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聖書 Part7
▼ページ最下部
「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「子、子産を謂う。『君子の道四つ有り。其の己れを行うや恭、其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義』」
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「罪を犯した罰」などという不正な理由で民を強制的に使役して、
権力者にとってこそ恵みとなる莫大な収益を挙げさせることを義とする旧約や法家の考えも誤りなら、
信者の原罪をイエスが代わりに背負って、使役を強制されなくとも恵みが得られることを義とするキリシタンの考えも誤り。
道義に根ざした労役に民を従事させることで、よく働いてくれたに
相応の恵みを権力者が民に施すことが正義にかなっている。
そもそも「労役が道義にかなっているかどうか」という観点が、聖書信仰や法家には全く抜け落ちていて、
道義にかなわない使役にばかり民を従事させたりすれば、自分たちのほうが権力犯罪者になってしまうことも全く了解していない。
むしろ「働かないことが罪だ」などという間違った思い込みによって、
使役への徴発に応じない人間を罪人や病人扱いしたりする。
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「罪を犯した罰」などという不正な理由で民を強制的に使役して、
権力者にとってこそ恵みとなる莫大な収益を挙げさせることを義とする旧約や法家の考えも誤りなら、
信者の原罪をイエスが代わりに背負って、使役を強制されなくとも恵みが得られることを義とするキリシタンの考えも誤り。
道義に根ざした労役に民を従事させることで、よく働いてくれたに
相応の恵みを権力者が民に施すことが正義にかなっている。
そもそも「労役が道義にかなっているかどうか」という観点が、聖書信仰や法家には全く抜け落ちていて、
道義にかなわない使役にばかり民を従事させたりすれば、自分たちのほうが権力犯罪者になってしまうことも全く了解していない。
むしろ「働かないことが罪だ」などという間違った思い込みによって、
使役への徴発に応じない人間を罪人や病人扱いしたりする。
働かないことは、別に罪ではない。
全く働かないで怠惰を決め込んでいれば、自業自得で野垂れ死にするだけで、それは確かに愚か者ではあるが、罪ではない。
消極的な生活からなる情念の衰微を楽しむのも一つの風流であり、ある程度の範囲に限るんなら、むしろ嗜むべきものですらある。
権力者が「民を養う」と呼ぶに値する状態とは、権力者が道義にかなった使役にのみ民を従事させて、それによって得られた収益で
民に恵みを施すという条件を満たしている状態のことであって、この場合にだけ、権力者はいないよりもいるほうがマシな存在となる。
権力者が道義にもかなわない使役を多く民に強制して、それによって得られた収益のほとんど全てを自分たち権力者だけで独占し、
民にはせいぜい生き延びていられる程度の些少な恵みを施したり施さなかったりするだけというのであれば、それは「民を牧する」
とでも言った状態であり、民の立場からいえば、そんな権力者は百害あって一利もない、いるよりもいなほうがマシな存在である。
民を養うことこそは権力道徳に適う一方で、民を牧することは権力犯罪に相当する。
このうちの、権力道徳をありのままに体系化したのが真正聖書たる四書五経である一方で、
権力犯罪を体系化したのが法家の書「韓非子」であり、さらに正当化や美化を踏まえつつ権力犯罪を
推進していく方法までをも体系化したのが新旧約聖書だといえる。そのため、四書五経の副題は
「権力道徳聖書」とするのが相応しい一方で、新旧約聖書の副題は「権力犯罪聖書」とするのが相応しい。
(「韓非子」は「聖書」と呼ぶに値するほどできた書物でもない)この世の中のあり方としては、
権力道徳聖書たる四書五経の体系を模範として、権力犯罪聖書たる新旧約や「韓非子」の体系を
模範とせず、なるべくその記述に沿わないように心がけていくことが理想である。
理想が現実化できるかどうかはともかくとして、確かにそれが、本物の理想ではある。
全く働かないで怠惰を決め込んでいれば、自業自得で野垂れ死にするだけで、それは確かに愚か者ではあるが、罪ではない。
消極的な生活からなる情念の衰微を楽しむのも一つの風流であり、ある程度の範囲に限るんなら、むしろ嗜むべきものですらある。
権力者が「民を養う」と呼ぶに値する状態とは、権力者が道義にかなった使役にのみ民を従事させて、それによって得られた収益で
民に恵みを施すという条件を満たしている状態のことであって、この場合にだけ、権力者はいないよりもいるほうがマシな存在となる。
権力者が道義にもかなわない使役を多く民に強制して、それによって得られた収益のほとんど全てを自分たち権力者だけで独占し、
民にはせいぜい生き延びていられる程度の些少な恵みを施したり施さなかったりするだけというのであれば、それは「民を牧する」
とでも言った状態であり、民の立場からいえば、そんな権力者は百害あって一利もない、いるよりもいなほうがマシな存在である。
民を養うことこそは権力道徳に適う一方で、民を牧することは権力犯罪に相当する。
このうちの、権力道徳をありのままに体系化したのが真正聖書たる四書五経である一方で、
権力犯罪を体系化したのが法家の書「韓非子」であり、さらに正当化や美化を踏まえつつ権力犯罪を
推進していく方法までをも体系化したのが新旧約聖書だといえる。そのため、四書五経の副題は
「権力道徳聖書」とするのが相応しい一方で、新旧約聖書の副題は「権力犯罪聖書」とするのが相応しい。
(「韓非子」は「聖書」と呼ぶに値するほどできた書物でもない)この世の中のあり方としては、
権力道徳聖書たる四書五経の体系を模範として、権力犯罪聖書たる新旧約や「韓非子」の体系を
模範とせず、なるべくその記述に沿わないように心がけていくことが理想である。
理想が現実化できるかどうかはともかくとして、確かにそれが、本物の理想ではある。
聖者は、何時の時代にも生まれる。
でも、神の物語にはならない。
イエスは生まれ、その人生の全て、言葉の全て、行為の全てが神の物語になった。
蔑まれた女との出会いが、永遠に人々の心を打つ。
迫害者の前に立たされて下役人に殴られ、罵声を浴びせられても、人々の心を動かす。
一つの世界に、一つの時代に、神の物語はただひとつだけ生まれるのだと思う。
神の物語は、他の誰かの助けを必要としないからだ。
神の位のものはそれを知っているので、同じ時代には降りてこないのだと思う。
今は、まだ、イエスの物語の時代のように思う。
でも、神の物語にはならない。
イエスは生まれ、その人生の全て、言葉の全て、行為の全てが神の物語になった。
蔑まれた女との出会いが、永遠に人々の心を打つ。
迫害者の前に立たされて下役人に殴られ、罵声を浴びせられても、人々の心を動かす。
一つの世界に、一つの時代に、神の物語はただひとつだけ生まれるのだと思う。
神の物語は、他の誰かの助けを必要としないからだ。
神の位のものはそれを知っているので、同じ時代には降りてこないのだと思う。
今は、まだ、イエスの物語の時代のように思う。
削除(by投稿者)
新旧約犯罪聖書の邪義に洗脳されたブラックアフリカの飢餓民たちも、
濁愛を正当化推進する犯罪聖書の邪義によってエイズまみれの乱交を繰り返し、
世界人口を等比級数的に肥大化させる温床となっている。
これ以上世界人口が増大することで不幸になる人間こそあれど、
幸福になる人間など一人もいない。
つまり、これからも新旧約犯罪聖書を信仰し続けることで
幸福になる人間は、この世界に一人もいない。
濁愛を正当化推進する犯罪聖書の邪義によってエイズまみれの乱交を繰り返し、
世界人口を等比級数的に肥大化させる温床となっている。
これ以上世界人口が増大することで不幸になる人間こそあれど、
幸福になる人間など一人もいない。
つまり、これからも新旧約犯罪聖書を信仰し続けることで
幸福になる人間は、この世界に一人もいない。

これまた質でも量でも古さでも新旧約聖書を上回る、四書五経並みかそれ以上もの権威を備えた聖書だといえる。
しかし、ヴェーダは祭司階級たるバラモンが口伝で継承していくことのみが正統とされ、
文書に起こされた時点ですでにその権威にほころびが生じるとすらされる。
「書」という媒体に情報伝達を頼るのは、それ自体が卑俗的なことであり、
世俗か超俗かで言えば世俗において用いることを念頭に置かれるもの。新旧約聖書にも
「俗世での権力犯罪の正当化と推進」という明確な目的が備わっていて、それでいて「神」とされている
ものを取り扱っている。その心は、権力犯罪の推進を神がかりに見立てて正当化するということであり、
「神の物語の悪用」でしかないために、神の物語としてですら異端である上に、虚構なのである。
俗世での情報伝達を目的とした文書としての聖書が、権力犯罪に悪用するために
神の物語を引き合いに出したりすることがすでに悪質なことで、そういった小細工を一切排して、
実質社会の問題の論及に徹していることもまた、四書五経こそが聖書中の聖書たる所以でもあるといえる。
「父命じて呼ぶときは、唯して諾せず、手に業を執るときは
則ち之れを投ぐ、食の口に在るときは則ち之れを吐く、走りて趨らず」
「父が命じて呼ぶときには、恭しくして驕慢にならず、何かやっている業があったらただちに投げ捨て、
口に食べ物を含んでいればこれを吐き、大股にならないよう小走りで急いで父の元に赴く。
(イエスの言行にはこういった実父との関係ならではの実質性が全く垣間見られない。
脳内で捏造した父の教えに基づく業など、実の父が呼ぶときには直ちに投げ捨てねばならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
削除(by投稿者)

エホバやイエスは東洋でいう天界に属さない。「地獄界」や「鬼畜界」に
属する邪神であり、東洋人が伝統的にそれを神として扱ってきた事実すらない。
聖書圏でいう「神」は、東洋でいう「鬼畜」であり、
鬼畜が神のフリをした邪神であるのみ。だからそれを神と見なすことからして、
今までの東洋での「神」という定義を毀損する暴行となり、それもまた一つの罪となる。
東洋の神と聖書圏の邪神を比較するのなら、「エホバやキリストは本質的には鬼畜であり、
神ですらない」という大前提の下に、東洋の神とも比較しなければ色々と辻褄が合わなくなる。
それ以前に、鬼畜は妖怪などと同等のものとして扱うべきものであり、神と同等のものとして
比較しようとしたりすることからしてすでに失礼なこと。失礼なことだから、そりゃあ罰も当たる。
イエス自身が十字架にかけられるだけでなく、イエスを信じるような鬼畜神倒錯者もまた罰が当たる。
「君、弁言を以って旧政を乱す罔く、臣、寵利を以って成功に居る罔くんば、邦、其れ永く休に孚せん」
「主君が罪人の弁護などを聞き入れて旧来の政治を乱したりすることがなく、臣下が主君からの
寵愛や利権にかられて成功を得たりすることがなければ、邦家も恒久に渡って安泰でありましょう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)
権力道徳社会には、裁判というものはない。裁判官即ち検察官であり、罪を糾弾するものが直ちに
罰を科し、罪人やその弁護者の言い分を聞き入れたりすることもない。それでいて罪人に罰を科す
法官自身もまた非常に低い身分に置かれ、裁きが不正であるような場合には、本人自身にも厳しい
制裁が加えられる。官吏同士での上下関係が厳格化される、封建社会ならではのシステムだといえる。
法官やその上に立つ官吏たち自身が、一人一人で独立して民の裁判官であり、検察官であり、弁護士でもある。
民を庇護したり罰したりすることにかけて一人一人が全身全霊をかけて、姑息な分業なども踏まえない。
確かにそれは今の官公庁に勤めている法官やその他公務員にはできないことかも知れないが、かといって
稀代の大聖人でもなければ絶対に務まらないことでもない。儒学に代表される権力道徳の学問を
よく学んで、半ば杓子定規気味にでもその実践に務めたならば、聖人や賢人とまではいかない、
ただの善い人程度であっても、徳治社会の君子の末席に加えられる程度のことは可能になる。
では、その善人が今の世にも十分な数存在しているかどうかといえば、当然存在しているといえる。
相当に大きな綻びを来たしつつも、世の中の大部分が未だに保たれているのがその証拠。
我田引水ばかりに奔走し続ける悪人どもよりも十分に多くの数の善人がこの世の中にいるから、
悪人の我田引水を許容しながらも、未だこの世が保たれている。問題なのは、我田引水の特権を得ているような
悪人こそは、今の権力機構に深く取り入っている場合が多いことで、善人に世の中の統治を任せるためには、
いま権力機構に群がっている悪人をまず退場させなければならない。最悪の場合、流血革命にすら
なりかねないその際どい一線を乗り越えて、その先に平穏な時代へと着地できるかどうかが鍵だといえる。
「主君が罪人の弁護などを聞き入れて旧来の政治を乱したりすることがなく、臣下が主君からの
寵愛や利権にかられて成功を得たりすることがなければ、邦家も恒久に渡って安泰でありましょう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)
権力道徳社会には、裁判というものはない。裁判官即ち検察官であり、罪を糾弾するものが直ちに
罰を科し、罪人やその弁護者の言い分を聞き入れたりすることもない。それでいて罪人に罰を科す
法官自身もまた非常に低い身分に置かれ、裁きが不正であるような場合には、本人自身にも厳しい
制裁が加えられる。官吏同士での上下関係が厳格化される、封建社会ならではのシステムだといえる。
法官やその上に立つ官吏たち自身が、一人一人で独立して民の裁判官であり、検察官であり、弁護士でもある。
民を庇護したり罰したりすることにかけて一人一人が全身全霊をかけて、姑息な分業なども踏まえない。
確かにそれは今の官公庁に勤めている法官やその他公務員にはできないことかも知れないが、かといって
稀代の大聖人でもなければ絶対に務まらないことでもない。儒学に代表される権力道徳の学問を
よく学んで、半ば杓子定規気味にでもその実践に務めたならば、聖人や賢人とまではいかない、
ただの善い人程度であっても、徳治社会の君子の末席に加えられる程度のことは可能になる。
では、その善人が今の世にも十分な数存在しているかどうかといえば、当然存在しているといえる。
相当に大きな綻びを来たしつつも、世の中の大部分が未だに保たれているのがその証拠。
我田引水ばかりに奔走し続ける悪人どもよりも十分に多くの数の善人がこの世の中にいるから、
悪人の我田引水を許容しながらも、未だこの世が保たれている。問題なのは、我田引水の特権を得ているような
悪人こそは、今の権力機構に深く取り入っている場合が多いことで、善人に世の中の統治を任せるためには、
いま権力機構に群がっている悪人をまず退場させなければならない。最悪の場合、流血革命にすら
なりかねないその際どい一線を乗り越えて、その先に平穏な時代へと着地できるかどうかが鍵だといえる。
最後の審判自体は実際にあるとして、その審判で聖書信仰は敗北する。
敗北するから、新旧約聖書に書かれているような形での終末はやってこない。
終末思想自体がアブラハム教の所産なので、聖書信仰と比べての勝者となる
イスラムの聖典でるコーランの記述に即した終末が来るのかといえば、
確かにコーラン中の寓意に根ざした終末がやってくるとはいえる。
アブラハム教は全て啓示宗教であり、現実をありのままに把捉した教義は
持たないので、やはりコーランの記述ありのままの終末がやって来るともいえない。
ほぼありのままの終末を記録しているのが、非アブラハム教の聖書である四書五経。
最後の審判の敗者である聖書信仰の対象である新旧約聖書と真逆の記述で構成され、
なおかつ啓示宗教に特有の遠まわしな記述などを一切排した、諸法実相の記録となっている。
そのため終末の描写としては、イスラムのコーラン以上にも実際に忠実なものとなっている。
アブラハム教信仰の終末を最も忠実に記録していたのが四書五経で、実際的ではないが
遠まわしの寓意としては間違っていなかったのがコーランで、実質に忠実なわけでも
なければ、寓意としても間違い通しだったのが新旧約聖書である。実際としては
四書五経よりも不正確で、寓意としてもコーランより不正確な新旧約聖書は、
アブラハム信仰の終末から最もかけ離れた終末の予言だけをしているといえる。
親子兄弟の殺し合いまで予言している、その記述が全く以って叶えられないのは、
すでに相当にシラフに返っている聖書圏の人間としても、安堵することなんじゃないか。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ」
「常日ごろからまだ分からないことを知ろうとし、覚えたことも忘れないでいようとする、
学問を好む姿だといえる。(聖書信者は勉強嫌いで、平常は聖書の記述すら忘れ去っている。
蒙昧で何の役にも立たないクセに無駄に冗長な犯罪聖書の記述は、確かに学問嫌いも誘発する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五より)
敗北するから、新旧約聖書に書かれているような形での終末はやってこない。
終末思想自体がアブラハム教の所産なので、聖書信仰と比べての勝者となる
イスラムの聖典でるコーランの記述に即した終末が来るのかといえば、
確かにコーラン中の寓意に根ざした終末がやってくるとはいえる。
アブラハム教は全て啓示宗教であり、現実をありのままに把捉した教義は
持たないので、やはりコーランの記述ありのままの終末がやって来るともいえない。
ほぼありのままの終末を記録しているのが、非アブラハム教の聖書である四書五経。
最後の審判の敗者である聖書信仰の対象である新旧約聖書と真逆の記述で構成され、
なおかつ啓示宗教に特有の遠まわしな記述などを一切排した、諸法実相の記録となっている。
そのため終末の描写としては、イスラムのコーラン以上にも実際に忠実なものとなっている。
アブラハム教信仰の終末を最も忠実に記録していたのが四書五経で、実際的ではないが
遠まわしの寓意としては間違っていなかったのがコーランで、実質に忠実なわけでも
なければ、寓意としても間違い通しだったのが新旧約聖書である。実際としては
四書五経よりも不正確で、寓意としてもコーランより不正確な新旧約聖書は、
アブラハム信仰の終末から最もかけ離れた終末の予言だけをしているといえる。
親子兄弟の殺し合いまで予言している、その記述が全く以って叶えられないのは、
すでに相当にシラフに返っている聖書圏の人間としても、安堵することなんじゃないか。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ」
「常日ごろからまだ分からないことを知ろうとし、覚えたことも忘れないでいようとする、
学問を好む姿だといえる。(聖書信者は勉強嫌いで、平常は聖書の記述すら忘れ去っている。
蒙昧で何の役にも立たないクセに無駄に冗長な犯罪聖書の記述は、確かに学問嫌いも誘発する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五より)
「妾腹の私生児」というイエスの置かれた境遇は、そのあまりの不遇さゆえに
自暴自棄のキチ○イとなったり、逆に不遇を乗り越えた場合における未曾有の
大成を呼び込んだりの、非常にクリティカルな動向を本人に与えることが明らかとなっている。
イエスは前者の自暴自棄のキ○ガイとなり、後者の不遇をバネにした大成者にはなれなかった。
ほぼイエスと同等の不遇に置かれながら、その不遇をバネにして聖人君子として大成したのが孔子であり、
孔子とイエスとが、「妾腹の私生児」としての成功例と失敗例の両極に当たるといえる。
ただ「妾腹の私生児」という境遇は、本人が望んだからといって得られるものでもなければ、
また欲して得るべきほどろくなものでもない。人間が置かれる先天的な境遇のうちでも、最も不遇な部類の
境遇であって、始めからないに越したことはない。ただ、その不遇をバネにした大成を、親がわが子に目指させる
というのなら、イエスのような失敗作として、わが子が大きな過ちを犯したりしないように万全の注意を払わなければならない。
自暴自棄のキチ○イとなったり、逆に不遇を乗り越えた場合における未曾有の
大成を呼び込んだりの、非常にクリティカルな動向を本人に与えることが明らかとなっている。
イエスは前者の自暴自棄のキ○ガイとなり、後者の不遇をバネにした大成者にはなれなかった。
ほぼイエスと同等の不遇に置かれながら、その不遇をバネにして聖人君子として大成したのが孔子であり、
孔子とイエスとが、「妾腹の私生児」としての成功例と失敗例の両極に当たるといえる。
ただ「妾腹の私生児」という境遇は、本人が望んだからといって得られるものでもなければ、
また欲して得るべきほどろくなものでもない。人間が置かれる先天的な境遇のうちでも、最も不遇な部類の
境遇であって、始めからないに越したことはない。ただ、その不遇をバネにした大成を、親がわが子に目指させる
というのなら、イエスのような失敗作として、わが子が大きな過ちを犯したりしないように万全の注意を払わなければならない。
江戸時代、将軍家や大名家の庶子が、産まれた瞬間から寺に預けられて、親との関係を断たれる風習があった。
これも孔子のような不遇をバネにした大成を目指させるためであって、もしも大成できたならば、
出来の悪い嫡子に代わって家督を相続したり、分家として興隆したり、良家に婿入りしたりすることが認められて
いた一方で、試みに失敗した場合には、そのまま出家して坊主となり、一生家庭を持たずに過ごしたりしていた。
もちろん失敗したから坊主になるとも限らないが、失敗してなお市井に飛び出て、
イエスのような妄言妄動を垂れ流して世を乱すようなことだけは、未然に封じ込められていた。
自分が妾腹の私生児という境遇に産まれたとしても、イエスのような自暴自棄にはならず、
孔子のような君子としての大成を目指すべきであるし、仮に自分が妾腹の私生児を作ってしまったとしても、
上記の将軍や大名のような、庶子に対するなりの扱いを自分が親として施すべきである。
自分がそうなのであれ、我が子がそうなのであれ、妾腹の私生児がイエスになってしまうことを弁護する余地はないのである。
「争いを分かち訴えを弁ずるも、礼に非ざれば決せず」
「訴訟ごとを弁別したところで、やり方が礼に適っていないのなら、何も裁決できはしない。
(裁決権を持つ高官への畏敬がないのなら、敗訴したものは結局は不平を残したままとなる。
絶対神の使いが自分たちの弁護者になると信じ込んでいる聖書信者のものの考え方では、
自分たちの敗訴に対して不平を持たずに済む場合があり得ない。聖書信仰の敗北が完全に
決定している以上、自分たちの弁護者が神の使いであるという幻想から棄て去るのでなければ、
必ず後々まで、醜くて理にかなわない不平を元聖書信者が持ち続けることになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
これも孔子のような不遇をバネにした大成を目指させるためであって、もしも大成できたならば、
出来の悪い嫡子に代わって家督を相続したり、分家として興隆したり、良家に婿入りしたりすることが認められて
いた一方で、試みに失敗した場合には、そのまま出家して坊主となり、一生家庭を持たずに過ごしたりしていた。
もちろん失敗したから坊主になるとも限らないが、失敗してなお市井に飛び出て、
イエスのような妄言妄動を垂れ流して世を乱すようなことだけは、未然に封じ込められていた。
自分が妾腹の私生児という境遇に産まれたとしても、イエスのような自暴自棄にはならず、
孔子のような君子としての大成を目指すべきであるし、仮に自分が妾腹の私生児を作ってしまったとしても、
上記の将軍や大名のような、庶子に対するなりの扱いを自分が親として施すべきである。
自分がそうなのであれ、我が子がそうなのであれ、妾腹の私生児がイエスになってしまうことを弁護する余地はないのである。
「争いを分かち訴えを弁ずるも、礼に非ざれば決せず」
「訴訟ごとを弁別したところで、やり方が礼に適っていないのなら、何も裁決できはしない。
(裁決権を持つ高官への畏敬がないのなら、敗訴したものは結局は不平を残したままとなる。
絶対神の使いが自分たちの弁護者になると信じ込んでいる聖書信者のものの考え方では、
自分たちの敗訴に対して不平を持たずに済む場合があり得ない。聖書信仰の敗北が完全に
決定している以上、自分たちの弁護者が神の使いであるという幻想から棄て去るのでなければ、
必ず後々まで、醜くて理にかなわない不平を元聖書信者が持ち続けることになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
聖書の信仰は便秘の苦痛に似、
儒学の勉強は排便の快感に似る。
儒学の勉強は排便の快感に似る。
聖書信仰に没頭してきた人間は、あらゆる人間のうちでも最も悟りから遠のいている。
濁念にまみれて己が理性の在り処すらも見失い、極端な蒙昧状態でいるか、
さもなくば蒙昧を埋め合わせる目的での高度累犯障害状態でいる。
密教者のように濁悪を超克するだけの精進修行を共にこなしてきたわけでもなく、
ただただ濁悪にまみれることばかりに没頭し続けて来ただけであるために、
今から濁悪を乗り越えるためには、ただの凡人以上にも極重の更生をこなす必要がある。
「観無量寿経」にあるような、品性の格付けに基づく救済の難易を、
聖書信仰者や洋学者でも字面だけで理解することはできる。しかし、自分たちが
実際問題、下品下生の最低劣の徒であって、救済に至るためには長久の苦労と年月とを
要することを明らかに悟ることまではできない。それを悟ることができないからこそ、
永劫の年月にわたる苦労をこれから積み重ねていかなければならないのであって、
安易な救済を追い求めて来たに相応の対価を、これから支払わされ続けることになる。
自力作善の勧善懲悪に務めてきた人間こそは時系列上で先に救われ、
他力本願の悪逆非道に奔ってきた人間こそはずっと後に救われる。
親鸞聖人も悪人正機で、「悪人は善人よりも先に救われる」とは言っておらず、
「悪人こそは善人以上にも阿弥陀様によって救われることが確かである」とのみ言っている。
一切衆生の救済を企図する阿弥陀様にとっての最大の腕の見せ所は、最悪の悪人の救済だから、
悪人こそは救われることが確実だといっている。そう解釈しないのであれば、九品九生の
格付けに基づく救済の難易を明記した「観無量寿経」までをも、浄土真宗が根本聖典に
掲げていることにも筋が通らなくなる。(ただし真宗の最高聖典は「大無量寿経」)
濁念にまみれて己が理性の在り処すらも見失い、極端な蒙昧状態でいるか、
さもなくば蒙昧を埋め合わせる目的での高度累犯障害状態でいる。
密教者のように濁悪を超克するだけの精進修行を共にこなしてきたわけでもなく、
ただただ濁悪にまみれることばかりに没頭し続けて来ただけであるために、
今から濁悪を乗り越えるためには、ただの凡人以上にも極重の更生をこなす必要がある。
「観無量寿経」にあるような、品性の格付けに基づく救済の難易を、
聖書信仰者や洋学者でも字面だけで理解することはできる。しかし、自分たちが
実際問題、下品下生の最低劣の徒であって、救済に至るためには長久の苦労と年月とを
要することを明らかに悟ることまではできない。それを悟ることができないからこそ、
永劫の年月にわたる苦労をこれから積み重ねていかなければならないのであって、
安易な救済を追い求めて来たに相応の対価を、これから支払わされ続けることになる。
自力作善の勧善懲悪に務めてきた人間こそは時系列上で先に救われ、
他力本願の悪逆非道に奔ってきた人間こそはずっと後に救われる。
親鸞聖人も悪人正機で、「悪人は善人よりも先に救われる」とは言っておらず、
「悪人こそは善人以上にも阿弥陀様によって救われることが確かである」とのみ言っている。
一切衆生の救済を企図する阿弥陀様にとっての最大の腕の見せ所は、最悪の悪人の救済だから、
悪人こそは救われることが確実だといっている。そう解釈しないのであれば、九品九生の
格付けに基づく救済の難易を明記した「観無量寿経」までをも、浄土真宗が根本聖典に
掲げていることにも筋が通らなくなる。(ただし真宗の最高聖典は「大無量寿経」)
以上の、何度も同じようなことを述べてきた記述を、やはり聖書信者や洋学者も字面で
理解することだけはできる。しかし、その含意を心からありのままに悟って、
何の不平もなく地獄での贖罪に従事していくことまではできない。大きな不平を抱きつつも、
地獄の閻羅人に「貴様の自業自得じゃー」と怒鳴りつけられながら、極重の苦しみに
あえぎ続けることもまた、地獄の苦しみの一環であるから、何とか事前に悟りを得ておいて、
納得づくでの贖罪に取り組もうとすることもまた、徒労にのみ終始することだ。
決して「絶対に救われない」などということまではないが、多くの大切なものを
蔑ろにしてまで、瑣末な罪業に没頭して来たことの代償は計り知れないほどに大きい。
むしろ「救いもまたあり得る」という事実が露呈されてしまったことによって、
「悪逆非道の苦しみに没頭するしか途はない」と思い込んでいた頃にはなかった
救いへの希望が生じてしまったが故に、長大な苦労を通じてまでの真の救いを求めざるを
得なくなってしまったことこそは、完全誤謬信仰者なぞにとっての悲劇かもしれない。
「哀公曰く、敢えて儒行を問う。孔子對えて曰く、遽わかに之れを数えば、其の物を
終す能わず。悉く之れを数えば、乃ち留しくして、僕を更ふるも未だ終くす可からざるなり」
「哀公が孔子に言った。『一つ、儒者のあり方を教えてはくれまいか』 孔子は答えて言った。
『いま俄かに数えてみましても、ことごとくその全てを数え尽くすことはできません。ぜんぶ数えて
みましたなら、公の御付を無数に交代させるほどの時間をかけても説明を尽くせそうにありません』
(この後儒者のあり方が数十件ほど述べられる。儒者のあり方を聖書信者がことごとく学んで、
ことごとくそれに倣って自らを矯正するだけでも、恒久に渡る努力が必要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
理解することだけはできる。しかし、その含意を心からありのままに悟って、
何の不平もなく地獄での贖罪に従事していくことまではできない。大きな不平を抱きつつも、
地獄の閻羅人に「貴様の自業自得じゃー」と怒鳴りつけられながら、極重の苦しみに
あえぎ続けることもまた、地獄の苦しみの一環であるから、何とか事前に悟りを得ておいて、
納得づくでの贖罪に取り組もうとすることもまた、徒労にのみ終始することだ。
決して「絶対に救われない」などということまではないが、多くの大切なものを
蔑ろにしてまで、瑣末な罪業に没頭して来たことの代償は計り知れないほどに大きい。
むしろ「救いもまたあり得る」という事実が露呈されてしまったことによって、
「悪逆非道の苦しみに没頭するしか途はない」と思い込んでいた頃にはなかった
救いへの希望が生じてしまったが故に、長大な苦労を通じてまでの真の救いを求めざるを
得なくなってしまったことこそは、完全誤謬信仰者なぞにとっての悲劇かもしれない。
「哀公曰く、敢えて儒行を問う。孔子對えて曰く、遽わかに之れを数えば、其の物を
終す能わず。悉く之れを数えば、乃ち留しくして、僕を更ふるも未だ終くす可からざるなり」
「哀公が孔子に言った。『一つ、儒者のあり方を教えてはくれまいか』 孔子は答えて言った。
『いま俄かに数えてみましても、ことごとくその全てを数え尽くすことはできません。ぜんぶ数えて
みましたなら、公の御付を無数に交代させるほどの時間をかけても説明を尽くせそうにありません』
(この後儒者のあり方が数十件ほど述べられる。儒者のあり方を聖書信者がことごとく学んで、
ことごとくそれに倣って自らを矯正するだけでも、恒久に渡る努力が必要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
犯罪聖書の神への懇願によって破滅へと陥ったものが、
犯罪聖書の神への懇願によって救済されるなどということも、もちろんない。
救われるとしても、それは阿弥陀仏のような正しい信仰対象に救いを懇願した場合。
一切衆生の救済を企図はするものの、犯罪者を道徳者よりも優先して救うような偽りの
救済を企図したりはしない、正統な神仏。犯罪者を優先して救済してきた邪神こそは
犯罪聖書の神であり、我田引水本位の犯罪者なぞを優先して救済してきたことの限界が
来たために、今まで見逃して来た犯罪者を悉く重罰にかけなければならなくなった、その無様さ。
救いにも、正しい救いと邪まな救いがあり、正しい救いこそは代償抜きの本物の救いで
ある一方で、邪まな救いは一時だけ救ってやったような体裁をもたらしてくれたところで、
必ず後々にはそれ以上もの代価を支払わされることになる。速やかに自首してきた逃亡犯
よりも、何年も潜伏生活を続けた挙句に捜査で捕まったような逃亡犯のほうが罪が重く
なるように、邪まな救いを受けてきたぶんだけ、より重い罰を受けることにもなる。
犯罪聖書の神への懇願によって救済されるなどということも、もちろんない。
救われるとしても、それは阿弥陀仏のような正しい信仰対象に救いを懇願した場合。
一切衆生の救済を企図はするものの、犯罪者を道徳者よりも優先して救うような偽りの
救済を企図したりはしない、正統な神仏。犯罪者を優先して救済してきた邪神こそは
犯罪聖書の神であり、我田引水本位の犯罪者なぞを優先して救済してきたことの限界が
来たために、今まで見逃して来た犯罪者を悉く重罰にかけなければならなくなった、その無様さ。
救いにも、正しい救いと邪まな救いがあり、正しい救いこそは代償抜きの本物の救いで
ある一方で、邪まな救いは一時だけ救ってやったような体裁をもたらしてくれたところで、
必ず後々にはそれ以上もの代価を支払わされることになる。速やかに自首してきた逃亡犯
よりも、何年も潜伏生活を続けた挙句に捜査で捕まったような逃亡犯のほうが罪が重く
なるように、邪まな救いを受けてきたぶんだけ、より重い罰を受けることにもなる。
それでも最後に救われることは、一応ある。邪まな神への邪まな救いを乞い願うことを辞めて、
正統な神仏への真の救いを乞い願い始めたときが、その救いに向けた試練の始まり。
元邪教信仰者にとっては最大の破滅のときでもある一方で、真の救いに寸分ながらでも
初めて近づき始めるとき。今まで遠ざかりこそすれど、寸分も近づきはしていなかったのが、
遠ざからずに近づき始めるとき。禍いが転じて福となり始めるときであり、故にこそ
禍いを肥大化させ続けてきた邪教信仰者にとっての、最大の破滅のときともなるのである。
「(赤曰く、)之れを能くす曰うに非ず、願わくば学ばん。宗廟の事、如しくは会同に端章甫して、
願わくば小相為らん。(略。子曰く)赤や之れの小相たらば、孰れが能く之れが大相為らん」
「弟子の公西華が孔子に願い事を聞かれて言った。『決して今の自分にうまく務まると
いうのではありませんが、願わくばよく勉学に務めて、宗廟での祭事や諸侯の会合に礼服を着て
参列できるぐらいの小臣になりたいものです』 先生は言われた。『公西華が小臣を務める
というのであれば、誰に大臣になるほどの資格があろうか』(公西華が願い事を答える段に
おいてですら、自助努力による小臣への仕官を答えた、その恭しさを孔子も称賛している。
その恭しさこそは確かに、大臣にまで上り詰められるほどの素養の現われなのでもある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二六)
正統な神仏への真の救いを乞い願い始めたときが、その救いに向けた試練の始まり。
元邪教信仰者にとっては最大の破滅のときでもある一方で、真の救いに寸分ながらでも
初めて近づき始めるとき。今まで遠ざかりこそすれど、寸分も近づきはしていなかったのが、
遠ざからずに近づき始めるとき。禍いが転じて福となり始めるときであり、故にこそ
禍いを肥大化させ続けてきた邪教信仰者にとっての、最大の破滅のときともなるのである。
「(赤曰く、)之れを能くす曰うに非ず、願わくば学ばん。宗廟の事、如しくは会同に端章甫して、
願わくば小相為らん。(略。子曰く)赤や之れの小相たらば、孰れが能く之れが大相為らん」
「弟子の公西華が孔子に願い事を聞かれて言った。『決して今の自分にうまく務まると
いうのではありませんが、願わくばよく勉学に務めて、宗廟での祭事や諸侯の会合に礼服を着て
参列できるぐらいの小臣になりたいものです』 先生は言われた。『公西華が小臣を務める
というのであれば、誰に大臣になるほどの資格があろうか』(公西華が願い事を答える段に
おいてですら、自助努力による小臣への仕官を答えた、その恭しさを孔子も称賛している。
その恭しさこそは確かに、大臣にまで上り詰められるほどの素養の現われなのでもある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二六)
ある女を男が愛したとして、その女の親に男が
「お嬢さんを私にください」などと、結婚嘆願しに行ったとする。
親が厳格で娘も大事にしていれば、男の賢愚や甲斐性の有無を精査して、
眼鏡にかなえば結婚を許可する一方、かなわなければ拒絶もする。
逆に親からしてチャランポランで、娘のことなどもどうでもいいと
思っていれば、その場で考えもなく結婚OKということになる。
「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」とイエスは断言している。
本当にその通りであるのなら、イエスの親はチャランポランで、
イエスのことなんかどうでもいいと思っていたのが、上記の例からも明らか。
しかし、実際上、イエスは妾腹の私生児であり、母親の身元しか本人も
分からないわけだから、イエスの実父がイエスをどう思っていたかも分からない。
娼婦を孕ませるぐらいに遊び好きだったことは確かだが、思わずマリアに
身ごもらせてしまったイエスを、本当にどうでもいいと思っていたか、
本当は大事にしたいが、已む無く見捨ててしまったかということは定かでない。
結局、イエスは自分自身で、「俺の親父はどうしようもないロクデナシで、
俺のことなんかどうでもいいと思っていたんだ」と決め付けて、
その決め付けに基づいて、「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」
などという自暴自棄の暴言にも及んだのだといえる。
一つ一つの発言の中に、ただ「親のせい」にばかりすることはできない、
イエス本人の自主性からなる、品性の下劣さの確かな証拠が遺されている。
「婦人は飾らざれば、舅姑に敢えて見えず」
「夫人はよく自らを飾り立ててからでないと、夫の父母に会わない。
(舅姑の機嫌を害さぬよう夫人も気を遣う。自分が夫を愛したからといって、
それが夫の父母もまた自分を愛してくれる理由になどなるはずもないから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「お嬢さんを私にください」などと、結婚嘆願しに行ったとする。
親が厳格で娘も大事にしていれば、男の賢愚や甲斐性の有無を精査して、
眼鏡にかなえば結婚を許可する一方、かなわなければ拒絶もする。
逆に親からしてチャランポランで、娘のことなどもどうでもいいと
思っていれば、その場で考えもなく結婚OKということになる。
「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」とイエスは断言している。
本当にその通りであるのなら、イエスの親はチャランポランで、
イエスのことなんかどうでもいいと思っていたのが、上記の例からも明らか。
しかし、実際上、イエスは妾腹の私生児であり、母親の身元しか本人も
分からないわけだから、イエスの実父がイエスをどう思っていたかも分からない。
娼婦を孕ませるぐらいに遊び好きだったことは確かだが、思わずマリアに
身ごもらせてしまったイエスを、本当にどうでもいいと思っていたか、
本当は大事にしたいが、已む無く見捨ててしまったかということは定かでない。
結局、イエスは自分自身で、「俺の親父はどうしようもないロクデナシで、
俺のことなんかどうでもいいと思っていたんだ」と決め付けて、
その決め付けに基づいて、「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」
などという自暴自棄の暴言にも及んだのだといえる。
一つ一つの発言の中に、ただ「親のせい」にばかりすることはできない、
イエス本人の自主性からなる、品性の下劣さの確かな証拠が遺されている。
「婦人は飾らざれば、舅姑に敢えて見えず」
「夫人はよく自らを飾り立ててからでないと、夫の父母に会わない。
(舅姑の機嫌を害さぬよう夫人も気を遣う。自分が夫を愛したからといって、
それが夫の父母もまた自分を愛してくれる理由になどなるはずもないから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
欧米聖書圏の過度な物質的繁栄は、非聖書圏やブラックアフリカの聖書圏の困窮と表裏一体の関係にある。
中東やアフリカやインドから多大な資源を巻き上げ、10億人やそこらの欧米人だけで八割以上の地球資源を
独占することで、初めて欧米内の統治支配も成立している。欧米の聖書信仰者の豚のような貪欲さを
できる限り満たしながらの統治支配を欧米の権力者が試みたために、10億人の餓死者や数十億人の貧窮者を
外界にもたらし、多大な苦悩を科せられたことからなる無軌道な乱交が破滅級の人口爆発をも生じさせている。
端的にいって、聖書信仰で世界は支配できない。強権を振りかざした悪辣な手法であっても支配できるのなら
まだしも、そもそも聖書信仰では原理的に全世界を支配することができない。貪欲や嫉妬や怠惰といった
人間の悪念を自然状態以上の過度に増幅させて、蒙昧な累犯障害者へと信者を化せしめるのが聖書信仰だから、
聖書信仰で世界を支配できる割合はせいぜい10%やそこら。10%の重度累犯障害の聖書信者を養うために
残りの90%の人々が、貧困や飢餓や戦乱や重労働といった多大なる苦難を科せられる。しかもその苦難が
耐え難く偲び難いものだから、苦悩を紛らわすための無軌道な乱交が、必然的に人口爆発や環境破壊といった
破滅級の問題をも蔓延させ始める。聖書信仰が10%の世界を十分に支配していられるような体裁を取れるのも、
ほんの一時の間だけ。ほんの一時の虚栄の後には、もう度を越した乱痴気騒ぎの後始末に移らなければならない。
中東やアフリカやインドから多大な資源を巻き上げ、10億人やそこらの欧米人だけで八割以上の地球資源を
独占することで、初めて欧米内の統治支配も成立している。欧米の聖書信仰者の豚のような貪欲さを
できる限り満たしながらの統治支配を欧米の権力者が試みたために、10億人の餓死者や数十億人の貧窮者を
外界にもたらし、多大な苦悩を科せられたことからなる無軌道な乱交が破滅級の人口爆発をも生じさせている。
端的にいって、聖書信仰で世界は支配できない。強権を振りかざした悪辣な手法であっても支配できるのなら
まだしも、そもそも聖書信仰では原理的に全世界を支配することができない。貪欲や嫉妬や怠惰といった
人間の悪念を自然状態以上の過度に増幅させて、蒙昧な累犯障害者へと信者を化せしめるのが聖書信仰だから、
聖書信仰で世界を支配できる割合はせいぜい10%やそこら。10%の重度累犯障害の聖書信者を養うために
残りの90%の人々が、貧困や飢餓や戦乱や重労働といった多大なる苦難を科せられる。しかもその苦難が
耐え難く偲び難いものだから、苦悩を紛らわすための無軌道な乱交が、必然的に人口爆発や環境破壊といった
破滅級の問題をも蔓延させ始める。聖書信仰が10%の世界を十分に支配していられるような体裁を取れるのも、
ほんの一時の間だけ。ほんの一時の虚栄の後には、もう度を越した乱痴気騒ぎの後始末に移らなければならない。
聖書信仰は、全人類を恒久的に支配する政治理念としての条件を満たしていない。儒学による世俗支配もまた、
完全な泰平状態での統治は数百年程度で一旦は寿命が尽きるが、天下全土を相当な長期に渡って統治支配する
政治理念としての条件は満たしている。翻って、聖書信仰は全世界を支配することも、長期に渡って一部の世界を
支配することも原理的にできないようになっている。万年泰平状態を確立するインド宗教ほどもの絶対性は儒学も
備えていないにしろ、一部の世界を短期的にしか支配できない聖書信仰よりはまだマシな性能を備えているといえる。
「四海困窮せば、天禄永く終えん」
「四海の人々を困窮させるような失政を犯したならば、天からの恵みも永遠に尽きることだろう。
(世界中の人々を困窮に陥らせた聖書信仰が、天命を振りかざした権威をうそぶくことはもう永遠にできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)
完全な泰平状態での統治は数百年程度で一旦は寿命が尽きるが、天下全土を相当な長期に渡って統治支配する
政治理念としての条件は満たしている。翻って、聖書信仰は全世界を支配することも、長期に渡って一部の世界を
支配することも原理的にできないようになっている。万年泰平状態を確立するインド宗教ほどもの絶対性は儒学も
備えていないにしろ、一部の世界を短期的にしか支配できない聖書信仰よりはまだマシな性能を備えているといえる。
「四海困窮せば、天禄永く終えん」
「四海の人々を困窮させるような失政を犯したならば、天からの恵みも永遠に尽きることだろう。
(世界中の人々を困窮に陥らせた聖書信仰が、天命を振りかざした権威をうそぶくことはもう永遠にできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)
実父の身元も知れず、母親も頭のいかれた娼婦で、義父もパッとしない建設作業員だったイエスが、
何とか自分で空想上の父君像を構築しようとしている姿は、確かに非常な悲哀を帯びている。
しかし、その悲哀は決して自力で乗り越えられないものではなかった。イエスとほぼ同じ
妾腹の私生児という境遇に生まれながら(ただし母子家庭)、親戚に父親の身元を聞き出して
墓参りも果たした孔子がそれであり、そこには不遇にかられた悲哀などは少しも見られない。
同じように、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で描かれている父親殺しの描写なども、
確かに相当な狂気を帯びていて、件の罪で逮捕されたドミトリー・カラマーゾフを弁護士は
「精神の姦通者(サイコパス)」と呼び、その精神疾患としての真性さを理由とした放免を
主張してもいる。しかし、日本の平安末期に、保元の乱で敗軍の将となった源為義を、
その長男である源義朝が斬首の刑に処しても居り、さらにその息子である源頼朝や義経が、
父親の父親殺しという狂気を帯びた屈辱を晴らす目的で平氏を打倒し、鎌倉幕府をも開いている。
西洋文学史上でも最大級の悲哀を帯びている妾腹の私生児イエスの言行や、最大級の狂気を帯びている
カラマーゾフの兄弟による父親殺しなども、それと同等の物語構造を乗り越える形での大成を、東洋史上に
実在する孔子や河内源氏が、イエスやカラマーゾフの物語が創作されるよりも遥か以前に果たしている。
甚大な悲哀や狂気の情感にかられて、蒙昧な白痴と化したり、サイコパスと化したりすることは、
確かにそれと同等の悲哀や狂気を乗り越えた所にある、大人としての大成によってこそ防ぎとめられる。
決してイエスの悲哀も、カラマーゾフの狂気も分からないものではないが、さらにそれを超克した
所にこそ、聖人君子や武士としての大成もまたあるのであり、決して悲哀や狂気を無視するものではない。
それどころか、白痴やサイコパス以上にも最大級の悲哀や狂気を直視して、夢想に逃げたりすることもない。
何とか自分で空想上の父君像を構築しようとしている姿は、確かに非常な悲哀を帯びている。
しかし、その悲哀は決して自力で乗り越えられないものではなかった。イエスとほぼ同じ
妾腹の私生児という境遇に生まれながら(ただし母子家庭)、親戚に父親の身元を聞き出して
墓参りも果たした孔子がそれであり、そこには不遇にかられた悲哀などは少しも見られない。
同じように、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で描かれている父親殺しの描写なども、
確かに相当な狂気を帯びていて、件の罪で逮捕されたドミトリー・カラマーゾフを弁護士は
「精神の姦通者(サイコパス)」と呼び、その精神疾患としての真性さを理由とした放免を
主張してもいる。しかし、日本の平安末期に、保元の乱で敗軍の将となった源為義を、
その長男である源義朝が斬首の刑に処しても居り、さらにその息子である源頼朝や義経が、
父親の父親殺しという狂気を帯びた屈辱を晴らす目的で平氏を打倒し、鎌倉幕府をも開いている。
西洋文学史上でも最大級の悲哀を帯びている妾腹の私生児イエスの言行や、最大級の狂気を帯びている
カラマーゾフの兄弟による父親殺しなども、それと同等の物語構造を乗り越える形での大成を、東洋史上に
実在する孔子や河内源氏が、イエスやカラマーゾフの物語が創作されるよりも遥か以前に果たしている。
甚大な悲哀や狂気の情感にかられて、蒙昧な白痴と化したり、サイコパスと化したりすることは、
確かにそれと同等の悲哀や狂気を乗り越えた所にある、大人としての大成によってこそ防ぎとめられる。
決してイエスの悲哀も、カラマーゾフの狂気も分からないものではないが、さらにそれを超克した
所にこそ、聖人君子や武士としての大成もまたあるのであり、決して悲哀や狂気を無視するものではない。
それどころか、白痴やサイコパス以上にも最大級の悲哀や狂気を直視して、夢想に逃げたりすることもない。
「舜は親に事うるの道を尽くして、瞽瞍豫びを底す。瞽瞍豫びを底して天下化す。
瞽瞍豫びを底して天下の父子為る者のみち定まる。此れを之れ大孝と謂えり」
「舜帝は昔、親に仕える上での最大級の道を尽くしたために、聞き分けのない悪父だった
瞽瞍までもがそれに喜ぶようになった。瞽瞍すら喜ばせることができて初めて
天下も徳化され、父子のあるべき道も定まった。これこそはまさに、最大の孝道だといえる。
(重要なのは親が正しいか間違っているかではなく、自分こそが親に孝養を尽くすことである。
イエスは実父の墓に参るどころか、その身元を探し出す努力一つすらも行っていない不孝者だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二八より)
瞽瞍豫びを底して天下の父子為る者のみち定まる。此れを之れ大孝と謂えり」
「舜帝は昔、親に仕える上での最大級の道を尽くしたために、聞き分けのない悪父だった
瞽瞍までもがそれに喜ぶようになった。瞽瞍すら喜ばせることができて初めて
天下も徳化され、父子のあるべき道も定まった。これこそはまさに、最大の孝道だといえる。
(重要なのは親が正しいか間違っているかではなく、自分こそが親に孝養を尽くすことである。
イエスは実父の墓に参るどころか、その身元を探し出す努力一つすらも行っていない不孝者だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二八より)
イエスは妾腹の私生児ではあるが、義父のヨセフがいた。
孔子は妾腹の私生児である上に、父無しの母子家庭で育った。
カラマーゾフの兄弟は、文鎮代わりの杵で父親のフョードルを撲殺したが、
頼朝や義経の父である義朝は、自分の父親である為義を斬首によって刑殺した。
空想よりもさらに陰惨であった上で、なおのこと乗り越えられている現実。
ドストエフスキーは「罪と罰」でも、ラスコーリニコフに斧の背で
金貸しのユダヤ女を撲殺させているが、血しぶき迸る現実の惨憺さから空想家こそは
目を背けたがる心理を、ドストエフスキー自身が自らの文学表現で体現しているといえる。
孔子は妾腹の私生児である上に、父無しの母子家庭で育った。
カラマーゾフの兄弟は、文鎮代わりの杵で父親のフョードルを撲殺したが、
頼朝や義経の父である義朝は、自分の父親である為義を斬首によって刑殺した。
空想よりもさらに陰惨であった上で、なおのこと乗り越えられている現実。
ドストエフスキーは「罪と罰」でも、ラスコーリニコフに斧の背で
金貸しのユダヤ女を撲殺させているが、血しぶき迸る現実の惨憺さから空想家こそは
目を背けたがる心理を、ドストエフスキー自身が自らの文学表現で体現しているといえる。
↑おい、auのお前
スマホ( ´艸`)いいぞーみまめ
スマホ( ´艸`)いいぞーみまめ
キリスト信仰の願いが道義的に叶えられてはならないのは、
現実に乗り越えることが可能な程度の悲哀や狂気に駆られて打ちひしがれるような、
未熟な精神薄弱者の願いがキリスト信仰の願いでしかないからだ。
妾腹の私生児としての悲哀も、イエスよりもさらにひどい境遇の中で孔子が乗り越えているし、
カラマーゾフの父殺しの狂気だって、源頼朝や義経が父の屈辱を晴らす形で乗り越えている。
感情を揺さぶる悲哀や狂気を乗り越えられずに、蒙昧に打ちひしがれているものよりは、
ちゃんと感情の焼け付きを乗り越えて大業を果たしたものの有り方にこそ倣わねばならない。
じゃあ、倣うべき孔子のほうの願いはといえば、
「年長者には安堵され、同輩には信頼され、年少者には慕われるようになりたい(公冶長第五・二六)」
などといったものであり、その願いは孔子の存命中にもある程度叶えられ、死後にも数千年の永きに渡って、
その教学が老若男女から安心して信頼できる思慕の対象となり続けている。その願い事がごく素朴で、
すでに叶えられているようなものであるのは、始めから貪欲さ自体が適正に自制されているから。
大志もないことはないにしろ、あまり野望をひけらかすことも不埒なことであるに違いないから。
現実に乗り越えることが可能な程度の悲哀や狂気に駆られて打ちひしがれるような、
未熟な精神薄弱者の願いがキリスト信仰の願いでしかないからだ。
妾腹の私生児としての悲哀も、イエスよりもさらにひどい境遇の中で孔子が乗り越えているし、
カラマーゾフの父殺しの狂気だって、源頼朝や義経が父の屈辱を晴らす形で乗り越えている。
感情を揺さぶる悲哀や狂気を乗り越えられずに、蒙昧に打ちひしがれているものよりは、
ちゃんと感情の焼け付きを乗り越えて大業を果たしたものの有り方にこそ倣わねばならない。
じゃあ、倣うべき孔子のほうの願いはといえば、
「年長者には安堵され、同輩には信頼され、年少者には慕われるようになりたい(公冶長第五・二六)」
などといったものであり、その願いは孔子の存命中にもある程度叶えられ、死後にも数千年の永きに渡って、
その教学が老若男女から安心して信頼できる思慕の対象となり続けている。その願い事がごく素朴で、
すでに叶えられているようなものであるのは、始めから貪欲さ自体が適正に自制されているから。
大志もないことはないにしろ、あまり野望をひけらかすことも不埒なことであるに違いないから。
未熟者が悲哀や狂気に駆られて垂れ流す妄言と、大成者が情感をよく抑えて発する金言とでは、
その発言の姿勢からして違い、言うべきことを言って言うべきでないことを言わない分別から未熟者は
学んでいかねばならないから、ただ孔子や孟子の言行を猿真似すればそれで大成できるわけでもない。
犯罪聖書の記述内容だけでなく、その妄言の垂れ流し方から見習わないように努めて、四書五経の
記述内容だけでなく、その金言の発され方から見習うようにしていかねばならず、それは正直、
高年者となるまで聖書信仰に惑溺し続けてきたような人間には、存命中の達成が不可能なもの。
もはや再起も不能な者については、ただひたすらこの世から退くことのほうを勧めはする。
未熟者のままでつまらぬ人生を終えることも、世の外側でなら恥じ入らずに済むだろう。
「国に而て礼無くんば、何を以ってか栄を求めん」
「国に礼儀が通用してもいないのに、どうして栄光を求めたりすることができようか。
(天下国家を無礼な争乱に陥れた中で求める栄光など、どこまでも虚栄でしかないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十六年より)
その発言の姿勢からして違い、言うべきことを言って言うべきでないことを言わない分別から未熟者は
学んでいかねばならないから、ただ孔子や孟子の言行を猿真似すればそれで大成できるわけでもない。
犯罪聖書の記述内容だけでなく、その妄言の垂れ流し方から見習わないように努めて、四書五経の
記述内容だけでなく、その金言の発され方から見習うようにしていかねばならず、それは正直、
高年者となるまで聖書信仰に惑溺し続けてきたような人間には、存命中の達成が不可能なもの。
もはや再起も不能な者については、ただひたすらこの世から退くことのほうを勧めはする。
未熟者のままでつまらぬ人生を終えることも、世の外側でなら恥じ入らずに済むだろう。
「国に而て礼無くんば、何を以ってか栄を求めん」
「国に礼儀が通用してもいないのに、どうして栄光を求めたりすることができようか。
(天下国家を無礼な争乱に陥れた中で求める栄光など、どこまでも虚栄でしかないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十六年より)
引用ばかりのお前などが、何々は未熟であるなどとのたまうことができようとはな
( ´艸`)ぷっ
( ´艸`)ぷっ
既成物を何もかも「時代遅れ」と見なして、ただひたすら創作の一辺倒であったりするのが未熟者だ。
善いものは善いものでなるべく継承して行き、悪いものは悪いもので受け継いでいかないようにするのが大人だ。
あらゆる人類文化のうちでも、最も劣悪な所産である犯罪聖書の文化だけは頑なに守り通し、
その他の文化については七色変化の破壊と創作を繰り返している聖書圏の文化的取り組みこそは、未熟の極み。
どこまでいっても文化が熟成するということがなく、精神的に熟成した大人が育ったりすることもない。
犯罪聖書並みに劣悪な、儒道以外の諸子百家の論説や、インドの六師外道の教えなどはさっさと廃絶し、
儒学や仏教の良質な教えに根ざした文化ばかりを無数に継承してきた東洋の文化的なあり方こそは、
人と文化とを共に熟成した高尚さへと押し上げていく黄金比に適っている。まさに悪いもの、善くないものを
適切に廃棄処分して、善いもの、悪くないものだけを適切に保存して継承の対処としてきた模範ともいえるあり方であり、
悪いものだけを残そうとしたあまり、何一つとして悪い以上に善いものを残せなかった聖書圏とは逆の姿だといえる。
覇道によって領地を拡大していくこと自体が劣悪な理念なので、日本にしろ中国にしろインドにしろ、
良質で熟成された文化を持つ国は、いずれもあまり領地拡大を志さないで来た。(赤化後の中国などは除く)
一方で、覇道の劣悪さを全く臆面もなく正当化してきた聖書圏こそは非常識な規模の領地拡大を志し、
今では世界中のほとんどの国土が聖書信仰者に征服されるまでになった。その結果、世界中が未開の土人社会以上もの
汚濁にまみれ、世界人口を爆発させるほどにも乱交に明け暮れていなければいられないほどもの苦悩を世界中に撒き散らした。
まさに、聖書信仰をこの世から根絶することこそは、全人類を救済する上での最も重大な機縁となる。
聖書信仰の蒙昧がこの世での覇権を失いつくすことで初めて、誰しもが飢え渇くことなく
十分な糧食に与り、乱交に及んだりもしないでいられるだけの精神の平穏にも与れるようになる。
善いものは善いものでなるべく継承して行き、悪いものは悪いもので受け継いでいかないようにするのが大人だ。
あらゆる人類文化のうちでも、最も劣悪な所産である犯罪聖書の文化だけは頑なに守り通し、
その他の文化については七色変化の破壊と創作を繰り返している聖書圏の文化的取り組みこそは、未熟の極み。
どこまでいっても文化が熟成するということがなく、精神的に熟成した大人が育ったりすることもない。
犯罪聖書並みに劣悪な、儒道以外の諸子百家の論説や、インドの六師外道の教えなどはさっさと廃絶し、
儒学や仏教の良質な教えに根ざした文化ばかりを無数に継承してきた東洋の文化的なあり方こそは、
人と文化とを共に熟成した高尚さへと押し上げていく黄金比に適っている。まさに悪いもの、善くないものを
適切に廃棄処分して、善いもの、悪くないものだけを適切に保存して継承の対処としてきた模範ともいえるあり方であり、
悪いものだけを残そうとしたあまり、何一つとして悪い以上に善いものを残せなかった聖書圏とは逆の姿だといえる。
覇道によって領地を拡大していくこと自体が劣悪な理念なので、日本にしろ中国にしろインドにしろ、
良質で熟成された文化を持つ国は、いずれもあまり領地拡大を志さないで来た。(赤化後の中国などは除く)
一方で、覇道の劣悪さを全く臆面もなく正当化してきた聖書圏こそは非常識な規模の領地拡大を志し、
今では世界中のほとんどの国土が聖書信仰者に征服されるまでになった。その結果、世界中が未開の土人社会以上もの
汚濁にまみれ、世界人口を爆発させるほどにも乱交に明け暮れていなければいられないほどもの苦悩を世界中に撒き散らした。
まさに、聖書信仰をこの世から根絶することこそは、全人類を救済する上での最も重大な機縁となる。
聖書信仰の蒙昧がこの世での覇権を失いつくすことで初めて、誰しもが飢え渇くことなく
十分な糧食に与り、乱交に及んだりもしないでいられるだけの精神の平穏にも与れるようになる。
覇権主義の征服者がこの世から絶えて、覇道の野望などは全く持っていなかった徳治者が代わりに長期の泰平社会を
樹立するというのは、徳治史上おいては極めて順当な流れに当たる。始皇帝にしろ煬帝にしろ、平清盛にしろ信長にしろ、
自分個人や隣人の富のために天下争奪に及んだ点で共通し、そのような劣悪な目的で天下を征服したことが祟って
追討を受け、漢や唐や源氏や徳川が「棚からぼた餅」の形で長期の天下平定の立役者となることを許してしまった。
それは全く順当なことで、覇道のための覇道に突っ走って来たものが、長期の天下泰平までをも自力で確立することが
できないのは一つの普遍法則に当たる。覇道のための覇道は世界を自然状態以上にも荒廃させるものである一方で、
統一された天下を平定することには自然状態以上もの人間社会の善良化を企図する必要があるから、両者を同じ人間や
同じ思想信条が兼任することは不可能なこととなる。聖書信仰によって荒廃させられたこの世界を自然状態以上にも
善くすることができるのも、儒学以上に優良な教学だけであり、儒学以上の教学はどれも聖書信仰と相容れない
志向性を持ち合わせているから、聖書信仰者がそこから先の社会運営を主導していくことも適わないのである。
「五穀は種の美なる者なり。苟しくも熟せざれば、荑稗にも如かず。夫れ仁も亦た之れを熟するに在るのみ」
「五穀は穀類の中でも特に美味なものだが、十分に熟成させてからでないと稗ほどにも食えたものじゃない。
仁もまたこれと同じで、十分に成熟させるところにこそ価値があるのだ。(聖書信者はさしずめ、
まだ熟成もされていない、青臭いままの五穀を世界中に貪った不仁者とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一九より)
樹立するというのは、徳治史上おいては極めて順当な流れに当たる。始皇帝にしろ煬帝にしろ、平清盛にしろ信長にしろ、
自分個人や隣人の富のために天下争奪に及んだ点で共通し、そのような劣悪な目的で天下を征服したことが祟って
追討を受け、漢や唐や源氏や徳川が「棚からぼた餅」の形で長期の天下平定の立役者となることを許してしまった。
それは全く順当なことで、覇道のための覇道に突っ走って来たものが、長期の天下泰平までをも自力で確立することが
できないのは一つの普遍法則に当たる。覇道のための覇道は世界を自然状態以上にも荒廃させるものである一方で、
統一された天下を平定することには自然状態以上もの人間社会の善良化を企図する必要があるから、両者を同じ人間や
同じ思想信条が兼任することは不可能なこととなる。聖書信仰によって荒廃させられたこの世界を自然状態以上にも
善くすることができるのも、儒学以上に優良な教学だけであり、儒学以上の教学はどれも聖書信仰と相容れない
志向性を持ち合わせているから、聖書信仰者がそこから先の社会運営を主導していくことも適わないのである。
「五穀は種の美なる者なり。苟しくも熟せざれば、荑稗にも如かず。夫れ仁も亦た之れを熟するに在るのみ」
「五穀は穀類の中でも特に美味なものだが、十分に熟成させてからでないと稗ほどにも食えたものじゃない。
仁もまたこれと同じで、十分に成熟させるところにこそ価値があるのだ。(聖書信者はさしずめ、
まだ熟成もされていない、青臭いままの五穀を世界中に貪った不仁者とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一九より)
もはやイジワル爺さん頑固ジジイ
イジワル爺さん、世界を救うの巻
犯罪聖書中の美辞麗句はそのことごとくが嘘八百であり、
嘘八百だからそれを信じれば転倒夢想になる。
転倒夢想に耽りながら社会活動を行おうとするから破滅にも陥る。
全くありきたりな、詐欺被害者のありさまだといえる。
被害者だからといって同情してもらえるほどシラフでもなく、本気で犯罪聖書を
信じているような人間には、鼻つまみもの並みにふてぶてしい言行が数多く見られる。
転倒夢想を糧に独自の妄想をも発展させ、自意識過剰の思い上がりを致命的なほどまでに
肥大化させてしまっているため、ただ棄教が困難なだけでなく、その言行全般が深刻な害為を
帯びてしまっている。そのため棄教したところで、カルト信者に特有の劣悪な言動規範は
しばらくの間持ち越されることとなり、禁治産越しの治療などを通じて徐々に矯正されていく。
再度いうとおり、ある程度以上の高年者の場合には存命中の矯正も達し切れなかったりするために、
終身療養生活となる場合もある。本人自身よりは、その子孫の更生のほうが期待できるものであり、
なるべくわが子や孫への「子愛」を養って、その将来に期待しながら余生を過ごすなどすればいい。
犯罪聖書には親子兄弟の争いを促進する記述もあり、それを信じていた以上は子弟への愛慕を
養うこともまた困難な場合があるだろうが、やはり親にとってわが子は可愛いもので、そこは
カルト信仰によっても転覆させられきれない部分だろうから、存命中の再起が困難な高年の
元カルト信者などについては、わが子への期待を糧に無難な余生を全うすることを勧めるものだ。
「不仁者は与に言う可けんや。其の危きを安しとし、其の菑いを利とし、
其の亡ぶる所以の者を楽しむ。不仁にして与に言う可くんば、則ち何の亡国敗家之れ有らん」
「不仁者には共に語り合うだけの素養すらない。危ういものを平安と見なし、わざわいを利益と見なし、
将来の希望を亡ぼす原因となるものばかりを楽しもうとするから。もしも不仁しゃであっても私と
語り合う程度のことすらできたなら、国家を敗亡させるようなこともなくて済んだだろうに」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
嘘八百だからそれを信じれば転倒夢想になる。
転倒夢想に耽りながら社会活動を行おうとするから破滅にも陥る。
全くありきたりな、詐欺被害者のありさまだといえる。
被害者だからといって同情してもらえるほどシラフでもなく、本気で犯罪聖書を
信じているような人間には、鼻つまみもの並みにふてぶてしい言行が数多く見られる。
転倒夢想を糧に独自の妄想をも発展させ、自意識過剰の思い上がりを致命的なほどまでに
肥大化させてしまっているため、ただ棄教が困難なだけでなく、その言行全般が深刻な害為を
帯びてしまっている。そのため棄教したところで、カルト信者に特有の劣悪な言動規範は
しばらくの間持ち越されることとなり、禁治産越しの治療などを通じて徐々に矯正されていく。
再度いうとおり、ある程度以上の高年者の場合には存命中の矯正も達し切れなかったりするために、
終身療養生活となる場合もある。本人自身よりは、その子孫の更生のほうが期待できるものであり、
なるべくわが子や孫への「子愛」を養って、その将来に期待しながら余生を過ごすなどすればいい。
犯罪聖書には親子兄弟の争いを促進する記述もあり、それを信じていた以上は子弟への愛慕を
養うこともまた困難な場合があるだろうが、やはり親にとってわが子は可愛いもので、そこは
カルト信仰によっても転覆させられきれない部分だろうから、存命中の再起が困難な高年の
元カルト信者などについては、わが子への期待を糧に無難な余生を全うすることを勧めるものだ。
「不仁者は与に言う可けんや。其の危きを安しとし、其の菑いを利とし、
其の亡ぶる所以の者を楽しむ。不仁にして与に言う可くんば、則ち何の亡国敗家之れ有らん」
「不仁者には共に語り合うだけの素養すらない。危ういものを平安と見なし、わざわいを利益と見なし、
将来の希望を亡ぼす原因となるものばかりを楽しもうとするから。もしも不仁しゃであっても私と
語り合う程度のことすらできたなら、国家を敗亡させるようなこともなくて済んだだろうに」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
最新の物理理論なども、「現象の理合」としての神仏の存在性は認める一方で、
形而上から万物を司る人格神の存在などは認めない。それは実際、実在しない。
そんな実在しない虚構神への狂信などを多くの人々が募らせているものだから、
地球人類社会も破滅に陥り、このままでは滅亡すら避けることができない。
この地を継ぐもの、あの山を継ぐものこそは、必ず聖書信仰を廃絶せねばならない。
決して親しいものとして近づいたりもせず、快楽殺人犯か
連続強姦魔並みの厳重な警戒対象としていかなければならない。
これからの時代を、閉鎖病棟内の禁治産者として過ごすのならともかく、
この地球上で積極的に社会参画を進めていくというのなら、聖書信仰の破棄は必須である。
信仰せず、信仰させぬことを当たり前の大前提としてこそ、いっぱしの社会人たり得る。
もちろん元凶は聖書自体であり、信者のほうは一種の詐欺被害者ですらあるのだから、
今まで聖書信者だったところを棄教した人間などを、そんなに邪険に扱ってもならず、
長らく狂信中毒に陥っていたことへの手厚い療養措置なども施してやるべきだ。
ただ「おかしい」というだけではなく、道理に真っ向から相反する完全誤謬であり、
完全誤謬であるが故に人類生存のための根絶もまた必須であるというレアケースが
聖書信仰に当たり、ただ異端のカルトだから廃絶しなければならないというばかりでもない。
確かに聖書は特別な書物。唯一無二の書物。唯一無二にして最低最悪の書物だからこそ
信仰根絶の対象とすら見なされなければならない。そこは確かに未曾有なことだ。
形而上から万物を司る人格神の存在などは認めない。それは実際、実在しない。
そんな実在しない虚構神への狂信などを多くの人々が募らせているものだから、
地球人類社会も破滅に陥り、このままでは滅亡すら避けることができない。
この地を継ぐもの、あの山を継ぐものこそは、必ず聖書信仰を廃絶せねばならない。
決して親しいものとして近づいたりもせず、快楽殺人犯か
連続強姦魔並みの厳重な警戒対象としていかなければならない。
これからの時代を、閉鎖病棟内の禁治産者として過ごすのならともかく、
この地球上で積極的に社会参画を進めていくというのなら、聖書信仰の破棄は必須である。
信仰せず、信仰させぬことを当たり前の大前提としてこそ、いっぱしの社会人たり得る。
もちろん元凶は聖書自体であり、信者のほうは一種の詐欺被害者ですらあるのだから、
今まで聖書信者だったところを棄教した人間などを、そんなに邪険に扱ってもならず、
長らく狂信中毒に陥っていたことへの手厚い療養措置なども施してやるべきだ。
ただ「おかしい」というだけではなく、道理に真っ向から相反する完全誤謬であり、
完全誤謬であるが故に人類生存のための根絶もまた必須であるというレアケースが
聖書信仰に当たり、ただ異端のカルトだから廃絶しなければならないというばかりでもない。
確かに聖書は特別な書物。唯一無二の書物。唯一無二にして最低最悪の書物だからこそ
信仰根絶の対象とすら見なされなければならない。そこは確かに未曾有なことだ。
「今の君に事うる者は皆な曰う、我れ能く君が為めに土地を辟き、府庫を充たすと。今之の所謂良臣は、
古えの所謂民の賊なり。君道に郷わず、仁を志さざるに、之れを富まさんことを求むるは、是れ桀を富ますなり」
「いま主君に仕えようとするような者はみな、人気取りのために『私に任せていただければ君のために地を拓いて
君がためのものとし、租税を取り立てて国庫を山のような財産で充たしてあげましょう』などという。今こうして
良臣扱いされているような輩は、昔は民を損なう盗賊として扱われていた。主君が道理を求めず、仁徳を志そうとも
していないのに、ただ富ませることばかりを追い求めるのでは、桀王のような暴君を富ませるのとも同じことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・九より)
古えの所謂民の賊なり。君道に郷わず、仁を志さざるに、之れを富まさんことを求むるは、是れ桀を富ますなり」
「いま主君に仕えようとするような者はみな、人気取りのために『私に任せていただければ君のために地を拓いて
君がためのものとし、租税を取り立てて国庫を山のような財産で充たしてあげましょう』などという。今こうして
良臣扱いされているような輩は、昔は民を損なう盗賊として扱われていた。主君が道理を求めず、仁徳を志そうとも
していないのに、ただ富ませることばかりを追い求めるのでは、桀王のような暴君を富ませるのとも同じことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・九より)
「四牡孔だ阜いなり、六轡手に在り、騏駵は是れ中、騧驪は是れ驂、龍盾は之れ合し、鋈して以てケツ軜とす。
言れ君子を念う、温として其れ邑に在らん。方に何か期と為さん、胡ぞ然く我れを之れ念わしむるや」
「戦車を引く馬は大きく肥え太り、六本の手綱が御者の手に握られる。見栄えのする青黒い馬や赤黒い馬が副馬として添えられ、
黄色い馬や黒い馬までもがさらにそれに続く。車上には龍の描かれた豪華な盾が二枚並べ合わせて立てられ、
添え馬にも白金で鍍金された馬具が光り輝いている。こんな戦車隊の一員として、私の夫も軍役に従事していますが、
今でも私に見せてくれていたような温かな笑顔で、戦地の村にいるのでしょうか。いつになったら帰って来てくれるのでしょうか。
どうして私をこんなに心配にさせるのでしょうか。(戦車隊を飾る美々しい盾なども、軍役に赴く夫の妻にとっては、
ただより多くの心配を抱かせるばかりである。兵装の美々しさが敵軍の戦意すらも煽ることを、いち夫人ですらもが察知している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・秦風・小戎より)
言れ君子を念う、温として其れ邑に在らん。方に何か期と為さん、胡ぞ然く我れを之れ念わしむるや」
「戦車を引く馬は大きく肥え太り、六本の手綱が御者の手に握られる。見栄えのする青黒い馬や赤黒い馬が副馬として添えられ、
黄色い馬や黒い馬までもがさらにそれに続く。車上には龍の描かれた豪華な盾が二枚並べ合わせて立てられ、
添え馬にも白金で鍍金された馬具が光り輝いている。こんな戦車隊の一員として、私の夫も軍役に従事していますが、
今でも私に見せてくれていたような温かな笑顔で、戦地の村にいるのでしょうか。いつになったら帰って来てくれるのでしょうか。
どうして私をこんなに心配にさせるのでしょうか。(戦車隊を飾る美々しい盾なども、軍役に赴く夫の妻にとっては、
ただより多くの心配を抱かせるばかりである。兵装の美々しさが敵軍の戦意すらも煽ることを、いち夫人ですらもが察知している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・秦風・小戎より)
昔の戦争は刃物での戦闘がほとんど。
刀にしろ槍にしろ薙刀にしろ弓矢にしろ、
相手を傷つける刃体が金属製であればキラリと輝く。
戦場で光り物を輝かせれば、それだけで危険物と捉えられかねない。
にもかかわらず馬車に光り物のメッキの装飾が施されている。
華美を凝らすあまり、敵軍を挑発する、格好の的なってしまっている。
弱者である婦人であればこそ、このような
危ういものの危うさにも敏感だったのだろう。
刀にしろ槍にしろ薙刀にしろ弓矢にしろ、
相手を傷つける刃体が金属製であればキラリと輝く。
戦場で光り物を輝かせれば、それだけで危険物と捉えられかねない。
にもかかわらず馬車に光り物のメッキの装飾が施されている。
華美を凝らすあまり、敵軍を挑発する、格好の的なってしまっている。
弱者である婦人であればこそ、このような
危ういものの危うさにも敏感だったのだろう。
聖書信仰が解禁された明治以降、この日本では真理や道理に耳を傾ける人間が極端に少なくなった。
廃仏毀釈によって、真理を実践的に求道していくすべは根本から失われ、
人間道徳も西洋の「モラル(犯罪寓意)」と混同されて、その価値に大きな疑義が呈されることとなり、
敗戦後にいたってはもはや道徳の評価も地に墜ち、完全誤謬に根ざした
放辟邪侈だけが、日本人に許される人としてのあり方とされるまでに至った。
真理への理解がまず失われ、その次に道理への理解が徐々に損なわれて行き、最後には完全誤謬だけが残った。
つまり、真理は完全誤謬よりは道理に近いものであり、ある意味、道理以上にも人からは遠ざかりやすいもの。
親鸞聖人が仏者としての立場から「悪人正機」という善悪論を提唱したのも、武士の台頭によって
仏道が損なわれ始めた鎌倉時代に、最低限仏説を広めておこうと苦心した痕跡でこそあり、真理にとっての
不遇の時代に仮の姿として現れるのが道徳的な善悪論であるとすらいえ、道徳の善悪論すら通用しないような
完全誤謬まみれの世相において、真理が道理以上にも理解しやすいなどということがあるはずもないのだ。
完全誤謬の化身であるイエスの言説なぞは、真理に相反するだけでなく、その多くが真理とは無縁である。
俗世の腐敗した人間のあり方を正当化する詭弁にまみれているため、そこは真理と無縁ですらあるところ。
孔子の「君子と小人」論や孟子の性善説よろしく、恣意的な論及によって勧善懲悪への積極性を学徒に
備わらせようとする儒学のあり方のほうが、悪逆非道への積極性を信者に備わらせようとする聖書信仰の
あり方にも「姿勢」として近似している。孔孟の教えが勧善懲悪にかけて半ば洗脳的であることもまた、
聖書信仰が悪逆非道にかけて洗脳的であるのと類を同じくするところであり、真理をありのままに
把捉しようとする仏門においては、他力本願の方便信仰でもない限りは、そんなこともないのである。
廃仏毀釈によって、真理を実践的に求道していくすべは根本から失われ、
人間道徳も西洋の「モラル(犯罪寓意)」と混同されて、その価値に大きな疑義が呈されることとなり、
敗戦後にいたってはもはや道徳の評価も地に墜ち、完全誤謬に根ざした
放辟邪侈だけが、日本人に許される人としてのあり方とされるまでに至った。
真理への理解がまず失われ、その次に道理への理解が徐々に損なわれて行き、最後には完全誤謬だけが残った。
つまり、真理は完全誤謬よりは道理に近いものであり、ある意味、道理以上にも人からは遠ざかりやすいもの。
親鸞聖人が仏者としての立場から「悪人正機」という善悪論を提唱したのも、武士の台頭によって
仏道が損なわれ始めた鎌倉時代に、最低限仏説を広めておこうと苦心した痕跡でこそあり、真理にとっての
不遇の時代に仮の姿として現れるのが道徳的な善悪論であるとすらいえ、道徳の善悪論すら通用しないような
完全誤謬まみれの世相において、真理が道理以上にも理解しやすいなどということがあるはずもないのだ。
完全誤謬の化身であるイエスの言説なぞは、真理に相反するだけでなく、その多くが真理とは無縁である。
俗世の腐敗した人間のあり方を正当化する詭弁にまみれているため、そこは真理と無縁ですらあるところ。
孔子の「君子と小人」論や孟子の性善説よろしく、恣意的な論及によって勧善懲悪への積極性を学徒に
備わらせようとする儒学のあり方のほうが、悪逆非道への積極性を信者に備わらせようとする聖書信仰の
あり方にも「姿勢」として近似している。孔孟の教えが勧善懲悪にかけて半ば洗脳的であることもまた、
聖書信仰が悪逆非道にかけて洗脳的であるのと類を同じくするところであり、真理をありのままに
把捉しようとする仏門においては、他力本願の方便信仰でもない限りは、そんなこともないのである。
「夫れ苟くも善を好めば、則ち四海の内、皆な将に千里を軽しとして来たり、之に告ぐに善を以ってす。
夫れ苟くも善を好まざれば、則ち将に訑訑として予れ既に之れを知るのみと曰わん。
訑訑とした声音顔色は、人を千里の外に距つ。士千里の外に止むれば、則ち讒諂面諛の人至らん」
「もしも自分が善を好む人間であるなら、世界中の人々が千里の道のりすら軽く乗り越えて自分の下に
やって来て、色々と善いことを勧めてくれるだろう。しかし、もしも自分が善を嫌う人間であれば、
驕り高ぶって『自分こそは何でも知っている』というような傲岸な態度でいようとする。そのような驕りから
なる声高さや顔つきが、自然と人々を千里の外側にすら遠ざける。賢人が誰も彼も千里の外側に避難している
状態ともなれば、ただ相手を貶める讒言や媚び諂いを尽くすような人間ばかりが集まってくるようになる。
(イエスの驕り高ぶった態度こそは、善を嫌って賢人を遠ざけ、佞人を近づけようとしていた証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一三より)
夫れ苟くも善を好まざれば、則ち将に訑訑として予れ既に之れを知るのみと曰わん。
訑訑とした声音顔色は、人を千里の外に距つ。士千里の外に止むれば、則ち讒諂面諛の人至らん」
「もしも自分が善を好む人間であるなら、世界中の人々が千里の道のりすら軽く乗り越えて自分の下に
やって来て、色々と善いことを勧めてくれるだろう。しかし、もしも自分が善を嫌う人間であれば、
驕り高ぶって『自分こそは何でも知っている』というような傲岸な態度でいようとする。そのような驕りから
なる声高さや顔つきが、自然と人々を千里の外側にすら遠ざける。賢人が誰も彼も千里の外側に避難している
状態ともなれば、ただ相手を貶める讒言や媚び諂いを尽くすような人間ばかりが集まってくるようになる。
(イエスの驕り高ぶった態度こそは、善を嫌って賢人を遠ざけ、佞人を近づけようとしていた証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一三より)
性根が腐れ果てている人間にも、本人なりに根とするところがある。
傍から見ればひどくお粗末な虚構であったところで、本人が根とするところである。
根とするものは、本人こそが意識しない。根を張っている部分から何かをすることのほうに
頭がいって、自分の根を省みるなんてことはほとんどない。腐れ果てた性根の持ち主であれば
あるほどそうであり、どうしようもない腐敗を帯びた自らの根をなるべく眼中から外そうとする。
我流の思想信条で性根が腐れきっている人間だけでなく、エホバやキリストを我が性根の
在り処と自認する聖書信者でも、それは同じだ。聖書の記述はそのことごとくが詭弁であり、
書いてあるとおりに読めば美辞麗句のようであったりもする。その記述をありのままに
性根に据えようとしたところで、刑死した人間が生き返るようなことも実際にはないので、
記述どおりに実現することができない聖書の記述を性根に据えようとした結果、現実上では
腐れ果てた性根を持つようになる。そのようにして腐れ果てた性根を備えた人間が、自ら
性根とすることを自認する聖書の記述を読んでみれば、それはそれなりに美辞麗句っぽくもある。
腐れ果てた性根を美化するための詭弁に聖書の記述が役立ち、いつまでも自らの腐れ果てた性根の
実態からは目を背けていられるというのが、聖書信仰の「臭いものには蓋」のカラクリに当たる。
聖書の記述を性根に据えようとして、全く記述どおりに現実はいかなくて、結果として腐れ果てた
性根しか持ち得なくなっている。その腐れ果てた性根自体は、聖書の記述を読んだからといって
直視できるものではなく、むしろ聖書の記述も聖書信仰も取り払った所でこそ直視できる。
自分たちの腐敗した性根を直視しないための色眼鏡としての、聖書の美辞麗句の有害さをわきまえよ。
傍から見ればひどくお粗末な虚構であったところで、本人が根とするところである。
根とするものは、本人こそが意識しない。根を張っている部分から何かをすることのほうに
頭がいって、自分の根を省みるなんてことはほとんどない。腐れ果てた性根の持ち主であれば
あるほどそうであり、どうしようもない腐敗を帯びた自らの根をなるべく眼中から外そうとする。
我流の思想信条で性根が腐れきっている人間だけでなく、エホバやキリストを我が性根の
在り処と自認する聖書信者でも、それは同じだ。聖書の記述はそのことごとくが詭弁であり、
書いてあるとおりに読めば美辞麗句のようであったりもする。その記述をありのままに
性根に据えようとしたところで、刑死した人間が生き返るようなことも実際にはないので、
記述どおりに実現することができない聖書の記述を性根に据えようとした結果、現実上では
腐れ果てた性根を持つようになる。そのようにして腐れ果てた性根を備えた人間が、自ら
性根とすることを自認する聖書の記述を読んでみれば、それはそれなりに美辞麗句っぽくもある。
腐れ果てた性根を美化するための詭弁に聖書の記述が役立ち、いつまでも自らの腐れ果てた性根の
実態からは目を背けていられるというのが、聖書信仰の「臭いものには蓋」のカラクリに当たる。
聖書の記述を性根に据えようとして、全く記述どおりに現実はいかなくて、結果として腐れ果てた
性根しか持ち得なくなっている。その腐れ果てた性根自体は、聖書の記述を読んだからといって
直視できるものではなく、むしろ聖書の記述も聖書信仰も取り払った所でこそ直視できる。
自分たちの腐敗した性根を直視しないための色眼鏡としての、聖書の美辞麗句の有害さをわきまえよ。
「君子の性とする所は、仁義礼智にして心に根ざす。其の色の生ずるや、
睟然として面に見われ、背に盎われ、四体に施れ、言わずして喩る」
「君子の性分とするところは仁義礼智であり、この四徳が深く心に根を下ろしている。
そのためその清らかさは顔色にも表れ、後姿にすら表れ、四肢にまで行き渡り、
何も言わないでも自然と人に覚らせるところがある。(性根とする所を明確化させる点も、
儒学の聖書信仰と近似する点だといえる。性根が何ものにも惑わされない境地を目指す
仏教や道家の求道にまでは至らない初心者が、とりあえず邪教の誘惑に駆られての
性根の腐敗を防止する上では、仁義礼智を性根に据えることもまた有効だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二一より)
睟然として面に見われ、背に盎われ、四体に施れ、言わずして喩る」
「君子の性分とするところは仁義礼智であり、この四徳が深く心に根を下ろしている。
そのためその清らかさは顔色にも表れ、後姿にすら表れ、四肢にまで行き渡り、
何も言わないでも自然と人に覚らせるところがある。(性根とする所を明確化させる点も、
儒学の聖書信仰と近似する点だといえる。性根が何ものにも惑わされない境地を目指す
仏教や道家の求道にまでは至らない初心者が、とりあえず邪教の誘惑に駆られての
性根の腐敗を防止する上では、仁義礼智を性根に据えることもまた有効だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二一より)
人がこの世に利益以上の損害を及ぼすとき、そこには必ず悪意がある。
他者に危害を加えてでも自分が富もうとする、有害な作為(害為)がある。
十字架信仰こそは、その害為を美化して推進することを目的としたものであり、
特殊な思想信条を持たないただの自然人以上もの害為を信者に蓄えさせる。
道家や仏教などの超俗思考の教学では、作為全般を棄て去ることによる害為の捨離をも目指す。
それでこそ、根本からの害為の廃絶にもなるとするが、無為であるということは世俗社会では非常に
難しいことで、無理に実践した結果、「何もできないロクデナシ」扱いされたりするようなこともある。
無為自然によって害為を棄て去るほうが、より根本的な解決策とはなるが、それだけ難しい。むしろ
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする仁心を抱くほうが、害為に打ち克つ上では手っ取り早い。
自利以上の利他を志す菩提心を抱くことのほうが、ひとまず害為を超克しておく上ではたやすいこと。
ただ、やはりそれは根本からの害為の根絶手段にはならない。
たとえば、徳川家康が私することなく貯蓄していた現数百兆円規模の資産は、確かに歴代将軍によって
幕府経営のために費やされ、五代将軍綱吉の代でその底も尽きた。消費された資産は大坂堺の豪商などの
蔵に流れ込み、幕末に薩長軍がグラバーから重火器を購入して幕府を倒壊させるための融資にも用いられた。
結果、最終的に徳川家康が天下平定のために貯蓄していた資産は、今ではロスチャイルド財閥の貯蓄や、
ロックフェラー財閥の兵器へと様変わりしてしまっているわけで、世の中に損害以上の利益をもたらそう
とした徳川家康の努力は、現時点では米英の悪徳金融の私腹を肥やすだけの結果となってしまっている。
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする、作為的な仁者がいればこそ、利益以上の損害をもたらそう
とする害為正法外道が、仁者たちの努力に甘えて放辟邪侈を肥大化させていく余地をも生じさせてしまう。
だから正善への作為も、害為を根絶する決定的な手段になるとはいえないが、ただ、害為を肥大化させて
推進して来た連中よりは、まだ善為を推進して来た人々のほうが救われやすいという程度のことはいえる。
他者に危害を加えてでも自分が富もうとする、有害な作為(害為)がある。
十字架信仰こそは、その害為を美化して推進することを目的としたものであり、
特殊な思想信条を持たないただの自然人以上もの害為を信者に蓄えさせる。
道家や仏教などの超俗思考の教学では、作為全般を棄て去ることによる害為の捨離をも目指す。
それでこそ、根本からの害為の廃絶にもなるとするが、無為であるということは世俗社会では非常に
難しいことで、無理に実践した結果、「何もできないロクデナシ」扱いされたりするようなこともある。
無為自然によって害為を棄て去るほうが、より根本的な解決策とはなるが、それだけ難しい。むしろ
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする仁心を抱くほうが、害為に打ち克つ上では手っ取り早い。
自利以上の利他を志す菩提心を抱くことのほうが、ひとまず害為を超克しておく上ではたやすいこと。
ただ、やはりそれは根本からの害為の根絶手段にはならない。
たとえば、徳川家康が私することなく貯蓄していた現数百兆円規模の資産は、確かに歴代将軍によって
幕府経営のために費やされ、五代将軍綱吉の代でその底も尽きた。消費された資産は大坂堺の豪商などの
蔵に流れ込み、幕末に薩長軍がグラバーから重火器を購入して幕府を倒壊させるための融資にも用いられた。
結果、最終的に徳川家康が天下平定のために貯蓄していた資産は、今ではロスチャイルド財閥の貯蓄や、
ロックフェラー財閥の兵器へと様変わりしてしまっているわけで、世の中に損害以上の利益をもたらそう
とした徳川家康の努力は、現時点では米英の悪徳金融の私腹を肥やすだけの結果となってしまっている。
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする、作為的な仁者がいればこそ、利益以上の損害をもたらそう
とする害為正法外道が、仁者たちの努力に甘えて放辟邪侈を肥大化させていく余地をも生じさせてしまう。
だから正善への作為も、害為を根絶する決定的な手段になるとはいえないが、ただ、害為を肥大化させて
推進して来た連中よりは、まだ善為を推進して来た人々のほうが救われやすいという程度のことはいえる。
家康公の貯蓄が幕府経営のために惜しみなく用いられたことで、日本国民も潤沢な教育を受けて、
識字率も当時の西洋諸国を抜いて抜群の世界一となり、世界でも他に類を見ないほどの勤勉さを手に入れた。
ただよく働くだけでなく、文化的な教養に根ざした効率的な労働をこなす能力が身に付いたために、
明治以降にもあっという間に西洋並みの文明化を果たし、今では実体経済で西洋に水を開けるまでになった。
日本国民が国債操作を通じて1000兆円もの資金を欧米に貸し出させられることで、何とか今の欧米経済も
保たれている体たらくであり、その実態に基づくならば、全欧米人が日本人による禁治産処分を受けたとしても
何らの不当性を持たない状態となっている。かようにして、早くの内から国民教育という仁政のために資産を
惜しみなく費やしていた日本のほうが、国民教育も怠って覇道による権力者の私利私欲ばかりを貪っていた欧米
諸国よりも、最終的な正当性で確実に優位な立場に立つこととなった。害為よりは善為を尊重していたものがやはり、
害為ばかりを肥大化させていたものよりも最終的に正義たり得たのであり、これも全く必然なことだといえる。
無為自然こそは害為を根絶する最終手段でもあったが、結果として善為を推し進めていたものが、
害為を推し進めていたものよりも、もう少しだけ上の立場に置かれることにもなる。無為≧善為>害為であり、
無為の下で善為も害為もみそくそに扱われるのではなく、善為と害為とでの雌雄もまたそれはそれで決される。
「日月は天を得て能く久しく照らし、四時変化して能く久しく成し、聖人は其の道に久しくして天下を化成す」
「日月は天に昇っては恒久に世界を照らして輝き、春夏秋冬の季節の移り変わりもまた恒久に万物を生育し、
聖人もまた日月や四季の移り変わりのように恒久普遍な道理に根ざして、天下の民たちを教化育成していく」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・恆・彖伝より)
識字率も当時の西洋諸国を抜いて抜群の世界一となり、世界でも他に類を見ないほどの勤勉さを手に入れた。
ただよく働くだけでなく、文化的な教養に根ざした効率的な労働をこなす能力が身に付いたために、
明治以降にもあっという間に西洋並みの文明化を果たし、今では実体経済で西洋に水を開けるまでになった。
日本国民が国債操作を通じて1000兆円もの資金を欧米に貸し出させられることで、何とか今の欧米経済も
保たれている体たらくであり、その実態に基づくならば、全欧米人が日本人による禁治産処分を受けたとしても
何らの不当性を持たない状態となっている。かようにして、早くの内から国民教育という仁政のために資産を
惜しみなく費やしていた日本のほうが、国民教育も怠って覇道による権力者の私利私欲ばかりを貪っていた欧米
諸国よりも、最終的な正当性で確実に優位な立場に立つこととなった。害為よりは善為を尊重していたものがやはり、
害為ばかりを肥大化させていたものよりも最終的に正義たり得たのであり、これも全く必然なことだといえる。
無為自然こそは害為を根絶する最終手段でもあったが、結果として善為を推し進めていたものが、
害為を推し進めていたものよりも、もう少しだけ上の立場に置かれることにもなる。無為≧善為>害為であり、
無為の下で善為も害為もみそくそに扱われるのではなく、善為と害為とでの雌雄もまたそれはそれで決される。
「日月は天を得て能く久しく照らし、四時変化して能く久しく成し、聖人は其の道に久しくして天下を化成す」
「日月は天に昇っては恒久に世界を照らして輝き、春夏秋冬の季節の移り変わりもまた恒久に万物を生育し、
聖人もまた日月や四季の移り変わりのように恒久普遍な道理に根ざして、天下の民たちを教化育成していく」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・恆・彖伝より)
情報の新旧によらず、それなりに普遍的な知識というものが人類文明史上にはいくらでもある。
その普遍性を参考にしていくことで温故知新も可能となり、一人の人間や一代限りの社会では
とうてい造り上げられないような、荘重で神韻縹渺とした文化文明が構築されていくこととなる。
そうとはせず、一人や一代限りでの全くの我流の創作に終始すれば、それだけ薄っぺらいものとなる。
それなりに普遍的であるとしたところで薄っぺらいし、そもそもが旧来の智恵に全く依拠することなく
我流の創作ばかりを志すことからして、何も普遍的なものを見定められていない証拠だといえる。だから、
全くの我流の創作ってのは、ただ薄っぺらいだけでなく、おおよそ普遍性などを持たない場合がほとんど。
薄っぺらい上に全く普遍性がないことを埋め合わせるために、我流の創作者ってのは「物量投入」を好む。
土建による物質的な物量投入、大量の作業員を導入した技術的な物量投入など、質ではなく量で自分たち
の創作物の本質的な粗悪さを補おうとする。結果、物量投入に費やすための莫大な資本が必要となって、
資本を巻き上げるために、極めて多くの人々を長時間の低賃金重労働に強制使役させたりすることともなる。
過去の知的遺産にもよく倣って、自分たちでも文化構築についての最善を尽くしていく、そうして
造り上げられる文明社会こそは、無駄な物量投入のための苦役を民に課したりすることもない。
全くの創作ばかりに没頭して過去を顧みないのは、創作者の姿勢として最善を尽くさない姿だから、
最善を尽くしていないぶんだけのしわ寄せが民に及ぶことを、創作者までもが思い知らねばならない。
「射は皮を主とせず。力を科すを同じくせざるが為めなり。古の道なり」
「古の人々は力比べになることを避けるため、射儀に用いる的に射通しにくい皮などは用いなかった。
(今の人々が古のやり方を捨てて、何かにかけて力役に没頭していることを暗に批判している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一六より)
その普遍性を参考にしていくことで温故知新も可能となり、一人の人間や一代限りの社会では
とうてい造り上げられないような、荘重で神韻縹渺とした文化文明が構築されていくこととなる。
そうとはせず、一人や一代限りでの全くの我流の創作に終始すれば、それだけ薄っぺらいものとなる。
それなりに普遍的であるとしたところで薄っぺらいし、そもそもが旧来の智恵に全く依拠することなく
我流の創作ばかりを志すことからして、何も普遍的なものを見定められていない証拠だといえる。だから、
全くの我流の創作ってのは、ただ薄っぺらいだけでなく、おおよそ普遍性などを持たない場合がほとんど。
薄っぺらい上に全く普遍性がないことを埋め合わせるために、我流の創作者ってのは「物量投入」を好む。
土建による物質的な物量投入、大量の作業員を導入した技術的な物量投入など、質ではなく量で自分たち
の創作物の本質的な粗悪さを補おうとする。結果、物量投入に費やすための莫大な資本が必要となって、
資本を巻き上げるために、極めて多くの人々を長時間の低賃金重労働に強制使役させたりすることともなる。
過去の知的遺産にもよく倣って、自分たちでも文化構築についての最善を尽くしていく、そうして
造り上げられる文明社会こそは、無駄な物量投入のための苦役を民に課したりすることもない。
全くの創作ばかりに没頭して過去を顧みないのは、創作者の姿勢として最善を尽くさない姿だから、
最善を尽くしていないぶんだけのしわ寄せが民に及ぶことを、創作者までもが思い知らねばならない。
「射は皮を主とせず。力を科すを同じくせざるが為めなり。古の道なり」
「古の人々は力比べになることを避けるため、射儀に用いる的に射通しにくい皮などは用いなかった。
(今の人々が古のやり方を捨てて、何かにかけて力役に没頭していることを暗に批判している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一六より)
せっかくの憐憫や慈愛や謙遜や柔和や寛容も、結局は神の名の下での私利私欲の貪りという
薄汚い目的のための手段でしかないのだから、どこまでいっても偽善の域を出ることがない。
人口二万人にも満たない、極小の部落社会だった古代のイスラエルで、わざわざ仁徳を志すような
人間などは一人もいなかった。希望とは、即ち私利私欲の実現であり、万人を利することによる
結果的な私益までもの獲得などという、仁徳に根ざした希望などは根本から存在しなかった。
二万人だけでなら、それでもよかった。わざわざ万人を利して我れをも利する
仁政の体系などに依らずとも、二万人程度の部落社会だけを運営して行く上では、
そんなに問題も生じない。過剰な私利私欲の貪りがそのまま過酷な村八分扱いの原因とも
なってしまうから、自然と我田引水を押し止めることをも心がけるようになるものだから。
問題は、何百万何千万、何億何十億といった大規模の都市社会において、数万人止まりの部落社会で
のみ許容されていたような不仁が横行することであり、それは即座に、極重の罪悪や偽善に直結する。
不仁を持ち越したままでの相当な我田引水をやらかしたとしても、それに対する十分な村八分扱いも
行き届かず、表向きの善人面と裏での悪逆非道を使い分けることまでもが可能となってしまうから。
大規模な都市社会だからこそ、偽善者の仮面と極悪人の本性を使い分けての、非常識な規模の
我田引水までもが可能となる。秘密裏での過剰な我田引水が可能となるからこそ、世の中全体が
知らぬ間に極度の困窮に陥り、挙句には経済破綻を来たして大戦争に突入するような事態ともなる。
薄汚い目的のための手段でしかないのだから、どこまでいっても偽善の域を出ることがない。
人口二万人にも満たない、極小の部落社会だった古代のイスラエルで、わざわざ仁徳を志すような
人間などは一人もいなかった。希望とは、即ち私利私欲の実現であり、万人を利することによる
結果的な私益までもの獲得などという、仁徳に根ざした希望などは根本から存在しなかった。
二万人だけでなら、それでもよかった。わざわざ万人を利して我れをも利する
仁政の体系などに依らずとも、二万人程度の部落社会だけを運営して行く上では、
そんなに問題も生じない。過剰な私利私欲の貪りがそのまま過酷な村八分扱いの原因とも
なってしまうから、自然と我田引水を押し止めることをも心がけるようになるものだから。
問題は、何百万何千万、何億何十億といった大規模の都市社会において、数万人止まりの部落社会で
のみ許容されていたような不仁が横行することであり、それは即座に、極重の罪悪や偽善に直結する。
不仁を持ち越したままでの相当な我田引水をやらかしたとしても、それに対する十分な村八分扱いも
行き届かず、表向きの善人面と裏での悪逆非道を使い分けることまでもが可能となってしまうから。
大規模な都市社会だからこそ、偽善者の仮面と極悪人の本性を使い分けての、非常識な規模の
我田引水までもが可能となる。秘密裏での過剰な我田引水が可能となるからこそ、世の中全体が
知らぬ間に極度の困窮に陥り、挙句には経済破綻を来たして大戦争に突入するような事態ともなる。
過剰な我田引水が許されないからではなく、許されてしまうからこそ、大規模な都市社会では、
不仁の横行による大破綻などという事態を招く場合がある。だから大規模な都市社会での不仁こそは
控えられて然るべきなのであり、過剰な我田引水も可能となるから、不仁でいてもいいのではない。
大社会に暮らす人間、特に大社会の権力者こそは徹底して不仁を控えねばならず、不仁からなる
私利私欲の貪りを、偽善によって取り繕うカルト信仰などを精神的な拠り所にしてもいけない。
信じるというのなら、自利以上の利他を志す菩提心の宗教を信じねばならないし、信じる以外の
自力作善の範疇における、仁政を説く学問の実践などもまた、権力者なら必須のことと相成る。
権力者が不仁を廃して仁徳を志したならば、支配者に倣うことが天性の性分である大多数の被治民も
それなりに仁徳をわきまえるようになり、不仁からなる我田引水や、それを偽善によって取り繕うことを
推進する邪教などにも寄り付かないようになる。結果、キリスト教やユダヤ教のような邪教は大社会から
完全に追い出されることとなる。大社会に不適合な部落製の邪教に対する、適正な扱いが施されることとなる。
「之れを成人とするは、将に成人の礼を責めんとするなり。
成人の礼を責めるは、将に人の子たり、人の弟たり、人の臣たり、人の少たる者の礼の行いを
責めんとするなり。将に四つの者の行いを人に責めんとす。其の礼を重んぜざる可けんや」
「人を一人前たらしめるのは、一人前の人としての礼節をこなすことへの責めを負っていくことである。
一人前の礼節への責めとは、人の子であり、人の弟であり、人の臣下であり、人の年下である者としての
相応な礼節を実践していくことへの責めのことだ。これら四つの立場に相応の振る舞いを心がけて
いくのを強く責めていくことは、決して軽んじて寛容したり、怠りを赦したりしていいことではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・冠義第四十三より)
不仁の横行による大破綻などという事態を招く場合がある。だから大規模な都市社会での不仁こそは
控えられて然るべきなのであり、過剰な我田引水も可能となるから、不仁でいてもいいのではない。
大社会に暮らす人間、特に大社会の権力者こそは徹底して不仁を控えねばならず、不仁からなる
私利私欲の貪りを、偽善によって取り繕うカルト信仰などを精神的な拠り所にしてもいけない。
信じるというのなら、自利以上の利他を志す菩提心の宗教を信じねばならないし、信じる以外の
自力作善の範疇における、仁政を説く学問の実践などもまた、権力者なら必須のことと相成る。
権力者が不仁を廃して仁徳を志したならば、支配者に倣うことが天性の性分である大多数の被治民も
それなりに仁徳をわきまえるようになり、不仁からなる我田引水や、それを偽善によって取り繕うことを
推進する邪教などにも寄り付かないようになる。結果、キリスト教やユダヤ教のような邪教は大社会から
完全に追い出されることとなる。大社会に不適合な部落製の邪教に対する、適正な扱いが施されることとなる。
「之れを成人とするは、将に成人の礼を責めんとするなり。
成人の礼を責めるは、将に人の子たり、人の弟たり、人の臣たり、人の少たる者の礼の行いを
責めんとするなり。将に四つの者の行いを人に責めんとす。其の礼を重んぜざる可けんや」
「人を一人前たらしめるのは、一人前の人としての礼節をこなすことへの責めを負っていくことである。
一人前の礼節への責めとは、人の子であり、人の弟であり、人の臣下であり、人の年下である者としての
相応な礼節を実践していくことへの責めのことだ。これら四つの立場に相応の振る舞いを心がけて
いくのを強く責めていくことは、決して軽んじて寛容したり、怠りを赦したりしていいことではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・冠義第四十三より)
神は全知全能のはずなのに、
なんで知恵の木なんてものをエデンに生やして
人は食べたがるだろうなーって分かりつつ、食べた時の危険性を
アナウンスしたりしないで放置しといたのかな。
ヨブ記では、人の信仰をさんざん試したりするけど
それは、人が知恵の実を食べた原罪があるから。
けど、そもそも原罪さえ犯さないように
神は人を指導したり、作ったりすべきだったんでは?
って昨日読んだ本に書いてた。
なんで知恵の木なんてものをエデンに生やして
人は食べたがるだろうなーって分かりつつ、食べた時の危険性を
アナウンスしたりしないで放置しといたのかな。
ヨブ記では、人の信仰をさんざん試したりするけど
それは、人が知恵の実を食べた原罪があるから。
けど、そもそも原罪さえ犯さないように
神は人を指導したり、作ったりすべきだったんでは?
って昨日読んだ本に書いてた。
神が人間に原罪があると定めたのではなく、人間に原罪があると定める
奇特な神を、一部の奇特な人間たちが自分たちの心中に妄想しているだけだ。
そこに「なぜ原罪の原因となる知恵の実を人間が食したのか」などと疑問を
抱いたところで、その答えが見出せるわけもない。知恵の実を食べさせないように
取り計らいもしないでいて、いざ食べれば「はい、原罪持ちになりました」と
レッテルを貼って、数々の罰や試練を加えて来たりする欺瞞まみれな邪神を、
人間自身が自分たちの脳内で妄想して捏造しただけなのだから、それ以上の何の意味もない。
そんな邪神を、脳内で捏造したこともない東洋人には、当然、原罪志向などもない。
仮に「ある」としたところで、自縄自縛の自業自得による自滅の原因としかならない
脳内邪神などを欲しもしない。そんな邪神よりも遥かに「ある」としたほうが都合も
いい上に、その由緒も正しい神仏がいくらでもいるのだから、災厄の元凶となる上に、
別にいるともいないとも知れない邪神などを「ある」と見なす必要すら見いだせない。
あまりにも有害無益で、致命的な災厄ばかりを撒き散らしてそれをよしとする
犯罪聖書の邪神に心を囚われている人間は、そのあまりものどうしようもなさから、
「それぐらいどうしようもなければ神ですらない」とすら思うようになってしまっている。
エホバやキリストほどにどうしようもない邪神であってこそ神であり、そんなどうしようもなさを
始めから帯びてないからこそ、東洋の神などは神としての本格さに欠けるなどと思い込んでいる。
そこからして全くの勘違いで、本来エホバやキリストは神ではなく鬼畜や妖怪に属する存在であり、
鬼畜や妖怪が神を騙っているが故に、本物の神などにはないどぎつさをも帯びている。
そのどぎづさを「本物の神である証拠」などとと思い込むのも全くの転倒夢想であり、その
どきつさこそは、エホバやキリストが偽りの神である証拠であるのだとわきまえねばならない。
奇特な神を、一部の奇特な人間たちが自分たちの心中に妄想しているだけだ。
そこに「なぜ原罪の原因となる知恵の実を人間が食したのか」などと疑問を
抱いたところで、その答えが見出せるわけもない。知恵の実を食べさせないように
取り計らいもしないでいて、いざ食べれば「はい、原罪持ちになりました」と
レッテルを貼って、数々の罰や試練を加えて来たりする欺瞞まみれな邪神を、
人間自身が自分たちの脳内で妄想して捏造しただけなのだから、それ以上の何の意味もない。
そんな邪神を、脳内で捏造したこともない東洋人には、当然、原罪志向などもない。
仮に「ある」としたところで、自縄自縛の自業自得による自滅の原因としかならない
脳内邪神などを欲しもしない。そんな邪神よりも遥かに「ある」としたほうが都合も
いい上に、その由緒も正しい神仏がいくらでもいるのだから、災厄の元凶となる上に、
別にいるともいないとも知れない邪神などを「ある」と見なす必要すら見いだせない。
あまりにも有害無益で、致命的な災厄ばかりを撒き散らしてそれをよしとする
犯罪聖書の邪神に心を囚われている人間は、そのあまりものどうしようもなさから、
「それぐらいどうしようもなければ神ですらない」とすら思うようになってしまっている。
エホバやキリストほどにどうしようもない邪神であってこそ神であり、そんなどうしようもなさを
始めから帯びてないからこそ、東洋の神などは神としての本格さに欠けるなどと思い込んでいる。
そこからして全くの勘違いで、本来エホバやキリストは神ではなく鬼畜や妖怪に属する存在であり、
鬼畜や妖怪が神を騙っているが故に、本物の神などにはないどぎつさをも帯びている。
そのどぎづさを「本物の神である証拠」などとと思い込むのも全くの転倒夢想であり、その
どきつさこそは、エホバやキリストが偽りの神である証拠であるのだとわきまえねばならない。
神を騙る鬼畜である犯罪聖書の邪神が世に幅を利かせた結果、数多の本物の神仏が端に追いやられて、
発揮できる霊験すら発揮できない状態に追い込まれている。それこそはあまりにも勿体ないことであり、
聖書信仰がこの世から根絶されることの勿体なさなどは、本物の神仏が霊験を発揮できない勿体なさと
比べれば、とても大きいので捨てるのが惜しい鼻くそを捨てる勿体なさぐらいのものでしかない。
「昔斉の景公田せるとき、虞人を招くに旌を以ってするも至らず、将に之れを殺さんとす。
(孔子をこれを褒めて曰く、)志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れずと。
孔子は奚をか取しとせるか。其の招くべきに非ざれば往かざるを取しとせるなり」
「昔、斉の景公が狩りに言ったとき、狩場の役人を『旗を振る』という異例の方法で招き寄せようとした。
役人はその招きに応じなかったため、景公は怒ってその役人を殺そうとした。孔子はこの役人を褒めて、
『志士は道義のために側溝にのたれ死ぬことをも覚悟し、勇士はその首を打たれることすら覚悟する』といった。
孔子はなぜこれほどまでにあの役人を称えたのか。然るべき手段に依らない招きに決して応じない姿勢を称えたのだ。
(エホバやキリストの物言いにも暗示的なものが多いが、旗を振るような暗示的な招きなどに元から応じるべきではない。
卑近なところでは、児童誘拐の常套手段にも『おもちゃを買ってあげるよ』などの暗示による招きがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・一より)
発揮できる霊験すら発揮できない状態に追い込まれている。それこそはあまりにも勿体ないことであり、
聖書信仰がこの世から根絶されることの勿体なさなどは、本物の神仏が霊験を発揮できない勿体なさと
比べれば、とても大きいので捨てるのが惜しい鼻くそを捨てる勿体なさぐらいのものでしかない。
「昔斉の景公田せるとき、虞人を招くに旌を以ってするも至らず、将に之れを殺さんとす。
(孔子をこれを褒めて曰く、)志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れずと。
孔子は奚をか取しとせるか。其の招くべきに非ざれば往かざるを取しとせるなり」
「昔、斉の景公が狩りに言ったとき、狩場の役人を『旗を振る』という異例の方法で招き寄せようとした。
役人はその招きに応じなかったため、景公は怒ってその役人を殺そうとした。孔子はこの役人を褒めて、
『志士は道義のために側溝にのたれ死ぬことをも覚悟し、勇士はその首を打たれることすら覚悟する』といった。
孔子はなぜこれほどまでにあの役人を称えたのか。然るべき手段に依らない招きに決して応じない姿勢を称えたのだ。
(エホバやキリストの物言いにも暗示的なものが多いが、旗を振るような暗示的な招きなどに元から応じるべきではない。
卑近なところでは、児童誘拐の常套手段にも『おもちゃを買ってあげるよ』などの暗示による招きがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・一より)
「帝は文王に謂わせる、畔援に然る無かれ、歆羨に然る無かれ。誕こに先んじ岸こに登らしむ。
密人の不恭にして、敢えて大邦を距ぐ。阮を侵し共に徂けば、王は赫として斯れ怒れり。
爰こに其の旅を整え、以て徂旅を按む。以て周の祜い篤く、以て天下を對めたまう」
「天帝は文王に謂わせ賜いた、『だらしなくあるな、強欲であるな』と。そのあり方を自ら先導して
民を同じ所まで登らせた。蛮人が恭敬を欠いて、天下国家の利益を蔑ろにする姿を見るや、
そのふところ近くにまで入り行って、文王は赫然としてその怒りを露わにされた。それによって
軍兵をも従え、蛮人同士での戦争も中止させて、我が周国の福徳の増長と共に天下を安んじられた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)
密人の不恭にして、敢えて大邦を距ぐ。阮を侵し共に徂けば、王は赫として斯れ怒れり。
爰こに其の旅を整え、以て徂旅を按む。以て周の祜い篤く、以て天下を對めたまう」
「天帝は文王に謂わせ賜いた、『だらしなくあるな、強欲であるな』と。そのあり方を自ら先導して
民を同じ所まで登らせた。蛮人が恭敬を欠いて、天下国家の利益を蔑ろにする姿を見るや、
そのふところ近くにまで入り行って、文王は赫然としてその怒りを露わにされた。それによって
軍兵をも従え、蛮人同士での戦争も中止させて、我が周国の福徳の増長と共に天下を安んじられた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)
偽善の巧妙化は、それにかまけた悪逆非道の深刻化と比例的な関係にある。
表向きの修辞や隣人愛による取り繕いを磐石ならしめようとすればするほど、
隠れて行う法外な不当利得の貪りや、遠方の他人の大量虐殺も深刻なものとなっていく。
だから「巧言令色すくなきは仁なり(学而第一・三)」ともいえる。人の目に付いて過度に
よさげであることには、裏での大悪を取り繕うための偽善であるぐらいの目的しか備わらない。
美しいものが仮りに目前にあるとして、偽善目的でない美しさは、その美しさの目的も隠さない。
日本刀が刃物としての機能の洗練に努められた結果、必然的に優美な姿態を兼ね備えているようにして、
何らかの至当な目的があった上で、そこに美しさが備わるのは確かに偽善目的ではない。しかし、
その目的が判然としない美しさ、美しさのための美しさみたいなものが持て囃されているとき、
そこには必ず何か裏がある。税金対策や資金洗浄の目的で、高額で売買される絵画のように、
存在目的が不純である美術ほど、美術のための美術であることを専らにしようともする。
善美であるということは、それが偽善や虚飾でないというのなら、どこまでも目的の至当さを
追い詰めることができる。仏教美術の美しさなども、見るものの悟りを助けようとする確かな
目的があるから虚飾ではないといえる。善や美に目的を備わらせることが不純だなどというのは
全くの勘違いであり、目的の不審な善美ほど、偽善や虚飾として大いに悪用されるものだ。
儒学の標榜する勧善懲悪が、修己治人や天下平定といったごく実務的な目的性と密接な関係にあるのも、
それでこそ偽善の嫌疑が拭われるからで、そこを「不純な善である証拠だ」などと決め付けるのも大間違い。
儒家の善徳など所詮は世のため人のためでしかない。だからこそ純粋無垢なる真善であるとも確認できるのだ。
表向きの修辞や隣人愛による取り繕いを磐石ならしめようとすればするほど、
隠れて行う法外な不当利得の貪りや、遠方の他人の大量虐殺も深刻なものとなっていく。
だから「巧言令色すくなきは仁なり(学而第一・三)」ともいえる。人の目に付いて過度に
よさげであることには、裏での大悪を取り繕うための偽善であるぐらいの目的しか備わらない。
美しいものが仮りに目前にあるとして、偽善目的でない美しさは、その美しさの目的も隠さない。
日本刀が刃物としての機能の洗練に努められた結果、必然的に優美な姿態を兼ね備えているようにして、
何らかの至当な目的があった上で、そこに美しさが備わるのは確かに偽善目的ではない。しかし、
その目的が判然としない美しさ、美しさのための美しさみたいなものが持て囃されているとき、
そこには必ず何か裏がある。税金対策や資金洗浄の目的で、高額で売買される絵画のように、
存在目的が不純である美術ほど、美術のための美術であることを専らにしようともする。
善美であるということは、それが偽善や虚飾でないというのなら、どこまでも目的の至当さを
追い詰めることができる。仏教美術の美しさなども、見るものの悟りを助けようとする確かな
目的があるから虚飾ではないといえる。善や美に目的を備わらせることが不純だなどというのは
全くの勘違いであり、目的の不審な善美ほど、偽善や虚飾として大いに悪用されるものだ。
儒学の標榜する勧善懲悪が、修己治人や天下平定といったごく実務的な目的性と密接な関係にあるのも、
それでこそ偽善の嫌疑が拭われるからで、そこを「不純な善である証拠だ」などと決め付けるのも大間違い。
儒家の善徳など所詮は世のため人のためでしかない。だからこそ純粋無垢なる真善であるとも確認できるのだ。
「人の性の善なるは、猶お水の下きに就くがごとし。人善ならざること有る無く、水下きに有らざる無し。
今夫れ水は、搏ちて之れを躍らさば顙を過ぎしむ可く、激して之れを行れば、山に在らしむ可し。
是れ豈に水の性なるや。其の勢い則ち然るなり。人の不善を為さしむ可きは、其れ性も亦た猶お是くのごとし」
「人の本性が善であることは、ちょうど水が低いほう、低いほうへと流れ落ちていく法則に似ている。
水がその本性として低い所へと流れ落ちて止まないように、人の本性も善でないということがない。
しかし水もまた、その水面を打ってしぶきを上げれば人の頭上にまで降りかかることがあるし、激しく
逆流させて山の上に登らせることだってできなくはない。しかし、それは水の本性がそうさせるのではなく、
外的な力がそうさせるだけのことだ。人が不善を為すこともまた、このような外的な力によるばかりである。
(善は自らの本性にこそ具わっているものであり、外的に与えられたり、矯正によって
新しく形作られたりするものではない。他力本願に慈善の要素を企図する犯罪聖書の記述は、
浄土信仰の悪人正機以上にも、自分自身の性善を見失わせる危険な要素を内包している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・二より)
今夫れ水は、搏ちて之れを躍らさば顙を過ぎしむ可く、激して之れを行れば、山に在らしむ可し。
是れ豈に水の性なるや。其の勢い則ち然るなり。人の不善を為さしむ可きは、其れ性も亦た猶お是くのごとし」
「人の本性が善であることは、ちょうど水が低いほう、低いほうへと流れ落ちていく法則に似ている。
水がその本性として低い所へと流れ落ちて止まないように、人の本性も善でないということがない。
しかし水もまた、その水面を打ってしぶきを上げれば人の頭上にまで降りかかることがあるし、激しく
逆流させて山の上に登らせることだってできなくはない。しかし、それは水の本性がそうさせるのではなく、
外的な力がそうさせるだけのことだ。人が不善を為すこともまた、このような外的な力によるばかりである。
(善は自らの本性にこそ具わっているものであり、外的に与えられたり、矯正によって
新しく形作られたりするものではない。他力本願に慈善の要素を企図する犯罪聖書の記述は、
浄土信仰の悪人正機以上にも、自分自身の性善を見失わせる危険な要素を内包している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・二より)
合気道なんかは大本教に関係あるみたいね。
大本は相当な所まで行っているが、やはりプロトタイプ。
女系に固執したり、キリスト教ではなくバラモン教を悪玉に掲げたり。
雛形まで到達していながら、本質にまでは至っていないあたりが、宗教止まりな所以。
女系に固執したり、キリスト教ではなくバラモン教を悪玉に掲げたり。
雛形まで到達していながら、本質にまでは至っていないあたりが、宗教止まりな所以。
キリストによってだけは救われない。
全ての信者を確実に自業自得の破滅へと陥れる完全誤謬の化身。
それをまた「私によってでなければ誰も救われない」とすら
ほざくものだから、正統な神仏への帰依によって人々が
救われる可能性すらも絶やそうとする凶悪犯だといえる。
そのような邪義を確信犯によって流布した、イエスを始めとする古代ユダヤ人は、
それによって何を企図したかって、確かに今までの西洋史のような歴史展開を企図したに違いない。
自国を最悪の暴乱に陥れて、その埋め合わせのための外界侵略をも果てしなく肥大化させていく、
征服地域がどこまでもがん細胞的な発展をしていくことを見越していたか、いなかったかってとこ。
想定していたのはそこまでであり、いつかは全世界の征服可能地域が完全に尽きて、自国の暴乱を
他国に押し付けることでの信者の延命ができなくなることまでは想定していなかった。だから今、
欧米聖書圏も経済破綻のしわ寄せを外界に押し付けることができなくなって、立ち往生している。
戦争を起こして解決しようにも、次には人類滅亡級の核大戦しか選択し得ない状況にも至っている。
「世界がどこまでも広がっていて、外界侵略を続けていくことで破滅も救われ続ける」という
古代ユダヤ人の企図は、地球が丸くて、一定の自己完結した社会で形成されていることが確認された時点で、
もはや潰えるしかなくなった。聖書信者にとってのキリストとは、結局フセインやビンラディンやカダフィや
金正日に過ぎなかったのであり、キリスト代わりのスケープゴートがこの世から絶やされた時点で、もはや
キリストの代わりになる人間すらいなくなった。本当の最後の瞬間にこそ、聖書信者はキリストの偶像に
すがる余地すら失ったのであり、「最後の審判によってこそ救われる」という約束も完全な反故となった。
全ての信者を確実に自業自得の破滅へと陥れる完全誤謬の化身。
それをまた「私によってでなければ誰も救われない」とすら
ほざくものだから、正統な神仏への帰依によって人々が
救われる可能性すらも絶やそうとする凶悪犯だといえる。
そのような邪義を確信犯によって流布した、イエスを始めとする古代ユダヤ人は、
それによって何を企図したかって、確かに今までの西洋史のような歴史展開を企図したに違いない。
自国を最悪の暴乱に陥れて、その埋め合わせのための外界侵略をも果てしなく肥大化させていく、
征服地域がどこまでもがん細胞的な発展をしていくことを見越していたか、いなかったかってとこ。
想定していたのはそこまでであり、いつかは全世界の征服可能地域が完全に尽きて、自国の暴乱を
他国に押し付けることでの信者の延命ができなくなることまでは想定していなかった。だから今、
欧米聖書圏も経済破綻のしわ寄せを外界に押し付けることができなくなって、立ち往生している。
戦争を起こして解決しようにも、次には人類滅亡級の核大戦しか選択し得ない状況にも至っている。
「世界がどこまでも広がっていて、外界侵略を続けていくことで破滅も救われ続ける」という
古代ユダヤ人の企図は、地球が丸くて、一定の自己完結した社会で形成されていることが確認された時点で、
もはや潰えるしかなくなった。聖書信者にとってのキリストとは、結局フセインやビンラディンやカダフィや
金正日に過ぎなかったのであり、キリスト代わりのスケープゴートがこの世から絶やされた時点で、もはや
キリストの代わりになる人間すらいなくなった。本当の最後の瞬間にこそ、聖書信者はキリストの偶像に
すがる余地すら失ったのであり、「最後の審判によってこそ救われる」という約束も完全な反故となった。
古代ユダヤ人は、紛れもなく世間知らずだった。
剣や弓矢を用いた武術の洗練が、平和の実現に貢献できることすら知りもせず、
世界がある程度の広さまでで完結していることを、可能性として察知することすらもできなかった。
一端の社会人としての基本的な常識すら持ち合わせていなかったところで、自暴自棄からなる邪義を蓄えた。
世界の広さを肌で知っている中東人にはほとんど相手もされなかったが、中東よりも遥かに民度の低い
西洋では、その蒙昧さが返って身の丈にあっものとして大いに持て囃され、白人社会がキリスト教圏
として侵略の魔の手を世界中に広げていく温床となった。その原動力はどこまでも世間知らずゆえの
自暴自棄であり、別に叡智だ千里眼だがあったが故のものではない。人並み以上の知恵どころか、
人並みの知恵すらない畜人だったからこその妄想の垂れ流しであり、そこに不可解な要素は何もない。
「今、同室の人に闘う者有れば、之れを救うに被髪纓冠して之れを救うと雖も可なり。
郷鄰に闘う者有れば、被髮纓冠して往きて之れを救うは則ち惑いなり。戸を閉ざすと雖も可なり」
「いま仮に、自分と同じ部屋で問題を呈した者がいれば、無冠の乱れ髪のままでこれを救おうとしても構わない。
しかし、自分の住む地域で問題を呈した者がいたとして、これに対してまで無冠の乱れ髪のままで救いの手を
差し伸べに行ったりすれば、それは惑いというものだ。我が家の戸を閉めて、そ知らぬ振りでいても構わない。
(赤の他人の救済は然るべき官人が行うべきもので、無位無冠で乱れ髪のイエスなどが行うべきものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・七より)
剣や弓矢を用いた武術の洗練が、平和の実現に貢献できることすら知りもせず、
世界がある程度の広さまでで完結していることを、可能性として察知することすらもできなかった。
一端の社会人としての基本的な常識すら持ち合わせていなかったところで、自暴自棄からなる邪義を蓄えた。
世界の広さを肌で知っている中東人にはほとんど相手もされなかったが、中東よりも遥かに民度の低い
西洋では、その蒙昧さが返って身の丈にあっものとして大いに持て囃され、白人社会がキリスト教圏
として侵略の魔の手を世界中に広げていく温床となった。その原動力はどこまでも世間知らずゆえの
自暴自棄であり、別に叡智だ千里眼だがあったが故のものではない。人並み以上の知恵どころか、
人並みの知恵すらない畜人だったからこその妄想の垂れ流しであり、そこに不可解な要素は何もない。
「今、同室の人に闘う者有れば、之れを救うに被髪纓冠して之れを救うと雖も可なり。
郷鄰に闘う者有れば、被髮纓冠して往きて之れを救うは則ち惑いなり。戸を閉ざすと雖も可なり」
「いま仮に、自分と同じ部屋で問題を呈した者がいれば、無冠の乱れ髪のままでこれを救おうとしても構わない。
しかし、自分の住む地域で問題を呈した者がいたとして、これに対してまで無冠の乱れ髪のままで救いの手を
差し伸べに行ったりすれば、それは惑いというものだ。我が家の戸を閉めて、そ知らぬ振りでいても構わない。
(赤の他人の救済は然るべき官人が行うべきもので、無位無冠で乱れ髪のイエスなどが行うべきものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・七より)
「自意識過剰の思い上がり」、新旧約聖書はそれを「神」と呼ぶ。
聖書信者だけでなく、聖書文化や洋学に精神を侵されたニヒリストにもまた、
自意識過剰の思い上がりはある。ただ、それを「神」と呼ぶのが聖書信者で
あるのに対し、「神」とは呼ばないのがニヒリストである点だけが違う。
人よりも所得がある、地位や名声があるといった理由によって優越感を抱き、
自意識を過剰に肥大化させていくことが無宗教の俗人にだってよくある。それと
全く同じメカニズムによって、聖書信者は自らの自意識が神によって是認された
自意識であると見なして、自意識を肥大化させる。神が是認した自意識だから、
我が自意識すなわち神であり、神であるが故にどこまでも肥大化させてよいとする。
そうして、聖書信者の自意識過剰の思い上がりはどこまでも肥大化していくわけで、
金や社会的地位のように増減したり上下したりすることがない、神によって是認された
自意識だから、どこまでも思い上がりを肥大化させていくことまでもが可能だとする。
聖書信者の自意識過剰の思い上がりは、この世界、この宇宙に、特定の自意識を
選別して是認する超越神などが、介在し得ないことが証明されることによって潰える。
この宇宙の完全な形而上に、神がいるかいないかは別として、この世界に存在する
生物の自意識を、神が特定して是認したりすることがないことが証明された時点で、
聖書信者は自分たちの自意識を肥大化させていく術を失うし、すでに相当に肥大化
させてしまっている思い上がりの高転びによるショックや鬱屈までもが避けられない。
聖書信者だけでなく、聖書文化や洋学に精神を侵されたニヒリストにもまた、
自意識過剰の思い上がりはある。ただ、それを「神」と呼ぶのが聖書信者で
あるのに対し、「神」とは呼ばないのがニヒリストである点だけが違う。
人よりも所得がある、地位や名声があるといった理由によって優越感を抱き、
自意識を過剰に肥大化させていくことが無宗教の俗人にだってよくある。それと
全く同じメカニズムによって、聖書信者は自らの自意識が神によって是認された
自意識であると見なして、自意識を肥大化させる。神が是認した自意識だから、
我が自意識すなわち神であり、神であるが故にどこまでも肥大化させてよいとする。
そうして、聖書信者の自意識過剰の思い上がりはどこまでも肥大化していくわけで、
金や社会的地位のように増減したり上下したりすることがない、神によって是認された
自意識だから、どこまでも思い上がりを肥大化させていくことまでもが可能だとする。
聖書信者の自意識過剰の思い上がりは、この世界、この宇宙に、特定の自意識を
選別して是認する超越神などが、介在し得ないことが証明されることによって潰える。
この宇宙の完全な形而上に、神がいるかいないかは別として、この世界に存在する
生物の自意識を、神が特定して是認したりすることがないことが証明された時点で、
聖書信者は自分たちの自意識を肥大化させていく術を失うし、すでに相当に肥大化
させてしまっている思い上がりの高転びによるショックや鬱屈までもが避けられない。
聖書信者だけでなく、聖書文化や洋学に精神を侵された多くの無神論者もまた、
直接間接を織り交ぜつつの犯罪聖書の影響によってこそ肥大化させていた思い上がり
の高転びが避けられない。時にはキリストやエホバの権威などに疑義を呈しつつも、
結局は聖書信仰のメカニズムによってこそ肥大化する自意識過剰の思い上がりの
愉悦に浸らせていただいていたことには変わりないので、聖書信仰の瓦解と共に、
聖書信者でない大部分の現代人の、自我の喪失による廃人化までもが避けられない。
信じれば救われるのでも、信じなければ救われるのでもない。その存在性をほんの
少しでも是認してしまえば、それだけで致命的な自意識過剰の思い上がりを招き、
以って自我の崩壊による破滅が免れ得ないのが聖書信仰。聖書的な事物全般の存在性
を根本から否定して、自らの自意識の肥大化をも未然に食い止めていくのでなければ、
「聖書という存在性」がこの世へと撒き散らす運命破綻から逃れることはできない。
「人の斉聖なるは、酒飲めども温克す。
彼の昏く不知なるは、壱ち酔いて日に富む。
各おの爾じの儀を敬め、天命は又となし」
「精明で聖賢な人は、酒を飲んでも心奢らず、
暗愚で無知な人は、酔っ払っただけで巨万の富の持ち主のように奢る。
それぞれに汝の振る舞いを慎め。天命は二度と得られしないのだから。
(酒に酔って富者のように奢るのも、妄想神に酔って富者以上に奢るよりはまだマシか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小宛より)
直接間接を織り交ぜつつの犯罪聖書の影響によってこそ肥大化させていた思い上がり
の高転びが避けられない。時にはキリストやエホバの権威などに疑義を呈しつつも、
結局は聖書信仰のメカニズムによってこそ肥大化する自意識過剰の思い上がりの
愉悦に浸らせていただいていたことには変わりないので、聖書信仰の瓦解と共に、
聖書信者でない大部分の現代人の、自我の喪失による廃人化までもが避けられない。
信じれば救われるのでも、信じなければ救われるのでもない。その存在性をほんの
少しでも是認してしまえば、それだけで致命的な自意識過剰の思い上がりを招き、
以って自我の崩壊による破滅が免れ得ないのが聖書信仰。聖書的な事物全般の存在性
を根本から否定して、自らの自意識の肥大化をも未然に食い止めていくのでなければ、
「聖書という存在性」がこの世へと撒き散らす運命破綻から逃れることはできない。
「人の斉聖なるは、酒飲めども温克す。
彼の昏く不知なるは、壱ち酔いて日に富む。
各おの爾じの儀を敬め、天命は又となし」
「精明で聖賢な人は、酒を飲んでも心奢らず、
暗愚で無知な人は、酔っ払っただけで巨万の富の持ち主のように奢る。
それぞれに汝の振る舞いを慎め。天命は二度と得られしないのだから。
(酒に酔って富者のように奢るのも、妄想神に酔って富者以上に奢るよりはまだマシか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小宛より)
神の存在を確信することは、人間の思い上がりとは
まったく真逆の心の作用ではないん?
どんなに偉くても、神には頭が上がらないし、他の人間と平等の存在。
どんなに凄い王様でも、強力な権力者でも
預言者が語る神の声で、その権威が失墜する。
ある種、民主主義的なシステムは、ユダヤ教的な
考えのもとに生まれたとも言われているらしい。
逆に、儒学では徳の高い人が統治すべきと主張し
徳の低いものは、統治には関われない。
ここに統治者と被統治者の逆転関係は見られない。
って、昨日寝る前に読んだ本に書いてた。
まったく真逆の心の作用ではないん?
どんなに偉くても、神には頭が上がらないし、他の人間と平等の存在。
どんなに凄い王様でも、強力な権力者でも
預言者が語る神の声で、その権威が失墜する。
ある種、民主主義的なシステムは、ユダヤ教的な
考えのもとに生まれたとも言われているらしい。
逆に、儒学では徳の高い人が統治すべきと主張し
徳の低いものは、統治には関われない。
ここに統治者と被統治者の逆転関係は見られない。
って、昨日寝る前に読んだ本に書いてた。
「達巷党の人曰く、大なるかな孔子は。博く学びて名を成す所無し。
子之れを聞きて、門弟子に謂いて曰く、吾れ何をか執らん。御を執らんか、射を執らんか、吾れは御を執らん」
「達港という村の人が言った。『まことに孔先生は偉大なものだ。色々と広く学びながらも、
決して自らの名を広めようとするようながめつさはない』 これを聞いて先生は門弟たちに冗談で言った。
『私も何か名を上げることをやってみようかな。御者をやろうか、弓をやろうか。御者でもやってみよう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二)
確かに孔子には、自らの名声を広めようとした形跡がほとんど見られない。
儒家の経典として孔子が編んだ五経も、そのほとんどが既存の詩書や礼制の編纂物で、
「俺様の意見だから信頼できる」みたいな思い上がりはできる限り差し挟まないように努められている。
そこはイエスのような未熟者とも一線を画している部分だし、ヴェーダの権威を否定して新たな
真理学を立ち上げた釈迦以上にも老成した部分だといえる。(ただし釈迦も出家して俗名を捨てている)
ただ、自ら名を成そうとはせず、ただ世のため人のための学術振興に専心しようとしたその姿勢こそは、
「イエスの名によってこそ救われる」というような、思い上がりありきのカルト信仰にドップリと浸かっていた
人間などにとって、儒学が地味に映る原因ともなっている。仮に「孔子の名によってこそ救われる」などとすれば、
それは儒教になってしまい、自ら儒学を研究によって掘り下げていく場合などと比べて好ましくない結果を招く。
だからやはり、「孔子」とか「孟子」とかいった儒学の大成者個人個人の名声への依存は避けるべきなので、たとえ
受け入れ難くとも、「名によって救われる」というような姿勢を抜きにした儒学への鞍替えを心がけたほうがいい。
どうしても拠り所とする名が欲しいというのなら、それこそ「南無阿弥陀仏」でも唱えていればいい。
阿弥陀仏も歴史上に実在しない仏だが、どうせイエスの奇跡だって史実ではないのだから、全くの虚構でも
信じ込める蒙昧さを持ち越しているのなら、阿弥陀仏の唱名にすがることだって、決して虚しいことではあるまい。
子之れを聞きて、門弟子に謂いて曰く、吾れ何をか執らん。御を執らんか、射を執らんか、吾れは御を執らん」
「達港という村の人が言った。『まことに孔先生は偉大なものだ。色々と広く学びながらも、
決して自らの名を広めようとするようながめつさはない』 これを聞いて先生は門弟たちに冗談で言った。
『私も何か名を上げることをやってみようかな。御者をやろうか、弓をやろうか。御者でもやってみよう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二)
確かに孔子には、自らの名声を広めようとした形跡がほとんど見られない。
儒家の経典として孔子が編んだ五経も、そのほとんどが既存の詩書や礼制の編纂物で、
「俺様の意見だから信頼できる」みたいな思い上がりはできる限り差し挟まないように努められている。
そこはイエスのような未熟者とも一線を画している部分だし、ヴェーダの権威を否定して新たな
真理学を立ち上げた釈迦以上にも老成した部分だといえる。(ただし釈迦も出家して俗名を捨てている)
ただ、自ら名を成そうとはせず、ただ世のため人のための学術振興に専心しようとしたその姿勢こそは、
「イエスの名によってこそ救われる」というような、思い上がりありきのカルト信仰にドップリと浸かっていた
人間などにとって、儒学が地味に映る原因ともなっている。仮に「孔子の名によってこそ救われる」などとすれば、
それは儒教になってしまい、自ら儒学を研究によって掘り下げていく場合などと比べて好ましくない結果を招く。
だからやはり、「孔子」とか「孟子」とかいった儒学の大成者個人個人の名声への依存は避けるべきなので、たとえ
受け入れ難くとも、「名によって救われる」というような姿勢を抜きにした儒学への鞍替えを心がけたほうがいい。
どうしても拠り所とする名が欲しいというのなら、それこそ「南無阿弥陀仏」でも唱えていればいい。
阿弥陀仏も歴史上に実在しない仏だが、どうせイエスの奇跡だって史実ではないのだから、全くの虚構でも
信じ込める蒙昧さを持ち越しているのなら、阿弥陀仏の唱名にすがることだって、決して虚しいことではあるまい。
四書五経の記述は、ただ読むだけではなく、読んでしっかりと記憶に刻み込んで、
その含意を味わって忘れないようにして、常日ごろからの実践に努めるべきもの。
それによって、犯罪聖書の気休めの記述に依存しなければならなくなるような事態を未然に防ぐ。
犯罪聖書のほうはといえば、もはやどうしようもないような窮地に陥ってから、
気休めとしてちょこっとかじらせてもらうようなものであり、常日ごろから読者に
何かを努めさせるというような意味合いは全く持たない。読者の言行を律するのではなく、
読者にどこまでも身勝手な言行をやらかさせた上で、そこに気休めを施すというもの。
四書五経を読んで、その実践に努めていくなら、そもそも犯罪聖書の記述にすがるような
必要から生じない。十字架を背負うのではなく、未然に十字架を背負わないようにしていく
努力こそを読者に促すのが四書五経であり、それでこそ、エントロピー増大則にも根ざした、
人として最善を尽くすが故の、破滅からの救いですらない最大級の健康が得られもする。
「破滅に陥ってから救いを求める」という徒労を欲している時点で、確実に始めから破滅に
陥らずに済ませようとする場合以上ものロスが生ずる。穴倉に落ち込んで這い上がるためには
そのぶんだけ、穴倉に落ち込まないでいる場合以上ものエネルギーのロスが生まれる。それが
地上に生まれ落ちた人としての宿命であり、その宿命を破綻させられる神などもいないのである。
その含意を味わって忘れないようにして、常日ごろからの実践に努めるべきもの。
それによって、犯罪聖書の気休めの記述に依存しなければならなくなるような事態を未然に防ぐ。
犯罪聖書のほうはといえば、もはやどうしようもないような窮地に陥ってから、
気休めとしてちょこっとかじらせてもらうようなものであり、常日ごろから読者に
何かを努めさせるというような意味合いは全く持たない。読者の言行を律するのではなく、
読者にどこまでも身勝手な言行をやらかさせた上で、そこに気休めを施すというもの。
四書五経を読んで、その実践に努めていくなら、そもそも犯罪聖書の記述にすがるような
必要から生じない。十字架を背負うのではなく、未然に十字架を背負わないようにしていく
努力こそを読者に促すのが四書五経であり、それでこそ、エントロピー増大則にも根ざした、
人として最善を尽くすが故の、破滅からの救いですらない最大級の健康が得られもする。
「破滅に陥ってから救いを求める」という徒労を欲している時点で、確実に始めから破滅に
陥らずに済ませようとする場合以上ものロスが生ずる。穴倉に落ち込んで這い上がるためには
そのぶんだけ、穴倉に落ち込まないでいる場合以上ものエネルギーのロスが生まれる。それが
地上に生まれ落ちた人としての宿命であり、その宿命を破綻させられる神などもいないのである。
「楽正子、子敖に従いて斉に行く。楽正子、孟子に見みゆ。(略)孟子、楽正子に謂いて曰く、
子の子敖に従いて来たるは、徒だ餔啜のためなり。我れ、子が古えの道を学びて餔啜せんとは意わざりき」
「孟子の門人の楽正子が、子敖という悪徳政治家に従って孟子のいる斉にやって来た。楽正子はついでに
孟子に会いに来た。孟子は楽正子に言った。『おまえともあろうものが、子敖のようなならず者に
従ってやって来るとは、どうせ旅程での飲み食いだけが目的だったのだろう。私はおまえが古えの
道を学んでおきながら、ただ飲み食いのために人に従うようなマネをするとは夢にも思わなかった』
(自分一身の利得のために人に従うぐらいなら、孟子のようなさすらい人であったほうがまだマシだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二四‐二五より)
子の子敖に従いて来たるは、徒だ餔啜のためなり。我れ、子が古えの道を学びて餔啜せんとは意わざりき」
「孟子の門人の楽正子が、子敖という悪徳政治家に従って孟子のいる斉にやって来た。楽正子はついでに
孟子に会いに来た。孟子は楽正子に言った。『おまえともあろうものが、子敖のようなならず者に
従ってやって来るとは、どうせ旅程での飲み食いだけが目的だったのだろう。私はおまえが古えの
道を学んでおきながら、ただ飲み食いのために人に従うようなマネをするとは夢にも思わなかった』
(自分一身の利得のために人に従うぐらいなら、孟子のようなさすらい人であったほうがまだマシだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二四‐二五より)
他力本願は、それ自体が陰陽でいう陰に当たる。陰であることを陽と倒錯して、
陰を陽以上にも優位に置こうとすれば、それが悪になる。だから拝火教であれアブラハム教であれ、
他力本願の信教が自力作善の教学よりも優位だなどと主張すれば、それは悪になる。
自分たちではとうてい自力作善も覚束ない凡夫が、「たとえ悪人であっても救われる」
という評判を聞いて、「こりゃしめた」とみてすがりつくのが他力信仰の基本。さらには、
「悪人こそは救われる」となって、自分が全くの悪人であることを開き直りつつ帰依すれば、なおのこと正しい。
他力信者だから自力作善者以上、自力作善以上にも善人であって、善思善言善行も思うがままに
為せるなどと思い込むほうが、かえって間違い。他力本願それ自体は自力作善よりも劣位であり、
悪思悪言悪行しか為せない悪人こそは帰依するものであると見なすほうが、かえって正しいのだ。
悪人こそが他力本願にすがれば、それが善になる。善人として善言善行を心がけるために他力本願に
すがったりするほうが、かえって悪が助長される。この当たりには陰陽に根ざした微妙な法則性であり、
占い否定主義の親鸞聖人も、一時は易学を研究した上で悪人正機を編み出したともいう。
拝火教が生まれたイラン以西の世界の人々には、根本的な陰陽法則への理解が欠けていた。
悪が他力本願によって善になったり、善が他力本願によって悪になったりする微妙な実相法則を
東洋人のほうは理解できていたが、確かにこんな法則までをも理解していた東洋人のほうが凄すぎるだけで、
他力本願によって善を為すことだってできると考えた西方人のほうが、それなりであるといえるかもしれない。
しかし、全世界としては陰陽法則の理解はあるわけだから、ある以上はそれを諾うほうが利口だといえる。
陰を陽以上にも優位に置こうとすれば、それが悪になる。だから拝火教であれアブラハム教であれ、
他力本願の信教が自力作善の教学よりも優位だなどと主張すれば、それは悪になる。
自分たちではとうてい自力作善も覚束ない凡夫が、「たとえ悪人であっても救われる」
という評判を聞いて、「こりゃしめた」とみてすがりつくのが他力信仰の基本。さらには、
「悪人こそは救われる」となって、自分が全くの悪人であることを開き直りつつ帰依すれば、なおのこと正しい。
他力信者だから自力作善者以上、自力作善以上にも善人であって、善思善言善行も思うがままに
為せるなどと思い込むほうが、かえって間違い。他力本願それ自体は自力作善よりも劣位であり、
悪思悪言悪行しか為せない悪人こそは帰依するものであると見なすほうが、かえって正しいのだ。
悪人こそが他力本願にすがれば、それが善になる。善人として善言善行を心がけるために他力本願に
すがったりするほうが、かえって悪が助長される。この当たりには陰陽に根ざした微妙な法則性であり、
占い否定主義の親鸞聖人も、一時は易学を研究した上で悪人正機を編み出したともいう。
拝火教が生まれたイラン以西の世界の人々には、根本的な陰陽法則への理解が欠けていた。
悪が他力本願によって善になったり、善が他力本願によって悪になったりする微妙な実相法則を
東洋人のほうは理解できていたが、確かにこんな法則までをも理解していた東洋人のほうが凄すぎるだけで、
他力本願によって善を為すことだってできると考えた西方人のほうが、それなりであるといえるかもしれない。
しかし、全世界としては陰陽法則の理解はあるわけだから、ある以上はそれを諾うほうが利口だといえる。
「(鄭忽曰く)詩に云えり、自ら多福を求めよと。
我れにして已むる在り、大国も何を為さん。君子曰く、自ら善く謀りを為す」
「鄭忽『詩経(大雅・文王)に"自力で多福を追い求めよ"とある。何事も最後は自力によって成し遂げられるもの。
大国ですらその助けになるものではない』 君子(孔子)はこれを評した。『鄭忽は善く自分でものを考えられる人だ』
(善言善行を為すものは、その考え方から自力作善を本位としていて、他力本願はあったとしても横に置いている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・桓公六年より)
我れにして已むる在り、大国も何を為さん。君子曰く、自ら善く謀りを為す」
「鄭忽『詩経(大雅・文王)に"自力で多福を追い求めよ"とある。何事も最後は自力によって成し遂げられるもの。
大国ですらその助けになるものではない』 君子(孔子)はこれを評した。『鄭忽は善く自分でものを考えられる人だ』
(善言善行を為すものは、その考え方から自力作善を本位としていて、他力本願はあったとしても横に置いている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・桓公六年より)
親鸞聖人の生きた鎌倉時代は、まだ武士道の洗練も疎かだった地侍などが
民衆を痛め付けるような暴挙にも及んでいた乱世だった。
加えて、比叡山でも腐敗や僧兵の乱暴が横行し、まともに自力業で衆生を救えるような事態でもなかった。
乱世すぎて、聖道門級の自力作善が覚束ないのは今でも同じだが、決してそれが永久不変の定常状態なわけでもない。
奈良時代や平安時代並みの泰平が実現されたなら、聖道門の自力作善も可能となるし、
聖道門よりは遥かに卑俗な儒学による自力作善なら、江戸時代程度の平穏度でも可能となる。
民衆を痛め付けるような暴挙にも及んでいた乱世だった。
加えて、比叡山でも腐敗や僧兵の乱暴が横行し、まともに自力業で衆生を救えるような事態でもなかった。
乱世すぎて、聖道門級の自力作善が覚束ないのは今でも同じだが、決してそれが永久不変の定常状態なわけでもない。
奈良時代や平安時代並みの泰平が実現されたなら、聖道門の自力作善も可能となるし、
聖道門よりは遥かに卑俗な儒学による自力作善なら、江戸時代程度の平穏度でも可能となる。
大量の資本や資源を独占している欧米聖書圏だけを相続できれば、そりゃあしめたもんだ。
しかし、欧米なんてのは全世界のごく一部で、その他の大勢の社会から富を収奪することでこそ
欧米の虚栄も成り立っていて、その富の配分を均しただけで、一人頭の割り当ては雀の涙ほどにもなる。
それは、収奪行為などに及ばなかった場合以上にも些少な益であり、全体の公益は確実に昔よりも目減りしている。
仮に富の分配は絶って、世界の大多数の人間の困窮はそのままにしておくとすれば、苦悩に駆られた乱交からなる
人口爆発が避けられない。核大戦や化学テロやウイルステロによる人口削減を試みたところで、その災禍は必ず
欧米社会にまで及び、富を均等に分配する場合以上もの災難が、確実に免れ得ないことが容易に察知できる。
まず、聖書信仰に支配された世界を相続させられることは全く割に合わない。苦労ばかりが募る後始末にしかならない。
それでも相続を引き受けるとして、ただ富を分配するだけでは世界中の疲弊を解消しきることはできないので、
道徳教育による民度の改善も必要だし、道徳教育を広めるためにこそ聖書信仰の有害さを啓発していく必要もある。
ただ無為自然の放任ばかりにもしていられないのは、聖書信仰の害為によって世界が自然状態以上にも荒廃して
しまっているからで、道徳教育という作為を必要としてしまうのも、聖書信仰のような害為があったればこそ。
しかし、欧米なんてのは全世界のごく一部で、その他の大勢の社会から富を収奪することでこそ
欧米の虚栄も成り立っていて、その富の配分を均しただけで、一人頭の割り当ては雀の涙ほどにもなる。
それは、収奪行為などに及ばなかった場合以上にも些少な益であり、全体の公益は確実に昔よりも目減りしている。
仮に富の分配は絶って、世界の大多数の人間の困窮はそのままにしておくとすれば、苦悩に駆られた乱交からなる
人口爆発が避けられない。核大戦や化学テロやウイルステロによる人口削減を試みたところで、その災禍は必ず
欧米社会にまで及び、富を均等に分配する場合以上もの災難が、確実に免れ得ないことが容易に察知できる。
まず、聖書信仰に支配された世界を相続させられることは全く割に合わない。苦労ばかりが募る後始末にしかならない。
それでも相続を引き受けるとして、ただ富を分配するだけでは世界中の疲弊を解消しきることはできないので、
道徳教育による民度の改善も必要だし、道徳教育を広めるためにこそ聖書信仰の有害さを啓発していく必要もある。
ただ無為自然の放任ばかりにもしていられないのは、聖書信仰の害為によって世界が自然状態以上にも荒廃して
しまっているからで、道徳教育という作為を必要としてしまうのも、聖書信仰のような害為があったればこそ。
聖書信仰の有害無益さがよくわきまえられて、狂信したりすることがなくなればそれに応じて、作為的な道徳教育に
邁進していく必要などもなくなるのだから、儒学による道徳教育こそは、聖書信仰という罪に対する罰であると考えるべきだ。
「申伯の徳は、柔恵にして且つ直し。此の万邦を揉らぎ、四国に聞まれあり。
吉甫は誦を作る、其の詩は孔とも碩しく、其の風も肆と好ましく、以て申伯に贈す」
「周王の叔父の申伯は、その徳が柔和で恵み深く、それでいて正直である。万邦を和らげて、四方の国々にも評判が囁かれる。
吉甫がそれを賛じて唄った歌も、それはそれは麗しいもので、風流にも適って好ましかったために、申伯に献じられた。
(徳治の成果は歌として献じられるばかり。全世界を投げ出すなんて、どれほどの暴政をやらかしたことやら)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・郲高より)
邁進していく必要などもなくなるのだから、儒学による道徳教育こそは、聖書信仰という罪に対する罰であると考えるべきだ。
「申伯の徳は、柔恵にして且つ直し。此の万邦を揉らぎ、四国に聞まれあり。
吉甫は誦を作る、其の詩は孔とも碩しく、其の風も肆と好ましく、以て申伯に贈す」
「周王の叔父の申伯は、その徳が柔和で恵み深く、それでいて正直である。万邦を和らげて、四方の国々にも評判が囁かれる。
吉甫がそれを賛じて唄った歌も、それはそれは麗しいもので、風流にも適って好ましかったために、申伯に献じられた。
(徳治の成果は歌として献じられるばかり。全世界を投げ出すなんて、どれほどの暴政をやらかしたことやら)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・郲高より)
父なし子ではあっても父親の身元を自力で調べ上げ、正式に家を継いだ孔子と、
父なし子である悲哀をそのまま開き直って「神の子」と称したイエスとでは、
実父に対する恭敬の念の有無と、ちゃんと父親の素性を確かめようとした勤勉さの有無とが違う。
結果、孔子は人並み以上に親を敬う孝心を養い、物事をちゃんと調べ上げる洞察力をも得た一方で、
イエスは実父がいたとした場合に、その存在を貶めるような不孝な思いや言動を募らせて、物事の
実際をちゃんと確かめようともしなかったことからなる注意欠陥障害までをも深刻化させていた。
父なしの妾腹の私生児という境遇が、孔子には人並み以上の孝心や洞察力を得させた一方、
イエスには人並み以上に不孝な思いや言動と、深刻な注意欠陥障害とを募らさせた。
両者の違いは、自利作善と他力本願というところにも現れていて、孔子は自学自習によってこそ
孝心や洞察力を養ったのに対し、イエスは脳内妄想神への仮託によって不孝や注意欠陥を募らせた。
神と呼び、父と呼ぶ脳内妄想への他力本願が、不孝や注意欠陥の元凶となったわけだから、
他力本願の悪用の中でも最たるものであるといえ、妾腹の私生児のような恵まれない境遇の持ち主こそは、
自らの不遇からなる怨みつらみを妄想神に仮託して、他力本願の対象としたりしてはいけないのだといえる。
人間の不遇にも色々とあるが、特に妾腹の私生児のような「乗り越えられる不遇」に見舞われている場合には、
自力の努力による克服をまず志すべきであって、そこに怠惰からなる諦めや、諦めからなる不満などを
差し挟むべきではない。どうしても治せない難病にかかっていたり、乱世からなる民への虐げによって、
どうしても自分が困窮した生活から這い上がれなかったりといった、克服がほとんど不可能な不遇に限って
他力本願での気休めも許されるものであり、最善を尽くして、それでも悪人であらざるを得ないところにこそ、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という、親鸞聖人の言葉までもが活きてくるのだといえる。
父なし子である悲哀をそのまま開き直って「神の子」と称したイエスとでは、
実父に対する恭敬の念の有無と、ちゃんと父親の素性を確かめようとした勤勉さの有無とが違う。
結果、孔子は人並み以上に親を敬う孝心を養い、物事をちゃんと調べ上げる洞察力をも得た一方で、
イエスは実父がいたとした場合に、その存在を貶めるような不孝な思いや言動を募らせて、物事の
実際をちゃんと確かめようともしなかったことからなる注意欠陥障害までをも深刻化させていた。
父なしの妾腹の私生児という境遇が、孔子には人並み以上の孝心や洞察力を得させた一方、
イエスには人並み以上に不孝な思いや言動と、深刻な注意欠陥障害とを募らさせた。
両者の違いは、自利作善と他力本願というところにも現れていて、孔子は自学自習によってこそ
孝心や洞察力を養ったのに対し、イエスは脳内妄想神への仮託によって不孝や注意欠陥を募らせた。
神と呼び、父と呼ぶ脳内妄想への他力本願が、不孝や注意欠陥の元凶となったわけだから、
他力本願の悪用の中でも最たるものであるといえ、妾腹の私生児のような恵まれない境遇の持ち主こそは、
自らの不遇からなる怨みつらみを妄想神に仮託して、他力本願の対象としたりしてはいけないのだといえる。
人間の不遇にも色々とあるが、特に妾腹の私生児のような「乗り越えられる不遇」に見舞われている場合には、
自力の努力による克服をまず志すべきであって、そこに怠惰からなる諦めや、諦めからなる不満などを
差し挟むべきではない。どうしても治せない難病にかかっていたり、乱世からなる民への虐げによって、
どうしても自分が困窮した生活から這い上がれなかったりといった、克服がほとんど不可能な不遇に限って
他力本願での気休めも許されるものであり、最善を尽くして、それでも悪人であらざるを得ないところにこそ、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という、親鸞聖人の言葉までもが活きてくるのだといえる。
「与に共に学ぶ可くも、未だ与に道に適く可からず。
与に道に適く可くも、未だ与に立つ可からず。与に立つ可くも、未だ与に権る可からず」
「人と共に学ぶことができたとしても、それで共に道を得られるとは限らない。
共に道を得られたとしても、それで共に同じ立場に立てるとも限らない。
共に同じ立場に立てたとしても、それで共に物事をよく取り計らえるとは限らない。
(自学自習によって聖人として大成した孔子ならではの、自力作善の孤独さの経験則だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三一より)
与に道に適く可くも、未だ与に立つ可からず。与に立つ可くも、未だ与に権る可からず」
「人と共に学ぶことができたとしても、それで共に道を得られるとは限らない。
共に道を得られたとしても、それで共に同じ立場に立てるとも限らない。
共に同じ立場に立てたとしても、それで共に物事をよく取り計らえるとは限らない。
(自学自習によって聖人として大成した孔子ならではの、自力作善の孤独さの経験則だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三一より)
息をするようにして根も葉もない演技をする虚言癖も、
現実の苦難を克服しようともせずに、ただひたすら逃避を続けて来たがための所産。
演技が仕事になるのは、商売人や芸能人まで。君子階級はおろか、
農家や職人ですら、思考の上ずりからなる虚言虚構などは仕事上、百害あって一利もない。
士農工商の位階に即して上位である職業ほど上辺の取り繕いなどでは済まされず、
下位である職業ほど口先だけでのがなりたてがものを言う。
つまり、職業倫理的には演技を不要ないし有害とする職業のほうが優良であり、
演技を有用で有益なものとする職業のほうが劣悪であるといえる。
劇場での演技の舞台なども、視野の範囲としてはごく限られたものであり、
そこばかりを注視していれば必ず死角が生ずる。四方に広がる天下全土のうちでも、
ごく限られた界隈にだけ視界や投げ銭のあて所を与えるのが、演技を用いた職業の根本原理であり、
それは演劇だけでなく、客の前でだけへつらい顔を崩さないでいる商売などについても言えること。
商売や芸能が、あくまで卑賤な職業として、演技を生業とすることはある程度まで許されることだが、
それらが聖職のように崇め祭られたりするのはおかしいし、挙げ句には演技などでことを済ませてはならない
為政者までもが、商売人や芸能人のあり方を倣って巧言令色に努めたりするのもおかしい。
演技を生業とするような職業は賤しい職業だし、そもそも演技という行い自体が、無くて済めばそれに越したことはないもの。
「演技をこの世から根絶しろ」とまではいわないが、少なくとも演技を神聖化するような風潮は絶やすべきだといえる。
演技など、やってみた所で「大根」である内が、現実に生きる人としての充実度も華なのである。
現実の苦難を克服しようともせずに、ただひたすら逃避を続けて来たがための所産。
演技が仕事になるのは、商売人や芸能人まで。君子階級はおろか、
農家や職人ですら、思考の上ずりからなる虚言虚構などは仕事上、百害あって一利もない。
士農工商の位階に即して上位である職業ほど上辺の取り繕いなどでは済まされず、
下位である職業ほど口先だけでのがなりたてがものを言う。
つまり、職業倫理的には演技を不要ないし有害とする職業のほうが優良であり、
演技を有用で有益なものとする職業のほうが劣悪であるといえる。
劇場での演技の舞台なども、視野の範囲としてはごく限られたものであり、
そこばかりを注視していれば必ず死角が生ずる。四方に広がる天下全土のうちでも、
ごく限られた界隈にだけ視界や投げ銭のあて所を与えるのが、演技を用いた職業の根本原理であり、
それは演劇だけでなく、客の前でだけへつらい顔を崩さないでいる商売などについても言えること。
商売や芸能が、あくまで卑賤な職業として、演技を生業とすることはある程度まで許されることだが、
それらが聖職のように崇め祭られたりするのはおかしいし、挙げ句には演技などでことを済ませてはならない
為政者までもが、商売人や芸能人のあり方を倣って巧言令色に努めたりするのもおかしい。
演技を生業とするような職業は賤しい職業だし、そもそも演技という行い自体が、無くて済めばそれに越したことはないもの。
「演技をこの世から根絶しろ」とまではいわないが、少なくとも演技を神聖化するような風潮は絶やすべきだといえる。
演技など、やってみた所で「大根」である内が、現実に生きる人としての充実度も華なのである。
「人の臣為る者が利を懐いて以て其の君に事え、人の子為る者が利を懐いて以て其の父に事え、
人の弟為る者が利を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は終く仁義を去り、
利を懐いて以て相接わるなり。然うして亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。(ここまで既出)
人の臣為る者が仁義を懐いて以て其の君に事え、人の子為る者が仁義を懐いて以て其の父に事え、
人の弟為る者が仁義を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は去く利を去り、
仁義を懐いて以て相接わるなり。然うして王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。何ぞ必ずしも利を曰わん」
「人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
一身の利欲ばかりを目的に仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが仁義を去ることになり、
ただ自らの利益のためにばかり関係を持つことになる。こうして滅亡しなかった例は未だかつてない。
人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
仁義の実現のために仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが利欲を去ることになり、
ただ仁義の実現のためにのみ関係を持つことになる。こうして王者とならなかった例は未だかつてない。
どうして一身の利欲のことなどを口にしていられようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・四より)
人の弟為る者が利を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は終く仁義を去り、
利を懐いて以て相接わるなり。然うして亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。(ここまで既出)
人の臣為る者が仁義を懐いて以て其の君に事え、人の子為る者が仁義を懐いて以て其の父に事え、
人の弟為る者が仁義を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は去く利を去り、
仁義を懐いて以て相接わるなり。然うして王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。何ぞ必ずしも利を曰わん」
「人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
一身の利欲ばかりを目的に仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが仁義を去ることになり、
ただ自らの利益のためにばかり関係を持つことになる。こうして滅亡しなかった例は未だかつてない。
人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
仁義の実現のために仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが利欲を去ることになり、
ただ仁義の実現のためにのみ関係を持つことになる。こうして王者とならなかった例は未だかつてない。
どうして一身の利欲のことなどを口にしていられようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・四より)
「言葉」というものはそれ自体が、実相上の陰陽でいうところの「陰」にあたる。
自ら身を挺しての実践こそは「陽」であり、それを記録したり、補強したり
するために言葉や文字を用いるのが、陽唱陰和の吉祥法則に適うことになる。
言葉や文字が絶対と化して、そこに全く実践が伴わなかったりするのは
陽唱陰和の逆になるから不吉であり、怠惰や慢心などの原因ともなってしまう。
有言不実行が最も不吉であり、言行一致がまあまあであり、不言実行がなかなかであり、
実行の後に抑制を利かせた文飾を添えることが最も吉祥であると儒者は見なす。
だから完全に文を捨てて体育会系となるのでもなく、史書や実践思想などとしての
文化活動にはまんざらではなく、王朝の正史編纂が儒者の伝統的な事業ともされて来た。
ただ、言葉を博打のために用いること、契約や法定のために用いることなどを儒者は
なるべく忌避して来ており、そのような言葉によって人々の行いが事前に拘束を被る
ことをよからぬ事と見なして来た。そしてそれは、西洋文化のほぼ全てにも当たる。
言語道断の境地になおあり得る人だとか神仏だとかを、西洋人は太古の昔から
打ち棄ててきた。聖書信仰への罹患後にはもはやそんなものは実在しないとすらされ、
超言語的文化を全てオカルトと見なして憚らなかった。しかし、その言葉を超えた
ところにある実相への帰着こそは東洋文化の根本命題でもあり、だからこそ
東洋文化上の文書群、特に仏典などには微妙不可思議で意味不明なものが多い。
自ら身を挺しての実践こそは「陽」であり、それを記録したり、補強したり
するために言葉や文字を用いるのが、陽唱陰和の吉祥法則に適うことになる。
言葉や文字が絶対と化して、そこに全く実践が伴わなかったりするのは
陽唱陰和の逆になるから不吉であり、怠惰や慢心などの原因ともなってしまう。
有言不実行が最も不吉であり、言行一致がまあまあであり、不言実行がなかなかであり、
実行の後に抑制を利かせた文飾を添えることが最も吉祥であると儒者は見なす。
だから完全に文を捨てて体育会系となるのでもなく、史書や実践思想などとしての
文化活動にはまんざらではなく、王朝の正史編纂が儒者の伝統的な事業ともされて来た。
ただ、言葉を博打のために用いること、契約や法定のために用いることなどを儒者は
なるべく忌避して来ており、そのような言葉によって人々の行いが事前に拘束を被る
ことをよからぬ事と見なして来た。そしてそれは、西洋文化のほぼ全てにも当たる。
言語道断の境地になおあり得る人だとか神仏だとかを、西洋人は太古の昔から
打ち棄ててきた。聖書信仰への罹患後にはもはやそんなものは実在しないとすらされ、
超言語的文化を全てオカルトと見なして憚らなかった。しかし、その言葉を超えた
ところにある実相への帰着こそは東洋文化の根本命題でもあり、だからこそ
東洋文化上の文書群、特に仏典などには微妙不可思議で意味不明なものが多い。
漢字や梵字のような豊潤な書道文化もある一方で、言葉はあくまで言葉であって、
実相そのものではなく、どちらかといえば言葉よりも実相を重んじるべきだという
通念が東洋文化には一貫して存在する。むしろ、言葉を実相の記録係として
割り切って扱ってきたからこそ、豊潤な書道文化までもが発達したのであり、
言葉こそは絶対である西洋においてこそ、文字自体の扱いはかえって粗末である。
言葉を紙面上に表したりした時点で、言葉が実相に汚されたかのように思うから。
むしろ、言葉によって実相が汚されることのほうを問題視すべきなのであって、
ロゴス主義の聖書信仰や洋学を無理に実践しようとした結果、地球規模での環境破壊
などが巻き起こっていることのほうを、ロゴス主義が不吉である証拠だと捉えるべきなのだ。
「司馬牛仁を問う。子曰く、仁者は其の言や鞚。曰く、其の言や鞚は、斯れを之れ
仁と謂うべきか。子曰く、之れを為すこと難ければ、之れを言うに鞚なること無きを得んか」
「弟子の司馬牛が仁について問うた。先生は言われた。『仁者はその言葉が控えめなものだ』
司馬牛『言葉が控えめですらあれば仁と呼べるのでしょうか』 先生は言われた。
『その実践が難しいと思えば、たとえ控えめですらものを言うことができようか』
(仁者は常にその言葉が実践可能であるかどうかを念頭に置いているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・三)
実相そのものではなく、どちらかといえば言葉よりも実相を重んじるべきだという
通念が東洋文化には一貫して存在する。むしろ、言葉を実相の記録係として
割り切って扱ってきたからこそ、豊潤な書道文化までもが発達したのであり、
言葉こそは絶対である西洋においてこそ、文字自体の扱いはかえって粗末である。
言葉を紙面上に表したりした時点で、言葉が実相に汚されたかのように思うから。
むしろ、言葉によって実相が汚されることのほうを問題視すべきなのであって、
ロゴス主義の聖書信仰や洋学を無理に実践しようとした結果、地球規模での環境破壊
などが巻き起こっていることのほうを、ロゴス主義が不吉である証拠だと捉えるべきなのだ。
「司馬牛仁を問う。子曰く、仁者は其の言や鞚。曰く、其の言や鞚は、斯れを之れ
仁と謂うべきか。子曰く、之れを為すこと難ければ、之れを言うに鞚なること無きを得んか」
「弟子の司馬牛が仁について問うた。先生は言われた。『仁者はその言葉が控えめなものだ』
司馬牛『言葉が控えめですらあれば仁と呼べるのでしょうか』 先生は言われた。
『その実践が難しいと思えば、たとえ控えめですらものを言うことができようか』
(仁者は常にその言葉が実践可能であるかどうかを念頭に置いているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・三)
詐欺誘惑型のカルト信仰は、信仰の内側では徹底的な甘やかしを保証する。
あらゆる望みが思うままに叶えられて、あらゆる災厄から自分たちだけは逃れられる、
そこに堅苦しい制約などは一切存在せず、どこまでも思うがままでいられるとする。
そうして、カルト信者の自意識過剰の思い上がりは、信仰と共に無制限に肥大化していく。
言語表現でいえば「ある」「できる」「叶えられる」「愛されている」とかいった肯定的な
言葉ばかりに酔い潰れることで、人の思い上がりというのはどこまでも肥大化して行く。そうして、
何を自主的にやらせる以上にも、完全な禁治産下に置いたほうがよっぽど満足な廃人ができ上がる。
カルト教義に特有の、信仰の内側でだけの肯定の重畳、これがまず一つの、精神薄弱による廃人化を
誘発する原因の一つとなる。一方で、無信仰のニヒリストのように、何もかもをけなし尽くそうとする
否定の重畳もまた、否定の狂気からなる廃人化を誘発する。言葉を専らな肯定のためばかりに用いたり、
逆に専らな否定のためばかりに用いたりすることは精神の不健全化を招くため、そのような
言語表現の濫用に酔い潰れたり、トチ狂ったりするぐらいなら、まだ何も言わないでいたほうがよい。
言葉を専らな肯定に用いることも悪用なら、専らな否定に用いることも悪用である。
少なくとも「ヘタな言葉の用い方」であり、あるものはある、ないものはないと、肯定語と否定語を
巧みに使いこなしていくことで、実相上の吉祥を呼び込むことが、言葉の上手な使い方だといえる。
それでこそ、言語で論ずることによる人格の向上や、治世の盤石化までもが実現されていくことになる。
あらゆる望みが思うままに叶えられて、あらゆる災厄から自分たちだけは逃れられる、
そこに堅苦しい制約などは一切存在せず、どこまでも思うがままでいられるとする。
そうして、カルト信者の自意識過剰の思い上がりは、信仰と共に無制限に肥大化していく。
言語表現でいえば「ある」「できる」「叶えられる」「愛されている」とかいった肯定的な
言葉ばかりに酔い潰れることで、人の思い上がりというのはどこまでも肥大化して行く。そうして、
何を自主的にやらせる以上にも、完全な禁治産下に置いたほうがよっぽど満足な廃人ができ上がる。
カルト教義に特有の、信仰の内側でだけの肯定の重畳、これがまず一つの、精神薄弱による廃人化を
誘発する原因の一つとなる。一方で、無信仰のニヒリストのように、何もかもをけなし尽くそうとする
否定の重畳もまた、否定の狂気からなる廃人化を誘発する。言葉を専らな肯定のためばかりに用いたり、
逆に専らな否定のためばかりに用いたりすることは精神の不健全化を招くため、そのような
言語表現の濫用に酔い潰れたり、トチ狂ったりするぐらいなら、まだ何も言わないでいたほうがよい。
言葉を専らな肯定に用いることも悪用なら、専らな否定に用いることも悪用である。
少なくとも「ヘタな言葉の用い方」であり、あるものはある、ないものはないと、肯定語と否定語を
巧みに使いこなしていくことで、実相上の吉祥を呼び込むことが、言葉の上手な使い方だといえる。
それでこそ、言語で論ずることによる人格の向上や、治世の盤石化までもが実現されていくことになる。
この孟子の言葉なども、天道の好ましい側面と好ましくない側面とを冷徹に論じ上げていて、
決して人間社会がどこまでも弱者への慈しみばかりに充たされたものであるわけではないのだと
よく見定めている。その上で、天道を明らかにしていくことで、弱者への慈しみも豊かな治世を築き上げて
行こうとする心意気を得るわけだから、ただ「信じれば同情される」などという、言語上だけでの肯定一辺倒
への逃げ込みではそのような心意気も得られないために、治世を促進することすら覚束なくなるのだといえる。
「天下に道有れば、小徳は大徳に役せられ、小賢は大賢に役せらる。
天下に道無ければ、小は大に役せられ、弱は強に役せらる。斯の二者は天なり」
「天下に道がある時は、誰しもに最低限の徳や賢さが備わり、その上で小徳の持ち主が大徳の
持ち主に丁重に用いられたり、小賢の持ち主が大賢の持ち主に情け深く用いられたりする。
一方、天下に道の無いときには、ただ大小強弱の力関係があるだけで、小さくて弱いものが、
大きくて強いものに粗暴に扱われるばかりとなる。これもまた天地万物に普遍の道理だといえる。
(天下に道が有れば誰しもが、小さくて弱くとも、大きくて強いものからの同情を得られもする。
信仰の内側でしかそれを得られないとする犯罪聖書の記述は、天下から道を覆い隠す元凶ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・七より)
決して人間社会がどこまでも弱者への慈しみばかりに充たされたものであるわけではないのだと
よく見定めている。その上で、天道を明らかにしていくことで、弱者への慈しみも豊かな治世を築き上げて
行こうとする心意気を得るわけだから、ただ「信じれば同情される」などという、言語上だけでの肯定一辺倒
への逃げ込みではそのような心意気も得られないために、治世を促進することすら覚束なくなるのだといえる。
「天下に道有れば、小徳は大徳に役せられ、小賢は大賢に役せらる。
天下に道無ければ、小は大に役せられ、弱は強に役せらる。斯の二者は天なり」
「天下に道がある時は、誰しもに最低限の徳や賢さが備わり、その上で小徳の持ち主が大徳の
持ち主に丁重に用いられたり、小賢の持ち主が大賢の持ち主に情け深く用いられたりする。
一方、天下に道の無いときには、ただ大小強弱の力関係があるだけで、小さくて弱いものが、
大きくて強いものに粗暴に扱われるばかりとなる。これもまた天地万物に普遍の道理だといえる。
(天下に道が有れば誰しもが、小さくて弱くとも、大きくて強いものからの同情を得られもする。
信仰の内側でしかそれを得られないとする犯罪聖書の記述は、天下から道を覆い隠す元凶ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・七より)
神仏は、神仏としては人間に定義されたものではあるが、
神仏と定義するところの示すものが、超人間的、超人為的な普遍性であることはままある。
絶対的に普遍的な理合を司っている神仏ほど格が高く、脆弱な理合を司るものほど格が低い。
あまりにも脆弱な理合を司っている場合には、神仏ではなく鬼畜や妖怪として扱われ、
それに付いて行けばかえってわざわいを招くものとして、教訓的に忌避の対象とされる。
脆弱な理合は、「無理」に極まる。そしてその無理を司っているのが犯罪聖書の邪神に当たる。
何らの普遍的な理合にも即しておらず、むしろ理合に真っ向から相反しようとしている。
だからそれに即して何をやったってうまくいくことはなく、それを信じた挙句の埋め合わせ
として、何もかもを無機的な作為によって作り直さなければなくなる徒労を生じさせる。
絶対に、超人間的な普遍性の理合にあやかることができなくなるのが犯罪聖書への信仰であり、
それを信仰している限りにおいては、真の超人的な普遍性に即した理合を計り知ることすらできない。
それが「普通の人間」なのではなく、普遍的な理合を見失った人間というのは、甚だしい不能者の部類に入る。
犯罪聖書などを信じていなければ、ただの普通の人間であるだけで、多少は超人的な普遍性を計り知ることが
できるのであって、それが全くできないというのは、普通の人間以上にも蒙昧が深刻化してしまっているから。
神仏と定義するところの示すものが、超人間的、超人為的な普遍性であることはままある。
絶対的に普遍的な理合を司っている神仏ほど格が高く、脆弱な理合を司るものほど格が低い。
あまりにも脆弱な理合を司っている場合には、神仏ではなく鬼畜や妖怪として扱われ、
それに付いて行けばかえってわざわいを招くものとして、教訓的に忌避の対象とされる。
脆弱な理合は、「無理」に極まる。そしてその無理を司っているのが犯罪聖書の邪神に当たる。
何らの普遍的な理合にも即しておらず、むしろ理合に真っ向から相反しようとしている。
だからそれに即して何をやったってうまくいくことはなく、それを信じた挙句の埋め合わせ
として、何もかもを無機的な作為によって作り直さなければなくなる徒労を生じさせる。
絶対に、超人間的な普遍性の理合にあやかることができなくなるのが犯罪聖書への信仰であり、
それを信仰している限りにおいては、真の超人的な普遍性に即した理合を計り知ることすらできない。
それが「普通の人間」なのではなく、普遍的な理合を見失った人間というのは、甚だしい不能者の部類に入る。
犯罪聖書などを信じていなければ、ただの普通の人間であるだけで、多少は超人的な普遍性を計り知ることが
できるのであって、それが全くできないというのは、普通の人間以上にも蒙昧が深刻化してしまっているから。
超人的な理合を把捉する専門家としての神人や仏僧にまでならなくたって、正統な神仏への畏敬も
多少は具えているただの人間であるだけで、相当に現象の理合を直観的に把捉する道は開ける。
ただし、超人的な理合を決定的に見失わせる、犯罪聖書への信仰だけは完全に破棄していることが
大前提であり、それはザビエル侵入以前の日本人や、キリシタンが禁教となった江戸時代の日本人
などであれば当然満たしている条件だった。2000年来、聖書信仰の蒙昧に耽り続けてきた西洋人が
棄教を躊躇うのならまだしも、歴史のほとんどを犯罪聖書と共に歩んではいない日本人が、
受容すればするほど人としてダメになる犯罪聖書を好き好んだりするのは、全く筋が通らない。
それによって自分たちの歴史のほとんどを応用不能なものにしてしまうのだから、世界史上でも
最高級に上質な歴史を育んできた国の人間として、犯罪聖書を亡きものにせずしていいわけがない。
「井に収むを幕する勿れ。孚有れば元吉なり。元吉にして上に在り、大いに成るなり」
「水を恵む井戸に幕を張って取水を制限するようなことをするな。誰にでも水を恵むだけの誠意が
あれば大いに吉祥である。大いに吉祥であって初めて人の上に立てるほどもの偉人として大成できる。
(恵みの大祭司となるキリストが幕屋の内にあるとは、構文上だけでも極めて不吉な記述に当たる。
朝廷の社稷霊廟に幕が張られたり、武家政権が『幕府』と呼ばれたりするのは、自分たちが産業階級を
統制する士大夫であることの一線を引くためで、自分たちがモノを恵む産業階級の主であるからではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・井・上六‐象伝)
多少は具えているただの人間であるだけで、相当に現象の理合を直観的に把捉する道は開ける。
ただし、超人的な理合を決定的に見失わせる、犯罪聖書への信仰だけは完全に破棄していることが
大前提であり、それはザビエル侵入以前の日本人や、キリシタンが禁教となった江戸時代の日本人
などであれば当然満たしている条件だった。2000年来、聖書信仰の蒙昧に耽り続けてきた西洋人が
棄教を躊躇うのならまだしも、歴史のほとんどを犯罪聖書と共に歩んではいない日本人が、
受容すればするほど人としてダメになる犯罪聖書を好き好んだりするのは、全く筋が通らない。
それによって自分たちの歴史のほとんどを応用不能なものにしてしまうのだから、世界史上でも
最高級に上質な歴史を育んできた国の人間として、犯罪聖書を亡きものにせずしていいわけがない。
「井に収むを幕する勿れ。孚有れば元吉なり。元吉にして上に在り、大いに成るなり」
「水を恵む井戸に幕を張って取水を制限するようなことをするな。誰にでも水を恵むだけの誠意が
あれば大いに吉祥である。大いに吉祥であって初めて人の上に立てるほどもの偉人として大成できる。
(恵みの大祭司となるキリストが幕屋の内にあるとは、構文上だけでも極めて不吉な記述に当たる。
朝廷の社稷霊廟に幕が張られたり、武家政権が『幕府』と呼ばれたりするのは、自分たちが産業階級を
統制する士大夫であることの一線を引くためで、自分たちがモノを恵む産業階級の主であるからではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・井・上六‐象伝)
火は文明にとって必要不可欠なものだが、火事や戦火のような災禍をも招くもの。
水もまた農耕などに必須のものだが、洪水や津波となって世に大きな禍を招きもする。
水火ともども人間の十分な管理下に置かれることこそが、人間社会にとっての吉祥法則であり、
水が絶対的、火が絶対的というようなことを極端化するのは、何らかの危うさを招くもの。
そして、水と火の消費バランスとしては、水4:火1程度であることが最も好ましく、
水1:火4などは極めて不吉で、水1:火1でもまだ不十分で、水1:火0や水0:火1でもいけない。
実例を挙げれば、農耕や漁業が水に頼る文明である一方、石油や天然ガスを燃焼させる
機械文明が火に頼る文明であるといえ(焼き畑農業や水力発電などの例外もある)、水に頼る文明を
火に頼る文明の四倍程度重視することが、人間社会を吉方へと導く黄金比になるのだといえる。
今は、石油エネルギーなどの火に頼る文明ばかりに頼りすぎているせいで、水利を重要視しての
農産なども世界レベルでは行き届かず、人間の口数に相応の食物が十分に育て上げられずにもいる。
火に頼る文明の魅力が、世界人口をも爆発させる一方、別に石油が食べ物になるわけでもないから、
人口が増えたに相応の飲食の満足が追いつかず、自然状態以上もの飢渇を多くの人々に強いることとなっている。
水もまた農耕などに必須のものだが、洪水や津波となって世に大きな禍を招きもする。
水火ともども人間の十分な管理下に置かれることこそが、人間社会にとっての吉祥法則であり、
水が絶対的、火が絶対的というようなことを極端化するのは、何らかの危うさを招くもの。
そして、水と火の消費バランスとしては、水4:火1程度であることが最も好ましく、
水1:火4などは極めて不吉で、水1:火1でもまだ不十分で、水1:火0や水0:火1でもいけない。
実例を挙げれば、農耕や漁業が水に頼る文明である一方、石油や天然ガスを燃焼させる
機械文明が火に頼る文明であるといえ(焼き畑農業や水力発電などの例外もある)、水に頼る文明を
火に頼る文明の四倍程度重視することが、人間社会を吉方へと導く黄金比になるのだといえる。
今は、石油エネルギーなどの火に頼る文明ばかりに頼りすぎているせいで、水利を重要視しての
農産なども世界レベルでは行き届かず、人間の口数に相応の食物が十分に育て上げられずにもいる。
火に頼る文明の魅力が、世界人口をも爆発させる一方、別に石油が食べ物になるわけでもないから、
人口が増えたに相応の飲食の満足が追いつかず、自然状態以上もの飢渇を多くの人々に強いることとなっている。
削除(by投稿者)
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「水に頼る文明4:火に頼る文明1」という、微妙な配分が達せられることが最も吉祥なわけで、
別に重農主義であったり、商工業軽視主義であったりすればいいわけでもない。商工業の四倍程度に
農漁業を重視し、農漁業の四分の一程度に商工業を重視すべきということであり、そのうちのどこかを
疎かにしたりするようでは、極端から極端に振れて全体の責任を負わない、小人止まりの性分と化してしまう。
士農工商の位階を重んずる儒学では、確かにどこまでもへりくだる水の特性を称賛する傾向がある。しかし、
水の特性を称賛しつつも、洪水などとして災禍を招く場合があることまでもが指摘されている(>>56などを参照)。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」であり、水を絶対視するのも、火を絶対視するのも、実相に即して不吉である。
水を重視するが火をも重視し、火よりも四倍程度水を重視する。農漁業を重視するが商工業をも重視し、
商工業よりも農耕業を四倍程度重視するといった微妙な均衡は、まさに君子士人のみが取れるものだといえる。
「万乗の国を以って万乗の国を伐つに、箪食壺漿して以て王師を迎えたるは、豈に他有らんや。
水火を避けんがためなり。水益ます深きが如く、火益ます熱きが如くんば、亦た運らんのみ」
「万乗の国が万乗の国を討伐するような蛮行を侵しておきながら、敗戦国の民たちが豪華な食物や美酒を用意して
戦勝国の王師を迎えることがあるとすれば、それは水火の災害の如き暴政から逃れたいがために他ならない。
水害がますます深刻となり、火災がますます加熱するような暴政を敷いたなら、また民たちからの支持を失うことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一〇より)
別に重農主義であったり、商工業軽視主義であったりすればいいわけでもない。商工業の四倍程度に
農漁業を重視し、農漁業の四分の一程度に商工業を重視すべきということであり、そのうちのどこかを
疎かにしたりするようでは、極端から極端に振れて全体の責任を負わない、小人止まりの性分と化してしまう。
士農工商の位階を重んずる儒学では、確かにどこまでもへりくだる水の特性を称賛する傾向がある。しかし、
水の特性を称賛しつつも、洪水などとして災禍を招く場合があることまでもが指摘されている(>>56などを参照)。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」であり、水を絶対視するのも、火を絶対視するのも、実相に即して不吉である。
水を重視するが火をも重視し、火よりも四倍程度水を重視する。農漁業を重視するが商工業をも重視し、
商工業よりも農耕業を四倍程度重視するといった微妙な均衡は、まさに君子士人のみが取れるものだといえる。
「万乗の国を以って万乗の国を伐つに、箪食壺漿して以て王師を迎えたるは、豈に他有らんや。
水火を避けんがためなり。水益ます深きが如く、火益ます熱きが如くんば、亦た運らんのみ」
「万乗の国が万乗の国を討伐するような蛮行を侵しておきながら、敗戦国の民たちが豪華な食物や美酒を用意して
戦勝国の王師を迎えることがあるとすれば、それは水火の災害の如き暴政から逃れたいがために他ならない。
水害がますます深刻となり、火災がますます加熱するような暴政を敷いたなら、また民たちからの支持を失うことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一〇より)
儒者が両親への孝養を重んずるのは、親子関係こそが天下万人に共通普遍の大綱であるからだ。
友人も恋人もいない人間にだって親はいる。孤児ですらどこかに親がいたのであり、
その素性を調べ上げて信敬の対象とすることができる。人間である以上は必ず敬うべき親がいるという
普遍性に即して、儒者は親への敬いをあらゆる人間関係における畏敬の原型ともする。
親への敬いすら欠いたところに、普遍的な畏敬などがあり得るはずがない。
畏敬の基本としての親への敬いを欠けば、どんな畏敬も本質的な誠意を欠いたものとなる。
それは物事の普遍性全般を見くびることに繋がり、些末な私益のために普遍的な公益を蔑ろにする慢心の原因ともなる。
だから万人を利して我が利ともする仁徳と、親への畏敬とは切っても切れない関係にある一方、
万人を害して我が利とする我田引水の欲求にとっては、親への畏敬などは目の上のたんこぶにしかならない。
両親との関係を蔑ろにしてまで得られる利益があるとすれば、その利益は必ず公益を損なう要素を伴っている。
世の中に大迷惑をかけてこそ得られるような利益であるために、親がその真相を知ればひどく悲しむものであったりする。
そのような不正な利得にうつつを抜かすぐらいなら、まだ世の中に利も害ももたらさない鳴かず飛ばずの徒弟で
あったほうがよい。誰が自分の親に聞いてみたところで、誰しもの親が必ずそう答えるに違いない。
「未だ仁にして其の親を遺てる者は有らざるなり」
「未だかつて、仁者でありながら両親との関係を蔑ろにしたものはいない」
(権力道徳聖書——通商四書五経——孟子・梁恵王章句上・一より)
友人も恋人もいない人間にだって親はいる。孤児ですらどこかに親がいたのであり、
その素性を調べ上げて信敬の対象とすることができる。人間である以上は必ず敬うべき親がいるという
普遍性に即して、儒者は親への敬いをあらゆる人間関係における畏敬の原型ともする。
親への敬いすら欠いたところに、普遍的な畏敬などがあり得るはずがない。
畏敬の基本としての親への敬いを欠けば、どんな畏敬も本質的な誠意を欠いたものとなる。
それは物事の普遍性全般を見くびることに繋がり、些末な私益のために普遍的な公益を蔑ろにする慢心の原因ともなる。
だから万人を利して我が利ともする仁徳と、親への畏敬とは切っても切れない関係にある一方、
万人を害して我が利とする我田引水の欲求にとっては、親への畏敬などは目の上のたんこぶにしかならない。
両親との関係を蔑ろにしてまで得られる利益があるとすれば、その利益は必ず公益を損なう要素を伴っている。
世の中に大迷惑をかけてこそ得られるような利益であるために、親がその真相を知ればひどく悲しむものであったりする。
そのような不正な利得にうつつを抜かすぐらいなら、まだ世の中に利も害ももたらさない鳴かず飛ばずの徒弟で
あったほうがよい。誰が自分の親に聞いてみたところで、誰しもの親が必ずそう答えるに違いない。
「未だ仁にして其の親を遺てる者は有らざるなり」
「未だかつて、仁者でありながら両親との関係を蔑ろにしたものはいない」
(権力道徳聖書——通商四書五経——孟子・梁恵王章句上・一より)
「(定公)曰く、一言にして以って邦を喪うこと諸れ有りや。孔子対えて曰く、
言は以って是くの如くならざるも、其れ畿きなれば。人の言に曰く、
予は君たることを楽しむこと無し、唯だ其の言にして予に違うこと莫きを
楽しむなりと。如し其れ善にして之れに違うこと莫くんば、亦た善からずや。
如し不善にして之れに違うこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや(一部既出)」
「定公が問うた。『一言にして国を滅ぼすような言葉があるだろうか』 孔子は答えた。
『言葉はそれによって物事をどうこうすべきものではありませんが、近い言葉であれば知っています。
ある人の言った言葉に、〈私は主君であることを楽しむのではない。自分の言うことに
誰も逆らわないことを楽しむのだ〉というのがあります。もしもこの人の言うことが
正しくて誰も逆らわないのであれば、まあ、特に問題はないといえます。 しかし、
しかし、この人の言うことが間違っていながら誰も逆らわないというのであれば、
これこそは、一言にして国を滅ぼす言葉になるといえるのではないでしょうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一五より)
孔子の反ロゴス主義が如実に現れている言葉。二重三重と、言葉の絶対化の危うさを説き起こしている。
そして実際、孔子自身も、自らの考えや発言の過ちを人に指摘されて素直に改め、
「自分には過ちを指摘してくれる人がいる。なんと幸せなことだろう」と感嘆してもいる。
人と考えや言葉を折り合わせる習慣は、たとえば信長や秀吉にはなかったが、家康にはあった。
部下に対してすら敬称を欠かすことなく、強烈な諫言に対しても耳を傾けるような素直さが
子孫にまで受け継がれたものだから、徳川幕府も十五代もの治世を打ち立てられた一方で、
信長や秀吉は一代や二代限りでの栄華に終始した。確かに全盛期の考えや発言については、
信長や秀吉のそれが諸大名と比べても突出して優秀だったのは確かで、それがあまりにも突出して
優秀すぎたものだから、後を継げるものがいなくなって、高転びの憂き目に遭うこととなったのだった。
言は以って是くの如くならざるも、其れ畿きなれば。人の言に曰く、
予は君たることを楽しむこと無し、唯だ其の言にして予に違うこと莫きを
楽しむなりと。如し其れ善にして之れに違うこと莫くんば、亦た善からずや。
如し不善にして之れに違うこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや(一部既出)」
「定公が問うた。『一言にして国を滅ぼすような言葉があるだろうか』 孔子は答えた。
『言葉はそれによって物事をどうこうすべきものではありませんが、近い言葉であれば知っています。
ある人の言った言葉に、〈私は主君であることを楽しむのではない。自分の言うことに
誰も逆らわないことを楽しむのだ〉というのがあります。もしもこの人の言うことが
正しくて誰も逆らわないのであれば、まあ、特に問題はないといえます。 しかし、
しかし、この人の言うことが間違っていながら誰も逆らわないというのであれば、
これこそは、一言にして国を滅ぼす言葉になるといえるのではないでしょうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一五より)
孔子の反ロゴス主義が如実に現れている言葉。二重三重と、言葉の絶対化の危うさを説き起こしている。
そして実際、孔子自身も、自らの考えや発言の過ちを人に指摘されて素直に改め、
「自分には過ちを指摘してくれる人がいる。なんと幸せなことだろう」と感嘆してもいる。
人と考えや言葉を折り合わせる習慣は、たとえば信長や秀吉にはなかったが、家康にはあった。
部下に対してすら敬称を欠かすことなく、強烈な諫言に対しても耳を傾けるような素直さが
子孫にまで受け継がれたものだから、徳川幕府も十五代もの治世を打ち立てられた一方で、
信長や秀吉は一代や二代限りでの栄華に終始した。確かに全盛期の考えや発言については、
信長や秀吉のそれが諸大名と比べても突出して優秀だったのは確かで、それがあまりにも突出して
優秀すぎたものだから、後を継げるものがいなくなって、高転びの憂き目に遭うこととなったのだった。
この世には、全くの自力によって突出するものと、他力本願によって世を後押しするものと、
人との兼ね合いの中での自力によって最大級の能力を発揮するものとの三種がいる。
この中で、最も汎用的なのは最後者の、自力他力織り交ぜて最大の能力を発揮するものであり、
そこにこそ人間社会の安定の秘訣までもがあるといえる。そしてその、自力と他力両面において
最善を尽くすものというのは、自分自身の考えや言葉などをさして絶対的なものとは見なさない。
歴史上の武将には、代々後世に伝える家訓を遺しているものも多くいるが、家康はあえてそれも遺さなかった。
自分自身を家譜上の完全な完成系とは見なさず、後代にも脈々と家風を練り上げていく余地を残した。
そういった、親子関係に渡ってまで、考え方や教訓の融通を残していく所に、諸行無常の
浮世とも我が家をうまく付き合わせていく秘訣までもが含まれているのだといえる。
強いて言えば、名家が後世にまで代々続く糧とまでなるのは、偉大な先祖の生き様そのものなのであり、
ただ思想や言葉が立派だというばかりで、子々孫々の繁栄が約束されるなどということもないのである。
子孫の繁栄すら約束付けられない思想や言葉が、人間社会の繁栄に貢献するなどということも、当然ない。
「言を食む」「嘘を吐く」(僖公二十八年)
「礼無ければ必ず言を食む」「礼儀をわきまえないものは平気で嘘を吐く」(成公十二年)
「事に臨みて言を食むは、暇ありと謂う可からず」「切羽詰まって嘘を吐くのは、余裕がないからだ」(成公十六年)
「言を食む者は病まざらんや」「嘘ばかり吐くものは自らが精神を病む」(襄公二十七年)
「是れ言を食むこと多し。能く肥ゆること無からんや」「頻繁に嘘を吐いて、よく肥え太っていることだ」(哀公二十五年)
(「言を食む」は、春秋時代に「嘘を吐く」という意味で広く通用していた慣用句。
春秋諸侯もよく言を食むことで不正な利益を得ていた)
(権力道徳聖書——通商四書五経——春秋左氏伝より)
人との兼ね合いの中での自力によって最大級の能力を発揮するものとの三種がいる。
この中で、最も汎用的なのは最後者の、自力他力織り交ぜて最大の能力を発揮するものであり、
そこにこそ人間社会の安定の秘訣までもがあるといえる。そしてその、自力と他力両面において
最善を尽くすものというのは、自分自身の考えや言葉などをさして絶対的なものとは見なさない。
歴史上の武将には、代々後世に伝える家訓を遺しているものも多くいるが、家康はあえてそれも遺さなかった。
自分自身を家譜上の完全な完成系とは見なさず、後代にも脈々と家風を練り上げていく余地を残した。
そういった、親子関係に渡ってまで、考え方や教訓の融通を残していく所に、諸行無常の
浮世とも我が家をうまく付き合わせていく秘訣までもが含まれているのだといえる。
強いて言えば、名家が後世にまで代々続く糧とまでなるのは、偉大な先祖の生き様そのものなのであり、
ただ思想や言葉が立派だというばかりで、子々孫々の繁栄が約束されるなどということもないのである。
子孫の繁栄すら約束付けられない思想や言葉が、人間社会の繁栄に貢献するなどということも、当然ない。
「言を食む」「嘘を吐く」(僖公二十八年)
「礼無ければ必ず言を食む」「礼儀をわきまえないものは平気で嘘を吐く」(成公十二年)
「事に臨みて言を食むは、暇ありと謂う可からず」「切羽詰まって嘘を吐くのは、余裕がないからだ」(成公十六年)
「言を食む者は病まざらんや」「嘘ばかり吐くものは自らが精神を病む」(襄公二十七年)
「是れ言を食むこと多し。能く肥ゆること無からんや」「頻繁に嘘を吐いて、よく肥え太っていることだ」(哀公二十五年)
(「言を食む」は、春秋時代に「嘘を吐く」という意味で広く通用していた慣用句。
春秋諸侯もよく言を食むことで不正な利益を得ていた)
(権力道徳聖書——通商四書五経——春秋左氏伝より)
社会権力により欲望を達すると、その人脈 関係性への恩返しの法則が発生してしまう それもお前のいう兼ね合いだ
つまりキリスト教がそのように作り替えられてきたということも否めないわけだ
もちろん儒学もな
兼ね合いの人間関係のなかで生活するうちに無意識に悪いほうへ向かうこともあるのだよ
それは貸し借り(カネに限らない)における誠実な関係と欲望とソレを叶える権力など様々なちからが作用して まるで魔力のように手に負えないほどに膨れ上がっていく
儒学者には、もう少し社会勉強が必要だよ
つまりキリスト教がそのように作り替えられてきたということも否めないわけだ
もちろん儒学もな
兼ね合いの人間関係のなかで生活するうちに無意識に悪いほうへ向かうこともあるのだよ
それは貸し借り(カネに限らない)における誠実な関係と欲望とソレを叶える権力など様々なちからが作用して まるで魔力のように手に負えないほどに膨れ上がっていく
儒学者には、もう少し社会勉強が必要だよ
そういう権力腐敗の典型例を未然に絶やしていくためにあるのが儒学や玄学なわけでね。
権力掌握のダークサイドに陥った、未熟者としての経験を自慢されてもな。
権力掌握のダークサイドに陥った、未熟者としての経験を自慢されてもな。
お前は知らないよ
権力といのは1対1にもあるということを知らない
そういう小さな関係の一つひとつが社会性を象っているのだ
儒学者も己だけでは存在できないし因果関係に巻き込まれている以上は自分が正気であるという証明は己だけでしかできない
誰がお前を信じてくれるんだよ
キリスト教を大好きなお前のその反応も社会性を歪めるひとつなのだ
権力といのは1対1にもあるということを知らない
そういう小さな関係の一つひとつが社会性を象っているのだ
儒学者も己だけでは存在できないし因果関係に巻き込まれている以上は自分が正気であるという証明は己だけでしかできない
誰がお前を信じてくれるんだよ
キリスト教を大好きなお前のその反応も社会性を歪めるひとつなのだ
権力ってのは決定権のようなものだぞ
主導権ともいえる
社会縮図として友人関係にも当てはめられる
一友人との関係が他の友人との関係に作用するということだ
誰々には何々してやったんだから俺に何々してくれよ
というのが延々とつながってゆくと本来的な自分の感情や目的を見失ってしまう
見失っていなくとも流されてしまうという現実がある
お前の大好きなキリスト権力もそうやって他の影響をふんだんに受けて今に至るのだ
お前の大嫌いな儒学も同じくな
そういう流されてしまう弱さを断ずるお前は冷酷だな
世の中にはアソビという幅があるのだよ
近くは車のハンドルやブレーキ
万引きなんかも私物のバッグに商品を入れていても店を出るまでは犯行にならないとか
お前のように邪は邪と断ずるような文化は一般的にないんだよ
そうするとお前の存在のほうがよほど問題だろ
主導権ともいえる
社会縮図として友人関係にも当てはめられる
一友人との関係が他の友人との関係に作用するということだ
誰々には何々してやったんだから俺に何々してくれよ
というのが延々とつながってゆくと本来的な自分の感情や目的を見失ってしまう
見失っていなくとも流されてしまうという現実がある
お前の大好きなキリスト権力もそうやって他の影響をふんだんに受けて今に至るのだ
お前の大嫌いな儒学も同じくな
そういう流されてしまう弱さを断ずるお前は冷酷だな
世の中にはアソビという幅があるのだよ
近くは車のハンドルやブレーキ
万引きなんかも私物のバッグに商品を入れていても店を出るまでは犯行にならないとか
お前のように邪は邪と断ずるような文化は一般的にないんだよ
そうするとお前の存在のほうがよほど問題だろ
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