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聖書 Part6
▼ページ最下部
世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。
特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。
一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。
そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。
仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。
人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

ちなみに、「鼻ほじり聖書」とか「ゴキブリ聖書」とか「ウ●コ聖書」とかの、
適当な意味で名づけられる聖書までをも「聖書である」と認めるのならば、本来は儒学用語である
「聖書」という言葉を剽窃して、目的語抜きの「聖書」扱いをも受けている「新旧約聖書」などが、
“ある種”の聖書として多大なる支持を未だ取り付けてもいるわけだが、新旧約聖書にもちゃんと目的があり、
目的語をちゃんと冠するのならば、新旧約聖書は「権力犯罪聖書」であるといえる。
対して、四書五経のほうを、目的語を冠した聖書として呼ぶならば、こちらは「権力道徳聖書」
であるといえ、権力犯罪の聖書である新旧約聖書よりは、まだ世の中をマシなほうへと持って行く
ことのできる点が特徴となっている。そんなに程度の高いことを書いているわけでもないが、
権力犯罪の聖書である新旧約よりはまだマシなことを書いている点もまた、権力道徳の聖書である四書五経が、
くそみそな「聖書」という言葉の定義に即したとしても、聖書中の聖書と呼ぶに値する証拠になっている。
適当な意味で名づけられる聖書までをも「聖書である」と認めるのならば、本来は儒学用語である
「聖書」という言葉を剽窃して、目的語抜きの「聖書」扱いをも受けている「新旧約聖書」などが、
“ある種”の聖書として多大なる支持を未だ取り付けてもいるわけだが、新旧約聖書にもちゃんと目的があり、
目的語をちゃんと冠するのならば、新旧約聖書は「権力犯罪聖書」であるといえる。
対して、四書五経のほうを、目的語を冠した聖書として呼ぶならば、こちらは「権力道徳聖書」
であるといえ、権力犯罪の聖書である新旧約聖書よりは、まだ世の中をマシなほうへと持って行く
ことのできる点が特徴となっている。そんなに程度の高いことを書いているわけでもないが、
権力犯罪の聖書である新旧約よりはまだマシなことを書いている点もまた、権力道徳の聖書である四書五経が、
くそみそな「聖書」という言葉の定義に即したとしても、聖書中の聖書と呼ぶに値する証拠になっている。
「爾の靈龜を舎てて、我を觀て頤を朶る、凶なり。我れを觀て頤を朶るるは、亦た貴ぶに足らざるなり」
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
人類最古の古典「易」に基づけば、霊魂はあたかも、何日も飲まず食わずのままでいられる亀のように
自存自明の存在であり、自分以外の誰かからもらい受けたりするような代物ではないという。
それこそ紙切れか藁人形のようなモノであれば、「霊魂を注入する」という体裁がまだ通用するものだが、
自らが霊魂を自得している人間のような生き物に、霊魂をさらに注入するというのは、全くおかしなこと。
自らに自明に霊魂が自存し、霊魂が自存する生命体の中でも最も高貴なる「万物の霊長」ですらあるのが
人間なのに、その人間に自存する霊魂(霊亀)を捨て去らせて、外部的に霊を注入したりすること、
それが、ありのままに不祥(凶)なことであり、霊亀を喪失して、おとがいが垂れ下がるほどにも
間抜けに口が開いたままの状態となってしまっていることが、貴ぶにも値しない下賤な姿であるとされる。
神が泥土をこねて霊魂を注入しアダムを作っただの、キリスト信者が神から新たな聖霊を授かっただのの
聖書教義よりも、何千年も昔から存在している「易」の判断。「サルが進化してヒトになった」だのの、
進化論などが提唱される以前に、易学のような人類の英知が、後々に退化して聖書教義などともなっている。
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)
人類最古の古典「易」に基づけば、霊魂はあたかも、何日も飲まず食わずのままでいられる亀のように
自存自明の存在であり、自分以外の誰かからもらい受けたりするような代物ではないという。
それこそ紙切れか藁人形のようなモノであれば、「霊魂を注入する」という体裁がまだ通用するものだが、
自らが霊魂を自得している人間のような生き物に、霊魂をさらに注入するというのは、全くおかしなこと。
自らに自明に霊魂が自存し、霊魂が自存する生命体の中でも最も高貴なる「万物の霊長」ですらあるのが
人間なのに、その人間に自存する霊魂(霊亀)を捨て去らせて、外部的に霊を注入したりすること、
それが、ありのままに不祥(凶)なことであり、霊亀を喪失して、おとがいが垂れ下がるほどにも
間抜けに口が開いたままの状態となってしまっていることが、貴ぶにも値しない下賤な姿であるとされる。
神が泥土をこねて霊魂を注入しアダムを作っただの、キリスト信者が神から新たな聖霊を授かっただのの
聖書教義よりも、何千年も昔から存在している「易」の判断。「サルが進化してヒトになった」だのの、
進化論などが提唱される以前に、易学のような人類の英知が、後々に退化して聖書教義などともなっている。
新スレのスレ画に誤表記があったので、新たに立て直した。
自分のレスを除けば、まだクズみたいなレスしかされてなかったので、別にいいだろう。
万物の霊長たる人間にとって、霊魂は自得のものであり、外からもらい受けたりすべきものではない。
霊魂は先天的に内在しているものだから、その霊魂が楽しむことは当然、内面からの楽しみとなる。
一方で、自らの霊魂(霊亀)を捨てて他者から霊魂をもらおうとしているような賤人にとっては、
「顔」のような外面が楽しみの輝きに満ちていることが重要となり、それを「心の内の輝き」
だなどとも倒錯する。実際には、霊亀を捨ててでも外部からの霊魂を欲しようとするような
賤人の内面は空っぽの暗闇であり、いくら外側から光を注いでも、暗闇のままである。
だから、そのような賤人同士の間には、卑しみや偽りや侮りばかりが横行する。
おとがいが垂れ下がるほどにも口の緩んだ、魂の抜けきった輩などに貴さは微塵もないから。
「心中斯くも和せず樂しまざるときは、鄙詐の心之れに入る。外貌斯くも莊ならず敬ならざれば、
易慢の心之れに入る。故に樂は内に動く者なり、禮は外に動く者なり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なれば、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わず、其の容貌を望みて民易慢を生ぜず。
故に 輝は内に動きて、民に承け聽かざる莫く、理は外に發して、民に承け順わざる莫し」
「心中に少しでも楽しくないところがあれば、卑しみ偽りの心が生ずる。
外貌に少しでも荘重でないところがあれば、侮りの心が生ずる。そのため楽しみは
内面にあるべきものであり、礼儀正しさは外面にあるべきものだといえる。
楽しみは和やかさを極め、礼儀正しさは貞順さを極める。内面が和らいで外面が貞順であったなら、
民たちもその顔色を見て闘争心を燃やすこともなければ、その姿を見て侮りの心を抱くこともない。
徳性の光輝が内面に躍動することで民も言うことを聞かないことがなくなり、
条理の正しさが外面に発することで民も受け従わないことがなくなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
自分のレスを除けば、まだクズみたいなレスしかされてなかったので、別にいいだろう。
万物の霊長たる人間にとって、霊魂は自得のものであり、外からもらい受けたりすべきものではない。
霊魂は先天的に内在しているものだから、その霊魂が楽しむことは当然、内面からの楽しみとなる。
一方で、自らの霊魂(霊亀)を捨てて他者から霊魂をもらおうとしているような賤人にとっては、
「顔」のような外面が楽しみの輝きに満ちていることが重要となり、それを「心の内の輝き」
だなどとも倒錯する。実際には、霊亀を捨ててでも外部からの霊魂を欲しようとするような
賤人の内面は空っぽの暗闇であり、いくら外側から光を注いでも、暗闇のままである。
だから、そのような賤人同士の間には、卑しみや偽りや侮りばかりが横行する。
おとがいが垂れ下がるほどにも口の緩んだ、魂の抜けきった輩などに貴さは微塵もないから。
「心中斯くも和せず樂しまざるときは、鄙詐の心之れに入る。外貌斯くも莊ならず敬ならざれば、
易慢の心之れに入る。故に樂は内に動く者なり、禮は外に動く者なり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なれば、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わず、其の容貌を望みて民易慢を生ぜず。
故に 輝は内に動きて、民に承け聽かざる莫く、理は外に發して、民に承け順わざる莫し」
「心中に少しでも楽しくないところがあれば、卑しみ偽りの心が生ずる。
外貌に少しでも荘重でないところがあれば、侮りの心が生ずる。そのため楽しみは
内面にあるべきものであり、礼儀正しさは外面にあるべきものだといえる。
楽しみは和やかさを極め、礼儀正しさは貞順さを極める。内面が和らいで外面が貞順であったなら、
民たちもその顔色を見て闘争心を燃やすこともなければ、その姿を見て侮りの心を抱くこともない。
徳性の光輝が内面に躍動することで民も言うことを聞かないことがなくなり、
条理の正しさが外面に発することで民も受け従わないことがなくなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)
殷周革命を嫌い、首陽山に引きこもって餓死した
伯夷・叔斉兄弟の話はすでにここでも何度も述べた。
二人が半ば過剰なほどもの潔癖主義で、素行の不善な諸侯からの招きなどは決して
受けなかったことが、「孟子」公孫丑章句上・九などでも取り上げられている。
その伯夷・叔斉の評価を、弟子の子路が孔子に尋ねたところ、「古えの賢人だ」と答えた。
(伯夷・叔斉は孔子の代からもさらに500年以上遡る古えの人物である)
さらに「(周の武王に放伐革命を思いとどまるように諌めたが聞き入れられず、放伐の不義に
満ちた世での仕官を嫌って山にこもり、餓死したことを)怨んでいたでしょうか」と子路が聞くと、
「(道義を守って仕官を求めなかったことなどで)仁を求めて仁を得たのだから、
なぜ怨んだりすることがあろうか」と答えた。(述而第七・一四を参照)
仁を求めるための手段は、「不義の栄華を求めない」とかの禁欲的な要求の実践による所が大きく、
不義に根ざした富貴栄達を求めたりすれば、そもそもそれは「仁を求めない」ことにも直結する。
求めて得たりする以前に、そもそも誰も「求める段階」にすら進めないのが仁であり、仁を求めて
得ることもできないから、仁以外のあらゆるものを求め、貪って止まないザマとも化すのである。
「仁を欲して仁を得たり、又た焉をか貪らん」
「仁を求めて仁を得たのだから、これ以上なにを貪る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
伯夷・叔斉兄弟の話はすでにここでも何度も述べた。
二人が半ば過剰なほどもの潔癖主義で、素行の不善な諸侯からの招きなどは決して
受けなかったことが、「孟子」公孫丑章句上・九などでも取り上げられている。
その伯夷・叔斉の評価を、弟子の子路が孔子に尋ねたところ、「古えの賢人だ」と答えた。
(伯夷・叔斉は孔子の代からもさらに500年以上遡る古えの人物である)
さらに「(周の武王に放伐革命を思いとどまるように諌めたが聞き入れられず、放伐の不義に
満ちた世での仕官を嫌って山にこもり、餓死したことを)怨んでいたでしょうか」と子路が聞くと、
「(道義を守って仕官を求めなかったことなどで)仁を求めて仁を得たのだから、
なぜ怨んだりすることがあろうか」と答えた。(述而第七・一四を参照)
仁を求めるための手段は、「不義の栄華を求めない」とかの禁欲的な要求の実践による所が大きく、
不義に根ざした富貴栄達を求めたりすれば、そもそもそれは「仁を求めない」ことにも直結する。
求めて得たりする以前に、そもそも誰も「求める段階」にすら進めないのが仁であり、仁を求めて
得ることもできないから、仁以外のあらゆるものを求め、貪って止まないザマとも化すのである。
「仁を欲して仁を得たり、又た焉をか貪らん」
「仁を求めて仁を得たのだから、これ以上なにを貪る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)
あんまり能弁をたれてたい気分でもないが、あっちが書いてるからこっちも書くしかない。
乳飲み子を抱いて非難してきた母子の映像なども多数放映されているし、
多少、今回の震災にちなんでの引用であるかのような感がなきにしもあらずだが、
仮にそうであるというのなら、
自分たちの引き起こした人災によって何億もの人々を犠牲に追いやっている連中が、
避けようのなかった天災などに対する憐憫の情などをひけらかすことからして、欺瞞にも程がある。
天の作せる災いはなお避くべきも、自らの作せる災いからは逃るべからず(書経)。
天災ですらこれほどにも避けようがないのに、どうして自業自得の災禍から逃れられようか。
「武王は邇きを泄ず、遠きを忘れず」
「武王は近親のものだからといって馴れ合ったりはせず、疎遠のものだからといって忘れ去ったりもしなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)
乳飲み子を抱いて非難してきた母子の映像なども多数放映されているし、
多少、今回の震災にちなんでの引用であるかのような感がなきにしもあらずだが、
仮にそうであるというのなら、
自分たちの引き起こした人災によって何億もの人々を犠牲に追いやっている連中が、
避けようのなかった天災などに対する憐憫の情などをひけらかすことからして、欺瞞にも程がある。
天の作せる災いはなお避くべきも、自らの作せる災いからは逃るべからず(書経)。
天災ですらこれほどにも避けようがないのに、どうして自業自得の災禍から逃れられようか。
「武王は邇きを泄ず、遠きを忘れず」
「武王は近親のものだからといって馴れ合ったりはせず、疎遠のものだからといって忘れ去ったりもしなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)
多くの人々が災難によって命を落としている中で「雄雄しくあれ」なんてのも、不謹慎にもほどがある。
被害に遭った人々への、悼み悔やみの念を湛えて、彼らの気持ちを逆立てないための配慮と共に援助などにも臨むこと。
そうでもなければ、まだいないほうがマシなぐらいの、火事場泥棒にすらなりかねない。
「晉侯、屠蒯をして周に如き、雒と三塗に事有らんことを請う。
萇弘、劉子謂いて曰く、客の容猛し、祭りに非ざるなり。其れ戎を伐たんか。(中略)乃ち戎の備えを警しむ」
「晋候が屠蒯をに命じて周に遣り、洛水と三途山で霊を鎮める祭りをしたいと請わしめた。応対した周の大夫の萇弘は、
公卿の劉子にこう報告した。『客人(蒯)の容貌は随分と雄雄しく、とても鎮祭の共催が目的であるとは思えません。
おそらく蛮族を討伐するのが本当の目的でしょう』 そこで劉子は蛮族を討伐する用意を推し進めた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十八年より)
被害に遭った人々への、悼み悔やみの念を湛えて、彼らの気持ちを逆立てないための配慮と共に援助などにも臨むこと。
そうでもなければ、まだいないほうがマシなぐらいの、火事場泥棒にすらなりかねない。
「晉侯、屠蒯をして周に如き、雒と三塗に事有らんことを請う。
萇弘、劉子謂いて曰く、客の容猛し、祭りに非ざるなり。其れ戎を伐たんか。(中略)乃ち戎の備えを警しむ」
「晋候が屠蒯をに命じて周に遣り、洛水と三途山で霊を鎮める祭りをしたいと請わしめた。応対した周の大夫の萇弘は、
公卿の劉子にこう報告した。『客人(蒯)の容貌は随分と雄雄しく、とても鎮祭の共催が目的であるとは思えません。
おそらく蛮族を討伐するのが本当の目的でしょう』 そこで劉子は蛮族を討伐する用意を推し進めた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十八年より)
放任主義でも雁字搦めでもない、適度な作為の介入による生育の助成という、
今の世の教育論すら全く及んでいない中正な成育論を、孟子が述べている。
これは、子供に対する教育などにも応用できるだろう一方で、孟子の論旨とおりに、
個々人の人々自身が浩然の気などを養うための手法としても参考にできるもの。
自らに内在する浩然の気を、何の考えもなく放置しているだけでは、雑念に養分を吸われて萎える
だけだし、逆に無理に「助長」しようとしても、全てを枯らしてしまうようなことにすらなってしまう。
精神不安定状態の人間なんてのも、自らの精神的安定を全くのほっぽらかしにした躁状態となったり、
逆に完全に精神の躍動が滞った鬱状態となったりの、双極に振れきることでさらに病状を悪化させる。
全く抑制しないわけでもなければ、完全に抑制しきるのでもない、適度な精神の躍動こそは
健康な精神状態をも育むのであるからして、精神に対する無理な助長を施すことも禁物である。
今の世の教育論すら全く及んでいない中正な成育論を、孟子が述べている。
これは、子供に対する教育などにも応用できるだろう一方で、孟子の論旨とおりに、
個々人の人々自身が浩然の気などを養うための手法としても参考にできるもの。
自らに内在する浩然の気を、何の考えもなく放置しているだけでは、雑念に養分を吸われて萎える
だけだし、逆に無理に「助長」しようとしても、全てを枯らしてしまうようなことにすらなってしまう。
精神不安定状態の人間なんてのも、自らの精神的安定を全くのほっぽらかしにした躁状態となったり、
逆に完全に精神の躍動が滞った鬱状態となったりの、双極に振れきることでさらに病状を悪化させる。
全く抑制しないわけでもなければ、完全に抑制しきるのでもない、適度な精神の躍動こそは
健康な精神状態をも育むのであるからして、精神に対する無理な助長を施すことも禁物である。
「宋人に其の苗の長ぜざるを閔えて之れを揠く者有り。芒芒然として歸り、其の人に謂いて曰く、
今日は病れん、予れ苗を助けて長ぜしめたり。其の子趨りて往きて之れを視れば、苗は則ち槁れたり。
天下の苗を助けて長ぜしむる者は寡なし。以て益無しと為して之れを舍つる者は、苗を耘らざる者なり。
之れを助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而って又た之れを害う」
「昔、宋に、田んぼの苗がなかなか成長しないのを憂えて、苗を自らの手で引き伸ばす者がいた。
茫然と疲れきって家に帰り、家族に語って言った。『ああ、今日は疲れた。何しろ全ての苗を助けて
伸長してやったのだから』 それを聞いて不審に思った息子が田んぼに行ってみると、苗は全て枯れていた。
この世に苗を助長してやろうとする人間は少なく、全くの無益としてこれを顧みないのは、あたかも
雑草抜きなどの田畑の手入れすらしないようなもので、これもよくない。かといって、件の宋人のように、
無理に助長してやろうとするのも、あたかも苗を手で引き伸ばして、全て枯らしてしまうような結果を招く。
これらのうちのいずれもが、ただ無益であるばかりでなく、積極的に害を招く行為ですらあるのだ。
(孟子は浩然の気を暗に『苗』に例えているが、浩然の気もまた上記の苗の場合と同じように、
全く打ち棄てて雑草ボウボウの状態にすれば生育しない一方で、無理に苗を引っ張るような
強引な手法によって助長しようとしても、全ての苗を枯らすようにして生育を妨げることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・二より)
今日は病れん、予れ苗を助けて長ぜしめたり。其の子趨りて往きて之れを視れば、苗は則ち槁れたり。
天下の苗を助けて長ぜしむる者は寡なし。以て益無しと為して之れを舍つる者は、苗を耘らざる者なり。
之れを助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而って又た之れを害う」
「昔、宋に、田んぼの苗がなかなか成長しないのを憂えて、苗を自らの手で引き伸ばす者がいた。
茫然と疲れきって家に帰り、家族に語って言った。『ああ、今日は疲れた。何しろ全ての苗を助けて
伸長してやったのだから』 それを聞いて不審に思った息子が田んぼに行ってみると、苗は全て枯れていた。
この世に苗を助長してやろうとする人間は少なく、全くの無益としてこれを顧みないのは、あたかも
雑草抜きなどの田畑の手入れすらしないようなもので、これもよくない。かといって、件の宋人のように、
無理に助長してやろうとするのも、あたかも苗を手で引き伸ばして、全て枯らしてしまうような結果を招く。
これらのうちのいずれもが、ただ無益であるばかりでなく、積極的に害を招く行為ですらあるのだ。
(孟子は浩然の気を暗に『苗』に例えているが、浩然の気もまた上記の苗の場合と同じように、
全く打ち棄てて雑草ボウボウの状態にすれば生育しない一方で、無理に苗を引っ張るような
強引な手法によって助長しようとしても、全ての苗を枯らすようにして生育を妨げることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・二より)
これから途方もない労力をかけて復興を目指していく被災者たちに、
「立ち返れば救われる」などとほざくのは、それこそ現実逃避を促すのみとなる。
現実逃避をするということは、完全に絶望しきるということであり、
一抹の希望すら捨て去ってしまった朦朧状態と化すことを、
「救い」であるのだとキリスト狂徒たちが倒錯していることがわかる。
絶望を救いに摩り替えさせる洗脳の強制は、特にアフリカの聖書教末端被害教徒などに対して顕著であり、
欧米社会からの酷烈な侵略征服被害によって、どうあっても救いようのないような惨状に置かれているのに、
アフリカの黒人たちはよくヘラヘラと笑っている。あれも希望があるからではなく、絶望を救いだと
倒錯しているから笑っているだけで、決してあの姿を「健気だ」などと思ったりしてはならない。
日本人の中でも、特に実直な性格の持ち主であるのが東北人であることもあって、
あまりにも大きな被害に遭った東北の被災者たちは、今みんな泣いている。
あれこそは苦難に対する健全な反応であり、家族を喪ったり家を失ったりしてまで
ヘラヘラ笑ったりしているほうが明らかにおかしい。苦難に相応の悲しみをこそバネとして
これからの復興にも努めていくのだから、決して絶望を促すような甘言を弄してはならない。
「凡そ民に喪有るときは、扶服して之れを救う。(中略)天下其れ孰れか能く之れに當たらんや」
「自国の国民に大きな不幸があったときには、国を司る者などは、(口先でごまかしたりはせず)
はいつくばってでもこれを救わねばならない。天下にそれが可能なものが果たしてどれだけいようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
「立ち返れば救われる」などとほざくのは、それこそ現実逃避を促すのみとなる。
現実逃避をするということは、完全に絶望しきるということであり、
一抹の希望すら捨て去ってしまった朦朧状態と化すことを、
「救い」であるのだとキリスト狂徒たちが倒錯していることがわかる。
絶望を救いに摩り替えさせる洗脳の強制は、特にアフリカの聖書教末端被害教徒などに対して顕著であり、
欧米社会からの酷烈な侵略征服被害によって、どうあっても救いようのないような惨状に置かれているのに、
アフリカの黒人たちはよくヘラヘラと笑っている。あれも希望があるからではなく、絶望を救いだと
倒錯しているから笑っているだけで、決してあの姿を「健気だ」などと思ったりしてはならない。
日本人の中でも、特に実直な性格の持ち主であるのが東北人であることもあって、
あまりにも大きな被害に遭った東北の被災者たちは、今みんな泣いている。
あれこそは苦難に対する健全な反応であり、家族を喪ったり家を失ったりしてまで
ヘラヘラ笑ったりしているほうが明らかにおかしい。苦難に相応の悲しみをこそバネとして
これからの復興にも努めていくのだから、決して絶望を促すような甘言を弄してはならない。
「凡そ民に喪有るときは、扶服して之れを救う。(中略)天下其れ孰れか能く之れに當たらんや」
「自国の国民に大きな不幸があったときには、国を司る者などは、(口先でごまかしたりはせず)
はいつくばってでもこれを救わねばならない。天下にそれが可能なものが果たしてどれだけいようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)
明和水産も今、ネットからのアクセスができない。
サーバが計画停電中の区域にあるのか。
今回の地震では、車に乗って逃げたりする間もなく、津波に巻き込まれて命を落とした人々が多い。
迫り来る波から車で逃げ惑う映像なども相当数撮影されているが、車に乗れたかどうかではなく、
震源地から近かったか遠かったかで、命運を左右した場合が多いようだ。
陸地に乗り上げた頃の津波は時速40km程度となり、走って逃げるのは
無理にしても、震源地から十分遠かった場合に、車で逃げるのは効果的なようだ。
GPSのカーナビがまだ使える場合もあるだろうが、万全を期すのなら、読みなれた地図や
方位磁石なども車内に常備しておき、地理関係を把握できる準備をよく整えておいて、
地震が起これば即、海岸線とは真逆の方向に逃げ、高台があれば直ちにそこに乗り上げる。
そのような適切な処断が可能であれば、車による逃走なども一定の効果を持つようだ。
以下、地震関係に照らし合わせるには不謹慎な、戦闘行為に関する引用だが、
本当に今回の地震が、単なる天災ではなく、戦争級の人災である可能性も出てきたので、
仮に戦争であった場合には、東北人が下の孟之反のような、戦役の功労者であったのだ
という認識を、事後に広められたならと思う。今はまだ、その時期でもないが。
「孟之反伐らず。奔りて殿す。將に門に入らんとき、
其の馬を策ちて曰く、敢えて後るるに非ざるなり、馬進まざるなり」
「魯国の大夫である孟之反は自慢をしない人だった。昔、魯軍が斉軍と戦って敗走し、
最後尾で追っ手を迎撃する殿軍の長という難役を彼が務めた。見事迎撃を果たし、
安全な陣地の門にたどり着いたときに、自らが乗っていた馬を叩きつつこう言った。
『別にあえて殿(しんがり)を務めたのではありませぬ。ただ馬がなかなか進みませんでな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・一五より)
サーバが計画停電中の区域にあるのか。
今回の地震では、車に乗って逃げたりする間もなく、津波に巻き込まれて命を落とした人々が多い。
迫り来る波から車で逃げ惑う映像なども相当数撮影されているが、車に乗れたかどうかではなく、
震源地から近かったか遠かったかで、命運を左右した場合が多いようだ。
陸地に乗り上げた頃の津波は時速40km程度となり、走って逃げるのは
無理にしても、震源地から十分遠かった場合に、車で逃げるのは効果的なようだ。
GPSのカーナビがまだ使える場合もあるだろうが、万全を期すのなら、読みなれた地図や
方位磁石なども車内に常備しておき、地理関係を把握できる準備をよく整えておいて、
地震が起これば即、海岸線とは真逆の方向に逃げ、高台があれば直ちにそこに乗り上げる。
そのような適切な処断が可能であれば、車による逃走なども一定の効果を持つようだ。
以下、地震関係に照らし合わせるには不謹慎な、戦闘行為に関する引用だが、
本当に今回の地震が、単なる天災ではなく、戦争級の人災である可能性も出てきたので、
仮に戦争であった場合には、東北人が下の孟之反のような、戦役の功労者であったのだ
という認識を、事後に広められたならと思う。今はまだ、その時期でもないが。
「孟之反伐らず。奔りて殿す。將に門に入らんとき、
其の馬を策ちて曰く、敢えて後るるに非ざるなり、馬進まざるなり」
「魯国の大夫である孟之反は自慢をしない人だった。昔、魯軍が斉軍と戦って敗走し、
最後尾で追っ手を迎撃する殿軍の長という難役を彼が務めた。見事迎撃を果たし、
安全な陣地の門にたどり着いたときに、自らが乗っていた馬を叩きつつこう言った。
『別にあえて殿(しんがり)を務めたのではありませぬ。ただ馬がなかなか進みませんでな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・一五より)
ここにも、PCからアクセスできる人間はできているようだな。
ウチから明和へのアクセス系統だけに、特定して不具合が出ているのか。
超越神だと勘違いした脳内自我の肥大化に陶酔して、我執にまみれた自意識過剰な
言行に走ることが、親族兄弟までをも辟易させて、挙句には殺し合いにまで発展させる
自業自得の原因となっていることが、下の真正聖書の記述などからも明らか。
俺個人の意見だとすれば、「若造が何をいう」などということにもなりかねないが、
犯罪聖書よりも遥かに成立の古い真正聖書=四書五経にこそ書かれていることだから、
後からやってきた脳内超越神などに、言葉の信頼度の優越を微塵たりとも許すものではない。
「志し自慢すれば、九族も乃ち離る」
「自らの志しをやたらと披瀝することでいい気になっているようでは、親族兄弟ですら背き離れていく。
(この引用は、1700年前の永嘉の乱における『書経』全文散逸後の、断片の寄せ集め修復部分にあたる
『偽古文尚書』からのものだが、孟子も永嘉の乱や焚書坑儒以前に、今の偽古文尚書にあたる『書経』の
一部を引用したりしているため、偽古文部分もまた2300年以上前から存在していたことが明らかである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
ウチから明和へのアクセス系統だけに、特定して不具合が出ているのか。
超越神だと勘違いした脳内自我の肥大化に陶酔して、我執にまみれた自意識過剰な
言行に走ることが、親族兄弟までをも辟易させて、挙句には殺し合いにまで発展させる
自業自得の原因となっていることが、下の真正聖書の記述などからも明らか。
俺個人の意見だとすれば、「若造が何をいう」などということにもなりかねないが、
犯罪聖書よりも遥かに成立の古い真正聖書=四書五経にこそ書かれていることだから、
後からやってきた脳内超越神などに、言葉の信頼度の優越を微塵たりとも許すものではない。
「志し自慢すれば、九族も乃ち離る」
「自らの志しをやたらと披瀝することでいい気になっているようでは、親族兄弟ですら背き離れていく。
(この引用は、1700年前の永嘉の乱における『書経』全文散逸後の、断片の寄せ集め修復部分にあたる
『偽古文尚書』からのものだが、孟子も永嘉の乱や焚書坑儒以前に、今の偽古文尚書にあたる『書経』の
一部を引用したりしているため、偽古文部分もまた2300年以上前から存在していたことが明らかである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)
またPCからも読み書きできるようになった。
とはいえ、今の自分の気持ちは、下の真正聖書の言葉にほぼ尽くされているので、あえて自ら長く語るまい。
強いて言えば、「天地は滅びなくていいから、犯罪聖書だけが滅びろ」とだけ思うのみだ。
「天は喪亂を降して、我が立王を滅ぼさんとす。
此の蟊賊を降して、稼穡して卒に痒なわしむ。
哀恫たる中國、具贅して卒に荒みぬ。
旅力以て、穹蒼を念ふもの有る靡し。
維れ此の惠君は、民人の瞻ぐ所。
心を秉りて宣く猶り、其の相を考え慎めり。
維れ彼の順わざるは、自から獨り臧からしむ。
自から肺腸有りて、民をして卒く狂わしむ。
彼の中林を瞻れば、甡甡たる其の鹿。
朋友にして已に譖り、胥い以て穀せず。
人亦た言える有り、進むも退くも維れ谷まれりと。
維れ此の聖人、百里の言を瞻る。
維れ彼の愚人、覆狂して以て喜ぶ。
言の能わざるに匪ず、斯の畏忌を胡んせん」
とはいえ、今の自分の気持ちは、下の真正聖書の言葉にほぼ尽くされているので、あえて自ら長く語るまい。
強いて言えば、「天地は滅びなくていいから、犯罪聖書だけが滅びろ」とだけ思うのみだ。
「天は喪亂を降して、我が立王を滅ぼさんとす。
此の蟊賊を降して、稼穡して卒に痒なわしむ。
哀恫たる中國、具贅して卒に荒みぬ。
旅力以て、穹蒼を念ふもの有る靡し。
維れ此の惠君は、民人の瞻ぐ所。
心を秉りて宣く猶り、其の相を考え慎めり。
維れ彼の順わざるは、自から獨り臧からしむ。
自から肺腸有りて、民をして卒く狂わしむ。
彼の中林を瞻れば、甡甡たる其の鹿。
朋友にして已に譖り、胥い以て穀せず。
人亦た言える有り、進むも退くも維れ谷まれりと。
維れ此の聖人、百里の言を瞻る。
維れ彼の愚人、覆狂して以て喜ぶ。
言の能わざるに匪ず、斯の畏忌を胡んせん」
削除(by投稿者)
訳文を一部訂正。
「天はいま大いなる争乱を下して、我らが建てた王国すらをも滅ぼさんとしている。
作物を根絶やしにする甚大なる虫害を下し、五穀をも全て萎えさせんとす。
傷ましき我が中つ国、みなで力を上げて災害に臨むも、その中に余裕を以って復興を期待するものもいない。
かの道義に従順なる元君は、今でも民たちの仰ぎ見るところ。
真心を尽くしてよく慮り、忠臣の助けを借りて悪臣の助けを借りぬ所まで、考えを行き届かせられている。
一方で、道義に従わぬ彼の輩は、今でもただ自分独りの独善ばかりに執心する。
『自分にこそ義があるのだ』などとうそぶいて、民をことごとく狂乱に陥らせて憚らぬ。
今でも林野に目を向けてみれば、鹿たちが心置きなく群れ遊んでいるというのに、
ただ人間ばかりは互いに偽り合って、食料を均等に分け合うことすらしない。
今や人々はこう言っている、『もはや進むも退くも極まるときが来たのだ』と。
かの聖人君子は、百里の先への憂患すらも尽くしている。
一方でかの愚人は、災禍を福音だなどと倒錯して、完全に狂いながら喜んでいる。
この正邪曲直の分断を、告発しないでいることが怠りとなるのを恐れるばかり。
(害虫分子による賊害がある意味天災であるとは言える。天は害虫の蠢動などよりも、さらなる形而上に位置するから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)
「天はいま大いなる争乱を下して、我らが建てた王国すらをも滅ぼさんとしている。
作物を根絶やしにする甚大なる虫害を下し、五穀をも全て萎えさせんとす。
傷ましき我が中つ国、みなで力を上げて災害に臨むも、その中に余裕を以って復興を期待するものもいない。
かの道義に従順なる元君は、今でも民たちの仰ぎ見るところ。
真心を尽くしてよく慮り、忠臣の助けを借りて悪臣の助けを借りぬ所まで、考えを行き届かせられている。
一方で、道義に従わぬ彼の輩は、今でもただ自分独りの独善ばかりに執心する。
『自分にこそ義があるのだ』などとうそぶいて、民をことごとく狂乱に陥らせて憚らぬ。
今でも林野に目を向けてみれば、鹿たちが心置きなく群れ遊んでいるというのに、
ただ人間ばかりは互いに偽り合って、食料を均等に分け合うことすらしない。
今や人々はこう言っている、『もはや進むも退くも極まるときが来たのだ』と。
かの聖人君子は、百里の先への憂患すらも尽くしている。
一方でかの愚人は、災禍を福音だなどと倒錯して、完全に狂いながら喜んでいる。
この正邪曲直の分断を、告発しないでいることが怠りとなるのを恐れるばかり。
(害虫分子による賊害がある意味天災であるとは言える。天は害虫の蠢動などよりも、さらなる形而上に位置するから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)
神霊ってのは、不動不変なものであり、人間に多動をけしかけるようなものではない。
たとえば、天台宗の千日回峰行では、ほとんどろくな栄養も摂らないままで
地球半周分以上(21000Km)もの距離を歩き続ける荒行が行われる。
行者はこのような荒行に臨むことによってこそ、不動明王との一体化を図るという。
その心は、最大級の多動による苦しみすらも克服して、霊の加護も受けた不動への安住を
企図するということであり、やはり不動不変の境地における神霊の介在こそを認めている。
無軌道状態の多動こそは、霊的な加護をかなぐり捨てた「失神」状態を招くものであり、
その失神状態にあえて身を置くことで、不動不変の霊威を背理法的に把捉することを
試みる苦行者などもいるが、多動それ自体が神霊と共にあるなどということはない。
「臣、其の股肱の力を竭くして、之れに加うるに忠貞を以ってせん。
其れ濟らば君の靈なり、濟らずんば則ち死を以って之れに繼がん」
「私は自らの股肱の力の限りを尽くし、なおかつ忠順と貞良を以って公室に仕えていく所存です。
もしそれが成功いたしましたならば、君の霊による加護があったものといえますし、
もし成功できなかったとしても、その時は私自身が死を以って責任を取る所存です。
(臨終間際の晋の献公に対する護衛者荀息の言葉。全力をかけての仕事が忠貞さによって
霊の加護を受けることを期待している。霊の加護を受ける根拠となるのは、あくまで
行動に一定の制限を設ける忠貞さのほうであって、無軌道な多動であったりはしない)」
「権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公九年より」
たとえば、天台宗の千日回峰行では、ほとんどろくな栄養も摂らないままで
地球半周分以上(21000Km)もの距離を歩き続ける荒行が行われる。
行者はこのような荒行に臨むことによってこそ、不動明王との一体化を図るという。
その心は、最大級の多動による苦しみすらも克服して、霊の加護も受けた不動への安住を
企図するということであり、やはり不動不変の境地における神霊の介在こそを認めている。
無軌道状態の多動こそは、霊的な加護をかなぐり捨てた「失神」状態を招くものであり、
その失神状態にあえて身を置くことで、不動不変の霊威を背理法的に把捉することを
試みる苦行者などもいるが、多動それ自体が神霊と共にあるなどということはない。
「臣、其の股肱の力を竭くして、之れに加うるに忠貞を以ってせん。
其れ濟らば君の靈なり、濟らずんば則ち死を以って之れに繼がん」
「私は自らの股肱の力の限りを尽くし、なおかつ忠順と貞良を以って公室に仕えていく所存です。
もしそれが成功いたしましたならば、君の霊による加護があったものといえますし、
もし成功できなかったとしても、その時は私自身が死を以って責任を取る所存です。
(臨終間際の晋の献公に対する護衛者荀息の言葉。全力をかけての仕事が忠貞さによって
霊の加護を受けることを期待している。霊の加護を受ける根拠となるのは、あくまで
行動に一定の制限を設ける忠貞さのほうであって、無軌道な多動であったりはしない)」
「権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公九年より」
四書五経の中でも、特に名言名句の引用元としては利用しにくいのが、
原文は簡素な年譜のみである「春秋経(孔子作)」や、その注釈書であり、
今日では経書の一部として認められてもいる「春秋左氏伝(左丘明作、通称:左伝)」だといえる。
「論語」が、宇宙でも随一の名言の宝庫であることは誰しもが知るところだし、
「孟子」や「易経」や「詩経」「書経」なども、名言集として扱えるだけの内容を持っている。
礼制の記録が本分である「礼記」も、知る人ぞ知る名言の弾薬庫であり、中でも
最重要部分とされる「大学」と「中庸」は、抜書きされて「四書」のうちにも入れられている。
しかし、「左伝」だけは、名言の宝庫として扱うのは難しいような内容になっている。
「大学」や「中庸」は「礼記」からの抜書きであり、その分量も突出して些少なものだから、
引用回数が少なくなるのも仕方がないが、「左伝」は四書五経中でも最大級の分量を
持っているというのに、なかなか引用するにも相応しいような名句を見つけにくい。
これは、「左伝」が「勧善懲悪」の意味を込めて書かれた「春秋経」の注釈書だからで、
その内容自体が、「懲悪」の意味を込めて春秋時代の権力者たちの不行跡をありのままに
書き留めていたりしているために、それをそのまま模範の対象にはできないから。
原文は簡素な年譜のみである「春秋経(孔子作)」や、その注釈書であり、
今日では経書の一部として認められてもいる「春秋左氏伝(左丘明作、通称:左伝)」だといえる。
「論語」が、宇宙でも随一の名言の宝庫であることは誰しもが知るところだし、
「孟子」や「易経」や「詩経」「書経」なども、名言集として扱えるだけの内容を持っている。
礼制の記録が本分である「礼記」も、知る人ぞ知る名言の弾薬庫であり、中でも
最重要部分とされる「大学」と「中庸」は、抜書きされて「四書」のうちにも入れられている。
しかし、「左伝」だけは、名言の宝庫として扱うのは難しいような内容になっている。
「大学」や「中庸」は「礼記」からの抜書きであり、その分量も突出して些少なものだから、
引用回数が少なくなるのも仕方がないが、「左伝」は四書五経中でも最大級の分量を
持っているというのに、なかなか引用するにも相応しいような名句を見つけにくい。
これは、「左伝」が「勧善懲悪」の意味を込めて書かれた「春秋経」の注釈書だからで、
その内容自体が、「懲悪」の意味を込めて春秋時代の権力者たちの不行跡をありのままに
書き留めていたりしているために、それをそのまま模範の対象にはできないから。
>>16の引用部分なども、この後に晋の献公が「忠貞とは何を意味するのか」と問うと、
荀息は「忠とは、君公のための利益になることはどんなことでもやることです」と答えている。
どんなことでもやるってんなら、それこそ悪行すらやりかねず、利益をもたらすつもりで
損害すらも及ぼしかねない。これこそは、忠義を単なる奴隷的奉仕などと混同する「任侠」
の起源であるといえ、正しい手法によって君公を補佐する分別には欠けていたことから、
荀息は直後に献公の子息である公子卓を死なせてしまい、自らも責任を取って自決している。
とはいえ、>>16の引用部分の荀息の物言いは、夏・殷・周と続いてきた古代中国の
王朝文化の影響をも受けており、まだ周による王道統治が傾いて間もなかったころの風潮に
合わせてものを言おうとした結果、荀息もこの引用部分まではいいことを言っている。
(そのあとの「君公の利益になることはどんなことでもします」云々で馬脚を表している)
個人としての徳性の高さではなく、古代中国という時代の風潮が、荀息にもある程度までは模範とするに
値する言葉を言わしめたのであり、一部の言葉だけを鑑みて、人を評してはいけない例にもなっている。
荀息は「忠とは、君公のための利益になることはどんなことでもやることです」と答えている。
どんなことでもやるってんなら、それこそ悪行すらやりかねず、利益をもたらすつもりで
損害すらも及ぼしかねない。これこそは、忠義を単なる奴隷的奉仕などと混同する「任侠」
の起源であるといえ、正しい手法によって君公を補佐する分別には欠けていたことから、
荀息は直後に献公の子息である公子卓を死なせてしまい、自らも責任を取って自決している。
とはいえ、>>16の引用部分の荀息の物言いは、夏・殷・周と続いてきた古代中国の
王朝文化の影響をも受けており、まだ周による王道統治が傾いて間もなかったころの風潮に
合わせてものを言おうとした結果、荀息もこの引用部分まではいいことを言っている。
(そのあとの「君公の利益になることはどんなことでもします」云々で馬脚を表している)
個人としての徳性の高さではなく、古代中国という時代の風潮が、荀息にもある程度までは模範とするに
値する言葉を言わしめたのであり、一部の言葉だけを鑑みて、人を評してはいけない例にもなっている。
孟子も「五覇は三王の罪人なり(告子章句下・七)」というとおり、
春秋時代に覇権を争っていた諸侯ってのも、相当に悪辣な権力犯罪者だったわけで、
荀息を含む当時の諸侯の臣下が、「この君にしてこの臣あり」程度の
愚臣であったのも、仕方がないといえば仕方がない。
湯王には伊尹が、武王には太公望が、成王には周公がといった風に、
名臣の助けを借りて主君が成功するということは歴史上に数多い一方で、
それと同じぐらいに、愚臣悪臣佞臣にたぶらかされて哀れな末路を辿った君公も多い。
名臣が、儒学道徳に基づいても評価され得る、適正な君臣の義を保てている一方で、
愚臣や悪臣の場合はそれができず、無理に主君に服従しようとしたところで、
無粋なの奴隷的奉仕に終始する、侠客まがいに止まってしまったりする。
もちろん主君が相応の人物であって初めて、名臣の力量も活かされるところがあり、
范増のような名臣を持ちながらも、全くその力量を活かせずに敗れた項羽のような
覇王もいる。「この名君にしてこの名臣あり」といわれるほどにも、
君臣関係がうまくいくことも、なかなかに難しいことだといえる。
「君子は泰らかにして驕らず、小人は驕りて泰らかならず」
「君子は落ち着きがあって誇り高ぶることがないが、小人は誇り高ぶってばかりで落ち着きがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二六より)
春秋時代に覇権を争っていた諸侯ってのも、相当に悪辣な権力犯罪者だったわけで、
荀息を含む当時の諸侯の臣下が、「この君にしてこの臣あり」程度の
愚臣であったのも、仕方がないといえば仕方がない。
湯王には伊尹が、武王には太公望が、成王には周公がといった風に、
名臣の助けを借りて主君が成功するということは歴史上に数多い一方で、
それと同じぐらいに、愚臣悪臣佞臣にたぶらかされて哀れな末路を辿った君公も多い。
名臣が、儒学道徳に基づいても評価され得る、適正な君臣の義を保てている一方で、
愚臣や悪臣の場合はそれができず、無理に主君に服従しようとしたところで、
無粋なの奴隷的奉仕に終始する、侠客まがいに止まってしまったりする。
もちろん主君が相応の人物であって初めて、名臣の力量も活かされるところがあり、
范増のような名臣を持ちながらも、全くその力量を活かせずに敗れた項羽のような
覇王もいる。「この名君にしてこの名臣あり」といわれるほどにも、
君臣関係がうまくいくことも、なかなかに難しいことだといえる。
「君子は泰らかにして驕らず、小人は驕りて泰らかならず」
「君子は落ち着きがあって誇り高ぶることがないが、小人は誇り高ぶってばかりで落ち着きがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二六より)
もう誰も、キリスト教徒を憎んですらいない。
「ただ、この廃人集団をどうやって、暴発させないままに
権能剥奪状態へと追い込もうか」と、事務的に考えるのみ。
野生の有害鳥獣なども、憎もうが許そうが、結局こちらの気持ちなんか
何も分かっちゃくれないから、ただ人間に危害を及ぼさないようにする
ための事務的な駆除処理に徹する以外の、何らの意図を差し挟む術もない。
仮に本当に聖書信仰をこの世から駆逐するなら、億人レベルの人々の
助けをも借りていかなければならなくなるだろうが、それらの人々にも、
「いっぱしの人間が廃人を憎んだりしてちゃいけない」ということを、
重々諭し尽くしてから、ことに臨んでもらうようにもする。
「昊天の不傭にして、此の鞠言凶を降さん。
昊天の不惠にして、此の大戻を降さん。
君子如し屆しければ、俾民の心をして闋んぜしむ。
君子如し夷らげれば、、惡むも怒るも是こに違れり」
「上天も常ある姿を変えられ、この窮凶を降したまう。
恵み深き姿も一転して、大いなる災いを降せる。
君子がもし正しくあれば、下民の心までをも安んずる。
さらに君子が天下を平らげたならば、憎しみも怒りも全て去り止むだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
「ただ、この廃人集団をどうやって、暴発させないままに
権能剥奪状態へと追い込もうか」と、事務的に考えるのみ。
野生の有害鳥獣なども、憎もうが許そうが、結局こちらの気持ちなんか
何も分かっちゃくれないから、ただ人間に危害を及ぼさないようにする
ための事務的な駆除処理に徹する以外の、何らの意図を差し挟む術もない。
仮に本当に聖書信仰をこの世から駆逐するなら、億人レベルの人々の
助けをも借りていかなければならなくなるだろうが、それらの人々にも、
「いっぱしの人間が廃人を憎んだりしてちゃいけない」ということを、
重々諭し尽くしてから、ことに臨んでもらうようにもする。
「昊天の不傭にして、此の鞠言凶を降さん。
昊天の不惠にして、此の大戻を降さん。
君子如し屆しければ、俾民の心をして闋んぜしむ。
君子如し夷らげれば、、惡むも怒るも是こに違れり」
「上天も常ある姿を変えられ、この窮凶を降したまう。
恵み深き姿も一転して、大いなる災いを降せる。
君子がもし正しくあれば、下民の心までをも安んずる。
さらに君子が天下を平らげたならば、憎しみも怒りも全て去り止むだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)
フィクションのな。
ただただ無鉄砲に強圧的であることが、共に言行するに値しない
自暴自棄・自廃さ加減の披瀝になることはあっても、健常さの証拠になることはない。
自暴自棄・自廃さ加減の披瀝になることはあっても、健常さの証拠になることはない。
自らの、自業自得の犯罪行為の責任を全て神に押し付けて、
自分自身は全くの無罪であることを自認することを許可するような
邪教信仰に耽溺して来たことこそは、反省して悔い改めなければならないに違いない。
悔い改めた結果、逆にそのような邪教信仰に陥ってしまうのでは、
毒を食んだ過ちを悔い改めたからといって、毒を盛った皿まで嘗め尽くすようなもの。
悔い改めた結果落ち着くべきなのが、人間たち自身の自己責任を重んずる
四書五経のような道徳学であり、神仏信仰などは副次的なものとして考えねばならない。
人としての最善も尽くさないうちから、他者への責任の押し付けばかりに依存する、
その思い上がりこそは害悪の元凶ともなっているのだから、決して他者依存の
深刻化などによって、現状の悲惨さが少しでも改善に向かうようなことはない。
「禍福は己れ自り之れを求めざる者無し」
「禍福に自らそれを招かなかったものは、何一つとしてない」
(権力道徳聖——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・四より)
自分自身は全くの無罪であることを自認することを許可するような
邪教信仰に耽溺して来たことこそは、反省して悔い改めなければならないに違いない。
悔い改めた結果、逆にそのような邪教信仰に陥ってしまうのでは、
毒を食んだ過ちを悔い改めたからといって、毒を盛った皿まで嘗め尽くすようなもの。
悔い改めた結果落ち着くべきなのが、人間たち自身の自己責任を重んずる
四書五経のような道徳学であり、神仏信仰などは副次的なものとして考えねばならない。
人としての最善も尽くさないうちから、他者への責任の押し付けばかりに依存する、
その思い上がりこそは害悪の元凶ともなっているのだから、決して他者依存の
深刻化などによって、現状の悲惨さが少しでも改善に向かうようなことはない。
「禍福は己れ自り之れを求めざる者無し」
「禍福に自らそれを招かなかったものは、何一つとしてない」
(権力道徳聖——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・四より)
「人は自分では何も善いことをすることができない」とした上で、
「キリスト・イエスの下でなら善いことができる」としているのか。
事実は逆であり、人は自力によってでしか善を為すことはできず、
他力依存を高めれば高めるほど、善を為すことからは遠ざかってしまう。
だから浄土教なども、自力作善の覚束ない煩悩愚縛の凡夫が、
他力本願によって悪因苦果の苦しみから救われることを促している。
「他力本願だから善行ができる」なんてことは、ちっとも言っていない。
真宗の坊主なども生臭だらけだが、それこそは確かに他力信仰者の有り様。
他力でいて善行を為そうだなんて時点で、
一概な罪悪ばかりが積み重ねられることとなる。
人間精神の位相関係が、そうなるように造られてもいるから。
「天誅を造攻れるは牧宮自りす、朕れは載めて亳に自る」
「天誅が下される原因は(暴君桀王の住処である)牧宮において造られた。
だからこそ、我(湯王)もまた亳の都で、伊尹らと誅罰のことを相談したのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
「キリスト・イエスの下でなら善いことができる」としているのか。
事実は逆であり、人は自力によってでしか善を為すことはできず、
他力依存を高めれば高めるほど、善を為すことからは遠ざかってしまう。
だから浄土教なども、自力作善の覚束ない煩悩愚縛の凡夫が、
他力本願によって悪因苦果の苦しみから救われることを促している。
「他力本願だから善行ができる」なんてことは、ちっとも言っていない。
真宗の坊主なども生臭だらけだが、それこそは確かに他力信仰者の有り様。
他力でいて善行を為そうだなんて時点で、
一概な罪悪ばかりが積み重ねられることとなる。
人間精神の位相関係が、そうなるように造られてもいるから。
「天誅を造攻れるは牧宮自りす、朕れは載めて亳に自る」
「天誅が下される原因は(暴君桀王の住処である)牧宮において造られた。
だからこそ、我(湯王)もまた亳の都で、伊尹らと誅罰のことを相談したのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)
人を木柱の上にはりつけにした状態をかたどっているのが、「桀」という文字。
一般に用いられる「磔(はりつけ)」という字訓も、この桀に由来している。
湯王が興したとされる殷王朝の実在はすでに考古学的に明らかになっているし、
さらに遡った夏王朝の実在も、遺跡の発掘などによって明らかになりつつある。
ただ、夏の桀王に関する悪逆無道な振る舞いの記録は、殷の紂王の暴虐にも
共通する点が多々あり、仮に夏王朝が実在していたとしても、桀王に関する
暴虐の逸話などは、その幾分かが後世の創作である可能性が高い。
ただ、それにしたって、紀元前数世紀頃の学者である孟子などが、すでに夏の桀王
などに関する具体的な逸話を取り上げているわけで、「はりつけ」という意味と共に、
「凶暴残虐」や「わるもの」といった意味も持つ「桀」という言葉で以って、
はりつけ信仰が悪者どもの凶暴残虐な振る舞いと合致する可能性が示唆されている。
「桀」という文字がそれだけでもすでに、十字架信仰の本質を看破しきっている。
一般に用いられる「磔(はりつけ)」という字訓も、この桀に由来している。
湯王が興したとされる殷王朝の実在はすでに考古学的に明らかになっているし、
さらに遡った夏王朝の実在も、遺跡の発掘などによって明らかになりつつある。
ただ、夏の桀王に関する悪逆無道な振る舞いの記録は、殷の紂王の暴虐にも
共通する点が多々あり、仮に夏王朝が実在していたとしても、桀王に関する
暴虐の逸話などは、その幾分かが後世の創作である可能性が高い。
ただ、それにしたって、紀元前数世紀頃の学者である孟子などが、すでに夏の桀王
などに関する具体的な逸話を取り上げているわけで、「はりつけ」という意味と共に、
「凶暴残虐」や「わるもの」といった意味も持つ「桀」という言葉で以って、
はりつけ信仰が悪者どもの凶暴残虐な振る舞いと合致する可能性が示唆されている。
「桀」という文字がそれだけでもすでに、十字架信仰の本質を看破しきっている。
人知を超えた神仏の領域ってのも確かにあるわけだが、それはあくまで人間以上の品性を持つ
神仏に限っての話で、人間以下の品性しか持たない鬼畜や妖怪については、全くその限りでない。
廃人たちが「人知を超えたもの」と呼ぶキリストの愛なども、親しき仲における礼節すら廃した
禽獣同然と化しての溺愛のことでしかなく、そのような溺愛に陥った廃人たちに限って、
我れを見失って、まともな思考も働かなくなるから、さも人知を超えたように思われるだけ。
心神喪失や精神障害に陥ったりはしていない、まともな人間からすれば、全くの人知の範囲内。
あくまで人知を超えた領域があるのも認められた上で、それはその中に入らないというだけのこと。
「國家を為むる者は、惡を見ては農夫の務めて草を去るが如くし、芟り夷げて之れを
蘊み崇め、其の本根を絶ち、能く殖えしむること勿くんば、則ち善なる者も信びん」
「国家を治めるものは、悪を見れば農夫が雑草を除き去るようにせよ。刈り取って摘み集め、
その本から根絶やしにして、増殖できないようにすれば、それによって善いものもまた伸び育つようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)
神仏に限っての話で、人間以下の品性しか持たない鬼畜や妖怪については、全くその限りでない。
廃人たちが「人知を超えたもの」と呼ぶキリストの愛なども、親しき仲における礼節すら廃した
禽獣同然と化しての溺愛のことでしかなく、そのような溺愛に陥った廃人たちに限って、
我れを見失って、まともな思考も働かなくなるから、さも人知を超えたように思われるだけ。
心神喪失や精神障害に陥ったりはしていない、まともな人間からすれば、全くの人知の範囲内。
あくまで人知を超えた領域があるのも認められた上で、それはその中に入らないというだけのこと。
「國家を為むる者は、惡を見ては農夫の務めて草を去るが如くし、芟り夷げて之れを
蘊み崇め、其の本根を絶ち、能く殖えしむること勿くんば、則ち善なる者も信びん」
「国家を治めるものは、悪を見れば農夫が雑草を除き去るようにせよ。刈り取って摘み集め、
その本から根絶やしにして、増殖できないようにすれば、それによって善いものもまた伸び育つようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)
しかし、夏の桀王にしろ殷の紂王にしろ、一時は湯王や文王を幽閉状態にまで
追い込んでおきながら、解放して捲土重来の機会を与えた挙句に、湯王や
文王の跡継ぎである武王らに放伐されるという、間抜けをやらかしている。
どうしてそんな間抜けを冒したのかといえば、そこには複合的な理由が備わっている。
第一には、湯王や文王のような善玉格の為政者こそは、心から民を愛して、
その養生にも努めることで世の中を盛り立てている中心核だから、
彼らを亡ぼすことが、世の中全体の衰亡を招くこととなってしまう、
それは世の中から多大なる暴利を駆り立てての放辟邪侈に耽っていたがる、
桀王や紂王のような悪玉の暴君にとっても都合の悪いことだから、
悪玉として善玉を滅ぼし尽くすことを躊躇ってしまうというのがある。
第二には、悪玉の暴君というのは、自分や自分の気に入った間柄だけでの
狭隘な利得を貪ることを第一目的としていて、その結果として世の中を
荒廃に導くことは、決して第一の目的でまであるわけではないから、
善玉の賢君を滅ぼし尽くすことで、あえて世の中を破滅へと導く
ほどまでの気概には欠けているからというのがある。
第三には、自分たちが暴利を貪りつつの放辟邪侈を極めた結果、世の中が
破滅へと陥れられることすら厭いはしないが、たとえ世を破滅へと導いた
暴君としてであっても、歴史に名を止めたいというような名利欲が少なからずあって、
完全に世の中が滅亡してしまったのでは、後世に悪名を轟かせることすら
叶わなくなるから、自分たちの放辟邪侈の後始末をしてくれることで、歴史を
完全には断絶させずに済ませてくれる相手を本能的に欲しているというのがある。
特に複雑なのが第三の理由で、世を破滅に陥れる悪玉格であるにも関わらず、
最低限の世の中の保全を欲したがるのは、やもすれば単なる人間肯定の根拠にでも
してしまいがちになるが、決して悪玉は、世の中の福利厚生を願っているから
最低限の世の中の保全を企図したりしているのではなく、たとえ最悪の悪者として
であっても、歴史に名を轟かせてみたいという、無様ながらの名誉欲があるから
最低限の世の中の保全を欲しているのだという、特殊な事情を見逃してはならない。
追い込んでおきながら、解放して捲土重来の機会を与えた挙句に、湯王や
文王の跡継ぎである武王らに放伐されるという、間抜けをやらかしている。
どうしてそんな間抜けを冒したのかといえば、そこには複合的な理由が備わっている。
第一には、湯王や文王のような善玉格の為政者こそは、心から民を愛して、
その養生にも努めることで世の中を盛り立てている中心核だから、
彼らを亡ぼすことが、世の中全体の衰亡を招くこととなってしまう、
それは世の中から多大なる暴利を駆り立てての放辟邪侈に耽っていたがる、
桀王や紂王のような悪玉の暴君にとっても都合の悪いことだから、
悪玉として善玉を滅ぼし尽くすことを躊躇ってしまうというのがある。
第二には、悪玉の暴君というのは、自分や自分の気に入った間柄だけでの
狭隘な利得を貪ることを第一目的としていて、その結果として世の中を
荒廃に導くことは、決して第一の目的でまであるわけではないから、
善玉の賢君を滅ぼし尽くすことで、あえて世の中を破滅へと導く
ほどまでの気概には欠けているからというのがある。
第三には、自分たちが暴利を貪りつつの放辟邪侈を極めた結果、世の中が
破滅へと陥れられることすら厭いはしないが、たとえ世を破滅へと導いた
暴君としてであっても、歴史に名を止めたいというような名利欲が少なからずあって、
完全に世の中が滅亡してしまったのでは、後世に悪名を轟かせることすら
叶わなくなるから、自分たちの放辟邪侈の後始末をしてくれることで、歴史を
完全には断絶させずに済ませてくれる相手を本能的に欲しているというのがある。
特に複雑なのが第三の理由で、世を破滅に陥れる悪玉格であるにも関わらず、
最低限の世の中の保全を欲したがるのは、やもすれば単なる人間肯定の根拠にでも
してしまいがちになるが、決して悪玉は、世の中の福利厚生を願っているから
最低限の世の中の保全を企図したりしているのではなく、たとえ最悪の悪者として
であっても、歴史に名を轟かせてみたいという、無様ながらの名誉欲があるから
最低限の世の中の保全を欲しているのだという、特殊な事情を見逃してはならない。
人は完全な他力本願による善行は為し得ず、自己責任による自力作善しか為し得ない。
ただもちろん、自力作善に至るまでの環境の整備はある程度必要となるわけで、
先祖代々の徳行の積み重ねや、それによる秘伝的な教育などが特に決定的な影響を及ぼす。
善行は、自己責任によってでしか為し得ない一方で、より大きな善行を為すためには
外部からの大いなる助成が必要となるわけで、自得の能力だけによって
何をしようとしたところで、人はほとんど大した善行などを為し得ない。
だから、自分個人に対して最も大きな影響を及ぼす、先祖に対する供養などが特に重要なものとなるし、
もしも臣下として立ち回ったりするのであれば、自らが配下となる主君への忠義を尽くす必要も出てくる。
自らが人事を尽くす所に始めて善も行われるが、人事を尽くすためにこそ尊重すべき天命というものもまたある。
「父子、君臣、長幼の道を得て、而して國治まる。
(古)語に曰く、樂正業を司り、父師成を司る、一元良有らば、萬國以て貞し、と」
「父子、君臣、長幼といった上下の序列が徹底されることで、初めて国も治まる。
昔の言葉にもこうある。『楽正として臣下の領分を正式に得たものが、詩書礼楽などの
学業の推進を司り、父親に教育の代行を正式に任せられた教師が、学業の成就を司る。
それほどにも恵まれた境遇にある元君が一人いれば、それだけで万国が正される』と。
(奉仕の業による成熟にも、正式な君臣父子長幼の序が備わっていなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)
ただもちろん、自力作善に至るまでの環境の整備はある程度必要となるわけで、
先祖代々の徳行の積み重ねや、それによる秘伝的な教育などが特に決定的な影響を及ぼす。
善行は、自己責任によってでしか為し得ない一方で、より大きな善行を為すためには
外部からの大いなる助成が必要となるわけで、自得の能力だけによって
何をしようとしたところで、人はほとんど大した善行などを為し得ない。
だから、自分個人に対して最も大きな影響を及ぼす、先祖に対する供養などが特に重要なものとなるし、
もしも臣下として立ち回ったりするのであれば、自らが配下となる主君への忠義を尽くす必要も出てくる。
自らが人事を尽くす所に始めて善も行われるが、人事を尽くすためにこそ尊重すべき天命というものもまたある。
「父子、君臣、長幼の道を得て、而して國治まる。
(古)語に曰く、樂正業を司り、父師成を司る、一元良有らば、萬國以て貞し、と」
「父子、君臣、長幼といった上下の序列が徹底されることで、初めて国も治まる。
昔の言葉にもこうある。『楽正として臣下の領分を正式に得たものが、詩書礼楽などの
学業の推進を司り、父親に教育の代行を正式に任せられた教師が、学業の成就を司る。
それほどにも恵まれた境遇にある元君が一人いれば、それだけで万国が正される』と。
(奉仕の業による成熟にも、正式な君臣父子長幼の序が備わっていなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)
浄土教のような善玉の他力信仰であっても、別にそれのおかげで
善行ができるようになったりするわけではない。あくまでも、積極的な
悪行による、悪因苦果に苦しむ自業自得を抑制してくれる効果を持つだけ。
積極的に善行を為していくためには、どうしたって自力でなければならない。
神も仏も頼りにはせず、それでいて神仏への畏敬をも欠かさないでいる、
自力と他力の両面における最善が尽くされたときに初めて、善が行われるのだ。
善行ができるようになったりするわけではない。あくまでも、積極的な
悪行による、悪因苦果に苦しむ自業自得を抑制してくれる効果を持つだけ。
積極的に善行を為していくためには、どうしたって自力でなければならない。
神も仏も頼りにはせず、それでいて神仏への畏敬をも欠かさないでいる、
自力と他力の両面における最善が尽くされたときに初めて、善が行われるのだ。
「礼記」には、親族の喪に服すときの悲哀があらんばかりに記し尽くされているし、
「詩経」にも、未だ夫に会えない子女の悲しみなどが存分に描き尽くされている。
喜怒哀楽、その全てが人に授けられた真っ当な感情であり、
ただ喜んだり楽しんだりするだけではなく、怒るべきものには怒り、
悲しむべきことは悲しむぐらいの感情の豊かさがあって初めて、人として健全だといえる。
悲しみや怒りを廃絶するというのなら、同時に喜びや楽しみをも廃絶し、
人間的な感情全般から解脱する仏道でも目指せばいいのであって、悲しみや怒りだけを捨て去って
喜びや楽しみばかりを貪るのなら、その感情的不均衡のしわ寄せが必ずどこかに行き、
最後の最後には必ず自分たち自身に返ってくる。躁への振れ切りが甚大であればあるほど、
その跳ね返りとしての鬱もまた、度し難いものとなる。
「杕の杜有りて、其の葉萋萋と。
王事の盬む靡く、我が心傷み悲しむ。
卉木も萋れど、女心を悲しましむ、征夫よ歸らん」
「ヤマナシの木が実をつけて、その葉もよく生い茂っているというのに、
戦争はまだ終わる目処も立たず、(出征した夫を持つ)私の心は痛み悲しむばかり。
草木もももうそこかしこに茂っているというのに、女心を悲しませるばかり。我が夫よ、早く戦争から帰ってきておくれ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・鹿鳴之什・杕杜より)
「詩経」にも、未だ夫に会えない子女の悲しみなどが存分に描き尽くされている。
喜怒哀楽、その全てが人に授けられた真っ当な感情であり、
ただ喜んだり楽しんだりするだけではなく、怒るべきものには怒り、
悲しむべきことは悲しむぐらいの感情の豊かさがあって初めて、人として健全だといえる。
悲しみや怒りを廃絶するというのなら、同時に喜びや楽しみをも廃絶し、
人間的な感情全般から解脱する仏道でも目指せばいいのであって、悲しみや怒りだけを捨て去って
喜びや楽しみばかりを貪るのなら、その感情的不均衡のしわ寄せが必ずどこかに行き、
最後の最後には必ず自分たち自身に返ってくる。躁への振れ切りが甚大であればあるほど、
その跳ね返りとしての鬱もまた、度し難いものとなる。
「杕の杜有りて、其の葉萋萋と。
王事の盬む靡く、我が心傷み悲しむ。
卉木も萋れど、女心を悲しましむ、征夫よ歸らん」
「ヤマナシの木が実をつけて、その葉もよく生い茂っているというのに、
戦争はまだ終わる目処も立たず、(出征した夫を持つ)私の心は痛み悲しむばかり。
草木もももうそこかしこに茂っているというのに、女心を悲しませるばかり。我が夫よ、早く戦争から帰ってきておくれ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・鹿鳴之什・杕杜より)
男がめそめそしてばかりいるのは頼りない限りだが、
夫の不在ゆえの悲哀に明け暮れる女というのも、悪くはないもんだ。
ふんぞり返って亭主の帰りを待ってたり、待ちもせずに
浮気してたりする妻のいる家などに、誰も帰りたくはないだろうし。
夫の不在ゆえの悲哀に明け暮れる女というのも、悪くはないもんだ。
ふんぞり返って亭主の帰りを待ってたり、待ちもせずに
浮気してたりする妻のいる家などに、誰も帰りたくはないだろうし。
他力依存のままに力をつけようとすれば、それは自律性を欠いた単なる暴力となって、
善用することもままならず、もっぱら悪用するしかできなくなるんだろうな。
ほんの微力からでもいいから、悪用せずに善用できる自力を身に着けていくことこそが重要だ。
「勢に依りて威を作すこと無かれ」
「権勢に依り頼んで、威力を振りかざすようなことがないように」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
善用することもままならず、もっぱら悪用するしかできなくなるんだろうな。
ほんの微力からでもいいから、悪用せずに善用できる自力を身に着けていくことこそが重要だ。
「勢に依りて威を作すこと無かれ」
「権勢に依り頼んで、威力を振りかざすようなことがないように」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)
おばちゃんかわいい
何一つとして善を行えない邪神の、どこが全能なんだか。
「大宰子貢に問うて曰く、夫子は聖者か。何ぞ其れ多能なるやと。
子貢曰く、固より天之れに將聖なること、又た多能なることを許せり。
子之れを聞いて曰く、大宰我れを知れり。吾れ少なるに賤し、
故に鄙事に多能なり。君子は多ならんや、多ならざるなり」
「ある国の首相が子貢にたずねた。『おたくの先生は本当に聖者なのだろうか。だとしたら、
なぜあれほどにも多能なのか』 子貢は答えた。『確かに先生は聖者の中の聖者であると共に、
多能多芸であることをも天分としています』 先生はそれを聞いて言った。『首相は私の
ことをよく知っている。私は年若い頃に卑賤な身分であったから、色々と下賤な物事に
ついても多能でいる。君子が多能である必要があろうか。決してその必要はあるまい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・六)
善を行うことにかけてすら有能であればいいから、君子が多能や全能である必要はないのだろう。
むしろ悪行にかけては無能であるほうが、炉心溶融が原理的に起こらない核融合炉のような、高い安全性にも繋がる。
仮に全能であるものがあるとすれば、それは必ず悪行にかけても有能なものとなるのだから、
善悪みそくその行いもまた一概な悪行であることを踏まえれば、
全能であることの魅力などからして、単なるまやかしであることが分かる。
むしろ悪行にかけては無能であるほうが、炉心溶融が原理的に起こらない核融合炉のような、高い安全性にも繋がる。
仮に全能であるものがあるとすれば、それは必ず悪行にかけても有能なものとなるのだから、
善悪みそくその行いもまた一概な悪行であることを踏まえれば、
全能であることの魅力などからして、単なるまやかしであることが分かる。
万人を利して我が利ともする仁こそは、人が天から与えられた本物の天分である、
しかし、自らそこに止まろうとしないのでは、いくらでも仁から離れていってしまうともいう。
人事と天命、自力と他力の両面における最善が尽くされて初めて、仁に安んずることもできる。
そこにしか仁に止まる術はなく、あらゆる善を行う術も備わってはいない。
たとえ全能者であったところで、止至善を選択しないのなら、決して善は行えない。
「矢人は豈に函人よりも不仁ならんや。矢人は唯だ人を傷つけざることを恐れ、函人は唯だ人を傷つけることを恐る。
巫匠も亦た然り。故に術は慎しまざる可からざるなり。孔子曰く、仁に里るを美と為す。擇びて仁に處らず、
焉んぞ智たるを得んと。夫れ仁は、天の尊爵なり、人の安宅なり。之れを禦むる莫くして不仁なるは、是れ不智なり」
「矢を作る職人は何も、鎧を作る職人よりも不仁であるというわけではない。しかし、矢を作る職人は自らの作製した矢が
人を傷つける攻撃力に欠けることを恐れ、鎧を作る職人は自らの作製した鎧が防御力に欠けていて、着用者を傷つけてしまうことを恐れる。
人の病気を治そうとする祈祷者と、人が死ねば儲かる棺桶屋の関係などもこれと同じことであり、本人自身の仁不仁などとはまた別に、
技術職が人を守る仁に与したり、人を損なう不仁に与したりすることがあるわけだから、職業を選択するところから慎重でなければならない。
孔子も言っている。『自身を仁に居らせることこそは美徳だといえるが、自ら仁を選択しないのでは、どうして知者といえようか』と。
仁こそは人が天から与えられた貴い爵位であり、人が安住すべき所である。にもかかわらず自ら仁に止まろうとしないのは、無知だからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・七より)
しかし、自らそこに止まろうとしないのでは、いくらでも仁から離れていってしまうともいう。
人事と天命、自力と他力の両面における最善が尽くされて初めて、仁に安んずることもできる。
そこにしか仁に止まる術はなく、あらゆる善を行う術も備わってはいない。
たとえ全能者であったところで、止至善を選択しないのなら、決して善は行えない。
「矢人は豈に函人よりも不仁ならんや。矢人は唯だ人を傷つけざることを恐れ、函人は唯だ人を傷つけることを恐る。
巫匠も亦た然り。故に術は慎しまざる可からざるなり。孔子曰く、仁に里るを美と為す。擇びて仁に處らず、
焉んぞ智たるを得んと。夫れ仁は、天の尊爵なり、人の安宅なり。之れを禦むる莫くして不仁なるは、是れ不智なり」
「矢を作る職人は何も、鎧を作る職人よりも不仁であるというわけではない。しかし、矢を作る職人は自らの作製した矢が
人を傷つける攻撃力に欠けることを恐れ、鎧を作る職人は自らの作製した鎧が防御力に欠けていて、着用者を傷つけてしまうことを恐れる。
人の病気を治そうとする祈祷者と、人が死ねば儲かる棺桶屋の関係などもこれと同じことであり、本人自身の仁不仁などとはまた別に、
技術職が人を守る仁に与したり、人を損なう不仁に与したりすることがあるわけだから、職業を選択するところから慎重でなければならない。
孔子も言っている。『自身を仁に居らせることこそは美徳だといえるが、自ら仁を選択しないのでは、どうして知者といえようか』と。
仁こそは人が天から与えられた貴い爵位であり、人が安住すべき所である。にもかかわらず自ら仁に止まろうとしないのは、無知だからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・七より)
「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風をくわうれば、必ず偃す」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一九より)
これはもう既出の引用だが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ともいうし、
「衣食足りて礼節を知る」ともいう。君子への帰服を心から喜べるほどにも
心の余裕を抱けることが、小人に甘んずる人々にとっての至福ともなろうに。
「天下猶お未だ平らかならず、洪水銫流し、天下に氾濫す。草木暢茂し、禽獸繁殖し、五穀登らず」
「天下は未だ泰平には至らず、大水が人々を脅かし、天下に氾濫し続けて止まない。箸にも棒にも
かからないような雑草や雑木ばかりが繁茂し、害獣もそこら中にたむろして、肝心の五穀は実らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——滕文公章句上・四より)
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一九より)
これはもう既出の引用だが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ともいうし、
「衣食足りて礼節を知る」ともいう。君子への帰服を心から喜べるほどにも
心の余裕を抱けることが、小人に甘んずる人々にとっての至福ともなろうに。
「天下猶お未だ平らかならず、洪水銫流し、天下に氾濫す。草木暢茂し、禽獸繁殖し、五穀登らず」
「天下は未だ泰平には至らず、大水が人々を脅かし、天下に氾濫し続けて止まない。箸にも棒にも
かからないような雑草や雑木ばかりが繁茂し、害獣もそこら中にたむろして、肝心の五穀は実らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——滕文公章句上・四より)

その富によってどんな欲望や必要性をまかなったところで、必ず悪であり、善であることはあり得ない。
ということはつまり、善に対する欲求や、善にとっての必要性を満たすこともできないということ。
常に必ず、悪を実現する欲望や、悪の実現にとっての必要性しか満たすことはできないということ。
ちなみに善は楽しく悪はつまらない、これが「善」とか「悪」とか「楽しい」とか「つまらない」
とかいった言葉に対して、人間自身が本能的に付与している、自明な関係性の定義でもある。
「富めりとせずして其の鄰と以にす。用て侵伐するに利ろしく、利ろしからざる無し」
「富んでいながら、なおかつ富んでいないかのようにして人に接するぐらいの謙虚さがあるのなら、
それほどもの謙虚さにすら感応できない無神経者などは、もはや放伐したって全くかまいやしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・謙・六五)
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