サイズが 480KB を超えています。500KB を超えると書きこめなくなるよ。

聖書 Part12


▼ページ最下部
001 2013/08/19(月) 13:19:08 ID:TB4y1qACAM
この地球人類社会において、自明なまでに「第一の聖書」としての
地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。

「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。

ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。

四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

返信する

002 2013/08/19(月) 13:23:47 ID:TB4y1qACAM
聖書信仰に司どられて来た「西洋2000年のペテンの歴史」は、
儒法に司られて来た「中国4000年の農産奨励の歴史」に脆くも敗れ去る。
いくら王朝が断絶されているとはいえ、4000年の長きに渡って農を尊び商を戒めて来たこと
からなる国力の増強そのものは保たれ続けて、今に至ってのマンパワーでの圧倒ともなっている。

ただ中国も、何もかもをペテンで塗り固めて来た西洋ぐらいには勝てるというだけのことで、
自分たちは自分たちでこれまた深刻な問題を抱え続けている。それが、ここ2783年に渡る
「質よりも量の過度の優先」という問題である。周による治世が決定的に衰えた春秋時代以降、
中国は専ら物的な威力ばかりを蓄えて行くことに邁進し続けて、夏殷周三代の上質な為政を本格的
に復活させることまでは疎かにして来た。周代以降にそれなりに良質な治世を確立していた漢や唐や
南宋といった王朝といえども、すでに相当に低下させられてしまっている中国人民の民度に合わせて、
太古の時代の習俗を完全に復活させることは見送って、当世の習俗こそを興隆させていたのだった。
(「漢書」礼楽志や郊祀志などにも、周代以前の礼法や祭祀の復元を見送った記録がある)

そのようなままでは結局、力で力を圧倒する、聖書圏や蒙古帝国などとも五十歩百歩な存在のまま
でしかいられない。だからこそ、またしもの報復による倒壊すらもが避けられるものではない。

量だけでなく、質の面でも、人類史上最良質の部類にあたる文化文明に立ち戻ることで初めて、
総力戦が終了して後のこの世界が、千年を超えるような泰平や繁栄に与れることもまた見込まれる。
そのためには、殷代や周代の中国文明すらをも、中国本国以上に色濃く受け継いでいる日本の習俗
などをも参考にすべきである。殷の名臣箕子が「洪範九疇」のような為政の秘訣を元手に古代朝鮮で
育んでいた民度の高さなども、もはやこの日本ぐらいにしか保全されていないわけだから、そこは
中国人といえども「より長寿なものに謙る」姿勢で以って見習っていかねばならない部分となっている。
そしてそれはそれで、洪範九疇も収録されている四書五経の秘奥の部分に倣うことともなるのである。

返信する

003 2013/08/19(月) 14:12:33 ID:RZnT1J/MIE:au
「闕党の童子、命を将う。或るひと之を問うて曰く、益者かと。
子曰く、吾れ其の位に居るを見る。其の先生と並び行くを見る。益者に非ざるなり、速やかに成らんと欲する者なり(既出)」
「闕という村の少年が客の取次ぎをしていた。ある人がその姿を見て問うた。『あれは進歩を目指しているものでしょうか』
孔先生は答えた。『私はあれが大人同士の席で真ん中に座っているのを見ましたし、先生先輩と肩を並べて歩いているのも見ました。
着実な進歩を目指しているのではなく、ただ早く大人になりたいというだけの者です』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四六より)

自分たちではろくに農産にも励まないくせに、人の先ばかりを行こうとして、
不相応にも他者に恵もうなどとしていた古代のイスラエル人やローマ人はさしずめ、
上の童子の如き存在であろう。ただでさえ未熟なくせに、今以上に成長する気もない。

「喪事は進むこと有りて退くこと無し」
「弔事は(冥土へと)進むことはあっても(この世へと)退くことはないのが主旨である」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)

白人と黒人は、ただただ先へ先へと進みたがる傾向がある一方で、
黄色人種やインド人などは、「進退」に節度を持たせることを重んじたがる。
どちらのほうがより生き急いでいるのかといえば、それは前者のほうなのだ。
実際に、白人と黒人が主体を占めた聖書圏こそは、文化圏として生き急ぐことともなった。

「立春の日、天子は親ら三公、九卿、諸侯、大夫を師いて、以って春を東郊に迎う。還反りて公卿、諸侯、大夫を朝に
於いて賞し、相に命じて徳を布き令を和らげ、慶を行い恵を施し、下は兆民に及ぶ。慶賜遂行して当たらざること毋からしむ」
「立春の日、天子は自ら公卿諸侯大夫を率いて、東郊で春を迎える。帰還すれば公卿諸侯大夫を朝廷で賞し、大尽に命じて
徳治を敷き法令を和らげ、慶事を行って恵みを施し、その功徳は下々の万民にまで及ぶ。慶賜が一人として外れないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六)

君臣候公大夫が足並みを揃えての徳治によってこそ、万人にも恵みが施される。
自分ばかりがさっさと進みたがるような小僧然とした有り方では、到底不可能なことだ。

返信する

004 2013/08/19(月) 14:32:43 ID:TB4y1qACAM
>>1画は、四書五経などの儒学が中国の国学扱いとされ、
「史記」が体系的な書物として纏め上げられて間もなかった
前漢宣帝の代のころの「世界に占める各国GDPの比率」だ。
(世界に占める人口比では、前漢は今の中国とほぼ同等)

漢代や唐代や宋代の中国は、実際とんでもなかった。
儒学がよく尊ばれていた頃の中国は絶大な栄華を誇った一方、
諸侯の権力争いや外国からの征服のために儒学も退けられて
いたような時代にこそ、中国も弱体化してしまっていた。

人口比率でまた世界を圧倒している今ですら、
中国はまだ、弱ったままの状態の部類に入るんだ。何しろ、
儒学教育が共産制によって退けられたままでいるのだから。

儒学を意図的に学ばなくたって、世の中や人々をよくして
行こうとすれば自然と、儒学の教条にも則ることとなるわけだが、
もしも確信的に儒学の教学こそを学び込んでそれに則ろうと
したなら、それこそ、未曾有の繁栄が約束もされるわけだ。

返信する

005 2013/08/20(火) 14:52:26 ID:YlKAq6VfwU
「菩薩は歓喜地に住すれば、多くの歓喜、多くの浄信、多くの愛楽、多くの適悦、
多くの欣慶、多くの踊躍、多くの勇猛、多くの無闘諍、多くの無悩害、多くの無瞋恨を成就す」
(「大方広仏華厳経」十地品第二十六の一より)

「諸の凡夫は心邪見に堕し、無明に覆翳せられ、驕慢の高幢を立て、渇愛の網中に入り、
謟誑の稠林を行じ、自ら出ずること能わず、心と慳嫉と相応して捨てず、恒に諸趣の受生の
因縁を造り、貪恚愚癡をもつて諸業を積集し、日夜に増長し、忿恨の風を以って心識の火を
吹きて熾然として息まず、凡そ作す所の業は皆顛倒と相応し、欲流、有流、無明流、見流相続
して心意識の種子を起こし、三界の田中に於いて復苦の芽を生ず、謂わゆる名色共生して離れず、
此の名色増長して六処の聚楽に生じ、中に於いて相対して觸を生ず、觸の故に受を生じ、受によりて
愛を生じ、愛増長するが故に取を生じ、取増長するが故に有を生じ、有生ずるが故に生老病死憂悲苦悩有り」
(「大方広仏華厳経」十地品第二十六の一より)

上二つの菩薩と凡夫にまつわる心理描写などは、非常に具体的かつ現実性に即したものとなっている。
これは、「華厳経」の著者にあたる人物が、本当に菩薩や仏の境地にある解脱者であったからこそ把捉できた
ものであり、菩薩こそは、自らの心象と愚夫の心象とのいずれをも客観視することができる証拠となっている。

煩悩愚縛の凡夫の側からは、そのようなことは不可能である。菩薩や仏の境地が理解できないのは
もちろんのこと、上にあるような、愚かしい自分たち自身の心象を自覚的に理解することもできない。
無知蒙昧の闇に暗まされて、汚濁を貪るといった状態を、多少想像する程度のことはできるが、それが
自分たち自身の有り様であるとまでは受け入れられず、まるで他人事のように語ってしまったりするのである。

返信する

006 2013/08/20(火) 14:55:26 ID:YlKAq6VfwU
そういう人間は、自分たち自身の心象を具体的に描写することにかけては、非常に消極的である。
もちろん、上の菩薩の境地のような清浄さと共に居られているわけでもないから、そんなことを語れば
全くの偽証となってしまう。かといって、汚濁にまみれている自分たちの内心をありのままに説明させられ
たりするのも屈辱なので、「光に満ち溢れている」とか「神に大胆に近づいている」とかいった抽象的な
表現で済ませようとする。それこそ、汚濁にまみれた暗愚な心の正当化や美化そのものであるわけで、
そのような転倒夢想に陥って頑なとなり、濁念の織の中から出て来られなくなることまでもが、
上の「華厳経」における凡夫の心理描写などにおいては精細に説明されているわけである。

また、凡夫が凡夫なりに想像してみようとする聖人像なども稚拙なものであり、上の菩薩の心理描写のような
有機性を全く欠いていたりする。とにかく情念全般を完全に押し殺した機械のような心理状態こそは聖人の
それであるなどと決め付けて、少しでも情念を帯びているような人間はそれだけで「聖人ではない」などと
決め付けようとする。自分で捏造した身勝手な尺度で勝手に聖人に相当するような人間を皆無と決めつけ、
全く素性も知れないような何者かのみが聖賢の条件を満たしているかもしれないなどとする、そのような
手順で以って、現実上の人間を一切尊崇の対象としないでいようとするような思い上がりにまみれた凡夫が
帰依の対象とするものとしてこそ、本当は実在しない形而上の超越神なぞが打ってつけともなっている。

煩悩愚縛の凡夫に接せられるというのならば、聖賢といえどもむしろ激情を発するであろう。
いつでも無念無想の仏の境地に至れる上達者といえども、相手となる凡夫を済度するためにこそ、
菩薩程度の立場から激情を帯びたような叱咤を施すこともあるであろう。少なくともそれが、
大通知勝仏の如き大乗仏教の理念に適おうとする聖賢のあり方であるのには違いない。

返信する

007 2013/08/20(火) 14:58:47 ID:5Gnctpd/cQ:au
それは、仏門の聖賢ばかりに限ったことでもない。儒家の聖人である孔子もまた、宰我の如き孝心に欠ける
弟子への怒りを隠さなかった。無闇に腹を立てたりしないでいられるのは、半ば臆病者扱いされる程にも
貞節だった孔子自身の朝廷での振舞いなどからも知れたことであるけれども、弟子を教育することにかけて
の熱心さも半端なものではなかったから、その弟子に失望させられた時の落胆もまた、怒りを隠しきれない
ほどのものだったわけである。それは結局、菩薩の衆生に対する菩提心の発露などとも本質的には似通った
ものであったわけで、決して孔子の度量の小ささなどが露呈した場面だったわけではないのである。

「激情を発したりするような未熟な相手に教わりたくもないし、そうなりたくもない」というのが、
凡夫が向上を拒む上での常套句ともなっている。少しでも本物の向上を志すのであれば、そのような
言い訳による凝り固まりからは脱却して行かねばならない。聖賢は、未だ未熟なままであるおまえの
ためにこそ、わざわざあえて情的でいたりもしてくれるのだから、むしろそれに感謝すらすべきなのだ。

「爾、頑に忿疾すること無かれ、備わるを一夫に求むるひと無かれ。
必ず忍ぶこと有れば其れ乃ち済する有り、容るること有れば、徳乃ち大なり」
「頑なで暗愚な相手に対しても腹を立てたり憎んだりしてはならない。何もかもが一人に備わっていることなど
を期待してはならない。ぐっと耐え忍んでいればきっと済度されることもある。寛容であれば徳も広大となる。
(本物の聖賢には、暗愚頑迷の徒すらをも済度してやろうとする心意気が生ずる。大乗の理念にも通ずる所)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)

返信する

008 2013/08/21(水) 12:56:04 ID:rENfyiaE2.
赤穂浪士討ち入り事件において、浪士たちの諸武家や一般からの人気が
あまりにも大きすぎたために、徳川綱吉も自ら裁決を下すことをためらって、
皇室からの出家者である公弁法親王にその処断の如何を請うた。親王は
直接的には返答をしなかったが、「なにも赦すばかりが仏の慈悲ではない」
ということを暗に示唆して、綱吉に全員切腹の裁決を促したという。

果たして、その奨めがそのまま実行に移されて、江戸大目付、仙石伯耆守の
元に即日自首した赤穂浪士全員の切腹が執行された。当初は人々からの大きな
非難の声が上がり、日本橋付近に常設されていた忠孝を奨励する御布令に泥が
塗りつけられるなどの事件までもが発生したが、まんまと生き延びた場合の
赤穂浪士たちが不行跡を働いて名誉を傷つけるようなこともなくて済まされた
ものだから、浪士たちも永遠の英雄として扱われる資格を得られたのだった。

赤穂浪士たちの行いは、ただ法規に反しているのみならず、普遍的な道義にも
反している面があった。「徒党派閥の私的編制の禁」という当時の法度は、
「論語」衛霊公第十五・二二の「君子は群して党せず」という徳目などにも
反するものであるから、五十人にも迫るような戦闘集団を私的に編制して
私邸に討ち入った赤穂浪士の行いなども、決して道義的に赦されたものではない。
だから、その分だけでも切腹という措置によって罪責を償う必要があった。
それで実際に引責が実行されて、後には「亡き主君を追っての討ち死に」という
美談のみが残ったものだから、浪士たちも永遠の英雄となることができたのである。

罪である部分が赦されなかったからこそ、永遠の英雄ともなることができた。
これこそは、公弁法親王の言われた「赦すばかりではない仏の慈悲」による
計らいからなる果報であったといえる。あえて罪を赦さぬところにある優しさ
というものを知れる者こそは、仏の心を計り知れる者でもあるのだといえる。

返信する

009 2013/08/21(水) 13:00:44 ID:rENfyiaE2.
赤穂浪士討ち入り事件に際しても、江戸大目付の仙石伯耆守のみならず、
多くの目付武士たちが陰に陽に赤穂浪士たちを監視して、厳正な処罰下に置いた。
そういう役職が整備されているのでなければ、そもそも士大夫の切腹などを
公正に執り行う目処も立たない。実際、今の警察などは目付に相当する役職を
廃して、名前だけ似せた「警視」などという役職を、単なる上位の警察官として
設置している。目付はそうではなく、低禄や身分の低さと引き換えに、切腹級
の公務者の引責をも事務的に司っていたわけで、その目付に相当する役職を
なくしてしまった今の警察などでは、実際に引責自殺すら辞すべきでないような
放火殺人級の罪を犯した警察官すらもが、無罪放免にされる事態となっている。

政治家や公務員などの重職に就く人間の罪をあえて赦さないために置かれる
目付の如き公正な監察官の役職が、実権を伴って設置されているときの権力機構
というのは、清廉さを保つことができる。江戸時代の日本の為政の参考とされた
漢代の中国などにおいても、「刺史」や「州牧」と呼ばれる監察官が実権を以って
行政腐敗の予防にも務めていたために、>>1画ほどにも全国規模での経済的繁栄が
実現されていながらも、傾国級の腐敗などを招かずに済ますことができたのだった。

罪をあえて赦さないために置かれる、実権を伴う公正な監察官が、中国で
廃されたのは北宋以降、日本で廃されたのは明治以降のことである。その後も
国家公安委員会や教育委員会の如き検証機関が一応設置されたりはしたが、
それらの機関自体が警察や教職の自浄作用ではなく、保身や身勝手な統制のため
に利用されてしまったものだから、目付のような役割を果たすこともできなかった。

返信する

010 2013/08/21(水) 13:33:21 ID:is8E0Cw7Io:au
それはむしろ、聖書信仰の「監視する神への崇拝」などにも感化されて、監察者
というものが神聖化されてしまったからこそ来たしてしまった不祥事でもある。
むしろ、監察者などは卑しい存在であり、卑しいながらに必要悪として介在する
ものと捉えられたほうが、目付の如き節度を保った公正な監視の指針ともなる。
残念ながら放任状態では腐敗を来たさざるを得ない世の中を、これまた「お目汚し」
というさして気品があるとも言えないような手段によって防腐して行く必要悪。
監視行為が聖域の行いなどとして扱われなくなればこそ、そうでいられるのである。

「大の小に適くに五美有り。其の罪戻を宥し、其の過失を赦し、
其の災患を救い、其の徳刑を賞し、其の及ばざるを教う」
「偉大な相手が卑小な相手に接する上で適した美徳というものがおよそ五つある。
その罪を許し、過ちを赦し、災難を救い、自分たちでの道義に適った刑罰を褒め、
至らない部分を教導してやる、この五つである。(卑小とされる信者たち同士での
赦し合いを促すエホバの態度は、偉大な者としての美徳に適ったものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十八年より)

返信する

011 2013/08/22(木) 14:18:31 ID:bkNVm6PPK2
「白痴」とは、「明白な痴人」という意味であり、差別用語として言葉狩りに遭う以前は、真性の知的障害者を
指したり、頭のおかしげな人間を比喩的に形容したりするために用いられて来た言葉である。「明白な」という
語義を「真性の」という意味合いで用いることもできれば、「極端にひどい」という意味合いで用いる
こともできるから、上二つの語法が並立して用いられて来たのである。

信者の知的退行を悪用するようなカルト宗教は、その白痴という言葉の持つ「明白な」という意味合いを
「光に満ちた」などと倒錯させることで、信者の白痴常態を正当化する。それは、白痴をidiotなどと呼ぶ
西洋においても本質的には同じことである。知能が低いことや、頭がおかしいことといえども、それが
「明白」ですらあれば、光に満ちているようで素晴らしいとする。それは特に、世の中が「カラマーゾフの兄弟」
におけるイワンの世情描写のような陰惨さにまみれていればいるほど、そう思い込みやすいことでもある。
陰惨な現実にまつわる知識を取り入れれば取り入れるほど、自分自身の脳内までもが汚されたような気分になる、だから、
そのような知識を理解することもできないような「明白」な蒙昧状態こそは光に満ちているなどと思い込むのである。

一方で、カルト宗教が大っぴらに蔓延してしまっているような世の中こそは陰惨さにまみれることとも
なるわけだから、世の中を暗黒状態に陥れることと、その中での白痴状態を「光に満ちている」などと
思い込ませることが一切合切、カルト宗教によるマッチポンプの罪業であるといえる。

正統な宗教によるのであれ、堅実な徳治によるのであれ、現実こそが光輝なる泰平や繁栄に導かれたならば、
そのような世の中にまつわる知識を取り入れたりすることが「闇に呑み込まれる」ようなことになるわけもない。
むしろ、そのような世の中のことをよく学んでいくことのほうが、自らの脳内を光大なる知識によって満たす
こととなるわけだから、正統な宗教や仁徳を旨とする思想によっては、白痴状態で現実から逃避したりする
ことは決してよしとされず、それこそはかえって「暗愚」に苛まれた状態と見なされるのである。

返信する

012 2013/08/22(木) 14:22:55 ID:bkNVm6PPK2
徳治や正統な宗教は、世の中全体から光に満ちさせるものだから、白痴なども暗愚扱いに処することができる一方、
カルト宗教は世の中のほうを暗黒状態に陥れるものだから、白痴状態によって現実逃避する者を「光に満ちている」
などと言いくるめようともする。いずれも、人々の住まう世の中からどうにかしてしまう点が共通していて、
個々の信者や庶民に訴えかけることばかりが独立して存在しているわけではない。徳治が実現された漢代の中国の
繁栄っぷりと、キリスト教が提唱された頃のローマ帝国の窮乏ぶりの対比も>>1画の如くであり、そもそもが
カルトが受け入れられるような環境からしてすでに暗黒状態であることを指し示した好例ともなっている。

だからこそ、社会規模からの公共的な要求に即して、カルトを排して正学正教を重んじていかねばならない
ということがいえるわけだが、カルト教団たるや、自分たちこそが直視し難い暗黒の世の中を招いている
ことに対しては徹底的な否認を決め込み、その真っ暗闇な世の中における現実逃避の手段としての白痴化洗脳を
信者に施してやった結果、信者が光に満ちたような気分になったというその部分ばかりを囃し立てようとする。

そりゃあ、世の中を真っ暗闇に陥れることから自分たちのマッチポンプの一環であることなどを認めたならば、
カルト教団など一日たりとも存続の余地がなくなってしまうわけだから、そうであることを否認し続ける
ことこそは、カルト教団を存続して行く上での肝心要の取り決めでもあるのに違いない。

カルト教団の運営者たち自身からして、現実逃避のための自己洗脳に長けていたりもするものだから、
自分たちこそはマッチポンプ災禍の凶悪犯であるということを自覚させることすらなかなか難しいこととなっている。

せめてでも、カルトの摘発に臨む者たち自身は、カルトこそが暗黒の世をもたらす元凶となっていることを
しっかりとわきまえて、その世の中の内側での白痴化洗脳による信者たちへの救済ごっここそは自分たちの
本業だなどと決め込んでいるカルト教団の欺瞞にたぶらかされないようにすることである。

返信する

013 2013/08/22(木) 14:58:35 ID:SS/46SceC2:au
カルトがあくまで信者への救済を自己正当化の根拠とし、世の中を暗黒へと陥れる元凶となっていることを
否認し続けるようならば、真性の白痴でもあるような累犯障害者を強制入院送りにするようにして、
カルトの親玉を有無を言わさぬ摘発の対象とすることもまた必要となるであろう。いくら救済者じみた修辞を
駆使するのであっても、それが全くの偽善であることを見抜いて、相手にしないようにしなければならない。

「昔武王商に克ち、天下に光有らしむ。〜四方に照臨するを明と曰う」
「昔武王が殷の紂王を放伐し、天下に光を有らしめた。(そのように)四方に照臨することを明という。
(キリスト教徒の光など、ちっとも天下を照臨したりはしない。闇の倒錯でなければ、ちっぽけな光よ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十八年より)

あと、脈絡はあまりないが、面白い記事を発見。

「昔有仍氏女を生む。黰にして甚だ美なり。光以て鑑とす可し。名づけて玄妻と曰う」
「昔有仍氏が女子を産んだ時、その娘の髪が漆黒で大変美しかった。その漆黒さの
放つ光輝きこそは鑑となされるべしだということで、娘は玄妻と名づけられた。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十八年より)

昔から、黒髪の輝きこそは好まれていたという。しかもただ好まれるだけでなく、模範とされるべきだと。
実際に漆器の黒呂塗りなどにも反映されているようだが、黒いものの輝きこそを尊ぶというところに、
東洋人ならではの慧眼が備わっているように思う。逆に、白人あたりは自分たちの肌の白さこそを
「光の種族」として鼻にかけて来ているわけで、それとも対照的な美意識だといえる。

返信する

014 2013/08/23(金) 14:39:25 ID:fVTrYj4D.Y
理想的な封建制度下においては、それぞれに独立的な才徳を養った臣下が主君の下に結集して、
調和の取れた徳治に励んで行く。堯舜時代の四岳だとか、漢の劉邦の下に集った数多の能臣たち
だとかがその好例である。放伐革命によって王朝を打ち立てた殷の湯王や周の武王のような場合には、
数多の能臣が集うというよりは、伊尹や周公の如き弧臣が突出した能力を発揮してしまう場合の
ほうが多いようだが、(放伐革命自体、突出した能力を持つ臣下に依存してしまう側面があるため)
これとてやはり、才徳ある臣下が自力によって王を輔弼している点では変わりないものである。

正統な封建制が理想とするのは、天下国家に遍き治世の実現であるから、そこで為政に励む臣下たちが
必要とする能力もまた、徳治を実行して行く能力に限られる。鶏鳴狗盗の如き雑多な能力は無益である
のみならず、乱世を呼び込む害力とすらなりかねないものだから、かえってないほうがマシともなる。

すると結局、封建制度下での徳治のために臣下が必要とする能力というのは、その養成の仕方からして
限られて行くこととなる。家や親の名誉に即して養われる能力こそは徳治のためにも有用となる一方、
自分個人の虚栄の実現のために養われる能力などは、かえって有害なものとすらなりかねない。李斯が
虚栄欲を糧として荀子の門下で身に付けた法家的統治の能力なども、確かに秦国を統一中華帝国にのし上げる
ほどもの業績を挙げはしたものの、そこにそれぞれの家譜を重んずるような篤実さが全く備わっていなかった
ものだから、帝室の身内同士での争いを元凶とした秦帝国の早期崩壊に歯止めをかけることもできなかったのだった。

そもそもが秦という国自体、国の繁栄のためというよりは、自分個人が国家利権のおこぼれに与って甘い汁を
吸いたいがために従属したような佞臣ばかりで塗り固められていたものだから、長期の治世を実現できる
見込みなど始めからなかったのだとも言える。始皇帝の実父にして李斯とも並ぶ重臣だった呂不韋からして、
ただ巨根であるだけの男すらをも食客として囲い込んで利用するぐらいのものだったわけだから、まあ、
秦という国の権力構造からして、治世ではなく乱世の誘発こそを本分としていたことが確かだといえる。

返信する

015 2013/08/23(金) 14:41:50 ID:fVTrYj4D.Y
ろくでもないような能力の持ち主でも囲い込んでやろうとするような所にこそ、権力の嵩にかかって
偉ぶりたがるようなろくでなしが集って来るものである。被雇用者が自らの能力によって国家のような
大局社会からの福利厚生に貢献するのではなく、むしろ被雇用者が雇用者からの権力の委譲を受けた結果、
天下国家の公益を損なうような暴慢にすら明け暮れ出す。食客制度やフラタニティのようないかがわしい
雇用制度の元では、そのようなことすらもが黙認されかねないので、やはり徳治のためには、公正な
君臣関係に基づく雇用を主体とした為政に取り組んで行かねばならない。非公式なフラタニティが陰に
寄り添って、正統な国家社禝に基づく為政を形骸化させてしまうようなこともまた決してあってはならない。

純正な君臣関係において、忠孝を主として才徳を養った臣下が、君を尊びつつ己が能力を発揮して行く
というのが、一つの自己完結した健全な政治構造となっている。そこに鶏鳴狗盗な雑能の取り立てだとか、
裏から食客を咬ませての権力の二重構造化だとかの不純物を介在させれば、そのせいで国家による治世も
危ぶまれる上、国に尽くすことではなく、自らが利権を貪ることを第一とするようなならず者ばかりで
権力機構が埋め尽くされることとなってしまう。そうならないためには、忠孝を主とした為政をより強化
する目的で、太古の昔に至るまでの家の先祖たちの、神仏としての崇敬すらをも実施して行くべきだといえる。

私益第一な魂胆や僭越な友愛によって国権すらをも脅かそうとするような者こそは、親への孝行だの
先祖崇拝だのは全くの有害無益だとすら決め付けようとする。それもそのはず、そのような連中が
世の中にのさばることを防ぐためにこそ、親先祖への崇敬もまた篤く営まれて行くべきなのだから、
連中がひどく嫌がる にもかかわらずではなくだからこそ 孝養に励んで行くべきだと言えるのである。

返信する

016 2013/08/23(金) 14:42:21 ID:lM1cg84NfA:au
「公曰く、吾が享祀豊潔なり、神必ず我れに據らん。対えて曰く、
臣之れを聞く、(以下既出)鬼神は人を実に親しむ非ず、惟だ徳に是れ依ると」
「虢公『わしの所での祭祀における神への供物の捧げようはそれはそれは豊かなものだ。きっと神は
我らこそを拠り頼んでくれるに違いない』 宮之奇『臣はこう聞いております。神は特定の相手を
親しんだりすることはなく、ただ仁徳にのみ拠り頼む者だと』(まず神を拠り頼むものではなく、
拠り頼んでもらうものとして扱っている。その上で、財力にものをいわせて供物をつぎ込むような
人間ではなく、仁徳あるものにこそ拠り頼むともしている。本物の神は力と主としない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公五年より)

返信する

017 2013/08/24(土) 14:36:28 ID:ysP/yGcf8o
どんなに身体を鍛えたり、重武装を纏ったりする以上にも、心を強からしめることこそは、
最も根本からの強さを養うこととなるために、最勝たり得るものである。

心の強さを養うための教学として最勝なのは仏教だが、別に仏教とまで行かずとも、儒学によってですら、
洋学や聖書信仰によって精神力を根底まで貶められている現代人などよりは、よっぽど強い心を養えるものである。

天下国家のためとあらば落命すら辞さない仁の心は、未だ劣情にかられる面があるという点では未熟な
ものであるにしたって、何らの志しによっても命を賭すことなど考えられもしないような臆病心よりは
頑強なものであるし、また、ただただ命を危うからしめたりする蛮勇よりも懸命で篤実なものである。

純粋な儒者は武術や兵法を習ったりすることすらないが、そうであっても、天下に泰平を開こうとする
その志しによって、堅甲利兵を擁する戦好きの権力者などを相手に大上段の構えで応じられる所がある。
それは、ある種の素養を身に付けるという手段の先にある目的が、ただただ無闇に武装を強化して
いるような連中の目的などよりも明白に潔癖であるからであるのはもちろんのこと、だからこそ、
そのための儒学の修養という手段によって、自らの心強さを存分に養って来られているからでもある。

儒学の修養者程度の心の強さは、天下万人とまでは行かずとも、全人口の一割程度に相当するような
為政者が総出で養うぐらいのことはできるものである。それにより、そこまでの心強さを自力で持てて
いるわけではないような民衆までもが感化されて、最低でも最悪の悪行にまでは手を出さないようになる。
為政者がみな引責自殺ぐらいはいつでも辞さない覚悟での徳治に励んでいた漢代の中国や江戸時代の
日本などがそうであり、そしてそれらは同時に、中国や日本が世界でも突出した繁栄を築き上げられて
いた時代でもあった。これらの事例こそは確かに、世の中を挙げての心練が社会規模での繁栄を
約束する実例ともなっていて、「引責自殺すら辞さないような精神力など百害あって一利もない」
などという精神薄弱者の反論を完璧に退けるに値する論拠ともなっている。

返信する

018 2013/08/24(土) 14:39:01 ID:ysP/yGcf8o
心の強さが世の中総出で養われていた江戸時代においてこそ、戦国時代に武将のまとう具足として
活躍した甲冑も土蔵の奥深くに仕舞われ、鉄砲や弓矢といった過剰な軍備も軒並み没収されて、
法度で取り決められた範囲の長さの刀を、それぞれの身分に応じて所持することのみが許されること
となった。その刀も、日本独特の湾曲した片刃のもので、切れ味などは上質なものであるにしたって、
その実用には相当な熟練を要するものであった。しかしそれは別に、自分たちの心を養って行く
ことこそを本分としていた江戸時代の武士などにとっては、何ら問題とされるべき所ではなかった。
十分な心練を伴う武道の修練によってのみまともに取り扱うことができるようになる特殊な刀ばかり
が所持を許され続けたことは、かえって自分たちのためになることでもあった。そのような刀の
所持だけは許されたことを以って、全くの去勢状態を強いられることだけは免れたことがかえって、
日本人に見てくればかりに囚われない本物の大勇を養わせる原動力ともなったのだった。

最大級の戦力同士を闘わせる戦争状態ともなれば、具足や盾もそれなりに用意すべきものとなるが、むしろ
そんなものに頼らなくてもいいような所で養われる中心からの強さこそが、戦争での最終的な勝利を決定付ける
要ともなるに違いない。いくら表面だけ完全武装で固めた所で、肝心の心がグニャグニャとなれば、いざ敗戦後
の日本の占領に臨んでみても、吉田茂や白洲次郎に一杯も二杯も食わされたマッカーサーの如くなるのみである。

「壮者は暇日を以って其の孝悌忠信を修め、入りては以て其の父兄に事え、
出でては以て其の長上に事うれば、梃を制して以て秦楚の堅甲利兵を撻たしむべし」
「壮者が暇をみては自らの孝悌忠信の心を養い、家内では父兄を敬い仕え、外では目上の相手を
敬ってよく仕えるようにしたならば、杖程度の簡素な武器一つで、秦楚の如き大国の擁する
完全武装の大軍が相手でも討ち取れることだろう。(篤心の養いはどんな武装をも上回る強さとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・五より)

返信する

019 2013/08/25(日) 13:46:54 ID:rNRPkGg6lg
人間を人間たらしめている最大級の要素の一つが、「言葉」の利用である。
他にも、刃物や器や車輪の如き高度な道具を用いることが、人を猿などの動物と
決定的に分かつ決定的な要素となっているが、人間と言う生き物を、都市社会を
形成する程にも文明的な存在たらしめているものといえば、それは言葉であるといえる。

言葉というものが体系的に形成され始めた起源からして、大規模な社会構造を
秩序化させるための道具として用い始めたことだった。今ですら、国家間で言語が
異なったり、地域間で方言が異なったりすることがいくらでもある。それがさらに
雑多化して、隣町同士や村人同士ですら言語が食い違って意思の疎通もままならない
となれば、ろくに交遊や交易すら覚束なくなるから、大規模な都市社会を形成するに
際して、お互いの約束事としての言語の統一を人々が図ってきた結果、国家規模や
国際規模ですら、ある程度以上に言語が類似するような世界が形成されて来たのである。

その上、日本語と英語のような疎遠な言語同士でも、通訳を介することでそれなりの
意思疎通を図ることができる。片方の言語があまりにも精緻すぎて、その意味を完全には
訳しきれないなどということもあるが、一般生活を司っている程度の基本的な意味構造を
翻訳して相手に伝える程度のことはできる。それもそのはず、人間はみな1.5〜2m程度の
身長と数十Kg程度の体重と、猿の体格をもう少し縦に伸ばして体毛を薄くしたような見た目
を持つといった共通性を帯びているわけだから、そうであることに即して形成されていった
言語も、疎遠なもの同士ですらそれなりに意味が通ずるようになっていったのである。

そういった、形質からの共通性に即して人間が自明に作り上げていった言語構造の内に、
「善い」とか「悪い」とかいった倫理的判断も存在しているわけで、そこに、第一義的な
神秘性などが介在する余地はないのである。「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」
という徳目に神秘性を差し挟む余地が少しもないように、善い悪いといった倫理的な
判断に、根本からの「神の采配」などが差し挟まれる余地もありはしないのである。

返信する

020 2013/08/25(日) 13:54:22 ID:rNRPkGg6lg
ただ、そのような自明な道徳倫理を堅く守り通して行く上で、その志しの拠り所を神仏
への崇敬に頼るということは可能である。当該の神仏が、人道上の道徳倫理の自明性を
認める神仏ですらあれば、それも可能なことであり、正統な仏教上の尊格はみなその条件
を満たしているし、妖鬼扱いされないような神道上の神などもその条件を満たしている。

人としての最低限の道徳倫理の自明性にすら異を唱えるような神ともなれば、当然、
そのような条件は満たさない。そんな神などを妄りに信じたりしたならば、人間自身が
構築して来た自明な言語構造上の是非善悪すらもが見失われて、人間社会を秩序立てて
構築して行く上での必須要素としての言語の存在意義にすら綻びが生じてしまうこととなる。
それこそはまさに、「悪性ガン細胞型の言語利用」の元凶にすらなってしまうわけで、
そこでこそ、名辞の乱れに基づく「精神異常」というものが発生してしまうのでもある。

人道の自明性を非とし、人々に間違った言語利用による精神薄弱の深刻化をけしかけた
最原初にして最悪級の邪教である聖書信仰もまた、人道の自明性を厳密にわきまえる
儒学などよりも数百年以上遅くに発生している。人間自身が自明な言語構造を構築
して行った結果として是非善悪の分別も形成されていったというのが真である一方、
神の采配によって是非善悪が取り決められたなどという主張が偽であるからこそ、
聖書信仰などよりも儒学のほうが先に体系化されていったのでもある。後者が真で
前者が偽であるならば、儒学のような自明な人道を把捉する教学が、聖書信仰の
ような人道の自明性を否定する信教よりも先に形成されるはずもなかったのだから。

人道ぐらいは自明であることを認めた上で、そこから人道を超えたものとしての
神道や仏道に邁進して行くのであればいいものを。神仏への崇敬を振りかざして自明なる
人道を無みしようとしたりするものだから、人道の側の言語構造上からの自明性に即して、
それを否定しようとするような神仏信仰の側のお里すらもが知れてしまうのである。

返信する

021 2013/08/25(日) 13:56:52 ID:AdKEElv2ck:au
「天民なる者あり、道天下に行わる可くして、而かる後に之れを
行う者なり。大人なる者あり、己れを正しくして物正しき人なり」
「天民という類いの人間がいる。道が天下に行われればそこに便乗する類いの人間。
(それよりもさらに上等な類いの人間として)大人がいる。自分自身を正すことで
自然と天下万物すらをも正してしまう人間である。(道徳倫理というものは自明なもの
だから、己れを正すことで他者をも正すことができる。ただ、それはなかなか困難な
ことなので、それに次ぐものとして、道ある天下に便乗する天民というものもまたある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一九より)

返信する

022 2013/08/26(月) 15:29:03 ID:UaOutXvpMI
人間の思考自体は、外力に応じて働くものであり、それはコンピューターの論理計算など
とも置き換えようと思えば置き換えられるものである。ただ、一度脳内に蓄えられた情報を
思考として処理する「意」なり「情」なりが、先天後天を織り交ぜた自主性として作用する。
その情意を理性の面から司るものこそは人間自身の純粋精神であり、それは「梵我一如」
などという言葉で示されもする通り、宇宙の真理にすら合致しているものである。

ただ、その宇宙の真理が人格神のような様相を帯びているのかといえば、全くそんな
ことはないのである。それは、本質的には思考からも独立したものであり、いかなる概念
によってでも説明しきれはしないものである。そのため宇宙の真理とすら合致するような
理性によって思考や言行していた人間といえども、その見てくれがいかにも立派らしいとは
限らない。高祖劉邦や家康公のように、見てくれだけならより立派な競争者が多く居た
らしいことが記録としても残されているような人間こそが、見事なまでに理性に根ざした
機転を働かせて、戦国の最終勝利者となることで泰平の世を拓くこともあったのだった。

劉邦や徳川家康自身は、項羽や匈奴や信長や秀吉といった「目の上のたんこぶ」然とした
暴慢の徒に苛まれる人生を送らされていたものだから、それに応じて、本人たちもあまり
格好がいいとも言えないような振る舞いにも及ばされていたのである。その後いくらかの
代を重ねて、七代武帝や八代吉宗あたりの代になってからやっと、環境的にも皇帝や将軍
こそが威厳を以って世に君臨する体裁が確立されて、本人たちも立派な振る舞いを保てる
ようになった。皇帝や征夷大将軍ですらそうなのだから、一般人などはそれ以上にも、
外力に自らの見てくれや振る舞いを容易く左右されてしまわないわけにはいかない。
ちょっとした友人の一言や一挙動に影響されて、自分がいかにも尊ばれそうな風体となったり、
卑しまれるような風体と化してしまったりもするものであり、だからといって、本人自身
が絶対真理にも合致するような理性を保てていないとも、保てているとも知れないのである。

返信する

023 2013/08/26(月) 15:32:30 ID:UaOutXvpMI
絶対真理とも合致する理性に根ざした、正思正言正行を心がけるのであれば、むしろ
眼耳鼻舌身といった感覚器官から取り入れられる、色声香味触といった情報の享受には
素直であった上で、それらの情報を適切に処理する思考や言行こそを心がけるべきである。
「感覚器官から取り入れられた情報以上にも重大な、独立した思考なり言行なりがある」
など思い込んで、珍奇な発想を凝らした思考や言行を志したところで、それで理性に
根ざすなどということもない。むしろカオスにまみれた劣情に情報処理をさせるばかりの
こととなって、過ちにまみれた思考や言行を誘発してしまうばかりのこととなるのである。

情報を適切に処理する理性というものが、実際に人間精神と合致している。そこは尊ぶ
べきところであるが、別にそこに体系構築的な概念構造が備わっているわけでもない。
イデアだのグノーシスだので絶対真理たる理性を把捉することも描写することもできはせず、
ただただそれを自覚的に悟ることによってのみ、理性に根ざした思考や言行を心がける
ことができるようになる。しかもそれは、感覚器官から享受した情報を処理することに
かけては、できる限り適切であるようにするというばかりのこととなるため、ごくごく
真っ当な常識に適った思考や言行を保つことに集約されていくことともなるのである。

もちろん、狂った世の中の狂った常識などではない。正しい世の中の正しい常識である。
「正しい」とか「おかしい」とかいった判断の基準となるのも、>>19-20に書いたような、
人間自身が構築して来た自明な倫理判断上の是非善悪に基づくので、
やはりそこに、神の采配的な背景依存を伴うことはないのである。

返信する

024 2013/08/26(月) 15:34:05 ID:4zFHD3Ujl2:au
「其の股に咸ず、執りて其れ随う、往けば吝かなり。
其の股に咸ずるは、亦た処まらざるなり。志人に隨うに在り、執る所下きなり」
「人体でいえば腿のような低い部分に感化されて、それに従って物事を執り行うようなもの。
何かをすればするほど恥ずべき結果を招く。腿に感化されるような人間こそは、一ところに
止まれないような多動の気を帯びてしまう。志しが自分以外の誰かに従うようなところに
ばかり集約されてしまっているからである。その信条とする所も卑しいというほかない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・咸・九三‐象伝より)

返信する

025 2013/08/27(火) 14:24:35 ID:bSWbK5qdDI
「君子は諸れを己れに求め、小人は諸れを人に求む(既出)」
「君子は何事もまず自分自身に要求するが、小人は何事もまず他人に要求する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・二一)

君父に仕えるのであれ、神仏を敬うのであれ、まずは自己追求が第一である。
仁義礼智信といった五常のわきまえがあることで初めて、君臣父子夫婦といった
三綱の序列もまた深い意義を持って保たれて行くものであり、まず自分以外の誰かと
どうであるかなどばかりを第一としている以上は、ごっこ遊びの域を出るものでもない。

厳重な自己修養を以って君父に仕えれば、それにより忠孝の気風が養われて、
自修によって得られた素養の実践もまた磐石なものとなる。何らの修養もないままに
(あるいは鶏鳴狗盗の如きいかがわしい芸の素養と共に)君父や主人に仕えたりした所で、
どこまでも中身がカラッポのままであり、仕えることにうまみがないとなれば平気で
相手を裏切って貶めたり、他に寝返ったりしてしまうことともなるのである。

自己の修養も疎かなままに、他者に尽くすことばかりを志すような身の程知らずこそは、
自らのカラッポな中身を無根拠な思い上がりで満たすことともなってしまう。他者に
尽くすからには恭しくいられるのかといえば、決してそんなこともない。面従腹背の
反発意識で、誰にも仕えないでいる場合以上にも深刻な思い上がりを募らせてしまうこと
にすらなる。だからこそ道家の徒のように、絶学無憂の境地と共に誰にも仕えぬ隠遁者
でいることで、伸び伸びとした気風を養っていたほうがまだマシなことともなるのである。

自己の本然からなる誠心誠意を以って他者に仕えるということ自体、それなりの自修が
なければまず不可能なことである。商売人として顧客の前でへつらい顔でいる程度の
ことはできても、君子として天下国家やその代表者たる主君のために全身全霊で
仕事に励んだりすることは、ちょっとやそっとの努力や覚悟でできるものではない。

返信する

026 2013/08/27(火) 14:27:59 ID:bSWbK5qdDI
むしろ、本当に誠心誠意を以って他者に仕えることと、面従腹背の状態のままで他者に
仕えることとは相容れるものですらない。前者のための素養を養っていれば、後者の
ような振る舞いに及ぶことを恥ずべきことだと感じるようになるし、後者のための
素養を養っていれば、前者のような姿勢でいることを暑苦しい、うざったいこととして
忌み避けるようにすらなってしまう。だからこそ、本物の誠心誠意と共に君父に仕える
君子たらんとする者は、表向きだけの媚び諂いで私益を肥やそうとする商売人であるため
の素養などを養っているわけにはいかないし、その逆の場合もまた同様のことが言える
ようになる。君子の素養は自己修養が第一である一方、商売人の素養などは巧言令色で
他者にへつらうことが第一であるわけだから、両者は原理的にも両立できることがない。

紛らわしいのは、金満漬けで飼い殺しにされていたような人間が、その後ろめたさに
駆られて、厚遇してくれていた相手のために捨て身で尽くすような場合があることである。
春秋戦国時代の食客だとか、旧薩摩藩士だとか、西洋産のフラタニティの会員だとかが、
死兵要員として利用されるために厚遇の限りを尽くされて、決死の暗殺活動だとかに従事
させられたりすることがあったが、これは磐石な自己修養と共なる誠心誠意の勤労などとは
似て非なるものであり、ある種の脅迫が潜在している非道行為にすら当たるものである。

誠心誠意他者のために仕えるといえば、そのような食客としての死兵働きがまず思い
浮かんでしまうような人間すらもがいるかも知れないが、決してそんなものを志すべき
ではない。元食客の戦術家だった韓信が、漢帝国の重臣や王侯としては終わりを全う
することができなかったのも、自己修養を第一として君父に仕えるような素養が
かえって、食客としての飼い殺され生活で損なわれてしまっていたからに違いない。

返信する

027 2013/08/27(火) 14:28:17 ID:K/SvUN77jo:au
食客のごとき死兵働きもまた、自己修養ではなく他者に仕えることを第一とするもの
であるから、君子としての振る舞いにはかえって支障を来たすものなのである。他者の
ために尽くすことばかりを第一として、自分自身の中身はカラッポのままでいるから、
食客もまた思い上がりを募らせることがしばしばである。そのため、古代中国の食客制度
などでも、主人と食客は(存命中においては)対等な関係でいることが礼儀とされていたし、
今の西洋産のフラタニティなども、「友愛」の名目で死兵のざっくばらんとした振る舞いが
容認されている。それこそは、奇形の忠信、虚偽の忠義である証拠に他ならないわけだが。

「射は君子に似るところ有り。諸れを正鵠に失えば、諸れを其の身に反り求む。君子の道は、
辟えば遠くに行くに必ず邇き自りするが如く、、辟えば高きを登るに必ず卑き自りするが如し」
「射的は君子の有り方に似ているところがある。もしも的を射損ねれば、(それは完全に
自分自身の落ち度なので)必ず自分自身の有り方を省みて、問題点を追求して行くからだ。
君子の道というのは、遠くに行くためにもまず近くから歩み始め、高所に登るためにもまず
低い所から登り始めるようなもの(であり、まず自分自身に求める所から始めて行くものである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)

返信する

028 2013/08/28(水) 14:00:49 ID:O7lizmYt6A
畏れるべき人間とそうでない人間とをよく分別する能力も、優先的な自己修養によってこそ育まれる。

たとえば、「年上である以上は絶対に畏れ敬うべき」なんてのは、随分と稚拙な部類の分別である。
中国春秋諸侯の盟約だとか、西洋の伝統的な教育体制だとか、その両方の流れを汲む今の日本の
体育会系だとかが、そのような絶対的な年功序列を是としているけれども、それは、君臣父子夫婦
といった体系的な序列を重んじて行く儒家においてこそ、拙劣なものと見なされているものでもある。

孔子も「後世畏るべし」と言いながら、「年食ってろくに名も聞こえないような連中は畏るるに足らず」
とも言っていた通り(子罕第九・二三)。時に若人をも畏れ、時に年長者をも畏れぬのがより上等な畏怖に
かけての分別となっている。儒者はそのような畏怖にかけての巧みな分別を利かせられる一方で、せいぜい
年功序列程度の分別しか利かせられないような人間もいるのは、儒者のほうは、君臣父子夫婦といった三綱
の序列のより優先的な尊重によって、家単位でものを考えられる素養が身に付いている一方で、せいぜい
決まった世代に収まっている自分個人の範囲でしかものを考えられないような人間もまたいるからである。

何十代も前から続く家の流れに即してものを考えられたなら、自分個人よりただ年上であるような人間を
無条件に畏れたり、ただ年下であるような人間を無条件に侮ったりするような軽率さが排される一方で、
全ての判断基準が自分個人に集約されたままでいてしまっている以上は、その限りでもない。前者の
ほうがむしろ自己修養を必要とする一方、後者のほうはただただ自分勝手でいれば自然とそうなる
ものだから、より上等な畏怖の分別を利かせるためにこそ自己修養が必要となる一方で、稚拙な分別の
範囲に止まっていたいのならば、そんな修養が全く必要ないこともまた、自明なこととなっている。

返信する

029 2013/08/28(水) 14:03:21 ID:O7lizmYt6A
ただ自己修養が必要となるだけでなく、年功序列ばかりが絶対化されてしまっているような荒廃した
世の中から距離を置いての修養に務めるなどの措置も取らなければ、なかなか難しいことである。
そして、世の中から距離を置くような注意をも働かせたなら自然と、おいそれと悪人に騙されたりしない
でいられるような千里眼が身に付きもする。そのような余裕もないような人間、世の中にべったりと
張り付いたままでしかいられない上に、そのせいで年功序列ていどの上下関係の分別しか働かせられない
ままでいてしまっているような人間こそは、人を恐れ敬った結果、誑かされるような羽目にも陥るのである。

士農工商の四民の序列なども、世に敷かれる以上は、年功序列以上にも徹底されるものとなる。
武家階級の若殿と壮年の商売人であれば、後者が前者に謙らねばならないようになり、それでこそ、
誰しもが末業での私益の貪りばかりに群がった結果、社会経済が破綻してしまうような事態も防がれて行く。
商売人なんてのは、いかに他人を言いくるめて、得したような気分にさせながら自分のほうが利益を
せしめて行くかが仕事の秘訣ともなるわけだから、まさに人を騙すことこそが本分であるわけだけれども、
その商売人が、年長者であっても誰にも敬われるに値しない人種であると規定された結果、人々がその規定
に即して他者を畏れ敬うようになった結果として、誰かに騙されるようなことも無くなって行くのである。

どんなに平等化が徹底された世の中であろうとも、人間に寿命があるからには、年功序列程度の上下関係は
厳然として残存したままであり続ける。その、年功序列ばかりに上下関係が集約されてしまった世の中
においてこそ、ろくでもない年寄りを畏れ敬った結果として、騙されて大損を食らうような羽目にも陥り
かねない。だからこそ、むしろ儒家の教理などにも根ざして、君臣父子夫婦や士農工商といった上下関係の
序列を純正に体系化して行くことで、世の中の序列関係というものをより適正化して行くべきなのでもある。

返信する

030 2013/08/28(水) 14:41:54 ID:U.EMDvRcjc:au
「君子に三畏あり。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。
小人は天命を知らずして畏れず、大人になれ、聖人の言を侮る(既出)」
「君子は天命を畏れ、偉人を畏れ、聖人の言葉を畏れる。小人は天命を
知らないせいで畏れず、偉人に馴れ馴れしくし、聖人の言葉を嘲る。
(人は天命を知ればこそ畏るべき相手を畏れることができるようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・八より)

「或るひと曾西に問うて曰く、吾子と子路とは孰れか賢なるか。
曾西蹴然として曰く、吾が先子も畏るる所なり。曰く、然れば則ち吾子と管仲とでは
孰れか賢なるか。曾西艴然として悦ばず、曰く、爾じ何ぞ曾ち予れを管仲に比する。
管仲は君を得ること彼の如く其れ専らなりて、国政を行うこと彼の如く其れ
久しきなるも、功烈は彼の如く其れ卑しき。爾じ何ぞ曾ち予れを是れに比するか」
「ある人が(孔子の高弟曾子の実子である)曾西に問うた。『あなたと(孔子の高弟の)子路とでは
いずれがより賢いでしょうか』 曾西は途端に畏れ入った態度となって言った。『子路先生は私の
父(曾子)も畏れていた相手です。(どうして私などが敵うでしょうか)』 するとまた問うた。
『では、あなたと(斉の重臣の)管仲とではいずれが賢いでしょうか』 曾西は今度は憮然とした
態度となって不機嫌そうに言った。『どうしてあなたは私を管仲などと比べようとするのですか。
管仲は主君の下での専横をほしいままにし、国政を握る期間もそれはそれは長期にわたりながら、
その功績はといえば(覇道を行うなどの)つまらぬものばかり。どうしてあなたは私をそのような
人間と比べようとするのですか』(比較的近代の人間であり、義侠心はあっても政治的には成功
しなかった子路を畏れ敬う一方で、相当に先代の人間であり、政治的にも成功している一方で、
権謀術数渦巻く覇道に邁進した管仲などを畏れ敬ったりはしない分別を利かせている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)

返信する

031 2013/08/29(木) 12:55:36 ID:8PFNpfZen.
お互いに利害が反する者同士にとっての
時宜というのは、これまた相反するものである。

君子が勇躍できる時宜は小人が引っ込まされる時宜となり、
小人がやりたい放題できる時宜は君子が雌伏を強いられる時宜となることが、
「易経」における泰卦と否卦の対照的な境遇描写などからも計り知ることができる。

自分たちにとって都合のいい時宜というものを、人工的に造り上げることができるのは、
むしろ小人のほうである。君子が活躍するに値するような安寧と繁栄に満ちた世の中
というものが、最大級の努力によって何とか保たれたり、それでも保たれなかったり
する一方で、小人がやり放題でいられる乱世のほうは、深刻化させようとすれば
いくらでも深刻化させられるものだから、そこで小人が自らの作為によって
より一層の乱暴を企てることもまた、非常にたやすいこととなるのである。

自分たちの活躍の場である治世において、君子はせいぜい最善の努力を積み重ね続ける
ばかりのことでいるが、乱世こそが活躍の場である小人のほうは、自分たちで活躍の
時宜を盛り立てて、そこで活躍するということを何度も繰り返すことができる。だから、
乱世における小人の活動のほうがむしろ見た目には独立的で、多彩なように思える。
実際には、邪念のくすぶりによって自業自得で来たした精神からの飢渇を、際限のない
快楽の貪りで紛らわすというワンパターンの単調な繰り返しにしかなっていないわけだが、
むしろだからこそ、見た目には真新しいことを繰り返しているかのようにあえて
見せかけようとするし、実際に、自分たちの活躍の場から自分たちで捏造して行く
小人たちにとっては、それこそが自分たちの本領の発揮のようにすら思えるわけである。

小人たちの、自分たちの活躍の時宜から捏造しての暴挙の積み重ねというものが、
実際に、許される限りにおいては繰り返されて行く。春秋戦国時代における中国諸侯の
放辟邪侈なども、そうやって積み重ねられていったものであるし、今の米欧による諸外国
への軍事的経済的な侵略行為の繰り返しなども、同様な乱暴の積み重ねとなっている。

返信する

032 2013/08/29(木) 12:59:40 ID:8PFNpfZen.
一部の君子による忠告なども完全に無視して、どこまでも放辟邪侈を増強させて行く、
それがいつかは許されなくなって、撥乱反正を不可避に強いられる時宜がやって来る。
それも実は、君子よりもむしろ、小人たち自身のほうが自業自得で招く時宜であり、
君子はせいぜい反正後の世の中での事後処理に邁進して行くばかりのこととなる。

もちろん、小人たちはそんなしっぺ返しを食らうような事態を好き好んで招くのではない。
後々の悪因苦果としてのしっぺ返しをも共に招いてしまうような、放辟邪侈による快楽の
貪りのほうに好き好んで専らで居続けた結果、最終的な自滅をも共に招いてしまう。故に、
小人たちが結果的に招いてしまった時宜であるとはいえ、小人が引っ込められて君子が勇躍
し始めるような時宜というものが、天命によって招かれるものであるともいえるのである。

善因楽果悪因苦果の因果応報は、仏門の唯識思想などによってその厳密さが確証されている
ものであるけれども、善悪というのはあくまで世俗に介在するものであるから、そのような
因果応報もあくまで世俗において結実して行く。それは時に人道上の因果応報だったりするし、
天道上や地獄下での因果応報だったりもする。人天の領域の因果応報は概ね善因楽果だが、
その逆を行くことがそのまま地獄での悪因苦果の因果応報にも直結するものだから、
両者は全くの表裏一体であるといえ、人天の善因楽果に与ろうと精進することで自然と、
地獄に通ずるような悪因苦果を招くことも避けられるようになっているのである。

返信する

033 2013/08/29(木) 13:03:10 ID:KRJqgreHyM:au
だから、小人としての悪逆非道などを避けて、君子としての正しい振る舞いに徹するべきだ
ということが言えるが、そのためには上にも書いたような、自分たちの活躍の時宜すら
自分たちででっち上げられて行ける、「小人の道」ならではの魅力からの誘惑を断ち切る
必要がある。小人こそは自分たちで活躍の場を切り拓いて行く楽しみにも与れる一方で、
君子のほうは人事を尽くしつつも天命を待たねばならぬようなじれったさに見舞われる
ことが多々ある。それもまた、透徹した聖賢にとっては逍遥遊の楽しみに与る時宜と
なったりするわけだが、そこまでの境地に至るのもなかなか難しいことだから、自らの
活躍の時宜がなかなか来ないことへの忍耐というものもまた、それなりに必要となる。

君子の道こそは始め暗然として切り拓かれにくい一方、小人の道こそは安易に切り拓かれて
行くものであるわけだから、そのような事情をも無視して、なかなか躍動に移ろうとしない
君子を小人が「いくじなし」としてあざ笑うようなことがあったとしても、決して憤慨したり
すべきではない。小人とは歩んでいる道の性質からして異質なものであることを自らが
固くわきまえて、小人からの挑発などにも耐え抜いて行くようにしなければならない。

「聖人は天地に参じ、鬼神に并び、以って政を治む。〜天は時を生じ、地は財を生ず」
「聖人は天地の化育に馳せ参じ、鬼神にも比肩するような存在となって、政治に臨む。
天は時を生じ、地は財を生じる。(天は時宜に則るものではなく、時宜そのものである。
天地を万物を司る時空として捉えていて、聖人はその法則性に深く合致することで、
自分一身の生死すら超越するという、相当に深淵な超人描写となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

返信する

034 2013/08/29(木) 17:40:20 ID:KRJqgreHyM:au
道徳聖書「天は時を生ずる根源的存在である」
犯罪聖書「神の行いは時宜に適っている」

どちらのほうがより根本的なものであるのかが、明らか。

返信する

035 2013/08/30(金) 13:26:40 ID:ha3K6WuttY
聖書信仰や洋学は、人間社会や個々人を司る道徳規範としての価値がゼロ
ないしマイナスなのであって、別に文化的価値の絶対値がゼロなのではない。
儒家や道家や兵家を除く中国諸子百家の異端派が、ある種の文化的な価値を
認められながらも、世の中を司る政治理念としては無益かつ有害なものである
ことが認められて、政治理念として取り入れられることが特定して禁じられた
のと同じように、聖書信仰や洋学もまた、ただの文化としての保存までをも
根絶させられたりする必要はないが、社会的な実用の対象とされることだけは
もう禁止されていかねばならないような部類の文化となっているのである。

純粋に儒学的な見地に即した前漢の正史の編纂を試みた班固も、その自著で
ある「漢書」の芸文志において、異端の諸子百家の問題点をあげつらいつつも、
その長所もまたそれなりに評価して、「問題点をよくわきまえつつその学説の
精査に取り組んだならば、より一層の上達が見込まれるだろう」という風にも
述べている。洋学や聖書信仰もまた、そのような形での保全が取り組まれて
然るべきだし、場合によっては、血清の生成的な目的で、「もしも修行に失敗
して廃人と化してしまったとしても文句は言いません」といった誓約の下で
行われる密教修行の材料になるようなことすらもがあって構わないのである。

聖書信仰や洋学が、特に中国諸子百家のうちの「墨家」と共通している
要素として、国家社稷を軽んじてまでの民衆主権の偏重という要素がある。

聖書信者や洋学者が国を軽んじてまで民衆を偏重するのは、自分たち自身が
商工民だったり、商工業界からの手厚い庇護を受けた食客だったりするから
である。墨家が民業の偏重を謳ったのも、その開祖である墨子が顔面に入れ墨
(墨)を彫られるほどにも卑しい身分だったからという説があるし、また「孟子」
などにもあるとおり、中国の神話伝説上の存在である神農の為政手段に倣おうと
したからという説もある。これはいずれも多少はそうであったのに違いなく、
国を蔑ろにしてまでの民権の偏重を、何らかの神秘的、概念的な存在によって
正当化しようとしていた点もまた、聖書信仰や洋学と共通する部分なのである。

返信する

036 2013/08/30(金) 13:34:47 ID:ha3K6WuttY
国を蔑ろにしてまでの民権の尊重を謳えば、そりゃあ、馬鹿な民ほど悦ぶ。
国家が世の中にとって欠くべからざるものであることをまともな教育によって
教わっている良民ならともかく、ろくな教育も受けられないままで、権力者への
ルサンチマンばかりを募らせているような愚民であれば、世の中の最高権力で
ある(はずの)国の権威が否定されてまで自分たちの権限が(体裁上だけでも)
保障されたりすることを、嬉しがらずにはいられなかったりするのである。

それは、墨家や聖書信仰や洋学のような異端の邪教邪学こそが是とする所で
あるわけだけれども、上に書いたとおり「小道といえども見るべき所あり」で、
とにかく民を喜ばせておく手口の一種としては、看過すべきでもないところである。

国家を蔑ろにしてまでの民衆主権の保障によってこそ、ルサンチマンに駆られた
愚民たちが狂喜乱舞するということがある。それもまた一つの事実であることを
わきまえた上で、そのような事態に陥らないで済むように心がけて行く必要がある。
世の中の健全な営みのためには国権の尊重こそが重要であることを、それが実現
された世の中における治世の実現によって実証し、民たちにも理解させて行く。
ただただバカ喜びしたりする以上の所にある、真なる治世での安楽の価値をも実感
させて行くことで初めて、嫉む以上にも尊ぶべき国権というものを知るであろう。

そのような措置を講じて行く上で、過度の民権偏重によって愚民が狂喜する
場合があるという法則性をわきまえているのとそうでないのとでは、随分と様相が
違ってくる。ただただ民を独裁的な統制下に置いたりするのでは、またそのような
麻薬的中毒状態を民が渇望したりしかねないから、それもなるべく避けるべきだ
と知る。そのようにして、墨家や聖書信仰や洋学が提唱した民権偏重への知悉
もまた、それなりの学術材料としての有用性をこれからも保って行くわけである。

返信する

037 2013/08/30(金) 13:47:04 ID:dY8wtMwpKs:au
「儒に忠信を以て甲胄と為し、礼義を以て干櫓と為し、仁を戴いて行き、
義を抱きて処り、暴政有ると雖も其の所を更めざる有り。其の自立此くの如き者有り」
「儒者には忠信こそをわが甲冑とし、礼儀こそを干戈や要塞とし、仁を戴冠して行き、
義を胸に抱いて居り、暴慢な圧政があろうともその志操堅固にして不変なる者がいる。
まさにこれこそは自立したものの有り方だといえる。(圧政から逃れたがるのは
せいぜい他力本願の小人程度。君子を志す者となれば、圧政をものともしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)

返信する

038 2013/08/30(金) 18:33:40 ID:dY8wtMwpKs:au
自分が徳治を敷く素養の持ち主であるからこそ、
圧政にも敢然と立ち向かうことができる。

そんな素養がないからこそ逃げ惑ったり、
圧政の主導者と化してしまったりする。

返信する

039 2013/08/31(土) 13:42:02 ID:iQhOBuRd4w
「聖人は天地に参じ、鬼神に并び、以って政を治む。
〜天は時を生じ、地は財を生ず(既出)」
(「礼記」礼運第九)

時空を生ずる源たる天と、あらゆる資財を生ずる源たる地とに比肩する存在となり、
鬼神(死没者の霊)とも同格な超越者としてことに臨むのが聖人であるわけだから、
そのような人間を監視による保護の対象としたりすることには、もはや原理的な意味がない。
それは、天地万物全世界を時空を超えた監視下に置くようなものだから、監視下に置いた
からといって、自然のままに任せる以上のどんな改善も期待できるものではない。

聖人のほうもまた、自分が誰かからの監視下に置かれているからといって、最善を尽くす
などということはない。天地に参じ、鬼神に並ぶ者としての業務に務めた結果として自明に
最善が尽くされるわけだから、お節介な監視などは、かえって邪魔にすらなりかねない。

ただ、自らの行いが天地や鬼神に比肩するもの足り得ていない場合の指摘者となる監視者
ぐらいはあっても構わないものであり、それは刺史や目付の如き昔の徳治社会の監察官が
実際にその役割を担っていたものである。そのような監察官に落ち度を指摘されることは
全くの不手際であり、監察官もいるにしたって、全く文句を差し挟む余地もない程に自らが
完璧な業務をこなしていればそれに越したことはなかったわけだから、別に監察官を依存の
対象としたりすることもなく、なるべく口出しさせない女房役でこそいさせていたのである。

自らの過ちを矯正させる監視者程度は君子にもあって構わないが、自らを保護の対象とする
監視者などは、君子ならば全く必要のないものである。頑是無い子供でないのはもちろん
のこと、それなりに成長した大人の内でも、特に天地や鬼神にも比肩するほどの偉大さを
兼ね備えているのが聖賢たる君子であるわけだから、そんな相手を保護のための監視の
対象にしたりすることは、無礼極まりないこととなるる。無礼な上に、上記の
ような万物斉同の必然性に即して、全く意味がないことともなるのである。

返信する

040 2013/08/31(土) 13:45:31 ID:iQhOBuRd4w
監視対象となる人間を積極的な助成の対象とする監視者と、単なる弾劾の対象とする監視者
とでは、本人たちの存在意義に大きな隔絶が生じてくる。被監視者をどこまでも助成して
くれる監視者となれば、そりゃあ「欲しいものを何でも買ってくれる親」とでも言った所で、
わがままな子供の性分をそのまま持ち越してしまっているような、精神的に未熟な大人など
にとっては、超越神として崇めるにも値するような信仰の対象にすらなり得るわけである。
一方、いい年した大人を弾劾の対象とするような監視者などは、そのような未熟な大人に
とってこそ執拗な忌み嫌いの対象になるものだし、別に被監視者がそのような弾劾目的の
監視を嫌がらないとした所で、全くの自力で大業を為す能力を備えているような大丈夫をも
あえて監視の対象にしたりするのだから、やはりその「不躾さ」を恥じねばならぬのである。

だからこそ、一人前の武士たちを職務に即して監視の対象としていた目付役の武士たちも、
あえて自分たち自身の禄高を切り詰めて、人一倍質素倹約を徹底した立場からの監視に
務めたりしていたのである。また、「監視」という行為自体が自分自身の修身を疎かに
してしまいかねないものだから、人一倍武芸の修練にに励むなどの自己義務をも科していた
のだった。(武術の達人にして初代江戸大目付でもあった柳生宗矩などがその実例である)

政府が市民を徹底的な監視下に置いている今のアメリカなどが極めて閉塞的な状況に
追い込まれている一方で、天下を司る為政者こそが、保険目的での監視対象とされて
いた江戸時代の日本などにおいてこそ、民衆たち自身は監視の対象とされなくとも、
自然と貞淑な行状を保つことができていた。前者のほうが、未熟な人間を助成目的での
監視の対象としていたためにうまくいかず、後者のほうが、上達した人間をさらなる
監視の対象ともしていたために「修己治人」の効果が働いてうまくいっていた。監視者
自身がより甚大な権能を持てるのは前者のほうだが、実際に世の中がうまくいくのは
後者のほうである。監視者たち自身が自らの身の程をよくわきまえて、それ相応の立場に
収まることでこそ、かえって世の中のほうがうまく行くという実情があるのである。

返信する

041 2013/08/31(土) 14:05:10 ID:h1OsAxVOSA:au
「衆、元后に非ずんば何をか戴かん。后、衆に非ずんば、与に邦を守る罔し」
「民衆は、国君でなければ一体誰を戴くことができようか。国君もまた、民衆と共に
でなければ、国を守ることは覚束ない。(衆人が主君を主上として頭上に戴くのが
欠けたもののない状態。主君もまた、衆人と共にでなければ国を守ることができない
とするのは、>>33の礼記の引用部分のような、天地や鬼神にも比肩する聖賢としての
為政を主君が旨としているからである。神を信じないからではなく、神にも比肩する
存在だからこそ、もはや自らが神に守られるようなこともないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)

返信する

042 2013/09/01(日) 14:10:09 ID:FhnpD74RrM
人が「心を尽くす」ということは、自らの親や主君への忠孝を心がける所でこそ極まる。
友人や隣人への心尽くしだとか、商売人の客への心尽くしだとか、侠客の主人への
心尽くしだとかも、それなりのものであったりするが、ことに心尽くしの度合いに
かけては、君父への忠孝の心尽くしに勝るようなことが決してあり得ない。

なぜかといって、子や臣下たるものの君夫への心尽くしこそは、どこまで尽くした所で
決して天下の公益を害するようなことがないからである。商売人が、自分たちへの
利益誘導のための顧客への心尽くしなどを企てたなら、そのせいで自己利益を損ねて
しまうような人間がどこかに生じてしまうものであり、そのような商売敵からの報復
にもそれなりの心配りをしておかねばならないから、そのぶんだけ、一心不乱な
心尽くしが殺がれることともなってしまう。友人や隣人といえどもそのような問題を
少なからず来たしてしまう一方で、君臣父子の関係だけは、そのような問題を来たさない。
君臣父子の序列こそは、天下国家万人の安寧と繁栄とを司る根本的な礎たるものだから、
そこで心尽くしの限りを果たした所で、何らの後ろめたさを抱かなくていいから、心尽くし
のほうが、他のいかなる関係性における場合以上にも、徹底することができるのである。

子や臣下の君父への忠孝の心尽くしこそは、全くの捨て身となるものでもない。子は
親にとっての重要な後継者となり、臣下は主君にとっての重要な家臣となるわけだから、
親や主君のほうも相手を全くの蔑ろにしてはならないし、子や臣下のほうもただただ
捨て身で君父に仕えるというばかりではいけない。それなりにお互いの利害に連動性が
伴っていた上で、配下の者が目上の者に尽くすという所もまた普遍的であるわけだから、
侠客が主人のために全くの捨て身での鉄砲玉仕事などをするようなことも許されない。

返信する

043 2013/09/01(日) 14:23:57 ID:FhnpD74RrM
聖書信仰における「汝の神を愛せ」などは、結局のところ、自分自身を愛することと
同等のものであった。その自己愛を隣人や友人にも振り向けろということで、それは、
自己を全く捨てきってまで相手に尽くそうとしたりするわけではない君父への忠孝
などとも、構造的には似通ったものとなっている。だからこそ、何の信仰もないような
人間が隣人や友人に尽くしたりする場合以上にも手厚いもてなしが心がけられたりも
するわけだが、所詮、友人や隣人ごときを相手にそこまでのもてなしを心がけたりする
道理というものがないわけだから、自己愛を神の愛にでも摩り替えないことには、
そこまでもの他人へのもてなしなどを心がけたりすることもできないのである。

自分は自分でしっかりと保つべきものである。自己愛を神への愛などに摩り替えたり
もせずに、自分自身というものをその身の程に即してしっかとわきまえる。その上で
なおのこと心を尽くせる相手となれば、それは親や主君でこそあることに自然と気づく。
妻子や愛人ですら、自己をしっかりとわきまえた上でもてなす相手として、親や主君
に及ばないものであることを知り、「君臣父子夫婦」という序列に即した人間関係
というものを、実感的な納得と共に重んじて行けるようになるに違いない。

君父への忠孝に根ざした心尽くしこそは、自分自身というものをしっかりとわきまえた
シラフのものとなるわけだから、その聡明さに即して、自分自身が悔いのない清々とした
人生を送り抜いていく上での糧ともなる。偽善の心尽くしは自分のためにならないが、
君父への心尽くしは偽善ではないから、自分のためにもなる。巨万の富をわが手元に
置いておく場合にすら得られないような、本物の満足が自分自身にも具わるのである。

「其の道に尽くして死せる者は、正命なり。桎梏にして死せる者は、正命に非ざるなり」
「道義のために心力を尽くして死ぬ者こそは、正しく天命に適っている。手かせ足かせ
をはめられて死ぬような罪深い人間は、正しく天命に適っていたなどとはいえない。
(イエキリも『私の足かせをはめよ』という通り、そんなものに心を尽くすのは正命ではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二より)

返信する

044 2013/09/01(日) 20:06:44 ID:YdKeOIv4bk:au
もちろん、君父への直接的な忠孝に励むのは、一家を相続する嫡男に
あたるような人間に限られるわけで、そうでない人間も多くいる。

女なら、そのような男を支援する妻や母としての心尽くしに努めるので
なければならないわけで、それこそは自分自身にとっての間接的な
忠孝の務めであるとわきまえなければならない。

返信する

045 2013/09/02(月) 13:08:04 ID:viECp0Khz.
資本主義国の大物経営者が、巧言令色の限りを尽くしてでっち上げてみた
名言集などは、実際には何の役にも立たないようなものばかりである。
そのような名言集の出版自体が人気取り目的であるため、自分たちが
裏でやり込めて来たあくどい商法などはあえて表に出さないままでおく、
だから虚飾も込めつつ表に出された本人たちの言葉だけを真に受けてそれに
倣ってみたりしたところで、ろくな結果には結び付かないということがある。

その、商売人があえて表には出さないような闇の部分を、晦渋な寓意を介し
ながらであっても文面化しているのが犯罪聖書の記述だったりするわけで、
悪徳商法でのし上がるための秘訣としてより有効であり得るのは、むしろ
こちらのほうである。だからこそ、犯罪聖書のうちでも特に「だます側」の
秘訣の目白押しとなっている旧約を信条としているユダヤ教徒こそは、悪徳
商人として世界最大級の成功を修められているのでもある。(新約のほうは
「だまされる側」への洗脳手法の披瀝が主であるため、ブラックアフリカの
キリスト教圏でのように、かえって大災厄の元凶となってしまったりもする)

しかし、その犯罪聖書が秘訣となる手法を列挙しているような、権力犯罪による
商業的栄華の獲得というもの自体、世の中にとって有害無益極まりないもので
ある上に、最終的には大破滅を呼び込むものであるから、厳重な予防の対象
として行かねばならないということを主意としているのが、儒学道徳でもある。
夏や殷や秦といった帝国の末期における、政商との癒着を来たしての大破綻
をも参考材料として、公権力者の側からの権力犯罪の予防を旨としている。
それは、自分たち自身が政治責任を負わない商売人の立場からでは、政商
をも容認するような重大権力犯罪の、大局的な観点から見た場合の有害無益
さを十分に計り知ることができないからであり、あくまで最大級の責任を
背負う為政者の立場からの修己治人によってのみ、権力犯罪による世の乱れを
十二分に回避して行くことができるものであることを踏まえているからである。

返信する

046 2013/09/02(月) 13:16:21 ID:drLfmmdwQ6:au
削除(by投稿者)

返信する

047 2013/09/02(月) 13:16:54 ID:viECp0Khz.
大商人が人気取り目的で言い放ったような綺麗ごとの名言などよりは、
悪逆非道で巨万の富を巻き上げて行く手法自体を列挙している犯罪聖書の
記述のほうが、まだ実質性に根ざしているということはいえるが、そもそもが
商売や権力犯罪のような悪行によって成功しようとすること自体、自分たち
自身の生計の場である世の中を損ねてでも、私益だけは膨れ上がらせようと
する本末転倒の所業であるわけだから、いずれも五十歩百歩のろくでなしで
あることには変わりない。むしろ、表にも名を出せるような範囲での活動に
止まっていたようなただの商売人のほうが、都市社会においての必要悪でも
ある商売だけに専らであったぶんだけ、全くの不必要悪である権力犯罪にまで
手を出しての商業的栄華を試みた聖書信者などよりもまだマシだったといえる。

天下国家からの徳治を旨とする儒学道徳の観点から見れば、権力犯罪にすら
手を出しての金満による栄華を志す聖書信仰こそは、実践材料としては厳禁の
対象として行かねばならないものとなる。一方で、ただの商売人の成功などは、
完全に厳禁されるべきものとまでは行かず、都市社会の機能性維持のための
「つなぎ」程度のものとしての活動ぐらいは容認される。その上で、商売の
ような「末業」で成功を試みたりすることの浅ましさを、天下全土の万民に
対してよく教化し、貧しくとも農業や必需工業の如き「本業」に専念して行く
ことの偉大さを知らしめて行くようにする。たかが商売人の名言集などは、
ただの巧言令色の集成として誰にも顧みられなくなり、世の中で実践されて
行く頻度では、犯罪聖書のそれ並みに皆無となって行くのである。これこそは、
ただの小人と最悪級の小人の、それぞれに相応な両成敗ということとなろう。

返信する

048 2013/09/02(月) 13:21:14 ID:drLfmmdwQ6:au
「聖人は象を立てて以て意を尽くし、卦を設けて以て情偽を尽くし、繋辞を以て其の言を
尽くし、変じて之れを通じて以て利を尽くし、之れを鼓し之れを舞し以て神を尽くせり」
「聖人は易を作る際に八卦の象を立ててその本意を尽くし、六十四卦を設けて物事の
表裏真偽すべての描写を尽くし、卦辞を設けてその言わんとする所を示し尽くし、卦の
変化を通じて物事の利害関係の説明を尽くし、その鼓舞によって神の意図すらも尽くした。
(実際問題、空しい嘘偽りも介在する万物清濁を包含し尽くして、その意を尽くしている
のが易であり、その易の法則に則るのが儒学の提示する人間道徳である。何が悪いものか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

返信する

049 2013/09/03(火) 13:12:15 ID:YzIp8U8AMA
何らの君子による統制もないような世の中で、私利私益だけが全てであるような小人
たち同士での経済競争を無制限に放任していったならば、今の世界のように、国家間での
経済格差が450倍にも達するような事態にすらなってしまう。(一人当たりGDPで換算)
それこそ、富める者はさらに富み、貧窮する者はさらに貧窮するという事態であるわけで、
そのような事態を回避するためには、ただ富の偏在を是正するだけでもまだ不足となる。
経済的な我田引水に貪欲であったような連中ほど卑しみに卑しんで、そうでもなかった
ような人々ほど尊びに尊ぶというほどもの、尊びや卑しみの重畳すらもが必要となる。

それこそ、現代世界で「差別主義」という言葉で徹底的な糾弾対象ともされている、
階級制度の導入にすら繋がることとなるわけだけれども、その階級制度こそは、
かえって経済的な差別を是正する効果を持ち得るわけだから、それはそれである種の平等
を期するものであるとすら言えるわけである。極度の経済的格差に苛まれている世の中と、
適正な階級制度で守銭奴こそが差別下に置かれた結果、経済的な格差の是正された世の中
とでは、前者よりも後者のほうがよっぽど幸福でいられる人間も多いに違いないのである。

階級制度がまさに差別主義そのものとなることも、実際にあり得ることである。
それこそはまさに、政治権力と商業利権が結託した世の中における階級制度であるわけで、
そこでの階級制度はもはや、富の偏在を是正する効果を持ち合わせるどころではない、
むしろ富の偏在を絶対化するための正当化材料とすらなってしまう。そのような階級差別の
正当性の根拠となるのは、カルト信仰に基づく王権神授説だの政商犯の黙認だのである
わけで、インドのカースト制すらもが、祭祀階級や王族階級と産業階級の格差を明確化して、
世の中がそのような事態を黙認することだけは徹底した抑制下に置き続けている。

政商を許容しつつの階級制度の徹底こそは、この世に最悪の地獄をもたらすわけで
(暗黒時代のキリスト教圏などがその実例)それはカルト信仰だとか法家思想
だとかの独特の思想信条によってこそ正当化されるものでもあるわけだから、
そのような思想信条と共なる排撃の対象として行かねばならない。

返信する

050 2013/09/03(火) 13:32:33 ID:YzIp8U8AMA
極端な話、商売人を差別下に置くための階級制度こそは、この世に経済的な平等からなる
安寧をもたらす一方で、商売人を差別下に置かないような階級制度や平等主義こそは、
経済的な格差を極大化させた挙げ句の貧窮を招くことになるのだとすら直言できる。

一応、経済的な格差を是正しつつの平等主義というものも「共産主義」という形で提唱
されたわけだけれども、それはかえって、商売人を差別下に置く場合以上にも、商業と
いうものへの去勢措置を徹底することとなってしまったために、そのせいで産業全般の
停滞を招いて、ソ連の崩壊や中共の体制腐敗などの破綻を招いてしまったのだった。

一定の差別下に置きながらであっても、それ相応の活動ぐらいは許容してやるというのが、
商売人に対する最も適切な処遇となる上に、世界史的に見ても、最も恒常的な商売人の
有り方ともなっている。儒教に即して商売人を徹底的な差別下に置いて来た中国や朝鮮
はもちろんのこと、政商利権を暗黙の了解として許容して来た西洋社会すらもが、そこで
政商犯としての役割を担うユダヤ教徒を公然では忌み嫌いの対象とするなどして来た。
そうしないと、最低限の世の中の保全すらもがままならなかったからで、その最低限の商人
差別すらをも撤廃した今の欧米中心の世界こそは、破滅の危機にも見舞われているのである。

この世の中というものは、一定の必要悪が介在することで成り立っているところがある。
その必要悪の最たるものこそは商業やガラクタ産業であるわけで、そのようなものにも
それなりに頼るところがあるからこそ、それらを差別下に置きながらの社会運営こそは
最も健全たり得るという法則がある。それに対する背理法の実践もまた、資本主義や
共産主義の推進とその失敗によって既に完遂されている。結局のところ、必要悪の不必要
悪化を相殺するための必要悪としての、商業差別を目的とした階級制度もまた必要なもの
であることを、清濁併せ呑む大人の達観に即してこそ受け入れるべきなのである。

返信する

051 2013/09/03(火) 14:41:39 ID:O9EvmzCnXw:au
「豫は、候を建て師を行るに利ろし。豫は剛応ぜられて志し行わる。
順以って動くは豫なり。豫は順以って動く、故に天地も之くの如し。
而かるを況や候を建て師を行るをや。天地は順を以って動く。故に日月過たずして
四時忒わず。聖人順を以って動けば則ち刑罰清くして民服す。豫の時義、大いなるかな」
「豫は、主君を立てて軍師団を進めて行くのに格好の時期である。剛毅なる者にも
応じる者があるためにその志しも果たされて行く。一方で、豫は万事が順調な時でもある。
天地日月四時の運行も至極順調な時であるから、聖人もその順調さに則って活動すれば
刑罰も公正なものとなり、民たちも素直に帰服することとなる。豫の時宜というのは、
なんと偉大なものであろうか。(豫は謙を上下転倒させた賓卦であり、万事順調である
が故にかえって驕り高ぶりやすい時でもある。そこをあえて主君を立てて、軍団を進めて
刑罰を正せば民たちもよく服する。驕り高ぶりやすい時宜というものもまた、それなりに
善処の余地があるのであり、ただただそれを退ければいいというものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——豫・卦辞‐彖伝より)

豫卦は、秦帝国追討時に項梁の軍が楚の懐王を立てて進軍を始めた時期の卦ともなっている。
全軍の師である項梁が秦軍の欺瞞工作にやられて討ち死にしたりすることもあったが、
実際に秦帝国の討伐自体は成功した。それは、兵隊たちの驕慢の気がかえって秦への
旺盛な討伐意識に振り向けられたからだといえる。小役人時代に酒場で偉そうな放言ばかり
を吐いていた劉邦もその内にいたわけで、なおかつ劉邦はそのような快進撃を通じて
驕慢を解消させられて行ったからこそ最終勝利者ともなり得た。どこまでも破壊王として
の驕慢を持ち越し続けた項羽の末路は知っての通り。驕慢の気も時には善用できると
したところで、それはそれでやはり、過ぎたるはなお及ばざるが如しという所がある。

返信する

052 2013/09/03(火) 17:50:36 ID:O9EvmzCnXw:au
自分個人が独立的に抱く驕慢とはまた別に、
物事があまりにも順調に行き過ぎてしまっているがために
抱いてしまう環境依存型の驕慢というものがある。

「それにも用心して虚心でいなければならない」という程度のことは
誰でも思いつくわけだが、易たるや、そのような驕慢の気こそを進軍や
清明な刑罰に活かせというのだから、実に巧みなものだ。もちろん、
君臣の義をよくわきまえる程度の下準備は必要だともしているにしろ。

返信する

053 2013/09/03(火) 20:46:58 ID:YzIp8U8AMA
楚軍としての秦国討伐に際し、項梁は快進撃にうぬ惚れた挙げ句に、
敗走を装う章邯によって死地に追い込まれて殺されたし、その甥である
項羽も項羽で、攻略した都市での兵士による虐殺や強奪強姦を欲しいままにした。
そのため、秦朝崩壊後にも、穏健な征伐を執り行っていた劉邦こそが新たな
帝王として君臨することを待ち望む声が方々で聞かれるようにもなった。

劉邦のほうがむしろ、項羽や項梁以上にもあからさまに酒場などでの驕慢懈怠を
ひけらかすような振る舞いに及んでいたことが史実としてすら記録されている。
秦始皇帝の巡行を目にしたときにも、項羽は「いつかあいつを殺してやる」
と息巻いていた一方、劉邦のほうは「男たるもの、ああでなければな」などと
余裕綽々の感想を述べていたともいうから、驕慢の原因ともなってしまうような
心の余裕はむしろ、劉邦のほうが項羽など以上にも豊満であったものと思われる。

それでいて、その劉邦こそが秦帝国討伐に際しても、干戈一つ交えることなく
敵地をまた一つ、また一つと攻略して行くような、余裕に満ちた征伐をも実現して
行くことができた。秦の首都である咸陽に一番乗りで乗り込んだ時にも、まさに
清明な刑罰を旨として、悪の巨魁・趙高を殺した上で投降して来た秦王子嬰を、
命程度は永らえさせる寛大な措置の下においてやったのだった。(ただし、直後に
咸陽に乗り込んで来た項羽によって、結局は子嬰も斬首に処されることとなった)

むしろ、驕慢の気ケ自体は、項羽や項梁以上にも劉邦のほうが旺盛だったろう。
その驕慢の気をうまいこと秦国の討伐作業に転じて、穏健な敵地攻略や清明な
刑事にも振り向けることが出来た。易でいうところの「豫」という時宜を、より
旺盛な驕慢の気によってうまく利用できたのが劉邦だったからこそ、楚軍の内では
格上の部類だった項家すらをも凌いでの、最終勝利者となることができたのだった。

返信する

054 2013/09/03(火) 22:58:03 ID:O9EvmzCnXw:au
易の言わんとする所は、完全にレベルが違いすぎる。

だから、孔孟に始まる儒者たちがそれをより分かりやすく説きおこそうと心がけたが、
そしたら今度は分かりやす過ぎて侮られることとなってしまった。

易学をも母体とする儒学という教学の本旨は、
理解されているようで誰にも完全理解までされていないという度合いでは、
仏教にすら並ぶものとなっている。

理解自体はとっくの昔に済まされた上で、そこからの
無駄な正当化を延々と繰り返し続けているような邪学もあるにしろ。

返信する

055 2013/09/04(水) 11:33:58 ID:575w2y.c6c
「死んで天国に生まれ変わる」とかいった風な方便で以って、実際に死に至る
人間がその苦痛を紛らわせられるということがある。それでいて、死んでしまえば
もはや聖人も愚人もあったもんではないから、そのような愚昧な思い込みに
よってでも生死をやり遂げられるのであれば、それでもいいじゃないかとする。

個々人の範囲でしか物事を考えないのであれば、実際その程度の結論に満足
しきってしまえたりする。ただ、世の中や自分以外の他者までをも考慮に入れた
ならば、そうでばかりでもいられるものではない。「死んで生きる」だのの虚妄で
死への恐怖をやわらげようとするような人間こそは、存命中に精神薄弱からなる
妄動を来たして、人様や世の中へと多大なる迷惑をかけ尽くした挙げ句にこの世を
去るようなことにすらなってしまう。今の欧米キリスト教徒による人類滅亡の危機の
呼び込みなどもまさにそれであるし、日本における団塊の世代などの死への覚悟の
無さからなる社会体制の奇形化なども、同様の問題性を帯びたものだといえる。

日本人は別にキリスト教に帰依しているわけでもない。キリスト教はおろか、
浄土門のような仏教版の来世教すらをも、廃仏毀釈以降は侮ったままの状態でいる。
それでいてやはり、死への覚悟が十分に出来ているなどというわけでもなく、
生まれた頃からアメリカによる占領下にあった団塊の世代以降の日本人はその
ほとんどが、自分たちが永遠に死なないで済むかのような思い込みを半ば帯びた
ままでいてしまっている。それは、一応は「死」というものを念頭に置いて
いるような信教に帰依する以上にもある意味、稚拙なことであり、その稚拙さが
欧米人以上もの近代医療への強依存などの形で派生し、国家規模での重度の
医療負担などの深刻な問題を来たすことともなってしまっているのである。

返信する

056 2013/09/04(水) 11:37:01 ID:575w2y.c6c
死への恐怖を稚拙な来世教義で紛らわさせた結果、存命中の信者の妄念妄動を
深刻化させた挙げ句に人類滅亡の危機すらをも招いてしまっているキリスト教と、
そもそも国民たちにまともに死との対峙を促してすらいない今の日本の社会体制と、
いずれもがまともに人間社会を保って行けるだけの条件を満たしていない点では共通
している。キリスト教などとも同じ来世教ではあるが、そこに悪人正機のような仏説に
基づく死への覚悟の強化のエッセンスを付随させた浄土教あたりのほうがまだ、世の中を
まともに運営して行く上での最低限度の文化規範としての条件を満たせているといえる。

どんな形であれ、人々が一定以上の死への覚悟を持てている世の中のみが、
百年以上、数百年以上に渡って安定を保ち続けられる条件を満たすこととなる。
浄土教のような、死への覚悟もそれなりに抱かせる来世教に頼るのも一つの手だし、
来世すら信じることなく死への覚悟を抱かせる聖道門の仏教に頼るのもまた手だし、
先祖代々の家門の尊重を通じて、自分個人の生存者としての身の程をわきまえる儒学や
神道の教理に頼るのもこれまた一つの手だといえる。人類ももう数千年以上にわたって
高度な文明社会を築き上げてきているわけだから、生死の苦悩を克服する手立てという
ものもそれなりに生成して来られている。そのような機能にかけて白眉であるのは
仏教だし、仏教以外でも似たような効能を持ち得る教学はすでに多数存在している。

ただ、今のアブラハム教圏に当たるような西方社会では、そのような生死の苦悩を十全
に克服するための文化よりも、すでに来たしてしまった苦悩を物質的な快楽によって
紛らわすことのほうが優先されて来てしまっている。だからこそ物質文明の構築は
西方社会のほうが主導的でもあり続けて来たわけだが、その物質的構築こそがもはや
地球という星の許容量を超えつつあるために、いい加減自粛を心がけねばならない事態
となっている。とはいっても、ただ物質文明の発展を滞らせたのでは、発展によってこそ
生死の苦悩を紛らわせられていた西洋人たちの精神的鬱屈が避けられるものではない。

返信する

057 2013/09/04(水) 12:50:14 ID:5vsSpnWUAc:au
そのため、生死の苦悩を聖書信仰など以上にも着実に癒してくれる教理というものに
すがって行かねばならぬ所がある。それは、西洋人などにとってはまさに初めての
経験となるわけだけれども、全世界、地球規模では何千年と積み重ねられて来た業績
の反芻に過ぎないことともなるわけだから、何らの心配も要らないことだといえる。

「貞疾あるも、恒に死せず。貞疾は剛に乗ればなり。恒に死せずとは、中未だ亡ばざればなり」
「貞正であることにかけて差し障りがあるが、いつも死ぐらいは切り抜けられる程度に幸いでいる。
貞正であることに差障りがあるのは調子に乗っているからである。それでも死ぐらいは切り抜け
られるのは、自らが中ぐらいの位階に居ることの形式からなる貞正さが滅ばずに済んでいるから
である。(この記述も、秦帝国討伐時に楚軍の中将程度の役割を担っていた劉邦の有り方に合致する。
それ以上に高位な立場にあった項梁などは、貞正さを全喪失して返り討ちに死することとなった。
正規の社会的位階をも逸脱しての思い上がりによる死ということについては、聖書信者などにも
当てはまる疾患であり、それによって死ぬことこそは最悪の事態であると易も断定している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豫・六五‐象伝より)

返信する

058 2013/09/05(木) 13:52:37 ID:7qe/WC3oLw
士農工商の四民の序列に基づくならば、商売人こそは万人への謙りに
務めねばならぬ最下級の人種となる一方で、士人などは逆に万人からの
尊崇を集める人の花形となる。とはいえもちろん、士人は士人でより上位の
大夫や王侯将相へと謙らねばならぬわけであるし、天下国家の頂点に立つ
帝王といえども、神仏への崇敬などによって謙譲さを育んだほうがより
よいわけだから、この世界に一切の謙譲を必要としないような人間などは
一人もいない世の中こそは、健全な世の中であるともいえるのである。

封建社会において上位とされる人間と下位とされる人間の違いは、謙譲を
尽くさねばならぬ義務性を帯びている相手が少ないか多いかという、ただ
それだけの違いである。そのうちでも、特に万人への謙譲すらをも尽くさねば
ならぬ義務を帯びているのが商売人であるから、商売人こそは誰から見ても
腰が低いような風体をも帯びるものである。(別に商業差別が敷かれて
いるわけでもない今においてですら、小売業者が顧客の見境もないような
「謝恩大セール」などを方々で催していたりするのもその例である)

だからこそ、商売人が人々からの直接的な非難の対象となるようなことは
ほとんどない。まれに非難されることがあったとしても、それは客に対する
無礼な応対などが露見してしまった場合がほとんどである。一方で、むしろ
人様に対して上位的な立場であることがどうしたって免れられない、官僚や
警察やその他公務員や教師などが非難の対象となるのはしょっちゅうである。
本当に救いようのない犯罪行為をやらかして非難されたりすることもあるが、
そのような要職に就く者にあるまじき不手際というものを非難されることも
またあり、それはただの商売人などであれば別段非難されるほどのこと
でもなかったりする。(たとえば高給取りであったりすることなど)

返信する

059 2013/09/05(木) 13:56:44 ID:7qe/WC3oLw
万人に対して感謝感謝の風体でいるからこそ、その結果として商売人が得た
高給を羨望の対象とする人間はいても、非難の対象とする人間はいない。
少なくとも、商業への卑しみが徹底される封建社会でもない限りは、
平身低頭の限りを尽くして商売人が得た富というものを非難することは
暗黙の禁忌とされて、もしも無理に非難したりすれば「アカ」のレッテル
すらをも貼られかねないこととなる。「あそこまで謙譲の限りを尽くして
いる人間が、その結果として巨万の富を得られたりするのはもはや仕方のない
ことじゃないか」という風に考えてしまう人間心理というものがあるわけで、
それすらをも超克するためには、努力に相応な対価すら期待しないほどもの
心意気が、それなりの実践と共に育まれて行く必要すらもが生じるのである。

商売人という立場は、都市社会が形成される上での、本末のうちの末業に
あたる必要悪であるわけだから、誰しもに感謝や謙譲の限りを尽くしている
ぐらいでちょうどなぐらいのものとし、だからといって巨万の富を腹中に
抱え込んだりするのも僭越であるというぐらいのわきまえでいていいのである。
一方で、士大夫階級の人間が封建社会において、万人に対して謙るようなこと
はないけれども、それでもその行いが天下国家の公益に直結しているからには
分相応なあり方であり、むしろ平民であるような側の人間が感謝の念を振り
向けねばならないものと知らねばならぬ。別に、それが先天的な格の違い
などによって徹底されねばならぬことでもない。自分たち自身の日日の行い
に即して、当然のこととして被らねばならない処遇であるまでのことである。

「君命じて召せば、賤人と雖も、大夫士必ず自ら之れを御う」
「主君が命じて人を召した時には、相手が下賤の者といえども、上位の
大夫から下位の士人に到るまで丁重にこれを迎える。(人を召す場合には、
むしろ召す側のほうが謙譲や感謝の限りを尽くさねばならぬものである。
こういった当たり前な礼節すら平然と転倒させてしまっているところに、
犯罪聖書の記述ならではの有害かつ麻薬的な中毒性があるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)

返信する

060 2013/09/06(金) 13:30:16 ID:v5p46C6bUY
「市場」というのは、いつの時代、どこに言っても喧騒としているものである。
ただでさえ小売店の店員が威勢よく商品を売り叩いているようなところに、
さらにやたらと気分を高揚させるようなBGMをかけ流したりする。ひどい所では、
複数のBGMを大音量で垂れ流して不協和音の雑音状態にしてしまっているような店
すらもがあるが、それもそれで一つの購買意欲の喚起を狙った手法となっている。

市場の喧騒は、道路脇の看板や、テレビやラジオやネットなどでの広告戦略などの
形で、町中や茶の間に到るまで広められて行く。情緒も季節感もあったもんじゃない、
ただただ騒がしい広告戦略に取り込まれて、人々も市場並みの喧騒の内側にい続ける
のが当たり前であるかのような精神状態と化してしまう。たまに人里離れた山奥など
に行って見れば、心が落ち着くどころか、かえって不安な気分にすらなってしまう
ようなことともなる。それこそ、外的な環境汚染によって患ってしまった、潜在的な
躁状態であるわけで、資本主義社会の発展に従事させるための奴隷要員としては
格好の精神状態であるわけだけれども、いざ資本主義に基づく社会発展が滞って
しまった場合などには、これまた外的な要因によって鬱状態へと振り切れて
しまいかねない危険性を孕んだ精神状態となってしまっているのである。

資本主義による社会発展が頓挫した場合にも、戦争による国威の発揚などに
よって人々の逸り立った精神状態を保ち続けることが、今までにも主にアメリカに
よって試みられて来ているわけだが、それももう袋小路状態の様相を呈している。
核保有国でない中東諸国への攻撃などによってどうにか軍産利権の回転をも保とう
としてはいるが、そこに全く戦争を行うだけの道義が伴っていないことが、当の
アメリカ国民たち自身にすら悟られ始めてしまっているものだから、新たな攻撃の
開始などにも、相当の躊躇をせざるを得ないような事態となってしまっている。

返信する

061 2013/09/06(金) 13:40:29 ID:v5p46C6bUY
資本主義ペースや戦争ペースの喧騒的な高揚状態などは、実際問題、どこまでも
恒常的に発展させ続けられたりするものではない。だからこそ、資本主義的な
発展の理念上の雛形となっている旧約においてですら、バベルの塔の崩壊の如き
大破綻が予見されているのである。旧約の著者であった古代のユダヤ教徒なども、
政商として古代オリエント諸国の過剰な商業発展に加担した挙げ句の経済破綻を
いくつも見てきていたのに違いなく、それを自分たちのせいではなく、神の怒り
によるものだなどと欺いている点だけが、現実に反する部分となっている。

どこまでも市場レベルの喧騒を拡大させて行くような志向性からして、
人間社会の健全な運営のためには抑制されて行かねばならぬものである。
そんなものばかりを追い求めるからこそ、破綻を来たしたときの鬱状態への
振り切れまでもが避けられなくなってしまうわけで、始めから自然状態の静寂と
いうものに親しんでいられたなら、決してそのような事態にも至らずに済むわけである。

街中になんの情緒もなくドカンと建てられている教会などではなく、静かな
郊外に建てられたり、敷地内に林野を養生したりすることで人工的に静寂を企図
していたりするような寺社において嗜まれる宗教活動などが、人々に静寂への
尊重を促す活動たり得もする。特に禅寺での修行などはそれに特化していたり
するわけで、極度の覚醒状態でもなければ沈鬱状態でもない、人間にとって最も
適正な瞑想状態というものがそこで研鑽され続けているのである。(ただし、
修行に失敗して精神を病んでしまうような人間も若干数はいるようである)

資本主義ペースの喧騒に慣れ切ってしまっているような人間が、人として適切な
沈静状態へと立ち直るためには、麻薬中毒から脱却するぐらいの苦難が伴い得る
ものでもある。一時は鬱状態にも振れ切ってしまって、そこから立ち直って行く
ぐらいの遠回りをも覚悟しなければならない。余生の短さから言って、快癒も
覚束ないような老人などについては、ゲームの内側あたりでの喧騒で何とか人生を
やり過ごさせるのも一つの手ではあるかも知れぬ。甚だ哀れなことであるとはいえ。

返信する

062 2013/09/06(金) 14:26:13 ID:sFDM.oyFZA:au
「著れて息まざるは天なり、著れて動かざるは地なり。一動一静は
天地の間なり。〜楽しめば必ず声音を発し、動静に形るるは、人の道なり」
「現象として転変し続けるのが天である一方、自分からは一切能動的でない
のが地である。一つ一つの動静は全て天地の間において生ずるものである。
楽しいときにはその思いが声色や動静に現れるのが、人の道というものである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)

たとえば、ただひたすら走り抜く陸上競技だとか、ボクシングみたいな
これまた前進第一な格闘技だとかは、やってる最中に楽しめるもんじゃない。
一方で、動だけでなく静も重んじた身体操法で技を繰り出す合気柔術などは、
ただやってるだけで面白い。だからこそ試合での勝利による歓喜なども必要ない。

ただただ覚醒状態でいるようなのも、人間にとって楽しいことじゃない。
それを信者に強いている聖書信仰なども、信仰自体は何も面白くない。
面白くないからこそ敬虔だなどとも思い込むし、精神的な飢渇を募らせての
妄動にも走る。楽しくない上に、そこから派生する結実もつまらないものばかり。
その負の連鎖は、信仰を貫徹することなどではなく、そんな信仰に価値は
なかったのだということを認めることでのみ断ち切ることができる。

返信する

063 2013/09/08(日) 12:55:29 ID:8PFNpfZen.
「ゆく河の水は絶えずして、しかももとの水にあらず(方丈記)」という通り、
人々が似たような生活を繰り返しているこの人間社会も、百年程度でごっそりとその人員が入れ換わる。
前世や来世があるのであれないのであれ、人々はみな新たな自我を得た知能ある生き物として、
星の数ほどもの前人が幾度となく経験して来たような社会的経験を、全く新たなものとしてまた経験して行く。

親の死なども、誰しもが経験して来ていることだけれども、自分自身が父親の死を経験するのは一度きり、
母親の死を経験するのも一度きりで、大きな哀しみをもたらすことにかけては未曾有の事態ともなる。
そこで「誰しもが経験する恒例行事だから」などと開き直ってろくに悲しまないでいようとしたりしたなら、
それでは人情に欠けることとなり、自分個人の人間としての立場を逸脱した概念夢想への逃避ともなってしまう。

だから、人道を最大級に重んじる儒者は、親の死に目などには半ばわざとらしいほどにも泣き崩れて悲しみ尽くす
ことを良しともして来た。親の死後は絶食して杖突くほどにも衰弱し、三年は喪に服しての自重をすべきだとする
古来の儒家の礼法なども、現代ではなかなか実践の難しいものであるけれども、それぐらいまでしても、
自らにとっての未曾有の悲劇たる親の死を悲しみ尽くすべきだとする儒家の心意気ぐらいは汲み取るべきであり、
孔子の弟子の宰我のように、そこに疑義を差し挟むようなことがあるべきでもない。なかなか実践するのも
難しいことではあるが、親の死に際しての絶食や三年の服喪もまた、そうまでしようとする心情ぐらいは
分からなくもないというぐらいであってこそ、現代人もまた相応の人道を踏襲して行けるものだと言える。

本来なら、親の身体を無闇に傷つけたりしないために、頑強な棺桶に遺体を納めての土葬に付したほうがよりよい
ともされているわけだけれども、今の日本の場合は仏教からの影響と、衛生上の理由とで火葬が主となっている。
この内の仏教からの影響は、諸行無常という真理を尊ぶ観点から導入されていることであり、その諸行無常の
真理こそが、愛別離苦を含む人間にとっての恒常的な苦しみ(八苦)を司るものともされている。

返信する

064 2013/09/08(日) 12:58:28 ID:8PFNpfZen.
それが、人間の人生が一切皆苦であるとすら断じられるほどもの多大なる苦しみである
ということは仏教も認めているわけだから、概念夢想に逃げ込んで苦しみから目を背けたり
するような不埒さは伴っていない。特に大乗仏教の場合、人道上の苦しみからの解脱を得た
菩薩といえども、未だ苦しみに苛まれ続けている衆生への限りない慈悲を抱くとされているわけだから、
実際に存在する苦しみを侮るような不埒さは、どこまでも排除し尽くされているものだといえる。

何千年ものあいだ連綿と似たようなことが繰り返されて来ている人間社会の業というものを、我流で下手に
諦観しようとしたりした時に、人は心を病んでしまう。ニーチェのように、我流の永劫回帰説の提唱が
原因で発狂してしまったりするのが極例だが、そこまで行かずとも、心中に不埒な思い上がりを燻らせての
サイコパス状態と化してしまったりする。親の死の一つもろくに弔えなくなってしまっていたりする現代人に
こそそのような症状も顕著であり、むしろそれでこそ、親への依存心を排した立派な社会人扱いをされたり
すらする。そしてそのような精神病質者によって司られている世の中こそは、着実な破滅にも向かっている。

親の死も十二分に悲しめる人道の堅持こそは、確かにこの世の中の安定を保って行く礎ともなるわけだから、
自らが出家者でもない限りは、そうすべきである。在家者でありながらろくに健全な喜怒哀楽を保って
いようともしないような僭越こそは、人道への違背に直結しているが故に、精神を病ましめる原因とも
なってしまうのだから、それを助長してしまうような概念夢想での我流の諦観なども避けるべきである。

返信する

065 2013/09/08(日) 13:01:11 ID:KRJqgreHyM:au
「湯の盤銘に曰く、まことに日に新たに、日々に新たに、又日に新たなりと(既出)。康誥に曰く、新民を
作すと。詩に曰く、周は旧邦と雖も、其の命は惟れ新たなりと。是の故に君子は其の極みを用いざる所無し」
「湯王の祭礼用の洗面器には『今日は昨日よりも新たに、明日も今日より新たに、日々これ新たに』と銘が彫られて
あった。また書経の周書康誥には『新たな善行に励む民たちを育てる』とある。また詩経大雅の文王にも『周は古い
国だが、その天命は新たである』とあ。そのため君子は、どこまでも新たな所にある最善を極め続けない所がない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・二より)

返信する

066 2013/09/09(月) 17:00:06 ID:P2YOfK2Bxs
「是の月や、日長至り、陰陽争い、死生分かつ。君子斎戒し、処るに必ず身を掩い、躁すること毋し。
声色を止め、進む或ること毋く、滋味薄く、和を致す毋く、嗜欲を節し、心氣を定む」
「日の長さが頂上に達する頃、陰陽は相争い、群生の死生も極度に分かたれることとなる。
君子は斎戒沐浴して、必ず全身を覆う衣服をまとい、ヘタに嬉しがるようなこともないようにする。
声色を静止し、やたらと前進したがったりせず、滋味も薄くし、和気を高めようともせず、
嗜好欲望を節制して、心気をよく安定させる。(ヘタに嬉しがらない時宜の実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)

返信する

067 2013/09/10(火) 13:37:33 ID:q6yK0YXuqI
真っ当な教学とそうでないカルトとの違いに、自分たちで他人を
「格好のカモ」に仕立て上げてから帰服を迫るような真似には
絶対に及ばないか、それにすら及ぶかといった違いがある。

要するに、王道か覇道かの違いであり、前者の有り方は徹底して平和的である一方、
後者は外界の他者を一方的に侵害して支配下に置こうとする非平和的な要素を帯びている。
非平和的だから修羅道かといえば、別に純粋な修羅道でもない。「六韜」のように、
修羅道的な兵法を王道統治のために善用することを奨励している兵法書もあるように、
善用も悪用も可能であるのが修羅道であるわけだから、他者への侵害に専らである
覇道は、修羅道の悪用にこそ限定されているといえる。修羅道を悪用している
地獄道こそは覇道的なカルトの本体であり、実際に地獄道こそを正当化したり
美化したりするような粗悪な教義をその内に多数包含しているものでもある。

他者への侵害が当たり前であるような状態と、それを禁じられる状態というのは、
いずれも「当たり前の状態」であり得るものである。他者への侵害が大々的に奨励
されているキリスト教圏においてですら、国家の内乱まで容認していたのでは生存も
ままならないものだから、複雑な法治機構にもよって厳重に侵害行為が取り締まられている
場合がほとんどである(日本ほど徹底的ではないが、かといって世界平均以下でもない)。
一方で、盟約を交わしているわけでもないような国家間での侵害行為などは、時に当たり前の
ことのようにして実行に移される。自国が経済破綻に陥ってしまっているものだから、軍産
利権の稼動のために戦争をしておきたいとかいったろくでもない理由で他国を侵略対象とする。
「国際関係だけは腕力が全てだから」とかいった、これまたろくでもない根拠を掲げてそれを
正当化したりするが、いざ国家間での封建構造すらをも徹底するような王道主義の帝国が
打ち立てたりしたならば、単体で強すぎる国は郡県に分けての統治を強化するなどの腕力の
平均化を図られるなどして、腕力ばかりが全てではない国際関係が築き上げられて行くこと

返信する

068 2013/09/10(火) 13:40:51 ID:q6yK0YXuqI
となる。そうなってからはもう、国家間での侵害行為なども徹底して取り締まられるようになり、
国内での争乱行為並みに「当たり前のこととして」それが許されないようになるのである。

ただもちろん、粗悪な邪教邪学しか流布されたこともないような地域で、「当たり前な
状況」としての、国家間での侵害行為が厳重に取り締まられた状態などを想像することも
できなかったということはあり得る。そのような常識のままで世界中に覇権の魔の手を
広げたりしたなら、大英帝国のようにかえって世界中に争乱の種を撒き散らしてしまう
ようなことにもなる。国際間での侵害行為すら当たり前のこととして取り締まられるような
状態というものを、具体的に実現して行く正学正教というものもまたそれはそれで必要となる
わけで、そのような教学の実践や流布のためには、邪教邪学の駆逐もまた必要となるのである。

他人をカモ扱いにして平気で侵害するような状況こそは、人々を極度に卑小化する機縁ともなる。
武家時代には武士たちがそれはそれは毅然としていた日本という国が、英米からの金権面からの
侵略を受けた明治以降にはその毅然さに綻びが生じ始め、アメリカによって武力的な侵略下に
まで置かれてしまった第二次大戦以降には、その凋落も決定的なものとなってしまった。
たとえ日本という国が世界中に王道統治を敷けるだけの仁徳面での潜在力を持ち合わせている
国であるとしたところで、今のように侵略行為でその尊厳が大いに損なわれたままでいて
しまっている状況では、立つものも立たないままでしかいられないのである。他者の尊厳を
土足で踏みにじる覇道の清算が十分に付けられることでこそ、初めて立つ王道というものが
あるわけで、それはもう、腕力などではどうにもならない所にこそある救いなのだといえる。

「礼は節を逾えず、侵さず侮らず、好みて狎れず」
「妄りに節度を超えず、他者を侮って侵したりせず、好きだからといって狎れたりしないのが
礼儀である。(信者に対してこのような振る舞いに及ぶ犯罪聖書の神こそは無礼の至りである。
その無礼講こそを陶酔源ともしているのだから、信者も信者で礼を嫌うならず者だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)

返信する

069 2013/09/11(水) 12:07:09 ID:4NP5SfPpoc
行為能力の自由は、どこまでも生存中の欲望を満たすことにしか
繋がらないが、精神の自由は、生死を超えた大志の満悦にこそ繋がる。
そして人は皆いつかは死に、死ねば二度と生き返らないわけだから、
行為能力ではなく精神の自由こそは、永久不変の真理に根ざした自由でもあるといえる。

しかし、そんな自由を本気で追い求めている人間などは、もはやこの世に皆無である。
命をも危ぶませるような危険を伴う聖道門の寺での修行なども、西洋由来の人権尊重の
風潮の蔓延などによって強制的に自粛され、厳しい修行の先にこそ得られる精神の自由
などを獲得する余地も絶やされている。そもそもが仏教という信教自体、行為能力の
自由全般を積極的に自制して行くことを奨励するものであるわけだから、欧米聖書圏の
主導によって、限りのない行為能力の自由の追求こそは最高の意義を持つという価値観が
世界中で強制されてしまっている現今においては、敬遠されるものとなってしまっている。

廃仏毀釈後の日本などでは、権威も権力も失って本格的な精進修行の余地を絶たれた僧団が、
文化保護目的の宗教法人法による財政的優遇によって飼い殺し状態にされていることを
理由として、「坊主の癖に欲望まみれだ」などと批判を受けたりもする。そんなものは、
自分たちで貶めた相手を自分たちで卑しむ白痴の所業であるわけだから、批判をする者たち
自身の人格が疑われるべき愚行でしかないといえる。ただ、仮にそれを反省して、そういう
理由での仏門への非難を取り下げたとしても、だからといって本来の仏門のあり方を見直
せるほど、今の日本人もできた人間でいるわけじゃない。今の法人利権まみれな仏門も
認め難ければ、死ぬほど辛い修行を本当にやっていた頃の仏門もまた受け入れ難い。真理を
追究することにかけては、他のどんな教学にも勝る仏教という教学を、欧米聖書圏による
文化的支配の下に置かれている現代の人間こそは、全く受け入れられなくなってしまっている。

返信する

070 2013/09/11(水) 12:25:25 ID:4NP5SfPpoc
そもそもが、仏門(特に禅門)が追い求めているものがある種の「自由」であるという
こと自体、現代人には全く認められもしないことである。仏門がやってることなんてのは
不自由の極み、いかに自由を捨て去った雁字搦めの生活を送り通すかばかりを追求している
ようにしか見えない。実際、行為能力面にかけては、「体系的な不自由」の限りを尽くす
ことが聖道門の出家者の使命となっている。しかしそれは別に、不自由を極めるための
不自由だったりするわけでもない。生きている限りにおいては戒律厳守の精進を尽くすと
したって、それによって得られる精神の自由たる悟りの獲得こそは本当の目的である
わけだから、本質的には自由を得るための不自由の追求だといえる。しかも、
永久不変の絶対真理に根ざした自由こそは、そこで追求の対象ともされている。

精神の自由は、行為能力の自由とも相容れないし、思考の自由とすら相容れはしない。
思考自体は儒家の教えにも合致するような正思善考に限定される。そしてその思考を司る精神
こそは、仏の悟りによって自由自在である。これまた、現象構造の中にばかり自由を探そう
とする現代人にとっては甚だ理解しがたいことだといえる。言うなれば、欲望にかられての
妄念妄動を来たしたりしないで済む精神こそは自由であるというわけで、愚昧な現代人などは、
そこが自由であるかどうかを意識したことすらない場合がほとんどである。限りない欲望を
どこまでも満たし尽くせることこそは自由であると考えるものだから、自らの精神が欲望に
まみれていること自体が不自由の至りであるなどとまでは、決して考えが及ばないのである。

返信する

071 2013/09/11(水) 13:10:50 ID:tzg0QeFmwk:au
精神が汚欲にかられない自由と、欲望がどこまでも叶えられる自由こそは、全くの別次元に
ある自由同士であり、前者のほうが後者よりも高次元の自由だといえる。高次元であり、
全世界全宇宙を司る次元とも同等の次元にある自由であるものだから、永久不変の絶対真理に
合致した自由ともなっている。行為能力の自由はそれよりも低次元な自由であるものだから、
宇宙はおろか、地球上のこの人類社会の中だけですら、普遍的には通用することがない。
多少は通用しても、いつまでも通用するということは絶対にない。そうであることこそは
不自由の至りでもあるから、行為能力の自由こそは、偽りの自由でもあるといえる。

「君子は〜奸声乱色を留めずして聰明たり、淫楽慝礼を心術に接せず、
惰慢邪辟の気を身体に設けず、耳目鼻口、心知百体をして皆な順正に由らしむ」
「君子は奸悪な声音や乱れた色情を我が留めないことで聡明となり、淫らな享楽によって
礼儀が損なわれたりすることを心志に近づけず、怠惰慢心自由勝手気ままでいようとする
邪気を身体にも近づけず、耳目鼻口精神思考百対全てをどこまでも順正であらしめる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)

返信する

072 2013/09/12(木) 12:33:28 ID:x1ogUBilWc
天地の狭間にしか人は生じ得ず、その人が意思疎通の道具としているのが言葉でしかない。
故に、言葉もまた天地以下の普遍性しか持たないということはあっても、
天地以上の普遍性を持ち得るなどと言うことはないのである。

絶対真理を万巻の仏典なども通じて教義として体系化している仏教といえども、
末法の世に仏教の流布が廃れて世の中が乱れるようなことはあり得るとされている。
真理はどこまでも永久不変なものであるにしたって、その真理を把捉しようとしている
言葉自体は上のような理由で天地未満、人間以内の普遍性しか持たないものだから、
そのような言葉やその実践体系である仏の教えもまた、流布が滞った結果として
通用しないこととなってしまう場合があることは認めざるを得ないのである。

言葉というものが、人間にとっての意思疎通の道具でしかないということは、
人間たち自身にとっての不可避なる要求でもあった。それ以上でも以下でもない
意志伝達用途の道具としての機能が洗練されていればいるほど、言葉もまた人間にとって
最大級に有用であり得たのだから、それ以外の目的性に根ざした言語の体系化を
斬り捨てて来たこともまた、避けることのできない途であったのである。

それにしたって、カルト宗教などを通じて、言葉に単なる意思疎通の道具以上の目的性
を付与しようとする試みも多少は為されてきたわけだけれども、それ自体は結局、世の中に
文化的停滞や経済破綻などの害悪をもたらすことしかできなかった。論駁などを一切許さず、
ただ神の言葉とされているものはそうだから正しいというようなドグマ的な言葉の悪用が
試みられた結果、そのような世の中は自他共に認める暗黒時代の様相を呈した。それに
反発して今度は、徹底的に反証可能性を要求し続ける科学的な言語利用が試みられたりする
ようにもなったわけで、それこそは近現代の文明発展の根幹ともなってきたわけだけれども、
今度は、反証可能性の追求ばかりに専らとなってしまった結果、言いたいことを最大級に
伝え尽くす、高度な意思疎通の道具としての言葉の利用が疎かにされることともなってしまった。

返信する

073 2013/09/12(木) 12:35:46 ID:x1ogUBilWc
完全に現行のコンピュータプログラムに置き換えられるような言語上の意味構造だけでは、
そこに込められている厚情の有無や軽重などを判別することはできない。せいぜい大まかな
喜怒哀楽を言い回し上の約束事から計り知ることができるのみであり、そんな初歩的な
情念を超えた所にある、仁徳や菩提心に根ざしているような中正な厚情を込めることは
未だできないままである。だから、ネット上での匿名でのやり取りなどもギスギスとした
ものになりがちであり、そこから実質的な人間関係に移行したりするのも寒々しいこととなる。

言葉が伝えられる厚情などはごく限られたものでしかないということが、昔ほどよく
わきまえられていたものだから、昔は文面上の教えを学ぶにしたって、文面上だけでは
伝えきれていないような厚情までをも自力で汲み取るということが半ば必須のことと
されていた。それが疎かになったならば、明代の中国のように、世界史上でも最上級の
厚情の持ち主であった孔子や孟子の言葉すらをもその文面上だけで受け止めて、官僚腐敗を
正当化するための言い訳の道具にしてしまうようなことにすらなりかねないのである。

単なる意思疎通の道具でしかなく、しかも厚情まで伝える道具としての機能性は甚だしく
限定されているのが言葉であるということをしっかりとわきまえた上で用いられる、
言葉という道具の有用性は、それはそれで甚大なものである。それこそは、言葉が最大級
にその機能を発揮する契機ともなるのだから、言葉に対する過度の憧憬などはさっさと
破棄してしまった上で、それでも残る言葉と言う道具の価値を見直して行くべきだといえる。

「慶氏は無道なり、陳国を専らにせんことを求め、
暴にして其の君を蔑み、其の親を去る、五年にして滅ばざれば、是れ天無きなり」
「慶氏は甚だ無道で、陳国での専横を好み、暴慢によってその主君すらをも蔑み、人々を
親元からあえて引き離しての放蕩にすら及ばせている。五年後にも滅ばないでいたなら、
もはやこの世に天道はないといえるだろう。(君臣の義や父子の和が損なわれているような
無道な時代にこそ天地の道も滅びているのだから、そんな所での安住を欲すべきでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十年より)

返信する

074 2013/09/13(金) 14:17:51 ID:jvgpd.KooA
どんなに尽力や心尽くしの限りを尽くした所で、その立場が不正である以上は、
万人に対して有害無益な影響を及ぼすことにしかならない。悪徳金融業者が
市井から巻き上げた不当利得を最大級に寄付などの慈善目的に役立てたとした
ところで、やはりプラスマイナスゼロ以下の悪影響しかこの世に及ぼさない。

だから、物事にかけて最善を尽くす上では、自らの出処進退の部分から
挺身的な姿勢で有り続ける必要がある。我が身を粉にしてでも世のため人のため
であろうとするのならば、世の中に害悪を及ぼすような仕事を生業にするような
ことから避ける。そこからさらに清廉な業務に励むことが最善を尽くすことに
なるわけだが、別にそこで最善を尽くすとまで行かず、ただ清廉な職務と共に
平静なままでいるだけでも、不正な立場の元で尽力や心尽くしを企てたりする
以上にもマシな存在でいられたりする。昔の君子階級の人間の誰しもが、職務
にかけての最善までをも尽くしていたなどということはないが、そうであっても、
我田引水を旨とする悪徳商人や悪徳庄屋の立場でいながら、貧民救済や銘酒造り
にかけての尽力を心がけていたりするよりはよほどマシであったに違いない。

度し難いのは、自らの出処進退から最善を尽くしている者や、出処進退ぐらいは
清廉であろうとしている者などよりも、根本的な立場が不正であった上で、その
埋め合わせとしての尽力や心尽くしを心がけるような者のほうが、見てくれには
巧言令色などもふんだんに働かせているものだから、印象がよかったりする
ことである。ただ外面的な見栄えをよくしようとしているばかりではない。
心尽くしの面でもそれなりの手管を尽くす。商売人が顧客に感謝の限りを
尽くしたりするのは、自分たちの側が客から利益を頂く立場にあるわけだから、
全く以っておかしいことでもない。ただその感謝にかけての心尽くしを利かせた
結果、尻尾を振って擦り寄ってくる子犬のような愛嬌を顧客のほうが受け止めて、
それをして「いい商売人だ」などと考える理由にしてしまったりする。

返信する

075 2013/09/13(金) 14:24:35 ID:jvgpd.KooA
そういう卑俗な心尽くしや尽力を心がける者のほうが、立場から清廉であろうと
するような者よりも好印象を受けやすいという、問題的な事実がある。相手が尻尾
を振る子犬のような愛嬌の持ち主だから気分がいいというのは、誰でも抱きやすい
感傷である一方、その立場から毅然としている君子だから素晴らしいなどという感傷は、
自分自身もまたそれなりの清廉な心意気の持ち主であるのでなければ、なかなか抱き
にくい感傷となっている。特に、僻みや嫉妬に駆られているような人間が、毅然として
いる人間をだからといって評価したりすることはまずできないことであり、乱世に
おいてはそのようなルサンチマンの持ち主が大多数を占めてしまうという問題もある。

してみれば、立場から清廉であろうとするような人間の毅然さこそを尊べるように
なるためには、相当に厳重かつ本格的な道徳教育が必要となる上に、ルサンチマンを
人々に植え付けてしまうような苛政を権力者が敷いたりすることも避けねばならない。
初等教育に徳育が含まれていた明治から戦前にかけての日本の学校教育でも不足、
今でいう大学教育や大学院研究に相当するような教学に到るまで、仁義道徳の教学
こそを主要科目として行くぐらいでなければ、悪徳商人や悪徳庄屋の上辺だけでの
巧言令色や感謝感激の不実までをも人々が見抜けるようになるのは難しい。
(道徳教育や大学以上にまで引き伸ばされることは、そのままその大学から
政界や官僚機構へと就職して行く人間にとっての為政の自浄作用の働きをも担う)

出処進退の面から最善を尽くそうとする者がどのように素晴らしいかといって、昔は
「龍」や「鳳凰」のように素晴らしいものとされていた。清廉な立場から、さらなる君子
としての積極的な業務に励むものは龍のように偉大なものとされ、立場が清廉である
ことに特化しようとする者は鳳凰のように高潔なものとされた。いずれも可愛いから評価
できたりするものではない。尊崇に値するからこそ評価できるといった存在である。故にこそ、
自らもまたそれなりの志しと共にあるのでなければ、その価値も計り知りがたいのである。

返信する

076 2013/09/13(金) 14:56:19 ID:nYD2L/cEwo:au
削除(by投稿者)

返信する


▲ページ最上部

ログサイズ:707 KB 有効レス数:328 削除レス数:0





思想・哲学掲示板に戻る 全部 次100 最新50

スレッドタイトル:聖書 Part12

レス投稿

未ログイン (ログイン

↑画像ファイル(jpg,gif,png)