サイズが 480KB を超えています。500KB を超えると書きこめなくなるよ。
聖書 Part11
▼ページ最下部
人間社会を司る体系化された思想信条の聖書として、
全世界においてその立場を揺るぎないものとしている権力道徳聖書、通称四書五経。
今となっては、その主要な編纂者や登場人物である孔子や孟子が至上の学聖として
崇められてもいるが、決して本人たち自身は恵まれた人生ばかりを送ったわけでもない。
すでに徳治の実践自体が疎かにされていた春秋戦国時代の中国で、せめてでも古来からの
権力道徳を保全しておこうとする目的で、儒者(学究者)という身分に即した学問の興隆
を試みていた。その結果として、周代までは専ら王侯の嗜むものであった権力道徳学が
市井に到るまで広く受容されることとなり、儒学道徳が「権力のための道徳」に止まらない、
「人間のための道徳」としてまで人口に膾炙されることとなったわけだから、孔子や孟子が
在野の学者として儒学を温めてくれたことも、人類にとっては「怪我の功名」になったのだといえる。
とはいえ本来は、儒学が考究対象とする道徳学もまた、国家権力を司ることこそを第一の
目的とした帝王学でこそあるわけだから、ただの学者や庶民としての受容に止まるよりは、
天下国家に名を馳せる大権力者として儒学を受容することこそが本望ともなるのである。
だから、孔子や孟子を儒学の大成者として尊ぶべきであるとはいえ、在野の学者に甘んじさせられた
その境遇までをもわざわざあえて見習ったりする必要はない。特に、孔子は妾腹の私生児という
それはそれは恵まれない境遇に生れ落ちながら、その逆境をばねにしての自学自習によって儒学の
始祖ともなったわけだから、その努力的な姿勢にあやかるべきである一方で、妾腹の私生児のような
立場であることを自ら恥としたその奥ゆかしさをも見習うべきなのである。故に、孔子がそのような立場
だからといって、妾腹の私生児のような立場自体を崇めたりするようなことがあってもならないのである。

全世界においてその立場を揺るぎないものとしている権力道徳聖書、通称四書五経。
今となっては、その主要な編纂者や登場人物である孔子や孟子が至上の学聖として
崇められてもいるが、決して本人たち自身は恵まれた人生ばかりを送ったわけでもない。
すでに徳治の実践自体が疎かにされていた春秋戦国時代の中国で、せめてでも古来からの
権力道徳を保全しておこうとする目的で、儒者(学究者)という身分に即した学問の興隆
を試みていた。その結果として、周代までは専ら王侯の嗜むものであった権力道徳学が
市井に到るまで広く受容されることとなり、儒学道徳が「権力のための道徳」に止まらない、
「人間のための道徳」としてまで人口に膾炙されることとなったわけだから、孔子や孟子が
在野の学者として儒学を温めてくれたことも、人類にとっては「怪我の功名」になったのだといえる。
とはいえ本来は、儒学が考究対象とする道徳学もまた、国家権力を司ることこそを第一の
目的とした帝王学でこそあるわけだから、ただの学者や庶民としての受容に止まるよりは、
天下国家に名を馳せる大権力者として儒学を受容することこそが本望ともなるのである。
だから、孔子や孟子を儒学の大成者として尊ぶべきであるとはいえ、在野の学者に甘んじさせられた
その境遇までをもわざわざあえて見習ったりする必要はない。特に、孔子は妾腹の私生児という
それはそれは恵まれない境遇に生れ落ちながら、その逆境をばねにしての自学自習によって儒学の
始祖ともなったわけだから、その努力的な姿勢にあやかるべきである一方で、妾腹の私生児のような
立場であることを自ら恥としたその奥ゆかしさをも見習うべきなのである。故に、孔子がそのような立場
だからといって、妾腹の私生児のような立場自体を崇めたりするようなことがあってもならないのである。

※省略されてます すべて表示...
親を犯罪者と呼ぶのが笠地蔵クオリティ・・・。
孔子様を穢しているという一点で、笠地蔵は地獄行き確定。^^

「子貢『いま政治に携わっている人びとはいかがなものでしょうか』
孔先生『ああ、計り升のようにつまらない連中よ。取り立てて論ずるまでもない』
(計り升は徴税のための道具。租税にしか興味がない人間という意味)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二〇)
経書に伝承されている孔子の発言はいかにも人格者じみたものが多いが、
「史記」の孔子世家などには、孔子が当時の権力者などに対して容赦なく辛辣な批判を
加えていたとも記録されている。そこまで具体的なものではないにしろ、実際上のように、
当時の権力者に対する否定的な物言いも孔子は遺していて、決して孔子も耳障りのいい
美辞麗句ばかりで発言を塗り固めるような偽善者などではなかったことが分かる。
孟子に至っては、時の大諸侯に対する容赦ない面前での批判を惜しげもなく繰り広げている。
その批判内容があまりにも皮肉じみていて耳に痛いものだから、対話相手の王候も
返す言葉すら見付からずにただニヤニヤ笑っているしかなかったりしたと、
孟子自身が伝承したとされる言行録「孟子」にも記録されている。
儒者にはそういった、ただただ温厚とばかりも言えない側面があるのであって、
それこそが真理にすら通ずる道理の把捉者の然るべき有り様であることは、
真理の直接的な把捉を企てる禅仏教における問答までもが、辛辣で時に不条理とすら
思えるほどの厳しさを帯びていることからも察することができるのである。
今でも辛口のコメンテーターがテレビや雑誌での発言で一定の支持を得たり
することがあるが、当然それが全て道理に合致した発言だったりするわけでもない。
ただ見聞客の共感が寄せられるような辛口の論評を試みているというばかりのことで、
そこにはやはりおもねりとしての意味こそが込められていたりするのである。
辛辣な物言いこそが時に真理や道理に合致する原理は、それこそ大乗仏教の般若思想あたりに集約されている。
AでもなければBでもなく、AでないものでもなければBでないものでもないといった言語上での否定尽くしこそが、
惑いの発露としての言葉を超絶した所にある悟りへと至らせる。そりゃあ、言葉上では耳障りのいい
肯定ばかりを重ねていた人間などにとっては、辛辣で不快なものに思えたりもするわけで、
道理や真理を把捉するに際しても、そのような辛辣さに甘んじて行くことが免れられないことを
予め覚悟しておくことなどもあって然るべきなのである。
真理や道理の把捉者こそが辛辣な言葉を述べることもあるし、ただの人気取り目的のコメンテーター
が辛辣な言葉を述べることもある。両者の違いは、聞き手を着実な向上へと導くような
(少なくとも破滅に陥りつつある相手を最低限の救いに与らせてやるぐらいの)配慮が備わって
いるか否かにあるのであり、前者はどんなに聞き苦しくてもそのような配慮が伴っている一方で、
後者は辛口ながらに共感できるような所があるとした所で、そのような配慮が伴っていることはない。
ただ、やはりその発言内容だけを見て、それが真理や道理にも通ずる辛口の言葉であるのか、
ただただ辛口なだけの言葉であるのかを判別するのは難しい。特に、教導が必須な未熟者こそは、
両者を弁別することも困難極まりない状態にあるわけだから、まずは信頼の置ける学門に
頼るということが必要ともなる。相手が儒者だから、仏者だからといった体裁を拠り所にして、
辛口な言葉にも耳を傾けて行くようにすれば、ただ評判のいい辛口コメンテーターの
言葉に耳を傾けたりするのとは全く異なる結果が得られもするのである。
(むろん、儒者や仏者自身の質にも善し悪しがあるので、そこは注意が必要である)
少なくとも、辛口だからといって人格者ではないなどという極論にまでは及ぶべきではない。
もちろん人格者ではない辛口好きもいるけれども、それが全てだなどと思い込んだなら、
もう二度と言葉での成長が見込めることもあるまい。言葉が人間の成長を促せないのではなく、
おまえこそが言葉による成長を頭から拒絶し尽くしてしまったのだから。
AでもなければBでもなく、AでないものでもなければBでないものでもないといった言語上での否定尽くしこそが、
惑いの発露としての言葉を超絶した所にある悟りへと至らせる。そりゃあ、言葉上では耳障りのいい
肯定ばかりを重ねていた人間などにとっては、辛辣で不快なものに思えたりもするわけで、
道理や真理を把捉するに際しても、そのような辛辣さに甘んじて行くことが免れられないことを
予め覚悟しておくことなどもあって然るべきなのである。
真理や道理の把捉者こそが辛辣な言葉を述べることもあるし、ただの人気取り目的のコメンテーター
が辛辣な言葉を述べることもある。両者の違いは、聞き手を着実な向上へと導くような
(少なくとも破滅に陥りつつある相手を最低限の救いに与らせてやるぐらいの)配慮が備わって
いるか否かにあるのであり、前者はどんなに聞き苦しくてもそのような配慮が伴っている一方で、
後者は辛口ながらに共感できるような所があるとした所で、そのような配慮が伴っていることはない。
ただ、やはりその発言内容だけを見て、それが真理や道理にも通ずる辛口の言葉であるのか、
ただただ辛口なだけの言葉であるのかを判別するのは難しい。特に、教導が必須な未熟者こそは、
両者を弁別することも困難極まりない状態にあるわけだから、まずは信頼の置ける学門に
頼るということが必要ともなる。相手が儒者だから、仏者だからといった体裁を拠り所にして、
辛口な言葉にも耳を傾けて行くようにすれば、ただ評判のいい辛口コメンテーターの
言葉に耳を傾けたりするのとは全く異なる結果が得られもするのである。
(むろん、儒者や仏者自身の質にも善し悪しがあるので、そこは注意が必要である)
少なくとも、辛口だからといって人格者ではないなどという極論にまでは及ぶべきではない。
もちろん人格者ではない辛口好きもいるけれども、それが全てだなどと思い込んだなら、
もう二度と言葉での成長が見込めることもあるまい。言葉が人間の成長を促せないのではなく、
おまえこそが言葉による成長を頭から拒絶し尽くしてしまったのだから。
笠地蔵ハバかだねえ。^^

株や為替の高速取引で大金を巻き上げることも、ヘッジファンドあたりにとっては仕事である。
仕事で稼ぎすらすればそれは正当な利益になるというのなら、相当に悪辣な仕事に到るまで、
その稼ぎがまっとうなもの扱いされてしまうことになるわけだから、職の貴賤を問題と
する以上にも、まずは仕事で稼ぐことが何でもかんでも真っ当なことであるなどという
考え方から是正されて行くべきだといえる。さすれば自然と、我田引水然とした
仕事などを卑しむ心持ちも生まれて来るのである。
「学べば禄はその中にあり(既出)」
(衛霊公第十五・三二より)
仁徳に即した仕事は当然奨励されて然るべきだし、仁徳の修養のための勉学はそれだけでも
仕事並みやそれ以上のものとしてすら扱われるべきである。いずれも稼ぎなど大して見込めも
しないにしろ、それらこそは人間の作為として大々的に奨励できるものである。してみれば、人間が
仕事によって旺盛に稼ぐことなどが本当に奨励されるべき事由などはどこにもないといえるのであり、
ただただ本人自身の欲望の発露である以上のものとして扱うべき要素なども少しもないのだといえる。
旺盛に稼ぎたがる人間が群れ集えば、そこに都市社会が形成される。田畑を耕して
作物を実らせるような地道な労働も放棄した者たちが、居住する建物や店舗やオフィス
で都市をギッシリと詰め合わせる。そこに人類文明の極致を見出したがる人間も多いわけだが、
それはどこまでも単なる欲望の所産なのであり、文明的だからといって決して道徳的なわけでもない。
人類文明の極致が都市社会であるというのなら、文明自体、さして道徳的なものではないということ
にもなるが、そもそも、都市社会ばかりが文明の精髄であるわけではない。都市に住まう人間にまで
効率的に食糧を供給できる農産だとか、その農産のための水源を充実させる治水や灌漑に到るまでが
人類文明の大局なのであり、そのような文明の大局からの成功を司れる者こそは、真の文明的偉人なのである。
してみれば、徳治は専ら農業や必需工業の保全に務めればいいわけだが、その成果を消費するもの
としての都市社会というものもまた生ずるわけである。そこでの人びとの欲望の肥大化にも一定の
制限をかけたりしなければならなくなることもあり得るわけだが、そこでただただ厳しく制限する
ばかりでも、生産と消費のバランスを欠くことになってしまう。であるからには、徳治と共に、
人びとのぬぐい難い性向としての稼ぎたがりなどを必要悪として寛容できる度量もまた為政者
には必要となるのであり、そこは清濁を共に諦観する道家的な感性にも沿うべき所であるといえる。
為政者が商売人たちとつるんでまで都市の優遇や農業の軽視に及ぶようなら、もはや文明の大局からの
成功も見込めなくなるわけだから、それはあるまじきことである。為政者としてはやはり、推進しづらい
農業や必需工業の保全にこそ専らでいながら、都市での商人の活動をアメとムチで統制するぐらいの
姿勢であるのが最適であり、そこは農工業と商業が可換だったりするところでもないのである。為政者
こそは農夫や工匠以上の重任を負って行かねばならぬものであると、固くわきまえるべきなのである。
「徳を経いて回ならざるは、以て禄を干むるためにあらざるなり」
「徳行に励んで邪曲を避けることは、そもそも収入のために心がけたりすることではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)
にもなるが、そもそも、都市社会ばかりが文明の精髄であるわけではない。都市に住まう人間にまで
効率的に食糧を供給できる農産だとか、その農産のための水源を充実させる治水や灌漑に到るまでが
人類文明の大局なのであり、そのような文明の大局からの成功を司れる者こそは、真の文明的偉人なのである。
してみれば、徳治は専ら農業や必需工業の保全に務めればいいわけだが、その成果を消費するもの
としての都市社会というものもまた生ずるわけである。そこでの人びとの欲望の肥大化にも一定の
制限をかけたりしなければならなくなることもあり得るわけだが、そこでただただ厳しく制限する
ばかりでも、生産と消費のバランスを欠くことになってしまう。であるからには、徳治と共に、
人びとのぬぐい難い性向としての稼ぎたがりなどを必要悪として寛容できる度量もまた為政者
には必要となるのであり、そこは清濁を共に諦観する道家的な感性にも沿うべき所であるといえる。
為政者が商売人たちとつるんでまで都市の優遇や農業の軽視に及ぶようなら、もはや文明の大局からの
成功も見込めなくなるわけだから、それはあるまじきことである。為政者としてはやはり、推進しづらい
農業や必需工業の保全にこそ専らでいながら、都市での商人の活動をアメとムチで統制するぐらいの
姿勢であるのが最適であり、そこは農工業と商業が可換だったりするところでもないのである。為政者
こそは農夫や工匠以上の重任を負って行かねばならぬものであると、固くわきまえるべきなのである。
「徳を経いて回ならざるは、以て禄を干むるためにあらざるなり」
「徳行に励んで邪曲を避けることは、そもそも収入のために心がけたりすることではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三三より)
親を犯罪者と呼ぶのが笠地蔵クオリティ・・・。
しかし、毎日コピペかよ、頭ね〜のw
「喜怒哀楽の未だ発せざる、之れを中と謂う。
発して皆な中節なる、之れを和と謂う。中は天下の大本なり。
和は天下の達道なり。中と和を致して天地位し、万物も育す」
「喜怒哀楽の如き情念がほとばしる以前の状態を中(中正)と言う。
情念を発しながらもそれらが全て中正の節度を保てていることを和(調和)と言う。
中正こそは天下の根本中の根本であり、調和こそは天下における至上の道である。
中正と調和によって天地もよく整い、万物もまた健全に化育する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一より)
人間、喜び過ぎや楽しみ過ぎも「過ぎたるはなお及ばざるが如し」であり、
情念以前の中正の徳によってこそ成り立っているこの世での破滅すらをも自業自得で
招きかねないものである。かといって別に悲しんだり怒ったりしてばかりいればいい
というのでもないし、またひたすら無感情でばかりいればいいというのですらない。
人間として相応の喜怒哀楽を持ちながらも、それらの情念全てが中正の節度にも
適っていて、結果的には天地万物の化育にすら合致するようであるのがよいのである。
自らの情念が中正の節操を保ち続けることを「中庸」と言い、喜怒哀楽の極致にまで
達しながらも、超絶的な精進によって中正に立ち返ることを「中道」と言う。中道の
上達者は大悟者などとしても扱われ、それこそ聖人の鑑として扱われたりもするわけだが、
(中庸の堅持者はせいぜい賢人として扱われる程度に止まる場合がほとんど)いざ中正に
立ち返って後の大悟者が中道の実践として務むべきことは、中庸の実践ともさして変わらない。
発して皆な中節なる、之れを和と謂う。中は天下の大本なり。
和は天下の達道なり。中と和を致して天地位し、万物も育す」
「喜怒哀楽の如き情念がほとばしる以前の状態を中(中正)と言う。
情念を発しながらもそれらが全て中正の節度を保てていることを和(調和)と言う。
中正こそは天下の根本中の根本であり、調和こそは天下における至上の道である。
中正と調和によって天地もよく整い、万物もまた健全に化育する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一より)
人間、喜び過ぎや楽しみ過ぎも「過ぎたるはなお及ばざるが如し」であり、
情念以前の中正の徳によってこそ成り立っているこの世での破滅すらをも自業自得で
招きかねないものである。かといって別に悲しんだり怒ったりしてばかりいればいい
というのでもないし、またひたすら無感情でばかりいればいいというのですらない。
人間として相応の喜怒哀楽を持ちながらも、それらの情念全てが中正の節度にも
適っていて、結果的には天地万物の化育にすら合致するようであるのがよいのである。
自らの情念が中正の節操を保ち続けることを「中庸」と言い、喜怒哀楽の極致にまで
達しながらも、超絶的な精進によって中正に立ち返ることを「中道」と言う。中道の
上達者は大悟者などとしても扱われ、それこそ聖人の鑑として扱われたりもするわけだが、
(中庸の堅持者はせいぜい賢人として扱われる程度に止まる場合がほとんど)いざ中正に
立ち返って後の大悟者が中道の実践として務むべきことは、中庸の実践ともさして変わらない。
日本の大乗仏教の僧侶が、聖道門の禅僧であるにも関わらず俗人と酒を飲み交わしたり
することが江戸時代の頃からあった。聖道門は精進修行が第一という手前、仏の道を
外れた姿として批判的に見られることもあるが、一度喜怒哀楽の極限にいたるような
極度の精進を積んだ上で、また中正に立ち返ってそのような振る舞いで居るというのなら、
古来から酒を神聖視すらして来ている日本と言う国のお国柄もある手前、飲酒ぐらいは
中正の節度に適っているうちに入れられなくもなかったりするものである。
儒者も節度を保って酒を飲むぐらいのことはするし、孔子すら琴瑟を弾いて音楽を楽しんだり
もしていたという。ただ、同時に当時俗悪とされていた鄭国の音楽を卑しんで避けたりと、
物事の楽しみ方全般に節度を保たせてもいたのである。それは、天下国家を司る君子たらんと
する者としてこそ、義務感をも伴って心がけられていたことであり、たとえば、そんな責務を
負わない商売人などが自らの享楽に節度を持たせようなどとしたところで、本物の君子たる
ことを心がける者ほどの気概が伴わないために、おざなりになっしてまったりするのである。
自他の情念が中正の節度に適うように心がけて行くことからして、君子や仏者でもない
限りはなかなか困難なことである。それは、そのような立場こそが中節を守る気概を極限まで
高めてくれるものであるからで、君子や仏者になるもの自身の素質の如何とはまた別の話である。
君子や仏者になる素養のある者といえども、商売人などで居させられたなら中節を保つことなど
は疎かにしてしまいかねないし、生来商売人であるような人間といえども、君子階級や出家修行者
で居させられたなら、あまりにも度を外したような享楽などは控え気味になったりするものである。
衣冠や剃髪といったその装束からして、度を越した享楽を心理的に控えさせるものであるわけで、
そういった体裁の部分から中正に適わせて行くことも、決して無駄なことではないのである。
することが江戸時代の頃からあった。聖道門は精進修行が第一という手前、仏の道を
外れた姿として批判的に見られることもあるが、一度喜怒哀楽の極限にいたるような
極度の精進を積んだ上で、また中正に立ち返ってそのような振る舞いで居るというのなら、
古来から酒を神聖視すらして来ている日本と言う国のお国柄もある手前、飲酒ぐらいは
中正の節度に適っているうちに入れられなくもなかったりするものである。
儒者も節度を保って酒を飲むぐらいのことはするし、孔子すら琴瑟を弾いて音楽を楽しんだり
もしていたという。ただ、同時に当時俗悪とされていた鄭国の音楽を卑しんで避けたりと、
物事の楽しみ方全般に節度を保たせてもいたのである。それは、天下国家を司る君子たらんと
する者としてこそ、義務感をも伴って心がけられていたことであり、たとえば、そんな責務を
負わない商売人などが自らの享楽に節度を持たせようなどとしたところで、本物の君子たる
ことを心がける者ほどの気概が伴わないために、おざなりになっしてまったりするのである。
自他の情念が中正の節度に適うように心がけて行くことからして、君子や仏者でもない
限りはなかなか困難なことである。それは、そのような立場こそが中節を守る気概を極限まで
高めてくれるものであるからで、君子や仏者になるもの自身の素質の如何とはまた別の話である。
君子や仏者になる素養のある者といえども、商売人などで居させられたなら中節を保つことなど
は疎かにしてしまいかねないし、生来商売人であるような人間といえども、君子階級や出家修行者
で居させられたなら、あまりにも度を外したような享楽などは控え気味になったりするものである。
衣冠や剃髪といったその装束からして、度を越した享楽を心理的に控えさせるものであるわけで、
そういった体裁の部分から中正に適わせて行くことも、決して無駄なことではないのである。
今の日本も、出版不況や本屋の大量閉店などが問題となっている。
ネットの普及や某大手古本チェーンによる薄利多売攻勢などの理由もあるが、
最大の原因は何といっても、本や雑誌を出版する側の文化的貧困にこそある。
その、文化的貧困もまた、敗戦後ずっと続いているアメリカからの情報統制を
原因としている。ろくでもないような情報の流布で日本人を愚民化し、自分たち
にとって扱いやすくするために、本や新聞から映画やテレビに到るまで、あらゆる
メディアを蒙昧さを深刻化させるような下劣な情報で塗り固めて来たのである。
その、アメリカによるメディアを通じての愚民化政策も、元はといえばローマ帝国
での粗悪な演劇や闘技などによる大衆の飼い殺しを範としている。そのローマ帝国が
内乱でいい加減崩壊の危機に迫られていた約二千年前に、強制的に全人民を支配する
強権の拠り所として利用されたのがキリスト教でもあるわけで、キリスト教こそは、
人びとを文化的退廃によって人畜化する手段の極致として広められたのでもある。
価値ある古典は刷りもしないか書棚の隅っこへと追いやり、真新しさばかりを売り
にした新刊書を膨大に出版しては裁断しての繰り返し。そこで本当に新しくて
ためになる論説が提唱されているのならまだしも、実は既存の論説を多少言い換えて
みただけでしかなかったりする。それでも、その「言い回しの真新しさ」を根拠に
ドシドシと無益な新刊書を出版したりする、そのような徒労をよしとするあり方
からして、すでに聖書信仰の粗悪さにもあてられたものとなっているのである。
犯罪聖書の中で提示されている実質的な事物自体は、全くの既存のものばかりである。
為政者が政商や縦横家といった権力犯罪者を近づけて栄華を貪れというばかりのこと。
それ自体は大昔から世界中の都市国家で試みられて来たことであり、特に中国で
ネットの普及や某大手古本チェーンによる薄利多売攻勢などの理由もあるが、
最大の原因は何といっても、本や雑誌を出版する側の文化的貧困にこそある。
その、文化的貧困もまた、敗戦後ずっと続いているアメリカからの情報統制を
原因としている。ろくでもないような情報の流布で日本人を愚民化し、自分たち
にとって扱いやすくするために、本や新聞から映画やテレビに到るまで、あらゆる
メディアを蒙昧さを深刻化させるような下劣な情報で塗り固めて来たのである。
その、アメリカによるメディアを通じての愚民化政策も、元はといえばローマ帝国
での粗悪な演劇や闘技などによる大衆の飼い殺しを範としている。そのローマ帝国が
内乱でいい加減崩壊の危機に迫られていた約二千年前に、強制的に全人民を支配する
強権の拠り所として利用されたのがキリスト教でもあるわけで、キリスト教こそは、
人びとを文化的退廃によって人畜化する手段の極致として広められたのでもある。
価値ある古典は刷りもしないか書棚の隅っこへと追いやり、真新しさばかりを売り
にした新刊書を膨大に出版しては裁断しての繰り返し。そこで本当に新しくて
ためになる論説が提唱されているのならまだしも、実は既存の論説を多少言い換えて
みただけでしかなかったりする。それでも、その「言い回しの真新しさ」を根拠に
ドシドシと無益な新刊書を出版したりする、そのような徒労をよしとするあり方
からして、すでに聖書信仰の粗悪さにもあてられたものとなっているのである。
犯罪聖書の中で提示されている実質的な事物自体は、全くの既存のものばかりである。
為政者が政商や縦横家といった権力犯罪者を近づけて栄華を貪れというばかりのこと。
それ自体は大昔から世界中の都市国家で試みられて来たことであり、特に中国で
新旧約聖書よりも先に編纂された正史書である「史記」などには、王侯が政商や食客
や縦横家を囲っての悪逆非道三昧でいたことが如実に記録されている。犯罪聖書が
それを読んで実践する者にけしかけていることもまたそれと全く同じことであり、
ただその言い回しが宗教という体裁をとっていることばかりが違うのみである。
そういう、自分たちで大して新規なことをやっているわけでもないのに、そこに虚飾
を弄したことで全くの新造が成されたかのようにうそぶく風潮が認められてしまった
時にこそ、今の日本の不実な出版攻勢などが認められてしまいもするのである。
それこそ、最大級の文化に対する冒涜というものであり、そのせいで本物の
人類文化が隅に追いやられてしまったせいで人々が大切なものを見失い、世の中
全体が、船頭多くして船落とし穴にはまるような事態をも招いてしまうのである。
近代以前の東洋人が、古来からの文化の踏襲に専らでいて、粗悪な虚飾文化の新造を
できる限り控えていたのも、創作意欲に欠けるからではなく、真に秀逸な文化こそを
受容して発展させて行こうとする心意気があったからでこそある。見た目には美々しい
虚飾文化の濫造などに惑わされることなく、本当に大事なものの継承に務めて行く
ことでこそ、時には鎌倉新仏教や朱子学のような新たな文化興隆もまた実現される
わけだから、決して保守目的ばかりで古典の尊重を心がけたりすべきなのでもない。
「豊は、亨る。王は之れに仮る。憂うる勿れ、日中に宣し」
「豊かなることは、天下を統べる王者こそがこれに到るべきものである。
憂えることなく、白日の下にその豊かさを万人へと分け与えればよい。
(利益を寡占しようとする小人などが豊かさに与るべきなのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豊より)
や縦横家を囲っての悪逆非道三昧でいたことが如実に記録されている。犯罪聖書が
それを読んで実践する者にけしかけていることもまたそれと全く同じことであり、
ただその言い回しが宗教という体裁をとっていることばかりが違うのみである。
そういう、自分たちで大して新規なことをやっているわけでもないのに、そこに虚飾
を弄したことで全くの新造が成されたかのようにうそぶく風潮が認められてしまった
時にこそ、今の日本の不実な出版攻勢などが認められてしまいもするのである。
それこそ、最大級の文化に対する冒涜というものであり、そのせいで本物の
人類文化が隅に追いやられてしまったせいで人々が大切なものを見失い、世の中
全体が、船頭多くして船落とし穴にはまるような事態をも招いてしまうのである。
近代以前の東洋人が、古来からの文化の踏襲に専らでいて、粗悪な虚飾文化の新造を
できる限り控えていたのも、創作意欲に欠けるからではなく、真に秀逸な文化こそを
受容して発展させて行こうとする心意気があったからでこそある。見た目には美々しい
虚飾文化の濫造などに惑わされることなく、本当に大事なものの継承に務めて行く
ことでこそ、時には鎌倉新仏教や朱子学のような新たな文化興隆もまた実現される
わけだから、決して保守目的ばかりで古典の尊重を心がけたりすべきなのでもない。
「豊は、亨る。王は之れに仮る。憂うる勿れ、日中に宣し」
「豊かなることは、天下を統べる王者こそがこれに到るべきものである。
憂えることなく、白日の下にその豊かさを万人へと分け与えればよい。
(利益を寡占しようとする小人などが豊かさに与るべきなのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豊より)
しかし、コピペと妄想ばかりで頭よくねーな地蔵は
しかし、コピペと妄想ばかりで頭よくねーな地蔵は
逮捕されたことか?
三島は犬死ではなく民間防衛隊を組織して諜報の訓練もしていた。
お遊びのレベルではなく実地訓練もしている。
その上で自衛隊の某ジェネラルに裏切られて活動に行き詰まり自害した。
平賀源内は頭がいいだけではなく、長崎の出島に足しげく通い、
オランダ人と親交を深めオランダ語の学習と書籍の購入などをしていた。
笠地蔵にメールを送った。
三島は犬死ではなく民間防衛隊を組織して諜報の訓練もしていた。
お遊びのレベルではなく実地訓練もしている。
その上で自衛隊の某ジェネラルに裏切られて活動に行き詰まり自害した。
平賀源内は頭がいいだけではなく、長崎の出島に足しげく通い、
オランダ人と親交を深めオランダ語の学習と書籍の購入などをしていた。
笠地蔵にメールを送った。
恐るべきものを恐れて恐るべきでないものを恐れなければ福果に与れ、
恐るべきものを恐れずに恐るべきでないものを恐れるようなら禍いに見舞われる、
これは、人間の言語使用の自明性にも即してそうあるべき原則であるといえる。
この原則を反故にするようなら、そもそも「恐れる」とか「禍福」とかいった
言葉の定義からして捻じ曲げてしまうことになるわけで、そのせいで
もはや人間文化の実地性から乖離してしまうことともなるのである。
その、実地性を反故にした浮ついた領域での文化文明の構築こそは、
人間社会にとってのガン細胞的な存在ともなる。世のため人のための公益に
適うことを害とし、公益を損なってまで自分たちばかりが裕福であることこそは
真の幸福であるとする、明確な言葉にしてみれば悪逆非道の放辟邪侈以外の
何物でもないことが丸分かりであるような所業が、そもそもの言語的な定義から
蔑ろにした浮ついた言葉遣いによってその粗悪さを濁されて、致命的な破滅に
陥るまでの間における悪逆非道の存続を助け続けることともなるのである。
何を恐るべきでないかといって、精神の薄弱な人間や、完全に心神を喪失
してしまっているような人間ほど恐るべきでない存在も他にないのである。
心神喪失のあまり気が狂って怒り狂うなどということも確かにあって、
それが常人にとっての恐怖の対象になりやすいということもあるわけだが、
そこに恐怖だ畏怖だを抱いて、篤実な精神性と共に怒りを発する武王の如き
人間に対する畏怖を疎かにしてしまうというのなら、それによってこの世の中
全体の養生を疎かにして、ガン細胞人種の身勝手な増長を許すこととなってしまう。
それが最終的には自他の破滅をも招いてしまうわけだから、精神薄弱者や心神
喪失者を畏怖したりすることは、自業自得の自滅の従犯にすらなるのだといえる。
恐るべきものを恐れずに恐るべきでないものを恐れるようなら禍いに見舞われる、
これは、人間の言語使用の自明性にも即してそうあるべき原則であるといえる。
この原則を反故にするようなら、そもそも「恐れる」とか「禍福」とかいった
言葉の定義からして捻じ曲げてしまうことになるわけで、そのせいで
もはや人間文化の実地性から乖離してしまうことともなるのである。
その、実地性を反故にした浮ついた領域での文化文明の構築こそは、
人間社会にとってのガン細胞的な存在ともなる。世のため人のための公益に
適うことを害とし、公益を損なってまで自分たちばかりが裕福であることこそは
真の幸福であるとする、明確な言葉にしてみれば悪逆非道の放辟邪侈以外の
何物でもないことが丸分かりであるような所業が、そもそもの言語的な定義から
蔑ろにした浮ついた言葉遣いによってその粗悪さを濁されて、致命的な破滅に
陥るまでの間における悪逆非道の存続を助け続けることともなるのである。
何を恐るべきでないかといって、精神の薄弱な人間や、完全に心神を喪失
してしまっているような人間ほど恐るべきでない存在も他にないのである。
心神喪失のあまり気が狂って怒り狂うなどということも確かにあって、
それが常人にとっての恐怖の対象になりやすいということもあるわけだが、
そこに恐怖だ畏怖だを抱いて、篤実な精神性と共に怒りを発する武王の如き
人間に対する畏怖を疎かにしてしまうというのなら、それによってこの世の中
全体の養生を疎かにして、ガン細胞人種の身勝手な増長を許すこととなってしまう。
それが最終的には自他の破滅をも招いてしまうわけだから、精神薄弱者や心神
喪失者を畏怖したりすることは、自業自得の自滅の従犯にすらなるのだといえる。
「武王も亦一たび怒りて天下の民を安んぜり(梁恵王章句下・三)」というのは、
武王が文王譲りの篤実さに即して、殷紂の暴虐に怒りを示して、それを討伐した
からである。武王がそのような怒りによって人びとを畏怖させて、天下の人心を
周朝に集められたのは、当時の殷といえども「腐った鯛」であったからで、
殷帝国による歴代の治世もまたそれなりのものであったからこそ、その
伝統を反故にした紂王からも人心が離れて、かねてより評判のよかった
周王国へと人びとの支持が移行することともなったわけである。
たとえば、今のように人びとが情報洗脳によって、篤実な精神性に基づく怒りを
畏れたりすることもできなくなってしまっている状態ともなれば、周武王の如き
蜂起のみによって人びとが新たな政権への帰服意識を寄せるようなこともないであろう。
まずは、恐るべきものを恐れず恐るべきでないものを恐れる心理状態に追い込まれて
しまっている人びとの洗脳から解除して行くのでなければ、篤実な精神性への畏怖に
基づく治世の実現なども叶わない。であるからには、真っ当な手法に基づいた
長期の治世などもまた期待できないままに終わることとなってしまう。
さしあたって必要なのは、武王の如き蜂起以上にも、それによる成功すらをも阻む
カルト洗脳の解除のほうである。つまり、今なら聖書信仰の根絶がそれに当たる。
それなくして武装蜂起ばかりが先行するというのでれば、項羽や信長が破壊の限りを
尽くすことで人びとを物理的な恐怖に陥れたようなショック療法すらもが必要と
なってしまう。そうならないためにも、人びとに恐るべきものを恐れて恐るべきで
ないものを恐れない、まともな判断力をまず取り戻させる必要があるのである。
「今、王も亦た一たび怒りて天下の民を安んぜば、民惟だ王の勇を好まざるを恐れん」
「いま、あなたが王として(武王のような篤実な魂に根ざした)怒りを発することで
民を安んじたなら、民たちはあなたが勇敢さを好まないような魂抜きになることから
恐れるようになることでしょう。(恐るべきものを恐れる極致の実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・三より)
武王が文王譲りの篤実さに即して、殷紂の暴虐に怒りを示して、それを討伐した
からである。武王がそのような怒りによって人びとを畏怖させて、天下の人心を
周朝に集められたのは、当時の殷といえども「腐った鯛」であったからで、
殷帝国による歴代の治世もまたそれなりのものであったからこそ、その
伝統を反故にした紂王からも人心が離れて、かねてより評判のよかった
周王国へと人びとの支持が移行することともなったわけである。
たとえば、今のように人びとが情報洗脳によって、篤実な精神性に基づく怒りを
畏れたりすることもできなくなってしまっている状態ともなれば、周武王の如き
蜂起のみによって人びとが新たな政権への帰服意識を寄せるようなこともないであろう。
まずは、恐るべきものを恐れず恐るべきでないものを恐れる心理状態に追い込まれて
しまっている人びとの洗脳から解除して行くのでなければ、篤実な精神性への畏怖に
基づく治世の実現なども叶わない。であるからには、真っ当な手法に基づいた
長期の治世などもまた期待できないままに終わることとなってしまう。
さしあたって必要なのは、武王の如き蜂起以上にも、それによる成功すらをも阻む
カルト洗脳の解除のほうである。つまり、今なら聖書信仰の根絶がそれに当たる。
それなくして武装蜂起ばかりが先行するというのでれば、項羽や信長が破壊の限りを
尽くすことで人びとを物理的な恐怖に陥れたようなショック療法すらもが必要と
なってしまう。そうならないためにも、人びとに恐るべきものを恐れて恐るべきで
ないものを恐れない、まともな判断力をまず取り戻させる必要があるのである。
「今、王も亦た一たび怒りて天下の民を安んぜば、民惟だ王の勇を好まざるを恐れん」
「いま、あなたが王として(武王のような篤実な魂に根ざした)怒りを発することで
民を安んじたなら、民たちはあなたが勇敢さを好まないような魂抜きになることから
恐れるようになることでしょう。(恐るべきものを恐れる極致の実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・三より)
自暴自棄状態の妾腹の私生児の精神状態こそは、器質的に
脳機能が正常な人間が陥ることのできる最低度の精神状態に当たる。
脳に器質的な欠陥があるわけでもない普通の人間が罹患し得る、最重度の精神障害。
医学的には、サイコパスとADHDの併発状態であるといえ、なまじ一般人として
振舞うための修辞を身に付けられたりもするからこそ、全くの常人扱いとして
世の中にのさばった結果、世の中全体を破滅に陥れてしまったりもするのである。
別に、妾腹の私生児が自暴自棄に陥った場合に限って罹患する病でもない。
そのような相手を慕ったり見習ったりすれば、本人の立場などに関わりなく感染的に
罹患し得るものである。歴史的にも、その最悪級の事例と呼べるものが二つあって、
一つが始皇帝を主君に祭り上げたことによる秦人全般の重度精神障害への罹患であり、
もう一つが、イエスを祭り上げたことによるキリスト教徒の同障害への罹患である。
いずれも、狂乱状態の妾腹の私生児などを絶対的な服従対象にしてしまった点が
共通していて、そのせいでの超国家規模での重度精神障害への罹患による禍根は
今に到るまで、日本や欧米なとでの権力腐敗へと持ち越されてしまっているのである。
昔ながらの呼び方をすれば、それは「邪気」であるといえる。
ある意味、「精神障害」だの「低劣な精神状態」だのと近代的な呼び方をするよりも、
「邪気」という呼び方をしたほうが、ズハリそれそのものを指していることにすら
なるといえる。邪気だから正されたり除けられたりすべきだというのと、精神病だから
治療や矯正を施されるべきだというのとは全く同じことで、ただ言い回しや矯正の手法が
多少異なるだけである。ただ、前者のような言い回しに基づく矯正から逃げたがるような
人間が、後者のような言い回しに即して不可避に矯正されて行くだけのことである。
脳機能が正常な人間が陥ることのできる最低度の精神状態に当たる。
脳に器質的な欠陥があるわけでもない普通の人間が罹患し得る、最重度の精神障害。
医学的には、サイコパスとADHDの併発状態であるといえ、なまじ一般人として
振舞うための修辞を身に付けられたりもするからこそ、全くの常人扱いとして
世の中にのさばった結果、世の中全体を破滅に陥れてしまったりもするのである。
別に、妾腹の私生児が自暴自棄に陥った場合に限って罹患する病でもない。
そのような相手を慕ったり見習ったりすれば、本人の立場などに関わりなく感染的に
罹患し得るものである。歴史的にも、その最悪級の事例と呼べるものが二つあって、
一つが始皇帝を主君に祭り上げたことによる秦人全般の重度精神障害への罹患であり、
もう一つが、イエスを祭り上げたことによるキリスト教徒の同障害への罹患である。
いずれも、狂乱状態の妾腹の私生児などを絶対的な服従対象にしてしまった点が
共通していて、そのせいでの超国家規模での重度精神障害への罹患による禍根は
今に到るまで、日本や欧米なとでの権力腐敗へと持ち越されてしまっているのである。
昔ながらの呼び方をすれば、それは「邪気」であるといえる。
ある意味、「精神障害」だの「低劣な精神状態」だのと近代的な呼び方をするよりも、
「邪気」という呼び方をしたほうが、ズハリそれそのものを指していることにすら
なるといえる。邪気だから正されたり除けられたりすべきだというのと、精神病だから
治療や矯正を施されるべきだというのとは全く同じことで、ただ言い回しや矯正の手法が
多少異なるだけである。ただ、前者のような言い回しに基づく矯正から逃げたがるような
人間が、後者のような言い回しに即して不可避に矯正されて行くだけのことである。
実際、国家規模や国際規模の大集団で、妾腹の私生児の自暴自棄並みの精神障害に
罹患してしまった人間というのは、自分たちの様相を「邪気」と見なそうとする
正統な神仏崇拝や道徳学を排斥すらして来たのである。始皇帝を崇め立てた秦人の
流れを汲む日本の長宗我部や島津といった豪族も、昔から神仏崇拝を嫌ったり
おざなりにして来たし、近代以降には日本中の寺院を破却して回る主導者とも
なったのである。そして、キリスト教徒が散々犯し尽くしてきた、異教徒への
目も当てられないような迫害の数々も言わずもがな。それら全て、自分たちが
帯びてしまっている邪気の非を認めさせられて、矯正させられるようなことに
なるのを心底恐れているからこその、過剰な拒絶反応だったのである。
今さら、自分たちからその邪気を卒して、正統な仁義道徳や神仏崇拝に帰依するのも
無理があるからこそ、重度精神障害者としての科学的な治療や矯正の対象とされて
行かねばならぬ。それは、どちらかといえばより不幸なことであり、予め仁徳や
神仏への崇敬を嗜んでいたなら被らずに済んだ、最悪級の災難でこそあるのである。
人類史上最悪級の、大集団規模での重度精神障害への罹患が、精神障害を「邪気」
と見なしての前時代的な手法によってではなく、科学的な手法によって矯正される
運びとなったことは、矯正対象になる者たちにとっては不幸極まりない災難とばかり
なるわけだが、人類全体にとっての世界史的な成果には、ならなくもないものである。
幽玄で不可思議な点の多かった神仏崇拝だとか、逆に当たり前すぎて食傷気味な
扱いを受けていた仁義道徳だとかの価値を、厳密な科学的手法に即して見直す機会
ともなったわけだから、それをして怪我の功名ともいえるわけである。人類全体に
とっての怪我の功名であり、矯正対象となる精神障害者たちはそのための人身御供
となったわけで、一般的な人類の側から見た場合には、人身御供となった人々への
一定の慈しみを抱くことも許されるわけである。もちろん、相応の矯正措置をも
科しつつ、数奇な運命を辿らされた者たちへの、相応の配慮も欠かさないのである。
罹患してしまった人間というのは、自分たちの様相を「邪気」と見なそうとする
正統な神仏崇拝や道徳学を排斥すらして来たのである。始皇帝を崇め立てた秦人の
流れを汲む日本の長宗我部や島津といった豪族も、昔から神仏崇拝を嫌ったり
おざなりにして来たし、近代以降には日本中の寺院を破却して回る主導者とも
なったのである。そして、キリスト教徒が散々犯し尽くしてきた、異教徒への
目も当てられないような迫害の数々も言わずもがな。それら全て、自分たちが
帯びてしまっている邪気の非を認めさせられて、矯正させられるようなことに
なるのを心底恐れているからこその、過剰な拒絶反応だったのである。
今さら、自分たちからその邪気を卒して、正統な仁義道徳や神仏崇拝に帰依するのも
無理があるからこそ、重度精神障害者としての科学的な治療や矯正の対象とされて
行かねばならぬ。それは、どちらかといえばより不幸なことであり、予め仁徳や
神仏への崇敬を嗜んでいたなら被らずに済んだ、最悪級の災難でこそあるのである。
人類史上最悪級の、大集団規模での重度精神障害への罹患が、精神障害を「邪気」
と見なしての前時代的な手法によってではなく、科学的な手法によって矯正される
運びとなったことは、矯正対象になる者たちにとっては不幸極まりない災難とばかり
なるわけだが、人類全体にとっての世界史的な成果には、ならなくもないものである。
幽玄で不可思議な点の多かった神仏崇拝だとか、逆に当たり前すぎて食傷気味な
扱いを受けていた仁義道徳だとかの価値を、厳密な科学的手法に即して見直す機会
ともなったわけだから、それをして怪我の功名ともいえるわけである。人類全体に
とっての怪我の功名であり、矯正対象となる精神障害者たちはそのための人身御供
となったわけで、一般的な人類の側から見た場合には、人身御供となった人々への
一定の慈しみを抱くことも許されるわけである。もちろん、相応の矯正措置をも
科しつつ、数奇な運命を辿らされた者たちへの、相応の配慮も欠かさないのである。
「堯の舜に於けるや、其の子九男を之れに事えしめ、二女を焉れに女あわし、
百官牛羊倉廩を備えて、以て舜を畎畝の中に於いて養わしめ、後に挙げて諸れを上位に加う。
故に曰く、王公の賢を尊ぶ者なりと。舜、尚お帝に見ゆれば、帝は甥を貳室に館し、
亦た舜を饗し迭いに賓主と為れり。是れ天子にして匹夫を友とするなり。下を用いて上を敬するは、
之れ貴を貴ぶと謂い、上を用いて下を敬するは、之れ賢を尊ぶと謂う。貴を貴ぶと、賢を尊ぶと、其の義は一なり」
「堯帝の舜に対する姿勢はといえば、まだ舜が泥田んぼの内にいる内から、自らの子供のうちの九人の男子を
臣下として仕えさせ、二人の女子を妻妾として娶わせ、百官牛羊倉廩を付けて舜を養わせるといった体であった。
故に、これこそが、王侯が在野の賢者を尊ぶ模範ともされている。舜が堯帝に見えるからには、堯帝のほうから
舜を招いた副宮へと趣き、お互いを賓客とし合って付き合うようなこともあった。これも、天子でありながら
匹夫をよき友ととした判例とされている。下位の立場にありながら上位の者を尊ぶのは、貴きを貴ぶこととなり、
上位の立場にありながら下位の者を尊ぶのは、賢きを尊ぶこととなる。貴きを貴ぶことも、賢きを尊ぶことも、
本質的にはその義を一にするのである。(泥田んぼの内にいようが宮中にいようが、場所は関係ないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・三より)
百官牛羊倉廩を備えて、以て舜を畎畝の中に於いて養わしめ、後に挙げて諸れを上位に加う。
故に曰く、王公の賢を尊ぶ者なりと。舜、尚お帝に見ゆれば、帝は甥を貳室に館し、
亦た舜を饗し迭いに賓主と為れり。是れ天子にして匹夫を友とするなり。下を用いて上を敬するは、
之れ貴を貴ぶと謂い、上を用いて下を敬するは、之れ賢を尊ぶと謂う。貴を貴ぶと、賢を尊ぶと、其の義は一なり」
「堯帝の舜に対する姿勢はといえば、まだ舜が泥田んぼの内にいる内から、自らの子供のうちの九人の男子を
臣下として仕えさせ、二人の女子を妻妾として娶わせ、百官牛羊倉廩を付けて舜を養わせるといった体であった。
故に、これこそが、王侯が在野の賢者を尊ぶ模範ともされている。舜が堯帝に見えるからには、堯帝のほうから
舜を招いた副宮へと趣き、お互いを賓客とし合って付き合うようなこともあった。これも、天子でありながら
匹夫をよき友ととした判例とされている。下位の立場にありながら上位の者を尊ぶのは、貴きを貴ぶこととなり、
上位の立場にありながら下位の者を尊ぶのは、賢きを尊ぶこととなる。貴きを貴ぶことも、賢きを尊ぶことも、
本質的にはその義を一にするのである。(泥田んぼの内にいようが宮中にいようが、場所は関係ないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・三より)
「事を先にして得るを後にするは、徳を崇くするに非ずや(既出)」
「使命を果たすことを最優先して、自らが得ることを劣後することこそは、
己れの徳性を高めて行くことであるともいえるのではなかろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二一より)
自らが利益を得ようとすることを、「位相上」の最優先事項とすることそは、不徳である。
今の団塊の世代の人間なども、自分たちの働き盛りと好景気がたまたま一致していたからこそ、
時には採算を度外視する程もの猛烈な過剰労働に何の疑問も抱くことなく邁進していられた
のだった。それで結局の所はそれなりの昇進や昇給も期待できたからこそ、そうでいられた。
今のブラック企業などは、どんなに被雇用者が頑張って働いた所で、ろくな昇給も期待できない
ほどもの望みのなさであるものだから、社会的にも問題視されている。じゃあ、ブラック企業
ですら何の疑問も抱くことなく働き抜けるような被雇用者こそは自らの徳性を高めているのか
といえば、決してそんなこともない。企業というもの自体、一定の団体規模で私益を追求して
行くことを本分としているものだから、にもかかわらず被雇用者に何らの利益も回ってこない
というのであれば、それは雇用者である企業の上層部あたりが収益を独占しているだけのこと
でしかない。被雇用者が雇用者の奴隷状態となってしまっているだけのことであるわけだから、
これもまた、上の論語の引用のような教条に基づいて評価できるような事態ではないといえる。
自分が利得を最優先としないのはもちろんのこと、私益を最優先とするような雇用者の配下で
働いたりしないこともまた、利得を位相上の優先事項としない上では、重要なことだといえる。
そういった条件を十分に満たした上で徳性を高めて行くためには、結局、徳治を重んずる
職者=君子階級に自らがなることが最も手っ取り早い手段となるのである。厳格な出家に
よって行為能力を破棄した上での利他行に臨んで行くことなども奨励できはするが、そこまで
いかずとも、それなりに所帯を持って血族を守って行く君子階級になるのであったって、
「事を先にして得るを後にする」ということを位相上から保って行くことができるのである。
「使命を果たすことを最優先して、自らが得ることを劣後することこそは、
己れの徳性を高めて行くことであるともいえるのではなかろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二一より)
自らが利益を得ようとすることを、「位相上」の最優先事項とすることそは、不徳である。
今の団塊の世代の人間なども、自分たちの働き盛りと好景気がたまたま一致していたからこそ、
時には採算を度外視する程もの猛烈な過剰労働に何の疑問も抱くことなく邁進していられた
のだった。それで結局の所はそれなりの昇進や昇給も期待できたからこそ、そうでいられた。
今のブラック企業などは、どんなに被雇用者が頑張って働いた所で、ろくな昇給も期待できない
ほどもの望みのなさであるものだから、社会的にも問題視されている。じゃあ、ブラック企業
ですら何の疑問も抱くことなく働き抜けるような被雇用者こそは自らの徳性を高めているのか
といえば、決してそんなこともない。企業というもの自体、一定の団体規模で私益を追求して
行くことを本分としているものだから、にもかかわらず被雇用者に何らの利益も回ってこない
というのであれば、それは雇用者である企業の上層部あたりが収益を独占しているだけのこと
でしかない。被雇用者が雇用者の奴隷状態となってしまっているだけのことであるわけだから、
これもまた、上の論語の引用のような教条に基づいて評価できるような事態ではないといえる。
自分が利得を最優先としないのはもちろんのこと、私益を最優先とするような雇用者の配下で
働いたりしないこともまた、利得を位相上の優先事項としない上では、重要なことだといえる。
そういった条件を十分に満たした上で徳性を高めて行くためには、結局、徳治を重んずる
職者=君子階級に自らがなることが最も手っ取り早い手段となるのである。厳格な出家に
よって行為能力を破棄した上での利他行に臨んで行くことなども奨励できはするが、そこまで
いかずとも、それなりに所帯を持って血族を守って行く君子階級になるのであったって、
「事を先にして得るを後にする」ということを位相上から保って行くことができるのである。
自己利得を位相上からの劣後対象にしたからといって、利得を完全に破棄するというのでもない。
利得を劣後しつつの徳行に邁進して行く自らや、その子孫を最低限保全して行くための利得程度は
貰い受けるものである。ただ、それこそ最低限の利得であり、自らにとって最終目的であるわけ
でもない、瑣末な利得である。自らに世のため人のための働きを為せるだけの素養すらないと
いうのであれば、まったく得られなかったとしても仕方ないと認められる程度の利得である。
ブラック企業の被雇用者などはその程度の利得すら得られていない場合がほとんどだから、
所帯を持って子孫を繋いで行くことすらもろくにできずにいる。そんな状態ではやはり自分自身
が徳行に邁進して行くこともまた覚束ないものなので、ただただ捨て身で働き詰めることと、
徳性を高めるための利得の劣後もまた、必ずしも相容れるものではないと言えるのである。
自己利得を位相上からの最優先事項とするのでないのなら、そういう状態でいる自らやその家族を
最低限養生して行くための利得もまたそれなりに得られるものである。それすら覚束ないという
のであれば、そもそも徳行自体が十分に果たせなくなってしまうわけだから、そこはただただ
清廉主義に即するばかりで済むものでもない。利得を最優先とせず、なおかつただただ捨て身で
ばかりでいるわけでもない、中庸を保ったあり方こそは、最大級に世のため人のためともなるのである。
「其の老いたるに及んでは血気既に衰う、之れを戒むること得に在り」
「人は老いれば血気が衰え(て、旺盛な心意気によって利得を劣後することも覚束なくな)る。
そのため、そうなってからも利得欲を十分に戒めて行くことが重要なこととなる。
(利得を最優先すること自体、血気の衰えた老人の有り様であるわけだが、それも
また十分に戒められて行かねばならぬことであると、大人孔子は説くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・七より)
利得を劣後しつつの徳行に邁進して行く自らや、その子孫を最低限保全して行くための利得程度は
貰い受けるものである。ただ、それこそ最低限の利得であり、自らにとって最終目的であるわけ
でもない、瑣末な利得である。自らに世のため人のための働きを為せるだけの素養すらないと
いうのであれば、まったく得られなかったとしても仕方ないと認められる程度の利得である。
ブラック企業の被雇用者などはその程度の利得すら得られていない場合がほとんどだから、
所帯を持って子孫を繋いで行くことすらもろくにできずにいる。そんな状態ではやはり自分自身
が徳行に邁進して行くこともまた覚束ないものなので、ただただ捨て身で働き詰めることと、
徳性を高めるための利得の劣後もまた、必ずしも相容れるものではないと言えるのである。
自己利得を位相上からの最優先事項とするのでないのなら、そういう状態でいる自らやその家族を
最低限養生して行くための利得もまたそれなりに得られるものである。それすら覚束ないという
のであれば、そもそも徳行自体が十分に果たせなくなってしまうわけだから、そこはただただ
清廉主義に即するばかりで済むものでもない。利得を最優先とせず、なおかつただただ捨て身で
ばかりでいるわけでもない、中庸を保ったあり方こそは、最大級に世のため人のためともなるのである。
「其の老いたるに及んでは血気既に衰う、之れを戒むること得に在り」
「人は老いれば血気が衰え(て、旺盛な心意気によって利得を劣後することも覚束なくな)る。
そのため、そうなってからも利得欲を十分に戒めて行くことが重要なこととなる。
(利得を最優先すること自体、血気の衰えた老人の有り様であるわけだが、それも
また十分に戒められて行かねばならぬことであると、大人孔子は説くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・七より)
年を重ねれば自然と血気も収まる。ただ収まるだけでなく、
高血圧が心筋梗塞や脳出血などの致命的な疾患にすら繋がりかねなくなる。
だから血圧を下げるために塩分や脂肪の摂取を控えたりもするわけだが、
そんな状態となってしまった老人といえども、あらゆる利欲までをも減退させて
いるとは限らない。むしろ、血気が収まるのに連動して色欲や食欲も減退した結果、
カネやモノにかけての欲望の発露ばかりに専らになってしまったりもするのである。
そのような老人ばかりで世の中が構成されてしまった結果、老人ばかりに富が
回されて、若者にはろくに所帯すら持てない程にも些少な財産しか回って来なくなる。
結果、世の中総出での少子高齢化すらをも招いてしまい、素行不良の移民を
流入させたせいでの治安の悪化などの問題すらをも来たしてしまうこととなる。
してみれば、血気は収まっても利欲は相変わらず持ち越したままでいるような
老人こそは、世の中にとっての紛れもない「老害」になるのだといえ、老いればこそ
利欲に専らと化してしまうことをよく戒めるべきだという>>50の孔師の言葉もまた、
高度に公共性に根ざした含蓄のある言葉であったことまでもが分かるわけである。
老いてからの利欲なども隠遁志向によって十分に戒められていたのが江戸時代であり、
もはや長生きすること自体からして贅沢として扱われていたために、あえて早急な
隠退後の粗末な隠遁生活で早死にするような場合も多かった。そこまでは行かずとも、
隠退後にも長生きするにしたって、その仕方に節度を保たせるぐらいではあるべきである。
むしろ若者の血気盛んさによってこそ世の中自体の新陳代謝も高まるものである
のを諾って、若者の自分たち以上に旺盛な働きこそを尊重すべきなのである。
高血圧が心筋梗塞や脳出血などの致命的な疾患にすら繋がりかねなくなる。
だから血圧を下げるために塩分や脂肪の摂取を控えたりもするわけだが、
そんな状態となってしまった老人といえども、あらゆる利欲までをも減退させて
いるとは限らない。むしろ、血気が収まるのに連動して色欲や食欲も減退した結果、
カネやモノにかけての欲望の発露ばかりに専らになってしまったりもするのである。
そのような老人ばかりで世の中が構成されてしまった結果、老人ばかりに富が
回されて、若者にはろくに所帯すら持てない程にも些少な財産しか回って来なくなる。
結果、世の中総出での少子高齢化すらをも招いてしまい、素行不良の移民を
流入させたせいでの治安の悪化などの問題すらをも来たしてしまうこととなる。
してみれば、血気は収まっても利欲は相変わらず持ち越したままでいるような
老人こそは、世の中にとっての紛れもない「老害」になるのだといえ、老いればこそ
利欲に専らと化してしまうことをよく戒めるべきだという>>50の孔師の言葉もまた、
高度に公共性に根ざした含蓄のある言葉であったことまでもが分かるわけである。
老いてからの利欲なども隠遁志向によって十分に戒められていたのが江戸時代であり、
もはや長生きすること自体からして贅沢として扱われていたために、あえて早急な
隠退後の粗末な隠遁生活で早死にするような場合も多かった。そこまでは行かずとも、
隠退後にも長生きするにしたって、その仕方に節度を保たせるぐらいではあるべきである。
むしろ若者の血気盛んさによってこそ世の中自体の新陳代謝も高まるものである
のを諾って、若者の自分たち以上に旺盛な働きこそを尊重すべきなのである。
それだけの度量を持てる老人こそは、真に尊敬に値する「老益」たる老人でもある。
自らが長生きを続ける理由も、高年者ならではの知恵や技能をできる限り若者に
伝承してやるために限っていたりすればこそ、尊敬されるにも値するのである。
昔は、老人といえばそのような条件を満たしているのが当たり前だったから、
老人すなわち尊敬に値するものでもあったのである。高度な医療もない時代に、
健康に長生きしているだけでもそれなりの養生術の持ち主であることが明らかだから、
その秘訣を教示してもらうためにだけでも敬う価値があった。今はそうではなく、
ろくに養生を心がけているわけでもないような老人すらもが、投薬だの大手術だのによって
生き延びていたりするものだから、必ずしも尊敬するに値するものではなくなっている。
高度医療に頼ってまで長生きしようとしている理由も、長年の労働で溜め込んだ
既得権益をできる限り自分たちの手元に置いておこうとしてるというばかりのこと
だったりするものだから、若年者からは鼻つまみ者扱いすらされることとなる。
旺盛に働いて、利得をも主体的に回す立場にあるべきなのは、血気盛んなうちの
若者のほうである。まだ血気も盛んで利欲ばかりに目がくらんだりもしないからこそ、
富を手元に滞留させて世の中の新陳代謝を滞らせたりすることもない。諸大名の
参勤交代に徒歩や馬で付き合うことのできた若い武士たちこそは、宿場での消費などに
よって、天下の富をよく回転させる役割をも果たしていた。そういうところに経済の
本体が存在している状態こそは、世の中が健全な状態でもあるのであり、血気と
引き換えに利欲を透徹させてしまっているような老人ばかりが経済界の重鎮であるような
世の中はそれに反するために、老人の将来ほどにも未来がなかったりするのである。
「其の稽すること或らずんば、自から怒るも曷ぞ瘳えん」
「自分からよく精進に務めているのでもなければ、激情を込めて怒ってみた所で、
それが薬になることもない。(喜怒哀楽といった情念が理性に合致していないから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
自らが長生きを続ける理由も、高年者ならではの知恵や技能をできる限り若者に
伝承してやるために限っていたりすればこそ、尊敬されるにも値するのである。
昔は、老人といえばそのような条件を満たしているのが当たり前だったから、
老人すなわち尊敬に値するものでもあったのである。高度な医療もない時代に、
健康に長生きしているだけでもそれなりの養生術の持ち主であることが明らかだから、
その秘訣を教示してもらうためにだけでも敬う価値があった。今はそうではなく、
ろくに養生を心がけているわけでもないような老人すらもが、投薬だの大手術だのによって
生き延びていたりするものだから、必ずしも尊敬するに値するものではなくなっている。
高度医療に頼ってまで長生きしようとしている理由も、長年の労働で溜め込んだ
既得権益をできる限り自分たちの手元に置いておこうとしてるというばかりのこと
だったりするものだから、若年者からは鼻つまみ者扱いすらされることとなる。
旺盛に働いて、利得をも主体的に回す立場にあるべきなのは、血気盛んなうちの
若者のほうである。まだ血気も盛んで利欲ばかりに目がくらんだりもしないからこそ、
富を手元に滞留させて世の中の新陳代謝を滞らせたりすることもない。諸大名の
参勤交代に徒歩や馬で付き合うことのできた若い武士たちこそは、宿場での消費などに
よって、天下の富をよく回転させる役割をも果たしていた。そういうところに経済の
本体が存在している状態こそは、世の中が健全な状態でもあるのであり、血気と
引き換えに利欲を透徹させてしまっているような老人ばかりが経済界の重鎮であるような
世の中はそれに反するために、老人の将来ほどにも未来がなかったりするのである。
「其の稽すること或らずんば、自から怒るも曷ぞ瘳えん」
「自分からよく精進に務めているのでもなければ、激情を込めて怒ってみた所で、
それが薬になることもない。(喜怒哀楽といった情念が理性に合致していないから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
自他を健全に楽しませると共に、世のため人のためともなる知識こそは正しい知識であり、
自他を不健全な苦しみに苛ませると共に、世界を破滅に陥れるような知識こそは邪悪な知識である。
人間にとって、知識の正邪の究極的な基準はそこに集約される。これに違うような
基準を定立してみた所で、人間がそれを受け入れていられるような道理は存在しない。
我田引水の正当化などによって、己れの個人的な享楽を増進すると共に、
世の中の側の疲弊や破滅を招く知識はといえば、これは目先の楽しみばかりを
美化する虚構の知識であり、そのような不正な手段によって享楽を貪ったツケは、
必ずそれ並みかそれ以上もの後々の苦しみとなって跳ね返ってくるものである。
いま、世界で最大級の覇権を掌握している米英の権力者なども、我田引水を主体とする
不正な手段を尽くすことによって今の立場を手に入れたものだから、人口爆発や環境破壊
などの致命的な問題をも共に来たしてしまったために、醜悪な覇権の終焉を迎えざるを
得なくなっている。だから、そのツケを払わされる今の権力者が、邪悪な知識を実戦して来た
せいでの紛れもない悪因苦果に見舞われることは確かである。一方、それ以前に一生を終えた
権力者はどうかといえば、やはり「やり逃げ」ばかりでいられたともいえないのである。
産業革命時に自国民を酷使することで巨万の富を手に入れたイギリスの資本家なども、当時は
イギリスこそが今の中国並みの環境破壊に苛まれていたわけだから、その陰惨な環境状態を
自分たちまでもが甘受させられていたのである。そのような問題を解消して行ったころには
もうすでに世界的覇権がイギリスからアメリカへと移り、凋落の一途を辿らされることとなった。
その後にイギリスを上回る覇権を獲得したアメリカも、実際には日本から大量流出した金を
元手に巨万の富を得たりしたわけだから、それを確信的にやらかしていたトップ級の権力者などは、
やはり日本へのコンプレックスなどに苛まれたままでいたのである。そのコンプレックスを
第二次世界大戦における日本に対する勝利によって解消したと思ったら、今度は自分たちが
開発した核兵器が世界中での相互確証破壊体制を確立してしまい、自分たちこそが得意とする
自他を不健全な苦しみに苛ませると共に、世界を破滅に陥れるような知識こそは邪悪な知識である。
人間にとって、知識の正邪の究極的な基準はそこに集約される。これに違うような
基準を定立してみた所で、人間がそれを受け入れていられるような道理は存在しない。
我田引水の正当化などによって、己れの個人的な享楽を増進すると共に、
世の中の側の疲弊や破滅を招く知識はといえば、これは目先の楽しみばかりを
美化する虚構の知識であり、そのような不正な手段によって享楽を貪ったツケは、
必ずそれ並みかそれ以上もの後々の苦しみとなって跳ね返ってくるものである。
いま、世界で最大級の覇権を掌握している米英の権力者なども、我田引水を主体とする
不正な手段を尽くすことによって今の立場を手に入れたものだから、人口爆発や環境破壊
などの致命的な問題をも共に来たしてしまったために、醜悪な覇権の終焉を迎えざるを
得なくなっている。だから、そのツケを払わされる今の権力者が、邪悪な知識を実戦して来た
せいでの紛れもない悪因苦果に見舞われることは確かである。一方、それ以前に一生を終えた
権力者はどうかといえば、やはり「やり逃げ」ばかりでいられたともいえないのである。
産業革命時に自国民を酷使することで巨万の富を手に入れたイギリスの資本家なども、当時は
イギリスこそが今の中国並みの環境破壊に苛まれていたわけだから、その陰惨な環境状態を
自分たちまでもが甘受させられていたのである。そのような問題を解消して行ったころには
もうすでに世界的覇権がイギリスからアメリカへと移り、凋落の一途を辿らされることとなった。
その後にイギリスを上回る覇権を獲得したアメリカも、実際には日本から大量流出した金を
元手に巨万の富を得たりしたわけだから、それを確信的にやらかしていたトップ級の権力者などは、
やはり日本へのコンプレックスなどに苛まれたままでいたのである。そのコンプレックスを
第二次世界大戦における日本に対する勝利によって解消したと思ったら、今度は自分たちが
開発した核兵器が世界中での相互確証破壊体制を確立してしまい、自分たちこそが得意とする
削除(by投稿者)
物量戦を好き放題にやらかせる余地をなくしてしまった。そしたら過剰軍備の償却が追いつかなく
なって財政破綻の危機を招き、今に到る破滅へと結びつくこととなってしまったのだった。
以上のような米英の近代以降の経歴を鑑みるに、自分たちが世界的覇権を獲得して行くに
際して、やはり自分たちまでもが苦渋を舐めさせられる様なことも多々被って来ている
のだといえる。天下国家を王道によって統治する仁政家ほどものすがすがしい境地は
一度も味わえぬままに、今における決定的な破滅にまで至ってしまったわけだから、
20世紀までのうちに天寿を全うしたような米英の権力者に到るまで、邪悪な知識を
実践して来たことによる悪因苦果から逃れることはできなかったのだといえる。
同様な空しさは、春秋戦国時代の勝ち抜きによって統一中華帝国を創立した古代の秦国の
人間などにもあったのである。常日頃から他国の刺客などからの暗殺の危険などに苛まれつつ
覇権を極大化させていった秦の王侯将相の苦しみたるや、並みのものではなかった。だからこそ、
その苦しみを紛らわすための放辟邪侈などにも専らでいようとした。いざ統一帝国を立ち上げて
後も、民間のテロリストによる皇帝暗殺などの企ては絶えなかったし、長年の乱戦のせいで
疲弊してしまっていた中国に対する蛮族匈奴の侵略なども激化してしまっていたのだった。
古今東西の如何に関わらず、邪悪な知識に基づく不正な手段によって成功を試みたような
者たちはみな、その過程においても極重の苦しみを味わわされ続け、その結果としても破滅に
至らされるという、空しいばかりの運命を辿ることとなってしまっているのである。せいぜい、
その過程に苦しみの紛らわしのために貪った放辟邪侈の甘美さを自慢するぐらいでしか自己を
偉ぶることもできず、それとて、所詮は何もしないでいたほうがマシだったほどのものでしかない
ものである。邪悪な知識は正しい知識に敗れるどころか、無知にすら敗れることとなるのである。
なって財政破綻の危機を招き、今に到る破滅へと結びつくこととなってしまったのだった。
以上のような米英の近代以降の経歴を鑑みるに、自分たちが世界的覇権を獲得して行くに
際して、やはり自分たちまでもが苦渋を舐めさせられる様なことも多々被って来ている
のだといえる。天下国家を王道によって統治する仁政家ほどものすがすがしい境地は
一度も味わえぬままに、今における決定的な破滅にまで至ってしまったわけだから、
20世紀までのうちに天寿を全うしたような米英の権力者に到るまで、邪悪な知識を
実践して来たことによる悪因苦果から逃れることはできなかったのだといえる。
同様な空しさは、春秋戦国時代の勝ち抜きによって統一中華帝国を創立した古代の秦国の
人間などにもあったのである。常日頃から他国の刺客などからの暗殺の危険などに苛まれつつ
覇権を極大化させていった秦の王侯将相の苦しみたるや、並みのものではなかった。だからこそ、
その苦しみを紛らわすための放辟邪侈などにも専らでいようとした。いざ統一帝国を立ち上げて
後も、民間のテロリストによる皇帝暗殺などの企ては絶えなかったし、長年の乱戦のせいで
疲弊してしまっていた中国に対する蛮族匈奴の侵略なども激化してしまっていたのだった。
古今東西の如何に関わらず、邪悪な知識に基づく不正な手段によって成功を試みたような
者たちはみな、その過程においても極重の苦しみを味わわされ続け、その結果としても破滅に
至らされるという、空しいばかりの運命を辿ることとなってしまっているのである。せいぜい、
その過程に苦しみの紛らわしのために貪った放辟邪侈の甘美さを自慢するぐらいでしか自己を
偉ぶることもできず、それとて、所詮は何もしないでいたほうがマシだったほどのものでしかない
ものである。邪悪な知識は正しい知識に敗れるどころか、無知にすら敗れることとなるのである。
「至誠は〜見さずして章し、動かさずして変じ、為す無くして成る」
「至誠なるものは、これ見よがしでなくとも自然と現れ、働かせようとしなくても自然と変じ、
故意にどうこうしようとせずとも自然と大成する。(儒家が無為自然をも尊ぶ根拠の一つ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)
「至誠なるものは、これ見よがしでなくとも自然と現れ、働かせようとしなくても自然と変じ、
故意にどうこうしようとせずとも自然と大成する。(儒家が無為自然をも尊ぶ根拠の一つ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二六より)
⌒ ヾ 、ミ川川川彡
r/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ、 ヽ ミ 彡
/. ノ( (゚ッ)/  ̄ ̄‾ヽ ヾ 三 こ 駄 三
/ ⌒ ト、.,.. \丶。 三 ら 目 三
彳、_ | ∴\ ヽ 三. え だ 三
| ) r‐ / ノ( \\ |∴ 三 る 三
| ⌒|⌒ ヽ ヽ | 。o 三. ん ま 三
ノ( / | | / 三. だ だ 三,.
.⌒ / ヽ|/゙U 三 吐 三
/ u 三. く 三
三 な 三
彡 ミ
彡川川川ミ.
r/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ、 ヽ ミ 彡
/. ノ( (゚ッ)/  ̄ ̄‾ヽ ヾ 三 こ 駄 三
/ ⌒ ト、.,.. \丶。 三 ら 目 三
彳、_ | ∴\ ヽ 三. え だ 三
| ) r‐ / ノ( \\ |∴ 三 る 三
| ⌒|⌒ ヽ ヽ | 。o 三. ん ま 三
ノ( / | | / 三. だ だ 三,.
.⌒ / ヽ|/゙U 三 吐 三
/ u 三. く 三
三 な 三
彡 ミ
彡川川川ミ.
⌒ ヾ 、ミ川川川彡
r/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ、 ヽ ミ 彡
/. ノ( (゚ッ)/  ̄ ̄‾ヽ ヾ 三 こ 駄 三
/ ⌒ ト、.,.. \丶。 三 ら 目 三
彳、_ | ∴\ ヽ 三. え だ 三
| ) r‐ / ノ( \\ |∴ 三 る 三
| ⌒|⌒ ヽ ヽ | 。o 三. ん ま 三
ノ( / | | / 三. だ だ 三,.
.⌒ / ヽ|/゙U 三 吐 三
/ u 三. く 三
三 な 三
彡 ミ
彡川川川ミ.
r/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ、 ヽ ミ 彡
/. ノ( (゚ッ)/  ̄ ̄‾ヽ ヾ 三 こ 駄 三
/ ⌒ ト、.,.. \丶。 三 ら 目 三
彳、_ | ∴\ ヽ 三. え だ 三
| ) r‐ / ノ( \\ |∴ 三 る 三
| ⌒|⌒ ヽ ヽ | 。o 三. ん ま 三
ノ( / | | / 三. だ だ 三,.
.⌒ / ヽ|/゙U 三 吐 三
/ u 三. く 三
三 な 三
彡 ミ
彡川川川ミ.
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
ことに、それによって治世を実現する度合いについていえば、
先祖代々の血筋に即した家業を守り抜いて行くことが最良であり、
家業の中だるみを独力によって中興して行くことがその次であり、
家業が絶えた状態からの再興を志して行くことがその次だとといえる。
人間、最良で、親先祖からの家業を引き継いで行くだけでも十分なことだったりする。
天皇や皇帝や将軍大名諸侯などの世襲職を、可もなく不可もない形で受け継いで行った
主君あたりがそれに相当するものであり、本人たちの名がそこまで美名として
扱われることもないにしろ、そのような主君が君臨していたような時代こそは、
真に人びとが最大級の安寧と繁栄を謳歌していた時代でもあったりするのである。
先祖代々の家業が中だるみ状態となったために、中興を目的とした新たな政策によって
名声を博したような主君格の存在もまたいる。漢の武帝だとか徳川吉宗だとかがそうだし、
主君でなければ朱子や蓮如なども儒学や浄土教の自助努力による中興者だったといえる。
これはこれで偉大な存在だったとは言えるが、治世の伸び悩みによって世の中が荒廃を
来たし始めた結果としての対処者であったりするわけだから、世の中の側にとっては、
そんな人々が現れるまでもなく最良の治世が保てているに越したことはないのである。
先祖代々の家業がすでに絶えて、ろくに家系も貴ばれなくなったような状態において、
そこから家の再興を志して行く者というものもまた居て、成功例も非常に少なくはあるが、
大成した場合には本人が不世出の聖賢として扱われることとなる。その代表格こそは
他でもない孔子であり、その業績たるや、本物の帝業すらをも半ば上回るほどの扱いと
なっている。ただ、孔子が活躍した時代はといえば、諸侯が血で血を洗う抗争を繰り広げて
いた春秋戦国時代であり、到底孔子の偉業の恩恵に当時の人々が与れていたなどともいい難い。
当人が聖賢扱いされているのも、時空を超越した普遍的な道理の把捉者だからなのであり、
そのような人間が清濁相見える世の中で必ずしも即座な回向を実現するとも限らないのである。
先祖代々の血筋に即した家業を守り抜いて行くことが最良であり、
家業の中だるみを独力によって中興して行くことがその次であり、
家業が絶えた状態からの再興を志して行くことがその次だとといえる。
人間、最良で、親先祖からの家業を引き継いで行くだけでも十分なことだったりする。
天皇や皇帝や将軍大名諸侯などの世襲職を、可もなく不可もない形で受け継いで行った
主君あたりがそれに相当するものであり、本人たちの名がそこまで美名として
扱われることもないにしろ、そのような主君が君臨していたような時代こそは、
真に人びとが最大級の安寧と繁栄を謳歌していた時代でもあったりするのである。
先祖代々の家業が中だるみ状態となったために、中興を目的とした新たな政策によって
名声を博したような主君格の存在もまたいる。漢の武帝だとか徳川吉宗だとかがそうだし、
主君でなければ朱子や蓮如なども儒学や浄土教の自助努力による中興者だったといえる。
これはこれで偉大な存在だったとは言えるが、治世の伸び悩みによって世の中が荒廃を
来たし始めた結果としての対処者であったりするわけだから、世の中の側にとっては、
そんな人々が現れるまでもなく最良の治世が保てているに越したことはないのである。
先祖代々の家業がすでに絶えて、ろくに家系も貴ばれなくなったような状態において、
そこから家の再興を志して行く者というものもまた居て、成功例も非常に少なくはあるが、
大成した場合には本人が不世出の聖賢として扱われることとなる。その代表格こそは
他でもない孔子であり、その業績たるや、本物の帝業すらをも半ば上回るほどの扱いと
なっている。ただ、孔子が活躍した時代はといえば、諸侯が血で血を洗う抗争を繰り広げて
いた春秋戦国時代であり、到底孔子の偉業の恩恵に当時の人々が与れていたなどともいい難い。
当人が聖賢扱いされているのも、時空を超越した普遍的な道理の把捉者だからなのであり、
そのような人間が清濁相見える世の中で必ずしも即座な回向を実現するとも限らないのである。
結局、家業を念頭に置いて行く限りにおいて、人も治世に貢献することができるものなのであり、
家業を全くの蔑ろにするのであれば、もはや多少なりともの貢献すら期待できなくなるのである。
織田信長や豊臣秀吉のほうが、徳川家康よりも新規なことをやらかす能力にかけては優れていたし、
実際にその能力によって天下布武や天下統一をも先んじて成し遂げたわけだが、だからといって
本人たちが長期の治世を実現する礎とまでなることはできなかった。親の葬式で焼香を投げつける
ほどもの傾奇ぶりであった信長も、その状態のままで臣下をも冷遇したために謀反で殺されたし、
秀吉も、百姓という本来の出自を重んずるでもなく、出世後には総金張りの茶室まで拵えての
放辟邪侈三昧でいたからこそ、私益目当てのろくでもないような臣下ばかりを寄せ集めることと
なってしまったのだった。それとは違って、家康公は新規な功業などはなるべく控えるのと
引き換えに、親の代の頃から(譜代)の臣下たちをよく重んじて行ったものだから、その堅実さに
よって幕府の土台をも築き上げて行くことができたのである。してみれば、個人としての能力
などよりも、先祖代々の血筋に即した生業の堅持のほうが、治世の実現者としてのみならず、
乱世の最終勝利者としての素養を温めることにすら繋がることになると言えるのである。
「信長が搗き、秀吉が捏ねた餅を、家康が頂いた」などと揶揄されることもあるが、
家康公も決してただの凡人だったりしたのではない。天才的なひらめきなども程ほどに、
家業の継承や盛り立てにこそ専念していたあたり、信長や秀吉以上もの苦労人ですら
あったのでもある。乱世に驕り高ぶった挙げ句に悲惨な最期を遂げたいのでもなければ、
個人としての能力などよりも、家業のほうをより重んじて行くに越したことはないのである。
家業を全くの蔑ろにするのであれば、もはや多少なりともの貢献すら期待できなくなるのである。
織田信長や豊臣秀吉のほうが、徳川家康よりも新規なことをやらかす能力にかけては優れていたし、
実際にその能力によって天下布武や天下統一をも先んじて成し遂げたわけだが、だからといって
本人たちが長期の治世を実現する礎とまでなることはできなかった。親の葬式で焼香を投げつける
ほどもの傾奇ぶりであった信長も、その状態のままで臣下をも冷遇したために謀反で殺されたし、
秀吉も、百姓という本来の出自を重んずるでもなく、出世後には総金張りの茶室まで拵えての
放辟邪侈三昧でいたからこそ、私益目当てのろくでもないような臣下ばかりを寄せ集めることと
なってしまったのだった。それとは違って、家康公は新規な功業などはなるべく控えるのと
引き換えに、親の代の頃から(譜代)の臣下たちをよく重んじて行ったものだから、その堅実さに
よって幕府の土台をも築き上げて行くことができたのである。してみれば、個人としての能力
などよりも、先祖代々の血筋に即した生業の堅持のほうが、治世の実現者としてのみならず、
乱世の最終勝利者としての素養を温めることにすら繋がることになると言えるのである。
「信長が搗き、秀吉が捏ねた餅を、家康が頂いた」などと揶揄されることもあるが、
家康公も決してただの凡人だったりしたのではない。天才的なひらめきなども程ほどに、
家業の継承や盛り立てにこそ専念していたあたり、信長や秀吉以上もの苦労人ですら
あったのでもある。乱世に驕り高ぶった挙げ句に悲惨な最期を遂げたいのでもなければ、
個人としての能力などよりも、家業のほうをより重んじて行くに越したことはないのである。
「君子に三つの楽しみ有り。〜父母倶に存し、兄弟故無きは、一の楽しみなり。仰いで天に愧じず、
俯して人に怍じざるは、二の楽しみなり。天下の英才を得て之れを教育するは、三の楽しみなり」
「君子には三つの楽しみがある。自らの父母が健在であり、兄弟も無病息災でいるのが第一の楽しみ、
上を仰いでは天に恥じることなく、地に伏せては人に恥じることがないほどにも自分が清廉である
のが第二の楽しみ、天下の英才を得てこれに教育を施すのが第三の楽しみである。(君子の楽しみ
であるからには健全な楽しみである。孝行や修身の楽しみこそは、教育の楽しみにも優るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二〇より)
俯して人に怍じざるは、二の楽しみなり。天下の英才を得て之れを教育するは、三の楽しみなり」
「君子には三つの楽しみがある。自らの父母が健在であり、兄弟も無病息災でいるのが第一の楽しみ、
上を仰いでは天に恥じることなく、地に伏せては人に恥じることがないほどにも自分が清廉である
のが第二の楽しみ、天下の英才を得てこれに教育を施すのが第三の楽しみである。(君子の楽しみ
であるからには健全な楽しみである。孝行や修身の楽しみこそは、教育の楽しみにも優るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二〇より)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
___ _
\V ̄ ̄ ̄__| \二二/|_
/ / ̄__| [__] | \
│ / /`ヽ__∟∠__>J__>
|/ /| ‐———————— |
( / | ————————‐ |
(_/ | ● ● |
|\ | (_人_) \_ _____
| ) | _ __|||||||||||_____) /
ヽ_| ///└┘  ̄ ̄ ̄ └┘| | /
/// // < 笠地蔵が不機嫌になるのだ
|//\_ (⌒Y⌒) _// \
\ ヽ—─—⌒ ̄ ̄ / \_____
`— ‐—´
/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|了
/ |: | ̄ ̄ ̄ ̄
| |______|
| | | | | | | |
\V ̄ ̄ ̄__| \二二/|_
/ / ̄__| [__] | \
│ / /`ヽ__∟∠__>J__>
|/ /| ‐———————— |
( / | ————————‐ |
(_/ | ● ● |
|\ | (_人_) \_ _____
| ) | _ __|||||||||||_____) /
ヽ_| ///└┘  ̄ ̄ ̄ └┘| | /
/// // < 笠地蔵が不機嫌になるのだ
|//\_ (⌒Y⌒) _// \
\ ヽ—─—⌒ ̄ ̄ / \_____
`— ‐—´
/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|了
/ |: | ̄ ̄ ̄ ̄
| |______|
| | | | | | | |
故郷に錦を飾る目的で、沛県一帯の人々への税や労役を完全に免除した
漢の高祖劉邦の大盤振る舞いなどは、今から考えると甘やかしすぎのように
思われなくもないが、他者に対する「労を施すこと無けん(公冶長第五・二六)」
という思いやりは、究極的にはこれ程もの徹底さであって然るべきものでもある。
本当は、誰しもに対する負担を皆無ならしめられたならそれに越したことはないのだが、
それだと世の中の行く末もままならないし、そもそも百姓たち自身が困窮にさらされる
ことともなるから、最低限の税や労役を課したりもするのである。してみればそれは、
あくまで課さざるを得ないものであるわけだから、支配者が減税政策などを人気取りの
道具にしたりするのもおかしいのである。人気取りの道具にしたりする遊びがあると
いうのなら、そもそも支配者がいい加減な政策によって民から余分な利益を掠め取って
いたにも違いないのである。そのうちのいくらかを民に償還するというだけのこと
なのだから、本当は謝罪と共にこそそれを実施しなければならないのである。
今の世界における経済政策なども、税は軽く、雇用者数は多くするのがよりよいこと
だとしている。それで世の中が保てるのならば、できる限りそうして行くに越したことは
ないとする。これも本質的には歪んだ姿勢であり、税も雇用者数も「適正」であるのが
本当は理想とすべきところである。適正であることによって世の中の福利厚生が増進
されて、結果として民たちも最上級の生活を享受することとなるのである。それなのに、
税はより軽く、雇用者数はより多くという、民からの人気取りの道具にはなっても、
決して人々の生活を向上させるとも限らない方向性にばかり邁進し続けていようとする。
そもそも、税だ労役だの増減を、為政者が民からの人気を獲得するための道具にしたり
することからして間違っているのであり、それで人気が得られたからといって、世の中
がよりよくなるなどということからして、決して約束されていたりはしないのである。
漢の高祖劉邦の大盤振る舞いなどは、今から考えると甘やかしすぎのように
思われなくもないが、他者に対する「労を施すこと無けん(公冶長第五・二六)」
という思いやりは、究極的にはこれ程もの徹底さであって然るべきものでもある。
本当は、誰しもに対する負担を皆無ならしめられたならそれに越したことはないのだが、
それだと世の中の行く末もままならないし、そもそも百姓たち自身が困窮にさらされる
ことともなるから、最低限の税や労役を課したりもするのである。してみればそれは、
あくまで課さざるを得ないものであるわけだから、支配者が減税政策などを人気取りの
道具にしたりするのもおかしいのである。人気取りの道具にしたりする遊びがあると
いうのなら、そもそも支配者がいい加減な政策によって民から余分な利益を掠め取って
いたにも違いないのである。そのうちのいくらかを民に償還するというだけのこと
なのだから、本当は謝罪と共にこそそれを実施しなければならないのである。
今の世界における経済政策なども、税は軽く、雇用者数は多くするのがよりよいこと
だとしている。それで世の中が保てるのならば、できる限りそうして行くに越したことは
ないとする。これも本質的には歪んだ姿勢であり、税も雇用者数も「適正」であるのが
本当は理想とすべきところである。適正であることによって世の中の福利厚生が増進
されて、結果として民たちも最上級の生活を享受することとなるのである。それなのに、
税はより軽く、雇用者数はより多くという、民からの人気取りの道具にはなっても、
決して人々の生活を向上させるとも限らない方向性にばかり邁進し続けていようとする。
そもそも、税だ労役だの増減を、為政者が民からの人気を獲得するための道具にしたり
することからして間違っているのであり、それで人気が得られたからといって、世の中
がよりよくなるなどということからして、決して約束されていたりはしないのである。
「本当は税も労役も皆無でいられたならそれに越したことはないが、やはり多少は
必要だから、その必要に応じて最低限の労役や税を課して行く」という姿勢での
経済政策を実施して行くためには、上記の通り、税の減免や雇用者数の増大を
為政者が人気取りの道具にしたりしてはいけないということと、もう一つ、結局、
「労役だの納税だのの義務が全く課されないで済む状態こそは、民にとっての
至福の状態である」ということに対する承諾までもが必要となるのである。
憲法条文や旧約教義などによって、労働が絶対的な義務とされてしまっている現状では、
もはや誰も、労役すら免除された所にこそ真の至福があるなどとは想像も付かない
状態となってしまっている。それが成分法にも違反している状態であるものだから、
働きもせずにブラブラしているような人間はろくでなしであるともされる。
不労者に対する犯罪者も同然の扱いは、労働を義務化するような法律やカルト教義を
撤廃すればそれで解かれるものである。ただ、それでもまだ、働いてなんぼ、
稼いでなんぼな心理状態と化してしまっているような小人に、税や労役を免状
された所にこそある至福を気づかせられるとも限らない。そのため、そこからさらに
道家思想や仏教帰依を広めて行くことで、完全な無為不動の境地にある尊さこそを
知らしめて行くようにもしたほうがよい。それでこそ、上記のような価値基準に
基づく経済政策までもが滞りなく実施されて行くことになるわけだから、経済の
健全化のためにこそ、無為自然への尊重が有益となることまでもが分かるのである。
「子路政を問う。子曰く、之れに先んじ、之れを労す。益を請う。曰く、倦む無かれ」
「高弟の子路が政治のあり方を問うた。孔師は言われた。『自分から率先してよく働き、
民たちもそれに倣わせてよく働かせることだ』 いま少しの説明を請うと、師は言われた。
『自分自身が倦怠したりすることのないように』(働かせる以上はよく働かせるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——子路第十三・一)
必要だから、その必要に応じて最低限の労役や税を課して行く」という姿勢での
経済政策を実施して行くためには、上記の通り、税の減免や雇用者数の増大を
為政者が人気取りの道具にしたりしてはいけないということと、もう一つ、結局、
「労役だの納税だのの義務が全く課されないで済む状態こそは、民にとっての
至福の状態である」ということに対する承諾までもが必要となるのである。
憲法条文や旧約教義などによって、労働が絶対的な義務とされてしまっている現状では、
もはや誰も、労役すら免除された所にこそ真の至福があるなどとは想像も付かない
状態となってしまっている。それが成分法にも違反している状態であるものだから、
働きもせずにブラブラしているような人間はろくでなしであるともされる。
不労者に対する犯罪者も同然の扱いは、労働を義務化するような法律やカルト教義を
撤廃すればそれで解かれるものである。ただ、それでもまだ、働いてなんぼ、
稼いでなんぼな心理状態と化してしまっているような小人に、税や労役を免状
された所にこそある至福を気づかせられるとも限らない。そのため、そこからさらに
道家思想や仏教帰依を広めて行くことで、完全な無為不動の境地にある尊さこそを
知らしめて行くようにもしたほうがよい。それでこそ、上記のような価値基準に
基づく経済政策までもが滞りなく実施されて行くことになるわけだから、経済の
健全化のためにこそ、無為自然への尊重が有益となることまでもが分かるのである。
「子路政を問う。子曰く、之れに先んじ、之れを労す。益を請う。曰く、倦む無かれ」
「高弟の子路が政治のあり方を問うた。孔師は言われた。『自分から率先してよく働き、
民たちもそれに倣わせてよく働かせることだ』 いま少しの説明を請うと、師は言われた。
『自分自身が倦怠したりすることのないように』(働かせる以上はよく働かせるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——子路第十三・一)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
笠爺、頑張ってんな
はい はい はい はい!
アメ女の「あ」はぁ?
愛してるの「あ」。
アメ女の「め」はぁ?
メロンの「め」。
アメ女の「じょ」はぁ?
情緒不安定の「じょ」。
よくできました!
あっ。ところで私は誰だっけ?
成田りな!
上から読んでもぉ…。成田りな!
下から読んでもぉ…。成田りな!
成田りな 出席番号37番 15歳!
う〜わおっ!
失礼しま〜す!
アメ女の「あ」はぁ?
愛してるの「あ」。
アメ女の「め」はぁ?
メロンの「め」。
アメ女の「じょ」はぁ?
情緒不安定の「じょ」。
よくできました!
あっ。ところで私は誰だっけ?
成田りな!
上から読んでもぉ…。成田りな!
下から読んでもぉ…。成田りな!
成田りな 出席番号37番 15歳!
う〜わおっ!
失礼しま〜す!
「天の将に大任を降さんとするや、必ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、
其の体膚を餓せしめ、其の身行を空乏せしめ、其の為さんとする所を拂乱せしむ。
心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむる所以なり(既出)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一五より)
とも言うけれども、苦難の末に大業を果たした聖賢などがその事業を完遂する上では、
自らを苦しませたような相手に対する報復をも欠かさないでいる。劉邦が仇敵の項羽を
打ち破って後にも、軍事力で自分をも上回った友軍の大将であった韓信を誅戮したり、
自らの死後に「皇帝は劉家からのみ」という遺言に即して、忠臣たちに正室家の呂氏を
亡ぼさせたりしたのもその実例であるし、徳川が豊臣を亡ぼしたのもそれに同じである。
別にあからさまに自分を苦しめた相手に限らずとも、皇帝や大将軍となって後の自らに
まで優位を決め込もうとするような個人だの派閥だのがあるようならば、それだけでも
許すわけにはいかない。もしもそれを許してしまったならば、鎌倉幕府の源氏将軍家の
ように三代限りで滅ぼされてしまい、摂関将軍や親王将軍にお株を奪われたり、執権の
北条氏に実権を牛耳られたりするようなことにすらなってしまいかねないのである。
(しかもそのせいで、鎌倉幕府も比較的な短期政権に終わってしまったのである)
聖書の神を絶対神に祭り上げて、王侯すらローマ法王に屈服させられるようになって
からの、欧州の暗黒状態の歴史も知っての通りである。王侯たち自身が権威たることに
大幅な制限を課せられたからこそ、王侯も自分たちが地主の親分止まりでいたりすることに
何らの恥じらいをも抱いたりせずにいられた。地主や豪商こそを王侯が優遇する粗悪な
封建制によって民たちも極度の疲弊に晒されていたために、欧州の諸国も土台からの崩壊を
来たしては乱戦を繰り広げるのが常態と化してしまい、それでも我慢しきれなくなった
人々が大航海時代以降には世界中に逃亡がてらに侵出して、流入先の原住民を気晴らしも
兼ねて虐殺して回ったり、奴隷化したりしつつ陰惨な植民地支配を拡大して行ったのだった。
其の体膚を餓せしめ、其の身行を空乏せしめ、其の為さんとする所を拂乱せしむ。
心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむる所以なり(既出)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一五より)
とも言うけれども、苦難の末に大業を果たした聖賢などがその事業を完遂する上では、
自らを苦しませたような相手に対する報復をも欠かさないでいる。劉邦が仇敵の項羽を
打ち破って後にも、軍事力で自分をも上回った友軍の大将であった韓信を誅戮したり、
自らの死後に「皇帝は劉家からのみ」という遺言に即して、忠臣たちに正室家の呂氏を
亡ぼさせたりしたのもその実例であるし、徳川が豊臣を亡ぼしたのもそれに同じである。
別にあからさまに自分を苦しめた相手に限らずとも、皇帝や大将軍となって後の自らに
まで優位を決め込もうとするような個人だの派閥だのがあるようならば、それだけでも
許すわけにはいかない。もしもそれを許してしまったならば、鎌倉幕府の源氏将軍家の
ように三代限りで滅ぼされてしまい、摂関将軍や親王将軍にお株を奪われたり、執権の
北条氏に実権を牛耳られたりするようなことにすらなってしまいかねないのである。
(しかもそのせいで、鎌倉幕府も比較的な短期政権に終わってしまったのである)
聖書の神を絶対神に祭り上げて、王侯すらローマ法王に屈服させられるようになって
からの、欧州の暗黒状態の歴史も知っての通りである。王侯たち自身が権威たることに
大幅な制限を課せられたからこそ、王侯も自分たちが地主の親分止まりでいたりすることに
何らの恥じらいをも抱いたりせずにいられた。地主や豪商こそを王侯が優遇する粗悪な
封建制によって民たちも極度の疲弊に晒されていたために、欧州の諸国も土台からの崩壊を
来たしては乱戦を繰り広げるのが常態と化してしまい、それでも我慢しきれなくなった
人々が大航海時代以降には世界中に逃亡がてらに侵出して、流入先の原住民を気晴らしも
兼ねて虐殺して回ったり、奴隷化したりしつつ陰惨な植民地支配を拡大して行ったのだった。
中国なども、五経の入門書として朱子が推薦した四書ばかりを金科玉条化して科挙試験
科目ともした明代以降には、致命的な官僚腐敗などの問題を来たし始めることとなった。
四書のうちでも、特に「論語」と「孟子」は孔子や孟子の言行録としての側面が色濃く、
五経解説書ではなく、孔子や孟子を見習うための参考書としても扱うことができる。
別に政治家として大成したわけでもなく、当時の諸侯たちに圧迫されたままでいた学者
などを見習いの対象としたならば、その不運さまでをも倣うようなことにすらなって
しまいかねないわけで、明代以降の中国ではそのような問題が生じてしまったのである。
無学な劉邦や腹黒い徳川家康などよりも、孔子や孟子のほうがいかにも言行からして
立派であるわけだけれども、そこに仁君としてまで大成するような天運はなかったのだし、
そもそも本人たち自身からして、自分たちの心志を苦しめたような相手に対する制裁を
完遂できたわけでもない。そのような結果的な側面を鑑みるに、やはりそのあり方までをも
見習うべきなのは、実際に大成した聖王賢臣たちのほうなのであるといえ、孔子や孟子の
言行などは、あくまで学者としての本人たちを尊重をしつつの学習対象とすべきなのである。
孔子や孟子の生涯を聞き知って、いい気分になれるような人間にもそうそうに居はしない。
始終圧迫され通しだった「不遇なる乱世の聖賢」などよりは、人間としての格は下でも、
それなりに成功して怨敵などを調伏できた人間にこそ見習いたいものである。ただ、
その時にせいぜい、孔孟から「それじゃあダメだ」と言われかねないような不行跡
にまで及んでしまうようなことがないように務めるようにすればいいのである。
「徳を以て徳に報えば、則ち民勧むる所有り。怨みを以って怨みに報いれば、則ち民懲るる所有り」
「徳因徳果の正の連鎖の下で、民たちも善を勧めて行くことができる。怨因怨果の負の連鎖の下では、
民たちも心的に懲らしめられる所がある。(罪に対する相応の罰のような怨因怨果も時には必要で
あるけれども、陰徳の施し合いによって人々が善を勧めて行くことこそは、より重要なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
科目ともした明代以降には、致命的な官僚腐敗などの問題を来たし始めることとなった。
四書のうちでも、特に「論語」と「孟子」は孔子や孟子の言行録としての側面が色濃く、
五経解説書ではなく、孔子や孟子を見習うための参考書としても扱うことができる。
別に政治家として大成したわけでもなく、当時の諸侯たちに圧迫されたままでいた学者
などを見習いの対象としたならば、その不運さまでをも倣うようなことにすらなって
しまいかねないわけで、明代以降の中国ではそのような問題が生じてしまったのである。
無学な劉邦や腹黒い徳川家康などよりも、孔子や孟子のほうがいかにも言行からして
立派であるわけだけれども、そこに仁君としてまで大成するような天運はなかったのだし、
そもそも本人たち自身からして、自分たちの心志を苦しめたような相手に対する制裁を
完遂できたわけでもない。そのような結果的な側面を鑑みるに、やはりそのあり方までをも
見習うべきなのは、実際に大成した聖王賢臣たちのほうなのであるといえ、孔子や孟子の
言行などは、あくまで学者としての本人たちを尊重をしつつの学習対象とすべきなのである。
孔子や孟子の生涯を聞き知って、いい気分になれるような人間にもそうそうに居はしない。
始終圧迫され通しだった「不遇なる乱世の聖賢」などよりは、人間としての格は下でも、
それなりに成功して怨敵などを調伏できた人間にこそ見習いたいものである。ただ、
その時にせいぜい、孔孟から「それじゃあダメだ」と言われかねないような不行跡
にまで及んでしまうようなことがないように務めるようにすればいいのである。
「徳を以て徳に報えば、則ち民勧むる所有り。怨みを以って怨みに報いれば、則ち民懲るる所有り」
「徳因徳果の正の連鎖の下で、民たちも善を勧めて行くことができる。怨因怨果の負の連鎖の下では、
民たちも心的に懲らしめられる所がある。(罪に対する相応の罰のような怨因怨果も時には必要で
あるけれども、陰徳の施し合いによって人々が善を勧めて行くことこそは、より重要なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
人間は、渇望が叶えられたからといって渇きを満たせる生き物なわけでもない。
自主的な制欲によってこそ渇きを立ち消えにさせられる心理構造の持ち主である
わけだから、資本主義者のようにどこまでも物質的欲望を叶え続けたりしようと
するのではなく、出家修行者のような精進に務めることでこそ渇きを癒せるのである。
望みを叶え続けても欲望が底なしであり続けるというよりは、望みを叶え続ける
過程において、かえって渇欲を増長させて行くのである。資本主義国の億万長者などは
まさにそのような「欲望のハウリング」によって、常人が想像も付かないような貪欲さ
を抱いてしまっていたりするわけで、利得の魔性に囚われてそのような状態と化して
しまったりしないためにも、本来、人間はそのようなハウリング状態に陥ったりして
しまう以前の状態において、欲望も程ほどの状態でいられるものであることをしっかと
わきまえて、ハウリング以前の状態に確信的に止まっているようにすべきなのである。
故に、望みは何でも叶えてくれるような全知全能の神などを信仰したりすることも
控えるべきである一方、欲望の劣情としての本質的な空しさを説く理法などには
積極的に傾倒して行くべきでもある。後者の典型といえるのがまさに仏教であり、
制欲を完遂できた所に常楽我浄の悟りがあるとしてもいる。この悟りなども、
そのプロセスからいって、人並みを遥かに上回る貪欲さにまみれてしまっている
資本主義者などには、実在していることすら疑わしいものと思われたりもしかねない
ものなわけだが、これも欲望のハウリング状態にある人間にとっての色眼鏡越しの
決め付けであり、むしろ制欲を貫いたところにこそ真の安楽があると見込むほうが、
人間の本質的な心理構造からいっても、しごく当然のことであるといえるのである。
資本主義を国を挙げての国是としたり、全知全能とされる神を崇めたりしていれば、
そのような世の中全体が欲望のハウリング状態をデフォルトと見なすようなことにすら
なってしまう。それでこそ人間も健全な生き物であり、ろくに欲望も抱かないような
人間は「草食系」だなどと貶められて、貪欲な「肉食系」の餌食になるのも仕方が
ないだなどとというプロパガンダすらもが敷かれてしまったりするのである。
自主的な制欲によってこそ渇きを立ち消えにさせられる心理構造の持ち主である
わけだから、資本主義者のようにどこまでも物質的欲望を叶え続けたりしようと
するのではなく、出家修行者のような精進に務めることでこそ渇きを癒せるのである。
望みを叶え続けても欲望が底なしであり続けるというよりは、望みを叶え続ける
過程において、かえって渇欲を増長させて行くのである。資本主義国の億万長者などは
まさにそのような「欲望のハウリング」によって、常人が想像も付かないような貪欲さ
を抱いてしまっていたりするわけで、利得の魔性に囚われてそのような状態と化して
しまったりしないためにも、本来、人間はそのようなハウリング状態に陥ったりして
しまう以前の状態において、欲望も程ほどの状態でいられるものであることをしっかと
わきまえて、ハウリング以前の状態に確信的に止まっているようにすべきなのである。
故に、望みは何でも叶えてくれるような全知全能の神などを信仰したりすることも
控えるべきである一方、欲望の劣情としての本質的な空しさを説く理法などには
積極的に傾倒して行くべきでもある。後者の典型といえるのがまさに仏教であり、
制欲を完遂できた所に常楽我浄の悟りがあるとしてもいる。この悟りなども、
そのプロセスからいって、人並みを遥かに上回る貪欲さにまみれてしまっている
資本主義者などには、実在していることすら疑わしいものと思われたりもしかねない
ものなわけだが、これも欲望のハウリング状態にある人間にとっての色眼鏡越しの
決め付けであり、むしろ制欲を貫いたところにこそ真の安楽があると見込むほうが、
人間の本質的な心理構造からいっても、しごく当然のことであるといえるのである。
資本主義を国を挙げての国是としたり、全知全能とされる神を崇めたりしていれば、
そのような世の中全体が欲望のハウリング状態をデフォルトと見なすようなことにすら
なってしまう。それでこそ人間も健全な生き物であり、ろくに欲望も抱かないような
人間は「草食系」だなどと貶められて、貪欲な「肉食系」の餌食になるのも仕方が
ないだなどとというプロパガンダすらもが敷かれてしまったりするのである。
その、欲望のハウリングを世の中総出を挙げての抑制対象とするのが、
国家規模での仏教帰依だったりするわけで、これもまた極端なことと言えば、
そうかもしれない。ただ、より密度の高い仏教帰依によって、欲望のハウリング状態
にある人間をごく一部の豪商や地主だけにまで追いやった日本と、それよりは
幾分か密度の低い仏教帰依によって、欲望のハウリング状態にある人間を相当量に
多発させてしまった中国や朝鮮とを比べると、両方を知悉する人間であれば、
みな日本の民度や文化的水準のほうに軍配を挙げたがる(中国人たち自身すら、
日本に来たらそう思うという)。特に、貪欲さが醜悪な様態として発現しやすい
黄色人種同士を比べてみればこそ、欲望のハウリング状態などが外見的にも、
人間の姿佇まいを醜悪化させてしまう原因となることが分かるのである。
欧米人などは、古くから巧みな修辞によって欲望のハウリング状態を美化することを
積み重ねて来ているものだから、そのせいでのボロなどもなかなか露出することがないが、
決して貪欲さまみれであることが、欧米人の容姿を美しく見せていたりするわけでもない。
食べすぎを控えて理想体形を保っているような人間が美しいとされたりもしている。
だったら始めから制欲に精進しているようにすればいいのであり、貪欲さまみれで
いながらダイエットに苦しむような徒労からも卒業するに越したことはないのである。
「克く邦のために勤め、克く家を倹し、自ら満仮せず、惟れ汝じの賢なり。
(ここまで既出)汝じ惟れ矜しとせずんば、天下に汝じと能を争う莫し」
「よく国のために務めて、自らの家では倹約に勤め、虚仮なる満足に浸ろうともしない、
これこそは汝じの賢明さの現れである。それでなおかつ自らを誇りもしないようで
いるのならば、天下に汝じと有能さを競う者すらいなくなる。(天下に比類なき
有能さの持ち主であるためには、有能さを誇ったりもすべきでないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
国家規模での仏教帰依だったりするわけで、これもまた極端なことと言えば、
そうかもしれない。ただ、より密度の高い仏教帰依によって、欲望のハウリング状態
にある人間をごく一部の豪商や地主だけにまで追いやった日本と、それよりは
幾分か密度の低い仏教帰依によって、欲望のハウリング状態にある人間を相当量に
多発させてしまった中国や朝鮮とを比べると、両方を知悉する人間であれば、
みな日本の民度や文化的水準のほうに軍配を挙げたがる(中国人たち自身すら、
日本に来たらそう思うという)。特に、貪欲さが醜悪な様態として発現しやすい
黄色人種同士を比べてみればこそ、欲望のハウリング状態などが外見的にも、
人間の姿佇まいを醜悪化させてしまう原因となることが分かるのである。
欧米人などは、古くから巧みな修辞によって欲望のハウリング状態を美化することを
積み重ねて来ているものだから、そのせいでのボロなどもなかなか露出することがないが、
決して貪欲さまみれであることが、欧米人の容姿を美しく見せていたりするわけでもない。
食べすぎを控えて理想体形を保っているような人間が美しいとされたりもしている。
だったら始めから制欲に精進しているようにすればいいのであり、貪欲さまみれで
いながらダイエットに苦しむような徒労からも卒業するに越したことはないのである。
「克く邦のために勤め、克く家を倹し、自ら満仮せず、惟れ汝じの賢なり。
(ここまで既出)汝じ惟れ矜しとせずんば、天下に汝じと能を争う莫し」
「よく国のために務めて、自らの家では倹約に勤め、虚仮なる満足に浸ろうともしない、
これこそは汝じの賢明さの現れである。それでなおかつ自らを誇りもしないようで
いるのならば、天下に汝じと有能さを競う者すらいなくなる。(天下に比類なき
有能さの持ち主であるためには、有能さを誇ったりもすべきでないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・大禹謨より)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
苦難→安楽ではなく、苦難←無為→安楽である。
安楽と苦難を共に一方向性の延長線上に捉えるのではなく、
無為の右側と左側に真逆の方向性として存在するものと捉えるべきなのである。
苦難に甘んじる以上はそれに徹して、その見返りをいちいち期待することもない。
一方で、安楽を享受する側に徹するというのなら、それもまた苦難の見返りか
どうかなどを問題とはせず、安楽を享受することに専らでいることで、
また務めに打ち込んでいくためのエネルギーの温存にも徹するのである。
六十近くまで延々と下働きを続けた結果として幕府を開いた家康公も、
たった二年で将軍職を退いて駿府の大御所としての半隠遁生活を始めたのだった。
しかし、やはりその後も次代将軍らに頼られきりで、大坂の陣でも東軍方としての
主要な役割を負わされることとなった。すでに老体でありながらも、決死の覚悟
で突入して来た真田軍に後一歩の所まで攻め入られて九死に一生を得るなど、
決して穏やかとはいえない老後を送らされた挙げ句に、天寿を全うしたのだった。
その生き方たるや、苦難と安楽の均衡が取れていたなどとは決して言いがたい
苦労続きの人生だったわけで、いちいち労苦に対する見返りとしての安楽などを
期待していたのでは、決して同様の功績を挙げられたはずもないのである。
そしてそのような、労苦に相応の見返りすら期待しないあり方にこそ、
真の男気をも見出すことができる。天下の最高権力者たらんとする立場で
ありながら、なおのこと個人的な栄華などを期待したりすることもなく、
ただひたすら天下全土からの「厭離穢土欣求浄土」のために邁進していった、
そのあり方こそは、信長や秀吉なども決して体現することができなかった
ものであり、見習いの対象がその二人から家康公へと移り変わることを通じて、
多くの日本人たちも努力精進第一の姿勢であろうとするようになったのだった。
(信長や秀吉が最高権力者であった安土桃山織豊時代には、
一攫千金での栄華を夢見る商売人の跳梁なども甚だしかった)
安楽と苦難を共に一方向性の延長線上に捉えるのではなく、
無為の右側と左側に真逆の方向性として存在するものと捉えるべきなのである。
苦難に甘んじる以上はそれに徹して、その見返りをいちいち期待することもない。
一方で、安楽を享受する側に徹するというのなら、それもまた苦難の見返りか
どうかなどを問題とはせず、安楽を享受することに専らでいることで、
また務めに打ち込んでいくためのエネルギーの温存にも徹するのである。
六十近くまで延々と下働きを続けた結果として幕府を開いた家康公も、
たった二年で将軍職を退いて駿府の大御所としての半隠遁生活を始めたのだった。
しかし、やはりその後も次代将軍らに頼られきりで、大坂の陣でも東軍方としての
主要な役割を負わされることとなった。すでに老体でありながらも、決死の覚悟
で突入して来た真田軍に後一歩の所まで攻め入られて九死に一生を得るなど、
決して穏やかとはいえない老後を送らされた挙げ句に、天寿を全うしたのだった。
その生き方たるや、苦難と安楽の均衡が取れていたなどとは決して言いがたい
苦労続きの人生だったわけで、いちいち労苦に対する見返りとしての安楽などを
期待していたのでは、決して同様の功績を挙げられたはずもないのである。
そしてそのような、労苦に相応の見返りすら期待しないあり方にこそ、
真の男気をも見出すことができる。天下の最高権力者たらんとする立場で
ありながら、なおのこと個人的な栄華などを期待したりすることもなく、
ただひたすら天下全土からの「厭離穢土欣求浄土」のために邁進していった、
そのあり方こそは、信長や秀吉なども決して体現することができなかった
ものであり、見習いの対象がその二人から家康公へと移り変わることを通じて、
多くの日本人たちも努力精進第一の姿勢であろうとするようになったのだった。
(信長や秀吉が最高権力者であった安土桃山織豊時代には、
一攫千金での栄華を夢見る商売人の跳梁なども甚だしかった)
苦難と安楽は決して表裏一体などでもない、相反的な関係にあるもの同士で
あることを実感的に理解するためにこそ、苦難でも安楽でもない状態としての
「無為」の存在性を計り知る必要がある。それでこそ、苦難←無為→安楽
という位相関係に即して、苦楽を別個のものとしても捉えられるようになる。
その上で、背負うべき労苦を背負い、背負うべきでない労苦を背負わず、
享受すべき安楽を享受し、享受すべきでない安楽を享受しないようにして
行ったなら、結局、苦労と安楽をマッチとポンプの関係に置こうとするような
安易な志向性に即した苦楽こそを退けて行くべきであることが分かるのである。
背負うべき労苦を最大級に背負い、それに相応の見返りすら期待しないという
ところで、そのための絶対的な帰依の対象になる相手などというのも居はしない。
不動明王や弘法大師あたりが、自力作善のための依拠対象として好適であったりする
こともあるけれども、だからといってそれらの相手が依存対象となるわけでもない。
ブラック企業が底辺の労働者を低賃金重労働でこき使う過程において、
社長や会長を絶対的な崇拝対象に仕立て上げたりすることがあるけれども、
それはもうカルト宗教の域であって、社員やバイトなども崇拝に酔いしれて
それをかりそめの安楽にしてしまっていたりするので、それは本格の自力作善
とも似て非なるものとなっている。崇拝に酔いしれたりしていられるうちは、
実際のところ、その行いが大した善行にもなっていなかったりするわけで、
その行いの徒労さ加減に対する絶望感が、致命的な大怪我を追ったときのような
アドレナリンの大量分泌を誘発しているわけで、その脳内麻薬からなる快楽が
社長や会長への崇拝によって助長されていたりするだけのことなのだから。
あることを実感的に理解するためにこそ、苦難でも安楽でもない状態としての
「無為」の存在性を計り知る必要がある。それでこそ、苦難←無為→安楽
という位相関係に即して、苦楽を別個のものとしても捉えられるようになる。
その上で、背負うべき労苦を背負い、背負うべきでない労苦を背負わず、
享受すべき安楽を享受し、享受すべきでない安楽を享受しないようにして
行ったなら、結局、苦労と安楽をマッチとポンプの関係に置こうとするような
安易な志向性に即した苦楽こそを退けて行くべきであることが分かるのである。
背負うべき労苦を最大級に背負い、それに相応の見返りすら期待しないという
ところで、そのための絶対的な帰依の対象になる相手などというのも居はしない。
不動明王や弘法大師あたりが、自力作善のための依拠対象として好適であったりする
こともあるけれども、だからといってそれらの相手が依存対象となるわけでもない。
ブラック企業が底辺の労働者を低賃金重労働でこき使う過程において、
社長や会長を絶対的な崇拝対象に仕立て上げたりすることがあるけれども、
それはもうカルト宗教の域であって、社員やバイトなども崇拝に酔いしれて
それをかりそめの安楽にしてしまっていたりするので、それは本格の自力作善
とも似て非なるものとなっている。崇拝に酔いしれたりしていられるうちは、
実際のところ、その行いが大した善行にもなっていなかったりするわけで、
その行いの徒労さ加減に対する絶望感が、致命的な大怪我を追ったときのような
アドレナリンの大量分泌を誘発しているわけで、その脳内麻薬からなる快楽が
社長や会長への崇拝によって助長されていたりするだけのことなのだから。
労苦に相応の見返りすら期待しない心意気と共なる自力作善というのが、
真理に即して、悟りに到る菩薩業となるともされるし(「華厳経」などを参照)、
それこそは君子の楽しむ所であると、儒学などでも認められている。全く見返りを
期待しないとなれば、これは仁義道徳に即しては認められないこととなるわけで、
そこは儒学と仏教とで相違する面だったりするけれども、安楽以上の労苦を志して行く
ということは、正学正教に共通して奨励されていることであるには違いないのである。
その際に、善行こそを選別して実行して行く自律性までをも具えているかどうかが
問題となるわけで、その能力がないのなら奴隷も同然の存在と化してしまう。その、
紙一重の所の違いも見分けられた上で、一概な善行に励んで行く必要までもがある。
無論、その紙一重の違いをより分けて聖賢の道を歩んで行くためにこそ、
安易に奴隷化してしまう場合などには決して介さないような、途方も
ないほどもの勉学精進に励んでおく必要があるわけだけれども。
「我れ我が車を、彼の牧に出ださん。天子の所より、我れを来たらしむ。
彼の僕夫を召して、之れに載せす。王事は多難なる、維れ其れ棘とげしき。(中略)
昔、我が往きしとき、黍稷は方華なる。今我れ来たりて思うに、雨雪を載せ塗るむ。
王事は多難なる、啓居する遑まあらず。豈に帰るを懐わざらん、此の簡書を畏みて」
「いま、わが戦車をかの牧野に引き出さん。天子より我に招聘がかかったために。
多くの兵員たちを召喚して、この戦車に載せる。王事は苦難も多く、それはそれは剣呑なもの。
昔、私が出征した時には、方々に穀物がよく実っていたが、いまは雨雪で土もぬかるむ時期。
王事は苦難の連続となるに違いなく、暇を持て余すようなことももはやないに違いない。
それでいてまた還って来ることを想ってなどもいられない。この勅命書を頂いたからには。
(戦に臨む猛者の心意気。自ら安楽を期待するようなことすらもはやあってはならぬ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・鹿鳴之什・出車より)
真理に即して、悟りに到る菩薩業となるともされるし(「華厳経」などを参照)、
それこそは君子の楽しむ所であると、儒学などでも認められている。全く見返りを
期待しないとなれば、これは仁義道徳に即しては認められないこととなるわけで、
そこは儒学と仏教とで相違する面だったりするけれども、安楽以上の労苦を志して行く
ということは、正学正教に共通して奨励されていることであるには違いないのである。
その際に、善行こそを選別して実行して行く自律性までをも具えているかどうかが
問題となるわけで、その能力がないのなら奴隷も同然の存在と化してしまう。その、
紙一重の所の違いも見分けられた上で、一概な善行に励んで行く必要までもがある。
無論、その紙一重の違いをより分けて聖賢の道を歩んで行くためにこそ、
安易に奴隷化してしまう場合などには決して介さないような、途方も
ないほどもの勉学精進に励んでおく必要があるわけだけれども。
「我れ我が車を、彼の牧に出ださん。天子の所より、我れを来たらしむ。
彼の僕夫を召して、之れに載せす。王事は多難なる、維れ其れ棘とげしき。(中略)
昔、我が往きしとき、黍稷は方華なる。今我れ来たりて思うに、雨雪を載せ塗るむ。
王事は多難なる、啓居する遑まあらず。豈に帰るを懐わざらん、此の簡書を畏みて」
「いま、わが戦車をかの牧野に引き出さん。天子より我に招聘がかかったために。
多くの兵員たちを召喚して、この戦車に載せる。王事は苦難も多く、それはそれは剣呑なもの。
昔、私が出征した時には、方々に穀物がよく実っていたが、いまは雨雪で土もぬかるむ時期。
王事は苦難の連続となるに違いなく、暇を持て余すようなことももはやないに違いない。
それでいてまた還って来ることを想ってなどもいられない。この勅命書を頂いたからには。
(戦に臨む猛者の心意気。自ら安楽を期待するようなことすらもはやあってはならぬ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・鹿鳴之什・出車より)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
なるほどなあ。
宦官応募者一人発見ww
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
>045 笠地蔵 (2013/07/06(土) 01:51:21 UObyh7DFUw:au)
>植草は、マゾ気味なのが玉に傷だ。
>玉に傷どころか、玉抜き級の傷だ。
>俺は、宦官を募集してはいない。
後始末しろやwww
>植草は、マゾ気味なのが玉に傷だ。
>玉に傷どころか、玉抜き級の傷だ。
>俺は、宦官を募集してはいない。
後始末しろやwww
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
世の中において、一般的な犯罪者こそはあからさまな卑しみの対象とされる一方、
心神喪失や精神薄弱などの原因があって罪を犯してしまったような人間は、
多少の情状酌量の対象となって、実際に罪を減免されたりすることもある。
だからといって、精神的問題によって重罰を免れられた人間などが、
一般的な犯罪者よりも「幸い」であるなどということは、本来は決して
あってはならないことである。罪を犯したから罰を受ける人間は、人間としての
本質的な責任能力が十分であるからこそ罰を受けるのであって、罰によって十分に
罪を償ったからには、また一般人並みの社会的信用を取り戻し得るものである。
一方で、心神喪失を理由に罰を免れた犯罪者などは、これは始めから責任能力が
ないと見込まれたわけだから、それに基づき、恒久的に社会的信用をも失うのである。
そうであらねばならないというのが世の理コトワリであり、心神喪失によって罰を
免れた犯罪者などを幸福者扱いしたりするのは、世相の荒廃以外の何ものでもない。
そのような風潮を赦していれば、世の中じゅうが責任能力の喪失者ばかりで
溢れ返ることとなってしまい、最終的にはFEMAのような強制統率措置をでも
講ずるのでない限りは世界規模の破滅を招くようなことにすらなってしまうのである。
そのような事態を予防して行くために、率先して多大なる社会的責任を負って
行く者を増産し、またそのような人間こそを崇敬の対象として行く必要がある。
それこそ、不手際を犯そうものなら引責自殺も辞さないような士大夫を育成して
この世に君臨させて行くことでそれが実現されるのであり、そのような君子たちの
あり方を倣って、民たちまでもが責任能力の尊重者となり、民間でも社会的責任を
率先して負おうとする者こそが尊ばれ、そうしない者が卑しまれるようになるのである。
心神喪失や精神薄弱などの原因があって罪を犯してしまったような人間は、
多少の情状酌量の対象となって、実際に罪を減免されたりすることもある。
だからといって、精神的問題によって重罰を免れられた人間などが、
一般的な犯罪者よりも「幸い」であるなどということは、本来は決して
あってはならないことである。罪を犯したから罰を受ける人間は、人間としての
本質的な責任能力が十分であるからこそ罰を受けるのであって、罰によって十分に
罪を償ったからには、また一般人並みの社会的信用を取り戻し得るものである。
一方で、心神喪失を理由に罰を免れた犯罪者などは、これは始めから責任能力が
ないと見込まれたわけだから、それに基づき、恒久的に社会的信用をも失うのである。
そうであらねばならないというのが世の理コトワリであり、心神喪失によって罰を
免れた犯罪者などを幸福者扱いしたりするのは、世相の荒廃以外の何ものでもない。
そのような風潮を赦していれば、世の中じゅうが責任能力の喪失者ばかりで
溢れ返ることとなってしまい、最終的にはFEMAのような強制統率措置をでも
講ずるのでない限りは世界規模の破滅を招くようなことにすらなってしまうのである。
そのような事態を予防して行くために、率先して多大なる社会的責任を負って
行く者を増産し、またそのような人間こそを崇敬の対象として行く必要がある。
それこそ、不手際を犯そうものなら引責自殺も辞さないような士大夫を育成して
この世に君臨させて行くことでそれが実現されるのであり、そのような君子たちの
あり方を倣って、民たちまでもが責任能力の尊重者となり、民間でも社会的責任を
率先して負おうとする者こそが尊ばれ、そうしない者が卑しまれるようになるのである。
そういったことは、民主主義や法治主義と共には決して成し得ないことである。
いずれも君子階級の権威を剥奪して、ただの事務的な公務員にしてしまうイデオロギー
であるし、なおかつ君子のように率先して社会的責任を負って行くことを民間人に
対して奨励するイデオロギーであるわけでもない。ろくな責任感も持たない民間人の
品性を公人にまで強制して、全国全土を無責任主義一色に染め上げてしまうものである
わけだから、そこで心神喪失者を受刑者以上に卑しむ倫理観などが育つことも当然ない。
人々に旺盛な責任感を抱かせる度合いでは、民主主義や法治主義は徳治主義以下である
一方で、道家の定立する無為自然による統治などは、徳治並みかそれ以上の効能をも
持ち得るものである。人々に作為的な統治を施しすぎれば、「どうせ君子こそが責任を
負ってくれるのだから」という思いからなる無責任を募らせるようなことにすらなって
しまいかねない。それを防ぐために、君子たる者があまり民への統治行為全般を積極的
であらしめないようにする。過保護を排された結果として、民たちも自主的に責任意識
を持ち始めるようになる。民たちに権利を保障するのではなく、義務感こそを養わせる
統治手段であるわけで、権利ばかりを保障してやろうとする民主主義や、最低限の
義務だけを負わせようとする法治主義とも、これまた相容れるものではないのである。
世の中の人間誰しもが、旺盛な責任感と共に社会に参画して行くべきであるとは、
理想論としてはもっとなことであるが、やはり堅苦しいといえば堅苦しいことでもある。
人々が抱くべき最低限の責任感の指標として、心神喪失により刑罰を免れた犯罪者を、
責任能力の持ち主として刑罰を被る犯罪者以上にも卑しめるぐらいであるべきだという
のがある。その程度の責任感を誰しもが持ち合わせていたなら世の中も安泰である一方で、
それすら疎かであるというのなら、世の中と本人と両方の将来が危ぶまれるものである。
本人たち自身がそこに安心感を抱いていたりした所で、当然それは変わらないのである。
いずれも君子階級の権威を剥奪して、ただの事務的な公務員にしてしまうイデオロギー
であるし、なおかつ君子のように率先して社会的責任を負って行くことを民間人に
対して奨励するイデオロギーであるわけでもない。ろくな責任感も持たない民間人の
品性を公人にまで強制して、全国全土を無責任主義一色に染め上げてしまうものである
わけだから、そこで心神喪失者を受刑者以上に卑しむ倫理観などが育つことも当然ない。
人々に旺盛な責任感を抱かせる度合いでは、民主主義や法治主義は徳治主義以下である
一方で、道家の定立する無為自然による統治などは、徳治並みかそれ以上の効能をも
持ち得るものである。人々に作為的な統治を施しすぎれば、「どうせ君子こそが責任を
負ってくれるのだから」という思いからなる無責任を募らせるようなことにすらなって
しまいかねない。それを防ぐために、君子たる者があまり民への統治行為全般を積極的
であらしめないようにする。過保護を排された結果として、民たちも自主的に責任意識
を持ち始めるようになる。民たちに権利を保障するのではなく、義務感こそを養わせる
統治手段であるわけで、権利ばかりを保障してやろうとする民主主義や、最低限の
義務だけを負わせようとする法治主義とも、これまた相容れるものではないのである。
世の中の人間誰しもが、旺盛な責任感と共に社会に参画して行くべきであるとは、
理想論としてはもっとなことであるが、やはり堅苦しいといえば堅苦しいことでもある。
人々が抱くべき最低限の責任感の指標として、心神喪失により刑罰を免れた犯罪者を、
責任能力の持ち主として刑罰を被る犯罪者以上にも卑しめるぐらいであるべきだという
のがある。その程度の責任感を誰しもが持ち合わせていたなら世の中も安泰である一方で、
それすら疎かであるというのなら、世の中と本人と両方の将来が危ぶまれるものである。
本人たち自身がそこに安心感を抱いていたりした所で、当然それは変わらないのである。
「民辟有るを知れば、則ち上を忌まず、並びに争心有りて、
以て書に徴し、徼幸を而て以て之れをさんとす、為む可からず」
「民たちは、もし成分化された律法などがあると知れば、それによってお上を畏怖することがなくなり、
不埒な闘争心を滾らせて、法文を盾にした脱法行為によって悪事を働き、僥倖を得ようとするようになる。
そうなればもう、ろくに為政によって世の中を治めることもできなくなる。(旧約で律法を提示して、
新約でそこからの脱法を促す犯罪聖書の記述構造は、まさにこのような事態を誘発するものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公六年より)
以て書に徴し、徼幸を而て以て之れをさんとす、為む可からず」
「民たちは、もし成分化された律法などがあると知れば、それによってお上を畏怖することがなくなり、
不埒な闘争心を滾らせて、法文を盾にした脱法行為によって悪事を働き、僥倖を得ようとするようになる。
そうなればもう、ろくに為政によって世の中を治めることもできなくなる。(旧約で律法を提示して、
新約でそこからの脱法を促す犯罪聖書の記述構造は、まさにこのような事態を誘発するものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公六年より)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
世界中が欧米聖書教徒の暴慢によって戦乱に陥れられていた近世、日本では
江戸時代だった頃、日本人は、当時の世界では突出した泰平に与れていた。
それもやはり、害為正法外道の邪教である聖書信仰を国内では根絶させて、
儒学を理念的主体とした徳治を講じていたからだった。ただ、儒学を現実の
世の中で有効に用いることで世の平和を保つために、儒学の最たる実践者である
武士たちは、それはそれは堅苦しい緊張続きな生活を送らされてもいたのだった。
「忠臣蔵」として名高い元禄赤穂事件なども、それ自体は完全な不祥事であった
わけだけれども、日頃から重責を負わされていた武士たちが、主君の不手際の
道連れとなって潔く果てていったその有り様が、いかにも徳治の実践の顕現然と
していたために、賞賛の対象ともなった。自分たちに不手際があろうものなら、
目付役の武士たちの監視や査定にも基づいて、相応かそれ以上の引責に甘んじて
行くというその厳酷なあり方こそが、修己治人の純然たる実行ともなっていたために、
平民までもがよく規律を正して、世を乱すような妄動にも及ぶことがなかった。
してみれば、そこで尊ばれるべきなのも、主人公として扱われるべきなのも、その
ような平和な世の中を主導的に実現していた武士たちでこそあるのであり、その
結果として平和に与れていた民たちは、副体的な存在として扱われるべきなのである。
世の中が平和であるか否かでいえば、平和であるに越したことはないけれども、
その平和を受動的に享受しているものと、能動的に実現していっている者とでは、
当然、前者よりも後者のほうが尊ばれるべきである。平和を享受できた者こそは
神に選ばれし者であるが故に貴いなどというような、消費者を生産者よりも優遇
するような考え方でいたのでは、平和の実現もまた疎かとなって、聖書信者が
支配する世の中のような、最悪の乱世に陥ってしまうことともなるのである。
江戸時代だった頃、日本人は、当時の世界では突出した泰平に与れていた。
それもやはり、害為正法外道の邪教である聖書信仰を国内では根絶させて、
儒学を理念的主体とした徳治を講じていたからだった。ただ、儒学を現実の
世の中で有効に用いることで世の平和を保つために、儒学の最たる実践者である
武士たちは、それはそれは堅苦しい緊張続きな生活を送らされてもいたのだった。
「忠臣蔵」として名高い元禄赤穂事件なども、それ自体は完全な不祥事であった
わけだけれども、日頃から重責を負わされていた武士たちが、主君の不手際の
道連れとなって潔く果てていったその有り様が、いかにも徳治の実践の顕現然と
していたために、賞賛の対象ともなった。自分たちに不手際があろうものなら、
目付役の武士たちの監視や査定にも基づいて、相応かそれ以上の引責に甘んじて
行くというその厳酷なあり方こそが、修己治人の純然たる実行ともなっていたために、
平民までもがよく規律を正して、世を乱すような妄動にも及ぶことがなかった。
してみれば、そこで尊ばれるべきなのも、主人公として扱われるべきなのも、その
ような平和な世の中を主導的に実現していた武士たちでこそあるのであり、その
結果として平和に与れていた民たちは、副体的な存在として扱われるべきなのである。
世の中が平和であるか否かでいえば、平和であるに越したことはないけれども、
その平和を受動的に享受しているものと、能動的に実現していっている者とでは、
当然、前者よりも後者のほうが尊ばれるべきである。平和を享受できた者こそは
神に選ばれし者であるが故に貴いなどというような、消費者を生産者よりも優遇
するような考え方でいたのでは、平和の実現もまた疎かとなって、聖書信者が
支配する世の中のような、最悪の乱世に陥ってしまうことともなるのである。
実際、江戸時代のような治世を自分たちの力量によって実現してしまう程もの
人物というのは、本当に尊いのである。別に、得体の知れない神性だ霊性だを
帯びているからでもなく、純粋な社会的功業の大きさだけに即しても、平民ならば
必ず道を譲って拝礼しなければならない程もの偉大さを帯びているから、尊いである。
平和な世の中が人力で実現されているのなら、必ずどこかにそのような人間がいる。
いつもはそんなに意識しなくてもいいが、対面する時には必ず最上級の敬意を
払わねばならない。それ程もの威容を称えた君子が世の中を治められている
時代にこそ、実際に本物の平和が実現されてもいる。そんな君子が存在しなくて、
目にも見えなければ声も聞こえない架空神こそが平和を実現してくれるなどと
信じ込まれているような世の中こそは、実際には最悪の乱世にも陥っている。
その理由は二つ。超越神が平和を実現してくれるなどという事実は存在しないから
ということと、もう一つ、現実に実在する人間への十分な敬意も払えないような
人間が跳梁しているような世の中こそは、乱世にも陥らざるを得ないからとである。
現実に実在する人間としての平和の実現者を尊ぶこともできないからこそ、
架空の超越神による平和の実現を希求した結果として、かえって乱世を招いてしまう。
その傾向は、超越神アラーの下での「聖戦」をも開き直っているイスラム教徒
以上にも、信者たちの事なかれ主義がより甚だしい聖書教徒にこそ顕著でもある。
人物というのは、本当に尊いのである。別に、得体の知れない神性だ霊性だを
帯びているからでもなく、純粋な社会的功業の大きさだけに即しても、平民ならば
必ず道を譲って拝礼しなければならない程もの偉大さを帯びているから、尊いである。
平和な世の中が人力で実現されているのなら、必ずどこかにそのような人間がいる。
いつもはそんなに意識しなくてもいいが、対面する時には必ず最上級の敬意を
払わねばならない。それ程もの威容を称えた君子が世の中を治められている
時代にこそ、実際に本物の平和が実現されてもいる。そんな君子が存在しなくて、
目にも見えなければ声も聞こえない架空神こそが平和を実現してくれるなどと
信じ込まれているような世の中こそは、実際には最悪の乱世にも陥っている。
その理由は二つ。超越神が平和を実現してくれるなどという事実は存在しないから
ということと、もう一つ、現実に実在する人間への十分な敬意も払えないような
人間が跳梁しているような世の中こそは、乱世にも陥らざるを得ないからとである。
現実に実在する人間としての平和の実現者を尊ぶこともできないからこそ、
架空の超越神による平和の実現を希求した結果として、かえって乱世を招いてしまう。
その傾向は、超越神アラーの下での「聖戦」をも開き直っているイスラム教徒
以上にも、信者たちの事なかれ主義がより甚だしい聖書教徒にこそ顕著でもある。
現実社会上の平和の実現者を尊ぶこともできないままに、「分不相応な平和」を
追い求めた結果、かえって好戦家による以上もの乱世を招いてしまう。真に平和を
実現するためには、それを実現してくださる人々を、生身の人間でありながら
十全に尊べるだけの敬意を持てることが必須となる。それを可能とする者だけが、
真の平和を享受する資格をも持ち合わせているのだから、平和を享受することにも
人それぞれに権利の有無があることを知らねばならない。あまりにも不埒な思い上がり
ばかりを抱いているが故に、実物の平和の実現者を尊ぶこともできないようならば、
必要性によって無礼討ちにされねばならなくなるようなこともある、そういった
リスクをも踏まえた上で、平和というものもまた希求して行かなければならない。
「猗たり那たり、我が鞉鼓を置く。奏鼓は簡簡と、
我が烈祖を衎しましむ。湯孫の奏み仮たり、我が思成を綏んず。
鞉鼓は淵淵と、嘒嘒たる管の声。既に和ぎ且つ平らかに、我も依りて磬聲たる」
「煌びやかに鼓を並べ、その演奏もカンカンと音を上げて始まり、我らが(殷国の)
亡き祖神たちをも楽しませる。(殷祖)湯王直系の子孫もまた演奏しながら
進み出て、祖神たちの思いを安んじさせる。鼓はエンエンとした音を立て、
管楽器もケイケイと音を上げる。平和も確立され、祖神までもが歌声を上げるかのよう。
(『平和』という言葉の原典の一つ。自助努力で礼楽による治世をも実現した王君が、
音楽によって祖神の霊すらをも安んずる。その姿こそは真の平和だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・那より)
追い求めた結果、かえって好戦家による以上もの乱世を招いてしまう。真に平和を
実現するためには、それを実現してくださる人々を、生身の人間でありながら
十全に尊べるだけの敬意を持てることが必須となる。それを可能とする者だけが、
真の平和を享受する資格をも持ち合わせているのだから、平和を享受することにも
人それぞれに権利の有無があることを知らねばならない。あまりにも不埒な思い上がり
ばかりを抱いているが故に、実物の平和の実現者を尊ぶこともできないようならば、
必要性によって無礼討ちにされねばならなくなるようなこともある、そういった
リスクをも踏まえた上で、平和というものもまた希求して行かなければならない。
「猗たり那たり、我が鞉鼓を置く。奏鼓は簡簡と、
我が烈祖を衎しましむ。湯孫の奏み仮たり、我が思成を綏んず。
鞉鼓は淵淵と、嘒嘒たる管の声。既に和ぎ且つ平らかに、我も依りて磬聲たる」
「煌びやかに鼓を並べ、その演奏もカンカンと音を上げて始まり、我らが(殷国の)
亡き祖神たちをも楽しませる。(殷祖)湯王直系の子孫もまた演奏しながら
進み出て、祖神たちの思いを安んじさせる。鼓はエンエンとした音を立て、
管楽器もケイケイと音を上げる。平和も確立され、祖神までもが歌声を上げるかのよう。
(『平和』という言葉の原典の一つ。自助努力で礼楽による治世をも実現した王君が、
音楽によって祖神の霊すらをも安んずる。その姿こそは真の平和だったのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・商頌・那より)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
結局、人間たるもの、偶像化も可能であるような神仏を信仰するのでもない限りは、
信仰など何も楽しい所がないままに終わってしまう。偶像が本当に神性や仏性
そのものであるのかどうかも置いといて、方便として機能する程度の偶像ぐらいは
あるのでなければ、信仰そのものが心地よさを帯びることがないのである。
偶像崇拝を禁止するアブラハム教徒たちは、そのつまらなさに甘んじることを、
自分たちの敬虔さの証拠として来たのである。偶像化も禁じられているような
神を信じたりすることは、偶像崇拝も認められているような信教への帰依者
などの立場からしてみても、いかにもつまらないものであることが分かる
ものだから、そんな所に止まっていようとするアブラハム教徒のあり方に、
心理的な苦行者としての敬意が払われるようなこともあったのである。
ただ、偶像崇拝を禁止された苦しみを、ユダヤ教徒は不正な金儲けの気概に
して来たし、キリスト教徒は異教徒への迫害や、神がいるとされる形而上への
夢想の気概としたのである。本当に偶像崇拝を禁ずる苦しみの中に止まりきって、
別個の欲望の捌け口などにも頼らないでいて来た(せいぜい水タバコ程度に
止めて来た)のは、アブラハム教徒のうちでもイスラム教徒のみであり、
偶像崇拝の禁止はむしろ、そのせいでの苦しみを悪逆非道の推進で解消
するような副作用を帯びてしまった場合のほうが多かったのである。
アブラハム教(特に聖書教)が、偶像崇拝の禁止を通じてこの世に
有害無益な悪影響ばかりを及ぼして来たことからも、道義的な結論に即して、
神仏信仰は偶像崇拝と共にあったほうがよいということがいえる。「信教の王道」
として扱われるべきなのは、偶像崇拝も許容するような信教のほうであり、
偶像崇拝を禁止したりするような信教は、無害な限りにおいては許されると
したところで、異端の信教としては取り扱われるべきこととなるのである。
信仰など何も楽しい所がないままに終わってしまう。偶像が本当に神性や仏性
そのものであるのかどうかも置いといて、方便として機能する程度の偶像ぐらいは
あるのでなければ、信仰そのものが心地よさを帯びることがないのである。
偶像崇拝を禁止するアブラハム教徒たちは、そのつまらなさに甘んじることを、
自分たちの敬虔さの証拠として来たのである。偶像化も禁じられているような
神を信じたりすることは、偶像崇拝も認められているような信教への帰依者
などの立場からしてみても、いかにもつまらないものであることが分かる
ものだから、そんな所に止まっていようとするアブラハム教徒のあり方に、
心理的な苦行者としての敬意が払われるようなこともあったのである。
ただ、偶像崇拝を禁止された苦しみを、ユダヤ教徒は不正な金儲けの気概に
して来たし、キリスト教徒は異教徒への迫害や、神がいるとされる形而上への
夢想の気概としたのである。本当に偶像崇拝を禁ずる苦しみの中に止まりきって、
別個の欲望の捌け口などにも頼らないでいて来た(せいぜい水タバコ程度に
止めて来た)のは、アブラハム教徒のうちでもイスラム教徒のみであり、
偶像崇拝の禁止はむしろ、そのせいでの苦しみを悪逆非道の推進で解消
するような副作用を帯びてしまった場合のほうが多かったのである。
アブラハム教(特に聖書教)が、偶像崇拝の禁止を通じてこの世に
有害無益な悪影響ばかりを及ぼして来たことからも、道義的な結論に即して、
神仏信仰は偶像崇拝と共にあったほうがよいということがいえる。「信教の王道」
として扱われるべきなのは、偶像崇拝も許容するような信教のほうであり、
偶像崇拝を禁止したりするような信教は、無害な限りにおいては許されると
したところで、異端の信教としては取り扱われるべきこととなるのである。
ただ、偶像崇拝を許容しているような信教が敬虔かといえば、そうとも限らない。
阿弥陀仏への念仏信仰なども典型的な偶像崇拝だが、信者がいかにも
苦行に甘んずる精進者らしいなどということも決してない。むしろ、
偶像崇拝などよりも自力作善を重んじている禅者あたりのほうが、
仏門帰依者の内でも敬虔らしくあったりする。偶像崇拝も是と
するような信教ほど王道であるというのなら、信教などはさして
人としての真摯さを育むものではないということにすらなってしまう。
そうであって構わない。むしろ、そうでなければならないのである。
信教の下での敬虔さこそは、倫理的な悪逆非道を正当化する材料の代表格でも
あり続けて来たのだから、そんなものを信教の精髄などとして扱うべきでもない。
偶像崇拝を禁ずる精神的苦痛を、ユダヤ教徒やキリスト教徒は旺盛な悪逆非道に
よって埋め合わせて来たのだから、なんら敬意を払うに足るものではない。
本来の信教としての創立目的からして、聖書教徒の侵略からの防衛目的であり、
偶像崇拝の禁止に伴う精神的苦痛にも、大した捌け口に頼ることもなく耐え抜いて
きたイスラム教徒のみが、真にアブラハム教中の苦行者でもあったといえる。
東洋人などにとっては、そのイスラム教徒こそが、内陸からの聖書教徒の侵略を
食い止める防波堤ともなって来てくれたわけだから、決してムスリムまでをも
偶像崇拝の禁止者であるからといって卑賤視すべきでもなかったりするのである。
「地は万物を載せ、天は象を垂る。財を地に取り、法を天に取る。
是れを以って(以下既出)天を尊び地に親しみ、故に民報の美なるを教う」
「地は万物を積載し、天は日月星辰の運行といった大いなる現象をもたらす。
財物の豊かさは地に則り、法の普遍性は天に則るようにすることで、
天を尊び地に親しみ、因果応報の理の善美なることを民にも教化する。
(日月星辰の運行といった大局現象をありのままに天神の偶像として捉え、
それを通じて天を畏敬の対象としている。しごく健全な神格崇拝だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
阿弥陀仏への念仏信仰なども典型的な偶像崇拝だが、信者がいかにも
苦行に甘んずる精進者らしいなどということも決してない。むしろ、
偶像崇拝などよりも自力作善を重んじている禅者あたりのほうが、
仏門帰依者の内でも敬虔らしくあったりする。偶像崇拝も是と
するような信教ほど王道であるというのなら、信教などはさして
人としての真摯さを育むものではないということにすらなってしまう。
そうであって構わない。むしろ、そうでなければならないのである。
信教の下での敬虔さこそは、倫理的な悪逆非道を正当化する材料の代表格でも
あり続けて来たのだから、そんなものを信教の精髄などとして扱うべきでもない。
偶像崇拝を禁ずる精神的苦痛を、ユダヤ教徒やキリスト教徒は旺盛な悪逆非道に
よって埋め合わせて来たのだから、なんら敬意を払うに足るものではない。
本来の信教としての創立目的からして、聖書教徒の侵略からの防衛目的であり、
偶像崇拝の禁止に伴う精神的苦痛にも、大した捌け口に頼ることもなく耐え抜いて
きたイスラム教徒のみが、真にアブラハム教中の苦行者でもあったといえる。
東洋人などにとっては、そのイスラム教徒こそが、内陸からの聖書教徒の侵略を
食い止める防波堤ともなって来てくれたわけだから、決してムスリムまでをも
偶像崇拝の禁止者であるからといって卑賤視すべきでもなかったりするのである。
「地は万物を載せ、天は象を垂る。財を地に取り、法を天に取る。
是れを以って(以下既出)天を尊び地に親しみ、故に民報の美なるを教う」
「地は万物を積載し、天は日月星辰の運行といった大いなる現象をもたらす。
財物の豊かさは地に則り、法の普遍性は天に則るようにすることで、
天を尊び地に親しみ、因果応報の理の善美なることを民にも教化する。
(日月星辰の運行といった大局現象をありのままに天神の偶像として捉え、
それを通じて天を畏敬の対象としている。しごく健全な神格崇拝だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
削除
清廉を期するのなら、争いの種などは始めから絶やして置くに越したことはない。
そのためには却って、徹底的な競争を尽くしておいたほうがよかったりもする。
大化の改新以降、奈良時代までの内に、藤原氏が政治的覇権を確立するための徹底的な政争を尽くしたものだから、
平安時代には未曾有の治世が確立されたのだし、武家時代にも、戦国時代に徹底的な内戦が日本国内で
繰り広げられたからこそ、その最終勝利者となった徳川の下での二百五十年に渡る治世が確立されたのだった。
殷帝国による政治的覇権が紂王の暴虐によっても瓦解し、周武王が絶対的な皇帝格ではなく、
諸国の候公を統べる盟主ほどの存在として中原一帯を統べる帝王となって後、春秋時代以降には、
諸侯による専横が甚だしくなり、収拾が付かなくなった結果として(中国版の)戦国時代にも移行した。
それは一つの「覆水盆に返らず」の事態であったわけで、絶対的な王者が君臨するわけでもない状態での
乱世などを来たしてしまった以上は、戦乱を極めるのでなければ収拾も付かなくなる見本となっているのである。
その、中国の春秋戦国時代の争乱は、秦帝国による中国統一と短期での崩壊、楚漢戦争の後の漢帝国の樹立といった
手順を踏むことで反正されることとなった。大化の改新以降の藤原氏による覇権の確立なども、それ以前の古代豪族
たちによる争乱状態を鎮める目的で成されたものだし、江戸時代における徳川幕府による治世の確立もまた、
保元の乱による公家の権威の失墜後に来たした武家同士での争いを極限まで鎮める目的で成されたのだった。
「覆水盆に返らず」と言わざるを得ないような、それ自体を修復することがもはや不可能であるような争乱を
来たしてしまった以上は、もはや争乱を極めて次代に移る以外に収拾の付けようがないということが多々あるのである。
すでにそれ程もの乱脈を来たしているにも関わらず、場違いな事なかれ主義を主張して、だらしない乱世を持続してしまう
ようなこともあるわけで、その結果として、治世と呼べるほどの治世の呼び込みを不能なままにしてしまったりもする。
そのためには却って、徹底的な競争を尽くしておいたほうがよかったりもする。
大化の改新以降、奈良時代までの内に、藤原氏が政治的覇権を確立するための徹底的な政争を尽くしたものだから、
平安時代には未曾有の治世が確立されたのだし、武家時代にも、戦国時代に徹底的な内戦が日本国内で
繰り広げられたからこそ、その最終勝利者となった徳川の下での二百五十年に渡る治世が確立されたのだった。
殷帝国による政治的覇権が紂王の暴虐によっても瓦解し、周武王が絶対的な皇帝格ではなく、
諸国の候公を統べる盟主ほどの存在として中原一帯を統べる帝王となって後、春秋時代以降には、
諸侯による専横が甚だしくなり、収拾が付かなくなった結果として(中国版の)戦国時代にも移行した。
それは一つの「覆水盆に返らず」の事態であったわけで、絶対的な王者が君臨するわけでもない状態での
乱世などを来たしてしまった以上は、戦乱を極めるのでなければ収拾も付かなくなる見本となっているのである。
その、中国の春秋戦国時代の争乱は、秦帝国による中国統一と短期での崩壊、楚漢戦争の後の漢帝国の樹立といった
手順を踏むことで反正されることとなった。大化の改新以降の藤原氏による覇権の確立なども、それ以前の古代豪族
たちによる争乱状態を鎮める目的で成されたものだし、江戸時代における徳川幕府による治世の確立もまた、
保元の乱による公家の権威の失墜後に来たした武家同士での争いを極限まで鎮める目的で成されたのだった。
「覆水盆に返らず」と言わざるを得ないような、それ自体を修復することがもはや不可能であるような争乱を
来たしてしまった以上は、もはや争乱を極めて次代に移る以外に収拾の付けようがないということが多々あるのである。
すでにそれ程もの乱脈を来たしているにも関わらず、場違いな事なかれ主義を主張して、だらしない乱世を持続してしまう
ようなこともあるわけで、その結果として、治世と呼べるほどの治世の呼び込みを不能なままにしてしまったりもする。
西洋ではそのような不完全燃焼の乱世を延々と続けることが常態化してしまっているし、東洋社会においても、
百年から数百年規模でそのような事態を来たしてしまう場合がままある。すでに一定度以上の通奏低音的な争乱を
来たしてしまっているものだから、そのせいでの下民たちの疲弊も深刻なものと化してしまっている。にもかかわらず、
権力者たちは、乱世が極まるせいで自分たちが立場を追われることを恐れて、場違いな事なかれ主義のままで
いようとしてしまったりする。そこにこそ、人間社会の主たる荒廃もまたあるのであり、項羽や織田信長級の
徹底破壊を目論む寵児が生じてしまったりするのも、そうであり続けた結果でしかなかったりするのである。
争いが極まることを恐れての、不完全燃焼状態での事なかれ主義でいたせいでの、低度の乱世の持続こそが
人間社会の荒廃の主体であるとは、世の中というものの微妙な性質を計り知れる人間でなければ、なかなか理解しがたい
ことである。権力者たちも総倒れと化してしまうような極限級の争乱こそは、最も忌まれるべき世の荒廃であるなどとも
思い込まれがちであり、実際に、今の世界を支配している西洋の権力者なども、そのようなプロパガンダを敷くことで、
乱世が極まる以上は最たる制圧対象となることが免れられない自分たちの保身にも専念していたりするのである。
「禍転じて福と成す」ということは実際、可能であるわけだけれども、実際にそれを試みるとなれば、数多の抵抗に
遭うようなことともなる。乱世を持続させてしまったような権力者こそは、その責任を取らされることを恐れて、
あの手この手を使ってでもの必死の抵抗に興じてくる。その時に、本人たちが自己正当化に用いる事なかれ主義の論説などが
まやかしであることをも喝破できるかどうかが問題となったりするわけで、時には荀子級の理論武装すらしている場合も
あるものだから、禍転じて福と成そうとする側もそれに苛立っての好戦志向に振れきったりしないことが重大となりもする。
百年から数百年規模でそのような事態を来たしてしまう場合がままある。すでに一定度以上の通奏低音的な争乱を
来たしてしまっているものだから、そのせいでの下民たちの疲弊も深刻なものと化してしまっている。にもかかわらず、
権力者たちは、乱世が極まるせいで自分たちが立場を追われることを恐れて、場違いな事なかれ主義のままで
いようとしてしまったりする。そこにこそ、人間社会の主たる荒廃もまたあるのであり、項羽や織田信長級の
徹底破壊を目論む寵児が生じてしまったりするのも、そうであり続けた結果でしかなかったりするのである。
争いが極まることを恐れての、不完全燃焼状態での事なかれ主義でいたせいでの、低度の乱世の持続こそが
人間社会の荒廃の主体であるとは、世の中というものの微妙な性質を計り知れる人間でなければ、なかなか理解しがたい
ことである。権力者たちも総倒れと化してしまうような極限級の争乱こそは、最も忌まれるべき世の荒廃であるなどとも
思い込まれがちであり、実際に、今の世界を支配している西洋の権力者なども、そのようなプロパガンダを敷くことで、
乱世が極まる以上は最たる制圧対象となることが免れられない自分たちの保身にも専念していたりするのである。
「禍転じて福と成す」ということは実際、可能であるわけだけれども、実際にそれを試みるとなれば、数多の抵抗に
遭うようなことともなる。乱世を持続させてしまったような権力者こそは、その責任を取らされることを恐れて、
あの手この手を使ってでもの必死の抵抗に興じてくる。その時に、本人たちが自己正当化に用いる事なかれ主義の論説などが
まやかしであることをも喝破できるかどうかが問題となったりするわけで、時には荀子級の理論武装すらしている場合も
あるものだから、禍転じて福と成そうとする側もそれに苛立っての好戦志向に振れきったりしないことが重大となりもする。
乱世の責任者たる権力者たちの抵抗に苛立ち極めた結果、項羽や信長のような破壊者となってしまうこともあるわけで、
そしたらもう本人たち自身もまた権力者たちと共なる自滅が免れられなくなったりするわけだが、さりとて、乱世の持続に
腹を立てる程度の、なけなしの清廉志向もまたあったわけだから、その死地に立派な墓標を立てられる低度の扱いには
なるだろう。趙高級の乱世の責任者自身が、誰しもから見下げられつつの破滅に陥ったりするのとはまた別のこととして。
「子曰く、訟を聴くは吾れも猶お人なみなり。必ずや訟無からしめんかと。
情無き者は其の辞を尽くすを得ざらしめ、大いに民の志しを畏れしむ。此れ本を知ると謂えり」
「孔師は言われた。『訴訟を聞き入れることでは私も人と大差はない。そもそも訴訟を無くそうとしている所が違う所だ』
(これはどういうことかというと、)誠実さに欠ける者までもが言辞を弄して言い争うことを(礼節の尊重などによって)
抑制し、人々に大いなる畏怖を抱かせていたのである。これこそは物事の本質を知らしめるあり方だといえる。
(事なかれ主義で訴訟をなくそうとしていたのではなく、不誠実者がろくでもない理由で訴訟を起こしたり
することを防ぎ止めようとしていたのである。訴訟をなくそうとする理由が誠実であるか、不誠実であるか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・四より)
そしたらもう本人たち自身もまた権力者たちと共なる自滅が免れられなくなったりするわけだが、さりとて、乱世の持続に
腹を立てる程度の、なけなしの清廉志向もまたあったわけだから、その死地に立派な墓標を立てられる低度の扱いには
なるだろう。趙高級の乱世の責任者自身が、誰しもから見下げられつつの破滅に陥ったりするのとはまた別のこととして。
「子曰く、訟を聴くは吾れも猶お人なみなり。必ずや訟無からしめんかと。
情無き者は其の辞を尽くすを得ざらしめ、大いに民の志しを畏れしむ。此れ本を知ると謂えり」
「孔師は言われた。『訴訟を聞き入れることでは私も人と大差はない。そもそも訴訟を無くそうとしている所が違う所だ』
(これはどういうことかというと、)誠実さに欠ける者までもが言辞を弄して言い争うことを(礼節の尊重などによって)
抑制し、人々に大いなる畏怖を抱かせていたのである。これこそは物事の本質を知らしめるあり方だといえる。
(事なかれ主義で訴訟をなくそうとしていたのではなく、不誠実者がろくでもない理由で訴訟を起こしたり
することを防ぎ止めようとしていたのである。訴訟をなくそうとする理由が誠実であるか、不誠実であるか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・四より)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U

人間こそは、他者の利益を侵害することで自らの利益を増すようなことを平気で
企てもする。他人から奪い取った百億ドルの内から一億ドルを寄付しただけで、
自分の利益を考えずに他人の利益を考えたような気にすらなってしまう。
天下の利益が、万物斉同的なこの世の中の内側だけで回転しているというのは、
単なる事実である。世界の外側から外的に富を与えられて儲けまくりなんてことは、
絶対にありはしない。というのも、鉱山採掘などで新たな資源が得られたりした所で、
そこには必ず、自らの手を汚し、肺を傷めて命を危ぶませたような採掘者たちがいるわけで、
そのような人々をタダ働き同然の扱いに処したりすることで、資源獲得者が膨大な富を
手に入れたりするわけだから、地球上の未知の領域から新たに獲得される資源といえども、
それと同時に拡大して行く世間の範囲内でのみ回されていくことには変わりないのである。
そのような原理に即して、天下の富はどこまでも万人斉同な世間の内側でのみ
持ち回されて行くものであるのだから、一円玉一枚、米一粒のような微々たる領域からでも、
自らの利得と他者の利得が連動しないようなことは決してないのだとわきまえねばならぬ。
自らが少しでも多くの富を得た分だけ、誰かが富を奪われて貧しくなっていたりする、
それだけの配慮を持ちながら、他者の利益を慮るのならば、決して自らの利益を無視して
いいようなはずはない。他者の利益を配慮してやるためにこそ、まずは自分自身の利益が
社会的にどの程度の意味合いを持つのかを最優先に考えて行くようにしなければならない。
孔子は「論語」で主に「仁」を説き、孟子は自著で主に「仁義」を説いた。
仁はそれこそ利他の志しであり、仁義は自利と共なる利他の志しである。
そして、実際に具体的な経済論を提示しているのは、孔子ではなく孟子のほうである。
共産制や独裁制の否定から、墨家のような自利を全否定しての利他一辺倒の不義の指摘に
到るまで、孟子こそは現代にも通用するような精緻かつ具体的な経済観念を提示している。
儒家が孔子によって創設された春秋時代後期には、まだ儒者も礼楽の保全ばかりを
専らな業務としていた。それが戦国時代以降は、正統な礼楽文化の諸侯への斡旋すら
覚束なくなって来たものだから、当時に儒者のいち代表者として立ち回った孟子が、より
具体的な経済や政治にまつわる論説を提示することで儒学の宣伝に代えたのだった。すると、
孔子が提示した「仁」という理念だけでは説明しきれない部分が生じてしまったために、
利他としての意味合いを持ち合わせる「仁」に、自利という意味も持ち合わせる「義」という
理念を付け足して「仁義」とすることで、より実際的な経済論の理念ともしたのだった。
孔子の門弟にも、利他一辺倒なせいで窮死した顔回のような弟子もいれば、投機で
莫大な私益を得た子貢のような弟子もいた。それこそ、儒者たちがまだ利他と自利の均衡を
取れるだけの仁義の理念を温め切れていなかった証拠であるわけで、全く別の理由で孔子を
悲しませることとなったこの二人の落ち度を後に埋め合わせたのが、孟子であったといえる。
(ついでに、蛮勇の徒であった子路の勇猛さを改善して継承したのが孟子でもあった)
まだ「仁義」という言葉で体系化しきれてもいない内から、大人孔子はすでに仁義に相当する
バランス感覚を持ち合わせていたにも違いない。だからこそ顔回の窮死と子貢の貨殖両方を
ひどく悲しみもしたわけで、孟子が論説によって提示したような仁義を実践すると共に、孔子が
承認してくれるような生き方に務めたならば、最大級の利他もまた可能となるだろう。自利をも
決して無視したりはしない、切実な利他に即して、人と世とを最大級に潤すこととなるだろう。
「祖廟より降す、之れを仁義と謂う」
「為政者が自らの先祖の祖廟から教命を下すことを『仁義』と言う。
(自らの先祖の意向に即するから私心を排せる一方、天下を統べる君子の先祖であるからには、
その子孫である為政者と共に、万人の福利をも慮ることとなる。そこに仁義の原型がありもする。
万人を利して我が利ともする仁義道徳は、だからこそ孝悌を第一ともするのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼運第九より)
専らな業務としていた。それが戦国時代以降は、正統な礼楽文化の諸侯への斡旋すら
覚束なくなって来たものだから、当時に儒者のいち代表者として立ち回った孟子が、より
具体的な経済や政治にまつわる論説を提示することで儒学の宣伝に代えたのだった。すると、
孔子が提示した「仁」という理念だけでは説明しきれない部分が生じてしまったために、
利他としての意味合いを持ち合わせる「仁」に、自利という意味も持ち合わせる「義」という
理念を付け足して「仁義」とすることで、より実際的な経済論の理念ともしたのだった。
孔子の門弟にも、利他一辺倒なせいで窮死した顔回のような弟子もいれば、投機で
莫大な私益を得た子貢のような弟子もいた。それこそ、儒者たちがまだ利他と自利の均衡を
取れるだけの仁義の理念を温め切れていなかった証拠であるわけで、全く別の理由で孔子を
悲しませることとなったこの二人の落ち度を後に埋め合わせたのが、孟子であったといえる。
(ついでに、蛮勇の徒であった子路の勇猛さを改善して継承したのが孟子でもあった)
まだ「仁義」という言葉で体系化しきれてもいない内から、大人孔子はすでに仁義に相当する
バランス感覚を持ち合わせていたにも違いない。だからこそ顔回の窮死と子貢の貨殖両方を
ひどく悲しみもしたわけで、孟子が論説によって提示したような仁義を実践すると共に、孔子が
承認してくれるような生き方に務めたならば、最大級の利他もまた可能となるだろう。自利をも
決して無視したりはしない、切実な利他に即して、人と世とを最大級に潤すこととなるだろう。
「祖廟より降す、之れを仁義と謂う」
「為政者が自らの先祖の祖廟から教命を下すことを『仁義』と言う。
(自らの先祖の意向に即するから私心を排せる一方、天下を統べる君子の先祖であるからには、
その子孫である為政者と共に、万人の福利をも慮ることとなる。そこに仁義の原型がありもする。
万人を利して我が利ともする仁義道徳は、だからこそ孝悌を第一ともするのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼運第九より)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
貪欲さにまみれた人間が群がるような地域ほど、むしろ総体としての貧しさが甚だしくなる。
キリスト教草創期の欧州や、今のブラックアフリカのキリスト教圏などがその典型例であり、
誰しもが限りのない欲望にかられての奪い合いに興じた結果、特に努力的でも野望的でもある
わけではないような凡夫が大半を占めているような世の中よりも、貧しい状態となってしまう。
欧米の白系キリスト教圏は、そのような問題を制欲ではなく、外界からの惜しみない富の収奪に
よってまず埋め合わせ、次に産業革命や科学革命を通じての近代文明の構築によって、収奪に
よってこそ富裕と化した自分たちの居住国を、さしたる努力を必要ともしない手法によって
維持し続ける体制を整えた。外界の貧困国からの報復を徹底して撃退するための膨大な軍事力と、
自分たちが寡占している膨大な資源を、大量生産大量消費の飽食文化によってさも必要なもので
あるかのように見せかけておくこととの維持によって、世界人口の二割にも満たない自分たち
だけで、八割以上の世界資源を寡占していることに対してまず疑問を抱かせず、疑問を抱いて
しまった所で、決してそれ以上の詮索をさせない風潮を固定化させてしまっているのである。
日本もまた、欧米キリスト教圏とつるんだ典型的な資本主義国と化してしまっているものだから、
別に自分たちが歴史的に収奪の対象として来たわけでもないにも関わらず、資本主義国化に
乗り遅れた中国や朝鮮といった隣国からの執拗な敵視の対象ともなってしまっている。合法違法
織り交ぜて日本に入国して来た中朝人たちが、邦人をはるかに上回る犯罪率と共に日本に
居座っていたりするために、保守傾向の強い日本人たちからの嫌悪対象となっていたりもする。
ただまあ、中国人や朝鮮人たちが国内外に撒き散らしてしまっているならず者災禍も、
キリスト教圏の人間が歴史的にもたらして来たそれと比べれば、微々たるものである。
尖閣沖を侵害する中国の巡視船や漁船なども、江戸時代に黒船で来航して来たペリーなどと
比べればまだ可愛いものである。米英人は、日本が遠地であることもあって、日本での個人犯罪
に走ったりすることはほとんどなく、一貫して国家規模の国際権力犯罪によって日本の権益を
キリスト教草創期の欧州や、今のブラックアフリカのキリスト教圏などがその典型例であり、
誰しもが限りのない欲望にかられての奪い合いに興じた結果、特に努力的でも野望的でもある
わけではないような凡夫が大半を占めているような世の中よりも、貧しい状態となってしまう。
欧米の白系キリスト教圏は、そのような問題を制欲ではなく、外界からの惜しみない富の収奪に
よってまず埋め合わせ、次に産業革命や科学革命を通じての近代文明の構築によって、収奪に
よってこそ富裕と化した自分たちの居住国を、さしたる努力を必要ともしない手法によって
維持し続ける体制を整えた。外界の貧困国からの報復を徹底して撃退するための膨大な軍事力と、
自分たちが寡占している膨大な資源を、大量生産大量消費の飽食文化によってさも必要なもので
あるかのように見せかけておくこととの維持によって、世界人口の二割にも満たない自分たち
だけで、八割以上の世界資源を寡占していることに対してまず疑問を抱かせず、疑問を抱いて
しまった所で、決してそれ以上の詮索をさせない風潮を固定化させてしまっているのである。
日本もまた、欧米キリスト教圏とつるんだ典型的な資本主義国と化してしまっているものだから、
別に自分たちが歴史的に収奪の対象として来たわけでもないにも関わらず、資本主義国化に
乗り遅れた中国や朝鮮といった隣国からの執拗な敵視の対象ともなってしまっている。合法違法
織り交ぜて日本に入国して来た中朝人たちが、邦人をはるかに上回る犯罪率と共に日本に
居座っていたりするために、保守傾向の強い日本人たちからの嫌悪対象となっていたりもする。
ただまあ、中国人や朝鮮人たちが国内外に撒き散らしてしまっているならず者災禍も、
キリスト教圏の人間が歴史的にもたらして来たそれと比べれば、微々たるものである。
尖閣沖を侵害する中国の巡視船や漁船なども、江戸時代に黒船で来航して来たペリーなどと
比べればまだ可愛いものである。米英人は、日本が遠地であることもあって、日本での個人犯罪
に走ったりすることはほとんどなく、一貫して国家規模の国際権力犯罪によって日本の権益を
侵害して来ているものだから、権力犯罪をほとんど犯罪として捉えようとすらしない悪しき風潮
に即して、日本人にとっての大敵であることがうやむやなままとされてしまっている。一方、
隣国であることもあって、日本での個人犯罪をやらかす頻度の高い中朝人こそは、民間犯罪
こそを犯罪中の犯罪として徹底的に糾弾する大手メディアの戦略にも即して、日本人にとっての
大敵中の仇敵であるかのように捉えられてしまっている。実際には、米英人が権力犯罪によって
日本人にもたらして来た害悪のほうが、中朝人が個人犯罪や権力犯罪によってもたらして来た
害悪よりも遥かに甚大であるわけで、純粋な損得勘定に即してこそ、中朝人などよりも
米英人のほうを日本にとっての仇敵として扱わねばならないということがいえるのである。
国同士での敵対などを激化させるべきでないというのなら、米英人も中朝人も、いずれも一概
な敵視の対象などにすべきでない。そんな綺麗後など通用しない、まだまだ国家間での対立
にも決まりが付けられていないというのなら、中朝人よりも米英人のほうを若干より敵視する
程度の趣きで、全てを敵対勢力として取り扱うのが、日本人としてあるべき姿勢だといえる。
そこまで透徹した姿勢で国際関係にも接することができる場合にのみ、日本人もまた、
他国の人間並みかそれ以上に毅然としていられるのである。始めは徹底した攘夷主義者で
あったのに、薩英戦争で負けてからはイギリスの傀儡となり、今は外国人犯罪を摘発する
警察閥などとして中朝人ばかりを敵視している薩摩人などは、無様な走狗もいい所である。
本来、日本人ほど節操を頑なに守る民族も他にいなかったわけだが、今はその、頑なに
守り通して来た節操を一挙に失ってしまったために、最悪の卑屈さに陥ってしまっているわけで、
その壊乱具合を打開するために立ち返らねばならない境地もまた、まさに針の筵の如くなのである。
に即して、日本人にとっての大敵であることがうやむやなままとされてしまっている。一方、
隣国であることもあって、日本での個人犯罪をやらかす頻度の高い中朝人こそは、民間犯罪
こそを犯罪中の犯罪として徹底的に糾弾する大手メディアの戦略にも即して、日本人にとっての
大敵中の仇敵であるかのように捉えられてしまっている。実際には、米英人が権力犯罪によって
日本人にもたらして来た害悪のほうが、中朝人が個人犯罪や権力犯罪によってもたらして来た
害悪よりも遥かに甚大であるわけで、純粋な損得勘定に即してこそ、中朝人などよりも
米英人のほうを日本にとっての仇敵として扱わねばならないということがいえるのである。
国同士での敵対などを激化させるべきでないというのなら、米英人も中朝人も、いずれも一概
な敵視の対象などにすべきでない。そんな綺麗後など通用しない、まだまだ国家間での対立
にも決まりが付けられていないというのなら、中朝人よりも米英人のほうを若干より敵視する
程度の趣きで、全てを敵対勢力として取り扱うのが、日本人としてあるべき姿勢だといえる。
そこまで透徹した姿勢で国際関係にも接することができる場合にのみ、日本人もまた、
他国の人間並みかそれ以上に毅然としていられるのである。始めは徹底した攘夷主義者で
あったのに、薩英戦争で負けてからはイギリスの傀儡となり、今は外国人犯罪を摘発する
警察閥などとして中朝人ばかりを敵視している薩摩人などは、無様な走狗もいい所である。
本来、日本人ほど節操を頑なに守る民族も他にいなかったわけだが、今はその、頑なに
守り通して来た節操を一挙に失ってしまったために、最悪の卑屈さに陥ってしまっているわけで、
その壊乱具合を打開するために立ち返らねばならない境地もまた、まさに針の筵の如くなのである。
「今、天下の地は醜く徳も斉しく、能く相い尚る莫し。
他無し、其の教うる所を臣とするを好みて、其の教えを受ける所を臣とするを好まざればなり」
「今もう、天下の土地はどこも似たり寄ったりで、人々の徳性ものっぺりとしたもの。
特にどこが別の所に優っているなどということもない。こうなってしまったのは他でもない、
主君が自分の教えた通りにするような臣下ばかりを好んで、自分こそが教わることのあるような
臣下を取り立てることを嫌ったからだ。(今の世界の餓死率は、徳治が敷かれていた江戸時代の
日本の餓死率をも上回る。超越神に絶対服従の風潮がかえって地球上の生産性を停滞させたのだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)
他無し、其の教うる所を臣とするを好みて、其の教えを受ける所を臣とするを好まざればなり」
「今もう、天下の土地はどこも似たり寄ったりで、人々の徳性ものっぺりとしたもの。
特にどこが別の所に優っているなどということもない。こうなってしまったのは他でもない、
主君が自分の教えた通りにするような臣下ばかりを好んで、自分こそが教わることのあるような
臣下を取り立てることを嫌ったからだ。(今の世界の餓死率は、徳治が敷かれていた江戸時代の
日本の餓死率をも上回る。超越神に絶対服従の風潮がかえって地球上の生産性を停滞させたのだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・二より)
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
うん。大ボスは英米だろうなぁ。政治的にそう思うけど、
宗教から端を発する事を説明しているんだろうな。
一般の欧米白人もその辺を認識して正そうとしてる人もいるだろうから、
ほどほどにとらえておくよ。
宗教から端を発する事を説明しているんだろうな。
一般の欧米白人もその辺を認識して正そうとしてる人もいるだろうから、
ほどほどにとらえておくよ。
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U

ただただ力を込めればいいというばかりのものではない。ギリシャ彫刻のような
豪壮な肉体よりも、昔の日本人のような、細身でも機能性に特化された肉体のほうが、
諸々の社会的な仕事をこなす上では無駄もなくて効率がよかったりするものである。
現代人も、七曜制の下で夏場には熱中症にかかるほどにも根を詰めた仕事を
している場合が多いけれども、曜日制などに囚われることなく適当に仕事をして、
身心のほてりも行水で冷ましていた江戸時代の日本人のほうが、完全自給自足で
無駄もなければ公害もない健全な世の中を営めていたりしたのである。
合理性を極めた結果、天下万人の日日からの仕事が余裕のあるものとなるのは、
世の中を治める君子階級の人間などとしては、一つの目的ともすべきことである。
もちろん、怠けすぎで自業自得の貧窮を招くようなことになってもならないから、
耕作などの仕事の成果が最大級であることは同時に企図して行くのである。ただ、
そのためにこそ、ただただ農夫を牛馬のようにこき使ったりすることも避けて、
詳細な暦などにも即した効率的な農耕を促して行くようにしなければならない。
とにかく一生懸命働いといた証拠すら残しとけばそれでよいとするような風潮は、
今の日本の警察のポイント稼ぎのための交通取り締まりなどにおいても深刻化している。
交通安全など以上にも、ただただ自分たちが仕事に励んでいるという証拠を作るため
にこそ庶民イジメも同然の取り締まり活動に余念を欠かさないでいる。実際、
そこで手を抜くことなく一般人をいびり抜くというようなこともしているわけで、
それは決して仕事の手を抜いているなどとは言えないものでもあるわけだ。
ただ、そのような今の交通課の警察官のあり方が公権力者としての最善を尽くして
いるのかといえば、当然そんなこともない。まず、自分たちこそは徹底的な
綱紀粛正の下での業務に励み、不祥事を来たそうものなら切腹級の引責も辞さない
という姿勢でいるのが公権力者としての最善ともなるわけだが、その部分は、警察を
含む今の公人たちは全くの蔑ろにしている。だから、庶民に対するイビリ同然の
交通取締りなどにいくら精を入れた所で、決していい仕事をしていることにはならない。
仕事にかけて、最善を尽くす上で拠らねばならない手段というものが、公人にも
民間人にもあるわけで、そこを疎かにするようであれば、どんなに仕事自体に
手を抜かないでいた所で、ろくな仕事にならないということがままある。そのような、
ただただ仕事に手を抜かないようなあり方ばかりに誰しもが邁進して行った結果、
世の中全体が「船頭多くして船山に登る」というような事態に陥ってしまい、
政商のような権力犯罪のための仕事に精を入れたからといって、自らが人としての
責務を果たした気になるような人間までもが生じてしまったりするのである。
ただただ最大級の力を労していれば、仕事の手を抜かなかったことにはなるが、
それで最善の仕事を果たしたことになるのかといえば、十中八九そうとはならない。
ただただ力を労すること以上にも、「もっと改善の余地はないか」と心を労し続ける
ことを惜しむことがないで居てこそ、最善の仕事が果たせもするのである。
民間人はその仕事の性質上、なかなか自分からそうはいられないものであるわけだが、
公人はそれこそを義務とすらして行くようにしなければならないものである。
力を労すること以上にも心を労することで率先的に仕事に励んで行くことで、
そのあり方を民間人にすら倣わせて行けるようにしなければならないのである。
いるのかといえば、当然そんなこともない。まず、自分たちこそは徹底的な
綱紀粛正の下での業務に励み、不祥事を来たそうものなら切腹級の引責も辞さない
という姿勢でいるのが公権力者としての最善ともなるわけだが、その部分は、警察を
含む今の公人たちは全くの蔑ろにしている。だから、庶民に対するイビリ同然の
交通取締りなどにいくら精を入れた所で、決していい仕事をしていることにはならない。
仕事にかけて、最善を尽くす上で拠らねばならない手段というものが、公人にも
民間人にもあるわけで、そこを疎かにするようであれば、どんなに仕事自体に
手を抜かないでいた所で、ろくな仕事にならないということがままある。そのような、
ただただ仕事に手を抜かないようなあり方ばかりに誰しもが邁進して行った結果、
世の中全体が「船頭多くして船山に登る」というような事態に陥ってしまい、
政商のような権力犯罪のための仕事に精を入れたからといって、自らが人としての
責務を果たした気になるような人間までもが生じてしまったりするのである。
ただただ最大級の力を労していれば、仕事の手を抜かなかったことにはなるが、
それで最善の仕事を果たしたことになるのかといえば、十中八九そうとはならない。
ただただ力を労すること以上にも、「もっと改善の余地はないか」と心を労し続ける
ことを惜しむことがないで居てこそ、最善の仕事が果たせもするのである。
民間人はその仕事の性質上、なかなか自分からそうはいられないものであるわけだが、
公人はそれこそを義務とすらして行くようにしなければならないものである。
力を労すること以上にも心を労することで率先的に仕事に励んで行くことで、
そのあり方を民間人にすら倣わせて行けるようにしなければならないのである。
,,-—- 、 ,, -—-、
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
/ \オエーー!!!! / ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー- ヽ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o ,,-—- 、 | / \ 。 | ,, -—-、‘゚。、` ヽ。、o
,∴ : / \ オエーー!!!!| ∴っ / ヽ゚。、。、o
,。U / /⌒ヽ \/ ̄ ̄\∵ ゚ U  ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| : U オエーー!!!!
U: |/ ヽ \ ヽ(゜) U ヽ。J° (゜)/ / /o 。 U 。
,,-—- 、。゚ ’。o ..、./ U : 。゚ ヽ ト、.,../ ,ー-、。 ,, -—-、
/ \∴ / / 。 : 。ヽ \ \‘゚。、` ヽ/ ヽ
./ /⌒ヽ \/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄` 、 / ̄ ̄ヽ/ /i⌒ヽ、| オエーー!!!!
。|/ ∵ ヽ \ ヽ(゜) ヽ / ヽ / (゜)/ / /
o ,rー-ヽ ..、.,/ Y (゜) ,_, (゜) Y ト、.,../ ,ー-、
。゚ ∴’。o // | / \ | \ \‘゚。、` ヽ。、o
o U ° // | / | | \\゚。、。、o
o 。 U:/⌒ヽ | | | /⌒ヽ ヽU o
゚U \ ∵ | | | ∴ / `ヽU ∴l
。 | レ 。ヽ / U :l
, o \ /Jヽ。 |:!
o U ヽ/: ゚ 。ヽ U
▲ページ最上部
ログサイズ:689 KB 有効レス数:319 削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
思想・哲学掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
スレッドタイトル:聖書 Part11