人間という生き物は醜い(特に外見) 東洋的審美眼の真骨頂
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近ごろ、各地の博物館や刀剣店などを巡って各種の名刀を目にしてるんだが、
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。
心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。
一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。
にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。
人の命を奪う道具である刀がかくも美しいのはなぜかという疑問を
考え抜くに至って勘付いたのが、「人間が醜い生き物だから」ということだ。
心ではない。心は美しい場合も醜い場合もあるが、外見のほうは一貫して醜い。
一般に、美男とか美女とか言われてる人間がいるのは、ただ単に性的魅力が強いから
なだけであって、普遍的な審美眼に基づくならそれらも単なる薄毛のサルに過ぎない。
にもかかわらず、性的魅力と普遍的な美しさを倒錯して心焦がした時に初めて、
人は心までもが醜くなる。愛欲を持つこと自体は人の常だが、それが
審美眼を損ねるような事態にまで陥ることこそが致命的に問題となるのであり、
それこそを防ぎ止めるために昔の日本人も刀という、人の命を断ち切る道具の
美術工芸的な洗練に執拗に取り組んでいたのではないかと思われるのである。
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>>306の陸自のエンブレムも、「封建時代」の武家の装束である
時代拵の日本刀をあしらっていることが非民主的だとして批判を受けていた。
あれが軍刀拵だったら、さらなる非難の的ともなっていただろう。
どちらも現代社会にそのまま復権することなどが錯誤になり過ぎるのは同じである。
現代にこそ特有の刀剣文化というものの創出を勘案してみるに、
まず拵の様式からして新規にして行くべきである。かといって全く伝統を
無視するのではなく、江戸期の時代拵の延長線上にある進化系的なもので、
なおかつ軍刀拵みたいな品質の粗悪化を防ぐようにする。
>>131の土方歳三遺品の康継の半太刀拵とか、この虎徹の庄内拵とか、
言葉は変だが“ハイカラ”な要素も見受けられる。幕末以前のものだが、
この辺で刀装具文化の進化も止まってしまっているので、またここから始めるべき。
それこそ、オシャレでもあるべき。帯刀込みでオシャレとなる装束なら、
どう転んでも外見だけの取り繕いなどにはなり得ないからな。刀が本物なら。
時代拵の日本刀をあしらっていることが非民主的だとして批判を受けていた。
あれが軍刀拵だったら、さらなる非難の的ともなっていただろう。
どちらも現代社会にそのまま復権することなどが錯誤になり過ぎるのは同じである。
現代にこそ特有の刀剣文化というものの創出を勘案してみるに、
まず拵の様式からして新規にして行くべきである。かといって全く伝統を
無視するのではなく、江戸期の時代拵の延長線上にある進化系的なもので、
なおかつ軍刀拵みたいな品質の粗悪化を防ぐようにする。
>>131の土方歳三遺品の康継の半太刀拵とか、この虎徹の庄内拵とか、
言葉は変だが“ハイカラ”な要素も見受けられる。幕末以前のものだが、
この辺で刀装具文化の進化も止まってしまっているので、またここから始めるべき。
それこそ、オシャレでもあるべき。帯刀込みでオシャレとなる装束なら、
どう転んでも外見だけの取り繕いなどにはなり得ないからな。刀が本物なら。
常用するのが短寸の脇差になるのだから、
拵の装飾はある程度ゴチャついてたほうが見栄え面では釣り合う。
https://tokka.biz/sword/taira-takada.htm...
こういう、二本差しで用いるには過剰すぎるぐらい、
大鐺やら責金やら猿手やら笄やらの装飾が凝らされているものがいいな。
服装に関わらず佩用できるように佩環(吊り金具)も取り付けて。
光の反射で狙撃の標的にならないように金ピカの細工は避けるか、
もしくは着脱が容易な外袋を付ける。これはビニールとかでも構わん。
昔のように革や油紙を使っても耐水性が低いし、色々と新たな工夫が可能な所。
ちゃんと現代文明を凌駕して行くように工夫すれば、
絶対にニューナンブなんざよりも格好いいからな。おまけに実用的。
拵の装飾はある程度ゴチャついてたほうが見栄え面では釣り合う。
https://tokka.biz/sword/taira-takada.htm...
こういう、二本差しで用いるには過剰すぎるぐらい、
大鐺やら責金やら猿手やら笄やらの装飾が凝らされているものがいいな。
服装に関わらず佩用できるように佩環(吊り金具)も取り付けて。
光の反射で狙撃の標的にならないように金ピカの細工は避けるか、
もしくは着脱が容易な外袋を付ける。これはビニールとかでも構わん。
昔のように革や油紙を使っても耐水性が低いし、色々と新たな工夫が可能な所。
ちゃんと現代文明を凌駕して行くように工夫すれば、
絶対にニューナンブなんざよりも格好いいからな。おまけに実用的。
9MM8pdEUtUみたいな、自らの矛盾混じりな発言規範によって
人を評価する資格のなさを露呈する人間は、確かに匿名のネット上に多いが、
対面下でもそのような本性を露呈してくる人間はたまにいる。それどころか、
相手に不快感を与えるためではなく、おべっかを使っていい気分にさせるために
曲解混じりのお世辞を弄してくるような人間ならば、実名の場のほうが多いぐらいである。
元禄赤穂事件における、浅野殿中刃傷沙汰の真相は未だに解明されていないが、
仮に被害者の吉良が通説のとおり歪んだ性格の持ち主で、相手への曲解混じりな誹謗中傷も
好んで行うような不埒者だったとする。そこで相手が他人を評価する資格もない人間であることを
冷静に受け止め、名誉毀損を公正な裁きにかける分別を持てたらよかったものを、一時の怒りに
任せて殿中なんかでの殺人未遂や傷害に及んでしまったのは、確かに浅野側の落ち度であった。
(赤穂浪士たちも浅野の切腹処分ではなく、吉良への喧嘩両成敗の免除こそを不服とした)
新たな帯刀身分となる人間も、浅野内匠頭のような真似をすれば引責自殺が免れられない。
一方で、不名誉をそのまま黙認し続けるような真似をするのでも許されない。
そのあたりのさじ加減を学んで行くことが、自らの君子としての成長ともなる。
人を評価する資格のなさを露呈する人間は、確かに匿名のネット上に多いが、
対面下でもそのような本性を露呈してくる人間はたまにいる。それどころか、
相手に不快感を与えるためではなく、おべっかを使っていい気分にさせるために
曲解混じりのお世辞を弄してくるような人間ならば、実名の場のほうが多いぐらいである。
元禄赤穂事件における、浅野殿中刃傷沙汰の真相は未だに解明されていないが、
仮に被害者の吉良が通説のとおり歪んだ性格の持ち主で、相手への曲解混じりな誹謗中傷も
好んで行うような不埒者だったとする。そこで相手が他人を評価する資格もない人間であることを
冷静に受け止め、名誉毀損を公正な裁きにかける分別を持てたらよかったものを、一時の怒りに
任せて殿中なんかでの殺人未遂や傷害に及んでしまったのは、確かに浅野側の落ち度であった。
(赤穂浪士たちも浅野の切腹処分ではなく、吉良への喧嘩両成敗の免除こそを不服とした)
新たな帯刀身分となる人間も、浅野内匠頭のような真似をすれば引責自殺が免れられない。
一方で、不名誉をそのまま黙認し続けるような真似をするのでも許されない。
そのあたりのさじ加減を学んで行くことが、自らの君子としての成長ともなる。
自分の都合で事実も否定し、虚構も肯定するという矛盾的発言規範を、
相手を不快にさせるためではなく、褒めて思い上がらせるために用いる人間。
実社会ではむしろこちらのほうがより警戒すべき人種ともなる。
悪代官と越後屋の如き賄賂での蜜月も、まさにそれこそが元凶となる。
自らもまた悪代官側として汚濁に溺れてしまう以前においても、浅野内匠頭のような
分別の未熟さでいたのではやはり危うい。相手に嫌な思いをさせられる場合だけでなく、
いい思いをさせられる場合においても心理的な警戒を欠かさず、事実を捻じ曲げたり
虚言を弄してまで自分を褒め称えて来るような人間を遠ざけるようにする。
(もちろんそんな連中からの投資を頼んだりすることも)
理論的な分別だけでも済まず、分別で気付いた時にはすでに賄賂の術中に陥って
しまっているような場合もある。だから、相手の発言が不埒さを帯びていることを
感覚で察知して、熱湯から瞬時に手を遠ざけるように避けられる感性や
反射神経の良さも磨いておくべきである。それは結局、自分自身の
心の美しさを刀剣や仏像の如く成していくことともなるわけである。
相手を不快にさせるためではなく、褒めて思い上がらせるために用いる人間。
実社会ではむしろこちらのほうがより警戒すべき人種ともなる。
悪代官と越後屋の如き賄賂での蜜月も、まさにそれこそが元凶となる。
自らもまた悪代官側として汚濁に溺れてしまう以前においても、浅野内匠頭のような
分別の未熟さでいたのではやはり危うい。相手に嫌な思いをさせられる場合だけでなく、
いい思いをさせられる場合においても心理的な警戒を欠かさず、事実を捻じ曲げたり
虚言を弄してまで自分を褒め称えて来るような人間を遠ざけるようにする。
(もちろんそんな連中からの投資を頼んだりすることも)
理論的な分別だけでも済まず、分別で気付いた時にはすでに賄賂の術中に陥って
しまっているような場合もある。だから、相手の発言が不埒さを帯びていることを
感覚で察知して、熱湯から瞬時に手を遠ざけるように避けられる感性や
反射神経の良さも磨いておくべきである。それは結局、自分自身の
心の美しさを刀剣や仏像の如く成していくことともなるわけである。
「心の美しさ」というのは、ちっとも抽象的でも愛玩的でもない。
少なくとも東洋的、日本的な定義においては極めて具体的で実用的なものである。
仕事中とか勉強中とかの一時に限らず、
常日頃からIQ100以上の正気を保ち続ける、所謂「明鏡止水」の境地。
これが美しい心でもある一方、その波長の平坦さ故に、
正気が乱高下している精神病質(サイコパス)や発達障害の人間とは波長が合わない。
その波長の違い故に、明鏡止水の側の人間からは相手の本性が容易に察せる。
場合によっては一言も言葉を交わさない内から、姿勢や表情の歪みだけでも見抜ける。
そこからとっさに危険人物を遠ざけられるかどうかは、反射神経にかかってる。
明鏡止水がインプット面での能力なら、反射的拒絶はアウトプットの能力。
まったく同一というわけではないが、だいたい一緒に育まれて行くものである。
少なくとも、純正な古武道や仏道の修行に基づくのであれば。
(紛い物のヨガで一緒に衰えるなんてことも)
少なくとも東洋的、日本的な定義においては極めて具体的で実用的なものである。
仕事中とか勉強中とかの一時に限らず、
常日頃からIQ100以上の正気を保ち続ける、所謂「明鏡止水」の境地。
これが美しい心でもある一方、その波長の平坦さ故に、
正気が乱高下している精神病質(サイコパス)や発達障害の人間とは波長が合わない。
その波長の違い故に、明鏡止水の側の人間からは相手の本性が容易に察せる。
場合によっては一言も言葉を交わさない内から、姿勢や表情の歪みだけでも見抜ける。
そこからとっさに危険人物を遠ざけられるかどうかは、反射神経にかかってる。
明鏡止水がインプット面での能力なら、反射的拒絶はアウトプットの能力。
まったく同一というわけではないが、だいたい一緒に育まれて行くものである。
少なくとも、純正な古武道や仏道の修行に基づくのであれば。
(紛い物のヨガで一緒に衰えるなんてことも)
西洋的な定義でいうところの「美しい心」は、全くこれとは異なる。
ドストエフスキーの「白痴」だとか、トルストイ小説の女登場人物だとかに
象徴される心の美しさとは、言うなれば、耳障りや見栄えのいい言行のためには
道理も捻じ曲げる部類の精神状態。悪代官に取り入る越後屋と比べれば容貌が小綺麗だったり、
打算を考慮できるような知性が欠けていたりする点が異なるが、根本的な所は同じ。
そういう精神状態にある人間ってのは女に多いものだから、
女こそは見た目だけでなく心までもが美しい人種であるなどと本気で考える。
そういう考え方で女に接するものだから、西洋の男もまた女にも好かれやすい。
明鏡止水の美しさを蔑ろにすればこその、男女の痴情の燃え上がり。
日本人も近代以降はなるべく見習おうとしたが、やはりモノにはならなかった。
別にそれはそれで構いやせず、問題は昔の美しさこそをどうやって取り戻して行くかだ。
ドストエフスキーの「白痴」だとか、トルストイ小説の女登場人物だとかに
象徴される心の美しさとは、言うなれば、耳障りや見栄えのいい言行のためには
道理も捻じ曲げる部類の精神状態。悪代官に取り入る越後屋と比べれば容貌が小綺麗だったり、
打算を考慮できるような知性が欠けていたりする点が異なるが、根本的な所は同じ。
そういう精神状態にある人間ってのは女に多いものだから、
女こそは見た目だけでなく心までもが美しい人種であるなどと本気で考える。
そういう考え方で女に接するものだから、西洋の男もまた女にも好かれやすい。
明鏡止水の美しさを蔑ろにすればこその、男女の痴情の燃え上がり。
日本人も近代以降はなるべく見習おうとしたが、やはりモノにはならなかった。
別にそれはそれで構いやせず、問題は昔の美しさこそをどうやって取り戻して行くかだ。
「是非もなく何でも肯定してやれる者こそは美しい心の持ち主」
「是非を正そうとも何かを悪く言う者は醜い心の持ち主」
これが西洋の心にまつわる美醜観である。一方、
「是非を正して物事を冷静に批評できる者こそは美しい心(明鏡止水)の持ち主」
「痴情に溺れて是非を見失う者は肯定的だろうとも醜い心(煩悩)の持ち主」
これが東洋的な心にまつわる美醜観である。
その精神的な起源になっているのは、やはりキリスト教と仏教である。
どちらもそれなりに共感できる人間がいて、心象の規範とすることが
軌道に乗る者だからこそ、多くの信者を獲得して来たのには違いない。
ただ、片やそういう精神状態に安住するのが簡単だから支持されて来た一方、
難儀だけども普遍的に良いことだから支持されて来たという違いはある。
明鏡止水の境地なんて、なかなか至れないのに多数に支持されて来たのは、
そこに確かな美観もまた伴い得るからである。モンスーン気候の土地など
であれば、そのほうがむしろアガペーの美飾などよりも似合うぐらいに。
「是非を正そうとも何かを悪く言う者は醜い心の持ち主」
これが西洋の心にまつわる美醜観である。一方、
「是非を正して物事を冷静に批評できる者こそは美しい心(明鏡止水)の持ち主」
「痴情に溺れて是非を見失う者は肯定的だろうとも醜い心(煩悩)の持ち主」
これが東洋的な心にまつわる美醜観である。
その精神的な起源になっているのは、やはりキリスト教と仏教である。
どちらもそれなりに共感できる人間がいて、心象の規範とすることが
軌道に乗る者だからこそ、多くの信者を獲得して来たのには違いない。
ただ、片やそういう精神状態に安住するのが簡単だから支持されて来た一方、
難儀だけども普遍的に良いことだから支持されて来たという違いはある。
明鏡止水の境地なんて、なかなか至れないのに多数に支持されて来たのは、
そこに確かな美観もまた伴い得るからである。モンスーン気候の土地など
であれば、そのほうがむしろアガペーの美飾などよりも似合うぐらいに。
世間的に「美しい心」とされる精神状態は、だからこそ尊ばれる一方、
「心が醜い」と見なされればそれ故に卑しまれる。
これは、身分とか人種とか血統とも無縁であるはずな自身の「心」という内面の評価
なものだから、平等主義の世の中においてですらそれによる差別が緩められることがない。
洋の東西でも心の美醜の評価基準が違うし、隣国同士や国内においてですら
必ずしも統一されてはいない。その手の軋轢の最大級の原因になるのはやはり宗教だが、
逆に価値観を統一させて人間性の矯正を図って来たのも宗教ないし宗教国家であり、
それにより同好の士の寄り合いによる国や経済の発展を促しても来た。
江戸時代までの日本では仏教的価値観によって心の美醜の統制が図られていたのが、
明治以降はキリスト教の影響を色濃く受けた国家神道に取って代わられ、敗戦後は
宗教的統制のなさ故の根無し草状態となった。とはいえ特別根本的な精神性の改めが
図られたわけでもない手前、戦後の美醜意識も東洋系よりは西洋系のほうが優勢である。
特に心の美しさ如何の基準は、まったくキリスト教的因習に囚われたままである。
「心が醜い」と見なされればそれ故に卑しまれる。
これは、身分とか人種とか血統とも無縁であるはずな自身の「心」という内面の評価
なものだから、平等主義の世の中においてですらそれによる差別が緩められることがない。
洋の東西でも心の美醜の評価基準が違うし、隣国同士や国内においてですら
必ずしも統一されてはいない。その手の軋轢の最大級の原因になるのはやはり宗教だが、
逆に価値観を統一させて人間性の矯正を図って来たのも宗教ないし宗教国家であり、
それにより同好の士の寄り合いによる国や経済の発展を促しても来た。
江戸時代までの日本では仏教的価値観によって心の美醜の統制が図られていたのが、
明治以降はキリスト教の影響を色濃く受けた国家神道に取って代わられ、敗戦後は
宗教的統制のなさ故の根無し草状態となった。とはいえ特別根本的な精神性の改めが
図られたわけでもない手前、戦後の美醜意識も東洋系よりは西洋系のほうが優勢である。
特に心の美しさ如何の基準は、まったくキリスト教的因習に囚われたままである。
このスレでの反応を見ていても、武士道を新渡戸稲造が曲解したような
紛い物に即して分かった気になって、その実価値観は完全に現代的、
西洋的なままでいるものだから、そんな自分が評価できない俺の言動を
「武士道に悖るもの」として非難嘲笑するような連中が一定数いるわけである。
仏道への無理解はもっとひどく、自利即利他の精神がキリスト教的価値観への
囚われのせいでどうしても理解できないせいで、俺や現代の生臭坊主はおろか、
昔の日本の仏門までをも紛い物として否定してかかるような連中すらいる始末。
理解ができない原因はおまえらの眼前ではなく、おまえら自身の心中にある。
根本的な心象の美醜意識が西洋側にどっぷり浸かっていて、そこから一時的に
抜け出すことすら頑なに拒絶するが故に、それでは絶対に理解不能な本物の
武士道や仏道を曲解して自分たちに合わせ、その武士道モドキや仏道モドキに
反するような振る舞いをする俺のほうを不心得者として叩く。
本物の武士道や仏道のほうがよっぽど、自他を丁重な安楽や平和に導けるもので
あるにもかかわらず、アレルギー反応にも等しい拒絶意識で従属を拒むのは、
やはり心の美醜からの美意識の相違を最大の原因としているのに違いない。
「生理的に受け付けられない」とかだったとしても、その真因がこれだ。
最終命題までカンニングの余地を与えておいてくれる、甘やかしげな先生だな。
紛い物に即して分かった気になって、その実価値観は完全に現代的、
西洋的なままでいるものだから、そんな自分が評価できない俺の言動を
「武士道に悖るもの」として非難嘲笑するような連中が一定数いるわけである。
仏道への無理解はもっとひどく、自利即利他の精神がキリスト教的価値観への
囚われのせいでどうしても理解できないせいで、俺や現代の生臭坊主はおろか、
昔の日本の仏門までをも紛い物として否定してかかるような連中すらいる始末。
理解ができない原因はおまえらの眼前ではなく、おまえら自身の心中にある。
根本的な心象の美醜意識が西洋側にどっぷり浸かっていて、そこから一時的に
抜け出すことすら頑なに拒絶するが故に、それでは絶対に理解不能な本物の
武士道や仏道を曲解して自分たちに合わせ、その武士道モドキや仏道モドキに
反するような振る舞いをする俺のほうを不心得者として叩く。
本物の武士道や仏道のほうがよっぽど、自他を丁重な安楽や平和に導けるもので
あるにもかかわらず、アレルギー反応にも等しい拒絶意識で従属を拒むのは、
やはり心の美醜からの美意識の相違を最大の原因としているのに違いない。
「生理的に受け付けられない」とかだったとしても、その真因がこれだ。
最終命題までカンニングの余地を与えておいてくれる、甘やかしげな先生だな。
サムライが、極めて美意識の高い人種だったというのは、
現代人でもなんとなく察していることではある。しかし、
その美意識がどんなものだったかといえば、これは想像がつかない。
もしくは、自分たちが持ち合わせたり知悉しているような美意識を
そのまま極大化させていったような美意識だったのではないかと考える。
分別をかなぐり捨ててまでの自己犠牲だとか、利害を見失ってまでの奴隷的奉仕だとか。
自分たちにとっての美意識の延長線上で考えてしまうものだから、
そんなものばかりを想像する。実際、現代どころか戦前の日本人までもが
そのような思い込みのままでの侍魂の模倣を試み、特攻玉砕で散っていった。
これがまた武士道への曲解を地固めさせる大きな原因にもなってしまっている。
いくら大日本帝国が武士道だの大和魂だのとうそぶいていたのだとしても、
実際問題、明治以降に武家はこの世から絶やされたのである。国を挙げての
価値観の転換による資本主義経済の発展のため、侍ならではの美意識もまた
あえて絶やされた。そこで国威発揚のために喧伝されていた武士道魂なども
全くの形骸でしかなく、本物の武士道を図り知るための参考程度にもならない。
本物の武士道や、そこにあった美意識なんて、なんとなく程度にすら知らないものだと、
現代人は考え直すべき。知ってるから敬遠してるなんていうのですら、勘違いである。
旧日本軍的な人命軽視を忌み嫌ったりするのも、むしろ自己嫌悪でこそある。
現代人でもなんとなく察していることではある。しかし、
その美意識がどんなものだったかといえば、これは想像がつかない。
もしくは、自分たちが持ち合わせたり知悉しているような美意識を
そのまま極大化させていったような美意識だったのではないかと考える。
分別をかなぐり捨ててまでの自己犠牲だとか、利害を見失ってまでの奴隷的奉仕だとか。
自分たちにとっての美意識の延長線上で考えてしまうものだから、
そんなものばかりを想像する。実際、現代どころか戦前の日本人までもが
そのような思い込みのままでの侍魂の模倣を試み、特攻玉砕で散っていった。
これがまた武士道への曲解を地固めさせる大きな原因にもなってしまっている。
いくら大日本帝国が武士道だの大和魂だのとうそぶいていたのだとしても、
実際問題、明治以降に武家はこの世から絶やされたのである。国を挙げての
価値観の転換による資本主義経済の発展のため、侍ならではの美意識もまた
あえて絶やされた。そこで国威発揚のために喧伝されていた武士道魂なども
全くの形骸でしかなく、本物の武士道を図り知るための参考程度にもならない。
本物の武士道や、そこにあった美意識なんて、なんとなく程度にすら知らないものだと、
現代人は考え直すべき。知ってるから敬遠してるなんていうのですら、勘違いである。
旧日本軍的な人命軽視を忌み嫌ったりするのも、むしろ自己嫌悪でこそある。
なぜ、見境のない自己犠牲や奴隷奉仕を好むような人間が、
美術的・宝物的価値まで帯びるような名刀などを好んで差していたのか?
そして、それを蔑ろにされることを何よりも嫌っていたのか?
その刀の多くには鎬(しのぎ)があり、斬れ味だけでなく、
敵からの攻撃を受け止める防御面でも細心の工夫が凝らされている。
死地においても決して生還への望みを捨てず、生きて我が名誉を守り、
有職ならその職責を果たすことが、武士の美意識だったからこそ。
そしてその生き様こそが美しく、佩刀の美しさの生き写しともなるように。
捨て身は美しく、守り身は美しくないものだと勝手に思い込んでいる
近代人にとっては最も理解しがたい「厚生の美」こそは、武家の美意識。
意外と保身的だから期待はずれだというなら、自分自身の見当違い
こそを責めるべき。そこにはまた感性の成熟した人間こそが図り知る
真の美しさが遍在しているのだから、自らの見る目のなさこそを恥じるべき。
美術的・宝物的価値まで帯びるような名刀などを好んで差していたのか?
そして、それを蔑ろにされることを何よりも嫌っていたのか?
その刀の多くには鎬(しのぎ)があり、斬れ味だけでなく、
敵からの攻撃を受け止める防御面でも細心の工夫が凝らされている。
死地においても決して生還への望みを捨てず、生きて我が名誉を守り、
有職ならその職責を果たすことが、武士の美意識だったからこそ。
そしてその生き様こそが美しく、佩刀の美しさの生き写しともなるように。
捨て身は美しく、守り身は美しくないものだと勝手に思い込んでいる
近代人にとっては最も理解しがたい「厚生の美」こそは、武家の美意識。
意外と保身的だから期待はずれだというなら、自分自身の見当違い
こそを責めるべき。そこにはまた感性の成熟した人間こそが図り知る
真の美しさが遍在しているのだから、自らの見る目のなさこそを恥じるべき。
それに、都合がいいも悪いも、「治った」という話を含め、あんたの言う事ははとりあえず信じているではないか。MRIの画像だけで確証が取れた事にはならないものの、治ったという前提で話は聞いてる。
ただ、前述の通り、難治性の病気が治ったという話はチラホラ聞くので、「(とても嬉しいのは分かるけども、あんたが自分で絶賛してるほど)そんなに大した事ではない」と書いただけ。
もし「チラホラ聞く話は、確認の取れてないデマだ」と言うのなら、あんたの話だって確認は取れてないが、あんたの話が嘘だろうと真実だろうと、その程度の事が起きたとして、そんなに珍しくもない。
ただ、前述の通り、難治性の病気が治ったという話はチラホラ聞くので、「(とても嬉しいのは分かるけども、あんたが自分で絶賛してるほど)そんなに大した事ではない」と書いただけ。
もし「チラホラ聞く話は、確認の取れてないデマだ」と言うのなら、あんたの話だって確認は取れてないが、あんたの話が嘘だろうと真実だろうと、その程度の事が起きたとして、そんなに珍しくもない。
>>337
無職になる前から病気を患っていたことがわかるようには書いた。
それ以外の面での難癖を付けてくるのは後出しでしかない。
1つだけ付言してやるなら、子供の頃にやってたスポーツ剣道で肩を脱臼させた。
それから20年以上外れっぱなしでいたのだ。
>>338
難病にも色々ある。
膵臓癌だって難病だし、足の小指の爪が綺麗に生えないのだって難病だ。
前者が転移ごと治せればノーベル賞ものだが、後者はイグノーベル賞にもなるまい。
それら全ての治療を十把一絡げに「大したことない」と断言しているおまえの神経は、
世の中や他人のことを真摯に理解できないか、しようともしていない点でやはりおかしい。
要は非社会性のパーソナリティ障害である可能性が高いわけだな。断定はせんが。
無職になる前から病気を患っていたことがわかるようには書いた。
それ以外の面での難癖を付けてくるのは後出しでしかない。
1つだけ付言してやるなら、子供の頃にやってたスポーツ剣道で肩を脱臼させた。
それから20年以上外れっぱなしでいたのだ。
>>338
難病にも色々ある。
膵臓癌だって難病だし、足の小指の爪が綺麗に生えないのだって難病だ。
前者が転移ごと治せればノーベル賞ものだが、後者はイグノーベル賞にもなるまい。
それら全ての治療を十把一絡げに「大したことない」と断言しているおまえの神経は、
世の中や他人のことを真摯に理解できないか、しようともしていない点でやはりおかしい。
要は非社会性のパーソナリティ障害である可能性が高いわけだな。断定はせんが。
http://bbs68.meiwasuisan.com/news/1570579573...
9000万円とかいう、鑑定済みの正宗が買える値段の高級時計でも、
全く同じものが30個は量産されているという、このつまらなさよ。
最低劣のクズ刀から精巧な写し物に至るまで、
刃紋も体配も全く同じものはただの1組も存在しないという、日本刀の多様性。
あえてそうしているのではなく、製法上そうでしかあり得ない。
何万層もの鋼の多層構造を手作業の折り返し鍛錬によって形作って行くという、
量産化工業の斉一性からは最もかけ離れた製法規格のために。
だからこそ、その存在性が神的なのでもある。
人の手によって作られるものなのに、高度に有機的でもある所が。
強いて言えば、木製品なども全く同じものはほぼないが、
(日本刀の肌模様もしばしば木目に例えられる)
木目という有機的な部分はあくまで自然の業である。
日本人は、よく大木なども御神木として崇め奉って来ているが、
そのような自然の有機性を尊ぶ心持ちこそが、
日本刀の有機的工芸美をも昇華させたのであろう。
9000万円とかいう、鑑定済みの正宗が買える値段の高級時計でも、
全く同じものが30個は量産されているという、このつまらなさよ。
最低劣のクズ刀から精巧な写し物に至るまで、
刃紋も体配も全く同じものはただの1組も存在しないという、日本刀の多様性。
あえてそうしているのではなく、製法上そうでしかあり得ない。
何万層もの鋼の多層構造を手作業の折り返し鍛錬によって形作って行くという、
量産化工業の斉一性からは最もかけ離れた製法規格のために。
だからこそ、その存在性が神的なのでもある。
人の手によって作られるものなのに、高度に有機的でもある所が。
強いて言えば、木製品なども全く同じものはほぼないが、
(日本刀の肌模様もしばしば木目に例えられる)
木目という有機的な部分はあくまで自然の業である。
日本人は、よく大木なども御神木として崇め奉って来ているが、
そのような自然の有機性を尊ぶ心持ちこそが、
日本刀の有機的工芸美をも昇華させたのであろう。
日本刀は鉄鋼製品なのだから、サビの原因になる湿気が大敵のように思われがちだが、
実はむしろ乾燥のほうが大敵である。刀身に塗った油が速く乾いて錆びる原因になるため。
バイオリンやピアノやギターなどの楽器は基本、乾燥状態に置いたほうが良い。
鉄製の金具は極力使わないか、使う場合には防錆塗装やメッキを施すなどしているため、
木材部位の腐朽を防ぐためにも、演奏時の音色のためにも湿気を避けたほうが良いとされる。
どちらのほうが寿命が長いかといえば、圧倒的に日本刀のほうである。
刀は正しく手入れさえし続ければ1000年以上持つが、ピアノは100年未満。
バイオリンやギターはもう少し長いが、どんなに丁寧に保管しても結局木部が朽ちてしまうから、
300年前のストラディヴァリウスなども弾けなくはないが、すでに音色が劣化してしまっているという。
湿気は日本人もあまり好むものではないが、豊かな自然を育む要因ともなる。
中東のような乾燥は緑を絶やす上に、紫外線の透過で細菌すらも殺してしまう。
モンスーン気候の上に、梅雨のような雨季もあれば台風もある、世界でも屈指の
多湿地帯としての日本の環境こそが、鉄製の刀を何百年と錆びさせずに保管する文化をも育んだ。
木造家屋の寿命の短さなどとは裏腹な、文化財全般への物持ちの良さ。
その指針ともなって来た鉄刀保存の風習。面倒なようでも、これもまたあって然るべき手間であった。
実はむしろ乾燥のほうが大敵である。刀身に塗った油が速く乾いて錆びる原因になるため。
バイオリンやピアノやギターなどの楽器は基本、乾燥状態に置いたほうが良い。
鉄製の金具は極力使わないか、使う場合には防錆塗装やメッキを施すなどしているため、
木材部位の腐朽を防ぐためにも、演奏時の音色のためにも湿気を避けたほうが良いとされる。
どちらのほうが寿命が長いかといえば、圧倒的に日本刀のほうである。
刀は正しく手入れさえし続ければ1000年以上持つが、ピアノは100年未満。
バイオリンやギターはもう少し長いが、どんなに丁寧に保管しても結局木部が朽ちてしまうから、
300年前のストラディヴァリウスなども弾けなくはないが、すでに音色が劣化してしまっているという。
湿気は日本人もあまり好むものではないが、豊かな自然を育む要因ともなる。
中東のような乾燥は緑を絶やす上に、紫外線の透過で細菌すらも殺してしまう。
モンスーン気候の上に、梅雨のような雨季もあれば台風もある、世界でも屈指の
多湿地帯としての日本の環境こそが、鉄製の刀を何百年と錆びさせずに保管する文化をも育んだ。
木造家屋の寿命の短さなどとは裏腹な、文化財全般への物持ちの良さ。
その指針ともなって来た鉄刀保存の風習。面倒なようでも、これもまたあって然るべき手間であった。
今月号の月間武道掲載。第23代警視総監でもあり、
近代剣道(今の警察剣道に相当)の実質的な創始者である西久保弘道。
この、戦前の人間とは思えないほどでっぷりとした胴回りと、
それに相反するかのような、子供のような細さの前腕。
相撲並みに力当たりばかりに拘泥して、手先の技巧は
まったく疎かにしていたことが見るに明らかな体つき。
実際、こいつは学校剣道の導入者である永井道明(剣道家ではない)とも並んで、
剣の稽古から技術的な要素を確信犯的に排除しながら剣道を広めた張本人である。
剣道といえば体育会系、スポーツ系で、手先の器用さなんか無関係という
風潮を作り出したのもこいつが最初。脳筋で融通の利かない警察官の走り。
剣ってのは、本来はそういうもんではない。全身も使うが手先も使う。
手先の器用さも楽器演奏並みに必要だったから、佐幕派の中上級の
武士の末裔の中にも、音楽家をやっているような人間が数多くいる。
こいつは、佐賀鍋島藩士の末裔だという。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な葉隠も佐賀藩士の著。
薩長と比べれば、政官財に幅を利かせた度合いも低くてさほど
問題視されることがない「薩長土肥」の肥前こと佐賀もまた、
世間知らずで不器用な田舎侍の吹き溜まりだったというわけ。
近代剣道(今の警察剣道に相当)の実質的な創始者である西久保弘道。
この、戦前の人間とは思えないほどでっぷりとした胴回りと、
それに相反するかのような、子供のような細さの前腕。
相撲並みに力当たりばかりに拘泥して、手先の技巧は
まったく疎かにしていたことが見るに明らかな体つき。
実際、こいつは学校剣道の導入者である永井道明(剣道家ではない)とも並んで、
剣の稽古から技術的な要素を確信犯的に排除しながら剣道を広めた張本人である。
剣道といえば体育会系、スポーツ系で、手先の器用さなんか無関係という
風潮を作り出したのもこいつが最初。脳筋で融通の利かない警察官の走り。
剣ってのは、本来はそういうもんではない。全身も使うが手先も使う。
手先の器用さも楽器演奏並みに必要だったから、佐幕派の中上級の
武士の末裔の中にも、音楽家をやっているような人間が数多くいる。
こいつは、佐賀鍋島藩士の末裔だという。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な葉隠も佐賀藩士の著。
薩長と比べれば、政官財に幅を利かせた度合いも低くてさほど
問題視されることがない「薩長土肥」の肥前こと佐賀もまた、
世間知らずで不器用な田舎侍の吹き溜まりだったというわけ。
上の近代剣道創始者のおっさんを見ても、
今でも剣道が必修科目な日本の警察官の容貌や振る舞いを見ても、
ちっとも「美しい」ようには思われない。
いくら日本刀が美しいものであっても、
それを扱うための稽古を積んでいるはずの者が美しくないのでは、
少なくとも「剣心一体」の境地ではないことが明らか。
実際、近代剣道ってのは真剣の扱いから遠くかけ離れたものでしかない。
あえて真剣の扱いのための技巧をかなぐり捨てた、竹刀のあてっこ、
だからこそ剣道家も美しくないのだから、それを見て剣心一体の心がけが
人の美しさを育むことなどないなどと思うのは、勘違いもいいとこ。
真剣こそを正しく扱い、真剣と我が身の一体化を図ることで、
我が身の振る舞いもまた美しくなる。もはやあり得ないこととすら
思い込まれているきらいがあるから、真剣も遠ざけられて時価が暴落している。
何もかもが勘違いに囚われている悪循環こそが、現代人の呪縛であるといえる。
今でも剣道が必修科目な日本の警察官の容貌や振る舞いを見ても、
ちっとも「美しい」ようには思われない。
いくら日本刀が美しいものであっても、
それを扱うための稽古を積んでいるはずの者が美しくないのでは、
少なくとも「剣心一体」の境地ではないことが明らか。
実際、近代剣道ってのは真剣の扱いから遠くかけ離れたものでしかない。
あえて真剣の扱いのための技巧をかなぐり捨てた、竹刀のあてっこ、
だからこそ剣道家も美しくないのだから、それを見て剣心一体の心がけが
人の美しさを育むことなどないなどと思うのは、勘違いもいいとこ。
真剣こそを正しく扱い、真剣と我が身の一体化を図ることで、
我が身の振る舞いもまた美しくなる。もはやあり得ないこととすら
思い込まれているきらいがあるから、真剣も遠ざけられて時価が暴落している。
何もかもが勘違いに囚われている悪循環こそが、現代人の呪縛であるといえる。
月間秘伝の質問コーナーで、剣術家の黒田鉄山氏が「道」について聞かれたとき、
「道というものはあまりにも深遠で、とてもそれ自体を頭で理解したり教えたり
できるものではありませんので、我々は差し当たって出来ることとしての
技術の研鑽に取り組んで行くのみです」ということを言っていた。
だから「剣道」ではなく「剣術」であることにもこだわっているが、
こちらのほうがよっぽど「道」への姿勢も真摯であると言えまいか?
それとも、でっぷりと太った体による力任せな打ち込みと奇声で
圧し勝てば勝ち、圧し負ければ負けみたいなほうが剣の道だというのか?
剣の道は、断じて相撲道ではない。
むしろ「技即道」の極致ともいえる技術研鑽の道でこそある。
何しろ日本刀という工芸品自体が、超絶技巧の精髄でもあるのだから。
技術研鑽の結果、刀を持たせたら最強となり、
その剣技もまた見るに美しいというあり方こそ、真の剣の道であろう。
でなければ、本物の武士たちの末裔の多くが、今の剣道なぞよりは
芸術への道のほうを好んで選んでいる理由も立つはずがなく。
「道というものはあまりにも深遠で、とてもそれ自体を頭で理解したり教えたり
できるものではありませんので、我々は差し当たって出来ることとしての
技術の研鑽に取り組んで行くのみです」ということを言っていた。
だから「剣道」ではなく「剣術」であることにもこだわっているが、
こちらのほうがよっぽど「道」への姿勢も真摯であると言えまいか?
それとも、でっぷりと太った体による力任せな打ち込みと奇声で
圧し勝てば勝ち、圧し負ければ負けみたいなほうが剣の道だというのか?
剣の道は、断じて相撲道ではない。
むしろ「技即道」の極致ともいえる技術研鑽の道でこそある。
何しろ日本刀という工芸品自体が、超絶技巧の精髄でもあるのだから。
技術研鑽の結果、刀を持たせたら最強となり、
その剣技もまた見るに美しいというあり方こそ、真の剣の道であろう。
でなければ、本物の武士たちの末裔の多くが、今の剣道なぞよりは
芸術への道のほうを好んで選んでいる理由も立つはずがなく。
それより台風が来る。
傘地蔵は東京に住んでるの?
傘地蔵は東京に住んでるの?
住んでねえよ。近ごろ用事(×仕事)でよく行ってたが。
台風19号でも都心部はろくな被害がなかったし、
未だに神君家康公の霊威に守られているんだな、と。
(現実的に言えば、徳川時代の治水の成果だが)
今ろくな奴らが住んでない率が高いのも認知しているが、
いい人間もいるし、蔵刀の多さなど、武家社会だった名残りの魅力も未だ色濃い。
下手な移住の仕方をしてもろくな目に合わないのが分かってるから、
そうそうには考えないが、いつかは大きな爪痕を残してやりたいもんだ。
台風19号でも都心部はろくな被害がなかったし、
未だに神君家康公の霊威に守られているんだな、と。
(現実的に言えば、徳川時代の治水の成果だが)
今ろくな奴らが住んでない率が高いのも認知しているが、
いい人間もいるし、蔵刀の多さなど、武家社会だった名残りの魅力も未だ色濃い。
下手な移住の仕方をしてもろくな目に合わないのが分かってるから、
そうそうには考えないが、いつかは大きな爪痕を残してやりたいもんだ。
いつかは大きな爪痕を残してやりたいもんだ。
カッケーw
カッケーw
ヤフオク含めたネット上での刀剣検索も、だいぶ飽きてきた。
刀剣熱自体は全く冷めてないんだが、目が肥え過ぎて、
ほとんどろくな刀が出回ってないのが段々わかってきたから。
特に、「沸出来」の名刀の掘り出し物なんてのは本当にない。
正宗を最高峰とする、刃紋の粒子が荒くて粒になって見える出来の刀。
これは格段に高温の焼き入れと急冷で作られるものなので、刃鉄もひときわ硬度が高くて
実用面でも機能性が高いんだが、そのぶん作るのが難しく、鍛え傷などができやすい。
(正宗の真作にすら、許容できる程度の鍛え傷が見られるものがある)
あまりにも作刀が難しいため、正宗が創始者である相州伝の刀工流派も早くに衰滅した一方、
刃紋が荒沸化しない「匂出来」の範囲での刃紋の美しさを追求していた備前伝は隆盛した。
天正18年の大洪水で備前伝の流派が壊滅して後も、同類の匂出来の名刀の再現を試みる
刀工は無数に上った一方、沸出来の名刀の再現はあまりにも難しいために憚られ、
そんな中でも再現に成功した井上真改や源清麿らが稀代の名工として持て囃されもした。
(画像は真作の虎徹の刃紋で、贋物にはまずこのような荒沸は見られない)
刀剣熱自体は全く冷めてないんだが、目が肥え過ぎて、
ほとんどろくな刀が出回ってないのが段々わかってきたから。
特に、「沸出来」の名刀の掘り出し物なんてのは本当にない。
正宗を最高峰とする、刃紋の粒子が荒くて粒になって見える出来の刀。
これは格段に高温の焼き入れと急冷で作られるものなので、刃鉄もひときわ硬度が高くて
実用面でも機能性が高いんだが、そのぶん作るのが難しく、鍛え傷などができやすい。
(正宗の真作にすら、許容できる程度の鍛え傷が見られるものがある)
あまりにも作刀が難しいため、正宗が創始者である相州伝の刀工流派も早くに衰滅した一方、
刃紋が荒沸化しない「匂出来」の範囲での刃紋の美しさを追求していた備前伝は隆盛した。
天正18年の大洪水で備前伝の流派が壊滅して後も、同類の匂出来の名刀の再現を試みる
刀工は無数に上った一方、沸出来の名刀の再現はあまりにも難しいために憚られ、
そんな中でも再現に成功した井上真改や源清麿らが稀代の名工として持て囃されもした。
(画像は真作の虎徹の刃紋で、贋物にはまずこのような荒沸は見られない)
沸出来ならただ鍛え傷がないだけでもめっけもんだが、安価ではまずない。
匂出来は比較的安価でも無傷なものがあるが、それだけでは大した価値があるとも言えない。
だから傷のない沸出来か、際だって出来のいい匂出来の刀こそを探してみれば、
これは本当にあるべき所にしかなくて、安く掘り出せるなんてことは皆無と見ていい。
あまりよく分かってなかった頃には、ネット上に膨大な数の「本物」の日本刀が
紹介されて売りに出されてるのにビックリして、宝の山にも思えたものだが、
本当に出来のいい「本物中の本物」となると、やっぱりごく一部に限られる。
ただ、その「本物中の本物」だけでも、総数なら一万本ぐらいはあるだろう。
その上で、一応実用できる程度の「本物」の日本刀が百万本以上現存している。
ただ本物を手に入れるのなら簡単だし、本物中の本物を手に入れるのも難しいが不可能ではない。
まるでとっくの昔に消失してしまったオーパーツのように扱うのは誤解もいいとこ。
匂出来は比較的安価でも無傷なものがあるが、それだけでは大した価値があるとも言えない。
だから傷のない沸出来か、際だって出来のいい匂出来の刀こそを探してみれば、
これは本当にあるべき所にしかなくて、安く掘り出せるなんてことは皆無と見ていい。
あまりよく分かってなかった頃には、ネット上に膨大な数の「本物」の日本刀が
紹介されて売りに出されてるのにビックリして、宝の山にも思えたものだが、
本当に出来のいい「本物中の本物」となると、やっぱりごく一部に限られる。
ただ、その「本物中の本物」だけでも、総数なら一万本ぐらいはあるだろう。
その上で、一応実用できる程度の「本物」の日本刀が百万本以上現存している。
ただ本物を手に入れるのなら簡単だし、本物中の本物を手に入れるのも難しいが不可能ではない。
まるでとっくの昔に消失してしまったオーパーツのように扱うのは誤解もいいとこ。
たとえば、沸出来の刀と匂出来の刀で鍔迫り合いをすれば、
沸出来のほうが刃鉄が硬いから、匂出来に競り勝って切り折る可能性が高い。
(匂出来が主流の備前刀は実際、太刀や片手打ちの刀が主で、
鍔迫り合いをあまり想定していないものが多い)
ただ、匂出来の刀は刃鉄が比較的やわい代わりに刀身が柔軟な上、
緻密な打ち鍛えで折重ねをよく詰ませることが可能なため、靭性がより高い。
国宝の大般若長光も、震災で折れ曲がった所を慎重に修復すれば元通りに戻ったというし、
そういう上出来な匂出来の刀で、沸出来の刀の鎬や棟などに強く切りつければ、
むしろ匂出来のほうが沸出来を叩き斬れる可能性が高い。(逆だと曲がっても折れない)
ただ、「折れず曲がらずよく斬れる」という性能を最上級に達成する可能性があるのは、
沸出来でなおかつ地鉄や芯鉄が匂出来並みに高い靭性を獲得している刀であり、
正宗や虎徹はこの条件を満たしているとされるため、新古の日本刀の最高峰ともされている。
匂出来で美しい波紋の備前刀なども魅力的ではあるが、実用性を見れば多少は譲る。
最高級の備前刀は正宗以前のものばかりだから、古さ故の骨董的価値は高いが、
実戦を想定するのであればやはり、沸出来の名刀のほうにより憧れるものである。
沸出来のほうが刃鉄が硬いから、匂出来に競り勝って切り折る可能性が高い。
(匂出来が主流の備前刀は実際、太刀や片手打ちの刀が主で、
鍔迫り合いをあまり想定していないものが多い)
ただ、匂出来の刀は刃鉄が比較的やわい代わりに刀身が柔軟な上、
緻密な打ち鍛えで折重ねをよく詰ませることが可能なため、靭性がより高い。
国宝の大般若長光も、震災で折れ曲がった所を慎重に修復すれば元通りに戻ったというし、
そういう上出来な匂出来の刀で、沸出来の刀の鎬や棟などに強く切りつければ、
むしろ匂出来のほうが沸出来を叩き斬れる可能性が高い。(逆だと曲がっても折れない)
ただ、「折れず曲がらずよく斬れる」という性能を最上級に達成する可能性があるのは、
沸出来でなおかつ地鉄や芯鉄が匂出来並みに高い靭性を獲得している刀であり、
正宗や虎徹はこの条件を満たしているとされるため、新古の日本刀の最高峰ともされている。
匂出来で美しい波紋の備前刀なども魅力的ではあるが、実用性を見れば多少は譲る。
最高級の備前刀は正宗以前のものばかりだから、古さ故の骨董的価値は高いが、
実戦を想定するのであればやはり、沸出来の名刀のほうにより憧れるものである。
沸出来の孫六兼元、匂出来の寿命、同じく匂出来の新々刀備前長船の断面図。
黄色い所が刃鉄、赤い所が地鉄、白い所が芯鉄で、硬さは刃>地>芯。
孫六兼元が配合からも体配からもいかにも物切れしそうではあるが、折れやすそうでもある。
新々刀長船はそれよりも折損には強そうだが、ハマグリ刃の強さのせいで切れにくそうである。
寿命が最も折れにくそうな上に、体配上から切れ味もまあまあ良さそうである。
これが>>265みたいな耐久試験で合格度が高かった角で、慶喜公が寿命を愛用した根拠でもあろう。
ただし、これだけうっすらと地鉄で芯鉄を覆ったのでは沸が出せない上に、
匂出来の刃紋もまたあまり工夫ができなくて、美麗なものにはならない。
実際、寿命の美術刀剣としての評価は低く、比較的安価に取引されているのもこのためである。
黄色い所が刃鉄、赤い所が地鉄、白い所が芯鉄で、硬さは刃>地>芯。
孫六兼元が配合からも体配からもいかにも物切れしそうではあるが、折れやすそうでもある。
新々刀長船はそれよりも折損には強そうだが、ハマグリ刃の強さのせいで切れにくそうである。
寿命が最も折れにくそうな上に、体配上から切れ味もまあまあ良さそうである。
これが>>265みたいな耐久試験で合格度が高かった角で、慶喜公が寿命を愛用した根拠でもあろう。
ただし、これだけうっすらと地鉄で芯鉄を覆ったのでは沸が出せない上に、
匂出来の刃紋もまたあまり工夫ができなくて、美麗なものにはならない。
実際、寿命の美術刀剣としての評価は低く、比較的安価に取引されているのもこのためである。
就職したのか。そりゃめでたい^_^
変質者のクソ長い屁理屈の何が思想やら宗教だよ
ここも投げ出していたのかカス
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スレッドタイトル:人間という生き物は醜い(特に外見)