「見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸口に立って、(自分の股を)たたいている。
だれかわたしの声(羽音)を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って
その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ヨハネ黙止録3:20)
「五月にはイナゴが股を動かして鳴き出し、六月にはクツワムシが羽を振って鳴き始める。
小虫たちが七月には野にあり、八月には家の軒下に近寄り、九月には戸口の前にやってくる。
外も寒気がさし始めた十月には、小虫たちはついには床の中にまで入ってこようとする。
そこで部屋のありとあらゆる穴を塞いで燻すことで元からいる鼠などを追い出し、
窓も塞いで戸口の隙間も塗り固めて、小虫たちが入ってこないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・七月より)
イエスの品性が、イナゴやクツワムシとも同等のものであることを
示している上記の比較などには、確かに個人的にも大爆笑させられたが、まあ、
詩経のほうだけを読めば、やはりまともな詩文芸の一つであるとしか思えない。
儒者は、自分が一喜一憂したりするために文書を読んだりするのではない。
そこに書かれてある含蓄を体得して、人として成長するためにこそ文書をも読むのであり、
聖人君子としての大成によって、何らかの実績が挙げられたときにこそ喜びもする。
だから、儒学という学問が好きだとか、キリスト教という宗教が嫌いだとか言ったこともない。
ごく素朴で、文面上の深遠さにも欠ける儒書の言葉が読んで嬉しい、大好きだなどということも
なしに、それを読んで体得して自らが成長し、何らかの実績が挙げられた時にこそ、それを楽しむ。
優秀な門弟だった楽正子が魯国の宰相になることが決まったとき、あの孟子が婦女子のように喜んで、
嬉しさのあまり夜も寝付けなかったという(「孟子」告子章句下・一三参照)。そういう社会的な
実績が挙げられた時にこそ儒者も本当に喜ぶのであり、ただ聖書教義に惑溺して、脳内お花畑で
遊んでいられればそれで嬉しい、犯罪聖書の信者などとは全く事情が異なるのである。
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