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聖書 Part12
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この地球人類社会において、自明なまでに「第一の聖書」としての
地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。
「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。
ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。
四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

地位を確立しているのが、他でもない儒家の聖書、四書五経である。
「自明」というのは、たとえ本人が四書五経などを読みもしないでいたところで、
この世界において標準的な生活や仕事を営もうとすれば自然と、四書五経の教条に則って
しまうこととなるからだ。為政者が夏の禹帝のような治水や灌漑に励んだり、孔子や孟子が
訴えるような農繁期を尊重しつつの民の使役を心がけたりすれば、それにより当該国の底力
が蓄えられる。そのおかげで人々もまたそれなりの文明的な生活を営んで行けるように
なるわけだから、あえて経書を読んでそれに則っているかどうかすら関係ないのである。
ローマ帝国などは、「いい土地に蒔かれた種は三十倍、六十倍もの実を付ける(マルコ4:20)」
などというイエスの浮ついた教義を約2000年前に受け入れたりしていたこともあって、そんなことがある
わけもない実際の農産を疎かにして、作物を外地に発注するような真似に及んでいた。結果、ローマ帝国
の衰退と共に、イタリアという地域の国勢からして衰退していった。同じく王朝自体は何度も滅んでいる
中国のほうは、それでも歴代の徳治者たちによる国内での農産の振興という遺産が伴い続けているものだから、
すでに王政すら廃されている今に至ってもやはり、十億を超える人口を養えるような国力を保ち続けている。
四書五経に記録されているような堅実な政治規範や生活規範に則れば、そのぶんだけ人々も繁栄に与れる
一方で、それに反するような真似をやらかしていれば、短期的にも長期的にも衰亡が免れ得ないものとなる。
あえて経書を読んでから則ろうが則るまいが、そのようである限りにおいて人類もまた存続し、そうで
いられないようなら人類も全体規模で衰亡して行くことが免れ得ないのだから、四書五経こそは人類に
とって自明なほどにも「第一の聖書」として取り扱うことが避けられないものとなっているのである。

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人間を人間たらしめている最大級の要素の一つが、「言葉」の利用である。
他にも、刃物や器や車輪の如き高度な道具を用いることが、人を猿などの動物と
決定的に分かつ決定的な要素となっているが、人間と言う生き物を、都市社会を
形成する程にも文明的な存在たらしめているものといえば、それは言葉であるといえる。
言葉というものが体系的に形成され始めた起源からして、大規模な社会構造を
秩序化させるための道具として用い始めたことだった。今ですら、国家間で言語が
異なったり、地域間で方言が異なったりすることがいくらでもある。それがさらに
雑多化して、隣町同士や村人同士ですら言語が食い違って意思の疎通もままならない
となれば、ろくに交遊や交易すら覚束なくなるから、大規模な都市社会を形成するに
際して、お互いの約束事としての言語の統一を人々が図ってきた結果、国家規模や
国際規模ですら、ある程度以上に言語が類似するような世界が形成されて来たのである。
その上、日本語と英語のような疎遠な言語同士でも、通訳を介することでそれなりの
意思疎通を図ることができる。片方の言語があまりにも精緻すぎて、その意味を完全には
訳しきれないなどということもあるが、一般生活を司っている程度の基本的な意味構造を
翻訳して相手に伝える程度のことはできる。それもそのはず、人間はみな1.5〜2m程度の
身長と数十Kg程度の体重と、猿の体格をもう少し縦に伸ばして体毛を薄くしたような見た目
を持つといった共通性を帯びているわけだから、そうであることに即して形成されていった
言語も、疎遠なもの同士ですらそれなりに意味が通ずるようになっていったのである。
そういった、形質からの共通性に即して人間が自明に作り上げていった言語構造の内に、
「善い」とか「悪い」とかいった倫理的判断も存在しているわけで、そこに、第一義的な
神秘性などが介在する余地はないのである。「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」
という徳目に神秘性を差し挟む余地が少しもないように、善い悪いといった倫理的な
判断に、根本からの「神の采配」などが差し挟まれる余地もありはしないのである。
他にも、刃物や器や車輪の如き高度な道具を用いることが、人を猿などの動物と
決定的に分かつ決定的な要素となっているが、人間と言う生き物を、都市社会を
形成する程にも文明的な存在たらしめているものといえば、それは言葉であるといえる。
言葉というものが体系的に形成され始めた起源からして、大規模な社会構造を
秩序化させるための道具として用い始めたことだった。今ですら、国家間で言語が
異なったり、地域間で方言が異なったりすることがいくらでもある。それがさらに
雑多化して、隣町同士や村人同士ですら言語が食い違って意思の疎通もままならない
となれば、ろくに交遊や交易すら覚束なくなるから、大規模な都市社会を形成するに
際して、お互いの約束事としての言語の統一を人々が図ってきた結果、国家規模や
国際規模ですら、ある程度以上に言語が類似するような世界が形成されて来たのである。
その上、日本語と英語のような疎遠な言語同士でも、通訳を介することでそれなりの
意思疎通を図ることができる。片方の言語があまりにも精緻すぎて、その意味を完全には
訳しきれないなどということもあるが、一般生活を司っている程度の基本的な意味構造を
翻訳して相手に伝える程度のことはできる。それもそのはず、人間はみな1.5〜2m程度の
身長と数十Kg程度の体重と、猿の体格をもう少し縦に伸ばして体毛を薄くしたような見た目
を持つといった共通性を帯びているわけだから、そうであることに即して形成されていった
言語も、疎遠なもの同士ですらそれなりに意味が通ずるようになっていったのである。
そういった、形質からの共通性に即して人間が自明に作り上げていった言語構造の内に、
「善い」とか「悪い」とかいった倫理的判断も存在しているわけで、そこに、第一義的な
神秘性などが介在する余地はないのである。「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」
という徳目に神秘性を差し挟む余地が少しもないように、善い悪いといった倫理的な
判断に、根本からの「神の采配」などが差し挟まれる余地もありはしないのである。
ただ、そのような自明な道徳倫理を堅く守り通して行く上で、その志しの拠り所を神仏
への崇敬に頼るということは可能である。当該の神仏が、人道上の道徳倫理の自明性を
認める神仏ですらあれば、それも可能なことであり、正統な仏教上の尊格はみなその条件
を満たしているし、妖鬼扱いされないような神道上の神などもその条件を満たしている。
人としての最低限の道徳倫理の自明性にすら異を唱えるような神ともなれば、当然、
そのような条件は満たさない。そんな神などを妄りに信じたりしたならば、人間自身が
構築して来た自明な言語構造上の是非善悪すらもが見失われて、人間社会を秩序立てて
構築して行く上での必須要素としての言語の存在意義にすら綻びが生じてしまうこととなる。
それこそはまさに、「悪性ガン細胞型の言語利用」の元凶にすらなってしまうわけで、
そこでこそ、名辞の乱れに基づく「精神異常」というものが発生してしまうのでもある。
人道の自明性を非とし、人々に間違った言語利用による精神薄弱の深刻化をけしかけた
最原初にして最悪級の邪教である聖書信仰もまた、人道の自明性を厳密にわきまえる
儒学などよりも数百年以上遅くに発生している。人間自身が自明な言語構造を構築
して行った結果として是非善悪の分別も形成されていったというのが真である一方、
神の采配によって是非善悪が取り決められたなどという主張が偽であるからこそ、
聖書信仰などよりも儒学のほうが先に体系化されていったのでもある。後者が真で
前者が偽であるならば、儒学のような自明な人道を把捉する教学が、聖書信仰の
ような人道の自明性を否定する信教よりも先に形成されるはずもなかったのだから。
人道ぐらいは自明であることを認めた上で、そこから人道を超えたものとしての
神道や仏道に邁進して行くのであればいいものを。神仏への崇敬を振りかざして自明なる
人道を無みしようとしたりするものだから、人道の側の言語構造上からの自明性に即して、
それを否定しようとするような神仏信仰の側のお里すらもが知れてしまうのである。
への崇敬に頼るということは可能である。当該の神仏が、人道上の道徳倫理の自明性を
認める神仏ですらあれば、それも可能なことであり、正統な仏教上の尊格はみなその条件
を満たしているし、妖鬼扱いされないような神道上の神などもその条件を満たしている。
人としての最低限の道徳倫理の自明性にすら異を唱えるような神ともなれば、当然、
そのような条件は満たさない。そんな神などを妄りに信じたりしたならば、人間自身が
構築して来た自明な言語構造上の是非善悪すらもが見失われて、人間社会を秩序立てて
構築して行く上での必須要素としての言語の存在意義にすら綻びが生じてしまうこととなる。
それこそはまさに、「悪性ガン細胞型の言語利用」の元凶にすらなってしまうわけで、
そこでこそ、名辞の乱れに基づく「精神異常」というものが発生してしまうのでもある。
人道の自明性を非とし、人々に間違った言語利用による精神薄弱の深刻化をけしかけた
最原初にして最悪級の邪教である聖書信仰もまた、人道の自明性を厳密にわきまえる
儒学などよりも数百年以上遅くに発生している。人間自身が自明な言語構造を構築
して行った結果として是非善悪の分別も形成されていったというのが真である一方、
神の采配によって是非善悪が取り決められたなどという主張が偽であるからこそ、
聖書信仰などよりも儒学のほうが先に体系化されていったのでもある。後者が真で
前者が偽であるならば、儒学のような自明な人道を把捉する教学が、聖書信仰の
ような人道の自明性を否定する信教よりも先に形成されるはずもなかったのだから。
人道ぐらいは自明であることを認めた上で、そこから人道を超えたものとしての
神道や仏道に邁進して行くのであればいいものを。神仏への崇敬を振りかざして自明なる
人道を無みしようとしたりするものだから、人道の側の言語構造上からの自明性に即して、
それを否定しようとするような神仏信仰の側のお里すらもが知れてしまうのである。
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