B3HjKQ:au
現状すでに、六法全書の分量のほうが四書五経の分量を上回っており、しかもその主要部分を暗記して
いるのでもなければ司法試験に合格することもできない。単純に分量や文面の難解さだけを比してみても、
四書五経を暗記対象としていた科挙試験のほうが簡単であるし(ただし競争率の高さという問題はある)、
また四書五経を暗記対象などにするよりも、より率先的な実践対象として行ったほうが、善因楽果ゆえの
「浩然の気」に与れることともなるため、立て板に水を流すが如き流暢な徳治が講じて行けるようにもなる。

世の中が法治から徳治へと移行することが忌まれる原因があるとすれば、それは、世の表舞台で
無理が通されることが本格的に取り締まられて行くことか、公務員の怠惰が許されなくなること
ぐらいのものである。前者の原因は、人々に無理の押し通しを推奨する類いの邪教邪学の立場を失わせるし、
後者の原因は、公務員こそが最大級の怠惰に与れる法治主義社会での職務に慣れすぎた現職の公務員をその
地位から追うようなことともなるために、そのような領分の持ち主たちからの反発が必至となるわけである。

北宋の代以降の中国での放伐革命などは、科挙制度や監察官制度の形骸化を持ち越しつつのもの
でしかなかったために、体制を刷新すれどもすれども権力腐敗を改めきれないという問題を来していた
わけだが、たとえば周朝や漢朝や唐朝や平安朝や江戸幕府のような清浄な政権が立ち上げられるために
革命が行われるのだとすれば、それも時には奨励されるべきこととなるだろう。権力腐敗や邪教邪学の
蔓延を駆逐して行くために、自分たちこそは引責自殺も辞さない覚悟での為政に取り組んで
行くだけの志しの持ち主こそは、その革命を実行に移すだけの資格をも得るのである。

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084 2014/01/01(水) 11:52:49 ID:c1z4B3HjKQ:au
「夏后、殷、周の盛り、地千里に過ぎる者は未だ有らざるなり。而かるに斉には其の地有り。
鶏鳴狗吠相い聞こえ、而かも四境に達せり。而して斉には其の民有り。地改めて辟かず、民改めて
聚めずとも、仁政を行いて王たらんには、之れを能く禦むるに莫きなり。且つ王者の作らざる、未だ
此の時より疏しき者は有らざるなり。民の虐政に憔悴せる、未だ此の時より久しき者は有らざるなり」
「夏や殷や周の隆盛期といえども、直轄の領地を千里以上有しているような者はいなかった。斉国は
今それだけの領地を有し、しかもそこら中で鶏や犬の声が聞こえるほどに人口密度の高い地域が四方の
隅々にまで渡っている。すでに斉にはそれだけの民があるのだから、わざわざ今以上に土地を切り開いたり、
今以上に民を集めたりせずとも、そこで仁政を執り行う王者として、今ある国をよく治めて行くに越した
ことはない。しかし、今の斉国でそのような王者が現れた試しもないので、人々の虐政への憔悴も未だ
かつてなかったほどに深刻化してしまっている。(必要なのは領地を広げることなどではなく、今ある
土地の領民たちを丹念に治めて行くことのほうである。どこまでも領地を広げて行こうとする覇権主義
状態ではそれも疎かとなり、未だかつてなかった程もの虐政に民が苛まれることとすらなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)

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085 2014/01/02(木) 14:24:12 ID:fYgYyCIADY
酒は良くも悪しくも、男の嗜好品である。快楽が全身に行き渡る感覚に見舞われると
される各種の麻薬などと違って、アルコール摂取による快楽は脳の酩酊ばかりに集約されて、
全身に行き渡るということがない。そのため、心や知能を酷使する労務に励むことが
ままある大人の男にとっての、体のいいストレス解消材料となるわけである。

それが時には、アルコール依存症や脳出血や内臓障害のような疾患をも派生させたり
するものだから、当然「飲み過ぎはよくない」ということになるわけだが、酒のうまさが
分かる程にも心や知能を労しているということが、生業ある男にとっての誉れとなったり
もするものだから、カルト信仰で俗人の飲酒までもが忌まれてしまっているような異常な
世の中でもない限りは、飲酒の風習がそれなりの市民権を得ていたりもするのである。

女や子供でも、ある程度は心や知能を労することができるが、基本、それを一方的に嫌がる。
多大な心労の結果としての皺や白髪などは、男にとっては勲章とすらなるが、女にとっては
ただの醜い老化としてしか受け止められないため、なるべくそうなってしまいかねないような
苦労などを避けたがるのである。実際、酒がうまい程にも日頃からのストレスを溜め込んでいる
ような人間ほど見た目にも老け込んでいたりするものだから、酒好きな人間ほど見た目年齢が
年相応以上だったりもするわけで、もし見た目年齢の上昇を防ぎたかったら、酒を飲まなかったり、
飲酒の習慣などなくて済むほどにもストレスのない生活を送ったりするに越したことはないのである。

女子供は、それでいいのである。自らが至らない小人であることを自認する男もまた、
そうであることを恥じて、率先的な心労をも辞さない大丈夫を畏敬できるぐらいなら、
世の中のほうの経済的余裕の如何によってはそうであることが許容されるのである。ただ、
そのような心労を一方的に忌み嫌う女々しい性向が「より優れたもの」とまで思い込まれて、
誰しもがそれを追い求めて行ったりするようになるのだけはいただけない。そのような
風潮が全社会規模で強いられた結果として飲酒が忌まれたり禁じられたりするぐらいなら、
心労を奨励した結果として嗜好品としての飲酒をも是認する世の中であったほうがまだよい。

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086 2014/01/02(木) 14:38:30 ID:fYgYyCIADY
聖道門の、特に上座部の仏門で飲酒が忌まれていたりするのは、純粋な悟りのみによって
心労を克服することが尊ばれているからであって、心労を忌み避けているからではないのだから、
これはまた別の問題だといえる。常人が到底受け止めきれないような過大な心労すらをも
悟りによって克服していたりするものだから、今さら飲酒などでストレスを解消したりする
必要もないというわけなので、それはむしろ飲酒文化の上位互換であるとすら言える。

酒に依るのであれ悟りに依るのであれ、何らかの克服手段が必要となるほどにも心労を重ねる者こそは
自力作善者たり得もするわけで、その心労を辞さない誠意こそが、大社会の為政を司るに値する程もの
主体的完成度を備え得もする。故に「心を労する者は人を役し、力を労する者は人に役せられる(孟子)」
とも言うわけで、心労を辞さない偉大さたるや、力役を辞さない強靭さ以上のものですらあり得るのである。

大人の男でいながら心労や自律性を忌み嫌い、しかもそのような自らのあり方を正当化して
万人に強いようなどとする人間が居たとすれば、これはもう、磔にされたところで仕方が
ないとすら言える。妾腹の私生児のような恵まれない境遇に産まれたことなどではなく、
そのような自らの振る舞いこそがそうなっても仕方のないものであったわけだから、
何ら同情の余地もない恥さらしに過ぎなかったことまでもが紛れもないのである。

「禹は旨酒を悪みて善言を好めり」「禹は美酒を嫌って人のよい言葉を好んだ。
(美酒を嫌うのは贅沢を嫌ったから。善言を好んだのは自らの善行を引き立ててくれるから。
自力作善のために節度のない飲酒を避けるということはあるが、他力本願の徒は
肉食妻帯飲酒上等であり、そのような自らのあり方を恥じることのほうが必要である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二一より)

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087 2014/01/03(金) 18:10:46 ID:Ng6FGMHUoQ
しごく根本的かつ総合的な方向性として、信者を正気の堅持からなる平穏へと
いざなうのが正統な信教である一方、ただただ信者を狂乱へと陥れるのが
邪悪な信教であるといった違いがある。その具体的な内実を鑑みてみれば、
正統な宗教である神道やヒンズー教にも狂乱的な祭りがあったり、大乗仏教
にもいかがわしい密教教義があったりするわけだし、逆に邪教の極みである
キリスト教などにも多少は人々の平和を祈るような穏健な傾向があったりする。
しかし、正統な信教が狂乱的な祭義を部分的に兼ね備えていたりするのは、それに
よって恒常的な平穏状態ゆえの中だるみを避けるためだったりするし、逆に邪教が
部分的に平和主義を嗜んだりするのも、穏健を装うことで過激派の謗りを免れる
ためだったりするわけで、結果として正統な信教が恒常的な平穏を信者にもたらし、
邪教が恒常的な狂乱状態を信者に植え付けるものとなることには変わりないのである。

飲酒や肉食や色欲を厳禁するほどもの平静主義でもなければ、万年戦乱状態を
許容するほどもの狂乱主義でもないのが、人道を司る儒学であり、儒学の知悉者
こそは、平穏志向を本旨とする正統な信教と、狂乱志向を本旨とする邪教との判別を
明確に付けることができる。儒学を知らない人間からすれば、「キリスト教やユダヤ教
が邪教であるというのなら、イスラム教や拝火教や浄土教もまた邪教であるのではない
のか」という疑問をも抱きかねないわけだが、確かに、後者三つの信教もまたあまり穏健
なばかりでもなかったりする一方で、儒家が企図する最低限度の世の中の平穏までをも
致命的に毀損するものではないこともまた明らかであるので、とてつもなく優れた信教
であるとまではいかずとも、最悪の邪教でまではない信教であることが知れるのである。

「世の中で司法が健在でなければ国も滅ぶ(孟子)」といい、「刑罰は人間が責任を
以って執り行うべきものである(礼記)」ともいうとおり、世の中全体が司法や刑罰を
尊重して行くことが儒家でも是とされていて(ただし法家のような法律絶対主義でもない)、
これこそが、査定対象となる信教が正統かカルトかを決定的に分かつ普遍基準ともなる。

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088 2014/01/03(金) 18:15:25 ID:Ng6FGMHUoQ
神道は罪を「穢れ」として忌み避け、仏教も世俗法にさらに仏戒を上乗せしたりする通り、
正統な宗教が儒家以上の司法尊重志向であることこそあれど、以下であることは決してない。

翻って、邪教のほうはといえば、あの手この手を駆使しての世俗の司法権威の毀損や
無効化を試みる。キリスト教教義のような、単純で簡素なカルト教義によって世俗の
司法の権威を損なおうとすることもあれば、ユダヤ教の戒律群のような、長大で晦渋な
カルト教義によって損なおうとすることもある。それでいて、それらの教義自体が、世の中
を穏健に司って行くことなどもできはしないので、ユダヤ教徒は自分たちの国をまともに
運営して行くこともできないし、キリスト教徒も仏教教義や拝火教教義をマニ教を通じて
剽窃することを通じて、やっと一時的な社会運営を可能とする程度の体裁を得たのだった。
(ただし、所詮は根がカルトであるため、最終的には完全破綻を来たしてしまった)

儒家が時に法家を論撃対象としていたりするのも、法律支配を機械的に絶対化する
ことがかえって、司法や法度自体の道理に適った権威性を損なってしまいかねないため
であり、断じて司法の権威を損ねたりするためではない。東洋で男性の帝王に優先する
女王や女帝の存在が許されて来なかったのも、そのようなことがあれば国自体の権威が
損なわれることとなってしまうからであり、決して帝室や王室に女が介在することが全く
以って無価値だなどと考えられていたからではない。女は女で、跡継ぎを産み育てること
にかけて天照大神ほどもの偉大さを以って国家権力にすら介在して行くものだと考えられて
いたようにして、国家社会の統治もまた「分をわきまえているが故に、絶対的な地位を得たり
する場合以上にも本質的な権威を得るもの」としての司法に頼って行く必要があるのである。

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089 2014/01/03(金) 18:18:49 ID:flmwA7o3ic:au
「罰の懲らしめは死に非ず。人を病ましむるを極みとするなり」
「刑罰による"懲らしめ"は、何も『死』を極みとしているのではない。
罪人を苦しめる所にこそ"懲"罰としての極みがある。(架空の刑死で罪悪感を
紛らわす邪教の存在などが、根本的に薄ら馬鹿げたものである論拠ともなっている。
ただし、死刑は死刑で世の中の治安維持のために已む無く行われることがあるわけで、
世の中の治安のための刑罰であるからには、受刑者を本当にこの世から抹殺してしまわ
ねばならない。刑死ごっこで罪を免れられるような道理はいずれにおいてもあり得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)

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090 2014/01/04(土) 14:35:22 ID:6sLPjRtkvM
善因楽果も悪因苦果も、道理や真理に即して結実することを愚人がねじ曲げた気になる
ぐらいのことはできる。たとえば、経済破綻だの核戦争勃発だののあからさまな形で
世の中総出での放辟邪侈の悪因苦果が結実するのも、必ずしも「即座に」とは限らない。
自国の金融規制の緩和によって通貨価値を下落させることで、名目上の株価だけは上昇
させておくなどの措置を講ずることで、あたかも株式至上主義の世の中が未だに好況に
沸いているかのように見せかけたりすることで、実質的な破綻をすでに来してしまって
いる世の中の体制からの延命に務めたりすることもできる。それにより、すでに老い先
短い資本主義社会の重鎮が、自らの存命中には資本主義の惨めな破綻などを見ないで
済んだりもするのだから、そのような個個人にとっての悪因苦果が結実しなかった名目
を確立することすらできる。また、資本主義崩壊後にも合法麻薬の頒布などで現実を
直視しきれない愚人たちの逃避先を用意し続けたりすることもできるわけで、「悪因
苦果が結実する」ということを直視するがために最大級に苦しむということを、愚昧さ
をより掘り下げて行く逃避行によってかわし続けることもできなくはないわけである。

ただ、本質的にはそのような逃避行自体がすでに、地獄の奥底への探検ともなっている。
「悪いことをすれば苦しい」というのが人間という生き物にとっての普遍的な心理構造
であり、ただ別個の物質的快楽によってその苦しみが紛らわされたりするだけなのだから、
未だ経済破綻などを来していない範囲における不当利得を糧にした放辟邪侈などにうか
れている内からすでに、本当は心中で苦しんでいるのだとも言える。ただ、その苦しみ
が強度に覆い隠されてしまっているのにも違いないわけで、それは、経済破綻後に至る
までですら、麻薬服用などの形で存続できないわけでもないことである。そうして愚人
たちはどこまでも、地獄の奥底への旅路を歩み続けて行きながら、一定度以上にそこに
慣れ続ける。業火に身を焦がすような地獄の苦しみにまみれながらも「これでよし」とし、
死の瞬間まで悪因苦果を直視することでの反省に務めたりすることがないままに終わる。

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091 2014/01/04(土) 14:39:09 ID:6sLPjRtkvM
普遍的な善悪の基準に即した善因楽果や悪因苦果が実在しているものと堅くわきまえて、
実際に悪行を犯そうものなら即座にその悪因苦果を直視して相応の刑罰にも服するように
して行ったりすること自体、一つの清廉な心がけであり、そのような心がけによって
真理や道理を我が物とすらできること自体が、無上の愉悦をもたらすことである。
道理を我が物とするだけでも浩然の気に与れ、真理を我が物とすらすれば常楽我浄
にすら与れる、そうであること自体が非常に積極的な悦楽の探求の賜物なのであって、
おまけにそのような健全な悦楽の追求によって世の中までもが恒久的な泰平や繁栄に
与れるようになるという点が、悪因苦果を物質的快楽で紛らわしながら増長させて行く
場合などとは異なる点だといえる。結局、真理や道理に合致して因果応報を直視する
場合においても、それに背く逃避行を続けて行く場合においても、個々人がある種の
享楽を追い求めて行くことには変わりないのであって、違うのはその結果として
世の中に利したりかえって迷惑をかけたりする所や、中心からの愉悦に与れているか、
もしくは中心の苦しみを粗大な快楽で紛らわしているかといった違いのみだといえる。

真理や道理を我が物として行く生き方にもある種の楽しみがあり、それらに即した
因果応報から目を背け続けて行く生き方にもある種の楽しみが伴い得る。後者を避けて
前者を選択して行くように促すのも一種の社会的な要求扱いになってしまうわけで、
個人主義で理論武装している相手などに対しては必ずしもこたえないことともなる。

本当は悪人こそが心中では苦しみ続けていることなども、愚昧さによって割りきれる。
悪因苦果からの逃避行も結局は個々人の全人生を司る姿勢として堂に入ってしまったり
するわけで、それは数多のキリスト教徒が大変な高齢に至るまで幸せそうな人生を
送り通した挙げ句に命を終えたりして来ていることからも知れることである。

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092 2014/01/04(土) 14:41:17 ID:T7GDQPcy8s:au
善徳の推進も、存命中の孔孟のように十分な実を結ばないことがあれば、罪悪の推進も
数多の聖書信者に対するように最大級の栄華を本人たちに提供しきることがある。その
ような不条理の全てが結局は、「命あるものはみないつかは必ず死ぬ」という諸行無常の
真理によってこそ清算されるわけだから、諸行無常こそは善人の味方であると共に悪人の
敵であるといえる。しかしその諸行無常ほど、我が味方と見なすことが困難な真理も他に
ないわけで、善人と悪人の根本対決はどこまでも、いずれかの勝ち誇りなどを許さない
ままに、僅差で善人が悪人に辛勝するような所へと集約されて行くこととなるのである。
これこそは、心理が万人に対してほぼ平等であることの証左であるとも言えようか。

「苗にして秀でざるものあり。秀でて実らざるものあり(既出)」
「苗のままで成長しないものもいる。成長しても実らないものもいる。
(実ったものだけを見て判断してたりすれば、多くの可能性を見損なうことになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)

「孔子曰く、今の君子は実りを好みて厭きること無し。〜今の君子は礼を為すこと莫し」
「孔先生『今の為政者は安易な実りばかりを追い求めて飽きることがない。
今の為政者は礼を実践しているなどとは言い難い』(新田が早々には穀物を実らせ
なかったりするように、豊かな結実のためには辛抱が時に必要ともなる。いかにも
農耕民族的な発想だが、古代のローマ人なども農耕によって得た食糧で命を繋いで
いたわけだから、にもかかわらず安易な実りばかりを追い求める類いの邪教を
進取したのは、当時のローマ人たちにとっての総出の過ちであったと言える)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)

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093 2014/01/05(日) 14:00:24 ID:OrKbx8GsXQ
戦乱あるところ、いつも必ずそこに偏愛がある。
紂王の妲己への偏愛に、幽王の褒姒への偏愛、趙姫の嫪毐への偏愛に、
項羽の虞姫への偏愛と、有力者の愛人に対する盲目的な偏愛こそが、
最悪級の戦乱を来たす元凶としていつも歴史上に暗躍して来た。

仏教渡来以前の中国史においてこそ上記のような史実例が豊富であるのは、
中国人こそは古代からの史実を正史として正確に記録して来た人々であると共に、
仏教渡来以降は偏愛の有害さが十分な警戒を受けて、偏愛が原因での戦乱が
予防されたり、偏愛があっても世間体のためにあえて隠すようなことに
なり始めたからである。(これは仏教渡来以降の日本などでも同様である)

西洋などでは逆に、愛の権威こそがカルト信仰を通じて確立されてしまった
ために、愛を戦乱の元凶として否定的に捉えたりすることが控えられて、
偏愛が原因で戦乱を来たしてしまったことなどが史実として正確に
記録されるようなこともなくなってしまったからこそ、そのあたりの
因果関係を歴史書などを通じて察知することは難しくなっている。

しかし、愛こそを絶対的なものとして権威化してしまった
西洋社会こそは、世界でも最も戦乱状態の頻度が高い地域であり続けて
いることからも分かる通り、やはり愛を無条件に持て囃すような
風潮こそが戦乱の元凶となることが如実となっているのである。

全く愛のない世界など味気ないし、別に全ての愛が戦乱の元凶となって
しまったりするわけでもない。ただ、愛する相手を唯一神に見立てて無条件に
尊崇するほどもの蒙昧さが愛と結託した時に、それこそが戦乱の元凶と
化してしまうわけで、それ程にも偏頗な濁愛が持て囃されたりするのでも
なければ、愛が傾国級の害悪の種と化してしまったりすることもない。

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094 2014/01/05(日) 14:04:11 ID:OrKbx8GsXQ
仏教が愛の否定や劣後によって予防しようとしているのも、それ程にも
奇特な部類の愛の蔓延でこそあるのであり、決してこの世からあらゆる
愛を絶やし尽くすことなどを仏教が目的としていたりするのではない。
特に大乗仏教は鎮護国家を本旨の一つにも据えているために、公権力者の
君臣父子夫婦といった序列に基づく親愛を否定したりすることは許されないし、
また密教教義などが愛の活用による成道を教義に据えていたりもする。

特に分かりやすいのは、仏教渡来以前における古代中国の公権力者の
濁愛への惑溺による権力腐敗や戦乱の呼び込みであるけれども、それ程
にもあからさまな濁愛と戦乱の因果応報が隠されたり正当化されたりして
しまっているためにその手の因果関係が分かりにくくなってしまっている
現今の世界においては、仏教帰依などを通じて愛の過剰化を予防して行く
価値やその必要性などもなかなか計り知りがたいものとなってしまっている。

特に民主主義社会においては、表向きの公権力者はただ民衆の言うことを
聞いているだけということになっていて、政治的主権は民衆たち自身にある
とされている。実際にはその内でも符号であるような民間人ばかりが大権を
牛耳っていたりするわけだけれども、その富裕な民間人こそは、表舞台に
躍り出たりもしないでいいのをいいことに、紂王や幽王も顔負けの濁愛に
溺れまくったままとなる。いくら隠れているとはいえ、そのような人間が
どこかにいる以上は、濁愛が原因での戦乱という因果関係が成就してしまう
わけで、因果関係が分かりにくいにもかかわらずではなくだからこそ、
表向きの公権力者があからさまな濁愛に溺れたりした結果としての戦乱
など以上にも甚だしい争乱を招くことにすらなってしまうのである。

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095 2014/01/05(日) 14:04:33 ID:R/Uawn2Q7g:au
薩摩人あたりが濁愛好きの戦乱好きだったりするのは、ただ一方的な
制止の対象としてやればいいだけのことである。問題は、愛こそが平和を
もたらす鍵となるなどと思い込んでいる転倒夢想の徒輩のほうであり、
まずその誤解を解いてやるのでなければ、平和のためにこそ愛を追い求める
という白痴そのものな暴走を続けて行くこととなる。その誤解を解いて
やれる程にまともな理解力を持ち合わせている人間はそうしてやればいいが、
それも無理なほどに蒙昧の極みに達してしまっている人間ともなれば、
これはもう、犬同然の使いっ走りとしてならまだ再利用のしようのある
薩摩っぽ程もの救いようもないであろう。いずれかを取り締まって行き始める
というのなら、むしろそちらのほうを優先的に取り締まって行くべきだろう。

「信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊(既出)。
剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂」
「信仰ばかりを好んで学問を好まなければ、その弊害として他者を損なう
ことになる。しっかりしていることばかりを好んで学問を好まなければ、
その弊害として独り善がりに狂うこととなる。(神への狂信ばかりに耽って
異教徒を損なう戦乱を招き、自分たちの平穏無事ばかりを追い求めることで
蒙昧な独り善がり状態となり、自分たちが戦乱の元凶となっていることすら
分からなくなる。まさにどこぞやのカルト信者の有様そのものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・八より) 

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096 2014/01/06(月) 13:22:06 ID:bm/2gE2Glw
白昼では見えないほどに頼りない蝋燭の火も、暗中では周囲を照らし出す明るい光となる。
日の下での公明正大とした活動を好き好む人間にとっては光の内にすら入らないように
思われるような小さな灯火が、暗闇での陰湿な活動を好き好む人間にとっては救いの
光であるようにすら思われる、その灯火こそは邪教の神であったりもするのである。

日中なら、曇天状態でもそれなりに周囲が見渡せるほどに、この地球上は明るい。
そこで早朝の日の出時から日没時に至るまで熱心に働けば、さしたる浪費もなく有用な
仕事をこなして行くことができるわけで、昔はその経済性が尊ばれていたものだから、
国家権力を司る"朝"廷などが特に、日中における職務を重んじていたりもしたのである。
(実際に、朝廷は朝早くから上るものだったから、「朝廷」と呼ばれていたのでもある)

その、日中の活動の経済性が最大級に蔑ろにされているのが、電光文明の発達した現代でもある。
蝋燭や松明などの旧来の灯火と比べて、電灯の取り回しやすさは格別である上、今でもさらに
技術的発展を続けてすらいるわけだが、だからといって灯火のコストパフォーマンスが、
無尽蔵の太陽エネルギーの地上への照射たる日光のそれを上回るようなこともあり得ない。
数多の電灯の保守や電源供給のために膨大な労力やエネルギーが費やされ、人々をただそれだけ
のための労働に多数動員させるようなことにすらなる。その浪費さ加減が諸国内はおろか
世界中にまでドミノ倒し的に派生して、最末端の貧困国におけるさらなる困窮や重労働を助長する
ことともなり、以って「未開の土人社会よりも劣悪な社会」が出現することともなる。近代文明
の象徴たる電灯こそが、電灯などない土人社会よりも劣悪な社会環境をもたらしてしまうのである。

未開の土人社会以上にも劣悪な環境下に数多の人々が晒されてしまっているものだから、
その苦しみが原因での人口爆発という極めて不自然な問題が勃発してしまってもいる。自然
状態や、日光こそを灯火以上にも尊ぶ文化習俗が行き渡った状態以上にも、暗闇での灯明こそを
有難がる風習が蔓延してしまっている今の世の中こそは深刻な危機に見舞われていることからも
分かる通り、暗闇での灯明を持て囃すような志向性こそは、より粗悪なものだったのである。

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097 2014/01/06(月) 13:27:32 ID:bm/2gE2Glw
では、もう電灯も電力消費もかなぐり捨てて近代以前に逆戻りしてしまえばいいのか
といえば、できるものならそうすればよい。暗闇での灯明を有難がるような性向こそは
精神薄弱をも助長する一方で、日の下での早朝からの勤労こそは豊かな精神力を育む
手段ともなるのだから、精神衛生面から言っても昔に立ち返るほうが遥かにに好ましい。

ただ、近代文明が今の世の中で来たしている致命的問題を解消するために、電灯に代表される
文明の利器を全廃しなければならないかと言えば、必ずしもそうではない。電機文明の活用の
ほうに一定の節度を持たせて、なおかつそのような活動以上にも、日光の下での経済的な
活動のほうをより尊重して推進して行くようにする。ただそれだけでも、近代文明がこの
世にプラマイゼロ以下の有害無益な影響までは及ぼさないようにして行くことができる。

だからこそ、暗闇に灯明を効果的に点ずる技術など以上にも、そもそも暗闇での灯明を
有難がるような風潮こそを是正すべきなのである。そのような風潮を煽っているような
人文的文化や信教があったりするのならば、むしろそちらを電機技術など以上にも優先
的に駆逐すべきなのであり、だからこそ洋学以上にも聖書信仰の廃絶こそを優先すべき
なのでもある(文系の洋学は聖書信仰の多大な影響を受けている場合がほとんどなので、
聖書信仰が廃絶されることを通じて、連動的にその地位を追われることともなるわけだが)。

今もうすでに聖書信仰など世界的に下火であり、ローマ法王ですらキリスト教教義に反する
ような科学論などを認めつつある一方で、科学文明の隆盛は未だ覚めやらぬような状態で
あるわけだから、わざわざあえて聖書信仰のほうに追い討ちをかける必要性などもないように
思えたとしても仕方ないが、それでもやはり、聖書信仰の清算こそが最優先されるべきである。

科学は所詮「人間規範」を司るものではなく、ある種の人文的な文化構造こそがその役割を
担って行くのだから、人間規範が劣悪なままである結果として科学文明までもが粗悪なままで
あり続けていることを察して、多少なりとも人間規範としての権威を持ち越したままでいる邪教
のほうの駆逐に取り組んでいくことで、科学文明の浄化のための先鞭ともして行くべきなのである。

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098 2014/01/06(月) 14:14:49 ID:oqafaIjeLA:au
「雞も既に鳴きぬ、朝も既に盈ちん。雞の則ち鳴くに匪ず、蒼蝿の声なり。
東方明けぬ、朝既に昌んならん。東方則ち明くるに匪ず、月出ずるの光なり。
蟲の飛ぶこと薨薨たり、子と与に夢を同じくするを甘む。会し且つ帰らん、庶くは予が子の憎む無かれ」
「妻『鶏もすでに鳴いています、もう朝ですよ』 夫『あれは鶏の声じゃない、あれは蝿の飛ぶ音だ』
妻『東の方も明るんで、もう朝の最中ですよ』 夫『あれは夜明けの光じゃない、月の光だ』
妻『虫たちも朝日に合わせてブンブンと飛び始めています。あなたと世の夢を共にするのは
私にとっても嬉しいことですが、もう出勤なさって、また帰って来てください。どうか腹を
立てたりなさらないで下さい』(孟子も『夜には夜気を養わねばならない』と言っている通り、
世の闇にもそれなりの価値がある。電灯文明で夜の活動が活発化してしまった現代の先進国
こそは、男女の営みを欠くせいでの少子高齢化をも来たしてしまったのだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・雞鳴より)

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099 2014/01/07(火) 14:55:44 ID:djjohKlnfo:au
「夏書に曰く、惟れ彼の陶唐、彼の天常に帥い、此の冀方を有ちぬ。
今其の行いを失い、其の紀綱を乱りて、乃ち滅ぼして亡ぼせり、と。
又曰く、允玆に出づれば玆に在り、己に由り常に率いて可なり、と。」
「夏書(書経の散失部分)に『彼の聖王たる堯舜は天の常道に従って自らの国
を保たれたのに、今、桀王はその常道を見失って、為政のための綱紀を乱して
国を滅亡へと陥れてしまった』とある。また『因果はどこまでも応報する。ただ
自らの自由な選択が天の常道を選択する場合にのみ、よい結果が得られもする』
(自由は、それに基づき天の常道を選択すればこそ理に適うのであり、自由
すなわち真理などでは決してない。むしろ人を真理から遠ざけもし得る)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・哀公六年より)

 
精神の自由と行為能力の自由は相反するものであり、一方を追い求めて行けば行くほど
もう一方の自由が損なわれて行くということは、今までにも幾度か述べて来たことである。

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100 2014/01/07(火) 14:56:12 ID:QFPahjUFKA
そうであることを実証する事例の一つに、「年を重ねれば重ねるほど月日が速く過ぎて
行くように感じるようになる」という心理現象がある。子供の頃には能力的にも法的にも
相当な行為能力の制限を受けていたのが、中学卒業時からは労働の権利を得、成人後には
飲酒喫煙や自動車免許取得の権利を得るなど、段々と行為能力の制限を解かれて行く。
かけ出しの社会人だった頃にはまださほどのこともできなかったのが、年齢と共に
世の中での地位が上がって行くことで、世の中を動かすような大きな仕事に携わって
行くような権利をも得るようになる。それは確かに、本人にとっての行為能力の自由の
向上であるわけだけれども、それと同時に、自らを「社会の歯車」として高機能化
させて行く事態ともなるわけで、歯車として余計なことを考えなくてよくなった結果として、
本人も月日が走馬灯のように速く過ぎ去って行くように思えてしまうようになるのである。

社会の歯車としての自らの立場を決定的に固着化させてしまう主因となるのが、
結婚やそれに伴う妻子の養育である。今まではただ自分自身のために行為能力の自由を
追い求めていたのが、ついには他者のために行為能力を行使し続ける義務までをも
背負わされ始めることとなるわけだから、そこで確かに「人生の墓場」に埋葬されたも
同然の事態となるわけである。社会の歯車として何も考えなくなった結果として、
月日も走馬灯のように過ぎ去って行くということが、さらには強制されて行くことにすら
なってしまうわけだから、強制者となる妻子が亭主たる男を厳重な畏敬の対象として
行くのでもない限りは、全く割りに合わないこととなってしまうわけである。

そもそもが、自分自身のために行為能力の自由を追い求めて行くことからして虚妄の発露
に過ぎないというのに、その結果として妻子を養わされたりする強制にも隷従させられる
こととなるわけだから、それこそ煩悩愚縛の凡夫マグロが自業自得で漁の網に捕らえられる
有り様とでも言えよう。確かにそんな男は馬鹿なので、その手の男を結婚相手として得た
女などが「男なんて馬鹿な生き物」だなどと思い込んでしまったとしても仕方がないのである。

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101 2014/01/07(火) 14:59:20 ID:QFPahjUFKA
行為能力の自由などを無制限に追い求めようとした結果として精神が不具と化し、
実際に月日が走馬灯のように速く過ぎ去って行くように感じる儚さに見舞われたり、
カカア天下の女房に馬鹿な生き物扱いされながら飼い慣らされる、人生の墓場そのものな
結婚生活を送らされたりすることともなってしまう。ただ「自由」と言えば聞こえは
いいが、行為能力の自由などを貪った所には確かにそのような、自由であるが故の破滅的で
屈辱的な弊害が伴うわけで、それは、ある程度以上に清廉な心持ちの人間が、心の底から
御免こうむりたい気持ちになったとしても全くおかしくない強度の危害なのでもある。

世の中に出て働くこと、結婚して妻子を養うことが、上記のような理由で全廃されなければ
ならないのかといえば、それも極論に過ぎることである。世の中での行為能力の行使にも
節度があり、結婚して家庭を築けば妻子が当然のこととして亭主を敬うというのですらあれば、
上のような理由で出世や妻子持ちを嫌う人間が、必ずしもそれらを拒絶し尽くしたりする必要もなくなる。

ただ、行為能力の自由などが持て囃されなくなればいいだけのことである。
そんなものは真理にも道理にも与するものではない、むしろ人々を正善なる理法から遠ざけて
精神の不具者と化してしまうだけのものなのだから、かえって卑しまれるぐらいであるように
したならば、それだけで上記のような弊害を伴う出世や結婚もこの世から絶やされるようになる。

その手段はといえば、やはり教化的なものが主体となる。行為能力の自由を持て囃すような
思想信条の駆逐と、そのような自由を劣後したり否定したりする部類の思想信条の一般化。
そのような教化が行き届いた結果として、無闇やたらと行為能力の自由を追い求めるような人間や、
主人を悪し様に扱うような夫人などが徹底的に卑しまれてこの世を追われることともなる。
それでかえって、人々が極度の焦燥や屈辱に見舞われたりすることがなくて済む、
精神の自由こそが確保された世の中が開かれて行くことともなるわけである。

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102 2014/01/08(水) 14:40:52 ID:ZDeQaMa4KM
「天」と言いながら、実際の天上ではなく、この宇宙全体を形而下と捉えた場合の
形而上を天と見なしていたり、「地」と言いながら、天下全土ではなく、自分たちの
住まうごく一部の場所や地域だけを地と見なしていたりする。そういった「天」や「地」
といった言葉に対する歪んだ定義の当てこすりや、それに基づく人々の粗悪な思考や言行
こそが、誰しもを不幸にする戦乱や精神病理の蔓延を世界中へと撒き散らして来たのだった。

形而上は形而上で、実際的な天上とはまた別のものとして哲学的に定義することが
できるし、天下全土とまではいかない部分的地域もまた、国や県や市区町村やさらに
それ以下の個々の部位として区分することができる。そのような適格な分別があることで
初めて、多少なりとも自他の福利厚生を増進して行くための着実な事業に取り組んで行く
ことが可能ともなるのだから、天上といえば形而上一般と見なしたり、地といえば即座に
一部の地域と考えたりすることこそは、人々の福利を損ないこそすれど増すことなどが
決してない、有害無益な「名辞の乱れ」となることが確かだといえる。

そのような、名辞の乱れと共にしか物事を考えることもできないような人間がいた場合に、
決してその思考回路や言行規範の妥当性を認めてやらないようにする。天といえば
形而上一般、地といえば部分的地域という風にしかものを考えられないことを一切合切
言語障害や精神障害であると見なして、社会的な市民権を一切認めないようにしたならば、
それだけで世の中のあらゆる問題がことごとく解消されて、人類も真の永遠平和と、
真人間としての尊厳からなる栄光に与れて行くようになることが間違いない。

実際には、それもなかなか難しいこととなる。女子供には天下全土の全貌を俯瞰するような
能力が決定的に欠けているし、大人の男もまた、商売のような目先の利益ばかりを追う末業を
仕事としていたりしたならば、天下全土を俯瞰する能力が元々あった所で、それを萎縮させて
しまうことになる。そのような人間たちにとっては、天下全土を「地」と見なした場合の
「天」もまた到底計り知れないものとなるわけで、それよりはむしろ、概念としての万物を
形而下と見なした場合の形而上を「天」と見なすほうが、まだ簡単なことともなるわけである。

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103 2014/01/08(水) 14:45:41 ID:ZDeQaMa4KM
しかれば、形而上一般を天と見なしたり、部分的地域を地と見なしたりするものの考え方のほうが、
大多数の人間にとっては受け入れやすい名辞となってしまうわけで、邪教信仰などに依らずとも、
ただ多数決に依るだけでも、そのような歪んだ名辞のほうが妥当だということにされてしまうのである。

歪んだ名辞を正当化する邪教を駆逐し、歪んだ名辞こそを支持してしまう多数決も退けて、
純粋な世のため人のための都合によって、天地にまつわる正しい名辞のわきまえを広めて行く。
昔ならそれが封建制にも即して取り組まれていたわけだが、民主主義までもが高度に正当化されて
しまっている現状では、そこに回帰することもなかなか難しいこととなろう。むしろ、国家規模や
国際規模での安全保障プログラムの綿密な計算によってそれが妥当であると算出された結果として、
機械的に名辞の矯正が実行に移されて行くことを企図するほうが現実的なこととなるだろう。
(もちろん、その計算結果に即して封建制までをも再興して行く可能性はある)

乱世の元凶が「名辞の乱れ」などという所にこそあるからには、扱いを誤ってしまえば時には
そのような致命問題を来してしまう「言葉(ロゴス)」というものが、無条件に神聖なもの
などと捉えられたりするようなこともまた排されて行かねばならない。ロゴス信仰なぞは、
無知蒙昧な土人が言葉という道具を与えられたからといって、無闇やたらと嬉しがった結果
として来たしてしまった蛮習でしかないのだとよくわきまえて、言葉そのものが即座に神聖視
された結果としての、歪んだ名辞の増長などが二度と巻き起こらないようにすべきである。

いずれも、歪んだ名辞やロゴス信仰の下でばかり生きてきた徒輩にとっては、なかなか困難な
荒療治となる上に、断腸の思いともなるに違いないわけだが、名辞の乱れこそが自分たちを破滅
へと陥れる大悪の元凶とすらなっているのが現状でふるからには、もうそうするしかないのである。

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104 2014/01/08(水) 14:47:32 ID:7OrQGZeMb6:au
「天子は天地を祭り、諸侯は社稷を祭り、大夫は五祀を祭り。天子は天下の名山大川を祭る。
五岳は三公に視え、四?は諸侯に視う。諸侯は名山大川の其の地に在る者を祭る」
「天下を統べる帝王のみが天地を祭り、諸侯ですら自国の社稷を祭る。大夫はそれぞれの季節の祭を司る。
五名山は三公になぞらえ、四大河は諸侯になぞらえて祭る。諸侯は名山大河の地に土着している人々を祭る。
(それなりの公的地位にあるものが、それぞれの身分に即して天地以下を祭ればこそ、天下も益される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

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105 2014/01/09(木) 14:48:45 ID:AjJ.SLwYjg
懲罰刑と死刑を倒錯してしまっている人間が、最高刑としての死刑を開き直った結果として、
あらゆる刑罰を恐れなくなってしまうという問題が、洋の東西を問わず深刻化して来ている。

例えば、凌遅刑に代表される残虐な処刑方法が導入され始めた五代十国時代以降の中国などもまた、
多少なりともそのような問題を来たしてきている。それ以前においても、残虐な刑罰自体は無数に
行われて来ているが、ことに死刑にかけては、斬首の如き簡潔な手段に依るのが漢代から唐代に
かけての中国での習わしであった。それが遂には反故にされて、死刑自体を残虐な手段に
依ることで見せしめにするということが常套化し始めた。すると逆に、死刑になることも
恐れることなく罪を犯すような人間が頻発し始めるようになった。明代や清代における中国の
官僚腐敗の逸話にも枚挙に暇がないように、官民揃っての罪悪三昧を来すこととなってしった。

死んでしまえば苦しみも何もない、むしろ無上の安楽にすら与れるのが悪因苦果まみれの惰生を
食いつなぐ罪人であるというのに、一時の苦しみの後にはその安楽にすら与れるというのだから、
そこに伴うある種のカタルシスが魅力ともなって、かえって大罪を犯した挙げ句にそこで
死んでやろうとするような人間までもが生じてしまいかねない。そのような罪と罰の劣悪な
悪循環が、中国では約1100年間、西洋では約2000年間の長きに渡って深刻化して来ているわけで、
実に、世界の半数程度に渡る人間が、刑罰の何たるかをもろくに理解できないという異常事態が
ここ1000年程度の人類社会において恒常化してしまっているのだといえる。

残虐な処刑手段こそは、前近代的な過去の遺物の代表例として取り沙汰されることも多いわけだが、
実際の所それは「過去の遺物」だから厭わしいのではなく、人類史上の一時において流行した蒙昧
な悪習であればこそ厭わしいものなのである。それが人々に対する戒めとなるどころか、かえって
懲罰の何たるかを見損なっての妄動を喚起しかねないものだからこそ、廃されるべきものなのである。

実際の所、懲罰と死刑を混同したせいでの恐れ知らず状態でいるような人間に対しては、
残虐な処刑を振りかざしたりするよりも、禁治産や参政権剥奪の如き適格な軽罰で

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106 2014/01/09(木) 14:51:31 ID:AjJ.SLwYjg
脅し付けてやったほうが、よほどこたえるものである。あらゆる残虐刑を恐れもしないで
いようとすること自体、無法状態での果てしない自由を追い求めていようとすればこその
心理状態であるわけだから、そうであるに応じて、適切な民事的制限を科してやろう
とするほうがまだ、自分たちの出鼻を挫かれるが故の恐怖に見舞われるものである。

してみれば、人々への社会的制限や懲罰刑は酷烈であっても、死刑は打ち首のような簡潔な
ものが主流だた江戸時代あたりの刑政が、それもまた前近代的なようでいて、実は理に
適っていたことが分かる。中には石抱きや鞭打ちのような拷問だとか、額に「犬」という字を
入れ墨する身体刑だとかもあったわけだが、それは純粋に「懲罰」が厳しかったというだけで、
死刑が残虐であったりすることとはまた別の問題であるといえる。東夷の懲罰刑が酷烈である
のは「漢書」地理志にすら記録されている太古からの伝統であり、それでこそ世界でも突出
した犯罪率の低さを誇れもしたのだから、懲罰刑を厳重化することは今の時代においてですら
見直されてもいいことだといえる。一方で、死刑と懲罰刑を妄りに混同したりしないことも
見習われて然るべきであり、死刑や切腹の決まった人間ともなれば、辞世の句を詠む
便宜すら図られていたという、昔の日本社会の心意気こそを買うべきだといえる。

「天の未だ陰雨せざるに迨びて、彼の桑土を徹りて、牖戸を綢繆す。
今女じ下民、敢えて予を侮ること或らんや。〜予の羽譙譙たり、
予の尾翛翛たり、予の室翹翹たり。風雨に漂搖せられ、予が維の音嘵嘵たり」
「天がまだ雨を降らさぬ内から、私は桑の根の皮を剥いで巣の隙間を塞ぎ、侵害に備えている。
どうか下民たちも、臆病じみた私のこの姿を馬鹿にしてくれるな。そのような苦労のせいで私の尾も
傷み、羽も疲れきっている。私の巣がどうにも弱弱しいのも、風雨に揺らがされるからで、そのせい
で私の鳴き声もせっかちなものとなってしまいがちなのである。(周朝の摂政時代の周公旦が自らを
鳥に喩えた歌。自らあえて、恐れ動揺させられるような危難をあえて引き受ける君子の模範的な姿)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・鴟鴞より)

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107 2014/01/10(金) 14:33:46 ID:6ixxKHV1uY
この世におけるあらゆる害悪の元凶と化しているようなならず者こそが、
莫大な利権や暴力を蓄えることでの自己防衛を尽くすということが、古今東西を
問わず、今までの人類史上において幾度となく繰り返されて来た。そのほとんどは、
桀紂や秦始皇の如き「暴君」の体裁と共に企てられて来ているわけだが、中には、
あえてそのような体裁を「独裁主義」として非難の対象にして切り捨てた上での、
また別の体裁による害悪の元凶としての強大化が企てられた例もある。

端的に言えば、宗教やイデオロギーを旗印にした試みがそれに当たる。
概ねそれは、西洋においてばかり試みられて来たことであり、宗教や思想哲学が超国家的な
権限を持つことを、自分たち自身の怪力乱神を忌み避ける思想信条によって戒めて来た極東
社会などにおいては基本、許されて来なかったことである。部分的には比叡山や本願寺の
ような宗教権力の強大化までもが企てられていたが、それも決してローマカトリックの如き
国家征服級の勢力を帯びるまでには至らなかった。西洋でそのような宗教や思想哲学を旗印に
した甚大な権力集中が繰り返されて来たのは、怪力乱神を忌み避けない上に、形而上に
規定されたイデア領域へと万物を帰納しようとするような試みまでもが古代ギリシャの
頃から持て囃されて来ているからで、そのような歴史的な経緯から見ても、確かに西洋は、
シラフの公権力など以上にも思想信条への権力集中を試みて来た頻度が高い社会だと言える。
(中東やインドはこの中間で、思想宗教と公権力を厳密に合致させた上で両者を尊んでいる)

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108 2014/01/10(金) 14:37:34 ID:6ixxKHV1uY
公権力者が害悪の元凶たる暴君としての強大化を企てる場合と、ある種の思想信条を旗印にした
人間が害悪の元凶としての強大化を企てる場合と、いずれもが全世界規模での大災厄をすでに
もたらしている。前者の最大例がモンゴル帝国による世界征服であり、後者の最大例がまさに
近現代の欧米人による世界征服である。いずれも「完全征服」とまでは行かないが、一時的には
世界の大半の地域を征服下に置き、征服とまで行かなかった地域にまでも幕府の衰亡や困窮の如き
何らかの危害をもたらしていて、「世界中のあらゆる害悪の元凶」としての条件を満たしながら、
当時世界最大級の暴力を蓄えての自己防衛にも及んでいた点が全く共通しているといえる。

ただ、世界中の害悪の元凶の分際でいながら、自分たちこそは最優先の生存者たろうとも
するような無理が案の定、早急なる自分たちの衰亡を呼び込むことともなった。害悪の元凶
こそが権力のトップに据えられて、厳重な安全保障の下での放辟邪侈三昧を続けたりすること
自体が、世の中への傾国級の負担をかけることともなるため、そう長きに渡る存続などが可能
ともならない。それは権力のトップが君臣公候のような正規の公権力者だろうが、政商のような
非正規の権力犯罪者だろうがさして変わらぬことであるわけで、「こいつすら倒せば世の中も
正される」という代表的な責任者が表に出てこない分だけ、かえって非正規の権力者がトップと
化す場合のほうが、より深刻な事態を招いた挙げ句の大崩壊などをも来たしてしまいかねない。

手段がどうであれ、世の中の害悪の元凶ともあろう分際が、よりにもよって権力のトップ
にまでのし上がって、最大級の自己防衛と共なる存続を企てるなどということ自体が
許されないことなのであり、それは害悪の元凶こそが民主主義だの自由主義だのといった
綺麗事じみたイデオロギーを振りかざしたりした所で、寸分たりとも覆ることではない。

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109 2014/01/10(金) 14:37:40 ID:/vsUeG5xPo:au
正規の公権力者が暴君として上記のような振る舞いに及ぶことはすでにそれなりに戒められて
来ているが、宗教や思想イデオロギーを旗印にした「義賊的人種」がそのような振る舞いに
及ぶことは、未だに十分な警戒の対象とされてはいない。暴君の惨暴を入念な歴史学に
よって戒めて来ている極東社会こそは、思想宗教が公権力以上の権力中枢と化すこと
などを端っから切り捨てて来ている社会でもあるものだから、思想信条の義賊こそが
暴君並みの惨暴に及んだりすることがろくに察知もされて来なかったという事情もある。

今一度、害悪の元凶こそが大権を握ることの許しがたさが全世界規模で認知されると共に、
それが公権力者だけでなく、宗教やイデオロギーを旗印にする義賊的人種によってですら企て
られることがあるということまでもが警戒の対象とされて行く必要がある。後者の問題は
洋の東西を問わず十分に認知されて来ていないことなので、いま初めて全世界の人々が、
人類社会にとっての根本問題の一つを、新たに計り知ることになるのだといえる。

「守ること約やかに而て施し博きは、善道なり」
「守る所は簡素でいながら、天下万人へと広く施しを心がけるのが善道である。
(依怙贔屓な守りよりは、広き施しをより優先するのが君子である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)

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110 2014/01/11(土) 14:18:48 ID:wXmIoUBvlw
紫は、最も代表的かつ対照的な原色である「赤」と「青」の間食であるために、
陰陽不全を象徴する色として、孔子を始めとする儒者たちに卑しまれて来た。

春秋時代初期に、春秋五覇の筆頭格である斉の桓公が紫色を好んで被服などとして用いた所、
庶民までもが好き好んで紫の服などを着始めたために、それに悩んで重臣の管仲に相談
したという。管仲が「閣下が紫を好むのを止めれば人々もそれに倣うでしょう」と助言
したので言われた通りにすると、実際にそうなったという。(「韓非子」などを参照)

これがたとえば、赤などだと同じようなことにはならない。日本の戦国武将や江戸期の
大名なども好んで赤を具足や門構えや旗印などの色に用いていたが、それがかえって鮮血
の色すらをも想起させるものだから、庶民に畏怖を抱かせて赤色の使用を控えさせるよう
にすらなった。(変わりに実用性も高い青系の藍染めなどが好んで民用されるなどした)

逆に、仏門や神職のような超俗的な領分の界隈こそが紫色を用いれば、そのせいでかえって
人々が紫の使用を控えるようになるということもある。これは、別に自分がなりたいと
思わされるわけでもないような世捨て人の領域こそがその色を用いているからであって、
そういった手段によってあえて人々に紫色の濫用を控えさせるということもできはする。

封建時代の王侯あたりの、もしもなれたなら絶大な栄華を謳歌できるような身分の人間が
好んで紫を用いたりした場合にこそ、身分の上下を重んじる陽唱陰和までもが反故にされて、
社会的権威全般が重んじられないようになって行く。斉の桓公だけでなく、ローマ皇帝
らもこぞって紫の礼服を用いていたというから、そのせいで人々が皇帝への敬意などを
損ねていった挙句に共和制に移行したり、公権力の権威を致命的に踏みにじる
邪教の台頭を許してしまったりしたのも、むべなることであったといえる。

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111 2014/01/11(土) 14:21:39 ID:wXmIoUBvlw
紫色の扱いの如何などは、公権力者としての心がけの内でも氷山の一角に過ぎないものであり、
仮に斉の桓公やローマ皇帝が紫色の重用を取り止めたからといって、ただそけだけで上下の
位階が正されのたかといえば、そうとも考え難い。ただ、たとえばそのような配色にまつわる
心がけが、一つの有職故実の巧拙の代表例として取り上げられることにも間違いはないわけで、
そのような小さな部分からの注意の積み重ねこそが君臣官民上下の序列を正して行く要とも
なるわけだから、決してその仔細までをも疎かにするようなことがあってはならない。

皇帝がこぞって紫色を用いる程にも陰陽不全が深刻化してしまっていたような世の中に
おいてこそ、人類史上最悪級の反社会主義の邪教がもたらされてしまいもしたのだから、陰陽
不全を煽る部類の稚拙な有職故実こそは、邪教の母体でもあったのだといえる。文化習俗からの
公権力腐敗こそは、反社会主義の邪教すらをも好き好みたがるような奇形的な義賊精神を人々に
植え付ける元凶ともなってしまったのだから、やはり公権力者こそが正善なる礼法と共に毅然と
していることこそは、邪教の出現や蔓延の予防のための肝心要の要項にもなるのだといえる。

被服の配色レベルからの用心の積み重ねなど、自らの富貴栄達だけが目的で権力者を志す
ような人間には到底やりきれるものではない。故に、自らの成功ばかりしか念頭に置けない
ような小人的精神構造の人間が権力の座に就くようなことから取り締まって行かねばならない。
そのような人間が無数に群がっている世相ともなれば、公権力者こそを取り締まる監察官身分の
人間に絶大な権限を与えて、厳重な取り締まりを講じて行くことまでもが必要となるであろう。

「君子は〜紅紫を以って褻服と為さず」
「君子は紅や紫のような間色を礼服に用いない。(理由は上記の通りである。皇帝からして
紫を礼服に用いていた当時のローマ帝国自体、誰も礼儀を知らぬ人畜の世だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・六より)

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112 2014/01/12(日) 14:46:30 ID:ydtckWUNJ.
斉の桓公のように重臣に諌められて使用を中止するようなこともないままに、
ローマ皇帝が紫色の礼服を用い続けたのは、本人たちが真っ当な礼法に疎いのみ
ならず、ローマ帝国全体が礼法の何たるかも知らない人畜の集まりであったから
でもある。そんな中で、人類を滅亡に陥れる程もの邪宗門が生じてしまったのも、
帝国全体にとっての落ち度であった所すらもがあるわけで、決してその教祖たる
イエスばかりが、独立独行の大悪人であったなどということも言えないのである。

あまり大人数の人間を一律な処罰下に置くことも、現実的に無理がある。
そのため「六韜」の虎の巻などにもあるとおり、便宜的に責任者を少数に絞って、
その責任者だけを厳重な処罰下に置くということが実効支配上のセオリーとして
有効となる。じゃあローマ帝国を始めとする西洋社会における聖書信仰災禍の責任者
として槍玉に挙げられるべき人間はいったい誰なのかといえば、それは確かにイエス
でもあり得るだろう。「あり得る」というのは、必ずしもそうではないからでもある。

イエスの言行の全てが本人の独断で行われたのならば、確かに本人の責任となる
だろうが、何らかの裏方がいて、それに乗せられてイエスも妄言妄動を来たした
挙げ句に、ローマ帝国中に冤罪劇による司法の機能不全化をもたらした可能性もある。
司法と共にローマ帝国の国家的権威までもが瓦解した結果として、政商などの不正な
立場に即してコンスタントに暴利を巻き上げることが可能となった連中がいたのかも
知れない。そのような連中が居たとするなら、そいつらこそは邪教災禍の最高罪責者
であったといえる。イエスはそれに乗せられた共犯であったといえ、イスラム教徒が
主張しているように、実際には刑死もすることなく平然と生き延びていたのだ
とすれば、それはそれは凶悪な権力犯罪工作員の一員であったともいえる。

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113 2014/01/12(日) 14:51:09 ID:ydtckWUNJ.
実際問題、今の西洋社会でも、聖書信仰によって一定以上に国家の権威が損なわれて、
民衆の権限が強化されているようでいながら、実際には民間の富豪あたりが利権を
牛耳っているという状態が常套化している。日本でも明治以降にそのような世相が
輸入され、敗戦後に天皇制までもが決定的に形骸化したことによって、その風潮も
確立されてしまった。聖書信仰が解禁されたり享受されたりするせいで、洋の東西を
問わない世界中の国々で、国家権力から民間の富豪へと主権が明け渡されてしまって
いることからも、聖書信仰というものが本来から民間の権力犯罪者を肥え太らせる
ことを目的としてでっち上げられたものであろうことが察せられるわけである。

然れば、聖書信仰災禍によって人類の滅亡までもが間近に迫っている今の世界に
おいて、その最高責任者として処罰されるべきなのも、聖書信仰を是認する世相に
よって暴利を巻き上げてきた民間の富豪でこそあるといえる。本人たちが必ずしも
確信犯としてカルト信仰に乗じた権力犯罪を積み重ねて来たとも限らないし、別に
聖書信仰勃発時の古代ユダヤ人の正統な血流を汲んでいたりするわけでもなかろうが、
それでもやはり、聖書信仰による破滅の危機を免れるための最たる処罰対象としては、
聖書信仰によってこそ暴利を稼ぎ挙げて来た界隈の現代人こそが挙げられるのである。

各種の聖書教団も、民間の権力犯罪を煽り立てる旗頭であればこそ根絶の対象
とされるし、実物の権力犯罪との関わり合いが深ければ、それに即して処罰の対象
ともなる。聖書信仰こそは致命的な権力犯罪の元凶であるのだから、根絶の対象と
して最優先となるのは当然それであるわけだけれども、それと同時に最優先の処罰の
対象となるのは誰かといえば、それはむしろ、聖書信仰によって暴利を巻き上げてきた
「聖書信仰の消費者」のほうである。本人たちはさして信仰にかけて敬虔でもなかったり、
逆に反キリスト主義を掲げてすらいたりするわけれども、それでも最大の処罰対象と
なる人間はそこにこそいる。聖書信者一般のうちには、強制的に改宗させられた
貧困国の困窮者などもいるわけだから、最優先の処罰対象にまでなるとは限らない。

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114 2014/01/12(日) 14:53:02 ID:u79wwZXxvc:au
「吾れ未だ己れを枉けで人を正せる者を聞かざるなり。況んや、己れを辱めて
以て天下を正せる者をや(ここまで既出)。聖人の行いは同じからず、或いは
遠く或いは近く、或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰するのみ」
「私は未だに己れを曲げて人を正せた人間というのを聞いたことがない。ましてや、
己れを辱めることで天下を正せるた人間などはなおのこと。聖人の行いにも異同が
あり、場合によっては権力から遠ざかったり逆に近づいたり、消極的だったり
そうでなかったりするものだが、要は『わが身を潔くする』という所に尽きている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)

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115 2014/01/13(月) 15:21:38 ID:QodIxLKM0c
「父母の〜衣裳綻裂すれば、箴に紉して補綴せんと請う」
「父母の衣装が綻んだり裂けたりした時には、自らが針に糸を突けて修繕する
ことを希う。(神幕は神にとっての衣装なのだから、神を我が父とみなす者が
それを裂くなど不孝の極みであろう。むろん、礼など知らぬ世界の話であり、
それでイエスを神の子だなどと認めた周囲の人間も蒙昧の徒だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)

すでに、多くの人間が聖書信仰の心がけなどを下火と化してしまっている
今の西洋においても、「キリスト的なものの霊験」というものを否定するよりは
肯定したいぐらいの心持ちでいる人間が大半を占めている。そのあたり、信教
の自由を認めながらも、そもそキリスト的なものの霊験からして認めるよりは
認めないでいたい人間が大半を占めている日本などとは異なる点であるといえる。

家庭円満や無病息災を尊ぶ神道文化だとか、諸行無常や諸法実相といった真理
を尊ぶ仏教文化だとかを先祖代々重んじて来ているものだから、それらの文化
習俗に決定的に相反する要素を多々含んでいる聖書の神の霊験からして、むしろ
あり得ないものであったほうが好ましい。キリスト的なものの霊験が実在した
場合にのみ得られる自由なども、むしろ得られないほうが好ましいといえる。

そして実際、キリストの霊験などあり得ない。神父だ牧師だも舌先三寸で相手を
言いくるめることでの折伏を試みていたりするだけで、肝心の聖書にある通り
の奇跡などは、粗末な種のある手品でもない限りは、全く以って起こりはしない。
文化的素養の乏しい未開の野蛮人あたりなら、宣教師の口先やちょっとした手品に
丸め込まれて入信させられたりすることもあるだろうが、そもそもがキリスト的
なものの霊験が実在しないほうが好ましい部類の文化習俗にドップリと漬かって
来ている人々を、聖書に書かれている通りの奇跡を神の業によって引き起こせる
わけでもないのに改宗させてやれるなんてことがあるはずがないわけで、まず
そのような既存の文化習俗への親しみを損なわせるのでもなければ、多少の
強制改宗の余地が生ずることすらもが永久にあり得ないこととなるわけである。

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116 2014/01/13(月) 15:25:24 ID:QodIxLKM0c
しかし、古来の神仏文化に基づいて精神的成熟度を高めて来た日本人こそが、
近代以降にはあっという間に機械文明の習熟度の水準ですら西洋人に追いつき、
ここ数十年の最先端科学技術の発展への貢献にかけては西洋人を凌駕するまでに
至った。量子論や相対論を始めとする現代科学理論がむしろ、キリスト教的な
世界観ではなく、東洋的な世界観や宇宙観に即すればこそ進展の余地が見られる
ものでもあったために、日本人が昔ながらの精神性を保ちながらの文明発展を
試みればこそ、西洋人には成し得なかったほどの功績を挙げられもしたのだった。

そのため、今さらその日本人にとっての伝統的な精神性を損なってまでもの
聖書信仰への改宗などを促したならば、そのせいでの世界規模での文明の衰退
すらもが危惧される事態となってしまう。キリスト的なものの霊験を肯定よりは
むしろ否定したがるような精神性こそが、もはや世界文明の発展すらをも主導して
いるのだから、むしろ西洋人を含む世界中の人間がそのような精神性のほうに倣
っていくようにしたほうが、より前進的な将来が見込まれることともなっている。

キリスト的なものの霊験をむしろ認めたがらないぐらいの精神性でいたほうが、
むしろこの世界この宇宙の構造を精確に把握できるが故の科学的、技術的発展
の余地すらもが見込める。むしろそれでこそさらなる自由の獲得すらもが期待
できるというのだから、そもそもが自由の獲得が根本目的の一つであった聖書
信仰の存在目的自体が、すでに雲散霧消してしまっているのだとすらいえる。

無論、天上での永久の命の獲得の如き、聖書信仰によってこそ叶えられるとされる
霊験が、東洋的な精神性に基づく今以上の文明発展によって可能となるわけでもない。
諸行無常や諸法実相といった仏法こそが、東洋精神を司る最たる本義でもあるわけだから、
そのレベルの成果を挙げようなどとすることからして目指されない。そのレベルの
放逸三昧を望みとしてですら絶てばこそ、この世で本当に可能となる範囲での最大級
の自由が獲得されても行くのだから、自由も現実的に追い求めるか、ただただ無制限
に追い求めるかで決定的に位相が食い違うものであることまでもが分かるわけである。

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117 2014/01/14(火) 15:35:50 ID:icxuorMdzM
実際に霊験のあるものをあるとして、ないものをないとすれば、そこで霊験の
ある神仏に対する畏敬が備わる。それが敬うべき目上の人間への畏敬に敷衍されたり
することにもなるわけなので、むしろ神仏の霊験の有無や巧拙を厳格に判別して]
行くことこそが、礼楽統治を推進して行く上での推奨に値する姿勢ともなる。

霊験がなかったり稚拙だったりするような邪神こそを崇めたりすれば、
そのせいで信者があらゆる畏敬心を損ねて思い上がりばかりを募らせることとなり、
以て礼楽統治の妨げにすらなってしまうため、当然廃絶の対象となるほうが好ましい。

アブラハム教はおろか、仏教すらまだ伝来していなかった約2200年前の中国で、
前漢の武帝が儒学の国学化による礼楽統治の強化を試みると共に、泰山での封禅を
始めとする盛大な祭祀事業にも取り組み始めていた。その取り組みの様子が「漢書」
郊祀志などに記録されているが、そこで祀られている神はといえば、言ってみれば
「玉石混淆」なものであった。主に仏教文化の発達を通じて、宗教文化が円熟を済ませて
しまっている今の価値観に即すれば、今でも信仰に値するような神もいれば、値しない
ような神もいる。妖怪あたりとしてならまだ持て囃しようのありそうな拙劣な神すら
もがくそみそに崇められていて、そのため欒大のようなエセ方士が宗教利権の肥大化に
ことかけての専横を働いた挙げ句に誅戮されるような事件までもが起きてしまってもいる。

主に武帝の代で最盛期を迎えた前漢の祭祀事業は、帝国にとっての大きな財政的負担
となり、迷信に囚われた朝廷に代わっての軍部の台頭を引き起こす温床ともなった。
それが遂には将軍王莽による帝位の簒奪という形での前漢の崩壊すらをも招いて
しまったのだから、迷信の害悪度たるや、時に国を滅ぼす程のものであるのだと言える。

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118 2014/01/14(火) 15:39:36 ID:icxuorMdzM
上に書いた通り、今ではもう、仏教文化による精査を通じて、神仏の霊験の有無や
巧拙の判別が東洋社会で済まされてしまっている。仏教自体は神格信仰ではないが、
方々の土着的な神格信仰と習合されて共に尊崇されるのと引き換えに、当地の神格信仰
を洗練させて、科学の発達と共にすら存続して行ける程もの完成度を付与して行った。
日本神道の最高神を祀る伊勢神宮すらもが、外宮の造営に真言密教の助けを借りるなど
しており、それでこそ神格としての格調をより高められてもいる。そういった神仏文化の
洗練があればこそ、武家政権が朝廷の権限を乗っ取るようなことが日本では防がれて来ても
いるわけだから、正統な神仏信仰が鎮護国家の効用を持つこともまた確かなことだといえる。

現状、仏門による神格信仰の監察を受けて来ているのはインド以東の東洋社会のみであり、
しかも、それももうとっくの昔に下火と化してしまっている。発祥地であるインドでも
すでに仏教は滅び、日本も廃仏毀釈で、中国も共産化で仏門の権威を決定的に毀損した上で
今に至っている。特に、日本と中国は資本主義や共産主義といった西洋的イデオロギーを
取り入れるために仏門を損壊せしめる必要があったわけで、この事実一つをとっても、仏教
文化と西洋文化こそは決定的に相容れないもの同士であることが自明となっているといえる。

実際、西洋文化こそは、本格の仏門による精密な監察などを受けるまでもなく、仏教的価値観
に即して非とされることが紛れもないものである。古来の聖書信仰やギリシャ学の内容からして、
すでに仏法に決定的に違背しているものばかりだし、そこから派生して来ている諸々の後代の
西洋の人文学もまた、陰に陽に仏法に逆らおうとしたものであり続けている。科学ともなれば、
仏門では「無記答」に処される純粋な概念論であるため、仏門による糾弾の対象にすらなら
ないが、やはり仏門がそうする理由である「概念は真理に当たらない」という論説に即して、
有益である程にそれ相応に有害でもある「マッチポンプの種」でばかりあり続けている。

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119 2014/01/14(火) 15:39:49 ID:viJ2OUXJb2:au
今一度、洋の東西を問わず全世界の宗教文化文明全てが、仏法の監察下に置かれてみればよい。
それで西洋文化の致命的な問題性が看破されるのみならず、西洋文化の取り入れのせいで深刻な
文化的、社会的腐敗を来してしまっている東洋社会までもが健全化を享受できるようになる。

仏教の発祥地であるインドこそは、いま世界でも最底辺の経済水準にある上に、東洋でも西洋
でもなく、「世界の中心」とでも見なされるべき実質的な地理条件にもあるわけだから、東洋人
も西洋人も、全くの第三者的異世界からの公平な文化的精査を受けるものだと考えればよい。
西洋だけでなく、東洋でも仏教到来以前には相当な迷信がまかり通っていたことが、前漢武帝の
祭祀記録などで明らかであるわけだから、西洋人ばかりが迷信の過ちを恥じる必要もないのである。

「古えは〜墓地を請わず」
「古代には、官給の墓地などが必要とされることはなかった。
(墓地はあくまで私的なものであるため、公私混同を避けていた。
議員や総督が無名の私人の墓を作ったりそれを認めたりしていたあたり、
やはり当時のローマ帝国からして非礼の横行する土人社会だったことが確か)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

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120 2014/01/15(水) 13:59:11 ID:lVzm7/0JL6
人間社会が、集団意思の狂乱に征服されてしまった挙げ句に
騒乱状態に陥ってしまう所には、一定の条件が存在する。

・人々の無責任性が増長する程に雑多な都市社会であること。
・特に狂乱に駆られやすい女子供や小人男への身分からの抑制が疎かであること。
・人々の心の平安を司るような正統な信教が皆無ないし弱小であること。

以上のような条件が整っている所に、狂乱を煽るような何らかの情報工作が
加えられた場合に、世の中はあっという間に騒乱状態に陥ってしまう。そして最悪、
傾国や亡国級の災難を招くし、そうでなくても、自国での安住の余地を奪われた
人々が半難民として外界へと脱出しての侵略活動に及んだりすることになる。
あえてそのような事態を招かないようにするためには、

・人間社会を家単位で厳重に管理して、個人の無責任性の増長を食い止める。
・女子供や小人男への身分的抑圧による発言権の厳重な抑制を講ずる。
・人々の心の平安を司れる正統な神仏信仰を奨励する。

といった対策を講じながら、さらに反社会的勢力による情報工作での
騒擾などを厳重に取り締まって行くようにしなければならない。

講じねばならない対策があまりにも多い上に、一つ一つの対策からして極めて
難儀なものとなることが見え透いていて、なおかつそれらの対策が功を奏して平和な
世の中が確立された所で、そこでは騒擾犯たちが情報工作の一環として持て囃していた
民衆主権や行為能力の自由などが大幅に制限されて行くことにもなるのだから、生半可な
覚悟や達観でそれに取り組んで行くことなどはまず無理である。世界規模の騒乱のせいで
全世界が致命的な破滅の危機に陥っていて、なおかつそのような世の中を本気で建て直して行く
聖賢の志しが自らにもあるといった、環境と自己両面からの準備が整っているのでもなければ、
聞こえだけはいい「世直し」というものも、なかなか取り組んで行くことも覚束ないままとなる。

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121 2014/01/15(水) 14:09:02 ID:lVzm7/0JL6
その条件をたまたま満たせているような人間からして稀有であるものだから、
結局は世直しのために、世直しを講じて行く権力機構における封建的な秩序構造を
構築して行くことまでもが必要となる。誰しもが上記のような手順に基づく世直しを
心中からの誠意と共に講じて行けるのならそれに越したことはないが、実際の所、
それは不可能にも等しいので漢の高祖劉邦のような天運と仁徳の素養両方に恵まれた
人間を世直しのリーダーに仕立て上げての改革に臨んで行くことが便宜として必要になる。

そしてそのような封建機構が構築された結果として、その機構すら保って居られれば、
世代交代によって機構の構成者が移り変わるのであってもそれなりに平和維持機能を
保全して行くことすらもが可能ともなる。世襲で後を継いだ主君が、自らの放辟邪侈で
組織を致命的な腐敗に追いやってしまうほどの暗君ぷりを発揮するのでもない限りは、
先君の事業をただ忠実に引き継いで行くだけでも、治世を存続して行くことが可能となる。

健全な封建社会が長期の泰平を実現して行ける根拠たるや、斯くの如くであるけれども、
今の所、封建統治によって恒久平和を実現することができた王朝や幕府も存在していない。
それは、最高級の成功を克ち得た漢王朝や江戸幕府のような封建機構といえども、中国や
日本といった部分の統治を講じただけの存在であった上に、蛮族匈奴や悪徳商人や
反幕勢力の如き不穏な勢力の存続すらをも許容したままでいてしまっていたからである。

いま、全世界が総出を挙げて健全な封建機構による地球社会の平定に取り組み、後々の
不安の種となるような不穏分子の根絶にも臨んだならば、それによる恒久平和の獲得すら
もが可能となるであろう。かつての聖王賢臣や名将たちの末裔も健在であるようなら諸国の
統治のために復権して、未だかつてまともな徳治も敷かれたことのないような異界に至るまで
の平定に取り組んで行ってもらったならば、やむ無くかつての王政を途絶させられた借りも
返せる。そうして、人類という種族が存続する限りにおける恒久的な治世が確立されて行く。

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122 2014/01/15(水) 14:12:00 ID:6wIMGvIdcI:au
世界規模の騒乱が即座に核戦争での人類の滅亡に直結することとなってしまった現今において、
それはもはや地球人類にとっての、嫌でも避けようのない運命とすらなっているのである。

「墓門に棘有り、斧以て之れを斯る。夫や良からず、国人之れを知るも、
知りて已まず、誰をか昔より然らんや。墓門に梅有り、鴞有りて萃まる。
夫や良からず、歌いて以て之れに訊ぐ。訊げれども予を顧ず、顛倒して予を思いかえさん」
「墓の入り口にナツメの木が生い茂っていて、人々は平気でこの木を斧で刈り取って
持ち帰っていく。この墓に眠る人は生前に素行不良でいた。みんなそれを知っていたのに、
それでも改めようとすらしなかったものだから、昔からこのようなままであり続けている。
墓の入り口に梅の木が生えていて、悪鳥のフクロウがこの木に集い止まってる。この墓に
眠る人は生前素行不良でいた。私も歌に乗せてまで彼に忠告をしたのに、彼は私を顧みよう
ともしなかった。あの世で考え方を根本から改めることで、初めて私の忠告をも思い返す
ことだろう。(墓荒らしは故人の生前の素行の不良さを象徴する最たる現象である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・墓門)

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123 2014/01/16(木) 14:53:49 ID:go4vgaXVa.
「世界最古の女の職業は娼婦」などと言われることがあるが、これは当然、主婦や機織りのような、
古来からの女の「生業」を除いた場合の話である。女が独立的に金銭を得る「稼業」の内で最古級に
当たるのが娼婦であるだけで、これは「世界最古の男の職業は庭師」などという主張についても
全く同じことが言える。(より古くからの男の生業には、狩猟や農耕や為政者などがある)

娼婦にしろ庭師にしろ、大した職業ではない。どちらもこの世に欠くべからざる職業などではないし、
特に娼婦は奴隷とも並ぶ最低級の賤業として、ひっきりなしの規制の対象となりながら辛うじて存続を
黙認されるような扱いばかりを受けて来ている。そのような賤業中の賤業こそは、金融経済の発達した
都市社会で女が初めて手を出し始めた稼業であるらしいという事情からも、金融経済がいかに不必要で
粗悪な稼業の自由ばかりをこの世にもたらして来たのかまでもが知れるのである。

その、金融経済を国家規模や国際規模での本是として、元来カネで取り回すべきでもないようなものまで
全てカネで取り回すようにしてしまったのが資本主義社会であるわけだから、その奇形的な試みに即して
当然、世の中も大荒廃の様相を呈することとなった。食糧までもが資本家による寡占や投機の対象となる
ことで自然には起こらないレベルの大飢饉を招き、物作りまでもが資本家の指先一つで右往左往
させられることによる産業の空洞化という問題をも来して、資本主義先進国の雇用情勢の悪化
などという本末転倒の事態までをももたらたすこととなってしまった。

娼婦のような賤しい稼業が、多くの規制を受けながら辛うじて存続して行く程度のものとして、
金融経済が部分的に黙認される程度のことがあった所で、江戸時代の日本のような一定度の安定が
得られたりもするわけだから、決して共産化によって金融経済を滅ぼし尽くしたりまでする必要もない。
(共産化は共産化で、大規模な都市社会には不相応なほどに過剰な潔癖主義の強制となってしまう)
ただ、できることなら関与を避けるべきもの、社会的信用や品位も最低級なものとして金融経済や娼婦
が扱われさえすればそれでいいだけなのだから、むしろそうするほうが常識に適ってすらいるといえる。

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124 2014/01/16(木) 14:57:17 ID:go4vgaXVa.
自分たちが口先八丁手八丁で構築して来た金融経済への人々の盲目な信用こそが、資本主義の蔓延する
国際社会を大荒廃へと陥れてしまったのだから、その張本人である連中もむしろ、進んで金融経済の
大破綻こそを甘受すべきである。それにより金融経済の信用性を根底まで突き落として、この世に
元来不必要な賤業としての相応な扱いを受けて行くようにすべきなのである。それでこそ、元来から
無責任な立場である金融経済の元締めとしての、分相応な責任が取られることになるといえる。

「娼婦と金融業者の口先ほど信用のならないものはない」と、誰しもがわきまえるようになったならば、
それだけで今の世の中の全ての致命的問題も解消されて行くに違いない。ただ、そこに至るまでの道程に
おいて、あまりにも多くの虚構の信用がWTCのようにして崩壊して行く必要があるわけで、その崩壊から
なる絶望にうちひしがれて行くことを受け入れなければならないことが、大いなる苦難となるわけである。

「昬姻を懐うは、大いに信無し、命を知らず(既出)」
「男女の交わりばかりに専らな淫奔者に信用はない。そのような人間は天命も知らないから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・蝃蝀より)

「今商王受、〜姦回を崇信す。〜爾じ其れ孜孜として、予れ一人を奉じ、恭しみて天の罰を行え(一部既出)」
「いま殷の紂王は、姦邪の徒こそを信じ崇め立てての暴虐を働いている。汝ら臣下は懇親を込めて、
我れ(武王)一人の責任の下に、慎んで奴らへの天罰を実行に移すがよい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)

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125 2014/01/17(金) 15:31:53 ID:zZevEmjNsA
「其の為さざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲することなかれ。此の如きのみ(既出)」
「してはいけないことはしない、欲してはならないことは欲しない。君子の道はただそれだけのことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一七より)

孟子の言う「してはいけないこと」とは、もちろん善悪で言う所の「悪」である。
勧善懲悪(左伝)を至上命題に掲げる儒家の正統な後継者として、孟子も悪を為さないことを
本是としつつの遊説活動に臨んでいた(その結果として、罪悪まみれの世に受け入れられなかった)。
では、その悪とは何なのかといえば、それは「権力犯罪」である。大権力者が無責任で濁欲まみれな
妄動に及んだ挙げ句の社会荒廃こそを悪の最たるものと見なしていたからこそ、孔子や孟子も
厳重な修身と共なる公権力者としての活動を自他に促していたのである。

権力犯罪こそを悪の最たるものと見なすことは、善とか悪とかいった言葉の定義に
即して自明なこととなる。言葉というもの自体、人間同士が社会活動を営んで行くための
意思疎通の道具として編み出されたものであるわけだから、その言葉が「悪」という言葉に
よって指し示さねばならないものもまた、社会を一概に毀損するものでなければならぬ。
そして、この世に最大級の害悪を及ぼす現象といえば、それは民間犯罪でもなければ
自然災害でもなく、権力犯罪でこそあるわけだから、権力犯罪こそは、悪という言葉に
よって指し示されねばならない最も純然たる現象であるということになるわけである。

では、権力犯罪の中でも最も凶悪なものは何かといえば、それは「政商」である。
儒学がそれなりに通用していた頃の中国や日本においては、士農工商の身分秩序なども
それなりに行き届いていたものだから、権力にものを言わせる商売人などというもの自体からして
あまり生じ得なかった。そのため儒家教学上で政商が問題視されているようなこともあまりないが、
古くは「書経」における桀王や紂王の暴虐の記録内にも政商的な鼠賊の暗躍が垣間見られるし、
中国史上最悪級の暗黒帝国であった秦帝国も政商呂不韋の暗躍によって築かれ、中国史上
最良級の文化大国であった大唐帝国も塩の闇商人の政商然とした暗躍によって滅ぼされている。

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126 2014/01/17(金) 15:40:06 ID:zZevEmjNsA
北宋以降の中華帝国に至っては、権力者が政商からの賄賂で懐柔されるのがデフォルトと
化してしまったために、もはやろくに政商行為を糾弾するような論調からして見られない。
(辛うじて「呻吟語」などに権力腐敗を嘆くような論調が垣間見られる)勧善懲悪を旨とする
儒家といえども、あまりにも凶悪すぎて捕捉しきれないままであり続けて来たのが政商だとも
言えるわけで、この世における究極悪たる政商への警戒を怠り気味であり続けた挙げ句に、政商行為
の完全な開き直りである資本主義の覇権までをも招いてしまったことは、これまでの儒者にとっての
落ち度だったともいえるので、これからは改めて用心を心がけて行くようにしなければならない。

元来、「商」とは小売業のような最底辺の商売を除く経営業のことであって、
小売業は小売業で「賈」という言葉でまた別に定義されていた。そのような元来の意味に即した
「商」は、儒学も武芸も嗜んでいないような文民の公務員と事務処理面などであまり大した
差異が見られないために、両者が癒着することにもさしたる障害が伴うようなことがない。
そのため、儒学も武芸も存在しない西洋社会などにおいては、政商行為が完全な野放しのままで
あり続けて来た。旧約聖書への信仰の下で政商活動を試みるユダヤ教徒などに対する警戒は
それなりに行われて来たが、そもそもが「政商」という行為自体が言語構造上からの究極悪
として警戒対象となることは皆無のままであり続けて来た。そのため、ユダヤ教徒が
自分たちの政商活動を捗らせるための悪巧方便として拵えたキリスト教などを総出で
信じたりもしてしまったわけで、これはさすがに、儒学に相当するような権力道徳学が
ほんの少しでも認知されてすらいれば、決して起こり得なかった大失態だったといえる。

返信する

127 2014/01/17(金) 15:40:26 ID:vQT3uBn/Uw:au
人間社会と、人間が用いるものとしての言語とが、その原理的な構造に即して
「究極悪」と定義せざるを得ない政商という行為や人員の残存を決して許さないこと、
それが正しい名辞に即した勧善懲悪を志す儒家にとっての本分となる。儒家の祖である
孔子や孟子自身が政商を直接的な糾弾の対象としていたわけではないが(孔子が弟子の
子貢の投機活動を卑しんでいた程度の記録はある)、結局の所そうであることが、儒家の
教理と政商による歴史的な惨暴の数々とを鑑みることで論理的に導き出すことができる。

この世における勧善懲悪を志すからには、究極悪たる政商の活動を推進する聖書信仰や
洋学の如き邪教邪学の根絶や制圧も必須となる。それらが当たり前のように市民権を得て
しまっている現代においてはなかなか信じがたいことではあるだろうが、それらを討伐する
ことこそは確かに、言語というものの根本的な構造に根ざした「勧善懲悪」となる。それは、
人間社会においてそれなりに通用するものとしての言語を構築して来たことには変わりない
アルファベット圏である西洋社会などにおいても、全く共通していることなのである。

「刑の濫りならざるは、君の明なり。臣の願いなり。淫刑して以て逞しくせんとせば、誰か則ち罪無からん」
「刑罰が妄りでないことは、賢君の聡明さの現れであると共に、能臣たちの願うところである。
妄りな刑罰で何かを正そうとすれば、罪のない人間などもいなくなってしまうだろう。
(イエスの磔刑のような妄りな冤罪劇によって一切皆罪の無法状態が招かれ
たりしないようにすることこそは、真に願われるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十三年より)

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128 2014/01/18(土) 14:45:46 ID:A/SmD8MKKc
[YouTubeで再生]
・歩行時に大手を振ってバランスを取りながら歩く→ゴリラやチンパンジーもやっている。
・背筋をよく伸ばして胸を張る→自立時のチンパンジーがやっている。
・相手の目を見て付き合う→ゴリラがやっている。
・挨拶時にお互いの急所(手、陰部など)をこすり付けあう→ボノボがやっている。

今では日本人などもやらされていることの多い、上のような西洋特有の習慣こそは、
実はサルもやっている。昔の日本人はさにあらずで、むしろ西洋の習慣を
取り入れてしまったせいで文化的な退化の様相を来たしてしまった。実際に
そのせいで、足腰の弱体化や注意力の欠如などの問題を来たすことともなった。

「何もかも西洋が一番優れている」などと考えるのはさすがに誤りであることが、
洋の東西を問わぬ世界中の人々にいい加減考え直されて来ているが、実は西洋こそは、
人間自身の身のこなしのような最も根本的な部分でサルにも等しい未開さ加減のままで
あり続けているという所にまでは、まださすがに配慮が足りないままであることが多い。

それは、信者の知能をサル以下にまで引き下げる聖書信仰などを自分たちの文化発展の
取っ掛かりにしてしまったことからも避けられないことであった。始めに多いなる過ちを
犯してしまっているものだから、後付けでどこまで埋め合わせを試みても、どうしたって
根本の部分で決まりが付かないままであり続ける。そのような「王様は裸」状態での過ち
と埋め合わせのマッチポンプの悪循環がどこまで行けるのかを試みるのが、世界が無法
状態のままで在り続けた限りにおける、西洋人に課せられた運命であったのに違いない。

サルがごく少数の村社会を形成することしかできないように、「サル以下教」たる
聖書信仰の呪縛に囚われたままでいる西洋人もまた、村社会以上に大規模な社会を健全に
運営して行ったりすることができない。今の欧米社会がそれなりに安定的であるように
見えるのも、聖書信仰の深刻化をそれなりに自粛していると共に、大航海時代以降に
世界中から奪い取った既得権益でどうにか蒙昧な市民たちを食わせてやって行ってるから
なわけで、そうでもない限りにおいては確かに、聖書信者こそは「万人の万人に対する
闘争状態」を自分たちの間で講じ続けることしかできないままで在り続けるのである。

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129 2014/01/18(土) 14:58:00 ID:A/SmD8MKKc
都市社会を全くの自力だけで営んで行けるだけの素養が聖書圏以外の人間にはある一方で、
聖書圏の人間にはない。古来から極度の内乱や外界の侵略を繰り返し続けることだけで
何とか保たれて来た聖書圏こそは最も危うい人間社会であり、まず地球上の人類社会の内で
どこかが真っ先に壊滅の憂き目に合わせられることがあるとすれば、それも聖書圏でしか
あり得ない。現状ではもはや、聖書圏の核兵器が全人類を滅ぼし尽くすまでもの威力を
帯びてしまっているものだから、滅亡するとすれば全人類が一緒に滅亡することとなる
可能性のほうがたかいわけだが、そうならない限りにおいてはやはり、致命的な狂乱の
種を抱えた聖書圏こそが、経済破綻などの形での早急な壊滅に陥ることが免れられない。

サルレベルの精神構造や文化習俗しか持たない人間集団が、見てくれだけ真人間を装っての
社会運営などを試みたりしたこと自体、始めから無理の押し通しだったのであり、それが
2000年もの長きにわたって持ち応えてきたことのほうがむしろ奇跡だといえる。いま聖書信仰
に陥ってしまっている人々も、決してサル未満の知能でしかいられない先天的な精神障害では
ないわけだから、そうでい続けることからなる精神薄弱の酩酊から目を覚まして行くのであれば、
それでやり直して行くこともできなくはないはずである。聖書信仰こそが自分たちの精神的な
拠り所であり続けて来たのにも違いないが、むしろサル以下の知能を持て囃すような悪習を拠り
所として来たことこそを恥じて、いい加減に蛮族の群れであることから卒業すべきだといえる。

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130 2014/01/18(土) 15:02:03 ID:sH4bF31jMU:au
「天乃ち王に勇智を錫い、万邦に表正し、禹の旧服を纘がしむ。
茲に厥の典に率いて、天命を奉け若う。夏王罪有り、上天を矯り誣いて、
以て命を下に布く。帝用て臧みせず、商を式て命を受けしめ、用て厥の師を爽らかにす」
「天も我が君(湯王)に勇知を賜り、万邦を正して禹王の帝業を継承されました。
そのため君も正しき法に基づく統治を敷く形で、天命に基づく革命をも実行に移されたのです。
夏の桀王には大いなる罪がありました。天の意向を騙って、人々を虐待することこそを
命として天下全土に敷こうとしました。天帝も決してこれをよしとせず、殷に天命を授け替える
こととし、人々の従うべき相手が誰であるのかを新たに示されたのです。(民を虐待する
ことを天命の内に組み込むなど、明らかに天を騙る詐欺師の所業である。そんな悪党が、
イエスが生まれる1500年以上も前に「はりつけ王〈桀王〉」という名ですでにいたのでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)

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131 2014/01/19(日) 16:11:03 ID:BC1J4qNn/I
「心」というものの根本からの矯正なり鍛錬なりといったものを、東洋人は昔から心がけてきたが、
西洋人はそれこそを忌み嫌って来た。心がグニャグニャで何ら評価するに値しないような小人が
そのままで外見や言行だけはそれなりに見れたものとなったり、災難に遭っても救われたりする
ことこそを好き好んで追い求めて来た。その結果が、悪いものを全て外界に押し付けた挙げ句の
全世界規模での破滅の危機の招来であったわけで、心という部分から正されて行くのでなければ、
大局からの改善なり向上なりが見込めることも決してない、最たる実証例になっているといえる。

心が何者からの侵害も受けず、また自力での矯正を心がけたりする必要もない、それこそは「自由」
であるともしてきた。禅僧が精神修養によって心の自由を獲得しようとしたりするのとは全く逆の
意味での心の自由を西洋人は欲して来たわけで、その結果としてサルを始めとする禽獣ともさして
変わりないほどに不具まみれの駄心ばかりが呈されることとなった。それはたとえば、勉強によって
知能を高めたり、スポーツや軍事教練によって体力を付けたりしているような人間であっても変わり
ないわけで、だからこそそのような素養を自分個人の経済的成功のためにしか用いようともしない。
自らの能力を我田引水目的でしか活用しないことが大局からの経済破綻を招くことにまで誰も配慮が
行き届かないままで在り続けて来たのも、自分たちが精神の不具を抱え続けてきたからに他ならぬ。

サルを含む禽獣が吠え掛かったりしてくるようにして、心がグニャグニャな小人もキレることぐらい
はできる。それで自らの心への干渉を防ごうとしたりもできるわけで、西洋人が「神の怒り」などと
呼んでいるものの正体もまさにこの部類の情動失禁に他ならない。もちろんそれが精神の強さなどから
派生しているわけでもなく、弱さゆえのその場しのぎの火病の発症に過ぎないわけだから、それによって
グニャグニャな心が守られるようなことなどがなるべくあるべきではないし、そのような自己防衛本能
の発露などをカルト宗教やエセ文学などによって正当化したりすることもないようにしたほうがよい。

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132 2014/01/19(日) 16:17:05 ID:BC1J4qNn/I
ただ、全く心の修錬などを志す気もないような人間が、何らの防備もなくただただ心を痛め付けられる
ような仕打ちばかりを加えられたりしたならば、そのせいでPTSDなどと呼ばれる精神疾患に見舞われたり
することにもなりかねないわけだから、人の心への干渉などはあくまで、本人のより一層の精神の健全化
が見込める場合などに限られるべきだし、それとて干渉を受ける側が全く望みもしないというのであれば、
本人が懲罰を加えられるべき罪人でもない限りは、なるべく控えてやるようにすべきだといえる。

最大級に心の修練が奨励されているような世の中といえども、商売人などの中には、心の修錬を始めから
心がけようともしないでいるような人間がそれなりに残存し得る。職務上からいってそんな心がけなど
ないほうが好ましく、犬のように顧客に媚びへつらっていたほうが都合が良かったりするものだから、
そうであり続ける。それはそれで一つの都市社会に住む人間の生き方であるとして存在性ぐらいは認めて、
ただ決して奨励までされるに値はしないような人間の生き方であるという認知を徹底して行くようにする。

いつもの中庸論法ではあるが、必要悪程度の心の無修錬ぐらいは是認されて、不必要悪ですらあるような
心の無修錬の正当化や権威付けだけは廃絶して行くようにすべきである。商売人の駄心ぐらいは認めても、
その駄心をカルト教義などによって守ってやったりするようなことまでは認められるべきでない。この手
の微妙な匙加減を必要とされる統治作業を滞りなく行えるのも君子だけであり、その君子こそは世界でも
最上級の心の修錬を強いられるものでもある。まず自らが過酷な修錬に臨んで行こうとする有志がこの世に
現れるのでなければ、そのような事業を片鱗ほども実行に移せるようなこともないままであり続けるのである。

「共倹以て礼行われ、慈恵以て政を布く。礼以って政成り、民是れを以て息う」
「恭倹さによって礼儀が行われ、慈しみと恵みによって政治が敷かれて行く。
礼儀によってのみ政治も成就し、それによって民たちも安らいで行くようになる。
(治める側が慈しみ深いだけでなく、治められる側もまた相応に礼節を守るのでなければ統治も成功しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十二年より)

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133 2014/01/20(月) 15:40:31 ID:9enI4AG1Mg
「自ら反りみて縮からずんば、褐寛博と雖も、吾惴かざらん。
自ら反りみて縮ければ、千万人と雖も吾往かん(既出)」
「自ら反省して正しくないと思った時には、たとえ相手がボロをまとった乞食であっても道を譲る。
しかし自ら反省しても正しいと思った時には、たとえ相手が千万億の大群だろうとも道を譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)

と孟子が言ったとき、孟子は自分が仁義道徳に即して正しいか間違っているかを念頭に置いていた
はずである。仁徳に即して間違っていれば、自分が世界中の人々を敵に回すことになるから、乞食
が相手でも自らの非を認めて譲ろうとする。しかし仁徳に即して正しいというのなら、自分こそは
世界中の人々を味方に付けていることが間違いないから、その内の部分集合に過ぎない大軍勢などが
相手であったとしたところで、決して道を譲ったりはしない、という風に孟子も考えていたはずである。

正しいか間違っているかを、あくまで自らの内的な基準に即して判断するわけだが、その基準こそが
仁徳に適っているものだから、内向的な判断であるにも関わらず、天下万人をも味方に付ける英断
とすらなる。それは孟子自身が言っている通り、聖人賢人善人常人愚人悪人、どんな人間といえども、
本質的には同じ人間であるという大前提が遍在しているからであり、自分にとって本当に利益に
なることを心がけたならば、それが同じ人間である世界中の人々の利益にもなるように、
人間という生き物がその天性にも即して作り上げられているからなのである。

仁徳に即すればこそ、儒者は常に世界中の人々を味方にすることを念頭に置いている。それは、
全体主義のような稚拙な発想によるものでもないから、むしろ全体の自己相似系な部分集合としての
自分個人や自らの家や、自らの身分に即した君臣関係の洗練にこそ務めて行きもする。そうすることで、
自分個人の主観的・非概念的な判断までもがありのままに天下国家の公益に適うものとなって行く。

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134 2014/01/20(月) 15:44:33 ID:9enI4AG1Mg
全世界、全人類こそは、儒者にとっての天であり「神の主」である。全人類を代表できるものこそは
天帝たり、その天帝の意向に即して自らも業務に従事して行こうとする。選民志向を正当化して
くれる神こそは神の典型であるかのように考えている人間などからすれば、到底受け入れ難いような
神の定義であるに違いないわけだが、神にそのような意味合いを持たせて来た頻度のほうが世界史
的に見てもむしろ多いし、またそうしたほうが、神格信仰が誰しもにとっての利益にもなり得る。

実際、全世界や全人類こそは、神がかりとも呼べるような奇蹟を時にこの世にもたらすものである。
殷周革命による周帝国の樹立だとか、高祖劉邦による漢帝国の樹立だとか、戦国時代の争乱に絶妙な
決まりを付けての日本での江戸幕府の樹立だとか、どこにも不可思議な要素などない人間同士での
せめぎ合いの結果ではあるわけだけれども、それでもやはり神がかっている所がある。「全世界」
といえば、今だと地球社会が最も適当な定義に相当するだろうが、まだ地球社会が完結した世界と
して十分な成熟を果たしていなかった時代に、中原や日本列島の如き一定以上に閉じられた世界での
最善の限りを人々が尽くした結果として、確かに最善級の王道的な政権が樹立されたりもしていた。
その姿がありのままに、形而上にすら届き得る程の神々しさをも伴っていて、まさにそれこそが
神威の発露の最たるものであると考えたとしても、それなりに納得のいく所すらもがあるのである。

そのような、「最善なる全世界規模の人為」こそを神に見立てて行く考え方に慣れてみたならば、
世界や人類と全く乖離した所に恣意だけででっち上げられた超越神などが、いかにお粗末なもので
あるのかまでもが知れるのである。全く以って益荒男を唸らせるに値するような威厳を兼ね備えて
いるわけでもない上に、そのような神の下で引き起こされるという現象もまた例外なく粗悪なもの
ばかりであるのだから、全くそんなものを神とみなしていたい気持ちにもならないのである。

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135 2014/01/20(月) 15:47:46 ID:9E/n/kyTEI:au
家康公のような個人を神格化することも、時には妥当なことたり得るが(本人が本物の努力家
だったりするため)、何よりも全世界、全人類といった大局を形成している事物こそを神と見立てる
ことが、最大級の現実主義と共にであっても納得が行くほどの神格肯定たり得る。形而上に乖離
した超越神などはその条件を満たしていないから、科学によって現実主義が定着して行っている現代
において神仏信仰も下火と化しつつあるわけだが、そのような稚拙な神の定立などはむしろさっさと
卒業してしまって、「大局現象」こそを神と見立てる発想に転換してみればいい。科学的発想を全く
蔑ろにしたりしないままでいながら、神の実在すらをも肯える自分がいることに気づくであろう。

「古の賢王は善を好みて勢いを忘るる。古の賢士も何ぞ独り然らざらんや。
其の道を楽しみて人の勢いを忘るる。故に王公も敬を致し礼を尽くさざれば、則ち亟しば
之れを見るも得ず。見て且つ由お亟しばするを得ず、而るを況んや得て之れを臣とするや」
「昔の賢王は正善を好むあまり権勢のことなどを忘れていた。そのためその王に仕えたり仕え
なかったりする賢士たちもまた、誰一人としてそのようでないことがなかった。自分たち自身が
道義に即することを楽しんで他人の権勢などは歯牙にもかけなかったものだから、王侯たちも敬い
と礼儀を尽くすのでなければ彼らに会うこともできなかった。会うこともできないのだから、当然
臣下にしたりすることもできはしなかった。(権勢を擁する者も擁さない者も、善や道義を好む
のであれば権勢の嵩にかかったりはしないし、また自分以上の権勢の持ち主を恐れたりもしない。
何ものかの権勢にとにかく寄りかかろうとする者自身、善も道義も見失ってしまっているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・八より)

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136 2014/01/21(火) 14:53:18 ID:8sZ22ofHKw
「できることがあればできないことがある」というのが、陰陽法則に司られた
この世界この宇宙すべての事物にかけて普遍的に共通する約束事となっている。

ヒドラは人間のような高等生物ではないからこそ、半不老不死でいられるし、
鳥も脳みそまで小さくなって知能が低下するほど軽量だからこそ、空を飛べる。
深海魚も含水率を極限まで高めた醜怪な容貌だからこそ、深海まで潜れもする。
人間がむしろ満たしたくないと思うような条件と引き換えに、上記のような
生物たちも人間にはないような能力を身に付けているわけだから、人間が
それと同等の能力を手に入れたりすることも憚るべきところがあるのである。

知能の高さや手先の器用さこそが、人間が他の生物と比べて突出している能力である。
体力で人間より突出している生き物はいくらでもいるし、飛行能力、潜航能力、視力、
聴力、嗅覚力など多くの面で人間より優れた能力を備えている生物が多々存在する。
ただ、知能の高さや手先の器用さに基づく道具の多用などで以って、それらの能力
をも擬似的にカバーすることができるため、まるで人間こそは全能に近い生物で
あるかのようにすら考えられがちである。生身で空を飛ぶことはできなくても、
飛行機に乗れば空を飛べる、だから人間も空を飛ぶことができるという風な
三段論法を妥当だと見なすのなら、人間も全能に近づいていると言える。

しかし、だとしたところで、やはり「人間が空を飛ぶ」ということなどにはまた
新たな弊害が伴うことともなった。飛行機が発明されたアメリカという国自体、
数多のインディアンや黒人奴隷の犠牲の下で成り立っていったものだし、発明後にも
飛行機が兵器として用いられることで多くの悲劇をもたらすなどした。旅客機の
事故も人間が引き起こす事故の内で最大級の惨事となるし、遠距離間に至るまでの
人間社会の極度の流動化が、先住者にとって望みもしないような異質な移民に
よる文化的摩擦などの問題を来たし始めることともなったのだった。

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137 2014/01/21(火) 14:59:43 ID:8sZ22ofHKw
一難去ってまた一難ならぬ、一不具合去ってまた一不具合、二不具合といった様相で、
人間が空を飛ぶという事象一つを取っても、決して人間に一概な幸福ばかりを
もたらしたりすることはなかった。空を飛べるようになったことで人間が全能に
一歩近づいたとて、また全能にあるまじき諸問題を別にもたらすこととなったわけで、
これはやはり「できることがあればできないことがある」というこの世界この宇宙の
根本法則に全く違うことなく人間があり続けている典型例になっているといえる。

人間が空を飛ぶことなど夢物語でしかなかったような昔の時代にも、それが始めからの
常識であるというのなら、今よりも幸福だったろうと考えられるような往年の社会が
いくらかは見受けられる。日本のような、大陸と絶海で隔てられた島国の人間が他国
へと遠出に出かけることも、移動手段が船か徒歩か馬ぐらいでしかなかった頃にこそ、
大いなる感動をもたらす大スペクタクル劇であった。今の日本人が中国に赴いたりした
ところで、弘法大師が唐で体験したような神秘劇を体験できたりすることは決してない。
それは、ただ交通が便利になったからというだけではない。交通の便利化に反比例して、
人間たちが踏み止まっている土地で修錬を尽くす頻度も減ってしまったからである。弘法
大師が恵果和尚から土産にもらった法具並みの工芸を凝らしたりする素養が今の中国人に
もはやないからこそ、そこでの感動的な体験などを期待することもできはしないのである。

そして中国がそこまで文化的に荒廃してしまったのも、英欧露諸国が航空攻撃まで
導入しつつの中国の侵略をやらかしたからである(表向きは袁世凱のような傀儡の
中国人権力者を立てたりもしている)。清帝国の崩壊と赤化とによって、中国の文化
も見るに耐えないものばかりと化してしまったが、そこにはいつも西洋諸国の機械文明
による脅しがあったわけで、特に、1917年の張勲復辟後に紫禁城が空爆を受けたことに
戦慄させられたことは溥儀も自伝で特筆して述べてもいる。その後溥儀も即座に退位して、
中国伝統の王制を已む無く完全途絶させられることとなってしまったのだった。

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138 2014/01/21(火) 15:40:51 ID:t7XvmGcEMs:au
人間が空を飛ぶようになった結果として、ある種の高度な文化文明が逆に退行
させられるようなことにすらなった。文明発展のための犠牲として仕方のない
ことだと多くの人間が認めていることでもあるが、少なくとも、人間という
生物が「できることがあればできないことがある」というこの宇宙の根本法則
から逃れられないでいるのみならず、むしろ全能を無理に志した結果として
より一層の不具にすら見舞われている証拠の一つにからなっているといえる。

人間の全能化という試みをいま主導しているのが他でもない科学技術であるわけ
だけれども、飛行技術のような分かりやすい例も含めて、科学がむしろ社会問題や
文化荒廃のような不具をも同時にもたらしてしまっているあたり、やはり科学までもが
「できることがあればできないことがある」という法則に抗いきれないままであり
続けているという風に現状では断定せざるを得ない。実のところを言えば、永遠にそう
でしかあり得ないわけで、そもそも人間が全能を志すこと、全能を欲したりすることから
して戒められて行かねばならないことがいい加減わきまえられなければならないのである。

「能く庸を奮いて、帝の載を熙むる有れ」
「よく恒なることに励んで、天帝の事業を推し進めて行ってくれ。
(舜の四岳への言葉。多能にかまけぬ庸命の履行こそは真の帝業たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)

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139 2014/01/22(水) 14:37:18 ID:Yy7Meijk.A
孔子は「君子は憂えず、懼れず(顔淵第十二・四)」という一方、
孟子は「君子に終身の憂えあるも一朝の憂えなし(離婁章句下・二九)」という。
その孟子が「吾れよく浩然の気を養う(公孫丑章句上・二)」とも言っているが、
「小心翼翼(大雅・烝民)」「戦々恐々として、薄氷を履むが如し(小雅・小宛)」ともいう。
憂患の是非にまつわる儒者の見解はまちまちであり、明らかに矛盾しているような所すらある。
その心を解きほぐすなら、

「君子は日々の修練によって心強さを養っているため、極度の憂患に苛まれて悶え苦しむような
ことはないが、それでも常日頃からの戒心を欠かさず、物事への最大級の憂慮を働かせ続ける」

とでも言った所であろう。
これこそはまさに、仏者が菩薩行を心がける心象にも近似するものであり、菩薩の慈悲に
相当するような心持ちを、儒者もまたある種の憂患として抱くことを示す所ともなっている。

他者から慈しみをかけられることなどではなく、自らが慈しみと共に人々を利すること
こそを念頭に置いているあたり、いかにも自力本位の大人の教理であるといえる。しかし、
別に儒学は大人の男の占有物だったりするわけでもなく、子供や女であっても学ぶに
越したことはないものである。儒学や仏教の自力本位な教えが老若男女誰しもに受け入れ
られればこそ、誰しもがまず自分のほうから他者をいたわる篤実さを養って行ける一方で、
まず自分が誰かに慈しまれることばかりを期待していれば、そのせいで我の張り合い
ばかりが横行する殺伐とした世の中が出来上がってしまうわけだから、自力本位の
信条を尊ぶ人間が多ければ多いほど、それに越したこともないのだといえる。

人間誰しも、一度や二度ぐらいは憂患に苦しめられたことがあるものである。
幼い頃に、人はみないつかは死ぬことを憂えて泣いたようなこともあるだろうし、
それなりに年を取っても、自らの身分の卑しさを憂えて嘆き悲しんだりする。

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140 2014/01/22(水) 14:39:49 ID:Yy7Meijk.A
そのような悩み苦しみの反動で、全く思い煩うことのないあっけらかんとした
人生ばかりを送りたがったとしたならば、それもまた極端から極端への振り切れと
なってしまうわけで、憂慮すべきものへの憂慮すらをも失っての淫蕩三昧がこれまた
自業自得の破滅的事態を招く原因などになってしまうのである。

故に、心の修練によって憂患などに極度に苦しめられたりしない強さを身につける
一方で、憂慮すべきものへの憂慮だけは欠かさないままで居続ける分別の徹底こそが、
自分自身にとっての養生のための手立てともなって行くこととなるのである。

その条件をよく達成して行くことができるのは大人の男ばかりであるものだから、
そのあり方こそを誰しもに見習わせて行くようにすべきである。女あたりが全く思い悩まない
ことを好き好んで実際にそうであろうとし、思い悩まないでいられていることこそは自分が
優れた人間である証だなどとまで思い込んだりすることがあるが、全くそんなこともない。
精神薄弱ゆえに最低限必要な憂慮すらをも捨て去っている単なる亡者の有り様に過ぎないわけ
だから、決してそのような人間を思い上がらせるようなこともないようにしなければならない。

仏の悟りも悩み苦しみを脱落させる効能を伴ってはいるが、だからといって
悩みのなさを鼻にかけたりするのであればそれは「増上慢」となってしまうわけで、
そのような事態に陥らないためにも、覚者すらもがあえての憂慮を慈悲として
抱くべきなのである。いわんや、覚者でもないようなただの俗人をや、である。

「民の憂いを憂える者は、民も亦た其の憂いを憂う」
「為政者が憂えるべき民たちの憂いを憂い悩めば、民たちもまたそれに倣って憂えるべきこと
を憂え悩むようになる。(そうして民たちの注意力が高まりもする。道徳統治の一環である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・四より)

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141 2014/01/23(木) 15:53:25 ID:3TnSeJnwh.
守るべきもののない者は、何物をも恐れない。自らの死を恐れぬ者は決死の戦いをも恐れないし、
出家して家族との縁を絶った者であれば、家族が危難に遭うことを恐れたりすることもなくなる。
誰しもがそのようであるべきだなどということも決してないが、そのような「無有恐怖」の
素養を身に付けた人々こそが世の中において有用な存在たり得ることもまた事実である。
命知らずな武士や仏僧の働きがあればこそ、利権に目が眩んだ亡者による権力犯罪などが
十全に取り締まられたりもするわけなので、守るべきものを持たない身軽さもまた
時には尊ばれて然るべきものとなると言えるわけである。

ただ、人が命知らずの恐れ知らずとなることが不正な手段によって講じられたり、また不正
な目的で講じられたりすることもあるわけなので、当然そういったことは避けられて然るべき
である。麻薬的陶酔を伴う自己暗示だとか、本当の麻薬中毒だとかによって恐れ知らずとなり、
その恐れ知らずさによって権力犯罪者の下請けとなるような死兵働きに及んだりすること
こそは避けるべきであり、そのような真似に及ぶぐらいならまだ、ちょっとした事件や
事故にもいちいち怯えているような小市民ででもいるほうがまだマシなこととなる。

恐るべきことを真摯に恐れて、いちいち戒心の材料にしてくれるような人間のほうが、
統治対象となる市民などとしてはかえって善良だと言える。恐るべきものをことごとく
見失っての思い上がりを募らせているような民こそは「暴民」とも化すわけだから、
仁徳があればこそ世のため人のための挺身を恐れない民でもない限りは、むしろ何もかもが
恐くてたまらない小心者の民ででも人々があってくれたほうが、まだ好ましいと言える。

とにもかくにも、心強い依存対象があるから恐怖しなくて済むという事態だけは避けるべきである。
それこそは、小人や女子供のような社会的弱者が不正に思い上がりを募らせる原因となってしまうわけで、
最悪の場合、公権力すらをも尻に敷くような小人の政商犯罪すらをも誘発することとなってしまう。
弱者を保護することも、偽善レベルにまで過剰なものともなれば、弱者に相応の恐怖意識すらをも
本人たちに失わせてしまうような弊害を招くものだから、そのあたりのさじ加減を慎重にすべきである。

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142 2014/01/23(木) 15:56:49 ID:3TnSeJnwh.
サムライの刀は女子や小人を守るために存在すると共に、女子や小人こそが思い上がりを
募らせて世の中に迷惑をかけ始めたりすることを防ぎ止めるための調教具でもなければならぬ。
しかれば、女子や小人もまたサムライの刃が自分たちに向けられることが決してないなど
とまで思い込んだりしてはならぬ。いつ自分たちがそのような目に遭ってもおかしくない
のだということをわきまえて、心底恐れ慎みつつ神妙にしているべきなのだといえる。

「父母之れを悪めば、懼れて而かも怨む無し」
「父母に憎まれることがあれば、それをよく恐れてなおかつ恨み返したりはしない。
(悪辣な親の元でも孝心を養っていた舜帝にも準ずる心がけ。この心がけが臣下の主君に
対する、民の官に対する、妻の夫に対する心がけの模範ともなって行く。人間社会の健全
な運営のためには恐怖すべきものへの恐怖もまた必要なものとなる実例となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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143 2014/01/24(金) 14:11:28 ID:mFpa0mrXT6
真理や道理は、自己修養によってのみ人が近づけるものである。
その手段が出家であるのであれ仁義忠孝の実践であるのであれ、自力本位の上達を
志すものこそは、多少なりとも真理や道理の探求者たり得る。だからこそ、他力本願
による往生を奨励する浄土門においては、信者が真理の希求者であるような体裁すらをも
かなぐり捨てての、仏法でこそ否定されている形而上的な浄土への往生をこいねがいもしている。
(しかもその浄土も、いかにも俗物趣味な金銀財宝による荘厳ばかりが凝らされていると来ている)

真理はおろか、道理ですらもが、多少なりともの畏怖と共に俗人が敬遠すべきものである。
俗人の内でも特に忠孝の如き浄行を心がけるものが、君子として道理に近似することが
あったりするぐらいのものであり、そのような人間はもはや俗世の聖賢として一般人からの
畏敬の対象とすらならねばならない。出家修行によって真理にすら合致しようとする
人間ともなればなおのことであり、その浮世離れした立ち居振舞いこそはありのままに、
真理が到底俗人の馴れ合えるようなものではないことを体現として実証してもいる。

今ですら私的に父母への手厚い孝養を心がけている頻度の高い中国人が、特に清廉だったり
その他の面で民度が高かったりすることがないのも、その孝心が全く以て忠義に結び付いて
いないからである。唐崩壊以降の深刻な権力腐敗に長年あえぎ続けて来た手前、孝心を全く以て
公儀に繁栄することができないことまでもが定着してしまい、孝がかえって公共意識のなさを
正当化する材料として悪用されることとすらなってしまった。仮に忠孝が共に実現された所で、
それで至れるのも仁徳に根ざした道理程度であるわけだけれども、それすらもが、ただ
忠と孝が乖離しただけで不能なものと化してしまうことを、ここ800年来の中国人や
朝鮮人が身を挺して証明してもいる。いわんや、道理よりもさらに近似する
ことが困難であることが確かな真実の道理——真理をや、である。

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144 2014/01/24(金) 14:18:13 ID:mFpa0mrXT6
人類史上で、真理に最高級に合致することができた人間であっただろうと考えられる、
釈迦如来や龍樹菩薩や弘法大師といった人々もまた、あえて人々が好まないような
俗社会にとっての裏道を歩み続けた。釈迦出家譚も親族の泣き濡れと共に語り伝え
られているし、弘法大師も出家前に自らの選択を親に弁明するための文書を「三教指帰」
として認めたほどである。そこから泥水を吸い、人糞を食むような荒行を繰り返した
後に悟りへと至ったわけで、その結果は世のため人のために限りない利益をもたらす
ものではあったにしろ、決して当人たちの生きざままでをも俗人としての立場から
無制限に肯定してやったりするわけにもいかない者となっている。(出家を全国
レベルで持て囃しているタイなども、あまり品のある国情で居られてはいない)

真理や道理を正当な手続きに即して探求して行くこともまたそれなりに尊ばれて然るべき一方で、
それが全く覚束ない人間が自らの至らなさを恥じと共にわきまえることもまたあるべきである。
それは、人間の内でも特に真理や道理を理解することが困難な女の腹からこそほぼ全ての
人間が産まれて来ている人間社会の大局に即しても、そうであらざるを得ないことである。
産まれついての人間が、天性だけで真理や道理に合致できる可能性などほとんどない、
もしも世の中のほうが濁り切っているようならば、後天的に真理や道理を理解することすら
ほとんど不可能であるとわきまえた上で、なおのこと真理や道理を如何にすべきかを着実に
考えて行けるものだけが、真理や道理といった理念を多少なりとも善用して行くことができる。

要は、身の程をわきまえられる者だけが、真理や道理を善用できるということである。
身の程をわきまえた上でなおのこと自らが真理や道理を探求して行くに値する人間や、
自分には到底そんなものに近づく資格もありはしないとわきまえてただの俗人然
としていようとするような人間こそが、真理や道理に即して真っ当であり得る。

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145 2014/01/24(金) 14:18:19 ID:GMxOXNlMIw:au
身の程のわきまえが疎かであるが故に、分不相応にも真理や道理を志すような
人間こそは、ただの俗人以上にも粗悪な存在たる。聖書信仰や洋学によって真理に
近づけたような気になっているような人間こそはまさにその最たる事例であり、
煩悩具足の愚縛の凡夫であることをわきまえていればこそ俗悪な信仰を開き直って
いる浄土信者ほどにも、真理や道理に即して善良であるようなことがない。

真理とか道理とかいったものを言葉として定義したのは人間自身だが、それらの
言葉によって指し示そうとしたものもまた、定義云々に関係なく実在している。
その普遍的な実在としての真理や道理こそは、上記のような性質を普遍的に
帯びている。人間たちが間違って定義した偽りの真理や道理であればこの限りでは
ないが、そのような真理や道理が人々にもたらせるものもまた、知れたものである。

「子張、善人の道を問う。子曰く、迹を踐まず、亦た室に入らず」
「子張が善人の道をお聞きした。先生は言われた。『別に先人の教えなどを履まず
とも自然と善良でいる。ただ、そのままで真理の奥義にまで達することはできない』
(偽りの真理の道を歩んだりするよりは、このような庸道を歩むべきである。デフォルト
を悪とし、神への服従こそが真理に至るなどとするような教えは、その位相からして
このような孔子の教えに違背している。一切衆生悉有仏性の仏法などはその限りでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二〇)

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146 2014/01/25(土) 14:15:12 ID:SmbIdtlh0U
他力本願の人間が偉ぶる状態こそは、動物でいえば狂犬にも等しい、人として最劣等の
心理状態であり、それこそはあらゆる心理状態の中でも最も避けられて然るべきものでもある。

他力本願であるからには、自らの責任放棄が念頭にある。責任放棄と偉ぶりの併存こそは、
人格破綻と自己陶酔を相乗的に深刻化させて行き、以てサイコパスなどと呼ばれる精神病理を
本人に定着させることともなってしまう。自己責任を重んずることも、偉ぶりを控えて恭しく
あることも、始めの内は大きな心労となる。そのような態度姿勢を日々着実に積み重ねて行けば、
結局は「浩然の気」などと呼ばれる爽快感に与れるようにもなるわけだけれども、そこまで
行かないような人間が責任的姿勢や謙譲的態度でいることの堅苦しさを忌み嫌った挙げ句に、
責任放棄と思い上がりの悪循環を募らせて行ってしまうようなことともなるのである。

責任意識の希薄さを他力本願のカルト信仰やイデオロギーによって募らせたりするようなこと
もあれば、公務員のような元来責任を以て取り組んで行くべき職務に不相応にも就任した小人が、
重圧のあまり人並み以上に責任意識を放棄してしまうようなこともある。民主主義国家の
政府や自治体の構成者は、この両方の条件を満たしていて、国民主権という名目での責任放棄
の正当化と共に、堂々と無責任な暴政を執り行いながら高禄を食むという最も許しがたい
態勢を堂に入らせることともなっている。それは、むしろ公人こそが自己責任によって
為政を手がける封建社会などのほうでこそ起こり得なかったことなわけで、自分たちが連中から
主権を奪えばこそ、公務員たちの責任放棄と思い上がりの悪循環による深刻な権力腐敗などを
招いてしまっているのだということを、いい加減民衆たちも思い知るべきだといえる。

自力本位こそは清廉なものであり、他力本願こそは俗悪なものであるというのに、現代人たるや、
この認識を完全に転倒させての「神聖なる責任放棄」ばかりに及んでいる。他力本願の信仰者を
非現実的ながらも聖性を帯びたものとして描き、自力本位の哲学者や共産主義者を卑俗な
ニヒリストとして描いたドストエフスキー小説などがその手の転倒夢想を定型化した文化的

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147 2014/01/25(土) 14:19:27 ID:SmbIdtlh0U
産物の典型例であるといえ、そのような西洋文学を含む洋学全般から権威を奪い去っての価値
転換を人々に促して行くのでもない限りは、責任放棄こそをよかれと思って推し進めて行く
ことが定着してしまっている今の世の風潮に歯止めをかけられるようなこともないだろう。

責任放棄も思い上がりも、慣れてしまえばなかなか脱却することが難しいものである。
それこそ、巧みな修辞を凝らすことで脱却から逃げ仰せ続けたいとすら思わせるほどにも、
多大なる精神的苦痛を本人たちに強いることともなる。顕教的な仁徳盛行への一辺倒状態で
あり続けて来た人間がその苦しみを汲んでやることもなかなか難しいことなので、悪人小人の
異生羝羊心すらをも考慮してやれる密教的な素養が矯正の執行者の側にもあったほうがよい。

責任放棄や思い上がりを正当化までしようとするのなら厳しい態度での仕打ちすら
辞すべきではないが、もはやそれらを正当化のしようもない所で矯正されて行く段
ともなれば、無上の慈しみと共にそれを手伝ってやるぐらいの分別でいるべきである。
観念する前とした後とで、鬼の怒りと仏の慈悲とを巧みに使い分けてやることが、
これからの世直しを手がけて行く者にとっての神妙な心がけとなるのである。

「夫れ能く位を固める者は、必ず本末を度りて而かる後に衷を立つる。
其の本を知らざれば謀ず。本の枝せざるを知れば強うる弗し」
「人事のうまい人間は、必ず相手の本末に至るまでの素養を計り知った上で、それに即した
按配の職務をあてがう。その潜在能力に至るまで知り尽くさねば雇用しないし、潜在能力が
あったとしてもそれが活かせないようならば、あえて雄飛を強いたりもしない。(人事は
己れの権能にかまけてろくでもないような人間を取り立てたりするのではなく、相手の真価
を見極めてそれを十二分に発揮させてやることこそが肝要である。このあたり、就職志願者の
粋がりようや忠誠心ばかりを見て採用を決める今の企業人事などとも相容れない主張だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公六年より)

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148 2014/01/26(日) 22:50:07 ID:Mkbi6SQ4yw
「惟れ説、式て克く欽しみ承け、旁く俊乂を招き、庶位に列せん」
「わたくし説は、慎んで主君の願われる所に従って、広く有能な人々を
招き寄せて、それぞれに最適な臣位を与えて列することに努めさせていただきます。
>>147にあるのと同様、人事は雇用者の恣意などではなく、招聘対象となる人々
の能力の如何に即して執り行われるべきものであるため、専門の人事官を立てての
ごく事務的な招聘作業にすら徹すべきなのである。故に、そのおかげで好ましい位を
得られたような人間もまた、雇用者に感謝したりすることではなく、招きに相応の
職務を果たして行くことを誓うなどすることのほうをむしろ優先すべきなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)

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149 2014/01/26(日) 23:08:06 ID:Mkbi6SQ4yw
「速かざる客三人来たる。之れを敬すれば終には吉なり」
「招かざる客が三人も来るような不本意な事態に陥ったとしても、これを
よく敬って厚遇するぐらいに謙虚な態度でいれば、最終的には吉となるだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・需・上六より)

テロリスト制圧目的などでの特殊部隊の最小行動単位は「四人」というから、
四人の招かれざる客が現れたとしても、神妙でいられるぐらいでないとな。

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150 2014/01/27(月) 15:17:34 ID:C1k4vEyC4I
ごく微小な領域、局所的、短期的な領域においては因果律が破綻することも
あるが、大局的、長期的な領域においては必ず因果律が保たれるということを、
古来の陰陽五行の法則と、量子論に代表される現代物理学との両方が認めている。
中にはアインシュタインのように、物理法則がそのような曖昧な性質を
伴っていることを生涯受け入れようとしなかった物理学者もいるし、
絶対神による全知全能の業などを信じたがるカルト信者なども、当然
このような法則を真に普遍的なものとして認めたりする気はない。

ただ、実際問題としてこの世界この宇宙の全ての物理現象や社会現象が
陰陽道や量子論に根ざした法則に司られているものだから、それらを
排撃し尽くすこともできず、そのような法則を是とする見解に即した
科学技術の発展などをも静観せざるを得ないままでい続けている。

ただ、科学の進展やそれに伴う文明の発展がいつかは、陰陽道や量子論の
域を超えてくれるのではないかというような淡い期待を抱いたままでもいる。
だからこそ、多少なりとも大局からの因果律の破綻だの、それを可能とする絶対神の
実在だのを未だに信じたままでいる。実際、全くの仮説の範囲内に止まっている一部の
物理論(パラレルワールド論など)の内には、そのような期待を実現するかも知れない
ような意味合いを兼ね備えているものもまだあるわけで、未だに科学理論のほうが多少
なりともカルトに与しかねないような脆弱性を帯びていることもまた確かなのである。

だからこそ、カルト的発想の妥当性を完全に排し去った所にこそある、
陰陽道や量子論の妥当性こそを基本原則とした人文的な発想の、進歩的で
実用的な展開までもが滞らされたままでもいる。陰陽法則や、それに準ずる実相
準拠型の法則に根ざした人文学というものも、すでに無数に用意されているわけで、
それこそは儒学だっり玄学だったり仏教だったりウパニシャッド哲学だったりも
するわけだけれども、そのような東洋古来の人文学は概ね異端の部類とされて、
聖書信仰という最悪級のカルトを発想元とした、西洋哲学や西洋文学ばかりが
主流の人文学として持て囃されたままの状態でいてしまっている。

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151 2014/01/27(月) 15:23:05 ID:C1k4vEyC4I
実際問題、陰陽道を基本原則とするような人文学は、ただの人文学としてみれば
さして魅力的なものでもない。怪力乱神の持て囃しも程ほどに、仁義忠孝だの
無為自然だの成道だの利他だのといった実直な理念ばかりを主題に置いている
ものだから、少なくとも女子供や小人男が嬉しがるに足るようなものでないの
だけは確かである。ただ、やはり実用的でもあるから、基幹的職業に従事して
いるような大人の男からの勉強対象になったりすることが今でも多少はあるが、
それもただの実用目的というばかりであって、東洋的な人文学の権威性を
認めるが故にこその嗜みなどでまであったりするわけでは決してない。

これだけ科学技術への依存が深刻化している現代においては、やはり科学理論が
カルト的発想の根本的不当性を完全に実証し尽くすことこそが、実直な易学準拠系の
人文学の権威の復興やより一層の発展を決定付ける機縁ともなるに違いない。ただ、
それはあくまで一過性の機縁となるまでのことで、科学がその手の人文学の正当性を
公認してくれたこと以上にも、何千年にもわたってその手の学問を醸成したり実践の
対象としたりして来てくれた人々が無数にいることのほうにより感謝を捧げて行く
ようにしなければならない。彼らがいなければ、科学依存のせいでこそ人間精神
をも荒廃させてしまった現代人が滅亡の危機をも乗り越えて、即座な救済に
与かって行けたりする可能性もなかったに違いないのだから。

「言として讎いざる無く、徳として報いざる無し」
「内容に相応の報いがない言葉なく、篤実さに相応の報いがない徳はない。
(ろくでもない言葉にはろくでもない果報があり、厚徳には厚徳なりの果報がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・抑より)

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152 2014/01/28(火) 13:19:19 ID:bAuXOmbYGg
悪は正義よりも後からやって来て、先に死んでしまう。
正義を本義とする善良な人々によって築き上げられた世の中に後から
やって来て、暴慢と我田引水とによって虚栄を貪り、ガン細胞格として
世の中を引っ掻き回し過ぎた挙げ句に、自業自得の自滅に見舞われて、
その短くて儚い生を最大級の苦悶と不満のままに終えることとなる。

悪人こそは堅実な農産や、そのための治水灌漑などを人任せにして、
自分たちは悪徳商売だの火付け盗賊だのといった「濡れ手に粟」な手法
で以っての大儲けばかりを企てるものだから、自分たちだけでは決して
世の中を営んで行くこともできない。自分たちよりも遥かに膨大な数の人々が、
あらかじめ収奪の対象ともできるような豊かな世の中を育んでいる場合にのみ、
そのような悪人が一定以上の派閥と共に豊満な生活を営んで行けたりもする
わけだから、悪人なくして善人はあり得ても、善人なくして悪人はあり得ない
ということがいえる。両者の関係は決して可換ではなく、悪は必ず正義よりも
一定以上に拙劣で卑小なもののままでしかあり得ないという普遍法則があるのである。

にもかかわらず、悪は正義の上に立ってまでの奢り高ぶりすらをも目指そうとする。
それこそ、暴慢をどこまでも増長させて行くしか能のない悪そのものだからである。
なればこそ、正義あっての自分たちであることを見失ってまでの暴慢に駆られた悪
こそは、正義よりも後からやって来ておきながら先に亡くなるか、もしくは正義を
滅ぼした結果として自分までもが完全な自滅に陥ってしまうかのどちらかでしか
いられない。若輩者の少数派とあっては、先輩格の多数派を全員滅ぼし尽くすなどと
いうこともなかなかに困難であるから、結局は自分たちのほうが先に滅んで、正義に
自分たちの墓前で念仏を唱えさせるようなこととなるのが関の山となるのである。

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153 2014/01/28(火) 13:21:59 ID:bAuXOmbYGg
小人男や女のように、生来悪性に駆られやすく、やもすれば一生涯悪性の虜の
ままでいてしまうような人間もまた世の中には多くいる。そのような人間の
ほとんどが、本当に一生涯を上記のような透徹した悪性ばかりに駆られたままで
い続けたならば、本当に後からやって来て先に亡くなるような無様な生涯しか
送れないことともなる。女であれば、夫よりもずっと年下の妻でありながら、
家事一つ真面目にしない不摂生な生活ばかりを続けた結果として、多くの
病気に悩まされた挙げ句に夫よりも先に亡くなってしまうようなことともなる。
小人の男の場合も、君子の男を夫と見た場合の妻が自分であるとした場合に、
上に書いたのと似たような境遇や運命を歩まされることとなるのである。

夫よりも年下の妻であるのならば、夫よりも後に死ぬのが、長幼の序にも
適った自然体のあり方だといえる。それを常套とするためには、いくら自分が
悪性に駆られやすい人種である女であるといえども、悪性に囚われたままでいたり
することはなるべく控えようとする必要がある。自分個人の生来の気質などは
ろくなものではなく、夫への依り恃みによってなるべくそこから脱却しておく
べきなのだという風に考えて、そうであるように常日頃から心がけておくように
しなければならない。小人として、実際に瑣末な商売などに従事する男もこれと
同様であり、民主主義や資本主義で世の中の根本を司っている公人や農夫
の権威を損なうようなことがないようにもしていかなければならない。

それが、世の中にとっての福利厚生の増進に寄与するのみならず、女や
小人男といった悪性に駆られやすい人員たち自身にとっての養生手段ともなる。
後輩格の少数派でしかいられないような立場であるなりの、長生きなどの福寿に
与れもする。夫唱婦随、官民農工商といった身分の序列は、それによって下位に
置かれるような人間にとっての福利厚生ともなるものだし、またそのようで
あり得る身分の序列こそは、天下に敷かれて然るべきものだとも言えるのである。

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154 2014/01/28(火) 13:23:49 ID:qHT9J86vhc:au
「陰陽長短、終始相い巡りて、以て天下の和を致す」
「陰陽の長短が万事万物を始終に至るまで司ることで、天下の和が育まれる。
(陰陽法則こそは万物始終の平和の礎となる。万物の始終〈アルファからオメガ〉
に至るまで勝ち負け第一な争いごとに染め上げようとするような邪神などよりは、
このような善良な法則に万物を司らせるべきである。無論、実際のところそう
でしかあり得ないし、アルファベットも未開地域の簡易文字でしかないわけだが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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155 2014/01/29(水) 15:48:15 ID:KEZR6Mi0bo
罪に対して罰が加えられる必要があるのは全くの自業自得であるため、他人が代わり
に罪を着せられて罰を受けたりすることで本人の罪が償われたりすることも決して
ありはしない。自分が罪を犯すのは世の中においてであり、自分が少なからず世の中
への参画者でもあるからこそ、そこで罪を犯したりもしてしまう。自分こそが世の中を
必要としているにもかかわらず、世の中において罪とされる行為を犯してしまった場合
にそれ相応の罰を自分が受けないのならば、そのせいで世の中のほうが風紀の乱れや
経済的問題を来したせいでの破綻に見舞われてしまう、それで困るのも自分たち自身で
あるのだから、やはり罪には相応の罰を被らねばならない。罪は自分個人の完全に
独立的な振る舞いなどではなく、人と人との関わり合いによって成り立っている
世の中においてこそ犯されるものなのだから、罪を犯した者が自分個人の身勝手な
考えで罰を受けるかどうかを決めたりすることも決して許されはしないのである。

この世において、刑事ほど自明であることに徹すべき事象も他にない。何らの恣意や
神異を差し挟むこともなく、ただ世の中に迷惑をかけた分量に相応の制裁を加えるように
するのが最善となるのであり、それに徹することができたならば、その場合にこそ裁きを
下す者や、刑罰を執行する者が何らの後ろめたさをも抱いたりしなくて済むようになる。

刑事自体、犯罪発生率の低下と共になるべく行われなくなるに越したことはないのだから、
そのような簡潔な事務作業であるにも越したことがないものである。採決の公正さを期する
ためではなく、犯人の逃げ延びを助長するために二審三審への上告を認めているようなきらい
すらもがある現行の裁判制度のほうが煩雑に過ぎるのであり、判事と検事を分けもしなければ、
弁護士を置きもせず、ことの重大さに即して裁きを下す者も随時その身分によって入れ替え
られていた江戸時代ごろの刑事のほうが、まだ公正さと簡略さとの両面において秀でていた
といえる。(無論、裁決を下す武士たちが厳酷な自己修養に努めていたからこそ成り立って
いた制度でもあるため、不貞な現代人が即座にその手法を真似たりするのも無理がある)

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156 2014/01/29(水) 15:53:28 ID:KEZR6Mi0bo
宗教的な神異だとかを付与したりすることが許されるのは、最低限、刑事にまで発展する
ような深刻な罪悪ぐらいは防ぎ止められた後のことである。宗教上の戒律違反などではなく、
まず社会的に罪であると断定されるような悪行を犯さないことから努めて行くようにする。
そこから後、さらに戒律だとか作法だとかをよく守っての自主的な浄行に努めて行けば、
そこでこそ人もまた、神や仏に近づく者としての聖性を認められるに値する存在となる。

刑事はどこまでも「人道」であり、人道ぐらいは当然守ったればこそ天道や仏道にも至る。
だからこそ六道十界論でも天道や仏道が人道の上に置かれているのであり、人道すら
守れないようならば、それは当然のこととして餓鬼畜生の域に止まる。修羅道に
おいても、自らが人道の守護者たらんとした戦闘に臨む者こそは勝ち、人道を蔑ろ
にするような者こそは負けるという根本法則があるわけで、簡潔で自明なもので
あるのが理想であるにもかかわらず、人道こそは神仏や修羅道の勝者と、餓鬼
畜生や修羅道の敗者とを決定的に分かつ根本基準ともなっているのである。

つまり、簡潔で自明なものをも尊べる者こそは神仏の域にすら至れる一方で、
そのような事物を取るに足らないものとして蔑ろにするような者こそは餓鬼畜生の
域に止まってしまうという根本法則があるわけである。刑事に純粋な自明性のみを
認める潔さや、儒書にあるような素っ気ないけれども自明な言葉を尊べる心意気
こそが神仏を崇拝するに足る人物へと自分が上達するための第一歩ともなるわけだから、
神韻縹渺とした領域への到達のためにこそ、まずは簡潔の極みすらをも由しとする
覚悟が必要となるのだといえる。神仏は、ただただ妖艶さばかりを追い求める
ような不埒者を決してよしとはしないものなので、そのような人間には
神仏を騙る魑魅魍魎ばかりが近寄って来ることともなるのである。

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157 2014/01/29(水) 15:55:01 ID:s5GH19j9uQ:au
「士国君に献ずる有り。他日、君之れに問いて、安にか彼れを取りしかと曰わば、
再拝稽首して後に対う。大夫私行で疆を出ずれば、必ず請う。反れば、必ず献ずる有り」
「士分の者が国君に献げ物をする場合、他日に君が『どこで手に入れたものか』と問えば、
再拝稽首して後に答える。家老が私用で外国に赴く場合にも、必ず主君にまず伺いを立て、
帰れば必ず献げ物をする。(献げ物は下位のものが上位のものにするのが基本である。
>>147-148の引用のとおり、下位の人間が上位の人間に尽くすのが陰陽上からも健全となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼下第二より)

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158 2014/01/30(木) 13:06:16 ID:Lx2D3lB5yM
東洋社会では基本、皮相的な文化と本質的な文化とが厳密に分かたれて来た。
仏説の仏辺と衆生辺における使い分けだとか、儒家教学の経史子集への分類だとかが
その実例である。仏辺に即すれば善人正機が至当となる一方、衆生辺に即すれば
悪人正機が妥当となるなど、本質に逼迫する場合と皮相に止まる場合とでは全く
発言内容がひっくり返ってすらしまうために、本質そのものに親しむ仏辺の教理は
あくまで玄人向けの密法とし、皮相を開き直る衆生辺の教理こそを素人に至るまで
の広範な流布対象にするなどの便宜を図ったほうがより縁起がよいことともなる。

本質そのものを取り扱う宗門もまた堂に入り、皮相を取り扱う宗門もまた堂に入る。
密教寺も禅門も浄土門もそれぞれに人々からの篤い信敬を受けるようにして、本質を
取り扱うものと皮相を取り扱うものとがそれなりの距離感を保ちつつ、同一国内や
同一の町や村の中でも共存して行く。それはあたかも、人々がそれぞれに別個の職業に
従事することで世の中のためになって行くようなもので、実際に公家なら密教、
武家なら禅門、百姓なら浄土門といった風に、それぞれの職制の本質や皮相への
親しみやすさに即した、各種の仏門への檀家配分が昔は考慮されてもいたのだった。

本質は本質で如実に捉えられているからこそ、そのような調和的な共存関係が成り立ちもする。
弘法大師のような、物事の本質を理解できて、なおかつその本質に親しむことまでもができる
ような人間が実際に居たればこそ、それはそれで一つの流派としてのあり方が堂に入り、
無闇やたらに他流を侵害して征服するような真似に及んだりする必要がない。密教の
修得度では明らかに最澄すらをも上回っていたのに、朝廷御用達の仏門の座は最澄の
興した日本天台宗に譲り、自らは人里離れた高野山に総本山を構えて、日本各地の
開発事業に東奔西走するなどの下働きに徹したその振る舞いからも、物事の本質を
よく見抜いてそれに親しむ者こそは、より挺身的な謙譲に努められるのだという
ことを体現してくれてもいて、その模範対象としてのあり方が、本質に親しめる
人間の増上慢などを決して許したりはしないものともなっている。

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159 2014/01/30(木) 13:08:29 ID:Lx2D3lB5yM
本質をありのままに捉えているような聖道門があって、なおかつそのような
聖道門の求道者が、弘法大師の如き謙譲の限りを尽くした姿勢でいたならば、
もはや皮相のごまかしで悪行を正当化するような邪教が増長する隙もありはしない。
邪教といわず、皮相を取り扱うような宗門学派全般の肥大化による文化荒廃を
予防する効能が伴う。密教が絶えた唐代以降の中国において絶対化された儒学=儒教が
権力腐敗の温床ともなってしまったりした通り、それなりに妥当な見解を持つ教学で
あろうとも、それが皮相的なものである以上は侮りを生じさせてもしまいかねず、
その侮りが各種の腐敗にすら結び付いたりもするものなので、やはり本質を捉えた
教学が皮相に甘んずる教学を制御対象とするような共存関係を保てたほうがよい。

それなりに妥当な見解を持つ皮相の教学であれば、本質を捉えた教学との共存が
可能である。日本における密教や禅と、儒学や浄土教の共存などがその実例であり、
これ程にも狭い島国の中でですらそのような共存が可能であったのだから、より
広大な世界でそれらが共存して行くことも決して不可能なことではないはずである。
無論、本質を捉えた教学との共存など到底不可能な、皮相をごまかす邪教こそが世界中に
蔓延っているせいで、それを実現して行くことが未だ困難なままであるということはあるが。

「賁は、飾るなり。飾りを致して然る後に亨れば則ち尽く、故に之れを受けるに剥を以ってす」
「(周易では賁卦の次に剥卦が置かれるが、)賁とは『飾る』という意味である。表層を着飾る
ことばかりに専らでいればいつかはそれも頭打ちになる、そのためその次に『剥』が置かれる。
(皮相の虚飾も極まれば後は剥がれるばかりとなる。何事も極まれば行き詰まる陰陽の理である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・序卦伝より)

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160 2014/01/31(金) 14:15:56 ID:psDWMM7uqw
社会とまず敵対するのではなく、とりあえずは協調しようとするのが人道というものである。
しかし、権力機構が悪人に乗っ取られて乱世と化してしまっているなどの理由で、健全な善性
と共に自らが社会に順応することができなかったりした場合には、それでもやはり世の中全体を
あえて敵に回すのではなく、世の中に汚濁をもたらしている元凶たる何者かのみを敵視の対象とし、
世の中のほうはむしろ、そのような害悪の元凶による惨暴から救い上げてやるべきものとする、
それが、濁世の中にも人道を貫き遠そうとする人間にとっての模範的な態度姿勢であると言える。

時には、世の中全体が完全に汚濁に取り込まれて、末端の庶民に至るまで完全に荒みきった
悪人然と化してしまったりすることもある。善性と共に接しようとすれば世の中全体が自分の
敵に回るように思えて、なおかつ世の中がそのような一切皆悪状態と化してしまっている
根本原因が一体どこにあるのかすらもが判然としない状態となってしまっていたりする。
そうであってもなおのこと、世の中全体を敵と見なしたりはせず、かえって重病に蝕まれた
被害者格として哀れんでやり、どこの誰だか現状では見定め切れないような害悪の元凶たる
連中のみを懲罰対象として見越し続ける者こそは、真に人道の守護者たる益荒男であるといえる。

そこまでして社会への協調ばかりを企図し続けるのが最良となるのかといえば、そうとも限らない。
世の中からそれなりに距離を置いて、こちらからの率先的な改善などではなく、現状で世の中を
構成している主要な人々による自主的な世相の改善を促して行ったりすることもそれなりに至当たる。
それが体系的な教義や作法に即して執り行われようものなら、天道や仏道として堂に入りもするわけで、
それは人道の実践者すらもが自分たち以上のものとして尊崇するに値する存在性ともなるわけである。

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161 2014/01/31(金) 14:20:22 ID:psDWMM7uqw
率先して社会との協調やそれに基づく世直しを心がけて行くか、もしくはそれを控えるかが、
人道並みかそれ以上の品性の持ち主にとって許される行動規範となる。社会との敵対を
大前提として、世の中に害悪を加えて行くことを本是としたりするのは完全に餓鬼畜生の
所業であり、それがほんの寸分たりとも人道を上回る品性たり得るようなことが決してない。
体裁が逃亡犯時代の劉邦のように、反社会勢力然とした身の程となってしまうようなことが
あったとした所で、やはり目的は上記のような意味での人道の達成に絞って、決して義賊
のような変則的で不正な立場そのものを美化するようなことにまで及んではならない。

権力機構が政商犯に乗っ取られた秦帝国時代の中国並みの濁世ともなれば、過労死級の強制労働から
徴発者を解放してやった挙げ句に、自らも逃亡犯の義賊となった劉邦のような人間にまで天命が下る
こともある。しかし、そのような世相は元来あるまじきことであるから、そうであってもあくまで国家
社稷を統べる正統な帝王としての世直しこそを志さねばならない。ただただ自分個人のためというのなら、
利益を分け合ってもさして取り分の減らないような少数部落としての義賊活動でも続けていたほうが
まだうま味があったりするが、それでは自らまでもが濁世の火事場泥棒一派止まりと化してしまうので、
人道以上の品性を保とうとする者がそこに安住するようなことも決して許されはしないのである。

義賊の内に身を置いても、人道を志す者は志すし、全世界を統べる帝王たろうとも、餓鬼畜生の域に
溺れる者は溺れる。環境や体裁がどうかではなく、自らの心理的な境地こそがいかなる程度のもので
あるのかがより重要であるのだから、帝王のような立場を忌み嫌ったり、義賊のような立場を好き好ん
だりした挙げ句に非人道こそをよしとしたりするようなこともあるべきはでない。徳治社会の帝王の
ような責任ある立場に好き好んでなりたがれるほどできた人間もそうそうにはいないのだから、治世の要
となるそのような立場に対してこそ「憎んでしかもその善を知れ(礼記)」ということが言えるわけである。

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162 2014/01/31(金) 14:21:22 ID:LbRBMKh29c:au
「禹、稷は平世に当たりて、三たび其の門を過ぎるも入らず、孔子之れを賢とせり
顔子は乱世に当たりて、陋巷に居り、一箪の食、一瓢の飲。人は其の憂いに堪えざるも、
顔子は其の楽しみを改めず、孔子も之れを賢とせり(この一文既出)。孟子曰く、
禹、稷、顔回は道を同じくす。禹は天下に溺るる者有らば、由お己れが之れを溺らす
ものと思えり。稷も天下に飢える者有れば、由お己れが之れを飢えしむるものと思えり。
是れを以て是くの如く其れ急げり。禹、稷、顔子は地を易うれば、則ち皆な然らん」
「夏の禹帝や重臣の稷は、徳治の行える治世に当たって、三たび自らの家の前を通っても
その門を潜ることがないほどに働き詰めた。孔先生はその在り方を賢明と認められている。
一方、(孔子の弟子の)顔先生は春秋時代の乱世において、薄汚く狭い路地に住み、一膳
一杯の飲食という質素な生活を貫かれた。常人ならその憂いに耐えることもできないが、
顔先生はそれを楽しむことを改めようともしなかった。孔先生はそのあり方も賢明だと
認められていた。孟先生はこれを評して言われた。『禹、稷、顔回はみなその道を同じく
していた。禹は天下に一人でも洪水に溺れる者がいようものなら、自分が溺れさしたように
考えたし、稷も天下に一人でも飢える者がいようものなら、自分が飢えさしたかのように考えた。
だからこそ三たび我が家の前を素通りする程もの東奔西走の国家事業に取り組んだのだ。
禹と稷と顔回とは、境遇を換えればみな同じ行いを果たしただろう点では全く共通している』
(治世での事業に励むのも、乱世での苦難に耐えるのも、どこまでも世のため人のためである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)

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163 2014/02/01(土) 15:57:11 ID:HiycjBRPww
春秋戦国時代、中原では各国の諸侯が我田引水のために地の利を無視した無理な灌漑事業
を多数執り行っていたため、そのせいでの旱魃や洪水などの人災が多々巻き起こっていた。
そのため中原全体で見た場合の国力はかえって目減りし、北方における匈奴の侵略を
欲しいままにさせてしまうようなことともなった。秦帝国時代に諸侯の争いによる民の
疲弊という問題は絶やされたが、中原諸国の中でも最も苛烈な虐政をやらかしていた秦
などが統一支配者に躍り出たものだから、今度はその秦による酷烈な使役に人々が苛まれて、
やはり中原全体の国力も停滞したままであり続けた。その秦も滅んで、百姓出身の劉家が
新たな帝位の座に付いてからやっと、人々への十分な休暇の斡旋や、地の利を見越した
着実な灌漑事業などが執り行われるようになったために、中原全体の国力も増大して、
匈奴を圧倒してその使節を朝貢に来させる程もの経緯にすら至ったのだった。

灌漑や治水といえば、夏の禹帝の頃から「君子の事業」として東洋では特別に重んじ
られて来た事業であるわけだけれども、それすらもが我田引水のために濫用されたりした
ならば、かえって全国規模で見た場合の疲弊や国力の低下などが巻き起こってしまったり
もする。そもそもが土木事業自体、農業などを本業とする百姓の手を借りねば成り立たぬ
ものでもあったりするわけだから、田畑を潤すための土木事業に百姓を駆り出しすぎた
結果、かえって農産を滞らせたりするようなことにもなりかねない。治水や灌漑も必ず
しも君子の事業なのではなく、天下国家の公益を真に慮る君子が執り行うことでこそ
碌な成果が挙げられるものだから、君子の事業でこそあるべきだとされているのである。

鄭国の宰相だった子産が水に浸かりながら冬の川を渡っている人を見つけて、自らの船
でその人を渡してやったという逸話を、孟子は「大局を見据えていない所業だ」として
批判した(離婁章句下・二)為政者までもがこのような局所の恵施ばかりに入れ込んで
自己満足しているようでは、天下万人を冬の川を徒歩渡りさせられるような労苦から
解き放ってやることなどは到底覚束ないものだから、孟子も子産の慈善意識を多少は

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164 2014/02/01(土) 16:00:40 ID:HiycjBRPww
買ってやりながらも、決して君子に相応しい心がけだなどとまでは認めなかった。言って
みれば子産は「隣人愛」の持ち主でしかなかったわけで、自分の近傍にいる人間への施し
程度までにしか慈愛が働かない人間であったわけだから、そのような人間が時節を見計
らった治水や灌漑によって万人を利してやるようなこともできはしなかったわけである。
(それでも、春秋戦国時代の為政者としてはまだマシなほうだったようではあるが)

子産が冬の川を徒歩渡りする人を見てそれで慈しみを抱いていたりしたのは、本人が
視覚に囚われた人間だったからである。荘子も子産や孔子を、人間を見た目で選り好み
する短絡家として批判的に論じ立てていたりしていて、それでは視覚だけでは捉えきる
ことのできない天下万人への慈しみなどを抱いたりすることもできないままであり続ける
のも確かなことである。伝記では、孔子も確かに最初は弟子を見た目で選り好みするなど
していたようだが、容貌の醜悪な澹台滅明という弟子が非常に貞節な性格の持ち主である
ことに感銘を受けて、人を見た目で判断することを控えるようにもなったという(「史記」
仲尼弟子列伝を参照)。容貌の丹精さだけなら他人種にも秀でている白人のこそが聖書
信仰の下で世界最悪級の悪逆非道の振る舞いを繰り返して来たことからも、視覚がいかに
善悪や仁不仁を欺きがちなものであるのかが知れたものであるわけで、見た目の美醜で
本質の良し悪しを欺かれたりしないためにも、視覚に囚われてものを判断する
ということを仁者を志す者は厳重に控えて行くようにしなければならない。

視覚への囚われを脱却した人間の目は、いい意味で座る。キョロキョロと何もかもを
見尽くそうと瞳が動き回るのでもなければ、何も直視しないでいようとするような虚ろな
目つきでもない、見るべきものだけはしっかりと見て、そうでないものはいちいち見ない
分別を備えた目つきとなる。昔の武士や僧侶あたりはみなそうであったに違いない目つきが、
現代人などにはなかなか見られない。もしもその中に奇特にも仁者がいたりしたならば、ただ
その目を見るだけでもそれと分かるであろう。その目を偽ることだけは、偽善者にもできぬ。

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165 2014/02/01(土) 16:00:52 ID:bWbxkDyegQ:au
「子曰く、鳳鳥至らず、河は図を出ださず、吾れ已んぬるかな」
「先生は言われた。『(聖天子の出現の瑞祥である)鳳凰も現れないし、
黄河の河図も出てこない。私ももうおしまいだねえ』(聖天子は河図と共に現れて、
万人への利水の礎となるのである。我田引水の徒輩が横行する乱世ではそれも叶わない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・九より)

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166 2014/02/02(日) 14:02:43 ID:suz8Vdw65M
善因楽果にしろ悪因苦果にしろ、因果応報は自業自得の原則に則るのが健全であり、また
真理にも適っている。つまり、因果応報が完全に自業自得であることこそが普遍法則で
ある。部分的や一時的に自業自得でないかのように見せかけられる因果関係があった所で、
結局は自業自得である所に全ての因果関係が集約されて行くことには変わりないのである。

故に、真理を虚空とする仏門こそが、そこに神なり霊なりの具体的な事物を見立てる
神門などよりもさらに絶対的なものとして尊崇の対象とするに値もする。無論、神道
もまた因果応報を司る健全な神を崇め立てていたりもするものなので、そのような神を
敬うことを通じて、自業自得を根本とする健全な因果律をも間接的に尊ぶことができるわけ
だけれども、因果を司る具体的な神が存在するという考え方が、時には自業自得の因果律
を非とする邪神の定立などにも繋がりかねないので、神道への傾倒こそは、仏門以上にも
正統性を厳守したものだけに限らなければならない所がある。(虚空の真理そのものへと
傾倒して行く宗門だからこそ、仏門では浄土信仰並みの曲芸的帰依が可能なのでもある)

神道で敬われるべき神もまた、自業自得の因果律を純正に司る正統な神に限られねば
ならないのと同じように、社会的な犯罪行為などに対して懲罰を科す役割を担う有司など
もまた、自らの執り行う懲罰が完全に受刑者自身の自業自得の範囲に止まることを目指して
行かなければならない。自業自得と比べれば過不足のある重罰や軽罰をなるべく避けて、
ただ自らは受刑者自身の自業自得を助成する事務役に徹して行くようにすべきだといえる。

罪と罰が自業自得の因果律を大きく逸脱することがありかねないものだから、実定法で全ての
刑罰すらをも杓子定規に規定してしまう法治主義が時に問題的なものともなる。情状酌量や
判例の参考などである程度は刑事の裁量に融通を利かせることができるが、実定法はあくまで
最小限のものとして、自己修養を勤めた君子による自業自得相当の罰の見定めをより尊重の
対象としていた徳治社会における刑事などと比べれば、色々と頑迷に過ぎる所があるといえる。

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167 2014/02/02(日) 14:07:56 ID:suz8Vdw65M
何よりも、法治主義は人々に自業自得の因果律の健全性を見失わせかねない点がこそ問題的
だといえる。極論を言えば、法文に「強盗殺人をしなければ死刑」と書かれていれば、それ
も守らなければならないとするのが法治主義なわけで(悪法も法なり)、全ての因果律が
法文で規定されているが故に、人々が自明な因果律への配慮を怠ることが、最悪そのような
悪法ばかりによる世の中への雁字搦めの挙げ句の荒廃や破綻をも招くこととなってしまう。

そういうことがないようにして行くためには、法律ばかりに全ての因果律を
司どらせようとする精神的怠惰に人々が陥らないようにすると共に、自業自得の
健全な因果律こそを自主的なわきまえの対象とさせても行く必要がある。そのため
には、健全な因果律を司る正統な神仏への崇敬を心がけて行くようにもしたほうがよい。

本格の仏門も絶やされて、神道も慣習程度のものにまで形骸化してしまった現代の日本に
おいてこそ、自力で因果律を計り知ることもできなければ、あえてそうしようともしないよう
な怠慢に陥ってしまっている人間ばかりが溢れ返ることともなってしまった。全ては法律任せ、
日々法文の積み重ねに躍起になっている政府や自治体任せで、自分たちはそこで決められた
範囲内のことだけをやるという、畜人然とした人間ばかりで世の中が形成されることとなった。
それで済むのならともかく、実際に済みもしない。責任を持って因果律を判別しようとする
人間がどこにもいなくなった世の中は、誰が気づくということもない内に急に破綻し、まるで
屠殺場に送られた家畜のようにして、人々も急激な惨劇の到来に往生させられることとなる。

純正な因果律を顛倒して認識してしまうことと、因果律などにわざわざ配慮を働かせも
しなくなることとの二つが両輪となって、人々を全くの心外な悲劇へと時に陥らせる。その
ようなことがないようにするために、純正な因果律を司る正統な神仏を尊ぶことが、実定法を
金科玉条として至上化したりすることよりも世人にとってより重要なこととなり得るのである。

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168 2014/02/02(日) 14:09:22 ID:DgIPDEvQyU:au
「報者は倦むも、施者は未だ厭きず。〜女徳極まりなし(この一文既出)」
「報いてやる側がこれで十分と思っても、施された側はまだまだ足りないと思ってしまうのが
人情というもの。特に女の情欲には限りがない(ので、甘やかしすぎないことも時に必要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年より)

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169 2014/02/03(月) 15:49:10 ID:jjZmH1a0k6
イスラム教ニザール派の暗殺教団が、大麻を服用しながら非道な暗殺活動を
行っていたこともまた一種の心術であったという程度には、カルト信者が
邪信によって蒙昧さや悪行が原因での苦悩を紛らわしたりすることもまた、
一種の心術だといえる。大麻が必ずしも健康被害を招くわけでもないように、
カルト信仰が即座に信者の身を滅ぼすことになるとも限らない。ただ、そんな
ものを頼りにしていない場合と比べれば、本人たちの生産性や徳性が著しく
損なわれることともなるために、あまりにもそのような人間が増えすぎれば
国家規模や世界規模での破綻を招くことになることこそが問題となるのである。

カルトがカルトたる所以は、信者の生産性や徳性が全くの無信仰者以上に
損なわれる所にこそある。宗教というほどの宗教もない土人社会だった
ブラックアフリカにキリスト教が持ち込まれた結果として、当地が未開だった
頃以上にも飢餓や戦乱や疫病の蔓延る地域と化してしまったのも、キリスト教
が信者の生産性や徳性を土人状態以上にも損ねるものであったからでこそある。
土人社会も生産性などは皆無に等しかったわけだから、人々の徳性を損ねる点に
おいてこそカルト信仰はより致命的な害悪度を帯びているといえ、その面での
有害無益さたるや、原始的な土人社会の習俗すらをも下回るものなのだといえる。

カルトがそれ程にも信者の徳性や生産性を損ねるのは、信者に「施す以上にも得る」
性向を飢え付けてしまうからである。その手段は主に信者の自意識過剰の思い上がり
の肥大化であるわけで、その結果として自分が人に何かを施す以上にも、自分が人
から何かを得ることのほうが優先されて当然であるかのような思考回路と化してしまう。

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170 2014/02/03(月) 15:51:39 ID:jjZmH1a0k6
それは別にカルト信仰に依らずともとも、その手の思考回路に陥りがちな商売人や女を、
資本主義やフェミニズムによって囃し立てたりすることなどでも可能となることであり、
近代以降の世界はむしろそのような無宗教的な手段によって人々の思い上がりを肥大化
させることで徳性や生産性を損なわせることのほうがより推進されて来た。ただ、その
ような無宗教的な手段に基づく人々の人間性の損壊が試みられてきたのも、やはり
カルト的な思想信条を源流とする気概が近現代の権力者にあったからなのだから、
そのような試みの最高責任もまたカルト信仰にこそ集約されねばならないといえる。

カルト信仰は「施す以上にも得る」性向を信者に植え付ける一方で、真っ当な信教は
信者の「得る以上にも施す」性向を育んで行く。そのために信者の思い上がりを挫いて、
まず他者を思いやろうとする寛恕の心や謙虚さこそを旺盛なものたらしめようとする。
とんでもなく施しの分量が得る分量よりも多いというよりは、常日頃から一定以上に
人々が利得よりも恵施を優先し続けることこそを促して行く。誰しもがそのようであれば、
天下の公益も必ず有り余る状態でいられるわけなので、得ることは得ることでそれなりに
あるとしながらも、多少程度にはそれ以上の恵施を心がけて行くようにさせるわけである。

施す以上にも得ようとする思い上がった性向が、無宗教的な手段によって人々に
植えつけられることもまたあるようにして、得る以上に施そうとする謙虚な性向も
また無信仰的な手段によって育んで行くことができる。それこそは儒学のような、
仁徳を本旨とする学問文化の奨励であるわけで、実際にそれを通じて、恵施の優先が
必要とされる士人や農夫などを尊重するなどして行けば、世の中が総出で公益の増進に
務めて行けるようにもなる。ただでさえ自然災害などで天下の公益も損なわれがち
であるのに、さらに人間たち自身までもが自己利益ばかりを優先していれば、世の中が
立ち行かなくなるのも当たり前のことであるのだから、利他を尊ぶ思想信条の教化によって
人々に恵施の優先を心がけさせるぐらいでやっと、世の中も保たれて行くものなのである。

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171 2014/02/03(月) 16:54:44 ID:0MZ1Lvv2Ns:au
一定度以上に大規模な都市社会は、実際にある種の体系的な思想信条によって司られる
のでなければ保全のしようもないということが確かに言える。そこで上に書いたような
意味での、利得以上に恵施を推奨する真っ当な思想信条に世の中を司どらせることが
課題となって行くわけで、当然そのために利得ばかりを囃し立てるような邪教邪学を
権威の座から引き摺り下ろすことが必要ともなる。邪教邪学の側もまたあの手この手を
尽くして破綻をどうにか切り抜けようなどとするものだから、必ずしも見てくれから
有害無益さがあからさまであるとも限らないが、やはりどこかで必ず世の中を破綻に
追いやってしまうこととなる。その瞬間をよく大事にして、世の中の教化にかけての
破邪顕正のための教訓として行くようにすることが、歴史家などにとっての課題ともなる。

「雪ふること瀌瀌たるも、晛を見れば曰に消える。
下り遺うを肯んずる莫く、式れ居りては婁しば驕る。
雪ふること浮浮たるも、晛を見れば曰に流える。
蠻の如く髦の如し、我れ是れを用て憂いとす」
「雪がひょうひょうと降り積もっても、陽の目を見れば溶けて消え行く。その儚さを
計り知ることもなしに、讒人どもは奢り高ぶりを募らせている。雪がフカフカと降り
積もっても、陽の目を見れば溶けて流れ行く。その儚さを汲み取ろうともせぬ蛮族の
如き振る舞いこそは、私などにとっての憂いともなる。(キリスト教徒なども自らの
罪悪感が信仰によって氷解して自らから流れ出るような感覚に見舞われるようだ
けれども、そのような罪悪の積雪や氷解全般を憂いとして忌むのが君子なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・角弓より)

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172 2014/02/04(火) 13:55:31 ID:XGdpk5JROQ
人間には、個々人としての自己意識の他に、群れを成した時に漠然と形成される
集団意志としての意識が先天的に備わっている。近代の心理学ではそれを「無意識」
だとか「超意識系」だとかいった風に呼んでいたりするが、それはそれで社会的生物
としての人間に備わっている健全な意識系である。ただ、世の中を統率する人間が
愚鈍であったり、そもそも民主主義などで全体の統率者の権限を殺いでしまったり
した場合には、集団意思が蒙昧と化してしまい、まるで震災時に集団で海に飛び込
んで自殺してしまうネズミほどにも狂乱化してしまうことがあるのが問題なのである。

古来から、蒙昧化しやすい集団意志をいかに健全なものとしていくのかを東洋人は
考え抜いて来た。聖王賢臣や儒者による権力道徳学の情勢やその実践もその代表例
であるし、個々人による真理の悟りを奨励して来た仏教もまた、結局は受容者たち
が超意識系たる集団意志すらをも我が物として自在に統御できるようになることを
促して来たものである。そのため、仏教や儒学を国を挙げて受容して来た日本の
ような国はその集団意志からよく統制されて、震災時や経済危機時などにも暴動に
走ったりするような人間を最小限に食い止めて行くことができて来ているのである。

集団意志は、十分な統御を受けた所でこそ平静さ故の清清しさを人々にもたらすもの
でもあるが、逆にあらゆる制御を振り切った狂乱状態と化した所でも、ある種の快楽
を人々にもたらすものである。西洋などでは、むしろ狂乱化した集団意志の快楽を存分
に煽ってやることこそが古代ローマの頃からの風習とされていて、実際にそのための
道具としてギリシャ学や聖書信仰などを民衆支配のための道具ともして来たのである。

返信する

173 2014/02/04(火) 14:02:00 ID:XGdpk5JROQ
民衆の集団意思を、戦乱を招かない程度の最低限度の統制下に置くことを企図した
代表格の人間といえば孔子であるし、逆にその最低限度の集団意思の統制すらをも
致命的に損壊することを企図した代表格にあたる人間がイエスであるといえる。釈迦
や竜樹を始めとする仏者は、より積極的な泰平社会の実現のための集団意思の統御を
志していたし、ギリシャの思想哲学者や詩人などは、逆により極端な狂乱状態の実現
を欲していた所がある。ただ、いずれも儒学や聖書信仰ほどにも、集団意思が最低
限度の統制を受けるか否かの境界線を司る役割までは帯びなかったために、社会を
実地的に司る役割は儒学や聖書信仰のほうに明け渡すことが多かったのである。

儒学や仏教によって人々が統治されて来た東洋社会では、人々の集団意思が最低限
以上に統御されて来た一方で、聖書信仰や洋学に支配されて来た西洋社会においては、
人々の集団意思が多少なりともの統御を受けることもなく、また自然状態以上にも
人工的に狂乱化させられることすらもが試みられて来た。西洋人による国際的横暴が
極まった近代以降は全世界規模での狂乱化すらもが試みられたが、そのせいで人口爆発
や環境破壊や核危機や経済危機といった破滅的事態を招いてしまったし、またそもそも
狂乱状態の集団意思というものが、平静な集団意思と比べて全く以ってつまらないもの
でもあるから、古来から厳重な集団意思の平静化が執り行われて来た日本人などに対
していくら洗脳操作を試みても、一定以上の狂乱化が見込めないということもあった。

集団意思の狂乱化は、それが人々をより楽しませられるものと思い込まれていた
うちはまだ推進のしようがあったが、集団意思を平静化するのと比べて根本的に
つまらないことであるのが気づかれて後は、もはや狂乱化の主導者であった西洋人と
いえども、その手の試みを自粛させて行かざるを得なくなった。もしも孔子とイエス
が同一の場に居たりしたならば、その教説の正当性だけでなく、本質的な面白さの面
でもイエスが孔子に完全撃退されざるを得ないのだということが知られたものだから、
もはやあえて集団意思を狂乱化させたりする何らの道理もありはしないこととなった。

返信する

174 2014/02/04(火) 14:52:18 ID:/y4h4ElYX6:au
集団意思が狂乱化するよりは平静であるほうが真っ当であるということは、多少考えて
みれば誰にでも理解できることである。それ以上にも、そこでの狂乱による快楽などを
求めたりしないほうがむしろ本質的に楽しくもあるということまでもが気づかれた
ことこそは意義のあることだといえる。人々の狂乱を煽ることばかりに執心している
大メディアへの支持などは尻すぼみになって、自分でよく考えて情報を取り扱うネット
上への草の根的な参加のほうが若者などに好まれて来ているのもよい傾向だといえる。

人口爆発や環境破壊に代表される現代世界の破滅の危機からの脱却のためには資本主義
の終了が必須であり、そのためには株式経済の限界の露呈としての株価の暴落までもが
便宜として必要となるのにも違いないが、それも無闇な狂乱などと共に到来すべきだ
などということはない。ただシステムの限界ゆえの破綻を誰しもが冷静に見守って、
一時代の終了に相応の出処進退へと粛々と取り組んでいくようにするに越したことも
ないのである。何しろ、狂乱の鼓舞を第一とする時代こそが、終わりを迎えるのだから。

「今、大道既に隠れ、〜貨力は己れの為めにす」
「いま、天下では大道がすでに隠れてしまっているため、
財貨や力も自分のために用いることばかりが当たり前とされてしまっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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175 2014/02/05(水) 13:28:46 ID:qJOq4m5/KM
全世界、全宇宙を構成しているほとんどの物質は無機的な岩なり、その融解物や
蒸発物なりであるわけだから、もしも人間を含む生命体がより普遍的なものとしての
宇宙に合致しようとするのなら、まだ死んで灰となる以前からそのような無機的な
事物への尊重すらをも心がけられたほうがよい。石仏や墓石をありのままに崇拝の
対象とする仏門などはまさにそれを実践しているわけで、存命中の血肉を
得た状態の人間もあくまで仮の姿に過ぎないものであることを。九相図の
観想ような手段までをも時に用いて教化して行こうとする。

そこまで透徹せずとも、この地球上の有機的な自然物の一定度の普遍性への合致を
心がけることで、限りある命の持ち主としての自らが満足な生を送れることもある。
その場合に依拠の対象として適切な物質となるのが、水とか、塩とか、鉄とかである。
生命の維持のために特に必須となるのがこれらの物質であり、なおかつこれらの
物質こそは安定してこの地球に遍在し続けるものである。水と塩が海として膨大に
湛えられているのはもちろんのこと、鉄もまたこの地球という惑星の35%を構成
する程にも豊富な物質である。脊椎動物の血肉が赤いのもヘモグロビンの
中心部に鉄分が含有しているからであり、そのヘモグロビンが出血などで
一定度以上に損なわれた場合にこそ、生物もあっという間に死んでしまう。

生物の肉体を構成しているのは別に水分や鉄分だけではないが、その他の
構成物であるたんぱく質や脂肪分や炭水化物などは有機化合物であるため、燃焼
すれば分解して灰と化す、まさに一過性の構成物の最たるものである。その灰も灰で
仏門などではそれなりの尊重の対象とされるが、全宇宙とまでは行かずに、この地球上の
自然の普遍性程度に親しもうとする場合には「穢れ」などとして忌まれるべきものとなる。
だから、鉄分のおかげで赤いのであるといえども、不安定な組成を持つたんぱく質や
脂肪によって主に構成されている血肉などを好き好むことも儚いことの内に入るのである。

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176 2014/02/05(水) 13:33:13 ID:qJOq4m5/KM
自然生命の地球上での普遍性を尊ぶために、先祖や国の神に塩や水を捧げて、
神体に鋼鉄製の刀を用いたり、宝刀を代々継承して行ったりすることは、それなりに
理にかなっている。家や国が絶えるなどすればそこで普遍性も損なわれるわけだが、
別に原理的にその寿命が限られているなどということはない。フラッシュメモリーの
書き込み回数やデータ保持期間には原理的な寿命があるが、紙に書かれた先祖の系図や
伝家の宝刀などに原理的な寿命はないようにして(もちろん入念な管理は必要である)、
次代を継ぐものの努力次第でどこまででも普遍性を伸長し続けて行くことができる。

石灰すらをも宇宙の普遍性に合致するものとして尊べるものは、仏門などに即して
そうするに越したことはないし、そこまでは行けない人間であっても、この地球社会を
構成する普遍物としての塩鉄や水などへの尊重と共なる神道的慎ましやかさである
ほうがよい。血肉を構成している有機化合物を含む不安定要素の七色変化こそを
面白がって何よりの祭り上げの対象としたりすることだけは控えるべきであり、
それを控えるためにこそ仏神への崇敬をあらたなものともして行くべきである。
近代文明が化学の濫用によって致命的な地球環境の破壊を来たしつつある昨今、
血肉に代表される不安定要素への嬉しがりを控えることは急務ともなっている。

「喪に疾有れば、肉を食い酒を飲む」
「服喪中でも病にかかれば、滋養のために肉を食い、酒を飲む。
(他にも、老人の肉食を推奨する記述などが礼記にはある。生命力の衰えた人間こそは
肉の滋養にすら頼らざるを得ない。粗食こそは健康の源などとも言われるとおり、むしろ
血肉の誘惑を忌み避けられる人間こそはより生命力を養えるということもあるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)

「漸漸たる石、維れ其れ卒しき。山川悠遠にして、
曷ぞ其れ没きん。武人東征して、出づるに遑あらず」
「厳しいその石は、険しさも甚だしい。その周囲の山川も悠遠にして尽きることがない。
武人たちも東征に奔走して暇のあることがない(武将を石に、その配下を山川に喩えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・漸漸之石より)

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177 2014/02/06(木) 15:48:48 ID:yXSDlHEQtw
何か守るべきものがあって、なおかつそれが守るべきものとして道義的に適正であるのが
人道にかなった真人間というものである。何一つとして守るべきものがないのも人の道に
外れるし、守ろうとするものが人の道を外れているのもその通りである。現実的には、
由緒正しい真っ当な家や国を守り受け継いで行くことが凡その人道にかなう一方で、
それに反してまで個人的な虚栄を追い求めたりすることが人道に反することとなる。

だから人道を司る儒家こそは君臣父子夫婦の三綱の序列の堅持や、そのための仁義礼智信
といった個人的徳目の実践を奨励してもいるわけだが、その儒家教学の遵守ばかりに専らで
あり続けて来た中国や朝鮮のような国々が、世界で最良の歴史を歩み続けて来たなどとも
言い難い。孔子や孟子といった原始の儒者が武道を嗜んでいなかったことなどを根拠に、
国を挙げて武備を軽んじたせいでの異民族からの致命的な侵略を被ったり、人道以上に高尚
なものとしての神仏の道への尊崇を形骸化させたせいでの文化荒廃を招くなどしてしまった。

これは、中正な常道の堅持ばかりに専らでいれば、風化が原因での荒廃や破綻を来して
しまう、この世界この宇宙の根本法則があったればこそ呈してしまったことでもある。
今だとエントロピー増大則という物理法則によって理論的に看破されていることだし、
そうでなくとも、諸行無常や天人五衰や「覆水盆に返らず」などといった言葉で昔から
多くの人々に予見されていたことでもある。だから、それを見越して人道を上回る仏神の
域までをも希求して行くことが、より恒久的な普遍性の追求ともなって行くわけだけれども、
人道を司る儒家の教学だけを見てみれば、その手の試みの参考になるような材料は非常に
少ない。孔子も「鬼神を敬してこれを遠ざく」と言ったし、孟子も「中正の堅持ばかりが
中庸のためになるとも限らない」と言いながらも、ではいかなるあり方こそが最大級に
中庸に利するのかという具体例まではあまりつまびらかにしていない。それは、本人たちが
妾腹の私生児や乱世の遊説家といった特殊な立場に置かれていたからこその不足であるし、

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178 2014/02/06(木) 16:00:56 ID:yXSDlHEQtw
人道にとって最大級の味方にも敵にもなる兵武の道を本人たちが嗜んでいなかったのもまた、
絶対に人道とは相容れない鬼畜道と武道とが当時の中国で癒着してしまっていたからでもある。

なればこそ、孔孟を代表とする春秋戦国時代の儒者が、神仏や兵武への依存をも
完全に脱却した独立的な人道を体系化してくれたわけだけれども、その原始の
儒者たちが乱世の荒波に揉まれてろくな待遇を受けられなかったのと同じように
して、純然たる人道もまたそれだけでは脆弱なものでしかあり得ないのである。

儒者たちが真人道を体系化してくれたことだけは怪我の功名だったにしろ、
人道が孤立して立ち往生してしまう程にも大局が荒廃していた春秋戦国時代という
中国の一時代のほうは決して評価するに値するものではない。残念ながら、今の世界も
また当時の中国並みに人道が遠ざけられている状態であるわけだけれども、そのような
事態に世の中が陥るようなことはできる限り避けるようにしなければならない。

儒教が金科玉条に掲げられたりするのも、人道が蔑ろにされた時代の反動でしかない
わけだから、むしろ儒家で教えられる人道などは当たり前のこととして誰しもにわきまえ
られている時代こそを目指すべきである。その上で、人道の堅持のためにより有効と
なり得る正統な神仏への崇敬や武道の修練に人々が励めるようにしたほうがよい。そうして
人道が世の中において孤立することなく、健全な人々同士での輪を作れるようになったほうがよい。

人道に即して守るべきものに限らず、真っ当な道義に即して守られるべきあらゆるものが
守られたほうがよい。守るべきものがあることなど当たり前のこととされて、「保守派」
などといった一派閥に追い込まれたりするようなこともないようにしたほうがよい。

「敬みて天の威を迓え、文武の大訓を嗣守し、敢えて昏逾すること無し」
「慎んで天の御威光に則り、文王武王の古来からの偉大なる教えを
遵守し、あえて捨て去ったり度を越したりするようなこともない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)

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179 2014/02/07(金) 14:18:30 ID:4MDqaMqwIM
ほんの十数年前まで、メディアといえば新聞やテレビが主で、一般人はただ
そのような大メディアから一方的に情報を受け取るだけの存在でしかなかった。
絶対にその立場から有効となる意見を発することなどできないとされる低い立場から、
大メディアで取り上げられる雲上人の動向を指をくわえて見させられるだけという
のが一般人の常であった。それが軍事目的をも兼ねたインターネットの普及に
よって万人の双方向的な情報共有が可能となり、一般人も何一つ口ごたえ
することのできない無力な子羊のままでいさせられることまではなくなった。

人生の大半をネットなしで過ごしてきた高年層などには、まだ大メディアを雲上の存在
として崇め立てるような浅ましい性向が根付いたままでいてしまっているが、ネット
が自分たちの活動領域に深く入り込んできた中年以下の層には、もはや大メディアも
絶対的な権威を持つものなどとして目に映ることはない。ただただ一方的に歪んだ
情報を押し付けてくるその奢り高ぶった有り様に嫌気が差してテレビや新聞もあまり
見なくなり、大メディアや有識者層を構成している人間が全くできた連中でもない、
ただ糞ににたかるハエのように利権に群がっているクズ人種であるとも半ば知れて来た
ものだから、大メディアであるというだけで嫌悪感を催す者すらもが現れて来ている。

権力道徳学的に見ても、近代以降の大メディアの暴慢のほうが粗悪なものであり、
ネットで行われているような無名者同士での横議が是認されることのほうが良質な
ことである。全国を挙げての虐政が敷かれていた秦帝国においてこそ横議も厳禁され、
私的に政権を批判する儒者たちが穴埋めにされて大量虐殺されるなどの惨暴が巻き起こ
された一方で、その秦帝国を崩壊させて後に立ち上げられた漢帝国においてこそ人々の
横議もそれなりに是認されて、実際に地方の町村に至るまで賢良方正と噂されるような
人間が取り立ての対象とされるなどの市井密着型の善政が敷かれた。現代における大
メディアの横暴とネットでの草の根活動などもまさに、秦帝国の暴政と漢帝国の善政に
それぞれ比肩されるものであり、前者よりは後者のほうが尊重されるようになること
でこそ、今の世における勧善懲悪が実現されて行くことが見込まれもするのでもある。

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180 2014/02/07(金) 14:37:49 ID:4MDqaMqwIM
制度に即して作為的に権威が付与されて、一般人にはお目通りも適わないような
高位の身分が規定されるようなことが封建社会ではあるが、それもむしろ、高位となる
為政者が天下全土に目を見張って、部分の利権などに囚われることなく万人を福利厚生
の対象として行くためにこそ執り行われるのでなければ道理に適わないこととなる。

徳川吉宗が幕府の将軍として目安箱を設置した結果、現代の党派政治による民主制
などよりも遥かに滞りのない、民意に適った為政が執り行われることともなった。
相手はあくまで実質「日本国大君」の将軍であるわけだから、人々も高く仰ぎ見る姿勢
と共にしか請願を行うことができない。だからこそ、それでもどうにかして欲しい問題
だけを人々が目安箱に直接投じたわけなので、無駄な問題まで取り上げられての事務の
滞りなどを来たさなくても済んだ。これなどは、人間同士での上下関係こそが、万人の
双方向的な情報交換による間接的交流を滞りのないものとした好例であるといえる。

権威的な上下関係が世の中に敷かれるのであれどうであれ、頂点から底辺に至るまでの
双方向的な関係というものがそれなりに滞りのないものでもあるべきである。部分的に
そのような関係を許容できる上下関係こそは、硬直に過ぎないものとして磐石さを確保
できるものでもあるから、むしろ封建制の維持のためにこそそういったことが試みられて
然るべきでもある。手っ取り早いのが仏門の興隆で、出家者ともなれば以前の身分がどう
であれ平等に尊いものとして扱ったりすることが身分制社会の手堅いガス抜きともなる。
もちろん今ならネットも用いられるわけで、政商を後ろ盾とする大メディアなどよりも
ネットのほうが遥かに、善良な封建制との親和性も高いものであるといえる。

「夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、
慮て以て人に下る。邦に在れば必ず達し、家に在りても必ず達す」
「上達者は質実剛健にして道義を好み、諸々の言葉の本意を察して見たものの
本質を見抜き、国のトップに居ようが家の中に居ようが、どこででも万事に通達する。
(道理に適った上達者は、見聞きしたもの全てをただそれだけで征服下に置けるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二〇より)

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181 2014/02/08(土) 15:03:04 ID:Y6/O3jGbpA
君子が徳治を施す時に、恣意でその相手を限るようなことはないし、
押し付けがましい、お節介に当たるような施しまでをも為すことはない。
自らが任された封土全体の公正な統治に特化し、身分制度があった所で、
その最底辺に当たるような人間に至るまでの最低限度の生活保障を心がける。

君子の活動は、いわゆる「サークル活動」などと呼ばれるような党派的
活動とは全くその様相を異にしているものであり、それこそ位相が相反する
程にも決定的な相違を帯びている。全体の利益を尊重することは部分の利益を
蔑ろにすることに繋がる一方で、その逆もまた然りであるわけだから、部分の
党派を利するような心持ちで君子が徳治を試みたりすることも許されはしない。

一方で、君子が徳治のような社会的活動の推進のために取り組んでいくべき
部分の尊重というものもまた特別には存在するのであり、それが君臣父子夫婦の
序列の遵守や、仁義礼智信といった個人的徳目の修養に当たる。それも確かに
世の中の部分の偏重のようでもあるわけだけれども、だからといって他人同士で
形成する党派や結社の如き公益との相反性を帯びたりすることはない。君臣関係は
当然世の中の公的統治のための要であるから公益に反しないし、父子夫婦の序列の
尊重もまた、その君臣関係を利するものでいて、なおかつ世の中の安定のために
必要不可欠な倫理性を帯びているものだから、君子が徳治のために嗜むべきもの足る。

未だかつて、仁徳統治というものが存在することすら知らないままであり続けて
来た西洋社会においては、何もかもを徒党派閥の編成を基本としてしか為せない
ようなままであり続けて来た。王侯も資産家との派閥を組み、民主制においても
必ず党派政治を基本とする。ナチスや共産主義者すらもが政党による国家の統治を
試みて、自分たちの党是に即して非とされる人種を過剰なほどの排除の対象とした。

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182 2014/02/08(土) 15:05:36 ID:Y6/O3jGbpA
一党独裁制だろうが二大政党制だろうが多党制だろうが、党派政治である時点で
そこに仁徳はないのであって、それは仁徳を知らない西洋人にとっての最善では
あったかも知れないが、仁徳を知るものにとってはマシな部類にすら入らない、
最低最悪級の政治手段でこそある。だからこそ、党派政治を取り入れてしまった
以降の日本や中国などでは、清廉な人々こそは政治に関わらず、人間のクズ然と
した連中ばかりが公権力に群がるといった様相を来たしてしまったわけで、それ
なりに志しある人間こそが党派政治における成功を志そうとする西洋以上にも
表向きからの政治腐敗が如実なものと化してしまったのである。(もちろん、
志しがあったところで、党派政治である以上はろくな結果に繋がらないのだが)

人間社会の部分集合は、どこまでも「家」の範囲内に止めることこそが、仁徳
の範疇を逸脱したりしないことに繋がる。江戸時代の豪商なども「三井家」だの
「住友家」だのといった家単位での営業に止めていたものだから、国を傾ける程
もの害悪を自分たちだけでもたらすことはなかったが、その家としての身の程を
逸脱して、商家の身分でいながら田舎の武家などと結託しての政商犯罪などに
及んだものだから、傾国級、亡国級の害悪すらをも及ぼすこととなったのだった。

家は「募集」によって成り立つものではなく、自ずから生成されて行く社会の
根源である。子が親を選んだりすることもできない先天性を帯びているからこそ、
恣意で形成された集団こそがもたらすような我田引水の災厄の元凶ともならない。
もちろん利権がその象徴としての名家を立てるようなこともあるが、その場合も
やはり害悪の元凶であるのは非家庭的な利権の吹き溜まりのほうなのである
のだから、たとえ名家の陰に隠れているようであっても、そのような吹き
溜まりのほうの駆逐こそを第一の課題として行くようにしなければならない。

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スレッドタイトル:聖書 Part13

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