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聖書 Part7


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001 2011/11/22(火) 17:27:53 ID:K4EjJDucuI
「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。

しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。

「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。

ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。

この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。

「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

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353 2012/05/01(火) 15:37:54 ID:t9iOwJqlPQ
自分自身、妾腹の子の血筋であることからなる、個人的な経験から分かったことだが、
妾腹の子の血を引く人間は、吃音(どもり)のような軽度の言語障害を患うか、
もしくは二枚舌三枚舌を使い分ける虚言癖を帯びるかの、どちらかに振り切れやすい。

郷党第十・一に「孔子、郷党に於いて恂恂如たり、言うこと能わざる者に似たり」
とあり、果たして「どもり」だったかどうかは知らないが、妾腹の私生児として生を受けた
孔子が、故郷ではあたかも言語障害者かというほどにも、異様にいそいそとしていたとされる。
これは、孔子が自らの生まれの賤しさを心から恥じていた証拠であり、その恥じらいを
バネにして孔子は礼楽を学び、人一倍言語表現などについても正確な知見を得るまでになった。
その正しい言語表現を世間では実用できていたから、よそよそしさを嫌う故郷でだけは
幼少期のように、どもりのような言語障害気味の言葉遣いでもいたと記録されているのである。

妾腹の子としての賤しさに対する恥じらいは、まずどもりのような言語障害として表出する。
その障害を乗り越えるために、孔子のように、礼法などを通じて正しい言葉遣い学べば、
常人並み以上にも立派な言葉遣いを身に付けた聖人君子にすらなり得る。しかし、障害を
乗り越えることを正しい術べによらず、全くの我流によって乗り越えようとしたならば、全く
筋の通らないことを放言したり、二枚舌三枚舌を使い分けたりする虚言癖をこじらせてしまう。

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354 2012/05/01(火) 15:38:07 ID:t9iOwJqlPQ
その代表格がイエス・キリストであり、「私は剣をもたらしに来た」と言ったり
「剣を取る者は剣で滅びる」と言ったりの、あられもない虚言癖を存分に披露している。
イエスだけでなく、その信徒たちも奴の虚言癖を受け継いで、「行いではなく信仰で救われる」
と言ったり「信仰ではなく行いで救われる」と言ったり、「イエスは律法の配下である」
と言ったり「イエスではなく律法によって救われようとすれば救われない」と言ったりする。
(上記の引用は全て「新約聖書」中に両論併記されている)まともな言葉遣いもできない境遇を、
正しい言葉遣いの勉強によって克服したりもせず、ただ放言をしまくる気狂いによって
ありのままに増幅させたのが、イエスの物言いや、その信徒たちの物言いであり、人として
最も許しがたく、また決して見習ったりしてはいけない言語規範の最たるものとなっている。

人間の言語能力は大体、父親ではなく母親から遺伝するから、その母親が娼婦のような賤しい仕事を
していたなら、母親の度し難い言葉遣いが我が子にも遺伝して、最悪の場合、言語障害を発症する。
とはいえ、器質性ではなく心因性の障害だから、克服しようと思えばできるし、克服するとまで行かずとも、
朗々とものを言う能力だけを回復させることもできる。孔子のように完璧に克服すれば、人並み以上にも
正しい言葉遣いを身に付けられたりもする一方、正しい言葉遣いではなく、ただ朗々とものを言う
能力だけをパッション(激情)によって増大すればイエスのようになり、完全に間違った言葉遣いのままで、
ただ朗々とものを言い続けるだけの、甚だしい虚言癖を帯びるようになる。そうなるぐらいならむしろ、
どもりのような言語障害を抱えたままでいるほうがマシであり、そのほうが世にかける迷惑も少なくて済む。

もちろん、正しい言葉遣いの勉強によって言語障害も克服できればよりよいわけで、ただそれは極めて
困難な道のりだから、甚だしい虚言癖の持ち主になるぐらいなら、どもりだったりするほうがマシだという
ことをまずわきまえることのほうが、世の中に最悪の迷惑をかけずに済ませる上での端緒にはなるといえる。

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355 2012/05/01(火) 15:43:28 ID:KTtYESW9Z.:au
「人の禽獣に異なる所以の者は幾ばくにして希し。庶民は之れを去る、君子は之れを存す」
「人と禽獣をより分ける由縁となるものは極めて少ない。庶民はこれを捨てるが、君子はそれを保つことに務める。
(犬のような言葉を話せない動物でも、食べ飽きて残しているエサを片付けようとすれば、急に飛びついて
そのエサを食べ始めたりといった、理に適わない行動を多数する。理に適った言動を守れることこそは、
人と禽獣を分ける由縁であるといえ、虚言癖の旺盛なイエスの言語規範などは決してその由縁とはならない。
かといって、悪徳商法の宗教教義化である、旧約の律法への帰依がその由縁になるなどということもない。
金という末節を至上として、人間自身や農工などを下等なものとして扱う悪徳商売もまた、破綻した所業だから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一九より)

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356 2012/05/02(水) 14:11:49 ID:BKpa2G7bPc
模範的な儒者の言行は、易の法則に適っているから、
この世界、この宇宙において最も自由自在である。

仏者などはさらに、三千大千世界に絶対普遍の真理に合致しようとするから、
自由度については儒者以上だとすらいえるが、結局その言行規範となる「中道」は、
儒者の規範たる「中庸」とも、「中正である」という点において共通することになる。

易に違い、三千大千世界の絶対真理に違う完全誤謬を希求していった先にあったのは、
人間が被る中でも最重度の不自由だった。「刑死しても生き返る」とか、
「冤罪で罪が滅ぼされる」とかいった、明らかに道理に適わない妄想までをも
実現しようとした先にこそ、あらゆる不自由の中でも、最大級の不自由があった。

人間の肘の関節や膝の関節、その他多くの関節部位が、一方向には曲がっても
逆方向には曲がらないような非可逆性を備えている。だからこそ人体は重力の
重みにも耐えて自由に立ったり座ったり、歩いたり走ったりすることもできる。

自由は、一定の制限がある中にこそ存在するものであり、どんなにおかしな誤謬でも
「なんでもあり」という所では、もはや自由を希求する意味すら霧消してしまう。

非可逆的な関節構造を多数備えた人体が、鍛錬などを通じて、以前には不可能だった
動きを実現できるようになったりする時に、本当に「自由が叶えられた」のだといえる。
それはやはり、肘や膝が逆方向に曲がったりはしない範囲での、高度な身体躁法の
達成に過ぎないわけだが、それでこそ、身体を自由に操ることができたのだともいえる。

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357 2012/05/02(水) 14:14:30 ID:BKpa2G7bPc
自由とは、一定の規定の範囲内で、最大の自由度を獲得することこそを意味する。
「人はいつかは死ぬ」とか、「死んだら二度と蘇らない」とかの最大級の規定すらも
逸脱することはもはや自由ですらない、ただの「暴挙」である。自由には規定があるが、
暴挙には規定がなく、規定がないために、何かを達成することもない。何を達成する
ということもないからこそ、暴挙はもはや自由として扱うに値すらしないのである。

英語のfreedomやlibertyに、上記のような語意が備わっているのかは知らないが、
(おそらく備わっていない)日本語や漢語で「自由」といえば、概ね上記のような意味がある。
そして上記のような意味の「自由」のほうが、暴挙と同様の意味で扱われる「自由」
などよりも遥かに快く、その自由を獲得したところにこそ、真の満足がありもする。
何を達成するわけでもない暴挙の先などには決してない、最大級の満足があるのである。

「君召して擯せ使むれば、色勃如たり、足躩如たり。与に立つ所に揖し、手を左右にす。
衣の前後は襜如たり。趨り進むとき翼如たり。賓退けば、必ず復命して曰く、賓顧ずと」
「国君が孔先生を召して来賓の介添役を命じたとき、先生はその顔色を正され、足もまるで
歩み進めないかのように緊張されていた。会釈の際には左右の手を礼節通り拱かれ、衣服の前後も
整然として乱れ動くことがなかった。小走りして進むときも慎重深く進み、来賓が退出すると、
必ず君に『賓客は(不満にかられて)顧みるようなこともなく退出されました』と報告された。
(孔子の不自由の限りを尽くしたような介添えによってこそ、来賓も満足したのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・三より)

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358 2012/05/03(木) 14:34:56 ID:YqMODdTOC6:au
人間社会を、ごく順当な安定へと導く一般的な道理を、ごくごく
ありのままに記録した書物として、権力道徳聖書——通称四書五経がある。
質でも量でも古さでも発行部数でも、全てにおいて権力犯罪聖書——
通称聖書を上回り、なおかつごく平凡な道理を記録しているだけの書物。

平凡なだけに、完璧な治世を約束するという所まではいかない。
数百年に一回程度の戦乱や、権力者のだらけからなる一定の腐敗なども必ずしも
避けられるものではなく、治世の範囲内における凶悪事件の勃発や、それを
成敗するための残虐な刑罰なども、四書五経だけなら避けられるものではない。

大化の改新から平安末期までの日本のような、死刑すらほとんど行われない
ほどもの治世を実現するためには、それはそれで創作的な理念であるといえる、
仏教への帰依なども嗜む必要がある。権力者から庶民に至るまでの万民が
仏門によく帰依し、莫大な布施によって豪壮な寺院を造営したりすることにまで
努めて初めて、死刑すら必要とされないほどもの、完璧な治世が実現することになる。

ただ、結局そこまで完璧な治世が実現されるというのも、世界人類の平均から言えば、
随分と特異なことだといえる。インドのように万年泰平状態の世の中もあれば、
西洋のように引っ切り無しの戦乱を続けてきた世の中もある。それら全てを総合した
平均としては、それなりに治世もあり、たまには戦乱もあるという程度の歴史を、
太古の昔から積み重ねてきたのが地球人類であるといえる。その、地球人類の平均的な
歴史を運営するための指針として最も適正なのが、四書五経などを正典とする儒学であり、
儒学と比べれば、万年乱世や人類滅亡をもたらす新旧約聖書はもちろんのこと、死刑
一つない万年泰平社会を実現する仏教もまた、それなりに造作的な代物であるといえる。

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359 2012/05/03(木) 14:38:12 ID:4zjnMMAemk
儒学と比べれば、仏教とか聖書教とかいった信教全般が創作的なものである。

キリスト教徒の狂信対象である新約聖書はもちろんのこと、ユダヤ教徒の狂信対象である
旧約聖書(律法含む)もまた、十分に創作的な代物であり、その創作者の意図する所は
「悪徳商法の宗教教義化」だったことが明らかである。そんなものを、何ら人類文化の
標準として扱うには値しないのであり、悪い意味での余計な創意工夫がすでにそこにある。

もちろん創意工夫が絶対にいけないなんてことはなく、仏教のように、完璧な泰平統治の
指針を教義として体系化していった信教もある。その把捉対象とする真理そのものは
不増不減であるにしろ、その真理の悟りからなる安楽を衆生に広めるための方便には
色々と巧みな創意工夫が凝らされている。それは決して全否定すべきものなどではない。

悪い創作は根本から根絶やしにして、善い創作はむしろ積極的に受容していくべきである。
キリスト教徒などにとっては創作物にすら値しないデフォルト文化とされる旧約からして
悪い創作物であることをわきまえて、新旧約全般の価値否定を推進すべきである一方、
仏教については、個々人の出家がほぼ全てである小乗仏教だけでなく、一般衆生の救済の
ための方便の創意工夫にも豊かな、大乗仏教までをも積極的に興隆していくべきである。

上記の指針は、あくまで「創作的な範囲」における指針であり、そもそも「述べて作らず、
信じて古を好む(述而第七・一)」という、創作以前の標準としての儒学などの教理の、
「人として当たり前なわきまえ」としての受容もまた、磐石化していくべきであるといえる。

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360 2012/05/03(木) 14:38:27 ID:4zjnMMAemk
「兔の爰爰たる有り、雉は罦に離る。我が生るるの初め、尚お造る無し。
我が生まるるの後、此れ百憂に逢う。尚くば寐ねて覚むる無からん」
「ウサギは悠々と飛び回り、キジは罠にかかって苦しんでいる。
(人それぞれの運命が極度に分かれている現状を暗に喩えている)
私がまだ生まれたばかりの頃には、これといった造作もない(泰平無事な)世の中だったが、
生まれ育って後には(不埒な造作が横行することにより)百千万の憂いに遭う世となった。
私ももう、永遠に眠り続けて覚めないままでいたいほどもの思いに駆られている。
(悪質な造作創作が、有害無益な憂いを多々世にもたらす。『だから作為全般を捨ててしまえ』
というのなら道家思想に一致するが、儒学や大乗仏教には悪い作為を捨てて善い作為を進める
方針が付随している。ただし、泰平実現のための創作は儒学よりもむしろ仏教のほうが豊富である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・兔爰より)

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361 2012/05/04(金) 12:31:29 ID:dy4WNDN5hE
天道と畜生道は、「資生」を主に取り扱っている領域であるため、確かに似通っている所がある。
人道や餓鬼道が「仕事の場」となるのに対し、天道や畜生道はその仕事によって培われた資生の貯蓄場である。
ただ、人道と比べれば餓鬼道が甚だしい貪欲さに駆られているのと同じようにして、畜生道もまた
天道では忌み嫌われるような、禽獣にも等しいほどの蒙昧な欲望にまみれている。

http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...で書いた、
「女の化粧」を喩えに引いた資生の取り扱い方が、天道と畜生道の相違にもそのまま当てはめられる。
畜生道の女は天道の女と違って、素顔の醜さに対する甚だしいコンプレックスがある。そのコンプレックスを
埋め合わせるために資生堂あたりの化粧を貪り尽くすが、だからといって素顔の醜さに対するコンプレックスが
消えたりすることはない。それとは逆に、天道の女には素顔への異常な劣等感などはないから、化粧をするにしたって
際限のないむさぼりの対象としたりはしない。このような相違が、天道と畜生道との間には全般的に備わっているといえる。

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362 2012/05/04(金) 12:31:40 ID:dy4WNDN5hE
「資生」という言葉は、「易経」坤卦・彖伝に出てくる言葉で、「坤卦こそは万物の資生の源泉である」と彖伝にもある。
ただ、あらゆる資生の源泉たる坤こそは従順を守るべきであるともされ、彖伝にも「天に対して従順たれ」とある。
天に対して従順である資生の貯蓄場こそは天界である一方、天に逆らう身勝手な資生の吹き溜まりが畜生界である。
天の働きとは、要するに易の法則のことであり、易の法則に順おうとする資生が天道に属する一方、
易の法則に反する資生が畜生道に属するのである。

易の根本法則を依拠している四書五経の記述に則ろうとすれば、それによって生じた資生は天道に属する一方、
易にも仏法にも反する完全誤謬の塊である犯罪聖書に則ろうとすれば、そりによって生じた資生が畜生道に拭き溜まる。
易の法則は「この世界」の法則であり、「この宇宙」の法則である一方、その法則を逸脱しようとしているのが
犯罪聖書であるため、資生がその従順さによって天道に属することを決定的に妨げるのである。

「暴君汚吏は、必ず其の経界を慢る」
「暴虐な王君や、貪欲さに汚れた官吏は、必ず境界を守ることを侮る。
(『汚吏』で『貪欲な官吏』を意味する。聖書信者の貪欲さには果てしがなく、まさに汚れの塊である。
その汚れようの原因は、この世界と形而上の境界すら侮る不埒さにあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)

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363 2012/05/05(土) 14:03:30 ID:xyWQ7dPy1k
欧米等の現聖書信者が、自分たちの信仰を全廃した上で、
聖書信仰の真の卑賤さと向き合っていくのは、これからの話である。
しかし、聖書信仰が本質的に何ら栄光とするに値しない恥辱沙汰の極みであるのは、
聖書信仰勃発時から常にそうであり続けてきたことである。今これから急に、聖書信仰が恥辱沙汰と
なるのではなく、最原初の頃からずっと本質的に恥辱沙汰であり続けてきたことを、今わきまえるのである。

決して、真の栄光などではないから、渇望が残るのである。
素顔にコンプレックスを抱く醜女ガ、化粧によって手に入れるような偽りの栄光だから、素顔の醜さへの
劣等感という本心の部分からなる渇望が絶えることがない。そしてその渇望こそは暗愚の至りであり、
そのような渇望を捨て去った先にこそ無量の栄光が生ずるのだとも、大乗仏典の「華厳経」などにもあるのである。

英語で「デフォルト(default、初期条件)」といえば、破産とか崩壊とかの悪い意味合いばかりを持つ。
それは、英語圏を含む聖書圏全体が、聖書信仰によって、初期条件が「駄目」である状態を強いられているからで、
それは地球人類という生物や、その産物としての人類文化全般にとっての初期条件などではない。のみならず、
人類文化の初期条件をありのままに記録している、四書五経の内容などとも真逆の条件ばかりを成しているのであり、
地球人類にとっての真の初期条件はむしろ、聖書信仰によってもたらされた乱脈を後付けでどんなに修復していく
場合以上にも優良なものですらある。聖書信仰が後付けで、人間社会に最低最悪の荒廃をもたらして、そこに
洋学知識などの副作用も過剰な対処療法ばかりによる修復を試みてきた聖書圏の徒労は、どんなに尽くされた所で、
始めから聖書信仰などを受容しないことを初期条件としている場合のマシさを超えられるようなものではない。

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364 2012/05/05(土) 14:05:03 ID:xyWQ7dPy1k
聖書信仰が、断じて「栄光」などではない一方で、
「究極の恥辱沙汰」であったことだけは、確かに間違いがない。

多少よくできたラノベほどにも正気を保てていない、狂人の、狂人による、狂人のための狂信書。
そんなものを2000年にもわたって信じ込み、実践も試み続けてきた聖書信者たちの恥辱たるや、
全員が全員、ヨゴレ芸人かAV女優並みか、あるいはそれ以上のものだとすらいえる。

恥辱まみれな元聖書信者の、名誉を貴ぶ儒学や武士道への転向はなかなか難しいだろうにしろ、忍辱行を貴ぶ仏教への転向
なら比較的容易かとも思われる。2000年に渡る自分たちの歴史を笑い飛ばして、坊主になって一からやり直すのもなかなか
難しいことだろうにしろ、決して不可能なことではないし、ある意味、未曾有の菩薩行にもなるといえるのかもしれない。

「今、天は疾を降せり。殆ど興きず悟らず」
「いま、天は大患を我れに降し、ほとんど起き上がることも、気を確かにしていることもままならない。
(『悟る』の本来の語意は『気を確かにする』である。聖書信仰によって精神の大病を患い、
極度の蒙昧状態に陥ることを『悟る』と言い換えるのは、間違った言葉遣いである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)

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365 2012/05/06(日) 14:49:18 ID:BlL4jYYFfs
絶対服従を強要する主人と家畜、主人と奴隷の関係性の中にこそ、筆舌に尽くしがたい「汚れ」がある。

特に、屠殺者と肉用獣の関係性にこそ穢れも極まることから、日本やインドでは屠畜業が歴史的に
忌み嫌われても来た。とはいえ、屠畜業が特定して嫌われているなんてのは皮相的なことで、あくまでそこに、
「絶対服従の挙句に殺される」という、精神的不衛生の極みが介していることこそが致命的なことだった。

人と家畜ではなく、人と人との間にもそのような、死すら避けられぬ絶対服従の関係性があり得る。
主人と奴隷の関係がその典型だが、王君と臣下のような、名誉的にすら扱われる人間関係においても、
臣下が主君の為に死をも厭わぬ務めに励むということがある。主人と奴隷の服従関係などと違って、
死をも厭わぬ君臣関係が名誉とされるのは、臣下があくまで自らの意志によって主君への忠誠を誓うからで、
生まれ付きの身分によって主人への絶対服従が科される奴隷や、未熟な内からの奉公に励まされる丁稚などには
始めから得る術もなかった、成熟した大人としての尊厳が守られているからこそ、そこに汚れもないのである。

臣下が自らの意志によって主君に臣従するという選択肢は、儒家と共に、隠遁志向の道家なども許容されていた
東洋社会などにおいてこそ容認されていたものだ。その東洋でも、たとえば始皇帝によって法家支配が敷かれた
秦代などには、労役が万民に対して義務化されていたから、臣下の自己選択による臣従の途なども閉ざされていた。
その、秦代に強制労働に駆り出された劉邦は、強制労働に嫌気が差して逃亡し、反乱軍となって項羽らと共に秦帝国を滅ぼし、
項羽をも破って漢帝国を築いて後には、自らの苦い思い出もあって、なるべく法律による締め付けを緩和した、無為自然の
統治を全国に施すように心がけた。皇后の呂后が高名な隠遁者を宮内に連れて来た時には感激して、思わず呂后の実子を
次期皇帝にすることを認可したともいうから、確かに劉邦には、道家の隠遁志向を貴ぶ心持ちもあったことが分かる。
そのような、度量の大きい主君が多数君臨していた社会であればこそ、不可避なる絶対服従関係の穢れなどを
決して持ち込まない、自由選択による君臣関係が多数実現され、それによる治世もまた実現されて来たのである。

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366 2012/05/06(日) 14:53:26 ID:BlL4jYYFfs
ひるがえって、聖書信仰が征服下に置いた西洋社会には、始めから自由選択の君臣関係などはなかった。
ほんのこの前まで奴隷制が健在だっただけでなく、聖書信仰が流布される遥か以前から、古代ローマ帝国に
代表される西洋社会は完全な法治主義であり、労役もどこまでも義務的なものであり、自由選択による君臣関係に
名誉が伴うなどという考え方もなかった。そこに、主なる神と信者との絶対服従関係を促す聖書信仰が提唱されて、
案の定、瞬く間に広まったわけで、最原初から今に至るまで一貫して、西洋社会においては、不可避なる
絶対服従関係の汚れを忌み嫌う慣習はおろか、それを穢れとして扱う神経すら存在していたことがない。

仮に、これからも西洋人が、そのような逃れようのない絶対服従関係を許容していくのだとしても、
屠畜級の絶対服従に紛れもない汚れを見出す人々に対してまで、それを強要することなどは、完全に不能である。
ただ、自分たち西洋人だけが、生まれ付きから絶対服従の奴隷的人種として、決してそうではない数多の人々の
絶対的な服従下に置かれることだけが許されることで、自分たち以外にそんな関係性を強要することは全く許されない。
もちろん、西洋人もまた屠畜級の絶対服従の穢れを思い知って、自分たちの内からもそのような下劣な関係性を駆逐して
いくというのならそれでも構わないわけで、そうなった西洋人を、他人種が対等に扱っていくこともまた、吝かではない。

「子曰く、麻冕は礼なり、今や純なるは倹なり。吾れは衆に従わん。
下に拝するは礼なり、今の上に拝むは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん」
「先生は言われた。『礼服には麻の冠を用いるのが慣例だが、近ごろでは倹約のために生成のものを用いる。
(倹約に努めるのはいいことなので)私も今の人々のやり方に従おう。拝礼は堂下で行うのが本来の慣例だが、
近ごろは横柄にも堂上で拝礼する場合が多い。人々のやり方とは違うとはいえ、私は堂下で拝礼することにしよう』
(従うもの自体まで自らが取捨選択する自主性の極み。孔子の乱世における青い鳥状態も、あくまで確信的なものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三)

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367 2012/05/07(月) 12:11:54 ID:elP/wNW4R6
天地万物大宇宙を司る、易の法則に創造主などがいないのはもちろんのこと、
三千大千世界を包摂する仏法にもまた、決まった作者などはいないのだという。
(「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の三を参照)

いないのである。実際問題、そんな神は。

いるのならともかく、いないのである。神というもの、仏というものが仮に存在するとした所で、
「万物の創造主」とか「形而上の超越神」とかいった存在性を持つ神仏こそは、特に存在しないのである。

それは、「形而上の形而上や、そのまた形而上の世界までをも実際に想定し尽くすことができる」という、
荘子や新井白石が提示した思考実験によってだけでも証明できることである。その上に、物理的にも、
一定以内の自由度の法則によってのみ司られることでこそ成り立っているこの世界が、あらゆる法則を
逸脱した超越者によってかき乱されたりするのであれば、この世界自体が成立しないという結論によって、
絶対的な超越者の存在を否定することもできる。もしも絶対的な超越者などがいたとすれば、その超越者は
あらゆる物質の摩擦係数をもゼロにすることができるはずで、そんなことをされた日には、この地球もあっと
いう間にただの灰の塊と化してしまう。そんな迷惑な絶対者がいない限りにおいて、この地球社会の有機性もまた
保たれているのだから、その地球環境に依存して生きている人間が、絶対的な超越者などを定立することもまた、
迷惑という以上のことではあり得ないから、定立からしてしないに越したことはないと結ぶことが出来るのである。

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368 2012/05/07(月) 12:14:49 ID:elP/wNW4R6
摩擦係数ゼロの絶対超越神などを想定して、その立場に基づいて物事を考えてみたりすればするだけ、
この地球がただの灰の塊と化すことを促進するだけである。そんな神は実際、存在しない上に、
ただ「存在する」と想定してみただけでも色々な差し障りが生じてしまう、有害無益な概念である。

この世界、この宇宙の一定法則を司っているか故に貴ばれる神や、あらゆる法則を超越するが故に虚空であり、
虚空であるままに貴ばれる仏などは、それはそれでアリだといえる。しかし、この世界、この宇宙の法則を
超越するが故に「実である」とされる神などを想定したなら、そのような神は必ず、この世を灰塵と化すこと
ばかりを促す邪神となる。ありがたいことに、そんな神は実在せず、実際に神として危害をもたらしたりもしない。

一部の累犯障害者たちが、上記のような意味での絶対超越神を騙って、この世を灰と化す試みを未だに模索
し続けてはいるものの、もちろん全くの虚偽であり、本物の神として畏れ敬う価値などは微塵もないのである。

奇しくも、「形而上の超越は虚無である」という仏法の法則にその真相は合致していて、完全なる虚空として
貴ぶにすら値しないものかといえば、そうでもない。絶対超越神を騙る累犯障害者も、自分たち自身が
死んで灰塵に帰した後には、虚空に住まう仏さまとして、敬われるに値する存在ともなるのである。

「聖人の行いは同じくならず。或いは遠ざかり或いは近づき、
或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰すのみ」
「聖人の行いは必ずしも一定ではなく、ある時は遠ざかったりある時は近づいたり、ある時は去ったり
ある時は去らなかったりする。これらは偏に、自らが潔白なままでいようとする志しによるのである。
(必要なのは大胆に近づくことなどではなく、臨機応変な出処進退で身の潔白さを守ることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)

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369 2012/05/08(火) 14:45:26 ID:iXvJXDZw9.
犯罪聖書の邪神の出歯亀ストーカー志向は、たとえば母親の、
まだ幼いわが子に対する注意などとしてであれば、決して悪いものともならない。

穴に落ちそうになっている子供を思わず救いたい気持ちに駆られる、惻隠の情。
孟子が自らの性善説の根拠ともした、その惻隠の情に即して、母親がわが子を注意深く見守り、
立派な大人になるまで責任を持って育てるというのなら、これほど善良なことも他にないといえる。

欧米のユダヤ教徒なども、男系よりは女系の血筋を重んずる傾向があるという。ユダヤ系の
映画監督のスピルバーグの母親なども、子供の育て方に相当な工夫を凝らしていたなどという
逸話があるが、母親がわが子によくー注意を注いで、熱心な養育に努めるというのは、成功する
場合も失敗する場合もあるにしろ、決して咎められて然るべきものであるなどとはいえない。

しかし、その母親のわが子に対する注意力を、成人の男などにまで振り向けたとすれば、
これはもう完全なお節介だといえる。わが子が十分に育った以上は、もう無駄なお節介もしない
というのも賢母の条件である。にもかかわらず、社会に参画する大人すらをも信者とする
ことを前提としている聖書信仰は、その大人に対してまで出歯亀ストーキングを保証する。
だから、それが母としたところで愚母の所業であるといえるし、また聖書の邪神による
監視があるからといって、実の母親がわが子への注意を怠ったりしたとすれば、これまた、
実の母親にまで愚母となることをけしかける、有害無益な悪影響となってしまうのである。

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370 2012/05/08(火) 14:48:28 ID:iXvJXDZw9.
ユダヤ系で、イエスの母親だったマリアなども、結局はイエスを世界最悪の邪教の開祖に仕立て上げ、
冤罪で磔刑を受けさせることで、永遠に地獄をさまよわせるほどの非業へとわが子を追いやっている。

産み育てるに際しては、エホバが自分の代わりに子供を監視してくれて、育ってからもエホバが後見人になって
くれるなんていう邪信にも即して我が子を産み育てたものだから、実際にその子供のイエスもろくでもない
大人へと成長し、天寿を全うすることもできないままに非業の最期を遂げて、二度と生き返らなかったのである。

犯罪聖書の邪神が担うとされる、信者への絶対的な付きまとい、それは、母親がまだ幼いわが子に
対して抱く注意でこそあるべきなのであり、邪神などがその役目を母親から奪ってはならないのである。

母親こそは頑是ないわが子に対しても細心の注意を払い、成長してからはもう放任しても全く問題もないほどに
立派な大人へと育て上げるべきなのであり、子が幼いうちにも母親からその役割を奪い、成長してからもお節介な
監視を続けるという、犯罪聖書の邪神の有害無益さは、実の母親の存在性と対照することでこそ明白になるのである。

「我れと二人、共に貞す。公は其れ予に万億年を以てし、天を敬い之れを休んず。」
「私(成王)と周公の二人で、共に天下を正していく。公は私に、万億年の永劫に渡るまでの
王道楽土をもたらしてくれた。また天を敬うことで、これを安んじてくれる。(実際の君臣関係であるからこそ
『世の終わりまで』などではなく『万憶年の未来永劫に至るまで』の共なる治世を希求している。不吉極まりない
『世の終わり』などを平気でほざくのも、この世の責任を十分に負うこともない不誠実神である証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)

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371 2012/05/09(水) 13:44:35 ID:s8ZlhMgmXY
地盤が軟弱で、なおかつ多湿で水資源が豊富な日本の気候風土は、
岩盤のような強固な地盤を是とし、水の性質を低レベルなものとして扱う
キリスト教の理念に真っ向から反している。一方で、どこまでも低いほうへと
落ち続ける水の性質を「君子の謙譲さ」に見立てて褒め称えた孔子の言説や、
地盤の強固さにかまけて注意力をなまらせることを懸念対象とした孟子の論弁
などに基づくなら、むしろ日本の気候風土こそは、謙譲や注意力も豊かな
君子を育む理想的な環境であると見なすことができるのである。

一方で、その孔子や孟子の生まれ故郷である中国でこそ、「湿気の多い低地」を
忌み嫌う傾向があって、「史記」にも「湿気の多い低地に住む人間は長生きできない」
などという迷信が記録されてもいる。もちろん、低地や湿地も多い日本の国民が、
中国人よりも寿命が短いなんてこともないわけで、「湿気嫌い」というのは、どうも中国人に
特有の性格のようである。湿気だけでなく大水も中国人は嫌いで、内陸国であるせいもあって、
海水浴や海鮮食を好まない中国人も多いし、古代中国の魏王朝も、朝貢に来た日本の使節が、
絶海である日本海を超えてやって来たことに畏れを抱き、陸続きである朝鮮半島の諸国
などには銀印を授けていたのを、日本国からの使節に対しては金印を授けたともされる。

たとえば、精神力の惰弱な人間が塩辛い食べ物を嫌ったりするのと同じように、
人間には性格として、湿気とか大水とかを忌み嫌うような傾向が多少はあるのである。
それは孔子や孟子の生まれ故郷である中国の人間といえども同じことで、その世間一般の大衆が
忌み嫌うほどもの「試練」としての湿気の不快さ、大水の扱いにくさなどを乗り越えた所にこそ
君子としての大成までもがあるのであり、それはなかなか、好き好めたりするものでもないのである。

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372 2012/05/09(水) 13:52:45 ID:s8ZlhMgmXY
[YouTubeで再生]
日本で、これからの季節に到来する梅雨がもたらす多湿や多雨は、長年日本に住み続けている
邦人すらもが不快感を隠さないもので、気温だけなら日本以上である東南アジアやインドの
人間ですらもが、日本の梅雨期の高温多湿の不快さには辟易させられるそうな。それは確かに、なかなか
好き好んだりできるような代物ではないのであり、無理にそれ自体を好いたりする必要もないのである。
ただ、やはりその梅雨期の降雨が日本の農産の豊穣にも貢献するようにして、多湿さとか大水とか
いったような試練が人々にも大成の機縁を与えるのであり、大成を目指す志しが高ければこそ、
好き好むことなどとうてい出来ないような大きな試練にまで臨んで行くのである。

好きだからではなく、試練を乗り越えた先にある大成を目指すためにこそ、それを受容する。
そこまでの努力などやる気も起きないというような人間もいるだろうにしろ、あえてそれを選択するのである。
試練から積極的に逃避することこそを選んできたような人間もまた、当然まったく以って与らぬことである。

「敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鰥。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雲の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鱮。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雨の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は唯唯として。斉の子の帰し止まるに、其の従うや水の如し」
「魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとエザケ(やもめ)が逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで群ら立ち込める雲の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとタナゴが逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるでザンザンと降り注ぐ大雨の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこから制することも出来ない勢いで魚が飛び出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで謙る水の如く。(雨雲には『権勢』という意味もあるが、
湿気や水に由来するために謙譲さをも伴う。謙譲さに欠ける『金権(聖霊)』などとはそこが違うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・敝笱より)

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373 2012/05/09(水) 19:08:36 ID:s8ZlhMgmXY
容量超過寸前につき、次スレへ。

聖書 Part8
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/133655801...

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374 2018/02/14(水) 20:51:35 ID:Kx.Ylss/bQ
え、書けないの

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375 2018/02/14(水) 20:54:51 ID:Kx.Ylss/bQ
すげえ長すぎるな

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スレッドタイトル:聖書 Part7

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