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聖書 Part6
▼ページ最下部
世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。
特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

ちなみに、「鼻ほじり聖書」とか「ゴキブリ聖書」とか「ウ●コ聖書」とかの、
適当な意味で名づけられる聖書までをも「聖書である」と認めるのならば、本来は儒学用語である
「聖書」という言葉を剽窃して、目的語抜きの「聖書」扱いをも受けている「新旧約聖書」などが、
“ある種”の聖書として多大なる支持を未だ取り付けてもいるわけだが、新旧約聖書にもちゃんと目的があり、
目的語をちゃんと冠するのならば、新旧約聖書は「権力犯罪聖書」であるといえる。
対して、四書五経のほうを、目的語を冠した聖書として呼ぶならば、こちらは「権力道徳聖書」
であるといえ、権力犯罪の聖書である新旧約聖書よりは、まだ世の中をマシなほうへと持って行く
ことのできる点が特徴となっている。そんなに程度の高いことを書いているわけでもないが、
権力犯罪の聖書である新旧約よりはまだマシなことを書いている点もまた、権力道徳の聖書である四書五経が、
くそみそな「聖書」という言葉の定義に即したとしても、聖書中の聖書と呼ぶに値する証拠になっている。
適当な意味で名づけられる聖書までをも「聖書である」と認めるのならば、本来は儒学用語である
「聖書」という言葉を剽窃して、目的語抜きの「聖書」扱いをも受けている「新旧約聖書」などが、
“ある種”の聖書として多大なる支持を未だ取り付けてもいるわけだが、新旧約聖書にもちゃんと目的があり、
目的語をちゃんと冠するのならば、新旧約聖書は「権力犯罪聖書」であるといえる。
対して、四書五経のほうを、目的語を冠した聖書として呼ぶならば、こちらは「権力道徳聖書」
であるといえ、権力犯罪の聖書である新旧約聖書よりは、まだ世の中をマシなほうへと持って行く
ことのできる点が特徴となっている。そんなに程度の高いことを書いているわけでもないが、
権力犯罪の聖書である新旧約よりはまだマシなことを書いている点もまた、権力道徳の聖書である四書五経が、
くそみそな「聖書」という言葉の定義に即したとしても、聖書中の聖書と呼ぶに値する証拠になっている。
「爾の靈龜を舎てて、我を觀て頤を朶る、凶なり。我れを觀て頤を朶るるは、亦た貴ぶに足らざるなり」
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
人類最古の古典「易」に基づけば、霊魂はあたかも、何日も飲まず食わずのままでいられる亀のように
自存自明の存在であり、自分以外の誰かからもらい受けたりするような代物ではないという。
それこそ紙切れか藁人形のようなモノであれば、「霊魂を注入する」という体裁がまだ通用するものだが、
自らが霊魂を自得している人間のような生き物に、霊魂をさらに注入するというのは、全くおかしなこと。
自らに自明に霊魂が自存し、霊魂が自存する生命体の中でも最も高貴なる「万物の霊長」ですらあるのが
人間なのに、その人間に自存する霊魂(霊亀)を捨て去らせて、外部的に霊を注入したりすること、
それが、ありのままに不祥(凶)なことであり、霊亀を喪失して、おとがいが垂れ下がるほどにも
間抜けに口が開いたままの状態となってしまっていることが、貴ぶにも値しない下賤な姿であるとされる。
神が泥土をこねて霊魂を注入しアダムを作っただの、キリスト信者が神から新たな聖霊を授かっただのの
聖書教義よりも、何千年も昔から存在している「易」の判断。「サルが進化してヒトになった」だのの、
進化論などが提唱される以前に、易学のような人類の英知が、後々に退化して聖書教義などともなっている。
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
人類最古の古典「易」に基づけば、霊魂はあたかも、何日も飲まず食わずのままでいられる亀のように
自存自明の存在であり、自分以外の誰かからもらい受けたりするような代物ではないという。
それこそ紙切れか藁人形のようなモノであれば、「霊魂を注入する」という体裁がまだ通用するものだが、
自らが霊魂を自得している人間のような生き物に、霊魂をさらに注入するというのは、全くおかしなこと。
自らに自明に霊魂が自存し、霊魂が自存する生命体の中でも最も高貴なる「万物の霊長」ですらあるのが
人間なのに、その人間に自存する霊魂(霊亀)を捨て去らせて、外部的に霊を注入したりすること、
それが、ありのままに不祥(凶)なことであり、霊亀を喪失して、おとがいが垂れ下がるほどにも
間抜けに口が開いたままの状態となってしまっていることが、貴ぶにも値しない下賤な姿であるとされる。
神が泥土をこねて霊魂を注入しアダムを作っただの、キリスト信者が神から新たな聖霊を授かっただのの
聖書教義よりも、何千年も昔から存在している「易」の判断。「サルが進化してヒトになった」だのの、
進化論などが提唱される以前に、易学のような人類の英知が、後々に退化して聖書教義などともなっている。
新スレのスレ画に誤表記があったので、新たに立て直した。
自分のレスを除けば、まだクズみたいなレスしかされてなかったので、別にいいだろう。
万物の霊長たる人間にとって、霊魂は自得のものであり、外からもらい受けたりすべきものではない。
霊魂は先天的に内在しているものだから、その霊魂が楽しむことは当然、内面からの楽しみとなる。
一方で、自らの霊魂(霊亀)を捨てて他者から霊魂をもらおうとしているような賤人にとっては、
「顔」のような外面が楽しみの輝きに満ちていることが重要となり、それを「心の内の輝き」
だなどとも倒錯する。実際には、霊亀を捨ててでも外部からの霊魂を欲しようとするような
賤人の内面は空っぽの暗闇であり、いくら外側から光を注いでも、暗闇のままである。
だから、そのような賤人同士の間には、卑しみや偽りや侮りばかりが横行する。
おとがいが垂れ下がるほどにも口の緩んだ、魂の抜けきった輩などに貴さは微塵もないから。
「心中斯くも和せず樂しまざるときは、鄙詐の心之れに入る。外貌斯くも莊ならず敬ならざれば、
易慢の心之れに入る。故に樂は内に動く者なり、禮は外に動く者なり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なれば、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わず、其の容貌を望みて民易慢を生ぜず。
故に 輝は内に動きて、民に承け聽かざる莫く、理は外に發して、民に承け順わざる莫し」
「心中に少しでも楽しくないところがあれば、卑しみ偽りの心が生ずる。
外貌に少しでも荘重でないところがあれば、侮りの心が生ずる。そのため楽しみは
内面にあるべきものであり、礼儀正しさは外面にあるべきものだといえる。
楽しみは和やかさを極め、礼儀正しさは貞順さを極める。内面が和らいで外面が貞順であったなら、
民たちもその顔色を見て闘争心を燃やすこともなければ、その姿を見て侮りの心を抱くこともない。
徳性の光輝が内面に躍動することで民も言うことを聞かないことがなくなり、
条理の正しさが外面に発することで民も受け従わないことがなくなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
自分のレスを除けば、まだクズみたいなレスしかされてなかったので、別にいいだろう。
万物の霊長たる人間にとって、霊魂は自得のものであり、外からもらい受けたりすべきものではない。
霊魂は先天的に内在しているものだから、その霊魂が楽しむことは当然、内面からの楽しみとなる。
一方で、自らの霊魂(霊亀)を捨てて他者から霊魂をもらおうとしているような賤人にとっては、
「顔」のような外面が楽しみの輝きに満ちていることが重要となり、それを「心の内の輝き」
だなどとも倒錯する。実際には、霊亀を捨ててでも外部からの霊魂を欲しようとするような
賤人の内面は空っぽの暗闇であり、いくら外側から光を注いでも、暗闇のままである。
だから、そのような賤人同士の間には、卑しみや偽りや侮りばかりが横行する。
おとがいが垂れ下がるほどにも口の緩んだ、魂の抜けきった輩などに貴さは微塵もないから。
「心中斯くも和せず樂しまざるときは、鄙詐の心之れに入る。外貌斯くも莊ならず敬ならざれば、
易慢の心之れに入る。故に樂は内に動く者なり、禮は外に動く者なり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なれば、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わず、其の容貌を望みて民易慢を生ぜず。
故に 輝は内に動きて、民に承け聽かざる莫く、理は外に發して、民に承け順わざる莫し」
「心中に少しでも楽しくないところがあれば、卑しみ偽りの心が生ずる。
外貌に少しでも荘重でないところがあれば、侮りの心が生ずる。そのため楽しみは
内面にあるべきものであり、礼儀正しさは外面にあるべきものだといえる。
楽しみは和やかさを極め、礼儀正しさは貞順さを極める。内面が和らいで外面が貞順であったなら、
民たちもその顔色を見て闘争心を燃やすこともなければ、その姿を見て侮りの心を抱くこともない。
徳性の光輝が内面に躍動することで民も言うことを聞かないことがなくなり、
条理の正しさが外面に発することで民も受け従わないことがなくなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
殷周革命を嫌い、首陽山に引きこもって餓死した
伯夷・叔斉兄弟の話はすでにここでも何度も述べた。
二人が半ば過剰なほどもの潔癖主義で、素行の不善な諸侯からの招きなどは決して
受けなかったことが、「孟子」公孫丑章句上・九などでも取り上げられている。
その伯夷・叔斉の評価を、弟子の子路が孔子に尋ねたところ、「古えの賢人だ」と答えた。
(伯夷・叔斉は孔子の代からもさらに500年以上遡る古えの人物である)
さらに「(周の武王に放伐革命を思いとどまるように諌めたが聞き入れられず、放伐の不義に
満ちた世での仕官を嫌って山にこもり、餓死したことを)怨んでいたでしょうか」と子路が聞くと、
「(道義を守って仕官を求めなかったことなどで)仁を求めて仁を得たのだから、
なぜ怨んだりすることがあろうか」と答えた。(述而第七・一四を参照)
仁を求めるための手段は、「不義の栄華を求めない」とかの禁欲的な要求の実践による所が大きく、
不義に根ざした富貴栄達を求めたりすれば、そもそもそれは「仁を求めない」ことにも直結する。
求めて得たりする以前に、そもそも誰も「求める段階」にすら進めないのが仁であり、仁を求めて
得ることもできないから、仁以外のあらゆるものを求め、貪って止まないザマとも化すのである。
「仁を欲して仁を得たり、又た焉をか貪らん」
「仁を求めて仁を得たのだから、これ以上なにを貪る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
伯夷・叔斉兄弟の話はすでにここでも何度も述べた。
二人が半ば過剰なほどもの潔癖主義で、素行の不善な諸侯からの招きなどは決して
受けなかったことが、「孟子」公孫丑章句上・九などでも取り上げられている。
その伯夷・叔斉の評価を、弟子の子路が孔子に尋ねたところ、「古えの賢人だ」と答えた。
(伯夷・叔斉は孔子の代からもさらに500年以上遡る古えの人物である)
さらに「(周の武王に放伐革命を思いとどまるように諌めたが聞き入れられず、放伐の不義に
満ちた世での仕官を嫌って山にこもり、餓死したことを)怨んでいたでしょうか」と子路が聞くと、
「(道義を守って仕官を求めなかったことなどで)仁を求めて仁を得たのだから、
なぜ怨んだりすることがあろうか」と答えた。(述而第七・一四を参照)
仁を求めるための手段は、「不義の栄華を求めない」とかの禁欲的な要求の実践による所が大きく、
不義に根ざした富貴栄達を求めたりすれば、そもそもそれは「仁を求めない」ことにも直結する。
求めて得たりする以前に、そもそも誰も「求める段階」にすら進めないのが仁であり、仁を求めて
得ることもできないから、仁以外のあらゆるものを求め、貪って止まないザマとも化すのである。
「仁を欲して仁を得たり、又た焉をか貪らん」
「仁を求めて仁を得たのだから、これ以上なにを貪る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
あんまり能弁をたれてたい気分でもないが、あっちが書いてるからこっちも書くしかない。
乳飲み子を抱いて非難してきた母子の映像なども多数放映されているし、
多少、今回の震災にちなんでの引用であるかのような感がなきにしもあらずだが、
仮にそうであるというのなら、
自分たちの引き起こした人災によって何億もの人々を犠牲に追いやっている連中が、
避けようのなかった天災などに対する憐憫の情などをひけらかすことからして、欺瞞にも程がある。
天の作せる災いはなお避くべきも、自らの作せる災いからは逃るべからず(書経)。
天災ですらこれほどにも避けようがないのに、どうして自業自得の災禍から逃れられようか。
「武王は邇きを泄ず、遠きを忘れず」
「武王は近親のものだからといって馴れ合ったりはせず、疎遠のものだからといって忘れ去ったりもしなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)
乳飲み子を抱いて非難してきた母子の映像なども多数放映されているし、
多少、今回の震災にちなんでの引用であるかのような感がなきにしもあらずだが、
仮にそうであるというのなら、
自分たちの引き起こした人災によって何億もの人々を犠牲に追いやっている連中が、
避けようのなかった天災などに対する憐憫の情などをひけらかすことからして、欺瞞にも程がある。
天の作せる災いはなお避くべきも、自らの作せる災いからは逃るべからず(書経)。
天災ですらこれほどにも避けようがないのに、どうして自業自得の災禍から逃れられようか。
「武王は邇きを泄ず、遠きを忘れず」
「武王は近親のものだからといって馴れ合ったりはせず、疎遠のものだからといって忘れ去ったりもしなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)
多くの人々が災難によって命を落としている中で「雄雄しくあれ」なんてのも、不謹慎にもほどがある。
被害に遭った人々への、悼み悔やみの念を湛えて、彼らの気持ちを逆立てないための配慮と共に援助などにも臨むこと。
そうでもなければ、まだいないほうがマシなぐらいの、火事場泥棒にすらなりかねない。
「晉侯、屠蒯をして周に如き、雒と三塗に事有らんことを請う。
萇弘、劉子謂いて曰く、客の容猛し、祭りに非ざるなり。其れ戎を伐たんか。(中略)乃ち戎の備えを警しむ」
「晋候が屠蒯をに命じて周に遣り、洛水と三途山で霊を鎮める祭りをしたいと請わしめた。応対した周の大夫の萇弘は、
公卿の劉子にこう報告した。『客人(蒯)の容貌は随分と雄雄しく、とても鎮祭の共催が目的であるとは思えません。
おそらく蛮族を討伐するのが本当の目的でしょう』 そこで劉子は蛮族を討伐する用意を推し進めた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十八年より)
被害に遭った人々への、悼み悔やみの念を湛えて、彼らの気持ちを逆立てないための配慮と共に援助などにも臨むこと。
そうでもなければ、まだいないほうがマシなぐらいの、火事場泥棒にすらなりかねない。
「晉侯、屠蒯をして周に如き、雒と三塗に事有らんことを請う。
萇弘、劉子謂いて曰く、客の容猛し、祭りに非ざるなり。其れ戎を伐たんか。(中略)乃ち戎の備えを警しむ」
「晋候が屠蒯をに命じて周に遣り、洛水と三途山で霊を鎮める祭りをしたいと請わしめた。応対した周の大夫の萇弘は、
公卿の劉子にこう報告した。『客人(蒯)の容貌は随分と雄雄しく、とても鎮祭の共催が目的であるとは思えません。
おそらく蛮族を討伐するのが本当の目的でしょう』 そこで劉子は蛮族を討伐する用意を推し進めた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十八年より)
放任主義でも雁字搦めでもない、適度な作為の介入による生育の助成という、
今の世の教育論すら全く及んでいない中正な成育論を、孟子が述べている。
これは、子供に対する教育などにも応用できるだろう一方で、孟子の論旨とおりに、
個々人の人々自身が浩然の気などを養うための手法としても参考にできるもの。
自らに内在する浩然の気を、何の考えもなく放置しているだけでは、雑念に養分を吸われて萎える
だけだし、逆に無理に「助長」しようとしても、全てを枯らしてしまうようなことにすらなってしまう。
精神不安定状態の人間なんてのも、自らの精神的安定を全くのほっぽらかしにした躁状態となったり、
逆に完全に精神の躍動が滞った鬱状態となったりの、双極に振れきることでさらに病状を悪化させる。
全く抑制しないわけでもなければ、完全に抑制しきるのでもない、適度な精神の躍動こそは
健康な精神状態をも育むのであるからして、精神に対する無理な助長を施すことも禁物である。
今の世の教育論すら全く及んでいない中正な成育論を、孟子が述べている。
これは、子供に対する教育などにも応用できるだろう一方で、孟子の論旨とおりに、
個々人の人々自身が浩然の気などを養うための手法としても参考にできるもの。
自らに内在する浩然の気を、何の考えもなく放置しているだけでは、雑念に養分を吸われて萎える
だけだし、逆に無理に「助長」しようとしても、全てを枯らしてしまうようなことにすらなってしまう。
精神不安定状態の人間なんてのも、自らの精神的安定を全くのほっぽらかしにした躁状態となったり、
逆に完全に精神の躍動が滞った鬱状態となったりの、双極に振れきることでさらに病状を悪化させる。
全く抑制しないわけでもなければ、完全に抑制しきるのでもない、適度な精神の躍動こそは
健康な精神状態をも育むのであるからして、精神に対する無理な助長を施すことも禁物である。
「宋人に其の苗の長ぜざるを閔えて之れを揠く者有り。芒芒然として歸り、其の人に謂いて曰く、
今日は病れん、予れ苗を助けて長ぜしめたり。其の子趨りて往きて之れを視れば、苗は則ち槁れたり。
天下の苗を助けて長ぜしむる者は寡なし。以て益無しと為して之れを舍つる者は、苗を耘らざる者なり。
之れを助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而って又た之れを害う」
「昔、宋に、田んぼの苗がなかなか成長しないのを憂えて、苗を自らの手で引き伸ばす者がいた。
茫然と疲れきって家に帰り、家族に語って言った。『ああ、今日は疲れた。何しろ全ての苗を助けて
伸長してやったのだから』 それを聞いて不審に思った息子が田んぼに行ってみると、苗は全て枯れていた。
この世に苗を助長してやろうとする人間は少なく、全くの無益としてこれを顧みないのは、あたかも
雑草抜きなどの田畑の手入れすらしないようなもので、これもよくない。かといって、件の宋人のように、
無理に助長してやろうとするのも、あたかも苗を手で引き伸ばして、全て枯らしてしまうような結果を招く。
これらのうちのいずれもが、ただ無益であるばかりでなく、積極的に害を招く行為ですらあるのだ。
(孟子は浩然の気を暗に『苗』に例えているが、浩然の気もまた上記の苗の場合と同じように、
全く打ち棄てて雑草ボウボウの状態にすれば生育しない一方で、無理に苗を引っ張るような
強引な手法によって助長しようとしても、全ての苗を枯らすようにして生育を妨げることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・二より)
今日は病れん、予れ苗を助けて長ぜしめたり。其の子趨りて往きて之れを視れば、苗は則ち槁れたり。
天下の苗を助けて長ぜしむる者は寡なし。以て益無しと為して之れを舍つる者は、苗を耘らざる者なり。
之れを助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而って又た之れを害う」
「昔、宋に、田んぼの苗がなかなか成長しないのを憂えて、苗を自らの手で引き伸ばす者がいた。
茫然と疲れきって家に帰り、家族に語って言った。『ああ、今日は疲れた。何しろ全ての苗を助けて
伸長してやったのだから』 それを聞いて不審に思った息子が田んぼに行ってみると、苗は全て枯れていた。
この世に苗を助長してやろうとする人間は少なく、全くの無益としてこれを顧みないのは、あたかも
雑草抜きなどの田畑の手入れすらしないようなもので、これもよくない。かといって、件の宋人のように、
無理に助長してやろうとするのも、あたかも苗を手で引き伸ばして、全て枯らしてしまうような結果を招く。
これらのうちのいずれもが、ただ無益であるばかりでなく、積極的に害を招く行為ですらあるのだ。
(孟子は浩然の気を暗に『苗』に例えているが、浩然の気もまた上記の苗の場合と同じように、
全く打ち棄てて雑草ボウボウの状態にすれば生育しない一方で、無理に苗を引っ張るような
強引な手法によって助長しようとしても、全ての苗を枯らすようにして生育を妨げることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・二より)
これから途方もない労力をかけて復興を目指していく被災者たちに、
「立ち返れば救われる」などとほざくのは、それこそ現実逃避を促すのみとなる。
現実逃避をするということは、完全に絶望しきるということであり、
一抹の希望すら捨て去ってしまった朦朧状態と化すことを、
「救い」であるのだとキリスト狂徒たちが倒錯していることがわかる。
絶望を救いに摩り替えさせる洗脳の強制は、特にアフリカの聖書教末端被害教徒などに対して顕著であり、
欧米社会からの酷烈な侵略征服被害によって、どうあっても救いようのないような惨状に置かれているのに、
アフリカの黒人たちはよくヘラヘラと笑っている。あれも希望があるからではなく、絶望を救いだと
倒錯しているから笑っているだけで、決してあの姿を「健気だ」などと思ったりしてはならない。
日本人の中でも、特に実直な性格の持ち主であるのが東北人であることもあって、
あまりにも大きな被害に遭った東北の被災者たちは、今みんな泣いている。
あれこそは苦難に対する健全な反応であり、家族を喪ったり家を失ったりしてまで
ヘラヘラ笑ったりしているほうが明らかにおかしい。苦難に相応の悲しみをこそバネとして
これからの復興にも努めていくのだから、決して絶望を促すような甘言を弄してはならない。
「凡そ民に喪有るときは、扶服して之れを救う。(中略)天下其れ孰れか能く之れに當たらんや」
「自国の国民に大きな不幸があったときには、国を司る者などは、(口先でごまかしたりはせず)
はいつくばってでもこれを救わねばならない。天下にそれが可能なものが果たしてどれだけいようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「立ち返れば救われる」などとほざくのは、それこそ現実逃避を促すのみとなる。
現実逃避をするということは、完全に絶望しきるということであり、
一抹の希望すら捨て去ってしまった朦朧状態と化すことを、
「救い」であるのだとキリスト狂徒たちが倒錯していることがわかる。
絶望を救いに摩り替えさせる洗脳の強制は、特にアフリカの聖書教末端被害教徒などに対して顕著であり、
欧米社会からの酷烈な侵略征服被害によって、どうあっても救いようのないような惨状に置かれているのに、
アフリカの黒人たちはよくヘラヘラと笑っている。あれも希望があるからではなく、絶望を救いだと
倒錯しているから笑っているだけで、決してあの姿を「健気だ」などと思ったりしてはならない。
日本人の中でも、特に実直な性格の持ち主であるのが東北人であることもあって、
あまりにも大きな被害に遭った東北の被災者たちは、今みんな泣いている。
あれこそは苦難に対する健全な反応であり、家族を喪ったり家を失ったりしてまで
ヘラヘラ笑ったりしているほうが明らかにおかしい。苦難に相応の悲しみをこそバネとして
これからの復興にも努めていくのだから、決して絶望を促すような甘言を弄してはならない。
「凡そ民に喪有るときは、扶服して之れを救う。(中略)天下其れ孰れか能く之れに當たらんや」
「自国の国民に大きな不幸があったときには、国を司る者などは、(口先でごまかしたりはせず)
はいつくばってでもこれを救わねばならない。天下にそれが可能なものが果たしてどれだけいようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
明和水産も今、ネットからのアクセスができない。
サーバが計画停電中の区域にあるのか。
今回の地震では、車に乗って逃げたりする間もなく、津波に巻き込まれて命を落とした人々が多い。
迫り来る波から車で逃げ惑う映像なども相当数撮影されているが、車に乗れたかどうかではなく、
震源地から近かったか遠かったかで、命運を左右した場合が多いようだ。
陸地に乗り上げた頃の津波は時速40km程度となり、走って逃げるのは
無理にしても、震源地から十分遠かった場合に、車で逃げるのは効果的なようだ。
GPSのカーナビがまだ使える場合もあるだろうが、万全を期すのなら、読みなれた地図や
方位磁石なども車内に常備しておき、地理関係を把握できる準備をよく整えておいて、
地震が起これば即、海岸線とは真逆の方向に逃げ、高台があれば直ちにそこに乗り上げる。
そのような適切な処断が可能であれば、車による逃走なども一定の効果を持つようだ。
以下、地震関係に照らし合わせるには不謹慎な、戦闘行為に関する引用だが、
本当に今回の地震が、単なる天災ではなく、戦争級の人災である可能性も出てきたので、
仮に戦争であった場合には、東北人が下の孟之反のような、戦役の功労者であったのだ
という認識を、事後に広められたならと思う。今はまだ、その時期でもないが。
「孟之反伐らず。奔りて殿す。將に門に入らんとき、
其の馬を策ちて曰く、敢えて後るるに非ざるなり、馬進まざるなり」
「魯国の大夫である孟之反は自慢をしない人だった。昔、魯軍が斉軍と戦って敗走し、
最後尾で追っ手を迎撃する殿軍の長という難役を彼が務めた。見事迎撃を果たし、
安全な陣地の門にたどり着いたときに、自らが乗っていた馬を叩きつつこう言った。
『別にあえて殿(しんがり)を務めたのではありませぬ。ただ馬がなかなか進みませんでな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・一五より)
サーバが計画停電中の区域にあるのか。
今回の地震では、車に乗って逃げたりする間もなく、津波に巻き込まれて命を落とした人々が多い。
迫り来る波から車で逃げ惑う映像なども相当数撮影されているが、車に乗れたかどうかではなく、
震源地から近かったか遠かったかで、命運を左右した場合が多いようだ。
陸地に乗り上げた頃の津波は時速40km程度となり、走って逃げるのは
無理にしても、震源地から十分遠かった場合に、車で逃げるのは効果的なようだ。
GPSのカーナビがまだ使える場合もあるだろうが、万全を期すのなら、読みなれた地図や
方位磁石なども車内に常備しておき、地理関係を把握できる準備をよく整えておいて、
地震が起これば即、海岸線とは真逆の方向に逃げ、高台があれば直ちにそこに乗り上げる。
そのような適切な処断が可能であれば、車による逃走なども一定の効果を持つようだ。
以下、地震関係に照らし合わせるには不謹慎な、戦闘行為に関する引用だが、
本当に今回の地震が、単なる天災ではなく、戦争級の人災である可能性も出てきたので、
仮に戦争であった場合には、東北人が下の孟之反のような、戦役の功労者であったのだ
という認識を、事後に広められたならと思う。今はまだ、その時期でもないが。
「孟之反伐らず。奔りて殿す。將に門に入らんとき、
其の馬を策ちて曰く、敢えて後るるに非ざるなり、馬進まざるなり」
「魯国の大夫である孟之反は自慢をしない人だった。昔、魯軍が斉軍と戦って敗走し、
最後尾で追っ手を迎撃する殿軍の長という難役を彼が務めた。見事迎撃を果たし、
安全な陣地の門にたどり着いたときに、自らが乗っていた馬を叩きつつこう言った。
『別にあえて殿(しんがり)を務めたのではありませぬ。ただ馬がなかなか進みませんでな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・一五より)
ここにも、PCからアクセスできる人間はできているようだな。
ウチから明和へのアクセス系統だけに、特定して不具合が出ているのか。
超越神だと勘違いした脳内自我の肥大化に陶酔して、我執にまみれた自意識過剰な
言行に走ることが、親族兄弟までをも辟易させて、挙句には殺し合いにまで発展させる
自業自得の原因となっていることが、下の真正聖書の記述などからも明らか。
俺個人の意見だとすれば、「若造が何をいう」などということにもなりかねないが、
犯罪聖書よりも遥かに成立の古い真正聖書=四書五経にこそ書かれていることだから、
後からやってきた脳内超越神などに、言葉の信頼度の優越を微塵たりとも許すものではない。
「志し自慢すれば、九族も乃ち離る」
「自らの志しをやたらと披瀝することでいい気になっているようでは、親族兄弟ですら背き離れていく。
(この引用は、1700年前の永嘉の乱における『書経』全文散逸後の、断片の寄せ集め修復部分にあたる
『偽古文尚書』からのものだが、孟子も永嘉の乱や焚書坑儒以前に、今の偽古文尚書にあたる『書経』の
一部を引用したりしているため、偽古文部分もまた2300年以上前から存在していたことが明らかである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
ウチから明和へのアクセス系統だけに、特定して不具合が出ているのか。
超越神だと勘違いした脳内自我の肥大化に陶酔して、我執にまみれた自意識過剰な
言行に走ることが、親族兄弟までをも辟易させて、挙句には殺し合いにまで発展させる
自業自得の原因となっていることが、下の真正聖書の記述などからも明らか。
俺個人の意見だとすれば、「若造が何をいう」などということにもなりかねないが、
犯罪聖書よりも遥かに成立の古い真正聖書=四書五経にこそ書かれていることだから、
後からやってきた脳内超越神などに、言葉の信頼度の優越を微塵たりとも許すものではない。
「志し自慢すれば、九族も乃ち離る」
「自らの志しをやたらと披瀝することでいい気になっているようでは、親族兄弟ですら背き離れていく。
(この引用は、1700年前の永嘉の乱における『書経』全文散逸後の、断片の寄せ集め修復部分にあたる
『偽古文尚書』からのものだが、孟子も永嘉の乱や焚書坑儒以前に、今の偽古文尚書にあたる『書経』の
一部を引用したりしているため、偽古文部分もまた2300年以上前から存在していたことが明らかである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
またPCからも読み書きできるようになった。
とはいえ、今の自分の気持ちは、下の真正聖書の言葉にほぼ尽くされているので、あえて自ら長く語るまい。
強いて言えば、「天地は滅びなくていいから、犯罪聖書だけが滅びろ」とだけ思うのみだ。
「天は喪亂を降して、我が立王を滅ぼさんとす。
此の蟊賊を降して、稼穡して卒に痒なわしむ。
哀恫たる中國、具贅して卒に荒みぬ。
旅力以て、穹蒼を念ふもの有る靡し。
維れ此の惠君は、民人の瞻ぐ所。
心を秉りて宣く猶り、其の相を考え慎めり。
維れ彼の順わざるは、自から獨り臧からしむ。
自から肺腸有りて、民をして卒く狂わしむ。
彼の中林を瞻れば、甡甡たる其の鹿。
朋友にして已に譖り、胥い以て穀せず。
人亦た言える有り、進むも退くも維れ谷まれりと。
維れ此の聖人、百里の言を瞻る。
維れ彼の愚人、覆狂して以て喜ぶ。
言の能わざるに匪ず、斯の畏忌を胡んせん」
とはいえ、今の自分の気持ちは、下の真正聖書の言葉にほぼ尽くされているので、あえて自ら長く語るまい。
強いて言えば、「天地は滅びなくていいから、犯罪聖書だけが滅びろ」とだけ思うのみだ。
「天は喪亂を降して、我が立王を滅ぼさんとす。
此の蟊賊を降して、稼穡して卒に痒なわしむ。
哀恫たる中國、具贅して卒に荒みぬ。
旅力以て、穹蒼を念ふもの有る靡し。
維れ此の惠君は、民人の瞻ぐ所。
心を秉りて宣く猶り、其の相を考え慎めり。
維れ彼の順わざるは、自から獨り臧からしむ。
自から肺腸有りて、民をして卒く狂わしむ。
彼の中林を瞻れば、甡甡たる其の鹿。
朋友にして已に譖り、胥い以て穀せず。
人亦た言える有り、進むも退くも維れ谷まれりと。
維れ此の聖人、百里の言を瞻る。
維れ彼の愚人、覆狂して以て喜ぶ。
言の能わざるに匪ず、斯の畏忌を胡んせん」
削除(by投稿者)
訳文を一部訂正。
「天はいま大いなる争乱を下して、我らが建てた王国すらをも滅ぼさんとしている。
作物を根絶やしにする甚大なる虫害を下し、五穀をも全て萎えさせんとす。
傷ましき我が中つ国、みなで力を上げて災害に臨むも、その中に余裕を以って復興を期待するものもいない。
かの道義に従順なる元君は、今でも民たちの仰ぎ見るところ。
真心を尽くしてよく慮り、忠臣の助けを借りて悪臣の助けを借りぬ所まで、考えを行き届かせられている。
一方で、道義に従わぬ彼の輩は、今でもただ自分独りの独善ばかりに執心する。
『自分にこそ義があるのだ』などとうそぶいて、民をことごとく狂乱に陥らせて憚らぬ。
今でも林野に目を向けてみれば、鹿たちが心置きなく群れ遊んでいるというのに、
ただ人間ばかりは互いに偽り合って、食料を均等に分け合うことすらしない。
今や人々はこう言っている、『もはや進むも退くも極まるときが来たのだ』と。
かの聖人君子は、百里の先への憂患すらも尽くしている。
一方でかの愚人は、災禍を福音だなどと倒錯して、完全に狂いながら喜んでいる。
この正邪曲直の分断を、告発しないでいることが怠りとなるのを恐れるばかり。
(害虫分子による賊害がある意味天災であるとは言える。天は害虫の蠢動などよりも、さらなる形而上に位置するから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)
「天はいま大いなる争乱を下して、我らが建てた王国すらをも滅ぼさんとしている。
作物を根絶やしにする甚大なる虫害を下し、五穀をも全て萎えさせんとす。
傷ましき我が中つ国、みなで力を上げて災害に臨むも、その中に余裕を以って復興を期待するものもいない。
かの道義に従順なる元君は、今でも民たちの仰ぎ見るところ。
真心を尽くしてよく慮り、忠臣の助けを借りて悪臣の助けを借りぬ所まで、考えを行き届かせられている。
一方で、道義に従わぬ彼の輩は、今でもただ自分独りの独善ばかりに執心する。
『自分にこそ義があるのだ』などとうそぶいて、民をことごとく狂乱に陥らせて憚らぬ。
今でも林野に目を向けてみれば、鹿たちが心置きなく群れ遊んでいるというのに、
ただ人間ばかりは互いに偽り合って、食料を均等に分け合うことすらしない。
今や人々はこう言っている、『もはや進むも退くも極まるときが来たのだ』と。
かの聖人君子は、百里の先への憂患すらも尽くしている。
一方でかの愚人は、災禍を福音だなどと倒錯して、完全に狂いながら喜んでいる。
この正邪曲直の分断を、告発しないでいることが怠りとなるのを恐れるばかり。
(害虫分子による賊害がある意味天災であるとは言える。天は害虫の蠢動などよりも、さらなる形而上に位置するから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)
神霊ってのは、不動不変なものであり、人間に多動をけしかけるようなものではない。
たとえば、天台宗の千日回峰行では、ほとんどろくな栄養も摂らないままで
地球半周分以上(21000Km)もの距離を歩き続ける荒行が行われる。
行者はこのような荒行に臨むことによってこそ、不動明王との一体化を図るという。
その心は、最大級の多動による苦しみすらも克服して、霊の加護も受けた不動への安住を
企図するということであり、やはり不動不変の境地における神霊の介在こそを認めている。
無軌道状態の多動こそは、霊的な加護をかなぐり捨てた「失神」状態を招くものであり、
その失神状態にあえて身を置くことで、不動不変の霊威を背理法的に把捉することを
試みる苦行者などもいるが、多動それ自体が神霊と共にあるなどということはない。
「臣、其の股肱の力を竭くして、之れに加うるに忠貞を以ってせん。
其れ濟らば君の靈なり、濟らずんば則ち死を以って之れに繼がん」
「私は自らの股肱の力の限りを尽くし、なおかつ忠順と貞良を以って公室に仕えていく所存です。
もしそれが成功いたしましたならば、君の霊による加護があったものといえますし、
もし成功できなかったとしても、その時は私自身が死を以って責任を取る所存です。
(臨終間際の晋の献公に対する護衛者荀息の言葉。全力をかけての仕事が忠貞さによって
霊の加護を受けることを期待している。霊の加護を受ける根拠となるのは、あくまで
行動に一定の制限を設ける忠貞さのほうであって、無軌道な多動であったりはしない)」
「権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公九年より」
たとえば、天台宗の千日回峰行では、ほとんどろくな栄養も摂らないままで
地球半周分以上(21000Km)もの距離を歩き続ける荒行が行われる。
行者はこのような荒行に臨むことによってこそ、不動明王との一体化を図るという。
その心は、最大級の多動による苦しみすらも克服して、霊の加護も受けた不動への安住を
企図するということであり、やはり不動不変の境地における神霊の介在こそを認めている。
無軌道状態の多動こそは、霊的な加護をかなぐり捨てた「失神」状態を招くものであり、
その失神状態にあえて身を置くことで、不動不変の霊威を背理法的に把捉することを
試みる苦行者などもいるが、多動それ自体が神霊と共にあるなどということはない。
「臣、其の股肱の力を竭くして、之れに加うるに忠貞を以ってせん。
其れ濟らば君の靈なり、濟らずんば則ち死を以って之れに繼がん」
「私は自らの股肱の力の限りを尽くし、なおかつ忠順と貞良を以って公室に仕えていく所存です。
もしそれが成功いたしましたならば、君の霊による加護があったものといえますし、
もし成功できなかったとしても、その時は私自身が死を以って責任を取る所存です。
(臨終間際の晋の献公に対する護衛者荀息の言葉。全力をかけての仕事が忠貞さによって
霊の加護を受けることを期待している。霊の加護を受ける根拠となるのは、あくまで
行動に一定の制限を設ける忠貞さのほうであって、無軌道な多動であったりはしない)」
「権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公九年より」
四書五経の中でも、特に名言名句の引用元としては利用しにくいのが、
原文は簡素な年譜のみである「春秋経(孔子作)」や、その注釈書であり、
今日では経書の一部として認められてもいる「春秋左氏伝(左丘明作、通称:左伝)」だといえる。
「論語」が、宇宙でも随一の名言の宝庫であることは誰しもが知るところだし、
「孟子」や「易経」や「詩経」「書経」なども、名言集として扱えるだけの内容を持っている。
礼制の記録が本分である「礼記」も、知る人ぞ知る名言の弾薬庫であり、中でも
最重要部分とされる「大学」と「中庸」は、抜書きされて「四書」のうちにも入れられている。
しかし、「左伝」だけは、名言の宝庫として扱うのは難しいような内容になっている。
「大学」や「中庸」は「礼記」からの抜書きであり、その分量も突出して些少なものだから、
引用回数が少なくなるのも仕方がないが、「左伝」は四書五経中でも最大級の分量を
持っているというのに、なかなか引用するにも相応しいような名句を見つけにくい。
これは、「左伝」が「勧善懲悪」の意味を込めて書かれた「春秋経」の注釈書だからで、
その内容自体が、「懲悪」の意味を込めて春秋時代の権力者たちの不行跡をありのままに
書き留めていたりしているために、それをそのまま模範の対象にはできないから。
原文は簡素な年譜のみである「春秋経(孔子作)」や、その注釈書であり、
今日では経書の一部として認められてもいる「春秋左氏伝(左丘明作、通称:左伝)」だといえる。
「論語」が、宇宙でも随一の名言の宝庫であることは誰しもが知るところだし、
「孟子」や「易経」や「詩経」「書経」なども、名言集として扱えるだけの内容を持っている。
礼制の記録が本分である「礼記」も、知る人ぞ知る名言の弾薬庫であり、中でも
最重要部分とされる「大学」と「中庸」は、抜書きされて「四書」のうちにも入れられている。
しかし、「左伝」だけは、名言の宝庫として扱うのは難しいような内容になっている。
「大学」や「中庸」は「礼記」からの抜書きであり、その分量も突出して些少なものだから、
引用回数が少なくなるのも仕方がないが、「左伝」は四書五経中でも最大級の分量を
持っているというのに、なかなか引用するにも相応しいような名句を見つけにくい。
これは、「左伝」が「勧善懲悪」の意味を込めて書かれた「春秋経」の注釈書だからで、
その内容自体が、「懲悪」の意味を込めて春秋時代の権力者たちの不行跡をありのままに
書き留めていたりしているために、それをそのまま模範の対象にはできないから。
>>16の引用部分なども、この後に晋の献公が「忠貞とは何を意味するのか」と問うと、
荀息は「忠とは、君公のための利益になることはどんなことでもやることです」と答えている。
どんなことでもやるってんなら、それこそ悪行すらやりかねず、利益をもたらすつもりで
損害すらも及ぼしかねない。これこそは、忠義を単なる奴隷的奉仕などと混同する「任侠」
の起源であるといえ、正しい手法によって君公を補佐する分別には欠けていたことから、
荀息は直後に献公の子息である公子卓を死なせてしまい、自らも責任を取って自決している。
とはいえ、>>16の引用部分の荀息の物言いは、夏・殷・周と続いてきた古代中国の
王朝文化の影響をも受けており、まだ周による王道統治が傾いて間もなかったころの風潮に
合わせてものを言おうとした結果、荀息もこの引用部分まではいいことを言っている。
(そのあとの「君公の利益になることはどんなことでもします」云々で馬脚を表している)
個人としての徳性の高さではなく、古代中国という時代の風潮が、荀息にもある程度までは模範とするに
値する言葉を言わしめたのであり、一部の言葉だけを鑑みて、人を評してはいけない例にもなっている。
荀息は「忠とは、君公のための利益になることはどんなことでもやることです」と答えている。
どんなことでもやるってんなら、それこそ悪行すらやりかねず、利益をもたらすつもりで
損害すらも及ぼしかねない。これこそは、忠義を単なる奴隷的奉仕などと混同する「任侠」
の起源であるといえ、正しい手法によって君公を補佐する分別には欠けていたことから、
荀息は直後に献公の子息である公子卓を死なせてしまい、自らも責任を取って自決している。
とはいえ、>>16の引用部分の荀息の物言いは、夏・殷・周と続いてきた古代中国の
王朝文化の影響をも受けており、まだ周による王道統治が傾いて間もなかったころの風潮に
合わせてものを言おうとした結果、荀息もこの引用部分まではいいことを言っている。
(そのあとの「君公の利益になることはどんなことでもします」云々で馬脚を表している)
個人としての徳性の高さではなく、古代中国という時代の風潮が、荀息にもある程度までは模範とするに
値する言葉を言わしめたのであり、一部の言葉だけを鑑みて、人を評してはいけない例にもなっている。
孟子も「五覇は三王の罪人なり(告子章句下・七)」というとおり、
春秋時代に覇権を争っていた諸侯ってのも、相当に悪辣な権力犯罪者だったわけで、
荀息を含む当時の諸侯の臣下が、「この君にしてこの臣あり」程度の
愚臣であったのも、仕方がないといえば仕方がない。
湯王には伊尹が、武王には太公望が、成王には周公がといった風に、
名臣の助けを借りて主君が成功するということは歴史上に数多い一方で、
それと同じぐらいに、愚臣悪臣佞臣にたぶらかされて哀れな末路を辿った君公も多い。
名臣が、儒学道徳に基づいても評価され得る、適正な君臣の義を保てている一方で、
愚臣や悪臣の場合はそれができず、無理に主君に服従しようとしたところで、
無粋なの奴隷的奉仕に終始する、侠客まがいに止まってしまったりする。
もちろん主君が相応の人物であって初めて、名臣の力量も活かされるところがあり、
范増のような名臣を持ちながらも、全くその力量を活かせずに敗れた項羽のような
覇王もいる。「この名君にしてこの名臣あり」といわれるほどにも、
君臣関係がうまくいくことも、なかなかに難しいことだといえる。
「君子は泰らかにして驕らず、小人は驕りて泰らかならず」
「君子は落ち着きがあって誇り高ぶることがないが、小人は誇り高ぶってばかりで落ち着きがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二六より)
春秋時代に覇権を争っていた諸侯ってのも、相当に悪辣な権力犯罪者だったわけで、
荀息を含む当時の諸侯の臣下が、「この君にしてこの臣あり」程度の
愚臣であったのも、仕方がないといえば仕方がない。
湯王には伊尹が、武王には太公望が、成王には周公がといった風に、
名臣の助けを借りて主君が成功するということは歴史上に数多い一方で、
それと同じぐらいに、愚臣悪臣佞臣にたぶらかされて哀れな末路を辿った君公も多い。
名臣が、儒学道徳に基づいても評価され得る、適正な君臣の義を保てている一方で、
愚臣や悪臣の場合はそれができず、無理に主君に服従しようとしたところで、
無粋なの奴隷的奉仕に終始する、侠客まがいに止まってしまったりする。
もちろん主君が相応の人物であって初めて、名臣の力量も活かされるところがあり、
范増のような名臣を持ちながらも、全くその力量を活かせずに敗れた項羽のような
覇王もいる。「この名君にしてこの名臣あり」といわれるほどにも、
君臣関係がうまくいくことも、なかなかに難しいことだといえる。
「君子は泰らかにして驕らず、小人は驕りて泰らかならず」
「君子は落ち着きがあって誇り高ぶることがないが、小人は誇り高ぶってばかりで落ち着きがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二六より)
もう誰も、キリスト教徒を憎んですらいない。
「ただ、この廃人集団をどうやって、暴発させないままに
権能剥奪状態へと追い込もうか」と、事務的に考えるのみ。
野生の有害鳥獣なども、憎もうが許そうが、結局こちらの気持ちなんか
何も分かっちゃくれないから、ただ人間に危害を及ぼさないようにする
ための事務的な駆除処理に徹する以外の、何らの意図を差し挟む術もない。
仮に本当に聖書信仰をこの世から駆逐するなら、億人レベルの人々の
助けをも借りていかなければならなくなるだろうが、それらの人々にも、
「いっぱしの人間が廃人を憎んだりしてちゃいけない」ということを、
重々諭し尽くしてから、ことに臨んでもらうようにもする。
「昊天の不傭にして、此の鞠言凶を降さん。
昊天の不惠にして、此の大戻を降さん。
君子如し屆しければ、俾民の心をして闋んぜしむ。
君子如し夷らげれば、、惡むも怒るも是こに違れり」
「上天も常ある姿を変えられ、この窮凶を降したまう。
恵み深き姿も一転して、大いなる災いを降せる。
君子がもし正しくあれば、下民の心までをも安んずる。
さらに君子が天下を平らげたならば、憎しみも怒りも全て去り止むだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
「ただ、この廃人集団をどうやって、暴発させないままに
権能剥奪状態へと追い込もうか」と、事務的に考えるのみ。
野生の有害鳥獣なども、憎もうが許そうが、結局こちらの気持ちなんか
何も分かっちゃくれないから、ただ人間に危害を及ぼさないようにする
ための事務的な駆除処理に徹する以外の、何らの意図を差し挟む術もない。
仮に本当に聖書信仰をこの世から駆逐するなら、億人レベルの人々の
助けをも借りていかなければならなくなるだろうが、それらの人々にも、
「いっぱしの人間が廃人を憎んだりしてちゃいけない」ということを、
重々諭し尽くしてから、ことに臨んでもらうようにもする。
「昊天の不傭にして、此の鞠言凶を降さん。
昊天の不惠にして、此の大戻を降さん。
君子如し屆しければ、俾民の心をして闋んぜしむ。
君子如し夷らげれば、、惡むも怒るも是こに違れり」
「上天も常ある姿を変えられ、この窮凶を降したまう。
恵み深き姿も一転して、大いなる災いを降せる。
君子がもし正しくあれば、下民の心までをも安んずる。
さらに君子が天下を平らげたならば、憎しみも怒りも全て去り止むだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
フィクションのな。
ただただ無鉄砲に強圧的であることが、共に言行するに値しない
自暴自棄・自廃さ加減の披瀝になることはあっても、健常さの証拠になることはない。
自暴自棄・自廃さ加減の披瀝になることはあっても、健常さの証拠になることはない。
自らの、自業自得の犯罪行為の責任を全て神に押し付けて、
自分自身は全くの無罪であることを自認することを許可するような
邪教信仰に耽溺して来たことこそは、反省して悔い改めなければならないに違いない。
悔い改めた結果、逆にそのような邪教信仰に陥ってしまうのでは、
毒を食んだ過ちを悔い改めたからといって、毒を盛った皿まで嘗め尽くすようなもの。
悔い改めた結果落ち着くべきなのが、人間たち自身の自己責任を重んずる
四書五経のような道徳学であり、神仏信仰などは副次的なものとして考えねばならない。
人としての最善も尽くさないうちから、他者への責任の押し付けばかりに依存する、
その思い上がりこそは害悪の元凶ともなっているのだから、決して他者依存の
深刻化などによって、現状の悲惨さが少しでも改善に向かうようなことはない。
「禍福は己れ自り之れを求めざる者無し」
「禍福に自らそれを招かなかったものは、何一つとしてない」
(権力道徳聖——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・四より)
自分自身は全くの無罪であることを自認することを許可するような
邪教信仰に耽溺して来たことこそは、反省して悔い改めなければならないに違いない。
悔い改めた結果、逆にそのような邪教信仰に陥ってしまうのでは、
毒を食んだ過ちを悔い改めたからといって、毒を盛った皿まで嘗め尽くすようなもの。
悔い改めた結果落ち着くべきなのが、人間たち自身の自己責任を重んずる
四書五経のような道徳学であり、神仏信仰などは副次的なものとして考えねばならない。
人としての最善も尽くさないうちから、他者への責任の押し付けばかりに依存する、
その思い上がりこそは害悪の元凶ともなっているのだから、決して他者依存の
深刻化などによって、現状の悲惨さが少しでも改善に向かうようなことはない。
「禍福は己れ自り之れを求めざる者無し」
「禍福に自らそれを招かなかったものは、何一つとしてない」
(権力道徳聖——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・四より)
「人は自分では何も善いことをすることができない」とした上で、
「キリスト・イエスの下でなら善いことができる」としているのか。
事実は逆であり、人は自力によってでしか善を為すことはできず、
他力依存を高めれば高めるほど、善を為すことからは遠ざかってしまう。
だから浄土教なども、自力作善の覚束ない煩悩愚縛の凡夫が、
他力本願によって悪因苦果の苦しみから救われることを促している。
「他力本願だから善行ができる」なんてことは、ちっとも言っていない。
真宗の坊主なども生臭だらけだが、それこそは確かに他力信仰者の有り様。
他力でいて善行を為そうだなんて時点で、
一概な罪悪ばかりが積み重ねられることとなる。
人間精神の位相関係が、そうなるように造られてもいるから。
「天誅を造攻れるは牧宮自りす、朕れは載めて亳に自る」
「天誅が下される原因は(暴君桀王の住処である)牧宮において造られた。
だからこそ、我(湯王)もまた亳の都で、伊尹らと誅罰のことを相談したのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
「キリスト・イエスの下でなら善いことができる」としているのか。
事実は逆であり、人は自力によってでしか善を為すことはできず、
他力依存を高めれば高めるほど、善を為すことからは遠ざかってしまう。
だから浄土教なども、自力作善の覚束ない煩悩愚縛の凡夫が、
他力本願によって悪因苦果の苦しみから救われることを促している。
「他力本願だから善行ができる」なんてことは、ちっとも言っていない。
真宗の坊主なども生臭だらけだが、それこそは確かに他力信仰者の有り様。
他力でいて善行を為そうだなんて時点で、
一概な罪悪ばかりが積み重ねられることとなる。
人間精神の位相関係が、そうなるように造られてもいるから。
「天誅を造攻れるは牧宮自りす、朕れは載めて亳に自る」
「天誅が下される原因は(暴君桀王の住処である)牧宮において造られた。
だからこそ、我(湯王)もまた亳の都で、伊尹らと誅罰のことを相談したのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
人を木柱の上にはりつけにした状態をかたどっているのが、「桀」という文字。
一般に用いられる「磔(はりつけ)」という字訓も、この桀に由来している。
湯王が興したとされる殷王朝の実在はすでに考古学的に明らかになっているし、
さらに遡った夏王朝の実在も、遺跡の発掘などによって明らかになりつつある。
ただ、夏の桀王に関する悪逆無道な振る舞いの記録は、殷の紂王の暴虐にも
共通する点が多々あり、仮に夏王朝が実在していたとしても、桀王に関する
暴虐の逸話などは、その幾分かが後世の創作である可能性が高い。
ただ、それにしたって、紀元前数世紀頃の学者である孟子などが、すでに夏の桀王
などに関する具体的な逸話を取り上げているわけで、「はりつけ」という意味と共に、
「凶暴残虐」や「わるもの」といった意味も持つ「桀」という言葉で以って、
はりつけ信仰が悪者どもの凶暴残虐な振る舞いと合致する可能性が示唆されている。
「桀」という文字がそれだけでもすでに、十字架信仰の本質を看破しきっている。
一般に用いられる「磔(はりつけ)」という字訓も、この桀に由来している。
湯王が興したとされる殷王朝の実在はすでに考古学的に明らかになっているし、
さらに遡った夏王朝の実在も、遺跡の発掘などによって明らかになりつつある。
ただ、夏の桀王に関する悪逆無道な振る舞いの記録は、殷の紂王の暴虐にも
共通する点が多々あり、仮に夏王朝が実在していたとしても、桀王に関する
暴虐の逸話などは、その幾分かが後世の創作である可能性が高い。
ただ、それにしたって、紀元前数世紀頃の学者である孟子などが、すでに夏の桀王
などに関する具体的な逸話を取り上げているわけで、「はりつけ」という意味と共に、
「凶暴残虐」や「わるもの」といった意味も持つ「桀」という言葉で以って、
はりつけ信仰が悪者どもの凶暴残虐な振る舞いと合致する可能性が示唆されている。
「桀」という文字がそれだけでもすでに、十字架信仰の本質を看破しきっている。
人知を超えた神仏の領域ってのも確かにあるわけだが、それはあくまで人間以上の品性を持つ
神仏に限っての話で、人間以下の品性しか持たない鬼畜や妖怪については、全くその限りでない。
廃人たちが「人知を超えたもの」と呼ぶキリストの愛なども、親しき仲における礼節すら廃した
禽獣同然と化しての溺愛のことでしかなく、そのような溺愛に陥った廃人たちに限って、
我れを見失って、まともな思考も働かなくなるから、さも人知を超えたように思われるだけ。
心神喪失や精神障害に陥ったりはしていない、まともな人間からすれば、全くの人知の範囲内。
あくまで人知を超えた領域があるのも認められた上で、それはその中に入らないというだけのこと。
「國家を為むる者は、惡を見ては農夫の務めて草を去るが如くし、芟り夷げて之れを
蘊み崇め、其の本根を絶ち、能く殖えしむること勿くんば、則ち善なる者も信びん」
「国家を治めるものは、悪を見れば農夫が雑草を除き去るようにせよ。刈り取って摘み集め、
その本から根絶やしにして、増殖できないようにすれば、それによって善いものもまた伸び育つようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)
神仏に限っての話で、人間以下の品性しか持たない鬼畜や妖怪については、全くその限りでない。
廃人たちが「人知を超えたもの」と呼ぶキリストの愛なども、親しき仲における礼節すら廃した
禽獣同然と化しての溺愛のことでしかなく、そのような溺愛に陥った廃人たちに限って、
我れを見失って、まともな思考も働かなくなるから、さも人知を超えたように思われるだけ。
心神喪失や精神障害に陥ったりはしていない、まともな人間からすれば、全くの人知の範囲内。
あくまで人知を超えた領域があるのも認められた上で、それはその中に入らないというだけのこと。
「國家を為むる者は、惡を見ては農夫の務めて草を去るが如くし、芟り夷げて之れを
蘊み崇め、其の本根を絶ち、能く殖えしむること勿くんば、則ち善なる者も信びん」
「国家を治めるものは、悪を見れば農夫が雑草を除き去るようにせよ。刈り取って摘み集め、
その本から根絶やしにして、増殖できないようにすれば、それによって善いものもまた伸び育つようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)
しかし、夏の桀王にしろ殷の紂王にしろ、一時は湯王や文王を幽閉状態にまで
追い込んでおきながら、解放して捲土重来の機会を与えた挙句に、湯王や
文王の跡継ぎである武王らに放伐されるという、間抜けをやらかしている。
どうしてそんな間抜けを冒したのかといえば、そこには複合的な理由が備わっている。
第一には、湯王や文王のような善玉格の為政者こそは、心から民を愛して、
その養生にも努めることで世の中を盛り立てている中心核だから、
彼らを亡ぼすことが、世の中全体の衰亡を招くこととなってしまう、
それは世の中から多大なる暴利を駆り立てての放辟邪侈に耽っていたがる、
桀王や紂王のような悪玉の暴君にとっても都合の悪いことだから、
悪玉として善玉を滅ぼし尽くすことを躊躇ってしまうというのがある。
第二には、悪玉の暴君というのは、自分や自分の気に入った間柄だけでの
狭隘な利得を貪ることを第一目的としていて、その結果として世の中を
荒廃に導くことは、決して第一の目的でまであるわけではないから、
善玉の賢君を滅ぼし尽くすことで、あえて世の中を破滅へと導く
ほどまでの気概には欠けているからというのがある。
第三には、自分たちが暴利を貪りつつの放辟邪侈を極めた結果、世の中が
破滅へと陥れられることすら厭いはしないが、たとえ世を破滅へと導いた
暴君としてであっても、歴史に名を止めたいというような名利欲が少なからずあって、
完全に世の中が滅亡してしまったのでは、後世に悪名を轟かせることすら
叶わなくなるから、自分たちの放辟邪侈の後始末をしてくれることで、歴史を
完全には断絶させずに済ませてくれる相手を本能的に欲しているというのがある。
特に複雑なのが第三の理由で、世を破滅に陥れる悪玉格であるにも関わらず、
最低限の世の中の保全を欲したがるのは、やもすれば単なる人間肯定の根拠にでも
してしまいがちになるが、決して悪玉は、世の中の福利厚生を願っているから
最低限の世の中の保全を企図したりしているのではなく、たとえ最悪の悪者として
であっても、歴史に名を轟かせてみたいという、無様ながらの名誉欲があるから
最低限の世の中の保全を欲しているのだという、特殊な事情を見逃してはならない。
追い込んでおきながら、解放して捲土重来の機会を与えた挙句に、湯王や
文王の跡継ぎである武王らに放伐されるという、間抜けをやらかしている。
どうしてそんな間抜けを冒したのかといえば、そこには複合的な理由が備わっている。
第一には、湯王や文王のような善玉格の為政者こそは、心から民を愛して、
その養生にも努めることで世の中を盛り立てている中心核だから、
彼らを亡ぼすことが、世の中全体の衰亡を招くこととなってしまう、
それは世の中から多大なる暴利を駆り立てての放辟邪侈に耽っていたがる、
桀王や紂王のような悪玉の暴君にとっても都合の悪いことだから、
悪玉として善玉を滅ぼし尽くすことを躊躇ってしまうというのがある。
第二には、悪玉の暴君というのは、自分や自分の気に入った間柄だけでの
狭隘な利得を貪ることを第一目的としていて、その結果として世の中を
荒廃に導くことは、決して第一の目的でまであるわけではないから、
善玉の賢君を滅ぼし尽くすことで、あえて世の中を破滅へと導く
ほどまでの気概には欠けているからというのがある。
第三には、自分たちが暴利を貪りつつの放辟邪侈を極めた結果、世の中が
破滅へと陥れられることすら厭いはしないが、たとえ世を破滅へと導いた
暴君としてであっても、歴史に名を止めたいというような名利欲が少なからずあって、
完全に世の中が滅亡してしまったのでは、後世に悪名を轟かせることすら
叶わなくなるから、自分たちの放辟邪侈の後始末をしてくれることで、歴史を
完全には断絶させずに済ませてくれる相手を本能的に欲しているというのがある。
特に複雑なのが第三の理由で、世を破滅に陥れる悪玉格であるにも関わらず、
最低限の世の中の保全を欲したがるのは、やもすれば単なる人間肯定の根拠にでも
してしまいがちになるが、決して悪玉は、世の中の福利厚生を願っているから
最低限の世の中の保全を企図したりしているのではなく、たとえ最悪の悪者として
であっても、歴史に名を轟かせてみたいという、無様ながらの名誉欲があるから
最低限の世の中の保全を欲しているのだという、特殊な事情を見逃してはならない。
人は完全な他力本願による善行は為し得ず、自己責任による自力作善しか為し得ない。
ただもちろん、自力作善に至るまでの環境の整備はある程度必要となるわけで、
先祖代々の徳行の積み重ねや、それによる秘伝的な教育などが特に決定的な影響を及ぼす。
善行は、自己責任によってでしか為し得ない一方で、より大きな善行を為すためには
外部からの大いなる助成が必要となるわけで、自得の能力だけによって
何をしようとしたところで、人はほとんど大した善行などを為し得ない。
だから、自分個人に対して最も大きな影響を及ぼす、先祖に対する供養などが特に重要なものとなるし、
もしも臣下として立ち回ったりするのであれば、自らが配下となる主君への忠義を尽くす必要も出てくる。
自らが人事を尽くす所に始めて善も行われるが、人事を尽くすためにこそ尊重すべき天命というものもまたある。
「父子、君臣、長幼の道を得て、而して國治まる。
(古)語に曰く、樂正業を司り、父師成を司る、一元良有らば、萬國以て貞し、と」
「父子、君臣、長幼といった上下の序列が徹底されることで、初めて国も治まる。
昔の言葉にもこうある。『楽正として臣下の領分を正式に得たものが、詩書礼楽などの
学業の推進を司り、父親に教育の代行を正式に任せられた教師が、学業の成就を司る。
それほどにも恵まれた境遇にある元君が一人いれば、それだけで万国が正される』と。
(奉仕の業による成熟にも、正式な君臣父子長幼の序が備わっていなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)
ただもちろん、自力作善に至るまでの環境の整備はある程度必要となるわけで、
先祖代々の徳行の積み重ねや、それによる秘伝的な教育などが特に決定的な影響を及ぼす。
善行は、自己責任によってでしか為し得ない一方で、より大きな善行を為すためには
外部からの大いなる助成が必要となるわけで、自得の能力だけによって
何をしようとしたところで、人はほとんど大した善行などを為し得ない。
だから、自分個人に対して最も大きな影響を及ぼす、先祖に対する供養などが特に重要なものとなるし、
もしも臣下として立ち回ったりするのであれば、自らが配下となる主君への忠義を尽くす必要も出てくる。
自らが人事を尽くす所に始めて善も行われるが、人事を尽くすためにこそ尊重すべき天命というものもまたある。
「父子、君臣、長幼の道を得て、而して國治まる。
(古)語に曰く、樂正業を司り、父師成を司る、一元良有らば、萬國以て貞し、と」
「父子、君臣、長幼といった上下の序列が徹底されることで、初めて国も治まる。
昔の言葉にもこうある。『楽正として臣下の領分を正式に得たものが、詩書礼楽などの
学業の推進を司り、父親に教育の代行を正式に任せられた教師が、学業の成就を司る。
それほどにも恵まれた境遇にある元君が一人いれば、それだけで万国が正される』と。
(奉仕の業による成熟にも、正式な君臣父子長幼の序が備わっていなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)
浄土教のような善玉の他力信仰であっても、別にそれのおかげで
善行ができるようになったりするわけではない。あくまでも、積極的な
悪行による、悪因苦果に苦しむ自業自得を抑制してくれる効果を持つだけ。
積極的に善行を為していくためには、どうしたって自力でなければならない。
神も仏も頼りにはせず、それでいて神仏への畏敬をも欠かさないでいる、
自力と他力の両面における最善が尽くされたときに初めて、善が行われるのだ。
善行ができるようになったりするわけではない。あくまでも、積極的な
悪行による、悪因苦果に苦しむ自業自得を抑制してくれる効果を持つだけ。
積極的に善行を為していくためには、どうしたって自力でなければならない。
神も仏も頼りにはせず、それでいて神仏への畏敬をも欠かさないでいる、
自力と他力の両面における最善が尽くされたときに初めて、善が行われるのだ。
「礼記」には、親族の喪に服すときの悲哀があらんばかりに記し尽くされているし、
「詩経」にも、未だ夫に会えない子女の悲しみなどが存分に描き尽くされている。
喜怒哀楽、その全てが人に授けられた真っ当な感情であり、
ただ喜んだり楽しんだりするだけではなく、怒るべきものには怒り、
悲しむべきことは悲しむぐらいの感情の豊かさがあって初めて、人として健全だといえる。
悲しみや怒りを廃絶するというのなら、同時に喜びや楽しみをも廃絶し、
人間的な感情全般から解脱する仏道でも目指せばいいのであって、悲しみや怒りだけを捨て去って
喜びや楽しみばかりを貪るのなら、その感情的不均衡のしわ寄せが必ずどこかに行き、
最後の最後には必ず自分たち自身に返ってくる。躁への振れ切りが甚大であればあるほど、
その跳ね返りとしての鬱もまた、度し難いものとなる。
「杕の杜有りて、其の葉萋萋と。
王事の盬む靡く、我が心傷み悲しむ。
卉木も萋れど、女心を悲しましむ、征夫よ歸らん」
「ヤマナシの木が実をつけて、その葉もよく生い茂っているというのに、
戦争はまだ終わる目処も立たず、(出征した夫を持つ)私の心は痛み悲しむばかり。
草木もももうそこかしこに茂っているというのに、女心を悲しませるばかり。我が夫よ、早く戦争から帰ってきておくれ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・鹿鳴之什・杕杜より)
「詩経」にも、未だ夫に会えない子女の悲しみなどが存分に描き尽くされている。
喜怒哀楽、その全てが人に授けられた真っ当な感情であり、
ただ喜んだり楽しんだりするだけではなく、怒るべきものには怒り、
悲しむべきことは悲しむぐらいの感情の豊かさがあって初めて、人として健全だといえる。
悲しみや怒りを廃絶するというのなら、同時に喜びや楽しみをも廃絶し、
人間的な感情全般から解脱する仏道でも目指せばいいのであって、悲しみや怒りだけを捨て去って
喜びや楽しみばかりを貪るのなら、その感情的不均衡のしわ寄せが必ずどこかに行き、
最後の最後には必ず自分たち自身に返ってくる。躁への振れ切りが甚大であればあるほど、
その跳ね返りとしての鬱もまた、度し難いものとなる。
「杕の杜有りて、其の葉萋萋と。
王事の盬む靡く、我が心傷み悲しむ。
卉木も萋れど、女心を悲しましむ、征夫よ歸らん」
「ヤマナシの木が実をつけて、その葉もよく生い茂っているというのに、
戦争はまだ終わる目処も立たず、(出征した夫を持つ)私の心は痛み悲しむばかり。
草木もももうそこかしこに茂っているというのに、女心を悲しませるばかり。我が夫よ、早く戦争から帰ってきておくれ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・鹿鳴之什・杕杜より)
男がめそめそしてばかりいるのは頼りない限りだが、
夫の不在ゆえの悲哀に明け暮れる女というのも、悪くはないもんだ。
ふんぞり返って亭主の帰りを待ってたり、待ちもせずに
浮気してたりする妻のいる家などに、誰も帰りたくはないだろうし。
夫の不在ゆえの悲哀に明け暮れる女というのも、悪くはないもんだ。
ふんぞり返って亭主の帰りを待ってたり、待ちもせずに
浮気してたりする妻のいる家などに、誰も帰りたくはないだろうし。
他力依存のままに力をつけようとすれば、それは自律性を欠いた単なる暴力となって、
善用することもままならず、もっぱら悪用するしかできなくなるんだろうな。
ほんの微力からでもいいから、悪用せずに善用できる自力を身に着けていくことこそが重要だ。
「勢に依りて威を作すこと無かれ」
「権勢に依り頼んで、威力を振りかざすようなことがないように」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
善用することもままならず、もっぱら悪用するしかできなくなるんだろうな。
ほんの微力からでもいいから、悪用せずに善用できる自力を身に着けていくことこそが重要だ。
「勢に依りて威を作すこと無かれ」
「権勢に依り頼んで、威力を振りかざすようなことがないように」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
おばちゃんかわいい
何一つとして善を行えない邪神の、どこが全能なんだか。
「大宰子貢に問うて曰く、夫子は聖者か。何ぞ其れ多能なるやと。
子貢曰く、固より天之れに將聖なること、又た多能なることを許せり。
子之れを聞いて曰く、大宰我れを知れり。吾れ少なるに賤し、
故に鄙事に多能なり。君子は多ならんや、多ならざるなり」
「ある国の首相が子貢にたずねた。『おたくの先生は本当に聖者なのだろうか。だとしたら、
なぜあれほどにも多能なのか』 子貢は答えた。『確かに先生は聖者の中の聖者であると共に、
多能多芸であることをも天分としています』 先生はそれを聞いて言った。『首相は私の
ことをよく知っている。私は年若い頃に卑賤な身分であったから、色々と下賤な物事に
ついても多能でいる。君子が多能である必要があろうか。決してその必要はあるまい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・六)
善を行うことにかけてすら有能であればいいから、君子が多能や全能である必要はないのだろう。
むしろ悪行にかけては無能であるほうが、炉心溶融が原理的に起こらない核融合炉のような、高い安全性にも繋がる。
仮に全能であるものがあるとすれば、それは必ず悪行にかけても有能なものとなるのだから、
善悪みそくその行いもまた一概な悪行であることを踏まえれば、
全能であることの魅力などからして、単なるまやかしであることが分かる。
むしろ悪行にかけては無能であるほうが、炉心溶融が原理的に起こらない核融合炉のような、高い安全性にも繋がる。
仮に全能であるものがあるとすれば、それは必ず悪行にかけても有能なものとなるのだから、
善悪みそくその行いもまた一概な悪行であることを踏まえれば、
全能であることの魅力などからして、単なるまやかしであることが分かる。
万人を利して我が利ともする仁こそは、人が天から与えられた本物の天分である、
しかし、自らそこに止まろうとしないのでは、いくらでも仁から離れていってしまうともいう。
人事と天命、自力と他力の両面における最善が尽くされて初めて、仁に安んずることもできる。
そこにしか仁に止まる術はなく、あらゆる善を行う術も備わってはいない。
たとえ全能者であったところで、止至善を選択しないのなら、決して善は行えない。
「矢人は豈に函人よりも不仁ならんや。矢人は唯だ人を傷つけざることを恐れ、函人は唯だ人を傷つけることを恐る。
巫匠も亦た然り。故に術は慎しまざる可からざるなり。孔子曰く、仁に里るを美と為す。擇びて仁に處らず、
焉んぞ智たるを得んと。夫れ仁は、天の尊爵なり、人の安宅なり。之れを禦むる莫くして不仁なるは、是れ不智なり」
「矢を作る職人は何も、鎧を作る職人よりも不仁であるというわけではない。しかし、矢を作る職人は自らの作製した矢が
人を傷つける攻撃力に欠けることを恐れ、鎧を作る職人は自らの作製した鎧が防御力に欠けていて、着用者を傷つけてしまうことを恐れる。
人の病気を治そうとする祈祷者と、人が死ねば儲かる棺桶屋の関係などもこれと同じことであり、本人自身の仁不仁などとはまた別に、
技術職が人を守る仁に与したり、人を損なう不仁に与したりすることがあるわけだから、職業を選択するところから慎重でなければならない。
孔子も言っている。『自身を仁に居らせることこそは美徳だといえるが、自ら仁を選択しないのでは、どうして知者といえようか』と。
仁こそは人が天から与えられた貴い爵位であり、人が安住すべき所である。にもかかわらず自ら仁に止まろうとしないのは、無知だからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・七より)
しかし、自らそこに止まろうとしないのでは、いくらでも仁から離れていってしまうともいう。
人事と天命、自力と他力の両面における最善が尽くされて初めて、仁に安んずることもできる。
そこにしか仁に止まる術はなく、あらゆる善を行う術も備わってはいない。
たとえ全能者であったところで、止至善を選択しないのなら、決して善は行えない。
「矢人は豈に函人よりも不仁ならんや。矢人は唯だ人を傷つけざることを恐れ、函人は唯だ人を傷つけることを恐る。
巫匠も亦た然り。故に術は慎しまざる可からざるなり。孔子曰く、仁に里るを美と為す。擇びて仁に處らず、
焉んぞ智たるを得んと。夫れ仁は、天の尊爵なり、人の安宅なり。之れを禦むる莫くして不仁なるは、是れ不智なり」
「矢を作る職人は何も、鎧を作る職人よりも不仁であるというわけではない。しかし、矢を作る職人は自らの作製した矢が
人を傷つける攻撃力に欠けることを恐れ、鎧を作る職人は自らの作製した鎧が防御力に欠けていて、着用者を傷つけてしまうことを恐れる。
人の病気を治そうとする祈祷者と、人が死ねば儲かる棺桶屋の関係などもこれと同じことであり、本人自身の仁不仁などとはまた別に、
技術職が人を守る仁に与したり、人を損なう不仁に与したりすることがあるわけだから、職業を選択するところから慎重でなければならない。
孔子も言っている。『自身を仁に居らせることこそは美徳だといえるが、自ら仁を選択しないのでは、どうして知者といえようか』と。
仁こそは人が天から与えられた貴い爵位であり、人が安住すべき所である。にもかかわらず自ら仁に止まろうとしないのは、無知だからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・七より)
「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風をくわうれば、必ず偃す」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一九より)
これはもう既出の引用だが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ともいうし、
「衣食足りて礼節を知る」ともいう。君子への帰服を心から喜べるほどにも
心の余裕を抱けることが、小人に甘んずる人々にとっての至福ともなろうに。
「天下猶お未だ平らかならず、洪水銫流し、天下に氾濫す。草木暢茂し、禽獸繁殖し、五穀登らず」
「天下は未だ泰平には至らず、大水が人々を脅かし、天下に氾濫し続けて止まない。箸にも棒にも
かからないような雑草や雑木ばかりが繁茂し、害獣もそこら中にたむろして、肝心の五穀は実らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——滕文公章句上・四より)
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一九より)
これはもう既出の引用だが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ともいうし、
「衣食足りて礼節を知る」ともいう。君子への帰服を心から喜べるほどにも
心の余裕を抱けることが、小人に甘んずる人々にとっての至福ともなろうに。
「天下猶お未だ平らかならず、洪水銫流し、天下に氾濫す。草木暢茂し、禽獸繁殖し、五穀登らず」
「天下は未だ泰平には至らず、大水が人々を脅かし、天下に氾濫し続けて止まない。箸にも棒にも
かからないような雑草や雑木ばかりが繁茂し、害獣もそこら中にたむろして、肝心の五穀は実らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——滕文公章句上・四より)

その富によってどんな欲望や必要性をまかなったところで、必ず悪であり、善であることはあり得ない。
ということはつまり、善に対する欲求や、善にとっての必要性を満たすこともできないということ。
常に必ず、悪を実現する欲望や、悪の実現にとっての必要性しか満たすことはできないということ。
ちなみに善は楽しく悪はつまらない、これが「善」とか「悪」とか「楽しい」とか「つまらない」
とかいった言葉に対して、人間自身が本能的に付与している、自明な関係性の定義でもある。
「富めりとせずして其の鄰と以にす。用て侵伐するに利ろしく、利ろしからざる無し」
「富んでいながら、なおかつ富んでいないかのようにして人に接するぐらいの謙虚さがあるのなら、
それほどもの謙虚さにすら感応できない無神経者などは、もはや放伐したって全くかまいやしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・謙・六五)
思わず、引用しているこっちのほうがあっけにとられるほどにも、
辛らつで皮肉たっぷりな記述が、詩書や易には多々見られる。
これらは、孔孟の生きた春秋末期や戦国期よりもさらに昔の、周代やそれ以前に原型が作られたものであり、
比較的政情が安定していた時期に作られたものが多い。そのため、歯に衣着せぬあからさまな表現なども多く、
それと比べれば、失言がそのまま自身の命をも危うからしめていた、春秋戦国時代に作られた四書や「礼記」
などの記述は、どこか聞き手の顔色を伺っているような、それこそ薄氷を踏むように慎重なものが非常に多い。
「邦に道あれば言を危しくし行を危しくす。邦に道なければ行は危しくするも言は孫う」
「国に道があれば言行共に厳しくして自己を高める。国に道がなければ行いは厳しくするも発言は慎重にする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四より)
明哲保身(詩経・烝民)の一辺倒なのかと思いきや、やはり乱世にも行いだけは正していくという。
その心は、発言はしようがするまいが自由だが、生きている以上は一定の行いだけは付きまとう。
人として生きている限りにおいて、どうしても不可避となる行いについては正していくしかないが、
発言はしないでもいられるものだから、失言によって命を落としたりするのでは全くの無駄死に
となるだけなので、ものを言うことに関してはやはり慎重でいたほうがいいということだろう。
失言を羅列しまくった挙句に、磔にされてしまうのでは、
明哲保身の逆をいく上に、単なる道化にしかならない。
言葉よりも行いのほうを第一義として捉える考え方が、明哲保身のような保守的な部分にまで行き届いている。
これは、絶対的な言行一致を唱える陽明学などよりは、一定の言行不一致を認める朱子学のほうが、本来の
儒学の正統に近い証拠にもなっている。口から発せられたことよりも、本人自身のほうが重要であることは、
発言が積極的である場合だけでなく、消極的な場合にすら当てはまるのだと、孔子から認めているのだから。
辛らつで皮肉たっぷりな記述が、詩書や易には多々見られる。
これらは、孔孟の生きた春秋末期や戦国期よりもさらに昔の、周代やそれ以前に原型が作られたものであり、
比較的政情が安定していた時期に作られたものが多い。そのため、歯に衣着せぬあからさまな表現なども多く、
それと比べれば、失言がそのまま自身の命をも危うからしめていた、春秋戦国時代に作られた四書や「礼記」
などの記述は、どこか聞き手の顔色を伺っているような、それこそ薄氷を踏むように慎重なものが非常に多い。
「邦に道あれば言を危しくし行を危しくす。邦に道なければ行は危しくするも言は孫う」
「国に道があれば言行共に厳しくして自己を高める。国に道がなければ行いは厳しくするも発言は慎重にする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四より)
明哲保身(詩経・烝民)の一辺倒なのかと思いきや、やはり乱世にも行いだけは正していくという。
その心は、発言はしようがするまいが自由だが、生きている以上は一定の行いだけは付きまとう。
人として生きている限りにおいて、どうしても不可避となる行いについては正していくしかないが、
発言はしないでもいられるものだから、失言によって命を落としたりするのでは全くの無駄死に
となるだけなので、ものを言うことに関してはやはり慎重でいたほうがいいということだろう。
失言を羅列しまくった挙句に、磔にされてしまうのでは、
明哲保身の逆をいく上に、単なる道化にしかならない。
言葉よりも行いのほうを第一義として捉える考え方が、明哲保身のような保守的な部分にまで行き届いている。
これは、絶対的な言行一致を唱える陽明学などよりは、一定の言行不一致を認める朱子学のほうが、本来の
儒学の正統に近い証拠にもなっている。口から発せられたことよりも、本人自身のほうが重要であることは、
発言が積極的である場合だけでなく、消極的な場合にすら当てはまるのだと、孔子から認めているのだから。
では、乱世にあるべき「孫(したが)う言」とは一体どんなもので、
治世にだけ披露すべき「危(はげ)しい言」とは一体どんなものを指すのだろうか。
それこそ、仁義を厳守する言こそは「孫う言」であり、仁義を逸脱したり、
仁義に反していたり、多少そう見えたりする言こそは「危しい言」であるといえる。
別に、時の権力者の顔色ばかりをうかがって、相手に媚びを売るような発言が「孫う言」
になるのではなく、孟子の発言のように峻烈ではあっても、天下万人にとって有益無害で
あることが確実に明らかな、完全に仁義にねざした発言こそは「孫う言」であるといえる。
一方で、あからさまに仁義に反し、自他を害する有害無益さにまみれていることが
明らかな言のほうが「危しい言」のうちの一種であり、このような発言を試みる人間は、
危険人物と見なされて、謀殺や刑死などの末路を辿ることにもなりかねない。
詩書や易に数多載せられている言葉は、決して仁義に反しているわけではなく、
聖王や賢臣の発言である中には、仁義中の仁義に根ざしたような名言すら多々見られる。
ただ、詩書や易の言葉はもはや仁義を傍観すらしておらず、発言そのものが仁義を実行する
言葉ですらあるため、孔孟の論述に見られるような、概括的な仁義の説明にすらなっていない。
だから、それだけをゴロリと投げ出せば、四書程度の説明口調に慣れている仁義研究者など
からすれば、どこがどういう風に仁義道徳であるのか容易に分かりかねる場合もあるかもしれない。
治世にだけ披露すべき「危(はげ)しい言」とは一体どんなものを指すのだろうか。
それこそ、仁義を厳守する言こそは「孫う言」であり、仁義を逸脱したり、
仁義に反していたり、多少そう見えたりする言こそは「危しい言」であるといえる。
別に、時の権力者の顔色ばかりをうかがって、相手に媚びを売るような発言が「孫う言」
になるのではなく、孟子の発言のように峻烈ではあっても、天下万人にとって有益無害で
あることが確実に明らかな、完全に仁義にねざした発言こそは「孫う言」であるといえる。
一方で、あからさまに仁義に反し、自他を害する有害無益さにまみれていることが
明らかな言のほうが「危しい言」のうちの一種であり、このような発言を試みる人間は、
危険人物と見なされて、謀殺や刑死などの末路を辿ることにもなりかねない。
詩書や易に数多載せられている言葉は、決して仁義に反しているわけではなく、
聖王や賢臣の発言である中には、仁義中の仁義に根ざしたような名言すら多々見られる。
ただ、詩書や易の言葉はもはや仁義を傍観すらしておらず、発言そのものが仁義を実行する
言葉ですらあるため、孔孟の論述に見られるような、概括的な仁義の説明にすらなっていない。
だから、それだけをゴロリと投げ出せば、四書程度の説明口調に慣れている仁義研究者など
からすれば、どこがどういう風に仁義道徳であるのか容易に分かりかねる場合もあるかもしれない。
孔子や孟子の場合は、乱世に身を置く立場上、発言により慎重を期すために、学者としての
分析的な仁義解釈を述べ立てる場合が多かったわけで、絶対無謬な仁義の理論的解説にも
徹したからこそ、大諸侯を言い負かすほどもの大論弁を触れ回った孟子も、諸侯からの
怨みを買って謀殺されるようなことがなかった。完全に非があるのは自分たち戦国諸侯の
側のみであり、ただ口先で正論をのべているだけの学者風情などに本気で腹を立てて報復に
及んだりすれば、それこそ千年の先まで天下の笑い者とされ続けることがあまりにも自明で
あったために、微塵の封土も持たない一介の学者を、どうしたって見返すことができなかった。
発言がおとなしいことすなわち言が孫うことになるのではなく、たとえ峻烈であっても完全に
仁義にすら根ざしていれば、それこそは言が孫うことにもなる。乱世に言を孫わせるという
ことの真髄は、その提唱者である孔子よりはむしろ、孟子こそが如実にしたところがある。
分析的な仁義解釈を述べ立てる場合が多かったわけで、絶対無謬な仁義の理論的解説にも
徹したからこそ、大諸侯を言い負かすほどもの大論弁を触れ回った孟子も、諸侯からの
怨みを買って謀殺されるようなことがなかった。完全に非があるのは自分たち戦国諸侯の
側のみであり、ただ口先で正論をのべているだけの学者風情などに本気で腹を立てて報復に
及んだりすれば、それこそ千年の先まで天下の笑い者とされ続けることがあまりにも自明で
あったために、微塵の封土も持たない一介の学者を、どうしたって見返すことができなかった。
発言がおとなしいことすなわち言が孫うことになるのではなく、たとえ峻烈であっても完全に
仁義にすら根ざしていれば、それこそは言が孫うことにもなる。乱世に言を孫わせるという
ことの真髄は、その提唱者である孔子よりはむしろ、孟子こそが如実にしたところがある。
久々の引用だな。もう辞めるもんかとすら思ったが。
ここでの四書五経からの引用は、犯罪聖書からの引用が終焉するまで続ける。
あっちの引用が終焉した時点でこっちの引用も停止し、後はここ以外での自主勉強を続けていくのみ。
勧善懲悪の体裁ではなく、もはや悪が断滅されて後の善学の修習に邁進していくのみ。
別に犯罪聖書や洋学のような敵性概念が存在しなくたって、東洋学全般は独立して自存し続けるだけの
絶大な度量を擁している。四書五経はそのごくごく一部に過ぎず、ちょうど犯罪聖書一冊に対して
ぶつけていくのにちょうどいい程度の「矮小さ」に止まっているから、ここでの専らな引用元ともしている。
決してそれが、東洋学全般の全貌の披露であるなどとは勘違いしないようにしてもらいたい。
「子高曰く、吾れ之れを聞くなり。生きては人に益を有らしめ、死しては人を害せずと。
吾れ縱え生きて人に益無かりしも、吾れ死を以て人を害すべけんや。我死すれば、則ち不食の地を擇びて我れを葬れと」
「斉の大夫の成子高が危篤時にこういった。『私はこのような確言を耳にしている。“生きている間は人に利益を
及ぼすようにし、死んでからも人に危害を及ぼすようなことがないようにする”と。私は例え存命中に人々に利益を
及ぼすことはできなかったとしても、せめてでも死んでから人に危害を及ぼすようなことだけは避けるように努めたい。
だから私が死んだら、あえて(何の役にも立たないような)不毛の地を選んで、そこにでも葬ってもらいたい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
ここでの四書五経からの引用は、犯罪聖書からの引用が終焉するまで続ける。
あっちの引用が終焉した時点でこっちの引用も停止し、後はここ以外での自主勉強を続けていくのみ。
勧善懲悪の体裁ではなく、もはや悪が断滅されて後の善学の修習に邁進していくのみ。
別に犯罪聖書や洋学のような敵性概念が存在しなくたって、東洋学全般は独立して自存し続けるだけの
絶大な度量を擁している。四書五経はそのごくごく一部に過ぎず、ちょうど犯罪聖書一冊に対して
ぶつけていくのにちょうどいい程度の「矮小さ」に止まっているから、ここでの専らな引用元ともしている。
決してそれが、東洋学全般の全貌の披露であるなどとは勘違いしないようにしてもらいたい。
「子高曰く、吾れ之れを聞くなり。生きては人に益を有らしめ、死しては人を害せずと。
吾れ縱え生きて人に益無かりしも、吾れ死を以て人を害すべけんや。我死すれば、則ち不食の地を擇びて我れを葬れと」
「斉の大夫の成子高が危篤時にこういった。『私はこのような確言を耳にしている。“生きている間は人に利益を
及ぼすようにし、死んでからも人に危害を及ぼすようなことがないようにする”と。私は例え存命中に人々に利益を
及ぼすことはできなかったとしても、せめてでも死んでから人に危害を及ぼすようなことだけは避けるように努めたい。
だから私が死んだら、あえて(何の役にも立たないような)不毛の地を選んで、そこにでも葬ってもらいたい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
だいたい、より劣悪な世界最低級のカルト文書との対照を試みることで、
経書の記述の比較的な優良さをあげつらうだなんて試みからして、
儒学の中ですら特に程度の低い、「犬儒」あたりの行いでしかないといえる。
そこに止まってたんじゃ、四書五経以外の経書や、二十五史や漢詩や
朱子語類などの、より本格的な儒学研究へと進むこともできやしない。
ほんとは犯罪聖書レベルの低俗文書の権威的価値などはさっさと無効化されて、
(もちろん存在性からの根絶はできないので、十八禁のエログロ本などと同等の扱いとする)
四書五経こそは、その権威性が認められる世界最低限度の古典として扱われるように
なったほうがいいわけで、それでこそ四書五経以上にも高尚な学究対象にあたる上記のような儒書や、
神典や道蔵やヴェーダやウパニシャッド、そして仏典などへの進学の目処も立つというもの。
経書の記述の比較的な優良さをあげつらうだなんて試みからして、
儒学の中ですら特に程度の低い、「犬儒」あたりの行いでしかないといえる。
そこに止まってたんじゃ、四書五経以外の経書や、二十五史や漢詩や
朱子語類などの、より本格的な儒学研究へと進むこともできやしない。
ほんとは犯罪聖書レベルの低俗文書の権威的価値などはさっさと無効化されて、
(もちろん存在性からの根絶はできないので、十八禁のエログロ本などと同等の扱いとする)
四書五経こそは、その権威性が認められる世界最低限度の古典として扱われるように
なったほうがいいわけで、それでこそ四書五経以上にも高尚な学究対象にあたる上記のような儒書や、
神典や道蔵やヴェーダやウパニシャッド、そして仏典などへの進学の目処も立つというもの。
生身の存在であり、尾籠な部分も必ずや備わっている
人間という生き物が存在する以上は、エロとか、グロとか、
権力犯罪とかいったものを貪る余地が、どうしたって生まれてしまう。
そのような非道行為の指針となる価値を持った、エログロ本であるとか
犯罪聖書とか洋学とかいったような劣悪文化もまた、その存在性を完全に
根絶することは不可能であり、またそこまですべきものであるともいえない。
しかし、そのような低俗な内容を持った非道文化から、
高尚な権威性などを剥奪することは、今すぐにでも全く可能なことであり、
また誰しもが今すぐにでもすべきことだといえる。
犯罪聖書や洋学に対する、エログロ本並みの低俗な扱いを
徹底することができず、思わず高尚なものとして扱ってしまったせいで
権力犯罪の増長を助長してしまい、人類を滅亡させるほどもの災禍が
巻き起こされるのだとすれば、それは聖書信仰者や洋学者以外の人々にもまた、
災禍の深刻化を見逃していたことに対する程度の責任はあったのだといえる。
もはや聖書信仰や洋学の理念的権威などは一切認めず、存在性までは
全否定しないにしても、エログロ並みに卑俗なものであるという
一致した見解の下で、災禍の抑制に努めていけるようになってから初めて、
聖書信仰者や洋学者ばかりに非があるのだと断じることもできるようになる。
「二三子、我れを以って隱せりと為すか。吾れ爾に隱すこと無し。吾れ行うとして二三子と與にせざる者なし、是れ丘なり」
「諸君は、私が何か隠し事でもしているのではないかと疑っているのではないかね。私は何も隠し事などはしていない。
私には諸君と共に為さなかった言行などは一つもない。これこそは丘(孔子の自称)なのだ。(隠し事がないことをこそ自負!)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二三より)
人間という生き物が存在する以上は、エロとか、グロとか、
権力犯罪とかいったものを貪る余地が、どうしたって生まれてしまう。
そのような非道行為の指針となる価値を持った、エログロ本であるとか
犯罪聖書とか洋学とかいったような劣悪文化もまた、その存在性を完全に
根絶することは不可能であり、またそこまですべきものであるともいえない。
しかし、そのような低俗な内容を持った非道文化から、
高尚な権威性などを剥奪することは、今すぐにでも全く可能なことであり、
また誰しもが今すぐにでもすべきことだといえる。
犯罪聖書や洋学に対する、エログロ本並みの低俗な扱いを
徹底することができず、思わず高尚なものとして扱ってしまったせいで
権力犯罪の増長を助長してしまい、人類を滅亡させるほどもの災禍が
巻き起こされるのだとすれば、それは聖書信仰者や洋学者以外の人々にもまた、
災禍の深刻化を見逃していたことに対する程度の責任はあったのだといえる。
もはや聖書信仰や洋学の理念的権威などは一切認めず、存在性までは
全否定しないにしても、エログロ並みに卑俗なものであるという
一致した見解の下で、災禍の抑制に努めていけるようになってから初めて、
聖書信仰者や洋学者ばかりに非があるのだと断じることもできるようになる。
「二三子、我れを以って隱せりと為すか。吾れ爾に隱すこと無し。吾れ行うとして二三子と與にせざる者なし、是れ丘なり」
「諸君は、私が何か隠し事でもしているのではないかと疑っているのではないかね。私は何も隠し事などはしていない。
私には諸君と共に為さなかった言行などは一つもない。これこそは丘(孔子の自称)なのだ。(隠し事がないことをこそ自負!)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二三より)
四書五経には、書道のお題にもできるような、飾り立てられた美麗な言葉は少ない。
もちろん膨大な格言の宝庫にはなっているわけだが、その一つ一つの言葉の意味が
あまりにも明瞭過ぎて、格好付けにも用いられるような荘厳さには欠けているから。
それこそ、仏道や神道などのほうが荘厳を利かせた格言は数多く、
四書五経に載っている程度の格言は、その意味をよくわきまえさえすれば後は放っておいて
おけばいい程度のものばかり。四書五経の記述にすら反するような劣悪なカルト教義を
思わず実行してしまったりすることもないぐらいに、無意識からのわきまえが行き届けば、
後はより荘厳に勝れた精神的な言葉の勉強などへと進んでいくようにすればいい。
「子曰く、予れ言う無からんことを欲す。子貢曰く、子如し言わずんば、則ち小子
何をか述べん。子曰く、天何をか言わんや。四時行われて、百物生ず。天何をか言わんや」
「先生が言われた。『もう何も言わないでおきたいものだなあ』 それを聞いて弟子の
子貢が言った。『もし先生が何も言われないのでしたら、我々門下の弟子たちは人々に
何を述べ伝えていけばよいのでしょうか』 先生。『天が果たして何を言っただろうか。
何も言わずに四六時中あって、それでいて万物を生じさせている。天が一体何を言おうか』
(乱世の道徳者として口舌を生業とした孔子も、本当は天のような不言実行者でありたかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一九)
もちろん膨大な格言の宝庫にはなっているわけだが、その一つ一つの言葉の意味が
あまりにも明瞭過ぎて、格好付けにも用いられるような荘厳さには欠けているから。
それこそ、仏道や神道などのほうが荘厳を利かせた格言は数多く、
四書五経に載っている程度の格言は、その意味をよくわきまえさえすれば後は放っておいて
おけばいい程度のものばかり。四書五経の記述にすら反するような劣悪なカルト教義を
思わず実行してしまったりすることもないぐらいに、無意識からのわきまえが行き届けば、
後はより荘厳に勝れた精神的な言葉の勉強などへと進んでいくようにすればいい。
「子曰く、予れ言う無からんことを欲す。子貢曰く、子如し言わずんば、則ち小子
何をか述べん。子曰く、天何をか言わんや。四時行われて、百物生ず。天何をか言わんや」
「先生が言われた。『もう何も言わないでおきたいものだなあ』 それを聞いて弟子の
子貢が言った。『もし先生が何も言われないのでしたら、我々門下の弟子たちは人々に
何を述べ伝えていけばよいのでしょうか』 先生。『天が果たして何を言っただろうか。
何も言わずに四六時中あって、それでいて万物を生じさせている。天が一体何を言おうか』
(乱世の道徳者として口舌を生業とした孔子も、本当は天のような不言実行者でありたかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一九)
ちなみに>>47の孔子の天論は
「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。
やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」
(権力犯罪聖書——通称聖書——損世記1:1-3)
というような、ロゴス中毒に侵された犯罪聖書の記述の否定にもなっている。
易学の勉強によって天地万物の創生についても深く考究しぬいていた孔子が、
万物が言葉によって創造されたりはしていないことを始めから見抜いていた。
2500年の、遠回り。
あまりにも恥ずかしすぎて、なかなか受け入れもしがたいのだろうが、
過ちてその過ちが看破された以上は、改むるに憚らぬ以外に余地はない。
「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。
やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」
(権力犯罪聖書——通称聖書——損世記1:1-3)
というような、ロゴス中毒に侵された犯罪聖書の記述の否定にもなっている。
易学の勉強によって天地万物の創生についても深く考究しぬいていた孔子が、
万物が言葉によって創造されたりはしていないことを始めから見抜いていた。
2500年の、遠回り。
あまりにも恥ずかしすぎて、なかなか受け入れもしがたいのだろうが、
過ちてその過ちが看破された以上は、改むるに憚らぬ以外に余地はない。
人が抱く「おそれ」には、最低でも二種類ある。
・目上の相手に対する敬いが帯びる畏れ
・害獣やキ○ガイなどの警戒対象への恐れ
四書五経が提示する、主君や父祖や夫などに対して抱くべきとされる「おそれ」は前者であるのに対し、
犯罪聖書が提示する、神に対して抱くべきだとする「おそれ」は後者にあたる。
前者の「おそれ」は漢字で「畏れ」と書くべきで、これは「かしこまり」という意味がある。
後者の「おそれ」は漢字で「恐れ」と書くべきで、これは「こわがり」という意味がある。
かしこまるということと、こわがるということは全くの別物であり、君父へのかしこまりが
害獣やキ○ガイに対するようなこわがりであっていいはずはなく、肩の力を抜いた
落ち着いた状態で接するのが、正式な礼法に適った君臣父子の関係でもある。
決して両者の「おそれ」を混同してはならず、害獣やキ○ガイに対して、
君父に対するような畏敬を抱いたりする過ちを犯してもならない。
「天の威を畏れて、時こに之れを保んずる」
「天の威光に畏れかしこまることで、よく国を保つことができる。
(天地すら自分が創造しただなどとうそぶく虚言家を超越神として
畏敬したりしていたのでは、一国を保つことすら危ぶまれることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・我将より)
・目上の相手に対する敬いが帯びる畏れ
・害獣やキ○ガイなどの警戒対象への恐れ
四書五経が提示する、主君や父祖や夫などに対して抱くべきとされる「おそれ」は前者であるのに対し、
犯罪聖書が提示する、神に対して抱くべきだとする「おそれ」は後者にあたる。
前者の「おそれ」は漢字で「畏れ」と書くべきで、これは「かしこまり」という意味がある。
後者の「おそれ」は漢字で「恐れ」と書くべきで、これは「こわがり」という意味がある。
かしこまるということと、こわがるということは全くの別物であり、君父へのかしこまりが
害獣やキ○ガイに対するようなこわがりであっていいはずはなく、肩の力を抜いた
落ち着いた状態で接するのが、正式な礼法に適った君臣父子の関係でもある。
決して両者の「おそれ」を混同してはならず、害獣やキ○ガイに対して、
君父に対するような畏敬を抱いたりする過ちを犯してもならない。
「天の威を畏れて、時こに之れを保んずる」
「天の威光に畏れかしこまることで、よく国を保つことができる。
(天地すら自分が創造しただなどとうそぶく虚言家を超越神として
畏敬したりしていたのでは、一国を保つことすら危ぶまれることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・我将より)
「かしこまる」という意味でも使われる「畏れる」は、善悪の分別もよくわきまえた聖賢などを、
その言行もよく慮って、適切に言うことを聞いたり、その行いを見習ったりするためになされるべきもの。
「こわがる」という意味でも使われる「恐れる」は、善悪の分別もつかないような狂人や獣などが、
他者や人間などに危害を加えてくる危険性を察知して、警戒の対象とするためになされるべきもの。
畏れかしこまって言うことを聞いたり、行いを見習ったりすべき相手というのはそれはそれでいるが、
それは決して、善悪の分別も付かないままに暴力の濫用に走るような邪神だったりするわけはなく、
それこそそのような邪神に対してこそ、キ○ガイや害獣に対する場合と同じような「恐れ」を抱く必要がある。
ただただ莫大な危害をもたらすばかりの邪神に対して「畏れ」を抱き、ちゃんと善悪の分別も付けて、
善言や徳行に専念できる聖賢などに対しては、かえって「恐れ」を抱いていたりする現代人。
人の態度姿勢の一種としての「おそれ」を、全く間違った扱い方ばかりに集約してしまっている。
その言行もよく慮って、適切に言うことを聞いたり、その行いを見習ったりするためになされるべきもの。
「こわがる」という意味でも使われる「恐れる」は、善悪の分別もつかないような狂人や獣などが、
他者や人間などに危害を加えてくる危険性を察知して、警戒の対象とするためになされるべきもの。
畏れかしこまって言うことを聞いたり、行いを見習ったりすべき相手というのはそれはそれでいるが、
それは決して、善悪の分別も付かないままに暴力の濫用に走るような邪神だったりするわけはなく、
それこそそのような邪神に対してこそ、キ○ガイや害獣に対する場合と同じような「恐れ」を抱く必要がある。
ただただ莫大な危害をもたらすばかりの邪神に対して「畏れ」を抱き、ちゃんと善悪の分別も付けて、
善言や徳行に専念できる聖賢などに対しては、かえって「恐れ」を抱いていたりする現代人。
人の態度姿勢の一種としての「おそれ」を、全く間違った扱い方ばかりに集約してしまっている。
欧米聖書圏の重権力犯罪者たちが、全財産を放棄して公平分配に帰し、
本人たち自身もまた地獄の業火に焼かれるような重罰を受けたとしても、
心からの反省による改悛がないのでは、微塵の慈愛による救いにも与れまい。
当然、もう二度と聖書信仰のような劣悪なカルト教義を嗜好しようともせず、
自分たちから進んで完全なる棄教を宣言するぐらいでなければ、
心の底からの反省の気持ちなどというものも、決して湧いてきやしないから。
聖書信仰のペースで何をしようとしたって、救いはないと知らねばならない。
「厩焚けたり。子朝より退きて曰く、人の傷えるか。馬を問わず」
「ある馬小屋が大火災を起こして焼け落ちた。先生は朝廷から退出してから
『人に怪我はなかったか』とだけ質問され、馬の安否は一切問われなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一三)
馬小屋といえば、イエスの生れ落ちた場所としても有名だが、
聖徳太子も馬小屋の門戸の前で生まれたことから「厩戸王子」と呼ばれていた。
馬小屋の内で産まれたか外かで産まれたかの違いが、安否を気遣うにも値しない
獣も同然の品性が、当人に宿るか否かの分かれ目ともなったのだろうか。
本人たち自身もまた地獄の業火に焼かれるような重罰を受けたとしても、
心からの反省による改悛がないのでは、微塵の慈愛による救いにも与れまい。
当然、もう二度と聖書信仰のような劣悪なカルト教義を嗜好しようともせず、
自分たちから進んで完全なる棄教を宣言するぐらいでなければ、
心の底からの反省の気持ちなどというものも、決して湧いてきやしないから。
聖書信仰のペースで何をしようとしたって、救いはないと知らねばならない。
「厩焚けたり。子朝より退きて曰く、人の傷えるか。馬を問わず」
「ある馬小屋が大火災を起こして焼け落ちた。先生は朝廷から退出してから
『人に怪我はなかったか』とだけ質問され、馬の安否は一切問われなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一三)
馬小屋といえば、イエスの生れ落ちた場所としても有名だが、
聖徳太子も馬小屋の門戸の前で生まれたことから「厩戸王子」と呼ばれていた。
馬小屋の内で産まれたか外かで産まれたかの違いが、安否を気遣うにも値しない
獣も同然の品性が、当人に宿るか否かの分かれ目ともなったのだろうか。
聖徳太子の場合は、父母共に皇族であり、その素性も完全に明らかなわけで、
母の穴穂部間人皇女が馬小屋の前でたまたま産気づいたという、その由来もほぼ明らか。
イエスのほうはといえば、マリアが馬小屋ないし家畜小屋でイエスを産んだという
ところだけが明らかで、なぜマリアが家畜小屋でイエスを産んだのかは定かでない。
敷地内に馬小屋があるほどにも富貴な家で、出産間際の女性がたまたま馬小屋の前で
産気づくぐらいのことは、全く想像がつく。しかし、わざわざ不潔な家畜小屋の中で
あえて我が子を産むなどというのは、よっぽどおかしな理由がないとあり得ないこと。
自分の家や、実家で産むことも憚られるような不義の子を、ちょうど密通相手との野合の
場でもあった家畜小屋あたりで産み落としたというのが、本当のところだったのだろう。
もちろんマリアが馬と獣姦して半人半獣の子を産んだなどというわけでもないだろうが、
家畜小屋での密通が相応であるような、いかがわしい相手との子ではあったのだろう。
母の穴穂部間人皇女が馬小屋の前でたまたま産気づいたという、その由来もほぼ明らか。
イエスのほうはといえば、マリアが馬小屋ないし家畜小屋でイエスを産んだという
ところだけが明らかで、なぜマリアが家畜小屋でイエスを産んだのかは定かでない。
敷地内に馬小屋があるほどにも富貴な家で、出産間際の女性がたまたま馬小屋の前で
産気づくぐらいのことは、全く想像がつく。しかし、わざわざ不潔な家畜小屋の中で
あえて我が子を産むなどというのは、よっぽどおかしな理由がないとあり得ないこと。
自分の家や、実家で産むことも憚られるような不義の子を、ちょうど密通相手との野合の
場でもあった家畜小屋あたりで産み落としたというのが、本当のところだったのだろう。
もちろんマリアが馬と獣姦して半人半獣の子を産んだなどというわけでもないだろうが、
家畜小屋での密通が相応であるような、いかがわしい相手との子ではあったのだろう。
仮に「馬小屋」というものを、イエスの産まれた場所であるにちなんで「キリスト教圏」としてみよう。
その、キリスト教圏であるところの馬小屋が焼け落ちたとして、馬小屋の戸口の前で生まれ、
儒学や道教や仏教などの東洋学の自主勉強によっていっぱしの人間らしさをも身に付けた
聖徳太子に当たるような人間は、馬小屋の中ではなく戸の外で生まれたのでもあるからして、
馬小屋が焼け落ちたとしても助かるだろうし、助かったかどうかはまた別にしても、
人間第一主義である孔子に当たるような賢人にも、その安否を気遣われることだろう。
一方で、まさにその馬小屋の中で産まれ、馬小屋での交合で母親が孕んだらしいことからも
度しがたい獣臭さを帯び、なおかつ自分自身でその下劣さを克服しようともしなかった
イエスにあたるような人間は、馬小屋が焼け落ちると共に本人自身も焼け死ぬだろうし、
焼け死んだところで、人としての最低限の品性を重んじる孔子などが、その安否を気遣う
ことすらないだろう。なにしろ、馬か何かと同等の品性しか持ち合わせてはいないのだから。
孔子もまた、父母の野合によって産まれた子であり、父親の素性を知らされることもないままに
育った経歴の持ち主であるからして、イエスのような畜生同然の品性の持ち主になる可能性すらあった。
にもかかわらず、自力作善によって道徳者として大成したのだから、馬小屋に生れ落ちた環境の不遇さ
ばかりに責任を押し付けるわけにもいかない。馬小屋に生まれ落ち、なおかつ馬小屋の環境の下賤さに
順応して、そこからの脱却すらも志そうとはしなかった本人自身の向上心の乏しさこそは、たとえ馬小屋
が焼け落ちようともその安否が気遣われないほどにも、己が生を卑しめた根本要因に他ならないのだから。
その、キリスト教圏であるところの馬小屋が焼け落ちたとして、馬小屋の戸口の前で生まれ、
儒学や道教や仏教などの東洋学の自主勉強によっていっぱしの人間らしさをも身に付けた
聖徳太子に当たるような人間は、馬小屋の中ではなく戸の外で生まれたのでもあるからして、
馬小屋が焼け落ちたとしても助かるだろうし、助かったかどうかはまた別にしても、
人間第一主義である孔子に当たるような賢人にも、その安否を気遣われることだろう。
一方で、まさにその馬小屋の中で産まれ、馬小屋での交合で母親が孕んだらしいことからも
度しがたい獣臭さを帯び、なおかつ自分自身でその下劣さを克服しようともしなかった
イエスにあたるような人間は、馬小屋が焼け落ちると共に本人自身も焼け死ぬだろうし、
焼け死んだところで、人としての最低限の品性を重んじる孔子などが、その安否を気遣う
ことすらないだろう。なにしろ、馬か何かと同等の品性しか持ち合わせてはいないのだから。
孔子もまた、父母の野合によって産まれた子であり、父親の素性を知らされることもないままに
育った経歴の持ち主であるからして、イエスのような畜生同然の品性の持ち主になる可能性すらあった。
にもかかわらず、自力作善によって道徳者として大成したのだから、馬小屋に生れ落ちた環境の不遇さ
ばかりに責任を押し付けるわけにもいかない。馬小屋に生まれ落ち、なおかつ馬小屋の環境の下賤さに
順応して、そこからの脱却すらも志そうとはしなかった本人自身の向上心の乏しさこそは、たとえ馬小屋
が焼け落ちようともその安否が気遣われないほどにも、己が生を卑しめた根本要因に他ならないのだから。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために 来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書10:34‐36)
という本尊の暴言を忘れ去って、平和の徳を乱す不埒な感傷をばら撒き続けるカルト文書。
実際の世界史を見れば、最も平和状態を貫き通しているのはインドで、
外界からの侵略を除けば、内乱などの紛もほとんど存在しない。
次いで平和を最低限守っているのが、中国や日本などの極東社会であり、
一時の戦国時代と長期の泰平統治を順繰りにする歴史を紡いで来ている。
その次がイスラム圏で、内紛以外の戦乱にはかなり積極的でいる。
そして最悪が聖書圏であり、自他を害する内外争乱に没頭し続けている。
アブラハム教がやたらと好戦的であることは、もはや間違いのないことで、
真の平和を導くのなら、アブラハム教増長の収拾が必須であることが確か。
その精神原理となっている犯罪聖書なども、戦乱を企図しようが平和を企図しようが
やたらと感傷的であり、感情の焼け付きを抑えることで真の平和が獲得されるという
「礼記」楽記第十九の元祖平和論にも悖っている。アブラハム教の中では比較的優良な
イスラムもまた修羅道であるには違いなく、平和を実行する主体にだけはアブラハム教はなり得ない。
「其の以てする所を視、其の由る所を觀、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋さんや、人焉んぞ廋さんや」
「己れの義とするところやより所とするところ、安んじようとするところを観察すれば、どんな人でも隠し事はできない。
(人類を滅亡へと導く邪義に安んじているようでは、剣呑さの隠蔽なども全く覚束ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・一〇より)
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために 来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書10:34‐36)
という本尊の暴言を忘れ去って、平和の徳を乱す不埒な感傷をばら撒き続けるカルト文書。
実際の世界史を見れば、最も平和状態を貫き通しているのはインドで、
外界からの侵略を除けば、内乱などの紛もほとんど存在しない。
次いで平和を最低限守っているのが、中国や日本などの極東社会であり、
一時の戦国時代と長期の泰平統治を順繰りにする歴史を紡いで来ている。
その次がイスラム圏で、内紛以外の戦乱にはかなり積極的でいる。
そして最悪が聖書圏であり、自他を害する内外争乱に没頭し続けている。
アブラハム教がやたらと好戦的であることは、もはや間違いのないことで、
真の平和を導くのなら、アブラハム教増長の収拾が必須であることが確か。
その精神原理となっている犯罪聖書なども、戦乱を企図しようが平和を企図しようが
やたらと感傷的であり、感情の焼け付きを抑えることで真の平和が獲得されるという
「礼記」楽記第十九の元祖平和論にも悖っている。アブラハム教の中では比較的優良な
イスラムもまた修羅道であるには違いなく、平和を実行する主体にだけはアブラハム教はなり得ない。
「其の以てする所を視、其の由る所を觀、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋さんや、人焉んぞ廋さんや」
「己れの義とするところやより所とするところ、安んじようとするところを観察すれば、どんな人でも隠し事はできない。
(人類を滅亡へと導く邪義に安んじているようでは、剣呑さの隠蔽なども全く覚束ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・一〇より)
「自分ひとりで何でもできる」というような思い上がりを、ちゃんと父祖の身元も調べ上げた妾腹の私生児(孔子)ではなく、
父親に認知されなかったことに憤って、あらゆる血族上の父権を否定しようとした私生児(イエス)こそが抱いた。
これまた「個人主義」などという言葉で正当化される、実際問題、実在している君父らからの
恩恵すらも無視しての自意識過剰こそが、この世に救いようのない災禍をこそ撒き散らしているのであり、
その災禍からのマッチポンプな救済を企図して、これまた偽善の行いによるによる自己満足を増長させている。
人間たちの思い上がりに神からの天罰が下されるのではなく、人間たち自身の思い上がりが自業自得の災禍を巻き起こすのであり、
自業自得の受難までいちいち救ってやったりするのは教育上よくないから、神仏もあえて救わずにいようとするのみ。
他力本願の形での神仏帰依の体裁すら整えることなく、五逆や誹謗正法にまで走りつつの受難、これを自業自得という。
「彼の蒼天よ、我が良人を殲くす。
如し贖う可くんば、人其の身を百にもせん」
「ああ、蒼蒼たる上天よ、なぜ善人をこの世から滅ぼし尽くしたのか。
もしこの責任を贖うというのならば、百人の犠牲によっでも足りはすまい。
(秦の穆公が亡くなったときの嘆きの歌。実際に万億の民の命を預かっていたような主君の命が失われたことは
百人やそこらの命とも引き換えにならないほどの損失となり得るわけだが、君父の尊位もわきまえぬ娼婦の私生児の、
自意識過剰な思い上がりにかられた自殺行為が、万人の贖いに匹敵するようなことも、もちろんない。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・秦風・黄鳥より)
父親に認知されなかったことに憤って、あらゆる血族上の父権を否定しようとした私生児(イエス)こそが抱いた。
これまた「個人主義」などという言葉で正当化される、実際問題、実在している君父らからの
恩恵すらも無視しての自意識過剰こそが、この世に救いようのない災禍をこそ撒き散らしているのであり、
その災禍からのマッチポンプな救済を企図して、これまた偽善の行いによるによる自己満足を増長させている。
人間たちの思い上がりに神からの天罰が下されるのではなく、人間たち自身の思い上がりが自業自得の災禍を巻き起こすのであり、
自業自得の受難までいちいち救ってやったりするのは教育上よくないから、神仏もあえて救わずにいようとするのみ。
他力本願の形での神仏帰依の体裁すら整えることなく、五逆や誹謗正法にまで走りつつの受難、これを自業自得という。
「彼の蒼天よ、我が良人を殲くす。
如し贖う可くんば、人其の身を百にもせん」
「ああ、蒼蒼たる上天よ、なぜ善人をこの世から滅ぼし尽くしたのか。
もしこの責任を贖うというのならば、百人の犠牲によっでも足りはすまい。
(秦の穆公が亡くなったときの嘆きの歌。実際に万億の民の命を預かっていたような主君の命が失われたことは
百人やそこらの命とも引き換えにならないほどの損失となり得るわけだが、君父の尊位もわきまえぬ娼婦の私生児の、
自意識過剰な思い上がりにかられた自殺行為が、万人の贖いに匹敵するようなことも、もちろんない。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・秦風・黄鳥より)
こちらは、「儒学」という学問の冷徹な研究を、ここでの主題としているわけで、
信仰対象としての儒教や、神仏への信仰それ自体などをここでの主題としているわけではない。
カルト教義を正当化する邪神を信じていたいってんなら、別に信じてりゃいいのであって、
ただ、世の中に多大なる危害や迷惑を撒き散らす邪義の狂信者である以上は、
受刑や強制入院や禁治産や参政権剥奪などの、それぞれの病状に応じた処分を受けるべきだということ。
もちろん俺自身はそんな処分を受けたくないから、カルト教義を信仰対象にしないのはもちろんのこと、
肯定的な研究対象にすらすることはない。人々を福利厚生へと導く純粋正学=儒学などに対照しての
検察目的の研究対象にすることはあっても、信仰や実践の対象としての研究対象にすることもない。
信仰という点において、俺自身はカルト信仰の敵になるつもりもなれば、味方になるつもりもない。
「君子の讒を信ずるや、之れに醻いること或るが如くす。
君子の惠ならざるや、舒むろに之れを究めず。
木を伐るには掎よせてきり、薪を析くにも杝よせてさく。
彼の有罪を舍てて、予にのみ之れを佗わしむ」
「為政者たちまでもが卑しい讒言を信じ込み、その信仰に報いがあるかの如く思い込んでいる。
それによって為政者たちが薄情になることにも、おもむろに極まることすらない。
木を切るにも木を引き寄せて切り、薪を割るにも薪を引き寄せて割るほどにも、視野が狭くなっている始末。
罪ある者をも罪なしとして、私のような無辜の市民にばかり重荷を担わせようとする。
(詩経には、過信の弊害を説く歌が多数載せられているが、決して不信を助長させようというのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
信仰対象としての儒教や、神仏への信仰それ自体などをここでの主題としているわけではない。
カルト教義を正当化する邪神を信じていたいってんなら、別に信じてりゃいいのであって、
ただ、世の中に多大なる危害や迷惑を撒き散らす邪義の狂信者である以上は、
受刑や強制入院や禁治産や参政権剥奪などの、それぞれの病状に応じた処分を受けるべきだということ。
もちろん俺自身はそんな処分を受けたくないから、カルト教義を信仰対象にしないのはもちろんのこと、
肯定的な研究対象にすらすることはない。人々を福利厚生へと導く純粋正学=儒学などに対照しての
検察目的の研究対象にすることはあっても、信仰や実践の対象としての研究対象にすることもない。
信仰という点において、俺自身はカルト信仰の敵になるつもりもなれば、味方になるつもりもない。
「君子の讒を信ずるや、之れに醻いること或るが如くす。
君子の惠ならざるや、舒むろに之れを究めず。
木を伐るには掎よせてきり、薪を析くにも杝よせてさく。
彼の有罪を舍てて、予にのみ之れを佗わしむ」
「為政者たちまでもが卑しい讒言を信じ込み、その信仰に報いがあるかの如く思い込んでいる。
それによって為政者たちが薄情になることにも、おもむろに極まることすらない。
木を切るにも木を引き寄せて切り、薪を割るにも薪を引き寄せて割るほどにも、視野が狭くなっている始末。
罪ある者をも罪なしとして、私のような無辜の市民にばかり重荷を担わせようとする。
(詩経には、過信の弊害を説く歌が多数載せられているが、決して不信を助長させようというのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)
生まれたものは必ず死ぬ、諸行無常の法則はキリスト教徒やキリスト自身にとってですら
絶対的なものであり、不滅の命などというものが本当に得られたためしもない。これが第一。
そもそも永遠の命などを得ようと願うことからして、煩悩に侵された妄執であり、
輪廻転生の業を菩薩として徐々に減らして行き、最後には二度と生まれ変わることのない如来へと
なることを、自力で画策まではできずとも、そこにこそ「あるべき姿」を認めなければならない。これが第二。
自分自身が菩薩行や成道を企図せずとも、断悪修善や勧善懲悪を「生の本質」であると捉え、
悪逆非道や善悪みそくそは、生の中でも特に「悪因苦果」という特殊な現象の種子となるばかりで、
それは「人の命が生きる」という方向性に限ってみても、至極瑣末なものにすぎない。これが第三。
自分自身がキリスト教徒であるような人間は、せいぜい第一の問題点にまでしか頭が回らず、
第一の問題を乗り越えたところで、さらにその先に第二第三の問題が山積していることにまでは頭が回らない。
あまりにも多くの勘違いを積み重ねてしまっているが故に、その払拭を想定するのも気が重くなる。
これが、一度キリスト信仰に陥ってしまった人間が、他の教学理解にまでは頭が回らなくなる原因でもある。
「神は飲食を嗜めたまい、君を使て壽考らしむ。
孔いなる惠みと孔いなるさいわい、維れ其れ之れを盡くさん。
子子孫孫まで、替わること勿く之れを引かしめん」
「神さまもお供えの飲食物を受け取られまして、あなたの長寿を保証せられます。
大いなる恵みと大いなる福徳とを、あらん限りに尽くされまして、
子子孫孫の代代に至るまで、その恩恵を末永く引かせ給います。
(個々人の長寿と、子子孫孫の永久なる繁栄は事実あり得ることだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・楚茨より)
絶対的なものであり、不滅の命などというものが本当に得られたためしもない。これが第一。
そもそも永遠の命などを得ようと願うことからして、煩悩に侵された妄執であり、
輪廻転生の業を菩薩として徐々に減らして行き、最後には二度と生まれ変わることのない如来へと
なることを、自力で画策まではできずとも、そこにこそ「あるべき姿」を認めなければならない。これが第二。
自分自身が菩薩行や成道を企図せずとも、断悪修善や勧善懲悪を「生の本質」であると捉え、
悪逆非道や善悪みそくそは、生の中でも特に「悪因苦果」という特殊な現象の種子となるばかりで、
それは「人の命が生きる」という方向性に限ってみても、至極瑣末なものにすぎない。これが第三。
自分自身がキリスト教徒であるような人間は、せいぜい第一の問題点にまでしか頭が回らず、
第一の問題を乗り越えたところで、さらにその先に第二第三の問題が山積していることにまでは頭が回らない。
あまりにも多くの勘違いを積み重ねてしまっているが故に、その払拭を想定するのも気が重くなる。
これが、一度キリスト信仰に陥ってしまった人間が、他の教学理解にまでは頭が回らなくなる原因でもある。
「神は飲食を嗜めたまい、君を使て壽考らしむ。
孔いなる惠みと孔いなるさいわい、維れ其れ之れを盡くさん。
子子孫孫まで、替わること勿く之れを引かしめん」
「神さまもお供えの飲食物を受け取られまして、あなたの長寿を保証せられます。
大いなる恵みと大いなる福徳とを、あらん限りに尽くされまして、
子子孫孫の代代に至るまで、その恩恵を末永く引かせ給います。
(個々人の長寿と、子子孫孫の永久なる繁栄は事実あり得ることだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・楚茨より)
先祖や君父への畏敬を欠かさない者は、決して自ら自身を誇り高ぶったりすることはなく、
それでいて相応な畏敬を抱くことで卑屈になったりはせず、
人としての最大級の思い切りのよさと共に善行を為し、
以て自らの長寿と、先祖代代から子子孫孫に至るまでの永久なる安泰とを企図する。
先祖や君父への畏敬をかなぐり捨てたカルト信者は、自意識過剰の思い上がりを
「主への敬服」などにすり替えて卑屈の極みと化し、
人としての最大級の思い切りのよさと共に悪行を為し、
以て自らの短命と、家庭の崩壊とを「不滅の命の獲得」にすり替える。
先祖代代の正統な家系の存続というのも、後世に福徳をもたらす素養である以前に、
大いなる福徳がもたらされ続けてきた結果なのであり、この上なく安泰な
家であったからこそ、代々の系譜が厳重に保管されていたりもするのである。
そこに不平を抱いたりすることがあるとすれば、それは自分の先祖が不行跡の持ち主であるが故に、
不幸の種子までもが自分に受け継がれている可能性に対するコンプレックスが原因だったりするわけだが、
先祖代々の系譜が厳重に受け継がれていくほどにも、安泰だった系譜が羨ましいというのなら、自分自身
こそは安泰な家系の始祖となればいいのであって、だったらただただコンプレックスばかりに取り込まれて、
後々の子孫の不幸の種子にもなるような、自分勝手な放蕩ばかりに明け暮れていたりしてもいいわけがない。
それでいて相応な畏敬を抱くことで卑屈になったりはせず、
人としての最大級の思い切りのよさと共に善行を為し、
以て自らの長寿と、先祖代代から子子孫孫に至るまでの永久なる安泰とを企図する。
先祖や君父への畏敬をかなぐり捨てたカルト信者は、自意識過剰の思い上がりを
「主への敬服」などにすり替えて卑屈の極みと化し、
人としての最大級の思い切りのよさと共に悪行を為し、
以て自らの短命と、家庭の崩壊とを「不滅の命の獲得」にすり替える。
先祖代代の正統な家系の存続というのも、後世に福徳をもたらす素養である以前に、
大いなる福徳がもたらされ続けてきた結果なのであり、この上なく安泰な
家であったからこそ、代々の系譜が厳重に保管されていたりもするのである。
そこに不平を抱いたりすることがあるとすれば、それは自分の先祖が不行跡の持ち主であるが故に、
不幸の種子までもが自分に受け継がれている可能性に対するコンプレックスが原因だったりするわけだが、
先祖代々の系譜が厳重に受け継がれていくほどにも、安泰だった系譜が羨ましいというのなら、自分自身
こそは安泰な家系の始祖となればいいのであって、だったらただただコンプレックスばかりに取り込まれて、
後々の子孫の不幸の種子にもなるような、自分勝手な放蕩ばかりに明け暮れていたりしてもいいわけがない。
「夫れ道は大路の若く然り。豈知り難からんや。人求めざるを病うるのみ」
「聖賢の説く人倫の道は、大道のごとく誰でも見つけられ、誰でも歩むことができるのに、誰もこれを求めない。残念なことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)
むしろ誰しもが狭隘な獣道へと押しかけて、広大にたたずむ人道を顧みようともしないのが乱世。
儒学の本場である極東社会ですら、人道を打ち捨てての戦乱に没頭する時期はそれなりにあったわけだが、
ちゃんと四書五経などを参考にして泰平を堅持していく、大道を歩み続けてきた歴史のほうが遥かに長い。
最悪級の乱世を経験してもなお、泰平を持ち直した経験も数多く、「人工的な大道闊歩の復元」
すらもが可能であることを、総出を挙げての実践によって、幾度となく証明し続けてきている。
「迺こに皐門を立てるに、皐門の有れ伉き。
迺こに應門を立てるに、應門の將將たり。
迺こに冢土を立てるに、戎醜も攸て行たれり」
「王宮の外郭の門を建てるに際しては、できる限り高く広くし、
内郭の正門を建てるに際しても、できる限り広大にした。
地霊を祭る大社も建てるから、できる限り多くの人々が祭りに集ってくれるように。
(文王の祖父古公亶父による周建国伝説の歌。誰しもが集える広大な門をあえて作ることにも、
一部の人間しか集えない狭隘な門をあえて作ることにも、それぞれそれなりの意味がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・緜より)
「聖賢の説く人倫の道は、大道のごとく誰でも見つけられ、誰でも歩むことができるのに、誰もこれを求めない。残念なことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)
むしろ誰しもが狭隘な獣道へと押しかけて、広大にたたずむ人道を顧みようともしないのが乱世。
儒学の本場である極東社会ですら、人道を打ち捨てての戦乱に没頭する時期はそれなりにあったわけだが、
ちゃんと四書五経などを参考にして泰平を堅持していく、大道を歩み続けてきた歴史のほうが遥かに長い。
最悪級の乱世を経験してもなお、泰平を持ち直した経験も数多く、「人工的な大道闊歩の復元」
すらもが可能であることを、総出を挙げての実践によって、幾度となく証明し続けてきている。
「迺こに皐門を立てるに、皐門の有れ伉き。
迺こに應門を立てるに、應門の將將たり。
迺こに冢土を立てるに、戎醜も攸て行たれり」
「王宮の外郭の門を建てるに際しては、できる限り高く広くし、
内郭の正門を建てるに際しても、できる限り広大にした。
地霊を祭る大社も建てるから、できる限り多くの人々が祭りに集ってくれるように。
(文王の祖父古公亶父による周建国伝説の歌。誰しもが集える広大な門をあえて作ることにも、
一部の人間しか集えない狭隘な門をあえて作ることにも、それぞれそれなりの意味がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・緜より)
「書して不法なれば、後嗣何をか觀ん」
「記録の仕方に不法な部分があれば、後世の人々は何をそこから見習えるだろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公二十三年より)
ヘロドトスの「歴史」よりもさらにその成立年代が古く、記録の正確さでも遥かに上を行く
「春秋左氏伝」が四書五経の一書として今では認められていて、孔子やその門徒であった左丘明が
この「左伝」を世界初の本格的な歴史書としても成立させたから、後世にも「史記」や「漢書」
「後漢書」などの数多の正史が中国では編纂され続け、明らかに正統な筆法に則った
史書を律儀に成立させていく伝統が根付きもしたのだった。
先述のヘロドトス「歴史」もフィクションや誇張だらけの小説文学止まりな上、
何といっても、全くのフィクション史としてのイスラエル史を記録した旧約聖書が
正統な歴史書扱いされてきたのが西洋なわけで、そのせいもあって、正統な記録に則って
過去の歴史から学ぶという慣習が西洋には全く根付いておらず、大昔の先祖がどんな行状の
持ち主であったのかもほとんどがうやむやにされて、先祖供養がなされることももちろんない。
「政、法に率わずして心に於いて制す、民各おの心有り、何の上か之れ有らん」
「政治が古えからの法規に則らず、心の赴くままにやっつけられるばかりとなれば、
民も政治家への信用を無くして、それぞれ勝手気ままに振る舞うようになるばかりである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公四年より)
各々が勝手気ままに振る舞う民ばかりが生じてしまうのも、不法な歴史記録ばかりしか遺さずして、
後世に見習うべき教訓を伝えようともしなかった西洋の為政者たち自身の失策でもあるのであり、
それが何も、民たちにとっての不可避なる有り様なのでもなければ、もちろん神の業などでもない。
「記録の仕方に不法な部分があれば、後世の人々は何をそこから見習えるだろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公二十三年より)
ヘロドトスの「歴史」よりもさらにその成立年代が古く、記録の正確さでも遥かに上を行く
「春秋左氏伝」が四書五経の一書として今では認められていて、孔子やその門徒であった左丘明が
この「左伝」を世界初の本格的な歴史書としても成立させたから、後世にも「史記」や「漢書」
「後漢書」などの数多の正史が中国では編纂され続け、明らかに正統な筆法に則った
史書を律儀に成立させていく伝統が根付きもしたのだった。
先述のヘロドトス「歴史」もフィクションや誇張だらけの小説文学止まりな上、
何といっても、全くのフィクション史としてのイスラエル史を記録した旧約聖書が
正統な歴史書扱いされてきたのが西洋なわけで、そのせいもあって、正統な記録に則って
過去の歴史から学ぶという慣習が西洋には全く根付いておらず、大昔の先祖がどんな行状の
持ち主であったのかもほとんどがうやむやにされて、先祖供養がなされることももちろんない。
「政、法に率わずして心に於いて制す、民各おの心有り、何の上か之れ有らん」
「政治が古えからの法規に則らず、心の赴くままにやっつけられるばかりとなれば、
民も政治家への信用を無くして、それぞれ勝手気ままに振る舞うようになるばかりである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公四年より)
各々が勝手気ままに振る舞う民ばかりが生じてしまうのも、不法な歴史記録ばかりしか遺さずして、
後世に見習うべき教訓を伝えようともしなかった西洋の為政者たち自身の失策でもあるのであり、
それが何も、民たちにとっての不可避なる有り様なのでもなければ、もちろん神の業などでもない。
いま、世界で最も荒廃した地域に当たるのが、中南部のブラックアフリカ。
イギリスによる植民地化加害を蒙ったインドをも上回る貧困状態と、
アメリカやロシアに武器を売り付けられている中東をも上回る戦乱状態との
両方に動じ同時に見舞われており、あまりにも事態が深刻すぎることから、
数万人規模の殺戮が起ころうとも、大メディアではほとんどまともに取り上げられることすらない。
今のブラックアフリカは、宗教圏でいえばキリスト教圏(カトリックとプロテスタント)であり、
大航海時代に植民地侵略を加えた英欧諸国が、莫大な地産資源や奴隷をアフリカから収奪する過程で
土着宗教からキリスト教に強制改宗させており、邪教信仰による洗脳被害も仇となって、今のブラック
アフリカは、非キリスト教圏である中東(北アフリカ含む)やインド以上もの荒廃に見舞われている。
信じるものこそは、世界でも最悪級の破滅に見舞われているのがキリスト教。
富める者と餓える者との両極に人々を二極化し、人を餓えさせることによって
一部の人間を富ませる重権力犯罪構造全般を確立していく、鬼畜宗教。
「郲高なる惟の嶽、峻く天に極れり。惟の嶽神を降し、甫及び申を生む。
惟れ申及び甫は、惟れ周の翰たり。四國于こに蕃し、四方于こに宣ぶ」
「崇高なるかの嵩山は、高く天にまで至るほど。かの嵩山が神霊を降したまいて、仲山甫と申伯とを産ませた。
仲山甫と申伯とが周の大黒柱となって、四方の国も周に帰服することでの安定を得、周から四方の国へと
布令が宣べ伝えられるようにもなった。(権力道徳者は、ちゃんと国単位での全国の安定を保障している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・郲高より)
イギリスによる植民地化加害を蒙ったインドをも上回る貧困状態と、
アメリカやロシアに武器を売り付けられている中東をも上回る戦乱状態との
両方に動じ同時に見舞われており、あまりにも事態が深刻すぎることから、
数万人規模の殺戮が起ころうとも、大メディアではほとんどまともに取り上げられることすらない。
今のブラックアフリカは、宗教圏でいえばキリスト教圏(カトリックとプロテスタント)であり、
大航海時代に植民地侵略を加えた英欧諸国が、莫大な地産資源や奴隷をアフリカから収奪する過程で
土着宗教からキリスト教に強制改宗させており、邪教信仰による洗脳被害も仇となって、今のブラック
アフリカは、非キリスト教圏である中東(北アフリカ含む)やインド以上もの荒廃に見舞われている。
信じるものこそは、世界でも最悪級の破滅に見舞われているのがキリスト教。
富める者と餓える者との両極に人々を二極化し、人を餓えさせることによって
一部の人間を富ませる重権力犯罪構造全般を確立していく、鬼畜宗教。
「郲高なる惟の嶽、峻く天に極れり。惟の嶽神を降し、甫及び申を生む。
惟れ申及び甫は、惟れ周の翰たり。四國于こに蕃し、四方于こに宣ぶ」
「崇高なるかの嵩山は、高く天にまで至るほど。かの嵩山が神霊を降したまいて、仲山甫と申伯とを産ませた。
仲山甫と申伯とが周の大黒柱となって、四方の国も周に帰服することでの安定を得、周から四方の国へと
布令が宣べ伝えられるようにもなった。(権力道徳者は、ちゃんと国単位での全国の安定を保障している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・郲高より)
実在しない脳内超越神への畏敬に摩り替えることで、自分たち自身の自意識過剰を肥大化させる聖書信仰と、
もはや信仰や畏敬は捨て去りながらも、なにもかもを天邪鬼や疑心暗鬼によって塗り固めようとする洋学と、
いずれもが「自意識過剰の思い上がり」に囚われていることには変わりなく、その思い上がりを根本から
払拭できてこそ到達できる三善道や四乗に、未だかつてただの一度も到達できたことがありゃしない。
信仰か無信仰かなどということは大した問題でなく、むしろ適切な畏敬の持ち主であるかどうかのほうが
遥かに問題であり、聖書信仰者と洋学者とは、人並みの畏敬をかなぐり捨ててまでの自意識過剰に
陥っている点では全く同じであり、故に地獄餓鬼畜生の三悪趣に止まっている点も共通する。
極端に狭隘な領域ばかりに、自分たち自身の自業自得によって没入しているのであり、
それがより一般的、普遍的な信仰姿勢や学究姿勢だなどと思い込んでいるのも、ただの勘違いに過ぎない。
「勤を以て之れを撫で、𨛗を以て之れを待ち、堅疆を以て之れを御し、
明神を以て之れを要し、服するを柔んじて貳あるを伐つは、鄹の次なり」
「努めて人々をなつけ、寛容に服するのを待ち、時には堅く強い態度で抑え付けもし、
天地神明への畏敬によって人々の心を一つにし、帰服したものには優しく接する一方で、
未だ二心のあるものを断固討伐していくことが、最上の徳とまではいかずとも、その次ぐらいだとはいえる。
(堅強であることも手段の一つとしては認めるが、信が五常〔仁義礼知信〕のうちの一つに
過ぎないのと同じように、堅強さや頑なな信仰ばかりに全てを還元するものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公九年より)
もはや信仰や畏敬は捨て去りながらも、なにもかもを天邪鬼や疑心暗鬼によって塗り固めようとする洋学と、
いずれもが「自意識過剰の思い上がり」に囚われていることには変わりなく、その思い上がりを根本から
払拭できてこそ到達できる三善道や四乗に、未だかつてただの一度も到達できたことがありゃしない。
信仰か無信仰かなどということは大した問題でなく、むしろ適切な畏敬の持ち主であるかどうかのほうが
遥かに問題であり、聖書信仰者と洋学者とは、人並みの畏敬をかなぐり捨ててまでの自意識過剰に
陥っている点では全く同じであり、故に地獄餓鬼畜生の三悪趣に止まっている点も共通する。
極端に狭隘な領域ばかりに、自分たち自身の自業自得によって没入しているのであり、
それがより一般的、普遍的な信仰姿勢や学究姿勢だなどと思い込んでいるのも、ただの勘違いに過ぎない。
「勤を以て之れを撫で、𨛗を以て之れを待ち、堅疆を以て之れを御し、
明神を以て之れを要し、服するを柔んじて貳あるを伐つは、鄹の次なり」
「努めて人々をなつけ、寛容に服するのを待ち、時には堅く強い態度で抑え付けもし、
天地神明への畏敬によって人々の心を一つにし、帰服したものには優しく接する一方で、
未だ二心のあるものを断固討伐していくことが、最上の徳とまではいかずとも、その次ぐらいだとはいえる。
(堅強であることも手段の一つとしては認めるが、信が五常〔仁義礼知信〕のうちの一つに
過ぎないのと同じように、堅強さや頑なな信仰ばかりに全てを還元するものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公九年より)
江戸時代のキリシタン禁教期に、儒者などとの論戦に敗北して棄教した数多の宣教師のうちで、
特に棄教の理由として多かったのが、「奇跡や救いなどちっとも起こっていない」という点。
特に儒学や仏教によって、実際論や実相論が篤く重んじられてきたこの日本で、
脳内の妄想だけでの、奇跡だの救いだのが通用することはなかった。
あと、犯罪聖書で規定されている「神」なるものが、ただの、一段階限りの形而上に
存在する神であるに過ぎない点。一段階だけ形而上の神が存在するのなら、そのまた形而上、
さらにそのまた形而上といった入れ子構造が、考えてみるだけでも想定しうるわけで、
しかもそのような形而上への探求の重畳が、荘子の思想の一部などとしてとっくの昔に
展開されていたり、密教の曼荼羅構造として本格的な信仰対象ともされていたりするために、
ただの一段階限りの形而上であるに過ぎない神などへの信仰が全く魅力にも欠けている点。
人間という生き物自体、先祖代代の系統の存続によって生まれ付いているわけで、
父母や祖父や曽祖父といった風に、何代も前にまで親族を遡っていくことができる。
先祖代代仕えている主君なども、由緒の正しさによっては何十代と遡れるわけで、せいぜい
一段階上の上司までにしか考慮が働かないのは、それこそ主人に仕える奴隷ぐらいのもの。
ただの一段階だけ形而上であるに過ぎない神への服従を説く
聖書信仰は、まさに奴隷制の信教化そのものであるといえる。
「鄹を執りて弘からず、道を信じて篤からざれば、
焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡しと為さん」
「善徳を取り成そうとしても決して広きに渡ってはおらず、道義を信じても
薄情なままであるようなら、そんなものは生きようが死のうが大した価値はない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二より)
特に棄教の理由として多かったのが、「奇跡や救いなどちっとも起こっていない」という点。
特に儒学や仏教によって、実際論や実相論が篤く重んじられてきたこの日本で、
脳内の妄想だけでの、奇跡だの救いだのが通用することはなかった。
あと、犯罪聖書で規定されている「神」なるものが、ただの、一段階限りの形而上に
存在する神であるに過ぎない点。一段階だけ形而上の神が存在するのなら、そのまた形而上、
さらにそのまた形而上といった入れ子構造が、考えてみるだけでも想定しうるわけで、
しかもそのような形而上への探求の重畳が、荘子の思想の一部などとしてとっくの昔に
展開されていたり、密教の曼荼羅構造として本格的な信仰対象ともされていたりするために、
ただの一段階限りの形而上であるに過ぎない神などへの信仰が全く魅力にも欠けている点。
人間という生き物自体、先祖代代の系統の存続によって生まれ付いているわけで、
父母や祖父や曽祖父といった風に、何代も前にまで親族を遡っていくことができる。
先祖代代仕えている主君なども、由緒の正しさによっては何十代と遡れるわけで、せいぜい
一段階上の上司までにしか考慮が働かないのは、それこそ主人に仕える奴隷ぐらいのもの。
ただの一段階だけ形而上であるに過ぎない神への服従を説く
聖書信仰は、まさに奴隷制の信教化そのものであるといえる。
「鄹を執りて弘からず、道を信じて篤からざれば、
焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡しと為さん」
「善徳を取り成そうとしても決して広きに渡ってはおらず、道義を信じても
薄情なままであるようなら、そんなものは生きようが死のうが大した価値はない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二より)
キリスト教圏である、サハラ以南ブラックアフリカにおける大量の餓死者の直接的な死因は、
干ばつなどによる飲食物の不足である場合が多い。しかし、まともな自給自足も叶わないような
難民を増大させるほどにも、個々の国々の国情が不安定化しているのも、かつての奴隷貿易や
今の利権売買などにかまけて、英欧侵略勢力の側について権力を得た一部の支配者が、
文明社会に相応の自他に対する徳化や教育も行わず、それでいて劣悪なカルト信仰ばかりを
蔓延させることで戦乱を巻き起こし続けているからで、決して単なる天災などではなく、
邪教信仰者の文明を悪用した放辟邪侈が原因となって引き起こされている人災にこそ当たる。
いま、リビアやらエジプトやらの北アフリカ社会の動乱が大きく取り沙汰されているが、
元よりサハラ以南のブラックアフリカは、イスラム圏である北アフリカなどとも比べ物に
ならないほどの荒廃に見舞われ続けているのであり、それはもはや手も付けられないほどの惨状で
ある上に、欧米聖書圏こそが引き起こした大失態であるからして、人災としてのブラックアフリカ
荒廃の実情を、欧米聖書圏によって支配されている今の大メディアなどが報道することはない。
非キリスト教圏であり、キリスト教圏であるブラックアフリカと比べればまだ国情を保てていた
ほうである、北アフリカの情勢が悪化しているから、大メディアなども報道しているのであり、真の
荒廃から目を背けての脳内妄想にふける、邪教信仰の悪癖がメディアをも支配しているのだといえる。
「七八月の間、旱すれば則ち苗は槁れん。
天油然として雲を作し、沛然として雨を下せば、則ち苗は浡然として興きん」
「夏の七、八月ごろに干ばつが続けばたちまち苗は枯れる。このとき天空に叢叢と雲が巻き起こり、
ザーザーと大雨を降らせたならば、苗もたちまちのうちに生気を取り戻して、元気になるのである。
(苛政に喘いでいた民が、仁に篤い聖君の統治によって息を吹き返す譬え。これと比べれば、
水路の際の植物が潤うという譬えが、いかに狭量な我田引水を暗示しているのかがよくわかる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・六より)
干ばつなどによる飲食物の不足である場合が多い。しかし、まともな自給自足も叶わないような
難民を増大させるほどにも、個々の国々の国情が不安定化しているのも、かつての奴隷貿易や
今の利権売買などにかまけて、英欧侵略勢力の側について権力を得た一部の支配者が、
文明社会に相応の自他に対する徳化や教育も行わず、それでいて劣悪なカルト信仰ばかりを
蔓延させることで戦乱を巻き起こし続けているからで、決して単なる天災などではなく、
邪教信仰者の文明を悪用した放辟邪侈が原因となって引き起こされている人災にこそ当たる。
いま、リビアやらエジプトやらの北アフリカ社会の動乱が大きく取り沙汰されているが、
元よりサハラ以南のブラックアフリカは、イスラム圏である北アフリカなどとも比べ物に
ならないほどの荒廃に見舞われ続けているのであり、それはもはや手も付けられないほどの惨状で
ある上に、欧米聖書圏こそが引き起こした大失態であるからして、人災としてのブラックアフリカ
荒廃の実情を、欧米聖書圏によって支配されている今の大メディアなどが報道することはない。
非キリスト教圏であり、キリスト教圏であるブラックアフリカと比べればまだ国情を保てていた
ほうである、北アフリカの情勢が悪化しているから、大メディアなども報道しているのであり、真の
荒廃から目を背けての脳内妄想にふける、邪教信仰の悪癖がメディアをも支配しているのだといえる。
「七八月の間、旱すれば則ち苗は槁れん。
天油然として雲を作し、沛然として雨を下せば、則ち苗は浡然として興きん」
「夏の七、八月ごろに干ばつが続けばたちまち苗は枯れる。このとき天空に叢叢と雲が巻き起こり、
ザーザーと大雨を降らせたならば、苗もたちまちのうちに生気を取り戻して、元気になるのである。
(苛政に喘いでいた民が、仁に篤い聖君の統治によって息を吹き返す譬え。これと比べれば、
水路の際の植物が潤うという譬えが、いかに狭量な我田引水を暗示しているのかがよくわかる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・六より)
俺の、ここ(明和水産)での書き込みで特に専念しているのは、このスレだけだ。
あとはウパニシャッドスレぐらいで、ウパニシャッド自体、
あまり日本国内での注釈や邦訳込みの研究も進んでいないので、
冒険的な探索よりは吟味や実践を第一とする俺自身の方針にも従って、
この四書五経(聖書)スレほどには本腰を入れていくつもりもない。
他のスレやそれへの書き込みなどは、ログを保存することもないような適当な捨て書きばかり。
雑多なスレへの雑多な書き込みを自粛しろというのなら、別にそれでも構わない。
「君子は思うところその位を出でず(憲問第十四・二八)」でもあるべきなのだから。
あとはウパニシャッドスレぐらいで、ウパニシャッド自体、
あまり日本国内での注釈や邦訳込みの研究も進んでいないので、
冒険的な探索よりは吟味や実践を第一とする俺自身の方針にも従って、
この四書五経(聖書)スレほどには本腰を入れていくつもりもない。
他のスレやそれへの書き込みなどは、ログを保存することもないような適当な捨て書きばかり。
雑多なスレへの雑多な書き込みを自粛しろというのなら、別にそれでも構わない。
「君子は思うところその位を出でず(憲問第十四・二八)」でもあるべきなのだから。
恐るべきものは恐れねばならないし、畏れるべものも畏れねばならない。
そして、恐るべきものと畏れるべきものとを混同してしまってもいけない。
目の前に野生のトラやクマやゴリラがいれば、それは人間にとっての恐怖の対象になる。
あるいは小学校に包丁を持って乱入してきた無差別殺人鬼なども恐怖の対象になるし、
大地震や大津波などの自然災害だって恐怖の対象にはなる。でもそれらは、純粋に
危険な警戒対象に対する、健全な防御本能の発露の一つとしての「恐れ」であって、
目上の相手に対する敬いを込めた「畏れ」などであるわけでは決してない。
一切の権力を剥奪されている今の天皇陛下などに、恐るべき所などは微塵もないが、
やはりそこには畏敬すべきあらゆる要素が備わっていて、自らが人としての最低限の品位を
保つ目的によっても、「畏れ」を抱かねばならない相手であるという義務感がわいてくる。
野獣や天災や殺人鬼などを警戒対象として恐れる必要は確かにあるが、畏れ敬う必要などは微塵もなく、
逆に天皇陛下などを恐れたりする必要は少しもないが、自分自身のためにも畏れ敬う意義が多分にある。
野獣や天災や殺人鬼こそを畏怖の対象として、いま少しも恐怖すべきところがないことにことかけて
天皇陛下などを畏敬しようともしないような人間ってのは、「恐れ」と「畏れ」を完全に混同しており、
恐怖と畏怖を同一視してしまっている以上は、恐怖する必要のない相手には、畏怖することすらない。
体罰を加えてくる暴力教師などを畏怖していれば、己の修身による治人を旨とする
道徳的な教師への畏怖などにまでは当然頭は回らない。さらには、
そもそも教師ですらないただの犯罪集団を畏怖したりしているのであれば、なおさら。
そして、恐るべきものと畏れるべきものとを混同してしまってもいけない。
目の前に野生のトラやクマやゴリラがいれば、それは人間にとっての恐怖の対象になる。
あるいは小学校に包丁を持って乱入してきた無差別殺人鬼なども恐怖の対象になるし、
大地震や大津波などの自然災害だって恐怖の対象にはなる。でもそれらは、純粋に
危険な警戒対象に対する、健全な防御本能の発露の一つとしての「恐れ」であって、
目上の相手に対する敬いを込めた「畏れ」などであるわけでは決してない。
一切の権力を剥奪されている今の天皇陛下などに、恐るべき所などは微塵もないが、
やはりそこには畏敬すべきあらゆる要素が備わっていて、自らが人としての最低限の品位を
保つ目的によっても、「畏れ」を抱かねばならない相手であるという義務感がわいてくる。
野獣や天災や殺人鬼などを警戒対象として恐れる必要は確かにあるが、畏れ敬う必要などは微塵もなく、
逆に天皇陛下などを恐れたりする必要は少しもないが、自分自身のためにも畏れ敬う意義が多分にある。
野獣や天災や殺人鬼こそを畏怖の対象として、いま少しも恐怖すべきところがないことにことかけて
天皇陛下などを畏敬しようともしないような人間ってのは、「恐れ」と「畏れ」を完全に混同しており、
恐怖と畏怖を同一視してしまっている以上は、恐怖する必要のない相手には、畏怖することすらない。
体罰を加えてくる暴力教師などを畏怖していれば、己の修身による治人を旨とする
道徳的な教師への畏怖などにまでは当然頭は回らない。さらには、
そもそも教師ですらないただの犯罪集団を畏怖したりしているのであれば、なおさら。
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