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ニヒリズム


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001 2011/07/16(土) 05:43:57 ID:.WJ3xPNB0A
ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、英: Nihilism / 独: Nihilismus)とは、
この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。
名称はラテン語の Nihil (無)に由来する。

ニヒリストは概して以下の論点を強く主張している。

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173 2011/11/25(金) 16:50:19 ID:ucjm.Wx6y6
考えずに身体を動かすのは武術の極意だけど
それは、戦闘の範疇での事だと思う。

戦闘より上の、戦術、戦略の場面で
考えずに動くのを是とする人はおらんだろう。
そんな兵法はないと思う。

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174 2011/11/25(金) 18:02:43 ID:Lw0VBpgK8Q
「戦略を戦闘に移すときはもう考えない」と言っているのに、何を勘違いしてんだか。

「大智不智、大謀不謀、大勇不勇、大利不利(六韜・武韜)」というのもあるにはあるが。
俺が非常に気に入っている言葉の一つでもある。

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175 2011/11/30(水) 05:51:56 ID:X0NXO7cI0s
動かざる事、山の如し。

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176 2011/12/02(金) 12:26:34 ID:gxfwV04402
あ、すいません。へんな事書いてた。
いつものことだけど。

続けてください。

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177 2011/12/13(火) 14:08:25 ID:A6wHh8XbdY:au
日本の武術の理合は、神道と禅に因る所が大きい。

禅の無念夢想が武術に応用されているのはよく知られているが、
神道が武術にどんな影響を与えたのかは、あまり知られていない。
「精神主義」であるのは確かだが、具体的に精神主義とは何なのかといって、実は非常に神妙なもの。
易学や道術を日本的に昇華させた所に神道の精神主義もあり、
それは戦前の国家神道が国民に強いていた闇雲さなどとは一味も二味も異なる。

有り体にいって、非常に面白い。
諸法実相をありのままに用いたパズルとでもいったようなもので、
形而上の超越神などを想定しなくたって、この世界の内側にも
驚くほど多くの神妙な現象法則が存在していることに気づかされる。

ニヒリストである人間も、ニヒリストであるままに一度神道や神道系武道をやって見ればいい。
決してニヒリストだからといって、この世界のノッペリさからなる鬱屈などにかられる必要はないのだと知る。

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178 2011/12/13(火) 15:11:10 ID:lDJWwNEbx6
杖道で神道夢想流とかあるけど
あれの「神道」は、そのまま神道。
「夢想」の部分は、禅の無念夢想から来てるのか。

神道が武術に与えた影響かー。
そういや、武道の道場に神棚がある所が多いですね。
キックボクシングのジムでも、置いてるところがあった。


神道が、道教や儒教の影響を受けたって
部分は・・うさん臭そうだけど、ありえるかもなぁ。

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179 2011/12/16(金) 05:08:58 ID:iak0dBI9Gs
今の日本人。
全員儒学を教えるべきだ!

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180 2011/12/21(水) 04:13:43 ID:EX0NTWL2AM
ある思想を「ニヒリズム」だとして非難するとき、
あるいは必ずしも否定的に評価をせずとも「ニヒリズム」であると診断するとき、
(しかし「ニヒリズム」という言葉は常に否定的な評価として機能してきたんではないかとも思うが)
さらにまた、「我々はニヒリズムの中にいる、目的や目標が失われている、何を言ったって、したって、無駄だ、さらにこうして無駄だと言うことすらもが、無駄だ」
とまでも言うとき、
それでもなお、「無駄だ」という言葉が「無」を含むということは、その先に「無」と反対の「有」を想定しているはずなのだから、有を想定していなければ無とすら言えないのだから、
そうしたニヒリズムについてのあらゆる言明は、
非難であれ診断であれ、
さらに、何をしても無駄だという言明でさえ、
全ての言明が、未だにニヒリズムの先に目的や目標を持っているのではないのか?

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181 2011/12/21(水) 09:34:08 ID:P3/x3vYSQ.
無を主張することは、有の存在を確信することでもあるんか。

バットマンのジョーカーが、(善)バットマンがいるから
自分みたいな(悪)ジョーカーも存在するって言うてるのと一緒の
やや厨2っぽい発言で、めずらしく分かりやすいです。

SM 阿闍梨によると、仏教での、無と有は並列する同格の概念で
それら両者をまとめる上位概念が、空ですってね。

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182 2011/12/21(水) 10:59:49 ID:aEF4JekeDQ:au
何もかもを否定する過程で、
自意識過剰の思い上がりだけはかえって肥大化させているのがニヒリスト。
何よりもまず自意識の否定から取りかかるのが般若。

自らの自意識への否定を他の事物にも振り向けるから、
否定されることによって相手がどんな気持ちになるのかも分かりきっている。

「こういう否定のされ方なら、自分だってされたって構わない」という否定を他者に加えてみる。
それで反発してくる相手は心練が足らない未熟者、納得する相手は自分並みの達観ができている者だと分かる。

いずれにしろ、自意識過剰をお互いにぶつけ合うような意図はどこにも無く、
相手が自意識過剰によって食ってかかって来たところで、
こちらに対抗してかかるような自意識はどこにもない。

醜悪な自意識過剰を未だに持ち越している側だけが、
その思い上がりによって、自業自得で極重の苦悩にかられ続ける。
否定の刃を無闇に乱用して、自意識の否定だけは怠っていたニヒリストなどもまたその内に入る。

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183 2011/12/24(土) 05:24:04 ID:ioIB5nazxg
現在の我々にとって「アポロン」、「ディオニソス」(ともにニーチェ初期から現れる思想概念でニーチェ著『悲劇の誕生』)、
「能動的ニヒリズム」(ニーチェ著『権力への意志』)という語は馴染みがないのですが、実は「ニヒリズムの克服」と同様かつての流行語でありニーチェの思想概念です。
三島氏が当時の流行概念によって自らの思想を語ったのか、
当時の日本がニーチェ著『権力への意志』に記される「ニヒリズムの到来」時期と重なって思われてその語を用いたのか、

それともニーチェの思想に信服してこのように言ったのかは更なる研究を待たねばなりませんが、
「もはや道理は要らない。道理はガタピシして、持ち運びのたびに、壁のあちこちに傷をつくる厄介な家具であり、その上ノスタルジーと関わりがあるから、あまりに主観的なのである。思い出は要らない。」
という文句はニーチェ思想そのままとは言えないものの大いに影響を受けた形跡有りと私には思われます。

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184 2011/12/24(土) 08:27:19 ID:AF1vPoaf5Y:au
ニヒリストもサイコパスも、行き着く所まで行かないと思い知らない。
「道理なんかいらない」と思い込んだ先に何があるのかを思い知らねば。

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185 2011/12/24(土) 13:22:34 ID:i1wf1wYWNU
ふと思ったんだけど、儒学を学び、人格が完成に近づき
徳が高まった人物は、他者の信仰や考えを、下品な言葉で激しく
糾弾することは控えるんじゃなかろうか。

教え、諭し、導こうとするならまだしも
ただただ愚弄するだけなら、二流三流の仕事かと。

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186 2011/12/24(土) 13:52:43 ID:AF1vPoaf5Y:au
まだ教え諭す段階じゃない。自首勧告の段階だ。

刑務官も拘置者の肛門をかっぽじってチェックする。
今ならエックス線検査でも済みそうなもんだが、
そのほうが「二度と入って来るな」という戒めになるからなあ。

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187 2011/12/29(木) 03:39:13 ID:WyVZY2H.gg
「能動的ニヒリズム」とは、将来的な創造の構想はなくとも既成の古めかしい道徳・価値を否定・破壊し対抗しようとする思想です。
ニーチェは次のよう言います。
「精神の上昇した権力の徴候としてのニヒリズム、すなわち、能動的ニヒリズム」(『権力への意志』工藤綏夫『ニーチェ』清水書院の訳より)。
この「能動的ニヒリズム」という語によって後にも見られるように陽明学を形容・限定することには賛成しかねます。
何を根拠に陽明学をニヒリズムとするのかは次に見る文によってはっきりします。
太虚という語が虚無と表面上類似しているように見えるからですが、太虚に価値の否定という概念は含まれていません。
虚無という語は陽明も用いていますが、現代のニヒリズムの概念とは全く異なります。

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188 2011/12/30(金) 07:17:30 ID:0X0yzLZP.A
「ゲシュテル」とは「漢意(からごころ)=朱子学的イデオロギー」と同義であり、一種の「原理主義」であろう。

宣長や徂徠は朱子学的な漢意を徹底して批判し続け、これをディ・コンストラクション(脱構築=転倒)させたが、しかし漢意をディコンストラクトな状態に止めておくことは至難の業であろう。
それほど漢意の根は深いのだ。

宣長や徂徠は「やまとごころ」によって「からごころ」を締め出すことに成功したが、すぐさま明治新政府によって天皇親政は復活する。
天皇機関説(国家主権説)を真っ向から否定した蓑田胸喜らの天皇原理主義者も出てくる。
もっとも日本的と観られていた者たちが、実は無自覚にも漢意のイデオロギー・・・(西洋ロゴス中心主義とはやや意味合いを異にするが体系的には同じである)・・・に染まった者たちであったといえるのだ。
つまり精神の平衡感覚を喪った「左翼主義者」ということである。

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189 2011/12/30(金) 12:50:23 ID:lL.rpgk5Xs
なんかよくわからんけど
儒学をディスる人が出てきたな。良いことだ。

本居宣長は儒学が嫌いだったのか。

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190 2011/12/30(金) 13:14:56 ID:C9DUpXYL0Q:au
本居宜長は当然国学者だが、古事記という日本固有の史書の研究に努力を注いだ当たりは、
「日本固有の儒者」としての功績であるといえ、中国の史書や礼法ばかりを
偏重する「儒教徒」以上にも、純粋な「儒学者」としての立場を貫いたのだとすらいえる。
(江戸時代に数多の儒教徒が横行していたことは、佐藤一斎も悪しき風習として指摘している)

荻生徂徠は、赤穂義士の処分に対する見解が、御用学者の林派などと比べて
過酷なものであったことから「法家の徒」であるなどと勘違いされがちだが、
徂徠が赤穂義士切腹の罪状と見なした「私党編成」は、孔子も衛霊公第十五・二二で
「君子にあるまじき行い」として非難しており、情念や時の世論などに惑わされず、
本来の儒学に根差した見解によって徂徠も、赤穂義士の罪状が切腹相当であると断じたのだといえる。

本居宜長も荻生徂徠も、江戸幕府で御用学とされた朱子学が、絶対服従の「儒教」と
化すことに抗っていたことには違いないが、だからこそ本来のあり方にまで遡った
模範的な儒学者であったとも言え、決して儒学という学問体系の
全否定までをも企むような蒙昧の徒ではなかったと言える。

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191 2011/12/31(土) 07:39:29 ID:bjwpTjeq7Y
日本は儒教国なんですよ。学校で「子いわく云々かんぬん」
て習ったでしょ。あの論語ってやつは日本が儒教国だから習うわけ。
儒教を一言で言うと、礼と徳は全能であり、仁と礼と徳でもって世の中の全てを動かせるという帝王学の一種です。
でも僕はそういう付け焼き刃的で押しつけがましい作法が間違いだと感じていて、だからあの「子いわく」の授業がイヤでイヤで、あまりにもむかついたので孔子の生涯を調べたら、当時すでに誰からも相手にされていなかった。
記録に残っている中で当時孔子を嫌った最も高名な人物が晏子(晏嬰・晏平仲。子は尊称)。
晏子はいろいろな物語に理想の宰相、理想の人物として名前だけは登場する中国史における偉人中の偉人で、サッカー史で言えばペレやボビー・チャールトンのような存在です。誰もが晏子を絶賛したけど、一人だけ晏子に批判的なポジションを取った人物がいた。
それが孔子大先生。
その理由が実に感情的で低俗な理由で、晏子が当時の大国・斉の宰相だったとき、孔子が斉に仕官を求めてやってきた。斉の王が孔子に乗せられて召し抱えようとするのを晏子が諫めたので、孔子は晏子を恨み、生涯晏子の陰口を叩き続けた。

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192 2011/12/31(土) 11:21:18 ID:3Avpg5/abw
yoyo
口の悪い僕ちゃんだyo
お前らの儒教とかいう趣味ウザいよね
社会生活の苦難からの逃げ口上に儒教を利用してんだろ?
それって二次元アニメに興じる引きこもりと同じ理屈じゃないの?
テレビゲームやスポーツなんかと同じじゃないの?
それに没頭して社会生活を忘れるんだろ
おんなじじゃねーか
指導する人間はともかくよ
出家する人間なんてのはテイよく社会生活から逃げ出した引きこもり君だろう
社会の中に人間関係に幸不幸があるのに逸脱しちゃあ犬猫と変わらんね
お前らのソレは良く言って趣味的だ

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193 2011/12/31(土) 16:42:37 ID:ghtkYN/2/U
孔子の業績は、むしろ死後におけるその教学の受容による
数百年規模の泰平社会の幾度にもわたる実現だといえる。
それは決して管仲や晏嬰にもない業績である一方、朱子学で主要学問対象のうちに
組み込まれた孟子などにはかなりあるもの。孟子も存命中の受け入れは惨憺たるものだった。

では、孔子が存命中にほとんど世に受け入れられなかったのはなぜかって、
当時がまだ春秋時代という「低度の乱世」にあったから。当時すでに相当な腐敗状態に
あったにしても、まだ諸侯たちが淫蕩な振る舞いに耽っていられる余裕があったから。

戦乱が深刻化し始めた戦国時代ともなれば、もはや諸侯も淫蕩より敵国との争乱に
明け暮れることのほうが主題となったが、それでもまだ徳治にまで目を向ける必要はなかった。
理想の徳治を言葉として述べ立てた孟子が、当時の諸侯に受け入れられなかったのもそのせい。

諸侯が秦に征服されて統一帝国となり、乱世のペースのままの暴政を秦帝国が民衆に
敷くような段階になってから、ついに「こんな権力者などいないほうがマシだ」という
大義が完全に立つようになり、陳勝や項羽らの反乱によってあっという間に秦帝国は崩壊し、
楚漢戦争の動乱の後に高祖劉邦によって打ち立てられた漢帝国が、ついに徳治を敷くようになった。

乱世でないとき以上にも、乱世が極まって権力者が総倒れになったときにこそ、徳治も敷かれる。
牧歌的な田舎社会などで、格式ばった徳治などを志す必要も別にないわけで、莫大な権能を持つ
権力犯罪者たちが大いに世の中を傷め尽くした先にこそ、癒しとしての徳治までもが必要になる。

今という時代も、秦帝国崩壊前夜か、それ以上にも乱世が極まった状態にあるわけで、
だからこそ次の時代に治療目的での徳治を施す必要までもが出てくる。まさに今の時代の
権力者こそが、自業自得で呼び込む孔孟の政であり、怨みたかったら今の権力者を怨むしかない。
道家的な立場からいえば、儒学すら本当はいらないものなのに、わざわざそれを必要なものと
してしまったおまえらの親分たちに、すべての不満を押し付けるようにしなければならない。

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194 2012/01/01(日) 00:42:59 ID:.4BCH7NUOU
勘違いしているだけだ

ほんとうは必要ないのに無ければ滅びますよと言って取り入るマッチポンプ的な手法
暴力団のやる場所代とおんなじだよ
場所代払うかわりに何かあったら守ってやるという
実際には何もないのに、末端の人間に問題を起こさせて解決するパフォーマンスまでやる
お前ら儒教の人間も あの事象は儒教の手柄である
あれはキリスト教の悪しき行いであるから助太刀しましょう
などとパフォーマンスしている

己の生き方を肯定するための戦略としては上等だよ

上等な居場所を社会につくりたいんだろ

働きもなく上等な地位に居座るのは暴力団や政治家や荷居徒と同じだよ儒学者よ

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195 2012/01/01(日) 01:16:03 ID:DN9e7lClIw:au
仁徳なんか、完全にこの世から無きものとしてしまえばいいよ、一回。

次は無いだろうけど。

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196 2012/01/01(日) 05:50:20 ID:aulCMJULnE
魏の恵王から国を強くするのにはどうすれば良いかと聞かれたとき
孟子は「仁者は無敵なり」と言った。

結局儒教ってのは「正義は勝つ」と同じなんだよ。
仁者であれば誰かが必ず助けてくれる。見返り大歓迎。あんど超期待。
でも仁者を助けてくれる誰かは兵家かもしれないぜ。
だいたい儒家と比べて兵家は法家だから物言いにも筋が通ってるし、兵家の代表格の楽毅や吉田松陰は総じて孔子より百倍立派な生涯を過ごしてる。
僕らが本質的に人を嫌いなのは、彼らがこういった卑しい思想や教育を何の違和感もなく受け入れていたり、有り難がっているせいかもしれない。
グローバルの西洋人と話す分には、いつも感じてる嫌な感じがしないから。

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197 2012/01/01(日) 06:28:48 ID:DN9e7lClIw:au
何も分かっていない未熟者は、何も分かっていない未熟者を欲するんだな。

全地球人類の眼前で、素っ裸で、全身の穴という穴から体液と固形物をほとばしり、
泣いて大喜びして土下座しながらお願いでもして来ない限りは、何も協力しないから安心しろ。

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198 2012/01/01(日) 09:12:15 ID:918/XcyCXY
棚ぼた野郎でないことを厳格とするために、初めて書かれる俺のWikipedia紹介欄には、
「米軍全軍を強制接収」と書かれるようにする。自由意思による譲渡ではなく、強制的な接収。

アルティメイト・フォースを絶体絶命の窮地に追い詰めた、俺自身が兵家の大長者であると。

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199 2012/01/01(日) 13:59:10 ID:DN9e7lClIw:au
Psycho Warの最終勝利者、現実で範馬勇次郎を超えるの巻

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200 2012/01/01(日) 14:51:08 ID:yLli8AmBMY
>>197お前の如何なる知識も社会学習で得たものだ
思い上がりも甚だしい
藁をも掴もうとする愚者以外は誰も求めたりしない

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201 2012/01/01(日) 15:05:17 ID:DN9e7lClIw:au
まあ、まずはイランとの鍔迫り合いを詰めてかかることだな。

核大戦の寸前にまで追い詰められて降伏するのでもなければ、強制にならないからなあ。

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202 2012/01/02(月) 05:11:33 ID:OFsmpZbJVw
ニーチェ保守主義とは、いうなれば民族主義とニヒリズムによって
永劫回帰=永続維新を実現するという保守思想の考えである。

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203 2012/01/02(月) 15:08:07 ID:1z.ku2nB0w:au
世のため人のため、世界平和と人類繁栄のため。

それが結局は、自分のためや愛する者のためともなる。

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204 2012/01/03(火) 04:43:09 ID:4R.pgY/yBM
国家が有機物であるという基本的な志向としてはバーク保守主義と共通するが、
ニーチェ保守主義の違う所は永劫回帰によって日本列島の内だけに留まらない事である。
すなわち拡大型の保守主義=ナチズムであり、民族主義である。
また我々は日本という枠組みに決して縛られる事はない。
その根源にある民族に回帰する事で新しい枠組みを経るのである。

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205 2012/01/03(火) 07:20:45 ID:TqPJBDyy9s:au
天人修羅、神儒武の総結集なんだよね、あの事件の根底にあるものは。
だから洋学由来の法治主義や西洋哲学なんかでは、決して割り切れるものではない。

洋学の域を完全に超えている一方で、
日本や東洋に限らない、天地万物に永久普遍の道理にも根差している。
だから西洋人ですらもが、異国情緒として一笑に付すこともでない。
確実にそれで自分たちにも罰が当たり、キリストですらそれを救うものではないから。

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206 2012/01/06(金) 14:24:28 ID:QHBwwh0FXA
人格神ではなく、「現象の理合」としての物言わぬ神仏こそを崇敬する東洋の伝統。

人格神しか神でないと見なす西洋人には、それがニヒリズムの一種に見えるようだが、
むしろそこにこそ、ニヒリズムの苦悩を根本からなからしめる秘訣が存在してもいる。

人格を持つ神仏が現れたかのような記録が、昔の日本の伝説や物語にもある事はあるが、
そういうものはあくまで方便のうちと見なされていて、人格的な霊異に惑わされるのは
未熟なことであるとされるし、人格的な霊異それ自体が程度の低い神格であるともされる。

思考や言葉を用いないことには、人間に影響を与えることもできないからには、
そのような神霊は、人間並みや人間以下の存在であるに違いない。下等な動物が人間の
言葉を理解できないように、人間もまた自分たち以上の神仏の言葉を理解できもしない。

言葉として理解できないながらに察知しようとするところにこそ、真の崇敬までもが
備わって行き、その真の崇敬こそが、ニヒリズムの苦悩を根本から絶やす糧ともなる。

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207 2012/01/06(金) 17:29:43 ID:LKQS80itLE
自信持ちすぎ
書いてあることは、一切証明なんてできないことなのに、その自信はいったいどこからくるんだろう?
あらゆる結論に中間の論理的な飛躍がありいきなり結論で自己完結
いくら書いてもだーれも認めないよ

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208 2012/01/06(金) 19:39:01 ID:QHBwwh0FXA
認められるために書いているのではない。自分が成長するために書いている。

共に成長しようと心がける有志がいれば、それはもちろん歓迎するが、そんな
志しなど少しもないままに、ふんぞり返って「認めてあげようかねえ」などと
上から目線の批評を加えてくるような身の程知らずは、始めから全く及びでない。

自らの成長を第一としているから、人への説明の修辞も拙いものになったりする。
それも、ただの傍観者にとっては認め難い理由になるのだろうが、自らの成長こそを
心がける同士であるならば、相手の説明の拙さぐらいは自分の理解力で補完しようとする。
そういう人間がいて、共に成長を心がけていくのならそれは結構なことだし、そんな相手など
一人もいなくて、ただ独り自学自習を貫いていくというのならば、それもまた乙なことだ。

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209 2012/01/08(日) 09:27:18 ID:k09aPNKcho
ありがとう

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210 2012/01/09(月) 04:23:25 ID:gWjFx4133A
「症状即療法」
生命の営みに対して全幅の信頼を置かなければ発せられない言葉だ。
そこに希望はあっても絶望はない。
そもそも生命というものは「生きるエネルギー」そのものといってもいいのではないだろうか。
最後の一滴の枯渇するまで、それは「生き延びようとする力」である。
自殺は人間の所業であって生命の意思ではない。
細胞レベルでのアポトーシスも、より良い生を前提として行われるものだ。
症状によって端的に表される生命のゆらぎ。
それはより良い生のために企図される自然的にして建設的な営みではないだろうかと。
物質至上主義に堕せば、それはニヒリズム以外の何物でもないかもしれない。
しかし、人間には気高い精神がある。
まったく波風の立たない水面に躍動感を見出せないように、そこに生の喜びを感得できるだろうか。
寄せては返す波のリズムがあってこそ生命のダイナミズムを、そしてドラスティックな人生の醍醐味を味わうことができるのではないか。
一度きりの人生、不安、恐怖、悲壮感のうちに生きるか、喜び、希望、充実感のうちに生きるか。

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211 2012/01/09(月) 11:44:51 ID:yVa0MvXh5Y
なんか西洋はレベルが低くて、東洋は高いみたいなことばっか書いてる人いるけど
そんなにレベルが高いなら西洋のことに関わらずに東洋のことばっか賛辞してればいいじゃん。

なにか劣っている対象を見つけて、それで自分の価値を保持してるようにしか見えんよ。
まあそれこそがニーチェのルサンチマンにもつながるんだけど。
何かを否定することでしか成り立たない価値は
結局その否定してる対象なしには存在出来ないことになっちゃうよ?

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212 2012/01/09(月) 14:17:10 ID:z34fhxnvvQ:au
まず押し付けて来たのは、西洋のほうだ。

ザビエルやペリーやグラバーやマッカーサーが、別に望まれてもいないのに、
地球の裏側の日本くんだりにまでやって来て、無理やり日本人にまで西洋文化を押し付けて来た。

その手法がすでに「覇道」であり、孟子や荀子が王道よりも普遍的に劣悪と見なしていた
手法そのものなわけだが、実際に覇道という手法によって西洋人が押し付けて来た文化もまた、案の定、劣悪なものだった。

弘法大師が自らの十住心論体系で最下等とした、「異生羝羊心」そのものだった。

しかし、弘法大師ご自身は、西洋文化が異生羝羊心に該当するなどと特定されてはないない。
大師が唐に留学された頃、もうすでに唐にもネストリウス派のキリスト教(景教)が
流入してもいたはずだが、大師はバラモン教や道教にまで論及の範囲を広げておきながら、
キリスト教にまでは未だ論及をされては居られなかった。

それがまた一つの王道の体現になっているとも言え、
キリスト教や洋学抜きの十住心論体系に基づく真言密教もまた、
この日本で豊潤な仏教文化を華開かせている。

それだけでも別にいいわけだが、わざわざ西洋人のほうが、覇道という劣悪な手法を用いて、
異生羝羊心に該当する自分たちの劣悪な退廃文化を、日本にまで強制的に押し付けて来ているものだから、
「だったら異生羝羊住心第一であるなりの扱いをしてあげましょう」というもの。

本当はなくてもいいんだが、押し付けて来るもんだから、仕方なく応対してやっている。
それが不満だというのなら、始めから押し付けて来なければいいのであり、
押し付けたら応対してくれたことに不満を唱えるぐらいなら、むしろ感謝をすべきだとすらいえる。

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213 2012/01/09(月) 19:35:25 ID:yVa0MvXh5Y
>本当はなくてもいいんだが、押し付けて来るもんだから、仕方なく応対してやっている。
>それが不満だというのなら、始めから押し付けて来なければいいのであり、
>押し付けたら応対してくれたことに不満を唱えるぐらいなら、むしろ感謝をすべきだとすらいえる。

いやいや例えば西洋料理のスレで
「日本料理はこんなにレベルが高い、それに比べて西洋料理は〜」みたいなこと言ってるようにしか見えんのよ。
じゃあ日本料理のスレ立ててそこで素晴らしさを語ればいいじゃん。

押し付けて来るもんだからって?誰に?あなたに?
もし仮に押し付けられてても、もうアナタには関係のない話でしょ。食べないんだろうし。

まあどちらにしてもね、日本料理の旨さを伝えるために西洋料理のダメなとこを挙げて
伝えようとする人は西洋料理なしに自立できてないんだよ結局のところ。

返信する

214 2012/01/09(月) 19:49:18 ID:z34fhxnvvQ:au
日本人が、日本文化を、西洋に押し付けた事実は一切ない。

西洋人が、西洋文化を、日本に押し付けた事実は厳然としてある。

押し付けて来たに応じて、押し付けて来たなりの劣悪さを指摘してあげているだけで、
むしろ劣悪さを指摘してあげることのほうが主であり、
ついでに比較対象としての東洋文化を賛美することのほうが副だ。

西洋人が自分たちの文化の劣悪さを思い知って、反省と贖罪をし始めたなら、
わざわざ劣悪文化を押し付けて来たことまでもが清算されて、
外的に劣悪さを指摘してあげるような大義も尽きる。
それと同時に、取って付けたような東洋文化への賛美も終結し、
ただ賛美するばかりではない、より本格的な東洋文化の実践の復興が始まって行く。

キリスト教や洋学が異生羝羊心であるとまだ特定されていなかった頃の真言密教を含む、
キリスト教や洋学抜きでの、純粋な東洋文化の復興が始まって行く。

西洋人による劣悪文化の押し付けが未だ蔓延している
現時点においては、まだそこまでの段階には至れないにしろ。

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215 2012/01/09(月) 21:14:46 ID:YNsZI0yQ5g
盗賊が、自分たちで好き好んで地球の裏側にまでやって来て、
そこで、いそいそと素朴な自給自足生活を送っていた人々の生活や文化を
めちゃくちゃに破壊しておいて、それで「おまえは俺たちや俺たちの文化がなければ、
やっていけない」なんつってんだから、薄ら馬鹿げているにも程があるといえる。

まず、第一にはた迷惑なことであり、有害無益この上ないお節介だといえる。
さっさと盗賊が撤退して自分たちの巣に返って、それで初めてマイナスプラスゼロである。
その上で第二に、自分たち盗賊が反省して改悛して贖罪して、自分たちよりも遥かに
優等な人々や、その文化に聞き従っていくというのなら、それでもいいよという話であり、
それはもう、マイナスプラスゼロ以上の積極的な断悪修善であり、より好ましいというもの。

盗賊野郎どもの撃退という、懲悪活動があった後で初めて、元盗賊どもに矯正を
施してやったりするような勧善活動があり得る。今はまだ懲悪のほうが主体であり、
勧善はなされるかどうかも分からない段階にある。盗賊が撃退もされていないような段階から、
盗賊を矯正してやろうとするほうが徒労であって、懲悪である以上は懲悪に徹すべきだといえる。

未だ懲悪から勧善に移行できないのは、何もこちらに勧善の用意がないからではなく、
まだ盗賊である西洋人のほうが、懲悪に対して無駄な抵抗を続けようとしているからでしかない。
それこそ、懲悪に手こずっていればこそ、勧善の用意をより潤沢ならしめることににまでも手が
及ばなくなってしまうのであり、その原因は偏に、懲悪に抵抗し続ける盗賊の側にあるといえる。

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216 2012/01/12(木) 04:42:48 ID:2st8XNwy0A
神も仏も存在せず、モノがあるだけの世界は、つきつめると必ず意味がないということになります。
それがニヒリズムです。
 そして、人間の命もモノの寄り集まりにすぎないのですから、もちろん意味はないのですが、なぜか生きていて、とりあえず自分の気持ちのいい悪い、好き嫌い、快不快はありますから、それを追求して生きるしかない、と考える。
それが快楽主義です。そうしてみても、死んだらすべて終わりで意味がないのですが。
 つまり、近代的な理性、科学主義的な世界観には、もちろんプラス面もあったわけですが、そのマイナス面が徹底的に進むと、必然的にニヒリズム_エゴイズム_快楽主義に陥ってしまうという本質的な限界を持っています。
それは、人類が歩みを始めたときからずっとかかえていた分別知の限界なのです。
 欧米では、近代的な理性・科学によってキリスト教の神話が批判され、もはやそのまま信じることはできなくなった時に、ニーチェという思想家の言葉でいいますと「神の死」とニヒリズムがやってきたわけですが、
日本では開国_明治維新と敗戦という二段階のプロセスを経て、そういう欧米的な近代的な理性・科学が社会に浸透し、今や「神仏儒習合」の世界観が決定的に崩壊しつつあり、欧米よりははるかに遅れていよいよ本格的なニヒリズムが社会を脅かしつつあるのではないでしょうか?

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217 2012/01/12(木) 12:42:40 ID:DC3Phpdis.:au
日本の神仏信仰は人格信仰ではないので、科学の発展によって破壊されたりすることはない。

それは例えばイスラム教などでも同じで、絶対神アラーは使徒ムハンマドにコーランに
該当する教義を啓示はしたが、アラーそのものは人格すらも超越したものであり、
科学の発展もアラーの正体を突き止めるための手段の一つになるとすら見なされている。

形而上の人格神を信仰の対象とするのなら、それこそ科学の発展によってニヒリズムにも
転向せざるを得ないが、そもそも形而上の人格などを神とは見なさず、この世界、この宇宙に散在する
普遍法則を神や仏と見なして、それらをありのままに崇敬の対象とするのならば、
この世界の現象法則を解明する科学の発展が、そのような崇敬を破壊することはない。

むしろ科学自体が、儒学でいうところの「格物致知」の一環となり、
崇敬に値する正神と値しない邪神とを分別する手立てとなって、
正統な神仏を崇敬する正信の持ち主にとっては、好ましい結果を招く。

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218 2012/01/13(金) 04:52:01 ID:.gJmThVINs
今、日本は元気がない。経済一辺倒で頑張ってきたのにもかかわらず経済がダメになった。
人口は減り、文化資本は元気がなくなる。
政治にかんしていえば長年の官僚とメディアの独裁体制はなくなりそうもない。
碌にメディアは権力を監視できていない。
これからもニヒリズムが世界を覆うだろう。
アジア・アフリカ・中東・南米の近代化が進めばますます世界中はニヒリズムで覆われる。

その時にキリスト教やイスラム教では近代化と矛盾する。
だから、次の宗教は仏教だ。仏教なら原典がない。
私が仏陀から聞いた言葉ですといえば、それは仏教たりえるのだ。
現代の最先端な科学を取り入れた新しい宗教を国家間の知識人たちが500年くらいかけて慎重に作り上げるべきではないかと思う。
そうしたらいくら経済で頑張って失敗しても帰ってくるホームベースがあるじゃないか。

>>217
auから書いてる人。いつもありがとう。

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219 2012/01/13(金) 12:04:12 ID:AHRE4.4/HU:au
宗教ありきでしかものを考えられないこと自体が、
アブラハム教に特有の病理だ。

他力本願なんて、自力作善の潤色ぐらいにしか考えないでいてこそ、健全だ。
まず他力本願でしかあり得ないのは、女か子供かオカマの男ぐらいのものだ。

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220 2012/01/14(土) 05:47:43 ID:7P9WT6pKFc
元外交官・佐藤優氏、日本で「ニヒリズムが蔓延しているのが恐い」

「政治家は、結構熱い思いで永田町でやっている。(一方の)官僚は出世にプラスになるかマイナスになるかよく分からないから様子見をしようと(している)。
そういう様子を見て、政治部記者というのはものすごいニヒリズム、白けた感じになってやっている。
これによってニヒリズムが(日本全体に)蔓延していることが、僕はすごく恐い。」

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221 2012/01/14(土) 11:45:00 ID:lTd0xKvoI.:au
東大卒を始めとする洋学修了者こそは出世する世の中なのだから、
権力機構にニヒリストやサイコパス患者が群がるのは当然。
あえてそういう人種を選別して出世させているんだから。

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222 2012/01/16(月) 23:38:22 ID:AsRbtZjjZQ
つーかいい加減ニヒリズムはダメっていう話から
どうすればニヒリズムに陥らない、もしくは超えられるのかっていう話をしろよ。

仏教ならなぜニヒリズムに陥らずにすむの?
専門用語ばっか使わずに教えてね。

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223 2012/01/18(水) 11:40:11 ID:vd3LY5hh1w:au
洋学を勉強していると、自然とニヒリズムが助長される。
ニヒリズムからなる思い上がりこそは、洋学が取り扱うような
しょうもない概念論もウレシがって貪り尽くす糧になるから。

仏学はかえってニヒリズムを立ち消えにさせ、些末な概念論へのウレシがりなども霧散させてしまう。
それが洋学の振興にとっては不都合なことだから、洋学が大々的に取り入れられた明治期に、
廃仏毀釈で仏学の一般社会への頒布が徹底的に取り締まられることとなった。
(大正になってからは、大蔵経が新脩されるなど、一部仏学規制が緩和された)

儒学が一般教育から廃絶されたのは戦後なので、儒学以上にも仏学こそは、
洋学振興に必須なニヒリズムの助長を阻害する決定的な要素を備えていることが分かる。
(戦前の帝大の学者の洋学に対する理解度は、戦後の学者以上だったとも言われる)

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224 2012/01/19(木) 04:03:48 ID:/nBCoqO32M
>>223
いつもご教授ありがとうございます。
平日の昼間に書いてらっしゃいますが、
あなたは大学の先生ですか?

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225 2012/01/19(木) 09:56:15 ID:xDVZQ5LRxU
自他共に認めるニート。
学生時代にいじめられて引きこもってから
働いた経験ないんだたと自分でいってた

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226 2012/01/19(木) 10:50:16 ID:Mpb.zg03HI
仏教の悟り=執着を捨てるは、もしかしたら
ニヒリズムに近いもんなんじゃないの?

自分を客観的に認識し、周囲に過剰な期待はせず、
全てをありのまま受け止める、穏やかな心の作用みたいなん。

仏教好きの人は、悟りはニヒリズムと違う!
もっと能動的な心の作用だって言うみたいだけど
なんか、言い方が違うだけで、内実は同じような気がする。

死や、老い、病、金持ちも貧乏人も、逃れられない大変な厄災に囲まれた
古代インドで、どうやったら心の平穏を勝ち取れるかを模索した結果が
釈迦の発明した、悟りなんですよね。

究極的には「気にするな」って姿勢で、ニヒリズムっぽいと思うなぁ。
「仕方がない」がニヒリズムで、「気にするな」はもうちょっと能動的なんかな。

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227 2012/01/19(木) 11:51:31 ID:32XxoVAhuM:au
洋学者のニヒリズムと仏の悟りとは、
似ているものどころか、全くの別物。

片や万物への嫌悪感の塊、片や好悪を超越した達観の境地。

強烈な好悪に囚われているという点で、ニヒリストは常人以上のカルト信者並みであり、
俗人として好悪に囚われぬ道理に適おうとする、道徳者ほどの客観性すら備えてはいない。

仏や菩薩どころか、並みの常人や善人以上にも、
ニヒリストやサイコパス患者は、好悪という主観の過剰に囚われた、病の徒だといえる。

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228 2012/01/19(木) 21:25:29 ID:pMLvBqYjx.
>仏学はかえってニヒリズムを立ち消えにさせ、些末な概念論へのウレシがりなども霧散させてしまう。

具体的に説明もせず、こんなこと言ってるだけでいいなんて仏教とは楽ちんですね。

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229 2012/01/21(土) 06:27:36 ID:wdJ8sJfCx2
ニーチェのニヒリズムの概念の中には、すでに触れたように二つの相反する傾向がうかがえる。
すなわち神の消失・不在を直視しようとせず、
むしろそれを隠蔽せんがためにありもしない価値を捏造しようとする傾向と神の消失・不在への焦慮を自己破壊衝動に転化させ、
生を軽蔑の対象へと貶めてしまう傾向である。
(この、二つの相反する傾向がニヒリズムという概念に含まれているために、
ニーチェのニヒリズムについての記述には用語上の混乱が見られ、
それがニーチェのニヒリズム概念の把握を難しくしている)。

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230 2012/01/21(土) 11:46:08 ID:/uxhWVw/P.:au
ただの自暴自棄(やけくそ)を「ニヒリズム」なんて言葉で
高尚化しようとしているところから、すでに傲慢が入り込んでいる。

心の病としての治療に本気で取り組んでいくのなら、
その傲慢から捨て去るべきだといえる。

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231 2012/01/21(土) 23:40:15 ID:lZPny/E7a6
「人は何も欲しないよりはむしろ無を欲する」

この状態こそニヒリズム

そしてニーチェはこのような状態に陥らないためにどうすればいいかを
一生を捧げて考えた。

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232 2012/01/22(日) 06:08:58 ID:OCJ59W76dM
人はあくまで個としての人でしかありえない。
普遍的な人間などどこにも存在しない。
「人類」とは人を欺くための概念である。
人は誰でも例外なく「自分」である。その「自分」が人間であるのは、その所属するところの人の集団に保持される知を獲得することによってである。
地上に存在するすべての人々を統べるような知を獲得しない限り、人は「人類」にはなれない。
いったい、そのような知が何時確立されたのか。
否、そのような知の確立ははたして可能なのだろうか。
—現代人の傲慢がここにある— 
個としての人、即ち「自分」の過酷さに耐え切れず「自分」を「人類」にすりかえるのが現代人の流儀である。
そもそも、「知」自体にすべての人々を統べるほどの力があるのだろうか。個としての人が知りうることには、おのずから限界があるはずである。

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233 2012/01/22(日) 09:12:39 ID:vz5Q98j2fo:au
私的な願望からなる悲観を、現実把握にすり替えるのがニヒリズムか。
そこにこそ普遍性を騙る傲慢が潜んでいるといえるな。

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234 2012/01/22(日) 09:47:54 ID:04Y6WMtJRA:au
>>233
そうだよ。

で、その傲慢さから抜け出すためにどうすればいいか
ニーチェは考えたわけ。

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235 2012/01/24(火) 10:59:24 ID:vMTUqrFP92
ニーチェは厭世的なものを嫌い
克服しようと努めた、エラい人なのか。

その答えが永劫回帰?
なんかよくわからん。


「運命は決まっていて、同時に自由」って
言ってる武術家の人がいるけど、それに似たような感じなのかな。

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236 2012/01/26(木) 14:58:12 ID:KfENexydN.:au
ニヒリズムですさんでいる人間ほど、至心に信楽し欲生してお念仏。
敬虔さが極まれば今度は、罪福の諾いに即した自力作善へとレッツゴー。

極まれば緩め、また極まれば緩めの、精神の呼吸で窒息を解消。

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237 2012/01/28(土) 06:44:47 ID:tWycU7Ivug
現実から逃げて生きると
後からツケが回って来るだろ?

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238 2012/01/28(土) 12:36:57 ID:Tc1adQb7as:au
現実逃避のための邪信と、現実把捉のための正信とがある。

正信が現実把捉のために役立つ程度は、ニヒリズムよりも大きい。

思い上がりによって数多くの現実的知見をも蔑ろにしてしまう点では、
ニヒリズムも邪信と何ら変わらない。

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239 2012/02/03(金) 04:35:30 ID:PZWEIDrNuI
私は君たちに精神の三つの変化を告げよう。
すなわち、精神がラクダになり、ラクダが獅子になり、
最後に獅子が小児になるありさまを告げよう

これはニーチェが精神の進歩を3段階に示したものです。
砂漠は「神の死」=ニヒリズムの世界を表現しています。
ラクダは重荷に耐えつつ古い思想でがんばっている状態。
しかし、ラクダは獅子に変容し、もっと自由な思想「汝なすべし!」と叫ぶ。
だがニーチェによると、それもまだまだ甘く、最後は小児になってすべての人生を「然り!」と肯定することが理想なのだ。
ありのままに世界を受け入れ、ひねくれることなく生きることを説いているのです。
また例えますと・・・。
売り上げを目指すえと君が、弱者のサルチマンが生み出した幻想に騙されないで、力への意志を達成するために「やらなきゃダメだ!!」とストレスフルにやるのではなく、
起きる出来事をすべて素直に受け入れなさい。と言うことなのです。

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240 2012/02/03(金) 11:40:27 ID:D3LgtoAKxg:au
ニーチェは「ツァラトゥストラ」で、
「我れは重罪人や綱渡り師をも友とする」とうそぶいている。

それこそ何もかもを受け入れる要領でそう言ったのだろうが、
これは本家拝火教の悪思悪言悪行を徹底して退ける教義には反している。

二百五十の戒律を守る自力仏教はもちろんのこと、五逆や誹謗正法などの
致命的な罪業を犯す者までは救わない他力仏教の教義にも違反している。

元祖万物肯定主義といえば、何と言っても道家だが、
その道家の「荘子」盗跖篇などを鑑みるに、盗跖のような重罪人が世の中で蠢動し始めたのは、
積極的に善を行おうとする儒家などの作為に呼応してなのだから、元より綱渡り的な作為などを
全般的に排して、重罪人の横行なども始めから立ち消えにさせてしまうのが理想だというのが、道家の主張のようだ。

最大級の作為を含めた、何もかもを本当に受け入れるというのなら、
それこそ儒家の勧善懲悪志向すらも受け入れるべきだということにすらなる。
道家の内でも列子あたりには、その気がなくもない。

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241 2012/02/06(月) 11:50:15 ID:TyfDjE5Mrs:au
反証可能性のある言及は必ずトートロジーになり、
トートロジーでない言及には必ず反証可能性がない。

西洋科学を含む洋学が論及対象として認めるところのものは、
えてして反証可能性のあるトートロジーであり、反証可能性を執拗に要求するあまり
全ての議論がトートロジーと化してしまい、罪福異熟に根差したトートロジー破綻からなる歓喜をも退けることになる。
故に論及がどこまでも無味乾燥としたものとなり、論及者に深刻なニヒリズムをも患わせることになる。

無論、無制限なトートロジー破綻の容認によって、万年お花畑状態と化してしまうのも禁物であるが、
実在するトートロジー破綻までをも論及対象として容認しないあまり、ニヒリズムと万年お花畑とが
永久に平行線を辿り続けるような事態になるのも不毛なことであり、そのような事態を招く論議は
釈迦のように無記に付したほうが、まだ害がなくて済む。

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242 2012/02/10(金) 15:14:16 ID:cmFrBcgU7c
「どんな確からしい真実を手に入れたとしても、時代(や文化)が変われば、あるいは新たな科学的発見によって、その真実が覆されてしまう可能性を否定することは決してできないではないか」

「もっとも、絶対確実に正しいと言える命題が1つだけある。それはトートロジーである。
だが、ヴィトゲンシュタインが示唆しているように、残念ながら、トートロジーはこの世界について何も語りはしない」

「世界の根本に関する究極の命題群を見つけたとする。
このとき、その命題群が『絶対確実な真実である』と絶対的確実性をもって証明することは決してできない。
今まで見えていなかったより根本的な深層領域が見出され、『ただそのように見えただけの誤った見解』であることが分かるようになる可能性を否定することは決してできない。
もっと言えば、そもそも、『世界が論理に従わなければならない論理的理由など何処にもない』のである」

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243 2012/02/10(金) 16:46:10 ID:FzsbaCX6SA:au
反証可能性のあるトートロジーだけを論ずる西洋学の研究は、まるで砂を噛むかのようだ。

反証可能性を蔑ろにしてでも、トートロジー破綻に秘められた真理や道理を探求する東洋学は、
まるで噛めども噛めども味わいの出てくるスルメのようだ。

スルメ噛まずに、砂を噛む苦痛にばかり耐えていりゃあ、そりゃあ嫌な性格になっても当然だ。

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244 2012/02/17(金) 15:41:59 ID:ncyJWCE.2E
ニヒリストと称される人達、そして自分をニヒリストだと判断する人達と、
彼らをそう称し評価する人達の間には、ニヒリストという言葉の解釈に非常に大きな差異がある。
その差異の生まれた原因は、まず彼らの性質を「主義」などと呼び間違えた事だろう。
彼らは何かをどうこう定義しその信仰のもとで思考し行動するわけではない。
特定の意思を持って生きているわけではない。
彼らの共通項は意思でも論理でも思想でも解釈でも行動パターンでもない。
ただ偏った感性が、理解が存在する。
言葉に表す事が不可能な、諦観のような、虚無感のようなものが感覚の根底にある。
「そう考える」のではなく「そう感じる」のであって、それ以上ではない。
彼らの特性は「主義」などではなく「精神性」、それも干渉し難いかなり根源的なものだ。
つまり、「ニヒリスト」は精神性による分類に過ぎず、
「それ」を虚無「主義」と呼ぶことからして間違っているのだから、
「○○主義」や「○○論」と同列のものだと勘違いして、その前提でバッシングするのはやめてもらいたい。
あと、彼らの世界は思想ではなく実感に過ぎず、哲学で語るような事ではないんじゃないかとも思う。

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245 2012/02/17(金) 19:56:01 ID:ggF7uMgKvk
自分たちは、空虚の闇から抜け出す力を探し出さないとといけない。

トラーイブ。

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246 2012/02/21(火) 16:47:16 ID:vjElhjq3vg
生きていてニヒリズムみたいに吹っ切れずに
毎日苦しみ辛くなりながら分けも分からず生きてる人もいるでしょう。
「克服」したい願望こそニヒリズムじゃないじゃないか。
自分の感情のすべては固定観念の現れだよ。
だから欺瞞やニヒリズムに思うのならその情報までのことしか自分に得ていないのでしょう。
突破口はあると思います。
それを克服することは出来ます。
それを突き抜ける情報を自分に入れればいいのだから。

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247 2012/02/21(火) 17:23:06 ID:sONGkvKbVI:au
仮に情報を取り入れてみたところで、
その意味を全く理解できない思考回路でいたりする。

ふんぞり返ったままでい過ぎたせいで、腰の関節や筋が浅い角度で
凝り固まってしまっている人間には、深く腰を折り畳める恭しさと
共にのみ理解できる情報が、全く理解できなかったりする。

すでに年を取りすぎている場合には、
もはや生存中の矯正が不可能だったりもする。

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248 2012/02/22(水) 15:20:31 ID:VTF12y3ptU
個々の人生にしても、また人類全体の生存にしても、
いっとき何物か something ではあるといえるだろう(これをLとする)
だが、それも無 nothing から生じ無へと帰す、というのがわれわれの帰結であった。
この、「いっとき何物かであったものが、結局は無に帰す」
という事態を数学的に書き表すとすれば、L × 0 = 0 となるであろう。
このニヒリズムが恐ろしいのは、この場合掛けられるもの(L)が何であれ、結局みんなゼロになるのだから、どのみち同じである、という点にある。
つまり、掛けられるものの相違は究極的には全く問題にならない、ということである。
だから優劣を差異づけることが無駄であるだけでなく、
それらにプラスとマイナスの区別をつけること(善悪の対比)自体にも意味はない、ということになる。
一生を平社員で過ごした人の人生も、社長まで出世した人の人生も、結局はゼロとなって同じであるし、
人類の幸福に貢献した人の人生も、人を千人虐殺した極悪犯人の人生の価値も、結局はゼロだから同じなのだ。
なにしろ<何をやるのも許されているが、何をやっても無駄>
というのが、宇宙論的ニヒリズムからの論理的帰結だったからである。

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249 2012/03/03(土) 05:20:56 ID:pH.S.Nc6H.
歴史上、真理に到達した人間はたくさんいると思う。
一人は仏教の始祖・釈迦であり、一人は釈迦の哲学を発展させたナーガールジュナ(龍樹・龍猛)であり、彼は真言宗や浄土真宗でも理念的な始祖の一人として数えられている。
日本では、歎異抄を参考にすると、法然や親鸞も真理に近いところにいると思う。
余談ではあるが、私の世俗的な宗派はたまたま浄土真宗であって、昔は「宗教なんて!」などと思っていたが、
ナーガールジュナの存在を知ってからは、うちの墓を今のお寺に任せておくのもまあいいか、という心境である。
うちに来るお寺さんは科学者である私に対して来世がどうの、とあまり重要でない説教をたまにするので、いつか啓蒙してやろうと目論んでいるのだが、まあお寺さんの仕事だしあまり目くじらを立てるのも大人気ないのかもしれない。本当に余談でした。
西洋では、おそらくニーチェの登場を待たなければならない。
「あるものはある、ないものはない」としたパルメニデスによって西洋哲学は萌芽したが、その後のキリスト教の影響に毒され、ニーチェが登場して「善悪の彼岸」という概念を提出するまでは、
洗練された唯物論と、神を前提としたために大きな混乱を孕んだ思惟についての哲学という片手落ちの状態であった。

返信する

250 2012/03/03(土) 11:36:46 ID:AF1vPoaf5Y:au
パルメニデスは「あるものはある、ないものはない」の正気の論理だけでなく、
「あるものはない、ないものはある」の狂気の論理や、
正気と狂気の折衷の論理なども定立しているだろう?

アリストテレスもニコマコス倫理学で「メソテース(中庸、中道)」という概念を
定立したはいいものの、同時に友愛や正義の場合分けなどの、不審な概念も共に定立している。

真理や道理に適った理念と、そうでもない理念とを概念論によってみそくそに扱う
西洋哲学の風潮が、ニーチェを悩乱からなる気狂いにも追いやった。

西洋人は真理を把捉しなかったのではなく、
その価値を見落として蔑ろにして来たというほうが正しい。

必要なのは新たな真理の把捉などではなく、
真理への敬意ないし荘厳でこそある。

返信する

251 2012/03/04(日) 04:35:24 ID:iVVkul994k
形而上学といえばまず究極の絶対者、いわゆる神的存在をさしますが、ここまで見てきたように、アリストテレスがいっさいを動かす不動の一者として形而上学を構成して以来、アリストテレスの構想に沿って、連綿と続けられてきました。
 それは本当に驚くほどの一直線の歴史です。誰もアリストテレスの主張を正当化しようと努力したわけではないでしょう。
ただ、結果的にアリストテレスの追い求める方向を向いてしまったというべきです。
しかし、そうであるからこそ、この一致は目を見張るべきものであり、同時に、いかに人類が絶対者を求めてさまよいつづけてきたかの証左にもなるでしょう。
 このように常にアリストテレスという特異点を通過しながら連綿と受け継がれてきた哲学の歴史は、ニーチェの登場によって、断ち切られてしまいます。
ニーチェの前では、もはや神という絶対概念すら意味をなしません。まったくの無価値に貶められてしまうのです。
 ニーチェは人間が生きているというこの生そのものを肯定しようとします。そしてキリスト教など宗教者をニヒリストとして断罪します。
彼ら宗教者は今、生きているというこの生を軽く見、来世ばかりを見ているからです。そのような姿勢をニーチェはニヒリズムと呼びます。

返信する

252 2012/03/04(日) 11:49:06 ID:x6cRBkpn1U:au
絶対的な神を追い求めて来たのなんて、アブラハム教徒だけでしかないし。

自分たちを中心にしてしかものを考えられないその自意識過剰さが、
絶対的な神の想定と共に増長させられて来たのも確かだろうが、全世界的に見れば極めて些末なことだ。

返信する

253 2012/03/07(水) 14:11:49 ID:cnmBpiKhEQ
禅とキリスト教を比べるのは簡単なことではなく、いくつか似ているところがあっても、
基本的に全く違う立場に立っているように思われている。
特に禅はキリスト教のような宗教の立場から見れば、認められないところが多いのである。
キリスト教の神のような人格的絶対者を立てないので、無神論と批判され、また禅が絶対的な真実の在り方を「無」と言い、
あらゆる事物や現象の固定した実態を否定するので「ニヒリズム、虚無主義」とも言われる。
他にも禅の修行の中で修行者を助ける神のような相手を立てないので、禅は「自力」の宗教と言われて、すべては自分の努力にまかされていると批判されるのである。

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254 2012/03/07(水) 16:36:11 ID:h1OsAxVOSA:au
キリスト教の価値観からみてどう思われるかなんて、正直、もうどうでもいい。

キリスト教なんて、今年中にはなくなるんだから。

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255 2012/03/13(火) 04:22:04 ID:9fPCvkVDss
ニヒリズムを虚無主義とだけ訳しては本来的意味からはずれるが、絶望
より永久を目指し積極的に生きようというのが本来のニーチェの思想で
ある。

宗教や迷信や迷妄な道徳にすがるのではなく、意思の力により人生を開
くという姿勢が根本にある。

ブッダの思想に本来のニヒリズムを感じるこのごろ。

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256 2012/03/13(火) 12:10:19 ID:nMAFyC1EgA:au
ただ自分が言いたいことを言葉を取っ替え引っ替え言い重ねてるだけで、
何ら本物の仏教や道徳について真摯に論じようとしてはいないな。

だからニヒリストっちゃあニヒリストだけど、
それじゃあ仏教や道徳のほうについて人と論じ合う資格はないわな。

何らの既成物にも頼らないってんなら、それこそ仏教の権威にすがって、
飼い主の懐中の小型犬のように偉ぶるのも止したがいい。

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257 2012/03/15(木) 15:48:27 ID:45Jjxdn/lY
ニヒリズムの自己超克あるいは道徳の自己超克とは、何れも誠実さを徹底するれば(道徳的であればあるほど)、
世界は偽(我々の認識には誤謬がつきものなので、認識される世界は偽であるということ)であり、道徳も偽であるということを見抜くということであり、
これを生のベクトル(力への意志)をもって突き抜けるところに創造者(価値や意味を付与する者)としての覚醒があるということだと思います。

『徹底的ニヒリズムとは、承認されている最高の諸価値が問題であるとき、生存を維持することは絶対にできないという確信である。
それに加えて、彼岸とか、「神的」であり、道徳の体現であるような事物それ自体とかを措定する権利を、私たちはいささかももってはいないという洞察である。
この洞察は「誠実性」が育てあげられてきたことの結果である、だから道徳を信ずることの結果ですらある。(力への意志 第3番)』

そういう意味では「空における一切否定から一切肯定へのおのずからの転換」とよく似ているかもしれません。

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258 2012/03/16(金) 14:17:49 ID:TJ4ZRHWW.o:au
聖書信仰まずありきでものを考えるところにのみ、ニヒリズムという定義もまたある。

邪信ありきでしかものを考えられない病理を取り払った所では、ニヒリズムという定義もまた必要ないのである。

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259 2012/03/18(日) 06:05:18 ID:Uw/UD4lOEc
キリスト教の歴史は戦争の歴史と言われてしまうこともあるように、
数え切れないぐらいの戦争を起こし、数え切れない人が亡くなっている。
宗教に嫌悪感を覚える人はそのような歴史認識があるからだ。
神なんか信じても・・・ろくなことが起こらない。
信じない方がまだまし。。
ニヒリズムの時代の始まりです。
神は死んだ・・・どうせ死んだら無に帰す。
だったら何やったっていいじゃないか。。
天国も地獄もないならどんな凶悪犯罪を起こしても
死んじゃえばみんな一緒。。
地球の温暖化問題?自分が死んだ後の事なんか関係ない。。

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260 2012/03/18(日) 11:54:37 ID:GS6R.4krQw:au
人間に本来存在しない累犯障害を植え付けたのがキリスト教だ。
キリスト教を破棄しても累犯障害だけは残存しているというのなら、
未だにキリスト教的な「趣き」に品性を囚われていることには変わりない。
諸仏を見たてまつることも叶わぬ、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣という趣きに。

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261 2012/03/21(水) 11:52:25 ID:e1UjK5wMxw:au
累犯障害を頻発させる、精神の惰弱化を信者に植え付けるのが聖書信仰の特色であり、
いま自分が聖書信者ではないとしても、元聖書信者だったり、代々聖書信者の家柄だったりすると、
後遺症としての累犯障害の大っぴらな肯定=ニヒリズムが残存してしまう。

正規とされている類いのキリスト信仰は、教義を仏教や拝火教などの異教から剽窃することで
信者の国内犯罪に一定の歯止めをかけるなどしているために、その分だけ、
信者の累犯障害を抑制する効果も持ち合わせている。
(ただし、国際権力犯罪の累犯障害などにかけては全くこの限りでない)

聖書信仰それ自体は、形而上夢想の水面下での累犯障害をどこまでも
深刻化させていくばかりのものであり、まさに聖書信仰こそは、
ニヒリズムという毒草を不必要にも量産する悪田なのだといえる。

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262 2012/03/21(水) 13:21:13 ID:WgIo4oi0Ac
ニヒリズムな時代にはそれなりの信仰の仕方があります。
聖書の根本的な憲法は捨ててはなりませんが、
その時代時代で解釈の仕方は変更しなければなりません。
さらに個人個人で解釈が異なっていなければなりません。
根本的な部分(三位一体等)以外は同じであってはなりません。
現在は情報化時代です。価値観が一人一人全く違う事はミエミエです。
こんな時代に同じ価値観を押し付けてもアホかーっと一蹴されるだけです。

キリスト教の殉教の歴史は確かに尊重すべきです。
しかし、あれはその時代だからできたことです。
今の時代に求められたらそれこそエネルギーが枯渇します。

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263 2012/03/21(水) 13:45:10 ID:e1UjK5wMxw:au
ニヒリズムを無くしていくためには、まず聖書信仰を絶やすことだ。

聖書信仰が根本で、ニヒリズムが末節。

聖書信仰が絶滅することで、ニヒリズムもまた連動的に絶滅して、
どこにも不健全なところがない、まともな人間たちによって形成された社会へと立ち戻る。

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264 2012/03/28(水) 17:03:28 ID:mSkeVC6scM
諸悪の根源はキリスト教です。
何処を取っても、何処を切り開いても、何処を齧っても、
支配することを許す、支配されるものの存在を当然のように認める宗教です。

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265 2012/03/28(水) 17:34:53 ID:gUIC/K5YCc:au
支配関係そのものは、ある程度以上に大規模な都市社会では避けようのないものだが、
聖書信仰はその支配関係を、「主人と奴隷」のような両極端関係ばかりへと悉く追いやってしまう。

故に、支配される側に回された庶民が、当たり前のようにルサンチマンをも抱いてしまうわけで、
主君と臣下、官と民の間になだらかな序列関係を敷く場合にはあり得ないほどもの、人としての尊厳の崩壊を招いている。

その、人としての尊厳の崩壊が、人間否定のニヒリズムをも呼び込んでしまうわけで、
聖書信仰によって破壊される以前の、本来の人間精神というのは、必ずしも
ニヒリズムによって否定し去られなければならないほど、無様なものではない。

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266 2012/03/29(木) 16:24:51 ID:.zLIAWCHWo
アルチュセールは、イデオロギー論のなかでキリスト教的宗教イデオロギーについて次のようにいう。
主体としての諸個人への呼びかけと、諸個人の〈主体〉=神への服従を通じて、諸主体はひとりで歩き機能する。
すなわち、個人は〈主体〉=神の命令に自主的にしたがうため、その服従を自主的に受け入れるため、それゆえその服従の身振りや行為を「ひとりで成し遂げる」ために、自由な主体として呼びかけられる。
服従をとおして、かつ服従のためにしか諸主体は存在しないのである。かくして諸主体は「ひとりで歩く(=自立!)」のである。

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267 2012/03/29(木) 17:28:45 ID:wyf2sPeAj.:au
早い話が、奴隷根性と放辟邪侈の両立だわな。

放辟邪侈ばかりにただ専らだと、あからさまに不徳に過ぎるから、
そこに架空神への服従を材料にした奴隷根性を加味することで、
さも自分が有徳者であるかのように見せかけようとだけはしてるんだ。

聖書信仰によって、奴隷根性と共に極大化した放辟邪侈が、
奴隷根性を失って、まっさらな思い上がりを得た時に生ずるのが、ニヒリズムだ。

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268 2012/04/01(日) 06:46:34 ID:QRwpnFaSXk
聖書信仰ほどにも狂気的な麻薬性を持つ
信教も他にないからこそ、聖書だけはやめろよ。

たとえ他の教学に鞍替えするにしても、
そこに聖書信仰並みの麻薬性を求めたりしてちゃいけない。
それこそ、聖書信仰以外のカルトに陥るだけにしかならないから。

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269 2012/04/01(日) 13:46:10 ID:.u42QXSo1Y:au
麻薬的な酩酊が甚大なだけの宗教なら、インド系の異端宗教などにもいくらかあるだろうけどな。
聖書信仰ほどにも大規模な累犯障害を併発させる宗教となれば、邪教の内ですら他に見当たらないな。

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270 2012/04/10(火) 16:26:16 ID:JMRmAbsZek
科学的見地からすれば、キリスト教徒は大ウソつきだ。
ダーウィンの進化論、ドーキンスの遺伝子論、最先端の遺伝子工学、脳科学は宗教が前提としている世界観を破壊した。
それゆえ、今ではキリスト教を無邪気に信じられなくなっている。
なお、イスラム教は聖書を原型にして発展した。
だが、イスラム教の神は人間ではない。モハメットはただの預言者で、神(アッラー)は唯一無二だ(ただし、他宗教の信者を否定はしない)。
イスラム教徒の生き方はシニカルではない。
彼らは歴史・文化・政治的な条件からイスラム教を固く信じる。
生殺与奪の権利はイスラム法に握られている。彼らはマジでイスラム教を信じている。
来世を信じるし(美女とセックスやり放題)、イスラム法的な規律を守るし、イスラム教で罪を犯せば最悪の場合には最後の審判後に永遠の灼熱地獄に行く。
彼らには永遠に開かれた未来が待っている。

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271 2012/04/22(日) 06:42:42 ID:GMe32B57So
F.ゴーガルテンは、成人した神の息子が、ちょうど放蕩息子が父を捨てて困窮に陥ったように、神を見失った姿を「世俗主義」と呼んで世俗化と区別した。
「世俗主義」は世俗化の堕落であり、世界を自らの手で救おうとして、かえって人間を疎外し、隷属化する。
このような世俗主義は、近代における世俗化の誤った道である、と言うのである。
「神なし」を誤解し、神を見失った世俗主義は、彼が指摘するとおり、受肉した神の真実の内在性に基づく自立的存在の根拠を見失っているが故に、人間を徹底的にニヒリズムの深淵に落とし込んでしまう。
ニヒリズムは世俗主義の徹底した姿にほかならない。
このニヒリズムは、存在の根拠を喪失させるが故に、絶えざる意味喪失を引き起こし、やがて、その意味喪失に疲れてしまい、すべてを絶えず断念しつつも、ついには手当りしだいのものを絶対化していくようになる。

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272 2012/04/22(日) 07:11:25 ID:mZeSOZ0jd6:au
健全なものをさも不健全なものであるかのように、
不健全なものをさも健全なものであるかのように言いくるめるのが得意だな。
世界最劣等の文化圏の人間は。

全ての学者が詭弁家も兼ねていると来ている。

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スレッドタイトル:ニヒリズム

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