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聖書 Part12
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この地球人類社会において、自明なまでに「第一の聖書」としての
地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。
「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。
ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。
四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。
「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。
ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。
四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

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「君子亮ならざれば、悪にか執らんか」
「君子は誠実でなければ、どうして何事かを執り成したりすることができようか。
(君父の尊位を無みする不実と共に君子が取り成すことなどは何もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一二より)
「君子は誠実でなければ、どうして何事かを執り成したりすることができようか。
(君父の尊位を無みする不実と共に君子が取り成すことなどは何もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一二より)
「彼れも一時、此れも一時なり」
(「孟子」公孫丑章句下・一三)
天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かずで、
日月星辰の運行ともまさに合致するような自然系の時宜の流れというのは、
人為によっていくらでも覆い隠すことができる。天道を尊重することあたかも、
乳児をあやして泣き止めさせる程もの繊細さでなければ、あっという間に天道も
雲隠れしてしまう。そうなってからはもう、何もかもを人為に頼らなければ
ならなくなるから、自らの行動こそは全てといった様相を呈することとなる。
西洋などと比べれば、本物の天道を尊重して来た頻度が遥かに高い極東社会
といえども、本当に天道を雲隠れさせることなく、天の時と共に為政や生活を
営めていたような時代や地域というのは限られている。点の時が見失われて、
諸侯大名の権力争いが激化した頃の何でもあり加減は西洋のそれ以上ですらあり、
そこでの巧妙な破壊工作活動を請け負った食客や忍者などの逸話が、
今でも史書や歴史物語などを通じて語り継がれていたりする。
ただ、そのような人為的な権謀術数の限りを尽くした権力争いというのは、
正真な天の時を見失った所で行われているものだから、全ては自己責任の
自業自得であるとするわきまえもまたそれなりに通用していた。だからこそ、
争いに敗れた王侯将相などが、責任を取ってさっさと自決することなどもザラ
であったわけだが、西洋などの場合はそうではない。東洋では、天の時が
見失われた状態での、完全な人為に基づくものとされるような争乱こそは
神の所業であるとされ、陰惨な権謀術数そのものにまで、天の時に適って
いるが故の権威などを付与しようとして来た経緯があるのである。
東洋でも春秋時代までは、陰陽道兵法などという、兵法を天の時に適わせよう
とする試みが多少はあったわけだが、孫子が完全な人力であるが故に最も
有効な部類の兵法を提唱してから後は、詭道の塊である兵事が天の時などに
いちいち合致させていられるものでもないことが広く察知されたのだった。
(「孟子」公孫丑章句下・一三)
天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かずで、
日月星辰の運行ともまさに合致するような自然系の時宜の流れというのは、
人為によっていくらでも覆い隠すことができる。天道を尊重することあたかも、
乳児をあやして泣き止めさせる程もの繊細さでなければ、あっという間に天道も
雲隠れしてしまう。そうなってからはもう、何もかもを人為に頼らなければ
ならなくなるから、自らの行動こそは全てといった様相を呈することとなる。
西洋などと比べれば、本物の天道を尊重して来た頻度が遥かに高い極東社会
といえども、本当に天道を雲隠れさせることなく、天の時と共に為政や生活を
営めていたような時代や地域というのは限られている。点の時が見失われて、
諸侯大名の権力争いが激化した頃の何でもあり加減は西洋のそれ以上ですらあり、
そこでの巧妙な破壊工作活動を請け負った食客や忍者などの逸話が、
今でも史書や歴史物語などを通じて語り継がれていたりする。
ただ、そのような人為的な権謀術数の限りを尽くした権力争いというのは、
正真な天の時を見失った所で行われているものだから、全ては自己責任の
自業自得であるとするわきまえもまたそれなりに通用していた。だからこそ、
争いに敗れた王侯将相などが、責任を取ってさっさと自決することなどもザラ
であったわけだが、西洋などの場合はそうではない。東洋では、天の時が
見失われた状態での、完全な人為に基づくものとされるような争乱こそは
神の所業であるとされ、陰惨な権謀術数そのものにまで、天の時に適って
いるが故の権威などを付与しようとして来た経緯があるのである。
東洋でも春秋時代までは、陰陽道兵法などという、兵法を天の時に適わせよう
とする試みが多少はあったわけだが、孫子が完全な人力であるが故に最も
有効な部類の兵法を提唱してから後は、詭道の塊である兵事が天の時などに
いちいち合致させていられるものでもないことが広く察知されたのだった。
西洋には、その孫子に相当する程もの人為主義的な兵法家は現れなかったし、
(マキャベリですらもが、兵法にかけては概念的なカテゴリー分けに固執
し過ぎていて、現実的な戦闘手段としての普遍性に欠けることを言っている)
なおかつ権力腐敗こそを神の業として祭り上げる邪教こそがあった。だから、
純粋な自然系にこそ遍在する天の時を見失うと共に、邪教によって天の時に
適うものなどと決め付けられた人為の所業の自己責任性までもが見失われて、
全くの自業自得の行いを無責任に積み重ねる悪癖を帯びてしまったのだった。
そこに神はないし、天の時もありはしない。自分たち自身の自己責任に基づく、
完全なる自業自得しかそこにはない。本物の天の時もあるにはあるが、それは、
おまえたちが「これである」などと見なして来たものとは全くの別物であるし、
おまえたちこそは率先してそれを覆い隠して来た張本人中の張本人でもある。
天の時など何一つとして知れたこともない。むしろ自分たちこそは積極的に
天の時から目を背けて来た不埒者の部類ですらあるということを思い知って、
今までにも専門的に天の時の把握に努めて来ているような人間をこそ他力の
本願として随順の対象として行くことこそは、賢明なこととなるであろう。
「物其れ多ければ、維れ其れ嘉し。
物其れ旨ければ、維れ其れ偕し。物其れ有れば、維れ其れ時なり」
「物が多ければ、それは宜しいことだ。物がうまければ、それもよいことだ。
物があれば、そこには時がある。(有と時の不可分性を説く、哲学的に秀逸な
記述。ただ、よりよい時を希う人情を肯定する滋味深さもまたそこにはある。
人間社会を直接司る統治理念は、これぐらい人情深いものであったほうがよい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・魚麗より)
(マキャベリですらもが、兵法にかけては概念的なカテゴリー分けに固執
し過ぎていて、現実的な戦闘手段としての普遍性に欠けることを言っている)
なおかつ権力腐敗こそを神の業として祭り上げる邪教こそがあった。だから、
純粋な自然系にこそ遍在する天の時を見失うと共に、邪教によって天の時に
適うものなどと決め付けられた人為の所業の自己責任性までもが見失われて、
全くの自業自得の行いを無責任に積み重ねる悪癖を帯びてしまったのだった。
そこに神はないし、天の時もありはしない。自分たち自身の自己責任に基づく、
完全なる自業自得しかそこにはない。本物の天の時もあるにはあるが、それは、
おまえたちが「これである」などと見なして来たものとは全くの別物であるし、
おまえたちこそは率先してそれを覆い隠して来た張本人中の張本人でもある。
天の時など何一つとして知れたこともない。むしろ自分たちこそは積極的に
天の時から目を背けて来た不埒者の部類ですらあるということを思い知って、
今までにも専門的に天の時の把握に努めて来ているような人間をこそ他力の
本願として随順の対象として行くことこそは、賢明なこととなるであろう。
「物其れ多ければ、維れ其れ嘉し。
物其れ旨ければ、維れ其れ偕し。物其れ有れば、維れ其れ時なり」
「物が多ければ、それは宜しいことだ。物がうまければ、それもよいことだ。
物があれば、そこには時がある。(有と時の不可分性を説く、哲学的に秀逸な
記述。ただ、よりよい時を希う人情を肯定する滋味深さもまたそこにはある。
人間社会を直接司る統治理念は、これぐらい人情深いものであったほうがよい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・白華之什・魚麗より)
「無一物中無尽蔵」という禅門の教えほどまで行かずとも、社会道徳学である儒学にも
また「粗末な料理や水程度の飲み物に、自らのひじを曲げて枕とするような生活にすら
楽しみがある」(述而第七・一五)という程度の、物質的貧富への諦観というものがある。
別に、貧しい生活を苦行として受け入れるというのでもない。物質的な貧富という
ものを超越した所にある楽しみというものの存在を認めて、それに与ろうとしている。
物質的に豊か=幸福、物質的に貧しい=不幸というような判断基準を否定ないし劣後して、
それが世の中に生きる人間にとっての全てだなどとされるようなことだけは徹底して避ける。
先祖代々清貧を旨として来た頻度の高い日本人の内には、そのような考え方が根付いて
いる人間も多いものだから、感覚として分からないなどということもないわけだけれども、
世界的に見れば、そのような人間が国の多数派を形成する程もの員数と共に存在していたり
することからして極めて稀である。日本といえども、庄屋や豪商の末裔ような、先祖代々裕福
な生活を続けて来ている人種の中には、物質的な豊かさこそは全てであるかのような思い込み
にひどく囚われている人間がいたりするわけだけれども、江戸時代までほぼ完全な自給自足で
営まれていた日本社会において、そのような人種は今でも少数派なままに止まっている。
世界はといえば、似たような富裕層の立場でいながら、救い難い物欲にかられている人間が
日本以上に多くいるのはもちろんのこと、貧しい人間もまた物質的繁栄への渇望にかられて、
自分たちを貧しいままに追いやっている権力者へのルサンチマンを募らせていたりするのが
常である。だからこそ、スリだ泥棒だ強盗だといった犯罪行為が公然と繰り返されていたり
もするわけで、世の中総出で物質的繁栄への渇望に囚われたままでいるという点が、多くの
市民が清貧の価値をわきまえている日本などとは決定的に相違する部分となっている。
また「粗末な料理や水程度の飲み物に、自らのひじを曲げて枕とするような生活にすら
楽しみがある」(述而第七・一五)という程度の、物質的貧富への諦観というものがある。
別に、貧しい生活を苦行として受け入れるというのでもない。物質的な貧富という
ものを超越した所にある楽しみというものの存在を認めて、それに与ろうとしている。
物質的に豊か=幸福、物質的に貧しい=不幸というような判断基準を否定ないし劣後して、
それが世の中に生きる人間にとっての全てだなどとされるようなことだけは徹底して避ける。
先祖代々清貧を旨として来た頻度の高い日本人の内には、そのような考え方が根付いて
いる人間も多いものだから、感覚として分からないなどということもないわけだけれども、
世界的に見れば、そのような人間が国の多数派を形成する程もの員数と共に存在していたり
することからして極めて稀である。日本といえども、庄屋や豪商の末裔ような、先祖代々裕福
な生活を続けて来ている人種の中には、物質的な豊かさこそは全てであるかのような思い込み
にひどく囚われている人間がいたりするわけだけれども、江戸時代までほぼ完全な自給自足で
営まれていた日本社会において、そのような人種は今でも少数派なままに止まっている。
世界はといえば、似たような富裕層の立場でいながら、救い難い物欲にかられている人間が
日本以上に多くいるのはもちろんのこと、貧しい人間もまた物質的繁栄への渇望にかられて、
自分たちを貧しいままに追いやっている権力者へのルサンチマンを募らせていたりするのが
常である。だからこそ、スリだ泥棒だ強盗だといった犯罪行為が公然と繰り返されていたり
もするわけで、世の中総出で物質的繁栄への渇望に囚われたままでいるという点が、多くの
市民が清貧の価値をわきまえている日本などとは決定的に相違する部分となっている。
日本でも、秦人の末裔が支配下に置いていたような地域では、一般市民までもがひどい
物質的渇望に囚われていたりする場合がある。大半の日本人は秦人の忌み嫌う仏教文化や、
その影響を受けた大衆文化などを通じて、物質的繁栄をも超越した達観の楽しみというもの
を昔から教わって来ているから、外国の一般人ほどに無軌道な物欲に囚われていたりする
ことは少ない。一般人だけでなく、武家や公家といった為政者階級までもが清貧を旨として
来た場合が多いので、そのような権力者へのルサンチマンを庶民が抱いたりすることもない。
先の敗戦後、GHQ総司令官として日本占領を主導したマッカーサーは、日本人が帝国の
「臣民」として甚だ従順な性格を持ち合わせていることを根拠として「日本人は未熟な子供
だから、俺が大人にしてやる」などということをほざいたという。そうして洗脳教育に
よって作り上げたのが、物質的な豊かさばかりを追い求めて、金持ちとあらば即座に羨みの
対象とする下衆な小市民と来ている。自分たちもまた清貧を美徳とし、権力者までもが
多少以上にそうあろうとしていたものだからルサンチマンも抱かないでいられたという、
日本人の長所がことごとく目減りさせられて、日本史上でも最も人々の民度が低下した
時代が到来してしまった(それでもまだ、世界平均よりは遥かに高くもあるわけだが)。
まだまだ、潜在的に清貧の楽しみをわきまえている日本人は多かろうとも予想されるわけだが、
少なくとも、実質的にアメリカの占領下にあり続けている今の日本で、清貧志向が物質主義を
淘汰できるほどもの体裁からの威勢を湛えているなどということは、もはやない。清貧を尊ぶ
気風が、物質的繁栄を全てとする気風よりも社会的に優勢であるぐらいで初めて、江戸時代
のような健全な自給自足社会が営んでいけるようになるわけだけれども、今の日本がその
条件を満たしているなどとは言い難いし、世界についてはもう言わずもがなである。
物質的渇望に囚われていたりする場合がある。大半の日本人は秦人の忌み嫌う仏教文化や、
その影響を受けた大衆文化などを通じて、物質的繁栄をも超越した達観の楽しみというもの
を昔から教わって来ているから、外国の一般人ほどに無軌道な物欲に囚われていたりする
ことは少ない。一般人だけでなく、武家や公家といった為政者階級までもが清貧を旨として
来た場合が多いので、そのような権力者へのルサンチマンを庶民が抱いたりすることもない。
先の敗戦後、GHQ総司令官として日本占領を主導したマッカーサーは、日本人が帝国の
「臣民」として甚だ従順な性格を持ち合わせていることを根拠として「日本人は未熟な子供
だから、俺が大人にしてやる」などということをほざいたという。そうして洗脳教育に
よって作り上げたのが、物質的な豊かさばかりを追い求めて、金持ちとあらば即座に羨みの
対象とする下衆な小市民と来ている。自分たちもまた清貧を美徳とし、権力者までもが
多少以上にそうあろうとしていたものだからルサンチマンも抱かないでいられたという、
日本人の長所がことごとく目減りさせられて、日本史上でも最も人々の民度が低下した
時代が到来してしまった(それでもまだ、世界平均よりは遥かに高くもあるわけだが)。
まだまだ、潜在的に清貧の楽しみをわきまえている日本人は多かろうとも予想されるわけだが、
少なくとも、実質的にアメリカの占領下にあり続けている今の日本で、清貧志向が物質主義を
淘汰できるほどもの体裁からの威勢を湛えているなどということは、もはやない。清貧を尊ぶ
気風が、物質的繁栄を全てとする気風よりも社会的に優勢であるぐらいで初めて、江戸時代
のような健全な自給自足社会が営んでいけるようになるわけだけれども、今の日本がその
条件を満たしているなどとは言い難いし、世界についてはもう言わずもがなである。
物欲上等の気風が清貧尊重の気風を淘汰しているようでは、外界からの莫大な富の収奪
によって自国の富をジャブジャブに膨れ上がらせているのでもなければ、ろくに世の中を
健全に運営して行くこともままならない。世界平均以下の国富しか持ち合わせていない国は
もちろんのこと、世界平均程度の国富を持ち合わせている国といえども、軍事独裁制に
頼るのでもなければ、国の治安一つまともに保てないようなザマとなってしまうのである。
一定以上に人間社会の富の偏在を是正することで初めて、清貧を尊べる程度の心の余裕が
人々に備わるということもあるわけだれども、それが達成されて後に、なおかつ人々が清貧を
尊べる頻度が、旺盛な物欲に駆られる頻度を上回るぐらいにまで人々の民度を高めることが
できてから初めて、世の中を自給自足によっても健全に運営して行くことができるようになる。
そのために有効となるのが、儒学や仏教の流布による民の徳化であるわけで、それを
推進して行くために必要となる素地こそは、聖書信仰の根絶や洋学の利用制限に基づく、
国際社会での権力犯罪の駆逐や、それによって可能となる富の偏在の是正なのである。
「民今の禄無きは、天夭いして是れ椓えり。たのしきかな富める人、哀しきかな此の惸独」
「いま民に食める禄もないことは、まるで天が災いを下してこれを損なっているかのよう
である。富めるものばかりはますます楽しみ、貧しい独り者などは悲哀の至りとなっている。
(『富む』という状態が勝ち組か何かのように扱われたりすることからして、大天災が発生
しているほどもの異常事態なのである。そのような事態の防止から務めて行かねばならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
によって自国の富をジャブジャブに膨れ上がらせているのでもなければ、ろくに世の中を
健全に運営して行くこともままならない。世界平均以下の国富しか持ち合わせていない国は
もちろんのこと、世界平均程度の国富を持ち合わせている国といえども、軍事独裁制に
頼るのでもなければ、国の治安一つまともに保てないようなザマとなってしまうのである。
一定以上に人間社会の富の偏在を是正することで初めて、清貧を尊べる程度の心の余裕が
人々に備わるということもあるわけだれども、それが達成されて後に、なおかつ人々が清貧を
尊べる頻度が、旺盛な物欲に駆られる頻度を上回るぐらいにまで人々の民度を高めることが
できてから初めて、世の中を自給自足によっても健全に運営して行くことができるようになる。
そのために有効となるのが、儒学や仏教の流布による民の徳化であるわけで、それを
推進して行くために必要となる素地こそは、聖書信仰の根絶や洋学の利用制限に基づく、
国際社会での権力犯罪の駆逐や、それによって可能となる富の偏在の是正なのである。
「民今の禄無きは、天夭いして是れ椓えり。たのしきかな富める人、哀しきかな此の惸独」
「いま民に食める禄もないことは、まるで天が災いを下してこれを損なっているかのよう
である。富めるものばかりはますます楽しみ、貧しい独り者などは悲哀の至りとなっている。
(『富む』という状態が勝ち組か何かのように扱われたりすることからして、大天災が発生
しているほどもの異常事態なのである。そのような事態の防止から務めて行かねばならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)

言われることである。それは別に、子供の頃よりも自分がただ臆病になったからとも限らない。毒のある虫や、
危険な寄生虫を宿している虫なども中にはいるということを知識としてわきまえたものだから、そのような
思慮分別によって、あえて虫に触れたりすることを怖がる臆病さを働かせられるようにもなったからだったりする。
一方で、小さい頃には犬を怖がっていたりしたのが、大人になってからは、ちゃんと躾られた飼い犬の大人しさ
などを了解して、それなりに可愛がれるようになったりもする。こちらは、年相応の思慮分別の身に付きによって、
かえって無軌道な臆病さが廃された例だといえる。とはいえ、犬も野良犬や狂犬である場合には、実際に人間に
危害を及ぼす可能性があるわけだから、そのような犬と安全な犬との区別も付けられなかった子供の頃に、
犬という生き物全般を恐怖の対象としていた臆病さもまた、知識や経験の浅さをカバーする自己防衛本能の
発露であったといえ、それもまた決して全否定までしてしまうべきものではなかったと言えるのである。
以上の事例を参考にするなら、人間には、むしろ必要な臆病さと、そうでない臆病さの両方があることが分かる。
毒虫すらをも平気で素手で触ろうとすらするような、臆すべきものすら臆さない姿勢は無謀だといえる一方で、
安全な飼い犬への警戒だけは解く思慮分別の身に付きなどは、本人にとっての着実な成長だといえる。
人としての着実な成長であるとも見なせるような思慮分別の身に付きこそは、臆すべきものと臆すべきでないものを
分別する能力になると共に、臆する中にも畏怖すべきものと、ただ恐怖すべきものとの分別を付ける能力ともなる。
毒虫やヤクザやマフィアや権力犯罪者などは恐怖の対象とはなっても畏怖の対象とはならず、
天皇陛下や高僧などは畏怖の対象とはなっても恐怖の対象とはならない。臆すべきでものと
そうでないものとの分別を利かせられるからには、自分自身で臆病さを制御できるだけの胆力までもが
身に付いているに違いないわけで、その胆力こそは、別に恐くなくても怖れ畏まるべきであるような
相手への旺盛な畏怖心をも抱くだけの心意気を生じさせることができるものだからである。
子供の頃には怖がるべきものを怖がれもせず、怖がるべきでもないようなものを怖がったりしていたのが、
大人になれば恐るべきものを恐れ、恐るべきでないものを恐れず、畏まるべきものに畏まり、畏まるべき
でないものには畏まらないでいられるようになる、これこそは着実な人としての成長であるといえる。一方で、
子供ように無軌道な臆病さや無謀さのままでいたり、何もかもに臆する怯懦さの持ち主となったり、逆に何ものをも
怖れない思い上がりの持ち主となったりしたなら、これは成長の仕方を間違えた駄目な大人のありさまだといえる。
キリスト信仰によって無闇な無恐怖状態を植え付けられた欧米の白人などは、本来は、何もかもを
恐怖するような怯懦さの持ち主であった場合がほとんどであるに違いない。古代のギリシャ人なども、
豆畑を見て狂死するほどもの精神不安の持ち主だったわけで(これはピタゴラスの事例)、その精神不安
こそが魑魅魍魎のごとき怪力乱神の割拠するギリシャ神話の作成や、出歯亀的な覗き行為を根本理念
とする理論哲学や空間幾何学の醸成にも繋がったわけだけれども、そのような多量の文化を創作していた
古代の白人たち自身は、精神不安からなるひでい苦悩に日ごろから苛まれ続けていた。だからこそ、
中東原産のカルト信仰によってでも、自分たちこそは率先してあらゆる恐怖感を捨て去る途を選択
してしまったわけで、聖書教自体は中東原産であるにしたって、そんなものを自分たちの金科玉条
にまでしてしまわざるを得なかったような特殊事情は、やはり白人社会のほうにこそあったのだといえる。
天皇陛下や高僧などは畏怖の対象とはなっても恐怖の対象とはならない。臆すべきでものと
そうでないものとの分別を利かせられるからには、自分自身で臆病さを制御できるだけの胆力までもが
身に付いているに違いないわけで、その胆力こそは、別に恐くなくても怖れ畏まるべきであるような
相手への旺盛な畏怖心をも抱くだけの心意気を生じさせることができるものだからである。
子供の頃には怖がるべきものを怖がれもせず、怖がるべきでもないようなものを怖がったりしていたのが、
大人になれば恐るべきものを恐れ、恐るべきでないものを恐れず、畏まるべきものに畏まり、畏まるべき
でないものには畏まらないでいられるようになる、これこそは着実な人としての成長であるといえる。一方で、
子供ように無軌道な臆病さや無謀さのままでいたり、何もかもに臆する怯懦さの持ち主となったり、逆に何ものをも
怖れない思い上がりの持ち主となったりしたなら、これは成長の仕方を間違えた駄目な大人のありさまだといえる。
キリスト信仰によって無闇な無恐怖状態を植え付けられた欧米の白人などは、本来は、何もかもを
恐怖するような怯懦さの持ち主であった場合がほとんどであるに違いない。古代のギリシャ人なども、
豆畑を見て狂死するほどもの精神不安の持ち主だったわけで(これはピタゴラスの事例)、その精神不安
こそが魑魅魍魎のごとき怪力乱神の割拠するギリシャ神話の作成や、出歯亀的な覗き行為を根本理念
とする理論哲学や空間幾何学の醸成にも繋がったわけだけれども、そのような多量の文化を創作していた
古代の白人たち自身は、精神不安からなるひでい苦悩に日ごろから苛まれ続けていた。だからこそ、
中東原産のカルト信仰によってでも、自分たちこそは率先してあらゆる恐怖感を捨て去る途を選択
してしまったわけで、聖書教自体は中東原産であるにしたって、そんなものを自分たちの金科玉条
にまでしてしまわざるを得なかったような特殊事情は、やはり白人社会のほうにこそあったのだといえる。
カルト信仰を盾にしての無恐怖状態こそは、自分たちごとの人類滅亡の危機すらをも招いてしまった。
未だにそれすら恐怖してないとしたって、我が命が惜しいからには、恐怖すべきものすら恐怖しない不埒さを
カルト信仰と共に破棄して行くしかない。さすれば今度は、古代のギリシャ人のように、豆畑を見ただけでも
狂い死にしてしまうほどもの怯懦まみれな精神不安というデフォルトに立ち戻ってしまいかねないという
特殊事情が、この世で最も代表的なカルト信仰集団である欧米の白人にこそ潜在しているわけである。
無闇な臆病も、無闇な怖いもの知らずも、何ら是とするに値するものではない。
臆すべきものを臆し、臆すべきでないものを臆れない真の勇猛さこそを目指して、
そのような心理状態全般からの卒業を図って行くようにしなければならない。
「孝子将に〜祭の日に及びて、顔色は必ず温に、行い必ず恐れあり、愛するに及ばざるを懼れるが如く然とす」
「孝子が先祖の祭祀の当日に至るや、顔色は温良恭倹なままでいながら、その行いには必ず畏怖が伴っている。
親先祖を愛する気持ちが足りていないのではないかと臆し続けているような風でいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
未だにそれすら恐怖してないとしたって、我が命が惜しいからには、恐怖すべきものすら恐怖しない不埒さを
カルト信仰と共に破棄して行くしかない。さすれば今度は、古代のギリシャ人のように、豆畑を見ただけでも
狂い死にしてしまうほどもの怯懦まみれな精神不安というデフォルトに立ち戻ってしまいかねないという
特殊事情が、この世で最も代表的なカルト信仰集団である欧米の白人にこそ潜在しているわけである。
無闇な臆病も、無闇な怖いもの知らずも、何ら是とするに値するものではない。
臆すべきものを臆し、臆すべきでないものを臆れない真の勇猛さこそを目指して、
そのような心理状態全般からの卒業を図って行くようにしなければならない。
「孝子将に〜祭の日に及びて、顔色は必ず温に、行い必ず恐れあり、愛するに及ばざるを懼れるが如く然とす」
「孝子が先祖の祭祀の当日に至るや、顔色は温良恭倹なままでいながら、その行いには必ず畏怖が伴っている。
親先祖を愛する気持ちが足りていないのではないかと臆し続けているような風でいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
善や悪といった倫理基準自体、人間が人間のために人間社会で司っているものでしかない。
善業といい悪業といい、人間社会で実行に移されて積み重ねられて行くものでしかない
からこそ、人間たち自身がその気になるのであれば、世界中を善業で満たして、誰しもに
「生まれて来て良かった」と思わせる程もの福徳を提供することが可能となるのである。
とはいえ、真理となれば「諸行無常」であって、善業を積もうが悪業を積もうが、せいぜい
人間は100年やそこらで個体の死に見舞われることが避けられないものであるわけだから、
世俗での善因楽果といえども永久不変のものでまであるわけではないことを諦観して、
六根清浄なる不生不滅の境地を尊ぶ所にこそ意義を見出すということもあるのである。
上二つの方向性があるとした上で考えるなら、この世を悪業の展開の場であるなどと
ばかり決め付けて、実際にそのような所業に及び、この世での苦しみが極まった挙げ句に
死への逃避などを渇望したりすることこそは、人として最も忌み避けるべき醜態である
ことまでもが分かるわけである。善業の展開の場でもあり得るこの世をあえて悪業一色に
染め上げようとすること自体が愚行である上に、そこから死によって浄化されようなどと
考えることもまた身勝手極まりないものである。おまえ個人が死によって俗世での苦しみ
から免れられようとも、おまえの悪行によって汚濁にまみれさせられた世の中でこれからも
生きて行かされる人間のほうはたまったもんじゃない。そうである存命者が不幸である
とした所で、その責任は、わざわざ必要もなく世の中を濁悪にまみれさせたおまえにこそ
あるのだから、死によって苦しみを免れられる自分自身を幸せがる以上にも、存命者として
おまえの尻拭いをさせられる人々への侘びを冥土でも入れ続けねばならないとすら言える。
善業といい悪業といい、人間社会で実行に移されて積み重ねられて行くものでしかない
からこそ、人間たち自身がその気になるのであれば、世界中を善業で満たして、誰しもに
「生まれて来て良かった」と思わせる程もの福徳を提供することが可能となるのである。
とはいえ、真理となれば「諸行無常」であって、善業を積もうが悪業を積もうが、せいぜい
人間は100年やそこらで個体の死に見舞われることが避けられないものであるわけだから、
世俗での善因楽果といえども永久不変のものでまであるわけではないことを諦観して、
六根清浄なる不生不滅の境地を尊ぶ所にこそ意義を見出すということもあるのである。
上二つの方向性があるとした上で考えるなら、この世を悪業の展開の場であるなどと
ばかり決め付けて、実際にそのような所業に及び、この世での苦しみが極まった挙げ句に
死への逃避などを渇望したりすることこそは、人として最も忌み避けるべき醜態である
ことまでもが分かるわけである。善業の展開の場でもあり得るこの世をあえて悪業一色に
染め上げようとすること自体が愚行である上に、そこから死によって浄化されようなどと
考えることもまた身勝手極まりないものである。おまえ個人が死によって俗世での苦しみ
から免れられようとも、おまえの悪行によって汚濁にまみれさせられた世の中でこれからも
生きて行かされる人間のほうはたまったもんじゃない。そうである存命者が不幸である
とした所で、その責任は、わざわざ必要もなく世の中を濁悪にまみれさせたおまえにこそ
あるのだから、死によって苦しみを免れられる自分自身を幸せがる以上にも、存命者として
おまえの尻拭いをさせられる人々への侘びを冥土でも入れ続けねばならないとすら言える。
この世に生を受けた以上は断悪修善や勧善懲悪の実践に励んで、この世に後腐れなどを
残すことなく一生涯を終えることでこそ、生まれてきたなりの意味を持って生滅するものと
なるのだといえる。積極的に善行に励むとまでは行かずとも、最悪の悪行ぐらいは犯さない
ようにしておくことで、生まれて来なかったのともさして変わらぬ程度の清浄さでいること
だろう。善も悪も不善も不悪も、全てこの世界の内側でしか展開され得ないものだからこそ、
それらをうまく処理することで、生まれて来なかった場合を0とした場合のプラスマイナス
ゼロやそれ以上の存在価値を以って人生を送り終えることもまた可能となっているのである。
ただ、そのようなプラマイゼロ以上の価値を持つ人生を送り通すためには、厳重な善悪の
分別だとか、不善不悪の無為自然の境地への尊重意識だとかを十全に育んでおかねばならず、
そのためだけに相当な勉学や修身を必要ともしてしまう。小人たちが若い内から欲望の赴く
ままの人生を送っているような傍らで、最低でも三十歳程度までは勉学精進尽くしの生活を
送らねばならなかったりする(孔子の生涯も『十五にして学を志し、三十にして立つ』で
あったという。為政第二・四)。本格の出家者ともなればさらにそれ以上で、世俗の欲望を
一切控えたままで生涯を送り終えねばならぬ。ただ、それぐらいであって初めて、本当に
自らの人生が生まれて来なかった場合以上の価値を持ち得るわけで、そうであるために必要
な条件というのは、欲望まみれな現代人が考えるよりも遥かに厳しいものであるわけだ。
人間にとっての無制限な欲望こそは、生まれて来なかったほうがマシだったほどもの自他
への害悪を撒き散らす源となる。それでいてその欲望こそが、生を謳歌するための快楽を
貪る気概ともなる。短絡的に生を嬉しがれるような快楽こそは、かえって自分が生まれて
こなかったほうがマシだったほどもの悪業の積み重ねに直結するという、小人には到底
わきまえ難い根本法則があるわけで、その悪業輪廻に自力で陥らずにいられる者こそは
賢人であり、他人すらをも共に陥らせずにいられる者こそは聖人であるといえる。
残すことなく一生涯を終えることでこそ、生まれてきたなりの意味を持って生滅するものと
なるのだといえる。積極的に善行に励むとまでは行かずとも、最悪の悪行ぐらいは犯さない
ようにしておくことで、生まれて来なかったのともさして変わらぬ程度の清浄さでいること
だろう。善も悪も不善も不悪も、全てこの世界の内側でしか展開され得ないものだからこそ、
それらをうまく処理することで、生まれて来なかった場合を0とした場合のプラスマイナス
ゼロやそれ以上の存在価値を以って人生を送り終えることもまた可能となっているのである。
ただ、そのようなプラマイゼロ以上の価値を持つ人生を送り通すためには、厳重な善悪の
分別だとか、不善不悪の無為自然の境地への尊重意識だとかを十全に育んでおかねばならず、
そのためだけに相当な勉学や修身を必要ともしてしまう。小人たちが若い内から欲望の赴く
ままの人生を送っているような傍らで、最低でも三十歳程度までは勉学精進尽くしの生活を
送らねばならなかったりする(孔子の生涯も『十五にして学を志し、三十にして立つ』で
あったという。為政第二・四)。本格の出家者ともなればさらにそれ以上で、世俗の欲望を
一切控えたままで生涯を送り終えねばならぬ。ただ、それぐらいであって初めて、本当に
自らの人生が生まれて来なかった場合以上の価値を持ち得るわけで、そうであるために必要
な条件というのは、欲望まみれな現代人が考えるよりも遥かに厳しいものであるわけだ。
人間にとっての無制限な欲望こそは、生まれて来なかったほうがマシだったほどもの自他
への害悪を撒き散らす源となる。それでいてその欲望こそが、生を謳歌するための快楽を
貪る気概ともなる。短絡的に生を嬉しがれるような快楽こそは、かえって自分が生まれて
こなかったほうがマシだったほどもの悪業の積み重ねに直結するという、小人には到底
わきまえ難い根本法則があるわけで、その悪業輪廻に自力で陥らずにいられる者こそは
賢人であり、他人すらをも共に陥らせずにいられる者こそは聖人であるといえる。
誰しもが聖賢にまでなったりするのはなかなか難しいことであるにしろ、世の中の方々に
散発した聖賢が、人々を共に悪業に陥らせまいと企図した結果、世の中の大多数の人間が、
生まれてきてよかったといえる程度にまともな人生を送れるようになるということは、
実際に可能なことである。実際に聖賢の側からそれを企図して行く立場の人間の境地などは、
擬似体験としてですらなかなか共感し難いものだが、透徹した理知によってそれが可能で
あることが算出されるものだし、聖賢の境地においてこそ健全な楽しみを得るということが
人間という生き物に可能であるということもまた、理論的に肯定できることである。そう
であることを納得すらしてみたいというのなら、自らも精進に励むに越したことはない。
「死生命あり(既出)」
「生きることにも、死ぬことにも、天命というものが備わっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・五より)
「夫れ礼は、死生存亡の体なり(既出)」
「礼儀こそは、人間にとっての生死存亡の本体である。
(生きるなら生きるなりの礼節に則れば、それで死する状態とも等価な生たり得る)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十五年より)
「盆成括斉に仕う。孟子曰く、死せんかな、盆成括は。盆成括殺さるる。
門人問うて曰く、「夫子は何を以てか其の将に殺さるるを知らんか。曰く、其の人と為るや
小にして才有るも、未だ君子之の大道を聞かざるなり、則ち以て其の身を殺さるるに足るのみ」
「盆成括という孟氏の門人が斉国に仕官した。孟氏は言われた。『盆成括はきっと死ぬだろう』
案の定、盆成括は殺されてしまった。門人たちは孟氏に問うた。『どうして先生は彼が殺される
ことを予知できたのですか』 孟氏『その人となりは、小才はあっても、未だ君子の大道を
聞き知るまでには足らぬもの。(にもかかわらず斉のような大国に仕えたのだから、)もはや
殺される以外の運命は開けていなかったろうと考えたのだ』(自らの不徳故に、
俗世の悪業を食い止められもせずに死んだり殺されたりするしか能がない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二九)
散発した聖賢が、人々を共に悪業に陥らせまいと企図した結果、世の中の大多数の人間が、
生まれてきてよかったといえる程度にまともな人生を送れるようになるということは、
実際に可能なことである。実際に聖賢の側からそれを企図して行く立場の人間の境地などは、
擬似体験としてですらなかなか共感し難いものだが、透徹した理知によってそれが可能で
あることが算出されるものだし、聖賢の境地においてこそ健全な楽しみを得るということが
人間という生き物に可能であるということもまた、理論的に肯定できることである。そう
であることを納得すらしてみたいというのなら、自らも精進に励むに越したことはない。
「死生命あり(既出)」
「生きることにも、死ぬことにも、天命というものが備わっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・五より)
「夫れ礼は、死生存亡の体なり(既出)」
「礼儀こそは、人間にとっての生死存亡の本体である。
(生きるなら生きるなりの礼節に則れば、それで死する状態とも等価な生たり得る)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・定公十五年より)
「盆成括斉に仕う。孟子曰く、死せんかな、盆成括は。盆成括殺さるる。
門人問うて曰く、「夫子は何を以てか其の将に殺さるるを知らんか。曰く、其の人と為るや
小にして才有るも、未だ君子之の大道を聞かざるなり、則ち以て其の身を殺さるるに足るのみ」
「盆成括という孟氏の門人が斉国に仕官した。孟氏は言われた。『盆成括はきっと死ぬだろう』
案の定、盆成括は殺されてしまった。門人たちは孟氏に問うた。『どうして先生は彼が殺される
ことを予知できたのですか』 孟氏『その人となりは、小才はあっても、未だ君子の大道を
聞き知るまでには足らぬもの。(にもかかわらず斉のような大国に仕えたのだから、)もはや
殺される以外の運命は開けていなかったろうと考えたのだ』(自らの不徳故に、
俗世の悪業を食い止められもせずに死んだり殺されたりするしか能がない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二九)

できないなどということはない。しかし、現実的にそれは、薬物乱用や強盗殺人が
取り締まられなければならない程度には規制の対象とされていかなければならない
ものであるということもまた、一人前の社会人としてやっていける程度の理性と
共にであれば、どうしたって理解して受け入れざるを得ないこととなっている。
聖書信仰が堂に入らせるような精神状態、十住心論でいうところの「異生羝羊心」
に相当するような心理状態というものもまた、人間にとって一定以上に安定的な
心理状態であることには変わりない。特に、奴隷や人畜のような立場に追い込
まれてしまっている人間にとっては、特定の思想信条などに依らずとも、否応
なくそのような心理状態に追い込まれざるを得ないようにもなっている。しかし、
それをあえて正当化して堂に入らせるなどということまでは、あるべきではない。
だから東洋では、未だ奴隷制が残存していたような頃から、異生羝羊心そのものを
堂に入らせるような思想信条は排されて、それ以上に高潔な心理状態こそを堂に
入らせる試みが、数多の思想哲学や宗教信仰によって為されてきたのであるけれども、
西洋の場合はそうではなく、異生羝羊心こそを「万人が安住すべき常道」にすらして
しまおうとする試みが為され、それが結果的に聖書信仰として確立されてしまった。
異生羝羊心は、未熟な女子供の心理状態にも合致するものだから、それを正当化して
体系化している聖書信仰の教義が、女子供により好かれやすいということもある。
特に、仏教帰依が廃れかかっている今の日本などでは、仏教などは年寄りの好む
古臭い文化だなどとも捉えられがちであったりするが、昔の日本では老若男女
誰しもが仏門に帰依するぐらいは当たり前のことであった。それは、異生羝羊心で
ある状態こそが一般的である女子供などからすれば、自分たちが得意でないもの
にあえて帰依させられる億劫であったわけで、西洋的な価値観に基づけば「束縛」
されていた状態だったともいえるわけである。しかし、「異生羝羊心などを堂に
入らせたりすべきでない」という「万事を理解したうえでの結論」に基づくなら、
女子供にすら仏門や儒学への帰服をあてがって、異生羝羊心を開き直るような余地
を与えないようにするほうが理に適っているわけだから、昔の日本人などがあえて
そのような姿勢でいたこともまた、今でこそ本当に評価できることとなっている。
かようにして、何もかもを理解し尽くした境地においてこそ、「聖書信仰が社会的
に許容されるようなことだけはあってはならない」という結論の正当性にまで
理解を働かせられるようになるわけである。未だ理解が未熟な限りにおいては、
女子供や小人男といった世の中の大多数の人間の恒常的な心理状態を正当化して
堂に入らせてくれる聖書信仰という文化の、その存在からの不当性などを理解する
こともなかなかできはしないのであるけれども、「異生羝羊心のような未熟な精神
状態もまた、人間社会における常なる存在である」ということにも理解を働かせた上で、
「それを正当化して堂に入らせるようなことだけはあってはならない」という所にまで
理解を働かせられたなら、その時にこそ、聖書信仰がこの世の中での市民権などを
得てはならないことにまで、やっと理解が利かせられるようになるわけである。
「異生羝羊心そのものはあらざるを得ないものだが、それを正当化することだけは
許されない」という物事への理解は、それ自体が中正な判断力に基づくものである。
「異生羝羊心とその正当化は絶対不可分なものである」などという極論状態に思考
が陥ってしまっているのであれば、そのような判断自体が覚束ないままとなる。
それ自体、中正な考えを欠く異生羝羊心の持ち主ならではの患い事であるとも言える
わけで、だからこそ、上のような中正な判断に即して聖書信仰が根絶されて行くこと
もまた、異生羝羊心の持ち主たち自身にとっては理解できないが故に、はなはだ
受け入れがたい事態ともなってしまうのである。故に、異生羝羊心の持ち主たち
からの万全の理解や承諾を得つつ、聖書信仰を根絶していったりすることも
なかなか難しいこととなるわけで、それはまず無理であるとした上で、彼らの
未熟な精神状態自体はこれからも一定の保護下に置いていってやることである。
を与えないようにするほうが理に適っているわけだから、昔の日本人などがあえて
そのような姿勢でいたこともまた、今でこそ本当に評価できることとなっている。
かようにして、何もかもを理解し尽くした境地においてこそ、「聖書信仰が社会的
に許容されるようなことだけはあってはならない」という結論の正当性にまで
理解を働かせられるようになるわけである。未だ理解が未熟な限りにおいては、
女子供や小人男といった世の中の大多数の人間の恒常的な心理状態を正当化して
堂に入らせてくれる聖書信仰という文化の、その存在からの不当性などを理解する
こともなかなかできはしないのであるけれども、「異生羝羊心のような未熟な精神
状態もまた、人間社会における常なる存在である」ということにも理解を働かせた上で、
「それを正当化して堂に入らせるようなことだけはあってはならない」という所にまで
理解を働かせられたなら、その時にこそ、聖書信仰がこの世の中での市民権などを
得てはならないことにまで、やっと理解が利かせられるようになるわけである。
「異生羝羊心そのものはあらざるを得ないものだが、それを正当化することだけは
許されない」という物事への理解は、それ自体が中正な判断力に基づくものである。
「異生羝羊心とその正当化は絶対不可分なものである」などという極論状態に思考
が陥ってしまっているのであれば、そのような判断自体が覚束ないままとなる。
それ自体、中正な考えを欠く異生羝羊心の持ち主ならではの患い事であるとも言える
わけで、だからこそ、上のような中正な判断に即して聖書信仰が根絶されて行くこと
もまた、異生羝羊心の持ち主たち自身にとっては理解できないが故に、はなはだ
受け入れがたい事態ともなってしまうのである。故に、異生羝羊心の持ち主たち
からの万全の理解や承諾を得つつ、聖書信仰を根絶していったりすることも
なかなか難しいこととなるわけで、それはまず無理であるとした上で、彼らの
未熟な精神状態自体はこれからも一定の保護下に置いていってやることである。
聖書信仰は絶やされながらも、必要悪としての異生羝羊心やその持ち主たちの
存在性ぐらいは許容されるようになった世の中において、元聖書信者や聖書愛好者
たちも、意外と自分たちが普通にいられていることを知ってやっと、聖書信仰など
自分たちには全く不可欠でも何でもないものだったことを理解するのである。
世の中の大多数の人間は女子供や小人男であるのが世の常であると共に、そんな
劣等な立場の人間が、あえて自分たちの品性を正当化して思い上がったりまでは
しないでいることもまた、全世界規模で見た場合の世の常であるわけだから、自分
たちの命の危機などを理由に、そのような常なる状態への帰還を拒むべきでもない。
「宰我、子貢、有若も、智は以て聖人を知るに足れり」
「宰我や子貢や有若といった孔門の弟子たちにも、聖人とは何かを理解できる
程度の知恵はあった。(宰我は知識や言辞ばかりで人情や実践に欠け、子貢は
君子としての職務を尊ぶ儒門に学びながら貨殖功利で財を成し、有若は容貌が孔子
に似ていたために孔子の没後に後釜に仕立て上げられたもののその役割を果たし
きれなかった。そんな連中でも、聖人とは何かを理解するぐらいのことはできた。
問題は聖人を理解することなどではなく、実際に聖人になれるかどうかである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
存在性ぐらいは許容されるようになった世の中において、元聖書信者や聖書愛好者
たちも、意外と自分たちが普通にいられていることを知ってやっと、聖書信仰など
自分たちには全く不可欠でも何でもないものだったことを理解するのである。
世の中の大多数の人間は女子供や小人男であるのが世の常であると共に、そんな
劣等な立場の人間が、あえて自分たちの品性を正当化して思い上がったりまでは
しないでいることもまた、全世界規模で見た場合の世の常であるわけだから、自分
たちの命の危機などを理由に、そのような常なる状態への帰還を拒むべきでもない。
「宰我、子貢、有若も、智は以て聖人を知るに足れり」
「宰我や子貢や有若といった孔門の弟子たちにも、聖人とは何かを理解できる
程度の知恵はあった。(宰我は知識や言辞ばかりで人情や実践に欠け、子貢は
君子としての職務を尊ぶ儒門に学びながら貨殖功利で財を成し、有若は容貌が孔子
に似ていたために孔子の没後に後釜に仕立て上げられたもののその役割を果たし
きれなかった。そんな連中でも、聖人とは何かを理解するぐらいのことはできた。
問題は聖人を理解することなどではなく、実際に聖人になれるかどうかである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・二より)
情念も理性もあるとした上で、両者の均衡が取れているのが聖賢である一方、
両者の均衡が破れてしまいがちなのが小人や女子供である。たとえば
理 理
情 ・・・①
理 理
というように、理が情を取り囲んで十分な制御下に置いているような状態こそは
情理の均衡が取れた状態であるといえ、これこそは聖賢の常なる精神状態である一方、
情 情
理 ・・・②
情 情
といった風に、理こそが情に取り囲まれてしまっている状態などが、情理の均衡が
破れてしまっている状態であり、これが小人や女子供の陥りやすい精神状態だといえる。
上の②ような状態でいくら理性を働かせたところで、結局は総体面からの劣情に囚われて、
劣情の発露のために理知までもが悪用されてしまうことになる。西洋の学者がそれは
それは精巧な科学体系や哲学理論を構築しておきながら、結局は自分たちのパトロンの
暴慢を支援してやるためばかりに知識を利用してしまったのも、そのためである。
一方で、上の①のような情理の均衡が取れた状態であれば、理知自体は「論語」にある
ようなごく当たり前な徳目程度であるとした所で、自らの知識を悪用せずに善用したり
することが固く守られて、自他に悪影響以上の好影響を及ぼすことが可能となるのである。
①のような形で十分な制御下に置かれた情念こそは、仁徳や菩提心ともなるわけだから、
情念を全く欠いた機械かアスペルガー症候群患者のような状態が理想とすべき精神状態
だったりするわけでも決してない。理知によって十分な統制下にすら置かれているので
あれば、それによって仁心たり得ている情念自体は、むしろ旺盛なほうがいいぐらいである。
つまり、①のような状態にある情念が、②を構成している情念の合計並みかそれ以上
の旺盛さであっても構わないわけで、そうなれば、①のような情理の構造全体が②の
構造全体の何倍もの大きさにすらなるということになる。そのような情理を湛えた人間
こそは大人(たいじん)であり、②のような精神状態にある小人にとっては畏れ多い
存在ともなる。自らが囚われの状態にある情念並みかそれ以上の情念を湛えながら、
両者の均衡が破れてしまいがちなのが小人や女子供である。たとえば
理 理
情 ・・・①
理 理
というように、理が情を取り囲んで十分な制御下に置いているような状態こそは
情理の均衡が取れた状態であるといえ、これこそは聖賢の常なる精神状態である一方、
情 情
理 ・・・②
情 情
といった風に、理こそが情に取り囲まれてしまっている状態などが、情理の均衡が
破れてしまっている状態であり、これが小人や女子供の陥りやすい精神状態だといえる。
上の②ような状態でいくら理性を働かせたところで、結局は総体面からの劣情に囚われて、
劣情の発露のために理知までもが悪用されてしまうことになる。西洋の学者がそれは
それは精巧な科学体系や哲学理論を構築しておきながら、結局は自分たちのパトロンの
暴慢を支援してやるためばかりに知識を利用してしまったのも、そのためである。
一方で、上の①のような情理の均衡が取れた状態であれば、理知自体は「論語」にある
ようなごく当たり前な徳目程度であるとした所で、自らの知識を悪用せずに善用したり
することが固く守られて、自他に悪影響以上の好影響を及ぼすことが可能となるのである。
①のような形で十分な制御下に置かれた情念こそは、仁徳や菩提心ともなるわけだから、
情念を全く欠いた機械かアスペルガー症候群患者のような状態が理想とすべき精神状態
だったりするわけでも決してない。理知によって十分な統制下にすら置かれているので
あれば、それによって仁心たり得ている情念自体は、むしろ旺盛なほうがいいぐらいである。
つまり、①のような状態にある情念が、②を構成している情念の合計並みかそれ以上
の旺盛さであっても構わないわけで、そうなれば、①のような情理の構造全体が②の
構造全体の何倍もの大きさにすらなるということになる。そのような情理を湛えた人間
こそは大人(たいじん)であり、②のような精神状態にある小人にとっては畏れ多い
存在ともなる。自らが囚われの状態にある情念並みかそれ以上の情念を湛えながら、
さらにそれを絶大な理性によって統御下に置いている人間であるわけだから、とても
とても、自分ごときが肩を並べられるような相手ではないということになるのである。
「仁者こそは本当に人を好むことも憎むこともできる(里仁第四・三)」とあるのも、
仁者の抱く情念の分量が、小人が抱ける情念の限界量すらをも上回るものだからである。
十全な理知による制御を受けた情念であるからこそ、自らを取り込んでしまっている
ような情念よりも旺盛であり得る。情念に囚われること即ちより大きな情念を抱ける
ということなのではなく、むしろそれで自らが抱ける情念を限ってしまうことになる。
男よりも情念に囚われやすい女子供が、男よりも情念豊かだというのでもない。
仁徳や菩提心として男が抱くような情念こそは、女子供の劣情をも上回る大情となり、
女子供や小人には決して実現できないような大業を成す原動力ともなる。だからこそ、
「男は理性の生き物、女は情念の生き物」などという決め付けも不当なものであるといえ、
むしろ小ぢんまりとした情念ばかりに駆られている女子供や小人の哀れさこそを、
大の男もまた慈しんでやるのでなければならない。それこそ、女子供や小人には
一生抱けないような、絶大な理性の統御下にある、無尽蔵の慈愛によって。
「(易は)天地の化を範囲して過たず、万物を曲成して遺さず、
昼夜の道を通じて知る。(ここまで既出)故に神は方なくして易は体なし」
「(この全世界全宇宙の根本法則は)天地万物の化育を取り囲んで過ちを犯させず、
それでいて万物をその微細に至るまで完成して余すところがなく、昼夜のような陰陽
の転変を通じてそれを知らせる。そのため神が特定の相手だけを取り囲んで優遇する
ようなこともないし、易が(人格神の如き)一定の形体を持ったりすることもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
とても、自分ごときが肩を並べられるような相手ではないということになるのである。
「仁者こそは本当に人を好むことも憎むこともできる(里仁第四・三)」とあるのも、
仁者の抱く情念の分量が、小人が抱ける情念の限界量すらをも上回るものだからである。
十全な理知による制御を受けた情念であるからこそ、自らを取り込んでしまっている
ような情念よりも旺盛であり得る。情念に囚われること即ちより大きな情念を抱ける
ということなのではなく、むしろそれで自らが抱ける情念を限ってしまうことになる。
男よりも情念に囚われやすい女子供が、男よりも情念豊かだというのでもない。
仁徳や菩提心として男が抱くような情念こそは、女子供の劣情をも上回る大情となり、
女子供や小人には決して実現できないような大業を成す原動力ともなる。だからこそ、
「男は理性の生き物、女は情念の生き物」などという決め付けも不当なものであるといえ、
むしろ小ぢんまりとした情念ばかりに駆られている女子供や小人の哀れさこそを、
大の男もまた慈しんでやるのでなければならない。それこそ、女子供や小人には
一生抱けないような、絶大な理性の統御下にある、無尽蔵の慈愛によって。
「(易は)天地の化を範囲して過たず、万物を曲成して遺さず、
昼夜の道を通じて知る。(ここまで既出)故に神は方なくして易は体なし」
「(この全世界全宇宙の根本法則は)天地万物の化育を取り囲んで過ちを犯させず、
それでいて万物をその微細に至るまで完成して余すところがなく、昼夜のような陰陽
の転変を通じてそれを知らせる。そのため神が特定の相手だけを取り囲んで優遇する
ようなこともないし、易が(人格神の如き)一定の形体を持ったりすることもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
自分自身の実力に何らの疑問の余地もない時にこそ、人は恐れたりする必要がない。
自分以外の強大な何者かに頼っているような状態ならば、自力の脆弱な自分自身は
やはり怖れ慎んでいるべきである。強大な何者かを拠り所とした挙げ句に
「本願ぼこり」で怖れ知らずな驕り高ぶりを抱いたりするのならば、結局、
頼りにしている相手というのが実は単なる暴力団だったりするのが関の山である。
本人たち自身が卑しい存在である暴力団の用心棒を頼りにしているような
人間が何者かを畏れたりする必要はないわけだけれども、その場合には、
そもそもより頼むべき相手を間違っているということが言えるのである。
聖書圏において、超越神とされるような存在に合致する所業を裏で執り行って
来たのがユダヤ教徒であるわけだけれども、表向きのユダヤ教徒自体は、昔から
キリスト教徒からの卑しみの対象とされて来ている。政商としてのその職分も
また決してよいものとまではされず、せいぜい必要悪としての黙認を受けて
来た程度であるわけだけれども、ユダヤ教徒が政商として暗躍した挙げ句に
巻き起こされた大事件なり戦乱なりだけは「神の所業」として尊重の対象にすら
されて来ている。古代ローマの半円形劇場での芸能享受の頃から西洋人に植えつけ
られている、舞台上だけを見て舞台裏から目を背ける演劇享楽型の精神構造で
以って、裏方の仕掛け人であるユダヤ教徒自体は全く尊敬の対象などにせずとも、
表向きに巻き起こる大事件だけは神の所業として尊んだりして来たのである。
演劇享楽型の精神構造と化してしまっている人間というのは、表向き神の所業
らしきものも、所詮は卑しむべき裏方の蠢動によって執り行われているということを
本能的には察しているのである。だから、神の所業といえどもさして畏怖心の糧に
したりすることもなく、その威力の嵩にかかった驕り高ぶりを抱いたりするのである。
自分以外の強大な何者かに頼っているような状態ならば、自力の脆弱な自分自身は
やはり怖れ慎んでいるべきである。強大な何者かを拠り所とした挙げ句に
「本願ぼこり」で怖れ知らずな驕り高ぶりを抱いたりするのならば、結局、
頼りにしている相手というのが実は単なる暴力団だったりするのが関の山である。
本人たち自身が卑しい存在である暴力団の用心棒を頼りにしているような
人間が何者かを畏れたりする必要はないわけだけれども、その場合には、
そもそもより頼むべき相手を間違っているということが言えるのである。
聖書圏において、超越神とされるような存在に合致する所業を裏で執り行って
来たのがユダヤ教徒であるわけだけれども、表向きのユダヤ教徒自体は、昔から
キリスト教徒からの卑しみの対象とされて来ている。政商としてのその職分も
また決してよいものとまではされず、せいぜい必要悪としての黙認を受けて
来た程度であるわけだけれども、ユダヤ教徒が政商として暗躍した挙げ句に
巻き起こされた大事件なり戦乱なりだけは「神の所業」として尊重の対象にすら
されて来ている。古代ローマの半円形劇場での芸能享受の頃から西洋人に植えつけ
られている、舞台上だけを見て舞台裏から目を背ける演劇享楽型の精神構造で
以って、裏方の仕掛け人であるユダヤ教徒自体は全く尊敬の対象などにせずとも、
表向きに巻き起こる大事件だけは神の所業として尊んだりして来たのである。
演劇享楽型の精神構造と化してしまっている人間というのは、表向き神の所業
らしきものも、所詮は卑しむべき裏方の蠢動によって執り行われているということを
本能的には察しているのである。だから、神の所業といえどもさして畏怖心の糧に
したりすることもなく、その威力の嵩にかかった驕り高ぶりを抱いたりするのである。
「物事には裏表が付き物である」というのは、東洋でも陰陽思想や密教に即して
わきまえられて来たことである。特にこの日本こそは、本場であるはずの中国や
インド以上にも、最も良質な部類の陰陽道や真言密教を保全して来ている国でもある。
なればこそ、「裏」に相当するものを決しておざなりに扱ったりはしない。日本の
顕教の実質的な祖である最澄などよりも、密教の祖である空海のほうが個人としては
絶大な人気を得ていたりもする通り、半ば表以上にも裏のほうが尊重されて来ている
ぐらいである。それはそれで日本独特の事情であったりもするわけだけれども、裏を
表並みかそれ以上に尊ぶということもまた実際に可能である見本となっている。
裏表の内の裏を尊ぶということをおざなりにして来たからこそ、東洋では許し難い
権力犯罪行為であるとして、とっくの昔から取り締まられて来ているような所業を
ユダヤ人が裏でやらかすことが西洋では黙認されて来たのである。しかもその
結果として巻き起こされる大事件だけは「神の所業」としてウレシがると来ている。
所詮は裏方の権力犯罪によって巻き起こされている事件に過ぎないものだから、
それを神の所業としてウレシがる西洋人たちもまたろくな畏怖心を抱くことがない。
裏を尊重する意識を欠いているが故にまともな畏敬心も抱かれないという、粗悪な
未開文化の享受ゆえの悪循環がこれまで進行して来てしまっているのである。
表並みかそれ以上にも裏を尊ぶ意識が育まれることで、かえって裏での迷惑な策動が
予防される。裏は裏で適切に扱うことがわきまえられることで、裏が表を不正に脅かす
ようなことも許されなくなる。肉食と魚食なら肉食のほうが表で魚食が裏だが、魚食の
ほうが無駄な脂質も少なくて知能の向上に与しやすいなどの栄養面での優勢さがある。
そのような裏の表への優勢さも察した上で表裏を取り扱って行くのでなければ、表裏の
均衡というものも崩れがちになりやすいという特殊事情すらをもできれば察すべきである。
わきまえられて来たことである。特にこの日本こそは、本場であるはずの中国や
インド以上にも、最も良質な部類の陰陽道や真言密教を保全して来ている国でもある。
なればこそ、「裏」に相当するものを決しておざなりに扱ったりはしない。日本の
顕教の実質的な祖である最澄などよりも、密教の祖である空海のほうが個人としては
絶大な人気を得ていたりもする通り、半ば表以上にも裏のほうが尊重されて来ている
ぐらいである。それはそれで日本独特の事情であったりもするわけだけれども、裏を
表並みかそれ以上に尊ぶということもまた実際に可能である見本となっている。
裏表の内の裏を尊ぶということをおざなりにして来たからこそ、東洋では許し難い
権力犯罪行為であるとして、とっくの昔から取り締まられて来ているような所業を
ユダヤ人が裏でやらかすことが西洋では黙認されて来たのである。しかもその
結果として巻き起こされる大事件だけは「神の所業」としてウレシがると来ている。
所詮は裏方の権力犯罪によって巻き起こされている事件に過ぎないものだから、
それを神の所業としてウレシがる西洋人たちもまたろくな畏怖心を抱くことがない。
裏を尊重する意識を欠いているが故にまともな畏敬心も抱かれないという、粗悪な
未開文化の享受ゆえの悪循環がこれまで進行して来てしまっているのである。
表並みかそれ以上にも裏を尊ぶ意識が育まれることで、かえって裏での迷惑な策動が
予防される。裏は裏で適切に扱うことがわきまえられることで、裏が表を不正に脅かす
ようなことも許されなくなる。肉食と魚食なら肉食のほうが表で魚食が裏だが、魚食の
ほうが無駄な脂質も少なくて知能の向上に与しやすいなどの栄養面での優勢さがある。
そのような裏の表への優勢さも察した上で表裏を取り扱って行くのでなければ、表裏の
均衡というものも崩れがちになりやすいという特殊事情すらをもできれば察すべきである。
十分な察知や尊重の行き届いた裏方こそは、ユダヤ教徒のような暴挙に及ぶことも
許されず、裏方という立場ならではのまともな業務のみを務めて行かねばならなくなる。
しかもそれでこそ、日本の技術者のような、微にわたり細にわたる超絶技巧の工作まで
もが実現されもする。その技術の全てが万人に評価されたりするわけではないけれども、
世の中全体が「裏」というもの全般を尊重する風習を嗜んでいるものだから、誰が見ている
わけでもないような裏の内からの努力精進に励むようになって、表向きだけの努力ばかりに
専らであったような場合には決して成し得なかったような功績までもが挙げられたりするのである。
「俾予れ一人をして爾じの邦家を輯寧せしむ。
茲れ朕れ未だ戻を上下に獲るを知らず。慄慄として危懼し、将に深淵に隕らんが若し」
「天は我れ(湯王)一人に命じて汝らの住む国邑を平定させたのだけれども、それでも未だに、
天地上下に自らが罪を得たのではないかと心配で、慄然として恐れ危ぶみ、まさに深い淵へと
転落しそうな心持ちでいる。(天命によって天下を得たのであっても、未だに戒心恐懼する気持ち
を欠かさないでいる。これこそは聖君の有り方であるし、万人が見習うべき姿でもあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経—ー書経・商書・湯誥より)
許されず、裏方という立場ならではのまともな業務のみを務めて行かねばならなくなる。
しかもそれでこそ、日本の技術者のような、微にわたり細にわたる超絶技巧の工作まで
もが実現されもする。その技術の全てが万人に評価されたりするわけではないけれども、
世の中全体が「裏」というもの全般を尊重する風習を嗜んでいるものだから、誰が見ている
わけでもないような裏の内からの努力精進に励むようになって、表向きだけの努力ばかりに
専らであったような場合には決して成し得なかったような功績までもが挙げられたりするのである。
「俾予れ一人をして爾じの邦家を輯寧せしむ。
茲れ朕れ未だ戻を上下に獲るを知らず。慄慄として危懼し、将に深淵に隕らんが若し」
「天は我れ(湯王)一人に命じて汝らの住む国邑を平定させたのだけれども、それでも未だに、
天地上下に自らが罪を得たのではないかと心配で、慄然として恐れ危ぶみ、まさに深い淵へと
転落しそうな心持ちでいる。(天命によって天下を得たのであっても、未だに戒心恐懼する気持ち
を欠かさないでいる。これこそは聖君の有り方であるし、万人が見習うべき姿でもあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経—ー書経・商書・湯誥より)
演劇や映画を見たりすることからして、観客席でふんぞり返って「どれ、楽しんでやろうか」
などという横柄な態度でいることが全く以て許されるものである。舞台裏でのユダヤ教徒たちの
策動の結果、表向きの世にもたらされる大災厄などを「神の所業」として崇め立てたりするキリスト教徒の
姿勢もまた、観客席でふんぞり返って演劇や映画を観る姿勢にも酷似するものだから、そこには必ず
一定以上の不埒さが伴ったままであり続ける。それこそ、「神の所業」を崇め立てたりすること自体が
自分たちの側にとっての演技の様相を呈するわけで、見てくれの敬虔さぐらいは取り繕いつつも、
腹の内には物事を無責任に傍観したままでいてやろうとする思い上がりを宿したままでいるのが常態と化すのである。
そんなことは、正統な神仏を崇敬する上では決して許されることではない。
お客様然とした無責任な態度は心中からも完全に排し去った上での、全身全霊をかけての崇敬を
帰依者の側が心がけるのでなければ、そもそも帰依したりすること自体に意味が生じないのが
本物の神仏というものである。それは実際、堅苦しいことでもあるわけで、心中に思い上がりを帯びたままで
いることこそを嬉しがるような不埒者にとっては、できる限り忌み避けたいこととなるのである。
そんな、正統な神仏への帰依を心底忌み嫌うような不埒者にとってこそ、劇場型の
カルト信仰もまた、自らの希望が願ったり叶ったりな信仰となる。ふんぞり返って演劇や映画を観る
観客然とした精神的怠惰と共に帰依することまでもが許される邪神への邪信だからこそ、
そんな信仰を持つ自分たちもまた喜ばしくて幸せだということになるのである。
そして、そんな精神的怠惰と共なる帰依が許容されるカルト信仰こそは、
まだ信仰などしないでいたほうがマシなほどもの粗悪さを帯びた駄信ともなる。
神仏を崇敬する以上は、心中の不埒さなども完全に排し去った上での、全身全霊をかけた崇敬こそを
心がけるべきであり、それでこそ、神仏への崇敬が少なからずの公益的な意義を帯びることともなる。
などという横柄な態度でいることが全く以て許されるものである。舞台裏でのユダヤ教徒たちの
策動の結果、表向きの世にもたらされる大災厄などを「神の所業」として崇め立てたりするキリスト教徒の
姿勢もまた、観客席でふんぞり返って演劇や映画を観る姿勢にも酷似するものだから、そこには必ず
一定以上の不埒さが伴ったままであり続ける。それこそ、「神の所業」を崇め立てたりすること自体が
自分たちの側にとっての演技の様相を呈するわけで、見てくれの敬虔さぐらいは取り繕いつつも、
腹の内には物事を無責任に傍観したままでいてやろうとする思い上がりを宿したままでいるのが常態と化すのである。
そんなことは、正統な神仏を崇敬する上では決して許されることではない。
お客様然とした無責任な態度は心中からも完全に排し去った上での、全身全霊をかけての崇敬を
帰依者の側が心がけるのでなければ、そもそも帰依したりすること自体に意味が生じないのが
本物の神仏というものである。それは実際、堅苦しいことでもあるわけで、心中に思い上がりを帯びたままで
いることこそを嬉しがるような不埒者にとっては、できる限り忌み避けたいこととなるのである。
そんな、正統な神仏への帰依を心底忌み嫌うような不埒者にとってこそ、劇場型の
カルト信仰もまた、自らの希望が願ったり叶ったりな信仰となる。ふんぞり返って演劇や映画を観る
観客然とした精神的怠惰と共に帰依することまでもが許される邪神への邪信だからこそ、
そんな信仰を持つ自分たちもまた喜ばしくて幸せだということになるのである。
そして、そんな精神的怠惰と共なる帰依が許容されるカルト信仰こそは、
まだ信仰などしないでいたほうがマシなほどもの粗悪さを帯びた駄信ともなる。
神仏を崇敬する以上は、心中の不埒さなども完全に排し去った上での、全身全霊をかけた崇敬こそを
心がけるべきであり、それでこそ、神仏への崇敬が少なからずの公益的な意義を帯びることともなる。

「神の所業だ」などとして怖れ畏まるようなお粗末さを許すことも決してないから、
ただその事実一つを取っても公害予防の意義を帯びていることが分かるのである。
ただ、全身全霊での神仏崇拝を心がけることなどは、世俗での生業もあるような俗人には
なかなか難儀なこととなるのも事実だから、恒常的には「鬼神を敬してこれを遠ざく」とした上で、
定期的な祭りや寺社参りの時にぐらいは誠心誠意での参拝を心がけるようにすればいいのである。
神仏への帰依自体、世俗での仕事並みかそれ以上にも義務的なものであるべきなのであり、
そこに安易な報酬を期待したりすべきでもない。安全保障だとか公益寄与だとかの、最低限かつ最大級の
福利こそを神仏への崇敬にも託すべきなのであり、そうでもないような些末な欲望を叶えてくれる
神などは、そんじょそこらのサービス業者ともさして変わらぬ存在であるとして見限るべきなのである。
長寿すら、神仏によって叶えられるべき場合もあれば、そうでない場合もある。
文王や武王の如く世のため人のための人生に徹している人間ともなれば、神仏からの加護によってでも
長寿に与るべきである一方、政商や悪徳外交家ほどにも有害無益な所業に励んでいる者ともなれば、
むしろ神仏に自らの短命を願うべきですらあるといえる。正統な神仏であれば、そのあたりの禍福の分配も
妥当なものとしてくれるから、心配なくそのような目的性と共に崇敬を篤くして行けばいいわけだけれども。
世の中にとって有害無益な罪業ばかりを積み重ねている大悪人に限って、
不老長寿すらをもこいねがう程の思い上がりにまみれていたりするのが世の常であるわけで、
そのような大悪人の望みを絶つためにも、無闇に長寿を欲したりすることからして避けるべきだったりもする。
白髪でしわくちゃで背骨も曲がった爺さん婆さんになってでも長生きしなければならないような
事情があるんなら長生きもすればいいが、いつまでも若いままでいたいとかいう思い上がりすら
帯びているというのであれば、せいぜい50歳程度が適正寿命となるであろう。不老長寿の
妙薬とされるような毒物劇物すら貪った挙げ句に49歳で亡くなった秦始皇帝のように。
「舜は其れ大孝なるか。徳は聖人たり、尊は天子たり、富は四海の内を有し、宗廟は之れを饗し、
子孫は之れを保んず。故に大徳は必ず其の位を得、必ず其の禄を得、必ず其の名を得、
必ず其の寿を得。故に天の物を生ずるや、必ず其の材に因らしめて篤うす。故ら栽えたる者は
之れを培い、傾くる者は之れを覆す。(詩に)曰:く、嘉楽の君子は、憲憲たる令徳、民も宜しく
人も宜しく、禄を天に受け、保佑して之れを命じ、天自り之れを申すと。故に大徳者は必ず命を受く」
「虞の舜帝はそれはそれは大孝なるものであった。その徳は聖人とされるに値し、尊さは天子と
されるに値し、富は四海の内の全てを有するに足り、社稷宗廟は彼を饗応するに足り、子孫はその
あり方を末永く保ち続けるに足りた。故に大徳こそは相応の位を得、相応の福禄を得、相応の名声を得、
相応の長寿を得る見本ともなっている。天は万物を生ずるに際して、必ず因果応報の理コトワリに即して
全てを篤くもてなすように取り決めた。自ら善良な生産に励む者には厚生の道を与え、損なうこと
ばかりを企てるような者には自業自得の転覆に見舞われる道を用意した。詩経・大雅・仮楽にも
『善良な楽しみと共にある君子の、旺盛なる大徳は、民のためにも人のためにもなり、禄は点からの
賜り物となり、よく安んじ助けてそこに天からの命を下す』とある。大徳の持ち主こそは天命にも与る
のである。(自力作善の聖賢こそが天寿天命福禄悦楽に与って道に適った人生を全うするという論説。
その要となるのは大孝であり、父子の親を損なうような邪信妄動に誑かされたりすることも許されない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一七より)
子孫は之れを保んず。故に大徳は必ず其の位を得、必ず其の禄を得、必ず其の名を得、
必ず其の寿を得。故に天の物を生ずるや、必ず其の材に因らしめて篤うす。故ら栽えたる者は
之れを培い、傾くる者は之れを覆す。(詩に)曰:く、嘉楽の君子は、憲憲たる令徳、民も宜しく
人も宜しく、禄を天に受け、保佑して之れを命じ、天自り之れを申すと。故に大徳者は必ず命を受く」
「虞の舜帝はそれはそれは大孝なるものであった。その徳は聖人とされるに値し、尊さは天子と
されるに値し、富は四海の内の全てを有するに足り、社稷宗廟は彼を饗応するに足り、子孫はその
あり方を末永く保ち続けるに足りた。故に大徳こそは相応の位を得、相応の福禄を得、相応の名声を得、
相応の長寿を得る見本ともなっている。天は万物を生ずるに際して、必ず因果応報の理コトワリに即して
全てを篤くもてなすように取り決めた。自ら善良な生産に励む者には厚生の道を与え、損なうこと
ばかりを企てるような者には自業自得の転覆に見舞われる道を用意した。詩経・大雅・仮楽にも
『善良な楽しみと共にある君子の、旺盛なる大徳は、民のためにも人のためにもなり、禄は点からの
賜り物となり、よく安んじ助けてそこに天からの命を下す』とある。大徳の持ち主こそは天命にも与る
のである。(自力作善の聖賢こそが天寿天命福禄悦楽に与って道に適った人生を全うするという論説。
その要となるのは大孝であり、父子の親を損なうような邪信妄動に誑かされたりすることも許されない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一七より)
自らが到底、自力での積善などが覚束ない愚夫であるものだから、自分以外の
誰かに頼ろうとする。そのおかげで、自らが深刻な悪業に陥ってしまわずに済む程度の
利益があることを期待するというのが、他力依存者としての分相応な姿勢であるといえる。
どんなに全知全能な超越者に頼った所で、自分自身が善業を積むこともできない愚夫の
ままでい続けることには代わりがない。善業を積めるだけの能力が自らに備わるのなら、
その時にはもう他力本願などでいるはずもない。その時どころか、善業を積めるだけの
能力を身に付けようとするその瞬間からもう、他力本位でいようとするような姿勢から
脱却しておかねばならない。他力本願から脱却しようとする姿勢と共なる努力精進こそは、
自力での積善を可能とするための修練ともなるわけだから、他力本願を志した結果として、
自力による積善が可能になったりするようなことからして期待できるものではないといえる。
精神面から他力本願を卒業して自力本位に移行することは、実際苦痛を伴うものである。
聖書圏ではそれが「ニヒリズムへの陥り」などとして忌み嫌われたりもして来ていて、
実際にニーチェのようなニヒリストが発狂状態に陥ってしまった事例もある。しかし、
そのような苦痛を伴う他力本願からの脱却の先にこそ、自力作善を可能とする途も拓けて
いるわけだから、積善によって他者を利そうとするような目的性を伴った慈しみによって、
精神面からの独り立ちの苦痛を乗り越えて、その先こそを目指さねばならないのである。
その、精神面からの自力本位への移行が果たされない限りにおいては、どんなに
多能な人間といえども、悪業以上の善業を寸分ほどすら積むことができないままに終わる。
親への精神的な依存に頼るしかない年頃の幼児などが、経済的にも完全に恵まれる側の
ままでいるように、精神面からの他者依存が主体と化してしまっているような大人もまた、
恵む以上に恵まれることを本位としてしまうものだから、まずその精神面からの他力本位
から卒業しておくのでなければ、いくら部分的な積善を心がけた所で、総体的には
積悪の分量のほうが積善の分量を上回るようなままでいてしまうのである。
誰かに頼ろうとする。そのおかげで、自らが深刻な悪業に陥ってしまわずに済む程度の
利益があることを期待するというのが、他力依存者としての分相応な姿勢であるといえる。
どんなに全知全能な超越者に頼った所で、自分自身が善業を積むこともできない愚夫の
ままでい続けることには代わりがない。善業を積めるだけの能力が自らに備わるのなら、
その時にはもう他力本願などでいるはずもない。その時どころか、善業を積めるだけの
能力を身に付けようとするその瞬間からもう、他力本位でいようとするような姿勢から
脱却しておかねばならない。他力本願から脱却しようとする姿勢と共なる努力精進こそは、
自力での積善を可能とするための修練ともなるわけだから、他力本願を志した結果として、
自力による積善が可能になったりするようなことからして期待できるものではないといえる。
精神面から他力本願を卒業して自力本位に移行することは、実際苦痛を伴うものである。
聖書圏ではそれが「ニヒリズムへの陥り」などとして忌み嫌われたりもして来ていて、
実際にニーチェのようなニヒリストが発狂状態に陥ってしまった事例もある。しかし、
そのような苦痛を伴う他力本願からの脱却の先にこそ、自力作善を可能とする途も拓けて
いるわけだから、積善によって他者を利そうとするような目的性を伴った慈しみによって、
精神面からの独り立ちの苦痛を乗り越えて、その先こそを目指さねばならないのである。
その、精神面からの自力本位への移行が果たされない限りにおいては、どんなに
多能な人間といえども、悪業以上の善業を寸分ほどすら積むことができないままに終わる。
親への精神的な依存に頼るしかない年頃の幼児などが、経済的にも完全に恵まれる側の
ままでいるように、精神面からの他者依存が主体と化してしまっているような大人もまた、
恵む以上に恵まれることを本位としてしまうものだから、まずその精神面からの他力本位
から卒業しておくのでなければ、いくら部分的な積善を心がけた所で、総体的には
積悪の分量のほうが積善の分量を上回るようなままでいてしまうのである。
削除(by投稿者)
世の中での自力での善政に励む君子や、超俗での自力の精進修行に励む出家者といえども、
自分たちが本位としている自力とはまた別のものとしての他力を「神仏からの加護」
などの形で期待することはある。ただ、それはすでに親への精神的依存を脱せた子供が、
なおのこと親への崇敬や孝養に励むようなもので、それによる利益を期待したり
するよりもむしろ、尊ぶべき相手を尊ぶことによる自らの心の引き締めからなる、
自力作善のより一層の高品質化を企図したりする側面のほうが大きいのである。
他力本位から自力本位に移るからといって、他力として頼るものを滅ぼし尽くしたり
しようとするのは、自分が親から独立したからといって親を殺すも同然の暴挙だといえる。
世界的に見れば、自力作善の加護者としてこそ立ち回るような神仏や明王の如き尊格の
ほうが、自らへの他力本願を促すような神仏よりも遥かに多いぐらいである。他力本願の
信者すらをも救うとされる仏といえば何といっても阿弥陀仏に尽きるが、阿弥陀仏とて
自力本位の志しと共に帰依することすらもが認められているものである。信者に
絶対的な他力本願を強制する神仏ともなれば、これはもうアブラハム教の神ぐらい
のものであり、そんな神に帰依している以上は、大悪を為すか、あまり悪を為さない
でいるか程度の範囲にしか止まっていることができないであろう。
他力本願と共なる善行を初めて標榜したのは、アブラハム教の原型である拝火教であるわけ
だから、拝火教のほうがより根本的な責任を帯びているとも言えるかもしれないが、すでに
拝火教信仰のほうはすでに世界的にも下火となっている。それと同じ運命をアブラハム教も
辿るに越したことはないわけで、それにより、精神的自立を決定的に妨害されたままでいるが
ための積善不能状態というものから、ン十億人に達するような人数の人間が脱却することが
できてこそ、人類もまた破滅の危機から免れる道を切り拓いて行くことができるのだといえる。
自分たちが本位としている自力とはまた別のものとしての他力を「神仏からの加護」
などの形で期待することはある。ただ、それはすでに親への精神的依存を脱せた子供が、
なおのこと親への崇敬や孝養に励むようなもので、それによる利益を期待したり
するよりもむしろ、尊ぶべき相手を尊ぶことによる自らの心の引き締めからなる、
自力作善のより一層の高品質化を企図したりする側面のほうが大きいのである。
他力本位から自力本位に移るからといって、他力として頼るものを滅ぼし尽くしたり
しようとするのは、自分が親から独立したからといって親を殺すも同然の暴挙だといえる。
世界的に見れば、自力作善の加護者としてこそ立ち回るような神仏や明王の如き尊格の
ほうが、自らへの他力本願を促すような神仏よりも遥かに多いぐらいである。他力本願の
信者すらをも救うとされる仏といえば何といっても阿弥陀仏に尽きるが、阿弥陀仏とて
自力本位の志しと共に帰依することすらもが認められているものである。信者に
絶対的な他力本願を強制する神仏ともなれば、これはもうアブラハム教の神ぐらい
のものであり、そんな神に帰依している以上は、大悪を為すか、あまり悪を為さない
でいるか程度の範囲にしか止まっていることができないであろう。
他力本願と共なる善行を初めて標榜したのは、アブラハム教の原型である拝火教であるわけ
だから、拝火教のほうがより根本的な責任を帯びているとも言えるかもしれないが、すでに
拝火教信仰のほうはすでに世界的にも下火となっている。それと同じ運命をアブラハム教も
辿るに越したことはないわけで、それにより、精神的自立を決定的に妨害されたままでいるが
ための積善不能状態というものから、ン十億人に達するような人数の人間が脱却することが
できてこそ、人類もまた破滅の危機から免れる道を切り拓いて行くことができるのだといえる。
「博聞強識に而て譲り、善行を敦くし而て怠らず、之れを君子と謂う。
君子は人の歓を尽くさしめず、人の忠を竭くさしめず、以て交りを全うする也」
「博覧強記でありながら人に譲る所があり、善業を篤く積み立てながらも怠ることがない、
そのような人間を君子という。君子は他人からの歓待尽くしや忠義尽くしに頼ったりも
しないままに、人との交わりを全うする。(君子は他力に頼って善行を志したりもしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
君子は人の歓を尽くさしめず、人の忠を竭くさしめず、以て交りを全うする也」
「博覧強記でありながら人に譲る所があり、善業を篤く積み立てながらも怠ることがない、
そのような人間を君子という。君子は他人からの歓待尽くしや忠義尽くしに頼ったりも
しないままに、人との交わりを全うする。(君子は他力に頼って善行を志したりもしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
もしも自らが致命的な過ちを犯したりしたなら、
引責自殺によってでも罪を償いたいと思うのが君子である。
だから君子こそは「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」という
徳目に即しても、過ちを犯した人間を惜しみなく罰することができるのである。
もちろん、始めから過ちを犯したりしない慎重な生活態度でいるという大前提も
あるわけで、君子はそうであること「薄氷を踏む」かの如くであるという。もちろん
好き好んで薄氷を踏むというのではなく、最大級に自重の限りを尽くした生活や奉職を
心がけた上でなおのこと、薄氷を踏んでいる時のような注意を欠かさないというのである。
そのような注意を決定的に欠いているような人間こそは、自らが過ちを犯したときに
相応の罰を受けることを、心外ぶったり不服に思ったりするのである。民間で適当な
生活を営んでいる小人などは、どうしたってそうでありやすいものだから、徳治を心がける
場合においても、過失の罪は寛大に扱い、確信犯だけは厳重に罰するのが権力道徳上の徳目
ともされて来ている。孔子が「過ちて改めざる、これを過ちという(衛霊公第十五・三〇)」
と言ったのも、一度目の過ちは過失であり得るが、二度目以降の過ちはもはや確信犯の様相を
呈するからであり、過ちを何度も繰り返してしまうほどの注意力の無さも含めて罰せられる
べきであるというのが、日頃から薄氷を踏むが如き用心深さの中に生きている君子にとっての、
己れの欲せざる所を人に施すことになるわけでもない、清廉な取り決めとなるわけである。
人々が、過ちを繰り返さないで済む程度には十分な注意力を身に付けるようになることもまた、
君子にとっての徳化事業の一環となる。過ちを何度も繰り返しておきながら、だからといって
罰を受けることを不服がるほどにも、人々の自重意識が損なわれてしまっているような状態こそは、
徳治を心がける人間が最も危険視する状態であり、そのような世相を蔓延させてしまうような
邪教なり邪学なりがあるというのならば、それはもう君子にとっては根絶の対象とすることが
大本命となる。それらすら許容するというのであれば、もはや徳治が実現される余地などは少しも
この世に残されていないことになるわけだから、それが君子自身にとっての死活問題ともなる。
引責自殺によってでも罪を償いたいと思うのが君子である。
だから君子こそは「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」という
徳目に即しても、過ちを犯した人間を惜しみなく罰することができるのである。
もちろん、始めから過ちを犯したりしない慎重な生活態度でいるという大前提も
あるわけで、君子はそうであること「薄氷を踏む」かの如くであるという。もちろん
好き好んで薄氷を踏むというのではなく、最大級に自重の限りを尽くした生活や奉職を
心がけた上でなおのこと、薄氷を踏んでいる時のような注意を欠かさないというのである。
そのような注意を決定的に欠いているような人間こそは、自らが過ちを犯したときに
相応の罰を受けることを、心外ぶったり不服に思ったりするのである。民間で適当な
生活を営んでいる小人などは、どうしたってそうでありやすいものだから、徳治を心がける
場合においても、過失の罪は寛大に扱い、確信犯だけは厳重に罰するのが権力道徳上の徳目
ともされて来ている。孔子が「過ちて改めざる、これを過ちという(衛霊公第十五・三〇)」
と言ったのも、一度目の過ちは過失であり得るが、二度目以降の過ちはもはや確信犯の様相を
呈するからであり、過ちを何度も繰り返してしまうほどの注意力の無さも含めて罰せられる
べきであるというのが、日頃から薄氷を踏むが如き用心深さの中に生きている君子にとっての、
己れの欲せざる所を人に施すことになるわけでもない、清廉な取り決めとなるわけである。
人々が、過ちを繰り返さないで済む程度には十分な注意力を身に付けるようになることもまた、
君子にとっての徳化事業の一環となる。過ちを何度も繰り返しておきながら、だからといって
罰を受けることを不服がるほどにも、人々の自重意識が損なわれてしまっているような状態こそは、
徳治を心がける人間が最も危険視する状態であり、そのような世相を蔓延させてしまうような
邪教なり邪学なりがあるというのならば、それはもう君子にとっては根絶の対象とすることが
大本命となる。それらすら許容するというのであれば、もはや徳治が実現される余地などは少しも
この世に残されていないことになるわけだから、それが君子自身にとっての死活問題ともなる。
過ちを何度繰り返しても、後ろめたさ一つ抱かなくて済むような注意力皆無の精神状態
こそは、「束縛から解き放たれた自由な精神状態」だなどと思い込む類いの人間がいるし、
それを正当化するようなカルト教義の信仰なども未だにこの世で許容されたままの状態でいる。
畢竟、それはサイコパスなどと呼ばれる精神疾患であるわけで、精神医学に即してでも
矯正の対象とされるべき精神状態であることが徐々に認知されかけているわけだけれども、
今の世界たるや、そのような精神病質状態に陥ってしまっている人間があまりにも膨大な
数に上っている上に、巨万の利権を牛耳っているような大権力者こそがそのような精神状態
に陥ってしまっている場合が特に多いものだから、「みんなで渡れ赤信号」という風潮が
応力となって、なかなか実際的な矯正の対象となって行くことも覚束ないままの状態でいる。
「過ちを絶対に犯すな」ではなく、「過ちは過失の範囲に止めよ」というのが、世の中に
徳治を敷いて行く上での最低限の取り決めとなる。その取り決めすら認められることなく、
過ちをいくら繰り返しても許されるような風潮がまかり通ってしまった時にこそ、徳治が
完全な不能状態と化してしまう。これは、徳治が不能となるハードルというのが意外と低い
根拠になっていると共に、その低いハードルすら乗り越えられないようにしてしまうような
邪教にかけては根絶が不可避であることが全く以って厳しい要求でもない証拠となっている。
徳治を実現する上での最低条件が、過ちを絶対に犯させないことであったりするのなら、
過ちの許容を金科玉条とするような類いの教義を、人々が支持したとしても仕方のない
所があるが、実際には、過失の過ちぐらいは寛大に取り扱われるのが徳治であるわけだから、
そのような寛大さすら受け入れることもできずに、過ちを何度でも繰り返そうとするような
人間がいるとすれば、それこそは許しがたいことだし、それを正当化するような教義があった
とすれば、それも邪教だと惜しみなく断定できるし、そのような邪教に多くの人々が群れ集って
いたりするのならば、それもまた絶対にあるまじき異常事態であると断じることができる。
こそは、「束縛から解き放たれた自由な精神状態」だなどと思い込む類いの人間がいるし、
それを正当化するようなカルト教義の信仰なども未だにこの世で許容されたままの状態でいる。
畢竟、それはサイコパスなどと呼ばれる精神疾患であるわけで、精神医学に即してでも
矯正の対象とされるべき精神状態であることが徐々に認知されかけているわけだけれども、
今の世界たるや、そのような精神病質状態に陥ってしまっている人間があまりにも膨大な
数に上っている上に、巨万の利権を牛耳っているような大権力者こそがそのような精神状態
に陥ってしまっている場合が特に多いものだから、「みんなで渡れ赤信号」という風潮が
応力となって、なかなか実際的な矯正の対象となって行くことも覚束ないままの状態でいる。
「過ちを絶対に犯すな」ではなく、「過ちは過失の範囲に止めよ」というのが、世の中に
徳治を敷いて行く上での最低限の取り決めとなる。その取り決めすら認められることなく、
過ちをいくら繰り返しても許されるような風潮がまかり通ってしまった時にこそ、徳治が
完全な不能状態と化してしまう。これは、徳治が不能となるハードルというのが意外と低い
根拠になっていると共に、その低いハードルすら乗り越えられないようにしてしまうような
邪教にかけては根絶が不可避であることが全く以って厳しい要求でもない証拠となっている。
徳治を実現する上での最低条件が、過ちを絶対に犯させないことであったりするのなら、
過ちの許容を金科玉条とするような類いの教義を、人々が支持したとしても仕方のない
所があるが、実際には、過失の過ちぐらいは寛大に取り扱われるのが徳治であるわけだから、
そのような寛大さすら受け入れることもできずに、過ちを何度でも繰り返そうとするような
人間がいるとすれば、それこそは許しがたいことだし、それを正当化するような教義があった
とすれば、それも邪教だと惜しみなく断定できるし、そのような邪教に多くの人々が群れ集って
いたりするのならば、それもまた絶対にあるまじき異常事態であると断じることができる。
邪教が邪教たる所以、邪教たるが故に根絶すらされなければならない所以というのは、
聞いてみれば誰しもが納得せざるを得ないような道理に即している。決して旧約の律法の
ような徒法群を、絶対に過失一つなく守り通せなんてのが徳治の教条となるわけでもない
のだから、邪教が根絶されざるを得ない理由から誤解して、不服を唱えたりするような
こともないようにしてもらわなければならない。過ちを何度でも繰り返し続ける注意欠陥、
それすらをも正当化する邪教の教条、それを排した所にあるべきなのも杓子定規な信賞必罰
などではなく、融通の利いた仁治であるわけだから、邪教を排されることへの恐れなどを、
虚構の理由に即して肥大化させて行くようなこともないようにせねばならない。
「天道は善に福し淫に禍す(既出)。災いを夏に降して、用て厥の罪を彰す。
(ここから既出)肆に台れ小子、天命の明威を将し、敢えて赦さず」
「天道は正善なる者に福徳を及ぼす一方、淫悪なる者に禍いを下す。先代の夏王朝においても、
桀王の暴虐を罰さんがためとて、天下に多くの禍いが下されて、桀王の罪が露わにされた。
故に私もそれを教訓として、天命の明威に即して、罪をあえて許したりしないようにする。
(人間による刑事もまた、天道に根ざした普遍的な悪因苦果に沿うべきものだから、
時に私情などによることなく罪を犯した者を罰さねばならないことがあるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)
聞いてみれば誰しもが納得せざるを得ないような道理に即している。決して旧約の律法の
ような徒法群を、絶対に過失一つなく守り通せなんてのが徳治の教条となるわけでもない
のだから、邪教が根絶されざるを得ない理由から誤解して、不服を唱えたりするような
こともないようにしてもらわなければならない。過ちを何度でも繰り返し続ける注意欠陥、
それすらをも正当化する邪教の教条、それを排した所にあるべきなのも杓子定規な信賞必罰
などではなく、融通の利いた仁治であるわけだから、邪教を排されることへの恐れなどを、
虚構の理由に即して肥大化させて行くようなこともないようにせねばならない。
「天道は善に福し淫に禍す(既出)。災いを夏に降して、用て厥の罪を彰す。
(ここから既出)肆に台れ小子、天命の明威を将し、敢えて赦さず」
「天道は正善なる者に福徳を及ぼす一方、淫悪なる者に禍いを下す。先代の夏王朝においても、
桀王の暴虐を罰さんがためとて、天下に多くの禍いが下されて、桀王の罪が露わにされた。
故に私もそれを教訓として、天命の明威に即して、罪をあえて許したりしないようにする。
(人間による刑事もまた、天道に根ざした普遍的な悪因苦果に沿うべきものだから、
時に私情などによることなく罪を犯した者を罰さねばならないことがあるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・湯誥より)
善業は、それ自体が正法を遵守しようとするものであるわけだから、
積善の結果として不法からの脱却を企図したりすることはあり得ない。
不法からの脱却の代表格といえば何といっても受刑であり、
そこまで行かずとも、自らに何らかのペナルティを科すことが、
未だ不法という悪業のさ中にある自らにとっての罪悪軽減のための
手立てとなるわけで、それは悪行を苦行によって相殺する悪因苦果
の範疇であるわけだから、何ら積善として取り扱うにも値しない。
完全に不法を絶った上での積善となれば、聖道門の比丘戒を全て
守った上での積善までもが必要になるわけだが、決してそればかりが、
人間が積善を志す上での手立てとなるわけでもない。鬼平が凶悪犯の
火付盗賊を斬り殺したりするのも一種の殺人ではあるが、それによって
凶賊の魔の手にかかって命を落としたりしなくて済む人間がいたりも
するわけだから、その分の人命救助という善業によって、凶悪犯の
刑殺という罪業が相殺されることともなる。そのような、善業も悪業
も積む限りにおいての、総合面における善業の悪業に対する上回りに
よる積善というものを心がけて行くこともまたできるわけで、俗世に
生きる一般人としてはそのような清濁併せ呑みつつの善業の積み重ね
を企図して行くことのほうが、より現実的なことともなっている。
不法を完全に断ち切った上での積善でもなければ、善業と悪業の総計
がプラマイゼロ以上の善業となることを企図する形での積善でもない、
自分自身は一方的に不法ばかりを犯しながら、それがまじないか何かで
積善に転じたとして、そういう意味での積善の結果として最終的に不法が
贖われることを志したりすることこそは、決定的におかしいこととなる。
積善の結果として不法からの脱却を企図したりすることはあり得ない。
不法からの脱却の代表格といえば何といっても受刑であり、
そこまで行かずとも、自らに何らかのペナルティを科すことが、
未だ不法という悪業のさ中にある自らにとっての罪悪軽減のための
手立てとなるわけで、それは悪行を苦行によって相殺する悪因苦果
の範疇であるわけだから、何ら積善として取り扱うにも値しない。
完全に不法を絶った上での積善となれば、聖道門の比丘戒を全て
守った上での積善までもが必要になるわけだが、決してそればかりが、
人間が積善を志す上での手立てとなるわけでもない。鬼平が凶悪犯の
火付盗賊を斬り殺したりするのも一種の殺人ではあるが、それによって
凶賊の魔の手にかかって命を落としたりしなくて済む人間がいたりも
するわけだから、その分の人命救助という善業によって、凶悪犯の
刑殺という罪業が相殺されることともなる。そのような、善業も悪業
も積む限りにおいての、総合面における善業の悪業に対する上回りに
よる積善というものを心がけて行くこともまたできるわけで、俗世に
生きる一般人としてはそのような清濁併せ呑みつつの善業の積み重ね
を企図して行くことのほうが、より現実的なことともなっている。
不法を完全に断ち切った上での積善でもなければ、善業と悪業の総計
がプラマイゼロ以上の善業となることを企図する形での積善でもない、
自分自身は一方的に不法ばかりを犯しながら、それがまじないか何かで
積善に転じたとして、そういう意味での積善の結果として最終的に不法が
贖われることを志したりすることこそは、決定的におかしいこととなる。
そこには、安易な手立てで自らが不法を免れようとする身の程知らずさ
が見え隠れしている。本当に不法を犯さずに済ますことは、それこそ
正規の出家修行並みの厳しさが伴うものであるのに、そのような厳しさ
は到底受け入れられない、にもかかわらず、善業が悪業を上回る形での、
清濁併せ呑む着実な積善を心がける程度の誠実さもまた欠けているもの
だから、安易なままに全ての不法から免れようなどとする、不実極まりない
欲求ばかりを満たすことに躍起となってしまっているのが見え透いている。
そのような欲求が満たされることはないし、別に満たされるべきでもない。
不法を忌み嫌いながら相応の精進を心がけるわけでもなく、不法も仕方なく
犯してしまうような中に、それ以上の善業を積んでいこうとする着実さを
持ち合わせたりすることもない、最悪級の不誠実さの持ち主こそは、不法
の犯しまくりが安易に善業に転じて贖われることなどを欲してもいるわけ
だから、そのような欲求が満たされなくてこそ教育倫理にも適うといえる。
「不法を心情的に忌み嫌っている分だけ、不法を忌み嫌いもしないような
人間よりはマシだ」などということすらない。感情の高ぶりなどを控えて、
善業も悪業も一定以上に諦観できるものこそは、断悪修善や悪業を上回る
積善を着実に重ねて行くことができるのだから、その子供じみた潔癖志向
からして自己正当化の材料にもならないといえる。不法を忌み嫌いもせず
に犯しまくるような人間は昔から一貫して社会的な排除の対象となり続けて
来ているわけで、もはや比較対象の内にすら入るものではない。それなり
に社会的な市民権を得ている内では、不誠実さと未熟な潔癖主義を不相応
にかけ持ち合わせているような人間こそが、最低度の存在であるといえる。
が見え隠れしている。本当に不法を犯さずに済ますことは、それこそ
正規の出家修行並みの厳しさが伴うものであるのに、そのような厳しさ
は到底受け入れられない、にもかかわらず、善業が悪業を上回る形での、
清濁併せ呑む着実な積善を心がける程度の誠実さもまた欠けているもの
だから、安易なままに全ての不法から免れようなどとする、不実極まりない
欲求ばかりを満たすことに躍起となってしまっているのが見え透いている。
そのような欲求が満たされることはないし、別に満たされるべきでもない。
不法を忌み嫌いながら相応の精進を心がけるわけでもなく、不法も仕方なく
犯してしまうような中に、それ以上の善業を積んでいこうとする着実さを
持ち合わせたりすることもない、最悪級の不誠実さの持ち主こそは、不法
の犯しまくりが安易に善業に転じて贖われることなどを欲してもいるわけ
だから、そのような欲求が満たされなくてこそ教育倫理にも適うといえる。
「不法を心情的に忌み嫌っている分だけ、不法を忌み嫌いもしないような
人間よりはマシだ」などということすらない。感情の高ぶりなどを控えて、
善業も悪業も一定以上に諦観できるものこそは、断悪修善や悪業を上回る
積善を着実に重ねて行くことができるのだから、その子供じみた潔癖志向
からして自己正当化の材料にもならないといえる。不法を忌み嫌いもせず
に犯しまくるような人間は昔から一貫して社会的な排除の対象となり続けて
来ているわけで、もはや比較対象の内にすら入るものではない。それなり
に社会的な市民権を得ている内では、不誠実さと未熟な潔癖主義を不相応
にかけ持ち合わせているような人間こそが、最低度の存在であるといえる。
実践性の伴わない不相応な潔癖志向の持ち主こそは、実際の世界において
最悪級の悪業の元凶ともなるという、半ば微妙不可思議な特殊事情がある。
不法を忌み嫌いもしないような人間以上にも、忌み嫌いぐらいはするような
人間こそが、それなりの社会的な市民権も得つつの悪業の積み重ねに及んだ
挙げ句に、世界最悪級の害悪をこの世にもたらすことともなる。そのような
ことがないようにするためには、不法を忌み嫌いもしないような人間と共に、
不法を忌み嫌ってもただ忌み嫌うだけで、何らのまともな対処法を講じよう
としないような人間までをも、社会的な排除の対象として行く必要がある。
そういう人間は、東洋ではさして多発しなかったために、大して駆逐の
対象ともされて来なかった。聖書信者こそがそのような性向を肥大化させて、
人類史上最悪級の害悪を撒き散らすことでその有害さを実証してくれた
わけだから、これからそのような人種を排除の対象としていく上での
反面教師代わりに、聖書信仰というものがなってくれたともいえる。
「清明身に在れば、気志神の如し」
「自らの身が清く明らかであれば、志気も神の如くとなる。
(身清くして神気が備わるのであり、神気によって身が清められるのではない。
神社でも、手水場で手や口を清めてから神殿を参拝したりする通り)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・孔子間居第二十九より)
最悪級の悪業の元凶ともなるという、半ば微妙不可思議な特殊事情がある。
不法を忌み嫌いもしないような人間以上にも、忌み嫌いぐらいはするような
人間こそが、それなりの社会的な市民権も得つつの悪業の積み重ねに及んだ
挙げ句に、世界最悪級の害悪をこの世にもたらすことともなる。そのような
ことがないようにするためには、不法を忌み嫌いもしないような人間と共に、
不法を忌み嫌ってもただ忌み嫌うだけで、何らのまともな対処法を講じよう
としないような人間までをも、社会的な排除の対象として行く必要がある。
そういう人間は、東洋ではさして多発しなかったために、大して駆逐の
対象ともされて来なかった。聖書信者こそがそのような性向を肥大化させて、
人類史上最悪級の害悪を撒き散らすことでその有害さを実証してくれた
わけだから、これからそのような人種を排除の対象としていく上での
反面教師代わりに、聖書信仰というものがなってくれたともいえる。
「清明身に在れば、気志神の如し」
「自らの身が清く明らかであれば、志気も神の如くとなる。
(身清くして神気が備わるのであり、神気によって身が清められるのではない。
神社でも、手水場で手や口を清めてから神殿を参拝したりする通り)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・孔子間居第二十九より)
人間社会というものがあくまで人と人との結び付きによって成り立っているものであり、
なおかつ個々人もまたそこでの活動にこそ禍福を被る生き物であるわけだから、
人間にとっての最大級の幸福もまた、個人的な幸福を追い求めたりする所ではなく、
世の中と共なる幸福を追い求めて行く所にこそ存在しているのだといえる。
しかるに、小人やカルト信者などは、自分たち個人の幸福を追い求めることばかり
によって、最大級の幸福を獲得しようとし続けて来た。それは結局、他人を不幸に
追いやってでも自分たちが幸福でいようとする罪悪の積み重ねとなり、最終的には、
世界中が最悪級の不幸に見舞われている中での、自分たち自身の最低限の平和や豊かさ
の維持などという、浅ましい境遇へと自他を追いやることに帰結してしまったのである。
(しかも、自分たち自身へのプライバシーを無視した監視網までもが敷かれている)
それは、世の中と共なる自他の幸福を追い求めていった場合などと比べて、明らかに
より自他の不幸が増した状態だといえる。外面的な社会情勢についてもそう言えるし、
内面的な心情についてもそう言えることである。他人の不幸を糧にしてでも自らが幸福
となったりすることは、まともな倫理観の持ち主であれば当然良心の呵責に駆られる
ことである。カルト信者などは始めからそのような倫理観を捨て去って、精神薄弱の
サイコパス状態での罪悪の積み重ねに取り掛かっているわけだけれども、そのような
自己洗脳状態に陥っていること自体が、正気と共にまともな倫理観を保っている状態など
よりも恒常的な苦悩に駆られたままとなるわけだから、やはり不幸な状態だといえる。
サイコパスによる恒常的な苦悩を紛らわすために、カルト信者も巨万の富を貪ったり、
乱交や薬物乱用に走ったりするわけで、それによって無理に幸せがったりするわけ
だけれども、そもそもがサイコパス状態などでなければ、そのような対症を試みずとも
苦悩に駆られたりせずに済むわけだから、自分自身に対するマッチポンプの徒労を
講じたりしなければならない分だけ、これまたカルト信者のほうが不幸だといえる。
なおかつ個々人もまたそこでの活動にこそ禍福を被る生き物であるわけだから、
人間にとっての最大級の幸福もまた、個人的な幸福を追い求めたりする所ではなく、
世の中と共なる幸福を追い求めて行く所にこそ存在しているのだといえる。
しかるに、小人やカルト信者などは、自分たち個人の幸福を追い求めることばかり
によって、最大級の幸福を獲得しようとし続けて来た。それは結局、他人を不幸に
追いやってでも自分たちが幸福でいようとする罪悪の積み重ねとなり、最終的には、
世界中が最悪級の不幸に見舞われている中での、自分たち自身の最低限の平和や豊かさ
の維持などという、浅ましい境遇へと自他を追いやることに帰結してしまったのである。
(しかも、自分たち自身へのプライバシーを無視した監視網までもが敷かれている)
それは、世の中と共なる自他の幸福を追い求めていった場合などと比べて、明らかに
より自他の不幸が増した状態だといえる。外面的な社会情勢についてもそう言えるし、
内面的な心情についてもそう言えることである。他人の不幸を糧にしてでも自らが幸福
となったりすることは、まともな倫理観の持ち主であれば当然良心の呵責に駆られる
ことである。カルト信者などは始めからそのような倫理観を捨て去って、精神薄弱の
サイコパス状態での罪悪の積み重ねに取り掛かっているわけだけれども、そのような
自己洗脳状態に陥っていること自体が、正気と共にまともな倫理観を保っている状態など
よりも恒常的な苦悩に駆られたままとなるわけだから、やはり不幸な状態だといえる。
サイコパスによる恒常的な苦悩を紛らわすために、カルト信者も巨万の富を貪ったり、
乱交や薬物乱用に走ったりするわけで、それによって無理に幸せがったりするわけ
だけれども、そもそもがサイコパス状態などでなければ、そのような対症を試みずとも
苦悩に駆られたりせずに済むわけだから、自分自身に対するマッチポンプの徒労を
講じたりしなければならない分だけ、これまたカルト信者のほうが不幸だといえる。
小人やカルト信者はまず、世の中と共なる幸福の追求こそは「偽善である」と決め付けて、
そんな試みによって得られる幸福などは「たかが知れてる」と勝手に思い込む。それで、
より現実主義に根ざした幸福追求であると自分たちが見なした所の、自分たち個人だけの
幸福の専らな追求を選択する。そして、さらにはそのような考え方に基づく個人的幸福の
追求を誰しもに認めさせ、それこそは世界の常識となることすらをも目指そうとする。
それは実際、今の世界などにおいては相当な所まで実現されてしまっていることでもある。
どれぐらいかといえば、それが原因で人類が致命的な破滅に見舞われる直前の所まで
実現されてしまっていると言える。世の中と共なる幸福の追求などは虚構でしかなく、
実際に実現を試みた所で、共産主義のような失敗ばかりを来たすものだなどと、誰しもが
相当な強度で思い込んだ状態となってしまっている。共産主義が失敗したのは、世の中
全土を挙げての幸福の追求のための手段を取り違えてしまったからであって、決して
その目的までもが間違っていたわけではないわけだれども、自己幸福の追求ばかりを
幸福追求の王道だなどと思い込んで来ている連中にとっては、社会規模の幸福追求などが
徒労にしか終わらないものであると決め付ける格好の材料ともなってしまったのであるる
まず、社会規模での幸福追求こそは、人間にとっての幸福追求の王道であるという所まで
社会常識が健全化されるのでなければ、そのための具体的な手段を講じたりすることも、
共産主義の二の舞三の舞となることが見え透いている。逆に言えば、社会常識が、
社会規模の幸福追求こそを幸福追求の王道だと諾えるのであれば、個人的幸福の
追求や奉仕を生業とする商売人が共産化によってこの世から絶やされたりせずとも、
人と世とが最悪の不幸に見舞われたままの状態に陥ってしまったりすることだけは
避けることができる。今のような、「最悪かマシか」程度の選択肢しか万人に与えられて
いない状態と比べれば、よっぽど上等な選択肢が万人へと提供されて行くことになる。
そんな試みによって得られる幸福などは「たかが知れてる」と勝手に思い込む。それで、
より現実主義に根ざした幸福追求であると自分たちが見なした所の、自分たち個人だけの
幸福の専らな追求を選択する。そして、さらにはそのような考え方に基づく個人的幸福の
追求を誰しもに認めさせ、それこそは世界の常識となることすらをも目指そうとする。
それは実際、今の世界などにおいては相当な所まで実現されてしまっていることでもある。
どれぐらいかといえば、それが原因で人類が致命的な破滅に見舞われる直前の所まで
実現されてしまっていると言える。世の中と共なる幸福の追求などは虚構でしかなく、
実際に実現を試みた所で、共産主義のような失敗ばかりを来たすものだなどと、誰しもが
相当な強度で思い込んだ状態となってしまっている。共産主義が失敗したのは、世の中
全土を挙げての幸福の追求のための手段を取り違えてしまったからであって、決して
その目的までもが間違っていたわけではないわけだれども、自己幸福の追求ばかりを
幸福追求の王道だなどと思い込んで来ている連中にとっては、社会規模の幸福追求などが
徒労にしか終わらないものであると決め付ける格好の材料ともなってしまったのであるる
まず、社会規模での幸福追求こそは、人間にとっての幸福追求の王道であるという所まで
社会常識が健全化されるのでなければ、そのための具体的な手段を講じたりすることも、
共産主義の二の舞三の舞となることが見え透いている。逆に言えば、社会常識が、
社会規模の幸福追求こそを幸福追求の王道だと諾えるのであれば、個人的幸福の
追求や奉仕を生業とする商売人が共産化によってこの世から絶やされたりせずとも、
人と世とが最悪の不幸に見舞われたままの状態に陥ってしまったりすることだけは
避けることができる。今のような、「最悪かマシか」程度の選択肢しか万人に与えられて
いない状態と比べれば、よっぽど上等な選択肢が万人へと提供されて行くことになる。
「世のため人のため」こそは人としての最大級の幸福追求ともなるということは、
今では随分と眉唾なものとしてしか受け入れられることのない主張であるけれども、
そうであるということが社会規模でわきまえられていた国家規模の社会というものも
多々あり、その一例が>>1画に挙げた、世界のGDPの大半以上を自分たちでまかなっていた
漢代の頃の中国でもある。公権力者は時に引責自殺も辞さないほどの公平無私さ加減でいた
ような当時にこそ、国富の総量も膨大な分量に及んでいた。一部の権力者が執拗な我田引水
を試み続けた結果、国家規模での財政は破綻寸前にまで追い込まれている今のアメリカなど
とは天地ほどもの差がある状態であるといえ、社会規模の幸福追求と、個人的幸福の追求と、
どちらのほうが優先されたほうがよりよい結果を招くのかを示す格好の対象例ともなっている。
(無論、中華帝国も今のアメリカのような状態に見舞われたことが多々あるわけだが)
「鴛鴦の于れ飛ぶや、之れに畢し之れに羅す。君子は万年まで、福禄の之れ宜しき。
鴛鴦の梁に在るや、其の左翼を戢む。君子は万年まで、其の遐福の宜しき。
乗馬は厩に在るや、之れに摧い之れに秣わん。君子は万年まで、福禄の之れ艾いに。
乗馬の厩に在るや、之れに秣い之れに摧わん。君子は万年まで、福禄の之れ綏き」
「オシドリが飛び来るや、これに網かけて捕らえ、ここにとどめよう。(オシドリ
は夫婦円満の象徴だから)君子は万年の後に到るまで、よき福禄を受けたまう。
オシドリが家のハリにいて、左翼を収めて落ち着けている。(夫婦円満の成就の
寓喩である)君子は万年の後に到るまで、大いなるよき福禄を受け賜わらん。
乗用の馬は馬屋にあり、これに草と穀とをやって養ってやる。(群臣や民たち
を養ってやるという寓喩)君子は万年の後に到るまで、大いなる福禄を賜らん。
乗用の馬は馬屋にあり、これに穀と草とをやって養ってやる。(同様の寓喩)
君子は万年の後に到るまで、安定した福禄に与らん。(天下に冠たる君子で
あることこそは、百千万年の福徳を約束する決定的な手段ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・鴛鴦)
今では随分と眉唾なものとしてしか受け入れられることのない主張であるけれども、
そうであるということが社会規模でわきまえられていた国家規模の社会というものも
多々あり、その一例が>>1画に挙げた、世界のGDPの大半以上を自分たちでまかなっていた
漢代の頃の中国でもある。公権力者は時に引責自殺も辞さないほどの公平無私さ加減でいた
ような当時にこそ、国富の総量も膨大な分量に及んでいた。一部の権力者が執拗な我田引水
を試み続けた結果、国家規模での財政は破綻寸前にまで追い込まれている今のアメリカなど
とは天地ほどもの差がある状態であるといえ、社会規模の幸福追求と、個人的幸福の追求と、
どちらのほうが優先されたほうがよりよい結果を招くのかを示す格好の対象例ともなっている。
(無論、中華帝国も今のアメリカのような状態に見舞われたことが多々あるわけだが)
「鴛鴦の于れ飛ぶや、之れに畢し之れに羅す。君子は万年まで、福禄の之れ宜しき。
鴛鴦の梁に在るや、其の左翼を戢む。君子は万年まで、其の遐福の宜しき。
乗馬は厩に在るや、之れに摧い之れに秣わん。君子は万年まで、福禄の之れ艾いに。
乗馬の厩に在るや、之れに秣い之れに摧わん。君子は万年まで、福禄の之れ綏き」
「オシドリが飛び来るや、これに網かけて捕らえ、ここにとどめよう。(オシドリ
は夫婦円満の象徴だから)君子は万年の後に到るまで、よき福禄を受けたまう。
オシドリが家のハリにいて、左翼を収めて落ち着けている。(夫婦円満の成就の
寓喩である)君子は万年の後に到るまで、大いなるよき福禄を受け賜わらん。
乗用の馬は馬屋にあり、これに草と穀とをやって養ってやる。(群臣や民たち
を養ってやるという寓喩)君子は万年の後に到るまで、大いなる福禄を賜らん。
乗用の馬は馬屋にあり、これに穀と草とをやって養ってやる。(同様の寓喩)
君子は万年の後に到るまで、安定した福禄に与らん。(天下に冠たる君子で
あることこそは、百千万年の福徳を約束する決定的な手段ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・鴛鴦)
昔の日本やインドなどで、肉食や屠殺が忌み避けられていたのには、何も
迷信的な意味ばかりがあったからではない。「血肉の穢れが不浄である」という
発想も、科学的な説明を付けようと思えば付けることができるものでもある。
動物性脂肪のこべり付いた食器なり調理器具なりを洗浄するときには、
ある程度高い温度のお湯で洗えば落ちやすいように、人間も獣脂を栄養分
として吸収すれば、大きな熱量によってそれを消費する必要が出てくる。
すると、人間の身体は若干以上に茹だった状態と化してしまい、思考面など
での正常な判断能力が低下するなどの問題を来たしてしまうことになる。
要するに「頭が悪くなる」わけで、脳の器質ではなく身体全体の熱量過剰に
よって来たしてしまう知能の低下であるものだから、より問題扱いすることが
難しいという特徴がある。身体全体がほてっている中にも、茹だった脳みそに
鞭打って無理やり人並みの思考を試みるということも瞬発的にはできるもの
だから、短時間の知能テストなどでその知能上の問題点が露呈するとも限らない。
脳の器質的な欠陥などとはまた別の理由による恒常的な知能の低下が、
実際に諸々の苦悩を紛らわしてくれたりすることもある。常人が罪を犯せば、
相応の刑罰を受けないことには恒常的な苦悩に駆られ続けるものだが、知能が
一定以上に低下すらしていれば、そのような苦悩を受刑もなしに紛らわして
いることができたりする。そのような、恒常的な知能の低下を実現するための
手段となるのが、件の獣脂の多量摂取だったり、カルト信仰だったりするわけで、
それによって知能を低下させられた本人たち自身は「罪が清められた」などと
すら思い込めるわけだが、もちろん本当に罪が解消されているわけではなく、
罪障まみれである中に白痴状態でいるというだけのことなので、そのような
状態を実現してしまう肉食なり屠殺なりの負の効果を、慧眼を持ち合わせて
いた昔の日本人などは「血肉の穢れ」であると見なしていたわけである。
迷信的な意味ばかりがあったからではない。「血肉の穢れが不浄である」という
発想も、科学的な説明を付けようと思えば付けることができるものでもある。
動物性脂肪のこべり付いた食器なり調理器具なりを洗浄するときには、
ある程度高い温度のお湯で洗えば落ちやすいように、人間も獣脂を栄養分
として吸収すれば、大きな熱量によってそれを消費する必要が出てくる。
すると、人間の身体は若干以上に茹だった状態と化してしまい、思考面など
での正常な判断能力が低下するなどの問題を来たしてしまうことになる。
要するに「頭が悪くなる」わけで、脳の器質ではなく身体全体の熱量過剰に
よって来たしてしまう知能の低下であるものだから、より問題扱いすることが
難しいという特徴がある。身体全体がほてっている中にも、茹だった脳みそに
鞭打って無理やり人並みの思考を試みるということも瞬発的にはできるもの
だから、短時間の知能テストなどでその知能上の問題点が露呈するとも限らない。
脳の器質的な欠陥などとはまた別の理由による恒常的な知能の低下が、
実際に諸々の苦悩を紛らわしてくれたりすることもある。常人が罪を犯せば、
相応の刑罰を受けないことには恒常的な苦悩に駆られ続けるものだが、知能が
一定以上に低下すらしていれば、そのような苦悩を受刑もなしに紛らわして
いることができたりする。そのような、恒常的な知能の低下を実現するための
手段となるのが、件の獣脂の多量摂取だったり、カルト信仰だったりするわけで、
それによって知能を低下させられた本人たち自身は「罪が清められた」などと
すら思い込めるわけだが、もちろん本当に罪が解消されているわけではなく、
罪障まみれである中に白痴状態でいるというだけのことなので、そのような
状態を実現してしまう肉食なり屠殺なりの負の効果を、慧眼を持ち合わせて
いた昔の日本人などは「血肉の穢れ」であると見なしていたわけである。
伝統的に肉食が根付いているような地域においてこそ、断食のような風習が
伝統的に存在して来てもいる。昔の中国では親の死に際して絶食し、三年の服喪中
には一切肉を食わないなどの取り決めが実際に執り行われていた。富裕な権力者
こそは特にそのような取り決めを厳格に守るべきであるとされ、獣肉の食いすぎ
による知能の低下などを牽制することがそれなりに嗜まれていた。(戦国時代
などにはそのような風習も疎かになったため、知能の低下しきった大諸侯らが
道義性を全く欠いた勢力争いを引っ切り無しに繰り返すような羽目に陥ってもいた)
今では豚食が禁止されている中東などでも、古来からの風習であった断食が
イスラムの教義に即して実践され続けている。これは、知能を低下させるカルト教義
である新旧約の教義による低能化を防ぐ目的性を今では持ち合わせているようである。
肉食禁忌や屠殺人差別のような強硬な手段にまで及ばずとも、肉食がもたらす
低能化への対処というものを、大部分の地球人類がそれなりに講じてきている。
「血肉の穢れ」による低能化への対処というものを全くといっていいほど講じて
来なかった代表例といえば、せいぜいキリスト教徒か、春秋戦国時代以降の秦人
ぐらいのものであり、あとは今の南朝鮮人の先祖などを含む無名の蛮族に若干、
そのような事例があったのだろうと予想される程度である。体系的な文明を構築
しておきながら、血肉の穢れを全く問題視して来なかった連中ともなれば、本当に
ごく限られた部類に限られていて、しかも本人たちに独自の文明体系というものも、
かえって世の中にとって益以上の害になるようなものばかりが主となっている。
親の服喪中に限っての肉食禁忌や、期間を区切っての断食などの対策を講じた
ならば、肉食も必ずしも禁止されるべきものともならない。食べる肉の量を
減らしたり、脂肪分の低い肉を食べるようにしたりして、入浴時の行水
などで身体のほてりを十分に抑えるようにもするなどしたら、肉食の習慣と
共にであっても、それなりの知能を恒常的に保てるようにもなる。
伝統的に存在して来てもいる。昔の中国では親の死に際して絶食し、三年の服喪中
には一切肉を食わないなどの取り決めが実際に執り行われていた。富裕な権力者
こそは特にそのような取り決めを厳格に守るべきであるとされ、獣肉の食いすぎ
による知能の低下などを牽制することがそれなりに嗜まれていた。(戦国時代
などにはそのような風習も疎かになったため、知能の低下しきった大諸侯らが
道義性を全く欠いた勢力争いを引っ切り無しに繰り返すような羽目に陥ってもいた)
今では豚食が禁止されている中東などでも、古来からの風習であった断食が
イスラムの教義に即して実践され続けている。これは、知能を低下させるカルト教義
である新旧約の教義による低能化を防ぐ目的性を今では持ち合わせているようである。
肉食禁忌や屠殺人差別のような強硬な手段にまで及ばずとも、肉食がもたらす
低能化への対処というものを、大部分の地球人類がそれなりに講じてきている。
「血肉の穢れ」による低能化への対処というものを全くといっていいほど講じて
来なかった代表例といえば、せいぜいキリスト教徒か、春秋戦国時代以降の秦人
ぐらいのものであり、あとは今の南朝鮮人の先祖などを含む無名の蛮族に若干、
そのような事例があったのだろうと予想される程度である。体系的な文明を構築
しておきながら、血肉の穢れを全く問題視して来なかった連中ともなれば、本当に
ごく限られた部類に限られていて、しかも本人たちに独自の文明体系というものも、
かえって世の中にとって益以上の害になるようなものばかりが主となっている。
親の服喪中に限っての肉食禁忌や、期間を区切っての断食などの対策を講じた
ならば、肉食も必ずしも禁止されるべきものともならない。食べる肉の量を
減らしたり、脂肪分の低い肉を食べるようにしたりして、入浴時の行水
などで身体のほてりを十分に抑えるようにもするなどしたら、肉食の習慣と
共にであっても、それなりの知能を恒常的に保てるようにもなる。
ただし、何の対策も講じない旺盛な肉食によって恒常的な知能を低下させていた結果、
多くの大罪を犯しっぱなしのままでいてしまった場合などには、上記のような対策
を講じることで、かえって恒常的な苦悩にかられたりすることにもなりかねない。
だからかえって、肉食やカルト信仰による精神的酩酊のさ中にあり続けていたいなど
とも思ったりするかもしれないが、決して、恒常的な高知能の維持すなわち苦悩で
あったりするわけでもない。恒常的な知能の高さと、思考や言行の清浄さからなる
浩然の気が両立している状態こそは、肉食やカルト信仰による酩酊に陥ったままの
状態などよりも遥かに爽快な精神状態となるわけだから、現実上の罪障の着実な
解消と共にであれば、精神的汚濁からの脱却こそを存分に志して行くべきだといえる。
そして罪は着実に償われて然るべきものであるわけだから、結局のところ誰しもが、
汚濁から脱却した清浄な精神状態こそを志すべきだともいえるのである。
「仁人は天下に敵無し。至仁を以って至不仁を伐つに、何ぞ其れ血の杵を流れんや」
「仁者は天下に敵でいられる相手すらいないのだから、仁の至りであるものが
不仁の至りであるものを討伐する場合にも、流血沙汰になるようなことはあるまい。
(正義が悪を討伐するときには、血肉の贖いなどが格好の象徴となることもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三より)
多くの大罪を犯しっぱなしのままでいてしまった場合などには、上記のような対策
を講じることで、かえって恒常的な苦悩にかられたりすることにもなりかねない。
だからかえって、肉食やカルト信仰による精神的酩酊のさ中にあり続けていたいなど
とも思ったりするかもしれないが、決して、恒常的な高知能の維持すなわち苦悩で
あったりするわけでもない。恒常的な知能の高さと、思考や言行の清浄さからなる
浩然の気が両立している状態こそは、肉食やカルト信仰による酩酊に陥ったままの
状態などよりも遥かに爽快な精神状態となるわけだから、現実上の罪障の着実な
解消と共にであれば、精神的汚濁からの脱却こそを存分に志して行くべきだといえる。
そして罪は着実に償われて然るべきものであるわけだから、結局のところ誰しもが、
汚濁から脱却した清浄な精神状態こそを志すべきだともいえるのである。
「仁人は天下に敵無し。至仁を以って至不仁を伐つに、何ぞ其れ血の杵を流れんや」
「仁者は天下に敵でいられる相手すらいないのだから、仁の至りであるものが
不仁の至りであるものを討伐する場合にも、流血沙汰になるようなことはあるまい。
(正義が悪を討伐するときには、血肉の贖いなどが格好の象徴となることもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三より)
>>113-114の「獣脂」にまつわる物言いは、少し語弊があるので言い直しておく。
獣脂は植物油などと比べて融点が低く、人体にも蓄積しやすい。
そのせいでの恒常的な知能の低下を招きやすいが、高温ではかえってよく
潤滑するので、獣脂の蓄積による知能の低下を振り切ってまで無理に
難しいことを考えたり言行しようとしたりした場合のヤケクソ状態をも
招きやすい。それが俗に「馬鹿」などと呼ばれる蒙昧状態ともなる。
肉食が心身の無駄な火照りを招くのは、凡そそういった原因による。
もはや知能の低下を振り切った思考や言行すら心がけないというのであれば、
心身が火照るということもないわけだが、そういう人間は、ろくに知能
も働かせないままでの不摂生の限りを尽くしてしまったせいでの、
晩年の重病尽くしなどにも見舞われてしまうようだ。
獣脂は植物油などと比べて融点が低く、人体にも蓄積しやすい。
そのせいでの恒常的な知能の低下を招きやすいが、高温ではかえってよく
潤滑するので、獣脂の蓄積による知能の低下を振り切ってまで無理に
難しいことを考えたり言行しようとしたりした場合のヤケクソ状態をも
招きやすい。それが俗に「馬鹿」などと呼ばれる蒙昧状態ともなる。
肉食が心身の無駄な火照りを招くのは、凡そそういった原因による。
もはや知能の低下を振り切った思考や言行すら心がけないというのであれば、
心身が火照るということもないわけだが、そういう人間は、ろくに知能
も働かせないままでの不摂生の限りを尽くしてしまったせいでの、
晩年の重病尽くしなどにも見舞われてしまうようだ。

実用性の低い部類の刀剣を中心として構築されて来た。リーチでは槍や薙刀に劣り、
刺突性でも両刃の剣に劣る典型的な日本刀の長所はといえば、丸腰の相手を敵と
した場合の確実な斬殺能力ぐらいのものであったわけで、それはそれで大将の首級
を挙げたり、平時における民間の富裕者への脅し付けなどの特殊な効能を持ち得た
わけだけれども、最大級の兵力を戦わせ合う戦争状態において、日本刀がその
真価を発揮した事例などはやはり少数に止まっている。大坂夏の陣で、二代将軍
秀忠の陣営に切り込んで来た豊臣軍のうち七名を、将軍家剣術指南役だった
柳生宗矩が刀で返り討ちにしたなどの記録はあるが、これも本人が剣術の達人
であったからこそ可能となったことで、ずぶの素人として急に戦地に赴かされた
足軽などが日本刀で戦果を挙げることなどは、ほとんど無理に等しいことだった。
(百姓上がりの足軽などに支給される刀はしごく粗悪なものだったというのもある)
しかし、その日本刀こそは長大な刃渡りと、最高級の切れ味や耐久性の両立を
要求される「最も作刀の困難な刀剣類」であったものだから、その精製を主体と
して来た結果、日本の刀剣作製技術は世界最高水準に達し、近代の文明開化後にも
早急なる工業技術の発展に大きく寄与して来た。同様な工業技術の高度な醸成を
積み重ねて来ているわけでもない中国や朝鮮などは、近代文明の取り入れに大きく
乗り遅れた上に、今でも工業全般への軽んじが原因となっての、粗悪な大量生産
や偽造品生産が深刻な問題となっている。特に中国人は、自前の迷信混じりな
陰陽五行思想に準拠するクセが仇となって(陰陽五行自体は宇宙の真理にすら通
ずるものだが、中国ではそこに多量の迷信が介在したままでもいてしまっている)、
化学物質の組成への把握が極度に疎かとなってしまった結果、毒物や爆発物を適当
に扱いまくっての環境汚染や爆発事故を多発させる状態でもいてしまっている。
(これは、中国の工場に下請けを任せておきながら、連中にろくな化学教育も
施さないままでいる世界中の大企業経営者の怠慢が別の原因ともなっている)

上手く使いこなすことこそが日本の武術の王道ともされて来た。完全な抜刀状態
での剣術はもちろんのこと、平時の帯刀状態で重要性を帯びる鞘からの抜き差し
の瞬間の操刀術こそが「居合術」として高度化されて来てもいる。中には薩摩藩
のように、平時には刀と鞘を紐や針金で結び合わせて、容易に抜刀ができないよう
にしている地域などもあったが(これが今の警察の「発砲即始末書」の慣習の源流
ともなっている)、居合術を蓄積するほどにも、日本刀を実用することが日頃から
準備されていたものだから、刀工たちも粗悪な刀ばかりを量産しているわけにも
いかなかった。武家の身分証明の道具としての見た目のよさはもちろんのこと、
いざ実用するとなれば最大級の能力が発揮されることまでもが要求されていた。
(上杉謙信の佩用していた「備前長船兼光」銘の刀が、対武田線で鉄砲や鎧を切り
裂く程もの威力を発揮しながら、実は贋作であったことなども有名な話である)
実際に「守り刀」として用いられる刀などもある通り、日本の刀剣文化こそは、
未だ軍事的経済的な覇権主義の魔性を多量に秘めたままの状態にあったここ
千年来の人類社会において、日本人が乱世の荒波を乗り越えて行く上での守り刀
としての役割を果たし得たのである。日本刀を実用したり、高度な技術で作製
したりする技術がそのまま、肥大化した物質文明の下での日本の技術的優位を
決定付ける種子ともなったのである。この事実一つを取っても、場合によっては
刀を持つこと、持つ以上は実用も想定に入れることの重要さを知ることができる。
「備えあれば憂いなし」の「備え」に、「これでいいEs ist gut」などという
怠慢が介在するようなことが決してあってはならない、一つの証拠となっている。
「篤いなるかな公劉のきみ、于に斯の原を胥られ、既に庶に既に繁く既に順う、
迺に宣べて永嘆するものなし。陟りて則ち巘に在り、復た降りて原に在り。
何をか以て之れに舟ぶる、維れ玉と瑤と、鞞琫に容刀をもてり」
「大いなるかな公劉の君は、中原を一望されたなら、庶民たちはゴマンと
群れ集い、誰しもが君に従う。声をかければもはや嘆くこともない者ばかり。
(民たちを安んずるために)ある時は丘に登って趣き、またある時は平原に
降って赴かれる(東奔西走の日日)。その時に君の佩びておられるのは、
見るも鮮やかな玉飾りに、太巻きの大剣と来る。(公劉は西戎を討伐した
周の名君。天下を平定して民を安んずるために刀剣が必要なこともある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・公劉より)
迺に宣べて永嘆するものなし。陟りて則ち巘に在り、復た降りて原に在り。
何をか以て之れに舟ぶる、維れ玉と瑤と、鞞琫に容刀をもてり」
「大いなるかな公劉の君は、中原を一望されたなら、庶民たちはゴマンと
群れ集い、誰しもが君に従う。声をかければもはや嘆くこともない者ばかり。
(民たちを安んずるために)ある時は丘に登って趣き、またある時は平原に
降って赴かれる(東奔西走の日日)。その時に君の佩びておられるのは、
見るも鮮やかな玉飾りに、太巻きの大剣と来る。(公劉は西戎を討伐した
周の名君。天下を平定して民を安んずるために刀剣が必要なこともある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・公劉より)
東洋と西洋では、歴史的に「言葉」や「文字」といった媒体に付与される存在意義からして
異なっていた。東洋では、言葉はあくまで現実を追随すべきものとされ、現実に先行する
ような概念志向は非とされた。一方で、西洋では古代ギリシャの頃からそのような概念志向が
是とされて、聖書教が提示したロゴス主義によってその傾向も決定的なものとなるに至った。
その割りに、言葉を文字として記録する場合の字形や書道技術は東洋のほうが発達し、西洋
ではアルファベットに代表されるごく簡素な記号文字でしか言葉が記録されることがなかった。
有機的な自然現象や人間文化を丹念に描写しようとした結果として、東洋の文字文化のほうが
発達した一方で、西洋では言葉こそが自然や人間にすら先行するものであるとされたものだから、
言葉で自然や人間文化を厳重に把捉するような気概からして持たれなかった。逆に、金科玉条化
された言葉に即して現実を無理に捻じ曲げるような試みばかりが為されて、昔は欧米聖書圏内が、
今は汚濁を擦り付けられた欧米外の諸地域が極度の文化的環境的荒廃に見舞われることとなった。
言葉というものそれ自体をより大事に扱って来たのは、むしろロゴス信仰など存在しない
東洋のほうであった。一語不中で、どこまでも言葉に表しきれないのが正法であるとする仏門が
営んでいた寺子屋でこそ、江戸時代の日本人も文字を学び、世界最高の識字能力を身に付けていた。
言葉や文字の持つ機能というものを最大級にまで押し広げて、なおかつできる限り多くの人々に
活用されるように心がけた上で、さらに金言とされるような言葉を掛け軸なり何なりに書いて
飾ったり宝とするなりして来た。神仏にまつわる字札などは傷付けるのが罰当たりともされ、
廃棄の必要な場合には寺社に持って行って焼いてもらうなどの措置までもが取られている。
異なっていた。東洋では、言葉はあくまで現実を追随すべきものとされ、現実に先行する
ような概念志向は非とされた。一方で、西洋では古代ギリシャの頃からそのような概念志向が
是とされて、聖書教が提示したロゴス主義によってその傾向も決定的なものとなるに至った。
その割りに、言葉を文字として記録する場合の字形や書道技術は東洋のほうが発達し、西洋
ではアルファベットに代表されるごく簡素な記号文字でしか言葉が記録されることがなかった。
有機的な自然現象や人間文化を丹念に描写しようとした結果として、東洋の文字文化のほうが
発達した一方で、西洋では言葉こそが自然や人間にすら先行するものであるとされたものだから、
言葉で自然や人間文化を厳重に把捉するような気概からして持たれなかった。逆に、金科玉条化
された言葉に即して現実を無理に捻じ曲げるような試みばかりが為されて、昔は欧米聖書圏内が、
今は汚濁を擦り付けられた欧米外の諸地域が極度の文化的環境的荒廃に見舞われることとなった。
言葉というものそれ自体をより大事に扱って来たのは、むしろロゴス信仰など存在しない
東洋のほうであった。一語不中で、どこまでも言葉に表しきれないのが正法であるとする仏門が
営んでいた寺子屋でこそ、江戸時代の日本人も文字を学び、世界最高の識字能力を身に付けていた。
言葉や文字の持つ機能というものを最大級にまで押し広げて、なおかつできる限り多くの人々に
活用されるように心がけた上で、さらに金言とされるような言葉を掛け軸なり何なりに書いて
飾ったり宝とするなりして来た。神仏にまつわる字札などは傷付けるのが罰当たりともされ、
廃棄の必要な場合には寺社に持って行って焼いてもらうなどの措置までもが取られている。
そういった、高度な文字の取り扱いが長年嗜まれて来ているからこそ、大した意味が込められて
いるわけでもない言葉などを「神の言葉だから」だ何だといった身勝手な理由で金科玉条化して
しまう西洋的なロゴス主義にも惑わされることがない。言葉の扱いがある程度以上にいい加減な
状態であればこそ、言葉そのものの良し悪しに関係なく、自分たちから勝手にこれと決めた言葉
を金科玉条化してしまうような愚行にも至ってしまうわけで、それが言葉に対する真摯な態度
などでないのはもちろんのこと、粗悪な言葉の利用法であるが故に、言葉の真価すらをも
損ねてしまう暴挙にすらなってしまっているのだということを知らねばならない。
昔からの東洋人がそうして来たように、言葉や文字文化といったものを本当に尊重するためには、
まず諸法実相の現実こそを最大級に重んじるのでなければならない。それでこそ言葉や文字を
尊重できるようにもなるのは、諸法実相(全てはありのままに現実に現れている)こそがこの
世界この宇宙の普遍真理であるからで、だからこそ、現実の外側に現実以上のものを追い求めた
所で、所詮は現実の事物以下の滋味でしか在り得ない。現実以下でしかない現実外の概念などを
言葉や文字にしようとした結果、言葉や文字もまたさして価値のないようなものと化してしまう。
だから言葉や文字への尊重意識も備わりにくくなり、最悪の場合、詭弁や詐欺のために粗悪な
言辞を弄するようなことのために言葉を悪用してしまうようなことにすらなるのである。
言葉や文字の価値を軽んずるからこそ、それらをろくでもないことのために悪用するようなこと
すらよしとされてしまう。そしてそのような軽率さは上に書いたように、言葉を現実外の概念の
構築のためなどに用いようとするから備わってしまうものである。当然、詐欺や詭弁のために
言葉が悪用されるようなこともできる限りあるべきではないから、言葉や文字を軽んずるよりは
重んずるようになれたほうがよく、そのためには、言葉による主な把捉対象を現実の事物とし、
その現実と共に言葉をも尊んでいけるようになる必要があるのである。
いるわけでもない言葉などを「神の言葉だから」だ何だといった身勝手な理由で金科玉条化して
しまう西洋的なロゴス主義にも惑わされることがない。言葉の扱いがある程度以上にいい加減な
状態であればこそ、言葉そのものの良し悪しに関係なく、自分たちから勝手にこれと決めた言葉
を金科玉条化してしまうような愚行にも至ってしまうわけで、それが言葉に対する真摯な態度
などでないのはもちろんのこと、粗悪な言葉の利用法であるが故に、言葉の真価すらをも
損ねてしまう暴挙にすらなってしまっているのだということを知らねばならない。
昔からの東洋人がそうして来たように、言葉や文字文化といったものを本当に尊重するためには、
まず諸法実相の現実こそを最大級に重んじるのでなければならない。それでこそ言葉や文字を
尊重できるようにもなるのは、諸法実相(全てはありのままに現実に現れている)こそがこの
世界この宇宙の普遍真理であるからで、だからこそ、現実の外側に現実以上のものを追い求めた
所で、所詮は現実の事物以下の滋味でしか在り得ない。現実以下でしかない現実外の概念などを
言葉や文字にしようとした結果、言葉や文字もまたさして価値のないようなものと化してしまう。
だから言葉や文字への尊重意識も備わりにくくなり、最悪の場合、詭弁や詐欺のために粗悪な
言辞を弄するようなことのために言葉を悪用してしまうようなことにすらなるのである。
言葉や文字の価値を軽んずるからこそ、それらをろくでもないことのために悪用するようなこと
すらよしとされてしまう。そしてそのような軽率さは上に書いたように、言葉を現実外の概念の
構築のためなどに用いようとするから備わってしまうものである。当然、詐欺や詭弁のために
言葉が悪用されるようなこともできる限りあるべきではないから、言葉や文字を軽んずるよりは
重んずるようになれたほうがよく、そのためには、言葉による主な把捉対象を現実の事物とし、
その現実と共に言葉をも尊んでいけるようになる必要があるのである。
絵空事では、1+1を3にでも4にでもすることができるが、実際には、1兆円と1兆円を
足し合わせたからといって3兆円や4兆円になることもない。とにかく儲けたい人間には前者
の絵空事のほうが好ましかろうが、現実を尊ぶ人間なら後者の堅実な会計のほうを重んずる
のであり、その尊重に即して世の中をも営ませようとするのである。それでこそ、世の中の
財政が健全化するのみならず、現実と共に言語文化をも尊重する人々が、良質な文化文明を
この世にもたらして行くようにもなるわけだから、決して吝嗇というばかりのことでもない。
「魯人、長府を為る。閔子騫曰く、旧貫の仍なれば、之れ如何。
何ぞ必ず改めて作らん。子曰く、夫の人は言わざるも、言えば必ず中る有り」
「魯の人が主君のための金蔵を建設しようとしていた。孔子の弟子の閔子騫はそれに意見した。
『昔の慣習の通りに造れば如何でしょうか。別に絶対に新しく作りこむ必要もありますまい』
孔師は言われた。『彼は無口なほうだが、言葉を発せば必ず当を得ている』(基本無口で、
言葉を発しても信ずるまでもないような当たり前な意見ばかり。そのような言辞への慎重な
姿勢こそを孔子も評し、弟子たちもその評価を後世まで論語として残そうとした。我々もまた、
そのような孔子や弟子たちの有り方に倣って、四書五経を学んでいくようにしなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一四より)
足し合わせたからといって3兆円や4兆円になることもない。とにかく儲けたい人間には前者
の絵空事のほうが好ましかろうが、現実を尊ぶ人間なら後者の堅実な会計のほうを重んずる
のであり、その尊重に即して世の中をも営ませようとするのである。それでこそ、世の中の
財政が健全化するのみならず、現実と共に言語文化をも尊重する人々が、良質な文化文明を
この世にもたらして行くようにもなるわけだから、決して吝嗇というばかりのことでもない。
「魯人、長府を為る。閔子騫曰く、旧貫の仍なれば、之れ如何。
何ぞ必ず改めて作らん。子曰く、夫の人は言わざるも、言えば必ず中る有り」
「魯の人が主君のための金蔵を建設しようとしていた。孔子の弟子の閔子騫はそれに意見した。
『昔の慣習の通りに造れば如何でしょうか。別に絶対に新しく作りこむ必要もありますまい』
孔師は言われた。『彼は無口なほうだが、言葉を発せば必ず当を得ている』(基本無口で、
言葉を発しても信ずるまでもないような当たり前な意見ばかり。そのような言辞への慎重な
姿勢こそを孔子も評し、弟子たちもその評価を後世まで論語として残そうとした。我々もまた、
そのような孔子や弟子たちの有り方に倣って、四書五経を学んでいくようにしなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一四より)

なおかつそのような状態での放辟邪侈にひた走っていたような人間が、
何らかの理由(権力犯罪への懲罰だとか)があって改悛を迫られたときに、
半ば強制的に分別を飢え付けられることこそは、この世に顕現する「地獄」ともなる。
端的に言って、麻薬中毒者が薬物を断たれた時の禁断症状のような苦痛に見舞われる。
強力な麻薬の副作用である禁断症状ほどより大きな苦痛に見舞われるのと同じように、
分別を欠いた状態での放辟邪侈がより甚だしかった者ほど、今さら小学生でも分かるような
当たり前な善悪の分別をわきまえさせられることに、地獄の苦しみを味わわされることになる。
それが、一思いに死んでしまったほうがマシなほどもの苦しみなものだから、昔は実際に
処刑してしまったり、仏門に入れながらも「見込みなし」として穴埋めや川流しにして殺して
しまったりしていたのである。大化の改新などでは、度し難い秦人系の権力犯罪者を都から
追放したり、屠殺や製革を職分とする被差別部落に追いやったりもしていた。これなどは、
さっさと殺してしまうよりも遥かに寛大な措置であったわけで、それでも度し難い性分を
持ち越したままでのリバイバルなどを試みて、実際に大暴れの限りを尽くしたりした
とすれば、これはもう悉皆刑戮の標的にされてしまったとしても仕方がないに違いない。
一思いに死んでしまったほうがマシな程もの改悛の苦しみから、わきまえを欠く悪党たちは、
逃げられる限りにおいてどこまでも逃げ続ける。たとえ緊縛状態で四書五経を読まされ続ける
ほどの矯正措置を施されようとも、内心の部分に少しでも道理に背く意志を保っておける
余地が残されているのならば、そこに本音を非難させて固く心を閉ざしてでも、今さら
わきまえを身に付けさせられたりすることに抵抗し続けるに違いないのである。
「覆水盆に返らず」というエントロピー増大の法則は、物事がより悪いほうへと堕落して行く
場合にこそ当てはまる法則となる。わきまえを欠いたやりたい放題状態の深刻化こそは極めて
容易いこととなる一方で、好き勝手を正して堅実なわきまえを身に付けて行くことこそは、
潔癖なほどもの整理整頓を心がける場合のような面倒くささを伴うものである。大半の日本人
などは、古代の箕子による東夷の徳化から、公家や武家や仏門による磐石な教化をも受けて
きたことを通じて、心や生活規範が一定以上に堕落することを食い止められて来ているが、
それも世界的に見れば極めて稀有なことであり、日本のすぐ隣りの朝鮮の人間すらもが、
そのような緻密な自己統制をまったく欠いたままの状態でいてしまっているのである。
つまり、「物事の劣悪化」というエントロピーの増大に十分に対抗できるだけのわきまえを
身に付けさせられることに、地獄の苦しみを抱かされるような人間こそは、今の世界でも
大多数を占めているのである。今さらわきまえなんか抱かされるぐらいなら死んでやる、
死ぬこともできずにわきまえを強制されるぐらいなら、地獄の果てまで逃げ尽くしてやる
という風に潜在的に考えている人間が、今の地球人類の過半数以上に達している。そのような
状態で無理に人々にわきまえを抱かせるとすれば、それはこの世に地獄をもたらすにも等しい
所業となることを、それを実行に移す側こそはわきまえなければならないことになる。
甘い言葉によって堕落の限りを尽くさせてやって来た畜人たちを、これまた甘い言葉によって
破滅から救ってやれたりすることもあるわけがない。始めからわきまえておくべきであった
ような最低限の分別を見失ったままに何千年と歴史を歩ませて、挙げ句に急激にわきまえを
抱かされることになる人々の苦しみたるや、屠殺に見舞われる畜獣のそれにも等しいもの。
そんな運命を人々に辿らせることとなった邪教の神なども、始めから屠殺人レベルの存在
だったという他なく、対象が畜獣ではなく人間であった分だけ、屠殺人以下であったといえる。
場合にこそ当てはまる法則となる。わきまえを欠いたやりたい放題状態の深刻化こそは極めて
容易いこととなる一方で、好き勝手を正して堅実なわきまえを身に付けて行くことこそは、
潔癖なほどもの整理整頓を心がける場合のような面倒くささを伴うものである。大半の日本人
などは、古代の箕子による東夷の徳化から、公家や武家や仏門による磐石な教化をも受けて
きたことを通じて、心や生活規範が一定以上に堕落することを食い止められて来ているが、
それも世界的に見れば極めて稀有なことであり、日本のすぐ隣りの朝鮮の人間すらもが、
そのような緻密な自己統制をまったく欠いたままの状態でいてしまっているのである。
つまり、「物事の劣悪化」というエントロピーの増大に十分に対抗できるだけのわきまえを
身に付けさせられることに、地獄の苦しみを抱かされるような人間こそは、今の世界でも
大多数を占めているのである。今さらわきまえなんか抱かされるぐらいなら死んでやる、
死ぬこともできずにわきまえを強制されるぐらいなら、地獄の果てまで逃げ尽くしてやる
という風に潜在的に考えている人間が、今の地球人類の過半数以上に達している。そのような
状態で無理に人々にわきまえを抱かせるとすれば、それはこの世に地獄をもたらすにも等しい
所業となることを、それを実行に移す側こそはわきまえなければならないことになる。
甘い言葉によって堕落の限りを尽くさせてやって来た畜人たちを、これまた甘い言葉によって
破滅から救ってやれたりすることもあるわけがない。始めからわきまえておくべきであった
ような最低限の分別を見失ったままに何千年と歴史を歩ませて、挙げ句に急激にわきまえを
抱かされることになる人々の苦しみたるや、屠殺に見舞われる畜獣のそれにも等しいもの。
そんな運命を人々に辿らせることとなった邪教の神なども、始めから屠殺人レベルの存在
だったという他なく、対象が畜獣ではなく人間であった分だけ、屠殺人以下であったといえる。
「君子の居るや、恒に戸に当たる。寝るにも恒に東首す」
「君子の居住まいたるや、常に(日光の差し込む南向きの)戸に面した状態でいる。
寝る場合にも(日の昇る)東のほうを頭に向けるようにする。(君子はそれほど
までにも常日頃から陽光を重んじて、天下の道理をわきまえる努力を積むのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
「君子の居住まいたるや、常に(日光の差し込む南向きの)戸に面した状態でいる。
寝る場合にも(日の昇る)東のほうを頭に向けるようにする。(君子はそれほど
までにも常日頃から陽光を重んじて、天下の道理をわきまえる努力を積むのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
「陪臣が国政を執れば国は三代と持たない(季氏第十六・二)」という通り、
君子道徳では「仲介人」に相当するような人間の専横が厳しく戒められている。
封建制における臣下というもの自体、主君と民の仲介者であるわけで、
だからこそ主君以上にも複雑な事務をこなす技能すらもが必要とされるわけだが、
だからといって斉の桓公を盛り立てた管仲のように、自分自身が主君をも上回るような
栄誉に与るようなことがあってはならない。そうなれば「国の顔」たる主君の名誉が
傷付けられて、国家全体の威信は凋落し、結果的に衰亡の機縁とすらなってしまうからだ。
国や社会が大規模化すれば、その分だけトップと下層の間に介在する人間の数も多くなる。
封建制なら臣下と民の間にさらに陪臣が介されたり、私人と下層民の間に庄屋のような
貢納事務を牛耳る仲介者が絡んだりすることともなる。資本主義の民主主義社会でもやはり、
世襲や学歴で利権を牛耳るものが政府と一般人の間に介在し、いずれにも優るような富貴を
手にすることとなる。そういった、本来仲介者に位置するような中途半端な身分の持ち主
こそが実質的な栄誉を掌握する所に世相の不健全化の元凶もまたあるのであり、最大級の
貧富の格差の開きもまた、そのような世相においてこそ現実化してしまうものなのである。
万人に冠たる存在であることが制度から取り決められている主君こそが真の最高権力者
たれば、制度上の仲介者に過ぎない陪臣や庄屋などが実権を持つ場合と比べて、その
動向が逐一万人からの精査の対象ともなる。複数人存在することが認められる仲介者と
比べて、主君は国にただ一人の存在だから、その動向の是非を誰しもが完璧に見通せる。
だからこそ、そこで最高権力が取り回されることもまた不健全化の余地がない。
君子道徳では「仲介人」に相当するような人間の専横が厳しく戒められている。
封建制における臣下というもの自体、主君と民の仲介者であるわけで、
だからこそ主君以上にも複雑な事務をこなす技能すらもが必要とされるわけだが、
だからといって斉の桓公を盛り立てた管仲のように、自分自身が主君をも上回るような
栄誉に与るようなことがあってはならない。そうなれば「国の顔」たる主君の名誉が
傷付けられて、国家全体の威信は凋落し、結果的に衰亡の機縁とすらなってしまうからだ。
国や社会が大規模化すれば、その分だけトップと下層の間に介在する人間の数も多くなる。
封建制なら臣下と民の間にさらに陪臣が介されたり、私人と下層民の間に庄屋のような
貢納事務を牛耳る仲介者が絡んだりすることともなる。資本主義の民主主義社会でもやはり、
世襲や学歴で利権を牛耳るものが政府と一般人の間に介在し、いずれにも優るような富貴を
手にすることとなる。そういった、本来仲介者に位置するような中途半端な身分の持ち主
こそが実質的な栄誉を掌握する所に世相の不健全化の元凶もまたあるのであり、最大級の
貧富の格差の開きもまた、そのような世相においてこそ現実化してしまうものなのである。
万人に冠たる存在であることが制度から取り決められている主君こそが真の最高権力者
たれば、制度上の仲介者に過ぎない陪臣や庄屋などが実権を持つ場合と比べて、その
動向が逐一万人からの精査の対象ともなる。複数人存在することが認められる仲介者と
比べて、主君は国にただ一人の存在だから、その動向の是非を誰しもが完璧に見通せる。
だからこそ、そこで最高権力が取り回されることもまた不健全化の余地がない。

主君が最高権力者となるからではなく、佞臣や財界人の専横に苛まれる傀儡状態と化して
しまったりするからこそ、君主制の世の中も腐敗してしまうことがある。にもかかわらず、
「君主こそは権力腐敗の元凶だ」などとして君主制を撤廃し、民主制や共和制による統治
を講じたりするものだから、事態はより悪化することとなる。権力腐敗の浄化の要を排除
して、腐敗の元凶にこそ好き勝手させる余地を与えてしまったのだから、そこで期待できる
ことといえば、権力者と一般人の格差がより拡大してしまうことぐらいのものである。
近代の民主化主体の世界史たるや、封建制における下層民に相当していたような人間ではなく、
陪臣や庄屋のような、主君と下層民の仲介者に相当していたような人間に大権を明け渡す
ことばかりを主体として来ている。結果、持つ者と持たざる者との格差は封建社会以上にも
開ききり、低所得の重労働に苛まれている庶民たちも、誰に怒りの矛先を向ければいいのかすら
分からないという事態に陥ってしまっている。自分たちを困窮下に陥らせているのは明らか
に政財界のトップどもなわけだが、連中も連中で別に君主のような責任ある立場にあるわけ
ではなく、口先だけでは「国民の生活が第一」みたいなことも言っていたりする。だからこそ、
庶民たちももはや何を怨めばいいのかすら分からない全盲状態と化してしまっているのである。
「民」という漢字からして、「盲目の奴隷」を象形したものであり、民間人たるやそれ程にも
弱視であらざるを得ない人種であると、古代の中国人も考えていたわけである。そしてそれこそは
真実であったから、実権ある一人の主君が衆目の的となりながらトップダウンの為政に取り組む
ことこそが、盲目名民たちが為政を推し量る最善の手立てともなるのである。民主主義が理想と
している民意に適った為政もまた、国家から主君を取り除くことなどではなく、誰にもまして
最大の政治責任を負う主君が、万民の衆目の下で君臨することでこそ実現されるものなのである。
封建制度下での仲介者身分であったような連中に君主が最高権力を明け渡すことで、より民意
に適った為政が実現されるなどとしたことからして、盲目な民を欺く詭弁だったという他ない。
「於鑠んなるかな王の師、遵い養いて時に晦し。時に熙を純にするに、是れ大いに介するを用う。
我れ龍みて之れを受く。蹻蹻たる王の造、載ち用て嗣ぐこと有り、実に維れ爾じ公允に師なり」
「ああ、何と盛んなることだろう、武王の師団たちは。(紂王放埓時のような暗い時期にもよく
従って養生し、いざ威光を発揮するとなれば、そこでは見事な執り成しを為された。(武王の
後継者たる)私もまた慎んでその威勢を継承する。偉大なるかな、武王の業は、真に継承するに
値するものがある。(武王の師団たる)汝らはまさに師団とするに相応しいものだ。
(武王の部下の執り成しこそを褒め称える。下位者こそが仲介のような雑務を担う健全な
位相を守っており、なおかつそのその偉業の集約先はあくまで主君たる武王とされてもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・周頌・閔予小子之什・酌)
我れ龍みて之れを受く。蹻蹻たる王の造、載ち用て嗣ぐこと有り、実に維れ爾じ公允に師なり」
「ああ、何と盛んなることだろう、武王の師団たちは。(紂王放埓時のような暗い時期にもよく
従って養生し、いざ威光を発揮するとなれば、そこでは見事な執り成しを為された。(武王の
後継者たる)私もまた慎んでその威勢を継承する。偉大なるかな、武王の業は、真に継承するに
値するものがある。(武王の師団たる)汝らはまさに師団とするに相応しいものだ。
(武王の部下の執り成しこそを褒め称える。下位者こそが仲介のような雑務を担う健全な
位相を守っており、なおかつそのその偉業の集約先はあくまで主君たる武王とされてもいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・周頌・閔予小子之什・酌)
「この世を破滅に陥れてでも、来世で救われよう」などと固く希っているような人間を
現世で救ってやる筋合いなどは、自明に存在しない。妾腹の私生児が「神の子」を自称
しながら冤罪で処刑される程もの、現世での破滅を心の底から欲しているというのなら、
もはやそのような人間を救ってやったりすることも、ただのお節介と化してしまう。
妾腹の私生児として産まれてしまっただけなら、まだ救われる余地もある。そのような
卑賤な生まれ付きをバネにした勉学精進に励み、大学者や火盗改長官のような立派な
職分に即して大成するというのなら、むしろ人並み以上に救いのある存在たり得る。
そうではなく、生まれの賤しさに取り込まれての自暴自棄と化し、自ら破滅を欲するような
真似にすら及んだ場合にこそ、救いがない。道義的にも救う価値がない上に、本人自身が
心の底から破滅を欲しているのだから、救ってやるだけ大きなお世話となるばかりである。
現世での破滅によってでも来世に昇天しようなどとする幻想を抱く者こそは、最大級
の精神的な飢渇に見舞われることともなる。現世で破滅しようとするのだから当然、
物理的な破滅に陥るということもあるが、ただそれだけではなく、現世に知足しようと
する心理的な堅実さすらをも欠いているものだから、物理的な破滅に見舞われているか
否かに関わりなく、渇死寸前のような極度に追い込まれた精神状態に陥ることとなる。
だからこそ、そのような精神的飢渇に見舞われたりしているわけでもないような
来世教の信仰などと比べても、現世での破滅を引き換えにした来世での昇天を希う
ような信仰こそは、見てくれからしていかにも敬虔そうに見えるし、実際に内面的にも
常に追い込まれたような状態でいて、その逼迫を癒してくれる唯一の手段が信仰である
というのだから、傍目に見る者からしても、穴に落ちそうな幼児があと一歩のところで
母親に抱き上げられて救われている姿を見るような感慨を抱かされることとなるのである。
現世で救ってやる筋合いなどは、自明に存在しない。妾腹の私生児が「神の子」を自称
しながら冤罪で処刑される程もの、現世での破滅を心の底から欲しているというのなら、
もはやそのような人間を救ってやったりすることも、ただのお節介と化してしまう。
妾腹の私生児として産まれてしまっただけなら、まだ救われる余地もある。そのような
卑賤な生まれ付きをバネにした勉学精進に励み、大学者や火盗改長官のような立派な
職分に即して大成するというのなら、むしろ人並み以上に救いのある存在たり得る。
そうではなく、生まれの賤しさに取り込まれての自暴自棄と化し、自ら破滅を欲するような
真似にすら及んだ場合にこそ、救いがない。道義的にも救う価値がない上に、本人自身が
心の底から破滅を欲しているのだから、救ってやるだけ大きなお世話となるばかりである。
現世での破滅によってでも来世に昇天しようなどとする幻想を抱く者こそは、最大級
の精神的な飢渇に見舞われることともなる。現世で破滅しようとするのだから当然、
物理的な破滅に陥るということもあるが、ただそれだけではなく、現世に知足しようと
する心理的な堅実さすらをも欠いているものだから、物理的な破滅に見舞われているか
否かに関わりなく、渇死寸前のような極度に追い込まれた精神状態に陥ることとなる。
だからこそ、そのような精神的飢渇に見舞われたりしているわけでもないような
来世教の信仰などと比べても、現世での破滅を引き換えにした来世での昇天を希う
ような信仰こそは、見てくれからしていかにも敬虔そうに見えるし、実際に内面的にも
常に追い込まれたような状態でいて、その逼迫を癒してくれる唯一の手段が信仰である
というのだから、傍目に見る者からしても、穴に落ちそうな幼児があと一歩のところで
母親に抱き上げられて救われている姿を見るような感慨を抱かされることとなるのである。
その「母親」が実在するかといえば、全く以って実在しない。信者が物理的な破滅に
見舞われた結果として、来世の天国へといざなってくれる親神さまなどがいるわけでも
ないから、現世での破滅を引き換えにした来世での昇天を願う信者たちは、実際上に
おいては、永遠に救いのない破滅に見舞われることとなる。とはいえ、本人たち自身は
そのような神様が実在すると固く信じ込み、物理的な破滅からは免れられないまでも、
精神的な破滅からは免れられているとしているわけだから、本人たちが「それでよし」と
する以上は、他人も「それじゃあいけない」などと全否定してかかるわけにも行くまい。
物理的には永遠の破滅に見舞われても、精神的な救済には与れているとし、それをして
神の実在の根拠とする所まで完全誤謬信仰が透徹しているのならば、そのような人間は
もはや、閉鎖病棟あたりでろくな矯正を受けることもなく余生を終えるのが筋となろう。
ただ、世の中のほうが、そんな人間が出現してしまうことを許さない所まで倫理意識を
総出で高めて行ったならば、始めからそんな人間も生じないで済むようになるだろう。
精神薄弱即間引きで殺してしまうというのではなく、小さい頃からの堅実な教育によって、
下手をすれば邪教信者級の精神薄弱に陥りかねなかったような人間までもが、そうまでは
ならずに生まれ育って、それなりにまともな人間として生きていけるようになるだろう。
現世での破滅によって、来世での救済を希うような「負のスパイラル」を、絶やそうと
思えば絶やせる一方で、絶やさずにいればバイオハザードのように蔓延することとなる。
山火事も防ごうとすれば防げるが、一度巻き起これば限りなく延焼を続けて行くように、
まず最原初の頃からの警戒が欠かせないものであり、それを今までの人類が十分に怠らず
に居て来られたかといえばそんなことももないので、まさにこれからにこそ、全人類が
総力を挙げて、本格的に取り組んでいくべき課題になるのだといえる。もちろん、人類
自身が現世破滅の決定打となるような邪教の根絶のほうを選択した場合に限ることだが。
見舞われた結果として、来世の天国へといざなってくれる親神さまなどがいるわけでも
ないから、現世での破滅を引き換えにした来世での昇天を願う信者たちは、実際上に
おいては、永遠に救いのない破滅に見舞われることとなる。とはいえ、本人たち自身は
そのような神様が実在すると固く信じ込み、物理的な破滅からは免れられないまでも、
精神的な破滅からは免れられているとしているわけだから、本人たちが「それでよし」と
する以上は、他人も「それじゃあいけない」などと全否定してかかるわけにも行くまい。
物理的には永遠の破滅に見舞われても、精神的な救済には与れているとし、それをして
神の実在の根拠とする所まで完全誤謬信仰が透徹しているのならば、そのような人間は
もはや、閉鎖病棟あたりでろくな矯正を受けることもなく余生を終えるのが筋となろう。
ただ、世の中のほうが、そんな人間が出現してしまうことを許さない所まで倫理意識を
総出で高めて行ったならば、始めからそんな人間も生じないで済むようになるだろう。
精神薄弱即間引きで殺してしまうというのではなく、小さい頃からの堅実な教育によって、
下手をすれば邪教信者級の精神薄弱に陥りかねなかったような人間までもが、そうまでは
ならずに生まれ育って、それなりにまともな人間として生きていけるようになるだろう。
現世での破滅によって、来世での救済を希うような「負のスパイラル」を、絶やそうと
思えば絶やせる一方で、絶やさずにいればバイオハザードのように蔓延することとなる。
山火事も防ごうとすれば防げるが、一度巻き起これば限りなく延焼を続けて行くように、
まず最原初の頃からの警戒が欠かせないものであり、それを今までの人類が十分に怠らず
に居て来られたかといえばそんなことももないので、まさにこれからにこそ、全人類が
総力を挙げて、本格的に取り組んでいくべき課題になるのだといえる。もちろん、人類
自身が現世破滅の決定打となるような邪教の根絶のほうを選択した場合に限ることだが。
「聖人南面して天下を聴むるに、且く先んずる所の者五つ、民は与らず。
一に曰く、親を治む。二に曰く、功に報ゆ。三に曰く、賢を挙ぐる。
四に曰く、能を使う。五に曰く、愛を存す。五つの者一ら天下に得れば、
民に足らざる無く、贍らざる者無し。五つの者一物でも紕繆すれば、
民其の死を得るなし。聖人南面して天下を治むること、必ず人道より始む」
「聖人が南面(するような君子階級と)して天下を治める場合に、必ず以下の五つのことを重んずる。
ただし民間人の場合はそうではない。第一に、近親の間柄をよく整える。第二に、功を挙げた者に
対しては必ず報償を施す。第三に、賢明な人間を惜しむことなく取り立てる。第四に、有能な者を
適切に使役する。第五に、万民への慈愛を欠かさないようにする。この五つの綱目を欠かすことなく
実行できたならば、万民の内にも生活上の不足や困窮に見舞われる者が一人もいなくなる。逆に、
このうちの一つでも欠けていたならば、民たちもろくな死に方すらできないようになる。そのため、
聖人が南面して天下を治める場合には、上記のような人道を固く守り通すことから始めるようにする。
(慈愛をかけた相手への施報を徹底することなどではなく、功労を挙げた者への相応な施報に務める
ことでこそ、万民が困窮に見舞われたりしないで済むようになる。礼記・郊特牲第十一には、鼠を
捕らえる猫や、猪を捕らえる虎にまで報償のエサをやる慣習が記録されているが、それでこそ
真っ当な人道たり得るのであり、慈愛即施報などは人道にすら悖る甘やかしにしかならない上に、
報償が極度に偏るせいでの、社会規模での破滅を招く元凶にすらなってしまうのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・大伝第十六より)
一に曰く、親を治む。二に曰く、功に報ゆ。三に曰く、賢を挙ぐる。
四に曰く、能を使う。五に曰く、愛を存す。五つの者一ら天下に得れば、
民に足らざる無く、贍らざる者無し。五つの者一物でも紕繆すれば、
民其の死を得るなし。聖人南面して天下を治むること、必ず人道より始む」
「聖人が南面(するような君子階級と)して天下を治める場合に、必ず以下の五つのことを重んずる。
ただし民間人の場合はそうではない。第一に、近親の間柄をよく整える。第二に、功を挙げた者に
対しては必ず報償を施す。第三に、賢明な人間を惜しむことなく取り立てる。第四に、有能な者を
適切に使役する。第五に、万民への慈愛を欠かさないようにする。この五つの綱目を欠かすことなく
実行できたならば、万民の内にも生活上の不足や困窮に見舞われる者が一人もいなくなる。逆に、
このうちの一つでも欠けていたならば、民たちもろくな死に方すらできないようになる。そのため、
聖人が南面して天下を治める場合には、上記のような人道を固く守り通すことから始めるようにする。
(慈愛をかけた相手への施報を徹底することなどではなく、功労を挙げた者への相応な施報に務める
ことでこそ、万民が困窮に見舞われたりしないで済むようになる。礼記・郊特牲第十一には、鼠を
捕らえる猫や、猪を捕らえる虎にまで報償のエサをやる慣習が記録されているが、それでこそ
真っ当な人道たり得るのであり、慈愛即施報などは人道にすら悖る甘やかしにしかならない上に、
報償が極度に偏るせいでの、社会規模での破滅を招く元凶にすらなってしまうのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・大伝第十六より)
「一に曰く、親を治む。二に曰く、功に報ゆ。三に曰く、
賢を挙ぐる。四に曰く、能を使う。五に曰く、愛を存す。」
万民を愛するからといって、民に直接恵みを施すことばかりに終始していたなら、人々も、
来世での昇天ばかりを願わざるを得ない程もの、現世での破滅まみれと化してしまうんだ。
鄭の子産が冬場にとある寒川を徒歩渡っている人々を見て哀れに思い、立派な橋を
架けてやったというが、同様な苦しみに駆られている人間は天下中にいたに違いない中で、
一国の政権すらをも担う宰相が、一つの架橋ばかりに執心していたのでは、全国の統治のほうが
ままならなくなる。だから孟子も「橋を架けるにしたって簡素なものに止め、徐々に立派なもの
にして行くべきだった」などの代替策を離婁章句下・二であえて提示していたりするのである。
(そうした場合のほうが、近視眼的な評価をしたがる人間からの評価は低かっただろうが)
子産や項羽やエホバやキリストの如き「婦人の仁」が。天下万民にとっての救いたり得ない理由も、
上の人道上の徳目にこそ集約されている。万民を救うためにこそ、むしろ賢者や能者の適切な使役や
それに応じた施報を務めねばならないにも関わらず、婦人の仁の持ち主たるや、自分が個人的に
目をかけたような相手に対する施報ばかりに終始する。それでどうして世界を救うことなどが
できようか。むしろ、世界を破滅に陥れる元凶にばかりなってしまうに違いないではないか。
賢を挙ぐる。四に曰く、能を使う。五に曰く、愛を存す。」
万民を愛するからといって、民に直接恵みを施すことばかりに終始していたなら、人々も、
来世での昇天ばかりを願わざるを得ない程もの、現世での破滅まみれと化してしまうんだ。
鄭の子産が冬場にとある寒川を徒歩渡っている人々を見て哀れに思い、立派な橋を
架けてやったというが、同様な苦しみに駆られている人間は天下中にいたに違いない中で、
一国の政権すらをも担う宰相が、一つの架橋ばかりに執心していたのでは、全国の統治のほうが
ままならなくなる。だから孟子も「橋を架けるにしたって簡素なものに止め、徐々に立派なもの
にして行くべきだった」などの代替策を離婁章句下・二であえて提示していたりするのである。
(そうした場合のほうが、近視眼的な評価をしたがる人間からの評価は低かっただろうが)
子産や項羽やエホバやキリストの如き「婦人の仁」が。天下万民にとっての救いたり得ない理由も、
上の人道上の徳目にこそ集約されている。万民を救うためにこそ、むしろ賢者や能者の適切な使役や
それに応じた施報を務めねばならないにも関わらず、婦人の仁の持ち主たるや、自分が個人的に
目をかけたような相手に対する施報ばかりに終始する。それでどうして世界を救うことなどが
できようか。むしろ、世界を破滅に陥れる元凶にばかりなってしまうに違いないではないか。
人間道徳上の基本的な優先順位として、「行い>発言>思考」というのがあるから、
社会的な厳罰に処されるべき優先順位も「行いの罪>発言の罪>思考の罪」となる。
それは、言辞には長けていても徳行が疎かであった弟子の宰我を、孔子が「朽木」や
「糞土」に喩えてまで非難していたことからも知れることである。(公冶長第五・一〇)
そのような適正な優先順位が、必賞適罰な善法の運用によってこそ守られることとなる。
善法であって、しかも寡法であればなおのことよく、逆に多法が過ぎれば、それなりに
当を得た法律群であろうとも、法律ばかりを勉強しているわけにもいかない庶民などに
対しては、賞罰の偏った徒法で支配する場合とも同様な悪影響を及ぼしてしまうものである。
「法律は、社会道徳の権力による強制である」ということをもしも念頭に置いたならば、
全ての法律は理に適うことになるし、そもそも法律などというもの自体、人々が自主的に
社会道徳を守ってすらいれば「あって余計であり、なくて別に困らない」ものとなるという
大前提までをもわきまえられるようになるから、やたらと無闇に実定法を乱発したりすること
も控えるようになるのである。しかし、上の要綱の「社会道徳の」という部分を抜き去って、
「法律は権力による強制である」という風にしか考えなかったならば、上のようなわきまえも全く
の疎かとなって、賞罰の偏った雑多な徒法での恣意的な支配までをも講じるようになってしまう。
「行いの罪>発言の罪>思考の罪」という処罰順位を逸してしまっているような法律もまた、
法律が社会道徳の権力による強制であることなどを、完全に逸脱してしまったところで適当
に捏造された徒法であるといえ、そのような法律が存在することが却って、人々の人間道徳
へのわきまえを損なわしめて、ろくでなしな人間を量産する元凶とすらなってしまうのである。
社会的な厳罰に処されるべき優先順位も「行いの罪>発言の罪>思考の罪」となる。
それは、言辞には長けていても徳行が疎かであった弟子の宰我を、孔子が「朽木」や
「糞土」に喩えてまで非難していたことからも知れることである。(公冶長第五・一〇)
そのような適正な優先順位が、必賞適罰な善法の運用によってこそ守られることとなる。
善法であって、しかも寡法であればなおのことよく、逆に多法が過ぎれば、それなりに
当を得た法律群であろうとも、法律ばかりを勉強しているわけにもいかない庶民などに
対しては、賞罰の偏った徒法で支配する場合とも同様な悪影響を及ぼしてしまうものである。
「法律は、社会道徳の権力による強制である」ということをもしも念頭に置いたならば、
全ての法律は理に適うことになるし、そもそも法律などというもの自体、人々が自主的に
社会道徳を守ってすらいれば「あって余計であり、なくて別に困らない」ものとなるという
大前提までをもわきまえられるようになるから、やたらと無闇に実定法を乱発したりすること
も控えるようになるのである。しかし、上の要綱の「社会道徳の」という部分を抜き去って、
「法律は権力による強制である」という風にしか考えなかったならば、上のようなわきまえも全く
の疎かとなって、賞罰の偏った雑多な徒法での恣意的な支配までをも講じるようになってしまう。
「行いの罪>発言の罪>思考の罪」という処罰順位を逸してしまっているような法律もまた、
法律が社会道徳の権力による強制であることなどを、完全に逸脱してしまったところで適当
に捏造された徒法であるといえ、そのような法律が存在することが却って、人々の人間道徳
へのわきまえを損なわしめて、ろくでなしな人間を量産する元凶とすらなってしまうのである。
人間道徳が、人々の福利厚生や社会の治安維持に貢献するのは自明なことであり、そこに
何らの神秘的な要素も伴ってはいない。己れの欲せざる所を人に施すことがないように
誰しもが心がけたなら、犯罪が予防されて行くのも当たり前のことであり、誰しもがその
ような根本的な徳目をよく重んじられていたならば、わざわざ刑法を厳重化したりする
までもなく世の中の治安が保たれて行くようになるのも、ごく当たり前のことだといえる。
だからこそ、世の中を権力で強制的に支配するための法規などが、人間道徳を損なわ
しめるような要素を含んでしまうにようなことが極力無いようにしなければならないし、
人間道徳に反しているにも関わらず人々に強制する徒法を正当化するような、邪まな法源を
カルト教義によってでっち上げたりすることもないようにしなければならないといえる。
心の修養から、言行を正して行くことを本義としている正統な仏門でも、その戒律は基本的な
人間道徳を守りぬいたものとなっていて、さらにそこに厳格な思考や言行の統制を上乗せする
ことを本分としたものとなっている。妻帯や家督相続を絶ってまでの戒律厳守や精進修行に励む
出家者なども、その有り方が在家信者にとっての模範となるべくしてそうあるものなのだから、
家系を重んずる社会道徳を補佐するものでこそあれ、決して損なうものなどではないといえる。
社会道徳から逸脱した多法偏罰の恣意治によって、世の中を法律などないほうがマシなほど
もの荒廃に追いやってしまう動機としては、徒法を「神からの啓示」として崇め立てるカルト
への狂信もあれば、「法律は法律だから権威がある」というドグマ志向に陥った無宗教的な
法治絶対主義への傾倒である場合もある。また、ただただセルフネグレクトによってゴミ屋敷
を形成して行くようにして徒法を山積してしまう場合もあるが、いずれにしろ、法治支配に
よって人々への生殺与奪の絶対的な権限を掌握したことによる、「権力の魔性」への心酔に
何らの神秘的な要素も伴ってはいない。己れの欲せざる所を人に施すことがないように
誰しもが心がけたなら、犯罪が予防されて行くのも当たり前のことであり、誰しもがその
ような根本的な徳目をよく重んじられていたならば、わざわざ刑法を厳重化したりする
までもなく世の中の治安が保たれて行くようになるのも、ごく当たり前のことだといえる。
だからこそ、世の中を権力で強制的に支配するための法規などが、人間道徳を損なわ
しめるような要素を含んでしまうにようなことが極力無いようにしなければならないし、
人間道徳に反しているにも関わらず人々に強制する徒法を正当化するような、邪まな法源を
カルト教義によってでっち上げたりすることもないようにしなければならないといえる。
心の修養から、言行を正して行くことを本義としている正統な仏門でも、その戒律は基本的な
人間道徳を守りぬいたものとなっていて、さらにそこに厳格な思考や言行の統制を上乗せする
ことを本分としたものとなっている。妻帯や家督相続を絶ってまでの戒律厳守や精進修行に励む
出家者なども、その有り方が在家信者にとっての模範となるべくしてそうあるものなのだから、
家系を重んずる社会道徳を補佐するものでこそあれ、決して損なうものなどではないといえる。
社会道徳から逸脱した多法偏罰の恣意治によって、世の中を法律などないほうがマシなほど
もの荒廃に追いやってしまう動機としては、徒法を「神からの啓示」として崇め立てるカルト
への狂信もあれば、「法律は法律だから権威がある」というドグマ志向に陥った無宗教的な
法治絶対主義への傾倒である場合もある。また、ただただセルフネグレクトによってゴミ屋敷
を形成して行くようにして徒法を山積してしまう場合もあるが、いずれにしろ、法治支配に
よって人々への生殺与奪の絶対的な権限を掌握したことによる、「権力の魔性」への心酔に
本人たちが陥ってしまっている点では共通している。それは、「権力も濫用すれば有害無益で
不浄なものとなってしまう」という儒家的、道家的な徳目へのわきまえが本人たちに決定的に
欠けているからで、これまた人間道徳への致命的なわきまえの無さが、徒法支配による
世の中の荒廃を招く元凶となってしまうことを証明する材料の一つとなっている。
普遍道徳へのわきまえを決定的に欠いた者たちが、多法偏罰による人々への恣意治を試みて、
「行いの罪>発言の罪>思考の罪」ていどの基本的な徳目にも反するような徒法で世の中を
引っ掻き回した結果、普遍道徳をわきまえないならず者がさらに増殖して行くような破目に陥る。
そのような悪循環を招かないためには、基本的な人間道徳すらわまきえられないような小人
には決して大権を握らせないようにして行くと共に、四書五経にあるような基本的な普遍道徳
ぐらいは誰しもにわきまえさせるための道徳教育を推進して行く必要があるといえる。
(もちろん、多法偏罰による恣意治を正当化するようなカルトの絶滅も必須である)
道徳教育の徹底ぐらいは、完全な自給自足でさほど物質的に豊かでもなかった江戸時代の日本
でですら、相当なまでに行き届いていたものである。やたらと成文法を公布して行く法治支配
などよりも、基本的な道徳規範を人々にわきまえさせることで不正行為を控えさせて行く徳治
のほうが、コストパフォーマンスの面でも遥かに優れているものだから、法治主義でもある
資本主義国による富の寡占が原因での世界規模の困窮が致命的な問題と化してしまっている現代
の地球社会においても、道徳教育による統治こそがコスト面からの最善策となるにも違いない。
「子曰く、之れを語りて惰らざる者は、其れ回なるか」
「先生は言われた。『立派な言葉を述べたとしても、それを怠ることなく実行に移せるのは、
まあ顔回ぐらいのものだ』(顔回は徳行が謹厳過ぎて夭折した孔子第一の高弟。徳行に
優れていたからこそ、言辞は見事でも実践の疎かだった宰我など以上に孔子は評価した)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二〇)
不浄なものとなってしまう」という儒家的、道家的な徳目へのわきまえが本人たちに決定的に
欠けているからで、これまた人間道徳への致命的なわきまえの無さが、徒法支配による
世の中の荒廃を招く元凶となってしまうことを証明する材料の一つとなっている。
普遍道徳へのわきまえを決定的に欠いた者たちが、多法偏罰による人々への恣意治を試みて、
「行いの罪>発言の罪>思考の罪」ていどの基本的な徳目にも反するような徒法で世の中を
引っ掻き回した結果、普遍道徳をわきまえないならず者がさらに増殖して行くような破目に陥る。
そのような悪循環を招かないためには、基本的な人間道徳すらわまきえられないような小人
には決して大権を握らせないようにして行くと共に、四書五経にあるような基本的な普遍道徳
ぐらいは誰しもにわきまえさせるための道徳教育を推進して行く必要があるといえる。
(もちろん、多法偏罰による恣意治を正当化するようなカルトの絶滅も必須である)
道徳教育の徹底ぐらいは、完全な自給自足でさほど物質的に豊かでもなかった江戸時代の日本
でですら、相当なまでに行き届いていたものである。やたらと成文法を公布して行く法治支配
などよりも、基本的な道徳規範を人々にわきまえさせることで不正行為を控えさせて行く徳治
のほうが、コストパフォーマンスの面でも遥かに優れているものだから、法治主義でもある
資本主義国による富の寡占が原因での世界規模の困窮が致命的な問題と化してしまっている現代
の地球社会においても、道徳教育による統治こそがコスト面からの最善策となるにも違いない。
「子曰く、之れを語りて惰らざる者は、其れ回なるか」
「先生は言われた。『立派な言葉を述べたとしても、それを怠ることなく実行に移せるのは、
まあ顔回ぐらいのものだ』(顔回は徳行が謹厳過ぎて夭折した孔子第一の高弟。徳行に
優れていたからこそ、言辞は見事でも実践の疎かだった宰我など以上に孔子は評価した)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二〇)
「菩薩摩訶薩は〜一切の法に作者有ること無きを知る」
(「華厳経」十回向品第二十五の三より)
特定の権威ある作者を持つが故に、法が権威を帯びるなどということはまやかしである。
実定法といえども、社会の治安や福利を司る場合には普遍道理の単なる反映となり、
そうでない場合には道理への違背の反映となるのみである。そして道理のほうはといえば、
「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」のように、ただの自明な倫理法則に過ぎない
わけだから、その根源まで遡った時に、なおのことそこに原作者がいるなどという
ことはあり得ないことが、道理についても法律についても言うことができるのである。
道理が全くの自明な倫理法則に根ざしたものであることが、上記の同態加害忌避を含む
基本的な人間道徳を把捉している儒学においてこそ顕著に示されているものだから、
儒学こそはあらゆる教学の基本中の基本とするにも相応しい一方で、よっぽど旺盛な
仁徳への志しが自分自身に備わっているのでもない限りは、儒学道徳などを権威的な
ものとして取り扱ったりすることには、危うさが伴うことともなってしまうのである。
儒学に国教として程もの権威を付与した中国や朝鮮といえども、科挙試験制のような
制度を通じて無理に権威を付与し続けたものだから、人々の儒学道徳への信奉意識は
かえって損なわれた。高級官僚としての栄華に与るために必要となるのが儒学の素養と
いうことになってしまったものだから、人々の儒学への志しも利欲とのみそくそ状態と
化してしまい、その内容への理解やそれに基づく修養なども疎かにされることとなった。
科挙制の導入などではなく、印中以上に手厚い仏法の流布を講じた日本こそは、儒学道徳
をごく自然な形で人々に体得させることにも成功した。儒学自体にそこまで多大な権威を
付与したりはせず、世襲で大半の役職が占められている朝廷や幕府での部分的な官僚登用
のための試験科目にされるなどに止まった。一方で、仏門での出家に対する権威の付与は
厳重なものとされ、旺盛な実践を伴う寺での勉学こそは、今の大学並みかそれ以上もの
(「華厳経」十回向品第二十五の三より)
特定の権威ある作者を持つが故に、法が権威を帯びるなどということはまやかしである。
実定法といえども、社会の治安や福利を司る場合には普遍道理の単なる反映となり、
そうでない場合には道理への違背の反映となるのみである。そして道理のほうはといえば、
「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」のように、ただの自明な倫理法則に過ぎない
わけだから、その根源まで遡った時に、なおのことそこに原作者がいるなどという
ことはあり得ないことが、道理についても法律についても言うことができるのである。
道理が全くの自明な倫理法則に根ざしたものであることが、上記の同態加害忌避を含む
基本的な人間道徳を把捉している儒学においてこそ顕著に示されているものだから、
儒学こそはあらゆる教学の基本中の基本とするにも相応しい一方で、よっぽど旺盛な
仁徳への志しが自分自身に備わっているのでもない限りは、儒学道徳などを権威的な
ものとして取り扱ったりすることには、危うさが伴うことともなってしまうのである。
儒学に国教として程もの権威を付与した中国や朝鮮といえども、科挙試験制のような
制度を通じて無理に権威を付与し続けたものだから、人々の儒学道徳への信奉意識は
かえって損なわれた。高級官僚としての栄華に与るために必要となるのが儒学の素養と
いうことになってしまったものだから、人々の儒学への志しも利欲とのみそくそ状態と
化してしまい、その内容への理解やそれに基づく修養なども疎かにされることとなった。
科挙制の導入などではなく、印中以上に手厚い仏法の流布を講じた日本こそは、儒学道徳
をごく自然な形で人々に体得させることにも成功した。儒学自体にそこまで多大な権威を
付与したりはせず、世襲で大半の役職が占められている朝廷や幕府での部分的な官僚登用
のための試験科目にされるなどに止まった。一方で、仏門での出家に対する権威の付与は
厳重なものとされ、旺盛な実践を伴う寺での勉学こそは、今の大学並みかそれ以上もの
権威性を持つものとされた。そしてそうであることこそが、儒学の自然かつ純良な受容
にも結び付いた。上の「華厳経」からの引用でも分かるとおり、仏教もまた真理たる「正法」
の探求に務めながら、正法を含む一切の理法に権威的な原作者などは存在しないという自明性
をも認めているものだから、その仏法の厳粛な受容に務めた結果として、自明な儒学道徳への
素養も身に付き、それが在家の信者たちにまで精神面から反映されることとなったのである。
孔子の時代にも顔回のように、儒学の厳重な実践に務め過ぎたせいで夭折した弟も子がいた。
平易な人間道徳を司る儒学といえども、厳重な実践をこなし続けようと思えば、そこでは出家
修行並みの厳しさを伴うことが当時から知れていたのである。とはいえ、儒学こそを最高権威
たらしめんとした中朝などでは、儒学の教条の平易さばかりにたぶらかされて、適当な実践に
止まる者が大半を占めたために、儒学享受そのものを陳腐化させてしまう事態を招いたのだった。
日本人は、儒学の受容にも務める一方で、儒学以上にもあからさまな厳格修行を伴う仏教こそを
本格的な実践対象ともしたものだから、儒学ばかりを実践対象とする場合のような中だるみを
生じさせたりすることもなく、儒学の受容を最適なものとし続けて行くことができたのである。
上記のような形で、日本が中朝以上に儒学の受容に成功したのも、「一切の法に原作者なし」
という絶対真理を司る仏法への崇敬を通じて、自明な儒学道徳をもそれなりに尊んで行く
ことができたからである。神から頂いたものでもなければ、科挙のような権威ある人間が
司っているものだからでもなく、原作者なき仏法を真諦とする場合の、原作者なき俗諦こそは
儒法であるとしたから、誰しもがそれを尊重の対象として行くことができ、儒学道徳への尊重も
また過不足のない適度なものとなって、ごく自然体な儒法の体得を誰しもが成し得たのである。
にも結び付いた。上の「華厳経」からの引用でも分かるとおり、仏教もまた真理たる「正法」
の探求に務めながら、正法を含む一切の理法に権威的な原作者などは存在しないという自明性
をも認めているものだから、その仏法の厳粛な受容に務めた結果として、自明な儒学道徳への
素養も身に付き、それが在家の信者たちにまで精神面から反映されることとなったのである。
孔子の時代にも顔回のように、儒学の厳重な実践に務め過ぎたせいで夭折した弟も子がいた。
平易な人間道徳を司る儒学といえども、厳重な実践をこなし続けようと思えば、そこでは出家
修行並みの厳しさを伴うことが当時から知れていたのである。とはいえ、儒学こそを最高権威
たらしめんとした中朝などでは、儒学の教条の平易さばかりにたぶらかされて、適当な実践に
止まる者が大半を占めたために、儒学享受そのものを陳腐化させてしまう事態を招いたのだった。
日本人は、儒学の受容にも務める一方で、儒学以上にもあからさまな厳格修行を伴う仏教こそを
本格的な実践対象ともしたものだから、儒学ばかりを実践対象とする場合のような中だるみを
生じさせたりすることもなく、儒学の受容を最適なものとし続けて行くことができたのである。
上記のような形で、日本が中朝以上に儒学の受容に成功したのも、「一切の法に原作者なし」
という絶対真理を司る仏法への崇敬を通じて、自明な儒学道徳をもそれなりに尊んで行く
ことができたからである。神から頂いたものでもなければ、科挙のような権威ある人間が
司っているものだからでもなく、原作者なき仏法を真諦とする場合の、原作者なき俗諦こそは
儒法であるとしたから、誰しもがそれを尊重の対象として行くことができ、儒学道徳への尊重も
また過不足のない適度なものとなって、ごく自然体な儒法の体得を誰しもが成し得たのである。
「一切の法に原作者なし」となれば、律法を司る絶対神への心酔を帯びた信仰などをよしと
するわけにもいかなくなる。それは、絶対神への信仰状態こそを平静な状態だなどと思い込んで
いる人間からすれば、ひどく拒絶感を催させられる事態ともなるに違いないわけだが、原作者なき
理法であっても仏法は崇敬の対象とできるし、仏法への崇敬を下位互換的に反映させる形であれば、
儒法への尊重もまた適切たり得る。以って、自明な人間道徳の自然体な体得もまた実現されて、
実定法で雁字搦めにしたりせずとも安寧と繁栄の保たれた世の中が実現されることとなるのである。
「天子は〜典礼に命じて時月を考え、日を定め、律礼楽制度衣服を同じくして之れを正す。
山川の神只を挙げざる者有れば不敬と為し、不敬なる者は、君削るに地を以ってす。宗廟に
不順有る者は不孝と為し、不孝なる者は君絀るに爵を以ってす。礼を変え楽を易る者は不従と
為し、不従なる者は君これを流す。制度衣服を革むる者は畔と為し、畔なる者は君これを討つ」
「天子は典礼(官名)に命じて実施する月日時を勘案指定させた上で、律・礼楽・制度・衣服
の是正を諸侯に命ずる山川での神祇祭祀を疎かにする者があればこれを不敬とし、不敬を働いた
諸侯には領土の削減による制裁措置を執る。先祖を祀る宗廟に敬う順序の取り違えがあった時には
これを不孝とし、不孝なる者には爵位の剥奪による制裁措置を執る。礼楽を身勝手に改変する者は
これを不従とし、不従なる者には流刑による制裁措置を執る。制度や衣服すらをも勝手に変えて
しまう者はこれを畔(そむく)」となし、畔なる者には討伐による制裁措置を執る。(律法が忠実
に実践されて行くことによる天下の平定の具体的な描写。獄中の政商犯が捏造した空想上の律法など
と違って自明な具体性が伴っているために、無闇に蔑ろにしていいようなことがあるはずもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
するわけにもいかなくなる。それは、絶対神への信仰状態こそを平静な状態だなどと思い込んで
いる人間からすれば、ひどく拒絶感を催させられる事態ともなるに違いないわけだが、原作者なき
理法であっても仏法は崇敬の対象とできるし、仏法への崇敬を下位互換的に反映させる形であれば、
儒法への尊重もまた適切たり得る。以って、自明な人間道徳の自然体な体得もまた実現されて、
実定法で雁字搦めにしたりせずとも安寧と繁栄の保たれた世の中が実現されることとなるのである。
「天子は〜典礼に命じて時月を考え、日を定め、律礼楽制度衣服を同じくして之れを正す。
山川の神只を挙げざる者有れば不敬と為し、不敬なる者は、君削るに地を以ってす。宗廟に
不順有る者は不孝と為し、不孝なる者は君絀るに爵を以ってす。礼を変え楽を易る者は不従と
為し、不従なる者は君これを流す。制度衣服を革むる者は畔と為し、畔なる者は君これを討つ」
「天子は典礼(官名)に命じて実施する月日時を勘案指定させた上で、律・礼楽・制度・衣服
の是正を諸侯に命ずる山川での神祇祭祀を疎かにする者があればこれを不敬とし、不敬を働いた
諸侯には領土の削減による制裁措置を執る。先祖を祀る宗廟に敬う順序の取り違えがあった時には
これを不孝とし、不孝なる者には爵位の剥奪による制裁措置を執る。礼楽を身勝手に改変する者は
これを不従とし、不従なる者には流刑による制裁措置を執る。制度や衣服すらをも勝手に変えて
しまう者はこれを畔(そむく)」となし、畔なる者には討伐による制裁措置を執る。(律法が忠実
に実践されて行くことによる天下の平定の具体的な描写。獄中の政商犯が捏造した空想上の律法など
と違って自明な具体性が伴っているために、無闇に蔑ろにしていいようなことがあるはずもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
あはは(*゜▽゜)_□
[YouTubeで再生]
式年遷宮は、戦国時代に120年に渡って中断されている。
その間に実物の資料も多数損なって、今の遷宮は古文書
などの文献資料を頼りに復刻されている点が多々ある。
その内の、有職故実関係の資料の中に「藍染」という
記録が多数残っている。その記録を元に今の宮司たちも、
剣道着や香取新当流の道着や警察の制服などと同じ
青黒い被服を用いていたりするようだけれども。

その間に実物の資料も多数損なって、今の遷宮は古文書
などの文献資料を頼りに復刻されている点が多々ある。
その内の、有職故実関係の資料の中に「藍染」という
記録が多数残っている。その記録を元に今の宮司たちも、
剣道着や香取新当流の道着や警察の制服などと同じ
青黒い被服を用いていたりするようだけれども。
自らの罪悪に着実な良心の呵責を抱けることを、普通人は「心が清い」と表現するし、また「真心がある」とも表現する。
人間道徳や真っ当な信教が通用しているような世の中ではそれが一般的な通念ともなるから、それに反するような不埒な
思考規範や言行規範を信者に強要するようなカルトに対しても、汚物や反社会勢力に対する並みの拒絶意識が働くのである。
日本でキリスト教信仰がどうしたって広まらないのも、そういった理由に即している。
別に、明治のキリスト教解禁以降の日本人が、あからさまにキリスト信仰を否としたりしているわけでもないし、
西洋的な文化習俗としてのキリスト教文化までをも完全拒絶していたりするわけでもないのだが(クリスマスや
教会式結婚式やクロスアクセなど、単なる文化として日本人が受け入れているキリスト教文化なら枚挙に暇がない)、
ことに、キリストを信仰して思考規範や言行規範から征服されるとなれば、本能から徹底的な拒絶意識を抱く日本人が
大半となっている。それも、日本人に深く深く根差している、常識的な意味に即した浄心への尊重があるからであり、
それと逆の浄心の定義や、罪穢れを是とする偽りの浄心への陥りをどうしたって受け入れることができないのである。
罪穢れを着実に忌み嫌う志向性と、罪穢れをアリとした上でそこから目を背けて行く志向性とは、人がその一生をかけて
邁進し続けて行けるものですらある。成人に達する頃までの親や教師からの教育で、罪穢れを忌み嫌う志向性を十分に
植え付けられていたならば、よっぽどひどい洗脳措置を被りでもしない限りは、一生その志向性を保ったままでいられる。
年齢が40も過ぎればそれも磐石となって、罪穢れを好き好むような濁悪を決して受け付けないようにもなれるわけだが、
それは逆に、罪穢れを好き好んだ上で「臭い物に蓋」をするような志向性にかけても言えることである。生まれた頃から
ずっとそのような濁悪志向のままでい続けてきた老人ともなれば、もはや立ち直りも不可能であり、せいぜいそのせい
での人様への迷惑を最小限に控えるための隔離措置なり何なりを被るぐらいしか手立てがなくなってしまうのである。
人間道徳や真っ当な信教が通用しているような世の中ではそれが一般的な通念ともなるから、それに反するような不埒な
思考規範や言行規範を信者に強要するようなカルトに対しても、汚物や反社会勢力に対する並みの拒絶意識が働くのである。
日本でキリスト教信仰がどうしたって広まらないのも、そういった理由に即している。
別に、明治のキリスト教解禁以降の日本人が、あからさまにキリスト信仰を否としたりしているわけでもないし、
西洋的な文化習俗としてのキリスト教文化までをも完全拒絶していたりするわけでもないのだが(クリスマスや
教会式結婚式やクロスアクセなど、単なる文化として日本人が受け入れているキリスト教文化なら枚挙に暇がない)、
ことに、キリストを信仰して思考規範や言行規範から征服されるとなれば、本能から徹底的な拒絶意識を抱く日本人が
大半となっている。それも、日本人に深く深く根差している、常識的な意味に即した浄心への尊重があるからであり、
それと逆の浄心の定義や、罪穢れを是とする偽りの浄心への陥りをどうしたって受け入れることができないのである。
罪穢れを着実に忌み嫌う志向性と、罪穢れをアリとした上でそこから目を背けて行く志向性とは、人がその一生をかけて
邁進し続けて行けるものですらある。成人に達する頃までの親や教師からの教育で、罪穢れを忌み嫌う志向性を十分に
植え付けられていたならば、よっぽどひどい洗脳措置を被りでもしない限りは、一生その志向性を保ったままでいられる。
年齢が40も過ぎればそれも磐石となって、罪穢れを好き好むような濁悪を決して受け付けないようにもなれるわけだが、
それは逆に、罪穢れを好き好んだ上で「臭い物に蓋」をするような志向性にかけても言えることである。生まれた頃から
ずっとそのような濁悪志向のままでい続けてきた老人ともなれば、もはや立ち直りも不可能であり、せいぜいそのせい
での人様への迷惑を最小限に控えるための隔離措置なり何なりを被るぐらいしか手立てがなくなってしまうのである。
人間の性格は20〜25歳ごろまでに確立し、40歳ごろに不惑なものとなるものだから、学生期間に相当する
20代前半の頃までにまともな浄心を確立する教育を受けさせるようにすべきであるし、壮年期たる40代頃までにも、
清浄な性格の持ち主の働きこそが報われるような社会情勢であるべきである。今はといえば、中高ごろまでは学生の
人格形成を尊ぶような規律の徹底が多少は見受けられるが、大学に入った途端に何らの規律も持たない自由人状態へと
持って行かれる。社会人になればもはや貪欲さばかりが求められて、汚濁を忌むがための消極さなども非とされるように
なってしまうのが常と化してしまって居り、全く以って人間という生き物の品性が本格的に尊ばれない情勢となっている。
それでも日本人などはまだ、成人後にもそれなりに人としての品性を重んじようとする傾向があるわけだが、これは
江戸時代までの徹底的な人格尊重や、明治以降にも多少は存続した徳育などを源流とする「昔取った杵柄」に他ならない。
今みたいな、人格尊重などついでのついでぐらいにしか嗜まれていない社会情勢がいつまでも続いたならば、じきに
そのような風潮も立ち消えとなって、諸外国並みの禽獣同然な衆生の集まりへと日本社会が変貌してしまうに違いない。
仮に、世の中が完全に罪穢れの汚濁を好き好むような状態と化してしまった場合に、そこから立ち直るために必要と
なる最短期間がおよそ20年。濁世を司っている40〜60代の人間が完全に世の一線を立ち去り、急激な矯正
措置を被った20〜40代の人間が、社会のトップとなるために必要となる20年という期間。この期間中はもう、
楚漢戦争や関ヶ原・大坂の陣級の大波乱すらもが避けて通れないことになる。もはや矯正が不可能な精神荒廃状態
であるにも関わらず、世の中のトップを司ってしまっている初老以上の権力者を強制的な排除の対象としていく訳
だから、長幼の序すらもが必ずしも守られるとは限らない。その波乱の中で、矯正措置を講ずる側から調子に
乗った人間が項羽のような乱世最大級の寵児と化してしまかねないようなこともあるから、20年後の治世の
確立を見越した着実な事務を果たせる人間こそが、世相の大転換の舵を切っていくようにしなければならない。
20代前半の頃までにまともな浄心を確立する教育を受けさせるようにすべきであるし、壮年期たる40代頃までにも、
清浄な性格の持ち主の働きこそが報われるような社会情勢であるべきである。今はといえば、中高ごろまでは学生の
人格形成を尊ぶような規律の徹底が多少は見受けられるが、大学に入った途端に何らの規律も持たない自由人状態へと
持って行かれる。社会人になればもはや貪欲さばかりが求められて、汚濁を忌むがための消極さなども非とされるように
なってしまうのが常と化してしまって居り、全く以って人間という生き物の品性が本格的に尊ばれない情勢となっている。
それでも日本人などはまだ、成人後にもそれなりに人としての品性を重んじようとする傾向があるわけだが、これは
江戸時代までの徹底的な人格尊重や、明治以降にも多少は存続した徳育などを源流とする「昔取った杵柄」に他ならない。
今みたいな、人格尊重などついでのついでぐらいにしか嗜まれていない社会情勢がいつまでも続いたならば、じきに
そのような風潮も立ち消えとなって、諸外国並みの禽獣同然な衆生の集まりへと日本社会が変貌してしまうに違いない。
仮に、世の中が完全に罪穢れの汚濁を好き好むような状態と化してしまった場合に、そこから立ち直るために必要と
なる最短期間がおよそ20年。濁世を司っている40〜60代の人間が完全に世の一線を立ち去り、急激な矯正
措置を被った20〜40代の人間が、社会のトップとなるために必要となる20年という期間。この期間中はもう、
楚漢戦争や関ヶ原・大坂の陣級の大波乱すらもが避けて通れないことになる。もはや矯正が不可能な精神荒廃状態
であるにも関わらず、世の中のトップを司ってしまっている初老以上の権力者を強制的な排除の対象としていく訳
だから、長幼の序すらもが必ずしも守られるとは限らない。その波乱の中で、矯正措置を講ずる側から調子に
乗った人間が項羽のような乱世最大級の寵児と化してしまかねないようなこともあるから、20年後の治世の
確立を見越した着実な事務を果たせる人間こそが、世相の大転換の舵を切っていくようにしなければならない。
「原隰は既に平らぎ、泉流も既に清し。召伯の成す有りて、王心則ち寧し」
「高原から低湿地に到るまですでに治水によって平定され、泉や川の流れも清らかに澄んでいる。
召伯のかような功績によって、周王の心もまた安んぜられた。(責任ある王侯は、国土が平定されて
清められることでこそ、わが心までもが安んぜられる。無責任な小人などとは全く違う所だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・黍苗より)
「高原から低湿地に到るまですでに治水によって平定され、泉や川の流れも清らかに澄んでいる。
召伯のかような功績によって、周王の心もまた安んぜられた。(責任ある王侯は、国土が平定されて
清められることでこそ、わが心までもが安んぜられる。無責任な小人などとは全く違う所だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・黍苗より)
40歳過ぎると矯正不可能な感じはする。省みるエネルギー・・・というより心の働きが
無くなる気がするネエ。
無くなる気がするネエ。
蒙古襲来に際して、幕府執権の北条時宗が禅僧の無学祖元に助言を請うた所、
「ただ驀直前進あるのみ」という答えが返って来た。それに習って、沿岸に停泊
している蒙古船団への夜襲すらをも決行した結果、幕府は蒙古軍の撃退に成功した。
一方で、その鎌倉幕府のあり方を真似て、東アジア中へと戦線を拡大して行った
旧日本軍たるや、兵站の不足で疲弊した結果、無様な敗北を喫することとなった。
片や日本国内での防衛戦であった一方、片や外地へと躍り出ての覇権争いであった。
本質的に前進的であるのはむしろ後者の旧日本軍のほうであり、その前進絶対主義
こそが決定的な敗因ともなった。鎌倉幕府の場合は、むしろ消極的な本土防衛に徹
する中で、その防衛戦こそを「驀直前進」の心持ちでやりこなすということだった
からこそ、戦い方に中正さが備わった結果、蒙古を撃退することができたのである。
全体的な姿勢が後退状態であるようなら、驀直前進の心持ちであるべきである一方、
全体姿勢すらもが前進状態であるようなら、兵站を重んずるような保守的な心持ち
であるべきである。それが戦術的にも有効である上、中庸の徳にも適った策となる。
本土防衛という蒙古襲来時の幕府の職務と、「驀直前進」という理念の両方とを
考慮することで初めて、当時の幕府軍のあり方が中庸に適ったものであったこと
までもが分かる。それが分かる人間もまた、物事を多面的に考慮する中庸の徳を
備えていると言える。戦前の大日本帝国などにはそれが欠けていたものだから、
当時の幕府の「驀直前進」という理念の部分だけを借りとって、覇権主義の
拡大などのために猿真似することとなった。そのような結果的な選択のみならず、
物事を多面的に見据えられる中正さの欠如という根本的な問題があったわけだから、
大日本帝国が悲劇的な末路を辿ったことも、教育上の理に適ったことだったと言える。
「ただ驀直前進あるのみ」という答えが返って来た。それに習って、沿岸に停泊
している蒙古船団への夜襲すらをも決行した結果、幕府は蒙古軍の撃退に成功した。
一方で、その鎌倉幕府のあり方を真似て、東アジア中へと戦線を拡大して行った
旧日本軍たるや、兵站の不足で疲弊した結果、無様な敗北を喫することとなった。
片や日本国内での防衛戦であった一方、片や外地へと躍り出ての覇権争いであった。
本質的に前進的であるのはむしろ後者の旧日本軍のほうであり、その前進絶対主義
こそが決定的な敗因ともなった。鎌倉幕府の場合は、むしろ消極的な本土防衛に徹
する中で、その防衛戦こそを「驀直前進」の心持ちでやりこなすということだった
からこそ、戦い方に中正さが備わった結果、蒙古を撃退することができたのである。
全体的な姿勢が後退状態であるようなら、驀直前進の心持ちであるべきである一方、
全体姿勢すらもが前進状態であるようなら、兵站を重んずるような保守的な心持ち
であるべきである。それが戦術的にも有効である上、中庸の徳にも適った策となる。
本土防衛という蒙古襲来時の幕府の職務と、「驀直前進」という理念の両方とを
考慮することで初めて、当時の幕府軍のあり方が中庸に適ったものであったこと
までもが分かる。それが分かる人間もまた、物事を多面的に考慮する中庸の徳を
備えていると言える。戦前の大日本帝国などにはそれが欠けていたものだから、
当時の幕府の「驀直前進」という理念の部分だけを借りとって、覇権主義の
拡大などのために猿真似することとなった。そのような結果的な選択のみならず、
物事を多面的に見据えられる中正さの欠如という根本的な問題があったわけだから、
大日本帝国が悲劇的な末路を辿ったことも、教育上の理に適ったことだったと言える。
もちろん、戦前の日本に勝利したアメリカやイギリスもまた、ただ覇権主義争い
に辛勝したというだけのことで、のべつまくなしに外界を侵略して行く性向を
持ち越していることには変わりないわけだから、大日本帝国とも同様な末路を辿る
ことでこそ道義に適うといえる。連中の場合は、過ちを積み重ねて来たキャリア
が日本の比ではなく、外地を酷烈な侵略下に置いた挙げ句に、そこで保守的な
国家社会を形成する程もの堂に入りようであったものだから、その壊滅の仕方
たるや、日本のそれ以上にすらなることが見込まれる。実際に、壮絶な崩壊を
来たすのでなければ、アメリカやイギリス連合ありきのパワーバランスのせいで
経済的環境的破綻に見舞われている今の地球社会を建て直して行く目処も立たない。
中庸の徳を欠いているものだから、戦えば負けて、勝ったとしても自滅に見舞われる。
世界史上でも最大級の軍事力や経済力が国家間で拮抗し合っている近現代の世界
においてこそ、そうであることの普遍性が如実なものと化し始めてもいる。
「中庸」というものを全く知らない文明社会などもありはしない。西洋において
ですら、古代のギリシャでアリストテレスが中庸の徳をそれなりに論じていた。
ただ、他の雑多な理念と比べて、中庸という理念こそが特筆して重んじられる
ということがなかなか無かったわけで、そうでもしないことには国家規模での
安寧や繁栄も保証されないということが、全世界規模で認知されたことなどは
未だかつて無く、もしも今からそれがわきまえられるというのなら、それこそ
は人類にとって未曾有の、歓迎すべき奇蹟となるに違いないのである。
「孔子は進むにも礼を以ってし退くにも義を以ってし、得るも得ざるも命有りと曰えり」
「孔先生は進むことにも退くことにも礼義を第一とし、それによって得られるものが
あろうともなかろうとも『天命によるものだ』として一切文句を言われなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・八より)
に辛勝したというだけのことで、のべつまくなしに外界を侵略して行く性向を
持ち越していることには変わりないわけだから、大日本帝国とも同様な末路を辿る
ことでこそ道義に適うといえる。連中の場合は、過ちを積み重ねて来たキャリア
が日本の比ではなく、外地を酷烈な侵略下に置いた挙げ句に、そこで保守的な
国家社会を形成する程もの堂に入りようであったものだから、その壊滅の仕方
たるや、日本のそれ以上にすらなることが見込まれる。実際に、壮絶な崩壊を
来たすのでなければ、アメリカやイギリス連合ありきのパワーバランスのせいで
経済的環境的破綻に見舞われている今の地球社会を建て直して行く目処も立たない。
中庸の徳を欠いているものだから、戦えば負けて、勝ったとしても自滅に見舞われる。
世界史上でも最大級の軍事力や経済力が国家間で拮抗し合っている近現代の世界
においてこそ、そうであることの普遍性が如実なものと化し始めてもいる。
「中庸」というものを全く知らない文明社会などもありはしない。西洋において
ですら、古代のギリシャでアリストテレスが中庸の徳をそれなりに論じていた。
ただ、他の雑多な理念と比べて、中庸という理念こそが特筆して重んじられる
ということがなかなか無かったわけで、そうでもしないことには国家規模での
安寧や繁栄も保証されないということが、全世界規模で認知されたことなどは
未だかつて無く、もしも今からそれがわきまえられるというのなら、それこそ
は人類にとって未曾有の、歓迎すべき奇蹟となるに違いないのである。
「孔子は進むにも礼を以ってし退くにも義を以ってし、得るも得ざるも命有りと曰えり」
「孔先生は進むことにも退くことにも礼義を第一とし、それによって得られるものが
あろうともなかろうとも『天命によるものだ』として一切文句を言われなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・八より)

そこに希望の実現のための着実な見通しや努力が伴っていれば、かえって精神力を高める機縁にすらなるが、
希望自体が全く以て実現不能なものだったり、実現可能であってもそのための手管を全く尽くそうとすら
しないでいるのならば、人はそのせいでかえって精神を薄弱化させてしまうこととなるのである。
ただそれだけで、サイコパスのような人畜有害な性向すらをも共に帯びるとは限らないが、人並み以上
の精神薄弱のせいで、廃人や半廃人然とした度しがたい性格を帯びてしまうことになるのは違いない。
ただ、真性の知能障害でもない限りは、自分がそのような性格であることが社会的に問題視されかねない
のをも察するから、体面だけでもそれなりの人格形成度であるかのように装う修辞を凝らそうとする。
その手の修辞を長年に渡って研鑽して来ているものだから、非現実信仰のせいで万年精神薄弱状態で
いる欧米のキリスト教徒の修辞こそは、異教徒のそれと比べても突出して美々しいものとなっている。
そのような、内面の精神薄弱を外面の修辞で取り繕おうとする過程において、精神薄弱者もまた
サイコパスのような人畜有害型の人格障害を併発する場合がある。君子が自己修養によって構築する内面からの
雄大さなどは、外面だけの巧言令色で人を欺いたりすることを自明に退けるものであるけれども、精神薄弱者の
修辞などはまさに、他者を欺くための巧言令色そのものであるわけだから、そこに悪質な詭弁などを凝らして
他者に嫌な思いをさせたり、実際的な詐欺行為で不当利得をせしめたりすることをも試みかねないのである。
精神薄弱を取り繕うための外面の修辞に、他者を不快にさせるようなアイロニーを加味することにかけては
フランス人などが長じているし、利権面で他者に実害を加えるような詭弁にかけてはイギリス人などが
長じている。いずれにしろ、自分たちを美々しく見せるための「正統な修辞」といのも共に身に付けて
いるものだから、修辞を悪用すること自体が「紳士淑女の嗜み」程度のものとされてしまっていたりする。
実際、全てのイギリス人やフランス人が修辞を悪用目的ばかりに用いているわけではなく、それで
利益を得ているのも悪徳金融業者や各種評論家ぐらいに止まっていたりするわけだから、精神薄弱な中に
真性のサイコパスを併発させるような人間も、あくまで一部の人間に止まっていることが知れるのである。
そこで問題となるのが、精神薄弱やサイコパスを発症する人間の分量である。精神薄弱者が
誰も彼もサイコパスを併発するわけでもないが、世の中に蔓延る精神薄弱者の数があまりにも増え
すぎれば、そこでサイコパスを併発する人間が生ずる確率も高まることとなる。キリスト教圏のように、
国家や社会が総出を挙げて非現実信仰に邁進した場合には、そこでサイコパスを併発する人間までもが
ユダヤ教団や悪魔崇拝教団のような一定派閥を形成するまでに至ってしまう。そうなればもう、そのような
派閥が金融利権やメディア利権、諜報利権などを牛耳っての大権力犯罪にすら及び始めるようになる。
それこそは、非現実信仰のカルト宗教がこの世に及ぼす現実的な大災厄ともなる。死後の復活だの信者の
昇天だのといった表向きの希望は何も叶えられないままに、非現実信仰によって精神薄弱やサイコパスと
化した人間が国家社会規模の大権力犯罪を巻き起こし始めるという現実的な効果のみが伴っている。未だ
非現実信仰のさ中にある人間には、現実がどうであるかなどということは至極どうでもいいことであるに
違いないが、非現実信仰が現実に及ぼす確かな効能というのもまたあって、それこそは世界の破滅級の
大権力犯罪という未曾有の大災厄であるわけだから、それはそれで興味を持つべきことだといえる。
諸法実相の現実こそを尊ぶ見地からすれば、非現実信仰のカルト宗教が現実的にもたらすのは権力犯罪
という災禍であることのほうをより重視して、その権力犯罪志向を糾弾材料として、カルトの駆逐にも
務めて行くべきであるといえる。そのような信仰のさ中にある人間は、自分たちの信仰が権力犯罪志向である
などとは思いもよらないままでいるに違いないわけだが、そこは、心神喪失状態のカルト被害者ならではの
察すべき様態とし、現実主義者である自分たちのほうが独自に、穏便な現実処理を施してやるべきだといえる。
利益を得ているのも悪徳金融業者や各種評論家ぐらいに止まっていたりするわけだから、精神薄弱な中に
真性のサイコパスを併発させるような人間も、あくまで一部の人間に止まっていることが知れるのである。
そこで問題となるのが、精神薄弱やサイコパスを発症する人間の分量である。精神薄弱者が
誰も彼もサイコパスを併発するわけでもないが、世の中に蔓延る精神薄弱者の数があまりにも増え
すぎれば、そこでサイコパスを併発する人間が生ずる確率も高まることとなる。キリスト教圏のように、
国家や社会が総出を挙げて非現実信仰に邁進した場合には、そこでサイコパスを併発する人間までもが
ユダヤ教団や悪魔崇拝教団のような一定派閥を形成するまでに至ってしまう。そうなればもう、そのような
派閥が金融利権やメディア利権、諜報利権などを牛耳っての大権力犯罪にすら及び始めるようになる。
それこそは、非現実信仰のカルト宗教がこの世に及ぼす現実的な大災厄ともなる。死後の復活だの信者の
昇天だのといった表向きの希望は何も叶えられないままに、非現実信仰によって精神薄弱やサイコパスと
化した人間が国家社会規模の大権力犯罪を巻き起こし始めるという現実的な効果のみが伴っている。未だ
非現実信仰のさ中にある人間には、現実がどうであるかなどということは至極どうでもいいことであるに
違いないが、非現実信仰が現実に及ぼす確かな効能というのもまたあって、それこそは世界の破滅級の
大権力犯罪という未曾有の大災厄であるわけだから、それはそれで興味を持つべきことだといえる。
諸法実相の現実こそを尊ぶ見地からすれば、非現実信仰のカルト宗教が現実的にもたらすのは権力犯罪
という災禍であることのほうをより重視して、その権力犯罪志向を糾弾材料として、カルトの駆逐にも
務めて行くべきであるといえる。そのような信仰のさ中にある人間は、自分たちの信仰が権力犯罪志向である
などとは思いもよらないままでいるに違いないわけだが、そこは、心神喪失状態のカルト被害者ならではの
察すべき様態とし、現実主義者である自分たちのほうが独自に、穏便な現実処理を施してやるべきだといえる。
「文王は民を視ること傷めるが如くし、道を望んで未だ之れを見ざるが而くす」
「文王は(殷紂のせいで疲弊させられた)民たちを見るに際しては、まるで重病人を見るかのように
慈しみの面持ちで見、道を嘱望するにしても、未だそれを見通すことすらできないような心持ちでいた。
(天下万人に真の安寧をもたらすことは、少しも保証されていることではない。そのような危機意識と共にこそ、
文王やその後継者たちも自力での徳治に取り組んだ結果、三百年に渡る治世を築き上げることができたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)
「文王は(殷紂のせいで疲弊させられた)民たちを見るに際しては、まるで重病人を見るかのように
慈しみの面持ちで見、道を嘱望するにしても、未だそれを見通すことすらできないような心持ちでいた。
(天下万人に真の安寧をもたらすことは、少しも保証されていることではない。そのような危機意識と共にこそ、
文王やその後継者たちも自力での徳治に取り組んだ結果、三百年に渡る治世を築き上げることができたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)
人間を善人と悪人に分かつのは、本人自身の真心の堅持の有無である。
善人はよく真心を保っているから、心の本性の部分にある善性に即して善良となるが、
悪人は自らの心を失ってしまっているものだから、善性をも見失って悪辣となる。
だからこそ、善人は自らの真心から派生する諸々の行為が、より心と近しい順序、
つまり思考>発言>行動の順序で重んじられて行くに値する。心を養生することで
善思が派生し、善思から善言が派生し、善言から善行が派生する、それは確かに、
善人についてはそうであることだから、善人の思考や発言こそは、行動並みかそれ
以上にも注目の対象とされるに値するものだといえるのである。(政治家としての
活動では成功しなかった孔子や孟子の発言にそれなりの価値があるのもそのためである)
一方で、「悪人をその根本の部分から正してやることなどは不可能である」ということも、
上の法則から自明に導ける結論である。悪人は自らの心を失ってしまっているからこそ
悪人でいるわけだから、心を失ったところで派生している思考や発言もまた、自らの心
などではなく、ただカネや権力を手に入れようとするような無軌道な欲望に即する場合が
ほとんどとなっているわけである。じゃあ、心を失った人間がなぜ、カネや権力への欲望
に取り込まれるかといえば、カネや権力を手に入れた結果としての行動の自由を欲する
からである。つまり心無い悪人は、行動の自由のためにこそあらゆる思考や発言をも
講じようとするわけだから、むしろ行動から思考や発言が派生しているのだといえる。
だからこそ、悪人は思考や発言ではなく、その行動の罪こそを優先的に罰するように
して行かねばならず、行動に対する抑制が十分に利かされた結果として、自らの心を
捉えなおす機会にもまた与れることこそを企図してやらなければならないのだといえる。
カルト信仰に取れ込まれているほどの人間であれば、真心を失ってしまっているぐらいの
ことは概ねデフォルトとなっている。一方で、カルト信仰ながらに信者の思考や発言を
重視するということも当然あるわけで、そこで問題扱いされるのは、いかに心を失った
所から派生している思考や発言が、それなりの修辞で整えられているかということである。
善人はよく真心を保っているから、心の本性の部分にある善性に即して善良となるが、
悪人は自らの心を失ってしまっているものだから、善性をも見失って悪辣となる。
だからこそ、善人は自らの真心から派生する諸々の行為が、より心と近しい順序、
つまり思考>発言>行動の順序で重んじられて行くに値する。心を養生することで
善思が派生し、善思から善言が派生し、善言から善行が派生する、それは確かに、
善人についてはそうであることだから、善人の思考や発言こそは、行動並みかそれ
以上にも注目の対象とされるに値するものだといえるのである。(政治家としての
活動では成功しなかった孔子や孟子の発言にそれなりの価値があるのもそのためである)
一方で、「悪人をその根本の部分から正してやることなどは不可能である」ということも、
上の法則から自明に導ける結論である。悪人は自らの心を失ってしまっているからこそ
悪人でいるわけだから、心を失ったところで派生している思考や発言もまた、自らの心
などではなく、ただカネや権力を手に入れようとするような無軌道な欲望に即する場合が
ほとんどとなっているわけである。じゃあ、心を失った人間がなぜ、カネや権力への欲望
に取り込まれるかといえば、カネや権力を手に入れた結果としての行動の自由を欲する
からである。つまり心無い悪人は、行動の自由のためにこそあらゆる思考や発言をも
講じようとするわけだから、むしろ行動から思考や発言が派生しているのだといえる。
だからこそ、悪人は思考や発言ではなく、その行動の罪こそを優先的に罰するように
して行かねばならず、行動に対する抑制が十分に利かされた結果として、自らの心を
捉えなおす機会にもまた与れることこそを企図してやらなければならないのだといえる。
カルト信仰に取れ込まれているほどの人間であれば、真心を失ってしまっているぐらいの
ことは概ねデフォルトとなっている。一方で、カルト信仰ながらに信者の思考や発言を
重視するということも当然あるわけで、そこで問題扱いされるのは、いかに心を失った
所から派生している思考や発言が、それなりの修辞で整えられているかということである。
所詮はカネや権力への渇望によって派生しているだけのものに過ぎない、
心無き思考や発言を、どれだけ罪が軽そうに見せかけるかというだけのものでしか
ないわけで、そんなことで本人たちの善心が取り戻されたりするわけがないのは
もちろんのこと、むしろ外物に翻弄された結果として派生する粗悪な目的と共なる
思考や言行を堂に入らせて、深刻化させるような結果にしか結び付かないのである。
悪人が矯正されるために、その思考や発言から正されたりするのは、まず不可能である。
そのような幻想を振りまくようなカルト教義もまた有害無益なものでしかないと知る
べきであり、悪人はその悪行を是正されることを通じて、自らの真心を見詰めなおす
機会を得る所からしかやり直していけないものだとわきまえるべきである。行動が
是正されて、自らの真心を捉え直した結果として、ついに善思や善言までもが講じ
られるようになるということだけが、悪人にもまた期待できることなのだから。
世相の荒廃などによって、誰も彼もが心を失ってしまっているような中で、悪念や
雑言を垂れ流しているような人間と、そこに修辞による整形を加えているような
人間とでどれほどの罪の差があるかといって、五十歩と五十一歩ほどの差もあるまい。
問題は、自分たちが犯している悪行のほうの軽重であり、悪行が重大であるようなら、
表向きの発言などが綺麗ごとじみていても厳重に罰し、悪行が軽いようならば、発言
の罪まではさして罰したりする必要もない。悪行は犯していないのに悪口だけは吐いて
いるような人間なんてのは、世相の荒廃に釣られたノリで悪口を吐いていたりする
場合がほとんどなのだから、悪行者が討伐されて世相も清浄に立ち返ったならば、
そういう人間は、口の悪い江戸っ子ていどの存在ともなるに違いない。
「君子は〜口を人に失わず」
「君子は言うべきことを人に言う口を失ったりすることがない。(言葉は意思伝達の
ための道具であることが本分なのだから、それを口舌で用いることも疎かにはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
心無き思考や発言を、どれだけ罪が軽そうに見せかけるかというだけのものでしか
ないわけで、そんなことで本人たちの善心が取り戻されたりするわけがないのは
もちろんのこと、むしろ外物に翻弄された結果として派生する粗悪な目的と共なる
思考や言行を堂に入らせて、深刻化させるような結果にしか結び付かないのである。
悪人が矯正されるために、その思考や発言から正されたりするのは、まず不可能である。
そのような幻想を振りまくようなカルト教義もまた有害無益なものでしかないと知る
べきであり、悪人はその悪行を是正されることを通じて、自らの真心を見詰めなおす
機会を得る所からしかやり直していけないものだとわきまえるべきである。行動が
是正されて、自らの真心を捉え直した結果として、ついに善思や善言までもが講じ
られるようになるということだけが、悪人にもまた期待できることなのだから。
世相の荒廃などによって、誰も彼もが心を失ってしまっているような中で、悪念や
雑言を垂れ流しているような人間と、そこに修辞による整形を加えているような
人間とでどれほどの罪の差があるかといって、五十歩と五十一歩ほどの差もあるまい。
問題は、自分たちが犯している悪行のほうの軽重であり、悪行が重大であるようなら、
表向きの発言などが綺麗ごとじみていても厳重に罰し、悪行が軽いようならば、発言
の罪まではさして罰したりする必要もない。悪行は犯していないのに悪口だけは吐いて
いるような人間なんてのは、世相の荒廃に釣られたノリで悪口を吐いていたりする
場合がほとんどなのだから、悪行者が討伐されて世相も清浄に立ち返ったならば、
そういう人間は、口の悪い江戸っ子ていどの存在ともなるに違いない。
「君子は〜口を人に失わず」
「君子は言うべきことを人に言う口を失ったりすることがない。(言葉は意思伝達の
ための道具であることが本分なのだから、それを口舌で用いることも疎かにはしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
近ごろでは、ネットに疎い高齢男性すらもが、地上波のテレビ番組のつまらなさに嫌気が
差してテレビを見なくなることがあるという。その理由が「つまらない芸人番組の台頭」。
真面目な報道やドキュメンタリーはおろか、落語や昔の漫才のような、それなりに趣向を
凝らしたお笑い芸ですらない、人前で醜態を晒して笑われることを一発芸とするような
最低品質の若手芸人ばかりが民法はおろか、有料放送であるNHKにまで張り出して来て
いるものだから、もはや雰囲気作りに付け流しておくことすらもが目ざわり耳ざわり
となって、テレビの電源から消してしまうようなことが増えてしまったのだという。
ネットやゲームの台頭でテレビメディアの肩身が狭くなり、予算を削られたせいで
ろくにお笑い番組すら作り込めなくなったせいで質の悪い芸人が増え始め、なおかつ
そのような芸人を低賃金でこき使うようなことが増えたというのがその内情なわけだが、
芸能コンテンツの内でも最も卑俗な部類に入るお笑い芸すらもがそのように、育成環境の
悪化のせいで低品質化して支持を減らすということがある。アイドルや音楽や演劇などでも
同様な事態が生じ得るし、さらには芸能以外の各種文化についても同様なことが起こり得る。
神話や伝説についてですら、同様のことが言える。それなりの道徳的、求道的な意味合いを
凝らした高尚な伝説神話が、文化的に恵まれている地域で育まれたりもする一方で、悪環境
での精神的な飢渇が原因で、醜態を晒しての一発芸みたいな最低品質の小話が伝説や神話に
されてしまう場合もある。そもそも神話や伝説を迷信的なものとして排し、人間道徳や虚空の
真理そのものを堅実に尊んでいったりすることもあるわけだが、伝説や神話を醸成して尊重
する範囲においても、高品質なものを尊ぶ場合もあれば、低品質なものを嬉しがる場合もある。
質の高いお笑いと低いお笑いが共存し辛いようにして、高品質な伝説や神話と低品質な
伝説や神話もまた排他し合う。まず、両者が作成される環境からして全く異なり、片や
極めて恵まれている一方で、片やひどく恵まれていないわけだから、受容者の側の文化的
環境がいずれであるかで、あえて好き好む神話伝説の種類もまた決まってしまうのである。
差してテレビを見なくなることがあるという。その理由が「つまらない芸人番組の台頭」。
真面目な報道やドキュメンタリーはおろか、落語や昔の漫才のような、それなりに趣向を
凝らしたお笑い芸ですらない、人前で醜態を晒して笑われることを一発芸とするような
最低品質の若手芸人ばかりが民法はおろか、有料放送であるNHKにまで張り出して来て
いるものだから、もはや雰囲気作りに付け流しておくことすらもが目ざわり耳ざわり
となって、テレビの電源から消してしまうようなことが増えてしまったのだという。
ネットやゲームの台頭でテレビメディアの肩身が狭くなり、予算を削られたせいで
ろくにお笑い番組すら作り込めなくなったせいで質の悪い芸人が増え始め、なおかつ
そのような芸人を低賃金でこき使うようなことが増えたというのがその内情なわけだが、
芸能コンテンツの内でも最も卑俗な部類に入るお笑い芸すらもがそのように、育成環境の
悪化のせいで低品質化して支持を減らすということがある。アイドルや音楽や演劇などでも
同様な事態が生じ得るし、さらには芸能以外の各種文化についても同様なことが起こり得る。
神話や伝説についてですら、同様のことが言える。それなりの道徳的、求道的な意味合いを
凝らした高尚な伝説神話が、文化的に恵まれている地域で育まれたりもする一方で、悪環境
での精神的な飢渇が原因で、醜態を晒しての一発芸みたいな最低品質の小話が伝説や神話に
されてしまう場合もある。そもそも神話や伝説を迷信的なものとして排し、人間道徳や虚空の
真理そのものを堅実に尊んでいったりすることもあるわけだが、伝説や神話を醸成して尊重
する範囲においても、高品質なものを尊ぶ場合もあれば、低品質なものを嬉しがる場合もある。
質の高いお笑いと低いお笑いが共存し辛いようにして、高品質な伝説や神話と低品質な
伝説や神話もまた排他し合う。まず、両者が作成される環境からして全く異なり、片や
極めて恵まれている一方で、片やひどく恵まれていないわけだから、受容者の側の文化的
環境がいずれであるかで、あえて好き好む神話伝説の種類もまた決まってしまうのである。
さらに、受容する人間の人種というものもまた大幅に変わってくる。お笑いにしろ伝説や
神話にしろ、そこに高品質さを要求するのは概ね大人の男性であり、低品質でもよしと
するのが女や子供である。大人の男の要求を満たす程もの高品質なコンテンツに対しては、
大人の男が主な消費者となる形での需給関係が成立する一方、そのような要求を満たさない
低品質なコンテンツに対しては、女子供が主な消費者となる形での需給関係が成立する。大人
の男も女子供も共に享受するとしたところで、結局、どちらのニーズをより満たすかで品質の
高低も分岐するものだから、高品質なコンテンツと低品質なコンテンツが共存することもない。
大人の男も女子供も共に楽しめるのは、むしろ高品質なコンテンツのほうである。
確かに、それは女子供にとってはオーバースペックなものとなるわけだが、だからといって
生来嬉しがりな存在である女子供がそれを楽しめないなんてこともない。箸が転がるだけでも
嬉しがれる女子供でもなければ楽しめないような低品質なコンテンツこそは、どうしたって
大人の男までもが共に楽しんだりすることができない。自分たちまでもがとっちゃん坊やと化す
ことで無理に楽しむか、もしくは文化享受など見限って生業にでも専念しているしかなくなる。
男が誰も彼もチャランポランなとっちゃん坊やと化してしまったんじゃ世の中も立ち行かなく
なるから、結局、男がほとんど文化などに見向きもしなくなり、男が受容するに値しない低劣な
文化コンテンツだけが、女子供からの支持で辛うじて命を繋ぐような事態に陥ってしまうのである。
キリスト教圏たるや、自分たちを司る最高理念からしてそのような低劣文化であり続けて来た。
女子供が主要な享受者であることが完全に開き直られているのがキリスト教文化であればこそ、
大人の男が自分たちの嗜好によって楽しめるような高尚な文化と決して相容れることがない。
神話にしろ、そこに高品質さを要求するのは概ね大人の男性であり、低品質でもよしと
するのが女や子供である。大人の男の要求を満たす程もの高品質なコンテンツに対しては、
大人の男が主な消費者となる形での需給関係が成立する一方、そのような要求を満たさない
低品質なコンテンツに対しては、女子供が主な消費者となる形での需給関係が成立する。大人
の男も女子供も共に享受するとしたところで、結局、どちらのニーズをより満たすかで品質の
高低も分岐するものだから、高品質なコンテンツと低品質なコンテンツが共存することもない。
大人の男も女子供も共に楽しめるのは、むしろ高品質なコンテンツのほうである。
確かに、それは女子供にとってはオーバースペックなものとなるわけだが、だからといって
生来嬉しがりな存在である女子供がそれを楽しめないなんてこともない。箸が転がるだけでも
嬉しがれる女子供でもなければ楽しめないような低品質なコンテンツこそは、どうしたって
大人の男までもが共に楽しんだりすることができない。自分たちまでもがとっちゃん坊やと化す
ことで無理に楽しむか、もしくは文化享受など見限って生業にでも専念しているしかなくなる。
男が誰も彼もチャランポランなとっちゃん坊やと化してしまったんじゃ世の中も立ち行かなく
なるから、結局、男がほとんど文化などに見向きもしなくなり、男が受容するに値しない低劣な
文化コンテンツだけが、女子供からの支持で辛うじて命を繋ぐような事態に陥ってしまうのである。
キリスト教圏たるや、自分たちを司る最高理念からしてそのような低劣文化であり続けて来た。
女子供が主要な享受者であることが完全に開き直られているのがキリスト教文化であればこそ、
大人の男が自分たちの嗜好によって楽しめるような高尚な文化と決して相容れることがない。
だからこそ、大人の男を主人公にするような学問宗教を廃絶させながら、自分たちの勢力を
拡大させて行きもした。キリスト教文化こそはあらゆる文化の中で最高の文化であるからではなく、
他の高尚な文化を廃絶させた所で、女子供の嬉しがりによる支持で自分たちだけが生き残るのが
キリスト教文化の本旨であるからこそ、キリストが至上のものもともされて来ているのである。
よく言われる、
男が男だけで楽しむ場所を作る
↓
面白いので人も増えてくる
↓
女、子どもが寄ってくる
↓
女子供が自分たちの住みやすいように主張し始める
↓
マスコミや女目的の男が嗅ぎつける
↓
男が去っていく
↓
その分野が完全に腐る
というようなコンテンツ腐敗の宗教文化版の極北がキリスト教文化であるものだから、
東洋などに豊富な、男を主人公とする数多の教学文化とも決して相容れることがない。
その、「相容れない」という点を根拠として、キリスト教徒はキリストこそを文化の
覇者のように嘯いているだけなのだから、何らその主張を是認してやるに足るものではない。
アブラハム教の範疇で、上記のようなキリスト文化の腐敗性に対抗しようとしたものだから、
イスラム教も女子供を徹底的な差別下に置くこととなったわけだが、そもそも、女子供を
主要な享受者とするような低劣な文化をメインカルチャーに据えたりしなければ、そこまで
徹底的な女性差別を講じたりせずとも、腐敗を予防して行くことができるのである。
キリスト教文化など、全く以ってつまらない。いくらキリスト教圏が軍事的経済的に最強の
文化圏だろうとも、最高理念となっている主要文化が女子供でもなければ楽しめないような
低劣文化である以上は、全く以って大人の男が魅力を感じさせられるに値しない。そのような、
大人の男ならではの感覚が尊ばれるようになれば、女子供のほうを徹底的な差別下に置くような
渋い仕打ちによらずとも、文化腐敗からなる破滅の危機を避けて行くことができるのである。
拡大させて行きもした。キリスト教文化こそはあらゆる文化の中で最高の文化であるからではなく、
他の高尚な文化を廃絶させた所で、女子供の嬉しがりによる支持で自分たちだけが生き残るのが
キリスト教文化の本旨であるからこそ、キリストが至上のものもともされて来ているのである。
よく言われる、
男が男だけで楽しむ場所を作る
↓
面白いので人も増えてくる
↓
女、子どもが寄ってくる
↓
女子供が自分たちの住みやすいように主張し始める
↓
マスコミや女目的の男が嗅ぎつける
↓
男が去っていく
↓
その分野が完全に腐る
というようなコンテンツ腐敗の宗教文化版の極北がキリスト教文化であるものだから、
東洋などに豊富な、男を主人公とする数多の教学文化とも決して相容れることがない。
その、「相容れない」という点を根拠として、キリスト教徒はキリストこそを文化の
覇者のように嘯いているだけなのだから、何らその主張を是認してやるに足るものではない。
アブラハム教の範疇で、上記のようなキリスト文化の腐敗性に対抗しようとしたものだから、
イスラム教も女子供を徹底的な差別下に置くこととなったわけだが、そもそも、女子供を
主要な享受者とするような低劣な文化をメインカルチャーに据えたりしなければ、そこまで
徹底的な女性差別を講じたりせずとも、腐敗を予防して行くことができるのである。
キリスト教文化など、全く以ってつまらない。いくらキリスト教圏が軍事的経済的に最強の
文化圏だろうとも、最高理念となっている主要文化が女子供でもなければ楽しめないような
低劣文化である以上は、全く以って大人の男が魅力を感じさせられるに値しない。そのような、
大人の男ならではの感覚が尊ばれるようになれば、女子供のほうを徹底的な差別下に置くような
渋い仕打ちによらずとも、文化腐敗からなる破滅の危機を避けて行くことができるのである。
今日言いたかったことは、要するに、
「キリスト教による文化破壊は、昨今の質の低いお笑い芸人の台頭も同然の代物だ」
ということだ。自分たちが女子供からの嬉しがりによって支持を保ちつつ、
大人の男でも楽しめるような高尚な文化コンテンツを徹底的に破壊して行く。
結果、男は女子供のために働いてカネを貢ぐだけの、奴隷も同然の存在とも化してしまうのだ。
「武王曰く、予れに乱臣十人有りと。孔子曰く、才難しと、
其れ然らざるや。唐虞の際、斯こに於いて盛んと為す。婦人有り、九人のみ」
「武王は『私には十人の名臣がいる』と言ったという。孔先生はこれを評して言われた。
『才能ある者を得ることは難しいというが、まさにその通りだ。太古の唐虞の時代から今に至るまで、
武王の時代の周ほど人材に恵まれた時代はない。とはいえ、武王が称えた十人の名臣の内の
一人は婦人(文王の后、武王の母に当たる太姒)だから、名臣の数も正確には九人だ』
(文王の后にして武王の母たる婦人といえども、女である以上は権力道徳者としての才能を認めない。
わが子が刑死して気が狂った娼婦の母の多重人格状態な証言なども、当然尊重するには値しない。
逆に、マリアの女としての言行の信用のなさが、孔子のこの発言の至当さを追認しているともいえる。
女の独立的な言行は徹頭徹尾、世の中を司る程もの指針として扱うには値しないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二〇より)
「キリスト教による文化破壊は、昨今の質の低いお笑い芸人の台頭も同然の代物だ」
ということだ。自分たちが女子供からの嬉しがりによって支持を保ちつつ、
大人の男でも楽しめるような高尚な文化コンテンツを徹底的に破壊して行く。
結果、男は女子供のために働いてカネを貢ぐだけの、奴隷も同然の存在とも化してしまうのだ。
「武王曰く、予れに乱臣十人有りと。孔子曰く、才難しと、
其れ然らざるや。唐虞の際、斯こに於いて盛んと為す。婦人有り、九人のみ」
「武王は『私には十人の名臣がいる』と言ったという。孔先生はこれを評して言われた。
『才能ある者を得ることは難しいというが、まさにその通りだ。太古の唐虞の時代から今に至るまで、
武王の時代の周ほど人材に恵まれた時代はない。とはいえ、武王が称えた十人の名臣の内の
一人は婦人(文王の后、武王の母に当たる太姒)だから、名臣の数も正確には九人だ』
(文王の后にして武王の母たる婦人といえども、女である以上は権力道徳者としての才能を認めない。
わが子が刑死して気が狂った娼婦の母の多重人格状態な証言なども、当然尊重するには値しない。
逆に、マリアの女としての言行の信用のなさが、孔子のこの発言の至当さを追認しているともいえる。
女の独立的な言行は徹頭徹尾、世の中を司る程もの指針として扱うには値しないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二〇より)
宗教にだって、大人の男が嗜好するに値するだけの
品質を備えたものがいくらでもあるわけだが。
「宗教といえばキリスト教」だなんていう風潮が
まかり通ったりするようなら、大人の男である以上は、
宗教なんてものを好き好んだりしているわけにはいかない。
非常にもったいないことだが、宗教などというものへの
信奉を一旦は完全に控えた上で、高品質な宗教と低品質な邪教を
シラフでより分けて行く所から取り掛からねばならない。
品質を備えたものがいくらでもあるわけだが。
「宗教といえばキリスト教」だなんていう風潮が
まかり通ったりするようなら、大人の男である以上は、
宗教なんてものを好き好んだりしているわけにはいかない。
非常にもったいないことだが、宗教などというものへの
信奉を一旦は完全に控えた上で、高品質な宗教と低品質な邪教を
シラフでより分けて行く所から取り掛からねばならない。
聖書信者が神仏を選り好みすること、あたかも女が男を選り好みするかの如くである。
女として男を選り好みするからには、守られたい本能が働いて、威勢の強大さこそをまず期待する。
財力でも政治力でも暴力でも何でもいいから、この世に幅を利かせられるような絶大な威力の持ち主で
あることを期待する。そしてそのような期待を満たしてくれる体裁を万全に整えているのが聖書の神で
あるからこそ、聖書信者もまた、他のどんな神仏にも増して聖書の神こそを信仰しようとする。
一方で、男が女を選り好みする場合に、相手に威勢の強大さを期待したりすることは基本ない。
男でありながら強い女を欲するような男は「ヒモ」性分の持ち主として、大いに反面教師として蔑み、
むしろ、自分が守ってやらなければ自存もままならないような柔弱な女こそを大丈夫として好むのである。
男気溢れる東洋社会で主に信仰されて来たのも、そのような「男が守ってやるべき女」のような神仏が
ほとんどとなっている。頼りない神道の神々などもそうであるし、乞食行者を模した仏像として具象化される
仏や菩薩なども大半がそうである。そのような神仏が司っているものこそは真理である一方で、真理もまた
汚濁にまみれやすい俗世では甚だ見失われやすいものであるのも確かなことだから、頼りない神仏を自分たち
人間のほうから守ってやろうとするような心持ちによって、真理や道理の把捉の堅持にも努めて行くわけである。
それにより、女性的な神仏を尊ぶ信仰者こそは、男性的な神に精神依存する信仰者以上にも、無信仰的な自力
の養生に努めるのである。その具体的な有り様は、数千年にわたる中国や日本の政治史を見ても明らかな通り。
数多の権力道徳者たちが自力での国力の増強に努めて来てくれたからこそ、万人が絶対神への精神依存状態で
居続けてきた聖書圏などをも、人口や経済力で圧倒することができている。聖書圏では「ニヒリズム」などと
呼ばれて忌み避けられているような、独立独行の精神状態での精進を数多の人々が積み重ねて来たからこその
女として男を選り好みするからには、守られたい本能が働いて、威勢の強大さこそをまず期待する。
財力でも政治力でも暴力でも何でもいいから、この世に幅を利かせられるような絶大な威力の持ち主で
あることを期待する。そしてそのような期待を満たしてくれる体裁を万全に整えているのが聖書の神で
あるからこそ、聖書信者もまた、他のどんな神仏にも増して聖書の神こそを信仰しようとする。
一方で、男が女を選り好みする場合に、相手に威勢の強大さを期待したりすることは基本ない。
男でありながら強い女を欲するような男は「ヒモ」性分の持ち主として、大いに反面教師として蔑み、
むしろ、自分が守ってやらなければ自存もままならないような柔弱な女こそを大丈夫として好むのである。
男気溢れる東洋社会で主に信仰されて来たのも、そのような「男が守ってやるべき女」のような神仏が
ほとんどとなっている。頼りない神道の神々などもそうであるし、乞食行者を模した仏像として具象化される
仏や菩薩なども大半がそうである。そのような神仏が司っているものこそは真理である一方で、真理もまた
汚濁にまみれやすい俗世では甚だ見失われやすいものであるのも確かなことだから、頼りない神仏を自分たち
人間のほうから守ってやろうとするような心持ちによって、真理や道理の把捉の堅持にも努めて行くわけである。
それにより、女性的な神仏を尊ぶ信仰者こそは、男性的な神に精神依存する信仰者以上にも、無信仰的な自力
の養生に努めるのである。その具体的な有り様は、数千年にわたる中国や日本の政治史を見ても明らかな通り。
数多の権力道徳者たちが自力での国力の増強に努めて来てくれたからこそ、万人が絶対神への精神依存状態で
居続けてきた聖書圏などをも、人口や経済力で圧倒することができている。聖書圏では「ニヒリズム」などと
呼ばれて忌み避けられているような、独立独行の精神状態での精進を数多の人々が積み重ねて来たからこその
成果であるわけだが、別にニヒリズムだからといってニーチェのような狂乱状態に陥ったりして来ている
わけでもない。西洋では劣等な尊格として卑しまれるような女性的な神仏を、女を守ってやる男のような
慈みと共に尊んで来たからこそ、独立独行の自力精進に気を狂わせるようなこともなかったのである。
女性的な神仏を尊ぶ人間こそは最大級に男らしい存在たり、男性的な神に依存する人間はかえって
女々しい性格と化してしまうという相反法則がある。男と女で、より威力が強大たり得るのは当然男の
ほうだから、女性的な神仏を尊ぶことで最大級の男らしさを身に付けた男こそは、天下全土でも最大級の
威勢を湛えた存在たり得もする。そしてそのような男の辣腕に頼るのでもない限りは、世の中のほうが
保全もままならないような事態に陥ることがあるわけだから、男性的な神ではなく女性的な神仏こそは、
この世界を救い、守り治めて行く上での肝心要の存在となることがあるともいえるわけである。
自分が信じている神の(規定上の)強大さを偉ぶるような人間は、
夫の高収入を近所で自慢する主婦も同然の存在だといえる。自らが自慢の材料としている
神の雄々しさとは裏腹に、自分自身の女々しさはかえって深刻化し、箸にも棒にもかからない
社会のお荷物然とした駄人へと自らが凋落してしまいつつあることを自覚すべきだといえる。
「禄を利するに、死者を先にして生者を後にすれば、則ち民背かず。
亡者を先にして存者を後にすれば、則ち民以て托す可し」
「俸禄に際しては、(国のために殉ずるなどした)死者を優先して生存者を劣後するようにすれば、
民たちも反意を抱いたりすることがない。遠征に赴いている者を優先して在邦の者を
劣後するようにすれば、民たちも大事を託しても心配の必要がないほど仁に厚くなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
わけでもない。西洋では劣等な尊格として卑しまれるような女性的な神仏を、女を守ってやる男のような
慈みと共に尊んで来たからこそ、独立独行の自力精進に気を狂わせるようなこともなかったのである。
女性的な神仏を尊ぶ人間こそは最大級に男らしい存在たり、男性的な神に依存する人間はかえって
女々しい性格と化してしまうという相反法則がある。男と女で、より威力が強大たり得るのは当然男の
ほうだから、女性的な神仏を尊ぶことで最大級の男らしさを身に付けた男こそは、天下全土でも最大級の
威勢を湛えた存在たり得もする。そしてそのような男の辣腕に頼るのでもない限りは、世の中のほうが
保全もままならないような事態に陥ることがあるわけだから、男性的な神ではなく女性的な神仏こそは、
この世界を救い、守り治めて行く上での肝心要の存在となることがあるともいえるわけである。
自分が信じている神の(規定上の)強大さを偉ぶるような人間は、
夫の高収入を近所で自慢する主婦も同然の存在だといえる。自らが自慢の材料としている
神の雄々しさとは裏腹に、自分自身の女々しさはかえって深刻化し、箸にも棒にもかからない
社会のお荷物然とした駄人へと自らが凋落してしまいつつあることを自覚すべきだといえる。
「禄を利するに、死者を先にして生者を後にすれば、則ち民背かず。
亡者を先にして存者を後にすれば、則ち民以て托す可し」
「俸禄に際しては、(国のために殉ずるなどした)死者を優先して生存者を劣後するようにすれば、
民たちも反意を抱いたりすることがない。遠征に赴いている者を優先して在邦の者を
劣後するようにすれば、民たちも大事を託しても心配の必要がないほど仁に厚くなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・坊記第三十より)
世界の終わりありきの超越神信仰などに没頭している人間にとって、この世界が
ありのままに人力で救われることなどは、全く自分たちの望む所ではないに違いない。
それは、世界が破滅に陥る中で、自分たちだけが神からの執り成しによって救われる
という、自分たちの思い描いて来たシナリオとは全くかけ離れた事態であるわけだから、
そんなことになるよりはまず、世界が破滅に陥ることのほうを欲するに違いない。
いま、信者数が世界人口の約半数を占めているアブラハム教(ユダヤ教、キリスト教、
イスラム教)こそは、まさにそのような信仰を信者にけしかけるものとなっている。
信仰のためには親族すらをも殺すつもりでいたアブラハムを始祖とし、ノアの洪水の如き
世界の破滅の中で、自分たちだけがノアの箱舟の如き信仰の大船に乗って救われようとする。
イスラム教などはまだ、超越神以上に汎神であるアラーを絶対神に見立てたことを通じて、
形而下の万物への尊重も持ちえた結果、完全な自給自足の社会を運営していけるだけの
素養を信者に付与したりもしたわけだが、やはり新旧約聖書の教義をも参考としている
ことには違いないわけで、少なくとも、異教徒を含む万人と共にこの全世界を救って
もらおうなどという所まで仁徳を働かせられない点では共通しているのである。
まず、世界の半数にあたるアブラハム教徒が、信仰を通じてこの世界の終わりを欲している。
また、その他の宗教文化圏においても、今の世界など一旦は終了して一からやり直してくれた
ほうがいいぐらいに思っている人間がそれなりにいるだろうことが予想される。中国13億の
人口の内の約3分の1に当たる4億人超の貧困層の人間なども、政府からの弾圧でなかなか
表向きには悲鳴を上げられないにしたって、「今の世界の支配者が死んでくれるのなら、
自分たちも一緒に死んだって構わない(書経・泰誓)」ぐらいの心持ちでいたりするに
違いないわけだから、実に、世界の過半数に達する人間が、今の世界の人力による
救済などを欲しているわけでもないだろうことが察せられるのである。
ありのままに人力で救われることなどは、全く自分たちの望む所ではないに違いない。
それは、世界が破滅に陥る中で、自分たちだけが神からの執り成しによって救われる
という、自分たちの思い描いて来たシナリオとは全くかけ離れた事態であるわけだから、
そんなことになるよりはまず、世界が破滅に陥ることのほうを欲するに違いない。
いま、信者数が世界人口の約半数を占めているアブラハム教(ユダヤ教、キリスト教、
イスラム教)こそは、まさにそのような信仰を信者にけしかけるものとなっている。
信仰のためには親族すらをも殺すつもりでいたアブラハムを始祖とし、ノアの洪水の如き
世界の破滅の中で、自分たちだけがノアの箱舟の如き信仰の大船に乗って救われようとする。
イスラム教などはまだ、超越神以上に汎神であるアラーを絶対神に見立てたことを通じて、
形而下の万物への尊重も持ちえた結果、完全な自給自足の社会を運営していけるだけの
素養を信者に付与したりもしたわけだが、やはり新旧約聖書の教義をも参考としている
ことには違いないわけで、少なくとも、異教徒を含む万人と共にこの全世界を救って
もらおうなどという所まで仁徳を働かせられない点では共通しているのである。
まず、世界の半数にあたるアブラハム教徒が、信仰を通じてこの世界の終わりを欲している。
また、その他の宗教文化圏においても、今の世界など一旦は終了して一からやり直してくれた
ほうがいいぐらいに思っている人間がそれなりにいるだろうことが予想される。中国13億の
人口の内の約3分の1に当たる4億人超の貧困層の人間なども、政府からの弾圧でなかなか
表向きには悲鳴を上げられないにしたって、「今の世界の支配者が死んでくれるのなら、
自分たちも一緒に死んだって構わない(書経・泰誓)」ぐらいの心持ちでいたりするに
違いないわけだから、実に、世界の過半数に達する人間が、今の世界の人力による
救済などを欲しているわけでもないだろうことが察せられるのである。
だから、仮に破滅寸前のこの世界を救い取れる人間がいたとした所で、本当に救い
の手を差し伸べたりすることは、お節介になるだろうとも考えられるわけである。
世界の過半数の人間が今の世界の終わりを欲し、さらに半数の人間が、
人力ではなく神の力による救いを欲しているわけだから、人力による
現世界の救済などは、二重のお節介にすらなりかねないといえるのである。
実際問題、「神の救い」などありはしない。権力犯罪による自業自得の破滅に陥った信者
を救う神などは実在せず、ただ破滅を助長する悪巧方便上の架空神であったのみである。
だから、自分たちが救われるためにはまず、神からの救いなどを期待することから
取り止めなければならない。全くの架空だからこそあらゆる理想をも込められる神からの
救いへの期待などは一切捨て去って、濁念もあれば姦淫も糞尿もするし、自分自身にも寿命が
あるような、生身の人間の努力精進による救いこそを期待して行くようにしなければならない。
その上で、来世での昇天などではなく、この世界での着実な救済をも期待せねばならない。
今の世界を一旦終わらせたりするんなら、それこそ核戦争での人類滅亡すらもが免れ得なく
なるわけだから、人口爆発に環境破壊に極度の世相の荒廃といった、数多の問題が
鬱積しているこの世界での着実な救済こそを企図して行くのでなければならない。
超越神による自分たちだけの救いなどを欲したりすることも排した上で、なおかつ、
汚濁まみれなこの世界での着実な救いこそを志していかねばならないわけだから、それが
未だ出来ていない側の人間にとっての、二重の障壁でこそあるのだといえる。その障壁を
乗り越えないことには、多少なりとも救いの手が差し伸べられる機縁すら得られないのだから。
の手を差し伸べたりすることは、お節介になるだろうとも考えられるわけである。
世界の過半数の人間が今の世界の終わりを欲し、さらに半数の人間が、
人力ではなく神の力による救いを欲しているわけだから、人力による
現世界の救済などは、二重のお節介にすらなりかねないといえるのである。
実際問題、「神の救い」などありはしない。権力犯罪による自業自得の破滅に陥った信者
を救う神などは実在せず、ただ破滅を助長する悪巧方便上の架空神であったのみである。
だから、自分たちが救われるためにはまず、神からの救いなどを期待することから
取り止めなければならない。全くの架空だからこそあらゆる理想をも込められる神からの
救いへの期待などは一切捨て去って、濁念もあれば姦淫も糞尿もするし、自分自身にも寿命が
あるような、生身の人間の努力精進による救いこそを期待して行くようにしなければならない。
その上で、来世での昇天などではなく、この世界での着実な救済をも期待せねばならない。
今の世界を一旦終わらせたりするんなら、それこそ核戦争での人類滅亡すらもが免れ得なく
なるわけだから、人口爆発に環境破壊に極度の世相の荒廃といった、数多の問題が
鬱積しているこの世界での着実な救済こそを企図して行くのでなければならない。
超越神による自分たちだけの救いなどを欲したりすることも排した上で、なおかつ、
汚濁まみれなこの世界での着実な救いこそを志していかねばならないわけだから、それが
未だ出来ていない側の人間にとっての、二重の障壁でこそあるのだといえる。その障壁を
乗り越えないことには、多少なりとも救いの手が差し伸べられる機縁すら得られないのだから。
「君子の屢ばしば盟うや、乱も是の用えに長きに。(既出)
〜其れ共なるに止むるに匪ず、惟れぞ王の邛いなる」
「支配者たるものがやたらと口先だけの誓いを発するものだから、乱世も長きにわたって深刻化して行く。
それは『ただ共にある』などという事態にすらとどまってはいない、王たる者にとっての病巣とすらなっている。
(口先だけでの『共にいる』などという誓いこそが、乱世を招いて世界を破滅に陥れる元凶となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
〜其れ共なるに止むるに匪ず、惟れぞ王の邛いなる」
「支配者たるものがやたらと口先だけの誓いを発するものだから、乱世も長きにわたって深刻化して行く。
それは『ただ共にある』などという事態にすらとどまってはいない、王たる者にとっての病巣とすらなっている。
(口先だけでの『共にいる』などという誓いこそが、乱世を招いて世界を破滅に陥れる元凶となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
救ってやる義理がないとも言えるし、
こちらに救ってやる資格がないとも言える。
迷惑になるだけだろう?
神からの救いこそを期待しているような連中に、
人間ごときが救いの手を差し伸べたりするのは。
こちらに救ってやる資格がないとも言える。
迷惑になるだけだろう?
神からの救いこそを期待しているような連中に、
人間ごときが救いの手を差し伸べたりするのは。
うんこ。
こいつ, ひでぇな. 滓地蔵だなw
神への信仰に邁進する求道者たちを、
人間ごときが救ってやるほうが「失礼」ってもんだろう?
逆に言えば、人間の尊厳を侮るようなこと自体が、
人間に対する「失礼」でもあるわけじゃないか。
どうしてそんな無礼者を、人間様が救ってやる必要がある?
人間ごときが救ってやるほうが「失礼」ってもんだろう?
逆に言えば、人間の尊厳を侮るようなこと自体が、
人間に対する「失礼」でもあるわけじゃないか。
どうしてそんな無礼者を、人間様が救ってやる必要がある?
神仏を「自分たちを守ってくれる存在」と捉えるならば、信者も子供や若年者然とした人間であるほうが
好ましいということになる。結果、長幼の序も転倒して若者は老人を見下し、老人も若者を羨むようなザマに陥る。
神仏を「自分たちが守ってやるべき存在」であると捉えるならば、むしろ妻子を養うに値するような立派な
大人の男こそは信者としても相応しいということになり、以て父子夫婦長幼の序の尊重に与することともなる。
人々が「守ってくれる神」を信じているか、「守ってやるべき神」を信じているかで、世相までもが
上記のような開きを生ずることとなる。今はといえば、神仏への信敬も疎かと化してしまっている時代では
あるけれども、神仏といえば「自分たちを守ってくれる存在」という既成概念が定着してしまってもいるものだから、
神仏信仰もありとする以上は、そのせいでかえって長幼の序が乱されてしまう時代ともなっている。
日本で神仏信仰が依存主義的なものと化してしまったのは、聖書信仰が輸入されたりするさらに以前、
鎌倉後期に念仏信仰が大規模な教団派閥を形成し始めた頃にまで遡る。それ以前にも念仏信仰というものが
ありはしたが、あくまで数多の仏教教義の一つとしての扱いに止められて、そればかりが帰依の対象と
されることがなかった。それが、武家政権の台頭によって世相が荒廃し始めた鎌倉以降に特筆して
進取される対象となり、今に至るまで大規模な教団を形成するようになったのだった。
依存主義的な自分たちの信仰が、長幼の序の毀損に繋がったりしないようにするための措置として、
浄土教団は「念仏信仰はあくまで煩悩愚縛の凡夫にこそ相応しいもの」というスタンスを取り続けた。
「親や年長者への崇敬も疎かにしがちな愚か者こそは念仏にすがるしかない」という、謙虚な姿勢を保ち
続けたものだから、社会規模での父子長幼の序の毀損を助長するような真似にまでは至らなかった。
依存主義的な信仰こそは尊いものとし、それを嗜む者こそは貴人であるとすらする聖書信仰が戦国期に輸入されたり、
江戸時代中の禁教の後にまた解禁されたりするに至って、日本における父子夫婦長幼の序の損壊が積極的に
推進されるようなザマにまで陥った。解禁された所で、実際に信者となる人間はごく少数に止まり、
好ましいということになる。結果、長幼の序も転倒して若者は老人を見下し、老人も若者を羨むようなザマに陥る。
神仏を「自分たちが守ってやるべき存在」であると捉えるならば、むしろ妻子を養うに値するような立派な
大人の男こそは信者としても相応しいということになり、以て父子夫婦長幼の序の尊重に与することともなる。
人々が「守ってくれる神」を信じているか、「守ってやるべき神」を信じているかで、世相までもが
上記のような開きを生ずることとなる。今はといえば、神仏への信敬も疎かと化してしまっている時代では
あるけれども、神仏といえば「自分たちを守ってくれる存在」という既成概念が定着してしまってもいるものだから、
神仏信仰もありとする以上は、そのせいでかえって長幼の序が乱されてしまう時代ともなっている。
日本で神仏信仰が依存主義的なものと化してしまったのは、聖書信仰が輸入されたりするさらに以前、
鎌倉後期に念仏信仰が大規模な教団派閥を形成し始めた頃にまで遡る。それ以前にも念仏信仰というものが
ありはしたが、あくまで数多の仏教教義の一つとしての扱いに止められて、そればかりが帰依の対象と
されることがなかった。それが、武家政権の台頭によって世相が荒廃し始めた鎌倉以降に特筆して
進取される対象となり、今に至るまで大規模な教団を形成するようになったのだった。
依存主義的な自分たちの信仰が、長幼の序の毀損に繋がったりしないようにするための措置として、
浄土教団は「念仏信仰はあくまで煩悩愚縛の凡夫にこそ相応しいもの」というスタンスを取り続けた。
「親や年長者への崇敬も疎かにしがちな愚か者こそは念仏にすがるしかない」という、謙虚な姿勢を保ち
続けたものだから、社会規模での父子長幼の序の毀損を助長するような真似にまでは至らなかった。
依存主義的な信仰こそは尊いものとし、それを嗜む者こそは貴人であるとすらする聖書信仰が戦国期に輸入されたり、
江戸時代中の禁教の後にまた解禁されたりするに至って、日本における父子夫婦長幼の序の損壊が積極的に
推進されるようなザマにまで陥った。解禁された所で、実際に信者となる人間はごく少数に止まり、
その少数の内ですら、在日外国人が多くを占めているような状態でいるわけだが、その程度の受容度であっても、
「神仏は信者の側が依存すべき対象であり、依存できた者こそは偉い」などという観念が、聖書信仰の
是認を通じて広く定着してしまったものだから、神仏信仰やその容認全般が、君臣父子夫婦長幼といった
天下に尊ばれるべき序列を乱すことに与する悪材料と化してしまう結果と相成ったのである。
そのような現状から、神仏信仰こそが君臣父子夫婦長幼の序を助成するような世相にまで立ち戻るためには、
あまりにも多くの障壁を乗り越えて行く必要がある。聖書信仰を再度禁教下に置く必要があるのはもちろんのこと、
さらにそこから、「神仏すなわち依存対象」などという既成概念の傷痕を治療して行く必要がある。
神仏は第一にはこちらから守ってやるべき存在であり、守ってやることでこちらのほうが真理や道理の
把捉を堅固なものとするための存在であるとする。仮に神仏にすがらざるを得ないとしても、それは
自分たちの側が至らぬ人間であるからなのだから、そうであることを恥じるようにしなければならない。
そのような考え方を万人が諾えるようになり、実際に守ってやるための神仏こそを進んで信仰して行く
ようになったならば、そこで初めて、神仏信仰が君臣父子夫婦長幼の序を助成するような効果をも持ち始めるようになる。
そのような風潮が定着し始めた後にも、愚か者として依存主義的な信仰に燻っているしかないような人間もまた
残存しないとは言いきれない。ただ、そのような人間は生粋の小人とされて、
君子階級になれないなどの社会的制約を被ることともなる。
徳川家のように、浄土門の檀家でいながら征夷大将軍を務めていた家もあるが、
自分たちは自分たちで朱子学を主体とした仁義道徳の実践にじりきで務めてもいた。
家流の元祖たる家康公も神として東照宮に祀られるなど、到底念仏信者ばかりには止まらない
自力作善ぷりであると言えるわけで、そうでありながら浄土門にも帰依したのは、一種の謙遜であったと言える。
同様の謙遜は、平安時代の藤原氏などにも見られわけで、そのような念仏信仰と、ただの凡夫の念仏信仰とを
同列に扱ったりすべきでもないといえる。(だからこそ、浄土宗と浄土真宗の使い分けなどが有効ともなる)
「神仏は信者の側が依存すべき対象であり、依存できた者こそは偉い」などという観念が、聖書信仰の
是認を通じて広く定着してしまったものだから、神仏信仰やその容認全般が、君臣父子夫婦長幼といった
天下に尊ばれるべき序列を乱すことに与する悪材料と化してしまう結果と相成ったのである。
そのような現状から、神仏信仰こそが君臣父子夫婦長幼の序を助成するような世相にまで立ち戻るためには、
あまりにも多くの障壁を乗り越えて行く必要がある。聖書信仰を再度禁教下に置く必要があるのはもちろんのこと、
さらにそこから、「神仏すなわち依存対象」などという既成概念の傷痕を治療して行く必要がある。
神仏は第一にはこちらから守ってやるべき存在であり、守ってやることでこちらのほうが真理や道理の
把捉を堅固なものとするための存在であるとする。仮に神仏にすがらざるを得ないとしても、それは
自分たちの側が至らぬ人間であるからなのだから、そうであることを恥じるようにしなければならない。
そのような考え方を万人が諾えるようになり、実際に守ってやるための神仏こそを進んで信仰して行く
ようになったならば、そこで初めて、神仏信仰が君臣父子夫婦長幼の序を助成するような効果をも持ち始めるようになる。
そのような風潮が定着し始めた後にも、愚か者として依存主義的な信仰に燻っているしかないような人間もまた
残存しないとは言いきれない。ただ、そのような人間は生粋の小人とされて、
君子階級になれないなどの社会的制約を被ることともなる。
徳川家のように、浄土門の檀家でいながら征夷大将軍を務めていた家もあるが、
自分たちは自分たちで朱子学を主体とした仁義道徳の実践にじりきで務めてもいた。
家流の元祖たる家康公も神として東照宮に祀られるなど、到底念仏信者ばかりには止まらない
自力作善ぷりであると言えるわけで、そうでありながら浄土門にも帰依したのは、一種の謙遜であったと言える。
同様の謙遜は、平安時代の藤原氏などにも見られわけで、そのような念仏信仰と、ただの凡夫の念仏信仰とを
同列に扱ったりすべきでもないといえる。(だからこそ、浄土宗と浄土真宗の使い分けなどが有効ともなる)
「原壤夷して俟つ。子曰く、幼くして孫弟ならず、長じて述ぶる無く、
老いて死せざる、是れを賊と為す。杖を以って其の脛を叩く」
「(孔子の幼馴染の)原壤が、立てひざを突く無礼な姿勢で待機していた。先生は言われた。
『若い頃にも親や年長者への孝悌に励まず、年を取ってからもろくな業績を挙げず、
老いさらばえてもなかなか死にもしない。これこそは賊害とでもいえるものだろう』
そう言ってから、杖で原壤の脛を叩いた。(若いうちにろくに精進も積まないものだから、
年取ってから賊害にも等しい存在と化してしまう。孔子も杖を突くほどの老齢となっていた
ようだが、数千人の弟子を抱える大師匠として人々から親しまれていた頃のことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四五)
老いて死せざる、是れを賊と為す。杖を以って其の脛を叩く」
「(孔子の幼馴染の)原壤が、立てひざを突く無礼な姿勢で待機していた。先生は言われた。
『若い頃にも親や年長者への孝悌に励まず、年を取ってからもろくな業績を挙げず、
老いさらばえてもなかなか死にもしない。これこそは賊害とでもいえるものだろう』
そう言ってから、杖で原壤の脛を叩いた。(若いうちにろくに精進も積まないものだから、
年取ってから賊害にも等しい存在と化してしまう。孔子も杖を突くほどの老齢となっていた
ようだが、数千人の弟子を抱える大師匠として人々から親しまれていた頃のことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四五)
俗世で天道に適うものといえば、第一には先祖代々の家門の継承であるといえる。
自分個人の命は限られていても、家を代々保って行くことは半永久的たり得ることだから、
確かにそこに、天道にも合致する程もの普遍性が伴っていることが分かるのである。
代々の家門の継承こそが、天道に適う最たる事象であるからには、それに反するものや、
それを阻むものが天道に適わないものだといえる。嫡子でありながら遊び呆けてろくに
家を継ごうともしなかったり、家門の尊重を損なわしめるような邪教に溺れたりするのが、
悪い意味で天道に適わないあり方だといえる。「悪い意味で」というのは、そうでない
場合もあるからである。嫡子よりは家を継ぐ順位の低い生まれであって、分家を
立ち上げたりするよりも口減らしに専念したほうが経済的に都合がいい場合などに、
戒律厳守の仏門で出家するなどして子孫を絶つようにすれば、それがかえって
嫡子による家の興隆を助成することにすらなるような場合もあるからである。
(これはもちろん、天道ではなく仏道に適ったあり方だといえる)
単なる産めや殖やせやが天道に適うかといえば、決してそんなこともない。
苗字も持たないような百姓が、一定の集落で農産のためだけに集団規模を保ち続けたり
するところでも、遺伝子の保存ぐらいは続いているが、そこに日月星辰の運行のような
規則性はない。それはまさに、地球上の大自然の混沌とした化育にありのままに合致する
姿であるわけだから、天道に適わない代わりに、地道に適ったあり方でこそあるといえる。
天道との合致を本当に守り通しているような人間や国というのは、意外と多くない。
世界でも最も皇帝らしい皇帝の系譜を2000年以上に渡って継承して来た経歴のある
中国といえども、その最原初にあたる秦始皇帝や漢の高祖の頃から、すでに地道や非道
を基幹としたものとなっている。高祖劉邦も無名の百姓の出身なら、始皇帝の嬴政も
政商呂不韋の隠し子であり、いずれも天道から来たった皇統であるなどとは言いがたい。
自分個人の命は限られていても、家を代々保って行くことは半永久的たり得ることだから、
確かにそこに、天道にも合致する程もの普遍性が伴っていることが分かるのである。
代々の家門の継承こそが、天道に適う最たる事象であるからには、それに反するものや、
それを阻むものが天道に適わないものだといえる。嫡子でありながら遊び呆けてろくに
家を継ごうともしなかったり、家門の尊重を損なわしめるような邪教に溺れたりするのが、
悪い意味で天道に適わないあり方だといえる。「悪い意味で」というのは、そうでない
場合もあるからである。嫡子よりは家を継ぐ順位の低い生まれであって、分家を
立ち上げたりするよりも口減らしに専念したほうが経済的に都合がいい場合などに、
戒律厳守の仏門で出家するなどして子孫を絶つようにすれば、それがかえって
嫡子による家の興隆を助成することにすらなるような場合もあるからである。
(これはもちろん、天道ではなく仏道に適ったあり方だといえる)
単なる産めや殖やせやが天道に適うかといえば、決してそんなこともない。
苗字も持たないような百姓が、一定の集落で農産のためだけに集団規模を保ち続けたり
するところでも、遺伝子の保存ぐらいは続いているが、そこに日月星辰の運行のような
規則性はない。それはまさに、地球上の大自然の混沌とした化育にありのままに合致する
姿であるわけだから、天道に適わない代わりに、地道に適ったあり方でこそあるといえる。
天道との合致を本当に守り通しているような人間や国というのは、意外と多くない。
世界でも最も皇帝らしい皇帝の系譜を2000年以上に渡って継承して来た経歴のある
中国といえども、その最原初にあたる秦始皇帝や漢の高祖の頃から、すでに地道や非道
を基幹としたものとなっている。高祖劉邦も無名の百姓の出身なら、始皇帝の嬴政も
政商呂不韋の隠し子であり、いずれも天道から来たった皇統であるなどとは言いがたい。
欧英の王統や皇統なども、ろくに厳格な血脈を重んじられることもない代物であり、
全く以って皇帝や王侯自身が天道に適うことを企図してはいないことが確かとなっている。
インドでも祭祀階級と王族階級が分断されて、天道の追及は祭祀階級に委託されたりと、
人間が俗世の最高権力者たることと、天道の追及者たることが両立するということは
世界的にも稀有な事例となっており、辛うじて日本の天皇などが断続的に
その条件を満たしたり満たさなかったりする程度に止まっている。
その天皇も、極めて窮屈な生活を強いられるものだし、その他の日本やインドの神職なども、
浮世からは隔絶させられたような生活を(少なくとも本来は)要求されるものである。
人の身でありながら天道を志すことは尊いことであるし、世のため人のためになることでも
あるわけだが、今の汚濁にまみれた俗世の人間などが、あえて天道を好き好むことなども
ついぞない。むしろ、家も親も見失っての、個人主義の乱交状態に埋没することのほうを
良しとしている。それは天道はおろか、地道ですらない、一概に粗悪な方向を志す
餓鬼畜生の性分であるわけで、人間もまたその、普遍性からかけ離れた破綻状態
にこそ快楽を見出して堕落してしまいがちな生き物であるには違いないのである。
普遍的なものは普遍的なものであるが、それを志す者すら、実際の所は稀有なものである。
規則的な普遍性を帯びた天道を志さないのはもちろんのこと、混沌な中に百姓同士の村社会
を保って行く地道に適うことすら受け入れるとも限らない。限りある命しか持たない自分
個人の瑣末な栄華ばかりを追い求めて、子供一人残すことなく遊び散らかしの人生を終える
ようなこともあるわけだから、かえってそのような楽しみを好き好んでしまいやすい性向と
いうものもまた人間に備わっていることをわきまえた上で、さらにそれを上回る普遍性への
合致の楽しみに与ろうとする者こそが、天道を志し、地道に親しむ適格者ともなるであろう。
全く以って皇帝や王侯自身が天道に適うことを企図してはいないことが確かとなっている。
インドでも祭祀階級と王族階級が分断されて、天道の追及は祭祀階級に委託されたりと、
人間が俗世の最高権力者たることと、天道の追及者たることが両立するということは
世界的にも稀有な事例となっており、辛うじて日本の天皇などが断続的に
その条件を満たしたり満たさなかったりする程度に止まっている。
その天皇も、極めて窮屈な生活を強いられるものだし、その他の日本やインドの神職なども、
浮世からは隔絶させられたような生活を(少なくとも本来は)要求されるものである。
人の身でありながら天道を志すことは尊いことであるし、世のため人のためになることでも
あるわけだが、今の汚濁にまみれた俗世の人間などが、あえて天道を好き好むことなども
ついぞない。むしろ、家も親も見失っての、個人主義の乱交状態に埋没することのほうを
良しとしている。それは天道はおろか、地道ですらない、一概に粗悪な方向を志す
餓鬼畜生の性分であるわけで、人間もまたその、普遍性からかけ離れた破綻状態
にこそ快楽を見出して堕落してしまいがちな生き物であるには違いないのである。
普遍的なものは普遍的なものであるが、それを志す者すら、実際の所は稀有なものである。
規則的な普遍性を帯びた天道を志さないのはもちろんのこと、混沌な中に百姓同士の村社会
を保って行く地道に適うことすら受け入れるとも限らない。限りある命しか持たない自分
個人の瑣末な栄華ばかりを追い求めて、子供一人残すことなく遊び散らかしの人生を終える
ようなこともあるわけだから、かえってそのような楽しみを好き好んでしまいやすい性向と
いうものもまた人間に備わっていることをわきまえた上で、さらにそれを上回る普遍性への
合致の楽しみに与ろうとする者こそが、天道を志し、地道に親しむ適格者ともなるであろう。
「景公、晏子の宅を更るを欲す。曰く、子の宅や市に近く、湫隘囂塵なり。以て居る可からず。諸れを
爽塏なる者に更むるを請わん。辞して曰く、君の先臣も容れり、臣以て之れを嗣ぐに足らずとするは、
臣に於いて侈れるなり。且つ小人の市に近く、朝夕の求むる所を得るは、小人の利なり。敢えて里旅を
煩わさんや。公笑いて曰く、子、市に近くして、貴賤を識れり。対えて曰く、既に之れを利とせり、
敢えて識らざらんや。公曰く、何を貴しとし何を賤しとするか。是こに於いて景公、刑を繁くして、
踊を鬻ぐ者有り、故に対えて曰く、踊は貴く屨は賤しと。既已に君に告げりて、故に叔向と与に語りて
之れを称せり。景公是の為めに刑を省く。君子曰く、仁人の言は、其の利博き哉。晏子は一言に而て
斉侯の刑を省く。詩に曰く、君子如し祉いせば、乱庶やかに已れ遄まんとは、其れ是れの謂いか」
爽塏なる者に更むるを請わん。辞して曰く、君の先臣も容れり、臣以て之れを嗣ぐに足らずとするは、
臣に於いて侈れるなり。且つ小人の市に近く、朝夕の求むる所を得るは、小人の利なり。敢えて里旅を
煩わさんや。公笑いて曰く、子、市に近くして、貴賤を識れり。対えて曰く、既に之れを利とせり、
敢えて識らざらんや。公曰く、何を貴しとし何を賤しとするか。是こに於いて景公、刑を繁くして、
踊を鬻ぐ者有り、故に対えて曰く、踊は貴く屨は賤しと。既已に君に告げりて、故に叔向と与に語りて
之れを称せり。景公是の為めに刑を省く。君子曰く、仁人の言は、其の利博き哉。晏子は一言に而て
斉侯の刑を省く。詩に曰く、君子如し祉いせば、乱庶やかに已れ遄まんとは、其れ是れの謂いか」
「斉の景公が、重臣である晏嬰の自宅を新造することを案じた。『おまえの家は卑俗な市場に近い上に、
低地で狭く、喧騒としていていつも塵が舞い上がっているような状態ではないか。決して済むべきような
場所ではない。もっと爽やかな高地にでも移住してみてはどうかね』 晏嬰はその勧めを丁重に辞退
して言った。『今の私の居住地は先君とも縁の深い場所、臣下の身でこれを不足であるなどとするなら、
それはもはや驕りにも等しいことだと言えましょう。また、小人(晏嬰は短躯であったため自らをこう
謙称していたらしい)が市場に近い場所に住んで、朝晩に要り様なものを得るのは、小人としての利益に
適っているというものです。どうしてあえて大勢の人夫を動員する工事を行うような必要がありましょうか』
景公はこれを聞いて笑い、また言った。『おまえは市場の近くに住んでいるものだから、何が売れ筋で
何が売れ筋でないのかにも詳しかろう。』 晏嬰『市場のおかげで便利でいられているのですから、
どうして知らずにいるようなことがありましょうか』 景公『では、ぜひ売れ筋とそうでないものを
教えてくれ』 この頃、景公は人々への刑罰を厳酷化して、足切りの刑を頻繁に執り行っていたため、
義足を売る者が市場に多く群がっていた。そのため晏嬰は『義足が売れ筋で、靴が死に筋な模様です』
と答えた。景公に対してこう答えた後、晏嬰は晋の重臣叔向との会話でも同様なことを述べたりしたため、
景公もついには刑罰を行う回数を減らさざるを得なくなった。これについて君子(孔子)はこう評する。
『仁者の発言は、実に広くにわたって大利を及ぼすものだ。晏先生はたった一言で斉候の刑罰濫用を
中止させる功績を挙げた。詩経(小雅・巧言)に〈君子がもし善いことに熱心ならば、世相の乱れも
速やかに収まるだろう〉とあるのは、まさにこのことを言うのではなかろうか』(臣下として、あえて
喧騒で塵の舞うような劣悪環境に暮らし、小人の集う市場にも目を見張ることが礼に適うこととなる
と共に、実際に仁政を実現するような好材料ともなっている。『礼記』曲礼上第一にも『長者の前で
掃除をする時は塵が長者に被らないように注意し、塵取りも自分のほうに向けるようにする』とある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公三年より)
低地で狭く、喧騒としていていつも塵が舞い上がっているような状態ではないか。決して済むべきような
場所ではない。もっと爽やかな高地にでも移住してみてはどうかね』 晏嬰はその勧めを丁重に辞退
して言った。『今の私の居住地は先君とも縁の深い場所、臣下の身でこれを不足であるなどとするなら、
それはもはや驕りにも等しいことだと言えましょう。また、小人(晏嬰は短躯であったため自らをこう
謙称していたらしい)が市場に近い場所に住んで、朝晩に要り様なものを得るのは、小人としての利益に
適っているというものです。どうしてあえて大勢の人夫を動員する工事を行うような必要がありましょうか』
景公はこれを聞いて笑い、また言った。『おまえは市場の近くに住んでいるものだから、何が売れ筋で
何が売れ筋でないのかにも詳しかろう。』 晏嬰『市場のおかげで便利でいられているのですから、
どうして知らずにいるようなことがありましょうか』 景公『では、ぜひ売れ筋とそうでないものを
教えてくれ』 この頃、景公は人々への刑罰を厳酷化して、足切りの刑を頻繁に執り行っていたため、
義足を売る者が市場に多く群がっていた。そのため晏嬰は『義足が売れ筋で、靴が死に筋な模様です』
と答えた。景公に対してこう答えた後、晏嬰は晋の重臣叔向との会話でも同様なことを述べたりしたため、
景公もついには刑罰を行う回数を減らさざるを得なくなった。これについて君子(孔子)はこう評する。
『仁者の発言は、実に広くにわたって大利を及ぼすものだ。晏先生はたった一言で斉候の刑罰濫用を
中止させる功績を挙げた。詩経(小雅・巧言)に〈君子がもし善いことに熱心ならば、世相の乱れも
速やかに収まるだろう〉とあるのは、まさにこのことを言うのではなかろうか』(臣下として、あえて
喧騒で塵の舞うような劣悪環境に暮らし、小人の集う市場にも目を見張ることが礼に適うこととなる
と共に、実際に仁政を実現するような好材料ともなっている。『礼記』曲礼上第一にも『長者の前で
掃除をする時は塵が長者に被らないように注意し、塵取りも自分のほうに向けるようにする』とある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公三年より)
侮ることが破滅に繋がる神仏というのも実際にあるが、だからといって神仏が脅しをかけてくるような
こともない。侮っても侮ってもろくに罰を加えてくる気配も見せないようなままで、気づいた頃には
すでに逃れようのない破滅に見舞われていたりするのが、本物の天罰や仏罰というものである。
それは、人間が攻撃的な姿勢によって模倣できるようなものでも決してない、せいぜいできる限り消極的
な姿勢を貫く中に多少漸近できるような所があるぐらいのものである。それはちょうど、合気道家が
自らは全く攻撃を仕掛けない姿勢でいながら、相手が攻撃を仕掛けてくるや否や、その攻撃力を利用して
相手を自滅状態に追い込むようなもので、そのような修練を積んでいる合気道家が柔和な態度でいる
ようにして、天罰や仏罰を加えて来る神仏もまた、しごく柔和な態度姿勢のままでいるものである。
本当に罰を加えて来るような神仏こそは、普段は柔和なお姿のままで居られるという普遍法則があるから、
そのような「畏るべき神仏」を畏怖することもまた、そこまで怯えきったような態度と共にであるような
必要もない。地蔵菩薩こそは閻魔大王に化身して地獄の亡者を容赦ない裁きにかけるものとされているが、
だからといって道端のお地蔵さんを冷や汗をかくような恐怖感と共に拝んでいるような人間も居はしない。
一方で、地蔵の石仏を損壊したり窃盗したりする程にも心が荒んでいるような人間は確かに、地獄に落ちる
程にも精神面と現実面の両面において追い詰められていることが間違いない。普段は何気なく親しんで
いるような神仏こそは、免れようのない自業自得の破滅をもたらすこと、斯くの如くであるといえる。
こともない。侮っても侮ってもろくに罰を加えてくる気配も見せないようなままで、気づいた頃には
すでに逃れようのない破滅に見舞われていたりするのが、本物の天罰や仏罰というものである。
それは、人間が攻撃的な姿勢によって模倣できるようなものでも決してない、せいぜいできる限り消極的
な姿勢を貫く中に多少漸近できるような所があるぐらいのものである。それはちょうど、合気道家が
自らは全く攻撃を仕掛けない姿勢でいながら、相手が攻撃を仕掛けてくるや否や、その攻撃力を利用して
相手を自滅状態に追い込むようなもので、そのような修練を積んでいる合気道家が柔和な態度でいる
ようにして、天罰や仏罰を加えて来る神仏もまた、しごく柔和な態度姿勢のままでいるものである。
本当に罰を加えて来るような神仏こそは、普段は柔和なお姿のままで居られるという普遍法則があるから、
そのような「畏るべき神仏」を畏怖することもまた、そこまで怯えきったような態度と共にであるような
必要もない。地蔵菩薩こそは閻魔大王に化身して地獄の亡者を容赦ない裁きにかけるものとされているが、
だからといって道端のお地蔵さんを冷や汗をかくような恐怖感と共に拝んでいるような人間も居はしない。
一方で、地蔵の石仏を損壊したり窃盗したりする程にも心が荒んでいるような人間は確かに、地獄に落ちる
程にも精神面と現実面の両面において追い詰められていることが間違いない。普段は何気なく親しんで
いるような神仏こそは、免れようのない自業自得の破滅をもたらすこと、斯くの如くであるといえる。
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