キリストは、人々を救っているのでなく破滅に陥れている、天部ではなく
地獄・餓鬼・畜生の三悪趣を司る邪神ないしその化身であるという、現実がまずある。
三悪道の権化であるキリストやエホバが担っていたような業を、神道や道教やヒンズー教などの、
天部の神々が代行して請け負うなどということからして、決してあるべきことではない。
天部の神々どころか、人界の儒者や、修羅界の武士ですら、そのまま請け負うべきものではない。
まず、キリストやエホバが司っていた地獄・餓鬼・畜生の悲惨な悪業は、理念として賛美される
ことから完全に禁止されて然るべきもの。仮に、本当に理念としての価値を剥奪したところで、
それだけで江戸時代の火付盗賊のような、ならず者の「無道」までもが完全に根絶される
ことまでは期待できないが、少なくとも、犯罪行為が理念としての正当化や美化を施されて、
何億人もの人々を殺しまわるような、非常識な規模での推進まではされなくなる。
キリスト教徒やユダヤ教徒とて、最低限の人間生活を保つためには、
太古の昔から修羅・人・天の三善道や仏道とも共通するような理念に頼っていて、
強盗殺人の推進による破滅ばかりが本義である、犯罪聖書の理念からはむしろ遠ざかっている。
キリスト教徒やユダヤ教徒が犯罪聖書を棄てたからといって、今以上に人間的な生活が
覚束なくなるなどということは決してなく、今以上には少なからずまともな生活が
おくれるようになる。さらに、そこに四書五経などに基づく優良な生活規範がそなわれば、
外界からの大量強盗殺人などに頼らないでいて、以前以上にも快適な生活すら送れるようになる。
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