まずは、形而上の超越神への依存を取り止めて、害心こそを堅固なものとすることを途絶する。
ここでまず極度の不安症になり、親からはぐれた幼子ほどもの悲痛にかられるはずである。
その悲痛を乗り越えて、外物ではなく自らの根本性に立ち返る修練を重ねる。道徳の勉強でも
座禅でも武道でもヨガでも、間違ったものですらなければ手段は何でもいいが、自らの性根に立ち返る
修練を通じて濁念を止め、常日ごろから性根に即した思考や言行が為せるような正心を得るのである。
害心を岩の如く固めたままで、正心を得るなんてことだけはあり得ないから、どちらかを捨てて
もう一方を取ることはやはり必須だ。弘法大師は「十住心論」で、「秘密荘厳心にまで至れた者は、
(異生羝羊心を含む)あらゆる住心を自由に行き来することができる」とも書かれているが、それも、
一ところの住心に止まらないでいる融通無碍さがあるからなのであり、害心まみれの異生羝羊心に
岩の如く凝り固まりきっているなどというのでは、そのような自由さが得られることもないのである。
「害心を完璧に捨て去れるほどに立派であれ」などとも、別に誰しもに強要したりするわけでもないが、
害心にこそ凝り固まって一切変じようがないなどという状態だけは、いい加減卒業すべきだといえる。
人が正心こそを堅固なものとすることが稀であるのと同じように、害心こそを
岩のように堅固とさせることもまた、決して健常なことなどではないのだから。
「泰山の巌巌たる、魯邦の鞢む所。亀と蒙とをも奄有し、遂に大東をも荒つ。
海邦に至りて、淮夷も来たりて同らぐ。率いて従わざるは莫し、魯侯の功なる」
「岩肌も隆々たる泰山を、魯国の人々も仰ぎ見る。亀山と蒙山をも配下に置き、東方の国々をも統べる。
海の向こうの淮の夷たちも来訪して和合す。大群を率いて従わない者もないほどの、魯候の大いなる功。
(社会的な大業を成すことで、自らが高名な岩山のようともなる。これは偉大さが岩のように堅固な例だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・魯頌・閟宮より)
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