知性的愛国
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実在の植物学者、牧野富太郎がモデルの朝ドラ「らんまん」が昨日最終回を迎えたが、
この人のやっていたことは、植物学研究という点で未曾有だっただけでなく、
思想哲学的にも大変重大な意義を帯びていたように思われる。
その在り方を一言で述べるなら、「知性的な愛国者」だったといえる。
近来、右翼は頭が悪く、左翼は頭がいいというのが大多数の潮流となってしまい、
主に大学教授陣で占められている学術会議なども、あまりにも思想が左巻きの反日に過ぎることから、
政府機関への干渉に抑制がかけられる動きなどもあったわけだが。
牧野の場合は、東大教授も顔負けなほどの碩学でいながら、
その知識や研究力をもっぱら日本の学術水準の向上のために費やし、
時には神社の森の破壊に反対して大学を辞職するほどの頑固ぶりでもあった。
その生き方には、そんじょそこらの右翼や自称保守などが尻尾を巻いて逃げ出すしかないほど
高度で深遠な愛国心が具わっていたのにも違いなく、それはあくまで高い知性に裏付けられた姿でもあった。
むしろ、それこそが本物の愛国者の姿であり、利権の甘い汁を吸いたくて体制ゴロでいるだけの
似非の愛国者などは、それと比べれば偽物止まりでしかないとわきまえるべきなのだといえる。
あまりにも今の時代に皆無な人種ではあるが、
愛国者たる者かくあるべきという模範となっているにも違いないのである。

この人のやっていたことは、植物学研究という点で未曾有だっただけでなく、
思想哲学的にも大変重大な意義を帯びていたように思われる。
その在り方を一言で述べるなら、「知性的な愛国者」だったといえる。
近来、右翼は頭が悪く、左翼は頭がいいというのが大多数の潮流となってしまい、
主に大学教授陣で占められている学術会議なども、あまりにも思想が左巻きの反日に過ぎることから、
政府機関への干渉に抑制がかけられる動きなどもあったわけだが。
牧野の場合は、東大教授も顔負けなほどの碩学でいながら、
その知識や研究力をもっぱら日本の学術水準の向上のために費やし、
時には神社の森の破壊に反対して大学を辞職するほどの頑固ぶりでもあった。
その生き方には、そんじょそこらの右翼や自称保守などが尻尾を巻いて逃げ出すしかないほど
高度で深遠な愛国心が具わっていたのにも違いなく、それはあくまで高い知性に裏付けられた姿でもあった。
むしろ、それこそが本物の愛国者の姿であり、利権の甘い汁を吸いたくて体制ゴロでいるだけの
似非の愛国者などは、それと比べれば偽物止まりでしかないとわきまえるべきなのだといえる。
あまりにも今の時代に皆無な人種ではあるが、
愛国者たる者かくあるべきという模範となっているにも違いないのである。


かろうじて西尾幹二などが保守系の学者としての地位を得て来たが、
西尾が愛国的な思想というもの自体を模索して来たのとは違って、
牧野には思想体系としての愛国なんてものはなく、
豊かな草花の生い茂る日本という国への愛情を専ら、
植物学研究という一種の専門分野への挺身に落とし込んでかかったのである。
机上の空論としての愛国なんてものはそこになく、ただひたすら実践としての愛国のみがある。
しかも、左巻きの有力者を暗殺したりするような(浅沼稲次郎暗殺事件など)、
安直な真似ではなく、オックスフォード大の教授も「真似できない」と驚愕して降参するほど、
(この前、牧野植物園に来園していた教授が牧野の植物図を見て発言していた内容)
世界最上級の知性の持ち主としての長所を最大限に活かした、国士無双の試みだった。
自己完結した愛国のための愛国、右翼のための右翼なんかには何の生産性もないが、
牧野の試みこそは、日本の植物学の独立自尊のごとき大功績を挙げ、自国の植物を知るために
欧米の大学に通わなければならなくなるような情けなさを日本から廃絶することにも成功した。
机上の空論、絵に描いた餅な愛国ではなく、食べられる餅、実践としての愛国の理想像。
愛国の何たるかもまた、本当は後者にこそ見出して行かねばならないのである。

豊かな知見の醸成によって、日本の文化大国、文明大国としての発展に貢献する、生産的愛国。
いま保守、右翼を自認しているような連中の愛国は、「奪う愛国」である。
日本では数少ない保守系大学である慶応大学なども、在学中からのレイプ魔だらけで、
卒業、就職後も中抜きピンハネで自分たちばかりがいい思いをしようとする、消費的愛国。
自分たちがより権益をかすめ取るためとあらば、着実な文明発展を企図している研究職や、
文化的隆盛を企図している創作者をも抑圧、排除しての、社会中枢へののさばりをも目論む。
そんな連中こそが愛国、保守を自称し、自己正当化の拠り所として利用しているために、
愛国の印象も最低劣にまで悪化し、むしろ良識的な人間が掲げるべきものではないともされつつある始末。
それは、仮に愛国だった所で負の愛国、愛国のダークサイドでしかなく、そのような愛国に限っては、
ならず者の免罪符扱いで非とすべきだが、それとはまた別に光の側面の愛国というものもあり、
たとえば牧野富太郎などがその生き方によって具体例を示してくれているのである。
嘘までついて少女を妾にする姑息さ 幻滅した

大元を辿ればアメリカから輸入された悪習のようである。
建国からして原住民への虐殺侵略から始まり、
その後も幾度となく不義の侵略戦争や、経済的な我田引水ばかりを
繰り返すことで強大化して来たアメリカみたいな国で愛国者たるためには、
そもそも歴史の委細などにも思慮を働かせられないような馬鹿であったほうがいい。
そのためアメリカの保守層には、今でも天動説を信じているほど、
知的水準の低い人種が多いけれども、別に、歴史の大半が大義を重んずる
君子士人の割拠によって形作られて来たこの日本までもがそんなである必要があるわけではない。
ただ、敗戦後の現代日本などは特例的に、政官財の汚職売国はびこる極度の濁世と
化したために、その内実などに深く思慮を働かせないような人種のほうが愛国者と
なることが多くなったし、そういう人種こそが通う慶応みたいな学閥も安定化した。

自分たちの考えのゴリ押しによって雇用崩壊を招き、日本社会を総崩れの状態に追い込んだように、
知性に欠ける保守の派閥こそが、世の中をより悪くするという事例もある。
考えが浅くて注意力に欠けているからこそ、不義にまみれた国でも愛せるということもあるし、
そこでさらに自分たち自身もまた、国家規模の不義を積み重ねて行けるということもある。
それによって自分たちが派遣業権益のような巨万の富に与れようものなら、
不義によって自分たちを潤してくれた国への愛着もまた、より増えこそすれど減ることはない。
さらにそこから愛国を口実とした新たな国賊行為を積み重ねては、
いい思いをしてさらに愛国心を募らせてーーの繰り返し。
知性に欠ける愛国、保守たるや、かくの如き悪循環によって
どこまででも国を荒廃へと陥れながらの増長を続けて行くものであることだし、
「そういう愛国は百害あって一利なし」というわきまえからの仕切り直しがあるのでもなければならない。
[YouTubeで再生]
非生産的で、かえって国に害を及ぼすような真似にまで及びながら、
その免罪符としての愛国を掲げる、ある意味ではこいつら以上に害悪な愛国である。
愛国者なら愛国者として、それ相応の健全な利益を国にもたらしてみよ、と。
他国や下層民からの収奪に頼ることもなく、国益をプラマイゼロ以上に増してみろ。
それができてこそ、自らが愛国者たることを名乗る資格もまた生ずるぐらいに
考えられる所でのみ、愛国と知性や誠実さが両立し得るものである。
牧野はそういう人間だったから、生涯特段、愛国者であることなどを吹聴しなかった。
自らの仕事が国に大利をもたらすことばかりに専念していた上に、
まだ不足、まだすべての植物を把握しきれているわけではないという
向上心と共に生涯あり続けていたために、そう名乗る余裕もなかったのである。
故に、真に偉大な愛国者ほどいちいちそれを自称せず、
愛国無罪が目的の悪党ほど愛国者を自称したがるという法則もまたある。
だからといって「すべての愛国者=悪党」などと決めつけての、
善良目的での反国家主義などに走るべきでもないのである。

その免罪符としての愛国を掲げる、ある意味ではこいつら以上に害悪な愛国である。
愛国者なら愛国者として、それ相応の健全な利益を国にもたらしてみよ、と。
他国や下層民からの収奪に頼ることもなく、国益をプラマイゼロ以上に増してみろ。
それができてこそ、自らが愛国者たることを名乗る資格もまた生ずるぐらいに
考えられる所でのみ、愛国と知性や誠実さが両立し得るものである。
牧野はそういう人間だったから、生涯特段、愛国者であることなどを吹聴しなかった。
自らの仕事が国に大利をもたらすことばかりに専念していた上に、
まだ不足、まだすべての植物を把握しきれているわけではないという
向上心と共に生涯あり続けていたために、そう名乗る余裕もなかったのである。
故に、真に偉大な愛国者ほどいちいちそれを自称せず、
愛国無罪が目的の悪党ほど愛国者を自称したがるという法則もまたある。
だからといって「すべての愛国者=悪党」などと決めつけての、
善良目的での反国家主義などに走るべきでもないのである。
己が利益のためだけといった私利私欲ではなく、格好だけでなく本当に日本の事を考えて行動できる人って立派だよね。

甚大な自然破壊を伴う神社合祀への反対運動。
「らんまん」で槙野が退職の意向を子供たちに話した時に、子供たちも
「国土の自然への愛着のような素朴な所から、健全な愛国心も育つはずなのに、
国がそれを破壊しようだなんてひどい」と言い、槙野の意向に賛同していたもの。
この問題については、むしろ牧野のほうが脇役であって、
実際に反対運動の主導者になっていたのは、南方熊楠や植芝守平といった、
熊野神社に地元ぐるみでの縁があったような人々のほうである。
ただ、これらの人々もまたやはり、ここで今取り上げているような、
知性的で誠実な愛国心の持ち主であったのには違いなく、だからこそ、
すでに反知性的で愛国無罪目的な自称愛国に蝕まれ始めていた戦前の日本において、
体制に反旗を翻すような真似にまで及ばざるを得なくなっていたのである。
とはいえやはり、やってたことが神社の損壊への反抗だから、
さすがに反体制だからといっての左翼呼ばわりまではできない。
むしろ体制側の自称右翼、保守などよりもさらに強烈な愛国心の持ち主
だったればこその反抗だったのだし、国の側のほうがその国賊じみた卑劣さを
わきまえる他なく、実際に神社合祀も運動以降に途絶えさせることとなったのである。

真に国を思い、国のためになるようなことをやって行こうとするあまりに、
その行いが、腐った愛国に蝕まれた国への反体制になる、ということがある。
戦前には、神社合祀反対運動などにかけて、それらしき人々が一定数見られたが、
戦後はもはや完全に絶えてしまった。宮崎駿や内田樹のような、南方や植芝の思想を
直接的に継承しているらしい戦後日本人といえども、決してその域には達していないから、
言動に反体制的な要素が見られる場合には、そのまま左巻きの扱いを受けたりしている。
実際、当人たちにももはや、知性的愛国を体現できるほどの挺身性が見受けられない。
戦後日本は戦前以上に、自称愛国者のド腐れ外道に国が蝕まれた状態でいるのだから、
知性的愛国を実践するためにはより反体制的でなければならないことにもなるが、
もはやそれが国から追い出されるほどの大報復に遭いかねない域にもあるために、
反体制的な側面をある程度以上濁しての、東大や大手テレビ局などとの昵懇な仲でもいる。
そして、今でも完全な反体制に振り切れているのは、中共からの支援保護が
受けられるような純然たる反日左翼に限るようになっている。腐れ切った自称愛国者たちにとって、
知性的で誠実な愛国者こそは、自分たちに成り代わるべき完全上位互換の存在であるために、
反日左翼などよりもこの世に存在していてほしくない、最強最悪の敵扱いとなるのである。

自然保護主義が知性的愛国と相性がいいというのは確かだが、これも「必ずしも」ではない。
積極的な国土開発や箱物行政が安易に国を富ませる手段となるのは、
古代エジプトのピラミッドの頃からの人類史上の常であり、これもまた職にあぶれた国民に
仕事を与えるなどの重大な意義を持ち合わせる場合があるために、絶対悪とまでは言えないのだが。
国家権益で甘い汁を吸いたがる自称愛国者の外道もまた、その手の試みによって私腹を肥やすことを
好む上に、そのためとあらば全く不必要な開発で大規模な自然破壊に及ぶことすら厭わない。
その手の連中が増えすぎると、末期の秦帝国のような疲弊による破綻状態に追い込まれるし、
その秦帝国を反面教師として無益な開発事業を控えた漢帝国のほうが長期政権たり得たように、
開発事業に制限をかけることで民力を養うことのほうが、国の繁栄に貢献する場合もある。

なるようなことがしばしば有るのだけれども。ただ全ての自然保護者が知性的なのかというと、んなこたあない。
特に西洋では、「我々が地球を守ってやる」的な独善性と共なる、無鉄砲で知性に欠ける自然保護運動に
及んでいるような人間が数多くに上り、海洋汚染を防ぐために不法投棄をやめさせるのではなく、
プラ製のストローを紙製に代えさせるような真似で満足するような白々しさでもあるために、
人々のエコ意識をかえって萎えさせるような悪影響までをも帯びてしまっていたりするのである。
故に、自然保護にかけても、十分な知性がそこに伴っている場合にのみ、南方や植芝や牧野なみたり得るもの。
勉強もしないでエコを訴えるような盲目さ止まりでは、その足元にも及ばないまま、足を引っ張るに止まるのである。

案の定、大戦末期の動員とて、「生きて帰って来られると思うな」の大合唱で、
大雨でずぶ濡れになりながらの特攻志願が祝福されていたというのである。
人材の青田刈りによる国力の損耗という点でも、歴史的な愚行だったことが
昔から取り沙汰されて来ている事案ではあるが、当時の日本の支配層が、
なぜこんな真似や特攻玉砕なんかをけしかけていたのかもまたむしろ、
今の日本の自称愛国者な支配層などを見ればこそよく分かるものである。
愛国無罪を口実にして人材を使い潰し、完全に損ない尽くすまで労働力を奪い上げては
自分たちが経済的に肥え太るという真似ばかりを平時から繰り返しているせいで、
いざ勝つか負けるかの戦争に臨もうとも、そのペースから少しも脱することができない。

上記のような連中が支配層でいるままでの参戦などは、自滅行為にしかならないのが
完全に見え透いているものだから、やはり是が非でもやめておくべきだとしか言われない。
まず、愛国無罪で国を損ねることしか能がないような連中は権力の座から引きずりおろして、
愛国心と高い知性を両立させられているが故に、何事も合理的に考えながら国を利する
ことができる人種がその座に成り代わることで初めて、再軍備の余地もまた見えて来るもの。
牧野富太郎もこの前の朝ドラ描写とは違って、ちゃんと自衛用の拳銃を購入してから
台湾遠征にも赴いていたのだし、知性的な愛国=盲目な反戦主義ともならないはずである。
それはそれで、中露や北に攻め入られようとも知るかというような無謀さと共にのみあるのだし。

「独立自尊」の精神の扱い方が根本的に異なっているのが特徴でもある。
ここでいま知性的愛国の体現者として取り上げている牧野富太郎などは、
史実上でもドラマ上でも、決して個人として完璧に独立自尊的というわけでもなかった。
全くと言っていいほど金カネにならない植物学研究のために、嫁の稼ぎにまで
頼るような真似を繰り返していたその有様は、経済的に独立してこそ一人前という、
今の日本などで常識と化している考え方からすれば決して独立自尊などではないが、
そのような自らの独立性の犠牲と引き換えに、日本の植物学全体の独立自尊に貢献した。
反知性的で、国賊同然な不行跡を愛国無罪で誤魔化そうとするような連中は、
むしろ自分たち自身の経済的な独立のほうに躍起になって、親のすねをかじる無職ニート
などもこき下ろす。一方で、自分個人の経済的な独立自尊のためには手段を択ばないあまりに、
かえって国益を損ねて、日本という国の独立自尊を損ねるような真似に及ぶことすら厭わない。

そんなことは大多数の人間にとっては不可能なことであるために、当人が創立した慶大の
卒業者などもそのほとんどが、上二つのうちの後者的な、カタワの独立自尊に止まっている。
実際のところ、独立自尊はむしろ国のためを優先し、そのためには自らのそれが蔑ろにされる
のを受け入れるぐらいでなければ、人間たるものほとんど国益にかなう愛国者などではあり得ない。
ゆえに、福沢が定立していたような、個人と国家の独立自尊の両立などは非現実的な夢物語に
過ぎないものと考えて、慶大生のようではなく、牧野のようであることをより尊重せねばならない。
そのためには、福沢の提唱していた自由主義思想などが絵に描いた餅止まりであることを世を挙げて
断罪し、もうそんな所に人間の理想などを求めようともしないようにして行く必要もまたあろう。

経て腐乱を尽くした挙句に、自分個人の経済的な独立自尊のためとあらば、
国益を損ねて国側の独立自尊を損ねることすら厭わないようなならず者が、
愛国無罪の偽装目的で愛国者を自認するような最悪の事態を招いたのだった。
そこには明らかな矛盾、論理破綻が内在しているために、そのような内実を
帯びた自称愛国者たちもまた知性的などではあり得ず、金カネや権力にものを
言わせて遊び回ることでの現実逃避などにも心を砕かざるを得ない状態となる。
宮沢賢治も、そのような目的で国家権力に食い入っているような連中を
「一杯やりたい人々」と呼んで批判し、そんな連中ばかりで権力機構が占められて
いることを嘆いていたし、戦前にもすでに来たしていたらしい腐敗現象でもある。
自己と国家の独立自尊の両立は、外界から富を収奪できた程度には実現されようとも、
自給自足なだけでももはや不可能、為替操作などで富が外界へと流出するに任せる
事態ともなれば、逆に国益を損ねることで自分個人の独立自尊を守るような真似しか
できなくなるというのが実情なれば、個人としての独立自尊などはむしろ蔑ろにされる
ことへの覚悟を欠かさないことこそが、国の独立自尊への貢献材料となるものだし、
個人的な独立自尊の希求なぞはむしろその邪魔になるのだとわきまえるべきなのである。

40代以下と50代以上の格差がさらに激化しているだろう、総務省発表のグラフ。
(なぜかもはや最新版を発表しようともしないが)
家元制で、50代以上の高齢者は軒並み隠遁、出家して財産権を放棄していた近世
までにおいては、これの50代以上に該当する金融資産は実質、存在していなかった。
伊藤若冲や葛飾北斎のように、80過ぎの老齢まで画業で名を馳せたり、
長曾祢虎徹のように50過ぎで初めて刀匠としての才能を開花させたりした事例もまたあれど、
それらもやはり隠遁出家の上でが基本だったし、そんな才覚などに恵まれなかった一般人だと、
我が子に食わせてもらう老後暮らしの後ろめたさのせいで、今よりも早死にする者がはるかに多かった。
それもやはり、個人としての独立自尊が今よりもはるかに制限されていたがための現象
だったわけだが、そんな時代にこそ世の中を占める勤労者たちの若返りも滞りなく行われ、
少子高齢化や年金医療保険による国の借金の山積のような致命的問題を来たすこともなく、
数百年にわたって平和で安定した自給自足状態を国が確立することのほうが実現されていた。
個人の独立自尊が制限を受けることによって、国の独立自尊が守られていた好例。
現代日本などはまさにその逆を行っているし、個人と国の独立自尊の両立的な実現という、
諭吉の唱えた理想が全くの絵空事であるのを、古今の日本社会が共に実証しているのである。
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