ある程度、物質的にも文化的にも恵まれた境遇に生まれ育った
人間でないと、仏教の真価を推し量ることはできない。
昔の東洋の権力者が、好んで大きなお寺や仏像などを建立していたのも、
世の中の安寧や繁栄を祈願する、「封禅」の意図があったからこそ。
ある程度世相の乱れが収束して、誰しもが幸福な生を送れるようになってから、
その福徳の長久を持続させるというところに、仏教帰依の真髄までもがある。
常に極大級の貧窮や戦乱に晒され続けている、今のブラックアフリカの
人間などが、今すぐにその仏教の価値を計り知るなんてのもどだい無理な話で、
最悪の不幸に日々さらされ続けていることへの、全く救いにもなってない
「気休め」としてのキリスト信仰などに逃避するほうが容易いことであり、
実際に今でも、ブラックアフリカ諸国の大部分がキリスト教国でもある。
それは本当に、全く救いにもなっておらず、さらには欧米キリスト教圏からの
過度の虐げに屈従して泣き寝入りし、自分たちの疲弊を十分に訴え出ることをも
あきらめさせる原因にすらなってしまっているわけだが、じゃあそこに急に
仏教を持ち込んでいって教化しようたって、先進国の人間ですら十分に理解する
こともかなわないほどに難解なのが仏教。識字率から底辺を這い回り続けている
文化的荒廃地域でもあるアフリカ人などに、仏法の秘奥などが理解できるわけもない。
衣食足りて礼節を知り、教育が足りることで高尚な文化の理解にまで到る。
世界でもっとも文化が荒廃した地域にも当たる、キリスト教圏に仏教を広めることは、
それによってこその世の中の改善を期待したりするよりは、改善された後の世の中の
厳重な封禅という、最終目的の達成のための指標のように捉えたほうがいい。
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