
治験でクスリを飲まされるだけでも仕事は仕事だし、
株や為替の高速取引で大金を巻き上げることも、ヘッジファンドあたりにとっては仕事である。
仕事で稼ぎすらすればそれは正当な利益になるというのなら、相当に悪辣な仕事に到るまで、
その稼ぎがまっとうなもの扱いされてしまうことになるわけだから、職の貴賤を問題と
する以上にも、まずは仕事で稼ぐことが何でもかんでも真っ当なことであるなどという
考え方から是正されて行くべきだといえる。さすれば自然と、我田引水然とした
仕事などを卑しむ心持ちも生まれて来るのである。
「学べば禄はその中にあり(既出)」
(衛霊公第十五・三二より)
仁徳に即した仕事は当然奨励されて然るべきだし、仁徳の修養のための勉学はそれだけでも
仕事並みやそれ以上のものとしてすら扱われるべきである。いずれも稼ぎなど大して見込めも
しないにしろ、それらこそは人間の作為として大々的に奨励できるものである。してみれば、人間が
仕事によって旺盛に稼ぐことなどが本当に奨励されるべき事由などはどこにもないといえるのであり、
ただただ本人自身の欲望の発露である以上のものとして扱うべき要素なども少しもないのだといえる。
旺盛に稼ぎたがる人間が群れ集えば、そこに都市社会が形成される。田畑を耕して
作物を実らせるような地道な労働も放棄した者たちが、居住する建物や店舗やオフィス
で都市をギッシリと詰め合わせる。そこに人類文明の極致を見出したがる人間も多いわけだが、
それはどこまでも単なる欲望の所産なのであり、文明的だからといって決して道徳的なわけでもない。
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