聖書信仰は、家族関係に節操を失わせる。
本当に聖書に書いてある通りに殺し合いまでする家族は稀にしろ、
家族同士ですら殺し合いも辞さないだけの心の凍てつきを、
常時信者たちに強要し続けていることだけは間違いがない。
家族関係の軽視が、元はと言えば「神の下での万人の平等」という聖書中のカルト教義によって
人々に強要されていたのが、近代合理主義によって、神への服従もほぼ撤廃されて今に至る。
実在しない脳内超越神などという、虚構への絶対服従の病理から解放されたこと、
それ自体はいいことだったにしろ、脳内超越神への服従という病理によって
家族関係を蔑ろにし続けて来た聖書信者が超越神への服従から解放されるや、
今度は「個人主義」という極端に振れきった。
独我性を最大級に肥大化させた近代以降の西洋人と対峙する上では、
好むと好まざるとに関わらず、自分たちもまた個人主義を携えるのでないと
一方的な利益の収奪対象にもされかねないことから、日本人や中国人などの非聖書信者も、
否応なく個人主義を肥大化させた。
特に、現代の中国人の個人主義の過剰さは著しく、街中で大事故に見舞われた
子供すら横目に通り過ぎる冷酷さなども近ごろ報道されたところではある。
あれも結局、西洋の個人主義を模倣した結果の代物なわけで、
西洋人ほどには修辞を練り上げているような事実がないために、
中国人の個人主義からなる冷酷さこそは近年、際立ってもいる。
個人主義の病もまた、元はと言えば聖書信仰による家庭軽視を元凶としているのであり、
人はただ無信仰であるというばかりのことだけで、現代人並みの個人主義に陥るものではない。
絶対神の下での万人の平等などという邪義によって、家族関係すらもが他人や敵同然のものと
されてしまった前科があればこその、現代の体たらくでもあるのだから、
個人主義の過剰という問題の解消のためにも、その元凶たる
聖書の論理にまで問題視をよく向けていかなければならない。
返信する