>>13    「斉の景公政を孔子に問う。孔子対えて曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」 
 「斉の景公が孔先生に政治のあり方を問うた。孔先生は答えて言われた。『主君は主君として、 
 臣下は臣下として、父は父として、子は子として、それぞれの身分をよくわきまえることです』」 
 (真正福音書——論語・顔淵第十二・一一より)   
 権力道徳学者たる孔子が述べる政治とは、すなわち仁徳に根ざした治世のことであり、 
 その徳治の実現のためにこそ、君臣父子上下の身分関係がよくわきまえられる必要があるという。 
 君臣父子の上下関係を蔑ろにすることが乱世に繋がるのは、春秋戦国時代の中国における、 
 君父の尊位の著しい毀損を共にした引っ切り無しの戦乱状態や、「神の下での万人の平等」 
 などという邪義によって社会的上下関係を蔑ろにし続けてきたキリスト教圏における、 
 ひっきりなしの戦乱状態などからも実証されていることである。   
 「近きを釈てて遠きを謀る者は、労すれども功無し。遠きを釈てて近きを謀る者は、佚して終わり有り」 
 「近隣のことよりも遠方のことを重視する者は、どんなに苦労をしても功績を挙げられない。 
 遠方のことよりも近隣のことを重視する者は、比較的容易に目的を達成することができる」 
 (武経七書・三略・下略・三より)   
 君臣上下の秩序が乱れた結果来たしてしまった戦乱状態において、遠方のことを棄てて近隣だけを 
 重視することが、確かに兵法上、有効ではある。「神の下での万人の平等」などという邪義によって 
 引っ切り無しの戦乱状態に陥れられたキリスト教圏において、何とか自分が生き延びていく術 
 としても確かに隣人愛が有効となるが、それは必要もなくわざわざあえてもたらされた戦乱状態 
 におけるマッチポンプな自己救済の指南でしかなく、そもそも戦乱状態を来たしていないのなら、 
 釈遠謀近をカルト教義として美化した隣人愛などに惑溺したりする必要もないのである。   
 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。 
 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。 
 人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」 
 (権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書10:34‐36)
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