イエスの顔


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001 2013/04/01(月) 18:23:58 ID:LotoKkyHZA
英BBC番組が復元したイエス・キリストの顔。
その結果表れた「イエスの顔」は、黒い巻き毛と浅黒い肌色の、
丸顔で丸い鼻をした中東の男性のものだった…。

イメージと現実。
上野の西郷さんと本物の西郷さんも全く似てないっていうし。
本気で信仰していれば顔なんて関係ないか?

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041 2013/09/05(木) 23:48:41 ID:ax4CVdkUC6
>>40
ルドルフ・カール・プルトマンでさえもさすがに聖書は真実という信用には『全く当たらない』
とまでは言ってませんが、神話的(伝承的)部分を取り除くと、やはり初期キリスト教徒が
生活の座で述べた信仰告白が新約聖書の根幹となっているのは事実と思われます。さらに福音
書の趣旨はやはりケリュグマであると思います。教会にとって都合の悪いことは闇に葬られた
であろうことは間違いありません。したがって福音書を通じて真の(実在した人間としての)
イエスに迫るのは難しいと言わざるを得ません。

使徒言行録でも、アレクサンドリアからきたアポロというキリスト者が、パウロの教えを更に
上回った立派な事を言って人々を驚かせたというような逸話がありますが、たぶんアポロとい
うのはパウロとは違った教義(たぶんグノーシス主義?)を持っていたのでしょう。

現在に至るキリスト教(それはパウロの思想に他なりません)が確立されるために、様々な
教義が異端として退けられたであろうことは、既に紀元1世紀に書かれたアポロの逸話からも
うかがい知ることが出来ます。それは紀元2世紀に書かれた(らしい)トマスの福音書が20世
紀に再発見されるまで、完全に世間から抹殺されていたことからもわかります。

生活の座における信仰告白というのは、フェニキア女の信仰の逸話(マルコ7-24)が、初期の
教会の混乱をよく表していると思います。
シリアのフェニキアの女が、娘から悪霊を追い出して欲しいと頼むと、イエスの答えは、
『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取り上げて小犬にやっ
てはいけない』。これに対して女は『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいた
だいてしまいます』。

これは子供たち=ユダヤ人、小犬=異邦人と解釈するわけですが、するとこれは明らかに異邦人
キリスト信者が、ユダヤ人を上位と位置付ける初期の教会から差別されていたことに対する、不
満を表明したものに他ならないということになります。マルコはどういった意図で異邦人の不満
をイエスの言葉として語ったのか。それはマルコの福音書を書いたマルコが、パウロの伝道旅行
に従ったマルコその人であるという証明のような気がします。

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042 2013/09/07(土) 13:39:34 ID:JzPn0Y7rXM
聖書以外に文献がたくさん残ってるから>>1こういう事も判明するのかな。
BSCS見れないからネットで歴史物のドキュメンタリー見たい。

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043 2013/09/07(土) 20:56:08 ID:5iFDExo34Y
私は>>41で不用意に『神話的』という言葉を使いましたが、共観福音書の中から、伝承的な
部分や初期のキリスト者の信仰告白を取り除くと、イエスの説教というのは『神の国』の到来
という点に集約されます。神は人間の望むところに関係なく、いきなり歴史と世界を終わらせ、
新しい世界をお造りになる。その時には、人の子が天の雲に乗って来る。そのための隣人愛で
あり、天に宝を積むということなのです。復活とか主の再臨という思想です。これが最も初期
のキリスト教会が教義としたいう説。これは多くの神学者が実在したイエスの教えと認める点
です。イエスはいわゆる預言者ではなく、この(ヤダヤ的な)終末論の教えを説いて回った人
です。この考えもイエス独特のものではなく、当時のユダヤ人の思考の根底にあったものです。
イエスが教えた祈り(これは間違いなくイエスの教えた祈りらしいですが)、

天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。

これは、まさに『み国』の待望を表明するものです。すなわちイエスは、間近に(ほんの近未来
に)世界の終末が訪れるものと期待しました。その時は大変ドラマティックなもので、死人は蘇
り、審判の日が到来します。その時、正しき者には永遠の祝福が、滅びに定められた者には地獄
が与えられる…というのが初期キリスト教の教義です。その最後の審判というのはとても輝かし
い物で、多くの祝福や喜びがある…ただしイエス自身は輝かしい最後の審判は語っていません。
それは旧約の黙示録やヨハネの黙示録の示すユダヤ的な思想です。この教義は、共観福音書に良
く現れています。例えばマルコ福音書はイエスの言葉としてこの信仰告白を語ります(マルコ9-1)。

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044 2013/09/07(土) 20:58:46 ID:5iFDExo34Y
『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見る
までは、決して死なない者がいる』。これはすなわち、まだ今現在、生きている人がいる内に、
その世界の終末が訪れるという思想です。イエスの教えというのはあくまで神話的であり、初期
のキリスト教会の作業もイエスの神話化です。すなわち聖霊が下って、乙女マリアからイエスが
誕生し、それはベツレヘムだった等。

しかし私たちは21世紀の現在まで、世界の終末を見ていません。ですからイエスの教え自体が
神話的であり、初期の教会の教義も…つまり神話論と分かってしまっています。これは19世紀
の神学者ヨハンネ・バイスの説で、私の説ではありません。さらにイエスの神話論を修正化す
る作業、これを『非神話化』というのですが、この作業も(やや不完全ですが)パウロ、ヨハネ
の福音書などによって、早くも新約聖書において行われています。

それを>>23 のSARO氏のように神学を専攻したと豪語する者が、

>後の弟子は教会制度を整えて、基督教を発展させただけで、
>基督教を作ったのは、イエスだよ。

と言うのですから嘲笑モノです。まあ某三流大学なのでどんなヨタ神学を学んだのか不明ですが。

パウロは再臨・死人の復活・最後の審判を期待していたという点では神話的なのですが、ちょっと
考えを非神話化の方に押し進めます。例えば『神はおん子を…お遣わしになった』(ガラテヤ4-4)
ことにより、キリストの復活に与った者、すなわちキリストにあるがゆえに義とされた者、それは
信徒であり、終末論的共同体としての教会において、キリストは死を打ち破り生命と不死とを明
るみに出した(ローマ5・12-14等)。すなわち世界の終末のような旧来のユダヤ人が熱望したもの
は福音を述べ伝える時に成就するとしました。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの時である
(Ⅱコリント6-2)。キリスト者には祝福の賜物として、期待される聖霊は既に与えられている。
ケリュグマによってもう、輝かしいその時は与えられているのです。

非神話化をあらわにしたヨハネ福音書については後で考察しましょう。

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045 2013/09/08(日) 00:08:27 ID:Y7l1wqV/qQ
>>44において不適切な表現があったことをお詫びします。
×:嘲笑モノ
○:噴飯モノ

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046 2013/09/08(日) 11:54:30 ID:9OX7ZZpHR.
神の国の到来というのがイエスの教えであり初期教会の教義であることは、共観福音書に共通の
次のお言葉で明らかです『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。イエ
スは終末論者なのです。

しかしパウロ書簡の後に書かれたヨハネ福音書の著者ヨハネは、終末論の徹底的な非神話化を行
って見せました。ヨハネによれば、イエスが去来し死んだことが、終末論的な出来事なのです。

『御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。光が世に来たのに、人々はそ
の行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ』(ヨハネ3-18)。

『御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかれないばかりか
神の怒りがその上にとどまる』(ヨハネ3-36)。

『私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰でも
決して死ぬことは無い』(ヨハネ11-25)。

『今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される』(ヨハネ12-31)。

ヨハネ福音書が他の共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)と趣が違うのは、前者が後者の神話論
の非神話化を行っているからです。だとしても、決して共観福音書が駄目と言っているのではあ
りません。私たちは聖書のどのページを開いても、二千年の時空を超えて、その福音書を書いて
いる彼らの背後に立って、彼らの肩越しに、その書きかけの原稿を蝋燭の灯りの下に覗きこむこ
とが出来ます。

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047 2013/09/08(日) 12:19:59 ID:9OX7ZZpHR.
このようにルドルフ・カール・プルトマンは、既に福音書の中に非神話化の芽を見ることが出来
るので、聖書をその時代に即して非神話化する作業は聖書を否定することにはならず、むしろ肯
定的な作業とします。

一方で、カトリック教会では、今でも、聖書の教えは、またイエス・キリストの教えは(哲学的
な意味の)神秘として、あるがままに信じなさいと教えます。それは(哲学的な意味の)問題と
いう次元には客体化できないからです。

しかし結局のところ、プルトマンの作業も教会の教えも行きつく所は同じです。プルトマンによ
れば、信仰とは、神の言葉としての聖書との出会いに他ならない。すなわち信仰とは、単に聞く
ことに過ぎない。聖書を神の言葉として聞くということは、私に語りかけられる言葉として、宣
教(ケリュグマ)として、宣言(プロクラメーション)として聞くことです。

ここまでグダグダとプルトマンの言葉を借りて私の信仰告白をしましたが、もっと土俗的に私が
カトリックであって良かったと思うことは、神が(私の外側からであれ内なる霊の働きによって
であれ)人生のターニングポイントに必ず現れ、私の肩を押してくれるということです。もちろ
んそれが良い方に行けば神に感謝しますが、往々にして悪い方に行くときもあります。しかしこ
れも有限なる私の人生に何か意味があるものと理解し了解できるところです。

神の行いというのは絶対に目で見ることは出来ません。現代人は科学的な観察者として、世界的
な出来事が因果関係によって成されることを理解します。そこには神の介入する余地は無いよう
に見えます。しかし『にもかかわらず』という信仰によって、自然的、歴史的に説明できない事
象を神の行為として理解し了解することが出来ます。例えば、私が受けている苦しみ『にもかか
わらず』希望に喜びに到達し得る神秘…それが信仰であると思えます。

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048 2013/09/08(日) 16:31:48 ID:9OX7ZZpHR.
結論として言えることは(何度も言ってますが)、キリスト教
を作ったのはパウロと、パウロの教えを受け入れた逃亡信徒たち
の教会の人々です。それは例えば当時のシリア人でありトルコ人
でありギリシア人でありローマ人です。

彼らはエルサレム教会から律法(トーラ)を携えてやってくる宣教師を、
偽教師(偽ラビ)と非難しました。

そういった紀元1世紀終盤期のキリスト教の雰囲気をきわだたせているのが、ヨハネの福音書
です。イエスの残した終末論という負の遺産を引き継いだ初期教会を、近代的な教会に脱皮さ
せた者、それがパウロであると断言できます。ペトロの果たした役割も少なくないことは確か
です。それは福音書の全てにペトロが弟子の代表として扱われていることからもわかります。
しかしイエスをキリストに仕立て上げる神学を作ったのはパウロと言わざるを得ません。キリ
スト教がパウロ教と呼ばれる所以です。

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049 2013/09/09(月) 00:02:35 ID:QdgLW46O0k
長文過ぎて全部を読んですらいないけど、
カソリックと言ってるのは、俺の宗教学的立場からであって、
別に教会としての公式見解などと言ってるわけでもないし、
定義について云々するつもりもない。
宗教学的に「カトリックと表記すべき」という定説もない。

また、俺の専攻は神学でなくて宗教学。単純に事実誤認だ。
あんまり大学名に固執されても困るけど(笑)

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050 2013/09/09(月) 11:28:39 ID:2hNJP96yMg
まぁ、キリストは預言者であって
神の信託を人々に告げる者
それ自体を拝んじゃうのはもうアカンのよね

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051 2013/09/10(火) 04:19:23 ID:MYg9kfWga6
つまりでしが作ったというのは正解だろ

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052 2013/09/12(木) 18:54:42 ID:RV1EdhFrpw
>>49
カトリックの語源はギリシア語のカトリケーが由来で『普遍的』という意味であると、カトリック教会では
まず初めに『誇りを以て』教える。それを知らなくてカソリックと呼んでいるならいざ知らず、何度訂正を
求めてもカソリックと言い張るのはカトリックへの冒涜、あるいは挑戦と受け取らざるを得ない。
 
カトリックと表記すべきはカトリック中央協議会の見解であり、意味不明の宗教学で論ぜられるもの
ではない。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn...
 
>宗教学的に「カトリックと表記すべき」という定説もない。
という根拠は何か?  それは如何なる宗教学なのか、エビデンスを提示せよ。

>>51
弟子が作ったとも言えるし歴史が作ったとも言える。
あらゆる時代の聖人が進化させて来たし、今も変わり続けている。
おそらく将来も進化し続けるだろう、キリスト教徒が絶えない限り。

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053 2013/09/12(木) 22:16:37 ID:JTg.QGCDjg
054 2013/09/13(金) 17:25:31 ID:43iKKNh7pw
今週のカトリック教会は行事の多い週でした。
秋は収穫の時ですからね。労働の恵み、命の糧。
9月10日は日本205福者殉教者の記念日。
http://www.sanpaolo.or.jp/column/kaze/back/pg471.htm...
 
今日9月13日は、聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士の記念日。
http://www.sanpaolo.or.jp/column/kaze/back/0609.htm...
 
明日土曜日9月14日は、十字架称賛の祝日。
http://www.sanpaolo.or.jp/column/kaze/back/0209.htm...
 
そして日曜日はいつもの主日。
カトリック教徒は忙しいです。

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055 2013/09/14(土) 20:34:59 ID:g0wWev484U
私は、主キリスト・イエスの平和にあって、主の愛、主の恩寵のうちに生きることを感謝しま
す。私は主キリスト・イエスのうちにあって生きているのですから、私の背負う十字架はとても
軽いのです。

むしろ私の背負う十字架は私に心の平安を与えてくれるばかりか、喜びさえ与えてくださいます。
それは私の負の部分、苦しみの部分を、私に代わって主キリスト・イエスが全て背負ってくださる
からに他なりません。

私が頼みもしないのに、いつの間にか主が背負ってくださるのですから、このことを肝に銘じて
感謝するのは、人間として当然の義務だと思います。

カトリック信徒でない方々は、独力で十字架を背負っているのですか?
それとも、ご自分が十字架を背負っていることに気づかないのですか?

しかしそんなあなたがたでも、主キリスト・イエスを信仰することによって、あなたがたの背負う
十字架がいかに重たかったか気づくはずだと、私は確信します。

私は学校で電子工学を学び、ずっと今まで研究開発に生きて来ました。そこで得た物は、例えば
あるプロジェクトが完成されるためには、様々なプロシージャーがあり、また完成に至る様々な
メソッドがあるということです。それは霧の中で、あるいは暗闇の中で、見失いがちになる道を
必死に探す旅人に似ています。しかし旅人は自らの信じる道を(誤らなければ)目的地に到達で
きるでしょう。

信仰というのはそういうものだと思います。信仰とは道を誤らないための信念だと思われるのです。
逆にいうと、信仰を持たない者は、いつ道を誤るか、遭難するか危うい状態だと言えるでしょう。

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056 2013/09/14(土) 20:39:27 ID:g0wWev484U
カトリックというのはギリシア語のカトリケー(普遍)に由来するもので、要するに普遍的という
ことです。これは登山に例えると、富士山に登るためには、複数の登山道があるわけですが、結局、
最終的には富士山の頂上という一点に到達できるということです。つまり全ての道は頂上という
目的、すなわち神に到達する…文字どおり『あらゆることにあてはまるさま』…それがカトリック
を信仰する者の喜びということです。

私は理工科系人間で決して迷信深いとは思わないのですが、いつも主キリスト・イエスが私の隣
に寄り添ってくれ、私を正しい道(それは世俗的には成功というものかも知れませんが)へとお
導きになってくれていることを強く感じざるを得ません。
私にとって生きるとは信仰の神秘なくしてあり得ません。

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057 2013/09/14(土) 20:47:18 ID:szTihotQGg
今日(9月14日)の十字架称賛の祝日にあたり、そんな感慨を新たにしました。

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058 2013/09/15(日) 11:45:28 ID:EbciE452Zo
今週もカトリックでは色々あります。
9月16日(月) 聖コルネリオ教皇 聖チプリアノ司教殉教者の記念日。
http://www.sanpaolo.or.jp/column/kaze/back/0509.htm...

9月20日(金) 聖アンデレ金と同士殉教者。これはキムさんですからキムチで祝いますか。
http://blog.goo.ne.jp/andrew-john/e/fda2dbff9f0ab01f...

9月21日(土) 聖マタイ使徒福音書記者の祝日。
これは十二使徒の一人、元徴税人の頭マタイがマタイの福音書を書いたとする
ものですが、まあ時代からしてちょっと無理でしょう。マタイの名を借りた、
あるいは別人のマタイが書いた物だと思います。
http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_matthaios.ph...

以前キリスト教の偶像崇拝について何か発言がありましたが >>30
偶像崇拝を禁止するも何も、仏教でも神道でも、偶像はありこそすれ、
それを拝んでも願いが叶うとは、大の大人は考えないでしょう?
まあ、気休めではないですか? 
イベントとして大学合格祈願の絵馬を奉納するとか…。

キリスト教的には、
・淫らなことや穢れたことをすること。
・卑猥な言葉や愚かな話や下品な冗談を言うこと。
・淫らな者、穢れた者、貪欲な者…すなわち執着を捨てられない者。
これらに代表される人間の汚い側面に生きる者が偶像崇拝者の定義です。

すなわち偶像とは、下衆な、あるいは穢れた思い・言葉・行い、すなわち貪欲な執着なのです。
例えば、拝金主義者とか、半沢直樹の敵役たち(笑)は偶像崇拝者ですね。
下衆な人々は自分の下衆さが分かりませんが、往々にして第三者からは見えますよね。
だから偶像なのです。別に絵画を拝もうが彫刻を拝もうが他人に迷惑がかかるものではありませ
んが、執着を捨てられず自暴自棄に生きる者は迷惑ですよね。だから偶像崇拝禁止なのです。

神よ、あなたに立ち返る恵みを与えてください。
私たちの思いがいつも神に向かい、神の喜びとなるよう導いてください。
救いのみわざの完成に奉仕することができますように。

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059 2013/09/16(月) 01:44:59 ID:dBDBvvn5.Q
ギリシア語のカトリケーに由来する言葉としてカトリシズムというのがある。
読んで字のごとく、カトリック的思想とかキリスト思想と言っても良い言葉だ。

それは置いて置いて・・・
だいたい納得がいかないのは、某氏が依って立つ処の東洋大学の宗教学という学悶だ。
宗教や信仰と言うのは、例えばカトリックを例に挙げると(いくら教会が要理を説いても)
百人の信者がいたら百通りの信仰があると思わざるを得ない。例えば私なんかは、初期の
教会が排斥した異端の書を読んで、それを逆説的に解釈し、自己の信仰を確認するような
作業をするし、他の人は文字通り司祭の教えをあるがままに受け入れるかも知れない。
ある人は不幸からの脱出を神に願うのであり、幸せな人は神に感謝する。

そんな信仰と言うのは、客体化できないから、学問として成り立つはずが無い。これが
例えば、宗教的観点から見た社会学。宗教的価値観から書かれた文学。宗教が経済課活動に
与える影響を研究する経済学などであれば、この客体化が可能なものであり、そのような
研究は大いに人類を進化させるであろう、

それを宗教学と漠然と提示し、卒業したらキリストも知りませんとは、何としたことか。
たぶん宗教にまつわりつく哲学者の言葉をこねくり回したのであろうが、そこから受けた
ものは何だろう。いったいそれが人の役に(あるいは己の知識研鑽に)立つのだろうか。
あるいは己の口を糊するに足る学問だったのだろうか。西洋の宗教も知りませんでは、東
洋の思想も知りません…ってことなんだろう。この東西宗教を結ぶものとして、その昔、
ある宗教が起こって滅亡したのも知らぬのであろう。

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060 2013/09/16(月) 07:21:47 ID:dBDBvvn5.Q
削除(by投稿者)

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061 2013/09/16(月) 07:49:25 ID:gBbD.W9hCE
宗教学を声高に叫びながながら、言っていることは、あまりに幼稚では無いか? 
もちろんこれにたいする彼の反論は予想可だ。己は宗教学の徒であり、神学の専門家ではないと。
では宗教学とは何なのか説明して欲しいものだ。
 
しかし私ははっっきり言っておく。宗教学とは何と胡散臭い学問だろう。
 
宗教学と似たカテゴリーで Thanatology という学問がある。これは文字通り死という事柄を
研究する学問(哲学)だ。死というのは死に行く人間にとっては、客体化は認めたくない事柄
であろう。そういった点では宗教学とさして変わりないが、死せる人間以外にとっては(ある部
分において)客体化できる。すなわち「生命体(動植物すべて)の代謝活動が停止した様」と
生物学では客体化できよう。それに人間は死に向かう存在であるのだから、これを哲学的に客
体化する作業は(まず不可能だが、不可能と結論づけるに至るプロシージャーは評価できるか
も知れないので)無意味とは言えまい。
 
しかし宗教学というと - それを哲学とは認めたくないが - は他人の家の食卓を覗くような下衆
っぽさを感じて居心地が悪い事おびただしい。下品に言えば「からすの勝手でしょ」って事だ。

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062 2013/09/16(月) 13:32:27 ID:Q1KoD58kA.
>>61
同意ですな。
他にも、類似で『平和学』なるものもあります。
平和について研究して博士号を取るのだそうです。
そもそも平和ってのは学問的に研究して学位を取得するようなものなんですかね?

あと『女性学』ってのもありますね。
いわゆるフェニミズムなんですが、これも生物学的な客観事項を無視して、
好き勝手に自己価値観を拡張していく意味不明な学問であります。

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063 2013/09/16(月) 16:30:10 ID:dBDBvvn5.Q
>>62
こんな過疎ったスレをご覧いただいている方がいらっしゃることに感謝します。
宗教は学ぶものでは無く実践すべきものです。平和もまた然りですね。
それは憲法9条反対や原発反対のような教条主義に脱してはいけません。
しかしこの平和ボケ日本で平和を実践しろと言っても白々しい限りですが…。

第二次大戦下、ナチ万歳のドイツで、敢然と反ナチを標榜したのがドイツのカトリック教会です。
ために第二次大戦中、ドイツ国内だけでも二千六百人以上の神父が、逮捕され強制所送りに
なりました。強制所は御存じのように、一日に与えられる食料といえばコッペパン一個。
そして毎日8時間以上の強制労働です。彼らは毎朝、強制労働に赴く前に整列させられ、
ゲシュタポの偉い幹部に点呼を受けるのですが、その時少しでも顔色が悪かったり、疲れた
そぶりを見せると、居残りを命ぜられるのです。強制労働に赴く皆から残されたそれらの者、
それはガス室行きに他なりません。

ところがほとんどのドイツ国民には強制収容所の存在は伏せられていたのです。
ドイツ国民は、いつの間にか、あるいは、ある日突然に、友人や隣人が『消え去る』と
いう事実しかわからなかったというのです。それがドイツ国民を不安に陥れ、反ナチの
言論を封殺するのに役立ちました。日本の隣組制度より陰湿ですね。

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064 2013/09/16(月) 16:32:36 ID:dBDBvvn5.Q
またナチは『安楽死法』というのを可決しました。これにより精神障害者や身体障害者のような
国家の役に立たない者を無制限に殺すことが出来るようにしたのです。これに立ち向かったのも
カトリック教会の司教で、彼は『安楽死法』が可決されたという事を、ある町の公衆の面前で演
説しました。これは即座にナチスに報告されたわけですが、この司教は幸いなことに貴族出身な
ので、貴族階級に支持者の多いナチは手出しができませんでした。

これを受けたのがドイツのカトリック教徒です。彼らはこの演説を筆記し、コピー機など無い時
代でしたから、信者が毎晩遅くまで、一枚一枚タイプライターでタイプし、ロシアで戦争をして
いるドイツ軍の兵士に匿名で郵送したのです。これがドイツ兵に厭戦気分を生じせしめることに
成功し、ロシアのドイツ兵から家族へ知らされ、またあるいはドイツ軍幹部からナチス本部へ報
告されることとなり、この無茶苦茶な安楽死法という法案は間もなく取り消されました。

その頃、日本のカトリック教会は何をしていたか。毎日、戦勝祈願のミサをしており、外人神父
はドイツ人も含め、松本の収容所に幽閉していました。しかしそれらも歴史の一ページですから、
後世の私たちが非難できるものではありません。カトリック教会でさえも、昔はキリストの名の
もとに外国を植民地とし、あるいは十字軍の名の元に異教徒を大量に虐殺したのですから。

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065 2013/09/16(月) 17:45:33 ID:gBbD.W9hCE
安楽死法とは・・・ウィキより抜粋
 
T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツにおいて優生学思想に基づ
き行われた安楽死政策。1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政
策自体は継続された。「T4」は本部の所在地、ベルリンのティーアガルテン通4番地に基づ
き第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である。一次資料にはE-Aktion(エー・アクツィ
オーン)(E作戦)、もしくはEu-Aktion(オイ・アクツィオン) の名称が残されている。
この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し、その後
も継続された安楽死政策により、20万人以上が犠牲になったと見積もられている。
 
これを教えてくれた我が恩師のドイツ人司祭デーケン先生によると、当初一般市民にこのことが
知らされることは無く、デーケン一家や他の反ナチ家族がロシア戦線のドイツ兵に匿名の手紙を
出すことによって、ドイツ国内に逆に知られるようになったのだそうです。なぜドイツ軍が兵士
宛の書簡を検閲しなかったのか、というのも謎ですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A...

返信する

066 2013/09/17(火) 22:17:08 ID:Rgd1uv/eZI
徒然なるままに色々書いてますが、私がカトリック(カソリックでは断じて無い)信者で良かったのは、
カトリックには希望の祈りがあることですね。
いや仏教にも有るかも知れませんが、
神社には無いですよね。あえて言うと願掛けかな。でも何となく違うんだな。
それは、次のような祈りですが、あくまでも願いを実現するのは自分で、
なんでもかでも神頼みではないところに意義があると思うのです。

神よ、私に変えられないことは、そのまま受け入れる平静さと、
変えられることは、それを行う勇気と、
そしてそれらを見分けるための知恵を、
どうぞお与えください。

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067 2013/09/17(火) 23:09:50 ID:Rgd1uv/eZI
私がカソリックという言い方を断固拒絶するのは、
2千年前にギリシャのあちこちにできはじめたキリスト教会が
エクレシア・カトリケーを名乗ったからです。
それは訳せば普遍会堂という意味でしょうか。
普遍教会でいいかな?

なにが普遍かというと、そこでは貧乏人も金持ちも、
平民も貴族も奴隷も、
男も女も差別することなく受け入れるからです。
これが聖パウロの思想であり、かつ理想としたものです。

もちろんこれは絵に描いた餅ではなく実行されたのです。
そんな昔にですよ、奴隷や被差別者も分け隔てなく受け入れた。

これは21世紀の極東の一カトリック教徒としても誇りに思うわけです。

だからカソリックという呼び方が気に入らないのです。
それに学会の定説がどーとかこーとか言われても、
宗教法人としてカトリックを名乗ってるわけですから、どんないい加減な学会やら。

例えば、土佐藩主山内家はやまのうちと読むわけで、いくら学会がやまうちと読むかも知れないと言っても、
現に山内さんの子孫が高知に住んでいて、やまのうちですと言うんですから、
それと同じで信者がカトリックというんですから、
ゴミみたいな学会に定説がなんたらとか、とやかく言われたく無いもんです。

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068 2013/09/18(水) 15:20:13 ID:vaQXopO0A6
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069 2013/09/18(水) 15:22:32 ID:vaQXopO0A6
Catholic は英語ではキャトリックになるが、断じて「ソ」では無い。
 
↓の「音声を聞く」をクリックせよ。おまえだ東洋大学のバカ某!!
http://ejje.weblio.jp/content/Catholi...

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070 2013/09/19(木) 15:34:04 ID:jo93kfv5yQ
聖イグナチオ教会の平日の正午のミサに行ってる人いる?
(たぶん、いないだろうな)。
平日(含む土曜日)の12時からのミサに変なおばさんが来て騒ぐんだ。
夏を迎えた頃、暑さのためか来なくなったけど、涼しくなった今日は来てた。
ミサの間ワーワー騒いで、司祭をキムチ臭いと罵るんだけど、あれはどんな人か知らない?
教会が威力業務妨害罪で訴えればいいと思うんだけど。
昼食時間をつぶしてタクシーでわざわざ行く身にもなって欲しいよ。

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071 2013/09/19(木) 19:47:21 ID:306g58Lnk2
072 2013/09/19(木) 22:40:11 ID:jo93kfv5yQ
>>71
たなべのバーカ、お前、白痴だろ、早く逝け!!

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073 2013/09/22(日) 10:53:31 ID:as8QPbIgfQ
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074 2013/09/22(日) 10:55:41 ID:as8QPbIgfQ
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075 2013/09/22(日) 11:07:29 ID:amxD9Mx8.Y
神よ、あなたの道を歩ませてください。
 
私たちが地上の労働の実りを、神の国のために役立て、
与えられた命をさらに豊かなものとしてくださいますように。
 
神よ、あなたの道を歩ませてください。
 
物や情報にとらわれがちな現代の人々の心を、み言葉によって解放してください。
神との交わりに根ざす真の自由へと導かれますように。
 
神よ、あなたの道を歩ませてください。
 
この板で神のみ言葉を冒涜するスレがあるのをお許しください。
彼が改心して真のみ言葉を理解できる者となりますように。
 
神よ、あなたの道を歩ませてください。
 
私に変えられないことはそのまま受け入れる平静さと、
変えられることはすぐにそれを行う勇気と、
そして、それらを見分ける知恵を、どうぞお与えください。
 
神よ、あなたの道を歩ませてください、アーメン。

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076 2013/09/22(日) 19:56:44 ID:1JWwdcUOUs
077 2013/09/22(日) 20:51:41 ID:amxD9Mx8.Y
>>76
たなべのバーカ、お前早く市ね。

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078 2013/09/23(月) 02:27:41 ID:YDdDdhnUic
福音書の取捨選択一つとっても、数ある福音書の中から
東西南北4つあるから、福音書も4つ!
みたいな滑稽な行為で選ばれたものや
信者にこれが人気だから、これ採用というようなクソみたいな行為で
キリストの崇高な教えを冒涜したのが、弟子どもの世俗的な欲望を表している

宗教なんかこんなもんですよ、呼び名がどうこうとか関係ない
己自身が神と向き合い、神を偽らないこれこそが真実

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079 2013/09/23(月) 17:09:12 ID:oj58HA4.e.
>>78
共観福音書3書に意味があることを私たちは知っている。
それはマルコを基本にし、マタイ的拡張とルカ的拡張だ。
これらは互いに補完しあって初期のいくつかあった教会の信仰告白
を教えてくれる。

ヨハネは共観福音書の描く終末論に哲学的解釈をした所に意義がある。
共観福音書の描く終末が来ないことに対する回答としてこの福音書はある。
すなわち共観福音書の描く終末論を非神話化し、イエスの死によって『事は成就した』とイエスに言わせた。

また書簡類の背景を解説するための使徒言行録という、面白くも手に汗握る物語をおまけにつけ、
読み物としても完成度の高いものとなっている。

聖パウロ(彼はイエスの弟子ではない)の書簡および使徒の名を借りた書簡類を読めば、
キリストの直弟子がキリストの教えを冒涜しているとパウロが非難する箇所が多くある。
ケファ(ぺトロ)などこてんぱんに非難されている(が、私には浮気がばれた親戚のオジサン
の話を聞くようで親しみを感じる)。
ここから読み取れることは、少なくともキリスト教を作ったのは直弟子ではないということ。

それはパウロおよびパウロの神学に共感したヘレニズム文明を背景に持つ人々が作った。
それは名もない数多くのローマ帝国の信者であり、聖アウグスティヌスでありアシジの聖フランシスコだ。

>己自身が神と向き合い、神を偽らないこれこそが事実
それは往々にして独善となりがち。先達の教えに従って神のみ旨を行うのが正しい姿勢だと思う。

『神よ、私に変えられないことはそのまま受け入れる平静さと、
変えられることはすぐにそれを行う勇気と、
そして、それらを見分ける知恵をどうぞお与えください』、
とカトリックの祈りにある。

まず神を偽らないという知恵を神に願わなければならない。
偽っていないという心は傲慢かも知れないから。
神の前では徹底的に謙虚にならないといけない。

それに謙虚さは日本人の誇るべき美徳でもあるし。

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080 2013/09/23(月) 17:33:56 ID:oj58HA4.e.
それに聖書以外にも多くの文献が外典として認められているので、
聖書、それも特に4福音書にこだわる必要は無いと思う。

昔の文献にその名が見えるのに現在残っていない福音書は、何らかの当時の教会事情で
全て廃却されたのだが、幸いなことに20世紀になって廃墟からパピルスが発見され、
私たちの前に明らかにされた物が多くある(例えばトマス福音書など)。

これらは当時は異端とみなされたのだろうが、現在の私たちから見ると、キリスト教の
ある一派の考えを表明しているわけで、大変に興味深いし、イエスの言葉として語られて
いる物もとても面白い。

トマス福音書の中の次の聖句が好きだ。それは無限のインスピレーションを与えてくれる。

イエスが言った。『過ぎ去る者になりなさい』。

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081 2013/09/24(火) 11:28:12 ID:YEr0Hm8nJA
文章が長い割に主旨がない文章だな
>それは往々にして独善となりがち。先達の教えに従って神のみ旨を行うのが正しい姿勢だ>と思う。

これこそ不可能、宗派間のイザコザが人間のエゴ丸出しの精神性の低い俗物(魂の低い人間)であることの証明である
キリストが晩餐で弟子たちの間違った信仰を笑った、その意味を弟子たちはまるで理解していない
そう、結局誰もキリストの真の思想を理解してなかったのである
神祖がなくなったあとは、お決まりの「俺の解釈が一番正しい」戦争
悲しいかなこれがキリスト教の正体である

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082 2013/09/24(火) 13:44:46 ID:IO0qpzTecM
>>81
ルカ22章のあたりのことを言ってるんだろうけど、あるいは、ルカ24-21かな。
福音書すべてにおいて、弟子たちがまるでイエスを理解していないように、
書かれているのは、意図的なものですよ。
誰もイエスを理解していなかったと書かざるを得なかった理由があるんですよ。
でなければ、あえて弟子たちを悪く書く必要はないでしょ?

初代ローマ教皇であるケファでさえ糞味噌に書いた理由は何だと思う?

ケファが亡くなった後だから、ローマ人のルカは、
彼らをバカみたいに書いたと思うの?

イエス自身の宗教をあえて言うと、ユダヤ教ファリサイ派ですよ。
ファリサイ派の律法解釈に異を唱えただけ。

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083 2013/09/24(火) 14:34:53 ID:IO0qpzTecM
イエスの宗教をユダヤ教ファリサイ派とするのは、
私の説ではなく、ルドルフ・プルトマン初め、多くの神学者の説です。

プルトマンは最後の晩餐も、初期のキリスト教会の信仰告白から来ているとします。
わたしたちがミサにあずかるのは、イエスキリストが決めたからではなく、
ヘレニズム教会の行事が元だといいます。

この行事をマルコ初め福音書作家が書いたのです。
福音書の逸話のほとんどは初期のキリスト教会の信仰告白が元らしいです。
初期のキリスト教信者はユダヤ人以外が多かったので、
ときどきイスラエルからやってくる権威主義者を揶揄したのが、
イエスを理解しない弟子たちの逸話になったとも考えられます。

プルトマンらの福音書研究によると、
残念ながらイエスはキリスト教の教祖ではありません。

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084 2013/09/24(火) 23:50:24 ID:oeM9FlseSk
085 2013/09/25(水) 18:17:11 ID:8dEZhdwf72
>>84
たなべのバーカ、バーカ、はよ死ね。
 
主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。
あなたが悪に目を留められるなら、だれがみ前に立てよう。
しかし、あなたのゆるしのために、人はあなたをおそれとうとぶ。
 
主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。
イスラエルよ、イスラエルよ、主を待ち望め。
主はすべての罪から、イスラエルを救われる。
アーメン。

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086 2013/09/25(水) 22:29:50 ID:8dEZhdwf72
彼は醜く、威厳もない。
みじめで、みすぼらしい。
人は彼を蔑み、見棄てた。
忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる。
まことに彼は我々の病を負い、
我々の悲しみを担った。

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087 2013/09/25(水) 22:36:35 ID:8dEZhdwf72
>>78
ようするに『み旨のままにあれかし』がキリスト者の祈り。

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088 2013/09/26(木) 14:14:10 ID:imAwBClb3k
神よ、み旨を行うことはわたしの喜び、
あなたの教えは、わたしの心に刻まれている。
 
シオンよ、喜べ。エルサレムよ、歌え。
見よ、わたしたちの王、主が来られる。
 
新しい歌を神に歌い、民のつどいで神を賛美しよう。
イスラエルはその造り主を喜び、シオンの子らはその王をよろこべ。
 
シオンよ、喜べ。エルサレムよ、歌え。
見よ、わたしたちの王、主が来られる。
 
舞をささげて神の名をほめ、鼓と琴に合わせて神をたたえよ。
神はその民を心に留め、貧しい人を勝利で飾られる。
 
シオンよ、喜べ。エルサレムよ、歌え。
見よ、わたしたちの王、主が来られる。
 
アレルヤ、アレルヤ。わたしは道、真理、いのち。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行かれない。アレルヤ、アレルヤ。
 
「主よ、主よ」という人が皆、天の国に入るのではない。父のみ旨を行う人だけが入る。
 
信じる者の力である神よ、天の糧に養われて祈ります。
あなたを愛し、人々に仕える熱意を、わたしたちの中に燃え立たせてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

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089 2013/09/26(木) 21:35:38 ID:NzOjBE.LzA
>>83
>プルトマンらの福音書研究によると、
>残念ながらイエスはキリスト教の教祖ではありません。

この事自体が弟子たちの俺が正しい、俺が正しいのエゴ丸出しの
死んだ宗教という証なのです

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090 2013/09/27(金) 17:46:47 ID:q4EQnIl1rA
神の霊はわたしの上にある。
貧しい人に福音を告げ、砕かれた心をいやすために神はわたしに油を注がれた。
 
神はわたしを救われる。そのいつくしみをたたえよう。
 
神よ、あなたのもとにわたしはのがれる。
とこしえに恥を負わず、正義によって救ってください。
耳を傾け、急いで助け、身を避ける岩、わたしを救うとりでとなってください。
 
神はわたしを救われる。そのいつくしみをたたえよう。
 
神よ、あなたはわたしの岩、わたしのとりで、あなたのいつくしみによってわたしを導き出し、
しかけられた網からわたしを助けだしてください。あなたはわたしののがれ場。
 
神はわたしを救われる。そのいつくしみをたたえよう。
 
アレルヤ、アレルヤ。人の子が来たのは仕えるため、多くの人のあがないとして
自分の命を与えるため。アレルヤ、アレルヤ。
 
神のいつくしみと、その不思議なわざに感謝せよ。
神は渇いた心を潤し、飢えた魂をよいもので満たされる。
 
いつくしみ深い神よ、いのちの糧にあずかったわたしたちが、聖ビンセンチオの模範に励まされて、
おん子イエスにならい、貧しい人に喜びをもたらすことができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

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091 2013/09/27(金) 18:29:19 ID:q4EQnIl1rA
>>89
イエスの直弟子たちは今日のキリスト教の発生にほとんど関係していない。
キリスト教の発生に寄与した直弟子を挙げると、ケファ(ペトロ)とその弟子のマルコくらい。
 
今日のキリスト教を作ったのはイエス死後に入門して来たヘレニズム文化圏のユダヤ人。
だから弟子では無い。
 
特に無理矢理ごり押しで使徒になったパウロのグループの役割は大きい。
 
パウロだって、イエスの直弟子のうちペトロとヤコブ(イエスの従兄弟)ら少数の承認を得た
だけで使徒になったつもりになり、勝手に暴走した形跡もあるが、今日のキリスト教の基礎を
作り上げたのは事実。ただし西暦3世紀くらいまではキリスト教の神学が固まっていなかった
ので、様々な派閥が発生したとも言える。グノーシス派などはその代表。
 
イエスの直弟子の直系といえるエルサレム教会は西暦70年頃までに歴史から消え去った。
どこに消えたかは諸説あるが、私はイスラム文化圏に紛れ込んだと(勝手に)予想する。
例えばイスラム教ではキリスト教徒のことを蔑称して『ナザレ人』と言うからだ。

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092 2013/09/28(土) 16:09:02 ID:Hxq6GDVIIA
キリストに従い、キリストの愛のためにいのちをささげた殉教者は、
天の国でキリストとともに終わりなく喜び歌う。
 
われらはシオンで神をたたえ、豊かな恵みを喜び歌う。
 
わたしたちの救い、わたしたちのかみよ、あなたは地の果ての望み、遠い島々の希ぼう。
わたしたちにこたえて救いをあらわし、驚くべきしるしを行われる。
 
われらはシオンで神をたたえ、豊かな恵みを喜び歌う。
 
荒れ野のまきばも若草にもえ、丘一面に喜びがこだまする。
野山は羊の群れに満ち、谷は小麦におおわれ、人々は喜びにあふれて歌う。
 
われらはシオンで神をたたえ、豊かな恵みを喜び歌う。
 
アレルヤ、アレルヤ。わたしたちの救い主イエス・キリストは死を滅ぼし、
福音によって生涯を照らしてください。アレルヤ、アレルヤ。
 
聖なる父よ、聖トマスと十五人の殉教を記念してこの供えものをささげます。
わたしたちが殉教者の模範に励まされ、この秘跡によって信仰をあかしする力をいただくことができますように。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
 
注釈:紀元2世紀ごろ、まだローマ帝国から大迫害に逢わなかった頃のキリスト教では、殉教を美徳と考えていました。
イエスの死に習おうとするあらわれであり、イエスを殺害したユダヤ人に対する反ユダヤ主義が、キリスト教に芽生えたのも
この頃です。ユダヤ人はこの時期、ローマ帝国に対し第一次、第二次ユダヤ戦争を起こし、結局、玉砕しました。
この戦争にキリスト教徒はユダヤ側に加担しませんでした。
それは当時、もうキリスト教はユダヤ人のものでは無くなり、ユダヤ人以外の例えばギリシア人などの信者の方が
多くなっていたためです。
ユダヤ人のキリスト教会を受け継いだエルサレム教団は、この戦争と前後して、歴史から消え去りました。
この反ユダヤ主義が聖書の中に(反ユダヤ主義が濃厚な)4福音書の収録を決定したのです。

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093 2013/09/28(土) 22:07:09 ID:9TIG0NbYuM
094 2013/09/29(日) 06:20:35 ID:HX3FdqvaF6
今日のキリスト教に言及して言うならば、真のキリスト教などないよ
腐敗した政策によって作り変えられた、ただの新興宗教と大差ない
いやもっと酷いというべきか

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095 2013/09/29(日) 14:11:31 ID:WIY5RFpf1A
>>94
カトリックの最も偉いところは、キリストで商売をしないという考え。
初代パウロからして3度に及ぶ大宣教旅行を金持ちの教会からの援助で行い、
貧しい教会から費用は取らなかった。パウロはキリスト教で金を儲けようとは
思わなかったのはもちろん、逆に宣教旅行で投獄されたり、強盗に遭ったり、
船が難破したり、死にかけたり(結局殺されたが)、無償の愛で宣教に生きた。

最も初期の教会(ユダヤ教ファリサイ派イエス会)も私有財産禁止の『共有財産制』だった。

西暦100年代のキリスト教会でも『キリストで商売してはいけない』が声高に叫ばれた。
それは使徒教父文書(新約聖書と同一の聖なる物とカトリックではみなす文書)として残る。
現在、我々が唱えている使徒信条は既に西暦100年代に元が出来た。それは使徒教父文書に
見える。だから信者としての心構えは西暦100年代から作り変えられていない。

商売という視点から見ても、あらゆる時代に存在した修道会も赤貧を標榜する会が多くあった。
現在の修道会でも私有財産はごくわずかに限られている。

一般信者からも教会維持費をごくわずかしか取らない(収入の3%が目安)。
現状の神父様(どこの修道会所属でも)の慎ましい生活ぶりは立派だ。

どこが腐敗しているのか?

それにひきかえ、特に名指しはしないがキリスト教系新興宗教では信者から収入の1割を徴収
するところがある。豪華な神殿を作り、牧師は豪華な邸宅に妻子と住んでいる。

よくよく調べもしないで腐敗しただの、(金儲け目当ての)新興宗教と同じだと言うべきではない。

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096 2013/09/29(日) 14:36:43 ID:WIY5RFpf1A
例えば信者の少ない地方の教会では、神父様はそこらの貧乏学生と同じように
四畳半の風呂なしアパートに寝起きし、夕食は街の定食屋で済ます。
これは遠藤周作氏が友人の神父様の生活を語ったものだ。

聖イグナチオ教会でも神父様は殺風景な寄宿舎暮らしで、私物といえば本と少ない
衣料くらいだろう。テレビとかステレオなんかは個室には置いてない。

これは上智大学の教授兼神父様も同様だ。SJハウスという殺風景な建物で、個室といえば
窓一つの狭い部屋に住み、そこらの学生寮の方がよほど立派だ。
教授といえどテレビなどは食堂で観るという。どこが腐敗しているのか?

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097 2013/09/29(日) 20:29:47 ID:FHSOwdz2qg
西暦100年代のキリスト教の教えでは、占星術とか怪しい占いを信じたり、してもらおうと思ったり、
占い師自体も偶像崇拝と定義した。
拝金主義とか執着も偶像崇拝だ。
しごく、現代的なまっとうな宗教だと思うが。

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098 2013/09/30(月) 04:18:55 ID:sTWIPHmUpQ
削除(by投稿者)

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099 2013/10/01(火) 18:29:43 ID:UcfDV6B2H.
旧約聖書の実行者としてもキリスト教徒はユダヤ教以上だ。
 
旧約のイザヤ書に次のようにある。
わたし(全能の神)は燔祭(いけにえのささげもの)に満たされており、例えあなたがたが、
私の前に現れて子羊の脂や、牡牛の血をささげようとも、そのようなものを欲しいとは思
わない。いったい誰があなたがたの手からそのようなものを求めたか。あなたがたが極上
の小麦粉を持ってきても無駄である。薫香(お香)はわたしにとっては忌まわしい。あなた
がたの新月の祭りと安息日(ユダヤ教の習慣)とは我慢がならない。
 
エレミヤ書にも同様な趣旨の言葉がある。
このわたしは、…あなたがたの父祖に対して燔祭と供え物をささげるよう命じただろうか。
 
詩編にも次のような趣旨がある。
主に対する供え物は、あなたがたの打ち砕かれた心であり、主に対する薫り高い薫香は、
自分を作ってくださった方を賛美する心である。
 
そこでキリスト教では、物やお金などを神様にささげたりはしない。ユダヤ教のように人間味
のない無意味な律法は行わない。ユダヤ教では、例えば安息日(土曜日)には仕事をしては
いけないので、1日に歩く歩数も制限があり、エレベーターやテレビのリモコン・ボタンを押す
こともできない。
 
キリスト教ではそのような形式主義はいっさい無しである。それは旧約聖書の実現である。
イエスの教えも旧約の戒律の実行で、その後に人間が勝手に作った律法を(やんわりと)
否定した。
 
カトリックでは、私たちの信仰心が主への供え物だ。主を賛美し『司祭の手をとおしておささ
げするいけにえをお受けください』と祈る。だから教会への献金(教会維持費という名目だが)
も最小限だ。キリスト教の教会には神社やお寺のような賽銭箱は無い。しごくまっとうな宗教
だと思うが。

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100 2013/10/02(水) 14:29:02 ID:xdCdf7vOFU
今日10月2日(水)はカトリックでは守護の天使の記念日である。
 
守護の天使の記念日は、十六世紀にいくつかの教会で祝われ、
ローマ教会暦には1615年に取り入れられた。いつくしみ深い神が
天使を遣わして、わたしたちが神の国に入ることができるよう守っ
てくださるのを思い起こす記念日である。
 
神の使いよ、神をほめよ、賛美の歌をささげ、世々にほめたたえよ。
 
摂理によってすべてを治められる神よ、あなたは天使を遣わしてわたしたちを守ってくださいます。
わたしたちがいつも天使に守られ、永遠の喜びに入ることができますように。
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられるおん子、わたしたちの主
イエス・キリストによって。アーメン。
 
主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。
 
「神はわたしたちののがれ場、わたしのとりで、わたしは神により頼む。」
神はその羽であなたをおおい、翼のもとにあなたはのがれる。
 
主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。
 
神があなたのために使いにめいじ、あなたの進むすべての道をまもられる。
神の使いは手であなたをささえる。それゆえ不幸はあなたに臨まず、
災いは住まいにちかづかない。
 
主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。
 
彼らの天使たちは、天でいつもわたしたちの天の父の御顔を仰いでいる。
 
天使の助けによって、わたしたちがすべての危険から守られ、永遠のいのちに入ることができま
すように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

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101 2013/10/03(木) 03:21:48 ID:BwP3XKeOt.
教会を建てることにも、偶像を崇拝することも忌んでいたキリストが
使徒共が、己のエゴを満足させるために、珍妙なエセ奇跡を書き足した糞書物をキリストが見たらどう思うかね

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102 2013/10/03(木) 10:32:02 ID:sdmIKnFJ2k

 信徒なんて・・・  所詮みんな 勘違いだらけで・・・

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103 2013/10/04(金) 22:07:49 ID:Rb8DzVje3w
>>102
神学的アプローチも様々ですからね。
共感福音書を書いた3人は別々の教団に属していて、
それぞれの信仰に都合のいいように、福音書を書いたという説が有力らしい。
すると、真実のイエスは福音書からあぶり出すのはかなり難しい。

それに福音書作家は生きている『イエス』を重視して書いているのに、
バウロの書簡では『死んだイエス』を重視している。
当然、バウロの流れをくむ今に至る教会は、
キリストの死と復活ばかり重視するように見える。

福音書作家とバウロのあいだに、既に勘違いの目があったんだな。

一切世間、天人阿修羅等、ってやつかな、違うかw

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104 2013/10/04(金) 23:12:51 ID:6HZLfKusPw
昔々、福音書作家やバウロが活躍している頃は、イエスの行動を文書化した資料が無かった。
あったと言われているのは、イエス現行録と奇跡伝承と歴史(行動)伝承。
あと名前を聞いたこともあるかも知れないけど、Q資料という資料(マタイとルカが参照したはずの物)。

バウロはその内、歴史伝承しか重視しなかった。
それもイエスが処刑された歴史だけが重要だ。生きたイエスは彼の眼中に無い
現行録からの引用は最小限だ。

『汝の敵を愛せよ』はユダヤ教の教えでは無いし、バウロも福音書作家も書いているから、
イエスの言葉に間違いない。

『去り行く者になりなさい』は福音書に無い(ただし違い意味に使わるていりる箇所あり)が、
その後に書かれた使徒教父文書に見えるからイエスの言葉に間違いないらしい。

このようにして、地道に真のイエス像を探って行くのが聖書学らしい。

バウロが自分の神学を触れ回ったせいで、
またバウロが自分意外の宣教師を非難した(エルサレムとかアレキサンドリアから来た宣教師の教え等)せいで、
バウロの活躍以降に書かれた3つの共感福音書も彼の神学の影響から逃れられない。

ただし、幸いな事に福音書作家は
バウロの神学にブラスして、
奇跡伝承やイエスが生きている間の歴史伝承も資料に使ってくれた。
そのため、ある程度は生きたイエスの行動が、
共感福音書から探れるらしい。

ヨハネの福音書は成立が西暦100年頃で、
この頃は、あちこちの教会で作られた使徒教父文書(昔の一時期はこれが聖典だった)があったので、
それも参考にした形跡があるから、生きているイエスの記述は参考にならないらしい。
しかし処刑前後の様子は一番確からしい。

らしいらしいばかりで、お恥ずかしい。

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105 2013/10/05(土) 02:24:48 ID:7ttmqHcauA
パウロとペテロは仲が悪いし、自分が中心人物になりたくてイエスの教えそっちのけで
改変やりたい放題、そらぶち殺されるわ

返信する

107 2013/10/06(日) 10:59:40 ID:jsKjaBjxiQ
>>105
前回誤字頻出謝罪。睡眠導入剤を飲むと意識朦朧となる。
パウロとペトロが仲が悪いという主張をする聖書学者はいないと思う。

パウロがケファ(ペトロ)に言及しているのはコリント1書簡でケファが女房持ちであること、
ガラテヤ書簡でケファに宣教のお墨付きをもらったこと、
ケファがアンティオキアに来た時、異邦人と食事会をしているのを
エルサレムから来た同僚に見られてうろたえたのをみっともないと非難したくらいで、
とくにパウロがケファを嫌っているような点は見られない。
むしろケファと兄弟と呼んでいる。

それに、結局ケファは、その後エルサレム教団を離れて、バウロのあとを追ったのだから
仲が悪いとは思えない。

聖書外典のペトロ行伝にも仲が悪いとは書いてない。

むしろパウロはケファがガラテヤ教会で自分の教えと違うことを言ったらしい事象を指して、
キリストの前では同じ意味なのだというようなことを言っている。

それにパウロの書簡は福音書の前に書かれたもので、
純粋にイエスの死と復活の信仰告白を述べたものだ。

改悪、改変を言うんだっら、最初の福音書を書いたマルコが、
バウロの神学(イエスの死をもってキリスト教が成ったという説)を批判し、
マルコ(と彼の属する教団)の神学(イエスの死で極まる生けるイエスをキリストとする説)を展開した可能性がある。
むしろ、このように考える学者が多い。

さらにマタイやルカになると、マルコを基本に、
更に両者に共通のQ資料で膨らませ、
さらに両者が属していた教団の思想(教義・祭祀)まで盛っているのだから
改変どころではないと思うが。

さらに前世紀の聖書学では、イエスは実は熱心党(ゼロテ)の一味で、
彼を首謀者とする反ローマ活動により処刑されたと見る学者もいたくらいだ。
もちろん今もいる。

ちょっと脱線したが、パウロもペトロも教団の中心人物となって、
一旗挙げようという気が無かったのは確かだ。
当時のイスラエル事情を知ればサドカイ派のように神で金儲けができる。

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108 2013/10/06(日) 11:02:14 ID:jsKjaBjxiQ
ちょっと脱線したが、パウロもペトロも教団の中心人物となって、
一旗挙げようという気が無かったのは確かだ。
当時のイスラエル事情を知ればサドカイ派のように神で金儲けができる。

しかし彼らは命の危険と隣合わせの巡回宣教師として生きた。
中心人物になろうという野心があろうはずがない。
キリストの愛だけを宣教するのんを寄付金だけで行った。
それも命を狙われたり、牢か獄に何年も投獄されたのにも懲りず。

中心人物になりたければ、あちこちにできはじめた裕福なキリスト教会に、
主導者として収まればよいはす。

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109 2013/10/06(日) 11:08:56 ID:jwHFkgE2zs
パウロとペトロの対立について以下の文を引用する。

しかし、パウロは頑強な抵抗に出会うことになる。この抵抗の指導者となっていたのが、いつ
しかローマに来ていたペテロだった。二人の使徒のあいだのあまり模範的ではない対立によっ
て、激しい緊張が生じた。これが、95年に執筆したコリント書のなかでローマのクレメンスが示
唆しているものだろう。しかし、全員が調和的な状態にあるというイメージを好む使徒行伝の著
者は、こうしたことに触れたくなかった。このために使徒行伝の末尾が唐突なものになったと考
えられる。放火犯として罰するためにキリスト教徒たちを逮捕するという64年における帝国警察
の任務は、二つのグループのあいだの相互の告発によって容易なものとなった。こうしてそれぞ
れのグループの指導者が、他の多くの信者たちとともに、命を落としたのである。
エティエンヌ・トロクメ(フランスの新約聖書学者)2002著作『聖パウロ』白水社 p.124-125

パウロとペテロは、お互いのグループ抗争がエスカレートした結果、ローマ帝国警察への告発
合戦の挙句に滅んだ、そう書いてある。
最初に読んだとき、私はその意味がよくわからず、何度も読み返した。
そして目を見張った。驚いた。

このトロクメの記述を正確に裏付ける史料が存在することはなかろう。
しかし、原始キリスト教団には「ヘレニスタイ」と「ヘブライオイ」の深刻な政治的対立が存
在していたことは周知の事実であり、その当時、前者の驍将であったパウロが敗北したことにも
疑問の余地はあるまい。

(引用ここまで)

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113 2013/10/06(日) 11:37:42 ID:nt28RllKzY
果たしてパウロが敗北したのでペトロを告発したのか。この事件を記したクレメンスのコリント
書(聖書に次ぐ聖典・使徒教父文書)を引用しよう。
ごく最近に戦いをなした者たちに移ることにしよう。私たち世代の、立派な例を取り上げてみよ
う、嫉妬と羨望のために、教会の最も偉大な、最もただしい柱であった人々は、迫害され死に至
るまでよく戦ったのだ。立派な使徒たちを我らの目の前に思い浮かべてみよう。ペテロ、この人
は不正な嫉妬のゆえに、一度二度ならず幾多の苦難を忍び耐え、こうしてあかしを立てた上で、
彼にふさわしい栄光の場所へと赴いた。嫉妬といさかいのため、パウロは忍耐の賞に至る道を示
した。彼が東方においても西方においても、福音の説教者とし登場した時、七度鎖に繋がれ、追
い払われ、石にて打たれたのだったが、そのため彼はその信仰のはえある誉れを得たのであっ
た。彼は全世界に義を示し、西の果てまでに達して為政者の前であかしを立てた。かくしてから
世を去り、聖なる場所へと迎え上げられたのだ。忍耐ということの最大の模範となって。
(引用ここまで)
小川陽訳『クレメンスの手紙 — コリントのキリスト者へ(Ⅰ)』より
 
ここからはトロクメが言うような二人の激しい対立というものを想定するのは難しい。私の解
釈ではペテロを嫉妬・羨望したのはパウロではない。パウロの忍耐の相手はペテロではない。そ
れはローマ帝国の為政者のことを言っているのだ。そうでなければローマ教会のクレメンス(ヘ
レニスタイ代表のローマ人)が、ペテロ(ヘブライオイの代表 — とトロクメは考える)を、
その死を栄光の座と呼ぶのはおかしいではないか。第一、ペテロはヘブライオイの座を放棄し、
それをヤコブに譲って巡回宣教師になって、結果としてローマまでたどり着いた。そういった意
味ではペトロもヘレニスタイである。

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114 2013/10/06(日) 11:40:34 ID:jwHFkgE2zs
聖書の研究はスコラ哲学ばかりでなく、歴史的社会学や歴史的経済学、編集史的手法を使わない
といけないということに、最近気が付いた。これは聖書学者荒井献氏の前世紀の意見だ。今世紀
のトロクメの著作では、編集史的手法(その文章を書いた人がどのような視座に立っていたか、
庶民層か貴族層か、ローマ人かユダヤ人か、パウロ派かペトロ派かなどなど)が影を潜めてしま
っているように思われる。

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115 2013/10/06(日) 12:21:34 ID:nt28RllKzY
ペトロとパウロの同時代に生き、彼らの死を知っているはずのルカが、
彼の著作・使徒言行録でその死を書かず中途半端に唐突に終わらせたのは、
パウロもペトロも彼らの功績に相応しい栄光ある死が彼らに与えられなかったからだ。

ルカの美学というか、ルカの属す教団では、偉人は神の名による栄光ある死が与えられなければならない。

それが、イエスの、ステファノの、ヤコブの殉教として描かれる。
パウロとペトロの場合は、神の名による栄光の死では無かった。

惨めな獄死だったので、ルカはそれをうやむやにして、書かなかったのだ。
その罪状が放火犯である可能性も否定できないが(おそらく冤罪だが)、
少なくともパウロは囚人だったのでそれは考えにくい。

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116 2013/10/08(火) 21:26:15 ID:4AVcefRj6M
彼仏国土
微風吹動
諸宝行樹
及宝羅網
出微妙音
とかの祈りにはキリスト教的やすらぎがあるね。

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117 2013/10/08(火) 21:51:37 ID:4AVcefRj6M
彼はさげすまれ、人々に避けられ、痛みと病を親しく知ることとに
定められた人であった。そして、わたしたちから顔を覆い隠すことが
なされているかのようであった。彼はさげすまれ、わたしたちは彼を
取るに足りない者とみなした。まことに、わたしたちの病は彼が担い、
わたしたちの痛みは彼が負ったのである。

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119 2013/10/08(火) 22:28:10 ID:4AVcefRj6M
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご胎内のおん子イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も死を迎えるときも、
お祈りください。アーメン。

返信する

120 2013/10/08(火) 22:52:12 ID:4AVcefRj6M
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。
わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、
わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

天におられる私たちの父よ。
み名が聖とされますように。み国が来ますように。
み心が天におこなわれるとおり、地にもおこなわれますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をお許しください。
わたしたちも人を許します。
わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。
アーメン。

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121 2013/10/09(水) 21:32:43 ID:WrSssIUc/s
天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエスキリストを信
じます。
主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、
ポンティオピラトのもとで、苦しみを受け、
十字架につけられて死に葬られ、よみに下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って全能の父である神の右の座に着き、
生者と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒のまじわり、
罪のゆるし、からだの復活、永遠の命を信じます。
アーメン。

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122 2013/10/09(水) 21:45:33 ID:WrSssIUc/s
狭い門から入りなさい。
滅びに通じる門は広く、その道も広々として、
そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、
その道も細いことか。
それを見いだす者は少ない。

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123 2013/10/09(水) 21:56:11 ID:WrSssIUc/s
彼はわたしたちのわずらいを負い、
わたしたちの病をになった。

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124 2013/10/10(木) 14:02:47 ID:DNW.fSZ7ng
私は、カトリックの信者です。次のことを人生のと
もし火として大切にしています。
 
1.神を父と呼び、他の人を兄弟姉妹として迎える。
2.自分の命を、大切な賜物として受けとめ、それが多
くの人の役に立つよう心がける。
3.この人生の旅路を、イエス・キリストのように歩み
全うしていく。
4.イエス・キリストが約束してくださった復活と永遠
の命に与ることができると確信している。
5.神の愛を信じる者にとって、死は終わりではなく、
私たちとの絆を断ち切るものでもない。
 
アーメン。

返信する

125 2013/10/10(木) 14:09:57 ID:DNW.fSZ7ng
しあわせな人、神をおそれ、主の道を歩む者。
 
しあわせなひと、罪びとの道を歩むことなく、
神のおきてを喜びとし、昼も夜も教えを心に留める
人。
 
しあわせな人、神をおそれ、主の道を歩む者。
 
神に従う人のつどいは神のもとにあり、
神に逆らう者の道は滅びへとつづく。
 
しあわせな人、神をおそれ、主の道を歩む者。

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127 2013/10/10(木) 17:47:40 ID:9a4OLYaWyE:au
デスペラドやポエマーみたいな、
世界を破滅に陥れてでも自分だけが救われようとしている邪教徒が
20億人も30億人も蔓延っているような世界を
あえて救ってやる必要性なども、どこにもないわな。

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128 2013/10/10(木) 20:30:30 ID:3TKtsXYeVM
適当に書いてるわけではないですよ。
>>119は天使祝詞、通称アヴェマリアの祈り。
カトリック信者ならロザリオを繰りながら一日に何十回も祈る。
 
>>120の『天におられる私たちの父よ。』以下の部分は主の祈りと言って
イエスが教えてくれた父なる神への祈りのカトリック版。これも毎日祈る。
 
>>121は信仰宣言といって、カトリックの主日のミサで全員が唱える。
この宣言がカトリック信仰の根本だ。
 
>>124はカトリックの教義を端的に述べたもの。
これが書かれたカードを常に身に着けている。
このカードに自分の名前、教会の名前(聖イグナチオ教会)、
教会の電話番号を書いておいて、万が一、事故で死んだ場合に連絡してもらう。
警察や病院で仏教式に処理されたら困るのでね。
 
>>125は答唱詩編という祈りの一種。平日のミサで繰り返しの部分を全員が唱える。
例えば、
 
主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。
 
神は貧しい人々に耳を傾け、捕らわれびとをないがしろにされない。
天と地は神を讃えよ、海とその中に生きるすべてのものも。
 
主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。
 
神は必ずシオンを救い、ユダの町を立て直される。
神の民がそこに住み、子孫はそれを受け継ぐ。
 
主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。
 
『主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。』の部分を全員が唱える。

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129 2013/10/11(金) 04:36:33 ID:PPFflyNQFE
コピペお疲れ様。

返信する

130 2013/10/11(金) 16:56:31 ID:iE8.N0N0Xk
父が子供をいつくしむように、神の愛は、神をおそれる人の上にある。
 
10月11日(金)の答唱詩編。
 
わたしたちは神の民、その牧場(まきば)の群れ。
 
「わたしの民を集めよ、いけにえをささげて契約を結ぶ民を。」
天は神の正義を告げる。神はすべてを裁かれる。
 
わたしたちは神の民、その牧場(まきば)の群れ。
 
わたしの民よ、聞け。わたしはおまえに語る。
イスラエルよ、おまえを戒めよう。わたしは神、おまえの神。
 
わたしたちは神の民、その牧場(まきば)の群れ。
 
ちなみに金曜日はイエスが十字架につけられた聖なる日です。祈りましょう。

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131 2013/10/11(金) 22:26:55 ID:rOz5FQghz.
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内のおん子イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、わたしたち罪びとのために、
今も死を迎えるときも、お祈りください。
アーメン。

返信する

132 2013/10/11(金) 22:31:07 ID:rOz5FQghz.
神の母、聖マリア、わたしたちのために祈ってください。
キリストの約束にかなう者となりますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。

返信する

133 2013/10/13(日) 16:35:03 ID:r6eD74TqZ2
横断歩道通行中、無謀運転の車にはね飛ばされた。
全治一ヶ月。神のみ旨といえど、複雑骨折、痛し。

返信する

134 2013/10/16(水) 19:29:26 ID:Xo9btzgX5A
あちこち骨折はいいけど、
くも膜下出血はなかなか止まらないらしい。
くも膜下出血ってよく聞く言葉だけど、
自分の症状としては具体的に何もない。
ただ、本を読んでも、ある行を何度か読まないと理解できない。
ただしこの症状は事故のショックによるものかも知れないと医者に言われた。

返信する

135 2013/10/18(金) 16:03:47 ID:CSTKMBXuPM
今日10月18日は、聖ルカ福音書記者の記念日です。
聖書の中にはイエスの行動や言行を書いた物語が四編あり、この物語を福音書と言います。
聖ルカは、この中の『ルカによる福音書』を書いた人です。

またイエス死後、エルサレムにできたユダヤ教の亜流のような修道院(のようなもの)が、
イスラエル以外のローマ帝国各地へ拡散していき、あちらこちらにキリスト教会が出来て
いく様子を描いた『使徒言行録』の作者も聖ルカです。

ルカは異教徒の家庭に生まれましたが、初期のキリスト教に改宗し、使徒パウロの同士に
なりました。パウロという人は最初のころ猛烈にキリスト教徒を迫害する側の人間だった
のですが、その日もあるキリスト教徒を逮捕しようと勇んで出かけたのですが、天からイ
エスの声がかかって目が見えなくなってしまいました。

そしてあるキリスト教徒の家に連れて行かれると、目から鱗のようなものが落ち、目が再び
見えるようになったのです。それからパウロはキリスト教に改宗しました。

『目から鱗が落ちる』ということわざは、これが語源です。皆さんも知らず知らずのうちに
色々なキリスト教の言葉を使っているんですよ。

ルカは医者だったそうですが、パウロの手紙に同士として名前が見えます(テモテへの手紙
など)。ルカはパウロ死後に福音書や使徒言行録を書きました。ルカはパウロの同士ですか
ら、使徒言行録も後半はパウロの活躍が本筋になっています。

ルカによる使徒言行録や福音書が聖書に本採用になった時点で、パウロの思想がキリスト教の
思想の本流になったと言っても良いでしょう。パウロの手紙を見ると、論敵は当時かなりたく
さん、いたようです。しかし彼らは異端として退けられ、彼らの文書類は、後世に残らないよ
う注意深く廃却されました。

しかし20世紀になってエジプト等の廃墟から多くのパピルスが見つかり、二千年近く前に異端
として退けられた文書(トマスによる福音書など)が見つかって話題になりました。

返信する

136 2013/10/18(金) 19:13:30 ID:CSTKMBXuPM
だからルカがキリスト教に改宗した頃は聖書などは無かったのです。

イエスの言葉伝承や行動の伝承しか無かったのです。
その様な頃にキリスト教に改宗するって結構、勇気が必要だと思いませんか?

だって、イエスの教えは、イエスの元弟子や元孫弟子だった者の口づたえしか
無いんですよ。きっと元弟子や元孫弟子たちは立派な、人を説得できる徳のある
人たちだったんでしょうね。

元弟子や元孫弟子が老いた頃、これではいけないと感じた元孫弟子のひとり、マルコが
『マルコの福音書』を書きました。ルカはこれを参考に、ルカの属す教団が持っていた資料を
追加し、ルカの福音書を書いたわけです。ルカの福音書はイエスの誕生がとても美しく描いて
あって、大好きです。

イエスの誕生は、ルカ以外には『マタイの福音書』にしか書いてありません。一般的には
マタイのイエス出産逸話の方が有名です(三人の占星術師が祝福に来るとか)。

しかしカトリックの祈り、(聖母マリアへの天使ガブリエルからの)お告げの祈りは、ルカの
福音書の逸話が元になっています。ちょっと引用しましょう。

*************************************
主のみ使いのお告げを受けて、
マリアは聖霊によって神のおん子を宿された。

アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご体内のおん子イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、私たち罪びとのために、今も死を迎える時もお祈りください。

私は主のはしため、お言葉どおりになりますように。

アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご体内のおん子イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、私たち罪びとのために、今も死を迎える時もお祈りください。

み言葉は人となり、私たちのうちに住まわれた。

(以下ずっと続くので省略ねw)

返信する

137 2013/10/20(日) 16:03:02 ID:yo11m6FmvY
ちょっと最近知って驚いたことがありますがプロテスタントってマリア様を大事に
しないんだってね。なぜなのかまでは不明なのですが。

もちろんカトリックでも聖母マリア様を神様のように、おがむことはないですし、
女神さんでもありませんが、聖母マリアは人間の中で最も神に近い人だとします。

神自身もマリア様を特別に選びました。だからカトリックでは聖母マリアが大切です。
プロテスタントではキリストがマリア様から生まれたというのは認めるが、それ以上では
ないらしいです。

だからプロテスタントには、上のようなお告げの祈りやアヴェマリアの祈りはないらしいで
す。

カトリックでは聖母マリアを次のように思います。
1 聖母マリアは諸聖人の中で最も優れた人です。キリストの真の母として神の恩恵に満たさ
れ、
すべての天使と聖人に勝る地位を与えられています。

2 だから聖母マリアは原罪を免れ(無原罪)、地上での生活を終えた後は無条件で天に
あげられました(披昇天)。

3 十字架にかけられたキリストが使徒ヨハネに向かって『これはあなたの母です』と
言った時、聖母マリアはキリストの意思と恵ですべての信者の心の母になりました。

そう言えばプロテスタントには『聖人』というものじたい、無いとのこと。

返信する

139 2013/10/20(日) 22:42:22 ID:yo11m6FmvY
結婚の概念もプロテスタントとカトリックでは違うようです。
カトリックでは神父様の前で結婚を誓うわけですが、
あくまで主役は新郎新婦です。

神父様が神の神秘(結婚の神秘)を二人に与えてくれるのでは無く、
夫が妻に、妻が夫に神の神秘を与えます。だから、妻か夫のどちらかが信者でなかったら
未信者は半年間は結婚口座に通う必要があります。

それぞれが神の神秘を与えあうわけですから、離婚は絶対できません。
神に牙をむくわけですからね。最近では一方が信者で無ければ離婚もできるようです。
ただし信者は再婚できません。再婚したければカトリックを止めるしかないです。

プロテスタントではお互いに神の神秘をやり取りするという概念が無いのです。
だから、離婚も自由自在だし、未信者でも結婚口座無しで式を挙げられるんですね。
それに神の神秘も関係無いので、結婚式場の牧師もアルバイトのおじさんでかまわない。

第一、キリスト教で一番重要なのは聖書だけで、教会にも行かなくて構わないとするし。
だからプロテスタントの牧師さんは、特別な神職でないから結婚もできるし、子供もいるし
結婚式場の牧師もパートタイマーのおじさんで構わないんだそうです。
これはプロテスタントの悪口ではなく、プロテスタントの神学者の書いた本に
あったのです。そういう問題ですかねえ。

返信する

140 2013/10/23(水) 21:40:03 ID:J6sI4Xn83U
主のみ使いのお告げを受けて、
マリアは聖霊によって神のおん子を宿された。

アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご体内のおん子イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、私たち罪びとのために、今も死を迎える時もお祈りください。

私は主のはしため、お言葉どおりになりますように。

アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご体内のおん子イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、私たち罪びとのために、今も死を迎える時もお祈りください。

み言葉は人となり、私たちのうちに住まわれた。

アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご体内のおん子イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、私たち罪びとのために、今も死を迎える時もお祈りください。

神の母、聖マリア、私たちのために祈ってください。

キリストの約束にかなう者となりますように。アーメン。

ところで、筒井康隆が大好きで、本はほとんどすべて持っているけど、
ジーザス・クライスト・トリックスターは酷いね。プロテスタントなら
かんかんに怒るだろうね。私はカトリックだから、腹をかかえて笑ったよ。
皆も筒井が好きなら読んでみて。キリストがメチャメチャにされていて、いや笑うよ。

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