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聖書 Part7
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「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

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「キリストは、刑死して蘇ることにより、全ての人々の罪を償った」という文章は、
「キリスト(神の子)」という名前の存在が、「刑死して蘇る」という手段によって、
「全ての人々の罪を償う」という目的を達成することの因果律が、全く満たされていない。
神の子だから、刑死しても蘇るというのが、すでに不当である。
死刑は受刑者を殺すために行う刑罰であり、相手が神の子だというのなら、
神の子が死んで二度と蘇らないような処刑方法によって殺さねばならない。
(死んで蘇るような死刑を行うということは、刑罰が当たらず濁っているということでもある)
しかし、仮に神の子が不死であり、どんな処刑方法によっても死なせることが
できないとする。それなら始めから神の子は処刑などによって死なないのであり、
わざわざ刑死してから蘇るなどという道理は通らない。神の子が死ねるという場合にも、
死なないという場合にも、「死んで蘇る」という手段が実現されることはない。
そして、「刑死して蘇る」という手段によって、「全ての人々の罪を償う」という
目的が達成されること、これこそが絶対にあり得ない。仮に自分が強盗被害に遭ったとして、
強盗犯が罪を償いもせずに自分の前にやって来て、「キリストが刑死して蘇ることで
俺の罪も償われたから、二度と俺の罪を問うたりするな」とほざき、強奪した物品も一切
返却しなかったとする。それで、強盗犯自身を許してやれたり、するわけがないのであり、
「罪は加害者自身が償わなければならない」という因果律の保存は、犯罪の加害者ではなく
被害者の立場から考えてみた場合に、あまりにも自明なものであることが判明するのである。
神の子が刑死して蘇るか、刑死して蘇ることで全ての人々の罪を償うかどうかということは、
因果関係に即して考えてみるなら、その論理構造からして、自明に破綻しているのであり、
諸法因果の仏教的観点に即するなら、強く否定することが心がけられなければならないものですらある。
「キリスト(神の子)」という名前の存在が、「刑死して蘇る」という手段によって、
「全ての人々の罪を償う」という目的を達成することの因果律が、全く満たされていない。
神の子だから、刑死しても蘇るというのが、すでに不当である。
死刑は受刑者を殺すために行う刑罰であり、相手が神の子だというのなら、
神の子が死んで二度と蘇らないような処刑方法によって殺さねばならない。
(死んで蘇るような死刑を行うということは、刑罰が当たらず濁っているということでもある)
しかし、仮に神の子が不死であり、どんな処刑方法によっても死なせることが
できないとする。それなら始めから神の子は処刑などによって死なないのであり、
わざわざ刑死してから蘇るなどという道理は通らない。神の子が死ねるという場合にも、
死なないという場合にも、「死んで蘇る」という手段が実現されることはない。
そして、「刑死して蘇る」という手段によって、「全ての人々の罪を償う」という
目的が達成されること、これこそが絶対にあり得ない。仮に自分が強盗被害に遭ったとして、
強盗犯が罪を償いもせずに自分の前にやって来て、「キリストが刑死して蘇ることで
俺の罪も償われたから、二度と俺の罪を問うたりするな」とほざき、強奪した物品も一切
返却しなかったとする。それで、強盗犯自身を許してやれたり、するわけがないのであり、
「罪は加害者自身が償わなければならない」という因果律の保存は、犯罪の加害者ではなく
被害者の立場から考えてみた場合に、あまりにも自明なものであることが判明するのである。
神の子が刑死して蘇るか、刑死して蘇ることで全ての人々の罪を償うかどうかということは、
因果関係に即して考えてみるなら、その論理構造からして、自明に破綻しているのであり、
諸法因果の仏教的観点に即するなら、強く否定することが心がけられなければならないものですらある。
この世界の因果律が恒久普遍のものであるか否かということは、現代物理学などによっても
しばし論題に挙げられることではあるが、概ね、巨視的な因果律が保存されることでは同意が付いている。
プランクスケール級の微視的な領域においては未だ不明な点がある(ということにされている)ものの、
この世界の総体はえてして因果律の保存に司られていることが、物理的な観点からも認められている。
仏教的見地に即して強く肯定したりせずとも、因果応報の理をわきまえることは至極実用的なことであり、
キリスト教圏の西洋人といえども、自然科学を取り扱う場合などには因果律に根ざしたものの考え方を
自然とさせられているのであって、それでこそ科学を発展させられてきてもいるのである。
ただ、西洋人が金融業を営む場合などに際しては、因果律の破綻したキリスト教的なものの考え方を
持ち越していたりするものだから、限られた富を無限の資産によって回そうとするような暴挙にも
及んでしまい、結果として致命的な財政破綻を招いて、崩壊の危機に晒されたりもするのである。
アウグスチヌスによる上座部仏教教義(自殺の禁止など)の剽窃以来、ずっと、キリスト教徒は
キリスト教義による破綻を、仏教教義による救助で補うという歴史を繰り返して来たのであり、因果律に
適わないキリスト教教義だけで、キリスト教徒がこれまで生き延びられてきたような事実もないのである。
むしろ、キリスト教徒たち自身にすら破滅の種子ばかりを撒き散らしてきたキリスト教という
邪教の正体を知って、間違ってキリストやエホバに向けられていた信奉を、古来から本当に
信奉すべき存在であり続けてきた、お釈迦様などへと向けるようにすべきなのである。
「彼の泉水を相るに、載つ清み載つ濁る。我れ日びに禍いに構う、曷ぞや能ち穀きと云わん」
「泉水がせわしなく清まったり濁ったりするように、私も日々禍いに遭う。どうしてこれでいいなどと
いうことがいえようか。(ピューリタンも一つの極端であり、極端な濁悪からの振れ切りでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・四月より)
しばし論題に挙げられることではあるが、概ね、巨視的な因果律が保存されることでは同意が付いている。
プランクスケール級の微視的な領域においては未だ不明な点がある(ということにされている)ものの、
この世界の総体はえてして因果律の保存に司られていることが、物理的な観点からも認められている。
仏教的見地に即して強く肯定したりせずとも、因果応報の理をわきまえることは至極実用的なことであり、
キリスト教圏の西洋人といえども、自然科学を取り扱う場合などには因果律に根ざしたものの考え方を
自然とさせられているのであって、それでこそ科学を発展させられてきてもいるのである。
ただ、西洋人が金融業を営む場合などに際しては、因果律の破綻したキリスト教的なものの考え方を
持ち越していたりするものだから、限られた富を無限の資産によって回そうとするような暴挙にも
及んでしまい、結果として致命的な財政破綻を招いて、崩壊の危機に晒されたりもするのである。
アウグスチヌスによる上座部仏教教義(自殺の禁止など)の剽窃以来、ずっと、キリスト教徒は
キリスト教義による破綻を、仏教教義による救助で補うという歴史を繰り返して来たのであり、因果律に
適わないキリスト教教義だけで、キリスト教徒がこれまで生き延びられてきたような事実もないのである。
むしろ、キリスト教徒たち自身にすら破滅の種子ばかりを撒き散らしてきたキリスト教という
邪教の正体を知って、間違ってキリストやエホバに向けられていた信奉を、古来から本当に
信奉すべき存在であり続けてきた、お釈迦様などへと向けるようにすべきなのである。
「彼の泉水を相るに、載つ清み載つ濁る。我れ日びに禍いに構う、曷ぞや能ち穀きと云わん」
「泉水がせわしなく清まったり濁ったりするように、私も日々禍いに遭う。どうしてこれでいいなどと
いうことがいえようか。(ピューリタンも一つの極端であり、極端な濁悪からの振れ切りでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・四月より)
「刑死して蘇る」という文章は、自己完結した情報として、権力道徳上の不正を帯びている。
死刑は受刑者を死滅させるために行う刑罰であり、死刑に処した人間が生き返ってしまう
というのでは、「刑罰あたらず」ということになり、社会統治上の不正行為ともなってしまう。
仮に相手が「神の子」であったとしたところで、もしも死刑に処するというのなら、神の子
が完全に死滅して、二度と生き返らないような方法で処刑するのが刑務者としての義務であり、
処刑したにもかかわらず生き返ったりしたのでは、刑務者にとっての不手際となってしまう。
そのような為政上の不正を、神の子がこの世にもたらしたとすれば、それは人々の罪を代わりに
償うどころか、世の中に不正を蔓延させることで、誰しもに無駄な罪状を背負わせる結果とすら
なってしまうわけだから、まさにキリスト(神の子)こそは、人々の罪を一切償うこともなく、
代わりに「権力犯罪の横行する社会に安住する」という従犯の罪を誰しもに着せたのだといえる。
もちろん、キリストが刑死して蘇ったというところからすでにフィクションであり、刑死して
二度と生き返らなかったか、もしくは始めから刑死していなかったかのいずれかであるというのが
真相であるには違いない。しかし、仮に「刑死して蘇った」というのが事実であったとしても、
それで「全ての人々の罪が償われた」とするのでは全く筋が通っておらず、むしろ「誰しもに
権力犯罪の従犯となる罪を着せた」とするほうが、因果関係が満たされていることにもなる。
フィクションかノンフィクションかなどという違いによらず、「刑死して蘇ることで
全ての人々の罪を償う」という構文が自己完結して、倫理的な因果関係を満たしていないのである。
刑死して蘇るということは、それ自体が不正なことだから、不正にまみれることにしかならないのである。
死刑は受刑者を死滅させるために行う刑罰であり、死刑に処した人間が生き返ってしまう
というのでは、「刑罰あたらず」ということになり、社会統治上の不正行為ともなってしまう。
仮に相手が「神の子」であったとしたところで、もしも死刑に処するというのなら、神の子
が完全に死滅して、二度と生き返らないような方法で処刑するのが刑務者としての義務であり、
処刑したにもかかわらず生き返ったりしたのでは、刑務者にとっての不手際となってしまう。
そのような為政上の不正を、神の子がこの世にもたらしたとすれば、それは人々の罪を代わりに
償うどころか、世の中に不正を蔓延させることで、誰しもに無駄な罪状を背負わせる結果とすら
なってしまうわけだから、まさにキリスト(神の子)こそは、人々の罪を一切償うこともなく、
代わりに「権力犯罪の横行する社会に安住する」という従犯の罪を誰しもに着せたのだといえる。
もちろん、キリストが刑死して蘇ったというところからすでにフィクションであり、刑死して
二度と生き返らなかったか、もしくは始めから刑死していなかったかのいずれかであるというのが
真相であるには違いない。しかし、仮に「刑死して蘇った」というのが事実であったとしても、
それで「全ての人々の罪が償われた」とするのでは全く筋が通っておらず、むしろ「誰しもに
権力犯罪の従犯となる罪を着せた」とするほうが、因果関係が満たされていることにもなる。
フィクションかノンフィクションかなどという違いによらず、「刑死して蘇ることで
全ての人々の罪を償う」という構文が自己完結して、倫理的な因果関係を満たしていないのである。
刑死して蘇るということは、それ自体が不正なことだから、不正にまみれることにしかならないのである。
「康誥に曰く、惟れ命は常ならずと。善なれば則ち之れを得、不善なれば則ち之れを失うを道う」
「『書経』の康誥に『天命に常に一定しているところはない』とあるが、善であればこれを得られるし、
不善であればこれを失うのである。(それほどにも不善を避けて善でいることは難しいということ。
天命を得てこそ人は活きることが出来、失った所では畜生も同然の惰生をを貪るしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・十より)
「『書経』の康誥に『天命に常に一定しているところはない』とあるが、善であればこれを得られるし、
不善であればこれを失うのである。(それほどにも不善を避けて善でいることは難しいということ。
天命を得てこそ人は活きることが出来、失った所では畜生も同然の惰生をを貪るしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・十より)
人間の欲望には限りがないが、この世の富には限りがある。
だから、誰しもの欲望を際限なく叶えてやろうとすれば、
必ずその欲望を満たしてやるための富が不足して、富の奪い合いのための戦乱や、
一方的な富の収奪が固定化されたことによる深刻な飢餓や貧窮が生ずることとなる。
そこまで事態が悪化する前にまず、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」というわきまえを
誰しもが抱き、欲望を適度化させた人々全員に対する、富の適正な配分を仁政によって実現するのが
俗世の人道というものであり、隣人愛や友愛の偏重によって人道を見失い、自分のごく近隣の
相手同士だけで際限のない欲望を叶えようとして、挙句には世界を戦乱や貧困に陥れるというのは
畜生道ないし餓鬼道であり、そのような世界全体が地獄も同然の様相を呈しているといえる。
別に、この世が地獄と化すこと自体を好き好んで画策する人間がいるというのではなく、
際限なく個人的な欲望を叶え尽くそうとした結果として、世界のほうが地獄も同然の状態と化すのであり、
そのような事態をもたらす小人に、大局の様相を見計らえるような優れた視力は元から備わっていない。
だから、自分たちでも知らず知らずのうちに、世界を地獄へと豹変させる元凶となった小人が、
いざ摘発を受けるという段になっても「なんで俺たちが?」という疑問を本気で抱くことになる。
第二次大戦中に、ナチスドイツに徹底的な弾圧を受けたユダヤ人などがまさにその例で、
アインシュタインのような天才科学者を含め、当時のユダヤ人の誰しもが、自分たちが弾圧の対象と
されたことに本気で疑問を抱き、心の底から本当に、ナチスやヒトラーに対する不平をも募らせていたのである。
だから、誰しもの欲望を際限なく叶えてやろうとすれば、
必ずその欲望を満たしてやるための富が不足して、富の奪い合いのための戦乱や、
一方的な富の収奪が固定化されたことによる深刻な飢餓や貧窮が生ずることとなる。
そこまで事態が悪化する前にまず、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」というわきまえを
誰しもが抱き、欲望を適度化させた人々全員に対する、富の適正な配分を仁政によって実現するのが
俗世の人道というものであり、隣人愛や友愛の偏重によって人道を見失い、自分のごく近隣の
相手同士だけで際限のない欲望を叶えようとして、挙句には世界を戦乱や貧困に陥れるというのは
畜生道ないし餓鬼道であり、そのような世界全体が地獄も同然の様相を呈しているといえる。
別に、この世が地獄と化すこと自体を好き好んで画策する人間がいるというのではなく、
際限なく個人的な欲望を叶え尽くそうとした結果として、世界のほうが地獄も同然の状態と化すのであり、
そのような事態をもたらす小人に、大局の様相を見計らえるような優れた視力は元から備わっていない。
だから、自分たちでも知らず知らずのうちに、世界を地獄へと豹変させる元凶となった小人が、
いざ摘発を受けるという段になっても「なんで俺たちが?」という疑問を本気で抱くことになる。
第二次大戦中に、ナチスドイツに徹底的な弾圧を受けたユダヤ人などがまさにその例で、
アインシュタインのような天才科学者を含め、当時のユダヤ人の誰しもが、自分たちが弾圧の対象と
されたことに本気で疑問を抱き、心の底から本当に、ナチスやヒトラーに対する不平をも募らせていたのである。
神がこの世を破滅に陥れているのではなく、自分たちの放辟邪侈こそはありのままに破滅の元凶である。
「自分たちが際限のない欲望を叶えようとするから、この世もまた戦乱や貧困に見舞われる」という、
言葉にしてみれば当たり前な因果関係を、現実社会に生きる人間としてわきまえているものは、結構少ない。
そもそも、因果応報のことわり自体を蔑ろにする場合が非常に多く、株式市場で際限なく肥大化した資本によって、
限られた富を取引したりしていることなどもその例だといえる。「キリストは、刑死して蘇ることで、全ての
人々の罪を償った」のような因果律の破綻した文章が、未だ権威として扱われるようなことすらあるわけだから、
そのような風潮からまず是正していくことで、因果関係を無視した思考や言行を未然に食い止めて行き、
それにより上記のような因果関係の、恒常的なわきまえまでをも実現していくようにしなければならない。
そのほうが、ただ「欲はほしいままにすべからず」という教条を絶対化する以上にも、根本的な対処にもなる。
「小人は(略)其の人を使うにおよびては、備わらんことを求む」
「つまらない人間は、人に何かをさせようとする時には、なんでもやることを求める。
(自分が奴隷並みの品性だから、他人に対しても奴隷並みに何でもやることを求めるのである。
『備わるを一人に求むることなかれ〈微子第十八・一〇〉』である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二五より)
「自分たちが際限のない欲望を叶えようとするから、この世もまた戦乱や貧困に見舞われる」という、
言葉にしてみれば当たり前な因果関係を、現実社会に生きる人間としてわきまえているものは、結構少ない。
そもそも、因果応報のことわり自体を蔑ろにする場合が非常に多く、株式市場で際限なく肥大化した資本によって、
限られた富を取引したりしていることなどもその例だといえる。「キリストは、刑死して蘇ることで、全ての
人々の罪を償った」のような因果律の破綻した文章が、未だ権威として扱われるようなことすらあるわけだから、
そのような風潮からまず是正していくことで、因果関係を無視した思考や言行を未然に食い止めて行き、
それにより上記のような因果関係の、恒常的なわきまえまでをも実現していくようにしなければならない。
そのほうが、ただ「欲はほしいままにすべからず」という教条を絶対化する以上にも、根本的な対処にもなる。
「小人は(略)其の人を使うにおよびては、備わらんことを求む」
「つまらない人間は、人に何かをさせようとする時には、なんでもやることを求める。
(自分が奴隷並みの品性だから、他人に対しても奴隷並みに何でもやることを求めるのである。
『備わるを一人に求むることなかれ〈微子第十八・一〇〉』である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二五より)
極端から極端に走るコーカソイドの悪癖は、有色コーカソイドとして極端な浄行に
務めるものの多いインドにおいても、釈迦の中道志向によって否定されている。
極端な富貴と、極端な貧困の両極端こそが、人を苦しみへと陥れる。
貧困が苦しみとなるのは誰しもが知るところだが、極端な富貴もまた、諸法因果の
ことわりに根ざした大局社会の破滅を必ず招くため、必ず大きな苦しみの原因ともなる。
富貴と貧困の両極端に走らない中道ないし中庸こそが、真理に根ざして最も苦しゅうない。
苦しみをあえて好き好むマゾヒストでもない限りは、富の多寡などに極端なこだわりを
持ちすぎないことが、一番幸福な結果にも結び付くのだから、それを奨励するどころですらない。
マゾヒストか自殺志願者でもないような、大多数の常人は、富への極端な執着などを
持たないことでこそ、望みの結果を得る。極端に膨大な自己資産を蓄えて、その場限りの
酒池肉林の遊蕩に耽ったりするほうが、後々により大きな禍いを招く。自分が死んでからどころか、
生きている内からそれはやって来て、楽しみ過ぎたに相応の過剰な苦しみを必ず被ることとなる。
欲望を捨て去るのではなく、洗練させてみたならば、極端な遊蕩などで自らの望みが成就する
見込みはないことが分かる。だから自らの心の底からの望みに即して、酒池肉林の放辟邪侈も退ける。
人の欲望が必ず放辟邪侈に結び付くなどと考えるほうが、見通しの甘い未熟者の決め付けなのであり、
そのような妄断を是とする世の中全体が、もはや欲望の何たるかすらをも見失ってしまっている。
最大級に自らの欲望を叶え尽くすためにこそ、自業自得の自滅を招くような、過度の遊蕩も避けるのである。
腹黒く、どこまでも望みを叶え尽くさんとするからこそ、自己資産の極端な積み重ねのような、
さほどでもない奇行にも手を出さないのである。そこに欲望の捨て去りなどはなく、より洗練された大望を
着実に叶えていく人としての成長があるのであり、極端から極端に走る未熟者には未だ与り知らぬ愉悦があるのである。
務めるものの多いインドにおいても、釈迦の中道志向によって否定されている。
極端な富貴と、極端な貧困の両極端こそが、人を苦しみへと陥れる。
貧困が苦しみとなるのは誰しもが知るところだが、極端な富貴もまた、諸法因果の
ことわりに根ざした大局社会の破滅を必ず招くため、必ず大きな苦しみの原因ともなる。
富貴と貧困の両極端に走らない中道ないし中庸こそが、真理に根ざして最も苦しゅうない。
苦しみをあえて好き好むマゾヒストでもない限りは、富の多寡などに極端なこだわりを
持ちすぎないことが、一番幸福な結果にも結び付くのだから、それを奨励するどころですらない。
マゾヒストか自殺志願者でもないような、大多数の常人は、富への極端な執着などを
持たないことでこそ、望みの結果を得る。極端に膨大な自己資産を蓄えて、その場限りの
酒池肉林の遊蕩に耽ったりするほうが、後々により大きな禍いを招く。自分が死んでからどころか、
生きている内からそれはやって来て、楽しみ過ぎたに相応の過剰な苦しみを必ず被ることとなる。
欲望を捨て去るのではなく、洗練させてみたならば、極端な遊蕩などで自らの望みが成就する
見込みはないことが分かる。だから自らの心の底からの望みに即して、酒池肉林の放辟邪侈も退ける。
人の欲望が必ず放辟邪侈に結び付くなどと考えるほうが、見通しの甘い未熟者の決め付けなのであり、
そのような妄断を是とする世の中全体が、もはや欲望の何たるかすらをも見失ってしまっている。
最大級に自らの欲望を叶え尽くすためにこそ、自業自得の自滅を招くような、過度の遊蕩も避けるのである。
腹黒く、どこまでも望みを叶え尽くさんとするからこそ、自己資産の極端な積み重ねのような、
さほどでもない奇行にも手を出さないのである。そこに欲望の捨て去りなどはなく、より洗練された大望を
着実に叶えていく人としての成長があるのであり、極端から極端に走る未熟者には未だ与り知らぬ愉悦があるのである。
下記のような、周代までの古代中国の肉食に関する礼法は、これからの食文化を考えていく上でも参考になる。
極端に肉食に依存している現代と、肉食を極端に戒めていた近代以前の日本と、いずれもが
これからの世の中においてそのまま適用するのも難しいものであるには変わりない。
「諸侯は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、
士は故無くして犬豕を殺さず、庶人は故無くして珍を食さず」
「諸侯でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また庶民は正当な理由無くして以上の獣の肉のような珍味を食してはならない。
(『左伝』荘公十年などにも、官職者を『肉食の者』と呼ぶ描写があるが、
『四つ足のものは椅子とテーブル以外はなんでも食う』という中国でも、
周代までは獣肉食は公職者に限って許されるものだった。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
「君は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、士は故無くして犬豕を殺さず。
君子は庖廚を遠ざけ、凡そ血気有るの類いは、身づから踐さざるなり」
「主君でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また、為政者階級の人間は自分では屠場に入らず、殺せば血が流れる類いの生き物を自分では殺さない。
(部落差別のない中国でも、為政者が血肉の穢れを忌むぐらいの風習はあった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
食肉利権を公有化するなどの方法が、今すぐにでも思いつくことができる手段だが、果たして。
極端に肉食に依存している現代と、肉食を極端に戒めていた近代以前の日本と、いずれもが
これからの世の中においてそのまま適用するのも難しいものであるには変わりない。
「諸侯は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、
士は故無くして犬豕を殺さず、庶人は故無くして珍を食さず」
「諸侯でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また庶民は正当な理由無くして以上の獣の肉のような珍味を食してはならない。
(『左伝』荘公十年などにも、官職者を『肉食の者』と呼ぶ描写があるが、
『四つ足のものは椅子とテーブル以外はなんでも食う』という中国でも、
周代までは獣肉食は公職者に限って許されるものだった。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
「君は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、士は故無くして犬豕を殺さず。
君子は庖廚を遠ざけ、凡そ血気有るの類いは、身づから踐さざるなり」
「主君でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また、為政者階級の人間は自分では屠場に入らず、殺せば血が流れる類いの生き物を自分では殺さない。
(部落差別のない中国でも、為政者が血肉の穢れを忌むぐらいの風習はあった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
食肉利権を公有化するなどの方法が、今すぐにでも思いつくことができる手段だが、果たして。
全知全能というものを突き止めれば、そこには監視行為としての
出歯亀(不正な監視)も含まれるし、活動行為としての犯罪も含まれる。だから、
全知全能でいて、実際にその能力を行使したならば、その者は必ず、出歯亀の犯罪者になる。
その時点ですでに、当人が勧善懲悪を為すことだけは絶対に叶わなくなる。
全知全能の実践者すなわち勧善懲悪の不能者であり、
全知全能は、実践してしまった時点で、すでに全知全能ではなくなるのである。
だから、「為すこと無くして為さざる無きなり(荘子)」という状態が、全知全能の極致でもあり、
監視も活動も、何も為さないでいる限りにおいて、その者もまた本当に全知全能であり得る。
そして、いざ何かを実践するとなれば、その時は勧善懲悪に徹する。
監視を行うのなら出歯亀ではなく目付(正規の監視)となるようにし、
活動には必ず罪悪が伴わないようにする。その限りにおいて、本人にも「凶状」が
付帯しないので、隠居して何もしなくなった時に、また全知全能ともなり得るのである。
全知全能をありのままに実行したならば、出歯亀の犯罪者としての凶状が付帯してしまうので、
いざまた無為に立ち戻ったとしても、勧善懲悪がもはや不能であるため、全知全能ではなくなる。
全知全能は無為に付し、行動は勧善懲悪のみに徹する、それでこそ普遍的に全知全能でもある。
出歯亀や犯罪込みで全知全能を実行してしまったならば、その時点で、人間にとっての
最も愉悦的な行動たる、勧善懲悪の実行が不能となってしまうのだから、全知全能を実行に
移してしまうことほど、当人を最低最悪の不能者と化してしまう愚行も他にないのだといえる。
出歯亀(不正な監視)も含まれるし、活動行為としての犯罪も含まれる。だから、
全知全能でいて、実際にその能力を行使したならば、その者は必ず、出歯亀の犯罪者になる。
その時点ですでに、当人が勧善懲悪を為すことだけは絶対に叶わなくなる。
全知全能の実践者すなわち勧善懲悪の不能者であり、
全知全能は、実践してしまった時点で、すでに全知全能ではなくなるのである。
だから、「為すこと無くして為さざる無きなり(荘子)」という状態が、全知全能の極致でもあり、
監視も活動も、何も為さないでいる限りにおいて、その者もまた本当に全知全能であり得る。
そして、いざ何かを実践するとなれば、その時は勧善懲悪に徹する。
監視を行うのなら出歯亀ではなく目付(正規の監視)となるようにし、
活動には必ず罪悪が伴わないようにする。その限りにおいて、本人にも「凶状」が
付帯しないので、隠居して何もしなくなった時に、また全知全能ともなり得るのである。
全知全能をありのままに実行したならば、出歯亀の犯罪者としての凶状が付帯してしまうので、
いざまた無為に立ち戻ったとしても、勧善懲悪がもはや不能であるため、全知全能ではなくなる。
全知全能は無為に付し、行動は勧善懲悪のみに徹する、それでこそ普遍的に全知全能でもある。
出歯亀や犯罪込みで全知全能を実行してしまったならば、その時点で、人間にとっての
最も愉悦的な行動たる、勧善懲悪の実行が不能となってしまうのだから、全知全能を実行に
移してしまうことほど、当人を最低最悪の不能者と化してしまう愚行も他にないのだといえる。
ことに、行動に限っていえば、勧善懲悪こそが、全知全能の実行の上にすらある。
勧善懲悪者が全知全能の実行者になることはできても、出歯亀や権力犯罪にまで手を染めた
全知全能の実行者が、勧善懲悪の実行者になることは、もはや存命中には二度と叶わない。
「勧善懲悪→全知全能の実行」は可能でも、「全知全能の実行→勧善懲悪」は不能なわけだから、
人間というもの、行いについては勧善懲悪である内が華だということが、全知全能を
込みにした論議においても、磐石な普遍性を伴っていることが分かるのである。
すでに全知全能の実行に及んでしまった者共については、ご愁傷様という他はないが、
これからの世を背負っていく人々にとっては、上記のような普遍法則のわきまえが必須だといえる。
「子游曰く、吾が友の張や、能うこと難きを為すなり。然れども未だ仁ならず」
「子游が言った。『私の友人の子張は、人ができないようなこともうまくやってのけるが、
だからといって仁者だったというようなことは未だない』(仁徳と多能は比例しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一五より
勧善懲悪者が全知全能の実行者になることはできても、出歯亀や権力犯罪にまで手を染めた
全知全能の実行者が、勧善懲悪の実行者になることは、もはや存命中には二度と叶わない。
「勧善懲悪→全知全能の実行」は可能でも、「全知全能の実行→勧善懲悪」は不能なわけだから、
人間というもの、行いについては勧善懲悪である内が華だということが、全知全能を
込みにした論議においても、磐石な普遍性を伴っていることが分かるのである。
すでに全知全能の実行に及んでしまった者共については、ご愁傷様という他はないが、
これからの世を背負っていく人々にとっては、上記のような普遍法則のわきまえが必須だといえる。
「子游曰く、吾が友の張や、能うこと難きを為すなり。然れども未だ仁ならず」
「子游が言った。『私の友人の子張は、人ができないようなこともうまくやってのけるが、
だからといって仁者だったというようなことは未だない』(仁徳と多能は比例しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一五より
真理や道理に根ざした本物の善悪正邪ってのは、ある程度以上に大きな都市社会で、
しかも仁徳を志す聖人君子が出現しないことには、なかなかその全貌が明らかにならない。
イスラエルやギリシャ程度の小社会で、善悪の分別が普遍化することがないのはもちろんのこと、
古代ローマや今のアメリカのような、誰一人として聖人君子となることを志しているわけでもない
衆愚型の大社会においても、普遍的な善悪正邪が思想体系などによって標準化されることもない。
そういった社会の人間が、「普遍的な善悪などは存在しない」などとほざくのは、自分たちが特定して、
普遍的な善悪の分別に与れたことのない、田舎者ないし大都会の衆愚であるからなだけである一方、
中国の仙人やインドの沙門が「善悪など虚妄だ」と述べるのは、彼らが超俗的な観点から、世俗の
倫理基準に過ぎない善悪正邪の「普遍性の小ささ」を指摘しているからであって、始めから普遍的な
善悪なんか知らない愚者と、善悪の普遍性の小ささまでも知り尽くしている聖者との差は、歴然としてある。
超俗的な観点から、善悪の普遍性の小ささを諦観する場合は一旦措くとして、自分が普遍的な善悪正邪
などは全く知らない立場から社会に参画し、そこで何かをやったとして、それが普遍的な勧善懲悪
たり得たりすることもまずない。勧善懲悪は、遠的の射的ほどにも実践がピンポイントなものであって、
めくらめっぽうに矢を射放ったからといって、それが的に命中するようなこともまずないからだ。
勧善懲悪だけでなく、善でも悪でもない行いに徹するということもまた、社会的には非常に難しいことで、
無軌道な欲望の思うが侭でいたりすれば、それだけで人の営みというものには、概ね罪悪が入り混じるもので
あるため、悪を行わないためにこそ、勧善懲悪以上にも徹底的な禁欲が必要とされることにもなるのである。
しかも仁徳を志す聖人君子が出現しないことには、なかなかその全貌が明らかにならない。
イスラエルやギリシャ程度の小社会で、善悪の分別が普遍化することがないのはもちろんのこと、
古代ローマや今のアメリカのような、誰一人として聖人君子となることを志しているわけでもない
衆愚型の大社会においても、普遍的な善悪正邪が思想体系などによって標準化されることもない。
そういった社会の人間が、「普遍的な善悪などは存在しない」などとほざくのは、自分たちが特定して、
普遍的な善悪の分別に与れたことのない、田舎者ないし大都会の衆愚であるからなだけである一方、
中国の仙人やインドの沙門が「善悪など虚妄だ」と述べるのは、彼らが超俗的な観点から、世俗の
倫理基準に過ぎない善悪正邪の「普遍性の小ささ」を指摘しているからであって、始めから普遍的な
善悪なんか知らない愚者と、善悪の普遍性の小ささまでも知り尽くしている聖者との差は、歴然としてある。
超俗的な観点から、善悪の普遍性の小ささを諦観する場合は一旦措くとして、自分が普遍的な善悪正邪
などは全く知らない立場から社会に参画し、そこで何かをやったとして、それが普遍的な勧善懲悪
たり得たりすることもまずない。勧善懲悪は、遠的の射的ほどにも実践がピンポイントなものであって、
めくらめっぽうに矢を射放ったからといって、それが的に命中するようなこともまずないからだ。
勧善懲悪だけでなく、善でも悪でもない行いに徹するということもまた、社会的には非常に難しいことで、
無軌道な欲望の思うが侭でいたりすれば、それだけで人の営みというものには、概ね罪悪が入り混じるもので
あるため、悪を行わないためにこそ、勧善懲悪以上にも徹底的な禁欲が必要とされることにもなるのである。
結局、普遍的な善悪正邪の分別を知らないままに、旺盛な社会活動に参画したりすれば、自然と悪逆非道や
善悪みそくその行いに結び付いてしまう。あからさまに殺し回り奪って回るだけの悪逆非道も後ろめたい
ものだから、悪行のうしろめたさをちょっとした慈善で気休めする、善悪みそくその行いが大多数となるが、
善悪みそくその範疇では、善行が悪行の規模を常に下回り続けるため、所詮は善行も偽善の範囲に止まる。
普遍的な善悪正邪など始めから知らなかったために、自然と善悪みそくそや悪逆非道の行いばかりに
終始してしまった人々に対して、その過ちを糾弾する場合、初犯である以上は、過失として扱うべきである。
大社会の大局法則から、普遍的な善悪正邪の倫理基準を見抜いた、孔子や孟子のような聖人君子が未だ
現れたこともなく、その思想体系をまともに聞き知ったこともないというような社会において、これまでに
犯されてきた過ちについては、全て過失として扱うほかはない。プラトンやアリストテレスや、モーセや
イエスなどが、普遍的な善悪の分別を計り知り得たことなども一度もないないわけだから、そのような愚人
たちの言行ばかりを倫理基準にして来たような社会の人間の過ちに、何らの故意性を見出すこともできない。
正しいということも、間違っているということも、結局のところ、誰もよく分かってはいなかった社会で、
倫理基準のオピニオンリーダーとされていたような連中の発言などにも、何ら参考とすべきところはない。
そうであることを諾うのと引き換えに、そのような社会でこれまで犯されて来た過ちも、全て過失扱いとなる。
「刑肅しくして俗敝るれば、法に則るに常無し」
「刑罰ばかりが厳しくて俗習から乖離するようなことになれば、法を守ろうにも常なる所がない。
(妾腹の私生児として妄言を垂れ流したからといって処刑されたイエスの存在自体が、
まともに法に則ることも覚束ない不法状態を、この世に呼び込む原因ともなっている。
不法状態の元凶たるイエスが、不法者を『知らない』などとほざく資格もないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より
善悪みそくその行いに結び付いてしまう。あからさまに殺し回り奪って回るだけの悪逆非道も後ろめたい
ものだから、悪行のうしろめたさをちょっとした慈善で気休めする、善悪みそくその行いが大多数となるが、
善悪みそくその範疇では、善行が悪行の規模を常に下回り続けるため、所詮は善行も偽善の範囲に止まる。
普遍的な善悪正邪など始めから知らなかったために、自然と善悪みそくそや悪逆非道の行いばかりに
終始してしまった人々に対して、その過ちを糾弾する場合、初犯である以上は、過失として扱うべきである。
大社会の大局法則から、普遍的な善悪正邪の倫理基準を見抜いた、孔子や孟子のような聖人君子が未だ
現れたこともなく、その思想体系をまともに聞き知ったこともないというような社会において、これまでに
犯されてきた過ちについては、全て過失として扱うほかはない。プラトンやアリストテレスや、モーセや
イエスなどが、普遍的な善悪の分別を計り知り得たことなども一度もないないわけだから、そのような愚人
たちの言行ばかりを倫理基準にして来たような社会の人間の過ちに、何らの故意性を見出すこともできない。
正しいということも、間違っているということも、結局のところ、誰もよく分かってはいなかった社会で、
倫理基準のオピニオンリーダーとされていたような連中の発言などにも、何ら参考とすべきところはない。
そうであることを諾うのと引き換えに、そのような社会でこれまで犯されて来た過ちも、全て過失扱いとなる。
「刑肅しくして俗敝るれば、法に則るに常無し」
「刑罰ばかりが厳しくて俗習から乖離するようなことになれば、法を守ろうにも常なる所がない。
(妾腹の私生児として妄言を垂れ流したからといって処刑されたイエスの存在自体が、
まともに法に則ることも覚束ない不法状態を、この世に呼び込む原因ともなっている。
不法状態の元凶たるイエスが、不法者を『知らない』などとほざく資格もないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より
日出ずる極東国たるこの日本こそは、プレート衝突や活断層だらけの地震の巣であり、
プレート型地震を原因とした大津波による被害もまた甚大なものとなる場合が多々ある。
さらには台風や梅雨による暴風雨にも日夜晒されている、まさに自然災害のメッカであり、イエスが
「住むべきでない土地」の内に入れた土地を、まるでありのままに具現化したような地勢の国土だといえる。
しかし、その日本でこそ、日ごろから薄氷を踏むような注意を欠かさない、神経の俊敏さを具えた人物が
多数生まれ育ってもいる。物事の隅々にまで行き渡る注意力の高さが、近代以降にも、精密な電子機械文明の
発展などに大きく寄与し、国産の工業製品の信頼度の高さでは、今でも世界随一の水準を保ち続けている。
惜しむらくは、日本人のずば抜けた注意力の高さが現時点においては、内政と外政のいずれにもおける
政治行為に全く反映されていないことである。今の日本の政治的な無策さが結果的には、国際社会の妄動
からなる争乱を野放しにする結果をも招いていて、このままだと自他共なる破綻すら免れ得ないのである。
今の日本では、儒書で「君子」や「小人」と呼ばれるうちの「小人」に当たる人種が、政治に携わっている。
いくら日本といえども、誰しもが必ず君子並みの注意深さを具えてまでいるわけではなく、江戸時代に
百姓以下の身分だった者の内で、特に武士による教化の行き届いていなかったような者の末裔の中には、
外国人並みかそれ以上にも注意力に欠ける者が多少存在する。また、そのような生粋の小人による感化を被って、
それなりに教化されていたような血筋でありながらも、自らが小人然と化してしまったような現代人もいる。
注意力の豊かな君子こそが政治に携わるためには、律令制や封建制に相当するような政治体制を
確立することによる、王道統治の実現が必要になる。権力者同士がひっきりなしの共食いを続ける
覇権主義社会などでは、君子もその能力を発揮することはできず、特に清廉な君子などは隠退を決め込んで、
表社会に足を踏み入れることから拒絶するようになる。だから「君子なんかいらない」となれば元の木阿弥で、
乱世を鼻つまみ者扱いする君子の気難しさこそは、治世の礎ともなるのだということを諾う他はないのである。
プレート型地震を原因とした大津波による被害もまた甚大なものとなる場合が多々ある。
さらには台風や梅雨による暴風雨にも日夜晒されている、まさに自然災害のメッカであり、イエスが
「住むべきでない土地」の内に入れた土地を、まるでありのままに具現化したような地勢の国土だといえる。
しかし、その日本でこそ、日ごろから薄氷を踏むような注意を欠かさない、神経の俊敏さを具えた人物が
多数生まれ育ってもいる。物事の隅々にまで行き渡る注意力の高さが、近代以降にも、精密な電子機械文明の
発展などに大きく寄与し、国産の工業製品の信頼度の高さでは、今でも世界随一の水準を保ち続けている。
惜しむらくは、日本人のずば抜けた注意力の高さが現時点においては、内政と外政のいずれにもおける
政治行為に全く反映されていないことである。今の日本の政治的な無策さが結果的には、国際社会の妄動
からなる争乱を野放しにする結果をも招いていて、このままだと自他共なる破綻すら免れ得ないのである。
今の日本では、儒書で「君子」や「小人」と呼ばれるうちの「小人」に当たる人種が、政治に携わっている。
いくら日本といえども、誰しもが必ず君子並みの注意深さを具えてまでいるわけではなく、江戸時代に
百姓以下の身分だった者の内で、特に武士による教化の行き届いていなかったような者の末裔の中には、
外国人並みかそれ以上にも注意力に欠ける者が多少存在する。また、そのような生粋の小人による感化を被って、
それなりに教化されていたような血筋でありながらも、自らが小人然と化してしまったような現代人もいる。
注意力の豊かな君子こそが政治に携わるためには、律令制や封建制に相当するような政治体制を
確立することによる、王道統治の実現が必要になる。権力者同士がひっきりなしの共食いを続ける
覇権主義社会などでは、君子もその能力を発揮することはできず、特に清廉な君子などは隠退を決め込んで、
表社会に足を踏み入れることから拒絶するようになる。だから「君子なんかいらない」となれば元の木阿弥で、
乱世を鼻つまみ者扱いする君子の気難しさこそは、治世の礎ともなるのだということを諾う他はないのである。
注意力の乏しい小人しか政治に携わらない覇権主義社会においてこそ、内憂外患が現実化する一方、
君子が統治する王化社会においては、君子自身が予め内憂外患への十分な注意力を働かせるため、
内憂外患の内容が現実化することがない。王道統治の実現を訴える孟子こそは、内憂外患への注意をよく
払うべきだということを告子章句下・一五で言っているのもだからこそであり、内乱も国際紛争も始めから
防ぎとめられている治世においてこそ、常日ごろから君子階級の人間による細心の注意までもが尽くされるのである。
岩盤の上に安住しきることで来たす注意力の乏しさこそは乱世を招く一方、
常日ごろから地震や洪水への警戒をも欠かさない注意力の高さこそが治世を守るのだから、
為政に携わるべきなのは当然、後者の素養に恵まれている人間だといえる。
「荘公の位に即くに及んで、之れが為めに制を請う。公曰く、制は岩邑なり。虢叔死せり。他の邑は唯だ命のままにせん」
「鄭で荘公が即位すると、母の武姜が弟の段に制という名の邑をくれてやってくれと頼んだ。すると荘公は言った。
『制は岩で形成された要害の地ですが、むかし虢叔という男が制の要害としての堅固さをたのみにしてうつつを抜かし、
自業自得で死んだことがあります。(ですから弟に制をやるのはお勧めできません。)他の村でしたらどこでも構いませんが」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公元年より
君子が統治する王化社会においては、君子自身が予め内憂外患への十分な注意力を働かせるため、
内憂外患の内容が現実化することがない。王道統治の実現を訴える孟子こそは、内憂外患への注意をよく
払うべきだということを告子章句下・一五で言っているのもだからこそであり、内乱も国際紛争も始めから
防ぎとめられている治世においてこそ、常日ごろから君子階級の人間による細心の注意までもが尽くされるのである。
岩盤の上に安住しきることで来たす注意力の乏しさこそは乱世を招く一方、
常日ごろから地震や洪水への警戒をも欠かさない注意力の高さこそが治世を守るのだから、
為政に携わるべきなのは当然、後者の素養に恵まれている人間だといえる。
「荘公の位に即くに及んで、之れが為めに制を請う。公曰く、制は岩邑なり。虢叔死せり。他の邑は唯だ命のままにせん」
「鄭で荘公が即位すると、母の武姜が弟の段に制という名の邑をくれてやってくれと頼んだ。すると荘公は言った。
『制は岩で形成された要害の地ですが、むかし虢叔という男が制の要害としての堅固さをたのみにしてうつつを抜かし、
自業自得で死んだことがあります。(ですから弟に制をやるのはお勧めできません。)他の村でしたらどこでも構いませんが」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公元年より
「この教えを守る者は末世に不遇を被る」というような意味のことが「法華経」にも
書かれてあるが、華厳経と同じように、法華経もまた自力作善の聖道門の経典に当たる。
聖道門の仏教などには、誰も在家信者としてすら帰依する余裕もなくなるような乱世において、
未だ法華の教えすらも忠実に守ろうとするものが、世間から浮くというのがその含意であり、
蘇我氏や平氏の横暴が未だ冷め遣らぬ頃に法華経に帰依していた聖徳太子や源頼朝も、自分たちで
それなりの実績を挙げながらも、あまり恵まれているともいえないような晩年を迎えている。
日蓮宗や創価学会の信者が世間で嫌われたりするのは、法華経の教えを忠実に守っているからではなく、
法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて、他を貶める独りよがりさが忌み嫌われているからなのであって、
これは法華経というよりは、日蓮や池田大作のほうに、信者を孤立化させている原因があるのだといえる。
キリスト教徒やユダヤ教徒が異教徒から忌み嫌われるのは、新旧約聖書に書かれている教条自体が、
異教異見を貶めて迫害の対象とするものであるからで、法華経の教条が末世に通用しない聖道門の教えだから
実践者が世間から浮くのとも、法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて他を貶めるから嫌われるのとも、
根本的に意味が違う。新旧約に書かれている内容自体が、信者を嫌われ者と化す原因となっているのだから、
経典の内容自体が信者を鼻つまみ者と化しているわけではない法華信仰とは、似て非なる代物であるといえる。
もちろん、個々の信徒や神父の独りよがりさが嫌悪の対象になることもあるが、ことに、嫌悪や糾弾の対象と
することが効果的なのは、あくまで独りよがりの元凶となっている事物に限るのであって、法華信仰の場合、
それは法華経ではなく日蓮や池田大作である一方、キリスト教やユダヤ教の場合、それは新旧約聖書である。
書かれてあるが、華厳経と同じように、法華経もまた自力作善の聖道門の経典に当たる。
聖道門の仏教などには、誰も在家信者としてすら帰依する余裕もなくなるような乱世において、
未だ法華の教えすらも忠実に守ろうとするものが、世間から浮くというのがその含意であり、
蘇我氏や平氏の横暴が未だ冷め遣らぬ頃に法華経に帰依していた聖徳太子や源頼朝も、自分たちで
それなりの実績を挙げながらも、あまり恵まれているともいえないような晩年を迎えている。
日蓮宗や創価学会の信者が世間で嫌われたりするのは、法華経の教えを忠実に守っているからではなく、
法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて、他を貶める独りよがりさが忌み嫌われているからなのであって、
これは法華経というよりは、日蓮や池田大作のほうに、信者を孤立化させている原因があるのだといえる。
キリスト教徒やユダヤ教徒が異教徒から忌み嫌われるのは、新旧約聖書に書かれている教条自体が、
異教異見を貶めて迫害の対象とするものであるからで、法華経の教条が末世に通用しない聖道門の教えだから
実践者が世間から浮くのとも、法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて他を貶めるから嫌われるのとも、
根本的に意味が違う。新旧約に書かれている内容自体が、信者を嫌われ者と化す原因となっているのだから、
経典の内容自体が信者を鼻つまみ者と化しているわけではない法華信仰とは、似て非なる代物であるといえる。
もちろん、個々の信徒や神父の独りよがりさが嫌悪の対象になることもあるが、ことに、嫌悪や糾弾の対象と
することが効果的なのは、あくまで独りよがりの元凶となっている事物に限るのであって、法華信仰の場合、
それは法華経ではなく日蓮や池田大作である一方、キリスト教やユダヤ教の場合、それは新旧約聖書である。
「罪を憎んで人を憎まず」というが、信者の独りよがりを増進させる邪教についても、
「邪教を憎んで信者を憎まず」ということがいえる。いくら目先の信者の独りよがりさを憎んだ所で、
信者たちも意志薄弱と化して、ただある種の狂信に隷従している子羊というばかりの存在なのだから、
信者たち自身を嫌悪や糾弾の対象にしても、それは、暖簾に腕押し糠に釘というばかりのことになる。
むしろ、信者が肩透かしを食らわされたと思うほどにも、信者たち自身は糾弾の対象などにせず、
信仰の対象となっている新旧約や日蓮や大作だけを徹底して糾弾の対象とし、「えんがちょ」扱いともする。
川の源流に濁りの原因があるのなら、源流を浄化すらすれば、川下もまた自然と澄んでいくものだから、
川下の濁りをいちいち浄化して回るような徒労に及ぶぐらいなら、源流の浄化にこそ専念すべきだといえる。
「冉豎、陳武子を射、手に中たる。弓を失いて罵る、以て平子に告げて曰く、君子有り、白皙、鬒鬚眉、甚口なりと。
平子曰く、必ずや子彊なり、乃ち諸の亢うこと無かりしや。對えて曰く、之れを君子と謂えり、何をか敢えて之れに亢わん」
「冉豎が陳武子という将兵を射た。矢はその手に当たり、陳武子は弓を取り落として、憤激のあまり冉豎をののしった。
冉豎は退却して陣中で平子に告げた。『先ほどの戦いで、色白で立派な髭に眉、それに大きな口の君子に出会いました』
平子『それは子彊(陳武子)だろう。対抗したりしなかっただろうな』 冉豎『君子なのに、どうして対抗できましょうか』
(陳武子は手を射られて戦闘不能になりながらも、命を永らえたことに憤激して、冉豎をののしったのである。その使命感の
高さこそは君子に値するものだったのであり、冉豎も対抗することに怖れを抱いて、そのまま退却したのである。敵将に罵られ
ながらも、そこに相手の使命感の高さを汲み取って、難戦となることを避けて退却した冉豎もまた中々の人物だったといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十六年より)
「邪教を憎んで信者を憎まず」ということがいえる。いくら目先の信者の独りよがりさを憎んだ所で、
信者たちも意志薄弱と化して、ただある種の狂信に隷従している子羊というばかりの存在なのだから、
信者たち自身を嫌悪や糾弾の対象にしても、それは、暖簾に腕押し糠に釘というばかりのことになる。
むしろ、信者が肩透かしを食らわされたと思うほどにも、信者たち自身は糾弾の対象などにせず、
信仰の対象となっている新旧約や日蓮や大作だけを徹底して糾弾の対象とし、「えんがちょ」扱いともする。
川の源流に濁りの原因があるのなら、源流を浄化すらすれば、川下もまた自然と澄んでいくものだから、
川下の濁りをいちいち浄化して回るような徒労に及ぶぐらいなら、源流の浄化にこそ専念すべきだといえる。
「冉豎、陳武子を射、手に中たる。弓を失いて罵る、以て平子に告げて曰く、君子有り、白皙、鬒鬚眉、甚口なりと。
平子曰く、必ずや子彊なり、乃ち諸の亢うこと無かりしや。對えて曰く、之れを君子と謂えり、何をか敢えて之れに亢わん」
「冉豎が陳武子という将兵を射た。矢はその手に当たり、陳武子は弓を取り落として、憤激のあまり冉豎をののしった。
冉豎は退却して陣中で平子に告げた。『先ほどの戦いで、色白で立派な髭に眉、それに大きな口の君子に出会いました』
平子『それは子彊(陳武子)だろう。対抗したりしなかっただろうな』 冉豎『君子なのに、どうして対抗できましょうか』
(陳武子は手を射られて戦闘不能になりながらも、命を永らえたことに憤激して、冉豎をののしったのである。その使命感の
高さこそは君子に値するものだったのであり、冉豎も対抗することに怖れを抱いて、そのまま退却したのである。敵将に罵られ
ながらも、そこに相手の使命感の高さを汲み取って、難戦となることを避けて退却した冉豎もまた中々の人物だったといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十六年より)

邪信にかまけた悪逆非道による、自業自得での破滅の危機である。
十億人規模の犠牲者をはじき出している、聖書圏の資本主義者による重大権力犯罪、
その反動として発生している、人類滅亡級の危険性を伴った、世界規模での人口爆発。
その人口爆発を食い止めるためには、聖書信仰という邪教を破棄しての、
自分たち自身での罪の償いが必要になるし、逆に聖書信仰を破棄せずに、
相も変わらず冤罪乱発の悪逆非道を続けたなら、本当に人類も滅亡へと
追い込まれ、それにより、これまた聖書信仰までもが強制的に途絶させられる。
誰に躓かせられるでもなく、聖書信者たち自身の邪信にかまけた悪逆非道が、
どうあっても聖書信仰を潰えさせざるを得ない事態を、自業自得で招いている。
聖書信者に、聖書信仰を躓かせるのは、聖書信者たち自身である。
ゆえに、仮に「信仰を躓かせる者は不幸である」というのなら、
聖書信者たち自身こそは、最大級の不幸者でもあるといえる。
信仰の対象が何であれ、信仰という形である種の一途さを貫いてきたこと、それ自体は、
何に対してもいい加減であったりするよりも、まだ見ようのあることだといえる。
仏門もまた、出家者は自力修行に一途であり、在家や他力の信者は、信仰にかけて一途である。
また、信教ではない儒学においても、親への孝心や主君への忠心が一途であることが奨励される。
何かにかけて一途であることの指針となるのが、「教学」たるものの本分であり、
教学の「教」の部分を省いて、何のための学なのかも不審と化してしまっている洋学などと違い、
一途であるべき指針を明確に打ち出しているが故に、立派な教学である点こそが、儒学の評価さるべき点でもある。
しかるに、聖書信仰もまた、「信仰にかけて一途であれ」という指針と共にある教学ではあるはず
だったのに、その一途であり続けてきた信仰を、否応なく躓かせざるを得ないような事態とあいなった。
それは、聖書信仰という教学の「学」の部分が、悪逆非道の指針でこそあり、故に、それに対する
信仰もまた邪信としかなり得なかったために、邪信に対して一途であり続けて来たが故の自業自得として、
それ自体は決してダメなものというわけでもない「一途さ」までをも、潰えさせざるを得なくなったのである。
一途さにも、正しい指針への一途さと、邪まな指針への一途さとがあるのであり、
正しい指針に基づいていてこそ一途さも貫ける一方、邪まな指針にしか基づいていないのならば、
その一途さ自体を潰えさせざるを得ないような事態を、最終的には必ず招いてしまうのである。
ここにこそ、正邪善悪の決定的な分岐点までもがある。
正しいものへの一途さだから続けられ、邪まなものへの一途さだから続けられない。
両者の関係性は全くの非可換であるが故に、正邪を転倒させたり、善悪を無みしたりすることも叶わない。
邪義を正義と夢想する転倒は、それ自体が自業自得での断絶を強いられることにより、
もはや相対化のしようもない、完全なる過ちであったことまでもが確定するのである。
「吾れ幸いにして囚わるることを得ん」
「(負けるのは当然のこと、)無事に捕虜となれたならば、それだけでも幸福というものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十五年より)
何に対してもいい加減であったりするよりも、まだ見ようのあることだといえる。
仏門もまた、出家者は自力修行に一途であり、在家や他力の信者は、信仰にかけて一途である。
また、信教ではない儒学においても、親への孝心や主君への忠心が一途であることが奨励される。
何かにかけて一途であることの指針となるのが、「教学」たるものの本分であり、
教学の「教」の部分を省いて、何のための学なのかも不審と化してしまっている洋学などと違い、
一途であるべき指針を明確に打ち出しているが故に、立派な教学である点こそが、儒学の評価さるべき点でもある。
しかるに、聖書信仰もまた、「信仰にかけて一途であれ」という指針と共にある教学ではあるはず
だったのに、その一途であり続けてきた信仰を、否応なく躓かせざるを得ないような事態とあいなった。
それは、聖書信仰という教学の「学」の部分が、悪逆非道の指針でこそあり、故に、それに対する
信仰もまた邪信としかなり得なかったために、邪信に対して一途であり続けて来たが故の自業自得として、
それ自体は決してダメなものというわけでもない「一途さ」までをも、潰えさせざるを得なくなったのである。
一途さにも、正しい指針への一途さと、邪まな指針への一途さとがあるのであり、
正しい指針に基づいていてこそ一途さも貫ける一方、邪まな指針にしか基づいていないのならば、
その一途さ自体を潰えさせざるを得ないような事態を、最終的には必ず招いてしまうのである。
ここにこそ、正邪善悪の決定的な分岐点までもがある。
正しいものへの一途さだから続けられ、邪まなものへの一途さだから続けられない。
両者の関係性は全くの非可換であるが故に、正邪を転倒させたり、善悪を無みしたりすることも叶わない。
邪義を正義と夢想する転倒は、それ自体が自業自得での断絶を強いられることにより、
もはや相対化のしようもない、完全なる過ちであったことまでもが確定するのである。
「吾れ幸いにして囚わるることを得ん」
「(負けるのは当然のこと、)無事に捕虜となれたならば、それだけでも幸福というものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十五年より)
聖書信仰は、発祥地であるイスラエルよりも以西の人間に積極的に取り入れられた一方で、
イスラエル以東の人間に積極的に取り入れられたような痕跡は、全くと言っていいほどない。
常に、西洋の宣教師なり侵略勢力なりが、独りよがりな押し付けによって、東方の諸地域にも勝手に
聖書信仰を流布しているだけで、東方人が自分たちから積極的に聖書信仰を求めたことなどは、一度もない。
常に必ず、西洋の側からのお節介極まりない押し付けがあってから後に、東洋でも聖書信仰が流通している。
日出ずる東方への親しみを、東方への安住という実践と共に育んできた東洋人にとって、聖書信仰の
内容は、何ら魅力的に映る所すらない。その言うところはどこまでも「不正を義とする」というまでの
ことであって、正しき義を実践からの光明への親しみによって育んできた東洋人にとっては、その内容が
極端な拒絶反応を催させるものですらあり、そもそも親しみを抱くなどという以前の問題ですらある。
罪を犯しすぎて正義の光明に与れなくなっているのは、どこまでも
聖書信者たち自身だけであり、全人類一般に対して普遍的に言えたりすることではない。
自分たちこそが独走的に罪悪の暗闇に没頭し尽くしているだけで、暗闇から救われる
手段があったとしても、それにすがる必要があるのもまた聖書信者たち自身だけである。
「自分たちこそが特定して罪悪の暗闇のとりこと化している」という、厳粛な状況判断も覚束ないままに、
「誰しもが罪を犯して暗闇にある中で、自分たちだけが信仰によって義とされる」と断じていることまた
専らな妄断であり、現実把握すら覚束ない中での妄断なものだから、その判断内容もまた全くの虚偽である。
まずは、自分たちこそが特定して罪悪の虜であるという現実を把握する、その上で、そうであっても
救われる方法をさらに模索したとする。そしたらそれは、妄念への没頭を主旨とする聖書信仰などでは
あり得ないことが自ずと明らかになる。あったところで、それは聖書信仰ではない。聖書信仰こそは
自分たちを暗闇の奥底へと貶めている元凶であるのだから、人並みの光明に与るためにこそむしろ、
聖書信仰を根本から破棄することが必要であるのだと思い知らされるほかはないからだ。
イスラエル以東の人間に積極的に取り入れられたような痕跡は、全くと言っていいほどない。
常に、西洋の宣教師なり侵略勢力なりが、独りよがりな押し付けによって、東方の諸地域にも勝手に
聖書信仰を流布しているだけで、東方人が自分たちから積極的に聖書信仰を求めたことなどは、一度もない。
常に必ず、西洋の側からのお節介極まりない押し付けがあってから後に、東洋でも聖書信仰が流通している。
日出ずる東方への親しみを、東方への安住という実践と共に育んできた東洋人にとって、聖書信仰の
内容は、何ら魅力的に映る所すらない。その言うところはどこまでも「不正を義とする」というまでの
ことであって、正しき義を実践からの光明への親しみによって育んできた東洋人にとっては、その内容が
極端な拒絶反応を催させるものですらあり、そもそも親しみを抱くなどという以前の問題ですらある。
罪を犯しすぎて正義の光明に与れなくなっているのは、どこまでも
聖書信者たち自身だけであり、全人類一般に対して普遍的に言えたりすることではない。
自分たちこそが独走的に罪悪の暗闇に没頭し尽くしているだけで、暗闇から救われる
手段があったとしても、それにすがる必要があるのもまた聖書信者たち自身だけである。
「自分たちこそが特定して罪悪の暗闇のとりこと化している」という、厳粛な状況判断も覚束ないままに、
「誰しもが罪を犯して暗闇にある中で、自分たちだけが信仰によって義とされる」と断じていることまた
専らな妄断であり、現実把握すら覚束ない中での妄断なものだから、その判断内容もまた全くの虚偽である。
まずは、自分たちこそが特定して罪悪の虜であるという現実を把握する、その上で、そうであっても
救われる方法をさらに模索したとする。そしたらそれは、妄念への没頭を主旨とする聖書信仰などでは
あり得ないことが自ずと明らかになる。あったところで、それは聖書信仰ではない。聖書信仰こそは
自分たちを暗闇の奥底へと貶めている元凶であるのだから、人並みの光明に与るためにこそむしろ、
聖書信仰を根本から破棄することが必要であるのだと思い知らされるほかはないからだ。

暗闇の中に義の指標などを提示したところで、その一切合切が暗がりの範疇の代物でしかないために、
暗がりの中でだけ義とされているものもまた普遍的には不義の内に入るものである。だから、
自分たち自身が暗闇をもたらしている聖書信仰の内側で義とされているようなものにすがったところで、
所詮は不義のうちでしかないから、それによって救われるようなことも当然ないのである。
犯罪聖書の教義は、本当に致命的な勘違いの塊である。正統な自家教学が豊富な東洋の人間からすれば
「どうしてこれほどにも・・」と思わされるほどにも、複雑骨折状態の勘違い思い違いのオンパレードであり、
しかも複雑骨折がろくに整復もされないままに、グチャグチャにひん曲がったままの状態で癒合してしまい、
まともな形状に矯正するためには、今一度骨を砕き尽くさなければならないというほどにも、勘違いの
正当化や美化による固着化が進行してしまっている。だから、たかが勘違いを解きほぐしてやるだけでも、
上記ほどにも錯綜した論及が避けられなくなる。これが元聖書信者はもちろんのこと、ただの常人にすら
なかなか理解の困難な代物であることが、自分でも察知されるもの。あまり一気に直し尽くしてしまおう
などともせず、なるべく長い期間をかけた、丹念な治療に専念していくように、聖書信者たちにも促すほかはない。
「言行は君子の枢機なり。枢機の発は栄辱の主なり」
「自らの言行こそは、君子にとって最も重要なものである。それが為された瞬間に、自らの栄光や恥辱も決まるのである。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
邪神信仰の悪因苦果によって、実際に自分自身が禁治産や服役、処刑などの処分に遭う場合と、
自分自身はそこまで行く前に、現行逃亡犯であることを貫き通したままで人生を終える場合と、
いずれにおいても、善を善とし悪を悪とする、名辞が正された後の世の中における最大級の不名誉を被る。
180度転倒夢想の完全誤謬を、2000年間も性懲りもなく信じ込んできた血筋であることなどは、
これから2000年以上、インドや昔の日本の被差別階級も同然の人種として扱われたとしても全く仕方がない
十分な事由になる。実際にそれほどまでにも、不能信仰者の血筋を徹底的な差別下に置かなければ、
また今と同じような人類滅亡の危機が再来することにもなりかねないのであり、仮に今回の危機が免れ得た所で、
同じような滅亡の危機を何度も何度も呼び込んでいたなら、そのうち本当に滅亡すら来たしかねないから、
不能信仰に耽溺してしまうような性向を宿している血筋について、子々孫々の代々に至るまでの
禁治産や参政権剥奪などの、一定以上の社会的制限を科す必要までもが出てくることになるのである。
本当にそうするかどうか、するとして、どの程度の制限になるかといったことは、現時点ではまだ確定まではしていない。
実際に制限を科し始めた所で、後々に加減を加えていくことだって、当然あり得る。ただ、上記のような、
想定としても最大級に酷烈な制限すらをも元聖書信者が無条件に受け入れるというのでもなければ、自業自得で
破滅の危機に陥っている今の聖書信者たちを、救ってやれる人間ですら、救ってやろうともしないだろう。
異教徒や異人種と対等であることを自分たちから拒絶し、累犯障害によって不正に蓄えた甚大な権益の
嵩にかかって無根拠に偉ぶっている、今の白人の聖書信者などを、救ってやれる人間だって、救ってやりたくもない。
自分自身はそこまで行く前に、現行逃亡犯であることを貫き通したままで人生を終える場合と、
いずれにおいても、善を善とし悪を悪とする、名辞が正された後の世の中における最大級の不名誉を被る。
180度転倒夢想の完全誤謬を、2000年間も性懲りもなく信じ込んできた血筋であることなどは、
これから2000年以上、インドや昔の日本の被差別階級も同然の人種として扱われたとしても全く仕方がない
十分な事由になる。実際にそれほどまでにも、不能信仰者の血筋を徹底的な差別下に置かなければ、
また今と同じような人類滅亡の危機が再来することにもなりかねないのであり、仮に今回の危機が免れ得た所で、
同じような滅亡の危機を何度も何度も呼び込んでいたなら、そのうち本当に滅亡すら来たしかねないから、
不能信仰に耽溺してしまうような性向を宿している血筋について、子々孫々の代々に至るまでの
禁治産や参政権剥奪などの、一定以上の社会的制限を科す必要までもが出てくることになるのである。
本当にそうするかどうか、するとして、どの程度の制限になるかといったことは、現時点ではまだ確定まではしていない。
実際に制限を科し始めた所で、後々に加減を加えていくことだって、当然あり得る。ただ、上記のような、
想定としても最大級に酷烈な制限すらをも元聖書信者が無条件に受け入れるというのでもなければ、自業自得で
破滅の危機に陥っている今の聖書信者たちを、救ってやれる人間ですら、救ってやろうともしないだろう。
異教徒や異人種と対等であることを自分たちから拒絶し、累犯障害によって不正に蓄えた甚大な権益の
嵩にかかって無根拠に偉ぶっている、今の白人の聖書信者などを、救ってやれる人間だって、救ってやりたくもない。
おまえらは自分たちから進んで、自分たちが救われる芽を摘んでいるのだから、自分たちが救われない責任を
自分たち以外の誰かに押し付ける資格もない。おまえらが他者に対して蓄えてきた甚大な蔑視は、ありのままに
おまえら自身に全てはね返っていくのであり、それがとんでもない苦痛になることは、こちらが不当に蔑まれた
経験の持ち主であることからも、十分に察知している。その苦痛をおまえらが自主的に受け入れでもしないのなら、
たとえ救ってやろうとしたところで、後々に反発するなり訴えるなりしてくるのが見え透いているから、そのような
恩を仇で返す所業に及ぶことが紛れもない分際に対して、当然、こちらから救ってやりたいなどと思うこともない。
今まで聖書圏において蓄積されて来た、2000年にわたる不正の歴史、その全ての罪責を子々孫々の代々に渡るまで
償い続けていくことを完全に承諾するのでもなければ、決して救おうとすらしない。人類史上でも未曾有の規模の
大罪を償っていかなければならないことからも、全地球人類の内でも、最も不幸な運命こそをこれから受け入れて
いかなければならない、その運命こそを自分たちから進んで受け入れて、絶対に不平も言わないと約束しなければならない。
これもあくまで、「考え得る限りでも最も悲惨な運命」という一つの想定であり、実際の処分が全くその通りに
なるとも確定してはいない。しかし、上記ほどにも酷烈な運命すらをも受け入れるということを、想定の範囲内としては
承らねばならず、実際にそうなったとしても文句の一つも言わないということを、完全に諾わなければならない。
欧米聖書圏中でも最大級の権力犯罪大国であるアメリカやイギリスこそは、同時に最大級の訴訟大国でもあり、
自分たちのペースでは、不平があれば訴えるのが当然だとしているのが見るに明らか。だからこそ、
最悪の運命であっても文句一つ言わず受け入れるということを、正式に誓約でもして来ないのならば、
こちらも救ってやる気にすらなりもしない。これもまた一つの、身から出たサビだといえる。
自分たち以外の誰かに押し付ける資格もない。おまえらが他者に対して蓄えてきた甚大な蔑視は、ありのままに
おまえら自身に全てはね返っていくのであり、それがとんでもない苦痛になることは、こちらが不当に蔑まれた
経験の持ち主であることからも、十分に察知している。その苦痛をおまえらが自主的に受け入れでもしないのなら、
たとえ救ってやろうとしたところで、後々に反発するなり訴えるなりしてくるのが見え透いているから、そのような
恩を仇で返す所業に及ぶことが紛れもない分際に対して、当然、こちらから救ってやりたいなどと思うこともない。
今まで聖書圏において蓄積されて来た、2000年にわたる不正の歴史、その全ての罪責を子々孫々の代々に渡るまで
償い続けていくことを完全に承諾するのでもなければ、決して救おうとすらしない。人類史上でも未曾有の規模の
大罪を償っていかなければならないことからも、全地球人類の内でも、最も不幸な運命こそをこれから受け入れて
いかなければならない、その運命こそを自分たちから進んで受け入れて、絶対に不平も言わないと約束しなければならない。
これもあくまで、「考え得る限りでも最も悲惨な運命」という一つの想定であり、実際の処分が全くその通りに
なるとも確定してはいない。しかし、上記ほどにも酷烈な運命すらをも受け入れるということを、想定の範囲内としては
承らねばならず、実際にそうなったとしても文句の一つも言わないということを、完全に諾わなければならない。
欧米聖書圏中でも最大級の権力犯罪大国であるアメリカやイギリスこそは、同時に最大級の訴訟大国でもあり、
自分たちのペースでは、不平があれば訴えるのが当然だとしているのが見るに明らか。だからこそ、
最悪の運命であっても文句一つ言わず受け入れるということを、正式に誓約でもして来ないのならば、
こちらも救ってやる気にすらなりもしない。これもまた一つの、身から出たサビだといえる。
「天の不善を假に助くは、之れに祚いするにあらざるなり。
其の凶悪を厚くして、之れに罰を降さんがためなり。且つ之れを譬うるに天の如し」
「天が不善人を仮に助けることがあったとしても、それは幸いをもたらしてやるためなどではない。その凶悪さを
増進させて高転びさせてから、そこにこそ天罰を下すためである。かつ、これこそは天の業と見なすにも相応しい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十一年より)
其の凶悪を厚くして、之れに罰を降さんがためなり。且つ之れを譬うるに天の如し」
「天が不善人を仮に助けることがあったとしても、それは幸いをもたらしてやるためなどではない。その凶悪さを
増進させて高転びさせてから、そこにこそ天罰を下すためである。かつ、これこそは天の業と見なすにも相応しい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十一年より)
こちらが「絶対にこうする」などと言ったりすることはない。しかし、
そちらでは「仮にそうなったとしても、絶対に文句は言わない」と言わなければならない。
そちらでは「仮にそうなったとしても、絶対に文句は言わない」と言わなければならない。
「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ(学而第一・八」
「過ちて改めざる、これを過ちという(衛霊公第十五・三十」
儒家で許される過ちは始めの一つまで。一度許されて後に同じ過ちを犯せば、二度と許されない。
もしも七の七十倍、四百九十回の同じ過ちを繰り返したなら、
始めの一つを除く四百八十九回の過ちの責任を完全に取らせることになる。
(もちろん、そこまで行く前に死刑になっていたりもする)
こういう、儒家の側の倫理的規定も一つの「分別」であり、分別それ自体は
「法性に得入」することはないと「華厳経」菩薩問明品第十などにある。
それでは、上記にあるような俗諦ではなく、真諦たる苦集滅道の
四諦の悟りに根ざした八正道の実践のために仏者が守る戒律はどうかといえば、たとえば律宗が
規定する比丘二百五十戒の止持戒(禁止事項)があり、その段階は以下のように分かれている。
一、波羅夷……………邪淫、窃盗、殺人、妄語の四戒。最も重い罪で、犯した者は二度と僧侶になることができない。
二、僧残………………全十三戒。僧侶の資格を剥奪されるが、僧伽の決議によって資格を回復できる場合がある。
三、不定………………異性と二人でいること。二戒。犯した場合に何らかの罰を科されるが、罰則は不定。
四、尼薩耆波逸提……僧侶が持ってはならないものを持つこと。三十戒。所有したものを捨てさせられる。
五、波逸提……………僧侶に相応しくない行い。九十戒。犯すと懺悔をさせられる。(一般には罪とされないものばかり)
六、四提舎尼…………食事に関する四つの作法。一人の比丘に対する懺悔をさせられる。
七、百衆法……………行儀作法に関する百の取り決め。
八、滅浄法……………僧侶間での争いごとに関する七つの禁止事項。
以上の四+十三+二+三十+九十+四+百+七=二百五十戒が、出家者が必ず守らなければならない律となる。
このうちで「一度犯しただけで二度と許されない過ち」が四つの波羅夷罪であり、「一度犯しただけで罰を被り、
決議や懺悔によって僧籍残留ぐらいは許される過ち」が僧残、不定、尼薩耆波逸提の計四十五戒であり、
「犯しても懺悔すれば許される過ち」が波逸提、四提舎尼、百衆法、滅浄法の計二百一戒に当たる。
「過ちて改めざる、これを過ちという(衛霊公第十五・三十」
儒家で許される過ちは始めの一つまで。一度許されて後に同じ過ちを犯せば、二度と許されない。
もしも七の七十倍、四百九十回の同じ過ちを繰り返したなら、
始めの一つを除く四百八十九回の過ちの責任を完全に取らせることになる。
(もちろん、そこまで行く前に死刑になっていたりもする)
こういう、儒家の側の倫理的規定も一つの「分別」であり、分別それ自体は
「法性に得入」することはないと「華厳経」菩薩問明品第十などにある。
それでは、上記にあるような俗諦ではなく、真諦たる苦集滅道の
四諦の悟りに根ざした八正道の実践のために仏者が守る戒律はどうかといえば、たとえば律宗が
規定する比丘二百五十戒の止持戒(禁止事項)があり、その段階は以下のように分かれている。
一、波羅夷……………邪淫、窃盗、殺人、妄語の四戒。最も重い罪で、犯した者は二度と僧侶になることができない。
二、僧残………………全十三戒。僧侶の資格を剥奪されるが、僧伽の決議によって資格を回復できる場合がある。
三、不定………………異性と二人でいること。二戒。犯した場合に何らかの罰を科されるが、罰則は不定。
四、尼薩耆波逸提……僧侶が持ってはならないものを持つこと。三十戒。所有したものを捨てさせられる。
五、波逸提……………僧侶に相応しくない行い。九十戒。犯すと懺悔をさせられる。(一般には罪とされないものばかり)
六、四提舎尼…………食事に関する四つの作法。一人の比丘に対する懺悔をさせられる。
七、百衆法……………行儀作法に関する百の取り決め。
八、滅浄法……………僧侶間での争いごとに関する七つの禁止事項。
以上の四+十三+二+三十+九十+四+百+七=二百五十戒が、出家者が必ず守らなければならない律となる。
このうちで「一度犯しただけで二度と許されない過ち」が四つの波羅夷罪であり、「一度犯しただけで罰を被り、
決議や懺悔によって僧籍残留ぐらいは許される過ち」が僧残、不定、尼薩耆波逸提の計四十五戒であり、
「犯しても懺悔すれば許される過ち」が波逸提、四提舎尼、百衆法、滅浄法の計二百一戒に当たる。
儒家道徳の、一度目の過ちだけはゆるすという規定と比べれば極めて精密であり、中には懺悔すれば許されるような、
儒家以上にゆるいと言えるような戒も多くある(ただし、世俗社会では守る必要もないとされているような戒ばかりである)。
しかし、「一度犯せば二度と許さない」とする罪が波羅夷として四つあり、「犯せば必ず罰を科される」とする罪が
全部で四十九戒もある。「どんな罪を犯しても七の七十倍の回数ほどにも許す」なんてことはもちろんないわけで、
四諦八正道という真理に根ざした仏門の出家修行が、儒家以上に厳しい規定に即していることこそあれど、
より緩い規定に即しているなどということは、全くもってないわけである。
俗世の分別たる俗諦を、正法に得入するものではないとして低く見る仏門においても、俗諦をありままに実践する
儒学以上にも厳しい規定に即した出家を是とする。これは、釈迦が真諦や真俗二諦の修得に精進した結果、
実践面では世俗道徳の中庸と同じ、中正志向である「中道」が最も真理に適っていると再認したからで、
絶対真理の求道の先にあったのはやはり、過ちは一度ぐらいは許しても二度とは許さない世俗道徳と同等か、
それ以上にも厳しい言動規範の守備であり、「過ちは七の七十倍の回数繰り返しても許す」などとする、極端な放逸を
よしとするものなどではけっしてなかった。世俗の道理だけなく、絶対真理もまた、決してそんなものを是とはしない。
「敬讓以て此れを行うときは、過ち有ると雖も、其れ甚しからず。夫れ恭なれば過ち寡し」
「畏敬と辞譲の心をもって物事を行えば、過ちを犯したとしてもそんなに甚だしいものとはならない。
それに恭しさが伴っていれば、自然と過ちも少なくなっていくものだ。(甚だしい過ちを
際限なく繰り返すような人間の心には、畏敬も辞譲も恭しさも全く欠けているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より
儒家以上にゆるいと言えるような戒も多くある(ただし、世俗社会では守る必要もないとされているような戒ばかりである)。
しかし、「一度犯せば二度と許さない」とする罪が波羅夷として四つあり、「犯せば必ず罰を科される」とする罪が
全部で四十九戒もある。「どんな罪を犯しても七の七十倍の回数ほどにも許す」なんてことはもちろんないわけで、
四諦八正道という真理に根ざした仏門の出家修行が、儒家以上に厳しい規定に即していることこそあれど、
より緩い規定に即しているなどということは、全くもってないわけである。
俗世の分別たる俗諦を、正法に得入するものではないとして低く見る仏門においても、俗諦をありままに実践する
儒学以上にも厳しい規定に即した出家を是とする。これは、釈迦が真諦や真俗二諦の修得に精進した結果、
実践面では世俗道徳の中庸と同じ、中正志向である「中道」が最も真理に適っていると再認したからで、
絶対真理の求道の先にあったのはやはり、過ちは一度ぐらいは許しても二度とは許さない世俗道徳と同等か、
それ以上にも厳しい言動規範の守備であり、「過ちは七の七十倍の回数繰り返しても許す」などとする、極端な放逸を
よしとするものなどではけっしてなかった。世俗の道理だけなく、絶対真理もまた、決してそんなものを是とはしない。
「敬讓以て此れを行うときは、過ち有ると雖も、其れ甚しからず。夫れ恭なれば過ち寡し」
「畏敬と辞譲の心をもって物事を行えば、過ちを犯したとしてもそんなに甚だしいものとはならない。
それに恭しさが伴っていれば、自然と過ちも少なくなっていくものだ。(甚だしい過ちを
際限なく繰り返すような人間の心には、畏敬も辞譲も恭しさも全く欠けているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より
確かに、個人的な経験からも、儒学だけで、
真理に根差した儒学の価値までをも計り知ったということはない。
浄土信仰の悪人正機なども通じて初めて、
世俗の道徳学であることに専らな儒家教学が、奇妙キテレツな七色変化で人々を眩惑する、
洋学や聖書信仰よりも普遍的に優良なものであることを計り知れたのであり、もしも始めから
儒学一辺倒であったりしたなら、多くの人々と同じように、儒学の地味さへの辟易ばかりを抱いて、
洋学や聖書信仰の普遍的な劣悪さを見抜くこともまたできなかっただろう。
江戸時代までの日本人もまた、仏菩薩への帰依を通じて、
俗人の実践としては仏法に基づいても満足なものである、儒学道徳の実践にも努めていたのだろう。
廃仏棄釈後の日本で儒学道徳が信奉されにくいのも、
仁義道徳が仏法による後認を失っているからなのだろう。
真理に根差した儒学の価値までをも計り知ったということはない。
浄土信仰の悪人正機なども通じて初めて、
世俗の道徳学であることに専らな儒家教学が、奇妙キテレツな七色変化で人々を眩惑する、
洋学や聖書信仰よりも普遍的に優良なものであることを計り知れたのであり、もしも始めから
儒学一辺倒であったりしたなら、多くの人々と同じように、儒学の地味さへの辟易ばかりを抱いて、
洋学や聖書信仰の普遍的な劣悪さを見抜くこともまたできなかっただろう。
江戸時代までの日本人もまた、仏菩薩への帰依を通じて、
俗人の実践としては仏法に基づいても満足なものである、儒学道徳の実践にも努めていたのだろう。
廃仏棄釈後の日本で儒学道徳が信奉されにくいのも、
仁義道徳が仏法による後認を失っているからなのだろう。
聖書信仰にけしかけられた希望は、失望ですらない、絶望によって終わる。
誰かにまだ責任を押し付ける気になれるような範囲での「失望」ではなく、
もはや茫然自失の、一切の気力も尽き果てた「絶望」によって終わる。
誰かにまだ責任を押し付ける気になれるような範囲での「失望」ではなく、
もはや茫然自失の、一切の気力も尽き果てた「絶望」によって終わる。
失望によって終わるというのなら、たとえば犯罪聖書の舞台やネタ元になっている
中東諸国などに破滅の責任を負わせようとするような気力が、元聖書信者にも残るだろう。
しかし、旧約聖書は中東人の中でも落ちこぼれ中の落ちこぼれであるイスラエルの囚人が
バビロンやペルシャの文化習俗を剽窃して適当に改ざんした記録の寄せ集めという代物であり、
何ら中東文化の正式な記録として取り扱うに値するようなものではない。また、新約聖書は
中東人ですらない、マタイらローマ人によって古代ローマ公用語(コイネー)で書かれており、
もはやその原初から完全な西洋文化であったことが確かである。新旧約共に、今の中東では
イスラムの聖典コーランに信用性で劣るものとされ、新旧約の教義とはことごとく相反する
教義が記されたコーランのほうが、中東人に総出を上げての信仰や実践の対象ともされている。
西洋人が聖書信仰を糧に、世界的な覇権を獲得し始めた大航海時代以降、
大日本帝国を除くほぼ全ての非西洋諸国が西洋列強の前に屈従し、植民地支配などの屈辱を被った。
第二次世界大戦での敗戦以降は、日本も特にアメリカの隷従下に置かれ、どさくさに紛れて
戦勝国となった中国など以上にも、国際的な発言権を失った。現時点における「世界の支配者」が
欧米聖書圏であり続けているのは間違いないことで、だからこそ逆に、今の地球社会が人口爆発や
環境破壊といった破滅の危機に晒されている責任を、自分たち欧米人以外の誰かに負わせることもできない。
西洋人が、この世界における絶対的な覇権を聖書信仰によって確立しようとしたために、その見返り
として絶対的な破滅の運命をも辿ることとなった責任を、西洋人以外の誰かが負うことも全くできない。
中東諸国などに破滅の責任を負わせようとするような気力が、元聖書信者にも残るだろう。
しかし、旧約聖書は中東人の中でも落ちこぼれ中の落ちこぼれであるイスラエルの囚人が
バビロンやペルシャの文化習俗を剽窃して適当に改ざんした記録の寄せ集めという代物であり、
何ら中東文化の正式な記録として取り扱うに値するようなものではない。また、新約聖書は
中東人ですらない、マタイらローマ人によって古代ローマ公用語(コイネー)で書かれており、
もはやその原初から完全な西洋文化であったことが確かである。新旧約共に、今の中東では
イスラムの聖典コーランに信用性で劣るものとされ、新旧約の教義とはことごとく相反する
教義が記されたコーランのほうが、中東人に総出を上げての信仰や実践の対象ともされている。
西洋人が聖書信仰を糧に、世界的な覇権を獲得し始めた大航海時代以降、
大日本帝国を除くほぼ全ての非西洋諸国が西洋列強の前に屈従し、植民地支配などの屈辱を被った。
第二次世界大戦での敗戦以降は、日本も特にアメリカの隷従下に置かれ、どさくさに紛れて
戦勝国となった中国など以上にも、国際的な発言権を失った。現時点における「世界の支配者」が
欧米聖書圏であり続けているのは間違いないことで、だからこそ逆に、今の地球社会が人口爆発や
環境破壊といった破滅の危機に晒されている責任を、自分たち欧米人以外の誰かに負わせることもできない。
西洋人が、この世界における絶対的な覇権を聖書信仰によって確立しようとしたために、その見返り
として絶対的な破滅の運命をも辿ることとなった責任を、西洋人以外の誰かが負うことも全くできない。
聖書信仰も、そのハイライトであるキリスト劇は事実上、西洋人の自家製(古代ローマ製)であるし、
キリスト信仰やユダヤ信仰を2000年の長きにわたって性懲りも無く続けているのも、西洋人だけである。
だから聖書信仰による破滅の責任が、西洋人自身以外の誰のものでもあるはずはないし、西洋人が
外界侵略の魔の手を伸ばし始めたのも、全くの聖書信仰による酔狂からであり、戦前の大日本帝国の
ような自己防衛目的などがあったわけでも全くない。だから、覇権主義の行き過ぎによって破滅の運命を
辿ることとなった責任を、これまた自分たち西洋人以外の誰かに押し付けるようなことも、まったく出来はしない。
自分たち以外の誰かに責任を押し付けてやろうとするような、不埒な気力を未だ残した範囲での
失望などであってはならない。今までの全ての責任は自分たち自身にのみあり、今まさに世界が
滅亡の危機に陥っていることもまた、自分たち自身にのみ責任があるのだとわきまえねばならない。
そのとき確かに、聖書信者は「絶望」するだろう。絶望して自殺することもあるだろうし、
また絶望でもしなければ気が狂うほどにも、正気を保てないということにもなるだろう。
「いつも喜んでいなさい(1テサロニケ5:16)」という犯罪聖書による洗脳が説かれて、
西洋社会が「歓喜世界」であることが終了し、絶望と悲しみで満たされた暗闇の世界となる。
畢竟、躁から鬱への振れ切りであり、鬱は鬱で決して人間の健康な精神状態などであるわけではない。
躁鬱の双極への振れ切り全般を治療していくことが肝心であり、決して鬱で終わりだなどと思ってはいけない。
キリスト信仰やユダヤ信仰を2000年の長きにわたって性懲りも無く続けているのも、西洋人だけである。
だから聖書信仰による破滅の責任が、西洋人自身以外の誰のものでもあるはずはないし、西洋人が
外界侵略の魔の手を伸ばし始めたのも、全くの聖書信仰による酔狂からであり、戦前の大日本帝国の
ような自己防衛目的などがあったわけでも全くない。だから、覇権主義の行き過ぎによって破滅の運命を
辿ることとなった責任を、これまた自分たち西洋人以外の誰かに押し付けるようなことも、まったく出来はしない。
自分たち以外の誰かに責任を押し付けてやろうとするような、不埒な気力を未だ残した範囲での
失望などであってはならない。今までの全ての責任は自分たち自身にのみあり、今まさに世界が
滅亡の危機に陥っていることもまた、自分たち自身にのみ責任があるのだとわきまえねばならない。
そのとき確かに、聖書信者は「絶望」するだろう。絶望して自殺することもあるだろうし、
また絶望でもしなければ気が狂うほどにも、正気を保てないということにもなるだろう。
「いつも喜んでいなさい(1テサロニケ5:16)」という犯罪聖書による洗脳が説かれて、
西洋社会が「歓喜世界」であることが終了し、絶望と悲しみで満たされた暗闇の世界となる。
畢竟、躁から鬱への振れ切りであり、鬱は鬱で決して人間の健康な精神状態などであるわけではない。
躁鬱の双極への振れ切り全般を治療していくことが肝心であり、決して鬱で終わりだなどと思ってはいけない。
「晋の師帰る。范文子後れて入る。武子曰く、吾れ爾じを望むと為すこと無くなるかと。
對えて曰く、師、功有り。国人喜んで以て之れを逆えん。先に入れば、必ず耳目を属けん。
是れ帥に代わりて名を受くなり。故に敢えてせず。武子曰く、吾れ免るるを知れりと」
「晋の師団が母国に帰還したとき、范文子だけは遅れて帰国した。父の武子は言った。
『おまえの速やかな帰還をどれほどわしが待ち望んでいたと思うのか』 范文子は答えていった。
『今度の戦では元帥の郤克どのが大変大きな手柄を上げました。帰還すれば誰しもが喜んで迎えましょうが、
にもかかわらず私が先に帰国すれば、私にばかり先に衆目が向くこととなってしまいます。それでは私が
元帥殿に代わって名声を受けるようなことになってしまいますので、あえて先に帰国しなかったのです』
武子は言った。『ああ、それは恙なくて済んだことだ』(失望転じて安心と為した例。教訓とすらなり得る些細な
失望すら徹底して退けてきた犯罪聖書信者の歓喜志向が、肥大化した希望を絶望へとも振り切らせるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公二年より)
對えて曰く、師、功有り。国人喜んで以て之れを逆えん。先に入れば、必ず耳目を属けん。
是れ帥に代わりて名を受くなり。故に敢えてせず。武子曰く、吾れ免るるを知れりと」
「晋の師団が母国に帰還したとき、范文子だけは遅れて帰国した。父の武子は言った。
『おまえの速やかな帰還をどれほどわしが待ち望んでいたと思うのか』 范文子は答えていった。
『今度の戦では元帥の郤克どのが大変大きな手柄を上げました。帰還すれば誰しもが喜んで迎えましょうが、
にもかかわらず私が先に帰国すれば、私にばかり先に衆目が向くこととなってしまいます。それでは私が
元帥殿に代わって名声を受けるようなことになってしまいますので、あえて先に帰国しなかったのです』
武子は言った。『ああ、それは恙なくて済んだことだ』(失望転じて安心と為した例。教訓とすらなり得る些細な
失望すら徹底して退けてきた犯罪聖書信者の歓喜志向が、肥大化した希望を絶望へとも振り切らせるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公二年より)
自分たちが犯してきた罪悪に見合った純正な懲罰を、
さも不当な仕打ちを被るかのような気分で受け入れたりしていてはならない。
その心境でどんなに甚大な懲罰を受けようとも、決して心から反省したりすることはないのだから。
心からの反省すら本物であれば、実地に科す懲罰もそんなに甚だしいものである必要もない。
しかし、罪を悔いてその悔いを改める、キリスト信仰などに特有の「悔い改め」は、
「サイコパス患者の心中での反省の演技」でしかなく、心の中ですら反省を演ずる、自己欺瞞の悪癖を
患ってしまっているような人間にとってこそ、本当に心の底から反省することもまた、極めて困難なこととなる。
心の底から本当に反省するためには、精神力がいる。
不当な仕打ちを被るような心境で懲罰を受けることにも、心中で反省を演じるだけの悔い改めにも、
全く精神力はいらないが、心から本当に反省することには、旺盛な精神力が必要とされる。
のみならず、心から本当に反省するということは、それ相応の健全な精神性を抱くということである。
一人前の精神力があれば、人は始めから進んで罪を犯そうなどとはしない。
健全な精神性は、社会的には畏敬や辞譲、恭順などの心がけとして現れ、
その恭敬辞譲の豊かさが自然と、甚だしい罪を犯したり、より多くの罪を犯そうとしたりする
不埒さを立ち消えにさせてしまうのである。(>>252の「礼記」からの引用を参照)
その一人前の精神力を失って、ただひたすら罪悪まみれの濁生をまい進することほど不実な人生もなく、
その一切合切が、一定の精神力と共にある最低レベルの人生と比べてみても、より有苦無楽なものであり続ける。
罪に対する罰を受けることが苦しいとかいう以前に、罪悪まみれを進行させる人間精神の喪失こそは
多大なる苦しみの発端であり、懲罰もまた、その苦しみの発端を消し去るためにこそ科されるものである。
さも不当な仕打ちを被るかのような気分で受け入れたりしていてはならない。
その心境でどんなに甚大な懲罰を受けようとも、決して心から反省したりすることはないのだから。
心からの反省すら本物であれば、実地に科す懲罰もそんなに甚だしいものである必要もない。
しかし、罪を悔いてその悔いを改める、キリスト信仰などに特有の「悔い改め」は、
「サイコパス患者の心中での反省の演技」でしかなく、心の中ですら反省を演ずる、自己欺瞞の悪癖を
患ってしまっているような人間にとってこそ、本当に心の底から反省することもまた、極めて困難なこととなる。
心の底から本当に反省するためには、精神力がいる。
不当な仕打ちを被るような心境で懲罰を受けることにも、心中で反省を演じるだけの悔い改めにも、
全く精神力はいらないが、心から本当に反省することには、旺盛な精神力が必要とされる。
のみならず、心から本当に反省するということは、それ相応の健全な精神性を抱くということである。
一人前の精神力があれば、人は始めから進んで罪を犯そうなどとはしない。
健全な精神性は、社会的には畏敬や辞譲、恭順などの心がけとして現れ、
その恭敬辞譲の豊かさが自然と、甚だしい罪を犯したり、より多くの罪を犯そうとしたりする
不埒さを立ち消えにさせてしまうのである。(>>252の「礼記」からの引用を参照)
その一人前の精神力を失って、ただひたすら罪悪まみれの濁生をまい進することほど不実な人生もなく、
その一切合切が、一定の精神力と共にある最低レベルの人生と比べてみても、より有苦無楽なものであり続ける。
罪に対する罰を受けることが苦しいとかいう以前に、罪悪まみれを進行させる人間精神の喪失こそは
多大なる苦しみの発端であり、懲罰もまた、その苦しみの発端を消し去るためにこそ科されるものである。
人間精神の不在は、人間の不在も同然であり、精神性を欠いた者の人生は「人生」の名にすら値しない、
非人の人生、非人生だといえる。その範疇に権力犯罪者やカルト信者が止まり続けることを前提に
懲罰を科したり、禁治産や参政権剥奪に処したりするようなこともまた、始めからしないのである。
不当な仕打ちを被るような気分で懲罰を科されたり、ただ演技で反省するだけの悔い改めをしたりするのなら、
結局、罪過の増長の元凶になっている人間精神の喪失も、いつまでも治療されないままで終わるのであり、
そのような徒労も同然の処置すらもが、仮に近代法学や精神医学によって認められることがあったとしても、
儒学や仏学によって認められたりすることはない。儒仏の仕置きによって何かをどうこうしようというのなら、
狭劣見からなる非実法や煩悩法の溜め込みによる緩慢さを、根本から排していく俊敏さに全面的に甘んじなければならない。
「其の背に艮まりて其の身を獲ず。其の庭に行きて其の人を見ず。咎无し」
「自らの精神が(何らの感受力もない)背に止まって、身体の感受に翻弄されたりすることがない。
人のいる庭などに行っても、背が人を見ないようにして、人の動向に翻弄されることがない。全く問題ない。
(これといった感受機能もない背に精神を置くことで、他人の動向に極端に翻弄される薄弱さが立ち消える。
『背を向ける』というといかにも傲岸じみているが、自己を統御する精神力はむしろ背にあるべきなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・艮・卦辞より)
非人の人生、非人生だといえる。その範疇に権力犯罪者やカルト信者が止まり続けることを前提に
懲罰を科したり、禁治産や参政権剥奪に処したりするようなこともまた、始めからしないのである。
不当な仕打ちを被るような気分で懲罰を科されたり、ただ演技で反省するだけの悔い改めをしたりするのなら、
結局、罪過の増長の元凶になっている人間精神の喪失も、いつまでも治療されないままで終わるのであり、
そのような徒労も同然の処置すらもが、仮に近代法学や精神医学によって認められることがあったとしても、
儒学や仏学によって認められたりすることはない。儒仏の仕置きによって何かをどうこうしようというのなら、
狭劣見からなる非実法や煩悩法の溜め込みによる緩慢さを、根本から排していく俊敏さに全面的に甘んじなければならない。
「其の背に艮まりて其の身を獲ず。其の庭に行きて其の人を見ず。咎无し」
「自らの精神が(何らの感受力もない)背に止まって、身体の感受に翻弄されたりすることがない。
人のいる庭などに行っても、背が人を見ないようにして、人の動向に翻弄されることがない。全く問題ない。
(これといった感受機能もない背に精神を置くことで、他人の動向に極端に翻弄される薄弱さが立ち消える。
『背を向ける』というといかにも傲岸じみているが、自己を統御する精神力はむしろ背にあるべきなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・艮・卦辞より)

まんまと社会的な懲罰を逃げおおせたところで、累犯障害者の心中こそは、
悪因苦果からなる極重の苦痛にまみれ続けている。それは、善業こそを積み重ねた聖者が
燃え盛る業火の中に身を置く以上もの苦しみであり、終始焼身自殺以上もの心中の苦しみに
あえぎ続けているからこそ、仏教弾圧に抗議してサイゴンで焼身自殺した僧侶について、カトリック教徒で
南ベトナム大統領顧問夫人だったマダム・ヌーも、「あんなのはただの人間バーベキューよ」と言ってのけたのだ。
自分たちでは隠しおおせたつもりでいても、聖書信者の心中こそは紛れもなく、極重の辛苦にまみれきっている。
それこそはいかなる物質的貧窮や身体的苦痛以上もの、人としての最大級の辛苦であり、どんな外的優遇に
置かれた所で、聖書信者がこの世で最も不幸な人種であり続けていることには変わりない。だから欧米の
聖書信者も、自分たちだけで八割以上もの地球資源を独占して、自分たちが植民化によって最悪の荒廃に
陥れたアフリカやインドをそのままにしておいていたところで、罪悪感の一つも抱かないでいられている。
そこまでしても、自分たち聖書信者こそは、この地球上で最も不幸な生き物であり続けていることには変わりないのだから。
邪信によって植え付けられた心中における最大級の苦痛を紛らわすために、物質的・肉体的な栄華ばかりを追い求め、
世界中の人々を資源不足からなる貧窮にまで追いやってはみたものの、やはり自分たち聖書信者こそは相も変わらず、
この世で最も不幸な人種であり続けている。それどころか、国際権力犯罪の積み重ねによってさらなる罪悪の辛苦にまみれ、
あたかもヘルニアで終始ウーウー唸り続けている老犬か何かのように、精神の殺伐化を極度に募らせてもいる。
心中の苦しみを紛らわすために、物質的な栄華を追い求めたのがすでに間違いであり、むしろ服罪や出家修行のような、
修身に相当する行いを通じてこそ、罪悪の辛苦の根絶にも努めるべきであった。「西洋文明こそは物質主義の権化」という
風にも見なされがちだが、その背景には「邪神信仰による心中の激痛」という、度しがたい見返りが常に存在し続けて来たのであり、
そんなものがあって初めて肥大化させられて来た西洋文明というものが全般的に、不健全極まりないものであるには違いないのである。
2000年前に邪信を抱き始めて、今に至るまでずっと、聖書信者こそは、この地球上で最も恵まれない人種であり続けている。
終末期にあたる近現代には、膨大な利権を自分たちだけで寡占して、外界の人間を貧窮や戦乱によって苦しめる元凶ともなった、
にもかかわらずではなくだからこそ、聖書信者はさらなる精神的苦痛をも募らせたのであり、この世で最も不幸な存在で
あり続けていることでは一貫している。これから罰を受けるなり、精進修行に励むなりするとしても、それこそは最悪の
苦しみから脱していく初めての機縁にこそなるのであり、さらなる苦しみの積み重ねなどには、決して当たらないのである。
「天を尊び地を親しむ。故に民に報いを美するを教う」
「天を尊び地に親しむことで、民に因果応報の善美なることを教化する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
修身に相当する行いを通じてこそ、罪悪の辛苦の根絶にも努めるべきであった。「西洋文明こそは物質主義の権化」という
風にも見なされがちだが、その背景には「邪神信仰による心中の激痛」という、度しがたい見返りが常に存在し続けて来たのであり、
そんなものがあって初めて肥大化させられて来た西洋文明というものが全般的に、不健全極まりないものであるには違いないのである。
2000年前に邪信を抱き始めて、今に至るまでずっと、聖書信者こそは、この地球上で最も恵まれない人種であり続けている。
終末期にあたる近現代には、膨大な利権を自分たちだけで寡占して、外界の人間を貧窮や戦乱によって苦しめる元凶ともなった、
にもかかわらずではなくだからこそ、聖書信者はさらなる精神的苦痛をも募らせたのであり、この世で最も不幸な存在で
あり続けていることでは一貫している。これから罰を受けるなり、精進修行に励むなりするとしても、それこそは最悪の
苦しみから脱していく初めての機縁にこそなるのであり、さらなる苦しみの積み重ねなどには、決して当たらないのである。
「天を尊び地を親しむ。故に民に報いを美するを教う」
「天を尊び地に親しむことで、民に因果応報の善美なることを教化する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
いま急に神の加護を失うのではなく、始めから神の加護など無かったことに気づくのである。
聖書信仰は、その最原初の頃から今に至るまで、聖書信者たち自身を破滅に追いやる元凶でのみ有り続けて来た。
カトリック教団の発足期には、信者がイエスを真似ての自殺行為を大量に多発させたことから、
信者数の減少を危ぶんだ元マニ教徒のアウグスチヌスが、上座部仏教から自殺の禁止(無賊害心)の教義を
剽窃して信者にあてがうことで、教団経営が傾くのを防ぐなどしていた。まず始めにそういった、
破滅を食い止める消火栓的な教義を聖書信仰外からパクることで、初期のキリスト教団も一定の安定度を保った。
聖書信仰による破滅を、異教の教義の剽窃による補強で何とか食い止めるといった状態で、聖書圏は
「暗黒時代」という形での、数百年にわたる停滞状態での存続を保った。その後に、聖書信者の極端な蒙昧の
ぶり返しとしての文化振興(ルネサンス)、啓蒙主義が発達し、聖書信者並みの蒙昧を取り繕うものとしての
精密科学や特殊な政治学、極端に華美な演劇や音楽などが生じた。それが今の人類社会をも支配状態に
置いているわけだが、たとえば、江戸時代の日本などには、上記のような西洋文明はほぼ完全に存在しなかった。
純粋に東洋の叡知と技術力とだけを以って、貧しくとも潤沢な文化生活を営んでいた。それと比べれば、
今の西洋文明に支配された世の中は、特に資本主義国における物質的な豊満などが甚だしいものの、
その根本の部分の文化性は甚だしく低劣なものばかりで、「聖書信者並みの蒙昧」が常にその根底に控えている。
自分たちの根本の部分に、聖書信仰という破滅の種子を抱えているからこそ、聖書信者はその取り繕いとしての
人工文明を自力で発達させた。それは決して神の加護などではなく、邪神の危害から何とか逃れようとせんがための、
自力での避難の過程における副産物でこそあった。それは確かに、東洋人などが自力で産み出すこともなかった
ようなものばかりであり、一時は東洋人もまた、西洋人の優れた側面として羨望の対象にすらしていたものである。
聖書信仰は、その最原初の頃から今に至るまで、聖書信者たち自身を破滅に追いやる元凶でのみ有り続けて来た。
カトリック教団の発足期には、信者がイエスを真似ての自殺行為を大量に多発させたことから、
信者数の減少を危ぶんだ元マニ教徒のアウグスチヌスが、上座部仏教から自殺の禁止(無賊害心)の教義を
剽窃して信者にあてがうことで、教団経営が傾くのを防ぐなどしていた。まず始めにそういった、
破滅を食い止める消火栓的な教義を聖書信仰外からパクることで、初期のキリスト教団も一定の安定度を保った。
聖書信仰による破滅を、異教の教義の剽窃による補強で何とか食い止めるといった状態で、聖書圏は
「暗黒時代」という形での、数百年にわたる停滞状態での存続を保った。その後に、聖書信者の極端な蒙昧の
ぶり返しとしての文化振興(ルネサンス)、啓蒙主義が発達し、聖書信者並みの蒙昧を取り繕うものとしての
精密科学や特殊な政治学、極端に華美な演劇や音楽などが生じた。それが今の人類社会をも支配状態に
置いているわけだが、たとえば、江戸時代の日本などには、上記のような西洋文明はほぼ完全に存在しなかった。
純粋に東洋の叡知と技術力とだけを以って、貧しくとも潤沢な文化生活を営んでいた。それと比べれば、
今の西洋文明に支配された世の中は、特に資本主義国における物質的な豊満などが甚だしいものの、
その根本の部分の文化性は甚だしく低劣なものばかりで、「聖書信者並みの蒙昧」が常にその根底に控えている。
自分たちの根本の部分に、聖書信仰という破滅の種子を抱えているからこそ、聖書信者はその取り繕いとしての
人工文明を自力で発達させた。それは決して神の加護などではなく、邪神の危害から何とか逃れようとせんがための、
自力での避難の過程における副産物でこそあった。それは確かに、東洋人などが自力で産み出すこともなかった
ようなものばかりであり、一時は東洋人もまた、西洋人の優れた側面として羨望の対象にすらしていたものである。
しかし、聖書信仰というマッチに対するポンプとしての西洋文明は、それだけではやはり、
聖書信仰の蒙昧によって燎原に広がった大火を消し止めるには不十分なものであった。
何よりも西洋文明には、聖書信者並みの精神のへたりを根本から治癒していく心がけが全く欠けており、
マッチポンプの「ポンプ」としての域を出ることにまでは全く頭が回っていなかった。西洋の学者や
文化人たち自身からして、聖書信者や牧師の子供だったりするものだから、たとえアンチキリストなどに
なろうとも、聖書信仰まずありきでものを考えるという病理から抜け出すことはついぞ出来なかったから。
ニーチェも「神など始めからいない」とは言わず、「神は死んだ」とだけ言った。神なり、神の加護なりが
少しでも存在していたかのような気でいるのは、元祖ニヒリストの無神論者ですら同じであり、「徹頭徹尾、
自分たちが神の加護などに与れたことなどは一度もない」というほどの達観を得ている西洋人は、今の所一人もいない。
未だ信者であるか否かなどを問わず、聖書信仰の呪縛に心を囚われているのは、西洋人のほぼ全てであり続けている。
聖書信仰こそは、西洋人がどんなに努力を尽くしたところで、並みの人類以上たり得ないままでいさせる因子であった。
高度な文明構築によっていくら穴を埋めようとしても、必ず聖書信仰によって掘り下げられる墓穴は、
それ以上にも大きくて深い。無宗教的な文化生活を営むに際しても、必ず何もしないでいる人間以上もの罪悪を
聖書信仰の実践のほうが呼び込んでくる。故に、全ての西洋人もまた、アジアのいち匹夫ほどの品性たり得もしない。
神の加護ではなく、邪神からの危害を2000年ぶりに取り払うためにこそ、聖書信仰の破棄が試みられるのであり、
それによって元聖書信者が危険に晒されるのではなく、むしろ危険を免れるのであると知るべきである。
聖書信仰の蒙昧によって燎原に広がった大火を消し止めるには不十分なものであった。
何よりも西洋文明には、聖書信者並みの精神のへたりを根本から治癒していく心がけが全く欠けており、
マッチポンプの「ポンプ」としての域を出ることにまでは全く頭が回っていなかった。西洋の学者や
文化人たち自身からして、聖書信者や牧師の子供だったりするものだから、たとえアンチキリストなどに
なろうとも、聖書信仰まずありきでものを考えるという病理から抜け出すことはついぞ出来なかったから。
ニーチェも「神など始めからいない」とは言わず、「神は死んだ」とだけ言った。神なり、神の加護なりが
少しでも存在していたかのような気でいるのは、元祖ニヒリストの無神論者ですら同じであり、「徹頭徹尾、
自分たちが神の加護などに与れたことなどは一度もない」というほどの達観を得ている西洋人は、今の所一人もいない。
未だ信者であるか否かなどを問わず、聖書信仰の呪縛に心を囚われているのは、西洋人のほぼ全てであり続けている。
聖書信仰こそは、西洋人がどんなに努力を尽くしたところで、並みの人類以上たり得ないままでいさせる因子であった。
高度な文明構築によっていくら穴を埋めようとしても、必ず聖書信仰によって掘り下げられる墓穴は、
それ以上にも大きくて深い。無宗教的な文化生活を営むに際しても、必ず何もしないでいる人間以上もの罪悪を
聖書信仰の実践のほうが呼び込んでくる。故に、全ての西洋人もまた、アジアのいち匹夫ほどの品性たり得もしない。
神の加護ではなく、邪神からの危害を2000年ぶりに取り払うためにこそ、聖書信仰の破棄が試みられるのであり、
それによって元聖書信者が危険に晒されるのではなく、むしろ危険を免れるのであると知るべきである。
「晋の平公の亥唐に於けるや、入れと云えば則ち入り、坐れと云えば則ち坐り、食えと云えば則ち食う。
疏食菜羹と雖も、未だ嘗て飽かず。蓋し敢て飽かざるなり。然れども此れに終わるのみ。
与に天位を共にせざるなり。与に天職を治めざるなり。与に天禄を食まざるなり」
「晋の平公の賢者亥唐に対する態度といえば、ボロ屋に出迎えられても、入れと言われれば入り、
座れと言われれば座り、食えと言われれば食うといった有り様。玄米飯や野菜汁のような粗食でも
飽きることなく食した。賢者の勧めだから飽きるわけにもいかなかったからだが、ただこればかりで終わった。
亥唐と天位を共にすることもなければ、天職を共に修めることもなく、天禄を共に食むことも結局なかった。
(『共にいる』ぐらいのことはできても、『共に天命に与る』までのことは、なかなか覚束ないものだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・三より)
疏食菜羹と雖も、未だ嘗て飽かず。蓋し敢て飽かざるなり。然れども此れに終わるのみ。
与に天位を共にせざるなり。与に天職を治めざるなり。与に天禄を食まざるなり」
「晋の平公の賢者亥唐に対する態度といえば、ボロ屋に出迎えられても、入れと言われれば入り、
座れと言われれば座り、食えと言われれば食うといった有り様。玄米飯や野菜汁のような粗食でも
飽きることなく食した。賢者の勧めだから飽きるわけにもいかなかったからだが、ただこればかりで終わった。
亥唐と天位を共にすることもなければ、天職を共に修めることもなく、天禄を共に食むことも結局なかった。
(『共にいる』ぐらいのことはできても、『共に天命に与る』までのことは、なかなか覚束ないものだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・三より)
人間社会における、善悪の普遍的な定義は
善……世の中に害以上の益をもたらす。
悪……世の中に益以上の害をもたらす。
である。しかも、善悪とは世俗における倫理上の定義であり、
超俗においてまで絶対的に通用するものではない。だから、人間社会において
善悪が上記のように定義されることこそは、最も普遍的な善悪の定義であるといえる。
善の実践が徳行となり、悪の実践が犯罪となる。
つまり、徳行の普遍的な定義は「世の中に害以上の益をもたらす」であり、
犯罪の普遍的な定義は「世の中に益以上の害をもたらす」であるといえ、
善行や悪行といった行為には、全く以って自明な定義を付与することができるのである。
上記のような普遍的な意味での、善行を為す者に対して然るべき措置は崇敬であり、
悪行を為す者に対して然るべき措置は懲罰である。世の中に害以上の益をもたらすことは
推進されて然るべきことだから崇敬の対象とし、益以上の害をもたらすことは
抑止されて然るべきことだから懲罰の対象とする。社会的な観点から見た場合の、
ごく当たり前の措置であり、なおかつ善悪とは世俗社会においてこそ普遍的な
倫理基準であるから、善行や悪行に対して上記のような措置を施すこともまた、
善とか悪とかいった言葉の名辞に即して、自明に絶対的なことであるといえる。
善悪を、個々人の内面などに限って論ずることからして、すでに間違いである。
善悪は人と人とが関係を持つ人間社会においてこそ発生するものであり、無人島に
ただ一人で完全な自給自足生活を送っていたりするのなら、始めから善悪なんかない。
そうではなく、お互いが仕事を分業し合うことで成り立っている大社会において、
自分が、人から奪う以上にも人に恵むことを優先したり、人に恵む以上にも
人から奪うことを優先したりするところに普遍的な善行や悪行が生ずるのであり、
善とか悪とかいった倫理基準が初めて持ち出されるのも、そこからでしかないのだ。
善……世の中に害以上の益をもたらす。
悪……世の中に益以上の害をもたらす。
である。しかも、善悪とは世俗における倫理上の定義であり、
超俗においてまで絶対的に通用するものではない。だから、人間社会において
善悪が上記のように定義されることこそは、最も普遍的な善悪の定義であるといえる。
善の実践が徳行となり、悪の実践が犯罪となる。
つまり、徳行の普遍的な定義は「世の中に害以上の益をもたらす」であり、
犯罪の普遍的な定義は「世の中に益以上の害をもたらす」であるといえ、
善行や悪行といった行為には、全く以って自明な定義を付与することができるのである。
上記のような普遍的な意味での、善行を為す者に対して然るべき措置は崇敬であり、
悪行を為す者に対して然るべき措置は懲罰である。世の中に害以上の益をもたらすことは
推進されて然るべきことだから崇敬の対象とし、益以上の害をもたらすことは
抑止されて然るべきことだから懲罰の対象とする。社会的な観点から見た場合の、
ごく当たり前の措置であり、なおかつ善悪とは世俗社会においてこそ普遍的な
倫理基準であるから、善行や悪行に対して上記のような措置を施すこともまた、
善とか悪とかいった言葉の名辞に即して、自明に絶対的なことであるといえる。
善悪を、個々人の内面などに限って論ずることからして、すでに間違いである。
善悪は人と人とが関係を持つ人間社会においてこそ発生するものであり、無人島に
ただ一人で完全な自給自足生活を送っていたりするのなら、始めから善悪なんかない。
そうではなく、お互いが仕事を分業し合うことで成り立っている大社会において、
自分が、人から奪う以上にも人に恵むことを優先したり、人に恵む以上にも
人から奪うことを優先したりするところに普遍的な善行や悪行が生ずるのであり、
善とか悪とかいった倫理基準が初めて持ち出されるのも、そこからでしかないのだ。
人と人とが密接な経済関係を持つ人間社会においてこそ、初めて善悪という基準もまた
持ち出されるものだから、人間同士が言葉によって意思疎通を成立させていくことを通じて、
善とか悪とかいった倫理基準もまた、世間一般に広く通用するような語義の普遍性を帯びて来ている。
仮に、誰も彼もが自分個人だけで勝手に善悪の定義を新造していたりするのでは、
人間関係においてこそ初めて問題となる善悪を、他人と論じ合うことすらできなくなるのであり、
本当に善悪が個々人の身勝手な定義によってでしか用いられたことがないのなら、
始めから善や悪などという言葉からして、生ずることもなかったはずである。
確かに、個々人が身勝手な定義に即して善悪という基準を用いて、人を欺いたりするような
こともあるが、そもそも人々が善とか悪とかいった言葉を用い始めるようになるきっかけともなった、
人間社会においてこそ普遍的であるが故に、最大級に普遍的な善悪というものが、あるのである。
それが、上記のような定義に基づく善悪であり、結局のところ「本物の善悪」であるといえる。
本物の善悪こそは、罪福異熟によって善因楽果や悪因苦果にも結び付き、
心中の苦楽を普遍的に司ると共に、社会上における普遍的な繁栄や破滅をも呼び込む。
善行に努める者は心中もまた安楽であり、社会的にも繁栄へと導かれる一方、
悪行にひた走る者は心中からして苦悩の塊であり、社会的にも破滅が免れ得ない。
だから、善行に努める者は称賛や畏怖や崇敬の対象とされるべきであるといえる一方、
悪行にひた走る者は非難や軽蔑や懲罰の対象とすべきであるといえる。社会的な倫理基準に
過ぎない善悪を、超俗的な絶対真理にまで還元してみても、やはり同等の結論が導かれるのである。
持ち出されるものだから、人間同士が言葉によって意思疎通を成立させていくことを通じて、
善とか悪とかいった倫理基準もまた、世間一般に広く通用するような語義の普遍性を帯びて来ている。
仮に、誰も彼もが自分個人だけで勝手に善悪の定義を新造していたりするのでは、
人間関係においてこそ初めて問題となる善悪を、他人と論じ合うことすらできなくなるのであり、
本当に善悪が個々人の身勝手な定義によってでしか用いられたことがないのなら、
始めから善や悪などという言葉からして、生ずることもなかったはずである。
確かに、個々人が身勝手な定義に即して善悪という基準を用いて、人を欺いたりするような
こともあるが、そもそも人々が善とか悪とかいった言葉を用い始めるようになるきっかけともなった、
人間社会においてこそ普遍的であるが故に、最大級に普遍的な善悪というものが、あるのである。
それが、上記のような定義に基づく善悪であり、結局のところ「本物の善悪」であるといえる。
本物の善悪こそは、罪福異熟によって善因楽果や悪因苦果にも結び付き、
心中の苦楽を普遍的に司ると共に、社会上における普遍的な繁栄や破滅をも呼び込む。
善行に努める者は心中もまた安楽であり、社会的にも繁栄へと導かれる一方、
悪行にひた走る者は心中からして苦悩の塊であり、社会的にも破滅が免れ得ない。
だから、善行に努める者は称賛や畏怖や崇敬の対象とされるべきであるといえる一方、
悪行にひた走る者は非難や軽蔑や懲罰の対象とすべきであるといえる。社会的な倫理基準に
過ぎない善悪を、超俗的な絶対真理にまで還元してみても、やはり同等の結論が導かれるのである。
「欲無くして仁を好む者、畏れ無くして不仁を悪む者は、天下に一人のみ。
是の故に君子は道を議ること己れ自りし、法を置くに民を以ってす」
「無欲なままに仁を好んだり、畏れることなく不仁を憎んだりできる者は、天下でも極めて少ない。
そのため君子はまず自分から道を修めるようにし、法を定めるにしても凡民が守れるようにする。
(旧約の律法なんぞは『徒法』ないし『非実法』の集約であり、それを守ることが善になるとも、
破ることが悪になるとも限らない。守ろうとすることが善を欲することになるともいえないし、
守れないが故に悪に堕しているとも限らない。本物の善悪に基づけば、真実は上記の如くであり、
善を好む者も悪を憎む者も極めて稀だから、君子も民が十分に法を守れるように融通を利かせるのである。
悪法で世の中をがんじがらめにして民を困惑させるようなことからして、君子にあるまじき所業なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

七宝などの具体的な財物による荘厳はないこともないにしろ、全体における割合は少ない。
一方で、日没する西方への特定的な浄土往生を説く浄土三部経などにおいては、金銀、
瑠璃、珊瑚、琥珀、 硨 磲、碼碯といった具体的な財宝による浄土の荘厳が主となっている。
七宝や、ダイヤやルビーやエメラルドなどの財宝が、いくら美麗な輝きを放つのであろうとも、
それは外部からの光を反射しているからこその輝きであり、財宝そのものから放たれる輝きなどではない。
物質的な財宝の輝きに魅了されている人間は、光源そのものではなく、光の反射物に魅了されている。
この地球上で最も普遍的な光源である太陽に背を向けて、日没する西方を好き好んでいるような人間というのは、
まさにこの反射物の輝きを好む類いの人間であり、光源そのものなどには始めから目が行き届いていないのである。
とはいえ、仏教の浄土信仰などは上記のように、西方浄土の信仰者が物質的な欲望に囚われていることを
十分に了解し、浄土経にあるような金銀財宝によるどぎつい浄土の描写をそのまま仏壇上に復元したりもする。
浄土真宗中興の祖である蓮如も、自分の寺の本尊の阿弥陀如来を枕代わりにして昼寝をしていた一休を
「俺の商売道具に何をする!」と怒鳴りつけて、お互いに笑い合ったというし、西方浄土の信者は完全に、
自分たちが物質的、金銭的な欲望に囚われた煩悩愚縛の凡夫であることを十分にわきまえているのだといえる。
しかるに、犯罪聖書の信者などは、自分たちが光源からの光を反射する財宝への物質的な欲望にこそ囚われて
いることを、わきまえられてすらもいない。外部からの光を反射することで輝いている財宝こそは、光源そのもの
だとすら思い込み、実際にそこにこそ、日光の如き根本性を付与したりする。これは本当に、犯罪聖書の著者など
からして、全く光源たる実物の太陽などへの配慮が行き届いていなかったからであり、太陽こそは光源であり、
財宝などはその光を受けて輝いているだけの存在であるというわきまえが、始めから完全に欠けていたからである。
明らかに、浄土信仰以上にも、犯罪聖書信仰のほうがより不健全たる所以が、ここにある。
浄土信者は、自分たちが物質的な欲望にこそ囚われていることをよくわきまえているが、
犯罪信者のほうは、物質的な欲望に囚われていることこそを、普遍的な光明への希求であるなどと倒錯している。
自分たちの本性のゲスさからすら目を背けて、ゲスさを高尚さであるなどと勘違いして、偉ぶっているのである。
故に、浄土信者以上にも聖書信者こそは、正法の真の高尚さによる度脱もまた、より困難なのである。
勘違いからなる偽りの高尚さで偉ぶっているものだから、卑しさをよくわきまえている者以上にも、救いがたい。
浄土経のえげつない財宝描写よりも、犯罪聖書の偽りの高尚的描写のほうが、凡夫にはかえって有害なのである。
「(易は)天地の化を範囲して過ぎしめず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道を通じて知る」
「(この全世界全宇宙の根本法則は)天地万物の化育を規範的な囲いに収めてその度を過ぎさせず、
それでいて万物をその微細に至るまで完成して余すところがなく、昼夜のような陰陽の転変を通じてそれを知らせる。
(洋の東西に関わらず昼夜はある。孟子も言うとおり、昼の陽気だけでなく夜の陰気もまた重要な要素なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
いることを、わきまえられてすらもいない。外部からの光を反射することで輝いている財宝こそは、光源そのもの
だとすら思い込み、実際にそこにこそ、日光の如き根本性を付与したりする。これは本当に、犯罪聖書の著者など
からして、全く光源たる実物の太陽などへの配慮が行き届いていなかったからであり、太陽こそは光源であり、
財宝などはその光を受けて輝いているだけの存在であるというわきまえが、始めから完全に欠けていたからである。
明らかに、浄土信仰以上にも、犯罪聖書信仰のほうがより不健全たる所以が、ここにある。
浄土信者は、自分たちが物質的な欲望にこそ囚われていることをよくわきまえているが、
犯罪信者のほうは、物質的な欲望に囚われていることこそを、普遍的な光明への希求であるなどと倒錯している。
自分たちの本性のゲスさからすら目を背けて、ゲスさを高尚さであるなどと勘違いして、偉ぶっているのである。
故に、浄土信者以上にも聖書信者こそは、正法の真の高尚さによる度脱もまた、より困難なのである。
勘違いからなる偽りの高尚さで偉ぶっているものだから、卑しさをよくわきまえている者以上にも、救いがたい。
浄土経のえげつない財宝描写よりも、犯罪聖書の偽りの高尚的描写のほうが、凡夫にはかえって有害なのである。
「(易は)天地の化を範囲して過ぎしめず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道を通じて知る」
「(この全世界全宇宙の根本法則は)天地万物の化育を規範的な囲いに収めてその度を過ぎさせず、
それでいて万物をその微細に至るまで完成して余すところがなく、昼夜のような陰陽の転変を通じてそれを知らせる。
(洋の東西に関わらず昼夜はある。孟子も言うとおり、昼の陽気だけでなく夜の陰気もまた重要な要素なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
削除
外部からの光を反射してこそ輝く財宝などを見て、「これこそは勝利の光だ」などと思い込む。
しからば、光源の絶えた暗闇の中では、その勝利の光もまた完全に消え去るのである。
諸外国から巨万の富を収奪し独占することで経済的な優勢を得ている欧米聖書圏が、
特に中東諸国などの産油国、中国などの下請け製造大国を敵に回した争いを激化する、
核攻撃で相手を殲滅するとまでいかずとも、経済封鎖などで交易を断ったならば、
それだけでも自分たち欧米聖書圏のほうが、物質的な貧窮に晒されることになる。
独立もできてない子供が親に対して、あるいは寄生虫が宿主の生物に対してどんなに優勢を
決め込んだところで、やはりそれは偽りの勝利であり、勝敗を論ずるに値する対等性を元から欠いている。
じゃあ、欧米聖書圏と諸外国の関係を「主人と奴隷」の関係に喩えてみればどうかといって、
それは実際に許されることではない。欧米人が「おまえたち中東人や中国人は、主人である俺たちに
資源や製造物を貢ぎ上げるための奴隷だ」と明言したとする。主人と奴隷であるということは、
もはや国際社会全体を一つの国や帝国と見なすも同然であり、しかもその国では奴隷制が認められて
いるということになる。奴隷制はもはや認めないというのが、今の地球人類社会における決定的な
風潮であるから、未だ世の中において奴隷制を施行しようとする欧米に対する革命の名分までもが立つ。
だから欧米社会も一応は、中東諸国や中国とも対等な国際関係という体裁を保たねばならないのであり、
比喩として、欧米人が自分たちと他国とを主人と奴隷の関係に見立てることからして、影でしか許されないのである。
反則に根ざした偽りの勝利は、内実だけでなく外面的な体裁においても、どうにもすっきりとしない
中途半端さを抱えたままであり続ける。周武王の殷に対するような、あるいは漢の高祖の項羽に対するような
痛快無比な勝利とはいかない、色々なわだかまりを持ち越したままに置かれる、偽りの勝利の不恰好な愉悦が、
勝利を気取る欧米聖書圏の民衆にもゆがんだ性格を植え付けて、最終的には大きなストレスともなる。
むしろ、真剣勝負による完全な敗北を受け入れることのほうが、精神衛生上は良好であったりもする。
しからば、光源の絶えた暗闇の中では、その勝利の光もまた完全に消え去るのである。
諸外国から巨万の富を収奪し独占することで経済的な優勢を得ている欧米聖書圏が、
特に中東諸国などの産油国、中国などの下請け製造大国を敵に回した争いを激化する、
核攻撃で相手を殲滅するとまでいかずとも、経済封鎖などで交易を断ったならば、
それだけでも自分たち欧米聖書圏のほうが、物質的な貧窮に晒されることになる。
独立もできてない子供が親に対して、あるいは寄生虫が宿主の生物に対してどんなに優勢を
決め込んだところで、やはりそれは偽りの勝利であり、勝敗を論ずるに値する対等性を元から欠いている。
じゃあ、欧米聖書圏と諸外国の関係を「主人と奴隷」の関係に喩えてみればどうかといって、
それは実際に許されることではない。欧米人が「おまえたち中東人や中国人は、主人である俺たちに
資源や製造物を貢ぎ上げるための奴隷だ」と明言したとする。主人と奴隷であるということは、
もはや国際社会全体を一つの国や帝国と見なすも同然であり、しかもその国では奴隷制が認められて
いるということになる。奴隷制はもはや認めないというのが、今の地球人類社会における決定的な
風潮であるから、未だ世の中において奴隷制を施行しようとする欧米に対する革命の名分までもが立つ。
だから欧米社会も一応は、中東諸国や中国とも対等な国際関係という体裁を保たねばならないのであり、
比喩として、欧米人が自分たちと他国とを主人と奴隷の関係に見立てることからして、影でしか許されないのである。
反則に根ざした偽りの勝利は、内実だけでなく外面的な体裁においても、どうにもすっきりとしない
中途半端さを抱えたままであり続ける。周武王の殷に対するような、あるいは漢の高祖の項羽に対するような
痛快無比な勝利とはいかない、色々なわだかまりを持ち越したままに置かれる、偽りの勝利の不恰好な愉悦が、
勝利を気取る欧米聖書圏の民衆にもゆがんだ性格を植え付けて、最終的には大きなストレスともなる。
むしろ、真剣勝負による完全な敗北を受け入れることのほうが、精神衛生上は良好であったりもする。
「很いに勝たんことを求むる毋れ」
「争いに勝つことを積極的に求めたりするな。
(争い好きの阿修羅は、争い自体を忌む帝釈天と戦えば必ず負ける。常に争って
勝とうとするような性分こそは、天道に対する絶対的な敗北の原因ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「争いに勝つことを積極的に求めたりするな。
(争い好きの阿修羅は、争い自体を忌む帝釈天と戦えば必ず負ける。常に争って
勝とうとするような性分こそは、天道に対する絶対的な敗北の原因ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)

それこそ聖人君子はおろか、善人や、まともな大人になることすら困難な状態にある。
民主主義によって極端な自意識過剰が蓄えられて、なおかつ資本主義によって、
何もかもをカネで取り扱うことしかできないほどにまで、行為能力の活用技術が衰えてしまっている。
そのせいで、切実な実体経済に根ざした神妙な労働行為に従事することもまた困難となってしまっている。
仮に今、この地球社会の資本や資源の配分が是正されて、切実な労働行為によってのみ自活が
可能となるようなことになれば、その時に真っ先にお荷物になるのは、欧米聖書圏の人間である。
数値上の資本の大半と、地球資源の八割以上を自分たちで独占しつつ経済活動を営んでいるのが、
並みの人類としての扱いを受けつつの経済活動に転換するとすれば、それこそ、長期間無重力状態
の宇宙空間に滞在していた飛行士が、地球に帰還して重力の重みに耐え切れなくて、しばらくは
リハビリ生活を送らされるようなことになる。無重力空間への滞在が長期過ぎた場合には骨粗鬆症
などの重病も併発して、地球に帰還した途端に骨折などの重傷に見舞われることすらあり得るように、
経済的に過度に自由な状態に置かれたことが祟っての、重大な後遺症すらもが残りかねないのである。
日本でも大昔、古墳時代から飛鳥時代にかけて、古墳造営などの事業によって過度に経済的な
繁栄を謳歌した豪族が、律令制度の発足に伴う政治制度改革によって中央を追われたことがあった。
彼らは政界追放後も一般社会に馴染むことができず、方々で屠殺や製革といった、人々が忌み嫌う仕事を
寡占することで吹き溜まりを形成する、いわゆる被差別部落の源流となった。そこにもやはり、甚大な
行為能力を安易に玩ぶことの魔性に囚われたあまりの後遺症があったのであり、過度に経済的な繁栄を
謳歌した人間が、失脚後に一般社会に馴染むことがいかに困難なことであるのかを示す証拠ともなっている。
古代の日本における、失脚した豪族などに対する緩和ケアが行き届かなかったのは、まだ当時の日本が
近畿中央部などの一部の地域においてしか朝廷の権限が行き届いていなかったからで、追放された豪族が遠方の
僻地に逃げ延びるなどして、朝廷の支配から脱する余地があったからである。武家時代になると、諸地方の平定も
相当に行き届いたものの、やはり実際問題として、一定の勢威を保ったままでいる部落への対処が問題化し続けていた。
現代においては、地位を追われた重権力犯罪者が逃げ延びられるような地域が、もはや地球上のどこにもない。
中央社会から僻地に逃げ延びて、勢力を温存した古代豪族のような真似もできないから、それはもう欧米の
聖書信者にも諦めてもらうしかない。その上で、集団自殺でもしない限りにおいて、多少手荒いほどもの
集中的な治療を受けてもらって、邪教信仰と、それによる行為能力の濫用からなる後遺症とをできる限り完治
してもらうように。それは確かに、相当な苦痛をも伴うことに違いないが、それを乗り越えられすらしたなら、
10億人を超える犠牲者をはじき出した、近現代の重権力犯罪の被害者たちに対する落とし前もまた付くといえる。
「肆に戎疾は殄え、烈假も瑕ざかりき。聞きては亦た式い、諫めは亦た入るる。
肆に成人は徳を有し、小子は造るを有する。古えの人を斁うことなく、髦士をも誉しましむ」
「外界の蛮族は絶滅し、蛮族の悪習も絶やされた。これからは人の言うことを取り入れ、諌めもまた受け入れる。
成熟した大人は徳を湛え、未熟な小子もまたすべきことを為す。老人を遠ざけない一方で、若者もまた楽しませる。
(未熟な小子は未熟な小子で、分をわきまえていればいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思斉より)
近畿中央部などの一部の地域においてしか朝廷の権限が行き届いていなかったからで、追放された豪族が遠方の
僻地に逃げ延びるなどして、朝廷の支配から脱する余地があったからである。武家時代になると、諸地方の平定も
相当に行き届いたものの、やはり実際問題として、一定の勢威を保ったままでいる部落への対処が問題化し続けていた。
現代においては、地位を追われた重権力犯罪者が逃げ延びられるような地域が、もはや地球上のどこにもない。
中央社会から僻地に逃げ延びて、勢力を温存した古代豪族のような真似もできないから、それはもう欧米の
聖書信者にも諦めてもらうしかない。その上で、集団自殺でもしない限りにおいて、多少手荒いほどもの
集中的な治療を受けてもらって、邪教信仰と、それによる行為能力の濫用からなる後遺症とをできる限り完治
してもらうように。それは確かに、相当な苦痛をも伴うことに違いないが、それを乗り越えられすらしたなら、
10億人を超える犠牲者をはじき出した、近現代の重権力犯罪の被害者たちに対する落とし前もまた付くといえる。
「肆に戎疾は殄え、烈假も瑕ざかりき。聞きては亦た式い、諫めは亦た入るる。
肆に成人は徳を有し、小子は造るを有する。古えの人を斁うことなく、髦士をも誉しましむ」
「外界の蛮族は絶滅し、蛮族の悪習も絶やされた。これからは人の言うことを取り入れ、諌めもまた受け入れる。
成熟した大人は徳を湛え、未熟な小子もまたすべきことを為す。老人を遠ざけない一方で、若者もまた楽しませる。
(未熟な小子は未熟な小子で、分をわきまえていればいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思斉より)

しかも、その手管も政商・食客・縦横家と、とっくの昔に東洋で既成され尽くしていたもの。
上記のような手管を用いつつの国際権力犯罪に及ぶことが、中国大陸や日本列島のような
完結しきった閉鎖社会においては致命的な破滅を呼び込むことが、「史記」などの記録を通じて十二分に
戒められていたから、中国や日本では上記のような手管を用いた権力犯罪も未然に食い止められ続けてきた。
また、孟子や朱子による王覇論を通じて、外界征服をひたすら拡大していく覇道よりは、
自国の徳治に専念する王道のほうが優位であることが謳われてきたから、やはり日本や中国のような
儒学の存在する国においては、覇道を捨てて王道を取ることが積極的に嗜まれてきた。
上記のような、世界史上における判例もあった上で、片や欧米聖書圏のほうたるや、
王道よりも劣位とされる覇道によって外界侵略を推し進め、我田引水のための国際権力犯罪を遂行
させるに際しては、政商・食客・縦横家といった、東洋では禁忌とされているような手段までをも行使した。
結果、欧米聖書圏こそは自業自得で、破滅の危機に陥った。
外界侵略が地球全体にまで行き届き、まず覇道を拡大させていくことが近代までに行き詰った。
その後もしばらく、政商や食客や縦横家を用いた国際権力犯罪による欧米聖書圏の我田引水は続いたが、
今日に至って遂に、これ以上そのような我田引水を存続する余地もなくなった。それでいて欧米の側の
内情を見てみれば、どこまでも侵略や我田引水を拡大や肥大化させていくことばかりを念頭に置いた、
ブタのような衆愚の群れで国内が溢れ返っているときた。覇道や国際権力犯罪ありきで成り立ってきた社会が
そのような手段の存続を行き詰らせた挙句に、堅実な内政を疎かにし続けて来過ぎたが故の破滅に見舞われた。
覇道や国際権力犯罪ばかりに執着して、自国の王道統治を疎かにした挙句、完全な破滅に見舞われる。
これが「神の業」だというのなら、ずいぶんと神も落ちぶれたものだといえる。もちろん本当は
神の所業でもなんでもない、多少小ざかしげな匹夫小人の悪巧みであったというばかりのことでしかない。
それでいてその、小ざかしい匹夫小人の悪巧みは、見事なまでの犯罪聖書の実践にもなっている。
権力犯罪聖書——通称聖書の余すことなき忠実な実践の先に、あられもない今日の破滅もまたあったのである。
「事を先にして得るを後にするは、徳を崇くするに非ざるや」
「自分が為すべき事を為すのを優先して、何かを得ることは二の次とするのが、徳を高めることになるのではないだろうか。
(イエスの物言いは、まず何かを得ることを第一としていて、それを『神の義の希求』などによって、ごまかしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二一より)
これが「神の業」だというのなら、ずいぶんと神も落ちぶれたものだといえる。もちろん本当は
神の所業でもなんでもない、多少小ざかしげな匹夫小人の悪巧みであったというばかりのことでしかない。
それでいてその、小ざかしい匹夫小人の悪巧みは、見事なまでの犯罪聖書の実践にもなっている。
権力犯罪聖書——通称聖書の余すことなき忠実な実践の先に、あられもない今日の破滅もまたあったのである。
「事を先にして得るを後にするは、徳を崇くするに非ざるや」
「自分が為すべき事を為すのを優先して、何かを得ることは二の次とするのが、徳を高めることになるのではないだろうか。
(イエスの物言いは、まず何かを得ることを第一としていて、それを『神の義の希求』などによって、ごまかしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二一より)
聖書信者の今日に至る破滅は、欲をほしいままにし過ぎたがためのものである。
エサを与えれば、どこまでも延々と食らい尽くして止まないブタの貪欲さを忌んで、
ムスリムも豚食を禁じている。欲をほしいままにしない手法としてはずいぶん稚拙な部類にも入るが、
少なくとも、欲望を一定以上に肥大化させない指針としては、磐石な機能を伴っているといえる。
キリスト教義の「七つの大罪」のうちにも「貪欲」が入っているが、その大罪としての貪欲すらもが
十字架信仰によって赦されるとされ、イエスの肉を食らうことを祝う「謝肉祭」までもが行われる。
「欲望こそは是だ」というような、悪魔崇拝そのものに当たるような悪徳の標榜まではしないにしても、
欲望を制御する術を一切持ち合わせていないという点では、キリスト教も悪魔崇拝と同等であるといえる。
悪魔崇拝国としての裏の顔を持つアメリカやイギリスだけでなく、純粋なキリスト教圏である欧州諸国もまた、
資本や資源の占有率で全世界のうちでも突出し、一人当たりの生活水準にかけては世界最高レベルをも誇っている。
自分たち自身が現代の権力犯罪にあまり深く携わらずとも、やはり同人種である英米の支配層などとの取引に
よって富裕を得ているからで、米英が直接の権力犯罪大国であるのに対し、欧州は間接の権力犯罪国連合で
あるといえる。いくらそれで、表向きに気品のある生活などを装ってみたところで、米英の悪魔崇拝者と共に
欲をほしいままにしすぎたが故の腐臭が、欧州のキリスト教国の人間からも漂ってくることには変わりないのである。
エサを与えれば、どこまでも延々と食らい尽くして止まないブタの貪欲さを忌んで、
ムスリムも豚食を禁じている。欲をほしいままにしない手法としてはずいぶん稚拙な部類にも入るが、
少なくとも、欲望を一定以上に肥大化させない指針としては、磐石な機能を伴っているといえる。
キリスト教義の「七つの大罪」のうちにも「貪欲」が入っているが、その大罪としての貪欲すらもが
十字架信仰によって赦されるとされ、イエスの肉を食らうことを祝う「謝肉祭」までもが行われる。
「欲望こそは是だ」というような、悪魔崇拝そのものに当たるような悪徳の標榜まではしないにしても、
欲望を制御する術を一切持ち合わせていないという点では、キリスト教も悪魔崇拝と同等であるといえる。
悪魔崇拝国としての裏の顔を持つアメリカやイギリスだけでなく、純粋なキリスト教圏である欧州諸国もまた、
資本や資源の占有率で全世界のうちでも突出し、一人当たりの生活水準にかけては世界最高レベルをも誇っている。
自分たち自身が現代の権力犯罪にあまり深く携わらずとも、やはり同人種である英米の支配層などとの取引に
よって富裕を得ているからで、米英が直接の権力犯罪大国であるのに対し、欧州は間接の権力犯罪国連合で
あるといえる。いくらそれで、表向きに気品のある生活などを装ってみたところで、米英の悪魔崇拝者と共に
欲をほしいままにしすぎたが故の腐臭が、欧州のキリスト教国の人間からも漂ってくることには変わりないのである。

貪欲自体よりも、貪欲の原因となっている惰弱さが本人を悩乱に追いやって、その悩乱を解消する目的で外物への
欲を働かせるという、悪循環を生む。実際には、さらなる貪りなどによって悩乱が解消されることはなく、仮に欲が
一時的に満たされたところで、全く悩乱のほうは解消されていないために、それに対する落胆が加担されたことも相まって、
どこまでも果てしなく、悩乱の解消もできないままに、欲望ばかりをむさぼり続けるという事態に陥ってしまう。
動物のブタが、どこまでも際限なくエサを貪り食らい続けるのも、上記のような心理的理由に基づくのであって、
人間によってイノシシからブタへと品種改造されたことを通じて、ブタも動物ならではの精神障害を患ったのだといえる。
欧米の聖書信者が、どこまでも欲望を貪って止まないのも、やはり全く同じ理由で、際限のない貪欲さの抑制のためには、
それこそブタをイノシシに戻すなみの品種改造すらもが必要になるのかも知れない。もちろんそこまで手荒なことをせずとも、
今の欧米人がそのままで制欲の術をわきまえられたならそれに越したことはないのだが、果たして、ブタに制欲は可能なのやら。
「緝緝翩翩と、謀りて人を譖れんと欲す。爾の言を慎め、爾を信ならずと謂わん」
「ベラベラと不埒な口舌を並べ立てて、謀略によって他人を陥れることばかりを欲している。
貴様のその口舌こそをまず慎んで、自分に人から信用される価値などがないことを思い知れ。
(これはキリスト教徒よりは、開祖のイエス自身や、悪魔崇拝者などに対してこそ言えることだ。妾腹の私生児の
ような不遇に生まれ育って自暴自棄と化した者は、常人が想像も付かないような甚だしさの害欲を抱くことがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巷伯より)
「キリストを信じろ」といえば「キリスト以外は信じるな」という含意があり、
「キリストの言うことを聞け」といえば「キリスト以外には耳を貸すな」という含意があり、
「キリストによってこそ救われる」といえば「キリスト信者以外を破滅に陥れる」という含意がある。
常に、自分以外の全てを貶めて、自分だけを是とし、是とさせようとする害他型のドグマが、
聖書信仰の場合はその根本聖典にすら明記されている。イスラムの排他主義ですら、本当は
この聖書信仰のドクマの生き写しなのであり、他者を作為的に貶めることで自分たちを
優等化しようと試みてきた度合いでは、イスラムも聖書信仰には全く及ばないのである。
他者の利益を損なうことで自分が利益を得ようとする我田引水志向は、太古の昔から商売人の悪癖などとして
存在し続けてきた。商品に相応の対価を得るまでが善賈(善良な商人)の営みである一方で、相応以上の
対価をせしめるのが悪徳商人の所業であり、その甚だしさが度を越している場合には摘発の対象ともなった。
旧約の著者や、新約の登場人物となった古代ユダヤ人も、上記のうちでの悪徳商人の部類の派閥だったのであり、
もはや不当利得だけで自分たちが生活しているも同然のような状態だったから、バビロンに捕囚もされた。
商品に相応以上の対価を得ようとする、悪徳商人の所業などに見られる「利害反する有り(韓非子・内儲説下)」
という状態、この状態の是認を信教化したのが聖書信仰であり、そのため聖書信者には必ず、
他者を貶めることで自分たちを優等化しようとする悪癖が具わるようになってしまっている。
「キリストの言うことを聞け」といえば「キリスト以外には耳を貸すな」という含意があり、
「キリストによってこそ救われる」といえば「キリスト信者以外を破滅に陥れる」という含意がある。
常に、自分以外の全てを貶めて、自分だけを是とし、是とさせようとする害他型のドグマが、
聖書信仰の場合はその根本聖典にすら明記されている。イスラムの排他主義ですら、本当は
この聖書信仰のドクマの生き写しなのであり、他者を作為的に貶めることで自分たちを
優等化しようと試みてきた度合いでは、イスラムも聖書信仰には全く及ばないのである。
他者の利益を損なうことで自分が利益を得ようとする我田引水志向は、太古の昔から商売人の悪癖などとして
存在し続けてきた。商品に相応の対価を得るまでが善賈(善良な商人)の営みである一方で、相応以上の
対価をせしめるのが悪徳商人の所業であり、その甚だしさが度を越している場合には摘発の対象ともなった。
旧約の著者や、新約の登場人物となった古代ユダヤ人も、上記のうちでの悪徳商人の部類の派閥だったのであり、
もはや不当利得だけで自分たちが生活しているも同然のような状態だったから、バビロンに捕囚もされた。
商品に相応以上の対価を得ようとする、悪徳商人の所業などに見られる「利害反する有り(韓非子・内儲説下)」
という状態、この状態の是認を信教化したのが聖書信仰であり、そのため聖書信者には必ず、
他者を貶めることで自分たちを優等化しようとする悪癖が具わるようになってしまっている。
聖書圏の民衆が、常日ごろから他者を貶めることばかり考えていることをニーチェは「ルサンチマン(嫉妬心)」
と呼んだが、別に民衆が常日ごろから嫉妬心ばかりを抱いているのが、人間社会のデフォルトなどではない。
聖書圏に限っては、他者を貶めることで自分を優等化することが宗教上の理念にすらなってしまっているから、
嫉妬などではなく、もはや義務感によってですら、まずは他者を貶めることを念頭に置いてしまうのである。
他者を貶めることで自分が利益を得ようとする人間は、決して世の中に必須なものなどではない。
ある程度大規模な都市社会には商売人も必要ではあるにしろ、商品に相応の対価のみを得る善賈だけで
十分であり、相応以上の対価を得る悪徳商人は、生じたとすれば全社会を挙げての排除の対象とすべきである。
ましてや、他者を貶めることで自分が利益を得ることが名誉になるなどと見なされるのはもってのほかで、
そのような風潮が世の中に蔓延することを認めないためにも、「他者を貶めれば自分が優等な存在になれる」
とするような誤った考え方を、徹底的な撃滅の対象としていくべきである。他者を貶めることで自分を
優等化しようとするような信教が未だ存在するのなら、それこそ全世界を挙げての撲滅にも取り組むべきである。
「多聞を友とするは、益なり。」
「広く誰しもの言うことを聞き知る者を友とするのは有益である。
(狭く限られたことしか聞こうとしない者を友とするのは無益ないし有害である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・四より)
と呼んだが、別に民衆が常日ごろから嫉妬心ばかりを抱いているのが、人間社会のデフォルトなどではない。
聖書圏に限っては、他者を貶めることで自分を優等化することが宗教上の理念にすらなってしまっているから、
嫉妬などではなく、もはや義務感によってですら、まずは他者を貶めることを念頭に置いてしまうのである。
他者を貶めることで自分が利益を得ようとする人間は、決して世の中に必須なものなどではない。
ある程度大規模な都市社会には商売人も必要ではあるにしろ、商品に相応の対価のみを得る善賈だけで
十分であり、相応以上の対価を得る悪徳商人は、生じたとすれば全社会を挙げての排除の対象とすべきである。
ましてや、他者を貶めることで自分が利益を得ることが名誉になるなどと見なされるのはもってのほかで、
そのような風潮が世の中に蔓延することを認めないためにも、「他者を貶めれば自分が優等な存在になれる」
とするような誤った考え方を、徹底的な撃滅の対象としていくべきである。他者を貶めることで自分を
優等化しようとするような信教が未だ存在するのなら、それこそ全世界を挙げての撲滅にも取り組むべきである。
「多聞を友とするは、益なり。」
「広く誰しもの言うことを聞き知る者を友とするのは有益である。
(狭く限られたことしか聞こうとしない者を友とするのは無益ないし有害である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・四より)
儒学道徳は、「純正世間法」。
「微子は之れ去り、箕子は之れ奴と為り、比干は諫めて死せり。孔子曰く、殷に三仁有り」
「(殷代の末期、紂王の暴虐を憂えて)微子は国を去り、箕子は(狂人のフリをして)奴隷に身を落とし、
比干は(紂王を諌めて怒りにふれ)虐殺された。孔先生は言われた。『殷には三人の仁者が居た』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・一)
重権力犯罪者の暴虐の犠牲となって殺されたり、国を去ったり、あるいはまだ奴隷制が存続していた頃に
奴隷身分に身をやつしたりしている者がいた。「罪の奴隷」などという自己陶酔じみた比ゆではなく、
本当に社会身分上の奴隷に身を落とす、その一方で、重権力犯罪者のほうはお縄ひとつ頂戴することなく
延々と放辟邪侈に明け暮れ、何とか自分たちが罪責を免れ続けようと執心し続けている。
いっそのこと、本当に奴隷になってしまえばいい。
奴隷制なんか、もうシラフの社会で公布されるべきものでもないが、重罪まみれの酩酊に陥っている者に
限っては、禁治産や参政権剥奪などの処分を通じて、奴隷や半奴隷も同然の立場に自分たちを置くのだ。
実際に、今の資本主義後進国では、まだ奴隷でいたほうがいい生活を送れるほどにも酷烈な困窮下に
置かれている者が何億人にも上っている。それも、資本主義先進国から、長年の国際権力犯罪被害に
見舞われ続けて来たからで、資本主義先進国である欧米キリスト教圏の人間が、行為能力を制限されながらも、
一定度の生活は保障される奴隷身分に置かれたならば、独占していた余剰資本が後進国にも回されて、
誰一人として、今のアフリカやインド並みの貧窮に置かれることのない地球社会が実現されるのである。
箕子も狂人のフリをして奴隷に身をやつしたというが、奴隷なら狂人でもできる。
邪神信仰で気が狂ったうちからでも奴隷身分にみをやつし、自分たちの過ちが認められない限りに
おいてそのままであり続け、過ちを認められたところから少しずつ常人としての身分を回復していく。
地球人類の滅亡を食い止めるためにさしあたって行使される措置も、そのあたりが現実的なものになる。
「(殷代の末期、紂王の暴虐を憂えて)微子は国を去り、箕子は(狂人のフリをして)奴隷に身を落とし、
比干は(紂王を諌めて怒りにふれ)虐殺された。孔先生は言われた。『殷には三人の仁者が居た』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・一)
重権力犯罪者の暴虐の犠牲となって殺されたり、国を去ったり、あるいはまだ奴隷制が存続していた頃に
奴隷身分に身をやつしたりしている者がいた。「罪の奴隷」などという自己陶酔じみた比ゆではなく、
本当に社会身分上の奴隷に身を落とす、その一方で、重権力犯罪者のほうはお縄ひとつ頂戴することなく
延々と放辟邪侈に明け暮れ、何とか自分たちが罪責を免れ続けようと執心し続けている。
いっそのこと、本当に奴隷になってしまえばいい。
奴隷制なんか、もうシラフの社会で公布されるべきものでもないが、重罪まみれの酩酊に陥っている者に
限っては、禁治産や参政権剥奪などの処分を通じて、奴隷や半奴隷も同然の立場に自分たちを置くのだ。
実際に、今の資本主義後進国では、まだ奴隷でいたほうがいい生活を送れるほどにも酷烈な困窮下に
置かれている者が何億人にも上っている。それも、資本主義先進国から、長年の国際権力犯罪被害に
見舞われ続けて来たからで、資本主義先進国である欧米キリスト教圏の人間が、行為能力を制限されながらも、
一定度の生活は保障される奴隷身分に置かれたならば、独占していた余剰資本が後進国にも回されて、
誰一人として、今のアフリカやインド並みの貧窮に置かれることのない地球社会が実現されるのである。
箕子も狂人のフリをして奴隷に身をやつしたというが、奴隷なら狂人でもできる。
邪神信仰で気が狂ったうちからでも奴隷身分にみをやつし、自分たちの過ちが認められない限りに
おいてそのままであり続け、過ちを認められたところから少しずつ常人としての身分を回復していく。
地球人類の滅亡を食い止めるためにさしあたって行使される措置も、そのあたりが現実的なものになる。

自殺の禁止も、マニ教を通じて仏教からパクったものだし、
クリスマスに家族で集まって祈りを捧げて、家族の結束を高めたりすることも、
親子兄弟の殺し合いを予言しているイエスの言行には、真っ向から反している。
聖書教義には完全に逆らいながらも、クリスマスに家族と食べるチキンなり七面鳥なりが
うまいというのなら、それはむしろ、孝悌を尊ぶ儒学の教えに即してこそ、うまいのである。
犯罪聖書の神に逆らい、四書五経の孔孟らの教えに従うことでこそ、腹を満たしている。
もちろんキリスト教徒が意識的に聖書の教義に逆らっているわけでも、四書五経の教えに
従っているわけでもないが、結果としては、聖書に逆らって四書五経に従ってもいるのである。
そもそも始めから、キリスト教徒たち自身からして、聖書の教義を全面的には受け入れていないのである。
みんながみんな、イエスの代わりに放免される重罪人バラバのようであるのでは世の中も立ち行かないから、
欧州人も最悪の汚れ仕事はイギリス人やマフィアや外国人部隊に任せ、アメリカでも最悪級の金融犯罪などに
直接手を付けているのは、一部の人間に限られている。それらのような深刻な病巣を、聖書信仰を通じて抱え続けて
いるが故に、欧米の全聖書教徒が重大権力犯罪の従犯とも化してしまってはいるわけだが、ほとんどの聖書教徒は、
聖書よりもむしろ儒学や仏教の教えに近似しているような、かりそめのキリスト教教義を通じて気休めもしているのである。
聖書の教義に逆らい、儒学や仏教の教えに従ってきたぶんだけ、キリスト教徒もまた、毅然としていられたのである。
始めから聖書の教えだけに従っていたりしたなら、自分たちのあり方に、寸分の正当性も見出せはしなかった。
聖書信仰は、現実に教団経営を成立させていくことを通じて、女が男になるほどもの変質を来たさざるを得なかった。
そしてその、女が男に変質したぶんだけの差分は全て、異教異学や普遍道理からの借り物でしかなかった。
故にこそ、キリスト教徒は自分たちが、今まで2000年近くにも渡って教団経営の伝統を貫いてきたことを、
聖書信仰を存続させるに値する証拠であるなどとうそぶくこともできないのである。儒学や仏教の
教えに相当するものの借用がなければ、とっくにキリスト教徒などもこの世から絶えていたのだから。
「小人の腹を以て、君子の心と爲さんことを願う。屬厭せんのみ」
「小人の腹は他愛もなくすぐ満たされるものですが、この腹を以って君子の心に代えさせていただきたいものです。
(腹が満たされる満足感と君子の心をすり合わせたりするのは、あくまで小人の所業だが、それもまあよしとしする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十八年より)
始めから聖書の教えだけに従っていたりしたなら、自分たちのあり方に、寸分の正当性も見出せはしなかった。
聖書信仰は、現実に教団経営を成立させていくことを通じて、女が男になるほどもの変質を来たさざるを得なかった。
そしてその、女が男に変質したぶんだけの差分は全て、異教異学や普遍道理からの借り物でしかなかった。
故にこそ、キリスト教徒は自分たちが、今まで2000年近くにも渡って教団経営の伝統を貫いてきたことを、
聖書信仰を存続させるに値する証拠であるなどとうそぶくこともできないのである。儒学や仏教の
教えに相当するものの借用がなければ、とっくにキリスト教徒などもこの世から絶えていたのだから。
「小人の腹を以て、君子の心と爲さんことを願う。屬厭せんのみ」
「小人の腹は他愛もなくすぐ満たされるものですが、この腹を以って君子の心に代えさせていただきたいものです。
(腹が満たされる満足感と君子の心をすり合わせたりするのは、あくまで小人の所業だが、それもまあよしとしする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十八年より)
孔子が魯の宰相をしていたころ、諸侯の前で不純な音楽を垂れ流す外人が居た。
その男を孔子は礼法違反で処刑した。(「史記」孔子世家を参照)
孔子をただの書生として見くびっていた人々は、それで孔子を見直したが、同時に場違いな
ほどにも礼法に厳格である孔子が、乱世の権力者から遠ざけられる機縁ともなったのである。
礼楽刑政がろくに実践もできない乱世だったから、孔子や孟子も道徳思想を私的に体系化したのである。
すでに詩書礼楽による統治が実現できるようになった漢代においては、陸賈や随何、
叔孫通や董仲舒といった数多の儒者が実際に礼楽統治を敷いていったわけだが、
その創作的な儒者としての業績は、孔子や孟子に遠く及ばないものとなっている。
特に、戦時中は儒学の実践も完全に投げ出していた、叔孫通あたりの立場を慕って言わせてもらうなら、
礼楽統治なんてものは、人工的に実施されない限りにおいては、全く有効化しないのである。
秦始皇帝によって全中国の封建制が廃止された結果、体制転覆と大戦争の後に、
ただの百姓の血筋である劉邦が漢帝国の帝王として全中国を治めるに至った。一方で、
その劉邦こそが、始めは儒者嫌いだったのを、陸賈の誠実さなどから段々儒学を許容し始め、
最終的には詩書礼楽による統治をも取り入れて、400年の長きにわたる治世の礎をももたらしている。
儒者の説く道理も、絶対真理とまではいかないから、確かに世俗的に無効化されることもあるのである。
それどころか、礼楽による統治は人工的に盛り立てていくのでなければ実現し得ない
ことだというのを積極的に認めて行きすらするのであり、一旦礼楽が全国的に廃止されきったならば、
孟子のような、諸侯に対する大上段の構えすら辞さないのである。
その男を孔子は礼法違反で処刑した。(「史記」孔子世家を参照)
孔子をただの書生として見くびっていた人々は、それで孔子を見直したが、同時に場違いな
ほどにも礼法に厳格である孔子が、乱世の権力者から遠ざけられる機縁ともなったのである。
礼楽刑政がろくに実践もできない乱世だったから、孔子や孟子も道徳思想を私的に体系化したのである。
すでに詩書礼楽による統治が実現できるようになった漢代においては、陸賈や随何、
叔孫通や董仲舒といった数多の儒者が実際に礼楽統治を敷いていったわけだが、
その創作的な儒者としての業績は、孔子や孟子に遠く及ばないものとなっている。
特に、戦時中は儒学の実践も完全に投げ出していた、叔孫通あたりの立場を慕って言わせてもらうなら、
礼楽統治なんてものは、人工的に実施されない限りにおいては、全く有効化しないのである。
秦始皇帝によって全中国の封建制が廃止された結果、体制転覆と大戦争の後に、
ただの百姓の血筋である劉邦が漢帝国の帝王として全中国を治めるに至った。一方で、
その劉邦こそが、始めは儒者嫌いだったのを、陸賈の誠実さなどから段々儒学を許容し始め、
最終的には詩書礼楽による統治をも取り入れて、400年の長きにわたる治世の礎をももたらしている。
儒者の説く道理も、絶対真理とまではいかないから、確かに世俗的に無効化されることもあるのである。
それどころか、礼楽による統治は人工的に盛り立てていくのでなければ実現し得ない
ことだというのを積極的に認めて行きすらするのであり、一旦礼楽が全国的に廃止されきったならば、
孟子のような、諸侯に対する大上段の構えすら辞さないのである。
「非礼の礼、非義の義は、大人はなさず(既出)」
「偽りの礼、偽りの義などを大人は決して行いはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・六より)
乱世にかりそめに通用させようとするような、変則的な礼儀作法などは、かえって儒者は認めもしない。
世に広く礼楽統治を敷いて行こうとする志しが高ければこそ、ごく狭い範囲だけで適当に
取り決めているだけの「業務用」の礼儀作法などは、鼻であしらう。だから儒者も古来より、
礼儀作法などクソ扱いする道家の論弁にもまたそれなりに耳を傾けて来たのであり、
礼儀作法ばかりに専らであるのが儒者の全てであるなどと思ったら、大間違いなのである。
むしろ、礼儀作法など一切通用せず通用させない事態こそを、一旦は望むのである。
宮廷の柱を剣で打って傷つける輩がいるほどにも、無礼講が当たり前の事態と化していたのを憂慮して
初めて、卑賤の出身である劉邦も叔孫通に礼楽による統治の実施を打診した。未だ礼楽の気風が
残されているのであればまだしも、もはや礼楽など全国的には過去の遺物も同然とされている
ような事態にすでに至ってしまっているのならば、むしろ完全なる無礼講の後に礼楽を再生して
いくことのほうを望む。そのほうが、陰極まってこそ陽となる、陰陽法則にも適っているのだから。
「白馬翰如たり、寇するに匪ず婚媾せんとす。〜寇するに匪ず婚媾せんとすとは、終に尤无ければなり」
「飾り気のない馬に乗って、疾駆して馳せ付ける。その質素さに驚いて、侵略して来るものかと
勘違いするかもしれないが、むしろ結婚しようとするのである。これが咎のない結婚の仕方となる。
(江戸時代までの日本の結婚式は締まりにくい夜に行われていたし、婚礼はむしろザックバランであるほうがいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・賁・六四‐象伝より)
「偽りの礼、偽りの義などを大人は決して行いはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・六より)
乱世にかりそめに通用させようとするような、変則的な礼儀作法などは、かえって儒者は認めもしない。
世に広く礼楽統治を敷いて行こうとする志しが高ければこそ、ごく狭い範囲だけで適当に
取り決めているだけの「業務用」の礼儀作法などは、鼻であしらう。だから儒者も古来より、
礼儀作法などクソ扱いする道家の論弁にもまたそれなりに耳を傾けて来たのであり、
礼儀作法ばかりに専らであるのが儒者の全てであるなどと思ったら、大間違いなのである。
むしろ、礼儀作法など一切通用せず通用させない事態こそを、一旦は望むのである。
宮廷の柱を剣で打って傷つける輩がいるほどにも、無礼講が当たり前の事態と化していたのを憂慮して
初めて、卑賤の出身である劉邦も叔孫通に礼楽による統治の実施を打診した。未だ礼楽の気風が
残されているのであればまだしも、もはや礼楽など全国的には過去の遺物も同然とされている
ような事態にすでに至ってしまっているのならば、むしろ完全なる無礼講の後に礼楽を再生して
いくことのほうを望む。そのほうが、陰極まってこそ陽となる、陰陽法則にも適っているのだから。
「白馬翰如たり、寇するに匪ず婚媾せんとす。〜寇するに匪ず婚媾せんとすとは、終に尤无ければなり」
「飾り気のない馬に乗って、疾駆して馳せ付ける。その質素さに驚いて、侵略して来るものかと
勘違いするかもしれないが、むしろ結婚しようとするのである。これが咎のない結婚の仕方となる。
(江戸時代までの日本の結婚式は締まりにくい夜に行われていたし、婚礼はむしろザックバランであるほうがいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・賁・六四‐象伝より)
君子は天命を実現するために命を賭すことも時に辞さないが、
かといって、酔狂での博打までは打たない。確実な成果が期待できるわけでもない
危うい試みへと確信を持って従事していくことなどは、忠孝の心がけによって戒める。
主君にしろ親にしろ、臣下や子である場合の自分などと比べて、えてして老獪で、慎重深いものだ。
立場や年齢の高さからなる保守性の高さに対して、時に臣下や子のほうが旺盛な積極性によって
働きかけるべき時すらもがあるが、その逆に、過剰なほどもの主君や親の保守性の高さへの配慮を、
臣下や子である側が、自らのはやり過ぎからなる失策を食い止めるための命綱ともしていくのである。
君臣父子の忠孝関係すら破綻したところに、紛れもない、人としての不善が備わっている。
少なくとも、忠孝関係を保ちつつ事を成すことが、人としての最善を尽くすことになるのと比べて、
忠孝関係を損ないつつ何かをすることは、どんなことであっても、最善を尽くすことにはならない。
だから、忠孝を守りつつ何かを為す場合以上の危険までもが、必ず伴うことになるのである。
何かに確信を持って従事していくというのなら、それは忠孝を保てることに関してでこそあるべきだ。
イエスの言うような、親子兄弟の殺し合いを助長するような行いや信仰に確信を持つことだけは、
絶対に避けるべきことで、むしろそれこそは、確信を持って厭い離れるべきものであるといえる。
子が博打にはまって身を滅ぼすことといえば、子が凶悪犯罪者になってしまうことの次ぐらいに
親を悲しませることだ。博打にも色々とあるが、カルト宗教にはまるのも一種の博打であり、
その教義の内実がどんなものであれ、わが子を愛する親が子を近づけることなどを決して好むものではない。
一方で、親が子に対して確実に奨励できるのは、「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」のような、
どこにも不可解さのないしごく当たり前な徳目の厳守だ。「とにかく、それぐらいのことだけは守ってくれ」
という、最低限の平安を願う気持ちを込めて、親は子に当たり前な範囲での徳目の厳守ばかりを促す。
かといって、酔狂での博打までは打たない。確実な成果が期待できるわけでもない
危うい試みへと確信を持って従事していくことなどは、忠孝の心がけによって戒める。
主君にしろ親にしろ、臣下や子である場合の自分などと比べて、えてして老獪で、慎重深いものだ。
立場や年齢の高さからなる保守性の高さに対して、時に臣下や子のほうが旺盛な積極性によって
働きかけるべき時すらもがあるが、その逆に、過剰なほどもの主君や親の保守性の高さへの配慮を、
臣下や子である側が、自らのはやり過ぎからなる失策を食い止めるための命綱ともしていくのである。
君臣父子の忠孝関係すら破綻したところに、紛れもない、人としての不善が備わっている。
少なくとも、忠孝関係を保ちつつ事を成すことが、人としての最善を尽くすことになるのと比べて、
忠孝関係を損ないつつ何かをすることは、どんなことであっても、最善を尽くすことにはならない。
だから、忠孝を守りつつ何かを為す場合以上の危険までもが、必ず伴うことになるのである。
何かに確信を持って従事していくというのなら、それは忠孝を保てることに関してでこそあるべきだ。
イエスの言うような、親子兄弟の殺し合いを助長するような行いや信仰に確信を持つことだけは、
絶対に避けるべきことで、むしろそれこそは、確信を持って厭い離れるべきものであるといえる。
子が博打にはまって身を滅ぼすことといえば、子が凶悪犯罪者になってしまうことの次ぐらいに
親を悲しませることだ。博打にも色々とあるが、カルト宗教にはまるのも一種の博打であり、
その教義の内実がどんなものであれ、わが子を愛する親が子を近づけることなどを決して好むものではない。
一方で、親が子に対して確実に奨励できるのは、「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」のような、
どこにも不可解さのないしごく当たり前な徳目の厳守だ。「とにかく、それぐらいのことだけは守ってくれ」
という、最低限の平安を願う気持ちを込めて、親は子に当たり前な範囲での徳目の厳守ばかりを促す。
四書五経に書かれてあるのは、特にそのような当たり前の徳目が主である一方、犯罪聖書に書かれて
あることは、決して当たり前ではない、奇を衒うことばかりに特化された、不可解な教義ばかりである。
仏典に書かれてあることなども時に不可解ではあるが、よく読んでその意味を理解してみれば、
やはり親を不安にさせるような不安定要素は、徹底して省かれていることが分かる。
逆に犯罪聖書をよく読めば、本当に親を悲しませるようなことばかりが書かれていることが分かる。
親が絶対に安心し続けていられるような、当たり前な徳行だけをやり続けていれば、必ずそれこそが
最善を尽くすことになる、とも限らず、親すら付いていけないような高尚なところに、さらに最善を尽くす
余地がある場合もあることが、仏教の存在などからも計り知れるが、かといって、忠孝を損ない尽くすのではなく、
結果的には世の中の忠孝関係をより促進する試みでもあって初めて、それがより最善を尽くすことにもなる。
結果が「親子兄弟を殺し合わせる」なのでは、どうあっても、よりよいなどということが決してあり得ない。
善の根本を完全に損ないつつ何かをすることで、何かが少しでも善くなるなどということは、三世に渡って
あり得ることではない。そして当然、何も善くなることが期待できないことなどに、決して確信を持つべきではない。
「夫れ達なる者は〜慮って以って人に下る。〜夫れ聞なる者は〜之れに居りて疑わず」
「達観者は、人に謙るにしてもよく相手を慮る。うわべの評判だけを気にするものは、これと確信した
ものは二度と疑おうともしない。(小人には信義ぐらいしか守るべきものが見つからないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二〇より)
あることは、決して当たり前ではない、奇を衒うことばかりに特化された、不可解な教義ばかりである。
仏典に書かれてあることなども時に不可解ではあるが、よく読んでその意味を理解してみれば、
やはり親を不安にさせるような不安定要素は、徹底して省かれていることが分かる。
逆に犯罪聖書をよく読めば、本当に親を悲しませるようなことばかりが書かれていることが分かる。
親が絶対に安心し続けていられるような、当たり前な徳行だけをやり続けていれば、必ずそれこそが
最善を尽くすことになる、とも限らず、親すら付いていけないような高尚なところに、さらに最善を尽くす
余地がある場合もあることが、仏教の存在などからも計り知れるが、かといって、忠孝を損ない尽くすのではなく、
結果的には世の中の忠孝関係をより促進する試みでもあって初めて、それがより最善を尽くすことにもなる。
結果が「親子兄弟を殺し合わせる」なのでは、どうあっても、よりよいなどということが決してあり得ない。
善の根本を完全に損ないつつ何かをすることで、何かが少しでも善くなるなどということは、三世に渡って
あり得ることではない。そして当然、何も善くなることが期待できないことなどに、決して確信を持つべきではない。
「夫れ達なる者は〜慮って以って人に下る。〜夫れ聞なる者は〜之れに居りて疑わず」
「達観者は、人に謙るにしてもよく相手を慮る。うわべの評判だけを気にするものは、これと確信した
ものは二度と疑おうともしない。(小人には信義ぐらいしか守るべきものが見つからないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二〇より)
調味料や明暗に喩えるなら、聖書信仰は「糖と闇」の宗教だといえる。
文面でそう書いているわけではなくても、塩と書いてあるものが
実際のところ糖であり、光と欠いてあるものが実際のところ闇である。
精神力を培わせる塩の摂取は最小限に控えさせ、逆に精神をとろかしめる
糖ばかりを多量に摂取させて、信者を暗愚な精神へと追いやる。
実際にそれと同等の占領措置を、聖書信者ではない日本人に戦後、聖書圏である
アメリカが強いても居り、そのため元々は世界でも屈指の血気盛んさ備えていた
日本人が今では、それはそれは暗愚な耄碌者ばかりと化してしまったのでもある。
本当に「塩と光」の宗教であるのは、神道だったり仏教だったりする。それに対し、
聖書信仰だけでなく、イスラムを含むアブラハム教全般が「糖と闇」の宗教であり、
そのため甘いものを好む女子の領分である愛を「神の愛」とまでいって標榜しもする。
ただ、アブラハム教のうちでは、イスラムだけは神の愛に「慈愛」が伴っているため、
信者の健康を慮って、糖分の取りすぎによる極度の暗愚への陥りを戒めてもいる。
(その手段が豚食や飲酒の禁止だったり、確信的な女性差別だったりもする)
糖を絶対に摂ってはならないなんてことはないし、闇を全否定するのも実際、無理な話である。
ただ、塩や光と比べれば、糖や闇は低く置かれて然るべきものであり、それでこそ人の健康も
増進される一方、糖や闇を優先して塩や光を劣後したときに、人は大きく健康を損なうのである。
心も病むし、身体も病む。塩分摂取を減らされて糖分摂取を過剰化させられた
戦後の日本人たるや、精神が惰弱化しただけでなく、外貌までもが極端にだらしないものとなった。
そして確かに見た目に相応の、糖尿病などの成人病にも悩まされていて、インシュリン無しでは
生きていけないほどにも、ひどく健康を損なってしまっている場合も多々ある。
文面でそう書いているわけではなくても、塩と書いてあるものが
実際のところ糖であり、光と欠いてあるものが実際のところ闇である。
精神力を培わせる塩の摂取は最小限に控えさせ、逆に精神をとろかしめる
糖ばかりを多量に摂取させて、信者を暗愚な精神へと追いやる。
実際にそれと同等の占領措置を、聖書信者ではない日本人に戦後、聖書圏である
アメリカが強いても居り、そのため元々は世界でも屈指の血気盛んさ備えていた
日本人が今では、それはそれは暗愚な耄碌者ばかりと化してしまったのでもある。
本当に「塩と光」の宗教であるのは、神道だったり仏教だったりする。それに対し、
聖書信仰だけでなく、イスラムを含むアブラハム教全般が「糖と闇」の宗教であり、
そのため甘いものを好む女子の領分である愛を「神の愛」とまでいって標榜しもする。
ただ、アブラハム教のうちでは、イスラムだけは神の愛に「慈愛」が伴っているため、
信者の健康を慮って、糖分の取りすぎによる極度の暗愚への陥りを戒めてもいる。
(その手段が豚食や飲酒の禁止だったり、確信的な女性差別だったりもする)
糖を絶対に摂ってはならないなんてことはないし、闇を全否定するのも実際、無理な話である。
ただ、塩や光と比べれば、糖や闇は低く置かれて然るべきものであり、それでこそ人の健康も
増進される一方、糖や闇を優先して塩や光を劣後したときに、人は大きく健康を損なうのである。
心も病むし、身体も病む。塩分摂取を減らされて糖分摂取を過剰化させられた
戦後の日本人たるや、精神が惰弱化しただけでなく、外貌までもが極端にだらしないものとなった。
そして確かに見た目に相応の、糖尿病などの成人病にも悩まされていて、インシュリン無しでは
生きていけないほどにも、ひどく健康を損なってしまっている場合も多々ある。
医療技術の進歩によって、確かに現代人の平均寿命は伸びたが、それによって精神寿命は
「中二(14才)」あたりまで縮んだ。中学二年あたりで日本の青少年の多くは、今の世の中の
大人の誰しもが精神的に死んでいることに気づいて憤る。自分がそんな大人になりたくないと思いつつも、
自殺でもしない限りにおいては、やはり世の風潮に流されて、自分もまた精神的に死んだ大人へと成長する。
「聖書信仰こそは、腐った大人を量産する社会的元凶である」ということを以前にも述べたが、
まさに、糖分の摂りすぎと同様の精神的暗愚をもたらすことこそは、聖書信仰が腐った大人を量産して
しまう原因であるといえる。甘いものというと、いかにも「子供が好きなもの」というイメージがあるが、
大人でありながら未だに甘いものばかりを好き好めことで、かえって心身の腐乱を招いてしまうのである。
実際の栄養面でも、糖分を控えて塩分を十分に摂ることが、心身の健康を保つ糧となる。
そしてそれと同じように、聖書信仰を廃絶して仏教や神道などを再興していくことが、
宗教信仰の側面における心身の健康を保っていく源になる。
学問面では、儒学が「塩と光」の学問であり、洋学が「糖と闇」の学問であるため、
洋学を控えて儒学をよく学んでいくことが、健康の増進になる。洋学はなかなか
廃絶とまではいかないだろうから、それこそ「控えめ」ということでいいのである。
「王曰く、来たれ、汝、説。〜若し和羹を作さば、爾じは惟れ鹽梅」
「王の武丁が宰相の傅説を呼んで言った言葉。『もし吸い物を作るとすれば、おまえはそこに投入する塩だ』
(味付けの肝である塩でありながら、王君の下に置かれる臣下である。君臣の義の妙であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)
「中二(14才)」あたりまで縮んだ。中学二年あたりで日本の青少年の多くは、今の世の中の
大人の誰しもが精神的に死んでいることに気づいて憤る。自分がそんな大人になりたくないと思いつつも、
自殺でもしない限りにおいては、やはり世の風潮に流されて、自分もまた精神的に死んだ大人へと成長する。
「聖書信仰こそは、腐った大人を量産する社会的元凶である」ということを以前にも述べたが、
まさに、糖分の摂りすぎと同様の精神的暗愚をもたらすことこそは、聖書信仰が腐った大人を量産して
しまう原因であるといえる。甘いものというと、いかにも「子供が好きなもの」というイメージがあるが、
大人でありながら未だに甘いものばかりを好き好めことで、かえって心身の腐乱を招いてしまうのである。
実際の栄養面でも、糖分を控えて塩分を十分に摂ることが、心身の健康を保つ糧となる。
そしてそれと同じように、聖書信仰を廃絶して仏教や神道などを再興していくことが、
宗教信仰の側面における心身の健康を保っていく源になる。
学問面では、儒学が「塩と光」の学問であり、洋学が「糖と闇」の学問であるため、
洋学を控えて儒学をよく学んでいくことが、健康の増進になる。洋学はなかなか
廃絶とまではいかないだろうから、それこそ「控えめ」ということでいいのである。
「王曰く、来たれ、汝、説。〜若し和羹を作さば、爾じは惟れ鹽梅」
「王の武丁が宰相の傅説を呼んで言った言葉。『もし吸い物を作るとすれば、おまえはそこに投入する塩だ』
(味付けの肝である塩でありながら、王君の下に置かれる臣下である。君臣の義の妙であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)
実物の親には、いい面だけでなく悪い面もいくらでもある。
その親をまずは畏敬の対象とした上で、いい面を受け継いで悪い面を是正していく。
その時にこそ、極端な自己愛にも自己嫌悪にも振り切れない、己が身の程のわきまえも備わる。
では、孔子のように母子家庭で育った妾腹の私生児であり、身元が割り出せたときには
すでに父親も死んでいたとする。その時には、無計画な野合で自らを産ませた父親を、
これまた敬服の対象とはした上で、その過ちを是正していくことを自らの本分ともしていく。
妾腹の私生児ほど、親を反面教師として、自らが精進していく立場に恵まれた人間も
他にないのであり、親がダメな人間だったり、大きな不手際の持ち主だったりすることは、
自力作善による大成の余地を踏まえてみれば、決して完全な不遇であるとも限らないのである。
親が代々祟られかねないほどもの重犯罪者だったりするのならともかく、
妾腹の子を作ってしまったとかの、犯罪とまではいかない失態の持ち主であるという場合、
自らがその恥辱をバネにして大成する余地が確かに生ずる。ただ、親の恥辱をバネにするためには、
まず親を敬うことが必要で、それによって恥辱からなる鬱屈や自暴自棄を克服していかなければならない。
それを怠って、親を敬服どころか嫌悪の対象にすらし、自暴自棄状態で脳内超越神の親などを捏造して、
脳内超越神への偏愛にこと欠けた自己愛や小集団愛を募らせていったとすれば、
それこそ未曾有の害悪をもたらす大失態の積み重ねとなるのである。
妾腹の私生児でありながら聖人君子として大成した孔子と、世界中の鬼畜の親分と化したイエスと、
両者を決定的に断絶したのは、本物の親に対する敬愛の有無だった。片や孝子の鑑となるほどにも
父子の親の保全に努め、片や親子兄弟の殺し合いを促す、父子の親の決定的な毀損者となった。
そこから、全世界全人類の繁栄と滅亡とを決定付ける教学までもが枝分かれしたわけだから、
まさに父子の親を旨とした孝悌こそは、世界人類の存亡栄辱をも決定付ける理念だったのだといえる。
その親をまずは畏敬の対象とした上で、いい面を受け継いで悪い面を是正していく。
その時にこそ、極端な自己愛にも自己嫌悪にも振り切れない、己が身の程のわきまえも備わる。
では、孔子のように母子家庭で育った妾腹の私生児であり、身元が割り出せたときには
すでに父親も死んでいたとする。その時には、無計画な野合で自らを産ませた父親を、
これまた敬服の対象とはした上で、その過ちを是正していくことを自らの本分ともしていく。
妾腹の私生児ほど、親を反面教師として、自らが精進していく立場に恵まれた人間も
他にないのであり、親がダメな人間だったり、大きな不手際の持ち主だったりすることは、
自力作善による大成の余地を踏まえてみれば、決して完全な不遇であるとも限らないのである。
親が代々祟られかねないほどもの重犯罪者だったりするのならともかく、
妾腹の子を作ってしまったとかの、犯罪とまではいかない失態の持ち主であるという場合、
自らがその恥辱をバネにして大成する余地が確かに生ずる。ただ、親の恥辱をバネにするためには、
まず親を敬うことが必要で、それによって恥辱からなる鬱屈や自暴自棄を克服していかなければならない。
それを怠って、親を敬服どころか嫌悪の対象にすらし、自暴自棄状態で脳内超越神の親などを捏造して、
脳内超越神への偏愛にこと欠けた自己愛や小集団愛を募らせていったとすれば、
それこそ未曾有の害悪をもたらす大失態の積み重ねとなるのである。
妾腹の私生児でありながら聖人君子として大成した孔子と、世界中の鬼畜の親分と化したイエスと、
両者を決定的に断絶したのは、本物の親に対する敬愛の有無だった。片や孝子の鑑となるほどにも
父子の親の保全に努め、片や親子兄弟の殺し合いを促す、父子の親の決定的な毀損者となった。
そこから、全世界全人類の繁栄と滅亡とを決定付ける教学までもが枝分かれしたわけだから、
まさに父子の親を旨とした孝悌こそは、世界人類の存亡栄辱をも決定付ける理念だったのだといえる。
君臣の義はともかく、父子の親までをも徳治の要とする儒家の主張は、それだけを見ても正直、
納得し難いところがある。実際にそう主張する儒学道徳を実践することで、何百年もの治世を実現
してきた統一政権がいくつもあるわけだから、それを以って忠孝の妥当性の証拠に代えることも
できなくはないが、逆に、父子の親の確信的な毀損を教義とすることで、人類滅亡の危機を招いた
キリスト教の存在もまた、忠孝を旨とする儒学道徳の正当性を背理的には証明してくれたのだといえる。
数多の犠牲者をはじき出している手前、まだあまり大きな声でも言えないが、父子の親を崩壊せしめる
キリスト教災禍による人類社会の破滅が、今後の人類社会における、忠孝を旨とした徳治による、
治世の磐石化を決定付ける機縁となってくれるのであれば、それに越したこともないといえる。
「葉公、政を問う。子曰く、近き者説び、遠き者来たる」
「楚国の葉県の知事が孔先生に政治のあり方を問うた。先生は言われた。
『近隣の人々は治世を喜び、遠方の人々もまたその評判を聞いて慕ってくるようであるべきです』
(遠方の人々を傷つけて隣人ばかりに懇ろであったりするようでは、そうはいかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一六)
納得し難いところがある。実際にそう主張する儒学道徳を実践することで、何百年もの治世を実現
してきた統一政権がいくつもあるわけだから、それを以って忠孝の妥当性の証拠に代えることも
できなくはないが、逆に、父子の親の確信的な毀損を教義とすることで、人類滅亡の危機を招いた
キリスト教の存在もまた、忠孝を旨とする儒学道徳の正当性を背理的には証明してくれたのだといえる。
数多の犠牲者をはじき出している手前、まだあまり大きな声でも言えないが、父子の親を崩壊せしめる
キリスト教災禍による人類社会の破滅が、今後の人類社会における、忠孝を旨とした徳治による、
治世の磐石化を決定付ける機縁となってくれるのであれば、それに越したこともないといえる。
「葉公、政を問う。子曰く、近き者説び、遠き者来たる」
「楚国の葉県の知事が孔先生に政治のあり方を問うた。先生は言われた。
『近隣の人々は治世を喜び、遠方の人々もまたその評判を聞いて慕ってくるようであるべきです』
(遠方の人々を傷つけて隣人ばかりに懇ろであったりするようでは、そうはいかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一六)
人としての健全なプライドは、自らの家や、その家を背負って立つ自分自身にこそ備わる。
妾腹の私生児として母子家庭に育った孔子ですら、父親の身元を自分で確かめて、
孔家の継承者としての尊厳を克ち得て後に、聖人君子としても大成した。
あらかじめ名家に生まれた場合だけでなく、不遇の家庭や卑しい家系に生まれた
場合においても、やはり家を背負って立つ所にこそ、真正な誇りが備わり得る。
本物の誇りというのは、あまりあからさまに誇り高ぶるものでもない。
家を背負って立つということは、父や祖父や曽祖父の家督を継いで行くということであり、
特に父や祖父あたりの、存命中に親しめる間柄のうちには、親の善い面も悪い面も
同時に知らされるところが多いため、決して無条件に誇り高ぶれるともいかない。
仮に自らの父親が徳川家康のような完璧帝王だったとしても、
その家業を将軍職などとして継いで行く場合には、二代将軍秀忠のように
薄氷を踏むような思いでいる必要があるため、全く誇り高ぶっている余裕などもない。
じゃあ、人はどういう場合に誇り高ぶるかといって、卑賤を開き直った時に誇り高ぶる。
公家よりも下に置かれる武家の立場から公家の地位を奪い取り、太政大臣などの重職を
簒奪した平氏なども、だからこそ驕り高ぶったのであり、自分たちの目に余る僭越さ
からなる心の不安定さを埋め合わせるためにこそ、異常に高ぶったりもするのである。
(君子は泰らかなりて驕らず。小人は驕りて泰らかならず。子路第十三・二六)
人としての正しいプライドが備わっているのであれ、いないのであれ、誇り高ぶったり
することはしないか、せいぜい酒席の場でのおふざけぐらいで済ましておくべきである。
妾腹の私生児として母子家庭に育った孔子ですら、父親の身元を自分で確かめて、
孔家の継承者としての尊厳を克ち得て後に、聖人君子としても大成した。
あらかじめ名家に生まれた場合だけでなく、不遇の家庭や卑しい家系に生まれた
場合においても、やはり家を背負って立つ所にこそ、真正な誇りが備わり得る。
本物の誇りというのは、あまりあからさまに誇り高ぶるものでもない。
家を背負って立つということは、父や祖父や曽祖父の家督を継いで行くということであり、
特に父や祖父あたりの、存命中に親しめる間柄のうちには、親の善い面も悪い面も
同時に知らされるところが多いため、決して無条件に誇り高ぶれるともいかない。
仮に自らの父親が徳川家康のような完璧帝王だったとしても、
その家業を将軍職などとして継いで行く場合には、二代将軍秀忠のように
薄氷を踏むような思いでいる必要があるため、全く誇り高ぶっている余裕などもない。
じゃあ、人はどういう場合に誇り高ぶるかといって、卑賤を開き直った時に誇り高ぶる。
公家よりも下に置かれる武家の立場から公家の地位を奪い取り、太政大臣などの重職を
簒奪した平氏なども、だからこそ驕り高ぶったのであり、自分たちの目に余る僭越さ
からなる心の不安定さを埋め合わせるためにこそ、異常に高ぶったりもするのである。
(君子は泰らかなりて驕らず。小人は驕りて泰らかならず。子路第十三・二六)
人としての正しいプライドが備わっているのであれ、いないのであれ、誇り高ぶったり
することはしないか、せいぜい酒席の場でのおふざけぐらいで済ましておくべきである。
漢の高祖劉邦なども、若い頃から誇り高ぶってホラを吹くクセがあったらしいが、
それとは裏腹に臣下の言うことにはよく耳を傾けて、自らに過ちがあれば即座に
改めてもいた。これこそは、劉邦の誇り高ぶり癖が単なる虚勢だった証拠であり、
誇り高ぶりなんぞがただの虚勢であったればこそ、かえってよかった。
平清盛存命中の平氏のように、驕り高ぶりが完全な真性となったとき、本人たちが
自業自得での破滅に至るに及んで、全くの救いようもなくなる。高ぶりをもはや拭い去る
こともできないため、自分たちから救いの手を振りほどくようなことになってしまう。
歴史上において、投降すらすれば救われそうなものを、自らあえて最悪の乱暴に
及んで身を滅ぼしたような類いの人間がかなりの人数見受けられるが、それら全て、
もはや誇り高ぶりを捨て去ることもできないほどに肥大化させてしまった者どもである。
天命のために命を賭したりしたわけでもない、単なる無駄死にであったには違いなく、
そのような死に方がいくら悲劇的なものとして持て囃されるのであっても、決して範と
するには値しない。話として面白いのと、見習うべきなのとは、全く違うことなのだから。
「驕淫矜侉、将に悪に由って終えん。放心を収むると雖も、
之れを閑ぐこと惟れ艱し。資富能く訓えば、惟れ以て年を永うせんに」
「(紂王の放辟邪侈にあてられた元殷の民たちは)誇り高ぶりによるうぬぼれがひどく、
このままでは最悪の末路を辿ってしまうことになりかねない。不埒な思いを一時ぐらいは
収められたとしても、完全に防ぎ止めるのもなかなか困難なこと。(人から嫉まれる原因になる)
財産があっても、やたらと誇り高ぶらぬ恭謙の資質があったなら、長命を全うできるというのに。
(無闇に誇り高ぶって長命を全うできることわりはどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
それとは裏腹に臣下の言うことにはよく耳を傾けて、自らに過ちがあれば即座に
改めてもいた。これこそは、劉邦の誇り高ぶり癖が単なる虚勢だった証拠であり、
誇り高ぶりなんぞがただの虚勢であったればこそ、かえってよかった。
平清盛存命中の平氏のように、驕り高ぶりが完全な真性となったとき、本人たちが
自業自得での破滅に至るに及んで、全くの救いようもなくなる。高ぶりをもはや拭い去る
こともできないため、自分たちから救いの手を振りほどくようなことになってしまう。
歴史上において、投降すらすれば救われそうなものを、自らあえて最悪の乱暴に
及んで身を滅ぼしたような類いの人間がかなりの人数見受けられるが、それら全て、
もはや誇り高ぶりを捨て去ることもできないほどに肥大化させてしまった者どもである。
天命のために命を賭したりしたわけでもない、単なる無駄死にであったには違いなく、
そのような死に方がいくら悲劇的なものとして持て囃されるのであっても、決して範と
するには値しない。話として面白いのと、見習うべきなのとは、全く違うことなのだから。
「驕淫矜侉、将に悪に由って終えん。放心を収むると雖も、
之れを閑ぐこと惟れ艱し。資富能く訓えば、惟れ以て年を永うせんに」
「(紂王の放辟邪侈にあてられた元殷の民たちは)誇り高ぶりによるうぬぼれがひどく、
このままでは最悪の末路を辿ってしまうことになりかねない。不埒な思いを一時ぐらいは
収められたとしても、完全に防ぎ止めるのもなかなか困難なこと。(人から嫉まれる原因になる)
財産があっても、やたらと誇り高ぶらぬ恭謙の資質があったなら、長命を全うできるというのに。
(無闇に誇り高ぶって長命を全うできることわりはどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
快川紹喜の「心頭滅却すれば火もまた涼し」という辞世の句など、
ただ極重の苦難を耐え抜くだけでなく、そこに余裕すら保っておこうとするきらいがある。
実際に、禅の根本聖典である華厳経にも、「菩薩は地獄の苦しみにも耐えることで悟りを得る」
ということが多々書かれていて、その悟りの味は甘露の如きであるともいう。当然、舌の感ずる甘みではなく、
眼耳鼻舌身意といった感覚器官の苦楽を超越したところにある悟りの常楽が、あたかも甘露のようであるということ。
苦しみを耐え抜いた後に楽しみがあるのではなく、身体的な苦しみのさ中にすら悟りの楽しみがある。
もちろん苦しみ自体を快楽だなどと倒錯するマゾヒズムではなく、身体的な苦しみを超越した所にある悟りを楽しむ。
それは実際困難なことで、それと比べれば、身体的苦痛や不遇からなる苦しみにヒイヒイ喘いでいるほうが
よっぽど簡単なことだ。苦しみを諦観する所には多少なりともの向上が見られる一方、ただ苦しみに引きずられて
喘ぐばかりという所には何の向上もなく、ただ身心をすり減らせて不健全な損壊を招くばかりのことである。
孔子も「粗末な食事と水程度の飲み物、肘を枕にした就寝にも楽しみがある(述而第七・一五)」といい、
「悪意悪食を恥ずる者は友とするに足らず(里仁第四・九)」というから、困窮すら楽しめることを是としている。
一方で、春秋戦国時代の大権力犯罪者である蘇秦は、自分がろくな仕事に就いていないことを親族に責められて憤り、
一念発起して諸国の合従連衡を取り付けて大金を稼ぎ上げ、それにより乱世をさらに激化させたというし、
秦帝国の宰相だった李斯も、便所を走り回るネズミを見て「成功しない人間はあのネズミとも同じだ」と考え、
親友の韓非をも獄中で自殺させるほどもの熾烈な権力争いに身を投じ、
挙句には自らも宦官趙高の計略にはめられて失脚し、処刑されている。
ただ極重の苦難を耐え抜くだけでなく、そこに余裕すら保っておこうとするきらいがある。
実際に、禅の根本聖典である華厳経にも、「菩薩は地獄の苦しみにも耐えることで悟りを得る」
ということが多々書かれていて、その悟りの味は甘露の如きであるともいう。当然、舌の感ずる甘みではなく、
眼耳鼻舌身意といった感覚器官の苦楽を超越したところにある悟りの常楽が、あたかも甘露のようであるということ。
苦しみを耐え抜いた後に楽しみがあるのではなく、身体的な苦しみのさ中にすら悟りの楽しみがある。
もちろん苦しみ自体を快楽だなどと倒錯するマゾヒズムではなく、身体的な苦しみを超越した所にある悟りを楽しむ。
それは実際困難なことで、それと比べれば、身体的苦痛や不遇からなる苦しみにヒイヒイ喘いでいるほうが
よっぽど簡単なことだ。苦しみを諦観する所には多少なりともの向上が見られる一方、ただ苦しみに引きずられて
喘ぐばかりという所には何の向上もなく、ただ身心をすり減らせて不健全な損壊を招くばかりのことである。
孔子も「粗末な食事と水程度の飲み物、肘を枕にした就寝にも楽しみがある(述而第七・一五)」といい、
「悪意悪食を恥ずる者は友とするに足らず(里仁第四・九)」というから、困窮すら楽しめることを是としている。
一方で、春秋戦国時代の大権力犯罪者である蘇秦は、自分がろくな仕事に就いていないことを親族に責められて憤り、
一念発起して諸国の合従連衡を取り付けて大金を稼ぎ上げ、それにより乱世をさらに激化させたというし、
秦帝国の宰相だった李斯も、便所を走り回るネズミを見て「成功しない人間はあのネズミとも同じだ」と考え、
親友の韓非をも獄中で自殺させるほどもの熾烈な権力争いに身を投じ、
挙句には自らも宦官趙高の計略にはめられて失脚し、処刑されている。
孔子や顔淵のように困窮を達観できるわけでもなく、むしろ蘇秦や李斯のような困窮へのコンプレックスを抱き、
そのコンプレックスをばねに重権力犯罪者と化して、世の中にあるよりもないほうがマシなほどもの危害を
もたらすというのであれば、むしろそこそこの平凡な生活にでも甘んじてもらってくれたほうが、遥かに助かる。
権力犯罪者としての危うい綱渡り業務などに及ぶよりは、そこそこの生活を手に入れることのほうが遥かに
無難なことであるに違いなく、そのために耐え忍ばねばならない恥辱なども、遥かに少なくて済むはずである。
ということはつまり、「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などと誉められたりする所に、真の名誉はないのである。
儒者や菩薩のように、苦しみすら達観する者はそこにすら楽しみを見出すから、苦しみに耐え抜いたことを
誉めたりすればむしろ、本人たちの達観を「やせ我慢」扱いする名誉毀損にすらなってしまう。もしもそこに賛辞を
送りたいというのなら、極重の苦しみすら楽しみに代えてしまえるそのあり難さへの畏敬をこそ抱くべきなのであり、
「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などという、大人の子供に対するかのような失礼な誉め方は決してすべきでないのである。
そして、苦しみをバネに何でもしてやろうとする、蘇秦や張儀のようなならず者も、決して賛辞の対象とすべきでない。
故に、一端の行為能力を持つ大人に対して、苦しみに耐えることを上から目線で誉めていいような道理はないのである。
「人は楽しむなきに耐えず」
「人は楽しまないでいることに耐えられない。
(罪福異熟も権力犯罪者の側の悪因苦果よりは、道徳者の側の善因楽果からなる歓喜こそが
人々に感銘を与えることで、洗脳状態の人間の心の凍て付きの瓦解を招いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
そのコンプレックスをばねに重権力犯罪者と化して、世の中にあるよりもないほうがマシなほどもの危害を
もたらすというのであれば、むしろそこそこの平凡な生活にでも甘んじてもらってくれたほうが、遥かに助かる。
権力犯罪者としての危うい綱渡り業務などに及ぶよりは、そこそこの生活を手に入れることのほうが遥かに
無難なことであるに違いなく、そのために耐え忍ばねばならない恥辱なども、遥かに少なくて済むはずである。
ということはつまり、「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などと誉められたりする所に、真の名誉はないのである。
儒者や菩薩のように、苦しみすら達観する者はそこにすら楽しみを見出すから、苦しみに耐え抜いたことを
誉めたりすればむしろ、本人たちの達観を「やせ我慢」扱いする名誉毀損にすらなってしまう。もしもそこに賛辞を
送りたいというのなら、極重の苦しみすら楽しみに代えてしまえるそのあり難さへの畏敬をこそ抱くべきなのであり、
「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などという、大人の子供に対するかのような失礼な誉め方は決してすべきでないのである。
そして、苦しみをバネに何でもしてやろうとする、蘇秦や張儀のようなならず者も、決して賛辞の対象とすべきでない。
故に、一端の行為能力を持つ大人に対して、苦しみに耐えることを上から目線で誉めていいような道理はないのである。
「人は楽しむなきに耐えず」
「人は楽しまないでいることに耐えられない。
(罪福異熟も権力犯罪者の側の悪因苦果よりは、道徳者の側の善因楽果からなる歓喜こそが
人々に感銘を与えることで、洗脳状態の人間の心の凍て付きの瓦解を招いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
×蘇秦や張儀
○蘇秦や李斯
張儀も、蘇秦と並ぶ戦国時代きっての大悪党で、
袋叩きにされて小便を引っかけられても、弁舌一つで
世の中を引っかき回すことをやめなかったというから、
「蘇秦や張儀や李斯」と訂正してもいい所だ。
孟子は張儀を「婦女子」扱いして揶揄しているが、
権力犯罪者の活動の気概となる「困窮へのコンプレックス」は、
婦女子であればほぼ漏れなく持っているものだといえる。
婦女子自身がそうであるのは、我が子を豊かな境遇で産み育てたい
母性本能から来るのでもあるから、必ずしもいけないことじゃない。
ただ、男が社会的な大成を志すのでも、逆に社会的欲求を捨て去るのでもなく、
自らの地位の低さからなる劣等感にかられて妄動したりするのならば、
それこそこの上なく無様な所業であるといえる。
○蘇秦や李斯
張儀も、蘇秦と並ぶ戦国時代きっての大悪党で、
袋叩きにされて小便を引っかけられても、弁舌一つで
世の中を引っかき回すことをやめなかったというから、
「蘇秦や張儀や李斯」と訂正してもいい所だ。
孟子は張儀を「婦女子」扱いして揶揄しているが、
権力犯罪者の活動の気概となる「困窮へのコンプレックス」は、
婦女子であればほぼ漏れなく持っているものだといえる。
婦女子自身がそうであるのは、我が子を豊かな境遇で産み育てたい
母性本能から来るのでもあるから、必ずしもいけないことじゃない。
ただ、男が社会的な大成を志すのでも、逆に社会的欲求を捨て去るのでもなく、
自らの地位の低さからなる劣等感にかられて妄動したりするのならば、
それこそこの上なく無様な所業であるといえる。
聖書信者に、人並み以上に喜び祝うべき将来などやって来ない。聖書を信じて
その忠実な実践に務めてきた分だけ、人並み以上のより大きな悲しみに見舞われる。
それこそは、「さてしもあるべきことならねばとて(蓮如)」でもある。
悲しむべき、悲しまねばならないことを無理に喜び祝おうとしたなら、
それによってさらに後々に、より悲しむべき、悲しまねばならない大惨事を招く。
最終的には、人類滅亡という絶対不可避な破滅の危機に見舞われて、想定し得る
限りでも最大級の悲しみを受け入れるか、もしくは滅亡を選択するしかなくなる。
そしてそれが、今である。
性懲りもなく凶事を喜び祝おうとするのなら、それは滅亡を選択することになる。
悲しむべき、悲しまねばならないことを相応に悲しむことを受け入れて初めて、
自分たち自身を含む人類の滅亡を回避することを選択することともなる。
たとえば、天下の泰平や国家の長命などは、真に喜び祝うべきことだといえるが、
聖書信者はむしろ、このような公共性を伴った福寿を祝うことを避ける傾向がある。
それでいて、個々人の狭隘な利益の獲得などのほうを執拗に喜ぼうとする傾向があり、
悲しむべきことを喜び祝おうとするだけでなく、喜ぶべきでないことを喜ぼうとしたり、
喜ぶべきことをさして喜ぼうともしなかったりまでするのである。
その忠実な実践に務めてきた分だけ、人並み以上のより大きな悲しみに見舞われる。
それこそは、「さてしもあるべきことならねばとて(蓮如)」でもある。
悲しむべき、悲しまねばならないことを無理に喜び祝おうとしたなら、
それによってさらに後々に、より悲しむべき、悲しまねばならない大惨事を招く。
最終的には、人類滅亡という絶対不可避な破滅の危機に見舞われて、想定し得る
限りでも最大級の悲しみを受け入れるか、もしくは滅亡を選択するしかなくなる。
そしてそれが、今である。
性懲りもなく凶事を喜び祝おうとするのなら、それは滅亡を選択することになる。
悲しむべき、悲しまねばならないことを相応に悲しむことを受け入れて初めて、
自分たち自身を含む人類の滅亡を回避することを選択することともなる。
たとえば、天下の泰平や国家の長命などは、真に喜び祝うべきことだといえるが、
聖書信者はむしろ、このような公共性を伴った福寿を祝うことを避ける傾向がある。
それでいて、個々人の狭隘な利益の獲得などのほうを執拗に喜ぼうとする傾向があり、
悲しむべきことを喜び祝おうとするだけでなく、喜ぶべきでないことを喜ぼうとしたり、
喜ぶべきことをさして喜ぼうともしなかったりまでするのである。
喜怒哀楽の規範が、完全に狂いきっている。
悲しむべきもの、喜ぶべきでないものを喜び、喜ぶべきものを喜ばない。
その結果、普遍的に喜ぶべき物事を立ち消えにさせ、普遍的に悲しむべき
物事をより増長させる。最終的には人類滅亡の危機までをも呼び込んで、
人類史上でも最大級の悲しみを受け入れねばならないような事態にまで、陥ってしまう。
典型的な狂生の末路であり、どこにも疑問点の見当たらない、悪因苦果の因果応報である。
物質的な側面だけでなく、精神的な側面においても因果応報は着実に結実し、邪信にねざして
心を偽って来たことにもまた、それ相応の苦果が実る。そしてその苦果こそは、絶望的である。
自らの心を偽ることを信者にけしかけて来たことこそは、聖書信仰にとっての最大の大罪だといえる。
「喜怒類を以てする者は鮮なく、易うる者は実に多し。詩に曰く、君子如し怒らば、乱庶くば遄かに沮み、
君子如し祉いせば、乱庶くば遄かに已むと。君子の喜怒は、以て乱を已むるなり。已めざる者は、必ず之れを益す」
「喜ぶべきことを喜び、怒るべきことを怒る者は少ないが、これに違う者は非常に多い。詩経(小雅・巧言)にも
『君子が怒るべきものに怒れば、乱も速やかに止む。君子が喜ぶべきことを喜べば、これまた速やかに乱は止む』
とあるが、君子の順当さをわきまえた喜怒哀楽は戦乱を収める一方、これに違う場合には、えてして乱を増すのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十七年より)
悲しむべきもの、喜ぶべきでないものを喜び、喜ぶべきものを喜ばない。
その結果、普遍的に喜ぶべき物事を立ち消えにさせ、普遍的に悲しむべき
物事をより増長させる。最終的には人類滅亡の危機までをも呼び込んで、
人類史上でも最大級の悲しみを受け入れねばならないような事態にまで、陥ってしまう。
典型的な狂生の末路であり、どこにも疑問点の見当たらない、悪因苦果の因果応報である。
物質的な側面だけでなく、精神的な側面においても因果応報は着実に結実し、邪信にねざして
心を偽って来たことにもまた、それ相応の苦果が実る。そしてその苦果こそは、絶望的である。
自らの心を偽ることを信者にけしかけて来たことこそは、聖書信仰にとっての最大の大罪だといえる。
「喜怒類を以てする者は鮮なく、易うる者は実に多し。詩に曰く、君子如し怒らば、乱庶くば遄かに沮み、
君子如し祉いせば、乱庶くば遄かに已むと。君子の喜怒は、以て乱を已むるなり。已めざる者は、必ず之れを益す」
「喜ぶべきことを喜び、怒るべきことを怒る者は少ないが、これに違う者は非常に多い。詩経(小雅・巧言)にも
『君子が怒るべきものに怒れば、乱も速やかに止む。君子が喜ぶべきことを喜べば、これまた速やかに乱は止む』
とあるが、君子の順当さをわきまえた喜怒哀楽は戦乱を収める一方、これに違う場合には、えてして乱を増すのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十七年より)
曾子が年老いて病の床にあるとき、門人に自らの手足を見せて、どこにも傷一つないことを、
「親からもらった身体を終身大事にして来た証拠だ」として誇る泰伯第八・三の逸話。
これは孝悌という、人間精神の根本を誇りとする、非常に威儀深い逸話であるといえる。
(病中の呻吟だから、誇り高ぶりであるとまでは言えない)
そしてその曾子が、「肩をそびやかしてへつらい笑うのは、真夏の炎天下で田畑を耕すよりも疲れる(滕文公下・七)」
ともいう。商売人か奴隷のようにプライドのかけらもなく他者に媚びへつらうことが、孝悌にかけては年老いるまで
薄氷を踏む思いで心尽くしてきた曾子にとってこそ、最大級の肉体的重労働よりも苦痛となるのだという。
プライドにも色々とあり、孝心からなるような真のプライドもある一方で、我流の評価基準に根ざした
全くの無根拠なプライドもまたある。無根拠なプライドは「身の程知らず」の最たる証拠ともなり、それこそ
真のプライドに即するなら、身の程知らずの謗りを拭いたいがために、無根拠なプライドのほうは率先して捨て去るのである。
孝悌に基づくような真のプライドを欠いたところでこそ、逆に無根拠なプライドのほうが肥大化する。
その無根拠なプライドへの依存が高まりすぎて、捨て去ろうにも捨て去れなくなったとき、
無根拠なプライドからなる高慢を阻害する原因となる、孝悌の心がけもまた困難と化してしまう。
実の親への子の孝心を否定して、虚構の超越神への絶対服従を強制する犯罪聖書の教義は、まさに孝心からなる
真のプライドを信者に損なわせて、虚構への服従からなる身の程知らずな思い上がりを蓄えさせる、最たるものである。
肩をそびやかしへつらい笑うことも何ら苦としない下衆がそこに生じ、徳行と楽しみと犯罪の苦しみの区別も付かない、
人としての最低限の品性すら持ち合わせぬ、餓鬼畜生の内面を持つ人非人の群れがそこに生じるわけである。
「親からもらった身体を終身大事にして来た証拠だ」として誇る泰伯第八・三の逸話。
これは孝悌という、人間精神の根本を誇りとする、非常に威儀深い逸話であるといえる。
(病中の呻吟だから、誇り高ぶりであるとまでは言えない)
そしてその曾子が、「肩をそびやかしてへつらい笑うのは、真夏の炎天下で田畑を耕すよりも疲れる(滕文公下・七)」
ともいう。商売人か奴隷のようにプライドのかけらもなく他者に媚びへつらうことが、孝悌にかけては年老いるまで
薄氷を踏む思いで心尽くしてきた曾子にとってこそ、最大級の肉体的重労働よりも苦痛となるのだという。
プライドにも色々とあり、孝心からなるような真のプライドもある一方で、我流の評価基準に根ざした
全くの無根拠なプライドもまたある。無根拠なプライドは「身の程知らず」の最たる証拠ともなり、それこそ
真のプライドに即するなら、身の程知らずの謗りを拭いたいがために、無根拠なプライドのほうは率先して捨て去るのである。
孝悌に基づくような真のプライドを欠いたところでこそ、逆に無根拠なプライドのほうが肥大化する。
その無根拠なプライドへの依存が高まりすぎて、捨て去ろうにも捨て去れなくなったとき、
無根拠なプライドからなる高慢を阻害する原因となる、孝悌の心がけもまた困難と化してしまう。
実の親への子の孝心を否定して、虚構の超越神への絶対服従を強制する犯罪聖書の教義は、まさに孝心からなる
真のプライドを信者に損なわせて、虚構への服従からなる身の程知らずな思い上がりを蓄えさせる、最たるものである。
肩をそびやかしへつらい笑うことも何ら苦としない下衆がそこに生じ、徳行と楽しみと犯罪の苦しみの区別も付かない、
人としての最低限の品性すら持ち合わせぬ、餓鬼畜生の内面を持つ人非人の群れがそこに生じるわけである。
孝心に基づく真の誇りと、脳内超越神への服従に基づく偽りの誇りとは互いに相容れず、
どちらかを嗜む以上は、かならずもう一方が排斥の対象となる。特に何の嗜みもない所に孝心を抱けたなら、
それが脳内超越神への服従を排斥する予防手段となるし、すでに脳内超越神への服従という病に侵されている場合にも、
意識的に孝心を持ち直すことで、無根拠なプライドからなる、身の程知らずな思い上がりを滅尽していくことができる。
「今さら親への孝心を抱くことなんか、こっ恥ずかしい」、現代人の多くは、そう考えもするに違いない。
それもまた犯罪聖書の記述を始めとする、醜悪な邪義に知らず知らずのうちに洗脳下に置かれて来たからなのであり、
「人類滅亡の元凶ともなっている世界最悪の邪教=聖書信仰をこの世から撲滅するため」という大義によってこそ、
現代人もまた、今さら意識的に抱き直すのも気恥ずかしいところのある孝心を持ち直すのが、便利だといえる。
「茲れ殷の庶士、寵に席ること惟れ旧しく、侈を怙みて義を滅す、服人より美なり」
「殷人はみな紂王の寵遇を長く受けてきたため、贅沢ばかりを誇りとして道義を無きものとしている。
服装も分不相応に華美である。(この後>>294の引用に続く。贅沢を誇って道義を滅しているのは聖書信者も同じである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
どちらかを嗜む以上は、かならずもう一方が排斥の対象となる。特に何の嗜みもない所に孝心を抱けたなら、
それが脳内超越神への服従を排斥する予防手段となるし、すでに脳内超越神への服従という病に侵されている場合にも、
意識的に孝心を持ち直すことで、無根拠なプライドからなる、身の程知らずな思い上がりを滅尽していくことができる。
「今さら親への孝心を抱くことなんか、こっ恥ずかしい」、現代人の多くは、そう考えもするに違いない。
それもまた犯罪聖書の記述を始めとする、醜悪な邪義に知らず知らずのうちに洗脳下に置かれて来たからなのであり、
「人類滅亡の元凶ともなっている世界最悪の邪教=聖書信仰をこの世から撲滅するため」という大義によってこそ、
現代人もまた、今さら意識的に抱き直すのも気恥ずかしいところのある孝心を持ち直すのが、便利だといえる。
「茲れ殷の庶士、寵に席ること惟れ旧しく、侈を怙みて義を滅す、服人より美なり」
「殷人はみな紂王の寵遇を長く受けてきたため、贅沢ばかりを誇りとして道義を無きものとしている。
服装も分不相応に華美である。(この後>>294の引用に続く。贅沢を誇って道義を滅しているのは聖書信者も同じである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
キリスト教団が、上座部仏教から剽窃して自分たちの根本教義とした「自殺の禁止」、
これはあくまで上座部仏教教義のカタワな剽窃であり、上座部の経典「法句経」のほうには
「無賊害心(何ものをも害する心を持つことなし)」とあり、自害だけでなく、
他者への危害も同時に戒めるのが、本来の正統な宗教教義となっている。
上座部だげでなく、大乗の根本経典である「華厳経」にも
「自らを害せず他を害せず、両ながらに害せず(十行品第二十一の一)」とある。
大乗仏教の場合、密教が自殺行為も同然の荒行に及ぶ場合があり、必ずしも「自らを害せず」
のほうは守られていないが、これは仏教ではなく、仏教以前の実践派宗教であるタントラ教に根ざして
仏の悟りを得ようとする試みであり、純粋な仏教教義としては、大乗も自他を害さぬことを基本としている。
自らを害さず、他者をも害さぬことが、善因楽果の異熟(トートロジー破綻)をも結実させるのであり、逆に
もしも自他を害することに専らであるのなら、それが仏説への違背となるが故に、悪因苦果の異熟を実らせるのである。
自害の禁止は、本当は聖書教義に根ざしているわけでもないにも関わらず、キリスト教団も無理やり
実行してきた。それは決して悪因苦果の温床にもならなかったが、聖書教義に根ざして、他者を害する
風潮だけは大々的に肯定してきたことが、紛れもなく、甚大な悪因苦果を催す元凶ともなってきた。
これはあくまで上座部仏教教義のカタワな剽窃であり、上座部の経典「法句経」のほうには
「無賊害心(何ものをも害する心を持つことなし)」とあり、自害だけでなく、
他者への危害も同時に戒めるのが、本来の正統な宗教教義となっている。
上座部だげでなく、大乗の根本経典である「華厳経」にも
「自らを害せず他を害せず、両ながらに害せず(十行品第二十一の一)」とある。
大乗仏教の場合、密教が自殺行為も同然の荒行に及ぶ場合があり、必ずしも「自らを害せず」
のほうは守られていないが、これは仏教ではなく、仏教以前の実践派宗教であるタントラ教に根ざして
仏の悟りを得ようとする試みであり、純粋な仏教教義としては、大乗も自他を害さぬことを基本としている。
自らを害さず、他者をも害さぬことが、善因楽果の異熟(トートロジー破綻)をも結実させるのであり、逆に
もしも自他を害することに専らであるのなら、それが仏説への違背となるが故に、悪因苦果の異熟を実らせるのである。
自害の禁止は、本当は聖書教義に根ざしているわけでもないにも関わらず、キリスト教団も無理やり
実行してきた。それは決して悪因苦果の温床にもならなかったが、聖書教義に根ざして、他者を害する
風潮だけは大々的に肯定してきたことが、紛れもなく、甚大な悪因苦果を催す元凶ともなってきた。
自害は禁止するにも関わらず、他害は根本的な倫理違反として来なかった点が(法律で取り締まるぐらいはあった)、
キリスト教教義の決定的に不完全な部分であった。本当は自他を害しようとする害為全般をよからぬものとすることが
完全なる宗教教義だったのであり、それは即ち、聖書教義ではないと共に、仏教教義である教義だったのだといえる。
宗教教義や、戒律法規に囚われすぎることをよからぬこととする、神道や儒学などの立場もある一方で、
かりに宗教的な戒律に即するというのなら、仏教のような優等な宗教の戒律に即するべきであり、
聖書教(必ずしも現実のキリスト教は聖書教そのものではないが)やその他の有象無象の劣悪な邪教は拠り所と
しないようにすべきであるといえる。そして、教学全般をいちいち頼りにしない、無為自然第一の道家的な
趣きもあり、もう教学論争なんかにいちいち構っていたくないとすることもまた、決して赦されないことではない。
「人能く人を害するを欲すること無き心を充いにすれば、而ち仁も用うるに勝うべからざるなり」
「人がよく他者を害することを欲しない心を大いにしたならば、仁徳もその全てを用いきれないほどに広大となる。
(他者への害心を無制限に肥大化させていったりしたのなら、それに反比例して仁徳も窄むのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三一より)
キリスト教教義の決定的に不完全な部分であった。本当は自他を害しようとする害為全般をよからぬものとすることが
完全なる宗教教義だったのであり、それは即ち、聖書教義ではないと共に、仏教教義である教義だったのだといえる。
宗教教義や、戒律法規に囚われすぎることをよからぬこととする、神道や儒学などの立場もある一方で、
かりに宗教的な戒律に即するというのなら、仏教のような優等な宗教の戒律に即するべきであり、
聖書教(必ずしも現実のキリスト教は聖書教そのものではないが)やその他の有象無象の劣悪な邪教は拠り所と
しないようにすべきであるといえる。そして、教学全般をいちいち頼りにしない、無為自然第一の道家的な
趣きもあり、もう教学論争なんかにいちいち構っていたくないとすることもまた、決して赦されないことではない。
「人能く人を害するを欲すること無き心を充いにすれば、而ち仁も用うるに勝うべからざるなり」
「人がよく他者を害することを欲しない心を大いにしたならば、仁徳もその全てを用いきれないほどに広大となる。
(他者への害心を無制限に肥大化させていったりしたのなら、それに反比例して仁徳も窄むのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三一より)
人間精神には、先祖代々の血筋からなる先天的な志向性というものがある。
それは、無理に従おうとせずとも自然と受け継がれるものであり、その志向性の善い部分を
ありのままに受け継いで、悪い部分を修正していくために必要となるのが、親への孝心にあたる。
では、親への孝心を邪神信仰などによって完全にかなぐり捨て、存在すると
仮定した脳内超越神への服従にすがろうとした場合、一体どうなるのかといって、
先祖代々積み重ねられてきた善い志向性は完全に反故にされ、代わりに悪い
志向性だけが、人間以下の畜生同然の品性と共に保全されていくことになる。
先祖代々の血筋に基づく志向性のうちで、善い志向性とは、善人や賢人や聖人、或いは神仏の
如き先祖の志向性のことであり、悪い志向性とは、人間以下の餓鬼畜生も同然の志向性のことだ。
孝心はこのような意味での悪い志向性を捨てて、善い志向性を受け継ぐ効果を持つ一方で、
孝心の欠如は少なからず、善い嗜好性を捨てて悪い志向性を深刻化させていく効果を持つ。
犯罪聖書の邪神にすがることも、上記のような意味での、孝心の欠如に溺れる所業以内の以下であり、
別にこれといって人間精神の向上が期待されるわけではない、のみならず、ただ自分たちの
品性を餓鬼畜生も同然の域へと貶める以外の、何らの効能も持ち合わせてはいない。
犯罪聖書にすがった結果、人間精神以外の何らかの向上が期待できるというのならまだしも、
それすら全くなく、ただ純粋に人間精神の下落ばかりが進行するのみである。邪信によって
人間精神が毀損された結果どうなるかといって、ただ餓鬼畜生も同然の存在と化すのみであり、
これもまた全くの仏教思想などの範疇であり、どこにも珍しがれるものがないのである。
それは、無理に従おうとせずとも自然と受け継がれるものであり、その志向性の善い部分を
ありのままに受け継いで、悪い部分を修正していくために必要となるのが、親への孝心にあたる。
では、親への孝心を邪神信仰などによって完全にかなぐり捨て、存在すると
仮定した脳内超越神への服従にすがろうとした場合、一体どうなるのかといって、
先祖代々積み重ねられてきた善い志向性は完全に反故にされ、代わりに悪い
志向性だけが、人間以下の畜生同然の品性と共に保全されていくことになる。
先祖代々の血筋に基づく志向性のうちで、善い志向性とは、善人や賢人や聖人、或いは神仏の
如き先祖の志向性のことであり、悪い志向性とは、人間以下の餓鬼畜生も同然の志向性のことだ。
孝心はこのような意味での悪い志向性を捨てて、善い志向性を受け継ぐ効果を持つ一方で、
孝心の欠如は少なからず、善い嗜好性を捨てて悪い志向性を深刻化させていく効果を持つ。
犯罪聖書の邪神にすがることも、上記のような意味での、孝心の欠如に溺れる所業以内の以下であり、
別にこれといって人間精神の向上が期待されるわけではない、のみならず、ただ自分たちの
品性を餓鬼畜生も同然の域へと貶める以外の、何らの効能も持ち合わせてはいない。
犯罪聖書にすがった結果、人間精神以外の何らかの向上が期待できるというのならまだしも、
それすら全くなく、ただ純粋に人間精神の下落ばかりが進行するのみである。邪信によって
人間精神が毀損された結果どうなるかといって、ただ餓鬼畜生も同然の存在と化すのみであり、
これもまた全くの仏教思想などの範疇であり、どこにも珍しがれるものがないのである。
ただ人類史上未曾有の災禍をもたらしているというだけでなく、それによって何ら新たな
発見が得られたわけでもないところが、聖書信仰が決定的につまらない所以でもある。
ただ儒学や仏教といった、聖書信仰よりも以前から存在する東洋の教学の完璧さが改めて
確かめられたというばかりのことであり、何か収穫があったとすれば、それぐらいのことだといえる。
儒学や仏教の純粋な学説教義の是非はともかく、東洋史上における儒者や仏者の誰しもが
完璧超人だったなんてことは決してなく、官僚界や僧団などの腐敗を通じて、相当にダメな奴らが
蔓延るようになっていたことも多々ある。そのような実情はともかくとして、儒仏の教学自体は、
ちゃんと実践するのであれば、確実に聖書信仰の実践以上にも優良な効果が挙げられることが今になって
実証されたわけだから、かつての儒仏の気風をそのまま復興する以上にも、聖書信仰という反面教師を
厳重な差別の対象としつつの、より毅然とした儒仏の実践を心がけていくようにしていけばいいのである。
聖書信仰の実践という未曾有の災禍も、儒仏の実践のより一層の本格化に
寄与するというのなら、それこそ、「禍転じて福と成す」にもなるといえる。
「子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰れか鄹人の子の禮を知ると
謂うや、大廟に入りては、事ごとに問うと。子之れを聞きて曰く、是れ礼なり」
「先生は魯の周公を祀る大神殿に入られると、儀礼のことについて色々と質問された。
ある人が言った。『誰が鄹の役人(孔子の父の叔梁紇)の子は礼儀の知識が豊富だ
などと言ったのだろう。大神殿に入ると、あのように何もかもを質問しているではないか』
先生はこれを聞いて言われた。『大きな神殿ではこのようにするのが礼儀なのだ』
(著名な神殿で我流の振る舞いをして粗相を為さないようにする慎重さが、これまた礼儀なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一五)
発見が得られたわけでもないところが、聖書信仰が決定的につまらない所以でもある。
ただ儒学や仏教といった、聖書信仰よりも以前から存在する東洋の教学の完璧さが改めて
確かめられたというばかりのことであり、何か収穫があったとすれば、それぐらいのことだといえる。
儒学や仏教の純粋な学説教義の是非はともかく、東洋史上における儒者や仏者の誰しもが
完璧超人だったなんてことは決してなく、官僚界や僧団などの腐敗を通じて、相当にダメな奴らが
蔓延るようになっていたことも多々ある。そのような実情はともかくとして、儒仏の教学自体は、
ちゃんと実践するのであれば、確実に聖書信仰の実践以上にも優良な効果が挙げられることが今になって
実証されたわけだから、かつての儒仏の気風をそのまま復興する以上にも、聖書信仰という反面教師を
厳重な差別の対象としつつの、より毅然とした儒仏の実践を心がけていくようにしていけばいいのである。
聖書信仰の実践という未曾有の災禍も、儒仏の実践のより一層の本格化に
寄与するというのなら、それこそ、「禍転じて福と成す」にもなるといえる。
「子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰れか鄹人の子の禮を知ると
謂うや、大廟に入りては、事ごとに問うと。子之れを聞きて曰く、是れ礼なり」
「先生は魯の周公を祀る大神殿に入られると、儀礼のことについて色々と質問された。
ある人が言った。『誰が鄹の役人(孔子の父の叔梁紇)の子は礼儀の知識が豊富だ
などと言ったのだろう。大神殿に入ると、あのように何もかもを質問しているではないか』
先生はこれを聞いて言われた。『大きな神殿ではこのようにするのが礼儀なのだ』
(著名な神殿で我流の振る舞いをして粗相を為さないようにする慎重さが、これまた礼儀なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一五)
「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん(既出)」
「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二より)
常人並みの品性も持たない、IQ40以下の畜人にとっての神といえば、ありのままに牧場主とでもいったところ。
それも、良民を牧する君子などという比喩にも当たらない、まさに畜獣を飼いならす職業上の牧場主そのもの。
本当はIQ100程度の知能を保つ能力を持つ人間をあえて、畜獣同然の品性にまで劣化させて、
その畜人たちを飼育の対象とする牧場主たるや、まさに餓鬼畜生の親分とでもいったところ。
比喩にすら当たらない本物の人間家畜化は、飼い主と畜人の両方ともを鬼畜と化す所業そのものとなる。
そこにこそ、神はいないのである。神もいないし、仏もいない。そして人並みの人間もいない。
神仏や人がそのような鬼畜の領域を察知することはあるが、できる限りなくしていくべきものとするばかりで、
決して承認の対象としたりするものではない。特に人間道徳と仏法とが、そのような鬼畜の所業の徹底的な排除に
臨みもするが、神道に代表されるような正統な神たるや、もはや鬼畜の糾弾にすら及ぶことなく、完全に逐電して、
決して鬼畜の前などに姿を現すこともなかったりする。そのような神はどうあがこうとも、鬼畜には絶対に会えはしない。
「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二より)
常人並みの品性も持たない、IQ40以下の畜人にとっての神といえば、ありのままに牧場主とでもいったところ。
それも、良民を牧する君子などという比喩にも当たらない、まさに畜獣を飼いならす職業上の牧場主そのもの。
本当はIQ100程度の知能を保つ能力を持つ人間をあえて、畜獣同然の品性にまで劣化させて、
その畜人たちを飼育の対象とする牧場主たるや、まさに餓鬼畜生の親分とでもいったところ。
比喩にすら当たらない本物の人間家畜化は、飼い主と畜人の両方ともを鬼畜と化す所業そのものとなる。
そこにこそ、神はいないのである。神もいないし、仏もいない。そして人並みの人間もいない。
神仏や人がそのような鬼畜の領域を察知することはあるが、できる限りなくしていくべきものとするばかりで、
決して承認の対象としたりするものではない。特に人間道徳と仏法とが、そのような鬼畜の所業の徹底的な排除に
臨みもするが、神道に代表されるような正統な神たるや、もはや鬼畜の糾弾にすら及ぶことなく、完全に逐電して、
決して鬼畜の前などに姿を現すこともなかったりする。そのような神はどうあがこうとも、鬼畜には絶対に会えはしない。
特に、高位の神であればあるほど、鬼畜の領域からは遠ざかる。鬼畜の領域などに立ち入ることはおろか、
見聞きすることすら避け、悪趣の領域への察知全般から拒絶してしまう。それほどにも高潔無比なところにこそ、最高格の
神もまたあり、それと比べればまだ低位である神に限って、鬼畜の領域を見聞きしたり察知したりすることもあり得るのである。
鬼畜による侵略が始まった最原初の頃から、最高位の神はとっくに雲隠れを決め込み、少しの抵抗すら行ったこともない。
それでいて最高位に値するだけの品位を同時に岩戸隠れさせることで、本当に世界が破滅の危機に晒されてもいる。
最高位の神が鬼畜と共存することができないのにも、絶対的な理由があるわけで、その威光による世界の救済を
望む以上は、鬼畜のほうがこの世から消え去る必要がある。自分たち鬼畜の分際が、最高位の神などと見聞きし合うことも、
知り合うことも未来劫永世にわたってあり得ないことを諾って、暗黒の愚昧ごと自分たちがこの世から消え去るのである。
鬼畜であるが故に真の神と知り合うこともできないこともまた、進んで鬼畜となった者への罰であると承るのである。
「敬いて神を養う在り」
「十分な畏敬を抱くことで、初めて神にも仕えることができる。
(『養神(我が心のうちの神を養う)』と書いて『神に仕える』という意味になる。
禽獣同然の濁愛などではなく、畏敬こそが養神、すなわち神に仕える真の方法となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十三年より)
見聞きすることすら避け、悪趣の領域への察知全般から拒絶してしまう。それほどにも高潔無比なところにこそ、最高格の
神もまたあり、それと比べればまだ低位である神に限って、鬼畜の領域を見聞きしたり察知したりすることもあり得るのである。
鬼畜による侵略が始まった最原初の頃から、最高位の神はとっくに雲隠れを決め込み、少しの抵抗すら行ったこともない。
それでいて最高位に値するだけの品位を同時に岩戸隠れさせることで、本当に世界が破滅の危機に晒されてもいる。
最高位の神が鬼畜と共存することができないのにも、絶対的な理由があるわけで、その威光による世界の救済を
望む以上は、鬼畜のほうがこの世から消え去る必要がある。自分たち鬼畜の分際が、最高位の神などと見聞きし合うことも、
知り合うことも未来劫永世にわたってあり得ないことを諾って、暗黒の愚昧ごと自分たちがこの世から消え去るのである。
鬼畜であるが故に真の神と知り合うこともできないこともまた、進んで鬼畜となった者への罰であると承るのである。
「敬いて神を養う在り」
「十分な畏敬を抱くことで、初めて神にも仕えることができる。
(『養神(我が心のうちの神を養う)』と書いて『神に仕える』という意味になる。
禽獣同然の濁愛などではなく、畏敬こそが養神、すなわち神に仕える真の方法となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十三年より)
知識によって孔子のような恭しさを身に付けることも、愛によって紂王のような奢り高ぶりを抱く場合もある。
そして知識ばかりによって全てが尽くされるということも、愛ばかりによって全てが尽くされるということも、
人間にはあり得ない。そこに畏敬が伴っていないのならば、愛や知識が最善を尽くすこともまたないのである。
無軌道な愛や知識ばかりがあって、畏敬など微塵もないところに、鬼畜としての人間が生ずる。
鬼畜<人間<神仏
であり、愛や知識と神仏などへの畏敬の均衡を取ることで、初めて人は鬼畜以上の品性を手に入れる。
「畏敬なんてなくて当たり前だ」と思っている現代人には奇異に思える話であっても、本当は、一定度の畏敬を
保っていられてこそ、人間は本物の人間並みの品性をも保つのである。人は決して一人では生きられず、
必ず家族やそれ以上の社会的共同体の構成員としてのみ生存を許されるものだから、その構成員同士の関係を
保全していくための敬意が必ず必要になる。その敬意を育むための手段となるのが、先祖供養を
始めとする神仏への畏敬であり、文明化された大規模な都市社会にもかかわらずではなくだからこそ、
社稷霊廟を丹念に作り込んでの、豪壮な礼楽による儀式での、畏敬の養生すらをも必要としたりする。
してみれば、愛や知識以上にも、畏敬こそは人間社会において必要不可欠なものですらあるといえる。
滅亡へとまっしぐらな集団自殺状態の世の中にも、濁愛や悪知恵は多数介在しているが、畏敬だけはどこにもない。
愛や知識の一部が人類滅亡の元凶とすらなる一方、愛や知識を善用する心持ちでもある畏敬こそは、人類の存続や繁栄を
決定付ける鍵ともなる。愛や知識によって人類の存続や繁栄が決定付けられるわけでもない一方で、畏敬こそはそれを
決定付けるわけだから、人が人としてより積極的に希求していくべきなのも、愛や知識以上にも、畏敬であるといえる。
そして知識ばかりによって全てが尽くされるということも、愛ばかりによって全てが尽くされるということも、
人間にはあり得ない。そこに畏敬が伴っていないのならば、愛や知識が最善を尽くすこともまたないのである。
無軌道な愛や知識ばかりがあって、畏敬など微塵もないところに、鬼畜としての人間が生ずる。
鬼畜<人間<神仏
であり、愛や知識と神仏などへの畏敬の均衡を取ることで、初めて人は鬼畜以上の品性を手に入れる。
「畏敬なんてなくて当たり前だ」と思っている現代人には奇異に思える話であっても、本当は、一定度の畏敬を
保っていられてこそ、人間は本物の人間並みの品性をも保つのである。人は決して一人では生きられず、
必ず家族やそれ以上の社会的共同体の構成員としてのみ生存を許されるものだから、その構成員同士の関係を
保全していくための敬意が必ず必要になる。その敬意を育むための手段となるのが、先祖供養を
始めとする神仏への畏敬であり、文明化された大規模な都市社会にもかかわらずではなくだからこそ、
社稷霊廟を丹念に作り込んでの、豪壮な礼楽による儀式での、畏敬の養生すらをも必要としたりする。
してみれば、愛や知識以上にも、畏敬こそは人間社会において必要不可欠なものですらあるといえる。
滅亡へとまっしぐらな集団自殺状態の世の中にも、濁愛や悪知恵は多数介在しているが、畏敬だけはどこにもない。
愛や知識の一部が人類滅亡の元凶とすらなる一方、愛や知識を善用する心持ちでもある畏敬こそは、人類の存続や繁栄を
決定付ける鍵ともなる。愛や知識によって人類の存続や繁栄が決定付けられるわけでもない一方で、畏敬こそはそれを
決定付けるわけだから、人が人としてより積極的に希求していくべきなのも、愛や知識以上にも、畏敬であるといえる。

それほどにも腐敗にまみれた政界を強制支配するものとしての法家思想を韓非は提唱し、始皇帝もその一部を秦帝国における
統治理念として採用した。結果、たった十五年で秦帝国は崩壊し、規制緩和を旗頭にした漢帝国に政権を奪われたのだった。
「韓非子」にあるような醜悪なゴシップこそは、別に夫への敬意を持ち合わせているわけでもない、
今の世の中の夫人が非常に好き好むもの。夫への愛などもあったところで、所詮はペットか家畜に対するも同然の愛であり、
武家の女が武士たる男に抱いていたような敬愛が、今の夫婦間において介することなども、決してないわけである。
醜悪な知識と、ペットか家畜に対するかのような下劣な情愛、この二つを今という時代の夫人が、特に好き好んでいる。
故に既婚女性ほど醜悪な内面を持つ生き物も他にないかのような風潮すらもが噴出しているわけで、実際その内心の濁悪さを
国政に流用したりすれば、秦帝国崩壊ほどもの大破綻すらもが必定となるもの。始皇帝の母親の朱姫も、巨根で知られた
呂不韋の食客嫪毒を、それだけの理由で偽宦官として傍に置いて寵愛したというし、傾国間近の帝国には、男に対する微塵の敬愛も
持たない女が多数群がることも事実である。夫や男に対する敬愛を著しく欠いた女の愛や知識こそは、まさに帝国崩壊級もの厄介さを
持つものであり、畏敬を欠いた愛や知識が、まさに世界の破滅をも呼び込む元凶となる実例になっているといえる。
「賢者は狎れて而かも之れを敬し、畏れて而かも之れを愛す」
「賢者は馴れ合うような近親の中にも敬いを抱き、畏れを抱いた上でなおその相手を愛する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
父母の野合によって身ごもられた妾腹の私生児として産まれ、
なおかつ母子家庭という、義父持ちのイエス以上にも不遇な環境で育った孔子が、
だからといって「聖人君子」として崇めたてられているなどという事実も、全くない。
不遇の中にも、自力で詩書や易、礼法や当時の近代史(春秋史)の勉強や研究に努め、
正統な道徳学の根本正典となる五経(本来は楽経を含む六経だが、楽経は後世に絶えた)を体系化し、
その業績によって漢代400年や唐代300年、江戸徳川260年といった泰平統治を実現する礎ともなった、
歴史上に紛れもないその偉大さこそが、孔子が聖人君子として崇められる理由ともなっているのであり、
本人がひどい不遇で生まれ育ったことなどは、それが猛勉強に励む気概にはなったにしても、決してそれ自体が
賞賛の対象などにはされず、「史記」の孔子世家に一応だけ書き留められる程度の扱いに止められている。
本当に偉大な業績を挙げることで称賛されたり、またそのような人間を称賛したりする所に、真の満足もまたある。
ひどい不遇や身心の不具などに晒された人間を、だからといって称えたりするような不埒なウレシがりなどは、
称える側にも、称えられる側にも根本的な気まずさを植え付けて、決して本当に満足させたりすることがない。
あらかじめ恵まれた環境に生まれ育った人間が、そこからさらに偉大な業績を挙げること以上にも、
相当の不遇に晒された人間が、その不遇をバネにして偉大な業績を挙げることのほうが、喜びもひとしおですらある。
実際、恵まれた環境と才能というのは、易学的にも両立しにくいものとされているから、血筋はよくても能力には
乏しい主君が、血筋は劣るものの能力に長ける臣下を用いる君臣関係こそが、儒学上でも良好なものとされている。
なおかつ母子家庭という、義父持ちのイエス以上にも不遇な環境で育った孔子が、
だからといって「聖人君子」として崇めたてられているなどという事実も、全くない。
不遇の中にも、自力で詩書や易、礼法や当時の近代史(春秋史)の勉強や研究に努め、
正統な道徳学の根本正典となる五経(本来は楽経を含む六経だが、楽経は後世に絶えた)を体系化し、
その業績によって漢代400年や唐代300年、江戸徳川260年といった泰平統治を実現する礎ともなった、
歴史上に紛れもないその偉大さこそが、孔子が聖人君子として崇められる理由ともなっているのであり、
本人がひどい不遇で生まれ育ったことなどは、それが猛勉強に励む気概にはなったにしても、決してそれ自体が
賞賛の対象などにはされず、「史記」の孔子世家に一応だけ書き留められる程度の扱いに止められている。
本当に偉大な業績を挙げることで称賛されたり、またそのような人間を称賛したりする所に、真の満足もまたある。
ひどい不遇や身心の不具などに晒された人間を、だからといって称えたりするような不埒なウレシがりなどは、
称える側にも、称えられる側にも根本的な気まずさを植え付けて、決して本当に満足させたりすることがない。
あらかじめ恵まれた環境に生まれ育った人間が、そこからさらに偉大な業績を挙げること以上にも、
相当の不遇に晒された人間が、その不遇をバネにして偉大な業績を挙げることのほうが、喜びもひとしおですらある。
実際、恵まれた環境と才能というのは、易学的にも両立しにくいものとされているから、血筋はよくても能力には
乏しい主君が、血筋は劣るものの能力に長ける臣下を用いる君臣関係こそが、儒学上でも良好なものとされている。
不遇に生まれ育つことは、その不遇をバネにした大成を志す、逆説的な意味でのチャンスですらあるのに、
あろうことかそのチャンスを蔑ろにして、不遇に甘んじることを正当化したりするから、非常に気まずくなる。
気まずくて、つまらない。せっかくのチャンスを台無しにするその無様さが、易の吉祥法則にも反するものだから、
全体的な空気の流れを丸ごと不吉な方向へと追いやる、「凶相の構築」の元凶にすらなってしまうのである。
妾腹の私生児が必ずしも凶相を呼び込むのではなく、その凶相を正当化しようとする不埒さこそが、決定的な凶相の元凶となる。
妾腹の私生児ほどもの不遇すらをも、自助努力によって乗り越えようとする志しがあり、その志しが大成したならば、それは
人並み以上どころか、人類史上未曾有の大成にすらなり得るのだから、極度の不遇というのは、一種の「諸刃の剣」だといえる。
大成した場合には大いに振るうことを許される一方で、成功できなかった場合には決して振るうべきでない、諸刃の剣である。
「稷は天下に飢える者あれば、己れ由り之れを飢えしむると思えり」
「后稷は天下に飢える者が一人でもいれば、自分が飢えさせているという風に考えた。(万民の主を気取りながら、
民の飢渇を自分の責任だとも考えないエホバこそは、不埒さ極まりない自らの現状をよくわきまえるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
あろうことかそのチャンスを蔑ろにして、不遇に甘んじることを正当化したりするから、非常に気まずくなる。
気まずくて、つまらない。せっかくのチャンスを台無しにするその無様さが、易の吉祥法則にも反するものだから、
全体的な空気の流れを丸ごと不吉な方向へと追いやる、「凶相の構築」の元凶にすらなってしまうのである。
妾腹の私生児が必ずしも凶相を呼び込むのではなく、その凶相を正当化しようとする不埒さこそが、決定的な凶相の元凶となる。
妾腹の私生児ほどもの不遇すらをも、自助努力によって乗り越えようとする志しがあり、その志しが大成したならば、それは
人並み以上どころか、人類史上未曾有の大成にすらなり得るのだから、極度の不遇というのは、一種の「諸刃の剣」だといえる。
大成した場合には大いに振るうことを許される一方で、成功できなかった場合には決して振るうべきでない、諸刃の剣である。
「稷は天下に飢える者あれば、己れ由り之れを飢えしむると思えり」
「后稷は天下に飢える者が一人でもいれば、自分が飢えさせているという風に考えた。(万民の主を気取りながら、
民の飢渇を自分の責任だとも考えないエホバこそは、不埒さ極まりない自らの現状をよくわきまえるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
自利よりも利他を重んじる大乗仏教ですら、自らを利して他者を利することを是とする。
その上で自利一辺倒の小乗(上座部)の信者である声聞や独覚を、
自他を利する大乗の修行者である菩薩よりも下に置く。
自らを利することなく他者を利することを是とするところに、偽善が生じる。
本当に自利を完全にかなぐり捨てて、利他一辺倒であるということは、実際は不可能なことであり、
実情は自利を隠しながら利他に励むことだけを大っぴらにする演技となるばかりである。
そしてその、隠し隠しにしている自利こそは不正に甚大であったりもする。
一定の自利と共に利他を志していることを明示しないものこそは、
一概な利他という演技を隠れ蓑にした、不正に甚大な自利に及びもする。
だから古今東西いつの時代どこの世界においても、自利を捨てて利他を志しているかのように
見せかけているものは必ず、裏では膨大な自利に明け暮れているという不変法則があるのである。
「工、其の事を善くせんと欲すれば、必ず其の器を利す」
「職人も、うまい仕事をしようとする時には、まず自らが用いる道具を充実させる。
(密教でも『利剣』という法具が用いられることがあるが、士農工商のうちの下から二番目である職工から
してすでに、他者を利するための自利がある程度は必要になる。商売人だって、職工以上の高尚な職業の、
仁義に根ざしたあり方に倣うこともできないわけではないが、資本主義はかえってそれを否定している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一〇より)
その上で自利一辺倒の小乗(上座部)の信者である声聞や独覚を、
自他を利する大乗の修行者である菩薩よりも下に置く。
自らを利することなく他者を利することを是とするところに、偽善が生じる。
本当に自利を完全にかなぐり捨てて、利他一辺倒であるということは、実際は不可能なことであり、
実情は自利を隠しながら利他に励むことだけを大っぴらにする演技となるばかりである。
そしてその、隠し隠しにしている自利こそは不正に甚大であったりもする。
一定の自利と共に利他を志していることを明示しないものこそは、
一概な利他という演技を隠れ蓑にした、不正に甚大な自利に及びもする。
だから古今東西いつの時代どこの世界においても、自利を捨てて利他を志しているかのように
見せかけているものは必ず、裏では膨大な自利に明け暮れているという不変法則があるのである。
「工、其の事を善くせんと欲すれば、必ず其の器を利す」
「職人も、うまい仕事をしようとする時には、まず自らが用いる道具を充実させる。
(密教でも『利剣』という法具が用いられることがあるが、士農工商のうちの下から二番目である職工から
してすでに、他者を利するための自利がある程度は必要になる。商売人だって、職工以上の高尚な職業の、
仁義に根ざしたあり方に倣うこともできないわけではないが、資本主義はかえってそれを否定している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一〇より)
菩薩行も自他を利することを明示するし、仁義道徳も万人を利して我が利とすることを念頭に置いている。
これらの理念をありのままに実行できるのが、君子としての為政だったり出家修行だったりする一方、
なかなか実行しにくかったり、逆に利他を蔑ろにした自利に及びやすいのが商業である。
完全に利他を捨てて自利一辺倒となれば、それはもはや犯罪者も同然だが、商売人ならまだ、
自利と利他の均衡を取ることができる。とはいえ自利以上の利他を志すことが商売人の義務だったり
するわけではないし、サービスを上回る収益を上げることが商売人の本是とすらされもするのである。
そしてその商売人こそは、「お客さま第一」のような態度でいて、顧客に奉仕することが我らにとっての
全てであるかのように振舞いもする。もちろんそれは完全な演技であり、腹の内ではほぼ必ず、
いかに客からより大きな利益をぶんどるかばかりを考えている。これこそ「自利を捨てた利他一辺倒で
あるかのように見せかけるものこそは、不正な自利を旨とする」の法則にそのまま当てはまる姿だといえる。
絶対にそういう連中が存在してはならないとまでは言わないが、少なくともだからといって偉いなんてことはない。
むしろ、自利も利他もさして志しもしないもののほうがまだマシなぐらいで、世の中のうちでも特に卑しい
部類の人種の所業でこそあることには間違いない。自利を捨ててでも利他を志すなんていう無謀な理念は、
裏での不正な自利を促す以外のいかなる効果も持ち得ないのだから、その理念からして、鼻つまみものだといえる。
これらの理念をありのままに実行できるのが、君子としての為政だったり出家修行だったりする一方、
なかなか実行しにくかったり、逆に利他を蔑ろにした自利に及びやすいのが商業である。
完全に利他を捨てて自利一辺倒となれば、それはもはや犯罪者も同然だが、商売人ならまだ、
自利と利他の均衡を取ることができる。とはいえ自利以上の利他を志すことが商売人の義務だったり
するわけではないし、サービスを上回る収益を上げることが商売人の本是とすらされもするのである。
そしてその商売人こそは、「お客さま第一」のような態度でいて、顧客に奉仕することが我らにとっての
全てであるかのように振舞いもする。もちろんそれは完全な演技であり、腹の内ではほぼ必ず、
いかに客からより大きな利益をぶんどるかばかりを考えている。これこそ「自利を捨てた利他一辺倒で
あるかのように見せかけるものこそは、不正な自利を旨とする」の法則にそのまま当てはまる姿だといえる。
絶対にそういう連中が存在してはならないとまでは言わないが、少なくともだからといって偉いなんてことはない。
むしろ、自利も利他もさして志しもしないもののほうがまだマシなぐらいで、世の中のうちでも特に卑しい
部類の人種の所業でこそあることには間違いない。自利を捨ててでも利他を志すなんていう無謀な理念は、
裏での不正な自利を促す以外のいかなる効果も持ち得ないのだから、その理念からして、鼻つまみものだといえる。

その源流となっているゾロアスター教からして「拝火教」であり、
イランにも多数存在するガス田から立ち昇る火を見て、
古代のペルシャ人も一神教的な世界観を募らせていったのだとされる。
火は人類文明にほぼ必要不可欠な要素であり、どちらかといえば火よりも水を尊重する儒学ですら、
水火が無尽蔵に使えることが文明社会の常識であるように肯んじている。(「孟子」尽心上・二三など参照)
ただ、乾燥した燎原にあっという間に広がったり、火事によって家を丸焼きにしたりする火の
危険性をよく警戒して、慎重な扱いに取り組むことが易学的にも吉祥なこととされている。
文明社会が、火の扱いを慎重化することが概観的な意味での善となるのに対し、
火の慎重な扱いを疎かにして、どこかしこにも戯れに点火しまくることが悪となる。
しからぱ、ただ火を崇めているだけの拝火教が、だからといって悪なんていうことはない。
侵略の業火を他民族や異教徒にまで広げていこうとするユダヤ教から初めて悪が芽生えており、
ユダヤの放火癖に注油までをも加味したキリスト教に至って、邪教としての悪も極まった。
そしてユダヤ=キリストの劣悪な放火癖をコーランの教義によって打ち消すイスラムに至って、
悪の業火はまた消し止められて、善といわずとも不悪というところまでは立ち戻ったのだといえる。
火の扱いを疎かにして火事を広めまくる、文明社会の悪の法則に適っているのがユダヤとキリシタンであり、
拝火教とイスラムは辛うじて、悪の法則までをも満たしてはいない。火の燃え広がる習性と、
燃え続ける習性のいずれかを崇拝の対象としたかが両者の悪不悪を分かったのであり、
燃え広がる火の習性を崇め立てたユダヤ=キリシタンこそは、自分たちでは収拾も覚束ないほどの
罪悪の燃え広がり、破滅の業火を世界中へと飛び火させる元凶ともなったのである。
全世界、地球規模で言えば、ユダヤ=キリスト両聖書教が燃え広がらせた破滅の業火すらをも消し止める
用意は為されていた。ただそれは、インドの仏教や中国の儒学、そして日本などにおける本国以上もの
仏教や儒学の忠実な実践でこそあったのであり、イスラエル以西の世界発展とは基本、無縁だったものである。
自分たち聖書教徒が世界中に燃え広がらせた破滅の業火を、自分たちを含む人類が滅亡しない程度に
消し止めてくださる方がいらっしゃったところで、決してそれは犯罪聖書の神などであるわけではない。
むしろ、いま欧米人が経済戦での敗北などから目の敵にもしている中国人などの先祖こそは、聖書信仰が
この世にもたらす破滅の危機すらをも救ってくれる用意をしてくれていたのだから、まさに憎んでその善を知り、
自分たちが東洋人に頭を上げている余裕なども、もうないのだということをわきまえねばならない。
長年異民族の支配下に置かれることで、相当に野卑なざまと化している今の中国人などを、ありのままに
崇拝の対象などにできるはずもないが、少なくとももう、偉ぶりつつ応対できるような段階にはない。
満州開拓によって今の中国人にも経済進出の余地を与えてやった、日本人などであるのならともかくとして。
「孺子其れ朋せんか、孺子其れ朋せんか。
其れ往くに火の始め燄燄たるも、厥の灼敍する攸、其れ絶えざるが如きこと無かれ」
「若者たちよ、(組織犯罪の元凶となるような)友愛には、くれぐれも気をつけなさい。
それは最初はちょろちょろとくすぶっていた程度の火が、挙句には消し止められなくもなるほどに
燃え広がるようにして蔓延するものだから、決してそれにたぶらかされるようなことがあってはなりません。
(『君子は群して党せず』の典拠の一つ。業火の燃え広がりへの崇拝は、友愛による組織犯罪を肥大化させる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)
用意は為されていた。ただそれは、インドの仏教や中国の儒学、そして日本などにおける本国以上もの
仏教や儒学の忠実な実践でこそあったのであり、イスラエル以西の世界発展とは基本、無縁だったものである。
自分たち聖書教徒が世界中に燃え広がらせた破滅の業火を、自分たちを含む人類が滅亡しない程度に
消し止めてくださる方がいらっしゃったところで、決してそれは犯罪聖書の神などであるわけではない。
むしろ、いま欧米人が経済戦での敗北などから目の敵にもしている中国人などの先祖こそは、聖書信仰が
この世にもたらす破滅の危機すらをも救ってくれる用意をしてくれていたのだから、まさに憎んでその善を知り、
自分たちが東洋人に頭を上げている余裕なども、もうないのだということをわきまえねばならない。
長年異民族の支配下に置かれることで、相当に野卑なざまと化している今の中国人などを、ありのままに
崇拝の対象などにできるはずもないが、少なくとももう、偉ぶりつつ応対できるような段階にはない。
満州開拓によって今の中国人にも経済進出の余地を与えてやった、日本人などであるのならともかくとして。
「孺子其れ朋せんか、孺子其れ朋せんか。
其れ往くに火の始め燄燄たるも、厥の灼敍する攸、其れ絶えざるが如きこと無かれ」
「若者たちよ、(組織犯罪の元凶となるような)友愛には、くれぐれも気をつけなさい。
それは最初はちょろちょろとくすぶっていた程度の火が、挙句には消し止められなくもなるほどに
燃え広がるようにして蔓延するものだから、決してそれにたぶらかされるようなことがあってはなりません。
(『君子は群して党せず』の典拠の一つ。業火の燃え広がりへの崇拝は、友愛による組織犯罪を肥大化させる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...
「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の四に、菩薩がイエスとほぼ同等の受刑の代行によって
死刑囚を救うという記述がある。しかし、菩薩は受刑を肩代わりすることで死んで生き返る
わけではないし、冤罪の引き受けが新たな犯罪現象の拡大にも加担しかねないことを半ば了解し、
それによって生じた全ての犯罪現象の責任すらをも、代わりに負っていくのだという。
それでいてそれは、「一切衆生を救護せんがため」なのだという。
高台に縛り上げられて、槍で突き通されて死ななければならなくなるような重罪人こそを救うためではなく、
それほどもの重罪人を含む、あらゆる衆生を救わんがためにこそ、重罪人の受刑すらも肩代わりするという。
冤罪で十字架にかけられたヒゲで半裸のおっさんを、特定して信じるから救われるなんてことは決してない。
ただ、それほどにも無様な輩を含む一切の衆生を、聖道門の菩薩が救うということはある。
むしろそれこそは、聖道門の菩薩の責務でもある。五逆や誹謗正法に及んだだけで救済の対象から外される
他力の浄土門などではなく、厳しい出家修行に自らが臨んで行く聖道門においてこそ、
尊属殺人犯級の重罪人すらをも救っていくことが義務とされていくのである。
これが、新約犯罪聖書が書かれた約1900年前、ほぼ同時期に書かれた「華厳経」の一節である。
十字架によってこそ救われるなどという選民志向の妄信すら捨て去ったなら、そのような邪信に溺れることで
自らが本当に磔刑級の重罪を犯してしまった人間までをも、聖道門の菩薩が救済していってやるのだと、
新約がでっち上げられた最初期の頃から、すでにインドに誓約されていたのである。
「磔刑級の人間ですら救われる」の真逆に当たる、「磔刑級の人間こそが救われる」という転倒夢想を押し広める
聖書信仰こそは、聖道門の自力仏教をこの世から絶やすほどもの乱世をもたらすものだから、自動的に、聖道門の
菩薩行によって磔刑級の人間が救われる余地も絶やされる。真理とはそもそも、そういう風にできているのである。
「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の四に、菩薩がイエスとほぼ同等の受刑の代行によって
死刑囚を救うという記述がある。しかし、菩薩は受刑を肩代わりすることで死んで生き返る
わけではないし、冤罪の引き受けが新たな犯罪現象の拡大にも加担しかねないことを半ば了解し、
それによって生じた全ての犯罪現象の責任すらをも、代わりに負っていくのだという。
それでいてそれは、「一切衆生を救護せんがため」なのだという。
高台に縛り上げられて、槍で突き通されて死ななければならなくなるような重罪人こそを救うためではなく、
それほどもの重罪人を含む、あらゆる衆生を救わんがためにこそ、重罪人の受刑すらも肩代わりするという。
冤罪で十字架にかけられたヒゲで半裸のおっさんを、特定して信じるから救われるなんてことは決してない。
ただ、それほどにも無様な輩を含む一切の衆生を、聖道門の菩薩が救うということはある。
むしろそれこそは、聖道門の菩薩の責務でもある。五逆や誹謗正法に及んだだけで救済の対象から外される
他力の浄土門などではなく、厳しい出家修行に自らが臨んで行く聖道門においてこそ、
尊属殺人犯級の重罪人すらをも救っていくことが義務とされていくのである。
これが、新約犯罪聖書が書かれた約1900年前、ほぼ同時期に書かれた「華厳経」の一節である。
十字架によってこそ救われるなどという選民志向の妄信すら捨て去ったなら、そのような邪信に溺れることで
自らが本当に磔刑級の重罪を犯してしまった人間までをも、聖道門の菩薩が救済していってやるのだと、
新約がでっち上げられた最初期の頃から、すでにインドに誓約されていたのである。
「磔刑級の人間ですら救われる」の真逆に当たる、「磔刑級の人間こそが救われる」という転倒夢想を押し広める
聖書信仰こそは、聖道門の自力仏教をこの世から絶やすほどもの乱世をもたらすものだから、自動的に、聖道門の
菩薩行によって磔刑級の人間が救われる余地も絶やされる。真理とはそもそも、そういう風にできているのである。
「華厳経」の十回向品には、一切衆生が無上の智慧に与ることを菩薩が希う記述もまた多々ある。
菩薩は自らの活動によって愚民をこの世から絶やし、君子が小人を先導していく儒学統治以上にも、
誰しもが違逆なき最高智の持ち主となるように努めるのである。それは当然、被支配者である衆生を
ゴイム(家畜)も同然の存在と化す犯罪聖書による支配の下などでは、決して実現し得ないことである。
だからやはり、犯罪聖書への信仰やその実践と、聖道門の信仰やその実践は全く両立し得ないことが分かる。
結局、聖道門の自力仏教を広めていくためにもやはり、聖書信仰を禁止して、儒学による最低限の治世を
実現する必要があり、自力仏教の流布はそこから先の話になる。歴史的には、儒学と仏教が異教異学として
対立関係にあったこともなくはないが、決して利害関係が完全に相反していたわけではなく、それなりに
両立し得るところがあった。しかし、聖書信仰は儒学と自力仏教、いずれとも決定的な排他関係にあり、
いずれかを立てる以上はもう一方が決して立てられはしなくなるものだから、聖書信仰という共通の宿敵を
退治するための協力が、儒学と仏教の間で現時点では可能となっている。厳密には在俗主義と出家主義
という実践面での相違が両者にはあるから、聖書信仰撲滅の後に、両者がまた分裂することも予想される。
「席正しからざれば、坐せず」
「よく席が正されているのでなければ、座らない。
(冤罪磔刑者への信仰によって選別的に座らされる王座などは、不正な座席である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・九)
菩薩は自らの活動によって愚民をこの世から絶やし、君子が小人を先導していく儒学統治以上にも、
誰しもが違逆なき最高智の持ち主となるように努めるのである。それは当然、被支配者である衆生を
ゴイム(家畜)も同然の存在と化す犯罪聖書による支配の下などでは、決して実現し得ないことである。
だからやはり、犯罪聖書への信仰やその実践と、聖道門の信仰やその実践は全く両立し得ないことが分かる。
結局、聖道門の自力仏教を広めていくためにもやはり、聖書信仰を禁止して、儒学による最低限の治世を
実現する必要があり、自力仏教の流布はそこから先の話になる。歴史的には、儒学と仏教が異教異学として
対立関係にあったこともなくはないが、決して利害関係が完全に相反していたわけではなく、それなりに
両立し得るところがあった。しかし、聖書信仰は儒学と自力仏教、いずれとも決定的な排他関係にあり、
いずれかを立てる以上はもう一方が決して立てられはしなくなるものだから、聖書信仰という共通の宿敵を
退治するための協力が、儒学と仏教の間で現時点では可能となっている。厳密には在俗主義と出家主義
という実践面での相違が両者にはあるから、聖書信仰撲滅の後に、両者がまた分裂することも予想される。
「席正しからざれば、坐せず」
「よく席が正されているのでなければ、座らない。
(冤罪磔刑者への信仰によって選別的に座らされる王座などは、不正な座席である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・九)

「土地がもたらす利益がどんなに大きくとも、人がよく和していることには及ばない。
(外界侵略によって争いの種ばかりを撒き散らした欧米聖書圏の所業は、わずかな人の和ほどの価値もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一より)
敗戦後、日本の関東軍や満蒙開拓団による大陸への遠征が「点と線の征服だった」と揶揄されていたが、
実際には広大な大陸に対して面積規模の開拓を敷き、満州帝国における莫大な工業発展をも実現していた。
それほどにも、関東軍や日本の入植者による開拓が本格的であったればこそ、敗戦持の撤退で
非常な錯綜が巻き起こり、撤退に遅れた入植者に対するソ連兵や中国兵の虐待、日本人の親に
置き去りにされた残留孤児、そして数多の日本兵のシベリアへの抑留といった大問題をも呈したのだった。
むしろ、外界に対して「点と線」の侵略や遠征ばかりをやって来たのが、大航海時代から帝国主義時代に
かけての欧州の聖書圏、「世界の警察」を気取るアメリカ軍や、戦後の日本の資本主義者たちである。
ただ自国の富裕層に暴利を呼び込むためばかりに行われた、近代までの聖書圏による世界中への
植民地支配の拡大は、どこまでも外界の荒廃ばかりをもたらしてきた。国としての征服地域はフィリピンや
ハワイやグアムなどのごく一部に止まるものの、軍役によって日本や朝鮮やベトナム、アフガンや
イラクなどの諸国に多大なる損害をもたらして来たアメリカもまた、ただ被害国を破壊して回るばかりで、
侵攻する以前よりも劣化した社会情勢を当地にもたらし続けているばかりのこと。そして、日本の今の
大企業グループなどの資本主義勢力も、企業としての収益を上げたいがために中国や東南アジアなどへと
進出はするものの、あくまで企業としての利益が本位だから、進出地域の労働者教育なども疎かとし、
特に戦前の開拓を再利用できる中国において、中国人に「昔取った杵柄」での我流の工場経営などを
任せきりにしていることから、昔の技術で今の工業を扱ってしまっているがための深刻な薬品汚染や
不審な爆発事故、極度に劣悪な環境下での生産労働などを催させることとなってしまっているのである。

「人の足は土地を踏みしめるためにあるが、一生踏みしめ尽くすことの
できない広大な土地があればこそ、土地を踏みしめていくことができる」
(「荘子」雑篇・徐無鬼第二十四・一四より)
自国の統治に専念する王道と、外界への遠征に及ぶ覇道とでは、本質的に王道が優等なものである。
それは、覇道によってはどうしても、遠征先の国々の面積規模に渡る十分な統治が疎かになってしまうからで、
それにより侵略しない場合以上もの、世相の荒廃や民度の低下をも招いてしまいかねないからだ。
戦前の日本による満蒙開拓は、一応清帝国の皇帝でもあった溥儀を満州国の皇帝とし、
日本人も委託という体裁を保っての開拓に臨んだから、植民地支配の場合などにはあり得ないほどもの
工業インフラの充実をももたらした。その引き換えに、敗戦の撤退時における深刻な錯綜も起こり、
中共による満州のインフラ強奪後には、インフラの発展も完全に滞ったわけだが、それでも、
戦前の日本人による王道に即した満州の開拓が「点と線」などではない充実した規模だったからこそ、
今日に至る中国生産の爆発的な発展をももたらしたのである。それにより、欧米経済の空洞化からなる
破綻をももたらしたのだから、これは、王道が覇道を淘汰した現象の端緒であるということがいえる。
あまりにも多くの犠牲をはじき出しつつの辛勝であり、なかなか素直に喜べもしない所が、今はまだ大きい。
王道による覇道の撃退後にも、まだまだしなければならない後始末は山積しているのだといえる。
陰陽法則でいえば、天が陽で地が陰。
男が陽で女が陰であり、男女は全く別種の生き物であるのと同じように、
天と地もまた異質な存在同士であり、また異質である所にこそ調和の途までもがある。
陰と陽が同等のものとして扱われたり、また一方がもう一方と比べての極端な差別下に
置かれたりすることが「陰陽不全」となる。健全な陰陽関係たる陽唱陰和と比べて、上記のような
陰陽不全に固執するものは、必ず劣性となる。男女平等を謳いすぎるあまり、人工の停滞や少子高齢化、
それによる移民の受け入れすぎといった問題を呈している欧米先進国や日本などが、男尊女卑が未だ
基本である中国やインドや中東などに、人口面や社会構成面での劣勢に立たされているのがその一例である。
天と地の陰陽関係を不全化する犯罪聖書の邪義が人間社会に及ぼしている悪影響の実例といえば、
何といっても人格神の実在性への狂信からなる、人々の側の身の程知らずな思い上がりの激化である。
聖書信者が致命的な思い上がりを募らせているのはもちろんのこと、聖書信者を
自認しない日本人などもまた、自由主義や民主主義や資本主義といった聖書圏特産の
イデオロギーに精神を毒されて、ひどい思い上がりを募らせてしまったいる場合が多い。
その思い上がりが、自らを神も同然の存在と思い込んでの、実質上の国際権力犯罪をも激化させ、
よって人類を滅亡の危機へとも追いやる元凶となっている。まさに、犯罪聖書の邪義の流布による、
天地の陰陽の不全化こそは、人類を滅亡の危機に追いやっている元凶中の元凶でもあるのだといえる。
男が陽で女が陰であり、男女は全く別種の生き物であるのと同じように、
天と地もまた異質な存在同士であり、また異質である所にこそ調和の途までもがある。
陰と陽が同等のものとして扱われたり、また一方がもう一方と比べての極端な差別下に
置かれたりすることが「陰陽不全」となる。健全な陰陽関係たる陽唱陰和と比べて、上記のような
陰陽不全に固執するものは、必ず劣性となる。男女平等を謳いすぎるあまり、人工の停滞や少子高齢化、
それによる移民の受け入れすぎといった問題を呈している欧米先進国や日本などが、男尊女卑が未だ
基本である中国やインドや中東などに、人口面や社会構成面での劣勢に立たされているのがその一例である。
天と地の陰陽関係を不全化する犯罪聖書の邪義が人間社会に及ぼしている悪影響の実例といえば、
何といっても人格神の実在性への狂信からなる、人々の側の身の程知らずな思い上がりの激化である。
聖書信者が致命的な思い上がりを募らせているのはもちろんのこと、聖書信者を
自認しない日本人などもまた、自由主義や民主主義や資本主義といった聖書圏特産の
イデオロギーに精神を毒されて、ひどい思い上がりを募らせてしまったいる場合が多い。
その思い上がりが、自らを神も同然の存在と思い込んでの、実質上の国際権力犯罪をも激化させ、
よって人類を滅亡の危機へとも追いやる元凶となっている。まさに、犯罪聖書の邪義の流布による、
天地の陰陽の不全化こそは、人類を滅亡の危機に追いやっている元凶中の元凶でもあるのだといえる。
この宇宙で生物が生息している可能性が高いのは、地球のような環境条件を持つ惑星である。
それは宇宙の果てまで行っても同じことで、人間を含む生物の住まう場所は、基本「地」である。
天上の法則が地上に落とし込まれて人間ができたのではなく、地上の有機物の、ありのままの
複雑な構造化として、人間のような高等生物もまた生じたのである。もちろん、天から
降り注がれた日光のエネルギーを得ることにより、自然生物の育成もまた成し得ているわけだが、
それは決して、「天の構造物的理念」の落とし込みなどではない。地上の有機物の構造的な法則が、
日光という一概なエネルギーを糧にすることで独自に発展し、知能を持つ生物までをも生み出したのだから、
天の神に似て地上の人が造られたのでも、天の神が人を作ったのでもなく、天からはエネルギーだけを
授かることで、地上の側が独自に人間のような高等生物をも造り上げたというのが、科学的に明らかなのである。
上記のような、人間に対する天地の関係は、子に対する父母の関係にも酷似していることから、
陰陽上からも天が父、地が母ともされる。天にも地にもそれぞれ父母がいるのではなく、
天という父と地という母が相交わることで、子たる人もまた生まれたのであるといえる。
天地を丸ごと一家として捉える陰陽思想と比べて、天地をそもそも別個の同質物として捉える
犯罪聖書の邪義の、何とよそよそしいこと。そのよそよそしさが実際の天下国家に適用されたなら、
何一つとしてうまくいくことがなくなるのも、それと引き換えに天地の陽唱陰和が破綻するからなのだし。
「夫れ君子の過ぎる所は化し、存る所は神まり、上下、天地と流れを同じくす」
「君子が通り過ぎる所は、それだけでも民が徳化され、居座るところでは、よく治まる。
人々の上下関係が天地と流れを同じくして、誰しもがよく調和するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一四より)
それは宇宙の果てまで行っても同じことで、人間を含む生物の住まう場所は、基本「地」である。
天上の法則が地上に落とし込まれて人間ができたのではなく、地上の有機物の、ありのままの
複雑な構造化として、人間のような高等生物もまた生じたのである。もちろん、天から
降り注がれた日光のエネルギーを得ることにより、自然生物の育成もまた成し得ているわけだが、
それは決して、「天の構造物的理念」の落とし込みなどではない。地上の有機物の構造的な法則が、
日光という一概なエネルギーを糧にすることで独自に発展し、知能を持つ生物までをも生み出したのだから、
天の神に似て地上の人が造られたのでも、天の神が人を作ったのでもなく、天からはエネルギーだけを
授かることで、地上の側が独自に人間のような高等生物をも造り上げたというのが、科学的に明らかなのである。
上記のような、人間に対する天地の関係は、子に対する父母の関係にも酷似していることから、
陰陽上からも天が父、地が母ともされる。天にも地にもそれぞれ父母がいるのではなく、
天という父と地という母が相交わることで、子たる人もまた生まれたのであるといえる。
天地を丸ごと一家として捉える陰陽思想と比べて、天地をそもそも別個の同質物として捉える
犯罪聖書の邪義の、何とよそよそしいこと。そのよそよそしさが実際の天下国家に適用されたなら、
何一つとしてうまくいくことがなくなるのも、それと引き換えに天地の陽唱陰和が破綻するからなのだし。
「夫れ君子の過ぎる所は化し、存る所は神まり、上下、天地と流れを同じくす」
「君子が通り過ぎる所は、それだけでも民が徳化され、居座るところでは、よく治まる。
人々の上下関係が天地と流れを同じくして、誰しもがよく調和するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一四より)
極端な覚醒状態の躁も、その反動としての鬱も、どちらも誉められたものじゃない。
白昼にはよく目を覚ましてしっかり働き、夜間にはぐっすり眠り込む、
日月の運行に沿ったバイオリズムの管理が人間にとって最も適切であることを
孔子も宰我の昼寝への非難によって肯んじ、孟子も告子章句上・八の昼夜論などで示唆している。
信仰は自らの足でしっかり地に足を付けて立てるような人間ではなく、
もとより何かに依存しながらでしか生きられない弱者こそが拠り所とするもの。
自力作善の能力に長ける丈夫などが信仰に専らであったりしたら、かえって自らの能力を損なうもの。
しょせん自助努力など覚束ない女子供や生粋の小人が、そうであることをよく自覚した上で、
恭しい他力依存の手段とすべきなのが信仰であり、信仰を自己正当化の手段などにしてはならない。
生存欲が旺盛であるということは、根本的に惰弱なこと。在俗の権力学たる儒学でも、
世のため人のために身を挺すことが雄々しいこととされ、仏門に至っては本当に出家によって
俗人としての人生を捨ててしまうことが大雄の選択として推奨される。生存欲がたらたらなのも
やっぱり女子供や小人の領分であり、浄土門の坊主も禅僧や密教僧よりよく長生きする。それに、
聖賢ですら生存欲がないなんてことはないわけで、ただそれが惰弱さの種であることをよく
わきまえて、ことに臨むに及んで超克の対象とする覚悟のほうなどをかえって養うのである。
愛欲もまた、時に断ち切らねばならない時があるもの。人として生まれたならば、愛欲が
全くないなんてことのほうが不健全なわけで、時にそれは、乾燥した野原に一挙に燃え広がる
大火事のようにすら激化するもの。その愛欲を十分に制御の対象として、悪用せずに善用する能力を
養ってこその英雄でもあり、愛欲にまみれて為すべきことも為せなくなる所にこそ、ひ弱の極みもまたある。
白昼にはよく目を覚ましてしっかり働き、夜間にはぐっすり眠り込む、
日月の運行に沿ったバイオリズムの管理が人間にとって最も適切であることを
孔子も宰我の昼寝への非難によって肯んじ、孟子も告子章句上・八の昼夜論などで示唆している。
信仰は自らの足でしっかり地に足を付けて立てるような人間ではなく、
もとより何かに依存しながらでしか生きられない弱者こそが拠り所とするもの。
自力作善の能力に長ける丈夫などが信仰に専らであったりしたら、かえって自らの能力を損なうもの。
しょせん自助努力など覚束ない女子供や生粋の小人が、そうであることをよく自覚した上で、
恭しい他力依存の手段とすべきなのが信仰であり、信仰を自己正当化の手段などにしてはならない。
生存欲が旺盛であるということは、根本的に惰弱なこと。在俗の権力学たる儒学でも、
世のため人のために身を挺すことが雄々しいこととされ、仏門に至っては本当に出家によって
俗人としての人生を捨ててしまうことが大雄の選択として推奨される。生存欲がたらたらなのも
やっぱり女子供や小人の領分であり、浄土門の坊主も禅僧や密教僧よりよく長生きする。それに、
聖賢ですら生存欲がないなんてことはないわけで、ただそれが惰弱さの種であることをよく
わきまえて、ことに臨むに及んで超克の対象とする覚悟のほうなどをかえって養うのである。
愛欲もまた、時に断ち切らねばならない時があるもの。人として生まれたならば、愛欲が
全くないなんてことのほうが不健全なわけで、時にそれは、乾燥した野原に一挙に燃え広がる
大火事のようにすら激化するもの。その愛欲を十分に制御の対象として、悪用せずに善用する能力を
養ってこその英雄でもあり、愛欲にまみれて為すべきことも為せなくなる所にこそ、ひ弱の極みもまたある。
目を覚ましていること、信仰を持つこと、自らの足でしっかりと立つこと、生存欲があること、
雄々しくあること、そして愛があること、いずれも人間にとって決してあってならないものなどではない。
扱い方によっては善徳の増進にすら貢献できる、人としてのあり方ばかりなのに、犯罪聖書ときたら、
ことごとくその全ての扱い方を間違え尽くしていて、故に、何一つとしてよくなることがありもしない。
四書五経や仏典と比べて、犯罪聖書が特に異様な題材を取り扱っていたりすることは全くない。
その全ての題材が四書五経以内の四書五経以下であり、また仏典以内の仏典以下でしかない。そして、
犯罪聖書が四書五経以下の仏典以下である要素として、諸々の題材の取り扱い方の致命的な間違い通しがある。
犯罪聖書の記述の過ちを直接的な反駁の対象とした書物といえば、何といってもコーランが代表格である。
コーランの犯罪聖書に対する反駁の仕方が軒並み正しいから、コーランの信仰者であるムスリムは、
犯罪聖書で取り扱っているような題材を元から正しく取り扱っている、四書五経や仏典の実践者や信仰者と
近似したあり方を自然と具えるようにもなっている。犯罪聖書で取り扱っている題材を、正しく扱っている
人々は極めて雑多で、ただ一つの教学にのみ従っているなどということもない。その雑多さを聖書信者が
忌み嫌ったりすることもあるわけだが、雑多であってもそれなりに正しいものと、純一であっても
間違い通しであるものとでは、当然、雑多でも正しいもののほうが、マシ以上であるに決まってる。
「子曰く、吾れ嘗て終日食わず、終夜寝ず。以て思う、益無しと。学ぶに如かざるなり」
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると、無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)
雄々しくあること、そして愛があること、いずれも人間にとって決してあってならないものなどではない。
扱い方によっては善徳の増進にすら貢献できる、人としてのあり方ばかりなのに、犯罪聖書ときたら、
ことごとくその全ての扱い方を間違え尽くしていて、故に、何一つとしてよくなることがありもしない。
四書五経や仏典と比べて、犯罪聖書が特に異様な題材を取り扱っていたりすることは全くない。
その全ての題材が四書五経以内の四書五経以下であり、また仏典以内の仏典以下でしかない。そして、
犯罪聖書が四書五経以下の仏典以下である要素として、諸々の題材の取り扱い方の致命的な間違い通しがある。
犯罪聖書の記述の過ちを直接的な反駁の対象とした書物といえば、何といってもコーランが代表格である。
コーランの犯罪聖書に対する反駁の仕方が軒並み正しいから、コーランの信仰者であるムスリムは、
犯罪聖書で取り扱っているような題材を元から正しく取り扱っている、四書五経や仏典の実践者や信仰者と
近似したあり方を自然と具えるようにもなっている。犯罪聖書で取り扱っている題材を、正しく扱っている
人々は極めて雑多で、ただ一つの教学にのみ従っているなどということもない。その雑多さを聖書信者が
忌み嫌ったりすることもあるわけだが、雑多であってもそれなりに正しいものと、純一であっても
間違い通しであるものとでは、当然、雑多でも正しいもののほうが、マシ以上であるに決まってる。
「子曰く、吾れ嘗て終日食わず、終夜寝ず。以て思う、益無しと。学ぶに如かざるなり」
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると、無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)
うむ、相変わらずのバカだw
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