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聖書 Part9
▼ページ最下部
地球人類社会において、四書五経こそは、ここ2500年の長きにわたって、わざわざ
特筆するまでもないほどに標準的な聖書としての、その地位を守り続けてきている。
その理由は、四書五経が「社会統治の聖書」であるからで、その他の用途に
用いられる諸々の聖書一般と比べれば、書物活用の場でもある世の中全体を司る
聖書である点において、やはり別格級の存在意義を持っているからでこそある。
夏・殷・周の三代に渡る古代中国の治世のあり方を、春秋時代に孔子が五経として体系化し、
その孔子自身や弟子や亦弟子(孟子含む)の言説を取りまとめた四書がさらに朱子に
よって権威化された。両者を合わせて「四書五経」というが、四書五経は宋代に定型化された
儒学正典の代表書というまでのことで、これに漏れた「孝経」「周礼」「儀礼」「大載礼記」「国語」
などの儒書も、四書五経に勝るとも劣らない聖書として扱ってもまったく差し支えないもの
となっており、四書五経を含むこれら全ての聖書が、実際に天下国家全土における治世を
実現していく上でのマニュアルとなるに相応しいだけの、十分な度量を備えている。
実際に、当時世界最大規模の国力を誇った漢帝国や唐帝国や宋帝国、
死刑一つない治世を実験した平安朝や、識字率世界最高を誇った江戸の日本
などにおいて、四書五経に代表される儒学の聖書こそは、権力者から庶民に
至るまでの、「必須の教養」としての扱いを受け続けていたのだった。
四書五経の記述に基づくような治世が実現されて後に初めて興隆する、儒学以外の高度な文化
というものもまた別に多くあり、むしろそちらのほうが治世実現後の世の中における「花形」
としての扱いを受けたりもする。唐代における詩文芸の興隆や、宋代における禅仏教の興隆、
平安時代における密教文化や女流文芸の興隆、江戸時代における武芸文化や演劇文化の興隆などが
その好例であり、そのような人々を楽しませることにかけてより秀でている文化の興隆を実現する
「縁の下の力持ち」としての役割をも儒学は担って来たから、必ずしも目立つ存在ではなかった
せいで、あまり人々にその偉大さを意識されることすらないままでいることが多かったのだ。
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特筆するまでもないほどに標準的な聖書としての、その地位を守り続けてきている。
その理由は、四書五経が「社会統治の聖書」であるからで、その他の用途に
用いられる諸々の聖書一般と比べれば、書物活用の場でもある世の中全体を司る
聖書である点において、やはり別格級の存在意義を持っているからでこそある。
夏・殷・周の三代に渡る古代中国の治世のあり方を、春秋時代に孔子が五経として体系化し、
その孔子自身や弟子や亦弟子(孟子含む)の言説を取りまとめた四書がさらに朱子に
よって権威化された。両者を合わせて「四書五経」というが、四書五経は宋代に定型化された
儒学正典の代表書というまでのことで、これに漏れた「孝経」「周礼」「儀礼」「大載礼記」「国語」
などの儒書も、四書五経に勝るとも劣らない聖書として扱ってもまったく差し支えないもの
となっており、四書五経を含むこれら全ての聖書が、実際に天下国家全土における治世を
実現していく上でのマニュアルとなるに相応しいだけの、十分な度量を備えている。
実際に、当時世界最大規模の国力を誇った漢帝国や唐帝国や宋帝国、
死刑一つない治世を実験した平安朝や、識字率世界最高を誇った江戸の日本
などにおいて、四書五経に代表される儒学の聖書こそは、権力者から庶民に
至るまでの、「必須の教養」としての扱いを受け続けていたのだった。
四書五経の記述に基づくような治世が実現されて後に初めて興隆する、儒学以外の高度な文化
というものもまた別に多くあり、むしろそちらのほうが治世実現後の世の中における「花形」
としての扱いを受けたりもする。唐代における詩文芸の興隆や、宋代における禅仏教の興隆、
平安時代における密教文化や女流文芸の興隆、江戸時代における武芸文化や演劇文化の興隆などが
その好例であり、そのような人々を楽しませることにかけてより秀でている文化の興隆を実現する
「縁の下の力持ち」としての役割をも儒学は担って来たから、必ずしも目立つ存在ではなかった
せいで、あまり人々にその偉大さを意識されることすらないままでいることが多かったのだ。
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実際に、全世界を穏便に統治できる程もの度量があればこそ、儒学は治世実現後の世の中においてまで
そんなに自己主張に専らであったりしない。キリスト教なんざは、ただ世界征服を目指すだけで、
征服後の世の中はかえって最悪の争乱や破滅に陥れてばかりだから、そんな度量は一切持てず、
「征服したことに意義があった」みたいながなり立てを行うことで、自分たちの有害無益さ
に対する文句を騒音によって打ち消すことを、延々と試み続けていかなければならない。
儒学は決してそんなことはなく、その教学の優良さによって、着実に世の中をマシ以上な
治世へと導いて行くから、治世実現後には殊更な自己主張も控えて、乱世再来を防ぎ止める
ための義務的な儒学の勉強を人々に促す程度の粛々とした態度でいるようになるのである。
自分たちが縁の下からクリエートする世の中こそは最大級の治世をも獲得できるのだから、
儒者が自分たちから理念面での社会統治者としての立場を譲ったりすることを是とするわけもない。
法家心酔者の始皇帝に生き埋めにされた儒者や、乱世の荒波に飲まれて打ち首にされた吉田松陰などが、
儒学による社会統治の譲渡などを進んで容認していたような事実も当然ないわけで、儒学に基づく
統治が叶わない世の中において、仕方なく外野に甘んじるということはあっても、決して好き好んで
治世の企画者としての自分たちの立場が追われることなどを欲していたりはしないのである。
「滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙げれば、天下の民、心を帰せん」
「すでに滅びたような国も興し、絶えた家も受け継がせて、世捨て人も取り上げるようにすれば、
天下の人々もみな心から帰服するだろう。(乱世の支配者としての立場を受け継いだりするよりは、
乱世のせいで絶えてしまったような家を受け継いで復興させていくほうが、遥かに重要であろう。
ちなみにこれは周代の言葉であり、この直前に乱世をもたらしてしまった殷朝が滅亡している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・二より)
そんなに自己主張に専らであったりしない。キリスト教なんざは、ただ世界征服を目指すだけで、
征服後の世の中はかえって最悪の争乱や破滅に陥れてばかりだから、そんな度量は一切持てず、
「征服したことに意義があった」みたいながなり立てを行うことで、自分たちの有害無益さ
に対する文句を騒音によって打ち消すことを、延々と試み続けていかなければならない。
儒学は決してそんなことはなく、その教学の優良さによって、着実に世の中をマシ以上な
治世へと導いて行くから、治世実現後には殊更な自己主張も控えて、乱世再来を防ぎ止める
ための義務的な儒学の勉強を人々に促す程度の粛々とした態度でいるようになるのである。
自分たちが縁の下からクリエートする世の中こそは最大級の治世をも獲得できるのだから、
儒者が自分たちから理念面での社会統治者としての立場を譲ったりすることを是とするわけもない。
法家心酔者の始皇帝に生き埋めにされた儒者や、乱世の荒波に飲まれて打ち首にされた吉田松陰などが、
儒学による社会統治の譲渡などを進んで容認していたような事実も当然ないわけで、儒学に基づく
統治が叶わない世の中において、仕方なく外野に甘んじるということはあっても、決して好き好んで
治世の企画者としての自分たちの立場が追われることなどを欲していたりはしないのである。
「滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙げれば、天下の民、心を帰せん」
「すでに滅びたような国も興し、絶えた家も受け継がせて、世捨て人も取り上げるようにすれば、
天下の人々もみな心から帰服するだろう。(乱世の支配者としての立場を受け継いだりするよりは、
乱世のせいで絶えてしまったような家を受け継いで復興させていくほうが、遥かに重要であろう。
ちなみにこれは周代の言葉であり、この直前に乱世をもたらしてしまった殷朝が滅亡している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・二より)
えらく高評価だけど、本家である中国がなぜこの体たらく?
ヴァカにかまうと。。。><
「体たらく」も何も、完全に実力で世界を席巻しにかかってんじゃねえか。
ただ、そのあり方が今の日本などにとっては好ましくないだけで。
「国際協調」なんてものが単なる偽善に過ぎないことも、
中国人は長年の実地経験から知り抜いている。
諸国を統べる帝王を立てないことには、国同士での仲良しや仲違いが、
政商や縦横家にとっての格好の餌食になるだけでしかないとも知っている。
そうとも知らず、日米安保なんかに頼りきりでいる今の日本のほうが、
現実の外交セオリーを全く解さない愚か者の集まりとなっている。
ただ、そのあり方が今の日本などにとっては好ましくないだけで。
「国際協調」なんてものが単なる偽善に過ぎないことも、
中国人は長年の実地経験から知り抜いている。
諸国を統べる帝王を立てないことには、国同士での仲良しや仲違いが、
政商や縦横家にとっての格好の餌食になるだけでしかないとも知っている。
そうとも知らず、日米安保なんかに頼りきりでいる今の日本のほうが、
現実の外交セオリーを全く解さない愚か者の集まりとなっている。
職種別の社会的な害益の度合いでいえば、
君子士人(権力道徳者)>農業従事者≧必需工業従事者>無職≒0>ガラクタ工業従事者≧商業従事者>犯罪者>権力犯罪者
(0以上は世の中にとって有益無害、0以下は世の中にとって有害無益)
で、人としての貴さについても、この不等号に基づく順列が当てはまる。
社会的な常駐が倫理的に許されないのは犯罪者と権力犯罪者で、これらは一方的な撲滅の対象となる。
常駐が禁止まではされないが、色々と社会的な制限を受けなければならないのがガラクタ工業従事者と商業従事者で、
これらも放任が過ぎると犯罪者並みの害悪をもたらす場合がある(特に商売人が政商として権力犯罪に走る場合が多い)。
社会的な制限どころか、保護すらされて然るべきなのが農業従事者や必需工業従事者で、国を挙げてのそれらの
事業の振興が、着実な国力の発達にも結び付く。古来から重農主義であり続けてきた日本や中国などの東洋諸国が、
重商主義であり続けてきた西洋との経済競争で優位に立てたのも、そのような根本からの国力の養生があったればこそ。
君子士人は、上記のような措置を講ずる世の中の統治者たち自身のことであり、その働きが見事で
あったからには、それこそ神さま仏さまに準ずるほどもの畏敬の対象とされていかなければならない。
社会的に言って、有益無害の極致と有害無益の極致に該当するのが、権力道徳者(君子士人)と権力犯罪者であり、
片や神仏にも準ずる尊重の対象とされるべきである一方、片や最底辺の下流(子張第十九・二〇)として賤しむべき存在である。
全くの即物的な概算に基づいて生ずる貴賤の隔絶なのだから、これを迷信的な判断などとして退ける余地も、どこにもないといえる。
君子士人(権力道徳者)>農業従事者≧必需工業従事者>無職≒0>ガラクタ工業従事者≧商業従事者>犯罪者>権力犯罪者
(0以上は世の中にとって有益無害、0以下は世の中にとって有害無益)
で、人としての貴さについても、この不等号に基づく順列が当てはまる。
社会的な常駐が倫理的に許されないのは犯罪者と権力犯罪者で、これらは一方的な撲滅の対象となる。
常駐が禁止まではされないが、色々と社会的な制限を受けなければならないのがガラクタ工業従事者と商業従事者で、
これらも放任が過ぎると犯罪者並みの害悪をもたらす場合がある(特に商売人が政商として権力犯罪に走る場合が多い)。
社会的な制限どころか、保護すらされて然るべきなのが農業従事者や必需工業従事者で、国を挙げてのそれらの
事業の振興が、着実な国力の発達にも結び付く。古来から重農主義であり続けてきた日本や中国などの東洋諸国が、
重商主義であり続けてきた西洋との経済競争で優位に立てたのも、そのような根本からの国力の養生があったればこそ。
君子士人は、上記のような措置を講ずる世の中の統治者たち自身のことであり、その働きが見事で
あったからには、それこそ神さま仏さまに準ずるほどもの畏敬の対象とされていかなければならない。
社会的に言って、有益無害の極致と有害無益の極致に該当するのが、権力道徳者(君子士人)と権力犯罪者であり、
片や神仏にも準ずる尊重の対象とされるべきである一方、片や最底辺の下流(子張第十九・二〇)として賤しむべき存在である。
全くの即物的な概算に基づいて生ずる貴賤の隔絶なのだから、これを迷信的な判断などとして退ける余地も、どこにもないといえる。
聖書信仰はこの、即物的な観点に即して最悪級の賤しさを帯びる「権力犯罪」という所業の推進を企図したもので、
それにより「ただの犯罪者は救われないが、自分たちに限っては救われる」という事態の実現を目指した。
権力犯罪を推し進めることでこそ、ただの犯罪者のような断罪の対象にはさせないという暴挙の押し通し、
それも確かに多少は通じることもあったが、最終的には絶対に通じなくなる。そして本当に通じなくなったのが、今。
この頃まで権力道徳の認知も覚束ないでいた極西の部落社会で、権力道徳の対極であるが故に劣悪な所業の極みでもあることが
明らかとなる、権力犯罪の存在性もまた即物的には察知されることがなかった。その故に、そこに宗教的な幻想までをも抱いて、
権力犯罪を推進すればこそ、ただの犯罪者は罪になっても、自分たちは罪を免れられるかのような妄想にも陥ってしまった。
そのような連中によってこそ捏造されたのが新旧約聖書で、即物的な観点に基づけば、それは「権力犯罪聖書」だとも言える。
民間犯罪以上にも害悪度の極まる権力犯罪を推進するための聖書だったのだから、当然それが免罪の対象となるわけもない。
そうだと知ってて信仰や実践したのなら極刑の対象にすらなるし、そうとも知らず信仰や実践をしてしまったのだとしても、
十分な反省や活動自粛などが必須となる。幻想を晴らして即物性に帰ればこそ、そうせざるを得ないと断じるほかはない。
「即物性に過ぎる宗教こそはカルト」みたいな物言いがされることもあるが、むしろ即物的な観点に即して不正である
宗教こそが特筆してカルトであり、即物的に見て問題がない宗教こそは正統である。宗教と即物性を乖離させようとするのも
カルトの策謀であり、むしろ正統な宗教こそは、カネやモノへの取り扱いに対する監査を恐れたりする必要もないのである。
それにより「ただの犯罪者は救われないが、自分たちに限っては救われる」という事態の実現を目指した。
権力犯罪を推し進めることでこそ、ただの犯罪者のような断罪の対象にはさせないという暴挙の押し通し、
それも確かに多少は通じることもあったが、最終的には絶対に通じなくなる。そして本当に通じなくなったのが、今。
この頃まで権力道徳の認知も覚束ないでいた極西の部落社会で、権力道徳の対極であるが故に劣悪な所業の極みでもあることが
明らかとなる、権力犯罪の存在性もまた即物的には察知されることがなかった。その故に、そこに宗教的な幻想までをも抱いて、
権力犯罪を推進すればこそ、ただの犯罪者は罪になっても、自分たちは罪を免れられるかのような妄想にも陥ってしまった。
そのような連中によってこそ捏造されたのが新旧約聖書で、即物的な観点に基づけば、それは「権力犯罪聖書」だとも言える。
民間犯罪以上にも害悪度の極まる権力犯罪を推進するための聖書だったのだから、当然それが免罪の対象となるわけもない。
そうだと知ってて信仰や実践したのなら極刑の対象にすらなるし、そうとも知らず信仰や実践をしてしまったのだとしても、
十分な反省や活動自粛などが必須となる。幻想を晴らして即物性に帰ればこそ、そうせざるを得ないと断じるほかはない。
「即物性に過ぎる宗教こそはカルト」みたいな物言いがされることもあるが、むしろ即物的な観点に即して不正である
宗教こそが特筆してカルトであり、即物的に見て問題がない宗教こそは正統である。宗教と即物性を乖離させようとするのも
カルトの策謀であり、むしろ正統な宗教こそは、カネやモノへの取り扱いに対する監査を恐れたりする必要もないのである。
「殷民に辟在りて、予れを辟せよと曰うも、爾じ惟れを辟する勿れ。予れを宥せと曰うも、爾じ惟れを宥す勿れ、
惟れ厥の中をせよ。汝の政に若わず、汝の訓えに化せざること有らば、辟して以て止めよ。辟あらば乃ち辟せよ」
「民の内に罪を犯した者が有った場合、本人が有罪を認めたからといって重罰を科すのでも、無罪を主張するから
といって罰を科さないのでもいけない。常に中正を心がけ、おまえ自身の為政に従わず、教化に服さないことが
あれば、それこそを罰して過ちを未然に食い止めよ。それでも罪を犯した者がいれば、厳酷な罰を科すがいい。
(罪の有無や科刑の軽重は正式な為政者こそが自主性を以って判断すべきことであり、干渉の余地はどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
惟れ厥の中をせよ。汝の政に若わず、汝の訓えに化せざること有らば、辟して以て止めよ。辟あらば乃ち辟せよ」
「民の内に罪を犯した者が有った場合、本人が有罪を認めたからといって重罰を科すのでも、無罪を主張するから
といって罰を科さないのでもいけない。常に中正を心がけ、おまえ自身の為政に従わず、教化に服さないことが
あれば、それこそを罰して過ちを未然に食い止めよ。それでも罪を犯した者がいれば、厳酷な罰を科すがいい。
(罪の有無や科刑の軽重は正式な為政者こそが自主性を以って判断すべきことであり、干渉の余地はどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
男女関係でいえば、夫唱婦随であるほうが子宝にも恵まれて家庭円満でもいられたりする一方、
カカア天下のほうは女が多産を嫌がったり、家族関係が険悪化したりと色々な問題を生じさせてしまう。
それは、本質的な自律者である男が、依存者である女を十分な主導下に置くことが本末の正立となる一方、
依存者である女が主導的となることが本末の転倒になってしまうからで、それ以上に不思議な理由などはない。
車にしろ船にしろ、一方向に前進しやすいように作られるのが基本で、バックも一応はできるにしても、
一時的な後退だけを念頭に置いていて、常にバック走行し続けることなどを念頭においてはいない。
特殊な構造でもない自転車やバイクなどは、足をつかなければバックはできないようになっているし、
飛行機にいたっては飛行中のバックからして不可能で、エンジンの逆回転なども着陸時のブレーキなどと
してのみ用いられる。そして、こんな乗り物の例などを挙げるまでもなく、人間自身の身体構造からして
眼前に向かって前進していくことが歩行の基本となるようにできている。身体構造がクラゲやウニのような
全方向的な構造にはなっていないから、その人間が乗用することを目的とした乗り物なども自然と、
一方向に向かって進むことが便利となるように設計されていくようになっている。
夫唱婦随が人間自身や乗り物の前進であるなら、カカア天下は後退であるといえ、飛行機でもない限りは
後退だってできなくはないが、常に後退し続ける状態でいたのでは、人間や車や船といえども無理を来たすもの。
男女関係に限らずとも、一方が自律者でもう一方が依存者であるような関係が本末正立的であったり本末転倒的で
あったりすることは、人間や乗り物の前進や後退に譬えられるもので、後退が絶対に不可能なことでまであるとは
限らないにしても、常に後退をし続けるのでは無理を来たすという法則もまた、そのまま当てはまるのである。
カカア天下のほうは女が多産を嫌がったり、家族関係が険悪化したりと色々な問題を生じさせてしまう。
それは、本質的な自律者である男が、依存者である女を十分な主導下に置くことが本末の正立となる一方、
依存者である女が主導的となることが本末の転倒になってしまうからで、それ以上に不思議な理由などはない。
車にしろ船にしろ、一方向に前進しやすいように作られるのが基本で、バックも一応はできるにしても、
一時的な後退だけを念頭に置いていて、常にバック走行し続けることなどを念頭においてはいない。
特殊な構造でもない自転車やバイクなどは、足をつかなければバックはできないようになっているし、
飛行機にいたっては飛行中のバックからして不可能で、エンジンの逆回転なども着陸時のブレーキなどと
してのみ用いられる。そして、こんな乗り物の例などを挙げるまでもなく、人間自身の身体構造からして
眼前に向かって前進していくことが歩行の基本となるようにできている。身体構造がクラゲやウニのような
全方向的な構造にはなっていないから、その人間が乗用することを目的とした乗り物なども自然と、
一方向に向かって進むことが便利となるように設計されていくようになっている。
夫唱婦随が人間自身や乗り物の前進であるなら、カカア天下は後退であるといえ、飛行機でもない限りは
後退だってできなくはないが、常に後退し続ける状態でいたのでは、人間や車や船といえども無理を来たすもの。
男女関係に限らずとも、一方が自律者でもう一方が依存者であるような関係が本末正立的であったり本末転倒的で
あったりすることは、人間や乗り物の前進や後退に譬えられるもので、後退が絶対に不可能なことでまであるとは
限らないにしても、常に後退をし続けるのでは無理を来たすという法則もまた、そのまま当てはまるのである。
自律的な者と依存的な者との関係を、夫唱婦随のような良好な関係とするための道具となるのが上下の序列で、
上位に置かれた自律者が下位に置かれた依存者を一方的な統制の対象とする上での、増強剤的な役割を果たす。
別に、車をバックで走行させ続けるようなほどものカカア天下的な悪癖が根付いてしまっている
のでもない限りは、上下関係のあてがいによる夫唱婦随への矯正までをも必要とはしないわけで、
むしろ依存者こそが自意識過剰によってわがままを甚大化させてしまっているような所でこそ、
自律者と依存者との間に上下関係をあてがうことまでもが必要となってしまうのである。
無闇に上下関係をあてがったりするよりも、「自律者と依存者の関係は夫唱婦随が正則、カカア天下が逆則」
という認識を広めていくことのほうがあって然るべきで、それにより、車を前進させること程にも夫唱婦随を
当たり前なこととして受け止め、延々とバックさせ続けること程にもカカア天下を異常なこととして受け止める
ようになれば、わざわざ上下関係を徹底してまで夫唱婦随を強制したりする必要もなくなるのである。
「自律者と依存者の関係は夫唱婦随が正則、カカア天下が逆則」
これは、ただそうであるというまでのことで、そこにまで疑問を唱えたとしても仕方のないこと。
それはあたかも、「なぜ車はバックし続けるように作られていないのか」という疑問を抱くことに
大した意味がないのと同じようなもので、夫唱婦随であるべき人間関係も、丸ごと一つの車であるようなもの。
男女関係も一つの車、父子関係や君臣関係、官民関係なども一つの車。そこに主従の転倒をあてがったりするのは、
前進する目的で作られている車にバックを強要し続けるような暴挙になってしまうと考えたならば、
いかにそのような試みが不毛なものでしかないことかもまた、明らかになるだろう。
「所謂西伯善く老を養うとは、其の田里を制して之れに樹畜を教え、其の妻子を導きて其の老を養わしむればなり」
「『文王はよく老人を養った』とあるが、これは文王が田地を整理して人々に植樹や牧畜の行い方まで教え、
それぞれの妻子までをも老人への養護に務めるように導いたからである。(本人の優遇ではなく、善行へと導いた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二二より)
上位に置かれた自律者が下位に置かれた依存者を一方的な統制の対象とする上での、増強剤的な役割を果たす。
別に、車をバックで走行させ続けるようなほどものカカア天下的な悪癖が根付いてしまっている
のでもない限りは、上下関係のあてがいによる夫唱婦随への矯正までをも必要とはしないわけで、
むしろ依存者こそが自意識過剰によってわがままを甚大化させてしまっているような所でこそ、
自律者と依存者との間に上下関係をあてがうことまでもが必要となってしまうのである。
無闇に上下関係をあてがったりするよりも、「自律者と依存者の関係は夫唱婦随が正則、カカア天下が逆則」
という認識を広めていくことのほうがあって然るべきで、それにより、車を前進させること程にも夫唱婦随を
当たり前なこととして受け止め、延々とバックさせ続けること程にもカカア天下を異常なこととして受け止める
ようになれば、わざわざ上下関係を徹底してまで夫唱婦随を強制したりする必要もなくなるのである。
「自律者と依存者の関係は夫唱婦随が正則、カカア天下が逆則」
これは、ただそうであるというまでのことで、そこにまで疑問を唱えたとしても仕方のないこと。
それはあたかも、「なぜ車はバックし続けるように作られていないのか」という疑問を抱くことに
大した意味がないのと同じようなもので、夫唱婦随であるべき人間関係も、丸ごと一つの車であるようなもの。
男女関係も一つの車、父子関係や君臣関係、官民関係なども一つの車。そこに主従の転倒をあてがったりするのは、
前進する目的で作られている車にバックを強要し続けるような暴挙になってしまうと考えたならば、
いかにそのような試みが不毛なものでしかないことかもまた、明らかになるだろう。
「所謂西伯善く老を養うとは、其の田里を制して之れに樹畜を教え、其の妻子を導きて其の老を養わしむればなり」
「『文王はよく老人を養った』とあるが、これは文王が田地を整理して人々に植樹や牧畜の行い方まで教え、
それぞれの妻子までをも老人への養護に務めるように導いたからである。(本人の優遇ではなく、善行へと導いた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二二より)
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你じに拄杖子無くんば、我れ你じの拄杖子を奪わん」
「おまえが参禅修行者用の杖を持っているようならば、俺もおまえに杖を与えよう。
おまえ自身が杖を持っていないようならば、俺はおまえから杖を奪ってやろう」
(「無門関」第四十五則・芭蕉拄杖より)
上の禅書からの引用は、これ自体はスレの主旨に違うことも承知の上で、あえて持ち出してみたもの。
というのも、禅仏教こそは自力作善の聖道門の正統もいいとこで、庶民が生半な覚悟でかじったり
すべきでないものの最たるものでもあるから。だから芭蕉和尚も、参禅の資質のある者とない者とを
これ程にも冷厳に篩い分けたのだという一つの実例を、まず挙げておきたかったというまでのこと。
自力作善の仏門が上記ほどもの徹底した差別志向を敷いていればこそ、他力本願の浄土門は
徹底的な平等志向で、親殺しや仏門毀損にすら及ばなければ、誰でも念仏によって救われるとしている。
救われた先にあるとされる「無量寿経」中の極楽浄土なども、金銀財宝が散りばめられた豪華絢爛たるもので、
かえって聖道門の経典である「華厳経」おける仏国土の描写などよりも、即物的な豪華さに満ちたものとなっている。
(華厳経の仏国土にも即物的な描写はあるが、尽十方にかけてそのような描写が為されている頻度はかえって少ない)
参画者を極度に制限する禅門の寺こそは質素素朴である一方、百姓町人から屠殺人まで誰でも入信可である
浄土門の寺こそは、キンキラキンの宝飾が尽くされてもいる。仏門はかくの如き差別志向や平等志向それぞれの
善用によって、出家者たち自身が政治に直接携わらないうちからの、社会風紀の健全化に務めていく。
儒者の政治参画に基づく社会統治も、決してこの傾向を否定するものではない。仁徳に適うのなら粗末な衣食住も
楽しみに変わるという一方(述而第七・一五)、殷帝国の帝王として放辟邪侈の限りを尽くしていた紂王こそを
「下流(子張第十九・二〇)」とも断じている。富が吹き黙りやすい権力者の界隈こそは清貧を旨とするべきであり、
自分たちもそのような道徳的な権力者となることを目指しているわけで、仏者とはその手段が異なるにしても、
全体社会における富の偏在を、全身全霊を挙げて是正していこうとしている点では、全く共通しているといえる。
差別を>>6に挙げたような純正な職業別の害益度に即して徹底し、権力者といえども徳治者であり得た場合にのみ貴ばれ、
一躍権力犯罪者と化した場合には、即刻の自決も辞されなかった。武士が主な在俗信者であった禅門でも、できの悪すぎる
出家者を穴埋めや簀巻きの川流しにするなどして、武士が自らの勤めに励む上での鑑となるようにも振る舞っていた。
儒学自体からは多少話しが逸れたが、仏門が貧富ではなく精進修行の資質の有無にかけての差別を徹底することで、
社会全体における富の偏在を是正する役割を果たしていた事例を挙げてみた。それは、儒学統治とは志しが
一致するものだから、儒学を統治理念とする君子士人による世俗支配に協力する役割をも果たせていた。
一方で、富める者と富まざる者との格差を大いに開かせて已まない資本主義的な統治と、仏門の活動とは
決して相容れないものだから、資本主義が流入して来た明治以降の日本で仏門は徹底して弾圧され、
為政者の精神的な拠り所や、標準的な学問教育の主導者としての役割などは、ほぼ奪い去られることとなった。
多少「取材」の対象にできるぐらいのことはあったとしても、今の世の中の統治者は、仏門の活動をうまく
自分たちの為政の助けにしていくこともできやない。無理に参禅などを志してみたところで、自分たち自身のやってる
ことが金満政治以外の何物でもないから、多少経歴に箔を付けるための「ごっこ遊び」程度の意味合いしか持ち得ない。
仏門が儒学統治の味方たり得ても、金満政治の味方たり得たりまではしない。これもまた一つの正しい差別だといえる。
楽しみに変わるという一方(述而第七・一五)、殷帝国の帝王として放辟邪侈の限りを尽くしていた紂王こそを
「下流(子張第十九・二〇)」とも断じている。富が吹き黙りやすい権力者の界隈こそは清貧を旨とするべきであり、
自分たちもそのような道徳的な権力者となることを目指しているわけで、仏者とはその手段が異なるにしても、
全体社会における富の偏在を、全身全霊を挙げて是正していこうとしている点では、全く共通しているといえる。
差別を>>6に挙げたような純正な職業別の害益度に即して徹底し、権力者といえども徳治者であり得た場合にのみ貴ばれ、
一躍権力犯罪者と化した場合には、即刻の自決も辞されなかった。武士が主な在俗信者であった禅門でも、できの悪すぎる
出家者を穴埋めや簀巻きの川流しにするなどして、武士が自らの勤めに励む上での鑑となるようにも振る舞っていた。
儒学自体からは多少話しが逸れたが、仏門が貧富ではなく精進修行の資質の有無にかけての差別を徹底することで、
社会全体における富の偏在を是正する役割を果たしていた事例を挙げてみた。それは、儒学統治とは志しが
一致するものだから、儒学を統治理念とする君子士人による世俗支配に協力する役割をも果たせていた。
一方で、富める者と富まざる者との格差を大いに開かせて已まない資本主義的な統治と、仏門の活動とは
決して相容れないものだから、資本主義が流入して来た明治以降の日本で仏門は徹底して弾圧され、
為政者の精神的な拠り所や、標準的な学問教育の主導者としての役割などは、ほぼ奪い去られることとなった。
多少「取材」の対象にできるぐらいのことはあったとしても、今の世の中の統治者は、仏門の活動をうまく
自分たちの為政の助けにしていくこともできやない。無理に参禅などを志してみたところで、自分たち自身のやってる
ことが金満政治以外の何物でもないから、多少経歴に箔を付けるための「ごっこ遊び」程度の意味合いしか持ち得ない。
仏門が儒学統治の味方たり得ても、金満政治の味方たり得たりまではしない。これもまた一つの正しい差別だといえる。
「夏の暑く雨ふるに、小民惟れを曰いて怨み咨く。冬の祁いに寒きに、小民亦た惟れを曰いて怨み咨く。
厥れ惟れ艱いかな。其の艱きを思いて、以て其の易きを図れば、民乃ち寧し。嗚呼、丕いに顕らかなる
かな文王の謨。丕いに承けんかな武王の烈。我が後人を啓き佑けて、咸な正しきを以て欠くること罔し」
「夏は暑くて多雨だと決まっているのに、庶民はそれにすら怨み嘆こうとする。冬がひどく寒いのも
分かりきっていることなのに、これまた庶民はいちいちそんなことに嘆く。なかなか察し難いところだが、
その察し難い所までよく察して、(日々の生活に追われている庶民たち自身はなかなか気づかない)飢寒
の害のような本当のところの困窮までをも衣食の充実などによって補ってやったならば、民たちも安んじる。
(これも文王の代からの政治的手法なわけだが、)ああ、なんと文王のお考えはあきらかなることだろう。
武王もまたそのような偉業を見事に受け継ぎ、我々のような後代の者までをも啓蒙し助けて、正しく
ないところがないようにしてくれる。(この文王が編み出した政治的手法は聞くにあきらかではあるが、
愚昧な庶民たち自身があきらかに気づけないような部分に至るまでの配慮に基づく。生活ある民衆たち
自身こそを啓蒙して政治的な主導者の立場に置こうとする、民主主義の不能性をも示唆している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君牙より)
厥れ惟れ艱いかな。其の艱きを思いて、以て其の易きを図れば、民乃ち寧し。嗚呼、丕いに顕らかなる
かな文王の謨。丕いに承けんかな武王の烈。我が後人を啓き佑けて、咸な正しきを以て欠くること罔し」
「夏は暑くて多雨だと決まっているのに、庶民はそれにすら怨み嘆こうとする。冬がひどく寒いのも
分かりきっていることなのに、これまた庶民はいちいちそんなことに嘆く。なかなか察し難いところだが、
その察し難い所までよく察して、(日々の生活に追われている庶民たち自身はなかなか気づかない)飢寒
の害のような本当のところの困窮までをも衣食の充実などによって補ってやったならば、民たちも安んじる。
(これも文王の代からの政治的手法なわけだが、)ああ、なんと文王のお考えはあきらかなることだろう。
武王もまたそのような偉業を見事に受け継ぎ、我々のような後代の者までをも啓蒙し助けて、正しく
ないところがないようにしてくれる。(この文王が編み出した政治的手法は聞くにあきらかではあるが、
愚昧な庶民たち自身があきらかに気づけないような部分に至るまでの配慮に基づく。生活ある民衆たち
自身こそを啓蒙して政治的な主導者の立場に置こうとする、民主主義の不能性をも示唆している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君牙より)
何事も言えばその通りになる、富士山も相模湾に「飛び込め」と言えばそうなるという考えは。
いわゆる「馬鹿」の考えだ。鹿も「馬だ」と言い張れば馬になるとする、馬鹿の考え。
馬鹿の考えも、絶対に実現が不能だとは限らない。人間が空を飛ぶなんてのも200年前には馬鹿の
考えることだったが、今や飛行機が飛べることに疑念を呈している人間のほうが恐怖症扱いである。
「馬鹿と天才は紙一重」というが、発想の実現が可能なのが天才な馬鹿で、
実現は不能だが発想だけが奇天烈なのが単なる馬鹿だといえる。こんな、
あまり天才にとっても好ましくないような言い方をするのも、天才だからといって
世の中に好影響を及ぼすとも限らないから。馬鹿みたいな発想を実際に発明や研究などによって
実現した結果、機関銃や核兵器みたいな大量殺戮兵器までもが編み出されたわけだから、
決して天才だからといって手放しに褒め上げていればいいなんてこともないのである。
天才や馬鹿である以前に、人としてわきまえておかなければならない諸法実相の絶対法則というものがある。
そこを疎かにしてまでの発想の実現の試みは、馬鹿だけでなく、天才のそれまでもが有害な影響をもたらす。
だからそもそも、奇抜な発想によって常識を覆してしまおうとするような試み全般に一定の歯止めをかける
べきなのであり、それでも有益無害ゆえに実現していける発想だけを温存するようにすべきなのである。
いわゆる「馬鹿」の考えだ。鹿も「馬だ」と言い張れば馬になるとする、馬鹿の考え。
馬鹿の考えも、絶対に実現が不能だとは限らない。人間が空を飛ぶなんてのも200年前には馬鹿の
考えることだったが、今や飛行機が飛べることに疑念を呈している人間のほうが恐怖症扱いである。
「馬鹿と天才は紙一重」というが、発想の実現が可能なのが天才な馬鹿で、
実現は不能だが発想だけが奇天烈なのが単なる馬鹿だといえる。こんな、
あまり天才にとっても好ましくないような言い方をするのも、天才だからといって
世の中に好影響を及ぼすとも限らないから。馬鹿みたいな発想を実際に発明や研究などによって
実現した結果、機関銃や核兵器みたいな大量殺戮兵器までもが編み出されたわけだから、
決して天才だからといって手放しに褒め上げていればいいなんてこともないのである。
天才や馬鹿である以前に、人としてわきまえておかなければならない諸法実相の絶対法則というものがある。
そこを疎かにしてまでの発想の実現の試みは、馬鹿だけでなく、天才のそれまでもが有害な影響をもたらす。
だからそもそも、奇抜な発想によって常識を覆してしまおうとするような試み全般に一定の歯止めをかける
べきなのであり、それでも有益無害ゆえに実現していける発想だけを温存するようにすべきなのである。
馬鹿と天才は全くの別種なのではなく、発想が奇抜であるという点では全くその本質を同じくする。
ただ発想が奇抜なだけの「大多数の馬鹿」という負け組の中に、奇抜な発想を現実化する能力や資金を得た
「一部の天才」という勝ち組がいるのがキリスト教社会で、大半の一般人が地獄を天国だとも勘違いする最悪の
蒙昧に陥れられていればこそ、そこからの脱却を希望する若干名の人間が天才としての成功をも企てようとする。
誰しもがキリスト教徒級の蒙昧に踊らされている世の中でもないのなら、そもそも誰しもが諸法実相の了解
からなる一定の安楽にも与れていられるものだから、わざわざ天才や秀才としての成功などを企てようとする
ようなもの自体がそんなに生じない。仮に天才が生じたところで、関孝和や平賀源内のように適当な範囲の
成功に止めて、天才として世の中を席巻するような不埒な企てにまで及んだりすることはないのである。
馬鹿の妄動に一定の歯止めをかけるべきなのはもちろんだが、天才を天才だからといって無条件に
褒め称えるような風潮にもいい加減、幕を引かなければならない。天才であってもサイコパスであるような
人間に世界を支配されるよりは、凡才でも純朴で分別の利く人間が世の中を統治していくほうが、まだ
全体社会においてもたらされる損害以上の利益の度合いも高まるというもので、少なくとも、天才か凡才か
などという査定基準を、善人か悪人かという基準以上にも優先していいようなことは、もう決してないのである。
ただの小百姓の末子でいながら「皇帝になる」という大志を抱き、ほとんど文盲なままに帝位を目指し、
実際に皇帝となってみたなら、官職者や富豪には厳しくとも庶民には優しい、理想上の主君となった
漢の高祖劉邦のように、むしろ無知で純朴な中にこそ陰徳を養っていたような人間も実際にいるわけだから、
天才だからといって称えるのと同時に、無知や凡才だからといって侮るようなことも控えられていかなければならない。
ただ発想が奇抜なだけの「大多数の馬鹿」という負け組の中に、奇抜な発想を現実化する能力や資金を得た
「一部の天才」という勝ち組がいるのがキリスト教社会で、大半の一般人が地獄を天国だとも勘違いする最悪の
蒙昧に陥れられていればこそ、そこからの脱却を希望する若干名の人間が天才としての成功をも企てようとする。
誰しもがキリスト教徒級の蒙昧に踊らされている世の中でもないのなら、そもそも誰しもが諸法実相の了解
からなる一定の安楽にも与れていられるものだから、わざわざ天才や秀才としての成功などを企てようとする
ようなもの自体がそんなに生じない。仮に天才が生じたところで、関孝和や平賀源内のように適当な範囲の
成功に止めて、天才として世の中を席巻するような不埒な企てにまで及んだりすることはないのである。
馬鹿の妄動に一定の歯止めをかけるべきなのはもちろんだが、天才を天才だからといって無条件に
褒め称えるような風潮にもいい加減、幕を引かなければならない。天才であってもサイコパスであるような
人間に世界を支配されるよりは、凡才でも純朴で分別の利く人間が世の中を統治していくほうが、まだ
全体社会においてもたらされる損害以上の利益の度合いも高まるというもので、少なくとも、天才か凡才か
などという査定基準を、善人か悪人かという基準以上にも優先していいようなことは、もう決してないのである。
ただの小百姓の末子でいながら「皇帝になる」という大志を抱き、ほとんど文盲なままに帝位を目指し、
実際に皇帝となってみたなら、官職者や富豪には厳しくとも庶民には優しい、理想上の主君となった
漢の高祖劉邦のように、むしろ無知で純朴な中にこそ陰徳を養っていたような人間も実際にいるわけだから、
天才だからといって称えるのと同時に、無知や凡才だからといって侮るようなことも控えられていかなければならない。
「孔子衛に在りて、葬を送る者有り。夫子之れを観て曰く、善きかな喪を為すや、以て法と為すに足れり、小子之れ
を識せと。子貢曰く、夫子何ぞ善みすること爾かるやと。曰く、其の往くや慕うが如くし、其の反るや疑がうが如しと。
子貢曰く、豈に速やかに反りて虞するに若かんやと。子曰く、小子之れを識せ、我れ未だ之れを行う能わざるなりと」
「孔先生が衛国に滞在しているとき、葬送に参列する者がいた。先生はこれを見て言われた。『見事な服喪の仕方だ。
規範とするに足るものだから、よくそのあり方を記録しておきなさい』 弟子の子貢は問うた。『どこがそんなに
模範的なのでしょうか』 先生『葬儀に参列する時には未だ故人を慕っているようでいて、退くときにもまだ故人が
亡くなったことが信じられないような疑わしい態度でいるところがだ』 子貢『どうして速やかに退いて、斎宮でその
霊魂を祭ることがより模範的ではないのでしょうか』 先生『これも記録しておきなさい。私には到底できやしないが』
(生きていようが死んでいようが、人間の霊魂と身体とを妄りに分裂させて捉える気になれないのがまともな人情と
いうもの。そのような人情に欠ける子貢の意見も孔子は全くの非とはしなかったが、自分には到底できないともいった。
そして今の日本でも、没後四十九日目に法要によって死者の霊を送り出すなど、人情に適った葬礼が行われている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
を識せと。子貢曰く、夫子何ぞ善みすること爾かるやと。曰く、其の往くや慕うが如くし、其の反るや疑がうが如しと。
子貢曰く、豈に速やかに反りて虞するに若かんやと。子曰く、小子之れを識せ、我れ未だ之れを行う能わざるなりと」
「孔先生が衛国に滞在しているとき、葬送に参列する者がいた。先生はこれを見て言われた。『見事な服喪の仕方だ。
規範とするに足るものだから、よくそのあり方を記録しておきなさい』 弟子の子貢は問うた。『どこがそんなに
模範的なのでしょうか』 先生『葬儀に参列する時には未だ故人を慕っているようでいて、退くときにもまだ故人が
亡くなったことが信じられないような疑わしい態度でいるところがだ』 子貢『どうして速やかに退いて、斎宮でその
霊魂を祭ることがより模範的ではないのでしょうか』 先生『これも記録しておきなさい。私には到底できやしないが』
(生きていようが死んでいようが、人間の霊魂と身体とを妄りに分裂させて捉える気になれないのがまともな人情と
いうもの。そのような人情に欠ける子貢の意見も孔子は全くの非とはしなかったが、自分には到底できないともいった。
そして今の日本でも、没後四十九日目に法要によって死者の霊を送り出すなど、人情に適った葬礼が行われている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)
徒善や徒法を自分たちで捏造することによって、それに反する小罪や偽悪を働くものを
徹底して糾弾し、それによって自分たちが企てる本物の大悪から衆目を逸らさせる
というのが、古来からの権力犯罪者やカルト犯罪者の罪悪推進上の常套手段となっている。
ユダヤ教の、割礼(包茎手術)を行わない者を神の意向に違う罪人として糾弾し、
「聖絶」の対象にすらしようとも憚らぬ姿勢などもその最たるものであり、徒善や徒法が
「神の啓示」などとして祭り上げられた場合の度し難さを示した極例ともなっている。
一方で、イスラム教における豚肉食や飲酒の禁止もまた、神託の名目で実定されている
傍目には徒法にすら思えかねない戒律である。実際、飲酒が厳禁されているためにこそ、
日本など以上にも喫煙や麻薬の服用が許容されていたりするといった問題も呈しているわけだが、
ただ、これらの戒律は異教徒に危害を加えることを正当化する言い分に用いられることまでは
少ないことからも、割礼や同性愛の禁止といった戒律を守らない異教徒を迫害の対象にすらする
ユダヤ教やキリスト教のあり方よりは、随分とマシな範疇に止まっているといえる。
アブラハム教圏には、善因楽果悪因苦果の自覚的な把捉に即した、自明な善悪の分別というものがない。
全ての規範は超越神が定めるものであり、自分はそれに服従するだけの存在でしかないと考えて
いる点では、ユダヤもキリシタンもイスラムも全くその様相を同じくする。その上で、神からの
啓示であるとされる善悪の分別や法定が、自明な分別から大幅に乖離してしまっているのが
ユダヤ教やキリスト教であるのに対し、「当たらずといえども遠からず」という
程度の範囲に止まっているのがイスラム教であるといった程度の違いがある。
徹底して糾弾し、それによって自分たちが企てる本物の大悪から衆目を逸らさせる
というのが、古来からの権力犯罪者やカルト犯罪者の罪悪推進上の常套手段となっている。
ユダヤ教の、割礼(包茎手術)を行わない者を神の意向に違う罪人として糾弾し、
「聖絶」の対象にすらしようとも憚らぬ姿勢などもその最たるものであり、徒善や徒法が
「神の啓示」などとして祭り上げられた場合の度し難さを示した極例ともなっている。
一方で、イスラム教における豚肉食や飲酒の禁止もまた、神託の名目で実定されている
傍目には徒法にすら思えかねない戒律である。実際、飲酒が厳禁されているためにこそ、
日本など以上にも喫煙や麻薬の服用が許容されていたりするといった問題も呈しているわけだが、
ただ、これらの戒律は異教徒に危害を加えることを正当化する言い分に用いられることまでは
少ないことからも、割礼や同性愛の禁止といった戒律を守らない異教徒を迫害の対象にすらする
ユダヤ教やキリスト教のあり方よりは、随分とマシな範疇に止まっているといえる。
アブラハム教圏には、善因楽果悪因苦果の自覚的な把捉に即した、自明な善悪の分別というものがない。
全ての規範は超越神が定めるものであり、自分はそれに服従するだけの存在でしかないと考えて
いる点では、ユダヤもキリシタンもイスラムも全くその様相を同じくする。その上で、神からの
啓示であるとされる善悪の分別や法定が、自明な分別から大幅に乖離してしまっているのが
ユダヤ教やキリスト教であるのに対し、「当たらずといえども遠からず」という
程度の範囲に止まっているのがイスラム教であるといった程度の違いがある。
イスラム圏における豚肉食の禁止は、間接的に女色の貪りの抑制にも寄与した。そのような
慣習の一切ないキリスト教圏では、同性愛への蔑視を横目にした男女の交わりの過激な推進すらもが
半ば横行し、いい女を抱くためにこそ男が無闇やたらに富を貪るようなことまでもが常態化してしまった。
それと比べれば、女色の貪りに一定の制限がかけられている一方、別に同性愛の禁止などがあるわけでもない
イスラム圏における大半の男たちの経済感覚のほうが至ってまともなもので(石油メジャーの手下と化した一部の
富豪などを除く)、自分たちが外界に強いている経済的疲弊なども、こちらは皆無にも等しいものとなっている。
神からの啓示名義の実定法などに依存したりするよりは、罪福の承諾に基づく自明な善悪の分別を
利かせていくに越したことはないが、残念ながらそれが叶わない範囲においても、比較的道義に
適った実定法によって人々が吉方へと導かれたり、著しく道義に悖った悪法によって人々が破滅に
陥れられたりするようなことがある。聖書信仰とイスラムの隔絶などもまさにその実例で、これから
致命的な破滅に陥る欧米聖書圏と比べての、ムスリムたちの「幸い」さが明らかなものとなっている。
むろん、「不幸中の幸い」という意味の「幸い」であって、超越神への信仰依存を本旨とするアブラハム教
全体としては、利益以上の損害をもたらしてしまったと断ずる他ないわけだから、老若男女官民の誰しもが
他社への依存によって生きていこうとすることなどが、決して善いことなどではなかったとも断ずるしかない。
慣習の一切ないキリスト教圏では、同性愛への蔑視を横目にした男女の交わりの過激な推進すらもが
半ば横行し、いい女を抱くためにこそ男が無闇やたらに富を貪るようなことまでもが常態化してしまった。
それと比べれば、女色の貪りに一定の制限がかけられている一方、別に同性愛の禁止などがあるわけでもない
イスラム圏における大半の男たちの経済感覚のほうが至ってまともなもので(石油メジャーの手下と化した一部の
富豪などを除く)、自分たちが外界に強いている経済的疲弊なども、こちらは皆無にも等しいものとなっている。
神からの啓示名義の実定法などに依存したりするよりは、罪福の承諾に基づく自明な善悪の分別を
利かせていくに越したことはないが、残念ながらそれが叶わない範囲においても、比較的道義に
適った実定法によって人々が吉方へと導かれたり、著しく道義に悖った悪法によって人々が破滅に
陥れられたりするようなことがある。聖書信仰とイスラムの隔絶などもまさにその実例で、これから
致命的な破滅に陥る欧米聖書圏と比べての、ムスリムたちの「幸い」さが明らかなものとなっている。
むろん、「不幸中の幸い」という意味の「幸い」であって、超越神への信仰依存を本旨とするアブラハム教
全体としては、利益以上の損害をもたらしてしまったと断ずる他ないわけだから、老若男女官民の誰しもが
他社への依存によって生きていこうとすることなどが、決して善いことなどではなかったとも断ずるしかない。
「天下の礼は、始めに反るを致すなり、鬼神を致すなり、和用を致すなり、義を致すなり、讓を致すなり。
〜此の五者を合わせて、以て天下の礼を治むるや、奇邪にして治まらざる者有ると雖も、則ち微かなる」
「天下に通用する礼節としては、物事の根本をよく見据えること、先祖の神をよく祭ること、万民の和合と
財の充実を図ること、道義を尽くすこと、謙譲を尽くすことの五つがある。この五つの礼節を天下全土に
向けて敷けたなら、奇行や邪侈に走って収拾の付かない者がまだいたとしても、あくまで少数派にとどまる。
(こういう大切なことのみを記録して、放辟邪侈の推進などを元から記録しない姿勢からして優良なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
〜此の五者を合わせて、以て天下の礼を治むるや、奇邪にして治まらざる者有ると雖も、則ち微かなる」
「天下に通用する礼節としては、物事の根本をよく見据えること、先祖の神をよく祭ること、万民の和合と
財の充実を図ること、道義を尽くすこと、謙譲を尽くすことの五つがある。この五つの礼節を天下全土に
向けて敷けたなら、奇行や邪侈に走って収拾の付かない者がまだいたとしても、あくまで少数派にとどまる。
(こういう大切なことのみを記録して、放辟邪侈の推進などを元から記録しない姿勢からして優良なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)
「醜夷に在りて争わず(既出)」「同等の立場にある者同士では争わない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
罪を犯しているものに対して、同様の罪を犯しているものが裁きを講ずるというのでは、話にならない。
だから古来から儒学でも「修己治人」ということが言われてきたし、己れの無為自然によってこそ、
蛮行争乱に走るものを安静に連れ込む道家のあり方なども、一種の修己治人の提唱となっている。
修己治人であればこそ、容易かつ爽快に相手を降伏させられるといった法則もまた存在する。
合気柔術は、他の格闘技などとちがって自分から攻撃を仕掛けない。自分自身は平和主義を守り通す一方、
自分に攻撃を仕掛けてきた相手の攻撃力をうまく絡め取り、相手を捕縛や転倒などの状態に追い込む
ことを旨とする。自分から相手に攻撃を仕掛ず、また相手が本気で攻撃を仕掛けてきた場合にのみ、
合気技は見事にかかる。かける側に十分な技量があって、なおかつ上記のような条件すら整っていれば、
相手が雲を突くような大男で、自分が婦女子ほどの体格の持ち主でしかなくとも、確実に技がかかる。
「修己治人+相手にのみ決定的な落ち度」という条件すら整っていれば、何も柔術技巧に限らずとも、
様々なシチュエーションにおける合気技の法則の適用が可能となる。自分自身が権力犯罪を行わないことに
かけての徹底的な修身に勤め、逆に相手が重権力犯罪まみれの大悪人だったりするのなら、たとえ自分が
乞食も同様の分際でいて、相手が大軍を擁する大帝国の長であろうとも、まるで合気技が極まるかのごとく、
完璧かつ爽快に相手をねじ伏せることができる。これは孟子が梁恵王章句上・五でもすでに述べていることで、
ここではその発言が合気の法則に叶っているが故に、爽快な実現までもが可能であることを指摘したまでのことである。
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
罪を犯しているものに対して、同様の罪を犯しているものが裁きを講ずるというのでは、話にならない。
だから古来から儒学でも「修己治人」ということが言われてきたし、己れの無為自然によってこそ、
蛮行争乱に走るものを安静に連れ込む道家のあり方なども、一種の修己治人の提唱となっている。
修己治人であればこそ、容易かつ爽快に相手を降伏させられるといった法則もまた存在する。
合気柔術は、他の格闘技などとちがって自分から攻撃を仕掛けない。自分自身は平和主義を守り通す一方、
自分に攻撃を仕掛けてきた相手の攻撃力をうまく絡め取り、相手を捕縛や転倒などの状態に追い込む
ことを旨とする。自分から相手に攻撃を仕掛ず、また相手が本気で攻撃を仕掛けてきた場合にのみ、
合気技は見事にかかる。かける側に十分な技量があって、なおかつ上記のような条件すら整っていれば、
相手が雲を突くような大男で、自分が婦女子ほどの体格の持ち主でしかなくとも、確実に技がかかる。
「修己治人+相手にのみ決定的な落ち度」という条件すら整っていれば、何も柔術技巧に限らずとも、
様々なシチュエーションにおける合気技の法則の適用が可能となる。自分自身が権力犯罪を行わないことに
かけての徹底的な修身に勤め、逆に相手が重権力犯罪まみれの大悪人だったりするのなら、たとえ自分が
乞食も同様の分際でいて、相手が大軍を擁する大帝国の長であろうとも、まるで合気技が極まるかのごとく、
完璧かつ爽快に相手をねじ伏せることができる。これは孟子が梁恵王章句上・五でもすでに述べていることで、
ここではその発言が合気の法則に叶っているが故に、爽快な実現までもが可能であることを指摘したまでのことである。
ただ合気法則に即して大帝国全体を屈伏させるともなれば、ただ「何もしない」ばかりでもいけない所がある。
重権力犯罪まみれによってこそ成り立っていた、秦帝国や米英帝国などの後を継いで、跡地を有効に
実効支配していくからには、それに見合っただけの自分自身の政治的素養が必要となる。なおかつ
その政治能力が権力犯罪をやらかすことではなく、権力道徳を実践していくことにかけて有効でないのなら、
自分自身までもが秦楚や米英の二の舞三の舞に陥ってしまうことになるから、それでもいけない。
結局、老荘並みの無為自然志向と、孔孟並みの徳治の素養、さらには孫呉並みの兵法の素養があることでやっと、
秦や米英が崩壊した後の天下を十分に統治していくことが可能となる。それは決して、一人の人間にばかり
全てを要求すべきような代物ではないので、道術に長けていた高祖劉邦が、兵法にかけては張良や韓信を
頼りとしたり、礼楽にかけては陸賈や叔孫通を頼りにしたりしたような分業がある程度可能であってこそ、
万億の民を湛える大帝国の長期に渡る泰平統治が可能ともなっていくものなのでもある。
修己治人に即して悪逆非道を討つ、それは実際可能なことだし、実現できたならこれ程にも爽快なことはない。
できた所で面倒くさそうだ、今より悪い世の中になりそうだなんて不安が、現代社会にドップリ浸かって
しまっている人間には生じてしまうのかもしれないが、まず、修己治人に基づく勧善懲悪は楽しい、楽しい上に、
確実に今よりもマシ以上な世の中の到来が見込める。そこに魅力を感じることができて初めて、誰も彼もが
罪悪まみれで収拾も付かない時代のつまらなさにも気づき、よって収拾の目処が立っていくのでもある。
「吾れ未だ己れを枉げて人を正す者を聞かざるなり。況んや、己れを辱めて以て天下を正す者をや」
「私も、自分が邪曲でいながら他人を正せた者などを未だ一人も知らない。ましてや、自分を辱しめることで
世の中を正せた者ともなれば、なおさら聞いたこともない。(不正まみれで誰しもがお互いを正し合うことも
覚束なくなっているからといって、イエスのような辱めを受けることでどうにかなるなんて道理もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
重権力犯罪まみれによってこそ成り立っていた、秦帝国や米英帝国などの後を継いで、跡地を有効に
実効支配していくからには、それに見合っただけの自分自身の政治的素養が必要となる。なおかつ
その政治能力が権力犯罪をやらかすことではなく、権力道徳を実践していくことにかけて有効でないのなら、
自分自身までもが秦楚や米英の二の舞三の舞に陥ってしまうことになるから、それでもいけない。
結局、老荘並みの無為自然志向と、孔孟並みの徳治の素養、さらには孫呉並みの兵法の素養があることでやっと、
秦や米英が崩壊した後の天下を十分に統治していくことが可能となる。それは決して、一人の人間にばかり
全てを要求すべきような代物ではないので、道術に長けていた高祖劉邦が、兵法にかけては張良や韓信を
頼りとしたり、礼楽にかけては陸賈や叔孫通を頼りにしたりしたような分業がある程度可能であってこそ、
万億の民を湛える大帝国の長期に渡る泰平統治が可能ともなっていくものなのでもある。
修己治人に即して悪逆非道を討つ、それは実際可能なことだし、実現できたならこれ程にも爽快なことはない。
できた所で面倒くさそうだ、今より悪い世の中になりそうだなんて不安が、現代社会にドップリ浸かって
しまっている人間には生じてしまうのかもしれないが、まず、修己治人に基づく勧善懲悪は楽しい、楽しい上に、
確実に今よりもマシ以上な世の中の到来が見込める。そこに魅力を感じることができて初めて、誰も彼もが
罪悪まみれで収拾も付かない時代のつまらなさにも気づき、よって収拾の目処が立っていくのでもある。
「吾れ未だ己れを枉げて人を正す者を聞かざるなり。況んや、己れを辱めて以て天下を正す者をや」
「私も、自分が邪曲でいながら他人を正せた者などを未だ一人も知らない。ましてや、自分を辱しめることで
世の中を正せた者ともなれば、なおさら聞いたこともない。(不正まみれで誰しもがお互いを正し合うことも
覚束なくなっているからといって、イエスのような辱めを受けることでどうにかなるなんて道理もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
民主化や廃仏毀釈によって、君子士人としての活動や、本格的な仏門帰依の余地がすでに
絶やされてしまっている現今の日本社会においても、それらが実際に可能であった江戸時代以前の
世の中を慕う者がいて、それらの人々こそは今という時代を嘆かわしい時代だとも受け止めている。
それは確かに、多少の倫理意識によってそう思うという程度でしかない場合もあり、本当に当時の世の中に
回帰するとなれば躊躇すらしてしまうようなものだったりもする。一方で、本当にかつての世の中こそを
心から楽しかったもの、つまらなくなかったものとしてその本質から憧憬し、まるで美女や美食を欲する
ようにして、当時の世の中への回帰こそを自然に選択してしまうほどもの心持ちでいるものもいる。
「高高として上に在りと曰うなかれ、厥れ士の上に渉降したまい、日に監みて玆に在り」
「高々としてとても自分たちが手の届かないところにばかりあるなどと思うな。日々
神霊たちは天と人との間を昇降して、監査を加えつつここにすらあるものだと思え」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・敬之より)
上のような心持ちで、150年以上前の世の中にすら生気がかった思いを馳せてみれば、確かに
実感からの正しき世の心地よさに与ることができる。深く歴史や礼制を学びすらすれば、誰にでもそれは
可能なことだし、自らの先祖が当時の世の中で重職を担っていたりしたのなら、なおさら実感も容易となる。
そしてその心地よさの実感に即して、実際に己と人と世とを律して行ったならば、たとえ君子階級や聖道門が
絶やされた世の中といえども、何度でも仁徳に満ちた聖賢の統治する世の中へと立ち戻らせていくことができる。
さんざん言っている通り、それはあくまで「楽しいからこそ」実施されていくに越したことはないのであり、
いい加減世の中が破滅に陥れられてどうにもならないから嫌々反正していくというのでは、望みが低すぎる。
絶やされてしまっている現今の日本社会においても、それらが実際に可能であった江戸時代以前の
世の中を慕う者がいて、それらの人々こそは今という時代を嘆かわしい時代だとも受け止めている。
それは確かに、多少の倫理意識によってそう思うという程度でしかない場合もあり、本当に当時の世の中に
回帰するとなれば躊躇すらしてしまうようなものだったりもする。一方で、本当にかつての世の中こそを
心から楽しかったもの、つまらなくなかったものとしてその本質から憧憬し、まるで美女や美食を欲する
ようにして、当時の世の中への回帰こそを自然に選択してしまうほどもの心持ちでいるものもいる。
「高高として上に在りと曰うなかれ、厥れ士の上に渉降したまい、日に監みて玆に在り」
「高々としてとても自分たちが手の届かないところにばかりあるなどと思うな。日々
神霊たちは天と人との間を昇降して、監査を加えつつここにすらあるものだと思え」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・敬之より)
上のような心持ちで、150年以上前の世の中にすら生気がかった思いを馳せてみれば、確かに
実感からの正しき世の心地よさに与ることができる。深く歴史や礼制を学びすらすれば、誰にでもそれは
可能なことだし、自らの先祖が当時の世の中で重職を担っていたりしたのなら、なおさら実感も容易となる。
そしてその心地よさの実感に即して、実際に己と人と世とを律して行ったならば、たとえ君子階級や聖道門が
絶やされた世の中といえども、何度でも仁徳に満ちた聖賢の統治する世の中へと立ち戻らせていくことができる。
さんざん言っている通り、それはあくまで「楽しいからこそ」実施されていくに越したことはないのであり、
いい加減世の中が破滅に陥れられてどうにもならないから嫌々反正していくというのでは、望みが低すぎる。
いま現在、本当に世界を破滅に陥れてしまっているユダヤ系やキリシタン系の権力犯罪者たち自身は確かに、
窮地に追い詰められて仕方なく反正するということを主体とするしかないだろう。ただ、それらの人間は
反正の主導者ではなく、反正の取っ掛かりを作るものとなるに過ぎないのでもあり、撥乱反正と事後の
泰平統治を主導していく者であるなら、それを心から楽しんでいけるぐらいの心意気がなければならない。
古えからの知恵にも適った正善を、自他に向けて推進していくことにかけて大きな楽しみを抱けるぐらいで
あって初めて、本当に世界史上にも名高い聖王にも肩を並べるほどもの帝業すらをも成すことができる。
というのも、確かに歴史上の聖王こそは、善政を尽くすことを心から楽しんでいたようでもあるから。
自らが善政を行うための口実としての瑞祥を求めて、方々での祭祀に明け暮れた前漢の武帝なども、
「これによって龍が現れて自分を天上へと連れて行ってくれるのなら、妻子など履物を脱ぎ捨てるように
捨て去ってもいいのに」と言ったという(「漢書」郊祀志参照)。ここには、本当に龍が現れることへの渇望
以上にも、祭祀事業そのものを心から楽しんでいたことからなる余裕が垣間見られる。家庭を捨てて寺に入る
仏者のあり方なども、俗世での楽しみこそが全てである現代の人間からすればやせ我慢じみたものにすら
思われかねないが、むしろそこにこそ常楽我浄があるものだから、出家を志す者もかつては多かったのだ。
正善ゆえ、浄業ゆえの楽しみこそはまた別にあるのだと確信し、そこに邁進していける者こそが、
本当にそこに到達できるのであり、嫌々ながら仕方なくなどという者は始めからお呼びでない。
やる気もないような奴は修行用の杖を持っていない内からその杖を奪ってしまおうとは>>11にもある通りだ。
窮地に追い詰められて仕方なく反正するということを主体とするしかないだろう。ただ、それらの人間は
反正の主導者ではなく、反正の取っ掛かりを作るものとなるに過ぎないのでもあり、撥乱反正と事後の
泰平統治を主導していく者であるなら、それを心から楽しんでいけるぐらいの心意気がなければならない。
古えからの知恵にも適った正善を、自他に向けて推進していくことにかけて大きな楽しみを抱けるぐらいで
あって初めて、本当に世界史上にも名高い聖王にも肩を並べるほどもの帝業すらをも成すことができる。
というのも、確かに歴史上の聖王こそは、善政を尽くすことを心から楽しんでいたようでもあるから。
自らが善政を行うための口実としての瑞祥を求めて、方々での祭祀に明け暮れた前漢の武帝なども、
「これによって龍が現れて自分を天上へと連れて行ってくれるのなら、妻子など履物を脱ぎ捨てるように
捨て去ってもいいのに」と言ったという(「漢書」郊祀志参照)。ここには、本当に龍が現れることへの渇望
以上にも、祭祀事業そのものを心から楽しんでいたことからなる余裕が垣間見られる。家庭を捨てて寺に入る
仏者のあり方なども、俗世での楽しみこそが全てである現代の人間からすればやせ我慢じみたものにすら
思われかねないが、むしろそこにこそ常楽我浄があるものだから、出家を志す者もかつては多かったのだ。
正善ゆえ、浄業ゆえの楽しみこそはまた別にあるのだと確信し、そこに邁進していける者こそが、
本当にそこに到達できるのであり、嫌々ながら仕方なくなどという者は始めからお呼びでない。
やる気もないような奴は修行用の杖を持っていない内からその杖を奪ってしまおうとは>>11にもある通りだ。
夏殷周の三代にわたる最古層の中国文化を春秋時代に孔子が易詩書礼楽春秋の六経として編纂し、
孔子やその後継者である儒者たちも、その忠実な継承に務めていた。秦始皇帝の犯した焚書坑儒によって
「楽経」の全てと「書経」の大半が焼失し、今では五経にまで目減りしてしまっているが、やはり
できる限り古代文化の忠実な継承に儒者たちが務め続けようとして来たことには変わりない。
古代文化そのものは忠実に継承した上で、その実用に応用を利かせるというぐらいのことは当然あった。
秦帝国の覇業を継ぐ形で王業を打ち立てた漢帝国においても、天神を祭るための檀などの装飾に浮ついて
華美なものがあったために、それを廃止したと「漢書」郊祀志下にある。しかもそれが古代の礼制に適って
いないからではなく、すでに遺失している礼制を近代人が我流で焼き直したものだからというわけで、
これはかえって、古代文化の偉大さを尊重するがためにヘタな真似を控えようとした事例にあたるといえる。
日本でも、中国とは違った気候風土に合わせて、供儀に獣肉ではなく魚介類を用いるなどの応用が利かせられた。
これも「東鄰の牛を殺すは、西鄰の禴祭(質素な祭)に如かず」という「易経」既済・九五の記述にも即していて、
中国古来の礼制に即しているわけではないにも関わらず、かえって中国文化の根幹たる易には即したものとなっている。
必ずしも、古代の中国文化そのものをそのまま復古するというのでもなく、それなりの応用は利かせる、
それでこそ単なる復元志向以上にも、温故知新を本旨とする儒学の理念にも叶った実績を上げられたりもする。ただ、
それが決して基本的なあり方なのではなく、できる限り古来のあり方に倣って、あきらかに新規な措置を講じたほうが
最善となる場合に限ってそちらを選択するというのが基本なわけで、「五経の記録に一切従わないことが最善となる」
なんてことは当然あり得ない。そこまで五経が劣悪極まりない反面教師カルトの鑑だったりすることもないのだから。
孔子やその後継者である儒者たちも、その忠実な継承に務めていた。秦始皇帝の犯した焚書坑儒によって
「楽経」の全てと「書経」の大半が焼失し、今では五経にまで目減りしてしまっているが、やはり
できる限り古代文化の忠実な継承に儒者たちが務め続けようとして来たことには変わりない。
古代文化そのものは忠実に継承した上で、その実用に応用を利かせるというぐらいのことは当然あった。
秦帝国の覇業を継ぐ形で王業を打ち立てた漢帝国においても、天神を祭るための檀などの装飾に浮ついて
華美なものがあったために、それを廃止したと「漢書」郊祀志下にある。しかもそれが古代の礼制に適って
いないからではなく、すでに遺失している礼制を近代人が我流で焼き直したものだからというわけで、
これはかえって、古代文化の偉大さを尊重するがためにヘタな真似を控えようとした事例にあたるといえる。
日本でも、中国とは違った気候風土に合わせて、供儀に獣肉ではなく魚介類を用いるなどの応用が利かせられた。
これも「東鄰の牛を殺すは、西鄰の禴祭(質素な祭)に如かず」という「易経」既済・九五の記述にも即していて、
中国古来の礼制に即しているわけではないにも関わらず、かえって中国文化の根幹たる易には即したものとなっている。
必ずしも、古代の中国文化そのものをそのまま復古するというのでもなく、それなりの応用は利かせる、
それでこそ単なる復元志向以上にも、温故知新を本旨とする儒学の理念にも叶った実績を上げられたりもする。ただ、
それが決して基本的なあり方なのではなく、できる限り古来のあり方に倣って、あきらかに新規な措置を講じたほうが
最善となる場合に限ってそちらを選択するというのが基本なわけで、「五経の記録に一切従わないことが最善となる」
なんてことは当然あり得ない。そこまで五経が劣悪極まりない反面教師カルトの鑑だったりすることもないのだから。
その記述に一切従わないでいてこそ最善となるような反面教師カルトの聖典があったとして、しかもそれが何十万文字
という大部に上っていたとする。そんなもの無視するに越したことはないが、残念ながら押し付けられたりもする形で
その内容を知らされてしまったとする。それでいて一切その記述に従わないためには、ただ「こんなものはダメだ」
という反発意識を持つぐらいではどうにもならない。その記述にいかに従わないでおくかに関する体系的な知識こそが
必要ともなるが、その知識が五経や四書の中にはあるとした所で、新約聖書の中にあるようなことも決してない。
新約の教義が、「旧約の教義は一切従わないでいてこそ最善となる反面教師カルトの教義である」という正しい
認識を前提に提唱されたものなどでは決してないから、新約が旧約の毒性を中和できているようなことも全くない。
あたかも四書が五経の注釈書として編纂されたようにして、新約もまた旧約の応用書として作られたものであり、
五経と違って、旧約のほうは改善の余地もないほどに極悪非道の教義の塊でしかないものだから、それを多少いじる
ぐらいのつもりで捏造された新約の教義もまた、旧約に尾ひれをつけた程度のものとしかなり得なかったのだった。
最初の誤りは、新約ではなく旧約にある。旧約が五経ぐらいにマシな教学を湛えていたなら、そこに付け足される形で
作られた新約もまた、四書並みにマシな内容になっていただろう。五経の自学自習によって聖人君子へと大成した
孔子ほどまでは行かずとも、イエスもまたもうちょっとマシな人間ぐらいではいられたことだろう。人間の運命は
必ずしも環境によって決まるものではないにしろ、環境がある程度その運命を左右してしまうのも確かなことだ。
「男女の別有りて、而る後に夫婦義有り。夫婦義有りて、而る後に父子親有り。
父子親有りて、而る後に君臣正有り。故に曰く、昏礼は、礼の本なりと」
「男女の差別があって後に初めて、夫婦の関係に義が生ずる。夫婦の関係に義があって後に初めて、父子の関係に親しみ
が生ずる。父子の関係に親しみがあって初めて、君臣関係も正しくなる。故に結婚こそはあらゆる礼節の根本ともされる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・昏義第四十四より)
という大部に上っていたとする。そんなもの無視するに越したことはないが、残念ながら押し付けられたりもする形で
その内容を知らされてしまったとする。それでいて一切その記述に従わないためには、ただ「こんなものはダメだ」
という反発意識を持つぐらいではどうにもならない。その記述にいかに従わないでおくかに関する体系的な知識こそが
必要ともなるが、その知識が五経や四書の中にはあるとした所で、新約聖書の中にあるようなことも決してない。
新約の教義が、「旧約の教義は一切従わないでいてこそ最善となる反面教師カルトの教義である」という正しい
認識を前提に提唱されたものなどでは決してないから、新約が旧約の毒性を中和できているようなことも全くない。
あたかも四書が五経の注釈書として編纂されたようにして、新約もまた旧約の応用書として作られたものであり、
五経と違って、旧約のほうは改善の余地もないほどに極悪非道の教義の塊でしかないものだから、それを多少いじる
ぐらいのつもりで捏造された新約の教義もまた、旧約に尾ひれをつけた程度のものとしかなり得なかったのだった。
最初の誤りは、新約ではなく旧約にある。旧約が五経ぐらいにマシな教学を湛えていたなら、そこに付け足される形で
作られた新約もまた、四書並みにマシな内容になっていただろう。五経の自学自習によって聖人君子へと大成した
孔子ほどまでは行かずとも、イエスもまたもうちょっとマシな人間ぐらいではいられたことだろう。人間の運命は
必ずしも環境によって決まるものではないにしろ、環境がある程度その運命を左右してしまうのも確かなことだ。
「男女の別有りて、而る後に夫婦義有り。夫婦義有りて、而る後に父子親有り。
父子親有りて、而る後に君臣正有り。故に曰く、昏礼は、礼の本なりと」
「男女の差別があって後に初めて、夫婦の関係に義が生ずる。夫婦の関係に義があって後に初めて、父子の関係に親しみ
が生ずる。父子の関係に親しみがあって初めて、君臣関係も正しくなる。故に結婚こそはあらゆる礼節の根本ともされる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・昏義第四十四より)
悪を為さず、罪を犯さない所にこそ「浩然の気」とか「常楽我浄」とかいった風に呼ばれもする
根本からの安楽があり、罪悪を積み重ねれば積み重ねるほどその安楽からは遠ざかる。
最悪、まるで全身に激痛の走る大やけどを負いながら生きさせられるほどにも、
心底からの精神的苦痛と共にしか生きられないようなザマにすら陥ってしまう。
だから悪人や罪人ほど、その表情や言行にも、どこか歪んだものが垣間見られもする。
浩然の気や浄楽我浄のような根本からの精神的安楽に与れている人間はといえば、
心持ちから仏像や菩薩像のような穏やかな表情でいられるもので、生きることに何の無理もない。
無理がないからと言って死に絶えるのでもなく、寿命や運命の限りにおいて命を保ちもする。
個体としての生死以上にも、善因楽果や悪因苦果の因果応報こそは普遍的なものであり、
命を失う前から悪業輪廻を脱するということも結構、できなくもないことである。
ただ、誰しもが悪因苦果を生前から抜け出した有余涅槃の境地にいるよう世の中というのも、
やはり稀有なことで、悪因苦果の苦しみを罪悪の積み重ねに付随する快楽の貪りで
紛らわそうとする悪循環に陥ってしまった悪人などが多少は生じてしまったりもするのが、
大規模な都市社会における常であるといえる。そこで、誰しもが抜業因種の常楽我浄
などには与れないうちから、道徳統治によってそのような人種を減らしていく措置が講じられる。
それが常々ここで私論なり引用なりを書いている儒学に基づく統治でもあり、儒学統治によって
誰しもが有余涅槃の常楽我浄に与れるとまでは決して言えず、せいぜい徳治を心がける為政者
の中に、孟子のような浩然の気を自覚する人間が多少生ずる程度のことが期待できるだけである。
誰しもの有余涅槃すらをも実現しようとした仏教という教学自体、すでに野心的なものだった。
人間は欲望や悪念に流れてしまいやすい生き物で、それ故の悪因苦果への陥りもむしろ常態的なもの。
そこに出家修行までをも導入しての悪業輪廻からの解脱を促そうとしたのは、相当に野心的な思いが
あったからで、故に「仏教ぐらいは誰でも帰依してて当然」なんてことまでが言えるわけでもない。
根本からの安楽があり、罪悪を積み重ねれば積み重ねるほどその安楽からは遠ざかる。
最悪、まるで全身に激痛の走る大やけどを負いながら生きさせられるほどにも、
心底からの精神的苦痛と共にしか生きられないようなザマにすら陥ってしまう。
だから悪人や罪人ほど、その表情や言行にも、どこか歪んだものが垣間見られもする。
浩然の気や浄楽我浄のような根本からの精神的安楽に与れている人間はといえば、
心持ちから仏像や菩薩像のような穏やかな表情でいられるもので、生きることに何の無理もない。
無理がないからと言って死に絶えるのでもなく、寿命や運命の限りにおいて命を保ちもする。
個体としての生死以上にも、善因楽果や悪因苦果の因果応報こそは普遍的なものであり、
命を失う前から悪業輪廻を脱するということも結構、できなくもないことである。
ただ、誰しもが悪因苦果を生前から抜け出した有余涅槃の境地にいるよう世の中というのも、
やはり稀有なことで、悪因苦果の苦しみを罪悪の積み重ねに付随する快楽の貪りで
紛らわそうとする悪循環に陥ってしまった悪人などが多少は生じてしまったりもするのが、
大規模な都市社会における常であるといえる。そこで、誰しもが抜業因種の常楽我浄
などには与れないうちから、道徳統治によってそのような人種を減らしていく措置が講じられる。
それが常々ここで私論なり引用なりを書いている儒学に基づく統治でもあり、儒学統治によって
誰しもが有余涅槃の常楽我浄に与れるとまでは決して言えず、せいぜい徳治を心がける為政者
の中に、孟子のような浩然の気を自覚する人間が多少生ずる程度のことが期待できるだけである。
誰しもの有余涅槃すらをも実現しようとした仏教という教学自体、すでに野心的なものだった。
人間は欲望や悪念に流れてしまいやすい生き物で、それ故の悪因苦果への陥りもむしろ常態的なもの。
そこに出家修行までをも導入しての悪業輪廻からの解脱を促そうとしたのは、相当に野心的な思いが
あったからで、故に「仏教ぐらいは誰でも帰依してて当然」なんてことまでが言えるわけでもない。
あたかも大火事を大水で消し止めたり、大水を湛えた消火栓を常備しておいたりするようにして
仏教もまた嗜まれるものであり、最低限の火消しに務める儒学などと比べれば、その受容が相当に
おおがかりなものともなる。正式な権力機構でもない寺などに布施や寄進をしたりすることからして
自然ではないことであり、それよりは年貢や税金を納めることのほうがごく当たり前なことだともいえる。
あたかも、悪因苦果をカルト信仰によって増長させることと同じぐらいに、信教の形式によって
悪因苦果を断滅しようとした、仏教もまた極度に人口的な代物であり、そこは無宗教的な考え方が
浸透している現代人などからすれば異質に思われても仕方のない部分だといえる。ただ、その異質な
ほどもの人工性が断悪修善にかけて専らである点は、悪逆非道にかけて専らであったりするよりも
確実にマシなことであるといえ、そこはカルト宗教などと同等に扱ってはならない部分だといえる。
人の心理面からの断悪修善や悪逆非道を促すことで、実際に国家社会レベルでの慶福や災禍を
もたらし得るのが宗教というものであり、「宗教なんか何の価値も無い」というのは誤った認識である。
ただ、宗教には正の価値がある場合と負の価値がある場合があって、悪因苦果こそを増長する
カルト宗教などが有害無益極まりないものであることもまた間違いないので、宗教だからといって
何でも手放しに容認していてもいいなんてこともないのもまた、間違いのないことなのである。
「人小罪有りて眚に非ず、乃ち惟れを終えて自ら不典を作し、
式て爾じをせば、厥の罪小なること有るとも、乃ち殺さざる可からず」
「人が過失でない罪を犯して、なおのこと不法を為す意欲が旺盛であるようならば、たとえ軽罪と
いえども処刑しないわけにはいかない。(罪そのもの以上にも、罪を犯して已まぬ心の不埒さを罰する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・康誥より)
仏教もまた嗜まれるものであり、最低限の火消しに務める儒学などと比べれば、その受容が相当に
おおがかりなものともなる。正式な権力機構でもない寺などに布施や寄進をしたりすることからして
自然ではないことであり、それよりは年貢や税金を納めることのほうがごく当たり前なことだともいえる。
あたかも、悪因苦果をカルト信仰によって増長させることと同じぐらいに、信教の形式によって
悪因苦果を断滅しようとした、仏教もまた極度に人口的な代物であり、そこは無宗教的な考え方が
浸透している現代人などからすれば異質に思われても仕方のない部分だといえる。ただ、その異質な
ほどもの人工性が断悪修善にかけて専らである点は、悪逆非道にかけて専らであったりするよりも
確実にマシなことであるといえ、そこはカルト宗教などと同等に扱ってはならない部分だといえる。
人の心理面からの断悪修善や悪逆非道を促すことで、実際に国家社会レベルでの慶福や災禍を
もたらし得るのが宗教というものであり、「宗教なんか何の価値も無い」というのは誤った認識である。
ただ、宗教には正の価値がある場合と負の価値がある場合があって、悪因苦果こそを増長する
カルト宗教などが有害無益極まりないものであることもまた間違いないので、宗教だからといって
何でも手放しに容認していてもいいなんてこともないのもまた、間違いのないことなのである。
「人小罪有りて眚に非ず、乃ち惟れを終えて自ら不典を作し、
式て爾じをせば、厥の罪小なること有るとも、乃ち殺さざる可からず」
「人が過失でない罪を犯して、なおのこと不法を為す意欲が旺盛であるようならば、たとえ軽罪と
いえども処刑しないわけにはいかない。(罪そのもの以上にも、罪を犯して已まぬ心の不埒さを罰する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・康誥より)
罪を罪と見定めることができず、まるで息をするようにして罪を犯すように
なってしまった人間ほど不幸なものも他にない。そこに浩然の気や常楽我浄がない
のはもちろんのこと、知らず知らずの内からの多大なる精神的苦痛をわずらい続ける。
潜在的な苦痛からなる自暴自棄によって、まるで当たり前のことのように悪念を抱き、
自分がそのようなものだから、誰しもが悪念の塊であるかのように思い込み、以って、
世の中全体を悪にまみれた暗黒の世であるかのようにも勝手に思い込むようになる。
すると、もはや自分並みに不幸であるのが世人のデフォルトであるかのようにすら考える
ようになり、自分自身が特定して不幸者であることに気づく余地すらをも取り去ってしまう。
この当たりに、致命的な道理の見失いがあり、地獄餓鬼畜生の三悪趣に自らが堕する
機縁までもが生じてもいる。もはや仏の声も聞こえず、聞こえた所で何を言ってるのかも
分からない、それ程にも、自分自身の思考回路の歯車が不正な方向へと一律して回転するように
なってしまっているものだから、そこからの脱却ももはや不可能に等しいものとなってしまっている。
そこから立ち直っていくために、長い長い道のりを必要とすることは、もう何度も書いた。
そこに多大なる試練が待ち受けていることも、最悪の場合こそを想定しつつ書いてきた。
ただそれは、思考の歯車が不正な方向へと最高速度で回転し続けているうちから始まるものではない。
不正な方向への歯車の回転が止まるとまで行かずとも、減速し始めるぐらいのことがあってから
始まるものであり、もうそれぐらいの所にいる人間は聖書圏の内にも多いだろうが、
未だ最高速度での不正回転を続けている人間もまた、やはり多いはずである。
なってしまった人間ほど不幸なものも他にない。そこに浩然の気や常楽我浄がない
のはもちろんのこと、知らず知らずの内からの多大なる精神的苦痛をわずらい続ける。
潜在的な苦痛からなる自暴自棄によって、まるで当たり前のことのように悪念を抱き、
自分がそのようなものだから、誰しもが悪念の塊であるかのように思い込み、以って、
世の中全体を悪にまみれた暗黒の世であるかのようにも勝手に思い込むようになる。
すると、もはや自分並みに不幸であるのが世人のデフォルトであるかのようにすら考える
ようになり、自分自身が特定して不幸者であることに気づく余地すらをも取り去ってしまう。
この当たりに、致命的な道理の見失いがあり、地獄餓鬼畜生の三悪趣に自らが堕する
機縁までもが生じてもいる。もはや仏の声も聞こえず、聞こえた所で何を言ってるのかも
分からない、それ程にも、自分自身の思考回路の歯車が不正な方向へと一律して回転するように
なってしまっているものだから、そこからの脱却ももはや不可能に等しいものとなってしまっている。
そこから立ち直っていくために、長い長い道のりを必要とすることは、もう何度も書いた。
そこに多大なる試練が待ち受けていることも、最悪の場合こそを想定しつつ書いてきた。
ただそれは、思考の歯車が不正な方向へと最高速度で回転し続けているうちから始まるものではない。
不正な方向への歯車の回転が止まるとまで行かずとも、減速し始めるぐらいのことがあってから
始まるものであり、もうそれぐらいの所にいる人間は聖書圏の内にも多いだろうが、
未だ最高速度での不正回転を続けている人間もまた、やはり多いはずである。
多少そういった、未だ救いの見込みも立たないような人間のいる内から、社会規模での改悛を始めて
いったとしても、決して見切り発車などということにはならない。キリスト教支配下にあるような
世の中だけでなく、儒学統治下にある世の中であったって、多少の奇邪が蔓延る可能性があることは
>>19の礼記からの引用などからも知れたことである。せいぜい、最悪級のカルト犯罪が権力機構から
完全に払拭されるなどすらすれば、世の中全体での改悛を始めていく下地としては十分であり、場末で
怪力乱神への妄想を膨らませるものがあるぐらいのことは、まだあっても仕方のないことだといえる。
漢代初期の郊祀対象にも、冤罪の神(族纍)を祭るなどということがあったようで、
多少はキリスト信仰にも似ていなくはない。後世、先祖への祭祀などは強化されていった一方で、
あまりにも奇異に過ぎるような怪神邪神への郊祀は徐々に撤廃されていったようで、文化の
有機性というものを貴ぶからには、多少奇異なものも寛容の対象としていくべきなのである。
それにしたって、聖書信仰はもはや根絶せざるを得ない。それは、聖書信仰があまりにも政治権力と
癒着しての悪逆非道に走りすぎたからで、ただ文化的に異様であるからというばかりのことではない。
ただ異様であるというだけなら、前漢で族纍が祭られたようにして、聖書の神ですら未だ祭られる
余地もあったわけだが、世俗権力を侵しすぎたがためにこそ、その権利ももはやなくなってしまった。
根絶の対象としていかざるを得ないが、未だ聖書信仰に基づく不正な思考の高速回転を減速させる
ことすらできないでいるものも未だ数多い、という現状で社会規模での改悛を始めていく。聖書信仰
自体は根絶の対象としていかざるを得ないにしろ、未だ聖書中毒に陥ったままでいてしまっている人々
をも決して無下には扱わず、きっといつかは立ち直れるものとして長い目で見てあげなければならない。
根絶はやはり不可避であるにしても、こちらで勝手に、そこに亡びの美学すら見出してやればいいのだ。
いったとしても、決して見切り発車などということにはならない。キリスト教支配下にあるような
世の中だけでなく、儒学統治下にある世の中であったって、多少の奇邪が蔓延る可能性があることは
>>19の礼記からの引用などからも知れたことである。せいぜい、最悪級のカルト犯罪が権力機構から
完全に払拭されるなどすらすれば、世の中全体での改悛を始めていく下地としては十分であり、場末で
怪力乱神への妄想を膨らませるものがあるぐらいのことは、まだあっても仕方のないことだといえる。
漢代初期の郊祀対象にも、冤罪の神(族纍)を祭るなどということがあったようで、
多少はキリスト信仰にも似ていなくはない。後世、先祖への祭祀などは強化されていった一方で、
あまりにも奇異に過ぎるような怪神邪神への郊祀は徐々に撤廃されていったようで、文化の
有機性というものを貴ぶからには、多少奇異なものも寛容の対象としていくべきなのである。
それにしたって、聖書信仰はもはや根絶せざるを得ない。それは、聖書信仰があまりにも政治権力と
癒着しての悪逆非道に走りすぎたからで、ただ文化的に異様であるからというばかりのことではない。
ただ異様であるというだけなら、前漢で族纍が祭られたようにして、聖書の神ですら未だ祭られる
余地もあったわけだが、世俗権力を侵しすぎたがためにこそ、その権利ももはやなくなってしまった。
根絶の対象としていかざるを得ないが、未だ聖書信仰に基づく不正な思考の高速回転を減速させる
ことすらできないでいるものも未だ数多い、という現状で社会規模での改悛を始めていく。聖書信仰
自体は根絶の対象としていかざるを得ないにしろ、未だ聖書中毒に陥ったままでいてしまっている人々
をも決して無下には扱わず、きっといつかは立ち直れるものとして長い目で見てあげなければならない。
根絶はやはり不可避であるにしても、こちらで勝手に、そこに亡びの美学すら見出してやればいいのだ。
「囚を要して多罪を殄戮し、亦た克く用て勧む。無辜を開釈して、亦た克く用て勧む」
「囚人の罪状をよく調べて、罪ある者は厳格に処刑したために、人々も善を勧めるようになった。
もちろん罪なき者は即座に放免もしたために、これまた人々が善を勧めるようにもなった。
(犯罪聖書には『誰も善を為せない』という類いの記述が多々見られるが、これも無罪放免の
重罪人が方々に蔓延ってしまっていたからでこそある。罪を犯しても無罪であるようなら
人々は勧善を滞らせ、冤罪者を平気で罰するようであっても、やはり勧善を渋るものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・多方より)
「囚人の罪状をよく調べて、罪ある者は厳格に処刑したために、人々も善を勧めるようになった。
もちろん罪なき者は即座に放免もしたために、これまた人々が善を勧めるようにもなった。
(犯罪聖書には『誰も善を為せない』という類いの記述が多々見られるが、これも無罪放免の
重罪人が方々に蔓延ってしまっていたからでこそある。罪を犯しても無罪であるようなら
人々は勧善を滞らせ、冤罪者を平気で罰するようであっても、やはり勧善を渋るものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・多方より)
この世には世襲であったほうがいい職業と、そうでない職業との両方がある。
世の中を営んでいく上で最も根幹的なものにあたる職業ほど世襲であったほうがよく、
あってもなくてもどちらでも構わないような瑣末な職業ほど世襲である必要がない。
世襲を基本とすべき職業であっても、倅が極度の出来損ないであったりした場合には
他人に業務を引き継がせるようにすべきこともある。堯や舜が自らの子息に帝業を
継がせなかったり、豊臣の天下を徳川が放伐したりしたことなどもその例だといえる。
というような例外もあった上で、やはり人間社会というのは、総体的には
世襲を基本としていくべきものだともいえる。それはこの「礼記」からの引用
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/133655801...
などを読んでみても窺えることで、社会的な活動が世襲に即することこそは、
日月星辰の運行にすら人間の営みを合致させる程にも、普遍的なものとなるのである。
世の中が総体的に、世襲に基づく社会運営を貴べなくなってしまっているようなら、
そのような世の中は必然的に乱世ともなっている。堯→舜→禹と禅譲が行われた頃の
中国も伝承上からして乱れていたとされているし、信長→秀吉→家康という天下取りの
継承によって戦国時代の争乱が収拾されたこともまた、未だ記憶に新しいところである。
ただ乱世に世襲などには構っていられなくなるだけでなく、世襲すら一旦は打ち棄てて
までの個々人の実力勝負によってこそ、乱世自体の決着が付けられたりもするのである。
世襲による事業の継承と、個人による実力の発揮とは、ちょうど陰と陽の関係にあり、
どちらが完全に欠けても世の中が成り立つようなことはない。総体社会における
世襲制の普遍性を諾う者といえども、個人としての実力の研鑽を怠ることまでをも
良しとしたりしてはならず、血筋上で恵まれた立場にあるか否かにかかわらず、
それぞれの領分に即した実力の研鑽に励んでいくべきであることには変わりない。
世の中を営んでいく上で最も根幹的なものにあたる職業ほど世襲であったほうがよく、
あってもなくてもどちらでも構わないような瑣末な職業ほど世襲である必要がない。
世襲を基本とすべき職業であっても、倅が極度の出来損ないであったりした場合には
他人に業務を引き継がせるようにすべきこともある。堯や舜が自らの子息に帝業を
継がせなかったり、豊臣の天下を徳川が放伐したりしたことなどもその例だといえる。
というような例外もあった上で、やはり人間社会というのは、総体的には
世襲を基本としていくべきものだともいえる。それはこの「礼記」からの引用
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/133655801...
などを読んでみても窺えることで、社会的な活動が世襲に即することこそは、
日月星辰の運行にすら人間の営みを合致させる程にも、普遍的なものとなるのである。
世の中が総体的に、世襲に基づく社会運営を貴べなくなってしまっているようなら、
そのような世の中は必然的に乱世ともなっている。堯→舜→禹と禅譲が行われた頃の
中国も伝承上からして乱れていたとされているし、信長→秀吉→家康という天下取りの
継承によって戦国時代の争乱が収拾されたこともまた、未だ記憶に新しいところである。
ただ乱世に世襲などには構っていられなくなるだけでなく、世襲すら一旦は打ち棄てて
までの個々人の実力勝負によってこそ、乱世自体の決着が付けられたりもするのである。
世襲による事業の継承と、個人による実力の発揮とは、ちょうど陰と陽の関係にあり、
どちらが完全に欠けても世の中が成り立つようなことはない。総体社会における
世襲制の普遍性を諾う者といえども、個人としての実力の研鑽を怠ることまでをも
良しとしたりしてはならず、血筋上で恵まれた立場にあるか否かにかかわらず、
それぞれの領分に即した実力の研鑽に励んでいくべきであることには変わりない。
世襲制の肯定の仕方としては、上記のようなあり方が理想で、世の中のあり方一般の
理想形としても申し分がない。世襲制も実力主義もあるべきだとした上で、若干だけ
世襲のほうが実力よりも優先されるべきだという程度に考えるのが最も正しい。両方
ありとしたところで、実力主義を極端に世襲よりも優先させようとしたりするのでは
いけないし、世襲を全否定して完全な実力主義でいたりするのもなおさら不可である。
このあたり、相当に高度な中正論でもあり、極端から極端に走るたわけ者には
なかなか理解し難い話であるにも違いない。要は、「世襲を完全否定してまでの
実力主義一辺倒に走ったりはするべきでない」と言っているわけだが、「じゃあ
実力主義全否定で世襲を全てにするんですか?」などと天邪鬼の極論主義者は返して
来たがるに違いない。そんなこと一言も言ってないのは、上を読んで理解すれば
分かる通りで、極論主義者だから読んでみたって意味が分からないというのなら、
もはやそちらが上知と交わらぬ下愚であると断ずる他ない。別にこちらが説明を
渋っているわけではなく、そちらがあまりにも愚かであるが故に、最善の説明すら
理解できないというまでのことなのだから、こちらが怨まれる筋合いもないというものだ。
「少くして父無き者を之れ孤と謂う。老いて子無き者を之れ独と謂う。老いて妻無き者を之れ矜と謂う。
老いて夫無き者を之れ寡と謂う。此の四者は、天民の窮して告ぐる無き者なり。皆な常餼有らしむ」
「年少でありながら親のない者を弧といい、老いて子のない者を独といい、老いて妻のない者を矜といい、
老いて夫のない者を寡という。この四者は天に仕える民の内では特に困窮して寄る辺もないものなので、
食糧などの支援を行う。(天民なら、老いて子がない運命にも素直に従って、王制による支援を受ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
理想形としても申し分がない。世襲制も実力主義もあるべきだとした上で、若干だけ
世襲のほうが実力よりも優先されるべきだという程度に考えるのが最も正しい。両方
ありとしたところで、実力主義を極端に世襲よりも優先させようとしたりするのでは
いけないし、世襲を全否定して完全な実力主義でいたりするのもなおさら不可である。
このあたり、相当に高度な中正論でもあり、極端から極端に走るたわけ者には
なかなか理解し難い話であるにも違いない。要は、「世襲を完全否定してまでの
実力主義一辺倒に走ったりはするべきでない」と言っているわけだが、「じゃあ
実力主義全否定で世襲を全てにするんですか?」などと天邪鬼の極論主義者は返して
来たがるに違いない。そんなこと一言も言ってないのは、上を読んで理解すれば
分かる通りで、極論主義者だから読んでみたって意味が分からないというのなら、
もはやそちらが上知と交わらぬ下愚であると断ずる他ない。別にこちらが説明を
渋っているわけではなく、そちらがあまりにも愚かであるが故に、最善の説明すら
理解できないというまでのことなのだから、こちらが怨まれる筋合いもないというものだ。
「少くして父無き者を之れ孤と謂う。老いて子無き者を之れ独と謂う。老いて妻無き者を之れ矜と謂う。
老いて夫無き者を之れ寡と謂う。此の四者は、天民の窮して告ぐる無き者なり。皆な常餼有らしむ」
「年少でありながら親のない者を弧といい、老いて子のない者を独といい、老いて妻のない者を矜といい、
老いて夫のない者を寡という。この四者は天に仕える民の内では特に困窮して寄る辺もないものなので、
食糧などの支援を行う。(天民なら、老いて子がない運命にも素直に従って、王制による支援を受ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
何でもかんでも人の言うこと為すことの反対を行こうとするのは「天邪鬼」で、
そんなんじゃ社会生活もままならないから、ほとんどの人間が子供の内に
天邪鬼ばかりでいることは卒業して、大人へと成長していく。
ただ、大人になっても人の言うことを素直には聞かないぐらいのことは当然あって、
普通それは「頑固」と呼ばれ、行き過ぎると「頑迷」と呼ばれ、共感を得られる範囲だと
「反骨」と呼ばれたりする。世の中に反骨が受け入れられる場合もあるのは、実際に
反骨者の言い分のほうがどう聞いてみても筋が通っているぐらいに、世の中の側の常識や
風潮のほうが総出で歪んでしまっていたりすることがあるからで、ちょうどこの「反骨」
という言葉も、ある種の形而上的な革命論に即して提唱された言葉ともなっている。
歪んだ世の中で、自分が正論に即しようとするから反骨にもなり得るのであって、世の中
のほうが正しいのにもかかわらず、自分が間違いに拘泥して反抗的であったりするのなら、
これはただの反社会主義者である。そのような人間が生じてしまうのを未然に防ぐのが
正規教育の使命でもあり、天邪鬼が至当な反骨に結び付くこともあるのを考えてみるなら、
天邪鬼一般以上にも、上記のような反社会主義こそが優先的に矯正されるべきものだといえる。
それなりに正善さを保っている世の中であれば、過ちに拘泥しての反抗主義などを
未然に防ぎ止めていこうとする自浄作用が働くものだが、世の中が総出を挙げて
濁悪にまみれきってしまっているようならばそうも行かず、世人が世人であるにも
関わらず、適当な理由で世の中に反目することを競い合うようなザマにすら陥ってしまう。
イエスが生存していた頃のイスラエルやローマ帝国もそのような極度の濁世だったから、
イエスの他にもヨハネのようなカルト教義を触れ回るならず者が併存していたのである。
そんなんじゃ社会生活もままならないから、ほとんどの人間が子供の内に
天邪鬼ばかりでいることは卒業して、大人へと成長していく。
ただ、大人になっても人の言うことを素直には聞かないぐらいのことは当然あって、
普通それは「頑固」と呼ばれ、行き過ぎると「頑迷」と呼ばれ、共感を得られる範囲だと
「反骨」と呼ばれたりする。世の中に反骨が受け入れられる場合もあるのは、実際に
反骨者の言い分のほうがどう聞いてみても筋が通っているぐらいに、世の中の側の常識や
風潮のほうが総出で歪んでしまっていたりすることがあるからで、ちょうどこの「反骨」
という言葉も、ある種の形而上的な革命論に即して提唱された言葉ともなっている。
歪んだ世の中で、自分が正論に即しようとするから反骨にもなり得るのであって、世の中
のほうが正しいのにもかかわらず、自分が間違いに拘泥して反抗的であったりするのなら、
これはただの反社会主義者である。そのような人間が生じてしまうのを未然に防ぐのが
正規教育の使命でもあり、天邪鬼が至当な反骨に結び付くこともあるのを考えてみるなら、
天邪鬼一般以上にも、上記のような反社会主義こそが優先的に矯正されるべきものだといえる。
それなりに正善さを保っている世の中であれば、過ちに拘泥しての反抗主義などを
未然に防ぎ止めていこうとする自浄作用が働くものだが、世の中が総出を挙げて
濁悪にまみれきってしまっているようならばそうも行かず、世人が世人であるにも
関わらず、適当な理由で世の中に反目することを競い合うようなザマにすら陥ってしまう。
イエスが生存していた頃のイスラエルやローマ帝国もそのような極度の濁世だったから、
イエスの他にもヨハネのようなカルト教義を触れ回るならず者が併存していたのである。
孔子や孟子が活動していた春秋戦国時代の中国も相当な濁世で、権力者がお互いに
私利私欲のための覇権ばかりを競い合っていたのみならず、その権力者に追従しての
邪説異学を捏造する名家や縦横家、法家などの異端の思想家が数多跋扈してもいた。
そんな中で、古来からの正統な礼学を継承し復興しようとしていた、孔孟に
代表される古代の儒者は、当時の世相からいえば反骨者の部類だったとも言え、
そこにもやはり、ある種の天邪鬼的な要素が備わっていたのだとも推測できる。
孔子も、再三述べている通り、母子家庭育ちの妾腹の私生児という不遇に生まれているし、
孟子も、母親の賢母としての逸話は残っているのに、父親の経歴はほとんど不詳といった
いびつな家系に生まれ育っている。そのような複雑な境遇が本人たちに儒者としての大成を
志させた可能性がなくもないと言えるが、その選択は決して間違ったものではなかったから、
天邪鬼志向も反骨者としての体裁に止まり、大学者としての立場を揺ぎ無くさせられもした。
そういった好例もあるからには、「天邪鬼そのものを全否定すればいいというものでもない、
天邪鬼すら反骨として善用できる場合があるのだから、天邪鬼が度し難い反社会主義に
発展してしまう場合に限って駆逐の対象にすべきだ」ということが結論付けられもする。
天邪鬼の全否定に基づく、反骨志向までものひとしなみな駆逐が、市井での横議すら許さぬ
恐怖政治にすら発展しかねないものだから、この当たりのさじ加減は慎重でなければならない。
「鄙夫は与に君に事う可けんや。其れ未だ之れを得ざるや、之れを得んことを患え、既に之れ
を得れば、之れを失わんことを患える。苟くも之れを失わんことを患えば、至らざる所無し」
「つまらない性根の人間とは共に主君にお仕えすることもできない。何かまだ得られない
ものがあればどうやってそれを得ようかと腐心し、一旦ものを得れば今度はそれを失わない
ことにばかりを腐心する。得たものを失わないことにばかり腐心するあまり、なりふりすら
構わなくなるのだから。(利害得失第一な者は君子たるには値しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一五より)
私利私欲のための覇権ばかりを競い合っていたのみならず、その権力者に追従しての
邪説異学を捏造する名家や縦横家、法家などの異端の思想家が数多跋扈してもいた。
そんな中で、古来からの正統な礼学を継承し復興しようとしていた、孔孟に
代表される古代の儒者は、当時の世相からいえば反骨者の部類だったとも言え、
そこにもやはり、ある種の天邪鬼的な要素が備わっていたのだとも推測できる。
孔子も、再三述べている通り、母子家庭育ちの妾腹の私生児という不遇に生まれているし、
孟子も、母親の賢母としての逸話は残っているのに、父親の経歴はほとんど不詳といった
いびつな家系に生まれ育っている。そのような複雑な境遇が本人たちに儒者としての大成を
志させた可能性がなくもないと言えるが、その選択は決して間違ったものではなかったから、
天邪鬼志向も反骨者としての体裁に止まり、大学者としての立場を揺ぎ無くさせられもした。
そういった好例もあるからには、「天邪鬼そのものを全否定すればいいというものでもない、
天邪鬼すら反骨として善用できる場合があるのだから、天邪鬼が度し難い反社会主義に
発展してしまう場合に限って駆逐の対象にすべきだ」ということが結論付けられもする。
天邪鬼の全否定に基づく、反骨志向までものひとしなみな駆逐が、市井での横議すら許さぬ
恐怖政治にすら発展しかねないものだから、この当たりのさじ加減は慎重でなければならない。
「鄙夫は与に君に事う可けんや。其れ未だ之れを得ざるや、之れを得んことを患え、既に之れ
を得れば、之れを失わんことを患える。苟くも之れを失わんことを患えば、至らざる所無し」
「つまらない性根の人間とは共に主君にお仕えすることもできない。何かまだ得られない
ものがあればどうやってそれを得ようかと腐心し、一旦ものを得れば今度はそれを失わない
ことにばかりを腐心する。得たものを失わないことにばかり腐心するあまり、なりふりすら
構わなくなるのだから。(利害得失第一な者は君子たるには値しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一五より)
「其の相い侵奪する者有れば、之れを罪して赦さず」
「お互いの財物を侵奪し合っているような乱れた界隈があれば、それら全体を有罪と見なして赦さないようにする。
(お互いに許し合っているとしたところで、そのような界隈の存在自体が社会全体の風紀を乱すことになるから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第六より)
何でもかんでも自分たち同士でだけは許容しまくり、寛容や和解しまくりの
なあなあでやって来た、キリスト教圏だとか日本の財界だとか警察だとかいった
集団全体が、最終的に「世界で最も許されざる集団」とも化してしまった。
個人や小集団としての自由率と、全体社会における自分たち自身の責任履行率というのは反比例的な
関係にあり、両者の釣り合いを取っていくのが仁者である一方、個人や小集団としての自由を捨て去って
までの利他に励むのが真っ当な出家修行者である。この二つは決して敵対的な関係にはなく、かつての
日本社会における公家や武家と仏門のように、全く共存が可能なものとなっている。一方、この二つと
決定的な敵対関係にあるか、もしくはより劣位なものとして扱われざるを得ないものとして、社会的責任を
放棄してまでの身勝手な自由を求める個人や小集団といったものがあり、これを無制限に自分たちの内
でだけは許容し続けてきたのが欧米キリスト教圏であったり、今の日本の財界や警察界であったりする。
キリスト教圏や日本の腐敗権力とは逆に、個人の自由を徹底的な制限下に置いている社会として、
今の中国社会などがある。あくまで庶民が徹底的な制限下に置かれているだけで、制限する側に
回っている共産党員などは相当な好き勝手が許されているようでもあるから、決して中国の全部を
褒められたりしたもんではないが、公的責任を蔑ろにしてまでの個人の好き勝手を自分たちが無制限に
許容し続けてきた結果、世界中に飢餓や戦乱といった陰惨なしわ寄せを及ぼしてしまっている
資本主義社会などと比べれば、中国も世界に及ぼす悪影響を相当に抑えられたほうともなっている。
「お互いの財物を侵奪し合っているような乱れた界隈があれば、それら全体を有罪と見なして赦さないようにする。
(お互いに許し合っているとしたところで、そのような界隈の存在自体が社会全体の風紀を乱すことになるから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第六より)
何でもかんでも自分たち同士でだけは許容しまくり、寛容や和解しまくりの
なあなあでやって来た、キリスト教圏だとか日本の財界だとか警察だとかいった
集団全体が、最終的に「世界で最も許されざる集団」とも化してしまった。
個人や小集団としての自由率と、全体社会における自分たち自身の責任履行率というのは反比例的な
関係にあり、両者の釣り合いを取っていくのが仁者である一方、個人や小集団としての自由を捨て去って
までの利他に励むのが真っ当な出家修行者である。この二つは決して敵対的な関係にはなく、かつての
日本社会における公家や武家と仏門のように、全く共存が可能なものとなっている。一方、この二つと
決定的な敵対関係にあるか、もしくはより劣位なものとして扱われざるを得ないものとして、社会的責任を
放棄してまでの身勝手な自由を求める個人や小集団といったものがあり、これを無制限に自分たちの内
でだけは許容し続けてきたのが欧米キリスト教圏であったり、今の日本の財界や警察界であったりする。
キリスト教圏や日本の腐敗権力とは逆に、個人の自由を徹底的な制限下に置いている社会として、
今の中国社会などがある。あくまで庶民が徹底的な制限下に置かれているだけで、制限する側に
回っている共産党員などは相当な好き勝手が許されているようでもあるから、決して中国の全部を
褒められたりしたもんではないが、公的責任を蔑ろにしてまでの個人の好き勝手を自分たちが無制限に
許容し続けてきた結果、世界中に飢餓や戦乱といった陰惨なしわ寄せを及ぼしてしまっている
資本主義社会などと比べれば、中国も世界に及ぼす悪影響を相当に抑えられたほうともなっている。
結局のところ、どちらも両極端であることには変わりなく、キリスト教圏や日本の腐敗権力ほどにも
個人や小集団の身勝手を無制限に許容し続けるのも許されざることだし、逆に今の中国社会ほどにも個人の
自由が徹底的な制限下に置かれているのも由々しきことである。ちょうど両者はコインの裏表のようなもので、
個人や小集団の身勝手を無制限に許容するような派閥があればこそ、個人の自由を一律して徹底制限するような
派閥も呼応的に発生してしまっている。今の中国だけでなく、イスラム圏もその原初から、キリスト教圏の
身勝手さに反発する形で生じて来たものであり、一日五回の礼拝や執拗なほどもの女性差別、飲酒や豚食の
厳禁といったその規律の厳しさも、あくまでキリスト教やユダヤ教に反発して生じて来たものでこそある。
キリスト教圏級の個人や小集団の身勝手の許容とは一切無縁だった、かつての東洋社会の様相などを鑑みるに、
確かに個人や小集団の自由が無制限だったりはしなかった一方で、イスラム圏や今の中国ほどにも、個人の自由が
徹底して制限されていたようなこともない。漢代や唐代の中国だとか、江戸時代の日本だとかでも、個人利益の
収集を生業とする商業が徹底して統制されていたようなこともないし、性風俗の取り締りが極端に厳しかったり
したこともない、ただ、一部の有志が出家修行者としての浄行に励むことで、修己治人の強化版となる形で世相の
防腐にも一役買っていたりしたこともあり、ただ取り締まりが緩かったというばかりのことではないともいえる。
目指すべくはそのような、個人的自由と公共福祉の釣り合いが絶妙に取られている世の中でこそあり、
個人や小集団の自由ばかりを無制限に許容する世の中でもなければ、それらを徹底的に制限する世の中でもない。
自由と公益の釣り合いの取れた世の中の実現を画策していく人間にとって、無制限な自由の許容を求めるものと、
徹底的な自由の制限を強いるものと、いずれもが味方とはならない。そのような人間ばかりが多数群がって
しまっている現代社会において、即座に自分の味方となってくれるような人間もそう多くはないということを
わきまえた上で、なおのこと志しの実現を目指していかなければならないのだから、まさに前途多難だといえる。
個人や小集団の身勝手を無制限に許容し続けるのも許されざることだし、逆に今の中国社会ほどにも個人の
自由が徹底的な制限下に置かれているのも由々しきことである。ちょうど両者はコインの裏表のようなもので、
個人や小集団の身勝手を無制限に許容するような派閥があればこそ、個人の自由を一律して徹底制限するような
派閥も呼応的に発生してしまっている。今の中国だけでなく、イスラム圏もその原初から、キリスト教圏の
身勝手さに反発する形で生じて来たものであり、一日五回の礼拝や執拗なほどもの女性差別、飲酒や豚食の
厳禁といったその規律の厳しさも、あくまでキリスト教やユダヤ教に反発して生じて来たものでこそある。
キリスト教圏級の個人や小集団の身勝手の許容とは一切無縁だった、かつての東洋社会の様相などを鑑みるに、
確かに個人や小集団の自由が無制限だったりはしなかった一方で、イスラム圏や今の中国ほどにも、個人の自由が
徹底して制限されていたようなこともない。漢代や唐代の中国だとか、江戸時代の日本だとかでも、個人利益の
収集を生業とする商業が徹底して統制されていたようなこともないし、性風俗の取り締りが極端に厳しかったり
したこともない、ただ、一部の有志が出家修行者としての浄行に励むことで、修己治人の強化版となる形で世相の
防腐にも一役買っていたりしたこともあり、ただ取り締まりが緩かったというばかりのことではないともいえる。
目指すべくはそのような、個人的自由と公共福祉の釣り合いが絶妙に取られている世の中でこそあり、
個人や小集団の自由ばかりを無制限に許容する世の中でもなければ、それらを徹底的に制限する世の中でもない。
自由と公益の釣り合いの取れた世の中の実現を画策していく人間にとって、無制限な自由の許容を求めるものと、
徹底的な自由の制限を強いるものと、いずれもが味方とはならない。そのような人間ばかりが多数群がって
しまっている現代社会において、即座に自分の味方となってくれるような人間もそう多くはないということを
わきまえた上で、なおのこと志しの実現を目指していかなければならないのだから、まさに前途多難だといえる。
「曾子曰く、上其の道を失いて民散ずること久し。如し其の情を得ば、則ち哀矜して喜ぶこと勿かれ(既出)」
「曾子の言葉。『世の中の支配者までもが道理を見失って、民たちも気が緩むようになってからすでに久しい。
もし犯罪の実情をつかんだりした時には、ただ哀れむばかりで、決して喜んだりしてはならない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一九より)
上の曾子の言葉など、個人犯罪の責任をお上に転嫁したものにすらなっていて、今の世の中などでは
決して聞き入れられるようなものじゃない。いやなことを「世の中のせい」にすることほど不毛なことも
他にないとされ、何もかもを本人自身の責任とするのが潔いこととして無制限に推奨されている現代。それは、
お上が完全に世の中の統治責任を放棄しているがための、プロパガンダすらをもかませられているが故の世論
なのでもあり、本来は上記ほどにも、被支配者の責任すら支配者が負うようであってしかるべきなのである。
被支配者たる庶民が、為政者と自分たちの関係を「親と子」の関係のように捉えて、まるで親に保護された
子供のようでいるようなことがあったって、別に構わないのである。確かにそれ以上にも、為政者などあってなき
もののように民たちが思っていられながら、それなりに世相も治められているような無為自然の統治がより優良なもの
であるには違いないが、お上から下民に至るまで誰しもが勝手気ままのやりたい放題でいるせいで、世の中が破滅に
見舞われるぐらいなら、まだ責任あるお上が民たちを子供のような保護下に置く統治のほうがマシであるといえる。
無為自然のうちから民たちを善導する無為自然の統治は、まだまだ今の世の中で実現していくのも難しいものだ。
それほどにも官民上下の分け隔てない放辟邪侈が蔓延してしまっている世の中だから、一時の強権支配すらかませない
ことには世相を十分に穏健化させることもできそうにない。ただ、そんなものは当然すぐに取り払われるべきで、
その後に官民が親子のような関係となる作為的統治が敷かれ、それに基づく民度の底上げに連動して、徐々に
無為自然の統治へと移行していくというのが、乱世を治世へと反正する手順としてはごく無難な定石になるといえる。
「曾子の言葉。『世の中の支配者までもが道理を見失って、民たちも気が緩むようになってからすでに久しい。
もし犯罪の実情をつかんだりした時には、ただ哀れむばかりで、決して喜んだりしてはならない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一九より)
上の曾子の言葉など、個人犯罪の責任をお上に転嫁したものにすらなっていて、今の世の中などでは
決して聞き入れられるようなものじゃない。いやなことを「世の中のせい」にすることほど不毛なことも
他にないとされ、何もかもを本人自身の責任とするのが潔いこととして無制限に推奨されている現代。それは、
お上が完全に世の中の統治責任を放棄しているがための、プロパガンダすらをもかませられているが故の世論
なのでもあり、本来は上記ほどにも、被支配者の責任すら支配者が負うようであってしかるべきなのである。
被支配者たる庶民が、為政者と自分たちの関係を「親と子」の関係のように捉えて、まるで親に保護された
子供のようでいるようなことがあったって、別に構わないのである。確かにそれ以上にも、為政者などあってなき
もののように民たちが思っていられながら、それなりに世相も治められているような無為自然の統治がより優良なもの
であるには違いないが、お上から下民に至るまで誰しもが勝手気ままのやりたい放題でいるせいで、世の中が破滅に
見舞われるぐらいなら、まだ責任あるお上が民たちを子供のような保護下に置く統治のほうがマシであるといえる。
無為自然のうちから民たちを善導する無為自然の統治は、まだまだ今の世の中で実現していくのも難しいものだ。
それほどにも官民上下の分け隔てない放辟邪侈が蔓延してしまっている世の中だから、一時の強権支配すらかませない
ことには世相を十分に穏健化させることもできそうにない。ただ、そんなものは当然すぐに取り払われるべきで、
その後に官民が親子のような関係となる作為的統治が敷かれ、それに基づく民度の底上げに連動して、徐々に
無為自然の統治へと移行していくというのが、乱世を治世へと反正する手順としてはごく無難な定石になるといえる。
良くも悪しくも、今という時代は官民が親子のような関係として受け止められているような時代じゃない。官なんて
民の使いっパシリぐらいにしか思われていない今という時代に、さも自分をみなしごか迷える子羊のように考える
者がいたとして、さらにそのような人間が架空の邪神などへの帰依にこそ親子に比肩する関係を認めたりしたとする。
そしたらそれが、官民こそを親子の関係に比肩させようとする撥乱反正の試みを妨げる大きな障壁ともなってしまう。
官民を親子のような関係にして行くこと自体、過渡的な措置ではあるが、それすらをも不能と化してしまっているが
故に、後々に講じられる無為自然の善導統治への移行すらもがまったく滞ったままにさせられてしまうのである。
親子関係というのは、世俗の内側の家庭関係である。それに比肩させられる崇敬対象となる神仏としては、
第一に先祖の祖霊があり、その他では主君の先祖などが挙げられる。そうでもないような神仏一般というのは、
あくまで超俗の帰依対象とすべきもので、それらを決して親子の関係などに比肩させたりすべきではない。
どこの馬の骨とも知れないような不審な神と、自分との関係を親子関係に見立てたりされたのでは、
官民上下の関係を親子に見立てることを妨害することにすらなってしまうためよろしくない。だからこそ、
基本としては超俗的な神仏を祭る宗教のみが、応用的な宗教としても公認されてしかるべきなのである。
「学は及ばざるが如くするも、猶お之れをを失わんことを恐る」
「学問は(昔の聖賢や優れた先生先輩などに)なかなか追いつくこともできないぐらいの心持ちでいながら、
なおかつ今までに学んで来たことを失ってしまわないかと恐れるぐらいの慎重な心持ちで為すべきである。
(安易に他者にあやかってそれで終わりみたいな邪義を触れ回られては、正学にとっての迷惑ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一七より)
民の使いっパシリぐらいにしか思われていない今という時代に、さも自分をみなしごか迷える子羊のように考える
者がいたとして、さらにそのような人間が架空の邪神などへの帰依にこそ親子に比肩する関係を認めたりしたとする。
そしたらそれが、官民こそを親子の関係に比肩させようとする撥乱反正の試みを妨げる大きな障壁ともなってしまう。
官民を親子のような関係にして行くこと自体、過渡的な措置ではあるが、それすらをも不能と化してしまっているが
故に、後々に講じられる無為自然の善導統治への移行すらもがまったく滞ったままにさせられてしまうのである。
親子関係というのは、世俗の内側の家庭関係である。それに比肩させられる崇敬対象となる神仏としては、
第一に先祖の祖霊があり、その他では主君の先祖などが挙げられる。そうでもないような神仏一般というのは、
あくまで超俗の帰依対象とすべきもので、それらを決して親子の関係などに比肩させたりすべきではない。
どこの馬の骨とも知れないような不審な神と、自分との関係を親子関係に見立てたりされたのでは、
官民上下の関係を親子に見立てることを妨害することにすらなってしまうためよろしくない。だからこそ、
基本としては超俗的な神仏を祭る宗教のみが、応用的な宗教としても公認されてしかるべきなのである。
「学は及ばざるが如くするも、猶お之れをを失わんことを恐る」
「学問は(昔の聖賢や優れた先生先輩などに)なかなか追いつくこともできないぐらいの心持ちでいながら、
なおかつ今までに学んで来たことを失ってしまわないかと恐れるぐらいの慎重な心持ちで為すべきである。
(安易に他者にあやかってそれで終わりみたいな邪義を触れ回られては、正学にとっての迷惑ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一七より)
極刑級の大罪を犯しておきながらまんまと逃げおおせているような人間こそは、まさに
「死んでいるも同然の人間」であるといえる。捕まって処分されようがされるまいが
善を為す生の楽しみ>死の無苦楽>悪を為す生の苦しみ
であり、あまりにも大悪を為しすぎたがために一生善楽に与る見込みも立たなく
なってしまっている人間ともなれば、さっさと死んで「己れの生存という悪業」
を絶つに越したこともないことにすらなってしまっているのである。
では、悪を為すわけでもなければ善を為すわけでもない無為の状態にある人間は
どうなのかって、別に無為だからといって死並みに無苦楽であるとも限らないのである。
世の中がどこもかしこも罪悪にまみれて、「行動即犯罪」という程にも作為に罪業が
必ず伴ってしまっているのであれば、自分が無為であることそれ自体が善行にすらなる。
だから、何もしないでいるだけで善を為す楽しみにも与れたりする。一方で、世の中の乱れが
相応に抑制されて、善を為すことだってそれなりに出来なくもないようになってから未だ
何も為さないでいるともなれば、今度は無為であることそれ自体が悪行にもなってしまう。
故に、何もしないでいることに後ろめたさなどからなる苦しみが付きまとうようにもなる。
何をしていようが何もしていまいが、人間は生きている以上は生きている。
何もしないでいることすらもが世の中との関係によって善行扱いとなったり、
悪行扱いとなったりもする。ただ生きているというだけですでに多少の活動であり、
それを死と同等のものなどと考えるのも、大雑把に過ぎることだといえる。
「死んでいるも同然の人間」であるといえる。捕まって処分されようがされるまいが
善を為す生の楽しみ>死の無苦楽>悪を為す生の苦しみ
であり、あまりにも大悪を為しすぎたがために一生善楽に与る見込みも立たなく
なってしまっている人間ともなれば、さっさと死んで「己れの生存という悪業」
を絶つに越したこともないことにすらなってしまっているのである。
では、悪を為すわけでもなければ善を為すわけでもない無為の状態にある人間は
どうなのかって、別に無為だからといって死並みに無苦楽であるとも限らないのである。
世の中がどこもかしこも罪悪にまみれて、「行動即犯罪」という程にも作為に罪業が
必ず伴ってしまっているのであれば、自分が無為であることそれ自体が善行にすらなる。
だから、何もしないでいるだけで善を為す楽しみにも与れたりする。一方で、世の中の乱れが
相応に抑制されて、善を為すことだってそれなりに出来なくもないようになってから未だ
何も為さないでいるともなれば、今度は無為であることそれ自体が悪行にもなってしまう。
故に、何もしないでいることに後ろめたさなどからなる苦しみが付きまとうようにもなる。
何をしていようが何もしていまいが、人間は生きている以上は生きている。
何もしないでいることすらもが世の中との関係によって善行扱いとなったり、
悪行扱いとなったりもする。ただ生きているというだけですでに多少の活動であり、
それを死と同等のものなどと考えるのも、大雑把に過ぎることだといえる。
西洋と違って、東洋では人文学的な考察にすら数理的な体系を盛り込む。数学で0が
一つの数字として見なされるのと全く同じようにして、無為すらをも一つの活動として捉える。
それに基づいて無為自然を尊ぶ道家思想や、不動を至尊のものとする仏教が提唱されたのでもある。
無為を尊ぶ道家や出家隠遁を決め込む小乗仏教だけでなく、世俗での善行を旨とする儒家や
大乗仏教においても、無為を一つの人間のあり方として尊重する大前提がやはり備わっていて、
故に「悪いことをするぐらいなら何もしないでいる」ぐらいの分別は付くようにもなってる。
権力腐敗きわまって善行など全く覚束なくなっていた戦国時代の中国で、道家も無為自然を尊ぶ
ことを提唱していたし、仏教が興隆して文化的にも最盛期を迎えていた頃のインドにおいてこそ、
未だ積極的な善行に励もうともしない上座部に反発して大乗仏教が興隆されたりもしたように、
そこでは無為そのものを「活きたもの」として、時宜に即して臨機応変に捉えていたことが窺える。
要は、人文学と数理学を融合させて常にものを考えてきたというぐらいのことなわけで、それすら
をも怠ってきたような界隈が存在していることのほうが、むしろ間抜けに過ぎていたのだといえる。
「于嗟、闊れるに、我と活きず。于嗟、洵かれる、我と信ぜず」
「ああ、かつては固く誓い合ったのに、もはや共に生きることもできない。
ああ、もはや遠ざかってしまった、もはや信じることもできない。
(『信』という作為に生きた心地を得るということがある。それは必ずしも悪いことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・撃鼓より)
一つの数字として見なされるのと全く同じようにして、無為すらをも一つの活動として捉える。
それに基づいて無為自然を尊ぶ道家思想や、不動を至尊のものとする仏教が提唱されたのでもある。
無為を尊ぶ道家や出家隠遁を決め込む小乗仏教だけでなく、世俗での善行を旨とする儒家や
大乗仏教においても、無為を一つの人間のあり方として尊重する大前提がやはり備わっていて、
故に「悪いことをするぐらいなら何もしないでいる」ぐらいの分別は付くようにもなってる。
権力腐敗きわまって善行など全く覚束なくなっていた戦国時代の中国で、道家も無為自然を尊ぶ
ことを提唱していたし、仏教が興隆して文化的にも最盛期を迎えていた頃のインドにおいてこそ、
未だ積極的な善行に励もうともしない上座部に反発して大乗仏教が興隆されたりもしたように、
そこでは無為そのものを「活きたもの」として、時宜に即して臨機応変に捉えていたことが窺える。
要は、人文学と数理学を融合させて常にものを考えてきたというぐらいのことなわけで、それすら
をも怠ってきたような界隈が存在していることのほうが、むしろ間抜けに過ぎていたのだといえる。
「于嗟、闊れるに、我と活きず。于嗟、洵かれる、我と信ぜず」
「ああ、かつては固く誓い合ったのに、もはや共に生きることもできない。
ああ、もはや遠ざかってしまった、もはや信じることもできない。
(『信』という作為に生きた心地を得るということがある。それは必ずしも悪いことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・撃鼓より)
「君子にして不仁なる者有らんか。未だ小人にして仁なる者あらざるなり(既出)」
「君子であっても不仁な者はいるが、小人でいながら仁者たり得た者はいない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
未だ自分が仁ならざる小人や君子だろうとも、仁を目指すぐらいのことはできる。
ただ当然、仁を目指すぐらいであるのなら、自分が未だ小人止まりであるのを恥じたり、
未だ仁ならざる君子止まりでしかないことに憤ったりするものである。決して自分が不仁者止まりで
あることに安んじきったりはせず、いかにして不仁者としての自己を超克していくかを企て続けて行く。
もちろん、そんなことを一切目指さないというのも、一つのあり方である。
戦国時代のような寸分の徳行も為し得ない時代に、未だ孟子のような徒労同然の仁政の試みを続けるよりは、
もはや荘子や列子のような放り投げを決め込んでの自重に務めておくのも一つの手だと言える。
ただ、この場合には自分自身が何らかの社会的優遇を受けたりするようなことも全く欲したりはせず、
腐敗まみれな権力機構との関わりなども一切絶って、権力犯罪者たちの自滅をもただ静観するばかり。
儒家などにも特有の権力への野望に対して批判的であるからには、それぐらいの潔さでもいるのである。
上記二つのあり方ならいいわけだが、自分が小人でありながら富貴栄達を目指すとなれば、
それこそ眉をひそめざるを得ないような試みと見なす他なくなる。近来の民主主義社会ではそればかりが
礼賛や推進の対象となって来たわけだが、その結果は「人類滅亡寸前」という現状を見ての通りである。
「君子であっても不仁な者はいるが、小人でいながら仁者たり得た者はいない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・七より)
未だ自分が仁ならざる小人や君子だろうとも、仁を目指すぐらいのことはできる。
ただ当然、仁を目指すぐらいであるのなら、自分が未だ小人止まりであるのを恥じたり、
未だ仁ならざる君子止まりでしかないことに憤ったりするものである。決して自分が不仁者止まりで
あることに安んじきったりはせず、いかにして不仁者としての自己を超克していくかを企て続けて行く。
もちろん、そんなことを一切目指さないというのも、一つのあり方である。
戦国時代のような寸分の徳行も為し得ない時代に、未だ孟子のような徒労同然の仁政の試みを続けるよりは、
もはや荘子や列子のような放り投げを決め込んでの自重に務めておくのも一つの手だと言える。
ただ、この場合には自分自身が何らかの社会的優遇を受けたりするようなことも全く欲したりはせず、
腐敗まみれな権力機構との関わりなども一切絶って、権力犯罪者たちの自滅をもただ静観するばかり。
儒家などにも特有の権力への野望に対して批判的であるからには、それぐらいの潔さでもいるのである。
上記二つのあり方ならいいわけだが、自分が小人でありながら富貴栄達を目指すとなれば、
それこそ眉をひそめざるを得ないような試みと見なす他なくなる。近来の民主主義社会ではそればかりが
礼賛や推進の対象となって来たわけだが、その結果は「人類滅亡寸前」という現状を見ての通りである。
最低最悪の選択肢に対する代案というのは、ほぼ必ず二つ以上は挙げられるものだ。最低最悪
よりも多少マシである代案と、そのマシよりもさらに向上的である代案との二つ、あるいはそれ以外。
実物の代替として儒家や道家や仏教などの理念を掲げてみたりもするが、どれを抽出する場合にも、
「こうであればまだマシ」「こうであればもっといい」というような評価と共に提示されていくもの。
ただ一つの代替だけを提示してくれたほうが分かりやすいということもあるかもしれないが、
極端から極端に走る性向を持ち越したままでは、また最低最悪に落ち込む危険性も高いままだから、
代替を一点ばかりに絞ることもあまりしようとはしないのである。最低最悪を抜け出した先に
あるものがまた一極的であったりはせず、多様的であることにこそ慣れていくべきなのだから。
孔子や釈迦が、東洋思想宗教史上でも至尊の聖賢だったことは間違いないが、さりとて孔子が
歴史上に唯一無二の儒者であるわけでもなければ、釈迦が唯一無二の仏者であるわけでもない。
その功績が天地万物に恒久普遍の道理や真理の把捉であればこそ、その後光に与っての後続の
儒者や仏者として大成したものが、孟子や朱子や竜樹や空海のようにいくらでもいるわけで、
アブラハム教などに特有の「唯一絶対」という志向はそこでは通用しないのである。思想哲学や
宗教の内から「英雄たちの群雄割拠」とでもいったような様相を呈しているのが、最低最悪から
一段も二段も上った先にある領域なわけだから、それを解せるだけの男らしさもまた必要になるのである。
「邦君の妻、君之れを称して夫人と曰う。夫人自ら称して小童と曰う」
「国君の妻は、主君が呼ぶ場合には『夫人』という。夫人本人は自称で『こわっぱ』という。
(夫人の謙りとしては『こわっぱ』という自称もありである。大丈夫の謙り方ではないが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一四より)
よりも多少マシである代案と、そのマシよりもさらに向上的である代案との二つ、あるいはそれ以外。
実物の代替として儒家や道家や仏教などの理念を掲げてみたりもするが、どれを抽出する場合にも、
「こうであればまだマシ」「こうであればもっといい」というような評価と共に提示されていくもの。
ただ一つの代替だけを提示してくれたほうが分かりやすいということもあるかもしれないが、
極端から極端に走る性向を持ち越したままでは、また最低最悪に落ち込む危険性も高いままだから、
代替を一点ばかりに絞ることもあまりしようとはしないのである。最低最悪を抜け出した先に
あるものがまた一極的であったりはせず、多様的であることにこそ慣れていくべきなのだから。
孔子や釈迦が、東洋思想宗教史上でも至尊の聖賢だったことは間違いないが、さりとて孔子が
歴史上に唯一無二の儒者であるわけでもなければ、釈迦が唯一無二の仏者であるわけでもない。
その功績が天地万物に恒久普遍の道理や真理の把捉であればこそ、その後光に与っての後続の
儒者や仏者として大成したものが、孟子や朱子や竜樹や空海のようにいくらでもいるわけで、
アブラハム教などに特有の「唯一絶対」という志向はそこでは通用しないのである。思想哲学や
宗教の内から「英雄たちの群雄割拠」とでもいったような様相を呈しているのが、最低最悪から
一段も二段も上った先にある領域なわけだから、それを解せるだけの男らしさもまた必要になるのである。
「邦君の妻、君之れを称して夫人と曰う。夫人自ら称して小童と曰う」
「国君の妻は、主君が呼ぶ場合には『夫人』という。夫人本人は自称で『こわっぱ』という。
(夫人の謙りとしては『こわっぱ』という自称もありである。大丈夫の謙り方ではないが)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・一四より)
詭弁や概念に人間の社会規範を司らせることも、仏説上の方便などとしてであれば害に
なるとも限らない。諸行無常や諸法実相や因果応報といった原則上の絶対真理に即して
提唱される方便であれば、悪人正機並みに詭弁的なものであろうとも、確かな回向となる。
上記のような仏法上の絶対真理であるとか、人間道徳とかに決定的に反したりしない限りでの
詭弁なら方便や冗談の域に止まるけれども、そこを逸脱した詭弁になると、途端に甚大な害悪を帯びる。
そしてそのような逸脱的な詭弁の流布すらをも承認するのが「宗教」という枠組みでもあるから、仏教なども
宗教の内ではあるにしろ、宗教という枠組みをもうこれ以上無制限に容認してやってていようなこともない。
「宗教」とか「思想」とか「哲学」とか、教学一般を指す言葉の下に何もかもを容認することからして
「雑家」という異端思想に基づくのであり、今ではそれが「自由主義」の名の下に奨励されてもいる。
雑家の著名人としては、秦帝国の宰相であり始皇帝の実父でもあった呂不韋がいるが、その呂不韋の
学術姿勢たるや、儒家といわず道家といわず法家といわず名家といわず墨家といわず、当時の代表的な学派を
適当に寄せ集めてごちゃ混ぜにしたというばかりのもので、その集大成の書とされる「呂覧(呂氏春秋)」も、
歴史資料としての価値は多少あったところで、思想哲学書としての価値には全く乏しいものとなっている。
日本仏教の宗派としては雑家的な側面の色濃い天台宗も、その創始の頃から真言密教には一目置かされて、
平安末期ごろからの僧団腐敗も著しいものとなり、総本山である比叡山を下りての独立的な布教に務めた
法然や親鸞や栄西や道元といった名僧こそは、浄土門や禅門などの専門流派を興隆させもしたのだった。
雑家は雑家で一つの学派ないし教派であり、そこに学者や宗教家のあり方の全てを還元するようでは、
かえって学問や信教全体がのっぺりとした味気のないものと化してしまう。学術であれば、宗教ですら
あれば即座に保護するというような姿勢で以って、みそもくそも一緒くたに教学全体を奨励した挙句に、
数多の宗教嫌いや学者嫌いを発生させての、教学文化全体の衰退を招いてしまうことともなる。
なるとも限らない。諸行無常や諸法実相や因果応報といった原則上の絶対真理に即して
提唱される方便であれば、悪人正機並みに詭弁的なものであろうとも、確かな回向となる。
上記のような仏法上の絶対真理であるとか、人間道徳とかに決定的に反したりしない限りでの
詭弁なら方便や冗談の域に止まるけれども、そこを逸脱した詭弁になると、途端に甚大な害悪を帯びる。
そしてそのような逸脱的な詭弁の流布すらをも承認するのが「宗教」という枠組みでもあるから、仏教なども
宗教の内ではあるにしろ、宗教という枠組みをもうこれ以上無制限に容認してやってていようなこともない。
「宗教」とか「思想」とか「哲学」とか、教学一般を指す言葉の下に何もかもを容認することからして
「雑家」という異端思想に基づくのであり、今ではそれが「自由主義」の名の下に奨励されてもいる。
雑家の著名人としては、秦帝国の宰相であり始皇帝の実父でもあった呂不韋がいるが、その呂不韋の
学術姿勢たるや、儒家といわず道家といわず法家といわず名家といわず墨家といわず、当時の代表的な学派を
適当に寄せ集めてごちゃ混ぜにしたというばかりのもので、その集大成の書とされる「呂覧(呂氏春秋)」も、
歴史資料としての価値は多少あったところで、思想哲学書としての価値には全く乏しいものとなっている。
日本仏教の宗派としては雑家的な側面の色濃い天台宗も、その創始の頃から真言密教には一目置かされて、
平安末期ごろからの僧団腐敗も著しいものとなり、総本山である比叡山を下りての独立的な布教に務めた
法然や親鸞や栄西や道元といった名僧こそは、浄土門や禅門などの専門流派を興隆させもしたのだった。
雑家は雑家で一つの学派ないし教派であり、そこに学者や宗教家のあり方の全てを還元するようでは、
かえって学問や信教全体がのっぺりとした味気のないものと化してしまう。学術であれば、宗教ですら
あれば即座に保護するというような姿勢で以って、みそもくそも一緒くたに教学全体を奨励した挙句に、
数多の宗教嫌いや学者嫌いを発生させての、教学文化全体の衰退を招いてしまうことともなる。
この世界、この宇宙の物事というのは、一元的よりは二元的であるもののほうがほとんどである。
太陽が地上に熱エネルギーをもたらすと共に、月が斥力によって波浪を起こすなどすることで、
地球の生態系も初めて成立している。人間も男と女に性が分かれているのが健全な状態で、
両性具有や性的不具こそは奇形ともなっている。にもかかわらず学問や信教に限って、それそのものが
一元的なものとしてこそ尊ばれたり、その内部破損が無制限に容認されたりすることのほうが
異常なのであり、その内側においてある種の差別が生じたりするほうがかえって自然なのである。
要は、学問や宗教のうちでも、特に正統なものが尊ばれて異端なものが賤しまれるといった程度の
篩い分けがあってしかるべきだということで、学問全般、宗教全般を無制限に奨励する雑家的なあり方を
もう少し控えていくようにすべきだというわけだけども、そのためには、「自由主義」もまた「雑家の美化」
でしかないという認識をもう少し広めていくようにしなければならない。「学問の自由、信教の自由が
閉ざされる」といえば後退的に聞こえるけども、「雑家の独り勝ちが控えられる」といえばむしろ前進的に
聞こえるわけで、そう捉えることで、後退志向までもが深刻化するようなことがないようにすべきなのだ。
「昊天の孔だ昭らけきに、我れ生を楽しむ靡し。爾を視るに夢夢たれば、我が心は惨惨たる」
「晴れ渡る空の下でも、私は少しも生きてることが楽しくない。主上の心が晴れやらぬようなら、
我が心も惨め極まりないものでしかない。(自分が死ぬからではなく、主君を喜ばせられないからこそ、
生きてることが全く楽しくないほどに惨め。この自己中を排した性根からの高潔さを見習うべきだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・抑より)
太陽が地上に熱エネルギーをもたらすと共に、月が斥力によって波浪を起こすなどすることで、
地球の生態系も初めて成立している。人間も男と女に性が分かれているのが健全な状態で、
両性具有や性的不具こそは奇形ともなっている。にもかかわらず学問や信教に限って、それそのものが
一元的なものとしてこそ尊ばれたり、その内部破損が無制限に容認されたりすることのほうが
異常なのであり、その内側においてある種の差別が生じたりするほうがかえって自然なのである。
要は、学問や宗教のうちでも、特に正統なものが尊ばれて異端なものが賤しまれるといった程度の
篩い分けがあってしかるべきだということで、学問全般、宗教全般を無制限に奨励する雑家的なあり方を
もう少し控えていくようにすべきだというわけだけども、そのためには、「自由主義」もまた「雑家の美化」
でしかないという認識をもう少し広めていくようにしなければならない。「学問の自由、信教の自由が
閉ざされる」といえば後退的に聞こえるけども、「雑家の独り勝ちが控えられる」といえばむしろ前進的に
聞こえるわけで、そう捉えることで、後退志向までもが深刻化するようなことがないようにすべきなのだ。
「昊天の孔だ昭らけきに、我れ生を楽しむ靡し。爾を視るに夢夢たれば、我が心は惨惨たる」
「晴れ渡る空の下でも、私は少しも生きてることが楽しくない。主上の心が晴れやらぬようなら、
我が心も惨め極まりないものでしかない。(自分が死ぬからではなく、主君を喜ばせられないからこそ、
生きてることが全く楽しくないほどに惨め。この自己中を排した性根からの高潔さを見習うべきだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・抑より)
己れの悪行からなる自業自得の悪因苦果は、まず本人自身の内面からの苦しみとして結実する。
その苦しみを解消していくために必要となるのが死刑を含む懲罰なわけだから、たとえ
世界中を権力犯罪まみれにして、犯罪者に対する十分な処罰が行き届かなくなるような
状態を拵えてみた所で、それで「悪因苦果」という因果応報が全く揺らぐわけでもない。
それでは、悪因苦果の苦しみを麻薬中毒なりカルト洗脳なりの陶酔によって紛らわしてみれば
どうかといって、それにより自分自身の身体や身辺や世の中の側の破綻を招くことになるわけで、
内面からの苦しみを紛らわそうとしたぶんだけ、それが外面からの破綻による苦しみと
なって蓄積されるという、因果応報の保存律が完全に確立されたままであり続ける。
大乗小乗にかかわらず、仏教は唯心主義であり、まず心が如何にあるかを問題とするけれども、
それは心が川の源流であるのに対し、モノが末流であるような関係に両者があるからで、心すら
しっかりと修め抜いたなら、それによって全てのモノすらもが統御されることをも見越しているからだ。
その慧眼が実際に真実にも即しているから、悪因苦果の苦しみも適切な処罰を介さない限りにおいて、
心の内面から外的な物質に至るまでの全ての領域において、必ず保存されたままであり続けるのである。
————
仏教や道家の提示するものは、体裁上からして「真理」だった。
「これが真理です」として提示したものを、信仰対象や定立対象とする門派であった。
ただ、その手法が科学的分析に即しておらず、どこまでも直観的なものでしかなかったから、
科学至上主義の裏側で肥大化してしまっている極度の懐疑主義に基づいて、現代人などには仏教や道家が
真理として提示するものも「過渡的な真理」か何かのようにすら思い込まれるようになってしまっている。
しかし、真理はどこまでいっても真理である。仏者や仙人による最原初の把捉方法が直観的なもので
しかなかったにしろ、真理であるものは真理だったのであり、真理ゆえに抗うこともできないのだ。
その苦しみを解消していくために必要となるのが死刑を含む懲罰なわけだから、たとえ
世界中を権力犯罪まみれにして、犯罪者に対する十分な処罰が行き届かなくなるような
状態を拵えてみた所で、それで「悪因苦果」という因果応報が全く揺らぐわけでもない。
それでは、悪因苦果の苦しみを麻薬中毒なりカルト洗脳なりの陶酔によって紛らわしてみれば
どうかといって、それにより自分自身の身体や身辺や世の中の側の破綻を招くことになるわけで、
内面からの苦しみを紛らわそうとしたぶんだけ、それが外面からの破綻による苦しみと
なって蓄積されるという、因果応報の保存律が完全に確立されたままであり続ける。
大乗小乗にかかわらず、仏教は唯心主義であり、まず心が如何にあるかを問題とするけれども、
それは心が川の源流であるのに対し、モノが末流であるような関係に両者があるからで、心すら
しっかりと修め抜いたなら、それによって全てのモノすらもが統御されることをも見越しているからだ。
その慧眼が実際に真実にも即しているから、悪因苦果の苦しみも適切な処罰を介さない限りにおいて、
心の内面から外的な物質に至るまでの全ての領域において、必ず保存されたままであり続けるのである。
————
仏教や道家の提示するものは、体裁上からして「真理」だった。
「これが真理です」として提示したものを、信仰対象や定立対象とする門派であった。
ただ、その手法が科学的分析に即しておらず、どこまでも直観的なものでしかなかったから、
科学至上主義の裏側で肥大化してしまっている極度の懐疑主義に基づいて、現代人などには仏教や道家が
真理として提示するものも「過渡的な真理」か何かのようにすら思い込まれるようになってしまっている。
しかし、真理はどこまでいっても真理である。仏者や仙人による最原初の把捉方法が直観的なもので
しかなかったにしろ、真理であるものは真理だったのであり、真理ゆえに抗うこともできないのだ。
重大なのは、本当に真理か道理か、はたまた無理であるのかということで、その捉え方や
流布の仕方が分析的か直観的かなどということではない。扱い方が直観的であっても真理は真理だし、
道理も道理であり、直観的であればこその汎用性も加味されて、分析的に取り扱う場合以上もの
有用性すらをも帯びていたりする。易学などもその典型例であり、決してその論及姿勢が科学的に
厳密だったりすることはないが、だからこそ権力道徳の実践などにも即座に応用できるようになっている。
科学的、分析的な手法にも存在意義があるとするなら、それは、自分たちの手法が非科学的であるに
ことかけて、真理や道理に違う誤謬を、あたかも真理や道理であるかのごとく触れ回る邪教邪学の虚偽を
厳密に暴き尽くすことだといえる。それにより、探求姿勢は直観的だったのであっても、本物の真理や道理を
取り扱っていた教学の信用性をも取り戻させることである。それは結局、科学的手法の現時点における大家でも
ある西洋社会が、自分たちの文化的源流である聖書信仰の虚偽性を暴き尽くすことに尽きるわけで、それにより、
自分たちの危害によってくそみそに信用性を貶められてしまった仏教や道家や儒家のごとき優良教学の権威をも
元通りに復元するのである。つまり、自分たちのもたらした迷惑を自分たちで回収するというまでのことだ。
「罪、死にも容れられず」
「罪が刑死によって寛容することすらできない程にも極大化してしまっている。
(『万死に値する』という、一身の生死をも超えた罪の受け止め方。東洋にはあるが西洋にはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一四より)
流布の仕方が分析的か直観的かなどということではない。扱い方が直観的であっても真理は真理だし、
道理も道理であり、直観的であればこその汎用性も加味されて、分析的に取り扱う場合以上もの
有用性すらをも帯びていたりする。易学などもその典型例であり、決してその論及姿勢が科学的に
厳密だったりすることはないが、だからこそ権力道徳の実践などにも即座に応用できるようになっている。
科学的、分析的な手法にも存在意義があるとするなら、それは、自分たちの手法が非科学的であるに
ことかけて、真理や道理に違う誤謬を、あたかも真理や道理であるかのごとく触れ回る邪教邪学の虚偽を
厳密に暴き尽くすことだといえる。それにより、探求姿勢は直観的だったのであっても、本物の真理や道理を
取り扱っていた教学の信用性をも取り戻させることである。それは結局、科学的手法の現時点における大家でも
ある西洋社会が、自分たちの文化的源流である聖書信仰の虚偽性を暴き尽くすことに尽きるわけで、それにより、
自分たちの危害によってくそみそに信用性を貶められてしまった仏教や道家や儒家のごとき優良教学の権威をも
元通りに復元するのである。つまり、自分たちのもたらした迷惑を自分たちで回収するというまでのことだ。
「罪、死にも容れられず」
「罪が刑死によって寛容することすらできない程にも極大化してしまっている。
(『万死に値する』という、一身の生死をも超えた罪の受け止め方。東洋にはあるが西洋にはない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一四より)
「小人は壯を用い、君子は罔を用う。貞なれどもあやうし。羝羊藩に触れて其の角を羸しましむ(この一文既出)。
〜貞しければ吉にして悔い亡ぶ。藩決けて羸しまず。大輿の輹も壯なり。藩決けて羸しまざるは、往くを尚べばなり」
「小人は君子が避けるような猪突猛進を好む。そのような状態では目的が正しくても危うい。あたかも牡羊が垣根に
自らの角を引っ掛けて苦しむようなザマに陥る。しかし、あくまで目的が正しいようであればそれも吉祥なことなので、
悔いの残らないような結果に至る。まるで作りの立派な走り出すように進撃する。それもよいことなので、牡羊を苦しめ
ていた垣根も取り払われる。(親鸞聖人も一時易学に傾倒していたようだが、ここから悪人正機説をも編み出したのだろう。
異生羝羊心級の蒙昧な猪突猛進さも、一向専修念仏などに転用することでの善果への結実が可能となる。一方で、
一向一揆への制裁で本願寺が江戸幕府に冷遇されたことなども、九三の『最初は苦しまされる』という記述に一致
している。大きな苦難の後に道が開けるということも実際になくはないことで、それは正当な目的と共にこそ実現される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・大壯・九三‐九四、象伝より)
〜貞しければ吉にして悔い亡ぶ。藩決けて羸しまず。大輿の輹も壯なり。藩決けて羸しまざるは、往くを尚べばなり」
「小人は君子が避けるような猪突猛進を好む。そのような状態では目的が正しくても危うい。あたかも牡羊が垣根に
自らの角を引っ掛けて苦しむようなザマに陥る。しかし、あくまで目的が正しいようであればそれも吉祥なことなので、
悔いの残らないような結果に至る。まるで作りの立派な走り出すように進撃する。それもよいことなので、牡羊を苦しめ
ていた垣根も取り払われる。(親鸞聖人も一時易学に傾倒していたようだが、ここから悪人正機説をも編み出したのだろう。
異生羝羊心級の蒙昧な猪突猛進さも、一向専修念仏などに転用することでの善果への結実が可能となる。一方で、
一向一揆への制裁で本願寺が江戸幕府に冷遇されたことなども、九三の『最初は苦しまされる』という記述に一致
している。大きな苦難の後に道が開けるということも実際になくはないことで、それは正当な目的と共にこそ実現される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・大壯・九三‐九四、象伝より)
この世界この宇宙というのは、不条理とも思えるような一定の非可換性に司られている。
その非可換性に即して生きとし生けるものの全てがいつかは死に、それぞれの人間も男と女、
親と子、官と民といったような身分の違いを生じさせもする。それは確かに自由度の低い部分だが、
その自由度の低さすらないのなら、そもそもこの世界や人間のような高度な構築物からして成立し得ない。
関節の曲がる方向なども限られていればこそ、人間はアメーバやタコなどよりも遥かに高度な生物でもある。
アメーバ並みに原始的な生物であれば半永久的な生存すら不可能ではないが、同時に人間のような高度な知能や
意識を持ち得ることもない。寿命も80年程度、性別は男女に分かれ、大社会を築き上げる以上は官民の身分の
差別を設ける必要があったりする、その限定度こそが「万物の霊長」たる人間を成立させてもいるのである。
人間同士が形作る世俗社会において善徳や罪悪が実在し、善徳を積み重ねるものは普遍的な安楽に与れる一方、
罪悪を積み重ねるものは普遍的な辛苦に見舞われるという罪福異熟の道理もまた、上記のような限定性の内である。
万億の人々が集い来たる都市社会において、万人を利して我が利ともする仁徳に根ざした行業に励むことが善徳と
なる一方で、多くの人々から富を収奪しての狭隘な栄華を誇ろうとすることが罪悪となり、それが善因楽果悪因苦果の
罪福異熟を不可避に招く。それはどこまでも一方的な因果応報となるばかりで、悪行に相応の苦しみに見舞われた
からといって、その後に見返りとしての楽果が期待できたりするわけもないのがその実例だといえる。
その非可換性に即して生きとし生けるものの全てがいつかは死に、それぞれの人間も男と女、
親と子、官と民といったような身分の違いを生じさせもする。それは確かに自由度の低い部分だが、
その自由度の低さすらないのなら、そもそもこの世界や人間のような高度な構築物からして成立し得ない。
関節の曲がる方向なども限られていればこそ、人間はアメーバやタコなどよりも遥かに高度な生物でもある。
アメーバ並みに原始的な生物であれば半永久的な生存すら不可能ではないが、同時に人間のような高度な知能や
意識を持ち得ることもない。寿命も80年程度、性別は男女に分かれ、大社会を築き上げる以上は官民の身分の
差別を設ける必要があったりする、その限定度こそが「万物の霊長」たる人間を成立させてもいるのである。
人間同士が形作る世俗社会において善徳や罪悪が実在し、善徳を積み重ねるものは普遍的な安楽に与れる一方、
罪悪を積み重ねるものは普遍的な辛苦に見舞われるという罪福異熟の道理もまた、上記のような限定性の内である。
万億の人々が集い来たる都市社会において、万人を利して我が利ともする仁徳に根ざした行業に励むことが善徳と
なる一方で、多くの人々から富を収奪しての狭隘な栄華を誇ろうとすることが罪悪となり、それが善因楽果悪因苦果の
罪福異熟を不可避に招く。それはどこまでも一方的な因果応報となるばかりで、悪行に相応の苦しみに見舞われた
からといって、その後に見返りとしての楽果が期待できたりするわけもないのがその実例だといえる。
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スレッドタイトル:聖書 Part9