みそくその論理(矛盾許容論理)


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001 2011/04/10(日) 19:45:31 ID:dVy/Hu53Qo
みそ「富や貴い身分は誰しもが欲する所だが、
正しい道義に基づいていないのなら、それらを得てはいけない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・五より)

くそ「不正にまみれた富で友達を作りなさい」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ルカ禍音書16:9より)

たとえば、全く相反する意味を持つこれら二つの主張を同時に容認したとすれば、
それは「矛盾許容論理」が発動することとなるわけで、それは、論語と聖書が本屋の同じ本棚に
仲良く並べられていたりする、今という時代を全面的に支配している論理であるともいえる。

この論理は、相反する主張のうちでも、特に正しくないほうの主張、劣悪な主張である側にとっては
全く問題がない一方で、正しいほうの主張、優良な主張である側にとっては、問題があり過ぎるわけで、
あたかも味噌と糞の混合物が、糞のような廃棄物として扱うことはできても、味噌のような食べ物としては
扱うことがもはやできないように、矛盾を許容するみそくその論理は、糞の側ばかりとっての一方的な
味方となり、味噌である側にとってはただただ一方的な敵になるばかりだという、普遍法則がある。

このようなみそくその論理の蔓延の弊害としての、味噌の側の一方的な損失と、糞の側の一方的な利得の
増長を食い止めるためには、糞の側にあたるものを、十分な否定や劣後の対象にする必要がある。

たとえば、論語と聖書の場合でいえば、劣悪な主張ばかりを羅列した聖書の側を発禁処分にしたり、
禁書にまではしなくても、有害図書指定を施すなどして、本屋や図書館の一般書コーナーからは追い出す
などの措置を講ずることがそれにあたり、そこまでの措置を講ずることで初めて、論語のような
優良な主張ばかりを列挙した良書の価値もまた、活かされていくことができるようになる。

現代社会は、とにもかくにも矛盾許容論理=みそくその論理が全体性を征服してしまっている社会であり、
それを「平等化社会」などという言葉で美化する人間もいるが、実のところ、みそくその論理が普遍化して
しまっている世の中というのは、糞の側ばかりにとって一方的な得になり、味噌の側にとってはただただ
一方的な損失を被らされるばかりであるだけの、世の中であるのだということを勘違いしてはならない。

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002 2011/04/10(日) 20:27:57 ID:2T5nm81woY
でって?

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003 2011/04/10(日) 20:45:24 ID:dVy/Hu53Qo
女の膣内で射精してこそ子が産まれる。

男のケツの中でションベンしても子は産まれない。

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004 2011/04/10(日) 22:48:53 ID:w7TB9nBSXI:DoCoMo
みそくそでもいいのか?

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005 2011/04/10(日) 23:11:32 ID:2T5nm81woY
アホがいっちょまえに流行のネタ仕込もうとして
見事に失敗しました。って感じだな。

そんな程度で人が動くか!アホ。

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006 2011/04/11(月) 06:14:27 ID:gSK0fDNDB.:DoCoMo
「みそくそでもいい」ということは、
「みそくそこそがいい」ということであり、
「くそのみでいい」ということでもある。

「みそくそではいけない」ということだけが、
「みそでもいい」ということであり、
「みそのみでいい」ということでもある。

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007 2011/04/11(月) 09:19:25 ID:L4g0N7hc3k
今の時代、犯罪聖書のほうはともかく、論語のほうには寸分の価値もありゃしない。

論語を開いて「道義に基づかない富は得るな」というくだりを読んだところで、
論語の隣りに仲良く並べられている犯罪マニュアルに「不正な富で友達を作れ」などと書かれている以上は、
誰もあえて、論語のほうの記述を実践しようなどとは思いもしない。

進歩向上の道には困難が伴い、退歩の道は安易である。

実践が困難なものと安易なものとが、同列に並べられて「いずれもよし」とされている以上は、
誰しもが安易な退歩の側にばかり流れていくのであり、あえて困難な進歩の側を選択するような人間は、
それこそ変人のレッテルを貼られて村八分にでも追い込まれることにすらなる。

一応は論語のような、困難な進歩向上の選択肢すらもが存在ぐらいは容認されているから、
全ての選択肢が開かれているのだなどとは、決して思ってはいけない。

徹頭徹尾、論語の側には実用価値がないのが今の世の中であり、
それでも論語の存在性ぐらいは容認されているのは、犯罪聖書のような劣悪文化に
世の中が征服されきっている「専制劣化社会」であることを隠蔽するための取り繕いであるのみ。

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008 2011/04/11(月) 20:37:26 ID:L4g0N7hc3k
今の世の中の惨状の責任を、寸分たりとも論語に押し付けることはできない。

論語や仏典や神典などが一切その効力を発揮せず、犯罪聖書や洋学ばかりが効力を発揮することで
今の世の中の荒廃を招いているのであり、たとえ論語や仏典や神典などが存在性ぐらいは
認められているのであっても、微塵たりともそれらが今の世を司ったなどという事実は存在しない。

論語の実践によって、犯罪聖書実践の被害者を救おうとした事実すら、全くない。

不正な富で友だちを作ってるやからの隣で、道義に基づく富しか得ないでいようとすれば、
一銭の富だって得られはしない。だから道義に基づく富で人々を救うことだってできやしない。

論語の実践によって、何かがどうなったなどということが何もなくなってしまっているその上で、
ただただ犯罪聖書のような、安易な邪義の実践ばかりによって今の世が荒廃へと陥れられているのだから、
論語の実践による救いすらもあった上で、今の世が破滅へと追い込まれているのだなどと思ってはいけない。

論語に対して託された期待が果たされようとした結果、それでも今の状況があるのではなく、
そもそも論語への期待などは完全に絶やされて、期待が果たされようとする試みがなされることすら
全くないままに、今の惨状が呼び込まれているのだということを、いい加減わきまえねばならない。

みそくそへの欲求は、ただただ一方的なクソへの欲求であるのみであり、寸分たりともミソに対する
欲求でありはしない。おまえらは全員、みそくそに対する欲求だけを選択した結果、ミソへの欲求を完全に
廃棄して、クソに対する一方的な欲求だけを厳選してしまっているのであり、寸分たりともミソによる救いを
欲しようとすらしないままに、クソフェチ故の自業自得による苦境に喘いでいるのだと知らねばならない。

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009 2011/04/12(火) 19:53:51 ID:NrSq82XocU
みそくそという名目でのクソ一辺倒である今という時代が、
ちゃんとクソを排斥することでミソの価値を有効化させていた
江戸時代のような時代と比べて、寸分たりとも“かぶって”すらいやしない。

カルト信仰や機械文明に相当するものを排斥していたあの頃のような時代に、
新たな要素が「上乗せ」されたことで今という時代があるのではなく、
あの頃にこそ有効であった、ミソに値する優良文化を一切合財捨て去ることで、
クソ一辺倒な時代へと移り変わっているのであり、ほんの少しだって
クソと共に、ミソである文化文明が同時に効能を発揮していたりするのではない。

あれを棄ててこれを採った結果、もたらされているのが今という時代の惨状であり、
寸分たりとも、あれもこれも全てにかけて、最善を尽くした結果だったりするわけではない。
それどころか、寸分たりとも最善を尽くそうとはしない上で、ただ一方的に最悪ばかりを
尽くそうとしているのが今という時代であり、最善を尽くすことからは完全に逆走すらしている。

「頑張っているのに、どうにもならない」のではなく、
「最悪を尽くすことにかけてのみ一貫して頑張ろうとしているから、
当然のこととしてどうにもならなくなっている」のであり、その頑張りこそは、
今という状況をどうにもならなくさせている唯一の元凶ですらある。

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010 2011/04/13(水) 03:17:17 ID:l62MgTukxw
目的が自分の許しと優位性主張しかないって時点で
学問とはほど遠いといい加減気付けよな。

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