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聖書 Part13
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全世界、全人類にとっての最も模範的な聖書たる儒学の聖書=四書五経こそは、あまりにも
程度が高過ぎるために、人類一般が模範とするのは無理があるようなより高尚な教学や、
その手の教学の聖書を理解して体得して行く上での架け橋的な役割すらをも担えるものである。
道家の老荘列思想やヒンズー教の教え、日本神道の精髄などを理解する上での架け橋ともなるし、
世界でも最優等の教理を有する仏門の教えを学んで行く上での素地ともなるものである。
(そのため、弘法大師も最初期の著書である「三教指帰」から教理大成の書である「十住心論」
に至るまで、四書五経を含む儒学の教えを縦横無尽に引き合いに出したりもしている)
それらのより優等な教学と、「低くて親しみやすい」儒学の教理とが必ずしも
相容れているとは限らない。特に、儒学における忠孝の理念と、仏門の出家主義志向
などが決して相容れるものではなく、そのため宋儒の朱子らが一時は禅門に傾倒
しながらも、最終的には仏門を異端排撃の対象とするなどしてしまったのだった。
中国発祥の儒学とインド発祥の仏教とは、いずれにとっても遠征地となるこの日本においてこそ、
ほぼ全く矛盾を来さない形での融和を果たした。儒学は朝廷や幕府や、一家の後取りとなる
長男らがより重んじた一方で、仏門は養子先もないような次男三男や嫁ぎ先のない女子などが
出家先とした。それにより、個々の家門が厳重に尊ばれながらも、人口管理もまたそれなりに
行き届くといった、非常にバランスの取れた社会体制が実現されたのだった。(明治期
の廃仏毀釈や儒学の簡素化以降はこの均衡が破れたために、国土に不相応な人口爆発や、
その副作用としての食糧自給率の低下や少子高齢化といった大問題を招くこととなった)

程度が高過ぎるために、人類一般が模範とするのは無理があるようなより高尚な教学や、
その手の教学の聖書を理解して体得して行く上での架け橋的な役割すらをも担えるものである。
道家の老荘列思想やヒンズー教の教え、日本神道の精髄などを理解する上での架け橋ともなるし、
世界でも最優等の教理を有する仏門の教えを学んで行く上での素地ともなるものである。
(そのため、弘法大師も最初期の著書である「三教指帰」から教理大成の書である「十住心論」
に至るまで、四書五経を含む儒学の教えを縦横無尽に引き合いに出したりもしている)
それらのより優等な教学と、「低くて親しみやすい」儒学の教理とが必ずしも
相容れているとは限らない。特に、儒学における忠孝の理念と、仏門の出家主義志向
などが決して相容れるものではなく、そのため宋儒の朱子らが一時は禅門に傾倒
しながらも、最終的には仏門を異端排撃の対象とするなどしてしまったのだった。
中国発祥の儒学とインド発祥の仏教とは、いずれにとっても遠征地となるこの日本においてこそ、
ほぼ全く矛盾を来さない形での融和を果たした。儒学は朝廷や幕府や、一家の後取りとなる
長男らがより重んじた一方で、仏門は養子先もないような次男三男や嫁ぎ先のない女子などが
出家先とした。それにより、個々の家門が厳重に尊ばれながらも、人口管理もまたそれなりに
行き届くといった、非常にバランスの取れた社会体制が実現されたのだった。(明治期
の廃仏毀釈や儒学の簡素化以降はこの均衡が破れたために、国土に不相応な人口爆発や、
その副作用としての食糧自給率の低下や少子高齢化といった大問題を招くこととなった)

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徒党派閥の形成の禁止もまた、ごく当たり前な常識扱いと共に布令されて行く。
衆愚政治にありがちな大広場での党大会なども、下衆なものとして廃止される。
他人同士の群がりによる集団的高揚こそはヤマタノオロチの顕現であるが故、
その余地をこの世から絶つことこそは、ヤマタノオロチ退治ともなるのである。
「汝、二十有二人、欽まん哉。惟れ時れ天功を亮かにせよ」
「おまえたち、二十二人の重臣たち(禹、益、皋陶など)は、よく慎んで職務に
励み、人々にそれぞれに与えられている天職を明らかにしてくれ。(これは新たな
能臣の登用などもあれば、百姓適合者への適切な職務の斡旋などの様ざまな人事
を指している。人々にはそれぞれ天職があるのだから、求職者のほうから無闇に
栄達を求めたりすべきでもない。人事はあくまで上から下へ。下から上へは禁)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
衆愚政治にありがちな大広場での党大会なども、下衆なものとして廃止される。
他人同士の群がりによる集団的高揚こそはヤマタノオロチの顕現であるが故、
その余地をこの世から絶つことこそは、ヤマタノオロチ退治ともなるのである。
「汝、二十有二人、欽まん哉。惟れ時れ天功を亮かにせよ」
「おまえたち、二十二人の重臣たち(禹、益、皋陶など)は、よく慎んで職務に
励み、人々にそれぞれに与えられている天職を明らかにしてくれ。(これは新たな
能臣の登用などもあれば、百姓適合者への適切な職務の斡旋などの様ざまな人事
を指している。人々にはそれぞれ天職があるのだから、求職者のほうから無闇に
栄達を求めたりすべきでもない。人事はあくまで上から下へ。下から上へは禁)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
絶対的な上下関係を強いるということは、基本、悪である。
政商の横暴が祟っての封建制の到来なども、あくまで必要悪であり、
誰一人として好き好んで招こうなどとしない中に、やむなくもたらされる
ぐらいであるべきものである。そうして招かれてしまった後にも、為政者が仏門
や道家のような真理に基づく平等を謳う教学を尊んで、封建的な序列もあくまで
必要に駆られて便宜的に執り行われるものであるのだという姿勢を貫くべきである。
自力作善の仏者よろしく、世のしがらみを超脱した理想上の心象としては、
一切の上下関係から解放された完全なる自由の境地であるのがより好ましい。
実物の人間が相手であれ、空想上の神仏などが相手であるのであれ、何らかの上位
的な依存対象がなければ居ても立ってもいられないような心象であることは決して
よろしいことではなく、現実的に社会面での上下関係などが強いられることがあった
としても、内心自体がそのような依存的状態であったりすることは避けるべきである。
空想上の神仏への依存的な姿勢を嗜むということすらもが、時に必要悪でもあり得る。
阿弥陀信仰のように、自力作善の仏道が不全と化してしまった時代における最低限度
の仏法帰依の手段となる場合も有るし、イスラム教のように、誰しもがそればかりを
信仰していれば世の中も保てなくなる聖書信仰の代用として広められた他力信仰もある。
つまり、乱世であるとか、極度の邪教が蔓延してしまっているとかのより大きな害悪が
存在している場合の対抗馬として、比較的無害な他力本願が有効となる場合があるわけ
で、そういった場合に最優先の駆逐対象となるべきなのも、極度の害悪のほうとなる。
政商の横暴が祟っての封建制の到来なども、あくまで必要悪であり、
誰一人として好き好んで招こうなどとしない中に、やむなくもたらされる
ぐらいであるべきものである。そうして招かれてしまった後にも、為政者が仏門
や道家のような真理に基づく平等を謳う教学を尊んで、封建的な序列もあくまで
必要に駆られて便宜的に執り行われるものであるのだという姿勢を貫くべきである。
自力作善の仏者よろしく、世のしがらみを超脱した理想上の心象としては、
一切の上下関係から解放された完全なる自由の境地であるのがより好ましい。
実物の人間が相手であれ、空想上の神仏などが相手であるのであれ、何らかの上位
的な依存対象がなければ居ても立ってもいられないような心象であることは決して
よろしいことではなく、現実的に社会面での上下関係などが強いられることがあった
としても、内心自体がそのような依存的状態であったりすることは避けるべきである。
空想上の神仏への依存的な姿勢を嗜むということすらもが、時に必要悪でもあり得る。
阿弥陀信仰のように、自力作善の仏道が不全と化してしまった時代における最低限度
の仏法帰依の手段となる場合も有るし、イスラム教のように、誰しもがそればかりを
信仰していれば世の中も保てなくなる聖書信仰の代用として広められた他力信仰もある。
つまり、乱世であるとか、極度の邪教が蔓延してしまっているとかのより大きな害悪が
存在している場合の対抗馬として、比較的無害な他力本願が有効となる場合があるわけ
で、そういった場合に最優先の駆逐対象となるべきなのも、極度の害悪のほうとなる。
社会的な上下関係も、宗教的な理想上の上下関係も、いずれもが必要悪であり得るが、
やはり悪であることには変わりない。どんな上下関係もなくて済むのならそれに
越したことはないのであり、上下関係を好き好むようなことまでは決してあるべき
ではないのである。聖書圏などでは、まるで神との上下関係を強いる類いの宗教に
帰依していることのほうが健全であるかのような風潮すらもがまかり通っているが、
それもまた悪しき蛮習でこそあるのであり、人類史上最悪の邪教としての聖書信仰
の根絶と共に、早急に払拭されて然るべきものであるといえるのである。
人間、上下関係があって当たり前、理想としても上下関係が存在しているほうが
健全だなどという奴隷根性、走狗根性を払拭すればこそ、必要に応じて執り行われる
便宜的な上下関係を素直に受け入れられるようにもなるのである。理想上から上下
関係を嗜んでおこうなどとする性根の持ち主こそは、自らが望まない上下関係と
あらば、たとえ必要なものであっても執拗に拒もうとする、「上下関係の選り好み」
をやらかしてしまうわけで、上下関係など便宜でしかあるべきでないという
立場から見た場合にこそ、それが救い難い亡者の様相となってしまうのである。
誰しもが、カネや権力を思うが侭にできる行為能力の自由など以上にも、一切の
上下関係を理想上から排する精神の自由こそを手に入れたならば、それで社会的に
どうしても必要となる上下関係のほうは素直に受け入れられて、人々への行為能力の
配分も適正化されて、誰しもが最大級の行為能力の自由にすら与れることとなる。故に、
最大級の行為能力の自由を得んがためにこそ、精神の自由こそを優先的に追い求めて
行くべきなのであり、決して前者のために後者を蔑ろにするようなことがあっては
ならない。そのような真似に及ぶ者こそは、自由を追い求めた結果としてより大きな
不自由に見舞われることとなるわけだから、身を滅ぼすことを芸とするピエロとなる
ことが目的であるのでもない限りは、けっしてそれを志したりすべきでないのである。
やはり悪であることには変わりない。どんな上下関係もなくて済むのならそれに
越したことはないのであり、上下関係を好き好むようなことまでは決してあるべき
ではないのである。聖書圏などでは、まるで神との上下関係を強いる類いの宗教に
帰依していることのほうが健全であるかのような風潮すらもがまかり通っているが、
それもまた悪しき蛮習でこそあるのであり、人類史上最悪の邪教としての聖書信仰
の根絶と共に、早急に払拭されて然るべきものであるといえるのである。
人間、上下関係があって当たり前、理想としても上下関係が存在しているほうが
健全だなどという奴隷根性、走狗根性を払拭すればこそ、必要に応じて執り行われる
便宜的な上下関係を素直に受け入れられるようにもなるのである。理想上から上下
関係を嗜んでおこうなどとする性根の持ち主こそは、自らが望まない上下関係と
あらば、たとえ必要なものであっても執拗に拒もうとする、「上下関係の選り好み」
をやらかしてしまうわけで、上下関係など便宜でしかあるべきでないという
立場から見た場合にこそ、それが救い難い亡者の様相となってしまうのである。
誰しもが、カネや権力を思うが侭にできる行為能力の自由など以上にも、一切の
上下関係を理想上から排する精神の自由こそを手に入れたならば、それで社会的に
どうしても必要となる上下関係のほうは素直に受け入れられて、人々への行為能力の
配分も適正化されて、誰しもが最大級の行為能力の自由にすら与れることとなる。故に、
最大級の行為能力の自由を得んがためにこそ、精神の自由こそを優先的に追い求めて
行くべきなのであり、決して前者のために後者を蔑ろにするようなことがあっては
ならない。そのような真似に及ぶ者こそは、自由を追い求めた結果としてより大きな
不自由に見舞われることとなるわけだから、身を滅ぼすことを芸とするピエロとなる
ことが目的であるのでもない限りは、けっしてそれを志したりすべきでないのである。
「号を発し令を出せば民説ぶ、之れを和と謂う。上下相い親しむ、之れを仁と謂う。民、
其の欲する所を求めずとも之れを得、之れを信と謂う。天地の害を除去す、之れを義と謂う」
「民を用いるような号令を発しても民たちが喜んでそれに従う、これを和という。上下の
秩序が親しみと共に行われる、これを仁という。民がわざわざ欲する所を表明しなくとも
自然とそれが得られている、これを信という。天地の害悪を除去する、これを義という。
(信者をただ甘やかし、上下関係に恐怖を敷き、いちいち信者に欲求の表明をも強いる聖書
の神には和も仁も信もありはしない。まさに義によって除去されるべき天地の害悪だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・雑記下第二十一より)
其の欲する所を求めずとも之れを得、之れを信と謂う。天地の害を除去す、之れを義と謂う」
「民を用いるような号令を発しても民たちが喜んでそれに従う、これを和という。上下の
秩序が親しみと共に行われる、これを仁という。民がわざわざ欲する所を表明しなくとも
自然とそれが得られている、これを信という。天地の害悪を除去する、これを義という。
(信者をただ甘やかし、上下関係に恐怖を敷き、いちいち信者に欲求の表明をも強いる聖書
の神には和も仁も信もありはしない。まさに義によって除去されるべき天地の害悪だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・雑記下第二十一より)
「未だ能く人に事えず、焉んぞ能く鬼に事えん(既出)」
「未だに人間相手にまともに仕えられもしないでいるような分際でいて、
どうして神などにうまく仕えることができようか。(当然そんなことは不可能である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二)
忠孝を旨とする者が、健在な親や主君を尊んだ上で、さらに鬼籍の先祖に至るまでの
神仏としての崇敬を篤くしたりするのが、真っ当な順序というものである。存命中の人間
を尊ぶこともできず、人間全般への不信をも募らせて、そのような悪念を振り向ける対象
としての神をでっち上げたりしたとしたならば、そのような神こそは邪神の最たるもので
あることが確かである。カルト系の犯罪者や権力犯罪者が、他人の命をゴミクズのように
扱うときの自己正当化材料として、そのような邪神への狂信がよく用いられるわけで、
その手の邪信のウチのほとんどは反社会勢力の拠り所として早急な駆逐の対象とされるが、
残念ながら、中には2000年にも渡って存続して来ているようなものもまた存在している。
文化的貧困の甚だしかった西洋においてそのような邪教が嬉しがられて、世界規模で見た
場合の甚だしい世間知らずさと共にその嗜好が執拗に持続されて来た。今となっては
もはや許されようのない蛮族の悪習として、この世から絶やされる以外に余地はないが、
2000年もの間持続して来たことはもはや伝統と化してしまっているわけで、伝統という
ものを軽んずるような不埒さと共に根絶したりするのではなく、純粋に許しようのない
邪教であるというだけの理由によって根絶を果たすことで、その他の世界中のよき伝統
をくそみそに軽んじて損壊してしまうようなことがないようにしなければならない。
「苟くも其の身を正しくすれば、政に従うに於いて何をか有らん」
「自らの身が正しいのであれば、その人間の行う政治に従うぐらいのことは何の支障にも
ならないはずだ。(正しい人間に従うぐらいのことは人としてあるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一三より)
「未だに人間相手にまともに仕えられもしないでいるような分際でいて、
どうして神などにうまく仕えることができようか。(当然そんなことは不可能である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二)
忠孝を旨とする者が、健在な親や主君を尊んだ上で、さらに鬼籍の先祖に至るまでの
神仏としての崇敬を篤くしたりするのが、真っ当な順序というものである。存命中の人間
を尊ぶこともできず、人間全般への不信をも募らせて、そのような悪念を振り向ける対象
としての神をでっち上げたりしたとしたならば、そのような神こそは邪神の最たるもので
あることが確かである。カルト系の犯罪者や権力犯罪者が、他人の命をゴミクズのように
扱うときの自己正当化材料として、そのような邪神への狂信がよく用いられるわけで、
その手の邪信のウチのほとんどは反社会勢力の拠り所として早急な駆逐の対象とされるが、
残念ながら、中には2000年にも渡って存続して来ているようなものもまた存在している。
文化的貧困の甚だしかった西洋においてそのような邪教が嬉しがられて、世界規模で見た
場合の甚だしい世間知らずさと共にその嗜好が執拗に持続されて来た。今となっては
もはや許されようのない蛮族の悪習として、この世から絶やされる以外に余地はないが、
2000年もの間持続して来たことはもはや伝統と化してしまっているわけで、伝統という
ものを軽んずるような不埒さと共に根絶したりするのではなく、純粋に許しようのない
邪教であるというだけの理由によって根絶を果たすことで、その他の世界中のよき伝統
をくそみそに軽んじて損壊してしまうようなことがないようにしなければならない。
「苟くも其の身を正しくすれば、政に従うに於いて何をか有らん」
「自らの身が正しいのであれば、その人間の行う政治に従うぐらいのことは何の支障にも
ならないはずだ。(正しい人間に従うぐらいのことは人としてあるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一三より)
もちろん、ただただ他人に服従することばかりを本分とする奴隷人種であるのもおかしい
ことであり、正しい人間の正しい行いには従い、そうでない人間には従わないぐらいの
分別もあるべきである。また、君臣の如き主従関係の中にも、臣下が主君に諫言を
行ったりするような先導的な振る舞いをも心がけるべきである。故に孔子も、
「冉子朝を退く。子曰、何ぞ晏きや。対えて曰く政有り。子曰く、
其れ事えなるや。如し政有れば、吾を以てせずと雖も、吾れ其れを之れ与り聞かん」
「孔先生の弟子の冉有が朝廷から戻ってきた。先生は言われた。
『どうして遅かったんだ』冉有は答えて言った。『政務がありましたので』
先生『それは政務ではなくただの仕え事だろう。もしも政務があるのであれば、
私を用いるのでなくとも、相談ぐらいは私にも持ちかけられているはずなのだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一四)
という風に、「政務はただただ従うことではなく、自力でことを為すことである」という
思いを示唆しているのである。人間が人間に仕えるということは体裁からして時に必要な
ことではあるし、それこそが天下の大倫に適うということもあるわけだが、自分が人に
仕えるからには、そこで自分自身が率先して物事を為すということが要求されるのである。
神仏に対する以上にも、人間同士の上下関係をよく重んじねばならないのではあるが、
その人間同士の主従関係こそは、従う中にも率先的な所があるのでなければならない、
これはまさに中庸を旨とする者だけが実現を可能とする徳目であるわけで、そうであるという
事実一つをとっても、人間同士が仕えたり仕えられたりすることで初めて成り立つ人間社会に
おいて、主導的な役割を担う人間にこそ中庸のわきまえが必要とされることが分かるのである。
ことであり、正しい人間の正しい行いには従い、そうでない人間には従わないぐらいの
分別もあるべきである。また、君臣の如き主従関係の中にも、臣下が主君に諫言を
行ったりするような先導的な振る舞いをも心がけるべきである。故に孔子も、
「冉子朝を退く。子曰、何ぞ晏きや。対えて曰く政有り。子曰く、
其れ事えなるや。如し政有れば、吾を以てせずと雖も、吾れ其れを之れ与り聞かん」
「孔先生の弟子の冉有が朝廷から戻ってきた。先生は言われた。
『どうして遅かったんだ』冉有は答えて言った。『政務がありましたので』
先生『それは政務ではなくただの仕え事だろう。もしも政務があるのであれば、
私を用いるのでなくとも、相談ぐらいは私にも持ちかけられているはずなのだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一四)
という風に、「政務はただただ従うことではなく、自力でことを為すことである」という
思いを示唆しているのである。人間が人間に仕えるということは体裁からして時に必要な
ことではあるし、それこそが天下の大倫に適うということもあるわけだが、自分が人に
仕えるからには、そこで自分自身が率先して物事を為すということが要求されるのである。
神仏に対する以上にも、人間同士の上下関係をよく重んじねばならないのではあるが、
その人間同士の主従関係こそは、従う中にも率先的な所があるのでなければならない、
これはまさに中庸を旨とする者だけが実現を可能とする徳目であるわけで、そうであるという
事実一つをとっても、人間同士が仕えたり仕えられたりすることで初めて成り立つ人間社会に
おいて、主導的な役割を担う人間にこそ中庸のわきまえが必要とされることが分かるのである。
まず自分以上の他者ありきとする、女子供然とした他力本願志向が
実社会での人間関係のみならず、個々人としての思考や振る舞いにも
大きな影響を及ぼすこととなる。端的に言って、自己責任性が希薄化し、
自分でものを考えているような時にすら、他人事のような考え方
ばかりをしてしまうようになる。そこに「自分自身にとってどうなのか」
という十分な自己追求が伴っていないものだから、滑りまくった思考
や会話をとりとめもなく続けていられるようになる。女同士の会話など
はまさにその最たる例であり、責任性を尊ぶ大人の男の耳に入ろうもの
なら、そこに全く意味が伴っていないようにすら思われることとなる。
とはいえ、そのような自責の念を全く欠いた上ずった思考の持ち主ばかり
なのでは世の中も成り立たないので、たとえ責任能力がより高い大人の男
への尊重を著しく欠いているような世の中といえども、それなりに責任能力
があるかのような振る舞いをも人々が嗜んで行くことが要求されて来た。
むしろ、大人の男をちゃんと尊ぼうともしないような未開社会においてこそ、
女子供や小人男までもが、ある種の修辞としての、責任能力があるかの
ような振る舞いを可能とすることが要求されて来た。別にそんなに自責の
念自体を養生したりするのではなく、内心では他力本願の上ずった想念
ばかりを蓄えているにもかかわらず、外見だけはそれなりに責任能力が
あるかのように見せかけるという類いの術策だけが講じられて来たわけで、
表向きだけの振る舞いの洗練は、本人たちに無根拠ゆえのプライドの
過剰な肥大化を喚起して、十分な責任意識がないが故にこそ極大化した
自我ばかりをぶつけ合う個人主義社会の到来をも招いてしまったのだった。
実社会での人間関係のみならず、個々人としての思考や振る舞いにも
大きな影響を及ぼすこととなる。端的に言って、自己責任性が希薄化し、
自分でものを考えているような時にすら、他人事のような考え方
ばかりをしてしまうようになる。そこに「自分自身にとってどうなのか」
という十分な自己追求が伴っていないものだから、滑りまくった思考
や会話をとりとめもなく続けていられるようになる。女同士の会話など
はまさにその最たる例であり、責任性を尊ぶ大人の男の耳に入ろうもの
なら、そこに全く意味が伴っていないようにすら思われることとなる。
とはいえ、そのような自責の念を全く欠いた上ずった思考の持ち主ばかり
なのでは世の中も成り立たないので、たとえ責任能力がより高い大人の男
への尊重を著しく欠いているような世の中といえども、それなりに責任能力
があるかのような振る舞いをも人々が嗜んで行くことが要求されて来た。
むしろ、大人の男をちゃんと尊ぼうともしないような未開社会においてこそ、
女子供や小人男までもが、ある種の修辞としての、責任能力があるかの
ような振る舞いを可能とすることが要求されて来た。別にそんなに自責の
念自体を養生したりするのではなく、内心では他力本願の上ずった想念
ばかりを蓄えているにもかかわらず、外見だけはそれなりに責任能力が
あるかのように見せかけるという類いの術策だけが講じられて来たわけで、
表向きだけの振る舞いの洗練は、本人たちに無根拠ゆえのプライドの
過剰な肥大化を喚起して、十分な責任意識がないが故にこそ極大化した
自我ばかりをぶつけ合う個人主義社会の到来をも招いてしまったのだった。
まず自分本位でものを考えるということのできない人間こそは、自意識の
過剰と責任意識の貧困が著しい反比例関係を来たした結果としての個人主義
に陥ってしまうこととなる。むしろ、理想上の想念から、まずは自分本位で
ものを考えて行ける人間こそは、常に相応の自己責任をも念頭に置いて行く
ものだから、戦々恐々として、薄氷を踏むかのごとき謙虚な態度でいようと
するようにもなる。何となく逆のようであるように思われるかもしれないが、
透徹した自分本位こそは謙虚さに親しく、頭からの他力本願こそは個人主義
者としての思い上がりに親しいという普遍法則があるわけで、故に自力本位
でいられる人間こそは心からの善人であると見なし、性根だけはどうしても
他力本願でしかいられないような人間こそは心からの悪人であると見なすのが、
活動以前、言行以前の心理の部分からの順当な分別になるとも言えるのである。
深層心理の部分から自分本位で居る者こそは、自らの責任意識を一人前以上
のものとできるわけで、故に、善因楽果悪因苦果の自業自得のことわりを
自己意識によって十全に自覚して行くこともできる。そこからのみ、自己意識
に基づく勧善懲悪や断悪修善を実践して行くことまでもができるわけなので、
まず自らが深層心理から自分本位で居られる人間であるのでもない限りは、
むしろ因果応報の自業自得のことわりなどを分かった気になるべきでもない。
そもそも自らが十分な責任意識を持てていないにも関わらず、因果応報を
振りかざすような人間こそは「本願ぼこり」の如き思い上がりをも新たに加味
させてしまうことにすらなるわけなので、他力本願ともなれば、むしろ因果
のことわりもわきまえられない愚夫であることを自覚するほうが得策となる。
過剰と責任意識の貧困が著しい反比例関係を来たした結果としての個人主義
に陥ってしまうこととなる。むしろ、理想上の想念から、まずは自分本位で
ものを考えて行ける人間こそは、常に相応の自己責任をも念頭に置いて行く
ものだから、戦々恐々として、薄氷を踏むかのごとき謙虚な態度でいようと
するようにもなる。何となく逆のようであるように思われるかもしれないが、
透徹した自分本位こそは謙虚さに親しく、頭からの他力本願こそは個人主義
者としての思い上がりに親しいという普遍法則があるわけで、故に自力本位
でいられる人間こそは心からの善人であると見なし、性根だけはどうしても
他力本願でしかいられないような人間こそは心からの悪人であると見なすのが、
活動以前、言行以前の心理の部分からの順当な分別になるとも言えるのである。
深層心理の部分から自分本位で居る者こそは、自らの責任意識を一人前以上
のものとできるわけで、故に、善因楽果悪因苦果の自業自得のことわりを
自己意識によって十全に自覚して行くこともできる。そこからのみ、自己意識
に基づく勧善懲悪や断悪修善を実践して行くことまでもができるわけなので、
まず自らが深層心理から自分本位で居られる人間であるのでもない限りは、
むしろ因果応報の自業自得のことわりなどを分かった気になるべきでもない。
そもそも自らが十分な責任意識を持てていないにも関わらず、因果応報を
振りかざすような人間こそは「本願ぼこり」の如き思い上がりをも新たに加味
させてしまうことにすらなるわけなので、他力本願ともなれば、むしろ因果
のことわりもわきまえられない愚夫であることを自覚するほうが得策となる。
自力本位の善人は始めから身の程をわきまえ、他力本位の悪人は場合によって
身の程をわきまえられたりそうですらなかったりする。当然悪人も身の程を
わきまえられるのに越したことはないが、身の程をわきまえられない悪人の
ほうがより悪人らしいとも言えはする。悪人がいかにも悪人らしいことを許さず、
悪人なりの身の程をわきまえさせるためには、そのためのカウンターバランス
の補完として、善人たちが一概に善良な世の中を築き上げて行く必要がある。
悪人がもはや一人も居らず、善人ばかりで構成されている世の中ともなれば、
さらにその先こそを目指さねばならぬわけで、その道は極めて遠く険しいのである。
「仲尼は日月なり。得て踰ゆること無し焉。人自ら絶つを欲すると雖も、
其れ何をか日月を傷らんや。多に其の量るを知らざるを見るなり」
「(子貢)孔先生はいわば日月のようなもの。とてもとても超えることなど
できはしません。たとえ先生の言説を拒絶するような者がいたとしても、
どうして日月を傷付けたりすることができましょうか。ただ本人がものを
量り知る能力のなさを曝け出すことになるのみです。(儒学の価値を量ること
もできないような人間こそは、秤としての資格もないような蒙昧者なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二四より)
身の程をわきまえられたりそうですらなかったりする。当然悪人も身の程を
わきまえられるのに越したことはないが、身の程をわきまえられない悪人の
ほうがより悪人らしいとも言えはする。悪人がいかにも悪人らしいことを許さず、
悪人なりの身の程をわきまえさせるためには、そのためのカウンターバランス
の補完として、善人たちが一概に善良な世の中を築き上げて行く必要がある。
悪人がもはや一人も居らず、善人ばかりで構成されている世の中ともなれば、
さらにその先こそを目指さねばならぬわけで、その道は極めて遠く険しいのである。
「仲尼は日月なり。得て踰ゆること無し焉。人自ら絶つを欲すると雖も、
其れ何をか日月を傷らんや。多に其の量るを知らざるを見るなり」
「(子貢)孔先生はいわば日月のようなもの。とてもとても超えることなど
できはしません。たとえ先生の言説を拒絶するような者がいたとしても、
どうして日月を傷付けたりすることができましょうか。ただ本人がものを
量り知る能力のなさを曝け出すことになるのみです。(儒学の価値を量ること
もできないような人間こそは、秤としての資格もないような蒙昧者なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二四より)
孟子が提唱した性善説あたりは、まだ教育的な目的があってあえて流布が
試みられたものだったという面がある。朱子の性即理説あたりともなれば、
人間の本性こそは理性に合致した正善なものであるという考えが、冷徹な
学説として見極められていた所がある。その証拠に、朱子学よりも後に
創始された陽明学が提唱した心即理説のほうが、孟子の性善説をさらに
積極的に推し進めようとしたもので居ながら、あまりにも感情主義的で
あり過ぎたが故に知慮を欠き、テロリストの精神的な拠り所にされてしまう
などの「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の弊害を招いてしまってもいる。
つまり、孟子の性善説を過不足のない形で洗練させたのが朱子の性即理説で
あったからこそ、朱子学の実践が陽明学の実践のような弊害を招きもしなかった
ということがいえるわけで(中朝の権力者が朱子学の実践不足のせいで腐敗に
陥ったということはある)、これこそは性即理説が朱子の個人意見であること
などを超えた普遍的事実であることを実証する史実例ともなっているといえる。
朱子自身は仏門を排撃しているが、性即理説は仏教の唯識論との共通性もある。
儒者が「性」と呼んでいるのは、唯識説でいうところの「阿頼耶識」だとか、
それ以上に高次だとされている諸々の心識である一方、「情」や「性と情の
混濁」に相当するものが唯識説では「末那識」と呼ばれている。性と情の総合
が「心」であり、心の根本たる性こそは理や善に適っている一方で、末節たる
情こそはそれに違う場合があるとする朱子学の論説などと比べれば、阿頼耶識
も末那識もそれぞれに人の持つ心識であるとする唯識説のほうが平等的な見方
をしているといえる。性が根本で情が末節だから、性を情よりも尊ぶべきだと
朱子学はする一方で、性情のうちの情に相当する末那識の迷妄を断ち切って、
試みられたものだったという面がある。朱子の性即理説あたりともなれば、
人間の本性こそは理性に合致した正善なものであるという考えが、冷徹な
学説として見極められていた所がある。その証拠に、朱子学よりも後に
創始された陽明学が提唱した心即理説のほうが、孟子の性善説をさらに
積極的に推し進めようとしたもので居ながら、あまりにも感情主義的で
あり過ぎたが故に知慮を欠き、テロリストの精神的な拠り所にされてしまう
などの「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の弊害を招いてしまってもいる。
つまり、孟子の性善説を過不足のない形で洗練させたのが朱子の性即理説で
あったからこそ、朱子学の実践が陽明学の実践のような弊害を招きもしなかった
ということがいえるわけで(中朝の権力者が朱子学の実践不足のせいで腐敗に
陥ったということはある)、これこそは性即理説が朱子の個人意見であること
などを超えた普遍的事実であることを実証する史実例ともなっているといえる。
朱子自身は仏門を排撃しているが、性即理説は仏教の唯識論との共通性もある。
儒者が「性」と呼んでいるのは、唯識説でいうところの「阿頼耶識」だとか、
それ以上に高次だとされている諸々の心識である一方、「情」や「性と情の
混濁」に相当するものが唯識説では「末那識」と呼ばれている。性と情の総合
が「心」であり、心の根本たる性こそは理や善に適っている一方で、末節たる
情こそはそれに違う場合があるとする朱子学の論説などと比べれば、阿頼耶識
も末那識もそれぞれに人の持つ心識であるとする唯識説のほうが平等的な見方
をしているといえる。性が根本で情が末節だから、性を情よりも尊ぶべきだと
朱子学はする一方で、性情のうちの情に相当する末那識の迷妄を断ち切って、
阿頼耶識やそれ以上に高次な心識との合致を果たすべきだと仏門はしている
わけで、もしも実現できるのならば、仏門の手法に則った場合のほうがより
完成された達観が得られるのに違いないが、それは相当に難儀なことともなる
ので、性も情もあるとした上で、性を情以上に尊ぶといった心練方法に則る
ほうが、「巨石を抱いて河に飛び込むが如き」徒労をせずに済むと考えたために、
朱子も仏門との袂を分かって、そのような言説を広めるに至ったのである。
してみれば、正心と邪心を阿頼耶識と末那識といった風に等分視する仏門よりも、
そもそも心のうちに正心を形成しやすい本性の部分と、邪心を形成しやすい
劣情の部分とが存在すると捉える朱子学の論説のほうが、厳しい修行に自らが
臨むわけでもないような常人にとっての心の捉え方としては分相応なものに
なっているといえる。ほとんど「言葉の綾」程度の些細な相違ではあるものの、
自修はせいぜい学問修養に止める程度の人間が自らの心を修める上では、朱子学
のような人間心理の捉え方をしたほうがよい。故に、正心と邪心を等分視する
ようなこともせず、正心こそは人間の本性に適った本物の心であり、邪心など
は本性から乖離した偽りの心でしかないのだと考えるようにしたほうがよい、
つまり、正邪善悪を等分視するような傍観的な姿勢ですらあるべきでない。
正善こそは本質に適った本物であり、邪悪こそは本質から乖離した偽物である
と捉えて、両者の間に真贋上下の差別を設けて、一概な勧善懲悪に臨んで行く
ぐらいの心がけであったほうがよい。正邪善悪を傍観すること自体、完全な
出家修行者にのみ許された特権であるものとして、俗人の分際でそのような
僭越な振る舞いに及んだりするようなことがないようにしなければならない。
わけで、もしも実現できるのならば、仏門の手法に則った場合のほうがより
完成された達観が得られるのに違いないが、それは相当に難儀なことともなる
ので、性も情もあるとした上で、性を情以上に尊ぶといった心練方法に則る
ほうが、「巨石を抱いて河に飛び込むが如き」徒労をせずに済むと考えたために、
朱子も仏門との袂を分かって、そのような言説を広めるに至ったのである。
してみれば、正心と邪心を阿頼耶識と末那識といった風に等分視する仏門よりも、
そもそも心のうちに正心を形成しやすい本性の部分と、邪心を形成しやすい
劣情の部分とが存在すると捉える朱子学の論説のほうが、厳しい修行に自らが
臨むわけでもないような常人にとっての心の捉え方としては分相応なものに
なっているといえる。ほとんど「言葉の綾」程度の些細な相違ではあるものの、
自修はせいぜい学問修養に止める程度の人間が自らの心を修める上では、朱子学
のような人間心理の捉え方をしたほうがよい。故に、正心と邪心を等分視する
ようなこともせず、正心こそは人間の本性に適った本物の心であり、邪心など
は本性から乖離した偽りの心でしかないのだと考えるようにしたほうがよい、
つまり、正邪善悪を等分視するような傍観的な姿勢ですらあるべきでない。
正善こそは本質に適った本物であり、邪悪こそは本質から乖離した偽物である
と捉えて、両者の間に真贋上下の差別を設けて、一概な勧善懲悪に臨んで行く
ぐらいの心がけであったほうがよい。正邪善悪を傍観すること自体、完全な
出家修行者にのみ許された特権であるものとして、俗人の分際でそのような
僭越な振る舞いに及んだりするようなことがないようにしなければならない。
以上のような考究に即すれば、唯識論を俗人向けに言い換えたものとも言える
朱子学の性即理説などに即して、一概な勧善懲悪こそを志して行くのが俗社会に
生きる人間にとっての天分であるということまでもが言えるのである。勧善懲悪
が俗人にとっての天分である一方で、善悪正邪を傍観することや、朱子学の
上位互換の失敗作である陽明学に即して消極主義であったりすることは、俗人に
とっての天分には適わないのである。だからこそそのような真似に及んだ陽明
学徒やカルト信者が最終的な破滅に陥ってしまいもしたわけで、その真価が見定
められなかったがために、反動分子が多くの禍いを招いてしまったという点では、
朱子学も現状、功罪相半ばする点があるといえるので、これからはその真価を
見定めた上での、朱子学の適切な実践こそが試みられてしかるべきだといえる。
「耳、五声の和を聴かざるを聾と為し、目、五色の章を
別かたざるを昧と為し、心、徳義の経に則らざるを頑と為し、
口、忠信の言を道わざるを嚚と為す。狄皆な之れに則り、四姦を具う」
「耳が五声の和音を聞き分けることもできないのを聾といい、目が五色の綾を
見分けることもできないのを(蒙)昧といい、心が徳義に則らないのを頑(迷)といい、
口が中信の言を発することもできないのを嚚という。北方の蛮族はこの
四つの姦邪な要素を持ち合わせている。(心に悪いものが入って悪いものが出る
のではなく、心が頑迷であるが故に色を見分けたり音を聞き分けたりすることも
疎かとなり、以ってろくでもない言行に及ぶこととなる。影響材料以上にも、
心そのものが頑迷な悪心と化してしまうことこそが問題なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年より)
朱子学の性即理説などに即して、一概な勧善懲悪こそを志して行くのが俗社会に
生きる人間にとっての天分であるということまでもが言えるのである。勧善懲悪
が俗人にとっての天分である一方で、善悪正邪を傍観することや、朱子学の
上位互換の失敗作である陽明学に即して消極主義であったりすることは、俗人に
とっての天分には適わないのである。だからこそそのような真似に及んだ陽明
学徒やカルト信者が最終的な破滅に陥ってしまいもしたわけで、その真価が見定
められなかったがために、反動分子が多くの禍いを招いてしまったという点では、
朱子学も現状、功罪相半ばする点があるといえるので、これからはその真価を
見定めた上での、朱子学の適切な実践こそが試みられてしかるべきだといえる。
「耳、五声の和を聴かざるを聾と為し、目、五色の章を
別かたざるを昧と為し、心、徳義の経に則らざるを頑と為し、
口、忠信の言を道わざるを嚚と為す。狄皆な之れに則り、四姦を具う」
「耳が五声の和音を聞き分けることもできないのを聾といい、目が五色の綾を
見分けることもできないのを(蒙)昧といい、心が徳義に則らないのを頑(迷)といい、
口が中信の言を発することもできないのを嚚という。北方の蛮族はこの
四つの姦邪な要素を持ち合わせている。(心に悪いものが入って悪いものが出る
のではなく、心が頑迷であるが故に色を見分けたり音を聞き分けたりすることも
疎かとなり、以ってろくでもない言行に及ぶこととなる。影響材料以上にも、
心そのものが頑迷な悪心と化してしまうことこそが問題なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年より)
他力本願は、第一には自己怠惰を正当化するために嗜好される。罪を
犯してしまった人間が急場しのぎで神にすがったりすることもあるが、
多くの人間が恒常的に他力本願の姿勢でいようとするところでは、主に
怠惰慢心を開き直ることを目的としてそれが信教化されるなどする。
多くの人間が怠慢を開き直ってしまっているような状態では、
世の中も生産性が低下して経済が滞るなどの問題を来たすこととなる。
そのため外界侵略による富の収奪だとか、悪徳商売での暴利の巻き上げ
だとかがその補填を目的として企てられることとなる。そのような悪行
もまた他力本願系の縋りによって正当化されて推進されることとなる。
一般人の怠慢が他力信仰によって開き直られると共に、そこでの反動的な
悪行を企てる者の良心の呵責もまた、他力本願による責任意識の放棄に
よって誤魔化される。そうして悪人と愚人ばかりで形成された世の中が、
外界からの十分な富の収奪が可能である限りにおいて存続して行くこととなる。
他力本願系の信教が世の中で幅を利かせ始めているような状態では、
もはや武装公務員が百姓の尻をひっぱたく程の体裁を取るのでもなければ、
自己完結した世の中における十分な生産性が見込まれなくなるということを、
鎌倉時代から江戸時代にかけての日本の武家社会こそが実証している。
犯してしまった人間が急場しのぎで神にすがったりすることもあるが、
多くの人間が恒常的に他力本願の姿勢でいようとするところでは、主に
怠惰慢心を開き直ることを目的としてそれが信教化されるなどする。
多くの人間が怠慢を開き直ってしまっているような状態では、
世の中も生産性が低下して経済が滞るなどの問題を来たすこととなる。
そのため外界侵略による富の収奪だとか、悪徳商売での暴利の巻き上げ
だとかがその補填を目的として企てられることとなる。そのような悪行
もまた他力本願系の縋りによって正当化されて推進されることとなる。
一般人の怠慢が他力信仰によって開き直られると共に、そこでの反動的な
悪行を企てる者の良心の呵責もまた、他力本願による責任意識の放棄に
よって誤魔化される。そうして悪人と愚人ばかりで形成された世の中が、
外界からの十分な富の収奪が可能である限りにおいて存続して行くこととなる。
他力本願系の信教が世の中で幅を利かせ始めているような状態では、
もはや武装公務員が百姓の尻をひっぱたく程の体裁を取るのでもなければ、
自己完結した世の中における十分な生産性が見込まれなくなるということを、
鎌倉時代から江戸時代にかけての日本の武家社会こそが実証している。
平安時代に流行した密教などは、厳粛で体系的な修行をこなす自力作善の
側面と、弘法大師の如き名僧をカリスマとして崇め立てる他力本位の側面
の両方を持ち合わせていたが、鎌倉後期から流行し始めた浄土教などは、
信者に専らな他力本願のみを促すものであった。一方で、武装公務員たる
武家が主な帰依対象としていたのは、密教以上にも純粋な自力本位を旨と
する宗門である禅仏教であり、そのような宗門の下での自己責任意識の強化
と共に、念仏信仰で他力依存を増長させた百姓を引っ張って行ったのだった。
そのような、自力本位と他力本位の均衡を総出で取ろうとする世の中に
おいて、他力本位側であろうものなら武家による斬捨御免すら時には甘受
せざるを得ないことすらをも受け入れられるというのであれば、他力本願で
いればよい。宗祖の法然や親鸞からして僧籍剥奪の上での流罪にされたという
ことすらもむべなることとして受け入れられて、基本、世の中で大きな顔を
できるようなことはないのだと自認できるのであれば、浄土教徒であればよい。
とはいえ武家時代というものからして、日本の時代区分の内では中高度の
乱世に当たる。誰も彼もが他力本位であるが故に引っ切り無しの戦乱状態を
続けて来た聖書圏などと比べれば、江戸時代のようにそれなりの平定が行き
届いた時代もあったわけだが、それでも武士が大小二本の佩刀などを頼りに
百姓町人を締め上げていた点などは、それなりに剣呑な点だったといえる。
側面と、弘法大師の如き名僧をカリスマとして崇め立てる他力本位の側面
の両方を持ち合わせていたが、鎌倉後期から流行し始めた浄土教などは、
信者に専らな他力本願のみを促すものであった。一方で、武装公務員たる
武家が主な帰依対象としていたのは、密教以上にも純粋な自力本位を旨と
する宗門である禅仏教であり、そのような宗門の下での自己責任意識の強化
と共に、念仏信仰で他力依存を増長させた百姓を引っ張って行ったのだった。
そのような、自力本位と他力本位の均衡を総出で取ろうとする世の中に
おいて、他力本位側であろうものなら武家による斬捨御免すら時には甘受
せざるを得ないことすらをも受け入れられるというのであれば、他力本願で
いればよい。宗祖の法然や親鸞からして僧籍剥奪の上での流罪にされたという
ことすらもむべなることとして受け入れられて、基本、世の中で大きな顔を
できるようなことはないのだと自認できるのであれば、浄土教徒であればよい。
とはいえ武家時代というものからして、日本の時代区分の内では中高度の
乱世に当たる。誰も彼もが他力本位であるが故に引っ切り無しの戦乱状態を
続けて来た聖書圏などと比べれば、江戸時代のようにそれなりの平定が行き
届いた時代もあったわけだが、それでも武士が大小二本の佩刀などを頼りに
百姓町人を締め上げていた点などは、それなりに剣呑な点だったといえる。
自力本位と他力本位が絶妙な融和を果たしていた平安時代のような時代に
おいてこそ、真に天下万人の和睦が実現されもする。最高級の理想としては
それこそを目指すべきであり、そのためにも他力本願の一人歩きや大勢力化
などはできる限り引き止めて行くようにしなければならない。浄土経の分量
などは些少なものであるし、その内容も華厳経を始めとする聖道門の経典の
裏打ちがあればこそのものであるのだから、なるべくなら、総合的な仏教帰依
の一要素止まりであるのに越したことはない。無論、そうであるのが可能で
ある程度に、暴力的な社会統治が控えられるようにもしなければならない。
「其の身正しければ、令せずとも行わる。
其の身正しからざれば、令すと雖も従わず」
「自分の身が正しければ、命令したりしなくとも自然とその言説が行われる。
自分の身が正しいのでなければ、たとえ命令しようとも従われることはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・六より)
おいてこそ、真に天下万人の和睦が実現されもする。最高級の理想としては
それこそを目指すべきであり、そのためにも他力本願の一人歩きや大勢力化
などはできる限り引き止めて行くようにしなければならない。浄土経の分量
などは些少なものであるし、その内容も華厳経を始めとする聖道門の経典の
裏打ちがあればこそのものであるのだから、なるべくなら、総合的な仏教帰依
の一要素止まりであるのに越したことはない。無論、そうであるのが可能で
ある程度に、暴力的な社会統治が控えられるようにもしなければならない。
「其の身正しければ、令せずとも行わる。
其の身正しからざれば、令すと雖も従わず」
「自分の身が正しければ、命令したりしなくとも自然とその言説が行われる。
自分の身が正しいのでなければ、たとえ命令しようとも従われることはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・六より)
カルトは、人の道を踏み外した愚人にとってのご都合主義を追認してくれる
ような能弁を架空の神に偽託することで、自分たちの信仰対象とする神にある
種の魅力を伴わせる。それは、人道を堅実に守り通している常人にとっては
全く以って魅力的でも何でもない、稚拙な言葉遊びにしか映らないわけだが、
実際に道を踏み外している人間や、アウトローに憧れるような未熟な精神性の
持ち主などにとっては、一種独特の面白味を帯びて見えるものとなるのである。
殺人や強盗や詐欺のような、あからさまな非行が原因でのドロップアウトを
温かく受け入れてくれるようなご都合主義はまだ序の口であり、もっと巧妙な
組織犯罪だとか、精神面におけるサイコパスの助長だとかまでもが本格派の
カルトでは追認の対象とされる。だからこそ、あからさまな民間犯罪ぐらいは
取締りの対象とされる法治社会などにおいても、信者の道徳的退廃を容認して
助長するような類いのカルト信仰の存続が許容されてしまったりもするのである。
法律違反の犯罪行為から、それを上回るような権力犯罪行為(権力者こそが法律
をも取り決めるので、法律違反であるとも限らないし、違反だとしても権力者の
横暴によって処罰が反故にされたりする)、それには至らないような内心面の
罪に至るまで、程度の如何に限らないあらゆる罪悪を許容する類いのカルトとも
なれば、これはもはや法律によって裁ききれたりするものでもない。公権力者が
作為で規定する法律に基づく犯罪行為などとは違う次元の罪悪までをも取り扱いの
対象としているわけでから、到底法官などによって取り締まり切れるものではない。
人の道を煩瑣な法文などではなく、逼迫した言葉でありのままに捉えているのが
仁義道徳の教条であればこそ、道徳統治を全国規模で敷くことだけが、法律違反に
限らぬ罪悪一般を許容しようとするカルト信仰の蔓延を防ぎ止めることができる。
そのような教条の宝庫である四書五経などの儒書自体、到底愚人が親しめるような
内容ではないわけだけれども、それも愚人にとってこそ魅力的に映るカルトの
教条とは真逆の内容でこそあるわけだから、甘美な猛毒への特効薬であるが故に
こそ苦ったらしいこともまた、確信的な甘受の対象とされて行かねばならない。
ような能弁を架空の神に偽託することで、自分たちの信仰対象とする神にある
種の魅力を伴わせる。それは、人道を堅実に守り通している常人にとっては
全く以って魅力的でも何でもない、稚拙な言葉遊びにしか映らないわけだが、
実際に道を踏み外している人間や、アウトローに憧れるような未熟な精神性の
持ち主などにとっては、一種独特の面白味を帯びて見えるものとなるのである。
殺人や強盗や詐欺のような、あからさまな非行が原因でのドロップアウトを
温かく受け入れてくれるようなご都合主義はまだ序の口であり、もっと巧妙な
組織犯罪だとか、精神面におけるサイコパスの助長だとかまでもが本格派の
カルトでは追認の対象とされる。だからこそ、あからさまな民間犯罪ぐらいは
取締りの対象とされる法治社会などにおいても、信者の道徳的退廃を容認して
助長するような類いのカルト信仰の存続が許容されてしまったりもするのである。
法律違反の犯罪行為から、それを上回るような権力犯罪行為(権力者こそが法律
をも取り決めるので、法律違反であるとも限らないし、違反だとしても権力者の
横暴によって処罰が反故にされたりする)、それには至らないような内心面の
罪に至るまで、程度の如何に限らないあらゆる罪悪を許容する類いのカルトとも
なれば、これはもはや法律によって裁ききれたりするものでもない。公権力者が
作為で規定する法律に基づく犯罪行為などとは違う次元の罪悪までをも取り扱いの
対象としているわけでから、到底法官などによって取り締まり切れるものではない。
人の道を煩瑣な法文などではなく、逼迫した言葉でありのままに捉えているのが
仁義道徳の教条であればこそ、道徳統治を全国規模で敷くことだけが、法律違反に
限らぬ罪悪一般を許容しようとするカルト信仰の蔓延を防ぎ止めることができる。
そのような教条の宝庫である四書五経などの儒書自体、到底愚人が親しめるような
内容ではないわけだけれども、それも愚人にとってこそ魅力的に映るカルトの
教条とは真逆の内容でこそあるわけだから、甘美な猛毒への特効薬であるが故に
こそ苦ったらしいこともまた、確信的な甘受の対象とされて行かねばならない。
仁徳統治によるカルトの根絶も、徹底されれば江戸時代の日本の如き
一種独特の世相を招くこととなるわけで、夫唱婦随や政商分離の徹底された
その在り方が、女子供や小人などにとってはかえって都合の悪いこととも
なるわけである。そうなれば、その先にこそ、是非善悪の分別ばかりを
徹底しようとする儒家以上にも高度な、仏門や道家の教学すらをも流布して
行くようにして、ある種のガス抜きを講じて行くようにもしたほうがよい。
昨今の洋学系の仏教学者などの中には、「仏教教義の本旨は『縁起』である」
などと強弁する者が居たりもする。縁起もまた一つの仏法であるには違いないが、
現象にまつわる教条であるが故に、それを超えた「生滅滅已(涅槃経)」の
境地こそを尊ぶより高度な見地からすれば、必ずしも最重要の概念とまで言える
わけではない。にもかかわらず洋学者が仏教教義中の「縁起」という理念を
至上命題にしたがったのは、自分たちが是認しているカルトのご都合主義を
仏教によってですら正当化してやりたかったからであるのに違いない。
道家の無為自然とも似通って、仏法に基づく縁起もまた、人間の作為を超越した
所にこそあるものである。信者の害為を喚起して、実際に罪悪の増長を促す
カルトの所業などは、全く以って縁起という理念によって正当化されたりするに
値するものなどではないし、どちらかといえば悪因苦果によってカルト全体が
丸ごと致命的な破滅に陥ることのほうが、カルトの信者が救われたりすること
よりもよっぽど、仏法上のものとしての縁起に適った結実となるのに違いない。
仏教教義の一部すらもが、上記のような形でカルト容認の材料として悪用されたり
することもあり得るからには、カルトをこの世から根絶し尽くすその瞬間までは、
仏門を本格的に再興して行くことなども控えたほうがいいだろう。仏法と比べれば
遥かに程度も低いが、代わりにカルトがつけ入るような隙を一切持ち合わせて
いない儒家の教学のみに即して、まずはカルト根絶こそを急務とすべきである。
カルトを許容するような分際で、仏法を一人前に分かった気になるようなことも
決してあるべきではないのだと、現職の洋学者なぞも重々に思い知るべきである。
一種独特の世相を招くこととなるわけで、夫唱婦随や政商分離の徹底された
その在り方が、女子供や小人などにとってはかえって都合の悪いこととも
なるわけである。そうなれば、その先にこそ、是非善悪の分別ばかりを
徹底しようとする儒家以上にも高度な、仏門や道家の教学すらをも流布して
行くようにして、ある種のガス抜きを講じて行くようにもしたほうがよい。
昨今の洋学系の仏教学者などの中には、「仏教教義の本旨は『縁起』である」
などと強弁する者が居たりもする。縁起もまた一つの仏法であるには違いないが、
現象にまつわる教条であるが故に、それを超えた「生滅滅已(涅槃経)」の
境地こそを尊ぶより高度な見地からすれば、必ずしも最重要の概念とまで言える
わけではない。にもかかわらず洋学者が仏教教義中の「縁起」という理念を
至上命題にしたがったのは、自分たちが是認しているカルトのご都合主義を
仏教によってですら正当化してやりたかったからであるのに違いない。
道家の無為自然とも似通って、仏法に基づく縁起もまた、人間の作為を超越した
所にこそあるものである。信者の害為を喚起して、実際に罪悪の増長を促す
カルトの所業などは、全く以って縁起という理念によって正当化されたりするに
値するものなどではないし、どちらかといえば悪因苦果によってカルト全体が
丸ごと致命的な破滅に陥ることのほうが、カルトの信者が救われたりすること
よりもよっぽど、仏法上のものとしての縁起に適った結実となるのに違いない。
仏教教義の一部すらもが、上記のような形でカルト容認の材料として悪用されたり
することもあり得るからには、カルトをこの世から根絶し尽くすその瞬間までは、
仏門を本格的に再興して行くことなども控えたほうがいいだろう。仏法と比べれば
遥かに程度も低いが、代わりにカルトがつけ入るような隙を一切持ち合わせて
いない儒家の教学のみに即して、まずはカルト根絶こそを急務とすべきである。
カルトを許容するような分際で、仏法を一人前に分かった気になるようなことも
決してあるべきではないのだと、現職の洋学者なぞも重々に思い知るべきである。
「(周公が君陳に)爾、頑に忿疾すること無かれ、備わるを一夫に求むるひと無かれ。
必ず忍ぶこと有れば其れ乃ち済する有り、容るること有れば、徳乃ち大なり。(既出)」
「頑なで暗愚な相手に対しても腹を立てたり憎んだりしてはならない。何もかもが一人に
備わっていることなどを期待してはならない。ぐっと耐え忍んでいればきっと済度される
こともある。寛容であれば徳も広大となる。(頑迷な相手までをも包摂するのが徳治である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
「惟れ周公、先王に左右し、厥の家を綏んじ定め、
殷の頑民をつつしみ、洛邑に遷し、王室に密邇し、式て厥の訓えに化さしむ」
「周公は先王の左右に侍して王家を安んじられた。殷の頑迷な民たちにもよく気を配り、
周の都である洛邑にあえて移住させ、王室と密接に関わらせて、念入りな教化を施した。
(上の引用を見ても分かる通り、周公の徳治は頑民に至るまで満遍なかったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
必ず忍ぶこと有れば其れ乃ち済する有り、容るること有れば、徳乃ち大なり。(既出)」
「頑なで暗愚な相手に対しても腹を立てたり憎んだりしてはならない。何もかもが一人に
備わっていることなどを期待してはならない。ぐっと耐え忍んでいればきっと済度される
こともある。寛容であれば徳も広大となる。(頑迷な相手までをも包摂するのが徳治である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
「惟れ周公、先王に左右し、厥の家を綏んじ定め、
殷の頑民をつつしみ、洛邑に遷し、王室に密邇し、式て厥の訓えに化さしむ」
「周公は先王の左右に侍して王家を安んじられた。殷の頑迷な民たちにもよく気を配り、
周の都である洛邑にあえて移住させ、王室と密接に関わらせて、念入りな教化を施した。
(上の引用を見ても分かる通り、周公の徳治は頑民に至るまで満遍なかったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
カルト系の宗教や学問こそは、真っ当な教学の受容を侵害する危険性を
帯びている一方で、そのような邪教邪学の有害さや無価値さや重要度の低さを
十全にわきまえることが、正善な教学の真価を計り知るうえでの近道ともなる。
もしも、後者のような目的に専ら即して、邪教邪学を見聞するというのであれば、
それはそれで意義のある成果を挙げられるものだから、それぐらいは認められる。
しかし、そのために邪教邪学を「専攻」して「修了」するような必要があるかと
いえば、そんなこともない。あくまで反面教師としての扱いに止めるべきもので
あるわけだから、ワクチン的な無毒化をまず講じなければならない。たとえば、
「漢書」食貨志における金融政策などは、現代の財政と比べても全く以って遜色
のないものであるわけだけれども、あくまで重農主義や官職本位の観点から記録
されているものだからこそ、仁政の参考ともなり得る。一方で、現代の経済学者
が発表しているような論説などは、重商主義や民主主義の名を借りた政商主義の
観点から述べられていたりするので、全く以って仁政の参考などになりはしない。
前漢の景帝の代までの、金融政策が緩慢であった時代の中国の商人などの中には、
今の資本家や経済学者とも同レベルの手口や見識を持ち合わせていた人間が多かっ
たに違いないわけだが、だからといってそれに迎合するような論調を「漢書」の
著者である班固が容れるようなこともなかったわけで、その班固のような姿勢に即
して、現代の経済学なども無毒化されてから受容されるようにしなければならない。
帯びている一方で、そのような邪教邪学の有害さや無価値さや重要度の低さを
十全にわきまえることが、正善な教学の真価を計り知るうえでの近道ともなる。
もしも、後者のような目的に専ら即して、邪教邪学を見聞するというのであれば、
それはそれで意義のある成果を挙げられるものだから、それぐらいは認められる。
しかし、そのために邪教邪学を「専攻」して「修了」するような必要があるかと
いえば、そんなこともない。あくまで反面教師としての扱いに止めるべきもので
あるわけだから、ワクチン的な無毒化をまず講じなければならない。たとえば、
「漢書」食貨志における金融政策などは、現代の財政と比べても全く以って遜色
のないものであるわけだけれども、あくまで重農主義や官職本位の観点から記録
されているものだからこそ、仁政の参考ともなり得る。一方で、現代の経済学者
が発表しているような論説などは、重商主義や民主主義の名を借りた政商主義の
観点から述べられていたりするので、全く以って仁政の参考などになりはしない。
前漢の景帝の代までの、金融政策が緩慢であった時代の中国の商人などの中には、
今の資本家や経済学者とも同レベルの手口や見識を持ち合わせていた人間が多かっ
たに違いないわけだが、だからといってそれに迎合するような論調を「漢書」の
著者である班固が容れるようなこともなかったわけで、その班固のような姿勢に即
して、現代の経済学なども無毒化されてから受容されるようにしなければならない。
邪教邪学を拒絶や劣後する意識は、ちょうど犯罪を忌避する意識と同等のもので
あるべきである。白人が有色人種に対して抱いていた差別意識だとか、金持ちが
貧乏人に対して抱く蔑みだとかに似たような否定意識を、邪教邪学に対して抱い
たりするのでは、否定意識が透徹しないために、反面教師としてそれらを参考に
するような余裕も持ち得ない。白人や金持ちは、有色人種や貧乏人が居ればこそ
自分たちの生計を立てても居られているわけで、全く以って有色人種や貧乏人が
犯罪者のように無用なものであるわけではない。むしろ白人や金持ちのほうが
この世における必要性が低い部類の人種ですらあるわけだから、そのような人種
が他人種に対して抱くコンプレックスの裏返し状態な差別意識などを、邪教邪学
への否定意識などに転化するようなことがあってもならない。邪教邪学は本当に
この世の中になくてもいいぐらいのものですらあるわけだから、あたかも犯罪
ほどにも徹底してなくて然るべきものとして取り扱うようにすべきなのである。
邪教邪学は、それこそ「つまずきながら」の受容対象とされることでのみ、
この世における市民権を保ち続けることができる。それ自体に傾倒しきっての、
忠実な実践や信仰などは厳禁とされた上で、あたかも過去の犯罪史が犯罪予防の
ための研究対象とされるかのような参考となることのみが、許されることとなる。
その時には、邪教邪学にまつわる神父だとか、牧師だとか、教授だとかはもはや
一人も居らず、儒者や仏僧が片手間にそれらを講じたりすることだけが認められ
るようにもなっているはずである。無論、学問や信教が一切の権威を剥奪された
学芸貧困社会となっているのではなく、儒者や仏僧こそが今の名門大学の教授並み
かそれ以上の権威を持つ「学聖」として丁重に扱われるようになっているのである。
あるべきである。白人が有色人種に対して抱いていた差別意識だとか、金持ちが
貧乏人に対して抱く蔑みだとかに似たような否定意識を、邪教邪学に対して抱い
たりするのでは、否定意識が透徹しないために、反面教師としてそれらを参考に
するような余裕も持ち得ない。白人や金持ちは、有色人種や貧乏人が居ればこそ
自分たちの生計を立てても居られているわけで、全く以って有色人種や貧乏人が
犯罪者のように無用なものであるわけではない。むしろ白人や金持ちのほうが
この世における必要性が低い部類の人種ですらあるわけだから、そのような人種
が他人種に対して抱くコンプレックスの裏返し状態な差別意識などを、邪教邪学
への否定意識などに転化するようなことがあってもならない。邪教邪学は本当に
この世の中になくてもいいぐらいのものですらあるわけだから、あたかも犯罪
ほどにも徹底してなくて然るべきものとして取り扱うようにすべきなのである。
邪教邪学は、それこそ「つまずきながら」の受容対象とされることでのみ、
この世における市民権を保ち続けることができる。それ自体に傾倒しきっての、
忠実な実践や信仰などは厳禁とされた上で、あたかも過去の犯罪史が犯罪予防の
ための研究対象とされるかのような参考となることのみが、許されることとなる。
その時には、邪教邪学にまつわる神父だとか、牧師だとか、教授だとかはもはや
一人も居らず、儒者や仏僧が片手間にそれらを講じたりすることだけが認められ
るようにもなっているはずである。無論、学問や信教が一切の権威を剥奪された
学芸貧困社会となっているのではなく、儒者や仏僧こそが今の名門大学の教授並み
かそれ以上の権威を持つ「学聖」として丁重に扱われるようになっているのである。
今の大学教授だとか教師だとか、カルトの聖職者だとかが、そのような時代の
権威的な文化主導者に即座に転職できるかといえば、そんなことは決してない。
邪教邪学を反面教師として査察することが正学正教への理解を深める手立てとも
なる一方で、邪教邪学への耽溺はかえって本人を正学正教から遠ざける原因とも
なってしまう。今の学者や宗教家たるや、後者のような邪教邪学の受け入れ方
しかして来なかったわけだから、それこそ一般人以上にも正教正学にまつわる
権威として立ち居振舞うことが困難である場合がほとんどのはずである。
自分自身が正学正教の権威となるよりは、そこで権威となれる人間が、邪教邪学
の否定的かつ適切な取り回しを可能とすることを助成する役回りに就くことの
ほうが、現実的な転職先ともなるだろう。あくまで邪学の知識の献上者に過ぎない
わけだから、決してその役職を偉ぶったりすることが許されることもないわけだが。
「斉を摂げて堂に升るに、鞠躬如たり。気を屏めて息せざる者に似たり。
(ここまで既出) 出でて一等を降れば、顔色を逞って、怡怡如たり」
「(孔先生は、階段でつまずいて転ばないように、)着物の裾をつまみ上げて、
非常に怖れ慎んだ様子で朝廷の堂に上って行かれた。その姿はまるで、息を
していないかのようですらあった。用事を終えて堂からの階段を一段降れば、
その時にはもはや顔つきも晴れやかで、安らかなご様子であった。(実物の
主君に仕えるためにこそ、これ程にも慎重でなければならない。日本で上級
貴族が『堂上人』などとして羨まれていたのも、このような習俗を起源とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・四より)
権威的な文化主導者に即座に転職できるかといえば、そんなことは決してない。
邪教邪学を反面教師として査察することが正学正教への理解を深める手立てとも
なる一方で、邪教邪学への耽溺はかえって本人を正学正教から遠ざける原因とも
なってしまう。今の学者や宗教家たるや、後者のような邪教邪学の受け入れ方
しかして来なかったわけだから、それこそ一般人以上にも正教正学にまつわる
権威として立ち居振舞うことが困難である場合がほとんどのはずである。
自分自身が正学正教の権威となるよりは、そこで権威となれる人間が、邪教邪学
の否定的かつ適切な取り回しを可能とすることを助成する役回りに就くことの
ほうが、現実的な転職先ともなるだろう。あくまで邪学の知識の献上者に過ぎない
わけだから、決してその役職を偉ぶったりすることが許されることもないわけだが。
「斉を摂げて堂に升るに、鞠躬如たり。気を屏めて息せざる者に似たり。
(ここまで既出) 出でて一等を降れば、顔色を逞って、怡怡如たり」
「(孔先生は、階段でつまずいて転ばないように、)着物の裾をつまみ上げて、
非常に怖れ慎んだ様子で朝廷の堂に上って行かれた。その姿はまるで、息を
していないかのようですらあった。用事を終えて堂からの階段を一段降れば、
その時にはもはや顔つきも晴れやかで、安らかなご様子であった。(実物の
主君に仕えるためにこそ、これ程にも慎重でなければならない。日本で上級
貴族が『堂上人』などとして羨まれていたのも、このような習俗を起源とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・四より)
個々の人間の命には限りがあっても、先祖代々から子々孫々に至るまでの
家の継承には限りがない。そしてそこには必ず、家督を司る亭主の男がいる。
その男もまた個人としての命には当然限りがあるが、家の名誉を保ちつつ真に
家を背負えるのならば、その時に家長たる男も「梵我一如」のごとく、不滅たり
得る家と個我とを一致させて、普遍的な存在としての愉悦や誇りを得るのである。
継がれて行く家の由緒が正しければ正しいほど、そこで家長たる男が家我一如の
愉悦を得られる程度も高いし、先祖代々継承されて来た期間が長ければ長いほど、
新たにその家を継ぐ男がそのような愉悦を得ることも容易となり、なおかつそれが
磐石であり得る。そしてその愉悦こそは、男がまるで自分自身の安寧を欲する
ようにして、家や天下国家の安定をもたらして行く上での心の糧ともなる。家を
継げるだけの修身がまず必要とはなるわけだが、その結果としてあたかも自分
自身のためのように家を利し、それが自然と天下国家の公益を育む呼び水ともなる。
人間が、霊魂の不滅を悟る上での第一の手段となるのが、この家督の相続でもある。
まず代々受け継がれて行く由緒ただしい家流があった上で、そこから次男三男なり
子女なりが出家者などとしてまた別の方法での真理の会得を目指したりもするが、
当然、家なくして出家もあり得ないわけだから、やはり嫡子の長男らによる恒久的な
家の継承のほうが、仏門の興隆以上にも優先されて然るべきものともなるのである。
霊魂の不滅も、それはそれで悟り得るものではあるが、そんなことに興味を持たない
人間もいる。何の特権もないただの小人あたりであれば、そのようであっても特に
問題はない。天下国家の命運を左右するような大権を得る者ともなれば、そのようで
あってはならないし、当然、上記のような正しい手法に基づかない、偽りの霊魂の
不滅などをカルトによって信じ込んだりするようなこともまた、あってはならない。
家の継承には限りがない。そしてそこには必ず、家督を司る亭主の男がいる。
その男もまた個人としての命には当然限りがあるが、家の名誉を保ちつつ真に
家を背負えるのならば、その時に家長たる男も「梵我一如」のごとく、不滅たり
得る家と個我とを一致させて、普遍的な存在としての愉悦や誇りを得るのである。
継がれて行く家の由緒が正しければ正しいほど、そこで家長たる男が家我一如の
愉悦を得られる程度も高いし、先祖代々継承されて来た期間が長ければ長いほど、
新たにその家を継ぐ男がそのような愉悦を得ることも容易となり、なおかつそれが
磐石であり得る。そしてその愉悦こそは、男がまるで自分自身の安寧を欲する
ようにして、家や天下国家の安定をもたらして行く上での心の糧ともなる。家を
継げるだけの修身がまず必要とはなるわけだが、その結果としてあたかも自分
自身のためのように家を利し、それが自然と天下国家の公益を育む呼び水ともなる。
人間が、霊魂の不滅を悟る上での第一の手段となるのが、この家督の相続でもある。
まず代々受け継がれて行く由緒ただしい家流があった上で、そこから次男三男なり
子女なりが出家者などとしてまた別の方法での真理の会得を目指したりもするが、
当然、家なくして出家もあり得ないわけだから、やはり嫡子の長男らによる恒久的な
家の継承のほうが、仏門の興隆以上にも優先されて然るべきものともなるのである。
霊魂の不滅も、それはそれで悟り得るものではあるが、そんなことに興味を持たない
人間もいる。何の特権もないただの小人あたりであれば、そのようであっても特に
問題はない。天下国家の命運を左右するような大権を得る者ともなれば、そのようで
あってはならないし、当然、上記のような正しい手法に基づかない、偽りの霊魂の
不滅などをカルトによって信じ込んだりするようなこともまた、あってはならない。
少しでも、先祖代々の家の継承によって男を立てる感覚が世の中で認知されて
いるようならば、もはや偽りの霊魂の不滅などをひけらかすカルトなどが片時
でも存命していられる余地はない。家督の継承というものの価値が全く以って
理解されていない程もの未開の土人社会であればこそ、そのようなカルトが多少
なりとも横行してしまうようなことがあるし、文面だけで「それが大切なことだ」
などと主張されているだけでも、まだ確実ではない。家の名誉を保ちつつ家を
継ぐということの誇らしさを、如実に自覚できている男が現れたときに初めて、
真の神霊が偽りの神霊を駆逐し尽くす一大事の縁起がやってくることともなる。
天道来たりて、畜生道遠ざかる。両者はそれなりの理解力がなければ見分けが
付きにくい所があったりもするわけだが、片や本物の霊魂を司り、片や贋物の霊魂
を司っているという決定的な相違があるわけで、上のような形で、家の名誉を保つ
者としての愉悦を男が得た時にこそ、両者が決定的に分かたれて、畜生道は止み
天道は恒久普遍なものとしての本来の在り方を取り戻して行くこととなるのである。
いるようならば、もはや偽りの霊魂の不滅などをひけらかすカルトなどが片時
でも存命していられる余地はない。家督の継承というものの価値が全く以って
理解されていない程もの未開の土人社会であればこそ、そのようなカルトが多少
なりとも横行してしまうようなことがあるし、文面だけで「それが大切なことだ」
などと主張されているだけでも、まだ確実ではない。家の名誉を保ちつつ家を
継ぐということの誇らしさを、如実に自覚できている男が現れたときに初めて、
真の神霊が偽りの神霊を駆逐し尽くす一大事の縁起がやってくることともなる。
天道来たりて、畜生道遠ざかる。両者はそれなりの理解力がなければ見分けが
付きにくい所があったりもするわけだが、片や本物の霊魂を司り、片や贋物の霊魂
を司っているという決定的な相違があるわけで、上のような形で、家の名誉を保つ
者としての愉悦を男が得た時にこそ、両者が決定的に分かたれて、畜生道は止み
天道は恒久普遍なものとしての本来の在り方を取り戻して行くこととなるのである。
「穆叔如晋、范宣子逆之問焉、曰、古人有言曰、死而不朽、何謂也、穆叔未対、宣子曰、
昔丐之祖、自虞以上為陶唐氏、在夏為御龍氏、在商為豕韋氏、在周為唐杜氏、晋主夏盟為范氏、
其是之謂乎、穆叔曰、以豹所聞、此之謂世禄、非不朽也、魯有先大夫曰臧文仲、既没、
其言立、其是之謂乎、豹聞之。大上有立徳、其次有立功、其次有立言。雖久不廃、
此之謂不朽、若夫保姓受氏、以守宗?、世不絶祀、無国無之、禄之大者、不可謂不朽」
「(長文のため意訳)穆叔が范宣子に問うた。『昔の人は〈死して朽ちず〉と言いましたが、
これはどういう意味だと思いますか』 范宣子『私の家は虞の唐氏の頃からずっと先祖代々の
家を継いで祭祀を保ち続けています。こういうのを〈死して朽ちず〉というのではないで
しょうか』 穆叔『それは家に福禄が多いということであって、〈死して朽ちず〉という
こととは違います。自分個人が功績を挙げて、その時の成果や言行が後世まで尊ばれ続ける
のを〈死して朽ちず〉というのです』(乱世に〈死して朽ちず〉という言葉が曲解された実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十四年より)
昔丐之祖、自虞以上為陶唐氏、在夏為御龍氏、在商為豕韋氏、在周為唐杜氏、晋主夏盟為范氏、
其是之謂乎、穆叔曰、以豹所聞、此之謂世禄、非不朽也、魯有先大夫曰臧文仲、既没、
其言立、其是之謂乎、豹聞之。大上有立徳、其次有立功、其次有立言。雖久不廃、
此之謂不朽、若夫保姓受氏、以守宗?、世不絶祀、無国無之、禄之大者、不可謂不朽」
「(長文のため意訳)穆叔が范宣子に問うた。『昔の人は〈死して朽ちず〉と言いましたが、
これはどういう意味だと思いますか』 范宣子『私の家は虞の唐氏の頃からずっと先祖代々の
家を継いで祭祀を保ち続けています。こういうのを〈死して朽ちず〉というのではないで
しょうか』 穆叔『それは家に福禄が多いということであって、〈死して朽ちず〉という
こととは違います。自分個人が功績を挙げて、その時の成果や言行が後世まで尊ばれ続ける
のを〈死して朽ちず〉というのです』(乱世に〈死して朽ちず〉という言葉が曲解された実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十四年より)
カルト信仰が、この世に戦乱以上の平和をもたらすようなことは決してあり得ない。
部分的や一時的な平和状態をもたらすようなことがあったとしたところで、必ず
それ以上に大規模かつ長期的な戦乱状態を共に招き、以ってカルト信仰など始めから
享受しないでいたほうがマシだったほどもの大局的な乱世に陥れられることとなる。
カルト信仰の影響範囲が、全世界のうちの部分に止まっている内は、そうであること
がまだ判然としていなかった。大航海時代以降に世界中に侵略の魔の手を広げて
行ったことで、欧米諸国も巨万の富に与れて、富の奪い合いが原因での内戦などを
減らすことができたが、同時に世界規模ではそれを上回る規模の戦乱や飢餓を招く
こととなった。もはや欧米聖書圏が侵略によって権益をせしめられるような地域も
この地球上からなくなってしまった今にこそ、欧米聖書圏がこの世界に平和以上の
戦乱をもたらして来たことが如実となったわけで、いまだ侵略の魔の手を広げ続けて
いた限りにおいて、欧米人がそのようなことを察するようなこともなかったのである。
(今でも外界から目を背けることで自分たちの罪過をはぐらかしたりしてはいるが)
原理的な所まで突き詰めれば、カルトが平和以上の戦乱しかもたらし得ないのも自明
なことではある。世界を破滅に陥れておいて信者だけを救うマッチポンプをその根本
教義に据えているのがカルトの特徴であるが故、その根本性に即してこの世に利益
以上の害悪をもたらし、以って平和以上の戦乱に陥れることともなるわけだけれども、
高度なカルト信仰であればあるほど、信者に世の中の大局が見えなくなる程もの思い
上がりを植え付けもするものだから、自分たちが結果として利益以上の害悪や、平和
以上の戦乱をもたらしていることになかなか気づかないままでもいさせることとなる。
部分的や一時的な平和状態をもたらすようなことがあったとしたところで、必ず
それ以上に大規模かつ長期的な戦乱状態を共に招き、以ってカルト信仰など始めから
享受しないでいたほうがマシだったほどもの大局的な乱世に陥れられることとなる。
カルト信仰の影響範囲が、全世界のうちの部分に止まっている内は、そうであること
がまだ判然としていなかった。大航海時代以降に世界中に侵略の魔の手を広げて
行ったことで、欧米諸国も巨万の富に与れて、富の奪い合いが原因での内戦などを
減らすことができたが、同時に世界規模ではそれを上回る規模の戦乱や飢餓を招く
こととなった。もはや欧米聖書圏が侵略によって権益をせしめられるような地域も
この地球上からなくなってしまった今にこそ、欧米聖書圏がこの世界に平和以上の
戦乱をもたらして来たことが如実となったわけで、いまだ侵略の魔の手を広げ続けて
いた限りにおいて、欧米人がそのようなことを察するようなこともなかったのである。
(今でも外界から目を背けることで自分たちの罪過をはぐらかしたりしてはいるが)
原理的な所まで突き詰めれば、カルトが平和以上の戦乱しかもたらし得ないのも自明
なことではある。世界を破滅に陥れておいて信者だけを救うマッチポンプをその根本
教義に据えているのがカルトの特徴であるが故、その根本性に即してこの世に利益
以上の害悪をもたらし、以って平和以上の戦乱に陥れることともなるわけだけれども、
高度なカルト信仰であればあるほど、信者に世の中の大局が見えなくなる程もの思い
上がりを植え付けもするものだから、自分たちが結果として利益以上の害悪や、平和
以上の戦乱をもたらしていることになかなか気づかないままでもいさせることとなる。
この世に大局からの戦乱状態をもたらしながらも、自分たちだけは狭隘な平和状態
を享受していられる、それでいて本人たちも世の中の大局など全く見えない極度の
思い上がり状態のままでいるわけなので、そこで確かに本人たちも「それでいい」
ということになる。人として満足してはならない所での満足が確立されて、本人
たちの「ガン細胞人種」としての社会的地位までもが磐石なものとなる。旺盛な
資本力や軍力によって自分たちが世の中に幅を利かせていられる内はともかく
として、それが叶わなくなった時には真っ先にこの世からの駆逐対象とされて
しまうわけで、諸行無常の真理に即して必ずそのような事態がいつかは招かれる
からこそ、信者と化してしまうような人間たち自身のためにこそ、カルト信仰など
が始めから享受されたりしないでいたほうがマシだということにもなるのである。
マッチポンプ主体の邪義と、信者を思い上がりによって狭劣見と化さしめる要素とを
共に持ち合わせているような高度なカルトこそは、悪徳商人や火付盗賊並みかそれ
以上もの害悪や戦乱をこの世にもたらするものである。悪徳商人や火付盗賊のほうは
すでにその悪性がよく認知されて排除の対象ともされているが、カルトがそこまで
もの十分な警戒を受けているということは未だない。のみならず、カルト教義に即
して企てられている金融犯罪などの悪徳商売が、特権的なものとして野放しのまま
にされてしまっていたりすらする。マッチポンプの「ポンプ」の部分、カルト信仰の
おかげで利益や平和が得られたような部分もごごく部分的にはあって、その部分こそ
をカルトもこれでもかという程にひけらかすものだから、「まあじゃあ仕方ない」と
いう風に一般人のほうが考えてしまい、以って執拗な存命が実現されてしまうのである。
を享受していられる、それでいて本人たちも世の中の大局など全く見えない極度の
思い上がり状態のままでいるわけなので、そこで確かに本人たちも「それでいい」
ということになる。人として満足してはならない所での満足が確立されて、本人
たちの「ガン細胞人種」としての社会的地位までもが磐石なものとなる。旺盛な
資本力や軍力によって自分たちが世の中に幅を利かせていられる内はともかく
として、それが叶わなくなった時には真っ先にこの世からの駆逐対象とされて
しまうわけで、諸行無常の真理に即して必ずそのような事態がいつかは招かれる
からこそ、信者と化してしまうような人間たち自身のためにこそ、カルト信仰など
が始めから享受されたりしないでいたほうがマシだということにもなるのである。
マッチポンプ主体の邪義と、信者を思い上がりによって狭劣見と化さしめる要素とを
共に持ち合わせているような高度なカルトこそは、悪徳商人や火付盗賊並みかそれ
以上もの害悪や戦乱をこの世にもたらするものである。悪徳商人や火付盗賊のほうは
すでにその悪性がよく認知されて排除の対象ともされているが、カルトがそこまで
もの十分な警戒を受けているということは未だない。のみならず、カルト教義に即
して企てられている金融犯罪などの悪徳商売が、特権的なものとして野放しのまま
にされてしまっていたりすらする。マッチポンプの「ポンプ」の部分、カルト信仰の
おかげで利益や平和が得られたような部分もごごく部分的にはあって、その部分こそ
をカルトもこれでもかという程にひけらかすものだから、「まあじゃあ仕方ない」と
いう風に一般人のほうが考えてしまい、以って執拗な存命が実現されてしまうのである。
何度もいう通り、世界規模でのカルトの駆逐は、これから為されるとすれば、それが
世界史上でも未曾有の事績となる。カルトのない世界ではカルトなど歯牙にもかけ
られて来なかったし、カルトのある世界ではカルトしか選択肢がなかったものだから
当たり前のこととして享受されて来た。すでに世界が一定度以上の統一性を確保して、
カルトの致命的な有害さまでもが如実なものと化し始めたものだから、もはや廃絶
以外の余地がなくなっているということは、今までに一度も人類が体験したことの
ない事態であるわけだから、十分な慎重さを持ってことに臨むのでなければならない。
それこそ、カルト信者に特有の逸り立ちなどではなく、真っ当な思想宗教を本分と
しているような人物にこそ特有の虚心さによって為されていくのでなければならない。
「雜え施して不孫なれば、則ち壊乱して修まらず」
「施しが強引で不遜であるようなら、壊乱して収まるようなこともない。
(信者に強引に帰依を強いる聖書信仰の姿勢自体、戦乱を招くものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
世界史上でも未曾有の事績となる。カルトのない世界ではカルトなど歯牙にもかけ
られて来なかったし、カルトのある世界ではカルトしか選択肢がなかったものだから
当たり前のこととして享受されて来た。すでに世界が一定度以上の統一性を確保して、
カルトの致命的な有害さまでもが如実なものと化し始めたものだから、もはや廃絶
以外の余地がなくなっているということは、今までに一度も人類が体験したことの
ない事態であるわけだから、十分な慎重さを持ってことに臨むのでなければならない。
それこそ、カルト信者に特有の逸り立ちなどではなく、真っ当な思想宗教を本分と
しているような人物にこそ特有の虚心さによって為されていくのでなければならない。
「雜え施して不孫なれば、則ち壊乱して修まらず」
「施しが強引で不遜であるようなら、壊乱して収まるようなこともない。
(信者に強引に帰依を強いる聖書信仰の姿勢自体、戦乱を招くものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
共産制による絶対的な富の均衡などを図らずとも、大局からの富の偏在が
緩和されて行くのが徳治の行き届いた治世である一方、富の偏在がより
深刻化してしまうのが徳治の行き詰った乱世である。徳治の手法自体は儒家の
定立するような公権力者による作為的統治だったり、道家の定立するような
無為自然の統治だったり、仏門の出家者による民の教化だったりと様ざまでは
あるが、どんな形であれ徳治が行き届いているような世の中では、富の偏在
による世相の荒廃などには一定以上の歯止めがかけられて行くものである。
世の中がただひたすら私利私益を貪り続けて止まない畜生人種と、そのせいで
困窮に見舞われてしまった餓鬼人種とに両極化されてしまうのが乱世の決定的な
特色であり、その結果として戦乱や犯罪率の増加などをも来たしてしまうこと
となる。乱世を司る権力者たるや、そのおかげで自分たちが天下の公益に反する
巨万の富に与れていることが嬉しくて、世相がそのようなままであることをどう
にかして正当化しようともする。富の偏在の極度化を「格差社会の到来」などと
いう言葉で定義し、世の中を「勝ち組」と「負け組」などという派閥に分けよう
とすらする。それは、乱世での経済的成功者を「畜生」と呼び、経済的敗北者を
「餓鬼」と呼ぶ仏教の六道論的な世相解釈などと比べれば、不埒な正当化の要素
を帯びているわけで、徳治をよしとする観点からすればそのような世相の解釈は
避けて、あえて餓鬼や畜生のような如実な解釈を優先すべきだと考えられる。
富の偏在を架空の神託によって正当化したりすることも、当然避けられてしかる
べきことである。むしろ、世の中が「地獄道の到来」が原因で、餓鬼界や畜生界に
分断されてしまっていると考えるほうが道義性にも即しているし、現実の実相にも
合致している。どこかに政商犯罪すらをも駆使しての富の偏在の激化を企てている
ような連中がいるからこそ、徳治も完全に滞って、守銭奴の横暴が野放しになって
しまいもするわけだから、そのような政商犯を地獄道の所業であると捉えて、道義
的に許されざるものとして大いに卑しむようにするほうが理に適うことともなる。
緩和されて行くのが徳治の行き届いた治世である一方、富の偏在がより
深刻化してしまうのが徳治の行き詰った乱世である。徳治の手法自体は儒家の
定立するような公権力者による作為的統治だったり、道家の定立するような
無為自然の統治だったり、仏門の出家者による民の教化だったりと様ざまでは
あるが、どんな形であれ徳治が行き届いているような世の中では、富の偏在
による世相の荒廃などには一定以上の歯止めがかけられて行くものである。
世の中がただひたすら私利私益を貪り続けて止まない畜生人種と、そのせいで
困窮に見舞われてしまった餓鬼人種とに両極化されてしまうのが乱世の決定的な
特色であり、その結果として戦乱や犯罪率の増加などをも来たしてしまうこと
となる。乱世を司る権力者たるや、そのおかげで自分たちが天下の公益に反する
巨万の富に与れていることが嬉しくて、世相がそのようなままであることをどう
にかして正当化しようともする。富の偏在の極度化を「格差社会の到来」などと
いう言葉で定義し、世の中を「勝ち組」と「負け組」などという派閥に分けよう
とすらする。それは、乱世での経済的成功者を「畜生」と呼び、経済的敗北者を
「餓鬼」と呼ぶ仏教の六道論的な世相解釈などと比べれば、不埒な正当化の要素
を帯びているわけで、徳治をよしとする観点からすればそのような世相の解釈は
避けて、あえて餓鬼や畜生のような如実な解釈を優先すべきだと考えられる。
富の偏在を架空の神託によって正当化したりすることも、当然避けられてしかる
べきことである。むしろ、世の中が「地獄道の到来」が原因で、餓鬼界や畜生界に
分断されてしまっていると考えるほうが道義性にも即しているし、現実の実相にも
合致している。どこかに政商犯罪すらをも駆使しての富の偏在の激化を企てている
ような連中がいるからこそ、徳治も完全に滞って、守銭奴の横暴が野放しになって
しまいもするわけだから、そのような政商犯を地獄道の所業であると捉えて、道義
的に許されざるものとして大いに卑しむようにするほうが理に適うことともなる。
富の偏在の深刻化が世相の荒廃や戦乱を招いてしまう一方で、世人たちの富の
追求が世の中を発展させて行く原動力となることもまた確かなことなので、共産
革命などによって人々から富の追及の余地を完全に奪い去ってしまうこともまた
よろしくない。商人に代表される富の追求者の活動もそれなりに許容はするが、
それ以上にも農業や必需工業への従事者などをより尊ぶようにする、商人らの活動
の激化に外的な歯止めを利かせる役目を公務員が担って、そのような役儀を全う
している公務員こそを世の中でも至尊の地位にある貴人として尊ぶようにする
などして、人々の富への追求意欲を損なうことなく、富の偏在にトップダウンな
制限をかけていくことが現実的な社会統治の手段として最も道義に適うこととなる。
いわば、商売人にもそれなりの自由を与えてやるためにこそ、そこに最低限以上
の統制をかけて行く公務員が尊崇の対象となる必要が出て来るわけで、商売人が
自分たちで自主的に富の偏在を是正できるのならば、そんな義務性を帯びたりする
こともないわけである。しかし哀しいかな、商売を生業とするような人間が、その
ような自制心を自得することなどは原理的に不可能と来ている。世の中の大局が見え
なくなる程にも、私利私益ばかりに目を向けていればこそ「一人前の商売人」たり得
もするわけだから、やはり外的にその手綱を握る人間が必要となってしまうのである。
人間、何の徳義もない所では、貧しい人間よりも裕福な人間のほうを羨んでしまう
ものなので、自分たちが裕福でないにも関わらず、裕福な商人たちを取り締まりの
対象とする公務員の存在価値を知らしめるために、そのような立場の人間を義務的な
尊崇の対象ともしなければならない。政財が癒着して自分たち自身が経済的にウハウハ
でいるような公務員であれば尊崇の対象としたりすべきでもないが、自分たちがあえて
富豪との癒着などを断って、完全に外的な立場から富豪を取り締まりの対象にするよう
な公務員ともなれば、これはもう世間でも至上の人種として崇めないわけにはいかない。
追求が世の中を発展させて行く原動力となることもまた確かなことなので、共産
革命などによって人々から富の追及の余地を完全に奪い去ってしまうこともまた
よろしくない。商人に代表される富の追求者の活動もそれなりに許容はするが、
それ以上にも農業や必需工業への従事者などをより尊ぶようにする、商人らの活動
の激化に外的な歯止めを利かせる役目を公務員が担って、そのような役儀を全う
している公務員こそを世の中でも至尊の地位にある貴人として尊ぶようにする
などして、人々の富への追求意欲を損なうことなく、富の偏在にトップダウンな
制限をかけていくことが現実的な社会統治の手段として最も道義に適うこととなる。
いわば、商売人にもそれなりの自由を与えてやるためにこそ、そこに最低限以上
の統制をかけて行く公務員が尊崇の対象となる必要が出て来るわけで、商売人が
自分たちで自主的に富の偏在を是正できるのならば、そんな義務性を帯びたりする
こともないわけである。しかし哀しいかな、商売を生業とするような人間が、その
ような自制心を自得することなどは原理的に不可能と来ている。世の中の大局が見え
なくなる程にも、私利私益ばかりに目を向けていればこそ「一人前の商売人」たり得
もするわけだから、やはり外的にその手綱を握る人間が必要となってしまうのである。
人間、何の徳義もない所では、貧しい人間よりも裕福な人間のほうを羨んでしまう
ものなので、自分たちが裕福でないにも関わらず、裕福な商人たちを取り締まりの
対象とする公務員の存在価値を知らしめるために、そのような立場の人間を義務的な
尊崇の対象ともしなければならない。政財が癒着して自分たち自身が経済的にウハウハ
でいるような公務員であれば尊崇の対象としたりすべきでもないが、自分たちがあえて
富豪との癒着などを断って、完全に外的な立場から富豪を取り締まりの対象にするよう
な公務員ともなれば、これはもう世間でも至上の人種として崇めないわけにはいかない。
民主主義だの資本主義だのが、人類の理想扱いにすらされてしまっている昨今において、
封建制を主体としていたかつての徳治の手法などは、旧態依然としたものとしてばかり
見なされているが、世の中の実相というものをよく計り知ったうえであれば、それが
完璧なほどに理に適っていたことが今でも明らかになる。共産制や独裁制はおろか、
民主制や共和制もまた人間社会の実相にそぐわないことが世の中総出で思い知らされる
こととなった昨今、かつては民間人たちが不本意極まりないものとして強いられていた
徳治のための封建制に、最極悪の商売人を含む誰しもが心からの承諾と共に立ち返るべき
時が来ているといえる。商人に代表される民間人までもが、封建統治の大切さを自主的
に計り知る機会となり得たことは、民主化時代という時代の怪我の功名だったといえる。
「三軍も師を奪うべし。匹夫も志しを奪うべからず。(既出。その理由は以下の如く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二六より)
「言、物有りて、行、格有るなり。是れを以て生きては則ち志しを奪う可からず、
死しては則ち名を奪う可からず。故に君子は多くを聞き、質して之れを守り、志し
多くして、質して之れに親しみ精しく知りて、略して之れを行う。君陳に曰く、出入
爾じの師に自りて虞れば、庶言同じからんと。詩に云く、淑人君子、其の儀は一なりと」
「言葉には必ずそれに対応する物があり、行いには必ずそれに対応する格式というもの
がある。そのため生きている人間から志しまでをも奪うことはできないし、死んだ人間
からその名までをも奪うこともできない(つまり、諸法実相が真理だから志しや名まで
をも奪うことはできない)。そのため君子はなるべく多くのことを聞いて、それにより
身を正して節操を守り、志しをより旺盛なものとし、身を正すことに親しんでそこから
さらに詳しい見識を得て、略してこれを実践に移す。そのため、書経の君陳にも『情報
の需給を自己に即して御してみれば、庶人も同じように考えていることが分かる』と
あるし、詩経の鳲鳩にも『淑人君子の儀は、根本のところは一つである』ともある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)
封建制を主体としていたかつての徳治の手法などは、旧態依然としたものとしてばかり
見なされているが、世の中の実相というものをよく計り知ったうえであれば、それが
完璧なほどに理に適っていたことが今でも明らかになる。共産制や独裁制はおろか、
民主制や共和制もまた人間社会の実相にそぐわないことが世の中総出で思い知らされる
こととなった昨今、かつては民間人たちが不本意極まりないものとして強いられていた
徳治のための封建制に、最極悪の商売人を含む誰しもが心からの承諾と共に立ち返るべき
時が来ているといえる。商人に代表される民間人までもが、封建統治の大切さを自主的
に計り知る機会となり得たことは、民主化時代という時代の怪我の功名だったといえる。
「三軍も師を奪うべし。匹夫も志しを奪うべからず。(既出。その理由は以下の如く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二六より)
「言、物有りて、行、格有るなり。是れを以て生きては則ち志しを奪う可からず、
死しては則ち名を奪う可からず。故に君子は多くを聞き、質して之れを守り、志し
多くして、質して之れに親しみ精しく知りて、略して之れを行う。君陳に曰く、出入
爾じの師に自りて虞れば、庶言同じからんと。詩に云く、淑人君子、其の儀は一なりと」
「言葉には必ずそれに対応する物があり、行いには必ずそれに対応する格式というもの
がある。そのため生きている人間から志しまでをも奪うことはできないし、死んだ人間
からその名までをも奪うこともできない(つまり、諸法実相が真理だから志しや名まで
をも奪うことはできない)。そのため君子はなるべく多くのことを聞いて、それにより
身を正して節操を守り、志しをより旺盛なものとし、身を正すことに親しんでそこから
さらに詳しい見識を得て、略してこれを実践に移す。そのため、書経の君陳にも『情報
の需給を自己に即して御してみれば、庶人も同じように考えていることが分かる』と
あるし、詩経の鳲鳩にも『淑人君子の儀は、根本のところは一つである』ともある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)
権力犯罪聖書——通称聖書の言葉にもそれなりに聞こえのいいものがあり、
そればかりを読んだだけでは到底、それが一切皆悪の癲狂の書であると
までは察し難い。しかし、四書五経のような純正な善徳に根ざした聖書
の言葉と対照してみれば、そこにただの一つとして人間が模範の対象と
するに値するような言葉が書かれてはいないことが明らかとなるのである。
どのような基準に即して判別すれば、両者の是非善悪が如実となるのかと
いえば、それは「その記述を権力機構の運営に適用してみればどうなるか」
という所で如実となる。片や半永久的な天下国家の安寧をもたらす一方で、
片や万年戦乱状態や人類滅亡の危機すらをももたらすものであることから、
四書五経の記述こそは純正な善徳に根ざしている一方で、通称聖書の記述
は到底許しようのない害悪にまみれていることが如実となるのである。
両者の記述を個々人の修養規範に適用する場合においても、片や
聖賢としての達観や精神的成長を受容者に促す一方で、片や精神薄弱や
サイコパスに陥った愚人を量産してしまうといった相違が生ずるわけで、
それはそれで四書五経と通称聖書の記述の品質の優劣良悪を判別する
材料となるわけだけれども、聖書信仰のせいで精神薄弱やサイコパスに
陥った愚人たるや、自分たちの精神的な不能さこそを「神の愛に包まれて
いる姿」などといった適当な理由によって正当化しようともするので、
四書五経と通称聖書の記述の優劣を決定付ける要素としての確度では劣る。
そればかりを読んだだけでは到底、それが一切皆悪の癲狂の書であると
までは察し難い。しかし、四書五経のような純正な善徳に根ざした聖書
の言葉と対照してみれば、そこにただの一つとして人間が模範の対象と
するに値するような言葉が書かれてはいないことが明らかとなるのである。
どのような基準に即して判別すれば、両者の是非善悪が如実となるのかと
いえば、それは「その記述を権力機構の運営に適用してみればどうなるか」
という所で如実となる。片や半永久的な天下国家の安寧をもたらす一方で、
片や万年戦乱状態や人類滅亡の危機すらをももたらすものであることから、
四書五経の記述こそは純正な善徳に根ざしている一方で、通称聖書の記述
は到底許しようのない害悪にまみれていることが如実となるのである。
両者の記述を個々人の修養規範に適用する場合においても、片や
聖賢としての達観や精神的成長を受容者に促す一方で、片や精神薄弱や
サイコパスに陥った愚人を量産してしまうといった相違が生ずるわけで、
それはそれで四書五経と通称聖書の記述の品質の優劣良悪を判別する
材料となるわけだけれども、聖書信仰のせいで精神薄弱やサイコパスに
陥った愚人たるや、自分たちの精神的な不能さこそを「神の愛に包まれて
いる姿」などといった適当な理由によって正当化しようともするので、
四書五経と通称聖書の記述の優劣を決定付ける要素としての確度では劣る。
そればかりを信認することを、自分たちのみならず全世界の人々にまで
強要していたりしたならば、そのせいで本当に人類が滅亡にすら陥って
しまうのだから、通称聖書が決定的な粗悪さを帯びていることはやはり、
それを天下国家規模の受容対象とした場合にこそ完全に明らかになると
いえる。それは聖書信者たちも薄々感づいてはいることなので、にもかか
わらず信仰を存続して行くための苦肉の手段として、世界の大局などを気
にしたりすることはできる限り避けるようにし、自分個人がどうであるか
ばかりを気にすることこそは堅実で道義に適ったことだなどとすら思い込
もうとする。それでも世界が本当に滅亡の一歩手前まで行けば、自分たち
の生存のために聖書信仰を破棄する他なくなるが、その瞬間までは辛うじ
て、そのような自己欺瞞によって信仰を続けて行こうとするのである。
自分を始めとする個々の人間がどうであるか以上にも、世の中の大局
こそをより慮るべきである、それが可能である人間こそを君子として尊び、
それができない人間を小人として卑しむべきだとするのは、聖書信仰に
即して是とされることでもなければ、孔孟を始祖とする儒学自体によって
論理的に定立されていることでもない。儒学よりもさらに以前、今から約
5300年前に伏羲氏が八卦を考案し、約3100年前に文王や周公が易経を確立
させた頃までに醸成されていた易学こそがそれを形而上的な観点に即して
確証しているわけなので、まず易学から尊重の対処として行くことで初め
て、大局本位局部末位の位相解釈を承諾して行くことができるようになる。
強要していたりしたならば、そのせいで本当に人類が滅亡にすら陥って
しまうのだから、通称聖書が決定的な粗悪さを帯びていることはやはり、
それを天下国家規模の受容対象とした場合にこそ完全に明らかになると
いえる。それは聖書信者たちも薄々感づいてはいることなので、にもかか
わらず信仰を存続して行くための苦肉の手段として、世界の大局などを気
にしたりすることはできる限り避けるようにし、自分個人がどうであるか
ばかりを気にすることこそは堅実で道義に適ったことだなどとすら思い込
もうとする。それでも世界が本当に滅亡の一歩手前まで行けば、自分たち
の生存のために聖書信仰を破棄する他なくなるが、その瞬間までは辛うじ
て、そのような自己欺瞞によって信仰を続けて行こうとするのである。
自分を始めとする個々の人間がどうであるか以上にも、世の中の大局
こそをより慮るべきである、それが可能である人間こそを君子として尊び、
それができない人間を小人として卑しむべきだとするのは、聖書信仰に
即して是とされることでもなければ、孔孟を始祖とする儒学自体によって
論理的に定立されていることでもない。儒学よりもさらに以前、今から約
5300年前に伏羲氏が八卦を考案し、約3100年前に文王や周公が易経を確立
させた頃までに醸成されていた易学こそがそれを形而上的な観点に即して
確証しているわけなので、まず易学から尊重の対処として行くことで初め
て、大局本位局部末位の位相解釈を承諾して行くことができるようになる。
易学自体は、抽象的に過ぎるため、世の中の諸問題に直接的に適用する
のには不適な場合が多い。だからこそ孔子や孟子も易学から半ば独立した
ような社会的道徳学を儒学として確立して行ったわけで、両者を場合に
よって使い分けるようにするのが適切となる。易学にまで遡らない儒学を
顕教とすれば、易学をも兼修の対象とする儒学は密教だといえるわけで、
後者のような儒学の取り扱い方をすることで初めて、社会的儒学と決定的
な教理の相違を帯びている聖書信仰などを相手取った場合の勧善懲悪を
完遂していけるようになる。残念ながら、今の世界には聖書信仰が存在
してしまっているわけなので、易学にまで遡る密教的な儒学の修養も
また、一定度以上に試みられて行くことが必須ともなっている。
「世乱るれば則ち〜広きときに姦を容るる。〜
條暢の気を感ぜしめて平和の徳を滅す。是れを以て君子は之れを賤しむなり」
「世が乱れている時には、素直な者がだからといって姦邪なものを受け入れる。
そのせいで天地に行き渡っている穏やかな気風が損なわれて、平和の徳が損な
われることともなる。君子はこのようなことこそを卑しんで、由しとしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
のには不適な場合が多い。だからこそ孔子や孟子も易学から半ば独立した
ような社会的道徳学を儒学として確立して行ったわけで、両者を場合に
よって使い分けるようにするのが適切となる。易学にまで遡らない儒学を
顕教とすれば、易学をも兼修の対象とする儒学は密教だといえるわけで、
後者のような儒学の取り扱い方をすることで初めて、社会的儒学と決定的
な教理の相違を帯びている聖書信仰などを相手取った場合の勧善懲悪を
完遂していけるようになる。残念ながら、今の世界には聖書信仰が存在
してしまっているわけなので、易学にまで遡る密教的な儒学の修養も
また、一定度以上に試みられて行くことが必須ともなっている。
「世乱るれば則ち〜広きときに姦を容るる。〜
條暢の気を感ぜしめて平和の徳を滅す。是れを以て君子は之れを賤しむなり」
「世が乱れている時には、素直な者がだからといって姦邪なものを受け入れる。
そのせいで天地に行き渡っている穏やかな気風が損なわれて、平和の徳が損な
われることともなる。君子はこのようなことこそを卑しんで、由しとしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
フロイトが「リビドー」だとか「デストルドー」たとかいった言葉で示そう
とした生成衝動だとか破壊衝動だとかが、人間にもまた本能的に備わっている。
それは、人間よりも下等な動物すらもが持ち合わせているごく原始的な本能
であり、高度な知能や能力を持ち合わせている人間すらもがただただ無軌道な
ままにさせていたりすれば、そのせいでの破滅すらをも招きかねないものである。
特に、破壊衝動が破滅を招きかねないということはほぼ世界中の人間によって
古くから察せられて来たものだから、破壊衝動の統制こそが第一の課題として
取り組まれて来た頻度が高い。中でも、西洋社会こそは破壊衝動の専らな抑制
ばかりを旨として来た社会であり、「破壊衝動などないに越したことはないもの」
という考えを倫理的には決め込んだ上での一概な生成志向ばかりで在り続けて
来たのである。しかし、実際問題として人間には破壊衝動もまた本能として
備わっているものだから、全くの反倫理志向を開き直っての、専らな暴力の
発露すらをも一つの分野としては嗜んで来た。だからこそ西洋人こそは現代
世界でも最大級の軍力を自分たちで溜め込んですらいるわけで、その内でも
特に過剰な核軍備が人類の滅亡にすら直結するような危機をもたらしている
からには、一概な生成志向こそを倫理的なものだとする考え方からして、
諸法実相の真理にそぐわない誤った考え方だったことを示しているのである。
生成衝動も破壊衝動も無軌道なままにさせておくことでもなければ、破壊衝動を
専らな非として、生成衝動ばかりを是とすることでもなく、破壊衝動と生成衝動
の絶妙な調和を図って行くことこそは、人間という生物がその本分を全うして
行く上での最善の施策となる。それは、古くは老子の四季の移り変わりなどを
参考にした生滅恒常の理の定立だとか、インド神話における破壊神と創造神と
維持神の三神一体とかいった叡智によっても把握されていたことである。
とした生成衝動だとか破壊衝動だとかが、人間にもまた本能的に備わっている。
それは、人間よりも下等な動物すらもが持ち合わせているごく原始的な本能
であり、高度な知能や能力を持ち合わせている人間すらもがただただ無軌道な
ままにさせていたりすれば、そのせいでの破滅すらをも招きかねないものである。
特に、破壊衝動が破滅を招きかねないということはほぼ世界中の人間によって
古くから察せられて来たものだから、破壊衝動の統制こそが第一の課題として
取り組まれて来た頻度が高い。中でも、西洋社会こそは破壊衝動の専らな抑制
ばかりを旨として来た社会であり、「破壊衝動などないに越したことはないもの」
という考えを倫理的には決め込んだ上での一概な生成志向ばかりで在り続けて
来たのである。しかし、実際問題として人間には破壊衝動もまた本能として
備わっているものだから、全くの反倫理志向を開き直っての、専らな暴力の
発露すらをも一つの分野としては嗜んで来た。だからこそ西洋人こそは現代
世界でも最大級の軍力を自分たちで溜め込んですらいるわけで、その内でも
特に過剰な核軍備が人類の滅亡にすら直結するような危機をもたらしている
からには、一概な生成志向こそを倫理的なものだとする考え方からして、
諸法実相の真理にそぐわない誤った考え方だったことを示しているのである。
生成衝動も破壊衝動も無軌道なままにさせておくことでもなければ、破壊衝動を
専らな非として、生成衝動ばかりを是とすることでもなく、破壊衝動と生成衝動
の絶妙な調和を図って行くことこそは、人間という生物がその本分を全うして
行く上での最善の施策となる。それは、古くは老子の四季の移り変わりなどを
参考にした生滅恒常の理の定立だとか、インド神話における破壊神と創造神と
維持神の三神一体とかいった叡智によっても把握されていたことである。
実際に、破壊神シヴァを最も親しみ深い神の一つとして崇め続けているインド
こそは、世界でも最高級に平和状態の確立された社会で在り続けているし、武勇を
尊んでいた時代の中国人や日本人こそは、政治腐敗を早急に打ち滅ぼしての清廉
な社会統治に取り組めていたりもした。破壊衝動が真理の悟りだとか、体系的な
道徳意識だとかとそれなりに歩調を合わせられたならば、むしろそのような素養
を養えている武将なり武士なりのほうが泰平の世を司る礎にすらなってくれる。
生成衝動だけでなく、破壊衝動すらをも仁政などのために善用できるのは君子
の男だけであり、これはどんなに多く見積もっても世界の少数派でしかあり得
ない人種である。世の中の大多数を占める女子供や小人男は、破壊衝動を善用する
ことも、破壊衝動の存在価値をそれなりに計り知ることもできないわけなので、
そのようなカウンターバランスの補完のためには、あえて破壊衝動こそを生成衝動
以上にも社会的価値の高いものとして尊ぶぐらいのことですらあるべきである。
どこの文明社会にも軍人ぐらいはいるが、その軍人が人並み以上に高貴な身分
として尊ばれていた社会となれば、それは日本の武家社会ぐらいのものである。
しかしその武家社会の完成形である江戸社会こそは、当時としては世界最高級の
泰平や繁栄を実現できていたわけで、破壊を司る人種こそが尊ばれることがその
ような功績をもたらすことも実際にあるのだという実例になっているといえる。
こそは、世界でも最高級に平和状態の確立された社会で在り続けているし、武勇を
尊んでいた時代の中国人や日本人こそは、政治腐敗を早急に打ち滅ぼしての清廉
な社会統治に取り組めていたりもした。破壊衝動が真理の悟りだとか、体系的な
道徳意識だとかとそれなりに歩調を合わせられたならば、むしろそのような素養
を養えている武将なり武士なりのほうが泰平の世を司る礎にすらなってくれる。
生成衝動だけでなく、破壊衝動すらをも仁政などのために善用できるのは君子
の男だけであり、これはどんなに多く見積もっても世界の少数派でしかあり得
ない人種である。世の中の大多数を占める女子供や小人男は、破壊衝動を善用する
ことも、破壊衝動の存在価値をそれなりに計り知ることもできないわけなので、
そのようなカウンターバランスの補完のためには、あえて破壊衝動こそを生成衝動
以上にも社会的価値の高いものとして尊ぶぐらいのことですらあるべきである。
どこの文明社会にも軍人ぐらいはいるが、その軍人が人並み以上に高貴な身分
として尊ばれていた社会となれば、それは日本の武家社会ぐらいのものである。
しかしその武家社会の完成形である江戸社会こそは、当時としては世界最高級の
泰平や繁栄を実現できていたわけで、破壊を司る人種こそが尊ばれることがその
ような功績をもたらすことも実際にあるのだという実例になっているといえる。
子供にとって、自らを生み育ててくれた母親こそは最も親しみやすいものである
けれども、その母親ばかりでなく、謹厳でとっつき辛いような父親への尊崇にも
励むことで初めて、子供もまた立派な大人へと成長して行くことができるように
なる。そこでもやはり、あえて親しみ辛い父親をあえて尊ぶ疎ましさを相殺する
ために、母親以上にも父親を尊ぶぐらいの心がけが必要とすらなるのである。
生成も破壊も、どちらも人の世のことわりではあるが、生成ぐらい誰でも望み
親しめるものであるわけだから、倫理的な統制のきいた破壊を生成以上にも
尊べるぐらいのバランス感であるのが最も好ましい。世の中も産業従事者があって
こそのものではあるが、そこに制限的な統制を加える君子階級の人間を産業従事者
以上にも尊べるぐらいであって初めて、世の中もいい塩梅で司られるようになる。
どちらがアリでどちらがナシなどという極論ではなく、あくまで中正を記した
均衡論であることを踏まえた上で、上記のような論説に即して行くべきだといえる
「君子無くんば野人を治むる莫く、野人無くんば君子を養う莫し」
「公人がいなければ民間人を治める者もいないし、民間人がいなければ公人を
養う人間もいない。(君子たる公人もまた、民を養うよりは民に養われるのである。
しかし、そうである代わりに世の中を穏便に治めて行くわけで、その『世を治める』
という行為が、民間人が『君子を養う』という行為以上にも根本的に重大なことで
あるから、君子たる公人こそは身分的には民間人の上に置かれるべきなのである。
『養う』とか『恵む』とかいったこと以上にも大事なことがあるという実例。人間は
恵み深い母性以上にも、謹厳な父性によって根本的に司られて行くものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
けれども、その母親ばかりでなく、謹厳でとっつき辛いような父親への尊崇にも
励むことで初めて、子供もまた立派な大人へと成長して行くことができるように
なる。そこでもやはり、あえて親しみ辛い父親をあえて尊ぶ疎ましさを相殺する
ために、母親以上にも父親を尊ぶぐらいの心がけが必要とすらなるのである。
生成も破壊も、どちらも人の世のことわりではあるが、生成ぐらい誰でも望み
親しめるものであるわけだから、倫理的な統制のきいた破壊を生成以上にも
尊べるぐらいのバランス感であるのが最も好ましい。世の中も産業従事者があって
こそのものではあるが、そこに制限的な統制を加える君子階級の人間を産業従事者
以上にも尊べるぐらいであって初めて、世の中もいい塩梅で司られるようになる。
どちらがアリでどちらがナシなどという極論ではなく、あくまで中正を記した
均衡論であることを踏まえた上で、上記のような論説に即して行くべきだといえる
「君子無くんば野人を治むる莫く、野人無くんば君子を養う莫し」
「公人がいなければ民間人を治める者もいないし、民間人がいなければ公人を
養う人間もいない。(君子たる公人もまた、民を養うよりは民に養われるのである。
しかし、そうである代わりに世の中を穏便に治めて行くわけで、その『世を治める』
という行為が、民間人が『君子を養う』という行為以上にも根本的に重大なことで
あるから、君子たる公人こそは身分的には民間人の上に置かれるべきなのである。
『養う』とか『恵む』とかいったこと以上にも大事なことがあるという実例。人間は
恵み深い母性以上にも、謹厳な父性によって根本的に司られて行くものなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)

ものでもない。天地の内側に寄生虫かガン細胞のように巣食って、健全な事物の
化育を損ねては劣悪な事態を招くといった条件ばかりを満たしている。逆言すれば、
そのような条件を満たしている教学こそは邪教邪学であると定義することができる
とも言えるわけで、今まで世界に通用する正統な教学だと思われていたものがその
ような条件を満たしていると判明した結果、新たに邪教や邪学であると断定されて、
肯定的な受容の廃絶や禁止が執り行われるようなこともあるべきなのである。
自己相似系の曼荼羅構造がこの世界この宇宙の真理に合致していると密教でも
提唱されているし、現代科学でもある程度そのような主張の妥当性が認められ
始めている。還元的な物理現象のみならず、具体的な社会現象もまたその多くが
自己相似系の条件を満たしているために、社会の内側でガン細胞のような独立的
かつ悪質な単体構造を形成するカルト的人間集団などが、自分たちの言行規範と
なっている邪教の教条こそは全世界全宇宙の理法すらをも司っているなどという
風に勘違いしてしまったりもする。「自分の見えている世界だけが全世界だ」
などという思い込みと共にであれば、実際にそのような邪教によって全世界が
司られているようにも思われるわけで、井の中の蛙然とした見識の持ち主で
あれば、そのような思い込みの中だけで一生を過ごすことすらできなくもない。
ある特定の真っ当な教学を受容したりする以前に、上記のようなカルトへの没入を
避けて、受容するとしても至当な教学だけを受容するようにして行くための基本的
な姿勢というものがある。自分が親に対する子であったり、社会における狭隘な
部分集合であったりする場合には恭謙の限りを尽くして、間違ってもそのような
立場から世界や宇宙の大局を分かったようなフリになったりもしないようにする
ことである。同じ職分であったりするのなら、子よりも親のほうが経験値から
いって世の中のことをより知っているものだし、商売人やその他の末業従事者など
よりは、天下国家を直接的に司るような職務に就いている公人のほうが世の中のこと
を分かっているものだから(民主制度下の公人などはこの限りでもない)、子集合
に属するような分際でいて、親集合に相当する立場の人間よりも何かにかけての大局
を理解しているなどというような思い上がりを抱いたりしないようにすべきである。
——といった風な姿勢を守るようにしていれば、至当な教学が至当たり、姦邪な
教学が姦邪たることまでもがよく判然とするようになる。井の中の蛙然とした
精神状態にあることで初めて天地の理法すらをも司っていると思い込まれるような
邪教が、全く以ってそのような条件を満たせているわけでもないガン細胞人種
マニュアルでしかなかったことが明瞭ともなる。一方で、至当な教学でそうであり
得ている理由もまた明らかになる。世の中の大局からの実相を、それぞれの分野
に即して厳格に把捉して、そこで人が如何なる立ち居振る舞いを心がけるべきで
あるのかを誠実に探求し抜いていることが知れるものだから、自らも誠心誠意と
共にそのような教学を実践したり、そのような教学の創始者の如き偉大な聖賢へと
自らが昇華されることをもできることなら目指そうとすらするようになるのである。
避けて、受容するとしても至当な教学だけを受容するようにして行くための基本的
な姿勢というものがある。自分が親に対する子であったり、社会における狭隘な
部分集合であったりする場合には恭謙の限りを尽くして、間違ってもそのような
立場から世界や宇宙の大局を分かったようなフリになったりもしないようにする
ことである。同じ職分であったりするのなら、子よりも親のほうが経験値から
いって世の中のことをより知っているものだし、商売人やその他の末業従事者など
よりは、天下国家を直接的に司るような職務に就いている公人のほうが世の中のこと
を分かっているものだから(民主制度下の公人などはこの限りでもない)、子集合
に属するような分際でいて、親集合に相当する立場の人間よりも何かにかけての大局
を理解しているなどというような思い上がりを抱いたりしないようにすべきである。
——といった風な姿勢を守るようにしていれば、至当な教学が至当たり、姦邪な
教学が姦邪たることまでもがよく判然とするようになる。井の中の蛙然とした
精神状態にあることで初めて天地の理法すらをも司っていると思い込まれるような
邪教が、全く以ってそのような条件を満たせているわけでもないガン細胞人種
マニュアルでしかなかったことが明瞭ともなる。一方で、至当な教学でそうであり
得ている理由もまた明らかになる。世の中の大局からの実相を、それぞれの分野
に即して厳格に把捉して、そこで人が如何なる立ち居振る舞いを心がけるべきで
あるのかを誠実に探求し抜いていることが知れるものだから、自らも誠心誠意と
共にそのような教学を実践したり、そのような教学の創始者の如き偉大な聖賢へと
自らが昇華されることをもできることなら目指そうとすらするようになるのである。
結局、そのような個々の教学の正邪を計り知れるようになるための恭謙な態度
姿勢を会得するために有効となるのが、仁義忠孝を奨励する儒学の学習や実践なの
でもある。儒学自体はそこまで高遠な事象を取り扱っているわけではないが、より
高遠な事物を取り扱っている教学の正邪を判別して、正しい教学だけを受容して、
そうでない教学を排したりして行く上での第一の手がかりともなるのである。
儒学を受容すらしなくても、先天的な素養によってそれが可能となるのであれば
それに越したこともないが、邪教邪学が蔓延している現代のような時代においては、
たとえそのような素養があった所で後天的にその素養が損なわれて、クソミソな
教学の受容しかできなくなってしまっている可能性が極めて高いので、まずは儒学
を学び抜いてから、より高遠な教学を受容することへと進学して行くようにして
することが、天下万人にとっての義務的な要求にすらなっているのだといえる。
「曾子曰く、夫れ孝は、之れを置きて天地に塞がり、之れを溥めて四海に
横たわり、諸れを後世に施して朝夕無く、推して東海に放りて準い、推して
西海に放りて準い、推して南海に放りて準い、推して北海に放りて準う。詩に
西より東より、南より北より、思いて服せざる無しと云えるは、此れ之の謂いなり」
「曾先生の言葉。孝の教えは天地に満遍なく満たされ得るものである。これを広めよう
とすれば四海の果てにまで広がり、後世に伝えようとすれば朝晩の区別もなく伝えられ
続ける。東海にも西海にも南海にも北海にも、伝えればそれを模範としないものがない。
詩経大雅の文王有声にも『西からも東からも南からも北からも、思い慕って
服さないものが無い』とあるのは、まさにこのことを言っているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
姿勢を会得するために有効となるのが、仁義忠孝を奨励する儒学の学習や実践なの
でもある。儒学自体はそこまで高遠な事象を取り扱っているわけではないが、より
高遠な事物を取り扱っている教学の正邪を判別して、正しい教学だけを受容して、
そうでない教学を排したりして行く上での第一の手がかりともなるのである。
儒学を受容すらしなくても、先天的な素養によってそれが可能となるのであれば
それに越したこともないが、邪教邪学が蔓延している現代のような時代においては、
たとえそのような素養があった所で後天的にその素養が損なわれて、クソミソな
教学の受容しかできなくなってしまっている可能性が極めて高いので、まずは儒学
を学び抜いてから、より高遠な教学を受容することへと進学して行くようにして
することが、天下万人にとっての義務的な要求にすらなっているのだといえる。
「曾子曰く、夫れ孝は、之れを置きて天地に塞がり、之れを溥めて四海に
横たわり、諸れを後世に施して朝夕無く、推して東海に放りて準い、推して
西海に放りて準い、推して南海に放りて準い、推して北海に放りて準う。詩に
西より東より、南より北より、思いて服せざる無しと云えるは、此れ之の謂いなり」
「曾先生の言葉。孝の教えは天地に満遍なく満たされ得るものである。これを広めよう
とすれば四海の果てにまで広がり、後世に伝えようとすれば朝晩の区別もなく伝えられ
続ける。東海にも西海にも南海にも北海にも、伝えればそれを模範としないものがない。
詩経大雅の文王有声にも『西からも東からも南からも北からも、思い慕って
服さないものが無い』とあるのは、まさにこのことを言っているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
同じ貧農の出身であるにも関わらず、劉邦は四百年にも渡る治世をもたらした
大帝国の始祖たり得た一方で、豊臣秀吉は信長の権勢を受け継ぐ形で天下を統一し、
明朝から「日王」の称号を賜るに止まった上、たった二代で家門を絶やすようなザマ
に陥ってしまった。(しかも二代の秀頼にすら、淀殿の婚外子だった疑いがある)
両者の間にどのような違いがあったのかといって、本人たち自身の間に決定的な
積極性の有無という相違があった点である。劉邦のほうは、自分から好き好んで上
を目指すというよりは、周囲の人間に押し立てられる形で天下取りへと上り詰めて
行ったし、中国を統一して後、皇帝に即位する段になっても、自分ではあえて拒む
姿勢を取り、周囲に懇願されてやっとその地位に就くことを承認したのだった。一方、
秀吉のほうはといえば、自ら躍起になって下克上を志し、信長死後の清洲会議に
おいても、信長の子孫や筆頭家老の柴田勝家らを凌ぐ形で、有力な後継者としての
地位を固め、ほとんど自らの手腕一つで九州四国や小田原といった日本の端々まで
をも配下に置いて行った。天下統一後には、海の向こうの明にまで自らを皇帝として
認める旨の要求をし、それが通らず「日王」の称号を寄越されたからには憤慨して
朝鮮侵略に及び始めるなど、それはそれは権力欲まみれの人生を送り通したのだった。
権力欲のみならず、財産欲の面でも劉邦と秀吉との間には大きな開きがあった。
劉邦のほうはといえば、他者への大盤振る舞いには長けていたものの、自らのため
には吝嗇を基本とし、皇帝即位後にも重臣の蕭何が豪壮な宮殿(未央宮)を自分の
ために造営したことに腹を立てたりしていた。一方、秀吉はといえば天下統一後には
遊興三昧でいて、酒池肉林の宴を繰り広げるための場所としての聚楽第を建設したり、
利休のような本職の茶道家の眉を潜めさせるほどにも無闇やたらと華美な茶室や茶会
を用意するなどした。片や皇帝になって後も吝嗇第一、片や皇帝にもなれない内から
の贅沢三昧といった差の開きようであったわけで、そこでもやはり、天下を公共的な
観点から取り治めて行く君子としての素養の有無という相違があったことが伺える。
大帝国の始祖たり得た一方で、豊臣秀吉は信長の権勢を受け継ぐ形で天下を統一し、
明朝から「日王」の称号を賜るに止まった上、たった二代で家門を絶やすようなザマ
に陥ってしまった。(しかも二代の秀頼にすら、淀殿の婚外子だった疑いがある)
両者の間にどのような違いがあったのかといって、本人たち自身の間に決定的な
積極性の有無という相違があった点である。劉邦のほうは、自分から好き好んで上
を目指すというよりは、周囲の人間に押し立てられる形で天下取りへと上り詰めて
行ったし、中国を統一して後、皇帝に即位する段になっても、自分ではあえて拒む
姿勢を取り、周囲に懇願されてやっとその地位に就くことを承認したのだった。一方、
秀吉のほうはといえば、自ら躍起になって下克上を志し、信長死後の清洲会議に
おいても、信長の子孫や筆頭家老の柴田勝家らを凌ぐ形で、有力な後継者としての
地位を固め、ほとんど自らの手腕一つで九州四国や小田原といった日本の端々まで
をも配下に置いて行った。天下統一後には、海の向こうの明にまで自らを皇帝として
認める旨の要求をし、それが通らず「日王」の称号を寄越されたからには憤慨して
朝鮮侵略に及び始めるなど、それはそれは権力欲まみれの人生を送り通したのだった。
権力欲のみならず、財産欲の面でも劉邦と秀吉との間には大きな開きがあった。
劉邦のほうはといえば、他者への大盤振る舞いには長けていたものの、自らのため
には吝嗇を基本とし、皇帝即位後にも重臣の蕭何が豪壮な宮殿(未央宮)を自分の
ために造営したことに腹を立てたりしていた。一方、秀吉はといえば天下統一後には
遊興三昧でいて、酒池肉林の宴を繰り広げるための場所としての聚楽第を建設したり、
利休のような本職の茶道家の眉を潜めさせるほどにも無闇やたらと華美な茶室や茶会
を用意するなどした。片や皇帝になって後も吝嗇第一、片や皇帝にもなれない内から
の贅沢三昧といった差の開きようであったわけで、そこでもやはり、天下を公共的な
観点から取り治めて行く君子としての素養の有無という相違があったことが伺える。
天下を公平に治める君子として栄達するためには、個人的な権力欲だの財産欲だの
はむしろないほうがよい。あるとしてもそれを十分に自制できて、自分が得ること
よりも他者が得ることのほうをより優先できるぐらいの消極ぶりであったほうがよい。
そうであればこそ、自らやその子孫が天下に冠たる帝王的地位に就いた場合にも、
人々が欲望を肥大化させて奪い合いだの下克上の企てだのに及ぼうとすることをも
殺いで行くことができるわけで、君子が欲望に目を眩ませるか否かたるや、天下
国家の数百年規模の存亡栄辱すらをも左右するものであることが明らかなのである。
より一層の富貴を志すような貪欲さのみならず、一定の地位の保身に務めようとする
ほどの利欲すらむしろないほうがよい。小役人時代に人夫の徴発を任された劉邦が、
慈悲のあまり人夫たちを取り逃がしてしまい、自らも職務怠惰の逃亡犯としての立場
に身をやつしたりしたのも、本人に挺身的な皇帝となる素養があればこそであった。
本人自身は晩年に多少保身的な性向を抱いてしまうこともあったが、自らの身命すら
をも時に惜しまぬその心意気は息子の文帝らにも受け継がれて、自分たちの生活水準
を引き下げる程にも大々的な福利厚生主体の仁政によって国勢に利するなどしたの
だった。一方で、秀吉の方はといえば、自らが存命中に保身の限りを尽くしたのみ
ならず、唯一生き残った実子である秀頼に甘やかしの限りを尽くしながら、その秀頼
を次代の天下取りに仕立て上げるように家康に強く遺言しながら自らの人生を終える
などした。自らも貪欲さの塊であった上、その性向すらをも受け継がせようとして
いた実子の持続的な栄達すらをも希っていたものだから、そのような望みが叶えられた
結果としての欲望まみれな世相の存続を許さないためにも、豊臣家は大坂の役で滅ぼ
されることとなってしまった。もしも秀頼が父親のような貪欲さをあえてかなぐり
捨てて、高位の官位も返上して大和一国の大名程度に止まることなどを望んだならば、
それで豊臣も存続のしようがあったわけだけれども、結局はそれが選択されることも
なかった。これなどは、君子たるべき立場の人間が高位な立場での保身に務めてしま
ったせいで、自らの家すらをも絶やすこととなってしまった実例であるといえる。
はむしろないほうがよい。あるとしてもそれを十分に自制できて、自分が得ること
よりも他者が得ることのほうをより優先できるぐらいの消極ぶりであったほうがよい。
そうであればこそ、自らやその子孫が天下に冠たる帝王的地位に就いた場合にも、
人々が欲望を肥大化させて奪い合いだの下克上の企てだのに及ぼうとすることをも
殺いで行くことができるわけで、君子が欲望に目を眩ませるか否かたるや、天下
国家の数百年規模の存亡栄辱すらをも左右するものであることが明らかなのである。
より一層の富貴を志すような貪欲さのみならず、一定の地位の保身に務めようとする
ほどの利欲すらむしろないほうがよい。小役人時代に人夫の徴発を任された劉邦が、
慈悲のあまり人夫たちを取り逃がしてしまい、自らも職務怠惰の逃亡犯としての立場
に身をやつしたりしたのも、本人に挺身的な皇帝となる素養があればこそであった。
本人自身は晩年に多少保身的な性向を抱いてしまうこともあったが、自らの身命すら
をも時に惜しまぬその心意気は息子の文帝らにも受け継がれて、自分たちの生活水準
を引き下げる程にも大々的な福利厚生主体の仁政によって国勢に利するなどしたの
だった。一方で、秀吉の方はといえば、自らが存命中に保身の限りを尽くしたのみ
ならず、唯一生き残った実子である秀頼に甘やかしの限りを尽くしながら、その秀頼
を次代の天下取りに仕立て上げるように家康に強く遺言しながら自らの人生を終える
などした。自らも貪欲さの塊であった上、その性向すらをも受け継がせようとして
いた実子の持続的な栄達すらをも希っていたものだから、そのような望みが叶えられた
結果としての欲望まみれな世相の存続を許さないためにも、豊臣家は大坂の役で滅ぼ
されることとなってしまった。もしも秀頼が父親のような貪欲さをあえてかなぐり
捨てて、高位の官位も返上して大和一国の大名程度に止まることなどを望んだならば、
それで豊臣も存続のしようがあったわけだけれども、結局はそれが選択されることも
なかった。これなどは、君子たるべき立場の人間が高位な立場での保身に務めてしま
ったせいで、自らの家すらをも絶やすこととなってしまった実例であるといえる。
劉邦と秀吉とは、その出自が「貧農」という低い身分であった点が共通しているもの
だから、本人たち自身の振る舞いによってその家門規模での命運が両極端に左右されて
しまったことを如実に示す対照例として、絶好なものともなっている。たとえ貧農の
ように低い身分に生まれたとしても、場合によっては天下取りにすらなれるという
実例に両者がなっている一方で、下克上の成功者だからといって、貪欲な性格でも
あったりしたなら、やはり成功を透徹までさせることはできないということを、両者の
人生が対照的に示しているといえる。低い身分からの栄達者であって、なおかつ吝嗇や
挺身すらをも旨とし続けることなどは、舜帝の如き聖賢でもなければ成し得ないこと
であるわけで、その条件を満たす場合にのみ栄達をも透徹させられるということは、
低い身分の人間であっても計り知っておかねばならない教訓であることが、これまた
不埒な下克上を人々が企てたりすることに歯止めをかける格好の材料ともなるのである。
「逸欲を教うること無きは、有邦なり」
「人々に逸欲に耽ったりすることを教えないようにするのが、国を保っていく途である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)
だから、本人たち自身の振る舞いによってその家門規模での命運が両極端に左右されて
しまったことを如実に示す対照例として、絶好なものともなっている。たとえ貧農の
ように低い身分に生まれたとしても、場合によっては天下取りにすらなれるという
実例に両者がなっている一方で、下克上の成功者だからといって、貪欲な性格でも
あったりしたなら、やはり成功を透徹までさせることはできないということを、両者の
人生が対照的に示しているといえる。低い身分からの栄達者であって、なおかつ吝嗇や
挺身すらをも旨とし続けることなどは、舜帝の如き聖賢でもなければ成し得ないこと
であるわけで、その条件を満たす場合にのみ栄達をも透徹させられるということは、
低い身分の人間であっても計り知っておかねばならない教訓であることが、これまた
不埒な下克上を人々が企てたりすることに歯止めをかける格好の材料ともなるのである。
「逸欲を教うること無きは、有邦なり」
「人々に逸欲に耽ったりすることを教えないようにするのが、国を保っていく途である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)
笠地蔵もついにリタイヤか。めでたいのう。
削除(by投稿者)
あらゆる人類の中でも最低最悪の品性の持ち主たち、
匿名にかまけて刑法違反級の罵詈雑言を垂れ流し続けるネット住人たちよ。
これからも、おまえらを完全に無視したりすることはない。
ネット一つできない檻の中におまえらが収容されるその時までは、
おまえらが垂れ流し続ける悪念を全て看取って、常にその裏をかくようにし続ける。
人類の滅亡すら厭わない最低最悪の悪念の持ち主たちの望みを
逐一裏切るようにすれば、それがそのまま最終防衛線死守思想の実践とも
なるわけだから、世のため人のため自分のための最低限以上の福利厚生
のために、半ば義務的にすら続けられて行かねばならないことだといえる。
今後も、NSAや情報保全隊を正式な配下に置きながらであっても、
同様の試みを続けて行く所存だ。この世に悪が蔓延る限り、そ奴らから
最低限以上に世の中を守ろうとする正義もまた、決して絶えることがない。
匿名にかまけて刑法違反級の罵詈雑言を垂れ流し続けるネット住人たちよ。
これからも、おまえらを完全に無視したりすることはない。
ネット一つできない檻の中におまえらが収容されるその時までは、
おまえらが垂れ流し続ける悪念を全て看取って、常にその裏をかくようにし続ける。
人類の滅亡すら厭わない最低最悪の悪念の持ち主たちの望みを
逐一裏切るようにすれば、それがそのまま最終防衛線死守思想の実践とも
なるわけだから、世のため人のため自分のための最低限以上の福利厚生
のために、半ば義務的にすら続けられて行かねばならないことだといえる。
今後も、NSAや情報保全隊を正式な配下に置きながらであっても、
同様の試みを続けて行く所存だ。この世に悪が蔓延る限り、そ奴らから
最低限以上に世の中を守ろうとする正義もまた、決して絶えることがない。
うんこ漏らした。
植草は臭い飯食ってる。
勘当された。
アンアン。
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