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聖書 Part7
▼ページ最下部
「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「子、子産を謂う。『君子の道四つ有り。其の己れを行うや恭、其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義』」
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「罪を犯した罰」などという不正な理由で民を強制的に使役して、
権力者にとってこそ恵みとなる莫大な収益を挙げさせることを義とする旧約や法家の考えも誤りなら、
信者の原罪をイエスが代わりに背負って、使役を強制されなくとも恵みが得られることを義とするキリシタンの考えも誤り。
道義に根ざした労役に民を従事させることで、よく働いてくれたに
相応の恵みを権力者が民に施すことが正義にかなっている。
そもそも「労役が道義にかなっているかどうか」という観点が、聖書信仰や法家には全く抜け落ちていて、
道義にかなわない使役にばかり民を従事させたりすれば、自分たちのほうが権力犯罪者になってしまうことも全く了解していない。
むしろ「働かないことが罪だ」などという間違った思い込みによって、
使役への徴発に応じない人間を罪人や病人扱いしたりする。
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「罪を犯した罰」などという不正な理由で民を強制的に使役して、
権力者にとってこそ恵みとなる莫大な収益を挙げさせることを義とする旧約や法家の考えも誤りなら、
信者の原罪をイエスが代わりに背負って、使役を強制されなくとも恵みが得られることを義とするキリシタンの考えも誤り。
道義に根ざした労役に民を従事させることで、よく働いてくれたに
相応の恵みを権力者が民に施すことが正義にかなっている。
そもそも「労役が道義にかなっているかどうか」という観点が、聖書信仰や法家には全く抜け落ちていて、
道義にかなわない使役にばかり民を従事させたりすれば、自分たちのほうが権力犯罪者になってしまうことも全く了解していない。
むしろ「働かないことが罪だ」などという間違った思い込みによって、
使役への徴発に応じない人間を罪人や病人扱いしたりする。
働かないことは、別に罪ではない。
全く働かないで怠惰を決め込んでいれば、自業自得で野垂れ死にするだけで、それは確かに愚か者ではあるが、罪ではない。
消極的な生活からなる情念の衰微を楽しむのも一つの風流であり、ある程度の範囲に限るんなら、むしろ嗜むべきものですらある。
権力者が「民を養う」と呼ぶに値する状態とは、権力者が道義にかなった使役にのみ民を従事させて、それによって得られた収益で
民に恵みを施すという条件を満たしている状態のことであって、この場合にだけ、権力者はいないよりもいるほうがマシな存在となる。
権力者が道義にもかなわない使役を多く民に強制して、それによって得られた収益のほとんど全てを自分たち権力者だけで独占し、
民にはせいぜい生き延びていられる程度の些少な恵みを施したり施さなかったりするだけというのであれば、それは「民を牧する」
とでも言った状態であり、民の立場からいえば、そんな権力者は百害あって一利もない、いるよりもいなほうがマシな存在である。
民を養うことこそは権力道徳に適う一方で、民を牧することは権力犯罪に相当する。
このうちの、権力道徳をありのままに体系化したのが真正聖書たる四書五経である一方で、
権力犯罪を体系化したのが法家の書「韓非子」であり、さらに正当化や美化を踏まえつつ権力犯罪を
推進していく方法までをも体系化したのが新旧約聖書だといえる。そのため、四書五経の副題は
「権力道徳聖書」とするのが相応しい一方で、新旧約聖書の副題は「権力犯罪聖書」とするのが相応しい。
(「韓非子」は「聖書」と呼ぶに値するほどできた書物でもない)この世の中のあり方としては、
権力道徳聖書たる四書五経の体系を模範として、権力犯罪聖書たる新旧約や「韓非子」の体系を
模範とせず、なるべくその記述に沿わないように心がけていくことが理想である。
理想が現実化できるかどうかはともかくとして、確かにそれが、本物の理想ではある。
全く働かないで怠惰を決め込んでいれば、自業自得で野垂れ死にするだけで、それは確かに愚か者ではあるが、罪ではない。
消極的な生活からなる情念の衰微を楽しむのも一つの風流であり、ある程度の範囲に限るんなら、むしろ嗜むべきものですらある。
権力者が「民を養う」と呼ぶに値する状態とは、権力者が道義にかなった使役にのみ民を従事させて、それによって得られた収益で
民に恵みを施すという条件を満たしている状態のことであって、この場合にだけ、権力者はいないよりもいるほうがマシな存在となる。
権力者が道義にもかなわない使役を多く民に強制して、それによって得られた収益のほとんど全てを自分たち権力者だけで独占し、
民にはせいぜい生き延びていられる程度の些少な恵みを施したり施さなかったりするだけというのであれば、それは「民を牧する」
とでも言った状態であり、民の立場からいえば、そんな権力者は百害あって一利もない、いるよりもいなほうがマシな存在である。
民を養うことこそは権力道徳に適う一方で、民を牧することは権力犯罪に相当する。
このうちの、権力道徳をありのままに体系化したのが真正聖書たる四書五経である一方で、
権力犯罪を体系化したのが法家の書「韓非子」であり、さらに正当化や美化を踏まえつつ権力犯罪を
推進していく方法までをも体系化したのが新旧約聖書だといえる。そのため、四書五経の副題は
「権力道徳聖書」とするのが相応しい一方で、新旧約聖書の副題は「権力犯罪聖書」とするのが相応しい。
(「韓非子」は「聖書」と呼ぶに値するほどできた書物でもない)この世の中のあり方としては、
権力道徳聖書たる四書五経の体系を模範として、権力犯罪聖書たる新旧約や「韓非子」の体系を
模範とせず、なるべくその記述に沿わないように心がけていくことが理想である。
理想が現実化できるかどうかはともかくとして、確かにそれが、本物の理想ではある。
聖者は、何時の時代にも生まれる。
でも、神の物語にはならない。
イエスは生まれ、その人生の全て、言葉の全て、行為の全てが神の物語になった。
蔑まれた女との出会いが、永遠に人々の心を打つ。
迫害者の前に立たされて下役人に殴られ、罵声を浴びせられても、人々の心を動かす。
一つの世界に、一つの時代に、神の物語はただひとつだけ生まれるのだと思う。
神の物語は、他の誰かの助けを必要としないからだ。
神の位のものはそれを知っているので、同じ時代には降りてこないのだと思う。
今は、まだ、イエスの物語の時代のように思う。
でも、神の物語にはならない。
イエスは生まれ、その人生の全て、言葉の全て、行為の全てが神の物語になった。
蔑まれた女との出会いが、永遠に人々の心を打つ。
迫害者の前に立たされて下役人に殴られ、罵声を浴びせられても、人々の心を動かす。
一つの世界に、一つの時代に、神の物語はただひとつだけ生まれるのだと思う。
神の物語は、他の誰かの助けを必要としないからだ。
神の位のものはそれを知っているので、同じ時代には降りてこないのだと思う。
今は、まだ、イエスの物語の時代のように思う。
削除(by投稿者)
新旧約犯罪聖書の邪義に洗脳されたブラックアフリカの飢餓民たちも、
濁愛を正当化推進する犯罪聖書の邪義によってエイズまみれの乱交を繰り返し、
世界人口を等比級数的に肥大化させる温床となっている。
これ以上世界人口が増大することで不幸になる人間こそあれど、
幸福になる人間など一人もいない。
つまり、これからも新旧約犯罪聖書を信仰し続けることで
幸福になる人間は、この世界に一人もいない。
濁愛を正当化推進する犯罪聖書の邪義によってエイズまみれの乱交を繰り返し、
世界人口を等比級数的に肥大化させる温床となっている。
これ以上世界人口が増大することで不幸になる人間こそあれど、
幸福になる人間など一人もいない。
つまり、これからも新旧約犯罪聖書を信仰し続けることで
幸福になる人間は、この世界に一人もいない。

これまた質でも量でも古さでも新旧約聖書を上回る、四書五経並みかそれ以上もの権威を備えた聖書だといえる。
しかし、ヴェーダは祭司階級たるバラモンが口伝で継承していくことのみが正統とされ、
文書に起こされた時点ですでにその権威にほころびが生じるとすらされる。
「書」という媒体に情報伝達を頼るのは、それ自体が卑俗的なことであり、
世俗か超俗かで言えば世俗において用いることを念頭に置かれるもの。新旧約聖書にも
「俗世での権力犯罪の正当化と推進」という明確な目的が備わっていて、それでいて「神」とされている
ものを取り扱っている。その心は、権力犯罪の推進を神がかりに見立てて正当化するということであり、
「神の物語の悪用」でしかないために、神の物語としてですら異端である上に、虚構なのである。
俗世での情報伝達を目的とした文書としての聖書が、権力犯罪に悪用するために
神の物語を引き合いに出したりすることがすでに悪質なことで、そういった小細工を一切排して、
実質社会の問題の論及に徹していることもまた、四書五経こそが聖書中の聖書たる所以でもあるといえる。
「父命じて呼ぶときは、唯して諾せず、手に業を執るときは
則ち之れを投ぐ、食の口に在るときは則ち之れを吐く、走りて趨らず」
「父が命じて呼ぶときには、恭しくして驕慢にならず、何かやっている業があったらただちに投げ捨て、
口に食べ物を含んでいればこれを吐き、大股にならないよう小走りで急いで父の元に赴く。
(イエスの言行にはこういった実父との関係ならではの実質性が全く垣間見られない。
脳内で捏造した父の教えに基づく業など、実の父が呼ぶときには直ちに投げ捨てねばならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
削除(by投稿者)

エホバやイエスは東洋でいう天界に属さない。「地獄界」や「鬼畜界」に
属する邪神であり、東洋人が伝統的にそれを神として扱ってきた事実すらない。
聖書圏でいう「神」は、東洋でいう「鬼畜」であり、
鬼畜が神のフリをした邪神であるのみ。だからそれを神と見なすことからして、
今までの東洋での「神」という定義を毀損する暴行となり、それもまた一つの罪となる。
東洋の神と聖書圏の邪神を比較するのなら、「エホバやキリストは本質的には鬼畜であり、
神ですらない」という大前提の下に、東洋の神とも比較しなければ色々と辻褄が合わなくなる。
それ以前に、鬼畜は妖怪などと同等のものとして扱うべきものであり、神と同等のものとして
比較しようとしたりすることからしてすでに失礼なこと。失礼なことだから、そりゃあ罰も当たる。
イエス自身が十字架にかけられるだけでなく、イエスを信じるような鬼畜神倒錯者もまた罰が当たる。
「君、弁言を以って旧政を乱す罔く、臣、寵利を以って成功に居る罔くんば、邦、其れ永く休に孚せん」
「主君が罪人の弁護などを聞き入れて旧来の政治を乱したりすることがなく、臣下が主君からの
寵愛や利権にかられて成功を得たりすることがなければ、邦家も恒久に渡って安泰でありましょう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)
権力道徳社会には、裁判というものはない。裁判官即ち検察官であり、罪を糾弾するものが直ちに
罰を科し、罪人やその弁護者の言い分を聞き入れたりすることもない。それでいて罪人に罰を科す
法官自身もまた非常に低い身分に置かれ、裁きが不正であるような場合には、本人自身にも厳しい
制裁が加えられる。官吏同士での上下関係が厳格化される、封建社会ならではのシステムだといえる。
法官やその上に立つ官吏たち自身が、一人一人で独立して民の裁判官であり、検察官であり、弁護士でもある。
民を庇護したり罰したりすることにかけて一人一人が全身全霊をかけて、姑息な分業なども踏まえない。
確かにそれは今の官公庁に勤めている法官やその他公務員にはできないことかも知れないが、かといって
稀代の大聖人でもなければ絶対に務まらないことでもない。儒学に代表される権力道徳の学問を
よく学んで、半ば杓子定規気味にでもその実践に務めたならば、聖人や賢人とまではいかない、
ただの善い人程度であっても、徳治社会の君子の末席に加えられる程度のことは可能になる。
では、その善人が今の世にも十分な数存在しているかどうかといえば、当然存在しているといえる。
相当に大きな綻びを来たしつつも、世の中の大部分が未だに保たれているのがその証拠。
我田引水ばかりに奔走し続ける悪人どもよりも十分に多くの数の善人がこの世の中にいるから、
悪人の我田引水を許容しながらも、未だこの世が保たれている。問題なのは、我田引水の特権を得ているような
悪人こそは、今の権力機構に深く取り入っている場合が多いことで、善人に世の中の統治を任せるためには、
いま権力機構に群がっている悪人をまず退場させなければならない。最悪の場合、流血革命にすら
なりかねないその際どい一線を乗り越えて、その先に平穏な時代へと着地できるかどうかが鍵だといえる。
「主君が罪人の弁護などを聞き入れて旧来の政治を乱したりすることがなく、臣下が主君からの
寵愛や利権にかられて成功を得たりすることがなければ、邦家も恒久に渡って安泰でありましょう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)
権力道徳社会には、裁判というものはない。裁判官即ち検察官であり、罪を糾弾するものが直ちに
罰を科し、罪人やその弁護者の言い分を聞き入れたりすることもない。それでいて罪人に罰を科す
法官自身もまた非常に低い身分に置かれ、裁きが不正であるような場合には、本人自身にも厳しい
制裁が加えられる。官吏同士での上下関係が厳格化される、封建社会ならではのシステムだといえる。
法官やその上に立つ官吏たち自身が、一人一人で独立して民の裁判官であり、検察官であり、弁護士でもある。
民を庇護したり罰したりすることにかけて一人一人が全身全霊をかけて、姑息な分業なども踏まえない。
確かにそれは今の官公庁に勤めている法官やその他公務員にはできないことかも知れないが、かといって
稀代の大聖人でもなければ絶対に務まらないことでもない。儒学に代表される権力道徳の学問を
よく学んで、半ば杓子定規気味にでもその実践に務めたならば、聖人や賢人とまではいかない、
ただの善い人程度であっても、徳治社会の君子の末席に加えられる程度のことは可能になる。
では、その善人が今の世にも十分な数存在しているかどうかといえば、当然存在しているといえる。
相当に大きな綻びを来たしつつも、世の中の大部分が未だに保たれているのがその証拠。
我田引水ばかりに奔走し続ける悪人どもよりも十分に多くの数の善人がこの世の中にいるから、
悪人の我田引水を許容しながらも、未だこの世が保たれている。問題なのは、我田引水の特権を得ているような
悪人こそは、今の権力機構に深く取り入っている場合が多いことで、善人に世の中の統治を任せるためには、
いま権力機構に群がっている悪人をまず退場させなければならない。最悪の場合、流血革命にすら
なりかねないその際どい一線を乗り越えて、その先に平穏な時代へと着地できるかどうかが鍵だといえる。
最後の審判自体は実際にあるとして、その審判で聖書信仰は敗北する。
敗北するから、新旧約聖書に書かれているような形での終末はやってこない。
終末思想自体がアブラハム教の所産なので、聖書信仰と比べての勝者となる
イスラムの聖典でるコーランの記述に即した終末が来るのかといえば、
確かにコーラン中の寓意に根ざした終末がやってくるとはいえる。
アブラハム教は全て啓示宗教であり、現実をありのままに把捉した教義は
持たないので、やはりコーランの記述ありのままの終末がやって来るともいえない。
ほぼありのままの終末を記録しているのが、非アブラハム教の聖書である四書五経。
最後の審判の敗者である聖書信仰の対象である新旧約聖書と真逆の記述で構成され、
なおかつ啓示宗教に特有の遠まわしな記述などを一切排した、諸法実相の記録となっている。
そのため終末の描写としては、イスラムのコーラン以上にも実際に忠実なものとなっている。
アブラハム教信仰の終末を最も忠実に記録していたのが四書五経で、実際的ではないが
遠まわしの寓意としては間違っていなかったのがコーランで、実質に忠実なわけでも
なければ、寓意としても間違い通しだったのが新旧約聖書である。実際としては
四書五経よりも不正確で、寓意としてもコーランより不正確な新旧約聖書は、
アブラハム信仰の終末から最もかけ離れた終末の予言だけをしているといえる。
親子兄弟の殺し合いまで予言している、その記述が全く以って叶えられないのは、
すでに相当にシラフに返っている聖書圏の人間としても、安堵することなんじゃないか。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ」
「常日ごろからまだ分からないことを知ろうとし、覚えたことも忘れないでいようとする、
学問を好む姿だといえる。(聖書信者は勉強嫌いで、平常は聖書の記述すら忘れ去っている。
蒙昧で何の役にも立たないクセに無駄に冗長な犯罪聖書の記述は、確かに学問嫌いも誘発する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五より)
敗北するから、新旧約聖書に書かれているような形での終末はやってこない。
終末思想自体がアブラハム教の所産なので、聖書信仰と比べての勝者となる
イスラムの聖典でるコーランの記述に即した終末が来るのかといえば、
確かにコーラン中の寓意に根ざした終末がやってくるとはいえる。
アブラハム教は全て啓示宗教であり、現実をありのままに把捉した教義は
持たないので、やはりコーランの記述ありのままの終末がやって来るともいえない。
ほぼありのままの終末を記録しているのが、非アブラハム教の聖書である四書五経。
最後の審判の敗者である聖書信仰の対象である新旧約聖書と真逆の記述で構成され、
なおかつ啓示宗教に特有の遠まわしな記述などを一切排した、諸法実相の記録となっている。
そのため終末の描写としては、イスラムのコーラン以上にも実際に忠実なものとなっている。
アブラハム教信仰の終末を最も忠実に記録していたのが四書五経で、実際的ではないが
遠まわしの寓意としては間違っていなかったのがコーランで、実質に忠実なわけでも
なければ、寓意としても間違い通しだったのが新旧約聖書である。実際としては
四書五経よりも不正確で、寓意としてもコーランより不正確な新旧約聖書は、
アブラハム信仰の終末から最もかけ離れた終末の予言だけをしているといえる。
親子兄弟の殺し合いまで予言している、その記述が全く以って叶えられないのは、
すでに相当にシラフに返っている聖書圏の人間としても、安堵することなんじゃないか。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ」
「常日ごろからまだ分からないことを知ろうとし、覚えたことも忘れないでいようとする、
学問を好む姿だといえる。(聖書信者は勉強嫌いで、平常は聖書の記述すら忘れ去っている。
蒙昧で何の役にも立たないクセに無駄に冗長な犯罪聖書の記述は、確かに学問嫌いも誘発する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五より)
「妾腹の私生児」というイエスの置かれた境遇は、そのあまりの不遇さゆえに
自暴自棄のキチ○イとなったり、逆に不遇を乗り越えた場合における未曾有の
大成を呼び込んだりの、非常にクリティカルな動向を本人に与えることが明らかとなっている。
イエスは前者の自暴自棄のキ○ガイとなり、後者の不遇をバネにした大成者にはなれなかった。
ほぼイエスと同等の不遇に置かれながら、その不遇をバネにして聖人君子として大成したのが孔子であり、
孔子とイエスとが、「妾腹の私生児」としての成功例と失敗例の両極に当たるといえる。
ただ「妾腹の私生児」という境遇は、本人が望んだからといって得られるものでもなければ、
また欲して得るべきほどろくなものでもない。人間が置かれる先天的な境遇のうちでも、最も不遇な部類の
境遇であって、始めからないに越したことはない。ただ、その不遇をバネにした大成を、親がわが子に目指させる
というのなら、イエスのような失敗作として、わが子が大きな過ちを犯したりしないように万全の注意を払わなければならない。
自暴自棄のキチ○イとなったり、逆に不遇を乗り越えた場合における未曾有の
大成を呼び込んだりの、非常にクリティカルな動向を本人に与えることが明らかとなっている。
イエスは前者の自暴自棄のキ○ガイとなり、後者の不遇をバネにした大成者にはなれなかった。
ほぼイエスと同等の不遇に置かれながら、その不遇をバネにして聖人君子として大成したのが孔子であり、
孔子とイエスとが、「妾腹の私生児」としての成功例と失敗例の両極に当たるといえる。
ただ「妾腹の私生児」という境遇は、本人が望んだからといって得られるものでもなければ、
また欲して得るべきほどろくなものでもない。人間が置かれる先天的な境遇のうちでも、最も不遇な部類の
境遇であって、始めからないに越したことはない。ただ、その不遇をバネにした大成を、親がわが子に目指させる
というのなら、イエスのような失敗作として、わが子が大きな過ちを犯したりしないように万全の注意を払わなければならない。
江戸時代、将軍家や大名家の庶子が、産まれた瞬間から寺に預けられて、親との関係を断たれる風習があった。
これも孔子のような不遇をバネにした大成を目指させるためであって、もしも大成できたならば、
出来の悪い嫡子に代わって家督を相続したり、分家として興隆したり、良家に婿入りしたりすることが認められて
いた一方で、試みに失敗した場合には、そのまま出家して坊主となり、一生家庭を持たずに過ごしたりしていた。
もちろん失敗したから坊主になるとも限らないが、失敗してなお市井に飛び出て、
イエスのような妄言妄動を垂れ流して世を乱すようなことだけは、未然に封じ込められていた。
自分が妾腹の私生児という境遇に産まれたとしても、イエスのような自暴自棄にはならず、
孔子のような君子としての大成を目指すべきであるし、仮に自分が妾腹の私生児を作ってしまったとしても、
上記の将軍や大名のような、庶子に対するなりの扱いを自分が親として施すべきである。
自分がそうなのであれ、我が子がそうなのであれ、妾腹の私生児がイエスになってしまうことを弁護する余地はないのである。
「争いを分かち訴えを弁ずるも、礼に非ざれば決せず」
「訴訟ごとを弁別したところで、やり方が礼に適っていないのなら、何も裁決できはしない。
(裁決権を持つ高官への畏敬がないのなら、敗訴したものは結局は不平を残したままとなる。
絶対神の使いが自分たちの弁護者になると信じ込んでいる聖書信者のものの考え方では、
自分たちの敗訴に対して不平を持たずに済む場合があり得ない。聖書信仰の敗北が完全に
決定している以上、自分たちの弁護者が神の使いであるという幻想から棄て去るのでなければ、
必ず後々まで、醜くて理にかなわない不平を元聖書信者が持ち続けることになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
これも孔子のような不遇をバネにした大成を目指させるためであって、もしも大成できたならば、
出来の悪い嫡子に代わって家督を相続したり、分家として興隆したり、良家に婿入りしたりすることが認められて
いた一方で、試みに失敗した場合には、そのまま出家して坊主となり、一生家庭を持たずに過ごしたりしていた。
もちろん失敗したから坊主になるとも限らないが、失敗してなお市井に飛び出て、
イエスのような妄言妄動を垂れ流して世を乱すようなことだけは、未然に封じ込められていた。
自分が妾腹の私生児という境遇に産まれたとしても、イエスのような自暴自棄にはならず、
孔子のような君子としての大成を目指すべきであるし、仮に自分が妾腹の私生児を作ってしまったとしても、
上記の将軍や大名のような、庶子に対するなりの扱いを自分が親として施すべきである。
自分がそうなのであれ、我が子がそうなのであれ、妾腹の私生児がイエスになってしまうことを弁護する余地はないのである。
「争いを分かち訴えを弁ずるも、礼に非ざれば決せず」
「訴訟ごとを弁別したところで、やり方が礼に適っていないのなら、何も裁決できはしない。
(裁決権を持つ高官への畏敬がないのなら、敗訴したものは結局は不平を残したままとなる。
絶対神の使いが自分たちの弁護者になると信じ込んでいる聖書信者のものの考え方では、
自分たちの敗訴に対して不平を持たずに済む場合があり得ない。聖書信仰の敗北が完全に
決定している以上、自分たちの弁護者が神の使いであるという幻想から棄て去るのでなければ、
必ず後々まで、醜くて理にかなわない不平を元聖書信者が持ち続けることになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
聖書の信仰は便秘の苦痛に似、
儒学の勉強は排便の快感に似る。
儒学の勉強は排便の快感に似る。
聖書信仰に没頭してきた人間は、あらゆる人間のうちでも最も悟りから遠のいている。
濁念にまみれて己が理性の在り処すらも見失い、極端な蒙昧状態でいるか、
さもなくば蒙昧を埋め合わせる目的での高度累犯障害状態でいる。
密教者のように濁悪を超克するだけの精進修行を共にこなしてきたわけでもなく、
ただただ濁悪にまみれることばかりに没頭し続けて来ただけであるために、
今から濁悪を乗り越えるためには、ただの凡人以上にも極重の更生をこなす必要がある。
「観無量寿経」にあるような、品性の格付けに基づく救済の難易を、
聖書信仰者や洋学者でも字面だけで理解することはできる。しかし、自分たちが
実際問題、下品下生の最低劣の徒であって、救済に至るためには長久の苦労と年月とを
要することを明らかに悟ることまではできない。それを悟ることができないからこそ、
永劫の年月にわたる苦労をこれから積み重ねていかなければならないのであって、
安易な救済を追い求めて来たに相応の対価を、これから支払わされ続けることになる。
自力作善の勧善懲悪に務めてきた人間こそは時系列上で先に救われ、
他力本願の悪逆非道に奔ってきた人間こそはずっと後に救われる。
親鸞聖人も悪人正機で、「悪人は善人よりも先に救われる」とは言っておらず、
「悪人こそは善人以上にも阿弥陀様によって救われることが確かである」とのみ言っている。
一切衆生の救済を企図する阿弥陀様にとっての最大の腕の見せ所は、最悪の悪人の救済だから、
悪人こそは救われることが確実だといっている。そう解釈しないのであれば、九品九生の
格付けに基づく救済の難易を明記した「観無量寿経」までをも、浄土真宗が根本聖典に
掲げていることにも筋が通らなくなる。(ただし真宗の最高聖典は「大無量寿経」)
濁念にまみれて己が理性の在り処すらも見失い、極端な蒙昧状態でいるか、
さもなくば蒙昧を埋め合わせる目的での高度累犯障害状態でいる。
密教者のように濁悪を超克するだけの精進修行を共にこなしてきたわけでもなく、
ただただ濁悪にまみれることばかりに没頭し続けて来ただけであるために、
今から濁悪を乗り越えるためには、ただの凡人以上にも極重の更生をこなす必要がある。
「観無量寿経」にあるような、品性の格付けに基づく救済の難易を、
聖書信仰者や洋学者でも字面だけで理解することはできる。しかし、自分たちが
実際問題、下品下生の最低劣の徒であって、救済に至るためには長久の苦労と年月とを
要することを明らかに悟ることまではできない。それを悟ることができないからこそ、
永劫の年月にわたる苦労をこれから積み重ねていかなければならないのであって、
安易な救済を追い求めて来たに相応の対価を、これから支払わされ続けることになる。
自力作善の勧善懲悪に務めてきた人間こそは時系列上で先に救われ、
他力本願の悪逆非道に奔ってきた人間こそはずっと後に救われる。
親鸞聖人も悪人正機で、「悪人は善人よりも先に救われる」とは言っておらず、
「悪人こそは善人以上にも阿弥陀様によって救われることが確かである」とのみ言っている。
一切衆生の救済を企図する阿弥陀様にとっての最大の腕の見せ所は、最悪の悪人の救済だから、
悪人こそは救われることが確実だといっている。そう解釈しないのであれば、九品九生の
格付けに基づく救済の難易を明記した「観無量寿経」までをも、浄土真宗が根本聖典に
掲げていることにも筋が通らなくなる。(ただし真宗の最高聖典は「大無量寿経」)
以上の、何度も同じようなことを述べてきた記述を、やはり聖書信者や洋学者も字面で
理解することだけはできる。しかし、その含意を心からありのままに悟って、
何の不平もなく地獄での贖罪に従事していくことまではできない。大きな不平を抱きつつも、
地獄の閻羅人に「貴様の自業自得じゃー」と怒鳴りつけられながら、極重の苦しみに
あえぎ続けることもまた、地獄の苦しみの一環であるから、何とか事前に悟りを得ておいて、
納得づくでの贖罪に取り組もうとすることもまた、徒労にのみ終始することだ。
決して「絶対に救われない」などということまではないが、多くの大切なものを
蔑ろにしてまで、瑣末な罪業に没頭して来たことの代償は計り知れないほどに大きい。
むしろ「救いもまたあり得る」という事実が露呈されてしまったことによって、
「悪逆非道の苦しみに没頭するしか途はない」と思い込んでいた頃にはなかった
救いへの希望が生じてしまったが故に、長大な苦労を通じてまでの真の救いを求めざるを
得なくなってしまったことこそは、完全誤謬信仰者なぞにとっての悲劇かもしれない。
「哀公曰く、敢えて儒行を問う。孔子對えて曰く、遽わかに之れを数えば、其の物を
終す能わず。悉く之れを数えば、乃ち留しくして、僕を更ふるも未だ終くす可からざるなり」
「哀公が孔子に言った。『一つ、儒者のあり方を教えてはくれまいか』 孔子は答えて言った。
『いま俄かに数えてみましても、ことごとくその全てを数え尽くすことはできません。ぜんぶ数えて
みましたなら、公の御付を無数に交代させるほどの時間をかけても説明を尽くせそうにありません』
(この後儒者のあり方が数十件ほど述べられる。儒者のあり方を聖書信者がことごとく学んで、
ことごとくそれに倣って自らを矯正するだけでも、恒久に渡る努力が必要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
理解することだけはできる。しかし、その含意を心からありのままに悟って、
何の不平もなく地獄での贖罪に従事していくことまではできない。大きな不平を抱きつつも、
地獄の閻羅人に「貴様の自業自得じゃー」と怒鳴りつけられながら、極重の苦しみに
あえぎ続けることもまた、地獄の苦しみの一環であるから、何とか事前に悟りを得ておいて、
納得づくでの贖罪に取り組もうとすることもまた、徒労にのみ終始することだ。
決して「絶対に救われない」などということまではないが、多くの大切なものを
蔑ろにしてまで、瑣末な罪業に没頭して来たことの代償は計り知れないほどに大きい。
むしろ「救いもまたあり得る」という事実が露呈されてしまったことによって、
「悪逆非道の苦しみに没頭するしか途はない」と思い込んでいた頃にはなかった
救いへの希望が生じてしまったが故に、長大な苦労を通じてまでの真の救いを求めざるを
得なくなってしまったことこそは、完全誤謬信仰者なぞにとっての悲劇かもしれない。
「哀公曰く、敢えて儒行を問う。孔子對えて曰く、遽わかに之れを数えば、其の物を
終す能わず。悉く之れを数えば、乃ち留しくして、僕を更ふるも未だ終くす可からざるなり」
「哀公が孔子に言った。『一つ、儒者のあり方を教えてはくれまいか』 孔子は答えて言った。
『いま俄かに数えてみましても、ことごとくその全てを数え尽くすことはできません。ぜんぶ数えて
みましたなら、公の御付を無数に交代させるほどの時間をかけても説明を尽くせそうにありません』
(この後儒者のあり方が数十件ほど述べられる。儒者のあり方を聖書信者がことごとく学んで、
ことごとくそれに倣って自らを矯正するだけでも、恒久に渡る努力が必要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
犯罪聖書の神への懇願によって破滅へと陥ったものが、
犯罪聖書の神への懇願によって救済されるなどということも、もちろんない。
救われるとしても、それは阿弥陀仏のような正しい信仰対象に救いを懇願した場合。
一切衆生の救済を企図はするものの、犯罪者を道徳者よりも優先して救うような偽りの
救済を企図したりはしない、正統な神仏。犯罪者を優先して救済してきた邪神こそは
犯罪聖書の神であり、我田引水本位の犯罪者なぞを優先して救済してきたことの限界が
来たために、今まで見逃して来た犯罪者を悉く重罰にかけなければならなくなった、その無様さ。
救いにも、正しい救いと邪まな救いがあり、正しい救いこそは代償抜きの本物の救いで
ある一方で、邪まな救いは一時だけ救ってやったような体裁をもたらしてくれたところで、
必ず後々にはそれ以上もの代価を支払わされることになる。速やかに自首してきた逃亡犯
よりも、何年も潜伏生活を続けた挙句に捜査で捕まったような逃亡犯のほうが罪が重く
なるように、邪まな救いを受けてきたぶんだけ、より重い罰を受けることにもなる。
犯罪聖書の神への懇願によって救済されるなどということも、もちろんない。
救われるとしても、それは阿弥陀仏のような正しい信仰対象に救いを懇願した場合。
一切衆生の救済を企図はするものの、犯罪者を道徳者よりも優先して救うような偽りの
救済を企図したりはしない、正統な神仏。犯罪者を優先して救済してきた邪神こそは
犯罪聖書の神であり、我田引水本位の犯罪者なぞを優先して救済してきたことの限界が
来たために、今まで見逃して来た犯罪者を悉く重罰にかけなければならなくなった、その無様さ。
救いにも、正しい救いと邪まな救いがあり、正しい救いこそは代償抜きの本物の救いで
ある一方で、邪まな救いは一時だけ救ってやったような体裁をもたらしてくれたところで、
必ず後々にはそれ以上もの代価を支払わされることになる。速やかに自首してきた逃亡犯
よりも、何年も潜伏生活を続けた挙句に捜査で捕まったような逃亡犯のほうが罪が重く
なるように、邪まな救いを受けてきたぶんだけ、より重い罰を受けることにもなる。
それでも最後に救われることは、一応ある。邪まな神への邪まな救いを乞い願うことを辞めて、
正統な神仏への真の救いを乞い願い始めたときが、その救いに向けた試練の始まり。
元邪教信仰者にとっては最大の破滅のときでもある一方で、真の救いに寸分ながらでも
初めて近づき始めるとき。今まで遠ざかりこそすれど、寸分も近づきはしていなかったのが、
遠ざからずに近づき始めるとき。禍いが転じて福となり始めるときであり、故にこそ
禍いを肥大化させ続けてきた邪教信仰者にとっての、最大の破滅のときともなるのである。
「(赤曰く、)之れを能くす曰うに非ず、願わくば学ばん。宗廟の事、如しくは会同に端章甫して、
願わくば小相為らん。(略。子曰く)赤や之れの小相たらば、孰れが能く之れが大相為らん」
「弟子の公西華が孔子に願い事を聞かれて言った。『決して今の自分にうまく務まると
いうのではありませんが、願わくばよく勉学に務めて、宗廟での祭事や諸侯の会合に礼服を着て
参列できるぐらいの小臣になりたいものです』 先生は言われた。『公西華が小臣を務める
というのであれば、誰に大臣になるほどの資格があろうか』(公西華が願い事を答える段に
おいてですら、自助努力による小臣への仕官を答えた、その恭しさを孔子も称賛している。
その恭しさこそは確かに、大臣にまで上り詰められるほどの素養の現われなのでもある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二六)
正統な神仏への真の救いを乞い願い始めたときが、その救いに向けた試練の始まり。
元邪教信仰者にとっては最大の破滅のときでもある一方で、真の救いに寸分ながらでも
初めて近づき始めるとき。今まで遠ざかりこそすれど、寸分も近づきはしていなかったのが、
遠ざからずに近づき始めるとき。禍いが転じて福となり始めるときであり、故にこそ
禍いを肥大化させ続けてきた邪教信仰者にとっての、最大の破滅のときともなるのである。
「(赤曰く、)之れを能くす曰うに非ず、願わくば学ばん。宗廟の事、如しくは会同に端章甫して、
願わくば小相為らん。(略。子曰く)赤や之れの小相たらば、孰れが能く之れが大相為らん」
「弟子の公西華が孔子に願い事を聞かれて言った。『決して今の自分にうまく務まると
いうのではありませんが、願わくばよく勉学に務めて、宗廟での祭事や諸侯の会合に礼服を着て
参列できるぐらいの小臣になりたいものです』 先生は言われた。『公西華が小臣を務める
というのであれば、誰に大臣になるほどの資格があろうか』(公西華が願い事を答える段に
おいてですら、自助努力による小臣への仕官を答えた、その恭しさを孔子も称賛している。
その恭しさこそは確かに、大臣にまで上り詰められるほどの素養の現われなのでもある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二六)
ある女を男が愛したとして、その女の親に男が
「お嬢さんを私にください」などと、結婚嘆願しに行ったとする。
親が厳格で娘も大事にしていれば、男の賢愚や甲斐性の有無を精査して、
眼鏡にかなえば結婚を許可する一方、かなわなければ拒絶もする。
逆に親からしてチャランポランで、娘のことなどもどうでもいいと
思っていれば、その場で考えもなく結婚OKということになる。
「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」とイエスは断言している。
本当にその通りであるのなら、イエスの親はチャランポランで、
イエスのことなんかどうでもいいと思っていたのが、上記の例からも明らか。
しかし、実際上、イエスは妾腹の私生児であり、母親の身元しか本人も
分からないわけだから、イエスの実父がイエスをどう思っていたかも分からない。
娼婦を孕ませるぐらいに遊び好きだったことは確かだが、思わずマリアに
身ごもらせてしまったイエスを、本当にどうでもいいと思っていたか、
本当は大事にしたいが、已む無く見捨ててしまったかということは定かでない。
結局、イエスは自分自身で、「俺の親父はどうしようもないロクデナシで、
俺のことなんかどうでもいいと思っていたんだ」と決め付けて、
その決め付けに基づいて、「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」
などという自暴自棄の暴言にも及んだのだといえる。
一つ一つの発言の中に、ただ「親のせい」にばかりすることはできない、
イエス本人の自主性からなる、品性の下劣さの確かな証拠が遺されている。
「婦人は飾らざれば、舅姑に敢えて見えず」
「夫人はよく自らを飾り立ててからでないと、夫の父母に会わない。
(舅姑の機嫌を害さぬよう夫人も気を遣う。自分が夫を愛したからといって、
それが夫の父母もまた自分を愛してくれる理由になどなるはずもないから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「お嬢さんを私にください」などと、結婚嘆願しに行ったとする。
親が厳格で娘も大事にしていれば、男の賢愚や甲斐性の有無を精査して、
眼鏡にかなえば結婚を許可する一方、かなわなければ拒絶もする。
逆に親からしてチャランポランで、娘のことなどもどうでもいいと
思っていれば、その場で考えもなく結婚OKということになる。
「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」とイエスは断言している。
本当にその通りであるのなら、イエスの親はチャランポランで、
イエスのことなんかどうでもいいと思っていたのが、上記の例からも明らか。
しかし、実際上、イエスは妾腹の私生児であり、母親の身元しか本人も
分からないわけだから、イエスの実父がイエスをどう思っていたかも分からない。
娼婦を孕ませるぐらいに遊び好きだったことは確かだが、思わずマリアに
身ごもらせてしまったイエスを、本当にどうでもいいと思っていたか、
本当は大事にしたいが、已む無く見捨ててしまったかということは定かでない。
結局、イエスは自分自身で、「俺の親父はどうしようもないロクデナシで、
俺のことなんかどうでもいいと思っていたんだ」と決め付けて、
その決め付けに基づいて、「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」
などという自暴自棄の暴言にも及んだのだといえる。
一つ一つの発言の中に、ただ「親のせい」にばかりすることはできない、
イエス本人の自主性からなる、品性の下劣さの確かな証拠が遺されている。
「婦人は飾らざれば、舅姑に敢えて見えず」
「夫人はよく自らを飾り立ててからでないと、夫の父母に会わない。
(舅姑の機嫌を害さぬよう夫人も気を遣う。自分が夫を愛したからといって、
それが夫の父母もまた自分を愛してくれる理由になどなるはずもないから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
欧米聖書圏の過度な物質的繁栄は、非聖書圏やブラックアフリカの聖書圏の困窮と表裏一体の関係にある。
中東やアフリカやインドから多大な資源を巻き上げ、10億人やそこらの欧米人だけで八割以上の地球資源を
独占することで、初めて欧米内の統治支配も成立している。欧米の聖書信仰者の豚のような貪欲さを
できる限り満たしながらの統治支配を欧米の権力者が試みたために、10億人の餓死者や数十億人の貧窮者を
外界にもたらし、多大な苦悩を科せられたことからなる無軌道な乱交が破滅級の人口爆発をも生じさせている。
端的にいって、聖書信仰で世界は支配できない。強権を振りかざした悪辣な手法であっても支配できるのなら
まだしも、そもそも聖書信仰では原理的に全世界を支配することができない。貪欲や嫉妬や怠惰といった
人間の悪念を自然状態以上の過度に増幅させて、蒙昧な累犯障害者へと信者を化せしめるのが聖書信仰だから、
聖書信仰で世界を支配できる割合はせいぜい10%やそこら。10%の重度累犯障害の聖書信者を養うために
残りの90%の人々が、貧困や飢餓や戦乱や重労働といった多大なる苦難を科せられる。しかもその苦難が
耐え難く偲び難いものだから、苦悩を紛らわすための無軌道な乱交が、必然的に人口爆発や環境破壊といった
破滅級の問題をも蔓延させ始める。聖書信仰が10%の世界を十分に支配していられるような体裁を取れるのも、
ほんの一時の間だけ。ほんの一時の虚栄の後には、もう度を越した乱痴気騒ぎの後始末に移らなければならない。
中東やアフリカやインドから多大な資源を巻き上げ、10億人やそこらの欧米人だけで八割以上の地球資源を
独占することで、初めて欧米内の統治支配も成立している。欧米の聖書信仰者の豚のような貪欲さを
できる限り満たしながらの統治支配を欧米の権力者が試みたために、10億人の餓死者や数十億人の貧窮者を
外界にもたらし、多大な苦悩を科せられたことからなる無軌道な乱交が破滅級の人口爆発をも生じさせている。
端的にいって、聖書信仰で世界は支配できない。強権を振りかざした悪辣な手法であっても支配できるのなら
まだしも、そもそも聖書信仰では原理的に全世界を支配することができない。貪欲や嫉妬や怠惰といった
人間の悪念を自然状態以上の過度に増幅させて、蒙昧な累犯障害者へと信者を化せしめるのが聖書信仰だから、
聖書信仰で世界を支配できる割合はせいぜい10%やそこら。10%の重度累犯障害の聖書信者を養うために
残りの90%の人々が、貧困や飢餓や戦乱や重労働といった多大なる苦難を科せられる。しかもその苦難が
耐え難く偲び難いものだから、苦悩を紛らわすための無軌道な乱交が、必然的に人口爆発や環境破壊といった
破滅級の問題をも蔓延させ始める。聖書信仰が10%の世界を十分に支配していられるような体裁を取れるのも、
ほんの一時の間だけ。ほんの一時の虚栄の後には、もう度を越した乱痴気騒ぎの後始末に移らなければならない。
聖書信仰は、全人類を恒久的に支配する政治理念としての条件を満たしていない。儒学による世俗支配もまた、
完全な泰平状態での統治は数百年程度で一旦は寿命が尽きるが、天下全土を相当な長期に渡って統治支配する
政治理念としての条件は満たしている。翻って、聖書信仰は全世界を支配することも、長期に渡って一部の世界を
支配することも原理的にできないようになっている。万年泰平状態を確立するインド宗教ほどもの絶対性は儒学も
備えていないにしろ、一部の世界を短期的にしか支配できない聖書信仰よりはまだマシな性能を備えているといえる。
「四海困窮せば、天禄永く終えん」
「四海の人々を困窮させるような失政を犯したならば、天からの恵みも永遠に尽きることだろう。
(世界中の人々を困窮に陥らせた聖書信仰が、天命を振りかざした権威をうそぶくことはもう永遠にできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)
完全な泰平状態での統治は数百年程度で一旦は寿命が尽きるが、天下全土を相当な長期に渡って統治支配する
政治理念としての条件は満たしている。翻って、聖書信仰は全世界を支配することも、長期に渡って一部の世界を
支配することも原理的にできないようになっている。万年泰平状態を確立するインド宗教ほどもの絶対性は儒学も
備えていないにしろ、一部の世界を短期的にしか支配できない聖書信仰よりはまだマシな性能を備えているといえる。
「四海困窮せば、天禄永く終えん」
「四海の人々を困窮させるような失政を犯したならば、天からの恵みも永遠に尽きることだろう。
(世界中の人々を困窮に陥らせた聖書信仰が、天命を振りかざした権威をうそぶくことはもう永遠にできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)
実父の身元も知れず、母親も頭のいかれた娼婦で、義父もパッとしない建設作業員だったイエスが、
何とか自分で空想上の父君像を構築しようとしている姿は、確かに非常な悲哀を帯びている。
しかし、その悲哀は決して自力で乗り越えられないものではなかった。イエスとほぼ同じ
妾腹の私生児という境遇に生まれながら(ただし母子家庭)、親戚に父親の身元を聞き出して
墓参りも果たした孔子がそれであり、そこには不遇にかられた悲哀などは少しも見られない。
同じように、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で描かれている父親殺しの描写なども、
確かに相当な狂気を帯びていて、件の罪で逮捕されたドミトリー・カラマーゾフを弁護士は
「精神の姦通者(サイコパス)」と呼び、その精神疾患としての真性さを理由とした放免を
主張してもいる。しかし、日本の平安末期に、保元の乱で敗軍の将となった源為義を、
その長男である源義朝が斬首の刑に処しても居り、さらにその息子である源頼朝や義経が、
父親の父親殺しという狂気を帯びた屈辱を晴らす目的で平氏を打倒し、鎌倉幕府をも開いている。
西洋文学史上でも最大級の悲哀を帯びている妾腹の私生児イエスの言行や、最大級の狂気を帯びている
カラマーゾフの兄弟による父親殺しなども、それと同等の物語構造を乗り越える形での大成を、東洋史上に
実在する孔子や河内源氏が、イエスやカラマーゾフの物語が創作されるよりも遥か以前に果たしている。
甚大な悲哀や狂気の情感にかられて、蒙昧な白痴と化したり、サイコパスと化したりすることは、
確かにそれと同等の悲哀や狂気を乗り越えた所にある、大人としての大成によってこそ防ぎとめられる。
決してイエスの悲哀も、カラマーゾフの狂気も分からないものではないが、さらにそれを超克した
所にこそ、聖人君子や武士としての大成もまたあるのであり、決して悲哀や狂気を無視するものではない。
それどころか、白痴やサイコパス以上にも最大級の悲哀や狂気を直視して、夢想に逃げたりすることもない。
何とか自分で空想上の父君像を構築しようとしている姿は、確かに非常な悲哀を帯びている。
しかし、その悲哀は決して自力で乗り越えられないものではなかった。イエスとほぼ同じ
妾腹の私生児という境遇に生まれながら(ただし母子家庭)、親戚に父親の身元を聞き出して
墓参りも果たした孔子がそれであり、そこには不遇にかられた悲哀などは少しも見られない。
同じように、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で描かれている父親殺しの描写なども、
確かに相当な狂気を帯びていて、件の罪で逮捕されたドミトリー・カラマーゾフを弁護士は
「精神の姦通者(サイコパス)」と呼び、その精神疾患としての真性さを理由とした放免を
主張してもいる。しかし、日本の平安末期に、保元の乱で敗軍の将となった源為義を、
その長男である源義朝が斬首の刑に処しても居り、さらにその息子である源頼朝や義経が、
父親の父親殺しという狂気を帯びた屈辱を晴らす目的で平氏を打倒し、鎌倉幕府をも開いている。
西洋文学史上でも最大級の悲哀を帯びている妾腹の私生児イエスの言行や、最大級の狂気を帯びている
カラマーゾフの兄弟による父親殺しなども、それと同等の物語構造を乗り越える形での大成を、東洋史上に
実在する孔子や河内源氏が、イエスやカラマーゾフの物語が創作されるよりも遥か以前に果たしている。
甚大な悲哀や狂気の情感にかられて、蒙昧な白痴と化したり、サイコパスと化したりすることは、
確かにそれと同等の悲哀や狂気を乗り越えた所にある、大人としての大成によってこそ防ぎとめられる。
決してイエスの悲哀も、カラマーゾフの狂気も分からないものではないが、さらにそれを超克した
所にこそ、聖人君子や武士としての大成もまたあるのであり、決して悲哀や狂気を無視するものではない。
それどころか、白痴やサイコパス以上にも最大級の悲哀や狂気を直視して、夢想に逃げたりすることもない。
「舜は親に事うるの道を尽くして、瞽瞍豫びを底す。瞽瞍豫びを底して天下化す。
瞽瞍豫びを底して天下の父子為る者のみち定まる。此れを之れ大孝と謂えり」
「舜帝は昔、親に仕える上での最大級の道を尽くしたために、聞き分けのない悪父だった
瞽瞍までもがそれに喜ぶようになった。瞽瞍すら喜ばせることができて初めて
天下も徳化され、父子のあるべき道も定まった。これこそはまさに、最大の孝道だといえる。
(重要なのは親が正しいか間違っているかではなく、自分こそが親に孝養を尽くすことである。
イエスは実父の墓に参るどころか、その身元を探し出す努力一つすらも行っていない不孝者だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二八より)
瞽瞍豫びを底して天下の父子為る者のみち定まる。此れを之れ大孝と謂えり」
「舜帝は昔、親に仕える上での最大級の道を尽くしたために、聞き分けのない悪父だった
瞽瞍までもがそれに喜ぶようになった。瞽瞍すら喜ばせることができて初めて
天下も徳化され、父子のあるべき道も定まった。これこそはまさに、最大の孝道だといえる。
(重要なのは親が正しいか間違っているかではなく、自分こそが親に孝養を尽くすことである。
イエスは実父の墓に参るどころか、その身元を探し出す努力一つすらも行っていない不孝者だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二八より)
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