サイズが 480KB を超えています。500KB を超えると書きこめなくなるよ。
聖書 Part13
▼ページ最下部
全世界、全人類にとっての最も模範的な聖書たる儒学の聖書=四書五経こそは、あまりにも
程度が高過ぎるために、人類一般が模範とするのは無理があるようなより高尚な教学や、
その手の教学の聖書を理解して体得して行く上での架け橋的な役割すらをも担えるものである。
道家の老荘列思想やヒンズー教の教え、日本神道の精髄などを理解する上での架け橋ともなるし、
世界でも最優等の教理を有する仏門の教えを学んで行く上での素地ともなるものである。
(そのため、弘法大師も最初期の著書である「三教指帰」から教理大成の書である「十住心論」
に至るまで、四書五経を含む儒学の教えを縦横無尽に引き合いに出したりもしている)
それらのより優等な教学と、「低くて親しみやすい」儒学の教理とが必ずしも
相容れているとは限らない。特に、儒学における忠孝の理念と、仏門の出家主義志向
などが決して相容れるものではなく、そのため宋儒の朱子らが一時は禅門に傾倒
しながらも、最終的には仏門を異端排撃の対象とするなどしてしまったのだった。
中国発祥の儒学とインド発祥の仏教とは、いずれにとっても遠征地となるこの日本においてこそ、
ほぼ全く矛盾を来さない形での融和を果たした。儒学は朝廷や幕府や、一家の後取りとなる
長男らがより重んじた一方で、仏門は養子先もないような次男三男や嫁ぎ先のない女子などが
出家先とした。それにより、個々の家門が厳重に尊ばれながらも、人口管理もまたそれなりに
行き届くといった、非常にバランスの取れた社会体制が実現されたのだった。(明治期
の廃仏毀釈や儒学の簡素化以降はこの均衡が破れたために、国土に不相応な人口爆発や、
その副作用としての食糧自給率の低下や少子高齢化といった大問題を招くこととなった)

程度が高過ぎるために、人類一般が模範とするのは無理があるようなより高尚な教学や、
その手の教学の聖書を理解して体得して行く上での架け橋的な役割すらをも担えるものである。
道家の老荘列思想やヒンズー教の教え、日本神道の精髄などを理解する上での架け橋ともなるし、
世界でも最優等の教理を有する仏門の教えを学んで行く上での素地ともなるものである。
(そのため、弘法大師も最初期の著書である「三教指帰」から教理大成の書である「十住心論」
に至るまで、四書五経を含む儒学の教えを縦横無尽に引き合いに出したりもしている)
それらのより優等な教学と、「低くて親しみやすい」儒学の教理とが必ずしも
相容れているとは限らない。特に、儒学における忠孝の理念と、仏門の出家主義志向
などが決して相容れるものではなく、そのため宋儒の朱子らが一時は禅門に傾倒
しながらも、最終的には仏門を異端排撃の対象とするなどしてしまったのだった。
中国発祥の儒学とインド発祥の仏教とは、いずれにとっても遠征地となるこの日本においてこそ、
ほぼ全く矛盾を来さない形での融和を果たした。儒学は朝廷や幕府や、一家の後取りとなる
長男らがより重んじた一方で、仏門は養子先もないような次男三男や嫁ぎ先のない女子などが
出家先とした。それにより、個々の家門が厳重に尊ばれながらも、人口管理もまたそれなりに
行き届くといった、非常にバランスの取れた社会体制が実現されたのだった。(明治期
の廃仏毀釈や儒学の簡素化以降はこの均衡が破れたために、国土に不相応な人口爆発や、
その副作用としての食糧自給率の低下や少子高齢化といった大問題を招くこととなった)

※省略されてます すべて表示...
インド神話の三神一体よろしく、関数の極限の発散・収束・振動への大別よろしく、
あらゆる現象は破壊と創造と維持の三つの志向性によって成り立っている。
人間が形作る世の中もまたこの三つの志向性に司られていて、この三つが調和
している世の中こそは健全性を保つ一方、三つの調和が損なわれた世の中こそは
不健全さを増して、最悪の場合には亡国級の破綻を招くこととなるのである。
破壊と創造と維持の調和が損なわれた結果として、まず維持が調和から脱落する。
極端な破壊と創造によって世の中が支配されるのが低度の乱世であり、中原の
面積規模での開発が急進して行った春秋時代の中国だとか、最上級の日本刀や
それを用いた武芸が発達した鎌倉期〜室町期の日本だとかがそれに当たる。
さらに調和が損なわれた結果として、今度は創造が脱落する。世の中全体が
破壊を基調とした最悪の乱世となり、人々も飢えや戦乱に常日頃から苛まれる
こととなる。それこそ、戦国時代の中国だとか日本だとかがその典型例であり、
将兵の武勇伝が乱造されるぐらいのことしか、見るべき所もなくなってしまう。
中国大陸だとか日本列島だとかが一定以内で閉じられた社会であったものだから、
戦国状態が極まった結果として、中国も日本も歴史的な撥乱反正を余儀なくされた。
項羽や信長による極度の破壊行為と、始皇帝や秀吉による極度の文明的創造とで
戦乱状態にけりがつけられ、後には劉邦や徳川家康のような穏健さを本分とする
最終勝利者が残って、新たに平和な世の中を築き上げて行くこととなった。
中国の春秋時代や日本の武家時代初中期のような破壊と創造の入り混じる時代と、
戦国時代のような破壊まみれの時代とであれば、罪悪を無制限に許し続ける聖書圏
の人間といえどもある程度は享受することができる。実際、欧米聖書圏の歴史と
いうのは、破壊と創造の両輪状態か、もしくは破壊一辺倒であるかのどちらかで
あり続けて来たわけで、だからこそ文明発展にかけても先進的でいられたのだった。
あらゆる現象は破壊と創造と維持の三つの志向性によって成り立っている。
人間が形作る世の中もまたこの三つの志向性に司られていて、この三つが調和
している世の中こそは健全性を保つ一方、三つの調和が損なわれた世の中こそは
不健全さを増して、最悪の場合には亡国級の破綻を招くこととなるのである。
破壊と創造と維持の調和が損なわれた結果として、まず維持が調和から脱落する。
極端な破壊と創造によって世の中が支配されるのが低度の乱世であり、中原の
面積規模での開発が急進して行った春秋時代の中国だとか、最上級の日本刀や
それを用いた武芸が発達した鎌倉期〜室町期の日本だとかがそれに当たる。
さらに調和が損なわれた結果として、今度は創造が脱落する。世の中全体が
破壊を基調とした最悪の乱世となり、人々も飢えや戦乱に常日頃から苛まれる
こととなる。それこそ、戦国時代の中国だとか日本だとかがその典型例であり、
将兵の武勇伝が乱造されるぐらいのことしか、見るべき所もなくなってしまう。
中国大陸だとか日本列島だとかが一定以内で閉じられた社会であったものだから、
戦国状態が極まった結果として、中国も日本も歴史的な撥乱反正を余儀なくされた。
項羽や信長による極度の破壊行為と、始皇帝や秀吉による極度の文明的創造とで
戦乱状態にけりがつけられ、後には劉邦や徳川家康のような穏健さを本分とする
最終勝利者が残って、新たに平和な世の中を築き上げて行くこととなった。
中国の春秋時代や日本の武家時代初中期のような破壊と創造の入り混じる時代と、
戦国時代のような破壊まみれの時代とであれば、罪悪を無制限に許し続ける聖書圏
の人間といえどもある程度は享受することができる。実際、欧米聖書圏の歴史と
いうのは、破壊と創造の両輪状態か、もしくは破壊一辺倒であるかのどちらかで
あり続けて来たわけで、だからこそ文明発展にかけても先進的でいられたのだった。
ただ、中国や日本の戦国状態がある時期に極まってそれ以上の発展のしようが
なくなったのと同じように、聖書圏が破壊と創造もしくは破壊だけを念頭に置く
ようなペースでの文明発展を続けて行く余地も、この地球上になくなってしまった。
文明的創造による発展はすでに天井打ちとなり、次の破壊は核大戦のみと来ている。
それでもう、聖書圏を含む全世界が、破壊と創造の両方を超克するほどもの維持に
頼るしかない事態となっている。世界規模での漢王朝や徳川幕府の再来を否応なく
欲せざるを得ない事態となっているわけだが、両政権も儒学を統治理念としていた
通り、そこでは仁義道徳に基づく体系的な統治が執り行われていくこととなる。
儒学統治を基調とする以上は、儒学教理に決定的に相反する邪教邪学を排して
行かねばならず、その急先鋒が聖書信仰でこそあるというのはもう幾度も述べて
来たことであるけれども、聖書信仰が現象を司る志向性である破壊・創造・維持の
内の維持を決定的に損なわしめるものであるからこそ、維持を基調とした社会統治
のために聖書信仰の根絶が必須となる理由もまた、以上の如くであるといえる。
漢代の中国でも覇王項羽の四面楚歌時の奮闘が英雄的に取り沙汰されたり、江戸
時代の日本でも武田信玄が武神的な存在として崇められたりしていた通り、維持を
主体とし始めた時代といえども、破壊や創造といった要素を排し去るのではない。
それら三つの要素の調和こそが図られて行くのであり、そのためにこそ、破壊者や
創造者と比べれば立場の弱くなりやすい維持者こそが社会統治の主体にすらなって
行く。これは一種のカウンターバランスの補完であり、決して維持者が何もかもを
征服し尽くすことなどを意味してはいないのだから、今まで維持者こそが支配者
となったようなことのない西洋人などが、それを恐れたりする必要もないのである。
なくなったのと同じように、聖書圏が破壊と創造もしくは破壊だけを念頭に置く
ようなペースでの文明発展を続けて行く余地も、この地球上になくなってしまった。
文明的創造による発展はすでに天井打ちとなり、次の破壊は核大戦のみと来ている。
それでもう、聖書圏を含む全世界が、破壊と創造の両方を超克するほどもの維持に
頼るしかない事態となっている。世界規模での漢王朝や徳川幕府の再来を否応なく
欲せざるを得ない事態となっているわけだが、両政権も儒学を統治理念としていた
通り、そこでは仁義道徳に基づく体系的な統治が執り行われていくこととなる。
儒学統治を基調とする以上は、儒学教理に決定的に相反する邪教邪学を排して
行かねばならず、その急先鋒が聖書信仰でこそあるというのはもう幾度も述べて
来たことであるけれども、聖書信仰が現象を司る志向性である破壊・創造・維持の
内の維持を決定的に損なわしめるものであるからこそ、維持を基調とした社会統治
のために聖書信仰の根絶が必須となる理由もまた、以上の如くであるといえる。
漢代の中国でも覇王項羽の四面楚歌時の奮闘が英雄的に取り沙汰されたり、江戸
時代の日本でも武田信玄が武神的な存在として崇められたりしていた通り、維持を
主体とし始めた時代といえども、破壊や創造といった要素を排し去るのではない。
それら三つの要素の調和こそが図られて行くのであり、そのためにこそ、破壊者や
創造者と比べれば立場の弱くなりやすい維持者こそが社会統治の主体にすらなって
行く。これは一種のカウンターバランスの補完であり、決して維持者が何もかもを
征服し尽くすことなどを意味してはいないのだから、今まで維持者こそが支配者
となったようなことのない西洋人などが、それを恐れたりする必要もないのである。
「君子の礼に於けるや、〜曲にして殺ぐこと有り」
「君子といえども礼を実践する場合に、あえて正式を曲げて殺ぐようなことがある。
(たとえば、逆縁で母が父よりも先に亡くなった場合に、父の気持ちを慮ってあえて
短期かつ簡素な喪に服したりする。この世に絶対にこれだけが正しいなどという取り決め
もあり得ないのだから、些細な過ちに打ちひしがれたりするのも大概にすべきだといえる。
またそれでこそ、絶対に許すべきでないような大罪の見分けも付くようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
「君子といえども礼を実践する場合に、あえて正式を曲げて殺ぐようなことがある。
(たとえば、逆縁で母が父よりも先に亡くなった場合に、父の気持ちを慮ってあえて
短期かつ簡素な喪に服したりする。この世に絶対にこれだけが正しいなどという取り決め
もあり得ないのだから、些細な過ちに打ちひしがれたりするのも大概にすべきだといえる。
またそれでこそ、絶対に許すべきでないような大罪の見分けも付くようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
愛は愛で、俗世に生きる人間にとっての欠くべからざる要素の一つではあるが、
決してそればかりが俗人にとっての全てでもない。むしろ、愛や憎しみを
超えた所にある冷徹な分別などのほうが、世の中を主導的に司っていく
立場にある大人の男などにとっては、より重視されて然るべきものともなる。
とはいえもちろん、大人の男といえども、愛する妻子を養いつつ俗世の事業に
携わって行ったりするわけで、冷徹な分別に根ざした徳行ばかりに専念して
行くこともなかなか難しいこととなる。だからこそ、儒学においては妻子
への情愛以上にも親や主君への恭敬を優先させるように促すし、仏教に至るや、
愛欲を完全に断ち切った出家者への崇敬すらをも奨励する。それでこそ、
片手間程度には妻子を愛することも必要となる大人の男の主導する世の中が、
愛欲にたぶらかされたせいでの汚濁にまみれたりするようなこともなくて
済むようになるためのカウンターバランスが補完されるのである。
凡そ、人間が自分たちの高潔な思想信条上の理念として据えるべきものに
あたるのが、愛欲の妄りな増長を控えさせたり捨てさせたりする志向性である。
人間とてサルから進化した半動物であるわけだから、愛欲なんてわざわざ
文化文明によって増強されたりしなくとも、いくらでも沸いてくるものである。
むしろそこからの愛欲の暴走こそが、文化文明を構築して行く能力のある
「万物の霊長」たる人間としての品位を損ねる暴慢を来たしてしまったり
することのほうが問題であるわけだから、人間が人間としてのより一層の
向上を目指して行くからには、愛欲を増すよりはむしろ控えて行くことの
ほうに重きが置かれて行くのが、ごく自然な流れとなっていくわけである。
人間もまた動物であるからには、愛欲を完全に断ち切るのも半ば不可能に等しい
ことであるのもまた間違いない。なればこそ、その愛欲を完全に断ち切るぐらいの
心意気と共に精進を積んで行くことが、ちょうどいい塩梅ともなる。原始時代に、
洞窟を住居としていた原始人の男が、洞窟の中では女と愛し合って子供を作っ
たりもした一方で、洞窟を出るや猛獣などとも勇敢に戦って、収穫を得ては住居
決してそればかりが俗人にとっての全てでもない。むしろ、愛や憎しみを
超えた所にある冷徹な分別などのほうが、世の中を主導的に司っていく
立場にある大人の男などにとっては、より重視されて然るべきものともなる。
とはいえもちろん、大人の男といえども、愛する妻子を養いつつ俗世の事業に
携わって行ったりするわけで、冷徹な分別に根ざした徳行ばかりに専念して
行くこともなかなか難しいこととなる。だからこそ、儒学においては妻子
への情愛以上にも親や主君への恭敬を優先させるように促すし、仏教に至るや、
愛欲を完全に断ち切った出家者への崇敬すらをも奨励する。それでこそ、
片手間程度には妻子を愛することも必要となる大人の男の主導する世の中が、
愛欲にたぶらかされたせいでの汚濁にまみれたりするようなこともなくて
済むようになるためのカウンターバランスが補完されるのである。
凡そ、人間が自分たちの高潔な思想信条上の理念として据えるべきものに
あたるのが、愛欲の妄りな増長を控えさせたり捨てさせたりする志向性である。
人間とてサルから進化した半動物であるわけだから、愛欲なんてわざわざ
文化文明によって増強されたりしなくとも、いくらでも沸いてくるものである。
むしろそこからの愛欲の暴走こそが、文化文明を構築して行く能力のある
「万物の霊長」たる人間としての品位を損ねる暴慢を来たしてしまったり
することのほうが問題であるわけだから、人間が人間としてのより一層の
向上を目指して行くからには、愛欲を増すよりはむしろ控えて行くことの
ほうに重きが置かれて行くのが、ごく自然な流れとなっていくわけである。
人間もまた動物であるからには、愛欲を完全に断ち切るのも半ば不可能に等しい
ことであるのもまた間違いない。なればこそ、その愛欲を完全に断ち切るぐらいの
心意気と共に精進を積んで行くことが、ちょうどいい塩梅ともなる。原始時代に、
洞窟を住居としていた原始人の男が、洞窟の中では女と愛し合って子供を作っ
たりもした一方で、洞窟を出るや猛獣などとも勇敢に戦って、収穫を得ては住居
に帰って行ったようにして、愛を貪る場とはまた別のものとしての、勇猛な挺身
の場を得て、むしろそこでこそ人間としての社会的な事業にすら取り組んで行く。
それが元来からの人間としての模範的なあり方に沿った姿ともなっている。
「愛のない世界」などというものを企図して、愛欲を断つ思想信条を本是
として行くのではない。むしろ、巷に出回る愛が適正化されるためにこそ、
愛欲のバランサーとしての制欲系の思想信条こそが優先的に推し進められて行く。
それが成功していたのが、たとえば平安時代の日本社会などであり、世の中
総出を挙げての仏門帰依による愛欲の節制が行き届いていればこそ、当時の
数多の女流文学などに半ば過剰気味にすら描かれているような恋愛物語の
ネタとなるような男女の睦みというものが実現されていたのでもある。
むしろそこにこそ、品性ある人間ならではの魅力的な恋愛絵巻が展開されても
行く。十分に愛欲が節制されているからこそ、獣のような醜さでもないし、逆に
その醜さを覆い隠すような浮ついた修辞で、下手に愛を着飾ったりもしていない。
そういった洗練された恋愛模様を追い求めればこそ、制欲を促す類いの思想信条
を尊んで行くということもあるわけで、「愛があるか、ないか」なんていう極論
を超えた中庸の域に達せられる者こそが、その価値をも計り知れるのである。
「愛を貪るは不祥なり、鄰りを怒らすは不義なり」
「自分たちばかりの愛着のために財を貪るのは不祥というものであり、
そのせいで隣国を怒らせたりするのは不義というものだ。(秦が飢饉と
なった時に晋国が援助を出し惜しみしたために、晋国の大夫である慶鄭が
恵公に奏上した言葉。恵公はこの言い分を聞き入れず秦に援助を送らなかった
ため秦人の怨みを買い、後の戦いで秦に大敗して捕虜となった。隣人関係以上
に隣国との関係を重視することは、国際戦略上からして時に必要なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十四年より)
の場を得て、むしろそこでこそ人間としての社会的な事業にすら取り組んで行く。
それが元来からの人間としての模範的なあり方に沿った姿ともなっている。
「愛のない世界」などというものを企図して、愛欲を断つ思想信条を本是
として行くのではない。むしろ、巷に出回る愛が適正化されるためにこそ、
愛欲のバランサーとしての制欲系の思想信条こそが優先的に推し進められて行く。
それが成功していたのが、たとえば平安時代の日本社会などであり、世の中
総出を挙げての仏門帰依による愛欲の節制が行き届いていればこそ、当時の
数多の女流文学などに半ば過剰気味にすら描かれているような恋愛物語の
ネタとなるような男女の睦みというものが実現されていたのでもある。
むしろそこにこそ、品性ある人間ならではの魅力的な恋愛絵巻が展開されても
行く。十分に愛欲が節制されているからこそ、獣のような醜さでもないし、逆に
その醜さを覆い隠すような浮ついた修辞で、下手に愛を着飾ったりもしていない。
そういった洗練された恋愛模様を追い求めればこそ、制欲を促す類いの思想信条
を尊んで行くということもあるわけで、「愛があるか、ないか」なんていう極論
を超えた中庸の域に達せられる者こそが、その価値をも計り知れるのである。
「愛を貪るは不祥なり、鄰りを怒らすは不義なり」
「自分たちばかりの愛着のために財を貪るのは不祥というものであり、
そのせいで隣国を怒らせたりするのは不義というものだ。(秦が飢饉と
なった時に晋国が援助を出し惜しみしたために、晋国の大夫である慶鄭が
恵公に奏上した言葉。恵公はこの言い分を聞き入れず秦に援助を送らなかった
ため秦人の怨みを買い、後の戦いで秦に大敗して捕虜となった。隣人関係以上
に隣国との関係を重視することは、国際戦略上からして時に必要なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十四年より)
「狎れ侮るものは死するまで畏れざるなり(既出)」
「馴れ合って人を侮ろうとするものは死ぬまで他者を畏れるようなことがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
一定以上の濁念にまみれた人間が、自らの畏敬心や警戒心を損ねてしまうということは、
何もカルト信仰などに即さなくとも普遍的にあり得ることである。秦の宰相呂不韋が
商売人上がりの分際で、自らの私生児に秦の王統を簒奪させたことなども、本人の
何ものをも恐れない思い上がりこそがそうさせたのである。政商のような不正な身分で、
食客のような不正規な手下を多数囲い込んでのお山の大将気取りでいたことが本人の
濁念を致命的に増長させて、世界史上でも屈指の大権力犯罪にすら至らせたのだった。
それ程もの致命的な濁念に見舞われてしまった人間というのは、本当に死ぬまで
更生の機会も得られぬままに終わってしまうことが多い。社会的な状況からして、
本人たちに改悛の機会を与えてやるようなことが皆無と化してしまうために、
入獄や強制治療などの適切な措置すら被れば存命中の更生も可能だったりする
にもかかわらず、そのような機会を得られずに無残な最期を遂げてしまったりする。
それも、別に偶然だったりするのではない。呂不韋らが主体となって創立した秦帝国が
封建制を廃して一君万民の完全独裁体制を敷き、誰一人として体制に楯突ける余地も
ないような状況をあえて招いたようにして、濁念に囚われた本人たち自身が他者からの
矯正に与る余地を奪い去ってしまうからこそ、そうなる。その結果として、内部腐敗が
原因での体制ごとの自滅を招いて、亡国級の末路を辿ることにすらなってしまうのである。
上の呂不韋の事例一つを取っても、王統の権威を畏怖したり、権力犯罪の非道さに動揺
したりすることのほうがむしろ、人間としての自己防衛本能の発露であることが分かる。
ただただ何もかもを恐がる怯懦さなども、それはそれで問題を来たしたりするものだが、
本当に畏れ謹むべきものを畏れ謹むことだけは確かに、自分自身がより無難かつ上等な
運命に与って行くための手段として健全に有用であることが分かるわけである。
「馴れ合って人を侮ろうとするものは死ぬまで他者を畏れるようなことがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
一定以上の濁念にまみれた人間が、自らの畏敬心や警戒心を損ねてしまうということは、
何もカルト信仰などに即さなくとも普遍的にあり得ることである。秦の宰相呂不韋が
商売人上がりの分際で、自らの私生児に秦の王統を簒奪させたことなども、本人の
何ものをも恐れない思い上がりこそがそうさせたのである。政商のような不正な身分で、
食客のような不正規な手下を多数囲い込んでのお山の大将気取りでいたことが本人の
濁念を致命的に増長させて、世界史上でも屈指の大権力犯罪にすら至らせたのだった。
それ程もの致命的な濁念に見舞われてしまった人間というのは、本当に死ぬまで
更生の機会も得られぬままに終わってしまうことが多い。社会的な状況からして、
本人たちに改悛の機会を与えてやるようなことが皆無と化してしまうために、
入獄や強制治療などの適切な措置すら被れば存命中の更生も可能だったりする
にもかかわらず、そのような機会を得られずに無残な最期を遂げてしまったりする。
それも、別に偶然だったりするのではない。呂不韋らが主体となって創立した秦帝国が
封建制を廃して一君万民の完全独裁体制を敷き、誰一人として体制に楯突ける余地も
ないような状況をあえて招いたようにして、濁念に囚われた本人たち自身が他者からの
矯正に与る余地を奪い去ってしまうからこそ、そうなる。その結果として、内部腐敗が
原因での体制ごとの自滅を招いて、亡国級の末路を辿ることにすらなってしまうのである。
上の呂不韋の事例一つを取っても、王統の権威を畏怖したり、権力犯罪の非道さに動揺
したりすることのほうがむしろ、人間としての自己防衛本能の発露であることが分かる。
ただただ何もかもを恐がる怯懦さなども、それはそれで問題を来たしたりするものだが、
本当に畏れ謹むべきものを畏れ謹むことだけは確かに、自分自身がより無難かつ上等な
運命に与って行くための手段として健全に有用であることが分かるわけである。
一度でも、人々が社会規模で何ものをも恐れないでいる程の濁念に囚われてしまえば、
そこから世の中を健全な畏敬心の通用する状態へと持ち直して行くことも、なかなか
困難なこととなる。春秋戦国時代と秦代における権力者の横暴によって多くの人々
が濁念に囚われてしまった中国などでは、後の漢代や唐宋代にそれなりの世相の改善
が試みられたが、それでも完全な矯正までは不可能であったために、今に至るまで、
一定以上の人数の中国人がならず者然とした性向を帯びたままでいてしまっている。
中国で、濁念に囚われた人間の十分な矯正が覚束なかったのは、一定以上に世相が
汚濁化してしまって後にも相変わらず文治優位軍政劣位の体制であり続けたからだった。
日本などでは、平安末期に致命的な政治腐敗を来たして後には武家政権が発足し、能動
的な武力行使による、濁念に囚われた人間の強制的な粛清にすら及んでいたものだから、
一部の地域などを除いて、人々の精神汚染が一定以上に深刻化することがなくて済んだ。
軍事政権といえば、今では陰惨なものの代表格として受け止められている場合が多いが、
日本の武家政権はただ軍力で人々を締め付けるのではなく、何ものをも恐れない人々の
思い上がりを殺ぎ落とした清浄な世の中を保つためという確固たる目的があって運営
されていたものだから、軍力を主体とした中央集権によって権力者が狭隘な栄華を貪っ
たりするような、昨今の軍事政権にありがちな問題性を来たさずにもいられたのだった。
武力行使によってでもなければ、人々の思い上がった濁念の十分な抑制を講じられない
ような事態からして、まず招かないようにすべきものではあるけれども、いったん招か
れてしまった以上は、もはやそうする以外に最善となる道が開かれていないこととなる。
そこで相変わらず中国のような文治優位の体制を保ち続けたならば、そのせいで却って
人々の危うい思い上がりを募らさせてしまうことにすらなるわけだから、時には為政者
があえて刀を手に取ることこそが、人々のためともなることが確かなわけである。
そこから世の中を健全な畏敬心の通用する状態へと持ち直して行くことも、なかなか
困難なこととなる。春秋戦国時代と秦代における権力者の横暴によって多くの人々
が濁念に囚われてしまった中国などでは、後の漢代や唐宋代にそれなりの世相の改善
が試みられたが、それでも完全な矯正までは不可能であったために、今に至るまで、
一定以上の人数の中国人がならず者然とした性向を帯びたままでいてしまっている。
中国で、濁念に囚われた人間の十分な矯正が覚束なかったのは、一定以上に世相が
汚濁化してしまって後にも相変わらず文治優位軍政劣位の体制であり続けたからだった。
日本などでは、平安末期に致命的な政治腐敗を来たして後には武家政権が発足し、能動
的な武力行使による、濁念に囚われた人間の強制的な粛清にすら及んでいたものだから、
一部の地域などを除いて、人々の精神汚染が一定以上に深刻化することがなくて済んだ。
軍事政権といえば、今では陰惨なものの代表格として受け止められている場合が多いが、
日本の武家政権はただ軍力で人々を締め付けるのではなく、何ものをも恐れない人々の
思い上がりを殺ぎ落とした清浄な世の中を保つためという確固たる目的があって運営
されていたものだから、軍力を主体とした中央集権によって権力者が狭隘な栄華を貪っ
たりするような、昨今の軍事政権にありがちな問題性を来たさずにもいられたのだった。
武力行使によってでもなければ、人々の思い上がった濁念の十分な抑制を講じられない
ような事態からして、まず招かないようにすべきものではあるけれども、いったん招か
れてしまった以上は、もはやそうする以外に最善となる道が開かれていないこととなる。
そこで相変わらず中国のような文治優位の体制を保ち続けたならば、そのせいで却って
人々の危うい思い上がりを募らさせてしまうことにすらなるわけだから、時には為政者
があえて刀を手に取ることこそが、人々のためともなることが確かなわけである。
「彼の黍離離たり、彼の稷之れ苗す。
行き邁きて靡靡たり、中心搖搖たり。我れを知る者は、我が心憂うと謂う、
我れを知らざる者は、我れ何をか求めんと謂う。悠悠たる蒼天、此れ何人ぞや」
「(昔周の古都があった土地に)黍が離離として生い茂って穂を垂れ、稷も苗を
生やし始めている。そこを通り過ぎるとき、私は行き去るのが忍びない気持ちに
なり、思わず進む速さを落とした。その心中は半ば動揺しているような有様だった。
その姿を見た人があったなら、私を知る者であれば『ああ、心憂えているのだな』と
思っただろう。私を知らない者であれば『穀物を見つめて、何を欲しがっているの
だろう』などと考えただろう。ああ、悠々たる蒼天よ。誰がこの地をこのようにして
しまったのだろうか。(西周の興亡を嘆く大夫の歌。半ば他人事ではあるけれども、
幽王らの失態によって崩壊してしまった西周の有り様を、心中からの動揺と共に
『人の振り見て我が振り直せ』の材料ともしている、君子としての心がけの描写)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・黍離より)
行き邁きて靡靡たり、中心搖搖たり。我れを知る者は、我が心憂うと謂う、
我れを知らざる者は、我れ何をか求めんと謂う。悠悠たる蒼天、此れ何人ぞや」
「(昔周の古都があった土地に)黍が離離として生い茂って穂を垂れ、稷も苗を
生やし始めている。そこを通り過ぎるとき、私は行き去るのが忍びない気持ちに
なり、思わず進む速さを落とした。その心中は半ば動揺しているような有様だった。
その姿を見た人があったなら、私を知る者であれば『ああ、心憂えているのだな』と
思っただろう。私を知らない者であれば『穀物を見つめて、何を欲しがっているの
だろう』などと考えただろう。ああ、悠々たる蒼天よ。誰がこの地をこのようにして
しまったのだろうか。(西周の興亡を嘆く大夫の歌。半ば他人事ではあるけれども、
幽王らの失態によって崩壊してしまった西周の有り様を、心中からの動揺と共に
『人の振り見て我が振り直せ』の材料ともしている、君子としての心がけの描写)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・黍離より)
東洋史上の、特に正史上における主要な登場人物は、そのほとんどが正規の公権力者
であり、なおかつ順風満帆とまではいえないような人生を送らされた人間のほうが
大立ち回りを演じている場合が多い。それは、数多の君子たちの挺身的な取り組みに
よって世の中が形作られた結果、多くの人々が安寧に与れるようになったことへの
感謝と尊敬の意が込められているからであり、なおかつそのような人々の活躍こそを
前面に押し出して行くことが、その手の人種の尽力があることで初めて健全に成り立って
いける世の中というものを、よりよくして行く上での最善なる姿勢ともなるからである。
中国初の正史である「史記」においては、貨殖列伝において、ただ個人的な栄華に与って
いただけの有名人が記録されていたりするが、より権力道徳的な見地から編纂された
二番目の中国正史である「漢書」などにおいてはそれも廃されて、公権力の興亡のために
一役も二役も買ったような人間ばかりが記録されることとなった。中には王莽のような、
大逆罪を犯した大悪人までもが記録されていたりするわけだが、>>32の墨家に対する孟子
の態度よろしく、それとて公権力者としての志しあるが故に犯した過ちであったことには
変わりなかったわけだから、始めから世のため人のために働くことも放棄して、自分個人の
狭隘な栄華ばかりを貪ろうとする小人などと比べればまだ特筆する余地があったわけである。
世の中が一定以上に大規模化すれば、商売を生業とするような連中の中からどうしたって
小人が生じてしまうこととなる。そのような小人と、世の中全体の責任を負って行こうと
する君子とが居たとして、ただ個人的な安寧に与れる可能性が高いのは、やはり小人の
ほうである。君子はそのような小人を含む、天下万民の安寧を実現して行くためにこそ
命を削るような重責を果たして行くというまでのことなのであって、だからこそ、その
ような人身御供然とした職務に励む君子こそを上位者として崇め、歴史上としての
主人公格として取り扱って行くことがカウンターバランスの補完ともなるわけである。
であり、なおかつ順風満帆とまではいえないような人生を送らされた人間のほうが
大立ち回りを演じている場合が多い。それは、数多の君子たちの挺身的な取り組みに
よって世の中が形作られた結果、多くの人々が安寧に与れるようになったことへの
感謝と尊敬の意が込められているからであり、なおかつそのような人々の活躍こそを
前面に押し出して行くことが、その手の人種の尽力があることで初めて健全に成り立って
いける世の中というものを、よりよくして行く上での最善なる姿勢ともなるからである。
中国初の正史である「史記」においては、貨殖列伝において、ただ個人的な栄華に与って
いただけの有名人が記録されていたりするが、より権力道徳的な見地から編纂された
二番目の中国正史である「漢書」などにおいてはそれも廃されて、公権力の興亡のために
一役も二役も買ったような人間ばかりが記録されることとなった。中には王莽のような、
大逆罪を犯した大悪人までもが記録されていたりするわけだが、>>32の墨家に対する孟子
の態度よろしく、それとて公権力者としての志しあるが故に犯した過ちであったことには
変わりなかったわけだから、始めから世のため人のために働くことも放棄して、自分個人の
狭隘な栄華ばかりを貪ろうとする小人などと比べればまだ特筆する余地があったわけである。
世の中が一定以上に大規模化すれば、商売を生業とするような連中の中からどうしたって
小人が生じてしまうこととなる。そのような小人と、世の中全体の責任を負って行こうと
する君子とが居たとして、ただ個人的な安寧に与れる可能性が高いのは、やはり小人の
ほうである。君子はそのような小人を含む、天下万民の安寧を実現して行くためにこそ
命を削るような重責を果たして行くというまでのことなのであって、だからこそ、その
ような人身御供然とした職務に励む君子こそを上位者として崇め、歴史上としての
主人公格として取り扱って行くことがカウンターバランスの補完ともなるわけである。
君子たる大人の男こそは、命を削るような重責を果たして行く、にもかかわらずでは
なくだからこそ世の中の主人公格として尊重し、正史にもその名を止めさせる。それとは
逆に、女子供や小人男はのんべんだらりと怠惰で無難な生活を送れたままで人生を終える、
にもかかわらずではなくだからこそ脇役扱いとし、正史にその名を載せてやるような
こともない。世の中全体の姿勢がそのようであるということ自体が、満てるものを
損ない謙れるものを益する陰陽法則への準拠となるわけで、この世界この宇宙の全てが
陰陽法則に司られている以上は、人々もまたあえてそうして行くことで、普遍法則に
人為で抗ったがための無様な破綻などを招かないようにして行くべきだといえる。
それは、個々の男女関係などについても同じことである。男のほうが女よりも偉いから
世の中に出て働くべきなのではなく、男のほうが世の中での重労働に従事するに値するから、
その大変さを汲んでより尊んでやるべきなのである。同じように、女のほうが男よりも
卑しいから家内に引き籠っているべきなのではなく、女には重労働をこなす能力がない
から家内での家事や育児に専念すべきである。だから男ほど尊ばれる必要もないという
ことであって、そこにドクマとしての尊卑の差別などが遍在しているわけではない。
君子は小人よりも、男は女よりも尊ばれねばならないといった古くからの慣わしが、
あたかもカルト宗教のドグマのように絶対無謬のものとされているかのように思い込まれた
結果として、その反発で民主主義や男女平等主義が謳われることともなってしまった。
実際にカルト教義のような妄信対象としていたような人間もいたに違いないわけで、
その手の疑念を一掃するためにも、君子や男の小人や女に対する優位がドグマに即して
是とされるなどということはないという風に、一度は明確に断言しておいたほうがよい。
ただ、そのような優劣関係を講じたほうが色々と都合がよい、完全に反故にしてしまったり
したのではそのせいでの破滅すら免れられなくなるといった実用性にのみ即して、その手の
序列関係を復活させて行くようにしなければならない。仮に、復活させるのだとしても。
なくだからこそ世の中の主人公格として尊重し、正史にもその名を止めさせる。それとは
逆に、女子供や小人男はのんべんだらりと怠惰で無難な生活を送れたままで人生を終える、
にもかかわらずではなくだからこそ脇役扱いとし、正史にその名を載せてやるような
こともない。世の中全体の姿勢がそのようであるということ自体が、満てるものを
損ない謙れるものを益する陰陽法則への準拠となるわけで、この世界この宇宙の全てが
陰陽法則に司られている以上は、人々もまたあえてそうして行くことで、普遍法則に
人為で抗ったがための無様な破綻などを招かないようにして行くべきだといえる。
それは、個々の男女関係などについても同じことである。男のほうが女よりも偉いから
世の中に出て働くべきなのではなく、男のほうが世の中での重労働に従事するに値するから、
その大変さを汲んでより尊んでやるべきなのである。同じように、女のほうが男よりも
卑しいから家内に引き籠っているべきなのではなく、女には重労働をこなす能力がない
から家内での家事や育児に専念すべきである。だから男ほど尊ばれる必要もないという
ことであって、そこにドクマとしての尊卑の差別などが遍在しているわけではない。
君子は小人よりも、男は女よりも尊ばれねばならないといった古くからの慣わしが、
あたかもカルト宗教のドグマのように絶対無謬のものとされているかのように思い込まれた
結果として、その反発で民主主義や男女平等主義が謳われることともなってしまった。
実際にカルト教義のような妄信対象としていたような人間もいたに違いないわけで、
その手の疑念を一掃するためにも、君子や男の小人や女に対する優位がドグマに即して
是とされるなどということはないという風に、一度は明確に断言しておいたほうがよい。
ただ、そのような優劣関係を講じたほうが色々と都合がよい、完全に反故にしてしまったり
したのではそのせいでの破滅すら免れられなくなるといった実用性にのみ即して、その手の
序列関係を復活させて行くようにしなければならない。仮に、復活させるのだとしても。
「其の泣けるや喤喤と、朱芾は斯れ皇けり、室家の君王なる」
「生まれて来た男児の泣き叫ぶ姿たるや浩浩と、前垂れも煌々と輝けるその姿は、
この家の跡取りとして王君となるにも相応しい。(スサノオの号泣伝説よろしく、
東洋では『泣く』ということが健全な男子のあり方として肯定的に捉えられている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・斯干より)
「生まれて来た男児の泣き叫ぶ姿たるや浩浩と、前垂れも煌々と輝けるその姿は、
この家の跡取りとして王君となるにも相応しい。(スサノオの号泣伝説よろしく、
東洋では『泣く』ということが健全な男子のあり方として肯定的に捉えられている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・斯干より)
家単位での人口管理が行き届いていた江戸時代のような封建時代には、
子供が男か女か、長男か次男以降か、嫡子か庶子かなどで厳重に選別されていた。
嫡子の長男こそは一家の跡取りとして念入りに尊ばれ、それ以外の子供は
嫁ぎ先や養子先、出家先などをさっさと決めて放り去ってしまうのが常だった。
それでこそ、安定した人口構成のまま何百年という治世が実現されたりも
していたわけだから、それを疎かにしたせいで人口爆発が生じてしまっている
今のような時代と比べても、そのようであるほうがまともなのだといえる。
親の子に対する愛情にもやはり節度が必要であり、特に愛すべき対象となる
立場の子供と、そうでない子供との間に一線を引くことも時に必要となるのである。
然れば、そうであるべき親の子に対する愛情などをそのまま、世の中の支配者の
被支配者に対する愛情などに転用してしまったりしたなら、そのせいで個々の
被支配者に対する差別などが生じてしまいもするのである。その差別を例えば、
士農工商の四民の序列に即させたりすれば、世の中を穏健に統治して行く上での
必要悪的な差別ともなったりするわけだが、逆に悪徳商人を偏重して堅実な産業
従事者を軽んじたりすることになれば、それが乱世を招く原因にすらなってしまう。
「万民を身分のわけ隔てなく平等に愛する」とした所で、その場合にはやはり、
複数のわが子を生まれ付きの分け隔てなく愛そうとした場合などと同じような
「多兎を求めて一兎も得ず」の問題を招いてしまうことになるから、現実問題と
してそこに一定度の差別を講じなければならなくなってしまう。支配者が被支配者
をわが子のように愛するということ自体、いざ実践に移してみれば、決して綺麗事
ばかりでは済まないこととなるわけだから、そこに絵空事のような理想を抱いたり
する人間がいるとすれば、そのような人間自身が世間知らずだからなのだといえる。
子供が男か女か、長男か次男以降か、嫡子か庶子かなどで厳重に選別されていた。
嫡子の長男こそは一家の跡取りとして念入りに尊ばれ、それ以外の子供は
嫁ぎ先や養子先、出家先などをさっさと決めて放り去ってしまうのが常だった。
それでこそ、安定した人口構成のまま何百年という治世が実現されたりも
していたわけだから、それを疎かにしたせいで人口爆発が生じてしまっている
今のような時代と比べても、そのようであるほうがまともなのだといえる。
親の子に対する愛情にもやはり節度が必要であり、特に愛すべき対象となる
立場の子供と、そうでない子供との間に一線を引くことも時に必要となるのである。
然れば、そうであるべき親の子に対する愛情などをそのまま、世の中の支配者の
被支配者に対する愛情などに転用してしまったりしたなら、そのせいで個々の
被支配者に対する差別などが生じてしまいもするのである。その差別を例えば、
士農工商の四民の序列に即させたりすれば、世の中を穏健に統治して行く上での
必要悪的な差別ともなったりするわけだが、逆に悪徳商人を偏重して堅実な産業
従事者を軽んじたりすることになれば、それが乱世を招く原因にすらなってしまう。
「万民を身分のわけ隔てなく平等に愛する」とした所で、その場合にはやはり、
複数のわが子を生まれ付きの分け隔てなく愛そうとした場合などと同じような
「多兎を求めて一兎も得ず」の問題を招いてしまうことになるから、現実問題と
してそこに一定度の差別を講じなければならなくなってしまう。支配者が被支配者
をわが子のように愛するということ自体、いざ実践に移してみれば、決して綺麗事
ばかりでは済まないこととなるわけだから、そこに絵空事のような理想を抱いたり
する人間がいるとすれば、そのような人間自身が世間知らずだからなのだといえる。
為政者にとって、民たちをわが子のように愛するということは、非常にシビアな
現実論として受け止めつつの実践対象として行くべき教条に当たる。自らも孝子
としての尽力に励んだ上で、ついには自らもまた人の親となり、家門を保全して
行くための適切な親子関係というものを構築して行く、そういった身内同士での
経験の積み重ねがあって初めて、為政者としての自らがいかに衆生をわが子の
ように愛しつつの仁政に取り組んでいくべきなのかまでもが知れてくるのである。
実際問題、為政者が民に対する場合も含めて、養子関係にもないような他人を
わが子のように愛したりすること自体、偽善止まりとなってしまう場合がほと
んどである。本当に天下万民をわが子のように愛する機会に恵まれたりするのは、
漢の劉家のようなよっぽど天運に恵まれた家の人間などに限られるわけで、大体は
一領地の親玉でいるぐらいが限界となる。その部分的な領地における領有ですら、
地主による恵まれた土地だけの私的占有のような身勝手さを帯びてしまった結果、
自らの領分に沿わないような偏愛を来たしてしまったりすることがあるわけだから、
よっぽど権力道徳者としての素養に恵まれているのでもない限りは、より多くの
報土の領有を志すことはおろか、他人をわが子のような支配対象とする権力者
などを微塵たりとも目指したりするようなことからしてあるべきではないといえる。
元より、偽善としての他人に対するわが子のような寵遇などはあるべきでもない。
接客を担当しないような商取引で成り上がったような富豪が、私財で他人をわが子
のような扱いで囲い込んだりすることが資本主義社会では多々あったりするが、
それこそ偽善の極みであり、始めからそんなことが目的で金が稼がれたりする
ようなことからしてあるべきではない。人が人の親になるということの重大さを
父子関係の厳粛化などを通じて今一度わきまえ直していく必要があるといえる。
現実論として受け止めつつの実践対象として行くべき教条に当たる。自らも孝子
としての尽力に励んだ上で、ついには自らもまた人の親となり、家門を保全して
行くための適切な親子関係というものを構築して行く、そういった身内同士での
経験の積み重ねがあって初めて、為政者としての自らがいかに衆生をわが子の
ように愛しつつの仁政に取り組んでいくべきなのかまでもが知れてくるのである。
実際問題、為政者が民に対する場合も含めて、養子関係にもないような他人を
わが子のように愛したりすること自体、偽善止まりとなってしまう場合がほと
んどである。本当に天下万民をわが子のように愛する機会に恵まれたりするのは、
漢の劉家のようなよっぽど天運に恵まれた家の人間などに限られるわけで、大体は
一領地の親玉でいるぐらいが限界となる。その部分的な領地における領有ですら、
地主による恵まれた土地だけの私的占有のような身勝手さを帯びてしまった結果、
自らの領分に沿わないような偏愛を来たしてしまったりすることがあるわけだから、
よっぽど権力道徳者としての素養に恵まれているのでもない限りは、より多くの
報土の領有を志すことはおろか、他人をわが子のような支配対象とする権力者
などを微塵たりとも目指したりするようなことからしてあるべきではないといえる。
元より、偽善としての他人に対するわが子のような寵遇などはあるべきでもない。
接客を担当しないような商取引で成り上がったような富豪が、私財で他人をわが子
のような扱いで囲い込んだりすることが資本主義社会では多々あったりするが、
それこそ偽善の極みであり、始めからそんなことが目的で金が稼がれたりする
ようなことからしてあるべきではない。人が人の親になるということの重大さを
父子関係の厳粛化などを通じて今一度わきまえ直していく必要があるといえる。
「陳亢、伯魚に問うて曰く、子も亦た異聞有るか。対えて曰く、
未だなきなり。〜陳亢退きて喜びて曰く、君子の其の子を遠ざくるを聞けり」
「孔先生の孫弟子で子貢の弟子である陳亢が、孔先生の実子である伯魚に聞いた。
『あなたは何か先生から特別なことを教わりましたか』 伯魚『いいえ、特に何も』
陳亢は退いた後喜びながら言った。『君子はわが子をあえて遠ざけるのだとさ』
(わが子を愛すればこそ、特別扱いして堕落させてしまうことを避けたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季子第十六・一三より)
未だなきなり。〜陳亢退きて喜びて曰く、君子の其の子を遠ざくるを聞けり」
「孔先生の孫弟子で子貢の弟子である陳亢が、孔先生の実子である伯魚に聞いた。
『あなたは何か先生から特別なことを教わりましたか』 伯魚『いいえ、特に何も』
陳亢は退いた後喜びながら言った。『君子はわが子をあえて遠ざけるのだとさ』
(わが子を愛すればこそ、特別扱いして堕落させてしまうことを避けたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季子第十六・一三より)
道理に基づく因果応報こそは善であり、道理に反する虚構の因果応報こそは悪である。
逆に言えば、上記のような文章構造に即して「道理」と定義されるところのものこそを、
人間たち自身が道理としての普遍的な度量衡に用いている。人間たち自身が1+1=2を
算術上の規則としている程度には、道理も自明なものとして予め規定されていて、
その道理に即して善なるものも悪なるものも派生するわけだから、人間たち自身が
始めに規定した「自分たち自身のもの」としての道理を見失わない程度の正気を
保っている以上は、確かにそこに普遍的な善悪もまた存在するのである。
道理も、真理ほどに磐石なものではないが、少なくとも、1+1を3にも4にもするような
虚構まみれの状態よりはよっぽと磐石なものである。道理に基づく現象の因果応報こそは
最も普遍的な因果応報であり、道理を蔑ろにしたところで作為的に操作される因果応報など
はそれより一段も二段も後付けの代物でしかないわけだから、精巧な日本の工業製品よりも、
中韓製のコピー品のほうが後から作られておきながら先に壊れて駄目になるようにして、
作為によって塗り固められた虚構の因果応報のほうが早急な破綻に見舞われることとなる。
また、虚構の因果応報を弄ぶ悪党といえども、道理に基づく因果応報に即した堅実
な為政や生産労働などに全く頼らないでいるわけにもいかない。世界中の人々が、
程度の差こそあれ、道理に根ざした社会運営というものをそれなりに心がけている中に、
後から欧米聖書圏が侵略の魔の手を広げて行って、一方的な権益収奪の対象として行った
からこそ欧米社会も一時の栄華に与ることができた。それが、搾り取れるものはすべて
搾り取るところまで行き着いてしまってもなおのこと、どこまでも際限なく不正な富を
貪り続けようとする欧米聖書信者の卑劣な性向だけが持ち越されたままという状態と
なってしまったものだから、もはやそのせいでの経済破綻しか選択の余地がないような
事態となってしまったわけで、これこそは、虚構の領分が道理の領分すらをも上回ったり
しようものなら、あっという間に全てがダメになってしまう紛れもない証拠となっている。
逆に言えば、上記のような文章構造に即して「道理」と定義されるところのものこそを、
人間たち自身が道理としての普遍的な度量衡に用いている。人間たち自身が1+1=2を
算術上の規則としている程度には、道理も自明なものとして予め規定されていて、
その道理に即して善なるものも悪なるものも派生するわけだから、人間たち自身が
始めに規定した「自分たち自身のもの」としての道理を見失わない程度の正気を
保っている以上は、確かにそこに普遍的な善悪もまた存在するのである。
道理も、真理ほどに磐石なものではないが、少なくとも、1+1を3にも4にもするような
虚構まみれの状態よりはよっぽと磐石なものである。道理に基づく現象の因果応報こそは
最も普遍的な因果応報であり、道理を蔑ろにしたところで作為的に操作される因果応報など
はそれより一段も二段も後付けの代物でしかないわけだから、精巧な日本の工業製品よりも、
中韓製のコピー品のほうが後から作られておきながら先に壊れて駄目になるようにして、
作為によって塗り固められた虚構の因果応報のほうが早急な破綻に見舞われることとなる。
また、虚構の因果応報を弄ぶ悪党といえども、道理に基づく因果応報に即した堅実
な為政や生産労働などに全く頼らないでいるわけにもいかない。世界中の人々が、
程度の差こそあれ、道理に根ざした社会運営というものをそれなりに心がけている中に、
後から欧米聖書圏が侵略の魔の手を広げて行って、一方的な権益収奪の対象として行った
からこそ欧米社会も一時の栄華に与ることができた。それが、搾り取れるものはすべて
搾り取るところまで行き着いてしまってもなおのこと、どこまでも際限なく不正な富を
貪り続けようとする欧米聖書信者の卑劣な性向だけが持ち越されたままという状態と
なってしまったものだから、もはやそのせいでの経済破綻しか選択の余地がないような
事態となってしまったわけで、これこそは、虚構の領分が道理の領分すらをも上回ったり
しようものなら、あっという間に全てがダメになってしまう紛れもない証拠となっている。
資本主義災禍が深刻な様相を呈している現今の世界においては、「金カネ」こそが道理
に根ざした因果応報と、虚構の因果応報とをみそくそにしてしまう基幹としての役割を
果たしている。堅実な労働に従事することで、実体経済に即した収益を挙げている人間も
多数に上る一方で、株式市場や為替相場によってその収益の多くを博打的な運用の対象
ともし、現行の金融システムを熟知していたり、そもそもが金融システムを司っていたり
するような連中に一方的に富が巻き上げられるようなことが許容されてしまっている。
カネが必ずしもそのような、不条理な社会構造の基幹となったりするわけでもなく、
大規模な都市社会においてですら、ある程度はそのような金融経済の悪用に歯止めを
かけていくことが可能であるわけだけれども、資本主義国たるや、金融操作によって
不正に富を巻き上げているような連中に政治権力すらをも掌握されてしまっていたりする
ものだから、なかなか自浄作用としての悪徳金融の取り締まりなどを実行に移すことも
できない。最悪の場合、一度は自国を崩壊に追いやるのでもなければ、悪行による収益が
善行による収益を上回るような破滅的事態に決着を付けることもできなくなったりする。
カネ自体は元来、善でも悪でもない「無記」たる数的概念であるわけだが、まともな
善悪の分別を損なう差し障りたる「有覆無記」として人類史上最悪級の災禍をもたらす
ことともなってしまった。カルト宗教などはむしろ、善悪の分別を完全転倒させての
悪逆非道を推進するものであったわけだから、有覆無記というよりは害悪そのもので
あるため、それだけで全世界を破滅級の災厄に陥れることまではできなかった。そこに、
悪徳金融や科学技術の悪用の如き有覆無記の要素を加味することで初めて、カルト宗教圏
たる欧米聖書圏が全世界を破滅に陥れる程もの害悪の元凶と化したわけだから、ただ
害悪の元凶中の元凶たるカルト宗教などを根絶の対象として行くのみならず、その
ような元凶がもたらす害悪を支援する有覆無記となるような諸概念への警戒もまた
十分となるようにしていかねばならない。つまり、カネの濫用への警戒などが、
以上のような切実な理由に即して、取り組まれて行く必要があるわけである。
に根ざした因果応報と、虚構の因果応報とをみそくそにしてしまう基幹としての役割を
果たしている。堅実な労働に従事することで、実体経済に即した収益を挙げている人間も
多数に上る一方で、株式市場や為替相場によってその収益の多くを博打的な運用の対象
ともし、現行の金融システムを熟知していたり、そもそもが金融システムを司っていたり
するような連中に一方的に富が巻き上げられるようなことが許容されてしまっている。
カネが必ずしもそのような、不条理な社会構造の基幹となったりするわけでもなく、
大規模な都市社会においてですら、ある程度はそのような金融経済の悪用に歯止めを
かけていくことが可能であるわけだけれども、資本主義国たるや、金融操作によって
不正に富を巻き上げているような連中に政治権力すらをも掌握されてしまっていたりする
ものだから、なかなか自浄作用としての悪徳金融の取り締まりなどを実行に移すことも
できない。最悪の場合、一度は自国を崩壊に追いやるのでもなければ、悪行による収益が
善行による収益を上回るような破滅的事態に決着を付けることもできなくなったりする。
カネ自体は元来、善でも悪でもない「無記」たる数的概念であるわけだが、まともな
善悪の分別を損なう差し障りたる「有覆無記」として人類史上最悪級の災禍をもたらす
ことともなってしまった。カルト宗教などはむしろ、善悪の分別を完全転倒させての
悪逆非道を推進するものであったわけだから、有覆無記というよりは害悪そのもので
あるため、それだけで全世界を破滅級の災厄に陥れることまではできなかった。そこに、
悪徳金融や科学技術の悪用の如き有覆無記の要素を加味することで初めて、カルト宗教圏
たる欧米聖書圏が全世界を破滅に陥れる程もの害悪の元凶と化したわけだから、ただ
害悪の元凶中の元凶たるカルト宗教などを根絶の対象として行くのみならず、その
ような元凶がもたらす害悪を支援する有覆無記となるような諸概念への警戒もまた
十分となるようにしていかねばならない。つまり、カネの濫用への警戒などが、
以上のような切実な理由に即して、取り組まれて行く必要があるわけである。
「寛柔を以て教とし、無道に報いざるは南方の強なり。君子も之れに居る」
「寛容と柔和を教条として、無道な横暴などにも報いようとしないのが、南方人が
『強さ』とする所である。(これはよき慣習であるので、)君子もそれを領分とする。
(イスラム圏やイギリスからの侵略にも非暴力で答えたインド人などが、
まさにこの性向を持ち合わせている。無道な悪行には自業自得の報いが
あるから、あえて被害者のほうから報復を企てたりする必要もないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一〇より)
「寛容と柔和を教条として、無道な横暴などにも報いようとしないのが、南方人が
『強さ』とする所である。(これはよき慣習であるので、)君子もそれを領分とする。
(イスラム圏やイギリスからの侵略にも非暴力で答えたインド人などが、
まさにこの性向を持ち合わせている。無道な悪行には自業自得の報いが
あるから、あえて被害者のほうから報復を企てたりする必要もないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一〇より)
この世には、手塩をかければかけるほどより結果がよくなる仕事というもの
があり、それこそはあらゆる職業のうちでも最も善良な部類の職業となる。
農業や漁業や林業といった自然を相手にする仕事は大半がそうだし、モノ
を相手とする工業も、製品の質を向上させて行くのであればそうであり得る。
料理や掃除や洗濯や育児といった、家事にまつわる仕事も当然その内に入る。
むしろ、下手に手塩などかけずに、悪知恵一つでの一攫千金的な成果
ばかりを目指していたほうがいいような仕事も残念ながらあり、悪徳が通用
するような世の中ではむしろその手の職業のほうが「勝ち組」の職業として
持て囃されてしまったりする。悪徳商売などはその分かりやすい例だが、
難関試験に合格してそれで既得権益に与る類いの職業が、あからさまな
悪徳商売などでないにもかかわらずその手の性向を帯びていたりする。
大企業の重役なども少なからずその手の性向によって富裕を謳歌しているし、
腐敗まみれの民主主義国の公務員なども、自分たちの仕事にかけてより
一層の努力を積み重ねて行ったりしない点では全く共通しているといえる。
手塩をかければかけるほどよりよくなるような善良な仕事を貶めて、一攫
千金でウハウハとなるような悪辣な仕事ばかりを賞賛していれば、最後は
今の欧米社会のように極度に生産性の乏しい社会となって、国際金融市場
の操作で何とか切り盛りするか、それも諦めて破綻するかぐらいの選択肢
しかなくなってしまう。そのような末路を辿ったりしないためにも、上記の
ような意味での善良な仕事を、悪辣な仕事以上にも奨励して行く必要がある。
があり、それこそはあらゆる職業のうちでも最も善良な部類の職業となる。
農業や漁業や林業といった自然を相手にする仕事は大半がそうだし、モノ
を相手とする工業も、製品の質を向上させて行くのであればそうであり得る。
料理や掃除や洗濯や育児といった、家事にまつわる仕事も当然その内に入る。
むしろ、下手に手塩などかけずに、悪知恵一つでの一攫千金的な成果
ばかりを目指していたほうがいいような仕事も残念ながらあり、悪徳が通用
するような世の中ではむしろその手の職業のほうが「勝ち組」の職業として
持て囃されてしまったりする。悪徳商売などはその分かりやすい例だが、
難関試験に合格してそれで既得権益に与る類いの職業が、あからさまな
悪徳商売などでないにもかかわらずその手の性向を帯びていたりする。
大企業の重役なども少なからずその手の性向によって富裕を謳歌しているし、
腐敗まみれの民主主義国の公務員なども、自分たちの仕事にかけてより
一層の努力を積み重ねて行ったりしない点では全く共通しているといえる。
手塩をかければかけるほどよりよくなるような善良な仕事を貶めて、一攫
千金でウハウハとなるような悪辣な仕事ばかりを賞賛していれば、最後は
今の欧米社会のように極度に生産性の乏しい社会となって、国際金融市場
の操作で何とか切り盛りするか、それも諦めて破綻するかぐらいの選択肢
しかなくなってしまう。そのような末路を辿ったりしないためにも、上記の
ような意味での善良な仕事を、悪辣な仕事以上にも奨励して行く必要がある。
しかし、手塩をかければかけるほどよくなる仕事ほど、多大なる
苦労を課せられる上に、あまり格好良くもなかったりするのが常である。
農家がまさにその代表格であり、機械による農産などが発達していなか
った近代以前には、農夫といえば長年の屈み作業で背骨がひどく前屈して
しまっているのが常だった。そのような農夫の不恰好な姿に嫌悪感を抱いて、
都市部での一攫千金を企てたような連中が町人となったりもしていたわけで、
農業のような純良な産業を奨励することばかりによって、その手の問題を
十全に抑制して行くこともまた、なかなか難しいこととなるのである。
そこで、農工商の三民の序列の上にさらに「士」を置いて、この士が
かつての武士のような「人の花形」としての扱いを受けると共に、自分たち
の本業である為政にかけて最善の限りを尽くして行くことが、善良な職業を
奨励して悪辣な職業を抑制して行く上での特効薬的な役割を果たすこととなる。
庶民が佩用を禁じられる大刀を差したり、着用を禁じられる袴を着たり、
武術の修錬によって高度な戦闘能力や洗練された立ち居振る舞いを身に
付けていたりする壮士の有り様が、人々にとっての羨望の対象となると共に、
そうでありながら職務に最善をも尽くして行く有り様がこれまた、人々に
より職務にかけての努力を尽くさせて行く上での指針となっていくのである。
より手塩をかけて行くべき善良な仕事を奨励し、一攫千金ばかりを狙う
ような粗悪な仕事を抑圧して行く上での鍵となるのは、結局のところ士人
たる人間たち自身となるわけだから、まずは尊ぶべき人間を尊んで行くと
いうことが義務性を帯びてくることともなる。人間すら敬うこともできない
のに、どうして虚構の神ばかりを敬っていていいものか、ともなるわけである。
苦労を課せられる上に、あまり格好良くもなかったりするのが常である。
農家がまさにその代表格であり、機械による農産などが発達していなか
った近代以前には、農夫といえば長年の屈み作業で背骨がひどく前屈して
しまっているのが常だった。そのような農夫の不恰好な姿に嫌悪感を抱いて、
都市部での一攫千金を企てたような連中が町人となったりもしていたわけで、
農業のような純良な産業を奨励することばかりによって、その手の問題を
十全に抑制して行くこともまた、なかなか難しいこととなるのである。
そこで、農工商の三民の序列の上にさらに「士」を置いて、この士が
かつての武士のような「人の花形」としての扱いを受けると共に、自分たち
の本業である為政にかけて最善の限りを尽くして行くことが、善良な職業を
奨励して悪辣な職業を抑制して行く上での特効薬的な役割を果たすこととなる。
庶民が佩用を禁じられる大刀を差したり、着用を禁じられる袴を着たり、
武術の修錬によって高度な戦闘能力や洗練された立ち居振る舞いを身に
付けていたりする壮士の有り様が、人々にとっての羨望の対象となると共に、
そうでありながら職務に最善をも尽くして行く有り様がこれまた、人々に
より職務にかけての努力を尽くさせて行く上での指針となっていくのである。
より手塩をかけて行くべき善良な仕事を奨励し、一攫千金ばかりを狙う
ような粗悪な仕事を抑圧して行く上での鍵となるのは、結局のところ士人
たる人間たち自身となるわけだから、まずは尊ぶべき人間を尊んで行くと
いうことが義務性を帯びてくることともなる。人間すら敬うこともできない
のに、どうして虚構の神ばかりを敬っていていいものか、ともなるわけである。
「祭も數しばするを欲せず、數しばすれば則ち煩し、煩しければ則ち敬さず」
「神を尊ぶような祭りもやり過ぎはよくない。あまり頻繁に行いすぎると
そのせいで心を煩わされることとなる。煩わされれば心からの畏敬心も
損なわれることとなる。(日曜日に毎日教会に通わされるキリスト教系
の祭儀なども、実はそのせいでかえって信者の畏敬心を損なわしめて、
思い上がりを助長させるようなこととなってしまうのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
「神を尊ぶような祭りもやり過ぎはよくない。あまり頻繁に行いすぎると
そのせいで心を煩わされることとなる。煩わされれば心からの畏敬心も
損なわれることとなる。(日曜日に毎日教会に通わされるキリスト教系
の祭儀なども、実はそのせいでかえって信者の畏敬心を損なわしめて、
思い上がりを助長させるようなこととなってしまうのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

動物も他にない。「功」という面では、肉食などの面で豊かさの象徴となって来た面が
あり、「罪」という面では、その豊かさへの貪り故の乱世の原因となって来た面がある。
「左伝」荘公十年においても、肉食が豊かさの象徴として挙げられていたりする通り、
その手の風潮は洋の東西を問わず認められて来ていることである。ただ、その肉食を
豊かさの象徴として是認して来た中国社会こそは、幾度もの帝国の興亡にも苛まれて
来ていたりするとおり、肉食を欲する程もの富裕志向こそが絶え間のない乱世の原因
ともなってしまうのが確かであるため、恒久平和を企図するインドや、万世一系の皇統
の存続を企図する日本などでは、伝統的に肉食が禁忌とされて来た。それでも、農耕牛
や牛車などの形での牛の活用が西日本などで続けられていたものだからも(東北などは
人力での耕作が容易な水田地帯であったため、耕牛利用の必要もなかった)死んだ牛の
遺体処理などに携わる人間が被差別部落としての権益を増長させて行くなどしたため、
今に至るまである種の腐敗的利権の吹き溜まりを形成することとなってしまっている。
肉食はともかく、耕牛や牛車としての牛の利用価値は、機械文明の発達によって大幅に
低減された。魚食やスパイス料理などの、肉食禁忌地域の伝統料理の美味さや栄養価の
高さが評価されるなどして、食物としての牛肉や豚肉の忌避などもある種の人々から
の心がけの対象となっていたりする。そして何より、肉用獣としての牛や豚の飼育が
エネルギー消費の面からいって穀物などよりも遥かに生産効率が悪いことが認められて、
人口増大に対応する食習慣としての、穀物主体の食事が推奨されるなどして来ている。
もしも、人間たち自身が本気でそれを心がけるというのなら、有史以来、豊かさの
象徴とされて来た牛や豚のような大型畜獣への依存も断ち切ることが出来るように
なっていて、なおかつそれでこそ万人の腹が膨れる程度の最低限以上の豊かさが世界
規模で実現されて行くようにもなっている。ただ、万人が完全に牛豚のもたらす富裕を
断ち切るとなれば、それこそ「味気ない」ことともなるわけで、そこまでストイックでは
ありたくないと、肉食まみれ状態でいる現代人が考えたとしても仕方のないことだといえる。
この世界に牛や豚といった動物がいて、それを何らかの価値で利用してやりたいなど
と考える人間がいる以上は、それを全世界で厳禁して行くのもなかなか無理がある。
ただ、牛や豚の活用など決して人間にとって必要不可欠なものではない、それらへの
依存を断ち切ることもできなくはないということをインドや日本の歴史などをも参考
によく認知して、にもかかわらず肉を食いたがったりする自分のほうが意地汚い貪欲
さの持ち主であることを十分にわきまえた上で、なおのこと食いたければ食うという
程度の姿勢で以って、牛や豚を活用したりすることも実行に移されるべきだといえる。
現代人としての現実的な対処を案じてみるなら、普段は穀物や野菜が主体の生活を
心がけるが、何か祝い事などがあった場合に限って会食の余興程度に肉料理を食べたり
する程度にすれば良いだろう。「礼記」にもあるとおり、体力の弱った老人などで
あれば肉を常食とするのも可とするなど、あくまで薬餌的な材料として肉を用いたり
するのも一つの手である。いずれにしろ、人間にとって絶対不可欠のものなどとして
肉を取り扱ったりしないことが善後策となって行く事例であるわけで、それでこそ、
引っ切り無しの中華帝国の興亡のような問題を来たしもしなくなるからには、それが
世のため人のためにすらなるものとして志して行かれてもいいこととなるわけである。
象徴とされて来た牛や豚のような大型畜獣への依存も断ち切ることが出来るように
なっていて、なおかつそれでこそ万人の腹が膨れる程度の最低限以上の豊かさが世界
規模で実現されて行くようにもなっている。ただ、万人が完全に牛豚のもたらす富裕を
断ち切るとなれば、それこそ「味気ない」ことともなるわけで、そこまでストイックでは
ありたくないと、肉食まみれ状態でいる現代人が考えたとしても仕方のないことだといえる。
この世界に牛や豚といった動物がいて、それを何らかの価値で利用してやりたいなど
と考える人間がいる以上は、それを全世界で厳禁して行くのもなかなか無理がある。
ただ、牛や豚の活用など決して人間にとって必要不可欠なものではない、それらへの
依存を断ち切ることもできなくはないということをインドや日本の歴史などをも参考
によく認知して、にもかかわらず肉を食いたがったりする自分のほうが意地汚い貪欲
さの持ち主であることを十分にわきまえた上で、なおのこと食いたければ食うという
程度の姿勢で以って、牛や豚を活用したりすることも実行に移されるべきだといえる。
現代人としての現実的な対処を案じてみるなら、普段は穀物や野菜が主体の生活を
心がけるが、何か祝い事などがあった場合に限って会食の余興程度に肉料理を食べたり
する程度にすれば良いだろう。「礼記」にもあるとおり、体力の弱った老人などで
あれば肉を常食とするのも可とするなど、あくまで薬餌的な材料として肉を用いたり
するのも一つの手である。いずれにしろ、人間にとって絶対不可欠のものなどとして
肉を取り扱ったりしないことが善後策となって行く事例であるわけで、それでこそ、
引っ切り無しの中華帝国の興亡のような問題を来たしもしなくなるからには、それが
世のため人のためにすらなるものとして志して行かれてもいいこととなるわけである。
「純離を牛と爲す。世乱るれば讒勝つ。
勝たば将に離に適く。故に曰く、其の名を牛と曰う、と」
「易の離卦は牛を意味している。世が乱れると他者を貶めようとする讒言が蔓延る
ようになる。そうなれば世の中は離の如き様相を呈する。そのため、その辞を牛とする。
(牛の如き従順さはそれはそれで有用なものだが、そればかりが持て囃されるように
なると、牛肉への貪りが乱世をもたらすようにして、讒言蔓延る乱世がもたらされる
ことともなる。たとえば、『子を産む女がいなければ世の中も成立しない』とした所で、
だからといって女ばかりを持て囃していたりすれば世の中が傾いたりするのと同じこと。
世の中に有用だったり不可欠だったりするからといって、無闇に持て囃されたりする
ようなことにまではなってはならないのが、牛だとか女だとかいった存在だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公五年より)
勝たば将に離に適く。故に曰く、其の名を牛と曰う、と」
「易の離卦は牛を意味している。世が乱れると他者を貶めようとする讒言が蔓延る
ようになる。そうなれば世の中は離の如き様相を呈する。そのため、その辞を牛とする。
(牛の如き従順さはそれはそれで有用なものだが、そればかりが持て囃されるように
なると、牛肉への貪りが乱世をもたらすようにして、讒言蔓延る乱世がもたらされる
ことともなる。たとえば、『子を産む女がいなければ世の中も成立しない』とした所で、
だからといって女ばかりを持て囃していたりすれば世の中が傾いたりするのと同じこと。
世の中に有用だったり不可欠だったりするからといって、無闇に持て囃されたりする
ようなことにまではなってはならないのが、牛だとか女だとかいった存在だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公五年より)
「夫れ礼は、吉凶の道を異ならしめ、相干することを得ざらしむ。之れを陰陽に取るなり」
「礼儀は慶事と災厄との領分を別って、お互いを干渉し合わせないことを目的とする。
そのため、両者を光と闇のような相容れないもの同士に見立てての分別をも心がける。
(吉事と凶事は光と闇のように相容れないものだから、そうであることに即して適切に扱って行く
のである。光も闇も支配するような虚構の超越神を想定してしまったりしたのでは、吉凶を相容れ
ないもの同士として適切に取り扱おうとする心がけが損なわれることになるため、好ましくない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・喪服四制第四十九より)
「礼儀は慶事と災厄との領分を別って、お互いを干渉し合わせないことを目的とする。
そのため、両者を光と闇のような相容れないもの同士に見立てての分別をも心がける。
(吉事と凶事は光と闇のように相容れないものだから、そうであることに即して適切に扱って行く
のである。光も闇も支配するような虚構の超越神を想定してしまったりしたのでは、吉凶を相容れ
ないもの同士として適切に取り扱おうとする心がけが損なわれることになるため、好ましくない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・喪服四制第四十九より)
正義と悪は、ちゃんと両者の領分を別って行くようにするのが正義だ。
両者をくそみそと化しての罪悪の誤魔化しを企てたりするのが悪だ。
道家や仏門のような善悪を諦観する部類の教学門派といえども、
俗世で善悪が明確に別たれるべきであることは認めてるんだ。
だからこそ、自分たち自身が超俗志向であろうともしている。
政商や食客や縦横家のような権力犯罪者として暗躍する場合も含めて、
俗世での甚大な活動に及ぶ以上は、善悪吉凶をちゃんと弁別するのが
ルールというもの。それでこそ正義たり、そうでなければ自動的に悪となって
しまうものだから、正しく善悪を超脱しようとした聖者たちは皆、自分たち
自身が「善悪吉凶の踊り場」たる俗世に携わることから避けようとしたのだ。
作為でどうにかできる領域が全て陰陽法則に司られているこの世界
この宇宙において、少しでも善悪吉凶を不正に超越しようなどとすれば、
それだけで自分たちが罪悪や災禍ばかりに与する手合いと化してしまう。
善悪を超越したければ何もするべきでなく、何かをしたかったら善悪の
分別を徹底すべきだという普遍法則があるのもまた、そのためである。
全ては結局、陰陽法則に根ざした位相問題に集約される。
そうであることが善いことか悪いことかをいえば、これまた善いことで
あるという他はない。陰陽法則を尊重して来た東洋人の言行こそは最高に面白い
一方、蔑ろにして来た西洋人の言行こそは酷くつまらなかったりもするのだから、
全ての面白さの精髄すらをも司っている陰陽法則というものを、科学を含む
無記以上に尊ぶべきものとすれど、決して蔑ろにすべきものだなどは思わない。
両者をくそみそと化しての罪悪の誤魔化しを企てたりするのが悪だ。
道家や仏門のような善悪を諦観する部類の教学門派といえども、
俗世で善悪が明確に別たれるべきであることは認めてるんだ。
だからこそ、自分たち自身が超俗志向であろうともしている。
政商や食客や縦横家のような権力犯罪者として暗躍する場合も含めて、
俗世での甚大な活動に及ぶ以上は、善悪吉凶をちゃんと弁別するのが
ルールというもの。それでこそ正義たり、そうでなければ自動的に悪となって
しまうものだから、正しく善悪を超脱しようとした聖者たちは皆、自分たち
自身が「善悪吉凶の踊り場」たる俗世に携わることから避けようとしたのだ。
作為でどうにかできる領域が全て陰陽法則に司られているこの世界
この宇宙において、少しでも善悪吉凶を不正に超越しようなどとすれば、
それだけで自分たちが罪悪や災禍ばかりに与する手合いと化してしまう。
善悪を超越したければ何もするべきでなく、何かをしたかったら善悪の
分別を徹底すべきだという普遍法則があるのもまた、そのためである。
全ては結局、陰陽法則に根ざした位相問題に集約される。
そうであることが善いことか悪いことかをいえば、これまた善いことで
あるという他はない。陰陽法則を尊重して来た東洋人の言行こそは最高に面白い
一方、蔑ろにして来た西洋人の言行こそは酷くつまらなかったりもするのだから、
全ての面白さの精髄すらをも司っている陰陽法則というものを、科学を含む
無記以上に尊ぶべきものとすれど、決して蔑ろにすべきものだなどは思わない。
権力犯罪聖書——通称聖書にあるような粗悪で凶暴な言葉だけでなく、
権力道徳聖書——通称四書五経にあるような善美で至当な言葉もまた、
言葉として堂に入るよりは、むしろ「言葉以前」のままのものであるに
越したことのないものであった。前者は、言葉として権威付けられたり
したことで、さらなる罪悪推進の材料にされたりしないためにこそ
言葉に起こされたりすべきではなかったし、後者は、そもそも言葉
にされるまでもない実践の対象とされるべきものであるからこそ、
わざわざ言葉にされたりする以前のままであるべきだったといえる。
春秋戦国時代における極度の文化荒廃以降、中国人は孔子や孟子が樹立した
儒学体系を、その教科書である四書五経などを金科玉条にしながらの実践
対象として来た。それも、漢や唐や南宋の代にはそれなりに成功したものの、
極度の文辞主義が蒙古のような暴力主義者たちからの格好の侵略の的ともなり、
また実践の疎かさが自分たち自身の権力腐敗を招く結果ともなってしまった。
それと比べれば、殷周革命以降に殷の遺臣である箕子からの直接統治を
受けて来た東夷の治世のほうが、さらに普遍的に良好なものですらあった。
殷の統治理念もまた「書経」の洪範九疇などの形である程度は文面化されて
いるが、その洪範九疇を周朝に伝授した箕子が直接統治した東夷社会において、
ある特定の文面などを金科玉条としての文治などが試みられたことはなかった。
箕子統治時代の日本や朝鮮の歴史が文面として遺されていないことからも
分かるとおり、箕子やその末裔たちは文面以上に直観的な実践を重んじつつ
の統治を心がけていたものだから、春秋戦国時代以降の中国で呈したような
怠慢的な統治を予防して、今に至るまでの日本社会における人々の民度の高さ
の起源ともなるような、非常に善良な為政を敷き続けることができたのである。
権力道徳聖書——通称四書五経にあるような善美で至当な言葉もまた、
言葉として堂に入るよりは、むしろ「言葉以前」のままのものであるに
越したことのないものであった。前者は、言葉として権威付けられたり
したことで、さらなる罪悪推進の材料にされたりしないためにこそ
言葉に起こされたりすべきではなかったし、後者は、そもそも言葉
にされるまでもない実践の対象とされるべきものであるからこそ、
わざわざ言葉にされたりする以前のままであるべきだったといえる。
春秋戦国時代における極度の文化荒廃以降、中国人は孔子や孟子が樹立した
儒学体系を、その教科書である四書五経などを金科玉条にしながらの実践
対象として来た。それも、漢や唐や南宋の代にはそれなりに成功したものの、
極度の文辞主義が蒙古のような暴力主義者たちからの格好の侵略の的ともなり、
また実践の疎かさが自分たち自身の権力腐敗を招く結果ともなってしまった。
それと比べれば、殷周革命以降に殷の遺臣である箕子からの直接統治を
受けて来た東夷の治世のほうが、さらに普遍的に良好なものですらあった。
殷の統治理念もまた「書経」の洪範九疇などの形である程度は文面化されて
いるが、その洪範九疇を周朝に伝授した箕子が直接統治した東夷社会において、
ある特定の文面などを金科玉条としての文治などが試みられたことはなかった。
箕子統治時代の日本や朝鮮の歴史が文面として遺されていないことからも
分かるとおり、箕子やその末裔たちは文面以上に直観的な実践を重んじつつ
の統治を心がけていたものだから、春秋戦国時代以降の中国で呈したような
怠慢的な統治を予防して、今に至るまでの日本社会における人々の民度の高さ
の起源ともなるような、非常に善良な為政を敷き続けることができたのである。
一応、「書経」に洪範九疇が記録されていたりもするが、周代以降の中国人
の内で、洪範九疇を本当に実践できていた人間などがいたかといえば、それは
もう皆無にも等しいほど少なかったといえる。洪範九疇の第六・三徳を本当に
実践の対象とするならば、日本の平安時代ほどにも清浄の限りを尽くした為政や、
武家時代ほどにも武勇の限りを尽くした為政が必要とされて行くわけだけれども、
そのいずれもが、周代以降の中国で十分に実践されたような試しもないのだから、
その世相からも、洪範九疇の厳重な実践者などがいたなどとは推定し難い。
それはもちろん、中国が日本よりも遥かに巨大な群国でもあるからなわけだが、
それほどにも中国が巨大化したこと自体、春秋時代以降の王侯が利権への貪り
を尽くしての中原への開発三昧であり続けたからなわけだから、それはそれで、
中国人たち自身の自業自得というものである。日本のような限られた範囲の
領地で、世の中の量ではなく質の向上を心がけて行くことのほうが、夏殷時代
の中国人たちの為政への心がけとも共通していたわけだから、確かにその頃から、
極東社会の王権の星も徐々に、中国から日本へと遷移していったのだといえる。
とはいえ、その日本においても、近代以降は秦人系の暴虐な権力者が実権を握り、
権力機構への徴用手段も学校試験のような文辞一辺倒のものに取って代わられて
しまったわけだから、中国を含む大陸社会における権力腐敗の波がついには、
この日本にまで到達してしまったのだといえる。中国社会が、文辞一辺倒が原因
での権力腐敗に見舞われてしまっていたのはもちろんのこと、欧米社会もまた、
聖書信仰が原因での権力腐敗を続けて来たわけだから、文辞主義が原因での両者
からの直接間接の侵略を受けたことで、日本社会も腐敗してしまったのだといえる。
の内で、洪範九疇を本当に実践できていた人間などがいたかといえば、それは
もう皆無にも等しいほど少なかったといえる。洪範九疇の第六・三徳を本当に
実践の対象とするならば、日本の平安時代ほどにも清浄の限りを尽くした為政や、
武家時代ほどにも武勇の限りを尽くした為政が必要とされて行くわけだけれども、
そのいずれもが、周代以降の中国で十分に実践されたような試しもないのだから、
その世相からも、洪範九疇の厳重な実践者などがいたなどとは推定し難い。
それはもちろん、中国が日本よりも遥かに巨大な群国でもあるからなわけだが、
それほどにも中国が巨大化したこと自体、春秋時代以降の王侯が利権への貪り
を尽くしての中原への開発三昧であり続けたからなわけだから、それはそれで、
中国人たち自身の自業自得というものである。日本のような限られた範囲の
領地で、世の中の量ではなく質の向上を心がけて行くことのほうが、夏殷時代
の中国人たちの為政への心がけとも共通していたわけだから、確かにその頃から、
極東社会の王権の星も徐々に、中国から日本へと遷移していったのだといえる。
とはいえ、その日本においても、近代以降は秦人系の暴虐な権力者が実権を握り、
権力機構への徴用手段も学校試験のような文辞一辺倒のものに取って代わられて
しまったわけだから、中国を含む大陸社会における権力腐敗の波がついには、
この日本にまで到達してしまったのだといえる。中国社会が、文辞一辺倒が原因
での権力腐敗に見舞われてしまっていたのはもちろんのこと、欧米社会もまた、
聖書信仰が原因での権力腐敗を続けて来たわけだから、文辞主義が原因での両者
からの直接間接の侵略を受けたことで、日本社会も腐敗してしまったのだといえる。
いま、世界といわず日本といわず、地球人類がみな進んで行くべき道にあたるのが、
「文辞主義からの解放の道」である。聖書信仰におけるロゴス主義の呪縛から
人々が解き放たれるべきであるのはもちろんのこと、春秋戦国時代以降の中国
における経書一辺倒の文辞主義などからも解き放たれたままでいるべきである。
その頃の中国人などではなく、箕子の実践主義的統治をも受けた東夷の雄である
日本人こそが、洪範九疇のより厳重な実践者たり得てきたりもしているわけだから、
四書五経の実践のためにこそ、経書の文面ばかりに溺れたりすべきでないといえる。
「天下に道あらば、丘は与に易えざるなり(既出)」
「天下に道があるのならば、私もあえて世直しを試みたりもしないのだ」
(微子第十八・六)
と孔子も述べていた通り、当時が道の行われない乱世だったからこそ仕方なく
文面に起こされたのが四書五経であるという事情も踏まえることでこそ、孔子の
意向に則った経書の受容までもが可能となって行くのだから。真の儒者としての
大成のためにこそ、四書五経の文辞に拘泥することすらあるべきではないといえる。
「天地を以て本と為す、故に物挙ぐ可きなり。
陰陽を以て端と為す、故に情睹る可きなり」
「天地を根本としていればこそ、物事も取り上げるに値するものとなる。
陰陽光闇を極端とすればこそ、情念も汲み取るに値するものとなる。
(天地や光闇すら超越してしまった所には、もはや見るべきものもない。>>57も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
「文辞主義からの解放の道」である。聖書信仰におけるロゴス主義の呪縛から
人々が解き放たれるべきであるのはもちろんのこと、春秋戦国時代以降の中国
における経書一辺倒の文辞主義などからも解き放たれたままでいるべきである。
その頃の中国人などではなく、箕子の実践主義的統治をも受けた東夷の雄である
日本人こそが、洪範九疇のより厳重な実践者たり得てきたりもしているわけだから、
四書五経の実践のためにこそ、経書の文面ばかりに溺れたりすべきでないといえる。
「天下に道あらば、丘は与に易えざるなり(既出)」
「天下に道があるのならば、私もあえて世直しを試みたりもしないのだ」
(微子第十八・六)
と孔子も述べていた通り、当時が道の行われない乱世だったからこそ仕方なく
文面に起こされたのが四書五経であるという事情も踏まえることでこそ、孔子の
意向に則った経書の受容までもが可能となって行くのだから。真の儒者としての
大成のためにこそ、四書五経の文辞に拘泥することすらあるべきではないといえる。
「天地を以て本と為す、故に物挙ぐ可きなり。
陰陽を以て端と為す、故に情睹る可きなり」
「天地を根本としていればこそ、物事も取り上げるに値するものとなる。
陰陽光闇を極端とすればこそ、情念も汲み取るに値するものとなる。
(天地や光闇すら超越してしまった所には、もはや見るべきものもない。>>57も参照)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
現状、あまり認知されていない群集心理のいち法則として、
「人間は、私的な徒党派閥を形成すると理性を見失う」というのがある。
「群集心理が蒙昧化しやすい」というのはかなり認知されていることではあるが、
それが公的なものであるか私的なものであるかによっての差異が生ずることなどが
十分に考究されて来た試しが、古今東西において今のところついぞ見られない。
民主主義社会では、その手の法則にまつわる考究は半ば自動的に禁止される。
というのも、民主主義においては私的な民衆の意志こそが最優先対象とみなされ
るわけだから、そこにこそ人間の蒙昧化の極北が存するなどということを、
仮に事実であったとしたところで、到底認めるわけにはいかないからである。
封建社会では、そもそもが私党編成が法度として禁じられて行くものだから、
私党を構成する人間がいかに心理状態を蒙昧化させて行くのかということを
具体的な研究対象として行く余地がなかった。最初期に「君子は群して党せず」
という言葉を述べた孔子あたりは、私党編成の具体的な危険性を見抜いていた
に違いないわけだが、その孔子の言葉をただ真に受けてその通りにして来た
だけの人々までもが、実際的な私党編成の問題点を見抜けていたとは言い難い。
(だからこそ、私党によるテロを引き起こした赤穂浪士
の切腹に数多の儒者や大名が反意を抱きもしたのだった)
私党編成によって蒙昧化してしまった群集を、日本神話では「ヤマタノオロチ」
という怪獣に見立てて具象化している。そのヤマタノオロチをスサノオが退治する
出雲神話の下り自体、古代豪族を天皇家の先祖の親族が平定して行ったことの伝説化
であるわけで、ヤマタノオロチとはまさに、私的な利権の溜め込みによって狂乱化
していた古代の豪族たちのことを指しているのである。そこに、怪獣に見立てて
然るべきほどの危うさが存在していることを見抜いていた古代の日本人の叡智こそは
突出したものであったといえ、現代人もその発想こそを参考にして行くべきだといえる。
「人間は、私的な徒党派閥を形成すると理性を見失う」というのがある。
「群集心理が蒙昧化しやすい」というのはかなり認知されていることではあるが、
それが公的なものであるか私的なものであるかによっての差異が生ずることなどが
十分に考究されて来た試しが、古今東西において今のところついぞ見られない。
民主主義社会では、その手の法則にまつわる考究は半ば自動的に禁止される。
というのも、民主主義においては私的な民衆の意志こそが最優先対象とみなされ
るわけだから、そこにこそ人間の蒙昧化の極北が存するなどということを、
仮に事実であったとしたところで、到底認めるわけにはいかないからである。
封建社会では、そもそもが私党編成が法度として禁じられて行くものだから、
私党を構成する人間がいかに心理状態を蒙昧化させて行くのかということを
具体的な研究対象として行く余地がなかった。最初期に「君子は群して党せず」
という言葉を述べた孔子あたりは、私党編成の具体的な危険性を見抜いていた
に違いないわけだが、その孔子の言葉をただ真に受けてその通りにして来た
だけの人々までもが、実際的な私党編成の問題点を見抜けていたとは言い難い。
(だからこそ、私党によるテロを引き起こした赤穂浪士
の切腹に数多の儒者や大名が反意を抱きもしたのだった)
私党編成によって蒙昧化してしまった群集を、日本神話では「ヤマタノオロチ」
という怪獣に見立てて具象化している。そのヤマタノオロチをスサノオが退治する
出雲神話の下り自体、古代豪族を天皇家の先祖の親族が平定して行ったことの伝説化
であるわけで、ヤマタノオロチとはまさに、私的な利権の溜め込みによって狂乱化
していた古代の豪族たちのことを指しているのである。そこに、怪獣に見立てて
然るべきほどの危うさが存在していることを見抜いていた古代の日本人の叡智こそは
突出したものであったといえ、現代人もその発想こそを参考にして行くべきだといえる。

ついては、実際的な殺傷行為に及んだのが誰であるのかが曖昧と化してしまう
などの理由で、刑罰が定まらなかったり、軽くなったりしてしまうことがある。
だからこそ、私党の編成から法度とされて行くのでもない限りは、群集の一員と
して悪行を働こうとするような人間の罪悪感も薄まったままであり続けることとなる。
憲法で「結社の自由」などが規定されている自由主義社会ともなれば、私党によって
悪さを働いて行くことが推進されて行くことにすらなるわけで、確かにそこでは、
罰せられるべき犯罪行為が何の呵責もなく犯された挙げ句に、本当に十分な裁き
にかけられることもないままに終わるようなことにすらなってしまうのである。
私党の編成から法度とされて行けばこそ、その手の罪悪の積み重ねが十全に食い止め
られて行くこととなるわけだが、それは同時に、私的な宗教団体の結成などが規制の
対象となって行く機縁ともなるわけだから、「信教の自由」までもが同時に抑制
されて行く事態ともなるわけである。そのため、昔の仏門のように、寺社奉行の厳重
な管理下に置かれた状態での教団運営などに限っては許容されて行くことともなる
わけだが、中には、私的な教団であることこそが本懐であるような宗教団体も存在する。
ローマ皇帝にカノッサの屈辱の如き仕打ちを加えたキリスト教団などがその代表例
であり、そのような私党編成の正当化こそを目的としたカルト宗教団体については、
始めから公的な認可の対象ともせず、一方的な禁教の対象とのみして行くしかない。
特に、西洋社会においては、キリスト教の隣人愛志向などもあったせいで、私党編成
を正当化するのが宗教の主要目的であるという風にすら思い込まれているきらいがある。
そう思い込まれている以上は、宗教というものを根絶していかねばならないことにすら
なりかねないわけだが、当然そればかりが宗教の役割ではない。宗教に私党の正当化など
を恃まないことをわきまえた上で、信教を独立独行の拠り所などとしていくのであれば、
それはそれでよしとされるべきことである。そのような形で宗教が利用された時にこそ、
法華信者の源頼朝公による鎌倉幕府の創立の如き偉業が達せられたりもするのだから。
「斉の環、其の険を怙恃みて、其の衆庶を負み、好を棄てて盟に背き、
神主を陵虐す。曾臣、彪は将に諸侯を率いて以て討たとんす。其の官臣、
偃も実に之れに先後す。苟くも捷ちて功有らば、神の羞じを作す無し。
官臣、偃は敢えて復た済ること無からん。唯だ爾じ有神、之れを裁け」
「斉の環(霊公の呼び捨て)は、己の武力の強大さと、自国の人口の多さとを恃んで、
諸国との友好を破棄して同盟に背き、神の主たる民衆たちを虐待している。最下の
臣下である彪(晋の平公)すらもが諸侯を先導してこれを討とうとしているのだから、
官の秩序を守ろうとする臣下たる私、偃もまたそれに先後するぐらいでなければならぬ。
もしも勝って功績を挙げられたなら、それで神を辱めることもなくて済むというもの。
私は戦地に赴くためにこの河を渡ったきり、二度と還ってこない覚悟での戦いに臨む。
ただ神のみが、我が行いを公正に裁かれよ。(人民は神に守られるものではなく神の
主体である。その人民を守ることが神を辱めぬことともなる。そしてそのような試みに臨む
者こそは神の公正な裁きにかけられることをも望む。これが自力作善の益荒男の雄姿である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公十八年より)
を正当化するのが宗教の主要目的であるという風にすら思い込まれているきらいがある。
そう思い込まれている以上は、宗教というものを根絶していかねばならないことにすら
なりかねないわけだが、当然そればかりが宗教の役割ではない。宗教に私党の正当化など
を恃まないことをわきまえた上で、信教を独立独行の拠り所などとしていくのであれば、
それはそれでよしとされるべきことである。そのような形で宗教が利用された時にこそ、
法華信者の源頼朝公による鎌倉幕府の創立の如き偉業が達せられたりもするのだから。
「斉の環、其の険を怙恃みて、其の衆庶を負み、好を棄てて盟に背き、
神主を陵虐す。曾臣、彪は将に諸侯を率いて以て討たとんす。其の官臣、
偃も実に之れに先後す。苟くも捷ちて功有らば、神の羞じを作す無し。
官臣、偃は敢えて復た済ること無からん。唯だ爾じ有神、之れを裁け」
「斉の環(霊公の呼び捨て)は、己の武力の強大さと、自国の人口の多さとを恃んで、
諸国との友好を破棄して同盟に背き、神の主たる民衆たちを虐待している。最下の
臣下である彪(晋の平公)すらもが諸侯を先導してこれを討とうとしているのだから、
官の秩序を守ろうとする臣下たる私、偃もまたそれに先後するぐらいでなければならぬ。
もしも勝って功績を挙げられたなら、それで神を辱めることもなくて済むというもの。
私は戦地に赴くためにこの河を渡ったきり、二度と還ってこない覚悟での戦いに臨む。
ただ神のみが、我が行いを公正に裁かれよ。(人民は神に守られるものではなく神の
主体である。その人民を守ることが神を辱めぬことともなる。そしてそのような試みに臨む
者こそは神の公正な裁きにかけられることをも望む。これが自力作善の益荒男の雄姿である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公十八年より)
笠地蔵さん、年末年始、ご予定はどうですか。時間があれば会いたい。
ネットでも、文章を暗号化してでもネットでは書くことができない。
そんな話をしてみたい。いかがでしょうか。
笠地蔵さんの意見も聞いてみたい。
ボクは旅行は好きですから、夜行バスで行ってもいい。
ネットでも、文章を暗号化してでもネットでは書くことができない。
そんな話をしてみたい。いかがでしょうか。
笠地蔵さんの意見も聞いてみたい。
ボクは旅行は好きですから、夜行バスで行ってもいい。
自分も正直、無職ニートなどでいることを恥じているわけだよ。
「だとした所で、諜報犯罪者などよりはまだマシな存在だ」
という思いにもまた、嘘偽りはないわけだけれども。
こんな現状のままなら、まだ孤軍奮闘のままでいたい、
似たような境遇の人間と同病哀れみ合ったりするよりは、それなりの
成果を挙げてから付き合って行くようにしたいという思いがあるわけさ。
「だとした所で、諜報犯罪者などよりはまだマシな存在だ」
という思いにもまた、嘘偽りはないわけだけれども。
こんな現状のままなら、まだ孤軍奮闘のままでいたい、
似たような境遇の人間と同病哀れみ合ったりするよりは、それなりの
成果を挙げてから付き合って行くようにしたいという思いがあるわけさ。
>>64の引用部分などにもあるとおり、神をより頼むよりはむしろ神を守ること、
神を辱めぬ行いを心がけることこそが、人としてあるべき姿に当たる。神頼みなどは
基本、愚人の所業であるわけだから、なるべくそのような姿勢であるべきではないし、
どうあってもそうでしかいられないとしても、むしろそのより頼みようが慎ましやか
なぐらいであるべきである。他力本願でしかいられないような愚夫であるからには、
最低限、最悪級の破滅から免れられるだけでも構わない、というぐらいの謙虚さでいる
べきだし、むしろそのような謙虚さこそを神頼みによって育んで行くべきだとすらいえる。
他力本願に即して、自力作善者以上もの栄華にすら与ろうなどとするような所にこそ、
神仏信仰としての決定的な汚点が存在してもいる。それは、念仏信仰の祖である親鸞聖人すら
もが「本願誇り」として非難していた姿勢であり、そのような姿勢を深刻化させていった挙句
により一層の破滅に見舞われることすらもが、避けられたものではないようになっている。
>>64の「神主(人民)」という言葉や「民は神の主なり(左伝・桓公六年)」という言葉からも
分かるとおり、古代の中国人は民衆の総意こそを神格化すらしていた。そのような考えに
基づくならば、神をより頼むということは人民をより頼むことにすらなるわけで、それは
公権力者などの立場からすればなるべく控えることともなる。年貢や税収に相応やそれ以上の
働きを自分たちが心がけることで、人民たちに引け目を抱かせこそすれども、決して抱いて
しまったりするようなことがないようにすべきである。それでこそ人民を虐げないが故の、
「神を辱めない」振る舞いとなるわけだから、神を尊重するためにもそうであるべきだといえる。
神により頼もうとする性向は最悪、虐待レベルの民衆依存に帰結することとなる。
それは、形而上の超越神などを信仰対象とした聖書信仰においても変わりはなく、むしろ、
虚構神を信仰対象としたことが自己欺瞞として作用した結果、聖書信者の民衆依存こそは
人類史上でも未曾有のものとなり、苦しみに駆られた人々が人口爆発などという破滅級の
大問題をもたらすことともなった。民衆は、良くも悪しくも神の主であり、強依存などの
神を辱めぬ行いを心がけることこそが、人としてあるべき姿に当たる。神頼みなどは
基本、愚人の所業であるわけだから、なるべくそのような姿勢であるべきではないし、
どうあってもそうでしかいられないとしても、むしろそのより頼みようが慎ましやか
なぐらいであるべきである。他力本願でしかいられないような愚夫であるからには、
最低限、最悪級の破滅から免れられるだけでも構わない、というぐらいの謙虚さでいる
べきだし、むしろそのような謙虚さこそを神頼みによって育んで行くべきだとすらいえる。
他力本願に即して、自力作善者以上もの栄華にすら与ろうなどとするような所にこそ、
神仏信仰としての決定的な汚点が存在してもいる。それは、念仏信仰の祖である親鸞聖人すら
もが「本願誇り」として非難していた姿勢であり、そのような姿勢を深刻化させていった挙句
により一層の破滅に見舞われることすらもが、避けられたものではないようになっている。
>>64の「神主(人民)」という言葉や「民は神の主なり(左伝・桓公六年)」という言葉からも
分かるとおり、古代の中国人は民衆の総意こそを神格化すらしていた。そのような考えに
基づくならば、神をより頼むということは人民をより頼むことにすらなるわけで、それは
公権力者などの立場からすればなるべく控えることともなる。年貢や税収に相応やそれ以上の
働きを自分たちが心がけることで、人民たちに引け目を抱かせこそすれども、決して抱いて
しまったりするようなことがないようにすべきである。それでこそ人民を虐げないが故の、
「神を辱めない」振る舞いとなるわけだから、神を尊重するためにもそうであるべきだといえる。
神により頼もうとする性向は最悪、虐待レベルの民衆依存に帰結することとなる。
それは、形而上の超越神などを信仰対象とした聖書信仰においても変わりはなく、むしろ、
虚構神を信仰対象としたことが自己欺瞞として作用した結果、聖書信者の民衆依存こそは
人類史上でも未曾有のものとなり、苦しみに駆られた人々が人口爆発などという破滅級の
大問題をもたらすことともなった。民衆は、良くも悪しくも神の主であり、強依存などの
形での暴虐をはたらいたなら、最後には絶対不可避の大破滅を神罰としてもたらしすらする
ことまでもが、邪信の徒たる聖書信者の振る舞いによってこそ明らかとなったのである。
自力作善ではなく、他力本願にこそ「限界」というものがある。それは、聖書信者の
暴慢な他力信仰が地球規模での限界を来たした現代にこそ明らかとなったことでもあるし、
これまでの歴史上を見ても、日本のような閉鎖的な社会で一向一揆による世直しが限界
を来たしたりたことからも窺えていたことではある。ただ、他力本願に基づく外界侵略
の余地が地球上に残存していた限りにおいて、それを旨とする邪教信仰などが存続しても
いられたわけで、むしろそのような狂信が2000年にもわたって存続していられたことの
ほうが、この地球社会の度量の広さが大概のものであったからこその奇跡であったといえる。
他力本願にこそ、致命的な限界が存在しているということが地球規模で証明されたからこそ、
これからは地球規模で自力作善の精進を心がけて行くことのほうが格好の機縁となっている。
日本でですら、武家時代以降は自力作善の仏門並みかそれ以上にも他力本願の浄土門のほうが
幅を利かせ始めて来ているわけだから、自力系の仏門などが息を吹き返す上での格好の機会が
到来したことは、この日本に対してまでもよい影響を及ぼし得ることなわけである。まさに、
怪我の功名、禍転じて成せる福となるわけで、そのような機会をもたらしてくれた聖書信者
もまた、ちゃんと棄教して災厄の責任を負った後には、そのような側面における功労者と
なったことが、評価の対象ともにされて行くに違いない。聖書信者たち自身がことを急ぎ
すらすれば、そのような時期が到来することも決して遠い未来などでまでありはするまい。
「吾が父死して益ます富み、吾が父を死なせて国を専らにす。死有るのみ。吾れ之れに従うを蔑むや」
「自らの父が死んだからといって益々富み栄え、父を死なせたからといって国すらをも
好き勝手にしようとする。そんな人間に従わされるぐらいなら、死んだほうがマシだ。
(実の父母を無みすることで富もうとする聖書信者に対しても、同様である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十一年より)
ことまでもが、邪信の徒たる聖書信者の振る舞いによってこそ明らかとなったのである。
自力作善ではなく、他力本願にこそ「限界」というものがある。それは、聖書信者の
暴慢な他力信仰が地球規模での限界を来たした現代にこそ明らかとなったことでもあるし、
これまでの歴史上を見ても、日本のような閉鎖的な社会で一向一揆による世直しが限界
を来たしたりたことからも窺えていたことではある。ただ、他力本願に基づく外界侵略
の余地が地球上に残存していた限りにおいて、それを旨とする邪教信仰などが存続しても
いられたわけで、むしろそのような狂信が2000年にもわたって存続していられたことの
ほうが、この地球社会の度量の広さが大概のものであったからこその奇跡であったといえる。
他力本願にこそ、致命的な限界が存在しているということが地球規模で証明されたからこそ、
これからは地球規模で自力作善の精進を心がけて行くことのほうが格好の機縁となっている。
日本でですら、武家時代以降は自力作善の仏門並みかそれ以上にも他力本願の浄土門のほうが
幅を利かせ始めて来ているわけだから、自力系の仏門などが息を吹き返す上での格好の機会が
到来したことは、この日本に対してまでもよい影響を及ぼし得ることなわけである。まさに、
怪我の功名、禍転じて成せる福となるわけで、そのような機会をもたらしてくれた聖書信者
もまた、ちゃんと棄教して災厄の責任を負った後には、そのような側面における功労者と
なったことが、評価の対象ともにされて行くに違いない。聖書信者たち自身がことを急ぎ
すらすれば、そのような時期が到来することも決して遠い未来などでまでありはするまい。
「吾が父死して益ます富み、吾が父を死なせて国を専らにす。死有るのみ。吾れ之れに従うを蔑むや」
「自らの父が死んだからといって益々富み栄え、父を死なせたからといって国すらをも
好き勝手にしようとする。そんな人間に従わされるぐらいなら、死んだほうがマシだ。
(実の父母を無みすることで富もうとする聖書信者に対しても、同様である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十一年より)
人間の尊厳は、人間同士の関係性の中で育まれる。個人が他人との関係性を抜きにして勝手に抱いたり
するのはただの思い上がりであり、それはむしろ真っ当な人としての尊厳を損ないかねないものですら
あるわけだが、個人主義者たるや、その身勝手な思い上がりのほうを真の尊厳であるなどと見なして、
人間同士の潤沢な関係性の中にこそ育まれる真の尊厳を蔑んで、挙句には損壊せしめようとすらする。
もちろん、全ての人間関係が尊厳を育む場となるわけでもなく、中には監守の受刑者に対する関係のような、
あからさまに尊厳を破棄せねばならないような人間関係も存在する。もしも世の中が紛争地帯のような
無法状態であって、そのために誰しもが犯罪行為を働きまくったりしていたならば、そのせいで
人間同士がお互いを尊重し合うことなどもできなくなる。また、世の中がそのような状況でなくとも、
自分個人が鼻をすすっただけでも犯罪と見なすような極度のピューリタン主義者であったりしたならば、
そのせいで、自分の要求を満たせていない世の中じゅうの人々への尊重意識を欠くことにすらなってしまう。
人が人を尊重せねばならないTPOというものを、天下国家の公益にも寄与するように規定しているのが
仁義道徳であり、なればこそ、士農工商の四民をこの順位に即してより尊んで行くべきだとしてもいる。
この内では最下位に当たる商民すらもが、都市社会の運営のためには不可欠となるものだから、都市に
住まう人間である以上は全くの卑下扱いにしてしまっていいなどということもない。ただ、その商民以上にも
世の中をより根本的な部分から司っている士や農や工といった職業への従事者をより尊んで行くべきだと
いうわけだから、四民制も畢竟「人間尊重の重畳」を目的としているものであるのだと受け止めて、
決して他者を蔑むための道具として濫用したりするようなことがないようにしなければならない。
するのはただの思い上がりであり、それはむしろ真っ当な人としての尊厳を損ないかねないものですら
あるわけだが、個人主義者たるや、その身勝手な思い上がりのほうを真の尊厳であるなどと見なして、
人間同士の潤沢な関係性の中にこそ育まれる真の尊厳を蔑んで、挙句には損壊せしめようとすらする。
もちろん、全ての人間関係が尊厳を育む場となるわけでもなく、中には監守の受刑者に対する関係のような、
あからさまに尊厳を破棄せねばならないような人間関係も存在する。もしも世の中が紛争地帯のような
無法状態であって、そのために誰しもが犯罪行為を働きまくったりしていたならば、そのせいで
人間同士がお互いを尊重し合うことなどもできなくなる。また、世の中がそのような状況でなくとも、
自分個人が鼻をすすっただけでも犯罪と見なすような極度のピューリタン主義者であったりしたならば、
そのせいで、自分の要求を満たせていない世の中じゅうの人々への尊重意識を欠くことにすらなってしまう。
人が人を尊重せねばならないTPOというものを、天下国家の公益にも寄与するように規定しているのが
仁義道徳であり、なればこそ、士農工商の四民をこの順位に即してより尊んで行くべきだとしてもいる。
この内では最下位に当たる商民すらもが、都市社会の運営のためには不可欠となるものだから、都市に
住まう人間である以上は全くの卑下扱いにしてしまっていいなどということもない。ただ、その商民以上にも
世の中をより根本的な部分から司っている士や農や工といった職業への従事者をより尊んで行くべきだと
いうわけだから、四民制も畢竟「人間尊重の重畳」を目的としているものであるのだと受け止めて、
決して他者を蔑むための道具として濫用したりするようなことがないようにしなければならない。
士農工商や君臣父子夫婦兄弟朋友といった、仁義道徳に基づく人間尊重こそは、「為されて然るべき」と
いえるものであり、仮にそれ以外の神仏への尊崇などを育んで行くとしても、両者が衝突し合ったり
するようなことがないようにしなければならない。先祖を神仏(氏神)に見立てての尊崇だけは、
存命中の人間同士の尊重すらをも助成するものだから、全く問題とするに当たらないが、それ以外の
怪力乱神が崇められたりした場合には、そのせいで個々の人間に対する尊重を損ねてしまうような
ことにもなりかねないので、禁教も含めた規制の対象にすらして行くべきだといえる。
墨家の博愛志向の如き、全く節操を欠いた敬愛の安売りも「過ぎたるはなお及ばざるが如し」であり、
仁徳に根差した特殊な体系に根差した尊重を育んで行く場合などと比べれば「空振り」に終わって
しまいかねない。節度を保ったある種の人間尊重こそが、神格信仰以上に優先されて然るべきほどもの
優良さを発揮するわけなので、人間尊重一般が神格信仰以上に優先されるべきだなどと思い込んで、
共産主義者のような無制限な宗教破壊に及んだりすることがないようにもしなければならない。
「君子動きて世々の天下の道と為り、行いて世々の天下の法と為り、言いて世々の天下の則と為る。之れに
遠ければ則ち望む有り、之れに近ければ則ち厭わず。詩に曰く、彼に在りて悪まず、此れに在りて射わず、
庶幾くは夙夜、以て永く誉れを終えんと。君子の未だ此くの如からずして蚤く天下に誉れある者有らざるなり」
「君子が一たび動けば永世に至るまでの天下の道となり、行えば永世に至るまでの天下の法となり、言えば
永世に至るまでの天下の則となる。世の中が未だその理想から遠ければ志しを養い、理想に近づこうものなら
そこでの活動を厭うことがない。詩経(周頌・振鷲)に『理想から遠くとも憎まず、近ければ活動を厭わず、
願わくは日夜怠ることなく、以って永きの栄誉に賜らん』とある。君子が未だ斯くの如くあらずして天下に
栄誉を得たこともないのである。(大道ある天下に栄誉を得ることもまた一つの君子の望みなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二九より)
いえるものであり、仮にそれ以外の神仏への尊崇などを育んで行くとしても、両者が衝突し合ったり
するようなことがないようにしなければならない。先祖を神仏(氏神)に見立てての尊崇だけは、
存命中の人間同士の尊重すらをも助成するものだから、全く問題とするに当たらないが、それ以外の
怪力乱神が崇められたりした場合には、そのせいで個々の人間に対する尊重を損ねてしまうような
ことにもなりかねないので、禁教も含めた規制の対象にすらして行くべきだといえる。
墨家の博愛志向の如き、全く節操を欠いた敬愛の安売りも「過ぎたるはなお及ばざるが如し」であり、
仁徳に根差した特殊な体系に根差した尊重を育んで行く場合などと比べれば「空振り」に終わって
しまいかねない。節度を保ったある種の人間尊重こそが、神格信仰以上に優先されて然るべきほどもの
優良さを発揮するわけなので、人間尊重一般が神格信仰以上に優先されるべきだなどと思い込んで、
共産主義者のような無制限な宗教破壊に及んだりすることがないようにもしなければならない。
「君子動きて世々の天下の道と為り、行いて世々の天下の法と為り、言いて世々の天下の則と為る。之れに
遠ければ則ち望む有り、之れに近ければ則ち厭わず。詩に曰く、彼に在りて悪まず、此れに在りて射わず、
庶幾くは夙夜、以て永く誉れを終えんと。君子の未だ此くの如からずして蚤く天下に誉れある者有らざるなり」
「君子が一たび動けば永世に至るまでの天下の道となり、行えば永世に至るまでの天下の法となり、言えば
永世に至るまでの天下の則となる。世の中が未だその理想から遠ければ志しを養い、理想に近づこうものなら
そこでの活動を厭うことがない。詩経(周頌・振鷲)に『理想から遠くとも憎まず、近ければ活動を厭わず、
願わくは日夜怠ることなく、以って永きの栄誉に賜らん』とある。君子が未だ斯くの如くあらずして天下に
栄誉を得たこともないのである。(大道ある天下に栄誉を得ることもまた一つの君子の望みなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二九より)
中国の放伐革命や日本の武家政治のように、必要があって已むなく行われる過大な武力行使というものがある。
それは、もう少し平和的な手法による対処も考えられそうな所を、あえて執り行う「剛克」であるわけで、
それにより鼠賊の蔓延る中低度の乱世の持続(沈潜)の強制終了や予防に務めて行こうとする。
「沈潜には剛克」という、箕子の洪範九疇の教えなどがあればこそ、中国や日本ではあえてそのような
剛克の試みが為されて、それで実際に漢代や唐代や平安時代や江戸時代のような長期の泰平時代を
幾度も築き上げて行くことができた。これは、万年平和状態のインドと、万年戦乱状態の西洋との
ちょうど中間に当たるような歴史展開における泰平社会の実現であり、清濁併せ呑む中での剛克に
よってそのような時代を実現して来られた所が、これまた特別な意義を帯びているといえる。
「沈潜には剛克」などという教えも知らなければ、「超封建制」たるカースト制のような徹底的な
階級制によって世の中を制圧して来たわけでもない西洋においてこそ、中国でいえば春秋戦国時代
あたりに比肩されるような「低度〜中度の乱世」が永続して来た。政商や食客や悪徳外交家のような
権力犯罪者が絶え間なく蠢動し続けているがための世の乱れを深刻化させておきながら、さりとて
それらの権力犯罪者を放伐し去る程もの徹底的な剛克まではついぞ行われず、ダラダラと中途半端に
乱世を持続させて行く不健全でだらしない歴史展開ばかりを持ち越して来たのだった。
それは、数千万人規模の戦死者をはじき出した第一次第二次両世界大戦といえども変わりなかったことであり、
権力犯罪者の横暴が祟っての経済破綻の清算を、貧乏人たちにしわ寄せして兵士として戦地で大量に死なせて
おいて、戦地に兵器を供給したりしている権力犯罪者どものほうは相変わらず安全圏での保身に回っている
という程度のものでしかなかった。中にはナチスドイツのように、戦乱の元凶たる権力犯罪者の放伐までをも
試みた勢力もあったが、戦況で優位には立てなかったし、総統のヒトラーも「ユダヤ人」という所にばかり
それは、もう少し平和的な手法による対処も考えられそうな所を、あえて執り行う「剛克」であるわけで、
それにより鼠賊の蔓延る中低度の乱世の持続(沈潜)の強制終了や予防に務めて行こうとする。
「沈潜には剛克」という、箕子の洪範九疇の教えなどがあればこそ、中国や日本ではあえてそのような
剛克の試みが為されて、それで実際に漢代や唐代や平安時代や江戸時代のような長期の泰平時代を
幾度も築き上げて行くことができた。これは、万年平和状態のインドと、万年戦乱状態の西洋との
ちょうど中間に当たるような歴史展開における泰平社会の実現であり、清濁併せ呑む中での剛克に
よってそのような時代を実現して来られた所が、これまた特別な意義を帯びているといえる。
「沈潜には剛克」などという教えも知らなければ、「超封建制」たるカースト制のような徹底的な
階級制によって世の中を制圧して来たわけでもない西洋においてこそ、中国でいえば春秋戦国時代
あたりに比肩されるような「低度〜中度の乱世」が永続して来た。政商や食客や悪徳外交家のような
権力犯罪者が絶え間なく蠢動し続けているがための世の乱れを深刻化させておきながら、さりとて
それらの権力犯罪者を放伐し去る程もの徹底的な剛克まではついぞ行われず、ダラダラと中途半端に
乱世を持続させて行く不健全でだらしない歴史展開ばかりを持ち越して来たのだった。
それは、数千万人規模の戦死者をはじき出した第一次第二次両世界大戦といえども変わりなかったことであり、
権力犯罪者の横暴が祟っての経済破綻の清算を、貧乏人たちにしわ寄せして兵士として戦地で大量に死なせて
おいて、戦地に兵器を供給したりしている権力犯罪者どものほうは相変わらず安全圏での保身に回っている
という程度のものでしかなかった。中にはナチスドイツのように、戦乱の元凶たる権力犯罪者の放伐までをも
試みた勢力もあったが、戦況で優位には立てなかったし、総統のヒトラーも「ユダヤ人」という所にばかり
乱世の元凶を集約しようとしていた当たり、より根本的な問題としての権力犯罪一般を正確に見定める
までのことは出来ていなかったように思われる。(何も、ユダヤ人だけが権力犯罪者ではないのだから)
有史以来、今に至るまで結局、西洋人が自分たちの社会における重権力犯罪の横行を一度でも根絶
させられたような試しはない。それは、「沈潜には剛克」などという教えを試みることも認知する
こともなかったからだし、また重権力犯罪の主導者となるユダヤ人(を名乗るカルト信仰者)の
横行を容認するように、自分たちにとっての金科玉条である新旧約聖書に書かれていたからでもある。
しかし、春秋戦国時代の中国などもそうであったように、権力犯罪の蔓延る中低度の乱世というのは、
どこまでも発展し続けて行くのでなければ済まないようになっている。そうして行くことで、本質的には
有害無益な存在でしかない権力犯罪者の横行を正当化し続けて行く必要がある。西洋社会もその例に漏れず、
権力犯罪者どもの妄動の場を全世界へと押し広げて行った挙句に、ついには地球上の主だった可住地域を
軒並み征服し尽くすまでに至った。その後、大日本帝国の奮闘などもあって、多くの植民地を手離させられる
などしたが、それでも旧植民地における既得権益の嵩にかかっての世界トップ級の富裕を維持して来る
ことができた。ただ、今以上の社会的発展の余地がなくなってしまったということが、権力犯罪の横行
ありきで成り立って来た西洋社会にとっての致命的な問題点となってしまったために、まるで体力の衰えた
中高年者が、若い頃のままの暴飲暴食を続けたせいで身体を壊すような低調状態にも陥ってしまったのである。
世の中が重度の権力犯罪依存状態に陥ってしまうということは、中国や日本もまた経験して来たことである。
ただ、それを意識的に克服して来た経験もまあるのが西洋などとは違う所であり、克服したからには
江戸時代のように、鎖国状態で人口管理も行き届いているような安定的社会を実現することができていた。
そこは、いま沈潜を剛克する必要性に駆られている西洋人などにとってのお手本ともなる所であり、
万億の人々の命運を左右する大変革となるからには、昔の成功例を参考にすることも厳重であるべきだと言える。
までのことは出来ていなかったように思われる。(何も、ユダヤ人だけが権力犯罪者ではないのだから)
有史以来、今に至るまで結局、西洋人が自分たちの社会における重権力犯罪の横行を一度でも根絶
させられたような試しはない。それは、「沈潜には剛克」などという教えを試みることも認知する
こともなかったからだし、また重権力犯罪の主導者となるユダヤ人(を名乗るカルト信仰者)の
横行を容認するように、自分たちにとっての金科玉条である新旧約聖書に書かれていたからでもある。
しかし、春秋戦国時代の中国などもそうであったように、権力犯罪の蔓延る中低度の乱世というのは、
どこまでも発展し続けて行くのでなければ済まないようになっている。そうして行くことで、本質的には
有害無益な存在でしかない権力犯罪者の横行を正当化し続けて行く必要がある。西洋社会もその例に漏れず、
権力犯罪者どもの妄動の場を全世界へと押し広げて行った挙句に、ついには地球上の主だった可住地域を
軒並み征服し尽くすまでに至った。その後、大日本帝国の奮闘などもあって、多くの植民地を手離させられる
などしたが、それでも旧植民地における既得権益の嵩にかかっての世界トップ級の富裕を維持して来る
ことができた。ただ、今以上の社会的発展の余地がなくなってしまったということが、権力犯罪の横行
ありきで成り立って来た西洋社会にとっての致命的な問題点となってしまったために、まるで体力の衰えた
中高年者が、若い頃のままの暴飲暴食を続けたせいで身体を壊すような低調状態にも陥ってしまったのである。
世の中が重度の権力犯罪依存状態に陥ってしまうということは、中国や日本もまた経験して来たことである。
ただ、それを意識的に克服して来た経験もまあるのが西洋などとは違う所であり、克服したからには
江戸時代のように、鎖国状態で人口管理も行き届いているような安定的社会を実現することができていた。
そこは、いま沈潜を剛克する必要性に駆られている西洋人などにとってのお手本ともなる所であり、
万億の人々の命運を左右する大変革となるからには、昔の成功例を参考にすることも厳重であるべきだと言える。
ただ、今の中国や日本の権力者が、昔の権力道徳者のように偉大であるかといえばそうでもないので、
歴史に学ぶことと現代人に学ぶこととは別物でもあるべきだといえる。黄金時代の中国史や日本史に
学ぶことは、それこそ現代の中国人や日本人に先んじるぐらいの心がけであるべきなのである。
「商書に曰く、沈漸には剛克、高明には柔克と。夫子之を壹らにす。其れ没らざらんか。
天は剛徳為れども、猶お時を干さず。況んや人に在りてをや。且つ華にして実ならざるは、怨みの聚まる所なり」
「書経(洪範)に『沈潜には剛克、高明には柔克(柔には剛、剛には柔)』とある。にもかかわらずあの人は
(剛には剛、柔には柔の如く)専らなばかりでいる。じきに駄目になってしまうことだろう。天は剛徳を備えて
いるが、だからといって暑いばかりだったりせず、季節によって寒暑を織り交ぜて来るというのだから、
人間ならなおのことそうあるべきだといえる(この一文、老子の教えにも似る)。それに、虚飾ばかりで
中身が伴っていなかったりすれば、怨みも集まるばかりとなるだろう。(平和は平和で求めるべき
時宜があり、剛克も剛克で嗜むべき時がある。ただただ平和ばかりを追い求めて、戦乱状態に虚飾
の平和を決め込んだりしても、人々からの恨みを募らせるばかりのこととなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・文公五年より)
歴史に学ぶことと現代人に学ぶこととは別物でもあるべきだといえる。黄金時代の中国史や日本史に
学ぶことは、それこそ現代の中国人や日本人に先んじるぐらいの心がけであるべきなのである。
「商書に曰く、沈漸には剛克、高明には柔克と。夫子之を壹らにす。其れ没らざらんか。
天は剛徳為れども、猶お時を干さず。況んや人に在りてをや。且つ華にして実ならざるは、怨みの聚まる所なり」
「書経(洪範)に『沈潜には剛克、高明には柔克(柔には剛、剛には柔)』とある。にもかかわらずあの人は
(剛には剛、柔には柔の如く)専らなばかりでいる。じきに駄目になってしまうことだろう。天は剛徳を備えて
いるが、だからといって暑いばかりだったりせず、季節によって寒暑を織り交ぜて来るというのだから、
人間ならなおのことそうあるべきだといえる(この一文、老子の教えにも似る)。それに、虚飾ばかりで
中身が伴っていなかったりすれば、怨みも集まるばかりとなるだろう。(平和は平和で求めるべき
時宜があり、剛克も剛克で嗜むべき時がある。ただただ平和ばかりを追い求めて、戦乱状態に虚飾
の平和を決め込んだりしても、人々からの恨みを募らせるばかりのこととなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・文公五年より)
単純な、動物行動学的な観点から見ても、人間はある程度は上下関係の下で活動をすべき生き物と
なっている。決して犬のように絶対的な上下関係を強いられねばならないわけでもないが、さりとて
猫のように上下関係を完全に無視した自由奔放な関係ばかりでいるわけにも行かない。比較的上下関係
を強いられることの少ない商売ですらもが、大規模化すれば同業者同士での上司と部下や先輩と後輩
のような上下関係を構築しないことには業務に支障が出始めることとなる。人間が全くお互いの上下関係
などを気にせずに済むのはごく小規模な田舎の村社会ぐらいのもので、しかもそのような村社会において
ですら、長老格の人間を敬って、その知恵に頼るなどしたほうが色々と都合がよかったりする。
(郷党での上下関係は年齢の高低に集約される。孟子・公孫丑章句下・二)
個人主義的な観点のみならず、無為自然を尊ぶ道家思想的な観点から見ても、上下関係などないに越したこと
はないと言えるわけだが、それにしたってどうしても上下関係を築き上げねばならない事態というのがある。
訳あって上下関係を築き上げて行くからには、それが必要性だけに応じた便宜的なものであったほうがよい。
そうであるとした場合に、最も便宜的な上下関係となるのが君臣父子夫婦の三綱の序列であり、また
そうであるからこそ、三綱の上下関係こそはそれを嗜む人間たち自身の尊厳を傷付けたりすることもない。
主人と奴隷の上下関係だの、恣意で取り決められたその他の身勝手な上下関係だのを強いられたならば、
そのせいで上下関係などを強いられない場合以上もの人としての尊厳の毀損を被ることとなってしまうが、
自らの親先祖や主君を畏敬したり、そのようなわきまえのある君子の男を妻たる女が敬ったりすることは、本人
たちの尊厳を損ねたりすることが決してありはしない。それどころか、真に敬うべき相手を敬う義務を果たして
いるがための誇りすらもが抱かれて、誇りある人間としての責任ある振る舞いがより洗練されて行くことともなる。
なっている。決して犬のように絶対的な上下関係を強いられねばならないわけでもないが、さりとて
猫のように上下関係を完全に無視した自由奔放な関係ばかりでいるわけにも行かない。比較的上下関係
を強いられることの少ない商売ですらもが、大規模化すれば同業者同士での上司と部下や先輩と後輩
のような上下関係を構築しないことには業務に支障が出始めることとなる。人間が全くお互いの上下関係
などを気にせずに済むのはごく小規模な田舎の村社会ぐらいのもので、しかもそのような村社会において
ですら、長老格の人間を敬って、その知恵に頼るなどしたほうが色々と都合がよかったりする。
(郷党での上下関係は年齢の高低に集約される。孟子・公孫丑章句下・二)
個人主義的な観点のみならず、無為自然を尊ぶ道家思想的な観点から見ても、上下関係などないに越したこと
はないと言えるわけだが、それにしたってどうしても上下関係を築き上げねばならない事態というのがある。
訳あって上下関係を築き上げて行くからには、それが必要性だけに応じた便宜的なものであったほうがよい。
そうであるとした場合に、最も便宜的な上下関係となるのが君臣父子夫婦の三綱の序列であり、また
そうであるからこそ、三綱の上下関係こそはそれを嗜む人間たち自身の尊厳を傷付けたりすることもない。
主人と奴隷の上下関係だの、恣意で取り決められたその他の身勝手な上下関係だのを強いられたならば、
そのせいで上下関係などを強いられない場合以上もの人としての尊厳の毀損を被ることとなってしまうが、
自らの親先祖や主君を畏敬したり、そのようなわきまえのある君子の男を妻たる女が敬ったりすることは、本人
たちの尊厳を損ねたりすることが決してありはしない。それどころか、真に敬うべき相手を敬う義務を果たして
いるがための誇りすらもが抱かれて、誇りある人間としての責任ある振る舞いがより洗練されて行くことともなる。

昨今のブラック企業内での上司と部下の上下関係などこそは極端に苛烈化しているし、しかもそのトップ
に当たるような人間がカルト宗教に基づく上下関係を企業内での上下関係の参考にまでしていたりする。
人間は所詮、上下関係抜きではろくに大規模な活動が出来ない生き物であるにも関わらず、その人間にとって
最も健全な上下関係たる君臣父子夫婦の三綱を民主主義や男女平等主義などによって否定してしまったために、
三綱よりも遥かに苛烈でろくでもないような上下関係ばかりが世の中に蔓延ることとなってしまった。
元来、自分が敬うにも値しないようなアカの他人を雇用関係などから人為的に敬わされることが、
ただそれだけでも相当な精神的苦痛を強いられるものであるというのに、さらにそのような虚構の上下関係
こそが三綱の序列など以上にも徹底的な軍隊様式のものと化してしまっていたりするのだから、まともな神経
の持ち主にとってはたまったものではない。それこそ、主人に仕える奴隷か犬畜生ほどにも自らの品性を下劣化
させてからでもなければ、そのような上下関係の下で平気でいられたりはしないわけで、そのような上下関係
ばかりが世の中で持て囃された結果として、世の中も奴隷か犬畜生同然の品性の持ち主ばかりとなってしまう。
とはいえ、世の中が奴隷や犬同然の人間ばかりで占められたりしたなら、世の中のほうが立ち行かなくなる。
奴隷や犬などが居なくたって人間社会を営んで行くことはできるが、世の中が奴隷や犬だくで占められたり
したならば、その途端に世の中も致命的に傾き始めるけととなる。それもそのはず、奴隷や犬は、
主人なくして生きて行けないような精神的不具を植え付けられていればこそそれらしい振る舞いでも
居られているのだから、自分たちだけでは生きて行けない不具者ばかりで世の中が占められて
しまったならば、その結果として当然、世の中も自存して行けないこととなってしまう。
君臣父子夫婦の三綱の序列こそは、そのような問題をも未然に予防して行くものである。
それが、人として敬うべき相手に対する畏敬の関係となるのみならず、真に世の中を司って
行く能力のある人間に対する畏敬を込めた上下関係ともなるものだから、三綱が重んじられた
結果として自明に、世の中のほうが健全かつ恒久的に営まれて行くことともなる。
人としての尊厳を損なわれたりすることがなく、かえって順当な誇りすらをも抱かせる上に、
天下泰平の礎としての役割すらをも果たす三綱という序列関係がないがしろにされて、企業内だの
カルト教団内だのでの恣意的で不健全かつ苛烈な上下関係ばかりが強いられている今の世の中に
住まわされている人々は、何という不幸に見舞われていることだろうか。それが民主主義や男女平等主義の
帰結であるというのならば、民主主義や男女平等主義こそは大いなる不幸の元凶たるに違いないではないか。
「君子は恭倹を以て仁を役するを求め、信讓を以て礼を役するを求め、自ら其の事を尚しとせず、自ら
其の身を尊しとせず、位に於いて倹やかにして欲に於いて寡たり、賢に於いて譲り、己を卑しめて人を尊ぶ。
小心にして義を畏れ、以て君に事えるを求め、之れを得て自ら是たり、得ざるも自ら是たり、以て天命を聴く」
「君子は恭敬と倹約によって仁を益し、信義と辞譲とによって礼を益する。自らの業績や身の程を尊しとせず、
自らの地位に即した倹約を心がけて寡欲に徹し、賢者には譲り、自らを卑しんで他者を尊ぶ。小心翼翼として
道義を畏れ、その姿勢に即して主君に仕えることを求めて、それが叶えば初めて自らを是とし、得ざる限りに
おいても忠義の志しこそを本是とする。そのような姿勢であればこそ、天命すらをも聴くことができる。
(人を敬える人間こそは天命をも聴く。人を敬えない人間などは天神にも近づけないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
それが、人として敬うべき相手に対する畏敬の関係となるのみならず、真に世の中を司って
行く能力のある人間に対する畏敬を込めた上下関係ともなるものだから、三綱が重んじられた
結果として自明に、世の中のほうが健全かつ恒久的に営まれて行くことともなる。
人としての尊厳を損なわれたりすることがなく、かえって順当な誇りすらをも抱かせる上に、
天下泰平の礎としての役割すらをも果たす三綱という序列関係がないがしろにされて、企業内だの
カルト教団内だのでの恣意的で不健全かつ苛烈な上下関係ばかりが強いられている今の世の中に
住まわされている人々は、何という不幸に見舞われていることだろうか。それが民主主義や男女平等主義の
帰結であるというのならば、民主主義や男女平等主義こそは大いなる不幸の元凶たるに違いないではないか。
「君子は恭倹を以て仁を役するを求め、信讓を以て礼を役するを求め、自ら其の事を尚しとせず、自ら
其の身を尊しとせず、位に於いて倹やかにして欲に於いて寡たり、賢に於いて譲り、己を卑しめて人を尊ぶ。
小心にして義を畏れ、以て君に事えるを求め、之れを得て自ら是たり、得ざるも自ら是たり、以て天命を聴く」
「君子は恭敬と倹約によって仁を益し、信義と辞譲とによって礼を益する。自らの業績や身の程を尊しとせず、
自らの地位に即した倹約を心がけて寡欲に徹し、賢者には譲り、自らを卑しんで他者を尊ぶ。小心翼翼として
道義を畏れ、その姿勢に即して主君に仕えることを求めて、それが叶えば初めて自らを是とし、得ざる限りに
おいても忠義の志しこそを本是とする。そのような姿勢であればこそ、天命すらをも聴くことができる。
(人を敬える人間こそは天命をも聴く。人を敬えない人間などは天神にも近づけないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

女子供や小人男にはそこまでの能力がないというのが、結局のところ、
近現代の高度文明化社会に至るまで通用し続ける普遍法則であった。だからこそ、
民主主義や男女平等主義などを推し進めた結果として人口爆発や環境破壊の如き
破滅的事態をも招いてしまったわけで、これは結局、その民主化や男女平等化を
技術面から補佐して来た科学の発展が、どこまでいっても易学上の陰陽法則を超克
することができないままで在り続けたからこそ来たしたことであるとも言える。
科学の発展自体、インドや古代オリエント社会における初等算術の体系化や、
中国における火薬や羅針盤や紙といった物品の発明があって成り立ってきたもの
でもあるため、決して西洋原産というばかりのものでもないが、ルネサンス時代
以降に世界レベルで科学技術の発展を主導し始めたのは、やはり西洋人である。
日本などでも微積分や線形代数に相当するような高度な算術が発見されておき
ながらも、それらがろくな実用の対象とはされなかったために、明治期の文明開化
の瞬間まで西洋人に科学発展の面で水を開けられたままであり続けたのだった。
ただ、西洋人がなぜそこまで近代文明の発展にかけて主導的な役割を果たした
のかといえば、そこにはやはり宗教的な動機が備わっていた。信仰義認を本是と
するプロテスタント教派をルターが創立して以来、西洋キリスト教徒の一部が、
無宗教ではなく、旧来の実践姿勢からは大幅に異なるような形でのキリスト信仰
の実践を試みて行くようになった。それが他でもない、民主主義だの自由主義
だの男女平等主義だのといった無宗教的イデオロギーの社会規模での流布であり、
それらの試み自体は決して宗教的なものではないが、そのような試みをあえて
行おうとすること自体はやはり、温故知新を嫌ってどこまでも世の中の七色変化
を繰り返していこうとするキリスト教徒としての信条を原動力としていた。
キリスト教徒の比率が1%以下に止まっているこの日本においても、民主主義や
資本主義といったイデオロギーを主導的に実践して行く上では自らがキリスト
教徒でもあるほうが都合がよかったりするものだから、世の中をトップから
司っている政財界にこそキリスト教徒が多くいたりもする。キリスト信仰自体が
そんなに心情的に受け入れられやすいものでもなく、仮に無理やり全国規模で
の信仰を強要したりした所でローマカトリックの暗黒時代のようなどうにも評価
し難い事態を招いてしまうことが察せられたものだから、キリスト教徒たちも
信仰自体をやたらと流布するよりは、その信仰に即して自分たちが利益を得たり
するための無宗教的な民主化活動のほうをより推し進めて行くようにしたのだった。
その、無宗教の仮面を利用することで、暗にキリスト信仰の理想までをも
実現して行こうとする試みこそが、今になってついに限界を来たし始めた。
カトリックや正教によるキリスト信仰自体の無理やりな流布もすでに限界を
露呈している一方で、信仰はあくまで自分たちのものとして、その信仰のための
無宗教的な活動を推進して行くプロテスタントや近代ユダヤの試みまでもが、
ついに致命的な限界を来たすこととなった。そもそもが、キリスト信仰などを
持ち越していたりすることが根本的な過ちであるのだから、信仰自体を義認程度
に止めた所でやはり破綻を来たしてしまうということが、いま確証されたのである。
キリスト信仰も、その無宗教的な実践としての民主化や自由化や男女平等化も、
それらを技術面から支えて来た近代科学の発展も、いずれもが5000年前に発見され
ていた易学や、その易学のより実践主義的な発展系としての儒学の教理を超克する
ことができなかった。そうでしかあり得ない根拠は、これまた道家の万物斉同思想
や仏教の諸法実相の教えが提示しているわけで、結局のところ、西洋的な文化文明の
発展姿勢全般が、東洋的な文化文明の発展姿勢全般に敗れ去ることとなったのだと言える。
資本主義といったイデオロギーを主導的に実践して行く上では自らがキリスト
教徒でもあるほうが都合がよかったりするものだから、世の中をトップから
司っている政財界にこそキリスト教徒が多くいたりもする。キリスト信仰自体が
そんなに心情的に受け入れられやすいものでもなく、仮に無理やり全国規模で
の信仰を強要したりした所でローマカトリックの暗黒時代のようなどうにも評価
し難い事態を招いてしまうことが察せられたものだから、キリスト教徒たちも
信仰自体をやたらと流布するよりは、その信仰に即して自分たちが利益を得たり
するための無宗教的な民主化活動のほうをより推し進めて行くようにしたのだった。
その、無宗教の仮面を利用することで、暗にキリスト信仰の理想までをも
実現して行こうとする試みこそが、今になってついに限界を来たし始めた。
カトリックや正教によるキリスト信仰自体の無理やりな流布もすでに限界を
露呈している一方で、信仰はあくまで自分たちのものとして、その信仰のための
無宗教的な活動を推進して行くプロテスタントや近代ユダヤの試みまでもが、
ついに致命的な限界を来たすこととなった。そもそもが、キリスト信仰などを
持ち越していたりすることが根本的な過ちであるのだから、信仰自体を義認程度
に止めた所でやはり破綻を来たしてしまうということが、いま確証されたのである。
キリスト信仰も、その無宗教的な実践としての民主化や自由化や男女平等化も、
それらを技術面から支えて来た近代科学の発展も、いずれもが5000年前に発見され
ていた易学や、その易学のより実践主義的な発展系としての儒学の教理を超克する
ことができなかった。そうでしかあり得ない根拠は、これまた道家の万物斉同思想
や仏教の諸法実相の教えが提示しているわけで、結局のところ、西洋的な文化文明の
発展姿勢全般が、東洋的な文化文明の発展姿勢全般に敗れ去ることとなったのだと言える。
キリスト教の原型たるユダヤ教自体、東洋社会の落ちこぼれ中の落ちこぼれで
あった古代ユダヤ人が獄中で提唱したものだし、キリスト教自体も世間知らずな
田舎者の偽善者の男が、そのユダヤ教を素地にして自暴自棄状態で拵えたもの
であるのだから、その原初からして、東洋文化文明を超克できる要素などは微塵
もなかったのだといえる。キリスト教徒が自分たちの勢力圏からユダヤ教以外の
異教を廃絶し尽くしたのも、自分たちの信仰教義自体が異教異学と比すれば決定的
に粗悪なものであるとしか断定できないものだとも察知していればこそ、そうした
のである。始めから暴力的手段だの恐怖支配だのに頼りつつしか自存できなかった
ものを、考えうる限りでも最良級の手段によって補強してみたが、それでもやはり
うまくいかなかったというのが、現代におけるプロテスタント的活動の行き詰まりで
あるわけで、始めに根本的な過ちを犯していれば、後付けでどんな補正を試みた所で、
絶対に完全な矯正が不可能なままであり続けることが証明されたのだといえる。
この世界で、カトリックとプロテスタントほど熾烈な宗教戦争を繰り広げてきた
宗教教派同士も他にないわけだが(聖書教対イスラム教は、聖書教徒の側からの
一方的なイスラム圏への侵略でしかない)、所詮同じキリスト教である以上は、
同じ穴の狢であった。易の法則や仏法こそが司っているこの世界この宇宙において、
絶対に通用しないものを無理やり通用させようとする徒労の試みに及んだ点では、
いずれも遜色のないものであった。その無理やりな試みの過程においてひり出された
民主主義だの資本主義だの男女平等主義だののイデオロギーが、道徳統治に対する
背理法の実践ともなったし、近代以降の科学発展が、善用にかけての大きな可能性
を秘めているのも確かなわけだから、キリスト信仰やその実践が徒労であったことを
認めてそれらを破棄すらするのであれば、元キリスト教徒がそれなりの評価の下で
立ち直っていくこともまた、決して許されぬことともならぬに違いないだろう。
あった古代ユダヤ人が獄中で提唱したものだし、キリスト教自体も世間知らずな
田舎者の偽善者の男が、そのユダヤ教を素地にして自暴自棄状態で拵えたもの
であるのだから、その原初からして、東洋文化文明を超克できる要素などは微塵
もなかったのだといえる。キリスト教徒が自分たちの勢力圏からユダヤ教以外の
異教を廃絶し尽くしたのも、自分たちの信仰教義自体が異教異学と比すれば決定的
に粗悪なものであるとしか断定できないものだとも察知していればこそ、そうした
のである。始めから暴力的手段だの恐怖支配だのに頼りつつしか自存できなかった
ものを、考えうる限りでも最良級の手段によって補強してみたが、それでもやはり
うまくいかなかったというのが、現代におけるプロテスタント的活動の行き詰まりで
あるわけで、始めに根本的な過ちを犯していれば、後付けでどんな補正を試みた所で、
絶対に完全な矯正が不可能なままであり続けることが証明されたのだといえる。
この世界で、カトリックとプロテスタントほど熾烈な宗教戦争を繰り広げてきた
宗教教派同士も他にないわけだが(聖書教対イスラム教は、聖書教徒の側からの
一方的なイスラム圏への侵略でしかない)、所詮同じキリスト教である以上は、
同じ穴の狢であった。易の法則や仏法こそが司っているこの世界この宇宙において、
絶対に通用しないものを無理やり通用させようとする徒労の試みに及んだ点では、
いずれも遜色のないものであった。その無理やりな試みの過程においてひり出された
民主主義だの資本主義だの男女平等主義だののイデオロギーが、道徳統治に対する
背理法の実践ともなったし、近代以降の科学発展が、善用にかけての大きな可能性
を秘めているのも確かなわけだから、キリスト信仰やその実践が徒労であったことを
認めてそれらを破棄すらするのであれば、元キリスト教徒がそれなりの評価の下で
立ち直っていくこともまた、決して許されぬことともならぬに違いないだろう。
「帝、天の下に光たり、海隅の蒼生に至るまで、万邦の黎献、共に惟れ帝の臣なり」
「帝(舜)は天下の光明であられるが故、四海の端の植物たちから、万邦に住まう
聖賢たちまでもがみな帝の臣下として共にあろうとするのです。(天下に受け入れ
られるものは受け入れられ、受け入れられないものは受け入れられない。そして
聖賢こそは、世の中に受け入れられる者のほうの臣下たろうともするのだという)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・益稷より)
「帝(舜)は天下の光明であられるが故、四海の端の植物たちから、万邦に住まう
聖賢たちまでもがみな帝の臣下として共にあろうとするのです。(天下に受け入れ
られるものは受け入れられ、受け入れられないものは受け入れられない。そして
聖賢こそは、世の中に受け入れられる者のほうの臣下たろうともするのだという)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・益稷より)

宇宙の果てやその形而上の形而上の形而上に至るまで通用するが、そこでもやはり無理が
通用するようなことはない。ごくごく局所的な領域で、ほんの一時に限って無理が通されて
道理が引っ込むようなことだけがあり、しかもそのような多少の無理の押し通しに至るまで、
最終的には道理や真理が隈無く悪因苦果の因果応報を成就させ尽くすことともなる。
無理が無理たる所以は、そこに致命的な自己誤謬を内包していることであり、第三者的な
観点からの審判によって誤りと判断される要素を帯びていたりすることではない。1+1=2
という規則の算術で社会生活上での金工面などを行なっているのは自分自身であるというのに、
そこに1+1を3や4にするような規則を後付けしたりすれば、それは自分自身に対して過ちを
犯すこととなる。そのような不正な勘定によってあぶく銭を大量に捏造した結果、額面と
実体経済が全く見合っていないことが原因での経済破綻を招いてしまったりしたとすれば、
それは自己に対する過ちが祟っての破滅に見舞われることとなるわけで、そこに「天からの裁き」
云々といった要素を加味させたりすることも所詮は、比喩表現の域を全く出ないこととなる。
そのような、自己誤謬を本質とした無理こそは、あらゆる罪悪の元凶ともなる。
法律違反だから犯罪とされる罪などは、実罪である場合もあれば虚罪である場合もあり、
実罪は必ず上記のような意味での無理を帯びている一方、虚罪は必ずしもそのような無理を帯びては
おらず、逆に虚罪を罪と定めているような悪法のほうが文面上からの無理を帯びていたりする。されば、
実罪にしろ虚罪にしろ、何らかの無理が祟っての罪悪と化してしまっていることには変わりないということが
結論付けられるわけで、実罪の実罪を裁くためには、罪を犯した人間自身が裁かれる必要があるし、虚罪の
実罪を裁くためには、むしろ虚罪を罪に定める悪法の押し付けのほうを権力犯罪として裁くべきだといえる。
上記のような社会統治を法治主義以上にも推し進めていくことが、いわゆる「道徳統治(徳治)」となる。
法律が絶対化されないからといって、絶対的なものがないのではない。1+1を3にも4にもして
しまうような無理を廃絶して行くことを目的とした道理こそを規矩準縄として、善法を推し進めて
悪法を駆逐して行くことこそは徳治ともなる。悪法を駆逐することは、法制をも思いのままに
操れる公権力者たち自身の権力犯罪を取り締まることに繋がるので、自然と徳治は民間人以上にも、
公人たちの行いを公人たち自身が取り締まって行く分量が多くなる。漢代の中国や江戸時代の
日本のような厳重な道徳統治が敷かれた世の中においてこそ、自刎や切腹の如き酷烈な手法による
引責自殺が頻発していたのもそのためであり、だからこそ、民間人たちのほうが圧政に苦しめ
られたりすることが、法治主義社会である今の日本や中国以上にも少なかったのである。
(警察官に相当する奉行所の役人数なども今より遥かに少なかった)
徳治と法治の違いは結局、公権力者が率先して引責自殺級の政治責任をも負って行くか否か
という点に尽きているのであり、為政者たちにそれすらをも厭わないだけの責任感が備わって
すらいるのであれば、手法面で徳治が法治よりも難儀となるようなこともありはしない。
法律が絶対化されないからといって、絶対的なものがないのではない。1+1を3にも4にもして
しまうような無理を廃絶して行くことを目的とした道理こそを規矩準縄として、善法を推し進めて
悪法を駆逐して行くことこそは徳治ともなる。悪法を駆逐することは、法制をも思いのままに
操れる公権力者たち自身の権力犯罪を取り締まることに繋がるので、自然と徳治は民間人以上にも、
公人たちの行いを公人たち自身が取り締まって行く分量が多くなる。漢代の中国や江戸時代の
日本のような厳重な道徳統治が敷かれた世の中においてこそ、自刎や切腹の如き酷烈な手法による
引責自殺が頻発していたのもそのためであり、だからこそ、民間人たちのほうが圧政に苦しめ
られたりすることが、法治主義社会である今の日本や中国以上にも少なかったのである。
(警察官に相当する奉行所の役人数なども今より遥かに少なかった)
徳治と法治の違いは結局、公権力者が率先して引責自殺級の政治責任をも負って行くか否か
という点に尽きているのであり、為政者たちにそれすらをも厭わないだけの責任感が備わって
すらいるのであれば、手法面で徳治が法治よりも難儀となるようなこともありはしない。
現状すでに、六法全書の分量のほうが四書五経の分量を上回っており、しかもその主要部分を暗記して
いるのでもなければ司法試験に合格することもできない。単純に分量や文面の難解さだけを比してみても、
四書五経を暗記対象としていた科挙試験のほうが簡単であるし(ただし競争率の高さという問題はある)、
また四書五経を暗記対象などにするよりも、より率先的な実践対象として行ったほうが、善因楽果ゆえの
「浩然の気」に与れることともなるため、立て板に水を流すが如き流暢な徳治が講じて行けるようにもなる。
世の中が法治から徳治へと移行することが忌まれる原因があるとすれば、それは、世の表舞台で
無理が通されることが本格的に取り締まられて行くことか、公務員の怠惰が許されなくなること
ぐらいのものである。前者の原因は、人々に無理の押し通しを推奨する類いの邪教邪学の立場を失わせるし、
後者の原因は、公務員こそが最大級の怠惰に与れる法治主義社会での職務に慣れすぎた現職の公務員をその
地位から追うようなことともなるために、そのような領分の持ち主たちからの反発が必至となるわけである。
北宋の代以降の中国での放伐革命などは、科挙制度や監察官制度の形骸化を持ち越しつつのもの
でしかなかったために、体制を刷新すれどもすれども権力腐敗を改めきれないという問題を来していた
わけだが、たとえば周朝や漢朝や唐朝や平安朝や江戸幕府のような清浄な政権が立ち上げられるために
革命が行われるのだとすれば、それも時には奨励されるべきこととなるだろう。権力腐敗や邪教邪学の
蔓延を駆逐して行くために、自分たちこそは引責自殺も辞さない覚悟での為政に取り組んで
行くだけの志しの持ち主こそは、その革命を実行に移すだけの資格をも得るのである。
いるのでもなければ司法試験に合格することもできない。単純に分量や文面の難解さだけを比してみても、
四書五経を暗記対象としていた科挙試験のほうが簡単であるし(ただし競争率の高さという問題はある)、
また四書五経を暗記対象などにするよりも、より率先的な実践対象として行ったほうが、善因楽果ゆえの
「浩然の気」に与れることともなるため、立て板に水を流すが如き流暢な徳治が講じて行けるようにもなる。
世の中が法治から徳治へと移行することが忌まれる原因があるとすれば、それは、世の表舞台で
無理が通されることが本格的に取り締まられて行くことか、公務員の怠惰が許されなくなること
ぐらいのものである。前者の原因は、人々に無理の押し通しを推奨する類いの邪教邪学の立場を失わせるし、
後者の原因は、公務員こそが最大級の怠惰に与れる法治主義社会での職務に慣れすぎた現職の公務員をその
地位から追うようなことともなるために、そのような領分の持ち主たちからの反発が必至となるわけである。
北宋の代以降の中国での放伐革命などは、科挙制度や監察官制度の形骸化を持ち越しつつのもの
でしかなかったために、体制を刷新すれどもすれども権力腐敗を改めきれないという問題を来していた
わけだが、たとえば周朝や漢朝や唐朝や平安朝や江戸幕府のような清浄な政権が立ち上げられるために
革命が行われるのだとすれば、それも時には奨励されるべきこととなるだろう。権力腐敗や邪教邪学の
蔓延を駆逐して行くために、自分たちこそは引責自殺も辞さない覚悟での為政に取り組んで
行くだけの志しの持ち主こそは、その革命を実行に移すだけの資格をも得るのである。
「夏后、殷、周の盛り、地千里に過ぎる者は未だ有らざるなり。而かるに斉には其の地有り。
鶏鳴狗吠相い聞こえ、而かも四境に達せり。而して斉には其の民有り。地改めて辟かず、民改めて
聚めずとも、仁政を行いて王たらんには、之れを能く禦むるに莫きなり。且つ王者の作らざる、未だ
此の時より疏しき者は有らざるなり。民の虐政に憔悴せる、未だ此の時より久しき者は有らざるなり」
「夏や殷や周の隆盛期といえども、直轄の領地を千里以上有しているような者はいなかった。斉国は
今それだけの領地を有し、しかもそこら中で鶏や犬の声が聞こえるほどに人口密度の高い地域が四方の
隅々にまで渡っている。すでに斉にはそれだけの民があるのだから、わざわざ今以上に土地を切り開いたり、
今以上に民を集めたりせずとも、そこで仁政を執り行う王者として、今ある国をよく治めて行くに越した
ことはない。しかし、今の斉国でそのような王者が現れた試しもないので、人々の虐政への憔悴も未だ
かつてなかったほどに深刻化してしまっている。(必要なのは領地を広げることなどではなく、今ある
土地の領民たちを丹念に治めて行くことのほうである。どこまでも領地を広げて行こうとする覇権主義
状態ではそれも疎かとなり、未だかつてなかった程もの虐政に民が苛まれることとすらなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)
鶏鳴狗吠相い聞こえ、而かも四境に達せり。而して斉には其の民有り。地改めて辟かず、民改めて
聚めずとも、仁政を行いて王たらんには、之れを能く禦むるに莫きなり。且つ王者の作らざる、未だ
此の時より疏しき者は有らざるなり。民の虐政に憔悴せる、未だ此の時より久しき者は有らざるなり」
「夏や殷や周の隆盛期といえども、直轄の領地を千里以上有しているような者はいなかった。斉国は
今それだけの領地を有し、しかもそこら中で鶏や犬の声が聞こえるほどに人口密度の高い地域が四方の
隅々にまで渡っている。すでに斉にはそれだけの民があるのだから、わざわざ今以上に土地を切り開いたり、
今以上に民を集めたりせずとも、そこで仁政を執り行う王者として、今ある国をよく治めて行くに越した
ことはない。しかし、今の斉国でそのような王者が現れた試しもないので、人々の虐政への憔悴も未だ
かつてなかったほどに深刻化してしまっている。(必要なのは領地を広げることなどではなく、今ある
土地の領民たちを丹念に治めて行くことのほうである。どこまでも領地を広げて行こうとする覇権主義
状態ではそれも疎かとなり、未だかつてなかった程もの虐政に民が苛まれることとすらなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)
酒は良くも悪しくも、男の嗜好品である。快楽が全身に行き渡る感覚に見舞われると
される各種の麻薬などと違って、アルコール摂取による快楽は脳の酩酊ばかりに集約されて、
全身に行き渡るということがない。そのため、心や知能を酷使する労務に励むことが
ままある大人の男にとっての、体のいいストレス解消材料となるわけである。
それが時には、アルコール依存症や脳出血や内臓障害のような疾患をも派生させたり
するものだから、当然「飲み過ぎはよくない」ということになるわけだが、酒のうまさが
分かる程にも心や知能を労しているということが、生業ある男にとっての誉れとなったり
もするものだから、カルト信仰で俗人の飲酒までもが忌まれてしまっているような異常な
世の中でもない限りは、飲酒の風習がそれなりの市民権を得ていたりもするのである。
女や子供でも、ある程度は心や知能を労することができるが、基本、それを一方的に嫌がる。
多大な心労の結果としての皺や白髪などは、男にとっては勲章とすらなるが、女にとっては
ただの醜い老化としてしか受け止められないため、なるべくそうなってしまいかねないような
苦労などを避けたがるのである。実際、酒がうまい程にも日頃からのストレスを溜め込んでいる
ような人間ほど見た目にも老け込んでいたりするものだから、酒好きな人間ほど見た目年齢が
年相応以上だったりもするわけで、もし見た目年齢の上昇を防ぎたかったら、酒を飲まなかったり、
飲酒の習慣などなくて済むほどにもストレスのない生活を送ったりするに越したことはないのである。
女子供は、それでいいのである。自らが至らない小人であることを自認する男もまた、
そうであることを恥じて、率先的な心労をも辞さない大丈夫を畏敬できるぐらいなら、
世の中のほうの経済的余裕の如何によってはそうであることが許容されるのである。ただ、
そのような心労を一方的に忌み嫌う女々しい性向が「より優れたもの」とまで思い込まれて、
誰しもがそれを追い求めて行ったりするようになるのだけはいただけない。そのような
風潮が全社会規模で強いられた結果として飲酒が忌まれたり禁じられたりするぐらいなら、
心労を奨励した結果として嗜好品としての飲酒をも是認する世の中であったほうがまだよい。
される各種の麻薬などと違って、アルコール摂取による快楽は脳の酩酊ばかりに集約されて、
全身に行き渡るということがない。そのため、心や知能を酷使する労務に励むことが
ままある大人の男にとっての、体のいいストレス解消材料となるわけである。
それが時には、アルコール依存症や脳出血や内臓障害のような疾患をも派生させたり
するものだから、当然「飲み過ぎはよくない」ということになるわけだが、酒のうまさが
分かる程にも心や知能を労しているということが、生業ある男にとっての誉れとなったり
もするものだから、カルト信仰で俗人の飲酒までもが忌まれてしまっているような異常な
世の中でもない限りは、飲酒の風習がそれなりの市民権を得ていたりもするのである。
女や子供でも、ある程度は心や知能を労することができるが、基本、それを一方的に嫌がる。
多大な心労の結果としての皺や白髪などは、男にとっては勲章とすらなるが、女にとっては
ただの醜い老化としてしか受け止められないため、なるべくそうなってしまいかねないような
苦労などを避けたがるのである。実際、酒がうまい程にも日頃からのストレスを溜め込んでいる
ような人間ほど見た目にも老け込んでいたりするものだから、酒好きな人間ほど見た目年齢が
年相応以上だったりもするわけで、もし見た目年齢の上昇を防ぎたかったら、酒を飲まなかったり、
飲酒の習慣などなくて済むほどにもストレスのない生活を送ったりするに越したことはないのである。
女子供は、それでいいのである。自らが至らない小人であることを自認する男もまた、
そうであることを恥じて、率先的な心労をも辞さない大丈夫を畏敬できるぐらいなら、
世の中のほうの経済的余裕の如何によってはそうであることが許容されるのである。ただ、
そのような心労を一方的に忌み嫌う女々しい性向が「より優れたもの」とまで思い込まれて、
誰しもがそれを追い求めて行ったりするようになるのだけはいただけない。そのような
風潮が全社会規模で強いられた結果として飲酒が忌まれたり禁じられたりするぐらいなら、
心労を奨励した結果として嗜好品としての飲酒をも是認する世の中であったほうがまだよい。
聖道門の、特に上座部の仏門で飲酒が忌まれていたりするのは、純粋な悟りのみによって
心労を克服することが尊ばれているからであって、心労を忌み避けているからではないのだから、
これはまた別の問題だといえる。常人が到底受け止めきれないような過大な心労すらをも
悟りによって克服していたりするものだから、今さら飲酒などでストレスを解消したりする
必要もないというわけなので、それはむしろ飲酒文化の上位互換であるとすら言える。
酒に依るのであれ悟りに依るのであれ、何らかの克服手段が必要となるほどにも心労を重ねる者こそは
自力作善者たり得もするわけで、その心労を辞さない誠意こそが、大社会の為政を司るに値する程もの
主体的完成度を備え得もする。故に「心を労する者は人を役し、力を労する者は人に役せられる(孟子)」
とも言うわけで、心労を辞さない偉大さたるや、力役を辞さない強靭さ以上のものですらあり得るのである。
大人の男でいながら心労や自律性を忌み嫌い、しかもそのような自らのあり方を正当化して
万人に強いようなどとする人間が居たとすれば、これはもう、磔にされたところで仕方が
ないとすら言える。妾腹の私生児のような恵まれない境遇に産まれたことなどではなく、
そのような自らの振る舞いこそがそうなっても仕方のないものであったわけだから、
何ら同情の余地もない恥さらしに過ぎなかったことまでもが紛れもないのである。
「禹は旨酒を悪みて善言を好めり」「禹は美酒を嫌って人のよい言葉を好んだ。
(美酒を嫌うのは贅沢を嫌ったから。善言を好んだのは自らの善行を引き立ててくれるから。
自力作善のために節度のない飲酒を避けるということはあるが、他力本願の徒は
肉食妻帯飲酒上等であり、そのような自らのあり方を恥じることのほうが必要である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二一より)
心労を克服することが尊ばれているからであって、心労を忌み避けているからではないのだから、
これはまた別の問題だといえる。常人が到底受け止めきれないような過大な心労すらをも
悟りによって克服していたりするものだから、今さら飲酒などでストレスを解消したりする
必要もないというわけなので、それはむしろ飲酒文化の上位互換であるとすら言える。
酒に依るのであれ悟りに依るのであれ、何らかの克服手段が必要となるほどにも心労を重ねる者こそは
自力作善者たり得もするわけで、その心労を辞さない誠意こそが、大社会の為政を司るに値する程もの
主体的完成度を備え得もする。故に「心を労する者は人を役し、力を労する者は人に役せられる(孟子)」
とも言うわけで、心労を辞さない偉大さたるや、力役を辞さない強靭さ以上のものですらあり得るのである。
大人の男でいながら心労や自律性を忌み嫌い、しかもそのような自らのあり方を正当化して
万人に強いようなどとする人間が居たとすれば、これはもう、磔にされたところで仕方が
ないとすら言える。妾腹の私生児のような恵まれない境遇に産まれたことなどではなく、
そのような自らの振る舞いこそがそうなっても仕方のないものであったわけだから、
何ら同情の余地もない恥さらしに過ぎなかったことまでもが紛れもないのである。
「禹は旨酒を悪みて善言を好めり」「禹は美酒を嫌って人のよい言葉を好んだ。
(美酒を嫌うのは贅沢を嫌ったから。善言を好んだのは自らの善行を引き立ててくれるから。
自力作善のために節度のない飲酒を避けるということはあるが、他力本願の徒は
肉食妻帯飲酒上等であり、そのような自らのあり方を恥じることのほうが必要である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二一より)
しごく根本的かつ総合的な方向性として、信者を正気の堅持からなる平穏へと
いざなうのが正統な信教である一方、ただただ信者を狂乱へと陥れるのが
邪悪な信教であるといった違いがある。その具体的な内実を鑑みてみれば、
正統な宗教である神道やヒンズー教にも狂乱的な祭りがあったり、大乗仏教
にもいかがわしい密教教義があったりするわけだし、逆に邪教の極みである
キリスト教などにも多少は人々の平和を祈るような穏健な傾向があったりする。
しかし、正統な信教が狂乱的な祭義を部分的に兼ね備えていたりするのは、それに
よって恒常的な平穏状態ゆえの中だるみを避けるためだったりするし、逆に邪教が
部分的に平和主義を嗜んだりするのも、穏健を装うことで過激派の謗りを免れる
ためだったりするわけで、結果として正統な信教が恒常的な平穏を信者にもたらし、
邪教が恒常的な狂乱状態を信者に植え付けるものとなることには変わりないのである。
飲酒や肉食や色欲を厳禁するほどもの平静主義でもなければ、万年戦乱状態を
許容するほどもの狂乱主義でもないのが、人道を司る儒学であり、儒学の知悉者
こそは、平穏志向を本旨とする正統な信教と、狂乱志向を本旨とする邪教との判別を
明確に付けることができる。儒学を知らない人間からすれば、「キリスト教やユダヤ教
が邪教であるというのなら、イスラム教や拝火教や浄土教もまた邪教であるのではない
のか」という疑問をも抱きかねないわけだが、確かに、後者三つの信教もまたあまり穏健
なばかりでもなかったりする一方で、儒家が企図する最低限度の世の中の平穏までをも
致命的に毀損するものではないこともまた明らかであるので、とてつもなく優れた信教
であるとまではいかずとも、最悪の邪教でまではない信教であることが知れるのである。
「世の中で司法が健在でなければ国も滅ぶ(孟子)」といい、「刑罰は人間が責任を
以って執り行うべきものである(礼記)」ともいうとおり、世の中全体が司法や刑罰を
尊重して行くことが儒家でも是とされていて(ただし法家のような法律絶対主義でもない)、
これこそが、査定対象となる信教が正統かカルトかを決定的に分かつ普遍基準ともなる。
いざなうのが正統な信教である一方、ただただ信者を狂乱へと陥れるのが
邪悪な信教であるといった違いがある。その具体的な内実を鑑みてみれば、
正統な宗教である神道やヒンズー教にも狂乱的な祭りがあったり、大乗仏教
にもいかがわしい密教教義があったりするわけだし、逆に邪教の極みである
キリスト教などにも多少は人々の平和を祈るような穏健な傾向があったりする。
しかし、正統な信教が狂乱的な祭義を部分的に兼ね備えていたりするのは、それに
よって恒常的な平穏状態ゆえの中だるみを避けるためだったりするし、逆に邪教が
部分的に平和主義を嗜んだりするのも、穏健を装うことで過激派の謗りを免れる
ためだったりするわけで、結果として正統な信教が恒常的な平穏を信者にもたらし、
邪教が恒常的な狂乱状態を信者に植え付けるものとなることには変わりないのである。
飲酒や肉食や色欲を厳禁するほどもの平静主義でもなければ、万年戦乱状態を
許容するほどもの狂乱主義でもないのが、人道を司る儒学であり、儒学の知悉者
こそは、平穏志向を本旨とする正統な信教と、狂乱志向を本旨とする邪教との判別を
明確に付けることができる。儒学を知らない人間からすれば、「キリスト教やユダヤ教
が邪教であるというのなら、イスラム教や拝火教や浄土教もまた邪教であるのではない
のか」という疑問をも抱きかねないわけだが、確かに、後者三つの信教もまたあまり穏健
なばかりでもなかったりする一方で、儒家が企図する最低限度の世の中の平穏までをも
致命的に毀損するものではないこともまた明らかであるので、とてつもなく優れた信教
であるとまではいかずとも、最悪の邪教でまではない信教であることが知れるのである。
「世の中で司法が健在でなければ国も滅ぶ(孟子)」といい、「刑罰は人間が責任を
以って執り行うべきものである(礼記)」ともいうとおり、世の中全体が司法や刑罰を
尊重して行くことが儒家でも是とされていて(ただし法家のような法律絶対主義でもない)、
これこそが、査定対象となる信教が正統かカルトかを決定的に分かつ普遍基準ともなる。
神道は罪を「穢れ」として忌み避け、仏教も世俗法にさらに仏戒を上乗せしたりする通り、
正統な宗教が儒家以上の司法尊重志向であることこそあれど、以下であることは決してない。
翻って、邪教のほうはといえば、あの手この手を駆使しての世俗の司法権威の毀損や
無効化を試みる。キリスト教教義のような、単純で簡素なカルト教義によって世俗の
司法の権威を損なおうとすることもあれば、ユダヤ教の戒律群のような、長大で晦渋な
カルト教義によって損なおうとすることもある。それでいて、それらの教義自体が、世の中
を穏健に司って行くことなどもできはしないので、ユダヤ教徒は自分たちの国をまともに
運営して行くこともできないし、キリスト教徒も仏教教義や拝火教教義をマニ教を通じて
剽窃することを通じて、やっと一時的な社会運営を可能とする程度の体裁を得たのだった。
(ただし、所詮は根がカルトであるため、最終的には完全破綻を来たしてしまった)
儒家が時に法家を論撃対象としていたりするのも、法律支配を機械的に絶対化する
ことがかえって、司法や法度自体の道理に適った権威性を損なってしまいかねないため
であり、断じて司法の権威を損ねたりするためではない。東洋で男性の帝王に優先する
女王や女帝の存在が許されて来なかったのも、そのようなことがあれば国自体の権威が
損なわれることとなってしまうからであり、決して帝室や王室に女が介在することが全く
以って無価値だなどと考えられていたからではない。女は女で、跡継ぎを産み育てること
にかけて天照大神ほどもの偉大さを以って国家権力にすら介在して行くものだと考えられて
いたようにして、国家社会の統治もまた「分をわきまえているが故に、絶対的な地位を得たり
する場合以上にも本質的な権威を得るもの」としての司法に頼って行く必要があるのである。
正統な宗教が儒家以上の司法尊重志向であることこそあれど、以下であることは決してない。
翻って、邪教のほうはといえば、あの手この手を駆使しての世俗の司法権威の毀損や
無効化を試みる。キリスト教教義のような、単純で簡素なカルト教義によって世俗の
司法の権威を損なおうとすることもあれば、ユダヤ教の戒律群のような、長大で晦渋な
カルト教義によって損なおうとすることもある。それでいて、それらの教義自体が、世の中
を穏健に司って行くことなどもできはしないので、ユダヤ教徒は自分たちの国をまともに
運営して行くこともできないし、キリスト教徒も仏教教義や拝火教教義をマニ教を通じて
剽窃することを通じて、やっと一時的な社会運営を可能とする程度の体裁を得たのだった。
(ただし、所詮は根がカルトであるため、最終的には完全破綻を来たしてしまった)
儒家が時に法家を論撃対象としていたりするのも、法律支配を機械的に絶対化する
ことがかえって、司法や法度自体の道理に適った権威性を損なってしまいかねないため
であり、断じて司法の権威を損ねたりするためではない。東洋で男性の帝王に優先する
女王や女帝の存在が許されて来なかったのも、そのようなことがあれば国自体の権威が
損なわれることとなってしまうからであり、決して帝室や王室に女が介在することが全く
以って無価値だなどと考えられていたからではない。女は女で、跡継ぎを産み育てること
にかけて天照大神ほどもの偉大さを以って国家権力にすら介在して行くものだと考えられて
いたようにして、国家社会の統治もまた「分をわきまえているが故に、絶対的な地位を得たり
する場合以上にも本質的な権威を得るもの」としての司法に頼って行く必要があるのである。
「罰の懲らしめは死に非ず。人を病ましむるを極みとするなり」
「刑罰による"懲らしめ"は、何も『死』を極みとしているのではない。
罪人を苦しめる所にこそ"懲"罰としての極みがある。(架空の刑死で罪悪感を
紛らわす邪教の存在などが、根本的に薄ら馬鹿げたものである論拠ともなっている。
ただし、死刑は死刑で世の中の治安維持のために已む無く行われることがあるわけで、
世の中の治安のための刑罰であるからには、受刑者を本当にこの世から抹殺してしまわ
ねばならない。刑死ごっこで罪を免れられるような道理はいずれにおいてもあり得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)
「刑罰による"懲らしめ"は、何も『死』を極みとしているのではない。
罪人を苦しめる所にこそ"懲"罰としての極みがある。(架空の刑死で罪悪感を
紛らわす邪教の存在などが、根本的に薄ら馬鹿げたものである論拠ともなっている。
ただし、死刑は死刑で世の中の治安維持のために已む無く行われることがあるわけで、
世の中の治安のための刑罰であるからには、受刑者を本当にこの世から抹殺してしまわ
ねばならない。刑死ごっこで罪を免れられるような道理はいずれにおいてもあり得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・呂刑より)

ぐらいのことはできる。たとえば、経済破綻だの核戦争勃発だののあからさまな形で
世の中総出での放辟邪侈の悪因苦果が結実するのも、必ずしも「即座に」とは限らない。
自国の金融規制の緩和によって通貨価値を下落させることで、名目上の株価だけは上昇
させておくなどの措置を講ずることで、あたかも株式至上主義の世の中が未だに好況に
沸いているかのように見せかけたりすることで、実質的な破綻をすでに来してしまって
いる世の中の体制からの延命に務めたりすることもできる。それにより、すでに老い先
短い資本主義社会の重鎮が、自らの存命中には資本主義の惨めな破綻などを見ないで
済んだりもするのだから、そのような個個人にとっての悪因苦果が結実しなかった名目
を確立することすらできる。また、資本主義崩壊後にも合法麻薬の頒布などで現実を
直視しきれない愚人たちの逃避先を用意し続けたりすることもできるわけで、「悪因
苦果が結実する」ということを直視するがために最大級に苦しむということを、愚昧さ
をより掘り下げて行く逃避行によってかわし続けることもできなくはないわけである。
ただ、本質的にはそのような逃避行自体がすでに、地獄の奥底への探検ともなっている。
「悪いことをすれば苦しい」というのが人間という生き物にとっての普遍的な心理構造
であり、ただ別個の物質的快楽によってその苦しみが紛らわされたりするだけなのだから、
未だ経済破綻などを来していない範囲における不当利得を糧にした放辟邪侈などにうか
れている内からすでに、本当は心中で苦しんでいるのだとも言える。ただ、その苦しみ
が強度に覆い隠されてしまっているのにも違いないわけで、それは、経済破綻後に至る
までですら、麻薬服用などの形で存続できないわけでもないことである。そうして愚人
たちはどこまでも、地獄の奥底への旅路を歩み続けて行きながら、一定度以上にそこに
慣れ続ける。業火に身を焦がすような地獄の苦しみにまみれながらも「これでよし」とし、
死の瞬間まで悪因苦果を直視することでの反省に務めたりすることがないままに終わる。
普遍的な善悪の基準に即した善因楽果や悪因苦果が実在しているものと堅くわきまえて、
実際に悪行を犯そうものなら即座にその悪因苦果を直視して相応の刑罰にも服するように
して行ったりすること自体、一つの清廉な心がけであり、そのような心がけによって
真理や道理を我が物とすらできること自体が、無上の愉悦をもたらすことである。
道理を我が物とするだけでも浩然の気に与れ、真理を我が物とすらすれば常楽我浄
にすら与れる、そうであること自体が非常に積極的な悦楽の探求の賜物なのであって、
おまけにそのような健全な悦楽の追求によって世の中までもが恒久的な泰平や繁栄に
与れるようになるという点が、悪因苦果を物質的快楽で紛らわしながら増長させて行く
場合などとは異なる点だといえる。結局、真理や道理に合致して因果応報を直視する
場合においても、それに背く逃避行を続けて行く場合においても、個々人がある種の
享楽を追い求めて行くことには変わりないのであって、違うのはその結果として
世の中に利したりかえって迷惑をかけたりする所や、中心からの愉悦に与れているか、
もしくは中心の苦しみを粗大な快楽で紛らわしているかといった違いのみだといえる。
真理や道理を我が物として行く生き方にもある種の楽しみがあり、それらに即した
因果応報から目を背け続けて行く生き方にもある種の楽しみが伴い得る。後者を避けて
前者を選択して行くように促すのも一種の社会的な要求扱いになってしまうわけで、
個人主義で理論武装している相手などに対しては必ずしもこたえないことともなる。
本当は悪人こそが心中では苦しみ続けていることなども、愚昧さによって割りきれる。
悪因苦果からの逃避行も結局は個々人の全人生を司る姿勢として堂に入ってしまったり
するわけで、それは数多のキリスト教徒が大変な高齢に至るまで幸せそうな人生を
送り通した挙げ句に命を終えたりして来ていることからも知れることである。
実際に悪行を犯そうものなら即座にその悪因苦果を直視して相応の刑罰にも服するように
して行ったりすること自体、一つの清廉な心がけであり、そのような心がけによって
真理や道理を我が物とすらできること自体が、無上の愉悦をもたらすことである。
道理を我が物とするだけでも浩然の気に与れ、真理を我が物とすらすれば常楽我浄
にすら与れる、そうであること自体が非常に積極的な悦楽の探求の賜物なのであって、
おまけにそのような健全な悦楽の追求によって世の中までもが恒久的な泰平や繁栄に
与れるようになるという点が、悪因苦果を物質的快楽で紛らわしながら増長させて行く
場合などとは異なる点だといえる。結局、真理や道理に合致して因果応報を直視する
場合においても、それに背く逃避行を続けて行く場合においても、個々人がある種の
享楽を追い求めて行くことには変わりないのであって、違うのはその結果として
世の中に利したりかえって迷惑をかけたりする所や、中心からの愉悦に与れているか、
もしくは中心の苦しみを粗大な快楽で紛らわしているかといった違いのみだといえる。
真理や道理を我が物として行く生き方にもある種の楽しみがあり、それらに即した
因果応報から目を背け続けて行く生き方にもある種の楽しみが伴い得る。後者を避けて
前者を選択して行くように促すのも一種の社会的な要求扱いになってしまうわけで、
個人主義で理論武装している相手などに対しては必ずしもこたえないことともなる。
本当は悪人こそが心中では苦しみ続けていることなども、愚昧さによって割りきれる。
悪因苦果からの逃避行も結局は個々人の全人生を司る姿勢として堂に入ってしまったり
するわけで、それは数多のキリスト教徒が大変な高齢に至るまで幸せそうな人生を
送り通した挙げ句に命を終えたりして来ていることからも知れることである。
善徳の推進も、存命中の孔孟のように十分な実を結ばないことがあれば、罪悪の推進も
数多の聖書信者に対するように最大級の栄華を本人たちに提供しきることがある。その
ような不条理の全てが結局は、「命あるものはみないつかは必ず死ぬ」という諸行無常の
真理によってこそ清算されるわけだから、諸行無常こそは善人の味方であると共に悪人の
敵であるといえる。しかしその諸行無常ほど、我が味方と見なすことが困難な真理も他に
ないわけで、善人と悪人の根本対決はどこまでも、いずれかの勝ち誇りなどを許さない
ままに、僅差で善人が悪人に辛勝するような所へと集約されて行くこととなるのである。
これこそは、心理が万人に対してほぼ平等であることの証左であるとも言えようか。
「苗にして秀でざるものあり。秀でて実らざるものあり(既出)」
「苗のままで成長しないものもいる。成長しても実らないものもいる。
(実ったものだけを見て判断してたりすれば、多くの可能性を見損なうことになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)
「孔子曰く、今の君子は実りを好みて厭きること無し。〜今の君子は礼を為すこと莫し」
「孔先生『今の為政者は安易な実りばかりを追い求めて飽きることがない。
今の為政者は礼を実践しているなどとは言い難い』(新田が早々には穀物を実らせ
なかったりするように、豊かな結実のためには辛抱が時に必要ともなる。いかにも
農耕民族的な発想だが、古代のローマ人なども農耕によって得た食糧で命を繋いで
いたわけだから、にもかかわらず安易な実りばかりを追い求める類いの邪教を
進取したのは、当時のローマ人たちにとっての総出の過ちであったと言える)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
数多の聖書信者に対するように最大級の栄華を本人たちに提供しきることがある。その
ような不条理の全てが結局は、「命あるものはみないつかは必ず死ぬ」という諸行無常の
真理によってこそ清算されるわけだから、諸行無常こそは善人の味方であると共に悪人の
敵であるといえる。しかしその諸行無常ほど、我が味方と見なすことが困難な真理も他に
ないわけで、善人と悪人の根本対決はどこまでも、いずれかの勝ち誇りなどを許さない
ままに、僅差で善人が悪人に辛勝するような所へと集約されて行くこととなるのである。
これこそは、心理が万人に対してほぼ平等であることの証左であるとも言えようか。
「苗にして秀でざるものあり。秀でて実らざるものあり(既出)」
「苗のままで成長しないものもいる。成長しても実らないものもいる。
(実ったものだけを見て判断してたりすれば、多くの可能性を見損なうことになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)
「孔子曰く、今の君子は実りを好みて厭きること無し。〜今の君子は礼を為すこと莫し」
「孔先生『今の為政者は安易な実りばかりを追い求めて飽きることがない。
今の為政者は礼を実践しているなどとは言い難い』(新田が早々には穀物を実らせ
なかったりするように、豊かな結実のためには辛抱が時に必要ともなる。いかにも
農耕民族的な発想だが、古代のローマ人なども農耕によって得た食糧で命を繋いで
いたわけだから、にもかかわらず安易な実りばかりを追い求める類いの邪教を
進取したのは、当時のローマ人たちにとっての総出の過ちであったと言える)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
戦乱あるところ、いつも必ずそこに偏愛がある。
紂王の妲己への偏愛に、幽王の褒姒への偏愛、趙姫の嫪毐への偏愛に、
項羽の虞姫への偏愛と、有力者の愛人に対する盲目的な偏愛こそが、
最悪級の戦乱を来たす元凶としていつも歴史上に暗躍して来た。
仏教渡来以前の中国史においてこそ上記のような史実例が豊富であるのは、
中国人こそは古代からの史実を正史として正確に記録して来た人々であると共に、
仏教渡来以降は偏愛の有害さが十分な警戒を受けて、偏愛が原因での戦乱が
予防されたり、偏愛があっても世間体のためにあえて隠すようなことに
なり始めたからである。(これは仏教渡来以降の日本などでも同様である)
西洋などでは逆に、愛の権威こそがカルト信仰を通じて確立されてしまった
ために、愛を戦乱の元凶として否定的に捉えたりすることが控えられて、
偏愛が原因で戦乱を来たしてしまったことなどが史実として正確に
記録されるようなこともなくなってしまったからこそ、そのあたりの
因果関係を歴史書などを通じて察知することは難しくなっている。
しかし、愛こそを絶対的なものとして権威化してしまった
西洋社会こそは、世界でも最も戦乱状態の頻度が高い地域であり続けて
いることからも分かる通り、やはり愛を無条件に持て囃すような
風潮こそが戦乱の元凶となることが如実となっているのである。
全く愛のない世界など味気ないし、別に全ての愛が戦乱の元凶となって
しまったりするわけでもない。ただ、愛する相手を唯一神に見立てて無条件に
尊崇するほどもの蒙昧さが愛と結託した時に、それこそが戦乱の元凶と
化してしまうわけで、それ程にも偏頗な濁愛が持て囃されたりするのでも
なければ、愛が傾国級の害悪の種と化してしまったりすることもない。
紂王の妲己への偏愛に、幽王の褒姒への偏愛、趙姫の嫪毐への偏愛に、
項羽の虞姫への偏愛と、有力者の愛人に対する盲目的な偏愛こそが、
最悪級の戦乱を来たす元凶としていつも歴史上に暗躍して来た。
仏教渡来以前の中国史においてこそ上記のような史実例が豊富であるのは、
中国人こそは古代からの史実を正史として正確に記録して来た人々であると共に、
仏教渡来以降は偏愛の有害さが十分な警戒を受けて、偏愛が原因での戦乱が
予防されたり、偏愛があっても世間体のためにあえて隠すようなことに
なり始めたからである。(これは仏教渡来以降の日本などでも同様である)
西洋などでは逆に、愛の権威こそがカルト信仰を通じて確立されてしまった
ために、愛を戦乱の元凶として否定的に捉えたりすることが控えられて、
偏愛が原因で戦乱を来たしてしまったことなどが史実として正確に
記録されるようなこともなくなってしまったからこそ、そのあたりの
因果関係を歴史書などを通じて察知することは難しくなっている。
しかし、愛こそを絶対的なものとして権威化してしまった
西洋社会こそは、世界でも最も戦乱状態の頻度が高い地域であり続けて
いることからも分かる通り、やはり愛を無条件に持て囃すような
風潮こそが戦乱の元凶となることが如実となっているのである。
全く愛のない世界など味気ないし、別に全ての愛が戦乱の元凶となって
しまったりするわけでもない。ただ、愛する相手を唯一神に見立てて無条件に
尊崇するほどもの蒙昧さが愛と結託した時に、それこそが戦乱の元凶と
化してしまうわけで、それ程にも偏頗な濁愛が持て囃されたりするのでも
なければ、愛が傾国級の害悪の種と化してしまったりすることもない。
仏教が愛の否定や劣後によって予防しようとしているのも、それ程にも
奇特な部類の愛の蔓延でこそあるのであり、決してこの世からあらゆる
愛を絶やし尽くすことなどを仏教が目的としていたりするのではない。
特に大乗仏教は鎮護国家を本旨の一つにも据えているために、公権力者の
君臣父子夫婦といった序列に基づく親愛を否定したりすることは許されないし、
また密教教義などが愛の活用による成道を教義に据えていたりもする。
特に分かりやすいのは、仏教渡来以前における古代中国の公権力者の
濁愛への惑溺による権力腐敗や戦乱の呼び込みであるけれども、それ程
にもあからさまな濁愛と戦乱の因果応報が隠されたり正当化されたりして
しまっているためにその手の因果関係が分かりにくくなってしまっている
現今の世界においては、仏教帰依などを通じて愛の過剰化を予防して行く
価値やその必要性などもなかなか計り知りがたいものとなってしまっている。
特に民主主義社会においては、表向きの公権力者はただ民衆の言うことを
聞いているだけということになっていて、政治的主権は民衆たち自身にある
とされている。実際にはその内でも符号であるような民間人ばかりが大権を
牛耳っていたりするわけだけれども、その富裕な民間人こそは、表舞台に
躍り出たりもしないでいいのをいいことに、紂王や幽王も顔負けの濁愛に
溺れまくったままとなる。いくら隠れているとはいえ、そのような人間が
どこかにいる以上は、濁愛が原因での戦乱という因果関係が成就してしまう
わけで、因果関係が分かりにくいにもかかわらずではなくだからこそ、
表向きの公権力者があからさまな濁愛に溺れたりした結果としての戦乱
など以上にも甚だしい争乱を招くことにすらなってしまうのである。
奇特な部類の愛の蔓延でこそあるのであり、決してこの世からあらゆる
愛を絶やし尽くすことなどを仏教が目的としていたりするのではない。
特に大乗仏教は鎮護国家を本旨の一つにも据えているために、公権力者の
君臣父子夫婦といった序列に基づく親愛を否定したりすることは許されないし、
また密教教義などが愛の活用による成道を教義に据えていたりもする。
特に分かりやすいのは、仏教渡来以前における古代中国の公権力者の
濁愛への惑溺による権力腐敗や戦乱の呼び込みであるけれども、それ程
にもあからさまな濁愛と戦乱の因果応報が隠されたり正当化されたりして
しまっているためにその手の因果関係が分かりにくくなってしまっている
現今の世界においては、仏教帰依などを通じて愛の過剰化を予防して行く
価値やその必要性などもなかなか計り知りがたいものとなってしまっている。
特に民主主義社会においては、表向きの公権力者はただ民衆の言うことを
聞いているだけということになっていて、政治的主権は民衆たち自身にある
とされている。実際にはその内でも符号であるような民間人ばかりが大権を
牛耳っていたりするわけだけれども、その富裕な民間人こそは、表舞台に
躍り出たりもしないでいいのをいいことに、紂王や幽王も顔負けの濁愛に
溺れまくったままとなる。いくら隠れているとはいえ、そのような人間が
どこかにいる以上は、濁愛が原因での戦乱という因果関係が成就してしまう
わけで、因果関係が分かりにくいにもかかわらずではなくだからこそ、
表向きの公権力者があからさまな濁愛に溺れたりした結果としての戦乱
など以上にも甚だしい争乱を招くことにすらなってしまうのである。
薩摩人あたりが濁愛好きの戦乱好きだったりするのは、ただ一方的な
制止の対象としてやればいいだけのことである。問題は、愛こそが平和を
もたらす鍵となるなどと思い込んでいる転倒夢想の徒輩のほうであり、
まずその誤解を解いてやるのでなければ、平和のためにこそ愛を追い求める
という白痴そのものな暴走を続けて行くこととなる。その誤解を解いて
やれる程にまともな理解力を持ち合わせている人間はそうしてやればいいが、
それも無理なほどに蒙昧の極みに達してしまっている人間ともなれば、
これはもう、犬同然の使いっ走りとしてならまだ再利用のしようのある
薩摩っぽ程もの救いようもないであろう。いずれかを取り締まって行き始める
というのなら、むしろそちらのほうを優先的に取り締まって行くべきだろう。
「信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊(既出)。
剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂」
「信仰ばかりを好んで学問を好まなければ、その弊害として他者を損なう
ことになる。しっかりしていることばかりを好んで学問を好まなければ、
その弊害として独り善がりに狂うこととなる。(神への狂信ばかりに耽って
異教徒を損なう戦乱を招き、自分たちの平穏無事ばかりを追い求めることで
蒙昧な独り善がり状態となり、自分たちが戦乱の元凶となっていることすら
分からなくなる。まさにどこぞやのカルト信者の有様そのものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・八より)
制止の対象としてやればいいだけのことである。問題は、愛こそが平和を
もたらす鍵となるなどと思い込んでいる転倒夢想の徒輩のほうであり、
まずその誤解を解いてやるのでなければ、平和のためにこそ愛を追い求める
という白痴そのものな暴走を続けて行くこととなる。その誤解を解いて
やれる程にまともな理解力を持ち合わせている人間はそうしてやればいいが、
それも無理なほどに蒙昧の極みに達してしまっている人間ともなれば、
これはもう、犬同然の使いっ走りとしてならまだ再利用のしようのある
薩摩っぽ程もの救いようもないであろう。いずれかを取り締まって行き始める
というのなら、むしろそちらのほうを優先的に取り締まって行くべきだろう。
「信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊(既出)。
剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂」
「信仰ばかりを好んで学問を好まなければ、その弊害として他者を損なう
ことになる。しっかりしていることばかりを好んで学問を好まなければ、
その弊害として独り善がりに狂うこととなる。(神への狂信ばかりに耽って
異教徒を損なう戦乱を招き、自分たちの平穏無事ばかりを追い求めることで
蒙昧な独り善がり状態となり、自分たちが戦乱の元凶となっていることすら
分からなくなる。まさにどこぞやのカルト信者の有様そのものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・八より)

日の下での公明正大とした活動を好き好む人間にとっては光の内にすら入らないように
思われるような小さな灯火が、暗闇での陰湿な活動を好き好む人間にとっては救いの
光であるようにすら思われる、その灯火こそは邪教の神であったりもするのである。
日中なら、曇天状態でもそれなりに周囲が見渡せるほどに、この地球上は明るい。
そこで早朝の日の出時から日没時に至るまで熱心に働けば、さしたる浪費もなく有用な
仕事をこなして行くことができるわけで、昔はその経済性が尊ばれていたものだから、
国家権力を司る"朝"廷などが特に、日中における職務を重んじていたりもしたのである。
(実際に、朝廷は朝早くから上るものだったから、「朝廷」と呼ばれていたのでもある)
その、日中の活動の経済性が最大級に蔑ろにされているのが、電光文明の発達した現代でもある。
蝋燭や松明などの旧来の灯火と比べて、電灯の取り回しやすさは格別である上、今でもさらに
技術的発展を続けてすらいるわけだが、だからといって灯火のコストパフォーマンスが、
無尽蔵の太陽エネルギーの地上への照射たる日光のそれを上回るようなこともあり得ない。
数多の電灯の保守や電源供給のために膨大な労力やエネルギーが費やされ、人々をただそれだけ
のための労働に多数動員させるようなことにすらなる。その浪費さ加減が諸国内はおろか
世界中にまでドミノ倒し的に派生して、最末端の貧困国におけるさらなる困窮や重労働を助長する
ことともなり、以って「未開の土人社会よりも劣悪な社会」が出現することともなる。近代文明
の象徴たる電灯こそが、電灯などない土人社会よりも劣悪な社会環境をもたらしてしまうのである。
未開の土人社会以上にも劣悪な環境下に数多の人々が晒されてしまっているものだから、
その苦しみが原因での人口爆発という極めて不自然な問題が勃発してしまってもいる。自然
状態や、日光こそを灯火以上にも尊ぶ文化習俗が行き渡った状態以上にも、暗闇での灯明こそを
有難がる風習が蔓延してしまっている今の世の中こそは深刻な危機に見舞われていることからも
分かる通り、暗闇での灯明を持て囃すような志向性こそは、より粗悪なものだったのである。
では、もう電灯も電力消費もかなぐり捨てて近代以前に逆戻りしてしまえばいいのか
といえば、できるものならそうすればよい。暗闇での灯明を有難がるような性向こそは
精神薄弱をも助長する一方で、日の下での早朝からの勤労こそは豊かな精神力を育む
手段ともなるのだから、精神衛生面から言っても昔に立ち返るほうが遥かにに好ましい。
ただ、近代文明が今の世の中で来たしている致命的問題を解消するために、電灯に代表される
文明の利器を全廃しなければならないかと言えば、必ずしもそうではない。電機文明の活用の
ほうに一定の節度を持たせて、なおかつそのような活動以上にも、日光の下での経済的な
活動のほうをより尊重して推進して行くようにする。ただそれだけでも、近代文明がこの
世にプラマイゼロ以下の有害無益な影響までは及ぼさないようにして行くことができる。
だからこそ、暗闇に灯明を効果的に点ずる技術など以上にも、そもそも暗闇での灯明を
有難がるような風潮こそを是正すべきなのである。そのような風潮を煽っているような
人文的文化や信教があったりするのならば、むしろそちらを電機技術など以上にも優先
的に駆逐すべきなのであり、だからこそ洋学以上にも聖書信仰の廃絶こそを優先すべき
なのでもある(文系の洋学は聖書信仰の多大な影響を受けている場合がほとんどなので、
聖書信仰が廃絶されることを通じて、連動的にその地位を追われることともなるわけだが)。
今もうすでに聖書信仰など世界的に下火であり、ローマ法王ですらキリスト教教義に反する
ような科学論などを認めつつある一方で、科学文明の隆盛は未だ覚めやらぬような状態で
あるわけだから、わざわざあえて聖書信仰のほうに追い討ちをかける必要性などもないように
思えたとしても仕方ないが、それでもやはり、聖書信仰の清算こそが最優先されるべきである。
科学は所詮「人間規範」を司るものではなく、ある種の人文的な文化構造こそがその役割を
担って行くのだから、人間規範が劣悪なままである結果として科学文明までもが粗悪なままで
あり続けていることを察して、多少なりとも人間規範としての権威を持ち越したままでいる邪教
のほうの駆逐に取り組んでいくことで、科学文明の浄化のための先鞭ともして行くべきなのである。
といえば、できるものならそうすればよい。暗闇での灯明を有難がるような性向こそは
精神薄弱をも助長する一方で、日の下での早朝からの勤労こそは豊かな精神力を育む
手段ともなるのだから、精神衛生面から言っても昔に立ち返るほうが遥かにに好ましい。
ただ、近代文明が今の世の中で来たしている致命的問題を解消するために、電灯に代表される
文明の利器を全廃しなければならないかと言えば、必ずしもそうではない。電機文明の活用の
ほうに一定の節度を持たせて、なおかつそのような活動以上にも、日光の下での経済的な
活動のほうをより尊重して推進して行くようにする。ただそれだけでも、近代文明がこの
世にプラマイゼロ以下の有害無益な影響までは及ぼさないようにして行くことができる。
だからこそ、暗闇に灯明を効果的に点ずる技術など以上にも、そもそも暗闇での灯明を
有難がるような風潮こそを是正すべきなのである。そのような風潮を煽っているような
人文的文化や信教があったりするのならば、むしろそちらを電機技術など以上にも優先
的に駆逐すべきなのであり、だからこそ洋学以上にも聖書信仰の廃絶こそを優先すべき
なのでもある(文系の洋学は聖書信仰の多大な影響を受けている場合がほとんどなので、
聖書信仰が廃絶されることを通じて、連動的にその地位を追われることともなるわけだが)。
今もうすでに聖書信仰など世界的に下火であり、ローマ法王ですらキリスト教教義に反する
ような科学論などを認めつつある一方で、科学文明の隆盛は未だ覚めやらぬような状態で
あるわけだから、わざわざあえて聖書信仰のほうに追い討ちをかける必要性などもないように
思えたとしても仕方ないが、それでもやはり、聖書信仰の清算こそが最優先されるべきである。
科学は所詮「人間規範」を司るものではなく、ある種の人文的な文化構造こそがその役割を
担って行くのだから、人間規範が劣悪なままである結果として科学文明までもが粗悪なままで
あり続けていることを察して、多少なりとも人間規範としての権威を持ち越したままでいる邪教
のほうの駆逐に取り組んでいくことで、科学文明の浄化のための先鞭ともして行くべきなのである。
「雞も既に鳴きぬ、朝も既に盈ちん。雞の則ち鳴くに匪ず、蒼蝿の声なり。
東方明けぬ、朝既に昌んならん。東方則ち明くるに匪ず、月出ずるの光なり。
蟲の飛ぶこと薨薨たり、子と与に夢を同じくするを甘む。会し且つ帰らん、庶くは予が子の憎む無かれ」
「妻『鶏もすでに鳴いています、もう朝ですよ』 夫『あれは鶏の声じゃない、あれは蝿の飛ぶ音だ』
妻『東の方も明るんで、もう朝の最中ですよ』 夫『あれは夜明けの光じゃない、月の光だ』
妻『虫たちも朝日に合わせてブンブンと飛び始めています。あなたと世の夢を共にするのは
私にとっても嬉しいことですが、もう出勤なさって、また帰って来てください。どうか腹を
立てたりなさらないで下さい』(孟子も『夜には夜気を養わねばならない』と言っている通り、
世の闇にもそれなりの価値がある。電灯文明で夜の活動が活発化してしまった現代の先進国
こそは、男女の営みを欠くせいでの少子高齢化をも来たしてしまったのだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・雞鳴より)
東方明けぬ、朝既に昌んならん。東方則ち明くるに匪ず、月出ずるの光なり。
蟲の飛ぶこと薨薨たり、子と与に夢を同じくするを甘む。会し且つ帰らん、庶くは予が子の憎む無かれ」
「妻『鶏もすでに鳴いています、もう朝ですよ』 夫『あれは鶏の声じゃない、あれは蝿の飛ぶ音だ』
妻『東の方も明るんで、もう朝の最中ですよ』 夫『あれは夜明けの光じゃない、月の光だ』
妻『虫たちも朝日に合わせてブンブンと飛び始めています。あなたと世の夢を共にするのは
私にとっても嬉しいことですが、もう出勤なさって、また帰って来てください。どうか腹を
立てたりなさらないで下さい』(孟子も『夜には夜気を養わねばならない』と言っている通り、
世の闇にもそれなりの価値がある。電灯文明で夜の活動が活発化してしまった現代の先進国
こそは、男女の営みを欠くせいでの少子高齢化をも来たしてしまったのだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・雞鳴より)
「夏書に曰く、惟れ彼の陶唐、彼の天常に帥い、此の冀方を有ちぬ。
今其の行いを失い、其の紀綱を乱りて、乃ち滅ぼして亡ぼせり、と。
又曰く、允玆に出づれば玆に在り、己に由り常に率いて可なり、と。」
「夏書(書経の散失部分)に『彼の聖王たる堯舜は天の常道に従って自らの国
を保たれたのに、今、桀王はその常道を見失って、為政のための綱紀を乱して
国を滅亡へと陥れてしまった』とある。また『因果はどこまでも応報する。ただ
自らの自由な選択が天の常道を選択する場合にのみ、よい結果が得られもする』
(自由は、それに基づき天の常道を選択すればこそ理に適うのであり、自由
すなわち真理などでは決してない。むしろ人を真理から遠ざけもし得る)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・哀公六年より)
精神の自由と行為能力の自由は相反するものであり、一方を追い求めて行けば行くほど
もう一方の自由が損なわれて行くということは、今までにも幾度か述べて来たことである。
今其の行いを失い、其の紀綱を乱りて、乃ち滅ぼして亡ぼせり、と。
又曰く、允玆に出づれば玆に在り、己に由り常に率いて可なり、と。」
「夏書(書経の散失部分)に『彼の聖王たる堯舜は天の常道に従って自らの国
を保たれたのに、今、桀王はその常道を見失って、為政のための綱紀を乱して
国を滅亡へと陥れてしまった』とある。また『因果はどこまでも応報する。ただ
自らの自由な選択が天の常道を選択する場合にのみ、よい結果が得られもする』
(自由は、それに基づき天の常道を選択すればこそ理に適うのであり、自由
すなわち真理などでは決してない。むしろ人を真理から遠ざけもし得る)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・哀公六年より)
精神の自由と行為能力の自由は相反するものであり、一方を追い求めて行けば行くほど
もう一方の自由が損なわれて行くということは、今までにも幾度か述べて来たことである。

行くように感じるようになる」という心理現象がある。子供の頃には能力的にも法的にも
相当な行為能力の制限を受けていたのが、中学卒業時からは労働の権利を得、成人後には
飲酒喫煙や自動車免許取得の権利を得るなど、段々と行為能力の制限を解かれて行く。
かけ出しの社会人だった頃にはまださほどのこともできなかったのが、年齢と共に
世の中での地位が上がって行くことで、世の中を動かすような大きな仕事に携わって
行くような権利をも得るようになる。それは確かに、本人にとっての行為能力の自由の
向上であるわけだけれども、それと同時に、自らを「社会の歯車」として高機能化
させて行く事態ともなるわけで、歯車として余計なことを考えなくてよくなった結果として、
本人も月日が走馬灯のように速く過ぎ去って行くように思えてしまうようになるのである。
社会の歯車としての自らの立場を決定的に固着化させてしまう主因となるのが、
結婚やそれに伴う妻子の養育である。今まではただ自分自身のために行為能力の自由を
追い求めていたのが、ついには他者のために行為能力を行使し続ける義務までをも
背負わされ始めることとなるわけだから、そこで確かに「人生の墓場」に埋葬されたも
同然の事態となるわけである。社会の歯車として何も考えなくなった結果として、
月日も走馬灯のように過ぎ去って行くということが、さらには強制されて行くことにすら
なってしまうわけだから、強制者となる妻子が亭主たる男を厳重な畏敬の対象として
行くのでもない限りは、全く割りに合わないこととなってしまうわけである。
そもそもが、自分自身のために行為能力の自由を追い求めて行くことからして虚妄の発露
に過ぎないというのに、その結果として妻子を養わされたりする強制にも隷従させられる
こととなるわけだから、それこそ煩悩愚縛の凡夫マグロが自業自得で漁の網に捕らえられる
有り様とでも言えよう。確かにそんな男は馬鹿なので、その手の男を結婚相手として得た
女などが「男なんて馬鹿な生き物」だなどと思い込んでしまったとしても仕方がないのである。
行為能力の自由などを無制限に追い求めようとした結果として精神が不具と化し、
実際に月日が走馬灯のように速く過ぎ去って行くように感じる儚さに見舞われたり、
カカア天下の女房に馬鹿な生き物扱いされながら飼い慣らされる、人生の墓場そのものな
結婚生活を送らされたりすることともなってしまう。ただ「自由」と言えば聞こえは
いいが、行為能力の自由などを貪った所には確かにそのような、自由であるが故の破滅的で
屈辱的な弊害が伴うわけで、それは、ある程度以上に清廉な心持ちの人間が、心の底から
御免こうむりたい気持ちになったとしても全くおかしくない強度の危害なのでもある。
世の中に出て働くこと、結婚して妻子を養うことが、上記のような理由で全廃されなければ
ならないのかといえば、それも極論に過ぎることである。世の中での行為能力の行使にも
節度があり、結婚して家庭を築けば妻子が当然のこととして亭主を敬うというのですらあれば、
上のような理由で出世や妻子持ちを嫌う人間が、必ずしもそれらを拒絶し尽くしたりする必要もなくなる。
ただ、行為能力の自由などが持て囃されなくなればいいだけのことである。
そんなものは真理にも道理にも与するものではない、むしろ人々を正善なる理法から遠ざけて
精神の不具者と化してしまうだけのものなのだから、かえって卑しまれるぐらいであるように
したならば、それだけで上記のような弊害を伴う出世や結婚もこの世から絶やされるようになる。
その手段はといえば、やはり教化的なものが主体となる。行為能力の自由を持て囃すような
思想信条の駆逐と、そのような自由を劣後したり否定したりする部類の思想信条の一般化。
そのような教化が行き届いた結果として、無闇やたらと行為能力の自由を追い求めるような人間や、
主人を悪し様に扱うような夫人などが徹底的に卑しまれてこの世を追われることともなる。
それでかえって、人々が極度の焦燥や屈辱に見舞われたりすることがなくて済む、
精神の自由こそが確保された世の中が開かれて行くことともなるわけである。
実際に月日が走馬灯のように速く過ぎ去って行くように感じる儚さに見舞われたり、
カカア天下の女房に馬鹿な生き物扱いされながら飼い慣らされる、人生の墓場そのものな
結婚生活を送らされたりすることともなってしまう。ただ「自由」と言えば聞こえは
いいが、行為能力の自由などを貪った所には確かにそのような、自由であるが故の破滅的で
屈辱的な弊害が伴うわけで、それは、ある程度以上に清廉な心持ちの人間が、心の底から
御免こうむりたい気持ちになったとしても全くおかしくない強度の危害なのでもある。
世の中に出て働くこと、結婚して妻子を養うことが、上記のような理由で全廃されなければ
ならないのかといえば、それも極論に過ぎることである。世の中での行為能力の行使にも
節度があり、結婚して家庭を築けば妻子が当然のこととして亭主を敬うというのですらあれば、
上のような理由で出世や妻子持ちを嫌う人間が、必ずしもそれらを拒絶し尽くしたりする必要もなくなる。
ただ、行為能力の自由などが持て囃されなくなればいいだけのことである。
そんなものは真理にも道理にも与するものではない、むしろ人々を正善なる理法から遠ざけて
精神の不具者と化してしまうだけのものなのだから、かえって卑しまれるぐらいであるように
したならば、それだけで上記のような弊害を伴う出世や結婚もこの世から絶やされるようになる。
その手段はといえば、やはり教化的なものが主体となる。行為能力の自由を持て囃すような
思想信条の駆逐と、そのような自由を劣後したり否定したりする部類の思想信条の一般化。
そのような教化が行き届いた結果として、無闇やたらと行為能力の自由を追い求めるような人間や、
主人を悪し様に扱うような夫人などが徹底的に卑しまれてこの世を追われることともなる。
それでかえって、人々が極度の焦燥や屈辱に見舞われたりすることがなくて済む、
精神の自由こそが確保された世の中が開かれて行くことともなるわけである。
「天」と言いながら、実際の天上ではなく、この宇宙全体を形而下と捉えた場合の
形而上を天と見なしていたり、「地」と言いながら、天下全土ではなく、自分たちの
住まうごく一部の場所や地域だけを地と見なしていたりする。そういった「天」や「地」
といった言葉に対する歪んだ定義の当てこすりや、それに基づく人々の粗悪な思考や言行
こそが、誰しもを不幸にする戦乱や精神病理の蔓延を世界中へと撒き散らして来たのだった。
形而上は形而上で、実際的な天上とはまた別のものとして哲学的に定義することが
できるし、天下全土とまではいかない部分的地域もまた、国や県や市区町村やさらに
それ以下の個々の部位として区分することができる。そのような適格な分別があることで
初めて、多少なりとも自他の福利厚生を増進して行くための着実な事業に取り組んで行く
ことが可能ともなるのだから、天上といえば形而上一般と見なしたり、地といえば即座に
一部の地域と考えたりすることこそは、人々の福利を損ないこそすれど増すことなどが
決してない、有害無益な「名辞の乱れ」となることが確かだといえる。
そのような、名辞の乱れと共にしか物事を考えることもできないような人間がいた場合に、
決してその思考回路や言行規範の妥当性を認めてやらないようにする。天といえば
形而上一般、地といえば部分的地域という風にしかものを考えられないことを一切合切
言語障害や精神障害であると見なして、社会的な市民権を一切認めないようにしたならば、
それだけで世の中のあらゆる問題がことごとく解消されて、人類も真の永遠平和と、
真人間としての尊厳からなる栄光に与れて行くようになることが間違いない。
実際には、それもなかなか難しいこととなる。女子供には天下全土の全貌を俯瞰するような
能力が決定的に欠けているし、大人の男もまた、商売のような目先の利益ばかりを追う末業を
仕事としていたりしたならば、天下全土を俯瞰する能力が元々あった所で、それを萎縮させて
しまうことになる。そのような人間たちにとっては、天下全土を「地」と見なした場合の
「天」もまた到底計り知れないものとなるわけで、それよりはむしろ、概念としての万物を
形而下と見なした場合の形而上を「天」と見なすほうが、まだ簡単なことともなるわけである。
形而上を天と見なしていたり、「地」と言いながら、天下全土ではなく、自分たちの
住まうごく一部の場所や地域だけを地と見なしていたりする。そういった「天」や「地」
といった言葉に対する歪んだ定義の当てこすりや、それに基づく人々の粗悪な思考や言行
こそが、誰しもを不幸にする戦乱や精神病理の蔓延を世界中へと撒き散らして来たのだった。
形而上は形而上で、実際的な天上とはまた別のものとして哲学的に定義することが
できるし、天下全土とまではいかない部分的地域もまた、国や県や市区町村やさらに
それ以下の個々の部位として区分することができる。そのような適格な分別があることで
初めて、多少なりとも自他の福利厚生を増進して行くための着実な事業に取り組んで行く
ことが可能ともなるのだから、天上といえば形而上一般と見なしたり、地といえば即座に
一部の地域と考えたりすることこそは、人々の福利を損ないこそすれど増すことなどが
決してない、有害無益な「名辞の乱れ」となることが確かだといえる。
そのような、名辞の乱れと共にしか物事を考えることもできないような人間がいた場合に、
決してその思考回路や言行規範の妥当性を認めてやらないようにする。天といえば
形而上一般、地といえば部分的地域という風にしかものを考えられないことを一切合切
言語障害や精神障害であると見なして、社会的な市民権を一切認めないようにしたならば、
それだけで世の中のあらゆる問題がことごとく解消されて、人類も真の永遠平和と、
真人間としての尊厳からなる栄光に与れて行くようになることが間違いない。
実際には、それもなかなか難しいこととなる。女子供には天下全土の全貌を俯瞰するような
能力が決定的に欠けているし、大人の男もまた、商売のような目先の利益ばかりを追う末業を
仕事としていたりしたならば、天下全土を俯瞰する能力が元々あった所で、それを萎縮させて
しまうことになる。そのような人間たちにとっては、天下全土を「地」と見なした場合の
「天」もまた到底計り知れないものとなるわけで、それよりはむしろ、概念としての万物を
形而下と見なした場合の形而上を「天」と見なすほうが、まだ簡単なことともなるわけである。
しかれば、形而上一般を天と見なしたり、部分的地域を地と見なしたりするものの考え方のほうが、
大多数の人間にとっては受け入れやすい名辞となってしまうわけで、邪教信仰などに依らずとも、
ただ多数決に依るだけでも、そのような歪んだ名辞のほうが妥当だということにされてしまうのである。
歪んだ名辞を正当化する邪教を駆逐し、歪んだ名辞こそを支持してしまう多数決も退けて、
純粋な世のため人のための都合によって、天地にまつわる正しい名辞のわきまえを広めて行く。
昔ならそれが封建制にも即して取り組まれていたわけだが、民主主義までもが高度に正当化されて
しまっている現状では、そこに回帰することもなかなか難しいこととなろう。むしろ、国家規模や
国際規模での安全保障プログラムの綿密な計算によってそれが妥当であると算出された結果として、
機械的に名辞の矯正が実行に移されて行くことを企図するほうが現実的なこととなるだろう。
(もちろん、その計算結果に即して封建制までをも再興して行く可能性はある)
乱世の元凶が「名辞の乱れ」などという所にこそあるからには、扱いを誤ってしまえば時には
そのような致命問題を来してしまう「言葉(ロゴス)」というものが、無条件に神聖なもの
などと捉えられたりするようなこともまた排されて行かねばならない。ロゴス信仰なぞは、
無知蒙昧な土人が言葉という道具を与えられたからといって、無闇やたらと嬉しがった結果
として来たしてしまった蛮習でしかないのだとよくわきまえて、言葉そのものが即座に神聖視
された結果としての、歪んだ名辞の増長などが二度と巻き起こらないようにすべきである。
いずれも、歪んだ名辞やロゴス信仰の下でばかり生きてきた徒輩にとっては、なかなか困難な
荒療治となる上に、断腸の思いともなるに違いないわけだが、名辞の乱れこそが自分たちを破滅
へと陥れる大悪の元凶とすらなっているのが現状でふるからには、もうそうするしかないのである。
大多数の人間にとっては受け入れやすい名辞となってしまうわけで、邪教信仰などに依らずとも、
ただ多数決に依るだけでも、そのような歪んだ名辞のほうが妥当だということにされてしまうのである。
歪んだ名辞を正当化する邪教を駆逐し、歪んだ名辞こそを支持してしまう多数決も退けて、
純粋な世のため人のための都合によって、天地にまつわる正しい名辞のわきまえを広めて行く。
昔ならそれが封建制にも即して取り組まれていたわけだが、民主主義までもが高度に正当化されて
しまっている現状では、そこに回帰することもなかなか難しいこととなろう。むしろ、国家規模や
国際規模での安全保障プログラムの綿密な計算によってそれが妥当であると算出された結果として、
機械的に名辞の矯正が実行に移されて行くことを企図するほうが現実的なこととなるだろう。
(もちろん、その計算結果に即して封建制までをも再興して行く可能性はある)
乱世の元凶が「名辞の乱れ」などという所にこそあるからには、扱いを誤ってしまえば時には
そのような致命問題を来してしまう「言葉(ロゴス)」というものが、無条件に神聖なもの
などと捉えられたりするようなこともまた排されて行かねばならない。ロゴス信仰なぞは、
無知蒙昧な土人が言葉という道具を与えられたからといって、無闇やたらと嬉しがった結果
として来たしてしまった蛮習でしかないのだとよくわきまえて、言葉そのものが即座に神聖視
された結果としての、歪んだ名辞の増長などが二度と巻き起こらないようにすべきである。
いずれも、歪んだ名辞やロゴス信仰の下でばかり生きてきた徒輩にとっては、なかなか困難な
荒療治となる上に、断腸の思いともなるに違いないわけだが、名辞の乱れこそが自分たちを破滅
へと陥れる大悪の元凶とすらなっているのが現状でふるからには、もうそうするしかないのである。
「天子は天地を祭り、諸侯は社稷を祭り、大夫は五祀を祭り。天子は天下の名山大川を祭る。
五岳は三公に視え、四?は諸侯に視う。諸侯は名山大川の其の地に在る者を祭る」
「天下を統べる帝王のみが天地を祭り、諸侯ですら自国の社稷を祭る。大夫はそれぞれの季節の祭を司る。
五名山は三公になぞらえ、四大河は諸侯になぞらえて祭る。諸侯は名山大河の地に土着している人々を祭る。
(それなりの公的地位にあるものが、それぞれの身分に即して天地以下を祭ればこそ、天下も益される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
五岳は三公に視え、四?は諸侯に視う。諸侯は名山大川の其の地に在る者を祭る」
「天下を統べる帝王のみが天地を祭り、諸侯ですら自国の社稷を祭る。大夫はそれぞれの季節の祭を司る。
五名山は三公になぞらえ、四大河は諸侯になぞらえて祭る。諸侯は名山大河の地に土着している人々を祭る。
(それなりの公的地位にあるものが、それぞれの身分に即して天地以下を祭ればこそ、天下も益される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

あらゆる刑罰を恐れなくなってしまうという問題が、洋の東西を問わず深刻化して来ている。
例えば、凌遅刑に代表される残虐な処刑方法が導入され始めた五代十国時代以降の中国などもまた、
多少なりともそのような問題を来たしてきている。それ以前においても、残虐な刑罰自体は無数に
行われて来ているが、ことに死刑にかけては、斬首の如き簡潔な手段に依るのが漢代から唐代に
かけての中国での習わしであった。それが遂には反故にされて、死刑自体を残虐な手段に
依ることで見せしめにするということが常套化し始めた。すると逆に、死刑になることも
恐れることなく罪を犯すような人間が頻発し始めるようになった。明代や清代における中国の
官僚腐敗の逸話にも枚挙に暇がないように、官民揃っての罪悪三昧を来すこととなってしった。
死んでしまえば苦しみも何もない、むしろ無上の安楽にすら与れるのが悪因苦果まみれの惰生を
食いつなぐ罪人であるというのに、一時の苦しみの後にはその安楽にすら与れるというのだから、
そこに伴うある種のカタルシスが魅力ともなって、かえって大罪を犯した挙げ句にそこで
死んでやろうとするような人間までもが生じてしまいかねない。そのような罪と罰の劣悪な
悪循環が、中国では約1100年間、西洋では約2000年間の長きに渡って深刻化して来ているわけで、
実に、世界の半数程度に渡る人間が、刑罰の何たるかをもろくに理解できないという異常事態が
ここ1000年程度の人類社会において恒常化してしまっているのだといえる。
残虐な処刑手段こそは、前近代的な過去の遺物の代表例として取り沙汰されることも多いわけだが、
実際の所それは「過去の遺物」だから厭わしいのではなく、人類史上の一時において流行した蒙昧
な悪習であればこそ厭わしいものなのである。それが人々に対する戒めとなるどころか、かえって
懲罰の何たるかを見損なっての妄動を喚起しかねないものだからこそ、廃されるべきものなのである。
実際の所、懲罰と死刑を混同したせいでの恐れ知らず状態でいるような人間に対しては、
残虐な処刑を振りかざしたりするよりも、禁治産や参政権剥奪の如き適格な軽罰で
脅し付けてやったほうが、よほどこたえるものである。あらゆる残虐刑を恐れもしないで
いようとすること自体、無法状態での果てしない自由を追い求めていようとすればこその
心理状態であるわけだから、そうであるに応じて、適切な民事的制限を科してやろう
とするほうがまだ、自分たちの出鼻を挫かれるが故の恐怖に見舞われるものである。
してみれば、人々への社会的制限や懲罰刑は酷烈であっても、死刑は打ち首のような簡潔な
ものが主流だた江戸時代あたりの刑政が、それもまた前近代的なようでいて、実は理に
適っていたことが分かる。中には石抱きや鞭打ちのような拷問だとか、額に「犬」という字を
入れ墨する身体刑だとかもあったわけだが、それは純粋に「懲罰」が厳しかったというだけで、
死刑が残虐であったりすることとはまた別の問題であるといえる。東夷の懲罰刑が酷烈である
のは「漢書」地理志にすら記録されている太古からの伝統であり、それでこそ世界でも突出
した犯罪率の低さを誇れもしたのだから、懲罰刑を厳重化することは今の時代においてですら
見直されてもいいことだといえる。一方で、死刑と懲罰刑を妄りに混同したりしないことも
見習われて然るべきであり、死刑や切腹の決まった人間ともなれば、辞世の句を詠む
便宜すら図られていたという、昔の日本社会の心意気こそを買うべきだといえる。
「天の未だ陰雨せざるに迨びて、彼の桑土を徹りて、牖戸を綢繆す。
今女じ下民、敢えて予を侮ること或らんや。〜予の羽譙譙たり、
予の尾翛翛たり、予の室翹翹たり。風雨に漂搖せられ、予が維の音嘵嘵たり」
「天がまだ雨を降らさぬ内から、私は桑の根の皮を剥いで巣の隙間を塞ぎ、侵害に備えている。
どうか下民たちも、臆病じみた私のこの姿を馬鹿にしてくれるな。そのような苦労のせいで私の尾も
傷み、羽も疲れきっている。私の巣がどうにも弱弱しいのも、風雨に揺らがされるからで、そのせい
で私の鳴き声もせっかちなものとなってしまいがちなのである。(周朝の摂政時代の周公旦が自らを
鳥に喩えた歌。自らあえて、恐れ動揺させられるような危難をあえて引き受ける君子の模範的な姿)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・鴟鴞より)
いようとすること自体、無法状態での果てしない自由を追い求めていようとすればこその
心理状態であるわけだから、そうであるに応じて、適切な民事的制限を科してやろう
とするほうがまだ、自分たちの出鼻を挫かれるが故の恐怖に見舞われるものである。
してみれば、人々への社会的制限や懲罰刑は酷烈であっても、死刑は打ち首のような簡潔な
ものが主流だた江戸時代あたりの刑政が、それもまた前近代的なようでいて、実は理に
適っていたことが分かる。中には石抱きや鞭打ちのような拷問だとか、額に「犬」という字を
入れ墨する身体刑だとかもあったわけだが、それは純粋に「懲罰」が厳しかったというだけで、
死刑が残虐であったりすることとはまた別の問題であるといえる。東夷の懲罰刑が酷烈である
のは「漢書」地理志にすら記録されている太古からの伝統であり、それでこそ世界でも突出
した犯罪率の低さを誇れもしたのだから、懲罰刑を厳重化することは今の時代においてですら
見直されてもいいことだといえる。一方で、死刑と懲罰刑を妄りに混同したりしないことも
見習われて然るべきであり、死刑や切腹の決まった人間ともなれば、辞世の句を詠む
便宜すら図られていたという、昔の日本社会の心意気こそを買うべきだといえる。
「天の未だ陰雨せざるに迨びて、彼の桑土を徹りて、牖戸を綢繆す。
今女じ下民、敢えて予を侮ること或らんや。〜予の羽譙譙たり、
予の尾翛翛たり、予の室翹翹たり。風雨に漂搖せられ、予が維の音嘵嘵たり」
「天がまだ雨を降らさぬ内から、私は桑の根の皮を剥いで巣の隙間を塞ぎ、侵害に備えている。
どうか下民たちも、臆病じみた私のこの姿を馬鹿にしてくれるな。そのような苦労のせいで私の尾も
傷み、羽も疲れきっている。私の巣がどうにも弱弱しいのも、風雨に揺らがされるからで、そのせい
で私の鳴き声もせっかちなものとなってしまいがちなのである。(周朝の摂政時代の周公旦が自らを
鳥に喩えた歌。自らあえて、恐れ動揺させられるような危難をあえて引き受ける君子の模範的な姿)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・豳風・鴟鴞より)
この世におけるあらゆる害悪の元凶と化しているようなならず者こそが、
莫大な利権や暴力を蓄えることでの自己防衛を尽くすということが、古今東西を
問わず、今までの人類史上において幾度となく繰り返されて来た。そのほとんどは、
桀紂や秦始皇の如き「暴君」の体裁と共に企てられて来ているわけだが、中には、
あえてそのような体裁を「独裁主義」として非難の対象にして切り捨てた上での、
また別の体裁による害悪の元凶としての強大化が企てられた例もある。
端的に言えば、宗教やイデオロギーを旗印にした試みがそれに当たる。
概ねそれは、西洋においてばかり試みられて来たことであり、宗教や思想哲学が超国家的な
権限を持つことを、自分たち自身の怪力乱神を忌み避ける思想信条によって戒めて来た極東
社会などにおいては基本、許されて来なかったことである。部分的には比叡山や本願寺の
ような宗教権力の強大化までもが企てられていたが、それも決してローマカトリックの如き
国家征服級の勢力を帯びるまでには至らなかった。西洋でそのような宗教や思想哲学を旗印に
した甚大な権力集中が繰り返されて来たのは、怪力乱神を忌み避けない上に、形而上に
規定されたイデア領域へと万物を帰納しようとするような試みまでもが古代ギリシャの
頃から持て囃されて来ているからで、そのような歴史的な経緯から見ても、確かに西洋は、
シラフの公権力など以上にも思想信条への権力集中を試みて来た頻度が高い社会だと言える。
(中東やインドはこの中間で、思想宗教と公権力を厳密に合致させた上で両者を尊んでいる)
莫大な利権や暴力を蓄えることでの自己防衛を尽くすということが、古今東西を
問わず、今までの人類史上において幾度となく繰り返されて来た。そのほとんどは、
桀紂や秦始皇の如き「暴君」の体裁と共に企てられて来ているわけだが、中には、
あえてそのような体裁を「独裁主義」として非難の対象にして切り捨てた上での、
また別の体裁による害悪の元凶としての強大化が企てられた例もある。
端的に言えば、宗教やイデオロギーを旗印にした試みがそれに当たる。
概ねそれは、西洋においてばかり試みられて来たことであり、宗教や思想哲学が超国家的な
権限を持つことを、自分たち自身の怪力乱神を忌み避ける思想信条によって戒めて来た極東
社会などにおいては基本、許されて来なかったことである。部分的には比叡山や本願寺の
ような宗教権力の強大化までもが企てられていたが、それも決してローマカトリックの如き
国家征服級の勢力を帯びるまでには至らなかった。西洋でそのような宗教や思想哲学を旗印に
した甚大な権力集中が繰り返されて来たのは、怪力乱神を忌み避けない上に、形而上に
規定されたイデア領域へと万物を帰納しようとするような試みまでもが古代ギリシャの
頃から持て囃されて来ているからで、そのような歴史的な経緯から見ても、確かに西洋は、
シラフの公権力など以上にも思想信条への権力集中を試みて来た頻度が高い社会だと言える。
(中東やインドはこの中間で、思想宗教と公権力を厳密に合致させた上で両者を尊んでいる)
公権力者が害悪の元凶たる暴君としての強大化を企てる場合と、ある種の思想信条を旗印にした
人間が害悪の元凶としての強大化を企てる場合と、いずれもが全世界規模での大災厄をすでに
もたらしている。前者の最大例がモンゴル帝国による世界征服であり、後者の最大例がまさに
近現代の欧米人による世界征服である。いずれも「完全征服」とまでは行かないが、一時的には
世界の大半の地域を征服下に置き、征服とまで行かなかった地域にまでも幕府の衰亡や困窮の如き
何らかの危害をもたらしていて、「世界中のあらゆる害悪の元凶」としての条件を満たしながら、
当時世界最大級の暴力を蓄えての自己防衛にも及んでいた点が全く共通しているといえる。
ただ、世界中の害悪の元凶の分際でいながら、自分たちこそは最優先の生存者たろうとも
するような無理が案の定、早急なる自分たちの衰亡を呼び込むことともなった。害悪の元凶
こそが権力のトップに据えられて、厳重な安全保障の下での放辟邪侈三昧を続けたりすること
自体が、世の中への傾国級の負担をかけることともなるため、そう長きに渡る存続などが可能
ともならない。それは権力のトップが君臣公候のような正規の公権力者だろうが、政商のような
非正規の権力犯罪者だろうがさして変わらぬことであるわけで、「こいつすら倒せば世の中も
正される」という代表的な責任者が表に出てこない分だけ、かえって非正規の権力者がトップと
化す場合のほうが、より深刻な事態を招いた挙げ句の大崩壊などをも来たしてしまいかねない。
手段がどうであれ、世の中の害悪の元凶ともあろう分際が、よりにもよって権力のトップ
にまでのし上がって、最大級の自己防衛と共なる存続を企てるなどということ自体が
許されないことなのであり、それは害悪の元凶こそが民主主義だの自由主義だのといった
綺麗事じみたイデオロギーを振りかざしたりした所で、寸分たりとも覆ることではない。
人間が害悪の元凶としての強大化を企てる場合と、いずれもが全世界規模での大災厄をすでに
もたらしている。前者の最大例がモンゴル帝国による世界征服であり、後者の最大例がまさに
近現代の欧米人による世界征服である。いずれも「完全征服」とまでは行かないが、一時的には
世界の大半の地域を征服下に置き、征服とまで行かなかった地域にまでも幕府の衰亡や困窮の如き
何らかの危害をもたらしていて、「世界中のあらゆる害悪の元凶」としての条件を満たしながら、
当時世界最大級の暴力を蓄えての自己防衛にも及んでいた点が全く共通しているといえる。
ただ、世界中の害悪の元凶の分際でいながら、自分たちこそは最優先の生存者たろうとも
するような無理が案の定、早急なる自分たちの衰亡を呼び込むことともなった。害悪の元凶
こそが権力のトップに据えられて、厳重な安全保障の下での放辟邪侈三昧を続けたりすること
自体が、世の中への傾国級の負担をかけることともなるため、そう長きに渡る存続などが可能
ともならない。それは権力のトップが君臣公候のような正規の公権力者だろうが、政商のような
非正規の権力犯罪者だろうがさして変わらぬことであるわけで、「こいつすら倒せば世の中も
正される」という代表的な責任者が表に出てこない分だけ、かえって非正規の権力者がトップと
化す場合のほうが、より深刻な事態を招いた挙げ句の大崩壊などをも来たしてしまいかねない。
手段がどうであれ、世の中の害悪の元凶ともあろう分際が、よりにもよって権力のトップ
にまでのし上がって、最大級の自己防衛と共なる存続を企てるなどということ自体が
許されないことなのであり、それは害悪の元凶こそが民主主義だの自由主義だのといった
綺麗事じみたイデオロギーを振りかざしたりした所で、寸分たりとも覆ることではない。
正規の公権力者が暴君として上記のような振る舞いに及ぶことはすでにそれなりに戒められて
来ているが、宗教や思想イデオロギーを旗印にした「義賊的人種」がそのような振る舞いに
及ぶことは、未だに十分な警戒の対象とされてはいない。暴君の惨暴を入念な歴史学に
よって戒めて来ている極東社会こそは、思想宗教が公権力以上の権力中枢と化すこと
などを端っから切り捨てて来ている社会でもあるものだから、思想信条の義賊こそが
暴君並みの惨暴に及んだりすることがろくに察知もされて来なかったという事情もある。
今一度、害悪の元凶こそが大権を握ることの許しがたさが全世界規模で認知されると共に、
それが公権力者だけでなく、宗教やイデオロギーを旗印にする義賊的人種によってですら企て
られることがあるということまでもが警戒の対象とされて行く必要がある。後者の問題は
洋の東西を問わず十分に認知されて来ていないことなので、いま初めて全世界の人々が、
人類社会にとっての根本問題の一つを、新たに計り知ることになるのだといえる。
「守ること約やかに而て施し博きは、善道なり」
「守る所は簡素でいながら、天下万人へと広く施しを心がけるのが善道である。
(依怙贔屓な守りよりは、広き施しをより優先するのが君子である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
来ているが、宗教や思想イデオロギーを旗印にした「義賊的人種」がそのような振る舞いに
及ぶことは、未だに十分な警戒の対象とされてはいない。暴君の惨暴を入念な歴史学に
よって戒めて来ている極東社会こそは、思想宗教が公権力以上の権力中枢と化すこと
などを端っから切り捨てて来ている社会でもあるものだから、思想信条の義賊こそが
暴君並みの惨暴に及んだりすることがろくに察知もされて来なかったという事情もある。
今一度、害悪の元凶こそが大権を握ることの許しがたさが全世界規模で認知されると共に、
それが公権力者だけでなく、宗教やイデオロギーを旗印にする義賊的人種によってですら企て
られることがあるということまでもが警戒の対象とされて行く必要がある。後者の問題は
洋の東西を問わず十分に認知されて来ていないことなので、いま初めて全世界の人々が、
人類社会にとっての根本問題の一つを、新たに計り知ることになるのだといえる。
「守ること約やかに而て施し博きは、善道なり」
「守る所は簡素でいながら、天下万人へと広く施しを心がけるのが善道である。
(依怙贔屓な守りよりは、広き施しをより優先するのが君子である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)

陰陽不全を象徴する色として、孔子を始めとする儒者たちに卑しまれて来た。
春秋時代初期に、春秋五覇の筆頭格である斉の桓公が紫色を好んで被服などとして用いた所、
庶民までもが好き好んで紫の服などを着始めたために、それに悩んで重臣の管仲に相談
したという。管仲が「閣下が紫を好むのを止めれば人々もそれに倣うでしょう」と助言
したので言われた通りにすると、実際にそうなったという。(「韓非子」などを参照)
これがたとえば、赤などだと同じようなことにはならない。日本の戦国武将や江戸期の
大名なども好んで赤を具足や門構えや旗印などの色に用いていたが、それがかえって鮮血
の色すらをも想起させるものだから、庶民に畏怖を抱かせて赤色の使用を控えさせるよう
にすらなった。(変わりに実用性も高い青系の藍染めなどが好んで民用されるなどした)
逆に、仏門や神職のような超俗的な領分の界隈こそが紫色を用いれば、そのせいでかえって
人々が紫の使用を控えるようになるということもある。これは、別に自分がなりたいと
思わされるわけでもないような世捨て人の領域こそがその色を用いているからであって、
そういった手段によってあえて人々に紫色の濫用を控えさせるということもできはする。
封建時代の王侯あたりの、もしもなれたなら絶大な栄華を謳歌できるような身分の人間が
好んで紫を用いたりした場合にこそ、身分の上下を重んじる陽唱陰和までもが反故にされて、
社会的権威全般が重んじられないようになって行く。斉の桓公だけでなく、ローマ皇帝
らもこぞって紫の礼服を用いていたというから、そのせいで人々が皇帝への敬意などを
損ねていった挙句に共和制に移行したり、公権力の権威を致命的に踏みにじる
邪教の台頭を許してしまったりしたのも、むべなることであったといえる。
紫色の扱いの如何などは、公権力者としての心がけの内でも氷山の一角に過ぎないものであり、
仮に斉の桓公やローマ皇帝が紫色の重用を取り止めたからといって、ただそけだけで上下の
位階が正されのたかといえば、そうとも考え難い。ただ、たとえばそのような配色にまつわる
心がけが、一つの有職故実の巧拙の代表例として取り上げられることにも間違いはないわけで、
そのような小さな部分からの注意の積み重ねこそが君臣官民上下の序列を正して行く要とも
なるわけだから、決してその仔細までをも疎かにするようなことがあってはならない。
皇帝がこぞって紫色を用いる程にも陰陽不全が深刻化してしまっていたような世の中に
おいてこそ、人類史上最悪級の反社会主義の邪教がもたらされてしまいもしたのだから、陰陽
不全を煽る部類の稚拙な有職故実こそは、邪教の母体でもあったのだといえる。文化習俗からの
公権力腐敗こそは、反社会主義の邪教すらをも好き好みたがるような奇形的な義賊精神を人々に
植え付ける元凶ともなってしまったのだから、やはり公権力者こそが正善なる礼法と共に毅然と
していることこそは、邪教の出現や蔓延の予防のための肝心要の要項にもなるのだといえる。
被服の配色レベルからの用心の積み重ねなど、自らの富貴栄達だけが目的で権力者を志す
ような人間には到底やりきれるものではない。故に、自らの成功ばかりしか念頭に置けない
ような小人的精神構造の人間が権力の座に就くようなことから取り締まって行かねばならない。
そのような人間が無数に群がっている世相ともなれば、公権力者こそを取り締まる監察官身分の
人間に絶大な権限を与えて、厳重な取り締まりを講じて行くことまでもが必要となるであろう。
「君子は〜紅紫を以って褻服と為さず」
「君子は紅や紫のような間色を礼服に用いない。(理由は上記の通りである。皇帝からして
紫を礼服に用いていた当時のローマ帝国自体、誰も礼儀を知らぬ人畜の世だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・六より)
仮に斉の桓公やローマ皇帝が紫色の重用を取り止めたからといって、ただそけだけで上下の
位階が正されのたかといえば、そうとも考え難い。ただ、たとえばそのような配色にまつわる
心がけが、一つの有職故実の巧拙の代表例として取り上げられることにも間違いはないわけで、
そのような小さな部分からの注意の積み重ねこそが君臣官民上下の序列を正して行く要とも
なるわけだから、決してその仔細までをも疎かにするようなことがあってはならない。
皇帝がこぞって紫色を用いる程にも陰陽不全が深刻化してしまっていたような世の中に
おいてこそ、人類史上最悪級の反社会主義の邪教がもたらされてしまいもしたのだから、陰陽
不全を煽る部類の稚拙な有職故実こそは、邪教の母体でもあったのだといえる。文化習俗からの
公権力腐敗こそは、反社会主義の邪教すらをも好き好みたがるような奇形的な義賊精神を人々に
植え付ける元凶ともなってしまったのだから、やはり公権力者こそが正善なる礼法と共に毅然と
していることこそは、邪教の出現や蔓延の予防のための肝心要の要項にもなるのだといえる。
被服の配色レベルからの用心の積み重ねなど、自らの富貴栄達だけが目的で権力者を志す
ような人間には到底やりきれるものではない。故に、自らの成功ばかりしか念頭に置けない
ような小人的精神構造の人間が権力の座に就くようなことから取り締まって行かねばならない。
そのような人間が無数に群がっている世相ともなれば、公権力者こそを取り締まる監察官身分の
人間に絶大な権限を与えて、厳重な取り締まりを講じて行くことまでもが必要となるであろう。
「君子は〜紅紫を以って褻服と為さず」
「君子は紅や紫のような間色を礼服に用いない。(理由は上記の通りである。皇帝からして
紫を礼服に用いていた当時のローマ帝国自体、誰も礼儀を知らぬ人畜の世だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・六より)

ローマ皇帝が紫色の礼服を用い続けたのは、本人たちが真っ当な礼法に疎いのみ
ならず、ローマ帝国全体が礼法の何たるかも知らない人畜の集まりであったから
でもある。そんな中で、人類を滅亡に陥れる程もの邪宗門が生じてしまったのも、
帝国全体にとっての落ち度であった所すらもがあるわけで、決してその教祖たる
イエスばかりが、独立独行の大悪人であったなどということも言えないのである。
あまり大人数の人間を一律な処罰下に置くことも、現実的に無理がある。
そのため「六韜」の虎の巻などにもあるとおり、便宜的に責任者を少数に絞って、
その責任者だけを厳重な処罰下に置くということが実効支配上のセオリーとして
有効となる。じゃあローマ帝国を始めとする西洋社会における聖書信仰災禍の責任者
として槍玉に挙げられるべき人間はいったい誰なのかといえば、それは確かにイエス
でもあり得るだろう。「あり得る」というのは、必ずしもそうではないからでもある。
イエスの言行の全てが本人の独断で行われたのならば、確かに本人の責任となる
だろうが、何らかの裏方がいて、それに乗せられてイエスも妄言妄動を来たした
挙げ句に、ローマ帝国中に冤罪劇による司法の機能不全化をもたらした可能性もある。
司法と共にローマ帝国の国家的権威までもが瓦解した結果として、政商などの不正な
立場に即してコンスタントに暴利を巻き上げることが可能となった連中がいたのかも
知れない。そのような連中が居たとするなら、そいつらこそは邪教災禍の最高罪責者
であったといえる。イエスはそれに乗せられた共犯であったといえ、イスラム教徒が
主張しているように、実際には刑死もすることなく平然と生き延びていたのだ
とすれば、それはそれは凶悪な権力犯罪工作員の一員であったともいえる。
実際問題、今の西洋社会でも、聖書信仰によって一定以上に国家の権威が損なわれて、
民衆の権限が強化されているようでいながら、実際には民間の富豪あたりが利権を
牛耳っているという状態が常套化している。日本でも明治以降にそのような世相が
輸入され、敗戦後に天皇制までもが決定的に形骸化したことによって、その風潮も
確立されてしまった。聖書信仰が解禁されたり享受されたりするせいで、洋の東西を
問わない世界中の国々で、国家権力から民間の富豪へと主権が明け渡されてしまって
いることからも、聖書信仰というものが本来から民間の権力犯罪者を肥え太らせる
ことを目的としてでっち上げられたものであろうことが察せられるわけである。
然れば、聖書信仰災禍によって人類の滅亡までもが間近に迫っている今の世界に
おいて、その最高責任者として処罰されるべきなのも、聖書信仰を是認する世相に
よって暴利を巻き上げてきた民間の富豪でこそあるといえる。本人たちが必ずしも
確信犯としてカルト信仰に乗じた権力犯罪を積み重ねて来たとも限らないし、別に
聖書信仰勃発時の古代ユダヤ人の正統な血流を汲んでいたりするわけでもなかろうが、
それでもやはり、聖書信仰による破滅の危機を免れるための最たる処罰対象としては、
聖書信仰によってこそ暴利を稼ぎ挙げて来た界隈の現代人こそが挙げられるのである。
各種の聖書教団も、民間の権力犯罪を煽り立てる旗頭であればこそ根絶の対象
とされるし、実物の権力犯罪との関わり合いが深ければ、それに即して処罰の対象
ともなる。聖書信仰こそは致命的な権力犯罪の元凶であるのだから、根絶の対象と
して最優先となるのは当然それであるわけだけれども、それと同時に最優先の処罰の
対象となるのは誰かといえば、それはむしろ、聖書信仰によって暴利を巻き上げてきた
「聖書信仰の消費者」のほうである。本人たちはさして信仰にかけて敬虔でもなかったり、
逆に反キリスト主義を掲げてすらいたりするわけれども、それでも最大の処罰対象と
なる人間はそこにこそいる。聖書信者一般のうちには、強制的に改宗させられた
貧困国の困窮者などもいるわけだから、最優先の処罰対象にまでなるとは限らない。
民衆の権限が強化されているようでいながら、実際には民間の富豪あたりが利権を
牛耳っているという状態が常套化している。日本でも明治以降にそのような世相が
輸入され、敗戦後に天皇制までもが決定的に形骸化したことによって、その風潮も
確立されてしまった。聖書信仰が解禁されたり享受されたりするせいで、洋の東西を
問わない世界中の国々で、国家権力から民間の富豪へと主権が明け渡されてしまって
いることからも、聖書信仰というものが本来から民間の権力犯罪者を肥え太らせる
ことを目的としてでっち上げられたものであろうことが察せられるわけである。
然れば、聖書信仰災禍によって人類の滅亡までもが間近に迫っている今の世界に
おいて、その最高責任者として処罰されるべきなのも、聖書信仰を是認する世相に
よって暴利を巻き上げてきた民間の富豪でこそあるといえる。本人たちが必ずしも
確信犯としてカルト信仰に乗じた権力犯罪を積み重ねて来たとも限らないし、別に
聖書信仰勃発時の古代ユダヤ人の正統な血流を汲んでいたりするわけでもなかろうが、
それでもやはり、聖書信仰による破滅の危機を免れるための最たる処罰対象としては、
聖書信仰によってこそ暴利を稼ぎ挙げて来た界隈の現代人こそが挙げられるのである。
各種の聖書教団も、民間の権力犯罪を煽り立てる旗頭であればこそ根絶の対象
とされるし、実物の権力犯罪との関わり合いが深ければ、それに即して処罰の対象
ともなる。聖書信仰こそは致命的な権力犯罪の元凶であるのだから、根絶の対象と
して最優先となるのは当然それであるわけだけれども、それと同時に最優先の処罰の
対象となるのは誰かといえば、それはむしろ、聖書信仰によって暴利を巻き上げてきた
「聖書信仰の消費者」のほうである。本人たちはさして信仰にかけて敬虔でもなかったり、
逆に反キリスト主義を掲げてすらいたりするわけれども、それでも最大の処罰対象と
なる人間はそこにこそいる。聖書信者一般のうちには、強制的に改宗させられた
貧困国の困窮者などもいるわけだから、最優先の処罰対象にまでなるとは限らない。
「吾れ未だ己れを枉けで人を正せる者を聞かざるなり。況んや、己れを辱めて
以て天下を正せる者をや(ここまで既出)。聖人の行いは同じからず、或いは
遠く或いは近く、或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰するのみ」
「私は未だに己れを曲げて人を正せた人間というのを聞いたことがない。ましてや、
己れを辱めることで天下を正せるた人間などはなおのこと。聖人の行いにも異同が
あり、場合によっては権力から遠ざかったり逆に近づいたり、消極的だったり
そうでなかったりするものだが、要は『わが身を潔くする』という所に尽きている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
以て天下を正せる者をや(ここまで既出)。聖人の行いは同じからず、或いは
遠く或いは近く、或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰するのみ」
「私は未だに己れを曲げて人を正せた人間というのを聞いたことがない。ましてや、
己れを辱めることで天下を正せるた人間などはなおのこと。聖人の行いにも異同が
あり、場合によっては権力から遠ざかったり逆に近づいたり、消極的だったり
そうでなかったりするものだが、要は『わが身を潔くする』という所に尽きている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
「父母の〜衣裳綻裂すれば、箴に紉して補綴せんと請う」
「父母の衣装が綻んだり裂けたりした時には、自らが針に糸を突けて修繕する
ことを希う。(神幕は神にとっての衣装なのだから、神を我が父とみなす者が
それを裂くなど不孝の極みであろう。むろん、礼など知らぬ世界の話であり、
それでイエスを神の子だなどと認めた周囲の人間も蒙昧の徒だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
すでに、多くの人間が聖書信仰の心がけなどを下火と化してしまっている
今の西洋においても、「キリスト的なものの霊験」というものを否定するよりは
肯定したいぐらいの心持ちでいる人間が大半を占めている。そのあたり、信教
の自由を認めながらも、そもそキリスト的なものの霊験からして認めるよりは
認めないでいたい人間が大半を占めている日本などとは異なる点であるといえる。
家庭円満や無病息災を尊ぶ神道文化だとか、諸行無常や諸法実相といった真理
を尊ぶ仏教文化だとかを先祖代々重んじて来ているものだから、それらの文化
習俗に決定的に相反する要素を多々含んでいる聖書の神の霊験からして、むしろ
あり得ないものであったほうが好ましい。キリスト的なものの霊験が実在した
場合にのみ得られる自由なども、むしろ得られないほうが好ましいといえる。
そして実際、キリストの霊験などあり得ない。神父だ牧師だも舌先三寸で相手を
言いくるめることでの折伏を試みていたりするだけで、肝心の聖書にある通り
の奇跡などは、粗末な種のある手品でもない限りは、全く以って起こりはしない。
文化的素養の乏しい未開の野蛮人あたりなら、宣教師の口先やちょっとした手品に
丸め込まれて入信させられたりすることもあるだろうが、そもそもがキリスト的
なものの霊験が実在しないほうが好ましい部類の文化習俗にドップリと漬かって
来ている人々を、聖書に書かれている通りの奇跡を神の業によって引き起こせる
わけでもないのに改宗させてやれるなんてことがあるはずがないわけで、まず
そのような既存の文化習俗への親しみを損なわせるのでもなければ、多少の
強制改宗の余地が生ずることすらもが永久にあり得ないこととなるわけである。
「父母の衣装が綻んだり裂けたりした時には、自らが針に糸を突けて修繕する
ことを希う。(神幕は神にとっての衣装なのだから、神を我が父とみなす者が
それを裂くなど不孝の極みであろう。むろん、礼など知らぬ世界の話であり、
それでイエスを神の子だなどと認めた周囲の人間も蒙昧の徒だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
すでに、多くの人間が聖書信仰の心がけなどを下火と化してしまっている
今の西洋においても、「キリスト的なものの霊験」というものを否定するよりは
肯定したいぐらいの心持ちでいる人間が大半を占めている。そのあたり、信教
の自由を認めながらも、そもそキリスト的なものの霊験からして認めるよりは
認めないでいたい人間が大半を占めている日本などとは異なる点であるといえる。
家庭円満や無病息災を尊ぶ神道文化だとか、諸行無常や諸法実相といった真理
を尊ぶ仏教文化だとかを先祖代々重んじて来ているものだから、それらの文化
習俗に決定的に相反する要素を多々含んでいる聖書の神の霊験からして、むしろ
あり得ないものであったほうが好ましい。キリスト的なものの霊験が実在した
場合にのみ得られる自由なども、むしろ得られないほうが好ましいといえる。
そして実際、キリストの霊験などあり得ない。神父だ牧師だも舌先三寸で相手を
言いくるめることでの折伏を試みていたりするだけで、肝心の聖書にある通り
の奇跡などは、粗末な種のある手品でもない限りは、全く以って起こりはしない。
文化的素養の乏しい未開の野蛮人あたりなら、宣教師の口先やちょっとした手品に
丸め込まれて入信させられたりすることもあるだろうが、そもそもがキリスト的
なものの霊験が実在しないほうが好ましい部類の文化習俗にドップリと漬かって
来ている人々を、聖書に書かれている通りの奇跡を神の業によって引き起こせる
わけでもないのに改宗させてやれるなんてことがあるはずがないわけで、まず
そのような既存の文化習俗への親しみを損なわせるのでもなければ、多少の
強制改宗の余地が生ずることすらもが永久にあり得ないこととなるわけである。
しかし、古来の神仏文化に基づいて精神的成熟度を高めて来た日本人こそが、
近代以降にはあっという間に機械文明の習熟度の水準ですら西洋人に追いつき、
ここ数十年の最先端科学技術の発展への貢献にかけては西洋人を凌駕するまでに
至った。量子論や相対論を始めとする現代科学理論がむしろ、キリスト教的な
世界観ではなく、東洋的な世界観や宇宙観に即すればこそ進展の余地が見られる
ものでもあったために、日本人が昔ながらの精神性を保ちながらの文明発展を
試みればこそ、西洋人には成し得なかったほどの功績を挙げられもしたのだった。
そのため、今さらその日本人にとっての伝統的な精神性を損なってまでもの
聖書信仰への改宗などを促したならば、そのせいでの世界規模での文明の衰退
すらもが危惧される事態となってしまう。キリスト的なものの霊験を肯定よりは
むしろ否定したがるような精神性こそが、もはや世界文明の発展すらをも主導して
いるのだから、むしろ西洋人を含む世界中の人間がそのような精神性のほうに倣
っていくようにしたほうが、より前進的な将来が見込まれることともなっている。
キリスト的なものの霊験をむしろ認めたがらないぐらいの精神性でいたほうが、
むしろこの世界この宇宙の構造を精確に把握できるが故の科学的、技術的発展
の余地すらもが見込める。むしろそれでこそさらなる自由の獲得すらもが期待
できるというのだから、そもそもが自由の獲得が根本目的の一つであった聖書
信仰の存在目的自体が、すでに雲散霧消してしまっているのだとすらいえる。
無論、天上での永久の命の獲得の如き、聖書信仰によってこそ叶えられるとされる
霊験が、東洋的な精神性に基づく今以上の文明発展によって可能となるわけでもない。
諸行無常や諸法実相といった仏法こそが、東洋精神を司る最たる本義でもあるわけだから、
そのレベルの成果を挙げようなどとすることからして目指されない。そのレベルの
放逸三昧を望みとしてですら絶てばこそ、この世で本当に可能となる範囲での最大級
の自由が獲得されても行くのだから、自由も現実的に追い求めるか、ただただ無制限
に追い求めるかで決定的に位相が食い違うものであることまでもが分かるわけである。
近代以降にはあっという間に機械文明の習熟度の水準ですら西洋人に追いつき、
ここ数十年の最先端科学技術の発展への貢献にかけては西洋人を凌駕するまでに
至った。量子論や相対論を始めとする現代科学理論がむしろ、キリスト教的な
世界観ではなく、東洋的な世界観や宇宙観に即すればこそ進展の余地が見られる
ものでもあったために、日本人が昔ながらの精神性を保ちながらの文明発展を
試みればこそ、西洋人には成し得なかったほどの功績を挙げられもしたのだった。
そのため、今さらその日本人にとっての伝統的な精神性を損なってまでもの
聖書信仰への改宗などを促したならば、そのせいでの世界規模での文明の衰退
すらもが危惧される事態となってしまう。キリスト的なものの霊験を肯定よりは
むしろ否定したがるような精神性こそが、もはや世界文明の発展すらをも主導して
いるのだから、むしろ西洋人を含む世界中の人間がそのような精神性のほうに倣
っていくようにしたほうが、より前進的な将来が見込まれることともなっている。
キリスト的なものの霊験をむしろ認めたがらないぐらいの精神性でいたほうが、
むしろこの世界この宇宙の構造を精確に把握できるが故の科学的、技術的発展
の余地すらもが見込める。むしろそれでこそさらなる自由の獲得すらもが期待
できるというのだから、そもそもが自由の獲得が根本目的の一つであった聖書
信仰の存在目的自体が、すでに雲散霧消してしまっているのだとすらいえる。
無論、天上での永久の命の獲得の如き、聖書信仰によってこそ叶えられるとされる
霊験が、東洋的な精神性に基づく今以上の文明発展によって可能となるわけでもない。
諸行無常や諸法実相といった仏法こそが、東洋精神を司る最たる本義でもあるわけだから、
そのレベルの成果を挙げようなどとすることからして目指されない。そのレベルの
放逸三昧を望みとしてですら絶てばこそ、この世で本当に可能となる範囲での最大級
の自由が獲得されても行くのだから、自由も現実的に追い求めるか、ただただ無制限
に追い求めるかで決定的に位相が食い違うものであることまでもが分かるわけである。
実際に霊験のあるものをあるとして、ないものをないとすれば、そこで霊験の
ある神仏に対する畏敬が備わる。それが敬うべき目上の人間への畏敬に敷衍されたり
することにもなるわけなので、むしろ神仏の霊験の有無や巧拙を厳格に判別して]
行くことこそが、礼楽統治を推進して行く上での推奨に値する姿勢ともなる。
霊験がなかったり稚拙だったりするような邪神こそを崇めたりすれば、
そのせいで信者があらゆる畏敬心を損ねて思い上がりばかりを募らせることとなり、
以て礼楽統治の妨げにすらなってしまうため、当然廃絶の対象となるほうが好ましい。
アブラハム教はおろか、仏教すらまだ伝来していなかった約2200年前の中国で、
前漢の武帝が儒学の国学化による礼楽統治の強化を試みると共に、泰山での封禅を
始めとする盛大な祭祀事業にも取り組み始めていた。その取り組みの様子が「漢書」
郊祀志などに記録されているが、そこで祀られている神はといえば、言ってみれば
「玉石混淆」なものであった。主に仏教文化の発達を通じて、宗教文化が円熟を済ませて
しまっている今の価値観に即すれば、今でも信仰に値するような神もいれば、値しない
ような神もいる。妖怪あたりとしてならまだ持て囃しようのありそうな拙劣な神すら
もがくそみそに崇められていて、そのため欒大のようなエセ方士が宗教利権の肥大化に
ことかけての専横を働いた挙げ句に誅戮されるような事件までもが起きてしまってもいる。
主に武帝の代で最盛期を迎えた前漢の祭祀事業は、帝国にとっての大きな財政的負担
となり、迷信に囚われた朝廷に代わっての軍部の台頭を引き起こす温床ともなった。
それが遂には将軍王莽による帝位の簒奪という形での前漢の崩壊すらをも招いて
しまったのだから、迷信の害悪度たるや、時に国を滅ぼす程のものであるのだと言える。
ある神仏に対する畏敬が備わる。それが敬うべき目上の人間への畏敬に敷衍されたり
することにもなるわけなので、むしろ神仏の霊験の有無や巧拙を厳格に判別して]
行くことこそが、礼楽統治を推進して行く上での推奨に値する姿勢ともなる。
霊験がなかったり稚拙だったりするような邪神こそを崇めたりすれば、
そのせいで信者があらゆる畏敬心を損ねて思い上がりばかりを募らせることとなり、
以て礼楽統治の妨げにすらなってしまうため、当然廃絶の対象となるほうが好ましい。
アブラハム教はおろか、仏教すらまだ伝来していなかった約2200年前の中国で、
前漢の武帝が儒学の国学化による礼楽統治の強化を試みると共に、泰山での封禅を
始めとする盛大な祭祀事業にも取り組み始めていた。その取り組みの様子が「漢書」
郊祀志などに記録されているが、そこで祀られている神はといえば、言ってみれば
「玉石混淆」なものであった。主に仏教文化の発達を通じて、宗教文化が円熟を済ませて
しまっている今の価値観に即すれば、今でも信仰に値するような神もいれば、値しない
ような神もいる。妖怪あたりとしてならまだ持て囃しようのありそうな拙劣な神すら
もがくそみそに崇められていて、そのため欒大のようなエセ方士が宗教利権の肥大化に
ことかけての専横を働いた挙げ句に誅戮されるような事件までもが起きてしまってもいる。
主に武帝の代で最盛期を迎えた前漢の祭祀事業は、帝国にとっての大きな財政的負担
となり、迷信に囚われた朝廷に代わっての軍部の台頭を引き起こす温床ともなった。
それが遂には将軍王莽による帝位の簒奪という形での前漢の崩壊すらをも招いて
しまったのだから、迷信の害悪度たるや、時に国を滅ぼす程のものであるのだと言える。
上に書いた通り、今ではもう、仏教文化による精査を通じて、神仏の霊験の有無や
巧拙の判別が東洋社会で済まされてしまっている。仏教自体は神格信仰ではないが、
方々の土着的な神格信仰と習合されて共に尊崇されるのと引き換えに、当地の神格信仰
を洗練させて、科学の発達と共にすら存続して行ける程もの完成度を付与して行った。
日本神道の最高神を祀る伊勢神宮すらもが、外宮の造営に真言密教の助けを借りるなど
しており、それでこそ神格としての格調をより高められてもいる。そういった神仏文化の
洗練があればこそ、武家政権が朝廷の権限を乗っ取るようなことが日本では防がれて来ても
いるわけだから、正統な神仏信仰が鎮護国家の効用を持つこともまた確かなことだといえる。
現状、仏門による神格信仰の監察を受けて来ているのはインド以東の東洋社会のみであり、
しかも、それももうとっくの昔に下火と化してしまっている。発祥地であるインドでも
すでに仏教は滅び、日本も廃仏毀釈で、中国も共産化で仏門の権威を決定的に毀損した上で
今に至っている。特に、日本と中国は資本主義や共産主義といった西洋的イデオロギーを
取り入れるために仏門を損壊せしめる必要があったわけで、この事実一つをとっても、仏教
文化と西洋文化こそは決定的に相容れないもの同士であることが自明となっているといえる。
実際、西洋文化こそは、本格の仏門による精密な監察などを受けるまでもなく、仏教的価値観
に即して非とされることが紛れもないものである。古来の聖書信仰やギリシャ学の内容からして、
すでに仏法に決定的に違背しているものばかりだし、そこから派生して来ている諸々の後代の
西洋の人文学もまた、陰に陽に仏法に逆らおうとしたものであり続けている。科学ともなれば、
仏門では「無記答」に処される純粋な概念論であるため、仏門による糾弾の対象にすらなら
ないが、やはり仏門がそうする理由である「概念は真理に当たらない」という論説に即して、
有益である程にそれ相応に有害でもある「マッチポンプの種」でばかりあり続けている。
巧拙の判別が東洋社会で済まされてしまっている。仏教自体は神格信仰ではないが、
方々の土着的な神格信仰と習合されて共に尊崇されるのと引き換えに、当地の神格信仰
を洗練させて、科学の発達と共にすら存続して行ける程もの完成度を付与して行った。
日本神道の最高神を祀る伊勢神宮すらもが、外宮の造営に真言密教の助けを借りるなど
しており、それでこそ神格としての格調をより高められてもいる。そういった神仏文化の
洗練があればこそ、武家政権が朝廷の権限を乗っ取るようなことが日本では防がれて来ても
いるわけだから、正統な神仏信仰が鎮護国家の効用を持つこともまた確かなことだといえる。
現状、仏門による神格信仰の監察を受けて来ているのはインド以東の東洋社会のみであり、
しかも、それももうとっくの昔に下火と化してしまっている。発祥地であるインドでも
すでに仏教は滅び、日本も廃仏毀釈で、中国も共産化で仏門の権威を決定的に毀損した上で
今に至っている。特に、日本と中国は資本主義や共産主義といった西洋的イデオロギーを
取り入れるために仏門を損壊せしめる必要があったわけで、この事実一つをとっても、仏教
文化と西洋文化こそは決定的に相容れないもの同士であることが自明となっているといえる。
実際、西洋文化こそは、本格の仏門による精密な監察などを受けるまでもなく、仏教的価値観
に即して非とされることが紛れもないものである。古来の聖書信仰やギリシャ学の内容からして、
すでに仏法に決定的に違背しているものばかりだし、そこから派生して来ている諸々の後代の
西洋の人文学もまた、陰に陽に仏法に逆らおうとしたものであり続けている。科学ともなれば、
仏門では「無記答」に処される純粋な概念論であるため、仏門による糾弾の対象にすらなら
ないが、やはり仏門がそうする理由である「概念は真理に当たらない」という論説に即して、
有益である程にそれ相応に有害でもある「マッチポンプの種」でばかりあり続けている。
今一度、洋の東西を問わず全世界の宗教文化文明全てが、仏法の監察下に置かれてみればよい。
それで西洋文化の致命的な問題性が看破されるのみならず、西洋文化の取り入れのせいで深刻な
文化的、社会的腐敗を来してしまっている東洋社会までもが健全化を享受できるようになる。
仏教の発祥地であるインドこそは、いま世界でも最底辺の経済水準にある上に、東洋でも西洋
でもなく、「世界の中心」とでも見なされるべき実質的な地理条件にもあるわけだから、東洋人
も西洋人も、全くの第三者的異世界からの公平な文化的精査を受けるものだと考えればよい。
西洋だけでなく、東洋でも仏教到来以前には相当な迷信がまかり通っていたことが、前漢武帝の
祭祀記録などで明らかであるわけだから、西洋人ばかりが迷信の過ちを恥じる必要もないのである。
「古えは〜墓地を請わず」
「古代には、官給の墓地などが必要とされることはなかった。
(墓地はあくまで私的なものであるため、公私混同を避けていた。
議員や総督が無名の私人の墓を作ったりそれを認めたりしていたあたり、
やはり当時のローマ帝国からして非礼の横行する土人社会だったことが確か)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
それで西洋文化の致命的な問題性が看破されるのみならず、西洋文化の取り入れのせいで深刻な
文化的、社会的腐敗を来してしまっている東洋社会までもが健全化を享受できるようになる。
仏教の発祥地であるインドこそは、いま世界でも最底辺の経済水準にある上に、東洋でも西洋
でもなく、「世界の中心」とでも見なされるべき実質的な地理条件にもあるわけだから、東洋人
も西洋人も、全くの第三者的異世界からの公平な文化的精査を受けるものだと考えればよい。
西洋だけでなく、東洋でも仏教到来以前には相当な迷信がまかり通っていたことが、前漢武帝の
祭祀記録などで明らかであるわけだから、西洋人ばかりが迷信の過ちを恥じる必要もないのである。
「古えは〜墓地を請わず」
「古代には、官給の墓地などが必要とされることはなかった。
(墓地はあくまで私的なものであるため、公私混同を避けていた。
議員や総督が無名の私人の墓を作ったりそれを認めたりしていたあたり、
やはり当時のローマ帝国からして非礼の横行する土人社会だったことが確か)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
人間社会が、集団意思の狂乱に征服されてしまった挙げ句に
騒乱状態に陥ってしまう所には、一定の条件が存在する。
・人々の無責任性が増長する程に雑多な都市社会であること。
・特に狂乱に駆られやすい女子供や小人男への身分からの抑制が疎かであること。
・人々の心の平安を司るような正統な信教が皆無ないし弱小であること。
以上のような条件が整っている所に、狂乱を煽るような何らかの情報工作が
加えられた場合に、世の中はあっという間に騒乱状態に陥ってしまう。そして最悪、
傾国や亡国級の災難を招くし、そうでなくても、自国での安住の余地を奪われた
人々が半難民として外界へと脱出しての侵略活動に及んだりすることになる。
あえてそのような事態を招かないようにするためには、
・人間社会を家単位で厳重に管理して、個人の無責任性の増長を食い止める。
・女子供や小人男への身分的抑圧による発言権の厳重な抑制を講ずる。
・人々の心の平安を司れる正統な神仏信仰を奨励する。
といった対策を講じながら、さらに反社会的勢力による情報工作での
騒擾などを厳重に取り締まって行くようにしなければならない。
講じねばならない対策があまりにも多い上に、一つ一つの対策からして極めて
難儀なものとなることが見え透いていて、なおかつそれらの対策が功を奏して平和な
世の中が確立された所で、そこでは騒擾犯たちが情報工作の一環として持て囃していた
民衆主権や行為能力の自由などが大幅に制限されて行くことにもなるのだから、生半可な
覚悟や達観でそれに取り組んで行くことなどはまず無理である。世界規模の騒乱のせいで
全世界が致命的な破滅の危機に陥っていて、なおかつそのような世の中を本気で建て直して行く
聖賢の志しが自らにもあるといった、環境と自己両面からの準備が整っているのでもなければ、
聞こえだけはいい「世直し」というものも、なかなか取り組んで行くことも覚束ないままとなる。
騒乱状態に陥ってしまう所には、一定の条件が存在する。
・人々の無責任性が増長する程に雑多な都市社会であること。
・特に狂乱に駆られやすい女子供や小人男への身分からの抑制が疎かであること。
・人々の心の平安を司るような正統な信教が皆無ないし弱小であること。
以上のような条件が整っている所に、狂乱を煽るような何らかの情報工作が
加えられた場合に、世の中はあっという間に騒乱状態に陥ってしまう。そして最悪、
傾国や亡国級の災難を招くし、そうでなくても、自国での安住の余地を奪われた
人々が半難民として外界へと脱出しての侵略活動に及んだりすることになる。
あえてそのような事態を招かないようにするためには、
・人間社会を家単位で厳重に管理して、個人の無責任性の増長を食い止める。
・女子供や小人男への身分的抑圧による発言権の厳重な抑制を講ずる。
・人々の心の平安を司れる正統な神仏信仰を奨励する。
といった対策を講じながら、さらに反社会的勢力による情報工作での
騒擾などを厳重に取り締まって行くようにしなければならない。
講じねばならない対策があまりにも多い上に、一つ一つの対策からして極めて
難儀なものとなることが見え透いていて、なおかつそれらの対策が功を奏して平和な
世の中が確立された所で、そこでは騒擾犯たちが情報工作の一環として持て囃していた
民衆主権や行為能力の自由などが大幅に制限されて行くことにもなるのだから、生半可な
覚悟や達観でそれに取り組んで行くことなどはまず無理である。世界規模の騒乱のせいで
全世界が致命的な破滅の危機に陥っていて、なおかつそのような世の中を本気で建て直して行く
聖賢の志しが自らにもあるといった、環境と自己両面からの準備が整っているのでもなければ、
聞こえだけはいい「世直し」というものも、なかなか取り組んで行くことも覚束ないままとなる。
その条件をたまたま満たせているような人間からして稀有であるものだから、
結局は世直しのために、世直しを講じて行く権力機構における封建的な秩序構造を
構築して行くことまでもが必要となる。誰しもが上記のような手順に基づく世直しを
心中からの誠意と共に講じて行けるのならそれに越したことはないが、実際の所、
それは不可能にも等しいので漢の高祖劉邦のような天運と仁徳の素養両方に恵まれた
人間を世直しのリーダーに仕立て上げての改革に臨んで行くことが便宜として必要になる。
そしてそのような封建機構が構築された結果として、その機構すら保って居られれば、
世代交代によって機構の構成者が移り変わるのであってもそれなりに平和維持機能を
保全して行くことすらもが可能ともなる。世襲で後を継いだ主君が、自らの放辟邪侈で
組織を致命的な腐敗に追いやってしまうほどの暗君ぷりを発揮するのでもない限りは、
先君の事業をただ忠実に引き継いで行くだけでも、治世を存続して行くことが可能となる。
健全な封建社会が長期の泰平を実現して行ける根拠たるや、斯くの如くであるけれども、
今の所、封建統治によって恒久平和を実現することができた王朝や幕府も存在していない。
それは、最高級の成功を克ち得た漢王朝や江戸幕府のような封建機構といえども、中国や
日本といった部分の統治を講じただけの存在であった上に、蛮族匈奴や悪徳商人や
反幕勢力の如き不穏な勢力の存続すらをも許容したままでいてしまっていたからである。
いま、全世界が総出を挙げて健全な封建機構による地球社会の平定に取り組み、後々の
不安の種となるような不穏分子の根絶にも臨んだならば、それによる恒久平和の獲得すら
もが可能となるであろう。かつての聖王賢臣や名将たちの末裔も健在であるようなら諸国の
統治のために復権して、未だかつてまともな徳治も敷かれたことのないような異界に至るまで
の平定に取り組んで行ってもらったならば、やむ無くかつての王政を途絶させられた借りも
返せる。そうして、人類という種族が存続する限りにおける恒久的な治世が確立されて行く。
結局は世直しのために、世直しを講じて行く権力機構における封建的な秩序構造を
構築して行くことまでもが必要となる。誰しもが上記のような手順に基づく世直しを
心中からの誠意と共に講じて行けるのならそれに越したことはないが、実際の所、
それは不可能にも等しいので漢の高祖劉邦のような天運と仁徳の素養両方に恵まれた
人間を世直しのリーダーに仕立て上げての改革に臨んで行くことが便宜として必要になる。
そしてそのような封建機構が構築された結果として、その機構すら保って居られれば、
世代交代によって機構の構成者が移り変わるのであってもそれなりに平和維持機能を
保全して行くことすらもが可能ともなる。世襲で後を継いだ主君が、自らの放辟邪侈で
組織を致命的な腐敗に追いやってしまうほどの暗君ぷりを発揮するのでもない限りは、
先君の事業をただ忠実に引き継いで行くだけでも、治世を存続して行くことが可能となる。
健全な封建社会が長期の泰平を実現して行ける根拠たるや、斯くの如くであるけれども、
今の所、封建統治によって恒久平和を実現することができた王朝や幕府も存在していない。
それは、最高級の成功を克ち得た漢王朝や江戸幕府のような封建機構といえども、中国や
日本といった部分の統治を講じただけの存在であった上に、蛮族匈奴や悪徳商人や
反幕勢力の如き不穏な勢力の存続すらをも許容したままでいてしまっていたからである。
いま、全世界が総出を挙げて健全な封建機構による地球社会の平定に取り組み、後々の
不安の種となるような不穏分子の根絶にも臨んだならば、それによる恒久平和の獲得すら
もが可能となるであろう。かつての聖王賢臣や名将たちの末裔も健在であるようなら諸国の
統治のために復権して、未だかつてまともな徳治も敷かれたことのないような異界に至るまで
の平定に取り組んで行ってもらったならば、やむ無くかつての王政を途絶させられた借りも
返せる。そうして、人類という種族が存続する限りにおける恒久的な治世が確立されて行く。
世界規模の騒乱が即座に核戦争での人類の滅亡に直結することとなってしまった現今において、
それはもはや地球人類にとっての、嫌でも避けようのない運命とすらなっているのである。
「墓門に棘有り、斧以て之れを斯る。夫や良からず、国人之れを知るも、
知りて已まず、誰をか昔より然らんや。墓門に梅有り、鴞有りて萃まる。
夫や良からず、歌いて以て之れに訊ぐ。訊げれども予を顧ず、顛倒して予を思いかえさん」
「墓の入り口にナツメの木が生い茂っていて、人々は平気でこの木を斧で刈り取って
持ち帰っていく。この墓に眠る人は生前に素行不良でいた。みんなそれを知っていたのに、
それでも改めようとすらしなかったものだから、昔からこのようなままであり続けている。
墓の入り口に梅の木が生えていて、悪鳥のフクロウがこの木に集い止まってる。この墓に
眠る人は生前素行不良でいた。私も歌に乗せてまで彼に忠告をしたのに、彼は私を顧みよう
ともしなかった。あの世で考え方を根本から改めることで、初めて私の忠告をも思い返す
ことだろう。(墓荒らしは故人の生前の素行の不良さを象徴する最たる現象である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・墓門)
それはもはや地球人類にとっての、嫌でも避けようのない運命とすらなっているのである。
「墓門に棘有り、斧以て之れを斯る。夫や良からず、国人之れを知るも、
知りて已まず、誰をか昔より然らんや。墓門に梅有り、鴞有りて萃まる。
夫や良からず、歌いて以て之れに訊ぐ。訊げれども予を顧ず、顛倒して予を思いかえさん」
「墓の入り口にナツメの木が生い茂っていて、人々は平気でこの木を斧で刈り取って
持ち帰っていく。この墓に眠る人は生前に素行不良でいた。みんなそれを知っていたのに、
それでも改めようとすらしなかったものだから、昔からこのようなままであり続けている。
墓の入り口に梅の木が生えていて、悪鳥のフクロウがこの木に集い止まってる。この墓に
眠る人は生前素行不良でいた。私も歌に乗せてまで彼に忠告をしたのに、彼は私を顧みよう
ともしなかった。あの世で考え方を根本から改めることで、初めて私の忠告をも思い返す
ことだろう。(墓荒らしは故人の生前の素行の不良さを象徴する最たる現象である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・陳風・墓門)

古来からの女の「生業」を除いた場合の話である。女が独立的に金銭を得る「稼業」の内で最古級に
当たるのが娼婦であるだけで、これは「世界最古の男の職業は庭師」などという主張についても
全く同じことが言える。(より古くからの男の生業には、狩猟や農耕や為政者などがある)
娼婦にしろ庭師にしろ、大した職業ではない。どちらもこの世に欠くべからざる職業などではないし、
特に娼婦は奴隷とも並ぶ最低級の賤業として、ひっきりなしの規制の対象となりながら辛うじて存続を
黙認されるような扱いばかりを受けて来ている。そのような賤業中の賤業こそは、金融経済の発達した
都市社会で女が初めて手を出し始めた稼業であるらしいという事情からも、金融経済がいかに不必要で
粗悪な稼業の自由ばかりをこの世にもたらして来たのかまでもが知れるのである。
その、金融経済を国家規模や国際規模での本是として、元来カネで取り回すべきでもないようなものまで
全てカネで取り回すようにしてしまったのが資本主義社会であるわけだから、その奇形的な試みに即して
当然、世の中も大荒廃の様相を呈することとなった。食糧までもが資本家による寡占や投機の対象となる
ことで自然には起こらないレベルの大飢饉を招き、物作りまでもが資本家の指先一つで右往左往
させられることによる産業の空洞化という問題をも来して、資本主義先進国の雇用情勢の悪化
などという本末転倒の事態までをももたらたすこととなってしまった。
娼婦のような賤しい稼業が、多くの規制を受けながら辛うじて存続して行く程度のものとして、
金融経済が部分的に黙認される程度のことがあった所で、江戸時代の日本のような一定度の安定が
得られたりもするわけだから、決して共産化によって金融経済を滅ぼし尽くしたりまでする必要もない。
(共産化は共産化で、大規模な都市社会には不相応なほどに過剰な潔癖主義の強制となってしまう)
ただ、できることなら関与を避けるべきもの、社会的信用や品位も最低級なものとして金融経済や娼婦
が扱われさえすればそれでいいだけなのだから、むしろそうするほうが常識に適ってすらいるといえる。

国際社会を大荒廃へと陥れてしまったのだから、その張本人である連中もむしろ、進んで金融経済の
大破綻こそを甘受すべきである。それにより金融経済の信用性を根底まで突き落として、この世に
元来不必要な賤業としての相応な扱いを受けて行くようにすべきなのである。それでこそ、元来から
無責任な立場である金融経済の元締めとしての、分相応な責任が取られることになるといえる。
「娼婦と金融業者の口先ほど信用のならないものはない」と、誰しもがわきまえるようになったならば、
それだけで今の世の中の全ての致命的問題も解消されて行くに違いない。ただ、そこに至るまでの道程に
おいて、あまりにも多くの虚構の信用がWTCのようにして崩壊して行く必要があるわけで、その崩壊から
なる絶望にうちひしがれて行くことを受け入れなければならないことが、大いなる苦難となるわけである。
「昬姻を懐うは、大いに信無し、命を知らず(既出)」
「男女の交わりばかりに専らな淫奔者に信用はない。そのような人間は天命も知らないから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・蝃蝀より)
「今商王受、〜姦回を崇信す。〜爾じ其れ孜孜として、予れ一人を奉じ、恭しみて天の罰を行え(一部既出)」
「いま殷の紂王は、姦邪の徒こそを信じ崇め立てての暴虐を働いている。汝ら臣下は懇親を込めて、
我れ(武王)一人の責任の下に、慎んで奴らへの天罰を実行に移すがよい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)
「其の為さざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲することなかれ。此の如きのみ(既出)」
「してはいけないことはしない、欲してはならないことは欲しない。君子の道はただそれだけのことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一七より)
孟子の言う「してはいけないこと」とは、もちろん善悪で言う所の「悪」である。
勧善懲悪(左伝)を至上命題に掲げる儒家の正統な後継者として、孟子も悪を為さないことを
本是としつつの遊説活動に臨んでいた(その結果として、罪悪まみれの世に受け入れられなかった)。
では、その悪とは何なのかといえば、それは「権力犯罪」である。大権力者が無責任で濁欲まみれな
妄動に及んだ挙げ句の社会荒廃こそを悪の最たるものと見なしていたからこそ、孔子や孟子も
厳重な修身と共なる公権力者としての活動を自他に促していたのである。
権力犯罪こそを悪の最たるものと見なすことは、善とか悪とかいった言葉の定義に
即して自明なこととなる。言葉というもの自体、人間同士が社会活動を営んで行くための
意思疎通の道具として編み出されたものであるわけだから、その言葉が「悪」という言葉に
よって指し示さねばならないものもまた、社会を一概に毀損するものでなければならぬ。
そして、この世に最大級の害悪を及ぼす現象といえば、それは民間犯罪でもなければ
自然災害でもなく、権力犯罪でこそあるわけだから、権力犯罪こそは、悪という言葉に
よって指し示されねばならない最も純然たる現象であるということになるわけである。
では、権力犯罪の中でも最も凶悪なものは何かといえば、それは「政商」である。
儒学がそれなりに通用していた頃の中国や日本においては、士農工商の身分秩序なども
それなりに行き届いていたものだから、権力にものを言わせる商売人などというもの自体からして
あまり生じ得なかった。そのため儒家教学上で政商が問題視されているようなこともあまりないが、
古くは「書経」における桀王や紂王の暴虐の記録内にも政商的な鼠賊の暗躍が垣間見られるし、
中国史上最悪級の暗黒帝国であった秦帝国も政商呂不韋の暗躍によって築かれ、中国史上
最良級の文化大国であった大唐帝国も塩の闇商人の政商然とした暗躍によって滅ぼされている。
「してはいけないことはしない、欲してはならないことは欲しない。君子の道はただそれだけのことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一七より)
孟子の言う「してはいけないこと」とは、もちろん善悪で言う所の「悪」である。
勧善懲悪(左伝)を至上命題に掲げる儒家の正統な後継者として、孟子も悪を為さないことを
本是としつつの遊説活動に臨んでいた(その結果として、罪悪まみれの世に受け入れられなかった)。
では、その悪とは何なのかといえば、それは「権力犯罪」である。大権力者が無責任で濁欲まみれな
妄動に及んだ挙げ句の社会荒廃こそを悪の最たるものと見なしていたからこそ、孔子や孟子も
厳重な修身と共なる公権力者としての活動を自他に促していたのである。
権力犯罪こそを悪の最たるものと見なすことは、善とか悪とかいった言葉の定義に
即して自明なこととなる。言葉というもの自体、人間同士が社会活動を営んで行くための
意思疎通の道具として編み出されたものであるわけだから、その言葉が「悪」という言葉に
よって指し示さねばならないものもまた、社会を一概に毀損するものでなければならぬ。
そして、この世に最大級の害悪を及ぼす現象といえば、それは民間犯罪でもなければ
自然災害でもなく、権力犯罪でこそあるわけだから、権力犯罪こそは、悪という言葉に
よって指し示されねばならない最も純然たる現象であるということになるわけである。
では、権力犯罪の中でも最も凶悪なものは何かといえば、それは「政商」である。
儒学がそれなりに通用していた頃の中国や日本においては、士農工商の身分秩序なども
それなりに行き届いていたものだから、権力にものを言わせる商売人などというもの自体からして
あまり生じ得なかった。そのため儒家教学上で政商が問題視されているようなこともあまりないが、
古くは「書経」における桀王や紂王の暴虐の記録内にも政商的な鼠賊の暗躍が垣間見られるし、
中国史上最悪級の暗黒帝国であった秦帝国も政商呂不韋の暗躍によって築かれ、中国史上
最良級の文化大国であった大唐帝国も塩の闇商人の政商然とした暗躍によって滅ぼされている。
北宋以降の中華帝国に至っては、権力者が政商からの賄賂で懐柔されるのがデフォルトと
化してしまったために、もはやろくに政商行為を糾弾するような論調からして見られない。
(辛うじて「呻吟語」などに権力腐敗を嘆くような論調が垣間見られる)勧善懲悪を旨とする
儒家といえども、あまりにも凶悪すぎて捕捉しきれないままであり続けて来たのが政商だとも
言えるわけで、この世における究極悪たる政商への警戒を怠り気味であり続けた挙げ句に、政商行為
の完全な開き直りである資本主義の覇権までをも招いてしまったことは、これまでの儒者にとっての
落ち度だったともいえるので、これからは改めて用心を心がけて行くようにしなければならない。
元来、「商」とは小売業のような最底辺の商売を除く経営業のことであって、
小売業は小売業で「賈」という言葉でまた別に定義されていた。そのような元来の意味に即した
「商」は、儒学も武芸も嗜んでいないような文民の公務員と事務処理面などであまり大した
差異が見られないために、両者が癒着することにもさしたる障害が伴うようなことがない。
そのため、儒学も武芸も存在しない西洋社会などにおいては、政商行為が完全な野放しのままで
あり続けて来た。旧約聖書への信仰の下で政商活動を試みるユダヤ教徒などに対する警戒は
それなりに行われて来たが、そもそもが「政商」という行為自体が言語構造上からの究極悪
として警戒対象となることは皆無のままであり続けて来た。そのため、ユダヤ教徒が
自分たちの政商活動を捗らせるための悪巧方便として拵えたキリスト教などを総出で
信じたりもしてしまったわけで、これはさすがに、儒学に相当するような権力道徳学が
ほんの少しでも認知されてすらいれば、決して起こり得なかった大失態だったといえる。
化してしまったために、もはやろくに政商行為を糾弾するような論調からして見られない。
(辛うじて「呻吟語」などに権力腐敗を嘆くような論調が垣間見られる)勧善懲悪を旨とする
儒家といえども、あまりにも凶悪すぎて捕捉しきれないままであり続けて来たのが政商だとも
言えるわけで、この世における究極悪たる政商への警戒を怠り気味であり続けた挙げ句に、政商行為
の完全な開き直りである資本主義の覇権までをも招いてしまったことは、これまでの儒者にとっての
落ち度だったともいえるので、これからは改めて用心を心がけて行くようにしなければならない。
元来、「商」とは小売業のような最底辺の商売を除く経営業のことであって、
小売業は小売業で「賈」という言葉でまた別に定義されていた。そのような元来の意味に即した
「商」は、儒学も武芸も嗜んでいないような文民の公務員と事務処理面などであまり大した
差異が見られないために、両者が癒着することにもさしたる障害が伴うようなことがない。
そのため、儒学も武芸も存在しない西洋社会などにおいては、政商行為が完全な野放しのままで
あり続けて来た。旧約聖書への信仰の下で政商活動を試みるユダヤ教徒などに対する警戒は
それなりに行われて来たが、そもそもが「政商」という行為自体が言語構造上からの究極悪
として警戒対象となることは皆無のままであり続けて来た。そのため、ユダヤ教徒が
自分たちの政商活動を捗らせるための悪巧方便として拵えたキリスト教などを総出で
信じたりもしてしまったわけで、これはさすがに、儒学に相当するような権力道徳学が
ほんの少しでも認知されてすらいれば、決して起こり得なかった大失態だったといえる。
人間社会と、人間が用いるものとしての言語とが、その原理的な構造に即して
「究極悪」と定義せざるを得ない政商という行為や人員の残存を決して許さないこと、
それが正しい名辞に即した勧善懲悪を志す儒家にとっての本分となる。儒家の祖である
孔子や孟子自身が政商を直接的な糾弾の対象としていたわけではないが(孔子が弟子の
子貢の投機活動を卑しんでいた程度の記録はある)、結局の所そうであることが、儒家の
教理と政商による歴史的な惨暴の数々とを鑑みることで論理的に導き出すことができる。
この世における勧善懲悪を志すからには、究極悪たる政商の活動を推進する聖書信仰や
洋学の如き邪教邪学の根絶や制圧も必須となる。それらが当たり前のように市民権を得て
しまっている現代においてはなかなか信じがたいことではあるだろうが、それらを討伐する
ことこそは確かに、言語というものの根本的な構造に根ざした「勧善懲悪」となる。それは、
人間社会においてそれなりに通用するものとしての言語を構築して来たことには変わりない
アルファベット圏である西洋社会などにおいても、全く共通していることなのである。
「刑の濫りならざるは、君の明なり。臣の願いなり。淫刑して以て逞しくせんとせば、誰か則ち罪無からん」
「刑罰が妄りでないことは、賢君の聡明さの現れであると共に、能臣たちの願うところである。
妄りな刑罰で何かを正そうとすれば、罪のない人間などもいなくなってしまうだろう。
(イエスの磔刑のような妄りな冤罪劇によって一切皆罪の無法状態が招かれ
たりしないようにすることこそは、真に願われるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十三年より)
「究極悪」と定義せざるを得ない政商という行為や人員の残存を決して許さないこと、
それが正しい名辞に即した勧善懲悪を志す儒家にとっての本分となる。儒家の祖である
孔子や孟子自身が政商を直接的な糾弾の対象としていたわけではないが(孔子が弟子の
子貢の投機活動を卑しんでいた程度の記録はある)、結局の所そうであることが、儒家の
教理と政商による歴史的な惨暴の数々とを鑑みることで論理的に導き出すことができる。
この世における勧善懲悪を志すからには、究極悪たる政商の活動を推進する聖書信仰や
洋学の如き邪教邪学の根絶や制圧も必須となる。それらが当たり前のように市民権を得て
しまっている現代においてはなかなか信じがたいことではあるだろうが、それらを討伐する
ことこそは確かに、言語というものの根本的な構造に根ざした「勧善懲悪」となる。それは、
人間社会においてそれなりに通用するものとしての言語を構築して来たことには変わりない
アルファベット圏である西洋社会などにおいても、全く共通していることなのである。
「刑の濫りならざるは、君の明なり。臣の願いなり。淫刑して以て逞しくせんとせば、誰か則ち罪無からん」
「刑罰が妄りでないことは、賢君の聡明さの現れであると共に、能臣たちの願うところである。
妄りな刑罰で何かを正そうとすれば、罪のない人間などもいなくなってしまうだろう。
(イエスの磔刑のような妄りな冤罪劇によって一切皆罪の無法状態が招かれ
たりしないようにすることこそは、真に願われるべきことなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十三年より)
[YouTubeで再生]
・歩行時に大手を振ってバランスを取りながら歩く→ゴリラやチンパンジーもやっている。
・背筋をよく伸ばして胸を張る→自立時のチンパンジーがやっている。
・相手の目を見て付き合う→ゴリラがやっている。
・挨拶時にお互いの急所(手、陰部など)をこすり付けあう→ボノボがやっている。
今では日本人などもやらされていることの多い、上のような西洋特有の習慣こそは、
実はサルもやっている。昔の日本人はさにあらずで、むしろ西洋の習慣を
取り入れてしまったせいで文化的な退化の様相を来たしてしまった。実際に
そのせいで、足腰の弱体化や注意力の欠如などの問題を来たすことともなった。
「何もかも西洋が一番優れている」などと考えるのはさすがに誤りであることが、
洋の東西を問わぬ世界中の人々にいい加減考え直されて来ているが、実は西洋こそは、
人間自身の身のこなしのような最も根本的な部分でサルにも等しい未開さ加減のままで
あり続けているという所にまでは、まださすがに配慮が足りないままであることが多い。
それは、信者の知能をサル以下にまで引き下げる聖書信仰などを自分たちの文化発展の
取っ掛かりにしてしまったことからも避けられないことであった。始めに多いなる過ちを
犯してしまっているものだから、後付けでどこまで埋め合わせを試みても、どうしたって
根本の部分で決まりが付かないままであり続ける。そのような「王様は裸」状態での過ち
と埋め合わせのマッチポンプの悪循環がどこまで行けるのかを試みるのが、世界が無法
状態のままで在り続けた限りにおける、西洋人に課せられた運命であったのに違いない。
サルがごく少数の村社会を形成することしかできないように、「サル以下教」たる
聖書信仰の呪縛に囚われたままでいる西洋人もまた、村社会以上に大規模な社会を健全に
運営して行ったりすることができない。今の欧米社会がそれなりに安定的であるように
見えるのも、聖書信仰の深刻化をそれなりに自粛していると共に、大航海時代以降に
世界中から奪い取った既得権益でどうにか蒙昧な市民たちを食わせてやって行ってるから
なわけで、そうでもない限りにおいては確かに、聖書信者こそは「万人の万人に対する
闘争状態」を自分たちの間で講じ続けることしかできないままで在り続けるのである。

・背筋をよく伸ばして胸を張る→自立時のチンパンジーがやっている。
・相手の目を見て付き合う→ゴリラがやっている。
・挨拶時にお互いの急所(手、陰部など)をこすり付けあう→ボノボがやっている。
今では日本人などもやらされていることの多い、上のような西洋特有の習慣こそは、
実はサルもやっている。昔の日本人はさにあらずで、むしろ西洋の習慣を
取り入れてしまったせいで文化的な退化の様相を来たしてしまった。実際に
そのせいで、足腰の弱体化や注意力の欠如などの問題を来たすことともなった。
「何もかも西洋が一番優れている」などと考えるのはさすがに誤りであることが、
洋の東西を問わぬ世界中の人々にいい加減考え直されて来ているが、実は西洋こそは、
人間自身の身のこなしのような最も根本的な部分でサルにも等しい未開さ加減のままで
あり続けているという所にまでは、まださすがに配慮が足りないままであることが多い。
それは、信者の知能をサル以下にまで引き下げる聖書信仰などを自分たちの文化発展の
取っ掛かりにしてしまったことからも避けられないことであった。始めに多いなる過ちを
犯してしまっているものだから、後付けでどこまで埋め合わせを試みても、どうしたって
根本の部分で決まりが付かないままであり続ける。そのような「王様は裸」状態での過ち
と埋め合わせのマッチポンプの悪循環がどこまで行けるのかを試みるのが、世界が無法
状態のままで在り続けた限りにおける、西洋人に課せられた運命であったのに違いない。
サルがごく少数の村社会を形成することしかできないように、「サル以下教」たる
聖書信仰の呪縛に囚われたままでいる西洋人もまた、村社会以上に大規模な社会を健全に
運営して行ったりすることができない。今の欧米社会がそれなりに安定的であるように
見えるのも、聖書信仰の深刻化をそれなりに自粛していると共に、大航海時代以降に
世界中から奪い取った既得権益でどうにか蒙昧な市民たちを食わせてやって行ってるから
なわけで、そうでもない限りにおいては確かに、聖書信者こそは「万人の万人に対する
闘争状態」を自分たちの間で講じ続けることしかできないままで在り続けるのである。
都市社会を全くの自力だけで営んで行けるだけの素養が聖書圏以外の人間にはある一方で、
聖書圏の人間にはない。古来から極度の内乱や外界の侵略を繰り返し続けることだけで
何とか保たれて来た聖書圏こそは最も危うい人間社会であり、まず地球上の人類社会の内で
どこかが真っ先に壊滅の憂き目に合わせられることがあるとすれば、それも聖書圏でしか
あり得ない。現状ではもはや、聖書圏の核兵器が全人類を滅ぼし尽くすまでもの威力を
帯びてしまっているものだから、滅亡するとすれば全人類が一緒に滅亡することとなる
可能性のほうがたかいわけだが、そうならない限りにおいてはやはり、致命的な狂乱の
種を抱えた聖書圏こそが、経済破綻などの形での早急な壊滅に陥ることが免れられない。
サルレベルの精神構造や文化習俗しか持たない人間集団が、見てくれだけ真人間を装っての
社会運営などを試みたりしたこと自体、始めから無理の押し通しだったのであり、それが
2000年もの長きにわたって持ち応えてきたことのほうがむしろ奇跡だといえる。いま聖書信仰
に陥ってしまっている人々も、決してサル未満の知能でしかいられない先天的な精神障害では
ないわけだから、そうでい続けることからなる精神薄弱の酩酊から目を覚まして行くのであれば、
それでやり直して行くこともできなくはないはずである。聖書信仰こそが自分たちの精神的な
拠り所であり続けて来たのにも違いないが、むしろサル以下の知能を持て囃すような悪習を拠り
所として来たことこそを恥じて、いい加減に蛮族の群れであることから卒業すべきだといえる。
聖書圏の人間にはない。古来から極度の内乱や外界の侵略を繰り返し続けることだけで
何とか保たれて来た聖書圏こそは最も危うい人間社会であり、まず地球上の人類社会の内で
どこかが真っ先に壊滅の憂き目に合わせられることがあるとすれば、それも聖書圏でしか
あり得ない。現状ではもはや、聖書圏の核兵器が全人類を滅ぼし尽くすまでもの威力を
帯びてしまっているものだから、滅亡するとすれば全人類が一緒に滅亡することとなる
可能性のほうがたかいわけだが、そうならない限りにおいてはやはり、致命的な狂乱の
種を抱えた聖書圏こそが、経済破綻などの形での早急な壊滅に陥ることが免れられない。
サルレベルの精神構造や文化習俗しか持たない人間集団が、見てくれだけ真人間を装っての
社会運営などを試みたりしたこと自体、始めから無理の押し通しだったのであり、それが
2000年もの長きにわたって持ち応えてきたことのほうがむしろ奇跡だといえる。いま聖書信仰
に陥ってしまっている人々も、決してサル未満の知能でしかいられない先天的な精神障害では
ないわけだから、そうでい続けることからなる精神薄弱の酩酊から目を覚まして行くのであれば、
それでやり直して行くこともできなくはないはずである。聖書信仰こそが自分たちの精神的な
拠り所であり続けて来たのにも違いないが、むしろサル以下の知能を持て囃すような悪習を拠り
所として来たことこそを恥じて、いい加減に蛮族の群れであることから卒業すべきだといえる。
「天乃ち王に勇智を錫い、万邦に表正し、禹の旧服を纘がしむ。
茲に厥の典に率いて、天命を奉け若う。夏王罪有り、上天を矯り誣いて、
以て命を下に布く。帝用て臧みせず、商を式て命を受けしめ、用て厥の師を爽らかにす」
「天も我が君(湯王)に勇知を賜り、万邦を正して禹王の帝業を継承されました。
そのため君も正しき法に基づく統治を敷く形で、天命に基づく革命をも実行に移されたのです。
夏の桀王には大いなる罪がありました。天の意向を騙って、人々を虐待することこそを
命として天下全土に敷こうとしました。天帝も決してこれをよしとせず、殷に天命を授け替える
こととし、人々の従うべき相手が誰であるのかを新たに示されたのです。(民を虐待する
ことを天命の内に組み込むなど、明らかに天を騙る詐欺師の所業である。そんな悪党が、
イエスが生まれる1500年以上も前に「はりつけ王〈桀王〉」という名ですでにいたのでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
茲に厥の典に率いて、天命を奉け若う。夏王罪有り、上天を矯り誣いて、
以て命を下に布く。帝用て臧みせず、商を式て命を受けしめ、用て厥の師を爽らかにす」
「天も我が君(湯王)に勇知を賜り、万邦を正して禹王の帝業を継承されました。
そのため君も正しき法に基づく統治を敷く形で、天命に基づく革命をも実行に移されたのです。
夏の桀王には大いなる罪がありました。天の意向を騙って、人々を虐待することこそを
命として天下全土に敷こうとしました。天帝も決してこれをよしとせず、殷に天命を授け替える
こととし、人々の従うべき相手が誰であるのかを新たに示されたのです。(民を虐待する
ことを天命の内に組み込むなど、明らかに天を騙る詐欺師の所業である。そんな悪党が、
イエスが生まれる1500年以上も前に「はりつけ王〈桀王〉」という名ですでにいたのでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
「心」というものの根本からの矯正なり鍛錬なりといったものを、東洋人は昔から心がけてきたが、
西洋人はそれこそを忌み嫌って来た。心がグニャグニャで何ら評価するに値しないような小人が
そのままで外見や言行だけはそれなりに見れたものとなったり、災難に遭っても救われたりする
ことこそを好き好んで追い求めて来た。その結果が、悪いものを全て外界に押し付けた挙げ句の
全世界規模での破滅の危機の招来であったわけで、心という部分から正されて行くのでなければ、
大局からの改善なり向上なりが見込めることも決してない、最たる実証例になっているといえる。
心が何者からの侵害も受けず、また自力での矯正を心がけたりする必要もない、それこそは「自由」
であるともしてきた。禅僧が精神修養によって心の自由を獲得しようとしたりするのとは全く逆の
意味での心の自由を西洋人は欲して来たわけで、その結果としてサルを始めとする禽獣ともさして
変わりないほどに不具まみれの駄心ばかりが呈されることとなった。それはたとえば、勉強によって
知能を高めたり、スポーツや軍事教練によって体力を付けたりしているような人間であっても変わり
ないわけで、だからこそそのような素養を自分個人の経済的成功のためにしか用いようともしない。
自らの能力を我田引水目的でしか活用しないことが大局からの経済破綻を招くことにまで誰も配慮が
行き届かないままで在り続けて来たのも、自分たちが精神の不具を抱え続けてきたからに他ならぬ。
サルを含む禽獣が吠え掛かったりしてくるようにして、心がグニャグニャな小人もキレることぐらい
はできる。それで自らの心への干渉を防ごうとしたりもできるわけで、西洋人が「神の怒り」などと
呼んでいるものの正体もまさにこの部類の情動失禁に他ならない。もちろんそれが精神の強さなどから
派生しているわけでもなく、弱さゆえのその場しのぎの火病の発症に過ぎないわけだから、それによって
グニャグニャな心が守られるようなことなどがなるべくあるべきではないし、そのような自己防衛本能
の発露などをカルト宗教やエセ文学などによって正当化したりすることもないようにしたほうがよい。
西洋人はそれこそを忌み嫌って来た。心がグニャグニャで何ら評価するに値しないような小人が
そのままで外見や言行だけはそれなりに見れたものとなったり、災難に遭っても救われたりする
ことこそを好き好んで追い求めて来た。その結果が、悪いものを全て外界に押し付けた挙げ句の
全世界規模での破滅の危機の招来であったわけで、心という部分から正されて行くのでなければ、
大局からの改善なり向上なりが見込めることも決してない、最たる実証例になっているといえる。
心が何者からの侵害も受けず、また自力での矯正を心がけたりする必要もない、それこそは「自由」
であるともしてきた。禅僧が精神修養によって心の自由を獲得しようとしたりするのとは全く逆の
意味での心の自由を西洋人は欲して来たわけで、その結果としてサルを始めとする禽獣ともさして
変わりないほどに不具まみれの駄心ばかりが呈されることとなった。それはたとえば、勉強によって
知能を高めたり、スポーツや軍事教練によって体力を付けたりしているような人間であっても変わり
ないわけで、だからこそそのような素養を自分個人の経済的成功のためにしか用いようともしない。
自らの能力を我田引水目的でしか活用しないことが大局からの経済破綻を招くことにまで誰も配慮が
行き届かないままで在り続けて来たのも、自分たちが精神の不具を抱え続けてきたからに他ならぬ。
サルを含む禽獣が吠え掛かったりしてくるようにして、心がグニャグニャな小人もキレることぐらい
はできる。それで自らの心への干渉を防ごうとしたりもできるわけで、西洋人が「神の怒り」などと
呼んでいるものの正体もまさにこの部類の情動失禁に他ならない。もちろんそれが精神の強さなどから
派生しているわけでもなく、弱さゆえのその場しのぎの火病の発症に過ぎないわけだから、それによって
グニャグニャな心が守られるようなことなどがなるべくあるべきではないし、そのような自己防衛本能
の発露などをカルト宗教やエセ文学などによって正当化したりすることもないようにしたほうがよい。
ただ、全く心の修錬などを志す気もないような人間が、何らの防備もなくただただ心を痛め付けられる
ような仕打ちばかりを加えられたりしたならば、そのせいでPTSDなどと呼ばれる精神疾患に見舞われたり
することにもなりかねないわけだから、人の心への干渉などはあくまで、本人のより一層の精神の健全化
が見込める場合などに限られるべきだし、それとて干渉を受ける側が全く望みもしないというのであれば、
本人が懲罰を加えられるべき罪人でもない限りは、なるべく控えてやるようにすべきだといえる。
最大級に心の修練が奨励されているような世の中といえども、商売人などの中には、心の修錬を始めから
心がけようともしないでいるような人間がそれなりに残存し得る。職務上からいってそんな心がけなど
ないほうが好ましく、犬のように顧客に媚びへつらっていたほうが都合が良かったりするものだから、
そうであり続ける。それはそれで一つの都市社会に住む人間の生き方であるとして存在性ぐらいは認めて、
ただ決して奨励までされるに値はしないような人間の生き方であるという認知を徹底して行くようにする。
いつもの中庸論法ではあるが、必要悪程度の心の無修錬ぐらいは是認されて、不必要悪ですらあるような
心の無修錬の正当化や権威付けだけは廃絶して行くようにすべきである。商売人の駄心ぐらいは認めても、
その駄心をカルト教義などによって守ってやったりするようなことまでは認められるべきでない。この手
の微妙な匙加減を必要とされる統治作業を滞りなく行えるのも君子だけであり、その君子こそは世界でも
最上級の心の修錬を強いられるものでもある。まず自らが過酷な修錬に臨んで行こうとする有志がこの世に
現れるのでなければ、そのような事業を片鱗ほども実行に移せるようなこともないままであり続けるのである。
「共倹以て礼行われ、慈恵以て政を布く。礼以って政成り、民是れを以て息う」
「恭倹さによって礼儀が行われ、慈しみと恵みによって政治が敷かれて行く。
礼儀によってのみ政治も成就し、それによって民たちも安らいで行くようになる。
(治める側が慈しみ深いだけでなく、治められる側もまた相応に礼節を守るのでなければ統治も成功しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十二年より)
ような仕打ちばかりを加えられたりしたならば、そのせいでPTSDなどと呼ばれる精神疾患に見舞われたり
することにもなりかねないわけだから、人の心への干渉などはあくまで、本人のより一層の精神の健全化
が見込める場合などに限られるべきだし、それとて干渉を受ける側が全く望みもしないというのであれば、
本人が懲罰を加えられるべき罪人でもない限りは、なるべく控えてやるようにすべきだといえる。
最大級に心の修練が奨励されているような世の中といえども、商売人などの中には、心の修錬を始めから
心がけようともしないでいるような人間がそれなりに残存し得る。職務上からいってそんな心がけなど
ないほうが好ましく、犬のように顧客に媚びへつらっていたほうが都合が良かったりするものだから、
そうであり続ける。それはそれで一つの都市社会に住む人間の生き方であるとして存在性ぐらいは認めて、
ただ決して奨励までされるに値はしないような人間の生き方であるという認知を徹底して行くようにする。
いつもの中庸論法ではあるが、必要悪程度の心の無修錬ぐらいは是認されて、不必要悪ですらあるような
心の無修錬の正当化や権威付けだけは廃絶して行くようにすべきである。商売人の駄心ぐらいは認めても、
その駄心をカルト教義などによって守ってやったりするようなことまでは認められるべきでない。この手
の微妙な匙加減を必要とされる統治作業を滞りなく行えるのも君子だけであり、その君子こそは世界でも
最上級の心の修錬を強いられるものでもある。まず自らが過酷な修錬に臨んで行こうとする有志がこの世に
現れるのでなければ、そのような事業を片鱗ほども実行に移せるようなこともないままであり続けるのである。
「共倹以て礼行われ、慈恵以て政を布く。礼以って政成り、民是れを以て息う」
「恭倹さによって礼儀が行われ、慈しみと恵みによって政治が敷かれて行く。
礼儀によってのみ政治も成就し、それによって民たちも安らいで行くようになる。
(治める側が慈しみ深いだけでなく、治められる側もまた相応に礼節を守るのでなければ統治も成功しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十二年より)
▲ページ最上部
ログサイズ:522 KB 有効レス数:231 削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
思想・哲学掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
スレッドタイトル:聖書 Part13