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聖書 Part12


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001 2013/08/19(月) 13:19:08 ID:TB4y1qACAM
この地球人類社会において、自明なまでに「第一の聖書」としての
地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。

「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。

ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。

四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

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280 2013/11/18(月) 18:40:33 ID:wWSJcHDerY
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6052822.htm...
なぜ日本の刀は両手であつかうか、という問いに間接的に答えを言っても分からないようだから、ズバリ答えを言うけどね・・・。

示現流の話で、

示現流は、初太刀での一撃必殺を旨としており、正面から初太刀を受けると真剣でもへし折られ、仮に折られなかったとしてもそのまま押し込まれてやられてしまう可能性が高く、かわすのが困難なためである。
実際、幕末期に示現流と戦った武士の中には、自分の刀の峰や鍔を頭に食い込ませて絶命した者がいた事は有名である。

と言う話があるように、両手で上段から切り込むと、片手で対処する所か両手でも簡単に対処出来ないんだと言う事・・・そういう答えが戦国時代には、もう出てるから両手で使うのが結論な訳です。

まあ、日本の刀剣の技術と言うのは両手で上段からの一撃に集約されるんだよ。

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281 2013/11/19(火) 07:41:19 ID:kHKCGO/mfY:au
あのね、示現流の生まれた薩摩では、「抜刀即処罰」だったから。
(謀反を極度に恐れる秦人島津の意向で)

だから薩摩拵の鐔には、刀と鞘を紐で繋ぎ合わせて
抜けないようにする穴が二つ開けられてもいる。

そんな薩摩人の、軽い棒きれ主体の剣術稽古の流れを汲んでいるのが
今の竹刀剣道でもあるわけでね。飛び込み打ちだらけな上に、
手の内も疎かなあんな剣の振り方では、真剣の威力は絶対に活かせない。

薩摩軍が幕府軍を圧倒したのは、一にも二にも、大坂豪商から借りた金で
グラバーから購入した新型兵器がものを言わせたからであってね、
連中の田舎剣法なんかが役立ったからじゃない。剣術にまつわる幕末の
武勇伝なども、それを隠蔽するための誇張である場合がほとんどだから、
新撰組の活躍のような話の具体性にも欠けている。

北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬も、
スミス&ウェッソンの拳銃で奇襲相手を射殺したことがあるだけだ。
二重身で自分自身が「大きな的」になってしまう北辰一刀流の技法も、
竹刀と防具での持久戦には有効だが、撫で斬り一つで命を落としかねない
真剣勝負では、そのままの姿勢での早々とした逃亡に有効となるばかりだ。
(新当流や新陰流が基本とする一重身でこそ斬撃も最強となるが、
走って逃げたりするためには体勢の転換が必要ともなる)

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282 2013/11/19(火) 09:43:55 ID:kHKCGO/mfY:au
その、一重身での斬撃が、利き手だけでの振りの時に最強となる。
適切な手の内で振れば、鈍重な木刀でも爆音のような風切り音を立てるようになる。

ただし、十回も振れば、三日は筋肉痛に悩まされることになる。
両手なら千回でも難なく振れるような人間であっても。

自分の筋力が自分の腕を自業自得で壊すんだから、鍛錬でどうにかなるもんじゃない。
宮本武蔵も二刀流を常用していたわけでなし。

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283 2013/11/19(火) 15:00:12 ID:fV3DEkt7Wc
実の親こそを尊重対象とし、すでに亡き先祖をも神仏として
尊んでいくようにすることでこそ、そうする本人たち自身が、
仁政徳行にかけての最善を尽くして行けるようになる。

自らの衣服飲食を悪しくしてまでの先祖崇拝を心がけていた夏の禹王こそは、
破足になるほどもの東奔西走と共に治水事業に尽力し、洪水を治めて五穀の豊穣に
貢献したというのだから、鬼神への崇敬や孝行こそは、「困ったときの神頼み」
でしかいられなくなるような災厄を未然に防いで行く要にすらなることが分かる。

自らの親先祖を尊ぶからには、他人がその親先祖を尊ぶことをも認めなければ
ならない。それがまた、人間社会の多様性を尊ぶ大人びた価値観の醸成にも
繋がって行くわけで、それぞれに個性を帯びた人間同士が、お互いに分業し合って
世の中を盛り立てて行く上での円滑さを推進していくことにもなるわけである。

情念に即してみても、親には親しみたい気持ちになりやすいものだし、公共性に
即して考えてみても、上記のような理由に即して、親先祖への崇敬が非常な有意義さ
を帯びていることが分かるのである。何ら問題とすべきでない健全性の極致こそは
親先祖への崇敬の心がけであるとすらいえるわけで、優れた親先祖に恵まれたおかげで
そのような心がけを自然と受け入れられる人間ほど、幸せな人間も他にないといえる。

親の素行がろくでもなかったり、自分自身が次男三男で長男ほど可愛がられなかったり
すれば、孝養や先祖崇拝を心がける意識も育みにくいものだけれども、だからといって
それを疎かにすれば、自分自身の徳性や品格を損ねるばかりのこととなるのみである。
孔子のような妾腹の私生児であろうとも、先祖供養や御家事情の整理に務めることで
聖人君子としての大成を克ち得た実例があるわけだから、決して自分の親先祖の
敬いがたさにかまけて放蕩したりすることが正当化までされてはならないといえる。

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284 2013/11/19(火) 15:07:21 ID:fV3DEkt7Wc
親先祖への崇敬は、「困ったときの神頼み」の対象になるような神への信仰などと競合
するものではない。信敬する目的からして、自力作善と他力本願という真逆の代物である
わけだから、始めから前者を選択する者は後者を比較対象とすらせず、後者を選択する
者もまた前者を引き合いに出したりすべきでない。自分が望むような効験を親先祖への
崇敬が発揮してくれないからといって、そこに価値がないなどと思い込むべきでもない。

大体が、「困ったときの神頼み」を信条とするような人間こそは、親先祖の依存対象
としての脆弱さに見切りを付けてそうなってしまっていたりするわけだから、親を
依存ではなく自己修練のための材料として見ることなども始めから全く想定すらして
いないのである。親先祖に対する姿勢が成人後に至るまで、どこまでも未熟な子供
止まりのままでしかないからこそ、親先祖への本格的な崇敬に務めることが自らの
成長に与するなどということも、全く度外視したままでいしかいられないわけである。

人間としての健全さが親先祖への崇敬によって極められるのと同じように、人間として
の志しの低さもまた、親を依存の対象としてしか見られない所でこそ致命的に固着して
しまうのである。人類という種族もまた、これからも多少は進化したり退化したりして
行く生き物であるわけだが、その人類が、前世代への崇敬にすら及べるときにこそいま
以上に進化し、前世代への依存止まりのままでしかいられない時にこそ退化してしまう
に違いないわけだから、生物として見た場合にも、両者の優劣は見え透いているといえる。

親先祖を尊ぶ道こそは、今以上の向上の道、尊ばないでいる道こそは、
さらなる堕落の道。心情的にすら、人間は親を親しめるように出来ている
のというのに、どうして前者の向上の道を選ぶことが勧められないでいようか?

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285 2013/11/19(火) 15:09:01 ID:kHKCGO/mfY:au
「今夫れ山は、一拳石の多きなるも、其の広大に及びては、
草木之れ生じ、禽獣之れに居り、宝蔵焉れに興る」
「山も一部分を見ればただの石ころの集まりだが、それが広大であるものだから、
多数の草木が生じ、動物たちもそこに住まい、鉱脈に数多の財宝を含有するのである。
(山の一部分を見て『ただの石だ』などと決め付けるだけの了見の狭さ
でいれば、親先祖を尊ぶことなどもなかなか難しいことだろう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)

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286 2013/11/19(火) 17:36:16 ID:kHKCGO/mfY:au
別に、鹿児島生まれでも鹿児島育ちでもないが、
俺にも多少は薩摩人の血が流れてるから、薩摩の問題は他人事でもない。

薩摩人の血筋自体は、特濃の縄文系で、律令制時代には皇宮の警備役も務めた
由緒正しいものなのだから、それを恥に思ったりする必要もないわけだけれども。

如何せん、武家時代には島津という極悪非道の手合いにたぶらかされて、
死兵や食客のような過度の捨て身さや、身内にだけは極端に甘い閉鎖意識を
植え付けられたりしているものだから、そこは決して褒められたもんじゃない。

そのような問題があるせいで、今じゃ財界人はおろか、朝鮮パチンコ利権にすら
頭が上がらない、玉抜き状態の薩摩っぽ警察が出来上がってしまってるわけだから、
連中に男としての名誉を取り戻させてやるためにも、決して甘い姿勢で扱ってやったりはしない。

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287 2013/11/19(火) 18:45:23 ID:3.Z.3qBASU
両手の流派にも片手の型がある。
馬上なら片手、戦場では片手剣だろうと両手剣だろうと槍が有利、
嘘のような本当の話として手裏剣術の手裏剣を刀で野球のバントように受けるというのもある。
(人間が投げるので手裏剣でも野球と同じく速度は時速150キロを超えないんだろう)
両手は防御に有利とか、受け流された後が片手は不利とか、
いろいろの説があるが両手剣になった理由はわからない。

それで「肩を痛めるから」というのはある種のもっともらしい発想であるけど、
想像にすぎない。
孫子に曰く「占いや経験による想像は、具体的な情報に劣る」。
山師、占い師になりたくなければ発想による突破は戒めるべき。

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288 2013/11/19(火) 19:10:02 ID:kHKCGO/mfY:au
片手持ちの超音速振りで腕を壊しかけたのは、この俺だから。

大太刀並みの重さがあるこの種の木刀を、両手で千回振ったりもしている。

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289 2013/11/20(水) 01:14:50 ID:63PE5Tp0FY:au
投擲力を削ぐために、あえて両手で投げさせる。

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290 2013/11/20(水) 14:21:38 ID:Xdi1Ml1nKw
いくら新旧約聖書信仰レベルの邪道に堕してしまっている人間といえども、
本人自身が邪道を棄てて正道に立ち戻ろうとする意欲があったならば、
それも可能となることのはずである。しかし、そのような意欲がないのならば、
邪道を邁進するとまで行かずとも、多少是認する程度の心持ちでいるだけの
ことすらもが、治療不能な難病並みに正されることも困難になってしまうである。

現代における致命的な問題も、邪道を邁進すらしてしまっている
ような連中がいること以上にも、邪道を多少是認する程度の心持ちを
あえて正して行こうとするような気概までは抱けないままでいる
人間が多数に上ってしまっていることでこそあるといえる。

聖書信仰の本場である欧米においてですら、聖書を狂信するほどもの蒙昧さの
ままでいるような人間はすでに少数となっている。教会など結婚式でもなければ
行かないような、日本人並みの信仰意識の希薄さでいる人間なども多く現れて
いる中で、やはり聖書信仰を完全に破棄してしまおうとまで考えられるような
人間まではいないままでいる。アンチキリスト主義の人間ですらもが、聖書
文化本位のままででしかものを考えられないままでいるのは同じであるために、
それを完全に破棄した先にあるものなどを、想像することもできないままでいる。
(実際に、想像もできないままに破棄してしまったのが共産主義でもある)

江戸時代生まれの人間などもとっくの昔にいなくなった今、日本人もまた、
生まれた頃から国内でキリスト教が許容されているものだから、あえてそれを
破棄したりすることのほうが不自然に思えてしまう。クリスマスにことかけての
商業キャンペーンの躍起さに嫌気が差して、クリスマスの終了を望んでいるような
人間も多少はいるが、それも所詮はジョーク止まりのままでいる。昔から日本で
親しまれている仏教や神道の体裁を取りながらも、パッと出の新興宗教である
ような信教のほうが、よっぽど不信感を持って受け止められていたりする。

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291 2013/11/20(水) 14:42:37 ID:Xdi1Ml1nKw
せむし程にも背中が曲がっていたりすれば、それを矯正をしようとも心がけられるが、
多少姿勢が悪かったり骨格が歪んでいたりするだけなら、そもそも矯正する気すら
起こらないままでいたりする。カルトの狂信者による異教弾圧などまではすでに
認められない風潮へと全世界が移行している今、あえて宗教問題に根本的なメスを
入れようなどと考える人間までは現れない事態ともなっている。それこそ、気に
ならない程度の姿勢や骨格の歪みだけが残存している状態といえるわけで、ただ、
その歪みが気にならないながらにも致命的なものであるというのが問題である。

ヨガや座禅や合気道などの東洋体術は、姿勢や骨格の矯正ばかりを目的としたもの
ではないけれども、そのような効果も同時に持ち合わせている。また、一度正された
姿勢や骨格を長年にわたって保全して行けるものでもあるから、老齢に至るまで健康
なままでいられたりする。それと似たような効果を、社会運営に対して持ち得るのが、
権力道徳学としての儒学や、正統仏教の実践込みの流布だといえる。それが実現に
移されることで、自然と社会の歪みの元凶となっている聖書信仰や洋学主義が
立ち消えになり、世界も破滅の危機程度は脱していけるようになる。聖書信仰が
許容されていたりするのを別に不自然に思わなくとも、儒学や正統仏教を本格的
に取り入れて行く以上は、自然と聖書信仰や洋学主義を立ち消えにしていかざる
を得なくなり、そうなった後の世の中がそれはそれはすがすがしい健全さをも
帯びていることを知らされるものだから、そこで人々も初めて、以前の社会に
致命的な問題が潜在したままであったことを計り知ることが出来るのである。

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292 2013/11/20(水) 14:52:03 ID:63PE5Tp0FY:au
問題は、儒学や正統仏教を受容して行き始める、その瞬間にあるといえる。
聖書信仰や洋学ばかりが大々的に許容されている今の世相のままでそれらを
受容し始めたりしたならば、大火と大水がぶつかり合っての水蒸気爆発のような
文化衝突が発生しかねない。それを防ぐためには、今の世界にのさばっている
側である聖書教団や洋学界が最大限に折れて、儒学や正統仏教を受け入れても
大問題が生じたりしないで済む程度の体裁を整える必要がある。聖書信仰や洋学を
当たり前のように許容している現代人にとっては、それが突拍子もなく不可解な
事態となるに違いないわけだが、それでもあえて自分たちの「雌化」を宣言し、
文化の「雄」たる儒学や正統仏教との雌雄を決しておく必要があるのである。

「沈潜なれば剛克」
「沈み潜むものは、剛毅さによって超克する。
(洪範九疇・第六・三徳。邪教信仰に溺れ沈んでしまっている聖書信者に対して
剛毅な超克を施しているここでの自分の態度なども、洪範九疇の教えに適っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)

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293 2013/11/21(木) 14:42:08 ID:7gevn6LeRw
「酒は百薬の長」とは、半ば酒飲みの言い訳でもあるような物言いだけれども、
まあ、人間社会を穏便に営んで行く上での潤滑剤程度の役割は持ち得るものである。
そのあたり、「金カネ」などとも共通する点であり、金がこの世にあって然るべき
程度には、酒もまたこの世での市民権を得るに値するものだといえる。

飲酒を禁ずるような本格の仏門は、同時に出家者の商業活動をも禁ずる。
廃仏毀釈以降の日本では、僧侶が商業活動抜きで生計を立てて行くことなども
できなくなったものだから、聖道門の死守も不可能なこととなってしまった。
それでいて、僧侶の飲酒だけは眉をひそめるような人間がいたりもするが、
そもそも今の社会が、仏門から本格出家の選択肢を奪い去っていることを忘れて
しまっているからこその発想であるわけだから、そこは反省すべき所だといえる。

それで、本格の出家修行の選択肢を奪われた今の坊主こそが、本業中の本業と
しているのが葬式での読経や戒名の作成である。これも決して、仏門として
最たる正業とすべきものなどではない。釈迦も「葬式などはバラモンに任せて、
自分たち出家者は携わるべきでない」ということを言っているわけだが、日本
ではバラモンと同じ祭祀階級である神官が死の穢れを忌んであまり葬儀に携わろう
としなかったものだから、仏門の僧侶が葬儀すらをも代行することが伝統的に多い
状態であり続けて来たという特殊事情があるだけで、葬式などは本来、存命中の
精進にこそ励むべき仏門にとっては、易行の内にしか入らないものだったのである。
(葬式仏教を伝統的に主導して来たのも、易行道の浄土門である)

酒飲む坊主こそは、葬式業務で金も稼ぐ。「酔生夢死(近思録)」などという
言葉もあるとおり、酒と金に溺れる安易さこそは、ある意味、死にも漸近する
ものだといえる。生きてる内にこそ最善を尽くす心がけこそは、本人を酒や
金権の誘惑からも遠ざけるものなのだから、それこそを志すべきだといえる。

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294 2013/11/21(木) 14:45:30 ID:7gevn6LeRw
孟子も、他人の葬式に赴いては、そこで供物の料理を貪り食ってくる
愚夫の逸話を引き合いに出していたりする通り。死は、本人やその親族に
とっては悲痛の至りであるわけだけれども、他人からすれば単なる催し物
扱いですらいられるものである。そうであるにことかけて、人様の死を
商売材料にしようなどとまでするような輩がいれば、これはもうハゲタカも
同然の所業であるといえるわけだけれども、実際のところ、他人の死という
のはその程度の扱いに処することができるというのも事実なわけである。

人の死を重んずるというのなら、せいぜい自らの親族の葬儀を、至心と共に
厳粛に執り行っていくべきだといえる。そしてそれ以上にも、生きてる内からの
忠孝その他の徳行に励んで行くことこそが、酒や金やその他の遊興材料からの
誘惑を遠ざけたり、断ち切ったりする決定打ともなるに違いないのである。

自らが人としての最善を尽くすわけでもなく、ただ他人の死あたりを見て自らの
惰生の慰めにしたりすることほど、落ちぶれた人間の有様も他にないであろう。
たとえ大富豪としてそうであったとした所で、そんな有様でまではないでいる
貧乏人ほどにも、精神の健全さがだれずに済まないでいることがないだろう。

「子、喪有る者の側に食すれば、未だ嘗て飽かざるなり。
子、是の日に於いて哭すれば、則ち歌わず」
「先生は、服喪中の人間の側では、満腹になるほどの飲食を避けられた。
人の葬儀で哭泣の儀を行った日には、歌を唄ったりすることを控えられた。
(凶事に際しての羽目をはずした振る舞いを控える。それは、『凶事こそは
すばらしい』などとする不埒な神経とは似て非なるものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・九)

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295 2013/11/22(金) 14:46:29 ID:Fk8oluNwvc
己れに責めて自らを修めることこそは、仁政徳行の九割以上だといえる。
結果として行われる事業などは残りの一割未満に過ぎないわけで、ちょうど
それは、長年の工事によって完成した水路に水を引くようなものだといえる。
水を引き始めればこそ、用水路として農業用水や生活用水の確保にも貢献し
始めることになるわけだけれども、努力が必要となるのは、用水路が完成
するまでの期間でこそあるように、君子が社会的な事業に取り組み始めること
もまた、それ以前の縁の下での努力が結実する瞬間にこそなるのだといえる。

単純な期間だけでいえは、君子にとっても修身の期間より、社会事業への
取り組みの期間のほうが長期に渡ったりするわけだけれども、人生で最も
成長の伸びしろのある二十代ごろまでに勉学精進を積んで、そこから何十年
にも渡る事業参画に臨んで行くわけなので、社会に出てからの行いなどは、
青年期に積み重ねた素養の専らな消費に終始するものになるのだといえる。

人生、四十も過ぎれば毎日が坂道を転げ落ちるようにあっという間に過ぎて
行くと嘆く人も数多い。それもやはり、壮年期以降はもはや、若い頃に
培った素養を機械的に消費するこばかりに日々を費やすようになるからである。
もちろん年取ってからの勉学などに励むことも一興ではあるが、それももう、
若い頃の勉学ほどの効果を期待できたりするものではない。朱子も晩年には
老眼で字がよく見えなくなったことを嘆いていたりしたように、すでに本格的な
勉学に励めるほどの身体や頭脳の壮健さも残っていなかったりする。それでも
年取ってからの勉学や精進に価値があるとすれば、それは、若い頃に培った
素養の維持や多少なりともの伸長、そして後代の若手への親身な教育の
ための一環としたりすることに、意義があり得るからだといえる。

人間、二十代ごろまでは専らな自修に務めておくべきだし、それ以降にも、
能力維持や後輩育成のための副次的な自修ぐらいは嗜んでおくべきだといえる。
さすれば、人間が全く自修を必要としなくて済む瞬間、むしろ自修などしない
でおいたほうがいい瞬間などは一瞬たりともないということがいえるわけで、
そのような素行を促す異見などにも、微塵の価値もないことが確かだといえる。

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296 2013/11/22(金) 15:00:41 ID:Fk8oluNwvc
自修など全く必要なし、ただ主人の言われるがままでいればいいとされて
いたのが、かつての奴隷身分である。洋の東西を問わず、奴隷は奴隷で存在
していたわけだけれども、奴隷のような生き方こそが人としての生き方として
是とされていた地域とまでなれば、それは聖書圏ぐらいのものだといえる。

別に聖書信者が必ずしも自主性が欠如しているわけでもなく、異教徒などを
相手には逆に自分たちこそが主人であるかのような振る舞いにすら及ぶわけ
だけれども、ことに、神への帰依にかけては全くの自主性を欠いた奴隷も同然の
精神状態でなければならないとする。そこで自修皆無の奴隷根性を培えばこそ、
粗暴な振る舞いと虚構の真摯さをも両立させて来られわけで、奴隷根性が善用
こそされずとも悪用される可能性がある根拠も、斯くの如くであるといえる。

項羽軍の残党の季布が、剃髪の奴隷身分にまで身をやつして逃れていたことに
感銘を受けて、本人を臣下に取り立てた劉邦や、奴隷の惨めさを哀れんでついには
奴隷制を撤廃した北条泰時などは、本当に奴隷という存在を惨めで卑しいもの
だと実感していたからこそ、そのような敢行にも及んだのに違いない。逆に、
リンカーンあたりは、有色人種である日本人との金貿易のおかけで南北戦争
で優位に立てたからこそ、黒人奴隷の解放宣言を行ってしまった可能性などが
あるわけで、人種差別意識の持ち主でもあったらしい発言も残している手前、
本当に黒人奴隷を哀れむ気持ちがあったのかどうかまでは疑問だといえる。

世界的に奴隷制が撤廃されている昨今においてですら、聖書信仰が未だに
大々的に許容されているからには、奴隷のような自主性皆無、自修皆無の
心持ちを非とすることまではまだ行き届いていないことが明らかだといえる。
上に書いたとおり、人間がむしろ自修を捨て去るべき瞬間などは一瞬たりとも
あり得ないわけだから、奴隷制が現存しているか否かなどにも関わりなく、奴隷
のような性向が由とされるような風潮全般を払拭して行くようにすべきだといえる。

返信する

297 2013/11/22(金) 15:32:15 ID:zU3v35bLhs:au
「人を責むるは斯れ難く無く、惟れ責めを受けて流れの如くならしむるは、
是れ惟れ艱きかな。我が心の憂え、日月逾え邁ぎて、雲に来たらざるが如し」
「人を責めるのは簡単なことだが、己れを責めて水が流れ落ちるように自らを
改めるのは、なんと難しいことだろう。私の心は、日月が過ぎ去ってもうここ
に戻って来ないかのような憂いに苛まれている。(春秋戦国時代の覇者となった
秦人の言葉。前半の格言は見事なものだが、後半では自分がひどく憂いに苛まれて
いることを吐露している。それは、自分が他人ばかりを責めて自己を責めることを
疎かなままにしてしまっているからである。これは完全な自業自得の憂いであるため、
自責によって自ら憂いを克服するのでなければ、神にすらどうすることもできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・秦誓より)

返信する

298 2013/11/23(土) 15:06:32 ID:/jR0Hj2EXk
俗に言う「頭に血が上る」という状態、思考過多のせいで
心臓から送り出される血液が頭部にばかり集中するような状態となれば、
同時に鼻呼吸が億劫となって口を開けて呼吸するようになったり、
手先や足先にまでの血の巡りが悪くなって冷え性になってしまったりする。
夏場には熱中症の原因ともなり、最悪の場合それが原因で死にすら至る。

パソコンや携帯電話の多用が激化している昨今、上記のような症状の内の
一部や、全ての症状に悩まさていれるような人間も相当数に上り始めている。
頭を使うことが必ずしも悪いことではないけれども、頭に血が上るような状態
でものを考えたり言ったりすることは、頭脳活動としても粗悪な部類に入る。

頭に血が上らない状態での思考、しっかりとした鼻呼吸やいい姿勢と共なる
頭脳活動こそは、よく見通しの効いた知見の醸成にも貢献し得るものである。
なぜかといって、そのような状況での思考こそは、熱中症的な苦しみとも共に
ないものだから、苦し紛れの投げ槍さを十全に抑制したものともなるからである。

すでに頭に血が上る症状が深刻化しているようならば、行水での心臓活動の
制御だとか、腹式呼吸での全身への血行の促進などの措置を講じねばならない。
いずれも慣れていない人間には非常な億劫となるわけだけれども、その障壁を
乗り越えた先にこそ熱中症などにも悩まされない涼やかな思考が獲得され、脳だけで
なく全身の健康までもが促進されるわけだから、そうするに越したことはないといえる。

鼻呼吸や正しい姿勢、行水での心臓制御や腹式呼吸といった諸々の対策を講じながら
思考や言行を執り行ったならば、自らが粗悪な外物に惑わされたりすることがなくなる
のみならず、何ものにも惑わされないで居る所にこそ充実感までもが得られるようになる。

返信する

299 2013/11/23(土) 15:10:53 ID:/jR0Hj2EXk
頭に血が上って口が開いてしまっているような状態では、むしろ何ものかに囚われること
のほうに心の安定を見出してしまうことになる。平常状態が熱中症的な苦痛に見舞われた
ままの状態でいるわけだから、何らかの拠り所を得てそこで思考を禁止ないし束縛
されることが、どこまでも湯立とうとする本人の脳活動を安定させるわけである。

そんなことにならないで済むのも上に書いたとおりであり、すでに湯だってしまって
いる脳の苦痛を惑乱によって紛らわしたりすることこそは、人としての過ちの最たる
ものですらあるといえる。そこからあらゆる確信犯の罪過が派生して行きもする
わけだから、すでに犯された罪を罰すること以上にも、そのような根本の部分から
の愚昧の矯正や予防こそを最大級の仁政上の課題ともして行かねばならない。

近ごろでは、邪教の神への帰依などだけでなく、結婚後に夫が妻に征服されたりすること
までもが同様な悪影響を及ぼしている場合が多々ある。男が世の中で臨む仕事も、頭に
血を上らせるようなデスクワークならば、女のほうもフェミニズムで思い上がりを増長
させていたりするものだから、日々の仕事で頭がフラフラになった夫が、家庭でも妻に
精神的に征服されることで心の安定を得ていたりする、非常に不健全な状態が頻発している。

しかも、それで夫婦円満みたいな扱いすら受けていたりする。夫が何ものにも囚われない
涼やかな頭脳でいられて、妻こそがそれを頼りにするというのが、元来、円満な夫婦の
あり方であるわけだけれども、それとは逆の状態で夫婦関係が固着してしまうような
場合もままある。そのような事態の打開のためにはやはり、天下に冠たる主君あたりが、
率先して模範的な夫婦のあり方などを体現して行く必要があるわけである。

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300 2013/11/23(土) 15:14:34 ID:ViIf4rTeCo:au
「父没して父の書を読むこと能わざるは、手沢存じて爾ればなり。
母没して杯圈を飲むこと能わざるは、口沢の気存じて爾ればなり」
「父が没したときにその遺書を読むことができない気持ちになるのは、手に取るとまだ
生きているかのような思いがこみ上げて来るからである。母が没したときに遺品の器で
ものを飲み食いする気になれなくなるのは、口に運ぶとまだ生きているかのような
思いがこみ上げて来るからである。(実の父母を敬愛する孝子ならではの悲哀)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)

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301 2013/11/24(日) 14:56:19 ID:BREAq97BO.
個々人の寿命は限られているが、家系や国の寿命は半永久的である。もちろん
断絶や崩壊の危険性すらをも帯びてはいるわけだけれども、原理的には恒久的
でもあり得るという点だけは、個々人の命とは一線を画している所だといえる。

恒久的であり得て、なおかつ一時的には個々人がその構成者たるものでもある。
偽善ではなく、自分自身のためにこそ家や国のために尽くす価値があるし、
なおかつそれが半永久的な事物の保全のための貢献ともなるわけだから、
そこにこそ、人間としての無上の生きがいが備わるのだともいえる。

実際、人間はそこでこそ、俗人としての最大級の満足を手に入れることが
できるようになっている。どれぐらい満足であるかといえば、自分個人が
限りある命の持ち主であることすらをも達観できるほどに、満足となれる。

仏門などで出家して諸行無常の真理を諦観するのも一つの手ではあるけれども、
別にそのような手段に頼らずとも、ただ家や国のために最善を尽くすだけでも、
「限りある命であるといえども生まれて来てよかった」と思えるほどの満足を
手に入れられるようになる。(それを大々的に容認されるのが本家や嫡子や
長男などに限られるからこそ、分家や庶子や末子の人間が口減らしのために
出家して、そこで超俗の悟りを得たりすることにもまた価値があるわけである)

世のため人のためにわが身を呈するということは美談としての聞こえはいいが、
捨て身ですらあらねばならなかったりするのはむしろ異端なことだといえる。
天下国家のためにこそ我が家を守り、我が家の礎としての自らの養生にも努める
というのが基本であり、自分が捨て身とならねばならなかったりするのはごく
一部の危機的な状況に限られている。そしてそのような状況もまた来たさないに
越したことはないわけだから、天下国家のためといえども、好き好んで捨て身と

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302 2013/11/24(日) 15:03:51 ID:BREAq97BO.
なることなどに意義が備わるようなことはないといえる。(最初期に特攻隊と
して戦没した関行男海軍中佐なども、「こんな無謀な戦法にまで頼り始めたんじゃ
日本もおしまいだが、命令だから仕方がない」という意味の遺書を残している)

国や家を保つことも、その手段が不正であれば潰えかねないし、なおかつその
ような真似に及んだ自分までもが>>297のような憂患に苛まれることともなる。
政商呂不韋の私生児として不正に秦国の王となって中原を制覇し、法家支配と
いう異端の手管による帝国支配を試みた秦始皇帝もまた、不老不死への渇望
ばかりに苛まれる晩年を送った。贅沢な飲食が祟っての中年での死去後にも、
秦帝国は安泰なままでは済まず、佞臣や宦官の専横やそれによる社会荒廃、
ついには全国での武装蜂起による反乱すらをも招いての崩壊に見舞われた。

そういうことがあり得るから、国や家のために尽くすことを厭ったりする
人間もいるわけで、それはそれで慎重を尽くす必要のあることだといえる。
ただただ犬のように主君や親にへつらったりすることがその条件を満たしたり
するわけもないから、自主性と仁慈の心を兼ね併せた君子としての素養を
自分自身が磨き上げて行くことを本分ともしていかねばならないのである。

「君子は以って身を修めざる可からず。身を修めんと思わば、
以って親に事えざる可からず。親に事えんと思わば、以って人を
知らざる可からず。人を知らんと思わば、以って天を知らざる可からず」
「君子はわが身を修めなければならない。身を修めようとすれば、親に
仕えねばならない。親に仕えようとすれば、人というものを知らなければ
ならない。人というものを知るためには、天すらをも知らなければならない。
(身を修めるための適切な手順を踏んで行けば、それが天にも通ずることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二〇より)

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303 2013/11/25(月) 15:04:50 ID:iQin.SA2V6
犬か猫かでいえば、犬のほうが病気や怪我に苛まれやすい。それは、
性格的にも体質的にも犬のほうが外物に感化されやすい生き物であり、
警戒心や猜疑心も猫ほど強くはなく、危険を顧みず他者に飛び付くような
猪突猛進さをも帯びているからである。それはちょうど、他力本願系の
信教に帰依する人間のあり方にも近似している有り様であり、戒律による
後付けでの自殺や自傷の禁止のような対策を講ずるのでもない限りは、
そのような性向を帯びてしまっているような人間こそが常人以上にも、
妄りに己れを傷つけて破滅に追いやられることが免れられないわけである。

犬もそれなりに愛らしい生き物であり、なおかつ人間でいえば奴隷か狂信者
のような性格を帯びている生き物であるものだから、その犬をして、奴隷制や
カルト宗教を正当化する材料にすらして来た点がなきにしもあらずである。
欧米キリスト教徒も犬が大好きであり、犬への虐待を人間への虐待並みに非難
されるべきものとしている国すらもが多々ある。一方で、「シュレーディンガー
の猫」のように、あからさまに猫への虐待を題材にした量子論上の思考実験を
持て囃していたりもする。猫も猫で可愛い生き物だから飼われていたりする
わけだが、自己本位的で猜疑心の強いその性格が好かれているということは
あまりないようである。見た目は可愛いが性格は悪いという扱いを前提として
飼うべきなのが猫とされて、それでも飼いたければ飼うという程度の扱いでいる。

むしろ、そのような猫の性格こそを、従順で恐れ知らずな犬の性格などよりも
評価すべき時が今だといえる。誰も彼もが犬のようなへつらいまくりで
恐れ知らずな状態でいるからこそ、人類全体も自殺行為然とした妄動によって
破滅へと陥りつつあるわけだから、全身を自分の舌で舐め回して毛繕いする
ほどもの自己本位さや、始めて見るようなものは何でも警戒するほどの猜疑心
を持つ猫の性格に倣うことでこそ、人類も難を避けられるようになるに違いない。

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304 2013/11/25(月) 15:09:22 ID:iQin.SA2V6
犬が原始時代の頃から、狼から品種改良されて人間に飼いならされて来たのは、
主に狩猟や牧畜の補助をさせるのが目的であって、愛玩が目的ではなかった。
飼育するにしても外飼いが基本であって、室内で飼ったりし始めたのは近ごろの
ことである。猫も家のネズミ捕りなどの実用目的があって飼い馴らされて来て
もいるが、古代エジプトの頃から愛玩されて来ていることでも知られている。

人間の伴侶としてより実用性があるのが犬であるように、犬のような恐れ知らず
の性向で以って科学技術や未開地の開発に取り組んだ欧米キリスト教徒こそは、
近現代の世界における文明発展の主導者的な役割をも果たしたのだった。しかし、
それはやはり多大なる危険性を弊害として帯びたものだったから、そのような
欧米人のやりたい放題が野放しであり続けた結果、破滅の危機にも至ったのである。

実用的な動物、愛らしい動物としての犬を全否定すべきだなどということは
もちろんないが、人間でいえば奴隷や狂信者然としたその性格などは、むしろその
弊害であるのだと考えたほうがよい。元来は狼のように気高い性格だったりもした
ものを、あえて強制的に従順なものへと人間が改定してしまった結果として、犬も
そのような性格となってしまったのだから、むしろ反省材料とすらすべきである。

犬の内にも柴犬のように、あまり芸を覚えたりするのが得意でない品種がいる。
仮にそういう品種改良が可能であるというのならば、従順化させられ過ぎた犬にも、
もう少し気高さを抱かせてやれるような改良を施してやるべきだといえる。

「能く衆を以いて正しければ、以って王たる可し。〜
天下を毒して、而かも民之れに従う。吉にして又た何の咎あらん」
「正義に根ざして衆人を率いて行けるのであれば、王となるがよい。その
せいで天下に毒害のような苦しみをもたらしてしまったとしても、相変わらず
民たちが王を信頼して従い続けるようであれば、吉祥であり、咎もあり得ない。
(むしろ毒害に苦しんででも民が聖王に従うような姿こそが吉なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・師・彖伝より)

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305 2013/11/25(月) 21:52:16 ID:2xHJmmCGwo
埋草無学の言うようにこいつ壊れちゃったのかw

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306 2013/11/26(火) 13:02:59 ID:OiXIWH35/A
信じることが必ずしも叶えられたりしないのはもちろんのこと、人が信じたがるような
ことこそはかえって叶えられにくいのが現実というものである。別にそれは不思議な
ことでもなんでもない。叶えられにくかったり叶えられなかったりするものを人間の
ほうが信じたがるわけだから、しごく当たり前な自業自得の定理だといえる。

中でも、絶対に原理的に叶えられないようなもの、道義的に叶えられてはならないようなものこそは、
旺盛な淫奔の気を込めて信じられるものだから、より狂信の対象ともなりやすい。現実の厳しさに
うちひしがれているような人間が、現実への反意を込めて信じようとしたりもするからこそ、
その信心だけは「苦悩の裏返し」として極度に強烈なものともなるわけである。

表向きだけは敬虔であるかのように見せかけることもできるが、誤謬信仰の原動力となっているのは
むしろ淫心や不健全な苦悩のほうであるわけだから、決して褒められたものではない。だからこそ、
より信仰を透徹させられたりもするわけだが、だからこそなおのこと褒められたものではない。

宗教といえども、自力作善の聖道門が主体である東洋においては、信仰そのものが道徳的なものである
などと認知されて来たような事実もない。上記のような理由があるものだから、強固な信仰ほど不健全で
ある場合が多いし、正しいものを信ずる正信といえども、自力作善の覚束ない愚夫がすがるものだから、
いかなる信仰といえども、ただそれだけで道徳的な価値があるとまでは認められなかったわけである。

それはもう、世界的に見直されるのみならず、新たな世界の常識にすら据えられるべき宗教観だといえる。
何かを信じることがただそれだけで道徳的だなどとは、賭博者を聖賢の座に据えるも同然の暴挙である
わけだから、不徳を道徳と見なす転倒夢想ですらあるという他ない。そのような主張の下で狂信
までもが是認された結果、人々が狂信を原因とした苦悩や淫奔に苛まれることともなるわけだから、
百害あって一利もないのがそのような主張ごとの狂信の容認であるといえる。

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307 2013/11/26(火) 15:03:17 ID:OiXIWH35/A
道徳的な従属というものも、それはそれである。臣下の君主に対する、子の親に対する、妻の夫に対する
従属こそは、まさにそのような徳義に適った従属関係であるといえるが、それは決して、淫心などに
よって従属意識が促進される類いの関係ではないものだから、さして嗜みやすいものともならない。
特に、子の親に対する孝心は、職場での上下関係や横並びの友人関係、乱交を主目的とした男女関係
などによって容易く損なわれてしまうものであるため、これを尊んで行くことこそは第一の徳目ともなる。
磐石だからではなく、むしろ脆弱なものだからこそ、それを自力で盛り立てて行く必要があるわけである。

子の親に対する孝心こそは、堅持にかけては脆弱でありやすい代わりに、淫心などに基づき得ない。
淫心を帯びられないからこそ、健全な上下関係の源泉たり得もする。君臣関係は利権が原因で
淫奔にまみれやすいし、夫婦関係もまた濁愛が原因で淫乱となりやすいものだから、まず親子の
上下関係を第一とすることで、そのような問題をも共に予防して行くようにする必要がある。

淫心を込めて物事を狂信することの不徳さがわきまえられればこそ、淫心と無縁である孝心の価値までもが
正確に見直されていくこととなる。心を込めて従属することにかけて、神への狂信などほどには陶酔的な
ものでもあり得ない、にもかかわらずではなくだからこそ、孝心に価値があると考え直されるのでなければ、
なかなか忠孝の文化の本格的な復活も難しいままとなるから、徳治の復興のためにはそれが必須ともなる。

「其の能を矜れば、厥の功を喪う」
「能があるからといって誇り高ぶるようなら、結局はその功を失うことになる。
(誇り高ぶったせいで功並みの罪を犯してしまうから、結局はプラスマイナスゼロとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明中より)

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308 2013/11/27(水) 12:54:16 ID:QAllXML1qY
[YouTubeで再生]
「華厳経」菩薩問明品第十に「正覚者はあたかも機関の木人の如し」という記述がある。これが「列子」
湯問篇第五などとも並ぶ、世界でも最古級の人型ロボットの描写であり、このような教えが尊ばれて
来たこともあって、日本でも近代以前から精巧なからくり人形の作成などが多数試みられて来ている。

悟りの境地がロボットのようだなどとは、現代人にはかえって恐怖感すら抱かせかねない表現である。
人間という生き物の有機的な精巧さは、現代技術の粋を結集した最先端のロボットなどと比べても
飛びきり優れたものであるわけだから、にもかかわらず、悟ったせいでロボットになって
しまうというのならば、それはかえって退化となるのではないかとすら考えられて、
不安感をも催させた挙げ句に、悟りを忌避させることにすらなりかねないわけである。

何と言っても、ロボットには「命」がない。現状のロボットには自我もなければ情念もないため、
人間の伴侶としても犬猫ほどの本格的な親しみを抱くことすらできない。だからロボットはまだまだ
だと現代人は考えてしまうわけで、にもかかわらず仏教思想などは、そのようなロボットのような
あり方へと大悟者が至るとしているわけだから、そこが薄気味悪いようにすら思われるわけである。

一方で、「機関」ですらない無可動の木像や石像である仏像が、古くから仏教徒たちに親しみを
込めて尊ばれて来てもいる。中途半端に機械的な精巧さを凝らしたロボットなどよりも、ただ
見せかけを人間に似せているだけの仏像のほうが、より割り切って親しめるという所もあるわけである。
一方で、そのような仏像にも当然、生物学的な意味での命は宿されていないわけで、にもかかわらず
そこに親しむということはやはり、自分の命を第一とするような連中(秦人やキリスト教徒など)
からすれば、違和感や忌避感を抱かされることとなるに違いないわけである。

命なき所、有機性なき所のものへの親しみを促す仏門のあり方を、キリスト教のような邪教のみならず、
神道やヒンズー教のような他の真っ当な信教すらもが忌避の対象として来た。人は死ねども魂は不滅であり、
その魂こそを尊ぶという体裁をあえて採るわけで、むしろそう考えたほうが納得がしやすい人間は

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309 2013/11/27(水) 12:57:32 ID:QAllXML1qY
日本のような半仏教国にすら大勢いるのである。だからこそ、その手の教えを方便ではなく真義と
している神道が、お寺の横には必ず神社が設置されるほどもの頻度で併信されて来たのである。

仏教も方便としてその手の教えを認めることはあるが、真義としては、死んでからはおろか、
生きてる内から本当は自我も情念も虚構でしかないのだとする。だからこそ、死んで灰になること
などは石が砕かれて石灰になったりするのともさして変わらぬことなので、恐れるまでもないことだと
しているわけで、そこにこそ生死の苦悩を真に克服する道すらもが開かれていることにも違いは
ないわけだが、なかなか本当にそのような方便抜きの仏法を悟れる仏教徒もいないと来ている。

誰も彼もが仏法の真理そのものを本懐とする必要はないし、それによる悟りを得たりまでする
必要もないわけだが、ことに、大火事を消し止めたり予防したりするための消火栓程度のものとしては、
仏法を社会レベルで予備的に尊重して置くぐらいのことはあるべきだといえる。人間の魂は不滅で
死後にもあり続ける程度の教えであれば、仏門とも共存できるし、特段大きな害をこの世に及ぼすこと
もないが、人間の命そのものからして不滅のものであり得て、命を失った死滅状態などとは一線を
画したものであるとまでする邪教ともなれば、これはもはや仏門との共存が全くの不可能とすらなる。
その手の邪教が甚だしい害悪を及ぼし始めたりするようなことがないようにするためにこそ、方便
抜きの真理そのものを把捉した教理としての「仏辺の仏法」すらをも尊んでおくようにしたほうがよい。

六道輪廻や極楽往生のような衆生辺の方便を駆使したものとしての仏法は今でもかなり親しまれているが、
「大悟者はもはやロボットも同然である」というレベルの仏辺の仏法ともなれば、もはや打ち捨て
られたも同然の事態となってしまっている。「仏作って魂入れず」ならぬ「仏にそもそも魂なし」
という、仏法の根本の部分の有り難みまでもが見直されるようになるのは、一体いつのことであろうか。

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310 2013/11/27(水) 13:20:10 ID:7cuM9GvzQs
埋草無学の言うようにこいつ壊れちゃってるなww

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311 2013/11/27(水) 13:25:32 ID:DK93pX5gYQ:au
「衆生必ず死す、死すれば必ず土に帰る、此れを之れ鬼と謂う。骨肉は下に斃れ、陰れて野土と為る。
其の気は上に発揚し、昭明と為る。薫蒿、凄愴たるは、此れ百物の精なり、神の著らるるなり」
「一切衆生はいつかは必ず死ぬ。死ねば必ず土に返るが、これを『鬼』という。骨肉は朽ちて下に降り、
隠れて野の土となる。生気は逆に上に昇って昭明となる。生気が上昇して天に充満し、人々の心を
悼み慎む趣きにさせることこそは、万物の精気が神威となって現れる有り様であるといえる。
(仏教伝来にも先駆けた諸行無常の察知。それでいて死の先にある薫蒿凄愴こそを神威とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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312 2013/11/27(水) 21:18:38 ID:W9gIyfCrAc
冬に咲くカンツバキという花がある
なかなかこれが綺麗にさいているのだ
さて散歩でもして下丹田でも鍛えてくる。じゃあまた。

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313 2013/11/29(金) 15:49:33 ID:Rm/jNl3Gc.:au
ウチには昔から豪華な生物事典があるのに、
俺は動物事典(哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、鳥類、虫類、恐竜類)
ばかりを読んで、ろくに植物事典のほうを読まなかった。そのせいで、
今でも植物には詳しくない。個々の名称はおろか、基本的な生態系すらあまり分からない。

今でもあまり、再勉強する気にはなれない。なぜなのかを自分なりに考えてみたんだが、
今の時代、誰も彼もが動物的ながっつきばかりに執心していて、
植物的な静寂さをほとんど蔑ろにしてしまっているからではないか
という結論に至った。だからこそ、植物知識を学んだりすることにも大した価値がないと。

植物の花を好んだりする通り、女こそは本来、植物のように
静寂な存在であるべきものだ。世の中の半分を占めている女が
植物のような静寂さを守れるようになったなら、俺ももう少しぐらいは、
植物を学んでみる気になるかもしれない。

「植木と骨董に凝り始めたら男は終わりだよ(鬼平犯科帳)」とも言うがな。

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314 2013/11/29(金) 18:34:54 ID:HnGXs.wRWU
己れの内に省みるものこそは万事万物を計り知る一方、我を忘れてまでの外物への希求に及ぶものこそは
かえって万事万物への配慮を損ね、以て部分の我田引水をも容認してしまうといった一般法則が存在する。

そのような問題性を孕んでいるものだから、かつての君子階級の上位者なども、外交問題を陪臣に任せる
などの便宜を図っていた。今などはむしろ、外語能力にも長ける外交官こそがステータス的な扱いをされて
しまっていたりする時代だけれども、むしろそのような「汚れ仕事」を自分自身が担わないからこそ、
主君や上位の士大夫が威厳と仁徳とを保てるとされていた時代もまたあったのである。

そしてそのような時代こそは、真に世の中の泰平が保たれていた時代でもあった。
人びとの諸国の往来も関所で厳重に管理されて、それぞれの国の主君もまた、
外遊を自粛してまでの内省に務めていた時代においてこそ、外交問題が紛争
にまで発展したりすることもない、平和な時代が確立されていたのだった。

世の中全土を挙げての外向意欲が、内向意欲の分量を上回ってしまった時にこそ、
世の中も決定的に乱れることとなる。封建時代であれば、主君級の上位者までもが外遊を好き好み過ぎた
せいで、誰しもがそれに倣って世の中が乱れるようなことになるし、民主主義の時代においても、万人が
横の繋がりである交友関係ばかりにかかずわらされたりした結果として、そのような問題が巻き起こる。

外向こそは、内向以上にも安易に楽しいものであり、諸々の情緒を著しく感化させるものである。
なればこそ、内省を損ねてまでの外遊が我を忘れさせて、部分の利権との癒着を深刻化させて
しまったりするのだから、外向が内向よりも楽しいにもかかわらずではなくだからこそ、
内向を上回るような外向を控えるようにしなければならないといえるのである。

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315 2013/11/29(金) 18:38:48 ID:HnGXs.wRWU
外遊以上の内省が十分であればこそ、自己が確立されて、「外物の内」に組み込まれることなどに
安心感を追い求めたりする必要もなくなる。女子供や小人にはなかなか難しいことであるにしたって、
大人の男にはそれを可能とする能力が確かに備わっていて、そこでこそ「不惑」となれるようにも
生体から出来上がっている。そのような益荒男こそが世の中で主導的な立場に立つ程度の条件が整えられて
すらいれば、世の中が傾くようなことまではなくて済むのだから、そんなに困難なことであるとも言えない。

天下国家が傾くレベルの我田引水災禍は、それすらもが損なわれた時にこそ来してしまうものなのだから、
随分と容易な条件までもが損なわれた結果として、世の中も破滅に見舞われるのだといえる。聖道門の
仏門に世の中を挙げて帰依するような難儀を損ねてしまったからだったりするわけでもないからこそ、
そこで世人が自業自得の災禍に見舞われることもまた、何らの言い訳のしようがないわけである。

人間社会から外交を絶やしたりするのも不可能なことだし、そもそも人と人との関わりが
あればこそ「人間」なのでもある。君臣父子夫婦のように、より尊ばれて然るべき人間関係
もあるわけで、その手の関係の尊重はかえって、修己治人の促進にすら繋がるものである。
(男女室に居るは天下の大倫なり。孟子・万章章句上・二)

内省を損ねるような人間関係からして限られていて、それこそは粗悪な類いの人間関係でもある。
礼節も知らないような蛮族との交遊、身分の違いを度外視し過ぎた横繋がりの校友、ただただ
性交ばかりを目的とした異性交遊など、それなりに自分からの積極的な働きかけがあるのでなければ
成立し得ないような関係ばかりがそれに当たるのだから、その手の交遊関係のせいで内省を損ねて
しまったり、そのせいで深刻な我田引水に与してしまったりすること自体、全くの自業自得であるため、
何らの言い訳のしようもないということが言えるわけである。

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316 2013/11/29(金) 18:42:16 ID:Rm/jNl3Gc.:au
人間が極度に外物に囚われた結果として、部分の我田引水に与してしまう心理法則を最大級に悪用
しているのが、聖書信仰のようなカルト宗教だったりするわけだけれども、その聖書信仰の発祥地である
中東においては、とっくの昔からすでに聖書信仰が絶やされて、代替にイスラム教が信仰されている。
そのイスラム教はといえば、自力仏教並みの戒律厳守の下での内省を重んじるものであり、それでこそ
汎神アラーの御心にもかなうとしている。外交の極みである行商が活発な砂漠地帯だからこそ聖書信仰をも
生み出してしまった一方で、そのような弊害を十二分に相殺するための戒律主義の信教に新たに帰依もした。
そのおかげで中東という地域の罪過はすでに十分に打ち消されているわけだが、相も変わらず聖書信仰に
耽り続けている西洋は、どうであろうか。未開の蛮族故の無知さを盾にした過失犯としての言い訳なども、
いい加減筋が通らない時期に来ているのではないか。

「吾れ女じに礼を語りて、女じを以て礼に周流して遍からざる無からしむ」
「私があなたに礼を教えて、あなたが何事にかけても遍く礼に則らずにはいられないようにしてあげよう。
(礼節こそは普遍的なものであり、何事にかけてもその内に止まらねばならないものである。
そしてそれこそは『住心』たり得て、恒常的に自然とそのようでいられる所ともなるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)

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317 2013/11/30(土) 13:58:57 ID:vw0OY9woZ2
「善も積まざれば以って名を成すに足らず(易経・繋辞下伝)」であるため、
「謙は益を受く(書経・大禹謨)」などを典拠とした善行を心がけるにしたって、
それも一時的なものなどであっていいはずはない。謙譲は謙譲のための謙譲であり、
その見返りなどをいちいち期待していたりしてもならないぐらいの心持ちであり続ける
ことでやっと、天道にかなった功徳までもが得られるようになるに違いないのだから。

どれぐらいそのような心がけを徹底しなければならないかといえば、そもそも自分の
代だけでは大した成果にも繋がらないぐらいの覚悟でなければならない。成果が挙がる
にしたって何代も先のことであり、自分の代では成果の兆しも垣間見られないままに
終わることすらをも厭わないぐらいの積善に対する姿勢であって初めて、何代か後に
そのような成果が得られたり、全くの僥倖で自らの代でも成果が垣間見られたりする
ことがあったりなかったりするぐらいのものだと受け入れられるのでなければならない。

それは実際、女子と小人には到底受け入れられるあり方などでもありはしない。
自分一身の利害を超えた、天下国家に通ずる程もの心意気を実践にも移せるだけの
素養を持つのは君子たる大人の男のみであり、なおかつそのような逸材の男たちが
何代も世襲で功徳を積んで行くぐらいであって初めて目に見える程もの成果が生じ得る
わけだから、そのような心意気を君子の男と共に何代にも渡って尊んで行けるだけの
体制が世の中のほうでも保たれて行くのでなければ、積善が天道にすら根ざして
目に見える成果を生ずるなどということも、なかなか期待できなくなるのである。

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318 2013/11/30(土) 14:06:27 ID:vw0OY9woZ2
大人の男も、必ずしも世襲での積善を心がけるほどもの気高さでいられるわけでは
ないが、一応、女子供などと違って、大人の男にはそれだけの気高さを抱けるだけの
先天的な能力が備わっている。身分の低さなどが原因でそのような気高さを持て余して、
自分個人の栄華にしか興味がない女などから「男は幼稚」などと揶揄されたりしている
場合などがあるわけだけれども、天下に冠たる君子階級としての権能などと共にであれば、
確かにその手の能力が天下の繁栄にすら貢献するほどもの威徳を発揮し得るわけだから、
大人の男にそれ程もの気高さが備わり得ることを非難するようなことがあってもならない。

元来、大人の男がそのような気高さを抱き始めたのは、長年の努力によって初めて
実を結ぶ農耕が発祥したことあたりを起源としている。「田に力をそそぐ」と書いて
「男」とする通り、そこに長年の努力を積み重ねて行く大人の男の気性の起源もまた
あったのだろうと考えられる。現在確認されている内でも最古の農耕の痕跡は、
今から約15000年前の中国長江流域付近のものであり、シリアのダマスカス付近で
世界最古の商業都市が形成され始めた約10000年前よりもかなり以前にまで遡る。
まず、田畑での耕作に精を入れる大丈夫然とした男たちが現れて、それにより世の中が
大規模化して行き、女子供だけでなく、末業にばかり従事する小人男などまでをも
養って行ってやれるだけの世の中の大規模化が促進されて行った。それからだいぶ
時代が経過して、農業などは一部の人間が機械を用いて従事していればそれだけで済む
ようになった今日などには、農業などさして尊ばれる職業でもなくなってしまったが、
そもそもの人類文明の起源から言って、むしろ大丈夫たる男が文明発展を主導して行った
結果として、商人の男などもそれなりに生計を立てて行けるようになったという事実が
あるわけだから、自分たちが文明発展を主導することのできない女子供だけでなく、
資本主義などの暴挙と共にであれば文明の主導者ですらあり得る小人の男もまた、
大先輩たる君子然とした男を蔑ろにするようなことがあってはならない。

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319 2013/11/30(土) 14:09:43 ID:COX4fUZLZo:au
自分一身の成功ばかりを本当に第一とはしていないからこそ、君子たる男の成果というのも、
目に見えてよく分かるようなものは氷山の一角止まりとなっている。そのあたり、さしたる
成果でもないにもかかわらず、虚飾や誇大広告の限りを尽くすことであたかも甚大で
あるかのように見せかける小人の事業などとは対照的なものですらあるといえる。
別に、目に見えている成果が全て虚構なわけでもないにしたって、真に尊ばれるべき
偉大な業績というのは、何百年から何千年という規模で歴史を鑑みるぐらいの気長さと
共にでなければとうてい全容を計り知ることもできないようなものばかりなのだから、
「蛇の道は蛇」ならぬ、「君子の道は君子のみぞ知る」ということもまた言えるのである。

「謙は尊くして光り、卑しくして踰ゆる可からず。君子の終わりなり」
「謙譲は貴い身分の人間を輝かせ、卑しい身分の人間にすら侵し難さを帯びさせるもので
あるから、君子は(身分の如何などに関わりなく)終身謙譲を本是として行くのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・謙・彖伝より)

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320 2013/12/01(日) 14:41:10 ID:Fd4XMLavkg
致命的な罪過ほど、より甚大な損害を世の中に加えるものであるために、
大局からの破滅を呼び込むという形での罪状の露呈もまた避けられなくなる。

秘密結社や諜報機関などの体裁を借りた西洋人による秘密裏の重権力犯罪
もまた、最終的には西洋全体の国勢の弱体化という形での自滅の危機を招いた。

未だその罪状のほとんどがひた隠しにされたままではあるものの、その手管
のほとんどは、古くは「史記」などにも記録されている典型的な権力犯罪の
手段であり、そのような手段を用いた結果として破滅の危機に陥ってしまって
いるとしか考えられないような事態に、確かに西洋諸国が陥ってもいる。

フランス革命や第一次世界大戦や日米開戦や、近ごろの中東諸国の紛争など
の裏でも、米欧やイスラエルなどの権力犯罪者が数多の工作を積み重ねて
いるだろうことが、「史記」における蘇秦や張儀といった悪徳外交家(縦横家)
の跳梁跋扈の記録からも見て取れる。さらに、そのような工作要員を養成する
ための組織として、各種の秘密結社や諜報機関などが利用されて来ただろう
こともまた、「史記」における孟嘗君や春申君や平原君といった権力者による
数多の食客の囲い込みの記録からも察することができる。さらに、ケネディ
大統領や朴正煕大統領が暗殺された後のアメリカや韓国において、もはや
政府までもが諜報機関の傀儡状態と化してしまっているだろうこともまた、
「史記」における政商呂不韋やその私生児である贏政(後の秦始皇帝)ら
による秦王国の乗っ取り過程の記録などと照らし合わせてみれば分かる。
(呂不韋もまた膨大な人数の食客を養う工作機関の親分格であった)

以上のような諸々の権力犯罪行為は、東洋ではそれこそ「史記」の記録などを
頼りに厳重な警戒の対象とされて来た。中国では前漢武帝の代に、悪徳外交家や
食客の跋扈を正当化するような諸学(縦横家や雑家など)が正式に異端の邪学
に認定されたし、戦国時代などに著しい権謀術数災禍を呼び込んでしまった

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321 2013/12/01(日) 14:44:08 ID:Fd4XMLavkg

日本においても、江戸時代以降には諜報員が諜報犯罪にまで及ぶことが
固く禁じられたために、諜報犯罪を専門とする忍者が廃業に追い込まれて、
武術鍛錬の精錬さで諜報活動の汚濁をも相殺する目付のみが残存するなどした。

そのような権力犯罪に対する厳重な戒めがあればこそ、日本も中国も経済面
や人口面における総力で西洋社会を圧倒することができた。政商や食客や
縦横家による権力犯罪を固く取り締まる代わりに、治水や灌漑といったような
土木事業によって農産を底上げしたり、参勤交代を通じて着実な商業のみを
促進させたりしたことで、権力犯罪や金融犯罪のような曲芸ばかりに頼って
正攻法を蔑ろにし続けて来た西洋諸国をも圧倒することができたのである。

そのような正攻法に頼り続けてきた対抗馬がいればこそ、なおのこと、西洋諸国
がまだ表向きにもしていないなような、凶悪な権力犯罪の数々によって自他を
損ねる害悪を撒き散らして来ただろうことが自明ともなっている。「火のない
所に煙は立たぬ」であり、数多の植民地支配によってですら国力を増強してきた
はずの西洋諸国が、ほんの百数十年前まで鎖国状態を貫いて来た極東の国々
などに勢力面で凌駕されたことにも、それなりの理由があるはずなのである。

罪過はかえって、己れを損ねるものである。短期的な利益には結びついても、
長期的にはより多大なる損害をもたらしてしまうものであるという道理を
見失ったままでいたものだから、西洋人も、罪を隠しおおせていることなどを
いいことに、どこまでも罪過を増長させるようなマネにすら及んでしまっている。

頭も隠して尻も隠した所で、隠れている所が破滅の元凶であるからには、そこ
にこそメスを入れるしかなくなるわけだから、罪を隠しおおせることなどもまた、
より甚大なる破滅を助長する悪魔の誘惑でしかなかったことが確かだといえる。

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322 2013/12/01(日) 15:30:25 ID:sHjnQjixyQ:au
「人の牆有るは、以て悪を蔽わんとすればなり。牆の隙壊あるは、
誰の咎ぞや。衛りて之を悪しくせば、吾れ又た焉れより甚だし」
「人家に垣根があるのも、都合が悪いことを人目から蔽うためだ。その垣根
に壊れて隙間ができてしまったとしても大した罪にはならないが、もしも
国を守るような重大な権能を帯びた人間が、隠れた所で悪事を働いたりした
ならば、その害悪は垣根が壊れている場合以上にも甚だしいものとなるだろう。
(賄賂によって懐柔されそうになった魯の使節叔孫の拒絶の言葉。隠れた所で
罪が犯されるのは、早急に罪が暴かれる場合以上もの害を招くという格言)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公元年より)

「蔽い隠す」ということは、基本、都合の悪いことを隠すために行われるものだという格言。
ただ、男女の性交のような必要悪によって子宝に恵まれたりもするわけだから、
それを蔽い隠したりすることが密教的な意味合いを以て尊ばれるべき場合までもがある。

上記の記録における「賄賂」のような、不必要悪までもが蔽い隠された場合にこそ、
隠蔽行為も致命的な害悪を招き始めることとなる。予算非公開のCIAが、韓国人を日本国内での
破壊工作に従事させたりした見返りとしてアメリカへの入国を斡旋してやった結果、
今のアメリカが韓国系の不法移民の増加問題に苛まれたりしているように。

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323 2013/12/02(月) 14:42:02 ID:GVTDfIwDdY
塩は、良くも悪しくも活力の源である。「悪しくも」というのは、
戦争時などにおける兵士の最も手っ取り早い活力源に塩がなったりもするからで、
それが「勇を好みて学を好まざれば、その弊や乱」ということにすらなりかねないからである。

塩の闇商人だった黄巣こそが大唐帝国崩壊の引き金を引いたのも、兵士の活力の有無が戦局の如何にすら
直結していた近代以前の社会において、まさにその活力の源となる塩が当人によって独占されていたから
でこそあった。広大な内陸国で、海産塩や岩塩の採れる地域も限られている上に、古くからの農地開発
などによって人口力も底上げされて来ているという事情があればこそ、中国史上でも最隆盛を誇った
大唐帝国もまた、塩の闇商人の暴慢などという意外な理由によってあっけなく滅んでしまったのである。

これらのような事例を鑑みるに、適切に扱われれば世の中の平和や繁栄にすら貢献する一方で、
扱い方を誤れば亡国級の争乱すらをも招きかねないのが塩であると言える。人間社会の根本基盤の
一つとなる塩を、水や穀物や鉄鋼といったその他の必需資源と共に、国こそが厳重な管理下に
置いて行く必要があり、そのためには国家社稷といったものを国民総出で尊んで行けるだけの
体制でもなければならない。間違っても、闇商人だの悪徳政商だの、それらの暗躍を正当化
するカルト宗教だのによって、国家の権威が蔑ろにされるようなことがあってはならない。

仏法で「無記」と定義される所の、それ自体は善でも悪でもないものの内の一つが塩である。
適切に扱われれば、より一層の善事の推進の糧ともなるため、その場合には塩も「無覆無記」となるが、
扱いを誤れば破滅級の危害をも招きかねないものだから、その場合には塩も「有覆無記」となる。
同様な性質を持つものとして、愛や勇気や臆病といった原始的な感情や、私見を差し挟まない博物的な
科学知識や、それを応用した技術体系などが挙げられる。いずれも現代にこそ持て囃されている部類の

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324 2013/12/02(月) 14:49:13 ID:GVTDfIwDdY
事物であり、そのせいで相対的に善悪の分別などが蔑ろにされてしまっていたりもするわけだけれども、
道徳的な素養が蔑ろにされてまで無記なる事物ばかりが持て囃されているぐらいだから、当然のこととして、
それらも悪用されて有覆無記然とした様相を呈してしまっている。科学技術を駆使した強大な兵器による
無辜の市民への虐殺行為などがその最たる例だが、そこまで行かずとも、もう少し微妙な段階からの
無記なる事物の悪用というものが、平時の内からすら大量に試みられているのが現状である。

塩もまた、最善を尽くす場合と比べれば、相当に粗悪な活用のされ方となってしまっている。
「最善を尽くす場合」というのは、例えば文武両道の武士が十全な道徳的素養と共に塩分摂取や武術の鍛錬を
心がけて、以て公益寄与のための仁政に励んで行ったりする場合のことである。今はといえば、文武両道が
蔑ろにされて人々がみな文科系か体育会系に分裂してしまい、文系の人間は淫らな思考の助長のために
塩分摂取を控え、体育会系の人間はそのような文系の人間の淫らな思い付きを牛馬のような勢いで以て
実行に移すための半奴隷要員として、何のわきまえもなく塩を舐めつつ仕事に取り組むような始末である。
(文系の人間が企てた無計画かつ過大な建築事業を、体育会系の作業員が請け負わされるなど)

塩が行き渡るべき所に行き渡らず、そこにばかり行き渡るべきではないような所にばかり行き渡っている
という点では、現代も、闇商人が塩を寡占していた唐代末期の中国などと全く共通しているため、
そのせいでの唐国崩壊級の危難すらもが、現代においてもまた免れられなくなるであろう。

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325 2013/12/02(月) 14:54:38 ID:sJAJGxQUZg:au
特に、文系支配と体育会系隷従の頻度が高い日本のような国であれば、惨暴が祟っての自滅の後に、
塩を舐めつつ仕事に取り組んでいたような土方だとかが懲罰要員として駆り出されることともなるだろう。
(アメリカなどであれば、脳みそ筋肉の海兵隊員などがそれに借り出されたりもするかもしれない)
文系の支配者がそのようであることを強いて来たればこそ、土方に従事しているような人間も、
無知で粗暴なままだったりする。だもんだから、自分がされたとしても全く構わないような発想で以て、
懲罰対象となった現支配者への粗暴な扱いにも及んだりするかもしれない。ちょうど、秦帝国崩壊後に
数多の権力者たちが、覇王項羽によって虐殺されたように。最終的にはその項羽に勝利したとはいえ、
高祖劉邦も当時はまだ項羽の勢いを凌駕できる程もの威勢を成してはいなかったわけで、
ただただ塩なめて暴れまわる荒くれ者を最終的には御することができたとしても、
一時ぐらいはそのような惨事に至らざるを得ないようなことにすらなり得るわけである。
塩の適切な扱いを蔑ろにして来た者たちの全くの自業自得によってこそ。

「王曰く、来れ、汝じ説。〜爾じに惟れ朕が志しを訓えん。
若し酒醴を作らば、爾は惟れ?糵なり。若し和羹を作らば、爾じは惟れ塩梅なり。
爾じ交々予を修めて、予を棄つること罔かれ。予れ惟れ克く乃の訓えを邁わん(一部既出)」
「殷王高宗が言われた。『近う寄れ、(重臣の)説よ。おまえに我が志しを教えよう。
私が酒を醸そうとするのであれば、おまえはそこに入れる麹だ(必須であるものの譬え)。
私が吸い物を作るのであれば、おまえはそこに入れる塩と梅酢だ(これも必須であるものの
譬えだが、『いい塩梅』などともいう通り、分量の加減が大事なものの譬えともなっている)。
おまえはこれからも私を助けて、私を見捨てるようなことがないでいてくれ。私もおまえの教えを
よく聴いて行くようにするから』(むしろ主君のほうが臣下に対して塩梅の如くであってくれという。
正しい陰陽関係として、下位者こそは塩などの重要物の提供者であるべきだとする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)

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326 2013/12/03(火) 15:56:30 ID:ha3K6WuttY
愛や勇気や臆病といったような原始的な感情は、それ自体は善でも悪でもない。
ただ、濁念と結託して悪行の原動力と化してしまったりもするものだから、濁念を
離れた所にある絶対真理を尊ぶ仏門などが、場合によっては否認する場合がある。

特に、愛と濁念の結託に対する警戒や牽制が仏門では盛んであり、自力他力に
関わらず、基本は否とされているものである(浄土宗開祖の法然上人すらもが、
遊女の信仰希望者に対して「できることならそのような仕事はやめなさい。ただ、
どうしても必要だったりするのなら、それと共に念仏に帰依しなさい」と言った)。

ただ、「華厳経」にも「可愛楽」などという理念が多々提示されていたりする通り、
十分に節制されて、なおかつ仏菩薩の如き尊ばれるべきものへの敬愛と化している
ような愛については、仏門もまたそれなりに是認している場合がある。諸々の
仏像などがあえて愛嬌のあるような造形で作成されていたりするのも、そういった
目的性があってのことであり、これは情愛を方便に乗せて悟りに至らせたりする
浄土門の段階ですらない、自力作善の聖道門における愛の善用であるといえる。

ただ、そのような節度を保った愛情は、濁愛に塗れているような人間にとっては
かえって淡白すぎてとっつき辛いものとなるのである。戦国期や明治期において、
秦人の末裔であるような一部の日本人が、日本中の寺や仏像を破壊して回ったのも、
生来濁愛まみれである自分たちの価値観が、仏門における可愛楽の淡白さなどを
受け入れることができなかったからなのでもある。確かに、その手の最悪級の濁念
にまみれてしまっているような連中に、聖道門の仏門などは「馬耳東風」であったに
違いないわけで、むしろ濁愛を方便に乗せる浄土門あたりのほうが分相応であった
に違いないわけだけれども、連中たるや、浄土門には自分たちすらもが取り込まれ
かねないことを警戒して、神道や聖道門の仏門への仮面状態での帰依などを通じて、
あえて浄土教を禁教下に置くなどして退けるようにすらしていたのだった。

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327 2013/12/03(火) 16:04:56 ID:ha3K6WuttY
濁愛でもあったりするような、肥大化した愛が、善巧方便に載せられるような
適切な措置も受けずに、全くの無軌道なままに放逸して行く、そこにこそ、
麻薬中毒的な陶酔があるのも確かなわけで、それが悪巧方便の類いのカルト信仰
などと結託した場合に、それはそれはあられもない害悪を招き始めることとなる。

物理的、経済的な実害も甚大なものとなるし、何よりも精神衛生に対する害が
極端に甚だしいものとなる。そこに理想を集約してしまった結果として、濁愛を
排した所にこそある本物の真理や道理が完全に見失われてしまう。見失われた
上で、見つけ直そうともされなくなり、完全誤謬の概念遊びに耽ることばかりで
全てを済ませてしまう、最も有害無益な部類の思考回路が出来上がることになる。

本物の麻薬中毒は、本人を生活や仕事もままならない状態と化してしまったり
するが、濁愛はその程度の能力は本人に保たせたままで、思考回路の奥深くまで
侵食して「駄目な脳みそ」を精製してしまうものだから、ある意味、麻薬中毒など
よりもさらに性質が悪いものだといえる。「宗教はアヘンだ」とマルクスは言ったが、
濁愛を正当化して助長する類いのカルト宗教の害こそは、麻薬以上のものだといえる。

近代医療は、身体や脳器質の疾患に対する治療方法を無数に編み出してきたが、精神
の汚染に対する治療措置は全くと言っていいほど疎かにして来た。それは、汚濁に
まみれた心を持つ俗人がやりたい放題した結果としての病気や怪我こそを商業目的
の治療対象ともして来たからであり、精神汚染への治療までもが推進されていったり
すれば、かえって自分たちが商売上がったりにもなりかねなかったからである。

精神の汚濁の治療は、身体の治療と相容れない所すらあるものだから、結局、
旧来の仏教帰依や儒学統治などに基づく以上の手段というものを、医学を含む
近代科学の発達した現代において、新たに期待できたりするところもありはしない。
深刻さでは、時に身体の疾患すらをも上回ることのある精神の汚濁を癒していくために、
「温故知新」以上に適切な手段があり得ないのも、永久不変の絶対法則なのだといえる。

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328 2013/12/03(火) 16:27:47 ID:dY8wtMwpKs:au
「驕奢淫泆は、邪まよりくる所なり。四者の来たれるは、寵禄の過ぎたればなり」
「奢り高ぶりや淫蕩や放逸は、邪道から来る所である。そのようなものを招いて
しまうのは、寵愛や厚遇が度を越しているからである。(寵愛が悪念や邪道を招く実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公三年より)

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