キリスト教「道徳」は、身体の持つ力を否定し、弱者の禁欲的な道徳に従うことをヨーロッパ人に求めた。
そして、それは、実に1500年以上もの永きにわたり、ヨーロッパを支配してきたのだった。
しかし、キリスト教「道徳」は、ニーチェの生きた19世紀、その力を急速に失っていった。
それは、ほかでもない、当時、圧倒的な普遍性を持って登場した科学との間に修復しがたい齟齬が生じたからである。
神も天国も存在しないなら(そして、実際に存在しないのだから)、それに基づくキリスト教「道徳」も砂上の楼閣にすぎない。
科学的理性によって「神が死ぬ (否定される)」と同時に「道徳」も死ななければならなくなったのである。
近代科学は、キリスト教的「道徳」がありもしない超越的な価値の上に成立していることを完膚なきまでに暴いたのである。
しかし、このとき、その力を失ったのは、キリスト教と「道徳」だけではなかった。
神も天国もないならば、「善」とは−体なんだろうか? あるいは、われわれの生の目的は? つまり、そのとき同時に人生の目的や価値さえ失効してしまったのである。
こうした状況をニーチェは「ニヒリズム」と呼んだ。ニヒリズムの語源はラテン語の「nihil=虚無」であり、あらゆる肯定的な価値を拒否し、何も信じない立場を指している。
科学を作り上げた近代的な理性は、理性的であることをつきつめた挙げ句、自分の依って立つ根拠を掘り崩してしまったのである。
つまり、ヨーロッパ的理性自体が、二ヒリズムの実践そのものだったのである。
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