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聖書 Part10
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地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

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民主主義社会も、結局は為政者が民たちの顔色をうかがうことばかりに終始してしまうものだから、
むしろ民のほうが為政者の顔色をうかがわねばならなかった武家社会ほどの安定が期待できることもない。
親が子にへりくだる家庭がうまくいかないのと同じようにして、為政者が民にへつらうような
世の中もうまくいかない。より大きなものが小さなものに妥協するよりは、小さなもののほうが
大きなものに付いて行こうとすることのほうが摂理にかなっているわけだから、そこで小さなほうが
大きなほうに妬みを抱いたりすることこそは「不良」と見なされて然るべきでもある。
民たちのやりたい放題を為政者が追従するような世の中なんてのは、学級崩壊を来したクラスもいいとこで、
対話によってそのような事態を収拾することにも限界がある。だから武士のような暴力による威圧によって
事態を収拾して行くのもまた一つの手だが、理想としては、民たちが気づきもしないでいるような所から乱れ
が収められて充足していることこそが最善である。それをわざわざ不能と化してしまっているのが民主制で
あるからこそ、最終的には無意識からの治世の実現を志す封建制以上にもいただけない所があるのである。
「静言なれども、庸いれば違う」
「言うことはよさげでも、実際には全く実現できない。
(救う救う言いながら、かえって人びとを破滅に追い込んでいるかの邪神のような)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・堯典より)
むしろ民のほうが為政者の顔色をうかがわねばならなかった武家社会ほどの安定が期待できることもない。
親が子にへりくだる家庭がうまくいかないのと同じようにして、為政者が民にへつらうような
世の中もうまくいかない。より大きなものが小さなものに妥協するよりは、小さなもののほうが
大きなものに付いて行こうとすることのほうが摂理にかなっているわけだから、そこで小さなほうが
大きなほうに妬みを抱いたりすることこそは「不良」と見なされて然るべきでもある。
民たちのやりたい放題を為政者が追従するような世の中なんてのは、学級崩壊を来したクラスもいいとこで、
対話によってそのような事態を収拾することにも限界がある。だから武士のような暴力による威圧によって
事態を収拾して行くのもまた一つの手だが、理想としては、民たちが気づきもしないでいるような所から乱れ
が収められて充足していることこそが最善である。それをわざわざ不能と化してしまっているのが民主制で
あるからこそ、最終的には無意識からの治世の実現を志す封建制以上にもいただけない所があるのである。
「静言なれども、庸いれば違う」
「言うことはよさげでも、実際には全く実現できない。
(救う救う言いながら、かえって人びとを破滅に追い込んでいるかの邪神のような)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・堯典より)
妾腹の私生児としての自暴自棄に駆られての邪言邪行を働いたものを信奉して
それに倣おうとするのなら、それはそのような「趣き」に導かれているのだといえる。
同様に妾腹の私生児でありながらも、着実な修身斉家によって不遇を克服して行った
偉人を尊んでそれに倣おうとするのなら、そこでもある種の「趣き」に導かれて行く
こととなるわけで、両者は180度逆方向へと導かれ行く、相反的な関係にあるといえる。
ただ、これらはある種の情念に駆られての一概な趣きであるという点では共通している。
不遇に苛まれての自暴自棄が深刻な情念に駆られているのはもちろんのこと、同様の
不遇を克服して自身と家の名誉を回復して行こうとする志しもまた、健全といえる
範囲の情念が伴っているといえる。それこそ「人情」というものであって、江戸時代の
日本などで、人びとが孝行を重んずることで育んでいた人情などとも共通するものである。
片や、忠孝の心意気にも根ざした健全な人情である一方、片や、畜生でも抱けるような
無軌道で粗悪な劣情であるという相違がありつつ、いずれも旺盛な情念の発露であるが
故に、片や善徳の気概、片や罪悪の気概として機能してしまうことともなるのである。
こういうことは、情念一般からの解脱を促す類いの思想信条にはないものである。
仏教にしろ道家にしろ、人情か劣情かに関わらず、情念一般を濁悪なものとして
忌み避けるものであるから、情念を気概としての一概な善悪への振り切れなどにも
与しないでいるものである。(純粋な智慧に根ざしての断悪修善などはあり得る)
だから、人情を重んずる儒学と、劣情への惑溺を促す聖書信仰のような決定的な相反に
直接関与したりすることもない。どのような形であれ、情念を活用しようとする類いの
教学こそは善や悪への振り切れを来たすものなのであり、そのような傾向を擁している
からこそ、儒学やイスラム教と聖書信仰が敵対することもまた避けることができない。
それに倣おうとするのなら、それはそのような「趣き」に導かれているのだといえる。
同様に妾腹の私生児でありながらも、着実な修身斉家によって不遇を克服して行った
偉人を尊んでそれに倣おうとするのなら、そこでもある種の「趣き」に導かれて行く
こととなるわけで、両者は180度逆方向へと導かれ行く、相反的な関係にあるといえる。
ただ、これらはある種の情念に駆られての一概な趣きであるという点では共通している。
不遇に苛まれての自暴自棄が深刻な情念に駆られているのはもちろんのこと、同様の
不遇を克服して自身と家の名誉を回復して行こうとする志しもまた、健全といえる
範囲の情念が伴っているといえる。それこそ「人情」というものであって、江戸時代の
日本などで、人びとが孝行を重んずることで育んでいた人情などとも共通するものである。
片や、忠孝の心意気にも根ざした健全な人情である一方、片や、畜生でも抱けるような
無軌道で粗悪な劣情であるという相違がありつつ、いずれも旺盛な情念の発露であるが
故に、片や善徳の気概、片や罪悪の気概として機能してしまうことともなるのである。
こういうことは、情念一般からの解脱を促す類いの思想信条にはないものである。
仏教にしろ道家にしろ、人情か劣情かに関わらず、情念一般を濁悪なものとして
忌み避けるものであるから、情念を気概としての一概な善悪への振り切れなどにも
与しないでいるものである。(純粋な智慧に根ざしての断悪修善などはあり得る)
だから、人情を重んずる儒学と、劣情への惑溺を促す聖書信仰のような決定的な相反に
直接関与したりすることもない。どのような形であれ、情念を活用しようとする類いの
教学こそは善や悪への振り切れを来たすものなのであり、そのような傾向を擁している
からこそ、儒学やイスラム教と聖書信仰が敵対することもまた避けることができない。
その点、アブラハム教は、同じ宗教だからといって、仏教や道教などを決して
味方に付けられるものでもない。聖書信者などの中に、宗教多元論などの名目で、
来るべき将来における最勝の教学となることが内定している仏教に対して、聖書信仰を
持ち越したままで擦り寄ろうとする者などがいるが、それは仏教にとっても迷惑な話で、
仏教の側に情念志向で儒学にも聖書信仰にも味方したり敵対したりする意向は全くない。
宗教という枠組みの絶対化によって、聖書信仰が特定して悪に与していた責任をも他の
宗教にまで連帯して負わせようなどとも企てられているようだが、イスラム教はともかく、
非アブラハム教にまでそのような連帯責任を負わせるのも全くの冤罪であるといえる。
情念の発露を金科玉条に掲げている宗教などはアブラハム教ばかりで、他の宗教は
むしろ、宗教という枠組みの元で情念を安んじることこそを主旨としている場合が
ほとんどなわけだから、ある種の情念を貪った挙げ句に悪逆非道をひた走ってしまった
責任を宗教一般に求めたりするのもまた、お門違いにも程があることになるわけである。
現状の信者人口は膨大な数に上るのであっても、そもそもが情念の発露などを教義に
掲げている宗教なんてもの自体が約三つのアブラハム教ばかりに限られているわけだから、
そのような宗教をあくまで異端の部類として取り扱うようにして、宗教を情念の発露
などではなく、「鎮魂」のための道具とすることを優先して行くのなら、宗教一般が
アブラハム教の不行跡のせいで存亡の危機に駆られたりすることもないのである。
むしろ、アブラハム教(主に聖書教)のせいで無益に肥大化させられてしまっている
現代人類の劣情が、仏教を始めとする、情念を鎮める類いの宗教によって鎮静化されて
いくべきですらあるのであり、それによってこそ、アブラハム教がこの世に甚大なる
災禍をもたらしてしまっているせいで評判をがた落ちさせている宗教一般の
汚名もまた、返上されて行くこととなるのである。
味方に付けられるものでもない。聖書信者などの中に、宗教多元論などの名目で、
来るべき将来における最勝の教学となることが内定している仏教に対して、聖書信仰を
持ち越したままで擦り寄ろうとする者などがいるが、それは仏教にとっても迷惑な話で、
仏教の側に情念志向で儒学にも聖書信仰にも味方したり敵対したりする意向は全くない。
宗教という枠組みの絶対化によって、聖書信仰が特定して悪に与していた責任をも他の
宗教にまで連帯して負わせようなどとも企てられているようだが、イスラム教はともかく、
非アブラハム教にまでそのような連帯責任を負わせるのも全くの冤罪であるといえる。
情念の発露を金科玉条に掲げている宗教などはアブラハム教ばかりで、他の宗教は
むしろ、宗教という枠組みの元で情念を安んじることこそを主旨としている場合が
ほとんどなわけだから、ある種の情念を貪った挙げ句に悪逆非道をひた走ってしまった
責任を宗教一般に求めたりするのもまた、お門違いにも程があることになるわけである。
現状の信者人口は膨大な数に上るのであっても、そもそもが情念の発露などを教義に
掲げている宗教なんてもの自体が約三つのアブラハム教ばかりに限られているわけだから、
そのような宗教をあくまで異端の部類として取り扱うようにして、宗教を情念の発露
などではなく、「鎮魂」のための道具とすることを優先して行くのなら、宗教一般が
アブラハム教の不行跡のせいで存亡の危機に駆られたりすることもないのである。
むしろ、アブラハム教(主に聖書教)のせいで無益に肥大化させられてしまっている
現代人類の劣情が、仏教を始めとする、情念を鎮める類いの宗教によって鎮静化されて
いくべきですらあるのであり、それによってこそ、アブラハム教がこの世に甚大なる
災禍をもたらしてしまっているせいで評判をがた落ちさせている宗教一般の
汚名もまた、返上されて行くこととなるのである。
「君子の君に事うるや、務めて其の君を引きて、以て道に当い、仁に志しむるのみ」
「君子が主君に仕える場合には、ただひたすらその主君を教え導いて、道に叶うにし、
仁を志させるようにするのみである。(むしろ下位者が上位者を導いて行ける
ぐらいでなければならない。総員自力作善である徳治主義の志しだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
「君子が主君に仕える場合には、ただひたすらその主君を教え導いて、道に叶うにし、
仁を志させるようにするのみである。(むしろ下位者が上位者を導いて行ける
ぐらいでなければならない。総員自力作善である徳治主義の志しだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
自覚的な思考を超越した無意識からの脳神経系の駆使などが、
ただ頭だけで考えることを上回る可能性を秘めているというのは、事実である。
合気柔術の手法に即して、意識的に攻撃を仕掛けて来る相手の機先を
制することなども、自分自身が超意識系に到るまでの注意を働かせていられたなら、
実際に可能となることである。禅問答なども、個体の生死に関わらず
遍在し続ける超意識系の実在を悟るためにこそ行われるものであり、
それが未だ不可能である限りにおいては意味不明な問答までもが、
悟りが拓かれた途端に意味が丸分かりとなったりもするのである。
そういったことも実際あるわけだが、もしも手法を「頭で考える」ということに
限るのなら、徹底的に心を労して悩み考え抜くことこそは最善の結果に繋がる。
自分が不快になるような事象とも面と向き合って、いかにしてそれに打ち克って
行くべきかを真摯に考え抜いて行くことこそが、着実な成果へと結実する。そういった
ことを怠って、ただただ自分が気分がいいまま、都合のいいままでいようとするような
考えばかりに終始しているようなら、破滅的な将来すらもがやってくることとなる。
儒家はそのような意味での、心を労する考え抜きとしての学問こそを司っているから、
超意識系の神秘すらをも扱う高尚な教学の立場から見下されたりもする一方で、
別に自分たちがそんなに楽しそうでもない、学祖の孔子からして、論敵に陰口を
叩かれるようなことばかりがあるせいで始終不機嫌だったと「孟子」にもあるとおり、
それを享受していることが本人たちの分かりやすい楽しみにも与していないと来ている
ものだから、なかなかその真価を計り知られることもないままでいてしまっているのである。
ただ頭だけで考えることを上回る可能性を秘めているというのは、事実である。
合気柔術の手法に即して、意識的に攻撃を仕掛けて来る相手の機先を
制することなども、自分自身が超意識系に到るまでの注意を働かせていられたなら、
実際に可能となることである。禅問答なども、個体の生死に関わらず
遍在し続ける超意識系の実在を悟るためにこそ行われるものであり、
それが未だ不可能である限りにおいては意味不明な問答までもが、
悟りが拓かれた途端に意味が丸分かりとなったりもするのである。
そういったことも実際あるわけだが、もしも手法を「頭で考える」ということに
限るのなら、徹底的に心を労して悩み考え抜くことこそは最善の結果に繋がる。
自分が不快になるような事象とも面と向き合って、いかにしてそれに打ち克って
行くべきかを真摯に考え抜いて行くことこそが、着実な成果へと結実する。そういった
ことを怠って、ただただ自分が気分がいいまま、都合のいいままでいようとするような
考えばかりに終始しているようなら、破滅的な将来すらもがやってくることとなる。
儒家はそのような意味での、心を労する考え抜きとしての学問こそを司っているから、
超意識系の神秘すらをも扱う高尚な教学の立場から見下されたりもする一方で、
別に自分たちがそんなに楽しそうでもない、学祖の孔子からして、論敵に陰口を
叩かれるようなことばかりがあるせいで始終不機嫌だったと「孟子」にもあるとおり、
それを享受していることが本人たちの分かりやすい楽しみにも与していないと来ている
ものだから、なかなかその真価を計り知られることもないままでいてしまっているのである。
儒学が決定的に貶められることとなった近代以前から、日本でも儒学は本質的に
仏教などにその程度で及ばないとされていたから、仏僧が仏門帰依のついでに儒学を
学び教えるようなことがほとんどでいた。そのせいで林羅山のような大儒までもが、
儒家の礼法には反する剃髪でいさせられたりもしたわけだが、これはまあ、超意識系からの
悟りを把捉する仏教の偉大さもまた真なるものなわけだから、多少は仕方ないことだったといえる。
問題は近代以降、儒学が受容者の限りない心労を促す類いの教学であるからといって、
(君子は心を労す。左伝襄公九年)人びとの思考からの限りない享楽を促す洋学や聖書信仰の
下に置かれるようになってしまったことのほうである。洋学もまた勉強の過程でそれなりの
苦労を学徒に要求したりするものではあるが、結局、それを修得した先に「大金稼いでウハウハ」
みたいな俗悪な欲望の実現を約束するものでしかないわけだから、生きている限りにおける
恒久的な心労と共なる努力精進を促す儒学などと比べれば、快楽のための学問であることこそが
確かである。ましてや、聖書信仰などは始めから人びとの淫考をけしかけるばかりの代物であり、
だからこそ、人びとの際限なき放辟邪侈を促す近代以降の世界的風潮の根幹にすらなって
しまっている。そのような風潮からなる圧力によって、心労こそを本是とする儒学のほうの価値が
なきものともされてしまっていることこそは、特筆して問題扱いされねばならないことだといえる。
心労こそが実際、着実な成果にも結び付く、のみならず、それこそは世のため人のため
ともなる善良な成果であったりもする。一方で、いくら力や無機質な知能だけを働かせた所で、
当の本人自身の心が少しも労されていないようなら、結局本人の我田引水ぐらいは実現する
ことがあった所で、全く世のため人のためにはなっていなかったりする。力や技能を駆使する
こと以上のものとしての心労の大切さを、儒学の見直しなどと共に試みて行くべきだといえる。
仏教などにその程度で及ばないとされていたから、仏僧が仏門帰依のついでに儒学を
学び教えるようなことがほとんどでいた。そのせいで林羅山のような大儒までもが、
儒家の礼法には反する剃髪でいさせられたりもしたわけだが、これはまあ、超意識系からの
悟りを把捉する仏教の偉大さもまた真なるものなわけだから、多少は仕方ないことだったといえる。
問題は近代以降、儒学が受容者の限りない心労を促す類いの教学であるからといって、
(君子は心を労す。左伝襄公九年)人びとの思考からの限りない享楽を促す洋学や聖書信仰の
下に置かれるようになってしまったことのほうである。洋学もまた勉強の過程でそれなりの
苦労を学徒に要求したりするものではあるが、結局、それを修得した先に「大金稼いでウハウハ」
みたいな俗悪な欲望の実現を約束するものでしかないわけだから、生きている限りにおける
恒久的な心労と共なる努力精進を促す儒学などと比べれば、快楽のための学問であることこそが
確かである。ましてや、聖書信仰などは始めから人びとの淫考をけしかけるばかりの代物であり、
だからこそ、人びとの際限なき放辟邪侈を促す近代以降の世界的風潮の根幹にすらなって
しまっている。そのような風潮からなる圧力によって、心労こそを本是とする儒学のほうの価値が
なきものともされてしまっていることこそは、特筆して問題扱いされねばならないことだといえる。
心労こそが実際、着実な成果にも結び付く、のみならず、それこそは世のため人のため
ともなる善良な成果であったりもする。一方で、いくら力や無機質な知能だけを働かせた所で、
当の本人自身の心が少しも労されていないようなら、結局本人の我田引水ぐらいは実現する
ことがあった所で、全く世のため人のためにはなっていなかったりする。力や技能を駆使する
こと以上のものとしての心労の大切さを、儒学の見直しなどと共に試みて行くべきだといえる。
「節に若わずんば、嗟に若わん」
「自ら節制するところがないのなら、その分だけ嘆くことになるのみである。
(多少の心労があり続ける程度が、人間が生きる上での適切な負荷なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・節・六三より)
「自ら節制するところがないのなら、その分だけ嘆くことになるのみである。
(多少の心労があり続ける程度が、人間が生きる上での適切な負荷なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・節・六三より)
儒学の教条の多くは、わざわざ教条化するまでもないほどに当たり前な
人間道徳の平易な把捉であり、西方の部落社会で儒学など知らぬままに歴史を
歩んで来た聖書信者などにとっても、聞いて全く分からないものなどでまではない。
ただ、人びとの精神力のヘタリが著しい西方社会などにおいては、わざわざ
そのような当たり前な徳目ばかりを重んじていようとする慣習までもが根付きは
しなかっただけのことで、代わりに儒学にとっての背理に相当するような
邪義を集成した聖書信仰が奇を衒うものとして持て囃されることとなったのである。
一方で、そうとばかりも言えない要素もまた儒学には介在している。それが
「仁義」という理念であり、これは聖書信仰が金科玉条に仕立て上げられた西方社会
などでは、ほぼ全くと言っていいほど察知すらされることがなかったものである。
ほんのこの頃になって、マルクスやレーニンに代表される共産主義者が
聖書圏の人間としては初めて世の中の大局問題を体系的に取り扱って行こうと
し始めた。これが、聖書信者が仁義に近似する理念を初めて体系化しようとした
事例ともなったが、その手法たるやあまりにも稚拙で非現実的なものであったために、
世の中の大局の問題など一貫して軽視し続けて来た多くの西洋人からも反発を受け、
「全体主義」という名の下で卑しめられることともなった。仁義道徳もまた、
世の中の大局を取り扱っていこうとする点では共産主義などの全体主義とも近似
するから、全体主義が忌み嫌われることを通じてくそみそに忌み嫌われること
ともなり、仁義などはヤクザかゴロツキあたりが自己正当化に用いるための
夢想的な概念か何かのようにすら色眼鏡で決め付けられるようになったのである。
(仁義道徳は世の中の大局からの安寧や繁栄のために、君臣父子夫婦の三綱を
特定して重んじて行くことを奨励しているわけだから、決して全体主義ではない)
人間道徳の平易な把捉であり、西方の部落社会で儒学など知らぬままに歴史を
歩んで来た聖書信者などにとっても、聞いて全く分からないものなどでまではない。
ただ、人びとの精神力のヘタリが著しい西方社会などにおいては、わざわざ
そのような当たり前な徳目ばかりを重んじていようとする慣習までもが根付きは
しなかっただけのことで、代わりに儒学にとっての背理に相当するような
邪義を集成した聖書信仰が奇を衒うものとして持て囃されることとなったのである。
一方で、そうとばかりも言えない要素もまた儒学には介在している。それが
「仁義」という理念であり、これは聖書信仰が金科玉条に仕立て上げられた西方社会
などでは、ほぼ全くと言っていいほど察知すらされることがなかったものである。
ほんのこの頃になって、マルクスやレーニンに代表される共産主義者が
聖書圏の人間としては初めて世の中の大局問題を体系的に取り扱って行こうと
し始めた。これが、聖書信者が仁義に近似する理念を初めて体系化しようとした
事例ともなったが、その手法たるやあまりにも稚拙で非現実的なものであったために、
世の中の大局の問題など一貫して軽視し続けて来た多くの西洋人からも反発を受け、
「全体主義」という名の下で卑しめられることともなった。仁義道徳もまた、
世の中の大局を取り扱っていこうとする点では共産主義などの全体主義とも近似
するから、全体主義が忌み嫌われることを通じてくそみそに忌み嫌われること
ともなり、仁義などはヤクザかゴロツキあたりが自己正当化に用いるための
夢想的な概念か何かのようにすら色眼鏡で決め付けられるようになったのである。
(仁義道徳は世の中の大局からの安寧や繁栄のために、君臣父子夫婦の三綱を
特定して重んじて行くことを奨励しているわけだから、決して全体主義ではない)
そもそもが、仁義道徳すら少しでも察知することができていたなら、西洋人と
いえども、聖書信仰を許容するようなことからしてなかったはずなのである。
儒学と聖書信仰の思想面における決定的な相違点も、それこそ仁義という理念の
把捉の有無なのであり、もしも犯罪聖書の著者が少しでも仁義道徳を察していたなら、
あんな不埒な文集の編纂を企てるようなことからしてあり得なかったのである。
儒学的人情にも聖書信仰的劣情にも与しない絶対真理の教学である仏教までもが、
純粋な真理の把捉を通じて儒学の善性を是とし、聖書信仰の悪性を非とするのも、
結局、儒学には仁義がある一方で、聖書信仰には仁義がないからである。仁義が
あるから儒学は本当に世界を安寧へと導けるし、なおかつ自他を心底から安楽にも
させる。聖書信仰には仁義がないから世界を破滅に陥れてしまうし、それと共に
自他を心中から最悪の苦痛に陥らせもする。社会性にまつわる観点から言った場合
の仁義があったりなかったりしたことが、絶対真理に基づく両者の雌雄すらをも
決定的に分かったのであり、そこは、儒学の多くの教条の分かりやすさなどとも
打って変わって、極めて微妙不可思議な領域においてこそ下された審判だったといえる。
儒学の教条なんて当たり前なことばかり、だから背理法として聖書信仰みたいな
邪教もぶち上げてやった、というような言い訳もされかねないが、儒学もただただ
分かりやすいばかりでなく、真理にも通ずる道理に根ざした含蓄を兼ね備えている。
そこを全く察知すらすることなく邪教の受容に邁進して来たのが聖書信者だったり
するわけだから、儒学的なものを全くの既知であるなどと決め付けて、舐め腐った
ままで居ていいようなこともないのである。分かりやすい中にも実は潜在していた
深遠さを察することも出来なかった、己れの至らなさこそを反省すべきなのである。
「常の職無くして上より賜わる者は、以て不恭と為すなり」
「自らが相応の務めを果たしているわけでもないのに上から賜りものを受けたりする
のは、恭しさに欠けている。(自らの行いに相応以上の恵みを賜ろうとする不埒さ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・六より)
いえども、聖書信仰を許容するようなことからしてなかったはずなのである。
儒学と聖書信仰の思想面における決定的な相違点も、それこそ仁義という理念の
把捉の有無なのであり、もしも犯罪聖書の著者が少しでも仁義道徳を察していたなら、
あんな不埒な文集の編纂を企てるようなことからしてあり得なかったのである。
儒学的人情にも聖書信仰的劣情にも与しない絶対真理の教学である仏教までもが、
純粋な真理の把捉を通じて儒学の善性を是とし、聖書信仰の悪性を非とするのも、
結局、儒学には仁義がある一方で、聖書信仰には仁義がないからである。仁義が
あるから儒学は本当に世界を安寧へと導けるし、なおかつ自他を心底から安楽にも
させる。聖書信仰には仁義がないから世界を破滅に陥れてしまうし、それと共に
自他を心中から最悪の苦痛に陥らせもする。社会性にまつわる観点から言った場合
の仁義があったりなかったりしたことが、絶対真理に基づく両者の雌雄すらをも
決定的に分かったのであり、そこは、儒学の多くの教条の分かりやすさなどとも
打って変わって、極めて微妙不可思議な領域においてこそ下された審判だったといえる。
儒学の教条なんて当たり前なことばかり、だから背理法として聖書信仰みたいな
邪教もぶち上げてやった、というような言い訳もされかねないが、儒学もただただ
分かりやすいばかりでなく、真理にも通ずる道理に根ざした含蓄を兼ね備えている。
そこを全く察知すらすることなく邪教の受容に邁進して来たのが聖書信者だったり
するわけだから、儒学的なものを全くの既知であるなどと決め付けて、舐め腐った
ままで居ていいようなこともないのである。分かりやすい中にも実は潜在していた
深遠さを察することも出来なかった、己れの至らなさこそを反省すべきなのである。
「常の職無くして上より賜わる者は、以て不恭と為すなり」
「自らが相応の務めを果たしているわけでもないのに上から賜りものを受けたりする
のは、恭しさに欠けている。(自らの行いに相応以上の恵みを賜ろうとする不埒さ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・六より)
虚構の基準での虚構の勝利に浸っているような人間が、虚構であると
気づかぬままにこの世を去ったとすれば、それで勝利だといえるだろうか。
勝利だと思いたいという人間もいるだろうが、当然普遍的な基準に即しては
勝利ではない。もしもそのような人間が歴史に記録されるとしたなら、
おかしな思い込みに誑かされたままでこの世を去ったかわいそうな道化
として記されることとなるように、そこで勝利などを認めることはできない。
ただ、それは虚構に浸っていたい人間にとっての重要な事柄ではあるまい。
問題は、虚構だろうが何だろうが、勝利の愉悦が上等なもんだったかどうか
であるに違いない。勝利の愉悦すら本物の勝利並みやそれ以上ですらあったなら、
虚構の勝利でも構わないぐらいのものだろう。しかし残念ながら、虚構の勝利
は虚構であるだけに、本物の勝利並みの愉悦を本人にもたらすこともない。
どんなに勝者をうそぶいた所で、虚構は虚構だから、身勝手な根拠で自分たち
こそは世界最強だなどと自負しているアメリカ人なども、苦悩にかられての
麻薬中毒などに陥ってしまっている場合が多い。そりゃあ、世界最強の勝者と
しての愉悦までもが虚構に過ぎないからで、決して勝者としての責任を果たそう
としているが故の副作用だったりするわけでもない。むしろ、本物の勝利は
勝者としての責任を果たして行く所にこそ愉悦をももたらすものなのだから。
勝利の愉悦というのは、別に俗悪な領域においてばかり問題とされることでもない。
仏門における大悟の先に、絶対真理に即した最勝者としての愉悦があったりも
するという。その真の勝者としての愉悦を俗世での勝利にも期待するとすれば、
仁者としての勝利などはそれに近似するだろうが、不仁者としての勝利などは
それに近似すらすることがないであろう。真理に根ざした勝利にも近似するが故に、
仁者としての勝利こそは本物の愉悦を勝者にもたらす一方で、その条件を満たさない
不仁者としての勝利は、じゃんけんで勝った時ほどの愉悦すら抱けなかったりする。
気づかぬままにこの世を去ったとすれば、それで勝利だといえるだろうか。
勝利だと思いたいという人間もいるだろうが、当然普遍的な基準に即しては
勝利ではない。もしもそのような人間が歴史に記録されるとしたなら、
おかしな思い込みに誑かされたままでこの世を去ったかわいそうな道化
として記されることとなるように、そこで勝利などを認めることはできない。
ただ、それは虚構に浸っていたい人間にとっての重要な事柄ではあるまい。
問題は、虚構だろうが何だろうが、勝利の愉悦が上等なもんだったかどうか
であるに違いない。勝利の愉悦すら本物の勝利並みやそれ以上ですらあったなら、
虚構の勝利でも構わないぐらいのものだろう。しかし残念ながら、虚構の勝利
は虚構であるだけに、本物の勝利並みの愉悦を本人にもたらすこともない。
どんなに勝者をうそぶいた所で、虚構は虚構だから、身勝手な根拠で自分たち
こそは世界最強だなどと自負しているアメリカ人なども、苦悩にかられての
麻薬中毒などに陥ってしまっている場合が多い。そりゃあ、世界最強の勝者と
しての愉悦までもが虚構に過ぎないからで、決して勝者としての責任を果たそう
としているが故の副作用だったりするわけでもない。むしろ、本物の勝利は
勝者としての責任を果たして行く所にこそ愉悦をももたらすものなのだから。
勝利の愉悦というのは、別に俗悪な領域においてばかり問題とされることでもない。
仏門における大悟の先に、絶対真理に即した最勝者としての愉悦があったりも
するという。その真の勝者としての愉悦を俗世での勝利にも期待するとすれば、
仁者としての勝利などはそれに近似するだろうが、不仁者としての勝利などは
それに近似すらすることがないであろう。真理に根ざした勝利にも近似するが故に、
仁者としての勝利こそは本物の愉悦を勝者にもたらす一方で、その条件を満たさない
不仁者としての勝利は、じゃんけんで勝った時ほどの愉悦すら抱けなかったりする。

虚実に即して勝利が健全な愉悦と共にあったり、不健全な愉悦によってかえって
副作用としての苦悩を呼び込んだりする。ろくな心地よさも呼び込めることのない
虚構の勝利によってでも、勝者としての名声を一度ぐらいは得てみたいとした所で、
そのような勝利は1400年前の蹴鞠での勝利ほどにも、普遍的な意味を持つことがない。
蹴鞠で脱げた靴を後の重臣が拾ってくれたことのように伝説化されることもない。
正史がよく整理されている東洋と、ろくに歴史が整理されることもなければ
その評価基準も定まっていない西洋とでは、そのあたりまだ温度差もあるだろう。
ただ西アジア諸国に乱暴をけしかけていたばかりの存在だったアレクサンドロスが、
戦いで勝ったという部分だけをして最勝者か何かのように扱われていたりもするが、
封土を自らの責任によって十全に治めることができてこそ、勝者としての資格
までもが備わり得るとする東洋の感覚からすれば、アレクサンドロスの所業などは、
中原北方で強奪の限りを尽くしていた蛮族匈奴ほどのものとしてしか扱いようがない。
東征に際してほとんどの自国軍の兵士を犠牲にしてしまい、後には結局エジプト人
主体のエジプトやペルシャ人主体のペルシャが元通りに残っていたりしただけ
なのだから、あまりにも瑣末な虚構の勝利ばかりを貪っていたのだと言える。
そういう所までちゃんと精査して行けば、虚構の勝利をさも歴史的勝利か何かの
ように取り扱い続けて来たことまでもが、道化の扱いとなって行くのである。
「仁者は射るが如し。射者は己れを正して後に発つ。
発ちて中らずとも、己れに勝てる者を怨みず。諸れを己れに反り求めるのみ」
「仁者はまるで弓を射るようなもの。弓を射る者はただ己れの姿勢を正して
矢を放つばかり。放った矢が当たらなかったとしても、射的競争で自分に勝った
者を怨んだりすることもない。ただ自らの落ち度を省みて反省するのみである。
(ただただ勝とうとすることではなく、己れを正すことこそはより重要なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・七より)
「子貢曰く、斯に美玉有り。匵に韞めて諸を蔵さんか。善賈を求めて
諸を沽らんか。子曰く、之を沽らん。之を沽らん。我は賈を待つ者なり」
「子貢が問うた。『ここに見事な珠玉があるとします。だとすれば、箱に納めて
隠し込んでしまうべきでしょうか。それともいい商人を見つけて売るべきでしょうか』
孔先生は答えられた。『売ろうよ、売ろうよ、私はその商人を待つものなのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二)
とはいえ孔子は、乱世にはあまりにも場違いなほどの聡明さと端麗さを具えた大人で
あったものだから、汚職で腐れ果てた権力者たちが「善賈」として「美玉」たる
孔子を買い求めて重宝することなどもろくにできないでいたのだった。
「悪貨は良貨を駆逐する」というが、金に限らず、物品や人材に到るまで、粗悪なものが
良質なものを駆逐して行くということがままある。最高品質の天然の食材などよりは、
低品質でも安価な養殖の食材が市場により多く出回ったりするのがその例である。
人間もその例に漏れず、愚人のくせして巧言令色を巧みに利用することで人びとの
人気を博そうとする者が、根っからの賢人だからこそ修辞での人気取りなどを
控えようとする者を押しのけて天下に蔓延ったりすることがある。
儒学が廃絶されて、聖書信仰や聖書信仰的なものの考え方が蔓延ってしまっている
現代の様相もまた、「悪貨は良貨を駆逐する」の典型例だといえる。世のため人のため
自分のためになりはするものの、決してその実践が楽なものばかりではない儒学が排されて、
世のためにも人のためにも自分のためにもならないが、ただひたすら安楽ばかりを貪ることを是
とする聖書信仰が、思想信条として格好のものとされている、それは決して、善賈が見事な珠玉を
見つけて、それを買うために他の玉を売り払うような事態にも当たらない。投機対象として格好な
安物の玉の大量購入のために、所有の珠玉すら売り払ってしまったようなザマでこそあるのだといえる。
諸を沽らんか。子曰く、之を沽らん。之を沽らん。我は賈を待つ者なり」
「子貢が問うた。『ここに見事な珠玉があるとします。だとすれば、箱に納めて
隠し込んでしまうべきでしょうか。それともいい商人を見つけて売るべきでしょうか』
孔先生は答えられた。『売ろうよ、売ろうよ、私はその商人を待つものなのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二)
とはいえ孔子は、乱世にはあまりにも場違いなほどの聡明さと端麗さを具えた大人で
あったものだから、汚職で腐れ果てた権力者たちが「善賈」として「美玉」たる
孔子を買い求めて重宝することなどもろくにできないでいたのだった。
「悪貨は良貨を駆逐する」というが、金に限らず、物品や人材に到るまで、粗悪なものが
良質なものを駆逐して行くということがままある。最高品質の天然の食材などよりは、
低品質でも安価な養殖の食材が市場により多く出回ったりするのがその例である。
人間もその例に漏れず、愚人のくせして巧言令色を巧みに利用することで人びとの
人気を博そうとする者が、根っからの賢人だからこそ修辞での人気取りなどを
控えようとする者を押しのけて天下に蔓延ったりすることがある。
儒学が廃絶されて、聖書信仰や聖書信仰的なものの考え方が蔓延ってしまっている
現代の様相もまた、「悪貨は良貨を駆逐する」の典型例だといえる。世のため人のため
自分のためになりはするものの、決してその実践が楽なものばかりではない儒学が排されて、
世のためにも人のためにも自分のためにもならないが、ただひたすら安楽ばかりを貪ることを是
とする聖書信仰が、思想信条として格好のものとされている、それは決して、善賈が見事な珠玉を
見つけて、それを買うために他の玉を売り払うような事態にも当たらない。投機対象として格好な
安物の玉の大量購入のために、所有の珠玉すら売り払ってしまったようなザマでこそあるのだといえる。
愚昧化してしまった民の欲するがままに任せたりすれば、悪貨が良貨を駆逐してしまうものである。
商人たちもまたそれに応じて、粗悪でも好みやすいような商品ばかりを市場に出回らせて、
本当に良質な商品などはほとんど出回らせないようなことにすらなってしまう。商人は
それで身銭を稼ぐことが第一の目的なのだから、ただ仕事としてそうするだけのこと。
カネやモノや人材の質の良さを確保することなどは、商人にとっての本分などではない。
そんな質の良悪は商人などにとっては相対的な問題に過ぎないのであり、質の悪い商品で
大金を稼げるのならそうするまでのことである。そうであってはならないのは、天下国家の
命運を司る君子階級の人間でこそあり、経済や政治に媒介するカネやモノやヒトの質の
向上に務めて行くことで、天下国家からの磐石な繁栄をも企図して行く必要があるのである。
君子によって人びとのモノの価値を計り知る能力が養われて、それにより良質な商品が市場でも
持て囃されるようになる。その結果として商人もより良質な商品を取り扱うようになるわけだから、
商人が自己の良識によって、珠玉の購入のために粗玉を売り払うよなことを期待しててもいけないのだ。
「市に命じて賈を納れしめ、以て民の好悪する所を観る。志し淫なれば好みも辟なり」
「市場の人間に命じて商品を納入させ、いま民たちが好き好んでいるものが何なのかを観察する。
志しが淫らであるようならその好みも邪まであるものだから。(市場での好悪を正させることから
天子の役割である。その結果として上記の『論語』で例えに上げられている『善賈』が生じたりもする。
まずそういった徳治による品性の向上が図られるのでなければ、商人が善賈たることもあり得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
商人たちもまたそれに応じて、粗悪でも好みやすいような商品ばかりを市場に出回らせて、
本当に良質な商品などはほとんど出回らせないようなことにすらなってしまう。商人は
それで身銭を稼ぐことが第一の目的なのだから、ただ仕事としてそうするだけのこと。
カネやモノや人材の質の良さを確保することなどは、商人にとっての本分などではない。
そんな質の良悪は商人などにとっては相対的な問題に過ぎないのであり、質の悪い商品で
大金を稼げるのならそうするまでのことである。そうであってはならないのは、天下国家の
命運を司る君子階級の人間でこそあり、経済や政治に媒介するカネやモノやヒトの質の
向上に務めて行くことで、天下国家からの磐石な繁栄をも企図して行く必要があるのである。
君子によって人びとのモノの価値を計り知る能力が養われて、それにより良質な商品が市場でも
持て囃されるようになる。その結果として商人もより良質な商品を取り扱うようになるわけだから、
商人が自己の良識によって、珠玉の購入のために粗玉を売り払うよなことを期待しててもいけないのだ。
「市に命じて賈を納れしめ、以て民の好悪する所を観る。志し淫なれば好みも辟なり」
「市場の人間に命じて商品を納入させ、いま民たちが好き好んでいるものが何なのかを観察する。
志しが淫らであるようならその好みも邪まであるものだから。(市場での好悪を正させることから
天子の役割である。その結果として上記の『論語』で例えに上げられている『善賈』が生じたりもする。
まずそういった徳治による品性の向上が図られるのでなければ、商人が善賈たることもあり得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
どんなに雄大な志しも、それを実現して行くに及んで、不正な手段や支援を
介するようでは、むしろ成さねばよかったほどのものとすら化してしまいかねない。
劉備玄徳による漢帝国再興の志しなども、最原初の頃から豪商の支援に頼りきりで、
それを資金源に勢力を拡大させていったものだから、政商を寄せ付けての専横三昧
でいた魏の曹家が、正統の漢室を乗っ取ることを防ぐこともできなかったのだった。
また、いくら自分が大志の持ち主であるといえども、わが子までもがその志しを
継いでくれるとも限らない。商人の多用もあって身内にはそれなりの奢侈を
許してしまってもいたものだから、御曹司の劉禅も全くの軟弱者に育ってしまい、
乱世の荒波の中で蜀漢を保ち続けさせることもできなかったのだった。
漢帝国の祖たる劉邦のほうはといえば、名士の娘を嫁に取るも、相変わらず
清貧の生活を続け、職務怠惰の逃亡犯となっていた頃の潜伏先で数多の配下
たちを得て、漢一国の王となってからも当時の盟友たちに親しんで、韓信や
陳平といった新手の能力者を近づけることはなるべく遠ざけようとし(ただし
旧友蕭何からの説得によって受け入れる)、漢帝国を樹立してからも、無難な役柄
でいながらも兵士たちの命を司っていた兵站の管理者であった旧友の蕭何を第一の
功労者とし、最大級の戦功を上げた韓信や張良の上にすら置いた。その、どこまでも
泥臭くあろうとする姿勢こそは、金や権力が目当てで寄り付いてくる人間を遠ざける
要因となり、以って400年に渡る漢室の安定の礎ともなることができたのである。
劉邦がそれなりの権勢を得てから寄り付いて来た人間、特に韓信あたりは、
劉邦に対するへつらいとも取れるような言葉すら多々残している。その態度が上っ面
ばかりの修辞じみているのは、食客時代に身に付いたサビであったのかも知れないが、
まだ下級役人や逃亡犯だった頃の劉邦こそを慕って配下となった人びととは一線を
画する性格の持ち主であったわけである。だからこそ、ウサギを採ったあとには、
自分までもが煮殺される走狗とも化してしまったわけで、ただただ有能な臣下で
あったから嫉まれて殺されたなどというのとはわけが違うのである。
介するようでは、むしろ成さねばよかったほどのものとすら化してしまいかねない。
劉備玄徳による漢帝国再興の志しなども、最原初の頃から豪商の支援に頼りきりで、
それを資金源に勢力を拡大させていったものだから、政商を寄せ付けての専横三昧
でいた魏の曹家が、正統の漢室を乗っ取ることを防ぐこともできなかったのだった。
また、いくら自分が大志の持ち主であるといえども、わが子までもがその志しを
継いでくれるとも限らない。商人の多用もあって身内にはそれなりの奢侈を
許してしまってもいたものだから、御曹司の劉禅も全くの軟弱者に育ってしまい、
乱世の荒波の中で蜀漢を保ち続けさせることもできなかったのだった。
漢帝国の祖たる劉邦のほうはといえば、名士の娘を嫁に取るも、相変わらず
清貧の生活を続け、職務怠惰の逃亡犯となっていた頃の潜伏先で数多の配下
たちを得て、漢一国の王となってからも当時の盟友たちに親しんで、韓信や
陳平といった新手の能力者を近づけることはなるべく遠ざけようとし(ただし
旧友蕭何からの説得によって受け入れる)、漢帝国を樹立してからも、無難な役柄
でいながらも兵士たちの命を司っていた兵站の管理者であった旧友の蕭何を第一の
功労者とし、最大級の戦功を上げた韓信や張良の上にすら置いた。その、どこまでも
泥臭くあろうとする姿勢こそは、金や権力が目当てで寄り付いてくる人間を遠ざける
要因となり、以って400年に渡る漢室の安定の礎ともなることができたのである。
劉邦がそれなりの権勢を得てから寄り付いて来た人間、特に韓信あたりは、
劉邦に対するへつらいとも取れるような言葉すら多々残している。その態度が上っ面
ばかりの修辞じみているのは、食客時代に身に付いたサビであったのかも知れないが、
まだ下級役人や逃亡犯だった頃の劉邦こそを慕って配下となった人びととは一線を
画する性格の持ち主であったわけである。だからこそ、ウサギを採ったあとには、
自分までもが煮殺される走狗とも化してしまったわけで、ただただ有能な臣下で
あったから嫉まれて殺されたなどというのとはわけが違うのである。
真っ当な手段や支援のみに頼ろうとする場合と、不正なそれらに頼ってでも望みだけは
叶えようとするのとでは、どうしたって大成後の盛衰に開きが生じてしまうものである。
臣下すら利権に目がくらんで寄り付いて来たような連中が多かった豊臣は滅ぼされた一方、
金は金で遠方の大名の篭絡などに多用した一方、自らの身辺は旧来からの重臣たちで
固め抜いた徳川は長期の治世を築き上げることができた。劉邦も一時は韓信などに頼り
もしていたが、やはり目的のために選ばなかった手段を潔く切り捨てたからこそ、目的
のための手段をあまりにも選ばなさ過ぎたような連中のような破滅は免れられたのである。
豊臣秀吉が徳川家康に「おまえが宝とするものは何だ」と問うた時、家康公は
「死をも恐れぬ五百機の三河武士である」と答えたと言う。天下人としての財宝獲得三昧
に及んでいた秀吉からすれば、鼻で笑いたくなるような返答であったかも知れないのだが、
自らが権勢を得て行く上での最初期からの助成者たちこそを大切にしようとしたその
心意気こそが、やはり幕府の磐石な礎を形成して行くこととなったに違いないのである。
特に、志しを果たして行く上での助成者を吟味することは重要なことだといえる。
身辺はできる限り信用の置ける旧来の仲間であるべきだし、どうしても疎遠な能力者を
用いる必要がある場合にも、その扱いをできる限り限定して行くようにすべきだといえる。
政商のように、絶対に頼りにすべきでないような相手も中にはいて、頼りきりでいれば
それだけで自分たちの自滅を招くことにすらなりかねないので、十分な警戒が必要である。
頼るべき相手、なるべく頼るべきでない相手、絶対に頼るべきでない相手の三者を分別
することすらできたなら、天下を我が物とする資格すらをも手に入れられたのだといえる。
叶えようとするのとでは、どうしたって大成後の盛衰に開きが生じてしまうものである。
臣下すら利権に目がくらんで寄り付いて来たような連中が多かった豊臣は滅ぼされた一方、
金は金で遠方の大名の篭絡などに多用した一方、自らの身辺は旧来からの重臣たちで
固め抜いた徳川は長期の治世を築き上げることができた。劉邦も一時は韓信などに頼り
もしていたが、やはり目的のために選ばなかった手段を潔く切り捨てたからこそ、目的
のための手段をあまりにも選ばなさ過ぎたような連中のような破滅は免れられたのである。
豊臣秀吉が徳川家康に「おまえが宝とするものは何だ」と問うた時、家康公は
「死をも恐れぬ五百機の三河武士である」と答えたと言う。天下人としての財宝獲得三昧
に及んでいた秀吉からすれば、鼻で笑いたくなるような返答であったかも知れないのだが、
自らが権勢を得て行く上での最初期からの助成者たちこそを大切にしようとしたその
心意気こそが、やはり幕府の磐石な礎を形成して行くこととなったに違いないのである。
特に、志しを果たして行く上での助成者を吟味することは重要なことだといえる。
身辺はできる限り信用の置ける旧来の仲間であるべきだし、どうしても疎遠な能力者を
用いる必要がある場合にも、その扱いをできる限り限定して行くようにすべきだといえる。
政商のように、絶対に頼りにすべきでないような相手も中にはいて、頼りきりでいれば
それだけで自分たちの自滅を招くことにすらなりかねないので、十分な警戒が必要である。
頼るべき相手、なるべく頼るべきでない相手、絶対に頼るべきでない相手の三者を分別
することすらできたなら、天下を我が物とする資格すらをも手に入れられたのだといえる。
「曾子曰く、吾れ日に三つを吾が身に省みる。
人の為めに謀して忠ならざるか、朋友に交わりて信ならざるか、習わざるを伝えざるか、と」
「曾先生『私は必ず毎日三つのことを反省するようにしている。他人のために計画を立てて、
それが忠義に欠けていたりしなかったか、友人と交流して信義に欠けるようなマネをしなか
ったか、自分がちゃんと習っているわけでもないようなことを人に伝えたりしなかったか、と』
(計画が達成された所で、それが忠義に欠けていたりするのでは元も子もない。だから結局、
信用のおける者たちを助成者とした、全くの他人頼みでもない計画の実行が重要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・四)
「道同じうせざれば、謀の為めに相さず」
「道を同じくするものとでなければ、計画を実行に移すこともない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
人の為めに謀して忠ならざるか、朋友に交わりて信ならざるか、習わざるを伝えざるか、と」
「曾先生『私は必ず毎日三つのことを反省するようにしている。他人のために計画を立てて、
それが忠義に欠けていたりしなかったか、友人と交流して信義に欠けるようなマネをしなか
ったか、自分がちゃんと習っているわけでもないようなことを人に伝えたりしなかったか、と』
(計画が達成された所で、それが忠義に欠けていたりするのでは元も子もない。だから結局、
信用のおける者たちを助成者とした、全くの他人頼みでもない計画の実行が重要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・四)
「道同じうせざれば、謀の為めに相さず」
「道を同じくするものとでなければ、計画を実行に移すこともない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
邪まな思想信条を排した平静な心と共に、常日頃からの注意を欠かさないでいることで、
人も危難を避ける上での最善を尽くせる一方で、現実から乖離した邪信や悪念で
現実から目を逸らし、紛れもない危機にすら気づきもしないままでいるような
ところでこそ、人は最大級の災禍を我が身に呼び込むことともなるのである。
一方、世の中の大多数の一般人は、上記のうちのいずれにも属することがない。
日々の仕事に追われて邪まな思想信条を排しきることも、自分からそのような
邪信の率先者となることもない、テレビ番組あたりにいくらでも自らの考え方を
変節させられる、「風になびく草」のような存在のままであり続けるのである。
そこで、そのような大多数の一般人を、平静な心と磐石な注意深さの持ち主が導いて行くか、
邪念で現実から目を背けようとするような人間が支配して行くかで、世の中の運命も分かれる。
片や長期の治世をも実現する一方で、片や早急なる破滅を呼び込むことともなる。
結局、一般人が両者のうちのいずれかを自由に選択できるなどということもなく、
権力機構が自浄作用を持つか否かだけで完全にその運命も分かれてしまうものである。
全く自浄作用を持たぬままに、盲目なままでのイケイケ状態でい続けたなら、そのせいでの
破滅が当然やって来る。その時に、政治史をよく学び抜いて撥乱反正をよくするものが
主導者に躍り出たりしたならば、そこから治世が実現されて行くこともありはするが、
所詮はクロムウェルやナポレオンの如き愚人が改革の主導者であり続けたなら、
そのせいでの同じ過ちが繰り返されて行くこととなるのである。
人も危難を避ける上での最善を尽くせる一方で、現実から乖離した邪信や悪念で
現実から目を逸らし、紛れもない危機にすら気づきもしないままでいるような
ところでこそ、人は最大級の災禍を我が身に呼び込むことともなるのである。
一方、世の中の大多数の一般人は、上記のうちのいずれにも属することがない。
日々の仕事に追われて邪まな思想信条を排しきることも、自分からそのような
邪信の率先者となることもない、テレビ番組あたりにいくらでも自らの考え方を
変節させられる、「風になびく草」のような存在のままであり続けるのである。
そこで、そのような大多数の一般人を、平静な心と磐石な注意深さの持ち主が導いて行くか、
邪念で現実から目を背けようとするような人間が支配して行くかで、世の中の運命も分かれる。
片や長期の治世をも実現する一方で、片や早急なる破滅を呼び込むことともなる。
結局、一般人が両者のうちのいずれかを自由に選択できるなどということもなく、
権力機構が自浄作用を持つか否かだけで完全にその運命も分かれてしまうものである。
全く自浄作用を持たぬままに、盲目なままでのイケイケ状態でい続けたなら、そのせいでの
破滅が当然やって来る。その時に、政治史をよく学び抜いて撥乱反正をよくするものが
主導者に躍り出たりしたならば、そこから治世が実現されて行くこともありはするが、
所詮はクロムウェルやナポレオンの如き愚人が改革の主導者であり続けたなら、
そのせいでの同じ過ちが繰り返されて行くこととなるのである。
東洋史上には、腐敗した政権が一掃されて清廉な権力機構が建て直されることで
数百年規模の治世が実現されるということがままあるが、西洋史にはそういった事例は
まったくない。権力の腐敗が極まれば、亡国級の大破綻を来たして、それからまた同じような
過ちを繰り返し始めるといったことの繰り返しで、それが一般人にとってもたまったもんじゃ
ないから、欧州から脱出してアメリカなどへと逃亡する者が多数にも上ってしまったのだった。
しかし、もはやこの地球上に逃亡先などはなく、地球外に脱出する選択肢も億人単位などでは
閉ざされている。それでいてアメリカの経済なども、盲目なままでの放辟邪侈がたたって
破綻寸前と来ている。これ以上の暴落などは世界大戦にも直結するからアメリカ株の大変動は
強制的に控えられ、変わりに日本株の乱暴な売り買いなどで気を紛らわそうとしているのが
現状だが、盲目なイケイケこそは2000年来の性分であり続けてきた欧米人のこと、全面的な
やりたい放題を控える節制状態も、いったいいつまで持つのか知れたもんではない。
日本や東洋に限らず、いま世界規模で、盲目な愚人から冷静な注意者への大権の譲渡が
必要とされている。世界人口が70億人にも上る現状において、大容量情報を機械的に処理
するためのコンピュータへの依存なども避けられないことではあるが、要となるのはやはり、
世界の命運を司る人間たち自身が、模範とするに値する主導者を頂くことだといえる。それが
叶わぬようなら、割れ瓶に水を汲むような徒労の対応しかできないままに終わるのである。
「礼は往来を尚ぶ。往きて来たらざるは非礼なり、来たりて往かざるも亦た非礼なり。
人に礼有れば則ち安し、礼無ければ則ち危し。故に曰く、礼は学ばざる可からざるなりと」
「礼儀は双方向性を尊ぶ。あちらからこちらへと一方的でばかりあるのも非礼だし、
こちらからあちらへと一方的ばかりであるのも非礼である。人に礼儀があれば安全だが、
礼儀がなければ危うい。故に、礼儀のためには絶え間ない勉学精進が必要ともされる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
数百年規模の治世が実現されるということがままあるが、西洋史にはそういった事例は
まったくない。権力の腐敗が極まれば、亡国級の大破綻を来たして、それからまた同じような
過ちを繰り返し始めるといったことの繰り返しで、それが一般人にとってもたまったもんじゃ
ないから、欧州から脱出してアメリカなどへと逃亡する者が多数にも上ってしまったのだった。
しかし、もはやこの地球上に逃亡先などはなく、地球外に脱出する選択肢も億人単位などでは
閉ざされている。それでいてアメリカの経済なども、盲目なままでの放辟邪侈がたたって
破綻寸前と来ている。これ以上の暴落などは世界大戦にも直結するからアメリカ株の大変動は
強制的に控えられ、変わりに日本株の乱暴な売り買いなどで気を紛らわそうとしているのが
現状だが、盲目なイケイケこそは2000年来の性分であり続けてきた欧米人のこと、全面的な
やりたい放題を控える節制状態も、いったいいつまで持つのか知れたもんではない。
日本や東洋に限らず、いま世界規模で、盲目な愚人から冷静な注意者への大権の譲渡が
必要とされている。世界人口が70億人にも上る現状において、大容量情報を機械的に処理
するためのコンピュータへの依存なども避けられないことではあるが、要となるのはやはり、
世界の命運を司る人間たち自身が、模範とするに値する主導者を頂くことだといえる。それが
叶わぬようなら、割れ瓶に水を汲むような徒労の対応しかできないままに終わるのである。
「礼は往来を尚ぶ。往きて来たらざるは非礼なり、来たりて往かざるも亦た非礼なり。
人に礼有れば則ち安し、礼無ければ則ち危し。故に曰く、礼は学ばざる可からざるなりと」
「礼儀は双方向性を尊ぶ。あちらからこちらへと一方的でばかりあるのも非礼だし、
こちらからあちらへと一方的ばかりであるのも非礼である。人に礼儀があれば安全だが、
礼儀がなければ危うい。故に、礼儀のためには絶え間ない勉学精進が必要ともされる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
人間社会が一定以上の規模で存在している以上は、そこに必要悪としての法規もまた生ずるものである。
ただ、それを善用するか悪用するか、正法に合致させるか徒法だらけと化すかといった違いがあるのみで、
全く何らの法規にも患わせられなくて済むなどということはない。あるとすればそれは、正しい法規で
取り決められることなどは全て自然と守り通せる、「心の欲する所に従ってその矩をこえず(論語)」
という境地にある聖賢であるからといった場合に限るといえる。
実際のところ、善法は守ったほうが快いものであり、だからこそわざわざ意識的に守ろうとせずとも、
善徳に従って快いものを追い求めた結果として、好きなようにやっても善法の範疇にいられたり
するのである。舜帝や孔子などは実際にそのようでいたらしく、実定法を故意に守ったりするよりも、
そういった聖賢のひそみに倣うようにしたほうが、健全で快活な法遵守者となれたりもするのである。
一切の社会法規を無視する無秩序主義者などは、善法の遵守すら損なってしまうわけだから、
その分だけ人並み以上の苦悩にすら囚われることとなる。狂言的な冤罪刑死劇に際して、イエスが
十字架上で苦悶のままに死滅したのもそのような理由があったからであり、その苦悩は犯罪者が
良心の呵責に苛まれる場合の苦悩とも基本的に変わりはしなかったのである。別にイエスが
当時のローマ帝国の法規に反していたわけでなくとも、一切の法律を無みしようとした
イエス本人の罪深い心持ち自体が、多大なる苦悩を本人に植え付けたにも違いないのである。
無法を志す心持ちと、徒法に煩わされる心持ちと、罪を犯して良心の呵責に苛まれる心持ちとが、
善法を遵守しないが故の苦悩に苛まれる点で全く共通している。キリスト教国や法治主義国でも
明確な断罪の対象とされるのは実定法違反の罪を犯した場合のみであり、これは上三つの
原因に基づく苦難や災禍を防止することを少しも保証してくれたりするものではない。
ただ、それを善用するか悪用するか、正法に合致させるか徒法だらけと化すかといった違いがあるのみで、
全く何らの法規にも患わせられなくて済むなどということはない。あるとすればそれは、正しい法規で
取り決められることなどは全て自然と守り通せる、「心の欲する所に従ってその矩をこえず(論語)」
という境地にある聖賢であるからといった場合に限るといえる。
実際のところ、善法は守ったほうが快いものであり、だからこそわざわざ意識的に守ろうとせずとも、
善徳に従って快いものを追い求めた結果として、好きなようにやっても善法の範疇にいられたり
するのである。舜帝や孔子などは実際にそのようでいたらしく、実定法を故意に守ったりするよりも、
そういった聖賢のひそみに倣うようにしたほうが、健全で快活な法遵守者となれたりもするのである。
一切の社会法規を無視する無秩序主義者などは、善法の遵守すら損なってしまうわけだから、
その分だけ人並み以上の苦悩にすら囚われることとなる。狂言的な冤罪刑死劇に際して、イエスが
十字架上で苦悶のままに死滅したのもそのような理由があったからであり、その苦悩は犯罪者が
良心の呵責に苛まれる場合の苦悩とも基本的に変わりはしなかったのである。別にイエスが
当時のローマ帝国の法規に反していたわけでなくとも、一切の法律を無みしようとした
イエス本人の罪深い心持ち自体が、多大なる苦悩を本人に植え付けたにも違いないのである。
無法を志す心持ちと、徒法に煩わされる心持ちと、罪を犯して良心の呵責に苛まれる心持ちとが、
善法を遵守しないが故の苦悩に苛まれる点で全く共通している。キリスト教国や法治主義国でも
明確な断罪の対象とされるのは実定法違反の罪を犯した場合のみであり、これは上三つの
原因に基づく苦難や災禍を防止することを少しも保証してくれたりするものではない。
上の三つの選択肢しか人間には与えられていないという思い込みから、自由主義という
ものもまた生じた。しかし、あらゆる法規を否定しつくしての自由状態などというのは、
かえって苦悩を伴うものでもあるから、ニーチェのような発狂か、多くのアメリカ人が
患っているような麻薬中毒や摂食障害などにも陥ってしまいがちなのである。
禅仏教で提唱された本来の「自由」は、そういう意味ではなかった。孔子のいう「心の欲する所に従って
矩を超えず」が盤石化された結果として、最大級の自由をも手に入れるというものであった。だからこそ、
禅で尊ばれる自由を追い求めたからといって、単なる無法主義の自由を追い求めた場合のような苦悩の
副作用などは伴わない。自由がそのまま善法の遵守にも合致して、無上の快さをも伴わせることとなる。
目的達成のための尽力の過程で苦労があったりするのはともかく、目指している目的が苦悩であったり
するのでは、完全にマゾヒズムという変態志向である。イギリス人のように飯のうまさも分からない
無感覚者となってまでそれを追い求めたとしても、やはりマゾヒズムはマゾヒズムである。
そのような変態志向と、過渡的な苦労とを混同するようなことが決してあってもならないのである。
「盤庚、民に教え、乃じの在位を由い、常旧の服を以って
法度を正さしむ。曰く、敢えて小人の箴むる処を伏すること或る無かれ」
「商王の盤庚は民を教化するために、自分たちの管轄の有司に頼ることと、古来からの旧法によく則ること
とを民たちに促した。そしてこう言った。『身分の低いような人間からの注意すら無視してはならない』と。
(一定の権威の下で古法すら蔑ろにしようとすること自体、度し難い不義に当たるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・大禹謨より)
ものもまた生じた。しかし、あらゆる法規を否定しつくしての自由状態などというのは、
かえって苦悩を伴うものでもあるから、ニーチェのような発狂か、多くのアメリカ人が
患っているような麻薬中毒や摂食障害などにも陥ってしまいがちなのである。
禅仏教で提唱された本来の「自由」は、そういう意味ではなかった。孔子のいう「心の欲する所に従って
矩を超えず」が盤石化された結果として、最大級の自由をも手に入れるというものであった。だからこそ、
禅で尊ばれる自由を追い求めたからといって、単なる無法主義の自由を追い求めた場合のような苦悩の
副作用などは伴わない。自由がそのまま善法の遵守にも合致して、無上の快さをも伴わせることとなる。
目的達成のための尽力の過程で苦労があったりするのはともかく、目指している目的が苦悩であったり
するのでは、完全にマゾヒズムという変態志向である。イギリス人のように飯のうまさも分からない
無感覚者となってまでそれを追い求めたとしても、やはりマゾヒズムはマゾヒズムである。
そのような変態志向と、過渡的な苦労とを混同するようなことが決してあってもならないのである。
「盤庚、民に教え、乃じの在位を由い、常旧の服を以って
法度を正さしむ。曰く、敢えて小人の箴むる処を伏すること或る無かれ」
「商王の盤庚は民を教化するために、自分たちの管轄の有司に頼ることと、古来からの旧法によく則ること
とを民たちに促した。そしてこう言った。『身分の低いような人間からの注意すら無視してはならない』と。
(一定の権威の下で古法すら蔑ろにしようとすること自体、度し難い不義に当たるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・大禹謨より)
「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり(既出)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——里仁第四・八より)
これもやはり、言葉で道を聞くことができるなどということからして稀有なことで
あればこそ提言されたことでもある。言葉だけで道が看破される、そんなことは
基本あり得ないから、そんなことがあれば直後に死んでも構わないとしたのである。
当然、言葉ばかりに頼らない、実地からの努力精進が道に到る最善の手段であり、
それに際しての補助的な手段として聖賢の古言などを頼りにすることがある。
「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」というごく当たり前な徳目が、
ただ当たり前な物言い止まりにしか聞こえないこともあれば、本当に道に
到る際の決定的な金言として聞こえる場合もあるのであり、それは当人
たち自身の自前の練達度の如何によってこそ決まることなのである。
道を目指して努力精進を続けていれば自然と、言葉で道を聞けただけでも、
その直後に死んだって構わないぐらいの気前よさでいられるようになるのである。
常日頃から健全な苦労を重ねてきているが故に、それが報われすらしたなら、
もう死んだって構わないぐらいの大きな期待を込められるわけである。
そういう、道の完成の手段としての「言葉を聞く」というのはアリであり、
実際それこそは、筆者の死後まで半永久的にその意味内容を保存し続ける
言葉という媒体の健全な活用法にも当たるのである。始めから言葉ばかりに
頼りっぱなし、行いも全て言葉に頼りきりでいたりするのでは、大した成果も
見込めない上に、言葉という道具の不健全な活用の仕方ともなってしまうのである。
(権力道徳聖書——通称四書五経——里仁第四・八より)
これもやはり、言葉で道を聞くことができるなどということからして稀有なことで
あればこそ提言されたことでもある。言葉だけで道が看破される、そんなことは
基本あり得ないから、そんなことがあれば直後に死んでも構わないとしたのである。
当然、言葉ばかりに頼らない、実地からの努力精進が道に到る最善の手段であり、
それに際しての補助的な手段として聖賢の古言などを頼りにすることがある。
「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」というごく当たり前な徳目が、
ただ当たり前な物言い止まりにしか聞こえないこともあれば、本当に道に
到る際の決定的な金言として聞こえる場合もあるのであり、それは当人
たち自身の自前の練達度の如何によってこそ決まることなのである。
道を目指して努力精進を続けていれば自然と、言葉で道を聞けただけでも、
その直後に死んだって構わないぐらいの気前よさでいられるようになるのである。
常日頃から健全な苦労を重ねてきているが故に、それが報われすらしたなら、
もう死んだって構わないぐらいの大きな期待を込められるわけである。
そういう、道の完成の手段としての「言葉を聞く」というのはアリであり、
実際それこそは、筆者の死後まで半永久的にその意味内容を保存し続ける
言葉という媒体の健全な活用法にも当たるのである。始めから言葉ばかりに
頼りっぱなし、行いも全て言葉に頼りきりでいたりするのでは、大した成果も
見込めない上に、言葉という道具の不健全な活用の仕方ともなってしまうのである。

ための一番の道具となるわけでもない。念仏行における極楽浄土の観想なども、
言葉で表しきれないほどの荘厳であればこそなおのことよいのである。
「南無阿弥陀仏」という言葉もそれ自体が真言や呪文だったりするわけではなく、
ただその言葉通りに阿弥陀様に帰依する心持ちでいることこそが重要なのである。
その領分をよく計り知った上で用いられる「言葉」という道具の有用さは、
それこそ計り知れないほどのものであるわけだけれども、そうでない、扱い方を
間違えた言葉のほうには、確かに限界というものがある。それこそ、適切に
使用される言葉のそれよりも遥かに早くのうちから来たしてしまう限界であり、
その信頼性の脆弱さの故にこそ「扱い方を間違っている」ともいえるわけである。
厳しい精進修行の果てに、悟りに到る真言に与る、その有難さを知っている者が
どうして、始めから言葉ばかりに頼りきりでいようなどとすることがあるだろうか。
それこそ、本人自身の精進と信心の、両方が足りていない証拠といえるのではないか。
「之の子于に征く、聞くこと有るも声無し。允なるかな君子、展に大いに成せり」
「主君が狩りに行かれれば、聞きたいことはあるけれども、もはや声もない。
偉大なるかなかの君子は、そこでこそ真に大成を果たされているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・車攻より)
いま、欧米聖書圏の横暴によって人類が滅亡の危機に晒されていることも、
聖書信仰が未だに市民権を得たままでいてしまっているからこそ、
ろくに人びとから直視されることもない。聖書の神もまた畏怖して
崇敬するに値する存在であると認められてしまっているものだから、
そうだと思い込んでいる対象が自分たちを致命的な破滅に追い込んで
いることを直視したりするのは、自分たちの過ちを直視することにすら
なってしまう、だからこそ、あえて直視する者すら皆無なままなのである。
聖書信仰と反目し合っているイスラムなども、同じアブラハム教の範疇で、
教義の相違を理由にいがみ合っているだけであるわけだから、聖書の神の
多少なりともの権威の容認にも与してしまっているといえるわけで、
聖書の神こそが人類を滅亡の危機に陥れていることを人びとに
直視させることを助けているとまではいえないわけである。
畏怖したり権威を認めたりすべきでない対象を相応に扱うべきなのは
もちろんだが、だからといって感情的に敵視したりするのでもいけない。
もはやそんなものを有難がっていていい状況ではないということを、
どこまでも冷静に肯んじて行くことこそは本当に必要なことである。
してみれぱ、世界を滅亡の危機から救うためには、聖書信者も信仰を
鞍替えするのではなく、邪信ペースの信仰を一度は捨て去ることこそが
肝要となるのである。邪神を畏怖するような心持ちから改めていかなければ
ならないわけだから、正信に鞍替えすらすればそれでいいというわけでもない。
聖書信仰が未だに市民権を得たままでいてしまっているからこそ、
ろくに人びとから直視されることもない。聖書の神もまた畏怖して
崇敬するに値する存在であると認められてしまっているものだから、
そうだと思い込んでいる対象が自分たちを致命的な破滅に追い込んで
いることを直視したりするのは、自分たちの過ちを直視することにすら
なってしまう、だからこそ、あえて直視する者すら皆無なままなのである。
聖書信仰と反目し合っているイスラムなども、同じアブラハム教の範疇で、
教義の相違を理由にいがみ合っているだけであるわけだから、聖書の神の
多少なりともの権威の容認にも与してしまっているといえるわけで、
聖書の神こそが人類を滅亡の危機に陥れていることを人びとに
直視させることを助けているとまではいえないわけである。
畏怖したり権威を認めたりすべきでない対象を相応に扱うべきなのは
もちろんだが、だからといって感情的に敵視したりするのでもいけない。
もはやそんなものを有難がっていていい状況ではないということを、
どこまでも冷静に肯んじて行くことこそは本当に必要なことである。
してみれぱ、世界を滅亡の危機から救うためには、聖書信者も信仰を
鞍替えするのではなく、邪信ペースの信仰を一度は捨て去ることこそが
肝要となるのである。邪神を畏怖するような心持ちから改めていかなければ
ならないわけだから、正信に鞍替えすらすればそれでいいというわけでもない。
正信のほうを見てみれば、別に念仏者が阿弥陀仏を酷く畏怖している
などということもない。ただ自分を極楽浄土へと導いてくれる都合のいい
仏として崇めているだけで、そこに敬虔な畏怖なども見られないものだから、
聖書信者などからあまり好ましいものとして扱われなかったりもするのである。
しかし、他力本願の愚夫としては、それも身の程にかなったものである。
むしろ自力作善をよくする者こそは、神仏への敬虔な畏敬や、主君や親への
崇敬をも重んじられるものなのであり、それでこそ独力での向上すらもが
見込めるわけである。そうでもなく、別に自助努力での向上を志している
わけでもない人間が、神への畏怖だけは作りこんだりするのは「ごっこ遊び」
もいいとこなわけで、着実な精進が伴っているわけでもないが故に、その
畏怖が悪行の美化のために悪用されることにすらなりかねないわけである。
親や国君への十分な畏敬も抱けないような人間が、架空の神に対してだけは
畏敬を抱いたりすることからして、すでに思い上がりの正当化であることが
紛れもない。そんな偽善者よりはまだ、自らの思い上がりと真摯に向き合って
生きている人間のほうがマシというもの。見た目にはより卑しいにしたって、
心のうちにまだ、本気で自らを反省する余地があるに違いないのだから。
「天を楽しむ者は天下を保んじ、天を畏るる者は其の国を保んず。
(詩に)云く、天の威を畏れて時に之れを保んずると」
「天を楽しむものは天下を平定し、天を畏怖するものは国を平定する。
詩経(我将)にも『天の威を畏れつつ、ここにわが国を安んずる』とある。
(自力作善の権力道徳者が、君父の尊位にも則りつつ、天威をも畏れて
国を平定する。それはそれでありだが、天を楽しめたならなおのことよい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)
などということもない。ただ自分を極楽浄土へと導いてくれる都合のいい
仏として崇めているだけで、そこに敬虔な畏怖なども見られないものだから、
聖書信者などからあまり好ましいものとして扱われなかったりもするのである。
しかし、他力本願の愚夫としては、それも身の程にかなったものである。
むしろ自力作善をよくする者こそは、神仏への敬虔な畏敬や、主君や親への
崇敬をも重んじられるものなのであり、それでこそ独力での向上すらもが
見込めるわけである。そうでもなく、別に自助努力での向上を志している
わけでもない人間が、神への畏怖だけは作りこんだりするのは「ごっこ遊び」
もいいとこなわけで、着実な精進が伴っているわけでもないが故に、その
畏怖が悪行の美化のために悪用されることにすらなりかねないわけである。
親や国君への十分な畏敬も抱けないような人間が、架空の神に対してだけは
畏敬を抱いたりすることからして、すでに思い上がりの正当化であることが
紛れもない。そんな偽善者よりはまだ、自らの思い上がりと真摯に向き合って
生きている人間のほうがマシというもの。見た目にはより卑しいにしたって、
心のうちにまだ、本気で自らを反省する余地があるに違いないのだから。
「天を楽しむ者は天下を保んじ、天を畏るる者は其の国を保んず。
(詩に)云く、天の威を畏れて時に之れを保んずると」
「天を楽しむものは天下を平定し、天を畏怖するものは国を平定する。
詩経(我将)にも『天の威を畏れつつ、ここにわが国を安んずる』とある。
(自力作善の権力道徳者が、君父の尊位にも則りつつ、天威をも畏れて
国を平定する。それはそれでありだが、天を楽しめたならなおのことよい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)
この人頭おかしいのかな。^^
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