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聖書 Part7
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「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

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調味料や明暗に喩えるなら、聖書信仰は「糖と闇」の宗教だといえる。
文面でそう書いているわけではなくても、塩と書いてあるものが
実際のところ糖であり、光と欠いてあるものが実際のところ闇である。
精神力を培わせる塩の摂取は最小限に控えさせ、逆に精神をとろかしめる
糖ばかりを多量に摂取させて、信者を暗愚な精神へと追いやる。
実際にそれと同等の占領措置を、聖書信者ではない日本人に戦後、聖書圏である
アメリカが強いても居り、そのため元々は世界でも屈指の血気盛んさ備えていた
日本人が今では、それはそれは暗愚な耄碌者ばかりと化してしまったのでもある。
本当に「塩と光」の宗教であるのは、神道だったり仏教だったりする。それに対し、
聖書信仰だけでなく、イスラムを含むアブラハム教全般が「糖と闇」の宗教であり、
そのため甘いものを好む女子の領分である愛を「神の愛」とまでいって標榜しもする。
ただ、アブラハム教のうちでは、イスラムだけは神の愛に「慈愛」が伴っているため、
信者の健康を慮って、糖分の取りすぎによる極度の暗愚への陥りを戒めてもいる。
(その手段が豚食や飲酒の禁止だったり、確信的な女性差別だったりもする)
糖を絶対に摂ってはならないなんてことはないし、闇を全否定するのも実際、無理な話である。
ただ、塩や光と比べれば、糖や闇は低く置かれて然るべきものであり、それでこそ人の健康も
増進される一方、糖や闇を優先して塩や光を劣後したときに、人は大きく健康を損なうのである。
心も病むし、身体も病む。塩分摂取を減らされて糖分摂取を過剰化させられた
戦後の日本人たるや、精神が惰弱化しただけでなく、外貌までもが極端にだらしないものとなった。
そして確かに見た目に相応の、糖尿病などの成人病にも悩まされていて、インシュリン無しでは
生きていけないほどにも、ひどく健康を損なってしまっている場合も多々ある。
文面でそう書いているわけではなくても、塩と書いてあるものが
実際のところ糖であり、光と欠いてあるものが実際のところ闇である。
精神力を培わせる塩の摂取は最小限に控えさせ、逆に精神をとろかしめる
糖ばかりを多量に摂取させて、信者を暗愚な精神へと追いやる。
実際にそれと同等の占領措置を、聖書信者ではない日本人に戦後、聖書圏である
アメリカが強いても居り、そのため元々は世界でも屈指の血気盛んさ備えていた
日本人が今では、それはそれは暗愚な耄碌者ばかりと化してしまったのでもある。
本当に「塩と光」の宗教であるのは、神道だったり仏教だったりする。それに対し、
聖書信仰だけでなく、イスラムを含むアブラハム教全般が「糖と闇」の宗教であり、
そのため甘いものを好む女子の領分である愛を「神の愛」とまでいって標榜しもする。
ただ、アブラハム教のうちでは、イスラムだけは神の愛に「慈愛」が伴っているため、
信者の健康を慮って、糖分の取りすぎによる極度の暗愚への陥りを戒めてもいる。
(その手段が豚食や飲酒の禁止だったり、確信的な女性差別だったりもする)
糖を絶対に摂ってはならないなんてことはないし、闇を全否定するのも実際、無理な話である。
ただ、塩や光と比べれば、糖や闇は低く置かれて然るべきものであり、それでこそ人の健康も
増進される一方、糖や闇を優先して塩や光を劣後したときに、人は大きく健康を損なうのである。
心も病むし、身体も病む。塩分摂取を減らされて糖分摂取を過剰化させられた
戦後の日本人たるや、精神が惰弱化しただけでなく、外貌までもが極端にだらしないものとなった。
そして確かに見た目に相応の、糖尿病などの成人病にも悩まされていて、インシュリン無しでは
生きていけないほどにも、ひどく健康を損なってしまっている場合も多々ある。
医療技術の進歩によって、確かに現代人の平均寿命は伸びたが、それによって精神寿命は
「中二(14才)」あたりまで縮んだ。中学二年あたりで日本の青少年の多くは、今の世の中の
大人の誰しもが精神的に死んでいることに気づいて憤る。自分がそんな大人になりたくないと思いつつも、
自殺でもしない限りにおいては、やはり世の風潮に流されて、自分もまた精神的に死んだ大人へと成長する。
「聖書信仰こそは、腐った大人を量産する社会的元凶である」ということを以前にも述べたが、
まさに、糖分の摂りすぎと同様の精神的暗愚をもたらすことこそは、聖書信仰が腐った大人を量産して
しまう原因であるといえる。甘いものというと、いかにも「子供が好きなもの」というイメージがあるが、
大人でありながら未だに甘いものばかりを好き好めことで、かえって心身の腐乱を招いてしまうのである。
実際の栄養面でも、糖分を控えて塩分を十分に摂ることが、心身の健康を保つ糧となる。
そしてそれと同じように、聖書信仰を廃絶して仏教や神道などを再興していくことが、
宗教信仰の側面における心身の健康を保っていく源になる。
学問面では、儒学が「塩と光」の学問であり、洋学が「糖と闇」の学問であるため、
洋学を控えて儒学をよく学んでいくことが、健康の増進になる。洋学はなかなか
廃絶とまではいかないだろうから、それこそ「控えめ」ということでいいのである。
「王曰く、来たれ、汝、説。〜若し和羹を作さば、爾じは惟れ鹽梅」
「王の武丁が宰相の傅説を呼んで言った言葉。『もし吸い物を作るとすれば、おまえはそこに投入する塩だ』
(味付けの肝である塩でありながら、王君の下に置かれる臣下である。君臣の義の妙であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)
「中二(14才)」あたりまで縮んだ。中学二年あたりで日本の青少年の多くは、今の世の中の
大人の誰しもが精神的に死んでいることに気づいて憤る。自分がそんな大人になりたくないと思いつつも、
自殺でもしない限りにおいては、やはり世の風潮に流されて、自分もまた精神的に死んだ大人へと成長する。
「聖書信仰こそは、腐った大人を量産する社会的元凶である」ということを以前にも述べたが、
まさに、糖分の摂りすぎと同様の精神的暗愚をもたらすことこそは、聖書信仰が腐った大人を量産して
しまう原因であるといえる。甘いものというと、いかにも「子供が好きなもの」というイメージがあるが、
大人でありながら未だに甘いものばかりを好き好めことで、かえって心身の腐乱を招いてしまうのである。
実際の栄養面でも、糖分を控えて塩分を十分に摂ることが、心身の健康を保つ糧となる。
そしてそれと同じように、聖書信仰を廃絶して仏教や神道などを再興していくことが、
宗教信仰の側面における心身の健康を保っていく源になる。
学問面では、儒学が「塩と光」の学問であり、洋学が「糖と闇」の学問であるため、
洋学を控えて儒学をよく学んでいくことが、健康の増進になる。洋学はなかなか
廃絶とまではいかないだろうから、それこそ「控えめ」ということでいいのである。
「王曰く、来たれ、汝、説。〜若し和羹を作さば、爾じは惟れ鹽梅」
「王の武丁が宰相の傅説を呼んで言った言葉。『もし吸い物を作るとすれば、おまえはそこに投入する塩だ』
(味付けの肝である塩でありながら、王君の下に置かれる臣下である。君臣の義の妙であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)
実物の親には、いい面だけでなく悪い面もいくらでもある。
その親をまずは畏敬の対象とした上で、いい面を受け継いで悪い面を是正していく。
その時にこそ、極端な自己愛にも自己嫌悪にも振り切れない、己が身の程のわきまえも備わる。
では、孔子のように母子家庭で育った妾腹の私生児であり、身元が割り出せたときには
すでに父親も死んでいたとする。その時には、無計画な野合で自らを産ませた父親を、
これまた敬服の対象とはした上で、その過ちを是正していくことを自らの本分ともしていく。
妾腹の私生児ほど、親を反面教師として、自らが精進していく立場に恵まれた人間も
他にないのであり、親がダメな人間だったり、大きな不手際の持ち主だったりすることは、
自力作善による大成の余地を踏まえてみれば、決して完全な不遇であるとも限らないのである。
親が代々祟られかねないほどもの重犯罪者だったりするのならともかく、
妾腹の子を作ってしまったとかの、犯罪とまではいかない失態の持ち主であるという場合、
自らがその恥辱をバネにして大成する余地が確かに生ずる。ただ、親の恥辱をバネにするためには、
まず親を敬うことが必要で、それによって恥辱からなる鬱屈や自暴自棄を克服していかなければならない。
それを怠って、親を敬服どころか嫌悪の対象にすらし、自暴自棄状態で脳内超越神の親などを捏造して、
脳内超越神への偏愛にこと欠けた自己愛や小集団愛を募らせていったとすれば、
それこそ未曾有の害悪をもたらす大失態の積み重ねとなるのである。
妾腹の私生児でありながら聖人君子として大成した孔子と、世界中の鬼畜の親分と化したイエスと、
両者を決定的に断絶したのは、本物の親に対する敬愛の有無だった。片や孝子の鑑となるほどにも
父子の親の保全に努め、片や親子兄弟の殺し合いを促す、父子の親の決定的な毀損者となった。
そこから、全世界全人類の繁栄と滅亡とを決定付ける教学までもが枝分かれしたわけだから、
まさに父子の親を旨とした孝悌こそは、世界人類の存亡栄辱をも決定付ける理念だったのだといえる。
その親をまずは畏敬の対象とした上で、いい面を受け継いで悪い面を是正していく。
その時にこそ、極端な自己愛にも自己嫌悪にも振り切れない、己が身の程のわきまえも備わる。
では、孔子のように母子家庭で育った妾腹の私生児であり、身元が割り出せたときには
すでに父親も死んでいたとする。その時には、無計画な野合で自らを産ませた父親を、
これまた敬服の対象とはした上で、その過ちを是正していくことを自らの本分ともしていく。
妾腹の私生児ほど、親を反面教師として、自らが精進していく立場に恵まれた人間も
他にないのであり、親がダメな人間だったり、大きな不手際の持ち主だったりすることは、
自力作善による大成の余地を踏まえてみれば、決して完全な不遇であるとも限らないのである。
親が代々祟られかねないほどもの重犯罪者だったりするのならともかく、
妾腹の子を作ってしまったとかの、犯罪とまではいかない失態の持ち主であるという場合、
自らがその恥辱をバネにして大成する余地が確かに生ずる。ただ、親の恥辱をバネにするためには、
まず親を敬うことが必要で、それによって恥辱からなる鬱屈や自暴自棄を克服していかなければならない。
それを怠って、親を敬服どころか嫌悪の対象にすらし、自暴自棄状態で脳内超越神の親などを捏造して、
脳内超越神への偏愛にこと欠けた自己愛や小集団愛を募らせていったとすれば、
それこそ未曾有の害悪をもたらす大失態の積み重ねとなるのである。
妾腹の私生児でありながら聖人君子として大成した孔子と、世界中の鬼畜の親分と化したイエスと、
両者を決定的に断絶したのは、本物の親に対する敬愛の有無だった。片や孝子の鑑となるほどにも
父子の親の保全に努め、片や親子兄弟の殺し合いを促す、父子の親の決定的な毀損者となった。
そこから、全世界全人類の繁栄と滅亡とを決定付ける教学までもが枝分かれしたわけだから、
まさに父子の親を旨とした孝悌こそは、世界人類の存亡栄辱をも決定付ける理念だったのだといえる。
君臣の義はともかく、父子の親までをも徳治の要とする儒家の主張は、それだけを見ても正直、
納得し難いところがある。実際にそう主張する儒学道徳を実践することで、何百年もの治世を実現
してきた統一政権がいくつもあるわけだから、それを以って忠孝の妥当性の証拠に代えることも
できなくはないが、逆に、父子の親の確信的な毀損を教義とすることで、人類滅亡の危機を招いた
キリスト教の存在もまた、忠孝を旨とする儒学道徳の正当性を背理的には証明してくれたのだといえる。
数多の犠牲者をはじき出している手前、まだあまり大きな声でも言えないが、父子の親を崩壊せしめる
キリスト教災禍による人類社会の破滅が、今後の人類社会における、忠孝を旨とした徳治による、
治世の磐石化を決定付ける機縁となってくれるのであれば、それに越したこともないといえる。
「葉公、政を問う。子曰く、近き者説び、遠き者来たる」
「楚国の葉県の知事が孔先生に政治のあり方を問うた。先生は言われた。
『近隣の人々は治世を喜び、遠方の人々もまたその評判を聞いて慕ってくるようであるべきです』
(遠方の人々を傷つけて隣人ばかりに懇ろであったりするようでは、そうはいかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一六)
納得し難いところがある。実際にそう主張する儒学道徳を実践することで、何百年もの治世を実現
してきた統一政権がいくつもあるわけだから、それを以って忠孝の妥当性の証拠に代えることも
できなくはないが、逆に、父子の親の確信的な毀損を教義とすることで、人類滅亡の危機を招いた
キリスト教の存在もまた、忠孝を旨とする儒学道徳の正当性を背理的には証明してくれたのだといえる。
数多の犠牲者をはじき出している手前、まだあまり大きな声でも言えないが、父子の親を崩壊せしめる
キリスト教災禍による人類社会の破滅が、今後の人類社会における、忠孝を旨とした徳治による、
治世の磐石化を決定付ける機縁となってくれるのであれば、それに越したこともないといえる。
「葉公、政を問う。子曰く、近き者説び、遠き者来たる」
「楚国の葉県の知事が孔先生に政治のあり方を問うた。先生は言われた。
『近隣の人々は治世を喜び、遠方の人々もまたその評判を聞いて慕ってくるようであるべきです』
(遠方の人々を傷つけて隣人ばかりに懇ろであったりするようでは、そうはいかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一六)
人としての健全なプライドは、自らの家や、その家を背負って立つ自分自身にこそ備わる。
妾腹の私生児として母子家庭に育った孔子ですら、父親の身元を自分で確かめて、
孔家の継承者としての尊厳を克ち得て後に、聖人君子としても大成した。
あらかじめ名家に生まれた場合だけでなく、不遇の家庭や卑しい家系に生まれた
場合においても、やはり家を背負って立つ所にこそ、真正な誇りが備わり得る。
本物の誇りというのは、あまりあからさまに誇り高ぶるものでもない。
家を背負って立つということは、父や祖父や曽祖父の家督を継いで行くということであり、
特に父や祖父あたりの、存命中に親しめる間柄のうちには、親の善い面も悪い面も
同時に知らされるところが多いため、決して無条件に誇り高ぶれるともいかない。
仮に自らの父親が徳川家康のような完璧帝王だったとしても、
その家業を将軍職などとして継いで行く場合には、二代将軍秀忠のように
薄氷を踏むような思いでいる必要があるため、全く誇り高ぶっている余裕などもない。
じゃあ、人はどういう場合に誇り高ぶるかといって、卑賤を開き直った時に誇り高ぶる。
公家よりも下に置かれる武家の立場から公家の地位を奪い取り、太政大臣などの重職を
簒奪した平氏なども、だからこそ驕り高ぶったのであり、自分たちの目に余る僭越さ
からなる心の不安定さを埋め合わせるためにこそ、異常に高ぶったりもするのである。
(君子は泰らかなりて驕らず。小人は驕りて泰らかならず。子路第十三・二六)
人としての正しいプライドが備わっているのであれ、いないのであれ、誇り高ぶったり
することはしないか、せいぜい酒席の場でのおふざけぐらいで済ましておくべきである。
妾腹の私生児として母子家庭に育った孔子ですら、父親の身元を自分で確かめて、
孔家の継承者としての尊厳を克ち得て後に、聖人君子としても大成した。
あらかじめ名家に生まれた場合だけでなく、不遇の家庭や卑しい家系に生まれた
場合においても、やはり家を背負って立つ所にこそ、真正な誇りが備わり得る。
本物の誇りというのは、あまりあからさまに誇り高ぶるものでもない。
家を背負って立つということは、父や祖父や曽祖父の家督を継いで行くということであり、
特に父や祖父あたりの、存命中に親しめる間柄のうちには、親の善い面も悪い面も
同時に知らされるところが多いため、決して無条件に誇り高ぶれるともいかない。
仮に自らの父親が徳川家康のような完璧帝王だったとしても、
その家業を将軍職などとして継いで行く場合には、二代将軍秀忠のように
薄氷を踏むような思いでいる必要があるため、全く誇り高ぶっている余裕などもない。
じゃあ、人はどういう場合に誇り高ぶるかといって、卑賤を開き直った時に誇り高ぶる。
公家よりも下に置かれる武家の立場から公家の地位を奪い取り、太政大臣などの重職を
簒奪した平氏なども、だからこそ驕り高ぶったのであり、自分たちの目に余る僭越さ
からなる心の不安定さを埋め合わせるためにこそ、異常に高ぶったりもするのである。
(君子は泰らかなりて驕らず。小人は驕りて泰らかならず。子路第十三・二六)
人としての正しいプライドが備わっているのであれ、いないのであれ、誇り高ぶったり
することはしないか、せいぜい酒席の場でのおふざけぐらいで済ましておくべきである。
漢の高祖劉邦なども、若い頃から誇り高ぶってホラを吹くクセがあったらしいが、
それとは裏腹に臣下の言うことにはよく耳を傾けて、自らに過ちがあれば即座に
改めてもいた。これこそは、劉邦の誇り高ぶり癖が単なる虚勢だった証拠であり、
誇り高ぶりなんぞがただの虚勢であったればこそ、かえってよかった。
平清盛存命中の平氏のように、驕り高ぶりが完全な真性となったとき、本人たちが
自業自得での破滅に至るに及んで、全くの救いようもなくなる。高ぶりをもはや拭い去る
こともできないため、自分たちから救いの手を振りほどくようなことになってしまう。
歴史上において、投降すらすれば救われそうなものを、自らあえて最悪の乱暴に
及んで身を滅ぼしたような類いの人間がかなりの人数見受けられるが、それら全て、
もはや誇り高ぶりを捨て去ることもできないほどに肥大化させてしまった者どもである。
天命のために命を賭したりしたわけでもない、単なる無駄死にであったには違いなく、
そのような死に方がいくら悲劇的なものとして持て囃されるのであっても、決して範と
するには値しない。話として面白いのと、見習うべきなのとは、全く違うことなのだから。
「驕淫矜侉、将に悪に由って終えん。放心を収むると雖も、
之れを閑ぐこと惟れ艱し。資富能く訓えば、惟れ以て年を永うせんに」
「(紂王の放辟邪侈にあてられた元殷の民たちは)誇り高ぶりによるうぬぼれがひどく、
このままでは最悪の末路を辿ってしまうことになりかねない。不埒な思いを一時ぐらいは
収められたとしても、完全に防ぎ止めるのもなかなか困難なこと。(人から嫉まれる原因になる)
財産があっても、やたらと誇り高ぶらぬ恭謙の資質があったなら、長命を全うできるというのに。
(無闇に誇り高ぶって長命を全うできることわりはどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
それとは裏腹に臣下の言うことにはよく耳を傾けて、自らに過ちがあれば即座に
改めてもいた。これこそは、劉邦の誇り高ぶり癖が単なる虚勢だった証拠であり、
誇り高ぶりなんぞがただの虚勢であったればこそ、かえってよかった。
平清盛存命中の平氏のように、驕り高ぶりが完全な真性となったとき、本人たちが
自業自得での破滅に至るに及んで、全くの救いようもなくなる。高ぶりをもはや拭い去る
こともできないため、自分たちから救いの手を振りほどくようなことになってしまう。
歴史上において、投降すらすれば救われそうなものを、自らあえて最悪の乱暴に
及んで身を滅ぼしたような類いの人間がかなりの人数見受けられるが、それら全て、
もはや誇り高ぶりを捨て去ることもできないほどに肥大化させてしまった者どもである。
天命のために命を賭したりしたわけでもない、単なる無駄死にであったには違いなく、
そのような死に方がいくら悲劇的なものとして持て囃されるのであっても、決して範と
するには値しない。話として面白いのと、見習うべきなのとは、全く違うことなのだから。
「驕淫矜侉、将に悪に由って終えん。放心を収むると雖も、
之れを閑ぐこと惟れ艱し。資富能く訓えば、惟れ以て年を永うせんに」
「(紂王の放辟邪侈にあてられた元殷の民たちは)誇り高ぶりによるうぬぼれがひどく、
このままでは最悪の末路を辿ってしまうことになりかねない。不埒な思いを一時ぐらいは
収められたとしても、完全に防ぎ止めるのもなかなか困難なこと。(人から嫉まれる原因になる)
財産があっても、やたらと誇り高ぶらぬ恭謙の資質があったなら、長命を全うできるというのに。
(無闇に誇り高ぶって長命を全うできることわりはどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
快川紹喜の「心頭滅却すれば火もまた涼し」という辞世の句など、
ただ極重の苦難を耐え抜くだけでなく、そこに余裕すら保っておこうとするきらいがある。
実際に、禅の根本聖典である華厳経にも、「菩薩は地獄の苦しみにも耐えることで悟りを得る」
ということが多々書かれていて、その悟りの味は甘露の如きであるともいう。当然、舌の感ずる甘みではなく、
眼耳鼻舌身意といった感覚器官の苦楽を超越したところにある悟りの常楽が、あたかも甘露のようであるということ。
苦しみを耐え抜いた後に楽しみがあるのではなく、身体的な苦しみのさ中にすら悟りの楽しみがある。
もちろん苦しみ自体を快楽だなどと倒錯するマゾヒズムではなく、身体的な苦しみを超越した所にある悟りを楽しむ。
それは実際困難なことで、それと比べれば、身体的苦痛や不遇からなる苦しみにヒイヒイ喘いでいるほうが
よっぽど簡単なことだ。苦しみを諦観する所には多少なりともの向上が見られる一方、ただ苦しみに引きずられて
喘ぐばかりという所には何の向上もなく、ただ身心をすり減らせて不健全な損壊を招くばかりのことである。
孔子も「粗末な食事と水程度の飲み物、肘を枕にした就寝にも楽しみがある(述而第七・一五)」といい、
「悪意悪食を恥ずる者は友とするに足らず(里仁第四・九)」というから、困窮すら楽しめることを是としている。
一方で、春秋戦国時代の大権力犯罪者である蘇秦は、自分がろくな仕事に就いていないことを親族に責められて憤り、
一念発起して諸国の合従連衡を取り付けて大金を稼ぎ上げ、それにより乱世をさらに激化させたというし、
秦帝国の宰相だった李斯も、便所を走り回るネズミを見て「成功しない人間はあのネズミとも同じだ」と考え、
親友の韓非をも獄中で自殺させるほどもの熾烈な権力争いに身を投じ、
挙句には自らも宦官趙高の計略にはめられて失脚し、処刑されている。
ただ極重の苦難を耐え抜くだけでなく、そこに余裕すら保っておこうとするきらいがある。
実際に、禅の根本聖典である華厳経にも、「菩薩は地獄の苦しみにも耐えることで悟りを得る」
ということが多々書かれていて、その悟りの味は甘露の如きであるともいう。当然、舌の感ずる甘みではなく、
眼耳鼻舌身意といった感覚器官の苦楽を超越したところにある悟りの常楽が、あたかも甘露のようであるということ。
苦しみを耐え抜いた後に楽しみがあるのではなく、身体的な苦しみのさ中にすら悟りの楽しみがある。
もちろん苦しみ自体を快楽だなどと倒錯するマゾヒズムではなく、身体的な苦しみを超越した所にある悟りを楽しむ。
それは実際困難なことで、それと比べれば、身体的苦痛や不遇からなる苦しみにヒイヒイ喘いでいるほうが
よっぽど簡単なことだ。苦しみを諦観する所には多少なりともの向上が見られる一方、ただ苦しみに引きずられて
喘ぐばかりという所には何の向上もなく、ただ身心をすり減らせて不健全な損壊を招くばかりのことである。
孔子も「粗末な食事と水程度の飲み物、肘を枕にした就寝にも楽しみがある(述而第七・一五)」といい、
「悪意悪食を恥ずる者は友とするに足らず(里仁第四・九)」というから、困窮すら楽しめることを是としている。
一方で、春秋戦国時代の大権力犯罪者である蘇秦は、自分がろくな仕事に就いていないことを親族に責められて憤り、
一念発起して諸国の合従連衡を取り付けて大金を稼ぎ上げ、それにより乱世をさらに激化させたというし、
秦帝国の宰相だった李斯も、便所を走り回るネズミを見て「成功しない人間はあのネズミとも同じだ」と考え、
親友の韓非をも獄中で自殺させるほどもの熾烈な権力争いに身を投じ、
挙句には自らも宦官趙高の計略にはめられて失脚し、処刑されている。
孔子や顔淵のように困窮を達観できるわけでもなく、むしろ蘇秦や李斯のような困窮へのコンプレックスを抱き、
そのコンプレックスをばねに重権力犯罪者と化して、世の中にあるよりもないほうがマシなほどもの危害を
もたらすというのであれば、むしろそこそこの平凡な生活にでも甘んじてもらってくれたほうが、遥かに助かる。
権力犯罪者としての危うい綱渡り業務などに及ぶよりは、そこそこの生活を手に入れることのほうが遥かに
無難なことであるに違いなく、そのために耐え忍ばねばならない恥辱なども、遥かに少なくて済むはずである。
ということはつまり、「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などと誉められたりする所に、真の名誉はないのである。
儒者や菩薩のように、苦しみすら達観する者はそこにすら楽しみを見出すから、苦しみに耐え抜いたことを
誉めたりすればむしろ、本人たちの達観を「やせ我慢」扱いする名誉毀損にすらなってしまう。もしもそこに賛辞を
送りたいというのなら、極重の苦しみすら楽しみに代えてしまえるそのあり難さへの畏敬をこそ抱くべきなのであり、
「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などという、大人の子供に対するかのような失礼な誉め方は決してすべきでないのである。
そして、苦しみをバネに何でもしてやろうとする、蘇秦や張儀のようなならず者も、決して賛辞の対象とすべきでない。
故に、一端の行為能力を持つ大人に対して、苦しみに耐えることを上から目線で誉めていいような道理はないのである。
「人は楽しむなきに耐えず」
「人は楽しまないでいることに耐えられない。
(罪福異熟も権力犯罪者の側の悪因苦果よりは、道徳者の側の善因楽果からなる歓喜こそが
人々に感銘を与えることで、洗脳状態の人間の心の凍て付きの瓦解を招いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
そのコンプレックスをばねに重権力犯罪者と化して、世の中にあるよりもないほうがマシなほどもの危害を
もたらすというのであれば、むしろそこそこの平凡な生活にでも甘んじてもらってくれたほうが、遥かに助かる。
権力犯罪者としての危うい綱渡り業務などに及ぶよりは、そこそこの生活を手に入れることのほうが遥かに
無難なことであるに違いなく、そのために耐え忍ばねばならない恥辱なども、遥かに少なくて済むはずである。
ということはつまり、「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などと誉められたりする所に、真の名誉はないのである。
儒者や菩薩のように、苦しみすら達観する者はそこにすら楽しみを見出すから、苦しみに耐え抜いたことを
誉めたりすればむしろ、本人たちの達観を「やせ我慢」扱いする名誉毀損にすらなってしまう。もしもそこに賛辞を
送りたいというのなら、極重の苦しみすら楽しみに代えてしまえるそのあり難さへの畏敬をこそ抱くべきなのであり、
「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などという、大人の子供に対するかのような失礼な誉め方は決してすべきでないのである。
そして、苦しみをバネに何でもしてやろうとする、蘇秦や張儀のようなならず者も、決して賛辞の対象とすべきでない。
故に、一端の行為能力を持つ大人に対して、苦しみに耐えることを上から目線で誉めていいような道理はないのである。
「人は楽しむなきに耐えず」
「人は楽しまないでいることに耐えられない。
(罪福異熟も権力犯罪者の側の悪因苦果よりは、道徳者の側の善因楽果からなる歓喜こそが
人々に感銘を与えることで、洗脳状態の人間の心の凍て付きの瓦解を招いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
×蘇秦や張儀
○蘇秦や李斯
張儀も、蘇秦と並ぶ戦国時代きっての大悪党で、
袋叩きにされて小便を引っかけられても、弁舌一つで
世の中を引っかき回すことをやめなかったというから、
「蘇秦や張儀や李斯」と訂正してもいい所だ。
孟子は張儀を「婦女子」扱いして揶揄しているが、
権力犯罪者の活動の気概となる「困窮へのコンプレックス」は、
婦女子であればほぼ漏れなく持っているものだといえる。
婦女子自身がそうであるのは、我が子を豊かな境遇で産み育てたい
母性本能から来るのでもあるから、必ずしもいけないことじゃない。
ただ、男が社会的な大成を志すのでも、逆に社会的欲求を捨て去るのでもなく、
自らの地位の低さからなる劣等感にかられて妄動したりするのならば、
それこそこの上なく無様な所業であるといえる。
○蘇秦や李斯
張儀も、蘇秦と並ぶ戦国時代きっての大悪党で、
袋叩きにされて小便を引っかけられても、弁舌一つで
世の中を引っかき回すことをやめなかったというから、
「蘇秦や張儀や李斯」と訂正してもいい所だ。
孟子は張儀を「婦女子」扱いして揶揄しているが、
権力犯罪者の活動の気概となる「困窮へのコンプレックス」は、
婦女子であればほぼ漏れなく持っているものだといえる。
婦女子自身がそうであるのは、我が子を豊かな境遇で産み育てたい
母性本能から来るのでもあるから、必ずしもいけないことじゃない。
ただ、男が社会的な大成を志すのでも、逆に社会的欲求を捨て去るのでもなく、
自らの地位の低さからなる劣等感にかられて妄動したりするのならば、
それこそこの上なく無様な所業であるといえる。
聖書信者に、人並み以上に喜び祝うべき将来などやって来ない。聖書を信じて
その忠実な実践に務めてきた分だけ、人並み以上のより大きな悲しみに見舞われる。
それこそは、「さてしもあるべきことならねばとて(蓮如)」でもある。
悲しむべき、悲しまねばならないことを無理に喜び祝おうとしたなら、
それによってさらに後々に、より悲しむべき、悲しまねばならない大惨事を招く。
最終的には、人類滅亡という絶対不可避な破滅の危機に見舞われて、想定し得る
限りでも最大級の悲しみを受け入れるか、もしくは滅亡を選択するしかなくなる。
そしてそれが、今である。
性懲りもなく凶事を喜び祝おうとするのなら、それは滅亡を選択することになる。
悲しむべき、悲しまねばならないことを相応に悲しむことを受け入れて初めて、
自分たち自身を含む人類の滅亡を回避することを選択することともなる。
たとえば、天下の泰平や国家の長命などは、真に喜び祝うべきことだといえるが、
聖書信者はむしろ、このような公共性を伴った福寿を祝うことを避ける傾向がある。
それでいて、個々人の狭隘な利益の獲得などのほうを執拗に喜ぼうとする傾向があり、
悲しむべきことを喜び祝おうとするだけでなく、喜ぶべきでないことを喜ぼうとしたり、
喜ぶべきことをさして喜ぼうともしなかったりまでするのである。
その忠実な実践に務めてきた分だけ、人並み以上のより大きな悲しみに見舞われる。
それこそは、「さてしもあるべきことならねばとて(蓮如)」でもある。
悲しむべき、悲しまねばならないことを無理に喜び祝おうとしたなら、
それによってさらに後々に、より悲しむべき、悲しまねばならない大惨事を招く。
最終的には、人類滅亡という絶対不可避な破滅の危機に見舞われて、想定し得る
限りでも最大級の悲しみを受け入れるか、もしくは滅亡を選択するしかなくなる。
そしてそれが、今である。
性懲りもなく凶事を喜び祝おうとするのなら、それは滅亡を選択することになる。
悲しむべき、悲しまねばならないことを相応に悲しむことを受け入れて初めて、
自分たち自身を含む人類の滅亡を回避することを選択することともなる。
たとえば、天下の泰平や国家の長命などは、真に喜び祝うべきことだといえるが、
聖書信者はむしろ、このような公共性を伴った福寿を祝うことを避ける傾向がある。
それでいて、個々人の狭隘な利益の獲得などのほうを執拗に喜ぼうとする傾向があり、
悲しむべきことを喜び祝おうとするだけでなく、喜ぶべきでないことを喜ぼうとしたり、
喜ぶべきことをさして喜ぼうともしなかったりまでするのである。
喜怒哀楽の規範が、完全に狂いきっている。
悲しむべきもの、喜ぶべきでないものを喜び、喜ぶべきものを喜ばない。
その結果、普遍的に喜ぶべき物事を立ち消えにさせ、普遍的に悲しむべき
物事をより増長させる。最終的には人類滅亡の危機までをも呼び込んで、
人類史上でも最大級の悲しみを受け入れねばならないような事態にまで、陥ってしまう。
典型的な狂生の末路であり、どこにも疑問点の見当たらない、悪因苦果の因果応報である。
物質的な側面だけでなく、精神的な側面においても因果応報は着実に結実し、邪信にねざして
心を偽って来たことにもまた、それ相応の苦果が実る。そしてその苦果こそは、絶望的である。
自らの心を偽ることを信者にけしかけて来たことこそは、聖書信仰にとっての最大の大罪だといえる。
「喜怒類を以てする者は鮮なく、易うる者は実に多し。詩に曰く、君子如し怒らば、乱庶くば遄かに沮み、
君子如し祉いせば、乱庶くば遄かに已むと。君子の喜怒は、以て乱を已むるなり。已めざる者は、必ず之れを益す」
「喜ぶべきことを喜び、怒るべきことを怒る者は少ないが、これに違う者は非常に多い。詩経(小雅・巧言)にも
『君子が怒るべきものに怒れば、乱も速やかに止む。君子が喜ぶべきことを喜べば、これまた速やかに乱は止む』
とあるが、君子の順当さをわきまえた喜怒哀楽は戦乱を収める一方、これに違う場合には、えてして乱を増すのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十七年より)
悲しむべきもの、喜ぶべきでないものを喜び、喜ぶべきものを喜ばない。
その結果、普遍的に喜ぶべき物事を立ち消えにさせ、普遍的に悲しむべき
物事をより増長させる。最終的には人類滅亡の危機までをも呼び込んで、
人類史上でも最大級の悲しみを受け入れねばならないような事態にまで、陥ってしまう。
典型的な狂生の末路であり、どこにも疑問点の見当たらない、悪因苦果の因果応報である。
物質的な側面だけでなく、精神的な側面においても因果応報は着実に結実し、邪信にねざして
心を偽って来たことにもまた、それ相応の苦果が実る。そしてその苦果こそは、絶望的である。
自らの心を偽ることを信者にけしかけて来たことこそは、聖書信仰にとっての最大の大罪だといえる。
「喜怒類を以てする者は鮮なく、易うる者は実に多し。詩に曰く、君子如し怒らば、乱庶くば遄かに沮み、
君子如し祉いせば、乱庶くば遄かに已むと。君子の喜怒は、以て乱を已むるなり。已めざる者は、必ず之れを益す」
「喜ぶべきことを喜び、怒るべきことを怒る者は少ないが、これに違う者は非常に多い。詩経(小雅・巧言)にも
『君子が怒るべきものに怒れば、乱も速やかに止む。君子が喜ぶべきことを喜べば、これまた速やかに乱は止む』
とあるが、君子の順当さをわきまえた喜怒哀楽は戦乱を収める一方、これに違う場合には、えてして乱を増すのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十七年より)
曾子が年老いて病の床にあるとき、門人に自らの手足を見せて、どこにも傷一つないことを、
「親からもらった身体を終身大事にして来た証拠だ」として誇る泰伯第八・三の逸話。
これは孝悌という、人間精神の根本を誇りとする、非常に威儀深い逸話であるといえる。
(病中の呻吟だから、誇り高ぶりであるとまでは言えない)
そしてその曾子が、「肩をそびやかしてへつらい笑うのは、真夏の炎天下で田畑を耕すよりも疲れる(滕文公下・七)」
ともいう。商売人か奴隷のようにプライドのかけらもなく他者に媚びへつらうことが、孝悌にかけては年老いるまで
薄氷を踏む思いで心尽くしてきた曾子にとってこそ、最大級の肉体的重労働よりも苦痛となるのだという。
プライドにも色々とあり、孝心からなるような真のプライドもある一方で、我流の評価基準に根ざした
全くの無根拠なプライドもまたある。無根拠なプライドは「身の程知らず」の最たる証拠ともなり、それこそ
真のプライドに即するなら、身の程知らずの謗りを拭いたいがために、無根拠なプライドのほうは率先して捨て去るのである。
孝悌に基づくような真のプライドを欠いたところでこそ、逆に無根拠なプライドのほうが肥大化する。
その無根拠なプライドへの依存が高まりすぎて、捨て去ろうにも捨て去れなくなったとき、
無根拠なプライドからなる高慢を阻害する原因となる、孝悌の心がけもまた困難と化してしまう。
実の親への子の孝心を否定して、虚構の超越神への絶対服従を強制する犯罪聖書の教義は、まさに孝心からなる
真のプライドを信者に損なわせて、虚構への服従からなる身の程知らずな思い上がりを蓄えさせる、最たるものである。
肩をそびやかしへつらい笑うことも何ら苦としない下衆がそこに生じ、徳行と楽しみと犯罪の苦しみの区別も付かない、
人としての最低限の品性すら持ち合わせぬ、餓鬼畜生の内面を持つ人非人の群れがそこに生じるわけである。
「親からもらった身体を終身大事にして来た証拠だ」として誇る泰伯第八・三の逸話。
これは孝悌という、人間精神の根本を誇りとする、非常に威儀深い逸話であるといえる。
(病中の呻吟だから、誇り高ぶりであるとまでは言えない)
そしてその曾子が、「肩をそびやかしてへつらい笑うのは、真夏の炎天下で田畑を耕すよりも疲れる(滕文公下・七)」
ともいう。商売人か奴隷のようにプライドのかけらもなく他者に媚びへつらうことが、孝悌にかけては年老いるまで
薄氷を踏む思いで心尽くしてきた曾子にとってこそ、最大級の肉体的重労働よりも苦痛となるのだという。
プライドにも色々とあり、孝心からなるような真のプライドもある一方で、我流の評価基準に根ざした
全くの無根拠なプライドもまたある。無根拠なプライドは「身の程知らず」の最たる証拠ともなり、それこそ
真のプライドに即するなら、身の程知らずの謗りを拭いたいがために、無根拠なプライドのほうは率先して捨て去るのである。
孝悌に基づくような真のプライドを欠いたところでこそ、逆に無根拠なプライドのほうが肥大化する。
その無根拠なプライドへの依存が高まりすぎて、捨て去ろうにも捨て去れなくなったとき、
無根拠なプライドからなる高慢を阻害する原因となる、孝悌の心がけもまた困難と化してしまう。
実の親への子の孝心を否定して、虚構の超越神への絶対服従を強制する犯罪聖書の教義は、まさに孝心からなる
真のプライドを信者に損なわせて、虚構への服従からなる身の程知らずな思い上がりを蓄えさせる、最たるものである。
肩をそびやかしへつらい笑うことも何ら苦としない下衆がそこに生じ、徳行と楽しみと犯罪の苦しみの区別も付かない、
人としての最低限の品性すら持ち合わせぬ、餓鬼畜生の内面を持つ人非人の群れがそこに生じるわけである。
孝心に基づく真の誇りと、脳内超越神への服従に基づく偽りの誇りとは互いに相容れず、
どちらかを嗜む以上は、かならずもう一方が排斥の対象となる。特に何の嗜みもない所に孝心を抱けたなら、
それが脳内超越神への服従を排斥する予防手段となるし、すでに脳内超越神への服従という病に侵されている場合にも、
意識的に孝心を持ち直すことで、無根拠なプライドからなる、身の程知らずな思い上がりを滅尽していくことができる。
「今さら親への孝心を抱くことなんか、こっ恥ずかしい」、現代人の多くは、そう考えもするに違いない。
それもまた犯罪聖書の記述を始めとする、醜悪な邪義に知らず知らずのうちに洗脳下に置かれて来たからなのであり、
「人類滅亡の元凶ともなっている世界最悪の邪教=聖書信仰をこの世から撲滅するため」という大義によってこそ、
現代人もまた、今さら意識的に抱き直すのも気恥ずかしいところのある孝心を持ち直すのが、便利だといえる。
「茲れ殷の庶士、寵に席ること惟れ旧しく、侈を怙みて義を滅す、服人より美なり」
「殷人はみな紂王の寵遇を長く受けてきたため、贅沢ばかりを誇りとして道義を無きものとしている。
服装も分不相応に華美である。(この後>>294の引用に続く。贅沢を誇って道義を滅しているのは聖書信者も同じである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
どちらかを嗜む以上は、かならずもう一方が排斥の対象となる。特に何の嗜みもない所に孝心を抱けたなら、
それが脳内超越神への服従を排斥する予防手段となるし、すでに脳内超越神への服従という病に侵されている場合にも、
意識的に孝心を持ち直すことで、無根拠なプライドからなる、身の程知らずな思い上がりを滅尽していくことができる。
「今さら親への孝心を抱くことなんか、こっ恥ずかしい」、現代人の多くは、そう考えもするに違いない。
それもまた犯罪聖書の記述を始めとする、醜悪な邪義に知らず知らずのうちに洗脳下に置かれて来たからなのであり、
「人類滅亡の元凶ともなっている世界最悪の邪教=聖書信仰をこの世から撲滅するため」という大義によってこそ、
現代人もまた、今さら意識的に抱き直すのも気恥ずかしいところのある孝心を持ち直すのが、便利だといえる。
「茲れ殷の庶士、寵に席ること惟れ旧しく、侈を怙みて義を滅す、服人より美なり」
「殷人はみな紂王の寵遇を長く受けてきたため、贅沢ばかりを誇りとして道義を無きものとしている。
服装も分不相応に華美である。(この後>>294の引用に続く。贅沢を誇って道義を滅しているのは聖書信者も同じである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
キリスト教団が、上座部仏教から剽窃して自分たちの根本教義とした「自殺の禁止」、
これはあくまで上座部仏教教義のカタワな剽窃であり、上座部の経典「法句経」のほうには
「無賊害心(何ものをも害する心を持つことなし)」とあり、自害だけでなく、
他者への危害も同時に戒めるのが、本来の正統な宗教教義となっている。
上座部だげでなく、大乗の根本経典である「華厳経」にも
「自らを害せず他を害せず、両ながらに害せず(十行品第二十一の一)」とある。
大乗仏教の場合、密教が自殺行為も同然の荒行に及ぶ場合があり、必ずしも「自らを害せず」
のほうは守られていないが、これは仏教ではなく、仏教以前の実践派宗教であるタントラ教に根ざして
仏の悟りを得ようとする試みであり、純粋な仏教教義としては、大乗も自他を害さぬことを基本としている。
自らを害さず、他者をも害さぬことが、善因楽果の異熟(トートロジー破綻)をも結実させるのであり、逆に
もしも自他を害することに専らであるのなら、それが仏説への違背となるが故に、悪因苦果の異熟を実らせるのである。
自害の禁止は、本当は聖書教義に根ざしているわけでもないにも関わらず、キリスト教団も無理やり
実行してきた。それは決して悪因苦果の温床にもならなかったが、聖書教義に根ざして、他者を害する
風潮だけは大々的に肯定してきたことが、紛れもなく、甚大な悪因苦果を催す元凶ともなってきた。
これはあくまで上座部仏教教義のカタワな剽窃であり、上座部の経典「法句経」のほうには
「無賊害心(何ものをも害する心を持つことなし)」とあり、自害だけでなく、
他者への危害も同時に戒めるのが、本来の正統な宗教教義となっている。
上座部だげでなく、大乗の根本経典である「華厳経」にも
「自らを害せず他を害せず、両ながらに害せず(十行品第二十一の一)」とある。
大乗仏教の場合、密教が自殺行為も同然の荒行に及ぶ場合があり、必ずしも「自らを害せず」
のほうは守られていないが、これは仏教ではなく、仏教以前の実践派宗教であるタントラ教に根ざして
仏の悟りを得ようとする試みであり、純粋な仏教教義としては、大乗も自他を害さぬことを基本としている。
自らを害さず、他者をも害さぬことが、善因楽果の異熟(トートロジー破綻)をも結実させるのであり、逆に
もしも自他を害することに専らであるのなら、それが仏説への違背となるが故に、悪因苦果の異熟を実らせるのである。
自害の禁止は、本当は聖書教義に根ざしているわけでもないにも関わらず、キリスト教団も無理やり
実行してきた。それは決して悪因苦果の温床にもならなかったが、聖書教義に根ざして、他者を害する
風潮だけは大々的に肯定してきたことが、紛れもなく、甚大な悪因苦果を催す元凶ともなってきた。
自害は禁止するにも関わらず、他害は根本的な倫理違反として来なかった点が(法律で取り締まるぐらいはあった)、
キリスト教教義の決定的に不完全な部分であった。本当は自他を害しようとする害為全般をよからぬものとすることが
完全なる宗教教義だったのであり、それは即ち、聖書教義ではないと共に、仏教教義である教義だったのだといえる。
宗教教義や、戒律法規に囚われすぎることをよからぬこととする、神道や儒学などの立場もある一方で、
かりに宗教的な戒律に即するというのなら、仏教のような優等な宗教の戒律に即するべきであり、
聖書教(必ずしも現実のキリスト教は聖書教そのものではないが)やその他の有象無象の劣悪な邪教は拠り所と
しないようにすべきであるといえる。そして、教学全般をいちいち頼りにしない、無為自然第一の道家的な
趣きもあり、もう教学論争なんかにいちいち構っていたくないとすることもまた、決して赦されないことではない。
「人能く人を害するを欲すること無き心を充いにすれば、而ち仁も用うるに勝うべからざるなり」
「人がよく他者を害することを欲しない心を大いにしたならば、仁徳もその全てを用いきれないほどに広大となる。
(他者への害心を無制限に肥大化させていったりしたのなら、それに反比例して仁徳も窄むのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三一より)
キリスト教教義の決定的に不完全な部分であった。本当は自他を害しようとする害為全般をよからぬものとすることが
完全なる宗教教義だったのであり、それは即ち、聖書教義ではないと共に、仏教教義である教義だったのだといえる。
宗教教義や、戒律法規に囚われすぎることをよからぬこととする、神道や儒学などの立場もある一方で、
かりに宗教的な戒律に即するというのなら、仏教のような優等な宗教の戒律に即するべきであり、
聖書教(必ずしも現実のキリスト教は聖書教そのものではないが)やその他の有象無象の劣悪な邪教は拠り所と
しないようにすべきであるといえる。そして、教学全般をいちいち頼りにしない、無為自然第一の道家的な
趣きもあり、もう教学論争なんかにいちいち構っていたくないとすることもまた、決して赦されないことではない。
「人能く人を害するを欲すること無き心を充いにすれば、而ち仁も用うるに勝うべからざるなり」
「人がよく他者を害することを欲しない心を大いにしたならば、仁徳もその全てを用いきれないほどに広大となる。
(他者への害心を無制限に肥大化させていったりしたのなら、それに反比例して仁徳も窄むのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三一より)
人間精神には、先祖代々の血筋からなる先天的な志向性というものがある。
それは、無理に従おうとせずとも自然と受け継がれるものであり、その志向性の善い部分を
ありのままに受け継いで、悪い部分を修正していくために必要となるのが、親への孝心にあたる。
では、親への孝心を邪神信仰などによって完全にかなぐり捨て、存在すると
仮定した脳内超越神への服従にすがろうとした場合、一体どうなるのかといって、
先祖代々積み重ねられてきた善い志向性は完全に反故にされ、代わりに悪い
志向性だけが、人間以下の畜生同然の品性と共に保全されていくことになる。
先祖代々の血筋に基づく志向性のうちで、善い志向性とは、善人や賢人や聖人、或いは神仏の
如き先祖の志向性のことであり、悪い志向性とは、人間以下の餓鬼畜生も同然の志向性のことだ。
孝心はこのような意味での悪い志向性を捨てて、善い志向性を受け継ぐ効果を持つ一方で、
孝心の欠如は少なからず、善い嗜好性を捨てて悪い志向性を深刻化させていく効果を持つ。
犯罪聖書の邪神にすがることも、上記のような意味での、孝心の欠如に溺れる所業以内の以下であり、
別にこれといって人間精神の向上が期待されるわけではない、のみならず、ただ自分たちの
品性を餓鬼畜生も同然の域へと貶める以外の、何らの効能も持ち合わせてはいない。
犯罪聖書にすがった結果、人間精神以外の何らかの向上が期待できるというのならまだしも、
それすら全くなく、ただ純粋に人間精神の下落ばかりが進行するのみである。邪信によって
人間精神が毀損された結果どうなるかといって、ただ餓鬼畜生も同然の存在と化すのみであり、
これもまた全くの仏教思想などの範疇であり、どこにも珍しがれるものがないのである。
それは、無理に従おうとせずとも自然と受け継がれるものであり、その志向性の善い部分を
ありのままに受け継いで、悪い部分を修正していくために必要となるのが、親への孝心にあたる。
では、親への孝心を邪神信仰などによって完全にかなぐり捨て、存在すると
仮定した脳内超越神への服従にすがろうとした場合、一体どうなるのかといって、
先祖代々積み重ねられてきた善い志向性は完全に反故にされ、代わりに悪い
志向性だけが、人間以下の畜生同然の品性と共に保全されていくことになる。
先祖代々の血筋に基づく志向性のうちで、善い志向性とは、善人や賢人や聖人、或いは神仏の
如き先祖の志向性のことであり、悪い志向性とは、人間以下の餓鬼畜生も同然の志向性のことだ。
孝心はこのような意味での悪い志向性を捨てて、善い志向性を受け継ぐ効果を持つ一方で、
孝心の欠如は少なからず、善い嗜好性を捨てて悪い志向性を深刻化させていく効果を持つ。
犯罪聖書の邪神にすがることも、上記のような意味での、孝心の欠如に溺れる所業以内の以下であり、
別にこれといって人間精神の向上が期待されるわけではない、のみならず、ただ自分たちの
品性を餓鬼畜生も同然の域へと貶める以外の、何らの効能も持ち合わせてはいない。
犯罪聖書にすがった結果、人間精神以外の何らかの向上が期待できるというのならまだしも、
それすら全くなく、ただ純粋に人間精神の下落ばかりが進行するのみである。邪信によって
人間精神が毀損された結果どうなるかといって、ただ餓鬼畜生も同然の存在と化すのみであり、
これもまた全くの仏教思想などの範疇であり、どこにも珍しがれるものがないのである。
ただ人類史上未曾有の災禍をもたらしているというだけでなく、それによって何ら新たな
発見が得られたわけでもないところが、聖書信仰が決定的につまらない所以でもある。
ただ儒学や仏教といった、聖書信仰よりも以前から存在する東洋の教学の完璧さが改めて
確かめられたというばかりのことであり、何か収穫があったとすれば、それぐらいのことだといえる。
儒学や仏教の純粋な学説教義の是非はともかく、東洋史上における儒者や仏者の誰しもが
完璧超人だったなんてことは決してなく、官僚界や僧団などの腐敗を通じて、相当にダメな奴らが
蔓延るようになっていたことも多々ある。そのような実情はともかくとして、儒仏の教学自体は、
ちゃんと実践するのであれば、確実に聖書信仰の実践以上にも優良な効果が挙げられることが今になって
実証されたわけだから、かつての儒仏の気風をそのまま復興する以上にも、聖書信仰という反面教師を
厳重な差別の対象としつつの、より毅然とした儒仏の実践を心がけていくようにしていけばいいのである。
聖書信仰の実践という未曾有の災禍も、儒仏の実践のより一層の本格化に
寄与するというのなら、それこそ、「禍転じて福と成す」にもなるといえる。
「子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰れか鄹人の子の禮を知ると
謂うや、大廟に入りては、事ごとに問うと。子之れを聞きて曰く、是れ礼なり」
「先生は魯の周公を祀る大神殿に入られると、儀礼のことについて色々と質問された。
ある人が言った。『誰が鄹の役人(孔子の父の叔梁紇)の子は礼儀の知識が豊富だ
などと言ったのだろう。大神殿に入ると、あのように何もかもを質問しているではないか』
先生はこれを聞いて言われた。『大きな神殿ではこのようにするのが礼儀なのだ』
(著名な神殿で我流の振る舞いをして粗相を為さないようにする慎重さが、これまた礼儀なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一五)
発見が得られたわけでもないところが、聖書信仰が決定的につまらない所以でもある。
ただ儒学や仏教といった、聖書信仰よりも以前から存在する東洋の教学の完璧さが改めて
確かめられたというばかりのことであり、何か収穫があったとすれば、それぐらいのことだといえる。
儒学や仏教の純粋な学説教義の是非はともかく、東洋史上における儒者や仏者の誰しもが
完璧超人だったなんてことは決してなく、官僚界や僧団などの腐敗を通じて、相当にダメな奴らが
蔓延るようになっていたことも多々ある。そのような実情はともかくとして、儒仏の教学自体は、
ちゃんと実践するのであれば、確実に聖書信仰の実践以上にも優良な効果が挙げられることが今になって
実証されたわけだから、かつての儒仏の気風をそのまま復興する以上にも、聖書信仰という反面教師を
厳重な差別の対象としつつの、より毅然とした儒仏の実践を心がけていくようにしていけばいいのである。
聖書信仰の実践という未曾有の災禍も、儒仏の実践のより一層の本格化に
寄与するというのなら、それこそ、「禍転じて福と成す」にもなるといえる。
「子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰れか鄹人の子の禮を知ると
謂うや、大廟に入りては、事ごとに問うと。子之れを聞きて曰く、是れ礼なり」
「先生は魯の周公を祀る大神殿に入られると、儀礼のことについて色々と質問された。
ある人が言った。『誰が鄹の役人(孔子の父の叔梁紇)の子は礼儀の知識が豊富だ
などと言ったのだろう。大神殿に入ると、あのように何もかもを質問しているではないか』
先生はこれを聞いて言われた。『大きな神殿ではこのようにするのが礼儀なのだ』
(著名な神殿で我流の振る舞いをして粗相を為さないようにする慎重さが、これまた礼儀なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一五)
「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん(既出)」
「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二より)
常人並みの品性も持たない、IQ40以下の畜人にとっての神といえば、ありのままに牧場主とでもいったところ。
それも、良民を牧する君子などという比喩にも当たらない、まさに畜獣を飼いならす職業上の牧場主そのもの。
本当はIQ100程度の知能を保つ能力を持つ人間をあえて、畜獣同然の品性にまで劣化させて、
その畜人たちを飼育の対象とする牧場主たるや、まさに餓鬼畜生の親分とでもいったところ。
比喩にすら当たらない本物の人間家畜化は、飼い主と畜人の両方ともを鬼畜と化す所業そのものとなる。
そこにこそ、神はいないのである。神もいないし、仏もいない。そして人並みの人間もいない。
神仏や人がそのような鬼畜の領域を察知することはあるが、できる限りなくしていくべきものとするばかりで、
決して承認の対象としたりするものではない。特に人間道徳と仏法とが、そのような鬼畜の所業の徹底的な排除に
臨みもするが、神道に代表されるような正統な神たるや、もはや鬼畜の糾弾にすら及ぶことなく、完全に逐電して、
決して鬼畜の前などに姿を現すこともなかったりする。そのような神はどうあがこうとも、鬼畜には絶対に会えはしない。
「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二より)
常人並みの品性も持たない、IQ40以下の畜人にとっての神といえば、ありのままに牧場主とでもいったところ。
それも、良民を牧する君子などという比喩にも当たらない、まさに畜獣を飼いならす職業上の牧場主そのもの。
本当はIQ100程度の知能を保つ能力を持つ人間をあえて、畜獣同然の品性にまで劣化させて、
その畜人たちを飼育の対象とする牧場主たるや、まさに餓鬼畜生の親分とでもいったところ。
比喩にすら当たらない本物の人間家畜化は、飼い主と畜人の両方ともを鬼畜と化す所業そのものとなる。
そこにこそ、神はいないのである。神もいないし、仏もいない。そして人並みの人間もいない。
神仏や人がそのような鬼畜の領域を察知することはあるが、できる限りなくしていくべきものとするばかりで、
決して承認の対象としたりするものではない。特に人間道徳と仏法とが、そのような鬼畜の所業の徹底的な排除に
臨みもするが、神道に代表されるような正統な神たるや、もはや鬼畜の糾弾にすら及ぶことなく、完全に逐電して、
決して鬼畜の前などに姿を現すこともなかったりする。そのような神はどうあがこうとも、鬼畜には絶対に会えはしない。
特に、高位の神であればあるほど、鬼畜の領域からは遠ざかる。鬼畜の領域などに立ち入ることはおろか、
見聞きすることすら避け、悪趣の領域への察知全般から拒絶してしまう。それほどにも高潔無比なところにこそ、最高格の
神もまたあり、それと比べればまだ低位である神に限って、鬼畜の領域を見聞きしたり察知したりすることもあり得るのである。
鬼畜による侵略が始まった最原初の頃から、最高位の神はとっくに雲隠れを決め込み、少しの抵抗すら行ったこともない。
それでいて最高位に値するだけの品位を同時に岩戸隠れさせることで、本当に世界が破滅の危機に晒されてもいる。
最高位の神が鬼畜と共存することができないのにも、絶対的な理由があるわけで、その威光による世界の救済を
望む以上は、鬼畜のほうがこの世から消え去る必要がある。自分たち鬼畜の分際が、最高位の神などと見聞きし合うことも、
知り合うことも未来劫永世にわたってあり得ないことを諾って、暗黒の愚昧ごと自分たちがこの世から消え去るのである。
鬼畜であるが故に真の神と知り合うこともできないこともまた、進んで鬼畜となった者への罰であると承るのである。
「敬いて神を養う在り」
「十分な畏敬を抱くことで、初めて神にも仕えることができる。
(『養神(我が心のうちの神を養う)』と書いて『神に仕える』という意味になる。
禽獣同然の濁愛などではなく、畏敬こそが養神、すなわち神に仕える真の方法となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十三年より)
見聞きすることすら避け、悪趣の領域への察知全般から拒絶してしまう。それほどにも高潔無比なところにこそ、最高格の
神もまたあり、それと比べればまだ低位である神に限って、鬼畜の領域を見聞きしたり察知したりすることもあり得るのである。
鬼畜による侵略が始まった最原初の頃から、最高位の神はとっくに雲隠れを決め込み、少しの抵抗すら行ったこともない。
それでいて最高位に値するだけの品位を同時に岩戸隠れさせることで、本当に世界が破滅の危機に晒されてもいる。
最高位の神が鬼畜と共存することができないのにも、絶対的な理由があるわけで、その威光による世界の救済を
望む以上は、鬼畜のほうがこの世から消え去る必要がある。自分たち鬼畜の分際が、最高位の神などと見聞きし合うことも、
知り合うことも未来劫永世にわたってあり得ないことを諾って、暗黒の愚昧ごと自分たちがこの世から消え去るのである。
鬼畜であるが故に真の神と知り合うこともできないこともまた、進んで鬼畜となった者への罰であると承るのである。
「敬いて神を養う在り」
「十分な畏敬を抱くことで、初めて神にも仕えることができる。
(『養神(我が心のうちの神を養う)』と書いて『神に仕える』という意味になる。
禽獣同然の濁愛などではなく、畏敬こそが養神、すなわち神に仕える真の方法となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十三年より)
知識によって孔子のような恭しさを身に付けることも、愛によって紂王のような奢り高ぶりを抱く場合もある。
そして知識ばかりによって全てが尽くされるということも、愛ばかりによって全てが尽くされるということも、
人間にはあり得ない。そこに畏敬が伴っていないのならば、愛や知識が最善を尽くすこともまたないのである。
無軌道な愛や知識ばかりがあって、畏敬など微塵もないところに、鬼畜としての人間が生ずる。
鬼畜<人間<神仏
であり、愛や知識と神仏などへの畏敬の均衡を取ることで、初めて人は鬼畜以上の品性を手に入れる。
「畏敬なんてなくて当たり前だ」と思っている現代人には奇異に思える話であっても、本当は、一定度の畏敬を
保っていられてこそ、人間は本物の人間並みの品性をも保つのである。人は決して一人では生きられず、
必ず家族やそれ以上の社会的共同体の構成員としてのみ生存を許されるものだから、その構成員同士の関係を
保全していくための敬意が必ず必要になる。その敬意を育むための手段となるのが、先祖供養を
始めとする神仏への畏敬であり、文明化された大規模な都市社会にもかかわらずではなくだからこそ、
社稷霊廟を丹念に作り込んでの、豪壮な礼楽による儀式での、畏敬の養生すらをも必要としたりする。
してみれば、愛や知識以上にも、畏敬こそは人間社会において必要不可欠なものですらあるといえる。
滅亡へとまっしぐらな集団自殺状態の世の中にも、濁愛や悪知恵は多数介在しているが、畏敬だけはどこにもない。
愛や知識の一部が人類滅亡の元凶とすらなる一方、愛や知識を善用する心持ちでもある畏敬こそは、人類の存続や繁栄を
決定付ける鍵ともなる。愛や知識によって人類の存続や繁栄が決定付けられるわけでもない一方で、畏敬こそはそれを
決定付けるわけだから、人が人としてより積極的に希求していくべきなのも、愛や知識以上にも、畏敬であるといえる。
そして知識ばかりによって全てが尽くされるということも、愛ばかりによって全てが尽くされるということも、
人間にはあり得ない。そこに畏敬が伴っていないのならば、愛や知識が最善を尽くすこともまたないのである。
無軌道な愛や知識ばかりがあって、畏敬など微塵もないところに、鬼畜としての人間が生ずる。
鬼畜<人間<神仏
であり、愛や知識と神仏などへの畏敬の均衡を取ることで、初めて人は鬼畜以上の品性を手に入れる。
「畏敬なんてなくて当たり前だ」と思っている現代人には奇異に思える話であっても、本当は、一定度の畏敬を
保っていられてこそ、人間は本物の人間並みの品性をも保つのである。人は決して一人では生きられず、
必ず家族やそれ以上の社会的共同体の構成員としてのみ生存を許されるものだから、その構成員同士の関係を
保全していくための敬意が必ず必要になる。その敬意を育むための手段となるのが、先祖供養を
始めとする神仏への畏敬であり、文明化された大規模な都市社会にもかかわらずではなくだからこそ、
社稷霊廟を丹念に作り込んでの、豪壮な礼楽による儀式での、畏敬の養生すらをも必要としたりする。
してみれば、愛や知識以上にも、畏敬こそは人間社会において必要不可欠なものですらあるといえる。
滅亡へとまっしぐらな集団自殺状態の世の中にも、濁愛や悪知恵は多数介在しているが、畏敬だけはどこにもない。
愛や知識の一部が人類滅亡の元凶とすらなる一方、愛や知識を善用する心持ちでもある畏敬こそは、人類の存続や繁栄を
決定付ける鍵ともなる。愛や知識によって人類の存続や繁栄が決定付けられるわけでもない一方で、畏敬こそはそれを
決定付けるわけだから、人が人としてより積極的に希求していくべきなのも、愛や知識以上にも、畏敬であるといえる。

それほどにも腐敗にまみれた政界を強制支配するものとしての法家思想を韓非は提唱し、始皇帝もその一部を秦帝国における
統治理念として採用した。結果、たった十五年で秦帝国は崩壊し、規制緩和を旗頭にした漢帝国に政権を奪われたのだった。
「韓非子」にあるような醜悪なゴシップこそは、別に夫への敬意を持ち合わせているわけでもない、
今の世の中の夫人が非常に好き好むもの。夫への愛などもあったところで、所詮はペットか家畜に対するも同然の愛であり、
武家の女が武士たる男に抱いていたような敬愛が、今の夫婦間において介することなども、決してないわけである。
醜悪な知識と、ペットか家畜に対するかのような下劣な情愛、この二つを今という時代の夫人が、特に好き好んでいる。
故に既婚女性ほど醜悪な内面を持つ生き物も他にないかのような風潮すらもが噴出しているわけで、実際その内心の濁悪さを
国政に流用したりすれば、秦帝国崩壊ほどもの大破綻すらもが必定となるもの。始皇帝の母親の朱姫も、巨根で知られた
呂不韋の食客嫪毒を、それだけの理由で偽宦官として傍に置いて寵愛したというし、傾国間近の帝国には、男に対する微塵の敬愛も
持たない女が多数群がることも事実である。夫や男に対する敬愛を著しく欠いた女の愛や知識こそは、まさに帝国崩壊級もの厄介さを
持つものであり、畏敬を欠いた愛や知識が、まさに世界の破滅をも呼び込む元凶となる実例になっているといえる。
「賢者は狎れて而かも之れを敬し、畏れて而かも之れを愛す」
「賢者は馴れ合うような近親の中にも敬いを抱き、畏れを抱いた上でなおその相手を愛する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
父母の野合によって身ごもられた妾腹の私生児として産まれ、
なおかつ母子家庭という、義父持ちのイエス以上にも不遇な環境で育った孔子が、
だからといって「聖人君子」として崇めたてられているなどという事実も、全くない。
不遇の中にも、自力で詩書や易、礼法や当時の近代史(春秋史)の勉強や研究に努め、
正統な道徳学の根本正典となる五経(本来は楽経を含む六経だが、楽経は後世に絶えた)を体系化し、
その業績によって漢代400年や唐代300年、江戸徳川260年といった泰平統治を実現する礎ともなった、
歴史上に紛れもないその偉大さこそが、孔子が聖人君子として崇められる理由ともなっているのであり、
本人がひどい不遇で生まれ育ったことなどは、それが猛勉強に励む気概にはなったにしても、決してそれ自体が
賞賛の対象などにはされず、「史記」の孔子世家に一応だけ書き留められる程度の扱いに止められている。
本当に偉大な業績を挙げることで称賛されたり、またそのような人間を称賛したりする所に、真の満足もまたある。
ひどい不遇や身心の不具などに晒された人間を、だからといって称えたりするような不埒なウレシがりなどは、
称える側にも、称えられる側にも根本的な気まずさを植え付けて、決して本当に満足させたりすることがない。
あらかじめ恵まれた環境に生まれ育った人間が、そこからさらに偉大な業績を挙げること以上にも、
相当の不遇に晒された人間が、その不遇をバネにして偉大な業績を挙げることのほうが、喜びもひとしおですらある。
実際、恵まれた環境と才能というのは、易学的にも両立しにくいものとされているから、血筋はよくても能力には
乏しい主君が、血筋は劣るものの能力に長ける臣下を用いる君臣関係こそが、儒学上でも良好なものとされている。
なおかつ母子家庭という、義父持ちのイエス以上にも不遇な環境で育った孔子が、
だからといって「聖人君子」として崇めたてられているなどという事実も、全くない。
不遇の中にも、自力で詩書や易、礼法や当時の近代史(春秋史)の勉強や研究に努め、
正統な道徳学の根本正典となる五経(本来は楽経を含む六経だが、楽経は後世に絶えた)を体系化し、
その業績によって漢代400年や唐代300年、江戸徳川260年といった泰平統治を実現する礎ともなった、
歴史上に紛れもないその偉大さこそが、孔子が聖人君子として崇められる理由ともなっているのであり、
本人がひどい不遇で生まれ育ったことなどは、それが猛勉強に励む気概にはなったにしても、決してそれ自体が
賞賛の対象などにはされず、「史記」の孔子世家に一応だけ書き留められる程度の扱いに止められている。
本当に偉大な業績を挙げることで称賛されたり、またそのような人間を称賛したりする所に、真の満足もまたある。
ひどい不遇や身心の不具などに晒された人間を、だからといって称えたりするような不埒なウレシがりなどは、
称える側にも、称えられる側にも根本的な気まずさを植え付けて、決して本当に満足させたりすることがない。
あらかじめ恵まれた環境に生まれ育った人間が、そこからさらに偉大な業績を挙げること以上にも、
相当の不遇に晒された人間が、その不遇をバネにして偉大な業績を挙げることのほうが、喜びもひとしおですらある。
実際、恵まれた環境と才能というのは、易学的にも両立しにくいものとされているから、血筋はよくても能力には
乏しい主君が、血筋は劣るものの能力に長ける臣下を用いる君臣関係こそが、儒学上でも良好なものとされている。
不遇に生まれ育つことは、その不遇をバネにした大成を志す、逆説的な意味でのチャンスですらあるのに、
あろうことかそのチャンスを蔑ろにして、不遇に甘んじることを正当化したりするから、非常に気まずくなる。
気まずくて、つまらない。せっかくのチャンスを台無しにするその無様さが、易の吉祥法則にも反するものだから、
全体的な空気の流れを丸ごと不吉な方向へと追いやる、「凶相の構築」の元凶にすらなってしまうのである。
妾腹の私生児が必ずしも凶相を呼び込むのではなく、その凶相を正当化しようとする不埒さこそが、決定的な凶相の元凶となる。
妾腹の私生児ほどもの不遇すらをも、自助努力によって乗り越えようとする志しがあり、その志しが大成したならば、それは
人並み以上どころか、人類史上未曾有の大成にすらなり得るのだから、極度の不遇というのは、一種の「諸刃の剣」だといえる。
大成した場合には大いに振るうことを許される一方で、成功できなかった場合には決して振るうべきでない、諸刃の剣である。
「稷は天下に飢える者あれば、己れ由り之れを飢えしむると思えり」
「后稷は天下に飢える者が一人でもいれば、自分が飢えさせているという風に考えた。(万民の主を気取りながら、
民の飢渇を自分の責任だとも考えないエホバこそは、不埒さ極まりない自らの現状をよくわきまえるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
あろうことかそのチャンスを蔑ろにして、不遇に甘んじることを正当化したりするから、非常に気まずくなる。
気まずくて、つまらない。せっかくのチャンスを台無しにするその無様さが、易の吉祥法則にも反するものだから、
全体的な空気の流れを丸ごと不吉な方向へと追いやる、「凶相の構築」の元凶にすらなってしまうのである。
妾腹の私生児が必ずしも凶相を呼び込むのではなく、その凶相を正当化しようとする不埒さこそが、決定的な凶相の元凶となる。
妾腹の私生児ほどもの不遇すらをも、自助努力によって乗り越えようとする志しがあり、その志しが大成したならば、それは
人並み以上どころか、人類史上未曾有の大成にすらなり得るのだから、極度の不遇というのは、一種の「諸刃の剣」だといえる。
大成した場合には大いに振るうことを許される一方で、成功できなかった場合には決して振るうべきでない、諸刃の剣である。
「稷は天下に飢える者あれば、己れ由り之れを飢えしむると思えり」
「后稷は天下に飢える者が一人でもいれば、自分が飢えさせているという風に考えた。(万民の主を気取りながら、
民の飢渇を自分の責任だとも考えないエホバこそは、不埒さ極まりない自らの現状をよくわきまえるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
自利よりも利他を重んじる大乗仏教ですら、自らを利して他者を利することを是とする。
その上で自利一辺倒の小乗(上座部)の信者である声聞や独覚を、
自他を利する大乗の修行者である菩薩よりも下に置く。
自らを利することなく他者を利することを是とするところに、偽善が生じる。
本当に自利を完全にかなぐり捨てて、利他一辺倒であるということは、実際は不可能なことであり、
実情は自利を隠しながら利他に励むことだけを大っぴらにする演技となるばかりである。
そしてその、隠し隠しにしている自利こそは不正に甚大であったりもする。
一定の自利と共に利他を志していることを明示しないものこそは、
一概な利他という演技を隠れ蓑にした、不正に甚大な自利に及びもする。
だから古今東西いつの時代どこの世界においても、自利を捨てて利他を志しているかのように
見せかけているものは必ず、裏では膨大な自利に明け暮れているという不変法則があるのである。
「工、其の事を善くせんと欲すれば、必ず其の器を利す」
「職人も、うまい仕事をしようとする時には、まず自らが用いる道具を充実させる。
(密教でも『利剣』という法具が用いられることがあるが、士農工商のうちの下から二番目である職工から
してすでに、他者を利するための自利がある程度は必要になる。商売人だって、職工以上の高尚な職業の、
仁義に根ざしたあり方に倣うこともできないわけではないが、資本主義はかえってそれを否定している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一〇より)
その上で自利一辺倒の小乗(上座部)の信者である声聞や独覚を、
自他を利する大乗の修行者である菩薩よりも下に置く。
自らを利することなく他者を利することを是とするところに、偽善が生じる。
本当に自利を完全にかなぐり捨てて、利他一辺倒であるということは、実際は不可能なことであり、
実情は自利を隠しながら利他に励むことだけを大っぴらにする演技となるばかりである。
そしてその、隠し隠しにしている自利こそは不正に甚大であったりもする。
一定の自利と共に利他を志していることを明示しないものこそは、
一概な利他という演技を隠れ蓑にした、不正に甚大な自利に及びもする。
だから古今東西いつの時代どこの世界においても、自利を捨てて利他を志しているかのように
見せかけているものは必ず、裏では膨大な自利に明け暮れているという不変法則があるのである。
「工、其の事を善くせんと欲すれば、必ず其の器を利す」
「職人も、うまい仕事をしようとする時には、まず自らが用いる道具を充実させる。
(密教でも『利剣』という法具が用いられることがあるが、士農工商のうちの下から二番目である職工から
してすでに、他者を利するための自利がある程度は必要になる。商売人だって、職工以上の高尚な職業の、
仁義に根ざしたあり方に倣うこともできないわけではないが、資本主義はかえってそれを否定している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一〇より)
菩薩行も自他を利することを明示するし、仁義道徳も万人を利して我が利とすることを念頭に置いている。
これらの理念をありのままに実行できるのが、君子としての為政だったり出家修行だったりする一方、
なかなか実行しにくかったり、逆に利他を蔑ろにした自利に及びやすいのが商業である。
完全に利他を捨てて自利一辺倒となれば、それはもはや犯罪者も同然だが、商売人ならまだ、
自利と利他の均衡を取ることができる。とはいえ自利以上の利他を志すことが商売人の義務だったり
するわけではないし、サービスを上回る収益を上げることが商売人の本是とすらされもするのである。
そしてその商売人こそは、「お客さま第一」のような態度でいて、顧客に奉仕することが我らにとっての
全てであるかのように振舞いもする。もちろんそれは完全な演技であり、腹の内ではほぼ必ず、
いかに客からより大きな利益をぶんどるかばかりを考えている。これこそ「自利を捨てた利他一辺倒で
あるかのように見せかけるものこそは、不正な自利を旨とする」の法則にそのまま当てはまる姿だといえる。
絶対にそういう連中が存在してはならないとまでは言わないが、少なくともだからといって偉いなんてことはない。
むしろ、自利も利他もさして志しもしないもののほうがまだマシなぐらいで、世の中のうちでも特に卑しい
部類の人種の所業でこそあることには間違いない。自利を捨ててでも利他を志すなんていう無謀な理念は、
裏での不正な自利を促す以外のいかなる効果も持ち得ないのだから、その理念からして、鼻つまみものだといえる。
これらの理念をありのままに実行できるのが、君子としての為政だったり出家修行だったりする一方、
なかなか実行しにくかったり、逆に利他を蔑ろにした自利に及びやすいのが商業である。
完全に利他を捨てて自利一辺倒となれば、それはもはや犯罪者も同然だが、商売人ならまだ、
自利と利他の均衡を取ることができる。とはいえ自利以上の利他を志すことが商売人の義務だったり
するわけではないし、サービスを上回る収益を上げることが商売人の本是とすらされもするのである。
そしてその商売人こそは、「お客さま第一」のような態度でいて、顧客に奉仕することが我らにとっての
全てであるかのように振舞いもする。もちろんそれは完全な演技であり、腹の内ではほぼ必ず、
いかに客からより大きな利益をぶんどるかばかりを考えている。これこそ「自利を捨てた利他一辺倒で
あるかのように見せかけるものこそは、不正な自利を旨とする」の法則にそのまま当てはまる姿だといえる。
絶対にそういう連中が存在してはならないとまでは言わないが、少なくともだからといって偉いなんてことはない。
むしろ、自利も利他もさして志しもしないもののほうがまだマシなぐらいで、世の中のうちでも特に卑しい
部類の人種の所業でこそあることには間違いない。自利を捨ててでも利他を志すなんていう無謀な理念は、
裏での不正な自利を促す以外のいかなる効果も持ち得ないのだから、その理念からして、鼻つまみものだといえる。

その源流となっているゾロアスター教からして「拝火教」であり、
イランにも多数存在するガス田から立ち昇る火を見て、
古代のペルシャ人も一神教的な世界観を募らせていったのだとされる。
火は人類文明にほぼ必要不可欠な要素であり、どちらかといえば火よりも水を尊重する儒学ですら、
水火が無尽蔵に使えることが文明社会の常識であるように肯んじている。(「孟子」尽心上・二三など参照)
ただ、乾燥した燎原にあっという間に広がったり、火事によって家を丸焼きにしたりする火の
危険性をよく警戒して、慎重な扱いに取り組むことが易学的にも吉祥なこととされている。
文明社会が、火の扱いを慎重化することが概観的な意味での善となるのに対し、
火の慎重な扱いを疎かにして、どこかしこにも戯れに点火しまくることが悪となる。
しからぱ、ただ火を崇めているだけの拝火教が、だからといって悪なんていうことはない。
侵略の業火を他民族や異教徒にまで広げていこうとするユダヤ教から初めて悪が芽生えており、
ユダヤの放火癖に注油までをも加味したキリスト教に至って、邪教としての悪も極まった。
そしてユダヤ=キリストの劣悪な放火癖をコーランの教義によって打ち消すイスラムに至って、
悪の業火はまた消し止められて、善といわずとも不悪というところまでは立ち戻ったのだといえる。
火の扱いを疎かにして火事を広めまくる、文明社会の悪の法則に適っているのがユダヤとキリシタンであり、
拝火教とイスラムは辛うじて、悪の法則までをも満たしてはいない。火の燃え広がる習性と、
燃え続ける習性のいずれかを崇拝の対象としたかが両者の悪不悪を分かったのであり、
燃え広がる火の習性を崇め立てたユダヤ=キリシタンこそは、自分たちでは収拾も覚束ないほどの
罪悪の燃え広がり、破滅の業火を世界中へと飛び火させる元凶ともなったのである。
全世界、地球規模で言えば、ユダヤ=キリスト両聖書教が燃え広がらせた破滅の業火すらをも消し止める
用意は為されていた。ただそれは、インドの仏教や中国の儒学、そして日本などにおける本国以上もの
仏教や儒学の忠実な実践でこそあったのであり、イスラエル以西の世界発展とは基本、無縁だったものである。
自分たち聖書教徒が世界中に燃え広がらせた破滅の業火を、自分たちを含む人類が滅亡しない程度に
消し止めてくださる方がいらっしゃったところで、決してそれは犯罪聖書の神などであるわけではない。
むしろ、いま欧米人が経済戦での敗北などから目の敵にもしている中国人などの先祖こそは、聖書信仰が
この世にもたらす破滅の危機すらをも救ってくれる用意をしてくれていたのだから、まさに憎んでその善を知り、
自分たちが東洋人に頭を上げている余裕なども、もうないのだということをわきまえねばならない。
長年異民族の支配下に置かれることで、相当に野卑なざまと化している今の中国人などを、ありのままに
崇拝の対象などにできるはずもないが、少なくとももう、偉ぶりつつ応対できるような段階にはない。
満州開拓によって今の中国人にも経済進出の余地を与えてやった、日本人などであるのならともかくとして。
「孺子其れ朋せんか、孺子其れ朋せんか。
其れ往くに火の始め燄燄たるも、厥の灼敍する攸、其れ絶えざるが如きこと無かれ」
「若者たちよ、(組織犯罪の元凶となるような)友愛には、くれぐれも気をつけなさい。
それは最初はちょろちょろとくすぶっていた程度の火が、挙句には消し止められなくもなるほどに
燃え広がるようにして蔓延するものだから、決してそれにたぶらかされるようなことがあってはなりません。
(『君子は群して党せず』の典拠の一つ。業火の燃え広がりへの崇拝は、友愛による組織犯罪を肥大化させる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)
用意は為されていた。ただそれは、インドの仏教や中国の儒学、そして日本などにおける本国以上もの
仏教や儒学の忠実な実践でこそあったのであり、イスラエル以西の世界発展とは基本、無縁だったものである。
自分たち聖書教徒が世界中に燃え広がらせた破滅の業火を、自分たちを含む人類が滅亡しない程度に
消し止めてくださる方がいらっしゃったところで、決してそれは犯罪聖書の神などであるわけではない。
むしろ、いま欧米人が経済戦での敗北などから目の敵にもしている中国人などの先祖こそは、聖書信仰が
この世にもたらす破滅の危機すらをも救ってくれる用意をしてくれていたのだから、まさに憎んでその善を知り、
自分たちが東洋人に頭を上げている余裕なども、もうないのだということをわきまえねばならない。
長年異民族の支配下に置かれることで、相当に野卑なざまと化している今の中国人などを、ありのままに
崇拝の対象などにできるはずもないが、少なくとももう、偉ぶりつつ応対できるような段階にはない。
満州開拓によって今の中国人にも経済進出の余地を与えてやった、日本人などであるのならともかくとして。
「孺子其れ朋せんか、孺子其れ朋せんか。
其れ往くに火の始め燄燄たるも、厥の灼敍する攸、其れ絶えざるが如きこと無かれ」
「若者たちよ、(組織犯罪の元凶となるような)友愛には、くれぐれも気をつけなさい。
それは最初はちょろちょろとくすぶっていた程度の火が、挙句には消し止められなくもなるほどに
燃え広がるようにして蔓延するものだから、決してそれにたぶらかされるようなことがあってはなりません。
(『君子は群して党せず』の典拠の一つ。業火の燃え広がりへの崇拝は、友愛による組織犯罪を肥大化させる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...
「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の四に、菩薩がイエスとほぼ同等の受刑の代行によって
死刑囚を救うという記述がある。しかし、菩薩は受刑を肩代わりすることで死んで生き返る
わけではないし、冤罪の引き受けが新たな犯罪現象の拡大にも加担しかねないことを半ば了解し、
それによって生じた全ての犯罪現象の責任すらをも、代わりに負っていくのだという。
それでいてそれは、「一切衆生を救護せんがため」なのだという。
高台に縛り上げられて、槍で突き通されて死ななければならなくなるような重罪人こそを救うためではなく、
それほどもの重罪人を含む、あらゆる衆生を救わんがためにこそ、重罪人の受刑すらも肩代わりするという。
冤罪で十字架にかけられたヒゲで半裸のおっさんを、特定して信じるから救われるなんてことは決してない。
ただ、それほどにも無様な輩を含む一切の衆生を、聖道門の菩薩が救うということはある。
むしろそれこそは、聖道門の菩薩の責務でもある。五逆や誹謗正法に及んだだけで救済の対象から外される
他力の浄土門などではなく、厳しい出家修行に自らが臨んで行く聖道門においてこそ、
尊属殺人犯級の重罪人すらをも救っていくことが義務とされていくのである。
これが、新約犯罪聖書が書かれた約1900年前、ほぼ同時期に書かれた「華厳経」の一節である。
十字架によってこそ救われるなどという選民志向の妄信すら捨て去ったなら、そのような邪信に溺れることで
自らが本当に磔刑級の重罪を犯してしまった人間までをも、聖道門の菩薩が救済していってやるのだと、
新約がでっち上げられた最初期の頃から、すでにインドに誓約されていたのである。
「磔刑級の人間ですら救われる」の真逆に当たる、「磔刑級の人間こそが救われる」という転倒夢想を押し広める
聖書信仰こそは、聖道門の自力仏教をこの世から絶やすほどもの乱世をもたらすものだから、自動的に、聖道門の
菩薩行によって磔刑級の人間が救われる余地も絶やされる。真理とはそもそも、そういう風にできているのである。
「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の四に、菩薩がイエスとほぼ同等の受刑の代行によって
死刑囚を救うという記述がある。しかし、菩薩は受刑を肩代わりすることで死んで生き返る
わけではないし、冤罪の引き受けが新たな犯罪現象の拡大にも加担しかねないことを半ば了解し、
それによって生じた全ての犯罪現象の責任すらをも、代わりに負っていくのだという。
それでいてそれは、「一切衆生を救護せんがため」なのだという。
高台に縛り上げられて、槍で突き通されて死ななければならなくなるような重罪人こそを救うためではなく、
それほどもの重罪人を含む、あらゆる衆生を救わんがためにこそ、重罪人の受刑すらも肩代わりするという。
冤罪で十字架にかけられたヒゲで半裸のおっさんを、特定して信じるから救われるなんてことは決してない。
ただ、それほどにも無様な輩を含む一切の衆生を、聖道門の菩薩が救うということはある。
むしろそれこそは、聖道門の菩薩の責務でもある。五逆や誹謗正法に及んだだけで救済の対象から外される
他力の浄土門などではなく、厳しい出家修行に自らが臨んで行く聖道門においてこそ、
尊属殺人犯級の重罪人すらをも救っていくことが義務とされていくのである。
これが、新約犯罪聖書が書かれた約1900年前、ほぼ同時期に書かれた「華厳経」の一節である。
十字架によってこそ救われるなどという選民志向の妄信すら捨て去ったなら、そのような邪信に溺れることで
自らが本当に磔刑級の重罪を犯してしまった人間までをも、聖道門の菩薩が救済していってやるのだと、
新約がでっち上げられた最初期の頃から、すでにインドに誓約されていたのである。
「磔刑級の人間ですら救われる」の真逆に当たる、「磔刑級の人間こそが救われる」という転倒夢想を押し広める
聖書信仰こそは、聖道門の自力仏教をこの世から絶やすほどもの乱世をもたらすものだから、自動的に、聖道門の
菩薩行によって磔刑級の人間が救われる余地も絶やされる。真理とはそもそも、そういう風にできているのである。
「華厳経」の十回向品には、一切衆生が無上の智慧に与ることを菩薩が希う記述もまた多々ある。
菩薩は自らの活動によって愚民をこの世から絶やし、君子が小人を先導していく儒学統治以上にも、
誰しもが違逆なき最高智の持ち主となるように努めるのである。それは当然、被支配者である衆生を
ゴイム(家畜)も同然の存在と化す犯罪聖書による支配の下などでは、決して実現し得ないことである。
だからやはり、犯罪聖書への信仰やその実践と、聖道門の信仰やその実践は全く両立し得ないことが分かる。
結局、聖道門の自力仏教を広めていくためにもやはり、聖書信仰を禁止して、儒学による最低限の治世を
実現する必要があり、自力仏教の流布はそこから先の話になる。歴史的には、儒学と仏教が異教異学として
対立関係にあったこともなくはないが、決して利害関係が完全に相反していたわけではなく、それなりに
両立し得るところがあった。しかし、聖書信仰は儒学と自力仏教、いずれとも決定的な排他関係にあり、
いずれかを立てる以上はもう一方が決して立てられはしなくなるものだから、聖書信仰という共通の宿敵を
退治するための協力が、儒学と仏教の間で現時点では可能となっている。厳密には在俗主義と出家主義
という実践面での相違が両者にはあるから、聖書信仰撲滅の後に、両者がまた分裂することも予想される。
「席正しからざれば、坐せず」
「よく席が正されているのでなければ、座らない。
(冤罪磔刑者への信仰によって選別的に座らされる王座などは、不正な座席である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・九)
菩薩は自らの活動によって愚民をこの世から絶やし、君子が小人を先導していく儒学統治以上にも、
誰しもが違逆なき最高智の持ち主となるように努めるのである。それは当然、被支配者である衆生を
ゴイム(家畜)も同然の存在と化す犯罪聖書による支配の下などでは、決して実現し得ないことである。
だからやはり、犯罪聖書への信仰やその実践と、聖道門の信仰やその実践は全く両立し得ないことが分かる。
結局、聖道門の自力仏教を広めていくためにもやはり、聖書信仰を禁止して、儒学による最低限の治世を
実現する必要があり、自力仏教の流布はそこから先の話になる。歴史的には、儒学と仏教が異教異学として
対立関係にあったこともなくはないが、決して利害関係が完全に相反していたわけではなく、それなりに
両立し得るところがあった。しかし、聖書信仰は儒学と自力仏教、いずれとも決定的な排他関係にあり、
いずれかを立てる以上はもう一方が決して立てられはしなくなるものだから、聖書信仰という共通の宿敵を
退治するための協力が、儒学と仏教の間で現時点では可能となっている。厳密には在俗主義と出家主義
という実践面での相違が両者にはあるから、聖書信仰撲滅の後に、両者がまた分裂することも予想される。
「席正しからざれば、坐せず」
「よく席が正されているのでなければ、座らない。
(冤罪磔刑者への信仰によって選別的に座らされる王座などは、不正な座席である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・九)

「土地がもたらす利益がどんなに大きくとも、人がよく和していることには及ばない。
(外界侵略によって争いの種ばかりを撒き散らした欧米聖書圏の所業は、わずかな人の和ほどの価値もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一より)
敗戦後、日本の関東軍や満蒙開拓団による大陸への遠征が「点と線の征服だった」と揶揄されていたが、
実際には広大な大陸に対して面積規模の開拓を敷き、満州帝国における莫大な工業発展をも実現していた。
それほどにも、関東軍や日本の入植者による開拓が本格的であったればこそ、敗戦持の撤退で
非常な錯綜が巻き起こり、撤退に遅れた入植者に対するソ連兵や中国兵の虐待、日本人の親に
置き去りにされた残留孤児、そして数多の日本兵のシベリアへの抑留といった大問題をも呈したのだった。
むしろ、外界に対して「点と線」の侵略や遠征ばかりをやって来たのが、大航海時代から帝国主義時代に
かけての欧州の聖書圏、「世界の警察」を気取るアメリカ軍や、戦後の日本の資本主義者たちである。
ただ自国の富裕層に暴利を呼び込むためばかりに行われた、近代までの聖書圏による世界中への
植民地支配の拡大は、どこまでも外界の荒廃ばかりをもたらしてきた。国としての征服地域はフィリピンや
ハワイやグアムなどのごく一部に止まるものの、軍役によって日本や朝鮮やベトナム、アフガンや
イラクなどの諸国に多大なる損害をもたらして来たアメリカもまた、ただ被害国を破壊して回るばかりで、
侵攻する以前よりも劣化した社会情勢を当地にもたらし続けているばかりのこと。そして、日本の今の
大企業グループなどの資本主義勢力も、企業としての収益を上げたいがために中国や東南アジアなどへと
進出はするものの、あくまで企業としての利益が本位だから、進出地域の労働者教育なども疎かとし、
特に戦前の開拓を再利用できる中国において、中国人に「昔取った杵柄」での我流の工場経営などを
任せきりにしていることから、昔の技術で今の工業を扱ってしまっているがための深刻な薬品汚染や
不審な爆発事故、極度に劣悪な環境下での生産労働などを催させることとなってしまっているのである。

「人の足は土地を踏みしめるためにあるが、一生踏みしめ尽くすことの
できない広大な土地があればこそ、土地を踏みしめていくことができる」
(「荘子」雑篇・徐無鬼第二十四・一四より)
自国の統治に専念する王道と、外界への遠征に及ぶ覇道とでは、本質的に王道が優等なものである。
それは、覇道によってはどうしても、遠征先の国々の面積規模に渡る十分な統治が疎かになってしまうからで、
それにより侵略しない場合以上もの、世相の荒廃や民度の低下をも招いてしまいかねないからだ。
戦前の日本による満蒙開拓は、一応清帝国の皇帝でもあった溥儀を満州国の皇帝とし、
日本人も委託という体裁を保っての開拓に臨んだから、植民地支配の場合などにはあり得ないほどもの
工業インフラの充実をももたらした。その引き換えに、敗戦の撤退時における深刻な錯綜も起こり、
中共による満州のインフラ強奪後には、インフラの発展も完全に滞ったわけだが、それでも、
戦前の日本人による王道に即した満州の開拓が「点と線」などではない充実した規模だったからこそ、
今日に至る中国生産の爆発的な発展をももたらしたのである。それにより、欧米経済の空洞化からなる
破綻をももたらしたのだから、これは、王道が覇道を淘汰した現象の端緒であるということがいえる。
あまりにも多くの犠牲をはじき出しつつの辛勝であり、なかなか素直に喜べもしない所が、今はまだ大きい。
王道による覇道の撃退後にも、まだまだしなければならない後始末は山積しているのだといえる。
陰陽法則でいえば、天が陽で地が陰。
男が陽で女が陰であり、男女は全く別種の生き物であるのと同じように、
天と地もまた異質な存在同士であり、また異質である所にこそ調和の途までもがある。
陰と陽が同等のものとして扱われたり、また一方がもう一方と比べての極端な差別下に
置かれたりすることが「陰陽不全」となる。健全な陰陽関係たる陽唱陰和と比べて、上記のような
陰陽不全に固執するものは、必ず劣性となる。男女平等を謳いすぎるあまり、人工の停滞や少子高齢化、
それによる移民の受け入れすぎといった問題を呈している欧米先進国や日本などが、男尊女卑が未だ
基本である中国やインドや中東などに、人口面や社会構成面での劣勢に立たされているのがその一例である。
天と地の陰陽関係を不全化する犯罪聖書の邪義が人間社会に及ぼしている悪影響の実例といえば、
何といっても人格神の実在性への狂信からなる、人々の側の身の程知らずな思い上がりの激化である。
聖書信者が致命的な思い上がりを募らせているのはもちろんのこと、聖書信者を
自認しない日本人などもまた、自由主義や民主主義や資本主義といった聖書圏特産の
イデオロギーに精神を毒されて、ひどい思い上がりを募らせてしまったいる場合が多い。
その思い上がりが、自らを神も同然の存在と思い込んでの、実質上の国際権力犯罪をも激化させ、
よって人類を滅亡の危機へとも追いやる元凶となっている。まさに、犯罪聖書の邪義の流布による、
天地の陰陽の不全化こそは、人類を滅亡の危機に追いやっている元凶中の元凶でもあるのだといえる。
男が陽で女が陰であり、男女は全く別種の生き物であるのと同じように、
天と地もまた異質な存在同士であり、また異質である所にこそ調和の途までもがある。
陰と陽が同等のものとして扱われたり、また一方がもう一方と比べての極端な差別下に
置かれたりすることが「陰陽不全」となる。健全な陰陽関係たる陽唱陰和と比べて、上記のような
陰陽不全に固執するものは、必ず劣性となる。男女平等を謳いすぎるあまり、人工の停滞や少子高齢化、
それによる移民の受け入れすぎといった問題を呈している欧米先進国や日本などが、男尊女卑が未だ
基本である中国やインドや中東などに、人口面や社会構成面での劣勢に立たされているのがその一例である。
天と地の陰陽関係を不全化する犯罪聖書の邪義が人間社会に及ぼしている悪影響の実例といえば、
何といっても人格神の実在性への狂信からなる、人々の側の身の程知らずな思い上がりの激化である。
聖書信者が致命的な思い上がりを募らせているのはもちろんのこと、聖書信者を
自認しない日本人などもまた、自由主義や民主主義や資本主義といった聖書圏特産の
イデオロギーに精神を毒されて、ひどい思い上がりを募らせてしまったいる場合が多い。
その思い上がりが、自らを神も同然の存在と思い込んでの、実質上の国際権力犯罪をも激化させ、
よって人類を滅亡の危機へとも追いやる元凶となっている。まさに、犯罪聖書の邪義の流布による、
天地の陰陽の不全化こそは、人類を滅亡の危機に追いやっている元凶中の元凶でもあるのだといえる。
この宇宙で生物が生息している可能性が高いのは、地球のような環境条件を持つ惑星である。
それは宇宙の果てまで行っても同じことで、人間を含む生物の住まう場所は、基本「地」である。
天上の法則が地上に落とし込まれて人間ができたのではなく、地上の有機物の、ありのままの
複雑な構造化として、人間のような高等生物もまた生じたのである。もちろん、天から
降り注がれた日光のエネルギーを得ることにより、自然生物の育成もまた成し得ているわけだが、
それは決して、「天の構造物的理念」の落とし込みなどではない。地上の有機物の構造的な法則が、
日光という一概なエネルギーを糧にすることで独自に発展し、知能を持つ生物までをも生み出したのだから、
天の神に似て地上の人が造られたのでも、天の神が人を作ったのでもなく、天からはエネルギーだけを
授かることで、地上の側が独自に人間のような高等生物をも造り上げたというのが、科学的に明らかなのである。
上記のような、人間に対する天地の関係は、子に対する父母の関係にも酷似していることから、
陰陽上からも天が父、地が母ともされる。天にも地にもそれぞれ父母がいるのではなく、
天という父と地という母が相交わることで、子たる人もまた生まれたのであるといえる。
天地を丸ごと一家として捉える陰陽思想と比べて、天地をそもそも別個の同質物として捉える
犯罪聖書の邪義の、何とよそよそしいこと。そのよそよそしさが実際の天下国家に適用されたなら、
何一つとしてうまくいくことがなくなるのも、それと引き換えに天地の陽唱陰和が破綻するからなのだし。
「夫れ君子の過ぎる所は化し、存る所は神まり、上下、天地と流れを同じくす」
「君子が通り過ぎる所は、それだけでも民が徳化され、居座るところでは、よく治まる。
人々の上下関係が天地と流れを同じくして、誰しもがよく調和するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一四より)
それは宇宙の果てまで行っても同じことで、人間を含む生物の住まう場所は、基本「地」である。
天上の法則が地上に落とし込まれて人間ができたのではなく、地上の有機物の、ありのままの
複雑な構造化として、人間のような高等生物もまた生じたのである。もちろん、天から
降り注がれた日光のエネルギーを得ることにより、自然生物の育成もまた成し得ているわけだが、
それは決して、「天の構造物的理念」の落とし込みなどではない。地上の有機物の構造的な法則が、
日光という一概なエネルギーを糧にすることで独自に発展し、知能を持つ生物までをも生み出したのだから、
天の神に似て地上の人が造られたのでも、天の神が人を作ったのでもなく、天からはエネルギーだけを
授かることで、地上の側が独自に人間のような高等生物をも造り上げたというのが、科学的に明らかなのである。
上記のような、人間に対する天地の関係は、子に対する父母の関係にも酷似していることから、
陰陽上からも天が父、地が母ともされる。天にも地にもそれぞれ父母がいるのではなく、
天という父と地という母が相交わることで、子たる人もまた生まれたのであるといえる。
天地を丸ごと一家として捉える陰陽思想と比べて、天地をそもそも別個の同質物として捉える
犯罪聖書の邪義の、何とよそよそしいこと。そのよそよそしさが実際の天下国家に適用されたなら、
何一つとしてうまくいくことがなくなるのも、それと引き換えに天地の陽唱陰和が破綻するからなのだし。
「夫れ君子の過ぎる所は化し、存る所は神まり、上下、天地と流れを同じくす」
「君子が通り過ぎる所は、それだけでも民が徳化され、居座るところでは、よく治まる。
人々の上下関係が天地と流れを同じくして、誰しもがよく調和するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一四より)
極端な覚醒状態の躁も、その反動としての鬱も、どちらも誉められたものじゃない。
白昼にはよく目を覚ましてしっかり働き、夜間にはぐっすり眠り込む、
日月の運行に沿ったバイオリズムの管理が人間にとって最も適切であることを
孔子も宰我の昼寝への非難によって肯んじ、孟子も告子章句上・八の昼夜論などで示唆している。
信仰は自らの足でしっかり地に足を付けて立てるような人間ではなく、
もとより何かに依存しながらでしか生きられない弱者こそが拠り所とするもの。
自力作善の能力に長ける丈夫などが信仰に専らであったりしたら、かえって自らの能力を損なうもの。
しょせん自助努力など覚束ない女子供や生粋の小人が、そうであることをよく自覚した上で、
恭しい他力依存の手段とすべきなのが信仰であり、信仰を自己正当化の手段などにしてはならない。
生存欲が旺盛であるということは、根本的に惰弱なこと。在俗の権力学たる儒学でも、
世のため人のために身を挺すことが雄々しいこととされ、仏門に至っては本当に出家によって
俗人としての人生を捨ててしまうことが大雄の選択として推奨される。生存欲がたらたらなのも
やっぱり女子供や小人の領分であり、浄土門の坊主も禅僧や密教僧よりよく長生きする。それに、
聖賢ですら生存欲がないなんてことはないわけで、ただそれが惰弱さの種であることをよく
わきまえて、ことに臨むに及んで超克の対象とする覚悟のほうなどをかえって養うのである。
愛欲もまた、時に断ち切らねばならない時があるもの。人として生まれたならば、愛欲が
全くないなんてことのほうが不健全なわけで、時にそれは、乾燥した野原に一挙に燃え広がる
大火事のようにすら激化するもの。その愛欲を十分に制御の対象として、悪用せずに善用する能力を
養ってこその英雄でもあり、愛欲にまみれて為すべきことも為せなくなる所にこそ、ひ弱の極みもまたある。
白昼にはよく目を覚ましてしっかり働き、夜間にはぐっすり眠り込む、
日月の運行に沿ったバイオリズムの管理が人間にとって最も適切であることを
孔子も宰我の昼寝への非難によって肯んじ、孟子も告子章句上・八の昼夜論などで示唆している。
信仰は自らの足でしっかり地に足を付けて立てるような人間ではなく、
もとより何かに依存しながらでしか生きられない弱者こそが拠り所とするもの。
自力作善の能力に長ける丈夫などが信仰に専らであったりしたら、かえって自らの能力を損なうもの。
しょせん自助努力など覚束ない女子供や生粋の小人が、そうであることをよく自覚した上で、
恭しい他力依存の手段とすべきなのが信仰であり、信仰を自己正当化の手段などにしてはならない。
生存欲が旺盛であるということは、根本的に惰弱なこと。在俗の権力学たる儒学でも、
世のため人のために身を挺すことが雄々しいこととされ、仏門に至っては本当に出家によって
俗人としての人生を捨ててしまうことが大雄の選択として推奨される。生存欲がたらたらなのも
やっぱり女子供や小人の領分であり、浄土門の坊主も禅僧や密教僧よりよく長生きする。それに、
聖賢ですら生存欲がないなんてことはないわけで、ただそれが惰弱さの種であることをよく
わきまえて、ことに臨むに及んで超克の対象とする覚悟のほうなどをかえって養うのである。
愛欲もまた、時に断ち切らねばならない時があるもの。人として生まれたならば、愛欲が
全くないなんてことのほうが不健全なわけで、時にそれは、乾燥した野原に一挙に燃え広がる
大火事のようにすら激化するもの。その愛欲を十分に制御の対象として、悪用せずに善用する能力を
養ってこその英雄でもあり、愛欲にまみれて為すべきことも為せなくなる所にこそ、ひ弱の極みもまたある。
目を覚ましていること、信仰を持つこと、自らの足でしっかりと立つこと、生存欲があること、
雄々しくあること、そして愛があること、いずれも人間にとって決してあってならないものなどではない。
扱い方によっては善徳の増進にすら貢献できる、人としてのあり方ばかりなのに、犯罪聖書ときたら、
ことごとくその全ての扱い方を間違え尽くしていて、故に、何一つとしてよくなることがありもしない。
四書五経や仏典と比べて、犯罪聖書が特に異様な題材を取り扱っていたりすることは全くない。
その全ての題材が四書五経以内の四書五経以下であり、また仏典以内の仏典以下でしかない。そして、
犯罪聖書が四書五経以下の仏典以下である要素として、諸々の題材の取り扱い方の致命的な間違い通しがある。
犯罪聖書の記述の過ちを直接的な反駁の対象とした書物といえば、何といってもコーランが代表格である。
コーランの犯罪聖書に対する反駁の仕方が軒並み正しいから、コーランの信仰者であるムスリムは、
犯罪聖書で取り扱っているような題材を元から正しく取り扱っている、四書五経や仏典の実践者や信仰者と
近似したあり方を自然と具えるようにもなっている。犯罪聖書で取り扱っている題材を、正しく扱っている
人々は極めて雑多で、ただ一つの教学にのみ従っているなどということもない。その雑多さを聖書信者が
忌み嫌ったりすることもあるわけだが、雑多であってもそれなりに正しいものと、純一であっても
間違い通しであるものとでは、当然、雑多でも正しいもののほうが、マシ以上であるに決まってる。
「子曰く、吾れ嘗て終日食わず、終夜寝ず。以て思う、益無しと。学ぶに如かざるなり」
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると、無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)
雄々しくあること、そして愛があること、いずれも人間にとって決してあってならないものなどではない。
扱い方によっては善徳の増進にすら貢献できる、人としてのあり方ばかりなのに、犯罪聖書ときたら、
ことごとくその全ての扱い方を間違え尽くしていて、故に、何一つとしてよくなることがありもしない。
四書五経や仏典と比べて、犯罪聖書が特に異様な題材を取り扱っていたりすることは全くない。
その全ての題材が四書五経以内の四書五経以下であり、また仏典以内の仏典以下でしかない。そして、
犯罪聖書が四書五経以下の仏典以下である要素として、諸々の題材の取り扱い方の致命的な間違い通しがある。
犯罪聖書の記述の過ちを直接的な反駁の対象とした書物といえば、何といってもコーランが代表格である。
コーランの犯罪聖書に対する反駁の仕方が軒並み正しいから、コーランの信仰者であるムスリムは、
犯罪聖書で取り扱っているような題材を元から正しく取り扱っている、四書五経や仏典の実践者や信仰者と
近似したあり方を自然と具えるようにもなっている。犯罪聖書で取り扱っている題材を、正しく扱っている
人々は極めて雑多で、ただ一つの教学にのみ従っているなどということもない。その雑多さを聖書信者が
忌み嫌ったりすることもあるわけだが、雑多であってもそれなりに正しいものと、純一であっても
間違い通しであるものとでは、当然、雑多でも正しいもののほうが、マシ以上であるに決まってる。
「子曰く、吾れ嘗て終日食わず、終夜寝ず。以て思う、益無しと。学ぶに如かざるなり」
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると、無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)
うむ、相変わらずのバカだw
生存欲にまみれるということは、女々しいことだ。だから、生存を欲することにかけて雄々しい
ということは、女々しさが雄々しいということになり、それこそ、陰陽不全の最たるものとなる。
わが身を捨てて戦地に臨む武者や、身を裂くような修行に臨む出家者であったりすることこそが、
本当に雄々しいこと。戦地で命知らずな激戦を繰り広げ、本当に死者も出すような荒行(千日会峰など)
をやりこなしたりすることこそは、善い場合も悪い場合もあるにしろ、雄々しさの極みに当たるといえる。
戦地に臨みながら逃げ腰でいる武者や、修行の苦しみに耐え切れずに脱落する出家者などは、雄々しさを
志しながらも結局、女々しかったことになり、これもまた陰陽不全の一つだといえる。そんな人間が
少しも賞賛の対象などにされるべきではないのと同じようにして、生存欲にまみれることのような
女々しさの部類が雄々しいこともまた、何ら賞賛の対象などにされて然るべきものでもない。
生存欲にかけては、むしろ女々しいほうがいい。自分の命なんか大したものでもないと謙り、
ことに臨むにかけて、生存欲が思い切りを妨げるようなこともないようにする。それでこそ、
命を捨ててことに臨む思い切りのほうが、その真の雄々しさを貫徹もできるのである。
ということは、女々しさが雄々しいということになり、それこそ、陰陽不全の最たるものとなる。
わが身を捨てて戦地に臨む武者や、身を裂くような修行に臨む出家者であったりすることこそが、
本当に雄々しいこと。戦地で命知らずな激戦を繰り広げ、本当に死者も出すような荒行(千日会峰など)
をやりこなしたりすることこそは、善い場合も悪い場合もあるにしろ、雄々しさの極みに当たるといえる。
戦地に臨みながら逃げ腰でいる武者や、修行の苦しみに耐え切れずに脱落する出家者などは、雄々しさを
志しながらも結局、女々しかったことになり、これもまた陰陽不全の一つだといえる。そんな人間が
少しも賞賛の対象などにされるべきではないのと同じようにして、生存欲にまみれることのような
女々しさの部類が雄々しいこともまた、何ら賞賛の対象などにされて然るべきものでもない。
生存欲にかけては、むしろ女々しいほうがいい。自分の命なんか大したものでもないと謙り、
ことに臨むにかけて、生存欲が思い切りを妨げるようなこともないようにする。それでこそ、
命を捨ててことに臨む思い切りのほうが、その真の雄々しさを貫徹もできるのである。
それでもなお、自らの命を大切にしなければならない事態というものがある。それが、男が家を背負って
立ったり、女が家を守る立場になったりする場合で、このような場合には、男も女も、自らの命に
対する執着などとも無縁なところで、便宜的に自分たちの命を大切にしていく必要があるのである。
それこそが、人が自らの命を大切にしていく最も健全なあり方だといえる。ただ自分が可愛いから
自分の命を惜しんだりするのは逆に不健全なことで、人と人とが協力し合うことで、初めて個人もまた
生きていけるという人間社会の絶対法則にも反しているが故に、むしろなくて然るべきものだといえる。
生存欲にかけて女々しいからといって、すぐさま自らがちり芥のように儚い存在となるのでもない。
むしろ「家を背負って立つ」とか「家を守る」とかいった健全な目的に即して、より生活を充実させて
いけるようにもなるのであり、そこにこそ人が生きるということの、真の幸福もまたあるのである。
「勇を好みて貧しきを疾めば、乱なる」
「雄々しさを好みながら(生存を危ぶませるような)貧窮に喘ぐようであれば、乱暴に走る。
(貧窮をものともしない雄々しさにはかけているから、女々しい自暴自棄にも陥るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一〇より)
立ったり、女が家を守る立場になったりする場合で、このような場合には、男も女も、自らの命に
対する執着などとも無縁なところで、便宜的に自分たちの命を大切にしていく必要があるのである。
それこそが、人が自らの命を大切にしていく最も健全なあり方だといえる。ただ自分が可愛いから
自分の命を惜しんだりするのは逆に不健全なことで、人と人とが協力し合うことで、初めて個人もまた
生きていけるという人間社会の絶対法則にも反しているが故に、むしろなくて然るべきものだといえる。
生存欲にかけて女々しいからといって、すぐさま自らがちり芥のように儚い存在となるのでもない。
むしろ「家を背負って立つ」とか「家を守る」とかいった健全な目的に即して、より生活を充実させて
いけるようにもなるのであり、そこにこそ人が生きるということの、真の幸福もまたあるのである。
「勇を好みて貧しきを疾めば、乱なる」
「雄々しさを好みながら(生存を危ぶませるような)貧窮に喘ぐようであれば、乱暴に走る。
(貧窮をものともしない雄々しさにはかけているから、女々しい自暴自棄にも陥るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一〇より)

仏門の密教も、「秘すれば花」を多用しているから"密"教でもあるわけだが、
秘している内実が虚偽だから秘していたりするのではなく、内実は内実で含蓄があった上で、
その内実をよりよく見せるために内実自体は隠し、その方便的な荘厳のほうを前面に押し出すのである。
日本刀が名刀たる所以は、やはりその本身の出来のよさにあるが、だからといって常に裸の状態を
晒したりするのではなく、鞘などの拵えに納めて持ち歩いたり、飾ったりするのが常態である。
「秘すれば花」というのはそういうものであって、拵えの中身がカラだったり竹光だったりするのでは、
もはや「秘すれば花」ですらない。しかも、中身が空や竹光であるような拵えを見せびらかしておいて、
「これこそは名刀だ」などと偽証したりしたのなら、その中身を見せられたときの落胆も、半端ではあるまい。
聖書信仰の内実は「グノーシズム(認識主義)」あたりが捉えているが、それを興じる者は異端者として、
キリスト教の発足時から徹底的な弾圧の対象とされ続けてきた。秘密仏教(密教)が大乗仏教の一派として
許容されてきたのとは違い、聖書信仰版の密教であるグノーシズムが徹底的な弾圧の対象とされたのは、
グノーシズムこそは「悪魔崇拝」であることが見るに明らかな邪教だからで、内実が悪魔信仰であるにも
関わらず、表向きだけ神聖信仰である聖書信仰は、全く以って「秘すれば花」の条件を満たせていないのである。
内実も真理追究の究極であり、外面もその内実のありのままの荘厳である秘密仏教のようであって初めて
「秘すれば花」の条件も満たせるのに対し、内実が悪魔信仰で外面だけ神聖信仰である聖書信仰などは
その条件を満たせておらず、単なる「二枚舌」に止まっている。だからこそ、それなりに神聖でもあるように
見せかけている、正統派のキリスト教などを含む聖書信仰全般が、総合的に邪宗門でしかないのだといえる。
仏教や儒学の教理に相当するものもそれなりに取り入れて(それらは全く聖書教義に反してもいる)、
多少の無害化にも努めているようなキリスト教団も含めて、やはり聖書信仰は途絶の対象とするしかない。
自殺の禁止や家族の団結など、別に聖書信仰を途絶したからといって同時に廃絶されるものでもなく、むしろ仏教や
儒学を聖書信仰の代わりに受容することを通じて、かえってその意義を深く理解できるようになるものですらある。
古くから仏教や儒学を取り入れてきた日本人が、時に自殺も厭わないのは、顕教の仏教ではなく密教から来ているので、
それに倣うのがイヤなら、密教だけはやめとけばいいだけの話。だからといって、密教を禁止したりする必要もないが。
「王、之れに修むるを播し告げ、厥の指を匿さず。王、用て丕いに欽み、逸言有ること罔くし。民用て丕いに変ず」
「昔、偉大な先王たちは、自らの修め行う所を必ず広く告げ知らせて、その考えを隠したりすることが無かった。
王たち自身がよく言行を慎んで、いい加減な言葉を述べたりもしなかったから、民たちも多いに教化されたのだった。
(衆生を『ゴイム〈家畜〉』と呼んで何も知らせずに専制を働く暴君などがいるから、民もまた愚民のままでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
「秘すれば花」の条件も満たせるのに対し、内実が悪魔信仰で外面だけ神聖信仰である聖書信仰などは
その条件を満たせておらず、単なる「二枚舌」に止まっている。だからこそ、それなりに神聖でもあるように
見せかけている、正統派のキリスト教などを含む聖書信仰全般が、総合的に邪宗門でしかないのだといえる。
仏教や儒学の教理に相当するものもそれなりに取り入れて(それらは全く聖書教義に反してもいる)、
多少の無害化にも努めているようなキリスト教団も含めて、やはり聖書信仰は途絶の対象とするしかない。
自殺の禁止や家族の団結など、別に聖書信仰を途絶したからといって同時に廃絶されるものでもなく、むしろ仏教や
儒学を聖書信仰の代わりに受容することを通じて、かえってその意義を深く理解できるようになるものですらある。
古くから仏教や儒学を取り入れてきた日本人が、時に自殺も厭わないのは、顕教の仏教ではなく密教から来ているので、
それに倣うのがイヤなら、密教だけはやめとけばいいだけの話。だからといって、密教を禁止したりする必要もないが。
「王、之れに修むるを播し告げ、厥の指を匿さず。王、用て丕いに欽み、逸言有ること罔くし。民用て丕いに変ず」
「昔、偉大な先王たちは、自らの修め行う所を必ず広く告げ知らせて、その考えを隠したりすることが無かった。
王たち自身がよく言行を慎んで、いい加減な言葉を述べたりもしなかったから、民たちも多いに教化されたのだった。
(衆生を『ゴイム〈家畜〉』と呼んで何も知らせずに専制を働く暴君などがいるから、民もまた愚民のままでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
儒学上の最重要理念である、子の親に対する「孝」は、父親だけでなく母親にも振り向けられる。
しかしそれは、母が高潔な存在などではなく、腹を痛めて自分を産んでくれた苦労人であることに基づく。
「礼記」表記第三十二にも「母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」とあり、
尊いからではなく親しいから、母への孝養にも努めるのが、儒者としての心得であるとされる。
仏教の場合はもっと辛らつで、「母胎より生み出されたわが身こそは不浄である」と「華厳経」などでも
断じられている。だからこそ俗世での営みを捨てた出家者となることをも勧めるわけで、これと比べれば、
母親に対してもそれなりの親愛に努める儒学のほうがずっと、母という存在に対する見方も優しいといえる。
日本神話では、アマテラスとスサノオのウケヒの際、アマテラスがスサノオのものざねである剣を噛み砕けば
三柱の女神が生まれ、スサノオがアマテラスのものざねである玉を噛み砕けば五柱の男神が生まれたとされる。
これによりスサノオは勝ち名乗りを上げる一方で、アマテラスが皇祖神にして、高天原の最高神ともなっている。
ここから寓意として読み取れるのは、女は男から「玉を噛み砕く」という危害(受精)を被ることで立派な母となり、
高天原(家庭)における主導権を獲得するということ。それは田んぼにクソをひられ、逆剥ぎにした馬の皮を機織場に
投げ込まれるほどもの暴挙であるわけだが、それを受け入れることによってこそ、女もまた立派な母になるということ。
儒学と、仏教と、日本神道と、いずれもが「生殖」という行為を少なからずよからぬものと見なした上で、
それを受け入れてまで自分を産んでくれた母への孝養に努めたり、あるいは出家しての精進修行に励んだり、
また家庭における母親の父親に対する優位を肯定したりする。(あくまで家庭内であり、社会上ではない)
しかしそれは、母が高潔な存在などではなく、腹を痛めて自分を産んでくれた苦労人であることに基づく。
「礼記」表記第三十二にも「母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」とあり、
尊いからではなく親しいから、母への孝養にも努めるのが、儒者としての心得であるとされる。
仏教の場合はもっと辛らつで、「母胎より生み出されたわが身こそは不浄である」と「華厳経」などでも
断じられている。だからこそ俗世での営みを捨てた出家者となることをも勧めるわけで、これと比べれば、
母親に対してもそれなりの親愛に努める儒学のほうがずっと、母という存在に対する見方も優しいといえる。
日本神話では、アマテラスとスサノオのウケヒの際、アマテラスがスサノオのものざねである剣を噛み砕けば
三柱の女神が生まれ、スサノオがアマテラスのものざねである玉を噛み砕けば五柱の男神が生まれたとされる。
これによりスサノオは勝ち名乗りを上げる一方で、アマテラスが皇祖神にして、高天原の最高神ともなっている。
ここから寓意として読み取れるのは、女は男から「玉を噛み砕く」という危害(受精)を被ることで立派な母となり、
高天原(家庭)における主導権を獲得するということ。それは田んぼにクソをひられ、逆剥ぎにした馬の皮を機織場に
投げ込まれるほどもの暴挙であるわけだが、それを受け入れることによってこそ、女もまた立派な母になるということ。
儒学と、仏教と、日本神道と、いずれもが「生殖」という行為を少なからずよからぬものと見なした上で、
それを受け入れてまで自分を産んでくれた母への孝養に努めたり、あるいは出家しての精進修行に励んだり、
また家庭における母親の父親に対する優位を肯定したりする。(あくまで家庭内であり、社会上ではない)
女に姦淫して妊娠して出産させるという男の側の行いは、妊娠して出産する女の側の受動的な行いよりも
下劣なものとして扱われる。その逆に、生殖にまつわる男の側の行いを、女の側の行いよりも上位に置いたならば、
男よりも遥かに大きな苦労をして子を産む、女の立場が報われないことになる。そのせいで女が子を産むことも
面倒扱いされて忌まれるようになり、少子高齢化による人口区分の歪みなどの問題を呈するようにもなるのである。
社会的には、男が上で女が下として扱われるべきである一方、家庭内においては、女が良妻賢母であることに
努める限りにおいて、女が男よりも上位なものとして扱われるべきなのである。それでこそ、「女は内、男は外」という
陰陽法則にも適うことになるわけで、社会的に女を優遇し過ぎたり、逆に家庭内における妻母としての女の立場を
侵害したりしたならば、陰陽法則に違うことにより、内にも外にも致命的な問題ばかりを募らせることになるのである。
「凱風の南自りし、彼の棘の心を吹ける。棘の心の夭夭たる、母氏の劬労す。(ここまで既出)
凱風の南自りし、彼の棘の薪を吹ける。母氏の聖善なるに、我れこそは無令の人なる。
爰なる有の寒泉、浚の下在り。子の七人有るに、母氏は労苦す。
睍𨴐と鳴く黄鳥の、載ち其の音の好ましき。子の七人有りて、母の心を慰むる莫し」
「大風が南方より吹き荒れ、ナツメの幹に当たって風切り音を立てる。その幹の傾く姿のように、母も苦労した。
大風が南方より吹き荒れ、ナツメの枝にも当たって風切り音を立てる。母こそは神聖な存在であるのに、我々ときたら
下衆もいいとこ。冷え切った寒泉が植物の成長を妨げるようにして、七人の子供たちが、母に多大なる苦労をかけもした。
ケンケンと鳴きまわるウグイスの鳴き声も好ましいが、七人もの子供がいながらも、誰一人として母の心を慰められはしない。
(母の苦しみを、子として慰めきることなど到底できはしなくとも、せめてでもこの詩の作者のように母への労わりを持ち、
イスラエル詩篇の作者のように、母の存在を全く蔑ろにした思い上がりに溺れたりはしないように努めたいものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・凱風)
下劣なものとして扱われる。その逆に、生殖にまつわる男の側の行いを、女の側の行いよりも上位に置いたならば、
男よりも遥かに大きな苦労をして子を産む、女の立場が報われないことになる。そのせいで女が子を産むことも
面倒扱いされて忌まれるようになり、少子高齢化による人口区分の歪みなどの問題を呈するようにもなるのである。
社会的には、男が上で女が下として扱われるべきである一方、家庭内においては、女が良妻賢母であることに
努める限りにおいて、女が男よりも上位なものとして扱われるべきなのである。それでこそ、「女は内、男は外」という
陰陽法則にも適うことになるわけで、社会的に女を優遇し過ぎたり、逆に家庭内における妻母としての女の立場を
侵害したりしたならば、陰陽法則に違うことにより、内にも外にも致命的な問題ばかりを募らせることになるのである。
「凱風の南自りし、彼の棘の心を吹ける。棘の心の夭夭たる、母氏の劬労す。(ここまで既出)
凱風の南自りし、彼の棘の薪を吹ける。母氏の聖善なるに、我れこそは無令の人なる。
爰なる有の寒泉、浚の下在り。子の七人有るに、母氏は労苦す。
睍𨴐と鳴く黄鳥の、載ち其の音の好ましき。子の七人有りて、母の心を慰むる莫し」
「大風が南方より吹き荒れ、ナツメの幹に当たって風切り音を立てる。その幹の傾く姿のように、母も苦労した。
大風が南方より吹き荒れ、ナツメの枝にも当たって風切り音を立てる。母こそは神聖な存在であるのに、我々ときたら
下衆もいいとこ。冷え切った寒泉が植物の成長を妨げるようにして、七人の子供たちが、母に多大なる苦労をかけもした。
ケンケンと鳴きまわるウグイスの鳴き声も好ましいが、七人もの子供がいながらも、誰一人として母の心を慰められはしない。
(母の苦しみを、子として慰めきることなど到底できはしなくとも、せめてでもこの詩の作者のように母への労わりを持ち、
イスラエル詩篇の作者のように、母の存在を全く蔑ろにした思い上がりに溺れたりはしないように努めたいものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・凱風)
聖道門の仏道修行などは、終身の苦行による自他への回向を基本としている。
弘法大師も真言宗開祖としての地位を確立して後も、定期的な山篭りによる修行を欠かさなかったというし、
道元禅師も一時の座禅などではなく、永遠の「座禅のための座禅」によってこそ悟りが啓かれると論じる。
日ごろからの修行の無理が祟って、二人とも六十一才や五十四才といった若さで入寂されており、
「苦行による回向」というものを志す以上は、一定の区切りを付けて後は休むなんてことを
期待していてもならないことを、その人生によってありのままに体現されているといえる。
儒者や浄土門の坊主などは、始めから苦行による回向などを志しもしない。
中途半端な志しでそんな危うい試みに臨むべきでないからなのはもちろんのこと、
一概な苦行なんか志さない範囲でも、人としての生活を営む上で避けて通れない苦労というのはいくらでも
あるものだから、そのような不可避なる労苦のほうを着実にこなしていくことのほうを、より重んずるのである。
聖道門の仏者のように、永遠の苦行による回向などを志すまでは行かずとも、人として最低限以上の労苦を
着実にこなしていく儒者や浄土門の坊主程度であるだけでも、十分に健全である。一時の労苦によって永遠の栄華を
手に入れようとするような、因果律の破綻した不健全な生を企図したりするよりは、そのほうがよっぽどマシである。
弘法大師も真言宗開祖としての地位を確立して後も、定期的な山篭りによる修行を欠かさなかったというし、
道元禅師も一時の座禅などではなく、永遠の「座禅のための座禅」によってこそ悟りが啓かれると論じる。
日ごろからの修行の無理が祟って、二人とも六十一才や五十四才といった若さで入寂されており、
「苦行による回向」というものを志す以上は、一定の区切りを付けて後は休むなんてことを
期待していてもならないことを、その人生によってありのままに体現されているといえる。
儒者や浄土門の坊主などは、始めから苦行による回向などを志しもしない。
中途半端な志しでそんな危うい試みに臨むべきでないからなのはもちろんのこと、
一概な苦行なんか志さない範囲でも、人としての生活を営む上で避けて通れない苦労というのはいくらでも
あるものだから、そのような不可避なる労苦のほうを着実にこなしていくことのほうを、より重んずるのである。
聖道門の仏者のように、永遠の苦行による回向などを志すまでは行かずとも、人として最低限以上の労苦を
着実にこなしていく儒者や浄土門の坊主程度であるだけでも、十分に健全である。一時の労苦によって永遠の栄華を
手に入れようとするような、因果律の破綻した不健全な生を企図したりするよりは、そのほうがよっぽどマシである。
「人は労苦に相応の恵みを得る」という、因果律の保存に根ざした法則を、仏教はもちろんのこと、儒学も諾っている。
見えないところからいくらでも利益が湧いて来るみたいな虚妄は完全に排した上で、着実な自助努力によって
世の中を善くしていくことにも取り組んでいく。その結実が例えば、江戸時代までの日本における、
聖人君子の統治によって養われた日本国民の民度の高さだったりもし、民を完全な衆愚状態に
置いたままでいた社会などにはない、個々の庶民からの勤勉さが備わっているのである。
敗戦によって愚民化洗脳が始まってしまった昭和20年以降だけではなく、仏教と本格的な儒学が廃されて、
キリスト教が解禁された明治以降からすでにずっと、日本国民の民度の高さは、一方的な目減りを続けている。
労苦に相応の恵みを得るのではなく、労苦以上の恵みを得ようとする虚妄が少なからず許容されてしまったことから、
日本人の努力意識は、明治以降には目減りすることこそあれど、少しでも嵩を増したりしていることはない。
江戸時代までの日本のほうが、泰平からなる堕落を貪っていたかのように思われがちではあるが、
みずからの労苦に相応の恵みしか得ないわきまえにかけては、明らかに近現代の日本人のそれ以上だった。
無闇やたらに労苦を担うこと以上にも、労苦に相応の恵みしか得ないようにすることのほうが遥かに重要なことであり、
それでこそ、世の中にかける迷惑の度合いが一定以上に増えたりすることもなくて済むのである。
「中谷に蓷有り、暵れて其れ乾ける。
女と仳離して、嘅として其れ嘆ける。
嘅として其れ嘆くは、人の艱難に遇えばこそ」
「谷あいに生えた紫蘇の葉が、すでにしおれて乾ききっている。
君と永遠に離別して、甚だしい悲哀にかられて嘆いている。
甚だしく悲哀にかられて嘆くのは、人との死別に会えばこそ。
(『艱難』とは『死別』のことである。死ねば二度と生き返らない絶対真理に根ざして、
死別は永遠である。それをわきまえているから、この詩の作者も死別をひどく悲しんでいるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・中谷有蓷より)
見えないところからいくらでも利益が湧いて来るみたいな虚妄は完全に排した上で、着実な自助努力によって
世の中を善くしていくことにも取り組んでいく。その結実が例えば、江戸時代までの日本における、
聖人君子の統治によって養われた日本国民の民度の高さだったりもし、民を完全な衆愚状態に
置いたままでいた社会などにはない、個々の庶民からの勤勉さが備わっているのである。
敗戦によって愚民化洗脳が始まってしまった昭和20年以降だけではなく、仏教と本格的な儒学が廃されて、
キリスト教が解禁された明治以降からすでにずっと、日本国民の民度の高さは、一方的な目減りを続けている。
労苦に相応の恵みを得るのではなく、労苦以上の恵みを得ようとする虚妄が少なからず許容されてしまったことから、
日本人の努力意識は、明治以降には目減りすることこそあれど、少しでも嵩を増したりしていることはない。
江戸時代までの日本のほうが、泰平からなる堕落を貪っていたかのように思われがちではあるが、
みずからの労苦に相応の恵みしか得ないわきまえにかけては、明らかに近現代の日本人のそれ以上だった。
無闇やたらに労苦を担うこと以上にも、労苦に相応の恵みしか得ないようにすることのほうが遥かに重要なことであり、
それでこそ、世の中にかける迷惑の度合いが一定以上に増えたりすることもなくて済むのである。
「中谷に蓷有り、暵れて其れ乾ける。
女と仳離して、嘅として其れ嘆ける。
嘅として其れ嘆くは、人の艱難に遇えばこそ」
「谷あいに生えた紫蘇の葉が、すでにしおれて乾ききっている。
君と永遠に離別して、甚だしい悲哀にかられて嘆いている。
甚だしく悲哀にかられて嘆くのは、人との死別に会えばこそ。
(『艱難』とは『死別』のことである。死ねば二度と生き返らない絶対真理に根ざして、
死別は永遠である。それをわきまえているから、この詩の作者も死別をひどく悲しんでいるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・中谷有蓷より)

ここを鞘の鯉口の内側にかませることで、刀が鞘に固定されるようになっている。
ハバキが鞘とガッチリかみ合いすぎると抜刀に支障が出るし、
逆に緩すぎるとわずかな振動でも抜けてしまうようになる。
絶妙な固定加減を実現するためにハバキに独特の表面仕上げをしたり、
材質に赤銅などの特殊素材を用いたりする工夫が古来より為されてきた。その技術研鑽があればこそ、
抜刀から納刀にいたる一連の動作を洗練させる「居合術」なども発展したわけで、日本人がいかに、
刀剣を鞘から抜いたり納めたりすることにこだわって来たのかを、如実に物語っている事例だといえる。
刀を鞘から抜き差しする一連の動作は、あたかも家の主人たる夫が家から出て外で働き、
また家に戻って来て休暇を取る姿のようでもある。家から出張りっきりで帰る間もないというのも極端だし、
ほとんど仕事がなくて家に籠もりっきりというのも極端である。どちらかといえば、家長たる男が家に
籠もりきりのままでいるほうがより不健全なことで、出張りきりで家に帰る間もなかった男のうちには、
治水工事に東奔西走し続けてすねの毛を擦り切らせ、晩年には跛足となった夏の禹王のような聖人もいる。
家に籠もりきりでいる男にも、台所仕事をしながら政務を執ったという伏羲氏の伝説などもあるし、
道家の老子や列子のように、引きこもりを大肯定する思想家もいる。しかし、片や太古の昔の半人半陀だった
とされる人物だし、片や血で血を洗う春秋戦国時代の、非常的な立場にあった人々の思想である。いずれも
世間一般にそのまま通用させてしまえばいいというような代物ではなく、神の域、天道としてこそ尊ぶべきもの。
俗世に生き、家を守りもしなければならない男にとって、どうしても剣を抜かねばならない時が、確かにある。
あるいは剣を抜くに相当するような、甚大な行為能力の活用に臨まねばならない時がやってくる。
それでこそより多くの人々を活かし、自らもまた家の存続や繁栄に与れることがある。
その時にはもはや躊躇せず、ただまた元の鞘に納まるまでの働きに専念するのみである。
「鞅、剣を用いて以て帥し卒す。欒氏退く。車を攝りて之れに従い、
欒楽に遇いて曰く、楽之れを免れんや、死すとも將に女を天に訴えん」
「范鞅は剣を抜き、兵を率いて戦地に斬り込んだ。敵の欒楽はそれに戦いて退いた。范鞅も車に乗ってこれを追い、
欒楽に追いつくとと叫んだ。『楽め、決して逃してなるものか。たとえ死んででも貴様を天の裁きにかけてやる』
(剣を抜くことは、死をも覚悟した憤激を象徴する。それほどもの覚悟が必要なときもまたある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十三年より)
道家の老子や列子のように、引きこもりを大肯定する思想家もいる。しかし、片や太古の昔の半人半陀だった
とされる人物だし、片や血で血を洗う春秋戦国時代の、非常的な立場にあった人々の思想である。いずれも
世間一般にそのまま通用させてしまえばいいというような代物ではなく、神の域、天道としてこそ尊ぶべきもの。
俗世に生き、家を守りもしなければならない男にとって、どうしても剣を抜かねばならない時が、確かにある。
あるいは剣を抜くに相当するような、甚大な行為能力の活用に臨まねばならない時がやってくる。
それでこそより多くの人々を活かし、自らもまた家の存続や繁栄に与れることがある。
その時にはもはや躊躇せず、ただまた元の鞘に納まるまでの働きに専念するのみである。
「鞅、剣を用いて以て帥し卒す。欒氏退く。車を攝りて之れに従い、
欒楽に遇いて曰く、楽之れを免れんや、死すとも將に女を天に訴えん」
「范鞅は剣を抜き、兵を率いて戦地に斬り込んだ。敵の欒楽はそれに戦いて退いた。范鞅も車に乗ってこれを追い、
欒楽に追いつくとと叫んだ。『楽め、決して逃してなるものか。たとえ死んででも貴様を天の裁きにかけてやる』
(剣を抜くことは、死をも覚悟した憤激を象徴する。それほどもの覚悟が必要なときもまたある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十三年より)
仁者は自らの徳行に相応の利益を自他に振り向けるし、菩薩も自らが精進に励んだぶんだけの回向を衆生に施す。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な原因となっている。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な原因となっている。
仁者は自らの徳行に相応の利益を自他に振り向けるし、菩薩も自らが精進に励んだぶんだけの回向を衆生に施す。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な理由となっている。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な理由となっている。

賭博志向の旺盛な聖書信仰や洋学が魅力的に見えたりすることもないが、賭博の浅ましさなど、
少しもわきまえられていない未熟者であれば、それが堪えがたい程に魅力的なものに見えたりする。
賭博が本質的に空しいものであることが真実だから、人々の賭博志向を無闇に煽り立て続けて来た
聖書信仰や洋学の蔓延によって、人類もまた破綻からなる滅亡の危機に晒されている。
だから聖書信仰を廃絶し、洋学からも権威を剥奪することがさしあたっての急務となっているが、
本当はそんな事態に追い込まれる以前から、人々に賭博のはかなさをよく啓発していかなかればならないのである。
そのためには儒学や仏教のような、賭博志向を戒める堅実な教学に権威を返還させていただいて、
その流布に努めていくことが最も有効ともなる。手前味噌だが、確かにそうなのである。
「人に分かつに財を以てするを之れ恵と謂い、人に教うるに善を以てするを之れ忠と謂い、
天下の為めに人を得るを之れ仁と謂う。是の故に天下を以って人に与うるは易く、天下の為めに人を得るは難し」
「人に財産を分け与えることを恵みといい、人に善いことを教えることを忠といい、天下のために逸材の人物を得ることを
仁という。天下のために逸材を得ることこそは最も難しく、それと比べれば、天下の全てを人に与えることのほうが容易い。
(『魚を与えるよりも釣竿を与えよ』という援助活動のポリシーがあるが、所詮は与えること止まりなのが安易である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
十字架こそは、最低の卑しさの烙印となる。
無信仰の重権力犯罪者とも並んで、十字架信仰者こそは、この世で最も恥ずべき立場の存在となる。
ただ恥ずべきだけでなく、参政権剥奪や禁治産や強制入院といった民事処分の対象ともなるが、
それ以上にもも決定的なのは、十字架信仰者であるということが、何ものにも増して
「恥ずべきもの」として扱われるようになることである。
この世で最も誇ってはならないもの、それにことかけて誇り高ぶったり偉ぶったりすることだけは
絶対に許されず、実際に為そうものなら、実力行使による制裁までもが本当に科されるものとなる。
そうしなければ、人類が滅亡するからである。
十字架信仰者もろとも全人類が、完全誤謬信仰の毒性に侵されて、本当に死滅すらしてしまうから。
ただ禁止されるだけでなく、十字架信仰こそはこの世で最も劣悪な所業であると適正に断定されて、
厳重な卑しみの対象とされていくことで、それが魅力的なもの、羨望的なものとして扱われたり
することから根絶していかなければならない。そうでもしなければ、本当に全人類を滅亡へと
追いやってしまうほどに、十字架信仰の毒性こそが真性なものであるからだ。
無信仰の重権力犯罪者とも並んで、十字架信仰者こそは、この世で最も恥ずべき立場の存在となる。
ただ恥ずべきだけでなく、参政権剥奪や禁治産や強制入院といった民事処分の対象ともなるが、
それ以上にもも決定的なのは、十字架信仰者であるということが、何ものにも増して
「恥ずべきもの」として扱われるようになることである。
この世で最も誇ってはならないもの、それにことかけて誇り高ぶったり偉ぶったりすることだけは
絶対に許されず、実際に為そうものなら、実力行使による制裁までもが本当に科されるものとなる。
そうしなければ、人類が滅亡するからである。
十字架信仰者もろとも全人類が、完全誤謬信仰の毒性に侵されて、本当に死滅すらしてしまうから。
ただ禁止されるだけでなく、十字架信仰こそはこの世で最も劣悪な所業であると適正に断定されて、
厳重な卑しみの対象とされていくことで、それが魅力的なもの、羨望的なものとして扱われたり
することから根絶していかなければならない。そうでもしなければ、本当に全人類を滅亡へと
追いやってしまうほどに、十字架信仰の毒性こそが真性なものであるからだ。
自分自身が十字架信仰者でなくとも、十字架信仰の権威性を認めて、そのような言行に
及んでしまった人間にとっても、十字架信仰が恥ずべきものとして扱われるようになることが
少なからず、自分たちにとっての連帯的な恥辱ともなる。その度合いがあまりにもひどく、
信仰者でない立場から、十字架信仰者と利権を共有したりまでしてしまっていたりしたならば、
それこそ十字架信仰者並みの差別対象にすらなってしまうのである。
一位:十字架信仰と無縁で、十字架信仰に対して肯定的でもなかった人間
二位:十字架信仰と無縁だが、十字架信仰に対して肯定的だった人間
三位:十字架信仰に肯定的で、十字架信仰者と利権すら共有していた人間
四位:十字架信仰者だった人間
という社会的序列が確立され、三位と四位の人間については実際に処分が科されることともなる。
二位の人間までもが処分されたりすることはないにしろ、一位の人間と比べれば、今までの
自分の思い違いを恥じなければならなくなる。当然、一位の人間が処分を科されたりすることも、
自らを恥じたりする必要もない。一方で、いま一位であるような人間こそは、今の世の中でも
最も恭敬意識の高い人間だったりもして、何事にかけてもみだりに誇り高ぶったりすることは
避けていたりする。本来、人間はそうであるほうがいいのであり、みだりな誇り高ぶりを信者に
奨励していた十字架信仰こそが始めからあって余計であり、なくて別に困らないものだったのである。
「君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義、之れと与にす」
「君子が天下において、絶対に適格だとか、不適格だとかいったことに固執することはない。
ただ、道義と共にあるのみである。(上記の十字架信仰に対する社会不適格宣告も、
『そうしないと人類が滅亡するから』という道義に根ざした理由にこそ基づいている。
十字架信仰者ごと全人類が滅亡しても構わないというのなら、この限りでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一〇より)
及んでしまった人間にとっても、十字架信仰が恥ずべきものとして扱われるようになることが
少なからず、自分たちにとっての連帯的な恥辱ともなる。その度合いがあまりにもひどく、
信仰者でない立場から、十字架信仰者と利権を共有したりまでしてしまっていたりしたならば、
それこそ十字架信仰者並みの差別対象にすらなってしまうのである。
一位:十字架信仰と無縁で、十字架信仰に対して肯定的でもなかった人間
二位:十字架信仰と無縁だが、十字架信仰に対して肯定的だった人間
三位:十字架信仰に肯定的で、十字架信仰者と利権すら共有していた人間
四位:十字架信仰者だった人間
という社会的序列が確立され、三位と四位の人間については実際に処分が科されることともなる。
二位の人間までもが処分されたりすることはないにしろ、一位の人間と比べれば、今までの
自分の思い違いを恥じなければならなくなる。当然、一位の人間が処分を科されたりすることも、
自らを恥じたりする必要もない。一方で、いま一位であるような人間こそは、今の世の中でも
最も恭敬意識の高い人間だったりもして、何事にかけてもみだりに誇り高ぶったりすることは
避けていたりする。本来、人間はそうであるほうがいいのであり、みだりな誇り高ぶりを信者に
奨励していた十字架信仰こそが始めからあって余計であり、なくて別に困らないものだったのである。
「君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義、之れと与にす」
「君子が天下において、絶対に適格だとか、不適格だとかいったことに固執することはない。
ただ、道義と共にあるのみである。(上記の十字架信仰に対する社会不適格宣告も、
『そうしないと人類が滅亡するから』という道義に根ざした理由にこそ基づいている。
十字架信仰者ごと全人類が滅亡しても構わないというのなら、この限りでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一〇より)
権力犯罪聖書——通称聖書の旧約・トーラーにおけるモーセの十戒、
1.私以外の何者も神としてはならない。
2.偶像を作ってはならない。
3.主の名をみだりに唱えてはならない。
4.週に一度は休日としなさい。
5.父母を敬いなさい。
6.何をも殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗みを働いてはならない。
9.隣人のことを偽証してはならない。
10.他人の物を欲しがってはならない。
は、6〜9が実罪に対する禁止となっていて、5と10が道徳性をも養わせる善法となっている。
しかし、4があってもなくてもいいような法律となっていて(江戸時代の日本などに曜日制はなかった)、
最初に優先して書かれている1〜3が、決して俗人に強要などすべきではない悪法となっている。
この十戒を全て守ればいいということもないし、全て守らなくていいなどということもない。
6〜9は守るべきで、5や10も守ったほうがよい。一方で、4は守ろうが守るまいがどうでもよく、
1〜3はむしろ守るべきでない。守るべき戒律と守るべきでない戒律のみそくそ、それが十戒にあたる。
十戒の全てを守るべきだとするユダヤ信仰と、十戒など守る必要はないというキリスト信仰と、
いずれもが信者を吉方へと導くことのない、双極性障害への振れ切りの温床とばかりなる。
1.私以外の何者も神としてはならない。
2.偶像を作ってはならない。
3.主の名をみだりに唱えてはならない。
4.週に一度は休日としなさい。
5.父母を敬いなさい。
6.何をも殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗みを働いてはならない。
9.隣人のことを偽証してはならない。
10.他人の物を欲しがってはならない。
は、6〜9が実罪に対する禁止となっていて、5と10が道徳性をも養わせる善法となっている。
しかし、4があってもなくてもいいような法律となっていて(江戸時代の日本などに曜日制はなかった)、
最初に優先して書かれている1〜3が、決して俗人に強要などすべきではない悪法となっている。
この十戒を全て守ればいいということもないし、全て守らなくていいなどということもない。
6〜9は守るべきで、5や10も守ったほうがよい。一方で、4は守ろうが守るまいがどうでもよく、
1〜3はむしろ守るべきでない。守るべき戒律と守るべきでない戒律のみそくそ、それが十戒にあたる。
十戒の全てを守るべきだとするユダヤ信仰と、十戒など守る必要はないというキリスト信仰と、
いずれもが信者を吉方へと導くことのない、双極性障害への振れ切りの温床とばかりなる。
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「親子兄弟に殺し合いをさせる」という予言をほざいた通り、イエスは明らかに十戒の破戒を
信者に促している。しかも「父母を敬え」「人を殺すな」という、十戒のうちでも特に善良な法規を
特定して破ることを促しており、むしろ「主以外を神としない」といった、劣悪な徒法のほうは
守らなければならないようなことを多数うそぶいてもいる。十戒を「完全に破りとおせ」というのではなく、
むしろ「善法を破って悪法を守れ」という害為の促進のために、十戒の蔑ろすらをも利用しているのである。
十戒を含む、旧約の条項全体を、新約信仰と共に破棄するのが当然、至当ではある。
その上で「父母を敬え」「殺すな」「盗むな」「犯すな」「嘘をつくな」といった善法だけを布令する
儒学や仏教の教えにのみ倣うのがよい。善法も悪法もみそくに扱う徒法を守るのが劣悪であるならば、
そのみそくそな徒法を破る過程で、善法すらをも同時に破ってしまうのもまた、劣悪の二乗である。要するに、
くそみそ信仰のユダヤと、くそみそ全廃信仰のキリシタン、どちらによっても劣悪の極みから抜け出せはしないのである。
「民の亦れ労しめる、汔わくは小しく康んず可し。此の中国に恵み、以て四方を綏ぜん。詭隨のものを縱すなく、
以って無良を謹めよ。式て寇虐と、僭て明を畏れざるものを遏めよ。遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定んぜん」
「民は重労働に苦しんでいる、願わくはそこに安寧をもたらしてやるべし。この中国に深い恵みをもたらし、
邪まに従う者を許さず、良からぬ輩の策動を止めよ。それにより侵略の災いと、僭越を畏れぬ者とを根絶やせ。
遠方をも和らげ近場も良くし、我が王も安んじてくれんことを。(自分への恵みなど考えず、民と王とへの恵みを
まず希う高潔さ。それは邪教に従う良からぬ輩を退治し、隣人への偏愛なども廃された所でこそ実現されるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小旻之什・民労より)
信者に促している。しかも「父母を敬え」「人を殺すな」という、十戒のうちでも特に善良な法規を
特定して破ることを促しており、むしろ「主以外を神としない」といった、劣悪な徒法のほうは
守らなければならないようなことを多数うそぶいてもいる。十戒を「完全に破りとおせ」というのではなく、
むしろ「善法を破って悪法を守れ」という害為の促進のために、十戒の蔑ろすらをも利用しているのである。
十戒を含む、旧約の条項全体を、新約信仰と共に破棄するのが当然、至当ではある。
その上で「父母を敬え」「殺すな」「盗むな」「犯すな」「嘘をつくな」といった善法だけを布令する
儒学や仏教の教えにのみ倣うのがよい。善法も悪法もみそくに扱う徒法を守るのが劣悪であるならば、
そのみそくそな徒法を破る過程で、善法すらをも同時に破ってしまうのもまた、劣悪の二乗である。要するに、
くそみそ信仰のユダヤと、くそみそ全廃信仰のキリシタン、どちらによっても劣悪の極みから抜け出せはしないのである。
「民の亦れ労しめる、汔わくは小しく康んず可し。此の中国に恵み、以て四方を綏ぜん。詭隨のものを縱すなく、
以って無良を謹めよ。式て寇虐と、僭て明を畏れざるものを遏めよ。遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定んぜん」
「民は重労働に苦しんでいる、願わくはそこに安寧をもたらしてやるべし。この中国に深い恵みをもたらし、
邪まに従う者を許さず、良からぬ輩の策動を止めよ。それにより侵略の災いと、僭越を畏れぬ者とを根絶やせ。
遠方をも和らげ近場も良くし、我が王も安んじてくれんことを。(自分への恵みなど考えず、民と王とへの恵みを
まず希う高潔さ。それは邪教に従う良からぬ輩を退治し、隣人への偏愛なども廃された所でこそ実現されるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小旻之什・民労より)

重荷を捨てて十字架にすがるのは、ただの現実逃避。
綺麗ごとでもなんでもない、人として恥ずべき所業の極み。
重荷を背負うこともできない、未熟の極みな煩悩愚縛の凡夫であるというのなら、自己を誇ることも許されない。
己れの恥ずべき有り様をありのままに恥じ入った上で、南無阿弥陀仏。間違っても、
十字架を背負っている云々といった欺瞞によって、誇り高ぶったりするものではない。
転倒夢想の致命点は、恥ずべきものを誇るところにこそある。
人間はサルからヒトに進化する過程で、毛皮などを羽織る習慣を身に付けながら体毛を
薄くしていったのだから、人間が衣服を着ないで公然と素っ裸でいるのは、確かに恥ずべきことである。
しかし、旧約の損世記に「人間の先祖はエデンの園で素っ裸で暮らしていた」と書いてあるものだから、
聖書圏にはヌーディストビーチなどの、全裸を見せびらかす文化が多数存在している。しかもそれを
道化やポルノではなく、本当に神聖な行いとして誇りにしていたりするのだから、笑いものである。
こういうのが、恥ずべきこと、笑われるべきことを逆に誇りにしている、転倒夢想の一例であるといえる。

それなりに恥ずべきこととされるだけでも十分に、致命的な問題が発生することへの抑止にはなる。
しかしそれこそは、法律などで全裸が厳禁されることよりも、さらに困難なことだったりもする。
人間精神の根本の部分を脅かしている転倒夢想を取り払うことは、ただ頭ごなしに人々の言動を統制したり
するよりも遥かに多くの工夫が必要で、それこそ、進んで重荷を背負っていく心意気までもが必要となる。
全ての人間が重荷を背負っていくのでなくとも、相当数の人間が重荷を背負って坂道を登り続けていく
挺身に努めて行かなければならない。そのためには、信者に重荷を降ろさせて十字架を背負わせ、
しかもそれを誇りとさせるような邪教の、頭ごなしな禁止も差し当たって必要なことである。決して
それが最終手段となるのではなく、重荷を背負って坂道を登り始めていくきっかけになるのみである。
「士の子の長幼を問えば、長ぜるは則ち能く耕すと曰い、幼なるは則ち能く薪を負う、未だ薪を負うこと能わずと曰う。」
「士人の子供の長幼を表現するとき、長じた時には『よく田畑を耕すに値する』といい、幼ければ『よく薪を背負える』
といったり『まだ薪を背負うこともできない』といったりする。(この慣例の援用により、兵士の射儀に失敗した場合、
王君は『まだ自分には薪を背負う仕事が残っている』と謙遜し、他者に仕事を譲ると礼記・曲礼下第二にもある。
薪を背負うことすらできないというのが、幼さの中にもさらに幼いという、未熟さの極みの表現ともなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
世に知らぬ者もいないインド独立の父・ガンジーは、カースト制において最下等の
階級とされている不可触賤民を、「ハリジャン(神の子)」と呼ぶことを提唱した。
今現在、あまり定着してもいないようだが、ヒンズー教徒でありながら、キリスト教もそれなりの
研究対象としていたガンジーが、「キリスト」と同じ「神の子」という意味を持つヒンディー語の呼称を
不可触賤民にあてがおうとしたあたりには、キリスト教の本質に対する看破までもがうかがえる。
キリスト教徒と異教徒との間には、確かにどちらかが不可触賤民として、もう一方が一般人として
扱われざるを得ないほどもの、品位の隔絶が生じている。インドの不可触民や日本の被差別部落などは、
キリスト教のような信教によって差別を受けたのではなく、屠殺や製革や死体処理といった、人々の卑しむ
仕事を請け負っていたから差別されたのだが、キリスト教徒の場合は、キリスト信仰という自己洗脳によって
極度の蒙昧状態に陥り、異教徒と対等に接することもできないほどの異常な品性を帯びてしまったのである。
上記のような違いがあることもあり、インドや日本の被差別民などよりも遥かに、
キリスト教徒には「修辞」の慣習が豊富である。内面に極度の蒙昧を抱えながらも、外面だけは
よさげに見せようとする巧言令色の修練。日本の被差別民などの場合でも、芸能活動に従事する河原者などが
それを講ずることはあったが、あくまで舞台上だけでの話。国家全体がキリスト教を国教としているような
社会において、キリスト教徒は常日ごろから、内面の蒙昧さを巧言令色によってひた隠す慣習が根付いているから、
その修辞としての巧みさも、日本の河原者などとも比べ物にならないほど本格的なものとなっている。
階級とされている不可触賤民を、「ハリジャン(神の子)」と呼ぶことを提唱した。
今現在、あまり定着してもいないようだが、ヒンズー教徒でありながら、キリスト教もそれなりの
研究対象としていたガンジーが、「キリスト」と同じ「神の子」という意味を持つヒンディー語の呼称を
不可触賤民にあてがおうとしたあたりには、キリスト教の本質に対する看破までもがうかがえる。
キリスト教徒と異教徒との間には、確かにどちらかが不可触賤民として、もう一方が一般人として
扱われざるを得ないほどもの、品位の隔絶が生じている。インドの不可触民や日本の被差別部落などは、
キリスト教のような信教によって差別を受けたのではなく、屠殺や製革や死体処理といった、人々の卑しむ
仕事を請け負っていたから差別されたのだが、キリスト教徒の場合は、キリスト信仰という自己洗脳によって
極度の蒙昧状態に陥り、異教徒と対等に接することもできないほどの異常な品性を帯びてしまったのである。
上記のような違いがあることもあり、インドや日本の被差別民などよりも遥かに、
キリスト教徒には「修辞」の慣習が豊富である。内面に極度の蒙昧を抱えながらも、外面だけは
よさげに見せようとする巧言令色の修練。日本の被差別民などの場合でも、芸能活動に従事する河原者などが
それを講ずることはあったが、あくまで舞台上だけでの話。国家全体がキリスト教を国教としているような
社会において、キリスト教徒は常日ごろから、内面の蒙昧さを巧言令色によってひた隠す慣習が根付いているから、
その修辞としての巧みさも、日本の河原者などとも比べ物にならないほど本格的なものとなっている。

インドや日本の被差別民並みか、それ以上もの醜さである。東洋の被差別民は、あくまで世の中に
ある程度不可欠な賤業に従事していたから醜くならざるを得なかった一方、キリスト教徒の内面の
醜さは、キリスト教徒たち自身が必要もなく、わざわざあえて好き好んで得たものである。
だから、キリスト教徒の内面の醜さは、東洋の被差別民の醜さ以上だとすら断定できる。
今だと、屠殺や製革や精肉などは、ロボット化によって、その穢れに直接人が触れないで済むようにできる。
死体処理をしなければならなくなるような事故や処刑などは、できる限りないに越したことはないことだし、
肉食や皮革文化も絶対に世の中に無ければならないものでもない。今の世界人口分のタンパク源を
食肉以外で全て賄おうとすれば、それはそれで問題が生じそうではあるにしろ、今の明らかに
過剰な世界人口もやはり、なだらかにでも減らしていくに越したことはないものだ。
賤業に従事するが故に、差別対象となるような人間もまた、できる限りこの世からいなくなるに越した
ことはない。いわんや、被差別民並み以下の品性に好き好んで自らを貶める、キリスト教徒をや、である。
「民に君たる者、〜信を以って之れを結ぶときは、則ち民は倍かず」
「万民に対して王君たる者が、信実さによって民たちを自分に結び付けておけば、民たちが背くこともない。
(信によって民を結ぶのは正規の王君の業であり、イエスのような民間人の為すべきことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)

「両者こそは対極の関係にある」なんてのは全くの猿芝居で、自分たち自身が政治的な
責任を負わないユダヤ教徒による悪徳商売を世にのさばらせるためにこそ、国家レベルの
大社会を愚民の群れと化すための洗脳支配の手段としての、キリスト教が捻出されたのである。
明らかに、キリスト教圏ばかりでユダヤ商人による悪徳商売が横行していて、
非キリスト教圏においても、キリスト教の布教が容認されたぶんだけ、ユダヤ式の悪徳商売も
流布されている。(キリシタンが解禁になった明治以降に、日本でも資本主義経済が肥大化している)
キリスト教圏と同じアブラハム教圏であるイスラム圏においては、イスラム法により利子経済が
禁止されているので、ユダヤ式の悪徳商法は横行のしようがない。むしろ、ユダヤ商法の問題点を
同じアブラハム教としての立場から綿密に見定めているからこそ、日本や中国やインドのような
非アブラハム教圏以上にも、ユダヤ信仰の実践の横行による世の乱脈も徹底して防げている。
ユダヤの悪行を容認する度合いでは、キリスト教圏>0>非アブラハム教圏≧イスラム教圏
であり、イスラム教がユダヤの悪行を完全に撲滅するのに対し、非アブラハム教はユダヤの悪行を
抑制する程度の効果を持つ。そして、キリスト教だけは、ユダヤの悪行を積極的に推進すらする。
非アブラハム教圏の文化のうちでも、儒学だけは、イスラム教並みにユダヤの悪行を撲滅する効果を持つ。
(信教化された儒学である「儒教」にそこまでの効果がないのは、旧儒教圏である韓国が、東洋でも
突出したキリスト教受容に及ぶことにより、ユダヤ並みの悪徳商売を横行させていることからも分かる)
ただ、儒学こそは、イスラム教以上にも、今の世の中での実践が全く不能な状態と化してしまってもいる。
イスラム圏は、イスラムだけでユダヤ災禍を根絶やしに出来るから、特に儒学を併修せねばならない
義務もないが、非アブラハム教圏は、イスラムに信教を鞍替えしない限りにおいて、何とかユダヤ災禍を
駆逐するためには、必ず儒学を正学としてよく尊重しなければならない。儒学を正学に据える以上は、
儒学と真逆の邪義邪説ばかりを触れ回っているキリスト教も、ユダヤ教と共に廃絶しなければならない。
だから結局、非アブラハム教圏で、ユダヤ=キリスト両聖書教が少しでも容認される余地はない。
イスラム圏は引き続きイスラム信仰によってユダヤ災禍の防止に務められる。非アブラハム教圏は
儒学を正学に据える過程でキリスト教をも廃絶することにより、ユダヤ災禍がイスラム圏並みに防止されて
いくことになる。そしてキリスト教圏は、そのままキリスト教を廃棄することでユダヤ災禍を共に根絶する。
キリスト教を廃絶すれば、当然キリスト教圏は信教面での空白地帯になる。その空しさに耐えられないと
いうのなら仏教を受容するなり、自分たちで新たな無害化宗教を創出するなどすればいい。いずれにしろ、
ユダヤ=キリスト両聖書教の聖典である権力犯罪聖書——通称聖書が必要とされることは、もう二度とない。
(信教化された儒学である「儒教」にそこまでの効果がないのは、旧儒教圏である韓国が、東洋でも
突出したキリスト教受容に及ぶことにより、ユダヤ並みの悪徳商売を横行させていることからも分かる)
ただ、儒学こそは、イスラム教以上にも、今の世の中での実践が全く不能な状態と化してしまってもいる。
イスラム圏は、イスラムだけでユダヤ災禍を根絶やしに出来るから、特に儒学を併修せねばならない
義務もないが、非アブラハム教圏は、イスラムに信教を鞍替えしない限りにおいて、何とかユダヤ災禍を
駆逐するためには、必ず儒学を正学としてよく尊重しなければならない。儒学を正学に据える以上は、
儒学と真逆の邪義邪説ばかりを触れ回っているキリスト教も、ユダヤ教と共に廃絶しなければならない。
だから結局、非アブラハム教圏で、ユダヤ=キリスト両聖書教が少しでも容認される余地はない。
イスラム圏は引き続きイスラム信仰によってユダヤ災禍の防止に務められる。非アブラハム教圏は
儒学を正学に据える過程でキリスト教をも廃絶することにより、ユダヤ災禍がイスラム圏並みに防止されて
いくことになる。そしてキリスト教圏は、そのままキリスト教を廃棄することでユダヤ災禍を共に根絶する。
キリスト教を廃絶すれば、当然キリスト教圏は信教面での空白地帯になる。その空しさに耐えられないと
いうのなら仏教を受容するなり、自分たちで新たな無害化宗教を創出するなどすればいい。いずれにしろ、
ユダヤ=キリスト両聖書教の聖典である権力犯罪聖書——通称聖書が必要とされることは、もう二度とない。
「王は申伯を遣わすに、路車乗馬をもってす。我れ爾じが居るを図るに、南土に如くは莫し。
爾じに介圭を錫う、以て爾じの宝と作せ。往け、王舅よ、南土を是れ保んぜん」
「周王は申伯を封土へと遣わすに際し、豪勢な車馬を賜い、そして言った。『私がそなたに
相応しい封土だと思うのは南都である。そなたにこの大玉も授けるので、これをそなたの
宝とせよ。さあ、偉大なる大叔父よ往かれし。その力量によって、南都を平定してくだされ』
(『キリストが神から遣わされる』などという表現も、元はといえばこのような、王君による封土への
正式な臣下の派遣を模倣したものである。しかし、もちろん総員商人階級であるユダヤ教徒に領土はないし、
旧約の律法も悪徳商法の一種でしかないわけだから、『形而上から形而下に遣わす』みたいな、実際の
土地関係を無視した表現しか行うことができない。そして、そのような不実な表現で尽くされる所の理念が、
天下全土の平定を実現したりすることも当然なく、この世を餓鬼界と畜生界に分断する元凶ばかりになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・崧高より)
爾じに介圭を錫う、以て爾じの宝と作せ。往け、王舅よ、南土を是れ保んぜん」
「周王は申伯を封土へと遣わすに際し、豪勢な車馬を賜い、そして言った。『私がそなたに
相応しい封土だと思うのは南都である。そなたにこの大玉も授けるので、これをそなたの
宝とせよ。さあ、偉大なる大叔父よ往かれし。その力量によって、南都を平定してくだされ』
(『キリストが神から遣わされる』などという表現も、元はといえばこのような、王君による封土への
正式な臣下の派遣を模倣したものである。しかし、もちろん総員商人階級であるユダヤ教徒に領土はないし、
旧約の律法も悪徳商法の一種でしかないわけだから、『形而上から形而下に遣わす』みたいな、実際の
土地関係を無視した表現しか行うことができない。そして、そのような不実な表現で尽くされる所の理念が、
天下全土の平定を実現したりすることも当然なく、この世を餓鬼界と畜生界に分断する元凶ばかりになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・崧高より)
自分自身、妾腹の子の血筋であることからなる、個人的な経験から分かったことだが、
妾腹の子の血を引く人間は、吃音(どもり)のような軽度の言語障害を患うか、
もしくは二枚舌三枚舌を使い分ける虚言癖を帯びるかの、どちらかに振り切れやすい。
郷党第十・一に「孔子、郷党に於いて恂恂如たり、言うこと能わざる者に似たり」
とあり、果たして「どもり」だったかどうかは知らないが、妾腹の私生児として生を受けた
孔子が、故郷ではあたかも言語障害者かというほどにも、異様にいそいそとしていたとされる。
これは、孔子が自らの生まれの賤しさを心から恥じていた証拠であり、その恥じらいを
バネにして孔子は礼楽を学び、人一倍言語表現などについても正確な知見を得るまでになった。
その正しい言語表現を世間では実用できていたから、よそよそしさを嫌う故郷でだけは
幼少期のように、どもりのような言語障害気味の言葉遣いでもいたと記録されているのである。
妾腹の子としての賤しさに対する恥じらいは、まずどもりのような言語障害として表出する。
その障害を乗り越えるために、孔子のように、礼法などを通じて正しい言葉遣い学べば、
常人並み以上にも立派な言葉遣いを身に付けた聖人君子にすらなり得る。しかし、障害を
乗り越えることを正しい術べによらず、全くの我流によって乗り越えようとしたならば、全く
筋の通らないことを放言したり、二枚舌三枚舌を使い分けたりする虚言癖をこじらせてしまう。
妾腹の子の血を引く人間は、吃音(どもり)のような軽度の言語障害を患うか、
もしくは二枚舌三枚舌を使い分ける虚言癖を帯びるかの、どちらかに振り切れやすい。
郷党第十・一に「孔子、郷党に於いて恂恂如たり、言うこと能わざる者に似たり」
とあり、果たして「どもり」だったかどうかは知らないが、妾腹の私生児として生を受けた
孔子が、故郷ではあたかも言語障害者かというほどにも、異様にいそいそとしていたとされる。
これは、孔子が自らの生まれの賤しさを心から恥じていた証拠であり、その恥じらいを
バネにして孔子は礼楽を学び、人一倍言語表現などについても正確な知見を得るまでになった。
その正しい言語表現を世間では実用できていたから、よそよそしさを嫌う故郷でだけは
幼少期のように、どもりのような言語障害気味の言葉遣いでもいたと記録されているのである。
妾腹の子としての賤しさに対する恥じらいは、まずどもりのような言語障害として表出する。
その障害を乗り越えるために、孔子のように、礼法などを通じて正しい言葉遣い学べば、
常人並み以上にも立派な言葉遣いを身に付けた聖人君子にすらなり得る。しかし、障害を
乗り越えることを正しい術べによらず、全くの我流によって乗り越えようとしたならば、全く
筋の通らないことを放言したり、二枚舌三枚舌を使い分けたりする虚言癖をこじらせてしまう。
その代表格がイエス・キリストであり、「私は剣をもたらしに来た」と言ったり
「剣を取る者は剣で滅びる」と言ったりの、あられもない虚言癖を存分に披露している。
イエスだけでなく、その信徒たちも奴の虚言癖を受け継いで、「行いではなく信仰で救われる」
と言ったり「信仰ではなく行いで救われる」と言ったり、「イエスは律法の配下である」
と言ったり「イエスではなく律法によって救われようとすれば救われない」と言ったりする。
(上記の引用は全て「新約聖書」中に両論併記されている)まともな言葉遣いもできない境遇を、
正しい言葉遣いの勉強によって克服したりもせず、ただ放言をしまくる気狂いによって
ありのままに増幅させたのが、イエスの物言いや、その信徒たちの物言いであり、人として
最も許しがたく、また決して見習ったりしてはいけない言語規範の最たるものとなっている。
人間の言語能力は大体、父親ではなく母親から遺伝するから、その母親が娼婦のような賤しい仕事を
していたなら、母親の度し難い言葉遣いが我が子にも遺伝して、最悪の場合、言語障害を発症する。
とはいえ、器質性ではなく心因性の障害だから、克服しようと思えばできるし、克服するとまで行かずとも、
朗々とものを言う能力だけを回復させることもできる。孔子のように完璧に克服すれば、人並み以上にも
正しい言葉遣いを身に付けられたりもする一方、正しい言葉遣いではなく、ただ朗々とものを言う
能力だけをパッション(激情)によって増大すればイエスのようになり、完全に間違った言葉遣いのままで、
ただ朗々とものを言い続けるだけの、甚だしい虚言癖を帯びるようになる。そうなるぐらいならむしろ、
どもりのような言語障害を抱えたままでいるほうがマシであり、そのほうが世にかける迷惑も少なくて済む。
もちろん、正しい言葉遣いの勉強によって言語障害も克服できればよりよいわけで、ただそれは極めて
困難な道のりだから、甚だしい虚言癖の持ち主になるぐらいなら、どもりだったりするほうがマシだという
ことをまずわきまえることのほうが、世の中に最悪の迷惑をかけずに済ませる上での端緒にはなるといえる。
「剣を取る者は剣で滅びる」と言ったりの、あられもない虚言癖を存分に披露している。
イエスだけでなく、その信徒たちも奴の虚言癖を受け継いで、「行いではなく信仰で救われる」
と言ったり「信仰ではなく行いで救われる」と言ったり、「イエスは律法の配下である」
と言ったり「イエスではなく律法によって救われようとすれば救われない」と言ったりする。
(上記の引用は全て「新約聖書」中に両論併記されている)まともな言葉遣いもできない境遇を、
正しい言葉遣いの勉強によって克服したりもせず、ただ放言をしまくる気狂いによって
ありのままに増幅させたのが、イエスの物言いや、その信徒たちの物言いであり、人として
最も許しがたく、また決して見習ったりしてはいけない言語規範の最たるものとなっている。
人間の言語能力は大体、父親ではなく母親から遺伝するから、その母親が娼婦のような賤しい仕事を
していたなら、母親の度し難い言葉遣いが我が子にも遺伝して、最悪の場合、言語障害を発症する。
とはいえ、器質性ではなく心因性の障害だから、克服しようと思えばできるし、克服するとまで行かずとも、
朗々とものを言う能力だけを回復させることもできる。孔子のように完璧に克服すれば、人並み以上にも
正しい言葉遣いを身に付けられたりもする一方、正しい言葉遣いではなく、ただ朗々とものを言う
能力だけをパッション(激情)によって増大すればイエスのようになり、完全に間違った言葉遣いのままで、
ただ朗々とものを言い続けるだけの、甚だしい虚言癖を帯びるようになる。そうなるぐらいならむしろ、
どもりのような言語障害を抱えたままでいるほうがマシであり、そのほうが世にかける迷惑も少なくて済む。
もちろん、正しい言葉遣いの勉強によって言語障害も克服できればよりよいわけで、ただそれは極めて
困難な道のりだから、甚だしい虚言癖の持ち主になるぐらいなら、どもりだったりするほうがマシだという
ことをまずわきまえることのほうが、世の中に最悪の迷惑をかけずに済ませる上での端緒にはなるといえる。
「人の禽獣に異なる所以の者は幾ばくにして希し。庶民は之れを去る、君子は之れを存す」
「人と禽獣をより分ける由縁となるものは極めて少ない。庶民はこれを捨てるが、君子はそれを保つことに務める。
(犬のような言葉を話せない動物でも、食べ飽きて残しているエサを片付けようとすれば、急に飛びついて
そのエサを食べ始めたりといった、理に適わない行動を多数する。理に適った言動を守れることこそは、
人と禽獣を分ける由縁であるといえ、虚言癖の旺盛なイエスの言語規範などは決してその由縁とはならない。
かといって、悪徳商法の宗教教義化である、旧約の律法への帰依がその由縁になるなどということもない。
金という末節を至上として、人間自身や農工などを下等なものとして扱う悪徳商売もまた、破綻した所業だから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一九より)
「人と禽獣をより分ける由縁となるものは極めて少ない。庶民はこれを捨てるが、君子はそれを保つことに務める。
(犬のような言葉を話せない動物でも、食べ飽きて残しているエサを片付けようとすれば、急に飛びついて
そのエサを食べ始めたりといった、理に適わない行動を多数する。理に適った言動を守れることこそは、
人と禽獣を分ける由縁であるといえ、虚言癖の旺盛なイエスの言語規範などは決してその由縁とはならない。
かといって、悪徳商法の宗教教義化である、旧約の律法への帰依がその由縁になるなどということもない。
金という末節を至上として、人間自身や農工などを下等なものとして扱う悪徳商売もまた、破綻した所業だから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一九より)
模範的な儒者の言行は、易の法則に適っているから、
この世界、この宇宙において最も自由自在である。
仏者などはさらに、三千大千世界に絶対普遍の真理に合致しようとするから、
自由度については儒者以上だとすらいえるが、結局その言行規範となる「中道」は、
儒者の規範たる「中庸」とも、「中正である」という点において共通することになる。
易に違い、三千大千世界の絶対真理に違う完全誤謬を希求していった先にあったのは、
人間が被る中でも最重度の不自由だった。「刑死しても生き返る」とか、
「冤罪で罪が滅ぼされる」とかいった、明らかに道理に適わない妄想までをも
実現しようとした先にこそ、あらゆる不自由の中でも、最大級の不自由があった。
人間の肘の関節や膝の関節、その他多くの関節部位が、一方向には曲がっても
逆方向には曲がらないような非可逆性を備えている。だからこそ人体は重力の
重みにも耐えて自由に立ったり座ったり、歩いたり走ったりすることもできる。
自由は、一定の制限がある中にこそ存在するものであり、どんなにおかしな誤謬でも
「なんでもあり」という所では、もはや自由を希求する意味すら霧消してしまう。
非可逆的な関節構造を多数備えた人体が、鍛錬などを通じて、以前には不可能だった
動きを実現できるようになったりする時に、本当に「自由が叶えられた」のだといえる。
それはやはり、肘や膝が逆方向に曲がったりはしない範囲での、高度な身体躁法の
達成に過ぎないわけだが、それでこそ、身体を自由に操ることができたのだともいえる。
この世界、この宇宙において最も自由自在である。
仏者などはさらに、三千大千世界に絶対普遍の真理に合致しようとするから、
自由度については儒者以上だとすらいえるが、結局その言行規範となる「中道」は、
儒者の規範たる「中庸」とも、「中正である」という点において共通することになる。
易に違い、三千大千世界の絶対真理に違う完全誤謬を希求していった先にあったのは、
人間が被る中でも最重度の不自由だった。「刑死しても生き返る」とか、
「冤罪で罪が滅ぼされる」とかいった、明らかに道理に適わない妄想までをも
実現しようとした先にこそ、あらゆる不自由の中でも、最大級の不自由があった。
人間の肘の関節や膝の関節、その他多くの関節部位が、一方向には曲がっても
逆方向には曲がらないような非可逆性を備えている。だからこそ人体は重力の
重みにも耐えて自由に立ったり座ったり、歩いたり走ったりすることもできる。
自由は、一定の制限がある中にこそ存在するものであり、どんなにおかしな誤謬でも
「なんでもあり」という所では、もはや自由を希求する意味すら霧消してしまう。
非可逆的な関節構造を多数備えた人体が、鍛錬などを通じて、以前には不可能だった
動きを実現できるようになったりする時に、本当に「自由が叶えられた」のだといえる。
それはやはり、肘や膝が逆方向に曲がったりはしない範囲での、高度な身体躁法の
達成に過ぎないわけだが、それでこそ、身体を自由に操ることができたのだともいえる。
自由とは、一定の規定の範囲内で、最大の自由度を獲得することこそを意味する。
「人はいつかは死ぬ」とか、「死んだら二度と蘇らない」とかの最大級の規定すらも
逸脱することはもはや自由ですらない、ただの「暴挙」である。自由には規定があるが、
暴挙には規定がなく、規定がないために、何かを達成することもない。何を達成する
ということもないからこそ、暴挙はもはや自由として扱うに値すらしないのである。
英語のfreedomやlibertyに、上記のような語意が備わっているのかは知らないが、
(おそらく備わっていない)日本語や漢語で「自由」といえば、概ね上記のような意味がある。
そして上記のような意味の「自由」のほうが、暴挙と同様の意味で扱われる「自由」
などよりも遥かに快く、その自由を獲得したところにこそ、真の満足がありもする。
何を達成するわけでもない暴挙の先などには決してない、最大級の満足があるのである。
「君召して擯せ使むれば、色勃如たり、足躩如たり。与に立つ所に揖し、手を左右にす。
衣の前後は襜如たり。趨り進むとき翼如たり。賓退けば、必ず復命して曰く、賓顧ずと」
「国君が孔先生を召して来賓の介添役を命じたとき、先生はその顔色を正され、足もまるで
歩み進めないかのように緊張されていた。会釈の際には左右の手を礼節通り拱かれ、衣服の前後も
整然として乱れ動くことがなかった。小走りして進むときも慎重深く進み、来賓が退出すると、
必ず君に『賓客は(不満にかられて)顧みるようなこともなく退出されました』と報告された。
(孔子の不自由の限りを尽くしたような介添えによってこそ、来賓も満足したのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・三より)
「人はいつかは死ぬ」とか、「死んだら二度と蘇らない」とかの最大級の規定すらも
逸脱することはもはや自由ですらない、ただの「暴挙」である。自由には規定があるが、
暴挙には規定がなく、規定がないために、何かを達成することもない。何を達成する
ということもないからこそ、暴挙はもはや自由として扱うに値すらしないのである。
英語のfreedomやlibertyに、上記のような語意が備わっているのかは知らないが、
(おそらく備わっていない)日本語や漢語で「自由」といえば、概ね上記のような意味がある。
そして上記のような意味の「自由」のほうが、暴挙と同様の意味で扱われる「自由」
などよりも遥かに快く、その自由を獲得したところにこそ、真の満足がありもする。
何を達成するわけでもない暴挙の先などには決してない、最大級の満足があるのである。
「君召して擯せ使むれば、色勃如たり、足躩如たり。与に立つ所に揖し、手を左右にす。
衣の前後は襜如たり。趨り進むとき翼如たり。賓退けば、必ず復命して曰く、賓顧ずと」
「国君が孔先生を召して来賓の介添役を命じたとき、先生はその顔色を正され、足もまるで
歩み進めないかのように緊張されていた。会釈の際には左右の手を礼節通り拱かれ、衣服の前後も
整然として乱れ動くことがなかった。小走りして進むときも慎重深く進み、来賓が退出すると、
必ず君に『賓客は(不満にかられて)顧みるようなこともなく退出されました』と報告された。
(孔子の不自由の限りを尽くしたような介添えによってこそ、来賓も満足したのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・三より)
人間社会を、ごく順当な安定へと導く一般的な道理を、ごくごく
ありのままに記録した書物として、権力道徳聖書——通称四書五経がある。
質でも量でも古さでも発行部数でも、全てにおいて権力犯罪聖書——
通称聖書を上回り、なおかつごく平凡な道理を記録しているだけの書物。
平凡なだけに、完璧な治世を約束するという所まではいかない。
数百年に一回程度の戦乱や、権力者のだらけからなる一定の腐敗なども必ずしも
避けられるものではなく、治世の範囲内における凶悪事件の勃発や、それを
成敗するための残虐な刑罰なども、四書五経だけなら避けられるものではない。
大化の改新から平安末期までの日本のような、死刑すらほとんど行われない
ほどもの治世を実現するためには、それはそれで創作的な理念であるといえる、
仏教への帰依なども嗜む必要がある。権力者から庶民に至るまでの万民が
仏門によく帰依し、莫大な布施によって豪壮な寺院を造営したりすることにまで
努めて初めて、死刑すら必要とされないほどもの、完璧な治世が実現することになる。
ただ、結局そこまで完璧な治世が実現されるというのも、世界人類の平均から言えば、
随分と特異なことだといえる。インドのように万年泰平状態の世の中もあれば、
西洋のように引っ切り無しの戦乱を続けてきた世の中もある。それら全てを総合した
平均としては、それなりに治世もあり、たまには戦乱もあるという程度の歴史を、
太古の昔から積み重ねてきたのが地球人類であるといえる。その、地球人類の平均的な
歴史を運営するための指針として最も適正なのが、四書五経などを正典とする儒学であり、
儒学と比べれば、万年乱世や人類滅亡をもたらす新旧約聖書はもちろんのこと、死刑
一つない万年泰平社会を実現する仏教もまた、それなりに造作的な代物であるといえる。
ありのままに記録した書物として、権力道徳聖書——通称四書五経がある。
質でも量でも古さでも発行部数でも、全てにおいて権力犯罪聖書——
通称聖書を上回り、なおかつごく平凡な道理を記録しているだけの書物。
平凡なだけに、完璧な治世を約束するという所まではいかない。
数百年に一回程度の戦乱や、権力者のだらけからなる一定の腐敗なども必ずしも
避けられるものではなく、治世の範囲内における凶悪事件の勃発や、それを
成敗するための残虐な刑罰なども、四書五経だけなら避けられるものではない。
大化の改新から平安末期までの日本のような、死刑すらほとんど行われない
ほどもの治世を実現するためには、それはそれで創作的な理念であるといえる、
仏教への帰依なども嗜む必要がある。権力者から庶民に至るまでの万民が
仏門によく帰依し、莫大な布施によって豪壮な寺院を造営したりすることにまで
努めて初めて、死刑すら必要とされないほどもの、完璧な治世が実現することになる。
ただ、結局そこまで完璧な治世が実現されるというのも、世界人類の平均から言えば、
随分と特異なことだといえる。インドのように万年泰平状態の世の中もあれば、
西洋のように引っ切り無しの戦乱を続けてきた世の中もある。それら全てを総合した
平均としては、それなりに治世もあり、たまには戦乱もあるという程度の歴史を、
太古の昔から積み重ねてきたのが地球人類であるといえる。その、地球人類の平均的な
歴史を運営するための指針として最も適正なのが、四書五経などを正典とする儒学であり、
儒学と比べれば、万年乱世や人類滅亡をもたらす新旧約聖書はもちろんのこと、死刑
一つない万年泰平社会を実現する仏教もまた、それなりに造作的な代物であるといえる。
儒学と比べれば、仏教とか聖書教とかいった信教全般が創作的なものである。
キリスト教徒の狂信対象である新約聖書はもちろんのこと、ユダヤ教徒の狂信対象である
旧約聖書(律法含む)もまた、十分に創作的な代物であり、その創作者の意図する所は
「悪徳商法の宗教教義化」だったことが明らかである。そんなものを、何ら人類文化の
標準として扱うには値しないのであり、悪い意味での余計な創意工夫がすでにそこにある。
もちろん創意工夫が絶対にいけないなんてことはなく、仏教のように、完璧な泰平統治の
指針を教義として体系化していった信教もある。その把捉対象とする真理そのものは
不増不減であるにしろ、その真理の悟りからなる安楽を衆生に広めるための方便には
色々と巧みな創意工夫が凝らされている。それは決して全否定すべきものなどではない。
悪い創作は根本から根絶やしにして、善い創作はむしろ積極的に受容していくべきである。
キリスト教徒などにとっては創作物にすら値しないデフォルト文化とされる旧約からして
悪い創作物であることをわきまえて、新旧約全般の価値否定を推進すべきである一方、
仏教については、個々人の出家がほぼ全てである小乗仏教だけでなく、一般衆生の救済の
ための方便の創意工夫にも豊かな、大乗仏教までをも積極的に興隆していくべきである。
上記の指針は、あくまで「創作的な範囲」における指針であり、そもそも「述べて作らず、
信じて古を好む(述而第七・一)」という、創作以前の標準としての儒学などの教理の、
「人として当たり前なわきまえ」としての受容もまた、磐石化していくべきであるといえる。
キリスト教徒の狂信対象である新約聖書はもちろんのこと、ユダヤ教徒の狂信対象である
旧約聖書(律法含む)もまた、十分に創作的な代物であり、その創作者の意図する所は
「悪徳商法の宗教教義化」だったことが明らかである。そんなものを、何ら人類文化の
標準として扱うには値しないのであり、悪い意味での余計な創意工夫がすでにそこにある。
もちろん創意工夫が絶対にいけないなんてことはなく、仏教のように、完璧な泰平統治の
指針を教義として体系化していった信教もある。その把捉対象とする真理そのものは
不増不減であるにしろ、その真理の悟りからなる安楽を衆生に広めるための方便には
色々と巧みな創意工夫が凝らされている。それは決して全否定すべきものなどではない。
悪い創作は根本から根絶やしにして、善い創作はむしろ積極的に受容していくべきである。
キリスト教徒などにとっては創作物にすら値しないデフォルト文化とされる旧約からして
悪い創作物であることをわきまえて、新旧約全般の価値否定を推進すべきである一方、
仏教については、個々人の出家がほぼ全てである小乗仏教だけでなく、一般衆生の救済の
ための方便の創意工夫にも豊かな、大乗仏教までをも積極的に興隆していくべきである。
上記の指針は、あくまで「創作的な範囲」における指針であり、そもそも「述べて作らず、
信じて古を好む(述而第七・一)」という、創作以前の標準としての儒学などの教理の、
「人として当たり前なわきまえ」としての受容もまた、磐石化していくべきであるといえる。
「兔の爰爰たる有り、雉は罦に離る。我が生るるの初め、尚お造る無し。
我が生まるるの後、此れ百憂に逢う。尚くば寐ねて覚むる無からん」
「ウサギは悠々と飛び回り、キジは罠にかかって苦しんでいる。
(人それぞれの運命が極度に分かれている現状を暗に喩えている)
私がまだ生まれたばかりの頃には、これといった造作もない(泰平無事な)世の中だったが、
生まれ育って後には(不埒な造作が横行することにより)百千万の憂いに遭う世となった。
私ももう、永遠に眠り続けて覚めないままでいたいほどもの思いに駆られている。
(悪質な造作創作が、有害無益な憂いを多々世にもたらす。『だから作為全般を捨ててしまえ』
というのなら道家思想に一致するが、儒学や大乗仏教には悪い作為を捨てて善い作為を進める
方針が付随している。ただし、泰平実現のための創作は儒学よりもむしろ仏教のほうが豊富である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・兔爰より)
我が生まるるの後、此れ百憂に逢う。尚くば寐ねて覚むる無からん」
「ウサギは悠々と飛び回り、キジは罠にかかって苦しんでいる。
(人それぞれの運命が極度に分かれている現状を暗に喩えている)
私がまだ生まれたばかりの頃には、これといった造作もない(泰平無事な)世の中だったが、
生まれ育って後には(不埒な造作が横行することにより)百千万の憂いに遭う世となった。
私ももう、永遠に眠り続けて覚めないままでいたいほどもの思いに駆られている。
(悪質な造作創作が、有害無益な憂いを多々世にもたらす。『だから作為全般を捨ててしまえ』
というのなら道家思想に一致するが、儒学や大乗仏教には悪い作為を捨てて善い作為を進める
方針が付随している。ただし、泰平実現のための創作は儒学よりもむしろ仏教のほうが豊富である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・兔爰より)
天道と畜生道は、「資生」を主に取り扱っている領域であるため、確かに似通っている所がある。
人道や餓鬼道が「仕事の場」となるのに対し、天道や畜生道はその仕事によって培われた資生の貯蓄場である。
ただ、人道と比べれば餓鬼道が甚だしい貪欲さに駆られているのと同じようにして、畜生道もまた
天道では忌み嫌われるような、禽獣にも等しいほどの蒙昧な欲望にまみれている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...で書いた、
「女の化粧」を喩えに引いた資生の取り扱い方が、天道と畜生道の相違にもそのまま当てはめられる。
畜生道の女は天道の女と違って、素顔の醜さに対する甚だしいコンプレックスがある。そのコンプレックスを
埋め合わせるために資生堂あたりの化粧を貪り尽くすが、だからといって素顔の醜さに対するコンプレックスが
消えたりすることはない。それとは逆に、天道の女には素顔への異常な劣等感などはないから、化粧をするにしたって
際限のないむさぼりの対象としたりはしない。このような相違が、天道と畜生道との間には全般的に備わっているといえる。
人道や餓鬼道が「仕事の場」となるのに対し、天道や畜生道はその仕事によって培われた資生の貯蓄場である。
ただ、人道と比べれば餓鬼道が甚だしい貪欲さに駆られているのと同じようにして、畜生道もまた
天道では忌み嫌われるような、禽獣にも等しいほどの蒙昧な欲望にまみれている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...で書いた、
「女の化粧」を喩えに引いた資生の取り扱い方が、天道と畜生道の相違にもそのまま当てはめられる。
畜生道の女は天道の女と違って、素顔の醜さに対する甚だしいコンプレックスがある。そのコンプレックスを
埋め合わせるために資生堂あたりの化粧を貪り尽くすが、だからといって素顔の醜さに対するコンプレックスが
消えたりすることはない。それとは逆に、天道の女には素顔への異常な劣等感などはないから、化粧をするにしたって
際限のないむさぼりの対象としたりはしない。このような相違が、天道と畜生道との間には全般的に備わっているといえる。
「資生」という言葉は、「易経」坤卦・彖伝に出てくる言葉で、「坤卦こそは万物の資生の源泉である」と彖伝にもある。
ただ、あらゆる資生の源泉たる坤こそは従順を守るべきであるともされ、彖伝にも「天に対して従順たれ」とある。
天に対して従順である資生の貯蓄場こそは天界である一方、天に逆らう身勝手な資生の吹き溜まりが畜生界である。
天の働きとは、要するに易の法則のことであり、易の法則に順おうとする資生が天道に属する一方、
易の法則に反する資生が畜生道に属するのである。
易の根本法則を依拠している四書五経の記述に則ろうとすれば、それによって生じた資生は天道に属する一方、
易にも仏法にも反する完全誤謬の塊である犯罪聖書に則ろうとすれば、そりによって生じた資生が畜生道に拭き溜まる。
易の法則は「この世界」の法則であり、「この宇宙」の法則である一方、その法則を逸脱しようとしているのが
犯罪聖書であるため、資生がその従順さによって天道に属することを決定的に妨げるのである。
「暴君汚吏は、必ず其の経界を慢る」
「暴虐な王君や、貪欲さに汚れた官吏は、必ず境界を守ることを侮る。
(『汚吏』で『貪欲な官吏』を意味する。聖書信者の貪欲さには果てしがなく、まさに汚れの塊である。
その汚れようの原因は、この世界と形而上の境界すら侮る不埒さにあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
ただ、あらゆる資生の源泉たる坤こそは従順を守るべきであるともされ、彖伝にも「天に対して従順たれ」とある。
天に対して従順である資生の貯蓄場こそは天界である一方、天に逆らう身勝手な資生の吹き溜まりが畜生界である。
天の働きとは、要するに易の法則のことであり、易の法則に順おうとする資生が天道に属する一方、
易の法則に反する資生が畜生道に属するのである。
易の根本法則を依拠している四書五経の記述に則ろうとすれば、それによって生じた資生は天道に属する一方、
易にも仏法にも反する完全誤謬の塊である犯罪聖書に則ろうとすれば、そりによって生じた資生が畜生道に拭き溜まる。
易の法則は「この世界」の法則であり、「この宇宙」の法則である一方、その法則を逸脱しようとしているのが
犯罪聖書であるため、資生がその従順さによって天道に属することを決定的に妨げるのである。
「暴君汚吏は、必ず其の経界を慢る」
「暴虐な王君や、貪欲さに汚れた官吏は、必ず境界を守ることを侮る。
(『汚吏』で『貪欲な官吏』を意味する。聖書信者の貪欲さには果てしがなく、まさに汚れの塊である。
その汚れようの原因は、この世界と形而上の境界すら侮る不埒さにあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
欧米等の現聖書信者が、自分たちの信仰を全廃した上で、
聖書信仰の真の卑賤さと向き合っていくのは、これからの話である。
しかし、聖書信仰が本質的に何ら栄光とするに値しない恥辱沙汰の極みであるのは、
聖書信仰勃発時から常にそうであり続けてきたことである。今これから急に、聖書信仰が恥辱沙汰と
なるのではなく、最原初の頃からずっと本質的に恥辱沙汰であり続けてきたことを、今わきまえるのである。
決して、真の栄光などではないから、渇望が残るのである。
素顔にコンプレックスを抱く醜女ガ、化粧によって手に入れるような偽りの栄光だから、素顔の醜さへの
劣等感という本心の部分からなる渇望が絶えることがない。そしてその渇望こそは暗愚の至りであり、
そのような渇望を捨て去った先にこそ無量の栄光が生ずるのだとも、大乗仏典の「華厳経」などにもあるのである。
英語で「デフォルト(default、初期条件)」といえば、破産とか崩壊とかの悪い意味合いばかりを持つ。
それは、英語圏を含む聖書圏全体が、聖書信仰によって、初期条件が「駄目」である状態を強いられているからで、
それは地球人類という生物や、その産物としての人類文化全般にとっての初期条件などではない。のみならず、
人類文化の初期条件をありのままに記録している、四書五経の内容などとも真逆の条件ばかりを成しているのであり、
地球人類にとっての真の初期条件はむしろ、聖書信仰によってもたらされた乱脈を後付けでどんなに修復していく
場合以上にも優良なものですらある。聖書信仰が後付けで、人間社会に最低最悪の荒廃をもたらして、そこに
洋学知識などの副作用も過剰な対処療法ばかりによる修復を試みてきた聖書圏の徒労は、どんなに尽くされた所で、
始めから聖書信仰などを受容しないことを初期条件としている場合のマシさを超えられるようなものではない。
聖書信仰の真の卑賤さと向き合っていくのは、これからの話である。
しかし、聖書信仰が本質的に何ら栄光とするに値しない恥辱沙汰の極みであるのは、
聖書信仰勃発時から常にそうであり続けてきたことである。今これから急に、聖書信仰が恥辱沙汰と
なるのではなく、最原初の頃からずっと本質的に恥辱沙汰であり続けてきたことを、今わきまえるのである。
決して、真の栄光などではないから、渇望が残るのである。
素顔にコンプレックスを抱く醜女ガ、化粧によって手に入れるような偽りの栄光だから、素顔の醜さへの
劣等感という本心の部分からなる渇望が絶えることがない。そしてその渇望こそは暗愚の至りであり、
そのような渇望を捨て去った先にこそ無量の栄光が生ずるのだとも、大乗仏典の「華厳経」などにもあるのである。
英語で「デフォルト(default、初期条件)」といえば、破産とか崩壊とかの悪い意味合いばかりを持つ。
それは、英語圏を含む聖書圏全体が、聖書信仰によって、初期条件が「駄目」である状態を強いられているからで、
それは地球人類という生物や、その産物としての人類文化全般にとっての初期条件などではない。のみならず、
人類文化の初期条件をありのままに記録している、四書五経の内容などとも真逆の条件ばかりを成しているのであり、
地球人類にとっての真の初期条件はむしろ、聖書信仰によってもたらされた乱脈を後付けでどんなに修復していく
場合以上にも優良なものですらある。聖書信仰が後付けで、人間社会に最低最悪の荒廃をもたらして、そこに
洋学知識などの副作用も過剰な対処療法ばかりによる修復を試みてきた聖書圏の徒労は、どんなに尽くされた所で、
始めから聖書信仰などを受容しないことを初期条件としている場合のマシさを超えられるようなものではない。
聖書信仰が、断じて「栄光」などではない一方で、
「究極の恥辱沙汰」であったことだけは、確かに間違いがない。
多少よくできたラノベほどにも正気を保てていない、狂人の、狂人による、狂人のための狂信書。
そんなものを2000年にもわたって信じ込み、実践も試み続けてきた聖書信者たちの恥辱たるや、
全員が全員、ヨゴレ芸人かAV女優並みか、あるいはそれ以上のものだとすらいえる。
恥辱まみれな元聖書信者の、名誉を貴ぶ儒学や武士道への転向はなかなか難しいだろうにしろ、忍辱行を貴ぶ仏教への転向
なら比較的容易かとも思われる。2000年に渡る自分たちの歴史を笑い飛ばして、坊主になって一からやり直すのもなかなか
難しいことだろうにしろ、決して不可能なことではないし、ある意味、未曾有の菩薩行にもなるといえるのかもしれない。
「今、天は疾を降せり。殆ど興きず悟らず」
「いま、天は大患を我れに降し、ほとんど起き上がることも、気を確かにしていることもままならない。
(『悟る』の本来の語意は『気を確かにする』である。聖書信仰によって精神の大病を患い、
極度の蒙昧状態に陥ることを『悟る』と言い換えるのは、間違った言葉遣いである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)
「究極の恥辱沙汰」であったことだけは、確かに間違いがない。
多少よくできたラノベほどにも正気を保てていない、狂人の、狂人による、狂人のための狂信書。
そんなものを2000年にもわたって信じ込み、実践も試み続けてきた聖書信者たちの恥辱たるや、
全員が全員、ヨゴレ芸人かAV女優並みか、あるいはそれ以上のものだとすらいえる。
恥辱まみれな元聖書信者の、名誉を貴ぶ儒学や武士道への転向はなかなか難しいだろうにしろ、忍辱行を貴ぶ仏教への転向
なら比較的容易かとも思われる。2000年に渡る自分たちの歴史を笑い飛ばして、坊主になって一からやり直すのもなかなか
難しいことだろうにしろ、決して不可能なことではないし、ある意味、未曾有の菩薩行にもなるといえるのかもしれない。
「今、天は疾を降せり。殆ど興きず悟らず」
「いま、天は大患を我れに降し、ほとんど起き上がることも、気を確かにしていることもままならない。
(『悟る』の本来の語意は『気を確かにする』である。聖書信仰によって精神の大病を患い、
極度の蒙昧状態に陥ることを『悟る』と言い換えるのは、間違った言葉遣いである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)
絶対服従を強要する主人と家畜、主人と奴隷の関係性の中にこそ、筆舌に尽くしがたい「汚れ」がある。
特に、屠殺者と肉用獣の関係性にこそ穢れも極まることから、日本やインドでは屠畜業が歴史的に
忌み嫌われても来た。とはいえ、屠畜業が特定して嫌われているなんてのは皮相的なことで、あくまでそこに、
「絶対服従の挙句に殺される」という、精神的不衛生の極みが介していることこそが致命的なことだった。
人と家畜ではなく、人と人との間にもそのような、死すら避けられぬ絶対服従の関係性があり得る。
主人と奴隷の関係がその典型だが、王君と臣下のような、名誉的にすら扱われる人間関係においても、
臣下が主君の為に死をも厭わぬ務めに励むということがある。主人と奴隷の服従関係などと違って、
死をも厭わぬ君臣関係が名誉とされるのは、臣下があくまで自らの意志によって主君への忠誠を誓うからで、
生まれ付きの身分によって主人への絶対服従が科される奴隷や、未熟な内からの奉公に励まされる丁稚などには
始めから得る術もなかった、成熟した大人としての尊厳が守られているからこそ、そこに汚れもないのである。
臣下が自らの意志によって主君に臣従するという選択肢は、儒家と共に、隠遁志向の道家なども許容されていた
東洋社会などにおいてこそ容認されていたものだ。その東洋でも、たとえば始皇帝によって法家支配が敷かれた
秦代などには、労役が万民に対して義務化されていたから、臣下の自己選択による臣従の途なども閉ざされていた。
その、秦代に強制労働に駆り出された劉邦は、強制労働に嫌気が差して逃亡し、反乱軍となって項羽らと共に秦帝国を滅ぼし、
項羽をも破って漢帝国を築いて後には、自らの苦い思い出もあって、なるべく法律による締め付けを緩和した、無為自然の
統治を全国に施すように心がけた。皇后の呂后が高名な隠遁者を宮内に連れて来た時には感激して、思わず呂后の実子を
次期皇帝にすることを認可したともいうから、確かに劉邦には、道家の隠遁志向を貴ぶ心持ちもあったことが分かる。
そのような、度量の大きい主君が多数君臨していた社会であればこそ、不可避なる絶対服従関係の穢れなどを
決して持ち込まない、自由選択による君臣関係が多数実現され、それによる治世もまた実現されて来たのである。
特に、屠殺者と肉用獣の関係性にこそ穢れも極まることから、日本やインドでは屠畜業が歴史的に
忌み嫌われても来た。とはいえ、屠畜業が特定して嫌われているなんてのは皮相的なことで、あくまでそこに、
「絶対服従の挙句に殺される」という、精神的不衛生の極みが介していることこそが致命的なことだった。
人と家畜ではなく、人と人との間にもそのような、死すら避けられぬ絶対服従の関係性があり得る。
主人と奴隷の関係がその典型だが、王君と臣下のような、名誉的にすら扱われる人間関係においても、
臣下が主君の為に死をも厭わぬ務めに励むということがある。主人と奴隷の服従関係などと違って、
死をも厭わぬ君臣関係が名誉とされるのは、臣下があくまで自らの意志によって主君への忠誠を誓うからで、
生まれ付きの身分によって主人への絶対服従が科される奴隷や、未熟な内からの奉公に励まされる丁稚などには
始めから得る術もなかった、成熟した大人としての尊厳が守られているからこそ、そこに汚れもないのである。
臣下が自らの意志によって主君に臣従するという選択肢は、儒家と共に、隠遁志向の道家なども許容されていた
東洋社会などにおいてこそ容認されていたものだ。その東洋でも、たとえば始皇帝によって法家支配が敷かれた
秦代などには、労役が万民に対して義務化されていたから、臣下の自己選択による臣従の途なども閉ざされていた。
その、秦代に強制労働に駆り出された劉邦は、強制労働に嫌気が差して逃亡し、反乱軍となって項羽らと共に秦帝国を滅ぼし、
項羽をも破って漢帝国を築いて後には、自らの苦い思い出もあって、なるべく法律による締め付けを緩和した、無為自然の
統治を全国に施すように心がけた。皇后の呂后が高名な隠遁者を宮内に連れて来た時には感激して、思わず呂后の実子を
次期皇帝にすることを認可したともいうから、確かに劉邦には、道家の隠遁志向を貴ぶ心持ちもあったことが分かる。
そのような、度量の大きい主君が多数君臨していた社会であればこそ、不可避なる絶対服従関係の穢れなどを
決して持ち込まない、自由選択による君臣関係が多数実現され、それによる治世もまた実現されて来たのである。
ひるがえって、聖書信仰が征服下に置いた西洋社会には、始めから自由選択の君臣関係などはなかった。
ほんのこの前まで奴隷制が健在だっただけでなく、聖書信仰が流布される遥か以前から、古代ローマ帝国に
代表される西洋社会は完全な法治主義であり、労役もどこまでも義務的なものであり、自由選択による君臣関係に
名誉が伴うなどという考え方もなかった。そこに、主なる神と信者との絶対服従関係を促す聖書信仰が提唱されて、
案の定、瞬く間に広まったわけで、最原初から今に至るまで一貫して、西洋社会においては、不可避なる
絶対服従関係の汚れを忌み嫌う慣習はおろか、それを穢れとして扱う神経すら存在していたことがない。
仮に、これからも西洋人が、そのような逃れようのない絶対服従関係を許容していくのだとしても、
屠畜級の絶対服従に紛れもない汚れを見出す人々に対してまで、それを強要することなどは、完全に不能である。
ただ、自分たち西洋人だけが、生まれ付きから絶対服従の奴隷的人種として、決してそうではない数多の人々の
絶対的な服従下に置かれることだけが許されることで、自分たち以外にそんな関係性を強要することは全く許されない。
もちろん、西洋人もまた屠畜級の絶対服従の穢れを思い知って、自分たちの内からもそのような下劣な関係性を駆逐して
いくというのならそれでも構わないわけで、そうなった西洋人を、他人種が対等に扱っていくこともまた、吝かではない。
「子曰く、麻冕は礼なり、今や純なるは倹なり。吾れは衆に従わん。
下に拝するは礼なり、今の上に拝むは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん」
「先生は言われた。『礼服には麻の冠を用いるのが慣例だが、近ごろでは倹約のために生成のものを用いる。
(倹約に努めるのはいいことなので)私も今の人々のやり方に従おう。拝礼は堂下で行うのが本来の慣例だが、
近ごろは横柄にも堂上で拝礼する場合が多い。人々のやり方とは違うとはいえ、私は堂下で拝礼することにしよう』
(従うもの自体まで自らが取捨選択する自主性の極み。孔子の乱世における青い鳥状態も、あくまで確信的なものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三)
ほんのこの前まで奴隷制が健在だっただけでなく、聖書信仰が流布される遥か以前から、古代ローマ帝国に
代表される西洋社会は完全な法治主義であり、労役もどこまでも義務的なものであり、自由選択による君臣関係に
名誉が伴うなどという考え方もなかった。そこに、主なる神と信者との絶対服従関係を促す聖書信仰が提唱されて、
案の定、瞬く間に広まったわけで、最原初から今に至るまで一貫して、西洋社会においては、不可避なる
絶対服従関係の汚れを忌み嫌う慣習はおろか、それを穢れとして扱う神経すら存在していたことがない。
仮に、これからも西洋人が、そのような逃れようのない絶対服従関係を許容していくのだとしても、
屠畜級の絶対服従に紛れもない汚れを見出す人々に対してまで、それを強要することなどは、完全に不能である。
ただ、自分たち西洋人だけが、生まれ付きから絶対服従の奴隷的人種として、決してそうではない数多の人々の
絶対的な服従下に置かれることだけが許されることで、自分たち以外にそんな関係性を強要することは全く許されない。
もちろん、西洋人もまた屠畜級の絶対服従の穢れを思い知って、自分たちの内からもそのような下劣な関係性を駆逐して
いくというのならそれでも構わないわけで、そうなった西洋人を、他人種が対等に扱っていくこともまた、吝かではない。
「子曰く、麻冕は礼なり、今や純なるは倹なり。吾れは衆に従わん。
下に拝するは礼なり、今の上に拝むは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん」
「先生は言われた。『礼服には麻の冠を用いるのが慣例だが、近ごろでは倹約のために生成のものを用いる。
(倹約に努めるのはいいことなので)私も今の人々のやり方に従おう。拝礼は堂下で行うのが本来の慣例だが、
近ごろは横柄にも堂上で拝礼する場合が多い。人々のやり方とは違うとはいえ、私は堂下で拝礼することにしよう』
(従うもの自体まで自らが取捨選択する自主性の極み。孔子の乱世における青い鳥状態も、あくまで確信的なものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三)
天地万物大宇宙を司る、易の法則に創造主などがいないのはもちろんのこと、
三千大千世界を包摂する仏法にもまた、決まった作者などはいないのだという。
(「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の三を参照)
いないのである。実際問題、そんな神は。
いるのならともかく、いないのである。神というもの、仏というものが仮に存在するとした所で、
「万物の創造主」とか「形而上の超越神」とかいった存在性を持つ神仏こそは、特に存在しないのである。
それは、「形而上の形而上や、そのまた形而上の世界までをも実際に想定し尽くすことができる」という、
荘子や新井白石が提示した思考実験によってだけでも証明できることである。その上に、物理的にも、
一定以内の自由度の法則によってのみ司られることでこそ成り立っているこの世界が、あらゆる法則を
逸脱した超越者によってかき乱されたりするのであれば、この世界自体が成立しないという結論によって、
絶対的な超越者の存在を否定することもできる。もしも絶対的な超越者などがいたとすれば、その超越者は
あらゆる物質の摩擦係数をもゼロにすることができるはずで、そんなことをされた日には、この地球もあっと
いう間にただの灰の塊と化してしまう。そんな迷惑な絶対者がいない限りにおいて、この地球社会の有機性もまた
保たれているのだから、その地球環境に依存して生きている人間が、絶対的な超越者などを定立することもまた、
迷惑という以上のことではあり得ないから、定立からしてしないに越したことはないと結ぶことが出来るのである。
三千大千世界を包摂する仏法にもまた、決まった作者などはいないのだという。
(「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の三を参照)
いないのである。実際問題、そんな神は。
いるのならともかく、いないのである。神というもの、仏というものが仮に存在するとした所で、
「万物の創造主」とか「形而上の超越神」とかいった存在性を持つ神仏こそは、特に存在しないのである。
それは、「形而上の形而上や、そのまた形而上の世界までをも実際に想定し尽くすことができる」という、
荘子や新井白石が提示した思考実験によってだけでも証明できることである。その上に、物理的にも、
一定以内の自由度の法則によってのみ司られることでこそ成り立っているこの世界が、あらゆる法則を
逸脱した超越者によってかき乱されたりするのであれば、この世界自体が成立しないという結論によって、
絶対的な超越者の存在を否定することもできる。もしも絶対的な超越者などがいたとすれば、その超越者は
あらゆる物質の摩擦係数をもゼロにすることができるはずで、そんなことをされた日には、この地球もあっと
いう間にただの灰の塊と化してしまう。そんな迷惑な絶対者がいない限りにおいて、この地球社会の有機性もまた
保たれているのだから、その地球環境に依存して生きている人間が、絶対的な超越者などを定立することもまた、
迷惑という以上のことではあり得ないから、定立からしてしないに越したことはないと結ぶことが出来るのである。
摩擦係数ゼロの絶対超越神などを想定して、その立場に基づいて物事を考えてみたりすればするだけ、
この地球がただの灰の塊と化すことを促進するだけである。そんな神は実際、存在しない上に、
ただ「存在する」と想定してみただけでも色々な差し障りが生じてしまう、有害無益な概念である。
この世界、この宇宙の一定法則を司っているか故に貴ばれる神や、あらゆる法則を超越するが故に虚空であり、
虚空であるままに貴ばれる仏などは、それはそれでアリだといえる。しかし、この世界、この宇宙の法則を
超越するが故に「実である」とされる神などを想定したなら、そのような神は必ず、この世を灰塵と化すこと
ばかりを促す邪神となる。ありがたいことに、そんな神は実在せず、実際に神として危害をもたらしたりもしない。
一部の累犯障害者たちが、上記のような意味での絶対超越神を騙って、この世を灰と化す試みを未だに模索
し続けてはいるものの、もちろん全くの虚偽であり、本物の神として畏れ敬う価値などは微塵もないのである。
奇しくも、「形而上の超越は虚無である」という仏法の法則にその真相は合致していて、完全なる虚空として
貴ぶにすら値しないものかといえば、そうでもない。絶対超越神を騙る累犯障害者も、自分たち自身が
死んで灰塵に帰した後には、虚空に住まう仏さまとして、敬われるに値する存在ともなるのである。
「聖人の行いは同じくならず。或いは遠ざかり或いは近づき、
或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰すのみ」
「聖人の行いは必ずしも一定ではなく、ある時は遠ざかったりある時は近づいたり、ある時は去ったり
ある時は去らなかったりする。これらは偏に、自らが潔白なままでいようとする志しによるのである。
(必要なのは大胆に近づくことなどではなく、臨機応変な出処進退で身の潔白さを守ることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
この地球がただの灰の塊と化すことを促進するだけである。そんな神は実際、存在しない上に、
ただ「存在する」と想定してみただけでも色々な差し障りが生じてしまう、有害無益な概念である。
この世界、この宇宙の一定法則を司っているか故に貴ばれる神や、あらゆる法則を超越するが故に虚空であり、
虚空であるままに貴ばれる仏などは、それはそれでアリだといえる。しかし、この世界、この宇宙の法則を
超越するが故に「実である」とされる神などを想定したなら、そのような神は必ず、この世を灰塵と化すこと
ばかりを促す邪神となる。ありがたいことに、そんな神は実在せず、実際に神として危害をもたらしたりもしない。
一部の累犯障害者たちが、上記のような意味での絶対超越神を騙って、この世を灰と化す試みを未だに模索
し続けてはいるものの、もちろん全くの虚偽であり、本物の神として畏れ敬う価値などは微塵もないのである。
奇しくも、「形而上の超越は虚無である」という仏法の法則にその真相は合致していて、完全なる虚空として
貴ぶにすら値しないものかといえば、そうでもない。絶対超越神を騙る累犯障害者も、自分たち自身が
死んで灰塵に帰した後には、虚空に住まう仏さまとして、敬われるに値する存在ともなるのである。
「聖人の行いは同じくならず。或いは遠ざかり或いは近づき、
或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰すのみ」
「聖人の行いは必ずしも一定ではなく、ある時は遠ざかったりある時は近づいたり、ある時は去ったり
ある時は去らなかったりする。これらは偏に、自らが潔白なままでいようとする志しによるのである。
(必要なのは大胆に近づくことなどではなく、臨機応変な出処進退で身の潔白さを守ることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
犯罪聖書の邪神の出歯亀ストーカー志向は、たとえば母親の、
まだ幼いわが子に対する注意などとしてであれば、決して悪いものともならない。
穴に落ちそうになっている子供を思わず救いたい気持ちに駆られる、惻隠の情。
孟子が自らの性善説の根拠ともした、その惻隠の情に即して、母親がわが子を注意深く見守り、
立派な大人になるまで責任を持って育てるというのなら、これほど善良なことも他にないといえる。
欧米のユダヤ教徒なども、男系よりは女系の血筋を重んずる傾向があるという。ユダヤ系の
映画監督のスピルバーグの母親なども、子供の育て方に相当な工夫を凝らしていたなどという
逸話があるが、母親がわが子によくー注意を注いで、熱心な養育に努めるというのは、成功する
場合も失敗する場合もあるにしろ、決して咎められて然るべきものであるなどとはいえない。
しかし、その母親のわが子に対する注意力を、成人の男などにまで振り向けたとすれば、
これはもう完全なお節介だといえる。わが子が十分に育った以上は、もう無駄なお節介もしない
というのも賢母の条件である。にもかかわらず、社会に参画する大人すらをも信者とする
ことを前提としている聖書信仰は、その大人に対してまで出歯亀ストーキングを保証する。
だから、それが母としたところで愚母の所業であるといえるし、また聖書の邪神による
監視があるからといって、実の母親がわが子への注意を怠ったりしたとすれば、これまた、
実の母親にまで愚母となることをけしかける、有害無益な悪影響となってしまうのである。
まだ幼いわが子に対する注意などとしてであれば、決して悪いものともならない。
穴に落ちそうになっている子供を思わず救いたい気持ちに駆られる、惻隠の情。
孟子が自らの性善説の根拠ともした、その惻隠の情に即して、母親がわが子を注意深く見守り、
立派な大人になるまで責任を持って育てるというのなら、これほど善良なことも他にないといえる。
欧米のユダヤ教徒なども、男系よりは女系の血筋を重んずる傾向があるという。ユダヤ系の
映画監督のスピルバーグの母親なども、子供の育て方に相当な工夫を凝らしていたなどという
逸話があるが、母親がわが子によくー注意を注いで、熱心な養育に努めるというのは、成功する
場合も失敗する場合もあるにしろ、決して咎められて然るべきものであるなどとはいえない。
しかし、その母親のわが子に対する注意力を、成人の男などにまで振り向けたとすれば、
これはもう完全なお節介だといえる。わが子が十分に育った以上は、もう無駄なお節介もしない
というのも賢母の条件である。にもかかわらず、社会に参画する大人すらをも信者とする
ことを前提としている聖書信仰は、その大人に対してまで出歯亀ストーキングを保証する。
だから、それが母としたところで愚母の所業であるといえるし、また聖書の邪神による
監視があるからといって、実の母親がわが子への注意を怠ったりしたとすれば、これまた、
実の母親にまで愚母となることをけしかける、有害無益な悪影響となってしまうのである。
ユダヤ系で、イエスの母親だったマリアなども、結局はイエスを世界最悪の邪教の開祖に仕立て上げ、
冤罪で磔刑を受けさせることで、永遠に地獄をさまよわせるほどの非業へとわが子を追いやっている。
産み育てるに際しては、エホバが自分の代わりに子供を監視してくれて、育ってからもエホバが後見人になって
くれるなんていう邪信にも即して我が子を産み育てたものだから、実際にその子供のイエスもろくでもない
大人へと成長し、天寿を全うすることもできないままに非業の最期を遂げて、二度と生き返らなかったのである。
犯罪聖書の邪神が担うとされる、信者への絶対的な付きまとい、それは、母親がまだ幼いわが子に
対して抱く注意でこそあるべきなのであり、邪神などがその役目を母親から奪ってはならないのである。
母親こそは頑是ないわが子に対しても細心の注意を払い、成長してからはもう放任しても全く問題もないほどに
立派な大人へと育て上げるべきなのであり、子が幼いうちにも母親からその役割を奪い、成長してからもお節介な
監視を続けるという、犯罪聖書の邪神の有害無益さは、実の母親の存在性と対照することでこそ明白になるのである。
「我れと二人、共に貞す。公は其れ予に万億年を以てし、天を敬い之れを休んず。」
「私(成王)と周公の二人で、共に天下を正していく。公は私に、万億年の永劫に渡るまでの
王道楽土をもたらしてくれた。また天を敬うことで、これを安んじてくれる。(実際の君臣関係であるからこそ
『世の終わりまで』などではなく『万憶年の未来永劫に至るまで』の共なる治世を希求している。不吉極まりない
『世の終わり』などを平気でほざくのも、この世の責任を十分に負うこともない不誠実神である証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)
冤罪で磔刑を受けさせることで、永遠に地獄をさまよわせるほどの非業へとわが子を追いやっている。
産み育てるに際しては、エホバが自分の代わりに子供を監視してくれて、育ってからもエホバが後見人になって
くれるなんていう邪信にも即して我が子を産み育てたものだから、実際にその子供のイエスもろくでもない
大人へと成長し、天寿を全うすることもできないままに非業の最期を遂げて、二度と生き返らなかったのである。
犯罪聖書の邪神が担うとされる、信者への絶対的な付きまとい、それは、母親がまだ幼いわが子に
対して抱く注意でこそあるべきなのであり、邪神などがその役目を母親から奪ってはならないのである。
母親こそは頑是ないわが子に対しても細心の注意を払い、成長してからはもう放任しても全く問題もないほどに
立派な大人へと育て上げるべきなのであり、子が幼いうちにも母親からその役割を奪い、成長してからもお節介な
監視を続けるという、犯罪聖書の邪神の有害無益さは、実の母親の存在性と対照することでこそ明白になるのである。
「我れと二人、共に貞す。公は其れ予に万億年を以てし、天を敬い之れを休んず。」
「私(成王)と周公の二人で、共に天下を正していく。公は私に、万億年の永劫に渡るまでの
王道楽土をもたらしてくれた。また天を敬うことで、これを安んじてくれる。(実際の君臣関係であるからこそ
『世の終わりまで』などではなく『万憶年の未来永劫に至るまで』の共なる治世を希求している。不吉極まりない
『世の終わり』などを平気でほざくのも、この世の責任を十分に負うこともない不誠実神である証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)

岩盤のような強固な地盤を是とし、水の性質を低レベルなものとして扱う
キリスト教の理念に真っ向から反している。一方で、どこまでも低いほうへと
落ち続ける水の性質を「君子の謙譲さ」に見立てて褒め称えた孔子の言説や、
地盤の強固さにかまけて注意力をなまらせることを懸念対象とした孟子の論弁
などに基づくなら、むしろ日本の気候風土こそは、謙譲や注意力も豊かな
君子を育む理想的な環境であると見なすことができるのである。
一方で、その孔子や孟子の生まれ故郷である中国でこそ、「湿気の多い低地」を
忌み嫌う傾向があって、「史記」にも「湿気の多い低地に住む人間は長生きできない」
などという迷信が記録されてもいる。もちろん、低地や湿地も多い日本の国民が、
中国人よりも寿命が短いなんてこともないわけで、「湿気嫌い」というのは、どうも中国人に
特有の性格のようである。湿気だけでなく大水も中国人は嫌いで、内陸国であるせいもあって、
海水浴や海鮮食を好まない中国人も多いし、古代中国の魏王朝も、朝貢に来た日本の使節が、
絶海である日本海を超えてやって来たことに畏れを抱き、陸続きである朝鮮半島の諸国
などには銀印を授けていたのを、日本国からの使節に対しては金印を授けたともされる。
たとえば、精神力の惰弱な人間が塩辛い食べ物を嫌ったりするのと同じように、
人間には性格として、湿気とか大水とかを忌み嫌うような傾向が多少はあるのである。
それは孔子や孟子の生まれ故郷である中国の人間といえども同じことで、その世間一般の大衆が
忌み嫌うほどもの「試練」としての湿気の不快さ、大水の扱いにくさなどを乗り越えた所にこそ
君子としての大成までもがあるのであり、それはなかなか、好き好めたりするものでもないのである。
[YouTubeで再生]
日本で、これからの季節に到来する梅雨がもたらす多湿や多雨は、長年日本に住み続けている
邦人すらもが不快感を隠さないもので、気温だけなら日本以上である東南アジアやインドの
人間ですらもが、日本の梅雨期の高温多湿の不快さには辟易させられるそうな。それは確かに、なかなか
好き好んだりできるような代物ではないのであり、無理にそれ自体を好いたりする必要もないのである。
ただ、やはりその梅雨期の降雨が日本の農産の豊穣にも貢献するようにして、多湿さとか大水とか
いったような試練が人々にも大成の機縁を与えるのであり、大成を目指す志しが高ければこそ、
好き好むことなどとうてい出来ないような大きな試練にまで臨んで行くのである。
好きだからではなく、試練を乗り越えた先にある大成を目指すためにこそ、それを受容する。
そこまでの努力などやる気も起きないというような人間もいるだろうにしろ、あえてそれを選択するのである。
試練から積極的に逃避することこそを選んできたような人間もまた、当然まったく以って与らぬことである。
「敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鰥。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雲の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鱮。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雨の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は唯唯として。斉の子の帰し止まるに、其の従うや水の如し」
「魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとエザケ(やもめ)が逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで群ら立ち込める雲の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとタナゴが逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるでザンザンと降り注ぐ大雨の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこから制することも出来ない勢いで魚が飛び出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで謙る水の如く。(雨雲には『権勢』という意味もあるが、
湿気や水に由来するために謙譲さをも伴う。謙譲さに欠ける『金権(聖霊)』などとはそこが違うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・敝笱より)

邦人すらもが不快感を隠さないもので、気温だけなら日本以上である東南アジアやインドの
人間ですらもが、日本の梅雨期の高温多湿の不快さには辟易させられるそうな。それは確かに、なかなか
好き好んだりできるような代物ではないのであり、無理にそれ自体を好いたりする必要もないのである。
ただ、やはりその梅雨期の降雨が日本の農産の豊穣にも貢献するようにして、多湿さとか大水とか
いったような試練が人々にも大成の機縁を与えるのであり、大成を目指す志しが高ければこそ、
好き好むことなどとうてい出来ないような大きな試練にまで臨んで行くのである。
好きだからではなく、試練を乗り越えた先にある大成を目指すためにこそ、それを受容する。
そこまでの努力などやる気も起きないというような人間もいるだろうにしろ、あえてそれを選択するのである。
試練から積極的に逃避することこそを選んできたような人間もまた、当然まったく以って与らぬことである。
「敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鰥。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雲の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鱮。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雨の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は唯唯として。斉の子の帰し止まるに、其の従うや水の如し」
「魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとエザケ(やもめ)が逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで群ら立ち込める雲の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとタナゴが逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるでザンザンと降り注ぐ大雨の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこから制することも出来ない勢いで魚が飛び出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで謙る水の如く。(雨雲には『権勢』という意味もあるが、
湿気や水に由来するために謙譲さをも伴う。謙譲さに欠ける『金権(聖霊)』などとはそこが違うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・敝笱より)
え、書けないの
すげえ長すぎるな
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