難読書にも、ただ用語や言葉遣いが難解なだけの書物と、用語や
言葉遣いは簡単でも、書いてあること自体が難解な書物との両方がある。
西洋の哲学書などが前者である一方、仏典の論書などは後者に当たる。
洋学の哲学書は、用語や言葉遣いを理解するのに大変苦労させられる一方で、
いざその難関を突破してしまえば、その内容はといえば「悪いことをして
大金稼いでウハウハ」とかの、それはそれはしょうもないものとなっている。
論書部の仏典は、用語や言葉遣い自体はそんなに難しくないものの、
書かれてあること自体の意味が非常に難しく、最悪の場合、著者が行ったの
とも同等の出家修行に努めるのでなければ、その含意が理解できなかったりする。
仏典の論書を理解しようとすれば、それ自体が精進修行となって、自分自身が
聖人や賢人になれたりするし、そこまでいかずとも、聖賢の意図を慮る過程で
不埒な思い上がりが滅尽されて、善良な市民になるぐらいのことはできる。
洋学の哲学書を理解しようとすれば、それ自体がマゾヒズムの拡張となって、
書いてあることを理解できた頃にはすでに、立派なマゾヒストになれている。
また自分自身が西洋流の哲学者となれば、中身は無いくせに意味不明な
文章で読者を振り回すことで悦に入る、一人前のサディストにもなれる。
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