 >>38
>>38  自分という人間の外側に、理想的な何かを策定しようとするから、 
 自分自身が最善を尽くそうとした結果得られたような主観よりも、下劣な理想しかGodにできない。   
 プラトン哲学やユークリッド幾何学が提唱された頃から続いている、「傍観の悪癖」、 
 傍観によってこそ純粋な理想が得られると断ずる過ちが、理想の品質すらをも貶めてきた。   
 「華厳経」における広大な世界描写も、仏の目線から見て上へ、上へ、上へと展開し、 
 同じように横へ、横へ、横へとも展開する。「悟りを拓いた人間」たる仏の主観こそは、 
 真に全世界、全宇宙を包摂する理想たり得たのであり、そこに視野を狭隘化させる傍観などはない。   
 ムハンマドがアラーからの啓示を受けた時にも、キリスト教勢力の侵略に対する抵抗戦という 
 それはそれは切実な実践が伴っていたのであり、その結果として、アラーからの神託をも得たのである。   
 何らの切実な実践も伴わない傍観はかえって、本人自身の怠慢を反映した、色眼鏡越しばかりとなる。 
 その結果、観点もまた濁りに濁りきって、脳内で純粋培養したはずの理想すら、人並みのそれ以下となる。   
 傍観を主とした結果、人間としてそれなりに清浄化させられる理想すらも不必要に濁しきって、 
 それをわざわざ絶対的なGodに仕立て上げていたのだから、そりゃあ、Godなど祭り上げない 
 場合以上にも惨憺たる結果しか得られなかったのも、むべなることだといえる。   
 人並み以上の浄行に務めた結果、健やかに清められた主観からなる理想を神や仏として 
 祭り上げた場合に、神仏もまた利益をもたらしてくださるのであり、人並み以下でしかない 
 理想をGodに仕立て上げたりするのとは全く真逆の、無害にして有益な果報が生ずるのである。   
 濁りきった理想を神に仕立て上げた挙句に破滅したからといって、神仏全般を否定するのは、短絡である。
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