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聖書 Part7
▼ページ最下部
「聖書」という言葉には別段、必ずしも善良な意味が込められているわけでもない。
「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」だって確かに聖書であり、いま固有名詞として
用いられている「聖書」に該当する新旧約聖書も、確かにそういう意味での聖書の一種ではある。
しかし、「聖書の標準」が「他人の不幸を我が幸福にするための聖書」であるところの新旧約聖書
であるなどということは決してありえず、最も聖書の標準に値しない聖書であるとすら言える。
「聖書の標準」は、太古の昔からずっと四書五経である。
ユダヤ人がバビロン捕囚中に旧約を書いたりする以前、イエスが新約の教義を流布して回る以前から
ずっと、人類の根本的な思想信条の拠り所として最も大きな支持を得続けてきた聖書が四書五経であり、
それが「聖書」であることはあまりにも自明なことであるために、わざわざ「聖書」と呼ばれもしなかっただけ。
この世に存在するあらゆる聖書は、聖書の標準たる四書五経を追随する形で形成されて来たものであり、
四書五経の記述にことごとく相反する意見を記録した新旧約聖書すら、その範疇を逸するものではない。
「聖書の原器」たる四書五経の記述を、後付けでことごとくひっくり返しただけの代物であるからこそ、
新旧約聖書が聖書の標準であるかのようなフリもしていられたが、そもそもの聖書の標準は四書五経である。
別に「聖書」と呼ばれていたわけでもないからといって、存在性の根本から聖書の原器である四書五経を
聖書として扱わないのなら、他のあらゆる聖書もまた、聖書としての根本的な存在意義を失うのである。

「子、子産を謂う。『君子の道四つ有り。其の己れを行うや恭、其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義』」
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「罪を犯した罰」などという不正な理由で民を強制的に使役して、
権力者にとってこそ恵みとなる莫大な収益を挙げさせることを義とする旧約や法家の考えも誤りなら、
信者の原罪をイエスが代わりに背負って、使役を強制されなくとも恵みが得られることを義とするキリシタンの考えも誤り。
道義に根ざした労役に民を従事させることで、よく働いてくれたに
相応の恵みを権力者が民に施すことが正義にかなっている。
そもそも「労役が道義にかなっているかどうか」という観点が、聖書信仰や法家には全く抜け落ちていて、
道義にかなわない使役にばかり民を従事させたりすれば、自分たちのほうが権力犯罪者になってしまうことも全く了解していない。
むしろ「働かないことが罪だ」などという間違った思い込みによって、
使役への徴発に応じない人間を罪人や病人扱いしたりする。
「先生が鄭の名宰相の子産を評された。『彼は君子として四つの道を立てられた。己れの行いは常に恭しく、
目上の相手に仕える場合は敬意を尽くし、民を養うことにかけては恵み深く、民を使役することも必ず義に適わせた』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六)
「罪を犯した罰」などという不正な理由で民を強制的に使役して、
権力者にとってこそ恵みとなる莫大な収益を挙げさせることを義とする旧約や法家の考えも誤りなら、
信者の原罪をイエスが代わりに背負って、使役を強制されなくとも恵みが得られることを義とするキリシタンの考えも誤り。
道義に根ざした労役に民を従事させることで、よく働いてくれたに
相応の恵みを権力者が民に施すことが正義にかなっている。
そもそも「労役が道義にかなっているかどうか」という観点が、聖書信仰や法家には全く抜け落ちていて、
道義にかなわない使役にばかり民を従事させたりすれば、自分たちのほうが権力犯罪者になってしまうことも全く了解していない。
むしろ「働かないことが罪だ」などという間違った思い込みによって、
使役への徴発に応じない人間を罪人や病人扱いしたりする。
働かないことは、別に罪ではない。
全く働かないで怠惰を決め込んでいれば、自業自得で野垂れ死にするだけで、それは確かに愚か者ではあるが、罪ではない。
消極的な生活からなる情念の衰微を楽しむのも一つの風流であり、ある程度の範囲に限るんなら、むしろ嗜むべきものですらある。
権力者が「民を養う」と呼ぶに値する状態とは、権力者が道義にかなった使役にのみ民を従事させて、それによって得られた収益で
民に恵みを施すという条件を満たしている状態のことであって、この場合にだけ、権力者はいないよりもいるほうがマシな存在となる。
権力者が道義にもかなわない使役を多く民に強制して、それによって得られた収益のほとんど全てを自分たち権力者だけで独占し、
民にはせいぜい生き延びていられる程度の些少な恵みを施したり施さなかったりするだけというのであれば、それは「民を牧する」
とでも言った状態であり、民の立場からいえば、そんな権力者は百害あって一利もない、いるよりもいなほうがマシな存在である。
民を養うことこそは権力道徳に適う一方で、民を牧することは権力犯罪に相当する。
このうちの、権力道徳をありのままに体系化したのが真正聖書たる四書五経である一方で、
権力犯罪を体系化したのが法家の書「韓非子」であり、さらに正当化や美化を踏まえつつ権力犯罪を
推進していく方法までをも体系化したのが新旧約聖書だといえる。そのため、四書五経の副題は
「権力道徳聖書」とするのが相応しい一方で、新旧約聖書の副題は「権力犯罪聖書」とするのが相応しい。
(「韓非子」は「聖書」と呼ぶに値するほどできた書物でもない)この世の中のあり方としては、
権力道徳聖書たる四書五経の体系を模範として、権力犯罪聖書たる新旧約や「韓非子」の体系を
模範とせず、なるべくその記述に沿わないように心がけていくことが理想である。
理想が現実化できるかどうかはともかくとして、確かにそれが、本物の理想ではある。
全く働かないで怠惰を決め込んでいれば、自業自得で野垂れ死にするだけで、それは確かに愚か者ではあるが、罪ではない。
消極的な生活からなる情念の衰微を楽しむのも一つの風流であり、ある程度の範囲に限るんなら、むしろ嗜むべきものですらある。
権力者が「民を養う」と呼ぶに値する状態とは、権力者が道義にかなった使役にのみ民を従事させて、それによって得られた収益で
民に恵みを施すという条件を満たしている状態のことであって、この場合にだけ、権力者はいないよりもいるほうがマシな存在となる。
権力者が道義にもかなわない使役を多く民に強制して、それによって得られた収益のほとんど全てを自分たち権力者だけで独占し、
民にはせいぜい生き延びていられる程度の些少な恵みを施したり施さなかったりするだけというのであれば、それは「民を牧する」
とでも言った状態であり、民の立場からいえば、そんな権力者は百害あって一利もない、いるよりもいなほうがマシな存在である。
民を養うことこそは権力道徳に適う一方で、民を牧することは権力犯罪に相当する。
このうちの、権力道徳をありのままに体系化したのが真正聖書たる四書五経である一方で、
権力犯罪を体系化したのが法家の書「韓非子」であり、さらに正当化や美化を踏まえつつ権力犯罪を
推進していく方法までをも体系化したのが新旧約聖書だといえる。そのため、四書五経の副題は
「権力道徳聖書」とするのが相応しい一方で、新旧約聖書の副題は「権力犯罪聖書」とするのが相応しい。
(「韓非子」は「聖書」と呼ぶに値するほどできた書物でもない)この世の中のあり方としては、
権力道徳聖書たる四書五経の体系を模範として、権力犯罪聖書たる新旧約や「韓非子」の体系を
模範とせず、なるべくその記述に沿わないように心がけていくことが理想である。
理想が現実化できるかどうかはともかくとして、確かにそれが、本物の理想ではある。
聖者は、何時の時代にも生まれる。
でも、神の物語にはならない。
イエスは生まれ、その人生の全て、言葉の全て、行為の全てが神の物語になった。
蔑まれた女との出会いが、永遠に人々の心を打つ。
迫害者の前に立たされて下役人に殴られ、罵声を浴びせられても、人々の心を動かす。
一つの世界に、一つの時代に、神の物語はただひとつだけ生まれるのだと思う。
神の物語は、他の誰かの助けを必要としないからだ。
神の位のものはそれを知っているので、同じ時代には降りてこないのだと思う。
今は、まだ、イエスの物語の時代のように思う。
でも、神の物語にはならない。
イエスは生まれ、その人生の全て、言葉の全て、行為の全てが神の物語になった。
蔑まれた女との出会いが、永遠に人々の心を打つ。
迫害者の前に立たされて下役人に殴られ、罵声を浴びせられても、人々の心を動かす。
一つの世界に、一つの時代に、神の物語はただひとつだけ生まれるのだと思う。
神の物語は、他の誰かの助けを必要としないからだ。
神の位のものはそれを知っているので、同じ時代には降りてこないのだと思う。
今は、まだ、イエスの物語の時代のように思う。
削除(by投稿者)
新旧約犯罪聖書の邪義に洗脳されたブラックアフリカの飢餓民たちも、
濁愛を正当化推進する犯罪聖書の邪義によってエイズまみれの乱交を繰り返し、
世界人口を等比級数的に肥大化させる温床となっている。
これ以上世界人口が増大することで不幸になる人間こそあれど、
幸福になる人間など一人もいない。
つまり、これからも新旧約犯罪聖書を信仰し続けることで
幸福になる人間は、この世界に一人もいない。
濁愛を正当化推進する犯罪聖書の邪義によってエイズまみれの乱交を繰り返し、
世界人口を等比級数的に肥大化させる温床となっている。
これ以上世界人口が増大することで不幸になる人間こそあれど、
幸福になる人間など一人もいない。
つまり、これからも新旧約犯罪聖書を信仰し続けることで
幸福になる人間は、この世界に一人もいない。

これまた質でも量でも古さでも新旧約聖書を上回る、四書五経並みかそれ以上もの権威を備えた聖書だといえる。
しかし、ヴェーダは祭司階級たるバラモンが口伝で継承していくことのみが正統とされ、
文書に起こされた時点ですでにその権威にほころびが生じるとすらされる。
「書」という媒体に情報伝達を頼るのは、それ自体が卑俗的なことであり、
世俗か超俗かで言えば世俗において用いることを念頭に置かれるもの。新旧約聖書にも
「俗世での権力犯罪の正当化と推進」という明確な目的が備わっていて、それでいて「神」とされている
ものを取り扱っている。その心は、権力犯罪の推進を神がかりに見立てて正当化するということであり、
「神の物語の悪用」でしかないために、神の物語としてですら異端である上に、虚構なのである。
俗世での情報伝達を目的とした文書としての聖書が、権力犯罪に悪用するために
神の物語を引き合いに出したりすることがすでに悪質なことで、そういった小細工を一切排して、
実質社会の問題の論及に徹していることもまた、四書五経こそが聖書中の聖書たる所以でもあるといえる。
「父命じて呼ぶときは、唯して諾せず、手に業を執るときは
則ち之れを投ぐ、食の口に在るときは則ち之れを吐く、走りて趨らず」
「父が命じて呼ぶときには、恭しくして驕慢にならず、何かやっている業があったらただちに投げ捨て、
口に食べ物を含んでいればこれを吐き、大股にならないよう小走りで急いで父の元に赴く。
(イエスの言行にはこういった実父との関係ならではの実質性が全く垣間見られない。
脳内で捏造した父の教えに基づく業など、実の父が呼ぶときには直ちに投げ捨てねばならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
削除(by投稿者)

エホバやイエスは東洋でいう天界に属さない。「地獄界」や「鬼畜界」に
属する邪神であり、東洋人が伝統的にそれを神として扱ってきた事実すらない。
聖書圏でいう「神」は、東洋でいう「鬼畜」であり、
鬼畜が神のフリをした邪神であるのみ。だからそれを神と見なすことからして、
今までの東洋での「神」という定義を毀損する暴行となり、それもまた一つの罪となる。
東洋の神と聖書圏の邪神を比較するのなら、「エホバやキリストは本質的には鬼畜であり、
神ですらない」という大前提の下に、東洋の神とも比較しなければ色々と辻褄が合わなくなる。
それ以前に、鬼畜は妖怪などと同等のものとして扱うべきものであり、神と同等のものとして
比較しようとしたりすることからしてすでに失礼なこと。失礼なことだから、そりゃあ罰も当たる。
イエス自身が十字架にかけられるだけでなく、イエスを信じるような鬼畜神倒錯者もまた罰が当たる。
「君、弁言を以って旧政を乱す罔く、臣、寵利を以って成功に居る罔くんば、邦、其れ永く休に孚せん」
「主君が罪人の弁護などを聞き入れて旧来の政治を乱したりすることがなく、臣下が主君からの
寵愛や利権にかられて成功を得たりすることがなければ、邦家も恒久に渡って安泰でありましょう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)
権力道徳社会には、裁判というものはない。裁判官即ち検察官であり、罪を糾弾するものが直ちに
罰を科し、罪人やその弁護者の言い分を聞き入れたりすることもない。それでいて罪人に罰を科す
法官自身もまた非常に低い身分に置かれ、裁きが不正であるような場合には、本人自身にも厳しい
制裁が加えられる。官吏同士での上下関係が厳格化される、封建社会ならではのシステムだといえる。
法官やその上に立つ官吏たち自身が、一人一人で独立して民の裁判官であり、検察官であり、弁護士でもある。
民を庇護したり罰したりすることにかけて一人一人が全身全霊をかけて、姑息な分業なども踏まえない。
確かにそれは今の官公庁に勤めている法官やその他公務員にはできないことかも知れないが、かといって
稀代の大聖人でもなければ絶対に務まらないことでもない。儒学に代表される権力道徳の学問を
よく学んで、半ば杓子定規気味にでもその実践に務めたならば、聖人や賢人とまではいかない、
ただの善い人程度であっても、徳治社会の君子の末席に加えられる程度のことは可能になる。
では、その善人が今の世にも十分な数存在しているかどうかといえば、当然存在しているといえる。
相当に大きな綻びを来たしつつも、世の中の大部分が未だに保たれているのがその証拠。
我田引水ばかりに奔走し続ける悪人どもよりも十分に多くの数の善人がこの世の中にいるから、
悪人の我田引水を許容しながらも、未だこの世が保たれている。問題なのは、我田引水の特権を得ているような
悪人こそは、今の権力機構に深く取り入っている場合が多いことで、善人に世の中の統治を任せるためには、
いま権力機構に群がっている悪人をまず退場させなければならない。最悪の場合、流血革命にすら
なりかねないその際どい一線を乗り越えて、その先に平穏な時代へと着地できるかどうかが鍵だといえる。
「主君が罪人の弁護などを聞き入れて旧来の政治を乱したりすることがなく、臣下が主君からの
寵愛や利権にかられて成功を得たりすることがなければ、邦家も恒久に渡って安泰でありましょう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)
権力道徳社会には、裁判というものはない。裁判官即ち検察官であり、罪を糾弾するものが直ちに
罰を科し、罪人やその弁護者の言い分を聞き入れたりすることもない。それでいて罪人に罰を科す
法官自身もまた非常に低い身分に置かれ、裁きが不正であるような場合には、本人自身にも厳しい
制裁が加えられる。官吏同士での上下関係が厳格化される、封建社会ならではのシステムだといえる。
法官やその上に立つ官吏たち自身が、一人一人で独立して民の裁判官であり、検察官であり、弁護士でもある。
民を庇護したり罰したりすることにかけて一人一人が全身全霊をかけて、姑息な分業なども踏まえない。
確かにそれは今の官公庁に勤めている法官やその他公務員にはできないことかも知れないが、かといって
稀代の大聖人でもなければ絶対に務まらないことでもない。儒学に代表される権力道徳の学問を
よく学んで、半ば杓子定規気味にでもその実践に務めたならば、聖人や賢人とまではいかない、
ただの善い人程度であっても、徳治社会の君子の末席に加えられる程度のことは可能になる。
では、その善人が今の世にも十分な数存在しているかどうかといえば、当然存在しているといえる。
相当に大きな綻びを来たしつつも、世の中の大部分が未だに保たれているのがその証拠。
我田引水ばかりに奔走し続ける悪人どもよりも十分に多くの数の善人がこの世の中にいるから、
悪人の我田引水を許容しながらも、未だこの世が保たれている。問題なのは、我田引水の特権を得ているような
悪人こそは、今の権力機構に深く取り入っている場合が多いことで、善人に世の中の統治を任せるためには、
いま権力機構に群がっている悪人をまず退場させなければならない。最悪の場合、流血革命にすら
なりかねないその際どい一線を乗り越えて、その先に平穏な時代へと着地できるかどうかが鍵だといえる。
最後の審判自体は実際にあるとして、その審判で聖書信仰は敗北する。
敗北するから、新旧約聖書に書かれているような形での終末はやってこない。
終末思想自体がアブラハム教の所産なので、聖書信仰と比べての勝者となる
イスラムの聖典でるコーランの記述に即した終末が来るのかといえば、
確かにコーラン中の寓意に根ざした終末がやってくるとはいえる。
アブラハム教は全て啓示宗教であり、現実をありのままに把捉した教義は
持たないので、やはりコーランの記述ありのままの終末がやって来るともいえない。
ほぼありのままの終末を記録しているのが、非アブラハム教の聖書である四書五経。
最後の審判の敗者である聖書信仰の対象である新旧約聖書と真逆の記述で構成され、
なおかつ啓示宗教に特有の遠まわしな記述などを一切排した、諸法実相の記録となっている。
そのため終末の描写としては、イスラムのコーラン以上にも実際に忠実なものとなっている。
アブラハム教信仰の終末を最も忠実に記録していたのが四書五経で、実際的ではないが
遠まわしの寓意としては間違っていなかったのがコーランで、実質に忠実なわけでも
なければ、寓意としても間違い通しだったのが新旧約聖書である。実際としては
四書五経よりも不正確で、寓意としてもコーランより不正確な新旧約聖書は、
アブラハム信仰の終末から最もかけ離れた終末の予言だけをしているといえる。
親子兄弟の殺し合いまで予言している、その記述が全く以って叶えられないのは、
すでに相当にシラフに返っている聖書圏の人間としても、安堵することなんじゃないか。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ」
「常日ごろからまだ分からないことを知ろうとし、覚えたことも忘れないでいようとする、
学問を好む姿だといえる。(聖書信者は勉強嫌いで、平常は聖書の記述すら忘れ去っている。
蒙昧で何の役にも立たないクセに無駄に冗長な犯罪聖書の記述は、確かに学問嫌いも誘発する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五より)
敗北するから、新旧約聖書に書かれているような形での終末はやってこない。
終末思想自体がアブラハム教の所産なので、聖書信仰と比べての勝者となる
イスラムの聖典でるコーランの記述に即した終末が来るのかといえば、
確かにコーラン中の寓意に根ざした終末がやってくるとはいえる。
アブラハム教は全て啓示宗教であり、現実をありのままに把捉した教義は
持たないので、やはりコーランの記述ありのままの終末がやって来るともいえない。
ほぼありのままの終末を記録しているのが、非アブラハム教の聖書である四書五経。
最後の審判の敗者である聖書信仰の対象である新旧約聖書と真逆の記述で構成され、
なおかつ啓示宗教に特有の遠まわしな記述などを一切排した、諸法実相の記録となっている。
そのため終末の描写としては、イスラムのコーラン以上にも実際に忠実なものとなっている。
アブラハム教信仰の終末を最も忠実に記録していたのが四書五経で、実際的ではないが
遠まわしの寓意としては間違っていなかったのがコーランで、実質に忠実なわけでも
なければ、寓意としても間違い通しだったのが新旧約聖書である。実際としては
四書五経よりも不正確で、寓意としてもコーランより不正確な新旧約聖書は、
アブラハム信仰の終末から最もかけ離れた終末の予言だけをしているといえる。
親子兄弟の殺し合いまで予言している、その記述が全く以って叶えられないのは、
すでに相当にシラフに返っている聖書圏の人間としても、安堵することなんじゃないか。
「日びに其の亡き所を知り、月づきに其の能くする所を忘るる無し、学を好むと謂うべきのみ」
「常日ごろからまだ分からないことを知ろうとし、覚えたことも忘れないでいようとする、
学問を好む姿だといえる。(聖書信者は勉強嫌いで、平常は聖書の記述すら忘れ去っている。
蒙昧で何の役にも立たないクセに無駄に冗長な犯罪聖書の記述は、確かに学問嫌いも誘発する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・五より)
「妾腹の私生児」というイエスの置かれた境遇は、そのあまりの不遇さゆえに
自暴自棄のキチ○イとなったり、逆に不遇を乗り越えた場合における未曾有の
大成を呼び込んだりの、非常にクリティカルな動向を本人に与えることが明らかとなっている。
イエスは前者の自暴自棄のキ○ガイとなり、後者の不遇をバネにした大成者にはなれなかった。
ほぼイエスと同等の不遇に置かれながら、その不遇をバネにして聖人君子として大成したのが孔子であり、
孔子とイエスとが、「妾腹の私生児」としての成功例と失敗例の両極に当たるといえる。
ただ「妾腹の私生児」という境遇は、本人が望んだからといって得られるものでもなければ、
また欲して得るべきほどろくなものでもない。人間が置かれる先天的な境遇のうちでも、最も不遇な部類の
境遇であって、始めからないに越したことはない。ただ、その不遇をバネにした大成を、親がわが子に目指させる
というのなら、イエスのような失敗作として、わが子が大きな過ちを犯したりしないように万全の注意を払わなければならない。
自暴自棄のキチ○イとなったり、逆に不遇を乗り越えた場合における未曾有の
大成を呼び込んだりの、非常にクリティカルな動向を本人に与えることが明らかとなっている。
イエスは前者の自暴自棄のキ○ガイとなり、後者の不遇をバネにした大成者にはなれなかった。
ほぼイエスと同等の不遇に置かれながら、その不遇をバネにして聖人君子として大成したのが孔子であり、
孔子とイエスとが、「妾腹の私生児」としての成功例と失敗例の両極に当たるといえる。
ただ「妾腹の私生児」という境遇は、本人が望んだからといって得られるものでもなければ、
また欲して得るべきほどろくなものでもない。人間が置かれる先天的な境遇のうちでも、最も不遇な部類の
境遇であって、始めからないに越したことはない。ただ、その不遇をバネにした大成を、親がわが子に目指させる
というのなら、イエスのような失敗作として、わが子が大きな過ちを犯したりしないように万全の注意を払わなければならない。
江戸時代、将軍家や大名家の庶子が、産まれた瞬間から寺に預けられて、親との関係を断たれる風習があった。
これも孔子のような不遇をバネにした大成を目指させるためであって、もしも大成できたならば、
出来の悪い嫡子に代わって家督を相続したり、分家として興隆したり、良家に婿入りしたりすることが認められて
いた一方で、試みに失敗した場合には、そのまま出家して坊主となり、一生家庭を持たずに過ごしたりしていた。
もちろん失敗したから坊主になるとも限らないが、失敗してなお市井に飛び出て、
イエスのような妄言妄動を垂れ流して世を乱すようなことだけは、未然に封じ込められていた。
自分が妾腹の私生児という境遇に産まれたとしても、イエスのような自暴自棄にはならず、
孔子のような君子としての大成を目指すべきであるし、仮に自分が妾腹の私生児を作ってしまったとしても、
上記の将軍や大名のような、庶子に対するなりの扱いを自分が親として施すべきである。
自分がそうなのであれ、我が子がそうなのであれ、妾腹の私生児がイエスになってしまうことを弁護する余地はないのである。
「争いを分かち訴えを弁ずるも、礼に非ざれば決せず」
「訴訟ごとを弁別したところで、やり方が礼に適っていないのなら、何も裁決できはしない。
(裁決権を持つ高官への畏敬がないのなら、敗訴したものは結局は不平を残したままとなる。
絶対神の使いが自分たちの弁護者になると信じ込んでいる聖書信者のものの考え方では、
自分たちの敗訴に対して不平を持たずに済む場合があり得ない。聖書信仰の敗北が完全に
決定している以上、自分たちの弁護者が神の使いであるという幻想から棄て去るのでなければ、
必ず後々まで、醜くて理にかなわない不平を元聖書信者が持ち続けることになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
これも孔子のような不遇をバネにした大成を目指させるためであって、もしも大成できたならば、
出来の悪い嫡子に代わって家督を相続したり、分家として興隆したり、良家に婿入りしたりすることが認められて
いた一方で、試みに失敗した場合には、そのまま出家して坊主となり、一生家庭を持たずに過ごしたりしていた。
もちろん失敗したから坊主になるとも限らないが、失敗してなお市井に飛び出て、
イエスのような妄言妄動を垂れ流して世を乱すようなことだけは、未然に封じ込められていた。
自分が妾腹の私生児という境遇に産まれたとしても、イエスのような自暴自棄にはならず、
孔子のような君子としての大成を目指すべきであるし、仮に自分が妾腹の私生児を作ってしまったとしても、
上記の将軍や大名のような、庶子に対するなりの扱いを自分が親として施すべきである。
自分がそうなのであれ、我が子がそうなのであれ、妾腹の私生児がイエスになってしまうことを弁護する余地はないのである。
「争いを分かち訴えを弁ずるも、礼に非ざれば決せず」
「訴訟ごとを弁別したところで、やり方が礼に適っていないのなら、何も裁決できはしない。
(裁決権を持つ高官への畏敬がないのなら、敗訴したものは結局は不平を残したままとなる。
絶対神の使いが自分たちの弁護者になると信じ込んでいる聖書信者のものの考え方では、
自分たちの敗訴に対して不平を持たずに済む場合があり得ない。聖書信仰の敗北が完全に
決定している以上、自分たちの弁護者が神の使いであるという幻想から棄て去るのでなければ、
必ず後々まで、醜くて理にかなわない不平を元聖書信者が持ち続けることになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)
聖書の信仰は便秘の苦痛に似、
儒学の勉強は排便の快感に似る。
儒学の勉強は排便の快感に似る。
聖書信仰に没頭してきた人間は、あらゆる人間のうちでも最も悟りから遠のいている。
濁念にまみれて己が理性の在り処すらも見失い、極端な蒙昧状態でいるか、
さもなくば蒙昧を埋め合わせる目的での高度累犯障害状態でいる。
密教者のように濁悪を超克するだけの精進修行を共にこなしてきたわけでもなく、
ただただ濁悪にまみれることばかりに没頭し続けて来ただけであるために、
今から濁悪を乗り越えるためには、ただの凡人以上にも極重の更生をこなす必要がある。
「観無量寿経」にあるような、品性の格付けに基づく救済の難易を、
聖書信仰者や洋学者でも字面だけで理解することはできる。しかし、自分たちが
実際問題、下品下生の最低劣の徒であって、救済に至るためには長久の苦労と年月とを
要することを明らかに悟ることまではできない。それを悟ることができないからこそ、
永劫の年月にわたる苦労をこれから積み重ねていかなければならないのであって、
安易な救済を追い求めて来たに相応の対価を、これから支払わされ続けることになる。
自力作善の勧善懲悪に務めてきた人間こそは時系列上で先に救われ、
他力本願の悪逆非道に奔ってきた人間こそはずっと後に救われる。
親鸞聖人も悪人正機で、「悪人は善人よりも先に救われる」とは言っておらず、
「悪人こそは善人以上にも阿弥陀様によって救われることが確かである」とのみ言っている。
一切衆生の救済を企図する阿弥陀様にとっての最大の腕の見せ所は、最悪の悪人の救済だから、
悪人こそは救われることが確実だといっている。そう解釈しないのであれば、九品九生の
格付けに基づく救済の難易を明記した「観無量寿経」までをも、浄土真宗が根本聖典に
掲げていることにも筋が通らなくなる。(ただし真宗の最高聖典は「大無量寿経」)
濁念にまみれて己が理性の在り処すらも見失い、極端な蒙昧状態でいるか、
さもなくば蒙昧を埋め合わせる目的での高度累犯障害状態でいる。
密教者のように濁悪を超克するだけの精進修行を共にこなしてきたわけでもなく、
ただただ濁悪にまみれることばかりに没頭し続けて来ただけであるために、
今から濁悪を乗り越えるためには、ただの凡人以上にも極重の更生をこなす必要がある。
「観無量寿経」にあるような、品性の格付けに基づく救済の難易を、
聖書信仰者や洋学者でも字面だけで理解することはできる。しかし、自分たちが
実際問題、下品下生の最低劣の徒であって、救済に至るためには長久の苦労と年月とを
要することを明らかに悟ることまではできない。それを悟ることができないからこそ、
永劫の年月にわたる苦労をこれから積み重ねていかなければならないのであって、
安易な救済を追い求めて来たに相応の対価を、これから支払わされ続けることになる。
自力作善の勧善懲悪に務めてきた人間こそは時系列上で先に救われ、
他力本願の悪逆非道に奔ってきた人間こそはずっと後に救われる。
親鸞聖人も悪人正機で、「悪人は善人よりも先に救われる」とは言っておらず、
「悪人こそは善人以上にも阿弥陀様によって救われることが確かである」とのみ言っている。
一切衆生の救済を企図する阿弥陀様にとっての最大の腕の見せ所は、最悪の悪人の救済だから、
悪人こそは救われることが確実だといっている。そう解釈しないのであれば、九品九生の
格付けに基づく救済の難易を明記した「観無量寿経」までをも、浄土真宗が根本聖典に
掲げていることにも筋が通らなくなる。(ただし真宗の最高聖典は「大無量寿経」)
以上の、何度も同じようなことを述べてきた記述を、やはり聖書信者や洋学者も字面で
理解することだけはできる。しかし、その含意を心からありのままに悟って、
何の不平もなく地獄での贖罪に従事していくことまではできない。大きな不平を抱きつつも、
地獄の閻羅人に「貴様の自業自得じゃー」と怒鳴りつけられながら、極重の苦しみに
あえぎ続けることもまた、地獄の苦しみの一環であるから、何とか事前に悟りを得ておいて、
納得づくでの贖罪に取り組もうとすることもまた、徒労にのみ終始することだ。
決して「絶対に救われない」などということまではないが、多くの大切なものを
蔑ろにしてまで、瑣末な罪業に没頭して来たことの代償は計り知れないほどに大きい。
むしろ「救いもまたあり得る」という事実が露呈されてしまったことによって、
「悪逆非道の苦しみに没頭するしか途はない」と思い込んでいた頃にはなかった
救いへの希望が生じてしまったが故に、長大な苦労を通じてまでの真の救いを求めざるを
得なくなってしまったことこそは、完全誤謬信仰者なぞにとっての悲劇かもしれない。
「哀公曰く、敢えて儒行を問う。孔子對えて曰く、遽わかに之れを数えば、其の物を
終す能わず。悉く之れを数えば、乃ち留しくして、僕を更ふるも未だ終くす可からざるなり」
「哀公が孔子に言った。『一つ、儒者のあり方を教えてはくれまいか』 孔子は答えて言った。
『いま俄かに数えてみましても、ことごとくその全てを数え尽くすことはできません。ぜんぶ数えて
みましたなら、公の御付を無数に交代させるほどの時間をかけても説明を尽くせそうにありません』
(この後儒者のあり方が数十件ほど述べられる。儒者のあり方を聖書信者がことごとく学んで、
ことごとくそれに倣って自らを矯正するだけでも、恒久に渡る努力が必要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
理解することだけはできる。しかし、その含意を心からありのままに悟って、
何の不平もなく地獄での贖罪に従事していくことまではできない。大きな不平を抱きつつも、
地獄の閻羅人に「貴様の自業自得じゃー」と怒鳴りつけられながら、極重の苦しみに
あえぎ続けることもまた、地獄の苦しみの一環であるから、何とか事前に悟りを得ておいて、
納得づくでの贖罪に取り組もうとすることもまた、徒労にのみ終始することだ。
決して「絶対に救われない」などということまではないが、多くの大切なものを
蔑ろにしてまで、瑣末な罪業に没頭して来たことの代償は計り知れないほどに大きい。
むしろ「救いもまたあり得る」という事実が露呈されてしまったことによって、
「悪逆非道の苦しみに没頭するしか途はない」と思い込んでいた頃にはなかった
救いへの希望が生じてしまったが故に、長大な苦労を通じてまでの真の救いを求めざるを
得なくなってしまったことこそは、完全誤謬信仰者なぞにとっての悲劇かもしれない。
「哀公曰く、敢えて儒行を問う。孔子對えて曰く、遽わかに之れを数えば、其の物を
終す能わず。悉く之れを数えば、乃ち留しくして、僕を更ふるも未だ終くす可からざるなり」
「哀公が孔子に言った。『一つ、儒者のあり方を教えてはくれまいか』 孔子は答えて言った。
『いま俄かに数えてみましても、ことごとくその全てを数え尽くすことはできません。ぜんぶ数えて
みましたなら、公の御付を無数に交代させるほどの時間をかけても説明を尽くせそうにありません』
(この後儒者のあり方が数十件ほど述べられる。儒者のあり方を聖書信者がことごとく学んで、
ことごとくそれに倣って自らを矯正するだけでも、恒久に渡る努力が必要となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
犯罪聖書の神への懇願によって破滅へと陥ったものが、
犯罪聖書の神への懇願によって救済されるなどということも、もちろんない。
救われるとしても、それは阿弥陀仏のような正しい信仰対象に救いを懇願した場合。
一切衆生の救済を企図はするものの、犯罪者を道徳者よりも優先して救うような偽りの
救済を企図したりはしない、正統な神仏。犯罪者を優先して救済してきた邪神こそは
犯罪聖書の神であり、我田引水本位の犯罪者なぞを優先して救済してきたことの限界が
来たために、今まで見逃して来た犯罪者を悉く重罰にかけなければならなくなった、その無様さ。
救いにも、正しい救いと邪まな救いがあり、正しい救いこそは代償抜きの本物の救いで
ある一方で、邪まな救いは一時だけ救ってやったような体裁をもたらしてくれたところで、
必ず後々にはそれ以上もの代価を支払わされることになる。速やかに自首してきた逃亡犯
よりも、何年も潜伏生活を続けた挙句に捜査で捕まったような逃亡犯のほうが罪が重く
なるように、邪まな救いを受けてきたぶんだけ、より重い罰を受けることにもなる。
犯罪聖書の神への懇願によって救済されるなどということも、もちろんない。
救われるとしても、それは阿弥陀仏のような正しい信仰対象に救いを懇願した場合。
一切衆生の救済を企図はするものの、犯罪者を道徳者よりも優先して救うような偽りの
救済を企図したりはしない、正統な神仏。犯罪者を優先して救済してきた邪神こそは
犯罪聖書の神であり、我田引水本位の犯罪者なぞを優先して救済してきたことの限界が
来たために、今まで見逃して来た犯罪者を悉く重罰にかけなければならなくなった、その無様さ。
救いにも、正しい救いと邪まな救いがあり、正しい救いこそは代償抜きの本物の救いで
ある一方で、邪まな救いは一時だけ救ってやったような体裁をもたらしてくれたところで、
必ず後々にはそれ以上もの代価を支払わされることになる。速やかに自首してきた逃亡犯
よりも、何年も潜伏生活を続けた挙句に捜査で捕まったような逃亡犯のほうが罪が重く
なるように、邪まな救いを受けてきたぶんだけ、より重い罰を受けることにもなる。
それでも最後に救われることは、一応ある。邪まな神への邪まな救いを乞い願うことを辞めて、
正統な神仏への真の救いを乞い願い始めたときが、その救いに向けた試練の始まり。
元邪教信仰者にとっては最大の破滅のときでもある一方で、真の救いに寸分ながらでも
初めて近づき始めるとき。今まで遠ざかりこそすれど、寸分も近づきはしていなかったのが、
遠ざからずに近づき始めるとき。禍いが転じて福となり始めるときであり、故にこそ
禍いを肥大化させ続けてきた邪教信仰者にとっての、最大の破滅のときともなるのである。
「(赤曰く、)之れを能くす曰うに非ず、願わくば学ばん。宗廟の事、如しくは会同に端章甫して、
願わくば小相為らん。(略。子曰く)赤や之れの小相たらば、孰れが能く之れが大相為らん」
「弟子の公西華が孔子に願い事を聞かれて言った。『決して今の自分にうまく務まると
いうのではありませんが、願わくばよく勉学に務めて、宗廟での祭事や諸侯の会合に礼服を着て
参列できるぐらいの小臣になりたいものです』 先生は言われた。『公西華が小臣を務める
というのであれば、誰に大臣になるほどの資格があろうか』(公西華が願い事を答える段に
おいてですら、自助努力による小臣への仕官を答えた、その恭しさを孔子も称賛している。
その恭しさこそは確かに、大臣にまで上り詰められるほどの素養の現われなのでもある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二六)
正統な神仏への真の救いを乞い願い始めたときが、その救いに向けた試練の始まり。
元邪教信仰者にとっては最大の破滅のときでもある一方で、真の救いに寸分ながらでも
初めて近づき始めるとき。今まで遠ざかりこそすれど、寸分も近づきはしていなかったのが、
遠ざからずに近づき始めるとき。禍いが転じて福となり始めるときであり、故にこそ
禍いを肥大化させ続けてきた邪教信仰者にとっての、最大の破滅のときともなるのである。
「(赤曰く、)之れを能くす曰うに非ず、願わくば学ばん。宗廟の事、如しくは会同に端章甫して、
願わくば小相為らん。(略。子曰く)赤や之れの小相たらば、孰れが能く之れが大相為らん」
「弟子の公西華が孔子に願い事を聞かれて言った。『決して今の自分にうまく務まると
いうのではありませんが、願わくばよく勉学に務めて、宗廟での祭事や諸侯の会合に礼服を着て
参列できるぐらいの小臣になりたいものです』 先生は言われた。『公西華が小臣を務める
というのであれば、誰に大臣になるほどの資格があろうか』(公西華が願い事を答える段に
おいてですら、自助努力による小臣への仕官を答えた、その恭しさを孔子も称賛している。
その恭しさこそは確かに、大臣にまで上り詰められるほどの素養の現われなのでもある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二六)
ある女を男が愛したとして、その女の親に男が
「お嬢さんを私にください」などと、結婚嘆願しに行ったとする。
親が厳格で娘も大事にしていれば、男の賢愚や甲斐性の有無を精査して、
眼鏡にかなえば結婚を許可する一方、かなわなければ拒絶もする。
逆に親からしてチャランポランで、娘のことなどもどうでもいいと
思っていれば、その場で考えもなく結婚OKということになる。
「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」とイエスは断言している。
本当にその通りであるのなら、イエスの親はチャランポランで、
イエスのことなんかどうでもいいと思っていたのが、上記の例からも明らか。
しかし、実際上、イエスは妾腹の私生児であり、母親の身元しか本人も
分からないわけだから、イエスの実父がイエスをどう思っていたかも分からない。
娼婦を孕ませるぐらいに遊び好きだったことは確かだが、思わずマリアに
身ごもらせてしまったイエスを、本当にどうでもいいと思っていたか、
本当は大事にしたいが、已む無く見捨ててしまったかということは定かでない。
結局、イエスは自分自身で、「俺の親父はどうしようもないロクデナシで、
俺のことなんかどうでもいいと思っていたんだ」と決め付けて、
その決め付けに基づいて、「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」
などという自暴自棄の暴言にも及んだのだといえる。
一つ一つの発言の中に、ただ「親のせい」にばかりすることはできない、
イエス本人の自主性からなる、品性の下劣さの確かな証拠が遺されている。
「婦人は飾らざれば、舅姑に敢えて見えず」
「夫人はよく自らを飾り立ててからでないと、夫の父母に会わない。
(舅姑の機嫌を害さぬよう夫人も気を遣う。自分が夫を愛したからといって、
それが夫の父母もまた自分を愛してくれる理由になどなるはずもないから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「お嬢さんを私にください」などと、結婚嘆願しに行ったとする。
親が厳格で娘も大事にしていれば、男の賢愚や甲斐性の有無を精査して、
眼鏡にかなえば結婚を許可する一方、かなわなければ拒絶もする。
逆に親からしてチャランポランで、娘のことなどもどうでもいいと
思っていれば、その場で考えもなく結婚OKということになる。
「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」とイエスは断言している。
本当にその通りであるのなら、イエスの親はチャランポランで、
イエスのことなんかどうでもいいと思っていたのが、上記の例からも明らか。
しかし、実際上、イエスは妾腹の私生児であり、母親の身元しか本人も
分からないわけだから、イエスの実父がイエスをどう思っていたかも分からない。
娼婦を孕ませるぐらいに遊び好きだったことは確かだが、思わずマリアに
身ごもらせてしまったイエスを、本当にどうでもいいと思っていたか、
本当は大事にしたいが、已む無く見捨ててしまったかということは定かでない。
結局、イエスは自分自身で、「俺の親父はどうしようもないロクデナシで、
俺のことなんかどうでもいいと思っていたんだ」と決め付けて、
その決め付けに基づいて、「私を愛せば、父もまたあなたを愛す」
などという自暴自棄の暴言にも及んだのだといえる。
一つ一つの発言の中に、ただ「親のせい」にばかりすることはできない、
イエス本人の自主性からなる、品性の下劣さの確かな証拠が遺されている。
「婦人は飾らざれば、舅姑に敢えて見えず」
「夫人はよく自らを飾り立ててからでないと、夫の父母に会わない。
(舅姑の機嫌を害さぬよう夫人も気を遣う。自分が夫を愛したからといって、
それが夫の父母もまた自分を愛してくれる理由になどなるはずもないから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
欧米聖書圏の過度な物質的繁栄は、非聖書圏やブラックアフリカの聖書圏の困窮と表裏一体の関係にある。
中東やアフリカやインドから多大な資源を巻き上げ、10億人やそこらの欧米人だけで八割以上の地球資源を
独占することで、初めて欧米内の統治支配も成立している。欧米の聖書信仰者の豚のような貪欲さを
できる限り満たしながらの統治支配を欧米の権力者が試みたために、10億人の餓死者や数十億人の貧窮者を
外界にもたらし、多大な苦悩を科せられたことからなる無軌道な乱交が破滅級の人口爆発をも生じさせている。
端的にいって、聖書信仰で世界は支配できない。強権を振りかざした悪辣な手法であっても支配できるのなら
まだしも、そもそも聖書信仰では原理的に全世界を支配することができない。貪欲や嫉妬や怠惰といった
人間の悪念を自然状態以上の過度に増幅させて、蒙昧な累犯障害者へと信者を化せしめるのが聖書信仰だから、
聖書信仰で世界を支配できる割合はせいぜい10%やそこら。10%の重度累犯障害の聖書信者を養うために
残りの90%の人々が、貧困や飢餓や戦乱や重労働といった多大なる苦難を科せられる。しかもその苦難が
耐え難く偲び難いものだから、苦悩を紛らわすための無軌道な乱交が、必然的に人口爆発や環境破壊といった
破滅級の問題をも蔓延させ始める。聖書信仰が10%の世界を十分に支配していられるような体裁を取れるのも、
ほんの一時の間だけ。ほんの一時の虚栄の後には、もう度を越した乱痴気騒ぎの後始末に移らなければならない。
中東やアフリカやインドから多大な資源を巻き上げ、10億人やそこらの欧米人だけで八割以上の地球資源を
独占することで、初めて欧米内の統治支配も成立している。欧米の聖書信仰者の豚のような貪欲さを
できる限り満たしながらの統治支配を欧米の権力者が試みたために、10億人の餓死者や数十億人の貧窮者を
外界にもたらし、多大な苦悩を科せられたことからなる無軌道な乱交が破滅級の人口爆発をも生じさせている。
端的にいって、聖書信仰で世界は支配できない。強権を振りかざした悪辣な手法であっても支配できるのなら
まだしも、そもそも聖書信仰では原理的に全世界を支配することができない。貪欲や嫉妬や怠惰といった
人間の悪念を自然状態以上の過度に増幅させて、蒙昧な累犯障害者へと信者を化せしめるのが聖書信仰だから、
聖書信仰で世界を支配できる割合はせいぜい10%やそこら。10%の重度累犯障害の聖書信者を養うために
残りの90%の人々が、貧困や飢餓や戦乱や重労働といった多大なる苦難を科せられる。しかもその苦難が
耐え難く偲び難いものだから、苦悩を紛らわすための無軌道な乱交が、必然的に人口爆発や環境破壊といった
破滅級の問題をも蔓延させ始める。聖書信仰が10%の世界を十分に支配していられるような体裁を取れるのも、
ほんの一時の間だけ。ほんの一時の虚栄の後には、もう度を越した乱痴気騒ぎの後始末に移らなければならない。
聖書信仰は、全人類を恒久的に支配する政治理念としての条件を満たしていない。儒学による世俗支配もまた、
完全な泰平状態での統治は数百年程度で一旦は寿命が尽きるが、天下全土を相当な長期に渡って統治支配する
政治理念としての条件は満たしている。翻って、聖書信仰は全世界を支配することも、長期に渡って一部の世界を
支配することも原理的にできないようになっている。万年泰平状態を確立するインド宗教ほどもの絶対性は儒学も
備えていないにしろ、一部の世界を短期的にしか支配できない聖書信仰よりはまだマシな性能を備えているといえる。
「四海困窮せば、天禄永く終えん」
「四海の人々を困窮させるような失政を犯したならば、天からの恵みも永遠に尽きることだろう。
(世界中の人々を困窮に陥らせた聖書信仰が、天命を振りかざした権威をうそぶくことはもう永遠にできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)
完全な泰平状態での統治は数百年程度で一旦は寿命が尽きるが、天下全土を相当な長期に渡って統治支配する
政治理念としての条件は満たしている。翻って、聖書信仰は全世界を支配することも、長期に渡って一部の世界を
支配することも原理的にできないようになっている。万年泰平状態を確立するインド宗教ほどもの絶対性は儒学も
備えていないにしろ、一部の世界を短期的にしか支配できない聖書信仰よりはまだマシな性能を備えているといえる。
「四海困窮せば、天禄永く終えん」
「四海の人々を困窮させるような失政を犯したならば、天からの恵みも永遠に尽きることだろう。
(世界中の人々を困窮に陥らせた聖書信仰が、天命を振りかざした権威をうそぶくことはもう永遠にできない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)
実父の身元も知れず、母親も頭のいかれた娼婦で、義父もパッとしない建設作業員だったイエスが、
何とか自分で空想上の父君像を構築しようとしている姿は、確かに非常な悲哀を帯びている。
しかし、その悲哀は決して自力で乗り越えられないものではなかった。イエスとほぼ同じ
妾腹の私生児という境遇に生まれながら(ただし母子家庭)、親戚に父親の身元を聞き出して
墓参りも果たした孔子がそれであり、そこには不遇にかられた悲哀などは少しも見られない。
同じように、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で描かれている父親殺しの描写なども、
確かに相当な狂気を帯びていて、件の罪で逮捕されたドミトリー・カラマーゾフを弁護士は
「精神の姦通者(サイコパス)」と呼び、その精神疾患としての真性さを理由とした放免を
主張してもいる。しかし、日本の平安末期に、保元の乱で敗軍の将となった源為義を、
その長男である源義朝が斬首の刑に処しても居り、さらにその息子である源頼朝や義経が、
父親の父親殺しという狂気を帯びた屈辱を晴らす目的で平氏を打倒し、鎌倉幕府をも開いている。
西洋文学史上でも最大級の悲哀を帯びている妾腹の私生児イエスの言行や、最大級の狂気を帯びている
カラマーゾフの兄弟による父親殺しなども、それと同等の物語構造を乗り越える形での大成を、東洋史上に
実在する孔子や河内源氏が、イエスやカラマーゾフの物語が創作されるよりも遥か以前に果たしている。
甚大な悲哀や狂気の情感にかられて、蒙昧な白痴と化したり、サイコパスと化したりすることは、
確かにそれと同等の悲哀や狂気を乗り越えた所にある、大人としての大成によってこそ防ぎとめられる。
決してイエスの悲哀も、カラマーゾフの狂気も分からないものではないが、さらにそれを超克した
所にこそ、聖人君子や武士としての大成もまたあるのであり、決して悲哀や狂気を無視するものではない。
それどころか、白痴やサイコパス以上にも最大級の悲哀や狂気を直視して、夢想に逃げたりすることもない。
何とか自分で空想上の父君像を構築しようとしている姿は、確かに非常な悲哀を帯びている。
しかし、その悲哀は決して自力で乗り越えられないものではなかった。イエスとほぼ同じ
妾腹の私生児という境遇に生まれながら(ただし母子家庭)、親戚に父親の身元を聞き出して
墓参りも果たした孔子がそれであり、そこには不遇にかられた悲哀などは少しも見られない。
同じように、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で描かれている父親殺しの描写なども、
確かに相当な狂気を帯びていて、件の罪で逮捕されたドミトリー・カラマーゾフを弁護士は
「精神の姦通者(サイコパス)」と呼び、その精神疾患としての真性さを理由とした放免を
主張してもいる。しかし、日本の平安末期に、保元の乱で敗軍の将となった源為義を、
その長男である源義朝が斬首の刑に処しても居り、さらにその息子である源頼朝や義経が、
父親の父親殺しという狂気を帯びた屈辱を晴らす目的で平氏を打倒し、鎌倉幕府をも開いている。
西洋文学史上でも最大級の悲哀を帯びている妾腹の私生児イエスの言行や、最大級の狂気を帯びている
カラマーゾフの兄弟による父親殺しなども、それと同等の物語構造を乗り越える形での大成を、東洋史上に
実在する孔子や河内源氏が、イエスやカラマーゾフの物語が創作されるよりも遥か以前に果たしている。
甚大な悲哀や狂気の情感にかられて、蒙昧な白痴と化したり、サイコパスと化したりすることは、
確かにそれと同等の悲哀や狂気を乗り越えた所にある、大人としての大成によってこそ防ぎとめられる。
決してイエスの悲哀も、カラマーゾフの狂気も分からないものではないが、さらにそれを超克した
所にこそ、聖人君子や武士としての大成もまたあるのであり、決して悲哀や狂気を無視するものではない。
それどころか、白痴やサイコパス以上にも最大級の悲哀や狂気を直視して、夢想に逃げたりすることもない。
「舜は親に事うるの道を尽くして、瞽瞍豫びを底す。瞽瞍豫びを底して天下化す。
瞽瞍豫びを底して天下の父子為る者のみち定まる。此れを之れ大孝と謂えり」
「舜帝は昔、親に仕える上での最大級の道を尽くしたために、聞き分けのない悪父だった
瞽瞍までもがそれに喜ぶようになった。瞽瞍すら喜ばせることができて初めて
天下も徳化され、父子のあるべき道も定まった。これこそはまさに、最大の孝道だといえる。
(重要なのは親が正しいか間違っているかではなく、自分こそが親に孝養を尽くすことである。
イエスは実父の墓に参るどころか、その身元を探し出す努力一つすらも行っていない不孝者だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二八より)
瞽瞍豫びを底して天下の父子為る者のみち定まる。此れを之れ大孝と謂えり」
「舜帝は昔、親に仕える上での最大級の道を尽くしたために、聞き分けのない悪父だった
瞽瞍までもがそれに喜ぶようになった。瞽瞍すら喜ばせることができて初めて
天下も徳化され、父子のあるべき道も定まった。これこそはまさに、最大の孝道だといえる。
(重要なのは親が正しいか間違っているかではなく、自分こそが親に孝養を尽くすことである。
イエスは実父の墓に参るどころか、その身元を探し出す努力一つすらも行っていない不孝者だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二八より)
イエスは妾腹の私生児ではあるが、義父のヨセフがいた。
孔子は妾腹の私生児である上に、父無しの母子家庭で育った。
カラマーゾフの兄弟は、文鎮代わりの杵で父親のフョードルを撲殺したが、
頼朝や義経の父である義朝は、自分の父親である為義を斬首によって刑殺した。
空想よりもさらに陰惨であった上で、なおのこと乗り越えられている現実。
ドストエフスキーは「罪と罰」でも、ラスコーリニコフに斧の背で
金貸しのユダヤ女を撲殺させているが、血しぶき迸る現実の惨憺さから空想家こそは
目を背けたがる心理を、ドストエフスキー自身が自らの文学表現で体現しているといえる。
孔子は妾腹の私生児である上に、父無しの母子家庭で育った。
カラマーゾフの兄弟は、文鎮代わりの杵で父親のフョードルを撲殺したが、
頼朝や義経の父である義朝は、自分の父親である為義を斬首によって刑殺した。
空想よりもさらに陰惨であった上で、なおのこと乗り越えられている現実。
ドストエフスキーは「罪と罰」でも、ラスコーリニコフに斧の背で
金貸しのユダヤ女を撲殺させているが、血しぶき迸る現実の惨憺さから空想家こそは
目を背けたがる心理を、ドストエフスキー自身が自らの文学表現で体現しているといえる。
↑おい、auのお前
スマホ( ´艸`)いいぞーみまめ
スマホ( ´艸`)いいぞーみまめ
キリスト信仰の願いが道義的に叶えられてはならないのは、
現実に乗り越えることが可能な程度の悲哀や狂気に駆られて打ちひしがれるような、
未熟な精神薄弱者の願いがキリスト信仰の願いでしかないからだ。
妾腹の私生児としての悲哀も、イエスよりもさらにひどい境遇の中で孔子が乗り越えているし、
カラマーゾフの父殺しの狂気だって、源頼朝や義経が父の屈辱を晴らす形で乗り越えている。
感情を揺さぶる悲哀や狂気を乗り越えられずに、蒙昧に打ちひしがれているものよりは、
ちゃんと感情の焼け付きを乗り越えて大業を果たしたものの有り方にこそ倣わねばならない。
じゃあ、倣うべき孔子のほうの願いはといえば、
「年長者には安堵され、同輩には信頼され、年少者には慕われるようになりたい(公冶長第五・二六)」
などといったものであり、その願いは孔子の存命中にもある程度叶えられ、死後にも数千年の永きに渡って、
その教学が老若男女から安心して信頼できる思慕の対象となり続けている。その願い事がごく素朴で、
すでに叶えられているようなものであるのは、始めから貪欲さ自体が適正に自制されているから。
大志もないことはないにしろ、あまり野望をひけらかすことも不埒なことであるに違いないから。
現実に乗り越えることが可能な程度の悲哀や狂気に駆られて打ちひしがれるような、
未熟な精神薄弱者の願いがキリスト信仰の願いでしかないからだ。
妾腹の私生児としての悲哀も、イエスよりもさらにひどい境遇の中で孔子が乗り越えているし、
カラマーゾフの父殺しの狂気だって、源頼朝や義経が父の屈辱を晴らす形で乗り越えている。
感情を揺さぶる悲哀や狂気を乗り越えられずに、蒙昧に打ちひしがれているものよりは、
ちゃんと感情の焼け付きを乗り越えて大業を果たしたものの有り方にこそ倣わねばならない。
じゃあ、倣うべき孔子のほうの願いはといえば、
「年長者には安堵され、同輩には信頼され、年少者には慕われるようになりたい(公冶長第五・二六)」
などといったものであり、その願いは孔子の存命中にもある程度叶えられ、死後にも数千年の永きに渡って、
その教学が老若男女から安心して信頼できる思慕の対象となり続けている。その願い事がごく素朴で、
すでに叶えられているようなものであるのは、始めから貪欲さ自体が適正に自制されているから。
大志もないことはないにしろ、あまり野望をひけらかすことも不埒なことであるに違いないから。
未熟者が悲哀や狂気に駆られて垂れ流す妄言と、大成者が情感をよく抑えて発する金言とでは、
その発言の姿勢からして違い、言うべきことを言って言うべきでないことを言わない分別から未熟者は
学んでいかねばならないから、ただ孔子や孟子の言行を猿真似すればそれで大成できるわけでもない。
犯罪聖書の記述内容だけでなく、その妄言の垂れ流し方から見習わないように努めて、四書五経の
記述内容だけでなく、その金言の発され方から見習うようにしていかねばならず、それは正直、
高年者となるまで聖書信仰に惑溺し続けてきたような人間には、存命中の達成が不可能なもの。
もはや再起も不能な者については、ただひたすらこの世から退くことのほうを勧めはする。
未熟者のままでつまらぬ人生を終えることも、世の外側でなら恥じ入らずに済むだろう。
「国に而て礼無くんば、何を以ってか栄を求めん」
「国に礼儀が通用してもいないのに、どうして栄光を求めたりすることができようか。
(天下国家を無礼な争乱に陥れた中で求める栄光など、どこまでも虚栄でしかないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十六年より)
その発言の姿勢からして違い、言うべきことを言って言うべきでないことを言わない分別から未熟者は
学んでいかねばならないから、ただ孔子や孟子の言行を猿真似すればそれで大成できるわけでもない。
犯罪聖書の記述内容だけでなく、その妄言の垂れ流し方から見習わないように努めて、四書五経の
記述内容だけでなく、その金言の発され方から見習うようにしていかねばならず、それは正直、
高年者となるまで聖書信仰に惑溺し続けてきたような人間には、存命中の達成が不可能なもの。
もはや再起も不能な者については、ただひたすらこの世から退くことのほうを勧めはする。
未熟者のままでつまらぬ人生を終えることも、世の外側でなら恥じ入らずに済むだろう。
「国に而て礼無くんば、何を以ってか栄を求めん」
「国に礼儀が通用してもいないのに、どうして栄光を求めたりすることができようか。
(天下国家を無礼な争乱に陥れた中で求める栄光など、どこまでも虚栄でしかないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十六年より)
引用ばかりのお前などが、何々は未熟であるなどとのたまうことができようとはな
( ´艸`)ぷっ
( ´艸`)ぷっ
既成物を何もかも「時代遅れ」と見なして、ただひたすら創作の一辺倒であったりするのが未熟者だ。
善いものは善いものでなるべく継承して行き、悪いものは悪いもので受け継いでいかないようにするのが大人だ。
あらゆる人類文化のうちでも、最も劣悪な所産である犯罪聖書の文化だけは頑なに守り通し、
その他の文化については七色変化の破壊と創作を繰り返している聖書圏の文化的取り組みこそは、未熟の極み。
どこまでいっても文化が熟成するということがなく、精神的に熟成した大人が育ったりすることもない。
犯罪聖書並みに劣悪な、儒道以外の諸子百家の論説や、インドの六師外道の教えなどはさっさと廃絶し、
儒学や仏教の良質な教えに根ざした文化ばかりを無数に継承してきた東洋の文化的なあり方こそは、
人と文化とを共に熟成した高尚さへと押し上げていく黄金比に適っている。まさに悪いもの、善くないものを
適切に廃棄処分して、善いもの、悪くないものだけを適切に保存して継承の対処としてきた模範ともいえるあり方であり、
悪いものだけを残そうとしたあまり、何一つとして悪い以上に善いものを残せなかった聖書圏とは逆の姿だといえる。
覇道によって領地を拡大していくこと自体が劣悪な理念なので、日本にしろ中国にしろインドにしろ、
良質で熟成された文化を持つ国は、いずれもあまり領地拡大を志さないで来た。(赤化後の中国などは除く)
一方で、覇道の劣悪さを全く臆面もなく正当化してきた聖書圏こそは非常識な規模の領地拡大を志し、
今では世界中のほとんどの国土が聖書信仰者に征服されるまでになった。その結果、世界中が未開の土人社会以上もの
汚濁にまみれ、世界人口を爆発させるほどにも乱交に明け暮れていなければいられないほどもの苦悩を世界中に撒き散らした。
まさに、聖書信仰をこの世から根絶することこそは、全人類を救済する上での最も重大な機縁となる。
聖書信仰の蒙昧がこの世での覇権を失いつくすことで初めて、誰しもが飢え渇くことなく
十分な糧食に与り、乱交に及んだりもしないでいられるだけの精神の平穏にも与れるようになる。
善いものは善いものでなるべく継承して行き、悪いものは悪いもので受け継いでいかないようにするのが大人だ。
あらゆる人類文化のうちでも、最も劣悪な所産である犯罪聖書の文化だけは頑なに守り通し、
その他の文化については七色変化の破壊と創作を繰り返している聖書圏の文化的取り組みこそは、未熟の極み。
どこまでいっても文化が熟成するということがなく、精神的に熟成した大人が育ったりすることもない。
犯罪聖書並みに劣悪な、儒道以外の諸子百家の論説や、インドの六師外道の教えなどはさっさと廃絶し、
儒学や仏教の良質な教えに根ざした文化ばかりを無数に継承してきた東洋の文化的なあり方こそは、
人と文化とを共に熟成した高尚さへと押し上げていく黄金比に適っている。まさに悪いもの、善くないものを
適切に廃棄処分して、善いもの、悪くないものだけを適切に保存して継承の対処としてきた模範ともいえるあり方であり、
悪いものだけを残そうとしたあまり、何一つとして悪い以上に善いものを残せなかった聖書圏とは逆の姿だといえる。
覇道によって領地を拡大していくこと自体が劣悪な理念なので、日本にしろ中国にしろインドにしろ、
良質で熟成された文化を持つ国は、いずれもあまり領地拡大を志さないで来た。(赤化後の中国などは除く)
一方で、覇道の劣悪さを全く臆面もなく正当化してきた聖書圏こそは非常識な規模の領地拡大を志し、
今では世界中のほとんどの国土が聖書信仰者に征服されるまでになった。その結果、世界中が未開の土人社会以上もの
汚濁にまみれ、世界人口を爆発させるほどにも乱交に明け暮れていなければいられないほどもの苦悩を世界中に撒き散らした。
まさに、聖書信仰をこの世から根絶することこそは、全人類を救済する上での最も重大な機縁となる。
聖書信仰の蒙昧がこの世での覇権を失いつくすことで初めて、誰しもが飢え渇くことなく
十分な糧食に与り、乱交に及んだりもしないでいられるだけの精神の平穏にも与れるようになる。
覇権主義の征服者がこの世から絶えて、覇道の野望などは全く持っていなかった徳治者が代わりに長期の泰平社会を
樹立するというのは、徳治史上おいては極めて順当な流れに当たる。始皇帝にしろ煬帝にしろ、平清盛にしろ信長にしろ、
自分個人や隣人の富のために天下争奪に及んだ点で共通し、そのような劣悪な目的で天下を征服したことが祟って
追討を受け、漢や唐や源氏や徳川が「棚からぼた餅」の形で長期の天下平定の立役者となることを許してしまった。
それは全く順当なことで、覇道のための覇道に突っ走って来たものが、長期の天下泰平までをも自力で確立することが
できないのは一つの普遍法則に当たる。覇道のための覇道は世界を自然状態以上にも荒廃させるものである一方で、
統一された天下を平定することには自然状態以上もの人間社会の善良化を企図する必要があるから、両者を同じ人間や
同じ思想信条が兼任することは不可能なこととなる。聖書信仰によって荒廃させられたこの世界を自然状態以上にも
善くすることができるのも、儒学以上に優良な教学だけであり、儒学以上の教学はどれも聖書信仰と相容れない
志向性を持ち合わせているから、聖書信仰者がそこから先の社会運営を主導していくことも適わないのである。
「五穀は種の美なる者なり。苟しくも熟せざれば、荑稗にも如かず。夫れ仁も亦た之れを熟するに在るのみ」
「五穀は穀類の中でも特に美味なものだが、十分に熟成させてからでないと稗ほどにも食えたものじゃない。
仁もまたこれと同じで、十分に成熟させるところにこそ価値があるのだ。(聖書信者はさしずめ、
まだ熟成もされていない、青臭いままの五穀を世界中に貪った不仁者とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一九より)
樹立するというのは、徳治史上おいては極めて順当な流れに当たる。始皇帝にしろ煬帝にしろ、平清盛にしろ信長にしろ、
自分個人や隣人の富のために天下争奪に及んだ点で共通し、そのような劣悪な目的で天下を征服したことが祟って
追討を受け、漢や唐や源氏や徳川が「棚からぼた餅」の形で長期の天下平定の立役者となることを許してしまった。
それは全く順当なことで、覇道のための覇道に突っ走って来たものが、長期の天下泰平までをも自力で確立することが
できないのは一つの普遍法則に当たる。覇道のための覇道は世界を自然状態以上にも荒廃させるものである一方で、
統一された天下を平定することには自然状態以上もの人間社会の善良化を企図する必要があるから、両者を同じ人間や
同じ思想信条が兼任することは不可能なこととなる。聖書信仰によって荒廃させられたこの世界を自然状態以上にも
善くすることができるのも、儒学以上に優良な教学だけであり、儒学以上の教学はどれも聖書信仰と相容れない
志向性を持ち合わせているから、聖書信仰者がそこから先の社会運営を主導していくことも適わないのである。
「五穀は種の美なる者なり。苟しくも熟せざれば、荑稗にも如かず。夫れ仁も亦た之れを熟するに在るのみ」
「五穀は穀類の中でも特に美味なものだが、十分に熟成させてからでないと稗ほどにも食えたものじゃない。
仁もまたこれと同じで、十分に成熟させるところにこそ価値があるのだ。(聖書信者はさしずめ、
まだ熟成もされていない、青臭いままの五穀を世界中に貪った不仁者とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一九より)
もはやイジワル爺さん頑固ジジイ
イジワル爺さん、世界を救うの巻
犯罪聖書中の美辞麗句はそのことごとくが嘘八百であり、
嘘八百だからそれを信じれば転倒夢想になる。
転倒夢想に耽りながら社会活動を行おうとするから破滅にも陥る。
全くありきたりな、詐欺被害者のありさまだといえる。
被害者だからといって同情してもらえるほどシラフでもなく、本気で犯罪聖書を
信じているような人間には、鼻つまみもの並みにふてぶてしい言行が数多く見られる。
転倒夢想を糧に独自の妄想をも発展させ、自意識過剰の思い上がりを致命的なほどまでに
肥大化させてしまっているため、ただ棄教が困難なだけでなく、その言行全般が深刻な害為を
帯びてしまっている。そのため棄教したところで、カルト信者に特有の劣悪な言動規範は
しばらくの間持ち越されることとなり、禁治産越しの治療などを通じて徐々に矯正されていく。
再度いうとおり、ある程度以上の高年者の場合には存命中の矯正も達し切れなかったりするために、
終身療養生活となる場合もある。本人自身よりは、その子孫の更生のほうが期待できるものであり、
なるべくわが子や孫への「子愛」を養って、その将来に期待しながら余生を過ごすなどすればいい。
犯罪聖書には親子兄弟の争いを促進する記述もあり、それを信じていた以上は子弟への愛慕を
養うこともまた困難な場合があるだろうが、やはり親にとってわが子は可愛いもので、そこは
カルト信仰によっても転覆させられきれない部分だろうから、存命中の再起が困難な高年の
元カルト信者などについては、わが子への期待を糧に無難な余生を全うすることを勧めるものだ。
「不仁者は与に言う可けんや。其の危きを安しとし、其の菑いを利とし、
其の亡ぶる所以の者を楽しむ。不仁にして与に言う可くんば、則ち何の亡国敗家之れ有らん」
「不仁者には共に語り合うだけの素養すらない。危ういものを平安と見なし、わざわいを利益と見なし、
将来の希望を亡ぼす原因となるものばかりを楽しもうとするから。もしも不仁しゃであっても私と
語り合う程度のことすらできたなら、国家を敗亡させるようなこともなくて済んだだろうに」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
嘘八百だからそれを信じれば転倒夢想になる。
転倒夢想に耽りながら社会活動を行おうとするから破滅にも陥る。
全くありきたりな、詐欺被害者のありさまだといえる。
被害者だからといって同情してもらえるほどシラフでもなく、本気で犯罪聖書を
信じているような人間には、鼻つまみもの並みにふてぶてしい言行が数多く見られる。
転倒夢想を糧に独自の妄想をも発展させ、自意識過剰の思い上がりを致命的なほどまでに
肥大化させてしまっているため、ただ棄教が困難なだけでなく、その言行全般が深刻な害為を
帯びてしまっている。そのため棄教したところで、カルト信者に特有の劣悪な言動規範は
しばらくの間持ち越されることとなり、禁治産越しの治療などを通じて徐々に矯正されていく。
再度いうとおり、ある程度以上の高年者の場合には存命中の矯正も達し切れなかったりするために、
終身療養生活となる場合もある。本人自身よりは、その子孫の更生のほうが期待できるものであり、
なるべくわが子や孫への「子愛」を養って、その将来に期待しながら余生を過ごすなどすればいい。
犯罪聖書には親子兄弟の争いを促進する記述もあり、それを信じていた以上は子弟への愛慕を
養うこともまた困難な場合があるだろうが、やはり親にとってわが子は可愛いもので、そこは
カルト信仰によっても転覆させられきれない部分だろうから、存命中の再起が困難な高年の
元カルト信者などについては、わが子への期待を糧に無難な余生を全うすることを勧めるものだ。
「不仁者は与に言う可けんや。其の危きを安しとし、其の菑いを利とし、
其の亡ぶる所以の者を楽しむ。不仁にして与に言う可くんば、則ち何の亡国敗家之れ有らん」
「不仁者には共に語り合うだけの素養すらない。危ういものを平安と見なし、わざわいを利益と見なし、
将来の希望を亡ぼす原因となるものばかりを楽しもうとするから。もしも不仁しゃであっても私と
語り合う程度のことすらできたなら、国家を敗亡させるようなこともなくて済んだだろうに」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)
最新の物理理論なども、「現象の理合」としての神仏の存在性は認める一方で、
形而上から万物を司る人格神の存在などは認めない。それは実際、実在しない。
そんな実在しない虚構神への狂信などを多くの人々が募らせているものだから、
地球人類社会も破滅に陥り、このままでは滅亡すら避けることができない。
この地を継ぐもの、あの山を継ぐものこそは、必ず聖書信仰を廃絶せねばならない。
決して親しいものとして近づいたりもせず、快楽殺人犯か
連続強姦魔並みの厳重な警戒対象としていかなければならない。
これからの時代を、閉鎖病棟内の禁治産者として過ごすのならともかく、
この地球上で積極的に社会参画を進めていくというのなら、聖書信仰の破棄は必須である。
信仰せず、信仰させぬことを当たり前の大前提としてこそ、いっぱしの社会人たり得る。
もちろん元凶は聖書自体であり、信者のほうは一種の詐欺被害者ですらあるのだから、
今まで聖書信者だったところを棄教した人間などを、そんなに邪険に扱ってもならず、
長らく狂信中毒に陥っていたことへの手厚い療養措置なども施してやるべきだ。
ただ「おかしい」というだけではなく、道理に真っ向から相反する完全誤謬であり、
完全誤謬であるが故に人類生存のための根絶もまた必須であるというレアケースが
聖書信仰に当たり、ただ異端のカルトだから廃絶しなければならないというばかりでもない。
確かに聖書は特別な書物。唯一無二の書物。唯一無二にして最低最悪の書物だからこそ
信仰根絶の対象とすら見なされなければならない。そこは確かに未曾有なことだ。
形而上から万物を司る人格神の存在などは認めない。それは実際、実在しない。
そんな実在しない虚構神への狂信などを多くの人々が募らせているものだから、
地球人類社会も破滅に陥り、このままでは滅亡すら避けることができない。
この地を継ぐもの、あの山を継ぐものこそは、必ず聖書信仰を廃絶せねばならない。
決して親しいものとして近づいたりもせず、快楽殺人犯か
連続強姦魔並みの厳重な警戒対象としていかなければならない。
これからの時代を、閉鎖病棟内の禁治産者として過ごすのならともかく、
この地球上で積極的に社会参画を進めていくというのなら、聖書信仰の破棄は必須である。
信仰せず、信仰させぬことを当たり前の大前提としてこそ、いっぱしの社会人たり得る。
もちろん元凶は聖書自体であり、信者のほうは一種の詐欺被害者ですらあるのだから、
今まで聖書信者だったところを棄教した人間などを、そんなに邪険に扱ってもならず、
長らく狂信中毒に陥っていたことへの手厚い療養措置なども施してやるべきだ。
ただ「おかしい」というだけではなく、道理に真っ向から相反する完全誤謬であり、
完全誤謬であるが故に人類生存のための根絶もまた必須であるというレアケースが
聖書信仰に当たり、ただ異端のカルトだから廃絶しなければならないというばかりでもない。
確かに聖書は特別な書物。唯一無二の書物。唯一無二にして最低最悪の書物だからこそ
信仰根絶の対象とすら見なされなければならない。そこは確かに未曾有なことだ。
「今の君に事うる者は皆な曰う、我れ能く君が為めに土地を辟き、府庫を充たすと。今之の所謂良臣は、
古えの所謂民の賊なり。君道に郷わず、仁を志さざるに、之れを富まさんことを求むるは、是れ桀を富ますなり」
「いま主君に仕えようとするような者はみな、人気取りのために『私に任せていただければ君のために地を拓いて
君がためのものとし、租税を取り立てて国庫を山のような財産で充たしてあげましょう』などという。今こうして
良臣扱いされているような輩は、昔は民を損なう盗賊として扱われていた。主君が道理を求めず、仁徳を志そうとも
していないのに、ただ富ませることばかりを追い求めるのでは、桀王のような暴君を富ませるのとも同じことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・九より)
古えの所謂民の賊なり。君道に郷わず、仁を志さざるに、之れを富まさんことを求むるは、是れ桀を富ますなり」
「いま主君に仕えようとするような者はみな、人気取りのために『私に任せていただければ君のために地を拓いて
君がためのものとし、租税を取り立てて国庫を山のような財産で充たしてあげましょう』などという。今こうして
良臣扱いされているような輩は、昔は民を損なう盗賊として扱われていた。主君が道理を求めず、仁徳を志そうとも
していないのに、ただ富ませることばかりを追い求めるのでは、桀王のような暴君を富ませるのとも同じことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・九より)
「四牡孔だ阜いなり、六轡手に在り、騏駵は是れ中、騧驪は是れ驂、龍盾は之れ合し、鋈して以てケツ軜とす。
言れ君子を念う、温として其れ邑に在らん。方に何か期と為さん、胡ぞ然く我れを之れ念わしむるや」
「戦車を引く馬は大きく肥え太り、六本の手綱が御者の手に握られる。見栄えのする青黒い馬や赤黒い馬が副馬として添えられ、
黄色い馬や黒い馬までもがさらにそれに続く。車上には龍の描かれた豪華な盾が二枚並べ合わせて立てられ、
添え馬にも白金で鍍金された馬具が光り輝いている。こんな戦車隊の一員として、私の夫も軍役に従事していますが、
今でも私に見せてくれていたような温かな笑顔で、戦地の村にいるのでしょうか。いつになったら帰って来てくれるのでしょうか。
どうして私をこんなに心配にさせるのでしょうか。(戦車隊を飾る美々しい盾なども、軍役に赴く夫の妻にとっては、
ただより多くの心配を抱かせるばかりである。兵装の美々しさが敵軍の戦意すらも煽ることを、いち夫人ですらもが察知している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・秦風・小戎より)
言れ君子を念う、温として其れ邑に在らん。方に何か期と為さん、胡ぞ然く我れを之れ念わしむるや」
「戦車を引く馬は大きく肥え太り、六本の手綱が御者の手に握られる。見栄えのする青黒い馬や赤黒い馬が副馬として添えられ、
黄色い馬や黒い馬までもがさらにそれに続く。車上には龍の描かれた豪華な盾が二枚並べ合わせて立てられ、
添え馬にも白金で鍍金された馬具が光り輝いている。こんな戦車隊の一員として、私の夫も軍役に従事していますが、
今でも私に見せてくれていたような温かな笑顔で、戦地の村にいるのでしょうか。いつになったら帰って来てくれるのでしょうか。
どうして私をこんなに心配にさせるのでしょうか。(戦車隊を飾る美々しい盾なども、軍役に赴く夫の妻にとっては、
ただより多くの心配を抱かせるばかりである。兵装の美々しさが敵軍の戦意すらも煽ることを、いち夫人ですらもが察知している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・秦風・小戎より)
昔の戦争は刃物での戦闘がほとんど。
刀にしろ槍にしろ薙刀にしろ弓矢にしろ、
相手を傷つける刃体が金属製であればキラリと輝く。
戦場で光り物を輝かせれば、それだけで危険物と捉えられかねない。
にもかかわらず馬車に光り物のメッキの装飾が施されている。
華美を凝らすあまり、敵軍を挑発する、格好の的なってしまっている。
弱者である婦人であればこそ、このような
危ういものの危うさにも敏感だったのだろう。
刀にしろ槍にしろ薙刀にしろ弓矢にしろ、
相手を傷つける刃体が金属製であればキラリと輝く。
戦場で光り物を輝かせれば、それだけで危険物と捉えられかねない。
にもかかわらず馬車に光り物のメッキの装飾が施されている。
華美を凝らすあまり、敵軍を挑発する、格好の的なってしまっている。
弱者である婦人であればこそ、このような
危ういものの危うさにも敏感だったのだろう。
聖書信仰が解禁された明治以降、この日本では真理や道理に耳を傾ける人間が極端に少なくなった。
廃仏毀釈によって、真理を実践的に求道していくすべは根本から失われ、
人間道徳も西洋の「モラル(犯罪寓意)」と混同されて、その価値に大きな疑義が呈されることとなり、
敗戦後にいたってはもはや道徳の評価も地に墜ち、完全誤謬に根ざした
放辟邪侈だけが、日本人に許される人としてのあり方とされるまでに至った。
真理への理解がまず失われ、その次に道理への理解が徐々に損なわれて行き、最後には完全誤謬だけが残った。
つまり、真理は完全誤謬よりは道理に近いものであり、ある意味、道理以上にも人からは遠ざかりやすいもの。
親鸞聖人が仏者としての立場から「悪人正機」という善悪論を提唱したのも、武士の台頭によって
仏道が損なわれ始めた鎌倉時代に、最低限仏説を広めておこうと苦心した痕跡でこそあり、真理にとっての
不遇の時代に仮の姿として現れるのが道徳的な善悪論であるとすらいえ、道徳の善悪論すら通用しないような
完全誤謬まみれの世相において、真理が道理以上にも理解しやすいなどということがあるはずもないのだ。
完全誤謬の化身であるイエスの言説なぞは、真理に相反するだけでなく、その多くが真理とは無縁である。
俗世の腐敗した人間のあり方を正当化する詭弁にまみれているため、そこは真理と無縁ですらあるところ。
孔子の「君子と小人」論や孟子の性善説よろしく、恣意的な論及によって勧善懲悪への積極性を学徒に
備わらせようとする儒学のあり方のほうが、悪逆非道への積極性を信者に備わらせようとする聖書信仰の
あり方にも「姿勢」として近似している。孔孟の教えが勧善懲悪にかけて半ば洗脳的であることもまた、
聖書信仰が悪逆非道にかけて洗脳的であるのと類を同じくするところであり、真理をありのままに
把捉しようとする仏門においては、他力本願の方便信仰でもない限りは、そんなこともないのである。
廃仏毀釈によって、真理を実践的に求道していくすべは根本から失われ、
人間道徳も西洋の「モラル(犯罪寓意)」と混同されて、その価値に大きな疑義が呈されることとなり、
敗戦後にいたってはもはや道徳の評価も地に墜ち、完全誤謬に根ざした
放辟邪侈だけが、日本人に許される人としてのあり方とされるまでに至った。
真理への理解がまず失われ、その次に道理への理解が徐々に損なわれて行き、最後には完全誤謬だけが残った。
つまり、真理は完全誤謬よりは道理に近いものであり、ある意味、道理以上にも人からは遠ざかりやすいもの。
親鸞聖人が仏者としての立場から「悪人正機」という善悪論を提唱したのも、武士の台頭によって
仏道が損なわれ始めた鎌倉時代に、最低限仏説を広めておこうと苦心した痕跡でこそあり、真理にとっての
不遇の時代に仮の姿として現れるのが道徳的な善悪論であるとすらいえ、道徳の善悪論すら通用しないような
完全誤謬まみれの世相において、真理が道理以上にも理解しやすいなどということがあるはずもないのだ。
完全誤謬の化身であるイエスの言説なぞは、真理に相反するだけでなく、その多くが真理とは無縁である。
俗世の腐敗した人間のあり方を正当化する詭弁にまみれているため、そこは真理と無縁ですらあるところ。
孔子の「君子と小人」論や孟子の性善説よろしく、恣意的な論及によって勧善懲悪への積極性を学徒に
備わらせようとする儒学のあり方のほうが、悪逆非道への積極性を信者に備わらせようとする聖書信仰の
あり方にも「姿勢」として近似している。孔孟の教えが勧善懲悪にかけて半ば洗脳的であることもまた、
聖書信仰が悪逆非道にかけて洗脳的であるのと類を同じくするところであり、真理をありのままに
把捉しようとする仏門においては、他力本願の方便信仰でもない限りは、そんなこともないのである。
「夫れ苟くも善を好めば、則ち四海の内、皆な将に千里を軽しとして来たり、之に告ぐに善を以ってす。
夫れ苟くも善を好まざれば、則ち将に訑訑として予れ既に之れを知るのみと曰わん。
訑訑とした声音顔色は、人を千里の外に距つ。士千里の外に止むれば、則ち讒諂面諛の人至らん」
「もしも自分が善を好む人間であるなら、世界中の人々が千里の道のりすら軽く乗り越えて自分の下に
やって来て、色々と善いことを勧めてくれるだろう。しかし、もしも自分が善を嫌う人間であれば、
驕り高ぶって『自分こそは何でも知っている』というような傲岸な態度でいようとする。そのような驕りから
なる声高さや顔つきが、自然と人々を千里の外側にすら遠ざける。賢人が誰も彼も千里の外側に避難している
状態ともなれば、ただ相手を貶める讒言や媚び諂いを尽くすような人間ばかりが集まってくるようになる。
(イエスの驕り高ぶった態度こそは、善を嫌って賢人を遠ざけ、佞人を近づけようとしていた証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一三より)
夫れ苟くも善を好まざれば、則ち将に訑訑として予れ既に之れを知るのみと曰わん。
訑訑とした声音顔色は、人を千里の外に距つ。士千里の外に止むれば、則ち讒諂面諛の人至らん」
「もしも自分が善を好む人間であるなら、世界中の人々が千里の道のりすら軽く乗り越えて自分の下に
やって来て、色々と善いことを勧めてくれるだろう。しかし、もしも自分が善を嫌う人間であれば、
驕り高ぶって『自分こそは何でも知っている』というような傲岸な態度でいようとする。そのような驕りから
なる声高さや顔つきが、自然と人々を千里の外側にすら遠ざける。賢人が誰も彼も千里の外側に避難している
状態ともなれば、ただ相手を貶める讒言や媚び諂いを尽くすような人間ばかりが集まってくるようになる。
(イエスの驕り高ぶった態度こそは、善を嫌って賢人を遠ざけ、佞人を近づけようとしていた証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一三より)
性根が腐れ果てている人間にも、本人なりに根とするところがある。
傍から見ればひどくお粗末な虚構であったところで、本人が根とするところである。
根とするものは、本人こそが意識しない。根を張っている部分から何かをすることのほうに
頭がいって、自分の根を省みるなんてことはほとんどない。腐れ果てた性根の持ち主であれば
あるほどそうであり、どうしようもない腐敗を帯びた自らの根をなるべく眼中から外そうとする。
我流の思想信条で性根が腐れきっている人間だけでなく、エホバやキリストを我が性根の
在り処と自認する聖書信者でも、それは同じだ。聖書の記述はそのことごとくが詭弁であり、
書いてあるとおりに読めば美辞麗句のようであったりもする。その記述をありのままに
性根に据えようとしたところで、刑死した人間が生き返るようなことも実際にはないので、
記述どおりに実現することができない聖書の記述を性根に据えようとした結果、現実上では
腐れ果てた性根を持つようになる。そのようにして腐れ果てた性根を備えた人間が、自ら
性根とすることを自認する聖書の記述を読んでみれば、それはそれなりに美辞麗句っぽくもある。
腐れ果てた性根を美化するための詭弁に聖書の記述が役立ち、いつまでも自らの腐れ果てた性根の
実態からは目を背けていられるというのが、聖書信仰の「臭いものには蓋」のカラクリに当たる。
聖書の記述を性根に据えようとして、全く記述どおりに現実はいかなくて、結果として腐れ果てた
性根しか持ち得なくなっている。その腐れ果てた性根自体は、聖書の記述を読んだからといって
直視できるものではなく、むしろ聖書の記述も聖書信仰も取り払った所でこそ直視できる。
自分たちの腐敗した性根を直視しないための色眼鏡としての、聖書の美辞麗句の有害さをわきまえよ。
傍から見ればひどくお粗末な虚構であったところで、本人が根とするところである。
根とするものは、本人こそが意識しない。根を張っている部分から何かをすることのほうに
頭がいって、自分の根を省みるなんてことはほとんどない。腐れ果てた性根の持ち主であれば
あるほどそうであり、どうしようもない腐敗を帯びた自らの根をなるべく眼中から外そうとする。
我流の思想信条で性根が腐れきっている人間だけでなく、エホバやキリストを我が性根の
在り処と自認する聖書信者でも、それは同じだ。聖書の記述はそのことごとくが詭弁であり、
書いてあるとおりに読めば美辞麗句のようであったりもする。その記述をありのままに
性根に据えようとしたところで、刑死した人間が生き返るようなことも実際にはないので、
記述どおりに実現することができない聖書の記述を性根に据えようとした結果、現実上では
腐れ果てた性根を持つようになる。そのようにして腐れ果てた性根を備えた人間が、自ら
性根とすることを自認する聖書の記述を読んでみれば、それはそれなりに美辞麗句っぽくもある。
腐れ果てた性根を美化するための詭弁に聖書の記述が役立ち、いつまでも自らの腐れ果てた性根の
実態からは目を背けていられるというのが、聖書信仰の「臭いものには蓋」のカラクリに当たる。
聖書の記述を性根に据えようとして、全く記述どおりに現実はいかなくて、結果として腐れ果てた
性根しか持ち得なくなっている。その腐れ果てた性根自体は、聖書の記述を読んだからといって
直視できるものではなく、むしろ聖書の記述も聖書信仰も取り払った所でこそ直視できる。
自分たちの腐敗した性根を直視しないための色眼鏡としての、聖書の美辞麗句の有害さをわきまえよ。
「君子の性とする所は、仁義礼智にして心に根ざす。其の色の生ずるや、
睟然として面に見われ、背に盎われ、四体に施れ、言わずして喩る」
「君子の性分とするところは仁義礼智であり、この四徳が深く心に根を下ろしている。
そのためその清らかさは顔色にも表れ、後姿にすら表れ、四肢にまで行き渡り、
何も言わないでも自然と人に覚らせるところがある。(性根とする所を明確化させる点も、
儒学の聖書信仰と近似する点だといえる。性根が何ものにも惑わされない境地を目指す
仏教や道家の求道にまでは至らない初心者が、とりあえず邪教の誘惑に駆られての
性根の腐敗を防止する上では、仁義礼智を性根に据えることもまた有効だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二一より)
睟然として面に見われ、背に盎われ、四体に施れ、言わずして喩る」
「君子の性分とするところは仁義礼智であり、この四徳が深く心に根を下ろしている。
そのためその清らかさは顔色にも表れ、後姿にすら表れ、四肢にまで行き渡り、
何も言わないでも自然と人に覚らせるところがある。(性根とする所を明確化させる点も、
儒学の聖書信仰と近似する点だといえる。性根が何ものにも惑わされない境地を目指す
仏教や道家の求道にまでは至らない初心者が、とりあえず邪教の誘惑に駆られての
性根の腐敗を防止する上では、仁義礼智を性根に据えることもまた有効だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二一より)
人がこの世に利益以上の損害を及ぼすとき、そこには必ず悪意がある。
他者に危害を加えてでも自分が富もうとする、有害な作為(害為)がある。
十字架信仰こそは、その害為を美化して推進することを目的としたものであり、
特殊な思想信条を持たないただの自然人以上もの害為を信者に蓄えさせる。
道家や仏教などの超俗思考の教学では、作為全般を棄て去ることによる害為の捨離をも目指す。
それでこそ、根本からの害為の廃絶にもなるとするが、無為であるということは世俗社会では非常に
難しいことで、無理に実践した結果、「何もできないロクデナシ」扱いされたりするようなこともある。
無為自然によって害為を棄て去るほうが、より根本的な解決策とはなるが、それだけ難しい。むしろ
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする仁心を抱くほうが、害為に打ち克つ上では手っ取り早い。
自利以上の利他を志す菩提心を抱くことのほうが、ひとまず害為を超克しておく上ではたやすいこと。
ただ、やはりそれは根本からの害為の根絶手段にはならない。
たとえば、徳川家康が私することなく貯蓄していた現数百兆円規模の資産は、確かに歴代将軍によって
幕府経営のために費やされ、五代将軍綱吉の代でその底も尽きた。消費された資産は大坂堺の豪商などの
蔵に流れ込み、幕末に薩長軍がグラバーから重火器を購入して幕府を倒壊させるための融資にも用いられた。
結果、最終的に徳川家康が天下平定のために貯蓄していた資産は、今ではロスチャイルド財閥の貯蓄や、
ロックフェラー財閥の兵器へと様変わりしてしまっているわけで、世の中に損害以上の利益をもたらそう
とした徳川家康の努力は、現時点では米英の悪徳金融の私腹を肥やすだけの結果となってしまっている。
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする、作為的な仁者がいればこそ、利益以上の損害をもたらそう
とする害為正法外道が、仁者たちの努力に甘えて放辟邪侈を肥大化させていく余地をも生じさせてしまう。
だから正善への作為も、害為を根絶する決定的な手段になるとはいえないが、ただ、害為を肥大化させて
推進して来た連中よりは、まだ善為を推進して来た人々のほうが救われやすいという程度のことはいえる。
他者に危害を加えてでも自分が富もうとする、有害な作為(害為)がある。
十字架信仰こそは、その害為を美化して推進することを目的としたものであり、
特殊な思想信条を持たないただの自然人以上もの害為を信者に蓄えさせる。
道家や仏教などの超俗思考の教学では、作為全般を棄て去ることによる害為の捨離をも目指す。
それでこそ、根本からの害為の廃絶にもなるとするが、無為であるということは世俗社会では非常に
難しいことで、無理に実践した結果、「何もできないロクデナシ」扱いされたりするようなこともある。
無為自然によって害為を棄て去るほうが、より根本的な解決策とはなるが、それだけ難しい。むしろ
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする仁心を抱くほうが、害為に打ち克つ上では手っ取り早い。
自利以上の利他を志す菩提心を抱くことのほうが、ひとまず害為を超克しておく上ではたやすいこと。
ただ、やはりそれは根本からの害為の根絶手段にはならない。
たとえば、徳川家康が私することなく貯蓄していた現数百兆円規模の資産は、確かに歴代将軍によって
幕府経営のために費やされ、五代将軍綱吉の代でその底も尽きた。消費された資産は大坂堺の豪商などの
蔵に流れ込み、幕末に薩長軍がグラバーから重火器を購入して幕府を倒壊させるための融資にも用いられた。
結果、最終的に徳川家康が天下平定のために貯蓄していた資産は、今ではロスチャイルド財閥の貯蓄や、
ロックフェラー財閥の兵器へと様変わりしてしまっているわけで、世の中に損害以上の利益をもたらそう
とした徳川家康の努力は、現時点では米英の悪徳金融の私腹を肥やすだけの結果となってしまっている。
世の中に損害以上の利益をもたらそうとする、作為的な仁者がいればこそ、利益以上の損害をもたらそう
とする害為正法外道が、仁者たちの努力に甘えて放辟邪侈を肥大化させていく余地をも生じさせてしまう。
だから正善への作為も、害為を根絶する決定的な手段になるとはいえないが、ただ、害為を肥大化させて
推進して来た連中よりは、まだ善為を推進して来た人々のほうが救われやすいという程度のことはいえる。
家康公の貯蓄が幕府経営のために惜しみなく用いられたことで、日本国民も潤沢な教育を受けて、
識字率も当時の西洋諸国を抜いて抜群の世界一となり、世界でも他に類を見ないほどの勤勉さを手に入れた。
ただよく働くだけでなく、文化的な教養に根ざした効率的な労働をこなす能力が身に付いたために、
明治以降にもあっという間に西洋並みの文明化を果たし、今では実体経済で西洋に水を開けるまでになった。
日本国民が国債操作を通じて1000兆円もの資金を欧米に貸し出させられることで、何とか今の欧米経済も
保たれている体たらくであり、その実態に基づくならば、全欧米人が日本人による禁治産処分を受けたとしても
何らの不当性を持たない状態となっている。かようにして、早くの内から国民教育という仁政のために資産を
惜しみなく費やしていた日本のほうが、国民教育も怠って覇道による権力者の私利私欲ばかりを貪っていた欧米
諸国よりも、最終的な正当性で確実に優位な立場に立つこととなった。害為よりは善為を尊重していたものがやはり、
害為ばかりを肥大化させていたものよりも最終的に正義たり得たのであり、これも全く必然なことだといえる。
無為自然こそは害為を根絶する最終手段でもあったが、結果として善為を推し進めていたものが、
害為を推し進めていたものよりも、もう少しだけ上の立場に置かれることにもなる。無為≧善為>害為であり、
無為の下で善為も害為もみそくそに扱われるのではなく、善為と害為とでの雌雄もまたそれはそれで決される。
「日月は天を得て能く久しく照らし、四時変化して能く久しく成し、聖人は其の道に久しくして天下を化成す」
「日月は天に昇っては恒久に世界を照らして輝き、春夏秋冬の季節の移り変わりもまた恒久に万物を生育し、
聖人もまた日月や四季の移り変わりのように恒久普遍な道理に根ざして、天下の民たちを教化育成していく」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・恆・彖伝より)
識字率も当時の西洋諸国を抜いて抜群の世界一となり、世界でも他に類を見ないほどの勤勉さを手に入れた。
ただよく働くだけでなく、文化的な教養に根ざした効率的な労働をこなす能力が身に付いたために、
明治以降にもあっという間に西洋並みの文明化を果たし、今では実体経済で西洋に水を開けるまでになった。
日本国民が国債操作を通じて1000兆円もの資金を欧米に貸し出させられることで、何とか今の欧米経済も
保たれている体たらくであり、その実態に基づくならば、全欧米人が日本人による禁治産処分を受けたとしても
何らの不当性を持たない状態となっている。かようにして、早くの内から国民教育という仁政のために資産を
惜しみなく費やしていた日本のほうが、国民教育も怠って覇道による権力者の私利私欲ばかりを貪っていた欧米
諸国よりも、最終的な正当性で確実に優位な立場に立つこととなった。害為よりは善為を尊重していたものがやはり、
害為ばかりを肥大化させていたものよりも最終的に正義たり得たのであり、これも全く必然なことだといえる。
無為自然こそは害為を根絶する最終手段でもあったが、結果として善為を推し進めていたものが、
害為を推し進めていたものよりも、もう少しだけ上の立場に置かれることにもなる。無為≧善為>害為であり、
無為の下で善為も害為もみそくそに扱われるのではなく、善為と害為とでの雌雄もまたそれはそれで決される。
「日月は天を得て能く久しく照らし、四時変化して能く久しく成し、聖人は其の道に久しくして天下を化成す」
「日月は天に昇っては恒久に世界を照らして輝き、春夏秋冬の季節の移り変わりもまた恒久に万物を生育し、
聖人もまた日月や四季の移り変わりのように恒久普遍な道理に根ざして、天下の民たちを教化育成していく」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・恆・彖伝より)
情報の新旧によらず、それなりに普遍的な知識というものが人類文明史上にはいくらでもある。
その普遍性を参考にしていくことで温故知新も可能となり、一人の人間や一代限りの社会では
とうてい造り上げられないような、荘重で神韻縹渺とした文化文明が構築されていくこととなる。
そうとはせず、一人や一代限りでの全くの我流の創作に終始すれば、それだけ薄っぺらいものとなる。
それなりに普遍的であるとしたところで薄っぺらいし、そもそもが旧来の智恵に全く依拠することなく
我流の創作ばかりを志すことからして、何も普遍的なものを見定められていない証拠だといえる。だから、
全くの我流の創作ってのは、ただ薄っぺらいだけでなく、おおよそ普遍性などを持たない場合がほとんど。
薄っぺらい上に全く普遍性がないことを埋め合わせるために、我流の創作者ってのは「物量投入」を好む。
土建による物質的な物量投入、大量の作業員を導入した技術的な物量投入など、質ではなく量で自分たち
の創作物の本質的な粗悪さを補おうとする。結果、物量投入に費やすための莫大な資本が必要となって、
資本を巻き上げるために、極めて多くの人々を長時間の低賃金重労働に強制使役させたりすることともなる。
過去の知的遺産にもよく倣って、自分たちでも文化構築についての最善を尽くしていく、そうして
造り上げられる文明社会こそは、無駄な物量投入のための苦役を民に課したりすることもない。
全くの創作ばかりに没頭して過去を顧みないのは、創作者の姿勢として最善を尽くさない姿だから、
最善を尽くしていないぶんだけのしわ寄せが民に及ぶことを、創作者までもが思い知らねばならない。
「射は皮を主とせず。力を科すを同じくせざるが為めなり。古の道なり」
「古の人々は力比べになることを避けるため、射儀に用いる的に射通しにくい皮などは用いなかった。
(今の人々が古のやり方を捨てて、何かにかけて力役に没頭していることを暗に批判している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一六より)
その普遍性を参考にしていくことで温故知新も可能となり、一人の人間や一代限りの社会では
とうてい造り上げられないような、荘重で神韻縹渺とした文化文明が構築されていくこととなる。
そうとはせず、一人や一代限りでの全くの我流の創作に終始すれば、それだけ薄っぺらいものとなる。
それなりに普遍的であるとしたところで薄っぺらいし、そもそもが旧来の智恵に全く依拠することなく
我流の創作ばかりを志すことからして、何も普遍的なものを見定められていない証拠だといえる。だから、
全くの我流の創作ってのは、ただ薄っぺらいだけでなく、おおよそ普遍性などを持たない場合がほとんど。
薄っぺらい上に全く普遍性がないことを埋め合わせるために、我流の創作者ってのは「物量投入」を好む。
土建による物質的な物量投入、大量の作業員を導入した技術的な物量投入など、質ではなく量で自分たち
の創作物の本質的な粗悪さを補おうとする。結果、物量投入に費やすための莫大な資本が必要となって、
資本を巻き上げるために、極めて多くの人々を長時間の低賃金重労働に強制使役させたりすることともなる。
過去の知的遺産にもよく倣って、自分たちでも文化構築についての最善を尽くしていく、そうして
造り上げられる文明社会こそは、無駄な物量投入のための苦役を民に課したりすることもない。
全くの創作ばかりに没頭して過去を顧みないのは、創作者の姿勢として最善を尽くさない姿だから、
最善を尽くしていないぶんだけのしわ寄せが民に及ぶことを、創作者までもが思い知らねばならない。
「射は皮を主とせず。力を科すを同じくせざるが為めなり。古の道なり」
「古の人々は力比べになることを避けるため、射儀に用いる的に射通しにくい皮などは用いなかった。
(今の人々が古のやり方を捨てて、何かにかけて力役に没頭していることを暗に批判している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一六より)
せっかくの憐憫や慈愛や謙遜や柔和や寛容も、結局は神の名の下での私利私欲の貪りという
薄汚い目的のための手段でしかないのだから、どこまでいっても偽善の域を出ることがない。
人口二万人にも満たない、極小の部落社会だった古代のイスラエルで、わざわざ仁徳を志すような
人間などは一人もいなかった。希望とは、即ち私利私欲の実現であり、万人を利することによる
結果的な私益までもの獲得などという、仁徳に根ざした希望などは根本から存在しなかった。
二万人だけでなら、それでもよかった。わざわざ万人を利して我れをも利する
仁政の体系などに依らずとも、二万人程度の部落社会だけを運営して行く上では、
そんなに問題も生じない。過剰な私利私欲の貪りがそのまま過酷な村八分扱いの原因とも
なってしまうから、自然と我田引水を押し止めることをも心がけるようになるものだから。
問題は、何百万何千万、何億何十億といった大規模の都市社会において、数万人止まりの部落社会で
のみ許容されていたような不仁が横行することであり、それは即座に、極重の罪悪や偽善に直結する。
不仁を持ち越したままでの相当な我田引水をやらかしたとしても、それに対する十分な村八分扱いも
行き届かず、表向きの善人面と裏での悪逆非道を使い分けることまでもが可能となってしまうから。
大規模な都市社会だからこそ、偽善者の仮面と極悪人の本性を使い分けての、非常識な規模の
我田引水までもが可能となる。秘密裏での過剰な我田引水が可能となるからこそ、世の中全体が
知らぬ間に極度の困窮に陥り、挙句には経済破綻を来たして大戦争に突入するような事態ともなる。
薄汚い目的のための手段でしかないのだから、どこまでいっても偽善の域を出ることがない。
人口二万人にも満たない、極小の部落社会だった古代のイスラエルで、わざわざ仁徳を志すような
人間などは一人もいなかった。希望とは、即ち私利私欲の実現であり、万人を利することによる
結果的な私益までもの獲得などという、仁徳に根ざした希望などは根本から存在しなかった。
二万人だけでなら、それでもよかった。わざわざ万人を利して我れをも利する
仁政の体系などに依らずとも、二万人程度の部落社会だけを運営して行く上では、
そんなに問題も生じない。過剰な私利私欲の貪りがそのまま過酷な村八分扱いの原因とも
なってしまうから、自然と我田引水を押し止めることをも心がけるようになるものだから。
問題は、何百万何千万、何億何十億といった大規模の都市社会において、数万人止まりの部落社会で
のみ許容されていたような不仁が横行することであり、それは即座に、極重の罪悪や偽善に直結する。
不仁を持ち越したままでの相当な我田引水をやらかしたとしても、それに対する十分な村八分扱いも
行き届かず、表向きの善人面と裏での悪逆非道を使い分けることまでもが可能となってしまうから。
大規模な都市社会だからこそ、偽善者の仮面と極悪人の本性を使い分けての、非常識な規模の
我田引水までもが可能となる。秘密裏での過剰な我田引水が可能となるからこそ、世の中全体が
知らぬ間に極度の困窮に陥り、挙句には経済破綻を来たして大戦争に突入するような事態ともなる。
過剰な我田引水が許されないからではなく、許されてしまうからこそ、大規模な都市社会では、
不仁の横行による大破綻などという事態を招く場合がある。だから大規模な都市社会での不仁こそは
控えられて然るべきなのであり、過剰な我田引水も可能となるから、不仁でいてもいいのではない。
大社会に暮らす人間、特に大社会の権力者こそは徹底して不仁を控えねばならず、不仁からなる
私利私欲の貪りを、偽善によって取り繕うカルト信仰などを精神的な拠り所にしてもいけない。
信じるというのなら、自利以上の利他を志す菩提心の宗教を信じねばならないし、信じる以外の
自力作善の範疇における、仁政を説く学問の実践などもまた、権力者なら必須のことと相成る。
権力者が不仁を廃して仁徳を志したならば、支配者に倣うことが天性の性分である大多数の被治民も
それなりに仁徳をわきまえるようになり、不仁からなる我田引水や、それを偽善によって取り繕うことを
推進する邪教などにも寄り付かないようになる。結果、キリスト教やユダヤ教のような邪教は大社会から
完全に追い出されることとなる。大社会に不適合な部落製の邪教に対する、適正な扱いが施されることとなる。
「之れを成人とするは、将に成人の礼を責めんとするなり。
成人の礼を責めるは、将に人の子たり、人の弟たり、人の臣たり、人の少たる者の礼の行いを
責めんとするなり。将に四つの者の行いを人に責めんとす。其の礼を重んぜざる可けんや」
「人を一人前たらしめるのは、一人前の人としての礼節をこなすことへの責めを負っていくことである。
一人前の礼節への責めとは、人の子であり、人の弟であり、人の臣下であり、人の年下である者としての
相応な礼節を実践していくことへの責めのことだ。これら四つの立場に相応の振る舞いを心がけて
いくのを強く責めていくことは、決して軽んじて寛容したり、怠りを赦したりしていいことではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・冠義第四十三より)
不仁の横行による大破綻などという事態を招く場合がある。だから大規模な都市社会での不仁こそは
控えられて然るべきなのであり、過剰な我田引水も可能となるから、不仁でいてもいいのではない。
大社会に暮らす人間、特に大社会の権力者こそは徹底して不仁を控えねばならず、不仁からなる
私利私欲の貪りを、偽善によって取り繕うカルト信仰などを精神的な拠り所にしてもいけない。
信じるというのなら、自利以上の利他を志す菩提心の宗教を信じねばならないし、信じる以外の
自力作善の範疇における、仁政を説く学問の実践などもまた、権力者なら必須のことと相成る。
権力者が不仁を廃して仁徳を志したならば、支配者に倣うことが天性の性分である大多数の被治民も
それなりに仁徳をわきまえるようになり、不仁からなる我田引水や、それを偽善によって取り繕うことを
推進する邪教などにも寄り付かないようになる。結果、キリスト教やユダヤ教のような邪教は大社会から
完全に追い出されることとなる。大社会に不適合な部落製の邪教に対する、適正な扱いが施されることとなる。
「之れを成人とするは、将に成人の礼を責めんとするなり。
成人の礼を責めるは、将に人の子たり、人の弟たり、人の臣たり、人の少たる者の礼の行いを
責めんとするなり。将に四つの者の行いを人に責めんとす。其の礼を重んぜざる可けんや」
「人を一人前たらしめるのは、一人前の人としての礼節をこなすことへの責めを負っていくことである。
一人前の礼節への責めとは、人の子であり、人の弟であり、人の臣下であり、人の年下である者としての
相応な礼節を実践していくことへの責めのことだ。これら四つの立場に相応の振る舞いを心がけて
いくのを強く責めていくことは、決して軽んじて寛容したり、怠りを赦したりしていいことではない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・冠義第四十三より)
神は全知全能のはずなのに、
なんで知恵の木なんてものをエデンに生やして
人は食べたがるだろうなーって分かりつつ、食べた時の危険性を
アナウンスしたりしないで放置しといたのかな。
ヨブ記では、人の信仰をさんざん試したりするけど
それは、人が知恵の実を食べた原罪があるから。
けど、そもそも原罪さえ犯さないように
神は人を指導したり、作ったりすべきだったんでは?
って昨日読んだ本に書いてた。
なんで知恵の木なんてものをエデンに生やして
人は食べたがるだろうなーって分かりつつ、食べた時の危険性を
アナウンスしたりしないで放置しといたのかな。
ヨブ記では、人の信仰をさんざん試したりするけど
それは、人が知恵の実を食べた原罪があるから。
けど、そもそも原罪さえ犯さないように
神は人を指導したり、作ったりすべきだったんでは?
って昨日読んだ本に書いてた。
神が人間に原罪があると定めたのではなく、人間に原罪があると定める
奇特な神を、一部の奇特な人間たちが自分たちの心中に妄想しているだけだ。
そこに「なぜ原罪の原因となる知恵の実を人間が食したのか」などと疑問を
抱いたところで、その答えが見出せるわけもない。知恵の実を食べさせないように
取り計らいもしないでいて、いざ食べれば「はい、原罪持ちになりました」と
レッテルを貼って、数々の罰や試練を加えて来たりする欺瞞まみれな邪神を、
人間自身が自分たちの脳内で妄想して捏造しただけなのだから、それ以上の何の意味もない。
そんな邪神を、脳内で捏造したこともない東洋人には、当然、原罪志向などもない。
仮に「ある」としたところで、自縄自縛の自業自得による自滅の原因としかならない
脳内邪神などを欲しもしない。そんな邪神よりも遥かに「ある」としたほうが都合も
いい上に、その由緒も正しい神仏がいくらでもいるのだから、災厄の元凶となる上に、
別にいるともいないとも知れない邪神などを「ある」と見なす必要すら見いだせない。
あまりにも有害無益で、致命的な災厄ばかりを撒き散らしてそれをよしとする
犯罪聖書の邪神に心を囚われている人間は、そのあまりものどうしようもなさから、
「それぐらいどうしようもなければ神ですらない」とすら思うようになってしまっている。
エホバやキリストほどにどうしようもない邪神であってこそ神であり、そんなどうしようもなさを
始めから帯びてないからこそ、東洋の神などは神としての本格さに欠けるなどと思い込んでいる。
そこからして全くの勘違いで、本来エホバやキリストは神ではなく鬼畜や妖怪に属する存在であり、
鬼畜や妖怪が神を騙っているが故に、本物の神などにはないどぎつさをも帯びている。
そのどぎづさを「本物の神である証拠」などとと思い込むのも全くの転倒夢想であり、その
どきつさこそは、エホバやキリストが偽りの神である証拠であるのだとわきまえねばならない。
奇特な神を、一部の奇特な人間たちが自分たちの心中に妄想しているだけだ。
そこに「なぜ原罪の原因となる知恵の実を人間が食したのか」などと疑問を
抱いたところで、その答えが見出せるわけもない。知恵の実を食べさせないように
取り計らいもしないでいて、いざ食べれば「はい、原罪持ちになりました」と
レッテルを貼って、数々の罰や試練を加えて来たりする欺瞞まみれな邪神を、
人間自身が自分たちの脳内で妄想して捏造しただけなのだから、それ以上の何の意味もない。
そんな邪神を、脳内で捏造したこともない東洋人には、当然、原罪志向などもない。
仮に「ある」としたところで、自縄自縛の自業自得による自滅の原因としかならない
脳内邪神などを欲しもしない。そんな邪神よりも遥かに「ある」としたほうが都合も
いい上に、その由緒も正しい神仏がいくらでもいるのだから、災厄の元凶となる上に、
別にいるともいないとも知れない邪神などを「ある」と見なす必要すら見いだせない。
あまりにも有害無益で、致命的な災厄ばかりを撒き散らしてそれをよしとする
犯罪聖書の邪神に心を囚われている人間は、そのあまりものどうしようもなさから、
「それぐらいどうしようもなければ神ですらない」とすら思うようになってしまっている。
エホバやキリストほどにどうしようもない邪神であってこそ神であり、そんなどうしようもなさを
始めから帯びてないからこそ、東洋の神などは神としての本格さに欠けるなどと思い込んでいる。
そこからして全くの勘違いで、本来エホバやキリストは神ではなく鬼畜や妖怪に属する存在であり、
鬼畜や妖怪が神を騙っているが故に、本物の神などにはないどぎつさをも帯びている。
そのどぎづさを「本物の神である証拠」などとと思い込むのも全くの転倒夢想であり、その
どきつさこそは、エホバやキリストが偽りの神である証拠であるのだとわきまえねばならない。
神を騙る鬼畜である犯罪聖書の邪神が世に幅を利かせた結果、数多の本物の神仏が端に追いやられて、
発揮できる霊験すら発揮できない状態に追い込まれている。それこそはあまりにも勿体ないことであり、
聖書信仰がこの世から根絶されることの勿体なさなどは、本物の神仏が霊験を発揮できない勿体なさと
比べれば、とても大きいので捨てるのが惜しい鼻くそを捨てる勿体なさぐらいのものでしかない。
「昔斉の景公田せるとき、虞人を招くに旌を以ってするも至らず、将に之れを殺さんとす。
(孔子をこれを褒めて曰く、)志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れずと。
孔子は奚をか取しとせるか。其の招くべきに非ざれば往かざるを取しとせるなり」
「昔、斉の景公が狩りに言ったとき、狩場の役人を『旗を振る』という異例の方法で招き寄せようとした。
役人はその招きに応じなかったため、景公は怒ってその役人を殺そうとした。孔子はこの役人を褒めて、
『志士は道義のために側溝にのたれ死ぬことをも覚悟し、勇士はその首を打たれることすら覚悟する』といった。
孔子はなぜこれほどまでにあの役人を称えたのか。然るべき手段に依らない招きに決して応じない姿勢を称えたのだ。
(エホバやキリストの物言いにも暗示的なものが多いが、旗を振るような暗示的な招きなどに元から応じるべきではない。
卑近なところでは、児童誘拐の常套手段にも『おもちゃを買ってあげるよ』などの暗示による招きがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・一より)
発揮できる霊験すら発揮できない状態に追い込まれている。それこそはあまりにも勿体ないことであり、
聖書信仰がこの世から根絶されることの勿体なさなどは、本物の神仏が霊験を発揮できない勿体なさと
比べれば、とても大きいので捨てるのが惜しい鼻くそを捨てる勿体なさぐらいのものでしかない。
「昔斉の景公田せるとき、虞人を招くに旌を以ってするも至らず、将に之れを殺さんとす。
(孔子をこれを褒めて曰く、)志士は溝壑に在るを忘れず、勇士は其の元を喪うを忘れずと。
孔子は奚をか取しとせるか。其の招くべきに非ざれば往かざるを取しとせるなり」
「昔、斉の景公が狩りに言ったとき、狩場の役人を『旗を振る』という異例の方法で招き寄せようとした。
役人はその招きに応じなかったため、景公は怒ってその役人を殺そうとした。孔子はこの役人を褒めて、
『志士は道義のために側溝にのたれ死ぬことをも覚悟し、勇士はその首を打たれることすら覚悟する』といった。
孔子はなぜこれほどまでにあの役人を称えたのか。然るべき手段に依らない招きに決して応じない姿勢を称えたのだ。
(エホバやキリストの物言いにも暗示的なものが多いが、旗を振るような暗示的な招きなどに元から応じるべきではない。
卑近なところでは、児童誘拐の常套手段にも『おもちゃを買ってあげるよ』などの暗示による招きがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・一より)
「帝は文王に謂わせる、畔援に然る無かれ、歆羨に然る無かれ。誕こに先んじ岸こに登らしむ。
密人の不恭にして、敢えて大邦を距ぐ。阮を侵し共に徂けば、王は赫として斯れ怒れり。
爰こに其の旅を整え、以て徂旅を按む。以て周の祜い篤く、以て天下を對めたまう」
「天帝は文王に謂わせ賜いた、『だらしなくあるな、強欲であるな』と。そのあり方を自ら先導して
民を同じ所まで登らせた。蛮人が恭敬を欠いて、天下国家の利益を蔑ろにする姿を見るや、
そのふところ近くにまで入り行って、文王は赫然としてその怒りを露わにされた。それによって
軍兵をも従え、蛮人同士での戦争も中止させて、我が周国の福徳の増長と共に天下を安んじられた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)
密人の不恭にして、敢えて大邦を距ぐ。阮を侵し共に徂けば、王は赫として斯れ怒れり。
爰こに其の旅を整え、以て徂旅を按む。以て周の祜い篤く、以て天下を對めたまう」
「天帝は文王に謂わせ賜いた、『だらしなくあるな、強欲であるな』と。そのあり方を自ら先導して
民を同じ所まで登らせた。蛮人が恭敬を欠いて、天下国家の利益を蔑ろにする姿を見るや、
そのふところ近くにまで入り行って、文王は赫然としてその怒りを露わにされた。それによって
軍兵をも従え、蛮人同士での戦争も中止させて、我が周国の福徳の増長と共に天下を安んじられた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)
偽善の巧妙化は、それにかまけた悪逆非道の深刻化と比例的な関係にある。
表向きの修辞や隣人愛による取り繕いを磐石ならしめようとすればするほど、
隠れて行う法外な不当利得の貪りや、遠方の他人の大量虐殺も深刻なものとなっていく。
だから「巧言令色すくなきは仁なり(学而第一・三)」ともいえる。人の目に付いて過度に
よさげであることには、裏での大悪を取り繕うための偽善であるぐらいの目的しか備わらない。
美しいものが仮りに目前にあるとして、偽善目的でない美しさは、その美しさの目的も隠さない。
日本刀が刃物としての機能の洗練に努められた結果、必然的に優美な姿態を兼ね備えているようにして、
何らかの至当な目的があった上で、そこに美しさが備わるのは確かに偽善目的ではない。しかし、
その目的が判然としない美しさ、美しさのための美しさみたいなものが持て囃されているとき、
そこには必ず何か裏がある。税金対策や資金洗浄の目的で、高額で売買される絵画のように、
存在目的が不純である美術ほど、美術のための美術であることを専らにしようともする。
善美であるということは、それが偽善や虚飾でないというのなら、どこまでも目的の至当さを
追い詰めることができる。仏教美術の美しさなども、見るものの悟りを助けようとする確かな
目的があるから虚飾ではないといえる。善や美に目的を備わらせることが不純だなどというのは
全くの勘違いであり、目的の不審な善美ほど、偽善や虚飾として大いに悪用されるものだ。
儒学の標榜する勧善懲悪が、修己治人や天下平定といったごく実務的な目的性と密接な関係にあるのも、
それでこそ偽善の嫌疑が拭われるからで、そこを「不純な善である証拠だ」などと決め付けるのも大間違い。
儒家の善徳など所詮は世のため人のためでしかない。だからこそ純粋無垢なる真善であるとも確認できるのだ。
表向きの修辞や隣人愛による取り繕いを磐石ならしめようとすればするほど、
隠れて行う法外な不当利得の貪りや、遠方の他人の大量虐殺も深刻なものとなっていく。
だから「巧言令色すくなきは仁なり(学而第一・三)」ともいえる。人の目に付いて過度に
よさげであることには、裏での大悪を取り繕うための偽善であるぐらいの目的しか備わらない。
美しいものが仮りに目前にあるとして、偽善目的でない美しさは、その美しさの目的も隠さない。
日本刀が刃物としての機能の洗練に努められた結果、必然的に優美な姿態を兼ね備えているようにして、
何らかの至当な目的があった上で、そこに美しさが備わるのは確かに偽善目的ではない。しかし、
その目的が判然としない美しさ、美しさのための美しさみたいなものが持て囃されているとき、
そこには必ず何か裏がある。税金対策や資金洗浄の目的で、高額で売買される絵画のように、
存在目的が不純である美術ほど、美術のための美術であることを専らにしようともする。
善美であるということは、それが偽善や虚飾でないというのなら、どこまでも目的の至当さを
追い詰めることができる。仏教美術の美しさなども、見るものの悟りを助けようとする確かな
目的があるから虚飾ではないといえる。善や美に目的を備わらせることが不純だなどというのは
全くの勘違いであり、目的の不審な善美ほど、偽善や虚飾として大いに悪用されるものだ。
儒学の標榜する勧善懲悪が、修己治人や天下平定といったごく実務的な目的性と密接な関係にあるのも、
それでこそ偽善の嫌疑が拭われるからで、そこを「不純な善である証拠だ」などと決め付けるのも大間違い。
儒家の善徳など所詮は世のため人のためでしかない。だからこそ純粋無垢なる真善であるとも確認できるのだ。
「人の性の善なるは、猶お水の下きに就くがごとし。人善ならざること有る無く、水下きに有らざる無し。
今夫れ水は、搏ちて之れを躍らさば顙を過ぎしむ可く、激して之れを行れば、山に在らしむ可し。
是れ豈に水の性なるや。其の勢い則ち然るなり。人の不善を為さしむ可きは、其れ性も亦た猶お是くのごとし」
「人の本性が善であることは、ちょうど水が低いほう、低いほうへと流れ落ちていく法則に似ている。
水がその本性として低い所へと流れ落ちて止まないように、人の本性も善でないということがない。
しかし水もまた、その水面を打ってしぶきを上げれば人の頭上にまで降りかかることがあるし、激しく
逆流させて山の上に登らせることだってできなくはない。しかし、それは水の本性がそうさせるのではなく、
外的な力がそうさせるだけのことだ。人が不善を為すこともまた、このような外的な力によるばかりである。
(善は自らの本性にこそ具わっているものであり、外的に与えられたり、矯正によって
新しく形作られたりするものではない。他力本願に慈善の要素を企図する犯罪聖書の記述は、
浄土信仰の悪人正機以上にも、自分自身の性善を見失わせる危険な要素を内包している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・二より)
今夫れ水は、搏ちて之れを躍らさば顙を過ぎしむ可く、激して之れを行れば、山に在らしむ可し。
是れ豈に水の性なるや。其の勢い則ち然るなり。人の不善を為さしむ可きは、其れ性も亦た猶お是くのごとし」
「人の本性が善であることは、ちょうど水が低いほう、低いほうへと流れ落ちていく法則に似ている。
水がその本性として低い所へと流れ落ちて止まないように、人の本性も善でないということがない。
しかし水もまた、その水面を打ってしぶきを上げれば人の頭上にまで降りかかることがあるし、激しく
逆流させて山の上に登らせることだってできなくはない。しかし、それは水の本性がそうさせるのではなく、
外的な力がそうさせるだけのことだ。人が不善を為すこともまた、このような外的な力によるばかりである。
(善は自らの本性にこそ具わっているものであり、外的に与えられたり、矯正によって
新しく形作られたりするものではない。他力本願に慈善の要素を企図する犯罪聖書の記述は、
浄土信仰の悪人正機以上にも、自分自身の性善を見失わせる危険な要素を内包している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・二より)
合気道なんかは大本教に関係あるみたいね。
大本は相当な所まで行っているが、やはりプロトタイプ。
女系に固執したり、キリスト教ではなくバラモン教を悪玉に掲げたり。
雛形まで到達していながら、本質にまでは至っていないあたりが、宗教止まりな所以。
女系に固執したり、キリスト教ではなくバラモン教を悪玉に掲げたり。
雛形まで到達していながら、本質にまでは至っていないあたりが、宗教止まりな所以。
キリストによってだけは救われない。
全ての信者を確実に自業自得の破滅へと陥れる完全誤謬の化身。
それをまた「私によってでなければ誰も救われない」とすら
ほざくものだから、正統な神仏への帰依によって人々が
救われる可能性すらも絶やそうとする凶悪犯だといえる。
そのような邪義を確信犯によって流布した、イエスを始めとする古代ユダヤ人は、
それによって何を企図したかって、確かに今までの西洋史のような歴史展開を企図したに違いない。
自国を最悪の暴乱に陥れて、その埋め合わせのための外界侵略をも果てしなく肥大化させていく、
征服地域がどこまでもがん細胞的な発展をしていくことを見越していたか、いなかったかってとこ。
想定していたのはそこまでであり、いつかは全世界の征服可能地域が完全に尽きて、自国の暴乱を
他国に押し付けることでの信者の延命ができなくなることまでは想定していなかった。だから今、
欧米聖書圏も経済破綻のしわ寄せを外界に押し付けることができなくなって、立ち往生している。
戦争を起こして解決しようにも、次には人類滅亡級の核大戦しか選択し得ない状況にも至っている。
「世界がどこまでも広がっていて、外界侵略を続けていくことで破滅も救われ続ける」という
古代ユダヤ人の企図は、地球が丸くて、一定の自己完結した社会で形成されていることが確認された時点で、
もはや潰えるしかなくなった。聖書信者にとってのキリストとは、結局フセインやビンラディンやカダフィや
金正日に過ぎなかったのであり、キリスト代わりのスケープゴートがこの世から絶やされた時点で、もはや
キリストの代わりになる人間すらいなくなった。本当の最後の瞬間にこそ、聖書信者はキリストの偶像に
すがる余地すら失ったのであり、「最後の審判によってこそ救われる」という約束も完全な反故となった。
全ての信者を確実に自業自得の破滅へと陥れる完全誤謬の化身。
それをまた「私によってでなければ誰も救われない」とすら
ほざくものだから、正統な神仏への帰依によって人々が
救われる可能性すらも絶やそうとする凶悪犯だといえる。
そのような邪義を確信犯によって流布した、イエスを始めとする古代ユダヤ人は、
それによって何を企図したかって、確かに今までの西洋史のような歴史展開を企図したに違いない。
自国を最悪の暴乱に陥れて、その埋め合わせのための外界侵略をも果てしなく肥大化させていく、
征服地域がどこまでもがん細胞的な発展をしていくことを見越していたか、いなかったかってとこ。
想定していたのはそこまでであり、いつかは全世界の征服可能地域が完全に尽きて、自国の暴乱を
他国に押し付けることでの信者の延命ができなくなることまでは想定していなかった。だから今、
欧米聖書圏も経済破綻のしわ寄せを外界に押し付けることができなくなって、立ち往生している。
戦争を起こして解決しようにも、次には人類滅亡級の核大戦しか選択し得ない状況にも至っている。
「世界がどこまでも広がっていて、外界侵略を続けていくことで破滅も救われ続ける」という
古代ユダヤ人の企図は、地球が丸くて、一定の自己完結した社会で形成されていることが確認された時点で、
もはや潰えるしかなくなった。聖書信者にとってのキリストとは、結局フセインやビンラディンやカダフィや
金正日に過ぎなかったのであり、キリスト代わりのスケープゴートがこの世から絶やされた時点で、もはや
キリストの代わりになる人間すらいなくなった。本当の最後の瞬間にこそ、聖書信者はキリストの偶像に
すがる余地すら失ったのであり、「最後の審判によってこそ救われる」という約束も完全な反故となった。
古代ユダヤ人は、紛れもなく世間知らずだった。
剣や弓矢を用いた武術の洗練が、平和の実現に貢献できることすら知りもせず、
世界がある程度の広さまでで完結していることを、可能性として察知することすらもできなかった。
一端の社会人としての基本的な常識すら持ち合わせていなかったところで、自暴自棄からなる邪義を蓄えた。
世界の広さを肌で知っている中東人にはほとんど相手もされなかったが、中東よりも遥かに民度の低い
西洋では、その蒙昧さが返って身の丈にあっものとして大いに持て囃され、白人社会がキリスト教圏
として侵略の魔の手を世界中に広げていく温床となった。その原動力はどこまでも世間知らずゆえの
自暴自棄であり、別に叡智だ千里眼だがあったが故のものではない。人並み以上の知恵どころか、
人並みの知恵すらない畜人だったからこその妄想の垂れ流しであり、そこに不可解な要素は何もない。
「今、同室の人に闘う者有れば、之れを救うに被髪纓冠して之れを救うと雖も可なり。
郷鄰に闘う者有れば、被髮纓冠して往きて之れを救うは則ち惑いなり。戸を閉ざすと雖も可なり」
「いま仮に、自分と同じ部屋で問題を呈した者がいれば、無冠の乱れ髪のままでこれを救おうとしても構わない。
しかし、自分の住む地域で問題を呈した者がいたとして、これに対してまで無冠の乱れ髪のままで救いの手を
差し伸べに行ったりすれば、それは惑いというものだ。我が家の戸を閉めて、そ知らぬ振りでいても構わない。
(赤の他人の救済は然るべき官人が行うべきもので、無位無冠で乱れ髪のイエスなどが行うべきものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・七より)
剣や弓矢を用いた武術の洗練が、平和の実現に貢献できることすら知りもせず、
世界がある程度の広さまでで完結していることを、可能性として察知することすらもできなかった。
一端の社会人としての基本的な常識すら持ち合わせていなかったところで、自暴自棄からなる邪義を蓄えた。
世界の広さを肌で知っている中東人にはほとんど相手もされなかったが、中東よりも遥かに民度の低い
西洋では、その蒙昧さが返って身の丈にあっものとして大いに持て囃され、白人社会がキリスト教圏
として侵略の魔の手を世界中に広げていく温床となった。その原動力はどこまでも世間知らずゆえの
自暴自棄であり、別に叡智だ千里眼だがあったが故のものではない。人並み以上の知恵どころか、
人並みの知恵すらない畜人だったからこその妄想の垂れ流しであり、そこに不可解な要素は何もない。
「今、同室の人に闘う者有れば、之れを救うに被髪纓冠して之れを救うと雖も可なり。
郷鄰に闘う者有れば、被髮纓冠して往きて之れを救うは則ち惑いなり。戸を閉ざすと雖も可なり」
「いま仮に、自分と同じ部屋で問題を呈した者がいれば、無冠の乱れ髪のままでこれを救おうとしても構わない。
しかし、自分の住む地域で問題を呈した者がいたとして、これに対してまで無冠の乱れ髪のままで救いの手を
差し伸べに行ったりすれば、それは惑いというものだ。我が家の戸を閉めて、そ知らぬ振りでいても構わない。
(赤の他人の救済は然るべき官人が行うべきもので、無位無冠で乱れ髪のイエスなどが行うべきものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・七より)
「自意識過剰の思い上がり」、新旧約聖書はそれを「神」と呼ぶ。
聖書信者だけでなく、聖書文化や洋学に精神を侵されたニヒリストにもまた、
自意識過剰の思い上がりはある。ただ、それを「神」と呼ぶのが聖書信者で
あるのに対し、「神」とは呼ばないのがニヒリストである点だけが違う。
人よりも所得がある、地位や名声があるといった理由によって優越感を抱き、
自意識を過剰に肥大化させていくことが無宗教の俗人にだってよくある。それと
全く同じメカニズムによって、聖書信者は自らの自意識が神によって是認された
自意識であると見なして、自意識を肥大化させる。神が是認した自意識だから、
我が自意識すなわち神であり、神であるが故にどこまでも肥大化させてよいとする。
そうして、聖書信者の自意識過剰の思い上がりはどこまでも肥大化していくわけで、
金や社会的地位のように増減したり上下したりすることがない、神によって是認された
自意識だから、どこまでも思い上がりを肥大化させていくことまでもが可能だとする。
聖書信者の自意識過剰の思い上がりは、この世界、この宇宙に、特定の自意識を
選別して是認する超越神などが、介在し得ないことが証明されることによって潰える。
この宇宙の完全な形而上に、神がいるかいないかは別として、この世界に存在する
生物の自意識を、神が特定して是認したりすることがないことが証明された時点で、
聖書信者は自分たちの自意識を肥大化させていく術を失うし、すでに相当に肥大化
させてしまっている思い上がりの高転びによるショックや鬱屈までもが避けられない。
聖書信者だけでなく、聖書文化や洋学に精神を侵されたニヒリストにもまた、
自意識過剰の思い上がりはある。ただ、それを「神」と呼ぶのが聖書信者で
あるのに対し、「神」とは呼ばないのがニヒリストである点だけが違う。
人よりも所得がある、地位や名声があるといった理由によって優越感を抱き、
自意識を過剰に肥大化させていくことが無宗教の俗人にだってよくある。それと
全く同じメカニズムによって、聖書信者は自らの自意識が神によって是認された
自意識であると見なして、自意識を肥大化させる。神が是認した自意識だから、
我が自意識すなわち神であり、神であるが故にどこまでも肥大化させてよいとする。
そうして、聖書信者の自意識過剰の思い上がりはどこまでも肥大化していくわけで、
金や社会的地位のように増減したり上下したりすることがない、神によって是認された
自意識だから、どこまでも思い上がりを肥大化させていくことまでもが可能だとする。
聖書信者の自意識過剰の思い上がりは、この世界、この宇宙に、特定の自意識を
選別して是認する超越神などが、介在し得ないことが証明されることによって潰える。
この宇宙の完全な形而上に、神がいるかいないかは別として、この世界に存在する
生物の自意識を、神が特定して是認したりすることがないことが証明された時点で、
聖書信者は自分たちの自意識を肥大化させていく術を失うし、すでに相当に肥大化
させてしまっている思い上がりの高転びによるショックや鬱屈までもが避けられない。
聖書信者だけでなく、聖書文化や洋学に精神を侵された多くの無神論者もまた、
直接間接を織り交ぜつつの犯罪聖書の影響によってこそ肥大化させていた思い上がり
の高転びが避けられない。時にはキリストやエホバの権威などに疑義を呈しつつも、
結局は聖書信仰のメカニズムによってこそ肥大化する自意識過剰の思い上がりの
愉悦に浸らせていただいていたことには変わりないので、聖書信仰の瓦解と共に、
聖書信者でない大部分の現代人の、自我の喪失による廃人化までもが避けられない。
信じれば救われるのでも、信じなければ救われるのでもない。その存在性をほんの
少しでも是認してしまえば、それだけで致命的な自意識過剰の思い上がりを招き、
以って自我の崩壊による破滅が免れ得ないのが聖書信仰。聖書的な事物全般の存在性
を根本から否定して、自らの自意識の肥大化をも未然に食い止めていくのでなければ、
「聖書という存在性」がこの世へと撒き散らす運命破綻から逃れることはできない。
「人の斉聖なるは、酒飲めども温克す。
彼の昏く不知なるは、壱ち酔いて日に富む。
各おの爾じの儀を敬め、天命は又となし」
「精明で聖賢な人は、酒を飲んでも心奢らず、
暗愚で無知な人は、酔っ払っただけで巨万の富の持ち主のように奢る。
それぞれに汝の振る舞いを慎め。天命は二度と得られしないのだから。
(酒に酔って富者のように奢るのも、妄想神に酔って富者以上に奢るよりはまだマシか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小宛より)
直接間接を織り交ぜつつの犯罪聖書の影響によってこそ肥大化させていた思い上がり
の高転びが避けられない。時にはキリストやエホバの権威などに疑義を呈しつつも、
結局は聖書信仰のメカニズムによってこそ肥大化する自意識過剰の思い上がりの
愉悦に浸らせていただいていたことには変わりないので、聖書信仰の瓦解と共に、
聖書信者でない大部分の現代人の、自我の喪失による廃人化までもが避けられない。
信じれば救われるのでも、信じなければ救われるのでもない。その存在性をほんの
少しでも是認してしまえば、それだけで致命的な自意識過剰の思い上がりを招き、
以って自我の崩壊による破滅が免れ得ないのが聖書信仰。聖書的な事物全般の存在性
を根本から否定して、自らの自意識の肥大化をも未然に食い止めていくのでなければ、
「聖書という存在性」がこの世へと撒き散らす運命破綻から逃れることはできない。
「人の斉聖なるは、酒飲めども温克す。
彼の昏く不知なるは、壱ち酔いて日に富む。
各おの爾じの儀を敬め、天命は又となし」
「精明で聖賢な人は、酒を飲んでも心奢らず、
暗愚で無知な人は、酔っ払っただけで巨万の富の持ち主のように奢る。
それぞれに汝の振る舞いを慎め。天命は二度と得られしないのだから。
(酒に酔って富者のように奢るのも、妄想神に酔って富者以上に奢るよりはまだマシか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小宛より)
神の存在を確信することは、人間の思い上がりとは
まったく真逆の心の作用ではないん?
どんなに偉くても、神には頭が上がらないし、他の人間と平等の存在。
どんなに凄い王様でも、強力な権力者でも
預言者が語る神の声で、その権威が失墜する。
ある種、民主主義的なシステムは、ユダヤ教的な
考えのもとに生まれたとも言われているらしい。
逆に、儒学では徳の高い人が統治すべきと主張し
徳の低いものは、統治には関われない。
ここに統治者と被統治者の逆転関係は見られない。
って、昨日寝る前に読んだ本に書いてた。
まったく真逆の心の作用ではないん?
どんなに偉くても、神には頭が上がらないし、他の人間と平等の存在。
どんなに凄い王様でも、強力な権力者でも
預言者が語る神の声で、その権威が失墜する。
ある種、民主主義的なシステムは、ユダヤ教的な
考えのもとに生まれたとも言われているらしい。
逆に、儒学では徳の高い人が統治すべきと主張し
徳の低いものは、統治には関われない。
ここに統治者と被統治者の逆転関係は見られない。
って、昨日寝る前に読んだ本に書いてた。
「達巷党の人曰く、大なるかな孔子は。博く学びて名を成す所無し。
子之れを聞きて、門弟子に謂いて曰く、吾れ何をか執らん。御を執らんか、射を執らんか、吾れは御を執らん」
「達港という村の人が言った。『まことに孔先生は偉大なものだ。色々と広く学びながらも、
決して自らの名を広めようとするようながめつさはない』 これを聞いて先生は門弟たちに冗談で言った。
『私も何か名を上げることをやってみようかな。御者をやろうか、弓をやろうか。御者でもやってみよう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二)
確かに孔子には、自らの名声を広めようとした形跡がほとんど見られない。
儒家の経典として孔子が編んだ五経も、そのほとんどが既存の詩書や礼制の編纂物で、
「俺様の意見だから信頼できる」みたいな思い上がりはできる限り差し挟まないように努められている。
そこはイエスのような未熟者とも一線を画している部分だし、ヴェーダの権威を否定して新たな
真理学を立ち上げた釈迦以上にも老成した部分だといえる。(ただし釈迦も出家して俗名を捨てている)
ただ、自ら名を成そうとはせず、ただ世のため人のための学術振興に専心しようとしたその姿勢こそは、
「イエスの名によってこそ救われる」というような、思い上がりありきのカルト信仰にドップリと浸かっていた
人間などにとって、儒学が地味に映る原因ともなっている。仮に「孔子の名によってこそ救われる」などとすれば、
それは儒教になってしまい、自ら儒学を研究によって掘り下げていく場合などと比べて好ましくない結果を招く。
だからやはり、「孔子」とか「孟子」とかいった儒学の大成者個人個人の名声への依存は避けるべきなので、たとえ
受け入れ難くとも、「名によって救われる」というような姿勢を抜きにした儒学への鞍替えを心がけたほうがいい。
どうしても拠り所とする名が欲しいというのなら、それこそ「南無阿弥陀仏」でも唱えていればいい。
阿弥陀仏も歴史上に実在しない仏だが、どうせイエスの奇跡だって史実ではないのだから、全くの虚構でも
信じ込める蒙昧さを持ち越しているのなら、阿弥陀仏の唱名にすがることだって、決して虚しいことではあるまい。
子之れを聞きて、門弟子に謂いて曰く、吾れ何をか執らん。御を執らんか、射を執らんか、吾れは御を執らん」
「達港という村の人が言った。『まことに孔先生は偉大なものだ。色々と広く学びながらも、
決して自らの名を広めようとするようながめつさはない』 これを聞いて先生は門弟たちに冗談で言った。
『私も何か名を上げることをやってみようかな。御者をやろうか、弓をやろうか。御者でもやってみよう』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二)
確かに孔子には、自らの名声を広めようとした形跡がほとんど見られない。
儒家の経典として孔子が編んだ五経も、そのほとんどが既存の詩書や礼制の編纂物で、
「俺様の意見だから信頼できる」みたいな思い上がりはできる限り差し挟まないように努められている。
そこはイエスのような未熟者とも一線を画している部分だし、ヴェーダの権威を否定して新たな
真理学を立ち上げた釈迦以上にも老成した部分だといえる。(ただし釈迦も出家して俗名を捨てている)
ただ、自ら名を成そうとはせず、ただ世のため人のための学術振興に専心しようとしたその姿勢こそは、
「イエスの名によってこそ救われる」というような、思い上がりありきのカルト信仰にドップリと浸かっていた
人間などにとって、儒学が地味に映る原因ともなっている。仮に「孔子の名によってこそ救われる」などとすれば、
それは儒教になってしまい、自ら儒学を研究によって掘り下げていく場合などと比べて好ましくない結果を招く。
だからやはり、「孔子」とか「孟子」とかいった儒学の大成者個人個人の名声への依存は避けるべきなので、たとえ
受け入れ難くとも、「名によって救われる」というような姿勢を抜きにした儒学への鞍替えを心がけたほうがいい。
どうしても拠り所とする名が欲しいというのなら、それこそ「南無阿弥陀仏」でも唱えていればいい。
阿弥陀仏も歴史上に実在しない仏だが、どうせイエスの奇跡だって史実ではないのだから、全くの虚構でも
信じ込める蒙昧さを持ち越しているのなら、阿弥陀仏の唱名にすがることだって、決して虚しいことではあるまい。
四書五経の記述は、ただ読むだけではなく、読んでしっかりと記憶に刻み込んで、
その含意を味わって忘れないようにして、常日ごろからの実践に努めるべきもの。
それによって、犯罪聖書の気休めの記述に依存しなければならなくなるような事態を未然に防ぐ。
犯罪聖書のほうはといえば、もはやどうしようもないような窮地に陥ってから、
気休めとしてちょこっとかじらせてもらうようなものであり、常日ごろから読者に
何かを努めさせるというような意味合いは全く持たない。読者の言行を律するのではなく、
読者にどこまでも身勝手な言行をやらかさせた上で、そこに気休めを施すというもの。
四書五経を読んで、その実践に努めていくなら、そもそも犯罪聖書の記述にすがるような
必要から生じない。十字架を背負うのではなく、未然に十字架を背負わないようにしていく
努力こそを読者に促すのが四書五経であり、それでこそ、エントロピー増大則にも根ざした、
人として最善を尽くすが故の、破滅からの救いですらない最大級の健康が得られもする。
「破滅に陥ってから救いを求める」という徒労を欲している時点で、確実に始めから破滅に
陥らずに済ませようとする場合以上ものロスが生ずる。穴倉に落ち込んで這い上がるためには
そのぶんだけ、穴倉に落ち込まないでいる場合以上ものエネルギーのロスが生まれる。それが
地上に生まれ落ちた人としての宿命であり、その宿命を破綻させられる神などもいないのである。
その含意を味わって忘れないようにして、常日ごろからの実践に努めるべきもの。
それによって、犯罪聖書の気休めの記述に依存しなければならなくなるような事態を未然に防ぐ。
犯罪聖書のほうはといえば、もはやどうしようもないような窮地に陥ってから、
気休めとしてちょこっとかじらせてもらうようなものであり、常日ごろから読者に
何かを努めさせるというような意味合いは全く持たない。読者の言行を律するのではなく、
読者にどこまでも身勝手な言行をやらかさせた上で、そこに気休めを施すというもの。
四書五経を読んで、その実践に努めていくなら、そもそも犯罪聖書の記述にすがるような
必要から生じない。十字架を背負うのではなく、未然に十字架を背負わないようにしていく
努力こそを読者に促すのが四書五経であり、それでこそ、エントロピー増大則にも根ざした、
人として最善を尽くすが故の、破滅からの救いですらない最大級の健康が得られもする。
「破滅に陥ってから救いを求める」という徒労を欲している時点で、確実に始めから破滅に
陥らずに済ませようとする場合以上ものロスが生ずる。穴倉に落ち込んで這い上がるためには
そのぶんだけ、穴倉に落ち込まないでいる場合以上ものエネルギーのロスが生まれる。それが
地上に生まれ落ちた人としての宿命であり、その宿命を破綻させられる神などもいないのである。
「楽正子、子敖に従いて斉に行く。楽正子、孟子に見みゆ。(略)孟子、楽正子に謂いて曰く、
子の子敖に従いて来たるは、徒だ餔啜のためなり。我れ、子が古えの道を学びて餔啜せんとは意わざりき」
「孟子の門人の楽正子が、子敖という悪徳政治家に従って孟子のいる斉にやって来た。楽正子はついでに
孟子に会いに来た。孟子は楽正子に言った。『おまえともあろうものが、子敖のようなならず者に
従ってやって来るとは、どうせ旅程での飲み食いだけが目的だったのだろう。私はおまえが古えの
道を学んでおきながら、ただ飲み食いのために人に従うようなマネをするとは夢にも思わなかった』
(自分一身の利得のために人に従うぐらいなら、孟子のようなさすらい人であったほうがまだマシだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二四‐二五より)
子の子敖に従いて来たるは、徒だ餔啜のためなり。我れ、子が古えの道を学びて餔啜せんとは意わざりき」
「孟子の門人の楽正子が、子敖という悪徳政治家に従って孟子のいる斉にやって来た。楽正子はついでに
孟子に会いに来た。孟子は楽正子に言った。『おまえともあろうものが、子敖のようなならず者に
従ってやって来るとは、どうせ旅程での飲み食いだけが目的だったのだろう。私はおまえが古えの
道を学んでおきながら、ただ飲み食いのために人に従うようなマネをするとは夢にも思わなかった』
(自分一身の利得のために人に従うぐらいなら、孟子のようなさすらい人であったほうがまだマシだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二四‐二五より)
他力本願は、それ自体が陰陽でいう陰に当たる。陰であることを陽と倒錯して、
陰を陽以上にも優位に置こうとすれば、それが悪になる。だから拝火教であれアブラハム教であれ、
他力本願の信教が自力作善の教学よりも優位だなどと主張すれば、それは悪になる。
自分たちではとうてい自力作善も覚束ない凡夫が、「たとえ悪人であっても救われる」
という評判を聞いて、「こりゃしめた」とみてすがりつくのが他力信仰の基本。さらには、
「悪人こそは救われる」となって、自分が全くの悪人であることを開き直りつつ帰依すれば、なおのこと正しい。
他力信者だから自力作善者以上、自力作善以上にも善人であって、善思善言善行も思うがままに
為せるなどと思い込むほうが、かえって間違い。他力本願それ自体は自力作善よりも劣位であり、
悪思悪言悪行しか為せない悪人こそは帰依するものであると見なすほうが、かえって正しいのだ。
悪人こそが他力本願にすがれば、それが善になる。善人として善言善行を心がけるために他力本願に
すがったりするほうが、かえって悪が助長される。この当たりには陰陽に根ざした微妙な法則性であり、
占い否定主義の親鸞聖人も、一時は易学を研究した上で悪人正機を編み出したともいう。
拝火教が生まれたイラン以西の世界の人々には、根本的な陰陽法則への理解が欠けていた。
悪が他力本願によって善になったり、善が他力本願によって悪になったりする微妙な実相法則を
東洋人のほうは理解できていたが、確かにこんな法則までをも理解していた東洋人のほうが凄すぎるだけで、
他力本願によって善を為すことだってできると考えた西方人のほうが、それなりであるといえるかもしれない。
しかし、全世界としては陰陽法則の理解はあるわけだから、ある以上はそれを諾うほうが利口だといえる。
陰を陽以上にも優位に置こうとすれば、それが悪になる。だから拝火教であれアブラハム教であれ、
他力本願の信教が自力作善の教学よりも優位だなどと主張すれば、それは悪になる。
自分たちではとうてい自力作善も覚束ない凡夫が、「たとえ悪人であっても救われる」
という評判を聞いて、「こりゃしめた」とみてすがりつくのが他力信仰の基本。さらには、
「悪人こそは救われる」となって、自分が全くの悪人であることを開き直りつつ帰依すれば、なおのこと正しい。
他力信者だから自力作善者以上、自力作善以上にも善人であって、善思善言善行も思うがままに
為せるなどと思い込むほうが、かえって間違い。他力本願それ自体は自力作善よりも劣位であり、
悪思悪言悪行しか為せない悪人こそは帰依するものであると見なすほうが、かえって正しいのだ。
悪人こそが他力本願にすがれば、それが善になる。善人として善言善行を心がけるために他力本願に
すがったりするほうが、かえって悪が助長される。この当たりには陰陽に根ざした微妙な法則性であり、
占い否定主義の親鸞聖人も、一時は易学を研究した上で悪人正機を編み出したともいう。
拝火教が生まれたイラン以西の世界の人々には、根本的な陰陽法則への理解が欠けていた。
悪が他力本願によって善になったり、善が他力本願によって悪になったりする微妙な実相法則を
東洋人のほうは理解できていたが、確かにこんな法則までをも理解していた東洋人のほうが凄すぎるだけで、
他力本願によって善を為すことだってできると考えた西方人のほうが、それなりであるといえるかもしれない。
しかし、全世界としては陰陽法則の理解はあるわけだから、ある以上はそれを諾うほうが利口だといえる。
「(鄭忽曰く)詩に云えり、自ら多福を求めよと。
我れにして已むる在り、大国も何を為さん。君子曰く、自ら善く謀りを為す」
「鄭忽『詩経(大雅・文王)に"自力で多福を追い求めよ"とある。何事も最後は自力によって成し遂げられるもの。
大国ですらその助けになるものではない』 君子(孔子)はこれを評した。『鄭忽は善く自分でものを考えられる人だ』
(善言善行を為すものは、その考え方から自力作善を本位としていて、他力本願はあったとしても横に置いている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・桓公六年より)
我れにして已むる在り、大国も何を為さん。君子曰く、自ら善く謀りを為す」
「鄭忽『詩経(大雅・文王)に"自力で多福を追い求めよ"とある。何事も最後は自力によって成し遂げられるもの。
大国ですらその助けになるものではない』 君子(孔子)はこれを評した。『鄭忽は善く自分でものを考えられる人だ』
(善言善行を為すものは、その考え方から自力作善を本位としていて、他力本願はあったとしても横に置いている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・桓公六年より)
親鸞聖人の生きた鎌倉時代は、まだ武士道の洗練も疎かだった地侍などが
民衆を痛め付けるような暴挙にも及んでいた乱世だった。
加えて、比叡山でも腐敗や僧兵の乱暴が横行し、まともに自力業で衆生を救えるような事態でもなかった。
乱世すぎて、聖道門級の自力作善が覚束ないのは今でも同じだが、決してそれが永久不変の定常状態なわけでもない。
奈良時代や平安時代並みの泰平が実現されたなら、聖道門の自力作善も可能となるし、
聖道門よりは遥かに卑俗な儒学による自力作善なら、江戸時代程度の平穏度でも可能となる。
民衆を痛め付けるような暴挙にも及んでいた乱世だった。
加えて、比叡山でも腐敗や僧兵の乱暴が横行し、まともに自力業で衆生を救えるような事態でもなかった。
乱世すぎて、聖道門級の自力作善が覚束ないのは今でも同じだが、決してそれが永久不変の定常状態なわけでもない。
奈良時代や平安時代並みの泰平が実現されたなら、聖道門の自力作善も可能となるし、
聖道門よりは遥かに卑俗な儒学による自力作善なら、江戸時代程度の平穏度でも可能となる。
大量の資本や資源を独占している欧米聖書圏だけを相続できれば、そりゃあしめたもんだ。
しかし、欧米なんてのは全世界のごく一部で、その他の大勢の社会から富を収奪することでこそ
欧米の虚栄も成り立っていて、その富の配分を均しただけで、一人頭の割り当ては雀の涙ほどにもなる。
それは、収奪行為などに及ばなかった場合以上にも些少な益であり、全体の公益は確実に昔よりも目減りしている。
仮に富の分配は絶って、世界の大多数の人間の困窮はそのままにしておくとすれば、苦悩に駆られた乱交からなる
人口爆発が避けられない。核大戦や化学テロやウイルステロによる人口削減を試みたところで、その災禍は必ず
欧米社会にまで及び、富を均等に分配する場合以上もの災難が、確実に免れ得ないことが容易に察知できる。
まず、聖書信仰に支配された世界を相続させられることは全く割に合わない。苦労ばかりが募る後始末にしかならない。
それでも相続を引き受けるとして、ただ富を分配するだけでは世界中の疲弊を解消しきることはできないので、
道徳教育による民度の改善も必要だし、道徳教育を広めるためにこそ聖書信仰の有害さを啓発していく必要もある。
ただ無為自然の放任ばかりにもしていられないのは、聖書信仰の害為によって世界が自然状態以上にも荒廃して
しまっているからで、道徳教育という作為を必要としてしまうのも、聖書信仰のような害為があったればこそ。
しかし、欧米なんてのは全世界のごく一部で、その他の大勢の社会から富を収奪することでこそ
欧米の虚栄も成り立っていて、その富の配分を均しただけで、一人頭の割り当ては雀の涙ほどにもなる。
それは、収奪行為などに及ばなかった場合以上にも些少な益であり、全体の公益は確実に昔よりも目減りしている。
仮に富の分配は絶って、世界の大多数の人間の困窮はそのままにしておくとすれば、苦悩に駆られた乱交からなる
人口爆発が避けられない。核大戦や化学テロやウイルステロによる人口削減を試みたところで、その災禍は必ず
欧米社会にまで及び、富を均等に分配する場合以上もの災難が、確実に免れ得ないことが容易に察知できる。
まず、聖書信仰に支配された世界を相続させられることは全く割に合わない。苦労ばかりが募る後始末にしかならない。
それでも相続を引き受けるとして、ただ富を分配するだけでは世界中の疲弊を解消しきることはできないので、
道徳教育による民度の改善も必要だし、道徳教育を広めるためにこそ聖書信仰の有害さを啓発していく必要もある。
ただ無為自然の放任ばかりにもしていられないのは、聖書信仰の害為によって世界が自然状態以上にも荒廃して
しまっているからで、道徳教育という作為を必要としてしまうのも、聖書信仰のような害為があったればこそ。
聖書信仰の有害無益さがよくわきまえられて、狂信したりすることがなくなればそれに応じて、作為的な道徳教育に
邁進していく必要などもなくなるのだから、儒学による道徳教育こそは、聖書信仰という罪に対する罰であると考えるべきだ。
「申伯の徳は、柔恵にして且つ直し。此の万邦を揉らぎ、四国に聞まれあり。
吉甫は誦を作る、其の詩は孔とも碩しく、其の風も肆と好ましく、以て申伯に贈す」
「周王の叔父の申伯は、その徳が柔和で恵み深く、それでいて正直である。万邦を和らげて、四方の国々にも評判が囁かれる。
吉甫がそれを賛じて唄った歌も、それはそれは麗しいもので、風流にも適って好ましかったために、申伯に献じられた。
(徳治の成果は歌として献じられるばかり。全世界を投げ出すなんて、どれほどの暴政をやらかしたことやら)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・郲高より)
邁進していく必要などもなくなるのだから、儒学による道徳教育こそは、聖書信仰という罪に対する罰であると考えるべきだ。
「申伯の徳は、柔恵にして且つ直し。此の万邦を揉らぎ、四国に聞まれあり。
吉甫は誦を作る、其の詩は孔とも碩しく、其の風も肆と好ましく、以て申伯に贈す」
「周王の叔父の申伯は、その徳が柔和で恵み深く、それでいて正直である。万邦を和らげて、四方の国々にも評判が囁かれる。
吉甫がそれを賛じて唄った歌も、それはそれは麗しいもので、風流にも適って好ましかったために、申伯に献じられた。
(徳治の成果は歌として献じられるばかり。全世界を投げ出すなんて、どれほどの暴政をやらかしたことやら)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・郲高より)
父なし子ではあっても父親の身元を自力で調べ上げ、正式に家を継いだ孔子と、
父なし子である悲哀をそのまま開き直って「神の子」と称したイエスとでは、
実父に対する恭敬の念の有無と、ちゃんと父親の素性を確かめようとした勤勉さの有無とが違う。
結果、孔子は人並み以上に親を敬う孝心を養い、物事をちゃんと調べ上げる洞察力をも得た一方で、
イエスは実父がいたとした場合に、その存在を貶めるような不孝な思いや言動を募らせて、物事の
実際をちゃんと確かめようともしなかったことからなる注意欠陥障害までをも深刻化させていた。
父なしの妾腹の私生児という境遇が、孔子には人並み以上の孝心や洞察力を得させた一方、
イエスには人並み以上に不孝な思いや言動と、深刻な注意欠陥障害とを募らさせた。
両者の違いは、自利作善と他力本願というところにも現れていて、孔子は自学自習によってこそ
孝心や洞察力を養ったのに対し、イエスは脳内妄想神への仮託によって不孝や注意欠陥を募らせた。
神と呼び、父と呼ぶ脳内妄想への他力本願が、不孝や注意欠陥の元凶となったわけだから、
他力本願の悪用の中でも最たるものであるといえ、妾腹の私生児のような恵まれない境遇の持ち主こそは、
自らの不遇からなる怨みつらみを妄想神に仮託して、他力本願の対象としたりしてはいけないのだといえる。
人間の不遇にも色々とあるが、特に妾腹の私生児のような「乗り越えられる不遇」に見舞われている場合には、
自力の努力による克服をまず志すべきであって、そこに怠惰からなる諦めや、諦めからなる不満などを
差し挟むべきではない。どうしても治せない難病にかかっていたり、乱世からなる民への虐げによって、
どうしても自分が困窮した生活から這い上がれなかったりといった、克服がほとんど不可能な不遇に限って
他力本願での気休めも許されるものであり、最善を尽くして、それでも悪人であらざるを得ないところにこそ、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という、親鸞聖人の言葉までもが活きてくるのだといえる。
父なし子である悲哀をそのまま開き直って「神の子」と称したイエスとでは、
実父に対する恭敬の念の有無と、ちゃんと父親の素性を確かめようとした勤勉さの有無とが違う。
結果、孔子は人並み以上に親を敬う孝心を養い、物事をちゃんと調べ上げる洞察力をも得た一方で、
イエスは実父がいたとした場合に、その存在を貶めるような不孝な思いや言動を募らせて、物事の
実際をちゃんと確かめようともしなかったことからなる注意欠陥障害までをも深刻化させていた。
父なしの妾腹の私生児という境遇が、孔子には人並み以上の孝心や洞察力を得させた一方、
イエスには人並み以上に不孝な思いや言動と、深刻な注意欠陥障害とを募らさせた。
両者の違いは、自利作善と他力本願というところにも現れていて、孔子は自学自習によってこそ
孝心や洞察力を養ったのに対し、イエスは脳内妄想神への仮託によって不孝や注意欠陥を募らせた。
神と呼び、父と呼ぶ脳内妄想への他力本願が、不孝や注意欠陥の元凶となったわけだから、
他力本願の悪用の中でも最たるものであるといえ、妾腹の私生児のような恵まれない境遇の持ち主こそは、
自らの不遇からなる怨みつらみを妄想神に仮託して、他力本願の対象としたりしてはいけないのだといえる。
人間の不遇にも色々とあるが、特に妾腹の私生児のような「乗り越えられる不遇」に見舞われている場合には、
自力の努力による克服をまず志すべきであって、そこに怠惰からなる諦めや、諦めからなる不満などを
差し挟むべきではない。どうしても治せない難病にかかっていたり、乱世からなる民への虐げによって、
どうしても自分が困窮した生活から這い上がれなかったりといった、克服がほとんど不可能な不遇に限って
他力本願での気休めも許されるものであり、最善を尽くして、それでも悪人であらざるを得ないところにこそ、
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という、親鸞聖人の言葉までもが活きてくるのだといえる。
「与に共に学ぶ可くも、未だ与に道に適く可からず。
与に道に適く可くも、未だ与に立つ可からず。与に立つ可くも、未だ与に権る可からず」
「人と共に学ぶことができたとしても、それで共に道を得られるとは限らない。
共に道を得られたとしても、それで共に同じ立場に立てるとも限らない。
共に同じ立場に立てたとしても、それで共に物事をよく取り計らえるとは限らない。
(自学自習によって聖人として大成した孔子ならではの、自力作善の孤独さの経験則だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三一より)
与に道に適く可くも、未だ与に立つ可からず。与に立つ可くも、未だ与に権る可からず」
「人と共に学ぶことができたとしても、それで共に道を得られるとは限らない。
共に道を得られたとしても、それで共に同じ立場に立てるとも限らない。
共に同じ立場に立てたとしても、それで共に物事をよく取り計らえるとは限らない。
(自学自習によって聖人として大成した孔子ならではの、自力作善の孤独さの経験則だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三一より)
息をするようにして根も葉もない演技をする虚言癖も、
現実の苦難を克服しようともせずに、ただひたすら逃避を続けて来たがための所産。
演技が仕事になるのは、商売人や芸能人まで。君子階級はおろか、
農家や職人ですら、思考の上ずりからなる虚言虚構などは仕事上、百害あって一利もない。
士農工商の位階に即して上位である職業ほど上辺の取り繕いなどでは済まされず、
下位である職業ほど口先だけでのがなりたてがものを言う。
つまり、職業倫理的には演技を不要ないし有害とする職業のほうが優良であり、
演技を有用で有益なものとする職業のほうが劣悪であるといえる。
劇場での演技の舞台なども、視野の範囲としてはごく限られたものであり、
そこばかりを注視していれば必ず死角が生ずる。四方に広がる天下全土のうちでも、
ごく限られた界隈にだけ視界や投げ銭のあて所を与えるのが、演技を用いた職業の根本原理であり、
それは演劇だけでなく、客の前でだけへつらい顔を崩さないでいる商売などについても言えること。
商売や芸能が、あくまで卑賤な職業として、演技を生業とすることはある程度まで許されることだが、
それらが聖職のように崇め祭られたりするのはおかしいし、挙げ句には演技などでことを済ませてはならない
為政者までもが、商売人や芸能人のあり方を倣って巧言令色に努めたりするのもおかしい。
演技を生業とするような職業は賤しい職業だし、そもそも演技という行い自体が、無くて済めばそれに越したことはないもの。
「演技をこの世から根絶しろ」とまではいわないが、少なくとも演技を神聖化するような風潮は絶やすべきだといえる。
演技など、やってみた所で「大根」である内が、現実に生きる人としての充実度も華なのである。
現実の苦難を克服しようともせずに、ただひたすら逃避を続けて来たがための所産。
演技が仕事になるのは、商売人や芸能人まで。君子階級はおろか、
農家や職人ですら、思考の上ずりからなる虚言虚構などは仕事上、百害あって一利もない。
士農工商の位階に即して上位である職業ほど上辺の取り繕いなどでは済まされず、
下位である職業ほど口先だけでのがなりたてがものを言う。
つまり、職業倫理的には演技を不要ないし有害とする職業のほうが優良であり、
演技を有用で有益なものとする職業のほうが劣悪であるといえる。
劇場での演技の舞台なども、視野の範囲としてはごく限られたものであり、
そこばかりを注視していれば必ず死角が生ずる。四方に広がる天下全土のうちでも、
ごく限られた界隈にだけ視界や投げ銭のあて所を与えるのが、演技を用いた職業の根本原理であり、
それは演劇だけでなく、客の前でだけへつらい顔を崩さないでいる商売などについても言えること。
商売や芸能が、あくまで卑賤な職業として、演技を生業とすることはある程度まで許されることだが、
それらが聖職のように崇め祭られたりするのはおかしいし、挙げ句には演技などでことを済ませてはならない
為政者までもが、商売人や芸能人のあり方を倣って巧言令色に努めたりするのもおかしい。
演技を生業とするような職業は賤しい職業だし、そもそも演技という行い自体が、無くて済めばそれに越したことはないもの。
「演技をこの世から根絶しろ」とまではいわないが、少なくとも演技を神聖化するような風潮は絶やすべきだといえる。
演技など、やってみた所で「大根」である内が、現実に生きる人としての充実度も華なのである。
「人の臣為る者が利を懐いて以て其の君に事え、人の子為る者が利を懐いて以て其の父に事え、
人の弟為る者が利を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は終く仁義を去り、
利を懐いて以て相接わるなり。然うして亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。(ここまで既出)
人の臣為る者が仁義を懐いて以て其の君に事え、人の子為る者が仁義を懐いて以て其の父に事え、
人の弟為る者が仁義を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は去く利を去り、
仁義を懐いて以て相接わるなり。然うして王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。何ぞ必ずしも利を曰わん」
「人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
一身の利欲ばかりを目的に仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが仁義を去ることになり、
ただ自らの利益のためにばかり関係を持つことになる。こうして滅亡しなかった例は未だかつてない。
人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
仁義の実現のために仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが利欲を去ることになり、
ただ仁義の実現のためにのみ関係を持つことになる。こうして王者とならなかった例は未だかつてない。
どうして一身の利欲のことなどを口にしていられようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・四より)
人の弟為る者が利を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は終く仁義を去り、
利を懐いて以て相接わるなり。然うして亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。(ここまで既出)
人の臣為る者が仁義を懐いて以て其の君に事え、人の子為る者が仁義を懐いて以て其の父に事え、
人の弟為る者が仁義を懐いて以て其の兄に事えば、是れ君臣、父子、兄弟は去く利を去り、
仁義を懐いて以て相接わるなり。然うして王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。何ぞ必ずしも利を曰わん」
「人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
一身の利欲ばかりを目的に仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが仁義を去ることになり、
ただ自らの利益のためにばかり関係を持つことになる。こうして滅亡しなかった例は未だかつてない。
人の臣下たるものがその主君に対し、人の子たるものがその父に対し、人の弟たるものがその兄に対して、
仁義の実現のために仕えようとしたならば、君臣、父子、兄弟のいずれもが利欲を去ることになり、
ただ仁義の実現のためにのみ関係を持つことになる。こうして王者とならなかった例は未だかつてない。
どうして一身の利欲のことなどを口にしていられようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・四より)
「言葉」というものはそれ自体が、実相上の陰陽でいうところの「陰」にあたる。
自ら身を挺しての実践こそは「陽」であり、それを記録したり、補強したり
するために言葉や文字を用いるのが、陽唱陰和の吉祥法則に適うことになる。
言葉や文字が絶対と化して、そこに全く実践が伴わなかったりするのは
陽唱陰和の逆になるから不吉であり、怠惰や慢心などの原因ともなってしまう。
有言不実行が最も不吉であり、言行一致がまあまあであり、不言実行がなかなかであり、
実行の後に抑制を利かせた文飾を添えることが最も吉祥であると儒者は見なす。
だから完全に文を捨てて体育会系となるのでもなく、史書や実践思想などとしての
文化活動にはまんざらではなく、王朝の正史編纂が儒者の伝統的な事業ともされて来た。
ただ、言葉を博打のために用いること、契約や法定のために用いることなどを儒者は
なるべく忌避して来ており、そのような言葉によって人々の行いが事前に拘束を被る
ことをよからぬ事と見なして来た。そしてそれは、西洋文化のほぼ全てにも当たる。
言語道断の境地になおあり得る人だとか神仏だとかを、西洋人は太古の昔から
打ち棄ててきた。聖書信仰への罹患後にはもはやそんなものは実在しないとすらされ、
超言語的文化を全てオカルトと見なして憚らなかった。しかし、その言葉を超えた
ところにある実相への帰着こそは東洋文化の根本命題でもあり、だからこそ
東洋文化上の文書群、特に仏典などには微妙不可思議で意味不明なものが多い。
自ら身を挺しての実践こそは「陽」であり、それを記録したり、補強したり
するために言葉や文字を用いるのが、陽唱陰和の吉祥法則に適うことになる。
言葉や文字が絶対と化して、そこに全く実践が伴わなかったりするのは
陽唱陰和の逆になるから不吉であり、怠惰や慢心などの原因ともなってしまう。
有言不実行が最も不吉であり、言行一致がまあまあであり、不言実行がなかなかであり、
実行の後に抑制を利かせた文飾を添えることが最も吉祥であると儒者は見なす。
だから完全に文を捨てて体育会系となるのでもなく、史書や実践思想などとしての
文化活動にはまんざらではなく、王朝の正史編纂が儒者の伝統的な事業ともされて来た。
ただ、言葉を博打のために用いること、契約や法定のために用いることなどを儒者は
なるべく忌避して来ており、そのような言葉によって人々の行いが事前に拘束を被る
ことをよからぬ事と見なして来た。そしてそれは、西洋文化のほぼ全てにも当たる。
言語道断の境地になおあり得る人だとか神仏だとかを、西洋人は太古の昔から
打ち棄ててきた。聖書信仰への罹患後にはもはやそんなものは実在しないとすらされ、
超言語的文化を全てオカルトと見なして憚らなかった。しかし、その言葉を超えた
ところにある実相への帰着こそは東洋文化の根本命題でもあり、だからこそ
東洋文化上の文書群、特に仏典などには微妙不可思議で意味不明なものが多い。
漢字や梵字のような豊潤な書道文化もある一方で、言葉はあくまで言葉であって、
実相そのものではなく、どちらかといえば言葉よりも実相を重んじるべきだという
通念が東洋文化には一貫して存在する。むしろ、言葉を実相の記録係として
割り切って扱ってきたからこそ、豊潤な書道文化までもが発達したのであり、
言葉こそは絶対である西洋においてこそ、文字自体の扱いはかえって粗末である。
言葉を紙面上に表したりした時点で、言葉が実相に汚されたかのように思うから。
むしろ、言葉によって実相が汚されることのほうを問題視すべきなのであって、
ロゴス主義の聖書信仰や洋学を無理に実践しようとした結果、地球規模での環境破壊
などが巻き起こっていることのほうを、ロゴス主義が不吉である証拠だと捉えるべきなのだ。
「司馬牛仁を問う。子曰く、仁者は其の言や鞚。曰く、其の言や鞚は、斯れを之れ
仁と謂うべきか。子曰く、之れを為すこと難ければ、之れを言うに鞚なること無きを得んか」
「弟子の司馬牛が仁について問うた。先生は言われた。『仁者はその言葉が控えめなものだ』
司馬牛『言葉が控えめですらあれば仁と呼べるのでしょうか』 先生は言われた。
『その実践が難しいと思えば、たとえ控えめですらものを言うことができようか』
(仁者は常にその言葉が実践可能であるかどうかを念頭に置いているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・三)
実相そのものではなく、どちらかといえば言葉よりも実相を重んじるべきだという
通念が東洋文化には一貫して存在する。むしろ、言葉を実相の記録係として
割り切って扱ってきたからこそ、豊潤な書道文化までもが発達したのであり、
言葉こそは絶対である西洋においてこそ、文字自体の扱いはかえって粗末である。
言葉を紙面上に表したりした時点で、言葉が実相に汚されたかのように思うから。
むしろ、言葉によって実相が汚されることのほうを問題視すべきなのであって、
ロゴス主義の聖書信仰や洋学を無理に実践しようとした結果、地球規模での環境破壊
などが巻き起こっていることのほうを、ロゴス主義が不吉である証拠だと捉えるべきなのだ。
「司馬牛仁を問う。子曰く、仁者は其の言や鞚。曰く、其の言や鞚は、斯れを之れ
仁と謂うべきか。子曰く、之れを為すこと難ければ、之れを言うに鞚なること無きを得んか」
「弟子の司馬牛が仁について問うた。先生は言われた。『仁者はその言葉が控えめなものだ』
司馬牛『言葉が控えめですらあれば仁と呼べるのでしょうか』 先生は言われた。
『その実践が難しいと思えば、たとえ控えめですらものを言うことができようか』
(仁者は常にその言葉が実践可能であるかどうかを念頭に置いているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・三)
詐欺誘惑型のカルト信仰は、信仰の内側では徹底的な甘やかしを保証する。
あらゆる望みが思うままに叶えられて、あらゆる災厄から自分たちだけは逃れられる、
そこに堅苦しい制約などは一切存在せず、どこまでも思うがままでいられるとする。
そうして、カルト信者の自意識過剰の思い上がりは、信仰と共に無制限に肥大化していく。
言語表現でいえば「ある」「できる」「叶えられる」「愛されている」とかいった肯定的な
言葉ばかりに酔い潰れることで、人の思い上がりというのはどこまでも肥大化して行く。そうして、
何を自主的にやらせる以上にも、完全な禁治産下に置いたほうがよっぽど満足な廃人ができ上がる。
カルト教義に特有の、信仰の内側でだけの肯定の重畳、これがまず一つの、精神薄弱による廃人化を
誘発する原因の一つとなる。一方で、無信仰のニヒリストのように、何もかもをけなし尽くそうとする
否定の重畳もまた、否定の狂気からなる廃人化を誘発する。言葉を専らな肯定のためばかりに用いたり、
逆に専らな否定のためばかりに用いたりすることは精神の不健全化を招くため、そのような
言語表現の濫用に酔い潰れたり、トチ狂ったりするぐらいなら、まだ何も言わないでいたほうがよい。
言葉を専らな肯定に用いることも悪用なら、専らな否定に用いることも悪用である。
少なくとも「ヘタな言葉の用い方」であり、あるものはある、ないものはないと、肯定語と否定語を
巧みに使いこなしていくことで、実相上の吉祥を呼び込むことが、言葉の上手な使い方だといえる。
それでこそ、言語で論ずることによる人格の向上や、治世の盤石化までもが実現されていくことになる。
あらゆる望みが思うままに叶えられて、あらゆる災厄から自分たちだけは逃れられる、
そこに堅苦しい制約などは一切存在せず、どこまでも思うがままでいられるとする。
そうして、カルト信者の自意識過剰の思い上がりは、信仰と共に無制限に肥大化していく。
言語表現でいえば「ある」「できる」「叶えられる」「愛されている」とかいった肯定的な
言葉ばかりに酔い潰れることで、人の思い上がりというのはどこまでも肥大化して行く。そうして、
何を自主的にやらせる以上にも、完全な禁治産下に置いたほうがよっぽど満足な廃人ができ上がる。
カルト教義に特有の、信仰の内側でだけの肯定の重畳、これがまず一つの、精神薄弱による廃人化を
誘発する原因の一つとなる。一方で、無信仰のニヒリストのように、何もかもをけなし尽くそうとする
否定の重畳もまた、否定の狂気からなる廃人化を誘発する。言葉を専らな肯定のためばかりに用いたり、
逆に専らな否定のためばかりに用いたりすることは精神の不健全化を招くため、そのような
言語表現の濫用に酔い潰れたり、トチ狂ったりするぐらいなら、まだ何も言わないでいたほうがよい。
言葉を専らな肯定に用いることも悪用なら、専らな否定に用いることも悪用である。
少なくとも「ヘタな言葉の用い方」であり、あるものはある、ないものはないと、肯定語と否定語を
巧みに使いこなしていくことで、実相上の吉祥を呼び込むことが、言葉の上手な使い方だといえる。
それでこそ、言語で論ずることによる人格の向上や、治世の盤石化までもが実現されていくことになる。
この孟子の言葉なども、天道の好ましい側面と好ましくない側面とを冷徹に論じ上げていて、
決して人間社会がどこまでも弱者への慈しみばかりに充たされたものであるわけではないのだと
よく見定めている。その上で、天道を明らかにしていくことで、弱者への慈しみも豊かな治世を築き上げて
行こうとする心意気を得るわけだから、ただ「信じれば同情される」などという、言語上だけでの肯定一辺倒
への逃げ込みではそのような心意気も得られないために、治世を促進することすら覚束なくなるのだといえる。
「天下に道有れば、小徳は大徳に役せられ、小賢は大賢に役せらる。
天下に道無ければ、小は大に役せられ、弱は強に役せらる。斯の二者は天なり」
「天下に道がある時は、誰しもに最低限の徳や賢さが備わり、その上で小徳の持ち主が大徳の
持ち主に丁重に用いられたり、小賢の持ち主が大賢の持ち主に情け深く用いられたりする。
一方、天下に道の無いときには、ただ大小強弱の力関係があるだけで、小さくて弱いものが、
大きくて強いものに粗暴に扱われるばかりとなる。これもまた天地万物に普遍の道理だといえる。
(天下に道が有れば誰しもが、小さくて弱くとも、大きくて強いものからの同情を得られもする。
信仰の内側でしかそれを得られないとする犯罪聖書の記述は、天下から道を覆い隠す元凶ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・七より)
決して人間社会がどこまでも弱者への慈しみばかりに充たされたものであるわけではないのだと
よく見定めている。その上で、天道を明らかにしていくことで、弱者への慈しみも豊かな治世を築き上げて
行こうとする心意気を得るわけだから、ただ「信じれば同情される」などという、言語上だけでの肯定一辺倒
への逃げ込みではそのような心意気も得られないために、治世を促進することすら覚束なくなるのだといえる。
「天下に道有れば、小徳は大徳に役せられ、小賢は大賢に役せらる。
天下に道無ければ、小は大に役せられ、弱は強に役せらる。斯の二者は天なり」
「天下に道がある時は、誰しもに最低限の徳や賢さが備わり、その上で小徳の持ち主が大徳の
持ち主に丁重に用いられたり、小賢の持ち主が大賢の持ち主に情け深く用いられたりする。
一方、天下に道の無いときには、ただ大小強弱の力関係があるだけで、小さくて弱いものが、
大きくて強いものに粗暴に扱われるばかりとなる。これもまた天地万物に普遍の道理だといえる。
(天下に道が有れば誰しもが、小さくて弱くとも、大きくて強いものからの同情を得られもする。
信仰の内側でしかそれを得られないとする犯罪聖書の記述は、天下から道を覆い隠す元凶ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・七より)
神仏は、神仏としては人間に定義されたものではあるが、
神仏と定義するところの示すものが、超人間的、超人為的な普遍性であることはままある。
絶対的に普遍的な理合を司っている神仏ほど格が高く、脆弱な理合を司るものほど格が低い。
あまりにも脆弱な理合を司っている場合には、神仏ではなく鬼畜や妖怪として扱われ、
それに付いて行けばかえってわざわいを招くものとして、教訓的に忌避の対象とされる。
脆弱な理合は、「無理」に極まる。そしてその無理を司っているのが犯罪聖書の邪神に当たる。
何らの普遍的な理合にも即しておらず、むしろ理合に真っ向から相反しようとしている。
だからそれに即して何をやったってうまくいくことはなく、それを信じた挙句の埋め合わせ
として、何もかもを無機的な作為によって作り直さなければなくなる徒労を生じさせる。
絶対に、超人間的な普遍性の理合にあやかることができなくなるのが犯罪聖書への信仰であり、
それを信仰している限りにおいては、真の超人的な普遍性に即した理合を計り知ることすらできない。
それが「普通の人間」なのではなく、普遍的な理合を見失った人間というのは、甚だしい不能者の部類に入る。
犯罪聖書などを信じていなければ、ただの普通の人間であるだけで、多少は超人的な普遍性を計り知ることが
できるのであって、それが全くできないというのは、普通の人間以上にも蒙昧が深刻化してしまっているから。
神仏と定義するところの示すものが、超人間的、超人為的な普遍性であることはままある。
絶対的に普遍的な理合を司っている神仏ほど格が高く、脆弱な理合を司るものほど格が低い。
あまりにも脆弱な理合を司っている場合には、神仏ではなく鬼畜や妖怪として扱われ、
それに付いて行けばかえってわざわいを招くものとして、教訓的に忌避の対象とされる。
脆弱な理合は、「無理」に極まる。そしてその無理を司っているのが犯罪聖書の邪神に当たる。
何らの普遍的な理合にも即しておらず、むしろ理合に真っ向から相反しようとしている。
だからそれに即して何をやったってうまくいくことはなく、それを信じた挙句の埋め合わせ
として、何もかもを無機的な作為によって作り直さなければなくなる徒労を生じさせる。
絶対に、超人間的な普遍性の理合にあやかることができなくなるのが犯罪聖書への信仰であり、
それを信仰している限りにおいては、真の超人的な普遍性に即した理合を計り知ることすらできない。
それが「普通の人間」なのではなく、普遍的な理合を見失った人間というのは、甚だしい不能者の部類に入る。
犯罪聖書などを信じていなければ、ただの普通の人間であるだけで、多少は超人的な普遍性を計り知ることが
できるのであって、それが全くできないというのは、普通の人間以上にも蒙昧が深刻化してしまっているから。
超人的な理合を把捉する専門家としての神人や仏僧にまでならなくたって、正統な神仏への畏敬も
多少は具えているただの人間であるだけで、相当に現象の理合を直観的に把捉する道は開ける。
ただし、超人的な理合を決定的に見失わせる、犯罪聖書への信仰だけは完全に破棄していることが
大前提であり、それはザビエル侵入以前の日本人や、キリシタンが禁教となった江戸時代の日本人
などであれば当然満たしている条件だった。2000年来、聖書信仰の蒙昧に耽り続けてきた西洋人が
棄教を躊躇うのならまだしも、歴史のほとんどを犯罪聖書と共に歩んではいない日本人が、
受容すればするほど人としてダメになる犯罪聖書を好き好んだりするのは、全く筋が通らない。
それによって自分たちの歴史のほとんどを応用不能なものにしてしまうのだから、世界史上でも
最高級に上質な歴史を育んできた国の人間として、犯罪聖書を亡きものにせずしていいわけがない。
「井に収むを幕する勿れ。孚有れば元吉なり。元吉にして上に在り、大いに成るなり」
「水を恵む井戸に幕を張って取水を制限するようなことをするな。誰にでも水を恵むだけの誠意が
あれば大いに吉祥である。大いに吉祥であって初めて人の上に立てるほどもの偉人として大成できる。
(恵みの大祭司となるキリストが幕屋の内にあるとは、構文上だけでも極めて不吉な記述に当たる。
朝廷の社稷霊廟に幕が張られたり、武家政権が『幕府』と呼ばれたりするのは、自分たちが産業階級を
統制する士大夫であることの一線を引くためで、自分たちがモノを恵む産業階級の主であるからではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・井・上六‐象伝)
多少は具えているただの人間であるだけで、相当に現象の理合を直観的に把捉する道は開ける。
ただし、超人的な理合を決定的に見失わせる、犯罪聖書への信仰だけは完全に破棄していることが
大前提であり、それはザビエル侵入以前の日本人や、キリシタンが禁教となった江戸時代の日本人
などであれば当然満たしている条件だった。2000年来、聖書信仰の蒙昧に耽り続けてきた西洋人が
棄教を躊躇うのならまだしも、歴史のほとんどを犯罪聖書と共に歩んではいない日本人が、
受容すればするほど人としてダメになる犯罪聖書を好き好んだりするのは、全く筋が通らない。
それによって自分たちの歴史のほとんどを応用不能なものにしてしまうのだから、世界史上でも
最高級に上質な歴史を育んできた国の人間として、犯罪聖書を亡きものにせずしていいわけがない。
「井に収むを幕する勿れ。孚有れば元吉なり。元吉にして上に在り、大いに成るなり」
「水を恵む井戸に幕を張って取水を制限するようなことをするな。誰にでも水を恵むだけの誠意が
あれば大いに吉祥である。大いに吉祥であって初めて人の上に立てるほどもの偉人として大成できる。
(恵みの大祭司となるキリストが幕屋の内にあるとは、構文上だけでも極めて不吉な記述に当たる。
朝廷の社稷霊廟に幕が張られたり、武家政権が『幕府』と呼ばれたりするのは、自分たちが産業階級を
統制する士大夫であることの一線を引くためで、自分たちがモノを恵む産業階級の主であるからではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・井・上六‐象伝)
火は文明にとって必要不可欠なものだが、火事や戦火のような災禍をも招くもの。
水もまた農耕などに必須のものだが、洪水や津波となって世に大きな禍を招きもする。
水火ともども人間の十分な管理下に置かれることこそが、人間社会にとっての吉祥法則であり、
水が絶対的、火が絶対的というようなことを極端化するのは、何らかの危うさを招くもの。
そして、水と火の消費バランスとしては、水4:火1程度であることが最も好ましく、
水1:火4などは極めて不吉で、水1:火1でもまだ不十分で、水1:火0や水0:火1でもいけない。
実例を挙げれば、農耕や漁業が水に頼る文明である一方、石油や天然ガスを燃焼させる
機械文明が火に頼る文明であるといえ(焼き畑農業や水力発電などの例外もある)、水に頼る文明を
火に頼る文明の四倍程度重視することが、人間社会を吉方へと導く黄金比になるのだといえる。
今は、石油エネルギーなどの火に頼る文明ばかりに頼りすぎているせいで、水利を重要視しての
農産なども世界レベルでは行き届かず、人間の口数に相応の食物が十分に育て上げられずにもいる。
火に頼る文明の魅力が、世界人口をも爆発させる一方、別に石油が食べ物になるわけでもないから、
人口が増えたに相応の飲食の満足が追いつかず、自然状態以上もの飢渇を多くの人々に強いることとなっている。
水もまた農耕などに必須のものだが、洪水や津波となって世に大きな禍を招きもする。
水火ともども人間の十分な管理下に置かれることこそが、人間社会にとっての吉祥法則であり、
水が絶対的、火が絶対的というようなことを極端化するのは、何らかの危うさを招くもの。
そして、水と火の消費バランスとしては、水4:火1程度であることが最も好ましく、
水1:火4などは極めて不吉で、水1:火1でもまだ不十分で、水1:火0や水0:火1でもいけない。
実例を挙げれば、農耕や漁業が水に頼る文明である一方、石油や天然ガスを燃焼させる
機械文明が火に頼る文明であるといえ(焼き畑農業や水力発電などの例外もある)、水に頼る文明を
火に頼る文明の四倍程度重視することが、人間社会を吉方へと導く黄金比になるのだといえる。
今は、石油エネルギーなどの火に頼る文明ばかりに頼りすぎているせいで、水利を重要視しての
農産なども世界レベルでは行き届かず、人間の口数に相応の食物が十分に育て上げられずにもいる。
火に頼る文明の魅力が、世界人口をも爆発させる一方、別に石油が食べ物になるわけでもないから、
人口が増えたに相応の飲食の満足が追いつかず、自然状態以上もの飢渇を多くの人々に強いることとなっている。
削除(by投稿者)
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「水に頼る文明4:火に頼る文明1」という、微妙な配分が達せられることが最も吉祥なわけで、
別に重農主義であったり、商工業軽視主義であったりすればいいわけでもない。商工業の四倍程度に
農漁業を重視し、農漁業の四分の一程度に商工業を重視すべきということであり、そのうちのどこかを
疎かにしたりするようでは、極端から極端に振れて全体の責任を負わない、小人止まりの性分と化してしまう。
士農工商の位階を重んずる儒学では、確かにどこまでもへりくだる水の特性を称賛する傾向がある。しかし、
水の特性を称賛しつつも、洪水などとして災禍を招く場合があることまでもが指摘されている(>>56などを参照)。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」であり、水を絶対視するのも、火を絶対視するのも、実相に即して不吉である。
水を重視するが火をも重視し、火よりも四倍程度水を重視する。農漁業を重視するが商工業をも重視し、
商工業よりも農耕業を四倍程度重視するといった微妙な均衡は、まさに君子士人のみが取れるものだといえる。
「万乗の国を以って万乗の国を伐つに、箪食壺漿して以て王師を迎えたるは、豈に他有らんや。
水火を避けんがためなり。水益ます深きが如く、火益ます熱きが如くんば、亦た運らんのみ」
「万乗の国が万乗の国を討伐するような蛮行を侵しておきながら、敗戦国の民たちが豪華な食物や美酒を用意して
戦勝国の王師を迎えることがあるとすれば、それは水火の災害の如き暴政から逃れたいがために他ならない。
水害がますます深刻となり、火災がますます加熱するような暴政を敷いたなら、また民たちからの支持を失うことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一〇より)
別に重農主義であったり、商工業軽視主義であったりすればいいわけでもない。商工業の四倍程度に
農漁業を重視し、農漁業の四分の一程度に商工業を重視すべきということであり、そのうちのどこかを
疎かにしたりするようでは、極端から極端に振れて全体の責任を負わない、小人止まりの性分と化してしまう。
士農工商の位階を重んずる儒学では、確かにどこまでもへりくだる水の特性を称賛する傾向がある。しかし、
水の特性を称賛しつつも、洪水などとして災禍を招く場合があることまでもが指摘されている(>>56などを参照)。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」であり、水を絶対視するのも、火を絶対視するのも、実相に即して不吉である。
水を重視するが火をも重視し、火よりも四倍程度水を重視する。農漁業を重視するが商工業をも重視し、
商工業よりも農耕業を四倍程度重視するといった微妙な均衡は、まさに君子士人のみが取れるものだといえる。
「万乗の国を以って万乗の国を伐つに、箪食壺漿して以て王師を迎えたるは、豈に他有らんや。
水火を避けんがためなり。水益ます深きが如く、火益ます熱きが如くんば、亦た運らんのみ」
「万乗の国が万乗の国を討伐するような蛮行を侵しておきながら、敗戦国の民たちが豪華な食物や美酒を用意して
戦勝国の王師を迎えることがあるとすれば、それは水火の災害の如き暴政から逃れたいがために他ならない。
水害がますます深刻となり、火災がますます加熱するような暴政を敷いたなら、また民たちからの支持を失うことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一〇より)
儒者が両親への孝養を重んずるのは、親子関係こそが天下万人に共通普遍の大綱であるからだ。
友人も恋人もいない人間にだって親はいる。孤児ですらどこかに親がいたのであり、
その素性を調べ上げて信敬の対象とすることができる。人間である以上は必ず敬うべき親がいるという
普遍性に即して、儒者は親への敬いをあらゆる人間関係における畏敬の原型ともする。
親への敬いすら欠いたところに、普遍的な畏敬などがあり得るはずがない。
畏敬の基本としての親への敬いを欠けば、どんな畏敬も本質的な誠意を欠いたものとなる。
それは物事の普遍性全般を見くびることに繋がり、些末な私益のために普遍的な公益を蔑ろにする慢心の原因ともなる。
だから万人を利して我が利ともする仁徳と、親への畏敬とは切っても切れない関係にある一方、
万人を害して我が利とする我田引水の欲求にとっては、親への畏敬などは目の上のたんこぶにしかならない。
両親との関係を蔑ろにしてまで得られる利益があるとすれば、その利益は必ず公益を損なう要素を伴っている。
世の中に大迷惑をかけてこそ得られるような利益であるために、親がその真相を知ればひどく悲しむものであったりする。
そのような不正な利得にうつつを抜かすぐらいなら、まだ世の中に利も害ももたらさない鳴かず飛ばずの徒弟で
あったほうがよい。誰が自分の親に聞いてみたところで、誰しもの親が必ずそう答えるに違いない。
「未だ仁にして其の親を遺てる者は有らざるなり」
「未だかつて、仁者でありながら両親との関係を蔑ろにしたものはいない」
(権力道徳聖書——通商四書五経——孟子・梁恵王章句上・一より)
友人も恋人もいない人間にだって親はいる。孤児ですらどこかに親がいたのであり、
その素性を調べ上げて信敬の対象とすることができる。人間である以上は必ず敬うべき親がいるという
普遍性に即して、儒者は親への敬いをあらゆる人間関係における畏敬の原型ともする。
親への敬いすら欠いたところに、普遍的な畏敬などがあり得るはずがない。
畏敬の基本としての親への敬いを欠けば、どんな畏敬も本質的な誠意を欠いたものとなる。
それは物事の普遍性全般を見くびることに繋がり、些末な私益のために普遍的な公益を蔑ろにする慢心の原因ともなる。
だから万人を利して我が利ともする仁徳と、親への畏敬とは切っても切れない関係にある一方、
万人を害して我が利とする我田引水の欲求にとっては、親への畏敬などは目の上のたんこぶにしかならない。
両親との関係を蔑ろにしてまで得られる利益があるとすれば、その利益は必ず公益を損なう要素を伴っている。
世の中に大迷惑をかけてこそ得られるような利益であるために、親がその真相を知ればひどく悲しむものであったりする。
そのような不正な利得にうつつを抜かすぐらいなら、まだ世の中に利も害ももたらさない鳴かず飛ばずの徒弟で
あったほうがよい。誰が自分の親に聞いてみたところで、誰しもの親が必ずそう答えるに違いない。
「未だ仁にして其の親を遺てる者は有らざるなり」
「未だかつて、仁者でありながら両親との関係を蔑ろにしたものはいない」
(権力道徳聖書——通商四書五経——孟子・梁恵王章句上・一より)
「(定公)曰く、一言にして以って邦を喪うこと諸れ有りや。孔子対えて曰く、
言は以って是くの如くならざるも、其れ畿きなれば。人の言に曰く、
予は君たることを楽しむこと無し、唯だ其の言にして予に違うこと莫きを
楽しむなりと。如し其れ善にして之れに違うこと莫くんば、亦た善からずや。
如し不善にして之れに違うこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや(一部既出)」
「定公が問うた。『一言にして国を滅ぼすような言葉があるだろうか』 孔子は答えた。
『言葉はそれによって物事をどうこうすべきものではありませんが、近い言葉であれば知っています。
ある人の言った言葉に、〈私は主君であることを楽しむのではない。自分の言うことに
誰も逆らわないことを楽しむのだ〉というのがあります。もしもこの人の言うことが
正しくて誰も逆らわないのであれば、まあ、特に問題はないといえます。 しかし、
しかし、この人の言うことが間違っていながら誰も逆らわないというのであれば、
これこそは、一言にして国を滅ぼす言葉になるといえるのではないでしょうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一五より)
孔子の反ロゴス主義が如実に現れている言葉。二重三重と、言葉の絶対化の危うさを説き起こしている。
そして実際、孔子自身も、自らの考えや発言の過ちを人に指摘されて素直に改め、
「自分には過ちを指摘してくれる人がいる。なんと幸せなことだろう」と感嘆してもいる。
人と考えや言葉を折り合わせる習慣は、たとえば信長や秀吉にはなかったが、家康にはあった。
部下に対してすら敬称を欠かすことなく、強烈な諫言に対しても耳を傾けるような素直さが
子孫にまで受け継がれたものだから、徳川幕府も十五代もの治世を打ち立てられた一方で、
信長や秀吉は一代や二代限りでの栄華に終始した。確かに全盛期の考えや発言については、
信長や秀吉のそれが諸大名と比べても突出して優秀だったのは確かで、それがあまりにも突出して
優秀すぎたものだから、後を継げるものがいなくなって、高転びの憂き目に遭うこととなったのだった。
言は以って是くの如くならざるも、其れ畿きなれば。人の言に曰く、
予は君たることを楽しむこと無し、唯だ其の言にして予に違うこと莫きを
楽しむなりと。如し其れ善にして之れに違うこと莫くんば、亦た善からずや。
如し不善にして之れに違うこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや(一部既出)」
「定公が問うた。『一言にして国を滅ぼすような言葉があるだろうか』 孔子は答えた。
『言葉はそれによって物事をどうこうすべきものではありませんが、近い言葉であれば知っています。
ある人の言った言葉に、〈私は主君であることを楽しむのではない。自分の言うことに
誰も逆らわないことを楽しむのだ〉というのがあります。もしもこの人の言うことが
正しくて誰も逆らわないのであれば、まあ、特に問題はないといえます。 しかし、
しかし、この人の言うことが間違っていながら誰も逆らわないというのであれば、
これこそは、一言にして国を滅ぼす言葉になるといえるのではないでしょうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一五より)
孔子の反ロゴス主義が如実に現れている言葉。二重三重と、言葉の絶対化の危うさを説き起こしている。
そして実際、孔子自身も、自らの考えや発言の過ちを人に指摘されて素直に改め、
「自分には過ちを指摘してくれる人がいる。なんと幸せなことだろう」と感嘆してもいる。
人と考えや言葉を折り合わせる習慣は、たとえば信長や秀吉にはなかったが、家康にはあった。
部下に対してすら敬称を欠かすことなく、強烈な諫言に対しても耳を傾けるような素直さが
子孫にまで受け継がれたものだから、徳川幕府も十五代もの治世を打ち立てられた一方で、
信長や秀吉は一代や二代限りでの栄華に終始した。確かに全盛期の考えや発言については、
信長や秀吉のそれが諸大名と比べても突出して優秀だったのは確かで、それがあまりにも突出して
優秀すぎたものだから、後を継げるものがいなくなって、高転びの憂き目に遭うこととなったのだった。
この世には、全くの自力によって突出するものと、他力本願によって世を後押しするものと、
人との兼ね合いの中での自力によって最大級の能力を発揮するものとの三種がいる。
この中で、最も汎用的なのは最後者の、自力他力織り交ぜて最大の能力を発揮するものであり、
そこにこそ人間社会の安定の秘訣までもがあるといえる。そしてその、自力と他力両面において
最善を尽くすものというのは、自分自身の考えや言葉などをさして絶対的なものとは見なさない。
歴史上の武将には、代々後世に伝える家訓を遺しているものも多くいるが、家康はあえてそれも遺さなかった。
自分自身を家譜上の完全な完成系とは見なさず、後代にも脈々と家風を練り上げていく余地を残した。
そういった、親子関係に渡ってまで、考え方や教訓の融通を残していく所に、諸行無常の
浮世とも我が家をうまく付き合わせていく秘訣までもが含まれているのだといえる。
強いて言えば、名家が後世にまで代々続く糧とまでなるのは、偉大な先祖の生き様そのものなのであり、
ただ思想や言葉が立派だというばかりで、子々孫々の繁栄が約束されるなどということもないのである。
子孫の繁栄すら約束付けられない思想や言葉が、人間社会の繁栄に貢献するなどということも、当然ない。
「言を食む」「嘘を吐く」(僖公二十八年)
「礼無ければ必ず言を食む」「礼儀をわきまえないものは平気で嘘を吐く」(成公十二年)
「事に臨みて言を食むは、暇ありと謂う可からず」「切羽詰まって嘘を吐くのは、余裕がないからだ」(成公十六年)
「言を食む者は病まざらんや」「嘘ばかり吐くものは自らが精神を病む」(襄公二十七年)
「是れ言を食むこと多し。能く肥ゆること無からんや」「頻繁に嘘を吐いて、よく肥え太っていることだ」(哀公二十五年)
(「言を食む」は、春秋時代に「嘘を吐く」という意味で広く通用していた慣用句。
春秋諸侯もよく言を食むことで不正な利益を得ていた)
(権力道徳聖書——通商四書五経——春秋左氏伝より)
人との兼ね合いの中での自力によって最大級の能力を発揮するものとの三種がいる。
この中で、最も汎用的なのは最後者の、自力他力織り交ぜて最大の能力を発揮するものであり、
そこにこそ人間社会の安定の秘訣までもがあるといえる。そしてその、自力と他力両面において
最善を尽くすものというのは、自分自身の考えや言葉などをさして絶対的なものとは見なさない。
歴史上の武将には、代々後世に伝える家訓を遺しているものも多くいるが、家康はあえてそれも遺さなかった。
自分自身を家譜上の完全な完成系とは見なさず、後代にも脈々と家風を練り上げていく余地を残した。
そういった、親子関係に渡ってまで、考え方や教訓の融通を残していく所に、諸行無常の
浮世とも我が家をうまく付き合わせていく秘訣までもが含まれているのだといえる。
強いて言えば、名家が後世にまで代々続く糧とまでなるのは、偉大な先祖の生き様そのものなのであり、
ただ思想や言葉が立派だというばかりで、子々孫々の繁栄が約束されるなどということもないのである。
子孫の繁栄すら約束付けられない思想や言葉が、人間社会の繁栄に貢献するなどということも、当然ない。
「言を食む」「嘘を吐く」(僖公二十八年)
「礼無ければ必ず言を食む」「礼儀をわきまえないものは平気で嘘を吐く」(成公十二年)
「事に臨みて言を食むは、暇ありと謂う可からず」「切羽詰まって嘘を吐くのは、余裕がないからだ」(成公十六年)
「言を食む者は病まざらんや」「嘘ばかり吐くものは自らが精神を病む」(襄公二十七年)
「是れ言を食むこと多し。能く肥ゆること無からんや」「頻繁に嘘を吐いて、よく肥え太っていることだ」(哀公二十五年)
(「言を食む」は、春秋時代に「嘘を吐く」という意味で広く通用していた慣用句。
春秋諸侯もよく言を食むことで不正な利益を得ていた)
(権力道徳聖書——通商四書五経——春秋左氏伝より)
社会権力により欲望を達すると、その人脈 関係性への恩返しの法則が発生してしまう それもお前のいう兼ね合いだ
つまりキリスト教がそのように作り替えられてきたということも否めないわけだ
もちろん儒学もな
兼ね合いの人間関係のなかで生活するうちに無意識に悪いほうへ向かうこともあるのだよ
それは貸し借り(カネに限らない)における誠実な関係と欲望とソレを叶える権力など様々なちからが作用して まるで魔力のように手に負えないほどに膨れ上がっていく
儒学者には、もう少し社会勉強が必要だよ
つまりキリスト教がそのように作り替えられてきたということも否めないわけだ
もちろん儒学もな
兼ね合いの人間関係のなかで生活するうちに無意識に悪いほうへ向かうこともあるのだよ
それは貸し借り(カネに限らない)における誠実な関係と欲望とソレを叶える権力など様々なちからが作用して まるで魔力のように手に負えないほどに膨れ上がっていく
儒学者には、もう少し社会勉強が必要だよ
そういう権力腐敗の典型例を未然に絶やしていくためにあるのが儒学や玄学なわけでね。
権力掌握のダークサイドに陥った、未熟者としての経験を自慢されてもな。
権力掌握のダークサイドに陥った、未熟者としての経験を自慢されてもな。
お前は知らないよ
権力といのは1対1にもあるということを知らない
そういう小さな関係の一つひとつが社会性を象っているのだ
儒学者も己だけでは存在できないし因果関係に巻き込まれている以上は自分が正気であるという証明は己だけでしかできない
誰がお前を信じてくれるんだよ
キリスト教を大好きなお前のその反応も社会性を歪めるひとつなのだ
権力といのは1対1にもあるということを知らない
そういう小さな関係の一つひとつが社会性を象っているのだ
儒学者も己だけでは存在できないし因果関係に巻き込まれている以上は自分が正気であるという証明は己だけでしかできない
誰がお前を信じてくれるんだよ
キリスト教を大好きなお前のその反応も社会性を歪めるひとつなのだ
権力ってのは決定権のようなものだぞ
主導権ともいえる
社会縮図として友人関係にも当てはめられる
一友人との関係が他の友人との関係に作用するということだ
誰々には何々してやったんだから俺に何々してくれよ
というのが延々とつながってゆくと本来的な自分の感情や目的を見失ってしまう
見失っていなくとも流されてしまうという現実がある
お前の大好きなキリスト権力もそうやって他の影響をふんだんに受けて今に至るのだ
お前の大嫌いな儒学も同じくな
そういう流されてしまう弱さを断ずるお前は冷酷だな
世の中にはアソビという幅があるのだよ
近くは車のハンドルやブレーキ
万引きなんかも私物のバッグに商品を入れていても店を出るまでは犯行にならないとか
お前のように邪は邪と断ずるような文化は一般的にないんだよ
そうするとお前の存在のほうがよほど問題だろ
主導権ともいえる
社会縮図として友人関係にも当てはめられる
一友人との関係が他の友人との関係に作用するということだ
誰々には何々してやったんだから俺に何々してくれよ
というのが延々とつながってゆくと本来的な自分の感情や目的を見失ってしまう
見失っていなくとも流されてしまうという現実がある
お前の大好きなキリスト権力もそうやって他の影響をふんだんに受けて今に至るのだ
お前の大嫌いな儒学も同じくな
そういう流されてしまう弱さを断ずるお前は冷酷だな
世の中にはアソビという幅があるのだよ
近くは車のハンドルやブレーキ
万引きなんかも私物のバッグに商品を入れていても店を出るまでは犯行にならないとか
お前のように邪は邪と断ずるような文化は一般的にないんだよ
そうするとお前の存在のほうがよほど問題だろ
ううむ、なかなか手強い長文勘違いさんが久々に現れましたよ。
こちらにとっても、言葉の綾の修正ぐらいには協力してくれるお方でしょうから、
決して親の敵のように邪見に扱ったりは致しませんよ。
——家康公の口真似をしてみたが、自分にはまだ丸すぎるな。
こちらにとっても、言葉の綾の修正ぐらいには協力してくれるお方でしょうから、
決して親の敵のように邪見に扱ったりは致しませんよ。
——家康公の口真似をしてみたが、自分にはまだ丸すぎるな。
一般的なものを特殊なものと勘違いし、特殊なものを一般的なものと勘違いする転倒夢想が、
確かに世の中全体が転倒夢想に覆い尽くされたような、ごくごく特殊な時代に限って一般化する。
文明史全体でいえば、正邪善悪の区別がつく時代や世の中のほうが大半を占めていて、
その区別に即して断悪を心がけたり、修善を心がけたりしてきた分量のほうが遥かに多い。
ただ、確かに正邪善悪の区別が付かなくなって、悪逆非道や善悪みそくその悪行に走って、
それでこそ優先的に救われるなどと人々が勘違いしたことだって全くなくはない。
今が確かにその時代であり、今が全てである近視眼の持ち主にとっては、それが全てとすらなる。
悪逆非道や善悪みそくそでこそ優先的に救われるとするのが、今の自分にとっての全てだから、
全世界、全人類の、全歴史においてもそうであるなどという、身の程知らずな一般論にも走る。
そしてそのような自意識過剰の思い上がりの持ち主こそが、悪逆非道や善悪みそくそによる暴政を深刻化
させて、ついには全世界規模での破綻を引き起こして、イヤでも徳治を敷かねばならないような事態をも招く。
無軌道な権力意志などに基づく作為の旺盛さが、悪逆非道や善悪みそくその邪説暴行にも
結び付く一方で、邪説暴行によって荒廃した世の中を癒すための勧善懲悪にも結び付く。
勧善懲悪も旺盛な作為であるが故に鬱陶しいというのなら、決して何もないところに進んでそれを
試みようなどともしない。「それでこそ優先的に救われる」と思い込みながら繰り返されてきた悪逆非道や、
そもそもそれが悪行になるとも知らずに繰り返されてきた善悪みそくその行いなどによって、世の中が
極度の荒廃に陥って、もう勧善懲悪によってでもなければ誰も救われることがないと転倒夢想者たちが
観念して、必至で救いを乞い求めてくるのでもなければ、決して勧善懲悪に取り組み始めることもない。
確かに世の中全体が転倒夢想に覆い尽くされたような、ごくごく特殊な時代に限って一般化する。
文明史全体でいえば、正邪善悪の区別がつく時代や世の中のほうが大半を占めていて、
その区別に即して断悪を心がけたり、修善を心がけたりしてきた分量のほうが遥かに多い。
ただ、確かに正邪善悪の区別が付かなくなって、悪逆非道や善悪みそくその悪行に走って、
それでこそ優先的に救われるなどと人々が勘違いしたことだって全くなくはない。
今が確かにその時代であり、今が全てである近視眼の持ち主にとっては、それが全てとすらなる。
悪逆非道や善悪みそくそでこそ優先的に救われるとするのが、今の自分にとっての全てだから、
全世界、全人類の、全歴史においてもそうであるなどという、身の程知らずな一般論にも走る。
そしてそのような自意識過剰の思い上がりの持ち主こそが、悪逆非道や善悪みそくそによる暴政を深刻化
させて、ついには全世界規模での破綻を引き起こして、イヤでも徳治を敷かねばならないような事態をも招く。
無軌道な権力意志などに基づく作為の旺盛さが、悪逆非道や善悪みそくその邪説暴行にも
結び付く一方で、邪説暴行によって荒廃した世の中を癒すための勧善懲悪にも結び付く。
勧善懲悪も旺盛な作為であるが故に鬱陶しいというのなら、決して何もないところに進んでそれを
試みようなどともしない。「それでこそ優先的に救われる」と思い込みながら繰り返されてきた悪逆非道や、
そもそもそれが悪行になるとも知らずに繰り返されてきた善悪みそくその行いなどによって、世の中が
極度の荒廃に陥って、もう勧善懲悪によってでもなければ誰も救われることがないと転倒夢想者たちが
観念して、必至で救いを乞い求めてくるのでもなければ、決して勧善懲悪に取り組み始めることもない。
救われる、救われると信じ込んだところで、世界を破滅に陥れることについてこそ一概であるカルトの邪義や、
そのカルトの邪義すら許容する過剰な寛容を正義だなどと思い込む自己陶酔によっては、決して救われることが
ないときがやって来る。そのときにいい加減、転倒夢想を打ち棄てて勧善懲悪に救いを乞うか、それとも
転倒夢想への耽溺に固執してそのまま滅亡へと突き進むかは、転倒夢想者たち自身の選択による。
そしてその選択が、転倒夢想を永久に破棄しての勧善懲悪による救いの選択であったときに、
仁者もまた積極的な勧善懲悪の事業を試み始める。だから決して、お節介を鬱陶しがったりする必要もない。
「楽は陽より来たる者なり、礼は陰より作る者なり。陰陽和して万物も得」
「楽は人間の性格の陽性の発露であり、礼は人間の性格の陰性の収斂である。礼楽陰陽が相い和することで万物が成る。
(礼儀礼節による陰性の収斂もまた重要なものであり、ただただ光明ばかりを嬉しがる陽性の行き過ぎもまた禁物である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
そのカルトの邪義すら許容する過剰な寛容を正義だなどと思い込む自己陶酔によっては、決して救われることが
ないときがやって来る。そのときにいい加減、転倒夢想を打ち棄てて勧善懲悪に救いを乞うか、それとも
転倒夢想への耽溺に固執してそのまま滅亡へと突き進むかは、転倒夢想者たち自身の選択による。
そしてその選択が、転倒夢想を永久に破棄しての勧善懲悪による救いの選択であったときに、
仁者もまた積極的な勧善懲悪の事業を試み始める。だから決して、お節介を鬱陶しがったりする必要もない。
「楽は陽より来たる者なり、礼は陰より作る者なり。陰陽和して万物も得」
「楽は人間の性格の陽性の発露であり、礼は人間の性格の陰性の収斂である。礼楽陰陽が相い和することで万物が成る。
(礼儀礼節による陰性の収斂もまた重要なものであり、ただただ光明ばかりを嬉しがる陽性の行き過ぎもまた禁物である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
救われるもなにも日本人のほとんどは苦しんじゃいねーよ
3.11被災者が全人民てわけじゃねーよ
ほんとうにマッチポンプ手法だな
苦しんでない人間に救いますってなんだよ?
問題の主題は経済なんだよ
精神論で一括りにできるほど現代社会の問題は甘くないぜ
お呼びじゃないぜ儒学マン
3.11被災者が全人民てわけじゃねーよ
ほんとうにマッチポンプ手法だな
苦しんでない人間に救いますってなんだよ?
問題の主題は経済なんだよ
精神論で一括りにできるほど現代社会の問題は甘くないぜ
お呼びじゃないぜ儒学マン
素っ裸で、ドブの底でボウフラにまみれて、全身の穴という穴から液体や固形物を噴出し、
泣いて大喜びで、土下座しながら依り頼んで来るのでもなければ、決してし救ってやりはしない。
あえてそこまで救いのハードルを上げるのは、まずは、自分たちの悪行こそが、自業自得で
破滅を招いているのだということを、十分に自覚させるため。自分たちこそが引き起こした破滅を、
自分たち以外の誰かに救っていただくということは、物乞う乞食並みに恥ずかしいことなのであって、
決してふんぞり返ったお客様のような姿勢で救いを要求したりしてはならないのだということを身を以って
思い知らないのなら、何度でも同じ過ちを繰り返し兼ねないから、それを防止するための教育目的でも、
自分たちの愚かしさを身に染みて思い知ってからでなければ、救ってやらないようにしてやっているわけだ。
なんとありがたいことだろう?
泣いて大喜びで、土下座しながら依り頼んで来るのでもなければ、決してし救ってやりはしない。
あえてそこまで救いのハードルを上げるのは、まずは、自分たちの悪行こそが、自業自得で
破滅を招いているのだということを、十分に自覚させるため。自分たちこそが引き起こした破滅を、
自分たち以外の誰かに救っていただくということは、物乞う乞食並みに恥ずかしいことなのであって、
決してふんぞり返ったお客様のような姿勢で救いを要求したりしてはならないのだということを身を以って
思い知らないのなら、何度でも同じ過ちを繰り返し兼ねないから、それを防止するための教育目的でも、
自分たちの愚かしさを身に染みて思い知ってからでなければ、救ってやらないようにしてやっているわけだ。
なんとありがたいことだろう?
お前って至る所でコピペ披露してるだけか
正信と狂信の違いは、信者自身の信仰の濃度によって決まるものだといえるが、
では、正信と妄信の違いは何によって決まるのだろうか。
・正信……困難なことであっても実現可能であると信じる。
・妄信……不可能なことであっても信じる以上は信じる。
あたりが、正信と妄信の分かれ目になるといえる。
困難なことでも実現可能だと信じる一方で、不可能なことは不可能だと割り切る正信のほうには
精神力が必要となるのに対し、どんなことでも信じる以上は信じる妄信には、精神力などいらない。
可能不可能という是非論に基づく信仰が精神力を必要とする一方で、何でも可能だとする
肯定一辺倒の信仰には精神力がいらないから、可能不可能の分別を付ける正信には一定以上の
精神力が必要とされる一方で、何でも可能だとする妄信には全く精神力が必要とされない。
他力信仰という行為自体、あまり精神力の有無を問うても仕方のない分野に属するにしろ、
その信仰が正信か妄信かに分かれる際には、やはり少なからずの精神力の有無が鍵となる。
儒家の五常では「仁義礼智信」の序列で信が最下位に置かれ、
「信を好みて学を好まざればその弊や賊(陽貨第十七・八)」ともいい、
親鸞聖人も教行信証で「鬼神に事うること能わず(先進第十一・一二)」と、
論語の言葉をあえて妄信を否定し去るような読み方に変えてから引用している。
あくまで自力作善を根本に置く東洋学の流れに即して、信仰にすら最低限の精神力が要求される。
では、正信と妄信の違いは何によって決まるのだろうか。
・正信……困難なことであっても実現可能であると信じる。
・妄信……不可能なことであっても信じる以上は信じる。
あたりが、正信と妄信の分かれ目になるといえる。
困難なことでも実現可能だと信じる一方で、不可能なことは不可能だと割り切る正信のほうには
精神力が必要となるのに対し、どんなことでも信じる以上は信じる妄信には、精神力などいらない。
可能不可能という是非論に基づく信仰が精神力を必要とする一方で、何でも可能だとする
肯定一辺倒の信仰には精神力がいらないから、可能不可能の分別を付ける正信には一定以上の
精神力が必要とされる一方で、何でも可能だとする妄信には全く精神力が必要とされない。
他力信仰という行為自体、あまり精神力の有無を問うても仕方のない分野に属するにしろ、
その信仰が正信か妄信かに分かれる際には、やはり少なからずの精神力の有無が鍵となる。
儒家の五常では「仁義礼智信」の序列で信が最下位に置かれ、
「信を好みて学を好まざればその弊や賊(陽貨第十七・八)」ともいい、
親鸞聖人も教行信証で「鬼神に事うること能わず(先進第十一・一二)」と、
論語の言葉をあえて妄信を否定し去るような読み方に変えてから引用している。
あくまで自力作善を根本に置く東洋学の流れに即して、信仰にすら最低限の精神力が要求される。
「東洋文化は光の精神文化であり、西洋文化は闇の物質文化である」とペルシャのスフラワルディーも
自らの照明論哲学で断じているが、信仰から完全に精神力を省き、ただひたすら蒙昧な狂信を募らせる
性向は西洋でばかり是認されてきたものであり、東洋はおろか、中東のイスラムですら、信仰に精神力を
要求される厳格な実践を付与している。精神力を全く欠いたところで募らされる完全誤謬信仰の蒙昧が、
人々を自殺行為同然の妄動にも向かわせて、自業自得での自滅にも向かわせているわけだから、
これからの人類には、信仰が禁止されるとまでは行かずとも、信仰にすら可能不可能を
諾える程度の精神力に根ざした分別が付与されることが必要になるのだといえる。
全く精神力を欠いたところでしか生きられないという人間は、もう禁治産下にでも置かれるしかない。
「臣の君を弑せるは、凡そ官に在る者、殺して赦す無かれ。子の父を弑せるは、
凡そ宮に在る者、殺して赦す無かれ。其の人を殺し、其の室を壊し、其の宮を洿にして猪せよ」
「主君を弑逆した臣下は、どんな官職に就いている者であっても、必ず赦すことなく殺せ。
父親を弑逆した子供は、家中でどんな立場にあるのであっても、必ず赦すことなく殺せ。
本人を殺して、さらにその家を壊して、跡地を窪地にして、水を溜めて池にしろ。
(殺された人間が決して生き返らないという強い精神力に根ざした分別があるから、
致命的な弑逆を働いた人間を、死んでも赦さないほどの決断までもができるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
自らの照明論哲学で断じているが、信仰から完全に精神力を省き、ただひたすら蒙昧な狂信を募らせる
性向は西洋でばかり是認されてきたものであり、東洋はおろか、中東のイスラムですら、信仰に精神力を
要求される厳格な実践を付与している。精神力を全く欠いたところで募らされる完全誤謬信仰の蒙昧が、
人々を自殺行為同然の妄動にも向かわせて、自業自得での自滅にも向かわせているわけだから、
これからの人類には、信仰が禁止されるとまでは行かずとも、信仰にすら可能不可能を
諾える程度の精神力に根ざした分別が付与されることが必要になるのだといえる。
全く精神力を欠いたところでしか生きられないという人間は、もう禁治産下にでも置かれるしかない。
「臣の君を弑せるは、凡そ官に在る者、殺して赦す無かれ。子の父を弑せるは、
凡そ宮に在る者、殺して赦す無かれ。其の人を殺し、其の室を壊し、其の宮を洿にして猪せよ」
「主君を弑逆した臣下は、どんな官職に就いている者であっても、必ず赦すことなく殺せ。
父親を弑逆した子供は、家中でどんな立場にあるのであっても、必ず赦すことなく殺せ。
本人を殺して、さらにその家を壊して、跡地を窪地にして、水を溜めて池にしろ。
(殺された人間が決して生き返らないという強い精神力に根ざした分別があるから、
致命的な弑逆を働いた人間を、死んでも赦さないほどの決断までもができるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「救ってやったりはしない」とか書いてるけど
そもそも、人を救う力が自分にあると思ってるのが
大きな錯覚、大層なうぬぼれでしょうね。
自意識過剰の思い上がりは、自分自身にこそ当てはまる事を
自覚すべきでしょう。
そもそも「救う」とはどういった状態を言ってるのでしょうか?
死後の安楽か、生きている間の、精神の安寧みたいなものか。
それとも、病気が治りました、お金が入りましたの現世利益か。
そもそも、人を救う力が自分にあると思ってるのが
大きな錯覚、大層なうぬぼれでしょうね。
自意識過剰の思い上がりは、自分自身にこそ当てはまる事を
自覚すべきでしょう。
そもそも「救う」とはどういった状態を言ってるのでしょうか?
死後の安楽か、生きている間の、精神の安寧みたいなものか。
それとも、病気が治りました、お金が入りましたの現世利益か。
だから、キリストにでもすがってりゃいいじゃねえの。
救う救ういいながら、ただ人々を破滅に陥れるばかりの元祖・救済詐欺師に。
こちとら、「救済者」としての看板すら掲げていない。
実名どころかハンドルネームすら用いず、無名で全くの難題を突き付けて、
「そうでもしなきゃ救ってやらない」つってんだから、
そもそも人々を救ってやる体裁すら整えていないといえる。
救済詐欺師扱いなど、まっぴら御免だからだ。
恩着せがましい救済の押し付けなどは、それ自体が人々の堕落からなる自滅を助長するだけだから。
どこまでも自分たちで努力を尽くして、それでもどうにもならないって時にこそ
他力本願にもすがるべきなのであり、始めから神頼み一辺倒なんていう
あり方からして、是正していかなければならないものなのだから。
救う救ういいながら、ただ人々を破滅に陥れるばかりの元祖・救済詐欺師に。
こちとら、「救済者」としての看板すら掲げていない。
実名どころかハンドルネームすら用いず、無名で全くの難題を突き付けて、
「そうでもしなきゃ救ってやらない」つってんだから、
そもそも人々を救ってやる体裁すら整えていないといえる。
救済詐欺師扱いなど、まっぴら御免だからだ。
恩着せがましい救済の押し付けなどは、それ自体が人々の堕落からなる自滅を助長するだけだから。
どこまでも自分たちで努力を尽くして、それでもどうにもならないって時にこそ
他力本願にもすがるべきなのであり、始めから神頼み一辺倒なんていう
あり方からして、是正していかなければならないものなのだから。
エホバのような出歯亀癖を持つ人間、磔になったイエスを見ただけで自らの罪までもが
償われたような気になれるほど精神が薄弱な人間ってのは、確かに限られている。
まず、少しでも孝心のある人間であれば、そうならないで済むだけの精神力を備えているし、
仁徳の学や武術の修練などによって精神力を蓄えている人間にも、そうなる人間は少ない。
正統な神仏への崇敬によって、心身の蒙昧を未然に抑制している人間も、そうなったりはしない。
邪神信仰の蒙昧に陥らずに済む手段はいくらでもあり、二重三重の予防措置を講ずることもできる。
特に孝心の養いや、正統な神仏への帰依などは、身分の貴賤や老若男女を問わず誰にでも講ずることが
可能な予防手段であり、「自分にはその素質がないから」などという言い訳を差し挟む余地もない。
邪神信仰の蒙昧によって破滅に陥ることは、全くの自己責任。少なくとも現時点においては、
もはや邪信を予防する手段が全世界、全人類に対して開かれているのだから、中世以前の西洋人
の場合のように、「それしか選択肢がないから」などという言い訳を押し通すこともできない。
(中世以前の西洋にも、本当はマニ教を通じて仏教や拝火教の教義が流れ込んでもいた)
邪神信仰による蒙昧への陥りは、現時点では「不摂生からなる病」のうちに入るものであり、
それなりに予防を講ずれば陥らなくても済むものを、あえて予防もせずに陥ったりするのだから、
陥るしかなくて陥ったなどということは決してなく、そんな宿命にある人間はもうどこにもいない。
素質や運命を振りかざして邪神信仰をむさぼる選択肢も、もうとっくの昔に絶えて無くなっている。
「出でては則ち公卿に事え、入りては則ち父兄に事う」
「外に出れば目上の公卿によく仕え、内に入れば父兄によく仕える。(孝子の出ずる所は当然、家である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一六より)
償われたような気になれるほど精神が薄弱な人間ってのは、確かに限られている。
まず、少しでも孝心のある人間であれば、そうならないで済むだけの精神力を備えているし、
仁徳の学や武術の修練などによって精神力を蓄えている人間にも、そうなる人間は少ない。
正統な神仏への崇敬によって、心身の蒙昧を未然に抑制している人間も、そうなったりはしない。
邪神信仰の蒙昧に陥らずに済む手段はいくらでもあり、二重三重の予防措置を講ずることもできる。
特に孝心の養いや、正統な神仏への帰依などは、身分の貴賤や老若男女を問わず誰にでも講ずることが
可能な予防手段であり、「自分にはその素質がないから」などという言い訳を差し挟む余地もない。
邪神信仰の蒙昧によって破滅に陥ることは、全くの自己責任。少なくとも現時点においては、
もはや邪信を予防する手段が全世界、全人類に対して開かれているのだから、中世以前の西洋人
の場合のように、「それしか選択肢がないから」などという言い訳を押し通すこともできない。
(中世以前の西洋にも、本当はマニ教を通じて仏教や拝火教の教義が流れ込んでもいた)
邪神信仰による蒙昧への陥りは、現時点では「不摂生からなる病」のうちに入るものであり、
それなりに予防を講ずれば陥らなくても済むものを、あえて予防もせずに陥ったりするのだから、
陥るしかなくて陥ったなどということは決してなく、そんな宿命にある人間はもうどこにもいない。
素質や運命を振りかざして邪神信仰をむさぼる選択肢も、もうとっくの昔に絶えて無くなっている。
「出でては則ち公卿に事え、入りては則ち父兄に事う」
「外に出れば目上の公卿によく仕え、内に入れば父兄によく仕える。(孝子の出ずる所は当然、家である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一六より)
まずな、根本的にはじめ
磔になったイエスを見ただけで自らの罪をも償われた気になってしまうほど精神が薄弱した人間
なんだコレ?
そんなのお前の想像だろ?
なんでイエス見たら罪を償われたと思ってるとか理由もなく結論出せるの?
その上そうなる人間は少ないだとか
またまた自己完結しちゃうの?
ちょっと説明が足らなくね?
だからお前はウンコ儒学者なんだよ
強く主張するだけで通るわけないだろうが
磔になったイエスを見ただけで自らの罪をも償われた気になってしまうほど精神が薄弱した人間
なんだコレ?
そんなのお前の想像だろ?
なんでイエス見たら罪を償われたと思ってるとか理由もなく結論出せるの?
その上そうなる人間は少ないだとか
またまた自己完結しちゃうの?
ちょっと説明が足らなくね?
だからお前はウンコ儒学者なんだよ
強く主張するだけで通るわけないだろうが
修辞はこれぐらいで十二分だ。
自らの成長を心がける人間なら、多少難読な文章を
読みこなすぐらいのことは、自修の一環としてもいとわないだろうからな。
自ら文章を読みこなす努力も心がけず、曲解まみれのままで文句を加えて来るような、
向上心の無さと横柄さとを兼ね備えた小人物にとって好ましいようなことは、
始めから書こうともしていないのだから、安心して上知とは移らぬ下愚に甘んじていればいい。
そのベクトルの延長線上に褒美を置くことは、始めから儒者の目的ではない。
自らの成長を心がける人間なら、多少難読な文章を
読みこなすぐらいのことは、自修の一環としてもいとわないだろうからな。
自ら文章を読みこなす努力も心がけず、曲解まみれのままで文句を加えて来るような、
向上心の無さと横柄さとを兼ね備えた小人物にとって好ましいようなことは、
始めから書こうともしていないのだから、安心して上知とは移らぬ下愚に甘んじていればいい。
そのベクトルの延長線上に褒美を置くことは、始めから儒者の目的ではない。
富貴は俗人なら誰しもが欲するところ、それはまず事実として認めるのだ。
その上で「道理に根ざさないのなら富貴も得ない」と心がけてこそ、本物の善にもなる。
富貴なんかいらないようなフリをして、その実金満まみれの
権力犯罪者の庇護を受けようとしたりするから、偽善になる。
偽善だから、必ず善以上の悪が付いてくる。善以上の悪が付いてくるから、
面白い以上につまらない。だから偽善は普遍的に、面白い以上につまらなくあり続ける。
真善の存在に自分が気づかないからと言って、「真の善など存在しない」などと断じ、
それに思い余っての誤った消去法で偽善を講じ、偽善をやってみたところでやはりつまらなかったから、
今度は「善はつまらない」と短絡化して、善徳全般の価値を否定しようともする。
不善と偽善の悪循環に陥った人間の思考回路は、概ねこのようなものとなっている。だから、
このような思考回路にまず陥らないように、予め「富貴は欲しいが道理に根ざさないのなら得ない」
のような真善をかたくわきまえておき、真善と偽善は全くの別物であることを忘れず、偽善が面白い
以上につまらないからといって、真善までもがつまらないなどと勘違いしないようにせねばならない。
クリスマスのディナーを隣人に恵む「若草物語」の話がつまらない人間にも、
極悪非道の火付盗賊をばったばったと斬り捨てていく「鬼平犯科帳」の話は面白かったりする。
それは、前者が全くの偽善である一方で、後者が純粋無垢なる勧善懲悪であるからで、
両者の実質が全く異なるから面白かったりつまらなかったりするのだから、まことに、
人間の感情というのは、本物の善悪によってこそ左右されるものであるのだといえる。
情念も善悪も同時に解脱する超俗の徒でもない限りは、やはり善悪の分別はあったほうがいいものだ。
その上で「道理に根ざさないのなら富貴も得ない」と心がけてこそ、本物の善にもなる。
富貴なんかいらないようなフリをして、その実金満まみれの
権力犯罪者の庇護を受けようとしたりするから、偽善になる。
偽善だから、必ず善以上の悪が付いてくる。善以上の悪が付いてくるから、
面白い以上につまらない。だから偽善は普遍的に、面白い以上につまらなくあり続ける。
真善の存在に自分が気づかないからと言って、「真の善など存在しない」などと断じ、
それに思い余っての誤った消去法で偽善を講じ、偽善をやってみたところでやはりつまらなかったから、
今度は「善はつまらない」と短絡化して、善徳全般の価値を否定しようともする。
不善と偽善の悪循環に陥った人間の思考回路は、概ねこのようなものとなっている。だから、
このような思考回路にまず陥らないように、予め「富貴は欲しいが道理に根ざさないのなら得ない」
のような真善をかたくわきまえておき、真善と偽善は全くの別物であることを忘れず、偽善が面白い
以上につまらないからといって、真善までもがつまらないなどと勘違いしないようにせねばならない。
クリスマスのディナーを隣人に恵む「若草物語」の話がつまらない人間にも、
極悪非道の火付盗賊をばったばったと斬り捨てていく「鬼平犯科帳」の話は面白かったりする。
それは、前者が全くの偽善である一方で、後者が純粋無垢なる勧善懲悪であるからで、
両者の実質が全く異なるから面白かったりつまらなかったりするのだから、まことに、
人間の感情というのは、本物の善悪によってこそ左右されるものであるのだといえる。
情念も善悪も同時に解脱する超俗の徒でもない限りは、やはり善悪の分別はあったほうがいいものだ。
「昔文武在りて、聡明にして斉聖なる。小大の臣も、咸な忠良を懐き、其の侍御僕従も、正人に
匪ざるは罔し。以て旦夕厥の辟を承弼す。出入起居に欽まざること罔く、発号施令に臧からざる
こと罔くして、下民も祗しみて若い、万邦咸な休す。惟れ予れ一人良無し。実に左右前後有位の士、
其の及ばざるを匡すを頼む。愆ちを縄し謬ちを糾し、其の非心を格して、克く先烈に紹がしめよ」
「昔文王や武王が健在であられた頃、自らもまた聡明で慧眼豊かであられたのに、なおかつ大小の
臣下たちがみなよく忠信を抱き、侍従や下僕たちもまた正しい人間でないことがなく、彼らが朝から晩に
いたるまで惜しみなく主君を輔弼したために、主君もまた行いをよく慎み、号令の発布や法令の施行にも
少しも間違いを来たさなかった。そのため下民たちもよく慎んで朝廷の号令に従い、全国全土がよく安んじた。
しかるに、私(穆王)はといえば、文武両王のような善徳も自分にはない。だから左右前後にある有位の
士人たちは、ぜひ私の及ばない部分を進んで正していくようにしてもらいたい。諸々の過ちをよく正して、
心中の悪念にまでよく是正を及ばせることで、私を先賢たちの末座に列席できるようにしてもらいたい。
(人に依り頼むからには、相手に自らの過ちを正してもらうように願う。過ちを繰り返しても改めようとも
しない恐れ知らずさを押し通すために他者に依り頼んだりすることこそが、他力本願の大悪用だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・冏命より)
匪ざるは罔し。以て旦夕厥の辟を承弼す。出入起居に欽まざること罔く、発号施令に臧からざる
こと罔くして、下民も祗しみて若い、万邦咸な休す。惟れ予れ一人良無し。実に左右前後有位の士、
其の及ばざるを匡すを頼む。愆ちを縄し謬ちを糾し、其の非心を格して、克く先烈に紹がしめよ」
「昔文王や武王が健在であられた頃、自らもまた聡明で慧眼豊かであられたのに、なおかつ大小の
臣下たちがみなよく忠信を抱き、侍従や下僕たちもまた正しい人間でないことがなく、彼らが朝から晩に
いたるまで惜しみなく主君を輔弼したために、主君もまた行いをよく慎み、号令の発布や法令の施行にも
少しも間違いを来たさなかった。そのため下民たちもよく慎んで朝廷の号令に従い、全国全土がよく安んじた。
しかるに、私(穆王)はといえば、文武両王のような善徳も自分にはない。だから左右前後にある有位の
士人たちは、ぜひ私の及ばない部分を進んで正していくようにしてもらいたい。諸々の過ちをよく正して、
心中の悪念にまでよく是正を及ばせることで、私を先賢たちの末座に列席できるようにしてもらいたい。
(人に依り頼むからには、相手に自らの過ちを正してもらうように願う。過ちを繰り返しても改めようとも
しない恐れ知らずさを押し通すために他者に依り頼んだりすることこそが、他力本願の大悪用だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・冏命より)
善にも「全方位型の善」と、「劇場型の善」がある。
天地万物にとって善であろうとする、全方位型の善こそは真善となるのに対し、
目で見えている部分だけを善であるかのように見せかける、劇場型の善こそは偽善となる。
劇場の舞台上で繰り広げられる演劇の舞台裏では、必ずそれ以上もの小細工が尽くされる。
小細工がなりふり構わぬ策動であればあるほど、舞台上での演出も豪華なものとなる。
そのシステムを善行で用いろうとすれば、舞台上での善行の実現のために、
膨大な分量の、舞台裏でのなりふり構わぬ悪行が必要となってしまう。
資本主義国という舞台上での富裕の実現のために、舞台裏となる外界からの
膨大な収奪が必要となる。その膨大な収奪があればこそ、舞台上での富裕も、
全方位型の仁政によって実現される個々の富裕などよりも極端に豪勢なものとなる。
それは確かに、全方位型の真善などによって実現されるものではないが、また実現すべきものでもない。
舞台裏からの収奪によってまでの舞台上での富裕という偽善のシステムが欧米先進国にもたらしたのは、
限りのない自国民たちの貪欲と怠惰であり、全国民を禁治産下においたほうがよっぽど効率的となる
人畜化の実現でしかなかった。それでこそ確かに、聖書信仰が「善」とするものもまた、実現された。
劇場型の偽善がありのままに実現された結果が総国民の人畜化であり、これこそはそもそも、
聖書信仰が実現しようとしていたものが真善ではなかったことの証拠となっている。
「こんなはずではなかった」などという、言い訳を差し挟む余地があるはずもない。
自分たちで善と見なしてきた望みが、ありのままに実現されて、めでたく全員禁治産と相成る。
どうしてそこに、不平を差し挟んだりする必要があるものか。
「尊者之れを賜うに、其の取る所の者は義か不義かと曰いて、
而かる後に之れを受く。是れを以って不恭と為す、故に卻けざるなり」
「尊貴なものが自分が賜物をくれるという場合、『それをもらうことは義か不義か』などと自分の側で
詮索してからもらったりするのでは、恭しさに欠けることになる。だから賜物を退けたりはしない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
天地万物にとって善であろうとする、全方位型の善こそは真善となるのに対し、
目で見えている部分だけを善であるかのように見せかける、劇場型の善こそは偽善となる。
劇場の舞台上で繰り広げられる演劇の舞台裏では、必ずそれ以上もの小細工が尽くされる。
小細工がなりふり構わぬ策動であればあるほど、舞台上での演出も豪華なものとなる。
そのシステムを善行で用いろうとすれば、舞台上での善行の実現のために、
膨大な分量の、舞台裏でのなりふり構わぬ悪行が必要となってしまう。
資本主義国という舞台上での富裕の実現のために、舞台裏となる外界からの
膨大な収奪が必要となる。その膨大な収奪があればこそ、舞台上での富裕も、
全方位型の仁政によって実現される個々の富裕などよりも極端に豪勢なものとなる。
それは確かに、全方位型の真善などによって実現されるものではないが、また実現すべきものでもない。
舞台裏からの収奪によってまでの舞台上での富裕という偽善のシステムが欧米先進国にもたらしたのは、
限りのない自国民たちの貪欲と怠惰であり、全国民を禁治産下においたほうがよっぽど効率的となる
人畜化の実現でしかなかった。それでこそ確かに、聖書信仰が「善」とするものもまた、実現された。
劇場型の偽善がありのままに実現された結果が総国民の人畜化であり、これこそはそもそも、
聖書信仰が実現しようとしていたものが真善ではなかったことの証拠となっている。
「こんなはずではなかった」などという、言い訳を差し挟む余地があるはずもない。
自分たちで善と見なしてきた望みが、ありのままに実現されて、めでたく全員禁治産と相成る。
どうしてそこに、不平を差し挟んだりする必要があるものか。
「尊者之れを賜うに、其の取る所の者は義か不義かと曰いて、
而かる後に之れを受く。是れを以って不恭と為す、故に卻けざるなり」
「尊貴なものが自分が賜物をくれるという場合、『それをもらうことは義か不義か』などと自分の側で
詮索してからもらったりするのでは、恭しさに欠けることになる。だから賜物を退けたりはしない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
法治主義が普遍的な是非善悪を歪めて、虚構の善悪を独り歩きさせることの危険性が
「春秋左子伝」昭公六年ですでに指摘されてもいる。そのため儒家は実定法それ自体を
金科玉条とはせず、仁徳や礼節に根ざした臨機応変な法律支配を主旨とする。
「礼記」などにそれなりに礼法に関する記述もあるにしろ、それも結局は古代の中国の
時代や風土に根ざして取り決められたものであるため、重要な参考資料とすることはあっても、
杓子定規な厳守の対象ともしない。それでは儒学ではなく儒教になってしまい、宗教教義や実定法
を厳守することばかりに囚われている人間に特有の、精神的怠惰が生じてしまうことともなるから。
実定された成文法を守るということは、非常に安易なこと。犬猫だって、それをやれば罰を受ける
ことが明確ないたずらなどは自主的に控えるようになるが、実定法もそれと全く同じ取り決めに過ぎず、
全く自主的な善悪の分別が付かない人畜化した人間であっても、実定法を守るぐらいのことはできる。
実定法ぐらいは守れるが、自主的な善悪の分別が付かない人畜で世の中が満たされたときに、
世の中が総出をあげて「船頭多くして船山に登る」ような事態が生じることとなる。
法律でそうすることが正しいと書かれているから、正しいと思って総出で大きな過ちを積み重ねる。
世の中に施行された法律がただ粗悪なだけでなく、悪逆非道を遵守者にけしかけるまでに
一概に悪質となったとき、行動則犯罪の、総員重権力犯罪者社会が現出することになる。
「春秋左子伝」昭公六年ですでに指摘されてもいる。そのため儒家は実定法それ自体を
金科玉条とはせず、仁徳や礼節に根ざした臨機応変な法律支配を主旨とする。
「礼記」などにそれなりに礼法に関する記述もあるにしろ、それも結局は古代の中国の
時代や風土に根ざして取り決められたものであるため、重要な参考資料とすることはあっても、
杓子定規な厳守の対象ともしない。それでは儒学ではなく儒教になってしまい、宗教教義や実定法
を厳守することばかりに囚われている人間に特有の、精神的怠惰が生じてしまうことともなるから。
実定された成文法を守るということは、非常に安易なこと。犬猫だって、それをやれば罰を受ける
ことが明確ないたずらなどは自主的に控えるようになるが、実定法もそれと全く同じ取り決めに過ぎず、
全く自主的な善悪の分別が付かない人畜化した人間であっても、実定法を守るぐらいのことはできる。
実定法ぐらいは守れるが、自主的な善悪の分別が付かない人畜で世の中が満たされたときに、
世の中が総出をあげて「船頭多くして船山に登る」ような事態が生じることとなる。
法律でそうすることが正しいと書かれているから、正しいと思って総出で大きな過ちを積み重ねる。
世の中に施行された法律がただ粗悪なだけでなく、悪逆非道を遵守者にけしかけるまでに
一概に悪質となったとき、行動則犯罪の、総員重権力犯罪者社会が現出することになる。
儒家による道徳統治とて完全無欠なものではなく、為政者の徳性が目減りすると共に世の
濁悪化を招くことがしばしばある。しかし、世の中が実定法を守ることしかできないような
人畜の集まりと化して、実定法が人々に悪逆非道をけしかけるほどに悪質化して、世の中を
総員重権力犯罪者社会にまで仕立て上げてしまうまでのことは、法治社会にのみあり得る
ことであって、徳治社会でそこまでもの乱脈が生じてしまうことは、原理的にあり得ない。
あらかじめ人々に自主的な善悪の分別を付ける素養を育ませて、実定法しか守れないような
人畜と化すことを未然に防いでいく徳治社会では、最悪でも、そこまでの乱世には至らない。
明らかに法治主義よりも徳治主義のほうが、世の中の濁悪化の最低ラインが高く、法治主義によって
もたらされる最悪級の乱世が、最悪級の徳治主義によってもたらされることすら、決してありはしない。
「人倫上に明らかなれば、小民下に親しむ。王者起こる有らば、必ず来たりて法を取らん」
「上に立つものが人倫をよくわきまえていれば、下民たちも皆よく親しみ合うようになる。
もしも偉大な王者が立ち起こることがあれば、必ずこれをこそ法として則ることだろう。
(上に立つものが人倫に暗いものだから、下民も隣人と親しみ合うくらいのことしかできなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
濁悪化を招くことがしばしばある。しかし、世の中が実定法を守ることしかできないような
人畜の集まりと化して、実定法が人々に悪逆非道をけしかけるほどに悪質化して、世の中を
総員重権力犯罪者社会にまで仕立て上げてしまうまでのことは、法治社会にのみあり得る
ことであって、徳治社会でそこまでもの乱脈が生じてしまうことは、原理的にあり得ない。
あらかじめ人々に自主的な善悪の分別を付ける素養を育ませて、実定法しか守れないような
人畜と化すことを未然に防いでいく徳治社会では、最悪でも、そこまでの乱世には至らない。
明らかに法治主義よりも徳治主義のほうが、世の中の濁悪化の最低ラインが高く、法治主義によって
もたらされる最悪級の乱世が、最悪級の徳治主義によってもたらされることすら、決してありはしない。
「人倫上に明らかなれば、小民下に親しむ。王者起こる有らば、必ず来たりて法を取らん」
「上に立つものが人倫をよくわきまえていれば、下民たちも皆よく親しみ合うようになる。
もしも偉大な王者が立ち起こることがあれば、必ずこれをこそ法として則ることだろう。
(上に立つものが人倫に暗いものだから、下民も隣人と親しみ合うくらいのことしかできなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
イエスにしろ、他のユダヤ人にしろ、その本性のところに、
世の中への強烈な呪いを宿している点が全く共通している。
商業民族として、他民族に寄生して媚びへつらうことを生業としていたユダヤ人と、
その中でも特に「妾腹の私生児」という恵まれない境遇に生まれ育ったイエスと、いずれもが
世の中に対する強烈なコンプレックスを抱いていて、そのコンプレックスを世の中への嫉妬に
転嫁して、嫉妬を解消する目的での呪詛を、自分たちの言葉に込めている点が共通している。
それはたとえば、春秋時代の覇権争いの中では劣勢に置かれていた魯国の人間や、その魯国で
母子家庭の妾腹の私生児として生まれ育った孔子などにも、決してあり得なかったことではなく、
不遇な立場からなるコンプレックスを嫉妬に転嫁して、その嫉妬を呪詛の言葉に込めることすら
あり得なかったことではない。しかし、魯国の人間は、覇権争いで劣勢に置かれていたことに
コンプレックスを抱いたりすることよりも、周公旦が自国の直轄者として遺してくれた数多の
文化的遺産を保護することのほうに努め、孔子もまた、それらの文化遺産を熱心に研究し、
五経としてとりまとめるなどして大学者として大成することで、自らの不遇をも克服した。
世の中への強烈な呪いを宿している点が全く共通している。
商業民族として、他民族に寄生して媚びへつらうことを生業としていたユダヤ人と、
その中でも特に「妾腹の私生児」という恵まれない境遇に生まれ育ったイエスと、いずれもが
世の中に対する強烈なコンプレックスを抱いていて、そのコンプレックスを世の中への嫉妬に
転嫁して、嫉妬を解消する目的での呪詛を、自分たちの言葉に込めている点が共通している。
それはたとえば、春秋時代の覇権争いの中では劣勢に置かれていた魯国の人間や、その魯国で
母子家庭の妾腹の私生児として生まれ育った孔子などにも、決してあり得なかったことではなく、
不遇な立場からなるコンプレックスを嫉妬に転嫁して、その嫉妬を呪詛の言葉に込めることすら
あり得なかったことではない。しかし、魯国の人間は、覇権争いで劣勢に置かれていたことに
コンプレックスを抱いたりすることよりも、周公旦が自国の直轄者として遺してくれた数多の
文化的遺産を保護することのほうに努め、孔子もまた、それらの文化遺産を熱心に研究し、
五経としてとりまとめるなどして大学者として大成することで、自らの不遇をも克服した。
この魯人や孔子のあり方こそは、不遇→コンプレックス→嫉妬→呪詛という、人間の情念の
濁悪化を未然に食い止めて、健全な文化事業によって悪念をも克服した模範例であるといえ、
その文化的な所産が呪詛の塊りなどでもなければこそ、それらの所産を儒学資料として重用した、
漢や唐や宋や平安朝や江戸幕府といった権力機構もまた、長期の泰平社会を実現したのだった。
そこに書かれているのが、小人の恨みつらみを込めた讒言の塊りでしかないからこそ、
犯罪聖書を実践することで治めようとした国や社会は、いずれもが致命的な争乱状態を呈し、
数十年としないうちの大戦などによる亡国や破国が免れ得たことがない。確かに巧妙な修辞に
よって、イエスやその他ユダヤ人の呪詛は、犯罪聖書の表面的な記述からは隠されているが、
その根幹とする所が、他民族や他人に対しての強烈な呪詛であり、呪詛によって他人を困窮や
虐殺などの破滅的な運命へと導かせようとするものだから、どんな信仰や実践の仕方をする
のであっても、犯罪聖書の受容は必ず、あるよりもないほうがいいような破滅を招くのである。
「朕れ讒説の行いを殄ち、朕が師を震驚せるを堲む」
「私は小人の讒言が人々の正しい行いを潰えさせ、民衆たちを震え上がらせることを苦々しく思う」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
濁悪化を未然に食い止めて、健全な文化事業によって悪念をも克服した模範例であるといえ、
その文化的な所産が呪詛の塊りなどでもなければこそ、それらの所産を儒学資料として重用した、
漢や唐や宋や平安朝や江戸幕府といった権力機構もまた、長期の泰平社会を実現したのだった。
そこに書かれているのが、小人の恨みつらみを込めた讒言の塊りでしかないからこそ、
犯罪聖書を実践することで治めようとした国や社会は、いずれもが致命的な争乱状態を呈し、
数十年としないうちの大戦などによる亡国や破国が免れ得たことがない。確かに巧妙な修辞に
よって、イエスやその他ユダヤ人の呪詛は、犯罪聖書の表面的な記述からは隠されているが、
その根幹とする所が、他民族や他人に対しての強烈な呪詛であり、呪詛によって他人を困窮や
虐殺などの破滅的な運命へと導かせようとするものだから、どんな信仰や実践の仕方をする
のであっても、犯罪聖書の受容は必ず、あるよりもないほうがいいような破滅を招くのである。
「朕れ讒説の行いを殄ち、朕が師を震驚せるを堲む」
「私は小人の讒言が人々の正しい行いを潰えさせ、民衆たちを震え上がらせることを苦々しく思う」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典より)
多くの事物が有機的な不確定性を帯びているこの世界においては、
波風を立てないでいようとしたところで、やはりいくらかの争乱が起きる。
二重三重の権力に対する防腐措置が施されることで、飛鳥時代に打ち立てられた日本の
律令制社会も、奈良時代や平安時代の500年にわたる泰平の後に、ついに破綻を来たし、
朝廷の制御を振り切ったつわもの達が覇権を争う武家時代へと移り変わったのだった。
ただ、そこにはやはり、どうしてもそうならざるを得ない事情があったのであり、
決して好き好んで、血で血を洗うような乱世を招いたのではなかった。
あえて武力で朝廷の権威を争奪しようとした平将門や藤原純友は誅戮されて、
朝廷内での内輪もめが深刻化して、保元の乱で藤原氏本流の権威が失墜したことで
初めて平氏や源氏といった武家の家門が天皇に次ぐ位を得るまでになった。
それでもやはり、武家として太政大臣などの重職を歴任した平清盛を始めとする
平氏は源氏によって滅ぼされ、武家の棟梁たる征夷大将軍を武家の最高位とする条件で、
源頼朝の開いた鎌倉幕府が、本格的な武家社会を始動していくに至った。
どこまでも消極の限りを尽くして、仕方なく公家社会から武家社会へと時代が
移行していったことが歴史上の記録からも明らかであり、進んで不穏な波風を立てようと
するような人間は、ことごとく非業の末路を辿っている。要するに、マッチポンプが
極力避けられていたことが分かり、だからこそ先人たちの至誠までもが垣間見られる。
それと比べれば、進んで波風を立てたがるマッチポンプの画策や、マッチポンプで
塗り固められた歴史などは極めて不誠実なものであり、事実関係だけを見てみれば、
それはそれは貧相なものでもある場合がほとんど。だから色々と虚飾を尽くして、
事実関係からはなるべく目を逸らさせようともするが、それもまた不誠実の上塗りとなり、
マッチポンプを極力排した場合にこそ見られるような、切実さ故の魅力には決定的に欠け続ける。
波風を立てないでいようとしたところで、やはりいくらかの争乱が起きる。
二重三重の権力に対する防腐措置が施されることで、飛鳥時代に打ち立てられた日本の
律令制社会も、奈良時代や平安時代の500年にわたる泰平の後に、ついに破綻を来たし、
朝廷の制御を振り切ったつわもの達が覇権を争う武家時代へと移り変わったのだった。
ただ、そこにはやはり、どうしてもそうならざるを得ない事情があったのであり、
決して好き好んで、血で血を洗うような乱世を招いたのではなかった。
あえて武力で朝廷の権威を争奪しようとした平将門や藤原純友は誅戮されて、
朝廷内での内輪もめが深刻化して、保元の乱で藤原氏本流の権威が失墜したことで
初めて平氏や源氏といった武家の家門が天皇に次ぐ位を得るまでになった。
それでもやはり、武家として太政大臣などの重職を歴任した平清盛を始めとする
平氏は源氏によって滅ぼされ、武家の棟梁たる征夷大将軍を武家の最高位とする条件で、
源頼朝の開いた鎌倉幕府が、本格的な武家社会を始動していくに至った。
どこまでも消極の限りを尽くして、仕方なく公家社会から武家社会へと時代が
移行していったことが歴史上の記録からも明らかであり、進んで不穏な波風を立てようと
するような人間は、ことごとく非業の末路を辿っている。要するに、マッチポンプが
極力避けられていたことが分かり、だからこそ先人たちの至誠までもが垣間見られる。
それと比べれば、進んで波風を立てたがるマッチポンプの画策や、マッチポンプで
塗り固められた歴史などは極めて不誠実なものであり、事実関係だけを見てみれば、
それはそれは貧相なものでもある場合がほとんど。だから色々と虚飾を尽くして、
事実関係からはなるべく目を逸らさせようともするが、それもまた不誠実の上塗りとなり、
マッチポンプを極力排した場合にこそ見られるような、切実さ故の魅力には決定的に欠け続ける。
マッチポンプのためにわざわざ波風を立てることは、不誠実だからつまらない。
どんなに大きな波風を立てたところで、所詮は自作自演なのだから、自作自演を
徹底して排したところでこそ繰り広げられる歴史絵巻ほどもの魅力は決して備わらない。
波風を立てること自体が扇情目的であるにも関わらず、好き好んで波風を立てた以上は、
それがどうしたってつまらない原因になってしまうのだから、本当に痛快な物語を
つむぎ上げようと思うのであればこそ、作為的なマッチポンプは極力控えるべきだといえる。
「豕の白蹢有りて、烝く波を渉る。
月は畢のほしに離り、滂沱たらしむ。
武人の東征するに、遑ま他にあらず」
「(躁疾な性格が多い)白蹄の猪のように、波風の酷い湿地をも必至で突き進む。
月が雨降り星に近づいて、これから大雨にもなりそうなのに、
東国へと遠征する兵士たちには、そんなことを気にしている余裕もない。
(波風の荒い湿地をあえて突き進もうとすること自体が、すでに躁疾の現れである。
雨降り星は牡牛座に相当する星群で、ここに月が近づく頃が当地の雨期だったらしい。
雨期に湿地に立ち入ったりしないための、未然の注意だってできなくはないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・漸漸之石より)
どんなに大きな波風を立てたところで、所詮は自作自演なのだから、自作自演を
徹底して排したところでこそ繰り広げられる歴史絵巻ほどもの魅力は決して備わらない。
波風を立てること自体が扇情目的であるにも関わらず、好き好んで波風を立てた以上は、
それがどうしたってつまらない原因になってしまうのだから、本当に痛快な物語を
つむぎ上げようと思うのであればこそ、作為的なマッチポンプは極力控えるべきだといえる。
「豕の白蹢有りて、烝く波を渉る。
月は畢のほしに離り、滂沱たらしむ。
武人の東征するに、遑ま他にあらず」
「(躁疾な性格が多い)白蹄の猪のように、波風の酷い湿地をも必至で突き進む。
月が雨降り星に近づいて、これから大雨にもなりそうなのに、
東国へと遠征する兵士たちには、そんなことを気にしている余裕もない。
(波風の荒い湿地をあえて突き進もうとすること自体が、すでに躁疾の現れである。
雨降り星は牡牛座に相当する星群で、ここに月が近づく頃が当地の雨期だったらしい。
雨期に湿地に立ち入ったりしないための、未然の注意だってできなくはないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・都人士之什・漸漸之石より)
真の善徳、真の正義ってのは、ある程度大型化した文明社会の公権力者が
理想の統治者=君子たらんとしたときに、初めて把捉されたもの。
数万人程度の規模までの小社会では、たとえ公権力者であっても、
わざわざ濁世を防止するための君子統治などを心がける必要がないし、
数十万人以上の大社会であっても、ただの庶民であれば、大仰な正義だ
善徳だを自主的に養っていったりするような必要性からして存在しない。
(もちろん君子として仕官するための前準備の修養などはあり得る)
正義は民間人のものでなければ、小社会の公権力者のものでもない。
民間の商売人が顧客への奉仕を熱心に行ったところで、それが正義になる
わけでもなく、ただ私利私欲のための必死さがより苛烈になるだけのことだし、
小さな村落の首長が善政を志したりしたところで、やることといえば所詮は、
村の人々の気を遣う程度のことでしかない。
多くの被治者を「民草」と見なして、自分たちの徳風になびかせてこそ
善良たらしめるというところに、人間の正義の原点が存在する。民間人が
正義を行うことがあるとすれば、そのような治世に基づいて謹厳であることであり、
君子士人の為政に旺盛に口出しをしたりすれば、それが正義になるわけでもない。
この世に正義のようなもの、善徳のようなものはいくらでもあるが、
その多くは偽物であり、善を騙る悪や正義を騙る邪義である場合が非常に多い。
それは特に、古代ユダヤ人のような元祖禁治民族や、イエスのような小国の民間人が
騙り始めたものである場合が多いわけだが、未だ公権力に携わったことがない人間、
正義も善徳も必要のないような小社会で生まれ育った人間などは、本当に本物の
善徳や正義を知らない。真の善徳や正義などを知りえない立場、大社会の公権力者
などには決してなり得ない立場でいた以上、儒学のような権力道徳学を自主的に
学びでもしない限りは、永遠に真の善徳や正義といったものを察知することがない。
理想の統治者=君子たらんとしたときに、初めて把捉されたもの。
数万人程度の規模までの小社会では、たとえ公権力者であっても、
わざわざ濁世を防止するための君子統治などを心がける必要がないし、
数十万人以上の大社会であっても、ただの庶民であれば、大仰な正義だ
善徳だを自主的に養っていったりするような必要性からして存在しない。
(もちろん君子として仕官するための前準備の修養などはあり得る)
正義は民間人のものでなければ、小社会の公権力者のものでもない。
民間の商売人が顧客への奉仕を熱心に行ったところで、それが正義になる
わけでもなく、ただ私利私欲のための必死さがより苛烈になるだけのことだし、
小さな村落の首長が善政を志したりしたところで、やることといえば所詮は、
村の人々の気を遣う程度のことでしかない。
多くの被治者を「民草」と見なして、自分たちの徳風になびかせてこそ
善良たらしめるというところに、人間の正義の原点が存在する。民間人が
正義を行うことがあるとすれば、そのような治世に基づいて謹厳であることであり、
君子士人の為政に旺盛に口出しをしたりすれば、それが正義になるわけでもない。
この世に正義のようなもの、善徳のようなものはいくらでもあるが、
その多くは偽物であり、善を騙る悪や正義を騙る邪義である場合が非常に多い。
それは特に、古代ユダヤ人のような元祖禁治民族や、イエスのような小国の民間人が
騙り始めたものである場合が多いわけだが、未だ公権力に携わったことがない人間、
正義も善徳も必要のないような小社会で生まれ育った人間などは、本当に本物の
善徳や正義を知らない。真の善徳や正義などを知りえない立場、大社会の公権力者
などには決してなり得ない立場でいた以上、儒学のような権力道徳学を自主的に
学びでもしない限りは、永遠に真の善徳や正義といったものを察知することがない。
正義とか善徳とかいったものは、本当は非常に特殊なもので、真正なものは、
大社会の権力道徳者でもなければ把捉し得ず、真正な善徳や正義を把捉した学問も
儒学ぐらいしか存在しない。まるで、そこら中に無尽蔵に善徳や正義がばら撒かれて
いるかのように思い込むのなら、そのような人間は決して本物の善徳や正義を
把捉してはおらず、それ以前に、察知すらしたことがないだろうことが明らか。
本物の正義や善徳を察知したこともないうちから、偽善のつまらなさに嫌気がさして、
善徳や正義全般を忌み嫌おうとするような人間もいるが、そのような人間もまた
やはり本物の善徳や正義を察知したことすらない。未だかつて一度も、本物の正善を
察知したことすらない分際でいて、我流で善悪や善悪への好悪を語っていたようなものが、
本物の善悪正邪を知るためには、未だかつて本物の善悪正邪などを察知したことすら
ないという哀れな哀れな身の程を、事前に思い知っておかなければ、どうにもならない。
「偏無く陂無く王の義に遵え。好を作す有る無く王の道に遵え。悪を作す有る無く王の路に遵え。
偏無く党なければ王道蕩蕩たり。党無く偏無ければ王道平平たり。反無く側無ければ王道正直たり」
「偏見や邪曲を介することなく王の義に従え。好悪を差し挟むことなく王の道に従え。
偏見や私党がなければ王道も坦々と治まり、反意や阿りがなければ王道も正直である。
(サービス的な要素をあえて省いた君子の統治にこそ、偽善でない真の正義もまた備わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
大社会の権力道徳者でもなければ把捉し得ず、真正な善徳や正義を把捉した学問も
儒学ぐらいしか存在しない。まるで、そこら中に無尽蔵に善徳や正義がばら撒かれて
いるかのように思い込むのなら、そのような人間は決して本物の善徳や正義を
把捉してはおらず、それ以前に、察知すらしたことがないだろうことが明らか。
本物の正義や善徳を察知したこともないうちから、偽善のつまらなさに嫌気がさして、
善徳や正義全般を忌み嫌おうとするような人間もいるが、そのような人間もまた
やはり本物の善徳や正義を察知したことすらない。未だかつて一度も、本物の正善を
察知したことすらない分際でいて、我流で善悪や善悪への好悪を語っていたようなものが、
本物の善悪正邪を知るためには、未だかつて本物の善悪正邪などを察知したことすら
ないという哀れな哀れな身の程を、事前に思い知っておかなければ、どうにもならない。
「偏無く陂無く王の義に遵え。好を作す有る無く王の道に遵え。悪を作す有る無く王の路に遵え。
偏無く党なければ王道蕩蕩たり。党無く偏無ければ王道平平たり。反無く側無ければ王道正直たり」
「偏見や邪曲を介することなく王の義に従え。好悪を差し挟むことなく王の道に従え。
偏見や私党がなければ王道も坦々と治まり、反意や阿りがなければ王道も正直である。
(サービス的な要素をあえて省いた君子の統治にこそ、偽善でない真の正義もまた備わるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洪範より)
イエスとかユダヤ人とかいった連中は、そもそも善を知らない。
真の善徳を把捉できるような境遇に置かれたことからしてないものだから、
自分たちが善だと思い込んだ、本当は悪である偽善を、本当に善であると思い込んで、
本物の善を推し進めるつもりで偽善を推し進め、結果的に悪逆非道こそを推進してしまう。
そしてその有り様を信仰すべき対象として記録したのが、新旧約聖書に当たる。
真の善の前には、必ず不悪がある。
明らかに悪である言行を断じて為さないという守備があってから、初めて善も真となる。
前提としての断悪が疎かであるならば、それ自体が単体では真善であるような善ですら、
悪とのくそみそと化すことで偽善となってしまう。だから真の善を為すためには、積極的に
善を為すこと以上にも、断じて悪を行わないという守備の心がけのほうがより大事なのだといえる。
もちろんイエスやユダヤ人はそんなことは分からないものだから、
自分たちが善だと思い込んだことを積極的に為して行きすらすれば、どんなに
プラスマイナスゼロ以下のマッチポンプとなったところで、それが善になると思い込む。
そもそも偽善を善だと思い込んでいる上に、善以上の悪が必ず付いてくる善悪みそくその行いすら
善行だと思い込んで積極的に為そうとするものだから、二重三重の過ちが積み重ねられた結果、
絶対に真の善を為すことなどはできなくなってしまうのである。
真の善徳を把捉できるような境遇に置かれたことからしてないものだから、
自分たちが善だと思い込んだ、本当は悪である偽善を、本当に善であると思い込んで、
本物の善を推し進めるつもりで偽善を推し進め、結果的に悪逆非道こそを推進してしまう。
そしてその有り様を信仰すべき対象として記録したのが、新旧約聖書に当たる。
真の善の前には、必ず不悪がある。
明らかに悪である言行を断じて為さないという守備があってから、初めて善も真となる。
前提としての断悪が疎かであるならば、それ自体が単体では真善であるような善ですら、
悪とのくそみそと化すことで偽善となってしまう。だから真の善を為すためには、積極的に
善を為すこと以上にも、断じて悪を行わないという守備の心がけのほうがより大事なのだといえる。
もちろんイエスやユダヤ人はそんなことは分からないものだから、
自分たちが善だと思い込んだことを積極的に為して行きすらすれば、どんなに
プラスマイナスゼロ以下のマッチポンプとなったところで、それが善になると思い込む。
そもそも偽善を善だと思い込んでいる上に、善以上の悪が必ず付いてくる善悪みそくその行いすら
善行だと思い込んで積極的に為そうとするものだから、二重三重の過ちが積み重ねられた結果、
絶対に真の善を為すことなどはできなくなってしまうのである。
イエスやユダヤ人が善を為せない原因は、かくのごとく二重三重にも折り重ねられているために、
なまじただの常人などよりも、悪を為すことなく真善を為す選択肢が強固に閉鎖されてしまって
いるのだといえる。医学的には、「サイコパスの病状が深刻である」ともいえるが、その
サイコパスが深刻化している原因こそは、上記のような理由に基づく二重三重の断悪修善の不能化
であるのだから、そうであることに応じた治療や禁治産などの措置を課してやるべきだといえる。
ただ強制入院や禁治産をあてがうばかりではなく、着実な回復を目指した措置でこそあるべきだ。
「仁に里るを美しと為す。択んで仁に処らずんば、焉んぞ知なることを得ん」
「まず仁にどっかりと腰を据えることを善美と為す。仁に居場所を据えること
すら疎かにしていたのなら、善悪の分別などの知識を得ることもできはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一より)
なまじただの常人などよりも、悪を為すことなく真善を為す選択肢が強固に閉鎖されてしまって
いるのだといえる。医学的には、「サイコパスの病状が深刻である」ともいえるが、その
サイコパスが深刻化している原因こそは、上記のような理由に基づく二重三重の断悪修善の不能化
であるのだから、そうであることに応じた治療や禁治産などの措置を課してやるべきだといえる。
ただ強制入院や禁治産をあてがうばかりではなく、着実な回復を目指した措置でこそあるべきだ。
「仁に里るを美しと為す。択んで仁に処らずんば、焉んぞ知なることを得ん」
「まず仁にどっかりと腰を据えることを善美と為す。仁に居場所を据えること
すら疎かにしていたのなら、善悪の分別などの知識を得ることもできはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一より)
イエスが本物の善を知らない郷原(世間知らずの偽善者)の徒であった
決定的な証拠の一つが、徴税人を罪人とも同然の悪人と見なす物言いだといえる。
徴税それ自体は、善行とも悪行ともなり得るもの。
やたらめったらと重税を課して民に困窮を強いたりすれば、当然それは悪行になる。
しかし、逆にやたらめったらと税を軽減して、公務機関による最低限度の社会統制すら
疎かにしてしまったりするのであれば、それもまた悪行や偽善の行いと化してしまう。
為政者が税制を極端に厳しくも緩くもせず、適正なものとすることで、
夜警統治と福祉統治の釣り合いを取ることこそが善行になるといえ、しかも、
人間が講じられる善行のうちでも最もウソ偽りのない、純粋な善行になるといえる。
善というものが、偽りなく純善として生じ得る中でも、特に確実な部類に入るのが
為政者による徴税の適正化であり、徴税人が民から尊ばれるぐらいであってこそ
真の善政が敷かれているのだともいえる。にもかかわらずイエスが徴税人を
罪人も同然のものとして決め付けるたは、イエスが、徴税の適正化にこそ純善が
備わり得ることすら知らなかった、世間知らずの偽善者だったからでこそあるし、
また、イエスが生きていた頃のイスラエルやローマの為政者が、民に対して
やたらと重税を課したりするような、暴政の徒だったに違いないからでもある。
税制の煩雑化こそは暴政の原因になると見なし、課税対象をなるべく少なくすべきで
あると孟子も説いているが、じゃあ課税対象が雑多化してしまう原因は何かといえば、
市場を悪用した投機であぶく銭を稼ぐような、匹夫の悪行に制限を課したりするために
課税対象も増えていったのだとも説いている。徴税人がありとあらゆる社会活動から
税を徴収する事態ともなれば、そりゃあ徴税人が憎しみや嫌悪の対象にもなって仕方ない
わけだが、それほどにも徴税が雑多化してしまう原因は何かといえば、それはイエスの
ような民間人の匹夫が、投機で不正な富を蓄えたりすることに対抗するからなわけで、
徴税人を罪人並みの嫌われ者にしてしまっているのも、他でもないイエス自身なのである。
決定的な証拠の一つが、徴税人を罪人とも同然の悪人と見なす物言いだといえる。
徴税それ自体は、善行とも悪行ともなり得るもの。
やたらめったらと重税を課して民に困窮を強いたりすれば、当然それは悪行になる。
しかし、逆にやたらめったらと税を軽減して、公務機関による最低限度の社会統制すら
疎かにしてしまったりするのであれば、それもまた悪行や偽善の行いと化してしまう。
為政者が税制を極端に厳しくも緩くもせず、適正なものとすることで、
夜警統治と福祉統治の釣り合いを取ることこそが善行になるといえ、しかも、
人間が講じられる善行のうちでも最もウソ偽りのない、純粋な善行になるといえる。
善というものが、偽りなく純善として生じ得る中でも、特に確実な部類に入るのが
為政者による徴税の適正化であり、徴税人が民から尊ばれるぐらいであってこそ
真の善政が敷かれているのだともいえる。にもかかわらずイエスが徴税人を
罪人も同然のものとして決め付けるたは、イエスが、徴税の適正化にこそ純善が
備わり得ることすら知らなかった、世間知らずの偽善者だったからでこそあるし、
また、イエスが生きていた頃のイスラエルやローマの為政者が、民に対して
やたらと重税を課したりするような、暴政の徒だったに違いないからでもある。
税制の煩雑化こそは暴政の原因になると見なし、課税対象をなるべく少なくすべきで
あると孟子も説いているが、じゃあ課税対象が雑多化してしまう原因は何かといえば、
市場を悪用した投機であぶく銭を稼ぐような、匹夫の悪行に制限を課したりするために
課税対象も増えていったのだとも説いている。徴税人がありとあらゆる社会活動から
税を徴収する事態ともなれば、そりゃあ徴税人が憎しみや嫌悪の対象にもなって仕方ない
わけだが、それほどにも徴税が雑多化してしまう原因は何かといえば、それはイエスの
ような民間人の匹夫が、投機で不正な富を蓄えたりすることに対抗するからなわけで、
徴税人を罪人並みの嫌われ者にしてしまっているのも、他でもないイエス自身なのである。
もちろん、イエスのような民間の暴徒を、投機に走ったりする以前から十分な取締り
の対象とするのが、為政者の夜警者としての義務であるといえ、イエスのような暴民を
世間にのさばらせてしまった時点で、すでにそれが為政者の落ち度であるとも言える。
自分たちの行いの劣悪さによって、それを追跡する徴税人を嫌われ者としてしまうような
蒙昧な民が、できる限り発生しないように徳化を心がけるのが徳治者の義務であるといえ、
それはイスラエルやローマの為政者はおろか、春秋戦国時代の中国の為政者や、今の
日本の為政者ですらもが、全くといっていいほど実現できていない条件だといえる。
金融犯罪などの悪行を犯す小人が現れて、それに後付けで為政者が課税して、結果、
小人が徴税人を忌み嫌うような事態と化すといった現象全般が、極めて劣悪なものであり、
始めからそういった現象が発生しないように心がけるところにこそ、真の善徳が備わる
といえる。真の善徳がある所には、イエスみたいな人間は始めから生じないのである。
「蚕事畢りて、后妃繭を献ず。乃ち繭税を収め、桑を以って均と為し、貴賤長幼一の如くす」
「養蚕の時期が終わると、后妃が繭を献上する儀式を行う。儀式の中で繭を税として収めるが、
蚕が食した桑の多少によって税率を取り決め、生産者の貴賤長幼によって取り決めたりはしない。
(徴税が正統な儀礼にまで昇華されている事例。日本の皇后も養蚕を儀礼的に行ってる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
の対象とするのが、為政者の夜警者としての義務であるといえ、イエスのような暴民を
世間にのさばらせてしまった時点で、すでにそれが為政者の落ち度であるとも言える。
自分たちの行いの劣悪さによって、それを追跡する徴税人を嫌われ者としてしまうような
蒙昧な民が、できる限り発生しないように徳化を心がけるのが徳治者の義務であるといえ、
それはイスラエルやローマの為政者はおろか、春秋戦国時代の中国の為政者や、今の
日本の為政者ですらもが、全くといっていいほど実現できていない条件だといえる。
金融犯罪などの悪行を犯す小人が現れて、それに後付けで為政者が課税して、結果、
小人が徴税人を忌み嫌うような事態と化すといった現象全般が、極めて劣悪なものであり、
始めからそういった現象が発生しないように心がけるところにこそ、真の善徳が備わる
といえる。真の善徳がある所には、イエスみたいな人間は始めから生じないのである。
「蚕事畢りて、后妃繭を献ず。乃ち繭税を収め、桑を以って均と為し、貴賤長幼一の如くす」
「養蚕の時期が終わると、后妃が繭を献上する儀式を行う。儀式の中で繭を税として収めるが、
蚕が食した桑の多少によって税率を取り決め、生産者の貴賤長幼によって取り決めたりはしない。
(徴税が正統な儀礼にまで昇華されている事例。日本の皇后も養蚕を儀礼的に行ってる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
人間が死刑になる恐怖というのは、立派な賢人や聖人であれば十分に克服できるものだが、
小人には克服できない。羊や牛豚並みの精神の薄弱さでいて、なおかつ生命の死というものを
知識的に理解できる程度の思考能力を備えている人間=小人にとっては、自らが死ぬということが
何よりの恐怖であり、特に重罪行為への制裁として処刑されることこそが、最大級の恐怖となる。
その、処刑への恐怖こそを為政者もまた被治民への戒めとし、重罪人の処刑を大々的に公開したり、
刑死者の生首を晒しものにしたりすることもあったわけだが、その処刑への恐怖を逆手にとって、
最大級の恐怖からなる知能の退行をトリックとして、信者に無根拠な歓喜を備わらせてきたのが
キリスト信仰に当たる。処刑への恐怖を信仰対象にまでさせられた結果、信者は命の生死というもの
を知識的に理解できないIQ20〜35程度の低能にまで、知能を作為的に退行させる能力を身に付ける。
もちろん常時IQ20〜35では一般生活もままならないから、IQ100程度でいることも一応はできるが、
ことに死の恐怖を考えさせられるような段になれば、途端に十字架信仰によって知能をIQ20〜35
にまで退行させてしまう。退行して白痴のような歓喜に包まれる、というか、白痴そのものになる。
それはたとえば、仏者が悟りの先に得る歓喜などとは全くの別物であり、仏者は自らの知能を
退行させたりすることもなく、ただひたすら精進修行に励んだ末に、シラフのままでの悟りを得る。
知能を退行させたりすることがない健全な歓喜だから、罪を犯したことへの罪悪感までをも同時に
喪失してしまうようなこともなく、「諸悪莫作修善奉行」の真理もまた確固として把捉し続けられる。
十字架信者の場合には、刑死への恐怖によって知能をIQ20〜35にまで退行させることで歓喜を得ると
同時に、罪を犯すことへの罪悪感すら喪失してしまうものだから、平気で大罪すらも犯してしまう。
それは正しい悟りなどでは決してないから、正覚による歓喜こそは健全な歓喜であると
いえる一方で、十字架信仰による白痴化の歓喜は不健全な歓喜であるといえる。
小人には克服できない。羊や牛豚並みの精神の薄弱さでいて、なおかつ生命の死というものを
知識的に理解できる程度の思考能力を備えている人間=小人にとっては、自らが死ぬということが
何よりの恐怖であり、特に重罪行為への制裁として処刑されることこそが、最大級の恐怖となる。
その、処刑への恐怖こそを為政者もまた被治民への戒めとし、重罪人の処刑を大々的に公開したり、
刑死者の生首を晒しものにしたりすることもあったわけだが、その処刑への恐怖を逆手にとって、
最大級の恐怖からなる知能の退行をトリックとして、信者に無根拠な歓喜を備わらせてきたのが
キリスト信仰に当たる。処刑への恐怖を信仰対象にまでさせられた結果、信者は命の生死というもの
を知識的に理解できないIQ20〜35程度の低能にまで、知能を作為的に退行させる能力を身に付ける。
もちろん常時IQ20〜35では一般生活もままならないから、IQ100程度でいることも一応はできるが、
ことに死の恐怖を考えさせられるような段になれば、途端に十字架信仰によって知能をIQ20〜35
にまで退行させてしまう。退行して白痴のような歓喜に包まれる、というか、白痴そのものになる。
それはたとえば、仏者が悟りの先に得る歓喜などとは全くの別物であり、仏者は自らの知能を
退行させたりすることもなく、ただひたすら精進修行に励んだ末に、シラフのままでの悟りを得る。
知能を退行させたりすることがない健全な歓喜だから、罪を犯したことへの罪悪感までをも同時に
喪失してしまうようなこともなく、「諸悪莫作修善奉行」の真理もまた確固として把捉し続けられる。
十字架信者の場合には、刑死への恐怖によって知能をIQ20〜35にまで退行させることで歓喜を得ると
同時に、罪を犯すことへの罪悪感すら喪失してしまうものだから、平気で大罪すらも犯してしまう。
それは正しい悟りなどでは決してないから、正覚による歓喜こそは健全な歓喜であると
いえる一方で、十字架信仰による白痴化の歓喜は不健全な歓喜であるといえる。
麻薬中毒者だって、薬の服用中はヘラヘラしていられるが、薬が切れれば極重の苦痛に見舞われる。
一方で、薬を服用し続ければ副作用で命を縮めたり、重い障害を負ってしまったりする。
だから麻薬中毒による歓喜は不健全なことであるといえ、十字架信仰による歓喜もまた
全く同じような理由で不健全極まりない歓喜であるといえる。副作用を伴ったりしない
健全な歓喜を得るためには、色々と精進努力を心がける必要があるものであり、安易に
歓喜を得られるような選択肢には、かならず落とし穴が潜んでいると見なして差し支えない。
「无妄の疾あるも、薬勿くして喜び有り。无妄の薬は、試す可からざるなり」
「虚妄を排して誠実でいられるのならば、たとえ病にかかろうとも薬すらなく快癒の喜びを得られる。
虚妄を排して誠実ですらいられるのならば、対処的な薬餌療法などは試すべきですらない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・无妄・九五・象伝より)
一方で、薬を服用し続ければ副作用で命を縮めたり、重い障害を負ってしまったりする。
だから麻薬中毒による歓喜は不健全なことであるといえ、十字架信仰による歓喜もまた
全く同じような理由で不健全極まりない歓喜であるといえる。副作用を伴ったりしない
健全な歓喜を得るためには、色々と精進努力を心がける必要があるものであり、安易に
歓喜を得られるような選択肢には、かならず落とし穴が潜んでいると見なして差し支えない。
「无妄の疾あるも、薬勿くして喜び有り。无妄の薬は、試す可からざるなり」
「虚妄を排して誠実でいられるのならば、たとえ病にかかろうとも薬すらなく快癒の喜びを得られる。
虚妄を排して誠実ですらいられるのならば、対処的な薬餌療法などは試すべきですらない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・无妄・九五・象伝より)
人間の本性が誠実か虚妄かという問題はともかくとして、
仮に、誠実さによって虚妄を排することすらできたなら、人は麻薬的な
陶酔などに頼ることもなく、歓喜や安心を得られるようになっている。
誠実であろうとしてみた結果、イヤな気分になったりするとすれば、
それは誠実であろうとする上での基準を偽善に求めていたりするからで、
真善を基準とした真の誠実さとすら共にいられたなら、人は決して辟易などを
抱かされることもなく、麻薬性とも無縁な、健全な歓喜を得ることができる。
麻薬中毒者にとって、薬が切れた時の苦痛こそは、それはそれは恐ろしいものであるに違いないが、
それは麻薬が切れた所でこそ、野放しにしてきた自分たち自身の不誠実さと
直面させられる破目になるからで、いつまでも根本的な部分でくすぶり続けているその不誠実さこそは、
麻薬的な陶酔と共にでもなければ耐えられないほどの苦痛を、中毒者たち自身に強いている元凶なのである。
仮に、誠実さによって虚妄を排することすらできたなら、人は麻薬的な
陶酔などに頼ることもなく、歓喜や安心を得られるようになっている。
誠実であろうとしてみた結果、イヤな気分になったりするとすれば、
それは誠実であろうとする上での基準を偽善に求めていたりするからで、
真善を基準とした真の誠実さとすら共にいられたなら、人は決して辟易などを
抱かされることもなく、麻薬性とも無縁な、健全な歓喜を得ることができる。
麻薬中毒者にとって、薬が切れた時の苦痛こそは、それはそれは恐ろしいものであるに違いないが、
それは麻薬が切れた所でこそ、野放しにしてきた自分たち自身の不誠実さと
直面させられる破目になるからで、いつまでも根本的な部分でくすぶり続けているその不誠実さこそは、
麻薬的な陶酔と共にでもなければ耐えられないほどの苦痛を、中毒者たち自身に強いている元凶なのである。
[YouTubeで再生]
封建社会では、上位のものほど総合的な政治判断などを取り扱い、
下位のものほどその判断を実現するための下請けを委ねられる。
農作やモノ作りなどの実業は民間に委ねて、士分は基本、実業への従事すら禁じられる。
士人こそは実業や商業の興業を民間人に委ね、そのあり方をトップダウンに統制する
のであり、民間人のほうが士人に対してあれこれと注文を付けるのは失礼になる。
主権が民間人ではなく士人にあり、士人の判断に民間人が追従するのだから、
士人に発注された仕事を賢明にこなす必要があるのも民間人のほうである。
士人は士人で、自分よりもより上位の大夫諸侯らへの忠誠によって役務に励むが、
自らが徳治を施すことを「国民の皆様方のため」などというような、へつらい言葉で
飾ったりもせず、あくまで仁義道徳に根ざした自己判断で為政を執り行っていくのである。
上位のものが、下位の者にとっての奉仕者になるという、民主主義の原型ともなっている
ルサンチマン発散型の理念は、確かに聞こえはいいが、同時に絶対矛盾を宿してもいる。
古代ローマでの帝政などでも、皇帝が民衆への奉仕を約束するようなことがありはしたが、
最上位に皇帝がいて最下位に奴隷がいるという階級関係は全く変わらず、下位のものが
上位の者に奉仕するという根本的な社会構造が何ら変化を来たしたことはなかった。
上意下達がやはり人間社会の基本であり、そうでなかったり、その逆を行こうとしたりすれば
そのぶんだけ社会機能が不全化してしまう結果しか招かない。上位のものが下位のものに
奉仕するかのような欺瞞によって何かが良くなるなんていう幻想はもういい加減棄て去って、
いかに滞りのない健全な上下関係を人間社会において築き上げていくのか
ということのほうを本気で考え直していくべきだといえる。

下位のものほどその判断を実現するための下請けを委ねられる。
農作やモノ作りなどの実業は民間に委ねて、士分は基本、実業への従事すら禁じられる。
士人こそは実業や商業の興業を民間人に委ね、そのあり方をトップダウンに統制する
のであり、民間人のほうが士人に対してあれこれと注文を付けるのは失礼になる。
主権が民間人ではなく士人にあり、士人の判断に民間人が追従するのだから、
士人に発注された仕事を賢明にこなす必要があるのも民間人のほうである。
士人は士人で、自分よりもより上位の大夫諸侯らへの忠誠によって役務に励むが、
自らが徳治を施すことを「国民の皆様方のため」などというような、へつらい言葉で
飾ったりもせず、あくまで仁義道徳に根ざした自己判断で為政を執り行っていくのである。
上位のものが、下位の者にとっての奉仕者になるという、民主主義の原型ともなっている
ルサンチマン発散型の理念は、確かに聞こえはいいが、同時に絶対矛盾を宿してもいる。
古代ローマでの帝政などでも、皇帝が民衆への奉仕を約束するようなことがありはしたが、
最上位に皇帝がいて最下位に奴隷がいるという階級関係は全く変わらず、下位のものが
上位の者に奉仕するという根本的な社会構造が何ら変化を来たしたことはなかった。
上意下達がやはり人間社会の基本であり、そうでなかったり、その逆を行こうとしたりすれば
そのぶんだけ社会機能が不全化してしまう結果しか招かない。上位のものが下位のものに
奉仕するかのような欺瞞によって何かが良くなるなんていう幻想はもういい加減棄て去って、
いかに滞りのない健全な上下関係を人間社会において築き上げていくのか
ということのほうを本気で考え直していくべきだといえる。
人間関係に上下関係を設ける場合にも、秦帝国や大日本帝国のような一君万民の法家支配
が講じられることもあれば、漢帝国や江戸幕府のような緩やかな封建制が敷かれることもある。
歴史的に見れば、法家支配よりも封建支配のほうが遥かに大成功を遂げてきた事例が多く、
法家支配が封建支配並みの長期泰平統治を実現できたためしは未だかつて一度もない。
今の資本主義先進国のような民主制社会も、実務面では法治主義に頼り切っており、
万巻の実定法で世の中を締め付ける無理が祟って、いい加減崩壊の危機にも晒されている。
民主制が廃絶されたところに法治主義や独裁主義だけが残存するとすれば、それはそれは
恐ろしいことであり、だったらまだ民主主義でいたいという気持ちが湧いたとしても仕方が
ないところがあるが、もちろん法治主義や独裁主義ばかりが残存するわけではなく、法治主義や
独裁主義に振れきることがあるとすれば、それは想定し得る限りでも最悪の結果だといえる。
民主主義者が、自分たちへの人気を取り付けるための「劣悪なスケープゴート」として、独裁主義などが
やたらと取り上げられているところもあるため、そのようなプロパガンダからも目を覚ますべきだといえる。
「大徳は官せず、大道は器せず、大信は約さず、大時は斉しからず。此の四者を察するときは、以て本に志し有るべし。
三王の川を祭るや、皆な河を先として海を後とす。或るいは源なり、或いは委なり。此れを之れ本を務むと謂う」
「大徳は仕官するかしないかなどというところにはなく、大道は寛容かどうかなどというところにはなく、
大信は確約できるかどうかなどというところにはなく、大時は必ず予定通りかどうかなどというところにはない。
これらの意味を知るためには、必ず根本からの大志を具えている必要がある。湯文武の三王が水系を祭る際にも、
水の本源となる河川を先に祭り、河川から水を委ねられる海を後に祭った。これも本源への崇敬に努めたからだといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
が講じられることもあれば、漢帝国や江戸幕府のような緩やかな封建制が敷かれることもある。
歴史的に見れば、法家支配よりも封建支配のほうが遥かに大成功を遂げてきた事例が多く、
法家支配が封建支配並みの長期泰平統治を実現できたためしは未だかつて一度もない。
今の資本主義先進国のような民主制社会も、実務面では法治主義に頼り切っており、
万巻の実定法で世の中を締め付ける無理が祟って、いい加減崩壊の危機にも晒されている。
民主制が廃絶されたところに法治主義や独裁主義だけが残存するとすれば、それはそれは
恐ろしいことであり、だったらまだ民主主義でいたいという気持ちが湧いたとしても仕方が
ないところがあるが、もちろん法治主義や独裁主義ばかりが残存するわけではなく、法治主義や
独裁主義に振れきることがあるとすれば、それは想定し得る限りでも最悪の結果だといえる。
民主主義者が、自分たちへの人気を取り付けるための「劣悪なスケープゴート」として、独裁主義などが
やたらと取り上げられているところもあるため、そのようなプロパガンダからも目を覚ますべきだといえる。
「大徳は官せず、大道は器せず、大信は約さず、大時は斉しからず。此の四者を察するときは、以て本に志し有るべし。
三王の川を祭るや、皆な河を先として海を後とす。或るいは源なり、或いは委なり。此れを之れ本を務むと謂う」
「大徳は仕官するかしないかなどというところにはなく、大道は寛容かどうかなどというところにはなく、
大信は確約できるかどうかなどというところにはなく、大時は必ず予定通りかどうかなどというところにはない。
これらの意味を知るためには、必ず根本からの大志を具えている必要がある。湯文武の三王が水系を祭る際にも、
水の本源となる河川を先に祭り、河川から水を委ねられる海を後に祭った。これも本源への崇敬に努めたからだといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・学記第十八より)
「(子曰く、)若し礼無ければ則ち手足の錯く所無く、耳目の加うる所無く、進退揖讓制する所無し」
「礼に適わないものに対しては手足を置くところもなければ、耳目をあてるところもなく、出処進退や
拱手しての居住まいなどに、これといって節制をすべきところもない(孔子の子張と子貢に対する言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
盲目と刮目も狂信によって混同され、実際論と概念論もニヒリズムの揚げ足取りによって
ひとしなみにされたとき、人は思考や言動に何一つとして、理念による節制を施せなくなる。
深く実際性に根ざした人間規範として、最も典型的なのが礼儀作法であり、古典的な礼儀作法を
真摯に厳守すれば、それだけで数百年規模の泰平社会を実現することも可能となることが、
歴史上の実績からも明らかなこととなっている。しかし、その礼儀作法の拠り所となっている
詩書や易や論孟などの実際的な道徳論に対して、全く実地性に根ざさない概念論で揚げ足取りを加えて、
連動して古典的な礼儀作法の価値すらをも無みしてしまったりすれば、数十年としないうちに
戦乱による破滅を来たすことまでもが常套化してしまう。人々の思考や言動に数々の無礼が付帯
するようになってしまう原因はといえば、狂信による蒙昧や概念論が、正統な道徳論や真理学の
お株を奪ってしまったり、奪うまでいかずとも不実なみそくそ扱いを流布して、結局は正統な
道徳論や真理学の社会的な存在価値を減退させたり、滅尽させてしまったりすることによる。
「礼に適わないものに対しては手足を置くところもなければ、耳目をあてるところもなく、出処進退や
拱手しての居住まいなどに、これといって節制をすべきところもない(孔子の子張と子貢に対する言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
盲目と刮目も狂信によって混同され、実際論と概念論もニヒリズムの揚げ足取りによって
ひとしなみにされたとき、人は思考や言動に何一つとして、理念による節制を施せなくなる。
深く実際性に根ざした人間規範として、最も典型的なのが礼儀作法であり、古典的な礼儀作法を
真摯に厳守すれば、それだけで数百年規模の泰平社会を実現することも可能となることが、
歴史上の実績からも明らかなこととなっている。しかし、その礼儀作法の拠り所となっている
詩書や易や論孟などの実際的な道徳論に対して、全く実地性に根ざさない概念論で揚げ足取りを加えて、
連動して古典的な礼儀作法の価値すらをも無みしてしまったりすれば、数十年としないうちに
戦乱による破滅を来たすことまでもが常套化してしまう。人々の思考や言動に数々の無礼が付帯
するようになってしまう原因はといえば、狂信による蒙昧や概念論が、正統な道徳論や真理学の
お株を奪ってしまったり、奪うまでいかずとも不実なみそくそ扱いを流布して、結局は正統な
道徳論や真理学の社会的な存在価値を減退させたり、滅尽させてしまったりすることによる。
じゃあ、正統な道徳論や真理学に根ざした徳治を実現しようとする側に、全く邪見を撃退する手立てがないのか
といえば、そういうわけでもない。異端の邪教や概念論がまかり通って、正統な礼儀作法の実践も覚束ないような
状態に世の中全体が化してしまったとき、道家の無為自然や、兵家の風林火山が非常的な消火栓として発動する。
全く何もしないでいようとする道家の無為志向や、風のように速く動くことも山のように動かないでいることも
兵法のうちとする兵家のなんでもあり志向は、治世に濫用すればそれはそれで乱暴者の扱いをすら受け兼ねないもの。
しかし、世界のどこに行っても何一つとして礼儀作法が実践できないような乱世ともなれば、もはや有為無為に節制の
余地もなくなると孔子も上記のように述べている。有為に節制の余地がなくなるだけでなく、無為にも節制の余地がなくなる。
それはそれで、治世の実現と共に絶やされるべきものではあるにしろ、
際限のない無為という選択肢までもが、人間規範としての妥当性を帯びてしまう。
盲目も刮目とし、概念論も実際論と同等と見なすような異端の暴行こそが、それを実現する。
といえば、そういうわけでもない。異端の邪教や概念論がまかり通って、正統な礼儀作法の実践も覚束ないような
状態に世の中全体が化してしまったとき、道家の無為自然や、兵家の風林火山が非常的な消火栓として発動する。
全く何もしないでいようとする道家の無為志向や、風のように速く動くことも山のように動かないでいることも
兵法のうちとする兵家のなんでもあり志向は、治世に濫用すればそれはそれで乱暴者の扱いをすら受け兼ねないもの。
しかし、世界のどこに行っても何一つとして礼儀作法が実践できないような乱世ともなれば、もはや有為無為に節制の
余地もなくなると孔子も上記のように述べている。有為に節制の余地がなくなるだけでなく、無為にも節制の余地がなくなる。
それはそれで、治世の実現と共に絶やされるべきものではあるにしろ、
際限のない無為という選択肢までもが、人間規範としての妥当性を帯びてしまう。
盲目も刮目とし、概念論も実際論と同等と見なすような異端の暴行こそが、それを実現する。
「春秋左氏伝」襄公二十一年、定公四年などに、
蛇を「自明な禍い」の象徴として取り上げる発言が見られる。
確かに蛇は猛毒を持っている場合もあるから、危険であることが自明な
もののうちでも最たるものとして、非常に取り扱いやすい記号ともなる。
より大きな禍をもたらすものとしては、地震や台風などのほうが蛇以上だが、
自分から手を出して来たものに対して、ほぼ確実な禍いをもたらすものとしては、
蛇こそは地震や台風以上であり、幸いにも難を逃れられたりする可能性がより少ない。
あえて険を冒すということに、何か切実な目的が伴っている
のならともかく、ただの酔狂で蛇を掴むような自明な険を
冒すとすれば、それは決して人から同情されない結果を招く。
自分から好き好んで蛇を掴み、咬み付かれて毒が回って死んだという時、
たとえばその蛇に咬まれそうになっていた人を助けるためだったりすれば、
まだ人からの同情も得られるだろうが、ただの興味本位で好き好んで蛇を掴んで
死んだというのなら、常人なら「ただのバカ」と見なして、何ら同情することもない。
蛇を「自明な禍い」の象徴として取り上げる発言が見られる。
確かに蛇は猛毒を持っている場合もあるから、危険であることが自明な
もののうちでも最たるものとして、非常に取り扱いやすい記号ともなる。
より大きな禍をもたらすものとしては、地震や台風などのほうが蛇以上だが、
自分から手を出して来たものに対して、ほぼ確実な禍いをもたらすものとしては、
蛇こそは地震や台風以上であり、幸いにも難を逃れられたりする可能性がより少ない。
あえて険を冒すということに、何か切実な目的が伴っている
のならともかく、ただの酔狂で蛇を掴むような自明な険を
冒すとすれば、それは決して人から同情されない結果を招く。
自分から好き好んで蛇を掴み、咬み付かれて毒が回って死んだという時、
たとえばその蛇に咬まれそうになっていた人を助けるためだったりすれば、
まだ人からの同情も得られるだろうが、ただの興味本位で好き好んで蛇を掴んで
死んだというのなら、常人なら「ただのバカ」と見なして、何ら同情することもない。
何の目的もなく、ただの酔狂で険を冒すような愚か者をも救うと確約するカルト信仰が
あったとして、その信仰が反故になったとき、最悪の窮地に立たされながらも、
誰からも同情されることのない愚か者の群れが生ずる。その愚か者たちを同情して
やったとすれば、それは自分が新たな酔狂冒険是認主義の旗頭に挙げられる原因に
すらなり兼ねないので、まずは同情しないでいてやるほうが、本人たちのためにもなる。
仏や菩薩ほどの慈悲があろうとも、まずは同情せず、罪業に相応の罰を科していく。
懲罰に打ちひしがれて苦しんでいる姿を見て、そこから初めて、徐々に慈悲を施していく。
酔狂で罪業まみれの冒険に走ったりすることに同情するようなものはどこにもいないのだと
いうことを思い知らせて、これからもそうであり続けることを確立させる形での慈悲のみを施す。
進んで自業自得の破滅に突き進もうとする極度の愚か者に対しては、そういった、
若干厳しいとも思えるような措置が、よりためになることもあるのである。
「龍蛇の蟄るるは、以て身を存するがためなり」
「龍や蛇が冬篭りするのは、自分たちの長命を保つためである。
(蛇自身にすら養生を心がける気持ちはあるのであり、蛇を掴んで
必要もない窮地に陥るのは、どこまでも本人たち自身の落ち度でしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
あったとして、その信仰が反故になったとき、最悪の窮地に立たされながらも、
誰からも同情されることのない愚か者の群れが生ずる。その愚か者たちを同情して
やったとすれば、それは自分が新たな酔狂冒険是認主義の旗頭に挙げられる原因に
すらなり兼ねないので、まずは同情しないでいてやるほうが、本人たちのためにもなる。
仏や菩薩ほどの慈悲があろうとも、まずは同情せず、罪業に相応の罰を科していく。
懲罰に打ちひしがれて苦しんでいる姿を見て、そこから初めて、徐々に慈悲を施していく。
酔狂で罪業まみれの冒険に走ったりすることに同情するようなものはどこにもいないのだと
いうことを思い知らせて、これからもそうであり続けることを確立させる形での慈悲のみを施す。
進んで自業自得の破滅に突き進もうとする極度の愚か者に対しては、そういった、
若干厳しいとも思えるような措置が、よりためになることもあるのである。
「龍蛇の蟄るるは、以て身を存するがためなり」
「龍や蛇が冬篭りするのは、自分たちの長命を保つためである。
(蛇自身にすら養生を心がける気持ちはあるのであり、蛇を掴んで
必要もない窮地に陥るのは、どこまでも本人たち自身の落ち度でしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
悪人が悪人であるままに、瑣末な善行に励もうとするところに偽善が生じる。
他者に危害を加えることで自分が裕福になる、我田引水を基調とした悪行に
よってこそ溜め込んだ資産で、多少の慈善事業などを試みてみたところで、
全体としてはプラスマイナスゼロ以下の、有害無益なマッチポンプであり続ける。
それよりはむしろ、自分が我田引水ぐらいしか能のない悪人であることを開き直って、
部分的に取り組んでもみている偽善の行いを、巧みな修辞によって取り繕うことで
気休めにしたりすることをやめてしまったほうが、全体的な行いとしての悪行もまた
矮小なものに止まって、修辞を凝らした偽善を気休めとしながら悪行を推し進めていく
場合などよりも、全体的な悪因苦果の災禍もまた軽度なものに止め置くことができる。
だから、悪人ながらに偽善の行いに励むよりは、悪人であることを開き直って、
全体的な悪行を矮小なものに止め置いたほうがまだいい。本当に全体的な悪行を十分に
抑制した上で、悪行以上の善行を推し進められるとした時にこそ、善行にも励むべきで、
その時に為される善行こそは、偽善ではない真の善行となり、真の善行であるが故に、
悪因苦果以上の善因楽果をもたらして、災禍以上の福徳をもたらすことにもなるのである。
「遠邇有ること無く、罪を用いて厥の死を伐ち、徳を用いて厥の善を彰す」
「賞罰に遠近の差別を付けたりすることも無く、悪行には厳罰を科して罪人が
この世から死に絶えるようにし、善行には大いなる福徳をもたらしてこれを表彰する。
(善行にも悪行にも相応の賞罰を与えるのだから、悪行の範疇の偽善などでは全く不足である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上)
他者に危害を加えることで自分が裕福になる、我田引水を基調とした悪行に
よってこそ溜め込んだ資産で、多少の慈善事業などを試みてみたところで、
全体としてはプラスマイナスゼロ以下の、有害無益なマッチポンプであり続ける。
それよりはむしろ、自分が我田引水ぐらいしか能のない悪人であることを開き直って、
部分的に取り組んでもみている偽善の行いを、巧みな修辞によって取り繕うことで
気休めにしたりすることをやめてしまったほうが、全体的な行いとしての悪行もまた
矮小なものに止まって、修辞を凝らした偽善を気休めとしながら悪行を推し進めていく
場合などよりも、全体的な悪因苦果の災禍もまた軽度なものに止め置くことができる。
だから、悪人ながらに偽善の行いに励むよりは、悪人であることを開き直って、
全体的な悪行を矮小なものに止め置いたほうがまだいい。本当に全体的な悪行を十分に
抑制した上で、悪行以上の善行を推し進められるとした時にこそ、善行にも励むべきで、
その時に為される善行こそは、偽善ではない真の善行となり、真の善行であるが故に、
悪因苦果以上の善因楽果をもたらして、災禍以上の福徳をもたらすことにもなるのである。
「遠邇有ること無く、罪を用いて厥の死を伐ち、徳を用いて厥の善を彰す」
「賞罰に遠近の差別を付けたりすることも無く、悪行には厳罰を科して罪人が
この世から死に絶えるようにし、善行には大いなる福徳をもたらしてこれを表彰する。
(善行にも悪行にも相応の賞罰を与えるのだから、悪行の範疇の偽善などでは全く不足である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上)
日本語訳の犯罪聖書が、孟子などが用いていた本来の意味での「義」とは
全く真逆の意味を持つ「義」を、そのままこの文字をあてがって
誤訳してしまっていることは、すでに何度か述べたとおり。
四書五経で取り沙汰されている義が「正義」なら、犯罪氏聖書で取り沙汰されている義は「邪義」であり、
正義にとっての不義こそは邪義であり、邪義にとっての不義こそは正義であるという相反関係には当てはまる。
だから、正義と邪義とをみそくそに混同してしまえば、正義にとっての不義である邪義と、
邪義にとっての不義である正義とが、お互いを不義として定め合うことと化してしまい、
もはや義と不義の違いも見分けられないような事態と化してしまう。
正義と邪義と、いずれかが義であってもう一方は不義であるという分別を付けなければ、
義と不義とを分かっての裁きなどを実行することもまた覚束ず、何もかもを不義と見なして
一切合切、核戦争でドカンという結論にすら至りかねない。
一つ注意すべきなのは、「義」というのは社会的な理念であって、決して超俗的な真理にまつわる理念ではない
ということで、義か不義かなどという分別知を問題扱いすることは、超俗主義の哲学宗教などでは元から忌まれるもの。
それでもあえて義という問題を論ずるのならば、それが少なからず俗っぽい議論となることを許容すべき
なのであって、義か不義かという問題に超越的な論及をあてがって、概念によって実質を蔑ろに
してしまうようなことこそは避けられるべきであるということ。
全く真逆の意味を持つ「義」を、そのままこの文字をあてがって
誤訳してしまっていることは、すでに何度か述べたとおり。
四書五経で取り沙汰されている義が「正義」なら、犯罪氏聖書で取り沙汰されている義は「邪義」であり、
正義にとっての不義こそは邪義であり、邪義にとっての不義こそは正義であるという相反関係には当てはまる。
だから、正義と邪義とをみそくそに混同してしまえば、正義にとっての不義である邪義と、
邪義にとっての不義である正義とが、お互いを不義として定め合うことと化してしまい、
もはや義と不義の違いも見分けられないような事態と化してしまう。
正義と邪義と、いずれかが義であってもう一方は不義であるという分別を付けなければ、
義と不義とを分かっての裁きなどを実行することもまた覚束ず、何もかもを不義と見なして
一切合切、核戦争でドカンという結論にすら至りかねない。
一つ注意すべきなのは、「義」というのは社会的な理念であって、決して超俗的な真理にまつわる理念ではない
ということで、義か不義かなどという分別知を問題扱いすることは、超俗主義の哲学宗教などでは元から忌まれるもの。
それでもあえて義という問題を論ずるのならば、それが少なからず俗っぽい議論となることを許容すべき
なのであって、義か不義かという問題に超越的な論及をあてがって、概念によって実質を蔑ろに
してしまうようなことこそは避けられるべきであるということ。
孔子や孟子の道義論は、犯罪聖書の道義論などと比べて着実に俗っぽく、形而上への夢想を駆り立てるような
魅力にも欠けているが、それこそは世俗の理念である「義」を取り上げた論及として正統である証拠なのであり、
逆に義を語りながら超越神などを取り上げる犯罪聖書の論及姿勢こそは、そこで論じられている義もまた、
超越神の想定抜きには到底義であるなどとは見なすことができない、薄汚れた邪義である証拠なのだといえる。
「小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、利を見ざれば勧まず、威さざれば懲りず。小しく懲らして大いに誡むるは、小人の福なり」
「小人は不仁を恥じることがなく、不義を畏れることもなく、利益になると見なければ努力せず、刑罰で威しでも
しなければ懲りもしない。だから、多少の懲らしめによって大きく戒めておくことは、小人にとっての福ともなる。
(小人は義とか不義とかいったものをそもそも軽く見ている。それでも義であらざるを得ない義とは何かといえば、
その義を反故にすることで自業自得の自滅を招くような仁義に当たる。だから仁義を反故にして自業自得の自滅に陥る
よりは、多少の威圧によってでも懲戒しておくほうが小人にとっての福ともなる。真の義とは、自明に仁義なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
魅力にも欠けているが、それこそは世俗の理念である「義」を取り上げた論及として正統である証拠なのであり、
逆に義を語りながら超越神などを取り上げる犯罪聖書の論及姿勢こそは、そこで論じられている義もまた、
超越神の想定抜きには到底義であるなどとは見なすことができない、薄汚れた邪義である証拠なのだといえる。
「小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、利を見ざれば勧まず、威さざれば懲りず。小しく懲らして大いに誡むるは、小人の福なり」
「小人は不仁を恥じることがなく、不義を畏れることもなく、利益になると見なければ努力せず、刑罰で威しでも
しなければ懲りもしない。だから、多少の懲らしめによって大きく戒めておくことは、小人にとっての福ともなる。
(小人は義とか不義とかいったものをそもそも軽く見ている。それでも義であらざるを得ない義とは何かといえば、
その義を反故にすることで自業自得の自滅を招くような仁義に当たる。だから仁義を反故にして自業自得の自滅に陥る
よりは、多少の威圧によってでも懲戒しておくほうが小人にとっての福ともなる。真の義とは、自明に仁義なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
封建社会が官民や農工商階級の序列を徹底するのは、より上位のものほど何でも出来て、
より下位のものほど何も出来ないからじゃない。農夫は農夫として、工人は工人として、
商人は商人として自らの仕事に専念し、その分野にかけては他の誰にも代役がこなせない
ほどの業績を挙げるように心がける。そのためには、一部の商売人が国政や国際情勢までをも
左右するほどの権能を手に入れて、自分たちの私利私欲のために農業や必需工業や堅実な
小売業などを蔑ろにしてまで、金融業やガラクタ工業の事業ばかりを推進したりすることが
ないようにしなければならない。そのためには、悪徳商人が過剰な権益を手に入れたりすることを
取り締まる公人の側の心がけが必要になるが、そのような公人の心がけを有効化するためにこそ、
全ての民間人は公人を士大夫として自分たちの上位に置き、十分な畏敬の対象ともしなければならない。
(もちろん公人の側も、自分たちが士大夫として畏敬されるに値するだけの人徳を養う必要がある)
上位のものほど全知全能であり、下位のものほど無知無能であるなどという上下関係を
封建主義はよしとせず、上位のものほど徳性が高く、下位のものほど徳性が低い序列関係こそを
重んずる。「士農工商」という四民の序列関係も、先にあるものほど公益を守り育てるための
職業である一方、後にあるものほど私益を貪ることが主となる職業であるから、その根本的な
職能の徳性の高下に合わせて、士農工商という序列が封建社会では重んじられるのである。
より下位のものほど何も出来ないからじゃない。農夫は農夫として、工人は工人として、
商人は商人として自らの仕事に専念し、その分野にかけては他の誰にも代役がこなせない
ほどの業績を挙げるように心がける。そのためには、一部の商売人が国政や国際情勢までをも
左右するほどの権能を手に入れて、自分たちの私利私欲のために農業や必需工業や堅実な
小売業などを蔑ろにしてまで、金融業やガラクタ工業の事業ばかりを推進したりすることが
ないようにしなければならない。そのためには、悪徳商人が過剰な権益を手に入れたりすることを
取り締まる公人の側の心がけが必要になるが、そのような公人の心がけを有効化するためにこそ、
全ての民間人は公人を士大夫として自分たちの上位に置き、十分な畏敬の対象ともしなければならない。
(もちろん公人の側も、自分たちが士大夫として畏敬されるに値するだけの人徳を養う必要がある)
上位のものほど全知全能であり、下位のものほど無知無能であるなどという上下関係を
封建主義はよしとせず、上位のものほど徳性が高く、下位のものほど徳性が低い序列関係こそを
重んずる。「士農工商」という四民の序列関係も、先にあるものほど公益を守り育てるための
職業である一方、後にあるものほど私益を貪ることが主となる職業であるから、その根本的な
職能の徳性の高下に合わせて、士農工商という序列が封建社会では重んじられるのである。
上下関係をあてがうのであっても、それはあくまで、個々に特別な有能さを具備した人々が、
お互いの有能さを尊重し合いつつ生業を営んでいくための便宜とするのが封建主義なのであって、
その肝要は社会機能の健全化、人間社会の高機能化にこそある。全ての価値をカネに還元し、
カネを稼げる人間ほど偉く、稼げない人間ほど卑しいという資本主義社会のやり方では、かえって
世の中全体の機能が不全化してしまう面が多く、そのため短期間での破綻もまた免れ得ない。
それは、カネという尺度が公益よりも私益のために存在する価値基準であるからで、徳性の高下を
重んずる場合などと比べて、個人の私益がいかに貪られるかを自動的に念頭に置いてしまうものだから。
カネを最高の価値基準とすることが、個人の視点から見れば最も機能的であるかのようにも思われるが、
そのぶんだけ、カネという価値基準を念頭に置けば置くほど、個人の私益のために公益が損なわれる
こととなってしまう。だから、世の中全体がカネを全てとするのはかえって不合理なこととなり、
徳性の高下によって人間たち自身の上下関係を規定するほうが、より合理的な選択ともなる。あくまで
個々の人間の特別な有能さを最大限に引き出すためにこそ封建制も実施されるのであり、封建社会で
下位に置かれる人間だからといって、上位に置かれる人間以内の能力であっていいなどということはない。
刀鍛冶が、本職の侍にはこなせないほどの、工匠としての修練を積み重ねることでこそ、
武士の魂たる日本刀もまた精製されるのだから。
「仁に當たりては師にも譲らず」
「仁徳の心がけについては師にも譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三六より)
お互いの有能さを尊重し合いつつ生業を営んでいくための便宜とするのが封建主義なのであって、
その肝要は社会機能の健全化、人間社会の高機能化にこそある。全ての価値をカネに還元し、
カネを稼げる人間ほど偉く、稼げない人間ほど卑しいという資本主義社会のやり方では、かえって
世の中全体の機能が不全化してしまう面が多く、そのため短期間での破綻もまた免れ得ない。
それは、カネという尺度が公益よりも私益のために存在する価値基準であるからで、徳性の高下を
重んずる場合などと比べて、個人の私益がいかに貪られるかを自動的に念頭に置いてしまうものだから。
カネを最高の価値基準とすることが、個人の視点から見れば最も機能的であるかのようにも思われるが、
そのぶんだけ、カネという価値基準を念頭に置けば置くほど、個人の私益のために公益が損なわれる
こととなってしまう。だから、世の中全体がカネを全てとするのはかえって不合理なこととなり、
徳性の高下によって人間たち自身の上下関係を規定するほうが、より合理的な選択ともなる。あくまで
個々の人間の特別な有能さを最大限に引き出すためにこそ封建制も実施されるのであり、封建社会で
下位に置かれる人間だからといって、上位に置かれる人間以内の能力であっていいなどということはない。
刀鍛冶が、本職の侍にはこなせないほどの、工匠としての修練を積み重ねることでこそ、
武士の魂たる日本刀もまた精製されるのだから。
「仁に當たりては師にも譲らず」
「仁徳の心がけについては師にも譲らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三六より)
陰陽二元の和合にこそ、徳治の肝要を認める易学の観点に根ざせば、
全知全能の傍観者が最高支配者として世に君臨する為政などが最善とはならない。
この世の中の現象を的確に分析しようとする者自身が、身を挺しての実践をも共に
心がけねば徳治の最善は尽くされず、実践中には、観測もある程度は疎かになる。
年がら年中、出歯亀状態の観測行為に耽っていたりすれば、そのような傍観者を食わせて
やるためや、傍観者が観測行為によって収集した情報を記録しておくための保存媒体の確保の
ためなどに莫大なコストが嵩んでしまい、資金の補充のために下民に疲弊を強いることにもなる。
出歯亀による情報収集こそが根本に置かれるような為政は、徳治の最善が尽くされないのみならず、
観測だけしておいて、それによって収集された情報が何の役にも立てられず、世の中に不正な
観測を許容させていることによる無理が祟って、経済破綻などの破滅をも呼び込むことになる。
まさに、想定し得る限りでも最悪の部類の暴政を、出歯亀至上主義の為政が招くこととなる。
民主主義や資本主義の化けの皮をかぶった、出歯亀至上主義である今という時代が終焉して後、
大まかなところでは、封建統治を復興させることが肝になる。封建統治に移行することで世の中の
観測こそが絶対化されるような風潮は絶やされて、それぞれの人間が、それぞれの職分に応じた
生業に専念し、コストがかかり過ぎて経済破綻の原因になってしまうほどの傍観は禁じられる。
もちろん世の中の観測や記録を仕事とするものもそれなりに残されるが、それは太史令や尚書といった
正式な公職の仕事に限られることになり、正式な官職者として情報収集についても便利な立場に
置かれることが、最遠方からの出歯亀によって事物を観測する場合のようなコストの過剰も予防する。
それでもやはり司馬遷のように、皇帝への諫言が行き過ぎて宮刑を被り、最悪の屈辱の中で
何とか史書を書き上げるような、大きな苦労が伴うことにもなるだろうことが予想される。
全知全能の傍観者が最高支配者として世に君臨する為政などが最善とはならない。
この世の中の現象を的確に分析しようとする者自身が、身を挺しての実践をも共に
心がけねば徳治の最善は尽くされず、実践中には、観測もある程度は疎かになる。
年がら年中、出歯亀状態の観測行為に耽っていたりすれば、そのような傍観者を食わせて
やるためや、傍観者が観測行為によって収集した情報を記録しておくための保存媒体の確保の
ためなどに莫大なコストが嵩んでしまい、資金の補充のために下民に疲弊を強いることにもなる。
出歯亀による情報収集こそが根本に置かれるような為政は、徳治の最善が尽くされないのみならず、
観測だけしておいて、それによって収集された情報が何の役にも立てられず、世の中に不正な
観測を許容させていることによる無理が祟って、経済破綻などの破滅をも呼び込むことになる。
まさに、想定し得る限りでも最悪の部類の暴政を、出歯亀至上主義の為政が招くこととなる。
民主主義や資本主義の化けの皮をかぶった、出歯亀至上主義である今という時代が終焉して後、
大まかなところでは、封建統治を復興させることが肝になる。封建統治に移行することで世の中の
観測こそが絶対化されるような風潮は絶やされて、それぞれの人間が、それぞれの職分に応じた
生業に専念し、コストがかかり過ぎて経済破綻の原因になってしまうほどの傍観は禁じられる。
もちろん世の中の観測や記録を仕事とするものもそれなりに残されるが、それは太史令や尚書といった
正式な公職の仕事に限られることになり、正式な官職者として情報収集についても便利な立場に
置かれることが、最遠方からの出歯亀によって事物を観測する場合のようなコストの過剰も予防する。
それでもやはり司馬遷のように、皇帝への諫言が行き過ぎて宮刑を被り、最悪の屈辱の中で
何とか史書を書き上げるような、大きな苦労が伴うことにもなるだろうことが予想される。
では、その司馬遷が書き上げた中国発の正史書「史記」の内容はといえば、これこそ世の中の実相を
隈なく隅々まで見透かした未曾有の歴史書となっていて、西洋では表向きにはひた隠され続けている
縦横家や食客や政財癒着型権力犯罪の暗躍なども、如実に記録されている。私人が身勝手な都合で
あることないこと書き立てる野史などよりも、正式な史書官が天下国家の公益のために編纂した正史
のほうが、世の中の裏の裏のそのまた裏の闇の奥にまで監視の目を働かせており、出歯亀至上主義
の世の中などよりも、個々人が自らの職分においてこそ最大級の責任を果たす封建社会でこそ、
最も記録しにくい事物までをも記録し尽くした、真の万物把捉文化までもが大成されるのだといえる。
「道は須臾も離るべからざるなり、離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子は其の睹ざる所を戒め慎み、
其の聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見るるは莫く、微かなるより顕わなるは莫し。故に君子は其の独りを慎むなり」
「道は一瞬でも離れ去るべきものではない。離れ去っていいようなものはそもそも道ではない。そのため君子は
未だ見聞きできていないようなものに対しても恐れを欠かさず、常に戒慎を欠かさぬようにする。隠れているもの、
微細であるものほど露わとならずに済むものも他にないのだから、君子はその露呈に備えて、独りでも慎んでいる。
(君子は全知全能というわけではないが、あらゆる事態に備える。全知全能であった所で何の備えもない場合もある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一より)
隈なく隅々まで見透かした未曾有の歴史書となっていて、西洋では表向きにはひた隠され続けている
縦横家や食客や政財癒着型権力犯罪の暗躍なども、如実に記録されている。私人が身勝手な都合で
あることないこと書き立てる野史などよりも、正式な史書官が天下国家の公益のために編纂した正史
のほうが、世の中の裏の裏のそのまた裏の闇の奥にまで監視の目を働かせており、出歯亀至上主義
の世の中などよりも、個々人が自らの職分においてこそ最大級の責任を果たす封建社会でこそ、
最も記録しにくい事物までをも記録し尽くした、真の万物把捉文化までもが大成されるのだといえる。
「道は須臾も離るべからざるなり、離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子は其の睹ざる所を戒め慎み、
其の聞かざる所を恐懼す。隠れたるより見るるは莫く、微かなるより顕わなるは莫し。故に君子は其の独りを慎むなり」
「道は一瞬でも離れ去るべきものではない。離れ去っていいようなものはそもそも道ではない。そのため君子は
未だ見聞きできていないようなものに対しても恐れを欠かさず、常に戒慎を欠かさぬようにする。隠れているもの、
微細であるものほど露わとならずに済むものも他にないのだから、君子はその露呈に備えて、独りでも慎んでいる。
(君子は全知全能というわけではないが、あらゆる事態に備える。全知全能であった所で何の備えもない場合もある。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一より)
「知る」ということと「認める」ということは違うし、
「分かる」ということと「認める」ということも違う。
妾腹の私生児というイエスの境遇を、「神の子(キリスト)」などという言葉遊びで
不埒にも虚飾するようこともなく真っ向から知悉し、その不遇からなる劣等感にかられて
自暴自棄となり、本気で信じて実践すれば人類を滅亡させることにもなるような邪義邪見を
イエスが触れ回り、挙句に十字架にかけられて完全に死亡したという事情もよく分かる。
その上で、イエスの言行を認めない。救済に至る教条としての、イエスの言行の価値を認めない。
イエスの言行は、先天的な不遇を自主的な努力によって克服しようとすることもなく自滅に
陥った典型例であり、そこに自助努力すらもが欠けているが故に、教育的にも、そんな人間が
よりにもよって救われるなどということを認めるべきでない。認めるならむしろ、イエスと同じ
妾腹の私生児という不遇を、自学自習や自主的な先祖参りといった自助努力によって克服した
孔子こそを認めるべきなのであって、それでこそ、妾腹の私生児として生まれてしまったような
あらゆる人間に対する、真の救いに至る道の提示ともなるのである。
イエスの境遇だとか言行だとかいったものを、「神の子として生まれ、十字架にかけられて
死んでから蘇り天国に昇った」などという妄想も抜きにして、よく知悉して、よく理解する。
それでこそ、イエスの境遇はともかく、イエスの言行の価値を決して認めてはならないことが
よく認められる。ことに、イエスと同等かそれ以上*もの不遇を乗り越えて、大学者として * 孔子は妾腹の私生児である上に母子家庭で育った。
大成した孔子のような偉人が、イエスよりも500年も昔にすでに存在していたわけだから、
イエス自身もまた、不遇に駆られての自暴自棄などを正当化する余地はないのだといえる。
「人の己れを知らざるを患えず、己れの人を知らざるを患う」
「人が自分を知ってくれないことを心配したりはせず、自分が人を知らないことを心配する。
(人が自分を知ってくれないからといって自分も人を知ろうとしないとは、薄ら馬鹿の鸚鵡返しもいいとこだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——学而第一・一六より)
「分かる」ということと「認める」ということも違う。
妾腹の私生児というイエスの境遇を、「神の子(キリスト)」などという言葉遊びで
不埒にも虚飾するようこともなく真っ向から知悉し、その不遇からなる劣等感にかられて
自暴自棄となり、本気で信じて実践すれば人類を滅亡させることにもなるような邪義邪見を
イエスが触れ回り、挙句に十字架にかけられて完全に死亡したという事情もよく分かる。
その上で、イエスの言行を認めない。救済に至る教条としての、イエスの言行の価値を認めない。
イエスの言行は、先天的な不遇を自主的な努力によって克服しようとすることもなく自滅に
陥った典型例であり、そこに自助努力すらもが欠けているが故に、教育的にも、そんな人間が
よりにもよって救われるなどということを認めるべきでない。認めるならむしろ、イエスと同じ
妾腹の私生児という不遇を、自学自習や自主的な先祖参りといった自助努力によって克服した
孔子こそを認めるべきなのであって、それでこそ、妾腹の私生児として生まれてしまったような
あらゆる人間に対する、真の救いに至る道の提示ともなるのである。
イエスの境遇だとか言行だとかいったものを、「神の子として生まれ、十字架にかけられて
死んでから蘇り天国に昇った」などという妄想も抜きにして、よく知悉して、よく理解する。
それでこそ、イエスの境遇はともかく、イエスの言行の価値を決して認めてはならないことが
よく認められる。ことに、イエスと同等かそれ以上*もの不遇を乗り越えて、大学者として * 孔子は妾腹の私生児である上に母子家庭で育った。
大成した孔子のような偉人が、イエスよりも500年も昔にすでに存在していたわけだから、
イエス自身もまた、不遇に駆られての自暴自棄などを正当化する余地はないのだといえる。
「人の己れを知らざるを患えず、己れの人を知らざるを患う」
「人が自分を知ってくれないことを心配したりはせず、自分が人を知らないことを心配する。
(人が自分を知ってくれないからといって自分も人を知ろうとしないとは、薄ら馬鹿の鸚鵡返しもいいとこだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——学而第一・一六より)
妾腹の私生児に付いていったからといって、必ずしも破滅に見舞われるわけではなく、
その言行を模範とした為政に取り組んで、立派な治世を実現させることすらある。
ただ、そのような立派な模範となった妾腹の私生児はといえば、
父母への孝養こそを仁徳の根幹と見なし、十字架にもかけられかねないような
暴虎馮河の行いを未然に食い止める堅実さこそを、聖人君子たる条件として掲げた。
すなわち、孔子のことであり、同じ妾腹の私生児でありながら、イエスのとは全く
真逆の教条ばかりを是とし、その活動や行動規範も、実に健全なものであり続けた。
2000年前のイスラエルに、中国との国交があったとは到底思えないが、
当時すでに地球社会では、妾腹の私生児である孔子の興した儒学が、五経を
国学とした漢帝国の隆盛などを通じて大成功を収めており、2300年前の時点で孟子も
「孤立した臣下や妾の子は注意力が研ぎ澄まされて大成する(尽心章句上・一八)」
という論及をしているから、当時すでに世界レベルで、妾腹の子(庶子)に
期待をかける風潮があった可能性もなくはないといえる。
その言行を模範とした為政に取り組んで、立派な治世を実現させることすらある。
ただ、そのような立派な模範となった妾腹の私生児はといえば、
父母への孝養こそを仁徳の根幹と見なし、十字架にもかけられかねないような
暴虎馮河の行いを未然に食い止める堅実さこそを、聖人君子たる条件として掲げた。
すなわち、孔子のことであり、同じ妾腹の私生児でありながら、イエスのとは全く
真逆の教条ばかりを是とし、その活動や行動規範も、実に健全なものであり続けた。
2000年前のイスラエルに、中国との国交があったとは到底思えないが、
当時すでに地球社会では、妾腹の私生児である孔子の興した儒学が、五経を
国学とした漢帝国の隆盛などを通じて大成功を収めており、2300年前の時点で孟子も
「孤立した臣下や妾の子は注意力が研ぎ澄まされて大成する(尽心章句上・一八)」
という論及をしているから、当時すでに世界レベルで、妾腹の子(庶子)に
期待をかける風潮があった可能性もなくはないといえる。
しかし、注意力を研ぎ澄ませて大成する可能性がある庶子の中では、
イエスは明らかに失敗作だった。不遇の中で注意力を研ぎ澄ませるどころか、
逆に注意欠陥の障害を帯び、不遇をバネにした自助努力を心がけるどころか、
不遇からなる苦悩に駆られて自暴自棄となり、同じ庶子でありながら大成功を果たした
孔子などが最も非難する暴虎馮河の限りを尽くして、十字架にかけられて完全に死亡した。
妾腹の私生児に付いていったから破滅したのではなく、妾腹の私生児の失敗例に
特定して付いていったから、キリスト教徒も破滅に陥ったのである。その恨みや怒りを
妾腹の私生児一般に振り向けたりするのは全くのお門違いであり、そのような逆境をバネに
した自助努力すら試みなかったイエス自身や、自助努力すら必要ないとする安易な教条に
好き好んで付いていった自分たち自身を怨まなければならない。もしくは誰も怨まないか。
「君子の是の国に居るや、其の君之れを用うれば
則ち安富尊栄し、其の子弟之れに従わば、則ち孝弟忠信なり」
「君子が居留する国においては、主君がこれを用いれば世の中は平安で富も豊かとなり、
子弟がこれに従うだけでも、誰しもが父君への孝悌や忠信に励むようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・三二より)
イエスは明らかに失敗作だった。不遇の中で注意力を研ぎ澄ませるどころか、
逆に注意欠陥の障害を帯び、不遇をバネにした自助努力を心がけるどころか、
不遇からなる苦悩に駆られて自暴自棄となり、同じ庶子でありながら大成功を果たした
孔子などが最も非難する暴虎馮河の限りを尽くして、十字架にかけられて完全に死亡した。
妾腹の私生児に付いていったから破滅したのではなく、妾腹の私生児の失敗例に
特定して付いていったから、キリスト教徒も破滅に陥ったのである。その恨みや怒りを
妾腹の私生児一般に振り向けたりするのは全くのお門違いであり、そのような逆境をバネに
した自助努力すら試みなかったイエス自身や、自助努力すら必要ないとする安易な教条に
好き好んで付いていった自分たち自身を怨まなければならない。もしくは誰も怨まないか。
「君子の是の国に居るや、其の君之れを用うれば
則ち安富尊栄し、其の子弟之れに従わば、則ち孝弟忠信なり」
「君子が居留する国においては、主君がこれを用いれば世の中は平安で富も豊かとなり、
子弟がこれに従うだけでも、誰しもが父君への孝悌や忠信に励むようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・三二より)

「自分たちの罪から目を背けていられる期間」と同じ。
眼前に確たる有罪の証拠を突きつけられたとしても、刑死者すら蘇るという
完全破綻の狂信者にとっては、心の目をそこから逸らすぐらいわけもないこと。
1+1を3にも4にもできて、馬を鹿と思うことも自由自在なのが、人間の思考という
ものだから、思考がカルト的な狂信によって実相との連絡を蔑ろにしたところで、
重大犯罪者が自分たちを無罪だと思い込むことだって不可能なことではない。
ただ、まず実相との堅実な関係性を断ったウマシカ状態の思考にまみれることが、
実相に根ざした磐石な思考を堅持することと比べて、普遍的に苦痛なことであり、
そのような脳内妄想のお花畑に耽っていることが、普遍的に不幸なことだというのがある。
そして、脳内妄想によって現実上の重犯罪から目を背けて、性懲りもなく現実上の
現行逃亡犯であり続けたりしたなら、そのような犯罪現象を容認し続けている
世の中の側の無理が祟って、全世界規模での破綻を招いてしまう、結果、
自分自身の罪から目を背け続けていたようなカルト信者自身までもが、
否応なく絶体絶命の窮地に追い込まれてしまうということがある。
脳内妄想のお花畑に明け暮れているのがすでに決定的に不幸なことである上に、
最終的な結果として絶体絶命の窮地にも立たされるわけだから、自分たちの罪から目を背けて
それでよしとするようなカルト信仰には、始めから立ち入らないに越したことはないのだといえる。
「阿黨を是察し、則ち罪を掩蔽すること有る無からしむ」
「罪人の阿りによって不正に法が捻じ曲げられることを監視し、
それによって罪が隠蔽されるようなことがないように取り締まる。
(罪人が誰かに阿ったからといって、それで罪が隠蔽されたり、
減刑されたりすることからして、あってはならないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)
この地球上のインド以西の世界に、「天」に相当する真正な事物は存在しない。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界のうちで、
インド以西の世界に存在するのは地獄・餓鬼・畜生・修羅の四界のみであり、
さらにイスラエル以西の西洋社会ともなれば、地獄・餓鬼・畜生の三界しか存在しない。
それでも、西洋社会を未だ支配し続けている邪教である聖書教の教義の中に、
「天」という言葉は多数出てくる。信者がいつかは天に召されるという予言を、
それこそ本物の天界を扱っているインド以東の宗教以上にも殊更に標榜し続けている。
では、聖書教が自分たちの定義で「天」と呼んでいるものは何かといえば、それは「畜生界」のこと。
畜生のように際限なく貪り喰らい、親子兄弟の関係なく誰とでも輪姦しまくる畜生界。
それが聖書教でいうところの「天」であり、当然、真正な定義に基づいた「天界」とは、全くの別物に当たる。
イスラムの天国描写は、そういった「畜生天国」の描写として如実であり、アブラハム教が
「天」と定義するところのものがただの畜生界であることが、聖書信仰以上にもよくわきまえられている。
とはいえ、イスラムが本分とするところのものは、畜生道でもなければ餓鬼道でも地獄道でもなく、修羅道であり、
「処女と何度でもやりまくれる」云々といったイスラムの天国描写は、浄土教の悪人正機などと同じように、
天国浄土への憧憬をあまりに過剰ならしめて、信者がお花畑状態となるようなことを防止しているのだともいえる。
「天」という名辞を決定的に取り違えて、天国への昇天という理想すら、所詮は畜生類としての欲望の成就
でしかない点が、聖書信者の決定的に救えない部分であり、連中が最高とする畜生界においても仏の声が
届かないことには変わりなく、届いたところで畜生なものだから、その言葉を理解することもできない。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界のうちで、
インド以西の世界に存在するのは地獄・餓鬼・畜生・修羅の四界のみであり、
さらにイスラエル以西の西洋社会ともなれば、地獄・餓鬼・畜生の三界しか存在しない。
それでも、西洋社会を未だ支配し続けている邪教である聖書教の教義の中に、
「天」という言葉は多数出てくる。信者がいつかは天に召されるという予言を、
それこそ本物の天界を扱っているインド以東の宗教以上にも殊更に標榜し続けている。
では、聖書教が自分たちの定義で「天」と呼んでいるものは何かといえば、それは「畜生界」のこと。
畜生のように際限なく貪り喰らい、親子兄弟の関係なく誰とでも輪姦しまくる畜生界。
それが聖書教でいうところの「天」であり、当然、真正な定義に基づいた「天界」とは、全くの別物に当たる。
イスラムの天国描写は、そういった「畜生天国」の描写として如実であり、アブラハム教が
「天」と定義するところのものがただの畜生界であることが、聖書信仰以上にもよくわきまえられている。
とはいえ、イスラムが本分とするところのものは、畜生道でもなければ餓鬼道でも地獄道でもなく、修羅道であり、
「処女と何度でもやりまくれる」云々といったイスラムの天国描写は、浄土教の悪人正機などと同じように、
天国浄土への憧憬をあまりに過剰ならしめて、信者がお花畑状態となるようなことを防止しているのだともいえる。
「天」という名辞を決定的に取り違えて、天国への昇天という理想すら、所詮は畜生類としての欲望の成就
でしかない点が、聖書信者の決定的に救えない部分であり、連中が最高とする畜生界においても仏の声が
届かないことには変わりなく、届いたところで畜生なものだから、その言葉を理解することもできない。
キリスト信仰という病を脱却して心の健やかさを取り戻すためには、そもそもキリスト信仰の範疇で
理想とされていた天国からして畜生界でしかなく、未だ聖書信者が本物の天などを察したことすら
ないという事実を受け入れて、全くの不可思議なものとしての天界や人界を希求していく必要がある。
それは、善いことだとか悪いことだとかいう以前に、意味の分からないことであるに違いなく、
不本意という以上に不可解なこととなるかと思う。不可解なことを悪と見なしたり、不必要なものとして
切り捨てたりする性向が、オッカムの剃刀なども通じて聖書信者には根付いてしまっているので、
不本意なことを受け入れる以上にも、全くの不可解に当たる事物の価値を察する能力から養っていく必要がある。
「天を蓋ぞ高しと謂うや、敢え局まずんばならず。
地を蓋ぞ厚しと謂うや、敢えて蹐しせずんばならず。
維れ斯の言を號ぶ、倫有り脊有る。哀れ今の人、胡為れぞ虺蜴のごとくなる」
「天をなぜ高いなどと言えよう、背くぐまって歩くほど恐れ慎まねばならぬ。
地をなぜ厚いなどと言えよう、抜き足で歩くほど慎み深くなければならぬ。
(天地の広大さにことかけて思い上がったりしないよう心がける)この言葉こそは大倫にも道理にも
適った言葉であるというのに、哀しいかな、今の人間ときたら、まるでミミズかトカゲのようでいる。
(自分を天地と比べてミミズかトカゲのように矮小なものだと考えているから、どこまでも思い上がりを
肥大化させもする。儒学が主要な研究対象としている人道は、天道よりも一段階格下ではあるものの、天道と
同じ三善道であり、悪道で天道よりも遥かに格下である餓鬼道や畜生道よりは、天を身近なものとして捉えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
理想とされていた天国からして畜生界でしかなく、未だ聖書信者が本物の天などを察したことすら
ないという事実を受け入れて、全くの不可思議なものとしての天界や人界を希求していく必要がある。
それは、善いことだとか悪いことだとかいう以前に、意味の分からないことであるに違いなく、
不本意という以上に不可解なこととなるかと思う。不可解なことを悪と見なしたり、不必要なものとして
切り捨てたりする性向が、オッカムの剃刀なども通じて聖書信者には根付いてしまっているので、
不本意なことを受け入れる以上にも、全くの不可解に当たる事物の価値を察する能力から養っていく必要がある。
「天を蓋ぞ高しと謂うや、敢え局まずんばならず。
地を蓋ぞ厚しと謂うや、敢えて蹐しせずんばならず。
維れ斯の言を號ぶ、倫有り脊有る。哀れ今の人、胡為れぞ虺蜴のごとくなる」
「天をなぜ高いなどと言えよう、背くぐまって歩くほど恐れ慎まねばならぬ。
地をなぜ厚いなどと言えよう、抜き足で歩くほど慎み深くなければならぬ。
(天地の広大さにことかけて思い上がったりしないよう心がける)この言葉こそは大倫にも道理にも
適った言葉であるというのに、哀しいかな、今の人間ときたら、まるでミミズかトカゲのようでいる。
(自分を天地と比べてミミズかトカゲのように矮小なものだと考えているから、どこまでも思い上がりを
肥大化させもする。儒学が主要な研究対象としている人道は、天道よりも一段階格下ではあるものの、天道と
同じ三善道であり、悪道で天道よりも遥かに格下である餓鬼道や畜生道よりは、天を身近なものとして捉えている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・正月より)
まだ、儒学とかいう趣味続けてたのか
血筋上からも、儒学には一生を捧げて行くつもりでいるし、
全世界の正規教育を洋学から儒学に是正することにも、本気で取り組んでいくつもりでいる。
そのための手段が、教育者になるか将帥になるか、はたまた帝王になるのかは分からないが、
どのような立場になるのであっても、儒学の復権と復興こそは、自分にとっての一生涯の課題になることだけは間違いがない。
神道の復興は、その道の専門家に任せることになるだろうし、
仏学の復興も、自分より後代の人間に任せることになるだろうし。
全世界の正規教育を洋学から儒学に是正することにも、本気で取り組んでいくつもりでいる。
そのための手段が、教育者になるか将帥になるか、はたまた帝王になるのかは分からないが、
どのような立場になるのであっても、儒学の復権と復興こそは、自分にとっての一生涯の課題になることだけは間違いがない。
神道の復興は、その道の専門家に任せることになるだろうし、
仏学の復興も、自分より後代の人間に任せることになるだろうし。
なにをもって洋学と指すのか
その定義がよくわからん。
その定義がよくわからん。
洋学=西洋の学
濁愛に溺れて悩乱を増長させていれば、それで神の庇護下に置かれるというのなら、乱交
パーティーの参加者こそは最も神の庇護を受けていることが確実な連中だということになる。
まさに、犯罪聖書が神の国=天国とする所のものは、畜生界そのものであることが分かる。
六道中の天界が、愛を否定する領域であるなどということもなく、仏界などと比べれば
それなりに愛の価値を認めている。しかし、その愛はといえば、節度を保った家族愛だったり、
忠君愛国の精神だったりして、決してただの情愛だったりするわけではない。人界を司る儒学が
仁徳に根ざした愛や勇気を選別して貴ぶのと同じように、天界もまた愛のあり方にそれなりの
方向性を備わらせ、全くの無軌道な情愛によって乱交に及ぶようなことを避けるようにする。
要するに、天界や人界といった善道に相当する領域においては、愛や勇気すらも制御下に置く
より高尚な理念が存在するわけで、それだけではあまりにも原始的に過ぎる愛や勇気といった
情念に一定の品位を保たせる点が、餓鬼界や畜生界とは決定的に異なっている点だといえる。
ただ愛に溺れていればそれで救われる、そんなことは実際にあり得ない。
むしろ愛欲に溺れて他が見えなくなることこそは、最も典型的な破滅の原因の一つであり、
項羽のような名将ですら、愛妾の虞美人にいいところを見せようとして、隣人愛の行き過ぎた
釈遠謀近の振る舞いに終始して多数派の支持を失い、漢軍に最終的な敗北を喫したのだった。
愛や勇気のような原始的な情念に囚われすぎれば、仁愛や大勇といったより先進的な理念に
基づいて自己を制御するものに最終的に敗れてしまうということは、ある程度歴史を
俯瞰した上での経験則によって、誰にでも導き出せる程度のこと。愛すらあれば、
勇気すらあれば勝てるなどと思っているのなら、相当な不勉強家であることが明らか。
パーティーの参加者こそは最も神の庇護を受けていることが確実な連中だということになる。
まさに、犯罪聖書が神の国=天国とする所のものは、畜生界そのものであることが分かる。
六道中の天界が、愛を否定する領域であるなどということもなく、仏界などと比べれば
それなりに愛の価値を認めている。しかし、その愛はといえば、節度を保った家族愛だったり、
忠君愛国の精神だったりして、決してただの情愛だったりするわけではない。人界を司る儒学が
仁徳に根ざした愛や勇気を選別して貴ぶのと同じように、天界もまた愛のあり方にそれなりの
方向性を備わらせ、全くの無軌道な情愛によって乱交に及ぶようなことを避けるようにする。
要するに、天界や人界といった善道に相当する領域においては、愛や勇気すらも制御下に置く
より高尚な理念が存在するわけで、それだけではあまりにも原始的に過ぎる愛や勇気といった
情念に一定の品位を保たせる点が、餓鬼界や畜生界とは決定的に異なっている点だといえる。
ただ愛に溺れていればそれで救われる、そんなことは実際にあり得ない。
むしろ愛欲に溺れて他が見えなくなることこそは、最も典型的な破滅の原因の一つであり、
項羽のような名将ですら、愛妾の虞美人にいいところを見せようとして、隣人愛の行き過ぎた
釈遠謀近の振る舞いに終始して多数派の支持を失い、漢軍に最終的な敗北を喫したのだった。
愛や勇気のような原始的な情念に囚われすぎれば、仁愛や大勇といったより先進的な理念に
基づいて自己を制御するものに最終的に敗れてしまうということは、ある程度歴史を
俯瞰した上での経験則によって、誰にでも導き出せる程度のこと。愛すらあれば、
勇気すらあれば勝てるなどと思っているのなら、相当な不勉強家であることが明らか。
「小子を迪き、惟れ土物を愛さしむれば、厥の心臧し」
「年少者を吉方へと導き、大地から生ずる諸々の卑近な事物を愛せたなら、心も善良となる。
(『易経』繋辞上伝にも『土に安んじ仁に敦くす、故に能く愛す』とあり、天上に在るような
夢想的な事物よりも、土着に根ざした卑近な事物を愛することのほうが、真の愛ともなる。
愛は本来女性の本分であり、女性が愛すべきものはわが子や夫である。元より情愛は、
卑近なものに対してこそ尽くされて然るべきようにできているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
「年少者を吉方へと導き、大地から生ずる諸々の卑近な事物を愛せたなら、心も善良となる。
(『易経』繋辞上伝にも『土に安んじ仁に敦くす、故に能く愛す』とあり、天上に在るような
夢想的な事物よりも、土着に根ざした卑近な事物を愛することのほうが、真の愛ともなる。
愛は本来女性の本分であり、女性が愛すべきものはわが子や夫である。元より情愛は、
卑近なものに対してこそ尽くされて然るべきようにできているのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・酒誥より)
「他人に優しく、自分に厳しく」は良好な人間関係の基本であり、
他人にかける負荷を軽くするどころか、極力なからしめるのが理想というもの。
それでいて自分自身には最大級の努力を常に促し、なおかつ己れに如かざる者を友としない。
そのため、自分自身が自主的な努力を心がけない人間とは結局のところ、友だちになるようなこともない。
封建社会では、上記のような人間規範をより心がけるものほど社会的な上位に置かれ、
逆に自助努力を心がけないもの同士で友だちを作ろうとするようなものほど下位に置かれる。
不祥事には切腹を以って臨むほどもの、薄氷を踏む思いでの役儀に務める武士こそは最上位に置かれ、
不正な富で友達を作ってなあなあでいようとするような悪徳商人などが最下位に置かれる。
そもそも商売人こそは、他人の労役にすがって私利私欲を貪ることを生業とした職業であるから、
人並み以上の努力を心がけるということが、基本ない。いかに楽して大金を稼ぐかということが
商売人にとっての本分であり、その職業的な本質に根ざして、人並み以上の努力を心がけるような
人間をお客様にすることこそできても、友人にするようなことは到底かなわない。
他人にかける負荷を軽くするどころか、極力なからしめるのが理想というもの。
それでいて自分自身には最大級の努力を常に促し、なおかつ己れに如かざる者を友としない。
そのため、自分自身が自主的な努力を心がけない人間とは結局のところ、友だちになるようなこともない。
封建社会では、上記のような人間規範をより心がけるものほど社会的な上位に置かれ、
逆に自助努力を心がけないもの同士で友だちを作ろうとするようなものほど下位に置かれる。
不祥事には切腹を以って臨むほどもの、薄氷を踏む思いでの役儀に務める武士こそは最上位に置かれ、
不正な富で友達を作ってなあなあでいようとするような悪徳商人などが最下位に置かれる。
そもそも商売人こそは、他人の労役にすがって私利私欲を貪ることを生業とした職業であるから、
人並み以上の努力を心がけるということが、基本ない。いかに楽して大金を稼ぐかということが
商売人にとっての本分であり、その職業的な本質に根ざして、人並み以上の努力を心がけるような
人間をお客様にすることこそできても、友人にするようなことは到底かなわない。
「労役が軽いものほど主人、重いものほど奴隷」というような間違った考え方が、資本主義などの商売本位
なイデオロギーによって流布されたりもするが、そういう世の中は間違っているから、そんなにもたない。
片や、人間の努力こそを評価基準に置く封建主義を敷いた日本の武家社会では、寛元元年(西暦1243年)に、
鎌倉幕府四代執権の北条経時によって、奴隷制と児童売買とが完全に禁止されている。これは、民に奴隷
並みの労役を課すことを撤廃したというよりは、重い労役を担うものが奴隷として卑しめられることを撤廃
したのだと考えたほうがよく、実際、奴隷制廃止後の日本でも、屠殺や処刑などの、重労働ではなくても、
血肉の穢れの多いような仕事に従事するものが、被差別部落として扱われ続けていたことは知られている。
他人に重労働を担わせて自分が楽をするものほど偉いという転倒した価値観が、人と世の中とを同時にダメにする。
むしろ自分から大きな努力を心がけるものを上位に置くぐらいでこそ順当であり、大変な仕事をする者も
楽な仕事をする者もみな平等というところですら、逆差別からなる不具合が生じてしまうことになる。
だから、より大きな努力を心がける職分をより上位に置く封建制までもが、順当にすらなるのである。
「人は其の田を舍てて人の田を芸り、
人に求むる所の者重くして、自らに任ずる所以の者の軽きを病うべし」
「自らの田を捨てて他人の田の草むしりをするように、
人に任務を課すこと以上にも、自らの任務を軽んじてしまうことを反省すべきだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
なイデオロギーによって流布されたりもするが、そういう世の中は間違っているから、そんなにもたない。
片や、人間の努力こそを評価基準に置く封建主義を敷いた日本の武家社会では、寛元元年(西暦1243年)に、
鎌倉幕府四代執権の北条経時によって、奴隷制と児童売買とが完全に禁止されている。これは、民に奴隷
並みの労役を課すことを撤廃したというよりは、重い労役を担うものが奴隷として卑しめられることを撤廃
したのだと考えたほうがよく、実際、奴隷制廃止後の日本でも、屠殺や処刑などの、重労働ではなくても、
血肉の穢れの多いような仕事に従事するものが、被差別部落として扱われ続けていたことは知られている。
他人に重労働を担わせて自分が楽をするものほど偉いという転倒した価値観が、人と世の中とを同時にダメにする。
むしろ自分から大きな努力を心がけるものを上位に置くぐらいでこそ順当であり、大変な仕事をする者も
楽な仕事をする者もみな平等というところですら、逆差別からなる不具合が生じてしまうことになる。
だから、より大きな努力を心がける職分をより上位に置く封建制までもが、順当にすらなるのである。
「人は其の田を舍てて人の田を芸り、
人に求むる所の者重くして、自らに任ずる所以の者の軽きを病うべし」
「自らの田を捨てて他人の田の草むしりをするように、
人に任務を課すこと以上にも、自らの任務を軽んじてしまうことを反省すべきだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三二より)
偽りの神を信じて自らの過ちを開き直り、どこまでも罪業を積み重ね尽くして、
当然のこととして破滅に陥り、これ以上偽りの神への邪信を続ければ必ず
滅亡が免れえず、その邪信を棄てて、自分たちの罪を相応に償っていく
ことを受け入れた場合に、何とか滅亡だけは免れられるといった段階。
ただ自分たちの罪を相応に償っていくことが必要となるだけでなく、
偽りの神への邪信をも共に棄て去らねばならない。どんなに大きな罪を犯した所で、
信じていさえすれば救われるなどという邪神信仰のあるところ、必ず精神の致命的な怠惰が共にあり、
自分たち自身で罪を償っていくことへの辟易が生じ、さらには服罪を中途で投げ出すようなことにすらなりかねない。
だから、累犯障害を正当化するような邪信はきっぱり棄て去った上での服罪にも臨んでいかなければならない。
せいぜい百数十年やそこらの邪信経歴しかない、日本のキリスト教徒などが棄教するのはまだ容易いこととして、
二千年来、キリストやエホバばかりに帰依して来た西洋人が完全な棄教に臨むのは、相当に抵抗のあることかと思う。
しかし、まずキリスト教は最初期の頃から、アウグスチヌスなどがマニ教を通じて仏教や拝火教の教義を取り入れ、
自殺の禁止などの、聖書には一切記載されていない戒律を後付けであてがうことで、何とか教団が保たれてきたという
経緯があり、あまりにも蒙昧なキリスト教自体の教義だけでは、とっくの昔にキリスト教団などというものは
亡び去っていたということがある。元よりキリスト教は、それ自体だけでは自存も不能な欠陥宗教であり、
仏教などの純正な信教からの補助があって初めて、これまでも辛うじてその経営が保たれて来ただけなのである。
当然のこととして破滅に陥り、これ以上偽りの神への邪信を続ければ必ず
滅亡が免れえず、その邪信を棄てて、自分たちの罪を相応に償っていく
ことを受け入れた場合に、何とか滅亡だけは免れられるといった段階。
ただ自分たちの罪を相応に償っていくことが必要となるだけでなく、
偽りの神への邪信をも共に棄て去らねばならない。どんなに大きな罪を犯した所で、
信じていさえすれば救われるなどという邪神信仰のあるところ、必ず精神の致命的な怠惰が共にあり、
自分たち自身で罪を償っていくことへの辟易が生じ、さらには服罪を中途で投げ出すようなことにすらなりかねない。
だから、累犯障害を正当化するような邪信はきっぱり棄て去った上での服罪にも臨んでいかなければならない。
せいぜい百数十年やそこらの邪信経歴しかない、日本のキリスト教徒などが棄教するのはまだ容易いこととして、
二千年来、キリストやエホバばかりに帰依して来た西洋人が完全な棄教に臨むのは、相当に抵抗のあることかと思う。
しかし、まずキリスト教は最初期の頃から、アウグスチヌスなどがマニ教を通じて仏教や拝火教の教義を取り入れ、
自殺の禁止などの、聖書には一切記載されていない戒律を後付けであてがうことで、何とか教団が保たれてきたという
経緯があり、あまりにも蒙昧なキリスト教自体の教義だけでは、とっくの昔にキリスト教団などというものは
亡び去っていたということがある。元よりキリスト教は、それ自体だけでは自存も不能な欠陥宗教であり、
仏教などの純正な信教からの補助があって初めて、これまでも辛うじてその経営が保たれて来ただけなのである。
また、先祖代々受け継いできた慣習といえども、その慣習に致命的な問題があるのならば、
自分たち子孫でその問題を是正していくのが孝行ともなる。日本でも、古代には全身に入墨を施すなどの土人然とした
風習があったことが「魏志倭人伝」などにも記録されているが、「親からもらった身体を妄りに傷つけない(孝経)」
という儒学の教えが流布されることで、その慣習も絶えた。(「孝経」は孝謙天皇の代に勅令で頒布されてもいる)
「礼記」坊記第三十にも「君子はその親の過ちを棄てて、その義を敬す」ともあり、間違ったことを信じ込んでいたから
といってその先祖を全く見損なうのではなく、間違っているなりに信義を通そうとしていたことへの敬意は払うのである。
先祖や親が偉大だから敬う以上にも、自らが進んで孝心を育むことによって、誠実さを養うことこそが重要であるのだから。
「誠を著し偽りを去るは礼の経なり(既出)。礼楽は天地の情により、
神明の徳に達す。上下の神を降興して、精粗の体を凝是し、父子君臣の節を領す」
「自らの誠実さをよく現し、偽りを十分に去ることで礼儀となる。礼楽は天地の情勢に感応し、
ついには神明の徳にまで達する。上下交々の神をも降臨させ賜いて、万物の形態をよく整え、
君臣父子間の節義までをも正すに至る(偽りの神などを排してこそ神明の徳に達し、父子の節までもが正される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
自分たち子孫でその問題を是正していくのが孝行ともなる。日本でも、古代には全身に入墨を施すなどの土人然とした
風習があったことが「魏志倭人伝」などにも記録されているが、「親からもらった身体を妄りに傷つけない(孝経)」
という儒学の教えが流布されることで、その慣習も絶えた。(「孝経」は孝謙天皇の代に勅令で頒布されてもいる)
「礼記」坊記第三十にも「君子はその親の過ちを棄てて、その義を敬す」ともあり、間違ったことを信じ込んでいたから
といってその先祖を全く見損なうのではなく、間違っているなりに信義を通そうとしていたことへの敬意は払うのである。
先祖や親が偉大だから敬う以上にも、自らが進んで孝心を育むことによって、誠実さを養うことこそが重要であるのだから。
「誠を著し偽りを去るは礼の経なり(既出)。礼楽は天地の情により、
神明の徳に達す。上下の神を降興して、精粗の体を凝是し、父子君臣の節を領す」
「自らの誠実さをよく現し、偽りを十分に去ることで礼儀となる。礼楽は天地の情勢に感応し、
ついには神明の徳にまで達する。上下交々の神をも降臨させ賜いて、万物の形態をよく整え、
君臣父子間の節義までをも正すに至る(偽りの神などを排してこそ神明の徳に達し、父子の節までもが正される)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
「自分がこう言ったからこうだ」の絶対的な
ドグマを信じるところには、反証可能性もへったくれもない。
いくら全ての生物がいつかは死んで二度と生き返らないでいようが、自分が犯した罪は
自分で償わなければ因果律が破綻して後々により大きな禍いを招くのが普遍的であろうが、
「私があなた方の罪を負う。私は刑死しても生き返る」とほざいたノータリンの言うことを
信じてその言い分に沿おうとする以上は、実際にそうであることがあるかないかなどということとは
無関係に、ただ信じるが故にその言い分が是となり、科学的な反証にすら意義が見出されない。
では、全ての生きとし生けるものは必ず死ぬという諸行無常の真理や、犯した罪は自分で
償わなければより大きな禍いを招く因果応報などに反証可能性があるかといえば、それは事実ある。
絶対に死なない生物が存在していたり、冤罪によって実際に罪が償われたりすることがあれば、
諸行無常や因果応報も絶対真理ではないことになるから、ただの真理として
提示される諸行無常因果応報には、反証可能性があるといえる。
科学的な検証が可能なところに本物の真理や道理は存在する一方で、無理はその範囲外にある。
だから科学者ももはや、「信じるから是である」という無理カルトの狂信者を言い負かすことなどは
端から諦めている一方で、否定することが可能かもしれない範囲での論及を展開する
真理や道理の把捉者に対しては、旺盛な批判や懐疑の目を向けることができる。
ドグマを信じるところには、反証可能性もへったくれもない。
いくら全ての生物がいつかは死んで二度と生き返らないでいようが、自分が犯した罪は
自分で償わなければ因果律が破綻して後々により大きな禍いを招くのが普遍的であろうが、
「私があなた方の罪を負う。私は刑死しても生き返る」とほざいたノータリンの言うことを
信じてその言い分に沿おうとする以上は、実際にそうであることがあるかないかなどということとは
無関係に、ただ信じるが故にその言い分が是となり、科学的な反証にすら意義が見出されない。
では、全ての生きとし生けるものは必ず死ぬという諸行無常の真理や、犯した罪は自分で
償わなければより大きな禍いを招く因果応報などに反証可能性があるかといえば、それは事実ある。
絶対に死なない生物が存在していたり、冤罪によって実際に罪が償われたりすることがあれば、
諸行無常や因果応報も絶対真理ではないことになるから、ただの真理として
提示される諸行無常因果応報には、反証可能性があるといえる。
科学的な検証が可能なところに本物の真理や道理は存在する一方で、無理はその範囲外にある。
だから科学者ももはや、「信じるから是である」という無理カルトの狂信者を言い負かすことなどは
端から諦めている一方で、否定することが可能かもしれない範囲での論及を展開する
真理や道理の把捉者に対しては、旺盛な批判や懐疑の目を向けることができる。
しかし、批判や懐疑を加えることが、真理や道理の把捉者との議論に有益さを備わらせるわけでもない。
罪は自分で償わなければ決して償われないという因果応報を反証しようとすれば、検証者たち自身が
重罪人である場合に、その罪の償いがその分だけ疎かとなって、逃亡犯としての凶状が加味されるぶん、
後々にさらに甚大な禍いを招くことになる。その禍いは場合によっては人類滅亡級の代物にすらなるわけで、
因果応報や諸行無常の反証が可能だからといって、それに甘えて懐疑などの誹謗正法を加えればそれが
また禍いの種になるわけだから、やはり真理や道理に対しても信認を向けてこそ利益があるのだといえる。
あり得ないことを「信じるから是だ」といって狂信するのでもなく、
あり得ることにまでことごとく懐疑や批判の文句を加えるのでもなく、
あり得ることで確からしいことこそを信認して、信認したならではの
実践に邁進していくことこそが、有益無害な人間のあり方となる。
「有衆を以って天の罰を底す」
「多くの衆人からの信認と共に、天に任された罰を執り行う。
(刑罰は一身上の都合によって科したり科さなかったりしていいものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
罪は自分で償わなければ決して償われないという因果応報を反証しようとすれば、検証者たち自身が
重罪人である場合に、その罪の償いがその分だけ疎かとなって、逃亡犯としての凶状が加味されるぶん、
後々にさらに甚大な禍いを招くことになる。その禍いは場合によっては人類滅亡級の代物にすらなるわけで、
因果応報や諸行無常の反証が可能だからといって、それに甘えて懐疑などの誹謗正法を加えればそれが
また禍いの種になるわけだから、やはり真理や道理に対しても信認を向けてこそ利益があるのだといえる。
あり得ないことを「信じるから是だ」といって狂信するのでもなく、
あり得ることにまでことごとく懐疑や批判の文句を加えるのでもなく、
あり得ることで確からしいことこそを信認して、信認したならではの
実践に邁進していくことこそが、有益無害な人間のあり方となる。
「有衆を以って天の罰を底す」
「多くの衆人からの信認と共に、天に任された罰を執り行う。
(刑罰は一身上の都合によって科したり科さなかったりしていいものではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓上より)
わたしわたしと言いながら公義を騙る、公私混同ならぬ公私転倒の大欺瞞。
公と私はえてして相反する関係にあるもので、どちらかを重んじれば必ずもう一方が軽んじられる。
特に民間の私人として私利私益ばかりを偏重すれば、必ずそれに相応の公益損失がもたらされることとなる。
そうならないためには、自らが徳治を本分とした公人=君子となることが必要で、正式な官人としての
立場に就きながら徳治を施すことで、私益と公益とが比例的な関係にあるようにすれば、場合に
よっては自らの福徳と世間の福徳とが一致する状態、すなわち仁義が実現されることにもなる。
しかし、それはただの私人としては決して可能となることではないし、仮に公職に就いたところで、
徳治などを全く志さず、ただただ我田引水を本当の目的とした暴政ばかりに耽ったりするのなら、
やはり私益と公益の比例関係は実現せず、私益を貪るほどに公益が損なわれる自体を招くこととなる。
自らの利得の追求と、公益の扶助とが連動する仁政の実現者、権力道徳者となるためには、
自分が正式な官人となり、さらには官人としての徳治を実践していく必要があるわけで、
たとえば民間の政商として徳治を志したりしても、やはり権力道徳者としての条件は満たせない。
どんなに民間の権力者として大権を蓄えたところで、民間人である時点でその本分は私益の追求で
あり続けるものだから、部分的な慈善活動などによって総合的な我田引水を償うことなどもできない。
仮に民間の権力者でも、全財産を投げ出せばそれが相当な公益扶助になるに違いないが、その時点で
本人が権力者ではなくなってしまう。民間人を権力者たらしめるのはどこまでもその財産のみであり、
しかも民間人としての財産の富裕さは、そのぶんだけ必ず公益の損壊にも付与している。だから、
民間人としての私益の追求が、寸分たりとも公益の扶助に寄与するようなこともないのである。
「公事は私議せず」「公けのことは私事として議してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五——礼記・曲礼下第二より)
公と私はえてして相反する関係にあるもので、どちらかを重んじれば必ずもう一方が軽んじられる。
特に民間の私人として私利私益ばかりを偏重すれば、必ずそれに相応の公益損失がもたらされることとなる。
そうならないためには、自らが徳治を本分とした公人=君子となることが必要で、正式な官人としての
立場に就きながら徳治を施すことで、私益と公益とが比例的な関係にあるようにすれば、場合に
よっては自らの福徳と世間の福徳とが一致する状態、すなわち仁義が実現されることにもなる。
しかし、それはただの私人としては決して可能となることではないし、仮に公職に就いたところで、
徳治などを全く志さず、ただただ我田引水を本当の目的とした暴政ばかりに耽ったりするのなら、
やはり私益と公益の比例関係は実現せず、私益を貪るほどに公益が損なわれる自体を招くこととなる。
自らの利得の追求と、公益の扶助とが連動する仁政の実現者、権力道徳者となるためには、
自分が正式な官人となり、さらには官人としての徳治を実践していく必要があるわけで、
たとえば民間の政商として徳治を志したりしても、やはり権力道徳者としての条件は満たせない。
どんなに民間の権力者として大権を蓄えたところで、民間人である時点でその本分は私益の追求で
あり続けるものだから、部分的な慈善活動などによって総合的な我田引水を償うことなどもできない。
仮に民間の権力者でも、全財産を投げ出せばそれが相当な公益扶助になるに違いないが、その時点で
本人が権力者ではなくなってしまう。民間人を権力者たらしめるのはどこまでもその財産のみであり、
しかも民間人としての財産の富裕さは、そのぶんだけ必ず公益の損壊にも付与している。だから、
民間人としての私益の追求が、寸分たりとも公益の扶助に寄与するようなこともないのである。
「公事は私議せず」「公けのことは私事として議してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五——礼記・曲礼下第二より)
征服被征服の絶対化を平時にも強要することが、主人と奴隷の服従関係の絶対化となる。
それは平時の社会的な人間関係として最劣等のものであり、そんな人間関係
ばかりを強要する社会は、社会形態からして最低劣ということになる。
徳治社会では、君臣関係がまず、服従被服従の関係であることを徹底して防止する。
臣下だから主君に臣従はするものの、それは奴隷の主人に対するような絶対服従ではなく、
お互いの距離感を保ちつつの、節義を尽くした上下関係であることを旨とする。
その君臣関係が自動的に官民上下の関係にも落とし込まれて、上下関係だからといって
絶対服従というのではなく、官民がお互いの距離を保つことで、それぞれに独立した活動が
保障され、共産主義の場合のような、産業の国家による完全統制などの事態も来たさない。
徳治が実現する場合には必ずそうなるが、当然失敗する場合もある。失敗がひどければ
ひどいほど、犯罪聖書が理想とするような絶対的な服従関係が君臣官民の間に敷かれる
ようになり、そのあまりもの窮屈さから、秦帝国の崩壊のような大破綻をも招くこととなる。
そういうことが無いようにするために、純正な儒学にも根ざした徳治を慎重に敷いていく
ことが必要である一方、絶対に真似してはいけない反面教師としての犯罪聖書の教義の
査察も多少は役に立つことがあるかもしれない。もちろん本分は徳治の主体的な実践で
あるにしろ、権力腐敗の極みをあらかじめ体系化してくれている犯罪聖書の教義を絶対に
実践しないように務めることが、権力の防腐措置として強力な効果をも挙げられるに違いない。
それは平時の社会的な人間関係として最劣等のものであり、そんな人間関係
ばかりを強要する社会は、社会形態からして最低劣ということになる。
徳治社会では、君臣関係がまず、服従被服従の関係であることを徹底して防止する。
臣下だから主君に臣従はするものの、それは奴隷の主人に対するような絶対服従ではなく、
お互いの距離感を保ちつつの、節義を尽くした上下関係であることを旨とする。
その君臣関係が自動的に官民上下の関係にも落とし込まれて、上下関係だからといって
絶対服従というのではなく、官民がお互いの距離を保つことで、それぞれに独立した活動が
保障され、共産主義の場合のような、産業の国家による完全統制などの事態も来たさない。
徳治が実現する場合には必ずそうなるが、当然失敗する場合もある。失敗がひどければ
ひどいほど、犯罪聖書が理想とするような絶対的な服従関係が君臣官民の間に敷かれる
ようになり、そのあまりもの窮屈さから、秦帝国の崩壊のような大破綻をも招くこととなる。
そういうことが無いようにするために、純正な儒学にも根ざした徳治を慎重に敷いていく
ことが必要である一方、絶対に真似してはいけない反面教師としての犯罪聖書の教義の
査察も多少は役に立つことがあるかもしれない。もちろん本分は徳治の主体的な実践で
あるにしろ、権力腐敗の極みをあらかじめ体系化してくれている犯罪聖書の教義を絶対に
実践しないように務めることが、権力の防腐措置として強力な効果をも挙げられるに違いない。
原理的には、犯罪聖書の教義を絶対に実践せず実践させないようにしさえすれば、
権力機構というものは絶対に腐敗することがない。実践の禁止を絶対化することが可能か
どうかはともかく、犯罪聖書の実践を永久に禁止すらできたなら、そのような世の中が
破綻級の腐敗を来たすことは絶対にないのだから、これはこれで好もしいことだといえる。
唯一無二にして最低最悪の邪義であればこそ、反面教師としては最高最良の範ともなり得る。
「節たる彼の南山、維の石も巌巌たる。赫赫たる師尹、民も具さに爾じを瞻ぐ。
憂える心も惔くるが如く、敢えて戲談もせず。国も既に卒斬せんとするに、何を用て監みざる」
「大きくそびえるかの終南の山に、ごつごつとした岩石が積み重なっているかのように、
赫赫とした大師尹氏のその威厳を、万民もまた畏怖の目で仰ぎ見る。焼けた肉のように心を
憂えさせ、もはや戯笑歓談も絶えて、傾国の危機にもはや救うものもないといった有り様で」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
権力機構というものは絶対に腐敗することがない。実践の禁止を絶対化することが可能か
どうかはともかく、犯罪聖書の実践を永久に禁止すらできたなら、そのような世の中が
破綻級の腐敗を来たすことは絶対にないのだから、これはこれで好もしいことだといえる。
唯一無二にして最低最悪の邪義であればこそ、反面教師としては最高最良の範ともなり得る。
「節たる彼の南山、維の石も巌巌たる。赫赫たる師尹、民も具さに爾じを瞻ぐ。
憂える心も惔くるが如く、敢えて戲談もせず。国も既に卒斬せんとするに、何を用て監みざる」
「大きくそびえるかの終南の山に、ごつごつとした岩石が積み重なっているかのように、
赫赫とした大師尹氏のその威厳を、万民もまた畏怖の目で仰ぎ見る。焼けた肉のように心を
憂えさせ、もはや戯笑歓談も絶えて、傾国の危機にもはや救うものもないといった有り様で」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
思考・発言・行動のうちで、発言が最も実質から乖離しやすい。
行動が必ず実質からの拘束を受けるのに対し、思考は洗脳や心神喪失などの
精神異常を来たさない限りにおいて実質と連動する。そして、発言は完全に実質から
乖離することができ、善を悪といったり、悪を善といったりすることが全く可能となる。
善を悪としたり、悪を善としたりする蒙昧な言葉に引きずられて、
思考までもが妄念に耽るようになり、重度の精神障害を併発することで、
完全に実質から乖離・相反しきった転倒夢想で思考が塗り固められるようになる。そして、
転倒夢想が常態となった悪思によって、息をするようにして悪行が為されるようになる。
カルト信者の場合、
「カルト教祖の悪言の視聴→自らの思考の転倒夢想への陥り→息をするような悪行」
という順序で悪行に至るし、カルト教祖の場合も、
「既存のカルト教義の視聴→新規のカルト教義の練り込み→新規カルト教義の流布」
という順序で、邪義の流布という悪行に走る場合がほとんど。
それは、世界最悪のカルト宗教であるキリスト教を興したイエスであっても同じこと。
(イエス以前にも、キリスト教と似たような邪義を練っていた害為正法外道は多数いた)
行動が必ず実質からの拘束を受けるのに対し、思考は洗脳や心神喪失などの
精神異常を来たさない限りにおいて実質と連動する。そして、発言は完全に実質から
乖離することができ、善を悪といったり、悪を善といったりすることが全く可能となる。
善を悪としたり、悪を善としたりする蒙昧な言葉に引きずられて、
思考までもが妄念に耽るようになり、重度の精神障害を併発することで、
完全に実質から乖離・相反しきった転倒夢想で思考が塗り固められるようになる。そして、
転倒夢想が常態となった悪思によって、息をするようにして悪行が為されるようになる。
カルト信者の場合、
「カルト教祖の悪言の視聴→自らの思考の転倒夢想への陥り→息をするような悪行」
という順序で悪行に至るし、カルト教祖の場合も、
「既存のカルト教義の視聴→新規のカルト教義の練り込み→新規カルト教義の流布」
という順序で、邪義の流布という悪行に走る場合がほとんど。
それは、世界最悪のカルト宗教であるキリスト教を興したイエスであっても同じこと。
(イエス以前にも、キリスト教と似たような邪義を練っていた害為正法外道は多数いた)
悪が悪言を生むという以上に、悪言こそが害悪の元凶となる。
言葉が神や真理であるどころか、言葉こそは害悪の最も純粋な元凶となるのであり、
普遍的な神威や真理のほうはといえば、言葉によって明文化されると否とに関わらず不滅である。
むしろ、孔子や孟子の生きた春秋戦国時代のような、汚濁にまみれた乱世にこそ、
あえて普遍的な人間道徳を明文化しようとする試みまでもが為されてしまったのであり、
「大道廃れて仁義あり」どころか、「大道廃れて普遍道理を語る言葉あり」なのだといえる。
言葉が善言であるか悪言であるかでいえば、当然善言であるほうがマシだが、かといって
善言に励むことが至上なのではなく、何も言わずに善行に励むことのほうがよっぽどいい。
多少口が悪くたって、善行こそは真実であるならば、言葉面は耳に心地よくとも、
行いは悪逆非道の塊りであったりするよりも遥かによいといえる。
善か悪かで言えば、むしろ悪のほうが言葉に依存することが多いことからも、
言葉に囚われるということは、総じて下劣なことであると見なすのが適切だといえる。
「巧言令色、足恭なるは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
言葉遣いや顔色ばかりがやたらとよさげなのを左丘明は恥とした。私(孔子)もそれを恥とする。
怨みを隠してまで人と交友するのを左丘明は恥とした。私もやはりそれを恥とする。
(怨みを隠してまで人と交友すれば、内面は憎悪、外面は美辞麗句ということになる。
左丘明は『春秋左氏伝』の著者だが、創作を恥とした孔子のペンネームである可能性もある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二五より)
言葉が神や真理であるどころか、言葉こそは害悪の最も純粋な元凶となるのであり、
普遍的な神威や真理のほうはといえば、言葉によって明文化されると否とに関わらず不滅である。
むしろ、孔子や孟子の生きた春秋戦国時代のような、汚濁にまみれた乱世にこそ、
あえて普遍的な人間道徳を明文化しようとする試みまでもが為されてしまったのであり、
「大道廃れて仁義あり」どころか、「大道廃れて普遍道理を語る言葉あり」なのだといえる。
言葉が善言であるか悪言であるかでいえば、当然善言であるほうがマシだが、かといって
善言に励むことが至上なのではなく、何も言わずに善行に励むことのほうがよっぽどいい。
多少口が悪くたって、善行こそは真実であるならば、言葉面は耳に心地よくとも、
行いは悪逆非道の塊りであったりするよりも遥かによいといえる。
善か悪かで言えば、むしろ悪のほうが言葉に依存することが多いことからも、
言葉に囚われるということは、総じて下劣なことであると見なすのが適切だといえる。
「巧言令色、足恭なるは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之れを恥ず。丘も亦た之れを恥ず。
言葉遣いや顔色ばかりがやたらとよさげなのを左丘明は恥とした。私(孔子)もそれを恥とする。
怨みを隠してまで人と交友するのを左丘明は恥とした。私もやはりそれを恥とする。
(怨みを隠してまで人と交友すれば、内面は憎悪、外面は美辞麗句ということになる。
左丘明は『春秋左氏伝』の著者だが、創作を恥とした孔子のペンネームである可能性もある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・二五より)
権力犯罪は、国家や自治体が総出となって犯す罪であるために、
なかなか犯罪行為としての断罪が行き届きにくい。
司法をも掌握する権力者たち自身が犯す罪であるために、まず権力犯罪を取り締まる
法定からして疎かになる場合が多く、法規によって禁止されたところで軽罪扱いとなったり、
平気で脱法がまかり通って、法制が全く健全に機能しないといった事態を招きやすい。
今の戦時国際法を含む国際法群なども、アメリカなどのテロ国家によって平気で破られたり、
被告となった国が国際法廷に出席しなければ無効とされたりといった、有名無実なもののままである。
権力犯罪は、基本、法律によっては取り締まりきれない。
それこそ、仁徳に根ざした道徳律によってでもなければ十分には取り締まることができず、
道徳律が権力機構から放逐された世の中においては、ある程度以上に甚大な規模の権力犯罪は、
もはや誰も本気で取り締まる気すら起きないままでの、野放し状態と化してしまう。
「十人殺せば大罪人、十万人殺せば大英雄(チャップリン)」の論理がまかり通り、
かつての徳治社会のように、権力犯罪者に対しても厳酷な処罰が科されることが無くなったのを
「文明発展の証拠」とすら見なす薄ら馬鹿が一般認識ともなる。しかし、甚大な権力犯罪を
取り締まることも、取り締まる気を起こすこともできなくなっているのは、当世の人間が誰しも、
世の中の大局を見据えることもできない小人と化してしまっているからであり、権力犯罪者に厳罰が
科されることがなくなったのも、ただ小人の権力機構へののさばりが自由化されたからなだけなのであって、
重権力犯罪が野放しにされ続けていることによる世の中の荒廃は、紛れもなく致命的なものと化している。
なかなか犯罪行為としての断罪が行き届きにくい。
司法をも掌握する権力者たち自身が犯す罪であるために、まず権力犯罪を取り締まる
法定からして疎かになる場合が多く、法規によって禁止されたところで軽罪扱いとなったり、
平気で脱法がまかり通って、法制が全く健全に機能しないといった事態を招きやすい。
今の戦時国際法を含む国際法群なども、アメリカなどのテロ国家によって平気で破られたり、
被告となった国が国際法廷に出席しなければ無効とされたりといった、有名無実なもののままである。
権力犯罪は、基本、法律によっては取り締まりきれない。
それこそ、仁徳に根ざした道徳律によってでもなければ十分には取り締まることができず、
道徳律が権力機構から放逐された世の中においては、ある程度以上に甚大な規模の権力犯罪は、
もはや誰も本気で取り締まる気すら起きないままでの、野放し状態と化してしまう。
「十人殺せば大罪人、十万人殺せば大英雄(チャップリン)」の論理がまかり通り、
かつての徳治社会のように、権力犯罪者に対しても厳酷な処罰が科されることが無くなったのを
「文明発展の証拠」とすら見なす薄ら馬鹿が一般認識ともなる。しかし、甚大な権力犯罪を
取り締まることも、取り締まる気を起こすこともできなくなっているのは、当世の人間が誰しも、
世の中の大局を見据えることもできない小人と化してしまっているからであり、権力犯罪者に厳罰が
科されることがなくなったのも、ただ小人の権力機構へののさばりが自由化されたからなだけなのであって、
重権力犯罪が野放しにされ続けていることによる世の中の荒廃は、紛れもなく致命的なものと化している。
権力犯罪を取り締まるためにこそ、法律をも超えた道徳による統治が必要となる。
四書五経に書かれてあるような人間道徳の高潔さは、世俗社会に必ずしも必要なものではないかのように、
現代人からは思われがちだから、儒学道徳ほどもの高潔さで臨まないのなら、ことに、権力犯罪だけは
十分に取り締まることが絶対にできない。「法律すら守れば後は好きにしろ」などとという程度の
望みの低さでは、権力犯罪の悪逆非道までをも十分に取り締まることができない、のみならず、
法治主義からなる精神的な怠惰こそが、権力犯罪を助長して庇護する要因にすらなってしまう。
徳治社会においても、やはり法律は存在し続ける。法律家も当然、配備されなければならないと
孟子なども主張しているが、ただ、徳治社会では法律が絶対最高のものなどとは見なされず、
法律すら守れば後は野となれ山となれなどという、怠慢を決して許すことがない。
法律に全ての社会規範を還元することが、大社会での権力犯罪を助長することになるのは、
悠久の人類史が実証していることである上に、今の世情こそが最大級の証拠ともなっているのだから。
「以って王者の作る有ると為せば、将に今の諸侯を比ねて之れを誅せるか。其れ之れを教えて改めずんばしかる
後に之れを誅せるか。夫れ其の有に非ずして之れを取る者は盗なりと謂うは、類を充めて義を尽くすに至るなり」
「いま王者が仮に興ったなら、(権力犯罪で私益を収奪しまくっている)諸侯たちを一網打尽にして誅戮するだろうか。
それとも一度ぐらいは教戒して見逃してやり、それでも改めない場合に限って誅戮するだろうか。自分のものではない
のにこれを取るということが盗みとされるのは、法律によらずとも、義を尽くした至りとして扱うべき道徳律だといえる。
(大諸侯による民からの財産の収奪が、権力犯罪であるが故に一端の盗みとして扱われていなかったことを論じている。
孟子も大学者ではあっても王者ではないから、当時の現状に甘んじていたが、権力犯罪による盗みを盗みではないなどと
開き直れるのは乱世のうちだけで、王道が敷かれた治世においては、権力犯罪者も一端の盗人として扱われるようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
四書五経に書かれてあるような人間道徳の高潔さは、世俗社会に必ずしも必要なものではないかのように、
現代人からは思われがちだから、儒学道徳ほどもの高潔さで臨まないのなら、ことに、権力犯罪だけは
十分に取り締まることが絶対にできない。「法律すら守れば後は好きにしろ」などとという程度の
望みの低さでは、権力犯罪の悪逆非道までをも十分に取り締まることができない、のみならず、
法治主義からなる精神的な怠惰こそが、権力犯罪を助長して庇護する要因にすらなってしまう。
徳治社会においても、やはり法律は存在し続ける。法律家も当然、配備されなければならないと
孟子なども主張しているが、ただ、徳治社会では法律が絶対最高のものなどとは見なされず、
法律すら守れば後は野となれ山となれなどという、怠慢を決して許すことがない。
法律に全ての社会規範を還元することが、大社会での権力犯罪を助長することになるのは、
悠久の人類史が実証していることである上に、今の世情こそが最大級の証拠ともなっているのだから。
「以って王者の作る有ると為せば、将に今の諸侯を比ねて之れを誅せるか。其れ之れを教えて改めずんばしかる
後に之れを誅せるか。夫れ其の有に非ずして之れを取る者は盗なりと謂うは、類を充めて義を尽くすに至るなり」
「いま王者が仮に興ったなら、(権力犯罪で私益を収奪しまくっている)諸侯たちを一網打尽にして誅戮するだろうか。
それとも一度ぐらいは教戒して見逃してやり、それでも改めない場合に限って誅戮するだろうか。自分のものではない
のにこれを取るということが盗みとされるのは、法律によらずとも、義を尽くした至りとして扱うべき道徳律だといえる。
(大諸侯による民からの財産の収奪が、権力犯罪であるが故に一端の盗みとして扱われていなかったことを論じている。
孟子も大学者ではあっても王者ではないから、当時の現状に甘んじていたが、権力犯罪による盗みを盗みではないなどと
開き直れるのは乱世のうちだけで、王道が敷かれた治世においては、権力犯罪者も一端の盗人として扱われるようになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・四より)
別に「儒学好き」ではない。
世情に見合った恙無い存在であるように努めているだけのことだ。
「新旧約聖書信仰」全般を救いようのないものと見なしているわけで、その内にはユダヤ信仰を含む。
新旧約聖書を参考書にしても聖典にまではしない、イスラムはこの内に入らない。
世情に見合った恙無い存在であるように努めているだけのことだ。
「新旧約聖書信仰」全般を救いようのないものと見なしているわけで、その内にはユダヤ信仰を含む。
新旧約聖書を参考書にしても聖典にまではしない、イスラムはこの内に入らない。
ヒトラーはユダヤ人を世相腐敗の元凶と見なして、そのホロコーストを試みて失敗したが、
ユダヤ人自体は、自分たちだけでは世の中を営むこともできない不具民族であり、
寄生対象となっている国家や社会が亡びれば、同時に死滅する運命にある。
他民族に寄生して富を収奪する、ユダヤ人のような悪性民族の介在を許容する国家や社会のほうが
主要な問題を抱えているのであり、自分たちで国家すら営める社会性を保持している人々こそが、
自分たちの国ではユダヤ寄生などを容認しないという、断固とした姿勢である必要こそがある。
そのためには、ユダヤ人が他民族に対してユダヤ人との共存を許容させるために拵えた一般向けの
邪教である、キリスト教などを根絶していく必要があるのであり、ユダヤ教だけは禁じておいて、
ユダヤ許容教であるキリスト教のほうは禁じないというのでは、片手落ちにも程があるといえる。
まるで、キリスト教こそはユダヤ教に対する対立宗教であるかのような認識が、未だ横行しているが、
キリスト教もまたユダヤ文化であり、その信仰対象は新旧約聖書である。旧約聖書だけが信仰対象である
ユダヤ教とは姉妹のような関係にあり、姉であるユダヤ教に貢ぐことを教義化した妹格がキリスト教に当たる。
ユダヤ文化ではなくアラブ文化であり、新旧約聖書を信仰対象とはせず、新旧約とはことごとく相反する教義を
明文化したコーランを聖典とするイスラムから初めて、ユダヤともキリシタンとも袂を分かっているのだといえる。
ユダヤ人自体は、自分たちだけでは世の中を営むこともできない不具民族であり、
寄生対象となっている国家や社会が亡びれば、同時に死滅する運命にある。
他民族に寄生して富を収奪する、ユダヤ人のような悪性民族の介在を許容する国家や社会のほうが
主要な問題を抱えているのであり、自分たちで国家すら営める社会性を保持している人々こそが、
自分たちの国ではユダヤ寄生などを容認しないという、断固とした姿勢である必要こそがある。
そのためには、ユダヤ人が他民族に対してユダヤ人との共存を許容させるために拵えた一般向けの
邪教である、キリスト教などを根絶していく必要があるのであり、ユダヤ教だけは禁じておいて、
ユダヤ許容教であるキリスト教のほうは禁じないというのでは、片手落ちにも程があるといえる。
まるで、キリスト教こそはユダヤ教に対する対立宗教であるかのような認識が、未だ横行しているが、
キリスト教もまたユダヤ文化であり、その信仰対象は新旧約聖書である。旧約聖書だけが信仰対象である
ユダヤ教とは姉妹のような関係にあり、姉であるユダヤ教に貢ぐことを教義化した妹格がキリスト教に当たる。
ユダヤ文化ではなくアラブ文化であり、新旧約聖書を信仰対象とはせず、新旧約とはことごとく相反する教義を
明文化したコーランを聖典とするイスラムから初めて、ユダヤともキリシタンとも袂を分かっているのだといえる。
キリスト教を信仰することで、ユダヤに反抗したようなつもりになって、実はユダヤに囚われたままでいる。
むしろ、嫌悪の対象となって当たり前であるユダヤを嫌悪しつつ、その社会的な介在だけは認めるという
最もタチの悪い精神状態にキリスト信者は追い込まれているわけで、それこそユダヤの思う壺だといえる。
ユダヤが好きか嫌いかなどという感情とは無関係に、ユダヤの社会的介在を認めないことが第一であり、
そのためには、ユダヤを世の中から効果的に締め出す事務体系が必要となる。キリスト教にはそれがないが、
イスラム教にはそれがある。アブラハム教ではない仏教や儒学にも、結局のところ、ユダヤ的なものを
世の中から効果的に排除して行ける体系を擁している。「ユダヤ教義を守ろうが守るまいが、キリストを信仰
すれば救われる」という教義を持つキリスト教こそは、ユダヤの跋扈を推進する元凶ともなっているのであり、
キリスト教すらこの世からなくなれば、ユダヤが生き延びる余地も無くなって、完全に死に絶えることとなる。
ユダヤ滅亡後にも、引き続きキリスト教やユダヤ教を禁教扱いとしていくことで、ユダヤ災禍の再発も
防止される。人々がその労力を欠かしすらしなければ、この世からユダヤを絶やすことも実際に可能なのである。
「厥の渠魁を殲して、脅従は治むる罔れ(既出)。汚俗に旧染するも、咸な与に維れ新たなれ」
「(世を汚した者どものうちの)首領格は殺し尽くして、脅されて従った者たちだけを許せ。
蛮族の汚れた俗習に久しく染まりきっていた者たちも、全員で一緒にいちからやり直すのだ。
(誰一人として、汚俗の率先者に放逐の余地は与えない。『維新』という言葉の典拠でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)
むしろ、嫌悪の対象となって当たり前であるユダヤを嫌悪しつつ、その社会的な介在だけは認めるという
最もタチの悪い精神状態にキリスト信者は追い込まれているわけで、それこそユダヤの思う壺だといえる。
ユダヤが好きか嫌いかなどという感情とは無関係に、ユダヤの社会的介在を認めないことが第一であり、
そのためには、ユダヤを世の中から効果的に締め出す事務体系が必要となる。キリスト教にはそれがないが、
イスラム教にはそれがある。アブラハム教ではない仏教や儒学にも、結局のところ、ユダヤ的なものを
世の中から効果的に排除して行ける体系を擁している。「ユダヤ教義を守ろうが守るまいが、キリストを信仰
すれば救われる」という教義を持つキリスト教こそは、ユダヤの跋扈を推進する元凶ともなっているのであり、
キリスト教すらこの世からなくなれば、ユダヤが生き延びる余地も無くなって、完全に死に絶えることとなる。
ユダヤ滅亡後にも、引き続きキリスト教やユダヤ教を禁教扱いとしていくことで、ユダヤ災禍の再発も
防止される。人々がその労力を欠かしすらしなければ、この世からユダヤを絶やすことも実際に可能なのである。
「厥の渠魁を殲して、脅従は治むる罔れ(既出)。汚俗に旧染するも、咸な与に維れ新たなれ」
「(世を汚した者どものうちの)首領格は殺し尽くして、脅されて従った者たちだけを許せ。
蛮族の汚れた俗習に久しく染まりきっていた者たちも、全員で一緒にいちからやり直すのだ。
(誰一人として、汚俗の率先者に放逐の余地は与えない。『維新』という言葉の典拠でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)

拝火教の教典「アヴェスター」の主要部ガーサーにも、
著者のザラスシュトラが邪神アンラ・マンユを口汚く罵る場面がある。
拝火教は兵家や武士道、イスラムなどと同じ修羅道であり、
修羅道では悪口雑言が計略の一つとして認められてもいる。
確かに修羅道自体、そんなに程度の高くないものであり、
人道や天道と共に三善趣の内に入れられることが基本である一方で、
地獄道や餓鬼道や畜生道と共に四悪趣の内に入れられることすらある。
ただ、それにしたって修羅道もまた、地獄餓鬼畜生の三悪趣よりはマシな部類であり、
未だ三悪趣が方々にはびこる濁世において、世の中を人道や天道や仏道といった
善良な方面へと導くことを明確な目的として、便宜的に修羅道をたしなむのは
許容されざるを得ないことであり、修羅を極度に忌むあまり、地獄界や鬼畜界へと吹き溜まって
しまう罪が、善巧方便として悪口雑言の計を用いる罪よりも重くなってしまうこともあるのである。
家族兄弟の関係こそは先天的なものである一方、友人や師弟の関係は後天的なもの。
この先天後天の倒錯こそが天性を見失い、ことごとく天命に違う志向性をもたらす元凶となる。
だから儒家は親子の関係を重視し、子の親に対する孝心を、臣下の主君に対する忠心の
雛形ともすることで、決して天命に違うことがない君臣の義を盤石とすることをも旨とする。
仮にここに、親族兄弟よりも友人師弟の関係を重視するものがいたとして、そのような者が
主君への忠誠を誓ったとする。友人関係を重視するものだから、君臣上下の関係すら横並びの
ものと見なそうとすることになるし、師弟の関係も身分の上下に拘束されるものではないから、
臣下の分際でいながら、主君に対してすら長であるかのような態度でいようとすることになる。
この先天後天の倒錯こそが天性を見失い、ことごとく天命に違う志向性をもたらす元凶となる。
だから儒家は親子の関係を重視し、子の親に対する孝心を、臣下の主君に対する忠心の
雛形ともすることで、決して天命に違うことがない君臣の義を盤石とすることをも旨とする。
仮にここに、親族兄弟よりも友人師弟の関係を重視するものがいたとして、そのような者が
主君への忠誠を誓ったとする。友人関係を重視するものだから、君臣上下の関係すら横並びの
ものと見なそうとすることになるし、師弟の関係も身分の上下に拘束されるものではないから、
臣下の分際でいながら、主君に対してすら長であるかのような態度でいようとすることになる。
将軍家剣術指南役であり、江戸大目付でもあった柳生宗矩なども、剣術を教示するに際しては、将軍に
対してですら師として振舞ったに違いないが、大目付などの幕府重役としての役職をこなすに際しては、
あたかも父・柳生石舟斎に対するかのような将軍家への畏敬と共に、務めに励んでいたに違いないのである。
いくら個人的な技量が優れていたところで、伊藤一刀斎や宮本武蔵のような一匹狼では、君臣の義を
父子の親並みにまで緊密とすることは覚束ないから、生涯牢人でいたり、細川家の客分でいたりした。
独行道をただひたすら歩むのではなく、家族総出で武門を押し上げていったあたりが、柳生の他の剣豪
との相違点であり、父子の親に根ざして君臣の義をわきまえる素養もまた豊かであることから、
将軍家剣術指南役という、武術家としても最高の栄誉に与ることができたのだった。
友人関係はおろか、師弟関係すら、君臣関係の雛形として見なしてよいものではなく、君臣関係はやはり
父子の関係こそを雛形とすべきものだ。仮に自らの友人や師が、自らの実父よりも能力的に優れていると
したところで、やはり父子の関係のほうが先天的なものであり、友人や師弟の関係は後天的なものだから、
「君臣関係を天命に適ったものとするため」という切実な理由に即して、友人や師弟の関係ではなく、父子の
関係こそを君臣の関係にも当てはめて、忠孝共に励んでいくように君子たるものは務めていくべきなのである。
「君子、親に篤ければ、則ち民仁に興る」
「為政者が親族への待遇を手厚くすれば、民もまた仁徳の心を興す。
(為政者が親族を冷遇すれば、民もまた仁徳を損なう。徳川家康も、
親族冷遇の教義があることを主な理由として、キリシタンを廃絶した)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二より)
対してですら師として振舞ったに違いないが、大目付などの幕府重役としての役職をこなすに際しては、
あたかも父・柳生石舟斎に対するかのような将軍家への畏敬と共に、務めに励んでいたに違いないのである。
いくら個人的な技量が優れていたところで、伊藤一刀斎や宮本武蔵のような一匹狼では、君臣の義を
父子の親並みにまで緊密とすることは覚束ないから、生涯牢人でいたり、細川家の客分でいたりした。
独行道をただひたすら歩むのではなく、家族総出で武門を押し上げていったあたりが、柳生の他の剣豪
との相違点であり、父子の親に根ざして君臣の義をわきまえる素養もまた豊かであることから、
将軍家剣術指南役という、武術家としても最高の栄誉に与ることができたのだった。
友人関係はおろか、師弟関係すら、君臣関係の雛形として見なしてよいものではなく、君臣関係はやはり
父子の関係こそを雛形とすべきものだ。仮に自らの友人や師が、自らの実父よりも能力的に優れていると
したところで、やはり父子の関係のほうが先天的なものであり、友人や師弟の関係は後天的なものだから、
「君臣関係を天命に適ったものとするため」という切実な理由に即して、友人や師弟の関係ではなく、父子の
関係こそを君臣の関係にも当てはめて、忠孝共に励んでいくように君子たるものは務めていくべきなのである。
「君子、親に篤ければ、則ち民仁に興る」
「為政者が親族への待遇を手厚くすれば、民もまた仁徳の心を興す。
(為政者が親族を冷遇すれば、民もまた仁徳を損なう。徳川家康も、
親族冷遇の教義があることを主な理由として、キリシタンを廃絶した)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・二より)
世の中に最大級の災厄をもたらす度し難い邪神は、
正統な神仏や聖人君子よりも後からやって来て、先にいなくなる。
そうでなければ世の中も保ち得ないから、実際に地球人類も総合的には、
犯罪聖書の邪神を降伏できるだけの、質・量・古さ全てにおける優良さを備えた教学を用意している。
それが儒学であったり仏教であったり、神道であったりイスラムであったりする。
ヨハネが「付け足し」などとほざく、犯罪聖書の埒外にある学問宗教によってのみ、
犯罪聖書の非信仰者だけでなく、犯罪聖書の邪義に溺れている狂信者までもが救われ得る。
まことに無責任の至りであり、しかもそれでいて「犯罪聖書によってのみ救われる」などとも
ほざくのだから、犯罪聖書の著者や登場人物の悪意だけは、確かに真性のものであることが分かる。
犯罪聖書の著者や登場人物の悪意が本物なら、犯罪聖書の教義が、全人類を滅亡に陥れる邪義として
本物であることもまた、紛れもない事実である。全人類を滅亡に陥れるほどにも強毒性の害為正法外道
もまた稀有なものだから、その稀有さにこそ釣られて、西洋人たちも犯罪聖書信仰に惑溺していった。
「唯一無二にして最低最悪」の、「唯一無二」の部分だけを見て「しめた」と思い、
無軌道な好奇心と共に破滅への道程をまい進していった。
犯罪聖書信仰が単なる無道ではなく、それなりに秩序立てられた「道」であったことは事実である。
天道や仏道などとも同じ道であり、その道を歩んで行くことが「求道」になり得たのも事実である。
ただ、道ではあるにしたって、地獄道や鬼畜道であり、人間が突き進むことは禁じられるべき獣道だったから、
その道を歩み続けた結果、人としての犯罪聖書信者は破滅に陥らざるを得なくなったのである。
正統な神仏や聖人君子よりも後からやって来て、先にいなくなる。
そうでなければ世の中も保ち得ないから、実際に地球人類も総合的には、
犯罪聖書の邪神を降伏できるだけの、質・量・古さ全てにおける優良さを備えた教学を用意している。
それが儒学であったり仏教であったり、神道であったりイスラムであったりする。
ヨハネが「付け足し」などとほざく、犯罪聖書の埒外にある学問宗教によってのみ、
犯罪聖書の非信仰者だけでなく、犯罪聖書の邪義に溺れている狂信者までもが救われ得る。
まことに無責任の至りであり、しかもそれでいて「犯罪聖書によってのみ救われる」などとも
ほざくのだから、犯罪聖書の著者や登場人物の悪意だけは、確かに真性のものであることが分かる。
犯罪聖書の著者や登場人物の悪意が本物なら、犯罪聖書の教義が、全人類を滅亡に陥れる邪義として
本物であることもまた、紛れもない事実である。全人類を滅亡に陥れるほどにも強毒性の害為正法外道
もまた稀有なものだから、その稀有さにこそ釣られて、西洋人たちも犯罪聖書信仰に惑溺していった。
「唯一無二にして最低最悪」の、「唯一無二」の部分だけを見て「しめた」と思い、
無軌道な好奇心と共に破滅への道程をまい進していった。
犯罪聖書信仰が単なる無道ではなく、それなりに秩序立てられた「道」であったことは事実である。
天道や仏道などとも同じ道であり、その道を歩んで行くことが「求道」になり得たのも事実である。
ただ、道ではあるにしたって、地獄道や鬼畜道であり、人間が突き進むことは禁じられるべき獣道だったから、
その道を歩み続けた結果、人としての犯罪聖書信者は破滅に陥らざるを得なくなったのである。
ある意味、「お疲れ様」ではある。
決して円満な末路であるなどとは言えないし、それこそ人類滅亡の次ぐらいにどうしようもない
最期ではあるわけだが、檻の中やサナトリウムの中で待っているのは、それはそれで休息でもある。
罪を償っていくこれから以上にも、罪を犯し尽くすことを求道として来たこれまでこそは最大級の
苦痛と共にあったに違いなく、その苦痛に耐えることを以って「敬虔さ」にも代えてきたに違いない。
どこまでも墓穴を掘り下げる、闇の底へのまい進が、転倒夢想とも無縁なところにある本念に対して
多大なる苦痛を加えて来たからこそ、善因楽果悪因苦果の罪福異熟をも諾ってしまったに違いないのであり、
人でなしであることも所詮は演技だったから、最悪の邪義から生還することもまた可能となったのである。
その方法は決して好ましいものでないにしても、生還できただけでもありがたい事に違いない。
「古の君子は、大事(養老の礼)を挙げるや、必ず其の終始を慎む。
而るを衆安んぞ喩らざるを得んや。(兌命に)曰く、終始を念いて学に典すと」
「昔の君子は、老後の孝養の礼を尽くすことを、始め(アルファ)から終わり(オメガ)まで一貫して慎んだ。
どうして衆人などにその価値を理解することができようか。『書経』にも『終始を念頭に置いて学問に励む』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)
「危ぶむ者は平らかならしめ、易る者は傾かしめ、其の道甚だ大にして、百物廃れず。
懼れて以て終始すれば、其の要は咎无し。此こを之れ易の道と謂うなり」
「よく危ぶむ注意を欠かさぬ者を平安ならしめ、侮り注意に欠ける者を傾かせる。その道はどこまでも広大であって、
万物を廃れさせるようなことがない。終始畏れ慎んで注意していれば問題はない。これこそが易の道であるといえる。
(『そのままにしておけ』などという侮りが事物を傾かせる。一方で、そのような愚物を含む万物を易は廃れさせない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
決して円満な末路であるなどとは言えないし、それこそ人類滅亡の次ぐらいにどうしようもない
最期ではあるわけだが、檻の中やサナトリウムの中で待っているのは、それはそれで休息でもある。
罪を償っていくこれから以上にも、罪を犯し尽くすことを求道として来たこれまでこそは最大級の
苦痛と共にあったに違いなく、その苦痛に耐えることを以って「敬虔さ」にも代えてきたに違いない。
どこまでも墓穴を掘り下げる、闇の底へのまい進が、転倒夢想とも無縁なところにある本念に対して
多大なる苦痛を加えて来たからこそ、善因楽果悪因苦果の罪福異熟をも諾ってしまったに違いないのであり、
人でなしであることも所詮は演技だったから、最悪の邪義から生還することもまた可能となったのである。
その方法は決して好ましいものでないにしても、生還できただけでもありがたい事に違いない。
「古の君子は、大事(養老の礼)を挙げるや、必ず其の終始を慎む。
而るを衆安んぞ喩らざるを得んや。(兌命に)曰く、終始を念いて学に典すと」
「昔の君子は、老後の孝養の礼を尽くすことを、始め(アルファ)から終わり(オメガ)まで一貫して慎んだ。
どうして衆人などにその価値を理解することができようか。『書経』にも『終始を念頭に置いて学問に励む』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)
「危ぶむ者は平らかならしめ、易る者は傾かしめ、其の道甚だ大にして、百物廃れず。
懼れて以て終始すれば、其の要は咎无し。此こを之れ易の道と謂うなり」
「よく危ぶむ注意を欠かさぬ者を平安ならしめ、侮り注意に欠ける者を傾かせる。その道はどこまでも広大であって、
万物を廃れさせるようなことがない。終始畏れ慎んで注意していれば問題はない。これこそが易の道であるといえる。
(『そのままにしておけ』などという侮りが事物を傾かせる。一方で、そのような愚物を含む万物を易は廃れさせない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
使徒が「イエスが生きている証拠を見せられた」と言いながら、
イエスが磔刑後に蘇生したという歴史的な証拠は何もなく、
蘇生後に何らかの活動を行ったというような記録も全くない。
コーランでは、イエスはそもそも刑死すらせずに余生を全うしたとされている。
「刑死して生き返る」という夢物語を根本から廃絶しているから、
極刑級の罪を犯しても生き返られるかのような思い込みもまた排される。
イエスが刑死して二度と生き返らなかったと見なせば、累犯障害には罹患しないし、
またイエスが刑死していなかったということを信じても、累犯障害には罹患しない。
イエスが刑死して生き返ったということを信じるときにこそ、信者が累犯障害を患い、
生き返って神の国に召されたなどと信じ込めば信じ込むほど、累犯障害も深刻化する。
キリスト信仰が、累犯障害を深刻化させる一方で、イスラム信仰が、
累犯障害を深刻化させることはない根拠が、まずここにある。
ユダヤ信仰では、イエスが救世主であることを信じず、真の救世主は最後の審判の時に
初めて降臨するとされる。ただ、イエス・キリストが将来降臨する救世主の「雛形」で
あることは認めており、刑死して生き返るという新約聖書中のイエスにまつわる奇跡が、
将来降臨する救世主によってこそ、真に実現されるともしている。
そのため、ユダヤ信仰もまたキリスト信仰と同じように、「刑死して生き返る」
という物語構造への信奉によって累犯障害を深刻化させ、極刑級の重罪を
犯しながら生き続けようとする無理の強行を、信者にけしかけることとなる。
キリスト信仰とユダヤ信仰が、信者の累犯障害を深刻化させる信仰である一方で、
イスラム信仰が、信者を累犯障害に罹患させない信仰である根拠は、以上の如くである。
「仁者は難きを先にして獲るを後にす。仁と謂う可し」
「仁者は苦難を乗り越えることを優先し、利益を得ることは最後とする。それでこそ仁だといえる。
(刑死という、人間にとっての最大級の苦難にすら利得を期待するような性向が根付けば、
二度と難きを先にして獲るを後とする、仁者の心がけではいられなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・)
イエスが磔刑後に蘇生したという歴史的な証拠は何もなく、
蘇生後に何らかの活動を行ったというような記録も全くない。
コーランでは、イエスはそもそも刑死すらせずに余生を全うしたとされている。
「刑死して生き返る」という夢物語を根本から廃絶しているから、
極刑級の罪を犯しても生き返られるかのような思い込みもまた排される。
イエスが刑死して二度と生き返らなかったと見なせば、累犯障害には罹患しないし、
またイエスが刑死していなかったということを信じても、累犯障害には罹患しない。
イエスが刑死して生き返ったということを信じるときにこそ、信者が累犯障害を患い、
生き返って神の国に召されたなどと信じ込めば信じ込むほど、累犯障害も深刻化する。
キリスト信仰が、累犯障害を深刻化させる一方で、イスラム信仰が、
累犯障害を深刻化させることはない根拠が、まずここにある。
ユダヤ信仰では、イエスが救世主であることを信じず、真の救世主は最後の審判の時に
初めて降臨するとされる。ただ、イエス・キリストが将来降臨する救世主の「雛形」で
あることは認めており、刑死して生き返るという新約聖書中のイエスにまつわる奇跡が、
将来降臨する救世主によってこそ、真に実現されるともしている。
そのため、ユダヤ信仰もまたキリスト信仰と同じように、「刑死して生き返る」
という物語構造への信奉によって累犯障害を深刻化させ、極刑級の重罪を
犯しながら生き続けようとする無理の強行を、信者にけしかけることとなる。
キリスト信仰とユダヤ信仰が、信者の累犯障害を深刻化させる信仰である一方で、
イスラム信仰が、信者を累犯障害に罹患させない信仰である根拠は、以上の如くである。
「仁者は難きを先にして獲るを後にす。仁と謂う可し」
「仁者は苦難を乗り越えることを優先し、利益を得ることは最後とする。それでこそ仁だといえる。
(刑死という、人間にとっての最大級の苦難にすら利得を期待するような性向が根付けば、
二度と難きを先にして獲るを後とする、仁者の心がけではいられなくなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・)
イスラム信仰もまた、開祖のムハンマドが対キリスト教徒の戦いで数々の戦績を挙げた
軍人でもあることから、信者の戦闘意欲を活発化させるような傾向があることは確かだ。
しかし、戦闘意欲を活発化させたところで、累犯障害を深刻化させるようなことはないから、
イスラム圏では金融業で利子を付けることが厳禁されるなどして、政財界の暴走からなる
権力犯罪の深刻化なども未然に防いでいくように努められている。
キリスト教やユダヤ教と同じアブラハム教でありながら、イスラム教だけは、
信者が今の日本人ほどにも累犯障害を深刻化させていない。日本人は戦後、信教に対する
確固とした認識をWGIPなどを通じて解体され、キリスト教でも仏教でも宗教なんか何でも
いいというようないい加減さを植え付けられてしまったものだから、自然と聖書信仰の
毒性までをも受け入れてしまい、聖書信者であることを自認もしないうちから、
聖書信者並みの累犯障害を場合によっては患うようになってしまった。
まことに遺憾なことであり、これほどにも聖書信仰を否定しておきながら、
聖書信仰と同じアブラハム教であるイスラムに対しては、今の日本人の一人として優位を
主張することは憚られる。欧米と共に極度の金満状態と化してしまっている現状を是正して、
イスラム並みの金工面への潔癖さを取り戻せて初めて、ムスリムとも対等になれるのだといえる。
「滕文公問うて曰く、滕は小国なり。
力を竭くして以て大国に事うるも、則ち免るるを得ず。之れを如何せば則ち可ならん」
「滕の文公が孟子に問うた。『滕は小国なので、どんなに力を尽くして
大国に対抗しても、所詮は侵略を免れることができない。これを一体どうしたらよいだろうか』
(この後孟子は、仁義による徳治での大国への対抗を促す。イスラエルはおろか、欧米全体ですら
中国やインドや中東の潜在的な国力には及ばない。どんなに莫大な軍事力などを尽くしたところで
経済力による淘汰は免れ得ないので、侵略を防ぎとめるためには仁徳統治を心がけるしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一五より)
軍人でもあることから、信者の戦闘意欲を活発化させるような傾向があることは確かだ。
しかし、戦闘意欲を活発化させたところで、累犯障害を深刻化させるようなことはないから、
イスラム圏では金融業で利子を付けることが厳禁されるなどして、政財界の暴走からなる
権力犯罪の深刻化なども未然に防いでいくように努められている。
キリスト教やユダヤ教と同じアブラハム教でありながら、イスラム教だけは、
信者が今の日本人ほどにも累犯障害を深刻化させていない。日本人は戦後、信教に対する
確固とした認識をWGIPなどを通じて解体され、キリスト教でも仏教でも宗教なんか何でも
いいというようないい加減さを植え付けられてしまったものだから、自然と聖書信仰の
毒性までをも受け入れてしまい、聖書信者であることを自認もしないうちから、
聖書信者並みの累犯障害を場合によっては患うようになってしまった。
まことに遺憾なことであり、これほどにも聖書信仰を否定しておきながら、
聖書信仰と同じアブラハム教であるイスラムに対しては、今の日本人の一人として優位を
主張することは憚られる。欧米と共に極度の金満状態と化してしまっている現状を是正して、
イスラム並みの金工面への潔癖さを取り戻せて初めて、ムスリムとも対等になれるのだといえる。
「滕文公問うて曰く、滕は小国なり。
力を竭くして以て大国に事うるも、則ち免るるを得ず。之れを如何せば則ち可ならん」
「滕の文公が孟子に問うた。『滕は小国なので、どんなに力を尽くして
大国に対抗しても、所詮は侵略を免れることができない。これを一体どうしたらよいだろうか』
(この後孟子は、仁義による徳治での大国への対抗を促す。イスラエルはおろか、欧米全体ですら
中国やインドや中東の潜在的な国力には及ばない。どんなに莫大な軍事力などを尽くしたところで
経済力による淘汰は免れ得ないので、侵略を防ぎとめるためには仁徳統治を心がけるしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一五より)
信者を累犯障害に罹患させようとする害為正法外道の誘惑の言葉を、
立派な人間は即座に邪言と見抜いて撥ね付けるし、立派でなくても正気の人間なら、
多少その言葉を聞いてみてやった所で、実践に多大な危うさが伴うことから退けるし、
強欲な人間であっても、邪言が最終的には身を滅ぼす原因となると察した場合に退ける。
物事の分別が付かないダメな人間でいて、しかも正気を失った自暴自棄の状態でいて、
強欲さも無軌道と化して、目先の利益のために最終的な破滅の免れ得ないような話
までをも受け入れるといった状態と化してしまった人間こそが、害為正法外道の邪悪な
甘言までをも大々的に受け入れて、有害無益な累犯障害を重症化させていくことになる。
キリスト教やユダヤ教レベルの、最重度の害為正法外道を受け入れてしまっている人間というのは、
それはそれで元からただの人間ではなかったに違いない。そういったものを受け入れてしまう性向が
人間に部分的に備わっていることも確かだが、誰しもがそれにばかり陥るということは決してない。
えてして、生まれ付きが不遇だったに違いない。イエスのような妾腹の私生児とまではいかずとも、
生まれながらにして何か家庭的、心身的な問題を抱えていたに違いなく、「病人こそを救いに来た」
というイエスの甘言にもたぶらかされて、キリストへの信仰によってわが身の不遇を慰めているのだろう。
その、不遇への慰めによる開き直りこそが、本来は健全であり得る当人の精神までをも不具とならしめる。
妾腹の私生児のような卑しい境遇に生まれたことを開き直るのではなく、大きな恥として辱しみ、
逆境としての克服を志したなら、人並み以上の大成すらをも克ち得るというのに、あまつさえ、
不遇にくすぶったままでいて、くすぶりを邪信で慰めて、不遇をありのままに受け入れて開き直ったり
するのだから、せっかくの逆境を有効利用しないあたりが、あまりにも勿体ないことだといえる。
立派な人間は即座に邪言と見抜いて撥ね付けるし、立派でなくても正気の人間なら、
多少その言葉を聞いてみてやった所で、実践に多大な危うさが伴うことから退けるし、
強欲な人間であっても、邪言が最終的には身を滅ぼす原因となると察した場合に退ける。
物事の分別が付かないダメな人間でいて、しかも正気を失った自暴自棄の状態でいて、
強欲さも無軌道と化して、目先の利益のために最終的な破滅の免れ得ないような話
までをも受け入れるといった状態と化してしまった人間こそが、害為正法外道の邪悪な
甘言までをも大々的に受け入れて、有害無益な累犯障害を重症化させていくことになる。
キリスト教やユダヤ教レベルの、最重度の害為正法外道を受け入れてしまっている人間というのは、
それはそれで元からただの人間ではなかったに違いない。そういったものを受け入れてしまう性向が
人間に部分的に備わっていることも確かだが、誰しもがそれにばかり陥るということは決してない。
えてして、生まれ付きが不遇だったに違いない。イエスのような妾腹の私生児とまではいかずとも、
生まれながらにして何か家庭的、心身的な問題を抱えていたに違いなく、「病人こそを救いに来た」
というイエスの甘言にもたぶらかされて、キリストへの信仰によってわが身の不遇を慰めているのだろう。
その、不遇への慰めによる開き直りこそが、本来は健全であり得る当人の精神までをも不具とならしめる。
妾腹の私生児のような卑しい境遇に生まれたことを開き直るのではなく、大きな恥として辱しみ、
逆境としての克服を志したなら、人並み以上の大成すらをも克ち得るというのに、あまつさえ、
不遇にくすぶったままでいて、くすぶりを邪信で慰めて、不遇をありのままに受け入れて開き直ったり
するのだから、せっかくの逆境を有効利用しないあたりが、あまりにも勿体ないことだといえる。
欧米のドキュメンタリー番組などでしばしば放映される、重い障害を抱えていながら、
空元気によって前向きでいようとする子供の姿なども、決して教育上好ましいものとは言えない。
重い障害を抱えていながらも、自らの努力によって芸術家などとして成功したという所まで
いけば偽善にもならないが、ただ重度の障害児がヘラヘラと笑って空元気でいたりするのを
好き好んで放映したりするのでは、偽善となる。なんとなくいいことであるような気がしたり
したところで、そこには何も成果として称賛すべきものが見当たらないから。ただ重度の障害者でいながら
ヘラヘラ笑っているというのであれば、それは現実逃避の証拠を見せ付けているだけでしかないのだから。
重度の障害者ですらあれば、ただヘラヘラと笑っていられるだけで賞賛の対象になるとすれば、
それは障害者に対する逆差別になっているに違いなく、障害者であっても、何らかの社会的な成果を
挙げられた場合に限って賞賛するようにしてこそ、障害者を健常者とも平等に扱っていることになる。
重度の障害者であるとか、妾腹の私生児であるとかいった不遇自体は、それだけで無闇に取り沙汰したり
すべきものではなく、それだけならやはり日陰の存在であるべきだ。深刻な不遇に置かれているとしたところで、
その不遇を乗り越えて大成した場合に限って賞賛してやってこそ、不遇者としての冥利にも尽きるのだから。
「我れ、乃ち劓り殄ち之れを滅して、遺育すること無く、種を茲の新邑に易さ俾むること無けん」
「一族ごと断絶し、完全に滅ぼして後世に育て残すことも無くし、悪の種を一粒も新しい街には持ち込ませない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
空元気によって前向きでいようとする子供の姿なども、決して教育上好ましいものとは言えない。
重い障害を抱えていながらも、自らの努力によって芸術家などとして成功したという所まで
いけば偽善にもならないが、ただ重度の障害児がヘラヘラと笑って空元気でいたりするのを
好き好んで放映したりするのでは、偽善となる。なんとなくいいことであるような気がしたり
したところで、そこには何も成果として称賛すべきものが見当たらないから。ただ重度の障害者でいながら
ヘラヘラ笑っているというのであれば、それは現実逃避の証拠を見せ付けているだけでしかないのだから。
重度の障害者ですらあれば、ただヘラヘラと笑っていられるだけで賞賛の対象になるとすれば、
それは障害者に対する逆差別になっているに違いなく、障害者であっても、何らかの社会的な成果を
挙げられた場合に限って賞賛するようにしてこそ、障害者を健常者とも平等に扱っていることになる。
重度の障害者であるとか、妾腹の私生児であるとかいった不遇自体は、それだけで無闇に取り沙汰したり
すべきものではなく、それだけならやはり日陰の存在であるべきだ。深刻な不遇に置かれているとしたところで、
その不遇を乗り越えて大成した場合に限って賞賛してやってこそ、不遇者としての冥利にも尽きるのだから。
「我れ、乃ち劓り殄ち之れを滅して、遺育すること無く、種を茲の新邑に易さ俾むること無けん」
「一族ごと断絶し、完全に滅ぼして後世に育て残すことも無くし、悪の種を一粒も新しい街には持ち込ませない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚中より)
「賢を推して之を進達し、其の報を望まず(既出)」
「賢明さを推進上達しながらも、その報いすら望まない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
何事に対しても過剰な見返りを求めるのが商売人である一方で、
自らの努力が全て報われるなどとは決して期待しないのが君子である。
商売人が追い求めているのは狭隘な私益だから、他人から富を横取りすることで、
どこまでも増収していくことが見込まれるのに対し、君子が追い求めるのは天下の大利であり、
天下全土に存在する富はあくまで限られたものだから、一定以上の増益などは見込まれない。
だから、君子が天下全土の大利を、あらん限りの努力によって有効活用しようとしたところで、
とんでもなく大きな見返りがあるなどと期待できもしない。かならず努力に相応の報い以下の
見返りしか得られない。さらにいえば、君子が大利の保全を模索する天下全土のうちには、
私利私欲ばかりを貪る商売人もまた含まれているわけだから、そのような人種が我田引水の活動を
活発化させればさせるほど、君子が大利を保全しようとした努力に対する報いもまた、目減りする。
君子と商売人の利害はかくのごとく相反していて、しかも君子のほうが努力に対する報いが見込めず、
商売人のほうが楽して大金を稼ぎ上げられる可能性が高いわけだから、高潔な理想があるわけでもない
ただの愚人であるのなら、当然のこととして君子などにはならず、卑しい商売人でいようとする。
そのような愚民の性分こそを、一国の国是にすらしてしまおうとしたのが民主主義であったし、
愚民の性分に適う職業であるところの商売を、最も貴い職業にしようとしたのが資本主義でもあった。
民主主義や資本主義が国是と化してしまった国には、どこにも天下の大利を慮るような
人間がいなくなり、国家が総出を挙げて外界侵略を試みでもしない限りはやっていけなく
なるほどにも横暴な、個人個人の我田引水がまかり通るようにもなってしまった。
「賢明さを推進上達しながらも、その報いすら望まない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
何事に対しても過剰な見返りを求めるのが商売人である一方で、
自らの努力が全て報われるなどとは決して期待しないのが君子である。
商売人が追い求めているのは狭隘な私益だから、他人から富を横取りすることで、
どこまでも増収していくことが見込まれるのに対し、君子が追い求めるのは天下の大利であり、
天下全土に存在する富はあくまで限られたものだから、一定以上の増益などは見込まれない。
だから、君子が天下全土の大利を、あらん限りの努力によって有効活用しようとしたところで、
とんでもなく大きな見返りがあるなどと期待できもしない。かならず努力に相応の報い以下の
見返りしか得られない。さらにいえば、君子が大利の保全を模索する天下全土のうちには、
私利私欲ばかりを貪る商売人もまた含まれているわけだから、そのような人種が我田引水の活動を
活発化させればさせるほど、君子が大利を保全しようとした努力に対する報いもまた、目減りする。
君子と商売人の利害はかくのごとく相反していて、しかも君子のほうが努力に対する報いが見込めず、
商売人のほうが楽して大金を稼ぎ上げられる可能性が高いわけだから、高潔な理想があるわけでもない
ただの愚人であるのなら、当然のこととして君子などにはならず、卑しい商売人でいようとする。
そのような愚民の性分こそを、一国の国是にすらしてしまおうとしたのが民主主義であったし、
愚民の性分に適う職業であるところの商売を、最も貴い職業にしようとしたのが資本主義でもあった。
民主主義や資本主義が国是と化してしまった国には、どこにも天下の大利を慮るような
人間がいなくなり、国家が総出を挙げて外界侵略を試みでもしない限りはやっていけなく
なるほどにも横暴な、個人個人の我田引水がまかり通るようにもなってしまった。
すでに対イラン情勢などにおいて、「大規模な国際侵略すなわち核戦争による人類滅亡」という事態が
招かれてしまっている昨今、金融不安によって亡国の危機に晒されている資本主義国がどうにか
滅亡をまぬがれるためには、どうしたって民主主義や資本主義を国是から外すことが避けられない。
愚民や商売人こそを優遇するイデオロギーを排して、君子を優遇するイデオロギーを定立するといのなら、
民主主義を排して官主主義を定立し、資本主義を排して仁徳主義を定立すべきだということになる。
ただ、そのようなイデオロギーを新たに標榜するまでもなく、国家運営の基本を既存の儒学に頼り、
洋学や聖書信仰に頼ることを廃止するようにすればそれで済むし、むしろそのほうがよっぽど信頼も置ける。
民主主義や資本主義に慣れきっていた現代人に対し、官主主義や仁徳主義などという受け入れがたい
イデオロギーを押し付けるよりは、「儒学を復興する」「サムライの時代を復活させる」と触れ回って
やったほうがよっぽど受け入れもしやすいに違いなく、その程度の方便は全く許されものだといえる。
「獄貨は宝に非ず、惟れ辜を府むる功なり。報ゆるに庶もろの尤を以ってす」
「罪人が赦免を求めて送ってくる賄賂は宝には当たらない。むしろ罪を積み重ねる所業であるから、
その行いに報いるにしても、さらなる処罰の重度化によってでなければならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
招かれてしまっている昨今、金融不安によって亡国の危機に晒されている資本主義国がどうにか
滅亡をまぬがれるためには、どうしたって民主主義や資本主義を国是から外すことが避けられない。
愚民や商売人こそを優遇するイデオロギーを排して、君子を優遇するイデオロギーを定立するといのなら、
民主主義を排して官主主義を定立し、資本主義を排して仁徳主義を定立すべきだということになる。
ただ、そのようなイデオロギーを新たに標榜するまでもなく、国家運営の基本を既存の儒学に頼り、
洋学や聖書信仰に頼ることを廃止するようにすればそれで済むし、むしろそのほうがよっぽど信頼も置ける。
民主主義や資本主義に慣れきっていた現代人に対し、官主主義や仁徳主義などという受け入れがたい
イデオロギーを押し付けるよりは、「儒学を復興する」「サムライの時代を復活させる」と触れ回って
やったほうがよっぽど受け入れもしやすいに違いなく、その程度の方便は全く許されものだといえる。
「獄貨は宝に非ず、惟れ辜を府むる功なり。報ゆるに庶もろの尤を以ってす」
「罪人が赦免を求めて送ってくる賄賂は宝には当たらない。むしろ罪を積み重ねる所業であるから、
その行いに報いるにしても、さらなる処罰の重度化によってでなければならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・儒行第四十一より)
キリストこそは唯一無二、唯一無二にして最低最悪の邪神であり、
あらゆる害為正法外道の中でも、最も強い毒性を持つ史上空前の害為正法外道であり、
それを信じることによってこそ、そう簡単に滅亡することもない人類までもが、確実に滅亡する。
信じることによって救われないことにかけて、犯罪聖書の邪神が唯一無二である一方で、じゃあ
聖書信仰のキリスト災禍から救われるための唯一無二の手段が儒学の復興かといえば、そんなこともない。
仏教や道教や、ヒンズー教やイスラム教によっても救われ得る。むしろ儒学こそは、
キリスト災禍から救われる手段として最も簡易なものであり、儒学の実践には仏教の場合のような
厳しい出家修行もなければ、ヒンズー教の場合のような厳酷な信仰に根ざしたカーストもない、
イスラムほどにも女色を厳しく戒めたり、飲酒や豚食を厳禁したりすることも決してない。
ただ、儒学が主旨とする所のものは、仏教や道教やヒンズー教やイスラム教が是とするものを、
随分と簡略化したものであるということはいえる。仏教のように出家するわけでも、道家のように
隠遁を決め込むわけでもないが、「乱世には世を避ける」という程度の社会参画への思慮深さは
わきまえる。ヒンズー教のようにカーストを絶対化するわけではないが、士農工商の社会的な階差を、
商工権力の横暴が世を乱さなくて済む程度に強化する。イスラムのように女色や飲食を戒律で極端に
取り締まるわけではないが、夫唱婦随を男女関係の基本とし、暴飲暴食を戒める程度の節度は嗜む。
「真理は山のようなもので、頂上は一つだが、頂上に至る経路は様々である」という言葉は
仏教や道教やヒンズー教やイスラム教などの場合に言え、いずれもが相当に厳酷な側面を持ちつつ、
真理という山の頂上への経路を確保している。一方で、儒学は山の頂上までは目指しておらず、
山の裾野から平野にかけてまでの区域への安住を旨とする。やたらと頂上への登攀を志さない一方で、
真理にも道理にも違う誤謬という落とし穴に、人々が落ち込まないようにすることを目的としている。
あらゆる害為正法外道の中でも、最も強い毒性を持つ史上空前の害為正法外道であり、
それを信じることによってこそ、そう簡単に滅亡することもない人類までもが、確実に滅亡する。
信じることによって救われないことにかけて、犯罪聖書の邪神が唯一無二である一方で、じゃあ
聖書信仰のキリスト災禍から救われるための唯一無二の手段が儒学の復興かといえば、そんなこともない。
仏教や道教や、ヒンズー教やイスラム教によっても救われ得る。むしろ儒学こそは、
キリスト災禍から救われる手段として最も簡易なものであり、儒学の実践には仏教の場合のような
厳しい出家修行もなければ、ヒンズー教の場合のような厳酷な信仰に根ざしたカーストもない、
イスラムほどにも女色を厳しく戒めたり、飲酒や豚食を厳禁したりすることも決してない。
ただ、儒学が主旨とする所のものは、仏教や道教やヒンズー教やイスラム教が是とするものを、
随分と簡略化したものであるということはいえる。仏教のように出家するわけでも、道家のように
隠遁を決め込むわけでもないが、「乱世には世を避ける」という程度の社会参画への思慮深さは
わきまえる。ヒンズー教のようにカーストを絶対化するわけではないが、士農工商の社会的な階差を、
商工権力の横暴が世を乱さなくて済む程度に強化する。イスラムのように女色や飲食を戒律で極端に
取り締まるわけではないが、夫唱婦随を男女関係の基本とし、暴飲暴食を戒める程度の節度は嗜む。
「真理は山のようなもので、頂上は一つだが、頂上に至る経路は様々である」という言葉は
仏教や道教やヒンズー教やイスラム教などの場合に言え、いずれもが相当に厳酷な側面を持ちつつ、
真理という山の頂上への経路を確保している。一方で、儒学は山の頂上までは目指しておらず、
山の裾野から平野にかけてまでの区域への安住を旨とする。やたらと頂上への登攀を志さない一方で、
真理にも道理にも違う誤謬という落とし穴に、人々が落ち込まないようにすることを目的としている。
そしてその、真理にも道理にも違う、完全誤謬の落とし穴を掘り下げているのが
他でもない聖書信仰であり、犯罪聖書を信仰することは、ただ真理の山を登らないだけでなく、
道理という平野に安住することまでをも拒絶して、完全誤謬の落とし穴を自分たちであえて掘り下げて、
本来ならそうそうにはあり得ない、自分たちを含む全人類の滅亡という最悪の事態までをも招くのである。
結局のところ、人々が救われるための第一歩は、何よりも犯罪聖書への信仰を完全に破棄することであり、
聖書信仰すら破棄できたなら、後にあてがわれる生活密着型の教学が何であれ、救われることには変わりない。
「〜によってのみ救われる」という一神教に特有のドグマは、全世界的には全く通用しておらず、ただ
「聖書信仰によってだけは救われない」という事実と、「聖書信仰以外であればだいたい救われる」という
随分と大雑把な救済条件だけがある。聖書信仰のほうがどんなに救済条件を狭めた所で、世界的には全く
それは通用しておらず、ただやたらと狭い滅亡条件として、犯罪聖書の信仰のほうがあるのみである。
「〜によってでしか救われない」という、過度の了見の狭隘さこそは、
「〜によってだけは救われない」という、過度に狭隘な破滅の条件に直結していたのである。
「子路曰く、(略)政を為さば、子将に奚をか先にせん。子曰く、必ずや名を正さんか」
「子路が問うた。『もし政治を任されたとすれば、先生はまず何をなされますか』
先生は言われた。『とりあえず名を正さなければな』(名辞の乱れこそは天下の乱れの元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
他でもない聖書信仰であり、犯罪聖書を信仰することは、ただ真理の山を登らないだけでなく、
道理という平野に安住することまでをも拒絶して、完全誤謬の落とし穴を自分たちであえて掘り下げて、
本来ならそうそうにはあり得ない、自分たちを含む全人類の滅亡という最悪の事態までをも招くのである。
結局のところ、人々が救われるための第一歩は、何よりも犯罪聖書への信仰を完全に破棄することであり、
聖書信仰すら破棄できたなら、後にあてがわれる生活密着型の教学が何であれ、救われることには変わりない。
「〜によってのみ救われる」という一神教に特有のドグマは、全世界的には全く通用しておらず、ただ
「聖書信仰によってだけは救われない」という事実と、「聖書信仰以外であればだいたい救われる」という
随分と大雑把な救済条件だけがある。聖書信仰のほうがどんなに救済条件を狭めた所で、世界的には全く
それは通用しておらず、ただやたらと狭い滅亡条件として、犯罪聖書の信仰のほうがあるのみである。
「〜によってでしか救われない」という、過度の了見の狭隘さこそは、
「〜によってだけは救われない」という、過度に狭隘な破滅の条件に直結していたのである。
「子路曰く、(略)政を為さば、子将に奚をか先にせん。子曰く、必ずや名を正さんか」
「子路が問うた。『もし政治を任されたとすれば、先生はまず何をなされますか』
先生は言われた。『とりあえず名を正さなければな』(名辞の乱れこそは天下の乱れの元凶である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
「名正しからざれば則ち言順わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、
礼楽興らざれば則ち刑罰中たらず、刑罰中たらざれば則ち民手足を措く所なし」
「名辞が正しくなければ話も通じず、話が通じないから物事を計画だてることもできず、
物事を計画だてられないから、計画を礼楽によって潤色することもできず、
計画を礼楽によって潤色することもできないから、刑罰を公正に執り行うこともできず、
刑罰を公正に執り行うこともできないから、民たちも手足を措く所も無いほどに怯えたままでいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
十字架にかけられた妾腹の私生児イエスを見て、自らの罪が償われたなどと思い込む、
いわゆるキリスト教が「救いの宗教」であるという、根本から誤った名辞がまかり通っているとする。
すると、「イエス・キリストこそは邪悪の化身であり、人類を滅亡に陥れる最悪の害為正法外道である」
という、正しい名辞への認識が世の中で通用しなくなる。すると、上記のような正しい認識に根ざした
議論が誰ともできなくなり、正しい認識に根ざした議論によって、人類をキリスト災禍による滅亡
から救いあげるための計画ごとを立てられもしないままでいる。キリスト災禍による滅亡から人類を
救い上げるための計画すら立てられないのだから、計画を礼楽によって潤色することも当然適わない。
キリストによって滅亡の危機に陥れられている人類を救済する計画を立てることもできなければ、
計画の実行を礼楽によって潤色することもできないから、冤罪正当化の化身でもあるキリストが是と
されたままの世の中において、冤罪に対する刑罰などの、不当な処罰も相変わらず横行したままでいて、
キリストを元凶とした滅亡の危機がろくに打開されることも試みられないままでいることにより、
民たちもまた手足の置き所もないといったようなままで、途方に暮れているしかない。
礼楽興らざれば則ち刑罰中たらず、刑罰中たらざれば則ち民手足を措く所なし」
「名辞が正しくなければ話も通じず、話が通じないから物事を計画だてることもできず、
物事を計画だてられないから、計画を礼楽によって潤色することもできず、
計画を礼楽によって潤色することもできないから、刑罰を公正に執り行うこともできず、
刑罰を公正に執り行うこともできないから、民たちも手足を措く所も無いほどに怯えたままでいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・三より)
十字架にかけられた妾腹の私生児イエスを見て、自らの罪が償われたなどと思い込む、
いわゆるキリスト教が「救いの宗教」であるという、根本から誤った名辞がまかり通っているとする。
すると、「イエス・キリストこそは邪悪の化身であり、人類を滅亡に陥れる最悪の害為正法外道である」
という、正しい名辞への認識が世の中で通用しなくなる。すると、上記のような正しい認識に根ざした
議論が誰ともできなくなり、正しい認識に根ざした議論によって、人類をキリスト災禍による滅亡
から救いあげるための計画ごとを立てられもしないままでいる。キリスト災禍による滅亡から人類を
救い上げるための計画すら立てられないのだから、計画を礼楽によって潤色することも当然適わない。
キリストによって滅亡の危機に陥れられている人類を救済する計画を立てることもできなければ、
計画の実行を礼楽によって潤色することもできないから、冤罪正当化の化身でもあるキリストが是と
されたままの世の中において、冤罪に対する刑罰などの、不当な処罰も相変わらず横行したままでいて、
キリストを元凶とした滅亡の危機がろくに打開されることも試みられないままでいることにより、
民たちもまた手足の置き所もないといったようなままで、途方に暮れているしかない。
一番最初の、「名辞が正されないから話も通じない」という所で、すでにつまずいてしまっている。
「キリストこそは救世主である」という間違った名辞が、「キリストこそは人類を滅亡に陥れる邪悪の化身である」
という正しい名辞に正されないことには、今まさに引き起こされつつある、キリスト災禍による人類の滅亡を
いかにして食い止めるべきかという議論を、複数の人間の間で執り行うことすら一切できないままでい続ける。
「キリストこそは救世主である」という間違った名辞が、「キリストこそは人類を滅亡に陥れる邪悪の化身である」
という正しい名辞に正されないことには、今まさに引き起こされつつある、キリスト災禍による人類の滅亡を
いかにして食い止めるべきかという議論を、複数の人間の間で執り行うことすら一切できないままでい続ける。
人が、他人に仕える上で心がけようとする信条には、
大別して「忠」と「佞(ねい)」の、二種類がある
忠こそは、君子が人に仕える場合に心がける信条である一方、
佞こそは、小人が人に仕える場合に心がける信条にあたる。
忠のあり方は、子の親に対する孝心に近似する一方、
佞のあり方は、娼婦の客に対する媚びに近似する。
老衰した親の足を子が洗ってやるというのなら、介護にもなり、別に媚びにも当たらない。
実際に「礼記」内則第十二でも、孝行の例としての父母舅姑に対する洗足が挙げられているが、
顧客とあらば誰彼構わず足を洗ってやるというのでは、これは娼婦も同然の所業だといえる。
信徒になってくれた相手に対する奉仕として、イエスがその足を洗って
やっていたのなども、娼婦も同然の所業であり、おそらく母親のマリアが
娼婦として客の足を洗ってやっていたのを真似たのだろう。
忠信を旨とする、君子たる配下は上司にとっても信用が置ける一方で、
佞を信条とする、小人然とした配下は上司にとっても信用が置けない。
殷の紂王に仕えた佞臣である費仲や尤渾、始皇帝や胡亥の腹心として横暴を働いた宦官趙高など、
主君たる紂王や始皇帝らに対しては、それはそれは媚びにまみれた阿りによって奉仕を尽くした一方で、
自分たち以外の臣下や部下に対しては鬼畜のような仕打ちを繰り返し、殷や秦の国勢をも衰退させ、亡国に
際しては紂王を自決させたり、二世皇帝胡亥を身内に殺害させたりといった、大逆の所業にも及んでいる。
媚びによって、かえって我れと我が国とを滅ぼす元凶となる佞臣などよりは、
太公望や諸葛亮のように、仕官するまでは素っ気無くても、仕官したからには私情を
排した勤めに徹する忠臣のほうが、明らかに明君にとっては好ましい存在に当たる。
大別して「忠」と「佞(ねい)」の、二種類がある
忠こそは、君子が人に仕える場合に心がける信条である一方、
佞こそは、小人が人に仕える場合に心がける信条にあたる。
忠のあり方は、子の親に対する孝心に近似する一方、
佞のあり方は、娼婦の客に対する媚びに近似する。
老衰した親の足を子が洗ってやるというのなら、介護にもなり、別に媚びにも当たらない。
実際に「礼記」内則第十二でも、孝行の例としての父母舅姑に対する洗足が挙げられているが、
顧客とあらば誰彼構わず足を洗ってやるというのでは、これは娼婦も同然の所業だといえる。
信徒になってくれた相手に対する奉仕として、イエスがその足を洗って
やっていたのなども、娼婦も同然の所業であり、おそらく母親のマリアが
娼婦として客の足を洗ってやっていたのを真似たのだろう。
忠信を旨とする、君子たる配下は上司にとっても信用が置ける一方で、
佞を信条とする、小人然とした配下は上司にとっても信用が置けない。
殷の紂王に仕えた佞臣である費仲や尤渾、始皇帝や胡亥の腹心として横暴を働いた宦官趙高など、
主君たる紂王や始皇帝らに対しては、それはそれは媚びにまみれた阿りによって奉仕を尽くした一方で、
自分たち以外の臣下や部下に対しては鬼畜のような仕打ちを繰り返し、殷や秦の国勢をも衰退させ、亡国に
際しては紂王を自決させたり、二世皇帝胡亥を身内に殺害させたりといった、大逆の所業にも及んでいる。
媚びによって、かえって我れと我が国とを滅ぼす元凶となる佞臣などよりは、
太公望や諸葛亮のように、仕官するまでは素っ気無くても、仕官したからには私情を
排した勤めに徹する忠臣のほうが、明らかに明君にとっては好ましい存在に当たる。
佞臣は、たとえそれなりに忠義も尽くそうとしたところで、
佞とのみそくそが祟った挙句に、やはり衰亡を招く。
寒い冬場に、信長の草履を懐で温めて差し出すことで信長を喜ばせた秀吉も、
佞と忠の両刀遣いとでもいった姿勢によって天下一の座にまで上り詰めたそのあり方が、
忠信こそを本旨とする本格の武家からは忌み嫌われて、そのような武家を多数徳川方に流出させてしまった一方、
秀吉から頂いた饅頭をわざわざ家中に持ち帰って、臣下に分け与えることで秀吉を喜ばせた長宗我部元親のような、
まるで秀吉の阿りをそのまま生き写しにしたかのような佞臣を、豊臣方の配下に多く蔓延らせる原因ともなった。
結果、秀吉自身までは栄華の下で人生を終えたものの、その子の秀頼は、豊臣方に多数群がっていた
佞臣や愚臣を一手に引き受けさせられることになり、徳川家康の孫であり、秀忠の娘である千姫を正室とする
自らの心情とも無関係に、部下たちが勝手に徳川との対立を推し進めた挙句、多勢に無勢な上に、忠臣に佞臣という
絶体絶命の窮地へと大坂の陣で追い込まれ、最期には母淀殿と共に、自決させられることとなったのだった。
忠臣は、害がない上に益がある一方で、佞臣は、益がない上に害がある。佞臣として仕官を心がけるぐらいなら、
むしろ仕官などしないほうがマシであり、そのほうがよっぽど、世の中や主君となる者の側にとっても助かる。
仕官に際して心がける信条が、完全に佞ではなく忠である場合に限って、仕官をも志すべきだといえる。
「古えの人、未だ嘗て仕うること欲せざることあらざるも、
又た其の道に由らざるを悪む。其の道に由らずして往く者は、穴隙を鑽つ与きの類いなり」
「古来、君子でありながら人に仕えることを欲しなかった者は一人もいないが、ただその
仕え方が道義に則っていないことを憎み嫌った。道義にも則らずにただ人に仕えるのでは、
仕切りとなっている壁に穴を穿つも同然の所業となるから、むしろすべきでない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・三より)
佞とのみそくそが祟った挙句に、やはり衰亡を招く。
寒い冬場に、信長の草履を懐で温めて差し出すことで信長を喜ばせた秀吉も、
佞と忠の両刀遣いとでもいった姿勢によって天下一の座にまで上り詰めたそのあり方が、
忠信こそを本旨とする本格の武家からは忌み嫌われて、そのような武家を多数徳川方に流出させてしまった一方、
秀吉から頂いた饅頭をわざわざ家中に持ち帰って、臣下に分け与えることで秀吉を喜ばせた長宗我部元親のような、
まるで秀吉の阿りをそのまま生き写しにしたかのような佞臣を、豊臣方の配下に多く蔓延らせる原因ともなった。
結果、秀吉自身までは栄華の下で人生を終えたものの、その子の秀頼は、豊臣方に多数群がっていた
佞臣や愚臣を一手に引き受けさせられることになり、徳川家康の孫であり、秀忠の娘である千姫を正室とする
自らの心情とも無関係に、部下たちが勝手に徳川との対立を推し進めた挙句、多勢に無勢な上に、忠臣に佞臣という
絶体絶命の窮地へと大坂の陣で追い込まれ、最期には母淀殿と共に、自決させられることとなったのだった。
忠臣は、害がない上に益がある一方で、佞臣は、益がない上に害がある。佞臣として仕官を心がけるぐらいなら、
むしろ仕官などしないほうがマシであり、そのほうがよっぽど、世の中や主君となる者の側にとっても助かる。
仕官に際して心がける信条が、完全に佞ではなく忠である場合に限って、仕官をも志すべきだといえる。
「古えの人、未だ嘗て仕うること欲せざることあらざるも、
又た其の道に由らざるを悪む。其の道に由らずして往く者は、穴隙を鑽つ与きの類いなり」
「古来、君子でありながら人に仕えることを欲しなかった者は一人もいないが、ただその
仕え方が道義に則っていないことを憎み嫌った。道義にも則らずにただ人に仕えるのでは、
仕切りとなっている壁に穴を穿つも同然の所業となるから、むしろすべきでない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句下・三より)
仕切りの壁に穴を穿って、片目で覗き込むような輩には、
確かに人に仕えるような資格はない。
「片目(眇)でものを覗き込むのは、家中で貞節を守る主婦には相応しい」と「易経」帰妹・九二-象伝にある一方で、
「それはものがよく見えていることには当たらない」と、同じく「易経」履・六三-象伝にもある。
「君子は〜視るには明を思う(論語・季氏第十六・一〇)」ともあるから、壁に穴を穿って
片目で覗き込むことを信条とするような人間には、全く以て人に仕える資格がないのだといえる。
そうであることが自明に、仕える資格を殺いでいるのである。
確かに人に仕えるような資格はない。
「片目(眇)でものを覗き込むのは、家中で貞節を守る主婦には相応しい」と「易経」帰妹・九二-象伝にある一方で、
「それはものがよく見えていることには当たらない」と、同じく「易経」履・六三-象伝にもある。
「君子は〜視るには明を思う(論語・季氏第十六・一〇)」ともあるから、壁に穴を穿って
片目で覗き込むことを信条とするような人間には、全く以て人に仕える資格がないのだといえる。
そうであることが自明に、仕える資格を殺いでいるのである。
忠と佞の違いは結局のところ、本人自身の孝心の有無に尽きている。
上>>194では、佞人の心境を「娼婦に近似するもの」と喩えたが、別に娼婦に
これといった信条があるわけでもなく、ただ金を稼ぐことに形振り構わないでいるのみ。
女や人としての最低限の節度すらかなぐり捨てて、ただ欲求の赴くままでいるのみ。
そのような、なりふり構わぬ奉仕と違って、忠臣には、これと決めた相手に対してのみ奉仕を
心がける節度がある。その節度が結局、自らの親への特定的な孝心を原器とするわけだから、結局、
忠臣には守るべきものがある一方で、佞人には守るべきものもないというのが、両者の違いだといえる。
「全てをかなぐり捨てる」というとなんとなく聞こえもよく、実際に武術における極意でもあったりする。
柳生宗矩も「兵法家伝書」で、娼婦ほどにも全てを捨て去ることを極意の一つとして取り上げているが、
やはりそれは修羅道たる武道や兵法において是とされるものであり、守るべき家もあれば
節度もある人道や天道においてまで、普遍的に通用するものであるなどとは言えない。
(実際に柳生家も将軍家御用達の兵家として、長らくその地位を保ち続けた)
忠義に即して勤めに励む士大夫もまた、仕事場において全てを捨ててかかるほどもの心意気で
臨む必要は多々ある。それでこそ作業が成就して、家を盛り立てる成果とすらなり得るわけだから、
守るべきものを守るための捨身というのは、人道や天道においてですら要求されるものだといえる。
しかし、ただ何もかもを捨て去って獣道を突っ走るとなれば、もはや人道や天道には当たらず、
捨身でいながら強欲さにだけはまみれているとなれば、それこそ餓鬼畜生の類いとなる。
欲望すら完全に捨て去って出家修行に励むというのならともかく、なりふり構わぬ捨て身でいて、
その捨て身を強欲の貪りのために転化するとなれば、その時にこそ、人は餓鬼畜生と化す。
そこが餓鬼畜生の、常人とも天人とも出家者とも、決定的に異なる部分であり、
「強欲のための捨て身」だけは捨てられていないが故に、最低劣の悪道と見なされる。
上>>194では、佞人の心境を「娼婦に近似するもの」と喩えたが、別に娼婦に
これといった信条があるわけでもなく、ただ金を稼ぐことに形振り構わないでいるのみ。
女や人としての最低限の節度すらかなぐり捨てて、ただ欲求の赴くままでいるのみ。
そのような、なりふり構わぬ奉仕と違って、忠臣には、これと決めた相手に対してのみ奉仕を
心がける節度がある。その節度が結局、自らの親への特定的な孝心を原器とするわけだから、結局、
忠臣には守るべきものがある一方で、佞人には守るべきものもないというのが、両者の違いだといえる。
「全てをかなぐり捨てる」というとなんとなく聞こえもよく、実際に武術における極意でもあったりする。
柳生宗矩も「兵法家伝書」で、娼婦ほどにも全てを捨て去ることを極意の一つとして取り上げているが、
やはりそれは修羅道たる武道や兵法において是とされるものであり、守るべき家もあれば
節度もある人道や天道においてまで、普遍的に通用するものであるなどとは言えない。
(実際に柳生家も将軍家御用達の兵家として、長らくその地位を保ち続けた)
忠義に即して勤めに励む士大夫もまた、仕事場において全てを捨ててかかるほどもの心意気で
臨む必要は多々ある。それでこそ作業が成就して、家を盛り立てる成果とすらなり得るわけだから、
守るべきものを守るための捨身というのは、人道や天道においてですら要求されるものだといえる。
しかし、ただ何もかもを捨て去って獣道を突っ走るとなれば、もはや人道や天道には当たらず、
捨身でいながら強欲さにだけはまみれているとなれば、それこそ餓鬼畜生の類いとなる。
欲望すら完全に捨て去って出家修行に励むというのならともかく、なりふり構わぬ捨て身でいて、
その捨て身を強欲の貪りのために転化するとなれば、その時にこそ、人は餓鬼畜生と化す。
そこが餓鬼畜生の、常人とも天人とも出家者とも、決定的に異なる部分であり、
「強欲のための捨て身」だけは捨てられていないが故に、最低劣の悪道と見なされる。
守るべき家や忠義があるか、もしくは強欲さを含む全てを捨て去るかの、いずれかなら立派だが、
強欲さのために捨て身でいるとなれば、もはや見るべきところも無い、狂獣のザマだといえる。
それをあえてピンポイントに選んでおいて、同情や救済を取り付けようなどとするほうが、無理がある。
「諸侯の宝は三つ、土地、人民、政事なり。珠玉を宝とする者は、殃い必ず身に及ぶ」
「諸侯が宝とすべきものに三つある。自らが領地とする国土と、そこに住まう人民と、国と民とを安寧に
導く正しい政治である。珠玉を至宝としたりしているようなら、必ず大きな禍いに見舞われることになる。
(真珠宝玉の類いを独占するために、土地利権を不正利用するようなことを公職者はしてもさせてもいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二八より)
「子路曰く、傷ましきかな貧しきことや。生くるに以て養いを為す無く、死するに以て礼を
為す無し。孔子曰く、菽を啜らせ水を飲ませ、其の歓を尽くさしむ、斯れを之れ孝と謂う。
首足の形を斂めて、還く葬りて槨無くも、其の財に稱うなれば、斯れを之れ礼と謂う」
「子路が言った。『貧しさほど痛ましいものがあるでしょうか。親が生きている間に養ってやることも
できなければ、親が死んだときに厚葬によって礼を尽くすこともできないのですから』 孔先生は言われた。
『親に豆粥をすすらせて水を飲ませ、それで歓待を尽くすことができたのなら、それもまた孝と言ってよい。
その遺体の首や足の形を整えて、布にくるんで内壁すらない墓穴に埋葬するのであっても、
それがその時の財産では精一杯の葬儀だというのなら、それもまた最礼を尽くしたと言ってよい』
(財産の有無や多寡などとも無関係に孝行は尽くせるのであり、そのほうが財貨の貪りよりもよっぽど重要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
強欲さのために捨て身でいるとなれば、もはや見るべきところも無い、狂獣のザマだといえる。
それをあえてピンポイントに選んでおいて、同情や救済を取り付けようなどとするほうが、無理がある。
「諸侯の宝は三つ、土地、人民、政事なり。珠玉を宝とする者は、殃い必ず身に及ぶ」
「諸侯が宝とすべきものに三つある。自らが領地とする国土と、そこに住まう人民と、国と民とを安寧に
導く正しい政治である。珠玉を至宝としたりしているようなら、必ず大きな禍いに見舞われることになる。
(真珠宝玉の類いを独占するために、土地利権を不正利用するようなことを公職者はしてもさせてもいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二八より)
「子路曰く、傷ましきかな貧しきことや。生くるに以て養いを為す無く、死するに以て礼を
為す無し。孔子曰く、菽を啜らせ水を飲ませ、其の歓を尽くさしむ、斯れを之れ孝と謂う。
首足の形を斂めて、還く葬りて槨無くも、其の財に稱うなれば、斯れを之れ礼と謂う」
「子路が言った。『貧しさほど痛ましいものがあるでしょうか。親が生きている間に養ってやることも
できなければ、親が死んだときに厚葬によって礼を尽くすこともできないのですから』 孔先生は言われた。
『親に豆粥をすすらせて水を飲ませ、それで歓待を尽くすことができたのなら、それもまた孝と言ってよい。
その遺体の首や足の形を整えて、布にくるんで内壁すらない墓穴に埋葬するのであっても、
それがその時の財産では精一杯の葬儀だというのなら、それもまた最礼を尽くしたと言ってよい』
(財産の有無や多寡などとも無関係に孝行は尽くせるのであり、そのほうが財貨の貪りよりもよっぽど重要だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「孝心を忠心の原器とする」ということは、孝子が親に対するかのような心境で以って
主君にも仕えるということであり、それは即ち、娼婦の顧客に対するかのような
上ずった阿りを排した、ごく親密な心境によって主君に仕えることを意味する。
仮に自分が、巧言令色で客に阿る娼婦や商売人であったとして、自分が客に対して見せていたような
上ずった態度で実の親などにも接したとすれば、それはもう、恥ずかしくてやってられない。
事実、商人階級の人間などは、家族や身内の間でだけは極端になあなあだったり、
あるいは職場での部下に対するかのような極端に厳しい態度でわが子に接したりする。
(後者の場合は、わが子に稼業を継がせようとする意図があったりする)
赤の他人である客に対する阿りばかりに慣れているものだから、商人や娼婦は基本、
家族付き合いというものを酷く蔑ろにする。その、商人や娼婦が蔑ろにするところの、
実の家族関係こそをよく正して、宮仕えのような社会的な職業にも及ぼしていくのが君子でこそある。
商人や娼婦やイエスのように、世間付き合いのために血族関係を蔑ろにするのでもなければ、
墨子のように、家族も他人も平等に兼ね愛しつつ付き合うというのでもなく、
血族関係こそを根本に置いて、そこから社会的な活動にも及んでいくのが君子である。
家族を世間とは別個のものとして扱う傾向があるのは、小人とて君子と変わりはしない。
ただ、君子が家族を世間づきあいの根本とすらするのに対し、小人は世間づきあいに執心し過ぎるあまり、
家族関係をより蔑ろにしてしまうという、全く真逆の理由に即して家族が特別扱いされるのであり、
前者が「斉家」といえる一方で、後者は「蔑家」といえる点が決定的に異なるのである。
「自ら鬻ぎて以て其の君を成さしむは、郷党の自らを
好くする者も為さず。而るを謂わんや、賢者の之れを為すや」
「自らを身売りしてまで、仕える者の事業を成功させようとするようなことは、
故郷での名誉を守ろうとする程度の、ちっぽけな名誉心の持ち主であっても
試みることではない。当然、賢者がそのような暴挙におよばないのは、尚のことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・九より)
主君にも仕えるということであり、それは即ち、娼婦の顧客に対するかのような
上ずった阿りを排した、ごく親密な心境によって主君に仕えることを意味する。
仮に自分が、巧言令色で客に阿る娼婦や商売人であったとして、自分が客に対して見せていたような
上ずった態度で実の親などにも接したとすれば、それはもう、恥ずかしくてやってられない。
事実、商人階級の人間などは、家族や身内の間でだけは極端になあなあだったり、
あるいは職場での部下に対するかのような極端に厳しい態度でわが子に接したりする。
(後者の場合は、わが子に稼業を継がせようとする意図があったりする)
赤の他人である客に対する阿りばかりに慣れているものだから、商人や娼婦は基本、
家族付き合いというものを酷く蔑ろにする。その、商人や娼婦が蔑ろにするところの、
実の家族関係こそをよく正して、宮仕えのような社会的な職業にも及ぼしていくのが君子でこそある。
商人や娼婦やイエスのように、世間付き合いのために血族関係を蔑ろにするのでもなければ、
墨子のように、家族も他人も平等に兼ね愛しつつ付き合うというのでもなく、
血族関係こそを根本に置いて、そこから社会的な活動にも及んでいくのが君子である。
家族を世間とは別個のものとして扱う傾向があるのは、小人とて君子と変わりはしない。
ただ、君子が家族を世間づきあいの根本とすらするのに対し、小人は世間づきあいに執心し過ぎるあまり、
家族関係をより蔑ろにしてしまうという、全く真逆の理由に即して家族が特別扱いされるのであり、
前者が「斉家」といえる一方で、後者は「蔑家」といえる点が決定的に異なるのである。
「自ら鬻ぎて以て其の君を成さしむは、郷党の自らを
好くする者も為さず。而るを謂わんや、賢者の之れを為すや」
「自らを身売りしてまで、仕える者の事業を成功させようとするようなことは、
故郷での名誉を守ろうとする程度の、ちっぽけな名誉心の持ち主であっても
試みることではない。当然、賢者がそのような暴挙におよばないのは、尚のことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・九より)
相手が神であれ大金持ちであれ何であれ、
身売りによって功を成そうとするような人間が、
故郷で不名誉な存在として扱われるのは当然のこと。
孟子の言葉は、本当に、ドンピシャリで犯罪聖書の神秘性を破砕するものが多い。
孔子や五経中の言葉が、ただ犯罪聖書の記述を論駁するだけでなく、色々と余分に味わえる要素を伴っているのに対し、
孟子の言葉は過不足一つなく、完璧かつ的確に犯罪聖書の記述を粉砕する。
2300年もの昔に、孟子は共産主義の不当性までをも的確に看破しているが(滕文公章句上・四参照)、
だからこそ孟子の活躍した中国戦国時代が、聖書信仰や洋学が適用された
世の中並みの、最悪の汚濁にまみれていたことまでもが分かるのである。
仁徳のしんがり、勧善懲悪の極致たる孟子の言葉は、
人間社会の普遍法則に根差した、最悪の乱世を糾弾する言葉でこそあるのだ。
身売りによって功を成そうとするような人間が、
故郷で不名誉な存在として扱われるのは当然のこと。
孟子の言葉は、本当に、ドンピシャリで犯罪聖書の神秘性を破砕するものが多い。
孔子や五経中の言葉が、ただ犯罪聖書の記述を論駁するだけでなく、色々と余分に味わえる要素を伴っているのに対し、
孟子の言葉は過不足一つなく、完璧かつ的確に犯罪聖書の記述を粉砕する。
2300年もの昔に、孟子は共産主義の不当性までをも的確に看破しているが(滕文公章句上・四参照)、
だからこそ孟子の活躍した中国戦国時代が、聖書信仰や洋学が適用された
世の中並みの、最悪の汚濁にまみれていたことまでもが分かるのである。
仁徳のしんがり、勧善懲悪の極致たる孟子の言葉は、
人間社会の普遍法則に根差した、最悪の乱世を糾弾する言葉でこそあるのだ。
西洋で概念論(イデア論)を初めて提唱したのはプラトンだが、
プラトンは哲学上の志向性としてのイデア論を打ち出したまでで、
それを体系的な宗教信仰に結び付けるまでのことはしなかった。
「形而上の超越神」という概念を絶対的な信仰対象とし、
「それを信仰するならばどのような実践を心がけるべきか」ということを
挙げ連ねたのがイエスを含む古代ユダヤ人であり、超越神エホバ自体の
様態を具象化することまでは避けられるものの、エホバには人格があり、
エホバの人格が好むようなあり方を信者が心がけるべきだとする。
儒学にも、一応は拠り所とする概念論が存在する。それが「易経」などに記された
陰陽五行思想であり、八卦や六十四卦が示し出す数理法則を、占いだけでなく、
人がいかにあるべかということを具体的に指し示すための雛形ともする。
陰陽五行思想の発祥は、イデア論やエホバ信仰よりも数千年は古く、
プラトンやイエスよりも年上である孔子の代の頃には、もはや完成されきっていた。
イエスよりは年上だが、プラトンよりは年下である孟子の代には、もはや陰陽五行自体を
儒者がいちいち論じ立てることすら廃れ、陰陽法則は個々の儒者たち自身が完全に体得
していることを前提とした上での、世俗的な人間学や社会学の論じたてが主流となっていた。
陰陽五行思想が、コンピューターシステムの内部を構成するプログラムなら、
陰陽五行自体を語らない儒学道徳は、OSやOS上のアプリケーションシステムとでもいった所で、
より根本的な宇宙の絶対法則から取り上げているのは陰陽五行だが、そのぶんだけ事務性に欠ける。
そのため、最悪の乱世だった中国の戦国時代には、陰陽五行そのものの語り立ては控えられ、兵学も
それまで主流だった陰陽道兵法に代わって、孫子や呉子の実用的な兵法が重用されるようになっていた。
プラトンは哲学上の志向性としてのイデア論を打ち出したまでで、
それを体系的な宗教信仰に結び付けるまでのことはしなかった。
「形而上の超越神」という概念を絶対的な信仰対象とし、
「それを信仰するならばどのような実践を心がけるべきか」ということを
挙げ連ねたのがイエスを含む古代ユダヤ人であり、超越神エホバ自体の
様態を具象化することまでは避けられるものの、エホバには人格があり、
エホバの人格が好むようなあり方を信者が心がけるべきだとする。
儒学にも、一応は拠り所とする概念論が存在する。それが「易経」などに記された
陰陽五行思想であり、八卦や六十四卦が示し出す数理法則を、占いだけでなく、
人がいかにあるべかということを具体的に指し示すための雛形ともする。
陰陽五行思想の発祥は、イデア論やエホバ信仰よりも数千年は古く、
プラトンやイエスよりも年上である孔子の代の頃には、もはや完成されきっていた。
イエスよりは年上だが、プラトンよりは年下である孟子の代には、もはや陰陽五行自体を
儒者がいちいち論じ立てることすら廃れ、陰陽法則は個々の儒者たち自身が完全に体得
していることを前提とした上での、世俗的な人間学や社会学の論じたてが主流となっていた。
陰陽五行思想が、コンピューターシステムの内部を構成するプログラムなら、
陰陽五行自体を語らない儒学道徳は、OSやOS上のアプリケーションシステムとでもいった所で、
より根本的な宇宙の絶対法則から取り上げているのは陰陽五行だが、そのぶんだけ事務性に欠ける。
そのため、最悪の乱世だった中国の戦国時代には、陰陽五行そのものの語り立ては控えられ、兵学も
それまで主流だった陰陽道兵法に代わって、孫子や呉子の実用的な兵法が重用されるようになっていた。
それと同じようにして、陰陽五行そのものを社会問題に適用することが廃れ、陰陽法則を体得した儒者が、
全くの世俗の言葉だけで社会問題をも論ずることが主流となり始めたわけで、一見概念性に欠けるように
思われる儒者の言葉の裏側にはいつも、数千年来の陰陽五行思想というバックボーンが常に備わっている。
プラトンやイエスが概念志向を打ち出す以前から、孔孟を始めとする儒者はあえて概念論を避けて、
真理法則に根ざした概念である陰陽五行を体得した上で、世俗にこそ肉迫した言葉を述べることを
選択していたわけで、それは、概念論なんか全く知らずに主観的な論弁ばかりに終始するのとは違う。
真理法則に根ざした概念の把捉→真理法則の体得→世俗の言葉や実践への演繹
という積み立てが事前にあって初めて、儒者も切実な社会問題ばかりを論じ立てているわけだから、
そこに後退性を見出したりするとすれば、それは、トラック競走で周回遅れのランナーが、
一番のランナーの前を走っていることで一等賞気取りになっているようなものだといえる。
「孔子魯の司寇と為りて、用いられず。祭に従いて、燔肉至らず。冕を脱がずして行る。
知らざる者は以て肉の為めと為せり。其の知る者し以て礼無きが為めと為せり」
「孔子が魯の法務大臣となったとき、自らの意見が全く候公に取り入れられないでいた。
祭祀に従事しても、しきたりとなっている食肉の下賜も自分にはなされなかったために、
孔子は冠も脱がずにその場を去って退官した。物を知らぬ人間は『たかが肉のために』と
思うだろうが、物を知る人間からすれば、礼儀に欠けることこそが問題であったのだと分かる。
(郷党第十・八にも肉食にまつわる礼儀作法が多々載っているが、肉の扱いにすら、
形而上の法則にも即した、儀礼的な手法をあてはめることはできるのである。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・六より)
全くの世俗の言葉だけで社会問題をも論ずることが主流となり始めたわけで、一見概念性に欠けるように
思われる儒者の言葉の裏側にはいつも、数千年来の陰陽五行思想というバックボーンが常に備わっている。
プラトンやイエスが概念志向を打ち出す以前から、孔孟を始めとする儒者はあえて概念論を避けて、
真理法則に根ざした概念である陰陽五行を体得した上で、世俗にこそ肉迫した言葉を述べることを
選択していたわけで、それは、概念論なんか全く知らずに主観的な論弁ばかりに終始するのとは違う。
真理法則に根ざした概念の把捉→真理法則の体得→世俗の言葉や実践への演繹
という積み立てが事前にあって初めて、儒者も切実な社会問題ばかりを論じ立てているわけだから、
そこに後退性を見出したりするとすれば、それは、トラック競走で周回遅れのランナーが、
一番のランナーの前を走っていることで一等賞気取りになっているようなものだといえる。
「孔子魯の司寇と為りて、用いられず。祭に従いて、燔肉至らず。冕を脱がずして行る。
知らざる者は以て肉の為めと為せり。其の知る者し以て礼無きが為めと為せり」
「孔子が魯の法務大臣となったとき、自らの意見が全く候公に取り入れられないでいた。
祭祀に従事しても、しきたりとなっている食肉の下賜も自分にはなされなかったために、
孔子は冠も脱がずにその場を去って退官した。物を知らぬ人間は『たかが肉のために』と
思うだろうが、物を知る人間からすれば、礼儀に欠けることこそが問題であったのだと分かる。
(郷党第十・八にも肉食にまつわる礼儀作法が多々載っているが、肉の扱いにすら、
形而上の法則にも即した、儀礼的な手法をあてはめることはできるのである。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・六より)
やたらと強制的、命令的であることがすでに
主人と奴隷、客と商売人や娼婦の関係に合致している。
父母と子供、祖父母と孫の関係などがそこまで一方通行的であることはなく、
ただ先天的な上下関係のみを自然と受け入れる。どうあっても親子の関係が友人並みに
横並びになるなんてこともく、仮に完全な横並びなどを強制したりすれば、かえって親情を損なう。
親子の関係こそは、主人と奴隷ほどにも絶対的な上下関係でもなければ、
友人同士ほどにも完全な横並び関係でもない、上下左右の中庸に適った人間関係であり、
だからこそ絶対服従でも絶対平等でもうまくいかない君臣関係の雛形とする上でも最適である。
君臣関係と父子関係、いずれもがうまくいかせることの極めて難しい人間関係に当たる。
主人と奴隷のように絶対的な服従関係であることも、友人同士のようにただの横並び関係で
あることも極めて簡単なことであり、そこに精神的な修練が必要とされたりすることもない。
一方で、君臣関係や父子関係をうまくいかせようとすれば、絶対的な上下でも横並びでもない
均衡の取れた関係を保つ上での旺盛な精神力をも必要とする。だから、徳治社会の君臣関係を
成功させられる君子は一部の人間に限られ、難儀な宮仕えに勤める者として畏敬の対象ともされる。
主人と奴隷、客と商売人や娼婦の関係に合致している。
父母と子供、祖父母と孫の関係などがそこまで一方通行的であることはなく、
ただ先天的な上下関係のみを自然と受け入れる。どうあっても親子の関係が友人並みに
横並びになるなんてこともく、仮に完全な横並びなどを強制したりすれば、かえって親情を損なう。
親子の関係こそは、主人と奴隷ほどにも絶対的な上下関係でもなければ、
友人同士ほどにも完全な横並び関係でもない、上下左右の中庸に適った人間関係であり、
だからこそ絶対服従でも絶対平等でもうまくいかない君臣関係の雛形とする上でも最適である。
君臣関係と父子関係、いずれもがうまくいかせることの極めて難しい人間関係に当たる。
主人と奴隷のように絶対的な服従関係であることも、友人同士のようにただの横並び関係で
あることも極めて簡単なことであり、そこに精神的な修練が必要とされたりすることもない。
一方で、君臣関係や父子関係をうまくいかせようとすれば、絶対的な上下でも横並びでもない
均衡の取れた関係を保つ上での旺盛な精神力をも必要とする。だから、徳治社会の君臣関係を
成功させられる君子は一部の人間に限られ、難儀な宮仕えに勤める者として畏敬の対象ともされる。
封建社会での君臣関係は、そのまま官民上下の関係にも落とし込まれる。
主君と臣下がまるで主人と奴隷のような関係でいれば、官人と民間人の関係も主人と奴隷の
関係のようになる。それでは卑屈なんで、仮に君臣すら友人も同然の横並び関係にしたなら、
官民の関係も友人同然となって、政財の癒着による重権力犯罪などが巻き起こされることともなる。
卑屈なほどに服従的でもなければ、無礼なほどに友好的でもない、絶妙な均衡を保った
上下関係が君臣間で実現したとき、官民上下、天下国家のあらゆる上下関係が良好なものとなる。
それでこそ封建制が成功したといえ、そのような優良な封建制が実現されたことが嘗ての中国や日本
には多々あるが、体系的な徳治思想を持たない西洋で実現された試しはない。中国でも、徳治を排して
法治を絶対化した秦朝時代や、今の共産制下では実現されていないし、日本でも今は実現されていない。
絶対平等の社会など、所詮は幻想でしかなく、政財産官の癒着による重権力犯罪の勃発を
防ぎ止めるためだけにも、官民上下の序列を徹底することが必須となる。しかし、その上下関係が
主人と奴隷の関係のように卑屈であるのでは人間の尊厳にも関わるから、君臣上下の関係を親子の
関係のように親密なものとすることで、官民の関係も、序列はあるものの、親密でもあるようにする。
そこにこそ、誰もかれもを絶対的な平等下に置いたりする以上にも、健全な人間関係があるのでもある。
「惟れ孝なれば、兄弟に友に、克く有政に施す」
「孝行であればこそ、兄弟や友人にも情け深くいられ、立派な政治をも執り行うことができる。
(この文は原文損失後の復元部分だが、『論語』為政第二・二一に同様の原文からの引用がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
主君と臣下がまるで主人と奴隷のような関係でいれば、官人と民間人の関係も主人と奴隷の
関係のようになる。それでは卑屈なんで、仮に君臣すら友人も同然の横並び関係にしたなら、
官民の関係も友人同然となって、政財の癒着による重権力犯罪などが巻き起こされることともなる。
卑屈なほどに服従的でもなければ、無礼なほどに友好的でもない、絶妙な均衡を保った
上下関係が君臣間で実現したとき、官民上下、天下国家のあらゆる上下関係が良好なものとなる。
それでこそ封建制が成功したといえ、そのような優良な封建制が実現されたことが嘗ての中国や日本
には多々あるが、体系的な徳治思想を持たない西洋で実現された試しはない。中国でも、徳治を排して
法治を絶対化した秦朝時代や、今の共産制下では実現されていないし、日本でも今は実現されていない。
絶対平等の社会など、所詮は幻想でしかなく、政財産官の癒着による重権力犯罪の勃発を
防ぎ止めるためだけにも、官民上下の序列を徹底することが必須となる。しかし、その上下関係が
主人と奴隷の関係のように卑屈であるのでは人間の尊厳にも関わるから、君臣上下の関係を親子の
関係のように親密なものとすることで、官民の関係も、序列はあるものの、親密でもあるようにする。
そこにこそ、誰もかれもを絶対的な平等下に置いたりする以上にも、健全な人間関係があるのでもある。
「惟れ孝なれば、兄弟に友に、克く有政に施す」
「孝行であればこそ、兄弟や友人にも情け深くいられ、立派な政治をも執り行うことができる。
(この文は原文損失後の復元部分だが、『論語』為政第二・二一に同様の原文からの引用がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
子供の見た目は可愛くたって、その性格は残忍なもの。
ちゃんとした躾も受けないところでは、どこまでも陰湿な野蛮さを募らせる。
当然のこととして、子供は社会性が低い。
中には社会性の高い子供もいるが、子供の社会性が低いのはごく当たり前のこと。
人生経験も短い上に、自分よりもはるかに体格の大きな大人たちで構成されている
世の中で一人前に振舞ったりするほうが無理のある話で、親にそのようであることを
強制される子役芸能人なども、心の病を患って成人後に色々な問題を起こしたりする。
子供の内に労役の免除などの、社会的責任の軽減が施されるのは全く妥当なことだが、
大人になっても子供並みの無責任のままで社会に居座るのは、当然よくない。子供の無責任性の
妥当さを羨ましがって、成人の社会人がいつまでも子供のように無責任のままでいたがるのも不当なことだし、
まだ子供の内からだろうとも、自分が一人前の責任を負えない未熟者であることに劣等感を抱いて、
早く一人前の大人になろうと日々、勉学などの努力に励むべきだといえる。
ちゃんとした躾も受けないところでは、どこまでも陰湿な野蛮さを募らせる。
当然のこととして、子供は社会性が低い。
中には社会性の高い子供もいるが、子供の社会性が低いのはごく当たり前のこと。
人生経験も短い上に、自分よりもはるかに体格の大きな大人たちで構成されている
世の中で一人前に振舞ったりするほうが無理のある話で、親にそのようであることを
強制される子役芸能人なども、心の病を患って成人後に色々な問題を起こしたりする。
子供の内に労役の免除などの、社会的責任の軽減が施されるのは全く妥当なことだが、
大人になっても子供並みの無責任のままで社会に居座るのは、当然よくない。子供の無責任性の
妥当さを羨ましがって、成人の社会人がいつまでも子供のように無責任のままでいたがるのも不当なことだし、
まだ子供の内からだろうとも、自分が一人前の責任を負えない未熟者であることに劣等感を抱いて、
早く一人前の大人になろうと日々、勉学などの努力に励むべきだといえる。
「易経」蒙卦では、童子の未熟さがよくないことだとされる一方で、旅卦では、未熟者なりに
精進に励む童子の貞節さがよいものとして扱われてもいる。過渡的な存在としての子供の成長意欲は
大人ですら見習うべきものである一方で、未だ蒙昧なままの子供の未熟さをよいものなどとして扱い、
挙句には大人までもが子供の未熟さを見習うようになるのでは、無様の至りとしかなり得ない。
愛に濁愛と仁愛があり、勇気に匹夫の勇と大勇があるように、子供もにまた未熟さと成長意欲という、
悪い側面と善い側面の両方があるのであり、悪い側面は悪い側面として戒めた上で、善い側面のみを評価して、
大人すらもが模倣の対象とするのが理想なのであり、ただの全否定や全肯定で済む話ではない。
大人が子供の全てを見習うべきだなんてことは決してないから、「とにかく子供のようになれ」というのなら、
それは紛れもなく不当なことであり、ろくな将来が待っていないことだけが確かだ。大人が完全に子供の
ようでいるというのなら、当然、子供並みの行為能力制限も受けて然るべきだということになるからな。
「敢えて聖言を侮り、忠直に逆らい、耆徳を遠ざけ、頑童を比づく、
時れを乱風と謂う。(略)卿士身に一つ有らば、家必ず喪び、邦君身に一つ有らば、国必ず亡ぶ」
「聖賢の言葉を侮り、忠義と正直とに真っ向から逆らい、老獪な有徳者を遠ざけて、頑迷な児童ばかりを近づける、
これを乱風という。このような風習が卿士にあればその家は必ず滅ぶし、一国の君主にあればその国は必ず亡ぶ。
(頑童だけを好き好んで近づける天の国は必ず亡びる運命にあるし、耆徳を遠ざける神の家も必ず滅びる運命にある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
精進に励む童子の貞節さがよいものとして扱われてもいる。過渡的な存在としての子供の成長意欲は
大人ですら見習うべきものである一方で、未だ蒙昧なままの子供の未熟さをよいものなどとして扱い、
挙句には大人までもが子供の未熟さを見習うようになるのでは、無様の至りとしかなり得ない。
愛に濁愛と仁愛があり、勇気に匹夫の勇と大勇があるように、子供もにまた未熟さと成長意欲という、
悪い側面と善い側面の両方があるのであり、悪い側面は悪い側面として戒めた上で、善い側面のみを評価して、
大人すらもが模倣の対象とするのが理想なのであり、ただの全否定や全肯定で済む話ではない。
大人が子供の全てを見習うべきだなんてことは決してないから、「とにかく子供のようになれ」というのなら、
それは紛れもなく不当なことであり、ろくな将来が待っていないことだけが確かだ。大人が完全に子供の
ようでいるというのなら、当然、子供並みの行為能力制限も受けて然るべきだということになるからな。
「敢えて聖言を侮り、忠直に逆らい、耆徳を遠ざけ、頑童を比づく、
時れを乱風と謂う。(略)卿士身に一つ有らば、家必ず喪び、邦君身に一つ有らば、国必ず亡ぶ」
「聖賢の言葉を侮り、忠義と正直とに真っ向から逆らい、老獪な有徳者を遠ざけて、頑迷な児童ばかりを近づける、
これを乱風という。このような風習が卿士にあればその家は必ず滅ぶし、一国の君主にあればその国は必ず亡ぶ。
(頑童だけを好き好んで近づける天の国は必ず亡びる運命にあるし、耆徳を遠ざける神の家も必ず滅びる運命にある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・伊訓より)
溺れる者は藁をも掴み、藁を掴んで救われた気になりながら、そのまま溺れ死ぬという救済詐欺。
まず、意味もなく溺れるような人間が発生しないように務めることが先決であり、
そのためには、世の中を溺死者だらけの乱世へと陥れる旧約教義の実践を禁止し、
詩書や易の理念に適った正統な礼法によって、世相を引き締めていくことが肝要となる。
しかし、すでに溺れてしまっている人間が多数発生しているという場合、
「左伝」や「史記」にあるような先人の過ちと、その対処法とを参考にして、速やかな処分を施す。
その際に、「裾に触れただけで病が治った」などという新約の記録のような、あまりにも安易である上に
本当のところ虚偽であり、その手法に則ればかえって病状を深刻化させるような邪義を決して適用せぬこと。
左伝や史記にも、問題に対して誤った対処を行ったために、かえって傷口を広げたような記録が多々あり、
それは総じて、安易な救いを求めたがために、自業自得で大破綻に陥るといったものばかりである。
秦朝の悪宦官趙高も、反乱軍に対する秦軍の劣勢が皇帝の耳に届くことにより、自らの責任までもが
問われることを恐れて、外部と皇帝との情報疎通を完全に遮断した。秦軍大将の章邯からの再三に渡る
援軍の要請も全て握りつぶし、それでいて劣勢の責任を全て章邯に押し付けて、その家族をも皆殺しにした。
それを戦地で知らされた章邯は怒り狂って、遂には自らも反乱軍に寝返った。戦況が趙高を介することなく
直接皇帝の耳に届けられた頃には、もはや反乱の遂行による秦帝国の滅亡までもが決定的となっていた。
宦官趙高の、その場しのぎに終始する安易さこそが、秦帝国の崩壊をも決定付けた。
このような安易さへの逃げ込みからなる失敗例も、日本史以上に清濁併せ呑んでいる中国史上などには
数多いため、溺れる者が藁をも掴むような安易さを奨励する新約の記述などと共に、反面教師とすべきもの。
まず、意味もなく溺れるような人間が発生しないように務めることが先決であり、
そのためには、世の中を溺死者だらけの乱世へと陥れる旧約教義の実践を禁止し、
詩書や易の理念に適った正統な礼法によって、世相を引き締めていくことが肝要となる。
しかし、すでに溺れてしまっている人間が多数発生しているという場合、
「左伝」や「史記」にあるような先人の過ちと、その対処法とを参考にして、速やかな処分を施す。
その際に、「裾に触れただけで病が治った」などという新約の記録のような、あまりにも安易である上に
本当のところ虚偽であり、その手法に則ればかえって病状を深刻化させるような邪義を決して適用せぬこと。
左伝や史記にも、問題に対して誤った対処を行ったために、かえって傷口を広げたような記録が多々あり、
それは総じて、安易な救いを求めたがために、自業自得で大破綻に陥るといったものばかりである。
秦朝の悪宦官趙高も、反乱軍に対する秦軍の劣勢が皇帝の耳に届くことにより、自らの責任までもが
問われることを恐れて、外部と皇帝との情報疎通を完全に遮断した。秦軍大将の章邯からの再三に渡る
援軍の要請も全て握りつぶし、それでいて劣勢の責任を全て章邯に押し付けて、その家族をも皆殺しにした。
それを戦地で知らされた章邯は怒り狂って、遂には自らも反乱軍に寝返った。戦況が趙高を介することなく
直接皇帝の耳に届けられた頃には、もはや反乱の遂行による秦帝国の滅亡までもが決定的となっていた。
宦官趙高の、その場しのぎに終始する安易さこそが、秦帝国の崩壊をも決定付けた。
このような安易さへの逃げ込みからなる失敗例も、日本史以上に清濁併せ呑んでいる中国史上などには
数多いため、溺れる者が藁をも掴むような安易さを奨励する新約の記述などと共に、反面教師とすべきもの。

仏教思想などを参考にした厳重な為政に務めているため、反面教師とすべきほどにも決定的な落ち度を
残している事例が非常に少ない。もちろん、冷酷な人間なども多く出て来るが、その冷酷さが巻き起こす
問題なども大体が内輪もめに終始して、世相を傾かせるほどもの大問題に発展することが極めて稀である。
それでもやはり、日本史にも反面教師とすべき大問題を呈した事件がいくらかある。
保元の乱における藤原氏の醜悪を極めた地位争い、それに乗じて貴族のお株を乗っ取り、
武家として天皇をも圧迫するほどの専横を働いた平家の暴挙など、まさに反面教師の鑑であり、
朝廷の秩序が決定的に乱れたことからなる武家社会の到来後は、まずは戦乱ありきの世の中を
いかにして治めるかという修羅道の探求が、主な日本史上の課題となり始めたのだった。
武家時代の日本史は、安易さが即座に死へと結び付いているため、これまた反面教師としての
参考にはしにくい。安易さの中で、ある程度生き延びた挙句に惨死するという、緩慢とした物語構造は、
東洋ではやはり古代の中国史のほうが参考になる。安易な救いばかりに逃げ延びた挙句の大破綻、それは、
紀元後2012年の間、西洋人がキリスト信仰の下で生き延びて来た挙句に、ついに体験することでもある。
「凡そ君に侍る時は、紳を垂れ、足は齊を履むが如くす」
「主君に持座するときは帯を垂れ、足は裳(袴など)の裾を踏むようにする。
(袴の裾を踏む和服もこの礼法に則る。裾に触れたりすれば足を引っ張る無礼ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
イスラエルがイランに大規模攻撃を仕掛ければ、イランも核ミサイルなどによって報復する。
それに対してイスラエルも核で報復。大量核保有国のアメリカや中国も参戦して報復の応酬状態となり、
遂には世界核対戦の様相を呈する。そうなると確実に、人類は地球上から滅亡することになる。
イスラエルや聖書信者だけが生き延びて、中東諸国やその他の非聖書信者だけが死に絶えるという事態は、
事実あり得ない。そのような画策を試みたところで、イスラエルや聖書信者ごと全人類が滅亡するのみ。
イスラエルがこの世から消滅し、欧米の聖書信者が禁治産や参政権剥奪などの、個々の病状に見合った
適正な処置を受けた場合にだけ、全人類が破滅を免れることを通じて、元イスラエル人や元聖書信者も救われる。
悪性の寄生民族であるイスラエル人や、そのイスラエル人の行状を正当化した犯罪聖書の信者が、
犯罪聖書の記述に見合った形で、自分たちが破滅から救われるということだけは絶対にない。
キリストによってもエホバによっても、イスラエル人や聖書信者が救われるということだけは、絶対にない。
それに対してイスラエルも核で報復。大量核保有国のアメリカや中国も参戦して報復の応酬状態となり、
遂には世界核対戦の様相を呈する。そうなると確実に、人類は地球上から滅亡することになる。
イスラエルや聖書信者だけが生き延びて、中東諸国やその他の非聖書信者だけが死に絶えるという事態は、
事実あり得ない。そのような画策を試みたところで、イスラエルや聖書信者ごと全人類が滅亡するのみ。
イスラエルがこの世から消滅し、欧米の聖書信者が禁治産や参政権剥奪などの、個々の病状に見合った
適正な処置を受けた場合にだけ、全人類が破滅を免れることを通じて、元イスラエル人や元聖書信者も救われる。
悪性の寄生民族であるイスラエル人や、そのイスラエル人の行状を正当化した犯罪聖書の信者が、
犯罪聖書の記述に見合った形で、自分たちが破滅から救われるということだけは絶対にない。
キリストによってもエホバによっても、イスラエル人や聖書信者が救われるということだけは、絶対にない。
一方で、いまイスラエル人やその他の聖書信者に当たる人間が救われる方法は、いくらでもある。
犯罪聖書以外の、数多の優良な正統教学のうちに救いを求めることであり、世界的に認知されているような
代表的な正統教学であれば、大体のものによって救われ得る。洋学は、人間の生活規範を全般的に取り仕切る
学問や宗教ではないので不適だが、儒学を含む、人間規範を全般的に取り扱っている教学で、西洋原産でも
カルトでもないような教学であれば、だいたいのものによって破滅から救われるぐらいのことは保証される。
ただ、これまで真正聖書(四書五経)と犯罪聖書(新旧約聖書)の記述をここで比較して来たその内容からも
分かる通り、正統な教学と犯罪聖書の教義とは、ことごとくその位相が相反しているため、どちらかに従う以上は、
もう一方への随順は捨て切らなければならない。正統な教学同士、たとえば儒学と浄土教を兼修することはできても、
儒学と聖書信仰や、浄土教と聖書信仰を兼修して、共に実践対象としていくことなどは絶対にできないからだ。
ことに、聖書信仰を棄却することは必須であり、そこまでは確実に有無を言わせないところではある。しかし、
聖書信仰を捨てた先にある選択肢は、まさに無尽蔵であり、絶対にこうしなければならないなどということも全くない。
形而上の超越神という、極端に貧相な虚構への狂信ばかりに惑溺して来た聖書信者にとって、その先の選択肢が
無限であることがかえって恐怖の対象ともなるのかもしれないが、よく整備された人の道が無尽蔵に
拓かれているのだから、獣道ばかりをまい進して来た今まで以上に、安心してもいいのである。
「无妄有りて、然る後に畜う可し」
「盲目や虚妄を十分に排してから、初めて(教導などの)蓄積にも務めていくべきである。
(盲が盲を教導することを『そのままにしておけ』などとほざく犯罪聖書の記述よりも、明らかに誠実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・序卦伝より)
犯罪聖書以外の、数多の優良な正統教学のうちに救いを求めることであり、世界的に認知されているような
代表的な正統教学であれば、大体のものによって救われ得る。洋学は、人間の生活規範を全般的に取り仕切る
学問や宗教ではないので不適だが、儒学を含む、人間規範を全般的に取り扱っている教学で、西洋原産でも
カルトでもないような教学であれば、だいたいのものによって破滅から救われるぐらいのことは保証される。
ただ、これまで真正聖書(四書五経)と犯罪聖書(新旧約聖書)の記述をここで比較して来たその内容からも
分かる通り、正統な教学と犯罪聖書の教義とは、ことごとくその位相が相反しているため、どちらかに従う以上は、
もう一方への随順は捨て切らなければならない。正統な教学同士、たとえば儒学と浄土教を兼修することはできても、
儒学と聖書信仰や、浄土教と聖書信仰を兼修して、共に実践対象としていくことなどは絶対にできないからだ。
ことに、聖書信仰を棄却することは必須であり、そこまでは確実に有無を言わせないところではある。しかし、
聖書信仰を捨てた先にある選択肢は、まさに無尽蔵であり、絶対にこうしなければならないなどということも全くない。
形而上の超越神という、極端に貧相な虚構への狂信ばかりに惑溺して来た聖書信者にとって、その先の選択肢が
無限であることがかえって恐怖の対象ともなるのかもしれないが、よく整備された人の道が無尽蔵に
拓かれているのだから、獣道ばかりをまい進して来た今まで以上に、安心してもいいのである。
「无妄有りて、然る後に畜う可し」
「盲目や虚妄を十分に排してから、初めて(教導などの)蓄積にも務めていくべきである。
(盲が盲を教導することを『そのままにしておけ』などとほざく犯罪聖書の記述よりも、明らかに誠実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・序卦伝より)
気狂いでも、主人への服従意識だけは持つことができる。
十字架を視認することで自らの罪が償われたような気になる、
キリスト信仰という事故に遭ったとき、人は鏡映認知障害に罹患する。当該の障害に
罹患した人間は、自らの気分によって知能をIQ40以下にまで平気で低下させるようになる。
人間の大人を平均とした場合のIQ40以下は、チンパンジーやイルカやクジラ、
ゾウなどの最高等動物の平均知能よりもやや低い知能に当たり、
ちょうど犬と同程度の知能に当たる。
犬には基本、鏡映認知能力がなく、何度も鏡を見せる訓練によって、
辛うじて鏡に映った姿が自分の姿であることに気づいたりする。
その犬にも、飼い主に対する旺盛な服従意識があり、躾がなってない
犬であっても、主人になついて擦り寄ってくるぐらいのことは普通にする。
その犬と同じように、キリスト信仰によって知能をIQ40以下にまで低下させた重度精神
障害者も、自らが「主なる神」と想定したものに対する服従意識ぐらいは抱くことができる。
知能が原始生物のように全く皆無となるのではなく、犬ぐらいの低能は保全されるのが、
キリスト信仰という精神障害の特徴であり、器質性の精神障害者にも単純労働ぐらいは
できるように、心因性であるキリスト信仰の精神障害者でも、奴隷としての労働ぐらいはできる。
十字架を視認することで自らの罪が償われたような気になる、
キリスト信仰という事故に遭ったとき、人は鏡映認知障害に罹患する。当該の障害に
罹患した人間は、自らの気分によって知能をIQ40以下にまで平気で低下させるようになる。
人間の大人を平均とした場合のIQ40以下は、チンパンジーやイルカやクジラ、
ゾウなどの最高等動物の平均知能よりもやや低い知能に当たり、
ちょうど犬と同程度の知能に当たる。
犬には基本、鏡映認知能力がなく、何度も鏡を見せる訓練によって、
辛うじて鏡に映った姿が自分の姿であることに気づいたりする。
その犬にも、飼い主に対する旺盛な服従意識があり、躾がなってない
犬であっても、主人になついて擦り寄ってくるぐらいのことは普通にする。
その犬と同じように、キリスト信仰によって知能をIQ40以下にまで低下させた重度精神
障害者も、自らが「主なる神」と想定したものに対する服従意識ぐらいは抱くことができる。
知能が原始生物のように全く皆無となるのではなく、犬ぐらいの低能は保全されるのが、
キリスト信仰という精神障害の特徴であり、器質性の精神障害者にも単純労働ぐらいは
できるように、心因性であるキリスト信仰の精神障害者でも、奴隷としての労働ぐらいはできる。
知能がIQ40以下にまで乱高下する精神障害者には、仁義道徳が決定的に理解できない。
主人が仁徳者であると暴君であるとに関わらず、奴隷は主人に絶対服従しかできないように、
鏡映認知能力が破損しているレベルの低能者には、仁徳を自らの判断基準に据える能力がない。
だから、不仁が即ち傾国や乱天下に結び付く公職などには絶対に就いてはならないし、
公職でなくとも、大規模な行為能力を運用する民間業などにも携わってはならない。
そうでもしなければ必ず、本人たちが世の中を破滅に陥らせる元凶となってしまうから。
もちろん、それほどにも行為能力を制限されることが、人として当然のことなんかであるわけもない。
それほどにも、人間という生物が犬並みの知能に陥るということが危険極まりないことだからで、
二本足で歩いて、両手で巧みな作業ができる人として生まれたからには、その能力を四つ足の
下等動物並みの知能によって使い回すような怠慢に及んではならない義務があるのである。
「犬馬も其の土性に非ざれば畜わず。珍禽奇獣は国に育わず。
遠物を宝とせざれば、則ち遠人格る。宝とする所、惟れ賢なれば、則ち邇人安んず」
「犬や馬もその土地に土着のものでなければ飼わない。珍獣も面白がって国内に持ち込んだりはしない。
遠方の珍品などを重宝しなければ、逆に遠方の人からやって来てくれる。至宝とする所のものが
(珍奇な宝物や禽獣などではなく)賢聖であれば、身の回りの人々も安心するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・旅獒より)
主人が仁徳者であると暴君であるとに関わらず、奴隷は主人に絶対服従しかできないように、
鏡映認知能力が破損しているレベルの低能者には、仁徳を自らの判断基準に据える能力がない。
だから、不仁が即ち傾国や乱天下に結び付く公職などには絶対に就いてはならないし、
公職でなくとも、大規模な行為能力を運用する民間業などにも携わってはならない。
そうでもしなければ必ず、本人たちが世の中を破滅に陥らせる元凶となってしまうから。
もちろん、それほどにも行為能力を制限されることが、人として当然のことなんかであるわけもない。
それほどにも、人間という生物が犬並みの知能に陥るということが危険極まりないことだからで、
二本足で歩いて、両手で巧みな作業ができる人として生まれたからには、その能力を四つ足の
下等動物並みの知能によって使い回すような怠慢に及んではならない義務があるのである。
「犬馬も其の土性に非ざれば畜わず。珍禽奇獣は国に育わず。
遠物を宝とせざれば、則ち遠人格る。宝とする所、惟れ賢なれば、則ち邇人安んず」
「犬や馬もその土地に土着のものでなければ飼わない。珍獣も面白がって国内に持ち込んだりはしない。
遠方の珍品などを重宝しなければ、逆に遠方の人からやって来てくれる。至宝とする所のものが
(珍奇な宝物や禽獣などではなく)賢聖であれば、身の回りの人々も安心するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・旅獒より)
病や怪我を治すのと、治しもせずにモルヒネなどの気休めをあてがうのとでは全く違う。
手術や投薬治療の際に、鎮痛目的の麻酔をあてがったとしても、それもまた気休めで、
近代医療に於いてですら、麻酔の過剰投与によって患者が昏睡状態から目覚めなくなったり
といった医療ミスが相次いでいる。患者を激痛からなるショック死や衰弱に陥らせないための
鎮痛目的での麻酔投与が医療上有効となる場合があるにしたって、それは激痛を感じ取る脳神経系の、
心因性の疲弊を紛らわすための措置なのであって、器質的には外科医療上、麻酔投与というのは
全くなくて済むに越したことはない。実際に、十分に精神力を保っている壮年の患者が、
大怪我の手術でも麻酔を断って、その結果、術後の経過がより良好になったりした事例もある。
然るに、聖書信仰はただの麻酔の過剰投与であり、手術や投薬に相当するような医療行為は
全く行っていない。ただ世の中という存在に対して、大きな病や怪我をもたらして、
重症患者となった世の中に、十字架信仰という麻酔を過剰に投与する。それで患者は治療されたような
気分にはなるが、全く治療に相当する措置は受けておらず、聖書教義によってこそもたらされた
重病や大怪我は、十字架信仰による患者自身の昏睡の水面下で、むしろ深刻化すらしてしまっている。
イエスが信者の病を治した云々の禍音書の記述から、キリストが「医神」として扱われる場合があるが、
これは全くの事実誤認である。仮に医神であるとしたところで、「ヤブの麻酔科医神」であり、
患者の病や怪我を治癒するどころか、余計に深刻化させて、そこに気休めの昏睡を与えてやってるのみ。
手術や投薬治療の際に、鎮痛目的の麻酔をあてがったとしても、それもまた気休めで、
近代医療に於いてですら、麻酔の過剰投与によって患者が昏睡状態から目覚めなくなったり
といった医療ミスが相次いでいる。患者を激痛からなるショック死や衰弱に陥らせないための
鎮痛目的での麻酔投与が医療上有効となる場合があるにしたって、それは激痛を感じ取る脳神経系の、
心因性の疲弊を紛らわすための措置なのであって、器質的には外科医療上、麻酔投与というのは
全くなくて済むに越したことはない。実際に、十分に精神力を保っている壮年の患者が、
大怪我の手術でも麻酔を断って、その結果、術後の経過がより良好になったりした事例もある。
然るに、聖書信仰はただの麻酔の過剰投与であり、手術や投薬に相当するような医療行為は
全く行っていない。ただ世の中という存在に対して、大きな病や怪我をもたらして、
重症患者となった世の中に、十字架信仰という麻酔を過剰に投与する。それで患者は治療されたような
気分にはなるが、全く治療に相当する措置は受けておらず、聖書教義によってこそもたらされた
重病や大怪我は、十字架信仰による患者自身の昏睡の水面下で、むしろ深刻化すらしてしまっている。
イエスが信者の病を治した云々の禍音書の記述から、キリストが「医神」として扱われる場合があるが、
これは全くの事実誤認である。仮に医神であるとしたところで、「ヤブの麻酔科医神」であり、
患者の病や怪我を治癒するどころか、余計に深刻化させて、そこに気休めの昏睡を与えてやってるのみ。
元より医療に頼るまでもなく、自らが壮健なままでいられるのが重畳なのであり、
仮に病や怪我に侵されたところで、自らが悩乱を十分に排していられたなら、
医者はおろか、薬にすら頼らなくてもすぐに治癒すると「易経」无妄卦にもある。
そもそも病や怪我に侵されないのが一番。
侵されたとしても医者や薬に頼ることなく治せるのが二番。
どうしても治しきれなくて、信頼の置ける医者や薬に頼るのが三番。
麻酔の過剰投与で気休めだけさせておいて、後は野となれ山となれというのが四番。
近日の死去が必至な末期ガン患者でもない限りは、四番目の選択肢にだけは決して手出しをしてはいけない。
「凡そ技を執りて以て上に事うる者は、祝、史、射、御、医、卜、
及び百工。凡そ技を以て上に事うる者は、二に事えず。官を移さず。
郷を出ずれば士と齒せず。家に仕うる者は、郷を出ずれば士と齒せず」
「技能によってお上に仕える職分には、祝祀、史書編纂、射芸、御車、医者、占い師、そして職人などがある。
(徳性ではなく)技能によってお上に仕えるものは(信頼が置けないので)、二度と仕官を繰り返すことを認めない。
自らが仕えていた主君の領地を出れば、もはや士としては認められない。家内の仕事に就いていた者を郷外で士として
認めることはできないからだ。(東洋で技能者が有徳者よりも下に置かれていた理由の一つ。唯一神に仕える
イエスが医者のような技能の持ち主であるというのなら、二度と他の相手に仕えることはできないことにもなる。
何らかの技能に長けたものというのは、そのぶん了見が狭まるもので、社会適応力が低まるのは当然なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
仮に病や怪我に侵されたところで、自らが悩乱を十分に排していられたなら、
医者はおろか、薬にすら頼らなくてもすぐに治癒すると「易経」无妄卦にもある。
そもそも病や怪我に侵されないのが一番。
侵されたとしても医者や薬に頼ることなく治せるのが二番。
どうしても治しきれなくて、信頼の置ける医者や薬に頼るのが三番。
麻酔の過剰投与で気休めだけさせておいて、後は野となれ山となれというのが四番。
近日の死去が必至な末期ガン患者でもない限りは、四番目の選択肢にだけは決して手出しをしてはいけない。
「凡そ技を執りて以て上に事うる者は、祝、史、射、御、医、卜、
及び百工。凡そ技を以て上に事うる者は、二に事えず。官を移さず。
郷を出ずれば士と齒せず。家に仕うる者は、郷を出ずれば士と齒せず」
「技能によってお上に仕える職分には、祝祀、史書編纂、射芸、御車、医者、占い師、そして職人などがある。
(徳性ではなく)技能によってお上に仕えるものは(信頼が置けないので)、二度と仕官を繰り返すことを認めない。
自らが仕えていた主君の領地を出れば、もはや士としては認められない。家内の仕事に就いていた者を郷外で士として
認めることはできないからだ。(東洋で技能者が有徳者よりも下に置かれていた理由の一つ。唯一神に仕える
イエスが医者のような技能の持ち主であるというのなら、二度と他の相手に仕えることはできないことにもなる。
何らかの技能に長けたものというのは、そのぶん了見が狭まるもので、社会適応力が低まるのは当然なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
近世から近代にかけての欧米キリスト教圏による植民地侵略で、
未だ最悪の荒廃に追い込まれたままの状態であるブラックアフリカにおいて、
不遇からなる悩乱が無軌道な乱交による人口爆発を招いていることはすでに述べた。
それと同じように、悩乱と飢餓との相乗効果による戦乱もブラックアフリカでは著しく、
食資源や水資源などを巡っての縄張り争いが絶えず、また欧米キリスト教徒がもたらした
異民族同士での奴隷制支配が、体制革命を名目としたルワンダ紛争などの戦乱をも招いている。
正式に国教をブードゥー教としたベナンなどの先進的な国も含めて、今でもほとんどの
ブラックアフリカ諸国の実質的な国教は、カトリックやプロテスタントといったキリスト教である。
植民地化に際し、欧米の宣教師がアフリカの土着宗教を破壊してキリスト信仰を現地民に
強制したことがそのまま名残りを止めているわけだが、キリスト信仰がブラックアフリカの
諸国民の、実質からなる食糧不足を解消できていないのはもちろんのこと、飢餓や貧困からなる
信者の悩乱すらもなだめ切れてはいない。物質的貧窮からなる苦悩を十字架信仰によって
気休めきれているのならまだしも、少しも気休めにすらなっていないから、苦悩の解消を
目的とした乱交による人口爆発や、食資源を巡っての戦乱などがひっきりなしに続いている。
ただし、ブラックアフリカにキリスト教があてがわれたままでいることで、確実に奏している効果もある。
それが、ブラックアフリカの人々が、自分たちの貧窮からなる苦悩を、自分たちの言葉によって
国際社会に向けて十分に訴えていくという、発言の選択肢の芽を摘んでいること。元より文字を持たなかった
アフリカの土人社会において、「聖書に『満足した』と書かれているのだから満足しろ」などという
ロゴス信仰からなるドグマを押し付けられた場合に、もはや言葉で不満を述べることも憚られるようになる。
未だ最悪の荒廃に追い込まれたままの状態であるブラックアフリカにおいて、
不遇からなる悩乱が無軌道な乱交による人口爆発を招いていることはすでに述べた。
それと同じように、悩乱と飢餓との相乗効果による戦乱もブラックアフリカでは著しく、
食資源や水資源などを巡っての縄張り争いが絶えず、また欧米キリスト教徒がもたらした
異民族同士での奴隷制支配が、体制革命を名目としたルワンダ紛争などの戦乱をも招いている。
正式に国教をブードゥー教としたベナンなどの先進的な国も含めて、今でもほとんどの
ブラックアフリカ諸国の実質的な国教は、カトリックやプロテスタントといったキリスト教である。
植民地化に際し、欧米の宣教師がアフリカの土着宗教を破壊してキリスト信仰を現地民に
強制したことがそのまま名残りを止めているわけだが、キリスト信仰がブラックアフリカの
諸国民の、実質からなる食糧不足を解消できていないのはもちろんのこと、飢餓や貧困からなる
信者の悩乱すらもなだめ切れてはいない。物質的貧窮からなる苦悩を十字架信仰によって
気休めきれているのならまだしも、少しも気休めにすらなっていないから、苦悩の解消を
目的とした乱交による人口爆発や、食資源を巡っての戦乱などがひっきりなしに続いている。
ただし、ブラックアフリカにキリスト教があてがわれたままでいることで、確実に奏している効果もある。
それが、ブラックアフリカの人々が、自分たちの貧窮からなる苦悩を、自分たちの言葉によって
国際社会に向けて十分に訴えていくという、発言の選択肢の芽を摘んでいること。元より文字を持たなかった
アフリカの土人社会において、「聖書に『満足した』と書かれているのだから満足しろ」などという
ロゴス信仰からなるドグマを押し付けられた場合に、もはや言葉で不満を述べることも憚られるようになる。
古来から豊潤な文字文化を発展させてきている中国やインドなどの東洋社会ならまだしも、文字文化の
ないところに急激にロゴス信仰をあてがわれれば、もはやその文面通りに言葉を使うことしか許されない
という状態が固着化してしまい、聖書に「飢餓でも満足した」と書いているものだから、自分たちが飢餓
による不満を溜め込んでいながらも、口では「満足している」と言うことしかできないようにすらなってしまう。
人類社会の退廃は、もうかなりの長期間に渡って、「暗黒大陸」とも呼ばれるブラックアフリカ社会に
定着したままでいる。それは、単なる土人社会であるという以上にも、劣悪な高度文明の有害廃棄物が
押し付けられたままでいる結果としての退廃なのであり、ちょうど欧米キリスト教圏の物質文明的な繁栄と
コインの裏表のような関係にある。ここにこそ、キリスト教圏の高度文明が決して褒められたようなものではない、
紛れもない根拠までもがあるのであり、欧米社会の繁栄の副産物としてのブラックアフリカの荒廃から
目を背けている限りにおいて、欧米社会の文明の高度さに対する賞賛や羨望までもが成立するのである。
欧米キリスト教圏起源の高度文明に与りながら、その代償としてのブラックアフリカの荒廃を無視する
ところにこそ、救いようのない罪がある。江戸時代以前の日本並みに、西洋文明の受容を拒絶した上で
アフリカの荒廃までをも無視するというのならまだしも、西洋文明の旺盛な受容者でいて、アフリカからは
目を背けるというのでは、それこそ強盗殺人犯も同然の振る舞いとなる。地球の裏側のアフリカの問題を
やたらと取り立てるのが偽善であるかのように決め付けられたりもするが、西洋文明の享受者である以上は、
たとえ日本人であろうとも、確実にアフリカの餓死児童の生き血を吸って生きている。隣国中国での食人の
風習に眉をひそめながら、自分たちはアフリカ人の血をすすって生きている。なんと矛盾した態度であろうか。
ないところに急激にロゴス信仰をあてがわれれば、もはやその文面通りに言葉を使うことしか許されない
という状態が固着化してしまい、聖書に「飢餓でも満足した」と書いているものだから、自分たちが飢餓
による不満を溜め込んでいながらも、口では「満足している」と言うことしかできないようにすらなってしまう。
人類社会の退廃は、もうかなりの長期間に渡って、「暗黒大陸」とも呼ばれるブラックアフリカ社会に
定着したままでいる。それは、単なる土人社会であるという以上にも、劣悪な高度文明の有害廃棄物が
押し付けられたままでいる結果としての退廃なのであり、ちょうど欧米キリスト教圏の物質文明的な繁栄と
コインの裏表のような関係にある。ここにこそ、キリスト教圏の高度文明が決して褒められたようなものではない、
紛れもない根拠までもがあるのであり、欧米社会の繁栄の副産物としてのブラックアフリカの荒廃から
目を背けている限りにおいて、欧米社会の文明の高度さに対する賞賛や羨望までもが成立するのである。
欧米キリスト教圏起源の高度文明に与りながら、その代償としてのブラックアフリカの荒廃を無視する
ところにこそ、救いようのない罪がある。江戸時代以前の日本並みに、西洋文明の受容を拒絶した上で
アフリカの荒廃までをも無視するというのならまだしも、西洋文明の旺盛な受容者でいて、アフリカからは
目を背けるというのでは、それこそ強盗殺人犯も同然の振る舞いとなる。地球の裏側のアフリカの問題を
やたらと取り立てるのが偽善であるかのように決め付けられたりもするが、西洋文明の享受者である以上は、
たとえ日本人であろうとも、確実にアフリカの餓死児童の生き血を吸って生きている。隣国中国での食人の
風習に眉をひそめながら、自分たちはアフリカ人の血をすすって生きている。なんと矛盾した態度であろうか。
「斉、大いに餓う。黔敖、食を路に為り、以て餓者を待ちて之れを食らわしむ。餓者の袂を蒙り履を
輯めて、貿貿然として来たる有り。黔敖、左に食を奉げ、右に飲を執る。曰く、嗟、来たり食らえと。
其の目を揚げて之れを視て曰く、予れは唯だ嗟来の食を食らわず。以て斯に至れるなりと。従って謝す。
終には食せずして死す。曾子之れを聞きて曰く、微なるかな、其の嗟するや去る可し。其の謝するや食す可し」
「斉国で大きな飢饉があった。資本家の黔敖は多くの食物を道に並べて、餓えた者たちにこれを与えていた。
飢餓者の中に袂で顔を覆って足を集めるような歩き方で、いかにも衰えた様子で来るものがあった。黔敖は
左手に食物を持ち、右手に飲料を持って『さあ食え』といかにも恩着せがましく言った。飢餓者は其の目を挙げて
黔敖を見ると、『私はこういった恩着せがましい偽善者の振舞う飲食を拒絶して来たから、ここまで餓えているのだ』
と言った。黔敖は詫びて謝りつつ飲食を振舞おうとしたが、遂にその飢餓者は何も飲み食いせずに死んだ。曾子はこれを
聞いていった。『微妙なところだ。恩着せがましい振る舞いは断ればいいが、謝りまでするのなら受けてもいいだろう』
(この飢餓者はおそらく、黔敖のような悪徳政商の横暴によって地位を追われた没落貴族か何かなのだろう。
清廉な徳治者を自らの横暴によって放逐したことで、国家規模での大飢饉までをも招いてしまっているのだから、
悪徳政商が飢餓者に飲食を提供するというのなら、平身低頭土下座しながらぐらいであって初めて妥当だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
輯めて、貿貿然として来たる有り。黔敖、左に食を奉げ、右に飲を執る。曰く、嗟、来たり食らえと。
其の目を揚げて之れを視て曰く、予れは唯だ嗟来の食を食らわず。以て斯に至れるなりと。従って謝す。
終には食せずして死す。曾子之れを聞きて曰く、微なるかな、其の嗟するや去る可し。其の謝するや食す可し」
「斉国で大きな飢饉があった。資本家の黔敖は多くの食物を道に並べて、餓えた者たちにこれを与えていた。
飢餓者の中に袂で顔を覆って足を集めるような歩き方で、いかにも衰えた様子で来るものがあった。黔敖は
左手に食物を持ち、右手に飲料を持って『さあ食え』といかにも恩着せがましく言った。飢餓者は其の目を挙げて
黔敖を見ると、『私はこういった恩着せがましい偽善者の振舞う飲食を拒絶して来たから、ここまで餓えているのだ』
と言った。黔敖は詫びて謝りつつ飲食を振舞おうとしたが、遂にその飢餓者は何も飲み食いせずに死んだ。曾子はこれを
聞いていった。『微妙なところだ。恩着せがましい振る舞いは断ればいいが、謝りまでするのなら受けてもいいだろう』
(この飢餓者はおそらく、黔敖のような悪徳政商の横暴によって地位を追われた没落貴族か何かなのだろう。
清廉な徳治者を自らの横暴によって放逐したことで、国家規模での大飢饉までをも招いてしまっているのだから、
悪徳政商が飢餓者に飲食を提供するというのなら、平身低頭土下座しながらぐらいであって初めて妥当だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「華厳経」でも、尊格名を通じて肯定されている「愛すべし」という理念。
ただ、愛すべき対象は人それぞれであり、誰かに命令されてそれを
愛するという受動的な愛ではなく、自主的に義務感を抱いて対象を愛する、
純粋に能動的な愛の肯定としての「愛すべし」でこそある。
儒学に基づくなら、全ての俗人が愛すべきなのは、「愛することが仁政に貢献するもの」だといえる。
君子が親に対して親愛を、主君に対して敬愛を、そして配下や下民に対して慈愛を抱いたなら、
それが仁政を実現する手立てになるから、君子は上記のような志しを持って愛すべきだといえる。
ただ、上記の例の時点で、すでに愛すべき対象が事前に決定されて、儒学という教学によって受動的に
愛させられていることになる。そこは確かに、完全なる自由下での能動的な愛を肯定する大乗仏教など
とは違う点であり、決して儒学自体が、完全に自由な愛などというものを認めているわけではない。
まず、儒学の受容を選択することから、完全な自由意思に基づくべきなのであり、完全な自由選択によって
儒学を受容した結果、その実践として、君父や下民に対する、それぞれの段階に見合った愛を義務的に抱く。
それでこそ、自由意思に即して「愛すべし」とする華厳思想と、儒学の実践もまた両立されることになる。
儒学の実践の内実はガチガチであり、強制的にやらされるとなれば、それはそれは大きな辟易を
抱かされるもの。だからこそ、儒学の受容を選択すること自体は完全な自由意思に基づくべきであり、
誰かに強制されたりされそうになれば、とんずらして雲隠れしてしまえばいいのである。
一切強制されることもなく、全くの自由意思で儒学の実践を選択したときにこそ、
自らが君子となったときの、君父や民への愛もまた、純粋に一途なものであり得るのだから。
「外、敵無く、内、順いて治まる。此れを之れ盛徳と謂う」
「外界には敵となるものがおらず、内政でも誰しもが随ってよく治まっている。このような状態を盛徳という。
孟子も『仁者に敵なし』というが、敵がいることからしてすでに、不仁にして薄徳なのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・聘義第四十八より)
ただ、愛すべき対象は人それぞれであり、誰かに命令されてそれを
愛するという受動的な愛ではなく、自主的に義務感を抱いて対象を愛する、
純粋に能動的な愛の肯定としての「愛すべし」でこそある。
儒学に基づくなら、全ての俗人が愛すべきなのは、「愛することが仁政に貢献するもの」だといえる。
君子が親に対して親愛を、主君に対して敬愛を、そして配下や下民に対して慈愛を抱いたなら、
それが仁政を実現する手立てになるから、君子は上記のような志しを持って愛すべきだといえる。
ただ、上記の例の時点で、すでに愛すべき対象が事前に決定されて、儒学という教学によって受動的に
愛させられていることになる。そこは確かに、完全なる自由下での能動的な愛を肯定する大乗仏教など
とは違う点であり、決して儒学自体が、完全に自由な愛などというものを認めているわけではない。
まず、儒学の受容を選択することから、完全な自由意思に基づくべきなのであり、完全な自由選択によって
儒学を受容した結果、その実践として、君父や下民に対する、それぞれの段階に見合った愛を義務的に抱く。
それでこそ、自由意思に即して「愛すべし」とする華厳思想と、儒学の実践もまた両立されることになる。
儒学の実践の内実はガチガチであり、強制的にやらされるとなれば、それはそれは大きな辟易を
抱かされるもの。だからこそ、儒学の受容を選択すること自体は完全な自由意思に基づくべきであり、
誰かに強制されたりされそうになれば、とんずらして雲隠れしてしまえばいいのである。
一切強制されることもなく、全くの自由意思で儒学の実践を選択したときにこそ、
自らが君子となったときの、君父や民への愛もまた、純粋に一途なものであり得るのだから。
「外、敵無く、内、順いて治まる。此れを之れ盛徳と謂う」
「外界には敵となるものがおらず、内政でも誰しもが随ってよく治まっている。このような状態を盛徳という。
孟子も『仁者に敵なし』というが、敵がいることからしてすでに、不仁にして薄徳なのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・聘義第四十八より)
慈善活動なんかは、キリスト教系の団体が多いよね。救世軍とか。
聖書の中で、隣人愛がつよくうたわれていて、その実践も求められるからか。
奪い、与えるのが、彼の宗教の特色なのかもしんないけど。
東洋では、あんまりそういうの定着してないよな。
仏教系、ましてや儒学系?の慈善団体なんか聞いたことがない。
小乗メインの国では、坊さんに対する布施は一般的でも
それ以外への施しの文化ってあまり無い様な気もする。
究極的に、仏教は、「悟り=執着を捨てる=気にするな」の精神だから
貧乏でも、病気で死にかけてても、心穏やかに全てを受け入れましょう
って感じだから・・きっと、そのせいかも。
聖書の中で、隣人愛がつよくうたわれていて、その実践も求められるからか。
奪い、与えるのが、彼の宗教の特色なのかもしんないけど。
東洋では、あんまりそういうの定着してないよな。
仏教系、ましてや儒学系?の慈善団体なんか聞いたことがない。
小乗メインの国では、坊さんに対する布施は一般的でも
それ以外への施しの文化ってあまり無い様な気もする。
究極的に、仏教は、「悟り=執着を捨てる=気にするな」の精神だから
貧乏でも、病気で死にかけてても、心穏やかに全てを受け入れましょう
って感じだから・・きっと、そのせいかも。
儒学や仏教は、始めから奪わないからだ。
万人を利して我が利ともする仁義道徳の実践を体系化した儒学と、
物乞いを含む出家行を通じて成道や涅槃を目指す仏教と、
いずれもがまず、他者から奪って自分が生きることを根本に置いていない。
奪っていないから、自分のせいで誰かが不幸になることもなく、
他人を不幸にしている罪悪感からなる苦悩を紛らわすために、
奪った富の一部を返却して気を紛らわしたりする必要もないから、
儒学や仏教が「他者に与えること」などを念頭に置いたりすることもない。
万人を利して我が利ともする仁義道徳の実践を体系化した儒学と、
物乞いを含む出家行を通じて成道や涅槃を目指す仏教と、
いずれもがまず、他者から奪って自分が生きることを根本に置いていない。
奪っていないから、自分のせいで誰かが不幸になることもなく、
他人を不幸にしている罪悪感からなる苦悩を紛らわすために、
奪った富の一部を返却して気を紛らわしたりする必要もないから、
儒学や仏教が「他者に与えること」などを念頭に置いたりすることもない。
一切皆苦の濁世の悩乱の中で、苦悩をさらに増大させるような悪行に及ぶことを
儒学も仏教も強く戒める。その手法の一つが「因果応報のわきまえ」であり、
諸法因果を哲理として説く仏教だけでなく、「こういった罪を犯せばこのような災禍を招く」
といったような、漠然とした因果律のわきまえが儒学でもある程度たしなまれる。
(究極的にいえば、儒学上の全ての論及も結局は因果律に適ってもいる)
因果律を破綻させようとするような不埒な言行に及ばないことはもちろん、
ただ因果律の普遍性をよくわきまえることだけでも、相当な爽快感が得られる。
因果性の破綻した馬鹿なものの考え方は、それ自体が糞詰まりのような悩乱を
包摂している一方で、深く因果律に根ざしたものの考え方にはそのような悩乱が
全く伴っていないために、自然と常日ごろから爽快な心持ちのままでいることができる。
因果律に深く根ざしたものの考え方と、実践上の浄行とが両立しているときに、
人は最大級の爽快感を得る。究極的にはそれは悟りともなり、あらゆる苦悩から解き放たれもする。
もちろんそこにまで至るのは甚だ困難なことであるにしろ、少しだけでも近づくぐらいのことはわけもない。
糞詰まりの悩乱を完全に解消するのは困難であるにしろ、軽減するぐらいのことは、今から誰にでも
できることで、ただ諸法因果の理を諾って、なるべくそこに近づこうとするだけでいいのである。
「下民の孽いは、天自り降せるに匪ず。僔沓して背き憎む、職ら競れ人に由る」
「世の民が禍いに遭うのは、何も天が禍いを降しているからではない。つまらぬ人間同士が
迎合したむろして、憎しみや怒りを募らせて謀反心までも抱く、そういった連中の存在こそが原因なのである。
(怒りや憎しみを無闇に募らせて吹き溜まるユダヤ人の悪念こそが、
旧約中でエホバの業とされているような禍いをも招くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・十月之交より)
儒学も仏教も強く戒める。その手法の一つが「因果応報のわきまえ」であり、
諸法因果を哲理として説く仏教だけでなく、「こういった罪を犯せばこのような災禍を招く」
といったような、漠然とした因果律のわきまえが儒学でもある程度たしなまれる。
(究極的にいえば、儒学上の全ての論及も結局は因果律に適ってもいる)
因果律を破綻させようとするような不埒な言行に及ばないことはもちろん、
ただ因果律の普遍性をよくわきまえることだけでも、相当な爽快感が得られる。
因果性の破綻した馬鹿なものの考え方は、それ自体が糞詰まりのような悩乱を
包摂している一方で、深く因果律に根ざしたものの考え方にはそのような悩乱が
全く伴っていないために、自然と常日ごろから爽快な心持ちのままでいることができる。
因果律に深く根ざしたものの考え方と、実践上の浄行とが両立しているときに、
人は最大級の爽快感を得る。究極的にはそれは悟りともなり、あらゆる苦悩から解き放たれもする。
もちろんそこにまで至るのは甚だ困難なことであるにしろ、少しだけでも近づくぐらいのことはわけもない。
糞詰まりの悩乱を完全に解消するのは困難であるにしろ、軽減するぐらいのことは、今から誰にでも
できることで、ただ諸法因果の理を諾って、なるべくそこに近づこうとするだけでいいのである。
「下民の孽いは、天自り降せるに匪ず。僔沓して背き憎む、職ら競れ人に由る」
「世の民が禍いに遭うのは、何も天が禍いを降しているからではない。つまらぬ人間同士が
迎合したむろして、憎しみや怒りを募らせて謀反心までも抱く、そういった連中の存在こそが原因なのである。
(怒りや憎しみを無闇に募らせて吹き溜まるユダヤ人の悪念こそが、
旧約中でエホバの業とされているような禍いをも招くのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・十月之交より)

諾うとされる「罪福(善因楽果悪因苦果の自業自得)」、これもまた因果応報の一つであり、
世俗社会に生きる一般人にとっては、最も重要な部類の因果律にも当たる。
(超俗であれば善悪をも超脱できるため、罪福も必ずしも絶対的なものではなくなる)
因果律に適ったものの考え方というのは、まるで快便のようで、極めて壮快である一方、
因果律の破綻しているものの考え方は、まるで糞詰まりのようで、極めて苦痛である。
両者を判別する能力があり、前者の壮快さと後者の苦痛さとを少なからず察するのが
愚童持斎心以上の住心の持ち主からで、最下等である異生羝羊心の持ち主の場合は、まったく
両者の判別も付かないから、どこまでも当たり前のこととして因果律の破綻したものの考え方を続け、
自分では自覚症状もないままに、常日ごろから糞詰まりの悩乱にあえぎ続けることになる。
因果応報の理を悟るとまではいかずとも、諾うまでいけば、少なくとも糞詰まりの悩乱を避けて、
快便の爽快さを保っていこうと心がけることができるが、因果応報を諾ってすらいないというのなら、
少しも悩乱を避けることができず、生きることが常に最重度の苦痛と共にのみあり続けることになるのである。
それこそ、どうしようもない不幸だといえる。生きることがありのままに最大級の苦痛と共に
あるという、それはそれはあられもない事態であり、千年生きようが二千年生きようが、
快便の爽快さの中で一日だけ生きるほどの満足もないままであり続けることに変わりないのである。
それが、「価値のない人生」なのかといえば、何ともいえない。
仏教的な観点に即するなら、この世は一切皆苦であり、悟りを拓くことで初めて
完全に苦しみから解き放たれるとする。しからば、悟りを拓くまでには至っていない俗人にあるのは、
苦しみが多いか少ないかという違いだけであり、愚童持斎心程度の境地にある儒者などの人間とて、
生きる苦しみから完全に解き放たれているわけではないことには変わりがないのだから。
苦しみの少ない幸福な人生に価値があり、苦しみの多い不幸な人生に価値が無いというのなら、
罪福を諾う愚童持斎心以上の境地の人生にこそより価値があり、「罪福って何それ? おいしいの?」
状態の異生羝羊心止まりな人生にこそ、より価値がないといえる。別にこれが、普遍的な価値基準に
根ざした判断だとも思わないが、幸不幸に全ての価値を還元するというのなら、そういうことになる。
「莫莫たる葛藟も、條枚に施びん。豈弟の君子は、福を求めて回わざる」
「ボウボウと生い茂る葛の蔓も、樹木に執拗に巻き付くようにして、
ゆったりと楽しんでいる君子もまた、幸福を追い求めることに間違いがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・早麓より)
仏教的な観点に即するなら、この世は一切皆苦であり、悟りを拓くことで初めて
完全に苦しみから解き放たれるとする。しからば、悟りを拓くまでには至っていない俗人にあるのは、
苦しみが多いか少ないかという違いだけであり、愚童持斎心程度の境地にある儒者などの人間とて、
生きる苦しみから完全に解き放たれているわけではないことには変わりがないのだから。
苦しみの少ない幸福な人生に価値があり、苦しみの多い不幸な人生に価値が無いというのなら、
罪福を諾う愚童持斎心以上の境地の人生にこそより価値があり、「罪福って何それ? おいしいの?」
状態の異生羝羊心止まりな人生にこそ、より価値がないといえる。別にこれが、普遍的な価値基準に
根ざした判断だとも思わないが、幸不幸に全ての価値を還元するというのなら、そういうことになる。
「莫莫たる葛藟も、條枚に施びん。豈弟の君子は、福を求めて回わざる」
「ボウボウと生い茂る葛の蔓も、樹木に執拗に巻き付くようにして、
ゆったりと楽しんでいる君子もまた、幸福を追い求めることに間違いがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・早麓より)
自分が致命的な落ち度を抱えている場合でも、他人の些細な落ち度までよく見えるということはある。
何万人とパレスチナ人を虐殺しているイスラエルが、中東諸国の強権政治を非難したりもできる。
(しかもその強権政治からして、イスラエルからの侵略を食い止めるための対抗措置だったりする)
人類を滅亡に陥れるほどもの大悪行に及んでいる重権力犯罪者が、市井のどうということもない若造の
一挙一動の中の些細な落ち度を非難して、それで自分たち自身の甚大な落ち度から目を背けたりもする。
そのとき、目は見えていないのではなく、むしろ見えすぎている。その見えすぎる監視力がすべて
他人のほうにばかり向けられて、自分自身には全く向けられていないことこそが問題なのである。
自らの落ち度にこそ目を向けるためには、むしろ監視力の高さなどないぐらいでいい。
収監された囚人が外界の事物を見聞きもできない環境下でこそ更生に務めるように、むしろ外界の事物への
不埒な出歯亀行為を企てるような手段が閉ざされたところでこそ、十分な内省にも務めることができる。
何万人とパレスチナ人を虐殺しているイスラエルが、中東諸国の強権政治を非難したりもできる。
(しかもその強権政治からして、イスラエルからの侵略を食い止めるための対抗措置だったりする)
人類を滅亡に陥れるほどもの大悪行に及んでいる重権力犯罪者が、市井のどうということもない若造の
一挙一動の中の些細な落ち度を非難して、それで自分たち自身の甚大な落ち度から目を背けたりもする。
そのとき、目は見えていないのではなく、むしろ見えすぎている。その見えすぎる監視力がすべて
他人のほうにばかり向けられて、自分自身には全く向けられていないことこそが問題なのである。
自らの落ち度にこそ目を向けるためには、むしろ監視力の高さなどないぐらいでいい。
収監された囚人が外界の事物を見聞きもできない環境下でこそ更生に務めるように、むしろ外界の事物への
不埒な出歯亀行為を企てるような手段が閉ざされたところでこそ、十分な内省にも務めることができる。
もちろん、収監されたからといって必ずしも十分な内省に務めるとも限らず、古代ユダヤ人のように
バビロン収監中に甚大な被害妄想を蓄えたものもいれば、日本のヤクザのように服役を「別荘通い」
ぐらいにしか考えていないものもいる。収監されたから反省するとも限らないし、また収監されなければ
反省しないとも限らない。収監される前から自分たちで反省して、相応の罰を受けるために自分たちからこそ自首して、
檻の中で自分たち自身の罪と面と向かい合っていくというのが、罪に服する手順としてはこの上ないあり方だといえる。
収監されなければならないほどもの落ち度であれ、そうでないのであれ、自らの落ち度と向かい合う上では
他人に対する監視などはかえって疎かにすらなるものだ。善因楽果悪因苦果の罪福異熟も、真理と道理の結節点とでも
いった存在であり、天理の一つとも見なせなくはない。そして天道である道家の老子こそは「戸を出ずして天下を見、
窓をうかがわずして天道を見る」とも言っている。道理を知るために見るべきものは、外などにはないのである。
「巽にして耳目聡明なり。(略)是れを以て元いに亨るなり」
「木鶏のような質朴な徳の持ち主でいて、なおかつ耳目が聡明であるなら、これによって大成する。
(「君子は見るには明を思う〈論語〉」ともあるが、耳目が聡明である以前に、有徳者であることが大事なのだ。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・鼎・彖伝より)
バビロン収監中に甚大な被害妄想を蓄えたものもいれば、日本のヤクザのように服役を「別荘通い」
ぐらいにしか考えていないものもいる。収監されたから反省するとも限らないし、また収監されなければ
反省しないとも限らない。収監される前から自分たちで反省して、相応の罰を受けるために自分たちからこそ自首して、
檻の中で自分たち自身の罪と面と向かい合っていくというのが、罪に服する手順としてはこの上ないあり方だといえる。
収監されなければならないほどもの落ち度であれ、そうでないのであれ、自らの落ち度と向かい合う上では
他人に対する監視などはかえって疎かにすらなるものだ。善因楽果悪因苦果の罪福異熟も、真理と道理の結節点とでも
いった存在であり、天理の一つとも見なせなくはない。そして天道である道家の老子こそは「戸を出ずして天下を見、
窓をうかがわずして天道を見る」とも言っている。道理を知るために見るべきものは、外などにはないのである。
「巽にして耳目聡明なり。(略)是れを以て元いに亨るなり」
「木鶏のような質朴な徳の持ち主でいて、なおかつ耳目が聡明であるなら、これによって大成する。
(「君子は見るには明を思う〈論語〉」ともあるが、耳目が聡明である以前に、有徳者であることが大事なのだ。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・鼎・彖伝より)
「キリストは、刑死して蘇ることにより、全ての人々の罪を償った」という文章は、
「キリスト(神の子)」という名前の存在が、「刑死して蘇る」という手段によって、
「全ての人々の罪を償う」という目的を達成することの因果律が、全く満たされていない。
神の子だから、刑死しても蘇るというのが、すでに不当である。
死刑は受刑者を殺すために行う刑罰であり、相手が神の子だというのなら、
神の子が死んで二度と蘇らないような処刑方法によって殺さねばならない。
(死んで蘇るような死刑を行うということは、刑罰が当たらず濁っているということでもある)
しかし、仮に神の子が不死であり、どんな処刑方法によっても死なせることが
できないとする。それなら始めから神の子は処刑などによって死なないのであり、
わざわざ刑死してから蘇るなどという道理は通らない。神の子が死ねるという場合にも、
死なないという場合にも、「死んで蘇る」という手段が実現されることはない。
そして、「刑死して蘇る」という手段によって、「全ての人々の罪を償う」という
目的が達成されること、これこそが絶対にあり得ない。仮に自分が強盗被害に遭ったとして、
強盗犯が罪を償いもせずに自分の前にやって来て、「キリストが刑死して蘇ることで
俺の罪も償われたから、二度と俺の罪を問うたりするな」とほざき、強奪した物品も一切
返却しなかったとする。それで、強盗犯自身を許してやれたり、するわけがないのであり、
「罪は加害者自身が償わなければならない」という因果律の保存は、犯罪の加害者ではなく
被害者の立場から考えてみた場合に、あまりにも自明なものであることが判明するのである。
神の子が刑死して蘇るか、刑死して蘇ることで全ての人々の罪を償うかどうかということは、
因果関係に即して考えてみるなら、その論理構造からして、自明に破綻しているのであり、
諸法因果の仏教的観点に即するなら、強く否定することが心がけられなければならないものですらある。
「キリスト(神の子)」という名前の存在が、「刑死して蘇る」という手段によって、
「全ての人々の罪を償う」という目的を達成することの因果律が、全く満たされていない。
神の子だから、刑死しても蘇るというのが、すでに不当である。
死刑は受刑者を殺すために行う刑罰であり、相手が神の子だというのなら、
神の子が死んで二度と蘇らないような処刑方法によって殺さねばならない。
(死んで蘇るような死刑を行うということは、刑罰が当たらず濁っているということでもある)
しかし、仮に神の子が不死であり、どんな処刑方法によっても死なせることが
できないとする。それなら始めから神の子は処刑などによって死なないのであり、
わざわざ刑死してから蘇るなどという道理は通らない。神の子が死ねるという場合にも、
死なないという場合にも、「死んで蘇る」という手段が実現されることはない。
そして、「刑死して蘇る」という手段によって、「全ての人々の罪を償う」という
目的が達成されること、これこそが絶対にあり得ない。仮に自分が強盗被害に遭ったとして、
強盗犯が罪を償いもせずに自分の前にやって来て、「キリストが刑死して蘇ることで
俺の罪も償われたから、二度と俺の罪を問うたりするな」とほざき、強奪した物品も一切
返却しなかったとする。それで、強盗犯自身を許してやれたり、するわけがないのであり、
「罪は加害者自身が償わなければならない」という因果律の保存は、犯罪の加害者ではなく
被害者の立場から考えてみた場合に、あまりにも自明なものであることが判明するのである。
神の子が刑死して蘇るか、刑死して蘇ることで全ての人々の罪を償うかどうかということは、
因果関係に即して考えてみるなら、その論理構造からして、自明に破綻しているのであり、
諸法因果の仏教的観点に即するなら、強く否定することが心がけられなければならないものですらある。
この世界の因果律が恒久普遍のものであるか否かということは、現代物理学などによっても
しばし論題に挙げられることではあるが、概ね、巨視的な因果律が保存されることでは同意が付いている。
プランクスケール級の微視的な領域においては未だ不明な点がある(ということにされている)ものの、
この世界の総体はえてして因果律の保存に司られていることが、物理的な観点からも認められている。
仏教的見地に即して強く肯定したりせずとも、因果応報の理をわきまえることは至極実用的なことであり、
キリスト教圏の西洋人といえども、自然科学を取り扱う場合などには因果律に根ざしたものの考え方を
自然とさせられているのであって、それでこそ科学を発展させられてきてもいるのである。
ただ、西洋人が金融業を営む場合などに際しては、因果律の破綻したキリスト教的なものの考え方を
持ち越していたりするものだから、限られた富を無限の資産によって回そうとするような暴挙にも
及んでしまい、結果として致命的な財政破綻を招いて、崩壊の危機に晒されたりもするのである。
アウグスチヌスによる上座部仏教教義(自殺の禁止など)の剽窃以来、ずっと、キリスト教徒は
キリスト教義による破綻を、仏教教義による救助で補うという歴史を繰り返して来たのであり、因果律に
適わないキリスト教教義だけで、キリスト教徒がこれまで生き延びられてきたような事実もないのである。
むしろ、キリスト教徒たち自身にすら破滅の種子ばかりを撒き散らしてきたキリスト教という
邪教の正体を知って、間違ってキリストやエホバに向けられていた信奉を、古来から本当に
信奉すべき存在であり続けてきた、お釈迦様などへと向けるようにすべきなのである。
「彼の泉水を相るに、載つ清み載つ濁る。我れ日びに禍いに構う、曷ぞや能ち穀きと云わん」
「泉水がせわしなく清まったり濁ったりするように、私も日々禍いに遭う。どうしてこれでいいなどと
いうことがいえようか。(ピューリタンも一つの極端であり、極端な濁悪からの振れ切りでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・四月より)
しばし論題に挙げられることではあるが、概ね、巨視的な因果律が保存されることでは同意が付いている。
プランクスケール級の微視的な領域においては未だ不明な点がある(ということにされている)ものの、
この世界の総体はえてして因果律の保存に司られていることが、物理的な観点からも認められている。
仏教的見地に即して強く肯定したりせずとも、因果応報の理をわきまえることは至極実用的なことであり、
キリスト教圏の西洋人といえども、自然科学を取り扱う場合などには因果律に根ざしたものの考え方を
自然とさせられているのであって、それでこそ科学を発展させられてきてもいるのである。
ただ、西洋人が金融業を営む場合などに際しては、因果律の破綻したキリスト教的なものの考え方を
持ち越していたりするものだから、限られた富を無限の資産によって回そうとするような暴挙にも
及んでしまい、結果として致命的な財政破綻を招いて、崩壊の危機に晒されたりもするのである。
アウグスチヌスによる上座部仏教教義(自殺の禁止など)の剽窃以来、ずっと、キリスト教徒は
キリスト教義による破綻を、仏教教義による救助で補うという歴史を繰り返して来たのであり、因果律に
適わないキリスト教教義だけで、キリスト教徒がこれまで生き延びられてきたような事実もないのである。
むしろ、キリスト教徒たち自身にすら破滅の種子ばかりを撒き散らしてきたキリスト教という
邪教の正体を知って、間違ってキリストやエホバに向けられていた信奉を、古来から本当に
信奉すべき存在であり続けてきた、お釈迦様などへと向けるようにすべきなのである。
「彼の泉水を相るに、載つ清み載つ濁る。我れ日びに禍いに構う、曷ぞや能ち穀きと云わん」
「泉水がせわしなく清まったり濁ったりするように、私も日々禍いに遭う。どうしてこれでいいなどと
いうことがいえようか。(ピューリタンも一つの極端であり、極端な濁悪からの振れ切りでしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・四月より)
「刑死して蘇る」という文章は、自己完結した情報として、権力道徳上の不正を帯びている。
死刑は受刑者を死滅させるために行う刑罰であり、死刑に処した人間が生き返ってしまう
というのでは、「刑罰あたらず」ということになり、社会統治上の不正行為ともなってしまう。
仮に相手が「神の子」であったとしたところで、もしも死刑に処するというのなら、神の子
が完全に死滅して、二度と生き返らないような方法で処刑するのが刑務者としての義務であり、
処刑したにもかかわらず生き返ったりしたのでは、刑務者にとっての不手際となってしまう。
そのような為政上の不正を、神の子がこの世にもたらしたとすれば、それは人々の罪を代わりに
償うどころか、世の中に不正を蔓延させることで、誰しもに無駄な罪状を背負わせる結果とすら
なってしまうわけだから、まさにキリスト(神の子)こそは、人々の罪を一切償うこともなく、
代わりに「権力犯罪の横行する社会に安住する」という従犯の罪を誰しもに着せたのだといえる。
もちろん、キリストが刑死して蘇ったというところからすでにフィクションであり、刑死して
二度と生き返らなかったか、もしくは始めから刑死していなかったかのいずれかであるというのが
真相であるには違いない。しかし、仮に「刑死して蘇った」というのが事実であったとしても、
それで「全ての人々の罪が償われた」とするのでは全く筋が通っておらず、むしろ「誰しもに
権力犯罪の従犯となる罪を着せた」とするほうが、因果関係が満たされていることにもなる。
フィクションかノンフィクションかなどという違いによらず、「刑死して蘇ることで
全ての人々の罪を償う」という構文が自己完結して、倫理的な因果関係を満たしていないのである。
刑死して蘇るということは、それ自体が不正なことだから、不正にまみれることにしかならないのである。
死刑は受刑者を死滅させるために行う刑罰であり、死刑に処した人間が生き返ってしまう
というのでは、「刑罰あたらず」ということになり、社会統治上の不正行為ともなってしまう。
仮に相手が「神の子」であったとしたところで、もしも死刑に処するというのなら、神の子
が完全に死滅して、二度と生き返らないような方法で処刑するのが刑務者としての義務であり、
処刑したにもかかわらず生き返ったりしたのでは、刑務者にとっての不手際となってしまう。
そのような為政上の不正を、神の子がこの世にもたらしたとすれば、それは人々の罪を代わりに
償うどころか、世の中に不正を蔓延させることで、誰しもに無駄な罪状を背負わせる結果とすら
なってしまうわけだから、まさにキリスト(神の子)こそは、人々の罪を一切償うこともなく、
代わりに「権力犯罪の横行する社会に安住する」という従犯の罪を誰しもに着せたのだといえる。
もちろん、キリストが刑死して蘇ったというところからすでにフィクションであり、刑死して
二度と生き返らなかったか、もしくは始めから刑死していなかったかのいずれかであるというのが
真相であるには違いない。しかし、仮に「刑死して蘇った」というのが事実であったとしても、
それで「全ての人々の罪が償われた」とするのでは全く筋が通っておらず、むしろ「誰しもに
権力犯罪の従犯となる罪を着せた」とするほうが、因果関係が満たされていることにもなる。
フィクションかノンフィクションかなどという違いによらず、「刑死して蘇ることで
全ての人々の罪を償う」という構文が自己完結して、倫理的な因果関係を満たしていないのである。
刑死して蘇るということは、それ自体が不正なことだから、不正にまみれることにしかならないのである。
「康誥に曰く、惟れ命は常ならずと。善なれば則ち之れを得、不善なれば則ち之れを失うを道う」
「『書経』の康誥に『天命に常に一定しているところはない』とあるが、善であればこれを得られるし、
不善であればこれを失うのである。(それほどにも不善を避けて善でいることは難しいということ。
天命を得てこそ人は活きることが出来、失った所では畜生も同然の惰生をを貪るしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・十より)
「『書経』の康誥に『天命に常に一定しているところはない』とあるが、善であればこれを得られるし、
不善であればこれを失うのである。(それほどにも不善を避けて善でいることは難しいということ。
天命を得てこそ人は活きることが出来、失った所では畜生も同然の惰生をを貪るしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・十より)
人間の欲望には限りがないが、この世の富には限りがある。
だから、誰しもの欲望を際限なく叶えてやろうとすれば、
必ずその欲望を満たしてやるための富が不足して、富の奪い合いのための戦乱や、
一方的な富の収奪が固定化されたことによる深刻な飢餓や貧窮が生ずることとなる。
そこまで事態が悪化する前にまず、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」というわきまえを
誰しもが抱き、欲望を適度化させた人々全員に対する、富の適正な配分を仁政によって実現するのが
俗世の人道というものであり、隣人愛や友愛の偏重によって人道を見失い、自分のごく近隣の
相手同士だけで際限のない欲望を叶えようとして、挙句には世界を戦乱や貧困に陥れるというのは
畜生道ないし餓鬼道であり、そのような世界全体が地獄も同然の様相を呈しているといえる。
別に、この世が地獄と化すこと自体を好き好んで画策する人間がいるというのではなく、
際限なく個人的な欲望を叶え尽くそうとした結果として、世界のほうが地獄も同然の状態と化すのであり、
そのような事態をもたらす小人に、大局の様相を見計らえるような優れた視力は元から備わっていない。
だから、自分たちでも知らず知らずのうちに、世界を地獄へと豹変させる元凶となった小人が、
いざ摘発を受けるという段になっても「なんで俺たちが?」という疑問を本気で抱くことになる。
第二次大戦中に、ナチスドイツに徹底的な弾圧を受けたユダヤ人などがまさにその例で、
アインシュタインのような天才科学者を含め、当時のユダヤ人の誰しもが、自分たちが弾圧の対象と
されたことに本気で疑問を抱き、心の底から本当に、ナチスやヒトラーに対する不平をも募らせていたのである。
だから、誰しもの欲望を際限なく叶えてやろうとすれば、
必ずその欲望を満たしてやるための富が不足して、富の奪い合いのための戦乱や、
一方的な富の収奪が固定化されたことによる深刻な飢餓や貧窮が生ずることとなる。
そこまで事態が悪化する前にまず、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」というわきまえを
誰しもが抱き、欲望を適度化させた人々全員に対する、富の適正な配分を仁政によって実現するのが
俗世の人道というものであり、隣人愛や友愛の偏重によって人道を見失い、自分のごく近隣の
相手同士だけで際限のない欲望を叶えようとして、挙句には世界を戦乱や貧困に陥れるというのは
畜生道ないし餓鬼道であり、そのような世界全体が地獄も同然の様相を呈しているといえる。
別に、この世が地獄と化すこと自体を好き好んで画策する人間がいるというのではなく、
際限なく個人的な欲望を叶え尽くそうとした結果として、世界のほうが地獄も同然の状態と化すのであり、
そのような事態をもたらす小人に、大局の様相を見計らえるような優れた視力は元から備わっていない。
だから、自分たちでも知らず知らずのうちに、世界を地獄へと豹変させる元凶となった小人が、
いざ摘発を受けるという段になっても「なんで俺たちが?」という疑問を本気で抱くことになる。
第二次大戦中に、ナチスドイツに徹底的な弾圧を受けたユダヤ人などがまさにその例で、
アインシュタインのような天才科学者を含め、当時のユダヤ人の誰しもが、自分たちが弾圧の対象と
されたことに本気で疑問を抱き、心の底から本当に、ナチスやヒトラーに対する不平をも募らせていたのである。
神がこの世を破滅に陥れているのではなく、自分たちの放辟邪侈こそはありのままに破滅の元凶である。
「自分たちが際限のない欲望を叶えようとするから、この世もまた戦乱や貧困に見舞われる」という、
言葉にしてみれば当たり前な因果関係を、現実社会に生きる人間としてわきまえているものは、結構少ない。
そもそも、因果応報のことわり自体を蔑ろにする場合が非常に多く、株式市場で際限なく肥大化した資本によって、
限られた富を取引したりしていることなどもその例だといえる。「キリストは、刑死して蘇ることで、全ての
人々の罪を償った」のような因果律の破綻した文章が、未だ権威として扱われるようなことすらあるわけだから、
そのような風潮からまず是正していくことで、因果関係を無視した思考や言行を未然に食い止めて行き、
それにより上記のような因果関係の、恒常的なわきまえまでをも実現していくようにしなければならない。
そのほうが、ただ「欲はほしいままにすべからず」という教条を絶対化する以上にも、根本的な対処にもなる。
「小人は(略)其の人を使うにおよびては、備わらんことを求む」
「つまらない人間は、人に何かをさせようとする時には、なんでもやることを求める。
(自分が奴隷並みの品性だから、他人に対しても奴隷並みに何でもやることを求めるのである。
『備わるを一人に求むることなかれ〈微子第十八・一〇〉』である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二五より)
「自分たちが際限のない欲望を叶えようとするから、この世もまた戦乱や貧困に見舞われる」という、
言葉にしてみれば当たり前な因果関係を、現実社会に生きる人間としてわきまえているものは、結構少ない。
そもそも、因果応報のことわり自体を蔑ろにする場合が非常に多く、株式市場で際限なく肥大化した資本によって、
限られた富を取引したりしていることなどもその例だといえる。「キリストは、刑死して蘇ることで、全ての
人々の罪を償った」のような因果律の破綻した文章が、未だ権威として扱われるようなことすらあるわけだから、
そのような風潮からまず是正していくことで、因果関係を無視した思考や言行を未然に食い止めて行き、
それにより上記のような因果関係の、恒常的なわきまえまでをも実現していくようにしなければならない。
そのほうが、ただ「欲はほしいままにすべからず」という教条を絶対化する以上にも、根本的な対処にもなる。
「小人は(略)其の人を使うにおよびては、備わらんことを求む」
「つまらない人間は、人に何かをさせようとする時には、なんでもやることを求める。
(自分が奴隷並みの品性だから、他人に対しても奴隷並みに何でもやることを求めるのである。
『備わるを一人に求むることなかれ〈微子第十八・一〇〉』である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二五より)
極端から極端に走るコーカソイドの悪癖は、有色コーカソイドとして極端な浄行に
務めるものの多いインドにおいても、釈迦の中道志向によって否定されている。
極端な富貴と、極端な貧困の両極端こそが、人を苦しみへと陥れる。
貧困が苦しみとなるのは誰しもが知るところだが、極端な富貴もまた、諸法因果の
ことわりに根ざした大局社会の破滅を必ず招くため、必ず大きな苦しみの原因ともなる。
富貴と貧困の両極端に走らない中道ないし中庸こそが、真理に根ざして最も苦しゅうない。
苦しみをあえて好き好むマゾヒストでもない限りは、富の多寡などに極端なこだわりを
持ちすぎないことが、一番幸福な結果にも結び付くのだから、それを奨励するどころですらない。
マゾヒストか自殺志願者でもないような、大多数の常人は、富への極端な執着などを
持たないことでこそ、望みの結果を得る。極端に膨大な自己資産を蓄えて、その場限りの
酒池肉林の遊蕩に耽ったりするほうが、後々により大きな禍いを招く。自分が死んでからどころか、
生きている内からそれはやって来て、楽しみ過ぎたに相応の過剰な苦しみを必ず被ることとなる。
欲望を捨て去るのではなく、洗練させてみたならば、極端な遊蕩などで自らの望みが成就する
見込みはないことが分かる。だから自らの心の底からの望みに即して、酒池肉林の放辟邪侈も退ける。
人の欲望が必ず放辟邪侈に結び付くなどと考えるほうが、見通しの甘い未熟者の決め付けなのであり、
そのような妄断を是とする世の中全体が、もはや欲望の何たるかすらをも見失ってしまっている。
最大級に自らの欲望を叶え尽くすためにこそ、自業自得の自滅を招くような、過度の遊蕩も避けるのである。
腹黒く、どこまでも望みを叶え尽くさんとするからこそ、自己資産の極端な積み重ねのような、
さほどでもない奇行にも手を出さないのである。そこに欲望の捨て去りなどはなく、より洗練された大望を
着実に叶えていく人としての成長があるのであり、極端から極端に走る未熟者には未だ与り知らぬ愉悦があるのである。
務めるものの多いインドにおいても、釈迦の中道志向によって否定されている。
極端な富貴と、極端な貧困の両極端こそが、人を苦しみへと陥れる。
貧困が苦しみとなるのは誰しもが知るところだが、極端な富貴もまた、諸法因果の
ことわりに根ざした大局社会の破滅を必ず招くため、必ず大きな苦しみの原因ともなる。
富貴と貧困の両極端に走らない中道ないし中庸こそが、真理に根ざして最も苦しゅうない。
苦しみをあえて好き好むマゾヒストでもない限りは、富の多寡などに極端なこだわりを
持ちすぎないことが、一番幸福な結果にも結び付くのだから、それを奨励するどころですらない。
マゾヒストか自殺志願者でもないような、大多数の常人は、富への極端な執着などを
持たないことでこそ、望みの結果を得る。極端に膨大な自己資産を蓄えて、その場限りの
酒池肉林の遊蕩に耽ったりするほうが、後々により大きな禍いを招く。自分が死んでからどころか、
生きている内からそれはやって来て、楽しみ過ぎたに相応の過剰な苦しみを必ず被ることとなる。
欲望を捨て去るのではなく、洗練させてみたならば、極端な遊蕩などで自らの望みが成就する
見込みはないことが分かる。だから自らの心の底からの望みに即して、酒池肉林の放辟邪侈も退ける。
人の欲望が必ず放辟邪侈に結び付くなどと考えるほうが、見通しの甘い未熟者の決め付けなのであり、
そのような妄断を是とする世の中全体が、もはや欲望の何たるかすらをも見失ってしまっている。
最大級に自らの欲望を叶え尽くすためにこそ、自業自得の自滅を招くような、過度の遊蕩も避けるのである。
腹黒く、どこまでも望みを叶え尽くさんとするからこそ、自己資産の極端な積み重ねのような、
さほどでもない奇行にも手を出さないのである。そこに欲望の捨て去りなどはなく、より洗練された大望を
着実に叶えていく人としての成長があるのであり、極端から極端に走る未熟者には未だ与り知らぬ愉悦があるのである。
下記のような、周代までの古代中国の肉食に関する礼法は、これからの食文化を考えていく上でも参考になる。
極端に肉食に依存している現代と、肉食を極端に戒めていた近代以前の日本と、いずれもが
これからの世の中においてそのまま適用するのも難しいものであるには変わりない。
「諸侯は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、
士は故無くして犬豕を殺さず、庶人は故無くして珍を食さず」
「諸侯でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また庶民は正当な理由無くして以上の獣の肉のような珍味を食してはならない。
(『左伝』荘公十年などにも、官職者を『肉食の者』と呼ぶ描写があるが、
『四つ足のものは椅子とテーブル以外はなんでも食う』という中国でも、
周代までは獣肉食は公職者に限って許されるものだった。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
「君は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、士は故無くして犬豕を殺さず。
君子は庖廚を遠ざけ、凡そ血気有るの類いは、身づから踐さざるなり」
「主君でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また、為政者階級の人間は自分では屠場に入らず、殺せば血が流れる類いの生き物を自分では殺さない。
(部落差別のない中国でも、為政者が血肉の穢れを忌むぐらいの風習はあった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
食肉利権を公有化するなどの方法が、今すぐにでも思いつくことができる手段だが、果たして。
極端に肉食に依存している現代と、肉食を極端に戒めていた近代以前の日本と、いずれもが
これからの世の中においてそのまま適用するのも難しいものであるには変わりない。
「諸侯は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、
士は故無くして犬豕を殺さず、庶人は故無くして珍を食さず」
「諸侯でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また庶民は正当な理由無くして以上の獣の肉のような珍味を食してはならない。
(『左伝』荘公十年などにも、官職者を『肉食の者』と呼ぶ描写があるが、
『四つ足のものは椅子とテーブル以外はなんでも食う』という中国でも、
周代までは獣肉食は公職者に限って許されるものだった。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
「君は故無くして牛を殺さず、大夫は故無くして羊を殺さず、士は故無くして犬豕を殺さず。
君子は庖廚を遠ざけ、凡そ血気有るの類いは、身づから踐さざるなり」
「主君でも正当な理由がなければ牛を殺さず、大夫でも羊を殺さず、士でも犬や猪を殺さない。
また、為政者階級の人間は自分では屠場に入らず、殺せば血が流れる類いの生き物を自分では殺さない。
(部落差別のない中国でも、為政者が血肉の穢れを忌むぐらいの風習はあった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・玉藻第十三より)
食肉利権を公有化するなどの方法が、今すぐにでも思いつくことができる手段だが、果たして。
全知全能というものを突き止めれば、そこには監視行為としての
出歯亀(不正な監視)も含まれるし、活動行為としての犯罪も含まれる。だから、
全知全能でいて、実際にその能力を行使したならば、その者は必ず、出歯亀の犯罪者になる。
その時点ですでに、当人が勧善懲悪を為すことだけは絶対に叶わなくなる。
全知全能の実践者すなわち勧善懲悪の不能者であり、
全知全能は、実践してしまった時点で、すでに全知全能ではなくなるのである。
だから、「為すこと無くして為さざる無きなり(荘子)」という状態が、全知全能の極致でもあり、
監視も活動も、何も為さないでいる限りにおいて、その者もまた本当に全知全能であり得る。
そして、いざ何かを実践するとなれば、その時は勧善懲悪に徹する。
監視を行うのなら出歯亀ではなく目付(正規の監視)となるようにし、
活動には必ず罪悪が伴わないようにする。その限りにおいて、本人にも「凶状」が
付帯しないので、隠居して何もしなくなった時に、また全知全能ともなり得るのである。
全知全能をありのままに実行したならば、出歯亀の犯罪者としての凶状が付帯してしまうので、
いざまた無為に立ち戻ったとしても、勧善懲悪がもはや不能であるため、全知全能ではなくなる。
全知全能は無為に付し、行動は勧善懲悪のみに徹する、それでこそ普遍的に全知全能でもある。
出歯亀や犯罪込みで全知全能を実行してしまったならば、その時点で、人間にとっての
最も愉悦的な行動たる、勧善懲悪の実行が不能となってしまうのだから、全知全能を実行に
移してしまうことほど、当人を最低最悪の不能者と化してしまう愚行も他にないのだといえる。
出歯亀(不正な監視)も含まれるし、活動行為としての犯罪も含まれる。だから、
全知全能でいて、実際にその能力を行使したならば、その者は必ず、出歯亀の犯罪者になる。
その時点ですでに、当人が勧善懲悪を為すことだけは絶対に叶わなくなる。
全知全能の実践者すなわち勧善懲悪の不能者であり、
全知全能は、実践してしまった時点で、すでに全知全能ではなくなるのである。
だから、「為すこと無くして為さざる無きなり(荘子)」という状態が、全知全能の極致でもあり、
監視も活動も、何も為さないでいる限りにおいて、その者もまた本当に全知全能であり得る。
そして、いざ何かを実践するとなれば、その時は勧善懲悪に徹する。
監視を行うのなら出歯亀ではなく目付(正規の監視)となるようにし、
活動には必ず罪悪が伴わないようにする。その限りにおいて、本人にも「凶状」が
付帯しないので、隠居して何もしなくなった時に、また全知全能ともなり得るのである。
全知全能をありのままに実行したならば、出歯亀の犯罪者としての凶状が付帯してしまうので、
いざまた無為に立ち戻ったとしても、勧善懲悪がもはや不能であるため、全知全能ではなくなる。
全知全能は無為に付し、行動は勧善懲悪のみに徹する、それでこそ普遍的に全知全能でもある。
出歯亀や犯罪込みで全知全能を実行してしまったならば、その時点で、人間にとっての
最も愉悦的な行動たる、勧善懲悪の実行が不能となってしまうのだから、全知全能を実行に
移してしまうことほど、当人を最低最悪の不能者と化してしまう愚行も他にないのだといえる。
ことに、行動に限っていえば、勧善懲悪こそが、全知全能の実行の上にすらある。
勧善懲悪者が全知全能の実行者になることはできても、出歯亀や権力犯罪にまで手を染めた
全知全能の実行者が、勧善懲悪の実行者になることは、もはや存命中には二度と叶わない。
「勧善懲悪→全知全能の実行」は可能でも、「全知全能の実行→勧善懲悪」は不能なわけだから、
人間というもの、行いについては勧善懲悪である内が華だということが、全知全能を
込みにした論議においても、磐石な普遍性を伴っていることが分かるのである。
すでに全知全能の実行に及んでしまった者共については、ご愁傷様という他はないが、
これからの世を背負っていく人々にとっては、上記のような普遍法則のわきまえが必須だといえる。
「子游曰く、吾が友の張や、能うこと難きを為すなり。然れども未だ仁ならず」
「子游が言った。『私の友人の子張は、人ができないようなこともうまくやってのけるが、
だからといって仁者だったというようなことは未だない』(仁徳と多能は比例しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一五より
勧善懲悪者が全知全能の実行者になることはできても、出歯亀や権力犯罪にまで手を染めた
全知全能の実行者が、勧善懲悪の実行者になることは、もはや存命中には二度と叶わない。
「勧善懲悪→全知全能の実行」は可能でも、「全知全能の実行→勧善懲悪」は不能なわけだから、
人間というもの、行いについては勧善懲悪である内が華だということが、全知全能を
込みにした論議においても、磐石な普遍性を伴っていることが分かるのである。
すでに全知全能の実行に及んでしまった者共については、ご愁傷様という他はないが、
これからの世を背負っていく人々にとっては、上記のような普遍法則のわきまえが必須だといえる。
「子游曰く、吾が友の張や、能うこと難きを為すなり。然れども未だ仁ならず」
「子游が言った。『私の友人の子張は、人ができないようなこともうまくやってのけるが、
だからといって仁者だったというようなことは未だない』(仁徳と多能は比例しない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一五より
真理や道理に根ざした本物の善悪正邪ってのは、ある程度以上に大きな都市社会で、
しかも仁徳を志す聖人君子が出現しないことには、なかなかその全貌が明らかにならない。
イスラエルやギリシャ程度の小社会で、善悪の分別が普遍化することがないのはもちろんのこと、
古代ローマや今のアメリカのような、誰一人として聖人君子となることを志しているわけでもない
衆愚型の大社会においても、普遍的な善悪正邪が思想体系などによって標準化されることもない。
そういった社会の人間が、「普遍的な善悪などは存在しない」などとほざくのは、自分たちが特定して、
普遍的な善悪の分別に与れたことのない、田舎者ないし大都会の衆愚であるからなだけである一方、
中国の仙人やインドの沙門が「善悪など虚妄だ」と述べるのは、彼らが超俗的な観点から、世俗の
倫理基準に過ぎない善悪正邪の「普遍性の小ささ」を指摘しているからであって、始めから普遍的な
善悪なんか知らない愚者と、善悪の普遍性の小ささまでも知り尽くしている聖者との差は、歴然としてある。
超俗的な観点から、善悪の普遍性の小ささを諦観する場合は一旦措くとして、自分が普遍的な善悪正邪
などは全く知らない立場から社会に参画し、そこで何かをやったとして、それが普遍的な勧善懲悪
たり得たりすることもまずない。勧善懲悪は、遠的の射的ほどにも実践がピンポイントなものであって、
めくらめっぽうに矢を射放ったからといって、それが的に命中するようなこともまずないからだ。
勧善懲悪だけでなく、善でも悪でもない行いに徹するということもまた、社会的には非常に難しいことで、
無軌道な欲望の思うが侭でいたりすれば、それだけで人の営みというものには、概ね罪悪が入り混じるもので
あるため、悪を行わないためにこそ、勧善懲悪以上にも徹底的な禁欲が必要とされることにもなるのである。
しかも仁徳を志す聖人君子が出現しないことには、なかなかその全貌が明らかにならない。
イスラエルやギリシャ程度の小社会で、善悪の分別が普遍化することがないのはもちろんのこと、
古代ローマや今のアメリカのような、誰一人として聖人君子となることを志しているわけでもない
衆愚型の大社会においても、普遍的な善悪正邪が思想体系などによって標準化されることもない。
そういった社会の人間が、「普遍的な善悪などは存在しない」などとほざくのは、自分たちが特定して、
普遍的な善悪の分別に与れたことのない、田舎者ないし大都会の衆愚であるからなだけである一方、
中国の仙人やインドの沙門が「善悪など虚妄だ」と述べるのは、彼らが超俗的な観点から、世俗の
倫理基準に過ぎない善悪正邪の「普遍性の小ささ」を指摘しているからであって、始めから普遍的な
善悪なんか知らない愚者と、善悪の普遍性の小ささまでも知り尽くしている聖者との差は、歴然としてある。
超俗的な観点から、善悪の普遍性の小ささを諦観する場合は一旦措くとして、自分が普遍的な善悪正邪
などは全く知らない立場から社会に参画し、そこで何かをやったとして、それが普遍的な勧善懲悪
たり得たりすることもまずない。勧善懲悪は、遠的の射的ほどにも実践がピンポイントなものであって、
めくらめっぽうに矢を射放ったからといって、それが的に命中するようなこともまずないからだ。
勧善懲悪だけでなく、善でも悪でもない行いに徹するということもまた、社会的には非常に難しいことで、
無軌道な欲望の思うが侭でいたりすれば、それだけで人の営みというものには、概ね罪悪が入り混じるもので
あるため、悪を行わないためにこそ、勧善懲悪以上にも徹底的な禁欲が必要とされることにもなるのである。
結局、普遍的な善悪正邪の分別を知らないままに、旺盛な社会活動に参画したりすれば、自然と悪逆非道や
善悪みそくその行いに結び付いてしまう。あからさまに殺し回り奪って回るだけの悪逆非道も後ろめたい
ものだから、悪行のうしろめたさをちょっとした慈善で気休めする、善悪みそくその行いが大多数となるが、
善悪みそくその範疇では、善行が悪行の規模を常に下回り続けるため、所詮は善行も偽善の範囲に止まる。
普遍的な善悪正邪など始めから知らなかったために、自然と善悪みそくそや悪逆非道の行いばかりに
終始してしまった人々に対して、その過ちを糾弾する場合、初犯である以上は、過失として扱うべきである。
大社会の大局法則から、普遍的な善悪正邪の倫理基準を見抜いた、孔子や孟子のような聖人君子が未だ
現れたこともなく、その思想体系をまともに聞き知ったこともないというような社会において、これまでに
犯されてきた過ちについては、全て過失として扱うほかはない。プラトンやアリストテレスや、モーセや
イエスなどが、普遍的な善悪の分別を計り知り得たことなども一度もないないわけだから、そのような愚人
たちの言行ばかりを倫理基準にして来たような社会の人間の過ちに、何らの故意性を見出すこともできない。
正しいということも、間違っているということも、結局のところ、誰もよく分かってはいなかった社会で、
倫理基準のオピニオンリーダーとされていたような連中の発言などにも、何ら参考とすべきところはない。
そうであることを諾うのと引き換えに、そのような社会でこれまで犯されて来た過ちも、全て過失扱いとなる。
「刑肅しくして俗敝るれば、法に則るに常無し」
「刑罰ばかりが厳しくて俗習から乖離するようなことになれば、法を守ろうにも常なる所がない。
(妾腹の私生児として妄言を垂れ流したからといって処刑されたイエスの存在自体が、
まともに法に則ることも覚束ない不法状態を、この世に呼び込む原因ともなっている。
不法状態の元凶たるイエスが、不法者を『知らない』などとほざく資格もないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より
善悪みそくその行いに結び付いてしまう。あからさまに殺し回り奪って回るだけの悪逆非道も後ろめたい
ものだから、悪行のうしろめたさをちょっとした慈善で気休めする、善悪みそくその行いが大多数となるが、
善悪みそくその範疇では、善行が悪行の規模を常に下回り続けるため、所詮は善行も偽善の範囲に止まる。
普遍的な善悪正邪など始めから知らなかったために、自然と善悪みそくそや悪逆非道の行いばかりに
終始してしまった人々に対して、その過ちを糾弾する場合、初犯である以上は、過失として扱うべきである。
大社会の大局法則から、普遍的な善悪正邪の倫理基準を見抜いた、孔子や孟子のような聖人君子が未だ
現れたこともなく、その思想体系をまともに聞き知ったこともないというような社会において、これまでに
犯されてきた過ちについては、全て過失として扱うほかはない。プラトンやアリストテレスや、モーセや
イエスなどが、普遍的な善悪の分別を計り知り得たことなども一度もないないわけだから、そのような愚人
たちの言行ばかりを倫理基準にして来たような社会の人間の過ちに、何らの故意性を見出すこともできない。
正しいということも、間違っているということも、結局のところ、誰もよく分かってはいなかった社会で、
倫理基準のオピニオンリーダーとされていたような連中の発言などにも、何ら参考とすべきところはない。
そうであることを諾うのと引き換えに、そのような社会でこれまで犯されて来た過ちも、全て過失扱いとなる。
「刑肅しくして俗敝るれば、法に則るに常無し」
「刑罰ばかりが厳しくて俗習から乖離するようなことになれば、法を守ろうにも常なる所がない。
(妾腹の私生児として妄言を垂れ流したからといって処刑されたイエスの存在自体が、
まともに法に則ることも覚束ない不法状態を、この世に呼び込む原因ともなっている。
不法状態の元凶たるイエスが、不法者を『知らない』などとほざく資格もないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より
日出ずる極東国たるこの日本こそは、プレート衝突や活断層だらけの地震の巣であり、
プレート型地震を原因とした大津波による被害もまた甚大なものとなる場合が多々ある。
さらには台風や梅雨による暴風雨にも日夜晒されている、まさに自然災害のメッカであり、イエスが
「住むべきでない土地」の内に入れた土地を、まるでありのままに具現化したような地勢の国土だといえる。
しかし、その日本でこそ、日ごろから薄氷を踏むような注意を欠かさない、神経の俊敏さを具えた人物が
多数生まれ育ってもいる。物事の隅々にまで行き渡る注意力の高さが、近代以降にも、精密な電子機械文明の
発展などに大きく寄与し、国産の工業製品の信頼度の高さでは、今でも世界随一の水準を保ち続けている。
惜しむらくは、日本人のずば抜けた注意力の高さが現時点においては、内政と外政のいずれにもおける
政治行為に全く反映されていないことである。今の日本の政治的な無策さが結果的には、国際社会の妄動
からなる争乱を野放しにする結果をも招いていて、このままだと自他共なる破綻すら免れ得ないのである。
今の日本では、儒書で「君子」や「小人」と呼ばれるうちの「小人」に当たる人種が、政治に携わっている。
いくら日本といえども、誰しもが必ず君子並みの注意深さを具えてまでいるわけではなく、江戸時代に
百姓以下の身分だった者の内で、特に武士による教化の行き届いていなかったような者の末裔の中には、
外国人並みかそれ以上にも注意力に欠ける者が多少存在する。また、そのような生粋の小人による感化を被って、
それなりに教化されていたような血筋でありながらも、自らが小人然と化してしまったような現代人もいる。
注意力の豊かな君子こそが政治に携わるためには、律令制や封建制に相当するような政治体制を
確立することによる、王道統治の実現が必要になる。権力者同士がひっきりなしの共食いを続ける
覇権主義社会などでは、君子もその能力を発揮することはできず、特に清廉な君子などは隠退を決め込んで、
表社会に足を踏み入れることから拒絶するようになる。だから「君子なんかいらない」となれば元の木阿弥で、
乱世を鼻つまみ者扱いする君子の気難しさこそは、治世の礎ともなるのだということを諾う他はないのである。
プレート型地震を原因とした大津波による被害もまた甚大なものとなる場合が多々ある。
さらには台風や梅雨による暴風雨にも日夜晒されている、まさに自然災害のメッカであり、イエスが
「住むべきでない土地」の内に入れた土地を、まるでありのままに具現化したような地勢の国土だといえる。
しかし、その日本でこそ、日ごろから薄氷を踏むような注意を欠かさない、神経の俊敏さを具えた人物が
多数生まれ育ってもいる。物事の隅々にまで行き渡る注意力の高さが、近代以降にも、精密な電子機械文明の
発展などに大きく寄与し、国産の工業製品の信頼度の高さでは、今でも世界随一の水準を保ち続けている。
惜しむらくは、日本人のずば抜けた注意力の高さが現時点においては、内政と外政のいずれにもおける
政治行為に全く反映されていないことである。今の日本の政治的な無策さが結果的には、国際社会の妄動
からなる争乱を野放しにする結果をも招いていて、このままだと自他共なる破綻すら免れ得ないのである。
今の日本では、儒書で「君子」や「小人」と呼ばれるうちの「小人」に当たる人種が、政治に携わっている。
いくら日本といえども、誰しもが必ず君子並みの注意深さを具えてまでいるわけではなく、江戸時代に
百姓以下の身分だった者の内で、特に武士による教化の行き届いていなかったような者の末裔の中には、
外国人並みかそれ以上にも注意力に欠ける者が多少存在する。また、そのような生粋の小人による感化を被って、
それなりに教化されていたような血筋でありながらも、自らが小人然と化してしまったような現代人もいる。
注意力の豊かな君子こそが政治に携わるためには、律令制や封建制に相当するような政治体制を
確立することによる、王道統治の実現が必要になる。権力者同士がひっきりなしの共食いを続ける
覇権主義社会などでは、君子もその能力を発揮することはできず、特に清廉な君子などは隠退を決め込んで、
表社会に足を踏み入れることから拒絶するようになる。だから「君子なんかいらない」となれば元の木阿弥で、
乱世を鼻つまみ者扱いする君子の気難しさこそは、治世の礎ともなるのだということを諾う他はないのである。
注意力の乏しい小人しか政治に携わらない覇権主義社会においてこそ、内憂外患が現実化する一方、
君子が統治する王化社会においては、君子自身が予め内憂外患への十分な注意力を働かせるため、
内憂外患の内容が現実化することがない。王道統治の実現を訴える孟子こそは、内憂外患への注意をよく
払うべきだということを告子章句下・一五で言っているのもだからこそであり、内乱も国際紛争も始めから
防ぎとめられている治世においてこそ、常日ごろから君子階級の人間による細心の注意までもが尽くされるのである。
岩盤の上に安住しきることで来たす注意力の乏しさこそは乱世を招く一方、
常日ごろから地震や洪水への警戒をも欠かさない注意力の高さこそが治世を守るのだから、
為政に携わるべきなのは当然、後者の素養に恵まれている人間だといえる。
「荘公の位に即くに及んで、之れが為めに制を請う。公曰く、制は岩邑なり。虢叔死せり。他の邑は唯だ命のままにせん」
「鄭で荘公が即位すると、母の武姜が弟の段に制という名の邑をくれてやってくれと頼んだ。すると荘公は言った。
『制は岩で形成された要害の地ですが、むかし虢叔という男が制の要害としての堅固さをたのみにしてうつつを抜かし、
自業自得で死んだことがあります。(ですから弟に制をやるのはお勧めできません。)他の村でしたらどこでも構いませんが」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公元年より
君子が統治する王化社会においては、君子自身が予め内憂外患への十分な注意力を働かせるため、
内憂外患の内容が現実化することがない。王道統治の実現を訴える孟子こそは、内憂外患への注意をよく
払うべきだということを告子章句下・一五で言っているのもだからこそであり、内乱も国際紛争も始めから
防ぎとめられている治世においてこそ、常日ごろから君子階級の人間による細心の注意までもが尽くされるのである。
岩盤の上に安住しきることで来たす注意力の乏しさこそは乱世を招く一方、
常日ごろから地震や洪水への警戒をも欠かさない注意力の高さこそが治世を守るのだから、
為政に携わるべきなのは当然、後者の素養に恵まれている人間だといえる。
「荘公の位に即くに及んで、之れが為めに制を請う。公曰く、制は岩邑なり。虢叔死せり。他の邑は唯だ命のままにせん」
「鄭で荘公が即位すると、母の武姜が弟の段に制という名の邑をくれてやってくれと頼んだ。すると荘公は言った。
『制は岩で形成された要害の地ですが、むかし虢叔という男が制の要害としての堅固さをたのみにしてうつつを抜かし、
自業自得で死んだことがあります。(ですから弟に制をやるのはお勧めできません。)他の村でしたらどこでも構いませんが」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公元年より
「この教えを守る者は末世に不遇を被る」というような意味のことが「法華経」にも
書かれてあるが、華厳経と同じように、法華経もまた自力作善の聖道門の経典に当たる。
聖道門の仏教などには、誰も在家信者としてすら帰依する余裕もなくなるような乱世において、
未だ法華の教えすらも忠実に守ろうとするものが、世間から浮くというのがその含意であり、
蘇我氏や平氏の横暴が未だ冷め遣らぬ頃に法華経に帰依していた聖徳太子や源頼朝も、自分たちで
それなりの実績を挙げながらも、あまり恵まれているともいえないような晩年を迎えている。
日蓮宗や創価学会の信者が世間で嫌われたりするのは、法華経の教えを忠実に守っているからではなく、
法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて、他を貶める独りよがりさが忌み嫌われているからなのであって、
これは法華経というよりは、日蓮や池田大作のほうに、信者を孤立化させている原因があるのだといえる。
キリスト教徒やユダヤ教徒が異教徒から忌み嫌われるのは、新旧約聖書に書かれている教条自体が、
異教異見を貶めて迫害の対象とするものであるからで、法華経の教条が末世に通用しない聖道門の教えだから
実践者が世間から浮くのとも、法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて他を貶めるから嫌われるのとも、
根本的に意味が違う。新旧約に書かれている内容自体が、信者を嫌われ者と化す原因となっているのだから、
経典の内容自体が信者を鼻つまみ者と化しているわけではない法華信仰とは、似て非なる代物であるといえる。
もちろん、個々の信徒や神父の独りよがりさが嫌悪の対象になることもあるが、ことに、嫌悪や糾弾の対象と
することが効果的なのは、あくまで独りよがりの元凶となっている事物に限るのであって、法華信仰の場合、
それは法華経ではなく日蓮や池田大作である一方、キリスト教やユダヤ教の場合、それは新旧約聖書である。
書かれてあるが、華厳経と同じように、法華経もまた自力作善の聖道門の経典に当たる。
聖道門の仏教などには、誰も在家信者としてすら帰依する余裕もなくなるような乱世において、
未だ法華の教えすらも忠実に守ろうとするものが、世間から浮くというのがその含意であり、
蘇我氏や平氏の横暴が未だ冷め遣らぬ頃に法華経に帰依していた聖徳太子や源頼朝も、自分たちで
それなりの実績を挙げながらも、あまり恵まれているともいえないような晩年を迎えている。
日蓮宗や創価学会の信者が世間で嫌われたりするのは、法華経の教えを忠実に守っているからではなく、
法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて、他を貶める独りよがりさが忌み嫌われているからなのであって、
これは法華経というよりは、日蓮や池田大作のほうに、信者を孤立化させている原因があるのだといえる。
キリスト教徒やユダヤ教徒が異教徒から忌み嫌われるのは、新旧約聖書に書かれている教条自体が、
異教異見を貶めて迫害の対象とするものであるからで、法華経の教条が末世に通用しない聖道門の教えだから
実践者が世間から浮くのとも、法華経という経典自体を金科玉条に祭り上げて他を貶めるから嫌われるのとも、
根本的に意味が違う。新旧約に書かれている内容自体が、信者を嫌われ者と化す原因となっているのだから、
経典の内容自体が信者を鼻つまみ者と化しているわけではない法華信仰とは、似て非なる代物であるといえる。
もちろん、個々の信徒や神父の独りよがりさが嫌悪の対象になることもあるが、ことに、嫌悪や糾弾の対象と
することが効果的なのは、あくまで独りよがりの元凶となっている事物に限るのであって、法華信仰の場合、
それは法華経ではなく日蓮や池田大作である一方、キリスト教やユダヤ教の場合、それは新旧約聖書である。
「罪を憎んで人を憎まず」というが、信者の独りよがりを増進させる邪教についても、
「邪教を憎んで信者を憎まず」ということがいえる。いくら目先の信者の独りよがりさを憎んだ所で、
信者たちも意志薄弱と化して、ただある種の狂信に隷従している子羊というばかりの存在なのだから、
信者たち自身を嫌悪や糾弾の対象にしても、それは、暖簾に腕押し糠に釘というばかりのことになる。
むしろ、信者が肩透かしを食らわされたと思うほどにも、信者たち自身は糾弾の対象などにせず、
信仰の対象となっている新旧約や日蓮や大作だけを徹底して糾弾の対象とし、「えんがちょ」扱いともする。
川の源流に濁りの原因があるのなら、源流を浄化すらすれば、川下もまた自然と澄んでいくものだから、
川下の濁りをいちいち浄化して回るような徒労に及ぶぐらいなら、源流の浄化にこそ専念すべきだといえる。
「冉豎、陳武子を射、手に中たる。弓を失いて罵る、以て平子に告げて曰く、君子有り、白皙、鬒鬚眉、甚口なりと。
平子曰く、必ずや子彊なり、乃ち諸の亢うこと無かりしや。對えて曰く、之れを君子と謂えり、何をか敢えて之れに亢わん」
「冉豎が陳武子という将兵を射た。矢はその手に当たり、陳武子は弓を取り落として、憤激のあまり冉豎をののしった。
冉豎は退却して陣中で平子に告げた。『先ほどの戦いで、色白で立派な髭に眉、それに大きな口の君子に出会いました』
平子『それは子彊(陳武子)だろう。対抗したりしなかっただろうな』 冉豎『君子なのに、どうして対抗できましょうか』
(陳武子は手を射られて戦闘不能になりながらも、命を永らえたことに憤激して、冉豎をののしったのである。その使命感の
高さこそは君子に値するものだったのであり、冉豎も対抗することに怖れを抱いて、そのまま退却したのである。敵将に罵られ
ながらも、そこに相手の使命感の高さを汲み取って、難戦となることを避けて退却した冉豎もまた中々の人物だったといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十六年より)
「邪教を憎んで信者を憎まず」ということがいえる。いくら目先の信者の独りよがりさを憎んだ所で、
信者たちも意志薄弱と化して、ただある種の狂信に隷従している子羊というばかりの存在なのだから、
信者たち自身を嫌悪や糾弾の対象にしても、それは、暖簾に腕押し糠に釘というばかりのことになる。
むしろ、信者が肩透かしを食らわされたと思うほどにも、信者たち自身は糾弾の対象などにせず、
信仰の対象となっている新旧約や日蓮や大作だけを徹底して糾弾の対象とし、「えんがちょ」扱いともする。
川の源流に濁りの原因があるのなら、源流を浄化すらすれば、川下もまた自然と澄んでいくものだから、
川下の濁りをいちいち浄化して回るような徒労に及ぶぐらいなら、源流の浄化にこそ専念すべきだといえる。
「冉豎、陳武子を射、手に中たる。弓を失いて罵る、以て平子に告げて曰く、君子有り、白皙、鬒鬚眉、甚口なりと。
平子曰く、必ずや子彊なり、乃ち諸の亢うこと無かりしや。對えて曰く、之れを君子と謂えり、何をか敢えて之れに亢わん」
「冉豎が陳武子という将兵を射た。矢はその手に当たり、陳武子は弓を取り落として、憤激のあまり冉豎をののしった。
冉豎は退却して陣中で平子に告げた。『先ほどの戦いで、色白で立派な髭に眉、それに大きな口の君子に出会いました』
平子『それは子彊(陳武子)だろう。対抗したりしなかっただろうな』 冉豎『君子なのに、どうして対抗できましょうか』
(陳武子は手を射られて戦闘不能になりながらも、命を永らえたことに憤激して、冉豎をののしったのである。その使命感の
高さこそは君子に値するものだったのであり、冉豎も対抗することに怖れを抱いて、そのまま退却したのである。敵将に罵られ
ながらも、そこに相手の使命感の高さを汲み取って、難戦となることを避けて退却した冉豎もまた中々の人物だったといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十六年より)

邪信にかまけた悪逆非道による、自業自得での破滅の危機である。
十億人規模の犠牲者をはじき出している、聖書圏の資本主義者による重大権力犯罪、
その反動として発生している、人類滅亡級の危険性を伴った、世界規模での人口爆発。
その人口爆発を食い止めるためには、聖書信仰という邪教を破棄しての、
自分たち自身での罪の償いが必要になるし、逆に聖書信仰を破棄せずに、
相も変わらず冤罪乱発の悪逆非道を続けたなら、本当に人類も滅亡へと
追い込まれ、それにより、これまた聖書信仰までもが強制的に途絶させられる。
誰に躓かせられるでもなく、聖書信者たち自身の邪信にかまけた悪逆非道が、
どうあっても聖書信仰を潰えさせざるを得ない事態を、自業自得で招いている。
聖書信者に、聖書信仰を躓かせるのは、聖書信者たち自身である。
ゆえに、仮に「信仰を躓かせる者は不幸である」というのなら、
聖書信者たち自身こそは、最大級の不幸者でもあるといえる。
信仰の対象が何であれ、信仰という形である種の一途さを貫いてきたこと、それ自体は、
何に対してもいい加減であったりするよりも、まだ見ようのあることだといえる。
仏門もまた、出家者は自力修行に一途であり、在家や他力の信者は、信仰にかけて一途である。
また、信教ではない儒学においても、親への孝心や主君への忠心が一途であることが奨励される。
何かにかけて一途であることの指針となるのが、「教学」たるものの本分であり、
教学の「教」の部分を省いて、何のための学なのかも不審と化してしまっている洋学などと違い、
一途であるべき指針を明確に打ち出しているが故に、立派な教学である点こそが、儒学の評価さるべき点でもある。
しかるに、聖書信仰もまた、「信仰にかけて一途であれ」という指針と共にある教学ではあるはず
だったのに、その一途であり続けてきた信仰を、否応なく躓かせざるを得ないような事態とあいなった。
それは、聖書信仰という教学の「学」の部分が、悪逆非道の指針でこそあり、故に、それに対する
信仰もまた邪信としかなり得なかったために、邪信に対して一途であり続けて来たが故の自業自得として、
それ自体は決してダメなものというわけでもない「一途さ」までをも、潰えさせざるを得なくなったのである。
一途さにも、正しい指針への一途さと、邪まな指針への一途さとがあるのであり、
正しい指針に基づいていてこそ一途さも貫ける一方、邪まな指針にしか基づいていないのならば、
その一途さ自体を潰えさせざるを得ないような事態を、最終的には必ず招いてしまうのである。
ここにこそ、正邪善悪の決定的な分岐点までもがある。
正しいものへの一途さだから続けられ、邪まなものへの一途さだから続けられない。
両者の関係性は全くの非可換であるが故に、正邪を転倒させたり、善悪を無みしたりすることも叶わない。
邪義を正義と夢想する転倒は、それ自体が自業自得での断絶を強いられることにより、
もはや相対化のしようもない、完全なる過ちであったことまでもが確定するのである。
「吾れ幸いにして囚わるることを得ん」
「(負けるのは当然のこと、)無事に捕虜となれたならば、それだけでも幸福というものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十五年より)
何に対してもいい加減であったりするよりも、まだ見ようのあることだといえる。
仏門もまた、出家者は自力修行に一途であり、在家や他力の信者は、信仰にかけて一途である。
また、信教ではない儒学においても、親への孝心や主君への忠心が一途であることが奨励される。
何かにかけて一途であることの指針となるのが、「教学」たるものの本分であり、
教学の「教」の部分を省いて、何のための学なのかも不審と化してしまっている洋学などと違い、
一途であるべき指針を明確に打ち出しているが故に、立派な教学である点こそが、儒学の評価さるべき点でもある。
しかるに、聖書信仰もまた、「信仰にかけて一途であれ」という指針と共にある教学ではあるはず
だったのに、その一途であり続けてきた信仰を、否応なく躓かせざるを得ないような事態とあいなった。
それは、聖書信仰という教学の「学」の部分が、悪逆非道の指針でこそあり、故に、それに対する
信仰もまた邪信としかなり得なかったために、邪信に対して一途であり続けて来たが故の自業自得として、
それ自体は決してダメなものというわけでもない「一途さ」までをも、潰えさせざるを得なくなったのである。
一途さにも、正しい指針への一途さと、邪まな指針への一途さとがあるのであり、
正しい指針に基づいていてこそ一途さも貫ける一方、邪まな指針にしか基づいていないのならば、
その一途さ自体を潰えさせざるを得ないような事態を、最終的には必ず招いてしまうのである。
ここにこそ、正邪善悪の決定的な分岐点までもがある。
正しいものへの一途さだから続けられ、邪まなものへの一途さだから続けられない。
両者の関係性は全くの非可換であるが故に、正邪を転倒させたり、善悪を無みしたりすることも叶わない。
邪義を正義と夢想する転倒は、それ自体が自業自得での断絶を強いられることにより、
もはや相対化のしようもない、完全なる過ちであったことまでもが確定するのである。
「吾れ幸いにして囚わるることを得ん」
「(負けるのは当然のこと、)無事に捕虜となれたならば、それだけでも幸福というものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公十五年より)
聖書信仰は、発祥地であるイスラエルよりも以西の人間に積極的に取り入れられた一方で、
イスラエル以東の人間に積極的に取り入れられたような痕跡は、全くと言っていいほどない。
常に、西洋の宣教師なり侵略勢力なりが、独りよがりな押し付けによって、東方の諸地域にも勝手に
聖書信仰を流布しているだけで、東方人が自分たちから積極的に聖書信仰を求めたことなどは、一度もない。
常に必ず、西洋の側からのお節介極まりない押し付けがあってから後に、東洋でも聖書信仰が流通している。
日出ずる東方への親しみを、東方への安住という実践と共に育んできた東洋人にとって、聖書信仰の
内容は、何ら魅力的に映る所すらない。その言うところはどこまでも「不正を義とする」というまでの
ことであって、正しき義を実践からの光明への親しみによって育んできた東洋人にとっては、その内容が
極端な拒絶反応を催させるものですらあり、そもそも親しみを抱くなどという以前の問題ですらある。
罪を犯しすぎて正義の光明に与れなくなっているのは、どこまでも
聖書信者たち自身だけであり、全人類一般に対して普遍的に言えたりすることではない。
自分たちこそが独走的に罪悪の暗闇に没頭し尽くしているだけで、暗闇から救われる
手段があったとしても、それにすがる必要があるのもまた聖書信者たち自身だけである。
「自分たちこそが特定して罪悪の暗闇のとりこと化している」という、厳粛な状況判断も覚束ないままに、
「誰しもが罪を犯して暗闇にある中で、自分たちだけが信仰によって義とされる」と断じていることまた
専らな妄断であり、現実把握すら覚束ない中での妄断なものだから、その判断内容もまた全くの虚偽である。
まずは、自分たちこそが特定して罪悪の虜であるという現実を把握する、その上で、そうであっても
救われる方法をさらに模索したとする。そしたらそれは、妄念への没頭を主旨とする聖書信仰などでは
あり得ないことが自ずと明らかになる。あったところで、それは聖書信仰ではない。聖書信仰こそは
自分たちを暗闇の奥底へと貶めている元凶であるのだから、人並みの光明に与るためにこそむしろ、
聖書信仰を根本から破棄することが必要であるのだと思い知らされるほかはないからだ。
イスラエル以東の人間に積極的に取り入れられたような痕跡は、全くと言っていいほどない。
常に、西洋の宣教師なり侵略勢力なりが、独りよがりな押し付けによって、東方の諸地域にも勝手に
聖書信仰を流布しているだけで、東方人が自分たちから積極的に聖書信仰を求めたことなどは、一度もない。
常に必ず、西洋の側からのお節介極まりない押し付けがあってから後に、東洋でも聖書信仰が流通している。
日出ずる東方への親しみを、東方への安住という実践と共に育んできた東洋人にとって、聖書信仰の
内容は、何ら魅力的に映る所すらない。その言うところはどこまでも「不正を義とする」というまでの
ことであって、正しき義を実践からの光明への親しみによって育んできた東洋人にとっては、その内容が
極端な拒絶反応を催させるものですらあり、そもそも親しみを抱くなどという以前の問題ですらある。
罪を犯しすぎて正義の光明に与れなくなっているのは、どこまでも
聖書信者たち自身だけであり、全人類一般に対して普遍的に言えたりすることではない。
自分たちこそが独走的に罪悪の暗闇に没頭し尽くしているだけで、暗闇から救われる
手段があったとしても、それにすがる必要があるのもまた聖書信者たち自身だけである。
「自分たちこそが特定して罪悪の暗闇のとりこと化している」という、厳粛な状況判断も覚束ないままに、
「誰しもが罪を犯して暗闇にある中で、自分たちだけが信仰によって義とされる」と断じていることまた
専らな妄断であり、現実把握すら覚束ない中での妄断なものだから、その判断内容もまた全くの虚偽である。
まずは、自分たちこそが特定して罪悪の虜であるという現実を把握する、その上で、そうであっても
救われる方法をさらに模索したとする。そしたらそれは、妄念への没頭を主旨とする聖書信仰などでは
あり得ないことが自ずと明らかになる。あったところで、それは聖書信仰ではない。聖書信仰こそは
自分たちを暗闇の奥底へと貶めている元凶であるのだから、人並みの光明に与るためにこそむしろ、
聖書信仰を根本から破棄することが必要であるのだと思い知らされるほかはないからだ。

暗闇の中に義の指標などを提示したところで、その一切合切が暗がりの範疇の代物でしかないために、
暗がりの中でだけ義とされているものもまた普遍的には不義の内に入るものである。だから、
自分たち自身が暗闇をもたらしている聖書信仰の内側で義とされているようなものにすがったところで、
所詮は不義のうちでしかないから、それによって救われるようなことも当然ないのである。
犯罪聖書の教義は、本当に致命的な勘違いの塊である。正統な自家教学が豊富な東洋の人間からすれば
「どうしてこれほどにも・・」と思わされるほどにも、複雑骨折状態の勘違い思い違いのオンパレードであり、
しかも複雑骨折がろくに整復もされないままに、グチャグチャにひん曲がったままの状態で癒合してしまい、
まともな形状に矯正するためには、今一度骨を砕き尽くさなければならないというほどにも、勘違いの
正当化や美化による固着化が進行してしまっている。だから、たかが勘違いを解きほぐしてやるだけでも、
上記ほどにも錯綜した論及が避けられなくなる。これが元聖書信者はもちろんのこと、ただの常人にすら
なかなか理解の困難な代物であることが、自分でも察知されるもの。あまり一気に直し尽くしてしまおう
などともせず、なるべく長い期間をかけた、丹念な治療に専念していくように、聖書信者たちにも促すほかはない。
「言行は君子の枢機なり。枢機の発は栄辱の主なり」
「自らの言行こそは、君子にとって最も重要なものである。それが為された瞬間に、自らの栄光や恥辱も決まるのである。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
邪神信仰の悪因苦果によって、実際に自分自身が禁治産や服役、処刑などの処分に遭う場合と、
自分自身はそこまで行く前に、現行逃亡犯であることを貫き通したままで人生を終える場合と、
いずれにおいても、善を善とし悪を悪とする、名辞が正された後の世の中における最大級の不名誉を被る。
180度転倒夢想の完全誤謬を、2000年間も性懲りもなく信じ込んできた血筋であることなどは、
これから2000年以上、インドや昔の日本の被差別階級も同然の人種として扱われたとしても全く仕方がない
十分な事由になる。実際にそれほどまでにも、不能信仰者の血筋を徹底的な差別下に置かなければ、
また今と同じような人類滅亡の危機が再来することにもなりかねないのであり、仮に今回の危機が免れ得た所で、
同じような滅亡の危機を何度も何度も呼び込んでいたなら、そのうち本当に滅亡すら来たしかねないから、
不能信仰に耽溺してしまうような性向を宿している血筋について、子々孫々の代々に至るまでの
禁治産や参政権剥奪などの、一定以上の社会的制限を科す必要までもが出てくることになるのである。
本当にそうするかどうか、するとして、どの程度の制限になるかといったことは、現時点ではまだ確定まではしていない。
実際に制限を科し始めた所で、後々に加減を加えていくことだって、当然あり得る。ただ、上記のような、
想定としても最大級に酷烈な制限すらをも元聖書信者が無条件に受け入れるというのでもなければ、自業自得で
破滅の危機に陥っている今の聖書信者たちを、救ってやれる人間ですら、救ってやろうともしないだろう。
異教徒や異人種と対等であることを自分たちから拒絶し、累犯障害によって不正に蓄えた甚大な権益の
嵩にかかって無根拠に偉ぶっている、今の白人の聖書信者などを、救ってやれる人間だって、救ってやりたくもない。
自分自身はそこまで行く前に、現行逃亡犯であることを貫き通したままで人生を終える場合と、
いずれにおいても、善を善とし悪を悪とする、名辞が正された後の世の中における最大級の不名誉を被る。
180度転倒夢想の完全誤謬を、2000年間も性懲りもなく信じ込んできた血筋であることなどは、
これから2000年以上、インドや昔の日本の被差別階級も同然の人種として扱われたとしても全く仕方がない
十分な事由になる。実際にそれほどまでにも、不能信仰者の血筋を徹底的な差別下に置かなければ、
また今と同じような人類滅亡の危機が再来することにもなりかねないのであり、仮に今回の危機が免れ得た所で、
同じような滅亡の危機を何度も何度も呼び込んでいたなら、そのうち本当に滅亡すら来たしかねないから、
不能信仰に耽溺してしまうような性向を宿している血筋について、子々孫々の代々に至るまでの
禁治産や参政権剥奪などの、一定以上の社会的制限を科す必要までもが出てくることになるのである。
本当にそうするかどうか、するとして、どの程度の制限になるかといったことは、現時点ではまだ確定まではしていない。
実際に制限を科し始めた所で、後々に加減を加えていくことだって、当然あり得る。ただ、上記のような、
想定としても最大級に酷烈な制限すらをも元聖書信者が無条件に受け入れるというのでもなければ、自業自得で
破滅の危機に陥っている今の聖書信者たちを、救ってやれる人間ですら、救ってやろうともしないだろう。
異教徒や異人種と対等であることを自分たちから拒絶し、累犯障害によって不正に蓄えた甚大な権益の
嵩にかかって無根拠に偉ぶっている、今の白人の聖書信者などを、救ってやれる人間だって、救ってやりたくもない。
おまえらは自分たちから進んで、自分たちが救われる芽を摘んでいるのだから、自分たちが救われない責任を
自分たち以外の誰かに押し付ける資格もない。おまえらが他者に対して蓄えてきた甚大な蔑視は、ありのままに
おまえら自身に全てはね返っていくのであり、それがとんでもない苦痛になることは、こちらが不当に蔑まれた
経験の持ち主であることからも、十分に察知している。その苦痛をおまえらが自主的に受け入れでもしないのなら、
たとえ救ってやろうとしたところで、後々に反発するなり訴えるなりしてくるのが見え透いているから、そのような
恩を仇で返す所業に及ぶことが紛れもない分際に対して、当然、こちらから救ってやりたいなどと思うこともない。
今まで聖書圏において蓄積されて来た、2000年にわたる不正の歴史、その全ての罪責を子々孫々の代々に渡るまで
償い続けていくことを完全に承諾するのでもなければ、決して救おうとすらしない。人類史上でも未曾有の規模の
大罪を償っていかなければならないことからも、全地球人類の内でも、最も不幸な運命こそをこれから受け入れて
いかなければならない、その運命こそを自分たちから進んで受け入れて、絶対に不平も言わないと約束しなければならない。
これもあくまで、「考え得る限りでも最も悲惨な運命」という一つの想定であり、実際の処分が全くその通りに
なるとも確定してはいない。しかし、上記ほどにも酷烈な運命すらをも受け入れるということを、想定の範囲内としては
承らねばならず、実際にそうなったとしても文句の一つも言わないということを、完全に諾わなければならない。
欧米聖書圏中でも最大級の権力犯罪大国であるアメリカやイギリスこそは、同時に最大級の訴訟大国でもあり、
自分たちのペースでは、不平があれば訴えるのが当然だとしているのが見るに明らか。だからこそ、
最悪の運命であっても文句一つ言わず受け入れるということを、正式に誓約でもして来ないのならば、
こちらも救ってやる気にすらなりもしない。これもまた一つの、身から出たサビだといえる。
自分たち以外の誰かに押し付ける資格もない。おまえらが他者に対して蓄えてきた甚大な蔑視は、ありのままに
おまえら自身に全てはね返っていくのであり、それがとんでもない苦痛になることは、こちらが不当に蔑まれた
経験の持ち主であることからも、十分に察知している。その苦痛をおまえらが自主的に受け入れでもしないのなら、
たとえ救ってやろうとしたところで、後々に反発するなり訴えるなりしてくるのが見え透いているから、そのような
恩を仇で返す所業に及ぶことが紛れもない分際に対して、当然、こちらから救ってやりたいなどと思うこともない。
今まで聖書圏において蓄積されて来た、2000年にわたる不正の歴史、その全ての罪責を子々孫々の代々に渡るまで
償い続けていくことを完全に承諾するのでもなければ、決して救おうとすらしない。人類史上でも未曾有の規模の
大罪を償っていかなければならないことからも、全地球人類の内でも、最も不幸な運命こそをこれから受け入れて
いかなければならない、その運命こそを自分たちから進んで受け入れて、絶対に不平も言わないと約束しなければならない。
これもあくまで、「考え得る限りでも最も悲惨な運命」という一つの想定であり、実際の処分が全くその通りに
なるとも確定してはいない。しかし、上記ほどにも酷烈な運命すらをも受け入れるということを、想定の範囲内としては
承らねばならず、実際にそうなったとしても文句の一つも言わないということを、完全に諾わなければならない。
欧米聖書圏中でも最大級の権力犯罪大国であるアメリカやイギリスこそは、同時に最大級の訴訟大国でもあり、
自分たちのペースでは、不平があれば訴えるのが当然だとしているのが見るに明らか。だからこそ、
最悪の運命であっても文句一つ言わず受け入れるということを、正式に誓約でもして来ないのならば、
こちらも救ってやる気にすらなりもしない。これもまた一つの、身から出たサビだといえる。
「天の不善を假に助くは、之れに祚いするにあらざるなり。
其の凶悪を厚くして、之れに罰を降さんがためなり。且つ之れを譬うるに天の如し」
「天が不善人を仮に助けることがあったとしても、それは幸いをもたらしてやるためなどではない。その凶悪さを
増進させて高転びさせてから、そこにこそ天罰を下すためである。かつ、これこそは天の業と見なすにも相応しい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十一年より)
其の凶悪を厚くして、之れに罰を降さんがためなり。且つ之れを譬うるに天の如し」
「天が不善人を仮に助けることがあったとしても、それは幸いをもたらしてやるためなどではない。その凶悪さを
増進させて高転びさせてから、そこにこそ天罰を下すためである。かつ、これこそは天の業と見なすにも相応しい」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十一年より)
こちらが「絶対にこうする」などと言ったりすることはない。しかし、
そちらでは「仮にそうなったとしても、絶対に文句は言わない」と言わなければならない。
そちらでは「仮にそうなったとしても、絶対に文句は言わない」と言わなければならない。
「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ(学而第一・八」
「過ちて改めざる、これを過ちという(衛霊公第十五・三十」
儒家で許される過ちは始めの一つまで。一度許されて後に同じ過ちを犯せば、二度と許されない。
もしも七の七十倍、四百九十回の同じ過ちを繰り返したなら、
始めの一つを除く四百八十九回の過ちの責任を完全に取らせることになる。
(もちろん、そこまで行く前に死刑になっていたりもする)
こういう、儒家の側の倫理的規定も一つの「分別」であり、分別それ自体は
「法性に得入」することはないと「華厳経」菩薩問明品第十などにある。
それでは、上記にあるような俗諦ではなく、真諦たる苦集滅道の
四諦の悟りに根ざした八正道の実践のために仏者が守る戒律はどうかといえば、たとえば律宗が
規定する比丘二百五十戒の止持戒(禁止事項)があり、その段階は以下のように分かれている。
一、波羅夷……………邪淫、窃盗、殺人、妄語の四戒。最も重い罪で、犯した者は二度と僧侶になることができない。
二、僧残………………全十三戒。僧侶の資格を剥奪されるが、僧伽の決議によって資格を回復できる場合がある。
三、不定………………異性と二人でいること。二戒。犯した場合に何らかの罰を科されるが、罰則は不定。
四、尼薩耆波逸提……僧侶が持ってはならないものを持つこと。三十戒。所有したものを捨てさせられる。
五、波逸提……………僧侶に相応しくない行い。九十戒。犯すと懺悔をさせられる。(一般には罪とされないものばかり)
六、四提舎尼…………食事に関する四つの作法。一人の比丘に対する懺悔をさせられる。
七、百衆法……………行儀作法に関する百の取り決め。
八、滅浄法……………僧侶間での争いごとに関する七つの禁止事項。
以上の四+十三+二+三十+九十+四+百+七=二百五十戒が、出家者が必ず守らなければならない律となる。
このうちで「一度犯しただけで二度と許されない過ち」が四つの波羅夷罪であり、「一度犯しただけで罰を被り、
決議や懺悔によって僧籍残留ぐらいは許される過ち」が僧残、不定、尼薩耆波逸提の計四十五戒であり、
「犯しても懺悔すれば許される過ち」が波逸提、四提舎尼、百衆法、滅浄法の計二百一戒に当たる。
「過ちて改めざる、これを過ちという(衛霊公第十五・三十」
儒家で許される過ちは始めの一つまで。一度許されて後に同じ過ちを犯せば、二度と許されない。
もしも七の七十倍、四百九十回の同じ過ちを繰り返したなら、
始めの一つを除く四百八十九回の過ちの責任を完全に取らせることになる。
(もちろん、そこまで行く前に死刑になっていたりもする)
こういう、儒家の側の倫理的規定も一つの「分別」であり、分別それ自体は
「法性に得入」することはないと「華厳経」菩薩問明品第十などにある。
それでは、上記にあるような俗諦ではなく、真諦たる苦集滅道の
四諦の悟りに根ざした八正道の実践のために仏者が守る戒律はどうかといえば、たとえば律宗が
規定する比丘二百五十戒の止持戒(禁止事項)があり、その段階は以下のように分かれている。
一、波羅夷……………邪淫、窃盗、殺人、妄語の四戒。最も重い罪で、犯した者は二度と僧侶になることができない。
二、僧残………………全十三戒。僧侶の資格を剥奪されるが、僧伽の決議によって資格を回復できる場合がある。
三、不定………………異性と二人でいること。二戒。犯した場合に何らかの罰を科されるが、罰則は不定。
四、尼薩耆波逸提……僧侶が持ってはならないものを持つこと。三十戒。所有したものを捨てさせられる。
五、波逸提……………僧侶に相応しくない行い。九十戒。犯すと懺悔をさせられる。(一般には罪とされないものばかり)
六、四提舎尼…………食事に関する四つの作法。一人の比丘に対する懺悔をさせられる。
七、百衆法……………行儀作法に関する百の取り決め。
八、滅浄法……………僧侶間での争いごとに関する七つの禁止事項。
以上の四+十三+二+三十+九十+四+百+七=二百五十戒が、出家者が必ず守らなければならない律となる。
このうちで「一度犯しただけで二度と許されない過ち」が四つの波羅夷罪であり、「一度犯しただけで罰を被り、
決議や懺悔によって僧籍残留ぐらいは許される過ち」が僧残、不定、尼薩耆波逸提の計四十五戒であり、
「犯しても懺悔すれば許される過ち」が波逸提、四提舎尼、百衆法、滅浄法の計二百一戒に当たる。
儒家道徳の、一度目の過ちだけはゆるすという規定と比べれば極めて精密であり、中には懺悔すれば許されるような、
儒家以上にゆるいと言えるような戒も多くある(ただし、世俗社会では守る必要もないとされているような戒ばかりである)。
しかし、「一度犯せば二度と許さない」とする罪が波羅夷として四つあり、「犯せば必ず罰を科される」とする罪が
全部で四十九戒もある。「どんな罪を犯しても七の七十倍の回数ほどにも許す」なんてことはもちろんないわけで、
四諦八正道という真理に根ざした仏門の出家修行が、儒家以上に厳しい規定に即していることこそあれど、
より緩い規定に即しているなどということは、全くもってないわけである。
俗世の分別たる俗諦を、正法に得入するものではないとして低く見る仏門においても、俗諦をありままに実践する
儒学以上にも厳しい規定に即した出家を是とする。これは、釈迦が真諦や真俗二諦の修得に精進した結果、
実践面では世俗道徳の中庸と同じ、中正志向である「中道」が最も真理に適っていると再認したからで、
絶対真理の求道の先にあったのはやはり、過ちは一度ぐらいは許しても二度とは許さない世俗道徳と同等か、
それ以上にも厳しい言動規範の守備であり、「過ちは七の七十倍の回数繰り返しても許す」などとする、極端な放逸を
よしとするものなどではけっしてなかった。世俗の道理だけなく、絶対真理もまた、決してそんなものを是とはしない。
「敬讓以て此れを行うときは、過ち有ると雖も、其れ甚しからず。夫れ恭なれば過ち寡し」
「畏敬と辞譲の心をもって物事を行えば、過ちを犯したとしてもそんなに甚だしいものとはならない。
それに恭しさが伴っていれば、自然と過ちも少なくなっていくものだ。(甚だしい過ちを
際限なく繰り返すような人間の心には、畏敬も辞譲も恭しさも全く欠けているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より
儒家以上にゆるいと言えるような戒も多くある(ただし、世俗社会では守る必要もないとされているような戒ばかりである)。
しかし、「一度犯せば二度と許さない」とする罪が波羅夷として四つあり、「犯せば必ず罰を科される」とする罪が
全部で四十九戒もある。「どんな罪を犯しても七の七十倍の回数ほどにも許す」なんてことはもちろんないわけで、
四諦八正道という真理に根ざした仏門の出家修行が、儒家以上に厳しい規定に即していることこそあれど、
より緩い規定に即しているなどということは、全くもってないわけである。
俗世の分別たる俗諦を、正法に得入するものではないとして低く見る仏門においても、俗諦をありままに実践する
儒学以上にも厳しい規定に即した出家を是とする。これは、釈迦が真諦や真俗二諦の修得に精進した結果、
実践面では世俗道徳の中庸と同じ、中正志向である「中道」が最も真理に適っていると再認したからで、
絶対真理の求道の先にあったのはやはり、過ちは一度ぐらいは許しても二度とは許さない世俗道徳と同等か、
それ以上にも厳しい言動規範の守備であり、「過ちは七の七十倍の回数繰り返しても許す」などとする、極端な放逸を
よしとするものなどではけっしてなかった。世俗の道理だけなく、絶対真理もまた、決してそんなものを是とはしない。
「敬讓以て此れを行うときは、過ち有ると雖も、其れ甚しからず。夫れ恭なれば過ち寡し」
「畏敬と辞譲の心をもって物事を行えば、過ちを犯したとしてもそんなに甚だしいものとはならない。
それに恭しさが伴っていれば、自然と過ちも少なくなっていくものだ。(甚だしい過ちを
際限なく繰り返すような人間の心には、畏敬も辞譲も恭しさも全く欠けているのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より
確かに、個人的な経験からも、儒学だけで、
真理に根差した儒学の価値までをも計り知ったということはない。
浄土信仰の悪人正機なども通じて初めて、
世俗の道徳学であることに専らな儒家教学が、奇妙キテレツな七色変化で人々を眩惑する、
洋学や聖書信仰よりも普遍的に優良なものであることを計り知れたのであり、もしも始めから
儒学一辺倒であったりしたなら、多くの人々と同じように、儒学の地味さへの辟易ばかりを抱いて、
洋学や聖書信仰の普遍的な劣悪さを見抜くこともまたできなかっただろう。
江戸時代までの日本人もまた、仏菩薩への帰依を通じて、
俗人の実践としては仏法に基づいても満足なものである、儒学道徳の実践にも努めていたのだろう。
廃仏棄釈後の日本で儒学道徳が信奉されにくいのも、
仁義道徳が仏法による後認を失っているからなのだろう。
真理に根差した儒学の価値までをも計り知ったということはない。
浄土信仰の悪人正機なども通じて初めて、
世俗の道徳学であることに専らな儒家教学が、奇妙キテレツな七色変化で人々を眩惑する、
洋学や聖書信仰よりも普遍的に優良なものであることを計り知れたのであり、もしも始めから
儒学一辺倒であったりしたなら、多くの人々と同じように、儒学の地味さへの辟易ばかりを抱いて、
洋学や聖書信仰の普遍的な劣悪さを見抜くこともまたできなかっただろう。
江戸時代までの日本人もまた、仏菩薩への帰依を通じて、
俗人の実践としては仏法に基づいても満足なものである、儒学道徳の実践にも努めていたのだろう。
廃仏棄釈後の日本で儒学道徳が信奉されにくいのも、
仁義道徳が仏法による後認を失っているからなのだろう。
聖書信仰にけしかけられた希望は、失望ですらない、絶望によって終わる。
誰かにまだ責任を押し付ける気になれるような範囲での「失望」ではなく、
もはや茫然自失の、一切の気力も尽き果てた「絶望」によって終わる。
誰かにまだ責任を押し付ける気になれるような範囲での「失望」ではなく、
もはや茫然自失の、一切の気力も尽き果てた「絶望」によって終わる。
失望によって終わるというのなら、たとえば犯罪聖書の舞台やネタ元になっている
中東諸国などに破滅の責任を負わせようとするような気力が、元聖書信者にも残るだろう。
しかし、旧約聖書は中東人の中でも落ちこぼれ中の落ちこぼれであるイスラエルの囚人が
バビロンやペルシャの文化習俗を剽窃して適当に改ざんした記録の寄せ集めという代物であり、
何ら中東文化の正式な記録として取り扱うに値するようなものではない。また、新約聖書は
中東人ですらない、マタイらローマ人によって古代ローマ公用語(コイネー)で書かれており、
もはやその原初から完全な西洋文化であったことが確かである。新旧約共に、今の中東では
イスラムの聖典コーランに信用性で劣るものとされ、新旧約の教義とはことごとく相反する
教義が記されたコーランのほうが、中東人に総出を上げての信仰や実践の対象ともされている。
西洋人が聖書信仰を糧に、世界的な覇権を獲得し始めた大航海時代以降、
大日本帝国を除くほぼ全ての非西洋諸国が西洋列強の前に屈従し、植民地支配などの屈辱を被った。
第二次世界大戦での敗戦以降は、日本も特にアメリカの隷従下に置かれ、どさくさに紛れて
戦勝国となった中国など以上にも、国際的な発言権を失った。現時点における「世界の支配者」が
欧米聖書圏であり続けているのは間違いないことで、だからこそ逆に、今の地球社会が人口爆発や
環境破壊といった破滅の危機に晒されている責任を、自分たち欧米人以外の誰かに負わせることもできない。
西洋人が、この世界における絶対的な覇権を聖書信仰によって確立しようとしたために、その見返り
として絶対的な破滅の運命をも辿ることとなった責任を、西洋人以外の誰かが負うことも全くできない。
中東諸国などに破滅の責任を負わせようとするような気力が、元聖書信者にも残るだろう。
しかし、旧約聖書は中東人の中でも落ちこぼれ中の落ちこぼれであるイスラエルの囚人が
バビロンやペルシャの文化習俗を剽窃して適当に改ざんした記録の寄せ集めという代物であり、
何ら中東文化の正式な記録として取り扱うに値するようなものではない。また、新約聖書は
中東人ですらない、マタイらローマ人によって古代ローマ公用語(コイネー)で書かれており、
もはやその原初から完全な西洋文化であったことが確かである。新旧約共に、今の中東では
イスラムの聖典コーランに信用性で劣るものとされ、新旧約の教義とはことごとく相反する
教義が記されたコーランのほうが、中東人に総出を上げての信仰や実践の対象ともされている。
西洋人が聖書信仰を糧に、世界的な覇権を獲得し始めた大航海時代以降、
大日本帝国を除くほぼ全ての非西洋諸国が西洋列強の前に屈従し、植民地支配などの屈辱を被った。
第二次世界大戦での敗戦以降は、日本も特にアメリカの隷従下に置かれ、どさくさに紛れて
戦勝国となった中国など以上にも、国際的な発言権を失った。現時点における「世界の支配者」が
欧米聖書圏であり続けているのは間違いないことで、だからこそ逆に、今の地球社会が人口爆発や
環境破壊といった破滅の危機に晒されている責任を、自分たち欧米人以外の誰かに負わせることもできない。
西洋人が、この世界における絶対的な覇権を聖書信仰によって確立しようとしたために、その見返り
として絶対的な破滅の運命をも辿ることとなった責任を、西洋人以外の誰かが負うことも全くできない。
聖書信仰も、そのハイライトであるキリスト劇は事実上、西洋人の自家製(古代ローマ製)であるし、
キリスト信仰やユダヤ信仰を2000年の長きにわたって性懲りも無く続けているのも、西洋人だけである。
だから聖書信仰による破滅の責任が、西洋人自身以外の誰のものでもあるはずはないし、西洋人が
外界侵略の魔の手を伸ばし始めたのも、全くの聖書信仰による酔狂からであり、戦前の大日本帝国の
ような自己防衛目的などがあったわけでも全くない。だから、覇権主義の行き過ぎによって破滅の運命を
辿ることとなった責任を、これまた自分たち西洋人以外の誰かに押し付けるようなことも、まったく出来はしない。
自分たち以外の誰かに責任を押し付けてやろうとするような、不埒な気力を未だ残した範囲での
失望などであってはならない。今までの全ての責任は自分たち自身にのみあり、今まさに世界が
滅亡の危機に陥っていることもまた、自分たち自身にのみ責任があるのだとわきまえねばならない。
そのとき確かに、聖書信者は「絶望」するだろう。絶望して自殺することもあるだろうし、
また絶望でもしなければ気が狂うほどにも、正気を保てないということにもなるだろう。
「いつも喜んでいなさい(1テサロニケ5:16)」という犯罪聖書による洗脳が説かれて、
西洋社会が「歓喜世界」であることが終了し、絶望と悲しみで満たされた暗闇の世界となる。
畢竟、躁から鬱への振れ切りであり、鬱は鬱で決して人間の健康な精神状態などであるわけではない。
躁鬱の双極への振れ切り全般を治療していくことが肝心であり、決して鬱で終わりだなどと思ってはいけない。
キリスト信仰やユダヤ信仰を2000年の長きにわたって性懲りも無く続けているのも、西洋人だけである。
だから聖書信仰による破滅の責任が、西洋人自身以外の誰のものでもあるはずはないし、西洋人が
外界侵略の魔の手を伸ばし始めたのも、全くの聖書信仰による酔狂からであり、戦前の大日本帝国の
ような自己防衛目的などがあったわけでも全くない。だから、覇権主義の行き過ぎによって破滅の運命を
辿ることとなった責任を、これまた自分たち西洋人以外の誰かに押し付けるようなことも、まったく出来はしない。
自分たち以外の誰かに責任を押し付けてやろうとするような、不埒な気力を未だ残した範囲での
失望などであってはならない。今までの全ての責任は自分たち自身にのみあり、今まさに世界が
滅亡の危機に陥っていることもまた、自分たち自身にのみ責任があるのだとわきまえねばならない。
そのとき確かに、聖書信者は「絶望」するだろう。絶望して自殺することもあるだろうし、
また絶望でもしなければ気が狂うほどにも、正気を保てないということにもなるだろう。
「いつも喜んでいなさい(1テサロニケ5:16)」という犯罪聖書による洗脳が説かれて、
西洋社会が「歓喜世界」であることが終了し、絶望と悲しみで満たされた暗闇の世界となる。
畢竟、躁から鬱への振れ切りであり、鬱は鬱で決して人間の健康な精神状態などであるわけではない。
躁鬱の双極への振れ切り全般を治療していくことが肝心であり、決して鬱で終わりだなどと思ってはいけない。
「晋の師帰る。范文子後れて入る。武子曰く、吾れ爾じを望むと為すこと無くなるかと。
對えて曰く、師、功有り。国人喜んで以て之れを逆えん。先に入れば、必ず耳目を属けん。
是れ帥に代わりて名を受くなり。故に敢えてせず。武子曰く、吾れ免るるを知れりと」
「晋の師団が母国に帰還したとき、范文子だけは遅れて帰国した。父の武子は言った。
『おまえの速やかな帰還をどれほどわしが待ち望んでいたと思うのか』 范文子は答えていった。
『今度の戦では元帥の郤克どのが大変大きな手柄を上げました。帰還すれば誰しもが喜んで迎えましょうが、
にもかかわらず私が先に帰国すれば、私にばかり先に衆目が向くこととなってしまいます。それでは私が
元帥殿に代わって名声を受けるようなことになってしまいますので、あえて先に帰国しなかったのです』
武子は言った。『ああ、それは恙なくて済んだことだ』(失望転じて安心と為した例。教訓とすらなり得る些細な
失望すら徹底して退けてきた犯罪聖書信者の歓喜志向が、肥大化した希望を絶望へとも振り切らせるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公二年より)
對えて曰く、師、功有り。国人喜んで以て之れを逆えん。先に入れば、必ず耳目を属けん。
是れ帥に代わりて名を受くなり。故に敢えてせず。武子曰く、吾れ免るるを知れりと」
「晋の師団が母国に帰還したとき、范文子だけは遅れて帰国した。父の武子は言った。
『おまえの速やかな帰還をどれほどわしが待ち望んでいたと思うのか』 范文子は答えていった。
『今度の戦では元帥の郤克どのが大変大きな手柄を上げました。帰還すれば誰しもが喜んで迎えましょうが、
にもかかわらず私が先に帰国すれば、私にばかり先に衆目が向くこととなってしまいます。それでは私が
元帥殿に代わって名声を受けるようなことになってしまいますので、あえて先に帰国しなかったのです』
武子は言った。『ああ、それは恙なくて済んだことだ』(失望転じて安心と為した例。教訓とすらなり得る些細な
失望すら徹底して退けてきた犯罪聖書信者の歓喜志向が、肥大化した希望を絶望へとも振り切らせるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公二年より)
自分たちが犯してきた罪悪に見合った純正な懲罰を、
さも不当な仕打ちを被るかのような気分で受け入れたりしていてはならない。
その心境でどんなに甚大な懲罰を受けようとも、決して心から反省したりすることはないのだから。
心からの反省すら本物であれば、実地に科す懲罰もそんなに甚だしいものである必要もない。
しかし、罪を悔いてその悔いを改める、キリスト信仰などに特有の「悔い改め」は、
「サイコパス患者の心中での反省の演技」でしかなく、心の中ですら反省を演ずる、自己欺瞞の悪癖を
患ってしまっているような人間にとってこそ、本当に心の底から反省することもまた、極めて困難なこととなる。
心の底から本当に反省するためには、精神力がいる。
不当な仕打ちを被るような心境で懲罰を受けることにも、心中で反省を演じるだけの悔い改めにも、
全く精神力はいらないが、心から本当に反省することには、旺盛な精神力が必要とされる。
のみならず、心から本当に反省するということは、それ相応の健全な精神性を抱くということである。
一人前の精神力があれば、人は始めから進んで罪を犯そうなどとはしない。
健全な精神性は、社会的には畏敬や辞譲、恭順などの心がけとして現れ、
その恭敬辞譲の豊かさが自然と、甚だしい罪を犯したり、より多くの罪を犯そうとしたりする
不埒さを立ち消えにさせてしまうのである。(>>252の「礼記」からの引用を参照)
その一人前の精神力を失って、ただひたすら罪悪まみれの濁生をまい進することほど不実な人生もなく、
その一切合切が、一定の精神力と共にある最低レベルの人生と比べてみても、より有苦無楽なものであり続ける。
罪に対する罰を受けることが苦しいとかいう以前に、罪悪まみれを進行させる人間精神の喪失こそは
多大なる苦しみの発端であり、懲罰もまた、その苦しみの発端を消し去るためにこそ科されるものである。
さも不当な仕打ちを被るかのような気分で受け入れたりしていてはならない。
その心境でどんなに甚大な懲罰を受けようとも、決して心から反省したりすることはないのだから。
心からの反省すら本物であれば、実地に科す懲罰もそんなに甚だしいものである必要もない。
しかし、罪を悔いてその悔いを改める、キリスト信仰などに特有の「悔い改め」は、
「サイコパス患者の心中での反省の演技」でしかなく、心の中ですら反省を演ずる、自己欺瞞の悪癖を
患ってしまっているような人間にとってこそ、本当に心の底から反省することもまた、極めて困難なこととなる。
心の底から本当に反省するためには、精神力がいる。
不当な仕打ちを被るような心境で懲罰を受けることにも、心中で反省を演じるだけの悔い改めにも、
全く精神力はいらないが、心から本当に反省することには、旺盛な精神力が必要とされる。
のみならず、心から本当に反省するということは、それ相応の健全な精神性を抱くということである。
一人前の精神力があれば、人は始めから進んで罪を犯そうなどとはしない。
健全な精神性は、社会的には畏敬や辞譲、恭順などの心がけとして現れ、
その恭敬辞譲の豊かさが自然と、甚だしい罪を犯したり、より多くの罪を犯そうとしたりする
不埒さを立ち消えにさせてしまうのである。(>>252の「礼記」からの引用を参照)
その一人前の精神力を失って、ただひたすら罪悪まみれの濁生をまい進することほど不実な人生もなく、
その一切合切が、一定の精神力と共にある最低レベルの人生と比べてみても、より有苦無楽なものであり続ける。
罪に対する罰を受けることが苦しいとかいう以前に、罪悪まみれを進行させる人間精神の喪失こそは
多大なる苦しみの発端であり、懲罰もまた、その苦しみの発端を消し去るためにこそ科されるものである。
人間精神の不在は、人間の不在も同然であり、精神性を欠いた者の人生は「人生」の名にすら値しない、
非人の人生、非人生だといえる。その範疇に権力犯罪者やカルト信者が止まり続けることを前提に
懲罰を科したり、禁治産や参政権剥奪に処したりするようなこともまた、始めからしないのである。
不当な仕打ちを被るような気分で懲罰を科されたり、ただ演技で反省するだけの悔い改めをしたりするのなら、
結局、罪過の増長の元凶になっている人間精神の喪失も、いつまでも治療されないままで終わるのであり、
そのような徒労も同然の処置すらもが、仮に近代法学や精神医学によって認められることがあったとしても、
儒学や仏学によって認められたりすることはない。儒仏の仕置きによって何かをどうこうしようというのなら、
狭劣見からなる非実法や煩悩法の溜め込みによる緩慢さを、根本から排していく俊敏さに全面的に甘んじなければならない。
「其の背に艮まりて其の身を獲ず。其の庭に行きて其の人を見ず。咎无し」
「自らの精神が(何らの感受力もない)背に止まって、身体の感受に翻弄されたりすることがない。
人のいる庭などに行っても、背が人を見ないようにして、人の動向に翻弄されることがない。全く問題ない。
(これといった感受機能もない背に精神を置くことで、他人の動向に極端に翻弄される薄弱さが立ち消える。
『背を向ける』というといかにも傲岸じみているが、自己を統御する精神力はむしろ背にあるべきなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・艮・卦辞より)
非人の人生、非人生だといえる。その範疇に権力犯罪者やカルト信者が止まり続けることを前提に
懲罰を科したり、禁治産や参政権剥奪に処したりするようなこともまた、始めからしないのである。
不当な仕打ちを被るような気分で懲罰を科されたり、ただ演技で反省するだけの悔い改めをしたりするのなら、
結局、罪過の増長の元凶になっている人間精神の喪失も、いつまでも治療されないままで終わるのであり、
そのような徒労も同然の処置すらもが、仮に近代法学や精神医学によって認められることがあったとしても、
儒学や仏学によって認められたりすることはない。儒仏の仕置きによって何かをどうこうしようというのなら、
狭劣見からなる非実法や煩悩法の溜め込みによる緩慢さを、根本から排していく俊敏さに全面的に甘んじなければならない。
「其の背に艮まりて其の身を獲ず。其の庭に行きて其の人を見ず。咎无し」
「自らの精神が(何らの感受力もない)背に止まって、身体の感受に翻弄されたりすることがない。
人のいる庭などに行っても、背が人を見ないようにして、人の動向に翻弄されることがない。全く問題ない。
(これといった感受機能もない背に精神を置くことで、他人の動向に極端に翻弄される薄弱さが立ち消える。
『背を向ける』というといかにも傲岸じみているが、自己を統御する精神力はむしろ背にあるべきなのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・艮・卦辞より)

まんまと社会的な懲罰を逃げおおせたところで、累犯障害者の心中こそは、
悪因苦果からなる極重の苦痛にまみれ続けている。それは、善業こそを積み重ねた聖者が
燃え盛る業火の中に身を置く以上もの苦しみであり、終始焼身自殺以上もの心中の苦しみに
あえぎ続けているからこそ、仏教弾圧に抗議してサイゴンで焼身自殺した僧侶について、カトリック教徒で
南ベトナム大統領顧問夫人だったマダム・ヌーも、「あんなのはただの人間バーベキューよ」と言ってのけたのだ。
自分たちでは隠しおおせたつもりでいても、聖書信者の心中こそは紛れもなく、極重の辛苦にまみれきっている。
それこそはいかなる物質的貧窮や身体的苦痛以上もの、人としての最大級の辛苦であり、どんな外的優遇に
置かれた所で、聖書信者がこの世で最も不幸な人種であり続けていることには変わりない。だから欧米の
聖書信者も、自分たちだけで八割以上もの地球資源を独占して、自分たちが植民化によって最悪の荒廃に
陥れたアフリカやインドをそのままにしておいていたところで、罪悪感の一つも抱かないでいられている。
そこまでしても、自分たち聖書信者こそは、この地球上で最も不幸な生き物であり続けていることには変わりないのだから。
邪信によって植え付けられた心中における最大級の苦痛を紛らわすために、物質的・肉体的な栄華ばかりを追い求め、
世界中の人々を資源不足からなる貧窮にまで追いやってはみたものの、やはり自分たち聖書信者こそは相も変わらず、
この世で最も不幸な人種であり続けている。それどころか、国際権力犯罪の積み重ねによってさらなる罪悪の辛苦にまみれ、
あたかもヘルニアで終始ウーウー唸り続けている老犬か何かのように、精神の殺伐化を極度に募らせてもいる。
心中の苦しみを紛らわすために、物質的な栄華を追い求めたのがすでに間違いであり、むしろ服罪や出家修行のような、
修身に相当する行いを通じてこそ、罪悪の辛苦の根絶にも努めるべきであった。「西洋文明こそは物質主義の権化」という
風にも見なされがちだが、その背景には「邪神信仰による心中の激痛」という、度しがたい見返りが常に存在し続けて来たのであり、
そんなものがあって初めて肥大化させられて来た西洋文明というものが全般的に、不健全極まりないものであるには違いないのである。
2000年前に邪信を抱き始めて、今に至るまでずっと、聖書信者こそは、この地球上で最も恵まれない人種であり続けている。
終末期にあたる近現代には、膨大な利権を自分たちだけで寡占して、外界の人間を貧窮や戦乱によって苦しめる元凶ともなった、
にもかかわらずではなくだからこそ、聖書信者はさらなる精神的苦痛をも募らせたのであり、この世で最も不幸な存在で
あり続けていることでは一貫している。これから罰を受けるなり、精進修行に励むなりするとしても、それこそは最悪の
苦しみから脱していく初めての機縁にこそなるのであり、さらなる苦しみの積み重ねなどには、決して当たらないのである。
「天を尊び地を親しむ。故に民に報いを美するを教う」
「天を尊び地に親しむことで、民に因果応報の善美なることを教化する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
修身に相当する行いを通じてこそ、罪悪の辛苦の根絶にも努めるべきであった。「西洋文明こそは物質主義の権化」という
風にも見なされがちだが、その背景には「邪神信仰による心中の激痛」という、度しがたい見返りが常に存在し続けて来たのであり、
そんなものがあって初めて肥大化させられて来た西洋文明というものが全般的に、不健全極まりないものであるには違いないのである。
2000年前に邪信を抱き始めて、今に至るまでずっと、聖書信者こそは、この地球上で最も恵まれない人種であり続けている。
終末期にあたる近現代には、膨大な利権を自分たちだけで寡占して、外界の人間を貧窮や戦乱によって苦しめる元凶ともなった、
にもかかわらずではなくだからこそ、聖書信者はさらなる精神的苦痛をも募らせたのであり、この世で最も不幸な存在で
あり続けていることでは一貫している。これから罰を受けるなり、精進修行に励むなりするとしても、それこそは最悪の
苦しみから脱していく初めての機縁にこそなるのであり、さらなる苦しみの積み重ねなどには、決して当たらないのである。
「天を尊び地を親しむ。故に民に報いを美するを教う」
「天を尊び地に親しむことで、民に因果応報の善美なることを教化する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
いま急に神の加護を失うのではなく、始めから神の加護など無かったことに気づくのである。
聖書信仰は、その最原初の頃から今に至るまで、聖書信者たち自身を破滅に追いやる元凶でのみ有り続けて来た。
カトリック教団の発足期には、信者がイエスを真似ての自殺行為を大量に多発させたことから、
信者数の減少を危ぶんだ元マニ教徒のアウグスチヌスが、上座部仏教から自殺の禁止(無賊害心)の教義を
剽窃して信者にあてがうことで、教団経営が傾くのを防ぐなどしていた。まず始めにそういった、
破滅を食い止める消火栓的な教義を聖書信仰外からパクることで、初期のキリスト教団も一定の安定度を保った。
聖書信仰による破滅を、異教の教義の剽窃による補強で何とか食い止めるといった状態で、聖書圏は
「暗黒時代」という形での、数百年にわたる停滞状態での存続を保った。その後に、聖書信者の極端な蒙昧の
ぶり返しとしての文化振興(ルネサンス)、啓蒙主義が発達し、聖書信者並みの蒙昧を取り繕うものとしての
精密科学や特殊な政治学、極端に華美な演劇や音楽などが生じた。それが今の人類社会をも支配状態に
置いているわけだが、たとえば、江戸時代の日本などには、上記のような西洋文明はほぼ完全に存在しなかった。
純粋に東洋の叡知と技術力とだけを以って、貧しくとも潤沢な文化生活を営んでいた。それと比べれば、
今の西洋文明に支配された世の中は、特に資本主義国における物質的な豊満などが甚だしいものの、
その根本の部分の文化性は甚だしく低劣なものばかりで、「聖書信者並みの蒙昧」が常にその根底に控えている。
自分たちの根本の部分に、聖書信仰という破滅の種子を抱えているからこそ、聖書信者はその取り繕いとしての
人工文明を自力で発達させた。それは決して神の加護などではなく、邪神の危害から何とか逃れようとせんがための、
自力での避難の過程における副産物でこそあった。それは確かに、東洋人などが自力で産み出すこともなかった
ようなものばかりであり、一時は東洋人もまた、西洋人の優れた側面として羨望の対象にすらしていたものである。
聖書信仰は、その最原初の頃から今に至るまで、聖書信者たち自身を破滅に追いやる元凶でのみ有り続けて来た。
カトリック教団の発足期には、信者がイエスを真似ての自殺行為を大量に多発させたことから、
信者数の減少を危ぶんだ元マニ教徒のアウグスチヌスが、上座部仏教から自殺の禁止(無賊害心)の教義を
剽窃して信者にあてがうことで、教団経営が傾くのを防ぐなどしていた。まず始めにそういった、
破滅を食い止める消火栓的な教義を聖書信仰外からパクることで、初期のキリスト教団も一定の安定度を保った。
聖書信仰による破滅を、異教の教義の剽窃による補強で何とか食い止めるといった状態で、聖書圏は
「暗黒時代」という形での、数百年にわたる停滞状態での存続を保った。その後に、聖書信者の極端な蒙昧の
ぶり返しとしての文化振興(ルネサンス)、啓蒙主義が発達し、聖書信者並みの蒙昧を取り繕うものとしての
精密科学や特殊な政治学、極端に華美な演劇や音楽などが生じた。それが今の人類社会をも支配状態に
置いているわけだが、たとえば、江戸時代の日本などには、上記のような西洋文明はほぼ完全に存在しなかった。
純粋に東洋の叡知と技術力とだけを以って、貧しくとも潤沢な文化生活を営んでいた。それと比べれば、
今の西洋文明に支配された世の中は、特に資本主義国における物質的な豊満などが甚だしいものの、
その根本の部分の文化性は甚だしく低劣なものばかりで、「聖書信者並みの蒙昧」が常にその根底に控えている。
自分たちの根本の部分に、聖書信仰という破滅の種子を抱えているからこそ、聖書信者はその取り繕いとしての
人工文明を自力で発達させた。それは決して神の加護などではなく、邪神の危害から何とか逃れようとせんがための、
自力での避難の過程における副産物でこそあった。それは確かに、東洋人などが自力で産み出すこともなかった
ようなものばかりであり、一時は東洋人もまた、西洋人の優れた側面として羨望の対象にすらしていたものである。
しかし、聖書信仰というマッチに対するポンプとしての西洋文明は、それだけではやはり、
聖書信仰の蒙昧によって燎原に広がった大火を消し止めるには不十分なものであった。
何よりも西洋文明には、聖書信者並みの精神のへたりを根本から治癒していく心がけが全く欠けており、
マッチポンプの「ポンプ」としての域を出ることにまでは全く頭が回っていなかった。西洋の学者や
文化人たち自身からして、聖書信者や牧師の子供だったりするものだから、たとえアンチキリストなどに
なろうとも、聖書信仰まずありきでものを考えるという病理から抜け出すことはついぞ出来なかったから。
ニーチェも「神など始めからいない」とは言わず、「神は死んだ」とだけ言った。神なり、神の加護なりが
少しでも存在していたかのような気でいるのは、元祖ニヒリストの無神論者ですら同じであり、「徹頭徹尾、
自分たちが神の加護などに与れたことなどは一度もない」というほどの達観を得ている西洋人は、今の所一人もいない。
未だ信者であるか否かなどを問わず、聖書信仰の呪縛に心を囚われているのは、西洋人のほぼ全てであり続けている。
聖書信仰こそは、西洋人がどんなに努力を尽くしたところで、並みの人類以上たり得ないままでいさせる因子であった。
高度な文明構築によっていくら穴を埋めようとしても、必ず聖書信仰によって掘り下げられる墓穴は、
それ以上にも大きくて深い。無宗教的な文化生活を営むに際しても、必ず何もしないでいる人間以上もの罪悪を
聖書信仰の実践のほうが呼び込んでくる。故に、全ての西洋人もまた、アジアのいち匹夫ほどの品性たり得もしない。
神の加護ではなく、邪神からの危害を2000年ぶりに取り払うためにこそ、聖書信仰の破棄が試みられるのであり、
それによって元聖書信者が危険に晒されるのではなく、むしろ危険を免れるのであると知るべきである。
聖書信仰の蒙昧によって燎原に広がった大火を消し止めるには不十分なものであった。
何よりも西洋文明には、聖書信者並みの精神のへたりを根本から治癒していく心がけが全く欠けており、
マッチポンプの「ポンプ」としての域を出ることにまでは全く頭が回っていなかった。西洋の学者や
文化人たち自身からして、聖書信者や牧師の子供だったりするものだから、たとえアンチキリストなどに
なろうとも、聖書信仰まずありきでものを考えるという病理から抜け出すことはついぞ出来なかったから。
ニーチェも「神など始めからいない」とは言わず、「神は死んだ」とだけ言った。神なり、神の加護なりが
少しでも存在していたかのような気でいるのは、元祖ニヒリストの無神論者ですら同じであり、「徹頭徹尾、
自分たちが神の加護などに与れたことなどは一度もない」というほどの達観を得ている西洋人は、今の所一人もいない。
未だ信者であるか否かなどを問わず、聖書信仰の呪縛に心を囚われているのは、西洋人のほぼ全てであり続けている。
聖書信仰こそは、西洋人がどんなに努力を尽くしたところで、並みの人類以上たり得ないままでいさせる因子であった。
高度な文明構築によっていくら穴を埋めようとしても、必ず聖書信仰によって掘り下げられる墓穴は、
それ以上にも大きくて深い。無宗教的な文化生活を営むに際しても、必ず何もしないでいる人間以上もの罪悪を
聖書信仰の実践のほうが呼び込んでくる。故に、全ての西洋人もまた、アジアのいち匹夫ほどの品性たり得もしない。
神の加護ではなく、邪神からの危害を2000年ぶりに取り払うためにこそ、聖書信仰の破棄が試みられるのであり、
それによって元聖書信者が危険に晒されるのではなく、むしろ危険を免れるのであると知るべきである。
「晋の平公の亥唐に於けるや、入れと云えば則ち入り、坐れと云えば則ち坐り、食えと云えば則ち食う。
疏食菜羹と雖も、未だ嘗て飽かず。蓋し敢て飽かざるなり。然れども此れに終わるのみ。
与に天位を共にせざるなり。与に天職を治めざるなり。与に天禄を食まざるなり」
「晋の平公の賢者亥唐に対する態度といえば、ボロ屋に出迎えられても、入れと言われれば入り、
座れと言われれば座り、食えと言われれば食うといった有り様。玄米飯や野菜汁のような粗食でも
飽きることなく食した。賢者の勧めだから飽きるわけにもいかなかったからだが、ただこればかりで終わった。
亥唐と天位を共にすることもなければ、天職を共に修めることもなく、天禄を共に食むことも結局なかった。
(『共にいる』ぐらいのことはできても、『共に天命に与る』までのことは、なかなか覚束ないものだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・三より)
疏食菜羹と雖も、未だ嘗て飽かず。蓋し敢て飽かざるなり。然れども此れに終わるのみ。
与に天位を共にせざるなり。与に天職を治めざるなり。与に天禄を食まざるなり」
「晋の平公の賢者亥唐に対する態度といえば、ボロ屋に出迎えられても、入れと言われれば入り、
座れと言われれば座り、食えと言われれば食うといった有り様。玄米飯や野菜汁のような粗食でも
飽きることなく食した。賢者の勧めだから飽きるわけにもいかなかったからだが、ただこればかりで終わった。
亥唐と天位を共にすることもなければ、天職を共に修めることもなく、天禄を共に食むことも結局なかった。
(『共にいる』ぐらいのことはできても、『共に天命に与る』までのことは、なかなか覚束ないものだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・三より)
人間社会における、善悪の普遍的な定義は
善……世の中に害以上の益をもたらす。
悪……世の中に益以上の害をもたらす。
である。しかも、善悪とは世俗における倫理上の定義であり、
超俗においてまで絶対的に通用するものではない。だから、人間社会において
善悪が上記のように定義されることこそは、最も普遍的な善悪の定義であるといえる。
善の実践が徳行となり、悪の実践が犯罪となる。
つまり、徳行の普遍的な定義は「世の中に害以上の益をもたらす」であり、
犯罪の普遍的な定義は「世の中に益以上の害をもたらす」であるといえ、
善行や悪行といった行為には、全く以って自明な定義を付与することができるのである。
上記のような普遍的な意味での、善行を為す者に対して然るべき措置は崇敬であり、
悪行を為す者に対して然るべき措置は懲罰である。世の中に害以上の益をもたらすことは
推進されて然るべきことだから崇敬の対象とし、益以上の害をもたらすことは
抑止されて然るべきことだから懲罰の対象とする。社会的な観点から見た場合の、
ごく当たり前の措置であり、なおかつ善悪とは世俗社会においてこそ普遍的な
倫理基準であるから、善行や悪行に対して上記のような措置を施すこともまた、
善とか悪とかいった言葉の名辞に即して、自明に絶対的なことであるといえる。
善悪を、個々人の内面などに限って論ずることからして、すでに間違いである。
善悪は人と人とが関係を持つ人間社会においてこそ発生するものであり、無人島に
ただ一人で完全な自給自足生活を送っていたりするのなら、始めから善悪なんかない。
そうではなく、お互いが仕事を分業し合うことで成り立っている大社会において、
自分が、人から奪う以上にも人に恵むことを優先したり、人に恵む以上にも
人から奪うことを優先したりするところに普遍的な善行や悪行が生ずるのであり、
善とか悪とかいった倫理基準が初めて持ち出されるのも、そこからでしかないのだ。
善……世の中に害以上の益をもたらす。
悪……世の中に益以上の害をもたらす。
である。しかも、善悪とは世俗における倫理上の定義であり、
超俗においてまで絶対的に通用するものではない。だから、人間社会において
善悪が上記のように定義されることこそは、最も普遍的な善悪の定義であるといえる。
善の実践が徳行となり、悪の実践が犯罪となる。
つまり、徳行の普遍的な定義は「世の中に害以上の益をもたらす」であり、
犯罪の普遍的な定義は「世の中に益以上の害をもたらす」であるといえ、
善行や悪行といった行為には、全く以って自明な定義を付与することができるのである。
上記のような普遍的な意味での、善行を為す者に対して然るべき措置は崇敬であり、
悪行を為す者に対して然るべき措置は懲罰である。世の中に害以上の益をもたらすことは
推進されて然るべきことだから崇敬の対象とし、益以上の害をもたらすことは
抑止されて然るべきことだから懲罰の対象とする。社会的な観点から見た場合の、
ごく当たり前の措置であり、なおかつ善悪とは世俗社会においてこそ普遍的な
倫理基準であるから、善行や悪行に対して上記のような措置を施すこともまた、
善とか悪とかいった言葉の名辞に即して、自明に絶対的なことであるといえる。
善悪を、個々人の内面などに限って論ずることからして、すでに間違いである。
善悪は人と人とが関係を持つ人間社会においてこそ発生するものであり、無人島に
ただ一人で完全な自給自足生活を送っていたりするのなら、始めから善悪なんかない。
そうではなく、お互いが仕事を分業し合うことで成り立っている大社会において、
自分が、人から奪う以上にも人に恵むことを優先したり、人に恵む以上にも
人から奪うことを優先したりするところに普遍的な善行や悪行が生ずるのであり、
善とか悪とかいった倫理基準が初めて持ち出されるのも、そこからでしかないのだ。
人と人とが密接な経済関係を持つ人間社会においてこそ、初めて善悪という基準もまた
持ち出されるものだから、人間同士が言葉によって意思疎通を成立させていくことを通じて、
善とか悪とかいった倫理基準もまた、世間一般に広く通用するような語義の普遍性を帯びて来ている。
仮に、誰も彼もが自分個人だけで勝手に善悪の定義を新造していたりするのでは、
人間関係においてこそ初めて問題となる善悪を、他人と論じ合うことすらできなくなるのであり、
本当に善悪が個々人の身勝手な定義によってでしか用いられたことがないのなら、
始めから善や悪などという言葉からして、生ずることもなかったはずである。
確かに、個々人が身勝手な定義に即して善悪という基準を用いて、人を欺いたりするような
こともあるが、そもそも人々が善とか悪とかいった言葉を用い始めるようになるきっかけともなった、
人間社会においてこそ普遍的であるが故に、最大級に普遍的な善悪というものが、あるのである。
それが、上記のような定義に基づく善悪であり、結局のところ「本物の善悪」であるといえる。
本物の善悪こそは、罪福異熟によって善因楽果や悪因苦果にも結び付き、
心中の苦楽を普遍的に司ると共に、社会上における普遍的な繁栄や破滅をも呼び込む。
善行に努める者は心中もまた安楽であり、社会的にも繁栄へと導かれる一方、
悪行にひた走る者は心中からして苦悩の塊であり、社会的にも破滅が免れ得ない。
だから、善行に努める者は称賛や畏怖や崇敬の対象とされるべきであるといえる一方、
悪行にひた走る者は非難や軽蔑や懲罰の対象とすべきであるといえる。社会的な倫理基準に
過ぎない善悪を、超俗的な絶対真理にまで還元してみても、やはり同等の結論が導かれるのである。
持ち出されるものだから、人間同士が言葉によって意思疎通を成立させていくことを通じて、
善とか悪とかいった倫理基準もまた、世間一般に広く通用するような語義の普遍性を帯びて来ている。
仮に、誰も彼もが自分個人だけで勝手に善悪の定義を新造していたりするのでは、
人間関係においてこそ初めて問題となる善悪を、他人と論じ合うことすらできなくなるのであり、
本当に善悪が個々人の身勝手な定義によってでしか用いられたことがないのなら、
始めから善や悪などという言葉からして、生ずることもなかったはずである。
確かに、個々人が身勝手な定義に即して善悪という基準を用いて、人を欺いたりするような
こともあるが、そもそも人々が善とか悪とかいった言葉を用い始めるようになるきっかけともなった、
人間社会においてこそ普遍的であるが故に、最大級に普遍的な善悪というものが、あるのである。
それが、上記のような定義に基づく善悪であり、結局のところ「本物の善悪」であるといえる。
本物の善悪こそは、罪福異熟によって善因楽果や悪因苦果にも結び付き、
心中の苦楽を普遍的に司ると共に、社会上における普遍的な繁栄や破滅をも呼び込む。
善行に努める者は心中もまた安楽であり、社会的にも繁栄へと導かれる一方、
悪行にひた走る者は心中からして苦悩の塊であり、社会的にも破滅が免れ得ない。
だから、善行に努める者は称賛や畏怖や崇敬の対象とされるべきであるといえる一方、
悪行にひた走る者は非難や軽蔑や懲罰の対象とすべきであるといえる。社会的な倫理基準に
過ぎない善悪を、超俗的な絶対真理にまで還元してみても、やはり同等の結論が導かれるのである。
「欲無くして仁を好む者、畏れ無くして不仁を悪む者は、天下に一人のみ。
是の故に君子は道を議ること己れ自りし、法を置くに民を以ってす」
「無欲なままに仁を好んだり、畏れることなく不仁を憎んだりできる者は、天下でも極めて少ない。
そのため君子はまず自分から道を修めるようにし、法を定めるにしても凡民が守れるようにする。
(旧約の律法なんぞは『徒法』ないし『非実法』の集約であり、それを守ることが善になるとも、
破ることが悪になるとも限らない。守ろうとすることが善を欲することになるともいえないし、
守れないが故に悪に堕しているとも限らない。本物の善悪に基づけば、真実は上記の如くであり、
善を好む者も悪を憎む者も極めて稀だから、君子も民が十分に法を守れるように融通を利かせるのである。
悪法で世の中をがんじがらめにして民を困惑させるようなことからして、君子にあるまじき所業なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十二より)

七宝などの具体的な財物による荘厳はないこともないにしろ、全体における割合は少ない。
一方で、日没する西方への特定的な浄土往生を説く浄土三部経などにおいては、金銀、
瑠璃、珊瑚、琥珀、 硨 磲、碼碯といった具体的な財宝による浄土の荘厳が主となっている。
七宝や、ダイヤやルビーやエメラルドなどの財宝が、いくら美麗な輝きを放つのであろうとも、
それは外部からの光を反射しているからこその輝きであり、財宝そのものから放たれる輝きなどではない。
物質的な財宝の輝きに魅了されている人間は、光源そのものではなく、光の反射物に魅了されている。
この地球上で最も普遍的な光源である太陽に背を向けて、日没する西方を好き好んでいるような人間というのは、
まさにこの反射物の輝きを好む類いの人間であり、光源そのものなどには始めから目が行き届いていないのである。
とはいえ、仏教の浄土信仰などは上記のように、西方浄土の信仰者が物質的な欲望に囚われていることを
十分に了解し、浄土経にあるような金銀財宝によるどぎつい浄土の描写をそのまま仏壇上に復元したりもする。
浄土真宗中興の祖である蓮如も、自分の寺の本尊の阿弥陀如来を枕代わりにして昼寝をしていた一休を
「俺の商売道具に何をする!」と怒鳴りつけて、お互いに笑い合ったというし、西方浄土の信者は完全に、
自分たちが物質的、金銭的な欲望に囚われた煩悩愚縛の凡夫であることを十分にわきまえているのだといえる。
しかるに、犯罪聖書の信者などは、自分たちが光源からの光を反射する財宝への物質的な欲望にこそ囚われて
いることを、わきまえられてすらもいない。外部からの光を反射することで輝いている財宝こそは、光源そのもの
だとすら思い込み、実際にそこにこそ、日光の如き根本性を付与したりする。これは本当に、犯罪聖書の著者など
からして、全く光源たる実物の太陽などへの配慮が行き届いていなかったからであり、太陽こそは光源であり、
財宝などはその光を受けて輝いているだけの存在であるというわきまえが、始めから完全に欠けていたからである。
明らかに、浄土信仰以上にも、犯罪聖書信仰のほうがより不健全たる所以が、ここにある。
浄土信者は、自分たちが物質的な欲望にこそ囚われていることをよくわきまえているが、
犯罪信者のほうは、物質的な欲望に囚われていることこそを、普遍的な光明への希求であるなどと倒錯している。
自分たちの本性のゲスさからすら目を背けて、ゲスさを高尚さであるなどと勘違いして、偉ぶっているのである。
故に、浄土信者以上にも聖書信者こそは、正法の真の高尚さによる度脱もまた、より困難なのである。
勘違いからなる偽りの高尚さで偉ぶっているものだから、卑しさをよくわきまえている者以上にも、救いがたい。
浄土経のえげつない財宝描写よりも、犯罪聖書の偽りの高尚的描写のほうが、凡夫にはかえって有害なのである。
「(易は)天地の化を範囲して過ぎしめず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道を通じて知る」
「(この全世界全宇宙の根本法則は)天地万物の化育を規範的な囲いに収めてその度を過ぎさせず、
それでいて万物をその微細に至るまで完成して余すところがなく、昼夜のような陰陽の転変を通じてそれを知らせる。
(洋の東西に関わらず昼夜はある。孟子も言うとおり、昼の陽気だけでなく夜の陰気もまた重要な要素なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
いることを、わきまえられてすらもいない。外部からの光を反射することで輝いている財宝こそは、光源そのもの
だとすら思い込み、実際にそこにこそ、日光の如き根本性を付与したりする。これは本当に、犯罪聖書の著者など
からして、全く光源たる実物の太陽などへの配慮が行き届いていなかったからであり、太陽こそは光源であり、
財宝などはその光を受けて輝いているだけの存在であるというわきまえが、始めから完全に欠けていたからである。
明らかに、浄土信仰以上にも、犯罪聖書信仰のほうがより不健全たる所以が、ここにある。
浄土信者は、自分たちが物質的な欲望にこそ囚われていることをよくわきまえているが、
犯罪信者のほうは、物質的な欲望に囚われていることこそを、普遍的な光明への希求であるなどと倒錯している。
自分たちの本性のゲスさからすら目を背けて、ゲスさを高尚さであるなどと勘違いして、偉ぶっているのである。
故に、浄土信者以上にも聖書信者こそは、正法の真の高尚さによる度脱もまた、より困難なのである。
勘違いからなる偽りの高尚さで偉ぶっているものだから、卑しさをよくわきまえている者以上にも、救いがたい。
浄土経のえげつない財宝描写よりも、犯罪聖書の偽りの高尚的描写のほうが、凡夫にはかえって有害なのである。
「(易は)天地の化を範囲して過ぎしめず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道を通じて知る」
「(この全世界全宇宙の根本法則は)天地万物の化育を規範的な囲いに収めてその度を過ぎさせず、
それでいて万物をその微細に至るまで完成して余すところがなく、昼夜のような陰陽の転変を通じてそれを知らせる。
(洋の東西に関わらず昼夜はある。孟子も言うとおり、昼の陽気だけでなく夜の陰気もまた重要な要素なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
削除
外部からの光を反射してこそ輝く財宝などを見て、「これこそは勝利の光だ」などと思い込む。
しからば、光源の絶えた暗闇の中では、その勝利の光もまた完全に消え去るのである。
諸外国から巨万の富を収奪し独占することで経済的な優勢を得ている欧米聖書圏が、
特に中東諸国などの産油国、中国などの下請け製造大国を敵に回した争いを激化する、
核攻撃で相手を殲滅するとまでいかずとも、経済封鎖などで交易を断ったならば、
それだけでも自分たち欧米聖書圏のほうが、物質的な貧窮に晒されることになる。
独立もできてない子供が親に対して、あるいは寄生虫が宿主の生物に対してどんなに優勢を
決め込んだところで、やはりそれは偽りの勝利であり、勝敗を論ずるに値する対等性を元から欠いている。
じゃあ、欧米聖書圏と諸外国の関係を「主人と奴隷」の関係に喩えてみればどうかといって、
それは実際に許されることではない。欧米人が「おまえたち中東人や中国人は、主人である俺たちに
資源や製造物を貢ぎ上げるための奴隷だ」と明言したとする。主人と奴隷であるということは、
もはや国際社会全体を一つの国や帝国と見なすも同然であり、しかもその国では奴隷制が認められて
いるということになる。奴隷制はもはや認めないというのが、今の地球人類社会における決定的な
風潮であるから、未だ世の中において奴隷制を施行しようとする欧米に対する革命の名分までもが立つ。
だから欧米社会も一応は、中東諸国や中国とも対等な国際関係という体裁を保たねばならないのであり、
比喩として、欧米人が自分たちと他国とを主人と奴隷の関係に見立てることからして、影でしか許されないのである。
反則に根ざした偽りの勝利は、内実だけでなく外面的な体裁においても、どうにもすっきりとしない
中途半端さを抱えたままであり続ける。周武王の殷に対するような、あるいは漢の高祖の項羽に対するような
痛快無比な勝利とはいかない、色々なわだかまりを持ち越したままに置かれる、偽りの勝利の不恰好な愉悦が、
勝利を気取る欧米聖書圏の民衆にもゆがんだ性格を植え付けて、最終的には大きなストレスともなる。
むしろ、真剣勝負による完全な敗北を受け入れることのほうが、精神衛生上は良好であったりもする。
しからば、光源の絶えた暗闇の中では、その勝利の光もまた完全に消え去るのである。
諸外国から巨万の富を収奪し独占することで経済的な優勢を得ている欧米聖書圏が、
特に中東諸国などの産油国、中国などの下請け製造大国を敵に回した争いを激化する、
核攻撃で相手を殲滅するとまでいかずとも、経済封鎖などで交易を断ったならば、
それだけでも自分たち欧米聖書圏のほうが、物質的な貧窮に晒されることになる。
独立もできてない子供が親に対して、あるいは寄生虫が宿主の生物に対してどんなに優勢を
決め込んだところで、やはりそれは偽りの勝利であり、勝敗を論ずるに値する対等性を元から欠いている。
じゃあ、欧米聖書圏と諸外国の関係を「主人と奴隷」の関係に喩えてみればどうかといって、
それは実際に許されることではない。欧米人が「おまえたち中東人や中国人は、主人である俺たちに
資源や製造物を貢ぎ上げるための奴隷だ」と明言したとする。主人と奴隷であるということは、
もはや国際社会全体を一つの国や帝国と見なすも同然であり、しかもその国では奴隷制が認められて
いるということになる。奴隷制はもはや認めないというのが、今の地球人類社会における決定的な
風潮であるから、未だ世の中において奴隷制を施行しようとする欧米に対する革命の名分までもが立つ。
だから欧米社会も一応は、中東諸国や中国とも対等な国際関係という体裁を保たねばならないのであり、
比喩として、欧米人が自分たちと他国とを主人と奴隷の関係に見立てることからして、影でしか許されないのである。
反則に根ざした偽りの勝利は、内実だけでなく外面的な体裁においても、どうにもすっきりとしない
中途半端さを抱えたままであり続ける。周武王の殷に対するような、あるいは漢の高祖の項羽に対するような
痛快無比な勝利とはいかない、色々なわだかまりを持ち越したままに置かれる、偽りの勝利の不恰好な愉悦が、
勝利を気取る欧米聖書圏の民衆にもゆがんだ性格を植え付けて、最終的には大きなストレスともなる。
むしろ、真剣勝負による完全な敗北を受け入れることのほうが、精神衛生上は良好であったりもする。
「很いに勝たんことを求むる毋れ」
「争いに勝つことを積極的に求めたりするな。
(争い好きの阿修羅は、争い自体を忌む帝釈天と戦えば必ず負ける。常に争って
勝とうとするような性分こそは、天道に対する絶対的な敗北の原因ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「争いに勝つことを積極的に求めたりするな。
(争い好きの阿修羅は、争い自体を忌む帝釈天と戦えば必ず負ける。常に争って
勝とうとするような性分こそは、天道に対する絶対的な敗北の原因ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)

それこそ聖人君子はおろか、善人や、まともな大人になることすら困難な状態にある。
民主主義によって極端な自意識過剰が蓄えられて、なおかつ資本主義によって、
何もかもをカネで取り扱うことしかできないほどにまで、行為能力の活用技術が衰えてしまっている。
そのせいで、切実な実体経済に根ざした神妙な労働行為に従事することもまた困難となってしまっている。
仮に今、この地球社会の資本や資源の配分が是正されて、切実な労働行為によってのみ自活が
可能となるようなことになれば、その時に真っ先にお荷物になるのは、欧米聖書圏の人間である。
数値上の資本の大半と、地球資源の八割以上を自分たちで独占しつつ経済活動を営んでいるのが、
並みの人類としての扱いを受けつつの経済活動に転換するとすれば、それこそ、長期間無重力状態
の宇宙空間に滞在していた飛行士が、地球に帰還して重力の重みに耐え切れなくて、しばらくは
リハビリ生活を送らされるようなことになる。無重力空間への滞在が長期過ぎた場合には骨粗鬆症
などの重病も併発して、地球に帰還した途端に骨折などの重傷に見舞われることすらあり得るように、
経済的に過度に自由な状態に置かれたことが祟っての、重大な後遺症すらもが残りかねないのである。
日本でも大昔、古墳時代から飛鳥時代にかけて、古墳造営などの事業によって過度に経済的な
繁栄を謳歌した豪族が、律令制度の発足に伴う政治制度改革によって中央を追われたことがあった。
彼らは政界追放後も一般社会に馴染むことができず、方々で屠殺や製革といった、人々が忌み嫌う仕事を
寡占することで吹き溜まりを形成する、いわゆる被差別部落の源流となった。そこにもやはり、甚大な
行為能力を安易に玩ぶことの魔性に囚われたあまりの後遺症があったのであり、過度に経済的な繁栄を
謳歌した人間が、失脚後に一般社会に馴染むことがいかに困難なことであるのかを示す証拠ともなっている。
古代の日本における、失脚した豪族などに対する緩和ケアが行き届かなかったのは、まだ当時の日本が
近畿中央部などの一部の地域においてしか朝廷の権限が行き届いていなかったからで、追放された豪族が遠方の
僻地に逃げ延びるなどして、朝廷の支配から脱する余地があったからである。武家時代になると、諸地方の平定も
相当に行き届いたものの、やはり実際問題として、一定の勢威を保ったままでいる部落への対処が問題化し続けていた。
現代においては、地位を追われた重権力犯罪者が逃げ延びられるような地域が、もはや地球上のどこにもない。
中央社会から僻地に逃げ延びて、勢力を温存した古代豪族のような真似もできないから、それはもう欧米の
聖書信者にも諦めてもらうしかない。その上で、集団自殺でもしない限りにおいて、多少手荒いほどもの
集中的な治療を受けてもらって、邪教信仰と、それによる行為能力の濫用からなる後遺症とをできる限り完治
してもらうように。それは確かに、相当な苦痛をも伴うことに違いないが、それを乗り越えられすらしたなら、
10億人を超える犠牲者をはじき出した、近現代の重権力犯罪の被害者たちに対する落とし前もまた付くといえる。
「肆に戎疾は殄え、烈假も瑕ざかりき。聞きては亦た式い、諫めは亦た入るる。
肆に成人は徳を有し、小子は造るを有する。古えの人を斁うことなく、髦士をも誉しましむ」
「外界の蛮族は絶滅し、蛮族の悪習も絶やされた。これからは人の言うことを取り入れ、諌めもまた受け入れる。
成熟した大人は徳を湛え、未熟な小子もまたすべきことを為す。老人を遠ざけない一方で、若者もまた楽しませる。
(未熟な小子は未熟な小子で、分をわきまえていればいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思斉より)
近畿中央部などの一部の地域においてしか朝廷の権限が行き届いていなかったからで、追放された豪族が遠方の
僻地に逃げ延びるなどして、朝廷の支配から脱する余地があったからである。武家時代になると、諸地方の平定も
相当に行き届いたものの、やはり実際問題として、一定の勢威を保ったままでいる部落への対処が問題化し続けていた。
現代においては、地位を追われた重権力犯罪者が逃げ延びられるような地域が、もはや地球上のどこにもない。
中央社会から僻地に逃げ延びて、勢力を温存した古代豪族のような真似もできないから、それはもう欧米の
聖書信者にも諦めてもらうしかない。その上で、集団自殺でもしない限りにおいて、多少手荒いほどもの
集中的な治療を受けてもらって、邪教信仰と、それによる行為能力の濫用からなる後遺症とをできる限り完治
してもらうように。それは確かに、相当な苦痛をも伴うことに違いないが、それを乗り越えられすらしたなら、
10億人を超える犠牲者をはじき出した、近現代の重権力犯罪の被害者たちに対する落とし前もまた付くといえる。
「肆に戎疾は殄え、烈假も瑕ざかりき。聞きては亦た式い、諫めは亦た入るる。
肆に成人は徳を有し、小子は造るを有する。古えの人を斁うことなく、髦士をも誉しましむ」
「外界の蛮族は絶滅し、蛮族の悪習も絶やされた。これからは人の言うことを取り入れ、諌めもまた受け入れる。
成熟した大人は徳を湛え、未熟な小子もまたすべきことを為す。老人を遠ざけない一方で、若者もまた楽しませる。
(未熟な小子は未熟な小子で、分をわきまえていればいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・思斉より)

しかも、その手管も政商・食客・縦横家と、とっくの昔に東洋で既成され尽くしていたもの。
上記のような手管を用いつつの国際権力犯罪に及ぶことが、中国大陸や日本列島のような
完結しきった閉鎖社会においては致命的な破滅を呼び込むことが、「史記」などの記録を通じて十二分に
戒められていたから、中国や日本では上記のような手管を用いた権力犯罪も未然に食い止められ続けてきた。
また、孟子や朱子による王覇論を通じて、外界征服をひたすら拡大していく覇道よりは、
自国の徳治に専念する王道のほうが優位であることが謳われてきたから、やはり日本や中国のような
儒学の存在する国においては、覇道を捨てて王道を取ることが積極的に嗜まれてきた。
上記のような、世界史上における判例もあった上で、片や欧米聖書圏のほうたるや、
王道よりも劣位とされる覇道によって外界侵略を推し進め、我田引水のための国際権力犯罪を遂行
させるに際しては、政商・食客・縦横家といった、東洋では禁忌とされているような手段までをも行使した。
結果、欧米聖書圏こそは自業自得で、破滅の危機に陥った。
外界侵略が地球全体にまで行き届き、まず覇道を拡大させていくことが近代までに行き詰った。
その後もしばらく、政商や食客や縦横家を用いた国際権力犯罪による欧米聖書圏の我田引水は続いたが、
今日に至って遂に、これ以上そのような我田引水を存続する余地もなくなった。それでいて欧米の側の
内情を見てみれば、どこまでも侵略や我田引水を拡大や肥大化させていくことばかりを念頭に置いた、
ブタのような衆愚の群れで国内が溢れ返っているときた。覇道や国際権力犯罪ありきで成り立ってきた社会が
そのような手段の存続を行き詰らせた挙句に、堅実な内政を疎かにし続けて来過ぎたが故の破滅に見舞われた。
覇道や国際権力犯罪ばかりに執着して、自国の王道統治を疎かにした挙句、完全な破滅に見舞われる。
これが「神の業」だというのなら、ずいぶんと神も落ちぶれたものだといえる。もちろん本当は
神の所業でもなんでもない、多少小ざかしげな匹夫小人の悪巧みであったというばかりのことでしかない。
それでいてその、小ざかしい匹夫小人の悪巧みは、見事なまでの犯罪聖書の実践にもなっている。
権力犯罪聖書——通称聖書の余すことなき忠実な実践の先に、あられもない今日の破滅もまたあったのである。
「事を先にして得るを後にするは、徳を崇くするに非ざるや」
「自分が為すべき事を為すのを優先して、何かを得ることは二の次とするのが、徳を高めることになるのではないだろうか。
(イエスの物言いは、まず何かを得ることを第一としていて、それを『神の義の希求』などによって、ごまかしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二一より)
これが「神の業」だというのなら、ずいぶんと神も落ちぶれたものだといえる。もちろん本当は
神の所業でもなんでもない、多少小ざかしげな匹夫小人の悪巧みであったというばかりのことでしかない。
それでいてその、小ざかしい匹夫小人の悪巧みは、見事なまでの犯罪聖書の実践にもなっている。
権力犯罪聖書——通称聖書の余すことなき忠実な実践の先に、あられもない今日の破滅もまたあったのである。
「事を先にして得るを後にするは、徳を崇くするに非ざるや」
「自分が為すべき事を為すのを優先して、何かを得ることは二の次とするのが、徳を高めることになるのではないだろうか。
(イエスの物言いは、まず何かを得ることを第一としていて、それを『神の義の希求』などによって、ごまかしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二一より)
聖書信者の今日に至る破滅は、欲をほしいままにし過ぎたがためのものである。
エサを与えれば、どこまでも延々と食らい尽くして止まないブタの貪欲さを忌んで、
ムスリムも豚食を禁じている。欲をほしいままにしない手法としてはずいぶん稚拙な部類にも入るが、
少なくとも、欲望を一定以上に肥大化させない指針としては、磐石な機能を伴っているといえる。
キリスト教義の「七つの大罪」のうちにも「貪欲」が入っているが、その大罪としての貪欲すらもが
十字架信仰によって赦されるとされ、イエスの肉を食らうことを祝う「謝肉祭」までもが行われる。
「欲望こそは是だ」というような、悪魔崇拝そのものに当たるような悪徳の標榜まではしないにしても、
欲望を制御する術を一切持ち合わせていないという点では、キリスト教も悪魔崇拝と同等であるといえる。
悪魔崇拝国としての裏の顔を持つアメリカやイギリスだけでなく、純粋なキリスト教圏である欧州諸国もまた、
資本や資源の占有率で全世界のうちでも突出し、一人当たりの生活水準にかけては世界最高レベルをも誇っている。
自分たち自身が現代の権力犯罪にあまり深く携わらずとも、やはり同人種である英米の支配層などとの取引に
よって富裕を得ているからで、米英が直接の権力犯罪大国であるのに対し、欧州は間接の権力犯罪国連合で
あるといえる。いくらそれで、表向きに気品のある生活などを装ってみたところで、米英の悪魔崇拝者と共に
欲をほしいままにしすぎたが故の腐臭が、欧州のキリスト教国の人間からも漂ってくることには変わりないのである。
エサを与えれば、どこまでも延々と食らい尽くして止まないブタの貪欲さを忌んで、
ムスリムも豚食を禁じている。欲をほしいままにしない手法としてはずいぶん稚拙な部類にも入るが、
少なくとも、欲望を一定以上に肥大化させない指針としては、磐石な機能を伴っているといえる。
キリスト教義の「七つの大罪」のうちにも「貪欲」が入っているが、その大罪としての貪欲すらもが
十字架信仰によって赦されるとされ、イエスの肉を食らうことを祝う「謝肉祭」までもが行われる。
「欲望こそは是だ」というような、悪魔崇拝そのものに当たるような悪徳の標榜まではしないにしても、
欲望を制御する術を一切持ち合わせていないという点では、キリスト教も悪魔崇拝と同等であるといえる。
悪魔崇拝国としての裏の顔を持つアメリカやイギリスだけでなく、純粋なキリスト教圏である欧州諸国もまた、
資本や資源の占有率で全世界のうちでも突出し、一人当たりの生活水準にかけては世界最高レベルをも誇っている。
自分たち自身が現代の権力犯罪にあまり深く携わらずとも、やはり同人種である英米の支配層などとの取引に
よって富裕を得ているからで、米英が直接の権力犯罪大国であるのに対し、欧州は間接の権力犯罪国連合で
あるといえる。いくらそれで、表向きに気品のある生活などを装ってみたところで、米英の悪魔崇拝者と共に
欲をほしいままにしすぎたが故の腐臭が、欧州のキリスト教国の人間からも漂ってくることには変わりないのである。

貪欲自体よりも、貪欲の原因となっている惰弱さが本人を悩乱に追いやって、その悩乱を解消する目的で外物への
欲を働かせるという、悪循環を生む。実際には、さらなる貪りなどによって悩乱が解消されることはなく、仮に欲が
一時的に満たされたところで、全く悩乱のほうは解消されていないために、それに対する落胆が加担されたことも相まって、
どこまでも果てしなく、悩乱の解消もできないままに、欲望ばかりをむさぼり続けるという事態に陥ってしまう。
動物のブタが、どこまでも際限なくエサを貪り食らい続けるのも、上記のような心理的理由に基づくのであって、
人間によってイノシシからブタへと品種改造されたことを通じて、ブタも動物ならではの精神障害を患ったのだといえる。
欧米の聖書信者が、どこまでも欲望を貪って止まないのも、やはり全く同じ理由で、際限のない貪欲さの抑制のためには、
それこそブタをイノシシに戻すなみの品種改造すらもが必要になるのかも知れない。もちろんそこまで手荒なことをせずとも、
今の欧米人がそのままで制欲の術をわきまえられたならそれに越したことはないのだが、果たして、ブタに制欲は可能なのやら。
「緝緝翩翩と、謀りて人を譖れんと欲す。爾の言を慎め、爾を信ならずと謂わん」
「ベラベラと不埒な口舌を並べ立てて、謀略によって他人を陥れることばかりを欲している。
貴様のその口舌こそをまず慎んで、自分に人から信用される価値などがないことを思い知れ。
(これはキリスト教徒よりは、開祖のイエス自身や、悪魔崇拝者などに対してこそ言えることだ。妾腹の私生児の
ような不遇に生まれ育って自暴自棄と化した者は、常人が想像も付かないような甚だしさの害欲を抱くことがある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巷伯より)
「キリストを信じろ」といえば「キリスト以外は信じるな」という含意があり、
「キリストの言うことを聞け」といえば「キリスト以外には耳を貸すな」という含意があり、
「キリストによってこそ救われる」といえば「キリスト信者以外を破滅に陥れる」という含意がある。
常に、自分以外の全てを貶めて、自分だけを是とし、是とさせようとする害他型のドグマが、
聖書信仰の場合はその根本聖典にすら明記されている。イスラムの排他主義ですら、本当は
この聖書信仰のドクマの生き写しなのであり、他者を作為的に貶めることで自分たちを
優等化しようと試みてきた度合いでは、イスラムも聖書信仰には全く及ばないのである。
他者の利益を損なうことで自分が利益を得ようとする我田引水志向は、太古の昔から商売人の悪癖などとして
存在し続けてきた。商品に相応の対価を得るまでが善賈(善良な商人)の営みである一方で、相応以上の
対価をせしめるのが悪徳商人の所業であり、その甚だしさが度を越している場合には摘発の対象ともなった。
旧約の著者や、新約の登場人物となった古代ユダヤ人も、上記のうちでの悪徳商人の部類の派閥だったのであり、
もはや不当利得だけで自分たちが生活しているも同然のような状態だったから、バビロンに捕囚もされた。
商品に相応以上の対価を得ようとする、悪徳商人の所業などに見られる「利害反する有り(韓非子・内儲説下)」
という状態、この状態の是認を信教化したのが聖書信仰であり、そのため聖書信者には必ず、
他者を貶めることで自分たちを優等化しようとする悪癖が具わるようになってしまっている。
「キリストの言うことを聞け」といえば「キリスト以外には耳を貸すな」という含意があり、
「キリストによってこそ救われる」といえば「キリスト信者以外を破滅に陥れる」という含意がある。
常に、自分以外の全てを貶めて、自分だけを是とし、是とさせようとする害他型のドグマが、
聖書信仰の場合はその根本聖典にすら明記されている。イスラムの排他主義ですら、本当は
この聖書信仰のドクマの生き写しなのであり、他者を作為的に貶めることで自分たちを
優等化しようと試みてきた度合いでは、イスラムも聖書信仰には全く及ばないのである。
他者の利益を損なうことで自分が利益を得ようとする我田引水志向は、太古の昔から商売人の悪癖などとして
存在し続けてきた。商品に相応の対価を得るまでが善賈(善良な商人)の営みである一方で、相応以上の
対価をせしめるのが悪徳商人の所業であり、その甚だしさが度を越している場合には摘発の対象ともなった。
旧約の著者や、新約の登場人物となった古代ユダヤ人も、上記のうちでの悪徳商人の部類の派閥だったのであり、
もはや不当利得だけで自分たちが生活しているも同然のような状態だったから、バビロンに捕囚もされた。
商品に相応以上の対価を得ようとする、悪徳商人の所業などに見られる「利害反する有り(韓非子・内儲説下)」
という状態、この状態の是認を信教化したのが聖書信仰であり、そのため聖書信者には必ず、
他者を貶めることで自分たちを優等化しようとする悪癖が具わるようになってしまっている。
聖書圏の民衆が、常日ごろから他者を貶めることばかり考えていることをニーチェは「ルサンチマン(嫉妬心)」
と呼んだが、別に民衆が常日ごろから嫉妬心ばかりを抱いているのが、人間社会のデフォルトなどではない。
聖書圏に限っては、他者を貶めることで自分を優等化することが宗教上の理念にすらなってしまっているから、
嫉妬などではなく、もはや義務感によってですら、まずは他者を貶めることを念頭に置いてしまうのである。
他者を貶めることで自分が利益を得ようとする人間は、決して世の中に必須なものなどではない。
ある程度大規模な都市社会には商売人も必要ではあるにしろ、商品に相応の対価のみを得る善賈だけで
十分であり、相応以上の対価を得る悪徳商人は、生じたとすれば全社会を挙げての排除の対象とすべきである。
ましてや、他者を貶めることで自分が利益を得ることが名誉になるなどと見なされるのはもってのほかで、
そのような風潮が世の中に蔓延することを認めないためにも、「他者を貶めれば自分が優等な存在になれる」
とするような誤った考え方を、徹底的な撃滅の対象としていくべきである。他者を貶めることで自分を
優等化しようとするような信教が未だ存在するのなら、それこそ全世界を挙げての撲滅にも取り組むべきである。
「多聞を友とするは、益なり。」
「広く誰しもの言うことを聞き知る者を友とするのは有益である。
(狭く限られたことしか聞こうとしない者を友とするのは無益ないし有害である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・四より)
と呼んだが、別に民衆が常日ごろから嫉妬心ばかりを抱いているのが、人間社会のデフォルトなどではない。
聖書圏に限っては、他者を貶めることで自分を優等化することが宗教上の理念にすらなってしまっているから、
嫉妬などではなく、もはや義務感によってですら、まずは他者を貶めることを念頭に置いてしまうのである。
他者を貶めることで自分が利益を得ようとする人間は、決して世の中に必須なものなどではない。
ある程度大規模な都市社会には商売人も必要ではあるにしろ、商品に相応の対価のみを得る善賈だけで
十分であり、相応以上の対価を得る悪徳商人は、生じたとすれば全社会を挙げての排除の対象とすべきである。
ましてや、他者を貶めることで自分が利益を得ることが名誉になるなどと見なされるのはもってのほかで、
そのような風潮が世の中に蔓延することを認めないためにも、「他者を貶めれば自分が優等な存在になれる」
とするような誤った考え方を、徹底的な撃滅の対象としていくべきである。他者を貶めることで自分を
優等化しようとするような信教が未だ存在するのなら、それこそ全世界を挙げての撲滅にも取り組むべきである。
「多聞を友とするは、益なり。」
「広く誰しもの言うことを聞き知る者を友とするのは有益である。
(狭く限られたことしか聞こうとしない者を友とするのは無益ないし有害である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・四より)
儒学道徳は、「純正世間法」。
「微子は之れ去り、箕子は之れ奴と為り、比干は諫めて死せり。孔子曰く、殷に三仁有り」
「(殷代の末期、紂王の暴虐を憂えて)微子は国を去り、箕子は(狂人のフリをして)奴隷に身を落とし、
比干は(紂王を諌めて怒りにふれ)虐殺された。孔先生は言われた。『殷には三人の仁者が居た』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・一)
重権力犯罪者の暴虐の犠牲となって殺されたり、国を去ったり、あるいはまだ奴隷制が存続していた頃に
奴隷身分に身をやつしたりしている者がいた。「罪の奴隷」などという自己陶酔じみた比ゆではなく、
本当に社会身分上の奴隷に身を落とす、その一方で、重権力犯罪者のほうはお縄ひとつ頂戴することなく
延々と放辟邪侈に明け暮れ、何とか自分たちが罪責を免れ続けようと執心し続けている。
いっそのこと、本当に奴隷になってしまえばいい。
奴隷制なんか、もうシラフの社会で公布されるべきものでもないが、重罪まみれの酩酊に陥っている者に
限っては、禁治産や参政権剥奪などの処分を通じて、奴隷や半奴隷も同然の立場に自分たちを置くのだ。
実際に、今の資本主義後進国では、まだ奴隷でいたほうがいい生活を送れるほどにも酷烈な困窮下に
置かれている者が何億人にも上っている。それも、資本主義先進国から、長年の国際権力犯罪被害に
見舞われ続けて来たからで、資本主義先進国である欧米キリスト教圏の人間が、行為能力を制限されながらも、
一定度の生活は保障される奴隷身分に置かれたならば、独占していた余剰資本が後進国にも回されて、
誰一人として、今のアフリカやインド並みの貧窮に置かれることのない地球社会が実現されるのである。
箕子も狂人のフリをして奴隷に身をやつしたというが、奴隷なら狂人でもできる。
邪神信仰で気が狂ったうちからでも奴隷身分にみをやつし、自分たちの過ちが認められない限りに
おいてそのままであり続け、過ちを認められたところから少しずつ常人としての身分を回復していく。
地球人類の滅亡を食い止めるためにさしあたって行使される措置も、そのあたりが現実的なものになる。
「(殷代の末期、紂王の暴虐を憂えて)微子は国を去り、箕子は(狂人のフリをして)奴隷に身を落とし、
比干は(紂王を諌めて怒りにふれ)虐殺された。孔先生は言われた。『殷には三人の仁者が居た』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・一)
重権力犯罪者の暴虐の犠牲となって殺されたり、国を去ったり、あるいはまだ奴隷制が存続していた頃に
奴隷身分に身をやつしたりしている者がいた。「罪の奴隷」などという自己陶酔じみた比ゆではなく、
本当に社会身分上の奴隷に身を落とす、その一方で、重権力犯罪者のほうはお縄ひとつ頂戴することなく
延々と放辟邪侈に明け暮れ、何とか自分たちが罪責を免れ続けようと執心し続けている。
いっそのこと、本当に奴隷になってしまえばいい。
奴隷制なんか、もうシラフの社会で公布されるべきものでもないが、重罪まみれの酩酊に陥っている者に
限っては、禁治産や参政権剥奪などの処分を通じて、奴隷や半奴隷も同然の立場に自分たちを置くのだ。
実際に、今の資本主義後進国では、まだ奴隷でいたほうがいい生活を送れるほどにも酷烈な困窮下に
置かれている者が何億人にも上っている。それも、資本主義先進国から、長年の国際権力犯罪被害に
見舞われ続けて来たからで、資本主義先進国である欧米キリスト教圏の人間が、行為能力を制限されながらも、
一定度の生活は保障される奴隷身分に置かれたならば、独占していた余剰資本が後進国にも回されて、
誰一人として、今のアフリカやインド並みの貧窮に置かれることのない地球社会が実現されるのである。
箕子も狂人のフリをして奴隷に身をやつしたというが、奴隷なら狂人でもできる。
邪神信仰で気が狂ったうちからでも奴隷身分にみをやつし、自分たちの過ちが認められない限りに
おいてそのままであり続け、過ちを認められたところから少しずつ常人としての身分を回復していく。
地球人類の滅亡を食い止めるためにさしあたって行使される措置も、そのあたりが現実的なものになる。

自殺の禁止も、マニ教を通じて仏教からパクったものだし、
クリスマスに家族で集まって祈りを捧げて、家族の結束を高めたりすることも、
親子兄弟の殺し合いを予言しているイエスの言行には、真っ向から反している。
聖書教義には完全に逆らいながらも、クリスマスに家族と食べるチキンなり七面鳥なりが
うまいというのなら、それはむしろ、孝悌を尊ぶ儒学の教えに即してこそ、うまいのである。
犯罪聖書の神に逆らい、四書五経の孔孟らの教えに従うことでこそ、腹を満たしている。
もちろんキリスト教徒が意識的に聖書の教義に逆らっているわけでも、四書五経の教えに
従っているわけでもないが、結果としては、聖書に逆らって四書五経に従ってもいるのである。
そもそも始めから、キリスト教徒たち自身からして、聖書の教義を全面的には受け入れていないのである。
みんながみんな、イエスの代わりに放免される重罪人バラバのようであるのでは世の中も立ち行かないから、
欧州人も最悪の汚れ仕事はイギリス人やマフィアや外国人部隊に任せ、アメリカでも最悪級の金融犯罪などに
直接手を付けているのは、一部の人間に限られている。それらのような深刻な病巣を、聖書信仰を通じて抱え続けて
いるが故に、欧米の全聖書教徒が重大権力犯罪の従犯とも化してしまってはいるわけだが、ほとんどの聖書教徒は、
聖書よりもむしろ儒学や仏教の教えに近似しているような、かりそめのキリスト教教義を通じて気休めもしているのである。
聖書の教義に逆らい、儒学や仏教の教えに従ってきたぶんだけ、キリスト教徒もまた、毅然としていられたのである。
始めから聖書の教えだけに従っていたりしたなら、自分たちのあり方に、寸分の正当性も見出せはしなかった。
聖書信仰は、現実に教団経営を成立させていくことを通じて、女が男になるほどもの変質を来たさざるを得なかった。
そしてその、女が男に変質したぶんだけの差分は全て、異教異学や普遍道理からの借り物でしかなかった。
故にこそ、キリスト教徒は自分たちが、今まで2000年近くにも渡って教団経営の伝統を貫いてきたことを、
聖書信仰を存続させるに値する証拠であるなどとうそぶくこともできないのである。儒学や仏教の
教えに相当するものの借用がなければ、とっくにキリスト教徒などもこの世から絶えていたのだから。
「小人の腹を以て、君子の心と爲さんことを願う。屬厭せんのみ」
「小人の腹は他愛もなくすぐ満たされるものですが、この腹を以って君子の心に代えさせていただきたいものです。
(腹が満たされる満足感と君子の心をすり合わせたりするのは、あくまで小人の所業だが、それもまあよしとしする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十八年より)
始めから聖書の教えだけに従っていたりしたなら、自分たちのあり方に、寸分の正当性も見出せはしなかった。
聖書信仰は、現実に教団経営を成立させていくことを通じて、女が男になるほどもの変質を来たさざるを得なかった。
そしてその、女が男に変質したぶんだけの差分は全て、異教異学や普遍道理からの借り物でしかなかった。
故にこそ、キリスト教徒は自分たちが、今まで2000年近くにも渡って教団経営の伝統を貫いてきたことを、
聖書信仰を存続させるに値する証拠であるなどとうそぶくこともできないのである。儒学や仏教の
教えに相当するものの借用がなければ、とっくにキリスト教徒などもこの世から絶えていたのだから。
「小人の腹を以て、君子の心と爲さんことを願う。屬厭せんのみ」
「小人の腹は他愛もなくすぐ満たされるものですが、この腹を以って君子の心に代えさせていただきたいものです。
(腹が満たされる満足感と君子の心をすり合わせたりするのは、あくまで小人の所業だが、それもまあよしとしする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十八年より)
孔子が魯の宰相をしていたころ、諸侯の前で不純な音楽を垂れ流す外人が居た。
その男を孔子は礼法違反で処刑した。(「史記」孔子世家を参照)
孔子をただの書生として見くびっていた人々は、それで孔子を見直したが、同時に場違いな
ほどにも礼法に厳格である孔子が、乱世の権力者から遠ざけられる機縁ともなったのである。
礼楽刑政がろくに実践もできない乱世だったから、孔子や孟子も道徳思想を私的に体系化したのである。
すでに詩書礼楽による統治が実現できるようになった漢代においては、陸賈や随何、
叔孫通や董仲舒といった数多の儒者が実際に礼楽統治を敷いていったわけだが、
その創作的な儒者としての業績は、孔子や孟子に遠く及ばないものとなっている。
特に、戦時中は儒学の実践も完全に投げ出していた、叔孫通あたりの立場を慕って言わせてもらうなら、
礼楽統治なんてものは、人工的に実施されない限りにおいては、全く有効化しないのである。
秦始皇帝によって全中国の封建制が廃止された結果、体制転覆と大戦争の後に、
ただの百姓の血筋である劉邦が漢帝国の帝王として全中国を治めるに至った。一方で、
その劉邦こそが、始めは儒者嫌いだったのを、陸賈の誠実さなどから段々儒学を許容し始め、
最終的には詩書礼楽による統治をも取り入れて、400年の長きにわたる治世の礎をももたらしている。
儒者の説く道理も、絶対真理とまではいかないから、確かに世俗的に無効化されることもあるのである。
それどころか、礼楽による統治は人工的に盛り立てていくのでなければ実現し得ない
ことだというのを積極的に認めて行きすらするのであり、一旦礼楽が全国的に廃止されきったならば、
孟子のような、諸侯に対する大上段の構えすら辞さないのである。
その男を孔子は礼法違反で処刑した。(「史記」孔子世家を参照)
孔子をただの書生として見くびっていた人々は、それで孔子を見直したが、同時に場違いな
ほどにも礼法に厳格である孔子が、乱世の権力者から遠ざけられる機縁ともなったのである。
礼楽刑政がろくに実践もできない乱世だったから、孔子や孟子も道徳思想を私的に体系化したのである。
すでに詩書礼楽による統治が実現できるようになった漢代においては、陸賈や随何、
叔孫通や董仲舒といった数多の儒者が実際に礼楽統治を敷いていったわけだが、
その創作的な儒者としての業績は、孔子や孟子に遠く及ばないものとなっている。
特に、戦時中は儒学の実践も完全に投げ出していた、叔孫通あたりの立場を慕って言わせてもらうなら、
礼楽統治なんてものは、人工的に実施されない限りにおいては、全く有効化しないのである。
秦始皇帝によって全中国の封建制が廃止された結果、体制転覆と大戦争の後に、
ただの百姓の血筋である劉邦が漢帝国の帝王として全中国を治めるに至った。一方で、
その劉邦こそが、始めは儒者嫌いだったのを、陸賈の誠実さなどから段々儒学を許容し始め、
最終的には詩書礼楽による統治をも取り入れて、400年の長きにわたる治世の礎をももたらしている。
儒者の説く道理も、絶対真理とまではいかないから、確かに世俗的に無効化されることもあるのである。
それどころか、礼楽による統治は人工的に盛り立てていくのでなければ実現し得ない
ことだというのを積極的に認めて行きすらするのであり、一旦礼楽が全国的に廃止されきったならば、
孟子のような、諸侯に対する大上段の構えすら辞さないのである。
「非礼の礼、非義の義は、大人はなさず(既出)」
「偽りの礼、偽りの義などを大人は決して行いはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・六より)
乱世にかりそめに通用させようとするような、変則的な礼儀作法などは、かえって儒者は認めもしない。
世に広く礼楽統治を敷いて行こうとする志しが高ければこそ、ごく狭い範囲だけで適当に
取り決めているだけの「業務用」の礼儀作法などは、鼻であしらう。だから儒者も古来より、
礼儀作法などクソ扱いする道家の論弁にもまたそれなりに耳を傾けて来たのであり、
礼儀作法ばかりに専らであるのが儒者の全てであるなどと思ったら、大間違いなのである。
むしろ、礼儀作法など一切通用せず通用させない事態こそを、一旦は望むのである。
宮廷の柱を剣で打って傷つける輩がいるほどにも、無礼講が当たり前の事態と化していたのを憂慮して
初めて、卑賤の出身である劉邦も叔孫通に礼楽による統治の実施を打診した。未だ礼楽の気風が
残されているのであればまだしも、もはや礼楽など全国的には過去の遺物も同然とされている
ような事態にすでに至ってしまっているのならば、むしろ完全なる無礼講の後に礼楽を再生して
いくことのほうを望む。そのほうが、陰極まってこそ陽となる、陰陽法則にも適っているのだから。
「白馬翰如たり、寇するに匪ず婚媾せんとす。〜寇するに匪ず婚媾せんとすとは、終に尤无ければなり」
「飾り気のない馬に乗って、疾駆して馳せ付ける。その質素さに驚いて、侵略して来るものかと
勘違いするかもしれないが、むしろ結婚しようとするのである。これが咎のない結婚の仕方となる。
(江戸時代までの日本の結婚式は締まりにくい夜に行われていたし、婚礼はむしろザックバランであるほうがいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・賁・六四‐象伝より)
「偽りの礼、偽りの義などを大人は決して行いはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・六より)
乱世にかりそめに通用させようとするような、変則的な礼儀作法などは、かえって儒者は認めもしない。
世に広く礼楽統治を敷いて行こうとする志しが高ければこそ、ごく狭い範囲だけで適当に
取り決めているだけの「業務用」の礼儀作法などは、鼻であしらう。だから儒者も古来より、
礼儀作法などクソ扱いする道家の論弁にもまたそれなりに耳を傾けて来たのであり、
礼儀作法ばかりに専らであるのが儒者の全てであるなどと思ったら、大間違いなのである。
むしろ、礼儀作法など一切通用せず通用させない事態こそを、一旦は望むのである。
宮廷の柱を剣で打って傷つける輩がいるほどにも、無礼講が当たり前の事態と化していたのを憂慮して
初めて、卑賤の出身である劉邦も叔孫通に礼楽による統治の実施を打診した。未だ礼楽の気風が
残されているのであればまだしも、もはや礼楽など全国的には過去の遺物も同然とされている
ような事態にすでに至ってしまっているのならば、むしろ完全なる無礼講の後に礼楽を再生して
いくことのほうを望む。そのほうが、陰極まってこそ陽となる、陰陽法則にも適っているのだから。
「白馬翰如たり、寇するに匪ず婚媾せんとす。〜寇するに匪ず婚媾せんとすとは、終に尤无ければなり」
「飾り気のない馬に乗って、疾駆して馳せ付ける。その質素さに驚いて、侵略して来るものかと
勘違いするかもしれないが、むしろ結婚しようとするのである。これが咎のない結婚の仕方となる。
(江戸時代までの日本の結婚式は締まりにくい夜に行われていたし、婚礼はむしろザックバランであるほうがいいのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・賁・六四‐象伝より)
君子は天命を実現するために命を賭すことも時に辞さないが、
かといって、酔狂での博打までは打たない。確実な成果が期待できるわけでもない
危うい試みへと確信を持って従事していくことなどは、忠孝の心がけによって戒める。
主君にしろ親にしろ、臣下や子である場合の自分などと比べて、えてして老獪で、慎重深いものだ。
立場や年齢の高さからなる保守性の高さに対して、時に臣下や子のほうが旺盛な積極性によって
働きかけるべき時すらもがあるが、その逆に、過剰なほどもの主君や親の保守性の高さへの配慮を、
臣下や子である側が、自らのはやり過ぎからなる失策を食い止めるための命綱ともしていくのである。
君臣父子の忠孝関係すら破綻したところに、紛れもない、人としての不善が備わっている。
少なくとも、忠孝関係を保ちつつ事を成すことが、人としての最善を尽くすことになるのと比べて、
忠孝関係を損ないつつ何かをすることは、どんなことであっても、最善を尽くすことにはならない。
だから、忠孝を守りつつ何かを為す場合以上の危険までもが、必ず伴うことになるのである。
何かに確信を持って従事していくというのなら、それは忠孝を保てることに関してでこそあるべきだ。
イエスの言うような、親子兄弟の殺し合いを助長するような行いや信仰に確信を持つことだけは、
絶対に避けるべきことで、むしろそれこそは、確信を持って厭い離れるべきものであるといえる。
子が博打にはまって身を滅ぼすことといえば、子が凶悪犯罪者になってしまうことの次ぐらいに
親を悲しませることだ。博打にも色々とあるが、カルト宗教にはまるのも一種の博打であり、
その教義の内実がどんなものであれ、わが子を愛する親が子を近づけることなどを決して好むものではない。
一方で、親が子に対して確実に奨励できるのは、「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」のような、
どこにも不可解さのないしごく当たり前な徳目の厳守だ。「とにかく、それぐらいのことだけは守ってくれ」
という、最低限の平安を願う気持ちを込めて、親は子に当たり前な範囲での徳目の厳守ばかりを促す。
かといって、酔狂での博打までは打たない。確実な成果が期待できるわけでもない
危うい試みへと確信を持って従事していくことなどは、忠孝の心がけによって戒める。
主君にしろ親にしろ、臣下や子である場合の自分などと比べて、えてして老獪で、慎重深いものだ。
立場や年齢の高さからなる保守性の高さに対して、時に臣下や子のほうが旺盛な積極性によって
働きかけるべき時すらもがあるが、その逆に、過剰なほどもの主君や親の保守性の高さへの配慮を、
臣下や子である側が、自らのはやり過ぎからなる失策を食い止めるための命綱ともしていくのである。
君臣父子の忠孝関係すら破綻したところに、紛れもない、人としての不善が備わっている。
少なくとも、忠孝関係を保ちつつ事を成すことが、人としての最善を尽くすことになるのと比べて、
忠孝関係を損ないつつ何かをすることは、どんなことであっても、最善を尽くすことにはならない。
だから、忠孝を守りつつ何かを為す場合以上の危険までもが、必ず伴うことになるのである。
何かに確信を持って従事していくというのなら、それは忠孝を保てることに関してでこそあるべきだ。
イエスの言うような、親子兄弟の殺し合いを助長するような行いや信仰に確信を持つことだけは、
絶対に避けるべきことで、むしろそれこそは、確信を持って厭い離れるべきものであるといえる。
子が博打にはまって身を滅ぼすことといえば、子が凶悪犯罪者になってしまうことの次ぐらいに
親を悲しませることだ。博打にも色々とあるが、カルト宗教にはまるのも一種の博打であり、
その教義の内実がどんなものであれ、わが子を愛する親が子を近づけることなどを決して好むものではない。
一方で、親が子に対して確実に奨励できるのは、「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」のような、
どこにも不可解さのないしごく当たり前な徳目の厳守だ。「とにかく、それぐらいのことだけは守ってくれ」
という、最低限の平安を願う気持ちを込めて、親は子に当たり前な範囲での徳目の厳守ばかりを促す。
四書五経に書かれてあるのは、特にそのような当たり前の徳目が主である一方、犯罪聖書に書かれて
あることは、決して当たり前ではない、奇を衒うことばかりに特化された、不可解な教義ばかりである。
仏典に書かれてあることなども時に不可解ではあるが、よく読んでその意味を理解してみれば、
やはり親を不安にさせるような不安定要素は、徹底して省かれていることが分かる。
逆に犯罪聖書をよく読めば、本当に親を悲しませるようなことばかりが書かれていることが分かる。
親が絶対に安心し続けていられるような、当たり前な徳行だけをやり続けていれば、必ずそれこそが
最善を尽くすことになる、とも限らず、親すら付いていけないような高尚なところに、さらに最善を尽くす
余地がある場合もあることが、仏教の存在などからも計り知れるが、かといって、忠孝を損ない尽くすのではなく、
結果的には世の中の忠孝関係をより促進する試みでもあって初めて、それがより最善を尽くすことにもなる。
結果が「親子兄弟を殺し合わせる」なのでは、どうあっても、よりよいなどということが決してあり得ない。
善の根本を完全に損ないつつ何かをすることで、何かが少しでも善くなるなどということは、三世に渡って
あり得ることではない。そして当然、何も善くなることが期待できないことなどに、決して確信を持つべきではない。
「夫れ達なる者は〜慮って以って人に下る。〜夫れ聞なる者は〜之れに居りて疑わず」
「達観者は、人に謙るにしてもよく相手を慮る。うわべの評判だけを気にするものは、これと確信した
ものは二度と疑おうともしない。(小人には信義ぐらいしか守るべきものが見つからないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二〇より)
あることは、決して当たり前ではない、奇を衒うことばかりに特化された、不可解な教義ばかりである。
仏典に書かれてあることなども時に不可解ではあるが、よく読んでその意味を理解してみれば、
やはり親を不安にさせるような不安定要素は、徹底して省かれていることが分かる。
逆に犯罪聖書をよく読めば、本当に親を悲しませるようなことばかりが書かれていることが分かる。
親が絶対に安心し続けていられるような、当たり前な徳行だけをやり続けていれば、必ずそれこそが
最善を尽くすことになる、とも限らず、親すら付いていけないような高尚なところに、さらに最善を尽くす
余地がある場合もあることが、仏教の存在などからも計り知れるが、かといって、忠孝を損ない尽くすのではなく、
結果的には世の中の忠孝関係をより促進する試みでもあって初めて、それがより最善を尽くすことにもなる。
結果が「親子兄弟を殺し合わせる」なのでは、どうあっても、よりよいなどということが決してあり得ない。
善の根本を完全に損ないつつ何かをすることで、何かが少しでも善くなるなどということは、三世に渡って
あり得ることではない。そして当然、何も善くなることが期待できないことなどに、決して確信を持つべきではない。
「夫れ達なる者は〜慮って以って人に下る。〜夫れ聞なる者は〜之れに居りて疑わず」
「達観者は、人に謙るにしてもよく相手を慮る。うわべの評判だけを気にするものは、これと確信した
ものは二度と疑おうともしない。(小人には信義ぐらいしか守るべきものが見つからないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・二〇より)
調味料や明暗に喩えるなら、聖書信仰は「糖と闇」の宗教だといえる。
文面でそう書いているわけではなくても、塩と書いてあるものが
実際のところ糖であり、光と欠いてあるものが実際のところ闇である。
精神力を培わせる塩の摂取は最小限に控えさせ、逆に精神をとろかしめる
糖ばかりを多量に摂取させて、信者を暗愚な精神へと追いやる。
実際にそれと同等の占領措置を、聖書信者ではない日本人に戦後、聖書圏である
アメリカが強いても居り、そのため元々は世界でも屈指の血気盛んさ備えていた
日本人が今では、それはそれは暗愚な耄碌者ばかりと化してしまったのでもある。
本当に「塩と光」の宗教であるのは、神道だったり仏教だったりする。それに対し、
聖書信仰だけでなく、イスラムを含むアブラハム教全般が「糖と闇」の宗教であり、
そのため甘いものを好む女子の領分である愛を「神の愛」とまでいって標榜しもする。
ただ、アブラハム教のうちでは、イスラムだけは神の愛に「慈愛」が伴っているため、
信者の健康を慮って、糖分の取りすぎによる極度の暗愚への陥りを戒めてもいる。
(その手段が豚食や飲酒の禁止だったり、確信的な女性差別だったりもする)
糖を絶対に摂ってはならないなんてことはないし、闇を全否定するのも実際、無理な話である。
ただ、塩や光と比べれば、糖や闇は低く置かれて然るべきものであり、それでこそ人の健康も
増進される一方、糖や闇を優先して塩や光を劣後したときに、人は大きく健康を損なうのである。
心も病むし、身体も病む。塩分摂取を減らされて糖分摂取を過剰化させられた
戦後の日本人たるや、精神が惰弱化しただけでなく、外貌までもが極端にだらしないものとなった。
そして確かに見た目に相応の、糖尿病などの成人病にも悩まされていて、インシュリン無しでは
生きていけないほどにも、ひどく健康を損なってしまっている場合も多々ある。
文面でそう書いているわけではなくても、塩と書いてあるものが
実際のところ糖であり、光と欠いてあるものが実際のところ闇である。
精神力を培わせる塩の摂取は最小限に控えさせ、逆に精神をとろかしめる
糖ばかりを多量に摂取させて、信者を暗愚な精神へと追いやる。
実際にそれと同等の占領措置を、聖書信者ではない日本人に戦後、聖書圏である
アメリカが強いても居り、そのため元々は世界でも屈指の血気盛んさ備えていた
日本人が今では、それはそれは暗愚な耄碌者ばかりと化してしまったのでもある。
本当に「塩と光」の宗教であるのは、神道だったり仏教だったりする。それに対し、
聖書信仰だけでなく、イスラムを含むアブラハム教全般が「糖と闇」の宗教であり、
そのため甘いものを好む女子の領分である愛を「神の愛」とまでいって標榜しもする。
ただ、アブラハム教のうちでは、イスラムだけは神の愛に「慈愛」が伴っているため、
信者の健康を慮って、糖分の取りすぎによる極度の暗愚への陥りを戒めてもいる。
(その手段が豚食や飲酒の禁止だったり、確信的な女性差別だったりもする)
糖を絶対に摂ってはならないなんてことはないし、闇を全否定するのも実際、無理な話である。
ただ、塩や光と比べれば、糖や闇は低く置かれて然るべきものであり、それでこそ人の健康も
増進される一方、糖や闇を優先して塩や光を劣後したときに、人は大きく健康を損なうのである。
心も病むし、身体も病む。塩分摂取を減らされて糖分摂取を過剰化させられた
戦後の日本人たるや、精神が惰弱化しただけでなく、外貌までもが極端にだらしないものとなった。
そして確かに見た目に相応の、糖尿病などの成人病にも悩まされていて、インシュリン無しでは
生きていけないほどにも、ひどく健康を損なってしまっている場合も多々ある。
医療技術の進歩によって、確かに現代人の平均寿命は伸びたが、それによって精神寿命は
「中二(14才)」あたりまで縮んだ。中学二年あたりで日本の青少年の多くは、今の世の中の
大人の誰しもが精神的に死んでいることに気づいて憤る。自分がそんな大人になりたくないと思いつつも、
自殺でもしない限りにおいては、やはり世の風潮に流されて、自分もまた精神的に死んだ大人へと成長する。
「聖書信仰こそは、腐った大人を量産する社会的元凶である」ということを以前にも述べたが、
まさに、糖分の摂りすぎと同様の精神的暗愚をもたらすことこそは、聖書信仰が腐った大人を量産して
しまう原因であるといえる。甘いものというと、いかにも「子供が好きなもの」というイメージがあるが、
大人でありながら未だに甘いものばかりを好き好めことで、かえって心身の腐乱を招いてしまうのである。
実際の栄養面でも、糖分を控えて塩分を十分に摂ることが、心身の健康を保つ糧となる。
そしてそれと同じように、聖書信仰を廃絶して仏教や神道などを再興していくことが、
宗教信仰の側面における心身の健康を保っていく源になる。
学問面では、儒学が「塩と光」の学問であり、洋学が「糖と闇」の学問であるため、
洋学を控えて儒学をよく学んでいくことが、健康の増進になる。洋学はなかなか
廃絶とまではいかないだろうから、それこそ「控えめ」ということでいいのである。
「王曰く、来たれ、汝、説。〜若し和羹を作さば、爾じは惟れ鹽梅」
「王の武丁が宰相の傅説を呼んで言った言葉。『もし吸い物を作るとすれば、おまえはそこに投入する塩だ』
(味付けの肝である塩でありながら、王君の下に置かれる臣下である。君臣の義の妙であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)
「中二(14才)」あたりまで縮んだ。中学二年あたりで日本の青少年の多くは、今の世の中の
大人の誰しもが精神的に死んでいることに気づいて憤る。自分がそんな大人になりたくないと思いつつも、
自殺でもしない限りにおいては、やはり世の風潮に流されて、自分もまた精神的に死んだ大人へと成長する。
「聖書信仰こそは、腐った大人を量産する社会的元凶である」ということを以前にも述べたが、
まさに、糖分の摂りすぎと同様の精神的暗愚をもたらすことこそは、聖書信仰が腐った大人を量産して
しまう原因であるといえる。甘いものというと、いかにも「子供が好きなもの」というイメージがあるが、
大人でありながら未だに甘いものばかりを好き好めことで、かえって心身の腐乱を招いてしまうのである。
実際の栄養面でも、糖分を控えて塩分を十分に摂ることが、心身の健康を保つ糧となる。
そしてそれと同じように、聖書信仰を廃絶して仏教や神道などを再興していくことが、
宗教信仰の側面における心身の健康を保っていく源になる。
学問面では、儒学が「塩と光」の学問であり、洋学が「糖と闇」の学問であるため、
洋学を控えて儒学をよく学んでいくことが、健康の増進になる。洋学はなかなか
廃絶とまではいかないだろうから、それこそ「控えめ」ということでいいのである。
「王曰く、来たれ、汝、説。〜若し和羹を作さば、爾じは惟れ鹽梅」
「王の武丁が宰相の傅説を呼んで言った言葉。『もし吸い物を作るとすれば、おまえはそこに投入する塩だ』
(味付けの肝である塩でありながら、王君の下に置かれる臣下である。君臣の義の妙であるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説明下より)
実物の親には、いい面だけでなく悪い面もいくらでもある。
その親をまずは畏敬の対象とした上で、いい面を受け継いで悪い面を是正していく。
その時にこそ、極端な自己愛にも自己嫌悪にも振り切れない、己が身の程のわきまえも備わる。
では、孔子のように母子家庭で育った妾腹の私生児であり、身元が割り出せたときには
すでに父親も死んでいたとする。その時には、無計画な野合で自らを産ませた父親を、
これまた敬服の対象とはした上で、その過ちを是正していくことを自らの本分ともしていく。
妾腹の私生児ほど、親を反面教師として、自らが精進していく立場に恵まれた人間も
他にないのであり、親がダメな人間だったり、大きな不手際の持ち主だったりすることは、
自力作善による大成の余地を踏まえてみれば、決して完全な不遇であるとも限らないのである。
親が代々祟られかねないほどもの重犯罪者だったりするのならともかく、
妾腹の子を作ってしまったとかの、犯罪とまではいかない失態の持ち主であるという場合、
自らがその恥辱をバネにして大成する余地が確かに生ずる。ただ、親の恥辱をバネにするためには、
まず親を敬うことが必要で、それによって恥辱からなる鬱屈や自暴自棄を克服していかなければならない。
それを怠って、親を敬服どころか嫌悪の対象にすらし、自暴自棄状態で脳内超越神の親などを捏造して、
脳内超越神への偏愛にこと欠けた自己愛や小集団愛を募らせていったとすれば、
それこそ未曾有の害悪をもたらす大失態の積み重ねとなるのである。
妾腹の私生児でありながら聖人君子として大成した孔子と、世界中の鬼畜の親分と化したイエスと、
両者を決定的に断絶したのは、本物の親に対する敬愛の有無だった。片や孝子の鑑となるほどにも
父子の親の保全に努め、片や親子兄弟の殺し合いを促す、父子の親の決定的な毀損者となった。
そこから、全世界全人類の繁栄と滅亡とを決定付ける教学までもが枝分かれしたわけだから、
まさに父子の親を旨とした孝悌こそは、世界人類の存亡栄辱をも決定付ける理念だったのだといえる。
その親をまずは畏敬の対象とした上で、いい面を受け継いで悪い面を是正していく。
その時にこそ、極端な自己愛にも自己嫌悪にも振り切れない、己が身の程のわきまえも備わる。
では、孔子のように母子家庭で育った妾腹の私生児であり、身元が割り出せたときには
すでに父親も死んでいたとする。その時には、無計画な野合で自らを産ませた父親を、
これまた敬服の対象とはした上で、その過ちを是正していくことを自らの本分ともしていく。
妾腹の私生児ほど、親を反面教師として、自らが精進していく立場に恵まれた人間も
他にないのであり、親がダメな人間だったり、大きな不手際の持ち主だったりすることは、
自力作善による大成の余地を踏まえてみれば、決して完全な不遇であるとも限らないのである。
親が代々祟られかねないほどもの重犯罪者だったりするのならともかく、
妾腹の子を作ってしまったとかの、犯罪とまではいかない失態の持ち主であるという場合、
自らがその恥辱をバネにして大成する余地が確かに生ずる。ただ、親の恥辱をバネにするためには、
まず親を敬うことが必要で、それによって恥辱からなる鬱屈や自暴自棄を克服していかなければならない。
それを怠って、親を敬服どころか嫌悪の対象にすらし、自暴自棄状態で脳内超越神の親などを捏造して、
脳内超越神への偏愛にこと欠けた自己愛や小集団愛を募らせていったとすれば、
それこそ未曾有の害悪をもたらす大失態の積み重ねとなるのである。
妾腹の私生児でありながら聖人君子として大成した孔子と、世界中の鬼畜の親分と化したイエスと、
両者を決定的に断絶したのは、本物の親に対する敬愛の有無だった。片や孝子の鑑となるほどにも
父子の親の保全に努め、片や親子兄弟の殺し合いを促す、父子の親の決定的な毀損者となった。
そこから、全世界全人類の繁栄と滅亡とを決定付ける教学までもが枝分かれしたわけだから、
まさに父子の親を旨とした孝悌こそは、世界人類の存亡栄辱をも決定付ける理念だったのだといえる。
君臣の義はともかく、父子の親までをも徳治の要とする儒家の主張は、それだけを見ても正直、
納得し難いところがある。実際にそう主張する儒学道徳を実践することで、何百年もの治世を実現
してきた統一政権がいくつもあるわけだから、それを以って忠孝の妥当性の証拠に代えることも
できなくはないが、逆に、父子の親の確信的な毀損を教義とすることで、人類滅亡の危機を招いた
キリスト教の存在もまた、忠孝を旨とする儒学道徳の正当性を背理的には証明してくれたのだといえる。
数多の犠牲者をはじき出している手前、まだあまり大きな声でも言えないが、父子の親を崩壊せしめる
キリスト教災禍による人類社会の破滅が、今後の人類社会における、忠孝を旨とした徳治による、
治世の磐石化を決定付ける機縁となってくれるのであれば、それに越したこともないといえる。
「葉公、政を問う。子曰く、近き者説び、遠き者来たる」
「楚国の葉県の知事が孔先生に政治のあり方を問うた。先生は言われた。
『近隣の人々は治世を喜び、遠方の人々もまたその評判を聞いて慕ってくるようであるべきです』
(遠方の人々を傷つけて隣人ばかりに懇ろであったりするようでは、そうはいかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一六)
納得し難いところがある。実際にそう主張する儒学道徳を実践することで、何百年もの治世を実現
してきた統一政権がいくつもあるわけだから、それを以って忠孝の妥当性の証拠に代えることも
できなくはないが、逆に、父子の親の確信的な毀損を教義とすることで、人類滅亡の危機を招いた
キリスト教の存在もまた、忠孝を旨とする儒学道徳の正当性を背理的には証明してくれたのだといえる。
数多の犠牲者をはじき出している手前、まだあまり大きな声でも言えないが、父子の親を崩壊せしめる
キリスト教災禍による人類社会の破滅が、今後の人類社会における、忠孝を旨とした徳治による、
治世の磐石化を決定付ける機縁となってくれるのであれば、それに越したこともないといえる。
「葉公、政を問う。子曰く、近き者説び、遠き者来たる」
「楚国の葉県の知事が孔先生に政治のあり方を問うた。先生は言われた。
『近隣の人々は治世を喜び、遠方の人々もまたその評判を聞いて慕ってくるようであるべきです』
(遠方の人々を傷つけて隣人ばかりに懇ろであったりするようでは、そうはいかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一六)
人としての健全なプライドは、自らの家や、その家を背負って立つ自分自身にこそ備わる。
妾腹の私生児として母子家庭に育った孔子ですら、父親の身元を自分で確かめて、
孔家の継承者としての尊厳を克ち得て後に、聖人君子としても大成した。
あらかじめ名家に生まれた場合だけでなく、不遇の家庭や卑しい家系に生まれた
場合においても、やはり家を背負って立つ所にこそ、真正な誇りが備わり得る。
本物の誇りというのは、あまりあからさまに誇り高ぶるものでもない。
家を背負って立つということは、父や祖父や曽祖父の家督を継いで行くということであり、
特に父や祖父あたりの、存命中に親しめる間柄のうちには、親の善い面も悪い面も
同時に知らされるところが多いため、決して無条件に誇り高ぶれるともいかない。
仮に自らの父親が徳川家康のような完璧帝王だったとしても、
その家業を将軍職などとして継いで行く場合には、二代将軍秀忠のように
薄氷を踏むような思いでいる必要があるため、全く誇り高ぶっている余裕などもない。
じゃあ、人はどういう場合に誇り高ぶるかといって、卑賤を開き直った時に誇り高ぶる。
公家よりも下に置かれる武家の立場から公家の地位を奪い取り、太政大臣などの重職を
簒奪した平氏なども、だからこそ驕り高ぶったのであり、自分たちの目に余る僭越さ
からなる心の不安定さを埋め合わせるためにこそ、異常に高ぶったりもするのである。
(君子は泰らかなりて驕らず。小人は驕りて泰らかならず。子路第十三・二六)
人としての正しいプライドが備わっているのであれ、いないのであれ、誇り高ぶったり
することはしないか、せいぜい酒席の場でのおふざけぐらいで済ましておくべきである。
妾腹の私生児として母子家庭に育った孔子ですら、父親の身元を自分で確かめて、
孔家の継承者としての尊厳を克ち得て後に、聖人君子としても大成した。
あらかじめ名家に生まれた場合だけでなく、不遇の家庭や卑しい家系に生まれた
場合においても、やはり家を背負って立つ所にこそ、真正な誇りが備わり得る。
本物の誇りというのは、あまりあからさまに誇り高ぶるものでもない。
家を背負って立つということは、父や祖父や曽祖父の家督を継いで行くということであり、
特に父や祖父あたりの、存命中に親しめる間柄のうちには、親の善い面も悪い面も
同時に知らされるところが多いため、決して無条件に誇り高ぶれるともいかない。
仮に自らの父親が徳川家康のような完璧帝王だったとしても、
その家業を将軍職などとして継いで行く場合には、二代将軍秀忠のように
薄氷を踏むような思いでいる必要があるため、全く誇り高ぶっている余裕などもない。
じゃあ、人はどういう場合に誇り高ぶるかといって、卑賤を開き直った時に誇り高ぶる。
公家よりも下に置かれる武家の立場から公家の地位を奪い取り、太政大臣などの重職を
簒奪した平氏なども、だからこそ驕り高ぶったのであり、自分たちの目に余る僭越さ
からなる心の不安定さを埋め合わせるためにこそ、異常に高ぶったりもするのである。
(君子は泰らかなりて驕らず。小人は驕りて泰らかならず。子路第十三・二六)
人としての正しいプライドが備わっているのであれ、いないのであれ、誇り高ぶったり
することはしないか、せいぜい酒席の場でのおふざけぐらいで済ましておくべきである。
漢の高祖劉邦なども、若い頃から誇り高ぶってホラを吹くクセがあったらしいが、
それとは裏腹に臣下の言うことにはよく耳を傾けて、自らに過ちがあれば即座に
改めてもいた。これこそは、劉邦の誇り高ぶり癖が単なる虚勢だった証拠であり、
誇り高ぶりなんぞがただの虚勢であったればこそ、かえってよかった。
平清盛存命中の平氏のように、驕り高ぶりが完全な真性となったとき、本人たちが
自業自得での破滅に至るに及んで、全くの救いようもなくなる。高ぶりをもはや拭い去る
こともできないため、自分たちから救いの手を振りほどくようなことになってしまう。
歴史上において、投降すらすれば救われそうなものを、自らあえて最悪の乱暴に
及んで身を滅ぼしたような類いの人間がかなりの人数見受けられるが、それら全て、
もはや誇り高ぶりを捨て去ることもできないほどに肥大化させてしまった者どもである。
天命のために命を賭したりしたわけでもない、単なる無駄死にであったには違いなく、
そのような死に方がいくら悲劇的なものとして持て囃されるのであっても、決して範と
するには値しない。話として面白いのと、見習うべきなのとは、全く違うことなのだから。
「驕淫矜侉、将に悪に由って終えん。放心を収むると雖も、
之れを閑ぐこと惟れ艱し。資富能く訓えば、惟れ以て年を永うせんに」
「(紂王の放辟邪侈にあてられた元殷の民たちは)誇り高ぶりによるうぬぼれがひどく、
このままでは最悪の末路を辿ってしまうことになりかねない。不埒な思いを一時ぐらいは
収められたとしても、完全に防ぎ止めるのもなかなか困難なこと。(人から嫉まれる原因になる)
財産があっても、やたらと誇り高ぶらぬ恭謙の資質があったなら、長命を全うできるというのに。
(無闇に誇り高ぶって長命を全うできることわりはどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
それとは裏腹に臣下の言うことにはよく耳を傾けて、自らに過ちがあれば即座に
改めてもいた。これこそは、劉邦の誇り高ぶり癖が単なる虚勢だった証拠であり、
誇り高ぶりなんぞがただの虚勢であったればこそ、かえってよかった。
平清盛存命中の平氏のように、驕り高ぶりが完全な真性となったとき、本人たちが
自業自得での破滅に至るに及んで、全くの救いようもなくなる。高ぶりをもはや拭い去る
こともできないため、自分たちから救いの手を振りほどくようなことになってしまう。
歴史上において、投降すらすれば救われそうなものを、自らあえて最悪の乱暴に
及んで身を滅ぼしたような類いの人間がかなりの人数見受けられるが、それら全て、
もはや誇り高ぶりを捨て去ることもできないほどに肥大化させてしまった者どもである。
天命のために命を賭したりしたわけでもない、単なる無駄死にであったには違いなく、
そのような死に方がいくら悲劇的なものとして持て囃されるのであっても、決して範と
するには値しない。話として面白いのと、見習うべきなのとは、全く違うことなのだから。
「驕淫矜侉、将に悪に由って終えん。放心を収むると雖も、
之れを閑ぐこと惟れ艱し。資富能く訓えば、惟れ以て年を永うせんに」
「(紂王の放辟邪侈にあてられた元殷の民たちは)誇り高ぶりによるうぬぼれがひどく、
このままでは最悪の末路を辿ってしまうことになりかねない。不埒な思いを一時ぐらいは
収められたとしても、完全に防ぎ止めるのもなかなか困難なこと。(人から嫉まれる原因になる)
財産があっても、やたらと誇り高ぶらぬ恭謙の資質があったなら、長命を全うできるというのに。
(無闇に誇り高ぶって長命を全うできることわりはどこにもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
快川紹喜の「心頭滅却すれば火もまた涼し」という辞世の句など、
ただ極重の苦難を耐え抜くだけでなく、そこに余裕すら保っておこうとするきらいがある。
実際に、禅の根本聖典である華厳経にも、「菩薩は地獄の苦しみにも耐えることで悟りを得る」
ということが多々書かれていて、その悟りの味は甘露の如きであるともいう。当然、舌の感ずる甘みではなく、
眼耳鼻舌身意といった感覚器官の苦楽を超越したところにある悟りの常楽が、あたかも甘露のようであるということ。
苦しみを耐え抜いた後に楽しみがあるのではなく、身体的な苦しみのさ中にすら悟りの楽しみがある。
もちろん苦しみ自体を快楽だなどと倒錯するマゾヒズムではなく、身体的な苦しみを超越した所にある悟りを楽しむ。
それは実際困難なことで、それと比べれば、身体的苦痛や不遇からなる苦しみにヒイヒイ喘いでいるほうが
よっぽど簡単なことだ。苦しみを諦観する所には多少なりともの向上が見られる一方、ただ苦しみに引きずられて
喘ぐばかりという所には何の向上もなく、ただ身心をすり減らせて不健全な損壊を招くばかりのことである。
孔子も「粗末な食事と水程度の飲み物、肘を枕にした就寝にも楽しみがある(述而第七・一五)」といい、
「悪意悪食を恥ずる者は友とするに足らず(里仁第四・九)」というから、困窮すら楽しめることを是としている。
一方で、春秋戦国時代の大権力犯罪者である蘇秦は、自分がろくな仕事に就いていないことを親族に責められて憤り、
一念発起して諸国の合従連衡を取り付けて大金を稼ぎ上げ、それにより乱世をさらに激化させたというし、
秦帝国の宰相だった李斯も、便所を走り回るネズミを見て「成功しない人間はあのネズミとも同じだ」と考え、
親友の韓非をも獄中で自殺させるほどもの熾烈な権力争いに身を投じ、
挙句には自らも宦官趙高の計略にはめられて失脚し、処刑されている。
ただ極重の苦難を耐え抜くだけでなく、そこに余裕すら保っておこうとするきらいがある。
実際に、禅の根本聖典である華厳経にも、「菩薩は地獄の苦しみにも耐えることで悟りを得る」
ということが多々書かれていて、その悟りの味は甘露の如きであるともいう。当然、舌の感ずる甘みではなく、
眼耳鼻舌身意といった感覚器官の苦楽を超越したところにある悟りの常楽が、あたかも甘露のようであるということ。
苦しみを耐え抜いた後に楽しみがあるのではなく、身体的な苦しみのさ中にすら悟りの楽しみがある。
もちろん苦しみ自体を快楽だなどと倒錯するマゾヒズムではなく、身体的な苦しみを超越した所にある悟りを楽しむ。
それは実際困難なことで、それと比べれば、身体的苦痛や不遇からなる苦しみにヒイヒイ喘いでいるほうが
よっぽど簡単なことだ。苦しみを諦観する所には多少なりともの向上が見られる一方、ただ苦しみに引きずられて
喘ぐばかりという所には何の向上もなく、ただ身心をすり減らせて不健全な損壊を招くばかりのことである。
孔子も「粗末な食事と水程度の飲み物、肘を枕にした就寝にも楽しみがある(述而第七・一五)」といい、
「悪意悪食を恥ずる者は友とするに足らず(里仁第四・九)」というから、困窮すら楽しめることを是としている。
一方で、春秋戦国時代の大権力犯罪者である蘇秦は、自分がろくな仕事に就いていないことを親族に責められて憤り、
一念発起して諸国の合従連衡を取り付けて大金を稼ぎ上げ、それにより乱世をさらに激化させたというし、
秦帝国の宰相だった李斯も、便所を走り回るネズミを見て「成功しない人間はあのネズミとも同じだ」と考え、
親友の韓非をも獄中で自殺させるほどもの熾烈な権力争いに身を投じ、
挙句には自らも宦官趙高の計略にはめられて失脚し、処刑されている。
孔子や顔淵のように困窮を達観できるわけでもなく、むしろ蘇秦や李斯のような困窮へのコンプレックスを抱き、
そのコンプレックスをばねに重権力犯罪者と化して、世の中にあるよりもないほうがマシなほどもの危害を
もたらすというのであれば、むしろそこそこの平凡な生活にでも甘んじてもらってくれたほうが、遥かに助かる。
権力犯罪者としての危うい綱渡り業務などに及ぶよりは、そこそこの生活を手に入れることのほうが遥かに
無難なことであるに違いなく、そのために耐え忍ばねばならない恥辱なども、遥かに少なくて済むはずである。
ということはつまり、「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などと誉められたりする所に、真の名誉はないのである。
儒者や菩薩のように、苦しみすら達観する者はそこにすら楽しみを見出すから、苦しみに耐え抜いたことを
誉めたりすればむしろ、本人たちの達観を「やせ我慢」扱いする名誉毀損にすらなってしまう。もしもそこに賛辞を
送りたいというのなら、極重の苦しみすら楽しみに代えてしまえるそのあり難さへの畏敬をこそ抱くべきなのであり、
「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などという、大人の子供に対するかのような失礼な誉め方は決してすべきでないのである。
そして、苦しみをバネに何でもしてやろうとする、蘇秦や張儀のようなならず者も、決して賛辞の対象とすべきでない。
故に、一端の行為能力を持つ大人に対して、苦しみに耐えることを上から目線で誉めていいような道理はないのである。
「人は楽しむなきに耐えず」
「人は楽しまないでいることに耐えられない。
(罪福異熟も権力犯罪者の側の悪因苦果よりは、道徳者の側の善因楽果からなる歓喜こそが
人々に感銘を与えることで、洗脳状態の人間の心の凍て付きの瓦解を招いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
そのコンプレックスをばねに重権力犯罪者と化して、世の中にあるよりもないほうがマシなほどもの危害を
もたらすというのであれば、むしろそこそこの平凡な生活にでも甘んじてもらってくれたほうが、遥かに助かる。
権力犯罪者としての危うい綱渡り業務などに及ぶよりは、そこそこの生活を手に入れることのほうが遥かに
無難なことであるに違いなく、そのために耐え忍ばねばならない恥辱なども、遥かに少なくて済むはずである。
ということはつまり、「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などと誉められたりする所に、真の名誉はないのである。
儒者や菩薩のように、苦しみすら達観する者はそこにすら楽しみを見出すから、苦しみに耐え抜いたことを
誉めたりすればむしろ、本人たちの達観を「やせ我慢」扱いする名誉毀損にすらなってしまう。もしもそこに賛辞を
送りたいというのなら、極重の苦しみすら楽しみに代えてしまえるそのあり難さへの畏敬をこそ抱くべきなのであり、
「苦しみに耐えてよく頑張ったね」などという、大人の子供に対するかのような失礼な誉め方は決してすべきでないのである。
そして、苦しみをバネに何でもしてやろうとする、蘇秦や張儀のようなならず者も、決して賛辞の対象とすべきでない。
故に、一端の行為能力を持つ大人に対して、苦しみに耐えることを上から目線で誉めていいような道理はないのである。
「人は楽しむなきに耐えず」
「人は楽しまないでいることに耐えられない。
(罪福異熟も権力犯罪者の側の悪因苦果よりは、道徳者の側の善因楽果からなる歓喜こそが
人々に感銘を与えることで、洗脳状態の人間の心の凍て付きの瓦解を招いたのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
×蘇秦や張儀
○蘇秦や李斯
張儀も、蘇秦と並ぶ戦国時代きっての大悪党で、
袋叩きにされて小便を引っかけられても、弁舌一つで
世の中を引っかき回すことをやめなかったというから、
「蘇秦や張儀や李斯」と訂正してもいい所だ。
孟子は張儀を「婦女子」扱いして揶揄しているが、
権力犯罪者の活動の気概となる「困窮へのコンプレックス」は、
婦女子であればほぼ漏れなく持っているものだといえる。
婦女子自身がそうであるのは、我が子を豊かな境遇で産み育てたい
母性本能から来るのでもあるから、必ずしもいけないことじゃない。
ただ、男が社会的な大成を志すのでも、逆に社会的欲求を捨て去るのでもなく、
自らの地位の低さからなる劣等感にかられて妄動したりするのならば、
それこそこの上なく無様な所業であるといえる。
○蘇秦や李斯
張儀も、蘇秦と並ぶ戦国時代きっての大悪党で、
袋叩きにされて小便を引っかけられても、弁舌一つで
世の中を引っかき回すことをやめなかったというから、
「蘇秦や張儀や李斯」と訂正してもいい所だ。
孟子は張儀を「婦女子」扱いして揶揄しているが、
権力犯罪者の活動の気概となる「困窮へのコンプレックス」は、
婦女子であればほぼ漏れなく持っているものだといえる。
婦女子自身がそうであるのは、我が子を豊かな境遇で産み育てたい
母性本能から来るのでもあるから、必ずしもいけないことじゃない。
ただ、男が社会的な大成を志すのでも、逆に社会的欲求を捨て去るのでもなく、
自らの地位の低さからなる劣等感にかられて妄動したりするのならば、
それこそこの上なく無様な所業であるといえる。
聖書信者に、人並み以上に喜び祝うべき将来などやって来ない。聖書を信じて
その忠実な実践に務めてきた分だけ、人並み以上のより大きな悲しみに見舞われる。
それこそは、「さてしもあるべきことならねばとて(蓮如)」でもある。
悲しむべき、悲しまねばならないことを無理に喜び祝おうとしたなら、
それによってさらに後々に、より悲しむべき、悲しまねばならない大惨事を招く。
最終的には、人類滅亡という絶対不可避な破滅の危機に見舞われて、想定し得る
限りでも最大級の悲しみを受け入れるか、もしくは滅亡を選択するしかなくなる。
そしてそれが、今である。
性懲りもなく凶事を喜び祝おうとするのなら、それは滅亡を選択することになる。
悲しむべき、悲しまねばならないことを相応に悲しむことを受け入れて初めて、
自分たち自身を含む人類の滅亡を回避することを選択することともなる。
たとえば、天下の泰平や国家の長命などは、真に喜び祝うべきことだといえるが、
聖書信者はむしろ、このような公共性を伴った福寿を祝うことを避ける傾向がある。
それでいて、個々人の狭隘な利益の獲得などのほうを執拗に喜ぼうとする傾向があり、
悲しむべきことを喜び祝おうとするだけでなく、喜ぶべきでないことを喜ぼうとしたり、
喜ぶべきことをさして喜ぼうともしなかったりまでするのである。
その忠実な実践に務めてきた分だけ、人並み以上のより大きな悲しみに見舞われる。
それこそは、「さてしもあるべきことならねばとて(蓮如)」でもある。
悲しむべき、悲しまねばならないことを無理に喜び祝おうとしたなら、
それによってさらに後々に、より悲しむべき、悲しまねばならない大惨事を招く。
最終的には、人類滅亡という絶対不可避な破滅の危機に見舞われて、想定し得る
限りでも最大級の悲しみを受け入れるか、もしくは滅亡を選択するしかなくなる。
そしてそれが、今である。
性懲りもなく凶事を喜び祝おうとするのなら、それは滅亡を選択することになる。
悲しむべき、悲しまねばならないことを相応に悲しむことを受け入れて初めて、
自分たち自身を含む人類の滅亡を回避することを選択することともなる。
たとえば、天下の泰平や国家の長命などは、真に喜び祝うべきことだといえるが、
聖書信者はむしろ、このような公共性を伴った福寿を祝うことを避ける傾向がある。
それでいて、個々人の狭隘な利益の獲得などのほうを執拗に喜ぼうとする傾向があり、
悲しむべきことを喜び祝おうとするだけでなく、喜ぶべきでないことを喜ぼうとしたり、
喜ぶべきことをさして喜ぼうともしなかったりまでするのである。
喜怒哀楽の規範が、完全に狂いきっている。
悲しむべきもの、喜ぶべきでないものを喜び、喜ぶべきものを喜ばない。
その結果、普遍的に喜ぶべき物事を立ち消えにさせ、普遍的に悲しむべき
物事をより増長させる。最終的には人類滅亡の危機までをも呼び込んで、
人類史上でも最大級の悲しみを受け入れねばならないような事態にまで、陥ってしまう。
典型的な狂生の末路であり、どこにも疑問点の見当たらない、悪因苦果の因果応報である。
物質的な側面だけでなく、精神的な側面においても因果応報は着実に結実し、邪信にねざして
心を偽って来たことにもまた、それ相応の苦果が実る。そしてその苦果こそは、絶望的である。
自らの心を偽ることを信者にけしかけて来たことこそは、聖書信仰にとっての最大の大罪だといえる。
「喜怒類を以てする者は鮮なく、易うる者は実に多し。詩に曰く、君子如し怒らば、乱庶くば遄かに沮み、
君子如し祉いせば、乱庶くば遄かに已むと。君子の喜怒は、以て乱を已むるなり。已めざる者は、必ず之れを益す」
「喜ぶべきことを喜び、怒るべきことを怒る者は少ないが、これに違う者は非常に多い。詩経(小雅・巧言)にも
『君子が怒るべきものに怒れば、乱も速やかに止む。君子が喜ぶべきことを喜べば、これまた速やかに乱は止む』
とあるが、君子の順当さをわきまえた喜怒哀楽は戦乱を収める一方、これに違う場合には、えてして乱を増すのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十七年より)
悲しむべきもの、喜ぶべきでないものを喜び、喜ぶべきものを喜ばない。
その結果、普遍的に喜ぶべき物事を立ち消えにさせ、普遍的に悲しむべき
物事をより増長させる。最終的には人類滅亡の危機までをも呼び込んで、
人類史上でも最大級の悲しみを受け入れねばならないような事態にまで、陥ってしまう。
典型的な狂生の末路であり、どこにも疑問点の見当たらない、悪因苦果の因果応報である。
物質的な側面だけでなく、精神的な側面においても因果応報は着実に結実し、邪信にねざして
心を偽って来たことにもまた、それ相応の苦果が実る。そしてその苦果こそは、絶望的である。
自らの心を偽ることを信者にけしかけて来たことこそは、聖書信仰にとっての最大の大罪だといえる。
「喜怒類を以てする者は鮮なく、易うる者は実に多し。詩に曰く、君子如し怒らば、乱庶くば遄かに沮み、
君子如し祉いせば、乱庶くば遄かに已むと。君子の喜怒は、以て乱を已むるなり。已めざる者は、必ず之れを益す」
「喜ぶべきことを喜び、怒るべきことを怒る者は少ないが、これに違う者は非常に多い。詩経(小雅・巧言)にも
『君子が怒るべきものに怒れば、乱も速やかに止む。君子が喜ぶべきことを喜べば、これまた速やかに乱は止む』
とあるが、君子の順当さをわきまえた喜怒哀楽は戦乱を収める一方、これに違う場合には、えてして乱を増すのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公十七年より)
曾子が年老いて病の床にあるとき、門人に自らの手足を見せて、どこにも傷一つないことを、
「親からもらった身体を終身大事にして来た証拠だ」として誇る泰伯第八・三の逸話。
これは孝悌という、人間精神の根本を誇りとする、非常に威儀深い逸話であるといえる。
(病中の呻吟だから、誇り高ぶりであるとまでは言えない)
そしてその曾子が、「肩をそびやかしてへつらい笑うのは、真夏の炎天下で田畑を耕すよりも疲れる(滕文公下・七)」
ともいう。商売人か奴隷のようにプライドのかけらもなく他者に媚びへつらうことが、孝悌にかけては年老いるまで
薄氷を踏む思いで心尽くしてきた曾子にとってこそ、最大級の肉体的重労働よりも苦痛となるのだという。
プライドにも色々とあり、孝心からなるような真のプライドもある一方で、我流の評価基準に根ざした
全くの無根拠なプライドもまたある。無根拠なプライドは「身の程知らず」の最たる証拠ともなり、それこそ
真のプライドに即するなら、身の程知らずの謗りを拭いたいがために、無根拠なプライドのほうは率先して捨て去るのである。
孝悌に基づくような真のプライドを欠いたところでこそ、逆に無根拠なプライドのほうが肥大化する。
その無根拠なプライドへの依存が高まりすぎて、捨て去ろうにも捨て去れなくなったとき、
無根拠なプライドからなる高慢を阻害する原因となる、孝悌の心がけもまた困難と化してしまう。
実の親への子の孝心を否定して、虚構の超越神への絶対服従を強制する犯罪聖書の教義は、まさに孝心からなる
真のプライドを信者に損なわせて、虚構への服従からなる身の程知らずな思い上がりを蓄えさせる、最たるものである。
肩をそびやかしへつらい笑うことも何ら苦としない下衆がそこに生じ、徳行と楽しみと犯罪の苦しみの区別も付かない、
人としての最低限の品性すら持ち合わせぬ、餓鬼畜生の内面を持つ人非人の群れがそこに生じるわけである。
「親からもらった身体を終身大事にして来た証拠だ」として誇る泰伯第八・三の逸話。
これは孝悌という、人間精神の根本を誇りとする、非常に威儀深い逸話であるといえる。
(病中の呻吟だから、誇り高ぶりであるとまでは言えない)
そしてその曾子が、「肩をそびやかしてへつらい笑うのは、真夏の炎天下で田畑を耕すよりも疲れる(滕文公下・七)」
ともいう。商売人か奴隷のようにプライドのかけらもなく他者に媚びへつらうことが、孝悌にかけては年老いるまで
薄氷を踏む思いで心尽くしてきた曾子にとってこそ、最大級の肉体的重労働よりも苦痛となるのだという。
プライドにも色々とあり、孝心からなるような真のプライドもある一方で、我流の評価基準に根ざした
全くの無根拠なプライドもまたある。無根拠なプライドは「身の程知らず」の最たる証拠ともなり、それこそ
真のプライドに即するなら、身の程知らずの謗りを拭いたいがために、無根拠なプライドのほうは率先して捨て去るのである。
孝悌に基づくような真のプライドを欠いたところでこそ、逆に無根拠なプライドのほうが肥大化する。
その無根拠なプライドへの依存が高まりすぎて、捨て去ろうにも捨て去れなくなったとき、
無根拠なプライドからなる高慢を阻害する原因となる、孝悌の心がけもまた困難と化してしまう。
実の親への子の孝心を否定して、虚構の超越神への絶対服従を強制する犯罪聖書の教義は、まさに孝心からなる
真のプライドを信者に損なわせて、虚構への服従からなる身の程知らずな思い上がりを蓄えさせる、最たるものである。
肩をそびやかしへつらい笑うことも何ら苦としない下衆がそこに生じ、徳行と楽しみと犯罪の苦しみの区別も付かない、
人としての最低限の品性すら持ち合わせぬ、餓鬼畜生の内面を持つ人非人の群れがそこに生じるわけである。
孝心に基づく真の誇りと、脳内超越神への服従に基づく偽りの誇りとは互いに相容れず、
どちらかを嗜む以上は、かならずもう一方が排斥の対象となる。特に何の嗜みもない所に孝心を抱けたなら、
それが脳内超越神への服従を排斥する予防手段となるし、すでに脳内超越神への服従という病に侵されている場合にも、
意識的に孝心を持ち直すことで、無根拠なプライドからなる、身の程知らずな思い上がりを滅尽していくことができる。
「今さら親への孝心を抱くことなんか、こっ恥ずかしい」、現代人の多くは、そう考えもするに違いない。
それもまた犯罪聖書の記述を始めとする、醜悪な邪義に知らず知らずのうちに洗脳下に置かれて来たからなのであり、
「人類滅亡の元凶ともなっている世界最悪の邪教=聖書信仰をこの世から撲滅するため」という大義によってこそ、
現代人もまた、今さら意識的に抱き直すのも気恥ずかしいところのある孝心を持ち直すのが、便利だといえる。
「茲れ殷の庶士、寵に席ること惟れ旧しく、侈を怙みて義を滅す、服人より美なり」
「殷人はみな紂王の寵遇を長く受けてきたため、贅沢ばかりを誇りとして道義を無きものとしている。
服装も分不相応に華美である。(この後>>294の引用に続く。贅沢を誇って道義を滅しているのは聖書信者も同じである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
どちらかを嗜む以上は、かならずもう一方が排斥の対象となる。特に何の嗜みもない所に孝心を抱けたなら、
それが脳内超越神への服従を排斥する予防手段となるし、すでに脳内超越神への服従という病に侵されている場合にも、
意識的に孝心を持ち直すことで、無根拠なプライドからなる、身の程知らずな思い上がりを滅尽していくことができる。
「今さら親への孝心を抱くことなんか、こっ恥ずかしい」、現代人の多くは、そう考えもするに違いない。
それもまた犯罪聖書の記述を始めとする、醜悪な邪義に知らず知らずのうちに洗脳下に置かれて来たからなのであり、
「人類滅亡の元凶ともなっている世界最悪の邪教=聖書信仰をこの世から撲滅するため」という大義によってこそ、
現代人もまた、今さら意識的に抱き直すのも気恥ずかしいところのある孝心を持ち直すのが、便利だといえる。
「茲れ殷の庶士、寵に席ること惟れ旧しく、侈を怙みて義を滅す、服人より美なり」
「殷人はみな紂王の寵遇を長く受けてきたため、贅沢ばかりを誇りとして道義を無きものとしている。
服装も分不相応に華美である。(この後>>294の引用に続く。贅沢を誇って道義を滅しているのは聖書信者も同じである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・畢命より)
キリスト教団が、上座部仏教から剽窃して自分たちの根本教義とした「自殺の禁止」、
これはあくまで上座部仏教教義のカタワな剽窃であり、上座部の経典「法句経」のほうには
「無賊害心(何ものをも害する心を持つことなし)」とあり、自害だけでなく、
他者への危害も同時に戒めるのが、本来の正統な宗教教義となっている。
上座部だげでなく、大乗の根本経典である「華厳経」にも
「自らを害せず他を害せず、両ながらに害せず(十行品第二十一の一)」とある。
大乗仏教の場合、密教が自殺行為も同然の荒行に及ぶ場合があり、必ずしも「自らを害せず」
のほうは守られていないが、これは仏教ではなく、仏教以前の実践派宗教であるタントラ教に根ざして
仏の悟りを得ようとする試みであり、純粋な仏教教義としては、大乗も自他を害さぬことを基本としている。
自らを害さず、他者をも害さぬことが、善因楽果の異熟(トートロジー破綻)をも結実させるのであり、逆に
もしも自他を害することに専らであるのなら、それが仏説への違背となるが故に、悪因苦果の異熟を実らせるのである。
自害の禁止は、本当は聖書教義に根ざしているわけでもないにも関わらず、キリスト教団も無理やり
実行してきた。それは決して悪因苦果の温床にもならなかったが、聖書教義に根ざして、他者を害する
風潮だけは大々的に肯定してきたことが、紛れもなく、甚大な悪因苦果を催す元凶ともなってきた。
これはあくまで上座部仏教教義のカタワな剽窃であり、上座部の経典「法句経」のほうには
「無賊害心(何ものをも害する心を持つことなし)」とあり、自害だけでなく、
他者への危害も同時に戒めるのが、本来の正統な宗教教義となっている。
上座部だげでなく、大乗の根本経典である「華厳経」にも
「自らを害せず他を害せず、両ながらに害せず(十行品第二十一の一)」とある。
大乗仏教の場合、密教が自殺行為も同然の荒行に及ぶ場合があり、必ずしも「自らを害せず」
のほうは守られていないが、これは仏教ではなく、仏教以前の実践派宗教であるタントラ教に根ざして
仏の悟りを得ようとする試みであり、純粋な仏教教義としては、大乗も自他を害さぬことを基本としている。
自らを害さず、他者をも害さぬことが、善因楽果の異熟(トートロジー破綻)をも結実させるのであり、逆に
もしも自他を害することに専らであるのなら、それが仏説への違背となるが故に、悪因苦果の異熟を実らせるのである。
自害の禁止は、本当は聖書教義に根ざしているわけでもないにも関わらず、キリスト教団も無理やり
実行してきた。それは決して悪因苦果の温床にもならなかったが、聖書教義に根ざして、他者を害する
風潮だけは大々的に肯定してきたことが、紛れもなく、甚大な悪因苦果を催す元凶ともなってきた。
自害は禁止するにも関わらず、他害は根本的な倫理違反として来なかった点が(法律で取り締まるぐらいはあった)、
キリスト教教義の決定的に不完全な部分であった。本当は自他を害しようとする害為全般をよからぬものとすることが
完全なる宗教教義だったのであり、それは即ち、聖書教義ではないと共に、仏教教義である教義だったのだといえる。
宗教教義や、戒律法規に囚われすぎることをよからぬこととする、神道や儒学などの立場もある一方で、
かりに宗教的な戒律に即するというのなら、仏教のような優等な宗教の戒律に即するべきであり、
聖書教(必ずしも現実のキリスト教は聖書教そのものではないが)やその他の有象無象の劣悪な邪教は拠り所と
しないようにすべきであるといえる。そして、教学全般をいちいち頼りにしない、無為自然第一の道家的な
趣きもあり、もう教学論争なんかにいちいち構っていたくないとすることもまた、決して赦されないことではない。
「人能く人を害するを欲すること無き心を充いにすれば、而ち仁も用うるに勝うべからざるなり」
「人がよく他者を害することを欲しない心を大いにしたならば、仁徳もその全てを用いきれないほどに広大となる。
(他者への害心を無制限に肥大化させていったりしたのなら、それに反比例して仁徳も窄むのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三一より)
キリスト教教義の決定的に不完全な部分であった。本当は自他を害しようとする害為全般をよからぬものとすることが
完全なる宗教教義だったのであり、それは即ち、聖書教義ではないと共に、仏教教義である教義だったのだといえる。
宗教教義や、戒律法規に囚われすぎることをよからぬこととする、神道や儒学などの立場もある一方で、
かりに宗教的な戒律に即するというのなら、仏教のような優等な宗教の戒律に即するべきであり、
聖書教(必ずしも現実のキリスト教は聖書教そのものではないが)やその他の有象無象の劣悪な邪教は拠り所と
しないようにすべきであるといえる。そして、教学全般をいちいち頼りにしない、無為自然第一の道家的な
趣きもあり、もう教学論争なんかにいちいち構っていたくないとすることもまた、決して赦されないことではない。
「人能く人を害するを欲すること無き心を充いにすれば、而ち仁も用うるに勝うべからざるなり」
「人がよく他者を害することを欲しない心を大いにしたならば、仁徳もその全てを用いきれないほどに広大となる。
(他者への害心を無制限に肥大化させていったりしたのなら、それに反比例して仁徳も窄むのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三一より)
人間精神には、先祖代々の血筋からなる先天的な志向性というものがある。
それは、無理に従おうとせずとも自然と受け継がれるものであり、その志向性の善い部分を
ありのままに受け継いで、悪い部分を修正していくために必要となるのが、親への孝心にあたる。
では、親への孝心を邪神信仰などによって完全にかなぐり捨て、存在すると
仮定した脳内超越神への服従にすがろうとした場合、一体どうなるのかといって、
先祖代々積み重ねられてきた善い志向性は完全に反故にされ、代わりに悪い
志向性だけが、人間以下の畜生同然の品性と共に保全されていくことになる。
先祖代々の血筋に基づく志向性のうちで、善い志向性とは、善人や賢人や聖人、或いは神仏の
如き先祖の志向性のことであり、悪い志向性とは、人間以下の餓鬼畜生も同然の志向性のことだ。
孝心はこのような意味での悪い志向性を捨てて、善い志向性を受け継ぐ効果を持つ一方で、
孝心の欠如は少なからず、善い嗜好性を捨てて悪い志向性を深刻化させていく効果を持つ。
犯罪聖書の邪神にすがることも、上記のような意味での、孝心の欠如に溺れる所業以内の以下であり、
別にこれといって人間精神の向上が期待されるわけではない、のみならず、ただ自分たちの
品性を餓鬼畜生も同然の域へと貶める以外の、何らの効能も持ち合わせてはいない。
犯罪聖書にすがった結果、人間精神以外の何らかの向上が期待できるというのならまだしも、
それすら全くなく、ただ純粋に人間精神の下落ばかりが進行するのみである。邪信によって
人間精神が毀損された結果どうなるかといって、ただ餓鬼畜生も同然の存在と化すのみであり、
これもまた全くの仏教思想などの範疇であり、どこにも珍しがれるものがないのである。
それは、無理に従おうとせずとも自然と受け継がれるものであり、その志向性の善い部分を
ありのままに受け継いで、悪い部分を修正していくために必要となるのが、親への孝心にあたる。
では、親への孝心を邪神信仰などによって完全にかなぐり捨て、存在すると
仮定した脳内超越神への服従にすがろうとした場合、一体どうなるのかといって、
先祖代々積み重ねられてきた善い志向性は完全に反故にされ、代わりに悪い
志向性だけが、人間以下の畜生同然の品性と共に保全されていくことになる。
先祖代々の血筋に基づく志向性のうちで、善い志向性とは、善人や賢人や聖人、或いは神仏の
如き先祖の志向性のことであり、悪い志向性とは、人間以下の餓鬼畜生も同然の志向性のことだ。
孝心はこのような意味での悪い志向性を捨てて、善い志向性を受け継ぐ効果を持つ一方で、
孝心の欠如は少なからず、善い嗜好性を捨てて悪い志向性を深刻化させていく効果を持つ。
犯罪聖書の邪神にすがることも、上記のような意味での、孝心の欠如に溺れる所業以内の以下であり、
別にこれといって人間精神の向上が期待されるわけではない、のみならず、ただ自分たちの
品性を餓鬼畜生も同然の域へと貶める以外の、何らの効能も持ち合わせてはいない。
犯罪聖書にすがった結果、人間精神以外の何らかの向上が期待できるというのならまだしも、
それすら全くなく、ただ純粋に人間精神の下落ばかりが進行するのみである。邪信によって
人間精神が毀損された結果どうなるかといって、ただ餓鬼畜生も同然の存在と化すのみであり、
これもまた全くの仏教思想などの範疇であり、どこにも珍しがれるものがないのである。
ただ人類史上未曾有の災禍をもたらしているというだけでなく、それによって何ら新たな
発見が得られたわけでもないところが、聖書信仰が決定的につまらない所以でもある。
ただ儒学や仏教といった、聖書信仰よりも以前から存在する東洋の教学の完璧さが改めて
確かめられたというばかりのことであり、何か収穫があったとすれば、それぐらいのことだといえる。
儒学や仏教の純粋な学説教義の是非はともかく、東洋史上における儒者や仏者の誰しもが
完璧超人だったなんてことは決してなく、官僚界や僧団などの腐敗を通じて、相当にダメな奴らが
蔓延るようになっていたことも多々ある。そのような実情はともかくとして、儒仏の教学自体は、
ちゃんと実践するのであれば、確実に聖書信仰の実践以上にも優良な効果が挙げられることが今になって
実証されたわけだから、かつての儒仏の気風をそのまま復興する以上にも、聖書信仰という反面教師を
厳重な差別の対象としつつの、より毅然とした儒仏の実践を心がけていくようにしていけばいいのである。
聖書信仰の実践という未曾有の災禍も、儒仏の実践のより一層の本格化に
寄与するというのなら、それこそ、「禍転じて福と成す」にもなるといえる。
「子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰れか鄹人の子の禮を知ると
謂うや、大廟に入りては、事ごとに問うと。子之れを聞きて曰く、是れ礼なり」
「先生は魯の周公を祀る大神殿に入られると、儀礼のことについて色々と質問された。
ある人が言った。『誰が鄹の役人(孔子の父の叔梁紇)の子は礼儀の知識が豊富だ
などと言ったのだろう。大神殿に入ると、あのように何もかもを質問しているではないか』
先生はこれを聞いて言われた。『大きな神殿ではこのようにするのが礼儀なのだ』
(著名な神殿で我流の振る舞いをして粗相を為さないようにする慎重さが、これまた礼儀なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一五)
発見が得られたわけでもないところが、聖書信仰が決定的につまらない所以でもある。
ただ儒学や仏教といった、聖書信仰よりも以前から存在する東洋の教学の完璧さが改めて
確かめられたというばかりのことであり、何か収穫があったとすれば、それぐらいのことだといえる。
儒学や仏教の純粋な学説教義の是非はともかく、東洋史上における儒者や仏者の誰しもが
完璧超人だったなんてことは決してなく、官僚界や僧団などの腐敗を通じて、相当にダメな奴らが
蔓延るようになっていたことも多々ある。そのような実情はともかくとして、儒仏の教学自体は、
ちゃんと実践するのであれば、確実に聖書信仰の実践以上にも優良な効果が挙げられることが今になって
実証されたわけだから、かつての儒仏の気風をそのまま復興する以上にも、聖書信仰という反面教師を
厳重な差別の対象としつつの、より毅然とした儒仏の実践を心がけていくようにしていけばいいのである。
聖書信仰の実践という未曾有の災禍も、儒仏の実践のより一層の本格化に
寄与するというのなら、それこそ、「禍転じて福と成す」にもなるといえる。
「子、大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰れか鄹人の子の禮を知ると
謂うや、大廟に入りては、事ごとに問うと。子之れを聞きて曰く、是れ礼なり」
「先生は魯の周公を祀る大神殿に入られると、儀礼のことについて色々と質問された。
ある人が言った。『誰が鄹の役人(孔子の父の叔梁紇)の子は礼儀の知識が豊富だ
などと言ったのだろう。大神殿に入ると、あのように何もかもを質問しているではないか』
先生はこれを聞いて言われた。『大きな神殿ではこのようにするのが礼儀なのだ』
(著名な神殿で我流の振る舞いをして粗相を為さないようにする慎重さが、これまた礼儀なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・一五)
「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん(既出)」
「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二より)
常人並みの品性も持たない、IQ40以下の畜人にとっての神といえば、ありのままに牧場主とでもいったところ。
それも、良民を牧する君子などという比喩にも当たらない、まさに畜獣を飼いならす職業上の牧場主そのもの。
本当はIQ100程度の知能を保つ能力を持つ人間をあえて、畜獣同然の品性にまで劣化させて、
その畜人たちを飼育の対象とする牧場主たるや、まさに餓鬼畜生の親分とでもいったところ。
比喩にすら当たらない本物の人間家畜化は、飼い主と畜人の両方ともを鬼畜と化す所業そのものとなる。
そこにこそ、神はいないのである。神もいないし、仏もいない。そして人並みの人間もいない。
神仏や人がそのような鬼畜の領域を察知することはあるが、できる限りなくしていくべきものとするばかりで、
決して承認の対象としたりするものではない。特に人間道徳と仏法とが、そのような鬼畜の所業の徹底的な排除に
臨みもするが、神道に代表されるような正統な神たるや、もはや鬼畜の糾弾にすら及ぶことなく、完全に逐電して、
決して鬼畜の前などに姿を現すこともなかったりする。そのような神はどうあがこうとも、鬼畜には絶対に会えはしない。
「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一二より)
常人並みの品性も持たない、IQ40以下の畜人にとっての神といえば、ありのままに牧場主とでもいったところ。
それも、良民を牧する君子などという比喩にも当たらない、まさに畜獣を飼いならす職業上の牧場主そのもの。
本当はIQ100程度の知能を保つ能力を持つ人間をあえて、畜獣同然の品性にまで劣化させて、
その畜人たちを飼育の対象とする牧場主たるや、まさに餓鬼畜生の親分とでもいったところ。
比喩にすら当たらない本物の人間家畜化は、飼い主と畜人の両方ともを鬼畜と化す所業そのものとなる。
そこにこそ、神はいないのである。神もいないし、仏もいない。そして人並みの人間もいない。
神仏や人がそのような鬼畜の領域を察知することはあるが、できる限りなくしていくべきものとするばかりで、
決して承認の対象としたりするものではない。特に人間道徳と仏法とが、そのような鬼畜の所業の徹底的な排除に
臨みもするが、神道に代表されるような正統な神たるや、もはや鬼畜の糾弾にすら及ぶことなく、完全に逐電して、
決して鬼畜の前などに姿を現すこともなかったりする。そのような神はどうあがこうとも、鬼畜には絶対に会えはしない。
特に、高位の神であればあるほど、鬼畜の領域からは遠ざかる。鬼畜の領域などに立ち入ることはおろか、
見聞きすることすら避け、悪趣の領域への察知全般から拒絶してしまう。それほどにも高潔無比なところにこそ、最高格の
神もまたあり、それと比べればまだ低位である神に限って、鬼畜の領域を見聞きしたり察知したりすることもあり得るのである。
鬼畜による侵略が始まった最原初の頃から、最高位の神はとっくに雲隠れを決め込み、少しの抵抗すら行ったこともない。
それでいて最高位に値するだけの品位を同時に岩戸隠れさせることで、本当に世界が破滅の危機に晒されてもいる。
最高位の神が鬼畜と共存することができないのにも、絶対的な理由があるわけで、その威光による世界の救済を
望む以上は、鬼畜のほうがこの世から消え去る必要がある。自分たち鬼畜の分際が、最高位の神などと見聞きし合うことも、
知り合うことも未来劫永世にわたってあり得ないことを諾って、暗黒の愚昧ごと自分たちがこの世から消え去るのである。
鬼畜であるが故に真の神と知り合うこともできないこともまた、進んで鬼畜となった者への罰であると承るのである。
「敬いて神を養う在り」
「十分な畏敬を抱くことで、初めて神にも仕えることができる。
(『養神(我が心のうちの神を養う)』と書いて『神に仕える』という意味になる。
禽獣同然の濁愛などではなく、畏敬こそが養神、すなわち神に仕える真の方法となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十三年より)
見聞きすることすら避け、悪趣の領域への察知全般から拒絶してしまう。それほどにも高潔無比なところにこそ、最高格の
神もまたあり、それと比べればまだ低位である神に限って、鬼畜の領域を見聞きしたり察知したりすることもあり得るのである。
鬼畜による侵略が始まった最原初の頃から、最高位の神はとっくに雲隠れを決め込み、少しの抵抗すら行ったこともない。
それでいて最高位に値するだけの品位を同時に岩戸隠れさせることで、本当に世界が破滅の危機に晒されてもいる。
最高位の神が鬼畜と共存することができないのにも、絶対的な理由があるわけで、その威光による世界の救済を
望む以上は、鬼畜のほうがこの世から消え去る必要がある。自分たち鬼畜の分際が、最高位の神などと見聞きし合うことも、
知り合うことも未来劫永世にわたってあり得ないことを諾って、暗黒の愚昧ごと自分たちがこの世から消え去るのである。
鬼畜であるが故に真の神と知り合うこともできないこともまた、進んで鬼畜となった者への罰であると承るのである。
「敬いて神を養う在り」
「十分な畏敬を抱くことで、初めて神にも仕えることができる。
(『養神(我が心のうちの神を養う)』と書いて『神に仕える』という意味になる。
禽獣同然の濁愛などではなく、畏敬こそが養神、すなわち神に仕える真の方法となるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公十三年より)
知識によって孔子のような恭しさを身に付けることも、愛によって紂王のような奢り高ぶりを抱く場合もある。
そして知識ばかりによって全てが尽くされるということも、愛ばかりによって全てが尽くされるということも、
人間にはあり得ない。そこに畏敬が伴っていないのならば、愛や知識が最善を尽くすこともまたないのである。
無軌道な愛や知識ばかりがあって、畏敬など微塵もないところに、鬼畜としての人間が生ずる。
鬼畜<人間<神仏
であり、愛や知識と神仏などへの畏敬の均衡を取ることで、初めて人は鬼畜以上の品性を手に入れる。
「畏敬なんてなくて当たり前だ」と思っている現代人には奇異に思える話であっても、本当は、一定度の畏敬を
保っていられてこそ、人間は本物の人間並みの品性をも保つのである。人は決して一人では生きられず、
必ず家族やそれ以上の社会的共同体の構成員としてのみ生存を許されるものだから、その構成員同士の関係を
保全していくための敬意が必ず必要になる。その敬意を育むための手段となるのが、先祖供養を
始めとする神仏への畏敬であり、文明化された大規模な都市社会にもかかわらずではなくだからこそ、
社稷霊廟を丹念に作り込んでの、豪壮な礼楽による儀式での、畏敬の養生すらをも必要としたりする。
してみれば、愛や知識以上にも、畏敬こそは人間社会において必要不可欠なものですらあるといえる。
滅亡へとまっしぐらな集団自殺状態の世の中にも、濁愛や悪知恵は多数介在しているが、畏敬だけはどこにもない。
愛や知識の一部が人類滅亡の元凶とすらなる一方、愛や知識を善用する心持ちでもある畏敬こそは、人類の存続や繁栄を
決定付ける鍵ともなる。愛や知識によって人類の存続や繁栄が決定付けられるわけでもない一方で、畏敬こそはそれを
決定付けるわけだから、人が人としてより積極的に希求していくべきなのも、愛や知識以上にも、畏敬であるといえる。
そして知識ばかりによって全てが尽くされるということも、愛ばかりによって全てが尽くされるということも、
人間にはあり得ない。そこに畏敬が伴っていないのならば、愛や知識が最善を尽くすこともまたないのである。
無軌道な愛や知識ばかりがあって、畏敬など微塵もないところに、鬼畜としての人間が生ずる。
鬼畜<人間<神仏
であり、愛や知識と神仏などへの畏敬の均衡を取ることで、初めて人は鬼畜以上の品性を手に入れる。
「畏敬なんてなくて当たり前だ」と思っている現代人には奇異に思える話であっても、本当は、一定度の畏敬を
保っていられてこそ、人間は本物の人間並みの品性をも保つのである。人は決して一人では生きられず、
必ず家族やそれ以上の社会的共同体の構成員としてのみ生存を許されるものだから、その構成員同士の関係を
保全していくための敬意が必ず必要になる。その敬意を育むための手段となるのが、先祖供養を
始めとする神仏への畏敬であり、文明化された大規模な都市社会にもかかわらずではなくだからこそ、
社稷霊廟を丹念に作り込んでの、豪壮な礼楽による儀式での、畏敬の養生すらをも必要としたりする。
してみれば、愛や知識以上にも、畏敬こそは人間社会において必要不可欠なものですらあるといえる。
滅亡へとまっしぐらな集団自殺状態の世の中にも、濁愛や悪知恵は多数介在しているが、畏敬だけはどこにもない。
愛や知識の一部が人類滅亡の元凶とすらなる一方、愛や知識を善用する心持ちでもある畏敬こそは、人類の存続や繁栄を
決定付ける鍵ともなる。愛や知識によって人類の存続や繁栄が決定付けられるわけでもない一方で、畏敬こそはそれを
決定付けるわけだから、人が人としてより積極的に希求していくべきなのも、愛や知識以上にも、畏敬であるといえる。

それほどにも腐敗にまみれた政界を強制支配するものとしての法家思想を韓非は提唱し、始皇帝もその一部を秦帝国における
統治理念として採用した。結果、たった十五年で秦帝国は崩壊し、規制緩和を旗頭にした漢帝国に政権を奪われたのだった。
「韓非子」にあるような醜悪なゴシップこそは、別に夫への敬意を持ち合わせているわけでもない、
今の世の中の夫人が非常に好き好むもの。夫への愛などもあったところで、所詮はペットか家畜に対するも同然の愛であり、
武家の女が武士たる男に抱いていたような敬愛が、今の夫婦間において介することなども、決してないわけである。
醜悪な知識と、ペットか家畜に対するかのような下劣な情愛、この二つを今という時代の夫人が、特に好き好んでいる。
故に既婚女性ほど醜悪な内面を持つ生き物も他にないかのような風潮すらもが噴出しているわけで、実際その内心の濁悪さを
国政に流用したりすれば、秦帝国崩壊ほどもの大破綻すらもが必定となるもの。始皇帝の母親の朱姫も、巨根で知られた
呂不韋の食客嫪毒を、それだけの理由で偽宦官として傍に置いて寵愛したというし、傾国間近の帝国には、男に対する微塵の敬愛も
持たない女が多数群がることも事実である。夫や男に対する敬愛を著しく欠いた女の愛や知識こそは、まさに帝国崩壊級もの厄介さを
持つものであり、畏敬を欠いた愛や知識が、まさに世界の破滅をも呼び込む元凶となる実例になっているといえる。
「賢者は狎れて而かも之れを敬し、畏れて而かも之れを愛す」
「賢者は馴れ合うような近親の中にも敬いを抱き、畏れを抱いた上でなおその相手を愛する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
父母の野合によって身ごもられた妾腹の私生児として産まれ、
なおかつ母子家庭という、義父持ちのイエス以上にも不遇な環境で育った孔子が、
だからといって「聖人君子」として崇めたてられているなどという事実も、全くない。
不遇の中にも、自力で詩書や易、礼法や当時の近代史(春秋史)の勉強や研究に努め、
正統な道徳学の根本正典となる五経(本来は楽経を含む六経だが、楽経は後世に絶えた)を体系化し、
その業績によって漢代400年や唐代300年、江戸徳川260年といった泰平統治を実現する礎ともなった、
歴史上に紛れもないその偉大さこそが、孔子が聖人君子として崇められる理由ともなっているのであり、
本人がひどい不遇で生まれ育ったことなどは、それが猛勉強に励む気概にはなったにしても、決してそれ自体が
賞賛の対象などにはされず、「史記」の孔子世家に一応だけ書き留められる程度の扱いに止められている。
本当に偉大な業績を挙げることで称賛されたり、またそのような人間を称賛したりする所に、真の満足もまたある。
ひどい不遇や身心の不具などに晒された人間を、だからといって称えたりするような不埒なウレシがりなどは、
称える側にも、称えられる側にも根本的な気まずさを植え付けて、決して本当に満足させたりすることがない。
あらかじめ恵まれた環境に生まれ育った人間が、そこからさらに偉大な業績を挙げること以上にも、
相当の不遇に晒された人間が、その不遇をバネにして偉大な業績を挙げることのほうが、喜びもひとしおですらある。
実際、恵まれた環境と才能というのは、易学的にも両立しにくいものとされているから、血筋はよくても能力には
乏しい主君が、血筋は劣るものの能力に長ける臣下を用いる君臣関係こそが、儒学上でも良好なものとされている。
なおかつ母子家庭という、義父持ちのイエス以上にも不遇な環境で育った孔子が、
だからといって「聖人君子」として崇めたてられているなどという事実も、全くない。
不遇の中にも、自力で詩書や易、礼法や当時の近代史(春秋史)の勉強や研究に努め、
正統な道徳学の根本正典となる五経(本来は楽経を含む六経だが、楽経は後世に絶えた)を体系化し、
その業績によって漢代400年や唐代300年、江戸徳川260年といった泰平統治を実現する礎ともなった、
歴史上に紛れもないその偉大さこそが、孔子が聖人君子として崇められる理由ともなっているのであり、
本人がひどい不遇で生まれ育ったことなどは、それが猛勉強に励む気概にはなったにしても、決してそれ自体が
賞賛の対象などにはされず、「史記」の孔子世家に一応だけ書き留められる程度の扱いに止められている。
本当に偉大な業績を挙げることで称賛されたり、またそのような人間を称賛したりする所に、真の満足もまたある。
ひどい不遇や身心の不具などに晒された人間を、だからといって称えたりするような不埒なウレシがりなどは、
称える側にも、称えられる側にも根本的な気まずさを植え付けて、決して本当に満足させたりすることがない。
あらかじめ恵まれた環境に生まれ育った人間が、そこからさらに偉大な業績を挙げること以上にも、
相当の不遇に晒された人間が、その不遇をバネにして偉大な業績を挙げることのほうが、喜びもひとしおですらある。
実際、恵まれた環境と才能というのは、易学的にも両立しにくいものとされているから、血筋はよくても能力には
乏しい主君が、血筋は劣るものの能力に長ける臣下を用いる君臣関係こそが、儒学上でも良好なものとされている。
不遇に生まれ育つことは、その不遇をバネにした大成を志す、逆説的な意味でのチャンスですらあるのに、
あろうことかそのチャンスを蔑ろにして、不遇に甘んじることを正当化したりするから、非常に気まずくなる。
気まずくて、つまらない。せっかくのチャンスを台無しにするその無様さが、易の吉祥法則にも反するものだから、
全体的な空気の流れを丸ごと不吉な方向へと追いやる、「凶相の構築」の元凶にすらなってしまうのである。
妾腹の私生児が必ずしも凶相を呼び込むのではなく、その凶相を正当化しようとする不埒さこそが、決定的な凶相の元凶となる。
妾腹の私生児ほどもの不遇すらをも、自助努力によって乗り越えようとする志しがあり、その志しが大成したならば、それは
人並み以上どころか、人類史上未曾有の大成にすらなり得るのだから、極度の不遇というのは、一種の「諸刃の剣」だといえる。
大成した場合には大いに振るうことを許される一方で、成功できなかった場合には決して振るうべきでない、諸刃の剣である。
「稷は天下に飢える者あれば、己れ由り之れを飢えしむると思えり」
「后稷は天下に飢える者が一人でもいれば、自分が飢えさせているという風に考えた。(万民の主を気取りながら、
民の飢渇を自分の責任だとも考えないエホバこそは、不埒さ極まりない自らの現状をよくわきまえるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
あろうことかそのチャンスを蔑ろにして、不遇に甘んじることを正当化したりするから、非常に気まずくなる。
気まずくて、つまらない。せっかくのチャンスを台無しにするその無様さが、易の吉祥法則にも反するものだから、
全体的な空気の流れを丸ごと不吉な方向へと追いやる、「凶相の構築」の元凶にすらなってしまうのである。
妾腹の私生児が必ずしも凶相を呼び込むのではなく、その凶相を正当化しようとする不埒さこそが、決定的な凶相の元凶となる。
妾腹の私生児ほどもの不遇すらをも、自助努力によって乗り越えようとする志しがあり、その志しが大成したならば、それは
人並み以上どころか、人類史上未曾有の大成にすらなり得るのだから、極度の不遇というのは、一種の「諸刃の剣」だといえる。
大成した場合には大いに振るうことを許される一方で、成功できなかった場合には決して振るうべきでない、諸刃の剣である。
「稷は天下に飢える者あれば、己れ由り之れを飢えしむると思えり」
「后稷は天下に飢える者が一人でもいれば、自分が飢えさせているという風に考えた。(万民の主を気取りながら、
民の飢渇を自分の責任だとも考えないエホバこそは、不埒さ極まりない自らの現状をよくわきまえるべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三〇より)
自利よりも利他を重んじる大乗仏教ですら、自らを利して他者を利することを是とする。
その上で自利一辺倒の小乗(上座部)の信者である声聞や独覚を、
自他を利する大乗の修行者である菩薩よりも下に置く。
自らを利することなく他者を利することを是とするところに、偽善が生じる。
本当に自利を完全にかなぐり捨てて、利他一辺倒であるということは、実際は不可能なことであり、
実情は自利を隠しながら利他に励むことだけを大っぴらにする演技となるばかりである。
そしてその、隠し隠しにしている自利こそは不正に甚大であったりもする。
一定の自利と共に利他を志していることを明示しないものこそは、
一概な利他という演技を隠れ蓑にした、不正に甚大な自利に及びもする。
だから古今東西いつの時代どこの世界においても、自利を捨てて利他を志しているかのように
見せかけているものは必ず、裏では膨大な自利に明け暮れているという不変法則があるのである。
「工、其の事を善くせんと欲すれば、必ず其の器を利す」
「職人も、うまい仕事をしようとする時には、まず自らが用いる道具を充実させる。
(密教でも『利剣』という法具が用いられることがあるが、士農工商のうちの下から二番目である職工から
してすでに、他者を利するための自利がある程度は必要になる。商売人だって、職工以上の高尚な職業の、
仁義に根ざしたあり方に倣うこともできないわけではないが、資本主義はかえってそれを否定している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一〇より)
その上で自利一辺倒の小乗(上座部)の信者である声聞や独覚を、
自他を利する大乗の修行者である菩薩よりも下に置く。
自らを利することなく他者を利することを是とするところに、偽善が生じる。
本当に自利を完全にかなぐり捨てて、利他一辺倒であるということは、実際は不可能なことであり、
実情は自利を隠しながら利他に励むことだけを大っぴらにする演技となるばかりである。
そしてその、隠し隠しにしている自利こそは不正に甚大であったりもする。
一定の自利と共に利他を志していることを明示しないものこそは、
一概な利他という演技を隠れ蓑にした、不正に甚大な自利に及びもする。
だから古今東西いつの時代どこの世界においても、自利を捨てて利他を志しているかのように
見せかけているものは必ず、裏では膨大な自利に明け暮れているという不変法則があるのである。
「工、其の事を善くせんと欲すれば、必ず其の器を利す」
「職人も、うまい仕事をしようとする時には、まず自らが用いる道具を充実させる。
(密教でも『利剣』という法具が用いられることがあるが、士農工商のうちの下から二番目である職工から
してすでに、他者を利するための自利がある程度は必要になる。商売人だって、職工以上の高尚な職業の、
仁義に根ざしたあり方に倣うこともできないわけではないが、資本主義はかえってそれを否定している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・一〇より)
菩薩行も自他を利することを明示するし、仁義道徳も万人を利して我が利とすることを念頭に置いている。
これらの理念をありのままに実行できるのが、君子としての為政だったり出家修行だったりする一方、
なかなか実行しにくかったり、逆に利他を蔑ろにした自利に及びやすいのが商業である。
完全に利他を捨てて自利一辺倒となれば、それはもはや犯罪者も同然だが、商売人ならまだ、
自利と利他の均衡を取ることができる。とはいえ自利以上の利他を志すことが商売人の義務だったり
するわけではないし、サービスを上回る収益を上げることが商売人の本是とすらされもするのである。
そしてその商売人こそは、「お客さま第一」のような態度でいて、顧客に奉仕することが我らにとっての
全てであるかのように振舞いもする。もちろんそれは完全な演技であり、腹の内ではほぼ必ず、
いかに客からより大きな利益をぶんどるかばかりを考えている。これこそ「自利を捨てた利他一辺倒で
あるかのように見せかけるものこそは、不正な自利を旨とする」の法則にそのまま当てはまる姿だといえる。
絶対にそういう連中が存在してはならないとまでは言わないが、少なくともだからといって偉いなんてことはない。
むしろ、自利も利他もさして志しもしないもののほうがまだマシなぐらいで、世の中のうちでも特に卑しい
部類の人種の所業でこそあることには間違いない。自利を捨ててでも利他を志すなんていう無謀な理念は、
裏での不正な自利を促す以外のいかなる効果も持ち得ないのだから、その理念からして、鼻つまみものだといえる。
これらの理念をありのままに実行できるのが、君子としての為政だったり出家修行だったりする一方、
なかなか実行しにくかったり、逆に利他を蔑ろにした自利に及びやすいのが商業である。
完全に利他を捨てて自利一辺倒となれば、それはもはや犯罪者も同然だが、商売人ならまだ、
自利と利他の均衡を取ることができる。とはいえ自利以上の利他を志すことが商売人の義務だったり
するわけではないし、サービスを上回る収益を上げることが商売人の本是とすらされもするのである。
そしてその商売人こそは、「お客さま第一」のような態度でいて、顧客に奉仕することが我らにとっての
全てであるかのように振舞いもする。もちろんそれは完全な演技であり、腹の内ではほぼ必ず、
いかに客からより大きな利益をぶんどるかばかりを考えている。これこそ「自利を捨てた利他一辺倒で
あるかのように見せかけるものこそは、不正な自利を旨とする」の法則にそのまま当てはまる姿だといえる。
絶対にそういう連中が存在してはならないとまでは言わないが、少なくともだからといって偉いなんてことはない。
むしろ、自利も利他もさして志しもしないもののほうがまだマシなぐらいで、世の中のうちでも特に卑しい
部類の人種の所業でこそあることには間違いない。自利を捨ててでも利他を志すなんていう無謀な理念は、
裏での不正な自利を促す以外のいかなる効果も持ち得ないのだから、その理念からして、鼻つまみものだといえる。

その源流となっているゾロアスター教からして「拝火教」であり、
イランにも多数存在するガス田から立ち昇る火を見て、
古代のペルシャ人も一神教的な世界観を募らせていったのだとされる。
火は人類文明にほぼ必要不可欠な要素であり、どちらかといえば火よりも水を尊重する儒学ですら、
水火が無尽蔵に使えることが文明社会の常識であるように肯んじている。(「孟子」尽心上・二三など参照)
ただ、乾燥した燎原にあっという間に広がったり、火事によって家を丸焼きにしたりする火の
危険性をよく警戒して、慎重な扱いに取り組むことが易学的にも吉祥なこととされている。
文明社会が、火の扱いを慎重化することが概観的な意味での善となるのに対し、
火の慎重な扱いを疎かにして、どこかしこにも戯れに点火しまくることが悪となる。
しからぱ、ただ火を崇めているだけの拝火教が、だからといって悪なんていうことはない。
侵略の業火を他民族や異教徒にまで広げていこうとするユダヤ教から初めて悪が芽生えており、
ユダヤの放火癖に注油までをも加味したキリスト教に至って、邪教としての悪も極まった。
そしてユダヤ=キリストの劣悪な放火癖をコーランの教義によって打ち消すイスラムに至って、
悪の業火はまた消し止められて、善といわずとも不悪というところまでは立ち戻ったのだといえる。
火の扱いを疎かにして火事を広めまくる、文明社会の悪の法則に適っているのがユダヤとキリシタンであり、
拝火教とイスラムは辛うじて、悪の法則までをも満たしてはいない。火の燃え広がる習性と、
燃え続ける習性のいずれかを崇拝の対象としたかが両者の悪不悪を分かったのであり、
燃え広がる火の習性を崇め立てたユダヤ=キリシタンこそは、自分たちでは収拾も覚束ないほどの
罪悪の燃え広がり、破滅の業火を世界中へと飛び火させる元凶ともなったのである。
全世界、地球規模で言えば、ユダヤ=キリスト両聖書教が燃え広がらせた破滅の業火すらをも消し止める
用意は為されていた。ただそれは、インドの仏教や中国の儒学、そして日本などにおける本国以上もの
仏教や儒学の忠実な実践でこそあったのであり、イスラエル以西の世界発展とは基本、無縁だったものである。
自分たち聖書教徒が世界中に燃え広がらせた破滅の業火を、自分たちを含む人類が滅亡しない程度に
消し止めてくださる方がいらっしゃったところで、決してそれは犯罪聖書の神などであるわけではない。
むしろ、いま欧米人が経済戦での敗北などから目の敵にもしている中国人などの先祖こそは、聖書信仰が
この世にもたらす破滅の危機すらをも救ってくれる用意をしてくれていたのだから、まさに憎んでその善を知り、
自分たちが東洋人に頭を上げている余裕なども、もうないのだということをわきまえねばならない。
長年異民族の支配下に置かれることで、相当に野卑なざまと化している今の中国人などを、ありのままに
崇拝の対象などにできるはずもないが、少なくとももう、偉ぶりつつ応対できるような段階にはない。
満州開拓によって今の中国人にも経済進出の余地を与えてやった、日本人などであるのならともかくとして。
「孺子其れ朋せんか、孺子其れ朋せんか。
其れ往くに火の始め燄燄たるも、厥の灼敍する攸、其れ絶えざるが如きこと無かれ」
「若者たちよ、(組織犯罪の元凶となるような)友愛には、くれぐれも気をつけなさい。
それは最初はちょろちょろとくすぶっていた程度の火が、挙句には消し止められなくもなるほどに
燃え広がるようにして蔓延するものだから、決してそれにたぶらかされるようなことがあってはなりません。
(『君子は群して党せず』の典拠の一つ。業火の燃え広がりへの崇拝は、友愛による組織犯罪を肥大化させる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)
用意は為されていた。ただそれは、インドの仏教や中国の儒学、そして日本などにおける本国以上もの
仏教や儒学の忠実な実践でこそあったのであり、イスラエル以西の世界発展とは基本、無縁だったものである。
自分たち聖書教徒が世界中に燃え広がらせた破滅の業火を、自分たちを含む人類が滅亡しない程度に
消し止めてくださる方がいらっしゃったところで、決してそれは犯罪聖書の神などであるわけではない。
むしろ、いま欧米人が経済戦での敗北などから目の敵にもしている中国人などの先祖こそは、聖書信仰が
この世にもたらす破滅の危機すらをも救ってくれる用意をしてくれていたのだから、まさに憎んでその善を知り、
自分たちが東洋人に頭を上げている余裕なども、もうないのだということをわきまえねばならない。
長年異民族の支配下に置かれることで、相当に野卑なざまと化している今の中国人などを、ありのままに
崇拝の対象などにできるはずもないが、少なくとももう、偉ぶりつつ応対できるような段階にはない。
満州開拓によって今の中国人にも経済進出の余地を与えてやった、日本人などであるのならともかくとして。
「孺子其れ朋せんか、孺子其れ朋せんか。
其れ往くに火の始め燄燄たるも、厥の灼敍する攸、其れ絶えざるが如きこと無かれ」
「若者たちよ、(組織犯罪の元凶となるような)友愛には、くれぐれも気をつけなさい。
それは最初はちょろちょろとくすぶっていた程度の火が、挙句には消し止められなくもなるほどに
燃え広がるようにして蔓延するものだから、決してそれにたぶらかされるようなことがあってはなりません。
(『君子は群して党せず』の典拠の一つ。業火の燃え広がりへの崇拝は、友愛による組織犯罪を肥大化させる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)
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「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の四に、菩薩がイエスとほぼ同等の受刑の代行によって
死刑囚を救うという記述がある。しかし、菩薩は受刑を肩代わりすることで死んで生き返る
わけではないし、冤罪の引き受けが新たな犯罪現象の拡大にも加担しかねないことを半ば了解し、
それによって生じた全ての犯罪現象の責任すらをも、代わりに負っていくのだという。
それでいてそれは、「一切衆生を救護せんがため」なのだという。
高台に縛り上げられて、槍で突き通されて死ななければならなくなるような重罪人こそを救うためではなく、
それほどもの重罪人を含む、あらゆる衆生を救わんがためにこそ、重罪人の受刑すらも肩代わりするという。
冤罪で十字架にかけられたヒゲで半裸のおっさんを、特定して信じるから救われるなんてことは決してない。
ただ、それほどにも無様な輩を含む一切の衆生を、聖道門の菩薩が救うということはある。
むしろそれこそは、聖道門の菩薩の責務でもある。五逆や誹謗正法に及んだだけで救済の対象から外される
他力の浄土門などではなく、厳しい出家修行に自らが臨んで行く聖道門においてこそ、
尊属殺人犯級の重罪人すらをも救っていくことが義務とされていくのである。
これが、新約犯罪聖書が書かれた約1900年前、ほぼ同時期に書かれた「華厳経」の一節である。
十字架によってこそ救われるなどという選民志向の妄信すら捨て去ったなら、そのような邪信に溺れることで
自らが本当に磔刑級の重罪を犯してしまった人間までをも、聖道門の菩薩が救済していってやるのだと、
新約がでっち上げられた最初期の頃から、すでにインドに誓約されていたのである。
「磔刑級の人間ですら救われる」の真逆に当たる、「磔刑級の人間こそが救われる」という転倒夢想を押し広める
聖書信仰こそは、聖道門の自力仏教をこの世から絶やすほどもの乱世をもたらすものだから、自動的に、聖道門の
菩薩行によって磔刑級の人間が救われる余地も絶やされる。真理とはそもそも、そういう風にできているのである。
「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の四に、菩薩がイエスとほぼ同等の受刑の代行によって
死刑囚を救うという記述がある。しかし、菩薩は受刑を肩代わりすることで死んで生き返る
わけではないし、冤罪の引き受けが新たな犯罪現象の拡大にも加担しかねないことを半ば了解し、
それによって生じた全ての犯罪現象の責任すらをも、代わりに負っていくのだという。
それでいてそれは、「一切衆生を救護せんがため」なのだという。
高台に縛り上げられて、槍で突き通されて死ななければならなくなるような重罪人こそを救うためではなく、
それほどもの重罪人を含む、あらゆる衆生を救わんがためにこそ、重罪人の受刑すらも肩代わりするという。
冤罪で十字架にかけられたヒゲで半裸のおっさんを、特定して信じるから救われるなんてことは決してない。
ただ、それほどにも無様な輩を含む一切の衆生を、聖道門の菩薩が救うということはある。
むしろそれこそは、聖道門の菩薩の責務でもある。五逆や誹謗正法に及んだだけで救済の対象から外される
他力の浄土門などではなく、厳しい出家修行に自らが臨んで行く聖道門においてこそ、
尊属殺人犯級の重罪人すらをも救っていくことが義務とされていくのである。
これが、新約犯罪聖書が書かれた約1900年前、ほぼ同時期に書かれた「華厳経」の一節である。
十字架によってこそ救われるなどという選民志向の妄信すら捨て去ったなら、そのような邪信に溺れることで
自らが本当に磔刑級の重罪を犯してしまった人間までをも、聖道門の菩薩が救済していってやるのだと、
新約がでっち上げられた最初期の頃から、すでにインドに誓約されていたのである。
「磔刑級の人間ですら救われる」の真逆に当たる、「磔刑級の人間こそが救われる」という転倒夢想を押し広める
聖書信仰こそは、聖道門の自力仏教をこの世から絶やすほどもの乱世をもたらすものだから、自動的に、聖道門の
菩薩行によって磔刑級の人間が救われる余地も絶やされる。真理とはそもそも、そういう風にできているのである。
「華厳経」の十回向品には、一切衆生が無上の智慧に与ることを菩薩が希う記述もまた多々ある。
菩薩は自らの活動によって愚民をこの世から絶やし、君子が小人を先導していく儒学統治以上にも、
誰しもが違逆なき最高智の持ち主となるように努めるのである。それは当然、被支配者である衆生を
ゴイム(家畜)も同然の存在と化す犯罪聖書による支配の下などでは、決して実現し得ないことである。
だからやはり、犯罪聖書への信仰やその実践と、聖道門の信仰やその実践は全く両立し得ないことが分かる。
結局、聖道門の自力仏教を広めていくためにもやはり、聖書信仰を禁止して、儒学による最低限の治世を
実現する必要があり、自力仏教の流布はそこから先の話になる。歴史的には、儒学と仏教が異教異学として
対立関係にあったこともなくはないが、決して利害関係が完全に相反していたわけではなく、それなりに
両立し得るところがあった。しかし、聖書信仰は儒学と自力仏教、いずれとも決定的な排他関係にあり、
いずれかを立てる以上はもう一方が決して立てられはしなくなるものだから、聖書信仰という共通の宿敵を
退治するための協力が、儒学と仏教の間で現時点では可能となっている。厳密には在俗主義と出家主義
という実践面での相違が両者にはあるから、聖書信仰撲滅の後に、両者がまた分裂することも予想される。
「席正しからざれば、坐せず」
「よく席が正されているのでなければ、座らない。
(冤罪磔刑者への信仰によって選別的に座らされる王座などは、不正な座席である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・九)
菩薩は自らの活動によって愚民をこの世から絶やし、君子が小人を先導していく儒学統治以上にも、
誰しもが違逆なき最高智の持ち主となるように努めるのである。それは当然、被支配者である衆生を
ゴイム(家畜)も同然の存在と化す犯罪聖書による支配の下などでは、決して実現し得ないことである。
だからやはり、犯罪聖書への信仰やその実践と、聖道門の信仰やその実践は全く両立し得ないことが分かる。
結局、聖道門の自力仏教を広めていくためにもやはり、聖書信仰を禁止して、儒学による最低限の治世を
実現する必要があり、自力仏教の流布はそこから先の話になる。歴史的には、儒学と仏教が異教異学として
対立関係にあったこともなくはないが、決して利害関係が完全に相反していたわけではなく、それなりに
両立し得るところがあった。しかし、聖書信仰は儒学と自力仏教、いずれとも決定的な排他関係にあり、
いずれかを立てる以上はもう一方が決して立てられはしなくなるものだから、聖書信仰という共通の宿敵を
退治するための協力が、儒学と仏教の間で現時点では可能となっている。厳密には在俗主義と出家主義
という実践面での相違が両者にはあるから、聖書信仰撲滅の後に、両者がまた分裂することも予想される。
「席正しからざれば、坐せず」
「よく席が正されているのでなければ、座らない。
(冤罪磔刑者への信仰によって選別的に座らされる王座などは、不正な座席である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・九)

「土地がもたらす利益がどんなに大きくとも、人がよく和していることには及ばない。
(外界侵略によって争いの種ばかりを撒き散らした欧米聖書圏の所業は、わずかな人の和ほどの価値もない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一より)
敗戦後、日本の関東軍や満蒙開拓団による大陸への遠征が「点と線の征服だった」と揶揄されていたが、
実際には広大な大陸に対して面積規模の開拓を敷き、満州帝国における莫大な工業発展をも実現していた。
それほどにも、関東軍や日本の入植者による開拓が本格的であったればこそ、敗戦持の撤退で
非常な錯綜が巻き起こり、撤退に遅れた入植者に対するソ連兵や中国兵の虐待、日本人の親に
置き去りにされた残留孤児、そして数多の日本兵のシベリアへの抑留といった大問題をも呈したのだった。
むしろ、外界に対して「点と線」の侵略や遠征ばかりをやって来たのが、大航海時代から帝国主義時代に
かけての欧州の聖書圏、「世界の警察」を気取るアメリカ軍や、戦後の日本の資本主義者たちである。
ただ自国の富裕層に暴利を呼び込むためばかりに行われた、近代までの聖書圏による世界中への
植民地支配の拡大は、どこまでも外界の荒廃ばかりをもたらしてきた。国としての征服地域はフィリピンや
ハワイやグアムなどのごく一部に止まるものの、軍役によって日本や朝鮮やベトナム、アフガンや
イラクなどの諸国に多大なる損害をもたらして来たアメリカもまた、ただ被害国を破壊して回るばかりで、
侵攻する以前よりも劣化した社会情勢を当地にもたらし続けているばかりのこと。そして、日本の今の
大企業グループなどの資本主義勢力も、企業としての収益を上げたいがために中国や東南アジアなどへと
進出はするものの、あくまで企業としての利益が本位だから、進出地域の労働者教育なども疎かとし、
特に戦前の開拓を再利用できる中国において、中国人に「昔取った杵柄」での我流の工場経営などを
任せきりにしていることから、昔の技術で今の工業を扱ってしまっているがための深刻な薬品汚染や
不審な爆発事故、極度に劣悪な環境下での生産労働などを催させることとなってしまっているのである。

「人の足は土地を踏みしめるためにあるが、一生踏みしめ尽くすことの
できない広大な土地があればこそ、土地を踏みしめていくことができる」
(「荘子」雑篇・徐無鬼第二十四・一四より)
自国の統治に専念する王道と、外界への遠征に及ぶ覇道とでは、本質的に王道が優等なものである。
それは、覇道によってはどうしても、遠征先の国々の面積規模に渡る十分な統治が疎かになってしまうからで、
それにより侵略しない場合以上もの、世相の荒廃や民度の低下をも招いてしまいかねないからだ。
戦前の日本による満蒙開拓は、一応清帝国の皇帝でもあった溥儀を満州国の皇帝とし、
日本人も委託という体裁を保っての開拓に臨んだから、植民地支配の場合などにはあり得ないほどもの
工業インフラの充実をももたらした。その引き換えに、敗戦の撤退時における深刻な錯綜も起こり、
中共による満州のインフラ強奪後には、インフラの発展も完全に滞ったわけだが、それでも、
戦前の日本人による王道に即した満州の開拓が「点と線」などではない充実した規模だったからこそ、
今日に至る中国生産の爆発的な発展をももたらしたのである。それにより、欧米経済の空洞化からなる
破綻をももたらしたのだから、これは、王道が覇道を淘汰した現象の端緒であるということがいえる。
あまりにも多くの犠牲をはじき出しつつの辛勝であり、なかなか素直に喜べもしない所が、今はまだ大きい。
王道による覇道の撃退後にも、まだまだしなければならない後始末は山積しているのだといえる。
陰陽法則でいえば、天が陽で地が陰。
男が陽で女が陰であり、男女は全く別種の生き物であるのと同じように、
天と地もまた異質な存在同士であり、また異質である所にこそ調和の途までもがある。
陰と陽が同等のものとして扱われたり、また一方がもう一方と比べての極端な差別下に
置かれたりすることが「陰陽不全」となる。健全な陰陽関係たる陽唱陰和と比べて、上記のような
陰陽不全に固執するものは、必ず劣性となる。男女平等を謳いすぎるあまり、人工の停滞や少子高齢化、
それによる移民の受け入れすぎといった問題を呈している欧米先進国や日本などが、男尊女卑が未だ
基本である中国やインドや中東などに、人口面や社会構成面での劣勢に立たされているのがその一例である。
天と地の陰陽関係を不全化する犯罪聖書の邪義が人間社会に及ぼしている悪影響の実例といえば、
何といっても人格神の実在性への狂信からなる、人々の側の身の程知らずな思い上がりの激化である。
聖書信者が致命的な思い上がりを募らせているのはもちろんのこと、聖書信者を
自認しない日本人などもまた、自由主義や民主主義や資本主義といった聖書圏特産の
イデオロギーに精神を毒されて、ひどい思い上がりを募らせてしまったいる場合が多い。
その思い上がりが、自らを神も同然の存在と思い込んでの、実質上の国際権力犯罪をも激化させ、
よって人類を滅亡の危機へとも追いやる元凶となっている。まさに、犯罪聖書の邪義の流布による、
天地の陰陽の不全化こそは、人類を滅亡の危機に追いやっている元凶中の元凶でもあるのだといえる。
男が陽で女が陰であり、男女は全く別種の生き物であるのと同じように、
天と地もまた異質な存在同士であり、また異質である所にこそ調和の途までもがある。
陰と陽が同等のものとして扱われたり、また一方がもう一方と比べての極端な差別下に
置かれたりすることが「陰陽不全」となる。健全な陰陽関係たる陽唱陰和と比べて、上記のような
陰陽不全に固執するものは、必ず劣性となる。男女平等を謳いすぎるあまり、人工の停滞や少子高齢化、
それによる移民の受け入れすぎといった問題を呈している欧米先進国や日本などが、男尊女卑が未だ
基本である中国やインドや中東などに、人口面や社会構成面での劣勢に立たされているのがその一例である。
天と地の陰陽関係を不全化する犯罪聖書の邪義が人間社会に及ぼしている悪影響の実例といえば、
何といっても人格神の実在性への狂信からなる、人々の側の身の程知らずな思い上がりの激化である。
聖書信者が致命的な思い上がりを募らせているのはもちろんのこと、聖書信者を
自認しない日本人などもまた、自由主義や民主主義や資本主義といった聖書圏特産の
イデオロギーに精神を毒されて、ひどい思い上がりを募らせてしまったいる場合が多い。
その思い上がりが、自らを神も同然の存在と思い込んでの、実質上の国際権力犯罪をも激化させ、
よって人類を滅亡の危機へとも追いやる元凶となっている。まさに、犯罪聖書の邪義の流布による、
天地の陰陽の不全化こそは、人類を滅亡の危機に追いやっている元凶中の元凶でもあるのだといえる。
この宇宙で生物が生息している可能性が高いのは、地球のような環境条件を持つ惑星である。
それは宇宙の果てまで行っても同じことで、人間を含む生物の住まう場所は、基本「地」である。
天上の法則が地上に落とし込まれて人間ができたのではなく、地上の有機物の、ありのままの
複雑な構造化として、人間のような高等生物もまた生じたのである。もちろん、天から
降り注がれた日光のエネルギーを得ることにより、自然生物の育成もまた成し得ているわけだが、
それは決して、「天の構造物的理念」の落とし込みなどではない。地上の有機物の構造的な法則が、
日光という一概なエネルギーを糧にすることで独自に発展し、知能を持つ生物までをも生み出したのだから、
天の神に似て地上の人が造られたのでも、天の神が人を作ったのでもなく、天からはエネルギーだけを
授かることで、地上の側が独自に人間のような高等生物をも造り上げたというのが、科学的に明らかなのである。
上記のような、人間に対する天地の関係は、子に対する父母の関係にも酷似していることから、
陰陽上からも天が父、地が母ともされる。天にも地にもそれぞれ父母がいるのではなく、
天という父と地という母が相交わることで、子たる人もまた生まれたのであるといえる。
天地を丸ごと一家として捉える陰陽思想と比べて、天地をそもそも別個の同質物として捉える
犯罪聖書の邪義の、何とよそよそしいこと。そのよそよそしさが実際の天下国家に適用されたなら、
何一つとしてうまくいくことがなくなるのも、それと引き換えに天地の陽唱陰和が破綻するからなのだし。
「夫れ君子の過ぎる所は化し、存る所は神まり、上下、天地と流れを同じくす」
「君子が通り過ぎる所は、それだけでも民が徳化され、居座るところでは、よく治まる。
人々の上下関係が天地と流れを同じくして、誰しもがよく調和するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一四より)
それは宇宙の果てまで行っても同じことで、人間を含む生物の住まう場所は、基本「地」である。
天上の法則が地上に落とし込まれて人間ができたのではなく、地上の有機物の、ありのままの
複雑な構造化として、人間のような高等生物もまた生じたのである。もちろん、天から
降り注がれた日光のエネルギーを得ることにより、自然生物の育成もまた成し得ているわけだが、
それは決して、「天の構造物的理念」の落とし込みなどではない。地上の有機物の構造的な法則が、
日光という一概なエネルギーを糧にすることで独自に発展し、知能を持つ生物までをも生み出したのだから、
天の神に似て地上の人が造られたのでも、天の神が人を作ったのでもなく、天からはエネルギーだけを
授かることで、地上の側が独自に人間のような高等生物をも造り上げたというのが、科学的に明らかなのである。
上記のような、人間に対する天地の関係は、子に対する父母の関係にも酷似していることから、
陰陽上からも天が父、地が母ともされる。天にも地にもそれぞれ父母がいるのではなく、
天という父と地という母が相交わることで、子たる人もまた生まれたのであるといえる。
天地を丸ごと一家として捉える陰陽思想と比べて、天地をそもそも別個の同質物として捉える
犯罪聖書の邪義の、何とよそよそしいこと。そのよそよそしさが実際の天下国家に適用されたなら、
何一つとしてうまくいくことがなくなるのも、それと引き換えに天地の陽唱陰和が破綻するからなのだし。
「夫れ君子の過ぎる所は化し、存る所は神まり、上下、天地と流れを同じくす」
「君子が通り過ぎる所は、それだけでも民が徳化され、居座るところでは、よく治まる。
人々の上下関係が天地と流れを同じくして、誰しもがよく調和するのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・一四より)
極端な覚醒状態の躁も、その反動としての鬱も、どちらも誉められたものじゃない。
白昼にはよく目を覚ましてしっかり働き、夜間にはぐっすり眠り込む、
日月の運行に沿ったバイオリズムの管理が人間にとって最も適切であることを
孔子も宰我の昼寝への非難によって肯んじ、孟子も告子章句上・八の昼夜論などで示唆している。
信仰は自らの足でしっかり地に足を付けて立てるような人間ではなく、
もとより何かに依存しながらでしか生きられない弱者こそが拠り所とするもの。
自力作善の能力に長ける丈夫などが信仰に専らであったりしたら、かえって自らの能力を損なうもの。
しょせん自助努力など覚束ない女子供や生粋の小人が、そうであることをよく自覚した上で、
恭しい他力依存の手段とすべきなのが信仰であり、信仰を自己正当化の手段などにしてはならない。
生存欲が旺盛であるということは、根本的に惰弱なこと。在俗の権力学たる儒学でも、
世のため人のために身を挺すことが雄々しいこととされ、仏門に至っては本当に出家によって
俗人としての人生を捨ててしまうことが大雄の選択として推奨される。生存欲がたらたらなのも
やっぱり女子供や小人の領分であり、浄土門の坊主も禅僧や密教僧よりよく長生きする。それに、
聖賢ですら生存欲がないなんてことはないわけで、ただそれが惰弱さの種であることをよく
わきまえて、ことに臨むに及んで超克の対象とする覚悟のほうなどをかえって養うのである。
愛欲もまた、時に断ち切らねばならない時があるもの。人として生まれたならば、愛欲が
全くないなんてことのほうが不健全なわけで、時にそれは、乾燥した野原に一挙に燃え広がる
大火事のようにすら激化するもの。その愛欲を十分に制御の対象として、悪用せずに善用する能力を
養ってこその英雄でもあり、愛欲にまみれて為すべきことも為せなくなる所にこそ、ひ弱の極みもまたある。
白昼にはよく目を覚ましてしっかり働き、夜間にはぐっすり眠り込む、
日月の運行に沿ったバイオリズムの管理が人間にとって最も適切であることを
孔子も宰我の昼寝への非難によって肯んじ、孟子も告子章句上・八の昼夜論などで示唆している。
信仰は自らの足でしっかり地に足を付けて立てるような人間ではなく、
もとより何かに依存しながらでしか生きられない弱者こそが拠り所とするもの。
自力作善の能力に長ける丈夫などが信仰に専らであったりしたら、かえって自らの能力を損なうもの。
しょせん自助努力など覚束ない女子供や生粋の小人が、そうであることをよく自覚した上で、
恭しい他力依存の手段とすべきなのが信仰であり、信仰を自己正当化の手段などにしてはならない。
生存欲が旺盛であるということは、根本的に惰弱なこと。在俗の権力学たる儒学でも、
世のため人のために身を挺すことが雄々しいこととされ、仏門に至っては本当に出家によって
俗人としての人生を捨ててしまうことが大雄の選択として推奨される。生存欲がたらたらなのも
やっぱり女子供や小人の領分であり、浄土門の坊主も禅僧や密教僧よりよく長生きする。それに、
聖賢ですら生存欲がないなんてことはないわけで、ただそれが惰弱さの種であることをよく
わきまえて、ことに臨むに及んで超克の対象とする覚悟のほうなどをかえって養うのである。
愛欲もまた、時に断ち切らねばならない時があるもの。人として生まれたならば、愛欲が
全くないなんてことのほうが不健全なわけで、時にそれは、乾燥した野原に一挙に燃え広がる
大火事のようにすら激化するもの。その愛欲を十分に制御の対象として、悪用せずに善用する能力を
養ってこその英雄でもあり、愛欲にまみれて為すべきことも為せなくなる所にこそ、ひ弱の極みもまたある。
目を覚ましていること、信仰を持つこと、自らの足でしっかりと立つこと、生存欲があること、
雄々しくあること、そして愛があること、いずれも人間にとって決してあってならないものなどではない。
扱い方によっては善徳の増進にすら貢献できる、人としてのあり方ばかりなのに、犯罪聖書ときたら、
ことごとくその全ての扱い方を間違え尽くしていて、故に、何一つとしてよくなることがありもしない。
四書五経や仏典と比べて、犯罪聖書が特に異様な題材を取り扱っていたりすることは全くない。
その全ての題材が四書五経以内の四書五経以下であり、また仏典以内の仏典以下でしかない。そして、
犯罪聖書が四書五経以下の仏典以下である要素として、諸々の題材の取り扱い方の致命的な間違い通しがある。
犯罪聖書の記述の過ちを直接的な反駁の対象とした書物といえば、何といってもコーランが代表格である。
コーランの犯罪聖書に対する反駁の仕方が軒並み正しいから、コーランの信仰者であるムスリムは、
犯罪聖書で取り扱っているような題材を元から正しく取り扱っている、四書五経や仏典の実践者や信仰者と
近似したあり方を自然と具えるようにもなっている。犯罪聖書で取り扱っている題材を、正しく扱っている
人々は極めて雑多で、ただ一つの教学にのみ従っているなどということもない。その雑多さを聖書信者が
忌み嫌ったりすることもあるわけだが、雑多であってもそれなりに正しいものと、純一であっても
間違い通しであるものとでは、当然、雑多でも正しいもののほうが、マシ以上であるに決まってる。
「子曰く、吾れ嘗て終日食わず、終夜寝ず。以て思う、益無しと。学ぶに如かざるなり」
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると、無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)
雄々しくあること、そして愛があること、いずれも人間にとって決してあってならないものなどではない。
扱い方によっては善徳の増進にすら貢献できる、人としてのあり方ばかりなのに、犯罪聖書ときたら、
ことごとくその全ての扱い方を間違え尽くしていて、故に、何一つとしてよくなることがありもしない。
四書五経や仏典と比べて、犯罪聖書が特に異様な題材を取り扱っていたりすることは全くない。
その全ての題材が四書五経以内の四書五経以下であり、また仏典以内の仏典以下でしかない。そして、
犯罪聖書が四書五経以下の仏典以下である要素として、諸々の題材の取り扱い方の致命的な間違い通しがある。
犯罪聖書の記述の過ちを直接的な反駁の対象とした書物といえば、何といってもコーランが代表格である。
コーランの犯罪聖書に対する反駁の仕方が軒並み正しいから、コーランの信仰者であるムスリムは、
犯罪聖書で取り扱っているような題材を元から正しく取り扱っている、四書五経や仏典の実践者や信仰者と
近似したあり方を自然と具えるようにもなっている。犯罪聖書で取り扱っている題材を、正しく扱っている
人々は極めて雑多で、ただ一つの教学にのみ従っているなどということもない。その雑多さを聖書信者が
忌み嫌ったりすることもあるわけだが、雑多であってもそれなりに正しいものと、純一であっても
間違い通しであるものとでは、当然、雑多でも正しいもののほうが、マシ以上であるに決まってる。
「子曰く、吾れ嘗て終日食わず、終夜寝ず。以て思う、益無しと。学ぶに如かざるなり」
「先生は言われた。『私は昔一日中何も食べず、一晩中寝もしないでいたことがあったが、
今になってみると、無駄なことをしたもんだと思う。順序だてて勉強をすることには全く及ばない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三一)
うむ、相変わらずのバカだw
生存欲にまみれるということは、女々しいことだ。だから、生存を欲することにかけて雄々しい
ということは、女々しさが雄々しいということになり、それこそ、陰陽不全の最たるものとなる。
わが身を捨てて戦地に臨む武者や、身を裂くような修行に臨む出家者であったりすることこそが、
本当に雄々しいこと。戦地で命知らずな激戦を繰り広げ、本当に死者も出すような荒行(千日会峰など)
をやりこなしたりすることこそは、善い場合も悪い場合もあるにしろ、雄々しさの極みに当たるといえる。
戦地に臨みながら逃げ腰でいる武者や、修行の苦しみに耐え切れずに脱落する出家者などは、雄々しさを
志しながらも結局、女々しかったことになり、これもまた陰陽不全の一つだといえる。そんな人間が
少しも賞賛の対象などにされるべきではないのと同じようにして、生存欲にまみれることのような
女々しさの部類が雄々しいこともまた、何ら賞賛の対象などにされて然るべきものでもない。
生存欲にかけては、むしろ女々しいほうがいい。自分の命なんか大したものでもないと謙り、
ことに臨むにかけて、生存欲が思い切りを妨げるようなこともないようにする。それでこそ、
命を捨ててことに臨む思い切りのほうが、その真の雄々しさを貫徹もできるのである。
ということは、女々しさが雄々しいということになり、それこそ、陰陽不全の最たるものとなる。
わが身を捨てて戦地に臨む武者や、身を裂くような修行に臨む出家者であったりすることこそが、
本当に雄々しいこと。戦地で命知らずな激戦を繰り広げ、本当に死者も出すような荒行(千日会峰など)
をやりこなしたりすることこそは、善い場合も悪い場合もあるにしろ、雄々しさの極みに当たるといえる。
戦地に臨みながら逃げ腰でいる武者や、修行の苦しみに耐え切れずに脱落する出家者などは、雄々しさを
志しながらも結局、女々しかったことになり、これもまた陰陽不全の一つだといえる。そんな人間が
少しも賞賛の対象などにされるべきではないのと同じようにして、生存欲にまみれることのような
女々しさの部類が雄々しいこともまた、何ら賞賛の対象などにされて然るべきものでもない。
生存欲にかけては、むしろ女々しいほうがいい。自分の命なんか大したものでもないと謙り、
ことに臨むにかけて、生存欲が思い切りを妨げるようなこともないようにする。それでこそ、
命を捨ててことに臨む思い切りのほうが、その真の雄々しさを貫徹もできるのである。
それでもなお、自らの命を大切にしなければならない事態というものがある。それが、男が家を背負って
立ったり、女が家を守る立場になったりする場合で、このような場合には、男も女も、自らの命に
対する執着などとも無縁なところで、便宜的に自分たちの命を大切にしていく必要があるのである。
それこそが、人が自らの命を大切にしていく最も健全なあり方だといえる。ただ自分が可愛いから
自分の命を惜しんだりするのは逆に不健全なことで、人と人とが協力し合うことで、初めて個人もまた
生きていけるという人間社会の絶対法則にも反しているが故に、むしろなくて然るべきものだといえる。
生存欲にかけて女々しいからといって、すぐさま自らがちり芥のように儚い存在となるのでもない。
むしろ「家を背負って立つ」とか「家を守る」とかいった健全な目的に即して、より生活を充実させて
いけるようにもなるのであり、そこにこそ人が生きるということの、真の幸福もまたあるのである。
「勇を好みて貧しきを疾めば、乱なる」
「雄々しさを好みながら(生存を危ぶませるような)貧窮に喘ぐようであれば、乱暴に走る。
(貧窮をものともしない雄々しさにはかけているから、女々しい自暴自棄にも陥るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一〇より)
立ったり、女が家を守る立場になったりする場合で、このような場合には、男も女も、自らの命に
対する執着などとも無縁なところで、便宜的に自分たちの命を大切にしていく必要があるのである。
それこそが、人が自らの命を大切にしていく最も健全なあり方だといえる。ただ自分が可愛いから
自分の命を惜しんだりするのは逆に不健全なことで、人と人とが協力し合うことで、初めて個人もまた
生きていけるという人間社会の絶対法則にも反しているが故に、むしろなくて然るべきものだといえる。
生存欲にかけて女々しいからといって、すぐさま自らがちり芥のように儚い存在となるのでもない。
むしろ「家を背負って立つ」とか「家を守る」とかいった健全な目的に即して、より生活を充実させて
いけるようにもなるのであり、そこにこそ人が生きるということの、真の幸福もまたあるのである。
「勇を好みて貧しきを疾めば、乱なる」
「雄々しさを好みながら(生存を危ぶませるような)貧窮に喘ぐようであれば、乱暴に走る。
(貧窮をものともしない雄々しさにはかけているから、女々しい自暴自棄にも陥るのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一〇より)

仏門の密教も、「秘すれば花」を多用しているから"密"教でもあるわけだが、
秘している内実が虚偽だから秘していたりするのではなく、内実は内実で含蓄があった上で、
その内実をよりよく見せるために内実自体は隠し、その方便的な荘厳のほうを前面に押し出すのである。
日本刀が名刀たる所以は、やはりその本身の出来のよさにあるが、だからといって常に裸の状態を
晒したりするのではなく、鞘などの拵えに納めて持ち歩いたり、飾ったりするのが常態である。
「秘すれば花」というのはそういうものであって、拵えの中身がカラだったり竹光だったりするのでは、
もはや「秘すれば花」ですらない。しかも、中身が空や竹光であるような拵えを見せびらかしておいて、
「これこそは名刀だ」などと偽証したりしたのなら、その中身を見せられたときの落胆も、半端ではあるまい。
聖書信仰の内実は「グノーシズム(認識主義)」あたりが捉えているが、それを興じる者は異端者として、
キリスト教の発足時から徹底的な弾圧の対象とされ続けてきた。秘密仏教(密教)が大乗仏教の一派として
許容されてきたのとは違い、聖書信仰版の密教であるグノーシズムが徹底的な弾圧の対象とされたのは、
グノーシズムこそは「悪魔崇拝」であることが見るに明らかな邪教だからで、内実が悪魔信仰であるにも
関わらず、表向きだけ神聖信仰である聖書信仰は、全く以って「秘すれば花」の条件を満たせていないのである。
内実も真理追究の究極であり、外面もその内実のありのままの荘厳である秘密仏教のようであって初めて
「秘すれば花」の条件も満たせるのに対し、内実が悪魔信仰で外面だけ神聖信仰である聖書信仰などは
その条件を満たせておらず、単なる「二枚舌」に止まっている。だからこそ、それなりに神聖でもあるように
見せかけている、正統派のキリスト教などを含む聖書信仰全般が、総合的に邪宗門でしかないのだといえる。
仏教や儒学の教理に相当するものもそれなりに取り入れて(それらは全く聖書教義に反してもいる)、
多少の無害化にも努めているようなキリスト教団も含めて、やはり聖書信仰は途絶の対象とするしかない。
自殺の禁止や家族の団結など、別に聖書信仰を途絶したからといって同時に廃絶されるものでもなく、むしろ仏教や
儒学を聖書信仰の代わりに受容することを通じて、かえってその意義を深く理解できるようになるものですらある。
古くから仏教や儒学を取り入れてきた日本人が、時に自殺も厭わないのは、顕教の仏教ではなく密教から来ているので、
それに倣うのがイヤなら、密教だけはやめとけばいいだけの話。だからといって、密教を禁止したりする必要もないが。
「王、之れに修むるを播し告げ、厥の指を匿さず。王、用て丕いに欽み、逸言有ること罔くし。民用て丕いに変ず」
「昔、偉大な先王たちは、自らの修め行う所を必ず広く告げ知らせて、その考えを隠したりすることが無かった。
王たち自身がよく言行を慎んで、いい加減な言葉を述べたりもしなかったから、民たちも多いに教化されたのだった。
(衆生を『ゴイム〈家畜〉』と呼んで何も知らせずに専制を働く暴君などがいるから、民もまた愚民のままでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
「秘すれば花」の条件も満たせるのに対し、内実が悪魔信仰で外面だけ神聖信仰である聖書信仰などは
その条件を満たせておらず、単なる「二枚舌」に止まっている。だからこそ、それなりに神聖でもあるように
見せかけている、正統派のキリスト教などを含む聖書信仰全般が、総合的に邪宗門でしかないのだといえる。
仏教や儒学の教理に相当するものもそれなりに取り入れて(それらは全く聖書教義に反してもいる)、
多少の無害化にも努めているようなキリスト教団も含めて、やはり聖書信仰は途絶の対象とするしかない。
自殺の禁止や家族の団結など、別に聖書信仰を途絶したからといって同時に廃絶されるものでもなく、むしろ仏教や
儒学を聖書信仰の代わりに受容することを通じて、かえってその意義を深く理解できるようになるものですらある。
古くから仏教や儒学を取り入れてきた日本人が、時に自殺も厭わないのは、顕教の仏教ではなく密教から来ているので、
それに倣うのがイヤなら、密教だけはやめとけばいいだけの話。だからといって、密教を禁止したりする必要もないが。
「王、之れに修むるを播し告げ、厥の指を匿さず。王、用て丕いに欽み、逸言有ること罔くし。民用て丕いに変ず」
「昔、偉大な先王たちは、自らの修め行う所を必ず広く告げ知らせて、その考えを隠したりすることが無かった。
王たち自身がよく言行を慎んで、いい加減な言葉を述べたりもしなかったから、民たちも多いに教化されたのだった。
(衆生を『ゴイム〈家畜〉』と呼んで何も知らせずに専制を働く暴君などがいるから、民もまた愚民のままでいる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・盤庚上より)
儒学上の最重要理念である、子の親に対する「孝」は、父親だけでなく母親にも振り向けられる。
しかしそれは、母が高潔な存在などではなく、腹を痛めて自分を産んでくれた苦労人であることに基づく。
「礼記」表記第三十二にも「母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」とあり、
尊いからではなく親しいから、母への孝養にも努めるのが、儒者としての心得であるとされる。
仏教の場合はもっと辛らつで、「母胎より生み出されたわが身こそは不浄である」と「華厳経」などでも
断じられている。だからこそ俗世での営みを捨てた出家者となることをも勧めるわけで、これと比べれば、
母親に対してもそれなりの親愛に努める儒学のほうがずっと、母という存在に対する見方も優しいといえる。
日本神話では、アマテラスとスサノオのウケヒの際、アマテラスがスサノオのものざねである剣を噛み砕けば
三柱の女神が生まれ、スサノオがアマテラスのものざねである玉を噛み砕けば五柱の男神が生まれたとされる。
これによりスサノオは勝ち名乗りを上げる一方で、アマテラスが皇祖神にして、高天原の最高神ともなっている。
ここから寓意として読み取れるのは、女は男から「玉を噛み砕く」という危害(受精)を被ることで立派な母となり、
高天原(家庭)における主導権を獲得するということ。それは田んぼにクソをひられ、逆剥ぎにした馬の皮を機織場に
投げ込まれるほどもの暴挙であるわけだが、それを受け入れることによってこそ、女もまた立派な母になるということ。
儒学と、仏教と、日本神道と、いずれもが「生殖」という行為を少なからずよからぬものと見なした上で、
それを受け入れてまで自分を産んでくれた母への孝養に努めたり、あるいは出家しての精進修行に励んだり、
また家庭における母親の父親に対する優位を肯定したりする。(あくまで家庭内であり、社会上ではない)
しかしそれは、母が高潔な存在などではなく、腹を痛めて自分を産んでくれた苦労人であることに基づく。
「礼記」表記第三十二にも「母は親しくして尊からず。父は尊くして親しからず」とあり、
尊いからではなく親しいから、母への孝養にも努めるのが、儒者としての心得であるとされる。
仏教の場合はもっと辛らつで、「母胎より生み出されたわが身こそは不浄である」と「華厳経」などでも
断じられている。だからこそ俗世での営みを捨てた出家者となることをも勧めるわけで、これと比べれば、
母親に対してもそれなりの親愛に努める儒学のほうがずっと、母という存在に対する見方も優しいといえる。
日本神話では、アマテラスとスサノオのウケヒの際、アマテラスがスサノオのものざねである剣を噛み砕けば
三柱の女神が生まれ、スサノオがアマテラスのものざねである玉を噛み砕けば五柱の男神が生まれたとされる。
これによりスサノオは勝ち名乗りを上げる一方で、アマテラスが皇祖神にして、高天原の最高神ともなっている。
ここから寓意として読み取れるのは、女は男から「玉を噛み砕く」という危害(受精)を被ることで立派な母となり、
高天原(家庭)における主導権を獲得するということ。それは田んぼにクソをひられ、逆剥ぎにした馬の皮を機織場に
投げ込まれるほどもの暴挙であるわけだが、それを受け入れることによってこそ、女もまた立派な母になるということ。
儒学と、仏教と、日本神道と、いずれもが「生殖」という行為を少なからずよからぬものと見なした上で、
それを受け入れてまで自分を産んでくれた母への孝養に努めたり、あるいは出家しての精進修行に励んだり、
また家庭における母親の父親に対する優位を肯定したりする。(あくまで家庭内であり、社会上ではない)
女に姦淫して妊娠して出産させるという男の側の行いは、妊娠して出産する女の側の受動的な行いよりも
下劣なものとして扱われる。その逆に、生殖にまつわる男の側の行いを、女の側の行いよりも上位に置いたならば、
男よりも遥かに大きな苦労をして子を産む、女の立場が報われないことになる。そのせいで女が子を産むことも
面倒扱いされて忌まれるようになり、少子高齢化による人口区分の歪みなどの問題を呈するようにもなるのである。
社会的には、男が上で女が下として扱われるべきである一方、家庭内においては、女が良妻賢母であることに
努める限りにおいて、女が男よりも上位なものとして扱われるべきなのである。それでこそ、「女は内、男は外」という
陰陽法則にも適うことになるわけで、社会的に女を優遇し過ぎたり、逆に家庭内における妻母としての女の立場を
侵害したりしたならば、陰陽法則に違うことにより、内にも外にも致命的な問題ばかりを募らせることになるのである。
「凱風の南自りし、彼の棘の心を吹ける。棘の心の夭夭たる、母氏の劬労す。(ここまで既出)
凱風の南自りし、彼の棘の薪を吹ける。母氏の聖善なるに、我れこそは無令の人なる。
爰なる有の寒泉、浚の下在り。子の七人有るに、母氏は労苦す。
睍𨴐と鳴く黄鳥の、載ち其の音の好ましき。子の七人有りて、母の心を慰むる莫し」
「大風が南方より吹き荒れ、ナツメの幹に当たって風切り音を立てる。その幹の傾く姿のように、母も苦労した。
大風が南方より吹き荒れ、ナツメの枝にも当たって風切り音を立てる。母こそは神聖な存在であるのに、我々ときたら
下衆もいいとこ。冷え切った寒泉が植物の成長を妨げるようにして、七人の子供たちが、母に多大なる苦労をかけもした。
ケンケンと鳴きまわるウグイスの鳴き声も好ましいが、七人もの子供がいながらも、誰一人として母の心を慰められはしない。
(母の苦しみを、子として慰めきることなど到底できはしなくとも、せめてでもこの詩の作者のように母への労わりを持ち、
イスラエル詩篇の作者のように、母の存在を全く蔑ろにした思い上がりに溺れたりはしないように努めたいものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・凱風)
下劣なものとして扱われる。その逆に、生殖にまつわる男の側の行いを、女の側の行いよりも上位に置いたならば、
男よりも遥かに大きな苦労をして子を産む、女の立場が報われないことになる。そのせいで女が子を産むことも
面倒扱いされて忌まれるようになり、少子高齢化による人口区分の歪みなどの問題を呈するようにもなるのである。
社会的には、男が上で女が下として扱われるべきである一方、家庭内においては、女が良妻賢母であることに
努める限りにおいて、女が男よりも上位なものとして扱われるべきなのである。それでこそ、「女は内、男は外」という
陰陽法則にも適うことになるわけで、社会的に女を優遇し過ぎたり、逆に家庭内における妻母としての女の立場を
侵害したりしたならば、陰陽法則に違うことにより、内にも外にも致命的な問題ばかりを募らせることになるのである。
「凱風の南自りし、彼の棘の心を吹ける。棘の心の夭夭たる、母氏の劬労す。(ここまで既出)
凱風の南自りし、彼の棘の薪を吹ける。母氏の聖善なるに、我れこそは無令の人なる。
爰なる有の寒泉、浚の下在り。子の七人有るに、母氏は労苦す。
睍𨴐と鳴く黄鳥の、載ち其の音の好ましき。子の七人有りて、母の心を慰むる莫し」
「大風が南方より吹き荒れ、ナツメの幹に当たって風切り音を立てる。その幹の傾く姿のように、母も苦労した。
大風が南方より吹き荒れ、ナツメの枝にも当たって風切り音を立てる。母こそは神聖な存在であるのに、我々ときたら
下衆もいいとこ。冷え切った寒泉が植物の成長を妨げるようにして、七人の子供たちが、母に多大なる苦労をかけもした。
ケンケンと鳴きまわるウグイスの鳴き声も好ましいが、七人もの子供がいながらも、誰一人として母の心を慰められはしない。
(母の苦しみを、子として慰めきることなど到底できはしなくとも、せめてでもこの詩の作者のように母への労わりを持ち、
イスラエル詩篇の作者のように、母の存在を全く蔑ろにした思い上がりに溺れたりはしないように努めたいものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・邶風・凱風)
聖道門の仏道修行などは、終身の苦行による自他への回向を基本としている。
弘法大師も真言宗開祖としての地位を確立して後も、定期的な山篭りによる修行を欠かさなかったというし、
道元禅師も一時の座禅などではなく、永遠の「座禅のための座禅」によってこそ悟りが啓かれると論じる。
日ごろからの修行の無理が祟って、二人とも六十一才や五十四才といった若さで入寂されており、
「苦行による回向」というものを志す以上は、一定の区切りを付けて後は休むなんてことを
期待していてもならないことを、その人生によってありのままに体現されているといえる。
儒者や浄土門の坊主などは、始めから苦行による回向などを志しもしない。
中途半端な志しでそんな危うい試みに臨むべきでないからなのはもちろんのこと、
一概な苦行なんか志さない範囲でも、人としての生活を営む上で避けて通れない苦労というのはいくらでも
あるものだから、そのような不可避なる労苦のほうを着実にこなしていくことのほうを、より重んずるのである。
聖道門の仏者のように、永遠の苦行による回向などを志すまでは行かずとも、人として最低限以上の労苦を
着実にこなしていく儒者や浄土門の坊主程度であるだけでも、十分に健全である。一時の労苦によって永遠の栄華を
手に入れようとするような、因果律の破綻した不健全な生を企図したりするよりは、そのほうがよっぽどマシである。
弘法大師も真言宗開祖としての地位を確立して後も、定期的な山篭りによる修行を欠かさなかったというし、
道元禅師も一時の座禅などではなく、永遠の「座禅のための座禅」によってこそ悟りが啓かれると論じる。
日ごろからの修行の無理が祟って、二人とも六十一才や五十四才といった若さで入寂されており、
「苦行による回向」というものを志す以上は、一定の区切りを付けて後は休むなんてことを
期待していてもならないことを、その人生によってありのままに体現されているといえる。
儒者や浄土門の坊主などは、始めから苦行による回向などを志しもしない。
中途半端な志しでそんな危うい試みに臨むべきでないからなのはもちろんのこと、
一概な苦行なんか志さない範囲でも、人としての生活を営む上で避けて通れない苦労というのはいくらでも
あるものだから、そのような不可避なる労苦のほうを着実にこなしていくことのほうを、より重んずるのである。
聖道門の仏者のように、永遠の苦行による回向などを志すまでは行かずとも、人として最低限以上の労苦を
着実にこなしていく儒者や浄土門の坊主程度であるだけでも、十分に健全である。一時の労苦によって永遠の栄華を
手に入れようとするような、因果律の破綻した不健全な生を企図したりするよりは、そのほうがよっぽどマシである。
「人は労苦に相応の恵みを得る」という、因果律の保存に根ざした法則を、仏教はもちろんのこと、儒学も諾っている。
見えないところからいくらでも利益が湧いて来るみたいな虚妄は完全に排した上で、着実な自助努力によって
世の中を善くしていくことにも取り組んでいく。その結実が例えば、江戸時代までの日本における、
聖人君子の統治によって養われた日本国民の民度の高さだったりもし、民を完全な衆愚状態に
置いたままでいた社会などにはない、個々の庶民からの勤勉さが備わっているのである。
敗戦によって愚民化洗脳が始まってしまった昭和20年以降だけではなく、仏教と本格的な儒学が廃されて、
キリスト教が解禁された明治以降からすでにずっと、日本国民の民度の高さは、一方的な目減りを続けている。
労苦に相応の恵みを得るのではなく、労苦以上の恵みを得ようとする虚妄が少なからず許容されてしまったことから、
日本人の努力意識は、明治以降には目減りすることこそあれど、少しでも嵩を増したりしていることはない。
江戸時代までの日本のほうが、泰平からなる堕落を貪っていたかのように思われがちではあるが、
みずからの労苦に相応の恵みしか得ないわきまえにかけては、明らかに近現代の日本人のそれ以上だった。
無闇やたらに労苦を担うこと以上にも、労苦に相応の恵みしか得ないようにすることのほうが遥かに重要なことであり、
それでこそ、世の中にかける迷惑の度合いが一定以上に増えたりすることもなくて済むのである。
「中谷に蓷有り、暵れて其れ乾ける。
女と仳離して、嘅として其れ嘆ける。
嘅として其れ嘆くは、人の艱難に遇えばこそ」
「谷あいに生えた紫蘇の葉が、すでにしおれて乾ききっている。
君と永遠に離別して、甚だしい悲哀にかられて嘆いている。
甚だしく悲哀にかられて嘆くのは、人との死別に会えばこそ。
(『艱難』とは『死別』のことである。死ねば二度と生き返らない絶対真理に根ざして、
死別は永遠である。それをわきまえているから、この詩の作者も死別をひどく悲しんでいるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・中谷有蓷より)
見えないところからいくらでも利益が湧いて来るみたいな虚妄は完全に排した上で、着実な自助努力によって
世の中を善くしていくことにも取り組んでいく。その結実が例えば、江戸時代までの日本における、
聖人君子の統治によって養われた日本国民の民度の高さだったりもし、民を完全な衆愚状態に
置いたままでいた社会などにはない、個々の庶民からの勤勉さが備わっているのである。
敗戦によって愚民化洗脳が始まってしまった昭和20年以降だけではなく、仏教と本格的な儒学が廃されて、
キリスト教が解禁された明治以降からすでにずっと、日本国民の民度の高さは、一方的な目減りを続けている。
労苦に相応の恵みを得るのではなく、労苦以上の恵みを得ようとする虚妄が少なからず許容されてしまったことから、
日本人の努力意識は、明治以降には目減りすることこそあれど、少しでも嵩を増したりしていることはない。
江戸時代までの日本のほうが、泰平からなる堕落を貪っていたかのように思われがちではあるが、
みずからの労苦に相応の恵みしか得ないわきまえにかけては、明らかに近現代の日本人のそれ以上だった。
無闇やたらに労苦を担うこと以上にも、労苦に相応の恵みしか得ないようにすることのほうが遥かに重要なことであり、
それでこそ、世の中にかける迷惑の度合いが一定以上に増えたりすることもなくて済むのである。
「中谷に蓷有り、暵れて其れ乾ける。
女と仳離して、嘅として其れ嘆ける。
嘅として其れ嘆くは、人の艱難に遇えばこそ」
「谷あいに生えた紫蘇の葉が、すでにしおれて乾ききっている。
君と永遠に離別して、甚だしい悲哀にかられて嘆いている。
甚だしく悲哀にかられて嘆くのは、人との死別に会えばこそ。
(『艱難』とは『死別』のことである。死ねば二度と生き返らない絶対真理に根ざして、
死別は永遠である。それをわきまえているから、この詩の作者も死別をひどく悲しんでいるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・中谷有蓷より)

ここを鞘の鯉口の内側にかませることで、刀が鞘に固定されるようになっている。
ハバキが鞘とガッチリかみ合いすぎると抜刀に支障が出るし、
逆に緩すぎるとわずかな振動でも抜けてしまうようになる。
絶妙な固定加減を実現するためにハバキに独特の表面仕上げをしたり、
材質に赤銅などの特殊素材を用いたりする工夫が古来より為されてきた。その技術研鑽があればこそ、
抜刀から納刀にいたる一連の動作を洗練させる「居合術」なども発展したわけで、日本人がいかに、
刀剣を鞘から抜いたり納めたりすることにこだわって来たのかを、如実に物語っている事例だといえる。
刀を鞘から抜き差しする一連の動作は、あたかも家の主人たる夫が家から出て外で働き、
また家に戻って来て休暇を取る姿のようでもある。家から出張りっきりで帰る間もないというのも極端だし、
ほとんど仕事がなくて家に籠もりっきりというのも極端である。どちらかといえば、家長たる男が家に
籠もりきりのままでいるほうがより不健全なことで、出張りきりで家に帰る間もなかった男のうちには、
治水工事に東奔西走し続けてすねの毛を擦り切らせ、晩年には跛足となった夏の禹王のような聖人もいる。
家に籠もりきりでいる男にも、台所仕事をしながら政務を執ったという伏羲氏の伝説などもあるし、
道家の老子や列子のように、引きこもりを大肯定する思想家もいる。しかし、片や太古の昔の半人半陀だった
とされる人物だし、片や血で血を洗う春秋戦国時代の、非常的な立場にあった人々の思想である。いずれも
世間一般にそのまま通用させてしまえばいいというような代物ではなく、神の域、天道としてこそ尊ぶべきもの。
俗世に生き、家を守りもしなければならない男にとって、どうしても剣を抜かねばならない時が、確かにある。
あるいは剣を抜くに相当するような、甚大な行為能力の活用に臨まねばならない時がやってくる。
それでこそより多くの人々を活かし、自らもまた家の存続や繁栄に与れることがある。
その時にはもはや躊躇せず、ただまた元の鞘に納まるまでの働きに専念するのみである。
「鞅、剣を用いて以て帥し卒す。欒氏退く。車を攝りて之れに従い、
欒楽に遇いて曰く、楽之れを免れんや、死すとも將に女を天に訴えん」
「范鞅は剣を抜き、兵を率いて戦地に斬り込んだ。敵の欒楽はそれに戦いて退いた。范鞅も車に乗ってこれを追い、
欒楽に追いつくとと叫んだ。『楽め、決して逃してなるものか。たとえ死んででも貴様を天の裁きにかけてやる』
(剣を抜くことは、死をも覚悟した憤激を象徴する。それほどもの覚悟が必要なときもまたある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十三年より)
道家の老子や列子のように、引きこもりを大肯定する思想家もいる。しかし、片や太古の昔の半人半陀だった
とされる人物だし、片や血で血を洗う春秋戦国時代の、非常的な立場にあった人々の思想である。いずれも
世間一般にそのまま通用させてしまえばいいというような代物ではなく、神の域、天道としてこそ尊ぶべきもの。
俗世に生き、家を守りもしなければならない男にとって、どうしても剣を抜かねばならない時が、確かにある。
あるいは剣を抜くに相当するような、甚大な行為能力の活用に臨まねばならない時がやってくる。
それでこそより多くの人々を活かし、自らもまた家の存続や繁栄に与れることがある。
その時にはもはや躊躇せず、ただまた元の鞘に納まるまでの働きに専念するのみである。
「鞅、剣を用いて以て帥し卒す。欒氏退く。車を攝りて之れに従い、
欒楽に遇いて曰く、楽之れを免れんや、死すとも將に女を天に訴えん」
「范鞅は剣を抜き、兵を率いて戦地に斬り込んだ。敵の欒楽はそれに戦いて退いた。范鞅も車に乗ってこれを追い、
欒楽に追いつくとと叫んだ。『楽め、決して逃してなるものか。たとえ死んででも貴様を天の裁きにかけてやる』
(剣を抜くことは、死をも覚悟した憤激を象徴する。それほどもの覚悟が必要なときもまたある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・襄公二十三年より)
仁者は自らの徳行に相応の利益を自他に振り向けるし、菩薩も自らが精進に励んだぶんだけの回向を衆生に施す。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な原因となっている。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な原因となっている。
仁者は自らの徳行に相応の利益を自他に振り向けるし、菩薩も自らが精進に励んだぶんだけの回向を衆生に施す。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な理由となっている。
在俗か超俗かという違いはあっても、自らの努力に相応の成果を挙げる点では全く共通しており、
わずかな苦労で莫大な収益を得ようとする、ばくち打ち的な危うさを排する堅実さを帯びている。
それが、儒学や仏教が聖書信仰や洋学と比べて、
「つまらないもの」として扱われる場合の、最たる原因ともなっている。
人間には、少なからず賭博志向というものが備わっているもので、
博打によって大金を得るということだけでなく、博打行為それ自体に快感を抱く傾向までもがある。
だから、それによって利益を挙げられるかどうか以前に、博打をできるかどうかを魅力の有無に見立てたりもする。
聖書信仰や洋学には、博打を肯定する傾向がある一方、儒学や仏教にはそれがない。
イスラムですら金利を禁止するなど、聖書信仰などと比べれば博打を否定していく傾向があり、
博打をほぼ無条件に肯定する教学としては、聖書信仰や洋学ほどに大規模化した勢力も、未だかつて他にない。
そしてその、賭博志向を無条件に肯定する傾向こそは、聖書信仰や洋学が他の教学と比べて、
決定的に魅力的に映る場合がある、唯一無二な理由となっている。

賭博志向の旺盛な聖書信仰や洋学が魅力的に見えたりすることもないが、賭博の浅ましさなど、
少しもわきまえられていない未熟者であれば、それが堪えがたい程に魅力的なものに見えたりする。
賭博が本質的に空しいものであることが真実だから、人々の賭博志向を無闇に煽り立て続けて来た
聖書信仰や洋学の蔓延によって、人類もまた破綻からなる滅亡の危機に晒されている。
だから聖書信仰を廃絶し、洋学からも権威を剥奪することがさしあたっての急務となっているが、
本当はそんな事態に追い込まれる以前から、人々に賭博のはかなさをよく啓発していかなかればならないのである。
そのためには儒学や仏教のような、賭博志向を戒める堅実な教学に権威を返還させていただいて、
その流布に努めていくことが最も有効ともなる。手前味噌だが、確かにそうなのである。
「人に分かつに財を以てするを之れ恵と謂い、人に教うるに善を以てするを之れ忠と謂い、
天下の為めに人を得るを之れ仁と謂う。是の故に天下を以って人に与うるは易く、天下の為めに人を得るは難し」
「人に財産を分け与えることを恵みといい、人に善いことを教えることを忠といい、天下のために逸材の人物を得ることを
仁という。天下のために逸材を得ることこそは最も難しく、それと比べれば、天下の全てを人に与えることのほうが容易い。
(『魚を与えるよりも釣竿を与えよ』という援助活動のポリシーがあるが、所詮は与えること止まりなのが安易である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・四より)
十字架こそは、最低の卑しさの烙印となる。
無信仰の重権力犯罪者とも並んで、十字架信仰者こそは、この世で最も恥ずべき立場の存在となる。
ただ恥ずべきだけでなく、参政権剥奪や禁治産や強制入院といった民事処分の対象ともなるが、
それ以上にもも決定的なのは、十字架信仰者であるということが、何ものにも増して
「恥ずべきもの」として扱われるようになることである。
この世で最も誇ってはならないもの、それにことかけて誇り高ぶったり偉ぶったりすることだけは
絶対に許されず、実際に為そうものなら、実力行使による制裁までもが本当に科されるものとなる。
そうしなければ、人類が滅亡するからである。
十字架信仰者もろとも全人類が、完全誤謬信仰の毒性に侵されて、本当に死滅すらしてしまうから。
ただ禁止されるだけでなく、十字架信仰こそはこの世で最も劣悪な所業であると適正に断定されて、
厳重な卑しみの対象とされていくことで、それが魅力的なもの、羨望的なものとして扱われたり
することから根絶していかなければならない。そうでもしなければ、本当に全人類を滅亡へと
追いやってしまうほどに、十字架信仰の毒性こそが真性なものであるからだ。
無信仰の重権力犯罪者とも並んで、十字架信仰者こそは、この世で最も恥ずべき立場の存在となる。
ただ恥ずべきだけでなく、参政権剥奪や禁治産や強制入院といった民事処分の対象ともなるが、
それ以上にもも決定的なのは、十字架信仰者であるということが、何ものにも増して
「恥ずべきもの」として扱われるようになることである。
この世で最も誇ってはならないもの、それにことかけて誇り高ぶったり偉ぶったりすることだけは
絶対に許されず、実際に為そうものなら、実力行使による制裁までもが本当に科されるものとなる。
そうしなければ、人類が滅亡するからである。
十字架信仰者もろとも全人類が、完全誤謬信仰の毒性に侵されて、本当に死滅すらしてしまうから。
ただ禁止されるだけでなく、十字架信仰こそはこの世で最も劣悪な所業であると適正に断定されて、
厳重な卑しみの対象とされていくことで、それが魅力的なもの、羨望的なものとして扱われたり
することから根絶していかなければならない。そうでもしなければ、本当に全人類を滅亡へと
追いやってしまうほどに、十字架信仰の毒性こそが真性なものであるからだ。
自分自身が十字架信仰者でなくとも、十字架信仰の権威性を認めて、そのような言行に
及んでしまった人間にとっても、十字架信仰が恥ずべきものとして扱われるようになることが
少なからず、自分たちにとっての連帯的な恥辱ともなる。その度合いがあまりにもひどく、
信仰者でない立場から、十字架信仰者と利権を共有したりまでしてしまっていたりしたならば、
それこそ十字架信仰者並みの差別対象にすらなってしまうのである。
一位:十字架信仰と無縁で、十字架信仰に対して肯定的でもなかった人間
二位:十字架信仰と無縁だが、十字架信仰に対して肯定的だった人間
三位:十字架信仰に肯定的で、十字架信仰者と利権すら共有していた人間
四位:十字架信仰者だった人間
という社会的序列が確立され、三位と四位の人間については実際に処分が科されることともなる。
二位の人間までもが処分されたりすることはないにしろ、一位の人間と比べれば、今までの
自分の思い違いを恥じなければならなくなる。当然、一位の人間が処分を科されたりすることも、
自らを恥じたりする必要もない。一方で、いま一位であるような人間こそは、今の世の中でも
最も恭敬意識の高い人間だったりもして、何事にかけてもみだりに誇り高ぶったりすることは
避けていたりする。本来、人間はそうであるほうがいいのであり、みだりな誇り高ぶりを信者に
奨励していた十字架信仰こそが始めからあって余計であり、なくて別に困らないものだったのである。
「君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義、之れと与にす」
「君子が天下において、絶対に適格だとか、不適格だとかいったことに固執することはない。
ただ、道義と共にあるのみである。(上記の十字架信仰に対する社会不適格宣告も、
『そうしないと人類が滅亡するから』という道義に根ざした理由にこそ基づいている。
十字架信仰者ごと全人類が滅亡しても構わないというのなら、この限りでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一〇より)
及んでしまった人間にとっても、十字架信仰が恥ずべきものとして扱われるようになることが
少なからず、自分たちにとっての連帯的な恥辱ともなる。その度合いがあまりにもひどく、
信仰者でない立場から、十字架信仰者と利権を共有したりまでしてしまっていたりしたならば、
それこそ十字架信仰者並みの差別対象にすらなってしまうのである。
一位:十字架信仰と無縁で、十字架信仰に対して肯定的でもなかった人間
二位:十字架信仰と無縁だが、十字架信仰に対して肯定的だった人間
三位:十字架信仰に肯定的で、十字架信仰者と利権すら共有していた人間
四位:十字架信仰者だった人間
という社会的序列が確立され、三位と四位の人間については実際に処分が科されることともなる。
二位の人間までもが処分されたりすることはないにしろ、一位の人間と比べれば、今までの
自分の思い違いを恥じなければならなくなる。当然、一位の人間が処分を科されたりすることも、
自らを恥じたりする必要もない。一方で、いま一位であるような人間こそは、今の世の中でも
最も恭敬意識の高い人間だったりもして、何事にかけてもみだりに誇り高ぶったりすることは
避けていたりする。本来、人間はそうであるほうがいいのであり、みだりな誇り高ぶりを信者に
奨励していた十字架信仰こそが始めからあって余計であり、なくて別に困らないものだったのである。
「君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義、之れと与にす」
「君子が天下において、絶対に適格だとか、不適格だとかいったことに固執することはない。
ただ、道義と共にあるのみである。(上記の十字架信仰に対する社会不適格宣告も、
『そうしないと人類が滅亡するから』という道義に根ざした理由にこそ基づいている。
十字架信仰者ごと全人類が滅亡しても構わないというのなら、この限りでもないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一〇より)
権力犯罪聖書——通称聖書の旧約・トーラーにおけるモーセの十戒、
1.私以外の何者も神としてはならない。
2.偶像を作ってはならない。
3.主の名をみだりに唱えてはならない。
4.週に一度は休日としなさい。
5.父母を敬いなさい。
6.何をも殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗みを働いてはならない。
9.隣人のことを偽証してはならない。
10.他人の物を欲しがってはならない。
は、6〜9が実罪に対する禁止となっていて、5と10が道徳性をも養わせる善法となっている。
しかし、4があってもなくてもいいような法律となっていて(江戸時代の日本などに曜日制はなかった)、
最初に優先して書かれている1〜3が、決して俗人に強要などすべきではない悪法となっている。
この十戒を全て守ればいいということもないし、全て守らなくていいなどということもない。
6〜9は守るべきで、5や10も守ったほうがよい。一方で、4は守ろうが守るまいがどうでもよく、
1〜3はむしろ守るべきでない。守るべき戒律と守るべきでない戒律のみそくそ、それが十戒にあたる。
十戒の全てを守るべきだとするユダヤ信仰と、十戒など守る必要はないというキリスト信仰と、
いずれもが信者を吉方へと導くことのない、双極性障害への振れ切りの温床とばかりなる。
1.私以外の何者も神としてはならない。
2.偶像を作ってはならない。
3.主の名をみだりに唱えてはならない。
4.週に一度は休日としなさい。
5.父母を敬いなさい。
6.何をも殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗みを働いてはならない。
9.隣人のことを偽証してはならない。
10.他人の物を欲しがってはならない。
は、6〜9が実罪に対する禁止となっていて、5と10が道徳性をも養わせる善法となっている。
しかし、4があってもなくてもいいような法律となっていて(江戸時代の日本などに曜日制はなかった)、
最初に優先して書かれている1〜3が、決して俗人に強要などすべきではない悪法となっている。
この十戒を全て守ればいいということもないし、全て守らなくていいなどということもない。
6〜9は守るべきで、5や10も守ったほうがよい。一方で、4は守ろうが守るまいがどうでもよく、
1〜3はむしろ守るべきでない。守るべき戒律と守るべきでない戒律のみそくそ、それが十戒にあたる。
十戒の全てを守るべきだとするユダヤ信仰と、十戒など守る必要はないというキリスト信仰と、
いずれもが信者を吉方へと導くことのない、双極性障害への振れ切りの温床とばかりなる。
削除(by投稿者)
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「親子兄弟に殺し合いをさせる」という予言をほざいた通り、イエスは明らかに十戒の破戒を
信者に促している。しかも「父母を敬え」「人を殺すな」という、十戒のうちでも特に善良な法規を
特定して破ることを促しており、むしろ「主以外を神としない」といった、劣悪な徒法のほうは
守らなければならないようなことを多数うそぶいてもいる。十戒を「完全に破りとおせ」というのではなく、
むしろ「善法を破って悪法を守れ」という害為の促進のために、十戒の蔑ろすらをも利用しているのである。
十戒を含む、旧約の条項全体を、新約信仰と共に破棄するのが当然、至当ではある。
その上で「父母を敬え」「殺すな」「盗むな」「犯すな」「嘘をつくな」といった善法だけを布令する
儒学や仏教の教えにのみ倣うのがよい。善法も悪法もみそくに扱う徒法を守るのが劣悪であるならば、
そのみそくそな徒法を破る過程で、善法すらをも同時に破ってしまうのもまた、劣悪の二乗である。要するに、
くそみそ信仰のユダヤと、くそみそ全廃信仰のキリシタン、どちらによっても劣悪の極みから抜け出せはしないのである。
「民の亦れ労しめる、汔わくは小しく康んず可し。此の中国に恵み、以て四方を綏ぜん。詭隨のものを縱すなく、
以って無良を謹めよ。式て寇虐と、僭て明を畏れざるものを遏めよ。遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定んぜん」
「民は重労働に苦しんでいる、願わくはそこに安寧をもたらしてやるべし。この中国に深い恵みをもたらし、
邪まに従う者を許さず、良からぬ輩の策動を止めよ。それにより侵略の災いと、僭越を畏れぬ者とを根絶やせ。
遠方をも和らげ近場も良くし、我が王も安んじてくれんことを。(自分への恵みなど考えず、民と王とへの恵みを
まず希う高潔さ。それは邪教に従う良からぬ輩を退治し、隣人への偏愛なども廃された所でこそ実現されるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小旻之什・民労より)
信者に促している。しかも「父母を敬え」「人を殺すな」という、十戒のうちでも特に善良な法規を
特定して破ることを促しており、むしろ「主以外を神としない」といった、劣悪な徒法のほうは
守らなければならないようなことを多数うそぶいてもいる。十戒を「完全に破りとおせ」というのではなく、
むしろ「善法を破って悪法を守れ」という害為の促進のために、十戒の蔑ろすらをも利用しているのである。
十戒を含む、旧約の条項全体を、新約信仰と共に破棄するのが当然、至当ではある。
その上で「父母を敬え」「殺すな」「盗むな」「犯すな」「嘘をつくな」といった善法だけを布令する
儒学や仏教の教えにのみ倣うのがよい。善法も悪法もみそくに扱う徒法を守るのが劣悪であるならば、
そのみそくそな徒法を破る過程で、善法すらをも同時に破ってしまうのもまた、劣悪の二乗である。要するに、
くそみそ信仰のユダヤと、くそみそ全廃信仰のキリシタン、どちらによっても劣悪の極みから抜け出せはしないのである。
「民の亦れ労しめる、汔わくは小しく康んず可し。此の中国に恵み、以て四方を綏ぜん。詭隨のものを縱すなく、
以って無良を謹めよ。式て寇虐と、僭て明を畏れざるものを遏めよ。遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定んぜん」
「民は重労働に苦しんでいる、願わくはそこに安寧をもたらしてやるべし。この中国に深い恵みをもたらし、
邪まに従う者を許さず、良からぬ輩の策動を止めよ。それにより侵略の災いと、僭越を畏れぬ者とを根絶やせ。
遠方をも和らげ近場も良くし、我が王も安んじてくれんことを。(自分への恵みなど考えず、民と王とへの恵みを
まず希う高潔さ。それは邪教に従う良からぬ輩を退治し、隣人への偏愛なども廃された所でこそ実現されるのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小旻之什・民労より)

重荷を捨てて十字架にすがるのは、ただの現実逃避。
綺麗ごとでもなんでもない、人として恥ずべき所業の極み。
重荷を背負うこともできない、未熟の極みな煩悩愚縛の凡夫であるというのなら、自己を誇ることも許されない。
己れの恥ずべき有り様をありのままに恥じ入った上で、南無阿弥陀仏。間違っても、
十字架を背負っている云々といった欺瞞によって、誇り高ぶったりするものではない。
転倒夢想の致命点は、恥ずべきものを誇るところにこそある。
人間はサルからヒトに進化する過程で、毛皮などを羽織る習慣を身に付けながら体毛を
薄くしていったのだから、人間が衣服を着ないで公然と素っ裸でいるのは、確かに恥ずべきことである。
しかし、旧約の損世記に「人間の先祖はエデンの園で素っ裸で暮らしていた」と書いてあるものだから、
聖書圏にはヌーディストビーチなどの、全裸を見せびらかす文化が多数存在している。しかもそれを
道化やポルノではなく、本当に神聖な行いとして誇りにしていたりするのだから、笑いものである。
こういうのが、恥ずべきこと、笑われるべきことを逆に誇りにしている、転倒夢想の一例であるといえる。

それなりに恥ずべきこととされるだけでも十分に、致命的な問題が発生することへの抑止にはなる。
しかしそれこそは、法律などで全裸が厳禁されることよりも、さらに困難なことだったりもする。
人間精神の根本の部分を脅かしている転倒夢想を取り払うことは、ただ頭ごなしに人々の言動を統制したり
するよりも遥かに多くの工夫が必要で、それこそ、進んで重荷を背負っていく心意気までもが必要となる。
全ての人間が重荷を背負っていくのでなくとも、相当数の人間が重荷を背負って坂道を登り続けていく
挺身に努めて行かなければならない。そのためには、信者に重荷を降ろさせて十字架を背負わせ、
しかもそれを誇りとさせるような邪教の、頭ごなしな禁止も差し当たって必要なことである。決して
それが最終手段となるのではなく、重荷を背負って坂道を登り始めていくきっかけになるのみである。
「士の子の長幼を問えば、長ぜるは則ち能く耕すと曰い、幼なるは則ち能く薪を負う、未だ薪を負うこと能わずと曰う。」
「士人の子供の長幼を表現するとき、長じた時には『よく田畑を耕すに値する』といい、幼ければ『よく薪を背負える』
といったり『まだ薪を背負うこともできない』といったりする。(この慣例の援用により、兵士の射儀に失敗した場合、
王君は『まだ自分には薪を背負う仕事が残っている』と謙遜し、他者に仕事を譲ると礼記・曲礼下第二にもある。
薪を背負うことすらできないというのが、幼さの中にもさらに幼いという、未熟さの極みの表現ともなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・少儀第十七より)
世に知らぬ者もいないインド独立の父・ガンジーは、カースト制において最下等の
階級とされている不可触賤民を、「ハリジャン(神の子)」と呼ぶことを提唱した。
今現在、あまり定着してもいないようだが、ヒンズー教徒でありながら、キリスト教もそれなりの
研究対象としていたガンジーが、「キリスト」と同じ「神の子」という意味を持つヒンディー語の呼称を
不可触賤民にあてがおうとしたあたりには、キリスト教の本質に対する看破までもがうかがえる。
キリスト教徒と異教徒との間には、確かにどちらかが不可触賤民として、もう一方が一般人として
扱われざるを得ないほどもの、品位の隔絶が生じている。インドの不可触民や日本の被差別部落などは、
キリスト教のような信教によって差別を受けたのではなく、屠殺や製革や死体処理といった、人々の卑しむ
仕事を請け負っていたから差別されたのだが、キリスト教徒の場合は、キリスト信仰という自己洗脳によって
極度の蒙昧状態に陥り、異教徒と対等に接することもできないほどの異常な品性を帯びてしまったのである。
上記のような違いがあることもあり、インドや日本の被差別民などよりも遥かに、
キリスト教徒には「修辞」の慣習が豊富である。内面に極度の蒙昧を抱えながらも、外面だけは
よさげに見せようとする巧言令色の修練。日本の被差別民などの場合でも、芸能活動に従事する河原者などが
それを講ずることはあったが、あくまで舞台上だけでの話。国家全体がキリスト教を国教としているような
社会において、キリスト教徒は常日ごろから、内面の蒙昧さを巧言令色によってひた隠す慣習が根付いているから、
その修辞としての巧みさも、日本の河原者などとも比べ物にならないほど本格的なものとなっている。
階級とされている不可触賤民を、「ハリジャン(神の子)」と呼ぶことを提唱した。
今現在、あまり定着してもいないようだが、ヒンズー教徒でありながら、キリスト教もそれなりの
研究対象としていたガンジーが、「キリスト」と同じ「神の子」という意味を持つヒンディー語の呼称を
不可触賤民にあてがおうとしたあたりには、キリスト教の本質に対する看破までもがうかがえる。
キリスト教徒と異教徒との間には、確かにどちらかが不可触賤民として、もう一方が一般人として
扱われざるを得ないほどもの、品位の隔絶が生じている。インドの不可触民や日本の被差別部落などは、
キリスト教のような信教によって差別を受けたのではなく、屠殺や製革や死体処理といった、人々の卑しむ
仕事を請け負っていたから差別されたのだが、キリスト教徒の場合は、キリスト信仰という自己洗脳によって
極度の蒙昧状態に陥り、異教徒と対等に接することもできないほどの異常な品性を帯びてしまったのである。
上記のような違いがあることもあり、インドや日本の被差別民などよりも遥かに、
キリスト教徒には「修辞」の慣習が豊富である。内面に極度の蒙昧を抱えながらも、外面だけは
よさげに見せようとする巧言令色の修練。日本の被差別民などの場合でも、芸能活動に従事する河原者などが
それを講ずることはあったが、あくまで舞台上だけでの話。国家全体がキリスト教を国教としているような
社会において、キリスト教徒は常日ごろから、内面の蒙昧さを巧言令色によってひた隠す慣習が根付いているから、
その修辞としての巧みさも、日本の河原者などとも比べ物にならないほど本格的なものとなっている。

インドや日本の被差別民並みか、それ以上もの醜さである。東洋の被差別民は、あくまで世の中に
ある程度不可欠な賤業に従事していたから醜くならざるを得なかった一方、キリスト教徒の内面の
醜さは、キリスト教徒たち自身が必要もなく、わざわざあえて好き好んで得たものである。
だから、キリスト教徒の内面の醜さは、東洋の被差別民の醜さ以上だとすら断定できる。
今だと、屠殺や製革や精肉などは、ロボット化によって、その穢れに直接人が触れないで済むようにできる。
死体処理をしなければならなくなるような事故や処刑などは、できる限りないに越したことはないことだし、
肉食や皮革文化も絶対に世の中に無ければならないものでもない。今の世界人口分のタンパク源を
食肉以外で全て賄おうとすれば、それはそれで問題が生じそうではあるにしろ、今の明らかに
過剰な世界人口もやはり、なだらかにでも減らしていくに越したことはないものだ。
賤業に従事するが故に、差別対象となるような人間もまた、できる限りこの世からいなくなるに越した
ことはない。いわんや、被差別民並み以下の品性に好き好んで自らを貶める、キリスト教徒をや、である。
「民に君たる者、〜信を以って之れを結ぶときは、則ち民は倍かず」
「万民に対して王君たる者が、信実さによって民たちを自分に結び付けておけば、民たちが背くこともない。
(信によって民を結ぶのは正規の王君の業であり、イエスのような民間人の為すべきことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)

「両者こそは対極の関係にある」なんてのは全くの猿芝居で、自分たち自身が政治的な
責任を負わないユダヤ教徒による悪徳商売を世にのさばらせるためにこそ、国家レベルの
大社会を愚民の群れと化すための洗脳支配の手段としての、キリスト教が捻出されたのである。
明らかに、キリスト教圏ばかりでユダヤ商人による悪徳商売が横行していて、
非キリスト教圏においても、キリスト教の布教が容認されたぶんだけ、ユダヤ式の悪徳商売も
流布されている。(キリシタンが解禁になった明治以降に、日本でも資本主義経済が肥大化している)
キリスト教圏と同じアブラハム教圏であるイスラム圏においては、イスラム法により利子経済が
禁止されているので、ユダヤ式の悪徳商法は横行のしようがない。むしろ、ユダヤ商法の問題点を
同じアブラハム教としての立場から綿密に見定めているからこそ、日本や中国やインドのような
非アブラハム教圏以上にも、ユダヤ信仰の実践の横行による世の乱脈も徹底して防げている。
ユダヤの悪行を容認する度合いでは、キリスト教圏>0>非アブラハム教圏≧イスラム教圏
であり、イスラム教がユダヤの悪行を完全に撲滅するのに対し、非アブラハム教はユダヤの悪行を
抑制する程度の効果を持つ。そして、キリスト教だけは、ユダヤの悪行を積極的に推進すらする。
非アブラハム教圏の文化のうちでも、儒学だけは、イスラム教並みにユダヤの悪行を撲滅する効果を持つ。
(信教化された儒学である「儒教」にそこまでの効果がないのは、旧儒教圏である韓国が、東洋でも
突出したキリスト教受容に及ぶことにより、ユダヤ並みの悪徳商売を横行させていることからも分かる)
ただ、儒学こそは、イスラム教以上にも、今の世の中での実践が全く不能な状態と化してしまってもいる。
イスラム圏は、イスラムだけでユダヤ災禍を根絶やしに出来るから、特に儒学を併修せねばならない
義務もないが、非アブラハム教圏は、イスラムに信教を鞍替えしない限りにおいて、何とかユダヤ災禍を
駆逐するためには、必ず儒学を正学としてよく尊重しなければならない。儒学を正学に据える以上は、
儒学と真逆の邪義邪説ばかりを触れ回っているキリスト教も、ユダヤ教と共に廃絶しなければならない。
だから結局、非アブラハム教圏で、ユダヤ=キリスト両聖書教が少しでも容認される余地はない。
イスラム圏は引き続きイスラム信仰によってユダヤ災禍の防止に務められる。非アブラハム教圏は
儒学を正学に据える過程でキリスト教をも廃絶することにより、ユダヤ災禍がイスラム圏並みに防止されて
いくことになる。そしてキリスト教圏は、そのままキリスト教を廃棄することでユダヤ災禍を共に根絶する。
キリスト教を廃絶すれば、当然キリスト教圏は信教面での空白地帯になる。その空しさに耐えられないと
いうのなら仏教を受容するなり、自分たちで新たな無害化宗教を創出するなどすればいい。いずれにしろ、
ユダヤ=キリスト両聖書教の聖典である権力犯罪聖書——通称聖書が必要とされることは、もう二度とない。
(信教化された儒学である「儒教」にそこまでの効果がないのは、旧儒教圏である韓国が、東洋でも
突出したキリスト教受容に及ぶことにより、ユダヤ並みの悪徳商売を横行させていることからも分かる)
ただ、儒学こそは、イスラム教以上にも、今の世の中での実践が全く不能な状態と化してしまってもいる。
イスラム圏は、イスラムだけでユダヤ災禍を根絶やしに出来るから、特に儒学を併修せねばならない
義務もないが、非アブラハム教圏は、イスラムに信教を鞍替えしない限りにおいて、何とかユダヤ災禍を
駆逐するためには、必ず儒学を正学としてよく尊重しなければならない。儒学を正学に据える以上は、
儒学と真逆の邪義邪説ばかりを触れ回っているキリスト教も、ユダヤ教と共に廃絶しなければならない。
だから結局、非アブラハム教圏で、ユダヤ=キリスト両聖書教が少しでも容認される余地はない。
イスラム圏は引き続きイスラム信仰によってユダヤ災禍の防止に務められる。非アブラハム教圏は
儒学を正学に据える過程でキリスト教をも廃絶することにより、ユダヤ災禍がイスラム圏並みに防止されて
いくことになる。そしてキリスト教圏は、そのままキリスト教を廃棄することでユダヤ災禍を共に根絶する。
キリスト教を廃絶すれば、当然キリスト教圏は信教面での空白地帯になる。その空しさに耐えられないと
いうのなら仏教を受容するなり、自分たちで新たな無害化宗教を創出するなどすればいい。いずれにしろ、
ユダヤ=キリスト両聖書教の聖典である権力犯罪聖書——通称聖書が必要とされることは、もう二度とない。
「王は申伯を遣わすに、路車乗馬をもってす。我れ爾じが居るを図るに、南土に如くは莫し。
爾じに介圭を錫う、以て爾じの宝と作せ。往け、王舅よ、南土を是れ保んぜん」
「周王は申伯を封土へと遣わすに際し、豪勢な車馬を賜い、そして言った。『私がそなたに
相応しい封土だと思うのは南都である。そなたにこの大玉も授けるので、これをそなたの
宝とせよ。さあ、偉大なる大叔父よ往かれし。その力量によって、南都を平定してくだされ』
(『キリストが神から遣わされる』などという表現も、元はといえばこのような、王君による封土への
正式な臣下の派遣を模倣したものである。しかし、もちろん総員商人階級であるユダヤ教徒に領土はないし、
旧約の律法も悪徳商法の一種でしかないわけだから、『形而上から形而下に遣わす』みたいな、実際の
土地関係を無視した表現しか行うことができない。そして、そのような不実な表現で尽くされる所の理念が、
天下全土の平定を実現したりすることも当然なく、この世を餓鬼界と畜生界に分断する元凶ばかりになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・崧高より)
爾じに介圭を錫う、以て爾じの宝と作せ。往け、王舅よ、南土を是れ保んぜん」
「周王は申伯を封土へと遣わすに際し、豪勢な車馬を賜い、そして言った。『私がそなたに
相応しい封土だと思うのは南都である。そなたにこの大玉も授けるので、これをそなたの
宝とせよ。さあ、偉大なる大叔父よ往かれし。その力量によって、南都を平定してくだされ』
(『キリストが神から遣わされる』などという表現も、元はといえばこのような、王君による封土への
正式な臣下の派遣を模倣したものである。しかし、もちろん総員商人階級であるユダヤ教徒に領土はないし、
旧約の律法も悪徳商法の一種でしかないわけだから、『形而上から形而下に遣わす』みたいな、実際の
土地関係を無視した表現しか行うことができない。そして、そのような不実な表現で尽くされる所の理念が、
天下全土の平定を実現したりすることも当然なく、この世を餓鬼界と畜生界に分断する元凶ばかりになる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・崧高より)
自分自身、妾腹の子の血筋であることからなる、個人的な経験から分かったことだが、
妾腹の子の血を引く人間は、吃音(どもり)のような軽度の言語障害を患うか、
もしくは二枚舌三枚舌を使い分ける虚言癖を帯びるかの、どちらかに振り切れやすい。
郷党第十・一に「孔子、郷党に於いて恂恂如たり、言うこと能わざる者に似たり」
とあり、果たして「どもり」だったかどうかは知らないが、妾腹の私生児として生を受けた
孔子が、故郷ではあたかも言語障害者かというほどにも、異様にいそいそとしていたとされる。
これは、孔子が自らの生まれの賤しさを心から恥じていた証拠であり、その恥じらいを
バネにして孔子は礼楽を学び、人一倍言語表現などについても正確な知見を得るまでになった。
その正しい言語表現を世間では実用できていたから、よそよそしさを嫌う故郷でだけは
幼少期のように、どもりのような言語障害気味の言葉遣いでもいたと記録されているのである。
妾腹の子としての賤しさに対する恥じらいは、まずどもりのような言語障害として表出する。
その障害を乗り越えるために、孔子のように、礼法などを通じて正しい言葉遣い学べば、
常人並み以上にも立派な言葉遣いを身に付けた聖人君子にすらなり得る。しかし、障害を
乗り越えることを正しい術べによらず、全くの我流によって乗り越えようとしたならば、全く
筋の通らないことを放言したり、二枚舌三枚舌を使い分けたりする虚言癖をこじらせてしまう。
妾腹の子の血を引く人間は、吃音(どもり)のような軽度の言語障害を患うか、
もしくは二枚舌三枚舌を使い分ける虚言癖を帯びるかの、どちらかに振り切れやすい。
郷党第十・一に「孔子、郷党に於いて恂恂如たり、言うこと能わざる者に似たり」
とあり、果たして「どもり」だったかどうかは知らないが、妾腹の私生児として生を受けた
孔子が、故郷ではあたかも言語障害者かというほどにも、異様にいそいそとしていたとされる。
これは、孔子が自らの生まれの賤しさを心から恥じていた証拠であり、その恥じらいを
バネにして孔子は礼楽を学び、人一倍言語表現などについても正確な知見を得るまでになった。
その正しい言語表現を世間では実用できていたから、よそよそしさを嫌う故郷でだけは
幼少期のように、どもりのような言語障害気味の言葉遣いでもいたと記録されているのである。
妾腹の子としての賤しさに対する恥じらいは、まずどもりのような言語障害として表出する。
その障害を乗り越えるために、孔子のように、礼法などを通じて正しい言葉遣い学べば、
常人並み以上にも立派な言葉遣いを身に付けた聖人君子にすらなり得る。しかし、障害を
乗り越えることを正しい術べによらず、全くの我流によって乗り越えようとしたならば、全く
筋の通らないことを放言したり、二枚舌三枚舌を使い分けたりする虚言癖をこじらせてしまう。
その代表格がイエス・キリストであり、「私は剣をもたらしに来た」と言ったり
「剣を取る者は剣で滅びる」と言ったりの、あられもない虚言癖を存分に披露している。
イエスだけでなく、その信徒たちも奴の虚言癖を受け継いで、「行いではなく信仰で救われる」
と言ったり「信仰ではなく行いで救われる」と言ったり、「イエスは律法の配下である」
と言ったり「イエスではなく律法によって救われようとすれば救われない」と言ったりする。
(上記の引用は全て「新約聖書」中に両論併記されている)まともな言葉遣いもできない境遇を、
正しい言葉遣いの勉強によって克服したりもせず、ただ放言をしまくる気狂いによって
ありのままに増幅させたのが、イエスの物言いや、その信徒たちの物言いであり、人として
最も許しがたく、また決して見習ったりしてはいけない言語規範の最たるものとなっている。
人間の言語能力は大体、父親ではなく母親から遺伝するから、その母親が娼婦のような賤しい仕事を
していたなら、母親の度し難い言葉遣いが我が子にも遺伝して、最悪の場合、言語障害を発症する。
とはいえ、器質性ではなく心因性の障害だから、克服しようと思えばできるし、克服するとまで行かずとも、
朗々とものを言う能力だけを回復させることもできる。孔子のように完璧に克服すれば、人並み以上にも
正しい言葉遣いを身に付けられたりもする一方、正しい言葉遣いではなく、ただ朗々とものを言う
能力だけをパッション(激情)によって増大すればイエスのようになり、完全に間違った言葉遣いのままで、
ただ朗々とものを言い続けるだけの、甚だしい虚言癖を帯びるようになる。そうなるぐらいならむしろ、
どもりのような言語障害を抱えたままでいるほうがマシであり、そのほうが世にかける迷惑も少なくて済む。
もちろん、正しい言葉遣いの勉強によって言語障害も克服できればよりよいわけで、ただそれは極めて
困難な道のりだから、甚だしい虚言癖の持ち主になるぐらいなら、どもりだったりするほうがマシだという
ことをまずわきまえることのほうが、世の中に最悪の迷惑をかけずに済ませる上での端緒にはなるといえる。
「剣を取る者は剣で滅びる」と言ったりの、あられもない虚言癖を存分に披露している。
イエスだけでなく、その信徒たちも奴の虚言癖を受け継いで、「行いではなく信仰で救われる」
と言ったり「信仰ではなく行いで救われる」と言ったり、「イエスは律法の配下である」
と言ったり「イエスではなく律法によって救われようとすれば救われない」と言ったりする。
(上記の引用は全て「新約聖書」中に両論併記されている)まともな言葉遣いもできない境遇を、
正しい言葉遣いの勉強によって克服したりもせず、ただ放言をしまくる気狂いによって
ありのままに増幅させたのが、イエスの物言いや、その信徒たちの物言いであり、人として
最も許しがたく、また決して見習ったりしてはいけない言語規範の最たるものとなっている。
人間の言語能力は大体、父親ではなく母親から遺伝するから、その母親が娼婦のような賤しい仕事を
していたなら、母親の度し難い言葉遣いが我が子にも遺伝して、最悪の場合、言語障害を発症する。
とはいえ、器質性ではなく心因性の障害だから、克服しようと思えばできるし、克服するとまで行かずとも、
朗々とものを言う能力だけを回復させることもできる。孔子のように完璧に克服すれば、人並み以上にも
正しい言葉遣いを身に付けられたりもする一方、正しい言葉遣いではなく、ただ朗々とものを言う
能力だけをパッション(激情)によって増大すればイエスのようになり、完全に間違った言葉遣いのままで、
ただ朗々とものを言い続けるだけの、甚だしい虚言癖を帯びるようになる。そうなるぐらいならむしろ、
どもりのような言語障害を抱えたままでいるほうがマシであり、そのほうが世にかける迷惑も少なくて済む。
もちろん、正しい言葉遣いの勉強によって言語障害も克服できればよりよいわけで、ただそれは極めて
困難な道のりだから、甚だしい虚言癖の持ち主になるぐらいなら、どもりだったりするほうがマシだという
ことをまずわきまえることのほうが、世の中に最悪の迷惑をかけずに済ませる上での端緒にはなるといえる。
「人の禽獣に異なる所以の者は幾ばくにして希し。庶民は之れを去る、君子は之れを存す」
「人と禽獣をより分ける由縁となるものは極めて少ない。庶民はこれを捨てるが、君子はそれを保つことに務める。
(犬のような言葉を話せない動物でも、食べ飽きて残しているエサを片付けようとすれば、急に飛びついて
そのエサを食べ始めたりといった、理に適わない行動を多数する。理に適った言動を守れることこそは、
人と禽獣を分ける由縁であるといえ、虚言癖の旺盛なイエスの言語規範などは決してその由縁とはならない。
かといって、悪徳商法の宗教教義化である、旧約の律法への帰依がその由縁になるなどということもない。
金という末節を至上として、人間自身や農工などを下等なものとして扱う悪徳商売もまた、破綻した所業だから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一九より)
「人と禽獣をより分ける由縁となるものは極めて少ない。庶民はこれを捨てるが、君子はそれを保つことに務める。
(犬のような言葉を話せない動物でも、食べ飽きて残しているエサを片付けようとすれば、急に飛びついて
そのエサを食べ始めたりといった、理に適わない行動を多数する。理に適った言動を守れることこそは、
人と禽獣を分ける由縁であるといえ、虚言癖の旺盛なイエスの言語規範などは決してその由縁とはならない。
かといって、悪徳商法の宗教教義化である、旧約の律法への帰依がその由縁になるなどということもない。
金という末節を至上として、人間自身や農工などを下等なものとして扱う悪徳商売もまた、破綻した所業だから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・一九より)
模範的な儒者の言行は、易の法則に適っているから、
この世界、この宇宙において最も自由自在である。
仏者などはさらに、三千大千世界に絶対普遍の真理に合致しようとするから、
自由度については儒者以上だとすらいえるが、結局その言行規範となる「中道」は、
儒者の規範たる「中庸」とも、「中正である」という点において共通することになる。
易に違い、三千大千世界の絶対真理に違う完全誤謬を希求していった先にあったのは、
人間が被る中でも最重度の不自由だった。「刑死しても生き返る」とか、
「冤罪で罪が滅ぼされる」とかいった、明らかに道理に適わない妄想までをも
実現しようとした先にこそ、あらゆる不自由の中でも、最大級の不自由があった。
人間の肘の関節や膝の関節、その他多くの関節部位が、一方向には曲がっても
逆方向には曲がらないような非可逆性を備えている。だからこそ人体は重力の
重みにも耐えて自由に立ったり座ったり、歩いたり走ったりすることもできる。
自由は、一定の制限がある中にこそ存在するものであり、どんなにおかしな誤謬でも
「なんでもあり」という所では、もはや自由を希求する意味すら霧消してしまう。
非可逆的な関節構造を多数備えた人体が、鍛錬などを通じて、以前には不可能だった
動きを実現できるようになったりする時に、本当に「自由が叶えられた」のだといえる。
それはやはり、肘や膝が逆方向に曲がったりはしない範囲での、高度な身体躁法の
達成に過ぎないわけだが、それでこそ、身体を自由に操ることができたのだともいえる。
この世界、この宇宙において最も自由自在である。
仏者などはさらに、三千大千世界に絶対普遍の真理に合致しようとするから、
自由度については儒者以上だとすらいえるが、結局その言行規範となる「中道」は、
儒者の規範たる「中庸」とも、「中正である」という点において共通することになる。
易に違い、三千大千世界の絶対真理に違う完全誤謬を希求していった先にあったのは、
人間が被る中でも最重度の不自由だった。「刑死しても生き返る」とか、
「冤罪で罪が滅ぼされる」とかいった、明らかに道理に適わない妄想までをも
実現しようとした先にこそ、あらゆる不自由の中でも、最大級の不自由があった。
人間の肘の関節や膝の関節、その他多くの関節部位が、一方向には曲がっても
逆方向には曲がらないような非可逆性を備えている。だからこそ人体は重力の
重みにも耐えて自由に立ったり座ったり、歩いたり走ったりすることもできる。
自由は、一定の制限がある中にこそ存在するものであり、どんなにおかしな誤謬でも
「なんでもあり」という所では、もはや自由を希求する意味すら霧消してしまう。
非可逆的な関節構造を多数備えた人体が、鍛錬などを通じて、以前には不可能だった
動きを実現できるようになったりする時に、本当に「自由が叶えられた」のだといえる。
それはやはり、肘や膝が逆方向に曲がったりはしない範囲での、高度な身体躁法の
達成に過ぎないわけだが、それでこそ、身体を自由に操ることができたのだともいえる。
自由とは、一定の規定の範囲内で、最大の自由度を獲得することこそを意味する。
「人はいつかは死ぬ」とか、「死んだら二度と蘇らない」とかの最大級の規定すらも
逸脱することはもはや自由ですらない、ただの「暴挙」である。自由には規定があるが、
暴挙には規定がなく、規定がないために、何かを達成することもない。何を達成する
ということもないからこそ、暴挙はもはや自由として扱うに値すらしないのである。
英語のfreedomやlibertyに、上記のような語意が備わっているのかは知らないが、
(おそらく備わっていない)日本語や漢語で「自由」といえば、概ね上記のような意味がある。
そして上記のような意味の「自由」のほうが、暴挙と同様の意味で扱われる「自由」
などよりも遥かに快く、その自由を獲得したところにこそ、真の満足がありもする。
何を達成するわけでもない暴挙の先などには決してない、最大級の満足があるのである。
「君召して擯せ使むれば、色勃如たり、足躩如たり。与に立つ所に揖し、手を左右にす。
衣の前後は襜如たり。趨り進むとき翼如たり。賓退けば、必ず復命して曰く、賓顧ずと」
「国君が孔先生を召して来賓の介添役を命じたとき、先生はその顔色を正され、足もまるで
歩み進めないかのように緊張されていた。会釈の際には左右の手を礼節通り拱かれ、衣服の前後も
整然として乱れ動くことがなかった。小走りして進むときも慎重深く進み、来賓が退出すると、
必ず君に『賓客は(不満にかられて)顧みるようなこともなく退出されました』と報告された。
(孔子の不自由の限りを尽くしたような介添えによってこそ、来賓も満足したのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・三より)
「人はいつかは死ぬ」とか、「死んだら二度と蘇らない」とかの最大級の規定すらも
逸脱することはもはや自由ですらない、ただの「暴挙」である。自由には規定があるが、
暴挙には規定がなく、規定がないために、何かを達成することもない。何を達成する
ということもないからこそ、暴挙はもはや自由として扱うに値すらしないのである。
英語のfreedomやlibertyに、上記のような語意が備わっているのかは知らないが、
(おそらく備わっていない)日本語や漢語で「自由」といえば、概ね上記のような意味がある。
そして上記のような意味の「自由」のほうが、暴挙と同様の意味で扱われる「自由」
などよりも遥かに快く、その自由を獲得したところにこそ、真の満足がありもする。
何を達成するわけでもない暴挙の先などには決してない、最大級の満足があるのである。
「君召して擯せ使むれば、色勃如たり、足躩如たり。与に立つ所に揖し、手を左右にす。
衣の前後は襜如たり。趨り進むとき翼如たり。賓退けば、必ず復命して曰く、賓顧ずと」
「国君が孔先生を召して来賓の介添役を命じたとき、先生はその顔色を正され、足もまるで
歩み進めないかのように緊張されていた。会釈の際には左右の手を礼節通り拱かれ、衣服の前後も
整然として乱れ動くことがなかった。小走りして進むときも慎重深く進み、来賓が退出すると、
必ず君に『賓客は(不満にかられて)顧みるようなこともなく退出されました』と報告された。
(孔子の不自由の限りを尽くしたような介添えによってこそ、来賓も満足したのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・三より)
人間社会を、ごく順当な安定へと導く一般的な道理を、ごくごく
ありのままに記録した書物として、権力道徳聖書——通称四書五経がある。
質でも量でも古さでも発行部数でも、全てにおいて権力犯罪聖書——
通称聖書を上回り、なおかつごく平凡な道理を記録しているだけの書物。
平凡なだけに、完璧な治世を約束するという所まではいかない。
数百年に一回程度の戦乱や、権力者のだらけからなる一定の腐敗なども必ずしも
避けられるものではなく、治世の範囲内における凶悪事件の勃発や、それを
成敗するための残虐な刑罰なども、四書五経だけなら避けられるものではない。
大化の改新から平安末期までの日本のような、死刑すらほとんど行われない
ほどもの治世を実現するためには、それはそれで創作的な理念であるといえる、
仏教への帰依なども嗜む必要がある。権力者から庶民に至るまでの万民が
仏門によく帰依し、莫大な布施によって豪壮な寺院を造営したりすることにまで
努めて初めて、死刑すら必要とされないほどもの、完璧な治世が実現することになる。
ただ、結局そこまで完璧な治世が実現されるというのも、世界人類の平均から言えば、
随分と特異なことだといえる。インドのように万年泰平状態の世の中もあれば、
西洋のように引っ切り無しの戦乱を続けてきた世の中もある。それら全てを総合した
平均としては、それなりに治世もあり、たまには戦乱もあるという程度の歴史を、
太古の昔から積み重ねてきたのが地球人類であるといえる。その、地球人類の平均的な
歴史を運営するための指針として最も適正なのが、四書五経などを正典とする儒学であり、
儒学と比べれば、万年乱世や人類滅亡をもたらす新旧約聖書はもちろんのこと、死刑
一つない万年泰平社会を実現する仏教もまた、それなりに造作的な代物であるといえる。
ありのままに記録した書物として、権力道徳聖書——通称四書五経がある。
質でも量でも古さでも発行部数でも、全てにおいて権力犯罪聖書——
通称聖書を上回り、なおかつごく平凡な道理を記録しているだけの書物。
平凡なだけに、完璧な治世を約束するという所まではいかない。
数百年に一回程度の戦乱や、権力者のだらけからなる一定の腐敗なども必ずしも
避けられるものではなく、治世の範囲内における凶悪事件の勃発や、それを
成敗するための残虐な刑罰なども、四書五経だけなら避けられるものではない。
大化の改新から平安末期までの日本のような、死刑すらほとんど行われない
ほどもの治世を実現するためには、それはそれで創作的な理念であるといえる、
仏教への帰依なども嗜む必要がある。権力者から庶民に至るまでの万民が
仏門によく帰依し、莫大な布施によって豪壮な寺院を造営したりすることにまで
努めて初めて、死刑すら必要とされないほどもの、完璧な治世が実現することになる。
ただ、結局そこまで完璧な治世が実現されるというのも、世界人類の平均から言えば、
随分と特異なことだといえる。インドのように万年泰平状態の世の中もあれば、
西洋のように引っ切り無しの戦乱を続けてきた世の中もある。それら全てを総合した
平均としては、それなりに治世もあり、たまには戦乱もあるという程度の歴史を、
太古の昔から積み重ねてきたのが地球人類であるといえる。その、地球人類の平均的な
歴史を運営するための指針として最も適正なのが、四書五経などを正典とする儒学であり、
儒学と比べれば、万年乱世や人類滅亡をもたらす新旧約聖書はもちろんのこと、死刑
一つない万年泰平社会を実現する仏教もまた、それなりに造作的な代物であるといえる。
儒学と比べれば、仏教とか聖書教とかいった信教全般が創作的なものである。
キリスト教徒の狂信対象である新約聖書はもちろんのこと、ユダヤ教徒の狂信対象である
旧約聖書(律法含む)もまた、十分に創作的な代物であり、その創作者の意図する所は
「悪徳商法の宗教教義化」だったことが明らかである。そんなものを、何ら人類文化の
標準として扱うには値しないのであり、悪い意味での余計な創意工夫がすでにそこにある。
もちろん創意工夫が絶対にいけないなんてことはなく、仏教のように、完璧な泰平統治の
指針を教義として体系化していった信教もある。その把捉対象とする真理そのものは
不増不減であるにしろ、その真理の悟りからなる安楽を衆生に広めるための方便には
色々と巧みな創意工夫が凝らされている。それは決して全否定すべきものなどではない。
悪い創作は根本から根絶やしにして、善い創作はむしろ積極的に受容していくべきである。
キリスト教徒などにとっては創作物にすら値しないデフォルト文化とされる旧約からして
悪い創作物であることをわきまえて、新旧約全般の価値否定を推進すべきである一方、
仏教については、個々人の出家がほぼ全てである小乗仏教だけでなく、一般衆生の救済の
ための方便の創意工夫にも豊かな、大乗仏教までをも積極的に興隆していくべきである。
上記の指針は、あくまで「創作的な範囲」における指針であり、そもそも「述べて作らず、
信じて古を好む(述而第七・一)」という、創作以前の標準としての儒学などの教理の、
「人として当たり前なわきまえ」としての受容もまた、磐石化していくべきであるといえる。
キリスト教徒の狂信対象である新約聖書はもちろんのこと、ユダヤ教徒の狂信対象である
旧約聖書(律法含む)もまた、十分に創作的な代物であり、その創作者の意図する所は
「悪徳商法の宗教教義化」だったことが明らかである。そんなものを、何ら人類文化の
標準として扱うには値しないのであり、悪い意味での余計な創意工夫がすでにそこにある。
もちろん創意工夫が絶対にいけないなんてことはなく、仏教のように、完璧な泰平統治の
指針を教義として体系化していった信教もある。その把捉対象とする真理そのものは
不増不減であるにしろ、その真理の悟りからなる安楽を衆生に広めるための方便には
色々と巧みな創意工夫が凝らされている。それは決して全否定すべきものなどではない。
悪い創作は根本から根絶やしにして、善い創作はむしろ積極的に受容していくべきである。
キリスト教徒などにとっては創作物にすら値しないデフォルト文化とされる旧約からして
悪い創作物であることをわきまえて、新旧約全般の価値否定を推進すべきである一方、
仏教については、個々人の出家がほぼ全てである小乗仏教だけでなく、一般衆生の救済の
ための方便の創意工夫にも豊かな、大乗仏教までをも積極的に興隆していくべきである。
上記の指針は、あくまで「創作的な範囲」における指針であり、そもそも「述べて作らず、
信じて古を好む(述而第七・一)」という、創作以前の標準としての儒学などの教理の、
「人として当たり前なわきまえ」としての受容もまた、磐石化していくべきであるといえる。
「兔の爰爰たる有り、雉は罦に離る。我が生るるの初め、尚お造る無し。
我が生まるるの後、此れ百憂に逢う。尚くば寐ねて覚むる無からん」
「ウサギは悠々と飛び回り、キジは罠にかかって苦しんでいる。
(人それぞれの運命が極度に分かれている現状を暗に喩えている)
私がまだ生まれたばかりの頃には、これといった造作もない(泰平無事な)世の中だったが、
生まれ育って後には(不埒な造作が横行することにより)百千万の憂いに遭う世となった。
私ももう、永遠に眠り続けて覚めないままでいたいほどもの思いに駆られている。
(悪質な造作創作が、有害無益な憂いを多々世にもたらす。『だから作為全般を捨ててしまえ』
というのなら道家思想に一致するが、儒学や大乗仏教には悪い作為を捨てて善い作為を進める
方針が付随している。ただし、泰平実現のための創作は儒学よりもむしろ仏教のほうが豊富である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・兔爰より)
我が生まるるの後、此れ百憂に逢う。尚くば寐ねて覚むる無からん」
「ウサギは悠々と飛び回り、キジは罠にかかって苦しんでいる。
(人それぞれの運命が極度に分かれている現状を暗に喩えている)
私がまだ生まれたばかりの頃には、これといった造作もない(泰平無事な)世の中だったが、
生まれ育って後には(不埒な造作が横行することにより)百千万の憂いに遭う世となった。
私ももう、永遠に眠り続けて覚めないままでいたいほどもの思いに駆られている。
(悪質な造作創作が、有害無益な憂いを多々世にもたらす。『だから作為全般を捨ててしまえ』
というのなら道家思想に一致するが、儒学や大乗仏教には悪い作為を捨てて善い作為を進める
方針が付随している。ただし、泰平実現のための創作は儒学よりもむしろ仏教のほうが豊富である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・兔爰より)
天道と畜生道は、「資生」を主に取り扱っている領域であるため、確かに似通っている所がある。
人道や餓鬼道が「仕事の場」となるのに対し、天道や畜生道はその仕事によって培われた資生の貯蓄場である。
ただ、人道と比べれば餓鬼道が甚だしい貪欲さに駆られているのと同じようにして、畜生道もまた
天道では忌み嫌われるような、禽獣にも等しいほどの蒙昧な欲望にまみれている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...で書いた、
「女の化粧」を喩えに引いた資生の取り扱い方が、天道と畜生道の相違にもそのまま当てはめられる。
畜生道の女は天道の女と違って、素顔の醜さに対する甚だしいコンプレックスがある。そのコンプレックスを
埋め合わせるために資生堂あたりの化粧を貪り尽くすが、だからといって素顔の醜さに対するコンプレックスが
消えたりすることはない。それとは逆に、天道の女には素顔への異常な劣等感などはないから、化粧をするにしたって
際限のないむさぼりの対象としたりはしない。このような相違が、天道と畜生道との間には全般的に備わっているといえる。
人道や餓鬼道が「仕事の場」となるのに対し、天道や畜生道はその仕事によって培われた資生の貯蓄場である。
ただ、人道と比べれば餓鬼道が甚だしい貪欲さに駆られているのと同じようにして、畜生道もまた
天道では忌み嫌われるような、禽獣にも等しいほどの蒙昧な欲望にまみれている。
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132989771...で書いた、
「女の化粧」を喩えに引いた資生の取り扱い方が、天道と畜生道の相違にもそのまま当てはめられる。
畜生道の女は天道の女と違って、素顔の醜さに対する甚だしいコンプレックスがある。そのコンプレックスを
埋め合わせるために資生堂あたりの化粧を貪り尽くすが、だからといって素顔の醜さに対するコンプレックスが
消えたりすることはない。それとは逆に、天道の女には素顔への異常な劣等感などはないから、化粧をするにしたって
際限のないむさぼりの対象としたりはしない。このような相違が、天道と畜生道との間には全般的に備わっているといえる。
「資生」という言葉は、「易経」坤卦・彖伝に出てくる言葉で、「坤卦こそは万物の資生の源泉である」と彖伝にもある。
ただ、あらゆる資生の源泉たる坤こそは従順を守るべきであるともされ、彖伝にも「天に対して従順たれ」とある。
天に対して従順である資生の貯蓄場こそは天界である一方、天に逆らう身勝手な資生の吹き溜まりが畜生界である。
天の働きとは、要するに易の法則のことであり、易の法則に順おうとする資生が天道に属する一方、
易の法則に反する資生が畜生道に属するのである。
易の根本法則を依拠している四書五経の記述に則ろうとすれば、それによって生じた資生は天道に属する一方、
易にも仏法にも反する完全誤謬の塊である犯罪聖書に則ろうとすれば、そりによって生じた資生が畜生道に拭き溜まる。
易の法則は「この世界」の法則であり、「この宇宙」の法則である一方、その法則を逸脱しようとしているのが
犯罪聖書であるため、資生がその従順さによって天道に属することを決定的に妨げるのである。
「暴君汚吏は、必ず其の経界を慢る」
「暴虐な王君や、貪欲さに汚れた官吏は、必ず境界を守ることを侮る。
(『汚吏』で『貪欲な官吏』を意味する。聖書信者の貪欲さには果てしがなく、まさに汚れの塊である。
その汚れようの原因は、この世界と形而上の境界すら侮る不埒さにあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
ただ、あらゆる資生の源泉たる坤こそは従順を守るべきであるともされ、彖伝にも「天に対して従順たれ」とある。
天に対して従順である資生の貯蓄場こそは天界である一方、天に逆らう身勝手な資生の吹き溜まりが畜生界である。
天の働きとは、要するに易の法則のことであり、易の法則に順おうとする資生が天道に属する一方、
易の法則に反する資生が畜生道に属するのである。
易の根本法則を依拠している四書五経の記述に則ろうとすれば、それによって生じた資生は天道に属する一方、
易にも仏法にも反する完全誤謬の塊である犯罪聖書に則ろうとすれば、そりによって生じた資生が畜生道に拭き溜まる。
易の法則は「この世界」の法則であり、「この宇宙」の法則である一方、その法則を逸脱しようとしているのが
犯罪聖書であるため、資生がその従順さによって天道に属することを決定的に妨げるのである。
「暴君汚吏は、必ず其の経界を慢る」
「暴虐な王君や、貪欲さに汚れた官吏は、必ず境界を守ることを侮る。
(『汚吏』で『貪欲な官吏』を意味する。聖書信者の貪欲さには果てしがなく、まさに汚れの塊である。
その汚れようの原因は、この世界と形而上の境界すら侮る不埒さにあるといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)
欧米等の現聖書信者が、自分たちの信仰を全廃した上で、
聖書信仰の真の卑賤さと向き合っていくのは、これからの話である。
しかし、聖書信仰が本質的に何ら栄光とするに値しない恥辱沙汰の極みであるのは、
聖書信仰勃発時から常にそうであり続けてきたことである。今これから急に、聖書信仰が恥辱沙汰と
なるのではなく、最原初の頃からずっと本質的に恥辱沙汰であり続けてきたことを、今わきまえるのである。
決して、真の栄光などではないから、渇望が残るのである。
素顔にコンプレックスを抱く醜女ガ、化粧によって手に入れるような偽りの栄光だから、素顔の醜さへの
劣等感という本心の部分からなる渇望が絶えることがない。そしてその渇望こそは暗愚の至りであり、
そのような渇望を捨て去った先にこそ無量の栄光が生ずるのだとも、大乗仏典の「華厳経」などにもあるのである。
英語で「デフォルト(default、初期条件)」といえば、破産とか崩壊とかの悪い意味合いばかりを持つ。
それは、英語圏を含む聖書圏全体が、聖書信仰によって、初期条件が「駄目」である状態を強いられているからで、
それは地球人類という生物や、その産物としての人類文化全般にとっての初期条件などではない。のみならず、
人類文化の初期条件をありのままに記録している、四書五経の内容などとも真逆の条件ばかりを成しているのであり、
地球人類にとっての真の初期条件はむしろ、聖書信仰によってもたらされた乱脈を後付けでどんなに修復していく
場合以上にも優良なものですらある。聖書信仰が後付けで、人間社会に最低最悪の荒廃をもたらして、そこに
洋学知識などの副作用も過剰な対処療法ばかりによる修復を試みてきた聖書圏の徒労は、どんなに尽くされた所で、
始めから聖書信仰などを受容しないことを初期条件としている場合のマシさを超えられるようなものではない。
聖書信仰の真の卑賤さと向き合っていくのは、これからの話である。
しかし、聖書信仰が本質的に何ら栄光とするに値しない恥辱沙汰の極みであるのは、
聖書信仰勃発時から常にそうであり続けてきたことである。今これから急に、聖書信仰が恥辱沙汰と
なるのではなく、最原初の頃からずっと本質的に恥辱沙汰であり続けてきたことを、今わきまえるのである。
決して、真の栄光などではないから、渇望が残るのである。
素顔にコンプレックスを抱く醜女ガ、化粧によって手に入れるような偽りの栄光だから、素顔の醜さへの
劣等感という本心の部分からなる渇望が絶えることがない。そしてその渇望こそは暗愚の至りであり、
そのような渇望を捨て去った先にこそ無量の栄光が生ずるのだとも、大乗仏典の「華厳経」などにもあるのである。
英語で「デフォルト(default、初期条件)」といえば、破産とか崩壊とかの悪い意味合いばかりを持つ。
それは、英語圏を含む聖書圏全体が、聖書信仰によって、初期条件が「駄目」である状態を強いられているからで、
それは地球人類という生物や、その産物としての人類文化全般にとっての初期条件などではない。のみならず、
人類文化の初期条件をありのままに記録している、四書五経の内容などとも真逆の条件ばかりを成しているのであり、
地球人類にとっての真の初期条件はむしろ、聖書信仰によってもたらされた乱脈を後付けでどんなに修復していく
場合以上にも優良なものですらある。聖書信仰が後付けで、人間社会に最低最悪の荒廃をもたらして、そこに
洋学知識などの副作用も過剰な対処療法ばかりによる修復を試みてきた聖書圏の徒労は、どんなに尽くされた所で、
始めから聖書信仰などを受容しないことを初期条件としている場合のマシさを超えられるようなものではない。
聖書信仰が、断じて「栄光」などではない一方で、
「究極の恥辱沙汰」であったことだけは、確かに間違いがない。
多少よくできたラノベほどにも正気を保てていない、狂人の、狂人による、狂人のための狂信書。
そんなものを2000年にもわたって信じ込み、実践も試み続けてきた聖書信者たちの恥辱たるや、
全員が全員、ヨゴレ芸人かAV女優並みか、あるいはそれ以上のものだとすらいえる。
恥辱まみれな元聖書信者の、名誉を貴ぶ儒学や武士道への転向はなかなか難しいだろうにしろ、忍辱行を貴ぶ仏教への転向
なら比較的容易かとも思われる。2000年に渡る自分たちの歴史を笑い飛ばして、坊主になって一からやり直すのもなかなか
難しいことだろうにしろ、決して不可能なことではないし、ある意味、未曾有の菩薩行にもなるといえるのかもしれない。
「今、天は疾を降せり。殆ど興きず悟らず」
「いま、天は大患を我れに降し、ほとんど起き上がることも、気を確かにしていることもままならない。
(『悟る』の本来の語意は『気を確かにする』である。聖書信仰によって精神の大病を患い、
極度の蒙昧状態に陥ることを『悟る』と言い換えるのは、間違った言葉遣いである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)
「究極の恥辱沙汰」であったことだけは、確かに間違いがない。
多少よくできたラノベほどにも正気を保てていない、狂人の、狂人による、狂人のための狂信書。
そんなものを2000年にもわたって信じ込み、実践も試み続けてきた聖書信者たちの恥辱たるや、
全員が全員、ヨゴレ芸人かAV女優並みか、あるいはそれ以上のものだとすらいえる。
恥辱まみれな元聖書信者の、名誉を貴ぶ儒学や武士道への転向はなかなか難しいだろうにしろ、忍辱行を貴ぶ仏教への転向
なら比較的容易かとも思われる。2000年に渡る自分たちの歴史を笑い飛ばして、坊主になって一からやり直すのもなかなか
難しいことだろうにしろ、決して不可能なことではないし、ある意味、未曾有の菩薩行にもなるといえるのかもしれない。
「今、天は疾を降せり。殆ど興きず悟らず」
「いま、天は大患を我れに降し、ほとんど起き上がることも、気を確かにしていることもままならない。
(『悟る』の本来の語意は『気を確かにする』である。聖書信仰によって精神の大病を患い、
極度の蒙昧状態に陥ることを『悟る』と言い換えるのは、間違った言葉遣いである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・顧命より)
絶対服従を強要する主人と家畜、主人と奴隷の関係性の中にこそ、筆舌に尽くしがたい「汚れ」がある。
特に、屠殺者と肉用獣の関係性にこそ穢れも極まることから、日本やインドでは屠畜業が歴史的に
忌み嫌われても来た。とはいえ、屠畜業が特定して嫌われているなんてのは皮相的なことで、あくまでそこに、
「絶対服従の挙句に殺される」という、精神的不衛生の極みが介していることこそが致命的なことだった。
人と家畜ではなく、人と人との間にもそのような、死すら避けられぬ絶対服従の関係性があり得る。
主人と奴隷の関係がその典型だが、王君と臣下のような、名誉的にすら扱われる人間関係においても、
臣下が主君の為に死をも厭わぬ務めに励むということがある。主人と奴隷の服従関係などと違って、
死をも厭わぬ君臣関係が名誉とされるのは、臣下があくまで自らの意志によって主君への忠誠を誓うからで、
生まれ付きの身分によって主人への絶対服従が科される奴隷や、未熟な内からの奉公に励まされる丁稚などには
始めから得る術もなかった、成熟した大人としての尊厳が守られているからこそ、そこに汚れもないのである。
臣下が自らの意志によって主君に臣従するという選択肢は、儒家と共に、隠遁志向の道家なども許容されていた
東洋社会などにおいてこそ容認されていたものだ。その東洋でも、たとえば始皇帝によって法家支配が敷かれた
秦代などには、労役が万民に対して義務化されていたから、臣下の自己選択による臣従の途なども閉ざされていた。
その、秦代に強制労働に駆り出された劉邦は、強制労働に嫌気が差して逃亡し、反乱軍となって項羽らと共に秦帝国を滅ぼし、
項羽をも破って漢帝国を築いて後には、自らの苦い思い出もあって、なるべく法律による締め付けを緩和した、無為自然の
統治を全国に施すように心がけた。皇后の呂后が高名な隠遁者を宮内に連れて来た時には感激して、思わず呂后の実子を
次期皇帝にすることを認可したともいうから、確かに劉邦には、道家の隠遁志向を貴ぶ心持ちもあったことが分かる。
そのような、度量の大きい主君が多数君臨していた社会であればこそ、不可避なる絶対服従関係の穢れなどを
決して持ち込まない、自由選択による君臣関係が多数実現され、それによる治世もまた実現されて来たのである。
特に、屠殺者と肉用獣の関係性にこそ穢れも極まることから、日本やインドでは屠畜業が歴史的に
忌み嫌われても来た。とはいえ、屠畜業が特定して嫌われているなんてのは皮相的なことで、あくまでそこに、
「絶対服従の挙句に殺される」という、精神的不衛生の極みが介していることこそが致命的なことだった。
人と家畜ではなく、人と人との間にもそのような、死すら避けられぬ絶対服従の関係性があり得る。
主人と奴隷の関係がその典型だが、王君と臣下のような、名誉的にすら扱われる人間関係においても、
臣下が主君の為に死をも厭わぬ務めに励むということがある。主人と奴隷の服従関係などと違って、
死をも厭わぬ君臣関係が名誉とされるのは、臣下があくまで自らの意志によって主君への忠誠を誓うからで、
生まれ付きの身分によって主人への絶対服従が科される奴隷や、未熟な内からの奉公に励まされる丁稚などには
始めから得る術もなかった、成熟した大人としての尊厳が守られているからこそ、そこに汚れもないのである。
臣下が自らの意志によって主君に臣従するという選択肢は、儒家と共に、隠遁志向の道家なども許容されていた
東洋社会などにおいてこそ容認されていたものだ。その東洋でも、たとえば始皇帝によって法家支配が敷かれた
秦代などには、労役が万民に対して義務化されていたから、臣下の自己選択による臣従の途なども閉ざされていた。
その、秦代に強制労働に駆り出された劉邦は、強制労働に嫌気が差して逃亡し、反乱軍となって項羽らと共に秦帝国を滅ぼし、
項羽をも破って漢帝国を築いて後には、自らの苦い思い出もあって、なるべく法律による締め付けを緩和した、無為自然の
統治を全国に施すように心がけた。皇后の呂后が高名な隠遁者を宮内に連れて来た時には感激して、思わず呂后の実子を
次期皇帝にすることを認可したともいうから、確かに劉邦には、道家の隠遁志向を貴ぶ心持ちもあったことが分かる。
そのような、度量の大きい主君が多数君臨していた社会であればこそ、不可避なる絶対服従関係の穢れなどを
決して持ち込まない、自由選択による君臣関係が多数実現され、それによる治世もまた実現されて来たのである。
ひるがえって、聖書信仰が征服下に置いた西洋社会には、始めから自由選択の君臣関係などはなかった。
ほんのこの前まで奴隷制が健在だっただけでなく、聖書信仰が流布される遥か以前から、古代ローマ帝国に
代表される西洋社会は完全な法治主義であり、労役もどこまでも義務的なものであり、自由選択による君臣関係に
名誉が伴うなどという考え方もなかった。そこに、主なる神と信者との絶対服従関係を促す聖書信仰が提唱されて、
案の定、瞬く間に広まったわけで、最原初から今に至るまで一貫して、西洋社会においては、不可避なる
絶対服従関係の汚れを忌み嫌う慣習はおろか、それを穢れとして扱う神経すら存在していたことがない。
仮に、これからも西洋人が、そのような逃れようのない絶対服従関係を許容していくのだとしても、
屠畜級の絶対服従に紛れもない汚れを見出す人々に対してまで、それを強要することなどは、完全に不能である。
ただ、自分たち西洋人だけが、生まれ付きから絶対服従の奴隷的人種として、決してそうではない数多の人々の
絶対的な服従下に置かれることだけが許されることで、自分たち以外にそんな関係性を強要することは全く許されない。
もちろん、西洋人もまた屠畜級の絶対服従の穢れを思い知って、自分たちの内からもそのような下劣な関係性を駆逐して
いくというのならそれでも構わないわけで、そうなった西洋人を、他人種が対等に扱っていくこともまた、吝かではない。
「子曰く、麻冕は礼なり、今や純なるは倹なり。吾れは衆に従わん。
下に拝するは礼なり、今の上に拝むは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん」
「先生は言われた。『礼服には麻の冠を用いるのが慣例だが、近ごろでは倹約のために生成のものを用いる。
(倹約に努めるのはいいことなので)私も今の人々のやり方に従おう。拝礼は堂下で行うのが本来の慣例だが、
近ごろは横柄にも堂上で拝礼する場合が多い。人々のやり方とは違うとはいえ、私は堂下で拝礼することにしよう』
(従うもの自体まで自らが取捨選択する自主性の極み。孔子の乱世における青い鳥状態も、あくまで確信的なものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三)
ほんのこの前まで奴隷制が健在だっただけでなく、聖書信仰が流布される遥か以前から、古代ローマ帝国に
代表される西洋社会は完全な法治主義であり、労役もどこまでも義務的なものであり、自由選択による君臣関係に
名誉が伴うなどという考え方もなかった。そこに、主なる神と信者との絶対服従関係を促す聖書信仰が提唱されて、
案の定、瞬く間に広まったわけで、最原初から今に至るまで一貫して、西洋社会においては、不可避なる
絶対服従関係の汚れを忌み嫌う慣習はおろか、それを穢れとして扱う神経すら存在していたことがない。
仮に、これからも西洋人が、そのような逃れようのない絶対服従関係を許容していくのだとしても、
屠畜級の絶対服従に紛れもない汚れを見出す人々に対してまで、それを強要することなどは、完全に不能である。
ただ、自分たち西洋人だけが、生まれ付きから絶対服従の奴隷的人種として、決してそうではない数多の人々の
絶対的な服従下に置かれることだけが許されることで、自分たち以外にそんな関係性を強要することは全く許されない。
もちろん、西洋人もまた屠畜級の絶対服従の穢れを思い知って、自分たちの内からもそのような下劣な関係性を駆逐して
いくというのならそれでも構わないわけで、そうなった西洋人を、他人種が対等に扱っていくこともまた、吝かではない。
「子曰く、麻冕は礼なり、今や純なるは倹なり。吾れは衆に従わん。
下に拝するは礼なり、今の上に拝むは泰なり。衆に違うと雖も、吾れは下に従わん」
「先生は言われた。『礼服には麻の冠を用いるのが慣例だが、近ごろでは倹約のために生成のものを用いる。
(倹約に努めるのはいいことなので)私も今の人々のやり方に従おう。拝礼は堂下で行うのが本来の慣例だが、
近ごろは横柄にも堂上で拝礼する場合が多い。人々のやり方とは違うとはいえ、私は堂下で拝礼することにしよう』
(従うもの自体まで自らが取捨選択する自主性の極み。孔子の乱世における青い鳥状態も、あくまで確信的なものだった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三)
天地万物大宇宙を司る、易の法則に創造主などがいないのはもちろんのこと、
三千大千世界を包摂する仏法にもまた、決まった作者などはいないのだという。
(「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の三を参照)
いないのである。実際問題、そんな神は。
いるのならともかく、いないのである。神というもの、仏というものが仮に存在するとした所で、
「万物の創造主」とか「形而上の超越神」とかいった存在性を持つ神仏こそは、特に存在しないのである。
それは、「形而上の形而上や、そのまた形而上の世界までをも実際に想定し尽くすことができる」という、
荘子や新井白石が提示した思考実験によってだけでも証明できることである。その上に、物理的にも、
一定以内の自由度の法則によってのみ司られることでこそ成り立っているこの世界が、あらゆる法則を
逸脱した超越者によってかき乱されたりするのであれば、この世界自体が成立しないという結論によって、
絶対的な超越者の存在を否定することもできる。もしも絶対的な超越者などがいたとすれば、その超越者は
あらゆる物質の摩擦係数をもゼロにすることができるはずで、そんなことをされた日には、この地球もあっと
いう間にただの灰の塊と化してしまう。そんな迷惑な絶対者がいない限りにおいて、この地球社会の有機性もまた
保たれているのだから、その地球環境に依存して生きている人間が、絶対的な超越者などを定立することもまた、
迷惑という以上のことではあり得ないから、定立からしてしないに越したことはないと結ぶことが出来るのである。
三千大千世界を包摂する仏法にもまた、決まった作者などはいないのだという。
(「華厳経」八十巻本・十回向品第二十五の三を参照)
いないのである。実際問題、そんな神は。
いるのならともかく、いないのである。神というもの、仏というものが仮に存在するとした所で、
「万物の創造主」とか「形而上の超越神」とかいった存在性を持つ神仏こそは、特に存在しないのである。
それは、「形而上の形而上や、そのまた形而上の世界までをも実際に想定し尽くすことができる」という、
荘子や新井白石が提示した思考実験によってだけでも証明できることである。その上に、物理的にも、
一定以内の自由度の法則によってのみ司られることでこそ成り立っているこの世界が、あらゆる法則を
逸脱した超越者によってかき乱されたりするのであれば、この世界自体が成立しないという結論によって、
絶対的な超越者の存在を否定することもできる。もしも絶対的な超越者などがいたとすれば、その超越者は
あらゆる物質の摩擦係数をもゼロにすることができるはずで、そんなことをされた日には、この地球もあっと
いう間にただの灰の塊と化してしまう。そんな迷惑な絶対者がいない限りにおいて、この地球社会の有機性もまた
保たれているのだから、その地球環境に依存して生きている人間が、絶対的な超越者などを定立することもまた、
迷惑という以上のことではあり得ないから、定立からしてしないに越したことはないと結ぶことが出来るのである。
摩擦係数ゼロの絶対超越神などを想定して、その立場に基づいて物事を考えてみたりすればするだけ、
この地球がただの灰の塊と化すことを促進するだけである。そんな神は実際、存在しない上に、
ただ「存在する」と想定してみただけでも色々な差し障りが生じてしまう、有害無益な概念である。
この世界、この宇宙の一定法則を司っているか故に貴ばれる神や、あらゆる法則を超越するが故に虚空であり、
虚空であるままに貴ばれる仏などは、それはそれでアリだといえる。しかし、この世界、この宇宙の法則を
超越するが故に「実である」とされる神などを想定したなら、そのような神は必ず、この世を灰塵と化すこと
ばかりを促す邪神となる。ありがたいことに、そんな神は実在せず、実際に神として危害をもたらしたりもしない。
一部の累犯障害者たちが、上記のような意味での絶対超越神を騙って、この世を灰と化す試みを未だに模索
し続けてはいるものの、もちろん全くの虚偽であり、本物の神として畏れ敬う価値などは微塵もないのである。
奇しくも、「形而上の超越は虚無である」という仏法の法則にその真相は合致していて、完全なる虚空として
貴ぶにすら値しないものかといえば、そうでもない。絶対超越神を騙る累犯障害者も、自分たち自身が
死んで灰塵に帰した後には、虚空に住まう仏さまとして、敬われるに値する存在ともなるのである。
「聖人の行いは同じくならず。或いは遠ざかり或いは近づき、
或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰すのみ」
「聖人の行いは必ずしも一定ではなく、ある時は遠ざかったりある時は近づいたり、ある時は去ったり
ある時は去らなかったりする。これらは偏に、自らが潔白なままでいようとする志しによるのである。
(必要なのは大胆に近づくことなどではなく、臨機応変な出処進退で身の潔白さを守ることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
この地球がただの灰の塊と化すことを促進するだけである。そんな神は実際、存在しない上に、
ただ「存在する」と想定してみただけでも色々な差し障りが生じてしまう、有害無益な概念である。
この世界、この宇宙の一定法則を司っているか故に貴ばれる神や、あらゆる法則を超越するが故に虚空であり、
虚空であるままに貴ばれる仏などは、それはそれでアリだといえる。しかし、この世界、この宇宙の法則を
超越するが故に「実である」とされる神などを想定したなら、そのような神は必ず、この世を灰塵と化すこと
ばかりを促す邪神となる。ありがたいことに、そんな神は実在せず、実際に神として危害をもたらしたりもしない。
一部の累犯障害者たちが、上記のような意味での絶対超越神を騙って、この世を灰と化す試みを未だに模索
し続けてはいるものの、もちろん全くの虚偽であり、本物の神として畏れ敬う価値などは微塵もないのである。
奇しくも、「形而上の超越は虚無である」という仏法の法則にその真相は合致していて、完全なる虚空として
貴ぶにすら値しないものかといえば、そうでもない。絶対超越神を騙る累犯障害者も、自分たち自身が
死んで灰塵に帰した後には、虚空に住まう仏さまとして、敬われるに値する存在ともなるのである。
「聖人の行いは同じくならず。或いは遠ざかり或いは近づき、
或いは去り或いは去らざるも、其の身を潔くするに帰すのみ」
「聖人の行いは必ずしも一定ではなく、ある時は遠ざかったりある時は近づいたり、ある時は去ったり
ある時は去らなかったりする。これらは偏に、自らが潔白なままでいようとする志しによるのである。
(必要なのは大胆に近づくことなどではなく、臨機応変な出処進退で身の潔白さを守ることである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
犯罪聖書の邪神の出歯亀ストーカー志向は、たとえば母親の、
まだ幼いわが子に対する注意などとしてであれば、決して悪いものともならない。
穴に落ちそうになっている子供を思わず救いたい気持ちに駆られる、惻隠の情。
孟子が自らの性善説の根拠ともした、その惻隠の情に即して、母親がわが子を注意深く見守り、
立派な大人になるまで責任を持って育てるというのなら、これほど善良なことも他にないといえる。
欧米のユダヤ教徒なども、男系よりは女系の血筋を重んずる傾向があるという。ユダヤ系の
映画監督のスピルバーグの母親なども、子供の育て方に相当な工夫を凝らしていたなどという
逸話があるが、母親がわが子によくー注意を注いで、熱心な養育に努めるというのは、成功する
場合も失敗する場合もあるにしろ、決して咎められて然るべきものであるなどとはいえない。
しかし、その母親のわが子に対する注意力を、成人の男などにまで振り向けたとすれば、
これはもう完全なお節介だといえる。わが子が十分に育った以上は、もう無駄なお節介もしない
というのも賢母の条件である。にもかかわらず、社会に参画する大人すらをも信者とする
ことを前提としている聖書信仰は、その大人に対してまで出歯亀ストーキングを保証する。
だから、それが母としたところで愚母の所業であるといえるし、また聖書の邪神による
監視があるからといって、実の母親がわが子への注意を怠ったりしたとすれば、これまた、
実の母親にまで愚母となることをけしかける、有害無益な悪影響となってしまうのである。
まだ幼いわが子に対する注意などとしてであれば、決して悪いものともならない。
穴に落ちそうになっている子供を思わず救いたい気持ちに駆られる、惻隠の情。
孟子が自らの性善説の根拠ともした、その惻隠の情に即して、母親がわが子を注意深く見守り、
立派な大人になるまで責任を持って育てるというのなら、これほど善良なことも他にないといえる。
欧米のユダヤ教徒なども、男系よりは女系の血筋を重んずる傾向があるという。ユダヤ系の
映画監督のスピルバーグの母親なども、子供の育て方に相当な工夫を凝らしていたなどという
逸話があるが、母親がわが子によくー注意を注いで、熱心な養育に努めるというのは、成功する
場合も失敗する場合もあるにしろ、決して咎められて然るべきものであるなどとはいえない。
しかし、その母親のわが子に対する注意力を、成人の男などにまで振り向けたとすれば、
これはもう完全なお節介だといえる。わが子が十分に育った以上は、もう無駄なお節介もしない
というのも賢母の条件である。にもかかわらず、社会に参画する大人すらをも信者とする
ことを前提としている聖書信仰は、その大人に対してまで出歯亀ストーキングを保証する。
だから、それが母としたところで愚母の所業であるといえるし、また聖書の邪神による
監視があるからといって、実の母親がわが子への注意を怠ったりしたとすれば、これまた、
実の母親にまで愚母となることをけしかける、有害無益な悪影響となってしまうのである。
ユダヤ系で、イエスの母親だったマリアなども、結局はイエスを世界最悪の邪教の開祖に仕立て上げ、
冤罪で磔刑を受けさせることで、永遠に地獄をさまよわせるほどの非業へとわが子を追いやっている。
産み育てるに際しては、エホバが自分の代わりに子供を監視してくれて、育ってからもエホバが後見人になって
くれるなんていう邪信にも即して我が子を産み育てたものだから、実際にその子供のイエスもろくでもない
大人へと成長し、天寿を全うすることもできないままに非業の最期を遂げて、二度と生き返らなかったのである。
犯罪聖書の邪神が担うとされる、信者への絶対的な付きまとい、それは、母親がまだ幼いわが子に
対して抱く注意でこそあるべきなのであり、邪神などがその役目を母親から奪ってはならないのである。
母親こそは頑是ないわが子に対しても細心の注意を払い、成長してからはもう放任しても全く問題もないほどに
立派な大人へと育て上げるべきなのであり、子が幼いうちにも母親からその役割を奪い、成長してからもお節介な
監視を続けるという、犯罪聖書の邪神の有害無益さは、実の母親の存在性と対照することでこそ明白になるのである。
「我れと二人、共に貞す。公は其れ予に万億年を以てし、天を敬い之れを休んず。」
「私(成王)と周公の二人で、共に天下を正していく。公は私に、万億年の永劫に渡るまでの
王道楽土をもたらしてくれた。また天を敬うことで、これを安んじてくれる。(実際の君臣関係であるからこそ
『世の終わりまで』などではなく『万憶年の未来永劫に至るまで』の共なる治世を希求している。不吉極まりない
『世の終わり』などを平気でほざくのも、この世の責任を十分に負うこともない不誠実神である証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)
冤罪で磔刑を受けさせることで、永遠に地獄をさまよわせるほどの非業へとわが子を追いやっている。
産み育てるに際しては、エホバが自分の代わりに子供を監視してくれて、育ってからもエホバが後見人になって
くれるなんていう邪信にも即して我が子を産み育てたものだから、実際にその子供のイエスもろくでもない
大人へと成長し、天寿を全うすることもできないままに非業の最期を遂げて、二度と生き返らなかったのである。
犯罪聖書の邪神が担うとされる、信者への絶対的な付きまとい、それは、母親がまだ幼いわが子に
対して抱く注意でこそあるべきなのであり、邪神などがその役目を母親から奪ってはならないのである。
母親こそは頑是ないわが子に対しても細心の注意を払い、成長してからはもう放任しても全く問題もないほどに
立派な大人へと育て上げるべきなのであり、子が幼いうちにも母親からその役割を奪い、成長してからもお節介な
監視を続けるという、犯罪聖書の邪神の有害無益さは、実の母親の存在性と対照することでこそ明白になるのである。
「我れと二人、共に貞す。公は其れ予に万億年を以てし、天を敬い之れを休んず。」
「私(成王)と周公の二人で、共に天下を正していく。公は私に、万億年の永劫に渡るまでの
王道楽土をもたらしてくれた。また天を敬うことで、これを安んじてくれる。(実際の君臣関係であるからこそ
『世の終わりまで』などではなく『万憶年の未来永劫に至るまで』の共なる治世を希求している。不吉極まりない
『世の終わり』などを平気でほざくのも、この世の責任を十分に負うこともない不誠実神である証拠だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・洛誥より)

岩盤のような強固な地盤を是とし、水の性質を低レベルなものとして扱う
キリスト教の理念に真っ向から反している。一方で、どこまでも低いほうへと
落ち続ける水の性質を「君子の謙譲さ」に見立てて褒め称えた孔子の言説や、
地盤の強固さにかまけて注意力をなまらせることを懸念対象とした孟子の論弁
などに基づくなら、むしろ日本の気候風土こそは、謙譲や注意力も豊かな
君子を育む理想的な環境であると見なすことができるのである。
一方で、その孔子や孟子の生まれ故郷である中国でこそ、「湿気の多い低地」を
忌み嫌う傾向があって、「史記」にも「湿気の多い低地に住む人間は長生きできない」
などという迷信が記録されてもいる。もちろん、低地や湿地も多い日本の国民が、
中国人よりも寿命が短いなんてこともないわけで、「湿気嫌い」というのは、どうも中国人に
特有の性格のようである。湿気だけでなく大水も中国人は嫌いで、内陸国であるせいもあって、
海水浴や海鮮食を好まない中国人も多いし、古代中国の魏王朝も、朝貢に来た日本の使節が、
絶海である日本海を超えてやって来たことに畏れを抱き、陸続きである朝鮮半島の諸国
などには銀印を授けていたのを、日本国からの使節に対しては金印を授けたともされる。
たとえば、精神力の惰弱な人間が塩辛い食べ物を嫌ったりするのと同じように、
人間には性格として、湿気とか大水とかを忌み嫌うような傾向が多少はあるのである。
それは孔子や孟子の生まれ故郷である中国の人間といえども同じことで、その世間一般の大衆が
忌み嫌うほどもの「試練」としての湿気の不快さ、大水の扱いにくさなどを乗り越えた所にこそ
君子としての大成までもがあるのであり、それはなかなか、好き好めたりするものでもないのである。
[YouTubeで再生]
日本で、これからの季節に到来する梅雨がもたらす多湿や多雨は、長年日本に住み続けている
邦人すらもが不快感を隠さないもので、気温だけなら日本以上である東南アジアやインドの
人間ですらもが、日本の梅雨期の高温多湿の不快さには辟易させられるそうな。それは確かに、なかなか
好き好んだりできるような代物ではないのであり、無理にそれ自体を好いたりする必要もないのである。
ただ、やはりその梅雨期の降雨が日本の農産の豊穣にも貢献するようにして、多湿さとか大水とか
いったような試練が人々にも大成の機縁を与えるのであり、大成を目指す志しが高ければこそ、
好き好むことなどとうてい出来ないような大きな試練にまで臨んで行くのである。
好きだからではなく、試練を乗り越えた先にある大成を目指すためにこそ、それを受容する。
そこまでの努力などやる気も起きないというような人間もいるだろうにしろ、あえてそれを選択するのである。
試練から積極的に逃避することこそを選んできたような人間もまた、当然まったく以って与らぬことである。
「敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鰥。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雲の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鱮。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雨の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は唯唯として。斉の子の帰し止まるに、其の従うや水の如し」
「魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとエザケ(やもめ)が逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで群ら立ち込める雲の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとタナゴが逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるでザンザンと降り注ぐ大雨の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこから制することも出来ない勢いで魚が飛び出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで謙る水の如く。(雨雲には『権勢』という意味もあるが、
湿気や水に由来するために謙譲さをも伴う。謙譲さに欠ける『金権(聖霊)』などとはそこが違うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・敝笱より)

邦人すらもが不快感を隠さないもので、気温だけなら日本以上である東南アジアやインドの
人間ですらもが、日本の梅雨期の高温多湿の不快さには辟易させられるそうな。それは確かに、なかなか
好き好んだりできるような代物ではないのであり、無理にそれ自体を好いたりする必要もないのである。
ただ、やはりその梅雨期の降雨が日本の農産の豊穣にも貢献するようにして、多湿さとか大水とか
いったような試練が人々にも大成の機縁を与えるのであり、大成を目指す志しが高ければこそ、
好き好むことなどとうてい出来ないような大きな試練にまで臨んで行くのである。
好きだからではなく、試練を乗り越えた先にある大成を目指すためにこそ、それを受容する。
そこまでの努力などやる気も起きないというような人間もいるだろうにしろ、あえてそれを選択するのである。
試練から積極的に逃避することこそを選んできたような人間もまた、当然まったく以って与らぬことである。
「敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鰥。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雲の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は魴に鱮。斉の子の帰し止まるに、其の従うや雨の如し。
敝れし笱梁に在り、其の魚は唯唯として。斉の子の帰し止まるに、其の従うや水の如し」
「魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとエザケ(やもめ)が逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで群ら立ち込める雲の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこからオシキウオとタナゴが逃げ出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるでザンザンと降り注ぐ大雨の如く。
魚を獲る仕掛けの中の竹網が破れて、そこから制することも出来ない勢いで魚が飛び出した。
斉の姫君が嫁ぐに際し、御付きの者どもはまるで謙る水の如く。(雨雲には『権勢』という意味もあるが、
湿気や水に由来するために謙譲さをも伴う。謙譲さに欠ける『金権(聖霊)』などとはそこが違うのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・斉風・敝笱より)
え、書けないの
すげえ長すぎるな
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