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聖書 Part13
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全世界、全人類にとっての最も模範的な聖書たる儒学の聖書=四書五経こそは、あまりにも
程度が高過ぎるために、人類一般が模範とするのは無理があるようなより高尚な教学や、
その手の教学の聖書を理解して体得して行く上での架け橋的な役割すらをも担えるものである。
道家の老荘列思想やヒンズー教の教え、日本神道の精髄などを理解する上での架け橋ともなるし、
世界でも最優等の教理を有する仏門の教えを学んで行く上での素地ともなるものである。
(そのため、弘法大師も最初期の著書である「三教指帰」から教理大成の書である「十住心論」
に至るまで、四書五経を含む儒学の教えを縦横無尽に引き合いに出したりもしている)
それらのより優等な教学と、「低くて親しみやすい」儒学の教理とが必ずしも
相容れているとは限らない。特に、儒学における忠孝の理念と、仏門の出家主義志向
などが決して相容れるものではなく、そのため宋儒の朱子らが一時は禅門に傾倒
しながらも、最終的には仏門を異端排撃の対象とするなどしてしまったのだった。
中国発祥の儒学とインド発祥の仏教とは、いずれにとっても遠征地となるこの日本においてこそ、
ほぼ全く矛盾を来さない形での融和を果たした。儒学は朝廷や幕府や、一家の後取りとなる
長男らがより重んじた一方で、仏門は養子先もないような次男三男や嫁ぎ先のない女子などが
出家先とした。それにより、個々の家門が厳重に尊ばれながらも、人口管理もまたそれなりに
行き届くといった、非常にバランスの取れた社会体制が実現されたのだった。(明治期
の廃仏毀釈や儒学の簡素化以降はこの均衡が破れたために、国土に不相応な人口爆発や、
その副作用としての食糧自給率の低下や少子高齢化といった大問題を招くこととなった)

程度が高過ぎるために、人類一般が模範とするのは無理があるようなより高尚な教学や、
その手の教学の聖書を理解して体得して行く上での架け橋的な役割すらをも担えるものである。
道家の老荘列思想やヒンズー教の教え、日本神道の精髄などを理解する上での架け橋ともなるし、
世界でも最優等の教理を有する仏門の教えを学んで行く上での素地ともなるものである。
(そのため、弘法大師も最初期の著書である「三教指帰」から教理大成の書である「十住心論」
に至るまで、四書五経を含む儒学の教えを縦横無尽に引き合いに出したりもしている)
それらのより優等な教学と、「低くて親しみやすい」儒学の教理とが必ずしも
相容れているとは限らない。特に、儒学における忠孝の理念と、仏門の出家主義志向
などが決して相容れるものではなく、そのため宋儒の朱子らが一時は禅門に傾倒
しながらも、最終的には仏門を異端排撃の対象とするなどしてしまったのだった。
中国発祥の儒学とインド発祥の仏教とは、いずれにとっても遠征地となるこの日本においてこそ、
ほぼ全く矛盾を来さない形での融和を果たした。儒学は朝廷や幕府や、一家の後取りとなる
長男らがより重んじた一方で、仏門は養子先もないような次男三男や嫁ぎ先のない女子などが
出家先とした。それにより、個々の家門が厳重に尊ばれながらも、人口管理もまたそれなりに
行き届くといった、非常にバランスの取れた社会体制が実現されたのだった。(明治期
の廃仏毀釈や儒学の簡素化以降はこの均衡が破れたために、国土に不相応な人口爆発や、
その副作用としての食糧自給率の低下や少子高齢化といった大問題を招くこととなった)

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行為能力の自由などを無制限に追い求めようとした結果として精神が不具と化し、
実際に月日が走馬灯のように速く過ぎ去って行くように感じる儚さに見舞われたり、
カカア天下の女房に馬鹿な生き物扱いされながら飼い慣らされる、人生の墓場そのものな
結婚生活を送らされたりすることともなってしまう。ただ「自由」と言えば聞こえは
いいが、行為能力の自由などを貪った所には確かにそのような、自由であるが故の破滅的で
屈辱的な弊害が伴うわけで、それは、ある程度以上に清廉な心持ちの人間が、心の底から
御免こうむりたい気持ちになったとしても全くおかしくない強度の危害なのでもある。
世の中に出て働くこと、結婚して妻子を養うことが、上記のような理由で全廃されなければ
ならないのかといえば、それも極論に過ぎることである。世の中での行為能力の行使にも
節度があり、結婚して家庭を築けば妻子が当然のこととして亭主を敬うというのですらあれば、
上のような理由で出世や妻子持ちを嫌う人間が、必ずしもそれらを拒絶し尽くしたりする必要もなくなる。
ただ、行為能力の自由などが持て囃されなくなればいいだけのことである。
そんなものは真理にも道理にも与するものではない、むしろ人々を正善なる理法から遠ざけて
精神の不具者と化してしまうだけのものなのだから、かえって卑しまれるぐらいであるように
したならば、それだけで上記のような弊害を伴う出世や結婚もこの世から絶やされるようになる。
その手段はといえば、やはり教化的なものが主体となる。行為能力の自由を持て囃すような
思想信条の駆逐と、そのような自由を劣後したり否定したりする部類の思想信条の一般化。
そのような教化が行き届いた結果として、無闇やたらと行為能力の自由を追い求めるような人間や、
主人を悪し様に扱うような夫人などが徹底的に卑しまれてこの世を追われることともなる。
それでかえって、人々が極度の焦燥や屈辱に見舞われたりすることがなくて済む、
精神の自由こそが確保された世の中が開かれて行くことともなるわけである。
実際に月日が走馬灯のように速く過ぎ去って行くように感じる儚さに見舞われたり、
カカア天下の女房に馬鹿な生き物扱いされながら飼い慣らされる、人生の墓場そのものな
結婚生活を送らされたりすることともなってしまう。ただ「自由」と言えば聞こえは
いいが、行為能力の自由などを貪った所には確かにそのような、自由であるが故の破滅的で
屈辱的な弊害が伴うわけで、それは、ある程度以上に清廉な心持ちの人間が、心の底から
御免こうむりたい気持ちになったとしても全くおかしくない強度の危害なのでもある。
世の中に出て働くこと、結婚して妻子を養うことが、上記のような理由で全廃されなければ
ならないのかといえば、それも極論に過ぎることである。世の中での行為能力の行使にも
節度があり、結婚して家庭を築けば妻子が当然のこととして亭主を敬うというのですらあれば、
上のような理由で出世や妻子持ちを嫌う人間が、必ずしもそれらを拒絶し尽くしたりする必要もなくなる。
ただ、行為能力の自由などが持て囃されなくなればいいだけのことである。
そんなものは真理にも道理にも与するものではない、むしろ人々を正善なる理法から遠ざけて
精神の不具者と化してしまうだけのものなのだから、かえって卑しまれるぐらいであるように
したならば、それだけで上記のような弊害を伴う出世や結婚もこの世から絶やされるようになる。
その手段はといえば、やはり教化的なものが主体となる。行為能力の自由を持て囃すような
思想信条の駆逐と、そのような自由を劣後したり否定したりする部類の思想信条の一般化。
そのような教化が行き届いた結果として、無闇やたらと行為能力の自由を追い求めるような人間や、
主人を悪し様に扱うような夫人などが徹底的に卑しまれてこの世を追われることともなる。
それでかえって、人々が極度の焦燥や屈辱に見舞われたりすることがなくて済む、
精神の自由こそが確保された世の中が開かれて行くことともなるわけである。
「天」と言いながら、実際の天上ではなく、この宇宙全体を形而下と捉えた場合の
形而上を天と見なしていたり、「地」と言いながら、天下全土ではなく、自分たちの
住まうごく一部の場所や地域だけを地と見なしていたりする。そういった「天」や「地」
といった言葉に対する歪んだ定義の当てこすりや、それに基づく人々の粗悪な思考や言行
こそが、誰しもを不幸にする戦乱や精神病理の蔓延を世界中へと撒き散らして来たのだった。
形而上は形而上で、実際的な天上とはまた別のものとして哲学的に定義することが
できるし、天下全土とまではいかない部分的地域もまた、国や県や市区町村やさらに
それ以下の個々の部位として区分することができる。そのような適格な分別があることで
初めて、多少なりとも自他の福利厚生を増進して行くための着実な事業に取り組んで行く
ことが可能ともなるのだから、天上といえば形而上一般と見なしたり、地といえば即座に
一部の地域と考えたりすることこそは、人々の福利を損ないこそすれど増すことなどが
決してない、有害無益な「名辞の乱れ」となることが確かだといえる。
そのような、名辞の乱れと共にしか物事を考えることもできないような人間がいた場合に、
決してその思考回路や言行規範の妥当性を認めてやらないようにする。天といえば
形而上一般、地といえば部分的地域という風にしかものを考えられないことを一切合切
言語障害や精神障害であると見なして、社会的な市民権を一切認めないようにしたならば、
それだけで世の中のあらゆる問題がことごとく解消されて、人類も真の永遠平和と、
真人間としての尊厳からなる栄光に与れて行くようになることが間違いない。
実際には、それもなかなか難しいこととなる。女子供には天下全土の全貌を俯瞰するような
能力が決定的に欠けているし、大人の男もまた、商売のような目先の利益ばかりを追う末業を
仕事としていたりしたならば、天下全土を俯瞰する能力が元々あった所で、それを萎縮させて
しまうことになる。そのような人間たちにとっては、天下全土を「地」と見なした場合の
「天」もまた到底計り知れないものとなるわけで、それよりはむしろ、概念としての万物を
形而下と見なした場合の形而上を「天」と見なすほうが、まだ簡単なことともなるわけである。
形而上を天と見なしていたり、「地」と言いながら、天下全土ではなく、自分たちの
住まうごく一部の場所や地域だけを地と見なしていたりする。そういった「天」や「地」
といった言葉に対する歪んだ定義の当てこすりや、それに基づく人々の粗悪な思考や言行
こそが、誰しもを不幸にする戦乱や精神病理の蔓延を世界中へと撒き散らして来たのだった。
形而上は形而上で、実際的な天上とはまた別のものとして哲学的に定義することが
できるし、天下全土とまではいかない部分的地域もまた、国や県や市区町村やさらに
それ以下の個々の部位として区分することができる。そのような適格な分別があることで
初めて、多少なりとも自他の福利厚生を増進して行くための着実な事業に取り組んで行く
ことが可能ともなるのだから、天上といえば形而上一般と見なしたり、地といえば即座に
一部の地域と考えたりすることこそは、人々の福利を損ないこそすれど増すことなどが
決してない、有害無益な「名辞の乱れ」となることが確かだといえる。
そのような、名辞の乱れと共にしか物事を考えることもできないような人間がいた場合に、
決してその思考回路や言行規範の妥当性を認めてやらないようにする。天といえば
形而上一般、地といえば部分的地域という風にしかものを考えられないことを一切合切
言語障害や精神障害であると見なして、社会的な市民権を一切認めないようにしたならば、
それだけで世の中のあらゆる問題がことごとく解消されて、人類も真の永遠平和と、
真人間としての尊厳からなる栄光に与れて行くようになることが間違いない。
実際には、それもなかなか難しいこととなる。女子供には天下全土の全貌を俯瞰するような
能力が決定的に欠けているし、大人の男もまた、商売のような目先の利益ばかりを追う末業を
仕事としていたりしたならば、天下全土を俯瞰する能力が元々あった所で、それを萎縮させて
しまうことになる。そのような人間たちにとっては、天下全土を「地」と見なした場合の
「天」もまた到底計り知れないものとなるわけで、それよりはむしろ、概念としての万物を
形而下と見なした場合の形而上を「天」と見なすほうが、まだ簡単なことともなるわけである。
しかれば、形而上一般を天と見なしたり、部分的地域を地と見なしたりするものの考え方のほうが、
大多数の人間にとっては受け入れやすい名辞となってしまうわけで、邪教信仰などに依らずとも、
ただ多数決に依るだけでも、そのような歪んだ名辞のほうが妥当だということにされてしまうのである。
歪んだ名辞を正当化する邪教を駆逐し、歪んだ名辞こそを支持してしまう多数決も退けて、
純粋な世のため人のための都合によって、天地にまつわる正しい名辞のわきまえを広めて行く。
昔ならそれが封建制にも即して取り組まれていたわけだが、民主主義までもが高度に正当化されて
しまっている現状では、そこに回帰することもなかなか難しいこととなろう。むしろ、国家規模や
国際規模での安全保障プログラムの綿密な計算によってそれが妥当であると算出された結果として、
機械的に名辞の矯正が実行に移されて行くことを企図するほうが現実的なこととなるだろう。
(もちろん、その計算結果に即して封建制までをも再興して行く可能性はある)
乱世の元凶が「名辞の乱れ」などという所にこそあるからには、扱いを誤ってしまえば時には
そのような致命問題を来してしまう「言葉(ロゴス)」というものが、無条件に神聖なもの
などと捉えられたりするようなこともまた排されて行かねばならない。ロゴス信仰なぞは、
無知蒙昧な土人が言葉という道具を与えられたからといって、無闇やたらと嬉しがった結果
として来たしてしまった蛮習でしかないのだとよくわきまえて、言葉そのものが即座に神聖視
された結果としての、歪んだ名辞の増長などが二度と巻き起こらないようにすべきである。
いずれも、歪んだ名辞やロゴス信仰の下でばかり生きてきた徒輩にとっては、なかなか困難な
荒療治となる上に、断腸の思いともなるに違いないわけだが、名辞の乱れこそが自分たちを破滅
へと陥れる大悪の元凶とすらなっているのが現状でふるからには、もうそうするしかないのである。
大多数の人間にとっては受け入れやすい名辞となってしまうわけで、邪教信仰などに依らずとも、
ただ多数決に依るだけでも、そのような歪んだ名辞のほうが妥当だということにされてしまうのである。
歪んだ名辞を正当化する邪教を駆逐し、歪んだ名辞こそを支持してしまう多数決も退けて、
純粋な世のため人のための都合によって、天地にまつわる正しい名辞のわきまえを広めて行く。
昔ならそれが封建制にも即して取り組まれていたわけだが、民主主義までもが高度に正当化されて
しまっている現状では、そこに回帰することもなかなか難しいこととなろう。むしろ、国家規模や
国際規模での安全保障プログラムの綿密な計算によってそれが妥当であると算出された結果として、
機械的に名辞の矯正が実行に移されて行くことを企図するほうが現実的なこととなるだろう。
(もちろん、その計算結果に即して封建制までをも再興して行く可能性はある)
乱世の元凶が「名辞の乱れ」などという所にこそあるからには、扱いを誤ってしまえば時には
そのような致命問題を来してしまう「言葉(ロゴス)」というものが、無条件に神聖なもの
などと捉えられたりするようなこともまた排されて行かねばならない。ロゴス信仰なぞは、
無知蒙昧な土人が言葉という道具を与えられたからといって、無闇やたらと嬉しがった結果
として来たしてしまった蛮習でしかないのだとよくわきまえて、言葉そのものが即座に神聖視
された結果としての、歪んだ名辞の増長などが二度と巻き起こらないようにすべきである。
いずれも、歪んだ名辞やロゴス信仰の下でばかり生きてきた徒輩にとっては、なかなか困難な
荒療治となる上に、断腸の思いともなるに違いないわけだが、名辞の乱れこそが自分たちを破滅
へと陥れる大悪の元凶とすらなっているのが現状でふるからには、もうそうするしかないのである。
「天子は天地を祭り、諸侯は社稷を祭り、大夫は五祀を祭り。天子は天下の名山大川を祭る。
五岳は三公に視え、四?は諸侯に視う。諸侯は名山大川の其の地に在る者を祭る」
「天下を統べる帝王のみが天地を祭り、諸侯ですら自国の社稷を祭る。大夫はそれぞれの季節の祭を司る。
五名山は三公になぞらえ、四大河は諸侯になぞらえて祭る。諸侯は名山大河の地に土着している人々を祭る。
(それなりの公的地位にあるものが、それぞれの身分に即して天地以下を祭ればこそ、天下も益される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
五岳は三公に視え、四?は諸侯に視う。諸侯は名山大川の其の地に在る者を祭る」
「天下を統べる帝王のみが天地を祭り、諸侯ですら自国の社稷を祭る。大夫はそれぞれの季節の祭を司る。
五名山は三公になぞらえ、四大河は諸侯になぞらえて祭る。諸侯は名山大河の地に土着している人々を祭る。
(それなりの公的地位にあるものが、それぞれの身分に即して天地以下を祭ればこそ、天下も益される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

あらゆる刑罰を恐れなくなってしまうという問題が、洋の東西を問わず深刻化して来ている。
例えば、凌遅刑に代表される残虐な処刑方法が導入され始めた五代十国時代以降の中国などもまた、
多少なりともそのような問題を来たしてきている。それ以前においても、残虐な刑罰自体は無数に
行われて来ているが、ことに死刑にかけては、斬首の如き簡潔な手段に依るのが漢代から唐代に
かけての中国での習わしであった。それが遂には反故にされて、死刑自体を残虐な手段に
依ることで見せしめにするということが常套化し始めた。すると逆に、死刑になることも
恐れることなく罪を犯すような人間が頻発し始めるようになった。明代や清代における中国の
官僚腐敗の逸話にも枚挙に暇がないように、官民揃っての罪悪三昧を来すこととなってしった。
死んでしまえば苦しみも何もない、むしろ無上の安楽にすら与れるのが悪因苦果まみれの惰生を
食いつなぐ罪人であるというのに、一時の苦しみの後にはその安楽にすら与れるというのだから、
そこに伴うある種のカタルシスが魅力ともなって、かえって大罪を犯した挙げ句にそこで
死んでやろうとするような人間までもが生じてしまいかねない。そのような罪と罰の劣悪な
悪循環が、中国では約1100年間、西洋では約2000年間の長きに渡って深刻化して来ているわけで、
実に、世界の半数程度に渡る人間が、刑罰の何たるかをもろくに理解できないという異常事態が
ここ1000年程度の人類社会において恒常化してしまっているのだといえる。
残虐な処刑手段こそは、前近代的な過去の遺物の代表例として取り沙汰されることも多いわけだが、
実際の所それは「過去の遺物」だから厭わしいのではなく、人類史上の一時において流行した蒙昧
な悪習であればこそ厭わしいものなのである。それが人々に対する戒めとなるどころか、かえって
懲罰の何たるかを見損なっての妄動を喚起しかねないものだからこそ、廃されるべきものなのである。
実際の所、懲罰と死刑を混同したせいでの恐れ知らず状態でいるような人間に対しては、
残虐な処刑を振りかざしたりするよりも、禁治産や参政権剥奪の如き適格な軽罰で
脅し付けてやったほうが、よほどこたえるものである。あらゆる残虐刑を恐れもしないで
いようとすること自体、無法状態での果てしない自由を追い求めていようとすればこその
心理状態であるわけだから、そうであるに応じて、適切な民事的制限を科してやろう
とするほうがまだ、自分たちの出鼻を挫かれるが故の恐怖に見舞われるものである。
してみれば、人々への社会的制限や懲罰刑は酷烈であっても、死刑は打ち首のような簡潔な
ものが主流だた江戸時代あたりの刑政が、それもまた前近代的なようでいて、実は理に
適っていたことが分かる。中には石抱きや鞭打ちのような拷問だとか、額に「犬」という字を
入れ墨する身体刑だとかもあったわけだが、それは純粋に「懲罰」が厳しかったというだけで、
死刑が残虐であったりすることとはまた別の問題であるといえる。東夷の懲罰刑が酷烈である
のは「漢書」地理志にすら記録されている太古からの伝統であり、それでこそ世界でも突出
した犯罪率の低さを誇れもしたのだから、懲罰刑を厳重化することは今の時代においてですら
見直されてもいいことだといえる。一方で、死刑と懲罰刑を妄りに混同したりしないことも
見習われて然るべきであり、死刑や切腹の決まった人間ともなれば、辞世の句を詠む
便宜すら図られていたという、昔の日本社会の心意気こそを買うべきだといえる。
「天の未だ陰雨せざるに迨びて、彼の桑土を徹りて、牖戸を綢繆す。
今女じ下民、敢えて予を侮ること或らんや。〜予の羽譙譙たり、
予の尾翛翛たり、予の室翹翹たり。風雨に漂搖せられ、予が維の音嘵嘵たり」
「天がまだ雨を降らさぬ内から、私は桑の根の皮を剥いで巣の隙間を塞ぎ、侵害に備えている。
どうか下民たちも、臆病じみた私のこの姿を馬鹿にしてくれるな。そのような苦労のせいで私の尾も
傷み、羽も疲れきっている。私の巣がどうにも弱弱しいのも、風雨に揺らがされるからで、そのせい
で私の鳴き声もせっかちなものとなってしまいがちなのである。(周朝の摂政時代の周公旦が自らを
鳥に喩えた歌。自らあえて、恐れ動揺させられるような危難をあえて引き受ける君子の模範的な姿)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・鴟鴞より)
いようとすること自体、無法状態での果てしない自由を追い求めていようとすればこその
心理状態であるわけだから、そうであるに応じて、適切な民事的制限を科してやろう
とするほうがまだ、自分たちの出鼻を挫かれるが故の恐怖に見舞われるものである。
してみれば、人々への社会的制限や懲罰刑は酷烈であっても、死刑は打ち首のような簡潔な
ものが主流だた江戸時代あたりの刑政が、それもまた前近代的なようでいて、実は理に
適っていたことが分かる。中には石抱きや鞭打ちのような拷問だとか、額に「犬」という字を
入れ墨する身体刑だとかもあったわけだが、それは純粋に「懲罰」が厳しかったというだけで、
死刑が残虐であったりすることとはまた別の問題であるといえる。東夷の懲罰刑が酷烈である
のは「漢書」地理志にすら記録されている太古からの伝統であり、それでこそ世界でも突出
した犯罪率の低さを誇れもしたのだから、懲罰刑を厳重化することは今の時代においてですら
見直されてもいいことだといえる。一方で、死刑と懲罰刑を妄りに混同したりしないことも
見習われて然るべきであり、死刑や切腹の決まった人間ともなれば、辞世の句を詠む
便宜すら図られていたという、昔の日本社会の心意気こそを買うべきだといえる。
「天の未だ陰雨せざるに迨びて、彼の桑土を徹りて、牖戸を綢繆す。
今女じ下民、敢えて予を侮ること或らんや。〜予の羽譙譙たり、
予の尾翛翛たり、予の室翹翹たり。風雨に漂搖せられ、予が維の音嘵嘵たり」
「天がまだ雨を降らさぬ内から、私は桑の根の皮を剥いで巣の隙間を塞ぎ、侵害に備えている。
どうか下民たちも、臆病じみた私のこの姿を馬鹿にしてくれるな。そのような苦労のせいで私の尾も
傷み、羽も疲れきっている。私の巣がどうにも弱弱しいのも、風雨に揺らがされるからで、そのせい
で私の鳴き声もせっかちなものとなってしまいがちなのである。(周朝の摂政時代の周公旦が自らを
鳥に喩えた歌。自らあえて、恐れ動揺させられるような危難をあえて引き受ける君子の模範的な姿)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・鴟鴞より)
この世におけるあらゆる害悪の元凶と化しているようなならず者こそが、
莫大な利権や暴力を蓄えることでの自己防衛を尽くすということが、古今東西を
問わず、今までの人類史上において幾度となく繰り返されて来た。そのほとんどは、
桀紂や秦始皇の如き「暴君」の体裁と共に企てられて来ているわけだが、中には、
あえてそのような体裁を「独裁主義」として非難の対象にして切り捨てた上での、
また別の体裁による害悪の元凶としての強大化が企てられた例もある。
端的に言えば、宗教やイデオロギーを旗印にした試みがそれに当たる。
概ねそれは、西洋においてばかり試みられて来たことであり、宗教や思想哲学が超国家的な
権限を持つことを、自分たち自身の怪力乱神を忌み避ける思想信条によって戒めて来た極東
社会などにおいては基本、許されて来なかったことである。部分的には比叡山や本願寺の
ような宗教権力の強大化までもが企てられていたが、それも決してローマカトリックの如き
国家征服級の勢力を帯びるまでには至らなかった。西洋でそのような宗教や思想哲学を旗印に
した甚大な権力集中が繰り返されて来たのは、怪力乱神を忌み避けない上に、形而上に
規定されたイデア領域へと万物を帰納しようとするような試みまでもが古代ギリシャの
頃から持て囃されて来ているからで、そのような歴史的な経緯から見ても、確かに西洋は、
シラフの公権力など以上にも思想信条への権力集中を試みて来た頻度が高い社会だと言える。
(中東やインドはこの中間で、思想宗教と公権力を厳密に合致させた上で両者を尊んでいる)
莫大な利権や暴力を蓄えることでの自己防衛を尽くすということが、古今東西を
問わず、今までの人類史上において幾度となく繰り返されて来た。そのほとんどは、
桀紂や秦始皇の如き「暴君」の体裁と共に企てられて来ているわけだが、中には、
あえてそのような体裁を「独裁主義」として非難の対象にして切り捨てた上での、
また別の体裁による害悪の元凶としての強大化が企てられた例もある。
端的に言えば、宗教やイデオロギーを旗印にした試みがそれに当たる。
概ねそれは、西洋においてばかり試みられて来たことであり、宗教や思想哲学が超国家的な
権限を持つことを、自分たち自身の怪力乱神を忌み避ける思想信条によって戒めて来た極東
社会などにおいては基本、許されて来なかったことである。部分的には比叡山や本願寺の
ような宗教権力の強大化までもが企てられていたが、それも決してローマカトリックの如き
国家征服級の勢力を帯びるまでには至らなかった。西洋でそのような宗教や思想哲学を旗印に
した甚大な権力集中が繰り返されて来たのは、怪力乱神を忌み避けない上に、形而上に
規定されたイデア領域へと万物を帰納しようとするような試みまでもが古代ギリシャの
頃から持て囃されて来ているからで、そのような歴史的な経緯から見ても、確かに西洋は、
シラフの公権力など以上にも思想信条への権力集中を試みて来た頻度が高い社会だと言える。
(中東やインドはこの中間で、思想宗教と公権力を厳密に合致させた上で両者を尊んでいる)
公権力者が害悪の元凶たる暴君としての強大化を企てる場合と、ある種の思想信条を旗印にした
人間が害悪の元凶としての強大化を企てる場合と、いずれもが全世界規模での大災厄をすでに
もたらしている。前者の最大例がモンゴル帝国による世界征服であり、後者の最大例がまさに
近現代の欧米人による世界征服である。いずれも「完全征服」とまでは行かないが、一時的には
世界の大半の地域を征服下に置き、征服とまで行かなかった地域にまでも幕府の衰亡や困窮の如き
何らかの危害をもたらしていて、「世界中のあらゆる害悪の元凶」としての条件を満たしながら、
当時世界最大級の暴力を蓄えての自己防衛にも及んでいた点が全く共通しているといえる。
ただ、世界中の害悪の元凶の分際でいながら、自分たちこそは最優先の生存者たろうとも
するような無理が案の定、早急なる自分たちの衰亡を呼び込むことともなった。害悪の元凶
こそが権力のトップに据えられて、厳重な安全保障の下での放辟邪侈三昧を続けたりすること
自体が、世の中への傾国級の負担をかけることともなるため、そう長きに渡る存続などが可能
ともならない。それは権力のトップが君臣公候のような正規の公権力者だろうが、政商のような
非正規の権力犯罪者だろうがさして変わらぬことであるわけで、「こいつすら倒せば世の中も
正される」という代表的な責任者が表に出てこない分だけ、かえって非正規の権力者がトップと
化す場合のほうが、より深刻な事態を招いた挙げ句の大崩壊などをも来たしてしまいかねない。
手段がどうであれ、世の中の害悪の元凶ともあろう分際が、よりにもよって権力のトップ
にまでのし上がって、最大級の自己防衛と共なる存続を企てるなどということ自体が
許されないことなのであり、それは害悪の元凶こそが民主主義だの自由主義だのといった
綺麗事じみたイデオロギーを振りかざしたりした所で、寸分たりとも覆ることではない。
人間が害悪の元凶としての強大化を企てる場合と、いずれもが全世界規模での大災厄をすでに
もたらしている。前者の最大例がモンゴル帝国による世界征服であり、後者の最大例がまさに
近現代の欧米人による世界征服である。いずれも「完全征服」とまでは行かないが、一時的には
世界の大半の地域を征服下に置き、征服とまで行かなかった地域にまでも幕府の衰亡や困窮の如き
何らかの危害をもたらしていて、「世界中のあらゆる害悪の元凶」としての条件を満たしながら、
当時世界最大級の暴力を蓄えての自己防衛にも及んでいた点が全く共通しているといえる。
ただ、世界中の害悪の元凶の分際でいながら、自分たちこそは最優先の生存者たろうとも
するような無理が案の定、早急なる自分たちの衰亡を呼び込むことともなった。害悪の元凶
こそが権力のトップに据えられて、厳重な安全保障の下での放辟邪侈三昧を続けたりすること
自体が、世の中への傾国級の負担をかけることともなるため、そう長きに渡る存続などが可能
ともならない。それは権力のトップが君臣公候のような正規の公権力者だろうが、政商のような
非正規の権力犯罪者だろうがさして変わらぬことであるわけで、「こいつすら倒せば世の中も
正される」という代表的な責任者が表に出てこない分だけ、かえって非正規の権力者がトップと
化す場合のほうが、より深刻な事態を招いた挙げ句の大崩壊などをも来たしてしまいかねない。
手段がどうであれ、世の中の害悪の元凶ともあろう分際が、よりにもよって権力のトップ
にまでのし上がって、最大級の自己防衛と共なる存続を企てるなどということ自体が
許されないことなのであり、それは害悪の元凶こそが民主主義だの自由主義だのといった
綺麗事じみたイデオロギーを振りかざしたりした所で、寸分たりとも覆ることではない。
正規の公権力者が暴君として上記のような振る舞いに及ぶことはすでにそれなりに戒められて
来ているが、宗教や思想イデオロギーを旗印にした「義賊的人種」がそのような振る舞いに
及ぶことは、未だに十分な警戒の対象とされてはいない。暴君の惨暴を入念な歴史学に
よって戒めて来ている極東社会こそは、思想宗教が公権力以上の権力中枢と化すこと
などを端っから切り捨てて来ている社会でもあるものだから、思想信条の義賊こそが
暴君並みの惨暴に及んだりすることがろくに察知もされて来なかったという事情もある。
今一度、害悪の元凶こそが大権を握ることの許しがたさが全世界規模で認知されると共に、
それが公権力者だけでなく、宗教やイデオロギーを旗印にする義賊的人種によってですら企て
られることがあるということまでもが警戒の対象とされて行く必要がある。後者の問題は
洋の東西を問わず十分に認知されて来ていないことなので、いま初めて全世界の人々が、
人類社会にとっての根本問題の一つを、新たに計り知ることになるのだといえる。
「守ること約やかに而て施し博きは、善道なり」
「守る所は簡素でいながら、天下万人へと広く施しを心がけるのが善道である。
(依怙贔屓な守りよりは、広き施しをより優先するのが君子である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
来ているが、宗教や思想イデオロギーを旗印にした「義賊的人種」がそのような振る舞いに
及ぶことは、未だに十分な警戒の対象とされてはいない。暴君の惨暴を入念な歴史学に
よって戒めて来ている極東社会こそは、思想宗教が公権力以上の権力中枢と化すこと
などを端っから切り捨てて来ている社会でもあるものだから、思想信条の義賊こそが
暴君並みの惨暴に及んだりすることがろくに察知もされて来なかったという事情もある。
今一度、害悪の元凶こそが大権を握ることの許しがたさが全世界規模で認知されると共に、
それが公権力者だけでなく、宗教やイデオロギーを旗印にする義賊的人種によってですら企て
られることがあるということまでもが警戒の対象とされて行く必要がある。後者の問題は
洋の東西を問わず十分に認知されて来ていないことなので、いま初めて全世界の人々が、
人類社会にとっての根本問題の一つを、新たに計り知ることになるのだといえる。
「守ること約やかに而て施し博きは、善道なり」
「守る所は簡素でいながら、天下万人へと広く施しを心がけるのが善道である。
(依怙贔屓な守りよりは、広き施しをより優先するのが君子である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)

陰陽不全を象徴する色として、孔子を始めとする儒者たちに卑しまれて来た。
春秋時代初期に、春秋五覇の筆頭格である斉の桓公が紫色を好んで被服などとして用いた所、
庶民までもが好き好んで紫の服などを着始めたために、それに悩んで重臣の管仲に相談
したという。管仲が「閣下が紫を好むのを止めれば人々もそれに倣うでしょう」と助言
したので言われた通りにすると、実際にそうなったという。(「韓非子」などを参照)
これがたとえば、赤などだと同じようなことにはならない。日本の戦国武将や江戸期の
大名なども好んで赤を具足や門構えや旗印などの色に用いていたが、それがかえって鮮血
の色すらをも想起させるものだから、庶民に畏怖を抱かせて赤色の使用を控えさせるよう
にすらなった。(変わりに実用性も高い青系の藍染めなどが好んで民用されるなどした)
逆に、仏門や神職のような超俗的な領分の界隈こそが紫色を用いれば、そのせいでかえって
人々が紫の使用を控えるようになるということもある。これは、別に自分がなりたいと
思わされるわけでもないような世捨て人の領域こそがその色を用いているからであって、
そういった手段によってあえて人々に紫色の濫用を控えさせるということもできはする。
封建時代の王侯あたりの、もしもなれたなら絶大な栄華を謳歌できるような身分の人間が
好んで紫を用いたりした場合にこそ、身分の上下を重んじる陽唱陰和までもが反故にされて、
社会的権威全般が重んじられないようになって行く。斉の桓公だけでなく、ローマ皇帝
らもこぞって紫の礼服を用いていたというから、そのせいで人々が皇帝への敬意などを
損ねていった挙句に共和制に移行したり、公権力の権威を致命的に踏みにじる
邪教の台頭を許してしまったりしたのも、むべなることであったといえる。
紫色の扱いの如何などは、公権力者としての心がけの内でも氷山の一角に過ぎないものであり、
仮に斉の桓公やローマ皇帝が紫色の重用を取り止めたからといって、ただそけだけで上下の
位階が正されのたかといえば、そうとも考え難い。ただ、たとえばそのような配色にまつわる
心がけが、一つの有職故実の巧拙の代表例として取り上げられることにも間違いはないわけで、
そのような小さな部分からの注意の積み重ねこそが君臣官民上下の序列を正して行く要とも
なるわけだから、決してその仔細までをも疎かにするようなことがあってはならない。
皇帝がこぞって紫色を用いる程にも陰陽不全が深刻化してしまっていたような世の中に
おいてこそ、人類史上最悪級の反社会主義の邪教がもたらされてしまいもしたのだから、陰陽
不全を煽る部類の稚拙な有職故実こそは、邪教の母体でもあったのだといえる。文化習俗からの
公権力腐敗こそは、反社会主義の邪教すらをも好き好みたがるような奇形的な義賊精神を人々に
植え付ける元凶ともなってしまったのだから、やはり公権力者こそが正善なる礼法と共に毅然と
していることこそは、邪教の出現や蔓延の予防のための肝心要の要項にもなるのだといえる。
被服の配色レベルからの用心の積み重ねなど、自らの富貴栄達だけが目的で権力者を志す
ような人間には到底やりきれるものではない。故に、自らの成功ばかりしか念頭に置けない
ような小人的精神構造の人間が権力の座に就くようなことから取り締まって行かねばならない。
そのような人間が無数に群がっている世相ともなれば、公権力者こそを取り締まる監察官身分の
人間に絶大な権限を与えて、厳重な取り締まりを講じて行くことまでもが必要となるであろう。
「君子は〜紅紫を以って褻服と為さず」
「君子は紅や紫のような間色を礼服に用いない。(理由は上記の通りである。皇帝からして
紫を礼服に用いていた当時のローマ帝国自体、誰も礼儀を知らぬ人畜の世だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・六より)
仮に斉の桓公やローマ皇帝が紫色の重用を取り止めたからといって、ただそけだけで上下の
位階が正されのたかといえば、そうとも考え難い。ただ、たとえばそのような配色にまつわる
心がけが、一つの有職故実の巧拙の代表例として取り上げられることにも間違いはないわけで、
そのような小さな部分からの注意の積み重ねこそが君臣官民上下の序列を正して行く要とも
なるわけだから、決してその仔細までをも疎かにするようなことがあってはならない。
皇帝がこぞって紫色を用いる程にも陰陽不全が深刻化してしまっていたような世の中に
おいてこそ、人類史上最悪級の反社会主義の邪教がもたらされてしまいもしたのだから、陰陽
不全を煽る部類の稚拙な有職故実こそは、邪教の母体でもあったのだといえる。文化習俗からの
公権力腐敗こそは、反社会主義の邪教すらをも好き好みたがるような奇形的な義賊精神を人々に
植え付ける元凶ともなってしまったのだから、やはり公権力者こそが正善なる礼法と共に毅然と
していることこそは、邪教の出現や蔓延の予防のための肝心要の要項にもなるのだといえる。
被服の配色レベルからの用心の積み重ねなど、自らの富貴栄達だけが目的で権力者を志す
ような人間には到底やりきれるものではない。故に、自らの成功ばかりしか念頭に置けない
ような小人的精神構造の人間が権力の座に就くようなことから取り締まって行かねばならない。
そのような人間が無数に群がっている世相ともなれば、公権力者こそを取り締まる監察官身分の
人間に絶大な権限を与えて、厳重な取り締まりを講じて行くことまでもが必要となるであろう。
「君子は〜紅紫を以って褻服と為さず」
「君子は紅や紫のような間色を礼服に用いない。(理由は上記の通りである。皇帝からして
紫を礼服に用いていた当時のローマ帝国自体、誰も礼儀を知らぬ人畜の世だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・六より)

ローマ皇帝が紫色の礼服を用い続けたのは、本人たちが真っ当な礼法に疎いのみ
ならず、ローマ帝国全体が礼法の何たるかも知らない人畜の集まりであったから
でもある。そんな中で、人類を滅亡に陥れる程もの邪宗門が生じてしまったのも、
帝国全体にとっての落ち度であった所すらもがあるわけで、決してその教祖たる
イエスばかりが、独立独行の大悪人であったなどということも言えないのである。
あまり大人数の人間を一律な処罰下に置くことも、現実的に無理がある。
そのため「六韜」の虎の巻などにもあるとおり、便宜的に責任者を少数に絞って、
その責任者だけを厳重な処罰下に置くということが実効支配上のセオリーとして
有効となる。じゃあローマ帝国を始めとする西洋社会における聖書信仰災禍の責任者
として槍玉に挙げられるべき人間はいったい誰なのかといえば、それは確かにイエス
でもあり得るだろう。「あり得る」というのは、必ずしもそうではないからでもある。
イエスの言行の全てが本人の独断で行われたのならば、確かに本人の責任となる
だろうが、何らかの裏方がいて、それに乗せられてイエスも妄言妄動を来たした
挙げ句に、ローマ帝国中に冤罪劇による司法の機能不全化をもたらした可能性もある。
司法と共にローマ帝国の国家的権威までもが瓦解した結果として、政商などの不正な
立場に即してコンスタントに暴利を巻き上げることが可能となった連中がいたのかも
知れない。そのような連中が居たとするなら、そいつらこそは邪教災禍の最高罪責者
であったといえる。イエスはそれに乗せられた共犯であったといえ、イスラム教徒が
主張しているように、実際には刑死もすることなく平然と生き延びていたのだ
とすれば、それはそれは凶悪な権力犯罪工作員の一員であったともいえる。
実際問題、今の西洋社会でも、聖書信仰によって一定以上に国家の権威が損なわれて、
民衆の権限が強化されているようでいながら、実際には民間の富豪あたりが利権を
牛耳っているという状態が常套化している。日本でも明治以降にそのような世相が
輸入され、敗戦後に天皇制までもが決定的に形骸化したことによって、その風潮も
確立されてしまった。聖書信仰が解禁されたり享受されたりするせいで、洋の東西を
問わない世界中の国々で、国家権力から民間の富豪へと主権が明け渡されてしまって
いることからも、聖書信仰というものが本来から民間の権力犯罪者を肥え太らせる
ことを目的としてでっち上げられたものであろうことが察せられるわけである。
然れば、聖書信仰災禍によって人類の滅亡までもが間近に迫っている今の世界に
おいて、その最高責任者として処罰されるべきなのも、聖書信仰を是認する世相に
よって暴利を巻き上げてきた民間の富豪でこそあるといえる。本人たちが必ずしも
確信犯としてカルト信仰に乗じた権力犯罪を積み重ねて来たとも限らないし、別に
聖書信仰勃発時の古代ユダヤ人の正統な血流を汲んでいたりするわけでもなかろうが、
それでもやはり、聖書信仰による破滅の危機を免れるための最たる処罰対象としては、
聖書信仰によってこそ暴利を稼ぎ挙げて来た界隈の現代人こそが挙げられるのである。
各種の聖書教団も、民間の権力犯罪を煽り立てる旗頭であればこそ根絶の対象
とされるし、実物の権力犯罪との関わり合いが深ければ、それに即して処罰の対象
ともなる。聖書信仰こそは致命的な権力犯罪の元凶であるのだから、根絶の対象と
して最優先となるのは当然それであるわけだけれども、それと同時に最優先の処罰の
対象となるのは誰かといえば、それはむしろ、聖書信仰によって暴利を巻き上げてきた
「聖書信仰の消費者」のほうである。本人たちはさして信仰にかけて敬虔でもなかったり、
逆に反キリスト主義を掲げてすらいたりするわけれども、それでも最大の処罰対象と
なる人間はそこにこそいる。聖書信者一般のうちには、強制的に改宗させられた
貧困国の困窮者などもいるわけだから、最優先の処罰対象にまでなるとは限らない。
民衆の権限が強化されているようでいながら、実際には民間の富豪あたりが利権を
牛耳っているという状態が常套化している。日本でも明治以降にそのような世相が
輸入され、敗戦後に天皇制までもが決定的に形骸化したことによって、その風潮も
確立されてしまった。聖書信仰が解禁されたり享受されたりするせいで、洋の東西を
問わない世界中の国々で、国家権力から民間の富豪へと主権が明け渡されてしまって
いることからも、聖書信仰というものが本来から民間の権力犯罪者を肥え太らせる
ことを目的としてでっち上げられたものであろうことが察せられるわけである。
然れば、聖書信仰災禍によって人類の滅亡までもが間近に迫っている今の世界に
おいて、その最高責任者として処罰されるべきなのも、聖書信仰を是認する世相に
よって暴利を巻き上げてきた民間の富豪でこそあるといえる。本人たちが必ずしも
確信犯としてカルト信仰に乗じた権力犯罪を積み重ねて来たとも限らないし、別に
聖書信仰勃発時の古代ユダヤ人の正統な血流を汲んでいたりするわけでもなかろうが、
それでもやはり、聖書信仰による破滅の危機を免れるための最たる処罰対象としては、
聖書信仰によってこそ暴利を稼ぎ挙げて来た界隈の現代人こそが挙げられるのである。
各種の聖書教団も、民間の権力犯罪を煽り立てる旗頭であればこそ根絶の対象
とされるし、実物の権力犯罪との関わり合いが深ければ、それに即して処罰の対象
ともなる。聖書信仰こそは致命的な権力犯罪の元凶であるのだから、根絶の対象と
して最優先となるのは当然それであるわけだけれども、それと同時に最優先の処罰の
対象となるのは誰かといえば、それはむしろ、聖書信仰によって暴利を巻き上げてきた
「聖書信仰の消費者」のほうである。本人たちはさして信仰にかけて敬虔でもなかったり、
逆に反キリスト主義を掲げてすらいたりするわけれども、それでも最大の処罰対象と
なる人間はそこにこそいる。聖書信者一般のうちには、強制的に改宗させられた
貧困国の困窮者などもいるわけだから、最優先の処罰対象にまでなるとは限らない。
「吾れ未だ己れを枉けで人を正せる者を聞かざるなり。況んや、己れを辱めて
以て天下を正せる者をや(ここまで既出)。聖人の行いは同じからず、或いは
遠く或いは近く、或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰するのみ」
「私は未だに己れを曲げて人を正せた人間というのを聞いたことがない。ましてや、
己れを辱めることで天下を正せるた人間などはなおのこと。聖人の行いにも異同が
あり、場合によっては権力から遠ざかったり逆に近づいたり、消極的だったり
そうでなかったりするものだが、要は『わが身を潔くする』という所に尽きている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
以て天下を正せる者をや(ここまで既出)。聖人の行いは同じからず、或いは
遠く或いは近く、或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰するのみ」
「私は未だに己れを曲げて人を正せた人間というのを聞いたことがない。ましてや、
己れを辱めることで天下を正せるた人間などはなおのこと。聖人の行いにも異同が
あり、場合によっては権力から遠ざかったり逆に近づいたり、消極的だったり
そうでなかったりするものだが、要は『わが身を潔くする』という所に尽きている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
「父母の〜衣裳綻裂すれば、箴に紉して補綴せんと請う」
「父母の衣装が綻んだり裂けたりした時には、自らが針に糸を突けて修繕する
ことを希う。(神幕は神にとっての衣装なのだから、神を我が父とみなす者が
それを裂くなど不孝の極みであろう。むろん、礼など知らぬ世界の話であり、
それでイエスを神の子だなどと認めた周囲の人間も蒙昧の徒だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
すでに、多くの人間が聖書信仰の心がけなどを下火と化してしまっている
今の西洋においても、「キリスト的なものの霊験」というものを否定するよりは
肯定したいぐらいの心持ちでいる人間が大半を占めている。そのあたり、信教
の自由を認めながらも、そもそキリスト的なものの霊験からして認めるよりは
認めないでいたい人間が大半を占めている日本などとは異なる点であるといえる。
家庭円満や無病息災を尊ぶ神道文化だとか、諸行無常や諸法実相といった真理
を尊ぶ仏教文化だとかを先祖代々重んじて来ているものだから、それらの文化
習俗に決定的に相反する要素を多々含んでいる聖書の神の霊験からして、むしろ
あり得ないものであったほうが好ましい。キリスト的なものの霊験が実在した
場合にのみ得られる自由なども、むしろ得られないほうが好ましいといえる。
そして実際、キリストの霊験などあり得ない。神父だ牧師だも舌先三寸で相手を
言いくるめることでの折伏を試みていたりするだけで、肝心の聖書にある通り
の奇跡などは、粗末な種のある手品でもない限りは、全く以って起こりはしない。
文化的素養の乏しい未開の野蛮人あたりなら、宣教師の口先やちょっとした手品に
丸め込まれて入信させられたりすることもあるだろうが、そもそもがキリスト的
なものの霊験が実在しないほうが好ましい部類の文化習俗にドップリと漬かって
来ている人々を、聖書に書かれている通りの奇跡を神の業によって引き起こせる
わけでもないのに改宗させてやれるなんてことがあるはずがないわけで、まず
そのような既存の文化習俗への親しみを損なわせるのでもなければ、多少の
強制改宗の余地が生ずることすらもが永久にあり得ないこととなるわけである。
「父母の衣装が綻んだり裂けたりした時には、自らが針に糸を突けて修繕する
ことを希う。(神幕は神にとっての衣装なのだから、神を我が父とみなす者が
それを裂くなど不孝の極みであろう。むろん、礼など知らぬ世界の話であり、
それでイエスを神の子だなどと認めた周囲の人間も蒙昧の徒だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
すでに、多くの人間が聖書信仰の心がけなどを下火と化してしまっている
今の西洋においても、「キリスト的なものの霊験」というものを否定するよりは
肯定したいぐらいの心持ちでいる人間が大半を占めている。そのあたり、信教
の自由を認めながらも、そもそキリスト的なものの霊験からして認めるよりは
認めないでいたい人間が大半を占めている日本などとは異なる点であるといえる。
家庭円満や無病息災を尊ぶ神道文化だとか、諸行無常や諸法実相といった真理
を尊ぶ仏教文化だとかを先祖代々重んじて来ているものだから、それらの文化
習俗に決定的に相反する要素を多々含んでいる聖書の神の霊験からして、むしろ
あり得ないものであったほうが好ましい。キリスト的なものの霊験が実在した
場合にのみ得られる自由なども、むしろ得られないほうが好ましいといえる。
そして実際、キリストの霊験などあり得ない。神父だ牧師だも舌先三寸で相手を
言いくるめることでの折伏を試みていたりするだけで、肝心の聖書にある通り
の奇跡などは、粗末な種のある手品でもない限りは、全く以って起こりはしない。
文化的素養の乏しい未開の野蛮人あたりなら、宣教師の口先やちょっとした手品に
丸め込まれて入信させられたりすることもあるだろうが、そもそもがキリスト的
なものの霊験が実在しないほうが好ましい部類の文化習俗にドップリと漬かって
来ている人々を、聖書に書かれている通りの奇跡を神の業によって引き起こせる
わけでもないのに改宗させてやれるなんてことがあるはずがないわけで、まず
そのような既存の文化習俗への親しみを損なわせるのでもなければ、多少の
強制改宗の余地が生ずることすらもが永久にあり得ないこととなるわけである。
しかし、古来の神仏文化に基づいて精神的成熟度を高めて来た日本人こそが、
近代以降にはあっという間に機械文明の習熟度の水準ですら西洋人に追いつき、
ここ数十年の最先端科学技術の発展への貢献にかけては西洋人を凌駕するまでに
至った。量子論や相対論を始めとする現代科学理論がむしろ、キリスト教的な
世界観ではなく、東洋的な世界観や宇宙観に即すればこそ進展の余地が見られる
ものでもあったために、日本人が昔ながらの精神性を保ちながらの文明発展を
試みればこそ、西洋人には成し得なかったほどの功績を挙げられもしたのだった。
そのため、今さらその日本人にとっての伝統的な精神性を損なってまでもの
聖書信仰への改宗などを促したならば、そのせいでの世界規模での文明の衰退
すらもが危惧される事態となってしまう。キリスト的なものの霊験を肯定よりは
むしろ否定したがるような精神性こそが、もはや世界文明の発展すらをも主導して
いるのだから、むしろ西洋人を含む世界中の人間がそのような精神性のほうに倣
っていくようにしたほうが、より前進的な将来が見込まれることともなっている。
キリスト的なものの霊験をむしろ認めたがらないぐらいの精神性でいたほうが、
むしろこの世界この宇宙の構造を精確に把握できるが故の科学的、技術的発展
の余地すらもが見込める。むしろそれでこそさらなる自由の獲得すらもが期待
できるというのだから、そもそもが自由の獲得が根本目的の一つであった聖書
信仰の存在目的自体が、すでに雲散霧消してしまっているのだとすらいえる。
無論、天上での永久の命の獲得の如き、聖書信仰によってこそ叶えられるとされる
霊験が、東洋的な精神性に基づく今以上の文明発展によって可能となるわけでもない。
諸行無常や諸法実相といった仏法こそが、東洋精神を司る最たる本義でもあるわけだから、
そのレベルの成果を挙げようなどとすることからして目指されない。そのレベルの
放逸三昧を望みとしてですら絶てばこそ、この世で本当に可能となる範囲での最大級
の自由が獲得されても行くのだから、自由も現実的に追い求めるか、ただただ無制限
に追い求めるかで決定的に位相が食い違うものであることまでもが分かるわけである。
近代以降にはあっという間に機械文明の習熟度の水準ですら西洋人に追いつき、
ここ数十年の最先端科学技術の発展への貢献にかけては西洋人を凌駕するまでに
至った。量子論や相対論を始めとする現代科学理論がむしろ、キリスト教的な
世界観ではなく、東洋的な世界観や宇宙観に即すればこそ進展の余地が見られる
ものでもあったために、日本人が昔ながらの精神性を保ちながらの文明発展を
試みればこそ、西洋人には成し得なかったほどの功績を挙げられもしたのだった。
そのため、今さらその日本人にとっての伝統的な精神性を損なってまでもの
聖書信仰への改宗などを促したならば、そのせいでの世界規模での文明の衰退
すらもが危惧される事態となってしまう。キリスト的なものの霊験を肯定よりは
むしろ否定したがるような精神性こそが、もはや世界文明の発展すらをも主導して
いるのだから、むしろ西洋人を含む世界中の人間がそのような精神性のほうに倣
っていくようにしたほうが、より前進的な将来が見込まれることともなっている。
キリスト的なものの霊験をむしろ認めたがらないぐらいの精神性でいたほうが、
むしろこの世界この宇宙の構造を精確に把握できるが故の科学的、技術的発展
の余地すらもが見込める。むしろそれでこそさらなる自由の獲得すらもが期待
できるというのだから、そもそもが自由の獲得が根本目的の一つであった聖書
信仰の存在目的自体が、すでに雲散霧消してしまっているのだとすらいえる。
無論、天上での永久の命の獲得の如き、聖書信仰によってこそ叶えられるとされる
霊験が、東洋的な精神性に基づく今以上の文明発展によって可能となるわけでもない。
諸行無常や諸法実相といった仏法こそが、東洋精神を司る最たる本義でもあるわけだから、
そのレベルの成果を挙げようなどとすることからして目指されない。そのレベルの
放逸三昧を望みとしてですら絶てばこそ、この世で本当に可能となる範囲での最大級
の自由が獲得されても行くのだから、自由も現実的に追い求めるか、ただただ無制限
に追い求めるかで決定的に位相が食い違うものであることまでもが分かるわけである。
実際に霊験のあるものをあるとして、ないものをないとすれば、そこで霊験の
ある神仏に対する畏敬が備わる。それが敬うべき目上の人間への畏敬に敷衍されたり
することにもなるわけなので、むしろ神仏の霊験の有無や巧拙を厳格に判別して]
行くことこそが、礼楽統治を推進して行く上での推奨に値する姿勢ともなる。
霊験がなかったり稚拙だったりするような邪神こそを崇めたりすれば、
そのせいで信者があらゆる畏敬心を損ねて思い上がりばかりを募らせることとなり、
以て礼楽統治の妨げにすらなってしまうため、当然廃絶の対象となるほうが好ましい。
アブラハム教はおろか、仏教すらまだ伝来していなかった約2200年前の中国で、
前漢の武帝が儒学の国学化による礼楽統治の強化を試みると共に、泰山での封禅を
始めとする盛大な祭祀事業にも取り組み始めていた。その取り組みの様子が「漢書」
郊祀志などに記録されているが、そこで祀られている神はといえば、言ってみれば
「玉石混淆」なものであった。主に仏教文化の発達を通じて、宗教文化が円熟を済ませて
しまっている今の価値観に即すれば、今でも信仰に値するような神もいれば、値しない
ような神もいる。妖怪あたりとしてならまだ持て囃しようのありそうな拙劣な神すら
もがくそみそに崇められていて、そのため欒大のようなエセ方士が宗教利権の肥大化に
ことかけての専横を働いた挙げ句に誅戮されるような事件までもが起きてしまってもいる。
主に武帝の代で最盛期を迎えた前漢の祭祀事業は、帝国にとっての大きな財政的負担
となり、迷信に囚われた朝廷に代わっての軍部の台頭を引き起こす温床ともなった。
それが遂には将軍王莽による帝位の簒奪という形での前漢の崩壊すらをも招いて
しまったのだから、迷信の害悪度たるや、時に国を滅ぼす程のものであるのだと言える。
ある神仏に対する畏敬が備わる。それが敬うべき目上の人間への畏敬に敷衍されたり
することにもなるわけなので、むしろ神仏の霊験の有無や巧拙を厳格に判別して]
行くことこそが、礼楽統治を推進して行く上での推奨に値する姿勢ともなる。
霊験がなかったり稚拙だったりするような邪神こそを崇めたりすれば、
そのせいで信者があらゆる畏敬心を損ねて思い上がりばかりを募らせることとなり、
以て礼楽統治の妨げにすらなってしまうため、当然廃絶の対象となるほうが好ましい。
アブラハム教はおろか、仏教すらまだ伝来していなかった約2200年前の中国で、
前漢の武帝が儒学の国学化による礼楽統治の強化を試みると共に、泰山での封禅を
始めとする盛大な祭祀事業にも取り組み始めていた。その取り組みの様子が「漢書」
郊祀志などに記録されているが、そこで祀られている神はといえば、言ってみれば
「玉石混淆」なものであった。主に仏教文化の発達を通じて、宗教文化が円熟を済ませて
しまっている今の価値観に即すれば、今でも信仰に値するような神もいれば、値しない
ような神もいる。妖怪あたりとしてならまだ持て囃しようのありそうな拙劣な神すら
もがくそみそに崇められていて、そのため欒大のようなエセ方士が宗教利権の肥大化に
ことかけての専横を働いた挙げ句に誅戮されるような事件までもが起きてしまってもいる。
主に武帝の代で最盛期を迎えた前漢の祭祀事業は、帝国にとっての大きな財政的負担
となり、迷信に囚われた朝廷に代わっての軍部の台頭を引き起こす温床ともなった。
それが遂には将軍王莽による帝位の簒奪という形での前漢の崩壊すらをも招いて
しまったのだから、迷信の害悪度たるや、時に国を滅ぼす程のものであるのだと言える。
上に書いた通り、今ではもう、仏教文化による精査を通じて、神仏の霊験の有無や
巧拙の判別が東洋社会で済まされてしまっている。仏教自体は神格信仰ではないが、
方々の土着的な神格信仰と習合されて共に尊崇されるのと引き換えに、当地の神格信仰
を洗練させて、科学の発達と共にすら存続して行ける程もの完成度を付与して行った。
日本神道の最高神を祀る伊勢神宮すらもが、外宮の造営に真言密教の助けを借りるなど
しており、それでこそ神格としての格調をより高められてもいる。そういった神仏文化の
洗練があればこそ、武家政権が朝廷の権限を乗っ取るようなことが日本では防がれて来ても
いるわけだから、正統な神仏信仰が鎮護国家の効用を持つこともまた確かなことだといえる。
現状、仏門による神格信仰の監察を受けて来ているのはインド以東の東洋社会のみであり、
しかも、それももうとっくの昔に下火と化してしまっている。発祥地であるインドでも
すでに仏教は滅び、日本も廃仏毀釈で、中国も共産化で仏門の権威を決定的に毀損した上で
今に至っている。特に、日本と中国は資本主義や共産主義といった西洋的イデオロギーを
取り入れるために仏門を損壊せしめる必要があったわけで、この事実一つをとっても、仏教
文化と西洋文化こそは決定的に相容れないもの同士であることが自明となっているといえる。
実際、西洋文化こそは、本格の仏門による精密な監察などを受けるまでもなく、仏教的価値観
に即して非とされることが紛れもないものである。古来の聖書信仰やギリシャ学の内容からして、
すでに仏法に決定的に違背しているものばかりだし、そこから派生して来ている諸々の後代の
西洋の人文学もまた、陰に陽に仏法に逆らおうとしたものであり続けている。科学ともなれば、
仏門では「無記答」に処される純粋な概念論であるため、仏門による糾弾の対象にすらなら
ないが、やはり仏門がそうする理由である「概念は真理に当たらない」という論説に即して、
有益である程にそれ相応に有害でもある「マッチポンプの種」でばかりあり続けている。
巧拙の判別が東洋社会で済まされてしまっている。仏教自体は神格信仰ではないが、
方々の土着的な神格信仰と習合されて共に尊崇されるのと引き換えに、当地の神格信仰
を洗練させて、科学の発達と共にすら存続して行ける程もの完成度を付与して行った。
日本神道の最高神を祀る伊勢神宮すらもが、外宮の造営に真言密教の助けを借りるなど
しており、それでこそ神格としての格調をより高められてもいる。そういった神仏文化の
洗練があればこそ、武家政権が朝廷の権限を乗っ取るようなことが日本では防がれて来ても
いるわけだから、正統な神仏信仰が鎮護国家の効用を持つこともまた確かなことだといえる。
現状、仏門による神格信仰の監察を受けて来ているのはインド以東の東洋社会のみであり、
しかも、それももうとっくの昔に下火と化してしまっている。発祥地であるインドでも
すでに仏教は滅び、日本も廃仏毀釈で、中国も共産化で仏門の権威を決定的に毀損した上で
今に至っている。特に、日本と中国は資本主義や共産主義といった西洋的イデオロギーを
取り入れるために仏門を損壊せしめる必要があったわけで、この事実一つをとっても、仏教
文化と西洋文化こそは決定的に相容れないもの同士であることが自明となっているといえる。
実際、西洋文化こそは、本格の仏門による精密な監察などを受けるまでもなく、仏教的価値観
に即して非とされることが紛れもないものである。古来の聖書信仰やギリシャ学の内容からして、
すでに仏法に決定的に違背しているものばかりだし、そこから派生して来ている諸々の後代の
西洋の人文学もまた、陰に陽に仏法に逆らおうとしたものであり続けている。科学ともなれば、
仏門では「無記答」に処される純粋な概念論であるため、仏門による糾弾の対象にすらなら
ないが、やはり仏門がそうする理由である「概念は真理に当たらない」という論説に即して、
有益である程にそれ相応に有害でもある「マッチポンプの種」でばかりあり続けている。
今一度、洋の東西を問わず全世界の宗教文化文明全てが、仏法の監察下に置かれてみればよい。
それで西洋文化の致命的な問題性が看破されるのみならず、西洋文化の取り入れのせいで深刻な
文化的、社会的腐敗を来してしまっている東洋社会までもが健全化を享受できるようになる。
仏教の発祥地であるインドこそは、いま世界でも最底辺の経済水準にある上に、東洋でも西洋
でもなく、「世界の中心」とでも見なされるべき実質的な地理条件にもあるわけだから、東洋人
も西洋人も、全くの第三者的異世界からの公平な文化的精査を受けるものだと考えればよい。
西洋だけでなく、東洋でも仏教到来以前には相当な迷信がまかり通っていたことが、前漢武帝の
祭祀記録などで明らかであるわけだから、西洋人ばかりが迷信の過ちを恥じる必要もないのである。
「古えは〜墓地を請わず」
「古代には、官給の墓地などが必要とされることはなかった。
(墓地はあくまで私的なものであるため、公私混同を避けていた。
議員や総督が無名の私人の墓を作ったりそれを認めたりしていたあたり、
やはり当時のローマ帝国からして非礼の横行する土人社会だったことが確か)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
それで西洋文化の致命的な問題性が看破されるのみならず、西洋文化の取り入れのせいで深刻な
文化的、社会的腐敗を来してしまっている東洋社会までもが健全化を享受できるようになる。
仏教の発祥地であるインドこそは、いま世界でも最底辺の経済水準にある上に、東洋でも西洋
でもなく、「世界の中心」とでも見なされるべき実質的な地理条件にもあるわけだから、東洋人
も西洋人も、全くの第三者的異世界からの公平な文化的精査を受けるものだと考えればよい。
西洋だけでなく、東洋でも仏教到来以前には相当な迷信がまかり通っていたことが、前漢武帝の
祭祀記録などで明らかであるわけだから、西洋人ばかりが迷信の過ちを恥じる必要もないのである。
「古えは〜墓地を請わず」
「古代には、官給の墓地などが必要とされることはなかった。
(墓地はあくまで私的なものであるため、公私混同を避けていた。
議員や総督が無名の私人の墓を作ったりそれを認めたりしていたあたり、
やはり当時のローマ帝国からして非礼の横行する土人社会だったことが確か)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
人間社会が、集団意思の狂乱に征服されてしまった挙げ句に
騒乱状態に陥ってしまう所には、一定の条件が存在する。
・人々の無責任性が増長する程に雑多な都市社会であること。
・特に狂乱に駆られやすい女子供や小人男への身分からの抑制が疎かであること。
・人々の心の平安を司るような正統な信教が皆無ないし弱小であること。
以上のような条件が整っている所に、狂乱を煽るような何らかの情報工作が
加えられた場合に、世の中はあっという間に騒乱状態に陥ってしまう。そして最悪、
傾国や亡国級の災難を招くし、そうでなくても、自国での安住の余地を奪われた
人々が半難民として外界へと脱出しての侵略活動に及んだりすることになる。
あえてそのような事態を招かないようにするためには、
・人間社会を家単位で厳重に管理して、個人の無責任性の増長を食い止める。
・女子供や小人男への身分的抑圧による発言権の厳重な抑制を講ずる。
・人々の心の平安を司れる正統な神仏信仰を奨励する。
といった対策を講じながら、さらに反社会的勢力による情報工作での
騒擾などを厳重に取り締まって行くようにしなければならない。
講じねばならない対策があまりにも多い上に、一つ一つの対策からして極めて
難儀なものとなることが見え透いていて、なおかつそれらの対策が功を奏して平和な
世の中が確立された所で、そこでは騒擾犯たちが情報工作の一環として持て囃していた
民衆主権や行為能力の自由などが大幅に制限されて行くことにもなるのだから、生半可な
覚悟や達観でそれに取り組んで行くことなどはまず無理である。世界規模の騒乱のせいで
全世界が致命的な破滅の危機に陥っていて、なおかつそのような世の中を本気で建て直して行く
聖賢の志しが自らにもあるといった、環境と自己両面からの準備が整っているのでもなければ、
聞こえだけはいい「世直し」というものも、なかなか取り組んで行くことも覚束ないままとなる。
騒乱状態に陥ってしまう所には、一定の条件が存在する。
・人々の無責任性が増長する程に雑多な都市社会であること。
・特に狂乱に駆られやすい女子供や小人男への身分からの抑制が疎かであること。
・人々の心の平安を司るような正統な信教が皆無ないし弱小であること。
以上のような条件が整っている所に、狂乱を煽るような何らかの情報工作が
加えられた場合に、世の中はあっという間に騒乱状態に陥ってしまう。そして最悪、
傾国や亡国級の災難を招くし、そうでなくても、自国での安住の余地を奪われた
人々が半難民として外界へと脱出しての侵略活動に及んだりすることになる。
あえてそのような事態を招かないようにするためには、
・人間社会を家単位で厳重に管理して、個人の無責任性の増長を食い止める。
・女子供や小人男への身分的抑圧による発言権の厳重な抑制を講ずる。
・人々の心の平安を司れる正統な神仏信仰を奨励する。
といった対策を講じながら、さらに反社会的勢力による情報工作での
騒擾などを厳重に取り締まって行くようにしなければならない。
講じねばならない対策があまりにも多い上に、一つ一つの対策からして極めて
難儀なものとなることが見え透いていて、なおかつそれらの対策が功を奏して平和な
世の中が確立された所で、そこでは騒擾犯たちが情報工作の一環として持て囃していた
民衆主権や行為能力の自由などが大幅に制限されて行くことにもなるのだから、生半可な
覚悟や達観でそれに取り組んで行くことなどはまず無理である。世界規模の騒乱のせいで
全世界が致命的な破滅の危機に陥っていて、なおかつそのような世の中を本気で建て直して行く
聖賢の志しが自らにもあるといった、環境と自己両面からの準備が整っているのでもなければ、
聞こえだけはいい「世直し」というものも、なかなか取り組んで行くことも覚束ないままとなる。
その条件をたまたま満たせているような人間からして稀有であるものだから、
結局は世直しのために、世直しを講じて行く権力機構における封建的な秩序構造を
構築して行くことまでもが必要となる。誰しもが上記のような手順に基づく世直しを
心中からの誠意と共に講じて行けるのならそれに越したことはないが、実際の所、
それは不可能にも等しいので漢の高祖劉邦のような天運と仁徳の素養両方に恵まれた
人間を世直しのリーダーに仕立て上げての改革に臨んで行くことが便宜として必要になる。
そしてそのような封建機構が構築された結果として、その機構すら保って居られれば、
世代交代によって機構の構成者が移り変わるのであってもそれなりに平和維持機能を
保全して行くことすらもが可能ともなる。世襲で後を継いだ主君が、自らの放辟邪侈で
組織を致命的な腐敗に追いやってしまうほどの暗君ぷりを発揮するのでもない限りは、
先君の事業をただ忠実に引き継いで行くだけでも、治世を存続して行くことが可能となる。
健全な封建社会が長期の泰平を実現して行ける根拠たるや、斯くの如くであるけれども、
今の所、封建統治によって恒久平和を実現することができた王朝や幕府も存在していない。
それは、最高級の成功を克ち得た漢王朝や江戸幕府のような封建機構といえども、中国や
日本といった部分の統治を講じただけの存在であった上に、蛮族匈奴や悪徳商人や
反幕勢力の如き不穏な勢力の存続すらをも許容したままでいてしまっていたからである。
いま、全世界が総出を挙げて健全な封建機構による地球社会の平定に取り組み、後々の
不安の種となるような不穏分子の根絶にも臨んだならば、それによる恒久平和の獲得すら
もが可能となるであろう。かつての聖王賢臣や名将たちの末裔も健在であるようなら諸国の
統治のために復権して、未だかつてまともな徳治も敷かれたことのないような異界に至るまで
の平定に取り組んで行ってもらったならば、やむ無くかつての王政を途絶させられた借りも
返せる。そうして、人類という種族が存続する限りにおける恒久的な治世が確立されて行く。
結局は世直しのために、世直しを講じて行く権力機構における封建的な秩序構造を
構築して行くことまでもが必要となる。誰しもが上記のような手順に基づく世直しを
心中からの誠意と共に講じて行けるのならそれに越したことはないが、実際の所、
それは不可能にも等しいので漢の高祖劉邦のような天運と仁徳の素養両方に恵まれた
人間を世直しのリーダーに仕立て上げての改革に臨んで行くことが便宜として必要になる。
そしてそのような封建機構が構築された結果として、その機構すら保って居られれば、
世代交代によって機構の構成者が移り変わるのであってもそれなりに平和維持機能を
保全して行くことすらもが可能ともなる。世襲で後を継いだ主君が、自らの放辟邪侈で
組織を致命的な腐敗に追いやってしまうほどの暗君ぷりを発揮するのでもない限りは、
先君の事業をただ忠実に引き継いで行くだけでも、治世を存続して行くことが可能となる。
健全な封建社会が長期の泰平を実現して行ける根拠たるや、斯くの如くであるけれども、
今の所、封建統治によって恒久平和を実現することができた王朝や幕府も存在していない。
それは、最高級の成功を克ち得た漢王朝や江戸幕府のような封建機構といえども、中国や
日本といった部分の統治を講じただけの存在であった上に、蛮族匈奴や悪徳商人や
反幕勢力の如き不穏な勢力の存続すらをも許容したままでいてしまっていたからである。
いま、全世界が総出を挙げて健全な封建機構による地球社会の平定に取り組み、後々の
不安の種となるような不穏分子の根絶にも臨んだならば、それによる恒久平和の獲得すら
もが可能となるであろう。かつての聖王賢臣や名将たちの末裔も健在であるようなら諸国の
統治のために復権して、未だかつてまともな徳治も敷かれたことのないような異界に至るまで
の平定に取り組んで行ってもらったならば、やむ無くかつての王政を途絶させられた借りも
返せる。そうして、人類という種族が存続する限りにおける恒久的な治世が確立されて行く。
世界規模の騒乱が即座に核戦争での人類の滅亡に直結することとなってしまった現今において、
それはもはや地球人類にとっての、嫌でも避けようのない運命とすらなっているのである。
「墓門に棘有り、斧以て之れを斯る。夫や良からず、国人之れを知るも、
知りて已まず、誰をか昔より然らんや。墓門に梅有り、鴞有りて萃まる。
夫や良からず、歌いて以て之れに訊ぐ。訊げれども予を顧ず、顛倒して予を思いかえさん」
「墓の入り口にナツメの木が生い茂っていて、人々は平気でこの木を斧で刈り取って
持ち帰っていく。この墓に眠る人は生前に素行不良でいた。みんなそれを知っていたのに、
それでも改めようとすらしなかったものだから、昔からこのようなままであり続けている。
墓の入り口に梅の木が生えていて、悪鳥のフクロウがこの木に集い止まってる。この墓に
眠る人は生前素行不良でいた。私も歌に乗せてまで彼に忠告をしたのに、彼は私を顧みよう
ともしなかった。あの世で考え方を根本から改めることで、初めて私の忠告をも思い返す
ことだろう。(墓荒らしは故人の生前の素行の不良さを象徴する最たる現象である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・墓門)
それはもはや地球人類にとっての、嫌でも避けようのない運命とすらなっているのである。
「墓門に棘有り、斧以て之れを斯る。夫や良からず、国人之れを知るも、
知りて已まず、誰をか昔より然らんや。墓門に梅有り、鴞有りて萃まる。
夫や良からず、歌いて以て之れに訊ぐ。訊げれども予を顧ず、顛倒して予を思いかえさん」
「墓の入り口にナツメの木が生い茂っていて、人々は平気でこの木を斧で刈り取って
持ち帰っていく。この墓に眠る人は生前に素行不良でいた。みんなそれを知っていたのに、
それでも改めようとすらしなかったものだから、昔からこのようなままであり続けている。
墓の入り口に梅の木が生えていて、悪鳥のフクロウがこの木に集い止まってる。この墓に
眠る人は生前素行不良でいた。私も歌に乗せてまで彼に忠告をしたのに、彼は私を顧みよう
ともしなかった。あの世で考え方を根本から改めることで、初めて私の忠告をも思い返す
ことだろう。(墓荒らしは故人の生前の素行の不良さを象徴する最たる現象である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・墓門)

古来からの女の「生業」を除いた場合の話である。女が独立的に金銭を得る「稼業」の内で最古級に
当たるのが娼婦であるだけで、これは「世界最古の男の職業は庭師」などという主張についても
全く同じことが言える。(より古くからの男の生業には、狩猟や農耕や為政者などがある)
娼婦にしろ庭師にしろ、大した職業ではない。どちらもこの世に欠くべからざる職業などではないし、
特に娼婦は奴隷とも並ぶ最低級の賤業として、ひっきりなしの規制の対象となりながら辛うじて存続を
黙認されるような扱いばかりを受けて来ている。そのような賤業中の賤業こそは、金融経済の発達した
都市社会で女が初めて手を出し始めた稼業であるらしいという事情からも、金融経済がいかに不必要で
粗悪な稼業の自由ばかりをこの世にもたらして来たのかまでもが知れるのである。
その、金融経済を国家規模や国際規模での本是として、元来カネで取り回すべきでもないようなものまで
全てカネで取り回すようにしてしまったのが資本主義社会であるわけだから、その奇形的な試みに即して
当然、世の中も大荒廃の様相を呈することとなった。食糧までもが資本家による寡占や投機の対象となる
ことで自然には起こらないレベルの大飢饉を招き、物作りまでもが資本家の指先一つで右往左往
させられることによる産業の空洞化という問題をも来して、資本主義先進国の雇用情勢の悪化
などという本末転倒の事態までをももたらたすこととなってしまった。
娼婦のような賤しい稼業が、多くの規制を受けながら辛うじて存続して行く程度のものとして、
金融経済が部分的に黙認される程度のことがあった所で、江戸時代の日本のような一定度の安定が
得られたりもするわけだから、決して共産化によって金融経済を滅ぼし尽くしたりまでする必要もない。
(共産化は共産化で、大規模な都市社会には不相応なほどに過剰な潔癖主義の強制となってしまう)
ただ、できることなら関与を避けるべきもの、社会的信用や品位も最低級なものとして金融経済や娼婦
が扱われさえすればそれでいいだけなのだから、むしろそうするほうが常識に適ってすらいるといえる。

国際社会を大荒廃へと陥れてしまったのだから、その張本人である連中もむしろ、進んで金融経済の
大破綻こそを甘受すべきである。それにより金融経済の信用性を根底まで突き落として、この世に
元来不必要な賤業としての相応な扱いを受けて行くようにすべきなのである。それでこそ、元来から
無責任な立場である金融経済の元締めとしての、分相応な責任が取られることになるといえる。
「娼婦と金融業者の口先ほど信用のならないものはない」と、誰しもがわきまえるようになったならば、
それだけで今の世の中の全ての致命的問題も解消されて行くに違いない。ただ、そこに至るまでの道程に
おいて、あまりにも多くの虚構の信用がWTCのようにして崩壊して行く必要があるわけで、その崩壊から
なる絶望にうちひしがれて行くことを受け入れなければならないことが、大いなる苦難となるわけである。
「昬姻を懐うは、大いに信無し、命を知らず(既出)」
「男女の交わりばかりに専らな淫奔者に信用はない。そのような人間は天命も知らないから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・蝃蝀より)
「今商王受、〜姦回を崇信す。〜爾じ其れ孜孜として、予れ一人を奉じ、恭しみて天の罰を行え(一部既出)」
「いま殷の紂王は、姦邪の徒こそを信じ崇め立てての暴虐を働いている。汝ら臣下は懇親を込めて、
我れ(武王)一人の責任の下に、慎んで奴らへの天罰を実行に移すがよい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)
「其の為さざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲することなかれ。此の如きのみ(既出)」
「してはいけないことはしない、欲してはならないことは欲しない。君子の道はただそれだけのことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一七より)
孟子の言う「してはいけないこと」とは、もちろん善悪で言う所の「悪」である。
勧善懲悪(左伝)を至上命題に掲げる儒家の正統な後継者として、孟子も悪を為さないことを
本是としつつの遊説活動に臨んでいた(その結果として、罪悪まみれの世に受け入れられなかった)。
では、その悪とは何なのかといえば、それは「権力犯罪」である。大権力者が無責任で濁欲まみれな
妄動に及んだ挙げ句の社会荒廃こそを悪の最たるものと見なしていたからこそ、孔子や孟子も
厳重な修身と共なる公権力者としての活動を自他に促していたのである。
権力犯罪こそを悪の最たるものと見なすことは、善とか悪とかいった言葉の定義に
即して自明なこととなる。言葉というもの自体、人間同士が社会活動を営んで行くための
意思疎通の道具として編み出されたものであるわけだから、その言葉が「悪」という言葉に
よって指し示さねばならないものもまた、社会を一概に毀損するものでなければならぬ。
そして、この世に最大級の害悪を及ぼす現象といえば、それは民間犯罪でもなければ
自然災害でもなく、権力犯罪でこそあるわけだから、権力犯罪こそは、悪という言葉に
よって指し示されねばならない最も純然たる現象であるということになるわけである。
では、権力犯罪の中でも最も凶悪なものは何かといえば、それは「政商」である。
儒学がそれなりに通用していた頃の中国や日本においては、士農工商の身分秩序なども
それなりに行き届いていたものだから、権力にものを言わせる商売人などというもの自体からして
あまり生じ得なかった。そのため儒家教学上で政商が問題視されているようなこともあまりないが、
古くは「書経」における桀王や紂王の暴虐の記録内にも政商的な鼠賊の暗躍が垣間見られるし、
中国史上最悪級の暗黒帝国であった秦帝国も政商呂不韋の暗躍によって築かれ、中国史上
最良級の文化大国であった大唐帝国も塩の闇商人の政商然とした暗躍によって滅ぼされている。
「してはいけないことはしない、欲してはならないことは欲しない。君子の道はただそれだけのことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一七より)
孟子の言う「してはいけないこと」とは、もちろん善悪で言う所の「悪」である。
勧善懲悪(左伝)を至上命題に掲げる儒家の正統な後継者として、孟子も悪を為さないことを
本是としつつの遊説活動に臨んでいた(その結果として、罪悪まみれの世に受け入れられなかった)。
では、その悪とは何なのかといえば、それは「権力犯罪」である。大権力者が無責任で濁欲まみれな
妄動に及んだ挙げ句の社会荒廃こそを悪の最たるものと見なしていたからこそ、孔子や孟子も
厳重な修身と共なる公権力者としての活動を自他に促していたのである。
権力犯罪こそを悪の最たるものと見なすことは、善とか悪とかいった言葉の定義に
即して自明なこととなる。言葉というもの自体、人間同士が社会活動を営んで行くための
意思疎通の道具として編み出されたものであるわけだから、その言葉が「悪」という言葉に
よって指し示さねばならないものもまた、社会を一概に毀損するものでなければならぬ。
そして、この世に最大級の害悪を及ぼす現象といえば、それは民間犯罪でもなければ
自然災害でもなく、権力犯罪でこそあるわけだから、権力犯罪こそは、悪という言葉に
よって指し示されねばならない最も純然たる現象であるということになるわけである。
では、権力犯罪の中でも最も凶悪なものは何かといえば、それは「政商」である。
儒学がそれなりに通用していた頃の中国や日本においては、士農工商の身分秩序なども
それなりに行き届いていたものだから、権力にものを言わせる商売人などというもの自体からして
あまり生じ得なかった。そのため儒家教学上で政商が問題視されているようなこともあまりないが、
古くは「書経」における桀王や紂王の暴虐の記録内にも政商的な鼠賊の暗躍が垣間見られるし、
中国史上最悪級の暗黒帝国であった秦帝国も政商呂不韋の暗躍によって築かれ、中国史上
最良級の文化大国であった大唐帝国も塩の闇商人の政商然とした暗躍によって滅ぼされている。
北宋以降の中華帝国に至っては、権力者が政商からの賄賂で懐柔されるのがデフォルトと
化してしまったために、もはやろくに政商行為を糾弾するような論調からして見られない。
(辛うじて「呻吟語」などに権力腐敗を嘆くような論調が垣間見られる)勧善懲悪を旨とする
儒家といえども、あまりにも凶悪すぎて捕捉しきれないままであり続けて来たのが政商だとも
言えるわけで、この世における究極悪たる政商への警戒を怠り気味であり続けた挙げ句に、政商行為
の完全な開き直りである資本主義の覇権までをも招いてしまったことは、これまでの儒者にとっての
落ち度だったともいえるので、これからは改めて用心を心がけて行くようにしなければならない。
元来、「商」とは小売業のような最底辺の商売を除く経営業のことであって、
小売業は小売業で「賈」という言葉でまた別に定義されていた。そのような元来の意味に即した
「商」は、儒学も武芸も嗜んでいないような文民の公務員と事務処理面などであまり大した
差異が見られないために、両者が癒着することにもさしたる障害が伴うようなことがない。
そのため、儒学も武芸も存在しない西洋社会などにおいては、政商行為が完全な野放しのままで
あり続けて来た。旧約聖書への信仰の下で政商活動を試みるユダヤ教徒などに対する警戒は
それなりに行われて来たが、そもそもが「政商」という行為自体が言語構造上からの究極悪
として警戒対象となることは皆無のままであり続けて来た。そのため、ユダヤ教徒が
自分たちの政商活動を捗らせるための悪巧方便として拵えたキリスト教などを総出で
信じたりもしてしまったわけで、これはさすがに、儒学に相当するような権力道徳学が
ほんの少しでも認知されてすらいれば、決して起こり得なかった大失態だったといえる。
化してしまったために、もはやろくに政商行為を糾弾するような論調からして見られない。
(辛うじて「呻吟語」などに権力腐敗を嘆くような論調が垣間見られる)勧善懲悪を旨とする
儒家といえども、あまりにも凶悪すぎて捕捉しきれないままであり続けて来たのが政商だとも
言えるわけで、この世における究極悪たる政商への警戒を怠り気味であり続けた挙げ句に、政商行為
の完全な開き直りである資本主義の覇権までをも招いてしまったことは、これまでの儒者にとっての
落ち度だったともいえるので、これからは改めて用心を心がけて行くようにしなければならない。
元来、「商」とは小売業のような最底辺の商売を除く経営業のことであって、
小売業は小売業で「賈」という言葉でまた別に定義されていた。そのような元来の意味に即した
「商」は、儒学も武芸も嗜んでいないような文民の公務員と事務処理面などであまり大した
差異が見られないために、両者が癒着することにもさしたる障害が伴うようなことがない。
そのため、儒学も武芸も存在しない西洋社会などにおいては、政商行為が完全な野放しのままで
あり続けて来た。旧約聖書への信仰の下で政商活動を試みるユダヤ教徒などに対する警戒は
それなりに行われて来たが、そもそもが「政商」という行為自体が言語構造上からの究極悪
として警戒対象となることは皆無のままであり続けて来た。そのため、ユダヤ教徒が
自分たちの政商活動を捗らせるための悪巧方便として拵えたキリスト教などを総出で
信じたりもしてしまったわけで、これはさすがに、儒学に相当するような権力道徳学が
ほんの少しでも認知されてすらいれば、決して起こり得なかった大失態だったといえる。
人間社会と、人間が用いるものとしての言語とが、その原理的な構造に即して
「究極悪」と定義せざるを得ない政商という行為や人員の残存を決して許さないこと、
それが正しい名辞に即した勧善懲悪を志す儒家にとっての本分となる。儒家の祖である
孔子や孟子自身が政商を直接的な糾弾の対象としていたわけではないが(孔子が弟子の
子貢の投機活動を卑しんでいた程度の記録はある)、結局の所そうであることが、儒家の
教理と政商による歴史的な惨暴の数々とを鑑みることで論理的に導き出すことができる。
この世における勧善懲悪を志すからには、究極悪たる政商の活動を推進する聖書信仰や
洋学の如き邪教邪学の根絶や制圧も必須となる。それらが当たり前のように市民権を得て
しまっている現代においてはなかなか信じがたいことではあるだろうが、それらを討伐する
ことこそは確かに、言語というものの根本的な構造に根ざした「勧善懲悪」となる。それは、
人間社会においてそれなりに通用するものとしての言語を構築して来たことには変わりない
アルファベット圏である西洋社会などにおいても、全く共通していることなのである。
「刑の濫りならざるは、君の明なり。臣の願いなり。淫刑して以て逞しくせんとせば、誰か則ち罪無からん」
「刑罰が妄りでないことは、賢君の聡明さの現れであると共に、能臣たちの願うところである。
妄りな刑罰で何かを正そうとすれば、罪のない人間などもいなくなってしまうだろう。
(イエスの磔刑のような妄りな冤罪劇によって一切皆罪の無法状態が招かれ
たりしないようにすることこそは、真に願われるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十三年より)
「究極悪」と定義せざるを得ない政商という行為や人員の残存を決して許さないこと、
それが正しい名辞に即した勧善懲悪を志す儒家にとっての本分となる。儒家の祖である
孔子や孟子自身が政商を直接的な糾弾の対象としていたわけではないが(孔子が弟子の
子貢の投機活動を卑しんでいた程度の記録はある)、結局の所そうであることが、儒家の
教理と政商による歴史的な惨暴の数々とを鑑みることで論理的に導き出すことができる。
この世における勧善懲悪を志すからには、究極悪たる政商の活動を推進する聖書信仰や
洋学の如き邪教邪学の根絶や制圧も必須となる。それらが当たり前のように市民権を得て
しまっている現代においてはなかなか信じがたいことではあるだろうが、それらを討伐する
ことこそは確かに、言語というものの根本的な構造に根ざした「勧善懲悪」となる。それは、
人間社会においてそれなりに通用するものとしての言語を構築して来たことには変わりない
アルファベット圏である西洋社会などにおいても、全く共通していることなのである。
「刑の濫りならざるは、君の明なり。臣の願いなり。淫刑して以て逞しくせんとせば、誰か則ち罪無からん」
「刑罰が妄りでないことは、賢君の聡明さの現れであると共に、能臣たちの願うところである。
妄りな刑罰で何かを正そうとすれば、罪のない人間などもいなくなってしまうだろう。
(イエスの磔刑のような妄りな冤罪劇によって一切皆罪の無法状態が招かれ
たりしないようにすることこそは、真に願われるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十三年より)
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・歩行時に大手を振ってバランスを取りながら歩く→ゴリラやチンパンジーもやっている。
・背筋をよく伸ばして胸を張る→自立時のチンパンジーがやっている。
・相手の目を見て付き合う→ゴリラがやっている。
・挨拶時にお互いの急所(手、陰部など)をこすり付けあう→ボノボがやっている。
今では日本人などもやらされていることの多い、上のような西洋特有の習慣こそは、
実はサルもやっている。昔の日本人はさにあらずで、むしろ西洋の習慣を
取り入れてしまったせいで文化的な退化の様相を来たしてしまった。実際に
そのせいで、足腰の弱体化や注意力の欠如などの問題を来たすことともなった。
「何もかも西洋が一番優れている」などと考えるのはさすがに誤りであることが、
洋の東西を問わぬ世界中の人々にいい加減考え直されて来ているが、実は西洋こそは、
人間自身の身のこなしのような最も根本的な部分でサルにも等しい未開さ加減のままで
あり続けているという所にまでは、まださすがに配慮が足りないままであることが多い。
それは、信者の知能をサル以下にまで引き下げる聖書信仰などを自分たちの文化発展の
取っ掛かりにしてしまったことからも避けられないことであった。始めに多いなる過ちを
犯してしまっているものだから、後付けでどこまで埋め合わせを試みても、どうしたって
根本の部分で決まりが付かないままであり続ける。そのような「王様は裸」状態での過ち
と埋め合わせのマッチポンプの悪循環がどこまで行けるのかを試みるのが、世界が無法
状態のままで在り続けた限りにおける、西洋人に課せられた運命であったのに違いない。
サルがごく少数の村社会を形成することしかできないように、「サル以下教」たる
聖書信仰の呪縛に囚われたままでいる西洋人もまた、村社会以上に大規模な社会を健全に
運営して行ったりすることができない。今の欧米社会がそれなりに安定的であるように
見えるのも、聖書信仰の深刻化をそれなりに自粛していると共に、大航海時代以降に
世界中から奪い取った既得権益でどうにか蒙昧な市民たちを食わせてやって行ってるから
なわけで、そうでもない限りにおいては確かに、聖書信者こそは「万人の万人に対する
闘争状態」を自分たちの間で講じ続けることしかできないままで在り続けるのである。

・背筋をよく伸ばして胸を張る→自立時のチンパンジーがやっている。
・相手の目を見て付き合う→ゴリラがやっている。
・挨拶時にお互いの急所(手、陰部など)をこすり付けあう→ボノボがやっている。
今では日本人などもやらされていることの多い、上のような西洋特有の習慣こそは、
実はサルもやっている。昔の日本人はさにあらずで、むしろ西洋の習慣を
取り入れてしまったせいで文化的な退化の様相を来たしてしまった。実際に
そのせいで、足腰の弱体化や注意力の欠如などの問題を来たすことともなった。
「何もかも西洋が一番優れている」などと考えるのはさすがに誤りであることが、
洋の東西を問わぬ世界中の人々にいい加減考え直されて来ているが、実は西洋こそは、
人間自身の身のこなしのような最も根本的な部分でサルにも等しい未開さ加減のままで
あり続けているという所にまでは、まださすがに配慮が足りないままであることが多い。
それは、信者の知能をサル以下にまで引き下げる聖書信仰などを自分たちの文化発展の
取っ掛かりにしてしまったことからも避けられないことであった。始めに多いなる過ちを
犯してしまっているものだから、後付けでどこまで埋め合わせを試みても、どうしたって
根本の部分で決まりが付かないままであり続ける。そのような「王様は裸」状態での過ち
と埋め合わせのマッチポンプの悪循環がどこまで行けるのかを試みるのが、世界が無法
状態のままで在り続けた限りにおける、西洋人に課せられた運命であったのに違いない。
サルがごく少数の村社会を形成することしかできないように、「サル以下教」たる
聖書信仰の呪縛に囚われたままでいる西洋人もまた、村社会以上に大規模な社会を健全に
運営して行ったりすることができない。今の欧米社会がそれなりに安定的であるように
見えるのも、聖書信仰の深刻化をそれなりに自粛していると共に、大航海時代以降に
世界中から奪い取った既得権益でどうにか蒙昧な市民たちを食わせてやって行ってるから
なわけで、そうでもない限りにおいては確かに、聖書信者こそは「万人の万人に対する
闘争状態」を自分たちの間で講じ続けることしかできないままで在り続けるのである。
都市社会を全くの自力だけで営んで行けるだけの素養が聖書圏以外の人間にはある一方で、
聖書圏の人間にはない。古来から極度の内乱や外界の侵略を繰り返し続けることだけで
何とか保たれて来た聖書圏こそは最も危うい人間社会であり、まず地球上の人類社会の内で
どこかが真っ先に壊滅の憂き目に合わせられることがあるとすれば、それも聖書圏でしか
あり得ない。現状ではもはや、聖書圏の核兵器が全人類を滅ぼし尽くすまでもの威力を
帯びてしまっているものだから、滅亡するとすれば全人類が一緒に滅亡することとなる
可能性のほうがたかいわけだが、そうならない限りにおいてはやはり、致命的な狂乱の
種を抱えた聖書圏こそが、経済破綻などの形での早急な壊滅に陥ることが免れられない。
サルレベルの精神構造や文化習俗しか持たない人間集団が、見てくれだけ真人間を装っての
社会運営などを試みたりしたこと自体、始めから無理の押し通しだったのであり、それが
2000年もの長きにわたって持ち応えてきたことのほうがむしろ奇跡だといえる。いま聖書信仰
に陥ってしまっている人々も、決してサル未満の知能でしかいられない先天的な精神障害では
ないわけだから、そうでい続けることからなる精神薄弱の酩酊から目を覚まして行くのであれば、
それでやり直して行くこともできなくはないはずである。聖書信仰こそが自分たちの精神的な
拠り所であり続けて来たのにも違いないが、むしろサル以下の知能を持て囃すような悪習を拠り
所として来たことこそを恥じて、いい加減に蛮族の群れであることから卒業すべきだといえる。
聖書圏の人間にはない。古来から極度の内乱や外界の侵略を繰り返し続けることだけで
何とか保たれて来た聖書圏こそは最も危うい人間社会であり、まず地球上の人類社会の内で
どこかが真っ先に壊滅の憂き目に合わせられることがあるとすれば、それも聖書圏でしか
あり得ない。現状ではもはや、聖書圏の核兵器が全人類を滅ぼし尽くすまでもの威力を
帯びてしまっているものだから、滅亡するとすれば全人類が一緒に滅亡することとなる
可能性のほうがたかいわけだが、そうならない限りにおいてはやはり、致命的な狂乱の
種を抱えた聖書圏こそが、経済破綻などの形での早急な壊滅に陥ることが免れられない。
サルレベルの精神構造や文化習俗しか持たない人間集団が、見てくれだけ真人間を装っての
社会運営などを試みたりしたこと自体、始めから無理の押し通しだったのであり、それが
2000年もの長きにわたって持ち応えてきたことのほうがむしろ奇跡だといえる。いま聖書信仰
に陥ってしまっている人々も、決してサル未満の知能でしかいられない先天的な精神障害では
ないわけだから、そうでい続けることからなる精神薄弱の酩酊から目を覚まして行くのであれば、
それでやり直して行くこともできなくはないはずである。聖書信仰こそが自分たちの精神的な
拠り所であり続けて来たのにも違いないが、むしろサル以下の知能を持て囃すような悪習を拠り
所として来たことこそを恥じて、いい加減に蛮族の群れであることから卒業すべきだといえる。
「天乃ち王に勇智を錫い、万邦に表正し、禹の旧服を纘がしむ。
茲に厥の典に率いて、天命を奉け若う。夏王罪有り、上天を矯り誣いて、
以て命を下に布く。帝用て臧みせず、商を式て命を受けしめ、用て厥の師を爽らかにす」
「天も我が君(湯王)に勇知を賜り、万邦を正して禹王の帝業を継承されました。
そのため君も正しき法に基づく統治を敷く形で、天命に基づく革命をも実行に移されたのです。
夏の桀王には大いなる罪がありました。天の意向を騙って、人々を虐待することこそを
命として天下全土に敷こうとしました。天帝も決してこれをよしとせず、殷に天命を授け替える
こととし、人々の従うべき相手が誰であるのかを新たに示されたのです。(民を虐待する
ことを天命の内に組み込むなど、明らかに天を騙る詐欺師の所業である。そんな悪党が、
イエスが生まれる1500年以上も前に「はりつけ王〈桀王〉」という名ですでにいたのでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
茲に厥の典に率いて、天命を奉け若う。夏王罪有り、上天を矯り誣いて、
以て命を下に布く。帝用て臧みせず、商を式て命を受けしめ、用て厥の師を爽らかにす」
「天も我が君(湯王)に勇知を賜り、万邦を正して禹王の帝業を継承されました。
そのため君も正しき法に基づく統治を敷く形で、天命に基づく革命をも実行に移されたのです。
夏の桀王には大いなる罪がありました。天の意向を騙って、人々を虐待することこそを
命として天下全土に敷こうとしました。天帝も決してこれをよしとせず、殷に天命を授け替える
こととし、人々の従うべき相手が誰であるのかを新たに示されたのです。(民を虐待する
ことを天命の内に組み込むなど、明らかに天を騙る詐欺師の所業である。そんな悪党が、
イエスが生まれる1500年以上も前に「はりつけ王〈桀王〉」という名ですでにいたのでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
「心」というものの根本からの矯正なり鍛錬なりといったものを、東洋人は昔から心がけてきたが、
西洋人はそれこそを忌み嫌って来た。心がグニャグニャで何ら評価するに値しないような小人が
そのままで外見や言行だけはそれなりに見れたものとなったり、災難に遭っても救われたりする
ことこそを好き好んで追い求めて来た。その結果が、悪いものを全て外界に押し付けた挙げ句の
全世界規模での破滅の危機の招来であったわけで、心という部分から正されて行くのでなければ、
大局からの改善なり向上なりが見込めることも決してない、最たる実証例になっているといえる。
心が何者からの侵害も受けず、また自力での矯正を心がけたりする必要もない、それこそは「自由」
であるともしてきた。禅僧が精神修養によって心の自由を獲得しようとしたりするのとは全く逆の
意味での心の自由を西洋人は欲して来たわけで、その結果としてサルを始めとする禽獣ともさして
変わりないほどに不具まみれの駄心ばかりが呈されることとなった。それはたとえば、勉強によって
知能を高めたり、スポーツや軍事教練によって体力を付けたりしているような人間であっても変わり
ないわけで、だからこそそのような素養を自分個人の経済的成功のためにしか用いようともしない。
自らの能力を我田引水目的でしか活用しないことが大局からの経済破綻を招くことにまで誰も配慮が
行き届かないままで在り続けて来たのも、自分たちが精神の不具を抱え続けてきたからに他ならぬ。
サルを含む禽獣が吠え掛かったりしてくるようにして、心がグニャグニャな小人もキレることぐらい
はできる。それで自らの心への干渉を防ごうとしたりもできるわけで、西洋人が「神の怒り」などと
呼んでいるものの正体もまさにこの部類の情動失禁に他ならない。もちろんそれが精神の強さなどから
派生しているわけでもなく、弱さゆえのその場しのぎの火病の発症に過ぎないわけだから、それによって
グニャグニャな心が守られるようなことなどがなるべくあるべきではないし、そのような自己防衛本能
の発露などをカルト宗教やエセ文学などによって正当化したりすることもないようにしたほうがよい。
西洋人はそれこそを忌み嫌って来た。心がグニャグニャで何ら評価するに値しないような小人が
そのままで外見や言行だけはそれなりに見れたものとなったり、災難に遭っても救われたりする
ことこそを好き好んで追い求めて来た。その結果が、悪いものを全て外界に押し付けた挙げ句の
全世界規模での破滅の危機の招来であったわけで、心という部分から正されて行くのでなければ、
大局からの改善なり向上なりが見込めることも決してない、最たる実証例になっているといえる。
心が何者からの侵害も受けず、また自力での矯正を心がけたりする必要もない、それこそは「自由」
であるともしてきた。禅僧が精神修養によって心の自由を獲得しようとしたりするのとは全く逆の
意味での心の自由を西洋人は欲して来たわけで、その結果としてサルを始めとする禽獣ともさして
変わりないほどに不具まみれの駄心ばかりが呈されることとなった。それはたとえば、勉強によって
知能を高めたり、スポーツや軍事教練によって体力を付けたりしているような人間であっても変わり
ないわけで、だからこそそのような素養を自分個人の経済的成功のためにしか用いようともしない。
自らの能力を我田引水目的でしか活用しないことが大局からの経済破綻を招くことにまで誰も配慮が
行き届かないままで在り続けて来たのも、自分たちが精神の不具を抱え続けてきたからに他ならぬ。
サルを含む禽獣が吠え掛かったりしてくるようにして、心がグニャグニャな小人もキレることぐらい
はできる。それで自らの心への干渉を防ごうとしたりもできるわけで、西洋人が「神の怒り」などと
呼んでいるものの正体もまさにこの部類の情動失禁に他ならない。もちろんそれが精神の強さなどから
派生しているわけでもなく、弱さゆえのその場しのぎの火病の発症に過ぎないわけだから、それによって
グニャグニャな心が守られるようなことなどがなるべくあるべきではないし、そのような自己防衛本能
の発露などをカルト宗教やエセ文学などによって正当化したりすることもないようにしたほうがよい。
ただ、全く心の修錬などを志す気もないような人間が、何らの防備もなくただただ心を痛め付けられる
ような仕打ちばかりを加えられたりしたならば、そのせいでPTSDなどと呼ばれる精神疾患に見舞われたり
することにもなりかねないわけだから、人の心への干渉などはあくまで、本人のより一層の精神の健全化
が見込める場合などに限られるべきだし、それとて干渉を受ける側が全く望みもしないというのであれば、
本人が懲罰を加えられるべき罪人でもない限りは、なるべく控えてやるようにすべきだといえる。
最大級に心の修練が奨励されているような世の中といえども、商売人などの中には、心の修錬を始めから
心がけようともしないでいるような人間がそれなりに残存し得る。職務上からいってそんな心がけなど
ないほうが好ましく、犬のように顧客に媚びへつらっていたほうが都合が良かったりするものだから、
そうであり続ける。それはそれで一つの都市社会に住む人間の生き方であるとして存在性ぐらいは認めて、
ただ決して奨励までされるに値はしないような人間の生き方であるという認知を徹底して行くようにする。
いつもの中庸論法ではあるが、必要悪程度の心の無修錬ぐらいは是認されて、不必要悪ですらあるような
心の無修錬の正当化や権威付けだけは廃絶して行くようにすべきである。商売人の駄心ぐらいは認めても、
その駄心をカルト教義などによって守ってやったりするようなことまでは認められるべきでない。この手
の微妙な匙加減を必要とされる統治作業を滞りなく行えるのも君子だけであり、その君子こそは世界でも
最上級の心の修錬を強いられるものでもある。まず自らが過酷な修錬に臨んで行こうとする有志がこの世に
現れるのでなければ、そのような事業を片鱗ほども実行に移せるようなこともないままであり続けるのである。
「共倹以て礼行われ、慈恵以て政を布く。礼以って政成り、民是れを以て息う」
「恭倹さによって礼儀が行われ、慈しみと恵みによって政治が敷かれて行く。
礼儀によってのみ政治も成就し、それによって民たちも安らいで行くようになる。
(治める側が慈しみ深いだけでなく、治められる側もまた相応に礼節を守るのでなければ統治も成功しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十二年より)
ような仕打ちばかりを加えられたりしたならば、そのせいでPTSDなどと呼ばれる精神疾患に見舞われたり
することにもなりかねないわけだから、人の心への干渉などはあくまで、本人のより一層の精神の健全化
が見込める場合などに限られるべきだし、それとて干渉を受ける側が全く望みもしないというのであれば、
本人が懲罰を加えられるべき罪人でもない限りは、なるべく控えてやるようにすべきだといえる。
最大級に心の修練が奨励されているような世の中といえども、商売人などの中には、心の修錬を始めから
心がけようともしないでいるような人間がそれなりに残存し得る。職務上からいってそんな心がけなど
ないほうが好ましく、犬のように顧客に媚びへつらっていたほうが都合が良かったりするものだから、
そうであり続ける。それはそれで一つの都市社会に住む人間の生き方であるとして存在性ぐらいは認めて、
ただ決して奨励までされるに値はしないような人間の生き方であるという認知を徹底して行くようにする。
いつもの中庸論法ではあるが、必要悪程度の心の無修錬ぐらいは是認されて、不必要悪ですらあるような
心の無修錬の正当化や権威付けだけは廃絶して行くようにすべきである。商売人の駄心ぐらいは認めても、
その駄心をカルト教義などによって守ってやったりするようなことまでは認められるべきでない。この手
の微妙な匙加減を必要とされる統治作業を滞りなく行えるのも君子だけであり、その君子こそは世界でも
最上級の心の修錬を強いられるものでもある。まず自らが過酷な修錬に臨んで行こうとする有志がこの世に
現れるのでなければ、そのような事業を片鱗ほども実行に移せるようなこともないままであり続けるのである。
「共倹以て礼行われ、慈恵以て政を布く。礼以って政成り、民是れを以て息う」
「恭倹さによって礼儀が行われ、慈しみと恵みによって政治が敷かれて行く。
礼儀によってのみ政治も成就し、それによって民たちも安らいで行くようになる。
(治める側が慈しみ深いだけでなく、治められる側もまた相応に礼節を守るのでなければ統治も成功しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十二年より)
「自ら反りみて縮からずんば、褐寛博と雖も、吾惴かざらん。
自ら反りみて縮ければ、千万人と雖も吾往かん(既出)」
「自ら反省して正しくないと思った時には、たとえ相手がボロをまとった乞食であっても道を譲る。
しかし自ら反省しても正しいと思った時には、たとえ相手が千万億の大群だろうとも道を譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
と孟子が言ったとき、孟子は自分が仁義道徳に即して正しいか間違っているかを念頭に置いていた
はずである。仁徳に即して間違っていれば、自分が世界中の人々を敵に回すことになるから、乞食
が相手でも自らの非を認めて譲ろうとする。しかし仁徳に即して正しいというのなら、自分こそは
世界中の人々を味方に付けていることが間違いないから、その内の部分集合に過ぎない大軍勢などが
相手であったとしたところで、決して道を譲ったりはしない、という風に孟子も考えていたはずである。
正しいか間違っているかを、あくまで自らの内的な基準に即して判断するわけだが、その基準こそが
仁徳に適っているものだから、内向的な判断であるにも関わらず、天下万人をも味方に付ける英断
とすらなる。それは孟子自身が言っている通り、聖人賢人善人常人愚人悪人、どんな人間といえども、
本質的には同じ人間であるという大前提が遍在しているからであり、自分にとって本当に利益に
なることを心がけたならば、それが同じ人間である世界中の人々の利益にもなるように、
人間という生き物がその天性にも即して作り上げられているからなのである。
仁徳に即すればこそ、儒者は常に世界中の人々を味方にすることを念頭に置いている。それは、
全体主義のような稚拙な発想によるものでもないから、むしろ全体の自己相似系な部分集合としての
自分個人や自らの家や、自らの身分に即した君臣関係の洗練にこそ務めて行きもする。そうすることで、
自分個人の主観的・非概念的な判断までもがありのままに天下国家の公益に適うものとなって行く。
自ら反りみて縮ければ、千万人と雖も吾往かん(既出)」
「自ら反省して正しくないと思った時には、たとえ相手がボロをまとった乞食であっても道を譲る。
しかし自ら反省しても正しいと思った時には、たとえ相手が千万億の大群だろうとも道を譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
と孟子が言ったとき、孟子は自分が仁義道徳に即して正しいか間違っているかを念頭に置いていた
はずである。仁徳に即して間違っていれば、自分が世界中の人々を敵に回すことになるから、乞食
が相手でも自らの非を認めて譲ろうとする。しかし仁徳に即して正しいというのなら、自分こそは
世界中の人々を味方に付けていることが間違いないから、その内の部分集合に過ぎない大軍勢などが
相手であったとしたところで、決して道を譲ったりはしない、という風に孟子も考えていたはずである。
正しいか間違っているかを、あくまで自らの内的な基準に即して判断するわけだが、その基準こそが
仁徳に適っているものだから、内向的な判断であるにも関わらず、天下万人をも味方に付ける英断
とすらなる。それは孟子自身が言っている通り、聖人賢人善人常人愚人悪人、どんな人間といえども、
本質的には同じ人間であるという大前提が遍在しているからであり、自分にとって本当に利益に
なることを心がけたならば、それが同じ人間である世界中の人々の利益にもなるように、
人間という生き物がその天性にも即して作り上げられているからなのである。
仁徳に即すればこそ、儒者は常に世界中の人々を味方にすることを念頭に置いている。それは、
全体主義のような稚拙な発想によるものでもないから、むしろ全体の自己相似系な部分集合としての
自分個人や自らの家や、自らの身分に即した君臣関係の洗練にこそ務めて行きもする。そうすることで、
自分個人の主観的・非概念的な判断までもがありのままに天下国家の公益に適うものとなって行く。
全世界、全人類こそは、儒者にとっての天であり「神の主」である。全人類を代表できるものこそは
天帝たり、その天帝の意向に即して自らも業務に従事して行こうとする。選民志向を正当化して
くれる神こそは神の典型であるかのように考えている人間などからすれば、到底受け入れ難いような
神の定義であるに違いないわけだが、神にそのような意味合いを持たせて来た頻度のほうが世界史
的に見てもむしろ多いし、またそうしたほうが、神格信仰が誰しもにとっての利益にもなり得る。
実際、全世界や全人類こそは、神がかりとも呼べるような奇蹟を時にこの世にもたらすものである。
殷周革命による周帝国の樹立だとか、高祖劉邦による漢帝国の樹立だとか、戦国時代の争乱に絶妙な
決まりを付けての日本での江戸幕府の樹立だとか、どこにも不可思議な要素などない人間同士での
せめぎ合いの結果ではあるわけだけれども、それでもやはり神がかっている所がある。「全世界」
といえば、今だと地球社会が最も適当な定義に相当するだろうが、まだ地球社会が完結した世界と
して十分な成熟を果たしていなかった時代に、中原や日本列島の如き一定以上に閉じられた世界での
最善の限りを人々が尽くした結果として、確かに最善級の王道的な政権が樹立されたりもしていた。
その姿がありのままに、形而上にすら届き得る程の神々しさをも伴っていて、まさにそれこそが
神威の発露の最たるものであると考えたとしても、それなりに納得のいく所すらもがあるのである。
そのような、「最善なる全世界規模の人為」こそを神に見立てて行く考え方に慣れてみたならば、
世界や人類と全く乖離した所に恣意だけででっち上げられた超越神などが、いかにお粗末なもので
あるのかまでもが知れるのである。全く以って益荒男を唸らせるに値するような威厳を兼ね備えて
いるわけでもない上に、そのような神の下で引き起こされるという現象もまた例外なく粗悪なもの
ばかりであるのだから、全くそんなものを神とみなしていたい気持ちにもならないのである。
天帝たり、その天帝の意向に即して自らも業務に従事して行こうとする。選民志向を正当化して
くれる神こそは神の典型であるかのように考えている人間などからすれば、到底受け入れ難いような
神の定義であるに違いないわけだが、神にそのような意味合いを持たせて来た頻度のほうが世界史
的に見てもむしろ多いし、またそうしたほうが、神格信仰が誰しもにとっての利益にもなり得る。
実際、全世界や全人類こそは、神がかりとも呼べるような奇蹟を時にこの世にもたらすものである。
殷周革命による周帝国の樹立だとか、高祖劉邦による漢帝国の樹立だとか、戦国時代の争乱に絶妙な
決まりを付けての日本での江戸幕府の樹立だとか、どこにも不可思議な要素などない人間同士での
せめぎ合いの結果ではあるわけだけれども、それでもやはり神がかっている所がある。「全世界」
といえば、今だと地球社会が最も適当な定義に相当するだろうが、まだ地球社会が完結した世界と
して十分な成熟を果たしていなかった時代に、中原や日本列島の如き一定以上に閉じられた世界での
最善の限りを人々が尽くした結果として、確かに最善級の王道的な政権が樹立されたりもしていた。
その姿がありのままに、形而上にすら届き得る程の神々しさをも伴っていて、まさにそれこそが
神威の発露の最たるものであると考えたとしても、それなりに納得のいく所すらもがあるのである。
そのような、「最善なる全世界規模の人為」こそを神に見立てて行く考え方に慣れてみたならば、
世界や人類と全く乖離した所に恣意だけででっち上げられた超越神などが、いかにお粗末なもので
あるのかまでもが知れるのである。全く以って益荒男を唸らせるに値するような威厳を兼ね備えて
いるわけでもない上に、そのような神の下で引き起こされるという現象もまた例外なく粗悪なもの
ばかりであるのだから、全くそんなものを神とみなしていたい気持ちにもならないのである。
家康公のような個人を神格化することも、時には妥当なことたり得るが(本人が本物の努力家
だったりするため)、何よりも全世界、全人類といった大局を形成している事物こそを神と見立てる
ことが、最大級の現実主義と共にであっても納得が行くほどの神格肯定たり得る。形而上に乖離
した超越神などはその条件を満たしていないから、科学によって現実主義が定着して行っている現代
において神仏信仰も下火と化しつつあるわけだが、そのような稚拙な神の定立などはむしろさっさと
卒業してしまって、「大局現象」こそを神と見立てる発想に転換してみればいい。科学的発想を全く
蔑ろにしたりしないままでいながら、神の実在すらをも肯える自分がいることに気づくであろう。
「古の賢王は善を好みて勢いを忘るる。古の賢士も何ぞ独り然らざらんや。
其の道を楽しみて人の勢いを忘るる。故に王公も敬を致し礼を尽くさざれば、則ち亟しば
之れを見るも得ず。見て且つ由お亟しばするを得ず、而るを況んや得て之れを臣とするや」
「昔の賢王は正善を好むあまり権勢のことなどを忘れていた。そのためその王に仕えたり仕え
なかったりする賢士たちもまた、誰一人としてそのようでないことがなかった。自分たち自身が
道義に即することを楽しんで他人の権勢などは歯牙にもかけなかったものだから、王侯たちも敬い
と礼儀を尽くすのでなければ彼らに会うこともできなかった。会うこともできないのだから、当然
臣下にしたりすることもできはしなかった。(権勢を擁する者も擁さない者も、善や道義を好む
のであれば権勢の嵩にかかったりはしないし、また自分以上の権勢の持ち主を恐れたりもしない。
何ものかの権勢にとにかく寄りかかろうとする者自身、善も道義も見失ってしまっているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・八より)
だったりするため)、何よりも全世界、全人類といった大局を形成している事物こそを神と見立てる
ことが、最大級の現実主義と共にであっても納得が行くほどの神格肯定たり得る。形而上に乖離
した超越神などはその条件を満たしていないから、科学によって現実主義が定着して行っている現代
において神仏信仰も下火と化しつつあるわけだが、そのような稚拙な神の定立などはむしろさっさと
卒業してしまって、「大局現象」こそを神と見立てる発想に転換してみればいい。科学的発想を全く
蔑ろにしたりしないままでいながら、神の実在すらをも肯える自分がいることに気づくであろう。
「古の賢王は善を好みて勢いを忘るる。古の賢士も何ぞ独り然らざらんや。
其の道を楽しみて人の勢いを忘るる。故に王公も敬を致し礼を尽くさざれば、則ち亟しば
之れを見るも得ず。見て且つ由お亟しばするを得ず、而るを況んや得て之れを臣とするや」
「昔の賢王は正善を好むあまり権勢のことなどを忘れていた。そのためその王に仕えたり仕え
なかったりする賢士たちもまた、誰一人としてそのようでないことがなかった。自分たち自身が
道義に即することを楽しんで他人の権勢などは歯牙にもかけなかったものだから、王侯たちも敬い
と礼儀を尽くすのでなければ彼らに会うこともできなかった。会うこともできないのだから、当然
臣下にしたりすることもできはしなかった。(権勢を擁する者も擁さない者も、善や道義を好む
のであれば権勢の嵩にかかったりはしないし、また自分以上の権勢の持ち主を恐れたりもしない。
何ものかの権勢にとにかく寄りかかろうとする者自身、善も道義も見失ってしまっているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・八より)

この世界この宇宙すべての事物にかけて普遍的に共通する約束事となっている。
ヒドラは人間のような高等生物ではないからこそ、半不老不死でいられるし、
鳥も脳みそまで小さくなって知能が低下するほど軽量だからこそ、空を飛べる。
深海魚も含水率を極限まで高めた醜怪な容貌だからこそ、深海まで潜れもする。
人間がむしろ満たしたくないと思うような条件と引き換えに、上記のような
生物たちも人間にはないような能力を身に付けているわけだから、人間が
それと同等の能力を手に入れたりすることも憚るべきところがあるのである。
知能の高さや手先の器用さこそが、人間が他の生物と比べて突出している能力である。
体力で人間より突出している生き物はいくらでもいるし、飛行能力、潜航能力、視力、
聴力、嗅覚力など多くの面で人間より優れた能力を備えている生物が多々存在する。
ただ、知能の高さや手先の器用さに基づく道具の多用などで以って、それらの能力
をも擬似的にカバーすることができるため、まるで人間こそは全能に近い生物で
あるかのようにすら考えられがちである。生身で空を飛ぶことはできなくても、
飛行機に乗れば空を飛べる、だから人間も空を飛ぶことができるという風な
三段論法を妥当だと見なすのなら、人間も全能に近づいていると言える。
しかし、だとしたところで、やはり「人間が空を飛ぶ」ということなどにはまた
新たな弊害が伴うことともなった。飛行機が発明されたアメリカという国自体、
数多のインディアンや黒人奴隷の犠牲の下で成り立っていったものだし、発明後にも
飛行機が兵器として用いられることで多くの悲劇をもたらすなどした。旅客機の
事故も人間が引き起こす事故の内で最大級の惨事となるし、遠距離間に至るまでの
人間社会の極度の流動化が、先住者にとって望みもしないような異質な移民に
よる文化的摩擦などの問題を来たし始めることともなったのだった。

人間が空を飛ぶという事象一つを取っても、決して人間に一概な幸福ばかりを
もたらしたりすることはなかった。空を飛べるようになったことで人間が全能に
一歩近づいたとて、また全能にあるまじき諸問題を別にもたらすこととなったわけで、
これはやはり「できることがあればできないことがある」というこの世界この宇宙の
根本法則に全く違うことなく人間があり続けている典型例になっているといえる。
人間が空を飛ぶことなど夢物語でしかなかったような昔の時代にも、それが始めからの
常識であるというのなら、今よりも幸福だったろうと考えられるような往年の社会が
いくらかは見受けられる。日本のような、大陸と絶海で隔てられた島国の人間が他国
へと遠出に出かけることも、移動手段が船か徒歩か馬ぐらいでしかなかった頃にこそ、
大いなる感動をもたらす大スペクタクル劇であった。今の日本人が中国に赴いたりした
ところで、弘法大師が唐で体験したような神秘劇を体験できたりすることは決してない。
それは、ただ交通が便利になったからというだけではない。交通の便利化に反比例して、
人間たちが踏み止まっている土地で修錬を尽くす頻度も減ってしまったからである。弘法
大師が恵果和尚から土産にもらった法具並みの工芸を凝らしたりする素養が今の中国人に
もはやないからこそ、そこでの感動的な体験などを期待することもできはしないのである。
そして中国がそこまで文化的に荒廃してしまったのも、英欧露諸国が航空攻撃まで
導入しつつの中国の侵略をやらかしたからである(表向きは袁世凱のような傀儡の
中国人権力者を立てたりもしている)。清帝国の崩壊と赤化とによって、中国の文化
も見るに耐えないものばかりと化してしまったが、そこにはいつも西洋諸国の機械文明
による脅しがあったわけで、特に、1917年の張勲復辟後に紫禁城が空爆を受けたことに
戦慄させられたことは溥儀も自伝で特筆して述べてもいる。その後溥儀も即座に退位して、
中国伝統の王制を已む無く完全途絶させられることとなってしまったのだった。
人間が空を飛ぶようになった結果として、ある種の高度な文化文明が逆に退行
させられるようなことにすらなった。文明発展のための犠牲として仕方のない
ことだと多くの人間が認めていることでもあるが、少なくとも、人間という
生物が「できることがあればできないことがある」というこの宇宙の根本法則
から逃れられないでいるのみならず、むしろ全能を無理に志した結果として
より一層の不具にすら見舞われている証拠の一つにからなっているといえる。
人間の全能化という試みをいま主導しているのが他でもない科学技術であるわけ
だけれども、飛行技術のような分かりやすい例も含めて、科学がむしろ社会問題や
文化荒廃のような不具をも同時にもたらしてしまっているあたり、やはり科学までもが
「できることがあればできないことがある」という法則に抗いきれないままであり
続けているという風に現状では断定せざるを得ない。実のところを言えば、永遠にそう
でしかあり得ないわけで、そもそも人間が全能を志すこと、全能を欲したりすることから
して戒められて行かねばならないことがいい加減わきまえられなければならないのである。
「能く庸を奮いて、帝の載を熙むる有れ」
「よく恒なることに励んで、天帝の事業を推し進めて行ってくれ。
(舜の四岳への言葉。多能にかまけぬ庸命の履行こそは真の帝業たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
させられるようなことにすらなった。文明発展のための犠牲として仕方のない
ことだと多くの人間が認めていることでもあるが、少なくとも、人間という
生物が「できることがあればできないことがある」というこの宇宙の根本法則
から逃れられないでいるのみならず、むしろ全能を無理に志した結果として
より一層の不具にすら見舞われている証拠の一つにからなっているといえる。
人間の全能化という試みをいま主導しているのが他でもない科学技術であるわけ
だけれども、飛行技術のような分かりやすい例も含めて、科学がむしろ社会問題や
文化荒廃のような不具をも同時にもたらしてしまっているあたり、やはり科学までもが
「できることがあればできないことがある」という法則に抗いきれないままであり
続けているという風に現状では断定せざるを得ない。実のところを言えば、永遠にそう
でしかあり得ないわけで、そもそも人間が全能を志すこと、全能を欲したりすることから
して戒められて行かねばならないことがいい加減わきまえられなければならないのである。
「能く庸を奮いて、帝の載を熙むる有れ」
「よく恒なることに励んで、天帝の事業を推し進めて行ってくれ。
(舜の四岳への言葉。多能にかまけぬ庸命の履行こそは真の帝業たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
孔子は「君子は憂えず、懼れず(顔淵第十二・四)」という一方、
孟子は「君子に終身の憂えあるも一朝の憂えなし(離婁章句下・二九)」という。
その孟子が「吾れよく浩然の気を養う(公孫丑章句上・二)」とも言っているが、
「小心翼翼(大雅・烝民)」「戦々恐々として、薄氷を履むが如し(小雅・小宛)」ともいう。
憂患の是非にまつわる儒者の見解はまちまちであり、明らかに矛盾しているような所すらある。
その心を解きほぐすなら、
「君子は日々の修練によって心強さを養っているため、極度の憂患に苛まれて悶え苦しむような
ことはないが、それでも常日頃からの戒心を欠かさず、物事への最大級の憂慮を働かせ続ける」
とでも言った所であろう。
これこそはまさに、仏者が菩薩行を心がける心象にも近似するものであり、菩薩の慈悲に
相当するような心持ちを、儒者もまたある種の憂患として抱くことを示す所ともなっている。
他者から慈しみをかけられることなどではなく、自らが慈しみと共に人々を利すること
こそを念頭に置いているあたり、いかにも自力本位の大人の教理であるといえる。しかし、
別に儒学は大人の男の占有物だったりするわけでもなく、子供や女であっても学ぶに
越したことはないものである。儒学や仏教の自力本位な教えが老若男女誰しもに受け入れ
られればこそ、誰しもがまず自分のほうから他者をいたわる篤実さを養って行ける一方で、
まず自分が誰かに慈しまれることばかりを期待していれば、そのせいで我の張り合い
ばかりが横行する殺伐とした世の中が出来上がってしまうわけだから、自力本位の
信条を尊ぶ人間が多ければ多いほど、それに越したこともないのだといえる。
人間誰しも、一度や二度ぐらいは憂患に苦しめられたことがあるものである。
幼い頃に、人はみないつかは死ぬことを憂えて泣いたようなこともあるだろうし、
それなりに年を取っても、自らの身分の卑しさを憂えて嘆き悲しんだりする。
孟子は「君子に終身の憂えあるも一朝の憂えなし(離婁章句下・二九)」という。
その孟子が「吾れよく浩然の気を養う(公孫丑章句上・二)」とも言っているが、
「小心翼翼(大雅・烝民)」「戦々恐々として、薄氷を履むが如し(小雅・小宛)」ともいう。
憂患の是非にまつわる儒者の見解はまちまちであり、明らかに矛盾しているような所すらある。
その心を解きほぐすなら、
「君子は日々の修練によって心強さを養っているため、極度の憂患に苛まれて悶え苦しむような
ことはないが、それでも常日頃からの戒心を欠かさず、物事への最大級の憂慮を働かせ続ける」
とでも言った所であろう。
これこそはまさに、仏者が菩薩行を心がける心象にも近似するものであり、菩薩の慈悲に
相当するような心持ちを、儒者もまたある種の憂患として抱くことを示す所ともなっている。
他者から慈しみをかけられることなどではなく、自らが慈しみと共に人々を利すること
こそを念頭に置いているあたり、いかにも自力本位の大人の教理であるといえる。しかし、
別に儒学は大人の男の占有物だったりするわけでもなく、子供や女であっても学ぶに
越したことはないものである。儒学や仏教の自力本位な教えが老若男女誰しもに受け入れ
られればこそ、誰しもがまず自分のほうから他者をいたわる篤実さを養って行ける一方で、
まず自分が誰かに慈しまれることばかりを期待していれば、そのせいで我の張り合い
ばかりが横行する殺伐とした世の中が出来上がってしまうわけだから、自力本位の
信条を尊ぶ人間が多ければ多いほど、それに越したこともないのだといえる。
人間誰しも、一度や二度ぐらいは憂患に苦しめられたことがあるものである。
幼い頃に、人はみないつかは死ぬことを憂えて泣いたようなこともあるだろうし、
それなりに年を取っても、自らの身分の卑しさを憂えて嘆き悲しんだりする。
そのような悩み苦しみの反動で、全く思い煩うことのないあっけらかんとした
人生ばかりを送りたがったとしたならば、それもまた極端から極端への振り切れと
なってしまうわけで、憂慮すべきものへの憂慮すらをも失っての淫蕩三昧がこれまた
自業自得の破滅的事態を招く原因などになってしまうのである。
故に、心の修練によって憂患などに極度に苦しめられたりしない強さを身につける
一方で、憂慮すべきものへの憂慮だけは欠かさないままで居続ける分別の徹底こそが、
自分自身にとっての養生のための手立てともなって行くこととなるのである。
その条件をよく達成して行くことができるのは大人の男ばかりであるものだから、
そのあり方こそを誰しもに見習わせて行くようにすべきである。女あたりが全く思い悩まない
ことを好き好んで実際にそうであろうとし、思い悩まないでいられていることこそは自分が
優れた人間である証だなどとまで思い込んだりすることがあるが、全くそんなこともない。
精神薄弱ゆえに最低限必要な憂慮すらをも捨て去っている単なる亡者の有り様に過ぎないわけ
だから、決してそのような人間を思い上がらせるようなこともないようにしなければならない。
仏の悟りも悩み苦しみを脱落させる効能を伴ってはいるが、だからといって
悩みのなさを鼻にかけたりするのであればそれは「増上慢」となってしまうわけで、
そのような事態に陥らないためにも、覚者すらもがあえての憂慮を慈悲として
抱くべきなのである。いわんや、覚者でもないようなただの俗人をや、である。
「民の憂いを憂える者は、民も亦た其の憂いを憂う」
「為政者が憂えるべき民たちの憂いを憂い悩めば、民たちもまたそれに倣って憂えるべきこと
を憂え悩むようになる。(そうして民たちの注意力が高まりもする。道徳統治の一環である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・四より)
人生ばかりを送りたがったとしたならば、それもまた極端から極端への振り切れと
なってしまうわけで、憂慮すべきものへの憂慮すらをも失っての淫蕩三昧がこれまた
自業自得の破滅的事態を招く原因などになってしまうのである。
故に、心の修練によって憂患などに極度に苦しめられたりしない強さを身につける
一方で、憂慮すべきものへの憂慮だけは欠かさないままで居続ける分別の徹底こそが、
自分自身にとっての養生のための手立てともなって行くこととなるのである。
その条件をよく達成して行くことができるのは大人の男ばかりであるものだから、
そのあり方こそを誰しもに見習わせて行くようにすべきである。女あたりが全く思い悩まない
ことを好き好んで実際にそうであろうとし、思い悩まないでいられていることこそは自分が
優れた人間である証だなどとまで思い込んだりすることがあるが、全くそんなこともない。
精神薄弱ゆえに最低限必要な憂慮すらをも捨て去っている単なる亡者の有り様に過ぎないわけ
だから、決してそのような人間を思い上がらせるようなこともないようにしなければならない。
仏の悟りも悩み苦しみを脱落させる効能を伴ってはいるが、だからといって
悩みのなさを鼻にかけたりするのであればそれは「増上慢」となってしまうわけで、
そのような事態に陥らないためにも、覚者すらもがあえての憂慮を慈悲として
抱くべきなのである。いわんや、覚者でもないようなただの俗人をや、である。
「民の憂いを憂える者は、民も亦た其の憂いを憂う」
「為政者が憂えるべき民たちの憂いを憂い悩めば、民たちもまたそれに倣って憂えるべきこと
を憂え悩むようになる。(そうして民たちの注意力が高まりもする。道徳統治の一環である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・四より)
守るべきもののない者は、何物をも恐れない。自らの死を恐れぬ者は決死の戦いをも恐れないし、
出家して家族との縁を絶った者であれば、家族が危難に遭うことを恐れたりすることもなくなる。
誰しもがそのようであるべきだなどということも決してないが、そのような「無有恐怖」の
素養を身に付けた人々こそが世の中において有用な存在たり得ることもまた事実である。
命知らずな武士や仏僧の働きがあればこそ、利権に目が眩んだ亡者による権力犯罪などが
十全に取り締まられたりもするわけなので、守るべきものを持たない身軽さもまた
時には尊ばれて然るべきものとなると言えるわけである。
ただ、人が命知らずの恐れ知らずとなることが不正な手段によって講じられたり、また不正
な目的で講じられたりすることもあるわけなので、当然そういったことは避けられて然るべき
である。麻薬的陶酔を伴う自己暗示だとか、本当の麻薬中毒だとかによって恐れ知らずとなり、
その恐れ知らずさによって権力犯罪者の下請けとなるような死兵働きに及んだりすること
こそは避けるべきであり、そのような真似に及ぶぐらいならまだ、ちょっとした事件や
事故にもいちいち怯えているような小市民ででもいるほうがまだマシなこととなる。
恐るべきことを真摯に恐れて、いちいち戒心の材料にしてくれるような人間のほうが、
統治対象となる市民などとしてはかえって善良だと言える。恐るべきものをことごとく
見失っての思い上がりを募らせているような民こそは「暴民」とも化すわけだから、
仁徳があればこそ世のため人のための挺身を恐れない民でもない限りは、むしろ何もかもが
恐くてたまらない小心者の民ででも人々があってくれたほうが、まだ好ましいと言える。
とにもかくにも、心強い依存対象があるから恐怖しなくて済むという事態だけは避けるべきである。
それこそは、小人や女子供のような社会的弱者が不正に思い上がりを募らせる原因となってしまうわけで、
最悪の場合、公権力すらをも尻に敷くような小人の政商犯罪すらをも誘発することとなってしまう。
弱者を保護することも、偽善レベルにまで過剰なものともなれば、弱者に相応の恐怖意識すらをも
本人たちに失わせてしまうような弊害を招くものだから、そのあたりのさじ加減を慎重にすべきである。
出家して家族との縁を絶った者であれば、家族が危難に遭うことを恐れたりすることもなくなる。
誰しもがそのようであるべきだなどということも決してないが、そのような「無有恐怖」の
素養を身に付けた人々こそが世の中において有用な存在たり得ることもまた事実である。
命知らずな武士や仏僧の働きがあればこそ、利権に目が眩んだ亡者による権力犯罪などが
十全に取り締まられたりもするわけなので、守るべきものを持たない身軽さもまた
時には尊ばれて然るべきものとなると言えるわけである。
ただ、人が命知らずの恐れ知らずとなることが不正な手段によって講じられたり、また不正
な目的で講じられたりすることもあるわけなので、当然そういったことは避けられて然るべき
である。麻薬的陶酔を伴う自己暗示だとか、本当の麻薬中毒だとかによって恐れ知らずとなり、
その恐れ知らずさによって権力犯罪者の下請けとなるような死兵働きに及んだりすること
こそは避けるべきであり、そのような真似に及ぶぐらいならまだ、ちょっとした事件や
事故にもいちいち怯えているような小市民ででもいるほうがまだマシなこととなる。
恐るべきことを真摯に恐れて、いちいち戒心の材料にしてくれるような人間のほうが、
統治対象となる市民などとしてはかえって善良だと言える。恐るべきものをことごとく
見失っての思い上がりを募らせているような民こそは「暴民」とも化すわけだから、
仁徳があればこそ世のため人のための挺身を恐れない民でもない限りは、むしろ何もかもが
恐くてたまらない小心者の民ででも人々があってくれたほうが、まだ好ましいと言える。
とにもかくにも、心強い依存対象があるから恐怖しなくて済むという事態だけは避けるべきである。
それこそは、小人や女子供のような社会的弱者が不正に思い上がりを募らせる原因となってしまうわけで、
最悪の場合、公権力すらをも尻に敷くような小人の政商犯罪すらをも誘発することとなってしまう。
弱者を保護することも、偽善レベルにまで過剰なものともなれば、弱者に相応の恐怖意識すらをも
本人たちに失わせてしまうような弊害を招くものだから、そのあたりのさじ加減を慎重にすべきである。
サムライの刀は女子や小人を守るために存在すると共に、女子や小人こそが思い上がりを
募らせて世の中に迷惑をかけ始めたりすることを防ぎ止めるための調教具でもなければならぬ。
しかれば、女子や小人もまたサムライの刃が自分たちに向けられることが決してないなど
とまで思い込んだりしてはならぬ。いつ自分たちがそのような目に遭ってもおかしくない
のだということをわきまえて、心底恐れ慎みつつ神妙にしているべきなのだといえる。
「父母之れを悪めば、懼れて而かも怨む無し」
「父母に憎まれることがあれば、それをよく恐れてなおかつ恨み返したりはしない。
(悪辣な親の元でも孝心を養っていた舜帝にも準ずる心がけ。この心がけが臣下の主君に
対する、民の官に対する、妻の夫に対する心がけの模範ともなって行く。人間社会の健全
な運営のためには恐怖すべきものへの恐怖もまた必要なものとなる実例となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
募らせて世の中に迷惑をかけ始めたりすることを防ぎ止めるための調教具でもなければならぬ。
しかれば、女子や小人もまたサムライの刃が自分たちに向けられることが決してないなど
とまで思い込んだりしてはならぬ。いつ自分たちがそのような目に遭ってもおかしくない
のだということをわきまえて、心底恐れ慎みつつ神妙にしているべきなのだといえる。
「父母之れを悪めば、懼れて而かも怨む無し」
「父母に憎まれることがあれば、それをよく恐れてなおかつ恨み返したりはしない。
(悪辣な親の元でも孝心を養っていた舜帝にも準ずる心がけ。この心がけが臣下の主君に
対する、民の官に対する、妻の夫に対する心がけの模範ともなって行く。人間社会の健全
な運営のためには恐怖すべきものへの恐怖もまた必要なものとなる実例となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
真理や道理は、自己修養によってのみ人が近づけるものである。
その手段が出家であるのであれ仁義忠孝の実践であるのであれ、自力本位の上達を
志すものこそは、多少なりとも真理や道理の探求者たり得る。だからこそ、他力本願
による往生を奨励する浄土門においては、信者が真理の希求者であるような体裁すらをも
かなぐり捨てての、仏法でこそ否定されている形而上的な浄土への往生をこいねがいもしている。
(しかもその浄土も、いかにも俗物趣味な金銀財宝による荘厳ばかりが凝らされていると来ている)
真理はおろか、道理ですらもが、多少なりともの畏怖と共に俗人が敬遠すべきものである。
俗人の内でも特に忠孝の如き浄行を心がけるものが、君子として道理に近似することが
あったりするぐらいのものであり、そのような人間はもはや俗世の聖賢として一般人からの
畏敬の対象とすらならねばならない。出家修行によって真理にすら合致しようとする
人間ともなればなおのことであり、その浮世離れした立ち居振舞いこそはありのままに、
真理が到底俗人の馴れ合えるようなものではないことを体現として実証してもいる。
今ですら私的に父母への手厚い孝養を心がけている頻度の高い中国人が、特に清廉だったり
その他の面で民度が高かったりすることがないのも、その孝心が全く以て忠義に結び付いて
いないからである。唐崩壊以降の深刻な権力腐敗に長年あえぎ続けて来た手前、孝心を全く以て
公儀に繁栄することができないことまでもが定着してしまい、孝がかえって公共意識のなさを
正当化する材料として悪用されることとすらなってしまった。仮に忠孝が共に実現された所で、
それで至れるのも仁徳に根ざした道理程度であるわけだけれども、それすらもが、ただ
忠と孝が乖離しただけで不能なものと化してしまうことを、ここ800年来の中国人や
朝鮮人が身を挺して証明してもいる。いわんや、道理よりもさらに近似する
ことが困難であることが確かな真実の道理——真理をや、である。
その手段が出家であるのであれ仁義忠孝の実践であるのであれ、自力本位の上達を
志すものこそは、多少なりとも真理や道理の探求者たり得る。だからこそ、他力本願
による往生を奨励する浄土門においては、信者が真理の希求者であるような体裁すらをも
かなぐり捨てての、仏法でこそ否定されている形而上的な浄土への往生をこいねがいもしている。
(しかもその浄土も、いかにも俗物趣味な金銀財宝による荘厳ばかりが凝らされていると来ている)
真理はおろか、道理ですらもが、多少なりともの畏怖と共に俗人が敬遠すべきものである。
俗人の内でも特に忠孝の如き浄行を心がけるものが、君子として道理に近似することが
あったりするぐらいのものであり、そのような人間はもはや俗世の聖賢として一般人からの
畏敬の対象とすらならねばならない。出家修行によって真理にすら合致しようとする
人間ともなればなおのことであり、その浮世離れした立ち居振舞いこそはありのままに、
真理が到底俗人の馴れ合えるようなものではないことを体現として実証してもいる。
今ですら私的に父母への手厚い孝養を心がけている頻度の高い中国人が、特に清廉だったり
その他の面で民度が高かったりすることがないのも、その孝心が全く以て忠義に結び付いて
いないからである。唐崩壊以降の深刻な権力腐敗に長年あえぎ続けて来た手前、孝心を全く以て
公儀に繁栄することができないことまでもが定着してしまい、孝がかえって公共意識のなさを
正当化する材料として悪用されることとすらなってしまった。仮に忠孝が共に実現された所で、
それで至れるのも仁徳に根ざした道理程度であるわけだけれども、それすらもが、ただ
忠と孝が乖離しただけで不能なものと化してしまうことを、ここ800年来の中国人や
朝鮮人が身を挺して証明してもいる。いわんや、道理よりもさらに近似する
ことが困難であることが確かな真実の道理——真理をや、である。
人類史上で、真理に最高級に合致することができた人間であっただろうと考えられる、
釈迦如来や龍樹菩薩や弘法大師といった人々もまた、あえて人々が好まないような
俗社会にとっての裏道を歩み続けた。釈迦出家譚も親族の泣き濡れと共に語り伝え
られているし、弘法大師も出家前に自らの選択を親に弁明するための文書を「三教指帰」
として認めたほどである。そこから泥水を吸い、人糞を食むような荒行を繰り返した
後に悟りへと至ったわけで、その結果は世のため人のために限りない利益をもたらす
ものではあったにしろ、決して当人たちの生きざままでをも俗人としての立場から
無制限に肯定してやったりするわけにもいかない者となっている。(出家を全国
レベルで持て囃しているタイなども、あまり品のある国情で居られてはいない)
真理や道理を正当な手続きに即して探求して行くこともまたそれなりに尊ばれて然るべき一方で、
それが全く覚束ない人間が自らの至らなさを恥じと共にわきまえることもまたあるべきである。
それは、人間の内でも特に真理や道理を理解することが困難な女の腹からこそほぼ全ての
人間が産まれて来ている人間社会の大局に即しても、そうであらざるを得ないことである。
産まれついての人間が、天性だけで真理や道理に合致できる可能性などほとんどない、
もしも世の中のほうが濁り切っているようならば、後天的に真理や道理を理解することすら
ほとんど不可能であるとわきまえた上で、なおのこと真理や道理を如何にすべきかを着実に
考えて行けるものだけが、真理や道理といった理念を多少なりとも善用して行くことができる。
要は、身の程をわきまえられる者だけが、真理や道理を善用できるということである。
身の程をわきまえた上でなおのこと自らが真理や道理を探求して行くに値する人間や、
自分には到底そんなものに近づく資格もありはしないとわきまえてただの俗人然
としていようとするような人間こそが、真理や道理に即して真っ当であり得る。
釈迦如来や龍樹菩薩や弘法大師といった人々もまた、あえて人々が好まないような
俗社会にとっての裏道を歩み続けた。釈迦出家譚も親族の泣き濡れと共に語り伝え
られているし、弘法大師も出家前に自らの選択を親に弁明するための文書を「三教指帰」
として認めたほどである。そこから泥水を吸い、人糞を食むような荒行を繰り返した
後に悟りへと至ったわけで、その結果は世のため人のために限りない利益をもたらす
ものではあったにしろ、決して当人たちの生きざままでをも俗人としての立場から
無制限に肯定してやったりするわけにもいかない者となっている。(出家を全国
レベルで持て囃しているタイなども、あまり品のある国情で居られてはいない)
真理や道理を正当な手続きに即して探求して行くこともまたそれなりに尊ばれて然るべき一方で、
それが全く覚束ない人間が自らの至らなさを恥じと共にわきまえることもまたあるべきである。
それは、人間の内でも特に真理や道理を理解することが困難な女の腹からこそほぼ全ての
人間が産まれて来ている人間社会の大局に即しても、そうであらざるを得ないことである。
産まれついての人間が、天性だけで真理や道理に合致できる可能性などほとんどない、
もしも世の中のほうが濁り切っているようならば、後天的に真理や道理を理解することすら
ほとんど不可能であるとわきまえた上で、なおのこと真理や道理を如何にすべきかを着実に
考えて行けるものだけが、真理や道理といった理念を多少なりとも善用して行くことができる。
要は、身の程をわきまえられる者だけが、真理や道理を善用できるということである。
身の程をわきまえた上でなおのこと自らが真理や道理を探求して行くに値する人間や、
自分には到底そんなものに近づく資格もありはしないとわきまえてただの俗人然
としていようとするような人間こそが、真理や道理に即して真っ当であり得る。
身の程のわきまえが疎かであるが故に、分不相応にも真理や道理を志すような
人間こそは、ただの俗人以上にも粗悪な存在たる。聖書信仰や洋学によって真理に
近づけたような気になっているような人間こそはまさにその最たる事例であり、
煩悩具足の愚縛の凡夫であることをわきまえていればこそ俗悪な信仰を開き直って
いる浄土信者ほどにも、真理や道理に即して善良であるようなことがない。
真理とか道理とかいったものを言葉として定義したのは人間自身だが、それらの
言葉によって指し示そうとしたものもまた、定義云々に関係なく実在している。
その普遍的な実在としての真理や道理こそは、上記のような性質を普遍的に
帯びている。人間たちが間違って定義した偽りの真理や道理であればこの限りでは
ないが、そのような真理や道理が人々にもたらせるものもまた、知れたものである。
「子張、善人の道を問う。子曰く、迹を踐まず、亦た室に入らず」
「子張が善人の道をお聞きした。先生は言われた。『別に先人の教えなどを履まず
とも自然と善良でいる。ただ、そのままで真理の奥義にまで達することはできない』
(偽りの真理の道を歩んだりするよりは、このような庸道を歩むべきである。デフォルト
を悪とし、神への服従こそが真理に至るなどとするような教えは、その位相からして
このような孔子の教えに違背している。一切衆生悉有仏性の仏法などはその限りでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二〇)
人間こそは、ただの俗人以上にも粗悪な存在たる。聖書信仰や洋学によって真理に
近づけたような気になっているような人間こそはまさにその最たる事例であり、
煩悩具足の愚縛の凡夫であることをわきまえていればこそ俗悪な信仰を開き直って
いる浄土信者ほどにも、真理や道理に即して善良であるようなことがない。
真理とか道理とかいったものを言葉として定義したのは人間自身だが、それらの
言葉によって指し示そうとしたものもまた、定義云々に関係なく実在している。
その普遍的な実在としての真理や道理こそは、上記のような性質を普遍的に
帯びている。人間たちが間違って定義した偽りの真理や道理であればこの限りでは
ないが、そのような真理や道理が人々にもたらせるものもまた、知れたものである。
「子張、善人の道を問う。子曰く、迹を踐まず、亦た室に入らず」
「子張が善人の道をお聞きした。先生は言われた。『別に先人の教えなどを履まず
とも自然と善良でいる。ただ、そのままで真理の奥義にまで達することはできない』
(偽りの真理の道を歩んだりするよりは、このような庸道を歩むべきである。デフォルト
を悪とし、神への服従こそが真理に至るなどとするような教えは、その位相からして
このような孔子の教えに違背している。一切衆生悉有仏性の仏法などはその限りでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二〇)
他力本願の人間が偉ぶる状態こそは、動物でいえば狂犬にも等しい、人として最劣等の
心理状態であり、それこそはあらゆる心理状態の中でも最も避けられて然るべきものでもある。
他力本願であるからには、自らの責任放棄が念頭にある。責任放棄と偉ぶりの併存こそは、
人格破綻と自己陶酔を相乗的に深刻化させて行き、以てサイコパスなどと呼ばれる精神病理を
本人に定着させることともなってしまう。自己責任を重んずることも、偉ぶりを控えて恭しく
あることも、始めの内は大きな心労となる。そのような態度姿勢を日々着実に積み重ねて行けば、
結局は「浩然の気」などと呼ばれる爽快感に与れるようにもなるわけだけれども、そこまで
行かないような人間が責任的姿勢や謙譲的態度でいることの堅苦しさを忌み嫌った挙げ句に、
責任放棄と思い上がりの悪循環を募らせて行ってしまうようなことともなるのである。
責任意識の希薄さを他力本願のカルト信仰やイデオロギーによって募らせたりするようなこと
もあれば、公務員のような元来責任を以て取り組んで行くべき職務に不相応にも就任した小人が、
重圧のあまり人並み以上に責任意識を放棄してしまうようなこともある。民主主義国家の
政府や自治体の構成者は、この両方の条件を満たしていて、国民主権という名目での責任放棄
の正当化と共に、堂々と無責任な暴政を執り行いながら高禄を食むという最も許しがたい
態勢を堂に入らせることともなっている。それは、むしろ公人こそが自己責任によって
為政を手がける封建社会などのほうでこそ起こり得なかったことなわけで、自分たちが連中から
主権を奪えばこそ、公務員たちの責任放棄と思い上がりの悪循環による深刻な権力腐敗などを
招いてしまっているのだということを、いい加減民衆たちも思い知るべきだといえる。
自力本位こそは清廉なものであり、他力本願こそは俗悪なものであるというのに、現代人たるや、
この認識を完全に転倒させての「神聖なる責任放棄」ばかりに及んでいる。他力本願の信仰者を
非現実的ながらも聖性を帯びたものとして描き、自力本位の哲学者や共産主義者を卑俗な
ニヒリストとして描いたドストエフスキー小説などがその手の転倒夢想を定型化した文化的
心理状態であり、それこそはあらゆる心理状態の中でも最も避けられて然るべきものでもある。
他力本願であるからには、自らの責任放棄が念頭にある。責任放棄と偉ぶりの併存こそは、
人格破綻と自己陶酔を相乗的に深刻化させて行き、以てサイコパスなどと呼ばれる精神病理を
本人に定着させることともなってしまう。自己責任を重んずることも、偉ぶりを控えて恭しく
あることも、始めの内は大きな心労となる。そのような態度姿勢を日々着実に積み重ねて行けば、
結局は「浩然の気」などと呼ばれる爽快感に与れるようにもなるわけだけれども、そこまで
行かないような人間が責任的姿勢や謙譲的態度でいることの堅苦しさを忌み嫌った挙げ句に、
責任放棄と思い上がりの悪循環を募らせて行ってしまうようなことともなるのである。
責任意識の希薄さを他力本願のカルト信仰やイデオロギーによって募らせたりするようなこと
もあれば、公務員のような元来責任を以て取り組んで行くべき職務に不相応にも就任した小人が、
重圧のあまり人並み以上に責任意識を放棄してしまうようなこともある。民主主義国家の
政府や自治体の構成者は、この両方の条件を満たしていて、国民主権という名目での責任放棄
の正当化と共に、堂々と無責任な暴政を執り行いながら高禄を食むという最も許しがたい
態勢を堂に入らせることともなっている。それは、むしろ公人こそが自己責任によって
為政を手がける封建社会などのほうでこそ起こり得なかったことなわけで、自分たちが連中から
主権を奪えばこそ、公務員たちの責任放棄と思い上がりの悪循環による深刻な権力腐敗などを
招いてしまっているのだということを、いい加減民衆たちも思い知るべきだといえる。
自力本位こそは清廉なものであり、他力本願こそは俗悪なものであるというのに、現代人たるや、
この認識を完全に転倒させての「神聖なる責任放棄」ばかりに及んでいる。他力本願の信仰者を
非現実的ながらも聖性を帯びたものとして描き、自力本位の哲学者や共産主義者を卑俗な
ニヒリストとして描いたドストエフスキー小説などがその手の転倒夢想を定型化した文化的
産物の典型例であるといえ、そのような西洋文学を含む洋学全般から権威を奪い去っての価値
転換を人々に促して行くのでもない限りは、責任放棄こそをよかれと思って推し進めて行く
ことが定着してしまっている今の世の風潮に歯止めをかけられるようなこともないだろう。
責任放棄も思い上がりも、慣れてしまえばなかなか脱却することが難しいものである。
それこそ、巧みな修辞を凝らすことで脱却から逃げ仰せ続けたいとすら思わせるほどにも、
多大なる精神的苦痛を本人たちに強いることともなる。顕教的な仁徳盛行への一辺倒状態で
あり続けて来た人間がその苦しみを汲んでやることもなかなか難しいことなので、悪人小人の
異生羝羊心すらをも考慮してやれる密教的な素養が矯正の執行者の側にもあったほうがよい。
責任放棄や思い上がりを正当化までしようとするのなら厳しい態度での仕打ちすら
辞すべきではないが、もはやそれらを正当化のしようもない所で矯正されて行く段
ともなれば、無上の慈しみと共にそれを手伝ってやるぐらいの分別でいるべきである。
観念する前とした後とで、鬼の怒りと仏の慈悲とを巧みに使い分けてやることが、
これからの世直しを手がけて行く者にとっての神妙な心がけとなるのである。
「夫れ能く位を固める者は、必ず本末を度りて而かる後に衷を立つる。
其の本を知らざれば謀ず。本の枝せざるを知れば強うる弗し」
「人事のうまい人間は、必ず相手の本末に至るまでの素養を計り知った上で、それに即した
按配の職務をあてがう。その潜在能力に至るまで知り尽くさねば雇用しないし、潜在能力が
あったとしてもそれが活かせないようならば、あえて雄飛を強いたりもしない。(人事は
己れの権能にかまけてろくでもないような人間を取り立てたりするのではなく、相手の真価
を見極めてそれを十二分に発揮させてやることこそが肝要である。このあたり、就職志願者の
粋がりようや忠誠心ばかりを見て採用を決める今の企業人事などとも相容れない主張だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公六年より)
転換を人々に促して行くのでもない限りは、責任放棄こそをよかれと思って推し進めて行く
ことが定着してしまっている今の世の風潮に歯止めをかけられるようなこともないだろう。
責任放棄も思い上がりも、慣れてしまえばなかなか脱却することが難しいものである。
それこそ、巧みな修辞を凝らすことで脱却から逃げ仰せ続けたいとすら思わせるほどにも、
多大なる精神的苦痛を本人たちに強いることともなる。顕教的な仁徳盛行への一辺倒状態で
あり続けて来た人間がその苦しみを汲んでやることもなかなか難しいことなので、悪人小人の
異生羝羊心すらをも考慮してやれる密教的な素養が矯正の執行者の側にもあったほうがよい。
責任放棄や思い上がりを正当化までしようとするのなら厳しい態度での仕打ちすら
辞すべきではないが、もはやそれらを正当化のしようもない所で矯正されて行く段
ともなれば、無上の慈しみと共にそれを手伝ってやるぐらいの分別でいるべきである。
観念する前とした後とで、鬼の怒りと仏の慈悲とを巧みに使い分けてやることが、
これからの世直しを手がけて行く者にとっての神妙な心がけとなるのである。
「夫れ能く位を固める者は、必ず本末を度りて而かる後に衷を立つる。
其の本を知らざれば謀ず。本の枝せざるを知れば強うる弗し」
「人事のうまい人間は、必ず相手の本末に至るまでの素養を計り知った上で、それに即した
按配の職務をあてがう。その潜在能力に至るまで知り尽くさねば雇用しないし、潜在能力が
あったとしてもそれが活かせないようならば、あえて雄飛を強いたりもしない。(人事は
己れの権能にかまけてろくでもないような人間を取り立てたりするのではなく、相手の真価
を見極めてそれを十二分に発揮させてやることこそが肝要である。このあたり、就職志願者の
粋がりようや忠誠心ばかりを見て採用を決める今の企業人事などとも相容れない主張だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公六年より)
「惟れ説、式て克く欽しみ承け、旁く俊乂を招き、庶位に列せん」
「わたくし説は、慎んで主君の願われる所に従って、広く有能な人々を
招き寄せて、それぞれに最適な臣位を与えて列することに努めさせていただきます。
(>>147にあるのと同様、人事は雇用者の恣意などではなく、招聘対象となる人々
の能力の如何に即して執り行われるべきものであるため、専門の人事官を立てての
ごく事務的な招聘作業にすら徹すべきなのである。故に、そのおかげで好ましい位を
得られたような人間もまた、雇用者に感謝したりすることではなく、招きに相応の
職務を果たして行くことを誓うなどすることのほうをむしろ優先すべきなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)
「わたくし説は、慎んで主君の願われる所に従って、広く有能な人々を
招き寄せて、それぞれに最適な臣位を与えて列することに努めさせていただきます。
(>>147にあるのと同様、人事は雇用者の恣意などではなく、招聘対象となる人々
の能力の如何に即して執り行われるべきものであるため、専門の人事官を立てての
ごく事務的な招聘作業にすら徹すべきなのである。故に、そのおかげで好ましい位を
得られたような人間もまた、雇用者に感謝したりすることではなく、招きに相応の
職務を果たして行くことを誓うなどすることのほうをむしろ優先すべきなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)
ごく微小な領域、局所的、短期的な領域においては因果律が破綻することも
あるが、大局的、長期的な領域においては必ず因果律が保たれるということを、
古来の陰陽五行の法則と、量子論に代表される現代物理学との両方が認めている。
中にはアインシュタインのように、物理法則がそのような曖昧な性質を
伴っていることを生涯受け入れようとしなかった物理学者もいるし、
絶対神による全知全能の業などを信じたがるカルト信者なども、当然
このような法則を真に普遍的なものとして認めたりする気はない。
ただ、実際問題としてこの世界この宇宙の全ての物理現象や社会現象が
陰陽道や量子論に根ざした法則に司られているものだから、それらを
排撃し尽くすこともできず、そのような法則を是とする見解に即した
科学技術の発展などをも静観せざるを得ないままでい続けている。
ただ、科学の進展やそれに伴う文明の発展がいつかは、陰陽道や量子論の
域を超えてくれるのではないかというような淡い期待を抱いたままでもいる。
だからこそ、多少なりとも大局からの因果律の破綻だの、それを可能とする絶対神の
実在だのを未だに信じたままでいる。実際、全くの仮説の範囲内に止まっている一部の
物理論(パラレルワールド論など)の内には、そのような期待を実現するかも知れない
ような意味合いを兼ね備えているものもまだあるわけで、未だに科学理論のほうが多少
なりともカルトに与しかねないような脆弱性を帯びていることもまた確かなのである。
だからこそ、カルト的発想の妥当性を完全に排し去った所にこそある、
陰陽道や量子論の妥当性こそを基本原則とした人文的な発想の、進歩的で
実用的な展開までもが滞らされたままでもいる。陰陽法則や、それに準ずる実相
準拠型の法則に根ざした人文学というものも、すでに無数に用意されているわけで、
それこそは儒学だっり玄学だったり仏教だったりウパニシャッド哲学だったりも
するわけだけれども、そのような東洋古来の人文学は概ね異端の部類とされて、
聖書信仰という最悪級のカルトを発想元とした、西洋哲学や西洋文学ばかりが
主流の人文学として持て囃されたままの状態でいてしまっている。
あるが、大局的、長期的な領域においては必ず因果律が保たれるということを、
古来の陰陽五行の法則と、量子論に代表される現代物理学との両方が認めている。
中にはアインシュタインのように、物理法則がそのような曖昧な性質を
伴っていることを生涯受け入れようとしなかった物理学者もいるし、
絶対神による全知全能の業などを信じたがるカルト信者なども、当然
このような法則を真に普遍的なものとして認めたりする気はない。
ただ、実際問題としてこの世界この宇宙の全ての物理現象や社会現象が
陰陽道や量子論に根ざした法則に司られているものだから、それらを
排撃し尽くすこともできず、そのような法則を是とする見解に即した
科学技術の発展などをも静観せざるを得ないままでい続けている。
ただ、科学の進展やそれに伴う文明の発展がいつかは、陰陽道や量子論の
域を超えてくれるのではないかというような淡い期待を抱いたままでもいる。
だからこそ、多少なりとも大局からの因果律の破綻だの、それを可能とする絶対神の
実在だのを未だに信じたままでいる。実際、全くの仮説の範囲内に止まっている一部の
物理論(パラレルワールド論など)の内には、そのような期待を実現するかも知れない
ような意味合いを兼ね備えているものもまだあるわけで、未だに科学理論のほうが多少
なりともカルトに与しかねないような脆弱性を帯びていることもまた確かなのである。
だからこそ、カルト的発想の妥当性を完全に排し去った所にこそある、
陰陽道や量子論の妥当性こそを基本原則とした人文的な発想の、進歩的で
実用的な展開までもが滞らされたままでもいる。陰陽法則や、それに準ずる実相
準拠型の法則に根ざした人文学というものも、すでに無数に用意されているわけで、
それこそは儒学だっり玄学だったり仏教だったりウパニシャッド哲学だったりも
するわけだけれども、そのような東洋古来の人文学は概ね異端の部類とされて、
聖書信仰という最悪級のカルトを発想元とした、西洋哲学や西洋文学ばかりが
主流の人文学として持て囃されたままの状態でいてしまっている。
実際問題、陰陽道を基本原則とするような人文学は、ただの人文学としてみれば
さして魅力的なものでもない。怪力乱神の持て囃しも程ほどに、仁義忠孝だの
無為自然だの成道だの利他だのといった実直な理念ばかりを主題に置いている
ものだから、少なくとも女子供や小人男が嬉しがるに足るようなものでないの
だけは確かである。ただ、やはり実用的でもあるから、基幹的職業に従事して
いるような大人の男からの勉強対象になったりすることが今でも多少はあるが、
それもただの実用目的というばかりであって、東洋的な人文学の権威性を
認めるが故にこその嗜みなどでまであったりするわけでは決してない。
これだけ科学技術への依存が深刻化している現代においては、やはり科学理論が
カルト的発想の根本的不当性を完全に実証し尽くすことこそが、実直な易学準拠系の
人文学の権威の復興やより一層の発展を決定付ける機縁ともなるに違いない。ただ、
それはあくまで一過性の機縁となるまでのことで、科学がその手の人文学の正当性を
公認してくれたこと以上にも、何千年にもわたってその手の学問を醸成したり実践の
対象としたりして来てくれた人々が無数にいることのほうにより感謝を捧げて行く
ようにしなければならない。彼らがいなければ、科学依存のせいでこそ人間精神
をも荒廃させてしまった現代人が滅亡の危機をも乗り越えて、即座な救済に
与かって行けたりする可能性もなかったに違いないのだから。
「言として讎いざる無く、徳として報いざる無し」
「内容に相応の報いがない言葉なく、篤実さに相応の報いがない徳はない。
(ろくでもない言葉にはろくでもない果報があり、厚徳には厚徳なりの果報がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・抑より)
さして魅力的なものでもない。怪力乱神の持て囃しも程ほどに、仁義忠孝だの
無為自然だの成道だの利他だのといった実直な理念ばかりを主題に置いている
ものだから、少なくとも女子供や小人男が嬉しがるに足るようなものでないの
だけは確かである。ただ、やはり実用的でもあるから、基幹的職業に従事して
いるような大人の男からの勉強対象になったりすることが今でも多少はあるが、
それもただの実用目的というばかりであって、東洋的な人文学の権威性を
認めるが故にこその嗜みなどでまであったりするわけでは決してない。
これだけ科学技術への依存が深刻化している現代においては、やはり科学理論が
カルト的発想の根本的不当性を完全に実証し尽くすことこそが、実直な易学準拠系の
人文学の権威の復興やより一層の発展を決定付ける機縁ともなるに違いない。ただ、
それはあくまで一過性の機縁となるまでのことで、科学がその手の人文学の正当性を
公認してくれたこと以上にも、何千年にもわたってその手の学問を醸成したり実践の
対象としたりして来てくれた人々が無数にいることのほうにより感謝を捧げて行く
ようにしなければならない。彼らがいなければ、科学依存のせいでこそ人間精神
をも荒廃させてしまった現代人が滅亡の危機をも乗り越えて、即座な救済に
与かって行けたりする可能性もなかったに違いないのだから。
「言として讎いざる無く、徳として報いざる無し」
「内容に相応の報いがない言葉なく、篤実さに相応の報いがない徳はない。
(ろくでもない言葉にはろくでもない果報があり、厚徳には厚徳なりの果報がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・抑より)
悪は正義よりも後からやって来て、先に死んでしまう。
正義を本義とする善良な人々によって築き上げられた世の中に後から
やって来て、暴慢と我田引水とによって虚栄を貪り、ガン細胞格として
世の中を引っ掻き回し過ぎた挙げ句に、自業自得の自滅に見舞われて、
その短くて儚い生を最大級の苦悶と不満のままに終えることとなる。
悪人こそは堅実な農産や、そのための治水灌漑などを人任せにして、
自分たちは悪徳商売だの火付け盗賊だのといった「濡れ手に粟」な手法
で以っての大儲けばかりを企てるものだから、自分たちだけでは決して
世の中を営んで行くこともできない。自分たちよりも遥かに膨大な数の人々が、
あらかじめ収奪の対象ともできるような豊かな世の中を育んでいる場合にのみ、
そのような悪人が一定以上の派閥と共に豊満な生活を営んで行けたりもする
わけだから、悪人なくして善人はあり得ても、善人なくして悪人はあり得ない
ということがいえる。両者の関係は決して可換ではなく、悪は必ず正義よりも
一定以上に拙劣で卑小なもののままでしかあり得ないという普遍法則があるのである。
にもかかわらず、悪は正義の上に立ってまでの奢り高ぶりすらをも目指そうとする。
それこそ、暴慢をどこまでも増長させて行くしか能のない悪そのものだからである。
なればこそ、正義あっての自分たちであることを見失ってまでの暴慢に駆られた悪
こそは、正義よりも後からやって来ておきながら先に亡くなるか、もしくは正義を
滅ぼした結果として自分までもが完全な自滅に陥ってしまうかのどちらかでしか
いられない。若輩者の少数派とあっては、先輩格の多数派を全員滅ぼし尽くすなどと
いうこともなかなかに困難であるから、結局は自分たちのほうが先に滅んで、正義に
自分たちの墓前で念仏を唱えさせるようなこととなるのが関の山となるのである。
正義を本義とする善良な人々によって築き上げられた世の中に後から
やって来て、暴慢と我田引水とによって虚栄を貪り、ガン細胞格として
世の中を引っ掻き回し過ぎた挙げ句に、自業自得の自滅に見舞われて、
その短くて儚い生を最大級の苦悶と不満のままに終えることとなる。
悪人こそは堅実な農産や、そのための治水灌漑などを人任せにして、
自分たちは悪徳商売だの火付け盗賊だのといった「濡れ手に粟」な手法
で以っての大儲けばかりを企てるものだから、自分たちだけでは決して
世の中を営んで行くこともできない。自分たちよりも遥かに膨大な数の人々が、
あらかじめ収奪の対象ともできるような豊かな世の中を育んでいる場合にのみ、
そのような悪人が一定以上の派閥と共に豊満な生活を営んで行けたりもする
わけだから、悪人なくして善人はあり得ても、善人なくして悪人はあり得ない
ということがいえる。両者の関係は決して可換ではなく、悪は必ず正義よりも
一定以上に拙劣で卑小なもののままでしかあり得ないという普遍法則があるのである。
にもかかわらず、悪は正義の上に立ってまでの奢り高ぶりすらをも目指そうとする。
それこそ、暴慢をどこまでも増長させて行くしか能のない悪そのものだからである。
なればこそ、正義あっての自分たちであることを見失ってまでの暴慢に駆られた悪
こそは、正義よりも後からやって来ておきながら先に亡くなるか、もしくは正義を
滅ぼした結果として自分までもが完全な自滅に陥ってしまうかのどちらかでしか
いられない。若輩者の少数派とあっては、先輩格の多数派を全員滅ぼし尽くすなどと
いうこともなかなかに困難であるから、結局は自分たちのほうが先に滅んで、正義に
自分たちの墓前で念仏を唱えさせるようなこととなるのが関の山となるのである。
小人男や女のように、生来悪性に駆られやすく、やもすれば一生涯悪性の虜の
ままでいてしまうような人間もまた世の中には多くいる。そのような人間の
ほとんどが、本当に一生涯を上記のような透徹した悪性ばかりに駆られたままで
い続けたならば、本当に後からやって来て先に亡くなるような無様な生涯しか
送れないことともなる。女であれば、夫よりもずっと年下の妻でありながら、
家事一つ真面目にしない不摂生な生活ばかりを続けた結果として、多くの
病気に悩まされた挙げ句に夫よりも先に亡くなってしまうようなことともなる。
小人の男の場合も、君子の男を夫と見た場合の妻が自分であるとした場合に、
上に書いたのと似たような境遇や運命を歩まされることとなるのである。
夫よりも年下の妻であるのならば、夫よりも後に死ぬのが、長幼の序にも
適った自然体のあり方だといえる。それを常套とするためには、いくら自分が
悪性に駆られやすい人種である女であるといえども、悪性に囚われたままでいたり
することはなるべく控えようとする必要がある。自分個人の生来の気質などは
ろくなものではなく、夫への依り恃みによってなるべくそこから脱却しておく
べきなのだという風に考えて、そうであるように常日頃から心がけておくように
しなければならない。小人として、実際に瑣末な商売などに従事する男もこれと
同様であり、民主主義や資本主義で世の中の根本を司っている公人や農夫
の権威を損なうようなことがないようにもしていかなければならない。
それが、世の中にとっての福利厚生の増進に寄与するのみならず、女や
小人男といった悪性に駆られやすい人員たち自身にとっての養生手段ともなる。
後輩格の少数派でしかいられないような立場であるなりの、長生きなどの福寿に
与れもする。夫唱婦随、官民農工商といった身分の序列は、それによって下位に
置かれるような人間にとっての福利厚生ともなるものだし、またそのようで
あり得る身分の序列こそは、天下に敷かれて然るべきものだとも言えるのである。
ままでいてしまうような人間もまた世の中には多くいる。そのような人間の
ほとんどが、本当に一生涯を上記のような透徹した悪性ばかりに駆られたままで
い続けたならば、本当に後からやって来て先に亡くなるような無様な生涯しか
送れないことともなる。女であれば、夫よりもずっと年下の妻でありながら、
家事一つ真面目にしない不摂生な生活ばかりを続けた結果として、多くの
病気に悩まされた挙げ句に夫よりも先に亡くなってしまうようなことともなる。
小人の男の場合も、君子の男を夫と見た場合の妻が自分であるとした場合に、
上に書いたのと似たような境遇や運命を歩まされることとなるのである。
夫よりも年下の妻であるのならば、夫よりも後に死ぬのが、長幼の序にも
適った自然体のあり方だといえる。それを常套とするためには、いくら自分が
悪性に駆られやすい人種である女であるといえども、悪性に囚われたままでいたり
することはなるべく控えようとする必要がある。自分個人の生来の気質などは
ろくなものではなく、夫への依り恃みによってなるべくそこから脱却しておく
べきなのだという風に考えて、そうであるように常日頃から心がけておくように
しなければならない。小人として、実際に瑣末な商売などに従事する男もこれと
同様であり、民主主義や資本主義で世の中の根本を司っている公人や農夫
の権威を損なうようなことがないようにもしていかなければならない。
それが、世の中にとっての福利厚生の増進に寄与するのみならず、女や
小人男といった悪性に駆られやすい人員たち自身にとっての養生手段ともなる。
後輩格の少数派でしかいられないような立場であるなりの、長生きなどの福寿に
与れもする。夫唱婦随、官民農工商といった身分の序列は、それによって下位に
置かれるような人間にとっての福利厚生ともなるものだし、またそのようで
あり得る身分の序列こそは、天下に敷かれて然るべきものだとも言えるのである。
「陰陽長短、終始相い巡りて、以て天下の和を致す」
「陰陽の長短が万事万物を始終に至るまで司ることで、天下の和が育まれる。
(陰陽法則こそは万物始終の平和の礎となる。万物の始終〈アルファからオメガ〉
に至るまで勝ち負け第一な争いごとに染め上げようとするような邪神などよりは、
このような善良な法則に万物を司らせるべきである。無論、実際のところそう
でしかあり得ないし、アルファベットも未開地域の簡易文字でしかないわけだが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
「陰陽の長短が万事万物を始終に至るまで司ることで、天下の和が育まれる。
(陰陽法則こそは万物始終の平和の礎となる。万物の始終〈アルファからオメガ〉
に至るまで勝ち負け第一な争いごとに染め上げようとするような邪神などよりは、
このような善良な法則に万物を司らせるべきである。無論、実際のところそう
でしかあり得ないし、アルファベットも未開地域の簡易文字でしかないわけだが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
罪に対して罰が加えられる必要があるのは全くの自業自得であるため、他人が代わり
に罪を着せられて罰を受けたりすることで本人の罪が償われたりすることも決して
ありはしない。自分が罪を犯すのは世の中においてであり、自分が少なからず世の中
への参画者でもあるからこそ、そこで罪を犯したりもしてしまう。自分こそが世の中を
必要としているにもかかわらず、世の中において罪とされる行為を犯してしまった場合
にそれ相応の罰を自分が受けないのならば、そのせいで世の中のほうが風紀の乱れや
経済的問題を来したせいでの破綻に見舞われてしまう、それで困るのも自分たち自身で
あるのだから、やはり罪には相応の罰を被らねばならない。罪は自分個人の完全に
独立的な振る舞いなどではなく、人と人との関わり合いによって成り立っている
世の中においてこそ犯されるものなのだから、罪を犯した者が自分個人の身勝手な
考えで罰を受けるかどうかを決めたりすることも決して許されはしないのである。
この世において、刑事ほど自明であることに徹すべき事象も他にない。何らの恣意や
神異を差し挟むこともなく、ただ世の中に迷惑をかけた分量に相応の制裁を加えるように
するのが最善となるのであり、それに徹することができたならば、その場合にこそ裁きを
下す者や、刑罰を執行する者が何らの後ろめたさをも抱いたりしなくて済むようになる。
刑事自体、犯罪発生率の低下と共になるべく行われなくなるに越したことはないのだから、
そのような簡潔な事務作業であるにも越したことがないものである。採決の公正さを期する
ためではなく、犯人の逃げ延びを助長するために二審三審への上告を認めているようなきらい
すらもがある現行の裁判制度のほうが煩雑に過ぎるのであり、判事と検事を分けもしなければ、
弁護士を置きもせず、ことの重大さに即して裁きを下す者も随時その身分によって入れ替え
られていた江戸時代ごろの刑事のほうが、まだ公正さと簡略さとの両面において秀でていた
といえる。(無論、裁決を下す武士たちが厳酷な自己修養に努めていたからこそ成り立って
いた制度でもあるため、不貞な現代人が即座にその手法を真似たりするのも無理がある)
に罪を着せられて罰を受けたりすることで本人の罪が償われたりすることも決して
ありはしない。自分が罪を犯すのは世の中においてであり、自分が少なからず世の中
への参画者でもあるからこそ、そこで罪を犯したりもしてしまう。自分こそが世の中を
必要としているにもかかわらず、世の中において罪とされる行為を犯してしまった場合
にそれ相応の罰を自分が受けないのならば、そのせいで世の中のほうが風紀の乱れや
経済的問題を来したせいでの破綻に見舞われてしまう、それで困るのも自分たち自身で
あるのだから、やはり罪には相応の罰を被らねばならない。罪は自分個人の完全に
独立的な振る舞いなどではなく、人と人との関わり合いによって成り立っている
世の中においてこそ犯されるものなのだから、罪を犯した者が自分個人の身勝手な
考えで罰を受けるかどうかを決めたりすることも決して許されはしないのである。
この世において、刑事ほど自明であることに徹すべき事象も他にない。何らの恣意や
神異を差し挟むこともなく、ただ世の中に迷惑をかけた分量に相応の制裁を加えるように
するのが最善となるのであり、それに徹することができたならば、その場合にこそ裁きを
下す者や、刑罰を執行する者が何らの後ろめたさをも抱いたりしなくて済むようになる。
刑事自体、犯罪発生率の低下と共になるべく行われなくなるに越したことはないのだから、
そのような簡潔な事務作業であるにも越したことがないものである。採決の公正さを期する
ためではなく、犯人の逃げ延びを助長するために二審三審への上告を認めているようなきらい
すらもがある現行の裁判制度のほうが煩雑に過ぎるのであり、判事と検事を分けもしなければ、
弁護士を置きもせず、ことの重大さに即して裁きを下す者も随時その身分によって入れ替え
られていた江戸時代ごろの刑事のほうが、まだ公正さと簡略さとの両面において秀でていた
といえる。(無論、裁決を下す武士たちが厳酷な自己修養に努めていたからこそ成り立って
いた制度でもあるため、不貞な現代人が即座にその手法を真似たりするのも無理がある)

ような深刻な罪悪ぐらいは防ぎ止められた後のことである。宗教上の戒律違反などではなく、
まず社会的に罪であると断定されるような悪行を犯さないことから努めて行くようにする。
そこから後、さらに戒律だとか作法だとかをよく守っての自主的な浄行に努めて行けば、
そこでこそ人もまた、神や仏に近づく者としての聖性を認められるに値する存在となる。
刑事はどこまでも「人道」であり、人道ぐらいは当然守ったればこそ天道や仏道にも至る。
だからこそ六道十界論でも天道や仏道が人道の上に置かれているのであり、人道すら
守れないようならば、それは当然のこととして餓鬼畜生の域に止まる。修羅道に
おいても、自らが人道の守護者たらんとした戦闘に臨む者こそは勝ち、人道を蔑ろ
にするような者こそは負けるという根本法則があるわけで、簡潔で自明なもので
あるのが理想であるにもかかわらず、人道こそは神仏や修羅道の勝者と、餓鬼
畜生や修羅道の敗者とを決定的に分かつ根本基準ともなっているのである。
つまり、簡潔で自明なものをも尊べる者こそは神仏の域にすら至れる一方で、
そのような事物を取るに足らないものとして蔑ろにするような者こそは餓鬼畜生の
域に止まってしまうという根本法則があるわけである。刑事に純粋な自明性のみを
認める潔さや、儒書にあるような素っ気ないけれども自明な言葉を尊べる心意気
こそが神仏を崇拝するに足る人物へと自分が上達するための第一歩ともなるわけだから、
神韻縹渺とした領域への到達のためにこそ、まずは簡潔の極みすらをも由しとする
覚悟が必要となるのだといえる。神仏は、ただただ妖艶さばかりを追い求める
ような不埒者を決してよしとはしないものなので、そのような人間には
神仏を騙る魑魅魍魎ばかりが近寄って来ることともなるのである。
東洋社会では基本、皮相的な文化と本質的な文化とが厳密に分かたれて来た。
仏説の仏辺と衆生辺における使い分けだとか、儒家教学の経史子集への分類だとかが
その実例である。仏辺に即すれば善人正機が至当となる一方、衆生辺に即すれば
悪人正機が妥当となるなど、本質に逼迫する場合と皮相に止まる場合とでは全く
発言内容がひっくり返ってすらしまうために、本質そのものに親しむ仏辺の教理は
あくまで玄人向けの密法とし、皮相を開き直る衆生辺の教理こそを素人に至るまで
の広範な流布対象にするなどの便宜を図ったほうがより縁起がよいことともなる。
本質そのものを取り扱う宗門もまた堂に入り、皮相を取り扱う宗門もまた堂に入る。
密教寺も禅門も浄土門もそれぞれに人々からの篤い信敬を受けるようにして、本質を
取り扱うものと皮相を取り扱うものとがそれなりの距離感を保ちつつ、同一国内や
同一の町や村の中でも共存して行く。それはあたかも、人々がそれぞれに別個の職業に
従事することで世の中のためになって行くようなもので、実際に公家なら密教、
武家なら禅門、百姓なら浄土門といった風に、それぞれの職制の本質や皮相への
親しみやすさに即した、各種の仏門への檀家配分が昔は考慮されてもいたのだった。
本質は本質で如実に捉えられているからこそ、そのような調和的な共存関係が成り立ちもする。
弘法大師のような、物事の本質を理解できて、なおかつその本質に親しむことまでもができる
ような人間が実際に居たればこそ、それはそれで一つの流派としてのあり方が堂に入り、
無闇やたらに他流を侵害して征服するような真似に及んだりする必要がない。密教の
修得度では明らかに最澄すらをも上回っていたのに、朝廷御用達の仏門の座は最澄の
興した日本天台宗に譲り、自らは人里離れた高野山に総本山を構えて、日本各地の
開発事業に東奔西走するなどの下働きに徹したその振る舞いからも、物事の本質を
よく見抜いてそれに親しむ者こそは、より挺身的な謙譲に努められるのだという
ことを体現してくれてもいて、その模範対象としてのあり方が、本質に親しめる
人間の増上慢などを決して許したりはしないものともなっている。
仏説の仏辺と衆生辺における使い分けだとか、儒家教学の経史子集への分類だとかが
その実例である。仏辺に即すれば善人正機が至当となる一方、衆生辺に即すれば
悪人正機が妥当となるなど、本質に逼迫する場合と皮相に止まる場合とでは全く
発言内容がひっくり返ってすらしまうために、本質そのものに親しむ仏辺の教理は
あくまで玄人向けの密法とし、皮相を開き直る衆生辺の教理こそを素人に至るまで
の広範な流布対象にするなどの便宜を図ったほうがより縁起がよいことともなる。
本質そのものを取り扱う宗門もまた堂に入り、皮相を取り扱う宗門もまた堂に入る。
密教寺も禅門も浄土門もそれぞれに人々からの篤い信敬を受けるようにして、本質を
取り扱うものと皮相を取り扱うものとがそれなりの距離感を保ちつつ、同一国内や
同一の町や村の中でも共存して行く。それはあたかも、人々がそれぞれに別個の職業に
従事することで世の中のためになって行くようなもので、実際に公家なら密教、
武家なら禅門、百姓なら浄土門といった風に、それぞれの職制の本質や皮相への
親しみやすさに即した、各種の仏門への檀家配分が昔は考慮されてもいたのだった。
本質は本質で如実に捉えられているからこそ、そのような調和的な共存関係が成り立ちもする。
弘法大師のような、物事の本質を理解できて、なおかつその本質に親しむことまでもができる
ような人間が実際に居たればこそ、それはそれで一つの流派としてのあり方が堂に入り、
無闇やたらに他流を侵害して征服するような真似に及んだりする必要がない。密教の
修得度では明らかに最澄すらをも上回っていたのに、朝廷御用達の仏門の座は最澄の
興した日本天台宗に譲り、自らは人里離れた高野山に総本山を構えて、日本各地の
開発事業に東奔西走するなどの下働きに徹したその振る舞いからも、物事の本質を
よく見抜いてそれに親しむ者こそは、より挺身的な謙譲に努められるのだという
ことを体現してくれてもいて、その模範対象としてのあり方が、本質に親しめる
人間の増上慢などを決して許したりはしないものともなっている。
本質をありのままに捉えているような聖道門があって、なおかつそのような
聖道門の求道者が、弘法大師の如き謙譲の限りを尽くした姿勢でいたならば、
もはや皮相のごまかしで悪行を正当化するような邪教が増長する隙もありはしない。
邪教といわず、皮相を取り扱うような宗門学派全般の肥大化による文化荒廃を
予防する効能が伴う。密教が絶えた唐代以降の中国において絶対化された儒学=儒教が
権力腐敗の温床ともなってしまったりした通り、それなりに妥当な見解を持つ教学で
あろうとも、それが皮相的なものである以上は侮りを生じさせてもしまいかねず、
その侮りが各種の腐敗にすら結び付いたりもするものなので、やはり本質を捉えた
教学が皮相に甘んずる教学を制御対象とするような共存関係を保てたほうがよい。
それなりに妥当な見解を持つ皮相の教学であれば、本質を捉えた教学との共存が
可能である。日本における密教や禅と、儒学や浄土教の共存などがその実例であり、
これ程にも狭い島国の中でですらそのような共存が可能であったのだから、より
広大な世界でそれらが共存して行くことも決して不可能なことではないはずである。
無論、本質を捉えた教学との共存など到底不可能な、皮相をごまかす邪教こそが世界中に
蔓延っているせいで、それを実現して行くことが未だ困難なままであるということはあるが。
「賁は、飾るなり。飾りを致して然る後に亨れば則ち尽く、故に之れを受けるに剥を以ってす」
「(周易では賁卦の次に剥卦が置かれるが、)賁とは『飾る』という意味である。表層を着飾る
ことばかりに専らでいればいつかはそれも頭打ちになる、そのためその次に『剥』が置かれる。
(皮相の虚飾も極まれば後は剥がれるばかりとなる。何事も極まれば行き詰まる陰陽の理である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・序卦伝より)
聖道門の求道者が、弘法大師の如き謙譲の限りを尽くした姿勢でいたならば、
もはや皮相のごまかしで悪行を正当化するような邪教が増長する隙もありはしない。
邪教といわず、皮相を取り扱うような宗門学派全般の肥大化による文化荒廃を
予防する効能が伴う。密教が絶えた唐代以降の中国において絶対化された儒学=儒教が
権力腐敗の温床ともなってしまったりした通り、それなりに妥当な見解を持つ教学で
あろうとも、それが皮相的なものである以上は侮りを生じさせてもしまいかねず、
その侮りが各種の腐敗にすら結び付いたりもするものなので、やはり本質を捉えた
教学が皮相に甘んずる教学を制御対象とするような共存関係を保てたほうがよい。
それなりに妥当な見解を持つ皮相の教学であれば、本質を捉えた教学との共存が
可能である。日本における密教や禅と、儒学や浄土教の共存などがその実例であり、
これ程にも狭い島国の中でですらそのような共存が可能であったのだから、より
広大な世界でそれらが共存して行くことも決して不可能なことではないはずである。
無論、本質を捉えた教学との共存など到底不可能な、皮相をごまかす邪教こそが世界中に
蔓延っているせいで、それを実現して行くことが未だ困難なままであるということはあるが。
「賁は、飾るなり。飾りを致して然る後に亨れば則ち尽く、故に之れを受けるに剥を以ってす」
「(周易では賁卦の次に剥卦が置かれるが、)賁とは『飾る』という意味である。表層を着飾る
ことばかりに専らでいればいつかはそれも頭打ちになる、そのためその次に『剥』が置かれる。
(皮相の虚飾も極まれば後は剥がれるばかりとなる。何事も極まれば行き詰まる陰陽の理である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・序卦伝より)
社会とまず敵対するのではなく、とりあえずは協調しようとするのが人道というものである。
しかし、権力機構が悪人に乗っ取られて乱世と化してしまっているなどの理由で、健全な善性
と共に自らが社会に順応することができなかったりした場合には、それでもやはり世の中全体を
あえて敵に回すのではなく、世の中に汚濁をもたらしている元凶たる何者かのみを敵視の対象とし、
世の中のほうはむしろ、そのような害悪の元凶による惨暴から救い上げてやるべきものとする、
それが、濁世の中にも人道を貫き遠そうとする人間にとっての模範的な態度姿勢であると言える。
時には、世の中全体が完全に汚濁に取り込まれて、末端の庶民に至るまで完全に荒みきった
悪人然と化してしまったりすることもある。善性と共に接しようとすれば世の中全体が自分の
敵に回るように思えて、なおかつ世の中がそのような一切皆悪状態と化してしまっている
根本原因が一体どこにあるのかすらもが判然としない状態となってしまっていたりする。
そうであってもなおのこと、世の中全体を敵と見なしたりはせず、かえって重病に蝕まれた
被害者格として哀れんでやり、どこの誰だか現状では見定め切れないような害悪の元凶たる
連中のみを懲罰対象として見越し続ける者こそは、真に人道の守護者たる益荒男であるといえる。
そこまでして社会への協調ばかりを企図し続けるのが最良となるのかといえば、そうとも限らない。
世の中からそれなりに距離を置いて、こちらからの率先的な改善などではなく、現状で世の中を
構成している主要な人々による自主的な世相の改善を促して行ったりすることもそれなりに至当たる。
それが体系的な教義や作法に即して執り行われようものなら、天道や仏道として堂に入りもするわけで、
それは人道の実践者すらもが自分たち以上のものとして尊崇するに値する存在性ともなるわけである。
しかし、権力機構が悪人に乗っ取られて乱世と化してしまっているなどの理由で、健全な善性
と共に自らが社会に順応することができなかったりした場合には、それでもやはり世の中全体を
あえて敵に回すのではなく、世の中に汚濁をもたらしている元凶たる何者かのみを敵視の対象とし、
世の中のほうはむしろ、そのような害悪の元凶による惨暴から救い上げてやるべきものとする、
それが、濁世の中にも人道を貫き遠そうとする人間にとっての模範的な態度姿勢であると言える。
時には、世の中全体が完全に汚濁に取り込まれて、末端の庶民に至るまで完全に荒みきった
悪人然と化してしまったりすることもある。善性と共に接しようとすれば世の中全体が自分の
敵に回るように思えて、なおかつ世の中がそのような一切皆悪状態と化してしまっている
根本原因が一体どこにあるのかすらもが判然としない状態となってしまっていたりする。
そうであってもなおのこと、世の中全体を敵と見なしたりはせず、かえって重病に蝕まれた
被害者格として哀れんでやり、どこの誰だか現状では見定め切れないような害悪の元凶たる
連中のみを懲罰対象として見越し続ける者こそは、真に人道の守護者たる益荒男であるといえる。
そこまでして社会への協調ばかりを企図し続けるのが最良となるのかといえば、そうとも限らない。
世の中からそれなりに距離を置いて、こちらからの率先的な改善などではなく、現状で世の中を
構成している主要な人々による自主的な世相の改善を促して行ったりすることもそれなりに至当たる。
それが体系的な教義や作法に即して執り行われようものなら、天道や仏道として堂に入りもするわけで、
それは人道の実践者すらもが自分たち以上のものとして尊崇するに値する存在性ともなるわけである。
率先して社会との協調やそれに基づく世直しを心がけて行くか、もしくはそれを控えるかが、
人道並みかそれ以上の品性の持ち主にとって許される行動規範となる。社会との敵対を
大前提として、世の中に害悪を加えて行くことを本是としたりするのは完全に餓鬼畜生の
所業であり、それがほんの寸分たりとも人道を上回る品性たり得るようなことが決してない。
体裁が逃亡犯時代の劉邦のように、反社会勢力然とした身の程となってしまうようなことが
あったとした所で、やはり目的は上記のような意味での人道の達成に絞って、決して義賊
のような変則的で不正な立場そのものを美化するようなことにまで及んではならない。
権力機構が政商犯に乗っ取られた秦帝国時代の中国並みの濁世ともなれば、過労死級の強制労働から
徴発者を解放してやった挙げ句に、自らも逃亡犯の義賊となった劉邦のような人間にまで天命が下る
こともある。しかし、そのような世相は元来あるまじきことであるから、そうであってもあくまで国家
社稷を統べる正統な帝王としての世直しこそを志さねばならない。ただただ自分個人のためというのなら、
利益を分け合ってもさして取り分の減らないような少数部落としての義賊活動でも続けていたほうが
まだうま味があったりするが、それでは自らまでもが濁世の火事場泥棒一派止まりと化してしまうので、
人道以上の品性を保とうとする者がそこに安住するようなことも決して許されはしないのである。
義賊の内に身を置いても、人道を志す者は志すし、全世界を統べる帝王たろうとも、餓鬼畜生の域に
溺れる者は溺れる。環境や体裁がどうかではなく、自らの心理的な境地こそがいかなる程度のもので
あるのかがより重要であるのだから、帝王のような立場を忌み嫌ったり、義賊のような立場を好き好ん
だりした挙げ句に非人道こそをよしとしたりするようなこともあるべきはでない。徳治社会の帝王の
ような責任ある立場に好き好んでなりたがれるほどできた人間もそうそうにはいないのだから、治世の要
となるそのような立場に対してこそ「憎んでしかもその善を知れ(礼記)」ということが言えるわけである。
人道並みかそれ以上の品性の持ち主にとって許される行動規範となる。社会との敵対を
大前提として、世の中に害悪を加えて行くことを本是としたりするのは完全に餓鬼畜生の
所業であり、それがほんの寸分たりとも人道を上回る品性たり得るようなことが決してない。
体裁が逃亡犯時代の劉邦のように、反社会勢力然とした身の程となってしまうようなことが
あったとした所で、やはり目的は上記のような意味での人道の達成に絞って、決して義賊
のような変則的で不正な立場そのものを美化するようなことにまで及んではならない。
権力機構が政商犯に乗っ取られた秦帝国時代の中国並みの濁世ともなれば、過労死級の強制労働から
徴発者を解放してやった挙げ句に、自らも逃亡犯の義賊となった劉邦のような人間にまで天命が下る
こともある。しかし、そのような世相は元来あるまじきことであるから、そうであってもあくまで国家
社稷を統べる正統な帝王としての世直しこそを志さねばならない。ただただ自分個人のためというのなら、
利益を分け合ってもさして取り分の減らないような少数部落としての義賊活動でも続けていたほうが
まだうま味があったりするが、それでは自らまでもが濁世の火事場泥棒一派止まりと化してしまうので、
人道以上の品性を保とうとする者がそこに安住するようなことも決して許されはしないのである。
義賊の内に身を置いても、人道を志す者は志すし、全世界を統べる帝王たろうとも、餓鬼畜生の域に
溺れる者は溺れる。環境や体裁がどうかではなく、自らの心理的な境地こそがいかなる程度のもので
あるのかがより重要であるのだから、帝王のような立場を忌み嫌ったり、義賊のような立場を好き好ん
だりした挙げ句に非人道こそをよしとしたりするようなこともあるべきはでない。徳治社会の帝王の
ような責任ある立場に好き好んでなりたがれるほどできた人間もそうそうにはいないのだから、治世の要
となるそのような立場に対してこそ「憎んでしかもその善を知れ(礼記)」ということが言えるわけである。
「禹、稷は平世に当たりて、三たび其の門を過ぎるも入らず、孔子之れを賢とせり
顔子は乱世に当たりて、陋巷に居り、一箪の食、一瓢の飲。人は其の憂いに堪えざるも、
顔子は其の楽しみを改めず、孔子も之れを賢とせり(この一文既出)。孟子曰く、
禹、稷、顔回は道を同じくす。禹は天下に溺るる者有らば、由お己れが之れを溺らす
ものと思えり。稷も天下に飢える者有れば、由お己れが之れを飢えしむるものと思えり。
是れを以て是くの如く其れ急げり。禹、稷、顔子は地を易うれば、則ち皆な然らん」
「夏の禹帝や重臣の稷は、徳治の行える治世に当たって、三たび自らの家の前を通っても
その門を潜ることがないほどに働き詰めた。孔先生はその在り方を賢明と認められている。
一方、(孔子の弟子の)顔先生は春秋時代の乱世において、薄汚く狭い路地に住み、一膳
一杯の飲食という質素な生活を貫かれた。常人ならその憂いに耐えることもできないが、
顔先生はそれを楽しむことを改めようともしなかった。孔先生はそのあり方も賢明だと
認められていた。孟先生はこれを評して言われた。『禹、稷、顔回はみなその道を同じく
していた。禹は天下に一人でも洪水に溺れる者がいようものなら、自分が溺れさしたように
考えたし、稷も天下に一人でも飢える者がいようものなら、自分が飢えさしたかのように考えた。
だからこそ三たび我が家の前を素通りする程もの東奔西走の国家事業に取り組んだのだ。
禹と稷と顔回とは、境遇を換えればみな同じ行いを果たしただろう点では全く共通している』
(治世での事業に励むのも、乱世での苦難に耐えるのも、どこまでも世のため人のためである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
顔子は乱世に当たりて、陋巷に居り、一箪の食、一瓢の飲。人は其の憂いに堪えざるも、
顔子は其の楽しみを改めず、孔子も之れを賢とせり(この一文既出)。孟子曰く、
禹、稷、顔回は道を同じくす。禹は天下に溺るる者有らば、由お己れが之れを溺らす
ものと思えり。稷も天下に飢える者有れば、由お己れが之れを飢えしむるものと思えり。
是れを以て是くの如く其れ急げり。禹、稷、顔子は地を易うれば、則ち皆な然らん」
「夏の禹帝や重臣の稷は、徳治の行える治世に当たって、三たび自らの家の前を通っても
その門を潜ることがないほどに働き詰めた。孔先生はその在り方を賢明と認められている。
一方、(孔子の弟子の)顔先生は春秋時代の乱世において、薄汚く狭い路地に住み、一膳
一杯の飲食という質素な生活を貫かれた。常人ならその憂いに耐えることもできないが、
顔先生はそれを楽しむことを改めようともしなかった。孔先生はそのあり方も賢明だと
認められていた。孟先生はこれを評して言われた。『禹、稷、顔回はみなその道を同じく
していた。禹は天下に一人でも洪水に溺れる者がいようものなら、自分が溺れさしたように
考えたし、稷も天下に一人でも飢える者がいようものなら、自分が飢えさしたかのように考えた。
だからこそ三たび我が家の前を素通りする程もの東奔西走の国家事業に取り組んだのだ。
禹と稷と顔回とは、境遇を換えればみな同じ行いを果たしただろう点では全く共通している』
(治世での事業に励むのも、乱世での苦難に耐えるのも、どこまでも世のため人のためである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)

を多数執り行っていたため、そのせいでの旱魃や洪水などの人災が多々巻き起こっていた。
そのため中原全体で見た場合の国力はかえって目減りし、北方における匈奴の侵略を
欲しいままにさせてしまうようなことともなった。秦帝国時代に諸侯の争いによる民の
疲弊という問題は絶やされたが、中原諸国の中でも最も苛烈な虐政をやらかしていた秦
などが統一支配者に躍り出たものだから、今度はその秦による酷烈な使役に人々が苛まれて、
やはり中原全体の国力も停滞したままであり続けた。その秦も滅んで、百姓出身の劉家が
新たな帝位の座に付いてからやっと、人々への十分な休暇の斡旋や、地の利を見越した
着実な灌漑事業などが執り行われるようになったために、中原全体の国力も増大して、
匈奴を圧倒してその使節を朝貢に来させる程もの経緯にすら至ったのだった。
灌漑や治水といえば、夏の禹帝の頃から「君子の事業」として東洋では特別に重んじ
られて来た事業であるわけだけれども、それすらもが我田引水のために濫用されたりした
ならば、かえって全国規模で見た場合の疲弊や国力の低下などが巻き起こってしまったり
もする。そもそもが土木事業自体、農業などを本業とする百姓の手を借りねば成り立たぬ
ものでもあったりするわけだから、田畑を潤すための土木事業に百姓を駆り出しすぎた
結果、かえって農産を滞らせたりするようなことにもなりかねない。治水や灌漑も必ず
しも君子の事業なのではなく、天下国家の公益を真に慮る君子が執り行うことでこそ
碌な成果が挙げられるものだから、君子の事業でこそあるべきだとされているのである。
鄭国の宰相だった子産が水に浸かりながら冬の川を渡っている人を見つけて、自らの船
でその人を渡してやったという逸話を、孟子は「大局を見据えていない所業だ」として
批判した(離婁章句下・二)為政者までもがこのような局所の恵施ばかりに入れ込んで
自己満足しているようでは、天下万人を冬の川を徒歩渡りさせられるような労苦から
解き放ってやることなどは到底覚束ないものだから、孟子も子産の慈善意識を多少は
買ってやりながらも、決して君子に相応しい心がけだなどとまでは認めなかった。言って
みれば子産は「隣人愛」の持ち主でしかなかったわけで、自分の近傍にいる人間への施し
程度までにしか慈愛が働かない人間であったわけだから、そのような人間が時節を見計
らった治水や灌漑によって万人を利してやるようなこともできはしなかったわけである。
(それでも、春秋戦国時代の為政者としてはまだマシなほうだったようではあるが)
子産が冬の川を徒歩渡りする人を見てそれで慈しみを抱いていたりしたのは、本人が
視覚に囚われた人間だったからである。荘子も子産や孔子を、人間を見た目で選り好み
する短絡家として批判的に論じ立てていたりしていて、それでは視覚だけでは捉えきる
ことのできない天下万人への慈しみなどを抱いたりすることもできないままであり続ける
のも確かなことである。伝記では、孔子も確かに最初は弟子を見た目で選り好みするなど
していたようだが、容貌の醜悪な澹台滅明という弟子が非常に貞節な性格の持ち主である
ことに感銘を受けて、人を見た目で判断することを控えるようにもなったという(「史記」
仲尼弟子列伝を参照)。容貌の丹精さだけなら他人種にも秀でている白人のこそが聖書
信仰の下で世界最悪級の悪逆非道の振る舞いを繰り返して来たことからも、視覚がいかに
善悪や仁不仁を欺きがちなものであるのかが知れたものであるわけで、見た目の美醜で
本質の良し悪しを欺かれたりしないためにも、視覚に囚われてものを判断する
ということを仁者を志す者は厳重に控えて行くようにしなければならない。
視覚への囚われを脱却した人間の目は、いい意味で座る。キョロキョロと何もかもを
見尽くそうと瞳が動き回るのでもなければ、何も直視しないでいようとするような虚ろな
目つきでもない、見るべきものだけはしっかりと見て、そうでないものはいちいち見ない
分別を備えた目つきとなる。昔の武士や僧侶あたりはみなそうであったに違いない目つきが、
現代人などにはなかなか見られない。もしもその中に奇特にも仁者がいたりしたならば、ただ
その目を見るだけでもそれと分かるであろう。その目を偽ることだけは、偽善者にもできぬ。
みれば子産は「隣人愛」の持ち主でしかなかったわけで、自分の近傍にいる人間への施し
程度までにしか慈愛が働かない人間であったわけだから、そのような人間が時節を見計
らった治水や灌漑によって万人を利してやるようなこともできはしなかったわけである。
(それでも、春秋戦国時代の為政者としてはまだマシなほうだったようではあるが)
子産が冬の川を徒歩渡りする人を見てそれで慈しみを抱いていたりしたのは、本人が
視覚に囚われた人間だったからである。荘子も子産や孔子を、人間を見た目で選り好み
する短絡家として批判的に論じ立てていたりしていて、それでは視覚だけでは捉えきる
ことのできない天下万人への慈しみなどを抱いたりすることもできないままであり続ける
のも確かなことである。伝記では、孔子も確かに最初は弟子を見た目で選り好みするなど
していたようだが、容貌の醜悪な澹台滅明という弟子が非常に貞節な性格の持ち主である
ことに感銘を受けて、人を見た目で判断することを控えるようにもなったという(「史記」
仲尼弟子列伝を参照)。容貌の丹精さだけなら他人種にも秀でている白人のこそが聖書
信仰の下で世界最悪級の悪逆非道の振る舞いを繰り返して来たことからも、視覚がいかに
善悪や仁不仁を欺きがちなものであるのかが知れたものであるわけで、見た目の美醜で
本質の良し悪しを欺かれたりしないためにも、視覚に囚われてものを判断する
ということを仁者を志す者は厳重に控えて行くようにしなければならない。
視覚への囚われを脱却した人間の目は、いい意味で座る。キョロキョロと何もかもを
見尽くそうと瞳が動き回るのでもなければ、何も直視しないでいようとするような虚ろな
目つきでもない、見るべきものだけはしっかりと見て、そうでないものはいちいち見ない
分別を備えた目つきとなる。昔の武士や僧侶あたりはみなそうであったに違いない目つきが、
現代人などにはなかなか見られない。もしもその中に奇特にも仁者がいたりしたならば、ただ
その目を見るだけでもそれと分かるであろう。その目を偽ることだけは、偽善者にもできぬ。
「子曰く、鳳鳥至らず、河は図を出ださず、吾れ已んぬるかな」
「先生は言われた。『(聖天子の出現の瑞祥である)鳳凰も現れないし、
黄河の河図も出てこない。私ももうおしまいだねえ』(聖天子は河図と共に現れて、
万人への利水の礎となるのである。我田引水の徒輩が横行する乱世ではそれも叶わない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・九より)
「先生は言われた。『(聖天子の出現の瑞祥である)鳳凰も現れないし、
黄河の河図も出てこない。私ももうおしまいだねえ』(聖天子は河図と共に現れて、
万人への利水の礎となるのである。我田引水の徒輩が横行する乱世ではそれも叶わない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・九より)
善因楽果にしろ悪因苦果にしろ、因果応報は自業自得の原則に則るのが健全であり、また
真理にも適っている。つまり、因果応報が完全に自業自得であることこそが普遍法則で
ある。部分的や一時的に自業自得でないかのように見せかけられる因果関係があった所で、
結局は自業自得である所に全ての因果関係が集約されて行くことには変わりないのである。
故に、真理を虚空とする仏門こそが、そこに神なり霊なりの具体的な事物を見立てる
神門などよりもさらに絶対的なものとして尊崇の対象とするに値もする。無論、神道
もまた因果応報を司る健全な神を崇め立てていたりもするものなので、そのような神を
敬うことを通じて、自業自得を根本とする健全な因果律をも間接的に尊ぶことができるわけ
だけれども、因果を司る具体的な神が存在するという考え方が、時には自業自得の因果律
を非とする邪神の定立などにも繋がりかねないので、神道への傾倒こそは、仏門以上にも
正統性を厳守したものだけに限らなければならない所がある。(虚空の真理そのものへと
傾倒して行く宗門だからこそ、仏門では浄土信仰並みの曲芸的帰依が可能なのでもある)
神道で敬われるべき神もまた、自業自得の因果律を純正に司る正統な神に限られねば
ならないのと同じように、社会的な犯罪行為などに対して懲罰を科す役割を担う有司など
もまた、自らの執り行う懲罰が完全に受刑者自身の自業自得の範囲に止まることを目指して
行かなければならない。自業自得と比べれば過不足のある重罰や軽罰をなるべく避けて、
ただ自らは受刑者自身の自業自得を助成する事務役に徹して行くようにすべきだといえる。
罪と罰が自業自得の因果律を大きく逸脱することがありかねないものだから、実定法で全ての
刑罰すらをも杓子定規に規定してしまう法治主義が時に問題的なものともなる。情状酌量や
判例の参考などである程度は刑事の裁量に融通を利かせることができるが、実定法はあくまで
最小限のものとして、自己修養を勤めた君子による自業自得相当の罰の見定めをより尊重の
対象としていた徳治社会における刑事などと比べれば、色々と頑迷に過ぎる所があるといえる。
真理にも適っている。つまり、因果応報が完全に自業自得であることこそが普遍法則で
ある。部分的や一時的に自業自得でないかのように見せかけられる因果関係があった所で、
結局は自業自得である所に全ての因果関係が集約されて行くことには変わりないのである。
故に、真理を虚空とする仏門こそが、そこに神なり霊なりの具体的な事物を見立てる
神門などよりもさらに絶対的なものとして尊崇の対象とするに値もする。無論、神道
もまた因果応報を司る健全な神を崇め立てていたりもするものなので、そのような神を
敬うことを通じて、自業自得を根本とする健全な因果律をも間接的に尊ぶことができるわけ
だけれども、因果を司る具体的な神が存在するという考え方が、時には自業自得の因果律
を非とする邪神の定立などにも繋がりかねないので、神道への傾倒こそは、仏門以上にも
正統性を厳守したものだけに限らなければならない所がある。(虚空の真理そのものへと
傾倒して行く宗門だからこそ、仏門では浄土信仰並みの曲芸的帰依が可能なのでもある)
神道で敬われるべき神もまた、自業自得の因果律を純正に司る正統な神に限られねば
ならないのと同じように、社会的な犯罪行為などに対して懲罰を科す役割を担う有司など
もまた、自らの執り行う懲罰が完全に受刑者自身の自業自得の範囲に止まることを目指して
行かなければならない。自業自得と比べれば過不足のある重罰や軽罰をなるべく避けて、
ただ自らは受刑者自身の自業自得を助成する事務役に徹して行くようにすべきだといえる。
罪と罰が自業自得の因果律を大きく逸脱することがありかねないものだから、実定法で全ての
刑罰すらをも杓子定規に規定してしまう法治主義が時に問題的なものともなる。情状酌量や
判例の参考などである程度は刑事の裁量に融通を利かせることができるが、実定法はあくまで
最小限のものとして、自己修養を勤めた君子による自業自得相当の罰の見定めをより尊重の
対象としていた徳治社会における刑事などと比べれば、色々と頑迷に過ぎる所があるといえる。
何よりも、法治主義は人々に自業自得の因果律の健全性を見失わせかねない点がこそ問題的
だといえる。極論を言えば、法文に「強盗殺人をしなければ死刑」と書かれていれば、それ
も守らなければならないとするのが法治主義なわけで(悪法も法なり)、全ての因果律が
法文で規定されているが故に、人々が自明な因果律への配慮を怠ることが、最悪そのような
悪法ばかりによる世の中への雁字搦めの挙げ句の荒廃や破綻をも招くこととなってしまう。
そういうことがないようにして行くためには、法律ばかりに全ての因果律を
司どらせようとする精神的怠惰に人々が陥らないようにすると共に、自業自得の
健全な因果律こそを自主的なわきまえの対象とさせても行く必要がある。そのため
には、健全な因果律を司る正統な神仏への崇敬を心がけて行くようにもしたほうがよい。
本格の仏門も絶やされて、神道も慣習程度のものにまで形骸化してしまった現代の日本に
おいてこそ、自力で因果律を計り知ることもできなければ、あえてそうしようともしないよう
な怠慢に陥ってしまっている人間ばかりが溢れ返ることともなってしまった。全ては法律任せ、
日々法文の積み重ねに躍起になっている政府や自治体任せで、自分たちはそこで決められた
範囲内のことだけをやるという、畜人然とした人間ばかりで世の中が形成されることとなった。
それで済むのならともかく、実際に済みもしない。責任を持って因果律を判別しようとする
人間がどこにもいなくなった世の中は、誰が気づくということもない内に急に破綻し、まるで
屠殺場に送られた家畜のようにして、人々も急激な惨劇の到来に往生させられることとなる。
純正な因果律を顛倒して認識してしまうことと、因果律などにわざわざ配慮を働かせも
しなくなることとの二つが両輪となって、人々を全くの心外な悲劇へと時に陥らせる。その
ようなことがないようにするために、純正な因果律を司る正統な神仏を尊ぶことが、実定法を
金科玉条として至上化したりすることよりも世人にとってより重要なこととなり得るのである。
だといえる。極論を言えば、法文に「強盗殺人をしなければ死刑」と書かれていれば、それ
も守らなければならないとするのが法治主義なわけで(悪法も法なり)、全ての因果律が
法文で規定されているが故に、人々が自明な因果律への配慮を怠ることが、最悪そのような
悪法ばかりによる世の中への雁字搦めの挙げ句の荒廃や破綻をも招くこととなってしまう。
そういうことがないようにして行くためには、法律ばかりに全ての因果律を
司どらせようとする精神的怠惰に人々が陥らないようにすると共に、自業自得の
健全な因果律こそを自主的なわきまえの対象とさせても行く必要がある。そのため
には、健全な因果律を司る正統な神仏への崇敬を心がけて行くようにもしたほうがよい。
本格の仏門も絶やされて、神道も慣習程度のものにまで形骸化してしまった現代の日本に
おいてこそ、自力で因果律を計り知ることもできなければ、あえてそうしようともしないよう
な怠慢に陥ってしまっている人間ばかりが溢れ返ることともなってしまった。全ては法律任せ、
日々法文の積み重ねに躍起になっている政府や自治体任せで、自分たちはそこで決められた
範囲内のことだけをやるという、畜人然とした人間ばかりで世の中が形成されることとなった。
それで済むのならともかく、実際に済みもしない。責任を持って因果律を判別しようとする
人間がどこにもいなくなった世の中は、誰が気づくということもない内に急に破綻し、まるで
屠殺場に送られた家畜のようにして、人々も急激な惨劇の到来に往生させられることとなる。
純正な因果律を顛倒して認識してしまうことと、因果律などにわざわざ配慮を働かせも
しなくなることとの二つが両輪となって、人々を全くの心外な悲劇へと時に陥らせる。その
ようなことがないようにするために、純正な因果律を司る正統な神仏を尊ぶことが、実定法を
金科玉条として至上化したりすることよりも世人にとってより重要なこととなり得るのである。
「報者は倦むも、施者は未だ厭きず。〜女徳極まりなし(この一文既出)」
「報いてやる側がこれで十分と思っても、施された側はまだまだ足りないと思ってしまうのが
人情というもの。特に女の情欲には限りがない(ので、甘やかしすぎないことも時に必要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年より)
「報いてやる側がこれで十分と思っても、施された側はまだまだ足りないと思ってしまうのが
人情というもの。特に女の情欲には限りがない(ので、甘やかしすぎないことも時に必要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年より)
イスラム教ニザール派の暗殺教団が、大麻を服用しながら非道な暗殺活動を
行っていたこともまた一種の心術であったという程度には、カルト信者が
邪信によって蒙昧さや悪行が原因での苦悩を紛らわしたりすることもまた、
一種の心術だといえる。大麻が必ずしも健康被害を招くわけでもないように、
カルト信仰が即座に信者の身を滅ぼすことになるとも限らない。ただ、そんな
ものを頼りにしていない場合と比べれば、本人たちの生産性や徳性が著しく
損なわれることともなるために、あまりにもそのような人間が増えすぎれば
国家規模や世界規模での破綻を招くことになることこそが問題となるのである。
カルトがカルトたる所以は、信者の生産性や徳性が全くの無信仰者以上に
損なわれる所にこそある。宗教というほどの宗教もない土人社会だった
ブラックアフリカにキリスト教が持ち込まれた結果として、当地が未開だった
頃以上にも飢餓や戦乱や疫病の蔓延る地域と化してしまったのも、キリスト教
が信者の生産性や徳性を土人状態以上にも損ねるものであったからでこそある。
土人社会も生産性などは皆無に等しかったわけだから、人々の徳性を損ねる点に
おいてこそカルト信仰はより致命的な害悪度を帯びているといえ、その面での
有害無益さたるや、原始的な土人社会の習俗すらをも下回るものなのだといえる。
カルトがそれ程にも信者の徳性や生産性を損ねるのは、信者に「施す以上にも得る」
性向を飢え付けてしまうからである。その手段は主に信者の自意識過剰の思い上がり
の肥大化であるわけで、その結果として自分が人に何かを施す以上にも、自分が人
から何かを得ることのほうが優先されて当然であるかのような思考回路と化してしまう。
行っていたこともまた一種の心術であったという程度には、カルト信者が
邪信によって蒙昧さや悪行が原因での苦悩を紛らわしたりすることもまた、
一種の心術だといえる。大麻が必ずしも健康被害を招くわけでもないように、
カルト信仰が即座に信者の身を滅ぼすことになるとも限らない。ただ、そんな
ものを頼りにしていない場合と比べれば、本人たちの生産性や徳性が著しく
損なわれることともなるために、あまりにもそのような人間が増えすぎれば
国家規模や世界規模での破綻を招くことになることこそが問題となるのである。
カルトがカルトたる所以は、信者の生産性や徳性が全くの無信仰者以上に
損なわれる所にこそある。宗教というほどの宗教もない土人社会だった
ブラックアフリカにキリスト教が持ち込まれた結果として、当地が未開だった
頃以上にも飢餓や戦乱や疫病の蔓延る地域と化してしまったのも、キリスト教
が信者の生産性や徳性を土人状態以上にも損ねるものであったからでこそある。
土人社会も生産性などは皆無に等しかったわけだから、人々の徳性を損ねる点に
おいてこそカルト信仰はより致命的な害悪度を帯びているといえ、その面での
有害無益さたるや、原始的な土人社会の習俗すらをも下回るものなのだといえる。
カルトがそれ程にも信者の徳性や生産性を損ねるのは、信者に「施す以上にも得る」
性向を飢え付けてしまうからである。その手段は主に信者の自意識過剰の思い上がり
の肥大化であるわけで、その結果として自分が人に何かを施す以上にも、自分が人
から何かを得ることのほうが優先されて当然であるかのような思考回路と化してしまう。
それは別にカルト信仰に依らずともとも、その手の思考回路に陥りがちな商売人や女を、
資本主義やフェミニズムによって囃し立てたりすることなどでも可能となることであり、
近代以降の世界はむしろそのような無宗教的な手段によって人々の思い上がりを肥大化
させることで徳性や生産性を損なわせることのほうがより推進されて来た。ただ、その
ような無宗教的な手段に基づく人々の人間性の損壊が試みられてきたのも、やはり
カルト的な思想信条を源流とする気概が近現代の権力者にあったからなのだから、
そのような試みの最高責任もまたカルト信仰にこそ集約されねばならないといえる。
カルト信仰は「施す以上にも得る」性向を信者に植え付ける一方で、真っ当な信教は
信者の「得る以上にも施す」性向を育んで行く。そのために信者の思い上がりを挫いて、
まず他者を思いやろうとする寛恕の心や謙虚さこそを旺盛なものたらしめようとする。
とんでもなく施しの分量が得る分量よりも多いというよりは、常日頃から一定以上に
人々が利得よりも恵施を優先し続けることこそを促して行く。誰しもがそのようであれば、
天下の公益も必ず有り余る状態でいられるわけなので、得ることは得ることでそれなりに
あるとしながらも、多少程度にはそれ以上の恵施を心がけて行くようにさせるわけである。
施す以上にも得ようとする思い上がった性向が、無宗教的な手段によって人々に
植えつけられることもまたあるようにして、得る以上に施そうとする謙虚な性向も
また無信仰的な手段によって育んで行くことができる。それこそは儒学のような、
仁徳を本旨とする学問文化の奨励であるわけで、実際にそれを通じて、恵施の優先が
必要とされる士人や農夫などを尊重するなどして行けば、世の中が総出で公益の増進に
務めて行けるようにもなる。ただでさえ自然災害などで天下の公益も損なわれがち
であるのに、さらに人間たち自身までもが自己利益ばかりを優先していれば、世の中が
立ち行かなくなるのも当たり前のことであるのだから、利他を尊ぶ思想信条の教化によって
人々に恵施の優先を心がけさせるぐらいでやっと、世の中も保たれて行くものなのである。
資本主義やフェミニズムによって囃し立てたりすることなどでも可能となることであり、
近代以降の世界はむしろそのような無宗教的な手段によって人々の思い上がりを肥大化
させることで徳性や生産性を損なわせることのほうがより推進されて来た。ただ、その
ような無宗教的な手段に基づく人々の人間性の損壊が試みられてきたのも、やはり
カルト的な思想信条を源流とする気概が近現代の権力者にあったからなのだから、
そのような試みの最高責任もまたカルト信仰にこそ集約されねばならないといえる。
カルト信仰は「施す以上にも得る」性向を信者に植え付ける一方で、真っ当な信教は
信者の「得る以上にも施す」性向を育んで行く。そのために信者の思い上がりを挫いて、
まず他者を思いやろうとする寛恕の心や謙虚さこそを旺盛なものたらしめようとする。
とんでもなく施しの分量が得る分量よりも多いというよりは、常日頃から一定以上に
人々が利得よりも恵施を優先し続けることこそを促して行く。誰しもがそのようであれば、
天下の公益も必ず有り余る状態でいられるわけなので、得ることは得ることでそれなりに
あるとしながらも、多少程度にはそれ以上の恵施を心がけて行くようにさせるわけである。
施す以上にも得ようとする思い上がった性向が、無宗教的な手段によって人々に
植えつけられることもまたあるようにして、得る以上に施そうとする謙虚な性向も
また無信仰的な手段によって育んで行くことができる。それこそは儒学のような、
仁徳を本旨とする学問文化の奨励であるわけで、実際にそれを通じて、恵施の優先が
必要とされる士人や農夫などを尊重するなどして行けば、世の中が総出で公益の増進に
務めて行けるようにもなる。ただでさえ自然災害などで天下の公益も損なわれがち
であるのに、さらに人間たち自身までもが自己利益ばかりを優先していれば、世の中が
立ち行かなくなるのも当たり前のことであるのだから、利他を尊ぶ思想信条の教化によって
人々に恵施の優先を心がけさせるぐらいでやっと、世の中も保たれて行くものなのである。
一定度以上に大規模な都市社会は、実際にある種の体系的な思想信条によって司られる
のでなければ保全のしようもないということが確かに言える。そこで上に書いたような
意味での、利得以上に恵施を推奨する真っ当な思想信条に世の中を司どらせることが
課題となって行くわけで、当然そのために利得ばかりを囃し立てるような邪教邪学を
権威の座から引き摺り下ろすことが必要ともなる。邪教邪学の側もまたあの手この手を
尽くして破綻をどうにか切り抜けようなどとするものだから、必ずしも見てくれから
有害無益さがあからさまであるとも限らないが、やはりどこかで必ず世の中を破綻に
追いやってしまうこととなる。その瞬間をよく大事にして、世の中の教化にかけての
破邪顕正のための教訓として行くようにすることが、歴史家などにとっての課題ともなる。
「雪ふること瀌瀌たるも、晛を見れば曰に消える。
下り遺うを肯んずる莫く、式れ居りては婁しば驕る。
雪ふること浮浮たるも、晛を見れば曰に流える。
蠻の如く髦の如し、我れ是れを用て憂いとす」
「雪がひょうひょうと降り積もっても、陽の目を見れば溶けて消え行く。その儚さを
計り知ることもなしに、讒人どもは奢り高ぶりを募らせている。雪がフカフカと降り
積もっても、陽の目を見れば溶けて流れ行く。その儚さを汲み取ろうともせぬ蛮族の
如き振る舞いこそは、私などにとっての憂いともなる。(キリスト教徒なども自らの
罪悪感が信仰によって氷解して自らから流れ出るような感覚に見舞われるようだ
けれども、そのような罪悪の積雪や氷解全般を憂いとして忌むのが君子なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・角弓より)
のでなければ保全のしようもないということが確かに言える。そこで上に書いたような
意味での、利得以上に恵施を推奨する真っ当な思想信条に世の中を司どらせることが
課題となって行くわけで、当然そのために利得ばかりを囃し立てるような邪教邪学を
権威の座から引き摺り下ろすことが必要ともなる。邪教邪学の側もまたあの手この手を
尽くして破綻をどうにか切り抜けようなどとするものだから、必ずしも見てくれから
有害無益さがあからさまであるとも限らないが、やはりどこかで必ず世の中を破綻に
追いやってしまうこととなる。その瞬間をよく大事にして、世の中の教化にかけての
破邪顕正のための教訓として行くようにすることが、歴史家などにとっての課題ともなる。
「雪ふること瀌瀌たるも、晛を見れば曰に消える。
下り遺うを肯んずる莫く、式れ居りては婁しば驕る。
雪ふること浮浮たるも、晛を見れば曰に流える。
蠻の如く髦の如し、我れ是れを用て憂いとす」
「雪がひょうひょうと降り積もっても、陽の目を見れば溶けて消え行く。その儚さを
計り知ることもなしに、讒人どもは奢り高ぶりを募らせている。雪がフカフカと降り
積もっても、陽の目を見れば溶けて流れ行く。その儚さを汲み取ろうともせぬ蛮族の
如き振る舞いこそは、私などにとっての憂いともなる。(キリスト教徒なども自らの
罪悪感が信仰によって氷解して自らから流れ出るような感覚に見舞われるようだ
けれども、そのような罪悪の積雪や氷解全般を憂いとして忌むのが君子なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・角弓より)
人間には、個々人としての自己意識の他に、群れを成した時に漠然と形成される
集団意志としての意識が先天的に備わっている。近代の心理学ではそれを「無意識」
だとか「超意識系」だとかいった風に呼んでいたりするが、それはそれで社会的生物
としての人間に備わっている健全な意識系である。ただ、世の中を統率する人間が
愚鈍であったり、そもそも民主主義などで全体の統率者の権限を殺いでしまったり
した場合には、集団意思が蒙昧と化してしまい、まるで震災時に集団で海に飛び込
んで自殺してしまうネズミほどにも狂乱化してしまうことがあるのが問題なのである。
古来から、蒙昧化しやすい集団意志をいかに健全なものとしていくのかを東洋人は
考え抜いて来た。聖王賢臣や儒者による権力道徳学の情勢やその実践もその代表例
であるし、個々人による真理の悟りを奨励して来た仏教もまた、結局は受容者たち
が超意識系たる集団意志すらをも我が物として自在に統御できるようになることを
促して来たものである。そのため、仏教や儒学を国を挙げて受容して来た日本の
ような国はその集団意志からよく統制されて、震災時や経済危機時などにも暴動に
走ったりするような人間を最小限に食い止めて行くことができて来ているのである。
集団意志は、十分な統御を受けた所でこそ平静さ故の清清しさを人々にもたらすもの
でもあるが、逆にあらゆる制御を振り切った狂乱状態と化した所でも、ある種の快楽
を人々にもたらすものである。西洋などでは、むしろ狂乱化した集団意志の快楽を存分
に煽ってやることこそが古代ローマの頃からの風習とされていて、実際にそのための
道具としてギリシャ学や聖書信仰などを民衆支配のための道具ともして来たのである。
集団意志としての意識が先天的に備わっている。近代の心理学ではそれを「無意識」
だとか「超意識系」だとかいった風に呼んでいたりするが、それはそれで社会的生物
としての人間に備わっている健全な意識系である。ただ、世の中を統率する人間が
愚鈍であったり、そもそも民主主義などで全体の統率者の権限を殺いでしまったり
した場合には、集団意思が蒙昧と化してしまい、まるで震災時に集団で海に飛び込
んで自殺してしまうネズミほどにも狂乱化してしまうことがあるのが問題なのである。
古来から、蒙昧化しやすい集団意志をいかに健全なものとしていくのかを東洋人は
考え抜いて来た。聖王賢臣や儒者による権力道徳学の情勢やその実践もその代表例
であるし、個々人による真理の悟りを奨励して来た仏教もまた、結局は受容者たち
が超意識系たる集団意志すらをも我が物として自在に統御できるようになることを
促して来たものである。そのため、仏教や儒学を国を挙げて受容して来た日本の
ような国はその集団意志からよく統制されて、震災時や経済危機時などにも暴動に
走ったりするような人間を最小限に食い止めて行くことができて来ているのである。
集団意志は、十分な統御を受けた所でこそ平静さ故の清清しさを人々にもたらすもの
でもあるが、逆にあらゆる制御を振り切った狂乱状態と化した所でも、ある種の快楽
を人々にもたらすものである。西洋などでは、むしろ狂乱化した集団意志の快楽を存分
に煽ってやることこそが古代ローマの頃からの風習とされていて、実際にそのための
道具としてギリシャ学や聖書信仰などを民衆支配のための道具ともして来たのである。

代表格の人間といえば孔子であるし、逆にその最低限度の集団意思の統制すらをも
致命的に損壊することを企図した代表格にあたる人間がイエスであるといえる。釈迦
や竜樹を始めとする仏者は、より積極的な泰平社会の実現のための集団意思の統御を
志していたし、ギリシャの思想哲学者や詩人などは、逆により極端な狂乱状態の実現
を欲していた所がある。ただ、いずれも儒学や聖書信仰ほどにも、集団意思が最低
限度の統制を受けるか否かの境界線を司る役割までは帯びなかったために、社会を
実地的に司る役割は儒学や聖書信仰のほうに明け渡すことが多かったのである。
儒学や仏教によって人々が統治されて来た東洋社会では、人々の集団意思が最低限
以上に統御されて来た一方で、聖書信仰や洋学に支配されて来た西洋社会においては、
人々の集団意思が多少なりともの統御を受けることもなく、また自然状態以上にも
人工的に狂乱化させられることすらもが試みられて来た。西洋人による国際的横暴が
極まった近代以降は全世界規模での狂乱化すらもが試みられたが、そのせいで人口爆発
や環境破壊や核危機や経済危機といった破滅的事態を招いてしまったし、またそもそも
狂乱状態の集団意思というものが、平静な集団意思と比べて全く以ってつまらないもの
でもあるから、古来から厳重な集団意思の平静化が執り行われて来た日本人などに対
していくら洗脳操作を試みても、一定以上の狂乱化が見込めないということもあった。
集団意思の狂乱化は、それが人々をより楽しませられるものと思い込まれていた
うちはまだ推進のしようがあったが、集団意思を平静化するのと比べて根本的に
つまらないことであるのが気づかれて後は、もはや狂乱化の主導者であった西洋人と
いえども、その手の試みを自粛させて行かざるを得なくなった。もしも孔子とイエス
が同一の場に居たりしたならば、その教説の正当性だけでなく、本質的な面白さの面
でもイエスが孔子に完全撃退されざるを得ないのだということが知られたものだから、
もはやあえて集団意思を狂乱化させたりする何らの道理もありはしないこととなった。
集団意思が狂乱化するよりは平静であるほうが真っ当であるということは、多少考えて
みれば誰にでも理解できることである。それ以上にも、そこでの狂乱による快楽などを
求めたりしないほうがむしろ本質的に楽しくもあるということまでもが気づかれた
ことこそは意義のあることだといえる。人々の狂乱を煽ることばかりに執心している
大メディアへの支持などは尻すぼみになって、自分でよく考えて情報を取り扱うネット
上への草の根的な参加のほうが若者などに好まれて来ているのもよい傾向だといえる。
人口爆発や環境破壊に代表される現代世界の破滅の危機からの脱却のためには資本主義
の終了が必須であり、そのためには株式経済の限界の露呈としての株価の暴落までもが
便宜として必要となるのにも違いないが、それも無闇な狂乱などと共に到来すべきだ
などということはない。ただシステムの限界ゆえの破綻を誰しもが冷静に見守って、
一時代の終了に相応の出処進退へと粛々と取り組んでいくようにするに越したことも
ないのである。何しろ、狂乱の鼓舞を第一とする時代こそが、終わりを迎えるのだから。
「今、大道既に隠れ、〜貨力は己れの為めにす」
「いま、天下では大道がすでに隠れてしまっているため、
財貨や力も自分のために用いることばかりが当たり前とされてしまっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
みれば誰にでも理解できることである。それ以上にも、そこでの狂乱による快楽などを
求めたりしないほうがむしろ本質的に楽しくもあるということまでもが気づかれた
ことこそは意義のあることだといえる。人々の狂乱を煽ることばかりに執心している
大メディアへの支持などは尻すぼみになって、自分でよく考えて情報を取り扱うネット
上への草の根的な参加のほうが若者などに好まれて来ているのもよい傾向だといえる。
人口爆発や環境破壊に代表される現代世界の破滅の危機からの脱却のためには資本主義
の終了が必須であり、そのためには株式経済の限界の露呈としての株価の暴落までもが
便宜として必要となるのにも違いないが、それも無闇な狂乱などと共に到来すべきだ
などということはない。ただシステムの限界ゆえの破綻を誰しもが冷静に見守って、
一時代の終了に相応の出処進退へと粛々と取り組んでいくようにするに越したことも
ないのである。何しろ、狂乱の鼓舞を第一とする時代こそが、終わりを迎えるのだから。
「今、大道既に隠れ、〜貨力は己れの為めにす」
「いま、天下では大道がすでに隠れてしまっているため、
財貨や力も自分のために用いることばかりが当たり前とされてしまっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

蒸発物なりであるわけだから、もしも人間を含む生命体がより普遍的なものとしての
宇宙に合致しようとするのなら、まだ死んで灰となる以前からそのような無機的な
事物への尊重すらをも心がけられたほうがよい。石仏や墓石をありのままに崇拝の
対象とする仏門などはまさにそれを実践しているわけで、存命中の血肉を
得た状態の人間もあくまで仮の姿に過ぎないものであることを。九相図の
観想ような手段までをも時に用いて教化して行こうとする。
そこまで透徹せずとも、この地球上の有機的な自然物の一定度の普遍性への合致を
心がけることで、限りある命の持ち主としての自らが満足な生を送れることもある。
その場合に依拠の対象として適切な物質となるのが、水とか、塩とか、鉄とかである。
生命の維持のために特に必須となるのがこれらの物質であり、なおかつこれらの
物質こそは安定してこの地球に遍在し続けるものである。水と塩が海として膨大に
湛えられているのはもちろんのこと、鉄もまたこの地球という惑星の35%を構成
する程にも豊富な物質である。脊椎動物の血肉が赤いのもヘモグロビンの
中心部に鉄分が含有しているからであり、そのヘモグロビンが出血などで
一定度以上に損なわれた場合にこそ、生物もあっという間に死んでしまう。
生物の肉体を構成しているのは別に水分や鉄分だけではないが、その他の
構成物であるたんぱく質や脂肪分や炭水化物などは有機化合物であるため、燃焼
すれば分解して灰と化す、まさに一過性の構成物の最たるものである。その灰も灰で
仏門などではそれなりの尊重の対象とされるが、全宇宙とまでは行かずに、この地球上の
自然の普遍性程度に親しもうとする場合には「穢れ」などとして忌まれるべきものとなる。
だから、鉄分のおかげで赤いのであるといえども、不安定な組成を持つたんぱく質や
脂肪によって主に構成されている血肉などを好き好むことも儚いことの内に入るのである。
自然生命の地球上での普遍性を尊ぶために、先祖や国の神に塩や水を捧げて、
神体に鋼鉄製の刀を用いたり、宝刀を代々継承して行ったりすることは、それなりに
理にかなっている。家や国が絶えるなどすればそこで普遍性も損なわれるわけだが、
別に原理的にその寿命が限られているなどということはない。フラッシュメモリーの
書き込み回数やデータ保持期間には原理的な寿命があるが、紙に書かれた先祖の系図や
伝家の宝刀などに原理的な寿命はないようにして(もちろん入念な管理は必要である)、
次代を継ぐものの努力次第でどこまででも普遍性を伸長し続けて行くことができる。
石灰すらをも宇宙の普遍性に合致するものとして尊べるものは、仏門などに即して
そうするに越したことはないし、そこまでは行けない人間であっても、この地球社会を
構成する普遍物としての塩鉄や水などへの尊重と共なる神道的慎ましやかさである
ほうがよい。血肉を構成している有機化合物を含む不安定要素の七色変化こそを
面白がって何よりの祭り上げの対象としたりすることだけは控えるべきであり、
それを控えるためにこそ仏神への崇敬をあらたなものともして行くべきである。
近代文明が化学の濫用によって致命的な地球環境の破壊を来たしつつある昨今、
血肉に代表される不安定要素への嬉しがりを控えることは急務ともなっている。
「喪に疾有れば、肉を食い酒を飲む」
「服喪中でも病にかかれば、滋養のために肉を食い、酒を飲む。
(他にも、老人の肉食を推奨する記述などが礼記にはある。生命力の衰えた人間こそは
肉の滋養にすら頼らざるを得ない。粗食こそは健康の源などとも言われるとおり、むしろ
血肉の誘惑を忌み避けられる人間こそはより生命力を養えるということもあるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
「漸漸たる石、維れ其れ卒しき。山川悠遠にして、
曷ぞ其れ没きん。武人東征して、出づるに遑あらず」
「厳しいその石は、険しさも甚だしい。その周囲の山川も悠遠にして尽きることがない。
武人たちも東征に奔走して暇のあることがない(武将を石に、その配下を山川に喩えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・漸漸之石より)
神体に鋼鉄製の刀を用いたり、宝刀を代々継承して行ったりすることは、それなりに
理にかなっている。家や国が絶えるなどすればそこで普遍性も損なわれるわけだが、
別に原理的にその寿命が限られているなどということはない。フラッシュメモリーの
書き込み回数やデータ保持期間には原理的な寿命があるが、紙に書かれた先祖の系図や
伝家の宝刀などに原理的な寿命はないようにして(もちろん入念な管理は必要である)、
次代を継ぐものの努力次第でどこまででも普遍性を伸長し続けて行くことができる。
石灰すらをも宇宙の普遍性に合致するものとして尊べるものは、仏門などに即して
そうするに越したことはないし、そこまでは行けない人間であっても、この地球社会を
構成する普遍物としての塩鉄や水などへの尊重と共なる神道的慎ましやかさである
ほうがよい。血肉を構成している有機化合物を含む不安定要素の七色変化こそを
面白がって何よりの祭り上げの対象としたりすることだけは控えるべきであり、
それを控えるためにこそ仏神への崇敬をあらたなものともして行くべきである。
近代文明が化学の濫用によって致命的な地球環境の破壊を来たしつつある昨今、
血肉に代表される不安定要素への嬉しがりを控えることは急務ともなっている。
「喪に疾有れば、肉を食い酒を飲む」
「服喪中でも病にかかれば、滋養のために肉を食い、酒を飲む。
(他にも、老人の肉食を推奨する記述などが礼記にはある。生命力の衰えた人間こそは
肉の滋養にすら頼らざるを得ない。粗食こそは健康の源などとも言われるとおり、むしろ
血肉の誘惑を忌み避けられる人間こそはより生命力を養えるということもあるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
「漸漸たる石、維れ其れ卒しき。山川悠遠にして、
曷ぞ其れ没きん。武人東征して、出づるに遑あらず」
「厳しいその石は、険しさも甚だしい。その周囲の山川も悠遠にして尽きることがない。
武人たちも東征に奔走して暇のあることがない(武将を石に、その配下を山川に喩えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・漸漸之石より)
何か守るべきものがあって、なおかつそれが守るべきものとして道義的に適正であるのが
人道にかなった真人間というものである。何一つとして守るべきものがないのも人の道に
外れるし、守ろうとするものが人の道を外れているのもその通りである。現実的には、
由緒正しい真っ当な家や国を守り受け継いで行くことが凡その人道にかなう一方で、
それに反してまで個人的な虚栄を追い求めたりすることが人道に反することとなる。
だから人道を司る儒家こそは君臣父子夫婦の三綱の序列の堅持や、そのための仁義礼智信
といった個人的徳目の実践を奨励してもいるわけだが、その儒家教学の遵守ばかりに専らで
あり続けて来た中国や朝鮮のような国々が、世界で最良の歴史を歩み続けて来たなどとも
言い難い。孔子や孟子といった原始の儒者が武道を嗜んでいなかったことなどを根拠に、
国を挙げて武備を軽んじたせいでの異民族からの致命的な侵略を被ったり、人道以上に高尚
なものとしての神仏の道への尊崇を形骸化させたせいでの文化荒廃を招くなどしてしまった。
これは、中正な常道の堅持ばかりに専らでいれば、風化が原因での荒廃や破綻を来して
しまう、この世界この宇宙の根本法則があったればこそ呈してしまったことでもある。
今だとエントロピー増大則という物理法則によって理論的に看破されていることだし、
そうでなくとも、諸行無常や天人五衰や「覆水盆に返らず」などといった言葉で昔から
多くの人々に予見されていたことでもある。だから、それを見越して人道を上回る仏神の
域までをも希求して行くことが、より恒久的な普遍性の追求ともなって行くわけだけれども、
人道を司る儒家の教学だけを見てみれば、その手の試みの参考になるような材料は非常に
少ない。孔子も「鬼神を敬してこれを遠ざく」と言ったし、孟子も「中正の堅持ばかりが
中庸のためになるとも限らない」と言いながらも、ではいかなるあり方こそが最大級に
中庸に利するのかという具体例まではあまりつまびらかにしていない。それは、本人たちが
妾腹の私生児や乱世の遊説家といった特殊な立場に置かれていたからこその不足であるし、
人道にかなった真人間というものである。何一つとして守るべきものがないのも人の道に
外れるし、守ろうとするものが人の道を外れているのもその通りである。現実的には、
由緒正しい真っ当な家や国を守り受け継いで行くことが凡その人道にかなう一方で、
それに反してまで個人的な虚栄を追い求めたりすることが人道に反することとなる。
だから人道を司る儒家こそは君臣父子夫婦の三綱の序列の堅持や、そのための仁義礼智信
といった個人的徳目の実践を奨励してもいるわけだが、その儒家教学の遵守ばかりに専らで
あり続けて来た中国や朝鮮のような国々が、世界で最良の歴史を歩み続けて来たなどとも
言い難い。孔子や孟子といった原始の儒者が武道を嗜んでいなかったことなどを根拠に、
国を挙げて武備を軽んじたせいでの異民族からの致命的な侵略を被ったり、人道以上に高尚
なものとしての神仏の道への尊崇を形骸化させたせいでの文化荒廃を招くなどしてしまった。
これは、中正な常道の堅持ばかりに専らでいれば、風化が原因での荒廃や破綻を来して
しまう、この世界この宇宙の根本法則があったればこそ呈してしまったことでもある。
今だとエントロピー増大則という物理法則によって理論的に看破されていることだし、
そうでなくとも、諸行無常や天人五衰や「覆水盆に返らず」などといった言葉で昔から
多くの人々に予見されていたことでもある。だから、それを見越して人道を上回る仏神の
域までをも希求して行くことが、より恒久的な普遍性の追求ともなって行くわけだけれども、
人道を司る儒家の教学だけを見てみれば、その手の試みの参考になるような材料は非常に
少ない。孔子も「鬼神を敬してこれを遠ざく」と言ったし、孟子も「中正の堅持ばかりが
中庸のためになるとも限らない」と言いながらも、ではいかなるあり方こそが最大級に
中庸に利するのかという具体例まではあまりつまびらかにしていない。それは、本人たちが
妾腹の私生児や乱世の遊説家といった特殊な立場に置かれていたからこその不足であるし、
人道にとって最大級の味方にも敵にもなる兵武の道を本人たちが嗜んでいなかったのもまた、
絶対に人道とは相容れない鬼畜道と武道とが当時の中国で癒着してしまっていたからでもある。
なればこそ、孔孟を代表とする春秋戦国時代の儒者が、神仏や兵武への依存をも
完全に脱却した独立的な人道を体系化してくれたわけだけれども、その原始の
儒者たちが乱世の荒波に揉まれてろくな待遇を受けられなかったのと同じように
して、純然たる人道もまたそれだけでは脆弱なものでしかあり得ないのである。
儒者たちが真人道を体系化してくれたことだけは怪我の功名だったにしろ、
人道が孤立して立ち往生してしまう程にも大局が荒廃していた春秋戦国時代という
中国の一時代のほうは決して評価するに値するものではない。残念ながら、今の世界も
また当時の中国並みに人道が遠ざけられている状態であるわけだけれども、そのような
事態に世の中が陥るようなことはできる限り避けるようにしなければならない。
儒教が金科玉条に掲げられたりするのも、人道が蔑ろにされた時代の反動でしかない
わけだから、むしろ儒家で教えられる人道などは当たり前のこととして誰しもにわきまえ
られている時代こそを目指すべきである。その上で、人道の堅持のためにより有効と
なり得る正統な神仏への崇敬や武道の修練に人々が励めるようにしたほうがよい。そうして
人道が世の中において孤立することなく、健全な人々同士での輪を作れるようになったほうがよい。
人道に即して守るべきものに限らず、真っ当な道義に即して守られるべきあらゆるものが
守られたほうがよい。守るべきものがあることなど当たり前のこととされて、「保守派」
などといった一派閥に追い込まれたりするようなこともないようにしたほうがよい。
「敬みて天の威を迓え、文武の大訓を嗣守し、敢えて昏逾すること無し」
「慎んで天の御威光に則り、文王武王の古来からの偉大なる教えを
遵守し、あえて捨て去ったり度を越したりするようなこともない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)
絶対に人道とは相容れない鬼畜道と武道とが当時の中国で癒着してしまっていたからでもある。
なればこそ、孔孟を代表とする春秋戦国時代の儒者が、神仏や兵武への依存をも
完全に脱却した独立的な人道を体系化してくれたわけだけれども、その原始の
儒者たちが乱世の荒波に揉まれてろくな待遇を受けられなかったのと同じように
して、純然たる人道もまたそれだけでは脆弱なものでしかあり得ないのである。
儒者たちが真人道を体系化してくれたことだけは怪我の功名だったにしろ、
人道が孤立して立ち往生してしまう程にも大局が荒廃していた春秋戦国時代という
中国の一時代のほうは決して評価するに値するものではない。残念ながら、今の世界も
また当時の中国並みに人道が遠ざけられている状態であるわけだけれども、そのような
事態に世の中が陥るようなことはできる限り避けるようにしなければならない。
儒教が金科玉条に掲げられたりするのも、人道が蔑ろにされた時代の反動でしかない
わけだから、むしろ儒家で教えられる人道などは当たり前のこととして誰しもにわきまえ
られている時代こそを目指すべきである。その上で、人道の堅持のためにより有効と
なり得る正統な神仏への崇敬や武道の修練に人々が励めるようにしたほうがよい。そうして
人道が世の中において孤立することなく、健全な人々同士での輪を作れるようになったほうがよい。
人道に即して守るべきものに限らず、真っ当な道義に即して守られるべきあらゆるものが
守られたほうがよい。守るべきものがあることなど当たり前のこととされて、「保守派」
などといった一派閥に追い込まれたりするようなこともないようにしたほうがよい。
「敬みて天の威を迓え、文武の大訓を嗣守し、敢えて昏逾すること無し」
「慎んで天の御威光に則り、文王武王の古来からの偉大なる教えを
遵守し、あえて捨て去ったり度を越したりするようなこともない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)
ほんの十数年前まで、メディアといえば新聞やテレビが主で、一般人はただ
そのような大メディアから一方的に情報を受け取るだけの存在でしかなかった。
絶対にその立場から有効となる意見を発することなどできないとされる低い立場から、
大メディアで取り上げられる雲上人の動向を指をくわえて見させられるだけという
のが一般人の常であった。それが軍事目的をも兼ねたインターネットの普及に
よって万人の双方向的な情報共有が可能となり、一般人も何一つ口ごたえ
することのできない無力な子羊のままでいさせられることまではなくなった。
人生の大半をネットなしで過ごしてきた高年層などには、まだ大メディアを雲上の存在
として崇め立てるような浅ましい性向が根付いたままでいてしまっているが、ネット
が自分たちの活動領域に深く入り込んできた中年以下の層には、もはや大メディアも
絶対的な権威を持つものなどとして目に映ることはない。ただただ一方的に歪んだ
情報を押し付けてくるその奢り高ぶった有り様に嫌気が差してテレビや新聞もあまり
見なくなり、大メディアや有識者層を構成している人間が全くできた連中でもない、
ただ糞ににたかるハエのように利権に群がっているクズ人種であるとも半ば知れて来た
ものだから、大メディアであるというだけで嫌悪感を催す者すらもが現れて来ている。
権力道徳学的に見ても、近代以降の大メディアの暴慢のほうが粗悪なものであり、
ネットで行われているような無名者同士での横議が是認されることのほうが良質な
ことである。全国を挙げての虐政が敷かれていた秦帝国においてこそ横議も厳禁され、
私的に政権を批判する儒者たちが穴埋めにされて大量虐殺されるなどの惨暴が巻き起こ
された一方で、その秦帝国を崩壊させて後に立ち上げられた漢帝国においてこそ人々の
横議もそれなりに是認されて、実際に地方の町村に至るまで賢良方正と噂されるような
人間が取り立ての対象とされるなどの市井密着型の善政が敷かれた。現代における大
メディアの横暴とネットでの草の根活動などもまさに、秦帝国の暴政と漢帝国の善政に
それぞれ比肩されるものであり、前者よりは後者のほうが尊重されるようになること
でこそ、今の世における勧善懲悪が実現されて行くことが見込まれもするのでもある。
そのような大メディアから一方的に情報を受け取るだけの存在でしかなかった。
絶対にその立場から有効となる意見を発することなどできないとされる低い立場から、
大メディアで取り上げられる雲上人の動向を指をくわえて見させられるだけという
のが一般人の常であった。それが軍事目的をも兼ねたインターネットの普及に
よって万人の双方向的な情報共有が可能となり、一般人も何一つ口ごたえ
することのできない無力な子羊のままでいさせられることまではなくなった。
人生の大半をネットなしで過ごしてきた高年層などには、まだ大メディアを雲上の存在
として崇め立てるような浅ましい性向が根付いたままでいてしまっているが、ネット
が自分たちの活動領域に深く入り込んできた中年以下の層には、もはや大メディアも
絶対的な権威を持つものなどとして目に映ることはない。ただただ一方的に歪んだ
情報を押し付けてくるその奢り高ぶった有り様に嫌気が差してテレビや新聞もあまり
見なくなり、大メディアや有識者層を構成している人間が全くできた連中でもない、
ただ糞ににたかるハエのように利権に群がっているクズ人種であるとも半ば知れて来た
ものだから、大メディアであるというだけで嫌悪感を催す者すらもが現れて来ている。
権力道徳学的に見ても、近代以降の大メディアの暴慢のほうが粗悪なものであり、
ネットで行われているような無名者同士での横議が是認されることのほうが良質な
ことである。全国を挙げての虐政が敷かれていた秦帝国においてこそ横議も厳禁され、
私的に政権を批判する儒者たちが穴埋めにされて大量虐殺されるなどの惨暴が巻き起こ
された一方で、その秦帝国を崩壊させて後に立ち上げられた漢帝国においてこそ人々の
横議もそれなりに是認されて、実際に地方の町村に至るまで賢良方正と噂されるような
人間が取り立ての対象とされるなどの市井密着型の善政が敷かれた。現代における大
メディアの横暴とネットでの草の根活動などもまさに、秦帝国の暴政と漢帝国の善政に
それぞれ比肩されるものであり、前者よりは後者のほうが尊重されるようになること
でこそ、今の世における勧善懲悪が実現されて行くことが見込まれもするのでもある。
制度に即して作為的に権威が付与されて、一般人にはお目通りも適わないような
高位の身分が規定されるようなことが封建社会ではあるが、それもむしろ、高位となる
為政者が天下全土に目を見張って、部分の利権などに囚われることなく万人を福利厚生
の対象として行くためにこそ執り行われるのでなければ道理に適わないこととなる。
徳川吉宗が幕府の将軍として目安箱を設置した結果、現代の党派政治による民主制
などよりも遥かに滞りのない、民意に適った為政が執り行われることともなった。
相手はあくまで実質「日本国大君」の将軍であるわけだから、人々も高く仰ぎ見る姿勢
と共にしか請願を行うことができない。だからこそ、それでもどうにかして欲しい問題
だけを人々が目安箱に直接投じたわけなので、無駄な問題まで取り上げられての事務の
滞りなどを来たさなくても済んだ。これなどは、人間同士での上下関係こそが、万人の
双方向的な情報交換による間接的交流を滞りのないものとした好例であるといえる。
権威的な上下関係が世の中に敷かれるのであれどうであれ、頂点から底辺に至るまでの
双方向的な関係というものがそれなりに滞りのないものでもあるべきである。部分的に
そのような関係を許容できる上下関係こそは、硬直に過ぎないものとして磐石さを確保
できるものでもあるから、むしろ封建制の維持のためにこそそういったことが試みられて
然るべきでもある。手っ取り早いのが仏門の興隆で、出家者ともなれば以前の身分がどう
であれ平等に尊いものとして扱ったりすることが身分制社会の手堅いガス抜きともなる。
もちろん今ならネットも用いられるわけで、政商を後ろ盾とする大メディアなどよりも
ネットのほうが遥かに、善良な封建制との親和性も高いものであるといえる。
「夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、
慮て以て人に下る。邦に在れば必ず達し、家に在りても必ず達す」
「上達者は質実剛健にして道義を好み、諸々の言葉の本意を察して見たものの
本質を見抜き、国のトップに居ようが家の中に居ようが、どこででも万事に通達する。
(道理に適った上達者は、見聞きしたもの全てをただそれだけで征服下に置けるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二〇より)
高位の身分が規定されるようなことが封建社会ではあるが、それもむしろ、高位となる
為政者が天下全土に目を見張って、部分の利権などに囚われることなく万人を福利厚生
の対象として行くためにこそ執り行われるのでなければ道理に適わないこととなる。
徳川吉宗が幕府の将軍として目安箱を設置した結果、現代の党派政治による民主制
などよりも遥かに滞りのない、民意に適った為政が執り行われることともなった。
相手はあくまで実質「日本国大君」の将軍であるわけだから、人々も高く仰ぎ見る姿勢
と共にしか請願を行うことができない。だからこそ、それでもどうにかして欲しい問題
だけを人々が目安箱に直接投じたわけなので、無駄な問題まで取り上げられての事務の
滞りなどを来たさなくても済んだ。これなどは、人間同士での上下関係こそが、万人の
双方向的な情報交換による間接的交流を滞りのないものとした好例であるといえる。
権威的な上下関係が世の中に敷かれるのであれどうであれ、頂点から底辺に至るまでの
双方向的な関係というものがそれなりに滞りのないものでもあるべきである。部分的に
そのような関係を許容できる上下関係こそは、硬直に過ぎないものとして磐石さを確保
できるものでもあるから、むしろ封建制の維持のためにこそそういったことが試みられて
然るべきでもある。手っ取り早いのが仏門の興隆で、出家者ともなれば以前の身分がどう
であれ平等に尊いものとして扱ったりすることが身分制社会の手堅いガス抜きともなる。
もちろん今ならネットも用いられるわけで、政商を後ろ盾とする大メディアなどよりも
ネットのほうが遥かに、善良な封建制との親和性も高いものであるといえる。
「夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、
慮て以て人に下る。邦に在れば必ず達し、家に在りても必ず達す」
「上達者は質実剛健にして道義を好み、諸々の言葉の本意を察して見たものの
本質を見抜き、国のトップに居ようが家の中に居ようが、どこででも万事に通達する。
(道理に適った上達者は、見聞きしたもの全てをただそれだけで征服下に置けるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二〇より)
君子が徳治を施す時に、恣意でその相手を限るようなことはないし、
押し付けがましい、お節介に当たるような施しまでをも為すことはない。
自らが任された封土全体の公正な統治に特化し、身分制度があった所で、
その最底辺に当たるような人間に至るまでの最低限度の生活保障を心がける。
君子の活動は、いわゆる「サークル活動」などと呼ばれるような党派的
活動とは全くその様相を異にしているものであり、それこそ位相が相反する
程にも決定的な相違を帯びている。全体の利益を尊重することは部分の利益を
蔑ろにすることに繋がる一方で、その逆もまた然りであるわけだから、部分の
党派を利するような心持ちで君子が徳治を試みたりすることも許されはしない。
一方で、君子が徳治のような社会的活動の推進のために取り組んでいくべき
部分の尊重というものもまた特別には存在するのであり、それが君臣父子夫婦の
序列の遵守や、仁義礼智信といった個人的徳目の修養に当たる。それも確かに
世の中の部分の偏重のようでもあるわけだけれども、だからといって他人同士で
形成する党派や結社の如き公益との相反性を帯びたりすることはない。君臣関係は
当然世の中の公的統治のための要であるから公益に反しないし、父子夫婦の序列の
尊重もまた、その君臣関係を利するものでいて、なおかつ世の中の安定のために
必要不可欠な倫理性を帯びているものだから、君子が徳治のために嗜むべきもの足る。
未だかつて、仁徳統治というものが存在することすら知らないままであり続けて
来た西洋社会においては、何もかもを徒党派閥の編成を基本としてしか為せない
ようなままであり続けて来た。王侯も資産家との派閥を組み、民主制においても
必ず党派政治を基本とする。ナチスや共産主義者すらもが政党による国家の統治を
試みて、自分たちの党是に即して非とされる人種を過剰なほどの排除の対象とした。
押し付けがましい、お節介に当たるような施しまでをも為すことはない。
自らが任された封土全体の公正な統治に特化し、身分制度があった所で、
その最底辺に当たるような人間に至るまでの最低限度の生活保障を心がける。
君子の活動は、いわゆる「サークル活動」などと呼ばれるような党派的
活動とは全くその様相を異にしているものであり、それこそ位相が相反する
程にも決定的な相違を帯びている。全体の利益を尊重することは部分の利益を
蔑ろにすることに繋がる一方で、その逆もまた然りであるわけだから、部分の
党派を利するような心持ちで君子が徳治を試みたりすることも許されはしない。
一方で、君子が徳治のような社会的活動の推進のために取り組んでいくべき
部分の尊重というものもまた特別には存在するのであり、それが君臣父子夫婦の
序列の遵守や、仁義礼智信といった個人的徳目の修養に当たる。それも確かに
世の中の部分の偏重のようでもあるわけだけれども、だからといって他人同士で
形成する党派や結社の如き公益との相反性を帯びたりすることはない。君臣関係は
当然世の中の公的統治のための要であるから公益に反しないし、父子夫婦の序列の
尊重もまた、その君臣関係を利するものでいて、なおかつ世の中の安定のために
必要不可欠な倫理性を帯びているものだから、君子が徳治のために嗜むべきもの足る。
未だかつて、仁徳統治というものが存在することすら知らないままであり続けて
来た西洋社会においては、何もかもを徒党派閥の編成を基本としてしか為せない
ようなままであり続けて来た。王侯も資産家との派閥を組み、民主制においても
必ず党派政治を基本とする。ナチスや共産主義者すらもが政党による国家の統治を
試みて、自分たちの党是に即して非とされる人種を過剰なほどの排除の対象とした。
一党独裁制だろうが二大政党制だろうが多党制だろうが、党派政治である時点で
そこに仁徳はないのであって、それは仁徳を知らない西洋人にとっての最善では
あったかも知れないが、仁徳を知るものにとってはマシな部類にすら入らない、
最低最悪級の政治手段でこそある。だからこそ、党派政治を取り入れてしまった
以降の日本や中国などでは、清廉な人々こそは政治に関わらず、人間のクズ然と
した連中ばかりが公権力に群がるといった様相を来たしてしまったわけで、それ
なりに志しある人間こそが党派政治における成功を志そうとする西洋以上にも
表向きからの政治腐敗が如実なものと化してしまったのである。(もちろん、
志しがあったところで、党派政治である以上はろくな結果に繋がらないのだが)
人間社会の部分集合は、どこまでも「家」の範囲内に止めることこそが、仁徳
の範疇を逸脱したりしないことに繋がる。江戸時代の豪商なども「三井家」だの
「住友家」だのといった家単位での営業に止めていたものだから、国を傾ける程
もの害悪を自分たちだけでもたらすことはなかったが、その家としての身の程を
逸脱して、商家の身分でいながら田舎の武家などと結託しての政商犯罪などに
及んだものだから、傾国級、亡国級の害悪すらをも及ぼすこととなったのだった。
家は「募集」によって成り立つものではなく、自ずから生成されて行く社会の
根源である。子が親を選んだりすることもできない先天性を帯びているからこそ、
恣意で形成された集団こそがもたらすような我田引水の災厄の元凶ともならない。
もちろん利権がその象徴としての名家を立てるようなこともあるが、その場合も
やはり害悪の元凶であるのは非家庭的な利権の吹き溜まりのほうなのである
のだから、たとえ名家の陰に隠れているようであっても、そのような吹き
溜まりのほうの駆逐こそを第一の課題として行くようにしなければならない。
そこに仁徳はないのであって、それは仁徳を知らない西洋人にとっての最善では
あったかも知れないが、仁徳を知るものにとってはマシな部類にすら入らない、
最低最悪級の政治手段でこそある。だからこそ、党派政治を取り入れてしまった
以降の日本や中国などでは、清廉な人々こそは政治に関わらず、人間のクズ然と
した連中ばかりが公権力に群がるといった様相を来たしてしまったわけで、それ
なりに志しある人間こそが党派政治における成功を志そうとする西洋以上にも
表向きからの政治腐敗が如実なものと化してしまったのである。(もちろん、
志しがあったところで、党派政治である以上はろくな結果に繋がらないのだが)
人間社会の部分集合は、どこまでも「家」の範囲内に止めることこそが、仁徳
の範疇を逸脱したりしないことに繋がる。江戸時代の豪商なども「三井家」だの
「住友家」だのといった家単位での営業に止めていたものだから、国を傾ける程
もの害悪を自分たちだけでもたらすことはなかったが、その家としての身の程を
逸脱して、商家の身分でいながら田舎の武家などと結託しての政商犯罪などに
及んだものだから、傾国級、亡国級の害悪すらをも及ぼすこととなったのだった。
家は「募集」によって成り立つものではなく、自ずから生成されて行く社会の
根源である。子が親を選んだりすることもできない先天性を帯びているからこそ、
恣意で形成された集団こそがもたらすような我田引水の災厄の元凶ともならない。
もちろん利権がその象徴としての名家を立てるようなこともあるが、その場合も
やはり害悪の元凶であるのは非家庭的な利権の吹き溜まりのほうなのである
のだから、たとえ名家の陰に隠れているようであっても、そのような吹き
溜まりのほうの駆逐こそを第一の課題として行くようにしなければならない。
徒党派閥の形成の禁止もまた、ごく当たり前な常識扱いと共に布令されて行く。
衆愚政治にありがちな大広場での党大会なども、下衆なものとして廃止される。
他人同士の群がりによる集団的高揚こそはヤマタノオロチの顕現であるが故、
その余地をこの世から絶つことこそは、ヤマタノオロチ退治ともなるのである。
「汝、二十有二人、欽まん哉。惟れ時れ天功を亮かにせよ」
「おまえたち、二十二人の重臣たち(禹、益、皋陶など)は、よく慎んで職務に
励み、人々にそれぞれに与えられている天職を明らかにしてくれ。(これは新たな
能臣の登用などもあれば、百姓適合者への適切な職務の斡旋などの様ざまな人事
を指している。人々にはそれぞれ天職があるのだから、求職者のほうから無闇に
栄達を求めたりすべきでもない。人事はあくまで上から下へ。下から上へは禁)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
衆愚政治にありがちな大広場での党大会なども、下衆なものとして廃止される。
他人同士の群がりによる集団的高揚こそはヤマタノオロチの顕現であるが故、
その余地をこの世から絶つことこそは、ヤマタノオロチ退治ともなるのである。
「汝、二十有二人、欽まん哉。惟れ時れ天功を亮かにせよ」
「おまえたち、二十二人の重臣たち(禹、益、皋陶など)は、よく慎んで職務に
励み、人々にそれぞれに与えられている天職を明らかにしてくれ。(これは新たな
能臣の登用などもあれば、百姓適合者への適切な職務の斡旋などの様ざまな人事
を指している。人々にはそれぞれ天職があるのだから、求職者のほうから無闇に
栄達を求めたりすべきでもない。人事はあくまで上から下へ。下から上へは禁)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
絶対的な上下関係を強いるということは、基本、悪である。
政商の横暴が祟っての封建制の到来なども、あくまで必要悪であり、
誰一人として好き好んで招こうなどとしない中に、やむなくもたらされる
ぐらいであるべきものである。そうして招かれてしまった後にも、為政者が仏門
や道家のような真理に基づく平等を謳う教学を尊んで、封建的な序列もあくまで
必要に駆られて便宜的に執り行われるものであるのだという姿勢を貫くべきである。
自力作善の仏者よろしく、世のしがらみを超脱した理想上の心象としては、
一切の上下関係から解放された完全なる自由の境地であるのがより好ましい。
実物の人間が相手であれ、空想上の神仏などが相手であるのであれ、何らかの上位
的な依存対象がなければ居ても立ってもいられないような心象であることは決して
よろしいことではなく、現実的に社会面での上下関係などが強いられることがあった
としても、内心自体がそのような依存的状態であったりすることは避けるべきである。
空想上の神仏への依存的な姿勢を嗜むということすらもが、時に必要悪でもあり得る。
阿弥陀信仰のように、自力作善の仏道が不全と化してしまった時代における最低限度
の仏法帰依の手段となる場合も有るし、イスラム教のように、誰しもがそればかりを
信仰していれば世の中も保てなくなる聖書信仰の代用として広められた他力信仰もある。
つまり、乱世であるとか、極度の邪教が蔓延してしまっているとかのより大きな害悪が
存在している場合の対抗馬として、比較的無害な他力本願が有効となる場合があるわけ
で、そういった場合に最優先の駆逐対象となるべきなのも、極度の害悪のほうとなる。
政商の横暴が祟っての封建制の到来なども、あくまで必要悪であり、
誰一人として好き好んで招こうなどとしない中に、やむなくもたらされる
ぐらいであるべきものである。そうして招かれてしまった後にも、為政者が仏門
や道家のような真理に基づく平等を謳う教学を尊んで、封建的な序列もあくまで
必要に駆られて便宜的に執り行われるものであるのだという姿勢を貫くべきである。
自力作善の仏者よろしく、世のしがらみを超脱した理想上の心象としては、
一切の上下関係から解放された完全なる自由の境地であるのがより好ましい。
実物の人間が相手であれ、空想上の神仏などが相手であるのであれ、何らかの上位
的な依存対象がなければ居ても立ってもいられないような心象であることは決して
よろしいことではなく、現実的に社会面での上下関係などが強いられることがあった
としても、内心自体がそのような依存的状態であったりすることは避けるべきである。
空想上の神仏への依存的な姿勢を嗜むということすらもが、時に必要悪でもあり得る。
阿弥陀信仰のように、自力作善の仏道が不全と化してしまった時代における最低限度
の仏法帰依の手段となる場合も有るし、イスラム教のように、誰しもがそればかりを
信仰していれば世の中も保てなくなる聖書信仰の代用として広められた他力信仰もある。
つまり、乱世であるとか、極度の邪教が蔓延してしまっているとかのより大きな害悪が
存在している場合の対抗馬として、比較的無害な他力本願が有効となる場合があるわけ
で、そういった場合に最優先の駆逐対象となるべきなのも、極度の害悪のほうとなる。
社会的な上下関係も、宗教的な理想上の上下関係も、いずれもが必要悪であり得るが、
やはり悪であることには変わりない。どんな上下関係もなくて済むのならそれに
越したことはないのであり、上下関係を好き好むようなことまでは決してあるべき
ではないのである。聖書圏などでは、まるで神との上下関係を強いる類いの宗教に
帰依していることのほうが健全であるかのような風潮すらもがまかり通っているが、
それもまた悪しき蛮習でこそあるのであり、人類史上最悪の邪教としての聖書信仰
の根絶と共に、早急に払拭されて然るべきものであるといえるのである。
人間、上下関係があって当たり前、理想としても上下関係が存在しているほうが
健全だなどという奴隷根性、走狗根性を払拭すればこそ、必要に応じて執り行われる
便宜的な上下関係を素直に受け入れられるようにもなるのである。理想上から上下
関係を嗜んでおこうなどとする性根の持ち主こそは、自らが望まない上下関係と
あらば、たとえ必要なものであっても執拗に拒もうとする、「上下関係の選り好み」
をやらかしてしまうわけで、上下関係など便宜でしかあるべきでないという
立場から見た場合にこそ、それが救い難い亡者の様相となってしまうのである。
誰しもが、カネや権力を思うが侭にできる行為能力の自由など以上にも、一切の
上下関係を理想上から排する精神の自由こそを手に入れたならば、それで社会的に
どうしても必要となる上下関係のほうは素直に受け入れられて、人々への行為能力の
配分も適正化されて、誰しもが最大級の行為能力の自由にすら与れることとなる。故に、
最大級の行為能力の自由を得んがためにこそ、精神の自由こそを優先的に追い求めて
行くべきなのであり、決して前者のために後者を蔑ろにするようなことがあっては
ならない。そのような真似に及ぶ者こそは、自由を追い求めた結果としてより大きな
不自由に見舞われることとなるわけだから、身を滅ぼすことを芸とするピエロとなる
ことが目的であるのでもない限りは、けっしてそれを志したりすべきでないのである。
やはり悪であることには変わりない。どんな上下関係もなくて済むのならそれに
越したことはないのであり、上下関係を好き好むようなことまでは決してあるべき
ではないのである。聖書圏などでは、まるで神との上下関係を強いる類いの宗教に
帰依していることのほうが健全であるかのような風潮すらもがまかり通っているが、
それもまた悪しき蛮習でこそあるのであり、人類史上最悪の邪教としての聖書信仰
の根絶と共に、早急に払拭されて然るべきものであるといえるのである。
人間、上下関係があって当たり前、理想としても上下関係が存在しているほうが
健全だなどという奴隷根性、走狗根性を払拭すればこそ、必要に応じて執り行われる
便宜的な上下関係を素直に受け入れられるようにもなるのである。理想上から上下
関係を嗜んでおこうなどとする性根の持ち主こそは、自らが望まない上下関係と
あらば、たとえ必要なものであっても執拗に拒もうとする、「上下関係の選り好み」
をやらかしてしまうわけで、上下関係など便宜でしかあるべきでないという
立場から見た場合にこそ、それが救い難い亡者の様相となってしまうのである。
誰しもが、カネや権力を思うが侭にできる行為能力の自由など以上にも、一切の
上下関係を理想上から排する精神の自由こそを手に入れたならば、それで社会的に
どうしても必要となる上下関係のほうは素直に受け入れられて、人々への行為能力の
配分も適正化されて、誰しもが最大級の行為能力の自由にすら与れることとなる。故に、
最大級の行為能力の自由を得んがためにこそ、精神の自由こそを優先的に追い求めて
行くべきなのであり、決して前者のために後者を蔑ろにするようなことがあっては
ならない。そのような真似に及ぶ者こそは、自由を追い求めた結果としてより大きな
不自由に見舞われることとなるわけだから、身を滅ぼすことを芸とするピエロとなる
ことが目的であるのでもない限りは、けっしてそれを志したりすべきでないのである。
「号を発し令を出せば民説ぶ、之れを和と謂う。上下相い親しむ、之れを仁と謂う。民、
其の欲する所を求めずとも之れを得、之れを信と謂う。天地の害を除去す、之れを義と謂う」
「民を用いるような号令を発しても民たちが喜んでそれに従う、これを和という。上下の
秩序が親しみと共に行われる、これを仁という。民がわざわざ欲する所を表明しなくとも
自然とそれが得られている、これを信という。天地の害悪を除去する、これを義という。
(信者をただ甘やかし、上下関係に恐怖を敷き、いちいち信者に欲求の表明をも強いる聖書
の神には和も仁も信もありはしない。まさに義によって除去されるべき天地の害悪だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・雑記下第二十一より)
其の欲する所を求めずとも之れを得、之れを信と謂う。天地の害を除去す、之れを義と謂う」
「民を用いるような号令を発しても民たちが喜んでそれに従う、これを和という。上下の
秩序が親しみと共に行われる、これを仁という。民がわざわざ欲する所を表明しなくとも
自然とそれが得られている、これを信という。天地の害悪を除去する、これを義という。
(信者をただ甘やかし、上下関係に恐怖を敷き、いちいち信者に欲求の表明をも強いる聖書
の神には和も仁も信もありはしない。まさに義によって除去されるべき天地の害悪だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・雑記下第二十一より)
「未だ能く人に事えず、焉んぞ能く鬼に事えん(既出)」
「未だに人間相手にまともに仕えられもしないでいるような分際でいて、
どうして神などにうまく仕えることができようか。(当然そんなことは不可能である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二)
忠孝を旨とする者が、健在な親や主君を尊んだ上で、さらに鬼籍の先祖に至るまでの
神仏としての崇敬を篤くしたりするのが、真っ当な順序というものである。存命中の人間
を尊ぶこともできず、人間全般への不信をも募らせて、そのような悪念を振り向ける対象
としての神をでっち上げたりしたとしたならば、そのような神こそは邪神の最たるもので
あることが確かである。カルト系の犯罪者や権力犯罪者が、他人の命をゴミクズのように
扱うときの自己正当化材料として、そのような邪神への狂信がよく用いられるわけで、
その手の邪信のウチのほとんどは反社会勢力の拠り所として早急な駆逐の対象とされるが、
残念ながら、中には2000年にも渡って存続して来ているようなものもまた存在している。
文化的貧困の甚だしかった西洋においてそのような邪教が嬉しがられて、世界規模で見た
場合の甚だしい世間知らずさと共にその嗜好が執拗に持続されて来た。今となっては
もはや許されようのない蛮族の悪習として、この世から絶やされる以外に余地はないが、
2000年もの間持続して来たことはもはや伝統と化してしまっているわけで、伝統という
ものを軽んずるような不埒さと共に根絶したりするのではなく、純粋に許しようのない
邪教であるというだけの理由によって根絶を果たすことで、その他の世界中のよき伝統
をくそみそに軽んじて損壊してしまうようなことがないようにしなければならない。
「苟くも其の身を正しくすれば、政に従うに於いて何をか有らん」
「自らの身が正しいのであれば、その人間の行う政治に従うぐらいのことは何の支障にも
ならないはずだ。(正しい人間に従うぐらいのことは人としてあるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一三より)
「未だに人間相手にまともに仕えられもしないでいるような分際でいて、
どうして神などにうまく仕えることができようか。(当然そんなことは不可能である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二)
忠孝を旨とする者が、健在な親や主君を尊んだ上で、さらに鬼籍の先祖に至るまでの
神仏としての崇敬を篤くしたりするのが、真っ当な順序というものである。存命中の人間
を尊ぶこともできず、人間全般への不信をも募らせて、そのような悪念を振り向ける対象
としての神をでっち上げたりしたとしたならば、そのような神こそは邪神の最たるもので
あることが確かである。カルト系の犯罪者や権力犯罪者が、他人の命をゴミクズのように
扱うときの自己正当化材料として、そのような邪神への狂信がよく用いられるわけで、
その手の邪信のウチのほとんどは反社会勢力の拠り所として早急な駆逐の対象とされるが、
残念ながら、中には2000年にも渡って存続して来ているようなものもまた存在している。
文化的貧困の甚だしかった西洋においてそのような邪教が嬉しがられて、世界規模で見た
場合の甚だしい世間知らずさと共にその嗜好が執拗に持続されて来た。今となっては
もはや許されようのない蛮族の悪習として、この世から絶やされる以外に余地はないが、
2000年もの間持続して来たことはもはや伝統と化してしまっているわけで、伝統という
ものを軽んずるような不埒さと共に根絶したりするのではなく、純粋に許しようのない
邪教であるというだけの理由によって根絶を果たすことで、その他の世界中のよき伝統
をくそみそに軽んじて損壊してしまうようなことがないようにしなければならない。
「苟くも其の身を正しくすれば、政に従うに於いて何をか有らん」
「自らの身が正しいのであれば、その人間の行う政治に従うぐらいのことは何の支障にも
ならないはずだ。(正しい人間に従うぐらいのことは人としてあるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一三より)
もちろん、ただただ他人に服従することばかりを本分とする奴隷人種であるのもおかしい
ことであり、正しい人間の正しい行いには従い、そうでない人間には従わないぐらいの
分別もあるべきである。また、君臣の如き主従関係の中にも、臣下が主君に諫言を
行ったりするような先導的な振る舞いをも心がけるべきである。故に孔子も、
「冉子朝を退く。子曰、何ぞ晏きや。対えて曰く政有り。子曰く、
其れ事えなるや。如し政有れば、吾を以てせずと雖も、吾れ其れを之れ与り聞かん」
「孔先生の弟子の冉有が朝廷から戻ってきた。先生は言われた。
『どうして遅かったんだ』冉有は答えて言った。『政務がありましたので』
先生『それは政務ではなくただの仕え事だろう。もしも政務があるのであれば、
私を用いるのでなくとも、相談ぐらいは私にも持ちかけられているはずなのだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一四)
という風に、「政務はただただ従うことではなく、自力でことを為すことである」という
思いを示唆しているのである。人間が人間に仕えるということは体裁からして時に必要な
ことではあるし、それこそが天下の大倫に適うということもあるわけだが、自分が人に
仕えるからには、そこで自分自身が率先して物事を為すということが要求されるのである。
神仏に対する以上にも、人間同士の上下関係をよく重んじねばならないのではあるが、
その人間同士の主従関係こそは、従う中にも率先的な所があるのでなければならない、
これはまさに中庸を旨とする者だけが実現を可能とする徳目であるわけで、そうであるという
事実一つをとっても、人間同士が仕えたり仕えられたりすることで初めて成り立つ人間社会に
おいて、主導的な役割を担う人間にこそ中庸のわきまえが必要とされることが分かるのである。
ことであり、正しい人間の正しい行いには従い、そうでない人間には従わないぐらいの
分別もあるべきである。また、君臣の如き主従関係の中にも、臣下が主君に諫言を
行ったりするような先導的な振る舞いをも心がけるべきである。故に孔子も、
「冉子朝を退く。子曰、何ぞ晏きや。対えて曰く政有り。子曰く、
其れ事えなるや。如し政有れば、吾を以てせずと雖も、吾れ其れを之れ与り聞かん」
「孔先生の弟子の冉有が朝廷から戻ってきた。先生は言われた。
『どうして遅かったんだ』冉有は答えて言った。『政務がありましたので』
先生『それは政務ではなくただの仕え事だろう。もしも政務があるのであれば、
私を用いるのでなくとも、相談ぐらいは私にも持ちかけられているはずなのだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一四)
という風に、「政務はただただ従うことではなく、自力でことを為すことである」という
思いを示唆しているのである。人間が人間に仕えるということは体裁からして時に必要な
ことではあるし、それこそが天下の大倫に適うということもあるわけだが、自分が人に
仕えるからには、そこで自分自身が率先して物事を為すということが要求されるのである。
神仏に対する以上にも、人間同士の上下関係をよく重んじねばならないのではあるが、
その人間同士の主従関係こそは、従う中にも率先的な所があるのでなければならない、
これはまさに中庸を旨とする者だけが実現を可能とする徳目であるわけで、そうであるという
事実一つをとっても、人間同士が仕えたり仕えられたりすることで初めて成り立つ人間社会に
おいて、主導的な役割を担う人間にこそ中庸のわきまえが必要とされることが分かるのである。
まず自分以上の他者ありきとする、女子供然とした他力本願志向が
実社会での人間関係のみならず、個々人としての思考や振る舞いにも
大きな影響を及ぼすこととなる。端的に言って、自己責任性が希薄化し、
自分でものを考えているような時にすら、他人事のような考え方
ばかりをしてしまうようになる。そこに「自分自身にとってどうなのか」
という十分な自己追求が伴っていないものだから、滑りまくった思考
や会話をとりとめもなく続けていられるようになる。女同士の会話など
はまさにその最たる例であり、責任性を尊ぶ大人の男の耳に入ろうもの
なら、そこに全く意味が伴っていないようにすら思われることとなる。
とはいえ、そのような自責の念を全く欠いた上ずった思考の持ち主ばかり
なのでは世の中も成り立たないので、たとえ責任能力がより高い大人の男
への尊重を著しく欠いているような世の中といえども、それなりに責任能力
があるかのような振る舞いをも人々が嗜んで行くことが要求されて来た。
むしろ、大人の男をちゃんと尊ぼうともしないような未開社会においてこそ、
女子供や小人男までもが、ある種の修辞としての、責任能力があるかの
ような振る舞いを可能とすることが要求されて来た。別にそんなに自責の
念自体を養生したりするのではなく、内心では他力本願の上ずった想念
ばかりを蓄えているにもかかわらず、外見だけはそれなりに責任能力が
あるかのように見せかけるという類いの術策だけが講じられて来たわけで、
表向きだけの振る舞いの洗練は、本人たちに無根拠ゆえのプライドの
過剰な肥大化を喚起して、十分な責任意識がないが故にこそ極大化した
自我ばかりをぶつけ合う個人主義社会の到来をも招いてしまったのだった。
実社会での人間関係のみならず、個々人としての思考や振る舞いにも
大きな影響を及ぼすこととなる。端的に言って、自己責任性が希薄化し、
自分でものを考えているような時にすら、他人事のような考え方
ばかりをしてしまうようになる。そこに「自分自身にとってどうなのか」
という十分な自己追求が伴っていないものだから、滑りまくった思考
や会話をとりとめもなく続けていられるようになる。女同士の会話など
はまさにその最たる例であり、責任性を尊ぶ大人の男の耳に入ろうもの
なら、そこに全く意味が伴っていないようにすら思われることとなる。
とはいえ、そのような自責の念を全く欠いた上ずった思考の持ち主ばかり
なのでは世の中も成り立たないので、たとえ責任能力がより高い大人の男
への尊重を著しく欠いているような世の中といえども、それなりに責任能力
があるかのような振る舞いをも人々が嗜んで行くことが要求されて来た。
むしろ、大人の男をちゃんと尊ぼうともしないような未開社会においてこそ、
女子供や小人男までもが、ある種の修辞としての、責任能力があるかの
ような振る舞いを可能とすることが要求されて来た。別にそんなに自責の
念自体を養生したりするのではなく、内心では他力本願の上ずった想念
ばかりを蓄えているにもかかわらず、外見だけはそれなりに責任能力が
あるかのように見せかけるという類いの術策だけが講じられて来たわけで、
表向きだけの振る舞いの洗練は、本人たちに無根拠ゆえのプライドの
過剰な肥大化を喚起して、十分な責任意識がないが故にこそ極大化した
自我ばかりをぶつけ合う個人主義社会の到来をも招いてしまったのだった。
まず自分本位でものを考えるということのできない人間こそは、自意識の
過剰と責任意識の貧困が著しい反比例関係を来たした結果としての個人主義
に陥ってしまうこととなる。むしろ、理想上の想念から、まずは自分本位で
ものを考えて行ける人間こそは、常に相応の自己責任をも念頭に置いて行く
ものだから、戦々恐々として、薄氷を踏むかのごとき謙虚な態度でいようと
するようにもなる。何となく逆のようであるように思われるかもしれないが、
透徹した自分本位こそは謙虚さに親しく、頭からの他力本願こそは個人主義
者としての思い上がりに親しいという普遍法則があるわけで、故に自力本位
でいられる人間こそは心からの善人であると見なし、性根だけはどうしても
他力本願でしかいられないような人間こそは心からの悪人であると見なすのが、
活動以前、言行以前の心理の部分からの順当な分別になるとも言えるのである。
深層心理の部分から自分本位で居る者こそは、自らの責任意識を一人前以上
のものとできるわけで、故に、善因楽果悪因苦果の自業自得のことわりを
自己意識によって十全に自覚して行くこともできる。そこからのみ、自己意識
に基づく勧善懲悪や断悪修善を実践して行くことまでもができるわけなので、
まず自らが深層心理から自分本位で居られる人間であるのでもない限りは、
むしろ因果応報の自業自得のことわりなどを分かった気になるべきでもない。
そもそも自らが十分な責任意識を持てていないにも関わらず、因果応報を
振りかざすような人間こそは「本願ぼこり」の如き思い上がりをも新たに加味
させてしまうことにすらなるわけなので、他力本願ともなれば、むしろ因果
のことわりもわきまえられない愚夫であることを自覚するほうが得策となる。
過剰と責任意識の貧困が著しい反比例関係を来たした結果としての個人主義
に陥ってしまうこととなる。むしろ、理想上の想念から、まずは自分本位で
ものを考えて行ける人間こそは、常に相応の自己責任をも念頭に置いて行く
ものだから、戦々恐々として、薄氷を踏むかのごとき謙虚な態度でいようと
するようにもなる。何となく逆のようであるように思われるかもしれないが、
透徹した自分本位こそは謙虚さに親しく、頭からの他力本願こそは個人主義
者としての思い上がりに親しいという普遍法則があるわけで、故に自力本位
でいられる人間こそは心からの善人であると見なし、性根だけはどうしても
他力本願でしかいられないような人間こそは心からの悪人であると見なすのが、
活動以前、言行以前の心理の部分からの順当な分別になるとも言えるのである。
深層心理の部分から自分本位で居る者こそは、自らの責任意識を一人前以上
のものとできるわけで、故に、善因楽果悪因苦果の自業自得のことわりを
自己意識によって十全に自覚して行くこともできる。そこからのみ、自己意識
に基づく勧善懲悪や断悪修善を実践して行くことまでもができるわけなので、
まず自らが深層心理から自分本位で居られる人間であるのでもない限りは、
むしろ因果応報の自業自得のことわりなどを分かった気になるべきでもない。
そもそも自らが十分な責任意識を持てていないにも関わらず、因果応報を
振りかざすような人間こそは「本願ぼこり」の如き思い上がりをも新たに加味
させてしまうことにすらなるわけなので、他力本願ともなれば、むしろ因果
のことわりもわきまえられない愚夫であることを自覚するほうが得策となる。
自力本位の善人は始めから身の程をわきまえ、他力本位の悪人は場合によって
身の程をわきまえられたりそうですらなかったりする。当然悪人も身の程を
わきまえられるのに越したことはないが、身の程をわきまえられない悪人の
ほうがより悪人らしいとも言えはする。悪人がいかにも悪人らしいことを許さず、
悪人なりの身の程をわきまえさせるためには、そのためのカウンターバランス
の補完として、善人たちが一概に善良な世の中を築き上げて行く必要がある。
悪人がもはや一人も居らず、善人ばかりで構成されている世の中ともなれば、
さらにその先こそを目指さねばならぬわけで、その道は極めて遠く険しいのである。
「仲尼は日月なり。得て踰ゆること無し焉。人自ら絶つを欲すると雖も、
其れ何をか日月を傷らんや。多に其の量るを知らざるを見るなり」
「(子貢)孔先生はいわば日月のようなもの。とてもとても超えることなど
できはしません。たとえ先生の言説を拒絶するような者がいたとしても、
どうして日月を傷付けたりすることができましょうか。ただ本人がものを
量り知る能力のなさを曝け出すことになるのみです。(儒学の価値を量ること
もできないような人間こそは、秤としての資格もないような蒙昧者なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二四より)
身の程をわきまえられたりそうですらなかったりする。当然悪人も身の程を
わきまえられるのに越したことはないが、身の程をわきまえられない悪人の
ほうがより悪人らしいとも言えはする。悪人がいかにも悪人らしいことを許さず、
悪人なりの身の程をわきまえさせるためには、そのためのカウンターバランス
の補完として、善人たちが一概に善良な世の中を築き上げて行く必要がある。
悪人がもはや一人も居らず、善人ばかりで構成されている世の中ともなれば、
さらにその先こそを目指さねばならぬわけで、その道は極めて遠く険しいのである。
「仲尼は日月なり。得て踰ゆること無し焉。人自ら絶つを欲すると雖も、
其れ何をか日月を傷らんや。多に其の量るを知らざるを見るなり」
「(子貢)孔先生はいわば日月のようなもの。とてもとても超えることなど
できはしません。たとえ先生の言説を拒絶するような者がいたとしても、
どうして日月を傷付けたりすることができましょうか。ただ本人がものを
量り知る能力のなさを曝け出すことになるのみです。(儒学の価値を量ること
もできないような人間こそは、秤としての資格もないような蒙昧者なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二四より)
孟子が提唱した性善説あたりは、まだ教育的な目的があってあえて流布が
試みられたものだったという面がある。朱子の性即理説あたりともなれば、
人間の本性こそは理性に合致した正善なものであるという考えが、冷徹な
学説として見極められていた所がある。その証拠に、朱子学よりも後に
創始された陽明学が提唱した心即理説のほうが、孟子の性善説をさらに
積極的に推し進めようとしたもので居ながら、あまりにも感情主義的で
あり過ぎたが故に知慮を欠き、テロリストの精神的な拠り所にされてしまう
などの「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の弊害を招いてしまってもいる。
つまり、孟子の性善説を過不足のない形で洗練させたのが朱子の性即理説で
あったからこそ、朱子学の実践が陽明学の実践のような弊害を招きもしなかった
ということがいえるわけで(中朝の権力者が朱子学の実践不足のせいで腐敗に
陥ったということはある)、これこそは性即理説が朱子の個人意見であること
などを超えた普遍的事実であることを実証する史実例ともなっているといえる。
朱子自身は仏門を排撃しているが、性即理説は仏教の唯識論との共通性もある。
儒者が「性」と呼んでいるのは、唯識説でいうところの「阿頼耶識」だとか、
それ以上に高次だとされている諸々の心識である一方、「情」や「性と情の
混濁」に相当するものが唯識説では「末那識」と呼ばれている。性と情の総合
が「心」であり、心の根本たる性こそは理や善に適っている一方で、末節たる
情こそはそれに違う場合があるとする朱子学の論説などと比べれば、阿頼耶識
も末那識もそれぞれに人の持つ心識であるとする唯識説のほうが平等的な見方
をしているといえる。性が根本で情が末節だから、性を情よりも尊ぶべきだと
朱子学はする一方で、性情のうちの情に相当する末那識の迷妄を断ち切って、
試みられたものだったという面がある。朱子の性即理説あたりともなれば、
人間の本性こそは理性に合致した正善なものであるという考えが、冷徹な
学説として見極められていた所がある。その証拠に、朱子学よりも後に
創始された陽明学が提唱した心即理説のほうが、孟子の性善説をさらに
積極的に推し進めようとしたもので居ながら、あまりにも感情主義的で
あり過ぎたが故に知慮を欠き、テロリストの精神的な拠り所にされてしまう
などの「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の弊害を招いてしまってもいる。
つまり、孟子の性善説を過不足のない形で洗練させたのが朱子の性即理説で
あったからこそ、朱子学の実践が陽明学の実践のような弊害を招きもしなかった
ということがいえるわけで(中朝の権力者が朱子学の実践不足のせいで腐敗に
陥ったということはある)、これこそは性即理説が朱子の個人意見であること
などを超えた普遍的事実であることを実証する史実例ともなっているといえる。
朱子自身は仏門を排撃しているが、性即理説は仏教の唯識論との共通性もある。
儒者が「性」と呼んでいるのは、唯識説でいうところの「阿頼耶識」だとか、
それ以上に高次だとされている諸々の心識である一方、「情」や「性と情の
混濁」に相当するものが唯識説では「末那識」と呼ばれている。性と情の総合
が「心」であり、心の根本たる性こそは理や善に適っている一方で、末節たる
情こそはそれに違う場合があるとする朱子学の論説などと比べれば、阿頼耶識
も末那識もそれぞれに人の持つ心識であるとする唯識説のほうが平等的な見方
をしているといえる。性が根本で情が末節だから、性を情よりも尊ぶべきだと
朱子学はする一方で、性情のうちの情に相当する末那識の迷妄を断ち切って、
阿頼耶識やそれ以上に高次な心識との合致を果たすべきだと仏門はしている
わけで、もしも実現できるのならば、仏門の手法に則った場合のほうがより
完成された達観が得られるのに違いないが、それは相当に難儀なことともなる
ので、性も情もあるとした上で、性を情以上に尊ぶといった心練方法に則る
ほうが、「巨石を抱いて河に飛び込むが如き」徒労をせずに済むと考えたために、
朱子も仏門との袂を分かって、そのような言説を広めるに至ったのである。
してみれば、正心と邪心を阿頼耶識と末那識といった風に等分視する仏門よりも、
そもそも心のうちに正心を形成しやすい本性の部分と、邪心を形成しやすい
劣情の部分とが存在すると捉える朱子学の論説のほうが、厳しい修行に自らが
臨むわけでもないような常人にとっての心の捉え方としては分相応なものに
なっているといえる。ほとんど「言葉の綾」程度の些細な相違ではあるものの、
自修はせいぜい学問修養に止める程度の人間が自らの心を修める上では、朱子学
のような人間心理の捉え方をしたほうがよい。故に、正心と邪心を等分視する
ようなこともせず、正心こそは人間の本性に適った本物の心であり、邪心など
は本性から乖離した偽りの心でしかないのだと考えるようにしたほうがよい、
つまり、正邪善悪を等分視するような傍観的な姿勢ですらあるべきでない。
正善こそは本質に適った本物であり、邪悪こそは本質から乖離した偽物である
と捉えて、両者の間に真贋上下の差別を設けて、一概な勧善懲悪に臨んで行く
ぐらいの心がけであったほうがよい。正邪善悪を傍観すること自体、完全な
出家修行者にのみ許された特権であるものとして、俗人の分際でそのような
僭越な振る舞いに及んだりするようなことがないようにしなければならない。
わけで、もしも実現できるのならば、仏門の手法に則った場合のほうがより
完成された達観が得られるのに違いないが、それは相当に難儀なことともなる
ので、性も情もあるとした上で、性を情以上に尊ぶといった心練方法に則る
ほうが、「巨石を抱いて河に飛び込むが如き」徒労をせずに済むと考えたために、
朱子も仏門との袂を分かって、そのような言説を広めるに至ったのである。
してみれば、正心と邪心を阿頼耶識と末那識といった風に等分視する仏門よりも、
そもそも心のうちに正心を形成しやすい本性の部分と、邪心を形成しやすい
劣情の部分とが存在すると捉える朱子学の論説のほうが、厳しい修行に自らが
臨むわけでもないような常人にとっての心の捉え方としては分相応なものに
なっているといえる。ほとんど「言葉の綾」程度の些細な相違ではあるものの、
自修はせいぜい学問修養に止める程度の人間が自らの心を修める上では、朱子学
のような人間心理の捉え方をしたほうがよい。故に、正心と邪心を等分視する
ようなこともせず、正心こそは人間の本性に適った本物の心であり、邪心など
は本性から乖離した偽りの心でしかないのだと考えるようにしたほうがよい、
つまり、正邪善悪を等分視するような傍観的な姿勢ですらあるべきでない。
正善こそは本質に適った本物であり、邪悪こそは本質から乖離した偽物である
と捉えて、両者の間に真贋上下の差別を設けて、一概な勧善懲悪に臨んで行く
ぐらいの心がけであったほうがよい。正邪善悪を傍観すること自体、完全な
出家修行者にのみ許された特権であるものとして、俗人の分際でそのような
僭越な振る舞いに及んだりするようなことがないようにしなければならない。
以上のような考究に即すれば、唯識論を俗人向けに言い換えたものとも言える
朱子学の性即理説などに即して、一概な勧善懲悪こそを志して行くのが俗社会に
生きる人間にとっての天分であるということまでもが言えるのである。勧善懲悪
が俗人にとっての天分である一方で、善悪正邪を傍観することや、朱子学の
上位互換の失敗作である陽明学に即して消極主義であったりすることは、俗人に
とっての天分には適わないのである。だからこそそのような真似に及んだ陽明
学徒やカルト信者が最終的な破滅に陥ってしまいもしたわけで、その真価が見定
められなかったがために、反動分子が多くの禍いを招いてしまったという点では、
朱子学も現状、功罪相半ばする点があるといえるので、これからはその真価を
見定めた上での、朱子学の適切な実践こそが試みられてしかるべきだといえる。
「耳、五声の和を聴かざるを聾と為し、目、五色の章を
別かたざるを昧と為し、心、徳義の経に則らざるを頑と為し、
口、忠信の言を道わざるを嚚と為す。狄皆な之れに則り、四姦を具う」
「耳が五声の和音を聞き分けることもできないのを聾といい、目が五色の綾を
見分けることもできないのを(蒙)昧といい、心が徳義に則らないのを頑(迷)といい、
口が中信の言を発することもできないのを嚚という。北方の蛮族はこの
四つの姦邪な要素を持ち合わせている。(心に悪いものが入って悪いものが出る
のではなく、心が頑迷であるが故に色を見分けたり音を聞き分けたりすることも
疎かとなり、以ってろくでもない言行に及ぶこととなる。影響材料以上にも、
心そのものが頑迷な悪心と化してしまうことこそが問題なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年より)
朱子学の性即理説などに即して、一概な勧善懲悪こそを志して行くのが俗社会に
生きる人間にとっての天分であるということまでもが言えるのである。勧善懲悪
が俗人にとっての天分である一方で、善悪正邪を傍観することや、朱子学の
上位互換の失敗作である陽明学に即して消極主義であったりすることは、俗人に
とっての天分には適わないのである。だからこそそのような真似に及んだ陽明
学徒やカルト信者が最終的な破滅に陥ってしまいもしたわけで、その真価が見定
められなかったがために、反動分子が多くの禍いを招いてしまったという点では、
朱子学も現状、功罪相半ばする点があるといえるので、これからはその真価を
見定めた上での、朱子学の適切な実践こそが試みられてしかるべきだといえる。
「耳、五声の和を聴かざるを聾と為し、目、五色の章を
別かたざるを昧と為し、心、徳義の経に則らざるを頑と為し、
口、忠信の言を道わざるを嚚と為す。狄皆な之れに則り、四姦を具う」
「耳が五声の和音を聞き分けることもできないのを聾といい、目が五色の綾を
見分けることもできないのを(蒙)昧といい、心が徳義に則らないのを頑(迷)といい、
口が中信の言を発することもできないのを嚚という。北方の蛮族はこの
四つの姦邪な要素を持ち合わせている。(心に悪いものが入って悪いものが出る
のではなく、心が頑迷であるが故に色を見分けたり音を聞き分けたりすることも
疎かとなり、以ってろくでもない言行に及ぶこととなる。影響材料以上にも、
心そのものが頑迷な悪心と化してしまうことこそが問題なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十四年より)
他力本願は、第一には自己怠惰を正当化するために嗜好される。罪を
犯してしまった人間が急場しのぎで神にすがったりすることもあるが、
多くの人間が恒常的に他力本願の姿勢でいようとするところでは、主に
怠惰慢心を開き直ることを目的としてそれが信教化されるなどする。
多くの人間が怠慢を開き直ってしまっているような状態では、
世の中も生産性が低下して経済が滞るなどの問題を来たすこととなる。
そのため外界侵略による富の収奪だとか、悪徳商売での暴利の巻き上げ
だとかがその補填を目的として企てられることとなる。そのような悪行
もまた他力本願系の縋りによって正当化されて推進されることとなる。
一般人の怠慢が他力信仰によって開き直られると共に、そこでの反動的な
悪行を企てる者の良心の呵責もまた、他力本願による責任意識の放棄に
よって誤魔化される。そうして悪人と愚人ばかりで形成された世の中が、
外界からの十分な富の収奪が可能である限りにおいて存続して行くこととなる。
他力本願系の信教が世の中で幅を利かせ始めているような状態では、
もはや武装公務員が百姓の尻をひっぱたく程の体裁を取るのでもなければ、
自己完結した世の中における十分な生産性が見込まれなくなるということを、
鎌倉時代から江戸時代にかけての日本の武家社会こそが実証している。
犯してしまった人間が急場しのぎで神にすがったりすることもあるが、
多くの人間が恒常的に他力本願の姿勢でいようとするところでは、主に
怠惰慢心を開き直ることを目的としてそれが信教化されるなどする。
多くの人間が怠慢を開き直ってしまっているような状態では、
世の中も生産性が低下して経済が滞るなどの問題を来たすこととなる。
そのため外界侵略による富の収奪だとか、悪徳商売での暴利の巻き上げ
だとかがその補填を目的として企てられることとなる。そのような悪行
もまた他力本願系の縋りによって正当化されて推進されることとなる。
一般人の怠慢が他力信仰によって開き直られると共に、そこでの反動的な
悪行を企てる者の良心の呵責もまた、他力本願による責任意識の放棄に
よって誤魔化される。そうして悪人と愚人ばかりで形成された世の中が、
外界からの十分な富の収奪が可能である限りにおいて存続して行くこととなる。
他力本願系の信教が世の中で幅を利かせ始めているような状態では、
もはや武装公務員が百姓の尻をひっぱたく程の体裁を取るのでもなければ、
自己完結した世の中における十分な生産性が見込まれなくなるということを、
鎌倉時代から江戸時代にかけての日本の武家社会こそが実証している。
平安時代に流行した密教などは、厳粛で体系的な修行をこなす自力作善の
側面と、弘法大師の如き名僧をカリスマとして崇め立てる他力本位の側面
の両方を持ち合わせていたが、鎌倉後期から流行し始めた浄土教などは、
信者に専らな他力本願のみを促すものであった。一方で、武装公務員たる
武家が主な帰依対象としていたのは、密教以上にも純粋な自力本位を旨と
する宗門である禅仏教であり、そのような宗門の下での自己責任意識の強化
と共に、念仏信仰で他力依存を増長させた百姓を引っ張って行ったのだった。
そのような、自力本位と他力本位の均衡を総出で取ろうとする世の中に
おいて、他力本位側であろうものなら武家による斬捨御免すら時には甘受
せざるを得ないことすらをも受け入れられるというのであれば、他力本願で
いればよい。宗祖の法然や親鸞からして僧籍剥奪の上での流罪にされたという
ことすらもむべなることとして受け入れられて、基本、世の中で大きな顔を
できるようなことはないのだと自認できるのであれば、浄土教徒であればよい。
とはいえ武家時代というものからして、日本の時代区分の内では中高度の
乱世に当たる。誰も彼もが他力本位であるが故に引っ切り無しの戦乱状態を
続けて来た聖書圏などと比べれば、江戸時代のようにそれなりの平定が行き
届いた時代もあったわけだが、それでも武士が大小二本の佩刀などを頼りに
百姓町人を締め上げていた点などは、それなりに剣呑な点だったといえる。
側面と、弘法大師の如き名僧をカリスマとして崇め立てる他力本位の側面
の両方を持ち合わせていたが、鎌倉後期から流行し始めた浄土教などは、
信者に専らな他力本願のみを促すものであった。一方で、武装公務員たる
武家が主な帰依対象としていたのは、密教以上にも純粋な自力本位を旨と
する宗門である禅仏教であり、そのような宗門の下での自己責任意識の強化
と共に、念仏信仰で他力依存を増長させた百姓を引っ張って行ったのだった。
そのような、自力本位と他力本位の均衡を総出で取ろうとする世の中に
おいて、他力本位側であろうものなら武家による斬捨御免すら時には甘受
せざるを得ないことすらをも受け入れられるというのであれば、他力本願で
いればよい。宗祖の法然や親鸞からして僧籍剥奪の上での流罪にされたという
ことすらもむべなることとして受け入れられて、基本、世の中で大きな顔を
できるようなことはないのだと自認できるのであれば、浄土教徒であればよい。
とはいえ武家時代というものからして、日本の時代区分の内では中高度の
乱世に当たる。誰も彼もが他力本位であるが故に引っ切り無しの戦乱状態を
続けて来た聖書圏などと比べれば、江戸時代のようにそれなりの平定が行き
届いた時代もあったわけだが、それでも武士が大小二本の佩刀などを頼りに
百姓町人を締め上げていた点などは、それなりに剣呑な点だったといえる。
自力本位と他力本位が絶妙な融和を果たしていた平安時代のような時代に
おいてこそ、真に天下万人の和睦が実現されもする。最高級の理想としては
それこそを目指すべきであり、そのためにも他力本願の一人歩きや大勢力化
などはできる限り引き止めて行くようにしなければならない。浄土経の分量
などは些少なものであるし、その内容も華厳経を始めとする聖道門の経典の
裏打ちがあればこそのものであるのだから、なるべくなら、総合的な仏教帰依
の一要素止まりであるのに越したことはない。無論、そうであるのが可能で
ある程度に、暴力的な社会統治が控えられるようにもしなければならない。
「其の身正しければ、令せずとも行わる。
其の身正しからざれば、令すと雖も従わず」
「自分の身が正しければ、命令したりしなくとも自然とその言説が行われる。
自分の身が正しいのでなければ、たとえ命令しようとも従われることはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・六より)
おいてこそ、真に天下万人の和睦が実現されもする。最高級の理想としては
それこそを目指すべきであり、そのためにも他力本願の一人歩きや大勢力化
などはできる限り引き止めて行くようにしなければならない。浄土経の分量
などは些少なものであるし、その内容も華厳経を始めとする聖道門の経典の
裏打ちがあればこそのものであるのだから、なるべくなら、総合的な仏教帰依
の一要素止まりであるのに越したことはない。無論、そうであるのが可能で
ある程度に、暴力的な社会統治が控えられるようにもしなければならない。
「其の身正しければ、令せずとも行わる。
其の身正しからざれば、令すと雖も従わず」
「自分の身が正しければ、命令したりしなくとも自然とその言説が行われる。
自分の身が正しいのでなければ、たとえ命令しようとも従われることはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・六より)
カルトは、人の道を踏み外した愚人にとってのご都合主義を追認してくれる
ような能弁を架空の神に偽託することで、自分たちの信仰対象とする神にある
種の魅力を伴わせる。それは、人道を堅実に守り通している常人にとっては
全く以って魅力的でも何でもない、稚拙な言葉遊びにしか映らないわけだが、
実際に道を踏み外している人間や、アウトローに憧れるような未熟な精神性の
持ち主などにとっては、一種独特の面白味を帯びて見えるものとなるのである。
殺人や強盗や詐欺のような、あからさまな非行が原因でのドロップアウトを
温かく受け入れてくれるようなご都合主義はまだ序の口であり、もっと巧妙な
組織犯罪だとか、精神面におけるサイコパスの助長だとかまでもが本格派の
カルトでは追認の対象とされる。だからこそ、あからさまな民間犯罪ぐらいは
取締りの対象とされる法治社会などにおいても、信者の道徳的退廃を容認して
助長するような類いのカルト信仰の存続が許容されてしまったりもするのである。
法律違反の犯罪行為から、それを上回るような権力犯罪行為(権力者こそが法律
をも取り決めるので、法律違反であるとも限らないし、違反だとしても権力者の
横暴によって処罰が反故にされたりする)、それには至らないような内心面の
罪に至るまで、程度の如何に限らないあらゆる罪悪を許容する類いのカルトとも
なれば、これはもはや法律によって裁ききれたりするものでもない。公権力者が
作為で規定する法律に基づく犯罪行為などとは違う次元の罪悪までをも取り扱いの
対象としているわけでから、到底法官などによって取り締まり切れるものではない。
人の道を煩瑣な法文などではなく、逼迫した言葉でありのままに捉えているのが
仁義道徳の教条であればこそ、道徳統治を全国規模で敷くことだけが、法律違反に
限らぬ罪悪一般を許容しようとするカルト信仰の蔓延を防ぎ止めることができる。
そのような教条の宝庫である四書五経などの儒書自体、到底愚人が親しめるような
内容ではないわけだけれども、それも愚人にとってこそ魅力的に映るカルトの
教条とは真逆の内容でこそあるわけだから、甘美な猛毒への特効薬であるが故に
こそ苦ったらしいこともまた、確信的な甘受の対象とされて行かねばならない。
ような能弁を架空の神に偽託することで、自分たちの信仰対象とする神にある
種の魅力を伴わせる。それは、人道を堅実に守り通している常人にとっては
全く以って魅力的でも何でもない、稚拙な言葉遊びにしか映らないわけだが、
実際に道を踏み外している人間や、アウトローに憧れるような未熟な精神性の
持ち主などにとっては、一種独特の面白味を帯びて見えるものとなるのである。
殺人や強盗や詐欺のような、あからさまな非行が原因でのドロップアウトを
温かく受け入れてくれるようなご都合主義はまだ序の口であり、もっと巧妙な
組織犯罪だとか、精神面におけるサイコパスの助長だとかまでもが本格派の
カルトでは追認の対象とされる。だからこそ、あからさまな民間犯罪ぐらいは
取締りの対象とされる法治社会などにおいても、信者の道徳的退廃を容認して
助長するような類いのカルト信仰の存続が許容されてしまったりもするのである。
法律違反の犯罪行為から、それを上回るような権力犯罪行為(権力者こそが法律
をも取り決めるので、法律違反であるとも限らないし、違反だとしても権力者の
横暴によって処罰が反故にされたりする)、それには至らないような内心面の
罪に至るまで、程度の如何に限らないあらゆる罪悪を許容する類いのカルトとも
なれば、これはもはや法律によって裁ききれたりするものでもない。公権力者が
作為で規定する法律に基づく犯罪行為などとは違う次元の罪悪までをも取り扱いの
対象としているわけでから、到底法官などによって取り締まり切れるものではない。
人の道を煩瑣な法文などではなく、逼迫した言葉でありのままに捉えているのが
仁義道徳の教条であればこそ、道徳統治を全国規模で敷くことだけが、法律違反に
限らぬ罪悪一般を許容しようとするカルト信仰の蔓延を防ぎ止めることができる。
そのような教条の宝庫である四書五経などの儒書自体、到底愚人が親しめるような
内容ではないわけだけれども、それも愚人にとってこそ魅力的に映るカルトの
教条とは真逆の内容でこそあるわけだから、甘美な猛毒への特効薬であるが故に
こそ苦ったらしいこともまた、確信的な甘受の対象とされて行かねばならない。
仁徳統治によるカルトの根絶も、徹底されれば江戸時代の日本の如き
一種独特の世相を招くこととなるわけで、夫唱婦随や政商分離の徹底された
その在り方が、女子供や小人などにとってはかえって都合の悪いこととも
なるわけである。そうなれば、その先にこそ、是非善悪の分別ばかりを
徹底しようとする儒家以上にも高度な、仏門や道家の教学すらをも流布して
行くようにして、ある種のガス抜きを講じて行くようにもしたほうがよい。
昨今の洋学系の仏教学者などの中には、「仏教教義の本旨は『縁起』である」
などと強弁する者が居たりもする。縁起もまた一つの仏法であるには違いないが、
現象にまつわる教条であるが故に、それを超えた「生滅滅已(涅槃経)」の
境地こそを尊ぶより高度な見地からすれば、必ずしも最重要の概念とまで言える
わけではない。にもかかわらず洋学者が仏教教義中の「縁起」という理念を
至上命題にしたがったのは、自分たちが是認しているカルトのご都合主義を
仏教によってですら正当化してやりたかったからであるのに違いない。
道家の無為自然とも似通って、仏法に基づく縁起もまた、人間の作為を超越した
所にこそあるものである。信者の害為を喚起して、実際に罪悪の増長を促す
カルトの所業などは、全く以って縁起という理念によって正当化されたりするに
値するものなどではないし、どちらかといえば悪因苦果によってカルト全体が
丸ごと致命的な破滅に陥ることのほうが、カルトの信者が救われたりすること
よりもよっぽど、仏法上のものとしての縁起に適った結実となるのに違いない。
仏教教義の一部すらもが、上記のような形でカルト容認の材料として悪用されたり
することもあり得るからには、カルトをこの世から根絶し尽くすその瞬間までは、
仏門を本格的に再興して行くことなども控えたほうがいいだろう。仏法と比べれば
遥かに程度も低いが、代わりにカルトがつけ入るような隙を一切持ち合わせて
いない儒家の教学のみに即して、まずはカルト根絶こそを急務とすべきである。
カルトを許容するような分際で、仏法を一人前に分かった気になるようなことも
決してあるべきではないのだと、現職の洋学者なぞも重々に思い知るべきである。
一種独特の世相を招くこととなるわけで、夫唱婦随や政商分離の徹底された
その在り方が、女子供や小人などにとってはかえって都合の悪いこととも
なるわけである。そうなれば、その先にこそ、是非善悪の分別ばかりを
徹底しようとする儒家以上にも高度な、仏門や道家の教学すらをも流布して
行くようにして、ある種のガス抜きを講じて行くようにもしたほうがよい。
昨今の洋学系の仏教学者などの中には、「仏教教義の本旨は『縁起』である」
などと強弁する者が居たりもする。縁起もまた一つの仏法であるには違いないが、
現象にまつわる教条であるが故に、それを超えた「生滅滅已(涅槃経)」の
境地こそを尊ぶより高度な見地からすれば、必ずしも最重要の概念とまで言える
わけではない。にもかかわらず洋学者が仏教教義中の「縁起」という理念を
至上命題にしたがったのは、自分たちが是認しているカルトのご都合主義を
仏教によってですら正当化してやりたかったからであるのに違いない。
道家の無為自然とも似通って、仏法に基づく縁起もまた、人間の作為を超越した
所にこそあるものである。信者の害為を喚起して、実際に罪悪の増長を促す
カルトの所業などは、全く以って縁起という理念によって正当化されたりするに
値するものなどではないし、どちらかといえば悪因苦果によってカルト全体が
丸ごと致命的な破滅に陥ることのほうが、カルトの信者が救われたりすること
よりもよっぽど、仏法上のものとしての縁起に適った結実となるのに違いない。
仏教教義の一部すらもが、上記のような形でカルト容認の材料として悪用されたり
することもあり得るからには、カルトをこの世から根絶し尽くすその瞬間までは、
仏門を本格的に再興して行くことなども控えたほうがいいだろう。仏法と比べれば
遥かに程度も低いが、代わりにカルトがつけ入るような隙を一切持ち合わせて
いない儒家の教学のみに即して、まずはカルト根絶こそを急務とすべきである。
カルトを許容するような分際で、仏法を一人前に分かった気になるようなことも
決してあるべきではないのだと、現職の洋学者なぞも重々に思い知るべきである。
「(周公が君陳に)爾、頑に忿疾すること無かれ、備わるを一夫に求むるひと無かれ。
必ず忍ぶこと有れば其れ乃ち済する有り、容るること有れば、徳乃ち大なり。(既出)」
「頑なで暗愚な相手に対しても腹を立てたり憎んだりしてはならない。何もかもが一人に
備わっていることなどを期待してはならない。ぐっと耐え忍んでいればきっと済度される
こともある。寛容であれば徳も広大となる。(頑迷な相手までをも包摂するのが徳治である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
「惟れ周公、先王に左右し、厥の家を綏んじ定め、
殷の頑民をつつしみ、洛邑に遷し、王室に密邇し、式て厥の訓えに化さしむ」
「周公は先王の左右に侍して王家を安んじられた。殷の頑迷な民たちにもよく気を配り、
周の都である洛邑にあえて移住させ、王室と密接に関わらせて、念入りな教化を施した。
(上の引用を見ても分かる通り、周公の徳治は頑民に至るまで満遍なかったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
必ず忍ぶこと有れば其れ乃ち済する有り、容るること有れば、徳乃ち大なり。(既出)」
「頑なで暗愚な相手に対しても腹を立てたり憎んだりしてはならない。何もかもが一人に
備わっていることなどを期待してはならない。ぐっと耐え忍んでいればきっと済度される
こともある。寛容であれば徳も広大となる。(頑迷な相手までをも包摂するのが徳治である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
「惟れ周公、先王に左右し、厥の家を綏んじ定め、
殷の頑民をつつしみ、洛邑に遷し、王室に密邇し、式て厥の訓えに化さしむ」
「周公は先王の左右に侍して王家を安んじられた。殷の頑迷な民たちにもよく気を配り、
周の都である洛邑にあえて移住させ、王室と密接に関わらせて、念入りな教化を施した。
(上の引用を見ても分かる通り、周公の徳治は頑民に至るまで満遍なかったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
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