人類文明の極致が都市社会であるというのなら、文明自体、さして道徳的なものではないということ
にもなるが、そもそも、都市社会ばかりが文明の精髄であるわけではない。都市に住まう人間にまで
効率的に食糧を供給できる農産だとか、その農産のための水源を充実させる治水や灌漑に到るまでが
人類文明の大局なのであり、そのような文明の大局からの成功を司れる者こそは、真の文明的偉人なのである。
してみれば、徳治は専ら農業や必需工業の保全に務めればいいわけだが、その成果を消費するもの
としての都市社会というものもまた生ずるわけである。そこでの人びとの欲望の肥大化にも一定の
制限をかけたりしなければならなくなることもあり得るわけだが、そこでただただ厳しく制限する
ばかりでも、生産と消費のバランスを欠くことになってしまう。であるからには、徳治と共に、
人びとのぬぐい難い性向としての稼ぎたがりなどを必要悪として寛容できる度量もまた為政者
には必要となるのであり、そこは清濁を共に諦観する道家的な感性にも沿うべき所であるといえる。
為政者が商売人たちとつるんでまで都市の優遇や農業の軽視に及ぶようなら、もはや文明の大局からの
成功も見込めなくなるわけだから、それはあるまじきことである。為政者としてはやはり、推進しづらい
農業や必需工業の保全にこそ専らでいながら、都市での商人の活動をアメとムチで統制するぐらいの
姿勢であるのが最適であり、そこは農工業と商業が可換だったりするところでもないのである。為政者
こそは農夫や工匠以上の重任を負って行かねばならぬものであると、固くわきまえるべきなのである。
「徳を経いて回ならざるは、以て禄を干むるためにあらざるなり」
「徳行に励んで邪曲を避けることは、そもそも収入のために心がけたりすることではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)
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