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聖書 Part6
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世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。
特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

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仮に、自分が強盗などの犯罪被害に遭ったとしよう。
その強盗を行った相手が、ヒゲ面半裸のおっさんを連れて目の前に現れて、
「こいつが俺の代わりに罪を背負ってくれるから許してくれヘヘヘ」と言ってきたとしよう。
許せるもんかよ。
たとえその、代わりに罪を負ったヒゲ面半裸のおっさんが、民間人に対する刑罰
としては最重度にあたる磔刑で殺されようが、殺されてまた生き返ろうが(爆)、
罪を犯した張本人が罪を償わないのなら、決して許せるわけがない。
この程度のことは、自分が犯罪被害者の身になって考えてみればすぐに分かることなのに、
「アダムのあばら骨を一本とってイヴが作られた」と旧約に書いてあるもんだから、
「男のあばら骨は女よりも一本少ない」などという迷信を、ろくに調べることもなく
頑なに信じ続けていたキリスト教徒などには、その程度の注意力すらもが欠けているわけだ。
「性を成し存すべきを存するは、道義の門なり」
「人に天分として具わっている本性を成就させ、保存に努めるべき判断を
保存していくことが、道義に適うための唯一無二の門戸であるといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
その強盗を行った相手が、ヒゲ面半裸のおっさんを連れて目の前に現れて、
「こいつが俺の代わりに罪を背負ってくれるから許してくれヘヘヘ」と言ってきたとしよう。
許せるもんかよ。
たとえその、代わりに罪を負ったヒゲ面半裸のおっさんが、民間人に対する刑罰
としては最重度にあたる磔刑で殺されようが、殺されてまた生き返ろうが(爆)、
罪を犯した張本人が罪を償わないのなら、決して許せるわけがない。
この程度のことは、自分が犯罪被害者の身になって考えてみればすぐに分かることなのに、
「アダムのあばら骨を一本とってイヴが作られた」と旧約に書いてあるもんだから、
「男のあばら骨は女よりも一本少ない」などという迷信を、ろくに調べることもなく
頑なに信じ続けていたキリスト教徒などには、その程度の注意力すらもが欠けているわけだ。
「性を成し存すべきを存するは、道義の門なり」
「人に天分として具わっている本性を成就させ、保存に努めるべき判断を
保存していくことが、道義に適うための唯一無二の門戸であるといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
「一つことに打ち込みすぎた人間は長生きできない」とは、
清少納言の「枕草子」の言葉だったろうか。
これは、良くも悪しくも事実であることだ。
何も、権力犯罪のような悪行に限らず、諸々の荒行に打ち込む密教僧や、
座禅一つに一生をかける禅宗の僧侶などにも、無理がたたって早死にするものが多い。
しかし、専業を持つことは人にとっての常であり、行為能力的にはほとんど何もしていない俺だって、
ここ数年は四書五経などの優良な学問の勉強に打ち込んでいる。ただ、そこには「学者としての大成」
という目的が具わっていて、有能な学者となって世のため人のために貢献するという先行きが見定まっている。
バラモンの求道者なども、立派な祭司となるためにヴェーダやウパニシャッドを勉強するのだし、
念仏者も凡俗における往生という目的があって念仏を唱える。ただ勉強のための勉強、念仏のための念仏
ばかりに没頭して他が見えなくなったりするのでは、かえって何もしない以上もの害にすらなりかねない。
柳生宗矩とか宮本武蔵とかいった名武術家なども、剣の道で大成すると共に、参禅や芸術、芸能や政治などへの
造詣も極めて深く、多芸多能の人としての側面をも持ち合わせている。もちろん本業が疎かになっているのではなく、
本業に打ち込んだことの功徳を、他分野にすら振り向けられているということ。そのような余裕をもって
打ち込める本業こそは、真に道理や真理へも通ずる道たり得るのであり、他道を徹底的に排斥してまで
そればかりに没頭したりするのなら、おそらく落とし穴への落ち込みであるに違いないといえる。
「詩を誦すること三百、之れに授くるに政を以てして達せず、
四方に使いして專對する能わざれば、多しと雖も、亦た奚を以て為さん」
「たとえ詩を三百篇暗誦できるほどに勉強に努めたとしても、内政を担当して詩の精神を応用した
仁政を達成することができず、外交を担当しても詩の知識を応用して渡り合うことができないのでは、
どんなに多くの詩を学んでいたところで、それは取るに足りないことだ。(専らであることに成果を要求する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・五より)
清少納言の「枕草子」の言葉だったろうか。
これは、良くも悪しくも事実であることだ。
何も、権力犯罪のような悪行に限らず、諸々の荒行に打ち込む密教僧や、
座禅一つに一生をかける禅宗の僧侶などにも、無理がたたって早死にするものが多い。
しかし、専業を持つことは人にとっての常であり、行為能力的にはほとんど何もしていない俺だって、
ここ数年は四書五経などの優良な学問の勉強に打ち込んでいる。ただ、そこには「学者としての大成」
という目的が具わっていて、有能な学者となって世のため人のために貢献するという先行きが見定まっている。
バラモンの求道者なども、立派な祭司となるためにヴェーダやウパニシャッドを勉強するのだし、
念仏者も凡俗における往生という目的があって念仏を唱える。ただ勉強のための勉強、念仏のための念仏
ばかりに没頭して他が見えなくなったりするのでは、かえって何もしない以上もの害にすらなりかねない。
柳生宗矩とか宮本武蔵とかいった名武術家なども、剣の道で大成すると共に、参禅や芸術、芸能や政治などへの
造詣も極めて深く、多芸多能の人としての側面をも持ち合わせている。もちろん本業が疎かになっているのではなく、
本業に打ち込んだことの功徳を、他分野にすら振り向けられているということ。そのような余裕をもって
打ち込める本業こそは、真に道理や真理へも通ずる道たり得るのであり、他道を徹底的に排斥してまで
そればかりに没頭したりするのなら、おそらく落とし穴への落ち込みであるに違いないといえる。
「詩を誦すること三百、之れに授くるに政を以てして達せず、
四方に使いして專對する能わざれば、多しと雖も、亦た奚を以て為さん」
「たとえ詩を三百篇暗誦できるほどに勉強に努めたとしても、内政を担当して詩の精神を応用した
仁政を達成することができず、外交を担当しても詩の知識を応用して渡り合うことができないのでは、
どんなに多くの詩を学んでいたところで、それは取るに足りないことだ。(専らであることに成果を要求する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・五より)

人に加うること無からんと欲す。子曰く、賜や、爾じの及ぶ所に非ざるなり」
「(孔子の弟子の)子貢が言われた。『私は己の欲せざるところを人に施さないように
したいと思います』 孔先生は言われた。『賜よ、それはおまえにできることではない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一二)
孔子の弟子の中でも修辞弁舌に優れ、見た目で人を判断するような人間には「孔子よりも優れている」
というほどもの賛辞を受けたことのある(子張第十九・二五参照)子貢が、真正福音書(論語)中でも
特に有名な「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」の実践を志す旨を孔子に述べたところ、
「おまえには無理なことだ」と返された。もしかしたら、儒家道徳において賤業とされる投機で大金を
稼いでいた子貢の行状をも見越して、「おまえには所詮無理なことだ」と孔子も苦言を呈したのかもしれない。
ただ、この一文だけを根拠にするなら、孔子が子貢の「〜を欲する」という欲求不満を晒しつつ
同態加害忌避を志したところが矛盾じみているのを見抜いて、即座に「無理だ」と私的した可能性もある。
「孔子は老子に道家の奥義を教わった」という伝説があるが、道家の実践は無為自然であり、
欲求を消極化する点に集約されている。仕官を志して青い鳥状態の人生を送った孔子の有り様は、
決して道家の「絶対消極」の実践などにはなっていない。しかし、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」
という儒家の徳目を究極化したところには、道家や仏教における欲求の捨離が確かにあるわけで、
欲求を捨て去ることと、欲求たらたらであることの中庸を行くために、孔子が道家の欲求捨離の
理念を学び、そのわきまえによって、子貢の欲求不満をも見抜いた可能性は確かにある。
「顏淵、喟然と歎じて曰く、之れを仰げば彌よ高く、之れを鑽れば彌よ堅し。
之れを瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。夫子循循然として善く人を誘う。
我れを博むるに文を以てし、我れを約するに禮を以てす。罷めんと欲すれども能わず、
既でに吾が才を竭くせば、立つに所有りて卓爾たるが如し。之れに從わんと欲すと雖も、由る末きのみ」
「顔淵は嘆息しながら孔先生のことを評した。『仰ぎ見れば仰ぎ見るほどにさらに高く、
深く切り込もうとすれば切り込もうとするほどさらに堅いことが分かる。前にいるのを見たかと思えば、
次の瞬間には後ろにいるかというように捉えがたい。それでいて先生はよく手順を踏んで我われを教導してくれる。
我われを博識にするためには文章を教えてくださり、知識を要約して実践するためには礼儀を教えてくださる。
そのため、もう勉強をやめようかと思っても勿体なくてやめられず、私もすでにありとあらゆる才能を凝らして
先生に付いて行こうとした。それでやっと先生の泰然としたあり方が漠然ながらに把握できるようにも
なったが、ただそのあり方に従えばいいだけにも関わらず、全く付いていくことができない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一一)
東洋学のうちでは、初歩中の初歩に当たる人間道徳を体系化した孔子からして、やはり超人的なところがあり、
常人でありながら必死で孔子に付き従おうとした孔門の雄である顔淵も、夭折のうれき目に遭っている
修己治人は、治められる側が治める側に付き従いきれないほどにも、治める側の自助努力が究極的であるところに
達成されるものであり、治める側が治められる側に絶対服従を要求していられるほど、治める側が怠惰まみれと
化しているところでは決して達成され得ず、治める側の怠惰が治められる側にまで落とし込まれることともなる。
当然それは、修己治人が達成される場合と比べてより悪い結果しかもたらさず、治人に最善を尽くしていない
ことともなるから、権力道徳か権力犯罪かでいえば、権力犯罪に該当する所業とも原理的になるわけだ。
之れを瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。夫子循循然として善く人を誘う。
我れを博むるに文を以てし、我れを約するに禮を以てす。罷めんと欲すれども能わず、
既でに吾が才を竭くせば、立つに所有りて卓爾たるが如し。之れに從わんと欲すと雖も、由る末きのみ」
「顔淵は嘆息しながら孔先生のことを評した。『仰ぎ見れば仰ぎ見るほどにさらに高く、
深く切り込もうとすれば切り込もうとするほどさらに堅いことが分かる。前にいるのを見たかと思えば、
次の瞬間には後ろにいるかというように捉えがたい。それでいて先生はよく手順を踏んで我われを教導してくれる。
我われを博識にするためには文章を教えてくださり、知識を要約して実践するためには礼儀を教えてくださる。
そのため、もう勉強をやめようかと思っても勿体なくてやめられず、私もすでにありとあらゆる才能を凝らして
先生に付いて行こうとした。それでやっと先生の泰然としたあり方が漠然ながらに把握できるようにも
なったが、ただそのあり方に従えばいいだけにも関わらず、全く付いていくことができない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一一)
東洋学のうちでは、初歩中の初歩に当たる人間道徳を体系化した孔子からして、やはり超人的なところがあり、
常人でありながら必死で孔子に付き従おうとした孔門の雄である顔淵も、夭折のうれき目に遭っている
修己治人は、治められる側が治める側に付き従いきれないほどにも、治める側の自助努力が究極的であるところに
達成されるものであり、治める側が治められる側に絶対服従を要求していられるほど、治める側が怠惰まみれと
化しているところでは決して達成され得ず、治める側の怠惰が治められる側にまで落とし込まれることともなる。
当然それは、修己治人が達成される場合と比べてより悪い結果しかもたらさず、治人に最善を尽くしていない
ことともなるから、権力道徳か権力犯罪かでいえば、権力犯罪に該当する所業とも原理的になるわけだ。
脚本家の橋田壽賀子が昔、講演中に子供連れの母親から「良い母親になるためにはどうすれば」
と質問されたとき、その母親はまだ幼い子供をほっぽらかして講演に聞き入り、
子供は泣き喚いたり走り回ったりのわがまま放題で周囲に大迷惑をかけていたために、
「こんな講演には来ないで自分のお子さんをしっかり育て上げることです」と返答したそうな。
「金払って自分の講演を聴きに来た相手に言うようなことか」とも思うが、
言辞やその指し示すところの概念に囚われて、実践が疎かになるぐらいなら、
むしろ言葉や概念のほうを棄てて実践に努めたほうがよい。それは儒学とて同じことであり、
文の勉強ばかりに耽って、実践を疎かにするようなことがあってはならぬと、
孔子も以下のように述べている。仮に実践以上にも言葉や概念への耽溺を促すような
教義があるとすれば、それだけでも人間道徳に反する異端の邪学であるということがいえる。
「弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、
汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば、則ち以て文を学べ」
「若者たちよ、家に入るときは親への孝行を尽くし、外出したときにも悌順であり、
慎んで信実であるように。広く偏ることなく大衆を愛することで仁徳に親しみ、
それだけの実践を尽くしてなお余力が残っているようなら、そこで初めて文章を学ぶことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・六より)
と質問されたとき、その母親はまだ幼い子供をほっぽらかして講演に聞き入り、
子供は泣き喚いたり走り回ったりのわがまま放題で周囲に大迷惑をかけていたために、
「こんな講演には来ないで自分のお子さんをしっかり育て上げることです」と返答したそうな。
「金払って自分の講演を聴きに来た相手に言うようなことか」とも思うが、
言辞やその指し示すところの概念に囚われて、実践が疎かになるぐらいなら、
むしろ言葉や概念のほうを棄てて実践に努めたほうがよい。それは儒学とて同じことであり、
文の勉強ばかりに耽って、実践を疎かにするようなことがあってはならぬと、
孔子も以下のように述べている。仮に実践以上にも言葉や概念への耽溺を促すような
教義があるとすれば、それだけでも人間道徳に反する異端の邪学であるということがいえる。
「弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、
汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば、則ち以て文を学べ」
「若者たちよ、家に入るときは親への孝行を尽くし、外出したときにも悌順であり、
慎んで信実であるように。広く偏ることなく大衆を愛することで仁徳に親しみ、
それだけの実践を尽くしてなお余力が残っているようなら、そこで初めて文章を学ぶことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・六より)
学識ってのは、本を読めば読むだけ身に付く。
今の薄っぺらい教科書+ノートへの書き込みが主流な学校での勉強は、
ただの「記号試験」に受かるための能力が身に付くだけで、
学識は全く身に付かない上に、生きる上で何の役にも立たない
記号操作の勉強ばかりをやらされるせいで、勉学が嫌いになる原因にばかりなる。
学識は、本を読みさえすれば身に付くが、当然学識を身に付けるばかりが人生でもなく、
学んだ知識に相応の実践が追いつかなければならない。もっと言えば、勉学すら抜きにした
実践が、自然と学識の理に適うぐらいであるほうがいいわけで、ただ本能に赴くままでいて
完全に理に適うなんてこともなかなかないことだから、学識による実践の修正をも
踏まえるというのが、文武両道もとい、文と実践の両立の理想的な姿だといえる。
もちろん、「強盗殺人を成功させるための学識」なんてものも中にはあるわけで、
そういう劣悪な学識を決して実践せず、できることなら始めから取り入れもせず、
世のため人のためとなる優良な学識だけをよく取り入れて、実践するようにしなければならない。
今の薄っぺらい教科書+ノートへの書き込みが主流な学校での勉強は、
ただの「記号試験」に受かるための能力が身に付くだけで、
学識は全く身に付かない上に、生きる上で何の役にも立たない
記号操作の勉強ばかりをやらされるせいで、勉学が嫌いになる原因にばかりなる。
学識は、本を読みさえすれば身に付くが、当然学識を身に付けるばかりが人生でもなく、
学んだ知識に相応の実践が追いつかなければならない。もっと言えば、勉学すら抜きにした
実践が、自然と学識の理に適うぐらいであるほうがいいわけで、ただ本能に赴くままでいて
完全に理に適うなんてこともなかなかないことだから、学識による実践の修正をも
踏まえるというのが、文武両道もとい、文と実践の両立の理想的な姿だといえる。
もちろん、「強盗殺人を成功させるための学識」なんてものも中にはあるわけで、
そういう劣悪な学識を決して実践せず、できることなら始めから取り入れもせず、
世のため人のためとなる優良な学識だけをよく取り入れて、実践するようにしなければならない。
肉体上は重犯罪を犯し続けている人間に対して、重度精神障害への
罹患を促し、罪を犯し続ける状態のままでいて、罪悪感だけを取り除く。
本人たち自身は罪に定められなくなったつもりでいても、現実問題として
極重の罪悪が積み重ねられ続け、それにより人類が破滅や滅亡へとも陥れられる。
「信者の罪を清める宗教」という看板を掲げているキリスト教の正体は、
「罪悪極重の犯罪者から罪悪感だけを取り除くサイコパス増進宗教」であり、
「それにより人類を破滅や滅亡へとも陥れる重権力犯罪宗教」であった。
精神障害者が、自分たちの脳内だけで通用させている「キリスト教は信者
から罪を取り除く宗教である」という思い込みを、最低でも非キリスト教徒
ぐらいは「全くの誤謬である」のだとわきまえて、そのような致命的な
誤認識を、世の中に通用させていかないように努めていかなければならない。
「今之の時に當たりて、萬乘の國仁政を行わば、民の之れを酇ぶこと、猶お倒懸を解かるるがごとし。
故に事は古の人の半ばにして、功は必ず之の倍となる、惟だ此の時を然りと為さんのみ」
「今のような(重権力犯罪が横行することで民が皆な極度の疲弊に追い込まれている)時代
だからこそ、領地が万乗に及ぶような大国が(権力犯罪を駆逐する)仁政を行えば、民はそれを、
まるで逆さ吊りの苦しみから解放されたかのように喜ぶであろう。そのため仁政を施す側としても、
古人の半分程度の労力だけで、昔の倍以上もの成果が期待できる。今こそはまさにその時なのだ。
(罪悪感だけを取り除かれて現実には罪を犯させられ続けることは、逆さ吊りほどもの苦しみである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)
罹患を促し、罪を犯し続ける状態のままでいて、罪悪感だけを取り除く。
本人たち自身は罪に定められなくなったつもりでいても、現実問題として
極重の罪悪が積み重ねられ続け、それにより人類が破滅や滅亡へとも陥れられる。
「信者の罪を清める宗教」という看板を掲げているキリスト教の正体は、
「罪悪極重の犯罪者から罪悪感だけを取り除くサイコパス増進宗教」であり、
「それにより人類を破滅や滅亡へとも陥れる重権力犯罪宗教」であった。
精神障害者が、自分たちの脳内だけで通用させている「キリスト教は信者
から罪を取り除く宗教である」という思い込みを、最低でも非キリスト教徒
ぐらいは「全くの誤謬である」のだとわきまえて、そのような致命的な
誤認識を、世の中に通用させていかないように努めていかなければならない。
「今之の時に當たりて、萬乘の國仁政を行わば、民の之れを酇ぶこと、猶お倒懸を解かるるがごとし。
故に事は古の人の半ばにして、功は必ず之の倍となる、惟だ此の時を然りと為さんのみ」
「今のような(重権力犯罪が横行することで民が皆な極度の疲弊に追い込まれている)時代
だからこそ、領地が万乗に及ぶような大国が(権力犯罪を駆逐する)仁政を行えば、民はそれを、
まるで逆さ吊りの苦しみから解放されたかのように喜ぶであろう。そのため仁政を施す側としても、
古人の半分程度の労力だけで、昔の倍以上もの成果が期待できる。今こそはまさにその時なのだ。
(罪悪感だけを取り除かれて現実には罪を犯させられ続けることは、逆さ吊りほどもの苦しみである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)
「身体が光る」という表現は、比喩表現にしろ神秘にしろ、
古今東西で不偏的に好んで用いられるもの。
ただ、陰陽解釈の行き届いている東洋においては、自力の修行や修養が達成された者こそが
自身の身体から光を発するようになり、未だ未熟な凡夫の場合は光り輝くどころか、
かえって闇に取り込まれて無明をさまようこととされる。
だから、自力作善の菩薩業を達成して仏となった阿弥陀如来が、
無量の光によって闇をさまよう凡夫を照らし出すなどともされるのであり、
修養も怠ったままの凡夫が光を発するなどという解釈は行われない。
自意識過剰にまみれたただの女が、無明にまみれた陰湿な性格の持ち主となる一方で、
良妻賢母となることでアマテラスの如く家を照らし出す光ともなるように、
自力修養というよりは受動が本分である女にも、女であるなりの身の程のわきまえによって
光り輝く身体を手に入れることのできる途が開かれている。
古今東西で不偏的に好んで用いられるもの。
ただ、陰陽解釈の行き届いている東洋においては、自力の修行や修養が達成された者こそが
自身の身体から光を発するようになり、未だ未熟な凡夫の場合は光り輝くどころか、
かえって闇に取り込まれて無明をさまようこととされる。
だから、自力作善の菩薩業を達成して仏となった阿弥陀如来が、
無量の光によって闇をさまよう凡夫を照らし出すなどともされるのであり、
修養も怠ったままの凡夫が光を発するなどという解釈は行われない。
自意識過剰にまみれたただの女が、無明にまみれた陰湿な性格の持ち主となる一方で、
良妻賢母となることでアマテラスの如く家を照らし出す光ともなるように、
自力修養というよりは受動が本分である女にも、女であるなりの身の程のわきまえによって
光り輝く身体を手に入れることのできる途が開かれている。
自力修養によって光り輝く身となったり、貞順な女であることで家の光となったりすることは
確かにあることだが、ただの凡夫のままであったり、よそ様の子を身ごもる淫蕩な娼婦だったりすることで
身体が光り輝くなどということは陰陽の法則に根ざしておらず、従って実際にはあり得ないことだ。
それは真っ暗闇を光明だと勘違いするような、錯覚によって思い込んでしまったりしているだけのことだ。
「季氏の祭は、暗に逮びて祭る。日足らず、之れを繼ぐに燭を以てす。強力の容、肅敬の心有りと雖も、皆な倦怠す」
「魯の家老の季孫子は、夜暗くなってから祭りを執り行っていた。当然明かりが足りないので、蝋燭を用いて祭事場を照らしていた。
するといくらいかめしい容貌をしようが、粛々とした敬いの気持ちを持とうが、誰しもが倦怠心を抱かざるを得なくなった。
(『暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう』ではなく、まず暗い状況から好き好むべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
確かにあることだが、ただの凡夫のままであったり、よそ様の子を身ごもる淫蕩な娼婦だったりすることで
身体が光り輝くなどということは陰陽の法則に根ざしておらず、従って実際にはあり得ないことだ。
それは真っ暗闇を光明だと勘違いするような、錯覚によって思い込んでしまったりしているだけのことだ。
「季氏の祭は、暗に逮びて祭る。日足らず、之れを繼ぐに燭を以てす。強力の容、肅敬の心有りと雖も、皆な倦怠す」
「魯の家老の季孫子は、夜暗くなってから祭りを執り行っていた。当然明かりが足りないので、蝋燭を用いて祭事場を照らしていた。
するといくらいかめしい容貌をしようが、粛々とした敬いの気持ちを持とうが、誰しもが倦怠心を抱かざるを得なくなった。
(『暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう』ではなく、まず暗い状況から好き好むべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
侮辱や名誉毀損ってのは、法的に無罪である場合もあれば、戦術上有効である場合もある。
相手を執拗に侮辱することで憤慨させ、冷静さを見失わせて妄動に走らせることで自滅に追い込むという戦法が
太古の昔から中国や日本などで行われていて、そのような戦法の有効さが武経七書中の「六韜」や「尉繚子」
などにも載っている。しかし、その「六韜」や「尉繚子」からして、相手を侮辱して妄動に走らせるような
戦法はあくまで有事に限っての非常手段であり、平時にはこのような非道な戦法は破棄して、侮辱や悪口
全般を立ち消えにさせていく仁政に励まなければならないとも述べている。また、その志があればこそ、
侮辱級の非道戦法を有事に限って特用することにも正当性が具わるのであり、平時にも悪口雑言を
垂れ流し続ける程度の軟弱な心持ちで入れば、侮辱戦法も本当に非道極まりないものと化してしまう。
だから、最大級の非道戦法に正当性を具わらせるためにも、日ごろの道徳の修練から欠かせないといえる。
「君子は衆寡と無く、小大と無く、敢えて慢ること無し」
「君子は支持者の多少や権勢の大小などに関わらず、自らを驕ったり他者を侮ったりはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十より)
相手を執拗に侮辱することで憤慨させ、冷静さを見失わせて妄動に走らせることで自滅に追い込むという戦法が
太古の昔から中国や日本などで行われていて、そのような戦法の有効さが武経七書中の「六韜」や「尉繚子」
などにも載っている。しかし、その「六韜」や「尉繚子」からして、相手を侮辱して妄動に走らせるような
戦法はあくまで有事に限っての非常手段であり、平時にはこのような非道な戦法は破棄して、侮辱や悪口
全般を立ち消えにさせていく仁政に励まなければならないとも述べている。また、その志があればこそ、
侮辱級の非道戦法を有事に限って特用することにも正当性が具わるのであり、平時にも悪口雑言を
垂れ流し続ける程度の軟弱な心持ちで入れば、侮辱戦法も本当に非道極まりないものと化してしまう。
だから、最大級の非道戦法に正当性を具わらせるためにも、日ごろの道徳の修練から欠かせないといえる。
「君子は衆寡と無く、小大と無く、敢えて慢ること無し」
「君子は支持者の多少や権勢の大小などに関わらず、自らを驕ったり他者を侮ったりはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十より)
>>144の孔子と子貢のやり取りや、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」という
教条からも分かるとおり、儒学にも多少は欲望に対する抑制的な姿勢が具わっている。
しかし、決して「禁欲主義」ではなく、「道義に適った富はいただきます(里仁第四・五)」ともいう。
周の武王への仕官も諦めて餓死した伯夷・叔斉兄弟の禁欲的な姿勢と、周囲が悪臣ばかりでも
「人は人、我は我>>110」と歯牙にもかけず仕官を続けた柳下恵の欲求まみれな姿勢と、
いずれもが中庸に適ってはおらず、そこそこに道義が通用する場合に限って
仕官を志した孔子の姿勢こそは中庸に適っていて、欲求が棄てられまではしない
範囲で適度に抑制された理想的な姿だったと、孟子も評している。
柳下恵並みかそれ以上にも、欲求ばかりを肯定しまくる犯罪聖書の志向と完全な対蹠関係に
あるのは、伯夷・叔斉並みかそれ以上もの欲求の捨て去りを旨とする道家や小乗仏教であり、
欲求を全否定もしなければ全肯定もしない、儒家や大乗仏教の中正志向とは対蹠関係にすらない。
そこは、確かに「欲望は貪り尽くすものか捨て去るもの」という単細胞にまみれている
現代人などには理解しがたいところであり、むしろ欲求を完全に捨て去って、道家や上座部の
徒となるほうが想像も付きやすいものであるのかもしれない。しかし、犯罪聖書が信者に
強要している欲望肥大化志向が、人類をいま破滅の危機に陥れている一方で、欲求を完全に
捨て去って結婚や子作りすらやめてしまう隠退志向もまた、別の意味で世を衰退させかねないもの。
教条からも分かるとおり、儒学にも多少は欲望に対する抑制的な姿勢が具わっている。
しかし、決して「禁欲主義」ではなく、「道義に適った富はいただきます(里仁第四・五)」ともいう。
周の武王への仕官も諦めて餓死した伯夷・叔斉兄弟の禁欲的な姿勢と、周囲が悪臣ばかりでも
「人は人、我は我>>110」と歯牙にもかけず仕官を続けた柳下恵の欲求まみれな姿勢と、
いずれもが中庸に適ってはおらず、そこそこに道義が通用する場合に限って
仕官を志した孔子の姿勢こそは中庸に適っていて、欲求が棄てられまではしない
範囲で適度に抑制された理想的な姿だったと、孟子も評している。
柳下恵並みかそれ以上にも、欲求ばかりを肯定しまくる犯罪聖書の志向と完全な対蹠関係に
あるのは、伯夷・叔斉並みかそれ以上もの欲求の捨て去りを旨とする道家や小乗仏教であり、
欲求を全否定もしなければ全肯定もしない、儒家や大乗仏教の中正志向とは対蹠関係にすらない。
そこは、確かに「欲望は貪り尽くすものか捨て去るもの」という単細胞にまみれている
現代人などには理解しがたいところであり、むしろ欲求を完全に捨て去って、道家や上座部の
徒となるほうが想像も付きやすいものであるのかもしれない。しかし、犯罪聖書が信者に
強要している欲望肥大化志向が、人類をいま破滅の危機に陥れている一方で、欲求を完全に
捨て去って結婚や子作りすらやめてしまう隠退志向もまた、別の意味で世を衰退させかねないもの。
「仕事は執拗に欲しようとすべきものでも、殊更に拒絶しようと
すべきものでもない(言志四録)」という佐藤一斎の言葉のとおり、
欲求が過剰でも貧困でもない適度な状態においてこそ、よい仕事もなされるものだ。
「王曰く、寡人疾有り、寡人貨を好めり。對えて曰く、(中略)
王如し貨を好むも、百姓と之れを與すれば、王たるに於いて何の不可か有らん」
「斉の宣王が孟子に問うた。『わしには一つ病が有ってな、財産を集めるのが大好きなのだ。
これを一体どうしたらよかろう』 孟子は答えて言った。『王様が仮に財産収集を好むとしても、
その財産を万民と共に用いるのであれば、どうして王であることの支障になりましょうや』
(富貴への欲求を『病』と見なしている宣王のわきまえも、過剰な欲望を病とすら見なさない
犯罪聖書の著者などよりは達観したものだといえるが、その欲求が仁義にすら根ざしていれば、
王たるにおいて何らの支障を来たすこともないという孟子の見解は、さらにその上を行っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・五より)
すべきものでもない(言志四録)」という佐藤一斎の言葉のとおり、
欲求が過剰でも貧困でもない適度な状態においてこそ、よい仕事もなされるものだ。
「王曰く、寡人疾有り、寡人貨を好めり。對えて曰く、(中略)
王如し貨を好むも、百姓と之れを與すれば、王たるに於いて何の不可か有らん」
「斉の宣王が孟子に問うた。『わしには一つ病が有ってな、財産を集めるのが大好きなのだ。
これを一体どうしたらよかろう』 孟子は答えて言った。『王様が仮に財産収集を好むとしても、
その財産を万民と共に用いるのであれば、どうして王であることの支障になりましょうや』
(富貴への欲求を『病』と見なしている宣王のわきまえも、過剰な欲望を病とすら見なさない
犯罪聖書の著者などよりは達観したものだといえるが、その欲求が仁義にすら根ざしていれば、
王たるにおいて何らの支障を来たすこともないという孟子の見解は、さらにその上を行っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・五より)
削除(by投稿者)
「君子は食飽かんことを求むること無く、居安からんことを求むること無し。
事に敏にして言に慎しみ、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ(既出の引用)」
「君子は自らの衣食住が専らに充実していることなどを求めたりはせず、
物事を行うには敏速であり、ものを言うことにも慎みを持ち、ただ勉学を好むばかりである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一四より)
欲求を全肯定するわけでもなければ全否定するわけでもなく、適度に抑制する儒家としては、
欲求すべきものと欲求すべきでないものの分別を付けることが第一義に置かれる。
そこで、儒家において欲求すべきとされるもの、欲求されるべきでないとされるものを示した
上記の引用を鑑みるに、これは犯罪聖書の教条とあべこべになっている。犯罪聖書が信者に
対して自らの衣食住の専らな充実を欲求するように促し、自力作善が敏速であったり、
言葉に慎みがあったり勉学を好んだりすることは決して欲求するものではないとしている
のに対し、儒家の聖書である四書五経においては、その真逆であるように促されている。
これこそは、欲求を適度に制御した結実であり、制御された欲求と、制御を振り切って
無制限の貪りと化した欲求とは、その位相が逆転する。制御された適度な欲求が、人間に
より優良な思考規範や言動規範を具わらせる一方で、無制限の貪りと化した欲求は、
かえって人間に対してより劣悪な思考規範や言動規範を具わらせることとなってしまう。
あらゆる欲求を捨て去る過程において、勉学すら辞め去っての「絶学無憂(老子)」を促す
道家の教条などは、儒家においても受け入れられるものではないが、さりとてあらゆる欲求の
捨て去りを促す道家や小乗仏教の教理なども、無制限の欲求の貪りによって最低最悪の
思考規範や言動規範を信者に植え付ける、犯罪聖書ほどにも悪いものであるわけではない。
事に敏にして言に慎しみ、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ(既出の引用)」
「君子は自らの衣食住が専らに充実していることなどを求めたりはせず、
物事を行うには敏速であり、ものを言うことにも慎みを持ち、ただ勉学を好むばかりである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一四より)
欲求を全肯定するわけでもなければ全否定するわけでもなく、適度に抑制する儒家としては、
欲求すべきものと欲求すべきでないものの分別を付けることが第一義に置かれる。
そこで、儒家において欲求すべきとされるもの、欲求されるべきでないとされるものを示した
上記の引用を鑑みるに、これは犯罪聖書の教条とあべこべになっている。犯罪聖書が信者に
対して自らの衣食住の専らな充実を欲求するように促し、自力作善が敏速であったり、
言葉に慎みがあったり勉学を好んだりすることは決して欲求するものではないとしている
のに対し、儒家の聖書である四書五経においては、その真逆であるように促されている。
これこそは、欲求を適度に制御した結実であり、制御された欲求と、制御を振り切って
無制限の貪りと化した欲求とは、その位相が逆転する。制御された適度な欲求が、人間に
より優良な思考規範や言動規範を具わらせる一方で、無制限の貪りと化した欲求は、
かえって人間に対してより劣悪な思考規範や言動規範を具わらせることとなってしまう。
あらゆる欲求を捨て去る過程において、勉学すら辞め去っての「絶学無憂(老子)」を促す
道家の教条などは、儒家においても受け入れられるものではないが、さりとてあらゆる欲求の
捨て去りを促す道家や小乗仏教の教理なども、無制限の欲求の貪りによって最低最悪の
思考規範や言動規範を信者に植え付ける、犯罪聖書ほどにも悪いものであるわけではない。
「賤しき丈夫有り、必ず龍斷を求めて之れに登り、以て左右を望みて市利を罔せり。
人皆な以て賤しと為す、故に從いて之れを征せり。商に征するは、此の賤しき丈夫より始まれり」
「昔、それはそれは品性の下劣な男がいて、市場があれば、必ずその市場を見渡せる小高い丘を
探し求めて、そこから市場を見下ろして、こちらで安く売ってるものをあちらでは高く売り、
あちらで安く売ってるものをこちらでは高く売ったりする、投機によって利息を儲けていいた。
そのため誰しもがこの男を卑しみ、役人もこの男の振る舞いを見かねて、この男に高い税金をかける
ようにした。商売人に税金をかける制度も、まさにこの恥知らずで欲深い男の所業により始まったのだ。
(品性下劣な欲求の過剰が自業自他得で迷惑を及ぼすことに至った例。孟子は市場課税緩和論者でもあり、
このような下劣な欲求の行き過ぎすらなければ、市場への課税も店舗税などの限られたものだけで済むという)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一〇より)
人皆な以て賤しと為す、故に從いて之れを征せり。商に征するは、此の賤しき丈夫より始まれり」
「昔、それはそれは品性の下劣な男がいて、市場があれば、必ずその市場を見渡せる小高い丘を
探し求めて、そこから市場を見下ろして、こちらで安く売ってるものをあちらでは高く売り、
あちらで安く売ってるものをこちらでは高く売ったりする、投機によって利息を儲けていいた。
そのため誰しもがこの男を卑しみ、役人もこの男の振る舞いを見かねて、この男に高い税金をかける
ようにした。商売人に税金をかける制度も、まさにこの恥知らずで欲深い男の所業により始まったのだ。
(品性下劣な欲求の過剰が自業自他得で迷惑を及ぼすことに至った例。孟子は市場課税緩和論者でもあり、
このような下劣な欲求の行き過ぎすらなければ、市場への課税も店舗税などの限られたものだけで済むという)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一〇より)
虐げからの解放を望んでいたりしながらも、結局は新たな服従対象を
探し求めようとするだけの「心の奴隷」、そのような性向全般が
小人か、さもなくば女子に特有の性分であり、そういう性分にしか
止まっていられない人種がいるのも確かではあるにしろ、そのような
性向をこそ好き好んで標榜するようなことからして、あるべきではない。
「君子は○○、小人は××」という比較を存命中に展開していた孔子も、
自らは専ら士大夫などの君子階級としての成功を志し、民間での隠遁に
甘んずることを奨励する道家的な隠者の誘いなども蹴っている。
孟子ともなれば、もはや小人の卑俗な行状すら論おうとはせず、
君子階級の中で特に優秀であったものと、そこまではいかないもの、
君子として失格であったものなどの比較に止めるばかりで、実社会上の
小人=被支配者に関する言及をほとんど辞め去ってしまっている。
四書五経は社会的被支配者に関する積極的な論及に乏しく、
専ら君主や君子といった支配階級のあり方ばかりをあげつらっている、
にもかかわらずではなくだからこそ、従うを以てよしとなす小人女子の
性向ばかりをやたらに論うことで、万民に奴隷根性を植え付けて
しまう犯罪聖書の上位互換的な代替としても、最適なのである。
探し求めようとするだけの「心の奴隷」、そのような性向全般が
小人か、さもなくば女子に特有の性分であり、そういう性分にしか
止まっていられない人種がいるのも確かではあるにしろ、そのような
性向をこそ好き好んで標榜するようなことからして、あるべきではない。
「君子は○○、小人は××」という比較を存命中に展開していた孔子も、
自らは専ら士大夫などの君子階級としての成功を志し、民間での隠遁に
甘んずることを奨励する道家的な隠者の誘いなども蹴っている。
孟子ともなれば、もはや小人の卑俗な行状すら論おうとはせず、
君子階級の中で特に優秀であったものと、そこまではいかないもの、
君子として失格であったものなどの比較に止めるばかりで、実社会上の
小人=被支配者に関する言及をほとんど辞め去ってしまっている。
四書五経は社会的被支配者に関する積極的な論及に乏しく、
専ら君主や君子といった支配階級のあり方ばかりをあげつらっている、
にもかかわらずではなくだからこそ、従うを以てよしとなす小人女子の
性向ばかりをやたらに論うことで、万民に奴隷根性を植え付けて
しまう犯罪聖書の上位互換的な代替としても、最適なのである。
商売に従事する民間人ですら、>>156のような身勝手な投機を戒める「孟子」
中の記述をよしとして、放辟邪侈に走ることを自重したなら、今ではまだ
非現実的に思える孟子の急進的な税制緩和策なども、実現の目処が立ってくる。
とはいえ>>156の記述も、為政者の側から民間を鑑みた形式の記述であり、
徴税人を「賤しい職業」だなどと見なす、民間人の側に立ったイエスの
ものの考え方などとは一線を画している。だからこそ、十分に民間人の放逸を
戒めて、かえってそれにより減税などの民間優遇をも可能ならしめてもいる。
民の自意識を、民の側に立ったものの考え方でさらに肥大化させて、イヤでも
民の放蕩をトップダウンに抑え付けなければならなくなるような事態が生ずる
ことから、為政者の立場に立ったものの考え方でこそ、なくすことができる。
「而の拇を解く。(中略)君子維れを解く有りて吉なり。小人に孚あり。君子解く有りとは、小人退けばなり。
公を用いて隼を高墉の上に射る。之れを獲て利ろしからざる無し。公を用いて隼を射るとは、以て悖れるを解くなり」
「手指にはめられたかせを、君子が誠実な小人から解いてやれば吉である。君子が拘束を解いてやるのは、
小人のほうに身の程をわきまえて、一歩引いた所でおとなしくしている徳が芽生えた場合のことである。
小人の分際で未だ退くこともわきまえないような輩がいるのなら、高い塀の上に止まっている隼を
弓矢で射殺すようにして、それらを誅戮してしまったとしても特に問題はない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・九四‐上六および象伝より)
中の記述をよしとして、放辟邪侈に走ることを自重したなら、今ではまだ
非現実的に思える孟子の急進的な税制緩和策なども、実現の目処が立ってくる。
とはいえ>>156の記述も、為政者の側から民間を鑑みた形式の記述であり、
徴税人を「賤しい職業」だなどと見なす、民間人の側に立ったイエスの
ものの考え方などとは一線を画している。だからこそ、十分に民間人の放逸を
戒めて、かえってそれにより減税などの民間優遇をも可能ならしめてもいる。
民の自意識を、民の側に立ったものの考え方でさらに肥大化させて、イヤでも
民の放蕩をトップダウンに抑え付けなければならなくなるような事態が生ずる
ことから、為政者の立場に立ったものの考え方でこそ、なくすことができる。
「而の拇を解く。(中略)君子維れを解く有りて吉なり。小人に孚あり。君子解く有りとは、小人退けばなり。
公を用いて隼を高墉の上に射る。之れを獲て利ろしからざる無し。公を用いて隼を射るとは、以て悖れるを解くなり」
「手指にはめられたかせを、君子が誠実な小人から解いてやれば吉である。君子が拘束を解いてやるのは、
小人のほうに身の程をわきまえて、一歩引いた所でおとなしくしている徳が芽生えた場合のことである。
小人の分際で未だ退くこともわきまえないような輩がいるのなら、高い塀の上に止まっている隼を
弓矢で射殺すようにして、それらを誅戮してしまったとしても特に問題はない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・九四‐上六および象伝より)
為政者が急進的で、民間人が隠退的であるところに、世の平穏の秘訣があり、
民間人が主導的で、為政者が隷従的であるところに、世の破滅の元凶がある。
なればこそ、為政者の理想的なあり方ばかりを記した四書五経こそは、
民間人の放辟邪侈ばかりを標榜した犯罪聖書の完全互換として相応しい。
為政哲学、にもかかわらずではなくだからこそ、標榜するのに相応しく、
小人肯定、にもかかわらずではなくだからこそ、標榜するのに相応しくない。
四書五経の記述姿勢(為政の標榜)と犯罪聖書の記述姿勢(民間の標榜)、
そこからすでに、実相の吉凶禍福を選り分ける根本的な精神原理に根ざしており、
四書五経の記述姿勢が、吉相を呼び込んで福徳を増す効果を帯びている一方で、
犯罪聖書の記述姿勢は、凶相に基づく災いばかりを呼び込むようにできている。
為政者の主観ばかりしか載っていないからこそ、四書五経はその存在性から大吉であり、
民間人の主観ばかりしか載っていないからこそ、犯罪聖書はその存在性から大凶である。
為政者の積極性と、民間人の消極性を殊更に定立しているからこそ、
存在性の根本から吉祥なのが四書五経であるという、現実から逃げるんじゃない。
民間人が主導的で、為政者が隷従的であるところに、世の破滅の元凶がある。
なればこそ、為政者の理想的なあり方ばかりを記した四書五経こそは、
民間人の放辟邪侈ばかりを標榜した犯罪聖書の完全互換として相応しい。
為政哲学、にもかかわらずではなくだからこそ、標榜するのに相応しく、
小人肯定、にもかかわらずではなくだからこそ、標榜するのに相応しくない。
四書五経の記述姿勢(為政の標榜)と犯罪聖書の記述姿勢(民間の標榜)、
そこからすでに、実相の吉凶禍福を選り分ける根本的な精神原理に根ざしており、
四書五経の記述姿勢が、吉相を呼び込んで福徳を増す効果を帯びている一方で、
犯罪聖書の記述姿勢は、凶相に基づく災いばかりを呼び込むようにできている。
為政者の主観ばかりしか載っていないからこそ、四書五経はその存在性から大吉であり、
民間人の主観ばかりしか載っていないからこそ、犯罪聖書はその存在性から大凶である。
為政者の積極性と、民間人の消極性を殊更に定立しているからこそ、
存在性の根本から吉祥なのが四書五経であるという、現実から逃げるんじゃない。
「何もかもが重権力犯罪で塗り固められた、罪悪深重の濁世において、
何をするよりも何もしないでいたほうがマシである」という、俺が何度も
何度もここで展開して来た自論は、儒家よりはむしろ道家の教理に根ざしている。
国に道が有れば仕え、道が無ければ仕えないのが儒家の教理なわけで、
道が無いから仕えないことに専らであることは、儒家の教理に反している
わけではなくとも、儒学のいち側面を実践しているだけに過ぎない。
中国の春秋戦国時代並みか、それ以上もの社会腐敗が横行している現代において、
たとえ孔子や孟子並みの聖人君子が現れたところで、それが時宜に適って
いないのなら大した成果も挙げられないだろうことが、孔子や孟子の、
"いち政治家として"の、大成功とまではいかない業績からも明らかである。
(もちろん孔子や孟子も"学者として"は空前の大成功を修めている)
もはや自分たちの理想主義的な仁義論が、腐敗まみれの諸侯などに受け入れられは
しないことを半ば察しつつも、遊説で自分たちの説が広まり、孔子も孟子も荀子も
亡くなってから、秦楚漢戦争を通じてやっと春秋戦国時代にも終止符が打たれ、
漢帝国の主導によって初めて儒学の仁義道徳が国教的な扱いを受けるまでになった。
儒学国教化後の漢代の中国においては、もはや孔子や孟子ほどもの大儒は現れず、
もっぱら春秋戦国時代には机上の空論扱いをされていた儒学の資料(五経等)の整理や、
その体系的な実践に務められ、以て前漢と後漢併せて400年もの泰平統治を実現したのだった。
何をするよりも何もしないでいたほうがマシである」という、俺が何度も
何度もここで展開して来た自論は、儒家よりはむしろ道家の教理に根ざしている。
国に道が有れば仕え、道が無ければ仕えないのが儒家の教理なわけで、
道が無いから仕えないことに専らであることは、儒家の教理に反している
わけではなくとも、儒学のいち側面を実践しているだけに過ぎない。
中国の春秋戦国時代並みか、それ以上もの社会腐敗が横行している現代において、
たとえ孔子や孟子並みの聖人君子が現れたところで、それが時宜に適って
いないのなら大した成果も挙げられないだろうことが、孔子や孟子の、
"いち政治家として"の、大成功とまではいかない業績からも明らかである。
(もちろん孔子や孟子も"学者として"は空前の大成功を修めている)
もはや自分たちの理想主義的な仁義論が、腐敗まみれの諸侯などに受け入れられは
しないことを半ば察しつつも、遊説で自分たちの説が広まり、孔子も孟子も荀子も
亡くなってから、秦楚漢戦争を通じてやっと春秋戦国時代にも終止符が打たれ、
漢帝国の主導によって初めて儒学の仁義道徳が国教的な扱いを受けるまでになった。
儒学国教化後の漢代の中国においては、もはや孔子や孟子ほどもの大儒は現れず、
もっぱら春秋戦国時代には机上の空論扱いをされていた儒学の資料(五経等)の整理や、
その体系的な実践に務められ、以て前漢と後漢併せて400年もの泰平統治を実現したのだった。
机上の空論扱いではあったものの、後世にも末永く享受される仁義道徳が生成された春秋戦国時代の乱世、
もはや仁義道徳の新造は控えられたものの、実際に仁義が実践されて長期の泰平が実現された漢代や唐代。
乱世には乱世なりの、治世には治世なりの相応の振る舞いがあって、その振る舞いに
よって相応の功績が挙げられている。一方で、乱世にこそ権力掌握を志して腐敗にまみれ、後世に
汚名を残した輩もいれば、治世になっても性懲りもなく隠退を続けて怠け者扱いされるようなのも
いただろう。欲求が正義に根ざすことで、悪を退けて善を進取する場合と、欲求が正義から逸脱して、
善を退けて悪を進取する場合と、行動の位相が逆転するのであり、専らに何もかもしようとする、
何もかもしようとしないなどというところに、儒学の本分はないのである。
「吾れ之れを聞くなり、官守有る者は、其の職を得ずんば則ち去り、言責有る者は、其の言を得ずんば
則ち去ると。我れに官守無し、我れに言責無きなり、則ち吾が進退、豈に綽綽然として餘裕有らざらんや」
「私はこう聞いている。『正式な官職にある者は、職務を果たせなければ即座に引責辞任し、発言に責任の
ある者は、自らの進言が聞き入れられなければその場を去る』と。今の私は正式な官職に就いている
わけでもなければ、発言に責任があるわけでもない。だからこそ私の出処進退はのびのびとして、
余裕に満ちたものでもいられるのだ。(孟子はどうやら、乱世には到底聞き入れられないような
理想主義的な仁義論を、無責任に遊説して回ることを心の底から楽しんでいたようである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・五より)
もはや仁義道徳の新造は控えられたものの、実際に仁義が実践されて長期の泰平が実現された漢代や唐代。
乱世には乱世なりの、治世には治世なりの相応の振る舞いがあって、その振る舞いに
よって相応の功績が挙げられている。一方で、乱世にこそ権力掌握を志して腐敗にまみれ、後世に
汚名を残した輩もいれば、治世になっても性懲りもなく隠退を続けて怠け者扱いされるようなのも
いただろう。欲求が正義に根ざすことで、悪を退けて善を進取する場合と、欲求が正義から逸脱して、
善を退けて悪を進取する場合と、行動の位相が逆転するのであり、専らに何もかもしようとする、
何もかもしようとしないなどというところに、儒学の本分はないのである。
「吾れ之れを聞くなり、官守有る者は、其の職を得ずんば則ち去り、言責有る者は、其の言を得ずんば
則ち去ると。我れに官守無し、我れに言責無きなり、則ち吾が進退、豈に綽綽然として餘裕有らざらんや」
「私はこう聞いている。『正式な官職にある者は、職務を果たせなければ即座に引責辞任し、発言に責任の
ある者は、自らの進言が聞き入れられなければその場を去る』と。今の私は正式な官職に就いている
わけでもなければ、発言に責任があるわけでもない。だからこそ私の出処進退はのびのびとして、
余裕に満ちたものでもいられるのだ。(孟子はどうやら、乱世には到底聞き入れられないような
理想主義的な仁義論を、無責任に遊説して回ることを心の底から楽しんでいたようである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・五より)
「悪意悪食を恥ずる者は、未だともに義するに足らず(理仁第四・九)」と
いいながら、「君子は其の衣冠を正しくす(堯曰第二十・四)」ともいう、
一見矛盾しているようにも思える孔子の言葉。其の心は以下のとおり。
「敝れたる縕袍を衣、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざる者は、其れ由なるか」
「敗れた綿入りの衣を着ながら、皮衣を着た貴人と共にいても恥じないのは、子路だろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二七より)
粗野な蛮勇に突出した弟子の子路が、礼法に適わない服装で、礼法に適った
服装をしている人々と共にあっても恥にしないだろうことを皮肉っている。
「衣冠を正す」の「冠」も官人の正装であり、礼法に適った装束で宮仕えに臨むことを戒めている。
一方で「悪意悪食も恥じぬ」というのは、「国に道が無ければ仕えぬ」という、道家とも共通する
教理に即して、在野でいる時には「深山の野人(孟子が在野中の舜の様相を表した言葉)」も
同然の卑賤な装束すら厭わないという意味。出処進退にメリハリをつけるのが儒家だから、
仕官中と在野中の風体にも大きな違いが生ずるわけで、決して二枚舌なわけではない。
国に道が有るときもあれば無いときもあるから、装束の貴賤にも一定の融通を利かせる。
結局、最原初の儒者である孔子からして、儒家が貴ぶ仁義道徳が、恒久普遍に通用するほどにも
金剛不壊なものであるなどとは考えておらず、ただ「なるべくそれを目指したほうがいいもの」
として仁義道徳を奨励しているわけで、道徳を絶対的なものと思い込むのも儒家の本分ではない。
いいながら、「君子は其の衣冠を正しくす(堯曰第二十・四)」ともいう、
一見矛盾しているようにも思える孔子の言葉。其の心は以下のとおり。
「敝れたる縕袍を衣、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざる者は、其れ由なるか」
「敗れた綿入りの衣を着ながら、皮衣を着た貴人と共にいても恥じないのは、子路だろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二七より)
粗野な蛮勇に突出した弟子の子路が、礼法に適わない服装で、礼法に適った
服装をしている人々と共にあっても恥にしないだろうことを皮肉っている。
「衣冠を正す」の「冠」も官人の正装であり、礼法に適った装束で宮仕えに臨むことを戒めている。
一方で「悪意悪食も恥じぬ」というのは、「国に道が無ければ仕えぬ」という、道家とも共通する
教理に即して、在野でいる時には「深山の野人(孟子が在野中の舜の様相を表した言葉)」も
同然の卑賤な装束すら厭わないという意味。出処進退にメリハリをつけるのが儒家だから、
仕官中と在野中の風体にも大きな違いが生ずるわけで、決して二枚舌なわけではない。
国に道が有るときもあれば無いときもあるから、装束の貴賤にも一定の融通を利かせる。
結局、最原初の儒者である孔子からして、儒家が貴ぶ仁義道徳が、恒久普遍に通用するほどにも
金剛不壊なものであるなどとは考えておらず、ただ「なるべくそれを目指したほうがいいもの」
として仁義道徳を奨励しているわけで、道徳を絶対的なものと思い込むのも儒家の本分ではない。
自分たちだけの平和、自分たちだけの恵み、
自分たちだけの救いや自分たちだけの栄誉ばかりを追い求めて、
かえって外部の人々を戦乱や飢餓や破滅や不名誉ばかりに
追いやる、我田引水型の部落信仰。
これもまた閉鎖的であり、決して褒められたものではないものの、
他人に恵まない代わりに人からも恵まれようとしない、
日蓮宗の不施不受施派などのほうが、他人の恵みまで
奪い取ろうとはしないぶんだけ、まだマシなほうだといえる。
平和や恵みや救いや栄誉の追求が、天下全土に渡るか
いち部落に止まるかでその存在性は全く逆転し、
片や仁義道徳に根ざし、片や我田引水に根ざすこととなる。
天下全土を利することを共産主義や独裁主義に結び付けて、
「全体主義」として批判する輩もいるが、元より共産主義や
独裁主義は仁義道徳の着実な実践にはなっておらず、
一つ一つの家族を単位として、順当に社会秩序を構築していく
封建主義に根ざした仁義道徳の実践などと比べれば、
遥かに危ういものであり、これまた褒められたものではない。
何もかもを我田引水型の部落信仰や、資本主義や共産主義や
独裁主義ばかりに結びつけて考えることからして「最低最悪の
思考規範」であり、そのような思考規範全般からの脱却が
果たされてから初めて、最悪の破滅から脱け出せることもある。
「徒善は以て政を為すに足らず、徒法は以て行いを自ること能わず」
「稚拙な偽善はそれに基づいて天下を治める政を為すにも値せず、
拙劣な悪法はそれに基づいて己れの言行を規律するにも値しない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)
自分たちだけの救いや自分たちだけの栄誉ばかりを追い求めて、
かえって外部の人々を戦乱や飢餓や破滅や不名誉ばかりに
追いやる、我田引水型の部落信仰。
これもまた閉鎖的であり、決して褒められたものではないものの、
他人に恵まない代わりに人からも恵まれようとしない、
日蓮宗の不施不受施派などのほうが、他人の恵みまで
奪い取ろうとはしないぶんだけ、まだマシなほうだといえる。
平和や恵みや救いや栄誉の追求が、天下全土に渡るか
いち部落に止まるかでその存在性は全く逆転し、
片や仁義道徳に根ざし、片や我田引水に根ざすこととなる。
天下全土を利することを共産主義や独裁主義に結び付けて、
「全体主義」として批判する輩もいるが、元より共産主義や
独裁主義は仁義道徳の着実な実践にはなっておらず、
一つ一つの家族を単位として、順当に社会秩序を構築していく
封建主義に根ざした仁義道徳の実践などと比べれば、
遥かに危ういものであり、これまた褒められたものではない。
何もかもを我田引水型の部落信仰や、資本主義や共産主義や
独裁主義ばかりに結びつけて考えることからして「最低最悪の
思考規範」であり、そのような思考規範全般からの脱却が
果たされてから初めて、最悪の破滅から脱け出せることもある。
「徒善は以て政を為すに足らず、徒法は以て行いを自ること能わず」
「稚拙な偽善はそれに基づいて天下を治める政を為すにも値せず、
拙劣な悪法はそれに基づいて己れの言行を規律するにも値しない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)
「君子終わりあり(易経・謙九三)」とあり、「小人始めありて終わりなし(晋書)」ともある。
これは、誰しもがいつかは死んで灰燼に帰する、諸行無常の真理を大前提とした言葉だといえる。
実際のところ、誰しもにいつかは終わりがある。その終わりがあるなりに、燦然たる有終の美を
飾れることを「終わりあり」といい、陰惨な終焉しか迎えられないことを「終わりなし」という。
陰惨で醜悪な終焉であるが故に、「終わりなし」であることを「永遠の命」だなどと美化する小人。
小人であることまではさすがに否定できないので、絶対的な神に仕える身であるからと開き直る。
しかし、その絶対神からして実在せず、ただの自意識過剰の思い上がりを神に見立てているだけ。
今さら先祖に顔向けもできないほどに、陰惨な思い違いを尽くしているからといって、
限りある命が永遠となるわけでもなく、やはりいつかは老いて死ぬ身であるに止まる。
「終わりを慎み遠きを追えば、民の徳も厚きに帰す」
「親の死をよく慎んで弔い、自らの先祖にまで遠く配慮を行き届かせれば、
君子階級ではない民間人の徳性までもが篤く養われていくこととなる。
(人の命には必ず終わりがあることをわきまえることで、連綿と続く先祖の系譜にも配慮が働く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・九より)
これは、誰しもがいつかは死んで灰燼に帰する、諸行無常の真理を大前提とした言葉だといえる。
実際のところ、誰しもにいつかは終わりがある。その終わりがあるなりに、燦然たる有終の美を
飾れることを「終わりあり」といい、陰惨な終焉しか迎えられないことを「終わりなし」という。
陰惨で醜悪な終焉であるが故に、「終わりなし」であることを「永遠の命」だなどと美化する小人。
小人であることまではさすがに否定できないので、絶対的な神に仕える身であるからと開き直る。
しかし、その絶対神からして実在せず、ただの自意識過剰の思い上がりを神に見立てているだけ。
今さら先祖に顔向けもできないほどに、陰惨な思い違いを尽くしているからといって、
限りある命が永遠となるわけでもなく、やはりいつかは老いて死ぬ身であるに止まる。
「終わりを慎み遠きを追えば、民の徳も厚きに帰す」
「親の死をよく慎んで弔い、自らの先祖にまで遠く配慮を行き届かせれば、
君子階級ではない民間人の徳性までもが篤く養われていくこととなる。
(人の命には必ず終わりがあることをわきまえることで、連綿と続く先祖の系譜にも配慮が働く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・九より)
「君子は易に居て以て命を俟ち、小人は険を行ないて以て幸を徼む(既出)」
「君子は平易中正な道に従いながら天命を待ち、小人はわざわざ危険を冒してまで僥倖を追い求める」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)
権力者は万民の命運を握っているわけだから、奇妙な離れ業などに頼ることなく、
信頼度120%の磐石な古訓のみを拠り所として世を司っていくべきだ。
一方で、在野の民間人には確かに、それなりに奇術にも手を出すような無責任からなる余裕がある。
しかし、その奇術への手出しにも成功する場合と失敗する場合があり、王位を捨てての苦行に挑んだ
釈迦が菩提樹の下で啓いた悟りなどは成功(成道)の部類であり、成功であるがゆえに、君子が
万全を期す目的で、最初から安んじ続ける中正(中庸)とも似通った結論(中道)に至った。
一方で、奇術に挑むことでの大失敗を積み重ねたイエスはといえば、今までの引用比較のとおり、
四書五経に書かれてあるような純正道徳からはことこどく相反するような邪義ばかりを触れ回り、
元から純正道徳などが根付いていなかった当時のイスラエルにおいてですら鼻つまみ者としての扱い
を受け、在野の民間人に対する処刑手段である磔刑によって殺され、二度と生き返ることもなかった。
最初から正道を歩み続ける君子と、苦行という奇道を通じて成道に至った聖者とが
「中正(中庸、中道)」という同様な理念を結果的に是とした一方で、奇術に失敗して
死刑にすらなった変人だけが、中正を欠いたおかしな極論ばかりを是としている。
単なる多数決でも、中正が正しくて極論が誤っているということになるし、事実、
道理上からも真理上からも、奇術の失敗者が得た神秘などは実在しなかった。
何もかもを無かったことにするのも極論であり、失敗者の無様さだけを、あえて標榜する
ようなことを避けて、功績としてはなかったことにしてやるのが、道義ってもんだ。
「君子は平易中正な道に従いながら天命を待ち、小人はわざわざ危険を冒してまで僥倖を追い求める」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)
権力者は万民の命運を握っているわけだから、奇妙な離れ業などに頼ることなく、
信頼度120%の磐石な古訓のみを拠り所として世を司っていくべきだ。
一方で、在野の民間人には確かに、それなりに奇術にも手を出すような無責任からなる余裕がある。
しかし、その奇術への手出しにも成功する場合と失敗する場合があり、王位を捨てての苦行に挑んだ
釈迦が菩提樹の下で啓いた悟りなどは成功(成道)の部類であり、成功であるがゆえに、君子が
万全を期す目的で、最初から安んじ続ける中正(中庸)とも似通った結論(中道)に至った。
一方で、奇術に挑むことでの大失敗を積み重ねたイエスはといえば、今までの引用比較のとおり、
四書五経に書かれてあるような純正道徳からはことこどく相反するような邪義ばかりを触れ回り、
元から純正道徳などが根付いていなかった当時のイスラエルにおいてですら鼻つまみ者としての扱い
を受け、在野の民間人に対する処刑手段である磔刑によって殺され、二度と生き返ることもなかった。
最初から正道を歩み続ける君子と、苦行という奇道を通じて成道に至った聖者とが
「中正(中庸、中道)」という同様な理念を結果的に是とした一方で、奇術に失敗して
死刑にすらなった変人だけが、中正を欠いたおかしな極論ばかりを是としている。
単なる多数決でも、中正が正しくて極論が誤っているということになるし、事実、
道理上からも真理上からも、奇術の失敗者が得た神秘などは実在しなかった。
何もかもを無かったことにするのも極論であり、失敗者の無様さだけを、あえて標榜する
ようなことを避けて、功績としてはなかったことにしてやるのが、道義ってもんだ。
「言を析き律を破り、名を乱して作を改め、左道を執りて以て政を乱すものは、殺す。
淫声、異服、奇技、奇器を作りて、以て衆を疑わしむるものは、殺す。偽を行いて堅く、
偽を言いて弁じ、非を学びて博く、非に順いて沢に、以て衆を疑わしむるものは、殺す。
鬼神、時日、卜筮に仮りて、以て衆を疑わしむるものは、殺す。此の四誅の者は、以て聴かず」
「虚言を弄して法律を犯し、名辞を乱して制度を改悪し、邪道によって政治を乱すものは、死刑に処する。
淫靡な音楽や奇抜な衣服、奇妙な技芸や奇妙な器械を用いて大衆を惑わすものは、死刑に処する。
偽りを行って頑なに改めようとせず、偽証を放言してそれを根拠に弁じ、おかしな邪義を学んで
その方面ばかりについて博識となり、実践上も邪義に遵って、あたかもそれを正しい行いであるかのように
見せ掛けることで大衆を惑わすものは、死刑に処する。神の加護や時日の吉凶、占いなどに仮託して
大衆を惑わすものは、死刑に処する。この四つの死罪に相当するものには、言い訳も聞かない。
(法律ではなく道徳律に基づけば、イエスの言行は紛れもなく死罪に相当するものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
淫声、異服、奇技、奇器を作りて、以て衆を疑わしむるものは、殺す。偽を行いて堅く、
偽を言いて弁じ、非を学びて博く、非に順いて沢に、以て衆を疑わしむるものは、殺す。
鬼神、時日、卜筮に仮りて、以て衆を疑わしむるものは、殺す。此の四誅の者は、以て聴かず」
「虚言を弄して法律を犯し、名辞を乱して制度を改悪し、邪道によって政治を乱すものは、死刑に処する。
淫靡な音楽や奇抜な衣服、奇妙な技芸や奇妙な器械を用いて大衆を惑わすものは、死刑に処する。
偽りを行って頑なに改めようとせず、偽証を放言してそれを根拠に弁じ、おかしな邪義を学んで
その方面ばかりについて博識となり、実践上も邪義に遵って、あたかもそれを正しい行いであるかのように
見せ掛けることで大衆を惑わすものは、死刑に処する。神の加護や時日の吉凶、占いなどに仮託して
大衆を惑わすものは、死刑に処する。この四つの死罪に相当するものには、言い訳も聞かない。
(法律ではなく道徳律に基づけば、イエスの言行は紛れもなく死罪に相当するものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
「古えの愚や直、今の愚や詐のみ(既出)」
「昔は愚かさとは愚直さのことだったが、今は嘘偽りに巧みであるだけのことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一六より)
国に道が行われていない時代に仕官することを嫌って愚か者でいようとした郃武子など、
愚かさを善用しようとする側面は儒家にもあり、弘法大師が儒家の住心とした
「"愚"童持斎心」という名称も、あえて否定しようとまで思うものではない。
しかし、儒家の愚かさは、決して聖書信仰の愚かさと同一のものであるわけでもない。
世のため人のため、天下万民の福利厚生の実現のために、権力犯罪撃退の目的で
愚者であることすら厭わないのが儒者である一方、そもそも自分たち自身が
権力犯罪者の一員と化して強奪利権の甘い汁を吸い、強奪によって破滅に追い込まれた
天下を「聖書を信仰しないせいだ」などと開き直って、自分たちの罪状から
目を背ける蒙昧さこそは、聖書信仰に特有の愚かさでこそある。
儒学の成立も聖書信仰の成立も、今からすれば太古に当たるが(もちろん儒家のほうがより古い)、
儒学の愚こそは愚直であることである一方で、聖書信仰の愚こそはウソ偽りの愚であるといえる。
「斉人女楽を帰る、季桓子之れを受く。三日朝せず、孔子行る」
「孔子が魯の重臣として活躍し、魯の国力が伸び始めたために、これ追い落とす目的で、
斉の人間が魯に美女の楽団を贈呈した。魯の最高権力者だった季桓子はこれを受け入れ、
舞楽にうつつを抜かして三日間も朝廷に登らなかった。そのため孔子は魯を去った。
(美女の舞楽のよさも分からんではないが、位ある身でそれにうつつを抜かすのは受け入れられない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・四)
「昔は愚かさとは愚直さのことだったが、今は嘘偽りに巧みであるだけのことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一六より)
国に道が行われていない時代に仕官することを嫌って愚か者でいようとした郃武子など、
愚かさを善用しようとする側面は儒家にもあり、弘法大師が儒家の住心とした
「"愚"童持斎心」という名称も、あえて否定しようとまで思うものではない。
しかし、儒家の愚かさは、決して聖書信仰の愚かさと同一のものであるわけでもない。
世のため人のため、天下万民の福利厚生の実現のために、権力犯罪撃退の目的で
愚者であることすら厭わないのが儒者である一方、そもそも自分たち自身が
権力犯罪者の一員と化して強奪利権の甘い汁を吸い、強奪によって破滅に追い込まれた
天下を「聖書を信仰しないせいだ」などと開き直って、自分たちの罪状から
目を背ける蒙昧さこそは、聖書信仰に特有の愚かさでこそある。
儒学の成立も聖書信仰の成立も、今からすれば太古に当たるが(もちろん儒家のほうがより古い)、
儒学の愚こそは愚直であることである一方で、聖書信仰の愚こそはウソ偽りの愚であるといえる。
「斉人女楽を帰る、季桓子之れを受く。三日朝せず、孔子行る」
「孔子が魯の重臣として活躍し、魯の国力が伸び始めたために、これ追い落とす目的で、
斉の人間が魯に美女の楽団を贈呈した。魯の最高権力者だった季桓子はこれを受け入れ、
舞楽にうつつを抜かして三日間も朝廷に登らなかった。そのため孔子は魯を去った。
(美女の舞楽のよさも分からんではないが、位ある身でそれにうつつを抜かすのは受け入れられない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・四)
「三日にして食らひ、三月にして沐し、期にして練し、毀するも性を滅せざるは、死を以て生を傷らざるなり」
「(昔の礼法で)親の死後三日目に初めて粥などの軽食をし、三ヶ月目に沐浴し、期日の年になれば喪服を脱いで通常の衣服を着け、
不幸を悼み哀しみながらも、性情を著しく損ない尽くすことを避けるのは、死によって生までをも損なわないためだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・喪服四制第四十九より)
親の死を"悔い"てから、その"悔い"をまた"改めて"るね。それで性情の破滅を避けている。
そういう意味で「悔い改める」という言葉を用いているのなら、キリスト教徒は自分たちの罪を一旦は悔いておいて、
別に行いから改めるのではなく、悔いていること自体を改めて、また普通の生活に戻るということになる。
親の死への悔いを改めて、後追いまではすることなく家を継いでいくことは孝行になるわけだが、
罪を犯したことの悔いを改めて、行いは改めないというのでは、単なる現行逃亡犯のサイコパス患者の量産にしかならないな。
「(昔の礼法で)親の死後三日目に初めて粥などの軽食をし、三ヶ月目に沐浴し、期日の年になれば喪服を脱いで通常の衣服を着け、
不幸を悼み哀しみながらも、性情を著しく損ない尽くすことを避けるのは、死によって生までをも損なわないためだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・喪服四制第四十九より)
親の死を"悔い"てから、その"悔い"をまた"改めて"るね。それで性情の破滅を避けている。
そういう意味で「悔い改める」という言葉を用いているのなら、キリスト教徒は自分たちの罪を一旦は悔いておいて、
別に行いから改めるのではなく、悔いていること自体を改めて、また普通の生活に戻るということになる。
親の死への悔いを改めて、後追いまではすることなく家を継いでいくことは孝行になるわけだが、
罪を犯したことの悔いを改めて、行いは改めないというのでは、単なる現行逃亡犯のサイコパス患者の量産にしかならないな。
「腹」は、東洋の身体論においては、頭(脳)や胸(心臓)並みか
それ以上にも貴ばれる、全身のうちでも最重要の部位とされる。
太極拳や合気道やヨガなどにおいて、へその下三寸に位置する腹部の「丹田」が
安定していることが、全身の安定を左右する最重要項目となり、いくら頭部や胸部だけを
安定させようとしてたところで、腹部の丹田が安定していないことには極めて不安定となる。
これは、身体構造上からの力学的な理にも適っている解釈であり、腹部の丹田に相当する部位こそは
人体の「重心」に該当しているために、この重心の安定こそが、全身の安定をも司ることとなる。
婦人も丹田に相当する部位で胎児を身ごもるから、我が子をまるでわが身の中心のように捉えることで
母性本能が養われることとなる(もしも背部や臀部などで子を身ごもるのなら、そんなこともない)。
そんな重要な意味を持つ、丹田の存在位置でもある腹部を「亡きもの」にしようなどとすれば、
本当に亡きものにしたときに人体の全てが滅ぶのはもちろんのこと、亡きものにしようと試みる
過程においても、「人間の重心」を損なおうとする過ちからなる、数多くの破滅が頻発することとなる。
「君の臣を視ること手足の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。
君の臣を視ること犬馬の如くなれば、則ち臣の君を視ること國人の如し。
君の臣を視ること土芥の如くなれば、則ち臣の君を視ること寇讎の如し」
「主君が臣下を我が手足のように大切に扱えば、臣下も主君を我が腹や心臓のように重要なものとして捉えるようになる。
主君が臣下を犬馬のように賤しいものとして扱えば、臣下も主君をそこいらの他人のようにどうでもいいものとして捉える
ようになる。主君が臣下を塵か芥のように価値の無いものとして扱えば、臣下も主君を仇や敵も同然として捉えるようになる。
(我が腹心のように大切に扱うべき主がいないのは、配下を犬馬か塵芥のように扱う主しかいないからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三より)
それ以上にも貴ばれる、全身のうちでも最重要の部位とされる。
太極拳や合気道やヨガなどにおいて、へその下三寸に位置する腹部の「丹田」が
安定していることが、全身の安定を左右する最重要項目となり、いくら頭部や胸部だけを
安定させようとしてたところで、腹部の丹田が安定していないことには極めて不安定となる。
これは、身体構造上からの力学的な理にも適っている解釈であり、腹部の丹田に相当する部位こそは
人体の「重心」に該当しているために、この重心の安定こそが、全身の安定をも司ることとなる。
婦人も丹田に相当する部位で胎児を身ごもるから、我が子をまるでわが身の中心のように捉えることで
母性本能が養われることとなる(もしも背部や臀部などで子を身ごもるのなら、そんなこともない)。
そんな重要な意味を持つ、丹田の存在位置でもある腹部を「亡きもの」にしようなどとすれば、
本当に亡きものにしたときに人体の全てが滅ぶのはもちろんのこと、亡きものにしようと試みる
過程においても、「人間の重心」を損なおうとする過ちからなる、数多くの破滅が頻発することとなる。
「君の臣を視ること手足の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。
君の臣を視ること犬馬の如くなれば、則ち臣の君を視ること國人の如し。
君の臣を視ること土芥の如くなれば、則ち臣の君を視ること寇讎の如し」
「主君が臣下を我が手足のように大切に扱えば、臣下も主君を我が腹や心臓のように重要なものとして捉えるようになる。
主君が臣下を犬馬のように賤しいものとして扱えば、臣下も主君をそこいらの他人のようにどうでもいいものとして捉える
ようになる。主君が臣下を塵か芥のように価値の無いものとして扱えば、臣下も主君を仇や敵も同然として捉えるようになる。
(我が腹心のように大切に扱うべき主がいないのは、配下を犬馬か塵芥のように扱う主しかいないからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三より)
間違った知識を、正しい知識の持ち主もありのままに得ることができる。
そこにそれなりの意味も見出すことができるが、間違った知識の意味などよりも
正しい知識の意味のほうが遥かに味わい深く、普遍的に美味なものであるために、
意味はあってもクソまずいだけな間違った知識の積極的な享受などは退けられる。
普遍的な尺度から言えば、クソまずい上に毒入りであるような、
間違った知識を専らに貪ろうとするような輩ってのは、絶対に正しい知識を
得たこともなければ、その美味さを味わったこともなく、正しい知識こそを
享受することでの健康の増進のすがすがしさなどにも与ったことはないのだ。
正しい知識の支持者は、間違った知識もそれなりに得た上で、間違った知識を
退ける一方で、間違った知識の支持者は、正しい知識を一度たりとも享受する
こともないままに、間違った知識ばかりを貪っているから、正しい知識を退ける。
正しい知識を支持する者もいれば、間違った知識を支持する者もいるが、ことに、
それぞれがその知識を支持する理由には、絶対的な非可換性が備わっている。
「(正しい知識を)知らないから支持しない」というのは、間違った知識の
支持者に特有の事情なのであって、正しい知識の支持者が、間違った知識を
知らないから支持しないなどということは微塵もない。むしろ間違った知識をも
知り尽くしたところにこそ、間違った知識に対する絶対的な拒絶が確立されもする。
「蓋し知らずして之れを作る者有らん。我れは是れ無きなり。多くを聞きて
其の善き者を擇びて之れに從う。多くを見て之れを識るは、知るの次なり」
「何も知らないくせに我流の創作ばかりを志すものがいるが、私はそんなことはしない。
なるべく多くのことを聞いておいて、その中でも特によさげなものに遵おうとする。
なるべく多くの知識を得ておくのは、そのための下準備に過ぎないのだ。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二七より)
聖書信仰も単なる知識としては得ておいたが、
あくまでそれを捨てて儒学に専念するための下準備であるに過ぎない。
そう結論付けざるを得ないほどにも、聖書信仰のほうが劣悪至極なものだったから。
そこにそれなりの意味も見出すことができるが、間違った知識の意味などよりも
正しい知識の意味のほうが遥かに味わい深く、普遍的に美味なものであるために、
意味はあってもクソまずいだけな間違った知識の積極的な享受などは退けられる。
普遍的な尺度から言えば、クソまずい上に毒入りであるような、
間違った知識を専らに貪ろうとするような輩ってのは、絶対に正しい知識を
得たこともなければ、その美味さを味わったこともなく、正しい知識こそを
享受することでの健康の増進のすがすがしさなどにも与ったことはないのだ。
正しい知識の支持者は、間違った知識もそれなりに得た上で、間違った知識を
退ける一方で、間違った知識の支持者は、正しい知識を一度たりとも享受する
こともないままに、間違った知識ばかりを貪っているから、正しい知識を退ける。
正しい知識を支持する者もいれば、間違った知識を支持する者もいるが、ことに、
それぞれがその知識を支持する理由には、絶対的な非可換性が備わっている。
「(正しい知識を)知らないから支持しない」というのは、間違った知識の
支持者に特有の事情なのであって、正しい知識の支持者が、間違った知識を
知らないから支持しないなどということは微塵もない。むしろ間違った知識をも
知り尽くしたところにこそ、間違った知識に対する絶対的な拒絶が確立されもする。
「蓋し知らずして之れを作る者有らん。我れは是れ無きなり。多くを聞きて
其の善き者を擇びて之れに從う。多くを見て之れを識るは、知るの次なり」
「何も知らないくせに我流の創作ばかりを志すものがいるが、私はそんなことはしない。
なるべく多くのことを聞いておいて、その中でも特によさげなものに遵おうとする。
なるべく多くの知識を得ておくのは、そのための下準備に過ぎないのだ。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二七より)
聖書信仰も単なる知識としては得ておいたが、
あくまでそれを捨てて儒学に専念するための下準備であるに過ぎない。
そう結論付けざるを得ないほどにも、聖書信仰のほうが劣悪至極なものだったから。
思考規範や言動規範の根本性が消極性に根ざしているか、
積極性に根ざしているかという点で、儒家と聖書信仰とでは全く相反している。
>>144の「論語」引用部分では、子貢が「己れに欲せざるところを人に施すことなかれ」を
積極的に実践していきたい旨を宣言して、孔子が「おまえには無理だ」と苦言を呈していて、
欲せざることを欲する以前に、まず何物をも欲しない消極性による初期条件の一律化を暗に推奨している。
一方で、子罕第九・二八では、弟子の子路が「損なわず求めもしなければ、どうして善くないことがあろうか」
と終身のたまい続けていたことに対して、「それでなぜ善いことがあろうか」と孔子が反問してもいる。
絶対消極を旨とする、道家や小乗仏教などに見られる姿勢は、悪いようなことがない変わりに善いこともない。
社会での積極的な善行をも旨とする儒家においては、決して止悪一辺倒に止まっていることもよしとされない。
では、儒家の理想的な思考規範や言動規範はといえば、根本的には必ず消極性に
根ざしていて、悪行への十分な制動が効いた後に、善行に対してのみ段階的に積極性を備わらせる。
まず悪行への消極性があって、その次に善行への積極性を抱く。この順序を取り違えてしまったならば、
どんなに善行への積極性が旺盛だろうとも、多動の蒙昧さからなる甚大な悪行の付帯が避けられなくなる。
どちらかといえば善行のほうが行いにくく、悪行のほうが行いやすいものでもあるために、
どんなに善行を為そうとしても、必ずそれ以上の悪行が付きまとう「マッチポンプ」のザマとなる。
「君子の消息盈虚を尚ぶは、天の行なればなり」
「君子が常に消息盈虚の緩急を貴ぶのは、それが天の運行にも根ざした普遍的な道理だからである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・剥より)
積極性に根ざしているかという点で、儒家と聖書信仰とでは全く相反している。
>>144の「論語」引用部分では、子貢が「己れに欲せざるところを人に施すことなかれ」を
積極的に実践していきたい旨を宣言して、孔子が「おまえには無理だ」と苦言を呈していて、
欲せざることを欲する以前に、まず何物をも欲しない消極性による初期条件の一律化を暗に推奨している。
一方で、子罕第九・二八では、弟子の子路が「損なわず求めもしなければ、どうして善くないことがあろうか」
と終身のたまい続けていたことに対して、「それでなぜ善いことがあろうか」と孔子が反問してもいる。
絶対消極を旨とする、道家や小乗仏教などに見られる姿勢は、悪いようなことがない変わりに善いこともない。
社会での積極的な善行をも旨とする儒家においては、決して止悪一辺倒に止まっていることもよしとされない。
では、儒家の理想的な思考規範や言動規範はといえば、根本的には必ず消極性に
根ざしていて、悪行への十分な制動が効いた後に、善行に対してのみ段階的に積極性を備わらせる。
まず悪行への消極性があって、その次に善行への積極性を抱く。この順序を取り違えてしまったならば、
どんなに善行への積極性が旺盛だろうとも、多動の蒙昧さからなる甚大な悪行の付帯が避けられなくなる。
どちらかといえば善行のほうが行いにくく、悪行のほうが行いやすいものでもあるために、
どんなに善行を為そうとしても、必ずそれ以上の悪行が付きまとう「マッチポンプ」のザマとなる。
「君子の消息盈虚を尚ぶは、天の行なればなり」
「君子が常に消息盈虚の緩急を貴ぶのは、それが天の運行にも根ざした普遍的な道理だからである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・剥より)
万人を利して我が利ともする、「仁」という理念。
この仁を、儒家は主要な命題とする一方で、必ずしも「絶対のもの」ともしていない。
孔子も「仁を好みて学を学ばざれば、その弊や愚(陽貨第十七・八)」といい、
孟子も「親を親しみて民を仁し、民を仁して物を愛す(尽心章句上・四五)」という。
仁に「人間社会上の最高理念」としての価値を認める一方で、それが「人間社会」を司ること
に限って最重要ともなる理念だから、個人としての勉学だとか、家族同士での親愛だとかを
別個のものとして捉えて、それすら蔑ろにするようなら、仁もまた有効に果たされないとする。
人間社会を司る理念としての「仁」を主要命題に掲げる儒学自体を、人間社会の遥か外側にまで通じた、
宇宙万有を司る教学などとして見なすこともまた行き過ぎなことであり、仁などを必要ともしない
ほどに小規模な片田舎の村落にすら、儒学による支配が隅々まで行き届いたりすることもない。
三千大千世界のようなマクロの極限も、個々の家内や片田舎の村落のようなミクロの極限も、
儒学や仁によってどうこうしようなどというものでもなく、それはむしろ神仏の領域に属する。
神仏とはまた別個の領域としての、ある程度の数が稼がれた人間社会においてこそ、仁義も王道となる。
この仁を、儒家は主要な命題とする一方で、必ずしも「絶対のもの」ともしていない。
孔子も「仁を好みて学を学ばざれば、その弊や愚(陽貨第十七・八)」といい、
孟子も「親を親しみて民を仁し、民を仁して物を愛す(尽心章句上・四五)」という。
仁に「人間社会上の最高理念」としての価値を認める一方で、それが「人間社会」を司ること
に限って最重要ともなる理念だから、個人としての勉学だとか、家族同士での親愛だとかを
別個のものとして捉えて、それすら蔑ろにするようなら、仁もまた有効に果たされないとする。
人間社会を司る理念としての「仁」を主要命題に掲げる儒学自体を、人間社会の遥か外側にまで通じた、
宇宙万有を司る教学などとして見なすこともまた行き過ぎなことであり、仁などを必要ともしない
ほどに小規模な片田舎の村落にすら、儒学による支配が隅々まで行き届いたりすることもない。
三千大千世界のようなマクロの極限も、個々の家内や片田舎の村落のようなミクロの極限も、
儒学や仁によってどうこうしようなどというものでもなく、それはむしろ神仏の領域に属する。
神仏とはまた別個の領域としての、ある程度の数が稼がれた人間社会においてこそ、仁義も王道となる。
「子貢曰く、如し能く博く民に施して能く衆を済わば、何如。仁と謂う可きか。
子曰く、何ぞ仁を事とせん、必ずや聖か。堯舜も其れ猶お諸れを病めり。夫れ仁者は己れを立たせんと
欲して人を立て、己れを達せんと欲して達人を達す。能く近く取りて譬ふ、仁の方と謂う可きのみ」
「子貢が問うた。『もしも万民に広く施して大衆を救えたならどうでしょう。仁と呼べましょうか』
先生は言われた。『どうして仁どころのことだろう。それがすでに達成できているというのなら、
もはや聖と呼んでもいいぐらいだ。かの堯や舜ですらもが、それを達成することに大変な苦心をした。
(いわんや、それに遠く及ばない我らともなれば、聖を達するための正当な手段としての仁を論ずるに
止まるわけだが、)仁者としては、自分が成功することを欲すれば人を成功させることを第一とし、
自分が大成したいと思えばまず人を大成させることを第一とする。そのため遠方の他人のことですら、
自分やごく近縁のことに譬えられもする。ここに聖を達するための仁のあり方が集約されてもいる』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・三〇)
子曰く、何ぞ仁を事とせん、必ずや聖か。堯舜も其れ猶お諸れを病めり。夫れ仁者は己れを立たせんと
欲して人を立て、己れを達せんと欲して達人を達す。能く近く取りて譬ふ、仁の方と謂う可きのみ」
「子貢が問うた。『もしも万民に広く施して大衆を救えたならどうでしょう。仁と呼べましょうか』
先生は言われた。『どうして仁どころのことだろう。それがすでに達成できているというのなら、
もはや聖と呼んでもいいぐらいだ。かの堯や舜ですらもが、それを達成することに大変な苦心をした。
(いわんや、それに遠く及ばない我らともなれば、聖を達するための正当な手段としての仁を論ずるに
止まるわけだが、)仁者としては、自分が成功することを欲すれば人を成功させることを第一とし、
自分が大成したいと思えばまず人を大成させることを第一とする。そのため遠方の他人のことですら、
自分やごく近縁のことに譬えられもする。ここに聖を達するための仁のあり方が集約されてもいる』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・三〇)
愛にも色々ある。
十分な畏敬と共に父母兄弟を愛する親愛もあれば、
家畜を養うも同然なほどに敬意を欠いた濁愛もある。
万人を最低限以上の福徳へと導こうとする仁愛もあれば、
世を破滅に導いてでも自分たちだけが肥え太ろうとする偏愛もある。
総合的には、愛は勇気や臆病などとも同じ「諸刃の剣」であるといえ、
それによって最善をも最悪をも尽くせるものだから、まず最善を尽くす
前準備があって、それから初めて愛を標榜することまでもが認められる。
勧善懲悪を尽くす前準備もないままに、愛そのものばかりを掲げるのでは、
それによって何らの有益な結実が見込まれる保証もなされない。だから、
愛にどんなに有益な要素が含まれているにしたって、愛そのものを
何ものにも先駆けて至上命題とすることは、吉祥なことだとはいえない。
性向上、愛こそを至上命題とせざるを得ない女性が伝統的に、必ずしも愛を
至上命題としてはならない、一人前の男に随順すべきものとされてきたのも、
愛を最優先することの危うさを先人たちがわきまえていたからだといえる。
(西洋などでは、ただ男が女よりも体力的に強いからそうしてただけのようだが)
「仁者は愛せざること無きなるも、賢を親しむを之れ急と為すを務む(既出)。
(中略)堯舜の仁にして遍く人を愛せざるも、賢に親しむを急とすればなり」
「仁者は誰しもを愛せないわけではないが、それ以上にも賢者に親しむことを急務とする。
堯舜ですら、仁者でありながらも、誰しもを遍く愛することばかりを先決とはしなかった。
それも賢者に親しむことをより優先して、仁を有効に実行することを急務としたからだった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・四六より)
十分な畏敬と共に父母兄弟を愛する親愛もあれば、
家畜を養うも同然なほどに敬意を欠いた濁愛もある。
万人を最低限以上の福徳へと導こうとする仁愛もあれば、
世を破滅に導いてでも自分たちだけが肥え太ろうとする偏愛もある。
総合的には、愛は勇気や臆病などとも同じ「諸刃の剣」であるといえ、
それによって最善をも最悪をも尽くせるものだから、まず最善を尽くす
前準備があって、それから初めて愛を標榜することまでもが認められる。
勧善懲悪を尽くす前準備もないままに、愛そのものばかりを掲げるのでは、
それによって何らの有益な結実が見込まれる保証もなされない。だから、
愛にどんなに有益な要素が含まれているにしたって、愛そのものを
何ものにも先駆けて至上命題とすることは、吉祥なことだとはいえない。
性向上、愛こそを至上命題とせざるを得ない女性が伝統的に、必ずしも愛を
至上命題としてはならない、一人前の男に随順すべきものとされてきたのも、
愛を最優先することの危うさを先人たちがわきまえていたからだといえる。
(西洋などでは、ただ男が女よりも体力的に強いからそうしてただけのようだが)
「仁者は愛せざること無きなるも、賢を親しむを之れ急と為すを務む(既出)。
(中略)堯舜の仁にして遍く人を愛せざるも、賢に親しむを急とすればなり」
「仁者は誰しもを愛せないわけではないが、それ以上にも賢者に親しむことを急務とする。
堯舜ですら、仁者でありながらも、誰しもを遍く愛することばかりを先決とはしなかった。
それも賢者に親しむことをより優先して、仁を有効に実行することを急務としたからだった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・四六より)
キリスト教徒の「身」は、全く清くない。
四人がかりで一人の相手を餓死に追い込む強盗リンチ殺人に、
欧米資本主義国のキリスト教徒たち全員が手を染めている。
総員テロリスト、行動即犯罪という形容が冗談にすらなっていない。
異教徒や他民族などと比べても、突出して濁悪なキリスト教徒の身の程、
それも決して内面の濁悪と可分なものではなく、やはり内面にも豚か何かのように
利権ばかりを貪って止まない救いがたい濁悪さを抱えている。その濁悪さを自覚して
良心の呵責にさいなまれることから逃れるために、件の「十字架の魔術」によって
知能指数をチンパンジー以下(IQ20〜35)にまで低下させ、罪の意識を喪失させる。
それを犯罪聖書の著者は「心が清められた」といい、「神を見ている姿」だという。
絵に描いたような転等夢想であり、濁悪さからの逃避の先にあるチンパン以下への
知能の低下を「心の清さ」とも呼ぶあたり、おそらくそう指摘していた本人たち自身も
転等夢想のからくりを察知してはいなかっただろうと思われる。こんなにお粗末な
からくりを把握していてなお、大真面目でいられるようなことからしてあり得ないから。
「維れ清く緝熙なる、文王の典。肇に禋りて、迄れ用て成わる有り、維れ周の禎いなる」
「文王の定めし典礼の、なんと清く輝けること。天神を祭る用意も、全てここに備わる。
周の国のなんと幸いなことか。(社会現象全般の清さ正しさを典礼によって実現している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・周頌・清廟之什・維清)
四人がかりで一人の相手を餓死に追い込む強盗リンチ殺人に、
欧米資本主義国のキリスト教徒たち全員が手を染めている。
総員テロリスト、行動即犯罪という形容が冗談にすらなっていない。
異教徒や他民族などと比べても、突出して濁悪なキリスト教徒の身の程、
それも決して内面の濁悪と可分なものではなく、やはり内面にも豚か何かのように
利権ばかりを貪って止まない救いがたい濁悪さを抱えている。その濁悪さを自覚して
良心の呵責にさいなまれることから逃れるために、件の「十字架の魔術」によって
知能指数をチンパンジー以下(IQ20〜35)にまで低下させ、罪の意識を喪失させる。
それを犯罪聖書の著者は「心が清められた」といい、「神を見ている姿」だという。
絵に描いたような転等夢想であり、濁悪さからの逃避の先にあるチンパン以下への
知能の低下を「心の清さ」とも呼ぶあたり、おそらくそう指摘していた本人たち自身も
転等夢想のからくりを察知してはいなかっただろうと思われる。こんなにお粗末な
からくりを把握していてなお、大真面目でいられるようなことからしてあり得ないから。
「維れ清く緝熙なる、文王の典。肇に禋りて、迄れ用て成わる有り、維れ周の禎いなる」
「文王の定めし典礼の、なんと清く輝けること。天神を祭る用意も、全てここに備わる。
周の国のなんと幸いなことか。(社会現象全般の清さ正しさを典礼によって実現している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・周頌・清廟之什・維清)
易の陰陽説に基づけば、「天」は「陽」、「地」は「陰」に当たる。
他にも「日」が「陽」、「月」が「陰」、「君」が「陽」、「臣」が「陰」など
色々あるが、これら全て「陽」であるほうを優先し、「陰」であるほうを劣後する
「陽唱陰和」を吉祥の相とし、この陽唱陰和が破れることを凶悪の相ともしている。
たとえば「易経」こと周易においても、乾(陽)→坤(陰)→屯(陽)→蒙(陰)→・・・
といった風に、互いに相反する卦同士を陽卦が先、陰卦が後になる順序で解説していっている。
これによって「易経」という書物自体が、その存在性から吉相を帯びるように編纂されてもいる。
しかるに、新旧約犯罪聖書のほうはといえば、記述順序でも歴史的な順序でも
地(陽)を象ったとされるアダムを先として、天(陽)を象ったとされるイエスを後とし、
アダムの登場する旧約犯罪聖書を先とし、イエスが主人公である新約犯罪聖書を後としている。
そうであることがすでに、「新旧約聖書」という書物自体の凶相の極まりなさを
決定付けており、その存在性が根本から罪過ばかりを呼び込む作りにもなっている。
他にも「日」が「陽」、「月」が「陰」、「君」が「陽」、「臣」が「陰」など
色々あるが、これら全て「陽」であるほうを優先し、「陰」であるほうを劣後する
「陽唱陰和」を吉祥の相とし、この陽唱陰和が破れることを凶悪の相ともしている。
たとえば「易経」こと周易においても、乾(陽)→坤(陰)→屯(陽)→蒙(陰)→・・・
といった風に、互いに相反する卦同士を陽卦が先、陰卦が後になる順序で解説していっている。
これによって「易経」という書物自体が、その存在性から吉相を帯びるように編纂されてもいる。
しかるに、新旧約犯罪聖書のほうはといえば、記述順序でも歴史的な順序でも
地(陽)を象ったとされるアダムを先として、天(陽)を象ったとされるイエスを後とし、
アダムの登場する旧約犯罪聖書を先とし、イエスが主人公である新約犯罪聖書を後としている。
そうであることがすでに、「新旧約聖書」という書物自体の凶相の極まりなさを
決定付けており、その存在性が根本から罪過ばかりを呼び込む作りにもなっている。
書物としての体裁が吉相を保っているか凶相に陥っているかで、確かにその記述内容の
細部まで変わってくる。その記述姿勢から陽唱陰和を保っている四書五経の登場人物である
堯舜禹湯文武周公、春秋時代の諸侯や孔孟やその弟子などは全て厳重な実在性に根ざしており、
その伝承通りの遺跡群なども出土する上、日付なども完全に史実に即したものとなっている。
「詩経」などで描写される季節や風土に根ざした自然描写、日食などの事件の記録も全て
現実の自然や史実などにピッタリと合致している。一方で、新旧約犯罪聖書の記述たるや、
旧約については全くの御伽噺であり、史実にも根ざしていなければ実相にも根ざしていない。
新約には多少史実に根ざしたような記録もあるが、他でもないイエスの復活劇が全くの架空。
その記述姿勢から陽唱陰和を心がけているからこそ、四書五経は深く現実の実相に根ざすことが
できている一方で、記述姿勢から陽唱陰和が破れまくっているからこそ、犯罪聖書は現実の
実相から乖離した空想上においてでしか記述を展開していくことができない。現実の実相が
必ずしも陰惨なのではなく、陽唱陰和に即していないから陰惨であり、実相が陰惨であるが故に
現実からかけ離れた空想に逃げ込むことしかできない。現実のせいではなく、自分が悪い。
「天地は順を以て動く、故に日月過たずして四時忒わず。聖人順を以て動けば、則ち刑罰清くして民服す」
「天地万物の現象は正しい順序に即して動作している。そのため日月も間違いなく運行し、
四季もその順序を間違えたりすることなく巡っている。それと同じように聖人が天地の順序に則って
言動を正せば、刑罰のような凶事ですらもが清く正しく行われ、民も心から納得して帰服するようになる。
(天地の順序を違えたならば、空想上ですら冤罪による磔刑のような不当処罰にしか行き着けない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豫・彖伝より)
細部まで変わってくる。その記述姿勢から陽唱陰和を保っている四書五経の登場人物である
堯舜禹湯文武周公、春秋時代の諸侯や孔孟やその弟子などは全て厳重な実在性に根ざしており、
その伝承通りの遺跡群なども出土する上、日付なども完全に史実に即したものとなっている。
「詩経」などで描写される季節や風土に根ざした自然描写、日食などの事件の記録も全て
現実の自然や史実などにピッタリと合致している。一方で、新旧約犯罪聖書の記述たるや、
旧約については全くの御伽噺であり、史実にも根ざしていなければ実相にも根ざしていない。
新約には多少史実に根ざしたような記録もあるが、他でもないイエスの復活劇が全くの架空。
その記述姿勢から陽唱陰和を心がけているからこそ、四書五経は深く現実の実相に根ざすことが
できている一方で、記述姿勢から陽唱陰和が破れまくっているからこそ、犯罪聖書は現実の
実相から乖離した空想上においてでしか記述を展開していくことができない。現実の実相が
必ずしも陰惨なのではなく、陽唱陰和に即していないから陰惨であり、実相が陰惨であるが故に
現実からかけ離れた空想に逃げ込むことしかできない。現実のせいではなく、自分が悪い。
「天地は順を以て動く、故に日月過たずして四時忒わず。聖人順を以て動けば、則ち刑罰清くして民服す」
「天地万物の現象は正しい順序に即して動作している。そのため日月も間違いなく運行し、
四季もその順序を間違えたりすることなく巡っている。それと同じように聖人が天地の順序に則って
言動を正せば、刑罰のような凶事ですらもが清く正しく行われ、民も心から納得して帰服するようになる。
(天地の順序を違えたならば、空想上ですら冤罪による磔刑のような不当処罰にしか行き着けない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豫・彖伝より)
「キリストと結びつく」ということは、十字架に張り付けられた長髪半裸ひげのおっさんを
見て自分自身の罪が償われたような気になる、「鏡映認知障害への罹患」を意味している。
鏡映認知障害への罹患を欲しているのは、カルト信者自身であり、実際に鏡映認知障害に
罹患するのは、「自分が罰を受けたくない」という恐怖感が極まっているから。つまり、
「信者をキリストに結び付けている神」というのは、他でもない「信者たち自身の恐怖」のことだ。
キリスト教徒たちが「神」と呼んでいるものは、自分たちが刑罰に処されることから
必死で逃れようとする恐怖感でしかない。その正体が完全に明らかなものであるからこそ、
キリスト教の神は決して本物の神ではないことが分かる。神だ仏だといったものが本当に
実在しているかどうかはともかくとして、少なくともキリスト教の神は本物の神ではない。
どこにも不可思議な要素などがなく、「信者たち自身の恐怖」というこの一言で完全に
説明が付くものだから、わざわざそこに本物の神性を付与する意味がどこにもない。
「今商王受、五常を狎侮し、荒怠して敬せず。自ら天に絶ち、怨みを民に結ぶ」
「いま殷の紂王は、五常(仁義礼智信ではなく、君臣父子夫婦兄弟朋友の天下の達道に相当する)の教えを
侮って、何者を敬うことをも怠っている。自ら天神との関係を絶ち、民たちを深刻な怨恨に結び付けている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)
見て自分自身の罪が償われたような気になる、「鏡映認知障害への罹患」を意味している。
鏡映認知障害への罹患を欲しているのは、カルト信者自身であり、実際に鏡映認知障害に
罹患するのは、「自分が罰を受けたくない」という恐怖感が極まっているから。つまり、
「信者をキリストに結び付けている神」というのは、他でもない「信者たち自身の恐怖」のことだ。
キリスト教徒たちが「神」と呼んでいるものは、自分たちが刑罰に処されることから
必死で逃れようとする恐怖感でしかない。その正体が完全に明らかなものであるからこそ、
キリスト教の神は決して本物の神ではないことが分かる。神だ仏だといったものが本当に
実在しているかどうかはともかくとして、少なくともキリスト教の神は本物の神ではない。
どこにも不可思議な要素などがなく、「信者たち自身の恐怖」というこの一言で完全に
説明が付くものだから、わざわざそこに本物の神性を付与する意味がどこにもない。
「今商王受、五常を狎侮し、荒怠して敬せず。自ら天に絶ち、怨みを民に結ぶ」
「いま殷の紂王は、五常(仁義礼智信ではなく、君臣父子夫婦兄弟朋友の天下の達道に相当する)の教えを
侮って、何者を敬うことをも怠っている。自ら天神との関係を絶ち、民たちを深刻な怨恨に結び付けている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)
鏡映認知障害によって、IQ20〜35程度のチンパンジー以下の低能に陥ってしまっているとき、
その間中は文字を理解することもできない。チンパンジーにだって簡単な記号を理解する
程度の能力は備わっているようだが、「十字架」はそれ以外のあらゆる記号に対する理解を
不能と化せしめるドグマの記号であり、記号の集成である文章の理解をも不能とならしめる。
一方で、十字架こそは最大級の「死の記号」でもある。同じぐらいに高い強度を持つ
死の記号としては白骨などがあるが、いずれにしろ「死」を象徴する記号の最たるもの。
記号にもいろいろあり、剣や玉、竜や虎のような生命力を象徴する記号も多々ある。
にもかかわらず、十字架のような死の記号を特定して尊崇するところに、
死文ばかりを殊更に偏重する性向までもが吹き溜まることとなる。
むろん、生命力の記号としての文を用いる場合にも、文辞ばかりの偏重によって、孝養などの
実践を疎かにすることはよくないこととされ、十分な実践の後についでに文をも学ぶぐらいが
丁度よいとされる(学而第一・六)。ただ、それはもちろん、チンパン以下への知能の低下
によってまともな文章理解力もなくなるようなのとは、全く異なる。文学以下の賤業に
陥るためではなく、文学以上の偉業を成すために、初めて文学も劣後されてよいのだ。
「大なるかな、堯の君たるや。巍巍として唯だ天を大と為し、唯だ堯は之れに則る。
蕩蕩として民能く名すること無し。巍巍として其れ功を成す有り。煥として其れ文章有り」
「偉大なものだ、堯帝の主君としての有り様は。ただ堂々として天こそを偉大なものと見なし、
ただその偉大さに則ろうとばかりされた。その大らかさは民が褒め称える言葉も見つからなかったほど。
堂々として大きな業績を打ち立てられ、その業績を磐石なものとするための聖文もまた輝かしかった。
(天の業に則った真に偉大な業績であるのなら、それを記した尚書もまた輝かしいものとなるだろうに)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一九より)
その間中は文字を理解することもできない。チンパンジーにだって簡単な記号を理解する
程度の能力は備わっているようだが、「十字架」はそれ以外のあらゆる記号に対する理解を
不能と化せしめるドグマの記号であり、記号の集成である文章の理解をも不能とならしめる。
一方で、十字架こそは最大級の「死の記号」でもある。同じぐらいに高い強度を持つ
死の記号としては白骨などがあるが、いずれにしろ「死」を象徴する記号の最たるもの。
記号にもいろいろあり、剣や玉、竜や虎のような生命力を象徴する記号も多々ある。
にもかかわらず、十字架のような死の記号を特定して尊崇するところに、
死文ばかりを殊更に偏重する性向までもが吹き溜まることとなる。
むろん、生命力の記号としての文を用いる場合にも、文辞ばかりの偏重によって、孝養などの
実践を疎かにすることはよくないこととされ、十分な実践の後についでに文をも学ぶぐらいが
丁度よいとされる(学而第一・六)。ただ、それはもちろん、チンパン以下への知能の低下
によってまともな文章理解力もなくなるようなのとは、全く異なる。文学以下の賤業に
陥るためではなく、文学以上の偉業を成すために、初めて文学も劣後されてよいのだ。
「大なるかな、堯の君たるや。巍巍として唯だ天を大と為し、唯だ堯は之れに則る。
蕩蕩として民能く名すること無し。巍巍として其れ功を成す有り。煥として其れ文章有り」
「偉大なものだ、堯帝の主君としての有り様は。ただ堂々として天こそを偉大なものと見なし、
ただその偉大さに則ろうとばかりされた。その大らかさは民が褒め称える言葉も見つからなかったほど。
堂々として大きな業績を打ち立てられ、その業績を磐石なものとするための聖文もまた輝かしかった。
(天の業に則った真に偉大な業績であるのなら、それを記した尚書もまた輝かしいものとなるだろうに)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一九より)
キリスト教や民主主義のような邪義が流布されることで、かえって覆い隠されてしまっているものがある。
それは、賢人の真の聡明さであったり、少数の賢聖に多数の愚人が素直に聞き従うことの有用さだったりする。
それによる害はあきらかに、キリスト教が禁教化されたり、民主主義が廃止されたりする場合以上のものとなっている。
重度精神障害者にまで一人前の行為能力が付与されたり、自意識過剰の思い上がりの塊と化している小人に
主権が与えられたりすることは、確かに当の精神障害者や小人らにとっては都合のいいことに違いない。
しかし、それにより逆に精神的健常者や賢人の立場が奪われて、自分たちの能力を十分どころか微塵たりとも
発揮できなくなってしまい、それにより精神障害者や小人たちがいま呼び込んでいる人類滅亡の危機も、
それを回避して救済へと導く能力があるにもかかわらず、その能力自体を活用することができなくなってしまっている。
あっちを立てればこっちが立たず、こっちを立てればあっちが立たない。二律背反の完全な相反性が
儒学とキリスト教、封建主義と民主主義、精神健常者と精神障害者、賢人と小人の間などには伴っており、
劣悪なほうを採って優良なほうを覆い隠す以上は、優良な側の能力が実在していたところで発揮されることはない。
「罪有るは敢えて赦さず、帝の臣を蔽わず、簡ぶこと帝の心に在り」
「罪のあるものの放蕩を敢えて赦さず、それにより、上帝の忠臣となるに相応しい賢人が覆い隠されることを防ぎ、
上帝の御心のままに臣下を選び出すことができるようにいたします(殷の湯王の上帝に対する誓いの言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)
それは、賢人の真の聡明さであったり、少数の賢聖に多数の愚人が素直に聞き従うことの有用さだったりする。
それによる害はあきらかに、キリスト教が禁教化されたり、民主主義が廃止されたりする場合以上のものとなっている。
重度精神障害者にまで一人前の行為能力が付与されたり、自意識過剰の思い上がりの塊と化している小人に
主権が与えられたりすることは、確かに当の精神障害者や小人らにとっては都合のいいことに違いない。
しかし、それにより逆に精神的健常者や賢人の立場が奪われて、自分たちの能力を十分どころか微塵たりとも
発揮できなくなってしまい、それにより精神障害者や小人たちがいま呼び込んでいる人類滅亡の危機も、
それを回避して救済へと導く能力があるにもかかわらず、その能力自体を活用することができなくなってしまっている。
あっちを立てればこっちが立たず、こっちを立てればあっちが立たない。二律背反の完全な相反性が
儒学とキリスト教、封建主義と民主主義、精神健常者と精神障害者、賢人と小人の間などには伴っており、
劣悪なほうを採って優良なほうを覆い隠す以上は、優良な側の能力が実在していたところで発揮されることはない。
「罪有るは敢えて赦さず、帝の臣を蔽わず、簡ぶこと帝の心に在り」
「罪のあるものの放蕩を敢えて赦さず、それにより、上帝の忠臣となるに相応しい賢人が覆い隠されることを防ぎ、
上帝の御心のままに臣下を選び出すことができるようにいたします(殷の湯王の上帝に対する誓いの言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)
冤罪にしろ、それによる不当な放免にしろ、立派な権力犯罪に当たる。
それはたとえ、冤罪で刑死した人間が後に生き返ったところで
全く変わりないことが、>>142の思考実験によっても明らか。
キリスト教徒には、罪の放免によって大迷惑を被る、犯罪被害者への配慮が全く欠けている。
だから、冤罪やそれによる放免などをやらかした権力犯罪者との和解までをも促す。
向こうには、このまま和解などすればあまりにも多くの怨みを呼び込んでしまう事情があり、
罪を敢えて許さず、冤罪や不当放免に対する十全な処分によって、怨みを呼び込む原因を解消していく
ところから期されねばならないのであり、冤罪刑死者の復活などという、何ら罪障緩和の手立てにも
なっていない偽証などをエサに和解を呼びかけたりしてはならない。仮にその復活が偽証ではなく
真実であったところで、犯罪被害者の怨みが解消される何らの理由にもなっていないのだから。
「禮の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為すも、小大之れに由れば、
行われざる所有り。和を知りて和すれども、禮を以て之れを節せざれば、亦た行う可からざるなり」
「礼儀礼節を実践する上でも、そこに和やかさが保たれていることが貴ばれるべきである。古えの聖王たちも
それを美徳としたが、小事から大事に至るまで、何もかもを和み一色で塗り固めようとするなれ合い志向では、
何もうまくいかなくなってしまう。たとえ和やかであることに努めるのであっても、礼儀作法などによって
そこに節度を保たせるのでなければ、むしろそうしないでいたほうがよいということにすらなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一二より)
それはたとえ、冤罪で刑死した人間が後に生き返ったところで
全く変わりないことが、>>142の思考実験によっても明らか。
キリスト教徒には、罪の放免によって大迷惑を被る、犯罪被害者への配慮が全く欠けている。
だから、冤罪やそれによる放免などをやらかした権力犯罪者との和解までをも促す。
向こうには、このまま和解などすればあまりにも多くの怨みを呼び込んでしまう事情があり、
罪を敢えて許さず、冤罪や不当放免に対する十全な処分によって、怨みを呼び込む原因を解消していく
ところから期されねばならないのであり、冤罪刑死者の復活などという、何ら罪障緩和の手立てにも
なっていない偽証などをエサに和解を呼びかけたりしてはならない。仮にその復活が偽証ではなく
真実であったところで、犯罪被害者の怨みが解消される何らの理由にもなっていないのだから。
「禮の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為すも、小大之れに由れば、
行われざる所有り。和を知りて和すれども、禮を以て之れを節せざれば、亦た行う可からざるなり」
「礼儀礼節を実践する上でも、そこに和やかさが保たれていることが貴ばれるべきである。古えの聖王たちも
それを美徳としたが、小事から大事に至るまで、何もかもを和み一色で塗り固めようとするなれ合い志向では、
何もうまくいかなくなってしまう。たとえ和やかであることに努めるのであっても、礼儀作法などによって
そこに節度を保たせるのでなければ、むしろそうしないでいたほうがよいということにすらなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一二より)
「悲しみ」とは、亡びに対する感傷のことだ。それが悲しみというものの定義だ。
親の死を悲しんだりするのも、それが一つの大きな亡びであるから。
古代の儒家の礼法に即せば、親の死を悲しむに際しては一切我慢などをしようとはせず、
大泣きに泣いて絶食などにも及べばいいとする(ただし自分自身が死なない程度に)。
それが「悲しみ」という名辞にかなったことだから、そうする。
一方で、「子供は老人よりも長生きだ」などの詭弁に基づく逍遥遊すらありとする道家の荘子などは、
老子の葬式で弟子たちが踊っていたのを評し、自らも妻の死に際して歌を唄って楽しんだという。
道家の場合は全くの「無憂」であり、超俗者ならではの特権として悲哀全般を捨て去ってしまう。
(これは死への悲しみなどをより体系的に克服していく仏教などとも類似している)
どちらでなければならないなどということはないが、少なくともどちらかであったほうがいい。
悲しみを亡び以外の何かに転用するような蒙昧を、世俗に持ち込んだりするようなことだけはすべきでない。
「少連、大連善く喪に居す。三日怠らず、三月解らず、期に悲哀し、三年憂ふ。東夷の子なり」
「少連や大連は東方の蛮夷の人ではあるが、善く誠実に喪に服している。三日間の哀痛を怠らず、
三ヶ月間の喪殯も卒なくこなし、ことあるごとによく悲しんで、三年間憂いを解くことがなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・雑記下第二十一より)
親の死を悲しんだりするのも、それが一つの大きな亡びであるから。
古代の儒家の礼法に即せば、親の死を悲しむに際しては一切我慢などをしようとはせず、
大泣きに泣いて絶食などにも及べばいいとする(ただし自分自身が死なない程度に)。
それが「悲しみ」という名辞にかなったことだから、そうする。
一方で、「子供は老人よりも長生きだ」などの詭弁に基づく逍遥遊すらありとする道家の荘子などは、
老子の葬式で弟子たちが踊っていたのを評し、自らも妻の死に際して歌を唄って楽しんだという。
道家の場合は全くの「無憂」であり、超俗者ならではの特権として悲哀全般を捨て去ってしまう。
(これは死への悲しみなどをより体系的に克服していく仏教などとも類似している)
どちらでなければならないなどということはないが、少なくともどちらかであったほうがいい。
悲しみを亡び以外の何かに転用するような蒙昧を、世俗に持ち込んだりするようなことだけはすべきでない。
「少連、大連善く喪に居す。三日怠らず、三月解らず、期に悲哀し、三年憂ふ。東夷の子なり」
「少連や大連は東方の蛮夷の人ではあるが、善く誠実に喪に服している。三日間の哀痛を怠らず、
三ヶ月間の喪殯も卒なくこなし、ことあるごとによく悲しんで、三年間憂いを解くことがなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・雑記下第二十一より)
イエスが禍音書で信者に促している、不当利得での友愛や親子兄弟での殺し合いなどは、
本人としてもあくまで「愚かな振る舞い」であることを承知しているという。
「何も知らない児童のように愚かであってこそ、天の国に導かれる」
これと似たような教説は道家などにもあって、百発百中の弓の名手であったり、
多くの人々からの人望も厚かったりする列御寇が、伯昏無人のような先輩格の賢人に
「まだまだだな」と叱咤されて、誰にも会わずにただひたすら家の中に
ひきこもることで大成するなどの逸話が「列子」にも記載されている。これなども、
見た目にはかえって愚かな振る舞いによって、見るからに大業であるような
行い以上もの成果を挙げるという例になっているが、道家が説く「聖なる愚行」は、
引きこもりや飲んだくれなどの、どれも消極的なものばかりで、犯罪行為などに対して
積極的であるなどということではない。たしかに、そのほうが本当に「子供のように愚か」
なのであり、たいそうな知能犯罪を為したりするのは、あくまで大人の知見でこそできること。
道家のように消極的ではなく、カルト信者のように犯罪行為に対してまで積極的で
あったりはしない、儒家の中庸に根ざした振る舞いがまあ「賢者の行い」であるとして、
その賢者の行い以上もの成果を挙げられる場合がある「聖なる愚行」は、あくまで
道家の消極志向であって、カルト信仰に特有の、犯罪をも辞さない積極志向などではない。
賢者以上の愚者というのも確かにあり得るが、賢者以下の愚者も当然あって、
賢者以下の愚者については、だからといって何かの成果に結実するということもない。
強いて言えば、二度と一人前の大人として振る舞うことができなくなるのが成果だとはいえる。
本人としてもあくまで「愚かな振る舞い」であることを承知しているという。
「何も知らない児童のように愚かであってこそ、天の国に導かれる」
これと似たような教説は道家などにもあって、百発百中の弓の名手であったり、
多くの人々からの人望も厚かったりする列御寇が、伯昏無人のような先輩格の賢人に
「まだまだだな」と叱咤されて、誰にも会わずにただひたすら家の中に
ひきこもることで大成するなどの逸話が「列子」にも記載されている。これなども、
見た目にはかえって愚かな振る舞いによって、見るからに大業であるような
行い以上もの成果を挙げるという例になっているが、道家が説く「聖なる愚行」は、
引きこもりや飲んだくれなどの、どれも消極的なものばかりで、犯罪行為などに対して
積極的であるなどということではない。たしかに、そのほうが本当に「子供のように愚か」
なのであり、たいそうな知能犯罪を為したりするのは、あくまで大人の知見でこそできること。
道家のように消極的ではなく、カルト信者のように犯罪行為に対してまで積極的で
あったりはしない、儒家の中庸に根ざした振る舞いがまあ「賢者の行い」であるとして、
その賢者の行い以上もの成果を挙げられる場合がある「聖なる愚行」は、あくまで
道家の消極志向であって、カルト信仰に特有の、犯罪をも辞さない積極志向などではない。
賢者以上の愚者というのも確かにあり得るが、賢者以下の愚者も当然あって、
賢者以下の愚者については、だからといって何かの成果に結実するということもない。
強いて言えば、二度と一人前の大人として振る舞うことができなくなるのが成果だとはいえる。
「子曰く、賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。
人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」
「先生は言われた。『なんと顔回は賢いことだろう。茶碗一杯の飯に、湯のみ一杯の飲み物、
せまい路地での暮らしを続けているが、普通はそんなひもじい生活には耐えられないというのに、
顔回はそれを楽しむことをやめようとすらしない。なんと顔回は賢いことだろう』
(イエスのほざく『賢いこの世の子』などは、しょせんは悪事に直接を手を染めもせずに
いい暮らしをしている人間などを言っているのだろうが、そんな程度ではただ小賢しいだけである。
投機で得た富で裕福な生活を送っていた子貢なども、『顔回には到底かなわない』と言っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第八・一一)
人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」
「先生は言われた。『なんと顔回は賢いことだろう。茶碗一杯の飯に、湯のみ一杯の飲み物、
せまい路地での暮らしを続けているが、普通はそんなひもじい生活には耐えられないというのに、
顔回はそれを楽しむことをやめようとすらしない。なんと顔回は賢いことだろう』
(イエスのほざく『賢いこの世の子』などは、しょせんは悪事に直接を手を染めもせずに
いい暮らしをしている人間などを言っているのだろうが、そんな程度ではただ小賢しいだけである。
投機で得た富で裕福な生活を送っていた子貢なども、『顔回には到底かなわない』と言っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第八・一一)

聖道門の仏僧も肉食は避け、インドのヒンズー教徒も基本は肉(特に牛肉)を食わず、
中東などのイスラム教徒も豚肉を徹底して食わず、牛肉などもあまり食べない。
「血肉の穢れを避ける」という感覚を肯定する人々は数多く、実に人類の半数程度に及ぶ。
何の肉を食うことを避けるかとかの、程度の違いこそあれど、実際にそれなりの実践にも移している。
もちろんそんな必要が必ずしもあるわけではなく、肉食を大々的に肯定する正統な文化だってもちろんある。
儒家も親の死後、三年は肉を食わないほうがよいとする一方で「年寄りは肉を食ったほうがよい(礼記)」といい、
昔の慣習では確かに犬肉や罪人の人肉を食する場合すらあった(これは日本の儒者などは一切取り入れていない)。
他力の浄土門である親鸞和尚も、「肉食妻帯」というあまりにも露骨な破戒行為をあえて為している。そこには
「肉への欲」へのウソ偽りのない肯定意識があり、なおかつ最低限の人としての品性の保全が伴たれている。
餓死児童の血肉すら、本人たちに振り分ける前から奪い去って自分たちの利得とし、人類史上最悪級の
物質的な我田引水に及んでいる(欧米の)キリスト教徒こそは、「肉が主ではない」みたいな詭弁をほざく。
肉欲まみれというのなら、かえってその肉欲を真正面から肯定して、その上で人としての最低限の品性を
保っていこうとするほうが誠実なことであり、肉欲を捨て去らない範囲における、マシな選択だといえる。
口先だけで肉欲を否定して、その実未曾有の肉欲まみれなどであるほうが、ムッツリもいいところだ。
「肉多しと雖も、食の氣に勝たしめず」
「(孔先生は)肉を多く食べるときにも、米などの主食よりも多く食べることはなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・八より)
断罪や死への恐怖からなる鏡映認知障害が進行して、十字架上の半裸のおっさんと
自分との区別も付かなくなって、罪責の重さからなる良心の呵責も喪失してしまうという
犯罪聖書信者たちの自己洗脳は、IQ20〜35程度までへの知能指数の低下がそのタネになっている。
道家の秘奥の教義などにも、自分自身が痴呆も同然の状態と化すことで
天地万物の道理と一体化するようなものがいくらかある。ただ、それは本当に完全に
知的障害者も同然の状態に固定化されてしまうということであり、知的障害レベルにまで
知能が低下しておきながら、知能犯罪に及ぶことにかけては有能であるような
犯罪聖書信仰などにこそ特有のカルト的な機能性は伴っていない。
というよりも、そのような機能性から完全に捨て去ってしまうのが無為の本義であり、
そのために道術者は肉欲すら捨て去って、霞を食うような粗末な暮らしに徹したりする。
重度知的障害レベルにまで知能を低下させる「逃げ場」を用意しておきながら、
肉欲を満たすための知能犯罪能力などはそのままにしておくのが、犯罪聖書信仰にこそ
特有の病理であり、道家は認められても聖書信仰は二度と認められない根拠ともなっている。
「臘肉を噬み、毒に遇う。小しく吝なれども咎無し。毒に遇うは、位當たらざればなり。
乾肉を噬み、黄金を得。貞﨤なれば咎無し。貞﨤なれば咎無しとは、當を得ればなり」
「蝋のようにガチガチに固まった骨付きの乾肉を噛んで毒にあたるようにして、獄中に罪人を
収めることに苦心する。色々ともったいぶられて面倒ではあるが、だからといって咎はない。
毒にあたるというのは、罪人が身の程をわきまえずに思い上がっている姿に辟易するからである。
まともに食せる程度の堅さの乾肉を噛んで黄金を得るように、獄中に罪人を収めることがうまくいく。
貞正を守ってよく警戒に努めつつことを行えば、なんら問題となるようなことは生じない。
問題が生じないのは、罪人までもが身の程をわきまえて素直に収監を受け入れるからである。
(罪人が身の程もわきまえずに放蕩しているようでは、肉も毒を宿した蝋肉のようで美味くない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・噬嗑・六三と六五及び象伝)
自分との区別も付かなくなって、罪責の重さからなる良心の呵責も喪失してしまうという
犯罪聖書信者たちの自己洗脳は、IQ20〜35程度までへの知能指数の低下がそのタネになっている。
道家の秘奥の教義などにも、自分自身が痴呆も同然の状態と化すことで
天地万物の道理と一体化するようなものがいくらかある。ただ、それは本当に完全に
知的障害者も同然の状態に固定化されてしまうということであり、知的障害レベルにまで
知能が低下しておきながら、知能犯罪に及ぶことにかけては有能であるような
犯罪聖書信仰などにこそ特有のカルト的な機能性は伴っていない。
というよりも、そのような機能性から完全に捨て去ってしまうのが無為の本義であり、
そのために道術者は肉欲すら捨て去って、霞を食うような粗末な暮らしに徹したりする。
重度知的障害レベルにまで知能を低下させる「逃げ場」を用意しておきながら、
肉欲を満たすための知能犯罪能力などはそのままにしておくのが、犯罪聖書信仰にこそ
特有の病理であり、道家は認められても聖書信仰は二度と認められない根拠ともなっている。
「臘肉を噬み、毒に遇う。小しく吝なれども咎無し。毒に遇うは、位當たらざればなり。
乾肉を噬み、黄金を得。貞﨤なれば咎無し。貞﨤なれば咎無しとは、當を得ればなり」
「蝋のようにガチガチに固まった骨付きの乾肉を噛んで毒にあたるようにして、獄中に罪人を
収めることに苦心する。色々ともったいぶられて面倒ではあるが、だからといって咎はない。
毒にあたるというのは、罪人が身の程をわきまえずに思い上がっている姿に辟易するからである。
まともに食せる程度の堅さの乾肉を噛んで黄金を得るように、獄中に罪人を収めることがうまくいく。
貞正を守ってよく警戒に努めつつことを行えば、なんら問題となるようなことは生じない。
問題が生じないのは、罪人までもが身の程をわきまえて素直に収監を受け入れるからである。
(罪人が身の程もわきまえずに放蕩しているようでは、肉も毒を宿した蝋肉のようで美味くない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・噬嗑・六三と六五及び象伝)
神は…130年ぐらい前に死んだと聞いたが…
「鬼神」とは、「死者の霊魂」のことだが。
gooの和英辞書では「悔い改める」の英文は「acknowledge one's mistakes [misdeeds] and reform」としている。
他にも色々な「悔い改める」の英訳はあるようだが、やはり何を「改める(reform)」かが明示されていない。
日本人なら当然、「過ちを犯すような劣悪な思考規範や言動規範を改める」と考える。
「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ(学而第一・八)」というから、中国人だってそう考えるだろうし、
「悪いことをしてしまったとしても二度と繰り返さない(法句経・一一七)」という仏教文化が
(現ヒンズー教なども通じて)根付いているインドや東南アジアの人々だってそう考えるだろう。
(日本人もまた、儒学や仏教を通じてこそこのような常識的な考え方を育んできている)
戒律主義であり、破戒行為に対しては断固たる厳罰で臨むイスラム教徒も、過ちの繰り返しなどは決して認めない。
実に世界の三分の二以上の人間が、「悔い改める」といえば「悔いて行いを改める」という風に常識的に捉える。
聖書信者だけはそうではなく、「悔い改める」といえば、「悔いてその悔いを改める」と捉える。
悔いたからといって過ちだらけの行いを改めるのではなく、過ちを悔いることだけを改めて、過ちは犯し続ける。
そんなおかしなサイコパス患者と化したことが赦免の条件になると、自分たちの聖書に書いてあるんだから、
信じている以上はそうあろうとする。それが聖書信仰というものなのであり、そうであることを完全に看破して、
「邪宗門」として完全な禁教対象としていた江戸時代の日本などのほうが、ごくごく健全な対応をしていたのであり、
聖書信仰の救いようのない邪悪さから目を背けて十分な警察の対象ともせず、「信教の自由」の法文の下で
その横行までもが大々的に容認されている現代社会の対応のほうが、あまりにもおかしくて不健全すぎるのだ。
「凡そ禁を執りて以て衆を齊ふるときは、過ちを赦さず」
「禁忌に相当するような邪義によって大衆をたぶらかし囲い込んだときには、あらゆる過ちを赦さない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
他にも色々な「悔い改める」の英訳はあるようだが、やはり何を「改める(reform)」かが明示されていない。
日本人なら当然、「過ちを犯すような劣悪な思考規範や言動規範を改める」と考える。
「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ(学而第一・八)」というから、中国人だってそう考えるだろうし、
「悪いことをしてしまったとしても二度と繰り返さない(法句経・一一七)」という仏教文化が
(現ヒンズー教なども通じて)根付いているインドや東南アジアの人々だってそう考えるだろう。
(日本人もまた、儒学や仏教を通じてこそこのような常識的な考え方を育んできている)
戒律主義であり、破戒行為に対しては断固たる厳罰で臨むイスラム教徒も、過ちの繰り返しなどは決して認めない。
実に世界の三分の二以上の人間が、「悔い改める」といえば「悔いて行いを改める」という風に常識的に捉える。
聖書信者だけはそうではなく、「悔い改める」といえば、「悔いてその悔いを改める」と捉える。
悔いたからといって過ちだらけの行いを改めるのではなく、過ちを悔いることだけを改めて、過ちは犯し続ける。
そんなおかしなサイコパス患者と化したことが赦免の条件になると、自分たちの聖書に書いてあるんだから、
信じている以上はそうあろうとする。それが聖書信仰というものなのであり、そうであることを完全に看破して、
「邪宗門」として完全な禁教対象としていた江戸時代の日本などのほうが、ごくごく健全な対応をしていたのであり、
聖書信仰の救いようのない邪悪さから目を背けて十分な警察の対象ともせず、「信教の自由」の法文の下で
その横行までもが大々的に容認されている現代社会の対応のほうが、あまりにもおかしくて不健全すぎるのだ。
「凡そ禁を執りて以て衆を齊ふるときは、過ちを赦さず」
「禁忌に相当するような邪義によって大衆をたぶらかし囲い込んだときには、あらゆる過ちを赦さない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)
富は、所有者自身とは離れたところで貯められたり使われたり、増えたり減ったりしている。
仁徳のように完全に自得のものではないから、使い切ってなくなってしまえばそれまでのもの。
一方で、善人が仁徳を完全に自得するようにして、悪人もまたその悪行によって罪障を完全に自得する。
膨大な不当利得を貯め込むことで多くの人々を苦しめた大悪人が、仮にその全ての富を今すぐに手離して
本来の所有者に返還したりしても、不当に富を奪い取って、一定期間以上独占していたことで、飢餓や
戦乱などで数多の命を亡きものにしてしまったりした場合の罪障が即座に消えたりすることもない。
太公望呂尚が殷への仕官を蹴って隠遁していた頃に、生活のひもじさに耐え切れなくて逃げ去った妻が、
周の重臣として大成功を収めて後の呂尚に復縁を願ったところ、呂尚は「覆水盆に返らず」という例えを
引いてその願いを断ったという。一番必要な貧窮の時期には逃げ去って、妻妾などにはこと欠かなくなった
成功後に復縁を要求してくるような厚かましさを、太公望もその要求を断ることで戒めたが、必要な富を
必要なときに奪い去って、散々な荒廃に追いやっておいてから赦免を要求したりするのならば、たとえ全ての
富を被害者に返還するのであっても、「覆水盆に返らず」ということがいえる。全ての富を返還するだけでなく、
服役や禁治産などの処分までもがあてがわれて初めて、盆上の水を覆した全ての責任が償われることとなる。
「季氏は周公より富めり。而して求は之れが為めに聚斂して之れを附益す。
子曰く、吾が徒に非ざるなり。小子は鼓を鳴らして之れを攻めて可なり」
「季氏は魯の家老であるにもかかわらず、周朝の重臣だった周公よりも多くの富を私的に得ていた。
にもかかわらず孔子の弟子だった冉求は、仕官相手である季氏の機嫌をとる目的で、
民に重税を課すことでさらにその富を殖やした。孔先生はいわれた。『もう求は私たちの仲間ではないね。
みんな、軍勢を駆って太鼓を鳴らしながらこれに攻め入ったって構いやしないよ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——先進第十一・一七)
仁徳のように完全に自得のものではないから、使い切ってなくなってしまえばそれまでのもの。
一方で、善人が仁徳を完全に自得するようにして、悪人もまたその悪行によって罪障を完全に自得する。
膨大な不当利得を貯め込むことで多くの人々を苦しめた大悪人が、仮にその全ての富を今すぐに手離して
本来の所有者に返還したりしても、不当に富を奪い取って、一定期間以上独占していたことで、飢餓や
戦乱などで数多の命を亡きものにしてしまったりした場合の罪障が即座に消えたりすることもない。
太公望呂尚が殷への仕官を蹴って隠遁していた頃に、生活のひもじさに耐え切れなくて逃げ去った妻が、
周の重臣として大成功を収めて後の呂尚に復縁を願ったところ、呂尚は「覆水盆に返らず」という例えを
引いてその願いを断ったという。一番必要な貧窮の時期には逃げ去って、妻妾などにはこと欠かなくなった
成功後に復縁を要求してくるような厚かましさを、太公望もその要求を断ることで戒めたが、必要な富を
必要なときに奪い去って、散々な荒廃に追いやっておいてから赦免を要求したりするのならば、たとえ全ての
富を被害者に返還するのであっても、「覆水盆に返らず」ということがいえる。全ての富を返還するだけでなく、
服役や禁治産などの処分までもがあてがわれて初めて、盆上の水を覆した全ての責任が償われることとなる。
「季氏は周公より富めり。而して求は之れが為めに聚斂して之れを附益す。
子曰く、吾が徒に非ざるなり。小子は鼓を鳴らして之れを攻めて可なり」
「季氏は魯の家老であるにもかかわらず、周朝の重臣だった周公よりも多くの富を私的に得ていた。
にもかかわらず孔子の弟子だった冉求は、仕官相手である季氏の機嫌をとる目的で、
民に重税を課すことでさらにその富を殖やした。孔先生はいわれた。『もう求は私たちの仲間ではないね。
みんな、軍勢を駆って太鼓を鳴らしながらこれに攻め入ったって構いやしないよ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——先進第十一・一七)
ここ千年来、家系に外人の血筋が混入した形跡は一切ない。
もちろん、平安時代以前の貴族にだって、渡来人の末裔は数多いのだから、
そこに中国系の血筋が流れているといえば、そうかもしれない。
桓武天皇などの皇族にすら渡来系の血が流れているのだから、
日本人が古代の中国文化に「懐かしみ」を覚えたとしても、何もおかしくはない。
それどころか、蒙古族や女真族や英仏人といった異民族による征服支配をたて続けに被ってきた
今の中国人などよりも、日本人のほうが遥かに、古代の中国文化を
よりその原型を止めた形で継承しているとすらいえる。
もちろん、平安時代以前の貴族にだって、渡来人の末裔は数多いのだから、
そこに中国系の血筋が流れているといえば、そうかもしれない。
桓武天皇などの皇族にすら渡来系の血が流れているのだから、
日本人が古代の中国文化に「懐かしみ」を覚えたとしても、何もおかしくはない。
それどころか、蒙古族や女真族や英仏人といった異民族による征服支配をたて続けに被ってきた
今の中国人などよりも、日本人のほうが遥かに、古代の中国文化を
よりその原型を止めた形で継承しているとすらいえる。
仁の実践だって愛の実践だし、それどころか、
あらゆる愛の実践の中でも最大級のものですらある。
親愛と異性愛との、両方の要素を兼ね備えつつ、万人への慈しみをも欠かさぬ仁。
そこに「社会規範」としての最高の理念までもが備わっており、出家行によって愛全般を捨て去る
ことの実践に努める沙門でもないかぎりは、誰しもが仁の実践をこそ最優先して然るべきもの。
しかるに、イエスを含む犯罪聖書の登場人物や、犯罪聖書の著者たちは「仁」という理念を
始めから知らない。仁やそれに相当する理念を全く察知もしないままに、神の愛を騙る自己愛や、
近隣の利益を共有する者同士だけでの偏愛を促し、一方で人として当然貴ぶべき親族への
愛などは蔑ろにしてもよいとする。早い話しが、「愛の悪用の実践」ばかりを促している。
愛や勇気が善用も悪用も可能な諸刃の剣であることは重ね重ね説いてきたことだが、
蛮勇や匹夫の勇を棄てて、大勇のみの実践を心がけることが勇気の悪用の禁止と善用の推進となる一方で、
自己愛や偏愛を棄てて、仁の実践を心がけることこそが愛の悪用の禁止と善用の推進ともなる。
「事を作すに威が其の愛に克てば、小と雖も必ず済ふ」
「軍事を為すに際しては、威武が愛着に打ち克ってすらいれば、小勢であっても必ず功を成す。
(軍事的には、愛着に溺れてヘタレと化すことは禁物であり、そうなれば必ず負ける。
古来から、戦闘に及ぶ前に異性と交合すると必ず負けるともされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十三年より)
あらゆる愛の実践の中でも最大級のものですらある。
親愛と異性愛との、両方の要素を兼ね備えつつ、万人への慈しみをも欠かさぬ仁。
そこに「社会規範」としての最高の理念までもが備わっており、出家行によって愛全般を捨て去る
ことの実践に努める沙門でもないかぎりは、誰しもが仁の実践をこそ最優先して然るべきもの。
しかるに、イエスを含む犯罪聖書の登場人物や、犯罪聖書の著者たちは「仁」という理念を
始めから知らない。仁やそれに相当する理念を全く察知もしないままに、神の愛を騙る自己愛や、
近隣の利益を共有する者同士だけでの偏愛を促し、一方で人として当然貴ぶべき親族への
愛などは蔑ろにしてもよいとする。早い話しが、「愛の悪用の実践」ばかりを促している。
愛や勇気が善用も悪用も可能な諸刃の剣であることは重ね重ね説いてきたことだが、
蛮勇や匹夫の勇を棄てて、大勇のみの実践を心がけることが勇気の悪用の禁止と善用の推進となる一方で、
自己愛や偏愛を棄てて、仁の実践を心がけることこそが愛の悪用の禁止と善用の推進ともなる。
「事を作すに威が其の愛に克てば、小と雖も必ず済ふ」
「軍事を為すに際しては、威武が愛着に打ち克ってすらいれば、小勢であっても必ず功を成す。
(軍事的には、愛着に溺れてヘタレと化すことは禁物であり、そうなれば必ず負ける。
古来から、戦闘に及ぶ前に異性と交合すると必ず負けるともされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十三年より)
西洋人は文明の「既製品」ばかりを見て、その設計や工作の用意には目を向けようとしない。
孟子や墨子や荀子や韓非子といった、中国諸子百家の思想家が重要理念として掲げていた
「規矩準縄(定規とコンパスと水準器と墨縄。それぞれの思想家によって内容の異同あり)」が、
実際の文明構造物を建造する上での必須な設計製造用具となっており、このうちの定規とコンパス
については、易の考案者とされる伏羲氏とその妻である女媧氏が携えていたとされる。
そして、水準器と墨縄に利用される「縄」は、10000年前から日本人がその重要性に着目し、
土器に独特の文様を施す道具として用いることで、土器の貯蔵物や所有者を識別するのに用いていた。
これは奇しくも、「ストリング(縄)」とあだ名される今のプログラミングソースの用途にも近似していて、
現代における最先端の情報化文明の出現すらをも、10000年前の日本人がすでに見越していたといえる。
日本人や中国人は太古の昔から、文明や文化の創作の大前提として用意される道具などのほうをより重視し、
しかもその重視を始めた時期たるや、西洋人や古代オリエント人が甚大な物質文明を構築していこうと
し始めた時代よりもさらに昔にまで遡る。そこに、東洋人の文明や文化に対する透徹したわきまえを
確立する秘訣があったのであり、逆に言えば、既製品ばかりを偏重してその製作の過程を軽んずる
西洋人の俗悪な即物志向が、今における西洋文明の衰退の原因にすらなってしまったのだといえる。
「命を為すに、裨韑之れを草創し、世叔之れを討論し、行人子羽之れを脩飾し、東里の子産之れを潤色す」
「(昔、鄭の外交文書は非常に優れていてどこにも落ち度がなかった。そこにはこういった理由があった)
諸々の口上書を作成する場合に、裨韑がまずその草案を新造し、世叔がその内容について討論を重ね、外交官
である子羽がその文体を聞こえの良いように修飾し、最後に東里にいる子産が全体の色づきを整えていたからだ。
(口上書をまず新造したのが裨韑だからといって、世叔や子羽や子産の仕事がそれに劣っているとはいえない。
むしろ、最後の仕上げを行った子産こそは、口上書作成の上でも最大級の役割を果たしていたとすらいえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・九より)
孟子や墨子や荀子や韓非子といった、中国諸子百家の思想家が重要理念として掲げていた
「規矩準縄(定規とコンパスと水準器と墨縄。それぞれの思想家によって内容の異同あり)」が、
実際の文明構造物を建造する上での必須な設計製造用具となっており、このうちの定規とコンパス
については、易の考案者とされる伏羲氏とその妻である女媧氏が携えていたとされる。
そして、水準器と墨縄に利用される「縄」は、10000年前から日本人がその重要性に着目し、
土器に独特の文様を施す道具として用いることで、土器の貯蔵物や所有者を識別するのに用いていた。
これは奇しくも、「ストリング(縄)」とあだ名される今のプログラミングソースの用途にも近似していて、
現代における最先端の情報化文明の出現すらをも、10000年前の日本人がすでに見越していたといえる。
日本人や中国人は太古の昔から、文明や文化の創作の大前提として用意される道具などのほうをより重視し、
しかもその重視を始めた時期たるや、西洋人や古代オリエント人が甚大な物質文明を構築していこうと
し始めた時代よりもさらに昔にまで遡る。そこに、東洋人の文明や文化に対する透徹したわきまえを
確立する秘訣があったのであり、逆に言えば、既製品ばかりを偏重してその製作の過程を軽んずる
西洋人の俗悪な即物志向が、今における西洋文明の衰退の原因にすらなってしまったのだといえる。
「命を為すに、裨韑之れを草創し、世叔之れを討論し、行人子羽之れを脩飾し、東里の子産之れを潤色す」
「(昔、鄭の外交文書は非常に優れていてどこにも落ち度がなかった。そこにはこういった理由があった)
諸々の口上書を作成する場合に、裨韑がまずその草案を新造し、世叔がその内容について討論を重ね、外交官
である子羽がその文体を聞こえの良いように修飾し、最後に東里にいる子産が全体の色づきを整えていたからだ。
(口上書をまず新造したのが裨韑だからといって、世叔や子羽や子産の仕事がそれに劣っているとはいえない。
むしろ、最後の仕上げを行った子産こそは、口上書作成の上でも最大級の役割を果たしていたとすらいえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・九より)
ダンテも「神曲」天国篇で、地獄から煉獄を通じて、
最後に天国に昇った自らが、「もはや神を信じていない」といっている。
キリスト教徒が神を信じるのは、神がやってくるその瞬間までのことであり、
新約の「契約」が履行された時点で、契約志向に基づく信仰は終結するという。
キリスト教徒にとって何よりも恐ろしいのは、神がやってこない限り、
契約が履行されない限りにおいて、信仰を捨てさせられてしまうこと。
冤罪で十字架にかけられたからといって、刑死後三日目に生き返るような
珍妙な生き物が現れるまでは、キリスト教徒は信仰を捨てることができないが、
さりとてそんな奇怪な生き物は実際問題として実在しないので、キリスト教徒は
キリスト教徒である限りにおいて、永遠の信仰を続けさせられるはめとなる。
契約志向に基づく、「契約が履行すらされればもはや捨て去ってしまって構わない」
などというような「信」のほうが、むしろ不誠実な「信」であり、契約の履行や
不履行などに関係なく信実であることこそが真に誠実な「信」であるわけだから、
絶対に履行されない契約を信じさせられた結果、生きてる限りにおける永久の「信」を
存続させることとなったキリスト教徒の姿勢は、結果としてそれ自体は誠実なものとなっている。
あとは、「絶対に履行されない契約を信じさせられているから」などという不純な理由には
基づかず、自らの自律性に根ざした、見返りなどを顧みない永久不変の「信」をすら獲得できたなら、
それでこそ「信」の誠実さが確立されるわけで、そしたら信すら持たないただの常人などよりも
よっぽど誠実ですらあるわけで、かえってより信愛に値する相手にすらなれるわけだから。
「子張、徳を崇くし惑いを弁ぜんことを問う。子曰く、忠信を主として義に徒れば、徳を崇くするなり」
「子張が徳性を高めて迷いを晴らす方法を尋ねた。先生は言われた。『忠誠と信実さとを第一として、
それによって正義に移っていけたなら自らの徳性を高めることができるだろう』(契約すら履行されれば
それで捨て去られる信仰などではなく、これからも存続される信実さこそを価値あるものとすべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一〇より)
最後に天国に昇った自らが、「もはや神を信じていない」といっている。
キリスト教徒が神を信じるのは、神がやってくるその瞬間までのことであり、
新約の「契約」が履行された時点で、契約志向に基づく信仰は終結するという。
キリスト教徒にとって何よりも恐ろしいのは、神がやってこない限り、
契約が履行されない限りにおいて、信仰を捨てさせられてしまうこと。
冤罪で十字架にかけられたからといって、刑死後三日目に生き返るような
珍妙な生き物が現れるまでは、キリスト教徒は信仰を捨てることができないが、
さりとてそんな奇怪な生き物は実際問題として実在しないので、キリスト教徒は
キリスト教徒である限りにおいて、永遠の信仰を続けさせられるはめとなる。
契約志向に基づく、「契約が履行すらされればもはや捨て去ってしまって構わない」
などというような「信」のほうが、むしろ不誠実な「信」であり、契約の履行や
不履行などに関係なく信実であることこそが真に誠実な「信」であるわけだから、
絶対に履行されない契約を信じさせられた結果、生きてる限りにおける永久の「信」を
存続させることとなったキリスト教徒の姿勢は、結果としてそれ自体は誠実なものとなっている。
あとは、「絶対に履行されない契約を信じさせられているから」などという不純な理由には
基づかず、自らの自律性に根ざした、見返りなどを顧みない永久不変の「信」をすら獲得できたなら、
それでこそ「信」の誠実さが確立されるわけで、そしたら信すら持たないただの常人などよりも
よっぽど誠実ですらあるわけで、かえってより信愛に値する相手にすらなれるわけだから。
「子張、徳を崇くし惑いを弁ぜんことを問う。子曰く、忠信を主として義に徒れば、徳を崇くするなり」
「子張が徳性を高めて迷いを晴らす方法を尋ねた。先生は言われた。『忠誠と信実さとを第一として、
それによって正義に移っていけたなら自らの徳性を高めることができるだろう』(契約すら履行されれば
それで捨て去られる信仰などではなく、これからも存続される信実さこそを価値あるものとすべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一〇より)
イスラム教徒なども、アラーとの契約に基づく信仰を固持しているわけだから、
もしもその契約が履行されたなら、契約に根ざした数々の戒律をも解除することだろう。
豚食や飲酒も可能となり、女性がヴェールをまとったりすることもなく、
毎日五回行われる神への礼拝も、毎年九月に行われる断食もやめてしまう。
始めのうちはやめてしまうことに戸惑って、躊躇したりするかもしれないが、
神との契約が履行されたことが実証すらされれば、実際に本当にやめてしまえる。
あとは、処女膜が何度でも再生される処女との乱交ができたりするような、
えげつない天国での生活が待っているとするのが、イスラムというものなのだから。
それよりはある意味、たとえ自分たちが禁治産者などになるのであっても、キリストや
エホバを信仰する過程で身に付けた強靭な「信」を、神への信には依らない汎用的な信実さ
へと振り向けることを聖書信者が選択できたならば、そのことが、それを選択しなかった
場合のイスラム教徒などよりも、元聖書信者が信愛に値する存在である根拠になるといえる。
(もちろん、イスラム教徒がアラー信仰で培った信仰力を汎用的な信実さに振り向ける場合もある)
もしもその契約が履行されたなら、契約に根ざした数々の戒律をも解除することだろう。
豚食や飲酒も可能となり、女性がヴェールをまとったりすることもなく、
毎日五回行われる神への礼拝も、毎年九月に行われる断食もやめてしまう。
始めのうちはやめてしまうことに戸惑って、躊躇したりするかもしれないが、
神との契約が履行されたことが実証すらされれば、実際に本当にやめてしまえる。
あとは、処女膜が何度でも再生される処女との乱交ができたりするような、
えげつない天国での生活が待っているとするのが、イスラムというものなのだから。
それよりはある意味、たとえ自分たちが禁治産者などになるのであっても、キリストや
エホバを信仰する過程で身に付けた強靭な「信」を、神への信には依らない汎用的な信実さ
へと振り向けることを聖書信者が選択できたならば、そのことが、それを選択しなかった
場合のイスラム教徒などよりも、元聖書信者が信愛に値する存在である根拠になるといえる。
(もちろん、イスラム教徒がアラー信仰で培った信仰力を汎用的な信実さに振り向ける場合もある)
罪人たちへの憐れみに基づく赦しは、ちゃんと放辟邪侈に終止符が打たれて、
「悔いて過ちを改める」という意味での悔い改めが遂げられた後にこそ行われる。
「悔いてその悔いを改める」という意味の珍奇な悔い改めばかりに終始して、
あいもかわらず放辟邪侈を続けるようなら、憐れみも赦しもありゃしない。
成就する目処も立たない聖書信仰などは早く捨て去って、なおかつ聖書信仰
並みの強固な信実さに根ざしてこれからの処分を受け入れる。そうすれば、
今までの罪の重さに対してですら、憐れみによる赦しが期待できる。
順当な公正さに即しすらすれば、主上の寛大さも大河の流れの如くなり、
あらゆる罪と穢れとを押し流し去って下さるに違いないから。
「君王、敝邑の罪を討ちて、又た矜れみて之れを赦さば、師や名無き有らん」
「もしも、主君がわが国の罪を討ち滅ぼして、その上で罪人たちを憐れみ、以前の
罪過を赦したならば、討伐に従事した軍団の長にまで、善き評判が及ぶことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)
「悔いて過ちを改める」という意味での悔い改めが遂げられた後にこそ行われる。
「悔いてその悔いを改める」という意味の珍奇な悔い改めばかりに終始して、
あいもかわらず放辟邪侈を続けるようなら、憐れみも赦しもありゃしない。
成就する目処も立たない聖書信仰などは早く捨て去って、なおかつ聖書信仰
並みの強固な信実さに根ざしてこれからの処分を受け入れる。そうすれば、
今までの罪の重さに対してですら、憐れみによる赦しが期待できる。
順当な公正さに即しすらすれば、主上の寛大さも大河の流れの如くなり、
あらゆる罪と穢れとを押し流し去って下さるに違いないから。
「君王、敝邑の罪を討ちて、又た矜れみて之れを赦さば、師や名無き有らん」
「もしも、主君がわが国の罪を討ち滅ぼして、その上で罪人たちを憐れみ、以前の
罪過を赦したならば、討伐に従事した軍団の長にまで、善き評判が及ぶことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

石垣や白洲のような最下等の部位になる材料もある。石垣の材料になる石なども必要なものでは
あるにしろ、城郭の最底辺で、常に雨風に晒されるその有り様は、お世辞にも「優遇」と形容するには値しない。
人類社会がこれから封建されるにいたって、キリスト教徒やユダヤ教徒などにあたる人間は、
この石垣のような役割を負わされることとなるわけで、決して全人類の中で優遇された立場に置かれたりはしない。
ただまあ、それはそれで必要なものとして用いられる上に、石垣の造りの手堅さにこそ評価の目を向ける
人間もそれなりにいるから、最底辺であることを理由にそんなに悲観する必要もない。
城は城全体が一戸の城であり、石垣のない城なんてのも、荘厳に欠けるもんだから。
「君子の道は諸れを身に本づけ、諸れを庶民に徴し、諸れを三王に考えて繆らず、
諸れを天地に建てて悖らず、諸れを鬼神に質して疑い無く、百世を以て聖人を俟って惑わず」
「天下の王者となる君子の道は、君主の身を根本に位置づけて、その信じ従う姿を庶民にまで見習わせる。
夏殷周の聖王のあり方に照らし合わせて考えてみても誤りがなく、その統治支配を天地に封建しても
悖るところがなく、先祖代代の祖霊に問うてみても疑うところがなく、百世の後の聖人の批評にすら惑うことがない。
(ことごとくキリストやエホバのあり方には反しているが、もはや委細まで指摘する必要もあるまい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二九より)
キリスト信仰に基づいて、神に近づくことは許されない。その信仰を捨て去った結果、
大胆に神に近づくことができなくなるというのなら、それでもいい。
昔の中国で、帝位に就くもののしきたりとして、まずは自分以外の誰かから即位の勧めを受け、
それをまずは断った上で、「どうしても」と嘆願される場合に限って引き受けるというのがある。
前漢の初代皇帝劉邦は、群臣に皇帝への即位を勧められたが三たび辞退し、
その上で「君らがそこまでいうのなら、そのほうが便利なのだろう」といって引き受けた。
前漢五代皇帝であり、高祖劉邦の庶子である文帝などは、群臣に即位を勧められても
西を向いて三回、南を向いて二回辞退し、劉邦の重臣でもあった陳平らの必死の説得を
受けることで、やっと即位を受け入れてもいる。(「史記」高祖本紀、孝文本紀を参照)
一方で、秦帝国への反旗を最初期に翻した陳勝などは、一度も人からの即位の勧めを
辞退せずに王に即位した結果、章邯などの有能な秦の将兵による返り討ちに遭い、
動揺した味方同士での内乱に巻き込まれて死んでいる。漢軍の大将軍として
天をも抜くような大活躍を果たした韓信も、自分から斉の仮王になりたいだなどと
劉邦に志願して不信を買い、漢帝国の創立後に九族皆殺しの刑に処されている。
帝位や王位などというものは、最高級の聖賢にとってすら即位することが畏れ多いものだから、
誰であれその勧めをおいそれと承諾してはならず、自分から望むことなどはもってのほかである。
この世には、積極的であったほうがいいことと消極的であったほうがいいことの両方があるが、
ことに、偉大さへの接近やその掌握などは、消極的でなければならないものの最たるものだといえる。
大胆に偉大さに近づこうとする、分不相応な厚かましさなども、むしろ捨て去ったほうがいいのだ。
大胆に神に近づくことができなくなるというのなら、それでもいい。
昔の中国で、帝位に就くもののしきたりとして、まずは自分以外の誰かから即位の勧めを受け、
それをまずは断った上で、「どうしても」と嘆願される場合に限って引き受けるというのがある。
前漢の初代皇帝劉邦は、群臣に皇帝への即位を勧められたが三たび辞退し、
その上で「君らがそこまでいうのなら、そのほうが便利なのだろう」といって引き受けた。
前漢五代皇帝であり、高祖劉邦の庶子である文帝などは、群臣に即位を勧められても
西を向いて三回、南を向いて二回辞退し、劉邦の重臣でもあった陳平らの必死の説得を
受けることで、やっと即位を受け入れてもいる。(「史記」高祖本紀、孝文本紀を参照)
一方で、秦帝国への反旗を最初期に翻した陳勝などは、一度も人からの即位の勧めを
辞退せずに王に即位した結果、章邯などの有能な秦の将兵による返り討ちに遭い、
動揺した味方同士での内乱に巻き込まれて死んでいる。漢軍の大将軍として
天をも抜くような大活躍を果たした韓信も、自分から斉の仮王になりたいだなどと
劉邦に志願して不信を買い、漢帝国の創立後に九族皆殺しの刑に処されている。
帝位や王位などというものは、最高級の聖賢にとってすら即位することが畏れ多いものだから、
誰であれその勧めをおいそれと承諾してはならず、自分から望むことなどはもってのほかである。
この世には、積極的であったほうがいいことと消極的であったほうがいいことの両方があるが、
ことに、偉大さへの接近やその掌握などは、消極的でなければならないものの最たるものだといえる。
大胆に偉大さに近づこうとする、分不相応な厚かましさなども、むしろ捨て去ったほうがいいのだ。
「信、義に近ければ、言を復んで可なり。恭、禮に近ければ、恥辱を遠ざくなり。
(ここまで既出)因ること其の親を失わざれば、亦た宗とするも可なり」
「信実さが正義に根ざしていれば、その言葉を信用してもよい。恭敬が礼節を伴っていれば、恥辱を
被るようなことがなくて済む。頼るべき相手を取り違えてすらいなければ、全幅の信頼を置いてもよい。
(邪義を司る神などによりも、正義や礼節にこそ近づこうとすべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一三より)
(ここまで既出)因ること其の親を失わざれば、亦た宗とするも可なり」
「信実さが正義に根ざしていれば、その言葉を信用してもよい。恭敬が礼節を伴っていれば、恥辱を
被るようなことがなくて済む。頼るべき相手を取り違えてすらいなければ、全幅の信頼を置いてもよい。
(邪義を司る神などによりも、正義や礼節にこそ近づこうとすべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一三より)

悩みがないから吉祥なのでもなければ、悩みがあるから不吉なのでもない。
それは基本が唯心論である仏教の唯識思想に即してですら、是認されていること。
IQ40以下への、知能の乱高下を伴う重度精神障害によって、悩みを生ずるような不吉な
出来事の罪深さにだけは理解を働かせなかった結果、悩みを感じないなどということがあっても、
無痛症の人間が致命傷を負っても何も感じないでいるようなもので、現実の破綻は確実に迫ってくる。
本人自身がそのまま死んでしまったとしても、罪障は数多の人間の怨恨などの形で後の世にまで
持ち越され続け、子子孫孫にまで降りかかる、多大なる禍となってやってくる。
むしろ、自然の中での素朴な生活のほうが良さそうなものも、それすら叶わなくなり、
イヤでも強制的に、ある種の「人工的な矯正」に浴さなければならなくなってしまう。
それも本当はないほうがいいぐらいのものなわけだが、人類の滅亡という最悪のシナリオを
回避するための、どうしても避けられない消去法的選択肢として、それがある。
「益者に三楽、損者に三楽。礼楽を節せんを楽しみ、人の善を道うことを楽しみ、
賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽を楽しみ、佚遊を楽しみ、宴楽を楽しむは、損なり」
「益となる楽しみが三つ、損となる楽しみが三つある。礼楽を規則正しく行うことを楽しむのと、
人の美点を褒め称えることを楽しむのと、賢明な友人を持つことを楽しむのが、益になる楽しみ。
わがままや好き放題を楽しむのと、怠けて遊び呆けるのを楽しむのと、宴会を楽しむのが、損になる楽しみ。
(楽しみを原因の結果として捉え、原因が損となる楽しみを戒め、原因が益となる楽しみを推奨している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・五より)
実力を用いた有為な統治支配を、道家は否定するし、「大道廃れて仁義あり(老子)」という風に、
自覚的な仁愛によって、これまた有為で世の中を統治していこうとすることをも否定している。
本当はこのような、無為自然の統治を心がけるほうが民にとっては気ままなものであり、
作為によって頭ごなしに押さえつけられる実力的支配は、民はできる限り受けたくないもの。
ただ、そのうちの作為による実力支配のうちで、実力支配であるなりの正義を保とうとするのが
儒家の仁徳統治であるのに対し、正義か悪かなどによらず、とにかく実力で徹底的に押さえつけるのが
法家支配、そしてカルト信仰によって一概に劣悪な実力支配を画策するのが犯罪聖書支配だといえる。
品質の優劣で言えば、道家統治>儒家統治>法家支配>カルト支配とでも言ったところで、
道家と儒家には少なからず、強権的な「支配」を忌避する純粋「統治」志向が見られるのに対し、
法家支配とカルト支配には、無為の「統治」をあえて退けてまでの「支配」一辺倒の傾向が見られる。
儒家も、それなりに実力での有為支配を講ずるものではあるが、あくまでより優良とする
ところは無為なる統治であり、有為による統治支配はそれが無理である場合の必要悪とされる。
その必要悪をできるかぎりマシなものにしていこうとするのが儒家の本分でもある辺り、
儒家が優柔不断のそしりを被る原因となると共に、中庸に根ざした正善さの端緒ともなっている。
「驥は其の力を稱せず。其の徳を稱するなり」
「名馬はその力の強さを褒められるのではない。その徳の高さを褒められるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・三五より)
自覚的な仁愛によって、これまた有為で世の中を統治していこうとすることをも否定している。
本当はこのような、無為自然の統治を心がけるほうが民にとっては気ままなものであり、
作為によって頭ごなしに押さえつけられる実力的支配は、民はできる限り受けたくないもの。
ただ、そのうちの作為による実力支配のうちで、実力支配であるなりの正義を保とうとするのが
儒家の仁徳統治であるのに対し、正義か悪かなどによらず、とにかく実力で徹底的に押さえつけるのが
法家支配、そしてカルト信仰によって一概に劣悪な実力支配を画策するのが犯罪聖書支配だといえる。
品質の優劣で言えば、道家統治>儒家統治>法家支配>カルト支配とでも言ったところで、
道家と儒家には少なからず、強権的な「支配」を忌避する純粋「統治」志向が見られるのに対し、
法家支配とカルト支配には、無為の「統治」をあえて退けてまでの「支配」一辺倒の傾向が見られる。
儒家も、それなりに実力での有為支配を講ずるものではあるが、あくまでより優良とする
ところは無為なる統治であり、有為による統治支配はそれが無理である場合の必要悪とされる。
その必要悪をできるかぎりマシなものにしていこうとするのが儒家の本分でもある辺り、
儒家が優柔不断のそしりを被る原因となると共に、中庸に根ざした正善さの端緒ともなっている。
「驥は其の力を稱せず。其の徳を稱するなり」
「名馬はその力の強さを褒められるのではない。その徳の高さを褒められるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・三五より)
自分で他者に損失を与えておいて自分で救う、マッチポンプも大概にしなければならない。
元禄以降、士人の威厳が弱まって商人の営みにたがが外れ始めた江戸時代中期からは、
私服を肥やす悪徳商人を誅罰するという名目を掲げた、義賊的な盗賊行為が横行するようになった。
とはいえもちろん、それも名目どおりなばかりではなく、盗賊たち自身が私欲を満たすために
強盗に及ぶこともあり、特に世相の乱れた時期にはそのような畜生働きのほうが多くなった。
その世相の乱れによる盗賊の跋扈に歯止めをかけていたのが、鬼平こと長谷川平蔵も
一時長官を勤めていた火盗改のような公儀の刑事組織で、当然、義賊か否かなどに依らず、
盗賊行為全般を取り締まりの対象とした。ただ、元禄期の悪貨製造や赤穂事件以降、非合法ではない
商人による悪徳経営もまかり通り始めていたことから、それによって私服を肥やしていような悪徳商人を、
大量虐殺などの度を越した暴行には及ばない範囲で窃盗対象としていた、義賊然とした盗賊などに対しては
島流しなどの比較的軽い刑を科した一方で、別に悪徳経営に乗じているわけでもない普通の商家などに対して
強盗殺人や放火などの重罪加害を及ぼす鬼畜然とした盗賊に対しては、斬首や火あぶりなどの断固たる重罰で望んだ。
初代江戸幕府将軍・徳川家康の貯蓄も尽きて、幕府全体の威徳が衰えた結果、盗賊行為全般を
根絶することまではできなくなって、盗賊行為の軽重によって罰に手心を加えるようになったことは、
確かにマッチポンプに相当するような側面がなかったとはいえない。さりとて、別に幕府や火盗改も好き好んで
マッチポンプをやっていたのではなく、自分たちの威徳が衰えたせいで仕方なくそうさせていただけのこと。
決してマッチポンプを信仰対象にまでして、あえてそれを推し進めようなどとしていたわけでないのは確か。
「約を以て之れを失する者は鮮なし」
「節度を守っていながら何かを失うようなことは、ほとんどない。
(節度を失って暴れまわるもんだから、何もかもを失う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二三より)
元禄以降、士人の威厳が弱まって商人の営みにたがが外れ始めた江戸時代中期からは、
私服を肥やす悪徳商人を誅罰するという名目を掲げた、義賊的な盗賊行為が横行するようになった。
とはいえもちろん、それも名目どおりなばかりではなく、盗賊たち自身が私欲を満たすために
強盗に及ぶこともあり、特に世相の乱れた時期にはそのような畜生働きのほうが多くなった。
その世相の乱れによる盗賊の跋扈に歯止めをかけていたのが、鬼平こと長谷川平蔵も
一時長官を勤めていた火盗改のような公儀の刑事組織で、当然、義賊か否かなどに依らず、
盗賊行為全般を取り締まりの対象とした。ただ、元禄期の悪貨製造や赤穂事件以降、非合法ではない
商人による悪徳経営もまかり通り始めていたことから、それによって私服を肥やしていような悪徳商人を、
大量虐殺などの度を越した暴行には及ばない範囲で窃盗対象としていた、義賊然とした盗賊などに対しては
島流しなどの比較的軽い刑を科した一方で、別に悪徳経営に乗じているわけでもない普通の商家などに対して
強盗殺人や放火などの重罪加害を及ぼす鬼畜然とした盗賊に対しては、斬首や火あぶりなどの断固たる重罰で望んだ。
初代江戸幕府将軍・徳川家康の貯蓄も尽きて、幕府全体の威徳が衰えた結果、盗賊行為全般を
根絶することまではできなくなって、盗賊行為の軽重によって罰に手心を加えるようになったことは、
確かにマッチポンプに相当するような側面がなかったとはいえない。さりとて、別に幕府や火盗改も好き好んで
マッチポンプをやっていたのではなく、自分たちの威徳が衰えたせいで仕方なくそうさせていただけのこと。
決してマッチポンプを信仰対象にまでして、あえてそれを推し進めようなどとしていたわけでないのは確か。
「約を以て之れを失する者は鮮なし」
「節度を守っていながら何かを失うようなことは、ほとんどない。
(節度を失って暴れまわるもんだから、何もかもを失う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二三より)
聖書信仰によってこそ、荒廃させられた世界を修繕するぐらいは当たり前のこと。
犯罪聖書が存在しなかったころぐらいに、平和な世の中を立ち戻らせて、
マイナスプラスゼロの穴埋めを完遂させるなんてのは大前提に過ぎず、
しかもその実動者は、犯罪聖書の信仰者や実践者自身ともなる。
犯罪聖書による荒廃の穴埋めぐらいは済んでから、世の中をさらに繁栄させていくこと、
そこにこそ人としての道義があり、そこで何がなされるのかということを、現時点においては
まだ世界中の誰しもが見据えられてはいない。まずは聖書信仰による世の荒廃を救って
もらわなければ、盲目と化してしまっている今の人々には先にあるものが見えない。
だから、何をしてもらいたいかなどということも今の人々にはまだ見えておらず、
何をしてもらえるのかも分からないような相手に対して、信頼を置くことも
できなければ、その出現に素直な喜びを抱くこともできない。
盲目の苦しみを科す聖書信仰によるマッチポンプが完遂して後に、
望まれること喜べることは、マッチポンプの最中に望んだり喜んだりすることとは
全くの別物となるため、犯罪聖書の記述に即して望まれたり喜ばれたりすることもない。
また、蒙昧に欲望を募らせることも立ち消え、飼い主にじゃれて喜ぶ犬っころみたいな
喜びよりは、人としての品位を保った畏敬などのほうがより重要なものとされていくようになる。
犯罪聖書が回す天下と、それが終焉して後の天下とでは、
人々の志向や言動の規範から、何もかもが刷新される。犯罪聖書中の
ただ一つの記述だって、世の中に通用することはなくなるのである。
「子路、人之れに告ぐるに過ち有るを以てすれば、則ち喜べり」
「孔子の弟子の子路は、人が自分に過ちがあることを指摘してくれると、大変喜んだ。
(蛮勇の徒でもあった子路だが、喜怒哀楽などの感情を正義によって律しようとする程度の徳はあった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・八より)
犯罪聖書が存在しなかったころぐらいに、平和な世の中を立ち戻らせて、
マイナスプラスゼロの穴埋めを完遂させるなんてのは大前提に過ぎず、
しかもその実動者は、犯罪聖書の信仰者や実践者自身ともなる。
犯罪聖書による荒廃の穴埋めぐらいは済んでから、世の中をさらに繁栄させていくこと、
そこにこそ人としての道義があり、そこで何がなされるのかということを、現時点においては
まだ世界中の誰しもが見据えられてはいない。まずは聖書信仰による世の荒廃を救って
もらわなければ、盲目と化してしまっている今の人々には先にあるものが見えない。
だから、何をしてもらいたいかなどということも今の人々にはまだ見えておらず、
何をしてもらえるのかも分からないような相手に対して、信頼を置くことも
できなければ、その出現に素直な喜びを抱くこともできない。
盲目の苦しみを科す聖書信仰によるマッチポンプが完遂して後に、
望まれること喜べることは、マッチポンプの最中に望んだり喜んだりすることとは
全くの別物となるため、犯罪聖書の記述に即して望まれたり喜ばれたりすることもない。
また、蒙昧に欲望を募らせることも立ち消え、飼い主にじゃれて喜ぶ犬っころみたいな
喜びよりは、人としての品位を保った畏敬などのほうがより重要なものとされていくようになる。
犯罪聖書が回す天下と、それが終焉して後の天下とでは、
人々の志向や言動の規範から、何もかもが刷新される。犯罪聖書中の
ただ一つの記述だって、世の中に通用することはなくなるのである。
「子路、人之れに告ぐるに過ち有るを以てすれば、則ち喜べり」
「孔子の弟子の子路は、人が自分に過ちがあることを指摘してくれると、大変喜んだ。
(蛮勇の徒でもあった子路だが、喜怒哀楽などの感情を正義によって律しようとする程度の徳はあった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・八より)
無戒律であり、行不退よりも信不退のほうを重んずる浄土教の自力仏教に対する姿勢と、
旧約の戒律を絶対としないキリスト信仰のユダヤ信仰に対する姿勢は似ている。
しかし、そもそもの自力作善のための律とされる聖道門の仏教の戒律が
自他を害することを体系的に禁止した真の「止至善」の戒律となっているのに対し、
ユダヤの戒律は、それを守ることによってかえって自他を害すること
ばかりが推進される「止偽善」の戒律の羅列となっている。
止至善の戒律の実践と同等か、それ以上の効能を伴う信不退の信教が浄土教であるのに対し、
止偽善の戒律の実践と同等か、それ以上の効能を伴う信教がキリスト信仰となっている。
無戒律の信仰にだって、それなりの心構えがあるわけで、それは浄土教なら浄土三部経や
「選択本願念仏集」「歎異抄」などに書かれてあるし、キリ信仰なら新約犯罪に書いてある。
絶対に守らなければならない戒律などは皆無ないし些少であるにしろ(五逆や誹謗正法の禁ぐらいはある)、
そこに書かれてあるような心構えに基づいての信仰に徹した結果、止至善の自力仏教の実践に近似
するような効能が得られたり、至偽善のユダヤ教の実践に近似するような効能が得られたりする。
戒律よりも信仰のほうが重要とされているからといって、信仰に戒律主義と別個の効用が
期待されたりするものではなく、やはり戒律の厳守と同等かそれ以上の効果が得られることこそが期待される。
その意味ではやはり、自力仏教と浄土教が同根であるように、キリ信仰とユダ信仰も同じ穴の狢であるといえる。
「如何や昊天。辟言の信ぜざる。彼の行き邁きて、則ち臻る所靡きが如し。
凡百の君子、各おの爾の身を敬せよ。胡ぞ相い畏れざる、天を畏れざるなり」
「ああ、上天よ。なぜ法度のある言葉が信ぜられないのだろうか。まるで誰しもが往く当てもなく彷徨っているかのよう。
(浄土教の信とて正法に結び付く信だが、キリの信は際限のない妄念妄動を正当化して推進する信である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
旧約の戒律を絶対としないキリスト信仰のユダヤ信仰に対する姿勢は似ている。
しかし、そもそもの自力作善のための律とされる聖道門の仏教の戒律が
自他を害することを体系的に禁止した真の「止至善」の戒律となっているのに対し、
ユダヤの戒律は、それを守ることによってかえって自他を害すること
ばかりが推進される「止偽善」の戒律の羅列となっている。
止至善の戒律の実践と同等か、それ以上の効能を伴う信不退の信教が浄土教であるのに対し、
止偽善の戒律の実践と同等か、それ以上の効能を伴う信教がキリスト信仰となっている。
無戒律の信仰にだって、それなりの心構えがあるわけで、それは浄土教なら浄土三部経や
「選択本願念仏集」「歎異抄」などに書かれてあるし、キリ信仰なら新約犯罪に書いてある。
絶対に守らなければならない戒律などは皆無ないし些少であるにしろ(五逆や誹謗正法の禁ぐらいはある)、
そこに書かれてあるような心構えに基づいての信仰に徹した結果、止至善の自力仏教の実践に近似
するような効能が得られたり、至偽善のユダヤ教の実践に近似するような効能が得られたりする。
戒律よりも信仰のほうが重要とされているからといって、信仰に戒律主義と別個の効用が
期待されたりするものではなく、やはり戒律の厳守と同等かそれ以上の効果が得られることこそが期待される。
その意味ではやはり、自力仏教と浄土教が同根であるように、キリ信仰とユダ信仰も同じ穴の狢であるといえる。
「如何や昊天。辟言の信ぜざる。彼の行き邁きて、則ち臻る所靡きが如し。
凡百の君子、各おの爾の身を敬せよ。胡ぞ相い畏れざる、天を畏れざるなり」
「ああ、上天よ。なぜ法度のある言葉が信ぜられないのだろうか。まるで誰しもが往く当てもなく彷徨っているかのよう。
(浄土教の信とて正法に結び付く信だが、キリの信は際限のない妄念妄動を正当化して推進する信である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)
>>200で書いた、中国の伝統的な帝王への即位方法は、即位を請うのが、
これから自分が臣従させることになるだろう群臣であることをも大前提としている。
「君らの上に立つことが畏れ多いから即位を忌避する」という意味もあって、
人間同士の譲り合い求め合いであればこそ、帝王となるものは即位を忌避する。
ただ、その伝統が根付いている中国で、神からの信認を得たりすることが全く無いなんてこともなく、
すでに皇帝などに即位した主君が「封禅」という形で、泰山などの霊山に自らへの信認を祈願することがある。
始皇帝はこの、泰山での封禅を試みて失敗し、弾圧を受けていた儒者たちからの冷笑をも買った。
漢の高祖劉邦は、自らの代では封禅を行わず、呂氏専横の頃や文帝、景帝の代になってもまだ行わず、
匈奴征討も完遂された武帝の代になって初めて封禅が秘密裏に執り行われ、無事成功を果たしたという。
「人事」である皇帝への即位など、それ自体を神霊に要求して頂こうしたりするのは世間外れなことで、
皇帝王覇の現実的なあり方を徹底的に研鑽しぬいている東洋においてこそ、王権神授などは認められていない。
仮に諸国が統一されて皇帝が即位したところで、世の平穏が保たれることが磐石となるまでは封禅も
行わないほうがよいとされ、法家支配で人々を最悪の疲弊に晒していた始皇帝なども封禅に失敗した。
神から授かるべきものと、神に要求してはならないものとの両方があり、特に今のような乱世において、
実利の伴う事物を神から賜るなどということを欲してはならない。乱世はそのほとんど全ての事物が
自業自得の法則に根ざしており、神助を請うべき不確定性などは介在していないから。乱世こそは
迷信などの差し挟みようのない、完全な必然性だけが全てを支配している社会だから。
「衛音は趨數にして志しを煩わしめる」
「衛の音楽は押し付けがましくてせわしないため、自らの志しを煩わしめる。
(神による救済ばかりをせわしなく押し付けてくる犯罪聖書も、
人間自身の自主的な志しを煩わせて不能ならしめる悪影響を及ぼす)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
これから自分が臣従させることになるだろう群臣であることをも大前提としている。
「君らの上に立つことが畏れ多いから即位を忌避する」という意味もあって、
人間同士の譲り合い求め合いであればこそ、帝王となるものは即位を忌避する。
ただ、その伝統が根付いている中国で、神からの信認を得たりすることが全く無いなんてこともなく、
すでに皇帝などに即位した主君が「封禅」という形で、泰山などの霊山に自らへの信認を祈願することがある。
始皇帝はこの、泰山での封禅を試みて失敗し、弾圧を受けていた儒者たちからの冷笑をも買った。
漢の高祖劉邦は、自らの代では封禅を行わず、呂氏専横の頃や文帝、景帝の代になってもまだ行わず、
匈奴征討も完遂された武帝の代になって初めて封禅が秘密裏に執り行われ、無事成功を果たしたという。
「人事」である皇帝への即位など、それ自体を神霊に要求して頂こうしたりするのは世間外れなことで、
皇帝王覇の現実的なあり方を徹底的に研鑽しぬいている東洋においてこそ、王権神授などは認められていない。
仮に諸国が統一されて皇帝が即位したところで、世の平穏が保たれることが磐石となるまでは封禅も
行わないほうがよいとされ、法家支配で人々を最悪の疲弊に晒していた始皇帝なども封禅に失敗した。
神から授かるべきものと、神に要求してはならないものとの両方があり、特に今のような乱世において、
実利の伴う事物を神から賜るなどということを欲してはならない。乱世はそのほとんど全ての事物が
自業自得の法則に根ざしており、神助を請うべき不確定性などは介在していないから。乱世こそは
迷信などの差し挟みようのない、完全な必然性だけが全てを支配している社会だから。
「衛音は趨數にして志しを煩わしめる」
「衛の音楽は押し付けがましくてせわしないため、自らの志しを煩わしめる。
(神による救済ばかりをせわしなく押し付けてくる犯罪聖書も、
人間自身の自主的な志しを煩わせて不能ならしめる悪影響を及ぼす)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
他力本願の依存気質では、自主的な作善によってこそ叶えられる多くのことがどうしても叶えられない。
自力作善の積み重ねによってこそ実現できる理想というものがあって、
そこに神仏への畏敬はあろうとも、精神的怠惰に根ざした依存などは介在のしようがない。
ただ、そこまでいかない範囲、未だ他力本願が主流である範囲において、その本願が他力であるなりに
勧善懲悪である場合と、悪逆非道である場合と、善悪みそくそである場合とがあり、
「望みは何でも叶えられる」ということが前面に押し出されている以上は、
その望みは善悪みそくそか、悪逆非道である場合かのいずれかであるのがほぼ全てとなる。
たとえ他力本願であっても、その本願が勧善懲悪や断悪修善であることがより重要であり、
悪逆非道や善悪みそくそでもいいから、どんな望みでも叶えてくれることなどを
本願とする他力信仰は「邪信」であり、邪信を司る宗教はやはり「邪教」であるといえる。
「志しは滿たしむ可からず」
「大志が安易に満たされることなどを期待してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
自力作善の積み重ねによってこそ実現できる理想というものがあって、
そこに神仏への畏敬はあろうとも、精神的怠惰に根ざした依存などは介在のしようがない。
ただ、そこまでいかない範囲、未だ他力本願が主流である範囲において、その本願が他力であるなりに
勧善懲悪である場合と、悪逆非道である場合と、善悪みそくそである場合とがあり、
「望みは何でも叶えられる」ということが前面に押し出されている以上は、
その望みは善悪みそくそか、悪逆非道である場合かのいずれかであるのがほぼ全てとなる。
たとえ他力本願であっても、その本願が勧善懲悪や断悪修善であることがより重要であり、
悪逆非道や善悪みそくそでもいいから、どんな望みでも叶えてくれることなどを
本願とする他力信仰は「邪信」であり、邪信を司る宗教はやはり「邪教」であるといえる。
「志しは滿たしむ可からず」
「大志が安易に満たされることなどを期待してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)
「回や其れ庶きか、屢しば空し。賜は命を受けずして貨殖す。億れば則ち屢しば中る」
「(孔子自身による弟子の評価)顔淵はほぼ理想に近い生き方をしている。理想を追い求めて
瑣末な豊かさなどに目もくれないから、しばしば窮乏することがある。子貢は官命を受けもせずに
金儲けに奔走している。投機などの予測がよく当たるところが長所だとはいえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一九より)
自分たちで国家を形成して営んでいく責任を持たないユダ人にしろ、カルト教祖として
邪義を触れ回った挙句に、民間人に対する処刑方法である磔刑で処刑されたイエキリにしろ、
正式な官職に則ることでの天命を受けていない。何をするにしろ民間の分際止まりであり、
何を享受するにしろ民間の資産家止まりとして。人が享受し得るものとしては最高級の
賜り物に当たる、「正式な官職に則った天命」を受けることなどが決してない。
そこに、本質的な言辞からの「君子」と「小人」の違いまでもがあり、小人として
何もかもを受けることでの豊かさを貪るあまり、君子としての天命を受けることにより、
物質的な豊かさ以上にも価値のある、善徳の安楽を賜ることが全くの不能と化してしまっている。
>>167の季桓子の例からも分かるように、天命を受けた君子としては、小人なら享受し放題な
美女の舞楽の観覧なども、ときに自制せねばならなかったりする。それでこそ、卑俗な小人に
甘んずる場合以上もの楽しみに与ることができるのだから、真の楽しみを知るものこそは、
あえて小人としての豊かさの享受を棄ててでも、君子としての天命の享受を採るのだといえる。
「(孔子自身による弟子の評価)顔淵はほぼ理想に近い生き方をしている。理想を追い求めて
瑣末な豊かさなどに目もくれないから、しばしば窮乏することがある。子貢は官命を受けもせずに
金儲けに奔走している。投機などの予測がよく当たるところが長所だとはいえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一九より)
自分たちで国家を形成して営んでいく責任を持たないユダ人にしろ、カルト教祖として
邪義を触れ回った挙句に、民間人に対する処刑方法である磔刑で処刑されたイエキリにしろ、
正式な官職に則ることでの天命を受けていない。何をするにしろ民間の分際止まりであり、
何を享受するにしろ民間の資産家止まりとして。人が享受し得るものとしては最高級の
賜り物に当たる、「正式な官職に則った天命」を受けることなどが決してない。
そこに、本質的な言辞からの「君子」と「小人」の違いまでもがあり、小人として
何もかもを受けることでの豊かさを貪るあまり、君子としての天命を受けることにより、
物質的な豊かさ以上にも価値のある、善徳の安楽を賜ることが全くの不能と化してしまっている。
>>167の季桓子の例からも分かるように、天命を受けた君子としては、小人なら享受し放題な
美女の舞楽の観覧なども、ときに自制せねばならなかったりする。それでこそ、卑俗な小人に
甘んずる場合以上もの楽しみに与ることができるのだから、真の楽しみを知るものこそは、
あえて小人としての豊かさの享受を棄ててでも、君子としての天命の享受を採るのだといえる。
どんなに強く信じて祈ったりしたところで、
重権力犯罪者や重度精神障害のカルト信者である以上は、
徳治社会での正式な官職に就いたりすることは、到底かなわない。
もちろん、権力犯罪者やカルト信者がそんなものに就きたがることからして
まずないことだが、カルトの邪神を信じて祈ったからといって、決して
得ることができないものがこの世に実在していることの証拠になっている。
だからこそ、徳治社会の官職への正式な就業を志すものが、
カルト信仰や権力犯罪などに頼ってはならない。のみならず、
「信じて祈る」などというような、他力本願的な姿勢から自粛して、
その職務に就いたときに実力を発揮するための勉学研鑽にこそ励まねばならない。
そもそも、帝王級に高位な重職を得ることからして、どんなに高等な聖賢に
とっても畏れ多いことだから、そんなものを、エサを目前にした空腹状態の
犬のように執拗に欲したりするようなことからして、絶対にあってはならない。
カルト信仰に依存すること自体はもちろんのこと、カルト信仰に依存した
場合の人間規範にも全く相容れない、原理的に相互不可侵かつ高位な立場が実在する。
早い話しが、小人に対する君子。職務上の立場としても、人としての賢愚としても。
「祭祀は祈らず、蚤やかなることを麾しとせず、
葆大を楽しまず、嘉事を善せず、牲は肥大を及さず、薦は多品を美とせず」
「およそ正式な祭祀というものは、私的な利得を祈ったりはせず、霊験が速やかに現れる
ことなどを期待もせず、効果が甚大であることを喜んだりもせず、絶対によい効果があるなどと
信じ込んだりもせず、無闇に大きな生け贄を用いたりせず(もちろん人間を用いたりするのは
もってのほか)、供え物がやたらと雑多であることを良いことだなどとするものでもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
重権力犯罪者や重度精神障害のカルト信者である以上は、
徳治社会での正式な官職に就いたりすることは、到底かなわない。
もちろん、権力犯罪者やカルト信者がそんなものに就きたがることからして
まずないことだが、カルトの邪神を信じて祈ったからといって、決して
得ることができないものがこの世に実在していることの証拠になっている。
だからこそ、徳治社会の官職への正式な就業を志すものが、
カルト信仰や権力犯罪などに頼ってはならない。のみならず、
「信じて祈る」などというような、他力本願的な姿勢から自粛して、
その職務に就いたときに実力を発揮するための勉学研鑽にこそ励まねばならない。
そもそも、帝王級に高位な重職を得ることからして、どんなに高等な聖賢に
とっても畏れ多いことだから、そんなものを、エサを目前にした空腹状態の
犬のように執拗に欲したりするようなことからして、絶対にあってはならない。
カルト信仰に依存すること自体はもちろんのこと、カルト信仰に依存した
場合の人間規範にも全く相容れない、原理的に相互不可侵かつ高位な立場が実在する。
早い話しが、小人に対する君子。職務上の立場としても、人としての賢愚としても。
「祭祀は祈らず、蚤やかなることを麾しとせず、
葆大を楽しまず、嘉事を善せず、牲は肥大を及さず、薦は多品を美とせず」
「およそ正式な祭祀というものは、私的な利得を祈ったりはせず、霊験が速やかに現れる
ことなどを期待もせず、効果が甚大であることを喜んだりもせず、絶対によい効果があるなどと
信じ込んだりもせず、無闇に大きな生け贄を用いたりせず(もちろん人間を用いたりするのは
もってのほか)、供え物がやたらと雑多であることを良いことだなどとするものでもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)
戦国時代から楚漢戦争にかけての古代中国で、口先三寸の口舌だけで
諸侯に国際紛争への介入を奨めて、戦局が悪化したどさくさに紛れて
中間マージンなどの形で巨万の私利を得ることを目的とした実践学派がいた。
その名を「縦横家」という。
諸国を縦横無尽に歩き回って弁舌を振るうその姿から名づけられたものだが、
ちょうど縦横に切るクロスを貴んだり、世界中へと縦横無尽に侵略の
魔の手を広げていったキリスト教徒の姿にも、非常に似通っている。
戦国時代の著名な縦横家としては蘇秦や張儀、
楚漢戦争時のそれとしては蒯通や侯公(平国君)などが挙げられる。
しかし、そのいずれもが車裂きの刑に処されたり、諸侯の怨みを買って逃亡生活の中に命を終えたり、
自分を韓信の飼い犬扱いすることで高祖からの誅殺を免れたり、新たな戦争の火種となり兼ねない
和解案を楚と漢の間に組ませた直後に逐電したりの、ろくでもないような生涯ばかりを送っている。
諸侯に国際紛争への介入を奨めて、戦局が悪化したどさくさに紛れて
中間マージンなどの形で巨万の私利を得ることを目的とした実践学派がいた。
その名を「縦横家」という。
諸国を縦横無尽に歩き回って弁舌を振るうその姿から名づけられたものだが、
ちょうど縦横に切るクロスを貴んだり、世界中へと縦横無尽に侵略の
魔の手を広げていったキリスト教徒の姿にも、非常に似通っている。
戦国時代の著名な縦横家としては蘇秦や張儀、
楚漢戦争時のそれとしては蒯通や侯公(平国君)などが挙げられる。
しかし、そのいずれもが車裂きの刑に処されたり、諸侯の怨みを買って逃亡生活の中に命を終えたり、
自分を韓信の飼い犬扱いすることで高祖からの誅殺を免れたり、新たな戦争の火種となり兼ねない
和解案を楚と漢の間に組ませた直後に逐電したりの、ろくでもないような生涯ばかりを送っている。
キリスト教圏では、縦横家すなわち聖職者であり、そこに思想信条の理想すらもがあると
思い込まれてきたわけだが、縦横家のほかに儒家や道家もあって、それらの優良さと比較した場合の、
縦横家の思想信条としての劣悪さが如実となったために、漢代にはあっさりと滅び去ってしまった。
舌禍で諸国を狂乱に陥れた挙句に私欲を満たすなどという、縦横家のろくでもない有り様を、
儒家よりは道家への憧憬が強いことを明言している司馬遷までもが「史記」で強く非難しており、
貨殖功利を生業とする民間の素封家などに対する扱いのほうが、まだ優しげなほど。
縦横家は、東洋では二千年以上もの昔に絶やされているので、今は批判対象としてあげつらわれる
ことすらほとんどないが、キリスト教徒はこの縦横家に相当するような邪義を、逆に二千年前
あたりから振りかざし始めた輩なわけで、すでにそのあり方を実体験レベルで記憶している人間も
ほとんどいないのが縦横家なもんだから、キリスト教徒と縦横家の有り様が酷似していて、縦横家を
厳正な吟味の元に廃絶してきた東洋の伝統にも則って、キリスト教をも根絶していかなければ
ならないというところまで考えを働かせられている人間も、まだほとんどいないといえる。
「荏染たる柔木を、君子が之れ樹う。往来の行言は、心に之れを数るべし。
蛇蛇たる碩言の、口自り出ずる。巧言の簧くが如く、顔の之れ厚きこと」
「なよなよの弱弱しい細木を、為政者ともあろうものが好んで植え付けているような有り様。
縦横無尽に諸国を往来する讒言の聞き入れは、あたかもそのようなものだと知らねばならない。
詐欺や欺瞞にまみれた讒言が口から出任せる。その巧みさは笛でも吹いているかの如くで、その厚顔さも極まりない。
(この詩が編まれた春秋時代の頃にも、すでに厚顔無恥な縦横家同然の輩がいたようだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
思い込まれてきたわけだが、縦横家のほかに儒家や道家もあって、それらの優良さと比較した場合の、
縦横家の思想信条としての劣悪さが如実となったために、漢代にはあっさりと滅び去ってしまった。
舌禍で諸国を狂乱に陥れた挙句に私欲を満たすなどという、縦横家のろくでもない有り様を、
儒家よりは道家への憧憬が強いことを明言している司馬遷までもが「史記」で強く非難しており、
貨殖功利を生業とする民間の素封家などに対する扱いのほうが、まだ優しげなほど。
縦横家は、東洋では二千年以上もの昔に絶やされているので、今は批判対象としてあげつらわれる
ことすらほとんどないが、キリスト教徒はこの縦横家に相当するような邪義を、逆に二千年前
あたりから振りかざし始めた輩なわけで、すでにそのあり方を実体験レベルで記憶している人間も
ほとんどいないのが縦横家なもんだから、キリスト教徒と縦横家の有り様が酷似していて、縦横家を
厳正な吟味の元に廃絶してきた東洋の伝統にも則って、キリスト教をも根絶していかなければ
ならないというところまで考えを働かせられている人間も、まだほとんどいないといえる。
「荏染たる柔木を、君子が之れ樹う。往来の行言は、心に之れを数るべし。
蛇蛇たる碩言の、口自り出ずる。巧言の簧くが如く、顔の之れ厚きこと」
「なよなよの弱弱しい細木を、為政者ともあろうものが好んで植え付けているような有り様。
縦横無尽に諸国を往来する讒言の聞き入れは、あたかもそのようなものだと知らねばならない。
詐欺や欺瞞にまみれた讒言が口から出任せる。その巧みさは笛でも吹いているかの如くで、その厚顔さも極まりない。
(この詩が編まれた春秋時代の頃にも、すでに厚顔無恥な縦横家同然の輩がいたようだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)
「如し其の情を得ば、則ち哀矜して喜ぶこと勿かれ(既出)」
「もし犯罪の実情をつかんだりした時には、ただ哀れむばかりで、決して喜んだりしてはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一九より)
この世に喜んではならないこと、喜ぶべきでないことは数多く、
そのような凶事まで喜ぶことは「不謹慎」となる。個々の文化によって不謹慎であることの
異同はあるが、大半の伝統的な文化には少なからず不謹慎と特定するものがある。
お互いに喜ぶことを慎む要素を持つ文化同士なら、その対象に異同があるにしても、
「不謹慎」というものを慮れる神経の持ち主同士であることから、意思の疎通が図れもする。
仏教の戒律とイスラムの戒律にも多くの異同があるが、特に戒律厳守の厳しい上座部仏教などは、
破戒行為の不謹慎さをよくわきまえているために、同じ破戒行為を慎む慣習の持ち主同士として、
上座部仏教徒とムスリムが仲良くしたりすることがあるのが、その例だといえる。
「もし犯罪の実情をつかんだりした時には、ただ哀れむばかりで、決して喜んだりしてはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一九より)
この世に喜んではならないこと、喜ぶべきでないことは数多く、
そのような凶事まで喜ぶことは「不謹慎」となる。個々の文化によって不謹慎であることの
異同はあるが、大半の伝統的な文化には少なからず不謹慎と特定するものがある。
お互いに喜ぶことを慎む要素を持つ文化同士なら、その対象に異同があるにしても、
「不謹慎」というものを慮れる神経の持ち主同士であることから、意思の疎通が図れもする。
仏教の戒律とイスラムの戒律にも多くの異同があるが、特に戒律厳守の厳しい上座部仏教などは、
破戒行為の不謹慎さをよくわきまえているために、同じ破戒行為を慎む慣習の持ち主同士として、
上座部仏教徒とムスリムが仲良くしたりすることがあるのが、その例だといえる。
喜ぶべきでない対象などと共に、不謹慎という考え方を完全に捨て去ってしまうキリスト教徒などには、
そのような他者の不謹慎行為への慮りも根本的にないから、不謹慎というものをわきまえている
大半の異教徒とも根本的に分かり合うことができない。人の死だろうが重大犯罪行為だろうが、
何もかもを嬉しがる自分たちのいかれた神経を他者にまで押し付けるか、もしくはそのような
神経全般を自制するかのいずれかによってでしか、異教徒と接することもできない。
自分たちでは対等に付き合っているつもりでも、何もかもをウレシで塗り固める自分たちの
ガサツな品性に迷惑させられている人々も多いと知らねばならない。不浄のウレシがりを極端に忌む
神道などが、「信教の自由」の名の下にキリスト信仰までが大々的に推進され始めた戦後にひどく衰亡して、
大多数の中小規模の社の宮司が、副業でもしなければ食えなくなっているのもその例の一つだといえる。
「父母之れを愛すれば、喜びて忘れず。父母之れを悪めば、労えて怨みず」
「父母が自分を愛してくれたならば、これを喜んで忘れないようにせよ。
父母が自分を憎むようなことがあれば、それを憂えはしても怨んではならない。
(父母に憎まれることを喜んだり、長年の怨みにしたりしてももちろんいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・一より)
そのような他者の不謹慎行為への慮りも根本的にないから、不謹慎というものをわきまえている
大半の異教徒とも根本的に分かり合うことができない。人の死だろうが重大犯罪行為だろうが、
何もかもを嬉しがる自分たちのいかれた神経を他者にまで押し付けるか、もしくはそのような
神経全般を自制するかのいずれかによってでしか、異教徒と接することもできない。
自分たちでは対等に付き合っているつもりでも、何もかもをウレシで塗り固める自分たちの
ガサツな品性に迷惑させられている人々も多いと知らねばならない。不浄のウレシがりを極端に忌む
神道などが、「信教の自由」の名の下にキリスト信仰までが大々的に推進され始めた戦後にひどく衰亡して、
大多数の中小規模の社の宮司が、副業でもしなければ食えなくなっているのもその例の一つだといえる。
「父母之れを愛すれば、喜びて忘れず。父母之れを悪めば、労えて怨みず」
「父母が自分を愛してくれたならば、これを喜んで忘れないようにせよ。
父母が自分を憎むようなことがあれば、それを憂えはしても怨んではならない。
(父母に憎まれることを喜んだり、長年の怨みにしたりしてももちろんいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・一より)
失礼します。
「アル中を癒され」「脳梗塞より生還」「倒産によるサラ金地獄」
より、御言葉によって「癒され・救われた者」の「証」です。
その「証」として以下の小冊子を制作いたしました。ご希望の方、
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ご笑覧ください。 安達三郎
真理そのものは愛執愛着などの通用するものではなく、
正統な顕教に則る以上は、情愛をも捨てての修行に励まなければ
ならないとするのが仏教。ただ、その情愛を積極的に活用することでの
即身成仏を実現する離れ業が、大乗の自力仏教では密教などにあり、
他力仏教には念仏などがある。
むかし、一遍上人が興国寺の法灯国師の前で歌を詠んだ。
「となふれは 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」
国師は「もう少し下の句を工夫されてはいかがですか」といった。
一遍上人は一度その場を退いて、しばらく修行をしてから
また国師の前に現れ、「こう詠み直しました」といって
「となふれは 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
という句を披露した。国師は「そうそう、まさにこれです」と絶賛した。
(沢庵著「玲瓏集」より)
阿弥陀仏自体は歴史上に実在しない仏だし、他力信仰という浄土教の姿勢自体が、
虚構的な方便を一心不乱に信ずることで、結果的に真理の悟りを得ることを目的としている。
その割り切りこそは悟りに至る秘訣でもあるのだから、「南無阿弥陀仏の声ばかりして」
という半ば観察的な下の句を、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と
詠みかえることで、一遍上人も自らの歌を完成させている。
情愛や愛欲といったもの自体が惑いの一種であり、その惑い自体が真理と
合致するなどということはないが、惑いを虚構的な方便に乗せることで、
−1×−1=1的な要領による、結果的な真理への漸近を果たすことはある。
真理そのものを愛しようなどとすれば、かえって真理から遠ざかるにしろ。
「知者は惑わず。(良くも悪しくも、正確な良知こそは人を不惑へと導くものであり、
愛執はかえって人々を邪信による惑いへと陥らせかねないものですらある。ただ、悪人正機などの
巧みな方便によって、執着的な情念が無意識なままでの真理の悟りへと振り向けられることもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三〇より)
正統な顕教に則る以上は、情愛をも捨てての修行に励まなければ
ならないとするのが仏教。ただ、その情愛を積極的に活用することでの
即身成仏を実現する離れ業が、大乗の自力仏教では密教などにあり、
他力仏教には念仏などがある。
むかし、一遍上人が興国寺の法灯国師の前で歌を詠んだ。
「となふれは 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」
国師は「もう少し下の句を工夫されてはいかがですか」といった。
一遍上人は一度その場を退いて、しばらく修行をしてから
また国師の前に現れ、「こう詠み直しました」といって
「となふれは 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
という句を披露した。国師は「そうそう、まさにこれです」と絶賛した。
(沢庵著「玲瓏集」より)
阿弥陀仏自体は歴史上に実在しない仏だし、他力信仰という浄土教の姿勢自体が、
虚構的な方便を一心不乱に信ずることで、結果的に真理の悟りを得ることを目的としている。
その割り切りこそは悟りに至る秘訣でもあるのだから、「南無阿弥陀仏の声ばかりして」
という半ば観察的な下の句を、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と
詠みかえることで、一遍上人も自らの歌を完成させている。
情愛や愛欲といったもの自体が惑いの一種であり、その惑い自体が真理と
合致するなどということはないが、惑いを虚構的な方便に乗せることで、
−1×−1=1的な要領による、結果的な真理への漸近を果たすことはある。
真理そのものを愛しようなどとすれば、かえって真理から遠ざかるにしろ。
「知者は惑わず。(良くも悪しくも、正確な良知こそは人を不惑へと導くものであり、
愛執はかえって人々を邪信による惑いへと陥らせかねないものですらある。ただ、悪人正機などの
巧みな方便によって、執着的な情念が無意識なままでの真理の悟りへと振り向けられることもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三〇より)
兎にも角にも、中国思想の本題は「真理」ではない。
その最大派閥の儒家からして、現実社会の実情から乖離した高遠な形而上論を遠ざけているし、
比較的真理にまつわる考察の多い道家でも、真理把捉の実践手段としての社会的な
無為自然が強く標榜され、真理そのものに対する分析的な説明には乏しい。
そこが、西洋人などが中国思想を軽んずる理由にもなっており、
基本、あまり取っ付きたがらない東洋の思想哲学をあえて論じようとするときには、
真理に対する形而上的で分析的な論及も豊富な仏教哲学などのほうをあげつらいたがる。
しかし、仏教哲学が論じているような本物の絶対真理を、世俗の言葉に置き換えているのが
儒家の説く道理であるわけだし、絶対真理を自力で把捉するための最も基本意的な実践手段
となるのが、道家の説く社会的無為自然でもある。(仏教の場合はこれに出家修行が加わる)
真理そのものを積極的に論じているわけではないにしても、儒家や道家のような代表的な
中国思想は、絶対真理とも親しい関係にあり、根本のところでは不可分な関係にすらある。
そもそも絶対真理とは何の関係もなく、絶対真理に180度背くことを「真理だ」などと妄言する
邪義邪説などと比べれば、見た目には素朴な中国思想のほうが、まだ真理に近い所にあるといえる。
「子貢曰く、夫子の文章は得て聞く可きなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞く可からざるなり」
「子貢がいった。『孔先生の、表層的な文学などに関する話は、分かりやすくて誰にでも聞くことができた。
しかし、形而上的な性情論や天道論についての話は、あまりにも難解でそうそうに聞くことはできなかった』
(ここでいう『天道』が『真理』にも当たり、孔子が本物の真理把捉者でもあったことは、
『易経』繋辞伝における形而上論の秀逸さからも察することができる。ただ、それは明日の
生活の糧こそが至上命題であるような、俗人に説いて聞かせるべきようなものではなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一三)
その最大派閥の儒家からして、現実社会の実情から乖離した高遠な形而上論を遠ざけているし、
比較的真理にまつわる考察の多い道家でも、真理把捉の実践手段としての社会的な
無為自然が強く標榜され、真理そのものに対する分析的な説明には乏しい。
そこが、西洋人などが中国思想を軽んずる理由にもなっており、
基本、あまり取っ付きたがらない東洋の思想哲学をあえて論じようとするときには、
真理に対する形而上的で分析的な論及も豊富な仏教哲学などのほうをあげつらいたがる。
しかし、仏教哲学が論じているような本物の絶対真理を、世俗の言葉に置き換えているのが
儒家の説く道理であるわけだし、絶対真理を自力で把捉するための最も基本意的な実践手段
となるのが、道家の説く社会的無為自然でもある。(仏教の場合はこれに出家修行が加わる)
真理そのものを積極的に論じているわけではないにしても、儒家や道家のような代表的な
中国思想は、絶対真理とも親しい関係にあり、根本のところでは不可分な関係にすらある。
そもそも絶対真理とは何の関係もなく、絶対真理に180度背くことを「真理だ」などと妄言する
邪義邪説などと比べれば、見た目には素朴な中国思想のほうが、まだ真理に近い所にあるといえる。
「子貢曰く、夫子の文章は得て聞く可きなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞く可からざるなり」
「子貢がいった。『孔先生の、表層的な文学などに関する話は、分かりやすくて誰にでも聞くことができた。
しかし、形而上的な性情論や天道論についての話は、あまりにも難解でそうそうに聞くことはできなかった』
(ここでいう『天道』が『真理』にも当たり、孔子が本物の真理把捉者でもあったことは、
『易経』繋辞伝における形而上論の秀逸さからも察することができる。ただ、それは明日の
生活の糧こそが至上命題であるような、俗人に説いて聞かせるべきようなものではなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一三)
人類や諸生物の歴史には、必然性と共にそれなりの恣意も伴っている。
約6500年前の巨大隕石の衝突による地球環境の大きな変化によって、
図体ばかりを大きくしすぎた恐竜のほとんどが絶滅した一方、
その頃はまだネズミのような小動物に限られていた哺乳類は生き延びて、
今になっては人類のような地球上の覇者を輩出するところにまで至っている。
人間以外の動物にはあまり高度な知能がないから、その生死存亡が甚大な
状況変化などの中で、個々の恣意によってどうにかできたりすることが少ない。
それと全く同じように、カルト信仰で知能をチンパン以下にまで低下させる
クセが付いてしまっているキリスト教徒なども、自分たちの恣意によって
これからの運命を切り開いていったりするようなことができない。
しかし、東洋の場合、外界侵略を蒙る以前の宋代までの中国や、上代以降の日本の歴史などは、高度に
賢明な為政者などによる自助努力で彩られていて、だからこそ数百年規模の泰平社会を何度も実現している。
確かに人為によってはどうにもならない部分もあって、だからこそ帝国や幕府などが数百年ごとに政権を交代する
「易姓革命」なども起こってしまっている。それにしたって、泰平を画策する自助努力を全く怠っているせいで、
万年戦乱状態であり続けてしまっているキリスト教圏の歴史などと比べれば、確実に自力で泰平を獲得してきた
頻度が高く、まさに「人事を尽くして天命を待つ」と呼ぶにふさわしい歴史を積み重ねてきているといえる。
(これと比べれば、キリスト教圏の歴史などは「人事も尽くさずに天命ばかりを待つ」の体現だといえる)
約6500年前の巨大隕石の衝突による地球環境の大きな変化によって、
図体ばかりを大きくしすぎた恐竜のほとんどが絶滅した一方、
その頃はまだネズミのような小動物に限られていた哺乳類は生き延びて、
今になっては人類のような地球上の覇者を輩出するところにまで至っている。
人間以外の動物にはあまり高度な知能がないから、その生死存亡が甚大な
状況変化などの中で、個々の恣意によってどうにかできたりすることが少ない。
それと全く同じように、カルト信仰で知能をチンパン以下にまで低下させる
クセが付いてしまっているキリスト教徒なども、自分たちの恣意によって
これからの運命を切り開いていったりするようなことができない。
しかし、東洋の場合、外界侵略を蒙る以前の宋代までの中国や、上代以降の日本の歴史などは、高度に
賢明な為政者などによる自助努力で彩られていて、だからこそ数百年規模の泰平社会を何度も実現している。
確かに人為によってはどうにもならない部分もあって、だからこそ帝国や幕府などが数百年ごとに政権を交代する
「易姓革命」なども起こってしまっている。それにしたって、泰平を画策する自助努力を全く怠っているせいで、
万年戦乱状態であり続けてしまっているキリスト教圏の歴史などと比べれば、確実に自力で泰平を獲得してきた
頻度が高く、まさに「人事を尽くして天命を待つ」と呼ぶにふさわしい歴史を積み重ねてきているといえる。
(これと比べれば、キリスト教圏の歴史などは「人事も尽くさずに天命ばかりを待つ」の体現だといえる)
もうそろそろ、キリスト教圏全体が経済破綻によって崩壊する時期にさしかかっているが、
もしも地球社会の主導権をキリスト教徒が東洋人などに明け渡せば、キリスト教圏の人間も相当な自由の制限
などを蒙るとはいえ、核戦争によって全滅してしまう場合などよりは遥かに無難な将来に与ることができる。
それもあくまで、非キリスト教徒である東洋人などに、自助努力で世の中を最悪の破綻から救い上げられる
能力があるからで、決してキリスト教の邪神の意思による必然だったりするわけではない。
史上最悪級の破綻の元凶に自分たちキリ教徒がなっておきながら、それでも自分たちが救われることを、
キリスト教の神に感謝したりするのは全くのお門違いであり、東洋人ないし人類という種族全体の、
自力での生存能力の高さにこそ感謝や賞賛の意を向けねばならない。仮にその自力での生存すらもが
生物学上の必然性に根ざしていると捉えたとしても、その必然性が進化論などの当たり前な
生物学すら否定するような邪義を触れ回る、インチキ神のもたらした必然などでないのが確か。
「其の位に在ざれば、其の政を謀らず」
「それ相応の地位に就くのでなければ、その地位でこそ行うべき政務の計画もしない。
(自力によって泰平を画策していくためにこそ、地位などの体裁にもメリハリを付ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二七より)
もしも地球社会の主導権をキリスト教徒が東洋人などに明け渡せば、キリスト教圏の人間も相当な自由の制限
などを蒙るとはいえ、核戦争によって全滅してしまう場合などよりは遥かに無難な将来に与ることができる。
それもあくまで、非キリスト教徒である東洋人などに、自助努力で世の中を最悪の破綻から救い上げられる
能力があるからで、決してキリスト教の邪神の意思による必然だったりするわけではない。
史上最悪級の破綻の元凶に自分たちキリ教徒がなっておきながら、それでも自分たちが救われることを、
キリスト教の神に感謝したりするのは全くのお門違いであり、東洋人ないし人類という種族全体の、
自力での生存能力の高さにこそ感謝や賞賛の意を向けねばならない。仮にその自力での生存すらもが
生物学上の必然性に根ざしていると捉えたとしても、その必然性が進化論などの当たり前な
生物学すら否定するような邪義を触れ回る、インチキ神のもたらした必然などでないのが確か。
「其の位に在ざれば、其の政を謀らず」
「それ相応の地位に就くのでなければ、その地位でこそ行うべき政務の計画もしない。
(自力によって泰平を画策していくためにこそ、地位などの体裁にもメリハリを付ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二七より)
人が着実に善を行う秘訣は、あらゆる行動を自制できた上で、
為すべきことのみを為す分別を付けてことに臨む点にある。
遠く離れたところにある小さな的に対して、めくらめっぽうに多数の矢を射れば、
そのほとんどが的を外れる。一矢や二矢ぐらいはまぐれで的に命中することもあるかもしれないが、
めくらめっぽうである以上は、そのほとんどが確率上からして的を外すことになってしまう。
とにかく何もかもをやる能力を身に付けて、それによって善行を為そうなどとするのは
このようなもので、そのほとんどが善行という的を外して、みそくその「くそ」に当たる悪行と化してしまう。
それでは結局、善を為すという以前に、自分が何かを為そうとした試み全般が、大局的な悪行だった
ことになってしまうので、やはり本当に善行を為すためには、何もかもを為せる能力などよりも、
あえて何もしないでいて、そこから確実に善だけを行っていく能力のほうが必要であるといえる。
「君子は徳に進みて業を修む。忠信は徳に進む所以なり。辞を修め其の誠を立つるは、業に居る所以なり。
至るを知りて之れに至り、與に幾ばく可きなり。終わるを知りて之れに終わり、與に義を存す可きなり」
「君子は善徳を進取することで大業を修める。忠節と信実さこそが善徳を進取する原動力となり、文辞を整えて
誠意を立てることで大業を引き立てる。行いを始めるときを見計らってそのときに始めることで、共にことを計るに
値するものとなり、行いを終えるときを見計らってそのときに終えることで、共に道義を守るに値するものとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・文言伝・九三より)
為すべきことのみを為す分別を付けてことに臨む点にある。
遠く離れたところにある小さな的に対して、めくらめっぽうに多数の矢を射れば、
そのほとんどが的を外れる。一矢や二矢ぐらいはまぐれで的に命中することもあるかもしれないが、
めくらめっぽうである以上は、そのほとんどが確率上からして的を外すことになってしまう。
とにかく何もかもをやる能力を身に付けて、それによって善行を為そうなどとするのは
このようなもので、そのほとんどが善行という的を外して、みそくその「くそ」に当たる悪行と化してしまう。
それでは結局、善を為すという以前に、自分が何かを為そうとした試み全般が、大局的な悪行だった
ことになってしまうので、やはり本当に善行を為すためには、何もかもを為せる能力などよりも、
あえて何もしないでいて、そこから確実に善だけを行っていく能力のほうが必要であるといえる。
「君子は徳に進みて業を修む。忠信は徳に進む所以なり。辞を修め其の誠を立つるは、業に居る所以なり。
至るを知りて之れに至り、與に幾ばく可きなり。終わるを知りて之れに終わり、與に義を存す可きなり」
「君子は善徳を進取することで大業を修める。忠節と信実さこそが善徳を進取する原動力となり、文辞を整えて
誠意を立てることで大業を引き立てる。行いを始めるときを見計らってそのときに始めることで、共にことを計るに
値するものとなり、行いを終えるときを見計らってそのときに終えることで、共に道義を守るに値するものとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・文言伝・九三より)
歴史的に、儒者や儒学道徳を敵に回した権力者ってのは、ことごとく自滅の道を辿っている。
仏法のように、敵に回して対抗することすらできないほどに儒学道徳は「最勝」ではないし、
武士でもないような専門の儒者は武術も嗜まないので、焚書坑儒のような虐げの対象にもできなくはない。
しかし、儒学が司っているのが、天地万物に永久普遍の道理であり、
その儒学を忠実な実践の対象としているのが儒者でもあるために、儒書を焼き捨てたり、
儒者を虐げの対象にしたりすれば、そのぶんだけの災禍が本人自身に降りかかる。
焚書や坑儒まではいかなくても、儒学の司る道理に致命的に反するような言行などに
自分が及んだならば、そのぶんだけの自業自得の災禍が本人自身にも降りかかる。
大乗仏教の唯識思想に基づいて「善」とされるものと、儒学で「善」とされるものとが本質的に等価であり、
両者が「悪」とするものもまた本質的に等価であるから、善因楽果悪因苦果の罪福異熟という仏法上の絶対真理
にも即して、儒学で「善」とされるものを行えば楽果に結びつき、「悪」とされるものを行えば苦果に結びつく。
仏法のように、敵に回して対抗することすらできないほどに儒学道徳は「最勝」ではないし、
武士でもないような専門の儒者は武術も嗜まないので、焚書坑儒のような虐げの対象にもできなくはない。
しかし、儒学が司っているのが、天地万物に永久普遍の道理であり、
その儒学を忠実な実践の対象としているのが儒者でもあるために、儒書を焼き捨てたり、
儒者を虐げの対象にしたりすれば、そのぶんだけの災禍が本人自身に降りかかる。
焚書や坑儒まではいかなくても、儒学の司る道理に致命的に反するような言行などに
自分が及んだならば、そのぶんだけの自業自得の災禍が本人自身にも降りかかる。
大乗仏教の唯識思想に基づいて「善」とされるものと、儒学で「善」とされるものとが本質的に等価であり、
両者が「悪」とするものもまた本質的に等価であるから、善因楽果悪因苦果の罪福異熟という仏法上の絶対真理
にも即して、儒学で「善」とされるものを行えば楽果に結びつき、「悪」とされるものを行えば苦果に結びつく。
善悪というものを、儒学の定義とは全く転倒した尺度で定義することもまた可能であるのが、
儒家道徳に真っ向から反する邪義だけを触れ回っている新旧約の実在などからも明らかだが、
そのような邪義の定義する善悪は、仏教の唯識思想が定義する善悪などとは等価ではなく、
儒学の善悪と相反しているのと同じように、仏教の定義する善悪とも180度相反している。
そのため、新旧約に書かれてあるような定義に基づく「善」を行えば災禍に見舞われ、
行わなければ災禍に見舞われることもない。そもそも新旧約には本物の「善」に相当する物事が
ほとんど記載されていないため、新旧約で「悪」とされるものを行えば福徳に与れるなどということも
ほとんどないが、結果的に犯罪聖書の信者や実践者が「悪」と定義しているものの中には、
むしろそれをやったほうが福徳に与れるようなものが多々散見される。(武道や精神修養など)
聖書信仰の場合は、儒学とは逆で、その記述上で「善」とされる行いによってこそ確実な
災禍に見舞われ、信仰上や記述上で「悪」とされる行いによってこそ福徳に与れる場合が多い。
もっとも、犯罪聖書中には福徳に与れるような要素を記した記述自体が元から甚だしく乏しいので、
犯罪聖書の記述に倣わないことよりは、福徳に与れる善良な要素の記述こそが豊富な儒学の正典・
真正聖書=四書五経の記述に倣うことのほうを第一義としたほうがいいに決まっている。
儒家道徳に真っ向から反する邪義だけを触れ回っている新旧約の実在などからも明らかだが、
そのような邪義の定義する善悪は、仏教の唯識思想が定義する善悪などとは等価ではなく、
儒学の善悪と相反しているのと同じように、仏教の定義する善悪とも180度相反している。
そのため、新旧約に書かれてあるような定義に基づく「善」を行えば災禍に見舞われ、
行わなければ災禍に見舞われることもない。そもそも新旧約には本物の「善」に相当する物事が
ほとんど記載されていないため、新旧約で「悪」とされるものを行えば福徳に与れるなどということも
ほとんどないが、結果的に犯罪聖書の信者や実践者が「悪」と定義しているものの中には、
むしろそれをやったほうが福徳に与れるようなものが多々散見される。(武道や精神修養など)
聖書信仰の場合は、儒学とは逆で、その記述上で「善」とされる行いによってこそ確実な
災禍に見舞われ、信仰上や記述上で「悪」とされる行いによってこそ福徳に与れる場合が多い。
もっとも、犯罪聖書中には福徳に与れるような要素を記した記述自体が元から甚だしく乏しいので、
犯罪聖書の記述に倣わないことよりは、福徳に与れる善良な要素の記述こそが豊富な儒学の正典・
真正聖書=四書五経の記述に倣うことのほうを第一義としたほうがいいに決まっている。
日々善行に努めている人間は、そもそも自分で不法行為から自粛するはずなのに、
「善い業に努めている人間の不法を贖う」という物言いからして、すでに矛盾している。
おそらくその心は、「邪神信仰によって知能をチンパン以下にまで低下させることで
罪の意識からなる良心の呵責を停止させること」を犯罪聖書中では「善い業」と呼んでいて、
そのような善い業に努めている人間の不法を、実際にもキリストのような邪神が贖うという意味。
もちろんそんなことは決してなく、カルト信仰で良心の呵責を騙し騙ししつつ罪業に及ぶことが
「善い業」だったりするわけもなく、悪業の極みであるとすらいえ、そのような悪業によって
積み重ねられた不法行為を、自分たちカルト信者の代わりに贖ってくれる邪神なども実在しない。
というわけで、カルト信仰に耽溺することで餓鬼畜生の行いを「善い業」だなどと勘違いしつつ
積み重ねてきた聖書信者たちは、そのほとんどが禁治産などの処分を通じて地獄へと突き落とされる。
それは仏教の六道輪廻にも即した俗界の絶対法則であり、餓鬼畜生でありながら地獄の苦しみだけは
免れてきた今までのほうがまぐれ当たりだっただけのこと。後はもう、地獄餓鬼畜生の三悪趣全体を浄化
してお浄土へと導いてくださる正信などによって、できる限り早期の内の三悪趣からの脱却を目指すのみ。
餓鬼畜生の狂乱を貪りつつ浄土を欣求することはできないから、あくまで三悪趣全体を厭離する覚悟で。
「金、贖刑を作す。眚災は肆赦し、怙終は賊刑す。
欽しまんかな、欽しまんかな。惟れ刑は之れ恤れまんかな」
「(舜帝は)過失で罪を犯したものに対しては、罰金による贖いをも認めるようにし、
過失には寛大な姿勢で臨み、故意の確信犯には死刑などの重刑を以て臨む姿勢を固められた。
舜帝『慎まんかな、慎まんかな。刑罰を執り行うに際しては、片時も油断のないように』
(あまり見た目に美しくない罰金刑なども、架空神による架空の贖いなどよりは堅実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典第二より)
「善い業に努めている人間の不法を贖う」という物言いからして、すでに矛盾している。
おそらくその心は、「邪神信仰によって知能をチンパン以下にまで低下させることで
罪の意識からなる良心の呵責を停止させること」を犯罪聖書中では「善い業」と呼んでいて、
そのような善い業に努めている人間の不法を、実際にもキリストのような邪神が贖うという意味。
もちろんそんなことは決してなく、カルト信仰で良心の呵責を騙し騙ししつつ罪業に及ぶことが
「善い業」だったりするわけもなく、悪業の極みであるとすらいえ、そのような悪業によって
積み重ねられた不法行為を、自分たちカルト信者の代わりに贖ってくれる邪神なども実在しない。
というわけで、カルト信仰に耽溺することで餓鬼畜生の行いを「善い業」だなどと勘違いしつつ
積み重ねてきた聖書信者たちは、そのほとんどが禁治産などの処分を通じて地獄へと突き落とされる。
それは仏教の六道輪廻にも即した俗界の絶対法則であり、餓鬼畜生でありながら地獄の苦しみだけは
免れてきた今までのほうがまぐれ当たりだっただけのこと。後はもう、地獄餓鬼畜生の三悪趣全体を浄化
してお浄土へと導いてくださる正信などによって、できる限り早期の内の三悪趣からの脱却を目指すのみ。
餓鬼畜生の狂乱を貪りつつ浄土を欣求することはできないから、あくまで三悪趣全体を厭離する覚悟で。
「金、贖刑を作す。眚災は肆赦し、怙終は賊刑す。
欽しまんかな、欽しまんかな。惟れ刑は之れ恤れまんかな」
「(舜帝は)過失で罪を犯したものに対しては、罰金による贖いをも認めるようにし、
過失には寛大な姿勢で臨み、故意の確信犯には死刑などの重刑を以て臨む姿勢を固められた。
舜帝『慎まんかな、慎まんかな。刑罰を執り行うに際しては、片時も油断のないように』
(あまり見た目に美しくない罰金刑なども、架空神による架空の贖いなどよりは堅実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典第二より)
「季氏、泰山に旅す。子、冉有に謂いて曰く、女じ救うこと能わざるか。
對えて曰く、能わず。子曰く、嗚呼、曾ち泰山は林放に如かざると謂えるか」
「魯の家老の季氏が、本当は諸侯以上の身分の持ち主のみが執り行える山川を祀る祭を、
こともあろうに中国一の名山とされる泰山で執り行おうとした。孔先生はそれを聞いて、
当時季氏に仕えていた門弟の冉有に訴えた。『おまえは、大きな過ちを犯そうとしている
主人を救うことができないのか』 冉有は答えた。『残念ですが、救うことができません』
先生は嘆いて言った。『ああ、林放のようないち書生ですら礼儀をわきまえているというのに、
泰山がその林放にすら及ばない(林放ほどにも礼儀を知らない)とでも思っているのだろうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・六より)
古えの中国の王侯などが、山川を司るとされる神々を祀る「封禅」の儀式を執り行っていたことが
伝承上からも、各種の史跡からも伺える。特に、内陸国である中国では、名山の神を祭る封禅が
権力を誇示する目的などでよく執り行われていたようで、始皇帝も上記の泰山での封禅を試みて、
大風が吹くなどしたために失敗している。泰山などの、名山での封禅の成功条件は相当に厳しかった
らしく、権力を誇示する目的というよりは、その権力によって獲得された泰平が長続きすることなどを
祈願するために、相応の手続きを踏まえた上で行った場合にこそ、封禅も成功したことになったらしい。
始皇帝はこの泰山での封禅に失敗したが、中原を平定して、匈奴の撃退をも完遂した前漢の武帝は、
天下泰平の永続の祈願を目的としたからこそ、泰山での封禅にも成功している。皇帝ですらもが、
その行状の是非如何によっては、封禅に失敗するような高山すらもがあるのだから、いわんや、
民間の小人が奢り高ぶりの永続を期待したりするために、高い所に上ったりしてなるものかと。
それでは傷が癒されるどころか、傷口に塩を塗って強風に当てるかのようにして、救われることがない。
對えて曰く、能わず。子曰く、嗚呼、曾ち泰山は林放に如かざると謂えるか」
「魯の家老の季氏が、本当は諸侯以上の身分の持ち主のみが執り行える山川を祀る祭を、
こともあろうに中国一の名山とされる泰山で執り行おうとした。孔先生はそれを聞いて、
当時季氏に仕えていた門弟の冉有に訴えた。『おまえは、大きな過ちを犯そうとしている
主人を救うことができないのか』 冉有は答えた。『残念ですが、救うことができません』
先生は嘆いて言った。『ああ、林放のようないち書生ですら礼儀をわきまえているというのに、
泰山がその林放にすら及ばない(林放ほどにも礼儀を知らない)とでも思っているのだろうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・六より)
古えの中国の王侯などが、山川を司るとされる神々を祀る「封禅」の儀式を執り行っていたことが
伝承上からも、各種の史跡からも伺える。特に、内陸国である中国では、名山の神を祭る封禅が
権力を誇示する目的などでよく執り行われていたようで、始皇帝も上記の泰山での封禅を試みて、
大風が吹くなどしたために失敗している。泰山などの、名山での封禅の成功条件は相当に厳しかった
らしく、権力を誇示する目的というよりは、その権力によって獲得された泰平が長続きすることなどを
祈願するために、相応の手続きを踏まえた上で行った場合にこそ、封禅も成功したことになったらしい。
始皇帝はこの泰山での封禅に失敗したが、中原を平定して、匈奴の撃退をも完遂した前漢の武帝は、
天下泰平の永続の祈願を目的としたからこそ、泰山での封禅にも成功している。皇帝ですらもが、
その行状の是非如何によっては、封禅に失敗するような高山すらもがあるのだから、いわんや、
民間の小人が奢り高ぶりの永続を期待したりするために、高い所に上ったりしてなるものかと。
それでは傷が癒されるどころか、傷口に塩を塗って強風に当てるかのようにして、救われることがない。
「揚れる之の水は、束楚をも流さず。
終に兄弟も鮮なし、維れ予れと女じとなり。
人の言を信ずる無かれ、人は實に女じを迋かす。
揚れる之の水は、束薪をも流さず。
終に兄弟も鮮なし、維れ予れと二人なり。
人の言を信ずる無かれ、人は實に信ならず」
「障害物にせき止められた川の水が、その水圧を増しながらも薪束ひとつ流せないように、
他人に隔てられたわれら兄弟の思いも日々募るばかり。ほかに兄弟もなく、親しきは我と汝とばかり。
決して他人の言うことなどを信ずるな。他人は汝をたぶらかすことしか考えていないのだから。
障害物にせき止められた川の水が、その水圧を増しながらも薪束ひとつ流せないように、
他人に隔てられたわれら兄弟の思いも日々募るばかり。ほかに兄弟もなく、親しきは我と汝とばかり。
決して他人の言うことなどを信ずるな。他人は実に信用のならないものだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄭風・揚之水)
元より「言」というもの自体が、「前言を覆す」などともいうように、信用性の低い媒体の最たるものであり、
そこに絶対の信頼を置こうなどとすること自体が、腐った木に彫刻を施したり、糞を混ぜた土壁に漆喰を
塗ったりするような儚い徒労でしかないと、孔子も真正福音書・公冶長第五・一〇で言っている。
善にしろ悪にしろ、後戻りができなくなるのは「行い」に及んでからのことで、ただ言ってただけなら
全く信用がならないと同時に、すぐに改められもする。そのような「言」と「行」の性質の違いをよくわきまえて、
信用の対象は全面的に行いのほうとして、その行いの前準備などとしての、言の価値のみを認めるようにせねばならない。
言ってることに全く行いが伴っておらず、むしろ発言に相反する行いばかりやらかしていたりしたならば、
そのような輩の発言から信用してはならない。刑死して三日後に生き返るみたいな、ペテン師の虚言を信じ込んだ結果、
親族兄弟での殺し合いにまで及んだりするのなら、これほどに人として不幸なこともほかにないのだから。
終に兄弟も鮮なし、維れ予れと女じとなり。
人の言を信ずる無かれ、人は實に女じを迋かす。
揚れる之の水は、束薪をも流さず。
終に兄弟も鮮なし、維れ予れと二人なり。
人の言を信ずる無かれ、人は實に信ならず」
「障害物にせき止められた川の水が、その水圧を増しながらも薪束ひとつ流せないように、
他人に隔てられたわれら兄弟の思いも日々募るばかり。ほかに兄弟もなく、親しきは我と汝とばかり。
決して他人の言うことなどを信ずるな。他人は汝をたぶらかすことしか考えていないのだから。
障害物にせき止められた川の水が、その水圧を増しながらも薪束ひとつ流せないように、
他人に隔てられたわれら兄弟の思いも日々募るばかり。ほかに兄弟もなく、親しきは我と汝とばかり。
決して他人の言うことなどを信ずるな。他人は実に信用のならないものだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄭風・揚之水)
元より「言」というもの自体が、「前言を覆す」などともいうように、信用性の低い媒体の最たるものであり、
そこに絶対の信頼を置こうなどとすること自体が、腐った木に彫刻を施したり、糞を混ぜた土壁に漆喰を
塗ったりするような儚い徒労でしかないと、孔子も真正福音書・公冶長第五・一〇で言っている。
善にしろ悪にしろ、後戻りができなくなるのは「行い」に及んでからのことで、ただ言ってただけなら
全く信用がならないと同時に、すぐに改められもする。そのような「言」と「行」の性質の違いをよくわきまえて、
信用の対象は全面的に行いのほうとして、その行いの前準備などとしての、言の価値のみを認めるようにせねばならない。
言ってることに全く行いが伴っておらず、むしろ発言に相反する行いばかりやらかしていたりしたならば、
そのような輩の発言から信用してはならない。刑死して三日後に生き返るみたいな、ペテン師の虚言を信じ込んだ結果、
親族兄弟での殺し合いにまで及んだりするのなら、これほどに人として不幸なこともほかにないのだから。
「形而上なるものを之れ道と謂い、形而下なるものを之れ器と謂う(既出)」
「形になって現れているものの上位にあるものを道といい、形になって現れている範囲内のものを器という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
天地万物のような形になっているものをより上位から司っているものこそは道理であり、
万物流転の法則すらをも道理が司っているからこそ、道理それ自体は滅びることがない。
一方で、天地万物の一部である人間社会に、癌細胞や寄生虫のように寄生することで食い扶持を
得る権力犯罪カルトの邪義もまた、天地万物や人間社会を司る道理が普遍的なものであるからこそ、
あたかも光に寄り添う影が、光が照らし出すものと全く同じ形をしているかのようにして、
一定の不変的な法則を持っている。確かに癌細胞や寄生虫のような生物が一定数生ずることも
物理的な法則に根ざしたことであり、その普遍性は物質の安定性などよりも安定的ですらある。
しかし、癌細胞や寄生虫が生き延びるためのカルトの邪義は、その寄生対象ともなる天地万物や
人間社会全体を健全に運営していくための、道理そのものの法則にはことごとく相反しており、
どちらかを優先する以上は必ずもう一方を劣後せざるを得ない。本体である人間社会全体を
蝕むことで自分たちが繁栄する寄生体の生存法則を優先しすぎれば、世の中全体が破綻して、
寄生体もろともの滅亡にすら至りかねない。一方で、寄生生物の生存を完全に禁止して、
人間社会全体の健全な運営ばかりを徹底して行けば、それはほとんどの人間にとっては
有り難い繁栄の糧となるが、寄生生物がある程度は存在して、その内のいくらかとは共存を
計ることも可能であるという、実相に根ざした総合的な法則に即するなら、寄生生物を
完全に絶やしつくして、人類全体の利益ばかりを徹底して優先するということもまた、
あまりにも清濁の併せ呑みを排しすぎた、潔癖に過ぎる過剰反応であるともいえる。
「形になって現れているものの上位にあるものを道といい、形になって現れている範囲内のものを器という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)
天地万物のような形になっているものをより上位から司っているものこそは道理であり、
万物流転の法則すらをも道理が司っているからこそ、道理それ自体は滅びることがない。
一方で、天地万物の一部である人間社会に、癌細胞や寄生虫のように寄生することで食い扶持を
得る権力犯罪カルトの邪義もまた、天地万物や人間社会を司る道理が普遍的なものであるからこそ、
あたかも光に寄り添う影が、光が照らし出すものと全く同じ形をしているかのようにして、
一定の不変的な法則を持っている。確かに癌細胞や寄生虫のような生物が一定数生ずることも
物理的な法則に根ざしたことであり、その普遍性は物質の安定性などよりも安定的ですらある。
しかし、癌細胞や寄生虫が生き延びるためのカルトの邪義は、その寄生対象ともなる天地万物や
人間社会全体を健全に運営していくための、道理そのものの法則にはことごとく相反しており、
どちらかを優先する以上は必ずもう一方を劣後せざるを得ない。本体である人間社会全体を
蝕むことで自分たちが繁栄する寄生体の生存法則を優先しすぎれば、世の中全体が破綻して、
寄生体もろともの滅亡にすら至りかねない。一方で、寄生生物の生存を完全に禁止して、
人間社会全体の健全な運営ばかりを徹底して行けば、それはほとんどの人間にとっては
有り難い繁栄の糧となるが、寄生生物がある程度は存在して、その内のいくらかとは共存を
計ることも可能であるという、実相に根ざした総合的な法則に即するなら、寄生生物を
完全に絶やしつくして、人類全体の利益ばかりを徹底して優先するということもまた、
あまりにも清濁の併せ呑みを排しすぎた、潔癖に過ぎる過剰反応であるともいえる。
寄生生物の都合ばかりがあまりにも優先されて、種族全体の存亡までもが危ぶまれるような時機には、
多少は過剰に寄生的生存の邪義を廃絶しようとする動きが生じたとしても仕方がない。しかし、
その先に共産主義的な無理のある絶対平等志向を確立しようとすることも、人間がそのまま飲めば
腹を壊す純水のようなもので、もう少し諸法の実相の有機性に根ざした融通を利かしたほうがよい。
「天地の道は、恒久にして已まず」「天地を司る道理は恒久普遍にして止まることもない」(易経・恆・彖伝)
「天地の化育に賛ずべし」「天地をその道理に基づいて化育することにこそ協賛すべきである」(中庸・二二)
「天地を経緯するを文と曰う」「天地の法則を言葉によって記録してこそ人間の文化である」(左伝・昭公二十八年)
(権力道徳聖書——通称四書五経より)
多少は過剰に寄生的生存の邪義を廃絶しようとする動きが生じたとしても仕方がない。しかし、
その先に共産主義的な無理のある絶対平等志向を確立しようとすることも、人間がそのまま飲めば
腹を壊す純水のようなもので、もう少し諸法の実相の有機性に根ざした融通を利かしたほうがよい。
「天地の道は、恒久にして已まず」「天地を司る道理は恒久普遍にして止まることもない」(易経・恆・彖伝)
「天地の化育に賛ずべし」「天地をその道理に基づいて化育することにこそ協賛すべきである」(中庸・二二)
「天地を経緯するを文と曰う」「天地の法則を言葉によって記録してこそ人間の文化である」(左伝・昭公二十八年)
(権力道徳聖書——通称四書五経より)
言葉が絶対的な信用の対象となることもおかしければ、
絶対的な不信の対象となることもおかしい。
ペテン師の物言いを一辺倒に信じきって、騙され奪われ傷めつけられ殺され滅ぼされる
なんてことは歴史的にも現代的にもよくある話。一方で、もはやペテン的な曲芸戦法を確信犯的に
多用しまくっていたが故に、敵軍からは一方的な不信の対象とされていた蜀漢の軍師諸葛孔明が、
あえてその通りに行う予定の作戦計画を大っぴらにすることで「これは欺瞞工作だ」と敵軍に思い込ませ、
その通りにしない場合の対策を講じていた相手を、その通りの作戦で打ち破るなどということもあった。
言葉とか概念とかいったものは、実相の現実よりも、現実上においてはうつろなものであり、
「概念が根本で、現実が末節だ」などという転倒夢想を哲学者にけしかけたプラトンのイデア論もまた、
思想哲学上の致命的な病理の一つだった。そもそも概念的な言葉を発することから避けて、現実に根ざした
ことだけを語る中国思想が「思想」の健全な姿である一方で、ある程度は概念的な言葉を語りはするものの、
あくまで現実の実相との連絡を緊密に保つインド哲学こそは「哲学」の健全な姿でもあった。現実の実相から
乖離したところで空想的な概念論を垂れ流す哲学が不健全であるなら、そのような空想の病理に即して
現実から乖離しきった言葉を執拗に信じさせる信教もまた、不健全極まりないカルト信仰なのであり、
元から不健全だった人間がそのようなカルト哲学やカルト宗教に溺れるというよりは、むしろそのような
カルト哲学やカルト宗教のせいで、後天的に精神を病むなどの不健全な疾患を被っている場合のほうが多い。
だからこそ、カルト信者やカルト学者を糾弾の対象とするよりは、カルト教学
そのものを適正な排除対象として見据えることのほうが重要なのだといえる。
「至徳の光を奮い、四気の和を動かして、以て万物の理を著す」
「大徳に到れる光を放ち、春夏秋冬の気運をも味方に付けて、万物を司る天理を現す。
(個人的に光を持つなどという輩は差し詰め、万物を司る天理から放たれた
無量の光明を掠め取って我が物扱いしているこそ泥とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
絶対的な不信の対象となることもおかしい。
ペテン師の物言いを一辺倒に信じきって、騙され奪われ傷めつけられ殺され滅ぼされる
なんてことは歴史的にも現代的にもよくある話。一方で、もはやペテン的な曲芸戦法を確信犯的に
多用しまくっていたが故に、敵軍からは一方的な不信の対象とされていた蜀漢の軍師諸葛孔明が、
あえてその通りに行う予定の作戦計画を大っぴらにすることで「これは欺瞞工作だ」と敵軍に思い込ませ、
その通りにしない場合の対策を講じていた相手を、その通りの作戦で打ち破るなどということもあった。
言葉とか概念とかいったものは、実相の現実よりも、現実上においてはうつろなものであり、
「概念が根本で、現実が末節だ」などという転倒夢想を哲学者にけしかけたプラトンのイデア論もまた、
思想哲学上の致命的な病理の一つだった。そもそも概念的な言葉を発することから避けて、現実に根ざした
ことだけを語る中国思想が「思想」の健全な姿である一方で、ある程度は概念的な言葉を語りはするものの、
あくまで現実の実相との連絡を緊密に保つインド哲学こそは「哲学」の健全な姿でもあった。現実の実相から
乖離したところで空想的な概念論を垂れ流す哲学が不健全であるなら、そのような空想の病理に即して
現実から乖離しきった言葉を執拗に信じさせる信教もまた、不健全極まりないカルト信仰なのであり、
元から不健全だった人間がそのようなカルト哲学やカルト宗教に溺れるというよりは、むしろそのような
カルト哲学やカルト宗教のせいで、後天的に精神を病むなどの不健全な疾患を被っている場合のほうが多い。
だからこそ、カルト信者やカルト学者を糾弾の対象とするよりは、カルト教学
そのものを適正な排除対象として見据えることのほうが重要なのだといえる。
「至徳の光を奮い、四気の和を動かして、以て万物の理を著す」
「大徳に到れる光を放ち、春夏秋冬の気運をも味方に付けて、万物を司る天理を現す。
(個人的に光を持つなどという輩は差し詰め、万物を司る天理から放たれた
無量の光明を掠め取って我が物扱いしているこそ泥とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
正統宗教の信者にしろカルトの信者にしろ、当然信じている対象がある。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と念仏ばかりを唱えて他を見ない浄土信者も、
「浄土への往生」という対象を信じて、そのために「阿弥陀仏」に帰依(南無)する。
犯罪聖書の信者なら、「天国への昇天」という対象を信じて、
そのために「キリスト」や「エホバ」に服従する。
歴史上に実在しない仏である阿弥陀仏を信じて、実在の確認されていない浄土への往生を
信仰した結果、浄土信者は、その「方便」に基づいた信仰によって、他力本願なりの悟りを得、
凡夫が浄土への往生の先に期待するのとも等価の精神の安楽を得る。それは事実、可能であること。
実在しない形而上の超越神であるキリストやエホバを信じたところで、
天国に昇天することも絶対にできないし、浄土往生という方便に
即して念仏者が得るような、精神の安楽を得られることもない。
帰依の対象が阿弥陀様であるかキリエホであるかで、実際に浄土や天国に至れるかどうか
という点で大きな違いはないが、ことにそれを「方便」として捉えた場合、その方便に即して
浄土信者が精神の安楽を得ることが可能な一方で、犯罪信者が精神の安楽を得ることは不能である。
一心不乱に信仰することが必ずしも悪いことなわけではないが、悪いものを狂信して
自業自得の破滅に陥ることも多いので、信仰の対象とするものをよく吟味せねばならない。
「君子は微を知り彰を知り、柔を知り剛を知る。萬夫の望みなり」
「君子は物事の機微をよく察知し、明らかなことの成り行きをも真っ直ぐに見据え、
柔弱なものから剛強なものにまで配慮を利かせる。そこにこそ、万人が真に望むものがある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と念仏ばかりを唱えて他を見ない浄土信者も、
「浄土への往生」という対象を信じて、そのために「阿弥陀仏」に帰依(南無)する。
犯罪聖書の信者なら、「天国への昇天」という対象を信じて、
そのために「キリスト」や「エホバ」に服従する。
歴史上に実在しない仏である阿弥陀仏を信じて、実在の確認されていない浄土への往生を
信仰した結果、浄土信者は、その「方便」に基づいた信仰によって、他力本願なりの悟りを得、
凡夫が浄土への往生の先に期待するのとも等価の精神の安楽を得る。それは事実、可能であること。
実在しない形而上の超越神であるキリストやエホバを信じたところで、
天国に昇天することも絶対にできないし、浄土往生という方便に
即して念仏者が得るような、精神の安楽を得られることもない。
帰依の対象が阿弥陀様であるかキリエホであるかで、実際に浄土や天国に至れるかどうか
という点で大きな違いはないが、ことにそれを「方便」として捉えた場合、その方便に即して
浄土信者が精神の安楽を得ることが可能な一方で、犯罪信者が精神の安楽を得ることは不能である。
一心不乱に信仰することが必ずしも悪いことなわけではないが、悪いものを狂信して
自業自得の破滅に陥ることも多いので、信仰の対象とするものをよく吟味せねばならない。
「君子は微を知り彰を知り、柔を知り剛を知る。萬夫の望みなり」
「君子は物事の機微をよく察知し、明らかなことの成り行きをも真っ直ぐに見据え、
柔弱なものから剛強なものにまで配慮を利かせる。そこにこそ、万人が真に望むものがある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)

挙句には弱り果てて、極重の不幸や苦痛の中で早死にして、二度と生き返らない。
かわいそうだが、それが邪神信仰に執心し過ぎてきた者たちの末路。
仮にそこに懲罰者が介在したところで、あくまで当人たちのやつあたりや冤罪の拡散によって
これ以上の災禍の拡大が引き起こるのを防ぐための「自己懲罰」の支援であるのみ。
カルト信仰者が、破滅的で悲劇的な最期を迎えるのは、完全に自業自得ゆえなのであり、キリエホみたいな
実在しない邪神への狂信もまた、自業自得の災禍を増長させるための「悪巧方便」でこそあった。
念仏信仰が、信者に他力本願での悟りを開かせて、
無意識なうちからの断悪修善を助成する「善巧方便」であったのに対し、逆に信者の
蒙昧さこそを募らせて、無意識(カトリック、正教)と意識(プロテスタント、ユダヤ)の
両面からの悪逆非道の推進を助長する悪巧方便であるのが、キリエホ信仰だった。
念仏信仰が、尊属殺人を含む五逆の実行者の帰依を認めない一方で、
キリスト信仰のほうは親子兄弟同士での殺し合いを推奨しているように、
善巧方便への帰依と悪巧方便への帰依は互いに相容れず、どちらかを採る以上はもう一方を棄てるしかない。
悪巧方便であるキリエホ信仰を選択してきた連中は、それによって自動的に念仏信仰を打ち棄ててもきた。
だからこそ自業自得での最悪の破滅にも陥りつつある。ただ、今からでも悪巧方便への狂信を打ち棄てて、
善巧方便である念仏を信仰したり、自力での善の実践学である儒学などの修練に勤めたならば、まだ
救われる余地のある人間は相当に救われて、もはや救われない人間も相当に末期の苦しみを緩和できる。
あくまで、悪巧方便である犯罪聖書への信仰を打ち棄ててこそ、
それが適い、打ち棄てないのなら最悪の結末しか待っていない。
「戎狄を是こに膺ち、荊舒を適こに懲らす、則ち我れを敢えて承むる莫らしむ。
爾をして昌に熾んならしめ、爾をして壽く富ましめる。黄髪も台背なるも、壽くして胥與に試いて、
爾をして昌に大いならしむ。爾をして耆く艾しからめ、萬有千歳までも、眉壽の害わるること有る無けん」
「夷狄をここに討ち取り、蛮族をここに懲らしめる。それでいてもはや我に抵抗しようとする者もいない。
かくして君が代は大いに隆盛し、長寿と富貴とに与れる。髪が黄色くなり、背も丸まったような衰えさらばえた
者にいたるまで、長寿を感謝して君を仰ぎ見、君をさらに大いならしめる。君の長寿と福徳とを祈り、
万有の千歳の後に至るまで、君が代の福寿の損なわれることがないようにと願い奉られる。
(異端の蛮行を容赦なく討ち滅ぼしてこそ、後の天下の千代に八千代に至るまでの福寿が達せらる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・魯頌・閟宮より)
爾をして昌に熾んならしめ、爾をして壽く富ましめる。黄髪も台背なるも、壽くして胥與に試いて、
爾をして昌に大いならしむ。爾をして耆く艾しからめ、萬有千歳までも、眉壽の害わるること有る無けん」
「夷狄をここに討ち取り、蛮族をここに懲らしめる。それでいてもはや我に抵抗しようとする者もいない。
かくして君が代は大いに隆盛し、長寿と富貴とに与れる。髪が黄色くなり、背も丸まったような衰えさらばえた
者にいたるまで、長寿を感謝して君を仰ぎ見、君をさらに大いならしめる。君の長寿と福徳とを祈り、
万有の千歳の後に至るまで、君が代の福寿の損なわれることがないようにと願い奉られる。
(異端の蛮行を容赦なく討ち滅ぼしてこそ、後の天下の千代に八千代に至るまでの福寿が達せらる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・魯頌・閟宮より)

炭素をほとんど含有しないただの軟鉄なら、どんなに打ち据えたところで硬度や強靭さが向上することもない。
孟子が告子章句下・一五で述べているような、「天が大任を任せようとする者に対して与える試練」があったとして、
その試練を与えられる者が、「論語」に書かれてあるような君子道徳を十分に学んでいる者だったとする。
だとすれば、十分に炭素を含んだ鋼が打ち鍛えられることで名刀になるようにして、
王道の覇道に対する優位をも心からわきまえる、孟子のような賢人となれるだろう。
もしも君子道徳のわきまえが不十分なら、炭素の含有量が少し足りない鋼が打ち鍛えられるようにして、
名刀となるのは無理でも、それなりに硬度や靭度を向上させた鋼になる。これがちょうど、
覇道政治にすら価値を見出そうとしていた荀子あたりに相当する練達度となる。
もしも君子道徳のわきまえなどが全くないんなら、あたかも炭素をほとんど含まない軟鉄を打ち据えても
全く硬度が上がらないようにして、いくら試練を加えても全く向上練達の見られない下愚止まりとなる。
これがちょうど、覇道をカルト信仰によってまで推進しようとしたイエスなどに相当する有様となる。
軟鉄を打ち据えたところで、どこまでも軟鉄のままであり、そも打ち据えられることでの向上などを
欲することからして身の程知らずである。軟鉄には軟鉄で、それなりの用途があるのであり、日本刀などの
ごくごく少量の用途にのみ用いられる高炭素鋼などと比べても、その物量的な用途も遥かに多大である。
何万トンもの排水量になる巨船の構造材なども、そのほとんどが軟鉄であり、大きな
ストレスがかかる一部の部位にだけ、多少炭素やニッケルを含有した特殊な鋼材が用いられるのみ。
打ち据えられることでの向上が望めないから用済みだなんてことは決してないから、心配は要らない。
「乃じの弓矢を備え、乃の戈矛を鍛え、乃じの鋒刃を礪ぎ、敢えて善からざること無かれ」
「汝らの弓矢の数を十分に備え、鉾の刃を十分に打ち鍛え、鉾先をよく研ぎ澄まして、いくさの備えに万全を期すように。
(『荘子』にも『研ぎ澄まされた刃物から使い込まれて磨り減っていく』とある通り、刃物が打ち鍛えられて
研ぎ澄まされるのも、それによっていくさなどのために利用されて消費されるために他ならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・費誓より)
欲することからして身の程知らずである。軟鉄には軟鉄で、それなりの用途があるのであり、日本刀などの
ごくごく少量の用途にのみ用いられる高炭素鋼などと比べても、その物量的な用途も遥かに多大である。
何万トンもの排水量になる巨船の構造材なども、そのほとんどが軟鉄であり、大きな
ストレスがかかる一部の部位にだけ、多少炭素やニッケルを含有した特殊な鋼材が用いられるのみ。
打ち据えられることでの向上が望めないから用済みだなんてことは決してないから、心配は要らない。
「乃じの弓矢を備え、乃の戈矛を鍛え、乃じの鋒刃を礪ぎ、敢えて善からざること無かれ」
「汝らの弓矢の数を十分に備え、鉾の刃を十分に打ち鍛え、鉾先をよく研ぎ澄まして、いくさの備えに万全を期すように。
(『荘子』にも『研ぎ澄まされた刃物から使い込まれて磨り減っていく』とある通り、刃物が打ち鍛えられて
研ぎ澄まされるのも、それによっていくさなどのために利用されて消費されるために他ならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・費誓より)
キリの言うことに聞き従えば死んでも生き返られて、天国にも昇ることができる、
やはりそこには俗人特有の下劣な見返り志向が深く根ざしている。
それは事実、あり得ないことで、キリエホへの服従を誓ったり、
その雑言(×御言葉)の数々を無理にでも聞き込んで体得しようなどとすればするほど、
何も信じず、何もしないでいる場合以上もの不幸や破滅が待っているのみ。
また、言葉には相反性が伴っている場合が多く、たとえば「親子兄弟で殺し合え」など
という雑言に聞き従おうなどとすれば、「親族への孝養を篤くせよ」などという金言に
聞き従うことはできなくなる。そのためキリエホのいかれた雑言ばかりに聞き従おうと
している犯罪聖書信者は、人の言うことに耳を貸さない事例も数多く、道理に適った
真に正しい言葉ほどに聞き従うことができないという、最悪の視聴規範をも帯びている。
自力の修養を大成させた聖賢でもないのなら、自分が何かの事業をこなす上で、その精神的、
行動的な拠り所となる他者の言葉や理念にすがるというのも、必ずしも許されないことではない。
しかし、その拠り所となる言葉や理念が、何もしない以上にも劣悪な悪業をけしかけて、
何もしないでいた場合以上もの不幸や破滅を呼び込むような邪義を帯びている場合には、
むしろそんな言葉には聞き従わないほうがマシである。だったらむしろ、何もしないでいる
隠者なりニートなりが、何もしないでいることの精神的な拠り所ともしている言葉なり理念なりを
拠り所としたほうが、過剰な行動を制御するなどの良質な効果が望めて、まだ好ましくすらある。
やはりそこには俗人特有の下劣な見返り志向が深く根ざしている。
それは事実、あり得ないことで、キリエホへの服従を誓ったり、
その雑言(×御言葉)の数々を無理にでも聞き込んで体得しようなどとすればするほど、
何も信じず、何もしないでいる場合以上もの不幸や破滅が待っているのみ。
また、言葉には相反性が伴っている場合が多く、たとえば「親子兄弟で殺し合え」など
という雑言に聞き従おうなどとすれば、「親族への孝養を篤くせよ」などという金言に
聞き従うことはできなくなる。そのためキリエホのいかれた雑言ばかりに聞き従おうと
している犯罪聖書信者は、人の言うことに耳を貸さない事例も数多く、道理に適った
真に正しい言葉ほどに聞き従うことができないという、最悪の視聴規範をも帯びている。
自力の修養を大成させた聖賢でもないのなら、自分が何かの事業をこなす上で、その精神的、
行動的な拠り所となる他者の言葉や理念にすがるというのも、必ずしも許されないことではない。
しかし、その拠り所となる言葉や理念が、何もしない以上にも劣悪な悪業をけしかけて、
何もしないでいた場合以上もの不幸や破滅を呼び込むような邪義を帯びている場合には、
むしろそんな言葉には聞き従わないほうがマシである。だったらむしろ、何もしないでいる
隠者なりニートなりが、何もしないでいることの精神的な拠り所ともしている言葉なり理念なりを
拠り所としたほうが、過剰な行動を制御するなどの良質な効果が望めて、まだ好ましくすらある。
「子路聞くこと有りて、未だ之れ行うこと能わずんば、唯だ聞く有らんことを恐る」
「子路は聞いたことのうちで、まだ自分で行えないでいることがあれば、さらに新たなことを聞くのを恐れた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一四)
とあり、
「子路問う、聞くままに斯れ行なわんや。子の曰わく、父兄の在すこと有り、これを如何ぞ、其れ聞くままにこれを行なわんや。
冉有問う、聞くままに斯れ行なわんや。子の曰わく、聞くままに斯れを行なえ。公西華が曰わく、由や問う、聞くままに斯れ
行なわんやと。子の曰わく、父兄の在すこと有りと。求や問う、聞くままに斯れ行なわんやと。子の曰わく、聞くままに斯れ
行なえと。赤や惑う。敢えて問う。子の曰わく、求や退く、故にこれを進む。由や人を兼ぬ、故にこれを退く(既出)」
「子路『助言されたままに行ないましょうか』孔子『家族もいるのだから、無鉄砲に助言に従ってもなあ』
冉有『助言されたままに行ないましょうか』孔子『ぜひ助言されたとおりに行ないなさい』
公西華『先生は、子路へは助言に従うことを咎め、冉有へは助言に従うことを勧められた。私には不可解なのですが、
どちらが果たして正しいのでしょうか』孔子『冉有は引っ込み思案だから勧めたが、子路は積極的すぎるから咎めたのだ』
(個々の弟子の性格にあわせた臨機応変な孔子の助言。相手の短所を抑え、長所を伸ばす真の憐れみ深さが窺え、
自分の利益のために相手に助言するような下劣さは微塵も垣間見られない。そも真に誠実な人間はそんなことを思いつかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二二)
とあるから、子路や聖書信者のように、言われたことを全てそのまま行おうとするような蛮行の徒に対しては、
孔子は「もうちょっと思慮を働かせよ」と苦言を呈するだろうことが予想される。元より、聖書信者の場合は、
刑死して三日後に生き返るという、現実には不能なペテンを聞いたままに行おうとしているわけで、それは絶対に不可能なこと
であるために、それの実現を志している以上は、犯罪信者が他者の言うことに耳を傾けることもまた絶対に不可能なわけだが。
「子路は聞いたことのうちで、まだ自分で行えないでいることがあれば、さらに新たなことを聞くのを恐れた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一四)
とあり、
「子路問う、聞くままに斯れ行なわんや。子の曰わく、父兄の在すこと有り、これを如何ぞ、其れ聞くままにこれを行なわんや。
冉有問う、聞くままに斯れ行なわんや。子の曰わく、聞くままに斯れを行なえ。公西華が曰わく、由や問う、聞くままに斯れ
行なわんやと。子の曰わく、父兄の在すこと有りと。求や問う、聞くままに斯れ行なわんやと。子の曰わく、聞くままに斯れ
行なえと。赤や惑う。敢えて問う。子の曰わく、求や退く、故にこれを進む。由や人を兼ぬ、故にこれを退く(既出)」
「子路『助言されたままに行ないましょうか』孔子『家族もいるのだから、無鉄砲に助言に従ってもなあ』
冉有『助言されたままに行ないましょうか』孔子『ぜひ助言されたとおりに行ないなさい』
公西華『先生は、子路へは助言に従うことを咎め、冉有へは助言に従うことを勧められた。私には不可解なのですが、
どちらが果たして正しいのでしょうか』孔子『冉有は引っ込み思案だから勧めたが、子路は積極的すぎるから咎めたのだ』
(個々の弟子の性格にあわせた臨機応変な孔子の助言。相手の短所を抑え、長所を伸ばす真の憐れみ深さが窺え、
自分の利益のために相手に助言するような下劣さは微塵も垣間見られない。そも真に誠実な人間はそんなことを思いつかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二二)
とあるから、子路や聖書信者のように、言われたことを全てそのまま行おうとするような蛮行の徒に対しては、
孔子は「もうちょっと思慮を働かせよ」と苦言を呈するだろうことが予想される。元より、聖書信者の場合は、
刑死して三日後に生き返るという、現実には不能なペテンを聞いたままに行おうとしているわけで、それは絶対に不可能なこと
であるために、それの実現を志している以上は、犯罪信者が他者の言うことに耳を傾けることもまた絶対に不可能なわけだが。
「去るものは追わず、来たるものは拒まず(尽心章句下・三〇)」という、
孟子が自らの学団の本旨としていた人間関係、これは当然、親族兄弟の間柄の話などではない。
文字通り、もっとも「親密」な間柄である親族同士の関係に関しては、過ちを隠してでも
その親密さを堅守せよと儒者はいう一方で、血のつながりがあるわけでもない他人同士での
友好関係に際しては、くっ付くも離れるも全くの自由というのが儒者の心得でもある。
確かに、全ての人間関係が「去るものは追わず、来たるものは拒まず」では寂しいわけで、
そのような孤独志向に陥ることを決して儒者もよしとしない。ただ、孤独を紛らわすために
他人同士での友人関係ばかりを緊密化させるような優先順位の取り違えは決してよしとせず、
友人関係の簡便さはそのままにして、限られた親族同士での親密さこそを磐石なものとさせる。
古代の中国社会であれ、今の世界や日本社会であれ、全ての他人を友人にできるほど
その規模が小さくはない。利害を共にする友人関係などを偏重すれば、どこかに必ず利害の
反する友人ですらない他人=敵性勢力の派閥を作ってしまう。全ての他人を友人にはできない
からこそ一部の友人を作るのでもあり、そこに関係性の緊密さなどを付与すればするほど
敵との対立もより深刻なものとなる。だから友好関係については簡略なものであることを
是とし、自分では選ぶこともできない親子関係などを、だからこそ緊密さを貴ぶ対象ともする。
全ての人間には先天的に親族関係が備わっているから、親族関係を緊密にすることにまで
不平を唱えるようなことは、どんな人間にとっても根本的に筋の通らないこととなるから。
「(伯夷の)悪を悪むの心を推すに、思れ郷人と立つとき、
其の冠の正しからざれば、望望然として之れを去り、將に浼されんとするが若し」
「伯夷が悪を憎んだその心を推し量ってみるなら、それはあたかも、同郷の人間と共に立ち並んでいるときでも、
冠の被り方が間違っていれば深々と恥じ入ってその場を立ち去り、志しを汚されることを避けるかのようだった。
(隣人との癌細胞的な癒着による腐敗は、正義を志すものであれば徹底して拒絶し、近寄りもしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・九より)
孟子が自らの学団の本旨としていた人間関係、これは当然、親族兄弟の間柄の話などではない。
文字通り、もっとも「親密」な間柄である親族同士の関係に関しては、過ちを隠してでも
その親密さを堅守せよと儒者はいう一方で、血のつながりがあるわけでもない他人同士での
友好関係に際しては、くっ付くも離れるも全くの自由というのが儒者の心得でもある。
確かに、全ての人間関係が「去るものは追わず、来たるものは拒まず」では寂しいわけで、
そのような孤独志向に陥ることを決して儒者もよしとしない。ただ、孤独を紛らわすために
他人同士での友人関係ばかりを緊密化させるような優先順位の取り違えは決してよしとせず、
友人関係の簡便さはそのままにして、限られた親族同士での親密さこそを磐石なものとさせる。
古代の中国社会であれ、今の世界や日本社会であれ、全ての他人を友人にできるほど
その規模が小さくはない。利害を共にする友人関係などを偏重すれば、どこかに必ず利害の
反する友人ですらない他人=敵性勢力の派閥を作ってしまう。全ての他人を友人にはできない
からこそ一部の友人を作るのでもあり、そこに関係性の緊密さなどを付与すればするほど
敵との対立もより深刻なものとなる。だから友好関係については簡略なものであることを
是とし、自分では選ぶこともできない親子関係などを、だからこそ緊密さを貴ぶ対象ともする。
全ての人間には先天的に親族関係が備わっているから、親族関係を緊密にすることにまで
不平を唱えるようなことは、どんな人間にとっても根本的に筋の通らないこととなるから。
「(伯夷の)悪を悪むの心を推すに、思れ郷人と立つとき、
其の冠の正しからざれば、望望然として之れを去り、將に浼されんとするが若し」
「伯夷が悪を憎んだその心を推し量ってみるなら、それはあたかも、同郷の人間と共に立ち並んでいるときでも、
冠の被り方が間違っていれば深々と恥じ入ってその場を立ち去り、志しを汚されることを避けるかのようだった。
(隣人との癌細胞的な癒着による腐敗は、正義を志すものであれば徹底して拒絶し、近寄りもしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・九より)
自力作善が本分な君子であれば神仏に依存したりはせず、祈るにしても、人事を尽くした先にある天命の福徳
こそを祈る。その福徳の内容は、天命の長寿であったり、武運の長久であったり、万民の福寿安寧であったりする。
他力本願の小人なら本当に神仏ばかりに依り縋り、それによって現実上の君子階級への貞順さをも養う。
神仏への祈りの内容も、家内安全だったり無病息災だったり商売繁盛だったりと、個人的な願望の側面が強くなる。
君子の祈りと小人の祈り、いずれも上記のようであるのなら何も問題はないが、世界の破滅を強弁する邪神に
対して、破滅後の自分たちだけの救済だけを祈ったりするのは、元はといえば世界の破滅をも祈っているわけで、
それは天下安泰などの健全な君子の祈りとも、無病息災などの健全な小人の祈りとも相容れることがない。
そもそも世界が破滅に陥るようなことからないように祈るのが健全な祈りであり、まず世界の破滅を祈って
おいてから、自分たちだけの救済を祈ったりすることが不健全な祈りだから、どちらかといえば、マッチポンプ
込みの不健全な祈りが劣後されて、マッチポンプ自体を未然に排する健全な祈りのほうが優先されねばならない。
全世界的にも、世界の一時的な破滅を必要もなく欲して、その実現を執拗に祈っているキリエホ信者などよりも、
そんな珍奇な祈りが叶うことを心の底から嫌がっている真っ当な人間のほうが遥かに多数派でもある。
世界の恒久な安寧を願う大多数の人々の健全な祈りが、世界の破滅を願う少数派の不健全で珍奇な祈りなどよりも
優先されて然るべきなのはもちろんのことで、その結果、破滅後の自分たちだけの救済などを祈っていたキリエホ
信者のほうが、禁治産や参政権剥奪などの処分を被ることになったとしても、それも当たり前のことだといえる。
「祭りは祈ること有り、報いること有り、由りて辟むること有り」
「祭りでは何かを祈ることがあり、それによる報いを期待することがあり、より縋って災厄を遠ざけることがある。
(苦難を期待することではなく、苦難を元から遠ざけようとすることが正しい祈りの姿だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
こそを祈る。その福徳の内容は、天命の長寿であったり、武運の長久であったり、万民の福寿安寧であったりする。
他力本願の小人なら本当に神仏ばかりに依り縋り、それによって現実上の君子階級への貞順さをも養う。
神仏への祈りの内容も、家内安全だったり無病息災だったり商売繁盛だったりと、個人的な願望の側面が強くなる。
君子の祈りと小人の祈り、いずれも上記のようであるのなら何も問題はないが、世界の破滅を強弁する邪神に
対して、破滅後の自分たちだけの救済だけを祈ったりするのは、元はといえば世界の破滅をも祈っているわけで、
それは天下安泰などの健全な君子の祈りとも、無病息災などの健全な小人の祈りとも相容れることがない。
そもそも世界が破滅に陥るようなことからないように祈るのが健全な祈りであり、まず世界の破滅を祈って
おいてから、自分たちだけの救済を祈ったりすることが不健全な祈りだから、どちらかといえば、マッチポンプ
込みの不健全な祈りが劣後されて、マッチポンプ自体を未然に排する健全な祈りのほうが優先されねばならない。
全世界的にも、世界の一時的な破滅を必要もなく欲して、その実現を執拗に祈っているキリエホ信者などよりも、
そんな珍奇な祈りが叶うことを心の底から嫌がっている真っ当な人間のほうが遥かに多数派でもある。
世界の恒久な安寧を願う大多数の人々の健全な祈りが、世界の破滅を願う少数派の不健全で珍奇な祈りなどよりも
優先されて然るべきなのはもちろんのことで、その結果、破滅後の自分たちだけの救済などを祈っていたキリエホ
信者のほうが、禁治産や参政権剥奪などの処分を被ることになったとしても、それも当たり前のことだといえる。
「祭りは祈ること有り、報いること有り、由りて辟むること有り」
「祭りでは何かを祈ることがあり、それによる報いを期待することがあり、より縋って災厄を遠ざけることがある。
(苦難を期待することではなく、苦難を元から遠ざけようとすることが正しい祈りの姿だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)
マッチポンプはそれ自体が一種の不義であり、プラスマイナスゼロ以下の悪影響のみをもたらすもの。
そのマッチポンプを講ずる神もまた、プラマイゼロの有害無益な悪影響をもたらす邪神でしかない。
プラマイゼロ以上の好影響をもたらすことと、プラマイゼロ以下の悪影響をもたらすこととは互いに
相容れることではなく、どちらかを司る以上はもう一方を破棄せざるを得ない。だからプラマイゼロ
以下の悪影響をもたらしていた邪神などが、プラマイゼロ以上の好影響に満ちた世界を司ることも
できなければ、そこに赴くための先導者になることすらできない。プラマイゼロ以下の
マッチポンプ災禍を完全に収拾するまでが、せいぜい邪神に課された使命であり、
その使命が果たされた時点で、邪神自身もまた完全な引退を余儀なく果たす。
悪影響が好影響に転じた、万物の位相が根本からひっくり返った世の中は、
それをこそ司るのに相応しいものが、根本から司っていくこととなる。
「君子理無ければ動かず、節無ければ作さず」
「君子は道理が無ければ動かず、節操が無ければ何もしない。
(マッチポンプのような無理無節と共に、君子が何を動作することがあろうか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
そのマッチポンプを講ずる神もまた、プラマイゼロの有害無益な悪影響をもたらす邪神でしかない。
プラマイゼロ以上の好影響をもたらすことと、プラマイゼロ以下の悪影響をもたらすこととは互いに
相容れることではなく、どちらかを司る以上はもう一方を破棄せざるを得ない。だからプラマイゼロ
以下の悪影響をもたらしていた邪神などが、プラマイゼロ以上の好影響に満ちた世界を司ることも
できなければ、そこに赴くための先導者になることすらできない。プラマイゼロ以下の
マッチポンプ災禍を完全に収拾するまでが、せいぜい邪神に課された使命であり、
その使命が果たされた時点で、邪神自身もまた完全な引退を余儀なく果たす。
悪影響が好影響に転じた、万物の位相が根本からひっくり返った世の中は、
それをこそ司るのに相応しいものが、根本から司っていくこととなる。
「君子理無ければ動かず、節無ければ作さず」
「君子は道理が無ければ動かず、節操が無ければ何もしない。
(マッチポンプのような無理無節と共に、君子が何を動作することがあろうか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
天地万物の真理からも、俗世の道理からもかけ離れた所で、
がん細胞増殖の原理にも似た邪義邪説ばかりを触れ回ってきた犯罪聖書信仰、
それしか知らないところで、仕方なくそれを選択した人々が、
あたかも屠殺場に連れて行かれているのを知りもしないでいる家畜のように、
青天の霹靂ともいうべき未曾有の不遇にこれから遭わされる心外さは、察するに余りある。
しかし、邪義邪説に付き従ってきたことが、優先的な昇天に好転するなんてことが
あったとしても、それはおかしな話で、無痛症患者が痛みを感じないからといって、
致命傷を好んで受け続けることが、決して健康の増進などにはならないのと同じように、
邪義邪説への耽溺がプラマイゼロ以下の悪影響を及ぼすことはあっても、
プラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことなどは決してありはしない。
真に天地の真理を悟り、俗世の道理をも察せたならば、それはその人間が
結構な福徳の増進に与ったりの、プラマイゼロ以上の好影響をもたらす機縁ともなる。
しかし、犯罪聖書信仰は決してその機縁のうちに入ってはおらず、むしろ真理の悟りや
道理のわきまえから遠ざかっての、無知蒙昧な放辟邪侈をけしかけるものでしかなかった。
全てが全て、そこまでもの邪教邪信だったわけではなく、世界的に見ても、
真理や道理からの遠ざかりを極大級に増進するほどもの邪教なんて、ごく一部の珍種に限る。
日本の仏教でも、創価あたりが半ばその気を帯びているが、あれもあくまで新興宗教であり、
何百年、何千年という伝統を持ち合わせているわけではない。人々にプラマイゼロ以下の
有害無益な悪影響のみをもたらす邪教でいて、約二千年もの間その存在が容認されてきた
信教などは、世界広しといえども、ユダヤ=キリスト両聖書信仰だけでしかない。
がん細胞増殖の原理にも似た邪義邪説ばかりを触れ回ってきた犯罪聖書信仰、
それしか知らないところで、仕方なくそれを選択した人々が、
あたかも屠殺場に連れて行かれているのを知りもしないでいる家畜のように、
青天の霹靂ともいうべき未曾有の不遇にこれから遭わされる心外さは、察するに余りある。
しかし、邪義邪説に付き従ってきたことが、優先的な昇天に好転するなんてことが
あったとしても、それはおかしな話で、無痛症患者が痛みを感じないからといって、
致命傷を好んで受け続けることが、決して健康の増進などにはならないのと同じように、
邪義邪説への耽溺がプラマイゼロ以下の悪影響を及ぼすことはあっても、
プラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことなどは決してありはしない。
真に天地の真理を悟り、俗世の道理をも察せたならば、それはその人間が
結構な福徳の増進に与ったりの、プラマイゼロ以上の好影響をもたらす機縁ともなる。
しかし、犯罪聖書信仰は決してその機縁のうちに入ってはおらず、むしろ真理の悟りや
道理のわきまえから遠ざかっての、無知蒙昧な放辟邪侈をけしかけるものでしかなかった。
全てが全て、そこまでもの邪教邪信だったわけではなく、世界的に見ても、
真理や道理からの遠ざかりを極大級に増進するほどもの邪教なんて、ごく一部の珍種に限る。
日本の仏教でも、創価あたりが半ばその気を帯びているが、あれもあくまで新興宗教であり、
何百年、何千年という伝統を持ち合わせているわけではない。人々にプラマイゼロ以下の
有害無益な悪影響のみをもたらす邪教でいて、約二千年もの間その存在が容認されてきた
信教などは、世界広しといえども、ユダヤ=キリスト両聖書信仰だけでしかない。
イスラムも一応、ユダキリ信仰と同じアブラハム系の信教ではあるが、その本義である
コーランの内容が、ユダキリの原典である新旧約の毒性を中和することに特化したものと
なっていたため、ユダキリほどにも猛烈な災禍をこの世界におよぼすことはなかった。
「ユダキリほどにはひどくなかった」という消去法的な判断により、最後の審判後に
イスラムは方面の対象となる一方で、ユダキリは色々な制限を課される対象となる。
同じアブラハム教という土俵においてですら、ユダキリこそはイスラム以下ですらある。
「子曰く、賜や、女じは予れを以て多くを学びて之れを識る者と為すか。
對えて曰く、然り非なるか。曰く、非なり。予れは一を以て之れを貫けり」
「先生は言われた。『子貢よ、おまえはわしを多くを学んでそれを認識しているものと見なすか』
子貢は答えた。『はい、違うのですか』 孔子。『違うよ。ただ私は首尾一貫を心がけているだけのものだ』
(犯罪聖書信仰の根本原理の一つともなっている、認識主義グノーシズムの価値の否定や劣後)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三)
ログが若返りして近ごろのレスがとんでしまっているが、とりあえず書いておく。
コーランの内容が、ユダキリの原典である新旧約の毒性を中和することに特化したものと
なっていたため、ユダキリほどにも猛烈な災禍をこの世界におよぼすことはなかった。
「ユダキリほどにはひどくなかった」という消去法的な判断により、最後の審判後に
イスラムは方面の対象となる一方で、ユダキリは色々な制限を課される対象となる。
同じアブラハム教という土俵においてですら、ユダキリこそはイスラム以下ですらある。
「子曰く、賜や、女じは予れを以て多くを学びて之れを識る者と為すか。
對えて曰く、然り非なるか。曰く、非なり。予れは一を以て之れを貫けり」
「先生は言われた。『子貢よ、おまえはわしを多くを学んでそれを認識しているものと見なすか』
子貢は答えた。『はい、違うのですか』 孔子。『違うよ。ただ私は首尾一貫を心がけているだけのものだ』
(犯罪聖書信仰の根本原理の一つともなっている、認識主義グノーシズムの価値の否定や劣後)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三)
ログが若返りして近ごろのレスがとんでしまっているが、とりあえず書いておく。

罪を犯さないでいられるわけがない。それは、罪を犯しまくるための心がけでしかない。
ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たるが、その砲撃のほとんどは大ハズレともなる。
善行ってのはこの内のアタリのようなもので、悪行はこの内のハズレのようなもの。
なんでもやりまくった挙句に多少は善行ともなったところで、それを遥かに上回る規模の
甚大な悪行が必ず付随する。だからこそ「ヘタな鉄砲〜」は総合的には悪行であり、
百発百中の名射撃ばりの純善行であってこそ、総合的にも善行となる。
ヘタな鉄砲〜は誰にでもできるが、百発百中は誰にでもできはしない。だからこそ、
人が何かをすることが善行と呼ぶに値するものとなるのは困難である一方で、
悪行となるのは容易いだけでなく、純善行の自助努力に努めない以上は、
行為能力を帯びた人の行いは、イヤでも悪行としての性格を持つ。
だから「罪を犯さない」「もし犯しても許される」なんていう中途半端な心がけで
人の行いが犯罪行為にならないで済むわけがなく、何かをする以上は必ず犯罪になる。
「断固として罪は犯さない」「もし犯したなら相応の罰に甘んじる」というほどもの覚悟が
あって初めて、人は総合的にも善行を為すことができる。人が善行を為すことが不可能
なのではなく、善行など行えず、悪行しか行えなくなるような、しごく特殊な行動規範を
犯罪聖書信仰こそのみが特定して個別的に信者へとけしかけているのであり、それが
不変的な法則であるなどと思い込むのもまた、全くの思い違いであるに他ならない。
「弁舌は其の当を失う(中略)とき、凡そ衆の動くも其の宜しきを失う」
「諸方に流布された諸々の弁じたてが真っ当さを失ったときに、大衆もまた自分たちの正しい有り方を見失うこととなる。
(罪を無制限に許そうなどとするイエスの蒙昧な弁護や、それを流布する
犯罪聖書自体の弁じたてが、大衆の妄動をけしかける元凶となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)
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スレッドタイトル:聖書 Part6