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聖書 Part10
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地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

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「頻りに復る、﨤うけれども咎无し。頻りに復りて之れ﨤うきは、義として咎无きなり」
「過ちを犯しては改めて元に返る。危ういことは危ういけれども、咎があるほどではない。
過ちを犯しては改めて元に戻ることを繰り返す危うさは、道義に即して咎ありとすべきではない。
(過ちを犯して改めもしないような所にこそ、真義に即した決定的な咎があるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・復・六三‐象伝より)
「過ちを犯しては改めて元に返る。危ういことは危ういけれども、咎があるほどではない。
過ちを犯しては改めて元に戻ることを繰り返す危うさは、道義に即して咎ありとすべきではない。
(過ちを犯して改めもしないような所にこそ、真義に即した決定的な咎があるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・復・六三‐象伝より)
そもそも、本物の善は愚人が容易に欲せられる様な所にすらない。
善であるとされている上で、愚人にも容易に欲することができるようなものが
あるとしたなら、それは偽善の皮を被った悪であるのが常であるという法則がある。
天下万人を利して我が利ともする、本物の善徳に則った徳行は、夏の禹王が
足萎えになるほどにも尽力した治水事業ほどもの労苦が付きまとう一方で、
だからといって我が手元に莫大な財産が転がり込んで来るようなこともない、
要するに「割に合わない」と思われるような要素が多く付きまとうものであり、
故に、目先の私益ばかりを欲したがる愚人が容易に欲せるようなこともないのである。
一方で、金融犯罪で100億ドルを巻き上げておきながら、100万ドルだけは
恵まれない人々に寄付するような偽善込みの悪行は、実際のところ有害無益な
罪業であることを本質としているわけだけれども、そうであっても自分が莫大な
財産を手に入れることができて、なおかつ小額の寄付という偽善によって気を
紛らわせられもするわけだから、愚人にとっては、それを善行であるなどと
思い込みつつ追い求めていきたがる対象にもなりやすいのである。
本物の善行は、最高でも行いに相応の成果を得られるのみであり、やもすれば、
相応の成果すら得られなかったりもするものである。一方で、悪行や偽善の行いは
相応の成果どころですらない、濡れ手に泡のごときあぶく銭をトントン拍子で
得られたりもするものであるから、私益の膨れ上がりが全てな愚人のみならず、
行いに相応の成果ぐらいは必ず要求するような四角四面とした人間ですら、
善行を志すことなく、偽善や悪行を志して行くということがあるのである。
資本主義社会における法官だとか警官だとかに、特にそのような人種は多い。
別に自分たちが商売人ほどにも利益ばかりにがっついているようなことはないの
だけれども、さりとて自分たちが積極的な善行に務めているわけでもない、ただ
報酬に見合った仕事だけをしていようとする。末端の警察官あたりはそれでもかなり
の仕事量になったりするわけだが、さりとて、自分たちから世の中をよりよくして
行こうとする程もの向上心が寸分たりともありはしないことには変わりないわけである。
善であるとされている上で、愚人にも容易に欲することができるようなものが
あるとしたなら、それは偽善の皮を被った悪であるのが常であるという法則がある。
天下万人を利して我が利ともする、本物の善徳に則った徳行は、夏の禹王が
足萎えになるほどにも尽力した治水事業ほどもの労苦が付きまとう一方で、
だからといって我が手元に莫大な財産が転がり込んで来るようなこともない、
要するに「割に合わない」と思われるような要素が多く付きまとうものであり、
故に、目先の私益ばかりを欲したがる愚人が容易に欲せるようなこともないのである。
一方で、金融犯罪で100億ドルを巻き上げておきながら、100万ドルだけは
恵まれない人々に寄付するような偽善込みの悪行は、実際のところ有害無益な
罪業であることを本質としているわけだけれども、そうであっても自分が莫大な
財産を手に入れることができて、なおかつ小額の寄付という偽善によって気を
紛らわせられもするわけだから、愚人にとっては、それを善行であるなどと
思い込みつつ追い求めていきたがる対象にもなりやすいのである。
本物の善行は、最高でも行いに相応の成果を得られるのみであり、やもすれば、
相応の成果すら得られなかったりもするものである。一方で、悪行や偽善の行いは
相応の成果どころですらない、濡れ手に泡のごときあぶく銭をトントン拍子で
得られたりもするものであるから、私益の膨れ上がりが全てな愚人のみならず、
行いに相応の成果ぐらいは必ず要求するような四角四面とした人間ですら、
善行を志すことなく、偽善や悪行を志して行くということがあるのである。
資本主義社会における法官だとか警官だとかに、特にそのような人種は多い。
別に自分たちが商売人ほどにも利益ばかりにがっついているようなことはないの
だけれども、さりとて自分たちが積極的な善行に務めているわけでもない、ただ
報酬に見合った仕事だけをしていようとする。末端の警察官あたりはそれでもかなり
の仕事量になったりするわけだが、さりとて、自分たちから世の中をよりよくして
行こうとする程もの向上心が寸分たりともありはしないことには変わりないわけである。
法務関係者が冷酷(酷吏)であるのというのは、徳治社会にしろ法治社会にしろ
多少なりともあり得ることである。報酬に見合った仕事しかしないでいようと
するほどもの打算加減こそが、実定法を切実に取り扱って行く姿勢にも繋がる
わけだから、法治社会ではむしろ法務官はそうであるほうが好ましいのである。
しかし、そうである時点で、本人たちが善を志すことももはやなくなるのであり、
悪逆非道まみれでいる商売人の女房役程度の役割しか果たせなくもなるのである。
目先の私益が全てな愚人はもちろんのこと、報酬に相応の行いしか果たそうと
しない酷吏止まりであっも、本物の善というものを欲することすらできはしない。
行いに相応の成果すら必ずしも期待することなく、積極的な善行に邁進して行ける
程もの仁徳や菩提心の持ち主だけが、本物の善を欲することができるのである。
ただ欲するためだけでも、それだけの心意気が必要であり、さらに善行を果たして
行くとなれば、そこには相応の権能が必要ともなって行くわけだから、本物の善行が
実現されて、なおかつ相応の成果が得られるなどということがいかに稀有なことで
あるのかまでもが容易に察せられるわけである。仁徳や菩提心によって旺盛に善行
を志して行く人間ぐらいは溢れ返るぐらいに居た上で、さらにその中から実際に
善行を実現して行くものが散発的に輩出されて行くぐらいのことがやっと期待できる
ことなわけだから、儒学や仏教の教育によって、仁徳や菩提心の持ち主を多く育んで
行くぐらいのことは予め成されていなければ、そうも行きはしないのである。仁徳も
菩提心も、目前のパン一切れほどの価値もないと思い込まれているのが常である時代に、
善因善果が少しでもあり得るなどと思うことがあるとすれば、それは夢想だといえる。
「耕穫せず、菑畭せずんば、則ち往く攸有るに利ろし。 耕穫せずとは、未だ富まんとせざるなり」
「耕したに相応の収穫すら期待せず、三年後にやっと収穫が期待できそうな新田での一年目
からの収穫を期待するようなこともない、そのような心がけでいれば、ことを為すに値する。
耕したに相応の収穫すら期待しないのは、自分に未だ富もうとする野望がないからである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・無妄・六二‐象伝より)
多少なりともあり得ることである。報酬に見合った仕事しかしないでいようと
するほどもの打算加減こそが、実定法を切実に取り扱って行く姿勢にも繋がる
わけだから、法治社会ではむしろ法務官はそうであるほうが好ましいのである。
しかし、そうである時点で、本人たちが善を志すことももはやなくなるのであり、
悪逆非道まみれでいる商売人の女房役程度の役割しか果たせなくもなるのである。
目先の私益が全てな愚人はもちろんのこと、報酬に相応の行いしか果たそうと
しない酷吏止まりであっも、本物の善というものを欲することすらできはしない。
行いに相応の成果すら必ずしも期待することなく、積極的な善行に邁進して行ける
程もの仁徳や菩提心の持ち主だけが、本物の善を欲することができるのである。
ただ欲するためだけでも、それだけの心意気が必要であり、さらに善行を果たして
行くとなれば、そこには相応の権能が必要ともなって行くわけだから、本物の善行が
実現されて、なおかつ相応の成果が得られるなどということがいかに稀有なことで
あるのかまでもが容易に察せられるわけである。仁徳や菩提心によって旺盛に善行
を志して行く人間ぐらいは溢れ返るぐらいに居た上で、さらにその中から実際に
善行を実現して行くものが散発的に輩出されて行くぐらいのことがやっと期待できる
ことなわけだから、儒学や仏教の教育によって、仁徳や菩提心の持ち主を多く育んで
行くぐらいのことは予め成されていなければ、そうも行きはしないのである。仁徳も
菩提心も、目前のパン一切れほどの価値もないと思い込まれているのが常である時代に、
善因善果が少しでもあり得るなどと思うことがあるとすれば、それは夢想だといえる。
「耕穫せず、菑畭せずんば、則ち往く攸有るに利ろし。 耕穫せずとは、未だ富まんとせざるなり」
「耕したに相応の収穫すら期待せず、三年後にやっと収穫が期待できそうな新田での一年目
からの収穫を期待するようなこともない、そのような心がけでいれば、ことを為すに値する。
耕したに相応の収穫すら期待しないのは、自分に未だ富もうとする野望がないからである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・無妄・六二‐象伝より)
できる限り無法状態でいようとする者と、徒法を頑なに守ろうとする者の両極に
世の中が分断されてしまうのが乱世というものであり、資本主義や法治主義、そして
「現象的な自由主義」が是とされてしまっているような世の中においてこそ、その傾向も顕著となる。
禅僧が正法の護持や厳しい修行と引き換えに手に入れるような精神的な自由とは真逆の、
とにかく行為能力面でのなんでもありなやりたい放題でいる現象的な自由、その自由の象徴が
磔刑で死んでも生き返って天に召されるとする架空の現人神であるとされるのも、むべなる
ことと言えなくもない。そんな生き物は実在しないにしたって、仮にあるとしたなら、
現象的自由の象徴と見なす上でこれほど相応しい代物も他にないといえる。
それでまあ、そのような邪神を信じるにしろ信じないにしろ、よくいえば現象的自由、
悪くいえば「放辟邪侈」という傾向を是とするような事態において、最低限の治安維持目的での
法治主義もまたその重要性を帯びて来る。放辟邪侈など始めからあるべきでないとするのが
仁義道徳であるわけだから、放辟邪侈の是認と同時に徳治主義はその立場を追われてしまう。
その後に、放辟邪侈を許容する範囲での治安維持システムとしての法治社会が敷かれるわけである。
始皇帝が儒者を穴埋めにして経書を焼き捨て、韓非らの学説を参考にした法治主義社会を
秦帝国全土で実現しようとしたのも、自らの放辟邪侈が際限なく実現された上で、なおのこと
最低限には世の中を保っていけるようにしようとしたからだった。漢や唐の諸帝などは、そもそも
自分たちばかりが虚栄を謳歌したりする気もなかったから、儒学を主体とした統治をも実現して
行けたわけで、どこかで誰かが際限のない栄華の貪りを続けて行きたがっているのでもなければ、
法治主義などという最低レベルの統治理念を絶対化したりする必要もどこにもありはしないのである。
世の中が分断されてしまうのが乱世というものであり、資本主義や法治主義、そして
「現象的な自由主義」が是とされてしまっているような世の中においてこそ、その傾向も顕著となる。
禅僧が正法の護持や厳しい修行と引き換えに手に入れるような精神的な自由とは真逆の、
とにかく行為能力面でのなんでもありなやりたい放題でいる現象的な自由、その自由の象徴が
磔刑で死んでも生き返って天に召されるとする架空の現人神であるとされるのも、むべなる
ことと言えなくもない。そんな生き物は実在しないにしたって、仮にあるとしたなら、
現象的自由の象徴と見なす上でこれほど相応しい代物も他にないといえる。
それでまあ、そのような邪神を信じるにしろ信じないにしろ、よくいえば現象的自由、
悪くいえば「放辟邪侈」という傾向を是とするような事態において、最低限の治安維持目的での
法治主義もまたその重要性を帯びて来る。放辟邪侈など始めからあるべきでないとするのが
仁義道徳であるわけだから、放辟邪侈の是認と同時に徳治主義はその立場を追われてしまう。
その後に、放辟邪侈を許容する範囲での治安維持システムとしての法治社会が敷かれるわけである。
始皇帝が儒者を穴埋めにして経書を焼き捨て、韓非らの学説を参考にした法治主義社会を
秦帝国全土で実現しようとしたのも、自らの放辟邪侈が際限なく実現された上で、なおのこと
最低限には世の中を保っていけるようにしようとしたからだった。漢や唐の諸帝などは、そもそも
自分たちばかりが虚栄を謳歌したりする気もなかったから、儒学を主体とした統治をも実現して
行けたわけで、どこかで誰かが際限のない栄華の貪りを続けて行きたがっているのでもなければ、
法治主義などという最低レベルの統治理念を絶対化したりする必要もどこにもありはしないのである。
(現象的な)自由の名の下での放辟邪侈の貪りと、実定法での最低限の締め付けという乱世の両輪を、
放辟邪侈の戒めと、精神的な自由の追求という両輪に取り替えていった時にこそ、治世もまた実現される。
ただ放辟邪侈を戒めるだけでは堅苦しく、徳治を心から楽しめるような君子もその数は限られている。
だからそこにすら止まることなく、正法を守っての精進に励む中でこそ手に入れられる心の底
からの自由というものを、国や世界を挙げて賛美して行けるようにもなればいいのである。
歴史を遡ってみるなら、江戸時代までの日本の歴史はまさにそのような、善良な両輪統治の牙城であった。
平安時代までは、徳治以上にも人々の精進による治世の実現が顕著であったし、鎌倉時代以降も、
武力の嵩にかかっての徳治への依存度が高まりはしたものの、それでもなお禅寺などでの精進修行が
活発であった。中には剣禅一如の高尚な理念を湛えた武術などまでもが考案されることもあったわけで、
徹底して、放辟邪侈と法治主義の両輪で治世が踏み潰されるようなことだけは避けられ続けていたのだった。
キリスト教も「韓非子」も、中世には日本に流入していたが、いずれも日本人の意志によってその
受容が拒まれた。幕末以降に外圧によって強制的にそれらに相当するものを取り入れられさせられたが、
そのせいで日本は、純粋な日本文化を発展させて行くことを完全に途絶させられることとなってしまった。
日本文化といえばすなわち伝統文化であり、今に生きるものとして扱われることはほとんどなくなった。
それはそれで潔いことであり、徳治と精進の両輪による統治が取り戻されるのでもない限りはもう、
日本文化が現代的なものとし取り戻されることもないのだということを、誰しもが思い直すべきだといえる。
旧態依然としているからではなく、法治や放辟邪侈なんざと日本文化が相容れるようなことがあり得ない
からこそ日本文化も停滞したままでいることしかできないだけなのだと考えるべきであり、今よりよりよい
世の中でこそ日本文化もまたその息を吹き返して行くのだと、誰しもがわきまえておくべきなのである。
放辟邪侈の戒めと、精神的な自由の追求という両輪に取り替えていった時にこそ、治世もまた実現される。
ただ放辟邪侈を戒めるだけでは堅苦しく、徳治を心から楽しめるような君子もその数は限られている。
だからそこにすら止まることなく、正法を守っての精進に励む中でこそ手に入れられる心の底
からの自由というものを、国や世界を挙げて賛美して行けるようにもなればいいのである。
歴史を遡ってみるなら、江戸時代までの日本の歴史はまさにそのような、善良な両輪統治の牙城であった。
平安時代までは、徳治以上にも人々の精進による治世の実現が顕著であったし、鎌倉時代以降も、
武力の嵩にかかっての徳治への依存度が高まりはしたものの、それでもなお禅寺などでの精進修行が
活発であった。中には剣禅一如の高尚な理念を湛えた武術などまでもが考案されることもあったわけで、
徹底して、放辟邪侈と法治主義の両輪で治世が踏み潰されるようなことだけは避けられ続けていたのだった。
キリスト教も「韓非子」も、中世には日本に流入していたが、いずれも日本人の意志によってその
受容が拒まれた。幕末以降に外圧によって強制的にそれらに相当するものを取り入れられさせられたが、
そのせいで日本は、純粋な日本文化を発展させて行くことを完全に途絶させられることとなってしまった。
日本文化といえばすなわち伝統文化であり、今に生きるものとして扱われることはほとんどなくなった。
それはそれで潔いことであり、徳治と精進の両輪による統治が取り戻されるのでもない限りはもう、
日本文化が現代的なものとし取り戻されることもないのだということを、誰しもが思い直すべきだといえる。
旧態依然としているからではなく、法治や放辟邪侈なんざと日本文化が相容れるようなことがあり得ない
からこそ日本文化も停滞したままでいることしかできないだけなのだと考えるべきであり、今よりよりよい
世の中でこそ日本文化もまたその息を吹き返して行くのだと、誰しもがわきまえておくべきなのである。
「鳥其の巣を焚かる。旅人先に笑いて後に號き咷ぶ。牛を易に喪う、凶なり。
旅を以って上に在り、其の義や焚かるるなり。牛を易に喪うは、終に之れを聞くこと莫きなり」
「渡り鳥がその巣を焼かれるようにして、よそ者風情で目上ぶっていた遠征者もまた、始めのうちは
せせら笑っていた所で、道義に即して、最終的には泣き叫ぶような事態に陥る。国境付近で牛のような
大切な財産を失うが、そのことに気づきもしないままに終わる。凶である。(旧約の律法からして西洋
に遠征して金科玉条化されたものだし、そのような遠征先で偉ぶる姿勢にあやかって、キリスト教徒
もまた植民地などでの偉ぶり放題でいたのである。その末路は以上の如くであると易は予言しているが、
いま日本株の暴騰で儲けていてる西洋の投資家が、タックスヘイブン地域への不正送金を摘発されて
通帳課税を被ったりしていることが、『国境付近で牛を失う』という予言とも一致しているといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・旅・上九-象伝より)
旅を以って上に在り、其の義や焚かるるなり。牛を易に喪うは、終に之れを聞くこと莫きなり」
「渡り鳥がその巣を焼かれるようにして、よそ者風情で目上ぶっていた遠征者もまた、始めのうちは
せせら笑っていた所で、道義に即して、最終的には泣き叫ぶような事態に陥る。国境付近で牛のような
大切な財産を失うが、そのことに気づきもしないままに終わる。凶である。(旧約の律法からして西洋
に遠征して金科玉条化されたものだし、そのような遠征先で偉ぶる姿勢にあやかって、キリスト教徒
もまた植民地などでの偉ぶり放題でいたのである。その末路は以上の如くであると易は予言しているが、
いま日本株の暴騰で儲けていてる西洋の投資家が、タックスヘイブン地域への不正送金を摘発されて
通帳課税を被ったりしていることが、『国境付近で牛を失う』という予言とも一致しているといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・旅・上九-象伝より)
「寵を啓きて侮りを納るること無かれ、過ちを恥じて非を作す無かれ」
「ろくでもないような人間にまで博愛を及ぼしておごり高ぶらせた挙げ句に
侮られるような辱めを受けてはならぬ。そのような過ちこそを恥じて予防
するように。(侮りや辱めの寛容など、それ自体が過ちでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説命中より)
本物の人類史上最古の古典(聖典)である「易経」もまた、
天地否や火水未済のような粗悪な事態というものをあえて提示している。
5000年前の伏羲氏や神農氏による六十四卦の発見によって、
この世界この宇宙において発生し得る全ての現象の概括的な把捉は
完遂された。その内には残念ながら、小人が力を付けて君子を圧倒する
ような事態も含まれている。それはそれであり得ざるを得ないものだから、
一応は提示した上で、そこでの善処法もまた併記されることとなったのだ。
しかるに、生粋の小人は、易によってこの世界この宇宙の全ての現象法則が
把捉されているということを肯うこともなく、自分たちにとっては都合が
いいような粗悪な状況というものの呼び込みに執心し続ける。それは、
易が提示されたからといって企てられていることなどではない。生々流転の
易の法則を認めもしないでいるからこその愚行であるわけだから、万事万物を
把捉する中で粗悪な事態も併記するということが、愚人の妄動の深刻化に
与するなどということは決してないということまでもがいえるのである。
小人の妄動を深刻化させることに、合法的な立場から与している最大級の
存在は、それこそ「犯罪マニュアル」も同然な実定法あたりでこそある。
人々に罪を犯すヒントを与えるのみならず、絶対化された成文法によって、
この世界この宇宙に遍在する普遍法則を人々に見失わせることにすら
一役も二役も買っているのだから。(ここまでは既出の書き込み)
「ろくでもないような人間にまで博愛を及ぼしておごり高ぶらせた挙げ句に
侮られるような辱めを受けてはならぬ。そのような過ちこそを恥じて予防
するように。(侮りや辱めの寛容など、それ自体が過ちでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説命中より)
本物の人類史上最古の古典(聖典)である「易経」もまた、
天地否や火水未済のような粗悪な事態というものをあえて提示している。
5000年前の伏羲氏や神農氏による六十四卦の発見によって、
この世界この宇宙において発生し得る全ての現象の概括的な把捉は
完遂された。その内には残念ながら、小人が力を付けて君子を圧倒する
ような事態も含まれている。それはそれであり得ざるを得ないものだから、
一応は提示した上で、そこでの善処法もまた併記されることとなったのだ。
しかるに、生粋の小人は、易によってこの世界この宇宙の全ての現象法則が
把捉されているということを肯うこともなく、自分たちにとっては都合が
いいような粗悪な状況というものの呼び込みに執心し続ける。それは、
易が提示されたからといって企てられていることなどではない。生々流転の
易の法則を認めもしないでいるからこその愚行であるわけだから、万事万物を
把捉する中で粗悪な事態も併記するということが、愚人の妄動の深刻化に
与するなどということは決してないということまでもがいえるのである。
小人の妄動を深刻化させることに、合法的な立場から与している最大級の
存在は、それこそ「犯罪マニュアル」も同然な実定法あたりでこそある。
人々に罪を犯すヒントを与えるのみならず、絶対化された成文法によって、
この世界この宇宙に遍在する普遍法則を人々に見失わせることにすら
一役も二役も買っているのだから。(ここまでは既出の書き込み)
易学は、より積極的な善行の指針となる一方、実定法は、悪逆非道の放辟邪侈
に対する最低限(とされる)の歯止めとなる。故にこそ、法治主義者などは、
実定法のほうがより切実な存在意義を帯びているなどと思い込むわけだが、
そもそも実定法の存在自体が人々の悪行の推進にまで与していることからは
一向に目を背けたままでいる。積極的な善行を為す主体とも悪行を為す主体とも
ならないのが法律であるが故に、法律家こそは中立的存在であるとするわけ
だけれども、実際のところ、絶対化された法律はただそれだけでも悪に味方する
ものであり、易経における「君子」ほどにも積極的に善を為して行くのでも
ない限りは、悪との結託を払拭できるようなことも決してありはしないのである。
積極的に君子たらんとするための活動が、時に言論活動であることもある。
春秋時代の乱世に、学論活動で名を成した孔子もまた、そのうちに当たる。
「君子は放逐され、小人は権力を得る」という天地否の卦辞にまさに的中する
乱世において、君子であるが故に権力者としての大成も覚束なかったものだから、
仕方なく学問によって身を興した(多少は権力者としての活動も行ったが)。
だからといって非難されるべき理由などはどこにもない。孟子のように、
完全な隠遁を決め込んだ伯夷以上にも孔子のあり方(学説ではなく)を
評価するものもいて、しかもその根拠も相応な理に適ったものとなっている。
悪逆非道が繰り返されている中での沈黙なぞは、それこそ従犯にすらなりかねない。
自らが従犯としての嫌疑を免れられるための正言ぐらいはむしろあるべきですらある。
その姿が無力であるが故に哀れであるなどと思われた所で、そこでこそ自らの
最善が尽くされているわけだから、上から目線の沈黙者など以上にも、
マシな将来というものが期待されることもあるのである。
に対する最低限(とされる)の歯止めとなる。故にこそ、法治主義者などは、
実定法のほうがより切実な存在意義を帯びているなどと思い込むわけだが、
そもそも実定法の存在自体が人々の悪行の推進にまで与していることからは
一向に目を背けたままでいる。積極的な善行を為す主体とも悪行を為す主体とも
ならないのが法律であるが故に、法律家こそは中立的存在であるとするわけ
だけれども、実際のところ、絶対化された法律はただそれだけでも悪に味方する
ものであり、易経における「君子」ほどにも積極的に善を為して行くのでも
ない限りは、悪との結託を払拭できるようなことも決してありはしないのである。
積極的に君子たらんとするための活動が、時に言論活動であることもある。
春秋時代の乱世に、学論活動で名を成した孔子もまた、そのうちに当たる。
「君子は放逐され、小人は権力を得る」という天地否の卦辞にまさに的中する
乱世において、君子であるが故に権力者としての大成も覚束なかったものだから、
仕方なく学問によって身を興した(多少は権力者としての活動も行ったが)。
だからといって非難されるべき理由などはどこにもない。孟子のように、
完全な隠遁を決め込んだ伯夷以上にも孔子のあり方(学説ではなく)を
評価するものもいて、しかもその根拠も相応な理に適ったものとなっている。
悪逆非道が繰り返されている中での沈黙なぞは、それこそ従犯にすらなりかねない。
自らが従犯としての嫌疑を免れられるための正言ぐらいはむしろあるべきですらある。
その姿が無力であるが故に哀れであるなどと思われた所で、そこでこそ自らの
最善が尽くされているわけだから、上から目線の沈黙者など以上にも、
マシな将来というものが期待されることもあるのである。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。

続けて来たものだから、洋学者も自らの知識をなるべく象牙の塔にしまい込んでいようとする。
数理科学上の計算式なども、本当はもっと分かりやすく表現できるようなものまで
わざと難しく表現することで、それを理解するもの同士での閉鎖的な派閥を形成したりする。
(全く同じ分野を取り扱っている数学の教科書が、高偏差値の大学向けと低偏差値の
大学向けで極端に記述方式の相違があり、そのせいで難易度にも大差が開けていたりする)
別に難解な記述を理解できる秀才同士でなくたって、本当は分かりやすく理解できるような
知識であったりするものだから、頭は良くなくても金持ちであるような相手に対してだけは
学識を分かりやすく説明して、研究費の支援を受けたりすることもある。そのような
談合のための集会が毎週水曜日にイギリスで開かれているとは清朝末帝自伝「わが半生」の
第三章・五でも記録されていて、そこでこそ、世界を自分たちの都合で身勝手にかき回し、
人類を滅亡の危機に陥れるほどもの破滅を招く我田引水の密談が行われているのでもある。
東洋でも、「秘すれば花」とされる類いの知識というものは存在する。密教や神道に
おける密儀だとか、武道や兵法における秘伝だとかがそれであり、これらは六道十界で
いう所の天道や修羅道に相当するものである。一方で、公けに啓発すればするほど好ましい
知識というものもまたあって、それこそはここで引用を続けてもいる、儒学上の学説
だったりする。これは完璧に人道を司っている知識であり、天下の泰平を表向きから画策
して行くためのものであるから、学者や有力者ばかりで寡占していればそれでいいなどと
いうこともない。寺子屋で坊主が百姓や町人の子供に到るまでの教化に務めてやるぐらい
であってこそ、その効能を如実かつ健全に発揮して行くものとなっているのである。
儒学は人道に相当する一方で、洋学は餓鬼道に相当する。知識の質の良悪とも関係なく、
ただただ節操もなく知識を貪って飢えを紛らわそうとすることを本旨とする。知識の良質化
を全く疎かにしているものだから、粗悪さをひた隠すために、誰にでも知識を分かりやすく
教えてやるようなこともしないし、また粗悪な知識でもあるからこそ、いくらそのような
知識を貪っても精神が充足して飢えが満たされるようなことがないままでいてしまうのである。
六道の三善道(天道、人道、修羅道)と三悪道(畜生道、餓鬼道、地獄道)を対照すれば、
天道は畜生道に、人道は餓鬼道に、修羅道は地獄道に相当する。天道が道を踏み外せば
畜生道に、人道が道を踏み外せば餓鬼道に、修羅道が道を踏み外せば地獄道に劣化するのであり、
人道の場合、知識のくそみそ化や寡占を通じることで餓鬼道へと劣化する。天道は、万物斉同
のコトワリを見失っての一方的な私利私益の貪りに及んでしまったら畜生道に劣化するし、
修羅道は、暴力行使者としての最低限の道義すら見失ってしまった時に地獄道へと劣化する。
人道はもっぱら公けにすべき知識の研鑽に終始するし、天道や修羅道も公開すべき知識と
秘密にしておくべき知識の折衷となっている。一方で、餓鬼道、畜生道、修羅道の三つは、
いずれも知識の寡占や秘匿ばかりを本旨としていて、万人に広く理解されるべき知識と
いうものを持たない。犯罪聖書の記述も「ただ信じろ」というばかりのものであり、
その意味を知って深く理解すべき知識扱いされているわけでもない。(そんな扱いを
受ければ、あまりにも粗悪な邪教であることが一瞬でばれてしまうことにもなる)
全ての知識を完全に公けに晒け出すべきだという所までは決して行かないが、
最低限これぐらいは天下万人に広く知らしめておくべきだという知識も少なからずある。
四書五経に代表される「人道の書」、儒書の知識などはまさにそれであり、知識の流布すなわち
愚行であるなどという物言いを失礼極まりないものと断定するに値する証拠となっている。
ただただ節操もなく知識を貪って飢えを紛らわそうとすることを本旨とする。知識の良質化
を全く疎かにしているものだから、粗悪さをひた隠すために、誰にでも知識を分かりやすく
教えてやるようなこともしないし、また粗悪な知識でもあるからこそ、いくらそのような
知識を貪っても精神が充足して飢えが満たされるようなことがないままでいてしまうのである。
六道の三善道(天道、人道、修羅道)と三悪道(畜生道、餓鬼道、地獄道)を対照すれば、
天道は畜生道に、人道は餓鬼道に、修羅道は地獄道に相当する。天道が道を踏み外せば
畜生道に、人道が道を踏み外せば餓鬼道に、修羅道が道を踏み外せば地獄道に劣化するのであり、
人道の場合、知識のくそみそ化や寡占を通じることで餓鬼道へと劣化する。天道は、万物斉同
のコトワリを見失っての一方的な私利私益の貪りに及んでしまったら畜生道に劣化するし、
修羅道は、暴力行使者としての最低限の道義すら見失ってしまった時に地獄道へと劣化する。
人道はもっぱら公けにすべき知識の研鑽に終始するし、天道や修羅道も公開すべき知識と
秘密にしておくべき知識の折衷となっている。一方で、餓鬼道、畜生道、修羅道の三つは、
いずれも知識の寡占や秘匿ばかりを本旨としていて、万人に広く理解されるべき知識と
いうものを持たない。犯罪聖書の記述も「ただ信じろ」というばかりのものであり、
その意味を知って深く理解すべき知識扱いされているわけでもない。(そんな扱いを
受ければ、あまりにも粗悪な邪教であることが一瞬でばれてしまうことにもなる)
全ての知識を完全に公けに晒け出すべきだという所までは決して行かないが、
最低限これぐらいは天下万人に広く知らしめておくべきだという知識も少なからずある。
四書五経に代表される「人道の書」、儒書の知識などはまさにそれであり、知識の流布すなわち
愚行であるなどという物言いを失礼極まりないものと断定するに値する証拠となっている。
儒学の知識以外でも、護身術的技法に特化している合気道の技術なども、
武術を取り扱っている割りには、万人への流布が推奨できるものとなっている。
本来の伝統武術はもっと殺人術としての秘伝的技法を多数持ち合わせているものであり、
それを抜きにしているのが合気道であるものだから、合気道だけを習ったからといって
常人が最強の武術家になれるようなこともまずあり得ないわけだけれども、それでも
護身術や健康法、そして身心の壮快な扱いを体得できる程度の価値は持ち合わせて
いるわけだから、万人にすら広めて行くことが奨められもするのである。
神道だって、神話上の難解な秘儀まで理解できなくとも、祖先への崇拝なども
兼ねつつ神社への参詣などを欠かさないでいれば、それだけでも好ましいことである。
人道の知識を公けにすべきなのはもちろんのこと、天道や修羅道にすら、万人へと
広く教え広めて行くに値するような要素が、少なからずあるのである。
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人も(その言葉どころか)
その身から隠してしまう。(賢人が隠し隠れるような事態からして劣悪なものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
武術を取り扱っている割りには、万人への流布が推奨できるものとなっている。
本来の伝統武術はもっと殺人術としての秘伝的技法を多数持ち合わせているものであり、
それを抜きにしているのが合気道であるものだから、合気道だけを習ったからといって
常人が最強の武術家になれるようなこともまずあり得ないわけだけれども、それでも
護身術や健康法、そして身心の壮快な扱いを体得できる程度の価値は持ち合わせて
いるわけだから、万人にすら広めて行くことが奨められもするのである。
神道だって、神話上の難解な秘儀まで理解できなくとも、祖先への崇拝なども
兼ねつつ神社への参詣などを欠かさないでいれば、それだけでも好ましいことである。
人道の知識を公けにすべきなのはもちろんのこと、天道や修羅道にすら、万人へと
広く教え広めて行くに値するような要素が、少なからずあるのである。
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人も(その言葉どころか)
その身から隠してしまう。(賢人が隠し隠れるような事態からして劣悪なものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
焚書の歴史からして、残ってるのが必ずしもありがたいわけではないと思う。
始皇帝に焼き捨てられた経書の内に、
よりよい内容のものがあったりしたかも知れないわな。
日本の神道文化も、春秋戦国時代に廃絶を免れるために中国から避難して来た
礼楽文化がその多くを占めていて、そこでこそ、夫婦別姓や夫婦別室を原則とする
今の儒家教学に基づく場合以上にも磐石な夫唱婦随を実現できる秘訣が承け伝えられてもいるのだから。
ただ、それこそ乱世での保全なども覚束ない繊細極まる秘儀だったわけでな。
なかなか大っぴらに触れ回れもしないような文化から、
古代の中国でも廃れて行ったはずで、そういう経緯もある以上は、
四書五経あたりが究極の顕教的儒家教学でもあったのだろうと推察できるわけだ。
よりよい内容のものがあったりしたかも知れないわな。
日本の神道文化も、春秋戦国時代に廃絶を免れるために中国から避難して来た
礼楽文化がその多くを占めていて、そこでこそ、夫婦別姓や夫婦別室を原則とする
今の儒家教学に基づく場合以上にも磐石な夫唱婦随を実現できる秘訣が承け伝えられてもいるのだから。
ただ、それこそ乱世での保全なども覚束ない繊細極まる秘儀だったわけでな。
なかなか大っぴらに触れ回れもしないような文化から、
古代の中国でも廃れて行ったはずで、そういう経緯もある以上は、
四書五経あたりが究極の顕教的儒家教学でもあったのだろうと推察できるわけだ。
先祖の神に代表される、真っ当な神仏への帰依を拠り所として励んで行く
ことのできる仕事などというのも、限られている。働き手の夫が一度給料を
神棚や仏壇に捧げてから、それを家計係の妻が頂くようにすることのできるような
仕事というのも限られているから、そのような仕事が激減してしまった今、
人びとの正統な神仏への帰依も軒並み興ざめとなってしまっているのである。
邪悪な神が邪神たる所以は、何といっても、まともな神仏には到底顔向けできなく
なるような邪まな行いの正当化の拠り所にすらなる点にこそある。それこそ、
何らの拠り所も持つことなく悪行を為して行く場合以上もの悪行の推進を可能と
するのであり、それほどもの悪逆非道に邁進している中で、急激に邪信だけを失ったり
したなら、極度の虚無感にかられて自殺衝動を引き起こしたりもしてしまうのである。
そのため、邪神を拠り所としての行業を為すことに慣れてしまっているような
人間こそは、特定して禁治産の対象としなければならないような事態が生じてしまいもする。
当然、邪神への帰依を捨て去るに越したことはないわけだけれども、車が急には止まれない
ようにして、邪信もまた急には棄てきれなかったりする、すると邪信を拠り所としての
社会的な悪行を十分に食い止められるとも知れなくなるから、そのような人間に対して、
行いの面からの制限が必要となるような事態が生じてしまいもするのである。
邪信に即して仕事をしたりするよりは、まだ何も信じることなく働くことのほうが
マシであったりするわけだけれども、それはそれで心もとないものであったりもする。
自力作善の聖道門の仏教などは、信仰依存的な心象を脱却することを本旨としている
わけだけれども、それは、在家の立場からすらなかなか帰依しがたいものであるから、
仏教が興隆していた江戸時代までの日本においてですら、武家や公家などの限られた
身分の人間が禅や密教などの本格の聖道門に帰依し、大半の人間は浄土信仰や
弘法大師信仰や日蓮信仰などの信仰主義的な仏門に帰依するに止まっていたのである。
ことのできる仕事などというのも、限られている。働き手の夫が一度給料を
神棚や仏壇に捧げてから、それを家計係の妻が頂くようにすることのできるような
仕事というのも限られているから、そのような仕事が激減してしまった今、
人びとの正統な神仏への帰依も軒並み興ざめとなってしまっているのである。
邪悪な神が邪神たる所以は、何といっても、まともな神仏には到底顔向けできなく
なるような邪まな行いの正当化の拠り所にすらなる点にこそある。それこそ、
何らの拠り所も持つことなく悪行を為して行く場合以上もの悪行の推進を可能と
するのであり、それほどもの悪逆非道に邁進している中で、急激に邪信だけを失ったり
したなら、極度の虚無感にかられて自殺衝動を引き起こしたりもしてしまうのである。
そのため、邪神を拠り所としての行業を為すことに慣れてしまっているような
人間こそは、特定して禁治産の対象としなければならないような事態が生じてしまいもする。
当然、邪神への帰依を捨て去るに越したことはないわけだけれども、車が急には止まれない
ようにして、邪信もまた急には棄てきれなかったりする、すると邪信を拠り所としての
社会的な悪行を十分に食い止められるとも知れなくなるから、そのような人間に対して、
行いの面からの制限が必要となるような事態が生じてしまいもするのである。
邪信に即して仕事をしたりするよりは、まだ何も信じることなく働くことのほうが
マシであったりするわけだけれども、それはそれで心もとないものであったりもする。
自力作善の聖道門の仏教などは、信仰依存的な心象を脱却することを本旨としている
わけだけれども、それは、在家の立場からすらなかなか帰依しがたいものであるから、
仏教が興隆していた江戸時代までの日本においてですら、武家や公家などの限られた
身分の人間が禅や密教などの本格の聖道門に帰依し、大半の人間は浄土信仰や
弘法大師信仰や日蓮信仰などの信仰主義的な仏門に帰依するに止まっていたのである。
近代以降の資本主義なども、実際にはキリスト信仰やユダヤ信仰のごとき邪神信仰が
主導的な立場にありつつ推進されて来たものだから、そのような信仰を禁止するなり、
邪信依存を棄てきれない人間を禁治産にするなりの措置を講じたとしすれば、そこには
ポッカリと空隙が生まれてしまうこととなる。それを聖道門帰依を含む無信仰ばかり
によって埋め合わせるのも無理があるから、結局は、旧態依然としているようにすら
思われかねないような祖神信仰などを復興して行くようにもしなければならないのである。
「神仏への帰依だの祖先の崇拝だのは、時代遅れもいいとこだ」などと考えている
ような人間こそは現代文明におんぶにだっこでもいて、じつはその現代文明こそは
ろくでもない邪神信仰こそを拠り所として発展して来てもいる。しかればこそ、その
邪教が潰えて後にはそのような人間こそが、特に正統な神仏への帰依を必須とする
ようになるにも違いない。そのような人間こそは、何物かに依存しないことには
やっていられないような本性を潜在面から持ち越したままでもいるのだから。
「布縷の征、粟米の征、力役の征有り。君子は其の一を用い、
其の二を緩くす。其の二を用いれば民に殍有り、其の三を用いれば父子も離る」
「およそ民に義務付ける必要のある労働には、織物の生産と糧食の生産、それに
本人たち自身の軍役がある。君子は必ずこのうちの一つの労働だけを民に課し、その間は
他二つの労働を免除する。二つを同時にやらせようとすると餓死するものが現れるし、
三つを同時に課すと一家が離散するようにすらなってしまうからだ。(君子はただ
労働をさせっぱなしにするのではなく、適切な労働のみを調整して民に斡旋するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二七より)
主導的な立場にありつつ推進されて来たものだから、そのような信仰を禁止するなり、
邪信依存を棄てきれない人間を禁治産にするなりの措置を講じたとしすれば、そこには
ポッカリと空隙が生まれてしまうこととなる。それを聖道門帰依を含む無信仰ばかり
によって埋め合わせるのも無理があるから、結局は、旧態依然としているようにすら
思われかねないような祖神信仰などを復興して行くようにもしなければならないのである。
「神仏への帰依だの祖先の崇拝だのは、時代遅れもいいとこだ」などと考えている
ような人間こそは現代文明におんぶにだっこでもいて、じつはその現代文明こそは
ろくでもない邪神信仰こそを拠り所として発展して来てもいる。しかればこそ、その
邪教が潰えて後にはそのような人間こそが、特に正統な神仏への帰依を必須とする
ようになるにも違いない。そのような人間こそは、何物かに依存しないことには
やっていられないような本性を潜在面から持ち越したままでもいるのだから。
「布縷の征、粟米の征、力役の征有り。君子は其の一を用い、
其の二を緩くす。其の二を用いれば民に殍有り、其の三を用いれば父子も離る」
「およそ民に義務付ける必要のある労働には、織物の生産と糧食の生産、それに
本人たち自身の軍役がある。君子は必ずこのうちの一つの労働だけを民に課し、その間は
他二つの労働を免除する。二つを同時にやらせようとすると餓死するものが現れるし、
三つを同時に課すと一家が離散するようにすらなってしまうからだ。(君子はただ
労働をさせっぱなしにするのではなく、適切な労働のみを調整して民に斡旋するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二七より)
真正聖書四書五経の記述と、犯罪聖書新旧約聖書の記述は、
明らかに相反しているものと、多少似ているように思われるものの両方がある。
たとえば、
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人もその身から隠してしまう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
「利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす」
(権力犯罪聖書——通称聖書——失言・12:23)
上の二つの引用などはかなり似ているけれども、片やその身から隠して誰への協力も
拒むのに対し、片や知識だけを象牙の塔に隠し込んで我田引水のために悪用する
ような含みを残しているといった違いがある。これは、真善に務めるものと、
見てくれだけはよさげな偽善を働こうとするものとの違いだといえる。一方、
「傲りは長ずべからず。欲はほしいままにすべからず」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上一より)
「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書・21:22)
この二つの記述などは明らかに相反している。これは、やはり一貫して真善を追い求めて
いるものと、もはや偽善すら取り払っての悪逆に及ぼうとしているものとの違いだといえる。
明らかに相反しているものと、多少似ているように思われるものの両方がある。
たとえば、
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人もその身から隠してしまう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
「利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす」
(権力犯罪聖書——通称聖書——失言・12:23)
上の二つの引用などはかなり似ているけれども、片やその身から隠して誰への協力も
拒むのに対し、片や知識だけを象牙の塔に隠し込んで我田引水のために悪用する
ような含みを残しているといった違いがある。これは、真善に務めるものと、
見てくれだけはよさげな偽善を働こうとするものとの違いだといえる。一方、
「傲りは長ずべからず。欲はほしいままにすべからず」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上一より)
「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書・21:22)
この二つの記述などは明らかに相反している。これは、やはり一貫して真善を追い求めて
いるものと、もはや偽善すら取り払っての悪逆に及ぼうとしているものとの違いだといえる。
多少聞こえのいい偽善を駆使して道義を騙るのと、完全に悪逆非道でいながら人びとの
欲望を触発するようなけしかけに興じるのとの二枚舌が、新旧約の作風だといえる。
あえてそうしたというよりは、自分自身がそのような劣悪な言動規範に染まりきって
しまっている作者が、ただ自論を記録した結果、自然とそうなったのだろうと推測される。
だから、その含意まで深く理解せずとも、新旧約をただ好き好んで読み込むことでその
発言姿勢にあやかるだけでも、邪悪な思考規範や言動規範が身に付いてしまうのである。
偽善を駆使した言行にしろ、悪逆非道のほしいままでいる言行にしろ、首尾一貫して本物の
善徳と共にあろうとする言行とは食い違うことには変わりない。だからこそ、悪と偽善が
本質的には五十歩百歩な代物でしかないことまでもが分かるわけだが、本物の善徳など
露ほどにも知らない人間からすれば、両者には大きな開きがあるようにも思われる。
偽善でもそれなりの価値があるなどと思い込み、偽善の言葉もそれなりに書き連ね
られている犯罪聖書などにもそれなりの道義的価値があるかのように思われたりする。
そのような過ちをも犯しかねないから、本物の善徳というものをよく学んでおく必要がある。
それだけを見ればあまりにも当たり前な教条ばかりであるものだから、大して勉強意欲も
わかなかったりするような四書五経の記述などを、偽善の有害無益さを見破るための
道具とするためにこそ、よく学びその理解を深めておくべきなのである。
一貫して真善を堅持する四書五経の記述と、偽善含みであるような犯罪聖書の記述との
微妙かつ決定的な違いまでをも納得ずくで判別できるようになったならば、本物の善徳に
対する理解も相当なものとなっているに違いない。それぐらいであれば、もはや善徳を
平易すぎるものとしておざなりにしようなどという気持ちも起こらないであろう。
それを蔑ろにしてまでの偽善や悪逆に走ることが、いかに浅ましく愚かしいことで
あるのかをも、すでに実感を持って計り知れるようになっているに違いないから。
欲望を触発するようなけしかけに興じるのとの二枚舌が、新旧約の作風だといえる。
あえてそうしたというよりは、自分自身がそのような劣悪な言動規範に染まりきって
しまっている作者が、ただ自論を記録した結果、自然とそうなったのだろうと推測される。
だから、その含意まで深く理解せずとも、新旧約をただ好き好んで読み込むことでその
発言姿勢にあやかるだけでも、邪悪な思考規範や言動規範が身に付いてしまうのである。
偽善を駆使した言行にしろ、悪逆非道のほしいままでいる言行にしろ、首尾一貫して本物の
善徳と共にあろうとする言行とは食い違うことには変わりない。だからこそ、悪と偽善が
本質的には五十歩百歩な代物でしかないことまでもが分かるわけだが、本物の善徳など
露ほどにも知らない人間からすれば、両者には大きな開きがあるようにも思われる。
偽善でもそれなりの価値があるなどと思い込み、偽善の言葉もそれなりに書き連ね
られている犯罪聖書などにもそれなりの道義的価値があるかのように思われたりする。
そのような過ちをも犯しかねないから、本物の善徳というものをよく学んでおく必要がある。
それだけを見ればあまりにも当たり前な教条ばかりであるものだから、大して勉強意欲も
わかなかったりするような四書五経の記述などを、偽善の有害無益さを見破るための
道具とするためにこそ、よく学びその理解を深めておくべきなのである。
一貫して真善を堅持する四書五経の記述と、偽善含みであるような犯罪聖書の記述との
微妙かつ決定的な違いまでをも納得ずくで判別できるようになったならば、本物の善徳に
対する理解も相当なものとなっているに違いない。それぐらいであれば、もはや善徳を
平易すぎるものとしておざなりにしようなどという気持ちも起こらないであろう。
それを蔑ろにしてまでの偽善や悪逆に走ることが、いかに浅ましく愚かしいことで
あるのかをも、すでに実感を持って計り知れるようになっているに違いないから。
「民其の欲する所を求めずして之れを得、之れを信と謂う」
「(徳治者のはからいによって)民がわざわざ願い欲するまでもなく
必要とするものを得られている、そこにこそ本物の信というものがある。
(願い欲するものに対してのみ与えたりすることからしていやらしい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・経解第二十六より)
これもドンピシャリだな。
悪も偽善も撃退する真善の記述として。
「(徳治者のはからいによって)民がわざわざ願い欲するまでもなく
必要とするものを得られている、そこにこそ本物の信というものがある。
(願い欲するものに対してのみ与えたりすることからしていやらしい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・経解第二十六より)
これもドンピシャリだな。
悪も偽善も撃退する真善の記述として。
わざわざ説教がましくもしない、潜在的な側面から自らを守り養って来てくれたもの、
人の子たる人間にとって、その第一に当たるのは当然親である。中には説教好きな
親もいたりするが、だから感謝せねばならないというよりは、自分が物心も付かないような
頃から養って来てくれた相手であればこそ尊ばねばならないという面のほうが大きい。
儒家も父母への尊重や孝養を奨励しておきながら、同時に親が子を無闇に偏愛したり、
直接的な教育を心がけたりすることを忌んでもいる(「論語」や「孟子」を参照)。
それは結局、>>315の「礼記」の記述のような、自らの自意識を超えた所から施される恩恵をより
偉大なものとする哲理にこそ根差した志向性であるのであり、直接的かつ自覚的な言葉や施し
ばかりで全てが賄われているわけではない物事の本質を捉えていればこその処断なのである。
親の子に対する養いに代表される、半ば無自覚的な領域からの施しこそが、仁政の基本的なあり方ともなる。
広報の限りを尽くしながら金をばらまいたりするような、いかにも恩着せがましい政策などが
仁政たり得るわけがない一方で、民たちがほとんど気づきもしないような内から実施されているような
政策による恩恵こそは、実は天下万人のより一層の磐石な繁栄を企図したものだったりする。
頑是ない幼児などと同じように、日々の仕事に追われて息つく暇もないような小人もまた、
全ての施しを察せるほどの理解力や視野の広さを持ち合わせているものではない。だからこそ、
施しに相応の感謝すら期待できないような陰徳の積み重ねこそは、真の仁政ともなるのである。
仁政を志すものたるや、巧言令色をついで程にたしなむことすら法度となる理由も、ここにこそある。
そもそもが、自分たちのより磐石な養われ方も知れないような小人に対して、人気取りを兼ねつつの
為政を試みたからといって、それで本人たちが充足するわけもない、のみならず、本当に民たちを
充足させるに値するだけの仁政のほうがそのせいで疎かになって、人気取りなんか全く兼ねて
いないような為政にすら及ばないような成果しか挙げられなくなってしまうのである。
人の子たる人間にとって、その第一に当たるのは当然親である。中には説教好きな
親もいたりするが、だから感謝せねばならないというよりは、自分が物心も付かないような
頃から養って来てくれた相手であればこそ尊ばねばならないという面のほうが大きい。
儒家も父母への尊重や孝養を奨励しておきながら、同時に親が子を無闇に偏愛したり、
直接的な教育を心がけたりすることを忌んでもいる(「論語」や「孟子」を参照)。
それは結局、>>315の「礼記」の記述のような、自らの自意識を超えた所から施される恩恵をより
偉大なものとする哲理にこそ根差した志向性であるのであり、直接的かつ自覚的な言葉や施し
ばかりで全てが賄われているわけではない物事の本質を捉えていればこその処断なのである。
親の子に対する養いに代表される、半ば無自覚的な領域からの施しこそが、仁政の基本的なあり方ともなる。
広報の限りを尽くしながら金をばらまいたりするような、いかにも恩着せがましい政策などが
仁政たり得るわけがない一方で、民たちがほとんど気づきもしないような内から実施されているような
政策による恩恵こそは、実は天下万人のより一層の磐石な繁栄を企図したものだったりする。
頑是ない幼児などと同じように、日々の仕事に追われて息つく暇もないような小人もまた、
全ての施しを察せるほどの理解力や視野の広さを持ち合わせているものではない。だからこそ、
施しに相応の感謝すら期待できないような陰徳の積み重ねこそは、真の仁政ともなるのである。
仁政を志すものたるや、巧言令色をついで程にたしなむことすら法度となる理由も、ここにこそある。
そもそもが、自分たちのより磐石な養われ方も知れないような小人に対して、人気取りを兼ねつつの
為政を試みたからといって、それで本人たちが充足するわけもない、のみならず、本当に民たちを
充足させるに値するだけの仁政のほうがそのせいで疎かになって、人気取りなんか全く兼ねて
いないような為政にすら及ばないような成果しか挙げられなくなってしまうのである。
民主主義社会も、結局は為政者が民たちの顔色をうかがうことばかりに終始してしまうものだから、
むしろ民のほうが為政者の顔色をうかがわねばならなかった武家社会ほどの安定が期待できることもない。
親が子にへりくだる家庭がうまくいかないのと同じようにして、為政者が民にへつらうような
世の中もうまくいかない。より大きなものが小さなものに妥協するよりは、小さなもののほうが
大きなものに付いて行こうとすることのほうが摂理にかなっているわけだから、そこで小さなほうが
大きなほうに妬みを抱いたりすることこそは「不良」と見なされて然るべきでもある。
民たちのやりたい放題を為政者が追従するような世の中なんてのは、学級崩壊を来したクラスもいいとこで、
対話によってそのような事態を収拾することにも限界がある。だから武士のような暴力による威圧によって
事態を収拾して行くのもまた一つの手だが、理想としては、民たちが気づきもしないでいるような所から乱れ
が収められて充足していることこそが最善である。それをわざわざ不能と化してしまっているのが民主制で
あるからこそ、最終的には無意識からの治世の実現を志す封建制以上にもいただけない所があるのである。
「静言なれども、庸いれば違う」
「言うことはよさげでも、実際には全く実現できない。
(救う救う言いながら、かえって人びとを破滅に追い込んでいるかの邪神のような)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・堯典より)
むしろ民のほうが為政者の顔色をうかがわねばならなかった武家社会ほどの安定が期待できることもない。
親が子にへりくだる家庭がうまくいかないのと同じようにして、為政者が民にへつらうような
世の中もうまくいかない。より大きなものが小さなものに妥協するよりは、小さなもののほうが
大きなものに付いて行こうとすることのほうが摂理にかなっているわけだから、そこで小さなほうが
大きなほうに妬みを抱いたりすることこそは「不良」と見なされて然るべきでもある。
民たちのやりたい放題を為政者が追従するような世の中なんてのは、学級崩壊を来したクラスもいいとこで、
対話によってそのような事態を収拾することにも限界がある。だから武士のような暴力による威圧によって
事態を収拾して行くのもまた一つの手だが、理想としては、民たちが気づきもしないでいるような所から乱れ
が収められて充足していることこそが最善である。それをわざわざ不能と化してしまっているのが民主制で
あるからこそ、最終的には無意識からの治世の実現を志す封建制以上にもいただけない所があるのである。
「静言なれども、庸いれば違う」
「言うことはよさげでも、実際には全く実現できない。
(救う救う言いながら、かえって人びとを破滅に追い込んでいるかの邪神のような)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・堯典より)
妾腹の私生児としての自暴自棄に駆られての邪言邪行を働いたものを信奉して
それに倣おうとするのなら、それはそのような「趣き」に導かれているのだといえる。
同様に妾腹の私生児でありながらも、着実な修身斉家によって不遇を克服して行った
偉人を尊んでそれに倣おうとするのなら、そこでもある種の「趣き」に導かれて行く
こととなるわけで、両者は180度逆方向へと導かれ行く、相反的な関係にあるといえる。
ただ、これらはある種の情念に駆られての一概な趣きであるという点では共通している。
不遇に苛まれての自暴自棄が深刻な情念に駆られているのはもちろんのこと、同様の
不遇を克服して自身と家の名誉を回復して行こうとする志しもまた、健全といえる
範囲の情念が伴っているといえる。それこそ「人情」というものであって、江戸時代の
日本などで、人びとが孝行を重んずることで育んでいた人情などとも共通するものである。
片や、忠孝の心意気にも根ざした健全な人情である一方、片や、畜生でも抱けるような
無軌道で粗悪な劣情であるという相違がありつつ、いずれも旺盛な情念の発露であるが
故に、片や善徳の気概、片や罪悪の気概として機能してしまうことともなるのである。
こういうことは、情念一般からの解脱を促す類いの思想信条にはないものである。
仏教にしろ道家にしろ、人情か劣情かに関わらず、情念一般を濁悪なものとして
忌み避けるものであるから、情念を気概としての一概な善悪への振り切れなどにも
与しないでいるものである。(純粋な智慧に根ざしての断悪修善などはあり得る)
だから、人情を重んずる儒学と、劣情への惑溺を促す聖書信仰のような決定的な相反に
直接関与したりすることもない。どのような形であれ、情念を活用しようとする類いの
教学こそは善や悪への振り切れを来たすものなのであり、そのような傾向を擁している
からこそ、儒学やイスラム教と聖書信仰が敵対することもまた避けることができない。
それに倣おうとするのなら、それはそのような「趣き」に導かれているのだといえる。
同様に妾腹の私生児でありながらも、着実な修身斉家によって不遇を克服して行った
偉人を尊んでそれに倣おうとするのなら、そこでもある種の「趣き」に導かれて行く
こととなるわけで、両者は180度逆方向へと導かれ行く、相反的な関係にあるといえる。
ただ、これらはある種の情念に駆られての一概な趣きであるという点では共通している。
不遇に苛まれての自暴自棄が深刻な情念に駆られているのはもちろんのこと、同様の
不遇を克服して自身と家の名誉を回復して行こうとする志しもまた、健全といえる
範囲の情念が伴っているといえる。それこそ「人情」というものであって、江戸時代の
日本などで、人びとが孝行を重んずることで育んでいた人情などとも共通するものである。
片や、忠孝の心意気にも根ざした健全な人情である一方、片や、畜生でも抱けるような
無軌道で粗悪な劣情であるという相違がありつつ、いずれも旺盛な情念の発露であるが
故に、片や善徳の気概、片や罪悪の気概として機能してしまうことともなるのである。
こういうことは、情念一般からの解脱を促す類いの思想信条にはないものである。
仏教にしろ道家にしろ、人情か劣情かに関わらず、情念一般を濁悪なものとして
忌み避けるものであるから、情念を気概としての一概な善悪への振り切れなどにも
与しないでいるものである。(純粋な智慧に根ざしての断悪修善などはあり得る)
だから、人情を重んずる儒学と、劣情への惑溺を促す聖書信仰のような決定的な相反に
直接関与したりすることもない。どのような形であれ、情念を活用しようとする類いの
教学こそは善や悪への振り切れを来たすものなのであり、そのような傾向を擁している
からこそ、儒学やイスラム教と聖書信仰が敵対することもまた避けることができない。
その点、アブラハム教は、同じ宗教だからといって、仏教や道教などを決して
味方に付けられるものでもない。聖書信者などの中に、宗教多元論などの名目で、
来るべき将来における最勝の教学となることが内定している仏教に対して、聖書信仰を
持ち越したままで擦り寄ろうとする者などがいるが、それは仏教にとっても迷惑な話で、
仏教の側に情念志向で儒学にも聖書信仰にも味方したり敵対したりする意向は全くない。
宗教という枠組みの絶対化によって、聖書信仰が特定して悪に与していた責任をも他の
宗教にまで連帯して負わせようなどとも企てられているようだが、イスラム教はともかく、
非アブラハム教にまでそのような連帯責任を負わせるのも全くの冤罪であるといえる。
情念の発露を金科玉条に掲げている宗教などはアブラハム教ばかりで、他の宗教は
むしろ、宗教という枠組みの元で情念を安んじることこそを主旨としている場合が
ほとんどなわけだから、ある種の情念を貪った挙げ句に悪逆非道をひた走ってしまった
責任を宗教一般に求めたりするのもまた、お門違いにも程があることになるわけである。
現状の信者人口は膨大な数に上るのであっても、そもそもが情念の発露などを教義に
掲げている宗教なんてもの自体が約三つのアブラハム教ばかりに限られているわけだから、
そのような宗教をあくまで異端の部類として取り扱うようにして、宗教を情念の発露
などではなく、「鎮魂」のための道具とすることを優先して行くのなら、宗教一般が
アブラハム教の不行跡のせいで存亡の危機に駆られたりすることもないのである。
むしろ、アブラハム教(主に聖書教)のせいで無益に肥大化させられてしまっている
現代人類の劣情が、仏教を始めとする、情念を鎮める類いの宗教によって鎮静化されて
いくべきですらあるのであり、それによってこそ、アブラハム教がこの世に甚大なる
災禍をもたらしてしまっているせいで評判をがた落ちさせている宗教一般の
汚名もまた、返上されて行くこととなるのである。
味方に付けられるものでもない。聖書信者などの中に、宗教多元論などの名目で、
来るべき将来における最勝の教学となることが内定している仏教に対して、聖書信仰を
持ち越したままで擦り寄ろうとする者などがいるが、それは仏教にとっても迷惑な話で、
仏教の側に情念志向で儒学にも聖書信仰にも味方したり敵対したりする意向は全くない。
宗教という枠組みの絶対化によって、聖書信仰が特定して悪に与していた責任をも他の
宗教にまで連帯して負わせようなどとも企てられているようだが、イスラム教はともかく、
非アブラハム教にまでそのような連帯責任を負わせるのも全くの冤罪であるといえる。
情念の発露を金科玉条に掲げている宗教などはアブラハム教ばかりで、他の宗教は
むしろ、宗教という枠組みの元で情念を安んじることこそを主旨としている場合が
ほとんどなわけだから、ある種の情念を貪った挙げ句に悪逆非道をひた走ってしまった
責任を宗教一般に求めたりするのもまた、お門違いにも程があることになるわけである。
現状の信者人口は膨大な数に上るのであっても、そもそもが情念の発露などを教義に
掲げている宗教なんてもの自体が約三つのアブラハム教ばかりに限られているわけだから、
そのような宗教をあくまで異端の部類として取り扱うようにして、宗教を情念の発露
などではなく、「鎮魂」のための道具とすることを優先して行くのなら、宗教一般が
アブラハム教の不行跡のせいで存亡の危機に駆られたりすることもないのである。
むしろ、アブラハム教(主に聖書教)のせいで無益に肥大化させられてしまっている
現代人類の劣情が、仏教を始めとする、情念を鎮める類いの宗教によって鎮静化されて
いくべきですらあるのであり、それによってこそ、アブラハム教がこの世に甚大なる
災禍をもたらしてしまっているせいで評判をがた落ちさせている宗教一般の
汚名もまた、返上されて行くこととなるのである。
「君子の君に事うるや、務めて其の君を引きて、以て道に当い、仁に志しむるのみ」
「君子が主君に仕える場合には、ただひたすらその主君を教え導いて、道に叶うにし、
仁を志させるようにするのみである。(むしろ下位者が上位者を導いて行ける
ぐらいでなければならない。総員自力作善である徳治主義の志しだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
「君子が主君に仕える場合には、ただひたすらその主君を教え導いて、道に叶うにし、
仁を志させるようにするのみである。(むしろ下位者が上位者を導いて行ける
ぐらいでなければならない。総員自力作善である徳治主義の志しだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・八より)
自覚的な思考を超越した無意識からの脳神経系の駆使などが、
ただ頭だけで考えることを上回る可能性を秘めているというのは、事実である。
合気柔術の手法に即して、意識的に攻撃を仕掛けて来る相手の機先を
制することなども、自分自身が超意識系に到るまでの注意を働かせていられたなら、
実際に可能となることである。禅問答なども、個体の生死に関わらず
遍在し続ける超意識系の実在を悟るためにこそ行われるものであり、
それが未だ不可能である限りにおいては意味不明な問答までもが、
悟りが拓かれた途端に意味が丸分かりとなったりもするのである。
そういったことも実際あるわけだが、もしも手法を「頭で考える」ということに
限るのなら、徹底的に心を労して悩み考え抜くことこそは最善の結果に繋がる。
自分が不快になるような事象とも面と向き合って、いかにしてそれに打ち克って
行くべきかを真摯に考え抜いて行くことこそが、着実な成果へと結実する。そういった
ことを怠って、ただただ自分が気分がいいまま、都合のいいままでいようとするような
考えばかりに終始しているようなら、破滅的な将来すらもがやってくることとなる。
儒家はそのような意味での、心を労する考え抜きとしての学問こそを司っているから、
超意識系の神秘すらをも扱う高尚な教学の立場から見下されたりもする一方で、
別に自分たちがそんなに楽しそうでもない、学祖の孔子からして、論敵に陰口を
叩かれるようなことばかりがあるせいで始終不機嫌だったと「孟子」にもあるとおり、
それを享受していることが本人たちの分かりやすい楽しみにも与していないと来ている
ものだから、なかなかその真価を計り知られることもないままでいてしまっているのである。
ただ頭だけで考えることを上回る可能性を秘めているというのは、事実である。
合気柔術の手法に即して、意識的に攻撃を仕掛けて来る相手の機先を
制することなども、自分自身が超意識系に到るまでの注意を働かせていられたなら、
実際に可能となることである。禅問答なども、個体の生死に関わらず
遍在し続ける超意識系の実在を悟るためにこそ行われるものであり、
それが未だ不可能である限りにおいては意味不明な問答までもが、
悟りが拓かれた途端に意味が丸分かりとなったりもするのである。
そういったことも実際あるわけだが、もしも手法を「頭で考える」ということに
限るのなら、徹底的に心を労して悩み考え抜くことこそは最善の結果に繋がる。
自分が不快になるような事象とも面と向き合って、いかにしてそれに打ち克って
行くべきかを真摯に考え抜いて行くことこそが、着実な成果へと結実する。そういった
ことを怠って、ただただ自分が気分がいいまま、都合のいいままでいようとするような
考えばかりに終始しているようなら、破滅的な将来すらもがやってくることとなる。
儒家はそのような意味での、心を労する考え抜きとしての学問こそを司っているから、
超意識系の神秘すらをも扱う高尚な教学の立場から見下されたりもする一方で、
別に自分たちがそんなに楽しそうでもない、学祖の孔子からして、論敵に陰口を
叩かれるようなことばかりがあるせいで始終不機嫌だったと「孟子」にもあるとおり、
それを享受していることが本人たちの分かりやすい楽しみにも与していないと来ている
ものだから、なかなかその真価を計り知られることもないままでいてしまっているのである。
儒学が決定的に貶められることとなった近代以前から、日本でも儒学は本質的に
仏教などにその程度で及ばないとされていたから、仏僧が仏門帰依のついでに儒学を
学び教えるようなことがほとんどでいた。そのせいで林羅山のような大儒までもが、
儒家の礼法には反する剃髪でいさせられたりもしたわけだが、これはまあ、超意識系からの
悟りを把捉する仏教の偉大さもまた真なるものなわけだから、多少は仕方ないことだったといえる。
問題は近代以降、儒学が受容者の限りない心労を促す類いの教学であるからといって、
(君子は心を労す。左伝襄公九年)人びとの思考からの限りない享楽を促す洋学や聖書信仰の
下に置かれるようになってしまったことのほうである。洋学もまた勉強の過程でそれなりの
苦労を学徒に要求したりするものではあるが、結局、それを修得した先に「大金稼いでウハウハ」
みたいな俗悪な欲望の実現を約束するものでしかないわけだから、生きている限りにおける
恒久的な心労と共なる努力精進を促す儒学などと比べれば、快楽のための学問であることこそが
確かである。ましてや、聖書信仰などは始めから人びとの淫考をけしかけるばかりの代物であり、
だからこそ、人びとの際限なき放辟邪侈を促す近代以降の世界的風潮の根幹にすらなって
しまっている。そのような風潮からなる圧力によって、心労こそを本是とする儒学のほうの価値が
なきものともされてしまっていることこそは、特筆して問題扱いされねばならないことだといえる。
心労こそが実際、着実な成果にも結び付く、のみならず、それこそは世のため人のため
ともなる善良な成果であったりもする。一方で、いくら力や無機質な知能だけを働かせた所で、
当の本人自身の心が少しも労されていないようなら、結局本人の我田引水ぐらいは実現する
ことがあった所で、全く世のため人のためにはなっていなかったりする。力や技能を駆使する
こと以上のものとしての心労の大切さを、儒学の見直しなどと共に試みて行くべきだといえる。
仏教などにその程度で及ばないとされていたから、仏僧が仏門帰依のついでに儒学を
学び教えるようなことがほとんどでいた。そのせいで林羅山のような大儒までもが、
儒家の礼法には反する剃髪でいさせられたりもしたわけだが、これはまあ、超意識系からの
悟りを把捉する仏教の偉大さもまた真なるものなわけだから、多少は仕方ないことだったといえる。
問題は近代以降、儒学が受容者の限りない心労を促す類いの教学であるからといって、
(君子は心を労す。左伝襄公九年)人びとの思考からの限りない享楽を促す洋学や聖書信仰の
下に置かれるようになってしまったことのほうである。洋学もまた勉強の過程でそれなりの
苦労を学徒に要求したりするものではあるが、結局、それを修得した先に「大金稼いでウハウハ」
みたいな俗悪な欲望の実現を約束するものでしかないわけだから、生きている限りにおける
恒久的な心労と共なる努力精進を促す儒学などと比べれば、快楽のための学問であることこそが
確かである。ましてや、聖書信仰などは始めから人びとの淫考をけしかけるばかりの代物であり、
だからこそ、人びとの際限なき放辟邪侈を促す近代以降の世界的風潮の根幹にすらなって
しまっている。そのような風潮からなる圧力によって、心労こそを本是とする儒学のほうの価値が
なきものともされてしまっていることこそは、特筆して問題扱いされねばならないことだといえる。
心労こそが実際、着実な成果にも結び付く、のみならず、それこそは世のため人のため
ともなる善良な成果であったりもする。一方で、いくら力や無機質な知能だけを働かせた所で、
当の本人自身の心が少しも労されていないようなら、結局本人の我田引水ぐらいは実現する
ことがあった所で、全く世のため人のためにはなっていなかったりする。力や技能を駆使する
こと以上のものとしての心労の大切さを、儒学の見直しなどと共に試みて行くべきだといえる。
「節に若わずんば、嗟に若わん」
「自ら節制するところがないのなら、その分だけ嘆くことになるのみである。
(多少の心労があり続ける程度が、人間が生きる上での適切な負荷なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・節・六三より)
「自ら節制するところがないのなら、その分だけ嘆くことになるのみである。
(多少の心労があり続ける程度が、人間が生きる上での適切な負荷なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・節・六三より)
儒学の教条の多くは、わざわざ教条化するまでもないほどに当たり前な
人間道徳の平易な把捉であり、西方の部落社会で儒学など知らぬままに歴史を
歩んで来た聖書信者などにとっても、聞いて全く分からないものなどでまではない。
ただ、人びとの精神力のヘタリが著しい西方社会などにおいては、わざわざ
そのような当たり前な徳目ばかりを重んじていようとする慣習までもが根付きは
しなかっただけのことで、代わりに儒学にとっての背理に相当するような
邪義を集成した聖書信仰が奇を衒うものとして持て囃されることとなったのである。
一方で、そうとばかりも言えない要素もまた儒学には介在している。それが
「仁義」という理念であり、これは聖書信仰が金科玉条に仕立て上げられた西方社会
などでは、ほぼ全くと言っていいほど察知すらされることがなかったものである。
ほんのこの頃になって、マルクスやレーニンに代表される共産主義者が
聖書圏の人間としては初めて世の中の大局問題を体系的に取り扱って行こうと
し始めた。これが、聖書信者が仁義に近似する理念を初めて体系化しようとした
事例ともなったが、その手法たるやあまりにも稚拙で非現実的なものであったために、
世の中の大局の問題など一貫して軽視し続けて来た多くの西洋人からも反発を受け、
「全体主義」という名の下で卑しめられることともなった。仁義道徳もまた、
世の中の大局を取り扱っていこうとする点では共産主義などの全体主義とも近似
するから、全体主義が忌み嫌われることを通じてくそみそに忌み嫌われること
ともなり、仁義などはヤクザかゴロツキあたりが自己正当化に用いるための
夢想的な概念か何かのようにすら色眼鏡で決め付けられるようになったのである。
(仁義道徳は世の中の大局からの安寧や繁栄のために、君臣父子夫婦の三綱を
特定して重んじて行くことを奨励しているわけだから、決して全体主義ではない)
人間道徳の平易な把捉であり、西方の部落社会で儒学など知らぬままに歴史を
歩んで来た聖書信者などにとっても、聞いて全く分からないものなどでまではない。
ただ、人びとの精神力のヘタリが著しい西方社会などにおいては、わざわざ
そのような当たり前な徳目ばかりを重んじていようとする慣習までもが根付きは
しなかっただけのことで、代わりに儒学にとっての背理に相当するような
邪義を集成した聖書信仰が奇を衒うものとして持て囃されることとなったのである。
一方で、そうとばかりも言えない要素もまた儒学には介在している。それが
「仁義」という理念であり、これは聖書信仰が金科玉条に仕立て上げられた西方社会
などでは、ほぼ全くと言っていいほど察知すらされることがなかったものである。
ほんのこの頃になって、マルクスやレーニンに代表される共産主義者が
聖書圏の人間としては初めて世の中の大局問題を体系的に取り扱って行こうと
し始めた。これが、聖書信者が仁義に近似する理念を初めて体系化しようとした
事例ともなったが、その手法たるやあまりにも稚拙で非現実的なものであったために、
世の中の大局の問題など一貫して軽視し続けて来た多くの西洋人からも反発を受け、
「全体主義」という名の下で卑しめられることともなった。仁義道徳もまた、
世の中の大局を取り扱っていこうとする点では共産主義などの全体主義とも近似
するから、全体主義が忌み嫌われることを通じてくそみそに忌み嫌われること
ともなり、仁義などはヤクザかゴロツキあたりが自己正当化に用いるための
夢想的な概念か何かのようにすら色眼鏡で決め付けられるようになったのである。
(仁義道徳は世の中の大局からの安寧や繁栄のために、君臣父子夫婦の三綱を
特定して重んじて行くことを奨励しているわけだから、決して全体主義ではない)
そもそもが、仁義道徳すら少しでも察知することができていたなら、西洋人と
いえども、聖書信仰を許容するようなことからしてなかったはずなのである。
儒学と聖書信仰の思想面における決定的な相違点も、それこそ仁義という理念の
把捉の有無なのであり、もしも犯罪聖書の著者が少しでも仁義道徳を察していたなら、
あんな不埒な文集の編纂を企てるようなことからしてあり得なかったのである。
儒学的人情にも聖書信仰的劣情にも与しない絶対真理の教学である仏教までもが、
純粋な真理の把捉を通じて儒学の善性を是とし、聖書信仰の悪性を非とするのも、
結局、儒学には仁義がある一方で、聖書信仰には仁義がないからである。仁義が
あるから儒学は本当に世界を安寧へと導けるし、なおかつ自他を心底から安楽にも
させる。聖書信仰には仁義がないから世界を破滅に陥れてしまうし、それと共に
自他を心中から最悪の苦痛に陥らせもする。社会性にまつわる観点から言った場合
の仁義があったりなかったりしたことが、絶対真理に基づく両者の雌雄すらをも
決定的に分かったのであり、そこは、儒学の多くの教条の分かりやすさなどとも
打って変わって、極めて微妙不可思議な領域においてこそ下された審判だったといえる。
儒学の教条なんて当たり前なことばかり、だから背理法として聖書信仰みたいな
邪教もぶち上げてやった、というような言い訳もされかねないが、儒学もただただ
分かりやすいばかりでなく、真理にも通ずる道理に根ざした含蓄を兼ね備えている。
そこを全く察知すらすることなく邪教の受容に邁進して来たのが聖書信者だったり
するわけだから、儒学的なものを全くの既知であるなどと決め付けて、舐め腐った
ままで居ていいようなこともないのである。分かりやすい中にも実は潜在していた
深遠さを察することも出来なかった、己れの至らなさこそを反省すべきなのである。
「常の職無くして上より賜わる者は、以て不恭と為すなり」
「自らが相応の務めを果たしているわけでもないのに上から賜りものを受けたりする
のは、恭しさに欠けている。(自らの行いに相応以上の恵みを賜ろうとする不埒さ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・六より)
いえども、聖書信仰を許容するようなことからしてなかったはずなのである。
儒学と聖書信仰の思想面における決定的な相違点も、それこそ仁義という理念の
把捉の有無なのであり、もしも犯罪聖書の著者が少しでも仁義道徳を察していたなら、
あんな不埒な文集の編纂を企てるようなことからしてあり得なかったのである。
儒学的人情にも聖書信仰的劣情にも与しない絶対真理の教学である仏教までもが、
純粋な真理の把捉を通じて儒学の善性を是とし、聖書信仰の悪性を非とするのも、
結局、儒学には仁義がある一方で、聖書信仰には仁義がないからである。仁義が
あるから儒学は本当に世界を安寧へと導けるし、なおかつ自他を心底から安楽にも
させる。聖書信仰には仁義がないから世界を破滅に陥れてしまうし、それと共に
自他を心中から最悪の苦痛に陥らせもする。社会性にまつわる観点から言った場合
の仁義があったりなかったりしたことが、絶対真理に基づく両者の雌雄すらをも
決定的に分かったのであり、そこは、儒学の多くの教条の分かりやすさなどとも
打って変わって、極めて微妙不可思議な領域においてこそ下された審判だったといえる。
儒学の教条なんて当たり前なことばかり、だから背理法として聖書信仰みたいな
邪教もぶち上げてやった、というような言い訳もされかねないが、儒学もただただ
分かりやすいばかりでなく、真理にも通ずる道理に根ざした含蓄を兼ね備えている。
そこを全く察知すらすることなく邪教の受容に邁進して来たのが聖書信者だったり
するわけだから、儒学的なものを全くの既知であるなどと決め付けて、舐め腐った
ままで居ていいようなこともないのである。分かりやすい中にも実は潜在していた
深遠さを察することも出来なかった、己れの至らなさこそを反省すべきなのである。
「常の職無くして上より賜わる者は、以て不恭と為すなり」
「自らが相応の務めを果たしているわけでもないのに上から賜りものを受けたりする
のは、恭しさに欠けている。(自らの行いに相応以上の恵みを賜ろうとする不埒さ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・六より)
虚構の基準での虚構の勝利に浸っているような人間が、虚構であると
気づかぬままにこの世を去ったとすれば、それで勝利だといえるだろうか。
勝利だと思いたいという人間もいるだろうが、当然普遍的な基準に即しては
勝利ではない。もしもそのような人間が歴史に記録されるとしたなら、
おかしな思い込みに誑かされたままでこの世を去ったかわいそうな道化
として記されることとなるように、そこで勝利などを認めることはできない。
ただ、それは虚構に浸っていたい人間にとっての重要な事柄ではあるまい。
問題は、虚構だろうが何だろうが、勝利の愉悦が上等なもんだったかどうか
であるに違いない。勝利の愉悦すら本物の勝利並みやそれ以上ですらあったなら、
虚構の勝利でも構わないぐらいのものだろう。しかし残念ながら、虚構の勝利
は虚構であるだけに、本物の勝利並みの愉悦を本人にもたらすこともない。
どんなに勝者をうそぶいた所で、虚構は虚構だから、身勝手な根拠で自分たち
こそは世界最強だなどと自負しているアメリカ人なども、苦悩にかられての
麻薬中毒などに陥ってしまっている場合が多い。そりゃあ、世界最強の勝者と
しての愉悦までもが虚構に過ぎないからで、決して勝者としての責任を果たそう
としているが故の副作用だったりするわけでもない。むしろ、本物の勝利は
勝者としての責任を果たして行く所にこそ愉悦をももたらすものなのだから。
勝利の愉悦というのは、別に俗悪な領域においてばかり問題とされることでもない。
仏門における大悟の先に、絶対真理に即した最勝者としての愉悦があったりも
するという。その真の勝者としての愉悦を俗世での勝利にも期待するとすれば、
仁者としての勝利などはそれに近似するだろうが、不仁者としての勝利などは
それに近似すらすることがないであろう。真理に根ざした勝利にも近似するが故に、
仁者としての勝利こそは本物の愉悦を勝者にもたらす一方で、その条件を満たさない
不仁者としての勝利は、じゃんけんで勝った時ほどの愉悦すら抱けなかったりする。
気づかぬままにこの世を去ったとすれば、それで勝利だといえるだろうか。
勝利だと思いたいという人間もいるだろうが、当然普遍的な基準に即しては
勝利ではない。もしもそのような人間が歴史に記録されるとしたなら、
おかしな思い込みに誑かされたままでこの世を去ったかわいそうな道化
として記されることとなるように、そこで勝利などを認めることはできない。
ただ、それは虚構に浸っていたい人間にとっての重要な事柄ではあるまい。
問題は、虚構だろうが何だろうが、勝利の愉悦が上等なもんだったかどうか
であるに違いない。勝利の愉悦すら本物の勝利並みやそれ以上ですらあったなら、
虚構の勝利でも構わないぐらいのものだろう。しかし残念ながら、虚構の勝利
は虚構であるだけに、本物の勝利並みの愉悦を本人にもたらすこともない。
どんなに勝者をうそぶいた所で、虚構は虚構だから、身勝手な根拠で自分たち
こそは世界最強だなどと自負しているアメリカ人なども、苦悩にかられての
麻薬中毒などに陥ってしまっている場合が多い。そりゃあ、世界最強の勝者と
しての愉悦までもが虚構に過ぎないからで、決して勝者としての責任を果たそう
としているが故の副作用だったりするわけでもない。むしろ、本物の勝利は
勝者としての責任を果たして行く所にこそ愉悦をももたらすものなのだから。
勝利の愉悦というのは、別に俗悪な領域においてばかり問題とされることでもない。
仏門における大悟の先に、絶対真理に即した最勝者としての愉悦があったりも
するという。その真の勝者としての愉悦を俗世での勝利にも期待するとすれば、
仁者としての勝利などはそれに近似するだろうが、不仁者としての勝利などは
それに近似すらすることがないであろう。真理に根ざした勝利にも近似するが故に、
仁者としての勝利こそは本物の愉悦を勝者にもたらす一方で、その条件を満たさない
不仁者としての勝利は、じゃんけんで勝った時ほどの愉悦すら抱けなかったりする。

虚実に即して勝利が健全な愉悦と共にあったり、不健全な愉悦によってかえって
副作用としての苦悩を呼び込んだりする。ろくな心地よさも呼び込めることのない
虚構の勝利によってでも、勝者としての名声を一度ぐらいは得てみたいとした所で、
そのような勝利は1400年前の蹴鞠での勝利ほどにも、普遍的な意味を持つことがない。
蹴鞠で脱げた靴を後の重臣が拾ってくれたことのように伝説化されることもない。
正史がよく整理されている東洋と、ろくに歴史が整理されることもなければ
その評価基準も定まっていない西洋とでは、そのあたりまだ温度差もあるだろう。
ただ西アジア諸国に乱暴をけしかけていたばかりの存在だったアレクサンドロスが、
戦いで勝ったという部分だけをして最勝者か何かのように扱われていたりもするが、
封土を自らの責任によって十全に治めることができてこそ、勝者としての資格
までもが備わり得るとする東洋の感覚からすれば、アレクサンドロスの所業などは、
中原北方で強奪の限りを尽くしていた蛮族匈奴ほどのものとしてしか扱いようがない。
東征に際してほとんどの自国軍の兵士を犠牲にしてしまい、後には結局エジプト人
主体のエジプトやペルシャ人主体のペルシャが元通りに残っていたりしただけ
なのだから、あまりにも瑣末な虚構の勝利ばかりを貪っていたのだと言える。
そういう所までちゃんと精査して行けば、虚構の勝利をさも歴史的勝利か何かの
ように取り扱い続けて来たことまでもが、道化の扱いとなって行くのである。
「仁者は射るが如し。射者は己れを正して後に発つ。
発ちて中らずとも、己れに勝てる者を怨みず。諸れを己れに反り求めるのみ」
「仁者はまるで弓を射るようなもの。弓を射る者はただ己れの姿勢を正して
矢を放つばかり。放った矢が当たらなかったとしても、射的競争で自分に勝った
者を怨んだりすることもない。ただ自らの落ち度を省みて反省するのみである。
(ただただ勝とうとすることではなく、己れを正すことこそはより重要なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・七より)
「子貢曰く、斯に美玉有り。匵に韞めて諸を蔵さんか。善賈を求めて
諸を沽らんか。子曰く、之を沽らん。之を沽らん。我は賈を待つ者なり」
「子貢が問うた。『ここに見事な珠玉があるとします。だとすれば、箱に納めて
隠し込んでしまうべきでしょうか。それともいい商人を見つけて売るべきでしょうか』
孔先生は答えられた。『売ろうよ、売ろうよ、私はその商人を待つものなのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二)
とはいえ孔子は、乱世にはあまりにも場違いなほどの聡明さと端麗さを具えた大人で
あったものだから、汚職で腐れ果てた権力者たちが「善賈」として「美玉」たる
孔子を買い求めて重宝することなどもろくにできないでいたのだった。
「悪貨は良貨を駆逐する」というが、金に限らず、物品や人材に到るまで、粗悪なものが
良質なものを駆逐して行くということがままある。最高品質の天然の食材などよりは、
低品質でも安価な養殖の食材が市場により多く出回ったりするのがその例である。
人間もその例に漏れず、愚人のくせして巧言令色を巧みに利用することで人びとの
人気を博そうとする者が、根っからの賢人だからこそ修辞での人気取りなどを
控えようとする者を押しのけて天下に蔓延ったりすることがある。
儒学が廃絶されて、聖書信仰や聖書信仰的なものの考え方が蔓延ってしまっている
現代の様相もまた、「悪貨は良貨を駆逐する」の典型例だといえる。世のため人のため
自分のためになりはするものの、決してその実践が楽なものばかりではない儒学が排されて、
世のためにも人のためにも自分のためにもならないが、ただひたすら安楽ばかりを貪ることを是
とする聖書信仰が、思想信条として格好のものとされている、それは決して、善賈が見事な珠玉を
見つけて、それを買うために他の玉を売り払うような事態にも当たらない。投機対象として格好な
安物の玉の大量購入のために、所有の珠玉すら売り払ってしまったようなザマでこそあるのだといえる。
諸を沽らんか。子曰く、之を沽らん。之を沽らん。我は賈を待つ者なり」
「子貢が問うた。『ここに見事な珠玉があるとします。だとすれば、箱に納めて
隠し込んでしまうべきでしょうか。それともいい商人を見つけて売るべきでしょうか』
孔先生は答えられた。『売ろうよ、売ろうよ、私はその商人を待つものなのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一二)
とはいえ孔子は、乱世にはあまりにも場違いなほどの聡明さと端麗さを具えた大人で
あったものだから、汚職で腐れ果てた権力者たちが「善賈」として「美玉」たる
孔子を買い求めて重宝することなどもろくにできないでいたのだった。
「悪貨は良貨を駆逐する」というが、金に限らず、物品や人材に到るまで、粗悪なものが
良質なものを駆逐して行くということがままある。最高品質の天然の食材などよりは、
低品質でも安価な養殖の食材が市場により多く出回ったりするのがその例である。
人間もその例に漏れず、愚人のくせして巧言令色を巧みに利用することで人びとの
人気を博そうとする者が、根っからの賢人だからこそ修辞での人気取りなどを
控えようとする者を押しのけて天下に蔓延ったりすることがある。
儒学が廃絶されて、聖書信仰や聖書信仰的なものの考え方が蔓延ってしまっている
現代の様相もまた、「悪貨は良貨を駆逐する」の典型例だといえる。世のため人のため
自分のためになりはするものの、決してその実践が楽なものばかりではない儒学が排されて、
世のためにも人のためにも自分のためにもならないが、ただひたすら安楽ばかりを貪ることを是
とする聖書信仰が、思想信条として格好のものとされている、それは決して、善賈が見事な珠玉を
見つけて、それを買うために他の玉を売り払うような事態にも当たらない。投機対象として格好な
安物の玉の大量購入のために、所有の珠玉すら売り払ってしまったようなザマでこそあるのだといえる。
愚昧化してしまった民の欲するがままに任せたりすれば、悪貨が良貨を駆逐してしまうものである。
商人たちもまたそれに応じて、粗悪でも好みやすいような商品ばかりを市場に出回らせて、
本当に良質な商品などはほとんど出回らせないようなことにすらなってしまう。商人は
それで身銭を稼ぐことが第一の目的なのだから、ただ仕事としてそうするだけのこと。
カネやモノや人材の質の良さを確保することなどは、商人にとっての本分などではない。
そんな質の良悪は商人などにとっては相対的な問題に過ぎないのであり、質の悪い商品で
大金を稼げるのならそうするまでのことである。そうであってはならないのは、天下国家の
命運を司る君子階級の人間でこそあり、経済や政治に媒介するカネやモノやヒトの質の
向上に務めて行くことで、天下国家からの磐石な繁栄をも企図して行く必要があるのである。
君子によって人びとのモノの価値を計り知る能力が養われて、それにより良質な商品が市場でも
持て囃されるようになる。その結果として商人もより良質な商品を取り扱うようになるわけだから、
商人が自己の良識によって、珠玉の購入のために粗玉を売り払うよなことを期待しててもいけないのだ。
「市に命じて賈を納れしめ、以て民の好悪する所を観る。志し淫なれば好みも辟なり」
「市場の人間に命じて商品を納入させ、いま民たちが好き好んでいるものが何なのかを観察する。
志しが淫らであるようならその好みも邪まであるものだから。(市場での好悪を正させることから
天子の役割である。その結果として上記の『論語』で例えに上げられている『善賈』が生じたりもする。
まずそういった徳治による品性の向上が図られるのでなければ、商人が善賈たることもあり得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
商人たちもまたそれに応じて、粗悪でも好みやすいような商品ばかりを市場に出回らせて、
本当に良質な商品などはほとんど出回らせないようなことにすらなってしまう。商人は
それで身銭を稼ぐことが第一の目的なのだから、ただ仕事としてそうするだけのこと。
カネやモノや人材の質の良さを確保することなどは、商人にとっての本分などではない。
そんな質の良悪は商人などにとっては相対的な問題に過ぎないのであり、質の悪い商品で
大金を稼げるのならそうするまでのことである。そうであってはならないのは、天下国家の
命運を司る君子階級の人間でこそあり、経済や政治に媒介するカネやモノやヒトの質の
向上に務めて行くことで、天下国家からの磐石な繁栄をも企図して行く必要があるのである。
君子によって人びとのモノの価値を計り知る能力が養われて、それにより良質な商品が市場でも
持て囃されるようになる。その結果として商人もより良質な商品を取り扱うようになるわけだから、
商人が自己の良識によって、珠玉の購入のために粗玉を売り払うよなことを期待しててもいけないのだ。
「市に命じて賈を納れしめ、以て民の好悪する所を観る。志し淫なれば好みも辟なり」
「市場の人間に命じて商品を納入させ、いま民たちが好き好んでいるものが何なのかを観察する。
志しが淫らであるようならその好みも邪まであるものだから。(市場での好悪を正させることから
天子の役割である。その結果として上記の『論語』で例えに上げられている『善賈』が生じたりもする。
まずそういった徳治による品性の向上が図られるのでなければ、商人が善賈たることもあり得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
どんなに雄大な志しも、それを実現して行くに及んで、不正な手段や支援を
介するようでは、むしろ成さねばよかったほどのものとすら化してしまいかねない。
劉備玄徳による漢帝国再興の志しなども、最原初の頃から豪商の支援に頼りきりで、
それを資金源に勢力を拡大させていったものだから、政商を寄せ付けての専横三昧
でいた魏の曹家が、正統の漢室を乗っ取ることを防ぐこともできなかったのだった。
また、いくら自分が大志の持ち主であるといえども、わが子までもがその志しを
継いでくれるとも限らない。商人の多用もあって身内にはそれなりの奢侈を
許してしまってもいたものだから、御曹司の劉禅も全くの軟弱者に育ってしまい、
乱世の荒波の中で蜀漢を保ち続けさせることもできなかったのだった。
漢帝国の祖たる劉邦のほうはといえば、名士の娘を嫁に取るも、相変わらず
清貧の生活を続け、職務怠惰の逃亡犯となっていた頃の潜伏先で数多の配下
たちを得て、漢一国の王となってからも当時の盟友たちに親しんで、韓信や
陳平といった新手の能力者を近づけることはなるべく遠ざけようとし(ただし
旧友蕭何からの説得によって受け入れる)、漢帝国を樹立してからも、無難な役柄
でいながらも兵士たちの命を司っていた兵站の管理者であった旧友の蕭何を第一の
功労者とし、最大級の戦功を上げた韓信や張良の上にすら置いた。その、どこまでも
泥臭くあろうとする姿勢こそは、金や権力が目当てで寄り付いてくる人間を遠ざける
要因となり、以って400年に渡る漢室の安定の礎ともなることができたのである。
劉邦がそれなりの権勢を得てから寄り付いて来た人間、特に韓信あたりは、
劉邦に対するへつらいとも取れるような言葉すら多々残している。その態度が上っ面
ばかりの修辞じみているのは、食客時代に身に付いたサビであったのかも知れないが、
まだ下級役人や逃亡犯だった頃の劉邦こそを慕って配下となった人びととは一線を
画する性格の持ち主であったわけである。だからこそ、ウサギを採ったあとには、
自分までもが煮殺される走狗とも化してしまったわけで、ただただ有能な臣下で
あったから嫉まれて殺されたなどというのとはわけが違うのである。
介するようでは、むしろ成さねばよかったほどのものとすら化してしまいかねない。
劉備玄徳による漢帝国再興の志しなども、最原初の頃から豪商の支援に頼りきりで、
それを資金源に勢力を拡大させていったものだから、政商を寄せ付けての専横三昧
でいた魏の曹家が、正統の漢室を乗っ取ることを防ぐこともできなかったのだった。
また、いくら自分が大志の持ち主であるといえども、わが子までもがその志しを
継いでくれるとも限らない。商人の多用もあって身内にはそれなりの奢侈を
許してしまってもいたものだから、御曹司の劉禅も全くの軟弱者に育ってしまい、
乱世の荒波の中で蜀漢を保ち続けさせることもできなかったのだった。
漢帝国の祖たる劉邦のほうはといえば、名士の娘を嫁に取るも、相変わらず
清貧の生活を続け、職務怠惰の逃亡犯となっていた頃の潜伏先で数多の配下
たちを得て、漢一国の王となってからも当時の盟友たちに親しんで、韓信や
陳平といった新手の能力者を近づけることはなるべく遠ざけようとし(ただし
旧友蕭何からの説得によって受け入れる)、漢帝国を樹立してからも、無難な役柄
でいながらも兵士たちの命を司っていた兵站の管理者であった旧友の蕭何を第一の
功労者とし、最大級の戦功を上げた韓信や張良の上にすら置いた。その、どこまでも
泥臭くあろうとする姿勢こそは、金や権力が目当てで寄り付いてくる人間を遠ざける
要因となり、以って400年に渡る漢室の安定の礎ともなることができたのである。
劉邦がそれなりの権勢を得てから寄り付いて来た人間、特に韓信あたりは、
劉邦に対するへつらいとも取れるような言葉すら多々残している。その態度が上っ面
ばかりの修辞じみているのは、食客時代に身に付いたサビであったのかも知れないが、
まだ下級役人や逃亡犯だった頃の劉邦こそを慕って配下となった人びととは一線を
画する性格の持ち主であったわけである。だからこそ、ウサギを採ったあとには、
自分までもが煮殺される走狗とも化してしまったわけで、ただただ有能な臣下で
あったから嫉まれて殺されたなどというのとはわけが違うのである。
真っ当な手段や支援のみに頼ろうとする場合と、不正なそれらに頼ってでも望みだけは
叶えようとするのとでは、どうしたって大成後の盛衰に開きが生じてしまうものである。
臣下すら利権に目がくらんで寄り付いて来たような連中が多かった豊臣は滅ぼされた一方、
金は金で遠方の大名の篭絡などに多用した一方、自らの身辺は旧来からの重臣たちで
固め抜いた徳川は長期の治世を築き上げることができた。劉邦も一時は韓信などに頼り
もしていたが、やはり目的のために選ばなかった手段を潔く切り捨てたからこそ、目的
のための手段をあまりにも選ばなさ過ぎたような連中のような破滅は免れられたのである。
豊臣秀吉が徳川家康に「おまえが宝とするものは何だ」と問うた時、家康公は
「死をも恐れぬ五百機の三河武士である」と答えたと言う。天下人としての財宝獲得三昧
に及んでいた秀吉からすれば、鼻で笑いたくなるような返答であったかも知れないのだが、
自らが権勢を得て行く上での最初期からの助成者たちこそを大切にしようとしたその
心意気こそが、やはり幕府の磐石な礎を形成して行くこととなったに違いないのである。
特に、志しを果たして行く上での助成者を吟味することは重要なことだといえる。
身辺はできる限り信用の置ける旧来の仲間であるべきだし、どうしても疎遠な能力者を
用いる必要がある場合にも、その扱いをできる限り限定して行くようにすべきだといえる。
政商のように、絶対に頼りにすべきでないような相手も中にはいて、頼りきりでいれば
それだけで自分たちの自滅を招くことにすらなりかねないので、十分な警戒が必要である。
頼るべき相手、なるべく頼るべきでない相手、絶対に頼るべきでない相手の三者を分別
することすらできたなら、天下を我が物とする資格すらをも手に入れられたのだといえる。
叶えようとするのとでは、どうしたって大成後の盛衰に開きが生じてしまうものである。
臣下すら利権に目がくらんで寄り付いて来たような連中が多かった豊臣は滅ぼされた一方、
金は金で遠方の大名の篭絡などに多用した一方、自らの身辺は旧来からの重臣たちで
固め抜いた徳川は長期の治世を築き上げることができた。劉邦も一時は韓信などに頼り
もしていたが、やはり目的のために選ばなかった手段を潔く切り捨てたからこそ、目的
のための手段をあまりにも選ばなさ過ぎたような連中のような破滅は免れられたのである。
豊臣秀吉が徳川家康に「おまえが宝とするものは何だ」と問うた時、家康公は
「死をも恐れぬ五百機の三河武士である」と答えたと言う。天下人としての財宝獲得三昧
に及んでいた秀吉からすれば、鼻で笑いたくなるような返答であったかも知れないのだが、
自らが権勢を得て行く上での最初期からの助成者たちこそを大切にしようとしたその
心意気こそが、やはり幕府の磐石な礎を形成して行くこととなったに違いないのである。
特に、志しを果たして行く上での助成者を吟味することは重要なことだといえる。
身辺はできる限り信用の置ける旧来の仲間であるべきだし、どうしても疎遠な能力者を
用いる必要がある場合にも、その扱いをできる限り限定して行くようにすべきだといえる。
政商のように、絶対に頼りにすべきでないような相手も中にはいて、頼りきりでいれば
それだけで自分たちの自滅を招くことにすらなりかねないので、十分な警戒が必要である。
頼るべき相手、なるべく頼るべきでない相手、絶対に頼るべきでない相手の三者を分別
することすらできたなら、天下を我が物とする資格すらをも手に入れられたのだといえる。
「曾子曰く、吾れ日に三つを吾が身に省みる。
人の為めに謀して忠ならざるか、朋友に交わりて信ならざるか、習わざるを伝えざるか、と」
「曾先生『私は必ず毎日三つのことを反省するようにしている。他人のために計画を立てて、
それが忠義に欠けていたりしなかったか、友人と交流して信義に欠けるようなマネをしなか
ったか、自分がちゃんと習っているわけでもないようなことを人に伝えたりしなかったか、と』
(計画が達成された所で、それが忠義に欠けていたりするのでは元も子もない。だから結局、
信用のおける者たちを助成者とした、全くの他人頼みでもない計画の実行が重要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・四)
「道同じうせざれば、謀の為めに相さず」
「道を同じくするものとでなければ、計画を実行に移すこともない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
人の為めに謀して忠ならざるか、朋友に交わりて信ならざるか、習わざるを伝えざるか、と」
「曾先生『私は必ず毎日三つのことを反省するようにしている。他人のために計画を立てて、
それが忠義に欠けていたりしなかったか、友人と交流して信義に欠けるようなマネをしなか
ったか、自分がちゃんと習っているわけでもないようなことを人に伝えたりしなかったか、と』
(計画が達成された所で、それが忠義に欠けていたりするのでは元も子もない。だから結局、
信用のおける者たちを助成者とした、全くの他人頼みでもない計画の実行が重要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・四)
「道同じうせざれば、謀の為めに相さず」
「道を同じくするものとでなければ、計画を実行に移すこともない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三九より)
邪まな思想信条を排した平静な心と共に、常日頃からの注意を欠かさないでいることで、
人も危難を避ける上での最善を尽くせる一方で、現実から乖離した邪信や悪念で
現実から目を逸らし、紛れもない危機にすら気づきもしないままでいるような
ところでこそ、人は最大級の災禍を我が身に呼び込むことともなるのである。
一方、世の中の大多数の一般人は、上記のうちのいずれにも属することがない。
日々の仕事に追われて邪まな思想信条を排しきることも、自分からそのような
邪信の率先者となることもない、テレビ番組あたりにいくらでも自らの考え方を
変節させられる、「風になびく草」のような存在のままであり続けるのである。
そこで、そのような大多数の一般人を、平静な心と磐石な注意深さの持ち主が導いて行くか、
邪念で現実から目を背けようとするような人間が支配して行くかで、世の中の運命も分かれる。
片や長期の治世をも実現する一方で、片や早急なる破滅を呼び込むことともなる。
結局、一般人が両者のうちのいずれかを自由に選択できるなどということもなく、
権力機構が自浄作用を持つか否かだけで完全にその運命も分かれてしまうものである。
全く自浄作用を持たぬままに、盲目なままでのイケイケ状態でい続けたなら、そのせいでの
破滅が当然やって来る。その時に、政治史をよく学び抜いて撥乱反正をよくするものが
主導者に躍り出たりしたならば、そこから治世が実現されて行くこともありはするが、
所詮はクロムウェルやナポレオンの如き愚人が改革の主導者であり続けたなら、
そのせいでの同じ過ちが繰り返されて行くこととなるのである。
人も危難を避ける上での最善を尽くせる一方で、現実から乖離した邪信や悪念で
現実から目を逸らし、紛れもない危機にすら気づきもしないままでいるような
ところでこそ、人は最大級の災禍を我が身に呼び込むことともなるのである。
一方、世の中の大多数の一般人は、上記のうちのいずれにも属することがない。
日々の仕事に追われて邪まな思想信条を排しきることも、自分からそのような
邪信の率先者となることもない、テレビ番組あたりにいくらでも自らの考え方を
変節させられる、「風になびく草」のような存在のままであり続けるのである。
そこで、そのような大多数の一般人を、平静な心と磐石な注意深さの持ち主が導いて行くか、
邪念で現実から目を背けようとするような人間が支配して行くかで、世の中の運命も分かれる。
片や長期の治世をも実現する一方で、片や早急なる破滅を呼び込むことともなる。
結局、一般人が両者のうちのいずれかを自由に選択できるなどということもなく、
権力機構が自浄作用を持つか否かだけで完全にその運命も分かれてしまうものである。
全く自浄作用を持たぬままに、盲目なままでのイケイケ状態でい続けたなら、そのせいでの
破滅が当然やって来る。その時に、政治史をよく学び抜いて撥乱反正をよくするものが
主導者に躍り出たりしたならば、そこから治世が実現されて行くこともありはするが、
所詮はクロムウェルやナポレオンの如き愚人が改革の主導者であり続けたなら、
そのせいでの同じ過ちが繰り返されて行くこととなるのである。
東洋史上には、腐敗した政権が一掃されて清廉な権力機構が建て直されることで
数百年規模の治世が実現されるということがままあるが、西洋史にはそういった事例は
まったくない。権力の腐敗が極まれば、亡国級の大破綻を来たして、それからまた同じような
過ちを繰り返し始めるといったことの繰り返しで、それが一般人にとってもたまったもんじゃ
ないから、欧州から脱出してアメリカなどへと逃亡する者が多数にも上ってしまったのだった。
しかし、もはやこの地球上に逃亡先などはなく、地球外に脱出する選択肢も億人単位などでは
閉ざされている。それでいてアメリカの経済なども、盲目なままでの放辟邪侈がたたって
破綻寸前と来ている。これ以上の暴落などは世界大戦にも直結するからアメリカ株の大変動は
強制的に控えられ、変わりに日本株の乱暴な売り買いなどで気を紛らわそうとしているのが
現状だが、盲目なイケイケこそは2000年来の性分であり続けてきた欧米人のこと、全面的な
やりたい放題を控える節制状態も、いったいいつまで持つのか知れたもんではない。
日本や東洋に限らず、いま世界規模で、盲目な愚人から冷静な注意者への大権の譲渡が
必要とされている。世界人口が70億人にも上る現状において、大容量情報を機械的に処理
するためのコンピュータへの依存なども避けられないことではあるが、要となるのはやはり、
世界の命運を司る人間たち自身が、模範とするに値する主導者を頂くことだといえる。それが
叶わぬようなら、割れ瓶に水を汲むような徒労の対応しかできないままに終わるのである。
「礼は往来を尚ぶ。往きて来たらざるは非礼なり、来たりて往かざるも亦た非礼なり。
人に礼有れば則ち安し、礼無ければ則ち危し。故に曰く、礼は学ばざる可からざるなりと」
「礼儀は双方向性を尊ぶ。あちらからこちらへと一方的でばかりあるのも非礼だし、
こちらからあちらへと一方的ばかりであるのも非礼である。人に礼儀があれば安全だが、
礼儀がなければ危うい。故に、礼儀のためには絶え間ない勉学精進が必要ともされる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
数百年規模の治世が実現されるということがままあるが、西洋史にはそういった事例は
まったくない。権力の腐敗が極まれば、亡国級の大破綻を来たして、それからまた同じような
過ちを繰り返し始めるといったことの繰り返しで、それが一般人にとってもたまったもんじゃ
ないから、欧州から脱出してアメリカなどへと逃亡する者が多数にも上ってしまったのだった。
しかし、もはやこの地球上に逃亡先などはなく、地球外に脱出する選択肢も億人単位などでは
閉ざされている。それでいてアメリカの経済なども、盲目なままでの放辟邪侈がたたって
破綻寸前と来ている。これ以上の暴落などは世界大戦にも直結するからアメリカ株の大変動は
強制的に控えられ、変わりに日本株の乱暴な売り買いなどで気を紛らわそうとしているのが
現状だが、盲目なイケイケこそは2000年来の性分であり続けてきた欧米人のこと、全面的な
やりたい放題を控える節制状態も、いったいいつまで持つのか知れたもんではない。
日本や東洋に限らず、いま世界規模で、盲目な愚人から冷静な注意者への大権の譲渡が
必要とされている。世界人口が70億人にも上る現状において、大容量情報を機械的に処理
するためのコンピュータへの依存なども避けられないことではあるが、要となるのはやはり、
世界の命運を司る人間たち自身が、模範とするに値する主導者を頂くことだといえる。それが
叶わぬようなら、割れ瓶に水を汲むような徒労の対応しかできないままに終わるのである。
「礼は往来を尚ぶ。往きて来たらざるは非礼なり、来たりて往かざるも亦た非礼なり。
人に礼有れば則ち安し、礼無ければ則ち危し。故に曰く、礼は学ばざる可からざるなりと」
「礼儀は双方向性を尊ぶ。あちらからこちらへと一方的でばかりあるのも非礼だし、
こちらからあちらへと一方的ばかりであるのも非礼である。人に礼儀があれば安全だが、
礼儀がなければ危うい。故に、礼儀のためには絶え間ない勉学精進が必要ともされる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
人間社会が一定以上の規模で存在している以上は、そこに必要悪としての法規もまた生ずるものである。
ただ、それを善用するか悪用するか、正法に合致させるか徒法だらけと化すかといった違いがあるのみで、
全く何らの法規にも患わせられなくて済むなどということはない。あるとすればそれは、正しい法規で
取り決められることなどは全て自然と守り通せる、「心の欲する所に従ってその矩をこえず(論語)」
という境地にある聖賢であるからといった場合に限るといえる。
実際のところ、善法は守ったほうが快いものであり、だからこそわざわざ意識的に守ろうとせずとも、
善徳に従って快いものを追い求めた結果として、好きなようにやっても善法の範疇にいられたり
するのである。舜帝や孔子などは実際にそのようでいたらしく、実定法を故意に守ったりするよりも、
そういった聖賢のひそみに倣うようにしたほうが、健全で快活な法遵守者となれたりもするのである。
一切の社会法規を無視する無秩序主義者などは、善法の遵守すら損なってしまうわけだから、
その分だけ人並み以上の苦悩にすら囚われることとなる。狂言的な冤罪刑死劇に際して、イエスが
十字架上で苦悶のままに死滅したのもそのような理由があったからであり、その苦悩は犯罪者が
良心の呵責に苛まれる場合の苦悩とも基本的に変わりはしなかったのである。別にイエスが
当時のローマ帝国の法規に反していたわけでなくとも、一切の法律を無みしようとした
イエス本人の罪深い心持ち自体が、多大なる苦悩を本人に植え付けたにも違いないのである。
無法を志す心持ちと、徒法に煩わされる心持ちと、罪を犯して良心の呵責に苛まれる心持ちとが、
善法を遵守しないが故の苦悩に苛まれる点で全く共通している。キリスト教国や法治主義国でも
明確な断罪の対象とされるのは実定法違反の罪を犯した場合のみであり、これは上三つの
原因に基づく苦難や災禍を防止することを少しも保証してくれたりするものではない。
ただ、それを善用するか悪用するか、正法に合致させるか徒法だらけと化すかといった違いがあるのみで、
全く何らの法規にも患わせられなくて済むなどということはない。あるとすればそれは、正しい法規で
取り決められることなどは全て自然と守り通せる、「心の欲する所に従ってその矩をこえず(論語)」
という境地にある聖賢であるからといった場合に限るといえる。
実際のところ、善法は守ったほうが快いものであり、だからこそわざわざ意識的に守ろうとせずとも、
善徳に従って快いものを追い求めた結果として、好きなようにやっても善法の範疇にいられたり
するのである。舜帝や孔子などは実際にそのようでいたらしく、実定法を故意に守ったりするよりも、
そういった聖賢のひそみに倣うようにしたほうが、健全で快活な法遵守者となれたりもするのである。
一切の社会法規を無視する無秩序主義者などは、善法の遵守すら損なってしまうわけだから、
その分だけ人並み以上の苦悩にすら囚われることとなる。狂言的な冤罪刑死劇に際して、イエスが
十字架上で苦悶のままに死滅したのもそのような理由があったからであり、その苦悩は犯罪者が
良心の呵責に苛まれる場合の苦悩とも基本的に変わりはしなかったのである。別にイエスが
当時のローマ帝国の法規に反していたわけでなくとも、一切の法律を無みしようとした
イエス本人の罪深い心持ち自体が、多大なる苦悩を本人に植え付けたにも違いないのである。
無法を志す心持ちと、徒法に煩わされる心持ちと、罪を犯して良心の呵責に苛まれる心持ちとが、
善法を遵守しないが故の苦悩に苛まれる点で全く共通している。キリスト教国や法治主義国でも
明確な断罪の対象とされるのは実定法違反の罪を犯した場合のみであり、これは上三つの
原因に基づく苦難や災禍を防止することを少しも保証してくれたりするものではない。
上の三つの選択肢しか人間には与えられていないという思い込みから、自由主義という
ものもまた生じた。しかし、あらゆる法規を否定しつくしての自由状態などというのは、
かえって苦悩を伴うものでもあるから、ニーチェのような発狂か、多くのアメリカ人が
患っているような麻薬中毒や摂食障害などにも陥ってしまいがちなのである。
禅仏教で提唱された本来の「自由」は、そういう意味ではなかった。孔子のいう「心の欲する所に従って
矩を超えず」が盤石化された結果として、最大級の自由をも手に入れるというものであった。だからこそ、
禅で尊ばれる自由を追い求めたからといって、単なる無法主義の自由を追い求めた場合のような苦悩の
副作用などは伴わない。自由がそのまま善法の遵守にも合致して、無上の快さをも伴わせることとなる。
目的達成のための尽力の過程で苦労があったりするのはともかく、目指している目的が苦悩であったり
するのでは、完全にマゾヒズムという変態志向である。イギリス人のように飯のうまさも分からない
無感覚者となってまでそれを追い求めたとしても、やはりマゾヒズムはマゾヒズムである。
そのような変態志向と、過渡的な苦労とを混同するようなことが決してあってもならないのである。
「盤庚、民に教え、乃じの在位を由い、常旧の服を以って
法度を正さしむ。曰く、敢えて小人の箴むる処を伏すること或る無かれ」
「商王の盤庚は民を教化するために、自分たちの管轄の有司に頼ることと、古来からの旧法によく則ること
とを民たちに促した。そしてこう言った。『身分の低いような人間からの注意すら無視してはならない』と。
(一定の権威の下で古法すら蔑ろにしようとすること自体、度し難い不義に当たるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・大禹謨より)
ものもまた生じた。しかし、あらゆる法規を否定しつくしての自由状態などというのは、
かえって苦悩を伴うものでもあるから、ニーチェのような発狂か、多くのアメリカ人が
患っているような麻薬中毒や摂食障害などにも陥ってしまいがちなのである。
禅仏教で提唱された本来の「自由」は、そういう意味ではなかった。孔子のいう「心の欲する所に従って
矩を超えず」が盤石化された結果として、最大級の自由をも手に入れるというものであった。だからこそ、
禅で尊ばれる自由を追い求めたからといって、単なる無法主義の自由を追い求めた場合のような苦悩の
副作用などは伴わない。自由がそのまま善法の遵守にも合致して、無上の快さをも伴わせることとなる。
目的達成のための尽力の過程で苦労があったりするのはともかく、目指している目的が苦悩であったり
するのでは、完全にマゾヒズムという変態志向である。イギリス人のように飯のうまさも分からない
無感覚者となってまでそれを追い求めたとしても、やはりマゾヒズムはマゾヒズムである。
そのような変態志向と、過渡的な苦労とを混同するようなことが決してあってもならないのである。
「盤庚、民に教え、乃じの在位を由い、常旧の服を以って
法度を正さしむ。曰く、敢えて小人の箴むる処を伏すること或る無かれ」
「商王の盤庚は民を教化するために、自分たちの管轄の有司に頼ることと、古来からの旧法によく則ること
とを民たちに促した。そしてこう言った。『身分の低いような人間からの注意すら無視してはならない』と。
(一定の権威の下で古法すら蔑ろにしようとすること自体、度し難い不義に当たるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・大禹謨より)
「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり(既出)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——里仁第四・八より)
これもやはり、言葉で道を聞くことができるなどということからして稀有なことで
あればこそ提言されたことでもある。言葉だけで道が看破される、そんなことは
基本あり得ないから、そんなことがあれば直後に死んでも構わないとしたのである。
当然、言葉ばかりに頼らない、実地からの努力精進が道に到る最善の手段であり、
それに際しての補助的な手段として聖賢の古言などを頼りにすることがある。
「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」というごく当たり前な徳目が、
ただ当たり前な物言い止まりにしか聞こえないこともあれば、本当に道に
到る際の決定的な金言として聞こえる場合もあるのであり、それは当人
たち自身の自前の練達度の如何によってこそ決まることなのである。
道を目指して努力精進を続けていれば自然と、言葉で道を聞けただけでも、
その直後に死んだって構わないぐらいの気前よさでいられるようになるのである。
常日頃から健全な苦労を重ねてきているが故に、それが報われすらしたなら、
もう死んだって構わないぐらいの大きな期待を込められるわけである。
そういう、道の完成の手段としての「言葉を聞く」というのはアリであり、
実際それこそは、筆者の死後まで半永久的にその意味内容を保存し続ける
言葉という媒体の健全な活用法にも当たるのである。始めから言葉ばかりに
頼りっぱなし、行いも全て言葉に頼りきりでいたりするのでは、大した成果も
見込めない上に、言葉という道具の不健全な活用の仕方ともなってしまうのである。
(権力道徳聖書——通称四書五経——里仁第四・八より)
これもやはり、言葉で道を聞くことができるなどということからして稀有なことで
あればこそ提言されたことでもある。言葉だけで道が看破される、そんなことは
基本あり得ないから、そんなことがあれば直後に死んでも構わないとしたのである。
当然、言葉ばかりに頼らない、実地からの努力精進が道に到る最善の手段であり、
それに際しての補助的な手段として聖賢の古言などを頼りにすることがある。
「己れの欲せざる所を人に施すことなかれ」というごく当たり前な徳目が、
ただ当たり前な物言い止まりにしか聞こえないこともあれば、本当に道に
到る際の決定的な金言として聞こえる場合もあるのであり、それは当人
たち自身の自前の練達度の如何によってこそ決まることなのである。
道を目指して努力精進を続けていれば自然と、言葉で道を聞けただけでも、
その直後に死んだって構わないぐらいの気前よさでいられるようになるのである。
常日頃から健全な苦労を重ねてきているが故に、それが報われすらしたなら、
もう死んだって構わないぐらいの大きな期待を込められるわけである。
そういう、道の完成の手段としての「言葉を聞く」というのはアリであり、
実際それこそは、筆者の死後まで半永久的にその意味内容を保存し続ける
言葉という媒体の健全な活用法にも当たるのである。始めから言葉ばかりに
頼りっぱなし、行いも全て言葉に頼りきりでいたりするのでは、大した成果も
見込めない上に、言葉という道具の不健全な活用の仕方ともなってしまうのである。

ための一番の道具となるわけでもない。念仏行における極楽浄土の観想なども、
言葉で表しきれないほどの荘厳であればこそなおのことよいのである。
「南無阿弥陀仏」という言葉もそれ自体が真言や呪文だったりするわけではなく、
ただその言葉通りに阿弥陀様に帰依する心持ちでいることこそが重要なのである。
その領分をよく計り知った上で用いられる「言葉」という道具の有用さは、
それこそ計り知れないほどのものであるわけだけれども、そうでない、扱い方を
間違えた言葉のほうには、確かに限界というものがある。それこそ、適切に
使用される言葉のそれよりも遥かに早くのうちから来たしてしまう限界であり、
その信頼性の脆弱さの故にこそ「扱い方を間違っている」ともいえるわけである。
厳しい精進修行の果てに、悟りに到る真言に与る、その有難さを知っている者が
どうして、始めから言葉ばかりに頼りきりでいようなどとすることがあるだろうか。
それこそ、本人自身の精進と信心の、両方が足りていない証拠といえるのではないか。
「之の子于に征く、聞くこと有るも声無し。允なるかな君子、展に大いに成せり」
「主君が狩りに行かれれば、聞きたいことはあるけれども、もはや声もない。
偉大なるかなかの君子は、そこでこそ真に大成を果たされているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・彤弓之什・車攻より)
いま、欧米聖書圏の横暴によって人類が滅亡の危機に晒されていることも、
聖書信仰が未だに市民権を得たままでいてしまっているからこそ、
ろくに人びとから直視されることもない。聖書の神もまた畏怖して
崇敬するに値する存在であると認められてしまっているものだから、
そうだと思い込んでいる対象が自分たちを致命的な破滅に追い込んで
いることを直視したりするのは、自分たちの過ちを直視することにすら
なってしまう、だからこそ、あえて直視する者すら皆無なままなのである。
聖書信仰と反目し合っているイスラムなども、同じアブラハム教の範疇で、
教義の相違を理由にいがみ合っているだけであるわけだから、聖書の神の
多少なりともの権威の容認にも与してしまっているといえるわけで、
聖書の神こそが人類を滅亡の危機に陥れていることを人びとに
直視させることを助けているとまではいえないわけである。
畏怖したり権威を認めたりすべきでない対象を相応に扱うべきなのは
もちろんだが、だからといって感情的に敵視したりするのでもいけない。
もはやそんなものを有難がっていていい状況ではないということを、
どこまでも冷静に肯んじて行くことこそは本当に必要なことである。
してみれぱ、世界を滅亡の危機から救うためには、聖書信者も信仰を
鞍替えするのではなく、邪信ペースの信仰を一度は捨て去ることこそが
肝要となるのである。邪神を畏怖するような心持ちから改めていかなければ
ならないわけだから、正信に鞍替えすらすればそれでいいというわけでもない。
聖書信仰が未だに市民権を得たままでいてしまっているからこそ、
ろくに人びとから直視されることもない。聖書の神もまた畏怖して
崇敬するに値する存在であると認められてしまっているものだから、
そうだと思い込んでいる対象が自分たちを致命的な破滅に追い込んで
いることを直視したりするのは、自分たちの過ちを直視することにすら
なってしまう、だからこそ、あえて直視する者すら皆無なままなのである。
聖書信仰と反目し合っているイスラムなども、同じアブラハム教の範疇で、
教義の相違を理由にいがみ合っているだけであるわけだから、聖書の神の
多少なりともの権威の容認にも与してしまっているといえるわけで、
聖書の神こそが人類を滅亡の危機に陥れていることを人びとに
直視させることを助けているとまではいえないわけである。
畏怖したり権威を認めたりすべきでない対象を相応に扱うべきなのは
もちろんだが、だからといって感情的に敵視したりするのでもいけない。
もはやそんなものを有難がっていていい状況ではないということを、
どこまでも冷静に肯んじて行くことこそは本当に必要なことである。
してみれぱ、世界を滅亡の危機から救うためには、聖書信者も信仰を
鞍替えするのではなく、邪信ペースの信仰を一度は捨て去ることこそが
肝要となるのである。邪神を畏怖するような心持ちから改めていかなければ
ならないわけだから、正信に鞍替えすらすればそれでいいというわけでもない。
正信のほうを見てみれば、別に念仏者が阿弥陀仏を酷く畏怖している
などということもない。ただ自分を極楽浄土へと導いてくれる都合のいい
仏として崇めているだけで、そこに敬虔な畏怖なども見られないものだから、
聖書信者などからあまり好ましいものとして扱われなかったりもするのである。
しかし、他力本願の愚夫としては、それも身の程にかなったものである。
むしろ自力作善をよくする者こそは、神仏への敬虔な畏敬や、主君や親への
崇敬をも重んじられるものなのであり、それでこそ独力での向上すらもが
見込めるわけである。そうでもなく、別に自助努力での向上を志している
わけでもない人間が、神への畏怖だけは作りこんだりするのは「ごっこ遊び」
もいいとこなわけで、着実な精進が伴っているわけでもないが故に、その
畏怖が悪行の美化のために悪用されることにすらなりかねないわけである。
親や国君への十分な畏敬も抱けないような人間が、架空の神に対してだけは
畏敬を抱いたりすることからして、すでに思い上がりの正当化であることが
紛れもない。そんな偽善者よりはまだ、自らの思い上がりと真摯に向き合って
生きている人間のほうがマシというもの。見た目にはより卑しいにしたって、
心のうちにまだ、本気で自らを反省する余地があるに違いないのだから。
「天を楽しむ者は天下を保んじ、天を畏るる者は其の国を保んず。
(詩に)云く、天の威を畏れて時に之れを保んずると」
「天を楽しむものは天下を平定し、天を畏怖するものは国を平定する。
詩経(我将)にも『天の威を畏れつつ、ここにわが国を安んずる』とある。
(自力作善の権力道徳者が、君父の尊位にも則りつつ、天威をも畏れて
国を平定する。それはそれでありだが、天を楽しめたならなおのことよい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)
などということもない。ただ自分を極楽浄土へと導いてくれる都合のいい
仏として崇めているだけで、そこに敬虔な畏怖なども見られないものだから、
聖書信者などからあまり好ましいものとして扱われなかったりもするのである。
しかし、他力本願の愚夫としては、それも身の程にかなったものである。
むしろ自力作善をよくする者こそは、神仏への敬虔な畏敬や、主君や親への
崇敬をも重んじられるものなのであり、それでこそ独力での向上すらもが
見込めるわけである。そうでもなく、別に自助努力での向上を志している
わけでもない人間が、神への畏怖だけは作りこんだりするのは「ごっこ遊び」
もいいとこなわけで、着実な精進が伴っているわけでもないが故に、その
畏怖が悪行の美化のために悪用されることにすらなりかねないわけである。
親や国君への十分な畏敬も抱けないような人間が、架空の神に対してだけは
畏敬を抱いたりすることからして、すでに思い上がりの正当化であることが
紛れもない。そんな偽善者よりはまだ、自らの思い上がりと真摯に向き合って
生きている人間のほうがマシというもの。見た目にはより卑しいにしたって、
心のうちにまだ、本気で自らを反省する余地があるに違いないのだから。
「天を楽しむ者は天下を保んじ、天を畏るる者は其の国を保んず。
(詩に)云く、天の威を畏れて時に之れを保んずると」
「天を楽しむものは天下を平定し、天を畏怖するものは国を平定する。
詩経(我将)にも『天の威を畏れつつ、ここにわが国を安んずる』とある。
(自力作善の権力道徳者が、君父の尊位にも則りつつ、天威をも畏れて
国を平定する。それはそれでありだが、天を楽しめたならなおのことよい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)
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スレッドタイトル:聖書 Part10