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聖書 Part7
▼ページ最下部
「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「子、子産を謂う。『君子の道四つ有り。其の己れを行うや恭、其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義』」
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「罪を犯した罰」などという不正な理由で民を強制的に使役して、
権力者にとってこそ恵みとなる莫大な収益を挙げさせることを義とする旧約や法家の考えも誤りなら、
信者の原罪をイエスが代わりに背負って、使役を強制されなくとも恵みが得られることを義とするキリシタンの考えも誤り。
道義に根ざした労役に民を従事させることで、よく働いてくれたに
相応の恵みを権力者が民に施すことが正義にかなっている。
そもそも「労役が道義にかなっているかどうか」という観点が、聖書信仰や法家には全く抜け落ちていて、
道義にかなわない使役にばかり民を従事させたりすれば、自分たちのほうが権力犯罪者になってしまうことも全く了解していない。
むしろ「働かないことが罪だ」などという間違った思い込みによって、
使役への徴発に応じない人間を罪人や病人扱いしたりする。
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「罪を犯した罰」などという不正な理由で民を強制的に使役して、
権力者にとってこそ恵みとなる莫大な収益を挙げさせることを義とする旧約や法家の考えも誤りなら、
信者の原罪をイエスが代わりに背負って、使役を強制されなくとも恵みが得られることを義とするキリシタンの考えも誤り。
道義に根ざした労役に民を従事させることで、よく働いてくれたに
相応の恵みを権力者が民に施すことが正義にかなっている。
そもそも「労役が道義にかなっているかどうか」という観点が、聖書信仰や法家には全く抜け落ちていて、
道義にかなわない使役にばかり民を従事させたりすれば、自分たちのほうが権力犯罪者になってしまうことも全く了解していない。
むしろ「働かないことが罪だ」などという間違った思い込みによって、
使役への徴発に応じない人間を罪人や病人扱いしたりする。
働かないことは、別に罪ではない。
全く働かないで怠惰を決め込んでいれば、自業自得で野垂れ死にするだけで、それは確かに愚か者ではあるが、罪ではない。
消極的な生活からなる情念の衰微を楽しむのも一つの風流であり、ある程度の範囲に限るんなら、むしろ嗜むべきものですらある。
権力者が「民を養う」と呼ぶに値する状態とは、権力者が道義にかなった使役にのみ民を従事させて、それによって得られた収益で
民に恵みを施すという条件を満たしている状態のことであって、この場合にだけ、権力者はいないよりもいるほうがマシな存在となる。
権力者が道義にもかなわない使役を多く民に強制して、それによって得られた収益のほとんど全てを自分たち権力者だけで独占し、
民にはせいぜい生き延びていられる程度の些少な恵みを施したり施さなかったりするだけというのであれば、それは「民を牧する」
とでも言った状態であり、民の立場からいえば、そんな権力者は百害あって一利もない、いるよりもいなほうがマシな存在である。
民を養うことこそは権力道徳に適う一方で、民を牧することは権力犯罪に相当する。
このうちの、権力道徳をありのままに体系化したのが真正聖書たる四書五経である一方で、
権力犯罪を体系化したのが法家の書「韓非子」であり、さらに正当化や美化を踏まえつつ権力犯罪を
推進していく方法までをも体系化したのが新旧約聖書だといえる。そのため、四書五経の副題は
「権力道徳聖書」とするのが相応しい一方で、新旧約聖書の副題は「権力犯罪聖書」とするのが相応しい。
(「韓非子」は「聖書」と呼ぶに値するほどできた書物でもない)この世の中のあり方としては、
権力道徳聖書たる四書五経の体系を模範として、権力犯罪聖書たる新旧約や「韓非子」の体系を
模範とせず、なるべくその記述に沿わないように心がけていくことが理想である。
理想が現実化できるかどうかはともかくとして、確かにそれが、本物の理想ではある。
全く働かないで怠惰を決め込んでいれば、自業自得で野垂れ死にするだけで、それは確かに愚か者ではあるが、罪ではない。
消極的な生活からなる情念の衰微を楽しむのも一つの風流であり、ある程度の範囲に限るんなら、むしろ嗜むべきものですらある。
権力者が「民を養う」と呼ぶに値する状態とは、権力者が道義にかなった使役にのみ民を従事させて、それによって得られた収益で
民に恵みを施すという条件を満たしている状態のことであって、この場合にだけ、権力者はいないよりもいるほうがマシな存在となる。
権力者が道義にもかなわない使役を多く民に強制して、それによって得られた収益のほとんど全てを自分たち権力者だけで独占し、
民にはせいぜい生き延びていられる程度の些少な恵みを施したり施さなかったりするだけというのであれば、それは「民を牧する」
とでも言った状態であり、民の立場からいえば、そんな権力者は百害あって一利もない、いるよりもいなほうがマシな存在である。
民を養うことこそは権力道徳に適う一方で、民を牧することは権力犯罪に相当する。
このうちの、権力道徳をありのままに体系化したのが真正聖書たる四書五経である一方で、
権力犯罪を体系化したのが法家の書「韓非子」であり、さらに正当化や美化を踏まえつつ権力犯罪を
推進していく方法までをも体系化したのが新旧約聖書だといえる。そのため、四書五経の副題は
「権力道徳聖書」とするのが相応しい一方で、新旧約聖書の副題は「権力犯罪聖書」とするのが相応しい。
(「韓非子」は「聖書」と呼ぶに値するほどできた書物でもない)この世の中のあり方としては、
権力道徳聖書たる四書五経の体系を模範として、権力犯罪聖書たる新旧約や「韓非子」の体系を
模範とせず、なるべくその記述に沿わないように心がけていくことが理想である。
理想が現実化できるかどうかはともかくとして、確かにそれが、本物の理想ではある。
聖者は、何時の時代にも生まれる。
でも、神の物語にはならない。
イエスは生まれ、その人生の全て、言葉の全て、行為の全てが神の物語になった。
蔑まれた女との出会いが、永遠に人々の心を打つ。
迫害者の前に立たされて下役人に殴られ、罵声を浴びせられても、人々の心を動かす。
一つの世界に、一つの時代に、神の物語はただひとつだけ生まれるのだと思う。
神の物語は、他の誰かの助けを必要としないからだ。
神の位のものはそれを知っているので、同じ時代には降りてこないのだと思う。
今は、まだ、イエスの物語の時代のように思う。
でも、神の物語にはならない。
イエスは生まれ、その人生の全て、言葉の全て、行為の全てが神の物語になった。
蔑まれた女との出会いが、永遠に人々の心を打つ。
迫害者の前に立たされて下役人に殴られ、罵声を浴びせられても、人々の心を動かす。
一つの世界に、一つの時代に、神の物語はただひとつだけ生まれるのだと思う。
神の物語は、他の誰かの助けを必要としないからだ。
神の位のものはそれを知っているので、同じ時代には降りてこないのだと思う。
今は、まだ、イエスの物語の時代のように思う。
削除(by投稿者)
新旧約犯罪聖書の邪義に洗脳されたブラックアフリカの飢餓民たちも、
濁愛を正当化推進する犯罪聖書の邪義によってエイズまみれの乱交を繰り返し、
世界人口を等比級数的に肥大化させる温床となっている。
これ以上世界人口が増大することで不幸になる人間こそあれど、
幸福になる人間など一人もいない。
つまり、これからも新旧約犯罪聖書を信仰し続けることで
幸福になる人間は、この世界に一人もいない。
濁愛を正当化推進する犯罪聖書の邪義によってエイズまみれの乱交を繰り返し、
世界人口を等比級数的に肥大化させる温床となっている。
これ以上世界人口が増大することで不幸になる人間こそあれど、
幸福になる人間など一人もいない。
つまり、これからも新旧約犯罪聖書を信仰し続けることで
幸福になる人間は、この世界に一人もいない。

これまた質でも量でも古さでも新旧約聖書を上回る、四書五経並みかそれ以上もの権威を備えた聖書だといえる。
しかし、ヴェーダは祭司階級たるバラモンが口伝で継承していくことのみが正統とされ、
文書に起こされた時点ですでにその権威にほころびが生じるとすらされる。
「書」という媒体に情報伝達を頼るのは、それ自体が卑俗的なことであり、
世俗か超俗かで言えば世俗において用いることを念頭に置かれるもの。新旧約聖書にも
「俗世での権力犯罪の正当化と推進」という明確な目的が備わっていて、それでいて「神」とされている
ものを取り扱っている。その心は、権力犯罪の推進を神がかりに見立てて正当化するということであり、
「神の物語の悪用」でしかないために、神の物語としてですら異端である上に、虚構なのである。
俗世での情報伝達を目的とした文書としての聖書が、権力犯罪に悪用するために
神の物語を引き合いに出したりすることがすでに悪質なことで、そういった小細工を一切排して、
実質社会の問題の論及に徹していることもまた、四書五経こそが聖書中の聖書たる所以でもあるといえる。
「父命じて呼ぶときは、唯して諾せず、手に業を執るときは
則ち之れを投ぐ、食の口に在るときは則ち之れを吐く、走りて趨らず」
「父が命じて呼ぶときには、恭しくして驕慢にならず、何かやっている業があったらただちに投げ捨て、
口に食べ物を含んでいればこれを吐き、大股にならないよう小走りで急いで父の元に赴く。
(イエスの言行にはこういった実父との関係ならではの実質性が全く垣間見られない。
脳内で捏造した父の教えに基づく業など、実の父が呼ぶときには直ちに投げ捨てねばならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
削除(by投稿者)

エホバやイエスは東洋でいう天界に属さない。「地獄界」や「鬼畜界」に
属する邪神であり、東洋人が伝統的にそれを神として扱ってきた事実すらない。
聖書圏でいう「神」は、東洋でいう「鬼畜」であり、
鬼畜が神のフリをした邪神であるのみ。だからそれを神と見なすことからして、
今までの東洋での「神」という定義を毀損する暴行となり、それもまた一つの罪となる。
東洋の神と聖書圏の邪神を比較するのなら、「エホバやキリストは本質的には鬼畜であり、
神ですらない」という大前提の下に、東洋の神とも比較しなければ色々と辻褄が合わなくなる。
それ以前に、鬼畜は妖怪などと同等のものとして扱うべきものであり、神と同等のものとして
比較しようとしたりすることからしてすでに失礼なこと。失礼なことだから、そりゃあ罰も当たる。
イエス自身が十字架にかけられるだけでなく、イエスを信じるような鬼畜神倒錯者もまた罰が当たる。
「君、弁言を以って旧政を乱す罔く、臣、寵利を以って成功に居る罔くんば、邦、其れ永く休に孚せん」
「主君が罪人の弁護などを聞き入れて旧来の政治を乱したりすることがなく、臣下が主君からの
寵愛や利権にかられて成功を得たりすることがなければ、邦家も恒久に渡って安泰でありましょう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)
権力道徳社会には、裁判というものはない。裁判官即ち検察官であり、罪を糾弾するものが直ちに
罰を科し、罪人やその弁護者の言い分を聞き入れたりすることもない。それでいて罪人に罰を科す
法官自身もまた非常に低い身分に置かれ、裁きが不正であるような場合には、本人自身にも厳しい
制裁が加えられる。官吏同士での上下関係が厳格化される、封建社会ならではのシステムだといえる。
法官やその上に立つ官吏たち自身が、一人一人で独立して民の裁判官であり、検察官であり、弁護士でもある。
民を庇護したり罰したりすることにかけて一人一人が全身全霊をかけて、姑息な分業なども踏まえない。
確かにそれは今の官公庁に勤めている法官やその他公務員にはできないことかも知れないが、かといって
稀代の大聖人でもなければ絶対に務まらないことでもない。儒学に代表される権力道徳の学問を
よく学んで、半ば杓子定規気味にでもその実践に務めたならば、聖人や賢人とまではいかない、
ただの善い人程度であっても、徳治社会の君子の末席に加えられる程度のことは可能になる。
では、その善人が今の世にも十分な数存在しているかどうかといえば、当然存在しているといえる。
相当に大きな綻びを来たしつつも、世の中の大部分が未だに保たれているのがその証拠。
我田引水ばかりに奔走し続ける悪人どもよりも十分に多くの数の善人がこの世の中にいるから、
悪人の我田引水を許容しながらも、未だこの世が保たれている。問題なのは、我田引水の特権を得ているような
悪人こそは、今の権力機構に深く取り入っている場合が多いことで、善人に世の中の統治を任せるためには、
いま権力機構に群がっている悪人をまず退場させなければならない。最悪の場合、流血革命にすら
なりかねないその際どい一線を乗り越えて、その先に平穏な時代へと着地できるかどうかが鍵だといえる。
「主君が罪人の弁護などを聞き入れて旧来の政治を乱したりすることがなく、臣下が主君からの
寵愛や利権にかられて成功を得たりすることがなければ、邦家も恒久に渡って安泰でありましょう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)
権力道徳社会には、裁判というものはない。裁判官即ち検察官であり、罪を糾弾するものが直ちに
罰を科し、罪人やその弁護者の言い分を聞き入れたりすることもない。それでいて罪人に罰を科す
法官自身もまた非常に低い身分に置かれ、裁きが不正であるような場合には、本人自身にも厳しい
制裁が加えられる。官吏同士での上下関係が厳格化される、封建社会ならではのシステムだといえる。
法官やその上に立つ官吏たち自身が、一人一人で独立して民の裁判官であり、検察官であり、弁護士でもある。
民を庇護したり罰したりすることにかけて一人一人が全身全霊をかけて、姑息な分業なども踏まえない。
確かにそれは今の官公庁に勤めている法官やその他公務員にはできないことかも知れないが、かといって
稀代の大聖人でもなければ絶対に務まらないことでもない。儒学に代表される権力道徳の学問を
よく学んで、半ば杓子定規気味にでもその実践に務めたならば、聖人や賢人とまではいかない、
ただの善い人程度であっても、徳治社会の君子の末席に加えられる程度のことは可能になる。
では、その善人が今の世にも十分な数存在しているかどうかといえば、当然存在しているといえる。
相当に大きな綻びを来たしつつも、世の中の大部分が未だに保たれているのがその証拠。
我田引水ばかりに奔走し続ける悪人どもよりも十分に多くの数の善人がこの世の中にいるから、
悪人の我田引水を許容しながらも、未だこの世が保たれている。問題なのは、我田引水の特権を得ているような
悪人こそは、今の権力機構に深く取り入っている場合が多いことで、善人に世の中の統治を任せるためには、
いま権力機構に群がっている悪人をまず退場させなければならない。最悪の場合、流血革命にすら
なりかねないその際どい一線を乗り越えて、その先に平穏な時代へと着地できるかどうかが鍵だといえる。
最後の審判自体は実際にあるとして、その審判で聖書信仰は敗北する。
敗北するから、新旧約聖書に書かれているような形での終末はやってこない。
終末思想自体がアブラハム教の所産なので、聖書信仰と比べての勝者となる
イスラムの聖典でるコーランの記述に即した終末が来るのかといえば、
確かにコーラン中の寓意に根ざした終末がやってくるとはいえる。
アブラハム教は全て啓示宗教であり、現実をありのままに把捉した教義は
持たないので、やはりコーランの記述ありのままの終末がやって来るともいえない。
ほぼありのままの終末を記録しているのが、非アブラハム教の聖書である四書五経。
最後の審判の敗者である聖書信仰の対象である新旧約聖書と真逆の記述で構成され、
なおかつ啓示宗教に特有の遠まわしな記述などを一切排した、諸法実相の記録となっている。
そのため終末の描写としては、イスラムのコーラン以上にも実際に忠実なものとなっている。
アブラハム教信仰の終末を最も忠実に記録していたのが四書五経で、実際的ではないが
遠まわしの寓意としては間違っていなかったのがコーランで、実質に忠実なわけでも
なければ、寓意としても間違い通しだったのが新旧約聖書である。実際としては
四書五経よりも不正確で、寓意としてもコーランより不正確な新旧約聖書は、
アブラハム信仰の終末から最もかけ離れた終末の予言だけをしているといえる。
親子兄弟の殺し合いまで予言している、その記述が全く以って叶えられないのは、
すでに相当にシラフに返っている聖書圏の人間としても、安堵することなんじゃないか。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ」
「常日ごろからまだ分からないことを知ろうとし、覚えたことも忘れないでいようとする、
学問を好む姿だといえる。(聖書信者は勉強嫌いで、平常は聖書の記述すら忘れ去っている。
蒙昧で何の役にも立たないクセに無駄に冗長な犯罪聖書の記述は、確かに学問嫌いも誘発する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五より)
敗北するから、新旧約聖書に書かれているような形での終末はやってこない。
終末思想自体がアブラハム教の所産なので、聖書信仰と比べての勝者となる
イスラムの聖典でるコーランの記述に即した終末が来るのかといえば、
確かにコーラン中の寓意に根ざした終末がやってくるとはいえる。
アブラハム教は全て啓示宗教であり、現実をありのままに把捉した教義は
持たないので、やはりコーランの記述ありのままの終末がやって来るともいえない。
ほぼありのままの終末を記録しているのが、非アブラハム教の聖書である四書五経。
最後の審判の敗者である聖書信仰の対象である新旧約聖書と真逆の記述で構成され、
なおかつ啓示宗教に特有の遠まわしな記述などを一切排した、諸法実相の記録となっている。
そのため終末の描写としては、イスラムのコーラン以上にも実際に忠実なものとなっている。
アブラハム教信仰の終末を最も忠実に記録していたのが四書五経で、実際的ではないが
遠まわしの寓意としては間違っていなかったのがコーランで、実質に忠実なわけでも
なければ、寓意としても間違い通しだったのが新旧約聖書である。実際としては
四書五経よりも不正確で、寓意としてもコーランより不正確な新旧約聖書は、
アブラハム信仰の終末から最もかけ離れた終末の予言だけをしているといえる。
親子兄弟の殺し合いまで予言している、その記述が全く以って叶えられないのは、
すでに相当にシラフに返っている聖書圏の人間としても、安堵することなんじゃないか。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ」
「常日ごろからまだ分からないことを知ろうとし、覚えたことも忘れないでいようとする、
学問を好む姿だといえる。(聖書信者は勉強嫌いで、平常は聖書の記述すら忘れ去っている。
蒙昧で何の役にも立たないクセに無駄に冗長な犯罪聖書の記述は、確かに学問嫌いも誘発する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五より)
「妾腹の私生児」というイエスの置かれた境遇は、そのあまりの不遇さゆえに
自暴自棄のキチ○イとなったり、逆に不遇を乗り越えた場合における未曾有の
大成を呼び込んだりの、非常にクリティカルな動向を本人に与えることが明らかとなっている。
イエスは前者の自暴自棄のキ○ガイとなり、後者の不遇をバネにした大成者にはなれなかった。
ほぼイエスと同等の不遇に置かれながら、その不遇をバネにして聖人君子として大成したのが孔子であり、
孔子とイエスとが、「妾腹の私生児」としての成功例と失敗例の両極に当たるといえる。
ただ「妾腹の私生児」という境遇は、本人が望んだからといって得られるものでもなければ、
また欲して得るべきほどろくなものでもない。人間が置かれる先天的な境遇のうちでも、最も不遇な部類の
境遇であって、始めからないに越したことはない。ただ、その不遇をバネにした大成を、親がわが子に目指させる
というのなら、イエスのような失敗作として、わが子が大きな過ちを犯したりしないように万全の注意を払わなければならない。
自暴自棄のキチ○イとなったり、逆に不遇を乗り越えた場合における未曾有の
大成を呼び込んだりの、非常にクリティカルな動向を本人に与えることが明らかとなっている。
イエスは前者の自暴自棄のキ○ガイとなり、後者の不遇をバネにした大成者にはなれなかった。
ほぼイエスと同等の不遇に置かれながら、その不遇をバネにして聖人君子として大成したのが孔子であり、
孔子とイエスとが、「妾腹の私生児」としての成功例と失敗例の両極に当たるといえる。
ただ「妾腹の私生児」という境遇は、本人が望んだからといって得られるものでもなければ、
また欲して得るべきほどろくなものでもない。人間が置かれる先天的な境遇のうちでも、最も不遇な部類の
境遇であって、始めからないに越したことはない。ただ、その不遇をバネにした大成を、親がわが子に目指させる
というのなら、イエスのような失敗作として、わが子が大きな過ちを犯したりしないように万全の注意を払わなければならない。
江戸時代、将軍家や大名家の庶子が、産まれた瞬間から寺に預けられて、親との関係を断たれる風習があった。
これも孔子のような不遇をバネにした大成を目指させるためであって、もしも大成できたならば、
出来の悪い嫡子に代わって家督を相続したり、分家として興隆したり、良家に婿入りしたりすることが認められて
いた一方で、試みに失敗した場合には、そのまま出家して坊主となり、一生家庭を持たずに過ごしたりしていた。
もちろん失敗したから坊主になるとも限らないが、失敗してなお市井に飛び出て、
イエスのような妄言妄動を垂れ流して世を乱すようなことだけは、未然に封じ込められていた。
自分が妾腹の私生児という境遇に産まれたとしても、イエスのような自暴自棄にはならず、
孔子のような君子としての大成を目指すべきであるし、仮に自分が妾腹の私生児を作ってしまったとしても、
上記の将軍や大名のような、庶子に対するなりの扱いを自分が親として施すべきである。
自分がそうなのであれ、我が子がそうなのであれ、妾腹の私生児がイエスになってしまうことを弁護する余地はないのである。
「争いを分かち訴えを弁ずるも、礼に非ざれば決せず」
「訴訟ごとを弁別したところで、やり方が礼に適っていないのなら、何も裁決できはしない。
(裁決権を持つ高官への畏敬がないのなら、敗訴したものは結局は不平を残したままとなる。
絶対神の使いが自分たちの弁護者になると信じ込んでいる聖書信者のものの考え方では、
自分たちの敗訴に対して不平を持たずに済む場合があり得ない。聖書信仰の敗北が完全に
決定している以上、自分たちの弁護者が神の使いであるという幻想から棄て去るのでなければ、
必ず後々まで、醜くて理にかなわない不平を元聖書信者が持ち続けることになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
これも孔子のような不遇をバネにした大成を目指させるためであって、もしも大成できたならば、
出来の悪い嫡子に代わって家督を相続したり、分家として興隆したり、良家に婿入りしたりすることが認められて
いた一方で、試みに失敗した場合には、そのまま出家して坊主となり、一生家庭を持たずに過ごしたりしていた。
もちろん失敗したから坊主になるとも限らないが、失敗してなお市井に飛び出て、
イエスのような妄言妄動を垂れ流して世を乱すようなことだけは、未然に封じ込められていた。
自分が妾腹の私生児という境遇に産まれたとしても、イエスのような自暴自棄にはならず、
孔子のような君子としての大成を目指すべきであるし、仮に自分が妾腹の私生児を作ってしまったとしても、
上記の将軍や大名のような、庶子に対するなりの扱いを自分が親として施すべきである。
自分がそうなのであれ、我が子がそうなのであれ、妾腹の私生児がイエスになってしまうことを弁護する余地はないのである。
「争いを分かち訴えを弁ずるも、礼に非ざれば決せず」
「訴訟ごとを弁別したところで、やり方が礼に適っていないのなら、何も裁決できはしない。
(裁決権を持つ高官への畏敬がないのなら、敗訴したものは結局は不平を残したままとなる。
絶対神の使いが自分たちの弁護者になると信じ込んでいる聖書信者のものの考え方では、
自分たちの敗訴に対して不平を持たずに済む場合があり得ない。聖書信仰の敗北が完全に
決定している以上、自分たちの弁護者が神の使いであるという幻想から棄て去るのでなければ、
必ず後々まで、醜くて理にかなわない不平を元聖書信者が持ち続けることになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
聖書の信仰は便秘の苦痛に似、
儒学の勉強は排便の快感に似る。
儒学の勉強は排便の快感に似る。
聖書信仰に没頭してきた人間は、あらゆる人間のうちでも最も悟りから遠のいている。
濁念にまみれて己が理性の在り処すらも見失い、極端な蒙昧状態でいるか、
さもなくば蒙昧を埋め合わせる目的での高度累犯障害状態でいる。
密教者のように濁悪を超克するだけの精進修行を共にこなしてきたわけでもなく、
ただただ濁悪にまみれることばかりに没頭し続けて来ただけであるために、
今から濁悪を乗り越えるためには、ただの凡人以上にも極重の更生をこなす必要がある。
「観無量寿経」にあるような、品性の格付けに基づく救済の難易を、
聖書信仰者や洋学者でも字面だけで理解することはできる。しかし、自分たちが
実際問題、下品下生の最低劣の徒であって、救済に至るためには長久の苦労と年月とを
要することを明らかに悟ることまではできない。それを悟ることができないからこそ、
永劫の年月にわたる苦労をこれから積み重ねていかなければならないのであって、
安易な救済を追い求めて来たに相応の対価を、これから支払わされ続けることになる。
自力作善の勧善懲悪に務めてきた人間こそは時系列上で先に救われ、
他力本願の悪逆非道に奔ってきた人間こそはずっと後に救われる。
親鸞聖人も悪人正機で、「悪人は善人よりも先に救われる」とは言っておらず、
「悪人こそは善人以上にも阿弥陀様によって救われることが確かである」とのみ言っている。
一切衆生の救済を企図する阿弥陀様にとっての最大の腕の見せ所は、最悪の悪人の救済だから、
悪人こそは救われることが確実だといっている。そう解釈しないのであれば、九品九生の
格付けに基づく救済の難易を明記した「観無量寿経」までをも、浄土真宗が根本聖典に
掲げていることにも筋が通らなくなる。(ただし真宗の最高聖典は「大無量寿経」)
濁念にまみれて己が理性の在り処すらも見失い、極端な蒙昧状態でいるか、
さもなくば蒙昧を埋め合わせる目的での高度累犯障害状態でいる。
密教者のように濁悪を超克するだけの精進修行を共にこなしてきたわけでもなく、
ただただ濁悪にまみれることばかりに没頭し続けて来ただけであるために、
今から濁悪を乗り越えるためには、ただの凡人以上にも極重の更生をこなす必要がある。
「観無量寿経」にあるような、品性の格付けに基づく救済の難易を、
聖書信仰者や洋学者でも字面だけで理解することはできる。しかし、自分たちが
実際問題、下品下生の最低劣の徒であって、救済に至るためには長久の苦労と年月とを
要することを明らかに悟ることまではできない。それを悟ることができないからこそ、
永劫の年月にわたる苦労をこれから積み重ねていかなければならないのであって、
安易な救済を追い求めて来たに相応の対価を、これから支払わされ続けることになる。
自力作善の勧善懲悪に務めてきた人間こそは時系列上で先に救われ、
他力本願の悪逆非道に奔ってきた人間こそはずっと後に救われる。
親鸞聖人も悪人正機で、「悪人は善人よりも先に救われる」とは言っておらず、
「悪人こそは善人以上にも阿弥陀様によって救われることが確かである」とのみ言っている。
一切衆生の救済を企図する阿弥陀様にとっての最大の腕の見せ所は、最悪の悪人の救済だから、
悪人こそは救われることが確実だといっている。そう解釈しないのであれば、九品九生の
格付けに基づく救済の難易を明記した「観無量寿経」までをも、浄土真宗が根本聖典に
掲げていることにも筋が通らなくなる。(ただし真宗の最高聖典は「大無量寿経」)
以上の、何度も同じようなことを述べてきた記述を、やはり聖書信者や洋学者も字面で
理解することだけはできる。しかし、その含意を心からありのままに悟って、
何の不平もなく地獄での贖罪に従事していくことまではできない。大きな不平を抱きつつも、
地獄の閻羅人に「貴様の自業自得じゃー」と怒鳴りつけられながら、極重の苦しみに
あえぎ続けることもまた、地獄の苦しみの一環であるから、何とか事前に悟りを得ておいて、
納得づくでの贖罪に取り組もうとすることもまた、徒労にのみ終始することだ。
決して「絶対に救われない」などということまではないが、多くの大切なものを
蔑ろにしてまで、瑣末な罪業に没頭して来たことの代償は計り知れないほどに大きい。
むしろ「救いもまたあり得る」という事実が露呈されてしまったことによって、
「悪逆非道の苦しみに没頭するしか途はない」と思い込んでいた頃にはなかった
救いへの希望が生じてしまったが故に、長大な苦労を通じてまでの真の救いを求めざるを
得なくなってしまったことこそは、完全誤謬信仰者なぞにとっての悲劇かもしれない。
「哀公曰く、敢えて儒行を問う。孔子對えて曰く、遽わかに之れを数えば、其の物を
終す能わず。悉く之れを数えば、乃ち留しくして、僕を更ふるも未だ終くす可からざるなり」
「哀公が孔子に言った。『一つ、儒者のあり方を教えてはくれまいか』 孔子は答えて言った。
『いま俄かに数えてみましても、ことごとくその全てを数え尽くすことはできません。ぜんぶ数えて
みましたなら、公の御付を無数に交代させるほどの時間をかけても説明を尽くせそうにありません』
(この後儒者のあり方が数十件ほど述べられる。儒者のあり方を聖書信者がことごとく学んで、
ことごとくそれに倣って自らを矯正するだけでも、恒久に渡る努力が必要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
理解することだけはできる。しかし、その含意を心からありのままに悟って、
何の不平もなく地獄での贖罪に従事していくことまではできない。大きな不平を抱きつつも、
地獄の閻羅人に「貴様の自業自得じゃー」と怒鳴りつけられながら、極重の苦しみに
あえぎ続けることもまた、地獄の苦しみの一環であるから、何とか事前に悟りを得ておいて、
納得づくでの贖罪に取り組もうとすることもまた、徒労にのみ終始することだ。
決して「絶対に救われない」などということまではないが、多くの大切なものを
蔑ろにしてまで、瑣末な罪業に没頭して来たことの代償は計り知れないほどに大きい。
むしろ「救いもまたあり得る」という事実が露呈されてしまったことによって、
「悪逆非道の苦しみに没頭するしか途はない」と思い込んでいた頃にはなかった
救いへの希望が生じてしまったが故に、長大な苦労を通じてまでの真の救いを求めざるを
得なくなってしまったことこそは、完全誤謬信仰者なぞにとっての悲劇かもしれない。
「哀公曰く、敢えて儒行を問う。孔子對えて曰く、遽わかに之れを数えば、其の物を
終す能わず。悉く之れを数えば、乃ち留しくして、僕を更ふるも未だ終くす可からざるなり」
「哀公が孔子に言った。『一つ、儒者のあり方を教えてはくれまいか』 孔子は答えて言った。
『いま俄かに数えてみましても、ことごとくその全てを数え尽くすことはできません。ぜんぶ数えて
みましたなら、公の御付を無数に交代させるほどの時間をかけても説明を尽くせそうにありません』
(この後儒者のあり方が数十件ほど述べられる。儒者のあり方を聖書信者がことごとく学んで、
ことごとくそれに倣って自らを矯正するだけでも、恒久に渡る努力が必要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
犯罪聖書の神への懇願によって破滅へと陥ったものが、
犯罪聖書の神への懇願によって救済されるなどということも、もちろんない。
救われるとしても、それは阿弥陀仏のような正しい信仰対象に救いを懇願した場合。
一切衆生の救済を企図はするものの、犯罪者を道徳者よりも優先して救うような偽りの
救済を企図したりはしない、正統な神仏。犯罪者を優先して救済してきた邪神こそは
犯罪聖書の神であり、我田引水本位の犯罪者なぞを優先して救済してきたことの限界が
来たために、今まで見逃して来た犯罪者を悉く重罰にかけなければならなくなった、その無様さ。
救いにも、正しい救いと邪まな救いがあり、正しい救いこそは代償抜きの本物の救いで
ある一方で、邪まな救いは一時だけ救ってやったような体裁をもたらしてくれたところで、
必ず後々にはそれ以上もの代価を支払わされることになる。速やかに自首してきた逃亡犯
よりも、何年も潜伏生活を続けた挙句に捜査で捕まったような逃亡犯のほうが罪が重く
なるように、邪まな救いを受けてきたぶんだけ、より重い罰を受けることにもなる。
犯罪聖書の神への懇願によって救済されるなどということも、もちろんない。
救われるとしても、それは阿弥陀仏のような正しい信仰対象に救いを懇願した場合。
一切衆生の救済を企図はするものの、犯罪者を道徳者よりも優先して救うような偽りの
救済を企図したりはしない、正統な神仏。犯罪者を優先して救済してきた邪神こそは
犯罪聖書の神であり、我田引水本位の犯罪者なぞを優先して救済してきたことの限界が
来たために、今まで見逃して来た犯罪者を悉く重罰にかけなければならなくなった、その無様さ。
救いにも、正しい救いと邪まな救いがあり、正しい救いこそは代償抜きの本物の救いで
ある一方で、邪まな救いは一時だけ救ってやったような体裁をもたらしてくれたところで、
必ず後々にはそれ以上もの代価を支払わされることになる。速やかに自首してきた逃亡犯
よりも、何年も潜伏生活を続けた挙句に捜査で捕まったような逃亡犯のほうが罪が重く
なるように、邪まな救いを受けてきたぶんだけ、より重い罰を受けることにもなる。
それでも最後に救われることは、一応ある。邪まな神への邪まな救いを乞い願うことを辞めて、
正統な神仏への真の救いを乞い願い始めたときが、その救いに向けた試練の始まり。
元邪教信仰者にとっては最大の破滅のときでもある一方で、真の救いに寸分ながらでも
初めて近づき始めるとき。今まで遠ざかりこそすれど、寸分も近づきはしていなかったのが、
遠ざからずに近づき始めるとき。禍いが転じて福となり始めるときであり、故にこそ
禍いを肥大化させ続けてきた邪教信仰者にとっての、最大の破滅のときともなるのである。
「(赤曰く、)之れを能くす曰うに非ず、願わくば学ばん。宗廟の事、如しくは会同に端章甫して、
願わくば小相為らん。(略。子曰く)赤や之れの小相たらば、孰れが能く之れが大相為らん」
「弟子の公西華が孔子に願い事を聞かれて言った。『決して今の自分にうまく務まると
いうのではありませんが、願わくばよく勉学に務めて、宗廟での祭事や諸侯の会合に礼服を着て
参列できるぐらいの小臣になりたいものです』 先生は言われた。『公西華が小臣を務める
というのであれば、誰に大臣になるほどの資格があろうか』(公西華が願い事を答える段に
おいてですら、自助努力による小臣への仕官を答えた、その恭しさを孔子も称賛している。
その恭しさこそは確かに、大臣にまで上り詰められるほどの素養の現われなのでもある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二六)
正統な神仏への真の救いを乞い願い始めたときが、その救いに向けた試練の始まり。
元邪教信仰者にとっては最大の破滅のときでもある一方で、真の救いに寸分ながらでも
初めて近づき始めるとき。今まで遠ざかりこそすれど、寸分も近づきはしていなかったのが、
遠ざからずに近づき始めるとき。禍いが転じて福となり始めるときであり、故にこそ
禍いを肥大化させ続けてきた邪教信仰者にとっての、最大の破滅のときともなるのである。
「(赤曰く、)之れを能くす曰うに非ず、願わくば学ばん。宗廟の事、如しくは会同に端章甫して、
願わくば小相為らん。(略。子曰く)赤や之れの小相たらば、孰れが能く之れが大相為らん」
「弟子の公西華が孔子に願い事を聞かれて言った。『決して今の自分にうまく務まると
いうのではありませんが、願わくばよく勉学に務めて、宗廟での祭事や諸侯の会合に礼服を着て
参列できるぐらいの小臣になりたいものです』 先生は言われた。『公西華が小臣を務める
というのであれば、誰に大臣になるほどの資格があろうか』(公西華が願い事を答える段に
おいてですら、自助努力による小臣への仕官を答えた、その恭しさを孔子も称賛している。
その恭しさこそは確かに、大臣にまで上り詰められるほどの素養の現われなのでもある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二六)
ある女を男が愛したとして、その女の親に男が
「お嬢さんを私にください」などと、結婚嘆願しに行ったとする。
親が厳格で娘も大事にしていれば、男の賢愚や甲斐性の有無を精査して、
眼鏡にかなえば結婚を許可する一方、かなわなければ拒絶もする。
逆に親からしてチャランポランで、娘のことなどもどうでもいいと
思っていれば、その場で考えもなく結婚OKということになる。
「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」とイエスは断言している。
本当にその通りであるのなら、イエスの親はチャランポランで、
イエスのことなんかどうでもいいと思っていたのが、上記の例からも明らか。
しかし、実際上、イエスは妾腹の私生児であり、母親の身元しか本人も
分からないわけだから、イエスの実父がイエスをどう思っていたかも分からない。
娼婦を孕ませるぐらいに遊び好きだったことは確かだが、思わずマリアに
身ごもらせてしまったイエスを、本当にどうでもいいと思っていたか、
本当は大事にしたいが、已む無く見捨ててしまったかということは定かでない。
結局、イエスは自分自身で、「俺の親父はどうしようもないロクデナシで、
俺のことなんかどうでもいいと思っていたんだ」と決め付けて、
その決め付けに基づいて、「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」
などという自暴自棄の暴言にも及んだのだといえる。
一つ一つの発言の中に、ただ「親のせい」にばかりすることはできない、
イエス本人の自主性からなる、品性の下劣さの確かな証拠が遺されている。
「婦人は飾らざれば、舅姑に敢えて見えず」
「夫人はよく自らを飾り立ててからでないと、夫の父母に会わない。
(舅姑の機嫌を害さぬよう夫人も気を遣う。自分が夫を愛したからといって、
それが夫の父母もまた自分を愛してくれる理由になどなるはずもないから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「お嬢さんを私にください」などと、結婚嘆願しに行ったとする。
親が厳格で娘も大事にしていれば、男の賢愚や甲斐性の有無を精査して、
眼鏡にかなえば結婚を許可する一方、かなわなければ拒絶もする。
逆に親からしてチャランポランで、娘のことなどもどうでもいいと
思っていれば、その場で考えもなく結婚OKということになる。
「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」とイエスは断言している。
本当にその通りであるのなら、イエスの親はチャランポランで、
イエスのことなんかどうでもいいと思っていたのが、上記の例からも明らか。
しかし、実際上、イエスは妾腹の私生児であり、母親の身元しか本人も
分からないわけだから、イエスの実父がイエスをどう思っていたかも分からない。
娼婦を孕ませるぐらいに遊び好きだったことは確かだが、思わずマリアに
身ごもらせてしまったイエスを、本当にどうでもいいと思っていたか、
本当は大事にしたいが、已む無く見捨ててしまったかということは定かでない。
結局、イエスは自分自身で、「俺の親父はどうしようもないロクデナシで、
俺のことなんかどうでもいいと思っていたんだ」と決め付けて、
その決め付けに基づいて、「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」
などという自暴自棄の暴言にも及んだのだといえる。
一つ一つの発言の中に、ただ「親のせい」にばかりすることはできない、
イエス本人の自主性からなる、品性の下劣さの確かな証拠が遺されている。
「婦人は飾らざれば、舅姑に敢えて見えず」
「夫人はよく自らを飾り立ててからでないと、夫の父母に会わない。
(舅姑の機嫌を害さぬよう夫人も気を遣う。自分が夫を愛したからといって、
それが夫の父母もまた自分を愛してくれる理由になどなるはずもないから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
欧米聖書圏の過度な物質的繁栄は、非聖書圏やブラックアフリカの聖書圏の困窮と表裏一体の関係にある。
中東やアフリカやインドから多大な資源を巻き上げ、10億人やそこらの欧米人だけで八割以上の地球資源を
独占することで、初めて欧米内の統治支配も成立している。欧米の聖書信仰者の豚のような貪欲さを
できる限り満たしながらの統治支配を欧米の権力者が試みたために、10億人の餓死者や数十億人の貧窮者を
外界にもたらし、多大な苦悩を科せられたことからなる無軌道な乱交が破滅級の人口爆発をも生じさせている。
端的にいって、聖書信仰で世界は支配できない。強権を振りかざした悪辣な手法であっても支配できるのなら
まだしも、そもそも聖書信仰では原理的に全世界を支配することができない。貪欲や嫉妬や怠惰といった
人間の悪念を自然状態以上の過度に増幅させて、蒙昧な累犯障害者へと信者を化せしめるのが聖書信仰だから、
聖書信仰で世界を支配できる割合はせいぜい10%やそこら。10%の重度累犯障害の聖書信者を養うために
残りの90%の人々が、貧困や飢餓や戦乱や重労働といった多大なる苦難を科せられる。しかもその苦難が
耐え難く偲び難いものだから、苦悩を紛らわすための無軌道な乱交が、必然的に人口爆発や環境破壊といった
破滅級の問題をも蔓延させ始める。聖書信仰が10%の世界を十分に支配していられるような体裁を取れるのも、
ほんの一時の間だけ。ほんの一時の虚栄の後には、もう度を越した乱痴気騒ぎの後始末に移らなければならない。
中東やアフリカやインドから多大な資源を巻き上げ、10億人やそこらの欧米人だけで八割以上の地球資源を
独占することで、初めて欧米内の統治支配も成立している。欧米の聖書信仰者の豚のような貪欲さを
できる限り満たしながらの統治支配を欧米の権力者が試みたために、10億人の餓死者や数十億人の貧窮者を
外界にもたらし、多大な苦悩を科せられたことからなる無軌道な乱交が破滅級の人口爆発をも生じさせている。
端的にいって、聖書信仰で世界は支配できない。強権を振りかざした悪辣な手法であっても支配できるのなら
まだしも、そもそも聖書信仰では原理的に全世界を支配することができない。貪欲や嫉妬や怠惰といった
人間の悪念を自然状態以上の過度に増幅させて、蒙昧な累犯障害者へと信者を化せしめるのが聖書信仰だから、
聖書信仰で世界を支配できる割合はせいぜい10%やそこら。10%の重度累犯障害の聖書信者を養うために
残りの90%の人々が、貧困や飢餓や戦乱や重労働といった多大なる苦難を科せられる。しかもその苦難が
耐え難く偲び難いものだから、苦悩を紛らわすための無軌道な乱交が、必然的に人口爆発や環境破壊といった
破滅級の問題をも蔓延させ始める。聖書信仰が10%の世界を十分に支配していられるような体裁を取れるのも、
ほんの一時の間だけ。ほんの一時の虚栄の後には、もう度を越した乱痴気騒ぎの後始末に移らなければならない。
聖書信仰は、全人類を恒久的に支配する政治理念としての条件を満たしていない。儒学による世俗支配もまた、
完全な泰平状態での統治は数百年程度で一旦は寿命が尽きるが、天下全土を相当な長期に渡って統治支配する
政治理念としての条件は満たしている。翻って、聖書信仰は全世界を支配することも、長期に渡って一部の世界を
支配することも原理的にできないようになっている。万年泰平状態を確立するインド宗教ほどもの絶対性は儒学も
備えていないにしろ、一部の世界を短期的にしか支配できない聖書信仰よりはまだマシな性能を備えているといえる。
「四海困窮せば、天禄永く終えん」
「四海の人々を困窮させるような失政を犯したならば、天からの恵みも永遠に尽きることだろう。
(世界中の人々を困窮に陥らせた聖書信仰が、天命を振りかざした権威をうそぶくことはもう永遠にできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)
完全な泰平状態での統治は数百年程度で一旦は寿命が尽きるが、天下全土を相当な長期に渡って統治支配する
政治理念としての条件は満たしている。翻って、聖書信仰は全世界を支配することも、長期に渡って一部の世界を
支配することも原理的にできないようになっている。万年泰平状態を確立するインド宗教ほどもの絶対性は儒学も
備えていないにしろ、一部の世界を短期的にしか支配できない聖書信仰よりはまだマシな性能を備えているといえる。
「四海困窮せば、天禄永く終えん」
「四海の人々を困窮させるような失政を犯したならば、天からの恵みも永遠に尽きることだろう。
(世界中の人々を困窮に陥らせた聖書信仰が、天命を振りかざした権威をうそぶくことはもう永遠にできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)
実父の身元も知れず、母親も頭のいかれた娼婦で、義父もパッとしない建設作業員だったイエスが、
何とか自分で空想上の父君像を構築しようとしている姿は、確かに非常な悲哀を帯びている。
しかし、その悲哀は決して自力で乗り越えられないものではなかった。イエスとほぼ同じ
妾腹の私生児という境遇に生まれながら(ただし母子家庭)、親戚に父親の身元を聞き出して
墓参りも果たした孔子がそれであり、そこには不遇にかられた悲哀などは少しも見られない。
同じように、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で描かれている父親殺しの描写なども、
確かに相当な狂気を帯びていて、件の罪で逮捕されたドミトリー・カラマーゾフを弁護士は
「精神の姦通者(サイコパス)」と呼び、その精神疾患としての真性さを理由とした放免を
主張してもいる。しかし、日本の平安末期に、保元の乱で敗軍の将となった源為義を、
その長男である源義朝が斬首の刑に処しても居り、さらにその息子である源頼朝や義経が、
父親の父親殺しという狂気を帯びた屈辱を晴らす目的で平氏を打倒し、鎌倉幕府をも開いている。
西洋文学史上でも最大級の悲哀を帯びている妾腹の私生児イエスの言行や、最大級の狂気を帯びている
カラマーゾフの兄弟による父親殺しなども、それと同等の物語構造を乗り越える形での大成を、東洋史上に
実在する孔子や河内源氏が、イエスやカラマーゾフの物語が創作されるよりも遥か以前に果たしている。
甚大な悲哀や狂気の情感にかられて、蒙昧な白痴と化したり、サイコパスと化したりすることは、
確かにそれと同等の悲哀や狂気を乗り越えた所にある、大人としての大成によってこそ防ぎとめられる。
決してイエスの悲哀も、カラマーゾフの狂気も分からないものではないが、さらにそれを超克した
所にこそ、聖人君子や武士としての大成もまたあるのであり、決して悲哀や狂気を無視するものではない。
それどころか、白痴やサイコパス以上にも最大級の悲哀や狂気を直視して、夢想に逃げたりすることもない。
何とか自分で空想上の父君像を構築しようとしている姿は、確かに非常な悲哀を帯びている。
しかし、その悲哀は決して自力で乗り越えられないものではなかった。イエスとほぼ同じ
妾腹の私生児という境遇に生まれながら(ただし母子家庭)、親戚に父親の身元を聞き出して
墓参りも果たした孔子がそれであり、そこには不遇にかられた悲哀などは少しも見られない。
同じように、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で描かれている父親殺しの描写なども、
確かに相当な狂気を帯びていて、件の罪で逮捕されたドミトリー・カラマーゾフを弁護士は
「精神の姦通者(サイコパス)」と呼び、その精神疾患としての真性さを理由とした放免を
主張してもいる。しかし、日本の平安末期に、保元の乱で敗軍の将となった源為義を、
その長男である源義朝が斬首の刑に処しても居り、さらにその息子である源頼朝や義経が、
父親の父親殺しという狂気を帯びた屈辱を晴らす目的で平氏を打倒し、鎌倉幕府をも開いている。
西洋文学史上でも最大級の悲哀を帯びている妾腹の私生児イエスの言行や、最大級の狂気を帯びている
カラマーゾフの兄弟による父親殺しなども、それと同等の物語構造を乗り越える形での大成を、東洋史上に
実在する孔子や河内源氏が、イエスやカラマーゾフの物語が創作されるよりも遥か以前に果たしている。
甚大な悲哀や狂気の情感にかられて、蒙昧な白痴と化したり、サイコパスと化したりすることは、
確かにそれと同等の悲哀や狂気を乗り越えた所にある、大人としての大成によってこそ防ぎとめられる。
決してイエスの悲哀も、カラマーゾフの狂気も分からないものではないが、さらにそれを超克した
所にこそ、聖人君子や武士としての大成もまたあるのであり、決して悲哀や狂気を無視するものではない。
それどころか、白痴やサイコパス以上にも最大級の悲哀や狂気を直視して、夢想に逃げたりすることもない。
「舜は親に事うるの道を尽くして、瞽瞍豫びを底す。瞽瞍豫びを底して天下化す。
瞽瞍豫びを底して天下の父子為る者のみち定まる。此れを之れ大孝と謂えり」
「舜帝は昔、親に仕える上での最大級の道を尽くしたために、聞き分けのない悪父だった
瞽瞍までもがそれに喜ぶようになった。瞽瞍すら喜ばせることができて初めて
天下も徳化され、父子のあるべき道も定まった。これこそはまさに、最大の孝道だといえる。
(重要なのは親が正しいか間違っているかではなく、自分こそが親に孝養を尽くすことである。
イエスは実父の墓に参るどころか、その身元を探し出す努力一つすらも行っていない不孝者だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二八より)
瞽瞍豫びを底して天下の父子為る者のみち定まる。此れを之れ大孝と謂えり」
「舜帝は昔、親に仕える上での最大級の道を尽くしたために、聞き分けのない悪父だった
瞽瞍までもがそれに喜ぶようになった。瞽瞍すら喜ばせることができて初めて
天下も徳化され、父子のあるべき道も定まった。これこそはまさに、最大の孝道だといえる。
(重要なのは親が正しいか間違っているかではなく、自分こそが親に孝養を尽くすことである。
イエスは実父の墓に参るどころか、その身元を探し出す努力一つすらも行っていない不孝者だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二八より)
イエスは妾腹の私生児ではあるが、義父のヨセフがいた。
孔子は妾腹の私生児である上に、父無しの母子家庭で育った。
カラマーゾフの兄弟は、文鎮代わりの杵で父親のフョードルを撲殺したが、
頼朝や義経の父である義朝は、自分の父親である為義を斬首によって刑殺した。
空想よりもさらに陰惨であった上で、なおのこと乗り越えられている現実。
ドストエフスキーは「罪と罰」でも、ラスコーリニコフに斧の背で
金貸しのユダヤ女を撲殺させているが、血しぶき迸る現実の惨憺さから空想家こそは
目を背けたがる心理を、ドストエフスキー自身が自らの文学表現で体現しているといえる。
孔子は妾腹の私生児である上に、父無しの母子家庭で育った。
カラマーゾフの兄弟は、文鎮代わりの杵で父親のフョードルを撲殺したが、
頼朝や義経の父である義朝は、自分の父親である為義を斬首によって刑殺した。
空想よりもさらに陰惨であった上で、なおのこと乗り越えられている現実。
ドストエフスキーは「罪と罰」でも、ラスコーリニコフに斧の背で
金貸しのユダヤ女を撲殺させているが、血しぶき迸る現実の惨憺さから空想家こそは
目を背けたがる心理を、ドストエフスキー自身が自らの文学表現で体現しているといえる。
↑おい、auのお前
スマホ( ´艸`)いいぞーみまめ
スマホ( ´艸`)いいぞーみまめ
キリスト信仰の願いが道義的に叶えられてはならないのは、
現実に乗り越えることが可能な程度の悲哀や狂気に駆られて打ちひしがれるような、
未熟な精神薄弱者の願いがキリスト信仰の願いでしかないからだ。
妾腹の私生児としての悲哀も、イエスよりもさらにひどい境遇の中で孔子が乗り越えているし、
カラマーゾフの父殺しの狂気だって、源頼朝や義経が父の屈辱を晴らす形で乗り越えている。
感情を揺さぶる悲哀や狂気を乗り越えられずに、蒙昧に打ちひしがれているものよりは、
ちゃんと感情の焼け付きを乗り越えて大業を果たしたものの有り方にこそ倣わねばならない。
じゃあ、倣うべき孔子のほうの願いはといえば、
「年長者には安堵され、同輩には信頼され、年少者には慕われるようになりたい(公冶長第五・二六)」
などといったものであり、その願いは孔子の存命中にもある程度叶えられ、死後にも数千年の永きに渡って、
その教学が老若男女から安心して信頼できる思慕の対象となり続けている。その願い事がごく素朴で、
すでに叶えられているようなものであるのは、始めから貪欲さ自体が適正に自制されているから。
大志もないことはないにしろ、あまり野望をひけらかすことも不埒なことであるに違いないから。
現実に乗り越えることが可能な程度の悲哀や狂気に駆られて打ちひしがれるような、
未熟な精神薄弱者の願いがキリスト信仰の願いでしかないからだ。
妾腹の私生児としての悲哀も、イエスよりもさらにひどい境遇の中で孔子が乗り越えているし、
カラマーゾフの父殺しの狂気だって、源頼朝や義経が父の屈辱を晴らす形で乗り越えている。
感情を揺さぶる悲哀や狂気を乗り越えられずに、蒙昧に打ちひしがれているものよりは、
ちゃんと感情の焼け付きを乗り越えて大業を果たしたものの有り方にこそ倣わねばならない。
じゃあ、倣うべき孔子のほうの願いはといえば、
「年長者には安堵され、同輩には信頼され、年少者には慕われるようになりたい(公冶長第五・二六)」
などといったものであり、その願いは孔子の存命中にもある程度叶えられ、死後にも数千年の永きに渡って、
その教学が老若男女から安心して信頼できる思慕の対象となり続けている。その願い事がごく素朴で、
すでに叶えられているようなものであるのは、始めから貪欲さ自体が適正に自制されているから。
大志もないことはないにしろ、あまり野望をひけらかすことも不埒なことであるに違いないから。
未熟者が悲哀や狂気に駆られて垂れ流す妄言と、大成者が情感をよく抑えて発する金言とでは、
その発言の姿勢からして違い、言うべきことを言って言うべきでないことを言わない分別から未熟者は
学んでいかねばならないから、ただ孔子や孟子の言行を猿真似すればそれで大成できるわけでもない。
犯罪聖書の記述内容だけでなく、その妄言の垂れ流し方から見習わないように努めて、四書五経の
記述内容だけでなく、その金言の発され方から見習うようにしていかねばならず、それは正直、
高年者となるまで聖書信仰に惑溺し続けてきたような人間には、存命中の達成が不可能なもの。
もはや再起も不能な者については、ただひたすらこの世から退くことのほうを勧めはする。
未熟者のままでつまらぬ人生を終えることも、世の外側でなら恥じ入らずに済むだろう。
「国に而て礼無くんば、何を以ってか栄を求めん」
「国に礼儀が通用してもいないのに、どうして栄光を求めたりすることができようか。
(天下国家を無礼な争乱に陥れた中で求める栄光など、どこまでも虚栄でしかないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十六年より)
その発言の姿勢からして違い、言うべきことを言って言うべきでないことを言わない分別から未熟者は
学んでいかねばならないから、ただ孔子や孟子の言行を猿真似すればそれで大成できるわけでもない。
犯罪聖書の記述内容だけでなく、その妄言の垂れ流し方から見習わないように努めて、四書五経の
記述内容だけでなく、その金言の発され方から見習うようにしていかねばならず、それは正直、
高年者となるまで聖書信仰に惑溺し続けてきたような人間には、存命中の達成が不可能なもの。
もはや再起も不能な者については、ただひたすらこの世から退くことのほうを勧めはする。
未熟者のままでつまらぬ人生を終えることも、世の外側でなら恥じ入らずに済むだろう。
「国に而て礼無くんば、何を以ってか栄を求めん」
「国に礼儀が通用してもいないのに、どうして栄光を求めたりすることができようか。
(天下国家を無礼な争乱に陥れた中で求める栄光など、どこまでも虚栄でしかないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十六年より)
引用ばかりのお前などが、何々は未熟であるなどとのたまうことができようとはな
( ´艸`)ぷっ
( ´艸`)ぷっ
既成物を何もかも「時代遅れ」と見なして、ただひたすら創作の一辺倒であったりするのが未熟者だ。
善いものは善いものでなるべく継承して行き、悪いものは悪いもので受け継いでいかないようにするのが大人だ。
あらゆる人類文化のうちでも、最も劣悪な所産である犯罪聖書の文化だけは頑なに守り通し、
その他の文化については七色変化の破壊と創作を繰り返している聖書圏の文化的取り組みこそは、未熟の極み。
どこまでいっても文化が熟成するということがなく、精神的に熟成した大人が育ったりすることもない。
犯罪聖書並みに劣悪な、儒道以外の諸子百家の論説や、インドの六師外道の教えなどはさっさと廃絶し、
儒学や仏教の良質な教えに根ざした文化ばかりを無数に継承してきた東洋の文化的なあり方こそは、
人と文化とを共に熟成した高尚さへと押し上げていく黄金比に適っている。まさに悪いもの、善くないものを
適切に廃棄処分して、善いもの、悪くないものだけを適切に保存して継承の対処としてきた模範ともいえるあり方であり、
悪いものだけを残そうとしたあまり、何一つとして悪い以上に善いものを残せなかった聖書圏とは逆の姿だといえる。
覇道によって領地を拡大していくこと自体が劣悪な理念なので、日本にしろ中国にしろインドにしろ、
良質で熟成された文化を持つ国は、いずれもあまり領地拡大を志さないで来た。(赤化後の中国などは除く)
一方で、覇道の劣悪さを全く臆面もなく正当化してきた聖書圏こそは非常識な規模の領地拡大を志し、
今では世界中のほとんどの国土が聖書信仰者に征服されるまでになった。その結果、世界中が未開の土人社会以上もの
汚濁にまみれ、世界人口を爆発させるほどにも乱交に明け暮れていなければいられないほどもの苦悩を世界中に撒き散らした。
まさに、聖書信仰をこの世から根絶することこそは、全人類を救済する上での最も重大な機縁となる。
聖書信仰の蒙昧がこの世での覇権を失いつくすことで初めて、誰しもが飢え渇くことなく
十分な糧食に与り、乱交に及んだりもしないでいられるだけの精神の平穏にも与れるようになる。
善いものは善いものでなるべく継承して行き、悪いものは悪いもので受け継いでいかないようにするのが大人だ。
あらゆる人類文化のうちでも、最も劣悪な所産である犯罪聖書の文化だけは頑なに守り通し、
その他の文化については七色変化の破壊と創作を繰り返している聖書圏の文化的取り組みこそは、未熟の極み。
どこまでいっても文化が熟成するということがなく、精神的に熟成した大人が育ったりすることもない。
犯罪聖書並みに劣悪な、儒道以外の諸子百家の論説や、インドの六師外道の教えなどはさっさと廃絶し、
儒学や仏教の良質な教えに根ざした文化ばかりを無数に継承してきた東洋の文化的なあり方こそは、
人と文化とを共に熟成した高尚さへと押し上げていく黄金比に適っている。まさに悪いもの、善くないものを
適切に廃棄処分して、善いもの、悪くないものだけを適切に保存して継承の対処としてきた模範ともいえるあり方であり、
悪いものだけを残そうとしたあまり、何一つとして悪い以上に善いものを残せなかった聖書圏とは逆の姿だといえる。
覇道によって領地を拡大していくこと自体が劣悪な理念なので、日本にしろ中国にしろインドにしろ、
良質で熟成された文化を持つ国は、いずれもあまり領地拡大を志さないで来た。(赤化後の中国などは除く)
一方で、覇道の劣悪さを全く臆面もなく正当化してきた聖書圏こそは非常識な規模の領地拡大を志し、
今では世界中のほとんどの国土が聖書信仰者に征服されるまでになった。その結果、世界中が未開の土人社会以上もの
汚濁にまみれ、世界人口を爆発させるほどにも乱交に明け暮れていなければいられないほどもの苦悩を世界中に撒き散らした。
まさに、聖書信仰をこの世から根絶することこそは、全人類を救済する上での最も重大な機縁となる。
聖書信仰の蒙昧がこの世での覇権を失いつくすことで初めて、誰しもが飢え渇くことなく
十分な糧食に与り、乱交に及んだりもしないでいられるだけの精神の平穏にも与れるようになる。
覇権主義の征服者がこの世から絶えて、覇道の野望などは全く持っていなかった徳治者が代わりに長期の泰平社会を
樹立するというのは、徳治史上おいては極めて順当な流れに当たる。始皇帝にしろ煬帝にしろ、平清盛にしろ信長にしろ、
自分個人や隣人の富のために天下争奪に及んだ点で共通し、そのような劣悪な目的で天下を征服したことが祟って
追討を受け、漢や唐や源氏や徳川が「棚からぼた餅」の形で長期の天下平定の立役者となることを許してしまった。
それは全く順当なことで、覇道のための覇道に突っ走って来たものが、長期の天下泰平までをも自力で確立することが
できないのは一つの普遍法則に当たる。覇道のための覇道は世界を自然状態以上にも荒廃させるものである一方で、
統一された天下を平定することには自然状態以上もの人間社会の善良化を企図する必要があるから、両者を同じ人間や
同じ思想信条が兼任することは不可能なこととなる。聖書信仰によって荒廃させられたこの世界を自然状態以上にも
善くすることができるのも、儒学以上に優良な教学だけであり、儒学以上の教学はどれも聖書信仰と相容れない
志向性を持ち合わせているから、聖書信仰者がそこから先の社会運営を主導していくことも適わないのである。
「五穀は種の美なる者なり。苟しくも熟せざれば、荑稗にも如かず。夫れ仁も亦た之れを熟するに在るのみ」
「五穀は穀類の中でも特に美味なものだが、十分に熟成させてからでないと稗ほどにも食えたものじゃない。
仁もまたこれと同じで、十分に成熟させるところにこそ価値があるのだ。(聖書信者はさしずめ、
まだ熟成もされていない、青臭いままの五穀を世界中に貪った不仁者とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一九より)
樹立するというのは、徳治史上おいては極めて順当な流れに当たる。始皇帝にしろ煬帝にしろ、平清盛にしろ信長にしろ、
自分個人や隣人の富のために天下争奪に及んだ点で共通し、そのような劣悪な目的で天下を征服したことが祟って
追討を受け、漢や唐や源氏や徳川が「棚からぼた餅」の形で長期の天下平定の立役者となることを許してしまった。
それは全く順当なことで、覇道のための覇道に突っ走って来たものが、長期の天下泰平までをも自力で確立することが
できないのは一つの普遍法則に当たる。覇道のための覇道は世界を自然状態以上にも荒廃させるものである一方で、
統一された天下を平定することには自然状態以上もの人間社会の善良化を企図する必要があるから、両者を同じ人間や
同じ思想信条が兼任することは不可能なこととなる。聖書信仰によって荒廃させられたこの世界を自然状態以上にも
善くすることができるのも、儒学以上に優良な教学だけであり、儒学以上の教学はどれも聖書信仰と相容れない
志向性を持ち合わせているから、聖書信仰者がそこから先の社会運営を主導していくことも適わないのである。
「五穀は種の美なる者なり。苟しくも熟せざれば、荑稗にも如かず。夫れ仁も亦た之れを熟するに在るのみ」
「五穀は穀類の中でも特に美味なものだが、十分に熟成させてからでないと稗ほどにも食えたものじゃない。
仁もまたこれと同じで、十分に成熟させるところにこそ価値があるのだ。(聖書信者はさしずめ、
まだ熟成もされていない、青臭いままの五穀を世界中に貪った不仁者とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一九より)
もはやイジワル爺さん頑固ジジイ
イジワル爺さん、世界を救うの巻
犯罪聖書中の美辞麗句はそのことごとくが嘘八百であり、
嘘八百だからそれを信じれば転倒夢想になる。
転倒夢想に耽りながら社会活動を行おうとするから破滅にも陥る。
全くありきたりな、詐欺被害者のありさまだといえる。
被害者だからといって同情してもらえるほどシラフでもなく、本気で犯罪聖書を
信じているような人間には、鼻つまみもの並みにふてぶてしい言行が数多く見られる。
転倒夢想を糧に独自の妄想をも発展させ、自意識過剰の思い上がりを致命的なほどまでに
肥大化させてしまっているため、ただ棄教が困難なだけでなく、その言行全般が深刻な害為を
帯びてしまっている。そのため棄教したところで、カルト信者に特有の劣悪な言動規範は
しばらくの間持ち越されることとなり、禁治産越しの治療などを通じて徐々に矯正されていく。
再度いうとおり、ある程度以上の高年者の場合には存命中の矯正も達し切れなかったりするために、
終身療養生活となる場合もある。本人自身よりは、その子孫の更生のほうが期待できるものであり、
なるべくわが子や孫への「子愛」を養って、その将来に期待しながら余生を過ごすなどすればいい。
犯罪聖書には親子兄弟の争いを促進する記述もあり、それを信じていた以上は子弟への愛慕を
養うこともまた困難な場合があるだろうが、やはり親にとってわが子は可愛いもので、そこは
カルト信仰によっても転覆させられきれない部分だろうから、存命中の再起が困難な高年の
元カルト信者などについては、わが子への期待を糧に無難な余生を全うすることを勧めるものだ。
「不仁者は与に言う可けんや。其の危きを安しとし、其の菑いを利とし、
其の亡ぶる所以の者を楽しむ。不仁にして与に言う可くんば、則ち何の亡国敗家之れ有らん」
「不仁者には共に語り合うだけの素養すらない。危ういものを平安と見なし、わざわいを利益と見なし、
将来の希望を亡ぼす原因となるものばかりを楽しもうとするから。もしも不仁しゃであっても私と
語り合う程度のことすらできたなら、国家を敗亡させるようなこともなくて済んだだろうに」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
嘘八百だからそれを信じれば転倒夢想になる。
転倒夢想に耽りながら社会活動を行おうとするから破滅にも陥る。
全くありきたりな、詐欺被害者のありさまだといえる。
被害者だからといって同情してもらえるほどシラフでもなく、本気で犯罪聖書を
信じているような人間には、鼻つまみもの並みにふてぶてしい言行が数多く見られる。
転倒夢想を糧に独自の妄想をも発展させ、自意識過剰の思い上がりを致命的なほどまでに
肥大化させてしまっているため、ただ棄教が困難なだけでなく、その言行全般が深刻な害為を
帯びてしまっている。そのため棄教したところで、カルト信者に特有の劣悪な言動規範は
しばらくの間持ち越されることとなり、禁治産越しの治療などを通じて徐々に矯正されていく。
再度いうとおり、ある程度以上の高年者の場合には存命中の矯正も達し切れなかったりするために、
終身療養生活となる場合もある。本人自身よりは、その子孫の更生のほうが期待できるものであり、
なるべくわが子や孫への「子愛」を養って、その将来に期待しながら余生を過ごすなどすればいい。
犯罪聖書には親子兄弟の争いを促進する記述もあり、それを信じていた以上は子弟への愛慕を
養うこともまた困難な場合があるだろうが、やはり親にとってわが子は可愛いもので、そこは
カルト信仰によっても転覆させられきれない部分だろうから、存命中の再起が困難な高年の
元カルト信者などについては、わが子への期待を糧に無難な余生を全うすることを勧めるものだ。
「不仁者は与に言う可けんや。其の危きを安しとし、其の菑いを利とし、
其の亡ぶる所以の者を楽しむ。不仁にして与に言う可くんば、則ち何の亡国敗家之れ有らん」
「不仁者には共に語り合うだけの素養すらない。危ういものを平安と見なし、わざわいを利益と見なし、
将来の希望を亡ぼす原因となるものばかりを楽しもうとするから。もしも不仁しゃであっても私と
語り合う程度のことすらできたなら、国家を敗亡させるようなこともなくて済んだだろうに」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
最新の物理理論なども、「現象の理合」としての神仏の存在性は認める一方で、
形而上から万物を司る人格神の存在などは認めない。それは実際、実在しない。
そんな実在しない虚構神への狂信などを多くの人々が募らせているものだから、
地球人類社会も破滅に陥り、このままでは滅亡すら避けることができない。
この地を継ぐもの、あの山を継ぐものこそは、必ず聖書信仰を廃絶せねばならない。
決して親しいものとして近づいたりもせず、快楽殺人犯か
連続強姦魔並みの厳重な警戒対象としていかなければならない。
これからの時代を、閉鎖病棟内の禁治産者として過ごすのならともかく、
この地球上で積極的に社会参画を進めていくというのなら、聖書信仰の破棄は必須である。
信仰せず、信仰させぬことを当たり前の大前提としてこそ、いっぱしの社会人たり得る。
もちろん元凶は聖書自体であり、信者のほうは一種の詐欺被害者ですらあるのだから、
今まで聖書信者だったところを棄教した人間などを、そんなに邪険に扱ってもならず、
長らく狂信中毒に陥っていたことへの手厚い療養措置なども施してやるべきだ。
ただ「おかしい」というだけではなく、道理に真っ向から相反する完全誤謬であり、
完全誤謬であるが故に人類生存のための根絶もまた必須であるというレアケースが
聖書信仰に当たり、ただ異端のカルトだから廃絶しなければならないというばかりでもない。
確かに聖書は特別な書物。唯一無二の書物。唯一無二にして最低最悪の書物だからこそ
信仰根絶の対象とすら見なされなければならない。そこは確かに未曾有なことだ。
形而上から万物を司る人格神の存在などは認めない。それは実際、実在しない。
そんな実在しない虚構神への狂信などを多くの人々が募らせているものだから、
地球人類社会も破滅に陥り、このままでは滅亡すら避けることができない。
この地を継ぐもの、あの山を継ぐものこそは、必ず聖書信仰を廃絶せねばならない。
決して親しいものとして近づいたりもせず、快楽殺人犯か
連続強姦魔並みの厳重な警戒対象としていかなければならない。
これからの時代を、閉鎖病棟内の禁治産者として過ごすのならともかく、
この地球上で積極的に社会参画を進めていくというのなら、聖書信仰の破棄は必須である。
信仰せず、信仰させぬことを当たり前の大前提としてこそ、いっぱしの社会人たり得る。
もちろん元凶は聖書自体であり、信者のほうは一種の詐欺被害者ですらあるのだから、
今まで聖書信者だったところを棄教した人間などを、そんなに邪険に扱ってもならず、
長らく狂信中毒に陥っていたことへの手厚い療養措置なども施してやるべきだ。
ただ「おかしい」というだけではなく、道理に真っ向から相反する完全誤謬であり、
完全誤謬であるが故に人類生存のための根絶もまた必須であるというレアケースが
聖書信仰に当たり、ただ異端のカルトだから廃絶しなければならないというばかりでもない。
確かに聖書は特別な書物。唯一無二の書物。唯一無二にして最低最悪の書物だからこそ
信仰根絶の対象とすら見なされなければならない。そこは確かに未曾有なことだ。
「今の君に事うる者は皆な曰う、我れ能く君が為めに土地を辟き、府庫を充たすと。今之の所謂良臣は、
古えの所謂民の賊なり。君道に郷わず、仁を志さざるに、之れを富まさんことを求むるは、是れ桀を富ますなり」
「いま主君に仕えようとするような者はみな、人気取りのために『私に任せていただければ君のために地を拓いて
君がためのものとし、租税を取り立てて国庫を山のような財産で充たしてあげましょう』などという。今こうして
良臣扱いされているような輩は、昔は民を損なう盗賊として扱われていた。主君が道理を求めず、仁徳を志そうとも
していないのに、ただ富ませることばかりを追い求めるのでは、桀王のような暴君を富ませるのとも同じことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・九より)
古えの所謂民の賊なり。君道に郷わず、仁を志さざるに、之れを富まさんことを求むるは、是れ桀を富ますなり」
「いま主君に仕えようとするような者はみな、人気取りのために『私に任せていただければ君のために地を拓いて
君がためのものとし、租税を取り立てて国庫を山のような財産で充たしてあげましょう』などという。今こうして
良臣扱いされているような輩は、昔は民を損なう盗賊として扱われていた。主君が道理を求めず、仁徳を志そうとも
していないのに、ただ富ませることばかりを追い求めるのでは、桀王のような暴君を富ませるのとも同じことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・九より)
「四牡孔だ阜いなり、六轡手に在り、騏駵は是れ中、騧驪は是れ驂、龍盾は之れ合し、鋈して以てケツ軜とす。
言れ君子を念う、温として其れ邑に在らん。方に何か期と為さん、胡ぞ然く我れを之れ念わしむるや」
「戦車を引く馬は大きく肥え太り、六本の手綱が御者の手に握られる。見栄えのする青黒い馬や赤黒い馬が副馬として添えられ、
黄色い馬や黒い馬までもがさらにそれに続く。車上には龍の描かれた豪華な盾が二枚並べ合わせて立てられ、
添え馬にも白金で鍍金された馬具が光り輝いている。こんな戦車隊の一員として、私の夫も軍役に従事していますが、
今でも私に見せてくれていたような温かな笑顔で、戦地の村にいるのでしょうか。いつになったら帰って来てくれるのでしょうか。
どうして私をこんなに心配にさせるのでしょうか。(戦車隊を飾る美々しい盾なども、軍役に赴く夫の妻にとっては、
ただより多くの心配を抱かせるばかりである。兵装の美々しさが敵軍の戦意すらも煽ることを、いち夫人ですらもが察知している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・秦風・小戎より)
言れ君子を念う、温として其れ邑に在らん。方に何か期と為さん、胡ぞ然く我れを之れ念わしむるや」
「戦車を引く馬は大きく肥え太り、六本の手綱が御者の手に握られる。見栄えのする青黒い馬や赤黒い馬が副馬として添えられ、
黄色い馬や黒い馬までもがさらにそれに続く。車上には龍の描かれた豪華な盾が二枚並べ合わせて立てられ、
添え馬にも白金で鍍金された馬具が光り輝いている。こんな戦車隊の一員として、私の夫も軍役に従事していますが、
今でも私に見せてくれていたような温かな笑顔で、戦地の村にいるのでしょうか。いつになったら帰って来てくれるのでしょうか。
どうして私をこんなに心配にさせるのでしょうか。(戦車隊を飾る美々しい盾なども、軍役に赴く夫の妻にとっては、
ただより多くの心配を抱かせるばかりである。兵装の美々しさが敵軍の戦意すらも煽ることを、いち夫人ですらもが察知している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・秦風・小戎より)
昔の戦争は刃物での戦闘がほとんど。
刀にしろ槍にしろ薙刀にしろ弓矢にしろ、
相手を傷つける刃体が金属製であればキラリと輝く。
戦場で光り物を輝かせれば、それだけで危険物と捉えられかねない。
にもかかわらず馬車に光り物のメッキの装飾が施されている。
華美を凝らすあまり、敵軍を挑発する、格好の的なってしまっている。
弱者である婦人であればこそ、このような
危ういものの危うさにも敏感だったのだろう。
刀にしろ槍にしろ薙刀にしろ弓矢にしろ、
相手を傷つける刃体が金属製であればキラリと輝く。
戦場で光り物を輝かせれば、それだけで危険物と捉えられかねない。
にもかかわらず馬車に光り物のメッキの装飾が施されている。
華美を凝らすあまり、敵軍を挑発する、格好の的なってしまっている。
弱者である婦人であればこそ、このような
危ういものの危うさにも敏感だったのだろう。
聖書信仰が解禁された明治以降、この日本では真理や道理に耳を傾ける人間が極端に少なくなった。
廃仏毀釈によって、真理を実践的に求道していくすべは根本から失われ、
人間道徳も西洋の「モラル(犯罪寓意)」と混同されて、その価値に大きな疑義が呈されることとなり、
敗戦後にいたってはもはや道徳の評価も地に墜ち、完全誤謬に根ざした
放辟邪侈だけが、日本人に許される人としてのあり方とされるまでに至った。
真理への理解がまず失われ、その次に道理への理解が徐々に損なわれて行き、最後には完全誤謬だけが残った。
つまり、真理は完全誤謬よりは道理に近いものであり、ある意味、道理以上にも人からは遠ざかりやすいもの。
親鸞聖人が仏者としての立場から「悪人正機」という善悪論を提唱したのも、武士の台頭によって
仏道が損なわれ始めた鎌倉時代に、最低限仏説を広めておこうと苦心した痕跡でこそあり、真理にとっての
不遇の時代に仮の姿として現れるのが道徳的な善悪論であるとすらいえ、道徳の善悪論すら通用しないような
完全誤謬まみれの世相において、真理が道理以上にも理解しやすいなどということがあるはずもないのだ。
完全誤謬の化身であるイエスの言説なぞは、真理に相反するだけでなく、その多くが真理とは無縁である。
俗世の腐敗した人間のあり方を正当化する詭弁にまみれているため、そこは真理と無縁ですらあるところ。
孔子の「君子と小人」論や孟子の性善説よろしく、恣意的な論及によって勧善懲悪への積極性を学徒に
備わらせようとする儒学のあり方のほうが、悪逆非道への積極性を信者に備わらせようとする聖書信仰の
あり方にも「姿勢」として近似している。孔孟の教えが勧善懲悪にかけて半ば洗脳的であることもまた、
聖書信仰が悪逆非道にかけて洗脳的であるのと類を同じくするところであり、真理をありのままに
把捉しようとする仏門においては、他力本願の方便信仰でもない限りは、そんなこともないのである。
廃仏毀釈によって、真理を実践的に求道していくすべは根本から失われ、
人間道徳も西洋の「モラル(犯罪寓意)」と混同されて、その価値に大きな疑義が呈されることとなり、
敗戦後にいたってはもはや道徳の評価も地に墜ち、完全誤謬に根ざした
放辟邪侈だけが、日本人に許される人としてのあり方とされるまでに至った。
真理への理解がまず失われ、その次に道理への理解が徐々に損なわれて行き、最後には完全誤謬だけが残った。
つまり、真理は完全誤謬よりは道理に近いものであり、ある意味、道理以上にも人からは遠ざかりやすいもの。
親鸞聖人が仏者としての立場から「悪人正機」という善悪論を提唱したのも、武士の台頭によって
仏道が損なわれ始めた鎌倉時代に、最低限仏説を広めておこうと苦心した痕跡でこそあり、真理にとっての
不遇の時代に仮の姿として現れるのが道徳的な善悪論であるとすらいえ、道徳の善悪論すら通用しないような
完全誤謬まみれの世相において、真理が道理以上にも理解しやすいなどということがあるはずもないのだ。
完全誤謬の化身であるイエスの言説なぞは、真理に相反するだけでなく、その多くが真理とは無縁である。
俗世の腐敗した人間のあり方を正当化する詭弁にまみれているため、そこは真理と無縁ですらあるところ。
孔子の「君子と小人」論や孟子の性善説よろしく、恣意的な論及によって勧善懲悪への積極性を学徒に
備わらせようとする儒学のあり方のほうが、悪逆非道への積極性を信者に備わらせようとする聖書信仰の
あり方にも「姿勢」として近似している。孔孟の教えが勧善懲悪にかけて半ば洗脳的であることもまた、
聖書信仰が悪逆非道にかけて洗脳的であるのと類を同じくするところであり、真理をありのままに
把捉しようとする仏門においては、他力本願の方便信仰でもない限りは、そんなこともないのである。
「夫れ苟くも善を好めば、則ち四海の内、皆な将に千里を軽しとして来たり、之に告ぐに善を以ってす。
夫れ苟くも善を好まざれば、則ち将に訑訑として予れ既に之れを知るのみと曰わん。
訑訑とした声音顔色は、人を千里の外に距つ。士千里の外に止むれば、則ち讒諂面諛の人至らん」
「もしも自分が善を好む人間であるなら、世界中の人々が千里の道のりすら軽く乗り越えて自分の下に
やって来て、色々と善いことを勧めてくれるだろう。しかし、もしも自分が善を嫌う人間であれば、
驕り高ぶって『自分こそは何でも知っている』というような傲岸な態度でいようとする。そのような驕りから
なる声高さや顔つきが、自然と人々を千里の外側にすら遠ざける。賢人が誰も彼も千里の外側に避難している
状態ともなれば、ただ相手を貶める讒言や媚び諂いを尽くすような人間ばかりが集まってくるようになる。
(イエスの驕り高ぶった態度こそは、善を嫌って賢人を遠ざけ、佞人を近づけようとしていた証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一三より)
夫れ苟くも善を好まざれば、則ち将に訑訑として予れ既に之れを知るのみと曰わん。
訑訑とした声音顔色は、人を千里の外に距つ。士千里の外に止むれば、則ち讒諂面諛の人至らん」
「もしも自分が善を好む人間であるなら、世界中の人々が千里の道のりすら軽く乗り越えて自分の下に
やって来て、色々と善いことを勧めてくれるだろう。しかし、もしも自分が善を嫌う人間であれば、
驕り高ぶって『自分こそは何でも知っている』というような傲岸な態度でいようとする。そのような驕りから
なる声高さや顔つきが、自然と人々を千里の外側にすら遠ざける。賢人が誰も彼も千里の外側に避難している
状態ともなれば、ただ相手を貶める讒言や媚び諂いを尽くすような人間ばかりが集まってくるようになる。
(イエスの驕り高ぶった態度こそは、善を嫌って賢人を遠ざけ、佞人を近づけようとしていた証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一三より)
性根が腐れ果てている人間にも、本人なりに根とするところがある。
傍から見ればひどくお粗末な虚構であったところで、本人が根とするところである。
根とするものは、本人こそが意識しない。根を張っている部分から何かをすることのほうに
頭がいって、自分の根を省みるなんてことはほとんどない。腐れ果てた性根の持ち主であれば
あるほどそうであり、どうしようもない腐敗を帯びた自らの根をなるべく眼中から外そうとする。
我流の思想信条で性根が腐れきっている人間だけでなく、エホバやキリストを我が性根の
在り処と自認する聖書信者でも、それは同じだ。聖書の記述はそのことごとくが詭弁であり、
書いてあるとおりに読めば美辞麗句のようであったりもする。その記述をありのままに
性根に据えようとしたところで、刑死した人間が生き返るようなことも実際にはないので、
記述どおりに実現することができない聖書の記述を性根に据えようとした結果、現実上では
腐れ果てた性根を持つようになる。そのようにして腐れ果てた性根を備えた人間が、自ら
性根とすることを自認する聖書の記述を読んでみれば、それはそれなりに美辞麗句っぽくもある。
腐れ果てた性根を美化するための詭弁に聖書の記述が役立ち、いつまでも自らの腐れ果てた性根の
実態からは目を背けていられるというのが、聖書信仰の「臭いものには蓋」のカラクリに当たる。
聖書の記述を性根に据えようとして、全く記述どおりに現実はいかなくて、結果として腐れ果てた
性根しか持ち得なくなっている。その腐れ果てた性根自体は、聖書の記述を読んだからといって
直視できるものではなく、むしろ聖書の記述も聖書信仰も取り払った所でこそ直視できる。
自分たちの腐敗した性根を直視しないための色眼鏡としての、聖書の美辞麗句の有害さをわきまえよ。
傍から見ればひどくお粗末な虚構であったところで、本人が根とするところである。
根とするものは、本人こそが意識しない。根を張っている部分から何かをすることのほうに
頭がいって、自分の根を省みるなんてことはほとんどない。腐れ果てた性根の持ち主であれば
あるほどそうであり、どうしようもない腐敗を帯びた自らの根をなるべく眼中から外そうとする。
我流の思想信条で性根が腐れきっている人間だけでなく、エホバやキリストを我が性根の
在り処と自認する聖書信者でも、それは同じだ。聖書の記述はそのことごとくが詭弁であり、
書いてあるとおりに読めば美辞麗句のようであったりもする。その記述をありのままに
性根に据えようとしたところで、刑死した人間が生き返るようなことも実際にはないので、
記述どおりに実現することができない聖書の記述を性根に据えようとした結果、現実上では
腐れ果てた性根を持つようになる。そのようにして腐れ果てた性根を備えた人間が、自ら
性根とすることを自認する聖書の記述を読んでみれば、それはそれなりに美辞麗句っぽくもある。
腐れ果てた性根を美化するための詭弁に聖書の記述が役立ち、いつまでも自らの腐れ果てた性根の
実態からは目を背けていられるというのが、聖書信仰の「臭いものには蓋」のカラクリに当たる。
聖書の記述を性根に据えようとして、全く記述どおりに現実はいかなくて、結果として腐れ果てた
性根しか持ち得なくなっている。その腐れ果てた性根自体は、聖書の記述を読んだからといって
直視できるものではなく、むしろ聖書の記述も聖書信仰も取り払った所でこそ直視できる。
自分たちの腐敗した性根を直視しないための色眼鏡としての、聖書の美辞麗句の有害さをわきまえよ。
「君子の性とする所は、仁義礼智にして心に根ざす。其の色の生ずるや、
睟然として面に見われ、背に盎われ、四体に施れ、言わずして喩る」
「君子の性分とするところは仁義礼智であり、この四徳が深く心に根を下ろしている。
そのためその清らかさは顔色にも表れ、後姿にすら表れ、四肢にまで行き渡り、
何も言わないでも自然と人に覚らせるところがある。(性根とする所を明確化させる点も、
儒学の聖書信仰と近似する点だといえる。性根が何ものにも惑わされない境地を目指す
仏教や道家の求道にまでは至らない初心者が、とりあえず邪教の誘惑に駆られての
性根の腐敗を防止する上では、仁義礼智を性根に据えることもまた有効だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二一より)
睟然として面に見われ、背に盎われ、四体に施れ、言わずして喩る」
「君子の性分とするところは仁義礼智であり、この四徳が深く心に根を下ろしている。
そのためその清らかさは顔色にも表れ、後姿にすら表れ、四肢にまで行き渡り、
何も言わないでも自然と人に覚らせるところがある。(性根とする所を明確化させる点も、
儒学の聖書信仰と近似する点だといえる。性根が何ものにも惑わされない境地を目指す
仏教や道家の求道にまでは至らない初心者が、とりあえず邪教の誘惑に駆られての
性根の腐敗を防止する上では、仁義礼智を性根に据えることもまた有効だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二一より)
人がこの世に利益以上の損害を及ぼすとき、そこには必ず悪意がある。
他者に危害を加えてでも自分が富もうとする、有害な作為(害為)がある。
十字架信仰こそは、その害為を美化して推進することを目的としたものであり、
特殊な思想信条を持たないただの自然人以上もの害為を信者に蓄えさせる。
道家や仏教などの超俗思考の教学では、作為全般を棄て去ることによる害為の捨離をも目指す。
それでこそ、根本からの害為の廃絶にもなるとするが、無為であるということは世俗社会では非常に
難しいことで、無理に実践した結果、「何もできないロクデナシ」扱いされたりするようなこともある。
無為自然によって害為を棄て去るほうが、より根本的な解決策とはなるが、それだけ難しい。むしろ
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする仁心を抱くほうが、害為に打ち克つ上では手っ取り早い。
自利以上の利他を志す菩提心を抱くことのほうが、ひとまず害為を超克しておく上ではたやすいこと。
ただ、やはりそれは根本からの害為の根絶手段にはならない。
たとえば、徳川家康が私することなく貯蓄していた現数百兆円規模の資産は、確かに歴代将軍によって
幕府経営のために費やされ、五代将軍綱吉の代でその底も尽きた。消費された資産は大坂堺の豪商などの
蔵に流れ込み、幕末に薩長軍がグラバーから重火器を購入して幕府を倒壊させるための融資にも用いられた。
結果、最終的に徳川家康が天下平定のために貯蓄していた資産は、今ではロスチャイルド財閥の貯蓄や、
ロックフェラー財閥の兵器へと様変わりしてしまっているわけで、世の中に損害以上の利益をもたらそう
とした徳川家康の努力は、現時点では米英の悪徳金融の私腹を肥やすだけの結果となってしまっている。
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする、作為的な仁者がいればこそ、利益以上の損害をもたらそう
とする害為正法外道が、仁者たちの努力に甘えて放辟邪侈を肥大化させていく余地をも生じさせてしまう。
だから正善への作為も、害為を根絶する決定的な手段になるとはいえないが、ただ、害為を肥大化させて
推進して来た連中よりは、まだ善為を推進して来た人々のほうが救われやすいという程度のことはいえる。
他者に危害を加えてでも自分が富もうとする、有害な作為(害為)がある。
十字架信仰こそは、その害為を美化して推進することを目的としたものであり、
特殊な思想信条を持たないただの自然人以上もの害為を信者に蓄えさせる。
道家や仏教などの超俗思考の教学では、作為全般を棄て去ることによる害為の捨離をも目指す。
それでこそ、根本からの害為の廃絶にもなるとするが、無為であるということは世俗社会では非常に
難しいことで、無理に実践した結果、「何もできないロクデナシ」扱いされたりするようなこともある。
無為自然によって害為を棄て去るほうが、より根本的な解決策とはなるが、それだけ難しい。むしろ
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする仁心を抱くほうが、害為に打ち克つ上では手っ取り早い。
自利以上の利他を志す菩提心を抱くことのほうが、ひとまず害為を超克しておく上ではたやすいこと。
ただ、やはりそれは根本からの害為の根絶手段にはならない。
たとえば、徳川家康が私することなく貯蓄していた現数百兆円規模の資産は、確かに歴代将軍によって
幕府経営のために費やされ、五代将軍綱吉の代でその底も尽きた。消費された資産は大坂堺の豪商などの
蔵に流れ込み、幕末に薩長軍がグラバーから重火器を購入して幕府を倒壊させるための融資にも用いられた。
結果、最終的に徳川家康が天下平定のために貯蓄していた資産は、今ではロスチャイルド財閥の貯蓄や、
ロックフェラー財閥の兵器へと様変わりしてしまっているわけで、世の中に損害以上の利益をもたらそう
とした徳川家康の努力は、現時点では米英の悪徳金融の私腹を肥やすだけの結果となってしまっている。
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする、作為的な仁者がいればこそ、利益以上の損害をもたらそう
とする害為正法外道が、仁者たちの努力に甘えて放辟邪侈を肥大化させていく余地をも生じさせてしまう。
だから正善への作為も、害為を根絶する決定的な手段になるとはいえないが、ただ、害為を肥大化させて
推進して来た連中よりは、まだ善為を推進して来た人々のほうが救われやすいという程度のことはいえる。
家康公の貯蓄が幕府経営のために惜しみなく用いられたことで、日本国民も潤沢な教育を受けて、
識字率も当時の西洋諸国を抜いて抜群の世界一となり、世界でも他に類を見ないほどの勤勉さを手に入れた。
ただよく働くだけでなく、文化的な教養に根ざした効率的な労働をこなす能力が身に付いたために、
明治以降にもあっという間に西洋並みの文明化を果たし、今では実体経済で西洋に水を開けるまでになった。
日本国民が国債操作を通じて1000兆円もの資金を欧米に貸し出させられることで、何とか今の欧米経済も
保たれている体たらくであり、その実態に基づくならば、全欧米人が日本人による禁治産処分を受けたとしても
何らの不当性を持たない状態となっている。かようにして、早くの内から国民教育という仁政のために資産を
惜しみなく費やしていた日本のほうが、国民教育も怠って覇道による権力者の私利私欲ばかりを貪っていた欧米
諸国よりも、最終的な正当性で確実に優位な立場に立つこととなった。害為よりは善為を尊重していたものがやはり、
害為ばかりを肥大化させていたものよりも最終的に正義たり得たのであり、これも全く必然なことだといえる。
無為自然こそは害為を根絶する最終手段でもあったが、結果として善為を推し進めていたものが、
害為を推し進めていたものよりも、もう少しだけ上の立場に置かれることにもなる。無為≧善為>害為であり、
無為の下で善為も害為もみそくそに扱われるのではなく、善為と害為とでの雌雄もまたそれはそれで決される。
「日月は天を得て能く久しく照らし、四時変化して能く久しく成し、聖人は其の道に久しくして天下を化成す」
「日月は天に昇っては恒久に世界を照らして輝き、春夏秋冬の季節の移り変わりもまた恒久に万物を生育し、
聖人もまた日月や四季の移り変わりのように恒久普遍な道理に根ざして、天下の民たちを教化育成していく」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・恆・彖伝より)
識字率も当時の西洋諸国を抜いて抜群の世界一となり、世界でも他に類を見ないほどの勤勉さを手に入れた。
ただよく働くだけでなく、文化的な教養に根ざした効率的な労働をこなす能力が身に付いたために、
明治以降にもあっという間に西洋並みの文明化を果たし、今では実体経済で西洋に水を開けるまでになった。
日本国民が国債操作を通じて1000兆円もの資金を欧米に貸し出させられることで、何とか今の欧米経済も
保たれている体たらくであり、その実態に基づくならば、全欧米人が日本人による禁治産処分を受けたとしても
何らの不当性を持たない状態となっている。かようにして、早くの内から国民教育という仁政のために資産を
惜しみなく費やしていた日本のほうが、国民教育も怠って覇道による権力者の私利私欲ばかりを貪っていた欧米
諸国よりも、最終的な正当性で確実に優位な立場に立つこととなった。害為よりは善為を尊重していたものがやはり、
害為ばかりを肥大化させていたものよりも最終的に正義たり得たのであり、これも全く必然なことだといえる。
無為自然こそは害為を根絶する最終手段でもあったが、結果として善為を推し進めていたものが、
害為を推し進めていたものよりも、もう少しだけ上の立場に置かれることにもなる。無為≧善為>害為であり、
無為の下で善為も害為もみそくそに扱われるのではなく、善為と害為とでの雌雄もまたそれはそれで決される。
「日月は天を得て能く久しく照らし、四時変化して能く久しく成し、聖人は其の道に久しくして天下を化成す」
「日月は天に昇っては恒久に世界を照らして輝き、春夏秋冬の季節の移り変わりもまた恒久に万物を生育し、
聖人もまた日月や四季の移り変わりのように恒久普遍な道理に根ざして、天下の民たちを教化育成していく」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・恆・彖伝より)
情報の新旧によらず、それなりに普遍的な知識というものが人類文明史上にはいくらでもある。
その普遍性を参考にしていくことで温故知新も可能となり、一人の人間や一代限りの社会では
とうてい造り上げられないような、荘重で神韻縹渺とした文化文明が構築されていくこととなる。
そうとはせず、一人や一代限りでの全くの我流の創作に終始すれば、それだけ薄っぺらいものとなる。
それなりに普遍的であるとしたところで薄っぺらいし、そもそもが旧来の智恵に全く依拠することなく
我流の創作ばかりを志すことからして、何も普遍的なものを見定められていない証拠だといえる。だから、
全くの我流の創作ってのは、ただ薄っぺらいだけでなく、おおよそ普遍性などを持たない場合がほとんど。
薄っぺらい上に全く普遍性がないことを埋め合わせるために、我流の創作者ってのは「物量投入」を好む。
土建による物質的な物量投入、大量の作業員を導入した技術的な物量投入など、質ではなく量で自分たち
の創作物の本質的な粗悪さを補おうとする。結果、物量投入に費やすための莫大な資本が必要となって、
資本を巻き上げるために、極めて多くの人々を長時間の低賃金重労働に強制使役させたりすることともなる。
過去の知的遺産にもよく倣って、自分たちでも文化構築についての最善を尽くしていく、そうして
造り上げられる文明社会こそは、無駄な物量投入のための苦役を民に課したりすることもない。
全くの創作ばかりに没頭して過去を顧みないのは、創作者の姿勢として最善を尽くさない姿だから、
最善を尽くしていないぶんだけのしわ寄せが民に及ぶことを、創作者までもが思い知らねばならない。
「射は皮を主とせず。力を科すを同じくせざるが為めなり。古の道なり」
「古の人々は力比べになることを避けるため、射儀に用いる的に射通しにくい皮などは用いなかった。
(今の人々が古のやり方を捨てて、何かにかけて力役に没頭していることを暗に批判している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一六より)
その普遍性を参考にしていくことで温故知新も可能となり、一人の人間や一代限りの社会では
とうてい造り上げられないような、荘重で神韻縹渺とした文化文明が構築されていくこととなる。
そうとはせず、一人や一代限りでの全くの我流の創作に終始すれば、それだけ薄っぺらいものとなる。
それなりに普遍的であるとしたところで薄っぺらいし、そもそもが旧来の智恵に全く依拠することなく
我流の創作ばかりを志すことからして、何も普遍的なものを見定められていない証拠だといえる。だから、
全くの我流の創作ってのは、ただ薄っぺらいだけでなく、おおよそ普遍性などを持たない場合がほとんど。
薄っぺらい上に全く普遍性がないことを埋め合わせるために、我流の創作者ってのは「物量投入」を好む。
土建による物質的な物量投入、大量の作業員を導入した技術的な物量投入など、質ではなく量で自分たち
の創作物の本質的な粗悪さを補おうとする。結果、物量投入に費やすための莫大な資本が必要となって、
資本を巻き上げるために、極めて多くの人々を長時間の低賃金重労働に強制使役させたりすることともなる。
過去の知的遺産にもよく倣って、自分たちでも文化構築についての最善を尽くしていく、そうして
造り上げられる文明社会こそは、無駄な物量投入のための苦役を民に課したりすることもない。
全くの創作ばかりに没頭して過去を顧みないのは、創作者の姿勢として最善を尽くさない姿だから、
最善を尽くしていないぶんだけのしわ寄せが民に及ぶことを、創作者までもが思い知らねばならない。
「射は皮を主とせず。力を科すを同じくせざるが為めなり。古の道なり」
「古の人々は力比べになることを避けるため、射儀に用いる的に射通しにくい皮などは用いなかった。
(今の人々が古のやり方を捨てて、何かにかけて力役に没頭していることを暗に批判している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一六より)
せっかくの憐憫や慈愛や謙遜や柔和や寛容も、結局は神の名の下での私利私欲の貪りという
薄汚い目的のための手段でしかないのだから、どこまでいっても偽善の域を出ることがない。
人口二万人にも満たない、極小の部落社会だった古代のイスラエルで、わざわざ仁徳を志すような
人間などは一人もいなかった。希望とは、即ち私利私欲の実現であり、万人を利することによる
結果的な私益までもの獲得などという、仁徳に根ざした希望などは根本から存在しなかった。
二万人だけでなら、それでもよかった。わざわざ万人を利して我れをも利する
仁政の体系などに依らずとも、二万人程度の部落社会だけを運営して行く上では、
そんなに問題も生じない。過剰な私利私欲の貪りがそのまま過酷な村八分扱いの原因とも
なってしまうから、自然と我田引水を押し止めることをも心がけるようになるものだから。
問題は、何百万何千万、何億何十億といった大規模の都市社会において、数万人止まりの部落社会で
のみ許容されていたような不仁が横行することであり、それは即座に、極重の罪悪や偽善に直結する。
不仁を持ち越したままでの相当な我田引水をやらかしたとしても、それに対する十分な村八分扱いも
行き届かず、表向きの善人面と裏での悪逆非道を使い分けることまでもが可能となってしまうから。
大規模な都市社会だからこそ、偽善者の仮面と極悪人の本性を使い分けての、非常識な規模の
我田引水までもが可能となる。秘密裏での過剰な我田引水が可能となるからこそ、世の中全体が
知らぬ間に極度の困窮に陥り、挙句には経済破綻を来たして大戦争に突入するような事態ともなる。
薄汚い目的のための手段でしかないのだから、どこまでいっても偽善の域を出ることがない。
人口二万人にも満たない、極小の部落社会だった古代のイスラエルで、わざわざ仁徳を志すような
人間などは一人もいなかった。希望とは、即ち私利私欲の実現であり、万人を利することによる
結果的な私益までもの獲得などという、仁徳に根ざした希望などは根本から存在しなかった。
二万人だけでなら、それでもよかった。わざわざ万人を利して我れをも利する
仁政の体系などに依らずとも、二万人程度の部落社会だけを運営して行く上では、
そんなに問題も生じない。過剰な私利私欲の貪りがそのまま過酷な村八分扱いの原因とも
なってしまうから、自然と我田引水を押し止めることをも心がけるようになるものだから。
問題は、何百万何千万、何億何十億といった大規模の都市社会において、数万人止まりの部落社会で
のみ許容されていたような不仁が横行することであり、それは即座に、極重の罪悪や偽善に直結する。
不仁を持ち越したままでの相当な我田引水をやらかしたとしても、それに対する十分な村八分扱いも
行き届かず、表向きの善人面と裏での悪逆非道を使い分けることまでもが可能となってしまうから。
大規模な都市社会だからこそ、偽善者の仮面と極悪人の本性を使い分けての、非常識な規模の
我田引水までもが可能となる。秘密裏での過剰な我田引水が可能となるからこそ、世の中全体が
知らぬ間に極度の困窮に陥り、挙句には経済破綻を来たして大戦争に突入するような事態ともなる。
過剰な我田引水が許されないからではなく、許されてしまうからこそ、大規模な都市社会では、
不仁の横行による大破綻などという事態を招く場合がある。だから大規模な都市社会での不仁こそは
控えられて然るべきなのであり、過剰な我田引水も可能となるから、不仁でいてもいいのではない。
大社会に暮らす人間、特に大社会の権力者こそは徹底して不仁を控えねばならず、不仁からなる
私利私欲の貪りを、偽善によって取り繕うカルト信仰などを精神的な拠り所にしてもいけない。
信じるというのなら、自利以上の利他を志す菩提心の宗教を信じねばならないし、信じる以外の
自力作善の範疇における、仁政を説く学問の実践などもまた、権力者なら必須のことと相成る。
権力者が不仁を廃して仁徳を志したならば、支配者に倣うことが天性の性分である大多数の被治民も
それなりに仁徳をわきまえるようになり、不仁からなる我田引水や、それを偽善によって取り繕うことを
推進する邪教などにも寄り付かないようになる。結果、キリスト教やユダヤ教のような邪教は大社会から
完全に追い出されることとなる。大社会に不適合な部落製の邪教に対する、適正な扱いが施されることとなる。
「之れを成人とするは、将に成人の礼を責めんとするなり。
成人の礼を責めるは、将に人の子たり、人の弟たり、人の臣たり、人の少たる者の礼の行いを
責めんとするなり。将に四つの者の行いを人に責めんとす。其の礼を重んぜざる可けんや」
「人を一人前たらしめるのは、一人前の人としての礼節をこなすことへの責めを負っていくことである。
一人前の礼節への責めとは、人の子であり、人の弟であり、人の臣下であり、人の年下である者としての
相応な礼節を実践していくことへの責めのことだ。これら四つの立場に相応の振る舞いを心がけて
いくのを強く責めていくことは、決して軽んじて寛容したり、怠りを赦したりしていいことではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・冠義第四十三より)
不仁の横行による大破綻などという事態を招く場合がある。だから大規模な都市社会での不仁こそは
控えられて然るべきなのであり、過剰な我田引水も可能となるから、不仁でいてもいいのではない。
大社会に暮らす人間、特に大社会の権力者こそは徹底して不仁を控えねばならず、不仁からなる
私利私欲の貪りを、偽善によって取り繕うカルト信仰などを精神的な拠り所にしてもいけない。
信じるというのなら、自利以上の利他を志す菩提心の宗教を信じねばならないし、信じる以外の
自力作善の範疇における、仁政を説く学問の実践などもまた、権力者なら必須のことと相成る。
権力者が不仁を廃して仁徳を志したならば、支配者に倣うことが天性の性分である大多数の被治民も
それなりに仁徳をわきまえるようになり、不仁からなる我田引水や、それを偽善によって取り繕うことを
推進する邪教などにも寄り付かないようになる。結果、キリスト教やユダヤ教のような邪教は大社会から
完全に追い出されることとなる。大社会に不適合な部落製の邪教に対する、適正な扱いが施されることとなる。
「之れを成人とするは、将に成人の礼を責めんとするなり。
成人の礼を責めるは、将に人の子たり、人の弟たり、人の臣たり、人の少たる者の礼の行いを
責めんとするなり。将に四つの者の行いを人に責めんとす。其の礼を重んぜざる可けんや」
「人を一人前たらしめるのは、一人前の人としての礼節をこなすことへの責めを負っていくことである。
一人前の礼節への責めとは、人の子であり、人の弟であり、人の臣下であり、人の年下である者としての
相応な礼節を実践していくことへの責めのことだ。これら四つの立場に相応の振る舞いを心がけて
いくのを強く責めていくことは、決して軽んじて寛容したり、怠りを赦したりしていいことではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・冠義第四十三より)
神は全知全能のはずなのに、
なんで知恵の木なんてものをエデンに生やして
人は食べたがるだろうなーって分かりつつ、食べた時の危険性を
アナウンスしたりしないで放置しといたのかな。
ヨブ記では、人の信仰をさんざん試したりするけど
それは、人が知恵の実を食べた原罪があるから。
けど、そもそも原罪さえ犯さないように
神は人を指導したり、作ったりすべきだったんでは?
って昨日読んだ本に書いてた。
なんで知恵の木なんてものをエデンに生やして
人は食べたがるだろうなーって分かりつつ、食べた時の危険性を
アナウンスしたりしないで放置しといたのかな。
ヨブ記では、人の信仰をさんざん試したりするけど
それは、人が知恵の実を食べた原罪があるから。
けど、そもそも原罪さえ犯さないように
神は人を指導したり、作ったりすべきだったんでは?
って昨日読んだ本に書いてた。
神が人間に原罪があると定めたのではなく、人間に原罪があると定める
奇特な神を、一部の奇特な人間たちが自分たちの心中に妄想しているだけだ。
そこに「なぜ原罪の原因となる知恵の実を人間が食したのか」などと疑問を
抱いたところで、その答えが見出せるわけもない。知恵の実を食べさせないように
取り計らいもしないでいて、いざ食べれば「はい、原罪持ちになりました」と
レッテルを貼って、数々の罰や試練を加えて来たりする欺瞞まみれな邪神を、
人間自身が自分たちの脳内で妄想して捏造しただけなのだから、それ以上の何の意味もない。
そんな邪神を、脳内で捏造したこともない東洋人には、当然、原罪志向などもない。
仮に「ある」としたところで、自縄自縛の自業自得による自滅の原因としかならない
脳内邪神などを欲しもしない。そんな邪神よりも遥かに「ある」としたほうが都合も
いい上に、その由緒も正しい神仏がいくらでもいるのだから、災厄の元凶となる上に、
別にいるともいないとも知れない邪神などを「ある」と見なす必要すら見いだせない。
あまりにも有害無益で、致命的な災厄ばかりを撒き散らしてそれをよしとする
犯罪聖書の邪神に心を囚われている人間は、そのあまりものどうしようもなさから、
「それぐらいどうしようもなければ神ですらない」とすら思うようになってしまっている。
エホバやキリストほどにどうしようもない邪神であってこそ神であり、そんなどうしようもなさを
始めから帯びてないからこそ、東洋の神などは神としての本格さに欠けるなどと思い込んでいる。
そこからして全くの勘違いで、本来エホバやキリストは神ではなく鬼畜や妖怪に属する存在であり、
鬼畜や妖怪が神を騙っているが故に、本物の神などにはないどぎつさをも帯びている。
そのどぎづさを「本物の神である証拠」などとと思い込むのも全くの転倒夢想であり、その
どきつさこそは、エホバやキリストが偽りの神である証拠であるのだとわきまえねばならない。
奇特な神を、一部の奇特な人間たちが自分たちの心中に妄想しているだけだ。
そこに「なぜ原罪の原因となる知恵の実を人間が食したのか」などと疑問を
抱いたところで、その答えが見出せるわけもない。知恵の実を食べさせないように
取り計らいもしないでいて、いざ食べれば「はい、原罪持ちになりました」と
レッテルを貼って、数々の罰や試練を加えて来たりする欺瞞まみれな邪神を、
人間自身が自分たちの脳内で妄想して捏造しただけなのだから、それ以上の何の意味もない。
そんな邪神を、脳内で捏造したこともない東洋人には、当然、原罪志向などもない。
仮に「ある」としたところで、自縄自縛の自業自得による自滅の原因としかならない
脳内邪神などを欲しもしない。そんな邪神よりも遥かに「ある」としたほうが都合も
いい上に、その由緒も正しい神仏がいくらでもいるのだから、災厄の元凶となる上に、
別にいるともいないとも知れない邪神などを「ある」と見なす必要すら見いだせない。
あまりにも有害無益で、致命的な災厄ばかりを撒き散らしてそれをよしとする
犯罪聖書の邪神に心を囚われている人間は、そのあまりものどうしようもなさから、
「それぐらいどうしようもなければ神ですらない」とすら思うようになってしまっている。
エホバやキリストほどにどうしようもない邪神であってこそ神であり、そんなどうしようもなさを
始めから帯びてないからこそ、東洋の神などは神としての本格さに欠けるなどと思い込んでいる。
そこからして全くの勘違いで、本来エホバやキリストは神ではなく鬼畜や妖怪に属する存在であり、
鬼畜や妖怪が神を騙っているが故に、本物の神などにはないどぎつさをも帯びている。
そのどぎづさを「本物の神である証拠」などとと思い込むのも全くの転倒夢想であり、その
どきつさこそは、エホバやキリストが偽りの神である証拠であるのだとわきまえねばならない。
神を騙る鬼畜である犯罪聖書の邪神が世に幅を利かせた結果、数多の本物の神仏が端に追いやられて、
発揮できる霊験すら発揮できない状態に追い込まれている。それこそはあまりにも勿体ないことであり、
聖書信仰がこの世から根絶されることの勿体なさなどは、本物の神仏が霊験を発揮できない勿体なさと
比べれば、とても大きいので捨てるのが惜しい鼻くそを捨てる勿体なさぐらいのものでしかない。
「昔斉の景公田せるとき、虞人を招くに旌を以ってするも至らず、将に之れを殺さんとす。
(孔子をこれを褒めて曰く、)志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れずと。
孔子は奚をか取しとせるか。其の招くべきに非ざれば往かざるを取しとせるなり」
「昔、斉の景公が狩りに言ったとき、狩場の役人を『旗を振る』という異例の方法で招き寄せようとした。
役人はその招きに応じなかったため、景公は怒ってその役人を殺そうとした。孔子はこの役人を褒めて、
『志士は道義のために側溝にのたれ死ぬことをも覚悟し、勇士はその首を打たれることすら覚悟する』といった。
孔子はなぜこれほどまでにあの役人を称えたのか。然るべき手段に依らない招きに決して応じない姿勢を称えたのだ。
(エホバやキリストの物言いにも暗示的なものが多いが、旗を振るような暗示的な招きなどに元から応じるべきではない。
卑近なところでは、児童誘拐の常套手段にも『おもちゃを買ってあげるよ』などの暗示による招きがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・一より)
発揮できる霊験すら発揮できない状態に追い込まれている。それこそはあまりにも勿体ないことであり、
聖書信仰がこの世から根絶されることの勿体なさなどは、本物の神仏が霊験を発揮できない勿体なさと
比べれば、とても大きいので捨てるのが惜しい鼻くそを捨てる勿体なさぐらいのものでしかない。
「昔斉の景公田せるとき、虞人を招くに旌を以ってするも至らず、将に之れを殺さんとす。
(孔子をこれを褒めて曰く、)志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れずと。
孔子は奚をか取しとせるか。其の招くべきに非ざれば往かざるを取しとせるなり」
「昔、斉の景公が狩りに言ったとき、狩場の役人を『旗を振る』という異例の方法で招き寄せようとした。
役人はその招きに応じなかったため、景公は怒ってその役人を殺そうとした。孔子はこの役人を褒めて、
『志士は道義のために側溝にのたれ死ぬことをも覚悟し、勇士はその首を打たれることすら覚悟する』といった。
孔子はなぜこれほどまでにあの役人を称えたのか。然るべき手段に依らない招きに決して応じない姿勢を称えたのだ。
(エホバやキリストの物言いにも暗示的なものが多いが、旗を振るような暗示的な招きなどに元から応じるべきではない。
卑近なところでは、児童誘拐の常套手段にも『おもちゃを買ってあげるよ』などの暗示による招きがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・一より)
「帝は文王に謂わせる、畔援に然る無かれ、歆羨に然る無かれ。誕こに先んじ岸こに登らしむ。
密人の不恭にして、敢えて大邦を距ぐ。阮を侵し共に徂けば、王は赫として斯れ怒れり。
爰こに其の旅を整え、以て徂旅を按む。以て周の祜い篤く、以て天下を對めたまう」
「天帝は文王に謂わせ賜いた、『だらしなくあるな、強欲であるな』と。そのあり方を自ら先導して
民を同じ所まで登らせた。蛮人が恭敬を欠いて、天下国家の利益を蔑ろにする姿を見るや、
そのふところ近くにまで入り行って、文王は赫然としてその怒りを露わにされた。それによって
軍兵をも従え、蛮人同士での戦争も中止させて、我が周国の福徳の増長と共に天下を安んじられた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)
密人の不恭にして、敢えて大邦を距ぐ。阮を侵し共に徂けば、王は赫として斯れ怒れり。
爰こに其の旅を整え、以て徂旅を按む。以て周の祜い篤く、以て天下を對めたまう」
「天帝は文王に謂わせ賜いた、『だらしなくあるな、強欲であるな』と。そのあり方を自ら先導して
民を同じ所まで登らせた。蛮人が恭敬を欠いて、天下国家の利益を蔑ろにする姿を見るや、
そのふところ近くにまで入り行って、文王は赫然としてその怒りを露わにされた。それによって
軍兵をも従え、蛮人同士での戦争も中止させて、我が周国の福徳の増長と共に天下を安んじられた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)
偽善の巧妙化は、それにかまけた悪逆非道の深刻化と比例的な関係にある。
表向きの修辞や隣人愛による取り繕いを磐石ならしめようとすればするほど、
隠れて行う法外な不当利得の貪りや、遠方の他人の大量虐殺も深刻なものとなっていく。
だから「巧言令色すくなきは仁なり(学而第一・三)」ともいえる。人の目に付いて過度に
よさげであることには、裏での大悪を取り繕うための偽善であるぐらいの目的しか備わらない。
美しいものが仮りに目前にあるとして、偽善目的でない美しさは、その美しさの目的も隠さない。
日本刀が刃物としての機能の洗練に努められた結果、必然的に優美な姿態を兼ね備えているようにして、
何らかの至当な目的があった上で、そこに美しさが備わるのは確かに偽善目的ではない。しかし、
その目的が判然としない美しさ、美しさのための美しさみたいなものが持て囃されているとき、
そこには必ず何か裏がある。税金対策や資金洗浄の目的で、高額で売買される絵画のように、
存在目的が不純である美術ほど、美術のための美術であることを専らにしようともする。
善美であるということは、それが偽善や虚飾でないというのなら、どこまでも目的の至当さを
追い詰めることができる。仏教美術の美しさなども、見るものの悟りを助けようとする確かな
目的があるから虚飾ではないといえる。善や美に目的を備わらせることが不純だなどというのは
全くの勘違いであり、目的の不審な善美ほど、偽善や虚飾として大いに悪用されるものだ。
儒学の標榜する勧善懲悪が、修己治人や天下平定といったごく実務的な目的性と密接な関係にあるのも、
それでこそ偽善の嫌疑が拭われるからで、そこを「不純な善である証拠だ」などと決め付けるのも大間違い。
儒家の善徳など所詮は世のため人のためでしかない。だからこそ純粋無垢なる真善であるとも確認できるのだ。
表向きの修辞や隣人愛による取り繕いを磐石ならしめようとすればするほど、
隠れて行う法外な不当利得の貪りや、遠方の他人の大量虐殺も深刻なものとなっていく。
だから「巧言令色すくなきは仁なり(学而第一・三)」ともいえる。人の目に付いて過度に
よさげであることには、裏での大悪を取り繕うための偽善であるぐらいの目的しか備わらない。
美しいものが仮りに目前にあるとして、偽善目的でない美しさは、その美しさの目的も隠さない。
日本刀が刃物としての機能の洗練に努められた結果、必然的に優美な姿態を兼ね備えているようにして、
何らかの至当な目的があった上で、そこに美しさが備わるのは確かに偽善目的ではない。しかし、
その目的が判然としない美しさ、美しさのための美しさみたいなものが持て囃されているとき、
そこには必ず何か裏がある。税金対策や資金洗浄の目的で、高額で売買される絵画のように、
存在目的が不純である美術ほど、美術のための美術であることを専らにしようともする。
善美であるということは、それが偽善や虚飾でないというのなら、どこまでも目的の至当さを
追い詰めることができる。仏教美術の美しさなども、見るものの悟りを助けようとする確かな
目的があるから虚飾ではないといえる。善や美に目的を備わらせることが不純だなどというのは
全くの勘違いであり、目的の不審な善美ほど、偽善や虚飾として大いに悪用されるものだ。
儒学の標榜する勧善懲悪が、修己治人や天下平定といったごく実務的な目的性と密接な関係にあるのも、
それでこそ偽善の嫌疑が拭われるからで、そこを「不純な善である証拠だ」などと決め付けるのも大間違い。
儒家の善徳など所詮は世のため人のためでしかない。だからこそ純粋無垢なる真善であるとも確認できるのだ。
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