根本の問題は、
①この世界はどういう世界であるか
②人間とは何か、
という認識なのだと思う。
もし仮にインドの仏陀やヴェーダの真理が正しいならば、
①この世界には、カルマの負債の無い者、罪の無い者は生まれてこない。
②人間、命はすべて同じであり、神に等しい。
そうなる。
尚且つ、神とは、真理、愛、平安である。
ならば、罪人である自分が遭遇する敵を前にして、
殆どの者には、敵に報いる徳は無い。(それほどの徳のあるものはこの世界には生まれてこない)。
それは、この世の法則、因果律に沿った対処法になる。仏陀の見解と同じだ。
しかし、もはや、この世の因果に呑まれてしまった罪人は因果律さえ信じる力を失っている。
科学者が良い見本だ。自力で、この世界の因果律を離脱する力を失ってしまっている。
なので、何度も何度も、目の前の敵を打ち倒して、更なる因果に呑まれて、恨みを増大させてゆく。
もはや自力で自分を救えない者を、
神の子が人として生まれ自分を信じさせることによって、
愛という神の最高原理で敵を前にして対処する道を命じることになる。
それでも、自力では背負いきれないので、
神の子と神が責任を持って従おうとする罪人の重荷を身代わりになって背負うことになる。
それは、近年現れてきた、古神道の流れや、インドのヴェーダの流れと構造は同じだと思う。
2000年前のキリストが雛形になっているように見える。
聖書のイエスそのものは、不思議と、今でも新しくて古くならない。
でも、「キリスト教」がどうなのか、私は良く知らない。
私はこの写真が、ちょっとあれだけれども、好きだなあぁ。
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