うん、そうやって後付けで正義や悪の定義をねじ曲げることだっていくらでもできる。
しかし、またそういったねじ曲げられた定義による正義や悪を論ずる語法が
新たに蓄積されていくことになるだけで、本来の語法と整合性のない、数多の我流の語法が
世の中じゅうに溢れ返った結果、人間同士の意志疎通にまで致命的な滞りを来して、
遂には破滅に陥ることにもなる。これ全て、身勝手な言葉遣いを
無数に流布しようとした者たち自身の、自己完結した自業自得。
世の中にとって有益無害なものが善であり、正義。世の中にとって有害無益なものが悪であり、邪曲。
これが、人間たち自身が本来の語法上の示し合わせに即して定義している、善悪や正邪の判断基準。
有害無益なものを世にのさばらせれば、破滅にすら陥って都合が悪いから、邪悪と判断して戒め、
有益無害なものを世にちりばめれば、福徳が呼び込まれて都合が良いから、正義と判断して奨励する。
別にこれ以外の定義に即して、正義や悪といった言葉を使うこともいくらでもできるが、
それは大多数の人間にとって益がない上に害のあることだから、
自然と他の定義に即した正義や悪といった言葉を用いる言葉遣いは淘汰され、
世の中にとって有益無害なものを正義、有害無益なものを悪と呼ぶことが一般的となっていった。
まるで、玉鋼が鍛えられて名刀へと焼成されるようにして、
人間が用いる言葉の定義(名辞)もまた、言葉が人間たち自身によって
ふんだんに使い込まれることを通じて、普遍性を帯びて来ているのだ。
人類史上でも初めて、意識的な名辞の鍛え上げに取り組んだのが、他でもない孔子でもある。
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