否定されている側としては、般若思想を会得している坊さんに否定されるのも、
ニーチェのような真性のニヒリストに否定されるのも大して変わりない
ように思われるかもしれないが、ことに否定している側にとっては、
自分自身の個我の否定が十分か否かという決定的な相違が備わっている。
弘法大師が真言密教の立場から他宗派や俗人を見下しているようなところにも、
何よりもまず自分自身に対する否定が行き届いている。だからまだ出家修行を
志したばかりの頃の処女作である「三教指帰」でも、自らをモデルにした仮名乞児が、
他のどの登場人物にも増してみすぼらしい風体の持ち主として描かれてもいる。
他者を見下せば見下すほどに、自分自身が大きくなったかのように感じるのは、
否定された他者と比べての相対的な自己の大きさが増していくからで、そもそも
最原初に自己への極限までの否定が行き届いていれば、他者の自我を否定して
小さくさせることが、自分並みの虚心坦懐さを他者に振り分けることになる。
正確にいえば、般若思想に基づいて他者を否定するものは、他者を"見下して"いるの
ではなく、十分に低い所から、高い所に有りすぎる他者の自我を引き摺り下ろしている。
そのため他者の否定が自己の思い上がりを生むことがなく、否定の意義が正当である
限りにおいて(不当であるときには見下している)、己れの精神の衛生を損なわない。
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