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聖書 Part10
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地球人類にとっての最も標準的な聖書として、誰しもがその地位を疑うことのない聖書、四書五経。
その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

その全文はあくまで二千二百年以上前に用意されたものではあるものの(偽古文尚書の一部を除く)、
論語・大学・中庸・孟子の四書と、易経・詩経・書経(尚書)・礼記・春秋の五経を合わせて
「四書五経」として定型化されたのは宋代以降、朱子がこれらの経書を特薦してからである。
それ以前は四書五経だけでなく、他の数多の経書が四書五経並みかそれ以上もの扱いすらをも受けていた。
今でも「孝経」などが儒学の入門書として読むべき筆頭格として重んじられたりもしているが、
昔はそのような扱いすらをも受けていたのに、今では相当に程度の低い経書として扱われるように
なった儒書もいくらかあり、その代表格に性悪論を説く荀子の教説集「荀子」がありもする。
荀子の教説は、孟子の教説(性善論や臨戦論など)と決定的に食い違っている部分があり、
実際に荀子自身も「荀子」非十二子第六で孟子を槍玉に挙げつつその主張を非難するなどしている。
そのため、新儒学の大家である朱子が孟子の教説のほうに軍配を挙げたことを通じて、荀子の教説
のほうは「あくまで反面教師として扱うべきもの」として取り扱われるようになったのである。
ただ、荀子の自説はともかく、その知識や博学さは目を見張るものがある。「荀子」を実際に読めば
分かるとおり、単なる学知の披露度では孟子以上であり、文飾にかけても当時の究極級のものであった
だろうことがうかがえる。(そのため、諸子百家の文筆が粗雑で典雅さに欠けると非難していた
司馬遷までもが、「史記」礼書で「荀子」の文章を多量に引用するなどしてもいる)
にもかかわらず荀子は孟子以下とされ、朱子学はおろかその他の新儒学すらもが、荀子以上にも孟子を
尊重する道を歩んでいったのである。それはなぜかといえば、孟子の教説は簡易であっても誠実さや
情熱に満ちている一方、荀子の教説は博学ではあっても皮相的で誠実さにも欠けるものだったからである。

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真理によって救われることがあるにしろないにしろ、真理に違う邪教への帰依などが、
真理に即した救いに与れる可能性を狭めていることには違いないのである。そんな過ち
すら犯していなければ、真理によって救われることはおろか、そもそも救われなければ
いられないような苦しみの中に陥れられるようなことすら始めからなくて済む選択肢
というものが無数にすら存在しているわけで、真理と共なる救済や破滅の防止を欲する
というのなら、邪教への帰依などが最悪級の遠回りとなることには違いないのである。
それでいて、邪教が提示する数々の誤謬もまた、真理に相反するものであればこそ、
真理じみていたのでもある。邪まな誤謬というもの自体、真理あってこそのもの
だったわけだから、所詮は真理にまつわる諸事のうちであったのだと言えなくもない。
真理が真理であり、誤謬が誤謬であることを確証するための背理であったのだという
運命を受け入れるのならば、それ相応の寛大な対処というものも期待できるのである。
「父なくんば何をか怙まん、母なくんば何をか恃まん。
(ここまで既出)出でては則ち恤いを銜み、入りては則ち至しき靡し」
「実の父母でなければ、いったい誰を拠り所にしていいものか。(当然他には誰もいない。
親を拠り所にするような正しい姿勢でいるのでなければ)外に出ても憂いに苛まれるばかり、
内に入っても親しむ相手もいない。(真理に導きいれられるかどうか以前の問題)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・蓼莪より)
真理に即した救いに与れる可能性を狭めていることには違いないのである。そんな過ち
すら犯していなければ、真理によって救われることはおろか、そもそも救われなければ
いられないような苦しみの中に陥れられるようなことすら始めからなくて済む選択肢
というものが無数にすら存在しているわけで、真理と共なる救済や破滅の防止を欲する
というのなら、邪教への帰依などが最悪級の遠回りとなることには違いないのである。
それでいて、邪教が提示する数々の誤謬もまた、真理に相反するものであればこそ、
真理じみていたのでもある。邪まな誤謬というもの自体、真理あってこそのもの
だったわけだから、所詮は真理にまつわる諸事のうちであったのだと言えなくもない。
真理が真理であり、誤謬が誤謬であることを確証するための背理であったのだという
運命を受け入れるのならば、それ相応の寛大な対処というものも期待できるのである。
「父なくんば何をか怙まん、母なくんば何をか恃まん。
(ここまで既出)出でては則ち恤いを銜み、入りては則ち至しき靡し」
「実の父母でなければ、いったい誰を拠り所にしていいものか。(当然他には誰もいない。
親を拠り所にするような正しい姿勢でいるのでなければ)外に出ても憂いに苛まれるばかり、
内に入っても親しむ相手もいない。(真理に導きいれられるかどうか以前の問題)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・蓼莪より)
人間は、自らの行いに相応の対価を得るか、回向を期待する対象への他力本願によって
利益に授かるかのいずれかの方法によってこそ、着実な収益を上げて行くことができる。
たとえば、天下万人を利する仁君がいたところで、自らがその為政に背いて帰服を拒否
したりしたなら、当然利益に与れるものではない。さらには、仁君による為政を封建制
ごと放逐し去ったりしたなら、自他共に徳治による恵みなどを受けられなくなってしまう。
だからといって、自分自身の我田引水ばかりを深刻化させて行ったり、仁政によるわけでも
ない不審な手法によって無制限の恵みを与えてくれる何者かなどに帰依することでの利益
などを企図したりしたなら、そのせいでのしっぺ返しが後々に跳ね飛んで来ることともなる。
自力によるのであれ他力によるのであれ、後々のしっぺ返しなどがなくて済むような
利益の追い求め方こそは、非常識に莫大な私益をもたらすようなこともない上に、
自力の場合には多大なる自助努力を、他力の場合には帰服対象への至心なる崇敬を
必要とするものである。天下万人の公益寄与を企図する仁政などがまさにそれであり、
それを志したからといって何らのしっぺ返しなどを恐れたりする必要もない一方で、
仁政の旗手となる君臣たちには挺身級の尽力が必要となるし、その帝業がもたらす利益に
与る民たちもまた、仁君たちへのお上としての崇敬を欠かしてはならないものとなる。
上記のような利殖上の障壁は、他者の利益を損なってでも自分たちの利益を貪り尽くす
我田引水すら可とするのであれば、全く以って立ちふさがりもしないのである。自分たちが
世の中において十分なほどの矮小集団でいて、自分たち以外の多数派から富を巻き上げるように
したなら、それを自力で企図する者にしろ、他力本願で与る者にしろ、大した努力も他者への
入念なる崇敬も必要としないままに、膨大な富を巻き上げての栄華に与れたりするのである。
利益に授かるかのいずれかの方法によってこそ、着実な収益を上げて行くことができる。
たとえば、天下万人を利する仁君がいたところで、自らがその為政に背いて帰服を拒否
したりしたなら、当然利益に与れるものではない。さらには、仁君による為政を封建制
ごと放逐し去ったりしたなら、自他共に徳治による恵みなどを受けられなくなってしまう。
だからといって、自分自身の我田引水ばかりを深刻化させて行ったり、仁政によるわけでも
ない不審な手法によって無制限の恵みを与えてくれる何者かなどに帰依することでの利益
などを企図したりしたなら、そのせいでのしっぺ返しが後々に跳ね飛んで来ることともなる。
自力によるのであれ他力によるのであれ、後々のしっぺ返しなどがなくて済むような
利益の追い求め方こそは、非常識に莫大な私益をもたらすようなこともない上に、
自力の場合には多大なる自助努力を、他力の場合には帰服対象への至心なる崇敬を
必要とするものである。天下万人の公益寄与を企図する仁政などがまさにそれであり、
それを志したからといって何らのしっぺ返しなどを恐れたりする必要もない一方で、
仁政の旗手となる君臣たちには挺身級の尽力が必要となるし、その帝業がもたらす利益に
与る民たちもまた、仁君たちへのお上としての崇敬を欠かしてはならないものとなる。
上記のような利殖上の障壁は、他者の利益を損なってでも自分たちの利益を貪り尽くす
我田引水すら可とするのであれば、全く以って立ちふさがりもしないのである。自分たちが
世の中において十分なほどの矮小集団でいて、自分たち以外の多数派から富を巻き上げるように
したなら、それを自力で企図する者にしろ、他力本願で与る者にしろ、大した努力も他者への
入念なる崇敬も必要としないままに、膨大な富を巻き上げての栄華に与れたりするのである。
とはいえ、そのような我田引水を可とする利殖には、因果応報のしっぺ返しが完全に
不可分なものとして伴って来る。この世に存在する悪因苦果の因果応報のうちでも、
最も完璧に因果律が保存された類いの因果応報としてのしっぺ返しが確実に伴って来る。
にもかかわらず、そればかりを追い求めて来たのが聖書信者であるものだから、
聖書圏では非聖書圏並みに国や家が長期の安寧を保てていた試しもない。ユダヤ教徒
なども聖書圏の中で生じては滅び、生じて亡びするあぶれ者集団としてのみ存在し続けて
来たわけだから、仮に今これから根絶されるとした所で、断然が惜しまれるべき伝統的系統
などが一つでも存在しているようなこともないのである。(最長かつ最大級のユダヤ財閥
であるロスチャイルド財閥ですら、日本の住友家などにその古さで及ばないでいる)
特定の家や国の安寧を約束するわけでもなく、聖書を信仰する人間を散発的に短期の
栄華に与らせては突き落とすということを繰り返して来たのが聖書信仰であるものだから、
聖書圏は聖書を拠り所とするところにしか自分たちの同一性を還元できない体たらくと化して
しまっている。だからこそ聖書信仰そのものまでをも廃絶してしまうことには極大級の抵抗感
を偉大してしまうのに違いないが、もはや聖書を信仰し続けること自体からして持たない程にも、
我田引水による利殖を可とし続けてきたことの悪因苦果が極まってしまっているのである。
聖書信仰がその根本から潰えることで、「諸法因果」の絶対真理が万人に向けて確証される
こととなる。我田引水が悪因苦果の因果応報に結び付くことは昔から仏門などによって固く
戒められて来てはいるが、所詮はいち信教の教義に過ぎないものとして未だ軽んじられたまま
でいるところがある。聖書圏である欧米はおろか、国を挙げての仏門への帰依も篤かった
この日本においてですら、儲けにしか目が行かないような承認根性の持ち主が一定数以上に
巣食ったままでいる。そのような洋の東西を問わぬ諸法因果のわきまえへの手落ちを是正して
行く機縁に聖書信仰の根絶がなったならば、聖書信仰もまた、>>216で書いたような
意味での絶対真理の探究への貢献者ともなることができるのである。
不可分なものとして伴って来る。この世に存在する悪因苦果の因果応報のうちでも、
最も完璧に因果律が保存された類いの因果応報としてのしっぺ返しが確実に伴って来る。
にもかかわらず、そればかりを追い求めて来たのが聖書信者であるものだから、
聖書圏では非聖書圏並みに国や家が長期の安寧を保てていた試しもない。ユダヤ教徒
なども聖書圏の中で生じては滅び、生じて亡びするあぶれ者集団としてのみ存在し続けて
来たわけだから、仮に今これから根絶されるとした所で、断然が惜しまれるべき伝統的系統
などが一つでも存在しているようなこともないのである。(最長かつ最大級のユダヤ財閥
であるロスチャイルド財閥ですら、日本の住友家などにその古さで及ばないでいる)
特定の家や国の安寧を約束するわけでもなく、聖書を信仰する人間を散発的に短期の
栄華に与らせては突き落とすということを繰り返して来たのが聖書信仰であるものだから、
聖書圏は聖書を拠り所とするところにしか自分たちの同一性を還元できない体たらくと化して
しまっている。だからこそ聖書信仰そのものまでをも廃絶してしまうことには極大級の抵抗感
を偉大してしまうのに違いないが、もはや聖書を信仰し続けること自体からして持たない程にも、
我田引水による利殖を可とし続けてきたことの悪因苦果が極まってしまっているのである。
聖書信仰がその根本から潰えることで、「諸法因果」の絶対真理が万人に向けて確証される
こととなる。我田引水が悪因苦果の因果応報に結び付くことは昔から仏門などによって固く
戒められて来てはいるが、所詮はいち信教の教義に過ぎないものとして未だ軽んじられたまま
でいるところがある。聖書圏である欧米はおろか、国を挙げての仏門への帰依も篤かった
この日本においてですら、儲けにしか目が行かないような承認根性の持ち主が一定数以上に
巣食ったままでいる。そのような洋の東西を問わぬ諸法因果のわきまえへの手落ちを是正して
行く機縁に聖書信仰の根絶がなったならば、聖書信仰もまた、>>216で書いたような
意味での絶対真理の探究への貢献者ともなることができるのである。
「克く邦のために勤め、克く家を倹し、自ら満仮せず、惟れ汝じの賢なり
(以下既出)満は損を招き、謙は益を受く。時れ乃ち天の道なり」
「よく国のための事業に励み、自らの家では倹約に努め、自分ばかりが虚仮に満たされよう
などともしない。これはおまえ(禹)の賢さに基づく立派な振る舞いだといえる。
満たされようとばかりすることはかえって損を招く一方で、謙りに勤めていたなら
(かえって長期的な)利益となる。これが天道であるのだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・大禹謨より)
(以下既出)満は損を招き、謙は益を受く。時れ乃ち天の道なり」
「よく国のための事業に励み、自らの家では倹約に努め、自分ばかりが虚仮に満たされよう
などともしない。これはおまえ(禹)の賢さに基づく立派な振る舞いだといえる。
満たされようとばかりすることはかえって損を招く一方で、謙りに勤めていたなら
(かえって長期的な)利益となる。これが天道であるのだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・大禹謨より)
妾腹の私生児のような恵まれない境遇に生まれたことに心を苛まれて不埒な
軽挙妄動に及んだりしたならば、そのような人間は世の中に負けたのだといえる。
立派な母親を持てなかったことや、親に認知もしてもらえなかったことなどは、
世の中の価値基準に即してこそ「恥」と見なされることであり、世の中と価値観を
共にすればこそ当事者も深く恥じ入るのである。実の父親が誰とも知れないことを
いいことに、実在もしない超越神を我が父に見立てての邪教を触れ回ったイエス
なんぞも、自らの境遇をひどく恥じ入る所があったからこそ、そのような妄動に
及んでしまったわけだから、これこそは世の中に負けた典型であるといえる。
同じような不遇の中に生まれ育ちながらも、学者や士大夫のごとき公正な身分に
即して名を成した孔子などは、世の中に勝ったとまでいかずとも負けなかったと
ぐらいは言える一方で、イエスこそは世の中に負け去った輩だったといえる。
故にこそ「恥の上塗り」であったともいえる。孔子は恥を漱いで偉人として尊ばれる
立場を手に入れたが、イエスはより恥ずべき醜態を晒したのである。その恥さらし
加減があまりにも見るに堪えなかったものだから、元から精神薄弱者の多かった極西
の地で、それこそを神の姿と崇めるような転倒夢想のブームをも巻き起こしたのである。
精神薄弱者でいて、なおかつ自分たちも世の中への引け目を感じていたものだから、
実際には恥の上塗りに過ぎないイエスの妄動などを絶対神に見立てたがったのである。
当時はインドや中国のような東洋社会こそが世界の三分の二以上のGDPを占める最隆盛
を誇っていた時代であり、西洋などは本当に世界の片隅の小部落社会でしかなかった
わけである。今でこそローマ帝国が隆盛を誇っていたようなプロパガンダ宣伝が
触れ回られているけれども、実際には極西の弱小国の緩やかな連合とでもいった
程度のものでしかなかったわけで、人々の劣等感も甚だしかったものだから、
イエスによる恥さらしの極みなどを崇めたがりもしたのである。 http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/thought/img2/13615953030221.jpg 152 114 www.nicovideo.jp 2272334
軽挙妄動に及んだりしたならば、そのような人間は世の中に負けたのだといえる。
立派な母親を持てなかったことや、親に認知もしてもらえなかったことなどは、
世の中の価値基準に即してこそ「恥」と見なされることであり、世の中と価値観を
共にすればこそ当事者も深く恥じ入るのである。実の父親が誰とも知れないことを
いいことに、実在もしない超越神を我が父に見立てての邪教を触れ回ったイエス
なんぞも、自らの境遇をひどく恥じ入る所があったからこそ、そのような妄動に
及んでしまったわけだから、これこそは世の中に負けた典型であるといえる。
同じような不遇の中に生まれ育ちながらも、学者や士大夫のごとき公正な身分に
即して名を成した孔子などは、世の中に勝ったとまでいかずとも負けなかったと
ぐらいは言える一方で、イエスこそは世の中に負け去った輩だったといえる。
故にこそ「恥の上塗り」であったともいえる。孔子は恥を漱いで偉人として尊ばれる
立場を手に入れたが、イエスはより恥ずべき醜態を晒したのである。その恥さらし
加減があまりにも見るに堪えなかったものだから、元から精神薄弱者の多かった極西
の地で、それこそを神の姿と崇めるような転倒夢想のブームをも巻き起こしたのである。
精神薄弱者でいて、なおかつ自分たちも世の中への引け目を感じていたものだから、
実際には恥の上塗りに過ぎないイエスの妄動などを絶対神に見立てたがったのである。
当時はインドや中国のような東洋社会こそが世界の三分の二以上のGDPを占める最隆盛
を誇っていた時代であり、西洋などは本当に世界の片隅の小部落社会でしかなかった
わけである。今でこそローマ帝国が隆盛を誇っていたようなプロパガンダ宣伝が
触れ回られているけれども、実際には極西の弱小国の緩やかな連合とでもいった
程度のものでしかなかったわけで、人々の劣等感も甚だしかったものだから、
イエスによる恥さらしの極みなどを崇めたがりもしたのである。 http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/thought/img2/13615953030221.jpg 152 114 www.nicovideo.jp 2272334
キリスト教などというものが西洋社会に蔓延し始めたきっかけからして、ろくな
ものではなかった。世の中への引け目ばかりを抱いているような陰湿な神経の持ち主
たちが、妾腹の私生児の恥の上塗りを神として崇めたがったりしたその最原初の
あり方からしてすでに、世界史上最悪級の人類にとっての失態だったのである。
そこですでに、西洋人の世界的敗北もまた確定してしまったのである。
孔子のような、着実に自らの身の上の恥を漱いで行った賢人こそを尊崇したの
ならともかく、恥の上塗りをやらかしたような愚人こそを絶対神にまで見立てて
崇め立てたりしたのだから、そんなことを至尊の伝統ともして来た時点ですでに、
西洋人が地球人類のうちでも最劣等の人種とされることもまた決していたのである。
ただ自らの身の上が恥ずべきものだったりするだけなら、まだその恥の漱ぎようが
あるが、先天的な恥を自らの妄動という後天的な恥によって上塗りしたりしたのなら、
もはや恥の漱ぎようもないというもの、そしてしそのようなあり方こそを西洋人は
是とした。それこそ、二度と世の中に勝てなくなる烙印というものだったわけで、
その烙印を捺されたままでの妄動をエスカレートさせて世界侵略にまで及んだものの、
その侵略や植民の仕方があまりにも無責任で身勝手なものであったために、自分たち
が世界に降伏するのでもなければ自分たちごとの人類の滅亡すら免れ得ない事態をも
招いてしまった。これも、始めから負けが確定していた者の案の定な末路だといえる。
世の中に勝つか負けるかでいうところの負けを喫した。そもそも世の中と戦ったり
しようとするような公共意識の欠如からしてあるべきことではなく、そのような
不埒な観念の持ち主である事からして、すでに敗北の呼び水であったともいえる。
人の身でいながら世の中を敵視するようなことからして、あるべきではないのである。
ものではなかった。世の中への引け目ばかりを抱いているような陰湿な神経の持ち主
たちが、妾腹の私生児の恥の上塗りを神として崇めたがったりしたその最原初の
あり方からしてすでに、世界史上最悪級の人類にとっての失態だったのである。
そこですでに、西洋人の世界的敗北もまた確定してしまったのである。
孔子のような、着実に自らの身の上の恥を漱いで行った賢人こそを尊崇したの
ならともかく、恥の上塗りをやらかしたような愚人こそを絶対神にまで見立てて
崇め立てたりしたのだから、そんなことを至尊の伝統ともして来た時点ですでに、
西洋人が地球人類のうちでも最劣等の人種とされることもまた決していたのである。
ただ自らの身の上が恥ずべきものだったりするだけなら、まだその恥の漱ぎようが
あるが、先天的な恥を自らの妄動という後天的な恥によって上塗りしたりしたのなら、
もはや恥の漱ぎようもないというもの、そしてしそのようなあり方こそを西洋人は
是とした。それこそ、二度と世の中に勝てなくなる烙印というものだったわけで、
その烙印を捺されたままでの妄動をエスカレートさせて世界侵略にまで及んだものの、
その侵略や植民の仕方があまりにも無責任で身勝手なものであったために、自分たち
が世界に降伏するのでもなければ自分たちごとの人類の滅亡すら免れ得ない事態をも
招いてしまった。これも、始めから負けが確定していた者の案の定な末路だといえる。
世の中に勝つか負けるかでいうところの負けを喫した。そもそも世の中と戦ったり
しようとするような公共意識の欠如からしてあるべきことではなく、そのような
不埒な観念の持ち主である事からして、すでに敗北の呼び水であったともいえる。
人の身でいながら世の中を敵視するようなことからして、あるべきではないのである。
「春秋に義戦無し。彼、此れより善きは則ち之れ有り。
征者は上として下を伐つなり。敵国相い征せざるなり」
「(春秋時代の諸侯の身勝手な抗争を記録した孔子編纂の歴史書である)『春秋経』には、
道義に根ざした戦いというものは一つも載っていない。あっちの国がこっちの国より
マシという程度のことはある(が、本当に道義に適った戦いでの勝者などはいない)。
勅命に則った上からの下への征伐であれば道義にも適うが、ほとんど同等な国同士が
敵同士としていがみ合って戦ったりするのはそのような征伐の条件を満たしていないから。
(庶人が勝手に世の中を敵視して戦ったりすることも、これと同等かそれ以上の不義
だといえる。戦いを本是とする修羅道もそれはそれで一つの道だが、決して理想とすべき
道などでもない。理想の所では、勅命に適った征伐のみを義戦とし、それ以外の私的な
戦いなどは道義に沿わぬものとしてできる限り避けるぐらいの心持ちでいるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二より)
征者は上として下を伐つなり。敵国相い征せざるなり」
「(春秋時代の諸侯の身勝手な抗争を記録した孔子編纂の歴史書である)『春秋経』には、
道義に根ざした戦いというものは一つも載っていない。あっちの国がこっちの国より
マシという程度のことはある(が、本当に道義に適った戦いでの勝者などはいない)。
勅命に則った上からの下への征伐であれば道義にも適うが、ほとんど同等な国同士が
敵同士としていがみ合って戦ったりするのはそのような征伐の条件を満たしていないから。
(庶人が勝手に世の中を敵視して戦ったりすることも、これと同等かそれ以上の不義
だといえる。戦いを本是とする修羅道もそれはそれで一つの道だが、決して理想とすべき
道などでもない。理想の所では、勅命に適った征伐のみを義戦とし、それ以外の私的な
戦いなどは道義に沿わぬものとしてできる限り避けるぐらいの心持ちでいるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二より)
結局、人が人を支配するということからして、ある程度以上に大規模な都市社会における必要悪であり、
最小限に止められるに越したこともないことである。だからこそ、自分たちでは礼楽による作為的な
統治を本務とする儒者もまた、無為自然の放任志向である道家思想をも副次的な尊重の対象とするのである。
ただ、支配をするからには最善も尽くすのである。
最も有効な支配を心がけるからこそ、最も純正な為政者としての君臣による礼楽統治を敷こうとする、
それが儒家思想における必然的な帰結でもあるわけだが、なぜか今では、君臣による封建統治などが
うまくいくわけがないかのような思い込みがまかり通ることともなってしまっている。それは、
純正な封建統治によっては特筆して冷遇の対象となる商人身分への過保護に連動して来たして
しまっている全くの事実誤認であり、むしろ君臣関係を徹底した封建統治によるのでもない限りは、
世の中の統治もまた持続的にうまくいくようなことがないというのが実際である。
封建統治そのものは堅苦しいものであるけれども、堅苦しければこそ世の中の乱脈を最小限に控えられもする。
そこで「人が人を支配する」ということの健全性が善くも悪しくも極まるのであり、悪しき側面としての
束縛志向を緩和するためには道家の無為自然志向などをも参考的な尊重の対象として行くべきなのである。
そのようなメリハリこそが世の中を最善の平穏に導くわけだけれども、自由主義者や民主主義者たるや、
封建統治の束縛志向という側面ばかりを捉えて「悪しき蛮習だ」などと決めつけたがる。
それで封建主義ほどの束縛性を伴わないものとしての民主主義や法治主義をよりよい統治理念として
推薦したがるわけだが、そこでこそ逆に労働義務だとか納税義務だとかの、道家思想にも
決定的に反する作為的支配による人々へのがんじがらめを講じてしまったりもするのである。
最小限に止められるに越したこともないことである。だからこそ、自分たちでは礼楽による作為的な
統治を本務とする儒者もまた、無為自然の放任志向である道家思想をも副次的な尊重の対象とするのである。
ただ、支配をするからには最善も尽くすのである。
最も有効な支配を心がけるからこそ、最も純正な為政者としての君臣による礼楽統治を敷こうとする、
それが儒家思想における必然的な帰結でもあるわけだが、なぜか今では、君臣による封建統治などが
うまくいくわけがないかのような思い込みがまかり通ることともなってしまっている。それは、
純正な封建統治によっては特筆して冷遇の対象となる商人身分への過保護に連動して来たして
しまっている全くの事実誤認であり、むしろ君臣関係を徹底した封建統治によるのでもない限りは、
世の中の統治もまた持続的にうまくいくようなことがないというのが実際である。
封建統治そのものは堅苦しいものであるけれども、堅苦しければこそ世の中の乱脈を最小限に控えられもする。
そこで「人が人を支配する」ということの健全性が善くも悪しくも極まるのであり、悪しき側面としての
束縛志向を緩和するためには道家の無為自然志向などをも参考的な尊重の対象として行くべきなのである。
そのようなメリハリこそが世の中を最善の平穏に導くわけだけれども、自由主義者や民主主義者たるや、
封建統治の束縛志向という側面ばかりを捉えて「悪しき蛮習だ」などと決めつけたがる。
それで封建主義ほどの束縛性を伴わないものとしての民主主義や法治主義をよりよい統治理念として
推薦したがるわけだが、そこでこそ逆に労働義務だとか納税義務だとかの、道家思想にも
決定的に反する作為的支配による人々へのがんじがらめを講じてしまったりもするのである。
今一度、「まだマシな部類のもの」としての、純正な封建統治の存在価値を見直すべき時が来ている。
封建統治とて、人が人を支配するという側面がある時点で、一定の辟易を抱かざるを得ないものでは
あるけれども、最低限の統制すら失っての人々の無制限な放辟邪侈を許容した挙げ句に、人類滅亡級の
破滅を招いたりする自由主義的民主主義的、カルト宗教的支配よりはよっぽどリスクも低くて、人々が嫌な
思いをしたりすることも少なくて済むのが封建統治であるという厳然たる現実に目を向けねばならない。
重ねて言うが、支配そのものはあくまで必要悪である。人が人を支配することなんてないに越したことは
ないのだけれども、全くないのでは破滅級の危害すら免れ得ない、だから仕方なく作為的支配を敷く、
敷くからには四民の序列も厳格に正すような純正な封建統治を敷いて行くべきであり、
ただその支配の強度に加減を利かせて行くようにもするのが肝要となるのである。
徳治が排されて法治支配が敷かれている現代においてですら、
警察官あたりの庶民に対する強権行使の加減などは目に余るものがある。それでいて、
目付のような自浄作用の要となる身分を設置することもなく、身内同士での腐敗は平気で
揉み消していたりするわけだから、それこそ封建時代の武家以上の嫌らしさというものである。
強権も行使できるような士分の人間は敬いの対象とされるのと引き換えに、
致命的な不手際を犯そうものなら本当に切腹やお家取り潰しも辞されないようにしたならば、
今と比べても、どれほど人々の溜め込む鬱屈が少なくて済むだろうか。
「朋は家に仇を作し、権を脅して相滅す。無辜天に籲び、穢徳彰聞す」
「友人程度の疎遠な関係の者同士で家に仇を成し、公正に取り扱われるべき権能を脅かして不正に濫用する
ことでお互いに滅ぼし合っている。罪なき人々は天に泣き叫び、その穢れた性分も明らかなものとなっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓中より)
封建統治とて、人が人を支配するという側面がある時点で、一定の辟易を抱かざるを得ないものでは
あるけれども、最低限の統制すら失っての人々の無制限な放辟邪侈を許容した挙げ句に、人類滅亡級の
破滅を招いたりする自由主義的民主主義的、カルト宗教的支配よりはよっぽどリスクも低くて、人々が嫌な
思いをしたりすることも少なくて済むのが封建統治であるという厳然たる現実に目を向けねばならない。
重ねて言うが、支配そのものはあくまで必要悪である。人が人を支配することなんてないに越したことは
ないのだけれども、全くないのでは破滅級の危害すら免れ得ない、だから仕方なく作為的支配を敷く、
敷くからには四民の序列も厳格に正すような純正な封建統治を敷いて行くべきであり、
ただその支配の強度に加減を利かせて行くようにもするのが肝要となるのである。
徳治が排されて法治支配が敷かれている現代においてですら、
警察官あたりの庶民に対する強権行使の加減などは目に余るものがある。それでいて、
目付のような自浄作用の要となる身分を設置することもなく、身内同士での腐敗は平気で
揉み消していたりするわけだから、それこそ封建時代の武家以上の嫌らしさというものである。
強権も行使できるような士分の人間は敬いの対象とされるのと引き換えに、
致命的な不手際を犯そうものなら本当に切腹やお家取り潰しも辞されないようにしたならば、
今と比べても、どれほど人々の溜め込む鬱屈が少なくて済むだろうか。
「朋は家に仇を作し、権を脅して相滅す。無辜天に籲び、穢徳彰聞す」
「友人程度の疎遠な関係の者同士で家に仇を成し、公正に取り扱われるべき権能を脅かして不正に濫用する
ことでお互いに滅ぼし合っている。罪なき人々は天に泣き叫び、その穢れた性分も明らかなものとなっている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓中より)
たとえば、一度や二度ぐらいは人々に分別ある良心が育まれたことのある
日本や中国のような国家社会においても、世相の乱れや文化破壊などによって
容易にその良心の蓄えが損なわれる。人々から良心が失われたものだから
引っ切り無しの争いにも没頭するようになり、何が正しくて何が間違って
いるかなどよりも、ただ自分が争いに勝って生き延びることばかりが至上の
命題とされるようになる。相手の考えのほうが完璧に正しくて、自分の考えの
ほうが完全に間違っているとしたって、とにかく自分が勝って生き延びる
ために間違っている自己意見のほうを徹底的に押し通そうとしたりする。
そこで「鹿をも馬と言い張る」バカの心理状態が確立されるわけだが、
その馬鹿の状態こそは、俗に「お花畑」などとも言われる、
一種の恍惚状態を人々にもたらすものともなっている。
分別ある良心を堅く守り通している所でもまた、孟子が抱いていたとも
いう「浩然の気」と呼ばれる清清しい心持ちが得られもする。これこそは、
俗世で俗人が俗人であるままに得られる悟りとも言えるわけで、麻薬的陶酔
などとは無縁である代わりに、恒常的な清清しさと共にあることができる。
一方で、馬鹿の心理状態というのはまさに麻薬中毒にも近似するものであり、
鹿を馬だなどと頑なに決め付ける心持ちと共に多大なる陶酔が得られる一方で、
平静状態に返ってみれば多大なる虚無感に囚われるものである。それは、時に
自殺衝動にすら発展しかねないものなので、馬鹿の心理状態を好む人間という
のは、引っ切り無しの感情の焼け付きを欲するようになってしまうのである。
(そのために、際限のない富の貪りなどにすら及んでしまうようにもなる)
日本や中国のような国家社会においても、世相の乱れや文化破壊などによって
容易にその良心の蓄えが損なわれる。人々から良心が失われたものだから
引っ切り無しの争いにも没頭するようになり、何が正しくて何が間違って
いるかなどよりも、ただ自分が争いに勝って生き延びることばかりが至上の
命題とされるようになる。相手の考えのほうが完璧に正しくて、自分の考えの
ほうが完全に間違っているとしたって、とにかく自分が勝って生き延びる
ために間違っている自己意見のほうを徹底的に押し通そうとしたりする。
そこで「鹿をも馬と言い張る」バカの心理状態が確立されるわけだが、
その馬鹿の状態こそは、俗に「お花畑」などとも言われる、
一種の恍惚状態を人々にもたらすものともなっている。
分別ある良心を堅く守り通している所でもまた、孟子が抱いていたとも
いう「浩然の気」と呼ばれる清清しい心持ちが得られもする。これこそは、
俗世で俗人が俗人であるままに得られる悟りとも言えるわけで、麻薬的陶酔
などとは無縁である代わりに、恒常的な清清しさと共にあることができる。
一方で、馬鹿の心理状態というのはまさに麻薬中毒にも近似するものであり、
鹿を馬だなどと頑なに決め付ける心持ちと共に多大なる陶酔が得られる一方で、
平静状態に返ってみれば多大なる虚無感に囚われるものである。それは、時に
自殺衝動にすら発展しかねないものなので、馬鹿の心理状態を好む人間という
のは、引っ切り無しの感情の焼け付きを欲するようになってしまうのである。
(そのために、際限のない富の貪りなどにすら及んでしまうようにもなる)
浩然の気を伴う良心ある心理状態と、麻薬的陶酔を伴う馬鹿の心理状態とが、
「人間が自らの心持ちによって固定化する磐石な心理状態」の双璧となっている。
片や健全な心持ちである一方、片や不健全の極みという他ない心持ちである
わけだから、当然良心ある心理状態を推奨し、馬鹿の心理状態を戒めるように
して行くべきでもあるわけだが、極度の乱世などにおいては、むしろ馬鹿の
心理状態に陥ってしまっているような人間のほうが世の中の主導権すら握るように
なってしまっていたりする。もちろん馬鹿ばかりでは世の中もままならないから、
乱世といえども馬鹿とまではいかない平常心の持ち主がこの世の中の生命線を
司り続けて居てくれたりするわけだが、そのような人間とて、浩然の気を伴う
良心までをも抱けていたりすることはほとんどないわけだから、そうともいかず、
なおかつ完全なるバカにまではなれないでいる自分たちの有り様がバカどもから
「負け組」扱いされるようなことにすらなってしまい、逆に自分たちのほうもまた、
バカゆえのイケイケによってこそ暴利を巻き上げているような連中を「勝ち組」
などとして崇め立てるようなザマにすら陥ってしまったりするのである。
権力を握った馬鹿が世の中を破滅へと陥れている昨今、馬鹿は馬鹿で適切な
駆除の対象とするのみとして、それで、心持ちが堂に入った人間がこの世から
いなくなるのでは、馬鹿といえども羨望する対象があったればこそ、自分たちも
心の平安を得られていた大多数の庶民が多大なる不安にかられることともなる。
だからこそ、新たな心の拠り所であると共に、真に拠り所とすべき殿堂入りの
心持ちとしての、浩然の気を伴う良心というものを尊んでも行くべきなのである。
「否を傾く。先には否がり後には喜ぶ。否終わるに傾く、何ぞ長かる可けんや」
「(小人が権力を握って乱世をもたらしているような)否塞の時が傾きかけている。
傾きかけているからには終焉も間近なので、最初のうちはまだ塞がり気味でも、
最終的には喜ばしい結果となる。(否塞の時には喜んだりもしないのが吉である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・上九‐象伝より)
「人間が自らの心持ちによって固定化する磐石な心理状態」の双璧となっている。
片や健全な心持ちである一方、片や不健全の極みという他ない心持ちである
わけだから、当然良心ある心理状態を推奨し、馬鹿の心理状態を戒めるように
して行くべきでもあるわけだが、極度の乱世などにおいては、むしろ馬鹿の
心理状態に陥ってしまっているような人間のほうが世の中の主導権すら握るように
なってしまっていたりする。もちろん馬鹿ばかりでは世の中もままならないから、
乱世といえども馬鹿とまではいかない平常心の持ち主がこの世の中の生命線を
司り続けて居てくれたりするわけだが、そのような人間とて、浩然の気を伴う
良心までをも抱けていたりすることはほとんどないわけだから、そうともいかず、
なおかつ完全なるバカにまではなれないでいる自分たちの有り様がバカどもから
「負け組」扱いされるようなことにすらなってしまい、逆に自分たちのほうもまた、
バカゆえのイケイケによってこそ暴利を巻き上げているような連中を「勝ち組」
などとして崇め立てるようなザマにすら陥ってしまったりするのである。
権力を握った馬鹿が世の中を破滅へと陥れている昨今、馬鹿は馬鹿で適切な
駆除の対象とするのみとして、それで、心持ちが堂に入った人間がこの世から
いなくなるのでは、馬鹿といえども羨望する対象があったればこそ、自分たちも
心の平安を得られていた大多数の庶民が多大なる不安にかられることともなる。
だからこそ、新たな心の拠り所であると共に、真に拠り所とすべき殿堂入りの
心持ちとしての、浩然の気を伴う良心というものを尊んでも行くべきなのである。
「否を傾く。先には否がり後には喜ぶ。否終わるに傾く、何ぞ長かる可けんや」
「(小人が権力を握って乱世をもたらしているような)否塞の時が傾きかけている。
傾きかけているからには終焉も間近なので、最初のうちはまだ塞がり気味でも、
最終的には喜ばしい結果となる。(否塞の時には喜んだりもしないのが吉である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・上九‐象伝より)
世界を暗黒の破滅に陥れておきながら、限られた信者だけを救おうとする
邪神の姿は夜空の星屑に見立てられる一方(これも星にとって迷惑な話だが)、
天下全土万人への恵みを施そうとする仁君の姿は、それこそ天下全土を
あまねく照らし出す太陽のあり方に見立てることができるといえる。
恒常的に観測できる最も明るい星である金星(最大-4.7等級)といえども、
月の明るさ(-12.7等級)に遠く及ばない。そしてその月の明るさといえども、
太陽の明るさ(-26.7等級)に遥かに及ばない。たとえ天空を全て月の明るさで
満たしたとしても、一つの太陽が昇っている日中の空の明るさに及ぶこともない。
それほどにも、天をあまねく照らし出すことと、暗闇の中で部分的な輝きを放つ
こととには途方もない開きがあるのであり、暗闇の中での輝きを愛でるような志向を
いくら発展させてみた所で、日中の明るさを尊ぶことに近似するようなこともないのである。
以上の科学的な論議は実際、この世における仁君の振る舞いと、聖書の邪神に
見立てた権力犯罪者の振る舞いの対比などにも敷衍として適用できるものである。
天下に多大なる損害をもたらすことでこそ私益を稼ぎ上げ、一部の友愛相手だけに恵もうと
するような権力犯罪者の振る舞いをいくら発展させていった所で、天下万人が福利に与れる
ようなことは永遠にありはしない。むしろ天下全土が極度の貧窮に見舞われることこそが恒常化
してしまい、万人を富ませようとする仁君の尽力すらをも徒労に終わらせてしまうようになる。
邪神の姿は夜空の星屑に見立てられる一方(これも星にとって迷惑な話だが)、
天下全土万人への恵みを施そうとする仁君の姿は、それこそ天下全土を
あまねく照らし出す太陽のあり方に見立てることができるといえる。
恒常的に観測できる最も明るい星である金星(最大-4.7等級)といえども、
月の明るさ(-12.7等級)に遠く及ばない。そしてその月の明るさといえども、
太陽の明るさ(-26.7等級)に遥かに及ばない。たとえ天空を全て月の明るさで
満たしたとしても、一つの太陽が昇っている日中の空の明るさに及ぶこともない。
それほどにも、天をあまねく照らし出すことと、暗闇の中で部分的な輝きを放つ
こととには途方もない開きがあるのであり、暗闇の中での輝きを愛でるような志向を
いくら発展させてみた所で、日中の明るさを尊ぶことに近似するようなこともないのである。
以上の科学的な論議は実際、この世における仁君の振る舞いと、聖書の邪神に
見立てた権力犯罪者の振る舞いの対比などにも敷衍として適用できるものである。
天下に多大なる損害をもたらすことでこそ私益を稼ぎ上げ、一部の友愛相手だけに恵もうと
するような権力犯罪者の振る舞いをいくら発展させていった所で、天下万人が福利に与れる
ようなことは永遠にありはしない。むしろ天下全土が極度の貧窮に見舞われることこそが恒常化
してしまい、万人を富ませようとする仁君の尽力すらをも徒労に終わらせてしまうようになる。

そしてそれぞれの社会における権力者のあり方というものが、城郭や宗教施設などの
建築様式にまで反映されてきている。東洋の王宮や城郭や寺社などは、日中に見栄えがする
ような形式のものがそのほとんどを占めている。日本の伝統建築など、燃えやすいにも
関わらずあえて加工の容易な木材を多用している場合が多い。土蔵などの建築もあるとおり、
決して木造ばかりが日本建築の選択肢でもなかったわけだが、日中に見栄えがするような
精緻かつ大胆な造形を目指すために、あえて木造が優先されて来た。そのぶん夜中の
火の扱いなどにも厳重な注意が尽くされて、近頃電光でのライトアップが試みられるように
なり始める以前までは、夜中に建築物を大々的に照らし出すようなことも控えられていた。
近代建築や、西洋の教会建築は、それに真っ向から反するような様式こそを追求して来ている。
日中の見栄えはそこそことして、むしろ夜中にライトアップされた時の美しさなどを第一
としている。キャンドルなどで燃えたりすることがないように建材は主に石材などとし、
地震が多かったり地盤が軟弱だったりするような土地での建造を忌み嫌いもする。
そういった諸々の建築様式の建物の内側で執り行われる業務もまた、それなりのものとなる。
東洋的な建物での業務は日中が専らとなる一方、西洋的近代的な建物での業務は夜中が
主になるとまでは行かずとも、昼夜を問わなくなる。暗闇での謀議なども非常的なもので
すらない、恒常的なもの、しかも何か神秘性を帯びたようなものとしてすら扱われるように
なってしまう。東洋でも兵家が暗闇での謀をよくすることなどがありはするが、そこには理想も
神秘性もへったくれもないのであり、そのような分別の有無が分岐してしまうことになるのである。
夜中に東洋建築の内側で謀が行われたことがないわけでもなければ、日中に西洋建築や
近代建築の内側で業務が執り行われないわけでもない。ただ、尊重したりあえて卑しんだり
しているものの分別に違いがあるということであり、東洋的な分別は健全であった一方、
近代的、西洋的な分別は不健全であったと結論付けるほかない。夜分に持ち越すような謀など、
野外に布陣した幕営の内側あたりで済ませるがマシというもの。それでいてそのような
武家の慣習が「幕府」という権力機構の名称にも援用された。何気ない尊卑の分別が、
国や天下の命運をも決する大業の成功失敗如何にも直結する。ゆえに、ただ分別を
持つということではなく、分別を正すということこそは肝要となるのだといえる。
「日中に沫を見る、其の右肱を折る」
「真昼の日中にすら、わずかな光しか放たないような星屑を見ている。
まるで右ひじが折れたときのように、自分でできることは何もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豐・九三より)
近代建築の内側で業務が執り行われないわけでもない。ただ、尊重したりあえて卑しんだり
しているものの分別に違いがあるということであり、東洋的な分別は健全であった一方、
近代的、西洋的な分別は不健全であったと結論付けるほかない。夜分に持ち越すような謀など、
野外に布陣した幕営の内側あたりで済ませるがマシというもの。それでいてそのような
武家の慣習が「幕府」という権力機構の名称にも援用された。何気ない尊卑の分別が、
国や天下の命運をも決する大業の成功失敗如何にも直結する。ゆえに、ただ分別を
持つということではなく、分別を正すということこそは肝要となるのだといえる。
「日中に沫を見る、其の右肱を折る」
「真昼の日中にすら、わずかな光しか放たないような星屑を見ている。
まるで右ひじが折れたときのように、自分でできることは何もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豐・九三より)

人々に一定度以上の不健康をわずらう温床をもたらした。
たとえばインドではヨガ行、中国では太極拳、日本では合気道などに継承されている
古武術技法などといった風に、健康法を兼ねた体術というものが非聖書圏では
多数考案されて来ているものの、聖書圏では、形而上の架空神への狂信のせいで、
形而下の実体現象を軽視する悪癖が根付いたものだから、精密な人体にまつわる
健康法などを独自に体系化して行くことなどもできなかったのだった。
身体のラインをあえて出すためにきつめに作られている洋服なども、
関節の動きを限定させてしまうために諸々の骨格障害をもたらしてしまうし、
対症療法として極限まで発達している西洋医学なども、それが存在するに
ことかけての不養生を人々にけしかけるものともなってしまっている。
ただただ気に入った人間に対しては優しくあろうとする聖書信仰のあり方が、
かえって相手の心身両面における不健康を増長させてしまう。真向法などに代表される
身体の筋を伸ばす体操も、始めは痛い思いをするぐらいでないと、伸ばすべき筋が
伸びて行くこともない。行水にも熱中症を予防する効果などがあるが、始めは
活動が活発化し過ぎていた心臓が、水の冷たさに驚いてバクバクと過剰な鼓動を
起こすために怖い思いもする(実際、心臓が弱い人間などの場合は注意が必要でもある)。
しかし、それを通じてこそ熱中症予防の効果なども初めて発揮されていくわけで、そういった
一定以上の試練を乗り越えることでこそ克ち得る健康というものが多々あるわけだが、
聖書信仰のただただ優しくあろうとする志向性などでは、それも克ち得るものではない。
形而下の現実こそをしっかりと見据えること、ただただ人に優しくするばかりでも
済まさないこと、この二つを最も徹底して来ているのが他でもない、仏門である。
形而上的な概念論は無記に付し、諸法実相、諸行無常の真理こそをしかと見据える。
自力作善の聖道門における精進修行の厳しさも死ぬほどのものでいて、なおかつ
そこでただただわが身を痛め付けるのではなく、多大なる苦しみの先にこそ拓かれる
悟りの境地といったものを着実に追い求めて行く。そういった仏門のあり方が東洋に
おける養生志向の根本的な規範ともなっていて、人間たち自身の養生を軽視したりする
ことなく、真の健康のためにはそれなりの試練も乗り越えるといった指針ともなっている。
仏門それ自体はまさに究極といえる純粋な思想哲学の宝庫ともなっているわけで、
さらにそこに精密な実践法が付帯してもいるものである。いわゆる「文科系と体育会系」
みたいな両極化によってその真価が計り知れるようなこともない、文武両道の極致でもある。
ただ形而下の実体(人体を含む)を重んずべきだというばかりでなく、そこにこそ拓かれる
ガンジス河の砂の数ほどもの法門というものもまたあるわけで、高度な思想哲学の追求の
ためにこそ形而上への幻想を捨てて、形而下への精進に励むべきだともいえるのである。
「天行健なり、君子以て自強して息まず」
「天の運行は不断でいて、ありのままに健やかなものである。だからこそ、
君子もそれに倣って、常日頃からの自助努力に励んで怠けることがないのである。
(物言わぬ天行に倣って努力精進に励むことが、ありのままに健康なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・象伝より)
済まさないこと、この二つを最も徹底して来ているのが他でもない、仏門である。
形而上的な概念論は無記に付し、諸法実相、諸行無常の真理こそをしかと見据える。
自力作善の聖道門における精進修行の厳しさも死ぬほどのものでいて、なおかつ
そこでただただわが身を痛め付けるのではなく、多大なる苦しみの先にこそ拓かれる
悟りの境地といったものを着実に追い求めて行く。そういった仏門のあり方が東洋に
おける養生志向の根本的な規範ともなっていて、人間たち自身の養生を軽視したりする
ことなく、真の健康のためにはそれなりの試練も乗り越えるといった指針ともなっている。
仏門それ自体はまさに究極といえる純粋な思想哲学の宝庫ともなっているわけで、
さらにそこに精密な実践法が付帯してもいるものである。いわゆる「文科系と体育会系」
みたいな両極化によってその真価が計り知れるようなこともない、文武両道の極致でもある。
ただ形而下の実体(人体を含む)を重んずべきだというばかりでなく、そこにこそ拓かれる
ガンジス河の砂の数ほどもの法門というものもまたあるわけで、高度な思想哲学の追求の
ためにこそ形而上への幻想を捨てて、形而下への精進に励むべきだともいえるのである。
「天行健なり、君子以て自強して息まず」
「天の運行は不断でいて、ありのままに健やかなものである。だからこそ、
君子もそれに倣って、常日頃からの自助努力に励んで怠けることがないのである。
(物言わぬ天行に倣って努力精進に励むことが、ありのままに健康なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・象伝より)
「大用現前軌則を存ぜす」
「真に大いなる作用が生ずるとき、そこに決まりきった規則性などはない」
(「碧巌録」第三則より)
儒家でも「人事を尽くして天命を待つ」といい、いかにして人事を尽くすかを
細密な事務などにわたってまで取り決めていたりすることもない。儒家の本旨とする
徳治自体、法治などと違って成文での規定をできる限り排することでこそ臨機応変な
事務での最善を尽くすものであり、その結果としてどのように人事が尽くされるかも
成文でああだこうだと定めつくせるようなことはないのである。
行動で最善を尽くせるというのなら行動を尽くすべきだし、行動では無理なようなら
言葉ででも最善を尽くすべきである。それすら無理であるようなら黙るべきである。
秦始皇帝によって焚書坑儒が催された際、経書を壁の中に塗り込むなどして避難した
儒者なども「黙る」に相当する措置を講じたわけだし、あえて狂人のフリをすることで
自らの発言価値を引き下げた酈食其の姿などもそれに準ずるものであったといえる。
愚人こそが政権を牛耳っていた春秋戦国時代に、論説なども通じての伝統文化の保全を
心がける目的で派生したのが儒者であるわけだから、その儒者が弁舌での活動すらをも
禁じられた秦帝国時代はまさに暗黒の時代であったといえ、逆にただ弁舌での活動に
済まされるだけでなく、実際に儒学こそを国是とすらして行けた漢帝国の頃などは
春秋戦国時代以上にも儒者や儒学が恵まれた時代であったといえる。
実際、真に大いなる歴史の転換の際には、「事実は小説よりも奇なり」どころですらない、
小説を遥かに上回る衝撃の事態こそが現前すらするものである。楚漢戦争末期における
項羽の奮闘の姿など、ただのフィクション小説だとすればかえって激烈すぎて興醒めもの
となるわけだけれども、本物の史実だからこそ、「史記」におけるその描写などが迫真の
ものとして人々を大いなる感銘へと持ち込むのである。そういった、奇妙ではなくても、
現実であればこそ小説以上の衝撃をもたらす事態というものがあるものだから、机上の
空論中でああだこうだと予想することなどが大用の現前を捉えきれることもないのである。
「真に大いなる作用が生ずるとき、そこに決まりきった規則性などはない」
(「碧巌録」第三則より)
儒家でも「人事を尽くして天命を待つ」といい、いかにして人事を尽くすかを
細密な事務などにわたってまで取り決めていたりすることもない。儒家の本旨とする
徳治自体、法治などと違って成文での規定をできる限り排することでこそ臨機応変な
事務での最善を尽くすものであり、その結果としてどのように人事が尽くされるかも
成文でああだこうだと定めつくせるようなことはないのである。
行動で最善を尽くせるというのなら行動を尽くすべきだし、行動では無理なようなら
言葉ででも最善を尽くすべきである。それすら無理であるようなら黙るべきである。
秦始皇帝によって焚書坑儒が催された際、経書を壁の中に塗り込むなどして避難した
儒者なども「黙る」に相当する措置を講じたわけだし、あえて狂人のフリをすることで
自らの発言価値を引き下げた酈食其の姿などもそれに準ずるものであったといえる。
愚人こそが政権を牛耳っていた春秋戦国時代に、論説なども通じての伝統文化の保全を
心がける目的で派生したのが儒者であるわけだから、その儒者が弁舌での活動すらをも
禁じられた秦帝国時代はまさに暗黒の時代であったといえ、逆にただ弁舌での活動に
済まされるだけでなく、実際に儒学こそを国是とすらして行けた漢帝国の頃などは
春秋戦国時代以上にも儒者や儒学が恵まれた時代であったといえる。
実際、真に大いなる歴史の転換の際には、「事実は小説よりも奇なり」どころですらない、
小説を遥かに上回る衝撃の事態こそが現前すらするものである。楚漢戦争末期における
項羽の奮闘の姿など、ただのフィクション小説だとすればかえって激烈すぎて興醒めもの
となるわけだけれども、本物の史実だからこそ、「史記」におけるその描写などが迫真の
ものとして人々を大いなる感銘へと持ち込むのである。そういった、奇妙ではなくても、
現実であればこそ小説以上の衝撃をもたらす事態というものがあるものだから、机上の
空論中でああだこうだと予想することなどが大用の現前を捉えきれることもないのである。
大用の現前の際に黙るべきか黙るべきでないかでいうなら、「そんなことはどうでもいい」
というのが実際のところである。焚書坑儒のような黙らざるを得ない事態があるのなら
ともかく、黙ってても黙らなくてもどうでもいいというのなら、本当にどうでもいいのだ。
覇王項羽との奮闘の際にも、漢王劉邦は項羽を挑発するようなことを散々述べていた。
自分が石弓で軽傷を負わされた際にも、「小僧(項羽)め、わしの指に当ておった」などと
余裕の軽口をひけらかす始末で、それでかえって漢兵たちを安心すらさせていたのだった。
劉邦の場合、春秋戦国時代や秦代に散々辛酸を舐めさせられ続けていた百姓の代表といった
存在性も持ち合わせていたものだから、多少のやんちゃで自分の存在価値が傷つくような
こともなかった。口の悪さなども、百姓への教化を600年近くにもわたって怠り続けてきた
為政者たち自身の自業自得の産物であるとすらいえたわけだから、劉邦本人が帝王として
勉学の奨励を許容したことなどを通じて、本人の悪口の責任も十分に漱がれたのだった。
以上のような、軽口が許容された大用の現前の事例もあればこそ、黙るべきか黙るべきで
ないかなどは事態に応じてどうとでもあるべきことだといえる。予言書というもの事態、
将来を成文化するものであるわけだから、せせこましい予言が真の衝撃的事態を
捉え切れるなどということ自体、永遠にありはしないのだといえる。
「黙して之れを成し、言わずして信あるは、徳行に存す」
「黙したままに成り、言うことなくして信実であるということは、
専ら本人の徳行の如何による。(他力本願者のあるべき姿というわけでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
というのが実際のところである。焚書坑儒のような黙らざるを得ない事態があるのなら
ともかく、黙ってても黙らなくてもどうでもいいというのなら、本当にどうでもいいのだ。
覇王項羽との奮闘の際にも、漢王劉邦は項羽を挑発するようなことを散々述べていた。
自分が石弓で軽傷を負わされた際にも、「小僧(項羽)め、わしの指に当ておった」などと
余裕の軽口をひけらかす始末で、それでかえって漢兵たちを安心すらさせていたのだった。
劉邦の場合、春秋戦国時代や秦代に散々辛酸を舐めさせられ続けていた百姓の代表といった
存在性も持ち合わせていたものだから、多少のやんちゃで自分の存在価値が傷つくような
こともなかった。口の悪さなども、百姓への教化を600年近くにもわたって怠り続けてきた
為政者たち自身の自業自得の産物であるとすらいえたわけだから、劉邦本人が帝王として
勉学の奨励を許容したことなどを通じて、本人の悪口の責任も十分に漱がれたのだった。
以上のような、軽口が許容された大用の現前の事例もあればこそ、黙るべきか黙るべきで
ないかなどは事態に応じてどうとでもあるべきことだといえる。予言書というもの事態、
将来を成文化するものであるわけだから、せせこましい予言が真の衝撃的事態を
捉え切れるなどということ自体、永遠にありはしないのだといえる。
「黙して之れを成し、言わずして信あるは、徳行に存す」
「黙したままに成り、言うことなくして信実であるということは、
専ら本人の徳行の如何による。(他力本願者のあるべき姿というわけでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
真っ当な人道は、世俗での自助努力と、正統な神仏への崇敬に即する。
愚か者ではあるものの、辛うじて人道を歩んでいる者の道はといえば、
俗世での努力もあまり至らないでいて、なおかつ崇敬の対象も阿弥陀仏のような、
愚人こそを救済の対象としてくださるとする特殊な神仏であったりする。
(それなりにできた人間でも、謙譲の意を込めて阿弥陀仏にすがる場合などはある)
他者を貶めてでも自分ばかりが救われようとするような輩を救う邪神
なぞに帰依して、なおかつ自分もそれに即した悪逆非道をはたらいて行く
ともなれば、これはもはや人でなしの道、鬼畜道の地獄道であるといえる。
前者二つは人道としての条件を満たしているが、後一つはその条件を満たしていない。
それでいて、こうやって並べ立ててみれば、やはり人道の条件を満たしている道こそは
ごくごく当たり前な範囲の道である一方、条件を満たせていない人でなしの道は
といえば、これもまた見るからに許しがたい犯罪性を伴っていることが分かる。
だから、ちゃんと人としての正しいあり方というものを見据えられてすらいたなら、
好き好んで人でなしの道にはまるようなことも絶対にないのである。そもそも人としての
正しいあり方など見据えられてもいないような者こそは、人でなしの道にも陥るのである。
日本人も八割がた以上は、百姓や町人といった教養豊かとも行かない身分の出身であり、
決して高尚な精神文化などを自力で理解して実践することまではできないでいたわけだが、
それでも聖書信仰のような、人の道から決定的に外れた側面を持つ信教に対しては
本能的な忌避感を抱いて、99%以上の人間が本気の信仰対象などにはしないでいる。
愚か者ではあるものの、辛うじて人道を歩んでいる者の道はといえば、
俗世での努力もあまり至らないでいて、なおかつ崇敬の対象も阿弥陀仏のような、
愚人こそを救済の対象としてくださるとする特殊な神仏であったりする。
(それなりにできた人間でも、謙譲の意を込めて阿弥陀仏にすがる場合などはある)
他者を貶めてでも自分ばかりが救われようとするような輩を救う邪神
なぞに帰依して、なおかつ自分もそれに即した悪逆非道をはたらいて行く
ともなれば、これはもはや人でなしの道、鬼畜道の地獄道であるといえる。
前者二つは人道としての条件を満たしているが、後一つはその条件を満たしていない。
それでいて、こうやって並べ立ててみれば、やはり人道の条件を満たしている道こそは
ごくごく当たり前な範囲の道である一方、条件を満たせていない人でなしの道は
といえば、これもまた見るからに許しがたい犯罪性を伴っていることが分かる。
だから、ちゃんと人としての正しいあり方というものを見据えられてすらいたなら、
好き好んで人でなしの道にはまるようなことも絶対にないのである。そもそも人としての
正しいあり方など見据えられてもいないような者こそは、人でなしの道にも陥るのである。
日本人も八割がた以上は、百姓や町人といった教養豊かとも行かない身分の出身であり、
決して高尚な精神文化などを自力で理解して実践することまではできないでいたわけだが、
それでも聖書信仰のような、人の道から決定的に外れた側面を持つ信教に対しては
本能的な忌避感を抱いて、99%以上の人間が本気の信仰対象などにはしないでいる。
それも、浄土信仰のような、人としての最低限のあり方を示した信仰文化の享受
などを通じて、教養ではなく本能の部分から、人道と非人道とを判別する能力が
育まれて来ているからで、大半の日本人は、自分たちではよく自覚もしない内から、
最低限の人としての道ぐらいは踏み外さないでいられるようになっているのである。
日本の隣りの韓国などは、儒学を儒教化して仏教と対立化させてしまったのと、
阿弥陀信仰よりも程度が高すぎる弥勒信仰などばかりを好んで享受してしまったせいで、
「最低限の人道」というものを判別する能力が人々に育まれることがなかった。結果、
朝鮮戦争で伝統文化を破壊されて後にはキリスト教が広く信仰されるようになり、
国家ぐるみで人でなしだらけの様相を呈してしまうことともなったのだった。
人道も、ちゃんと歩もうとすればそれなりに大変なものである。乱世にすら頑なに
真っ当な人道ばかりに居座ろうとしたなら、孔子の高弟の顔淵のような非業の末路
(清貧の無理が祟っての夭折)を辿ることにすらなってしまいかねない。だから、
完全真人道でもなければ非人道でもない、最低限の人道というもので難を逃れるという
のも一つの手である。それこそ、今みたいな「行動即犯罪」となる極度の乱世ともなれば、
最低限の人道あたりでしか、人道に落ち着いていることもできないのが実際の所である。
最低限の人道の指針を方便として示している親鸞聖人の悪人正機説なども、見るからに
不可解なものである。その不可解さが、人道がほとんど通用しない乱世にこそ活きて
来たりもするわけで、乱世には人道こそが変則的な様相を呈するということもある。
人としての正しいあり方など始めから解してもいないような致命傷級の愚人が、人でなし
の道こそを堂に入らせようとするからそうなってしまうわけで、そこでもそれなりの
人道家でいるためには、美観を損ねるぐらいの覚悟は必要だといえる。見てくればかり
が美しい非人道の偽善に惑わされることなく、素朴な真善を守って行くのである。
などを通じて、教養ではなく本能の部分から、人道と非人道とを判別する能力が
育まれて来ているからで、大半の日本人は、自分たちではよく自覚もしない内から、
最低限の人としての道ぐらいは踏み外さないでいられるようになっているのである。
日本の隣りの韓国などは、儒学を儒教化して仏教と対立化させてしまったのと、
阿弥陀信仰よりも程度が高すぎる弥勒信仰などばかりを好んで享受してしまったせいで、
「最低限の人道」というものを判別する能力が人々に育まれることがなかった。結果、
朝鮮戦争で伝統文化を破壊されて後にはキリスト教が広く信仰されるようになり、
国家ぐるみで人でなしだらけの様相を呈してしまうことともなったのだった。
人道も、ちゃんと歩もうとすればそれなりに大変なものである。乱世にすら頑なに
真っ当な人道ばかりに居座ろうとしたなら、孔子の高弟の顔淵のような非業の末路
(清貧の無理が祟っての夭折)を辿ることにすらなってしまいかねない。だから、
完全真人道でもなければ非人道でもない、最低限の人道というもので難を逃れるという
のも一つの手である。それこそ、今みたいな「行動即犯罪」となる極度の乱世ともなれば、
最低限の人道あたりでしか、人道に落ち着いていることもできないのが実際の所である。
最低限の人道の指針を方便として示している親鸞聖人の悪人正機説なども、見るからに
不可解なものである。その不可解さが、人道がほとんど通用しない乱世にこそ活きて
来たりもするわけで、乱世には人道こそが変則的な様相を呈するということもある。
人としての正しいあり方など始めから解してもいないような致命傷級の愚人が、人でなし
の道こそを堂に入らせようとするからそうなってしまうわけで、そこでもそれなりの
人道家でいるためには、美観を損ねるぐらいの覚悟は必要だといえる。見てくればかり
が美しい非人道の偽善に惑わされることなく、素朴な真善を守って行くのである。
「孔子、哀公に侍座す。哀公曰く、敢えて問う、人道は誰をか大と為さん。孔子、愀然と色を作して
対えて曰く、君の此の言に及べるや、百姓の徳なり。固に臣敢えて辞すること無くして対えん。人道は、
政を大と為す。公曰く、敢えて問う、何をか為政と謂わん。孔子、対えて曰く、政は正なり。君正しきを
為さば、則ち百姓も政に従わん。君の為す所は、百姓の従う所なり。君の為さざる所は、百姓何をか従わん」
「孔先生が魯の哀公に侍従していたとき、哀公が孔子に問うた。『人道のうちでは、何が至大であるといえる
だろうか』 孔先生は、思わず色めきだちながら答えられた。『主君がそのような発言に及ばれましたことは、
ただそれだけでも民にとって幸いこの上ないことです。(まず、人道の中でも特に尊重すべきものを模索する
姿勢を孔子は評価した。エホバの監視している道などはそもそも人道ですらないということもいえるが、
ただただ道を当分に眺めているだけとするその姿勢もまた評価するに値しないものである)あえて辞退すること
もなくお答えさせていただきます。人道の中では、まつりごとこそを至大とするのです』 哀公はまた問うた。
『そこでいうまつりごととは、どういったものであろうか』 孔先生は答えられた。『まつりごと(政)とは、その
字義からいって正すことを意味します。主君がもし正しいことをなされましたならば、百姓もまたそのまつりごと
に従いましょう。君の為されることこそは百姓の従うところ。君の為されぬことには一体、どうして百姓が従う
ようなことがありましょうか』(至大なる人道は、為政者としての正しき行いでこそある。これもまた、自らの
行いが悪逆非道の限りである犯罪聖書の神のあり方などとはその様相を真逆にするものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
対えて曰く、君の此の言に及べるや、百姓の徳なり。固に臣敢えて辞すること無くして対えん。人道は、
政を大と為す。公曰く、敢えて問う、何をか為政と謂わん。孔子、対えて曰く、政は正なり。君正しきを
為さば、則ち百姓も政に従わん。君の為す所は、百姓の従う所なり。君の為さざる所は、百姓何をか従わん」
「孔先生が魯の哀公に侍従していたとき、哀公が孔子に問うた。『人道のうちでは、何が至大であるといえる
だろうか』 孔先生は、思わず色めきだちながら答えられた。『主君がそのような発言に及ばれましたことは、
ただそれだけでも民にとって幸いこの上ないことです。(まず、人道の中でも特に尊重すべきものを模索する
姿勢を孔子は評価した。エホバの監視している道などはそもそも人道ですらないということもいえるが、
ただただ道を当分に眺めているだけとするその姿勢もまた評価するに値しないものである)あえて辞退すること
もなくお答えさせていただきます。人道の中では、まつりごとこそを至大とするのです』 哀公はまた問うた。
『そこでいうまつりごととは、どういったものであろうか』 孔先生は答えられた。『まつりごと(政)とは、その
字義からいって正すことを意味します。主君がもし正しいことをなされましたならば、百姓もまたそのまつりごと
に従いましょう。君の為されることこそは百姓の従うところ。君の為されぬことには一体、どうして百姓が従う
ようなことがありましょうか』(至大なる人道は、為政者としての正しき行いでこそある。これもまた、自らの
行いが悪逆非道の限りである犯罪聖書の神のあり方などとはその様相を真逆にするものだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・哀公問第二十七より)
日本神話上では物言う神として活躍するアマテラスやオオクニヌシといった神々が、
伊勢神宮や出雲大社などでは物言わぬままに祀られている。それでいて「神」だから死ぬこともないため、
墓のような辛気臭さも徹底して排した清浄の場としての神社にこそ祀られている。
正統な神が語りもしないで鎮座して居られることは、むしろ人々にとっての安心材料にすらなっている。
「触らぬ神に祟りなし」もとい「語らぬ神に祟りなし」であり、神が激情を以て口を開くような
ことを畏れるのが、むしろ人としての適切な神への姿勢になるのだといえる。
仏ともなれば、もはやその語る言葉が常人の理解を超えてしまっていたりするために、
聞いて怖い、聞かなくて安心などという段階にすらない。ただ、そこには人々を安寧へと導く
有難い意味が込められているには違いないわけだから、それを聞く以上はよく尊んで、
意味不明だからといって軽んじたりすることがないようにするのが得策だといえる。
意味も明瞭でいて、なおかつ恐ろしげでもないような言葉の一つが、儒説に代表される人道一辺倒の言葉である。
それこそ、「論語」における孔子の弟子たちへの諭しの言葉などがその最好例であり、
(五経中の孔子の言葉などは、もう少し専門的で分かりにくいものが多い)
その内容は時に辛口だったりもする一方で、弟子たちの将来を本気で慮る優しさにも満ちている。
意味もそれなりに平易でいて、なおかつ聞くものに麻薬的な陶酔をももたらすのが犯罪聖書の言葉であり、
信者をただただ優遇するような詐欺師然とした言葉遣いでいて、別に孔子が弟子たちを慮る時のような
本質的な優しさを湛えているわけでもない。その上っ面だけの甘ったるさがかえって聞くものの不安を煽り、
その不安を紛らわすためにさらに犯罪聖書の言葉に依存するといった、中毒性をもたらすようにもなっている。
伊勢神宮や出雲大社などでは物言わぬままに祀られている。それでいて「神」だから死ぬこともないため、
墓のような辛気臭さも徹底して排した清浄の場としての神社にこそ祀られている。
正統な神が語りもしないで鎮座して居られることは、むしろ人々にとっての安心材料にすらなっている。
「触らぬ神に祟りなし」もとい「語らぬ神に祟りなし」であり、神が激情を以て口を開くような
ことを畏れるのが、むしろ人としての適切な神への姿勢になるのだといえる。
仏ともなれば、もはやその語る言葉が常人の理解を超えてしまっていたりするために、
聞いて怖い、聞かなくて安心などという段階にすらない。ただ、そこには人々を安寧へと導く
有難い意味が込められているには違いないわけだから、それを聞く以上はよく尊んで、
意味不明だからといって軽んじたりすることがないようにするのが得策だといえる。
意味も明瞭でいて、なおかつ恐ろしげでもないような言葉の一つが、儒説に代表される人道一辺倒の言葉である。
それこそ、「論語」における孔子の弟子たちへの諭しの言葉などがその最好例であり、
(五経中の孔子の言葉などは、もう少し専門的で分かりにくいものが多い)
その内容は時に辛口だったりもする一方で、弟子たちの将来を本気で慮る優しさにも満ちている。
意味もそれなりに平易でいて、なおかつ聞くものに麻薬的な陶酔をももたらすのが犯罪聖書の言葉であり、
信者をただただ優遇するような詐欺師然とした言葉遣いでいて、別に孔子が弟子たちを慮る時のような
本質的な優しさを湛えているわけでもない。その上っ面だけの甘ったるさがかえって聞くものの不安を煽り、
その不安を紛らわすためにさらに犯罪聖書の言葉に依存するといった、中毒性をもたらすようにもなっている。
犯罪聖書の神などは全くの架空神であり、実際には古代のユダヤ人を名乗る政商犯が
自分たちの不満の捌け口として捏造した超越神に過ぎないわけだが、そのような発祥の不純さもまた、
犯罪聖書の言葉が人々の不安を煽る主な原因となっている。政商のような非道な活動に及んでいたからには、
本人たちもまた精神を病んで極度の不安状態に陥っていたに違いない。そしてその不安感が、犯罪聖書の言葉
にもそのまま落とし込まれているものだから、それを読む者もまた耐え難い不安感に苛まれることとなるのである。
人々の不安感を極度に煽る不埒な言葉が書物として残されたままでいて、
その語り手もすでに死んでこの世にない。これもまたさらなる不安感を上塗りする要因となっている。
必要もなく人々の不安を煽っておいて、そのままほったらかしという、迷惑極まりないならず者の妄動で
あったわけだが、すでに起こってしまっている以上は、適切な対処を施して行くようにもするしかない。
犯罪聖書の神など始めからいなかったということ、犯罪聖書中の言葉などは全て重度累犯障害者の妄言であり、
だからこそ人々の不安を極度に煽った上での特別待遇みたいな内容でもある。それは精神衛生上も教育上も
決してよろしくない代物であるのだから、その嗜好的な享受を元から断って行くようにしなければならない。
受容しておいてから救いを求めるようなことから止めて行くようにしなければならぬと、固く戒めて行く必要がある。
罵詈雑言が有害性を伴うということは、すでに衆知なこととなっているけれども、
甘ったるい言葉の中にこそ不安感を煽るような有害性が秘められている場合があるということは
まだまだ認知が行き届いてはいない。人生、そうそうにうまく行くもんじゃないのに、
何もかもがうまく行くなどとほざくものがいる、そんな言葉には確かに裏があったりするわけで、
むしろ不安感を抱かされたりするほうが自然な反応であるのだと考えるべきである。
そのような言葉によって人々が不安を煽られたりすること自体、
公共性に即して有害であると断定していいのである。
自分たちの不満の捌け口として捏造した超越神に過ぎないわけだが、そのような発祥の不純さもまた、
犯罪聖書の言葉が人々の不安を煽る主な原因となっている。政商のような非道な活動に及んでいたからには、
本人たちもまた精神を病んで極度の不安状態に陥っていたに違いない。そしてその不安感が、犯罪聖書の言葉
にもそのまま落とし込まれているものだから、それを読む者もまた耐え難い不安感に苛まれることとなるのである。
人々の不安感を極度に煽る不埒な言葉が書物として残されたままでいて、
その語り手もすでに死んでこの世にない。これもまたさらなる不安感を上塗りする要因となっている。
必要もなく人々の不安を煽っておいて、そのままほったらかしという、迷惑極まりないならず者の妄動で
あったわけだが、すでに起こってしまっている以上は、適切な対処を施して行くようにもするしかない。
犯罪聖書の神など始めからいなかったということ、犯罪聖書中の言葉などは全て重度累犯障害者の妄言であり、
だからこそ人々の不安を極度に煽った上での特別待遇みたいな内容でもある。それは精神衛生上も教育上も
決してよろしくない代物であるのだから、その嗜好的な享受を元から断って行くようにしなければならない。
受容しておいてから救いを求めるようなことから止めて行くようにしなければならぬと、固く戒めて行く必要がある。
罵詈雑言が有害性を伴うということは、すでに衆知なこととなっているけれども、
甘ったるい言葉の中にこそ不安感を煽るような有害性が秘められている場合があるということは
まだまだ認知が行き届いてはいない。人生、そうそうにうまく行くもんじゃないのに、
何もかもがうまく行くなどとほざくものがいる、そんな言葉には確かに裏があったりするわけで、
むしろ不安感を抱かされたりするほうが自然な反応であるのだと考えるべきである。
そのような言葉によって人々が不安を煽られたりすること自体、
公共性に即して有害であると断定していいのである。
「仁言は、仁声の人に深く入るには如かざるなり。善政は、善教の民を得るに如かざるなり。
善政は民、之れを畏れ、善教は、民之れを愛す。善政は民の財を得、善教は民の心を得」
「為政者が仁なる言葉を触れ回る以上にも、人々が自然と善なる言葉を発するようになったほうが
なおのことよい。為政者が頭ごなしな善政を敷く以上にも、善い教えを自主的に学んだ民たちが
いてくれるほうがなおのことよい。善政は民に畏怖を抱かせる一方、善教の教化は民たちがこれを
愛慕するようになるものである。善政は民の税の滞納などを防ぐために財貨を徴収しやすいなどの
利点がありはするが、善教による教化はそれ以上にも民たちの心を得ることができる。(採算を
度外視してでも、民たちの自主的な徳育こそを直接的な声かけなどよりも尊べというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一六より)
善政は民、之れを畏れ、善教は、民之れを愛す。善政は民の財を得、善教は民の心を得」
「為政者が仁なる言葉を触れ回る以上にも、人々が自然と善なる言葉を発するようになったほうが
なおのことよい。為政者が頭ごなしな善政を敷く以上にも、善い教えを自主的に学んだ民たちが
いてくれるほうがなおのことよい。善政は民に畏怖を抱かせる一方、善教の教化は民たちがこれを
愛慕するようになるものである。善政は民の税の滞納などを防ぐために財貨を徴収しやすいなどの
利点がありはするが、善教による教化はそれ以上にも民たちの心を得ることができる。(採算を
度外視してでも、民たちの自主的な徳育こそを直接的な声かけなどよりも尊べというのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一六より)
天下に無二なる一大事ほど、個人的な思い立ちで取り掛かられるようなことがあってはならぬ。
準備が万端に整った上で、誰しもが心待ちにしていながら、なおのこと、その実行の責任者は
仕方なく重い腰を上げるぐらいの姿勢でなければ、大事に取り掛かる状況として相応しくない。
そこまで厳重の限りを尽くさずとも、下準備がちゃんとできてすらいればそうそうに失敗などが
起こり得るものではない。それでも実行にかけて、後手後手となるほどの慎重の限りを尽くして行く、
そういった姿勢こそが、大事を為しているのだということを示し出す意味を持ち合わせることとなる。
ただただ前に走り出す脚力では、黒人が最高で、次に白人、黄色人種は総合的には最低とされる。
それでいて、平均的な知能指数はこの逆の順位であり、安定した文明社会を築き上げて行ける能力
でもこの逆の順位となる。ただ前に進み出す能力以上にも、立ち止まったり、進退を使い分けたり
といった能力のほうが、人間にこそ特有の能力であり、ただただ前進する能力で人間を上回る動物は
無数にいる一方で、立ち止まってよく物事に注意を働かせる能力では人間こそがずば抜けている。
ただ立ち止まるだけでなく、一定の場所での駆け引きを講ずる能力でも人間こそは突出して優れている。
クマのような人間より遥かに力の強大な動物といえども、敵となる相手を見るや襲いかかるか、もしくは
敵わないとみて一目散に逃げ去るかのいずれかばかりであろうとする。動物には、勇気を持って物事に
取り掛かるという能力が欠けているものだから、前身か後退かのいずれかでしかいられないわけである。
むろん、勇気ばかりではなく、相手との間合いをよく計り知って、一足一刀の間合い付近での
警戒をこなすような高度な注意力があればこそ、敵に対峙し続けたからといって即座に致命傷を
負ったりすることもないのである。なおかつ、衝突寸前の間合いから声をかけるなり、伝令を
発するなどして、言葉での交渉に取り組むことすらできなくはないから、言葉ばかりでも争い
ばかりでもない文武両道によってこそ対立を処理して行くこともまたできるわけである。
準備が万端に整った上で、誰しもが心待ちにしていながら、なおのこと、その実行の責任者は
仕方なく重い腰を上げるぐらいの姿勢でなければ、大事に取り掛かる状況として相応しくない。
そこまで厳重の限りを尽くさずとも、下準備がちゃんとできてすらいればそうそうに失敗などが
起こり得るものではない。それでも実行にかけて、後手後手となるほどの慎重の限りを尽くして行く、
そういった姿勢こそが、大事を為しているのだということを示し出す意味を持ち合わせることとなる。
ただただ前に走り出す脚力では、黒人が最高で、次に白人、黄色人種は総合的には最低とされる。
それでいて、平均的な知能指数はこの逆の順位であり、安定した文明社会を築き上げて行ける能力
でもこの逆の順位となる。ただ前に進み出す能力以上にも、立ち止まったり、進退を使い分けたり
といった能力のほうが、人間にこそ特有の能力であり、ただただ前進する能力で人間を上回る動物は
無数にいる一方で、立ち止まってよく物事に注意を働かせる能力では人間こそがずば抜けている。
ただ立ち止まるだけでなく、一定の場所での駆け引きを講ずる能力でも人間こそは突出して優れている。
クマのような人間より遥かに力の強大な動物といえども、敵となる相手を見るや襲いかかるか、もしくは
敵わないとみて一目散に逃げ去るかのいずれかばかりであろうとする。動物には、勇気を持って物事に
取り掛かるという能力が欠けているものだから、前身か後退かのいずれかでしかいられないわけである。
むろん、勇気ばかりではなく、相手との間合いをよく計り知って、一足一刀の間合い付近での
警戒をこなすような高度な注意力があればこそ、敵に対峙し続けたからといって即座に致命傷を
負ったりすることもないのである。なおかつ、衝突寸前の間合いから声をかけるなり、伝令を
発するなどして、言葉での交渉に取り組むことすらできなくはないから、言葉ばかりでも争い
ばかりでもない文武両道によってこそ対立を処理して行くこともまたできるわけである。
そこに、「人間」という生き物の本髄があるとすらいえる。
ただただ相手に対して前進するのでも、後退するのでもなく、一定の間合いでの時間をかけた交渉に臨む、
そういったあり方こそが人を人たらしめているのであり、気に入った相手とだけ密着し合い、そうでない
相手とは極端な疎外状態でばかりあろうとするのでは、畜生とも何ら変わるところがないといえる。
他人との間合いをよく注意して、慎重深く物事に臨もうとする心持ちこそは、真人間の心持ちである一方、
何事にかけてもはやる気持ちを募らせてばかりしかいられない心持ちこそは、畜生の心持ちだといえる。
別に、前者がよくて後者が悪いようにも思われない、特に、子供のような感情の焼け付きこそは持て
囃されている現代においては、むしろ後者のような心持ちのほうがよさげにすら思われたりする
わけだけれども、残念ながら、本質的にそれは畜生とも何ら変わるところがないものなのである。
天下国家を自らの権能によって動かすして行く責務を負う君子などは、それこそ逸る気持ちなどを
徹底して抑制することのできる能力の持ち主でもなければならぬ。個人的にも公的にも、がっつこうと
するような不埒な意欲は排し去ることができるぐらいでなければ、意義ある帝業に与することもままならぬ。
そのあたり、商売人としての成功条件などとは位相を真逆にすらするところであり、商売人などとしての
成功を徹底して拒み通すような人間こそは、君子として大成する素養があったりする所以なのである。
「亢龍悔い有り。〜亢の言たるや、進むを知って退くを知らず。(一部既出)」
「亢龍の如きあり方は悔いばかりを残す結果となる。『亢』とは、ただ
積極的に進もうとするばかりで、退くことを知らぬことを意味する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・上九‐文言伝より)
以下も参考までに。
「聖人は躊躇して以て事を興し、以て毎ごとに成功す。奈何ぞや其れ載とせん。矜に終わらんのみ」
「聖人は何事もためらいがちなままに為し、それでいていつも必ず成功させる。にもかかわらず、
どうしておまえは逸り立ってばかりいるのか。ただ思い上がりを募らせてるばかりではないか」
(荘子・雑篇・外物第二十六)
ただただ相手に対して前進するのでも、後退するのでもなく、一定の間合いでの時間をかけた交渉に臨む、
そういったあり方こそが人を人たらしめているのであり、気に入った相手とだけ密着し合い、そうでない
相手とは極端な疎外状態でばかりあろうとするのでは、畜生とも何ら変わるところがないといえる。
他人との間合いをよく注意して、慎重深く物事に臨もうとする心持ちこそは、真人間の心持ちである一方、
何事にかけてもはやる気持ちを募らせてばかりしかいられない心持ちこそは、畜生の心持ちだといえる。
別に、前者がよくて後者が悪いようにも思われない、特に、子供のような感情の焼け付きこそは持て
囃されている現代においては、むしろ後者のような心持ちのほうがよさげにすら思われたりする
わけだけれども、残念ながら、本質的にそれは畜生とも何ら変わるところがないものなのである。
天下国家を自らの権能によって動かすして行く責務を負う君子などは、それこそ逸る気持ちなどを
徹底して抑制することのできる能力の持ち主でもなければならぬ。個人的にも公的にも、がっつこうと
するような不埒な意欲は排し去ることができるぐらいでなければ、意義ある帝業に与することもままならぬ。
そのあたり、商売人としての成功条件などとは位相を真逆にすらするところであり、商売人などとしての
成功を徹底して拒み通すような人間こそは、君子として大成する素養があったりする所以なのである。
「亢龍悔い有り。〜亢の言たるや、進むを知って退くを知らず。(一部既出)」
「亢龍の如きあり方は悔いばかりを残す結果となる。『亢』とは、ただ
積極的に進もうとするばかりで、退くことを知らぬことを意味する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・上九‐文言伝より)
以下も参考までに。
「聖人は躊躇して以て事を興し、以て毎ごとに成功す。奈何ぞや其れ載とせん。矜に終わらんのみ」
「聖人は何事もためらいがちなままに為し、それでいていつも必ず成功させる。にもかかわらず、
どうしておまえは逸り立ってばかりいるのか。ただ思い上がりを募らせてるばかりではないか」
(荘子・雑篇・外物第二十六)
子路が衛国の大夫である孔悝の荘園の行政官になっていたころ、衛国に父子の王位争いが起こった。子路はこのお家騒動にまきこまれて、殺された。子路の屍は細かく切りきざまれ、無惨にも《醢》にされた。それは使者によって孔子の食卓にまで届けられてきた。
以来、孔子は大好物の《醢》を食べるのをやめた。
これは『礼記』、『東周列国志』、『荘子』にも記されている。
>稼がないで食う飯はうめえなあ。
恥知らずの笠地蔵に親の庇護から解脱する気概はあるまいてwww
以来、孔子は大好物の《醢》を食べるのをやめた。
これは『礼記』、『東周列国志』、『荘子』にも記されている。
>稼がないで食う飯はうめえなあ。
恥知らずの笠地蔵に親の庇護から解脱する気概はあるまいてwww
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾
荘子は孔子のこともコテンパンになじってんだからさ、
何とかの両成敗ということで、な。(^ ^)
何とかの両成敗ということで、な。(^ ^)
道理は、「論語」の孔子の物言いほどにも平易に示すことができる一方で、
真理は、大乗仏典ほどにも難解な記述によってすら示しきれているとは言えない。
(小乗仏典の記述は平易で道理にも適っているが、真理そのものを
指し示した記録としては粗雑に過ぎるところがある)
犯罪聖書(新旧約)の言葉なんぞは、真理に背を向ける言葉ですらない。
儒学で取り扱うようなごくごく平易な世俗の道理にこそ決定的に反する邪義の集成
であり、もしも真理の裁きにかけられるとすれば、そこで道理に敗れ去るものである。
そこで真理はただの裁判官役として立ち回るのみであり、犯罪聖書の邪教などは
それに味方することも敵対することもできない。真理の公正な裁きによって
敗れ去って後もその結果に抗い続けるのなら、真理と道理両方を敵に回すことに
なるにしろ、それはもはや、背理ですらない無理を通そうとする暴挙となってしまう。
真理は、言葉では表せないぐらいに考えるのが賢明であり、自らが世俗での
活動者となるぐらいなら、真理などは敬遠して、当たり前な道理に適った範囲の言行
に務めて行くようにすべきである。そうともせずに、無理に世俗での真理の触れ回りなど
に及ぼうとしたなら、それが全く本物の真理に適わないままに終わるのはもちろんのこと、
単なる道理にすら決定的に反する邪義の触れ回りに終始してしまうことにすらなる。
真理は真理で、実際にあるわけで、それはそれで十全な尊重の対象として行くべきものだ。
ただ、それはどうしたって難解なものである。最高級に頭のいい人間が命の保証もない
ような厳しい修行研鑽を積み重ねた先に、やっと会得できるかできないかといったほどの
代物であり、決しておいそれとそれを分かった気などになるべきものでもないのである。
真理は、大乗仏典ほどにも難解な記述によってすら示しきれているとは言えない。
(小乗仏典の記述は平易で道理にも適っているが、真理そのものを
指し示した記録としては粗雑に過ぎるところがある)
犯罪聖書(新旧約)の言葉なんぞは、真理に背を向ける言葉ですらない。
儒学で取り扱うようなごくごく平易な世俗の道理にこそ決定的に反する邪義の集成
であり、もしも真理の裁きにかけられるとすれば、そこで道理に敗れ去るものである。
そこで真理はただの裁判官役として立ち回るのみであり、犯罪聖書の邪教などは
それに味方することも敵対することもできない。真理の公正な裁きによって
敗れ去って後もその結果に抗い続けるのなら、真理と道理両方を敵に回すことに
なるにしろ、それはもはや、背理ですらない無理を通そうとする暴挙となってしまう。
真理は、言葉では表せないぐらいに考えるのが賢明であり、自らが世俗での
活動者となるぐらいなら、真理などは敬遠して、当たり前な道理に適った範囲の言行
に務めて行くようにすべきである。そうともせずに、無理に世俗での真理の触れ回りなど
に及ぼうとしたなら、それが全く本物の真理に適わないままに終わるのはもちろんのこと、
単なる道理にすら決定的に反する邪義の触れ回りに終始してしまうことにすらなる。
真理は真理で、実際にあるわけで、それはそれで十全な尊重の対象として行くべきものだ。
ただ、それはどうしたって難解なものである。最高級に頭のいい人間が命の保証もない
ような厳しい修行研鑽を積み重ねた先に、やっと会得できるかできないかといったほどの
代物であり、決しておいそれとそれを分かった気などになるべきものでもないのである。
それでいて、その難解至極な真理に即して是認できる平易な道理というものもまたあって、
それこそは儒家の提示する仁義道徳であったりもする。こちらは分かった気になるまで
もなく、実際、頭で理解するぐらいは容易い程度の教えばかりであり、ただ理解するだけ
でなく、誠実な実践に移して行くことのほうがより重要とされるものである。だからこそ、
道理のほうもまた衒学での思い上がりの材料などにしているわけにはいかない。真理に
しろ道理にしろ、純正なものほどそれを驕り高ぶりの道具にしていいような余地が
どこにもないのであり、犯罪聖書におけるイエキリの妄動のような、思い上がり
まみれの所業の正当化材料にしていいような余地も一切ありはしないのである。
とはいえ、イエキリのごとき思い上がりまみれの活動姿勢というものが、大学研究者の
論文発表姿勢から作家の文芸発表姿勢、芸能人の演芸姿勢にいたるまで、方々で持て
囃されてしまっているのが今という時代の現状でもある。自分が言わんとする所が何で
あるかなど以前に、それほどにも思い上がりまみれのがっついた態度姿勢であるので
なければ相手にもされないといった悪習すらもがまかり通ってしまっている。これは
むしろ逆であるべきなのであり、そのような態度姿勢での活動を試みる輩こそは軒並み、
真理にも道理にも適わない邪曲を触れ回ろうとする者と見なして忌むべきなのである。
歴史上に名高い東洋古典なども、大学で正式に発表されたものなどよりは、聖賢が私的に
編纂したものが徐々に評価を上げていったようなものがほとんどとなっている。司馬遷の
「史記」のように、あえて著者の死後まで発表を見送ることでその記述の公正さを期した
大古典もまたあるわけで、それぐらい発表姿勢が貞節である書物なり活動なりの価値こそ
を今一度見直して行くべきなのだといえる。
それこそは儒家の提示する仁義道徳であったりもする。こちらは分かった気になるまで
もなく、実際、頭で理解するぐらいは容易い程度の教えばかりであり、ただ理解するだけ
でなく、誠実な実践に移して行くことのほうがより重要とされるものである。だからこそ、
道理のほうもまた衒学での思い上がりの材料などにしているわけにはいかない。真理に
しろ道理にしろ、純正なものほどそれを驕り高ぶりの道具にしていいような余地が
どこにもないのであり、犯罪聖書におけるイエキリの妄動のような、思い上がり
まみれの所業の正当化材料にしていいような余地も一切ありはしないのである。
とはいえ、イエキリのごとき思い上がりまみれの活動姿勢というものが、大学研究者の
論文発表姿勢から作家の文芸発表姿勢、芸能人の演芸姿勢にいたるまで、方々で持て
囃されてしまっているのが今という時代の現状でもある。自分が言わんとする所が何で
あるかなど以前に、それほどにも思い上がりまみれのがっついた態度姿勢であるので
なければ相手にもされないといった悪習すらもがまかり通ってしまっている。これは
むしろ逆であるべきなのであり、そのような態度姿勢での活動を試みる輩こそは軒並み、
真理にも道理にも適わない邪曲を触れ回ろうとする者と見なして忌むべきなのである。
歴史上に名高い東洋古典なども、大学で正式に発表されたものなどよりは、聖賢が私的に
編纂したものが徐々に評価を上げていったようなものがほとんどとなっている。司馬遷の
「史記」のように、あえて著者の死後まで発表を見送ることでその記述の公正さを期した
大古典もまたあるわけで、それぐらい発表姿勢が貞節である書物なり活動なりの価値こそ
を今一度見直して行くべきなのだといえる。
「詩に曰く、予れ明徳を懐い、声と色とを大にせずと。子曰く、声色を之れ以って民を化するは末なりと。
詩に曰く、徳の輶きこと毛の如しと。毛猶お倫有り。上天の載は声も無く臭いも無し。至れるかな」
「詩経(大雅・皇矣)に『私はただひたすら明徳を思って、声や顔色を尊大にするようなことは控える』とある。
孔先生はこれを評して『声や顔色によって民を化育するのは、ごくごく瑣末なことに過ぎない』と言われた。
また詩経(大雅・烝民)に『徳は毛筋のように軽やか(で実践しようと思えばいつでも実践できるものである)』
ともある。毛筋ほどのところにすら実践すべき倫理というものがある(のだから、声を荒げて人々にそれを
説いたりするのは、辟易によって実践を滞らせる原因にすらなりかねない)。上天は声もなく臭いもないままで、
ありのままに真理でもある(大雅・文王)。そのようであることこそは至上といえるのではなかろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三三より)
詩に曰く、徳の輶きこと毛の如しと。毛猶お倫有り。上天の載は声も無く臭いも無し。至れるかな」
「詩経(大雅・皇矣)に『私はただひたすら明徳を思って、声や顔色を尊大にするようなことは控える』とある。
孔先生はこれを評して『声や顔色によって民を化育するのは、ごくごく瑣末なことに過ぎない』と言われた。
また詩経(大雅・烝民)に『徳は毛筋のように軽やか(で実践しようと思えばいつでも実践できるものである)』
ともある。毛筋ほどのところにすら実践すべき倫理というものがある(のだから、声を荒げて人々にそれを
説いたりするのは、辟易によって実践を滞らせる原因にすらなりかねない)。上天は声もなく臭いもないままで、
ありのままに真理でもある(大雅・文王)。そのようであることこそは至上といえるのではなかろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三三より)
人間社会ってのは、誰かが努力したぶんだけ成り立つもの。
飲む食う遊ぶ、それらの材料となる諸々の事物を汗水たらして
生産している人間がいればこそ、それを享受して行くこともできる。
だから、生産者の側の身になってものを考えることこそは道徳的ともなる一方、
消費者の側からしかものを考えないことは反道徳的なあり方ともなる。
士大夫や仏僧が直接生産活動に従事するわけでもないが、政治や布教活動を通じて
生産事業を教導する場合もあるし、実際に治水や灌漑のような、潤沢な生産の
ための下準備となる事業を推進したりもする。そして、そのようなあり方を心がけて
行くことこそは儒学や大乗仏教における本分ともされ、そのための心の持ちよう
こそが儒説や仏説として膨大な分量にわたって構築されてきているのでもある。
(大乗仏教ではそれこそを「悟りに到るための菩薩業の一環」ともしている)
かろうじて「礼記」の王制第五などに、「治世が大成功して飢え渇くような
民が一人もいなくなった時には、主君が日日の宴食に舞楽を呼んで祝えばよい」
といったような記述がある。それこそ、誰にも文句の付けようのない飲めや歌えやの
姿であるし、実際に平安時代の最隆盛期の日本の朝廷などは、このような記述にも
則った歌舞宴楽を楽しんでいたりしたわけだけれども。当然、ブラックアフリカの
キリスト教国などで膨大な数の餓死者が発生してしまっている今の世界において、
世界の支配者に相当するような権能の持ち主が、飲めや歌えやのお楽しみ状態でいても
構わないなどとする記述には全くなっていないのもまた、見るに明らかなことである。
飲む食う遊ぶ、それらの材料となる諸々の事物を汗水たらして
生産している人間がいればこそ、それを享受して行くこともできる。
だから、生産者の側の身になってものを考えることこそは道徳的ともなる一方、
消費者の側からしかものを考えないことは反道徳的なあり方ともなる。
士大夫や仏僧が直接生産活動に従事するわけでもないが、政治や布教活動を通じて
生産事業を教導する場合もあるし、実際に治水や灌漑のような、潤沢な生産の
ための下準備となる事業を推進したりもする。そして、そのようなあり方を心がけて
行くことこそは儒学や大乗仏教における本分ともされ、そのための心の持ちよう
こそが儒説や仏説として膨大な分量にわたって構築されてきているのでもある。
(大乗仏教ではそれこそを「悟りに到るための菩薩業の一環」ともしている)
かろうじて「礼記」の王制第五などに、「治世が大成功して飢え渇くような
民が一人もいなくなった時には、主君が日日の宴食に舞楽を呼んで祝えばよい」
といったような記述がある。それこそ、誰にも文句の付けようのない飲めや歌えやの
姿であるし、実際に平安時代の最隆盛期の日本の朝廷などは、このような記述にも
則った歌舞宴楽を楽しんでいたりしたわけだけれども。当然、ブラックアフリカの
キリスト教国などで膨大な数の餓死者が発生してしまっている今の世界において、
世界の支配者に相当するような権能の持ち主が、飲めや歌えやのお楽しみ状態でいても
構わないなどとする記述には全くなっていないのもまた、見るに明らかなことである。
ただひたすら世のため人のため自分のための菩薩業や仁政に邁進して行くことと、
それが十二分に成功している場合に限って自らもまた富貴を謳歌することまでが、
然るべき人のあり方を指し示した理念として是認するに足るものである一方、
ただひたすら自分が幸福でいられればそれでいいなどというのは、まったく理想
として扱うべき心持ちであるとはいえない。全くなってない人間の残念な性分として、
ただただ自分が幸福でいたいというような思いもまたあるにしたって、それが人間
社会において理想として扱っていいようなものではないこともまた確かなことである。
ただただ自分が幸福でいたいのが庶民の一般的な性分であるというのなら、
そもそも庶民の思いなどを尊重すべきでもないのである。>>240で孟子も示したような、
教化が行き届いて民までもが自主的に仁徳を重んじているような世の中ともなれば、
自利ばかりを専らにしなくなった民たちの思いすらをも尊重して行くようにすべきだが、
愚民化のせいで自利以外に何も考えられなくなってしまっていたりするようならば、
あえてそのような民たちの意向に反することもまた時に必要となるに違いない。
自利以上の利他を志して行くことを、愚民だらけの世の中にこそ押し広めるならば、
それこそ、まず民にそのような姿勢を強制したりするのでは、決してうまくいくこと
もあるまい。まずは為政者や指導者たるものこそが率先して仁者としてのあり方を
実践して、次いで民たちにもそのあり方を見習わせて行くようにする。なかなか志し
がたい善行を社会規模で広めて行くためにこそ、民主的ともいえないような手順を
踏んでいく必要があったりするわけだから、ただただ欲望芬芬たる愚民の要望ばかりを
聞き入れて行く民主制というものの問題性もまた考えて行くようにしなければならない。
それが十二分に成功している場合に限って自らもまた富貴を謳歌することまでが、
然るべき人のあり方を指し示した理念として是認するに足るものである一方、
ただひたすら自分が幸福でいられればそれでいいなどというのは、まったく理想
として扱うべき心持ちであるとはいえない。全くなってない人間の残念な性分として、
ただただ自分が幸福でいたいというような思いもまたあるにしたって、それが人間
社会において理想として扱っていいようなものではないこともまた確かなことである。
ただただ自分が幸福でいたいのが庶民の一般的な性分であるというのなら、
そもそも庶民の思いなどを尊重すべきでもないのである。>>240で孟子も示したような、
教化が行き届いて民までもが自主的に仁徳を重んじているような世の中ともなれば、
自利ばかりを専らにしなくなった民たちの思いすらをも尊重して行くようにすべきだが、
愚民化のせいで自利以外に何も考えられなくなってしまっていたりするようならば、
あえてそのような民たちの意向に反することもまた時に必要となるに違いない。
自利以上の利他を志して行くことを、愚民だらけの世の中にこそ押し広めるならば、
それこそ、まず民にそのような姿勢を強制したりするのでは、決してうまくいくこと
もあるまい。まずは為政者や指導者たるものこそが率先して仁者としてのあり方を
実践して、次いで民たちにもそのあり方を見習わせて行くようにする。なかなか志し
がたい善行を社会規模で広めて行くためにこそ、民主的ともいえないような手順を
踏んでいく必要があったりするわけだから、ただただ欲望芬芬たる愚民の要望ばかりを
聞き入れて行く民主制というものの問題性もまた考えて行くようにしなければならない。
「君子は遠慮有るも、小人は邇きに従う。飢寒も之れ恤えずして、誰をか其れ後に遑あらん」
「君子には遠い将来に到るまでの配慮があるが、小人は目先のことばかりに囚われたがる。
飢渇や凍えへの心配すら疎かにするようでいて、どうして後々のことを慮る余裕などがあろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十九年より)
上の引用とは志しを反しているような寓話ではあるが、
「死生存亡、窮達貧富、賢不肖、毀誉、飢渇、寒暑は、是れ事の変にして、命の行なり。
日夜前に相代わるも、知も其の始めを規うこと能わざる者なり。故に以て和を滑すに足らず、
霊府に入る可からず。之れをして和豫せしめ、通じて兌びを失わず、日夜をして郤無からしめ、
物と与に春を為す。是れ接ぎて時を心に生ずる者なり。是れを之れ才の全しと謂う」
「生死存亡、栄枯盛衰、貧富、賢不賢、毀誉褒貶、飢渇寒暑といったものは、すべて事の
移り変わりというものであり、天命の為す所である。日夜ことごとに変わり果てるもので、
誰もその発端を予測することもできやしない。故に姑息な猿知恵などによってその変化による
調和を乱すこともではしない。人間の分際でそのような問題を交渉に考え込むべきでもなく、
先天的な調和として許容し、一貫して喜びを失うことなく、日夜その境地にわが身を置いて、
万物と青春を共にして行く心持ちでいよ。これこそは心を時に一致させた境地で
あるといえ、人としての才分が全うされた姿であるともいえるのだ」
(「荘子」内篇・徳充符第五・四より)
将来の飢渇を憂う賢しらでいるか、もしくは飢渇自体を受け入れる大らかさでいよというのが
諸子百家の総論だ。飢渇を根絶して安心しきってしまおうなどという怠慢だけはダメだってんだ。
「君子には遠い将来に到るまでの配慮があるが、小人は目先のことばかりに囚われたがる。
飢渇や凍えへの心配すら疎かにするようでいて、どうして後々のことを慮る余裕などがあろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十九年より)
上の引用とは志しを反しているような寓話ではあるが、
「死生存亡、窮達貧富、賢不肖、毀誉、飢渇、寒暑は、是れ事の変にして、命の行なり。
日夜前に相代わるも、知も其の始めを規うこと能わざる者なり。故に以て和を滑すに足らず、
霊府に入る可からず。之れをして和豫せしめ、通じて兌びを失わず、日夜をして郤無からしめ、
物と与に春を為す。是れ接ぎて時を心に生ずる者なり。是れを之れ才の全しと謂う」
「生死存亡、栄枯盛衰、貧富、賢不賢、毀誉褒貶、飢渇寒暑といったものは、すべて事の
移り変わりというものであり、天命の為す所である。日夜ことごとに変わり果てるもので、
誰もその発端を予測することもできやしない。故に姑息な猿知恵などによってその変化による
調和を乱すこともではしない。人間の分際でそのような問題を交渉に考え込むべきでもなく、
先天的な調和として許容し、一貫して喜びを失うことなく、日夜その境地にわが身を置いて、
万物と青春を共にして行く心持ちでいよ。これこそは心を時に一致させた境地で
あるといえ、人としての才分が全うされた姿であるともいえるのだ」
(「荘子」内篇・徳充符第五・四より)
将来の飢渇を憂う賢しらでいるか、もしくは飢渇自体を受け入れる大らかさでいよというのが
諸子百家の総論だ。飢渇を根絶して安心しきってしまおうなどという怠慢だけはダメだってんだ。
「棖や慾なり。焉んぞ剛なることを得ん(既出)」
「申棖には欲がある。どうして頑強といえよう。(欲があることは軟弱なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一一より)
「願い欲しすら叶えられる」という発想が
卑しまれるべき悪徳の範疇であるとする根拠には、おおよそ三つある。
①.欲したがるような財富にも限りがあり、自分ばかりが独占すべきではないから。
②.やたらと欲したがるということ自体が自らの軟弱さの発露であるが故に恥となるから。
③.欲望にまみれている状態の劣情が自業自得で自らを苦悩に陥れるから。
儒家は①と②の理由で際限のない欲望を戒めるし、
仏門や道家は③の理由で欲望を戒める。
①は共産主義、③はさほど上等ともいえないような異端宗教などでも問題視されることであり、
そのような粗悪な思想信条に基づいて被支配者や信者が寡欲に務めた結果、寡欲によって
溜め込まれた財富の集約元としての支配者なり教祖なりを肥え太らせるようなことにも
なってしまいかねない。そしてそれが資本主義者のような、際限のない欲望を大いに
是とする人種にとっての、制欲を非とする根拠とされるようにもなってしまう。
本当は、①や③のような根拠に即して人々を扇動した結果、自分たち自身が暴利を
巻き上げようとするような異端の思想家なり宗教家なりがいなければそれに越したことが
ないわけだが、残念ながら存在する。そのため、制欲を推奨する根拠として決して
間違っているわけでもない①や③のような根拠までもが眉唾物と化してしまう。そのため、
ここは一つ②の根拠に即して、欲望を十分に抑制できている者こそを「剛者」として
尊び、欲望まみれの人間を「軟弱者」として卑しむことに務めて行くべきだといえる。
「申棖には欲がある。どうして頑強といえよう。(欲があることは軟弱なことである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一一より)
「願い欲しすら叶えられる」という発想が
卑しまれるべき悪徳の範疇であるとする根拠には、おおよそ三つある。
①.欲したがるような財富にも限りがあり、自分ばかりが独占すべきではないから。
②.やたらと欲したがるということ自体が自らの軟弱さの発露であるが故に恥となるから。
③.欲望にまみれている状態の劣情が自業自得で自らを苦悩に陥れるから。
儒家は①と②の理由で際限のない欲望を戒めるし、
仏門や道家は③の理由で欲望を戒める。
①は共産主義、③はさほど上等ともいえないような異端宗教などでも問題視されることであり、
そのような粗悪な思想信条に基づいて被支配者や信者が寡欲に務めた結果、寡欲によって
溜め込まれた財富の集約元としての支配者なり教祖なりを肥え太らせるようなことにも
なってしまいかねない。そしてそれが資本主義者のような、際限のない欲望を大いに
是とする人種にとっての、制欲を非とする根拠とされるようにもなってしまう。
本当は、①や③のような根拠に即して人々を扇動した結果、自分たち自身が暴利を
巻き上げようとするような異端の思想家なり宗教家なりがいなければそれに越したことが
ないわけだが、残念ながら存在する。そのため、制欲を推奨する根拠として決して
間違っているわけでもない①や③のような根拠までもが眉唾物と化してしまう。そのため、
ここは一つ②の根拠に即して、欲望を十分に抑制できている者こそを「剛者」として
尊び、欲望まみれの人間を「軟弱者」として卑しむことに務めて行くべきだといえる。
聖人や賢人だから尊ぶという以前に、男らしい剛者だからこそ尊ぶのである。
「剛毅木訥は仁に近し(子路第十三・二七)」とある通り、そのような意味で剛毅である
人間は確かに仁者たり得もするのであり、仁者たることは社会的強者たる上での確かな
糧ともなるのだから、そのような人間こそを大丈夫として尊ぶことは、見せ掛けばかりの
男らしさなどではない、真の男らしさの持ち主こそを尊ぶことにも繋がるのである。
男に随順するような貞節さもないところでは、どこまでも欲望を肥大化させるのが女であるし、
親などからの躾がなっていないほど、何でも買ってもらいたがるのが子供の性分でもある。
そして女子供は大人の男よりも弱い。女子供の軟弱さこそは確かに際限のない欲望とも親しい。
女子供とはまた別の、大人の男ならではの偉大なる性分としての剛毅なる制欲を尊ぶ、
宗教的な聖賢の領域にあるわけですらない、そういった志向性こそを大切にして行くべきである。
「君子は多くの人に上たることを欲せず」
「立派な人間は、多くの人間の上に立つことを欲したりはしない。
(封建制は当然序列志向だが、支配者である君子階級同士でも厳格な序列があり、
庶民の直接的な支配などは専ら下っ端の役人あたりが務める。中士上士から王侯に到るまで、
自分自身が直接上位に立つような相手は限られることとなり、あまりにも身分の違いすぎる
者同士などはお目通りから制限されるようになる。だから、犯罪聖書の神のような、誰も彼も
の上に立って直接その願いを叶えてやろうとするようなあり方からして是とすることがない。
犯罪聖書の神は、君子が願い欲さぬようなあり方を自分自身が帯びているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・桓公五年より)
「剛毅木訥は仁に近し(子路第十三・二七)」とある通り、そのような意味で剛毅である
人間は確かに仁者たり得もするのであり、仁者たることは社会的強者たる上での確かな
糧ともなるのだから、そのような人間こそを大丈夫として尊ぶことは、見せ掛けばかりの
男らしさなどではない、真の男らしさの持ち主こそを尊ぶことにも繋がるのである。
男に随順するような貞節さもないところでは、どこまでも欲望を肥大化させるのが女であるし、
親などからの躾がなっていないほど、何でも買ってもらいたがるのが子供の性分でもある。
そして女子供は大人の男よりも弱い。女子供の軟弱さこそは確かに際限のない欲望とも親しい。
女子供とはまた別の、大人の男ならではの偉大なる性分としての剛毅なる制欲を尊ぶ、
宗教的な聖賢の領域にあるわけですらない、そういった志向性こそを大切にして行くべきである。
「君子は多くの人に上たることを欲せず」
「立派な人間は、多くの人間の上に立つことを欲したりはしない。
(封建制は当然序列志向だが、支配者である君子階級同士でも厳格な序列があり、
庶民の直接的な支配などは専ら下っ端の役人あたりが務める。中士上士から王侯に到るまで、
自分自身が直接上位に立つような相手は限られることとなり、あまりにも身分の違いすぎる
者同士などはお目通りから制限されるようになる。だから、犯罪聖書の神のような、誰も彼も
の上に立って直接その願いを叶えてやろうとするようなあり方からして是とすることがない。
犯罪聖書の神は、君子が願い欲さぬようなあり方を自分自身が帯びているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・桓公五年より)
春秋戦国時代に、なんでもありな鶏鳴狗盗の働きによってスポンサーに奉仕する数多の食客が暗躍していたことは、
「史記」などの正確な歴史記録からも伺えることである。それは、孟嘗君や春申君や平原君や呂不韋といった、
乱世のどさくさに紛れて膨大な富を占有していた権力者らがパトロンとなればこそ可能とされていたことであり、
いわば、暴政によって深刻な疲弊に晒されていた民たちの犠牲の上にこそ成り立つものであった。
だからこそ、乱世の最たる被害者である百姓の出身だった劉邦も、なんでもありな食客を利用することは極力控えた。
漢王だった頃に、有能な人材を徴発するために拵えた面会所も「招賢館」と名付け、一芸に秀でてすらいれば
それでよしとするような食客制=一領具足的姿勢はあえて遠ざけた。その招賢館での募集を通じて漢軍方の説客となり、
楚軍との偽りの和睦の締結で功を成した候公という人物に対しても、「平国君」といういかにも善良じみた
号と共に万戸公としての身分を授け、「それなりの責任を持って為政に励め」ということを暗に喚起した。
(結局、候公はその重圧に耐えきれずに逐電した)
すでに歴史上に名高い名臣や名将としてその評価が定着している陳平や韓信のような人物も、最初劉邦は、
その素行に不審な点があることや、実際に一時期食客身分でもあったことなどを理由に登用を渋った。
その上で、張良や蕭可のような古馴染みの臣下からの説得を受けるなどして、やっと受け入れるに至った。
そして登用するや、最側近の寵臣や大将軍として、既存の部下たちが羨むほどの重用をも果たしたわけだが、
これもまた、「決して食客のごとき死兵要員として扱ったりするつもりはない」という意思表示になっていた。
「史記」などの正確な歴史記録からも伺えることである。それは、孟嘗君や春申君や平原君や呂不韋といった、
乱世のどさくさに紛れて膨大な富を占有していた権力者らがパトロンとなればこそ可能とされていたことであり、
いわば、暴政によって深刻な疲弊に晒されていた民たちの犠牲の上にこそ成り立つものであった。
だからこそ、乱世の最たる被害者である百姓の出身だった劉邦も、なんでもありな食客を利用することは極力控えた。
漢王だった頃に、有能な人材を徴発するために拵えた面会所も「招賢館」と名付け、一芸に秀でてすらいれば
それでよしとするような食客制=一領具足的姿勢はあえて遠ざけた。その招賢館での募集を通じて漢軍方の説客となり、
楚軍との偽りの和睦の締結で功を成した候公という人物に対しても、「平国君」といういかにも善良じみた
号と共に万戸公としての身分を授け、「それなりの責任を持って為政に励め」ということを暗に喚起した。
(結局、候公はその重圧に耐えきれずに逐電した)
すでに歴史上に名高い名臣や名将としてその評価が定着している陳平や韓信のような人物も、最初劉邦は、
その素行に不審な点があることや、実際に一時期食客身分でもあったことなどを理由に登用を渋った。
その上で、張良や蕭可のような古馴染みの臣下からの説得を受けるなどして、やっと受け入れるに至った。
そして登用するや、最側近の寵臣や大将軍として、既存の部下たちが羨むほどの重用をも果たしたわけだが、
これもまた、「決して食客のごとき死兵要員として扱ったりするつもりはない」という意思表示になっていた。
田畑の作物に付きっきりで居させられる百姓の仕事は、ただそれだけでも不自由の極みとなる。
いわば、「なんでもなし」でいてこそ百姓はその職分を全うするのであり、なんでもありのやりたい放題で
パトロンに奉仕する食客のあり方などとはその様相を真逆にする。無論、そのような鈍重なあり方に嫌悪感を示した
百姓のどら息子なぞが、反動で食客身分を目指したりすることもなくはなかっただろうにしろ(秀吉の出世姿勢などもそれに近い)、
少なくとも劉邦は、そのような気概によって百姓からの出世を志したのではなかった。むしろ、無責任な
遊興三昧の末子であった自分を見下していた親兄弟を正しく見返してやるためにこそ出世を志しもしたわけで、
その望みを叶えるためには当然、食客としての死兵ばたらきなどで我が身を軽んずるわけにもいかなかった。
むしろ、親兄弟を上皇や親王として厚遇できるぐらいの磐石な成功が必要だったわけで、その栄達も子々孫々の後世にまで
至らないよりは至るほうがよかったから、悪辣な食客の多用などで世を新たな乱脈に陥れるわけにもいかなかった。
そういった堅実な見通しと共に出世を志したからこそ、劉邦も自分が食客になったりしないのはもちろんのこと、
財ある権力者の側から食客を死兵として濫用するような真似にも及ばなかった(そのぶん正規の臣下に対する
羽振りはよかった)。要するに、百姓特有の「なんでもなし」でいようとする性向を持ち越したままでの出世を
志したからこそ、劉邦も食客の蠢動を排した長期の治世の礎となることができたのだった。
同じ百姓の出身であっても、豊臣秀吉なぞは、百姓本来の性分を完全に捨て去っての「なんでもあり」な
志向性での出世を志したものだから、自らの死後に至るまで(素行の不良な配下などの)乱世の火種を持ち越した。
だからこそ、徳川による妻子の放伐すらをも被らざるを得なかったわけで、そこには確かな秀吉自身の落ち度があったのである。
いわば、「なんでもなし」でいてこそ百姓はその職分を全うするのであり、なんでもありのやりたい放題で
パトロンに奉仕する食客のあり方などとはその様相を真逆にする。無論、そのような鈍重なあり方に嫌悪感を示した
百姓のどら息子なぞが、反動で食客身分を目指したりすることもなくはなかっただろうにしろ(秀吉の出世姿勢などもそれに近い)、
少なくとも劉邦は、そのような気概によって百姓からの出世を志したのではなかった。むしろ、無責任な
遊興三昧の末子であった自分を見下していた親兄弟を正しく見返してやるためにこそ出世を志しもしたわけで、
その望みを叶えるためには当然、食客としての死兵ばたらきなどで我が身を軽んずるわけにもいかなかった。
むしろ、親兄弟を上皇や親王として厚遇できるぐらいの磐石な成功が必要だったわけで、その栄達も子々孫々の後世にまで
至らないよりは至るほうがよかったから、悪辣な食客の多用などで世を新たな乱脈に陥れるわけにもいかなかった。
そういった堅実な見通しと共に出世を志したからこそ、劉邦も自分が食客になったりしないのはもちろんのこと、
財ある権力者の側から食客を死兵として濫用するような真似にも及ばなかった(そのぶん正規の臣下に対する
羽振りはよかった)。要するに、百姓特有の「なんでもなし」でいようとする性向を持ち越したままでの出世を
志したからこそ、劉邦も食客の蠢動を排した長期の治世の礎となることができたのだった。
同じ百姓の出身であっても、豊臣秀吉なぞは、百姓本来の性分を完全に捨て去っての「なんでもあり」な
志向性での出世を志したものだから、自らの死後に至るまで(素行の不良な配下などの)乱世の火種を持ち越した。
だからこそ、徳川による妻子の放伐すらをも被らざるを得なかったわけで、そこには確かな秀吉自身の落ち度があったのである。
食客の多用などに基づく「なんでもあり」の魔性などに囚われなかったか否かが、漢の劉家と豊臣家との命運を決定的に分かちもした。
方や中国史上最良の帝国の礎となり、方や日本近世史上最極端な栄枯盛衰の道化となった。
「なんでもあり」の魔性などに囚われないことが、天下を統べる帝王にとってこそ必須な要素である如実な証拠となっている。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ。
(ここまで既出)博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中に在り」
「常日ごろからまだ自分に足りてないものを知ろうとし、月ごとにできるようになったことをおさらいして忘れないようにする、
それでこそ学問を好む姿だといえる。多くのことを広く学んでなおのこと学問を篤く志し、込み入った所まで問いたずねて
身近な所にまで考察を働かせる、そういった所に仁徳もまたあるのである。(万能感は仁徳に反するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五‐六より)
方や中国史上最良の帝国の礎となり、方や日本近世史上最極端な栄枯盛衰の道化となった。
「なんでもあり」の魔性などに囚われないことが、天下を統べる帝王にとってこそ必須な要素である如実な証拠となっている。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ。
(ここまで既出)博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中に在り」
「常日ごろからまだ自分に足りてないものを知ろうとし、月ごとにできるようになったことをおさらいして忘れないようにする、
それでこそ学問を好む姿だといえる。多くのことを広く学んでなおのこと学問を篤く志し、込み入った所まで問いたずねて
身近な所にまで考察を働かせる、そういった所に仁徳もまたあるのである。(万能感は仁徳に反するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五‐六より)
念仏信仰で観想される金銀財宝だらけの極楽浄土だとか、
それ以上にも卑猥な描写のあるイスラムの天国描写だとかを、
聖書信者こそが「低俗なもの」として撥ね付けている。その聖書信者が
希求の対象としている天国はといえば、たとえばダンテの「神曲」天国篇などで
一応描写されてはいるものの、いたって抽象的で淡白な描写ばかりに限られていて、
聖書信者にこそ特有の天国観というものを如実化しているなどとはとうてい言いがたい。
実際の所、聖書信者には、自分たち特有の天国観というものはない。
せいぜい「飲み食いに困るようなこともない」という程度の想像があるだけで、
それは現実社会における仁政などによってもそれなりに実現が可能なものである。
「永遠の命を手に入れる」といったところで、永遠の命と共にどのような天国での
生活が待っているかなどを具体的に示しているわけでもない。永遠の命があった所で、
それで地獄の責め苦に苛まれ続けるのなら、かえって死んだほうがマシというものだろうに、
「永遠の命が手に入る」というだけの所で望みが天井打ちになってしまっているのである。
どのような天国を希求しているかの具体的な構想もないからこそ、聖書信者は
自分たちのほうが異教の昇天往生信者よりも高尚であるなどと思い込んでいたりする。
それはただ、望むべき世界の構想すらをも怠っているという究極級の精神的怠慢が
そうしているだけのことであるにもかかわらず、それをして、自分たちこそは
より高尚な昇天の希求者であるなどと転倒夢想しているのである。
そもそも、現世での最善の精進を怠って、来世での救済などを欲したりすること自体が
下劣なことだから、その欲求の充足先としての天国や浄土が下劣だったりしたとしてもむべ
なることである。浄土教やイスラム教の往生先の描写はそのあたりにかけても適当でいるから、
そのおかげで信者たちが自分たちの身の程をわきまえられていたりもするのである。
それ以上にも卑猥な描写のあるイスラムの天国描写だとかを、
聖書信者こそが「低俗なもの」として撥ね付けている。その聖書信者が
希求の対象としている天国はといえば、たとえばダンテの「神曲」天国篇などで
一応描写されてはいるものの、いたって抽象的で淡白な描写ばかりに限られていて、
聖書信者にこそ特有の天国観というものを如実化しているなどとはとうてい言いがたい。
実際の所、聖書信者には、自分たち特有の天国観というものはない。
せいぜい「飲み食いに困るようなこともない」という程度の想像があるだけで、
それは現実社会における仁政などによってもそれなりに実現が可能なものである。
「永遠の命を手に入れる」といったところで、永遠の命と共にどのような天国での
生活が待っているかなどを具体的に示しているわけでもない。永遠の命があった所で、
それで地獄の責め苦に苛まれ続けるのなら、かえって死んだほうがマシというものだろうに、
「永遠の命が手に入る」というだけの所で望みが天井打ちになってしまっているのである。
どのような天国を希求しているかの具体的な構想もないからこそ、聖書信者は
自分たちのほうが異教の昇天往生信者よりも高尚であるなどと思い込んでいたりする。
それはただ、望むべき世界の構想すらをも怠っているという究極級の精神的怠慢が
そうしているだけのことであるにもかかわらず、それをして、自分たちこそは
より高尚な昇天の希求者であるなどと転倒夢想しているのである。
そもそも、現世での最善の精進を怠って、来世での救済などを欲したりすること自体が
下劣なことだから、その欲求の充足先としての天国や浄土が下劣だったりしたとしてもむべ
なることである。浄土教やイスラム教の往生先の描写はそのあたりにかけても適当でいるから、
そのおかげで信者たちが自分たちの身の程をわきまえられていたりもするのである。

いるものだから、信者が自分たちの下劣な身の程をわきまえることもできない。
それでいて、身の程をわきまえることもない来世教信者としての活動を無制限に推進して
行ったものだから、現世としてのこの世界を自分たちで破滅に陥れることともなったのである。
抽象化にも、善い面と悪い面がある。善巧方便になる抽象化と悪巧方便になる抽象化との両方
があり、聖書信仰における天国や(自分たちでそうだと定義する)上知の抽象化は、明らかに
悪巧方便としての抽象化の部類に入る。単なる新たな金儲けの指南を○○経済学などとして
抽象化したりするのと同じで、本質的な下劣さから目を逸らすための気休めでしかない。
日本人は、自分たちが本音と建前を使い分けていることを自覚しているが、西洋の聖書信者は、
自分たちの本性の所の下劣さを本当に見失った上で、自らを高尚な人物ぶっていたりする。
だから、まずは、自分たちもまた二面性を使い分けて来た演技者であったに過ぎないという
ことを聖書信者に自覚させてから、問題である部分を直させて行くようにもせねばならない。
「(陽貨)曰く、其の宝を懐きて其の邦を迷わすは、仁と謂う可きか。(子)曰く、不可なり」
「陽貨『いったい、天下の至宝ともいうべき知恵を持ちながら、自らのいる国を混迷のままに
しておくのが仁であるなどと言えるでしょうか』 孔先生『いいえ』(陽貨が孔子に仕官を
囃し立てる問答。孔子は陽貨を嫌っていたが、財宝の如き知恵を国のために用いるべきだと
いう陽貨の意見自体には同意している。知恵を財宝以上のものとして象牙の塔に仕舞い
込んだりしてしまうのでは、陽貨ほどの堅実さすらをも損なうこととなってしまう)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一より)
笠地蔵は未だに大二病かい? 旦‾

と共に、「我あり、故に神あり」というという論説を主張してもいる。結果的に言えば、
この両方ともの論説が、人々の心神喪失や精神分裂を促す妄説であったのであり、なおかつ
「我あり、故に神あり」という論説の典拠は、犯罪聖書におけるイエスの物言いにまで
その起源を遡ることができるわけだから、近代以降もずっと聖書信仰を基調として来た
西洋の歴史というのは、まさに精神障害を深刻化させ続ける歴史だったのだといえる。
「我思う、故に我あり」は、現象把握を構築する人間の思考を自我そのものであるとし、
「我あり、故に神あり」は、思考が自律的であることの根拠を神の実在に頼ろうとしている。
そこでは、現象操作を超越した所にある真我の実在性が完全に見落とされていて、そのような
意味での真我が不在であるにことかけての超越神の定立というすり替えが企てられているわけで、
人々の自律的な言行の自己責任性を喪失させようとする不埒さまでもが垣間見られるのである。
そういった誤りを一切排した心理哲学が、インドでは3000年以上前からウパニシャッド哲学や
仏教哲学として構築されて来ているわけだが、西洋哲学こそは哲学の本流みたいな扱われ方をされ
続けているものだから、未だに日本などではインド哲学が肩身の狭い思いをさせられ続けてもいる。
現象的な思考全般を否定しての真我や無我の把捉が、現象上の体系構築を好むヘーゲルなどの
西洋哲学者にも忌み嫌われて、なおかつショーペンハウアーのような亜流の西洋哲学者ばかりに
好まれたりもしたものだから、そのせいでインド哲学全般が亜流の哲学扱いをされるようにも
なってしまった。それこそ、本当は西洋哲学全般が異端の亜流哲学として扱われ、インド哲学や
中国思想こそは正統の思想哲学として扱われるべきなのであり、そのような習慣が定着することを
通じて初めて、人々もまた深く植え付けられた心の病から脱却して行けるようになるのである。
近世までは、聖書信者たちだけが邪教の狂信を通じて患っていた心の病が、近代以降は、
聖書信仰の毒性が西洋哲学の仮面を被って広められたことを通じて、非聖書圏を含む
世界中の人間が同様の病を患うようになってしまった。キリスト教などはほとんど信仰対象
として退けている日本人なども、西洋哲学への警戒までは十分に行き届いておらず、
「難解でとっつきがたいけれども、近代文明の精神的支柱となってきたありがたい教え」
程度のパブリックイメージは持ち越したままでいてしまっている。「近代文明が物質構築の面で
あまりにも盛大だったものだから、西洋哲学もまた高尚な精神性を帯びているに違いない」
などと、まともに哲学書を読むこともなく勝手に思い込んでいたりするわけだが、とんでもない、
西洋哲学こそは人々の精神薄弱を学術的に深刻化させる元凶でこそあったのであり、精神薄弱による
渇望を物質的構築によって紛らわせさせようとする原動力にこそなって来たに過ぎないのである。
西洋主導の近代文明の物質的構築の過剰さこそは、いま致命的な環境破壊を世界にもたらしていて、
これが人口爆発にも匹敵する世界の破滅の要因ともなっている。だからといって、ただ物質的
構築を取りやめにしたのでは、それによってこそ精神薄弱からなる渇望を紛らわしていた人々が
極度の鬱屈にかられてのゾンビ状態などとも化してしまいかねない。だから、物質的構築の
抑制と共なる、人々の精神薄弱の治療もまた必要となって行く。そのためには、あらゆる
哲学の中でも心身の壮健化に貢献するインド哲学のごとき哲学を尊び、精神の薄弱化を助長する
西洋哲学などの哲学の有害性をも認めて行くようにしなければならない。なんとなくでも、
権威があるかのようなつもりでいたりすることから是正して行くようにするのでなければ、
潜在意識からの洗脳を払拭して行く上でには不足であるのだと戒めて行くようにすべきだ。
聖書信仰の毒性が西洋哲学の仮面を被って広められたことを通じて、非聖書圏を含む
世界中の人間が同様の病を患うようになってしまった。キリスト教などはほとんど信仰対象
として退けている日本人なども、西洋哲学への警戒までは十分に行き届いておらず、
「難解でとっつきがたいけれども、近代文明の精神的支柱となってきたありがたい教え」
程度のパブリックイメージは持ち越したままでいてしまっている。「近代文明が物質構築の面で
あまりにも盛大だったものだから、西洋哲学もまた高尚な精神性を帯びているに違いない」
などと、まともに哲学書を読むこともなく勝手に思い込んでいたりするわけだが、とんでもない、
西洋哲学こそは人々の精神薄弱を学術的に深刻化させる元凶でこそあったのであり、精神薄弱による
渇望を物質的構築によって紛らわせさせようとする原動力にこそなって来たに過ぎないのである。
西洋主導の近代文明の物質的構築の過剰さこそは、いま致命的な環境破壊を世界にもたらしていて、
これが人口爆発にも匹敵する世界の破滅の要因ともなっている。だからといって、ただ物質的
構築を取りやめにしたのでは、それによってこそ精神薄弱からなる渇望を紛らわしていた人々が
極度の鬱屈にかられてのゾンビ状態などとも化してしまいかねない。だから、物質的構築の
抑制と共なる、人々の精神薄弱の治療もまた必要となって行く。そのためには、あらゆる
哲学の中でも心身の壮健化に貢献するインド哲学のごとき哲学を尊び、精神の薄弱化を助長する
西洋哲学などの哲学の有害性をも認めて行くようにしなければならない。なんとなくでも、
権威があるかのようなつもりでいたりすることから是正して行くようにするのでなければ、
潜在意識からの洗脳を払拭して行く上でには不足であるのだと戒めて行くようにすべきだ。
「子、子産を謂う。『君子の道四つ有り。其の己れを行うや恭、
其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義』(既出)」
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』
(自分でものを行うにしろ、主君からの命でことを為すにしろ、恭敬の限りを尽くすわけだから、
いずれにしろ道義に適うこととなるわけで、絶対にどちらでならないなどということはないのである。
自分自身もできた上で、さらに上に仕えもするのが、君子の道というものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「人の技有るは冒疾して之れを悪み、人の彦聖なるは、之れに違いて達せざらしむ。
是れ容るること能わず。以って我が子孫黎民を保つこと能わず、亦た殆ういと曰わんかな」
「他者に技能があるようなら嫉妬してこれを憎み、他者が賢聖であるようなら、自分とはまた
別のものとして捨て置く。そんな態度姿勢では自らの子孫や領民を保つこともできないほどに危い」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・秦誓より)
其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義』(既出)」
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』
(自分でものを行うにしろ、主君からの命でことを為すにしろ、恭敬の限りを尽くすわけだから、
いずれにしろ道義に適うこととなるわけで、絶対にどちらでならないなどということはないのである。
自分自身もできた上で、さらに上に仕えもするのが、君子の道というものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「人の技有るは冒疾して之れを悪み、人の彦聖なるは、之れに違いて達せざらしむ。
是れ容るること能わず。以って我が子孫黎民を保つこと能わず、亦た殆ういと曰わんかな」
「他者に技能があるようなら嫉妬してこれを憎み、他者が賢聖であるようなら、自分とはまた
別のものとして捨て置く。そんな態度姿勢では自らの子孫や領民を保つこともできないほどに危い」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・秦誓より)

自覚症状がある場合もない場合もあるにしろ、そこでこそ人は心を病んでいる。
「神を信じてすらいれば罪を犯しても許されるし、死んでも天国に逝ける」
などという思い込みは、全く事実に反しているものだから、人々の心を病ましめる
原因となってしまう一方、「自らが犯した罪は、自らが罰を受けねば償われない」
「人はみないつかは死に、二度と蘇ることもない」といった考えは実情に合致して
いるものだから、そのような考えを恒常化させていられるほど心が壮健ともなる。
しかし、未だ未熟な精神力しか持ち合わせていないような人間からすれば、
実情からかけ離れてまでの無制限な自由を欲するような心持ちこそは魅力的に
思える一方で、現実ありのままに過不足なく合致しようとするような心持ちは、
さして魅力的にも思えなかったりする。前者は限りなく天空を舞い上がるような
心持ちとでもいえる一方で、後者は地べたに張り付いたままでいさせられるような
心持ちであるものだから、十分に思い上がりを抑えられているわけでもない未熟な
精神構造の持ち主からすれば、後者よりも前者のほうが魅力的に思えるのである。
より高く、上空へと舞い上がろうとする心持ちばかりでいたものだから、
聖書圏の欧米人こそは飛行機を発明したし、食品に成長材を混ぜてまで
自分たちの身長を高くしようともした。しかし、そのような心持ちでばかりいた
結果として、自分たちの住まう世の中というものを蔑ろにし、誰しもが過剰な
富を貪ろうとし続けたせいでの経済破綻などを招くことともなってしまった。
日本の伝統的武道などは、腰をしっかりと落として剣技を繰り出したり柔術の技を
かけたりするものがほとんどであるし、石高制に基づく江戸時代の社会統治なども、
一人頭の食い扶持から厳しく管理して行くものだったから、日本人全体の体格を戦国
時代など以上にも矮小化させる原因となってしまった。しかし、それほどにも低い所、
低い所ばかりへとへばり付いていようとする心持ちこそは、日本人に世界でも最高級に磐石
な経済感覚を植え付けさせ、以って安定した世の中を築き上げられるようにもしたのだった。
ただ経済感覚がより磐石となるから、舞い上がるような心持ちよりも、しっかりと地に足を
付けた心持ちでいるべきだというのなら、永年聖書信仰を通じて舞い上がるような心持ち
ばかりに慣れ続けて来た欧米人などは、禁治産者となって世の中を放り出してでも、今の
ような心持ちのままでいたいとすら思うかもしれない。ただそれだけの理由ではなく、
しっかりと地に足を付けた堅実な心持ちでいればこそ、より心神が壮健で快い
心持ちでもいられるという理由があればこそ、旧聖書圏の人間にすら、
地に足を付けた心持ちへの成長を促していけるものだといえる。
そのあたりの心理法則を主導的に考え抜いて来たのは、主にインド人であり、
ドイツ人やイギリス人とも同じアーリア系のコーカソイド(ただし有色)である。
実際にヨガなどの体術でも、しっかりと腰を落とす動きなどが重んじられているし、
元はいえば、日本でもそのようなヨガの行法が密教などを通じてもたらされたものだから、
それらをヒントにして武術が発達して来たのでもあ。故に、しっかりと地に足を付ける
考え方というものを尊んだからといって、それが極東のモンゴロイドばかりを至上化すること
にはならないと考えていいのであり、日本人ばかりに引け目を抱く必要もないのだといえる。
日本や中国と違って、ろくに国家規模での近代経済への参入にも取り組まなかったものだから、
経済状態もブラックアフリカ並みのままでいるインドこそは、これからの世界における
人間のあり方の指針というものを、膨大な分量にわたって用意して来てくれてもいる。
だからこそ、これからはインドのような国こそを尊んでいくようにもしなければ
ならない。そのあたり、世界というものもまたよくできているものだといえる。
付けた心持ちでいるべきだというのなら、永年聖書信仰を通じて舞い上がるような心持ち
ばかりに慣れ続けて来た欧米人などは、禁治産者となって世の中を放り出してでも、今の
ような心持ちのままでいたいとすら思うかもしれない。ただそれだけの理由ではなく、
しっかりと地に足を付けた堅実な心持ちでいればこそ、より心神が壮健で快い
心持ちでもいられるという理由があればこそ、旧聖書圏の人間にすら、
地に足を付けた心持ちへの成長を促していけるものだといえる。
そのあたりの心理法則を主導的に考え抜いて来たのは、主にインド人であり、
ドイツ人やイギリス人とも同じアーリア系のコーカソイド(ただし有色)である。
実際にヨガなどの体術でも、しっかりと腰を落とす動きなどが重んじられているし、
元はいえば、日本でもそのようなヨガの行法が密教などを通じてもたらされたものだから、
それらをヒントにして武術が発達して来たのでもあ。故に、しっかりと地に足を付ける
考え方というものを尊んだからといって、それが極東のモンゴロイドばかりを至上化すること
にはならないと考えていいのであり、日本人ばかりに引け目を抱く必要もないのだといえる。
日本や中国と違って、ろくに国家規模での近代経済への参入にも取り組まなかったものだから、
経済状態もブラックアフリカ並みのままでいるインドこそは、これからの世界における
人間のあり方の指針というものを、膨大な分量にわたって用意して来てくれてもいる。
だからこそ、これからはインドのような国こそを尊んでいくようにもしなければ
ならない。そのあたり、世界というものもまたよくできているものだといえる。
「聖人は百世の師なり。伯夷・柳下恵是れなり。故に伯夷の風を聞く者は、頑夫は廉に、
懦夫も志しを立つる有り。柳下恵の風を聞く者は、薄夫は敦に、鄙夫は寛たる。百世の上に
奮いて、百世の下に聞く者も興起せざる莫きなり。聖人に非ずして能く是くの若くならんか」
「聖人は百世の後にいたるまで人々の師であり続ける。伯夷や柳下恵こそはその代表例である。
伯夷の伝説を聞かされた者は、貪欲なら清廉に、臆病者も志しを立てるようになる。柳下恵の
伝説を聞いた者は、薄情であるなら敦厚に、狭量であっても寛容となる。百世の太古に活躍
しながら、百世の後に到るまで、その伝説を聞く者の身に起こることの模範とならぬことがない。
どうして聖人でなければそのようであり得ようか。(キリストの業など誰の身にも起こらぬ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一五より)
懦夫も志しを立つる有り。柳下恵の風を聞く者は、薄夫は敦に、鄙夫は寛たる。百世の上に
奮いて、百世の下に聞く者も興起せざる莫きなり。聖人に非ずして能く是くの若くならんか」
「聖人は百世の後にいたるまで人々の師であり続ける。伯夷や柳下恵こそはその代表例である。
伯夷の伝説を聞かされた者は、貪欲なら清廉に、臆病者も志しを立てるようになる。柳下恵の
伝説を聞いた者は、薄情であるなら敦厚に、狭量であっても寛容となる。百世の太古に活躍
しながら、百世の後に到るまで、その伝説を聞く者の身に起こることの模範とならぬことがない。
どうして聖人でなければそのようであり得ようか。(キリストの業など誰の身にも起こらぬ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・一五より)
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
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働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
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働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
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働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
働かずに親の稼いだ金で喰う、汚れた飯は美味いか?
骨も傷んだり折れたりした後の治癒の過程で骨密度をより高めるし、
筋肉も激しい運動による筋繊維の断裂を通じてこそ強靭化されて行く。
人の心や、人としての器もまた、過剰に傷めつけられるほどもの
試練を通じてこそより一層の成長を果たすことができるものであり、
それは時に、致命的な程もの試練に基づく場合すらもがある。
密教や禅の修行なども、昔は命の保障すらないようなものが実際に多かった。
今は欧米発の人権主義によってそのような修行も自粛されてしまっているけれども、
それ程もの荒行によってこそ得られる功徳というものもまたあるのであり、しかも
それこそは他の何物にも変えがたいような自在性を帯びていたりもするのである。
もちろん、全ての荒行が必ず着実な成果に結び付くなどということもなく、
ただ被験者の心身を害して損なわせるだけでしかないようなものも多々ある。
昔、聖道門の仏門などで致死級の荒行を多々こなしていた経歴を持つ日本人が、その
志向性だけは持ち越したままで、近代的な手法に即した荒行を行ったりすることがある。
一部のスポーツだとか、スポーツ化してしまった武道だとか、ブラック企業での従業員の
酷使だとかにそのような傾向が顕著であり、結局、耐え難い労苦の割りに大した成果も
挙げられていないようなものがほとんどである。(そのせいで日本人の精神論的傾向が
非難されたりもするが、それは精神論に対する冤罪のふっかけだといえる)
何らの成果にも繋がらない、単なる荒行の強制は、それこそ「いじめ」に極まる。
いじめっ子もいじめられっ子に対して、試練を課すような体裁で諸々の苦行を強いる
ような場合が多いが、それでいてあえて何の成果にも繋がらないような範囲での
苦しみの強要ばかりにも終始する。相手に苦しみを味わわせることで、しょうもない
存在としての自らの相対的な充足を味わうことばかりが目的であるのだから、苦行の
せいでいじめられっ子が成長してしまうようなことも逆にあってはならないわけである。
筋肉も激しい運動による筋繊維の断裂を通じてこそ強靭化されて行く。
人の心や、人としての器もまた、過剰に傷めつけられるほどもの
試練を通じてこそより一層の成長を果たすことができるものであり、
それは時に、致命的な程もの試練に基づく場合すらもがある。
密教や禅の修行なども、昔は命の保障すらないようなものが実際に多かった。
今は欧米発の人権主義によってそのような修行も自粛されてしまっているけれども、
それ程もの荒行によってこそ得られる功徳というものもまたあるのであり、しかも
それこそは他の何物にも変えがたいような自在性を帯びていたりもするのである。
もちろん、全ての荒行が必ず着実な成果に結び付くなどということもなく、
ただ被験者の心身を害して損なわせるだけでしかないようなものも多々ある。
昔、聖道門の仏門などで致死級の荒行を多々こなしていた経歴を持つ日本人が、その
志向性だけは持ち越したままで、近代的な手法に即した荒行を行ったりすることがある。
一部のスポーツだとか、スポーツ化してしまった武道だとか、ブラック企業での従業員の
酷使だとかにそのような傾向が顕著であり、結局、耐え難い労苦の割りに大した成果も
挙げられていないようなものがほとんどである。(そのせいで日本人の精神論的傾向が
非難されたりもするが、それは精神論に対する冤罪のふっかけだといえる)
何らの成果にも繋がらない、単なる荒行の強制は、それこそ「いじめ」に極まる。
いじめっ子もいじめられっ子に対して、試練を課すような体裁で諸々の苦行を強いる
ような場合が多いが、それでいてあえて何の成果にも繋がらないような範囲での
苦しみの強要ばかりにも終始する。相手に苦しみを味わわせることで、しょうもない
存在としての自らの相対的な充足を味わうことばかりが目的であるのだから、苦行の
せいでいじめられっ子が成長してしまうようなことも逆にあってはならないわけである。
自他に対して致死級の試練すらをも課すことでの着実な成長を企図していた本来の
日本人のあり方は、決して否定されるべきようなものではなかった。試練を課される側も
納得ずくの上での荒行であったわけだから、人権主義によって非難されるような余地もない。
しかし、致死級の荒行などをあえて廃絶して行くことを目的として来た西洋文明が
国内に流入して後にまで、似たような性向を持ち越してしまった日本人は、それこそ
時代を経るに連れて腐敗して行き、最終的にはいじめ問題などにまで帰着してしまった。
日本人は別に、陰湿だから自他への致死級の荒行などを求めるようになったのではない。
本来は、密教的な体系などに基づく着実な成果を挙げられたからこそ、そのような試みにも
及んでいたのであり、それは、密教を積極的な規制対象とした中国人など以上にも向上心が
旺盛だったからでこそある。ただ、その傾向を西洋文化文明の実践にまで適用しようと
してしまったものだから、その場違いさが祟って陰湿なものとも化してしまったのだ。
西洋文化文明は、それこそ一定以上の試練などを徹底して排することを前提としたものである。
東洋文化文明はそうではなく、一人一人の人間の限界すら超えた所にあるような境地こそを
伝統的に希求して来たものである。その手順も入念に造りこまれているものだから、
ニーチェのような生兵法に頼って発狂してしまうようなこともなくて済んだりする。
もちろん100%確実に成道できるという保証もないが、少なくとも、多少以上は甚大な
成果を期待できるものなのだから、それはそれで全くの別物として取り扱うべきなのである。
近代文明に適用された稚拙な荒行志向などと混同することなく、致死級の荒行を通じて
着実に得られるものの価値というものを、改めて捉えなおして行くべきだといえる。
日本人のあり方は、決して否定されるべきようなものではなかった。試練を課される側も
納得ずくの上での荒行であったわけだから、人権主義によって非難されるような余地もない。
しかし、致死級の荒行などをあえて廃絶して行くことを目的として来た西洋文明が
国内に流入して後にまで、似たような性向を持ち越してしまった日本人は、それこそ
時代を経るに連れて腐敗して行き、最終的にはいじめ問題などにまで帰着してしまった。
日本人は別に、陰湿だから自他への致死級の荒行などを求めるようになったのではない。
本来は、密教的な体系などに基づく着実な成果を挙げられたからこそ、そのような試みにも
及んでいたのであり、それは、密教を積極的な規制対象とした中国人など以上にも向上心が
旺盛だったからでこそある。ただ、その傾向を西洋文化文明の実践にまで適用しようと
してしまったものだから、その場違いさが祟って陰湿なものとも化してしまったのだ。
西洋文化文明は、それこそ一定以上の試練などを徹底して排することを前提としたものである。
東洋文化文明はそうではなく、一人一人の人間の限界すら超えた所にあるような境地こそを
伝統的に希求して来たものである。その手順も入念に造りこまれているものだから、
ニーチェのような生兵法に頼って発狂してしまうようなこともなくて済んだりする。
もちろん100%確実に成道できるという保証もないが、少なくとも、多少以上は甚大な
成果を期待できるものなのだから、それはそれで全くの別物として取り扱うべきなのである。
近代文明に適用された稚拙な荒行志向などと混同することなく、致死級の荒行を通じて
着実に得られるものの価値というものを、改めて捉えなおして行くべきだといえる。
「若し子の群吏、処りては汚を辟けず、出でては難を逃れずんば、其れ何の患いか之れ
有らん。患いの生ずる所は、汚に而て治めず、難に而て守らず、由って来たる所なり」
「もしもあなたの部下が、内にいては労苦を避けず、外に出でては難を逃れないという姿勢で
いたならば、どうして憂いとすべきような問題が巻き起こったりするだろうか。問題の生ずる
所には必ず、苦難があるからといって逃れてろくに守り治めようともしない者がいるものだ。
(合理的な社会性に即して、自分一身の限界を超えた苦難にも対峙して行くことの価値を説く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公元年より)
有らん。患いの生ずる所は、汚に而て治めず、難に而て守らず、由って来たる所なり」
「もしもあなたの部下が、内にいては労苦を避けず、外に出でては難を逃れないという姿勢で
いたならば、どうして憂いとすべきような問題が巻き起こったりするだろうか。問題の生ずる
所には必ず、苦難があるからといって逃れてろくに守り治めようともしない者がいるものだ。
(合理的な社会性に即して、自分一身の限界を超えた苦難にも対峙して行くことの価値を説く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公元年より)
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
075 bluesky (2013/05/21(火) 22:29:48 :8q2Hem6KJ2)
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦
075 bluesky (2013/05/21(火) 22:29:48 :8q2Hem6KJ2)
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦
075 bluesky (2013/05/21(火) 22:29:48 :8q2Hem6KJ2)
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦
075 bluesky (2013/05/21(火) 22:29:48 :8q2Hem6KJ2)
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦
075 bluesky (2013/05/21(火) 22:29:48 :8q2Hem6KJ2)
言葉たっ言葉達が踊る俺の議論を、みんなに見せたいね。
076 名無しさん (2013/05/21(火) 22:32:54 :5nBx8S/NEs)
>>75って躁状態だねwww
077 MHOR (2013/05/21(火) 22:43:56 :mNQAGhK5xY)
>>76
いい観察力だね ( ^-^)_旦

吐くことによって身体内部の邪気を吐き出すものとされている。
だから、神道における形代の慣習などにおいても、形代となる紙で
身体の悪い部分をさすって、さらに形代に息を吐きかけることで
自らの邪気を全て形代に託して自らを祓い清めるようにしているのである。
呼吸は吸うよりも吐くことのほうが大事ともされる。それは、
「息を吐ききりすらすれば自然と吸うこともできるから」とかいった風に理由を
説明されることが多いが、「しっかりと身中の邪気を吐き出してからでなければ
清浄な生気を取り込むことができないから」といったほうがより厳密な説明に
なるといえる。吸う以上にもしっかりと吐くことを大事にした深呼吸でこそ、
人は清浄な生気と共にあることができるとされ、もしもその道を究めたならば、
合気道開祖の植芝盛平氏のように、大気の遍在するこの世界と一体化して、
人間が発砲する殺気すらをも感知して銃弾をかわせるようにすらなるのだという。
(ただし、全く殺気を発さない銃の名手が相手だったりするとこの限りでもない)
人間の吐く息には邪気がこもっているから、正式の場でろうそくの火を
息で吹き消したりすることも法度とされる。神道なら手で煽って火を消すし、
仏門でも専用の火消しを用いる。要するに、人間が吐く息を実用したり
するのは、そこに邪気がこもっているからこそ概ね失礼とされるのであり、
呼吸は深いほうがいいにしたって、人前では息をする姿などをあまり
あからさまにしたりしないほうが礼に適うこととなるのである。
「斉を摂して堂に升るに、鞠躬如たり、気を屏めて息せざる者に似たり」
「(孔先生は)着物のすそをあげて堂上に昇られる時には、非常に
畏れ慎んで、気を控え、まるで息をしていないかのような姿で居られた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・四より)
元より、浅い呼吸こそはハアハアと犬のようにあからさまなものとなる一方、
深い呼吸は物静かになされるものであるわけだから、人前で息をする姿をあまり
あからさまにしたりしないためにこそ、深い呼吸が推奨されもするのである。
呼吸法の鍛錬こそは、自らが天地に遍満する生気と一体と化すことでの
仁徳の素養の手っ取り早い会得にも繋がる。一方で、浅い呼吸は自らがこの世界
からの孤立感を募らせる原因ともなってしまうわけで、それが引いては、世の中を
害してまでの我田引水の貪りの原動力とすら化してしまったりもするわけである。
呼吸の巧拙如何は、儒家よりもむしろ道家や武道に属する問題であり、
別に道家が儒家の味方となるような論陣ばかりを敷いているわけでもないけれども、
結局の所、道術の基本中の基本とされる呼吸法の鍛錬もまた、仁徳の修養と
狭隘な邪心の抑制に一役買うものとなるには違いないのである。
深い呼吸を、なるべく鼻でする。口は声を発するための気道に限る。口で息を
吸うことは、口中の乾燥や、喉の気道が塞がるせいで呼吸が浅くなるなどの
自分にとって害となる問題を来たすし、口で息を吐くことも、近くにいる相手に
自分の息を吹きかけて失礼になるなどの、他者にとって害となる問題となる。
自他にとっての害となることを避けるために、息を吸うことも吐くことも
なるべく鼻で行うようにするのが適切であるといえる。
今回はあまり儒家らしい社会的な話にはならなかったけれども、社会で立ち回る
人間としていかにあるべきかという意味でも、呼吸の問題は本質的な重要さを
帯びているものであり、決して内的な問題だからといって侮るべきでもない。今の
世の中で、深い呼吸と共に仕事を為せている人間など皆無であるからこそ、世の中も
ろくでもない状態と化してしまっていたりするのだから、推して計るべきだといえる。
深い呼吸は物静かになされるものであるわけだから、人前で息をする姿をあまり
あからさまにしたりしないためにこそ、深い呼吸が推奨されもするのである。
呼吸法の鍛錬こそは、自らが天地に遍満する生気と一体と化すことでの
仁徳の素養の手っ取り早い会得にも繋がる。一方で、浅い呼吸は自らがこの世界
からの孤立感を募らせる原因ともなってしまうわけで、それが引いては、世の中を
害してまでの我田引水の貪りの原動力とすら化してしまったりもするわけである。
呼吸の巧拙如何は、儒家よりもむしろ道家や武道に属する問題であり、
別に道家が儒家の味方となるような論陣ばかりを敷いているわけでもないけれども、
結局の所、道術の基本中の基本とされる呼吸法の鍛錬もまた、仁徳の修養と
狭隘な邪心の抑制に一役買うものとなるには違いないのである。
深い呼吸を、なるべく鼻でする。口は声を発するための気道に限る。口で息を
吸うことは、口中の乾燥や、喉の気道が塞がるせいで呼吸が浅くなるなどの
自分にとって害となる問題を来たすし、口で息を吐くことも、近くにいる相手に
自分の息を吹きかけて失礼になるなどの、他者にとって害となる問題となる。
自他にとっての害となることを避けるために、息を吸うことも吐くことも
なるべく鼻で行うようにするのが適切であるといえる。
今回はあまり儒家らしい社会的な話にはならなかったけれども、社会で立ち回る
人間としていかにあるべきかという意味でも、呼吸の問題は本質的な重要さを
帯びているものであり、決して内的な問題だからといって侮るべきでもない。今の
世の中で、深い呼吸と共に仕事を為せている人間など皆無であるからこそ、世の中も
ろくでもない状態と化してしまっていたりするのだから、推して計るべきだといえる。
他者の利益を巻き上げることによってこそ自分が豊かになる、
韓非のいう「利害反する有り」という法則にも即した我田引水稼業で
自らが生き延びる状態を正当化するためにこそ、絶対的な超越神
というものへの信仰が権威化されたりもしたのだった。
それは、ただ我田引水を推進して行くだけなら良心の呵責を抱いてしまうからこその、
紛らわしの手段であったわけだが、架空の超越神への狂信が盤石化してからは、
むしろ我田引水こそを「善行」などと思い込むようにすらなり始めた。そこにこそ、
善因楽果のよきカルマがあるなどとすら考えるようになってしまったわけで、
超越神は、癌細胞のごとき悪性人種の量産の元凶にこそなってしまったのだった。
超越神を想定するような形而上の問題というのは、孔子は遠ざけて、釈迦も無記答とした。
そこに益がないと認めたからこそそうしたわけだが、当然、自分たちで超越神を
我田引水を正当化する権威に仕立てるような実験にまでは及ばなかったわけだから、
そこにこそ大害があるということの指摘にまでは及ばなかったわけである。
結局、今までのところ、形而上的な概念志向、特にそこに絶対的な超越神を規定したり
することの致命的な有害さを指摘した権威ある教学というのは存在しないわけである。
儒学や仏教が不埒な形而上論を排する最たる教学であるわけだけれども、自分たちで
形而上論を決定的な悪玉に指定するような所にまでは及んでいないわけで、
人類滅亡級の害悪をもたらす存在としての形而上的超越神の認知などは、
まさに今これからにこそ最重要となって行く課題であるのだといえる。
韓非のいう「利害反する有り」という法則にも即した我田引水稼業で
自らが生き延びる状態を正当化するためにこそ、絶対的な超越神
というものへの信仰が権威化されたりもしたのだった。
それは、ただ我田引水を推進して行くだけなら良心の呵責を抱いてしまうからこその、
紛らわしの手段であったわけだが、架空の超越神への狂信が盤石化してからは、
むしろ我田引水こそを「善行」などと思い込むようにすらなり始めた。そこにこそ、
善因楽果のよきカルマがあるなどとすら考えるようになってしまったわけで、
超越神は、癌細胞のごとき悪性人種の量産の元凶にこそなってしまったのだった。
超越神を想定するような形而上の問題というのは、孔子は遠ざけて、釈迦も無記答とした。
そこに益がないと認めたからこそそうしたわけだが、当然、自分たちで超越神を
我田引水を正当化する権威に仕立てるような実験にまでは及ばなかったわけだから、
そこにこそ大害があるということの指摘にまでは及ばなかったわけである。
結局、今までのところ、形而上的な概念志向、特にそこに絶対的な超越神を規定したり
することの致命的な有害さを指摘した権威ある教学というのは存在しないわけである。
儒学や仏教が不埒な形而上論を排する最たる教学であるわけだけれども、自分たちで
形而上論を決定的な悪玉に指定するような所にまでは及んでいないわけで、
人類滅亡級の害悪をもたらす存在としての形而上的超越神の認知などは、
まさに今これからにこそ最重要となって行く課題であるのだといえる。
形而上的な概念論での超越神志向が大害無益な代物であるということは、
まずは聖書信者こそが固く認知していかねばならないことでもあるに違いない。
儒学や仏教の信奉者は、始めからそんなものを寄せ付けないし、神道やヒンズー教や
イスラム教もまた、この世界この宇宙に合致する汎神こそを尊んでいるわけだから、
形而上的超越神を信じ込んだりしたせいでの害悪に見舞われる主体たり得ないわけだ。
そのような立場から形而上論を糾弾したりするよりは、自分たちこそが形而上論ばかりに
耽溺したせいで自業自得の自滅に見舞われるような人間こそが「二度と同じ過ちを犯したり
はしません」という思いを込めての糾弾に務めて行くほうが切実なこととなるわけである。
形而上論に消極的な部類の教学の信奉者といえども、自分たちから超越神の狂信者を
糾弾したりするよりは、狂信者たち自身が自主的に形而上的超越神の有害無益さに懲りる
ことを尊重するようにすべきだといえる。それこそ、仮想敵への罪責の押し付けによって、
なんとか自分たち自身の過ちから目を逸らし続けていようとしているのが聖書信者で
あったりもするわけだから、好敵手として立ち回るようなことから自粛すべきである。
もはや、害悪の元凶は自分たちの内にしかないのだということを思い知らせてやるためにも、
少なくとも聖書信者たちの自滅の瞬間までは、糾弾主体となったりすることを避けるべきである。
イスラム武装勢力なども、かえって聖書信仰の存続に一役買ってしまっているものと知るべきだ。
「天は烝民を生めるも、其の命に韑匪ずんば、初め有らざる靡くも、克く終わり有る鮮なし」
「たとえ天に生み落とされた民といえども、その命が誠と共にあるのでなければ、
初めのうちはうまくいったとしても、最終的にはろくでもない結果を招くことだろう。
(重要なのはただ命を得ることではなく、そこに誠実さが伴っていることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・蕩より)
まずは聖書信者こそが固く認知していかねばならないことでもあるに違いない。
儒学や仏教の信奉者は、始めからそんなものを寄せ付けないし、神道やヒンズー教や
イスラム教もまた、この世界この宇宙に合致する汎神こそを尊んでいるわけだから、
形而上的超越神を信じ込んだりしたせいでの害悪に見舞われる主体たり得ないわけだ。
そのような立場から形而上論を糾弾したりするよりは、自分たちこそが形而上論ばかりに
耽溺したせいで自業自得の自滅に見舞われるような人間こそが「二度と同じ過ちを犯したり
はしません」という思いを込めての糾弾に務めて行くほうが切実なこととなるわけである。
形而上論に消極的な部類の教学の信奉者といえども、自分たちから超越神の狂信者を
糾弾したりするよりは、狂信者たち自身が自主的に形而上的超越神の有害無益さに懲りる
ことを尊重するようにすべきだといえる。それこそ、仮想敵への罪責の押し付けによって、
なんとか自分たち自身の過ちから目を逸らし続けていようとしているのが聖書信者で
あったりもするわけだから、好敵手として立ち回るようなことから自粛すべきである。
もはや、害悪の元凶は自分たちの内にしかないのだということを思い知らせてやるためにも、
少なくとも聖書信者たちの自滅の瞬間までは、糾弾主体となったりすることを避けるべきである。
イスラム武装勢力なども、かえって聖書信仰の存続に一役買ってしまっているものと知るべきだ。
「天は烝民を生めるも、其の命に韑匪ずんば、初め有らざる靡くも、克く終わり有る鮮なし」
「たとえ天に生み落とされた民といえども、その命が誠と共にあるのでなければ、
初めのうちはうまくいったとしても、最終的にはろくでもない結果を招くことだろう。
(重要なのはただ命を得ることではなく、そこに誠実さが伴っていることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・蕩より)
あくまで儒学の勉強や仏教の尊重が第一、
聖書信仰の糾弾は第二第三のものとしている。
自分の言行によって聖書信仰を潰えさせることなどを企図しているわけでもない。
だからあえて場末の過疎状態な匿名掲示板での意見発表に止めているのでもある。
聖書信仰の糾弾は第二第三のものとしている。
自分の言行によって聖書信仰を潰えさせることなどを企図しているわけでもない。
だからあえて場末の過疎状態な匿名掲示板での意見発表に止めているのでもある。
実際のところ、キリストへの信仰などによって罪が償われたりすることは一切ない。
償われたなどと思い込んで平気で拡大して来た罪過は少しも目減りすることなく蓄積
して行っている。それでいて、仏法の諸法因果などの教理が完璧な真実だから、聖書信者
たちの甚大な罪障が「人類滅亡の危機」という極大級の悪因苦果となっていま眼前に迫り
来たってもいる。故に、聖書信仰ぐらいは速やかにこの地球上から根絶して、因果応報を
重んずる仏教的な考え方に即した堅実な立ち回りへと全人類が転換して行く必要がある。
これら全て、単なる事実である。
少しも批判的な私見などを差し挟んでいるわけではない、単なる事実関係の提示。ムスリム
のように自分たちの言行の正当性を絶対神への帰依に集約させているわけでもない、少し
調べれば誰でも「そうでしかない」と察せられる程度の、ありのままの現実の提示に過ぎぬ。
単なる事実関係をありのままに提示すれば、それが聖書信者への糾弾であるかのように
見受けられてしまうのは、それ程にも、事実としての聖書信者の振る舞いが、どうしようも
ないほどに残酷な悪逆非道ばかりで塗り固められて来ているからに他ならないだろうが。
ただ、そのような事実関係から目を背けている限りにおいて、聖書信者が未だにこの世
での市民権を得られたままでいるというだけのこと。現状、聖書信仰を外的な糾弾の対象と
することは早急に過ぎるにしたって、単なる事実関係を堅実にわきまえて行くぐらいのことは
今すぐにでも始めて行かねばならないこと。それは結局、聖書信者たちにとっての地獄そのもの
な現実との対峙ともなって行くわけで、誰に糾弾されるでもなく、自然とそうなって行くのである。
だからこそ、誰かが感情的、恣意的に聖書信者を糾弾して行く必要などは少しもないのである。
ただ厳格な現実と対峙して行くだけでも、聖書信者たちはそこに確かな地獄を見るのだから、
せいぜい、人類が滅亡に陥らない程度に現実を直視させる程度のことだけで十分なのだ。
償われたなどと思い込んで平気で拡大して来た罪過は少しも目減りすることなく蓄積
して行っている。それでいて、仏法の諸法因果などの教理が完璧な真実だから、聖書信者
たちの甚大な罪障が「人類滅亡の危機」という極大級の悪因苦果となっていま眼前に迫り
来たってもいる。故に、聖書信仰ぐらいは速やかにこの地球上から根絶して、因果応報を
重んずる仏教的な考え方に即した堅実な立ち回りへと全人類が転換して行く必要がある。
これら全て、単なる事実である。
少しも批判的な私見などを差し挟んでいるわけではない、単なる事実関係の提示。ムスリム
のように自分たちの言行の正当性を絶対神への帰依に集約させているわけでもない、少し
調べれば誰でも「そうでしかない」と察せられる程度の、ありのままの現実の提示に過ぎぬ。
単なる事実関係をありのままに提示すれば、それが聖書信者への糾弾であるかのように
見受けられてしまうのは、それ程にも、事実としての聖書信者の振る舞いが、どうしようも
ないほどに残酷な悪逆非道ばかりで塗り固められて来ているからに他ならないだろうが。
ただ、そのような事実関係から目を背けている限りにおいて、聖書信者が未だにこの世
での市民権を得られたままでいるというだけのこと。現状、聖書信仰を外的な糾弾の対象と
することは早急に過ぎるにしたって、単なる事実関係を堅実にわきまえて行くぐらいのことは
今すぐにでも始めて行かねばならないこと。それは結局、聖書信者たちにとっての地獄そのもの
な現実との対峙ともなって行くわけで、誰に糾弾されるでもなく、自然とそうなって行くのである。
だからこそ、誰かが感情的、恣意的に聖書信者を糾弾して行く必要などは少しもないのである。
ただ厳格な現実と対峙して行くだけでも、聖書信者たちはそこに確かな地獄を見るのだから、
せいぜい、人類が滅亡に陥らない程度に現実を直視させる程度のことだけで十分なのだ。
聖書信者のような、度し難い悪逆非道を現実に積み重ねて来た連中にとっては、現実を直視
させられることすなわち自分たちへの糾弾などとすら思い込まれかねないわけだが、両者は本来
全くの別物なのであり、現実との厳重な対峙と共にこそ悦びを得ることもまたあり得るのである。
現実を敵に回してしまっているが故に、現実の直視こそは地獄であるなどということからして
極々特殊な事象であるのだから、それをして自分たちへの糾弾だなどと思い違うべきでもない。
もちろん、聖書信者ばかりが現実を直視しろというのでもない。この地球上に住まうあらゆる
人々が、いま目前に迫っている本物の危機と真摯に向き合って、どのような対策を講じて行く
べきであるのかを本気で考えて行かなければならない。それは結局、俺が今ここで論じている
ような内容に集約されることともなるわけだけれども、ただ「現実を直視する」という点に
ついては、本当はもっと多くの人間が総出を挙げて取り組んで行かねばならないのである。
それができないのは、未だに聖書信者たちが、人々の現実への直視から阻む工作を続けている
からで、公けの場でここに書いているようなことをこれ以上に標榜したりしたなら、最悪、
謀殺の憂き目にすら遭いかねない。だからやっぱり、現実との対峙が最悪の地獄となる
聖書信者たち自身がまずは、その地獄の門が開かれることを受け入れて行くしかないのである。
「随いて獲る有るは、其の義や凶なり」
「他力本願の随順者でいて多くを得ようとするようでは、義があるとした所で凶である。
(たとえば、大夫家老が諸侯大名を上回るような富貴さでいるようなことがあってもならない。
他力本願の人間に無制限な自由を与えようなどとすることこそは、邪義の典型である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・随・九四象伝より)
させられることすなわち自分たちへの糾弾などとすら思い込まれかねないわけだが、両者は本来
全くの別物なのであり、現実との厳重な対峙と共にこそ悦びを得ることもまたあり得るのである。
現実を敵に回してしまっているが故に、現実の直視こそは地獄であるなどということからして
極々特殊な事象であるのだから、それをして自分たちへの糾弾だなどと思い違うべきでもない。
もちろん、聖書信者ばかりが現実を直視しろというのでもない。この地球上に住まうあらゆる
人々が、いま目前に迫っている本物の危機と真摯に向き合って、どのような対策を講じて行く
べきであるのかを本気で考えて行かなければならない。それは結局、俺が今ここで論じている
ような内容に集約されることともなるわけだけれども、ただ「現実を直視する」という点に
ついては、本当はもっと多くの人間が総出を挙げて取り組んで行かねばならないのである。
それができないのは、未だに聖書信者たちが、人々の現実への直視から阻む工作を続けている
からで、公けの場でここに書いているようなことをこれ以上に標榜したりしたなら、最悪、
謀殺の憂き目にすら遭いかねない。だからやっぱり、現実との対峙が最悪の地獄となる
聖書信者たち自身がまずは、その地獄の門が開かれることを受け入れて行くしかないのである。
「随いて獲る有るは、其の義や凶なり」
「他力本願の随順者でいて多くを得ようとするようでは、義があるとした所で凶である。
(たとえば、大夫家老が諸侯大名を上回るような富貴さでいるようなことがあってもならない。
他力本願の人間に無制限な自由を与えようなどとすることこそは、邪義の典型である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・随・九四象伝より)
「義を以て事を制す。(既出)」
「義によって物事を制して行く。(これが『義』という言葉の最初期の出典。
初めから義は自力作善を推進して行く理念として提示されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
他力本願の無戒律信仰が「だからといって正義だ」なんてことは、
浄土門ですら是とすることではない。ただ、ろくに厳格な実践など
覚束ない愚昧の徒であるから他力本願の念仏にすがるまでであり、それが
正義であることを根拠にした自分たちの優遇などを追い求めたりするわけでもない。
イスラム教や拝火教も信仰主義ではあるが、同時に善思善言善行や勧善懲悪と
いった厳格な実践も伴う。本来、それが神格信仰の基本的なあり方だったのであり、
無戒律の信仰一辺倒こそを正義とするなんてのは、変則にも程があることなのである。
無戒律の信仰を正義にすらしてしまうなんてことこそは、信仰の悪用の最たるものでもある。
それこそ、正義に適わない活動を自由に正当化する根拠ともされてしまうわけで、
何も信仰しないでいる場合以上もの妄動を人々にけしかける元凶となってしまうのである。
もちろん、戒律主義の信仰が、あまりにも粗悪な実践に即するために、無信仰以下の
結果を招くということもある。ユダヤ信仰などがそれであり、その反動として無戒律の
信仰主義を正義とするキリスト信仰が生じてしまいもしたのだから、最悪であるのはその
キリスト信仰であるにしたって、それを生み出してしまった責任は戒律主義のユダヤ信仰にあるといえる。
「義によって物事を制して行く。(これが『義』という言葉の最初期の出典。
初めから義は自力作善を推進して行く理念として提示されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
他力本願の無戒律信仰が「だからといって正義だ」なんてことは、
浄土門ですら是とすることではない。ただ、ろくに厳格な実践など
覚束ない愚昧の徒であるから他力本願の念仏にすがるまでであり、それが
正義であることを根拠にした自分たちの優遇などを追い求めたりするわけでもない。
イスラム教や拝火教も信仰主義ではあるが、同時に善思善言善行や勧善懲悪と
いった厳格な実践も伴う。本来、それが神格信仰の基本的なあり方だったのであり、
無戒律の信仰一辺倒こそを正義とするなんてのは、変則にも程があることなのである。
無戒律の信仰を正義にすらしてしまうなんてことこそは、信仰の悪用の最たるものでもある。
それこそ、正義に適わない活動を自由に正当化する根拠ともされてしまうわけで、
何も信仰しないでいる場合以上もの妄動を人々にけしかける元凶となってしまうのである。
もちろん、戒律主義の信仰が、あまりにも粗悪な実践に即するために、無信仰以下の
結果を招くということもある。ユダヤ信仰などがそれであり、その反動として無戒律の
信仰主義を正義とするキリスト信仰が生じてしまいもしたのだから、最悪であるのはその
キリスト信仰であるにしたって、それを生み出してしまった責任は戒律主義のユダヤ信仰にあるといえる。
無戒律の信仰というのは、あらゆる思想信条の中でも最低のものであり、少しでも
上を目指すのならそんな所にばかり止まっているべきではない。ただ、どうしてもそこに
しか止まっていられないような事情があるというのなら、その身の程も知るべきである。
信仰にしかすがることができないような己が卑しさを認めつつ、神仏にもすがるのである。
そしたら、信仰によって思い上がりを募らせての妄動なんかに走らずに済むぶんだけ、
信仰義認によって暴れ回るような連中よりはマシな存在でいられる。恭敬によって篤実さを
養えたぶんだけ、完全無信仰のニヒリストなどよりも安静で無難な存在でいられたりもする。
そういうわけだから、無戒律の信仰が絶対にダメだなんてこともない。それすら人を律する
規範として善用することもできなくはないわけで、一概に根絶すべきだという所まではいかない。
ただ、それこそを正義だなどと思い込んで、人類を滅亡に陥れる程もの暴挙に及んだりする
ような連中が居たとするなら、そんな連中を増産してしまうような信仰義認に限って
規制の対象としていかねばならないという特殊事情中の特殊事情があるのみである。
「其の徳を恆にして貞し。婦人は吉、夫子は凶なり。
婦人は貞しければ吉とは、一に従いて終わればなり。夫子は義を制す。婦に従えば凶なり」
「貞順の徳を恒なるものとするのは、婦人ならば吉だが、一人前の男子にとっては凶である。
婦人が貞順でいてこそ吉となるのは、ただ一途に従い続けるままに終わるからである。
一人前の男ならばそれに止まらず、自らの行いを義によって制して行くべきであるから、
ただただ従順でいるだけの婦道などに従ったりすれば、かえって凶となる。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・恆・六五‐象伝より)
上を目指すのならそんな所にばかり止まっているべきではない。ただ、どうしてもそこに
しか止まっていられないような事情があるというのなら、その身の程も知るべきである。
信仰にしかすがることができないような己が卑しさを認めつつ、神仏にもすがるのである。
そしたら、信仰によって思い上がりを募らせての妄動なんかに走らずに済むぶんだけ、
信仰義認によって暴れ回るような連中よりはマシな存在でいられる。恭敬によって篤実さを
養えたぶんだけ、完全無信仰のニヒリストなどよりも安静で無難な存在でいられたりもする。
そういうわけだから、無戒律の信仰が絶対にダメだなんてこともない。それすら人を律する
規範として善用することもできなくはないわけで、一概に根絶すべきだという所まではいかない。
ただ、それこそを正義だなどと思い込んで、人類を滅亡に陥れる程もの暴挙に及んだりする
ような連中が居たとするなら、そんな連中を増産してしまうような信仰義認に限って
規制の対象としていかねばならないという特殊事情中の特殊事情があるのみである。
「其の徳を恆にして貞し。婦人は吉、夫子は凶なり。
婦人は貞しければ吉とは、一に従いて終わればなり。夫子は義を制す。婦に従えば凶なり」
「貞順の徳を恒なるものとするのは、婦人ならば吉だが、一人前の男子にとっては凶である。
婦人が貞順でいてこそ吉となるのは、ただ一途に従い続けるままに終わるからである。
一人前の男ならばそれに止まらず、自らの行いを義によって制して行くべきであるから、
ただただ従順でいるだけの婦道などに従ったりすれば、かえって凶となる。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・恆・六五‐象伝より)
人が罪を犯した上で、相応の償いもせずに免れられるようなことがその人間にとって
幸せであるなどということは、「罪」という言葉の定義からいってあり得ないことである。
「罪」とは、自他を破滅へと追い込むような粗悪な所業のことであると共に、
罪を犯したもの自身が多大なる良心の呵責を抱かされるような所業のことであるわけ
だから(本質的に両者は同等なのでもある)、外的な側面においても内的な側面においても、
罪を不当に免れることが本人にとっての幸せとなるようなことは原理的にないのである。
にもかかわらず、罪を不当に免れられて幸いとするような人間が少なからず現れるのは、内外
両面における罪悪の苦果を一時的に紛らわせられるような余地もまた、それなりにあるからである。
逃亡中の刑事犯などはまだ序の口で、法治主義社会における徒法の濫用で、本質的に罪(実罪)
であると認められるような悪行への糾弾をうやむやにしてしまったりする所でこそ、人はただ
罪を免れられるだけでなく、心の底から罪を帳消しにされたなような気分にすらなるのである。
そうなるともう、罪なんてのは免れられるように犯してなんぼといった事態となり、罪を犯すこと
が寸分たりともよりよい結果に繋がったりしないことなども完全に忘れ去られてしまうのである。
故に、個人犯罪や民間犯罪ではなく、集団規模の権力犯罪こそは、罪の何たるかすらも人々に
忘れ去らせてしまうほどもの致命的な毒性を帯びたものとなるのである。徒法を濫用しての
普遍的な善悪の分別の撹乱などは、一人や二人でできることではなく、公権力を乗っ取る程もの
集団規模の共謀があって初めて実現されることであり、それによる責任のたらい回しによってこそ、
個人で罪を犯す場合のような切迫さをも免れて行くわけである。個人の刑事犯が逃亡を続けて
行く場合などには、多大なるストレスが本人に課せられるのとは打って変わって、権力犯罪で罪を
うやむやにしているような人間は、もはや罪を犯し続けていなければ、逆に心の平穏を得られない
ような状態となってしまう。良心の呵責を抱ける程度の犯罪に及ぶのと、もはやそれすら不可能と
なるような大罪を犯すのとでは、かくなる程もの様相の相違が生じるわけだから、前者ばかりを
幸せであるなどということは、「罪」という言葉の定義からいってあり得ないことである。
「罪」とは、自他を破滅へと追い込むような粗悪な所業のことであると共に、
罪を犯したもの自身が多大なる良心の呵責を抱かされるような所業のことであるわけ
だから(本質的に両者は同等なのでもある)、外的な側面においても内的な側面においても、
罪を不当に免れることが本人にとっての幸せとなるようなことは原理的にないのである。
にもかかわらず、罪を不当に免れられて幸いとするような人間が少なからず現れるのは、内外
両面における罪悪の苦果を一時的に紛らわせられるような余地もまた、それなりにあるからである。
逃亡中の刑事犯などはまだ序の口で、法治主義社会における徒法の濫用で、本質的に罪(実罪)
であると認められるような悪行への糾弾をうやむやにしてしまったりする所でこそ、人はただ
罪を免れられるだけでなく、心の底から罪を帳消しにされたなような気分にすらなるのである。
そうなるともう、罪なんてのは免れられるように犯してなんぼといった事態となり、罪を犯すこと
が寸分たりともよりよい結果に繋がったりしないことなども完全に忘れ去られてしまうのである。
故に、個人犯罪や民間犯罪ではなく、集団規模の権力犯罪こそは、罪の何たるかすらも人々に
忘れ去らせてしまうほどもの致命的な毒性を帯びたものとなるのである。徒法を濫用しての
普遍的な善悪の分別の撹乱などは、一人や二人でできることではなく、公権力を乗っ取る程もの
集団規模の共謀があって初めて実現されることであり、それによる責任のたらい回しによってこそ、
個人で罪を犯す場合のような切迫さをも免れて行くわけである。個人の刑事犯が逃亡を続けて
行く場合などには、多大なるストレスが本人に課せられるのとは打って変わって、権力犯罪で罪を
うやむやにしているような人間は、もはや罪を犯し続けていなければ、逆に心の平穏を得られない
ような状態となってしまう。良心の呵責を抱ける程度の犯罪に及ぶのと、もはやそれすら不可能と
なるような大罪を犯すのとでは、かくなる程もの様相の相違が生じるわけだから、前者ばかりを
罪であるなどと思い込まされている人間は、たとえ自分自身が権力犯罪の共犯でなくたって、
権力犯罪が罪であることすらをも完全に認識できなくなってしまうのである。
権力犯罪と個人犯罪の序列分けは、それこそ、「史記」における膨大な分量の権力犯罪の描写と、
游侠列傳などにおける限られた民間犯罪の描写などが比較的、適切なものである。時の為政者や
その取り巻きが犯していたような重大権力犯罪こそを、民間人の犯罪などよりも大きく
詳細に書き立てた司馬遷の姿勢などが、罪悪一般に対する適切な扱いともなっている。
そのような姿勢は今の学者やメディアなどには全く見られることではなく、学者やメディア自体が
権力犯罪の一翼を担っているものだから、権力者の悪行を一定以上に問題視したりすることはない。
世界史や国内史を扱う限りにおいても「勝てば官軍、負ければ賊軍」などという粗悪な歴史観を
大前提に諸々の事件を取り扱い、権力犯罪によって政権を簒奪したような人間を問題視したりする
こともなく、むしろ自分たちの模範とすべき英雄扱いに遇したりすらする始末である。(そういう
人間は、結局のところ非業の最期を遂げていたりするので、本当に倣おうする気には普通ならない)
まず、権力犯罪もまた立派な罪悪であり、それこそ民間犯罪など以上にも凶悪なものであると
いうことを再認識する、その上で、権力犯罪こそを民間犯罪以上にも問題視して行くようにもする、
万人がそのような姿勢でいられたなら、権力犯罪が影を潜めることを通じて、世相の荒廃によって
巻き起こっていた民間犯罪までもが連動して消え去るようにもなる。権力犯罪という大火の火元
から目を逸らして、末節の民間犯罪ばかりを問題視するような転等から卒業して行くべきである。
「災いを幸いとするは不仁なり」
「(罪過のような)災いを(どのような理由であれ)幸いとするのは、不仁に他ならない。
(不仁を我が幸いとしてしまうような神経もまた、残念ながら人間にはある。
ただ、不仁であるからには自業自得の破滅から免れることもできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十四年より)
権力犯罪が罪であることすらをも完全に認識できなくなってしまうのである。
権力犯罪と個人犯罪の序列分けは、それこそ、「史記」における膨大な分量の権力犯罪の描写と、
游侠列傳などにおける限られた民間犯罪の描写などが比較的、適切なものである。時の為政者や
その取り巻きが犯していたような重大権力犯罪こそを、民間人の犯罪などよりも大きく
詳細に書き立てた司馬遷の姿勢などが、罪悪一般に対する適切な扱いともなっている。
そのような姿勢は今の学者やメディアなどには全く見られることではなく、学者やメディア自体が
権力犯罪の一翼を担っているものだから、権力者の悪行を一定以上に問題視したりすることはない。
世界史や国内史を扱う限りにおいても「勝てば官軍、負ければ賊軍」などという粗悪な歴史観を
大前提に諸々の事件を取り扱い、権力犯罪によって政権を簒奪したような人間を問題視したりする
こともなく、むしろ自分たちの模範とすべき英雄扱いに遇したりすらする始末である。(そういう
人間は、結局のところ非業の最期を遂げていたりするので、本当に倣おうする気には普通ならない)
まず、権力犯罪もまた立派な罪悪であり、それこそ民間犯罪など以上にも凶悪なものであると
いうことを再認識する、その上で、権力犯罪こそを民間犯罪以上にも問題視して行くようにもする、
万人がそのような姿勢でいられたなら、権力犯罪が影を潜めることを通じて、世相の荒廃によって
巻き起こっていた民間犯罪までもが連動して消え去るようにもなる。権力犯罪という大火の火元
から目を逸らして、末節の民間犯罪ばかりを問題視するような転等から卒業して行くべきである。
「災いを幸いとするは不仁なり」
「(罪過のような)災いを(どのような理由であれ)幸いとするのは、不仁に他ならない。
(不仁を我が幸いとしてしまうような神経もまた、残念ながら人間にはある。
ただ、不仁であるからには自業自得の破滅から免れることもできないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十四年より)
五穀豊穣だとか、国家の安泰だとかいったまともな目的のために生け贄を捧げるということは、
別におかしなことでもない。封建時代の中国では、牛豚羊などの畜獣が上のような目的で用いられていたし、
今の日本でも、大きな真鯛などが同様な祭礼における極上の供物として用いられている。
それはそれで、人々の意識を正統な祭儀に集中させるための役割などを果たしてくれるわけだから、
全否定したりする必要もないわけだが、自分たちの罪業から目を背けるためなどの
不正な目的の供儀だったりするのであれば、決してこの限りでもない。
そして、それぞれの祭礼に適した相応な供物を用いるのも然るべきことである。
大きな祭には大きな真鯛、小さな祭には小さな連子鯛とかいった風な使い分けに務める。
肉食の禁忌のない地域であれば、牛あたりが最高の供物に用いられるが、それも駄目だなんてことはない。
どうにもよくないのは、人間自身を生け贄に用いることで、これは「春秋左氏伝」僖公十九年にすらすでに
その問題性が提示されていることである。人間のために行われる祭儀で、人間自身を生け贄に用いたり
するのは本末転倒であると。そのため、処刑された人間の肉を塩漬けにして食う習慣すらあった
当時の中国においてですら、儒者が人身御供の悪習の根絶などに務めていたのである。
罪業の隠蔽のためのような不正な目的のために供儀を催し、なおかつ人間でもあるとされる生き物を
生け贄に用いる、キリスト教は、この二つの過ちを同時に犯している邪教であるものだから、
たった一つの過ちを犯しているだけの部類の邪教などと比べて、より邪教として透徹してしまい、
以て、2000年にも渡る信仰が貫かれるほどもの堂に入ってしまったのである。
たとえば、同じ邪教である真言立川流などは、性奥義も一応は存在する正統な真言密教を
「一重」に曲解して、性奥義ばかりに専らでいたものだから、そのあからさまな邪教加減が
鼻つまみもの扱いされて、人々からの支持を得ることもできなかったのである。
キリスト教の場合はそうではなく、上記のような「二重」の過ちを犯しているものだから、
邪教と断定することが追い付かなくなり、以て膨大な信者を囲い込むことともなってしまったのである。
別におかしなことでもない。封建時代の中国では、牛豚羊などの畜獣が上のような目的で用いられていたし、
今の日本でも、大きな真鯛などが同様な祭礼における極上の供物として用いられている。
それはそれで、人々の意識を正統な祭儀に集中させるための役割などを果たしてくれるわけだから、
全否定したりする必要もないわけだが、自分たちの罪業から目を背けるためなどの
不正な目的の供儀だったりするのであれば、決してこの限りでもない。
そして、それぞれの祭礼に適した相応な供物を用いるのも然るべきことである。
大きな祭には大きな真鯛、小さな祭には小さな連子鯛とかいった風な使い分けに務める。
肉食の禁忌のない地域であれば、牛あたりが最高の供物に用いられるが、それも駄目だなんてことはない。
どうにもよくないのは、人間自身を生け贄に用いることで、これは「春秋左氏伝」僖公十九年にすらすでに
その問題性が提示されていることである。人間のために行われる祭儀で、人間自身を生け贄に用いたり
するのは本末転倒であると。そのため、処刑された人間の肉を塩漬けにして食う習慣すらあった
当時の中国においてですら、儒者が人身御供の悪習の根絶などに務めていたのである。
罪業の隠蔽のためのような不正な目的のために供儀を催し、なおかつ人間でもあるとされる生き物を
生け贄に用いる、キリスト教は、この二つの過ちを同時に犯している邪教であるものだから、
たった一つの過ちを犯しているだけの部類の邪教などと比べて、より邪教として透徹してしまい、
以て、2000年にも渡る信仰が貫かれるほどもの堂に入ってしまったのである。
たとえば、同じ邪教である真言立川流などは、性奥義も一応は存在する正統な真言密教を
「一重」に曲解して、性奥義ばかりに専らでいたものだから、そのあからさまな邪教加減が
鼻つまみもの扱いされて、人々からの支持を得ることもできなかったのである。
キリスト教の場合はそうではなく、上記のような「二重」の過ちを犯しているものだから、
邪教と断定することが追い付かなくなり、以て膨大な信者を囲い込むことともなってしまったのである。
ただ毒を食らうのではなく、毒食わば皿までですらある過ちだったからこそ、人々からも支持された、
それは、そんな暴挙によってでも気晴らしをしたいと願うほど、人々が多大なる鬱屈に駆られていたからでもある。
日没する西方に好んで居住してきた西洋人にこそその傾向が顕著だったし、中華帝国や大日本帝国の
属国として多大なるコンプレックスを抱かされ続けて来た韓国人などもまたそのような傾向が顕著だった。
だからこそ、そのような人々が特に鬱屈を晴らす目的でキリスト信仰に邁進し、誤った方法で鬱屈を
晴らそうとした結果、致命的な精神障害すら患うことともなってしまったのである。
これ以上邪教信仰などで鬱屈を晴らしている猶予などもない今、
一度は現キリスト教徒たちも、自分たちに内在する過度の鬱屈と向き合って行かねばならない。
その上で、不正な手段に依ることなく、着実に鬱屈を克服して行くようにしなければならない。
その方法の一つには、FEMAのような強制措置に甘んじて行くこともまたあるが、
そんなのは、邪教信仰に駆られての妄動を強制的に押さえ付けるだけのことでしかない。
邪教信仰に即した自分たちのあり方が強制終了させられた上で、その先いかにあるべきか、
それを自分から選び取って行ける者こそは、内在する鬱屈を克服して行ける者でもある。
端的には、仏法上の悟りを得たりすることで、その鬱屈を本当に克服して行くことができる。
別に、刑死して蘇るような無理があるわけでもない、この世で実際に実現が可能な範囲の
手段であり、精神障害や害為を帯びてしまうような副作用が伴ったりすることもない。
ただ、その悟りを得るためにこそ、一度は自分たちが鬱屈とも対峙して行く必要があるのであり、
故に、不正に鬱屈を晴らす手段であるキリスト信仰などと共に相容れることもないのである。
まだ般若心経の真言「羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝(往け、往け、往きて彼岸に到達せよ)」
のように、悟りへの邁進を促せる段階にあるわけでもないが、決してその先に真っ暗闇
などがあるわけではないということぐらいは、今ここでも確約できるものだ。
それは、そんな暴挙によってでも気晴らしをしたいと願うほど、人々が多大なる鬱屈に駆られていたからでもある。
日没する西方に好んで居住してきた西洋人にこそその傾向が顕著だったし、中華帝国や大日本帝国の
属国として多大なるコンプレックスを抱かされ続けて来た韓国人などもまたそのような傾向が顕著だった。
だからこそ、そのような人々が特に鬱屈を晴らす目的でキリスト信仰に邁進し、誤った方法で鬱屈を
晴らそうとした結果、致命的な精神障害すら患うことともなってしまったのである。
これ以上邪教信仰などで鬱屈を晴らしている猶予などもない今、
一度は現キリスト教徒たちも、自分たちに内在する過度の鬱屈と向き合って行かねばならない。
その上で、不正な手段に依ることなく、着実に鬱屈を克服して行くようにしなければならない。
その方法の一つには、FEMAのような強制措置に甘んじて行くこともまたあるが、
そんなのは、邪教信仰に駆られての妄動を強制的に押さえ付けるだけのことでしかない。
邪教信仰に即した自分たちのあり方が強制終了させられた上で、その先いかにあるべきか、
それを自分から選び取って行ける者こそは、内在する鬱屈を克服して行ける者でもある。
端的には、仏法上の悟りを得たりすることで、その鬱屈を本当に克服して行くことができる。
別に、刑死して蘇るような無理があるわけでもない、この世で実際に実現が可能な範囲の
手段であり、精神障害や害為を帯びてしまうような副作用が伴ったりすることもない。
ただ、その悟りを得るためにこそ、一度は自分たちが鬱屈とも対峙して行く必要があるのであり、
故に、不正に鬱屈を晴らす手段であるキリスト信仰などと共に相容れることもないのである。
まだ般若心経の真言「羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝(往け、往け、往きて彼岸に到達せよ)」
のように、悟りへの邁進を促せる段階にあるわけでもないが、決してその先に真っ暗闇
などがあるわけではないということぐらいは、今ここでも確約できるものだ。
「頻りに復る、﨤うけれども咎无し。頻りに復りて之れ﨤うきは、義として咎无きなり」
「過ちを犯しては改めて元に返る。危ういことは危ういけれども、咎があるほどではない。
過ちを犯しては改めて元に戻ることを繰り返す危うさは、道義に即して咎ありとすべきではない。
(過ちを犯して改めもしないような所にこそ、真義に即した決定的な咎があるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・復・六三‐象伝より)
「過ちを犯しては改めて元に返る。危ういことは危ういけれども、咎があるほどではない。
過ちを犯しては改めて元に戻ることを繰り返す危うさは、道義に即して咎ありとすべきではない。
(過ちを犯して改めもしないような所にこそ、真義に即した決定的な咎があるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・復・六三‐象伝より)
そもそも、本物の善は愚人が容易に欲せられる様な所にすらない。
善であるとされている上で、愚人にも容易に欲することができるようなものが
あるとしたなら、それは偽善の皮を被った悪であるのが常であるという法則がある。
天下万人を利して我が利ともする、本物の善徳に則った徳行は、夏の禹王が
足萎えになるほどにも尽力した治水事業ほどもの労苦が付きまとう一方で、
だからといって我が手元に莫大な財産が転がり込んで来るようなこともない、
要するに「割に合わない」と思われるような要素が多く付きまとうものであり、
故に、目先の私益ばかりを欲したがる愚人が容易に欲せるようなこともないのである。
一方で、金融犯罪で100億ドルを巻き上げておきながら、100万ドルだけは
恵まれない人々に寄付するような偽善込みの悪行は、実際のところ有害無益な
罪業であることを本質としているわけだけれども、そうであっても自分が莫大な
財産を手に入れることができて、なおかつ小額の寄付という偽善によって気を
紛らわせられもするわけだから、愚人にとっては、それを善行であるなどと
思い込みつつ追い求めていきたがる対象にもなりやすいのである。
本物の善行は、最高でも行いに相応の成果を得られるのみであり、やもすれば、
相応の成果すら得られなかったりもするものである。一方で、悪行や偽善の行いは
相応の成果どころですらない、濡れ手に泡のごときあぶく銭をトントン拍子で
得られたりもするものであるから、私益の膨れ上がりが全てな愚人のみならず、
行いに相応の成果ぐらいは必ず要求するような四角四面とした人間ですら、
善行を志すことなく、偽善や悪行を志して行くということがあるのである。
資本主義社会における法官だとか警官だとかに、特にそのような人種は多い。
別に自分たちが商売人ほどにも利益ばかりにがっついているようなことはないの
だけれども、さりとて自分たちが積極的な善行に務めているわけでもない、ただ
報酬に見合った仕事だけをしていようとする。末端の警察官あたりはそれでもかなり
の仕事量になったりするわけだが、さりとて、自分たちから世の中をよりよくして
行こうとする程もの向上心が寸分たりともありはしないことには変わりないわけである。
善であるとされている上で、愚人にも容易に欲することができるようなものが
あるとしたなら、それは偽善の皮を被った悪であるのが常であるという法則がある。
天下万人を利して我が利ともする、本物の善徳に則った徳行は、夏の禹王が
足萎えになるほどにも尽力した治水事業ほどもの労苦が付きまとう一方で、
だからといって我が手元に莫大な財産が転がり込んで来るようなこともない、
要するに「割に合わない」と思われるような要素が多く付きまとうものであり、
故に、目先の私益ばかりを欲したがる愚人が容易に欲せるようなこともないのである。
一方で、金融犯罪で100億ドルを巻き上げておきながら、100万ドルだけは
恵まれない人々に寄付するような偽善込みの悪行は、実際のところ有害無益な
罪業であることを本質としているわけだけれども、そうであっても自分が莫大な
財産を手に入れることができて、なおかつ小額の寄付という偽善によって気を
紛らわせられもするわけだから、愚人にとっては、それを善行であるなどと
思い込みつつ追い求めていきたがる対象にもなりやすいのである。
本物の善行は、最高でも行いに相応の成果を得られるのみであり、やもすれば、
相応の成果すら得られなかったりもするものである。一方で、悪行や偽善の行いは
相応の成果どころですらない、濡れ手に泡のごときあぶく銭をトントン拍子で
得られたりもするものであるから、私益の膨れ上がりが全てな愚人のみならず、
行いに相応の成果ぐらいは必ず要求するような四角四面とした人間ですら、
善行を志すことなく、偽善や悪行を志して行くということがあるのである。
資本主義社会における法官だとか警官だとかに、特にそのような人種は多い。
別に自分たちが商売人ほどにも利益ばかりにがっついているようなことはないの
だけれども、さりとて自分たちが積極的な善行に務めているわけでもない、ただ
報酬に見合った仕事だけをしていようとする。末端の警察官あたりはそれでもかなり
の仕事量になったりするわけだが、さりとて、自分たちから世の中をよりよくして
行こうとする程もの向上心が寸分たりともありはしないことには変わりないわけである。
法務関係者が冷酷(酷吏)であるのというのは、徳治社会にしろ法治社会にしろ
多少なりともあり得ることである。報酬に見合った仕事しかしないでいようと
するほどもの打算加減こそが、実定法を切実に取り扱って行く姿勢にも繋がる
わけだから、法治社会ではむしろ法務官はそうであるほうが好ましいのである。
しかし、そうである時点で、本人たちが善を志すことももはやなくなるのであり、
悪逆非道まみれでいる商売人の女房役程度の役割しか果たせなくもなるのである。
目先の私益が全てな愚人はもちろんのこと、報酬に相応の行いしか果たそうと
しない酷吏止まりであっも、本物の善というものを欲することすらできはしない。
行いに相応の成果すら必ずしも期待することなく、積極的な善行に邁進して行ける
程もの仁徳や菩提心の持ち主だけが、本物の善を欲することができるのである。
ただ欲するためだけでも、それだけの心意気が必要であり、さらに善行を果たして
行くとなれば、そこには相応の権能が必要ともなって行くわけだから、本物の善行が
実現されて、なおかつ相応の成果が得られるなどということがいかに稀有なことで
あるのかまでもが容易に察せられるわけである。仁徳や菩提心によって旺盛に善行
を志して行く人間ぐらいは溢れ返るぐらいに居た上で、さらにその中から実際に
善行を実現して行くものが散発的に輩出されて行くぐらいのことがやっと期待できる
ことなわけだから、儒学や仏教の教育によって、仁徳や菩提心の持ち主を多く育んで
行くぐらいのことは予め成されていなければ、そうも行きはしないのである。仁徳も
菩提心も、目前のパン一切れほどの価値もないと思い込まれているのが常である時代に、
善因善果が少しでもあり得るなどと思うことがあるとすれば、それは夢想だといえる。
「耕穫せず、菑畭せずんば、則ち往く攸有るに利ろし。 耕穫せずとは、未だ富まんとせざるなり」
「耕したに相応の収穫すら期待せず、三年後にやっと収穫が期待できそうな新田での一年目
からの収穫を期待するようなこともない、そのような心がけでいれば、ことを為すに値する。
耕したに相応の収穫すら期待しないのは、自分に未だ富もうとする野望がないからである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・無妄・六二‐象伝より)
多少なりともあり得ることである。報酬に見合った仕事しかしないでいようと
するほどもの打算加減こそが、実定法を切実に取り扱って行く姿勢にも繋がる
わけだから、法治社会ではむしろ法務官はそうであるほうが好ましいのである。
しかし、そうである時点で、本人たちが善を志すことももはやなくなるのであり、
悪逆非道まみれでいる商売人の女房役程度の役割しか果たせなくもなるのである。
目先の私益が全てな愚人はもちろんのこと、報酬に相応の行いしか果たそうと
しない酷吏止まりであっも、本物の善というものを欲することすらできはしない。
行いに相応の成果すら必ずしも期待することなく、積極的な善行に邁進して行ける
程もの仁徳や菩提心の持ち主だけが、本物の善を欲することができるのである。
ただ欲するためだけでも、それだけの心意気が必要であり、さらに善行を果たして
行くとなれば、そこには相応の権能が必要ともなって行くわけだから、本物の善行が
実現されて、なおかつ相応の成果が得られるなどということがいかに稀有なことで
あるのかまでもが容易に察せられるわけである。仁徳や菩提心によって旺盛に善行
を志して行く人間ぐらいは溢れ返るぐらいに居た上で、さらにその中から実際に
善行を実現して行くものが散発的に輩出されて行くぐらいのことがやっと期待できる
ことなわけだから、儒学や仏教の教育によって、仁徳や菩提心の持ち主を多く育んで
行くぐらいのことは予め成されていなければ、そうも行きはしないのである。仁徳も
菩提心も、目前のパン一切れほどの価値もないと思い込まれているのが常である時代に、
善因善果が少しでもあり得るなどと思うことがあるとすれば、それは夢想だといえる。
「耕穫せず、菑畭せずんば、則ち往く攸有るに利ろし。 耕穫せずとは、未だ富まんとせざるなり」
「耕したに相応の収穫すら期待せず、三年後にやっと収穫が期待できそうな新田での一年目
からの収穫を期待するようなこともない、そのような心がけでいれば、ことを為すに値する。
耕したに相応の収穫すら期待しないのは、自分に未だ富もうとする野望がないからである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・無妄・六二‐象伝より)
できる限り無法状態でいようとする者と、徒法を頑なに守ろうとする者の両極に
世の中が分断されてしまうのが乱世というものであり、資本主義や法治主義、そして
「現象的な自由主義」が是とされてしまっているような世の中においてこそ、その傾向も顕著となる。
禅僧が正法の護持や厳しい修行と引き換えに手に入れるような精神的な自由とは真逆の、
とにかく行為能力面でのなんでもありなやりたい放題でいる現象的な自由、その自由の象徴が
磔刑で死んでも生き返って天に召されるとする架空の現人神であるとされるのも、むべなる
ことと言えなくもない。そんな生き物は実在しないにしたって、仮にあるとしたなら、
現象的自由の象徴と見なす上でこれほど相応しい代物も他にないといえる。
それでまあ、そのような邪神を信じるにしろ信じないにしろ、よくいえば現象的自由、
悪くいえば「放辟邪侈」という傾向を是とするような事態において、最低限の治安維持目的での
法治主義もまたその重要性を帯びて来る。放辟邪侈など始めからあるべきでないとするのが
仁義道徳であるわけだから、放辟邪侈の是認と同時に徳治主義はその立場を追われてしまう。
その後に、放辟邪侈を許容する範囲での治安維持システムとしての法治社会が敷かれるわけである。
始皇帝が儒者を穴埋めにして経書を焼き捨て、韓非らの学説を参考にした法治主義社会を
秦帝国全土で実現しようとしたのも、自らの放辟邪侈が際限なく実現された上で、なおのこと
最低限には世の中を保っていけるようにしようとしたからだった。漢や唐の諸帝などは、そもそも
自分たちばかりが虚栄を謳歌したりする気もなかったから、儒学を主体とした統治をも実現して
行けたわけで、どこかで誰かが際限のない栄華の貪りを続けて行きたがっているのでもなければ、
法治主義などという最低レベルの統治理念を絶対化したりする必要もどこにもありはしないのである。
世の中が分断されてしまうのが乱世というものであり、資本主義や法治主義、そして
「現象的な自由主義」が是とされてしまっているような世の中においてこそ、その傾向も顕著となる。
禅僧が正法の護持や厳しい修行と引き換えに手に入れるような精神的な自由とは真逆の、
とにかく行為能力面でのなんでもありなやりたい放題でいる現象的な自由、その自由の象徴が
磔刑で死んでも生き返って天に召されるとする架空の現人神であるとされるのも、むべなる
ことと言えなくもない。そんな生き物は実在しないにしたって、仮にあるとしたなら、
現象的自由の象徴と見なす上でこれほど相応しい代物も他にないといえる。
それでまあ、そのような邪神を信じるにしろ信じないにしろ、よくいえば現象的自由、
悪くいえば「放辟邪侈」という傾向を是とするような事態において、最低限の治安維持目的での
法治主義もまたその重要性を帯びて来る。放辟邪侈など始めからあるべきでないとするのが
仁義道徳であるわけだから、放辟邪侈の是認と同時に徳治主義はその立場を追われてしまう。
その後に、放辟邪侈を許容する範囲での治安維持システムとしての法治社会が敷かれるわけである。
始皇帝が儒者を穴埋めにして経書を焼き捨て、韓非らの学説を参考にした法治主義社会を
秦帝国全土で実現しようとしたのも、自らの放辟邪侈が際限なく実現された上で、なおのこと
最低限には世の中を保っていけるようにしようとしたからだった。漢や唐の諸帝などは、そもそも
自分たちばかりが虚栄を謳歌したりする気もなかったから、儒学を主体とした統治をも実現して
行けたわけで、どこかで誰かが際限のない栄華の貪りを続けて行きたがっているのでもなければ、
法治主義などという最低レベルの統治理念を絶対化したりする必要もどこにもありはしないのである。
(現象的な)自由の名の下での放辟邪侈の貪りと、実定法での最低限の締め付けという乱世の両輪を、
放辟邪侈の戒めと、精神的な自由の追求という両輪に取り替えていった時にこそ、治世もまた実現される。
ただ放辟邪侈を戒めるだけでは堅苦しく、徳治を心から楽しめるような君子もその数は限られている。
だからそこにすら止まることなく、正法を守っての精進に励む中でこそ手に入れられる心の底
からの自由というものを、国や世界を挙げて賛美して行けるようにもなればいいのである。
歴史を遡ってみるなら、江戸時代までの日本の歴史はまさにそのような、善良な両輪統治の牙城であった。
平安時代までは、徳治以上にも人々の精進による治世の実現が顕著であったし、鎌倉時代以降も、
武力の嵩にかかっての徳治への依存度が高まりはしたものの、それでもなお禅寺などでの精進修行が
活発であった。中には剣禅一如の高尚な理念を湛えた武術などまでもが考案されることもあったわけで、
徹底して、放辟邪侈と法治主義の両輪で治世が踏み潰されるようなことだけは避けられ続けていたのだった。
キリスト教も「韓非子」も、中世には日本に流入していたが、いずれも日本人の意志によってその
受容が拒まれた。幕末以降に外圧によって強制的にそれらに相当するものを取り入れられさせられたが、
そのせいで日本は、純粋な日本文化を発展させて行くことを完全に途絶させられることとなってしまった。
日本文化といえばすなわち伝統文化であり、今に生きるものとして扱われることはほとんどなくなった。
それはそれで潔いことであり、徳治と精進の両輪による統治が取り戻されるのでもない限りはもう、
日本文化が現代的なものとし取り戻されることもないのだということを、誰しもが思い直すべきだといえる。
旧態依然としているからではなく、法治や放辟邪侈なんざと日本文化が相容れるようなことがあり得ない
からこそ日本文化も停滞したままでいることしかできないだけなのだと考えるべきであり、今よりよりよい
世の中でこそ日本文化もまたその息を吹き返して行くのだと、誰しもがわきまえておくべきなのである。
放辟邪侈の戒めと、精神的な自由の追求という両輪に取り替えていった時にこそ、治世もまた実現される。
ただ放辟邪侈を戒めるだけでは堅苦しく、徳治を心から楽しめるような君子もその数は限られている。
だからそこにすら止まることなく、正法を守っての精進に励む中でこそ手に入れられる心の底
からの自由というものを、国や世界を挙げて賛美して行けるようにもなればいいのである。
歴史を遡ってみるなら、江戸時代までの日本の歴史はまさにそのような、善良な両輪統治の牙城であった。
平安時代までは、徳治以上にも人々の精進による治世の実現が顕著であったし、鎌倉時代以降も、
武力の嵩にかかっての徳治への依存度が高まりはしたものの、それでもなお禅寺などでの精進修行が
活発であった。中には剣禅一如の高尚な理念を湛えた武術などまでもが考案されることもあったわけで、
徹底して、放辟邪侈と法治主義の両輪で治世が踏み潰されるようなことだけは避けられ続けていたのだった。
キリスト教も「韓非子」も、中世には日本に流入していたが、いずれも日本人の意志によってその
受容が拒まれた。幕末以降に外圧によって強制的にそれらに相当するものを取り入れられさせられたが、
そのせいで日本は、純粋な日本文化を発展させて行くことを完全に途絶させられることとなってしまった。
日本文化といえばすなわち伝統文化であり、今に生きるものとして扱われることはほとんどなくなった。
それはそれで潔いことであり、徳治と精進の両輪による統治が取り戻されるのでもない限りはもう、
日本文化が現代的なものとし取り戻されることもないのだということを、誰しもが思い直すべきだといえる。
旧態依然としているからではなく、法治や放辟邪侈なんざと日本文化が相容れるようなことがあり得ない
からこそ日本文化も停滞したままでいることしかできないだけなのだと考えるべきであり、今よりよりよい
世の中でこそ日本文化もまたその息を吹き返して行くのだと、誰しもがわきまえておくべきなのである。
「鳥其の巣を焚かる。旅人先に笑いて後に號き咷ぶ。牛を易に喪う、凶なり。
旅を以って上に在り、其の義や焚かるるなり。牛を易に喪うは、終に之れを聞くこと莫きなり」
「渡り鳥がその巣を焼かれるようにして、よそ者風情で目上ぶっていた遠征者もまた、始めのうちは
せせら笑っていた所で、道義に即して、最終的には泣き叫ぶような事態に陥る。国境付近で牛のような
大切な財産を失うが、そのことに気づきもしないままに終わる。凶である。(旧約の律法からして西洋
に遠征して金科玉条化されたものだし、そのような遠征先で偉ぶる姿勢にあやかって、キリスト教徒
もまた植民地などでの偉ぶり放題でいたのである。その末路は以上の如くであると易は予言しているが、
いま日本株の暴騰で儲けていてる西洋の投資家が、タックスヘイブン地域への不正送金を摘発されて
通帳課税を被ったりしていることが、『国境付近で牛を失う』という予言とも一致しているといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・旅・上九-象伝より)
旅を以って上に在り、其の義や焚かるるなり。牛を易に喪うは、終に之れを聞くこと莫きなり」
「渡り鳥がその巣を焼かれるようにして、よそ者風情で目上ぶっていた遠征者もまた、始めのうちは
せせら笑っていた所で、道義に即して、最終的には泣き叫ぶような事態に陥る。国境付近で牛のような
大切な財産を失うが、そのことに気づきもしないままに終わる。凶である。(旧約の律法からして西洋
に遠征して金科玉条化されたものだし、そのような遠征先で偉ぶる姿勢にあやかって、キリスト教徒
もまた植民地などでの偉ぶり放題でいたのである。その末路は以上の如くであると易は予言しているが、
いま日本株の暴騰で儲けていてる西洋の投資家が、タックスヘイブン地域への不正送金を摘発されて
通帳課税を被ったりしていることが、『国境付近で牛を失う』という予言とも一致しているといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・旅・上九-象伝より)
「寵を啓きて侮りを納るること無かれ、過ちを恥じて非を作す無かれ」
「ろくでもないような人間にまで博愛を及ぼしておごり高ぶらせた挙げ句に
侮られるような辱めを受けてはならぬ。そのような過ちこそを恥じて予防
するように。(侮りや辱めの寛容など、それ自体が過ちでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説命中より)
本物の人類史上最古の古典(聖典)である「易経」もまた、
天地否や火水未済のような粗悪な事態というものをあえて提示している。
5000年前の伏羲氏や神農氏による六十四卦の発見によって、
この世界この宇宙において発生し得る全ての現象の概括的な把捉は
完遂された。その内には残念ながら、小人が力を付けて君子を圧倒する
ような事態も含まれている。それはそれであり得ざるを得ないものだから、
一応は提示した上で、そこでの善処法もまた併記されることとなったのだ。
しかるに、生粋の小人は、易によってこの世界この宇宙の全ての現象法則が
把捉されているということを肯うこともなく、自分たちにとっては都合が
いいような粗悪な状況というものの呼び込みに執心し続ける。それは、
易が提示されたからといって企てられていることなどではない。生々流転の
易の法則を認めもしないでいるからこその愚行であるわけだから、万事万物を
把捉する中で粗悪な事態も併記するということが、愚人の妄動の深刻化に
与するなどということは決してないということまでもがいえるのである。
小人の妄動を深刻化させることに、合法的な立場から与している最大級の
存在は、それこそ「犯罪マニュアル」も同然な実定法あたりでこそある。
人々に罪を犯すヒントを与えるのみならず、絶対化された成文法によって、
この世界この宇宙に遍在する普遍法則を人々に見失わせることにすら
一役も二役も買っているのだから。(ここまでは既出の書き込み)
「ろくでもないような人間にまで博愛を及ぼしておごり高ぶらせた挙げ句に
侮られるような辱めを受けてはならぬ。そのような過ちこそを恥じて予防
するように。(侮りや辱めの寛容など、それ自体が過ちでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説命中より)
本物の人類史上最古の古典(聖典)である「易経」もまた、
天地否や火水未済のような粗悪な事態というものをあえて提示している。
5000年前の伏羲氏や神農氏による六十四卦の発見によって、
この世界この宇宙において発生し得る全ての現象の概括的な把捉は
完遂された。その内には残念ながら、小人が力を付けて君子を圧倒する
ような事態も含まれている。それはそれであり得ざるを得ないものだから、
一応は提示した上で、そこでの善処法もまた併記されることとなったのだ。
しかるに、生粋の小人は、易によってこの世界この宇宙の全ての現象法則が
把捉されているということを肯うこともなく、自分たちにとっては都合が
いいような粗悪な状況というものの呼び込みに執心し続ける。それは、
易が提示されたからといって企てられていることなどではない。生々流転の
易の法則を認めもしないでいるからこその愚行であるわけだから、万事万物を
把捉する中で粗悪な事態も併記するということが、愚人の妄動の深刻化に
与するなどということは決してないということまでもがいえるのである。
小人の妄動を深刻化させることに、合法的な立場から与している最大級の
存在は、それこそ「犯罪マニュアル」も同然な実定法あたりでこそある。
人々に罪を犯すヒントを与えるのみならず、絶対化された成文法によって、
この世界この宇宙に遍在する普遍法則を人々に見失わせることにすら
一役も二役も買っているのだから。(ここまでは既出の書き込み)
易学は、より積極的な善行の指針となる一方、実定法は、悪逆非道の放辟邪侈
に対する最低限(とされる)の歯止めとなる。故にこそ、法治主義者などは、
実定法のほうがより切実な存在意義を帯びているなどと思い込むわけだが、
そもそも実定法の存在自体が人々の悪行の推進にまで与していることからは
一向に目を背けたままでいる。積極的な善行を為す主体とも悪行を為す主体とも
ならないのが法律であるが故に、法律家こそは中立的存在であるとするわけ
だけれども、実際のところ、絶対化された法律はただそれだけでも悪に味方する
ものであり、易経における「君子」ほどにも積極的に善を為して行くのでも
ない限りは、悪との結託を払拭できるようなことも決してありはしないのである。
積極的に君子たらんとするための活動が、時に言論活動であることもある。
春秋時代の乱世に、学論活動で名を成した孔子もまた、そのうちに当たる。
「君子は放逐され、小人は権力を得る」という天地否の卦辞にまさに的中する
乱世において、君子であるが故に権力者としての大成も覚束なかったものだから、
仕方なく学問によって身を興した(多少は権力者としての活動も行ったが)。
だからといって非難されるべき理由などはどこにもない。孟子のように、
完全な隠遁を決め込んだ伯夷以上にも孔子のあり方(学説ではなく)を
評価するものもいて、しかもその根拠も相応な理に適ったものとなっている。
悪逆非道が繰り返されている中での沈黙なぞは、それこそ従犯にすらなりかねない。
自らが従犯としての嫌疑を免れられるための正言ぐらいはむしろあるべきですらある。
その姿が無力であるが故に哀れであるなどと思われた所で、そこでこそ自らの
最善が尽くされているわけだから、上から目線の沈黙者など以上にも、
マシな将来というものが期待されることもあるのである。
に対する最低限(とされる)の歯止めとなる。故にこそ、法治主義者などは、
実定法のほうがより切実な存在意義を帯びているなどと思い込むわけだが、
そもそも実定法の存在自体が人々の悪行の推進にまで与していることからは
一向に目を背けたままでいる。積極的な善行を為す主体とも悪行を為す主体とも
ならないのが法律であるが故に、法律家こそは中立的存在であるとするわけ
だけれども、実際のところ、絶対化された法律はただそれだけでも悪に味方する
ものであり、易経における「君子」ほどにも積極的に善を為して行くのでも
ない限りは、悪との結託を払拭できるようなことも決してありはしないのである。
積極的に君子たらんとするための活動が、時に言論活動であることもある。
春秋時代の乱世に、学論活動で名を成した孔子もまた、そのうちに当たる。
「君子は放逐され、小人は権力を得る」という天地否の卦辞にまさに的中する
乱世において、君子であるが故に権力者としての大成も覚束なかったものだから、
仕方なく学問によって身を興した(多少は権力者としての活動も行ったが)。
だからといって非難されるべき理由などはどこにもない。孟子のように、
完全な隠遁を決め込んだ伯夷以上にも孔子のあり方(学説ではなく)を
評価するものもいて、しかもその根拠も相応な理に適ったものとなっている。
悪逆非道が繰り返されている中での沈黙なぞは、それこそ従犯にすらなりかねない。
自らが従犯としての嫌疑を免れられるための正言ぐらいはむしろあるべきですらある。
その姿が無力であるが故に哀れであるなどと思われた所で、そこでこそ自らの
最善が尽くされているわけだから、上から目線の沈黙者など以上にも、
マシな将来というものが期待されることもあるのである。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
そもそも、俺の母親は皇族。それも、超一級のな。
血が濃くなりすぎるのは避けたいもんだ。
097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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097 笠地蔵(2013/05/22(水) 01:01:31 :1YmfQd9Jlw)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。
029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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029 笠地蔵 (2013/05/31(金) 01:06:55 QH0gkYfdcY)
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それでまあ、今までの発言の通り、俺は皇族じゃない。

続けて来たものだから、洋学者も自らの知識をなるべく象牙の塔にしまい込んでいようとする。
数理科学上の計算式なども、本当はもっと分かりやすく表現できるようなものまで
わざと難しく表現することで、それを理解するもの同士での閉鎖的な派閥を形成したりする。
(全く同じ分野を取り扱っている数学の教科書が、高偏差値の大学向けと低偏差値の
大学向けで極端に記述方式の相違があり、そのせいで難易度にも大差が開けていたりする)
別に難解な記述を理解できる秀才同士でなくたって、本当は分かりやすく理解できるような
知識であったりするものだから、頭は良くなくても金持ちであるような相手に対してだけは
学識を分かりやすく説明して、研究費の支援を受けたりすることもある。そのような
談合のための集会が毎週水曜日にイギリスで開かれているとは清朝末帝自伝「わが半生」の
第三章・五でも記録されていて、そこでこそ、世界を自分たちの都合で身勝手にかき回し、
人類を滅亡の危機に陥れるほどもの破滅を招く我田引水の密談が行われているのでもある。
東洋でも、「秘すれば花」とされる類いの知識というものは存在する。密教や神道に
おける密儀だとか、武道や兵法における秘伝だとかがそれであり、これらは六道十界で
いう所の天道や修羅道に相当するものである。一方で、公けに啓発すればするほど好ましい
知識というものもまたあって、それこそはここで引用を続けてもいる、儒学上の学説
だったりする。これは完璧に人道を司っている知識であり、天下の泰平を表向きから画策
して行くためのものであるから、学者や有力者ばかりで寡占していればそれでいいなどと
いうこともない。寺子屋で坊主が百姓や町人の子供に到るまでの教化に務めてやるぐらい
であってこそ、その効能を如実かつ健全に発揮して行くものとなっているのである。
儒学は人道に相当する一方で、洋学は餓鬼道に相当する。知識の質の良悪とも関係なく、
ただただ節操もなく知識を貪って飢えを紛らわそうとすることを本旨とする。知識の良質化
を全く疎かにしているものだから、粗悪さをひた隠すために、誰にでも知識を分かりやすく
教えてやるようなこともしないし、また粗悪な知識でもあるからこそ、いくらそのような
知識を貪っても精神が充足して飢えが満たされるようなことがないままでいてしまうのである。
六道の三善道(天道、人道、修羅道)と三悪道(畜生道、餓鬼道、地獄道)を対照すれば、
天道は畜生道に、人道は餓鬼道に、修羅道は地獄道に相当する。天道が道を踏み外せば
畜生道に、人道が道を踏み外せば餓鬼道に、修羅道が道を踏み外せば地獄道に劣化するのであり、
人道の場合、知識のくそみそ化や寡占を通じることで餓鬼道へと劣化する。天道は、万物斉同
のコトワリを見失っての一方的な私利私益の貪りに及んでしまったら畜生道に劣化するし、
修羅道は、暴力行使者としての最低限の道義すら見失ってしまった時に地獄道へと劣化する。
人道はもっぱら公けにすべき知識の研鑽に終始するし、天道や修羅道も公開すべき知識と
秘密にしておくべき知識の折衷となっている。一方で、餓鬼道、畜生道、修羅道の三つは、
いずれも知識の寡占や秘匿ばかりを本旨としていて、万人に広く理解されるべき知識と
いうものを持たない。犯罪聖書の記述も「ただ信じろ」というばかりのものであり、
その意味を知って深く理解すべき知識扱いされているわけでもない。(そんな扱いを
受ければ、あまりにも粗悪な邪教であることが一瞬でばれてしまうことにもなる)
全ての知識を完全に公けに晒け出すべきだという所までは決して行かないが、
最低限これぐらいは天下万人に広く知らしめておくべきだという知識も少なからずある。
四書五経に代表される「人道の書」、儒書の知識などはまさにそれであり、知識の流布すなわち
愚行であるなどという物言いを失礼極まりないものと断定するに値する証拠となっている。
ただただ節操もなく知識を貪って飢えを紛らわそうとすることを本旨とする。知識の良質化
を全く疎かにしているものだから、粗悪さをひた隠すために、誰にでも知識を分かりやすく
教えてやるようなこともしないし、また粗悪な知識でもあるからこそ、いくらそのような
知識を貪っても精神が充足して飢えが満たされるようなことがないままでいてしまうのである。
六道の三善道(天道、人道、修羅道)と三悪道(畜生道、餓鬼道、地獄道)を対照すれば、
天道は畜生道に、人道は餓鬼道に、修羅道は地獄道に相当する。天道が道を踏み外せば
畜生道に、人道が道を踏み外せば餓鬼道に、修羅道が道を踏み外せば地獄道に劣化するのであり、
人道の場合、知識のくそみそ化や寡占を通じることで餓鬼道へと劣化する。天道は、万物斉同
のコトワリを見失っての一方的な私利私益の貪りに及んでしまったら畜生道に劣化するし、
修羅道は、暴力行使者としての最低限の道義すら見失ってしまった時に地獄道へと劣化する。
人道はもっぱら公けにすべき知識の研鑽に終始するし、天道や修羅道も公開すべき知識と
秘密にしておくべき知識の折衷となっている。一方で、餓鬼道、畜生道、修羅道の三つは、
いずれも知識の寡占や秘匿ばかりを本旨としていて、万人に広く理解されるべき知識と
いうものを持たない。犯罪聖書の記述も「ただ信じろ」というばかりのものであり、
その意味を知って深く理解すべき知識扱いされているわけでもない。(そんな扱いを
受ければ、あまりにも粗悪な邪教であることが一瞬でばれてしまうことにもなる)
全ての知識を完全に公けに晒け出すべきだという所までは決して行かないが、
最低限これぐらいは天下万人に広く知らしめておくべきだという知識も少なからずある。
四書五経に代表される「人道の書」、儒書の知識などはまさにそれであり、知識の流布すなわち
愚行であるなどという物言いを失礼極まりないものと断定するに値する証拠となっている。
儒学の知識以外でも、護身術的技法に特化している合気道の技術なども、
武術を取り扱っている割りには、万人への流布が推奨できるものとなっている。
本来の伝統武術はもっと殺人術としての秘伝的技法を多数持ち合わせているものであり、
それを抜きにしているのが合気道であるものだから、合気道だけを習ったからといって
常人が最強の武術家になれるようなこともまずあり得ないわけだけれども、それでも
護身術や健康法、そして身心の壮快な扱いを体得できる程度の価値は持ち合わせて
いるわけだから、万人にすら広めて行くことが奨められもするのである。
神道だって、神話上の難解な秘儀まで理解できなくとも、祖先への崇拝なども
兼ねつつ神社への参詣などを欠かさないでいれば、それだけでも好ましいことである。
人道の知識を公けにすべきなのはもちろんのこと、天道や修羅道にすら、万人へと
広く教え広めて行くに値するような要素が、少なからずあるのである。
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人も(その言葉どころか)
その身から隠してしまう。(賢人が隠し隠れるような事態からして劣悪なものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
武術を取り扱っている割りには、万人への流布が推奨できるものとなっている。
本来の伝統武術はもっと殺人術としての秘伝的技法を多数持ち合わせているものであり、
それを抜きにしているのが合気道であるものだから、合気道だけを習ったからといって
常人が最強の武術家になれるようなこともまずあり得ないわけだけれども、それでも
護身術や健康法、そして身心の壮快な扱いを体得できる程度の価値は持ち合わせて
いるわけだから、万人にすら広めて行くことが奨められもするのである。
神道だって、神話上の難解な秘儀まで理解できなくとも、祖先への崇拝なども
兼ねつつ神社への参詣などを欠かさないでいれば、それだけでも好ましいことである。
人道の知識を公けにすべきなのはもちろんのこと、天道や修羅道にすら、万人へと
広く教え広めて行くに値するような要素が、少なからずあるのである。
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人も(その言葉どころか)
その身から隠してしまう。(賢人が隠し隠れるような事態からして劣悪なものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
焚書の歴史からして、残ってるのが必ずしもありがたいわけではないと思う。
始皇帝に焼き捨てられた経書の内に、
よりよい内容のものがあったりしたかも知れないわな。
日本の神道文化も、春秋戦国時代に廃絶を免れるために中国から避難して来た
礼楽文化がその多くを占めていて、そこでこそ、夫婦別姓や夫婦別室を原則とする
今の儒家教学に基づく場合以上にも磐石な夫唱婦随を実現できる秘訣が承け伝えられてもいるのだから。
ただ、それこそ乱世での保全なども覚束ない繊細極まる秘儀だったわけでな。
なかなか大っぴらに触れ回れもしないような文化から、
古代の中国でも廃れて行ったはずで、そういう経緯もある以上は、
四書五経あたりが究極の顕教的儒家教学でもあったのだろうと推察できるわけだ。
よりよい内容のものがあったりしたかも知れないわな。
日本の神道文化も、春秋戦国時代に廃絶を免れるために中国から避難して来た
礼楽文化がその多くを占めていて、そこでこそ、夫婦別姓や夫婦別室を原則とする
今の儒家教学に基づく場合以上にも磐石な夫唱婦随を実現できる秘訣が承け伝えられてもいるのだから。
ただ、それこそ乱世での保全なども覚束ない繊細極まる秘儀だったわけでな。
なかなか大っぴらに触れ回れもしないような文化から、
古代の中国でも廃れて行ったはずで、そういう経緯もある以上は、
四書五経あたりが究極の顕教的儒家教学でもあったのだろうと推察できるわけだ。
先祖の神に代表される、真っ当な神仏への帰依を拠り所として励んで行く
ことのできる仕事などというのも、限られている。働き手の夫が一度給料を
神棚や仏壇に捧げてから、それを家計係の妻が頂くようにすることのできるような
仕事というのも限られているから、そのような仕事が激減してしまった今、
人びとの正統な神仏への帰依も軒並み興ざめとなってしまっているのである。
邪悪な神が邪神たる所以は、何といっても、まともな神仏には到底顔向けできなく
なるような邪まな行いの正当化の拠り所にすらなる点にこそある。それこそ、
何らの拠り所も持つことなく悪行を為して行く場合以上もの悪行の推進を可能と
するのであり、それほどもの悪逆非道に邁進している中で、急激に邪信だけを失ったり
したなら、極度の虚無感にかられて自殺衝動を引き起こしたりもしてしまうのである。
そのため、邪神を拠り所としての行業を為すことに慣れてしまっているような
人間こそは、特定して禁治産の対象としなければならないような事態が生じてしまいもする。
当然、邪神への帰依を捨て去るに越したことはないわけだけれども、車が急には止まれない
ようにして、邪信もまた急には棄てきれなかったりする、すると邪信を拠り所としての
社会的な悪行を十分に食い止められるとも知れなくなるから、そのような人間に対して、
行いの面からの制限が必要となるような事態が生じてしまいもするのである。
邪信に即して仕事をしたりするよりは、まだ何も信じることなく働くことのほうが
マシであったりするわけだけれども、それはそれで心もとないものであったりもする。
自力作善の聖道門の仏教などは、信仰依存的な心象を脱却することを本旨としている
わけだけれども、それは、在家の立場からすらなかなか帰依しがたいものであるから、
仏教が興隆していた江戸時代までの日本においてですら、武家や公家などの限られた
身分の人間が禅や密教などの本格の聖道門に帰依し、大半の人間は浄土信仰や
弘法大師信仰や日蓮信仰などの信仰主義的な仏門に帰依するに止まっていたのである。
ことのできる仕事などというのも、限られている。働き手の夫が一度給料を
神棚や仏壇に捧げてから、それを家計係の妻が頂くようにすることのできるような
仕事というのも限られているから、そのような仕事が激減してしまった今、
人びとの正統な神仏への帰依も軒並み興ざめとなってしまっているのである。
邪悪な神が邪神たる所以は、何といっても、まともな神仏には到底顔向けできなく
なるような邪まな行いの正当化の拠り所にすらなる点にこそある。それこそ、
何らの拠り所も持つことなく悪行を為して行く場合以上もの悪行の推進を可能と
するのであり、それほどもの悪逆非道に邁進している中で、急激に邪信だけを失ったり
したなら、極度の虚無感にかられて自殺衝動を引き起こしたりもしてしまうのである。
そのため、邪神を拠り所としての行業を為すことに慣れてしまっているような
人間こそは、特定して禁治産の対象としなければならないような事態が生じてしまいもする。
当然、邪神への帰依を捨て去るに越したことはないわけだけれども、車が急には止まれない
ようにして、邪信もまた急には棄てきれなかったりする、すると邪信を拠り所としての
社会的な悪行を十分に食い止められるとも知れなくなるから、そのような人間に対して、
行いの面からの制限が必要となるような事態が生じてしまいもするのである。
邪信に即して仕事をしたりするよりは、まだ何も信じることなく働くことのほうが
マシであったりするわけだけれども、それはそれで心もとないものであったりもする。
自力作善の聖道門の仏教などは、信仰依存的な心象を脱却することを本旨としている
わけだけれども、それは、在家の立場からすらなかなか帰依しがたいものであるから、
仏教が興隆していた江戸時代までの日本においてですら、武家や公家などの限られた
身分の人間が禅や密教などの本格の聖道門に帰依し、大半の人間は浄土信仰や
弘法大師信仰や日蓮信仰などの信仰主義的な仏門に帰依するに止まっていたのである。
近代以降の資本主義なども、実際にはキリスト信仰やユダヤ信仰のごとき邪神信仰が
主導的な立場にありつつ推進されて来たものだから、そのような信仰を禁止するなり、
邪信依存を棄てきれない人間を禁治産にするなりの措置を講じたとしすれば、そこには
ポッカリと空隙が生まれてしまうこととなる。それを聖道門帰依を含む無信仰ばかり
によって埋め合わせるのも無理があるから、結局は、旧態依然としているようにすら
思われかねないような祖神信仰などを復興して行くようにもしなければならないのである。
「神仏への帰依だの祖先の崇拝だのは、時代遅れもいいとこだ」などと考えている
ような人間こそは現代文明におんぶにだっこでもいて、じつはその現代文明こそは
ろくでもない邪神信仰こそを拠り所として発展して来てもいる。しかればこそ、その
邪教が潰えて後にはそのような人間こそが、特に正統な神仏への帰依を必須とする
ようになるにも違いない。そのような人間こそは、何物かに依存しないことには
やっていられないような本性を潜在面から持ち越したままでもいるのだから。
「布縷の征、粟米の征、力役の征有り。君子は其の一を用い、
其の二を緩くす。其の二を用いれば民に殍有り、其の三を用いれば父子も離る」
「およそ民に義務付ける必要のある労働には、織物の生産と糧食の生産、それに
本人たち自身の軍役がある。君子は必ずこのうちの一つの労働だけを民に課し、その間は
他二つの労働を免除する。二つを同時にやらせようとすると餓死するものが現れるし、
三つを同時に課すと一家が離散するようにすらなってしまうからだ。(君子はただ
労働をさせっぱなしにするのではなく、適切な労働のみを調整して民に斡旋するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二七より)
主導的な立場にありつつ推進されて来たものだから、そのような信仰を禁止するなり、
邪信依存を棄てきれない人間を禁治産にするなりの措置を講じたとしすれば、そこには
ポッカリと空隙が生まれてしまうこととなる。それを聖道門帰依を含む無信仰ばかり
によって埋め合わせるのも無理があるから、結局は、旧態依然としているようにすら
思われかねないような祖神信仰などを復興して行くようにもしなければならないのである。
「神仏への帰依だの祖先の崇拝だのは、時代遅れもいいとこだ」などと考えている
ような人間こそは現代文明におんぶにだっこでもいて、じつはその現代文明こそは
ろくでもない邪神信仰こそを拠り所として発展して来てもいる。しかればこそ、その
邪教が潰えて後にはそのような人間こそが、特に正統な神仏への帰依を必須とする
ようになるにも違いない。そのような人間こそは、何物かに依存しないことには
やっていられないような本性を潜在面から持ち越したままでもいるのだから。
「布縷の征、粟米の征、力役の征有り。君子は其の一を用い、
其の二を緩くす。其の二を用いれば民に殍有り、其の三を用いれば父子も離る」
「およそ民に義務付ける必要のある労働には、織物の生産と糧食の生産、それに
本人たち自身の軍役がある。君子は必ずこのうちの一つの労働だけを民に課し、その間は
他二つの労働を免除する。二つを同時にやらせようとすると餓死するものが現れるし、
三つを同時に課すと一家が離散するようにすらなってしまうからだ。(君子はただ
労働をさせっぱなしにするのではなく、適切な労働のみを調整して民に斡旋するのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二七より)
真正聖書四書五経の記述と、犯罪聖書新旧約聖書の記述は、
明らかに相反しているものと、多少似ているように思われるものの両方がある。
たとえば、
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人もその身から隠してしまう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
「利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす」
(権力犯罪聖書——通称聖書——失言・12:23)
上の二つの引用などはかなり似ているけれども、片やその身から隠して誰への協力も
拒むのに対し、片や知識だけを象牙の塔に隠し込んで我田引水のために悪用する
ような含みを残しているといった違いがある。これは、真善に務めるものと、
見てくれだけはよさげな偽善を働こうとするものとの違いだといえる。一方、
「傲りは長ずべからず。欲はほしいままにすべからず」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上一より)
「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書・21:22)
この二つの記述などは明らかに相反している。これは、やはり一貫して真善を追い求めて
いるものと、もはや偽善すら取り払っての悪逆に及ぼうとしているものとの違いだといえる。
明らかに相反しているものと、多少似ているように思われるものの両方がある。
たとえば、
「天地閉じれば、賢人隠る」
「天地が閉塞して万物の化育も滞っているようであれば、賢人もその身から隠してしまう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・文言伝より)
「利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす」
(権力犯罪聖書——通称聖書——失言・12:23)
上の二つの引用などはかなり似ているけれども、片やその身から隠して誰への協力も
拒むのに対し、片や知識だけを象牙の塔に隠し込んで我田引水のために悪用する
ような含みを残しているといった違いがある。これは、真善に務めるものと、
見てくれだけはよさげな偽善を働こうとするものとの違いだといえる。一方、
「傲りは長ずべからず。欲はほしいままにすべからず」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上一より)
「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書・21:22)
この二つの記述などは明らかに相反している。これは、やはり一貫して真善を追い求めて
いるものと、もはや偽善すら取り払っての悪逆に及ぼうとしているものとの違いだといえる。
多少聞こえのいい偽善を駆使して道義を騙るのと、完全に悪逆非道でいながら人びとの
欲望を触発するようなけしかけに興じるのとの二枚舌が、新旧約の作風だといえる。
あえてそうしたというよりは、自分自身がそのような劣悪な言動規範に染まりきって
しまっている作者が、ただ自論を記録した結果、自然とそうなったのだろうと推測される。
だから、その含意まで深く理解せずとも、新旧約をただ好き好んで読み込むことでその
発言姿勢にあやかるだけでも、邪悪な思考規範や言動規範が身に付いてしまうのである。
偽善を駆使した言行にしろ、悪逆非道のほしいままでいる言行にしろ、首尾一貫して本物の
善徳と共にあろうとする言行とは食い違うことには変わりない。だからこそ、悪と偽善が
本質的には五十歩百歩な代物でしかないことまでもが分かるわけだが、本物の善徳など
露ほどにも知らない人間からすれば、両者には大きな開きがあるようにも思われる。
偽善でもそれなりの価値があるなどと思い込み、偽善の言葉もそれなりに書き連ね
られている犯罪聖書などにもそれなりの道義的価値があるかのように思われたりする。
そのような過ちをも犯しかねないから、本物の善徳というものをよく学んでおく必要がある。
それだけを見ればあまりにも当たり前な教条ばかりであるものだから、大して勉強意欲も
わかなかったりするような四書五経の記述などを、偽善の有害無益さを見破るための
道具とするためにこそ、よく学びその理解を深めておくべきなのである。
一貫して真善を堅持する四書五経の記述と、偽善含みであるような犯罪聖書の記述との
微妙かつ決定的な違いまでをも納得ずくで判別できるようになったならば、本物の善徳に
対する理解も相当なものとなっているに違いない。それぐらいであれば、もはや善徳を
平易すぎるものとしておざなりにしようなどという気持ちも起こらないであろう。
それを蔑ろにしてまでの偽善や悪逆に走ることが、いかに浅ましく愚かしいことで
あるのかをも、すでに実感を持って計り知れるようになっているに違いないから。
欲望を触発するようなけしかけに興じるのとの二枚舌が、新旧約の作風だといえる。
あえてそうしたというよりは、自分自身がそのような劣悪な言動規範に染まりきって
しまっている作者が、ただ自論を記録した結果、自然とそうなったのだろうと推測される。
だから、その含意まで深く理解せずとも、新旧約をただ好き好んで読み込むことでその
発言姿勢にあやかるだけでも、邪悪な思考規範や言動規範が身に付いてしまうのである。
偽善を駆使した言行にしろ、悪逆非道のほしいままでいる言行にしろ、首尾一貫して本物の
善徳と共にあろうとする言行とは食い違うことには変わりない。だからこそ、悪と偽善が
本質的には五十歩百歩な代物でしかないことまでもが分かるわけだが、本物の善徳など
露ほどにも知らない人間からすれば、両者には大きな開きがあるようにも思われる。
偽善でもそれなりの価値があるなどと思い込み、偽善の言葉もそれなりに書き連ね
られている犯罪聖書などにもそれなりの道義的価値があるかのように思われたりする。
そのような過ちをも犯しかねないから、本物の善徳というものをよく学んでおく必要がある。
それだけを見ればあまりにも当たり前な教条ばかりであるものだから、大して勉強意欲も
わかなかったりするような四書五経の記述などを、偽善の有害無益さを見破るための
道具とするためにこそ、よく学びその理解を深めておくべきなのである。
一貫して真善を堅持する四書五経の記述と、偽善含みであるような犯罪聖書の記述との
微妙かつ決定的な違いまでをも納得ずくで判別できるようになったならば、本物の善徳に
対する理解も相当なものとなっているに違いない。それぐらいであれば、もはや善徳を
平易すぎるものとしておざなりにしようなどという気持ちも起こらないであろう。
それを蔑ろにしてまでの偽善や悪逆に走ることが、いかに浅ましく愚かしいことで
あるのかをも、すでに実感を持って計り知れるようになっているに違いないから。
「民其の欲する所を求めずして之れを得、之れを信と謂う」
「(徳治者のはからいによって)民がわざわざ願い欲するまでもなく
必要とするものを得られている、そこにこそ本物の信というものがある。
(願い欲するものに対してのみ与えたりすることからしていやらしい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・経解第二十六より)
これもドンピシャリだな。
悪も偽善も撃退する真善の記述として。
「(徳治者のはからいによって)民がわざわざ願い欲するまでもなく
必要とするものを得られている、そこにこそ本物の信というものがある。
(願い欲するものに対してのみ与えたりすることからしていやらしい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・経解第二十六より)
これもドンピシャリだな。
悪も偽善も撃退する真善の記述として。
わざわざ説教がましくもしない、潜在的な側面から自らを守り養って来てくれたもの、
人の子たる人間にとって、その第一に当たるのは当然親である。中には説教好きな
親もいたりするが、だから感謝せねばならないというよりは、自分が物心も付かないような
頃から養って来てくれた相手であればこそ尊ばねばならないという面のほうが大きい。
儒家も父母への尊重や孝養を奨励しておきながら、同時に親が子を無闇に偏愛したり、
直接的な教育を心がけたりすることを忌んでもいる(「論語」や「孟子」を参照)。
それは結局、>>315の「礼記」の記述のような、自らの自意識を超えた所から施される恩恵をより
偉大なものとする哲理にこそ根差した志向性であるのであり、直接的かつ自覚的な言葉や施し
ばかりで全てが賄われているわけではない物事の本質を捉えていればこその処断なのである。
親の子に対する養いに代表される、半ば無自覚的な領域からの施しこそが、仁政の基本的なあり方ともなる。
広報の限りを尽くしながら金をばらまいたりするような、いかにも恩着せがましい政策などが
仁政たり得るわけがない一方で、民たちがほとんど気づきもしないような内から実施されているような
政策による恩恵こそは、実は天下万人のより一層の磐石な繁栄を企図したものだったりする。
頑是ない幼児などと同じように、日々の仕事に追われて息つく暇もないような小人もまた、
全ての施しを察せるほどの理解力や視野の広さを持ち合わせているものではない。だからこそ、
施しに相応の感謝すら期待できないような陰徳の積み重ねこそは、真の仁政ともなるのである。
仁政を志すものたるや、巧言令色をついで程にたしなむことすら法度となる理由も、ここにこそある。
そもそもが、自分たちのより磐石な養われ方も知れないような小人に対して、人気取りを兼ねつつの
為政を試みたからといって、それで本人たちが充足するわけもない、のみならず、本当に民たちを
充足させるに値するだけの仁政のほうがそのせいで疎かになって、人気取りなんか全く兼ねて
いないような為政にすら及ばないような成果しか挙げられなくなってしまうのである。
人の子たる人間にとって、その第一に当たるのは当然親である。中には説教好きな
親もいたりするが、だから感謝せねばならないというよりは、自分が物心も付かないような
頃から養って来てくれた相手であればこそ尊ばねばならないという面のほうが大きい。
儒家も父母への尊重や孝養を奨励しておきながら、同時に親が子を無闇に偏愛したり、
直接的な教育を心がけたりすることを忌んでもいる(「論語」や「孟子」を参照)。
それは結局、>>315の「礼記」の記述のような、自らの自意識を超えた所から施される恩恵をより
偉大なものとする哲理にこそ根差した志向性であるのであり、直接的かつ自覚的な言葉や施し
ばかりで全てが賄われているわけではない物事の本質を捉えていればこその処断なのである。
親の子に対する養いに代表される、半ば無自覚的な領域からの施しこそが、仁政の基本的なあり方ともなる。
広報の限りを尽くしながら金をばらまいたりするような、いかにも恩着せがましい政策などが
仁政たり得るわけがない一方で、民たちがほとんど気づきもしないような内から実施されているような
政策による恩恵こそは、実は天下万人のより一層の磐石な繁栄を企図したものだったりする。
頑是ない幼児などと同じように、日々の仕事に追われて息つく暇もないような小人もまた、
全ての施しを察せるほどの理解力や視野の広さを持ち合わせているものではない。だからこそ、
施しに相応の感謝すら期待できないような陰徳の積み重ねこそは、真の仁政ともなるのである。
仁政を志すものたるや、巧言令色をついで程にたしなむことすら法度となる理由も、ここにこそある。
そもそもが、自分たちのより磐石な養われ方も知れないような小人に対して、人気取りを兼ねつつの
為政を試みたからといって、それで本人たちが充足するわけもない、のみならず、本当に民たちを
充足させるに値するだけの仁政のほうがそのせいで疎かになって、人気取りなんか全く兼ねて
いないような為政にすら及ばないような成果しか挙げられなくなってしまうのである。
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