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聖書 Part6


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001 2011/03/10(木) 10:43:57 ID:3RmoF4GXTs
世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。

一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。

そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。

仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。

人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

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089 2011/05/25(水) 17:47:26 ID:z5bsi.vB0w:DoCoMo
完全な誤謬を信仰することは、その信仰自体もまた完全な誤謬となる。

彼も誤謬なら、我も誤謬。
誤謬を信じるという誤謬によって、狂信者は狂信対象との連帯感を抱く。

アホ臭いっちゃあアホ臭いが、そうやって信者数を稼いで来たのが
キリスト教徒でもあるわけだから、いくらアホ臭いといえども、
人間の底抜けの愚かさを見くびっちゃいけない。

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090 2011/05/26(木) 11:45:12 ID:dvcgNtusQc
端的にいえば、神は「家元」のようなものだ。

武道であれ茶道であれ華道であれ、ある種の道理を家系によって
引き継ぐもの、現実社会上で言えば家元に相当するものが神であり、
実際の家元よりは遥かに抽象的な道理を扱っている場合が多い。

中でも特に、高尚な道理を司っているのが「天道」の神々であり、
ギリシャ神話の神々が司るとされているような、瑣末な概念よりも
遥かに実相に即して重要な意味をもつ道理を司っている場合が多く、
司っている道理の意味が高尚過ぎて難解でもあるからこそ、
神の形を借りての畏敬対象としての形式を取ってもいる。

犯罪聖書の神もまた、「邪神」という意味での神であるのは確かであり、
ある種の道理を司る家元的な意味を持っているのも確か。
しかし、その道理が天道に配分できるような代物ではなく、
地獄道や畜生道に当てはまるもの——犯罪道でこそあるから、
犯罪聖書の邪神もまた天道に配分されることはない。

高尚な愛を司る天道の神だって存在しないわけではなく、
日本神道の最高神であり、皇祖神でもあるアマテラスこそは、
愛を高尚な理念に昇華した上で司っている、真の「愛の神」にも当たる。
それと比べれば、アフロディーテやクピドーが司る愛ですら下劣なものであり、
ましてや、罪悪の辛苦を紛らわすための無軌道な愛欲への耽溺を促す、
犯罪聖書の神の、愛に対する姿勢は、想定しうる限りでも最悪の部類に入る。

全ての神が愛を司っているわけでもない上に、
あらゆる愛の中でも最も下劣な濁愛を司っているのが犯罪聖書の神と来た。

「夫の禮は必ず天に本づき、地に殽い、鬼神に列し、喪祭射御冠昏朝聘に達す」
「礼儀が必ず天道に基づき、かつ地の風土に合わせられることで神との調和を図り、
冠婚葬祭から武芸や馬術、朝廷での招聘に至るまでの全てにかけて通達する。
(礼儀こそは、人が神との調和を図る上での、真に正式な手立てである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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091 2011/05/27(金) 14:38:58 ID:DSxyUNbfnc
ただの妾腹の私生児を「神の子」と呼ぶことが、それだけでも大欺瞞の発端になるから、
ただそうするだけですでに、自意識過剰の思い上がりを肥大化させていく機縁に差し掛かる。

妾腹の私生児は、あくまで妾腹の私生児止まりであり、自身が妾腹の私生児だった孔子も、
自らの出自が賤しいものであることを認めた上で(子罕第九・六参照)、その卑しさ
からなる劣等感をバネに「下学して上達(憲門第十四・三七)」したことを認めている。

決して、妾腹の私生児などという賤しい身分それ自体を正当化したりはせずに、
その賤しさを真っ向から受け止めて、それを乗り越えることによって聖人君子として
大成したのだから、同じ妾腹の私生児という境遇の賤しさに取り込まれた挙句に、
自らの賤しさを正当化する妄言妄動に走ったイエスなどとは、天と地の程もの格差があるといえる。

生まれつきの身分ではなく、生まれ付いて後の本人たち自身の自助努力の有無こそが、
孔子とイエスとの間に、天と地ほどもの、品性の厳然たる格差を決定付けたのである。

「聘すれば則ち妻と為り、奔れば則ち妾と為る」
「正式な礼儀に即して相手に招聘された女が妻となる一方で、礼儀に基づかないままに囲い込まれた女が妾となる。
(父母の野合によって産まれた孔子も妾の子なら、マリアの密通によって産まれたイエスもそれだけで妾の子だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)

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092 2011/05/28(土) 23:35:36 ID:O9M5v.3Qzk:DoCoMo
反社会勢力としての、犯行宣言も程ほどに。

「易簡にして天下の理を得」
「物事を難しいものとして考えず、簡単に理解できるものと
見なすことで、天地万物を司る道理までもが理解できる。
(そもそも普遍的な道理自体を難しく捉える必要がないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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093 2011/05/29(日) 23:56:45 ID:gQMv/9V/8w
「人皆な人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの心有り、斯ち人に忍びざるの政有り。
人に忍びざるの心有りて、行ち人に忍びざるの政有れば、天下を治めること、之れを掌の上に運らすべし。
人皆な人に忍びざるの心有れば、今人乍かに孺子の將に井に入らんといるを見れば、皆な怵酡惻隱の心有り。
交わりを孺子の父母に結ばんとする所以にも非ず、誉れを郷黨朋友に要むる所以に非ず、其の聲を
悪みて然るにも非ざるなり。是れに由りて之れを觀れば、惻隱の心無きは、人に非ざるなり」
「人は誰にでも、他者を憐れむ心が備わっている。昔の賢明な王者なども、人を憐れむ心があればこそ、
その哀れみを以って政事を為したのである。本当に人を憐れむ心があって、その憐れみによって
政事を行う場合にのみ、人は掌の上で世の中を転がすようにして、政事を行うことまでもが許される。
 誰しもに人を憐れむ心が備わっているからこそ、たとえば今、目の前で赤ん坊が井戸の底に転落
しようとしている姿を見れば、誰しもが思わず反射的に『赤ん坊を助けてやらなければ』という気になる。
それは、全くの哀れみの気持ちからなる反射的な反応であり、赤ん坊の親に恩を売って取り入りたいからでも、
赤ん坊を助けた名誉を故郷や友だちに知らしめたいからでも、助けなかったことによる不名誉を避けるためでもない。
このような事実を以ってしてみれば、こういった憐れみの心すら捨て去ってしまった人間は、もはや人ではないといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・六より)

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094 2011/05/29(日) 23:57:41 ID:gQMv/9V/8w
誰しもが、何の考えもないところに、
目の前で危機に陥っている赤ん坊を見た瞬間に、それを助けようとする心を抱く。
どんな打算にも先んじて赤ん坊を助けようとする惻隠の情の実在を以って、
孟子は「人の本性は善である」とも主張する。

見返りを欲するから憐れみを抱くのではなく、何よりもまず憐れみの心が先んじている。
見返りのために抱かれる憐れみなどは、あらゆる見返りに先んじる本物の憐れみと比べれば、
捏造された紛い物の憐れみであり、本物の憐れみとは全くの別物である。

打算が先んじる紛い物の憐れみに固執するあまり、打算にすら先んずる、
人間の本性としての善性から発する憐れみを疎かにしてしまったような人間は、
もはや決して本物の善思善言善行を為すことは叶わなくなる。だからこそ孟子は、
本性の善性からの憐れみを失った人間は、もはや人ですらないと断じたのだ。

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095 2011/05/30(月) 12:07:29 ID:DtmXxfSwGA
削除(by投稿者)

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096 2011/05/30(月) 12:11:26 ID:DtmXxfSwGA
だいぶ長文を引用し始めたが、ただ切れ切れの複数の主張の組み合わせになっているだけなので、
こちらはただの長文よりは、いくつかの引用の組み合わせで応対したほうがいいだろう。
真正聖書と贋聖書と、記述の順序までは完全に一致していないから。

「公曰く、衣食を安んずる所、敢えて專らにせざるなり、必ず以て人に分けんがためなり。
對えて曰く、小惠にして未だ遍からざるなり、民は從ざるなり」
「(日ごろ旺盛な肉食などの奢侈な生活を送っていることで知られる)魯の荘公が言った。
『わしがこんなに豪華な衣食生活をしているのも、別に独り占めにしたいからではない。
できるだけ多くの人々に分け与えられるだけの、多くの衣食を蓄えているからなのだ』
聞き手の曹劌が答えていった。『そんなのはせいぜい、隣人に対する小さな恵みになる程度で、
決して万民に広く衣食を提供するつもりの所業ではありません。それでは大多数の民は従いません』
(聖書信仰者が相当な数に上りながらも、どうしても人間社会の大多数にはなれない根拠の一)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公十年より)

「(詩に)云く、明發まで寐られず、二人を懷う有りと。文王の詩なり。祭の明日に、明發まで寐られず、饗して之れを致し、
又た從って之れを思う。祭の明日に樂と共に哀半ばす。之れを饗するときは必ず樂しみ、已でに至るときは必ず哀しむ」
「詩経(小雅・小宛)に『二人のことを想うと、明くる日の朝まで寝付けなくなる』とある。これは文王が父母を
追慕する心境を歌った詩である。(これが由来となって当時の中国では)先祖祭りの明日の朝まで寝付くことなく、
徹夜で祭りを行う。来客を饗応するという事務に携わりつつ、心中では本当に先祖への思いをはせる。
すると祭りの明日には楽しみと悲しみが相半ばした心境になる。客を饗応するときには精一杯楽しもうとし、
そうでないときには精一杯悲しんでいたからだ。(記述姿勢自体が明日の想い悩みの予想になっているが、
先祖や父母に対する孝心の厚さを養うための手順を挙げた、非常に重要な記述にもなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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097 2011/05/31(火) 12:36:20 ID:B/qvlVszYg
孔子も「君子は見るときにはちゃんと見たいと思う(季氏第十六・一〇)」とはいうが、
別に修己治人のための最大級かつ必須の条件が「目がよく見えること」なわけでもない。

むしろ人を裁く限りにおいて、自分までもが相手と同等の罪を犯していたために、
相手に厳罰を科したことで、そのしっぺ返しが自分にまで及ぶような事態を避けるのが第一であり、
そのためには出歯亀行為や盗聴行為を含む、あらゆる反道徳行為の自粛こそが必要なのだ。

「工尹商陽、與陳棄疾と呉師を追うて之れに及ぶ。陳棄疾、工尹商陽に謂いて曰く、王事なり、子、
弓を手りて可なりと。弓を手る。子、諸れを射よ。之れを射る。一人を斃し、弓を韔にす。又た及ぶ。之れに謂う。
又た二人を斃す。一人を斃す毎に、其の目を掩う。其の御を止めて曰く、朝には坐せず、燕には與からず。
三人を殺すも、亦た以て反命するに足らんと。孔子曰く、人を殺すの中にも、又た禮有りと」
「楚の統率官である商陽が、陳棄疾と共に逃走している呉の要人たちを追跡して、これに追いついた。
陳棄疾は商陽に言った。『これは王命である。汝に弓を取ることを許可する』 商陽は弓を取った。
陳棄疾『あれを射よ』 逃走する呉の要人を射て一人を殺し、商陽はこれ以上の殺生を忌む意志を表するために
弓を袋にしまい込んだ。しかしまた他の逃走者に追いつき、陳棄疾はまた商陽にこれを射るように言った。
商陽は今度は二人を射殺し、一人を射殺すごとに我が目を蔽い、人を殺すことの忍びなさを表した。
追撃を一旦中止して商陽は言った。『私はもう朝廷には上がらず、燕の禄を食むことも致しません。
三人もの命を奪ったことは、やはり王命に反することが明らかですから(明らかな王命によって人を
射殺しながらも、王に殺人の罪を被せまいとして、あえて王命に反して三人を殺したのだと主張している)』
孔先生は言われた。『人を殺すような凶事の中にすら、礼儀を尽くす道は備わっているのだ』
(弓で逃走する相手を射殺すほどもの眼力を備えながら、射殺の瞬間にはあえて相手から目をそらし、
王の裁きに基づく命令で行った誅殺であるにもかかわらず、自らがその咎を進んで受けようとしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

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098 2011/06/01(水) 09:47:08 ID:o5bA7X1sjY
「罪に陷いるに及びて、然る後に從いて之れを刑す。是れ民を罔するなり。
焉んぞ仁人位に在りて、民を罔して為む可けんや。是の故に賢君は必ず恭儉下を禮し、
民に取るに制有り。陽虎曰く、富まんと為せば仁ならず、仁を為せば富まずと」
「民をあえて、罪を犯さざるを得ないような苦境に追いやっておきながら、自分たちでそこに刑罰を加える、
これこそは民を漁で網にかける魚も同然の扱いとするものである。どうして仁者が権力者としての
有力な立場にあった場合に、このような所業を為すことができようか。そのため賢明な主君は、
常に恭しさと慎ましやかさを保ち、どんなに身分の低い相手にも礼節を以て接し、
民から税を取り立てる場合などにも一定の制限を設ける。そのため昔、魯の重臣だった
陽虎も『金を稼ごうとすれば仁は為せないし、仁を為そうとすれば金は稼げない』といったのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)

自他の国民から法外な暴利を貪るためのマッチポンプを正当化する地獄の邪教もある一方で、
そのようなマッチポンプの有害無益さを完膚なきまでに看破した上で、そのような悪行に
手を染めることなく、善良な統治行為を行っていくための指針までもが体系的に用意されてもいる。

しかも、どちらかといえば、民を網するマッチポンプを排する権力道徳統治の体系のほうが、
甚大なマッチポンプで人類を滅亡にすら導く権力犯罪支配の体系よりも、質でも量でも古さでも
発行部数でも、あらゆる面において上回っており、仮に権力犯罪支配を今すぐ完全に取り止めて、
完全な権力道徳統治に切り替えたとしても、その体系消費におつりが来るぐらいのものだ。

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099 2011/06/02(木) 13:00:58 ID:jF4U4sFmA.
「君子の過ちや、日月の蝕するが如し。過つや皆な之れを見、更むるや人皆な之れを仰ぐ」
「為政者の過ちというものは、まるで日食や月食のようなものだ。
過ちを犯せば誰しもがこれを見るし、改めれば誰しもがこれを仰ぐのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二一より)

犯罪聖書信仰の蔓延によって、何もかもが過ちで塗り固められている今の世の中は、
あたかも日食と月食が同時に起こったかのように、真っ暗闇と化した世の中だといえる。

そこから急に、蝕が終わって日月の光が差し込めば、暗闇に慣れ過ぎた人々の目は、
あたかも何倍もの日光や月光が差し込んできたかのように勘違いして面食らうかも知れないが、
それはあくまで錯覚であり、日月に相当する為政者たち自身は、ごくごく小さな部分からの
更正の積み立てから始めていく。真っ暗闇から急に最大級の光へと転換するのでは、
誰も付いてくることもできないから、闇が光に裏返るような安易な短絡を期待するのは、
二度と政事行為に手出しすることのない、参政権被剥奪希望者に限るがいい。

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100 2011/06/03(金) 11:43:21 ID:qjWLZlUCaY
「子曰く、孝なるかな、閔子騫。人其の父母昆弟を間する言あらず」
「先生が言われた。『孝行者なことだな、閔子騫は。人が彼の父母兄弟を謗る言葉を聞いたことがない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・五より)

先天性の父母兄弟は、自分では選べない。にもかかわらずではなくだからこそ
儒学は、否応なく自分を産み育ててくれた父母への孝心を大事にせよ、と促す。

しかるに、上記の批評対象である、孔子の門弟の一人だった閔子騫は、
実父が実母と別れて後妻を娶り、閔子騫とは腹違いの弟二人が産まれるという
冷ややかな境遇に置かれていた。よくありがちな継母からのいじめなどにも遭って、
普通なら反発して継母の悪口なども言いそうなものを、実父の面目を守るためにも、
閔子騫はいじめにも耐え抜いて、かえって継母や腹違いの弟を弁護するような
発言を行ったために、周囲の人々も継母や弟を影で謗るようなこともしなかった。
そのことを以て孔子は、「閔子騫はなんと孝行者なことだろう」と評したわけだ。

たとえ血のつながりがなくたって、自分で母兄弟を選んだりはしないのが孝だ。

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101 2011/06/03(金) 21:54:13 ID:btVn55rtO2
簡単には人類仲良し計画書物だろ
常識に疎いからそんなものを必要とするんだよ

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102 2011/06/03(金) 22:14:59 ID:qjWLZlUCaY
小人の常識、か。

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103 2011/06/04(土) 12:38:00 ID:s/DjwIOBOY
賢人だろうとだめ人間だろうと犬や猫や虫は分けて認識しない
それが本来の生き物の姿だ
小人だとか言ってる時点で劣った認識をしているんだよ

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104 2011/06/04(土) 12:41:31 ID:jErmETyQ0o
「書経」虞書・舜典に、舜が「贖刑」という刑を制定したことが
載っている。ここにはあまり詳しい贖刑の内実は述べられていないが、
同じ「書経」の周書・呂刑に、贖刑に関する詳しい解説が載っている。
それによると、まず重大な犯罪行為を犯したものに対する重罰としての
「五刑(入れ墨、鼻削ぎ、足切り、去勢、死刑)」があり、犯した罪が
全くの故意によるものである場合には、やはりこれらの刑を科すという。
一方で、犯した罪が過失であった場合には、それぞれの刑に対応する
罰金刑としての「五過」があり、これが舜の定めた「贖刑」にも当たる。

司馬遷なども、皇帝に対する失言によって去勢刑相当の罪に定められ、
過失であることが明らかなために罰金刑(贖刑)をも提示されたが、
罰金を支払いきるだけの貯金がなかったために、仕方なく去勢刑を呑んでいる。

あくまで罪が「過失」である場合にのみ、罰金で罪を贖うことも認められるのであり、
罪が明らかな故意である場合には、金で罪を贖うことも決して認められない。
何千兆円と溜め込まれているユダヤ財閥の不当利得なども、ユダヤ人の不正行為が
故意である以上は、罪を贖う上での糧になるなどということも決してない。

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105 2011/06/04(土) 12:45:07 ID:jErmETyQ0o
「宋人兵車百乘と文馬百駟を以て、以て華元を鄭より贖う。半ば入りて、華元逃げ歸る。(中略)宋城く。
華元植を為し、功を巡す。城く者謳いて曰く、睅たる其の目、皤たる其の腹、甲を棄てて復れり、于思于思、甲を棄てて
復た來れり。其驂の乘をして之れに謂いて曰く、牛に則ち皮有り、犀兕も尚お多し。甲を棄つるに則ち那かあらん。
役人曰く、從え其れ皮有れども、丹漆を若何にせん。華元曰く、之れを去れ。夫は其の口眾く、我れは寡なしと」
「宋国の人々は戦車百乗と、よく飾り立てた馬四百頭を供物として鄭に送ることで、先方の戦いで捕虜となった
華元の贖いを試みた。贖いの供物が半分程度まで送られたところで、華元が自分から逃げ帰ってきた。
(莫大な贖いの供物によって自分が釈放されることを恥じ入って、無理にでも自力で逃げ帰ってきたのだろう)
後に宋が城普請を行ったときに、華元は監督として工事現場を車で巡回して回った。すると工事に携わっている人夫たちが
『甲冑を脱ぎ捨てて、出目と太鼓腹を晒しつつ逃げ帰って来たとさ。ヒゲも伸び放題になった大将が、甲冑も捨てて
逃げ帰って来たとさ』とからかう歌を謳った。華元は車に同席していた者に代弁させて答えた。『牛には甲冑に
使う皮があり、犀も野牛もそこら中に多くいる。甲冑程度を失ったところでどうだ、また作れるじゃないか』
人夫は皮肉気味に言い返した。『皮はどうにかなっても、甲冑に塗る漆はどうしますかね』 華元は言った。
『もういい捨て置け。言い争いでは、こっちが多勢に無勢だ』(母国による贖いを恥じて逃げ帰った華元の心意気も、
下賤な人夫には理解されずにからかわれている。上知と下愚の無移行は、立場の違いによる責任感の有無が原因ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公二年より)

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106 2011/06/04(土) 18:38:32 ID:uVb78EVnu2
なにが罪なものか
役人の都合に合わせなければ罪になるんだろう
あんたたちの正邪も都合いい解釈をプラスした認識なんだよ

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107 2011/06/04(土) 19:47:13 ID:jErmETyQ0o
四書五経の記述は、どれも直観的なものばかりであり、
抽象的な概念性に帰納してから現実へと演繹する、洋学的な手法には即さない。
なおかつ、仏教の絶対真理ほどには、細部まで厳密ではない世俗の道理を取り扱っており、
「礼記」に書かれている古代中国の礼制なども、時代も風土も大幅に異なる
今の日本などに、その全てを直接適用することなどが相応しいようにはなっていない。

しかし、直観的に把握された、細部までは厳密でない世俗の道理なりの
大まかな普遍性を記述した書物が四書五経であるために、その記述内容に大まかに
だけでも遵えば、人類の存続や繁栄が約束される一方で、大まかな部分からすら
極端に相反すれば、人類の破滅や滅亡が決定付けられることともなる。

人間が普通に暮らしている限りにおいて、四書五経に書かれてあるような最低限の
常識からすら極端に相反するなんてことはまずあり得ないんだが、四書五経の内容にこそ
決定的に相反しているカルト宗教の邪義を好き好んで狂信したりする場合に限って、
最低限の当たり前な常識からすら脱線した、非常識の推進による人類の衰滅までもがあり得る。

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108 2011/06/04(土) 21:52:49 ID:jErmETyQ0o
司馬遷は、自らの知人であり、匈奴を討つ命を科されていた将軍李陵が
北伐に失敗して捕虜となったのを受けて、援軍を送らなかった武帝の責任である
ようなことを述べたために、武帝の怒りを買って逮捕幽閉されることとなった。

審議の結果、その罪は「宮刑(去勢刑)」相当と裁決され、ただし失言で
あることの過失も認められて、罰金を支払えば放免されるということになった。

しかし前記のとおり、司馬家には十分な貯金がないために罰金を支払いきれない。
支払えない以上は宮刑が強制的に行われる。宮刑ほどもの男にとっての恥も他にないから、
おそらく司馬遷は獄中で、服毒死などの自殺の選択肢も暗に提示されたものと思われる。

法家の雄である韓非なども、獄中で服毒自殺するなど、罪人が獄中で自殺することを
許可するのは、当時の中国では暗黙の了解とされていたようで、にもかかわらず司馬遷が
自殺を拒んで宮刑を選択したのは、ひとえに父から受け継いだ正史編纂の任務を果たすためだった。

これをして中国では、宮刑を呑んででも自らの責務を果たさんとした、司馬遷に連なる
正史編纂事業を、さっさと獄中自殺してしまった韓非が唱えた法律万能主義よりも、伝統的に
上のものとして扱ってきている。(そのため「経史子集」がこの順番に分類されもする)

法律なんて、恥を忍んで生き延びなければならないほどもの責務を負わされているもの同士には
全く通用しないおままごとだってことが、とっくの昔に白日の下にさらけ出されているから。

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109 2011/06/05(日) 11:21:56 ID:sdTnk7Rxag
「公田に雨ふり、遂には我が私(田)に及べ(詩経・大田)」とあるとおり、
まず誰しもに利益の水が行き届いてから、結果として自らも相応の利益を得るというのが
「仁義」の理念であり、この仁義を念頭に置くことが、本物の「正義」の大前提ともなる。

そのため、誰かの利益を蔑ろにしながらでも、自らが利益を得ようなどとする、
仁義に反する我田引水すなわち「偽りの正義」ともなり、正義を行うどころの話ではない。

それは、利益を蔑ろにする相手が、大量の不当利得を貯め込んだ極悪人などである場合にも
同じことであり、最悪の極悪人に対してですら、適当な慎罰をあてがうことで
全くの蔑ろにしたりはしないでいて初めて、自らもまた正義を行える。

根本のところから念頭に置かれている理念が、仁義であるか我田引水であるかが、
正義を行えるか否かの決定的な分かれ目となるのであり、まず私利私欲を念頭に置くような
我田引水一辺倒の性向から脱却できないことには、正義を行うもへったくれもないのである。

「台が四方に正たるに以て、惟だ鄹の類からざるを恐る。茲の故に言わず。恭み默して道を思う」
「私は自らに四方の国々全てを正していく上での徳が足りないことばかりを恐怖している。そのため
身の程知らずになりかねないようなまっすぐ過ぎる発言は避け、慎み黙っては道徳を思い直している」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説命上より)

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110 2011/06/06(月) 12:27:16 ID:IwM/iMF.bQ
「色﨤しくして内荏らか、諸れを小人に譬うれば、其れ猶お穿窬の盜のごときなるか」
「外面だけはいかめしく取り繕っているが、肝心の内心はといえばもうグニャグニャのヘタレも同然。
これを下賤な者に喩えてみるなら、まあ、人の家に忍び込む盗人のようなものだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一ニより)

まさに忍び込みの盗人こそは、自らの行いが白日の下にさらけ出されることを最も恐れている。

「爾は爾なり、我は我なり、我が側らに袒裼裸裎すると雖も、爾焉んぞ我れを浼さんや」
「おまえはおまえ、俺は俺だ。たとえ俺のそばで(当時の中国で無礼とされる)肩脱ぎになったり、
素っ裸になったりする者がいたところで、どうして俺の名誉をを汚すことができようか。
(孔子に比べれば知性が足りないが、そこそこの偉人だと孟子が評した柳下恵の言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・一より)

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111 2011/06/07(火) 13:13:02 ID:BBvb5Zgbkg
日本の、皇祖神アマテラスを祭る伊勢系の神社や、歴代天皇を祭る神社は、
どれも神殿が南向きに開かれている。(大戦期の英霊を祭っている靖国などは東向き)
やはりこれも「皇帝は南面して政務を執る」という易学由来の風水に即していて、
太陽が南側に昇る北半球で、日当たりのよい南側を用いるという意図も備わっている。

中国以東の極東社会の風水はもっぱら易学に依存しているが、インドなどにも風水に
相当する思想があって、今から約4000年前に建造されたモヘンジョダロの遺跡群にも
日当たりのよさなどを考慮する風水学的な配慮がなされていたことが判明している。

日月星辰の運行にこそ普遍性を見出して、その法則性との調和を図ることで、
人間社会までもがその普遍的な安寧にあやかるという志しが風水をも派生した。
その体系は確かに曖昧で、迷信扱いされても仕方ないような部分もあるのだが、
現実に実在している日月星辰の普遍法則を取り扱っている風水が迷信だというのなら、
そのような実在する普遍法則からすら逃避した所に普遍的な超越神を認めよう
などとするカルト信仰のほうが、さらなる迷信であることにも違いはない。

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112 2011/06/07(火) 13:13:14 ID:BBvb5Zgbkg
「昔吾れに先正有り、其言明かに且つ清く、國家以て寧く、都邑以て成り、庶民以て生る。
誰れか能く國成を秉る。自から正を為さず。卒に百姓を勞すと。君雅に曰く、夏日暑くして
雨ふる、小民惟れに怨みを曰い資くと。冬祁いに寒く、小民亦た惟れに怨みを曰うと」
「昔我われには正直を旨とした賢王がいて、その言葉は白日の下にさらけ出されても
何ら疚しいところのない、明らかで清廉なものであったために、全ての国家は安寧に与り、
都や村々も繁栄を成し、庶民もみな生き生きとしていた。いま、どこにそれほどもの
隆盛を司ることのできる者がいるだろうか。己れが正直であることに励まないために、
ついには庶民にまで多大なる労苦を課してしまっている。君雅(周の古書)にあるとおり、
夏には強烈な日照りと豪雨に見舞われて、民はこれに怨みを言いながら嘆き、冬には
強烈な寒さが襲って来て、民はまた怨みをいうという、かの有り様そのものではないか。
(昔の賢王が、国家や都市の構造から自然法則との調和を図っていたことがうかがえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)

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113 2011/06/08(水) 11:40:11 ID:d2IeEEDVUM
正直、儒者の口は悪い。

天道や仏道の従事者のように、「勧善」ばかりを語れば口汚さも免れるものを、
実在する諸悪に対する具体的な「懲悪」の言葉までも述べるから、
決して誰しもに好かれたりはせず、悪人には憎まれる宿命を帯びている。

孔子の弟子の子貢も「人の悪を称するを悪む(陽貨第十七・ニ四)」とはいうものの、
その師匠である孔子からして、堕落した当時の諸侯の汚点を的確すぎるほどに
よく突く悪言家であったことが「史記」孔子世家に記録されている。

「君子は○○、小人は××」という露骨な比較によって善悪の優劣を如実化する、
嫌らしいけれども誰かがやらねばならない汚れ役をも儒家は買って出ているのであり、
それが、何もかもが「勧善」ばかりで尽くされている天道や仏道と人道の
違うところであると同時に、人道が天道や仏道には一目置く所以でもある。

「焉んぞ佞を用いん。人に禦るに口給を以てすれば、
屢ば人に憎まるる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん」
「どうして口先だけで阿ったりする必要があろうか。人に接するのに口先だけの
奇麗事を用いたところで、やはり人々からの怨みを買うような結果になるだけだ。
言葉ばかりでは本当に仁者であるともしれないのに、どうして口先で阿る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・五より)

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114 2011/06/09(木) 12:27:23 ID:FJMlhanymI
事実問題として、聖書信仰がこの世にもたらしているのは、
人類史上にも未曾有の「わざわい(災い、禍)」であって、平和ではない。

別に、アメリカやロシアが今も大量備蓄している核兵器による全面戦争が開始されて
人類が即座な滅亡に追いやられまではせずとも、現時点ですでに、聖書信仰こそが
人類史上にも未曾有の格差社会をもたらし(欧米聖書圏の富豪とアフリカ聖書圏の貧困者)、
何十億人という人々を不幸まみれな苦役に追いやった結果、その反動としての愛欲の貪りが
破滅級の人口爆発を引き起こし、もはや全人類が即座に聖書信仰を全面棄教でもしない
ことには、否応なく人類が滅亡へと追いやられるほどものわざわいを招いている。

犯罪聖書中で神がもたらすといっている平和が全くの偽りであり、せいぜい全世界が
破滅に陥る中で信者たちが金満によって最期まで虚栄を謳歌することを「平和」と
呼んでいるだけのことであり、「礼記」楽記第十九に初出している、「徳性による感化
によって誰しもを安寧へと導く」という「平和」の本来の定義からも真っ向から反している。

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115 2011/06/09(木) 12:28:25 ID:FJMlhanymI
「(孟子曰く)若くのごとく為す所を以て、若くのごとく欲する所を求むるは、猶お木に縁りて魚を求むるがごとし。
王曰く、若くのごとく其れ甚だしきか。曰く、殆ど有た焉れより甚だし。木に縁りて魚を求むるは、魚を得ずと雖も、
後に災い無し。若くのごとく為す所を以て、若くのごとく欲する所を求むるは、心力を盡くして之れを為して、後必ず災い有り」
「(斉の宣王に対して孟子)『このようなやり方をして、そのような希望を叶えようとするのは、あたかも木に登って
魚を得ようとするようなものです』 宣王『それほどにもひどいのか』 孟子『いや、それ以上にもひどいと
言っても過言ではありません。木の上に魚を求めて得られなかったからといって災いになるわけでもありませんが、
莫大な権力や行為能力を掌握して、なお木の上に魚を得ようとするような愚行を求めているあなた様のやり方だと、
全身全霊を尽くして願いをかなえようとすればするほど、さらに大きな災いを招くばかりとなりますから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)

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116 2011/06/10(金) 11:16:41 ID:h.RvXSGkzk
ユダヤ人の条件は「母親が旧約信者であること」だし、
欧米のキリスト教徒が後付けで改宗した信者であることも知ってのこと。
今のキリスト教徒やユダヤ教徒のうちに、犯罪聖書中の登場人物の「実の子孫」などはいない。

「子」だの「子孫」だのという表現を用いたところで、所詮はどこまでも比喩表現止まりであり、
皇祖神アマテラスを始めとする、本物のご先祖さまを祭っている日本神道などと比べれば、全くの紛い物。

日本人と比べれはだいぶ系図の粉飾が甚だしいが、孔子や孟子や諸葛孔明といった
歴史上の実在の人物が、同郷であることなどを根拠に先祖であることを主張する中国人のほうが、
「あり得ること」を根拠に子孫であることを標榜していたりするぶん、まだ誠実であるといえる。

「祿の公室を去ること、五世なり。政の大夫に逮ぶこと、四世なり。故に夫の三桓の子孫は微なり」
「今の魯では、爵禄を授与する権限が公室を離れてから五代目になるし、政治の実権が大夫に
乗っ取られてから四代目になる。そのため三桓(魯の先祖)の子孫も衰えることとなってしまったのだ。
(国家としての体裁を蔑ろにしたことなど、子孫が衰亡したのにも確かな理由が備わっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・三より)

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117 2011/06/11(土) 11:40:41 ID:S6NKkrnZdY
「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ルカ禍音書9:25)

我と世界とを対立項として捉えているところからして、すでに「ガン細胞」の性向を帯びている。

世界の安寧を保つことで我れをも保つ、仁義の理念とは真っ向から相反していて、
どちらかを立てる以上はもう一方が絶対に立たない。

究極的なことを言えば、本当に真なのは仁義のほうであって、自らを世界のガン細胞として
捉える犯罪聖書のものの考え方のほうが間違っているために、最終的には成り立たない。

犯罪聖書中のカルト教義は、信者をガン細胞も同然の振る舞いに陥らせはするものの、
やはり犯罪聖書の信者もまた一種の人間であり、人間社会に寄生することでこそ
生き延び、人間社会が滅亡すれば自分たちも滅亡する運命を負わされているから。

とこまでも、完全に誤りであるのは犯罪聖書中のカルト教義であって、
信者がどんなにそれを信じても、信者がその内容に完全に遵うことができるわけでもなく、
自分たちを保つために世界をも滅ぼそうとした結果、自分たちもまた滅ぶしかないのだ。

「鳥獣は与に群れを同じくす可からず。吾れ斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にかせん」
「鳥や獣とは一緒に群れを成して生活するわけにもいかない。人として産まれついた私にとって、
この世界の人々と共に暮らしていくのを拒絶して、一体誰と共に暮らしていくことができようか。
(人としての仁義の不可避さを説く言葉。儒家が『人道』であることの高らかな宣言でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・六より)

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118 2011/06/11(土) 23:53:39 ID:S6NKkrnZdY
人は所詮は、人と人との間にしか生きられない、だから「人間」という。

当然のことではあるが、「人は誰しもいつかは死ぬ」
ということ並みに、忘れがちな現実だといえる。

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119 2011/06/12(日) 13:30:14 ID:40p.IZI4x.
冤罪で精神薄弱者(イエス)を処刑して、代わりに強盗殺人犯(バラバ)を放免した
ローマ総督ピラトの裁定が不当だというのなら、その不当判決や、不当に放免された
強盗殺人犯への懲罰を申し立てるべきなのであって、冤罪で刑死した精神薄弱者が
三日後に蘇ったなどという与太話への狂信で対抗したりしても、全くの無駄。
それこそ不当判決を修正しようともしない怠惰な法務官や、不当に放免された
強盗殺人犯の思う壺なのであり、罪を消し去るどころか無闇に増長させる従犯となるのみだ。

精神薄弱者を生け贄にして自分たちの放免を図る、ユダヤやプロテスタントが最重度の
罪状の持ち主なままであることはもちろんだが、不当判決で刑死した精神薄弱者の
復活を信じることで、ユダヤやプロテスタントの精神病質を助長してきた正教や
カトリックにも、ユダヤやプロテスタントの親密な従犯としての罪状が確かにある。

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120 2011/06/12(日) 13:30:26 ID:40p.IZI4x.
「瞻卬する昊天の、則ち我れに惠まざる。孔と填みて寧からず、此の大いなる﨤いを降せる。
邦の靡ち定まる有らず、士民も其れ瘵みつかる。蟊賊蟊疾して、その屆み有る靡く、罪罟は收まらず、
その瘳ゆる有る靡し。人の土田有るを、女じ反りて之れを有り、人の民人有るを、女じ覆りて之れを奪えり。
此の宜しく罪無かるべきを、女じ反りて之れを收え、彼の宜しく罪有るべきを、女じ覆りて之れを説せり」
「高空にまします上天も、我われに恵みを与えてくださることなく、長年病に喘いで安らぐこともできないほどの、
大いなるこの災いばかりを降された。どこの国も内政が安定することもなく、為政者たちもみな病み疲れている。
害虫の大繁殖にも等しい盗賊や精神薄弱者の暴れ回りが横行し、その極みも無く、罪悪の辛苦は収まることがなく、
精神病質も癒える兆しすら見られない。人が田畑を所有しているのを見ればこれを奪い、他国に民が多くいれば
奴隷人員などとしてこれを奪う。罪のない者は捕らえて罰し、罪ある者はこれを許して放免するといった有り様。
(後半はイエスの刑死にまつわる権力犯罪の描写とほぼ同じだが、それが『罪と病』の国中への蔓延によるもの
であるという冷静な分析が行き届いており、さらにはそれが上天のもたらした災いであるとすら見なしている)」
(権力犯罪聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・瞻卬より)

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121 2011/06/13(月) 12:03:55 ID:uKIsP6Mhg.
犯罪聖書(新旧約聖書)を質でも量でも古さでも発行部数でも上回る道徳聖書(四書五経)が、
犯罪聖書全文の偽証性を実証している。イエスの救世主としての真偽以前に、犯罪聖書自体が、
人類にとっての根本聖典=聖書の中の聖書であるという考えからして偽りである。

今まであったものが刷新されて新しいものに鞍替えするのではなく、
より根本的で基本的な部分にまで立ち返って、人類全体が身を固めなおすだけのことだ。
温故知新をも志さずに、とにかく何か新しいものに取っ付こうとする姿勢からして誤りなのだ。

「哀公社を宰我に問う。宰我對えて曰く、夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗を以てす。
民をして戰栗せしむと曰う。子之れを聞きて曰く、成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず」
「哀公が社殿に植える神木のことについて、孔子の弟子の宰我に尋ねた。宰我は答えて言った。
『夏王朝の頃には松の木を用い、殷王朝の頃には柏の木を用い、周代になってからは栗の木を用いています。
(周で栗の木が神木に使われるのは)民を戦栗(せんりつの語呂合わせ)させる意図が込められているからです』
孔子はこのことを聞いて、『既に成されたことに説教はするまい。遂げられたことは諌めまい。すでにやって
しまったことは咎めても仕方がない』と、宰我を許すような言葉を三度も繰り返すことで、宰我が哀公の機嫌を
取るために(周の神木が栗であるのは民を戦慄させるためなどという)適当な偽証を行ったことを暗に嘆いた。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・ニ一)

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122 2011/06/14(火) 13:23:12 ID:m8w8OeFhEw
現実問題として、形而上の実体性とは何らの関係もない自己完結装置である
この世界この宇宙において、妾腹の私生児であり、精神薄弱である冤罪犯のカルト教祖が、
鞭打ちや唾吐きなどの酷い虐待を受けながら刑死していくような不条理による激情を発しても、
当然形而上との連絡が取れるわけでもなく、ただ形而下での人類滅亡級の権力犯罪を推進するのみとなった。

イエスが妾腹の私生児として生を受けたことは先天的なことだし、当時のイスラエルやローマ帝国が
政治的な腐敗にまみれた濁世だったことも先天的なことであり、その責任までをもイエスに
押し付けるのは確かにおかしい。しかし、同じく妾腹の私生児として産まれ、春秋時代後期という、
諸侯勢力の権謀術数渦巻く乱世に生きながらも、自学自修によって周代以前の伝統文化の修得や
その保全に励むことで、聖人君子として大成した孔子のような例もあるわけだから、ことにイエス自身が
堅実な自学自修も怠ることで精神薄弱を深刻化させ、自前のカルト教義を方々に触れ回った挙句に
冤罪犯となって強盗殺人犯の釈放と引き換えに自らが十字架上で犬死にしたことは、生まれや時代
ではなくイエス本人の全くの自己責任なわけだから、全く言い逃れようもない本人自身の落ち度だといえる。

故に、天の為せる災いはなお避くべきも、自らの為せる災いは逃るべからずともいう(書経)。
生まれつきや時代の不遇ではなく、孔子や孟子と比べてあまりにも愚か過ぎたイエス自身の行いが、
いくら他者から咎められずとも、逃れようもなく自らに返ってくる自業自得の災いとなるのだ。

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123 2011/06/14(火) 13:24:58 ID:m8w8OeFhEw
孟子には、特に妾腹の子だったとか私生児だったとかの伝承はないが、司馬遷もその身元を
調べ上げられないほどに低い身分の出身だったらしく、なおかつ戦国時代という、孔子が生きた
春秋時代後期以上にも政情が不安定と化していた、魑魅魍魎同士の共食いが横行する時代に生を受けた。

それでも孟子は、賢婦だった実の母や、孔子の孫である子思などの助けを通じて儒学の猛勉強に励み、
戦車千乗を有する大諸侯を圧倒するほどもの仁義道徳を携えて世を駆け回り、決して当時の社会に
特有の汚辱などに汚されることもなく人生を全うした。その血筋も後世にまで称えられて、
忠臣蔵四十七士の一人である武林唯七なども、孟子の末裔であることを誇りにしていたほど。

生まれの賤しさだとか、生まれ育った環境の悪さだとかをものともせず、偉人として
大成した実例は確かにあるわけで、それは孔子とか孟子とかいった人々のことであり、
決してペテンで世の中を騙しおおせることで名を上げた、イエスなどであるわけではない。

「仁なれば則ち栄え、不仁なれば則ち辱めらる。今辱めらるるを悪みて不仁に居るは、
是れ猶お湿りを悪みて下きに居るがごとし。如し之れを悪まば、徳を貴びて士を尊ぶに如くは莫し」
「仁徳を修めれば順当に栄えられる一方で、仁徳を修めなければ侮辱にまみれることとなる。
いま侮辱にまみれることを忌み嫌いながら、仁徳を修めることも怠るような連中がいるとすれば、
それはまるで湿気を嫌いながら、好き好んで低地の湿地帯にいようとするなものだ。そのような
痴態を晒すのが嫌ならば、仁徳を貴んで、仁士を尊ぶに越したことはないのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・四より)

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124 2011/06/15(水) 12:24:42 ID:CObUGi9Ync
「人は神の子である」という考え方は神道にだってあるが、それは
史実上に実在するご先祖様を「神(鬼神)」とみなしているからで、
一般人が先祖の墓を参るようにして、皇族も伊勢神宮に参詣している。

そうではなく、この世界この宇宙の形而上に実在すると見なした
架空の超越神を「父」であるとして、その架空神の子としての「神の子」が、
妾腹の私生児であるために実の父親の身元も知れないイエスであると
見なしているわけだから、そんな欺瞞上の神の子に対して罪の悔い改めを
試みたところで、全く悔い改められることもなく、ただイエスを狂信しない
場合以上にも、罪を開き直って推進する精神薄弱が深刻化するのみである。

実際に自分の親だったご先祖さまに対して、「先祖の恥にならぬように努めます」
という思いを込めてこそ、罪の推進を押し止める気持ちも生ずるが、現実には実在しない
架空神を「父」だなどとみなしてしまえば、そんな気持ちが生ずるわけもなく、かえって
父などが実在しないにことかけてのやりたい放題が推し進められるだけとなるのだから。

「樂正子春の母死す。五日にして食わず。曰く、吾れ之れを悔ゆ。
吾が母よりして吾が情を得ずんば、吾れ惡くにか吾が情を用いん」
「楽正子春の母が亡くなった。楽生子は悲しみのあまり、礼法上三日と決められている
死後三日の断食を超えて、五日間も断食をしてしまった。本人曰く、『私はあのことを
悔いている。わが父母への親情によらなければ、他のあらゆる情けも真心のこもったものには
ならないというのに、私は三日と定められている断食を五日も行ってしまったのだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

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125 2011/06/16(木) 12:18:41 ID:mUtR5vUrZ.
手乗りサイズ程度の、彫刻や漆塗りなどを施した木板に
故人の名前や戒名などを記して仏壇の中央に据えたりする、
いわゆる「位牌」という風習は、元はといえば仏教ではなく儒教から来ている。

日本に入ってきたのは江戸時代、黄檗宗などの禅仏教を通じてであり、
儒学は輸入しても儒教信仰は受け入れない日本の伝統が保たれたままで、
「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす(八佾第三・一二)」
という純粋な礼儀道徳に合致する範囲での、位牌文化のみを受け入れている。

とはいえ、やはり礼法上の取り決めとしても位牌は重要なものであり、
地震や火事などが起こればとりあえず位牌を仏壇から持ち出すというぐらいに、
位牌を祭る家においては、位牌を大切にすることが必要とされている。

宗教信仰ではなく、純粋な礼儀作法としても位牌のような伝統文化には
十分な価値があるものであり、神道や浄土真宗のように位牌を祭らない宗派が
あるにしても、だからといって位牌を祭ることを否定するものでもない。

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126 2011/06/16(木) 12:20:57 ID:mUtR5vUrZ.
「六月、衛侯孔悝に酒を平陽に於いて飲ませ、重く之れに酬う。大夫皆な納るること有り。
醉はせて之れを送り、夜半にして之れを遣る。伯姫を平陽より載せて行く。西門に及び、貳車を使て
反って西圃より祏せしむ。子伯季子、初め孔氏の臣為り。新たに公に登る。之れを追わんと請う。
祏を載せる者に遇い、殺して其の車に乘る。許公為、反りて祏し、之れに遇いて曰く、
不仁の人と爭いて、勝たざる無しは明らかなり。必ず先ず射しむ。三たび射發つも、皆な許為に遠ざかる。
許為之れを射れば、殪れん。或るひと以て其の車に從う。祏を橐中に得たり。孔悝出でて宋に奔す」
「(この年の四月に孔子が亡くなり、同姓のよしみで厚遇されていた孔氏が衛で酷いお払い箱扱いを受ける話し。)
六月に、衛候は孔悝を平陽で饗応し、大酒を飲ませて引き出物まで送った。諸々の大夫も多くの引き出物を送り、
泥酔させた挙句に、夜中に国外へと追放した。孔悝は母の伯姫を車に乗せて共に平陽を去った。西門を出たところで、
連れの車を引き換えさせて、西圃に置いたままの位牌を取り戻しに行かせた。——子伯季子という、孔氏の臣下だったが
今は昇進していち大夫になったものが、亡命する孔氏を追って殺すことを願い出た。位牌を取りに引き返してきた者に
出会うとこれを殺し、位牌を載せたままのその車に乗って孔悝を追いかけた。孔悝の代わりに、位牌を取り戻しにいった
者を迎えようとしていた許公為は、車に載っているのが追い討ちをかけに来た子伯であることに気づき、憤慨していった。
『人でなしと争って、勝てないはずが無い』 そのため許為はまず子伯に弓を射させた。三度び射たが全て外れた。
今度は許為が子伯を射ると、たった一矢で子伯に命中し、子伯は倒れ伏せて死んだ。子伯に付いていた車のうちの
一台の車中から位牌が見つかり、孔悝はこの位牌を携えて衛国を出奔し、宋に亡命したのだった。(実話である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・哀公十六年より)

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127 2011/06/17(金) 03:39:49 ID:YAvj25Qgys
神頼み。神は絶対にいる。いなくてもとりあいず信じろ。そして片っ端からすべての宗教の
経典を調べ正しいやつを見抜け!僕はキリスト教(プロテスタント)がお勧め。聖書は世界中
の3分の2?(5分の4?)の人が使ってる。聖書の登場人物は白人でも韓国人でもなく有色人

のヘブライ人、イスラエル人。敵と同じ宗教であっても宗教戦争ではなく資源略奪戦争、
金略奪戦争、民族絶滅戦争なのだから友好的に振舞ってはならない。敵を知るにはキリス
ト教、ユダヤ人、聖書の知識を身につけるべし。日本のキリスト教団は白人と韓国人無し
で独自に発展させるべき。


著名人の聖書観
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/pisgah/myweb/bible.ht...
聖書は万物の書物。日本社会で毎年100万冊売り上げてる永遠のベストセラー。人間の取
扱説明書。この世の宝。神の叡智。全てを超越した書物。世界最高峰の小説。人類の宝。
聖書を読めば欧米価値観と欧米サタニストが理解できる。聖書を手に入れロックミュージ
ックを捨てるべき。欧米ミュージックは日本に必要なく聖書が重要。聖書を読むとハリウ
ッド映画が理解できる。欧米小説が発展してたのも聖書のおかげ。神道(古代ユダヤ教の名
残)とキリスト教を手にいれて仏教を捨てるべき。神道にとってキリスト教は必ず融合でき
るはず。聖書を読めばキリスト教が正しくキリスト教の皮をかぶったサタニストが邪悪であることが理解できる。
キリスト教を批判してサタニストを批判しない奴はただのアホ。

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128 2011/06/17(金) 10:33:50 ID:mQ0UOMJjwY
>>127
すでに何度も何度も論駁しぬいているような、陳腐な意見の塊ではあるが、
これから自分たちの全文化文明を捨てさせられる連中に対して、
あんまりぞんざいに応対するのも酷なんで、復讐もかねて逐一返答しておこう。

>神頼み。神は絶対にいる。いなくてもとりあいず信じろ。
神にも色々あるが、自分自身のご先祖さまの「鬼神」ってのは確かに
実在していて、その家の人々の思考規範や言動規範から深く深く司っている。
そういう神はいるとして、聖書信仰にあるような「形而上の超越神」は、逆にいない。
いても形而下のこの世界とは何の関係もないものだから、そんな不実な神を信じることで
現実に実在する先祖の鬼神への配慮などを疎かにするぐらいなら、そんな神は信じるべきではない。

>経典を調べ正しいやつを見抜け!僕はキリスト教(プロテスタント)がお勧め。
代表的なものはほぼ全て読みぬいたが、キリスト教やユダヤ教の聖典である新旧約聖書こそは、
あらゆる人類の聖典の中でも「最低最悪の書」、それ以上下がもはやあり得ない、
下劣の極みの書であることを確認した。それほどにも新旧約聖書が下劣の極みであるからこそ、
それ自体もそんなに大したことを書いているわけではない四書五経のほうが、「まだマシなもの」
として特に推薦することができ、四書五経よりも優良な聖典が、いくらでもあるのも確かなことだ。

>敵を知るにはキリスト教、ユダヤ人、聖書の知識を身につけるべし。
>日本のキリスト教団は白人と韓国人無し で独自に発展させるべき。
犯罪集団の精神原理としての新旧約聖書を、「捜査対象」として研究するのは確かにありだが、
自分たち自身がキリスト教徒になるのでは「ミイラ採りがミイラ」であり、邪義に取り込まれて
自分たちが廃人と化してしまうぐらいなら、犯罪聖書を一行だって読むべきではない。

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129 2011/06/17(金) 10:34:03 ID:mQ0UOMJjwY
>聖書は万物の書物。(中略)人類の宝。
犯罪集団や廃人の精神原理となっている、最低最悪の下劣の極みである文集を
そこまで褒め称える神経がすでにおかしく、完全に犯罪信仰の邪義に取り込まれている。
質でも量でも古さでも発行部数でも、あらゆる面において新旧約聖書を完全に上回っている四書五経に
対しても全くの無視を決め込み、事実誤認の脳内お花畑で遊びまわることなどが思想哲学板の主旨ではない。

>キリスト教を批判してサタニストを批判しない奴はただのアホ。
キリスト教も悪魔信仰も五十歩百歩。地獄・餓鬼・畜生の三悪趣のみを住処とし、
その中から決して出てくることのできない井の中の蛙と化してしまっている。
修羅・人・天の三善趣も知った上で三悪趣を選択するのならまだしも、三善趣の存在を
全く察知しないままに、自分たちが知っている唯一無二の世界としての三悪道を
定立しまくっているのだから、その知見にも数多の事実誤認が入り混じってしまって、
もはや手の施しようもなくなっている。だからもはや、自分たちの知見の全てを
捨て去るしかなく、一旦だけでも全ての文化文明を手放す必要すらもがあるのだ。

「其の節の志しを明らかにし、以て其の事を失わざれば、則ち功成りて鄹行立つ。鄹行立てば則ち暴亂の禍い無し」
「自らの節度に即した志しを明確にし、少しも喪失することがないのなら、功を成して立派な徳行となる。
徳行が立派であれば暴乱のわざわいも起こらない。(自らの節度もわきまえられずに志しを疎かにし、一旦試みた
ところですぐに喪失したりしてるもんだから、徳行も立たなくて暴乱の禍を為す。少しも貴ぶべきことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・射義第四十六より)

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130 2011/06/17(金) 11:30:39 ID:4/3SuELksI:DoCoMo
「何らの権威も持たない下劣な通俗書」としての、
新旧約犯罪聖書の存在性ぐらいは、これからも保たれる。

コンビニに置いてある犯罪マニュアルムックだとか、
青テープで封じられた18禁本だとか並みの扱いとしての、
新旧約犯罪聖書の市民権はこれからも保障されて、ただ「普遍的な権威」
としての扱いだけが剥奪されて、一家ぐるみや本気での帰依などが
近親相姦や獣姦並みの禁忌として扱われるようになるのみ。

それでこそ、日本のド田舎程度の人口に過ぎなかった古代ヘブライ人が、
自分たちの拙い知識を歪めに歪めて捏造した駄文集に対する扱いとしても
しごく適正なものとなり、自分たちの駄文ごときに大した意味を込めようなど
という気もなかった、古代ヘブライ人たちの意向にも完璧にかなうことだろう。

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131 2011/06/17(金) 11:50:13 ID:4/3SuELksI:DoCoMo
あと、日本神道の注連縄信仰の痕跡である、縄目文様を施した縄文式土器が
10000年前の遺構からも発見されており、伝説上ですら約7000年前にまでしか
その起源を遡ることができないユダヤ教よりも、日本神道の考古学的な起源のほうが確実に3000年は古い。

百歩譲って、ユダヤ教が日本神道の支流であることはあっても、
(バラモン教の支流である拝火教の支流である可能性のほうが遥かに高いが)
神道がユダヤ教の支流や名残りであるだなんてことは、時系列上、絶対にあり得ないことだ。

これで、>>127への回答は一通り済んだ。
これからも、カルト信仰による精神障害への処方箋が欲しいのなら、
どしどし書き込んでくるがいい。もちろん、自首や入院のほうが先決なら、そちらを優先してな。

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132 2011/06/18(土) 12:17:26 ID:arHeaS1Zuw
生きた人間として、我が家をも背負って社会的に大成することはほっぽらかして、死後に
生まれ変わることでやり直そうだなんてしている時点で、すでに「後ろ向き」の極みだ。

「それが実際にできる」ということを信じることも、すでに後ろ向きな信仰に過ぎない。
信じるにしたって、我が家の祖神こそを信じて、現世での成功を志すほうがよっぽど前向きなこと。

母子家庭で生まれ育った私生児でありながら、父親の身元を親戚に問いただすなどして自力で調べ上げ、
宋の名臣の血を引く孔氏としての家系を正式に継ぐことで、孔子もいち民間人としての立場から、
一時は衛の宰相にまで出世していた。同じ妾腹の私生児として産まれながらも、父方の身元を調べる
ことも怠って、自らを「神の子」だなどと触れ回った(少なくともそう呼ばれることを拒まなかった)
のはあくまでイエス自身の落ち度であって、そのイエスの刑死後の復活などを信じたりするのも、
イエス自身の落ち度の正当化を信じようとしているだけなのだから、これまた後ろ向き極まりないことだ。
だったら、俗臭芬々でもあるにしろ、正式な社会的成功をこそ志していた
孔子の生き方を信認するほうが、まだ前向きなことだ。

「子貢問うて曰く、何如なるか斯れを之れ士と謂ふ可き。子曰く、己れの行いに恥有り」
「子貢が問うた。『どのようであれば立派な士人(社会的高位者)であるといえるでしょうか』
先生は言われた。『自らの行いに恥じを知ることだ』(恥知らずに士人となる資格はない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二〇より)

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133 2011/06/20(月) 12:20:01 ID:J.f9y1QdgM
仮に、犯罪聖書の神を「古代ユダヤ人」が崇め立てるのなら、
どんなに稚拙な内容の聖典であるにしたって、自分たちの「祖神」を崇め立てる
ことになるわけだから、「我が家の祖神でもないのに祭るのはへつらいである(為政第二・二四)」
という道徳的な規範にも即して、決して間違ったものとはならない。

しかし、古代ユダヤ人などというものは、もはやとっくの昔に絶滅していて、当時の
ユダヤ人にまで系譜を遡ることができる自称ユダヤ人なども、今の地球社会には一人も存在しない。
確認し得る限りで、今のユダヤ人の最古級の系譜となるのも、約千年前にキリスト教圏と
イスラム圏の狭間でユダヤ教に集団改宗したハザール人までであり、当然これは古代ユダヤ人とは無縁。
しかも、今の欧米での「ユダヤ人」の定義と来たら、「母親がユダヤ教徒であること」と来ている。
母親が旧約信者ですらあれば誰でもなれるユダヤ人などが、旧約聖書の神を崇め立てたり
しているのだから、それこそ孔子の言った「へつらい」そのものの有り様だといえる。

ただ、新約犯罪聖書のローマ人への脅迫文1:16などにも、ギリシャ人などの異邦人が
犯罪聖書の神に帰依することを奨励する記述があるため、我が家の祖神でもないのに
これを祭るへつらいの増長は、新約を含む犯罪聖書全体にとっては確信犯なことでも
あるため、やはり犯罪聖書の権威をどんな形でも認めるわけにはいかないのも確かなことだ。

犯罪聖書の権威を認めないことで何もかもを正すか、
その権威を認めることで何もかもを過つかの、二つに一つしかない。

「地を倍にして仁政を行わざるは、是れ天下の兵を動かしむるなり」
「仁政に努めることもないままに、(侵略などで)領地を二倍に広げたなら、それだけでも
自ら巨万の兵を動かす戦乱を招いたも同然のことである(地の果てに及ぶどころではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一一より)

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134 2011/06/21(火) 12:06:28 ID:thJRsFX5oI
支配者が被支配者に対して「担う」だの「背負う」だのと恩着せがましいことを言うのは、
せいぜい支配者が被支配者の「安全」や「生活」を保障するぐらいのところまでしか考えていないからだ。

真正福音書(論語)の顔淵第十二・七で、子貢が孔子に「為政に臨んで、食糧と軍備と信義の三つのうち、
どれかを捨てなければならないとすればどうしますか」と問えば、孔子はまず「軍備を捨てよう」と答え、
「では残りの二つ(食糧と信義)のうちでどちらかを捨てるとすればどうしますか」とまた問われれば、
「食糧を捨てよう」と答えている。つまり孔子は、為政者であるのなら、軍備や食糧の十分な確保によって
民の安全や生活を保障すること以上にも、信義を守る道徳教育をこそ至上のものとすべきだと説いている。

軍備による安全保障だけを保障したところで、民は他国との戦乱を好き好むような暴民となりかねないし、
食糧などの確保で生活だけを保障したところで、他国民を大量餓死に追いやるような権力犯罪すらよしとしかねぬ。
ただ安全や生活を保障すること以上にも、社会構成員としての自分たちの正しいあり方をわきまえる道徳教育こそが、
戦乱や飢餓のような社会問題を根本から絶やしめる「健康維持」の要となるのであり、世の中を戦乱や飢餓に
追い込むような不道徳まみれにしておいてから、自国民の生活や安全だけを保障するのは「対症療法」止まりであり、
道徳教育を怠る自分たち支配者こそは飢餓や戦乱の元凶でもあるからして、「マッチポンプ」の対症療法でもある。

一切合財が本来無用な、有害無益な劣悪現象の一旦として、民の生活や安全ばかりの保障までもがある。

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135 2011/06/21(火) 12:07:03 ID:thJRsFX5oI
削除(by投稿者)

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136 2011/06/21(火) 13:07:45 ID:2xoqO0Q.tM:DoCoMo
孟子とて、「民の生活を最低限保障や助成しておいてから、仕上げとしての道徳教育を施すべきだ」とは言っているわけで、
時系列上の「衣食足りて礼節を知る(管子)」という優先順位までをも否定しているわけではない。

しかし、「道徳教育こそは仁政の要であり、民の生活や安全を保障することなどは、
そのための前準備に過ぎない」という風には言っているわけで、年金保障や雇用確保ばかりに論点が終始して、
学校での道徳教育など「ついでのついで」ぐらいにしか論題に挙げられることがない
今の日本政治の体たらくなどとは、完全に一線を画したものとなっている。

しかも、孟子が重視する道徳教育は、仁義忠孝を第一とする正統な人間道徳の教育であり、
親子兄弟の殺し合いをも画策するカルト教義や異端の学の教育などでは、決してない。

道徳のふりした犯罪寓意(moral)、その犯罪寓意を体系化したカルト教義や異端の学までもが
道徳教育の内にすら組み込まれかねないほどに、人間社会全体の知見までもがみそくそと化してしまっている昨今、
小中高といった一般教育下の学生だけでなく、あらゆる専門教育下の学生や、社会人にまで
最低限の人間道徳の再教育を施すことまでもが必要になりかねない。というか、必須だ。

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137 2011/06/21(火) 13:15:14 ID:2xoqO0Q.tM:DoCoMo
一部修正。

「庠序の教えを謹み、之れを申しめるに孝悌の養を以てせば、頒白の者道路に負戴わず。
七十の者帛を衣、肉を食らい、黎民も飢えず寒えず、然うして王たらざる者は未だ之れ有らざるなり」
「(民の本業である農産などの邪魔をせず、なおかつその事業を滞りなくやらせるように助けた上で)
学校などでの道徳教育をよく重んじて、特に親や目上の者への忠孝意識を根付かせるように努めたなら、
白髪を生やしたような老人が重荷を背負わされて道を行くような労役を担わされることもなくなるし、
七十過ぎの者でも絹服を着たり肉を食ったりできるほどに豊かになり、民が餓え凍えたりすることもなくなる。
このようにして天下の王者たりえなかった者は一人もない。(孟子はあくまで自分の意見として述べているだけだが、
孟子以前に湯王や武王などが同様の徳治を試みて成功し、孟子以後にも漢帝国や唐帝国、日本の平安朝や
江戸幕府などが同様の仁政を試みて、数百万〜数千万人規模の大社会なりの泰平統治を実現している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・三より)

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138 2011/06/22(水) 11:11:19 ID:/BwD9XQS96
「旧約の律法は無効だ」などといったところで、
その律法の代替になるような社会規範をイエスやその弟子が拵えたわけでもない。
ただ「律法の取り決めを守りきれなくても、罪を咎められたりはしなくていい」
といってるだけで、結局、キリスト教徒も基本は旧約の律法を自分たちの規範として、
守りきれない場合に「アーメン」となるだけの、ユダヤに毛が生えた程度の体たらくのままでいる。

イスラムの聖典コーランのように、「アダムは楽園追放を許されている」とか、
「イエスは始めから刑死もしていなければ、復活もしていない」とかいった、具体的な指摘によって
新旧約聖書の記述を具体的かつ的確に否定して、その代替となる社会規範をコーラン自体や
ハディースなどに依拠したならば、もはや新旧約が「潜在的な社会規範」になることすらなくなって、
カルト教義に取り込まれての精神障害や権力犯罪を深刻化させていくようなことまでもが未然に防げるようになる。

ただ律法などの劣悪な構造体系を否定するだけでなく、その完全な代替となる優良な体系構築が
また別にあって初めて、潜在的な規範としての、劣悪な構造体系の価値が完全に無効化される。

新旧約の完全な代替になるだけの体系構築といえば、中国なら四書五経、インドならヴェーダやウパニシャッド、
イスラムならコーランやハディースなどが挙げられる。このうちで、誰でもすぐに鞍替えできるほどに汎用的で、
さして高尚なことが書いてあるわけでもないからこそ、取っ付きやすいのが四書五経であり、正式な入信などを
待つまでもなく、今すぐにここで新旧約信仰を全廃する代替にもなるからこそ、ここで奨めているわけだ。

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139 2011/06/22(水) 11:11:59 ID:/BwD9XQS96
「法語の言は、能く從うこと無からんや。之れに改むるを貴しと為す。巽與の言は、能く説ぶこと無からんや。
之れに繹ねるを貴しと為す。説びて繹ねず、從いて改むずんば、吾れ末だ之れを如何ともせざるのみ」
「規範を示した言葉には従おうと思うが、それによって自分をちゃんと改められてこそ貴いことだといえる。
無条件に恵みを与えるような甘い言葉には喜ばずにいられないが、なぜそれが可能であるのかを自分から
尋ねてこそ貴いことだといえる。ただ喜んでばかりで尋ねようともせず、そこそこに規範に従っても
それで自分の過ちを正したりまではしないのならば、こりゃあどあしようもないことだといえる。
(規範となる法語は規範とするためにあるのであり、都合のいいところにだけ従って、他は反故にしたりするために
あるのではない。だったらそのような法語と、『守ろうが守るまいが自由』などという甘言の両方を捨て去ったがマシ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二四より)

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140 2011/06/23(木) 11:11:02 ID:fJncAwCOwk
是非善悪は人間自身が定めたもの、だからこそ、
神が後付けで正義や悪の定義を摩り替えることもできない。

人間自身が1+1=2と定めて、その定義上の算術に則って金融計算などもこなそうとしているのに、
そこに神が「1+1=3が正義だ」などという定義を後付けで加えて、その正義に則って神の信者が
金融計算をも行って、粉飾決算などを犯したなら、その神が「虚偽邪悪の神」だということになる。

人間自身が定めた是非善悪に、神が後付けの定義を加えたりしたなら、神ですらもが邪神の烙印を
捺されることになりかねない。だから天道に住まう諸々の正統な神さまも、是非善悪については
人間が定めた基準にそのまま従い、たいていの場合は善悪に対する無為自然を決め込んで、
どうしても善悪のために作為する場合には、人間の定義に即した勧善懲悪を施すのみ。
人の決めた善悪すら捻じ曲げて、人道以下の鬼畜道に陥ることだけは避けるところ。

「既に心と思いとを竭くし、之れを繼ぐに人に忍びざるの政を以てして仁天下を覆う」
「よく真心と思慮を尽くして、人の苦しみを静観するのも耐え忍びがたい惻隠の心によって
政治を施せば、仁徳が天下全土を覆い尽くすようになる。(忍耐してはならない具体例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)

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141 2011/06/24(金) 13:16:09 ID:kBWR1SXWNI
自分の罪を、自分以外の誰かになすり付けようとすることが、
一貫して「冤罪」という不義にあたり、それは冤罪被害にあった相手が
刑死して生き返るようなことがあろうとも、変わりはしない。

自分の罪責を自分が負わないことが、人間が定義するところの「罪悪」にあたり、
罪悪に当たるから「苦果」を生む。たとえ自分の罪をなすりつけて刑死させられた
相手が復活しようとも、自分自身が罪を償わなかった罪悪が自業自得で良心の呵責
という心痛を生じ、人口爆発によって地球人類を滅亡させるほどに、無軌道な
愛欲を貪り続けることで、己れの苦しみを紛らわそうとしないではいられなくなる。

自分の罪を自分以外の誰かになすり付けようとする冤罪現象が、
人間にとっての自明なる不義であり、極重の罪悪であるが故に悪因苦果を生じ、
引いては人類を滅亡にすら陥れる。それは、冤罪による刑死者の蘇生などが
後付けで付け加えられたところで決して埋め合わせられはしない、
神の定義以前に遍在する、人間自身の定義に基づく不義であるから。

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142 2011/06/24(金) 13:17:24 ID:kBWR1SXWNI
仮に、自分が強盗などの犯罪被害に遭ったとしよう。
その強盗を行った相手が、ヒゲ面半裸のおっさんを連れて目の前に現れて、
「こいつが俺の代わりに罪を背負ってくれるから許してくれヘヘヘ」と言ってきたとしよう。

許せるもんかよ。

たとえその、代わりに罪を負ったヒゲ面半裸のおっさんが、民間人に対する刑罰
としては最重度にあたる磔刑で殺されようが、殺されてまた生き返ろうが(爆)、
罪を犯した張本人が罪を償わないのなら、決して許せるわけがない。

この程度のことは、自分が犯罪被害者の身になって考えてみればすぐに分かることなのに、
「アダムのあばら骨を一本とってイヴが作られた」と旧約に書いてあるもんだから、
「男のあばら骨は女よりも一本少ない」などという迷信を、ろくに調べることもなく
頑なに信じ続けていたキリスト教徒などには、その程度の注意力すらもが欠けているわけだ。

「性を成し存すべきを存するは、道義の門なり」
「人に天分として具わっている本性を成就させ、保存に努めるべき判断を
保存していくことが、道義に適うための唯一無二の門戸であるといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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143 2011/06/25(土) 11:51:23 ID:niLrykuXgc
「一つことに打ち込みすぎた人間は長生きできない」とは、
清少納言の「枕草子」の言葉だったろうか。

これは、良くも悪しくも事実であることだ。
何も、権力犯罪のような悪行に限らず、諸々の荒行に打ち込む密教僧や、
座禅一つに一生をかける禅宗の僧侶などにも、無理がたたって早死にするものが多い。

しかし、専業を持つことは人にとっての常であり、行為能力的にはほとんど何もしていない俺だって、
ここ数年は四書五経などの優良な学問の勉強に打ち込んでいる。ただ、そこには「学者としての大成」
という目的が具わっていて、有能な学者となって世のため人のために貢献するという先行きが見定まっている。

バラモンの求道者なども、立派な祭司となるためにヴェーダやウパニシャッドを勉強するのだし、
念仏者も凡俗における往生という目的があって念仏を唱える。ただ勉強のための勉強、念仏のための念仏
ばかりに没頭して他が見えなくなったりするのでは、かえって何もしない以上もの害にすらなりかねない。

柳生宗矩とか宮本武蔵とかいった名武術家なども、剣の道で大成すると共に、参禅や芸術、芸能や政治などへの
造詣も極めて深く、多芸多能の人としての側面をも持ち合わせている。もちろん本業が疎かになっているのではなく、
本業に打ち込んだことの功徳を、他分野にすら振り向けられているということ。そのような余裕をもって
打ち込める本業こそは、真に道理や真理へも通ずる道たり得るのであり、他道を徹底的に排斥してまで
そればかりに没頭したりするのなら、おそらく落とし穴への落ち込みであるに違いないといえる。

「詩を誦すること三百、之れに授くるに政を以てして達せず、
四方に使いして專對する能わざれば、多しと雖も、亦た奚を以て為さん」
「たとえ詩を三百篇暗誦できるほどに勉強に努めたとしても、内政を担当して詩の精神を応用した
仁政を達成することができず、外交を担当しても詩の知識を応用して渡り合うことができないのでは、
どんなに多くの詩を学んでいたところで、それは取るに足りないことだ。(専らであることに成果を要求する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・五より)

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144 2011/06/26(日) 13:30:52 ID:o8o/fLIEL2
「子貢曰く、我れ人の諸れを我れに加うるを欲せざるや、吾れも亦た諸れを
人に加うること無からんと欲す。子曰く、賜や、爾じの及ぶ所に非ざるなり」
「(孔子の弟子の)子貢が言われた。『私は己の欲せざるところを人に施さないように
したいと思います』 孔先生は言われた。『賜よ、それはおまえにできることではない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一二)

孔子の弟子の中でも修辞弁舌に優れ、見た目で人を判断するような人間には「孔子よりも優れている」
というほどもの賛辞を受けたことのある(子張第十九・二五参照)子貢が、真正福音書(論語)中でも
特に有名な「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」の実践を志す旨を孔子に述べたところ、
「おまえには無理なことだ」と返された。もしかしたら、儒家道徳において賤業とされる投機で大金を
稼いでいた子貢の行状をも見越して、「おまえには所詮無理なことだ」と孔子も苦言を呈したのかもしれない。

ただ、この一文だけを根拠にするなら、孔子が子貢の「〜を欲する」という欲求不満を晒しつつ
同態加害忌避を志したところが矛盾じみているのを見抜いて、即座に「無理だ」と私的した可能性もある。

「孔子は老子に道家の奥義を教わった」という伝説があるが、道家の実践は無為自然であり、
欲求を消極化する点に集約されている。仕官を志して青い鳥状態の人生を送った孔子の有り様は、
決して道家の「絶対消極」の実践などにはなっていない。しかし、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」
という儒家の徳目を究極化したところには、道家や仏教における欲求の捨離が確かにあるわけで、
欲求を捨て去ることと、欲求たらたらであることの中庸を行くために、孔子が道家の欲求捨離の
理念を学び、そのわきまえによって、子貢の欲求不満をも見抜いた可能性は確かにある。

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145 2011/06/28(火) 11:49:43 ID:P73AuaNC3Y
「顏淵、喟然と歎じて曰く、之れを仰げば彌よ高く、之れを鑽れば彌よ堅し。
之れを瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。夫子循循然として善く人を誘う。
我れを博むるに文を以てし、我れを約するに禮を以てす。罷めんと欲すれども能わず、
既でに吾が才を竭くせば、立つに所有りて卓爾たるが如し。之れに從わんと欲すと雖も、由る末きのみ」
「顔淵は嘆息しながら孔先生のことを評した。『仰ぎ見れば仰ぎ見るほどにさらに高く、
深く切り込もうとすれば切り込もうとするほどさらに堅いことが分かる。前にいるのを見たかと思えば、
次の瞬間には後ろにいるかというように捉えがたい。それでいて先生はよく手順を踏んで我われを教導してくれる。
我われを博識にするためには文章を教えてくださり、知識を要約して実践するためには礼儀を教えてくださる。
そのため、もう勉強をやめようかと思っても勿体なくてやめられず、私もすでにありとあらゆる才能を凝らして
先生に付いて行こうとした。それでやっと先生の泰然としたあり方が漠然ながらに把握できるようにも
なったが、ただそのあり方に従えばいいだけにも関わらず、全く付いていくことができない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一一)

東洋学のうちでは、初歩中の初歩に当たる人間道徳を体系化した孔子からして、やはり超人的なところがあり、
常人でありながら必死で孔子に付き従おうとした孔門の雄である顔淵も、夭折のうれき目に遭っている

修己治人は、治められる側が治める側に付き従いきれないほどにも、治める側の自助努力が究極的であるところに
達成されるものであり、治める側が治められる側に絶対服従を要求していられるほど、治める側が怠惰まみれと
化しているところでは決して達成され得ず、治める側の怠惰が治められる側にまで落とし込まれることともなる。

当然それは、修己治人が達成される場合と比べてより悪い結果しかもたらさず、治人に最善を尽くしていない
ことともなるから、権力道徳か権力犯罪かでいえば、権力犯罪に該当する所業とも原理的になるわけだ。

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146 2011/06/29(水) 11:57:30 ID:Da5cHU7wNA
脚本家の橋田壽賀子が昔、講演中に子供連れの母親から「良い母親になるためにはどうすれば」
と質問されたとき、その母親はまだ幼い子供をほっぽらかして講演に聞き入り、
子供は泣き喚いたり走り回ったりのわがまま放題で周囲に大迷惑をかけていたために、
「こんな講演には来ないで自分のお子さんをしっかり育て上げることです」と返答したそうな。

「金払って自分の講演を聴きに来た相手に言うようなことか」とも思うが、
言辞やその指し示すところの概念に囚われて、実践が疎かになるぐらいなら、
むしろ言葉や概念のほうを棄てて実践に努めたほうがよい。それは儒学とて同じことであり、
文の勉強ばかりに耽って、実践を疎かにするようなことがあってはならぬと、
孔子も以下のように述べている。仮に実践以上にも言葉や概念への耽溺を促すような
教義があるとすれば、それだけでも人間道徳に反する異端の邪学であるということがいえる。

「弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、
汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば、則ち以て文を学べ」
「若者たちよ、家に入るときは親への孝行を尽くし、外出したときにも悌順であり、
慎んで信実であるように。広く偏ることなく大衆を愛することで仁徳に親しみ、
それだけの実践を尽くしてなお余力が残っているようなら、そこで初めて文章を学ぶことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・六より)

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147 2011/06/29(水) 21:44:23 ID:Da5cHU7wNA
学識ってのは、本を読めば読むだけ身に付く。
今の薄っぺらい教科書+ノートへの書き込みが主流な学校での勉強は、
ただの「記号試験」に受かるための能力が身に付くだけで、
学識は全く身に付かない上に、生きる上で何の役にも立たない
記号操作の勉強ばかりをやらされるせいで、勉学が嫌いになる原因にばかりなる。

学識は、本を読みさえすれば身に付くが、当然学識を身に付けるばかりが人生でもなく、
学んだ知識に相応の実践が追いつかなければならない。もっと言えば、勉学すら抜きにした
実践が、自然と学識の理に適うぐらいであるほうがいいわけで、ただ本能に赴くままでいて
完全に理に適うなんてこともなかなかないことだから、学識による実践の修正をも
踏まえるというのが、文武両道もとい、文と実践の両立の理想的な姿だといえる。

もちろん、「強盗殺人を成功させるための学識」なんてものも中にはあるわけで、
そういう劣悪な学識を決して実践せず、できることなら始めから取り入れもせず、
世のため人のためとなる優良な学識だけをよく取り入れて、実践するようにしなければならない。

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148 2011/06/30(木) 11:53:24 ID:Zl8O9lAB2E
肉体上は重犯罪を犯し続けている人間に対して、重度精神障害への
罹患を促し、罪を犯し続ける状態のままでいて、罪悪感だけを取り除く。

本人たち自身は罪に定められなくなったつもりでいても、現実問題として
極重の罪悪が積み重ねられ続け、それにより人類が破滅や滅亡へとも陥れられる。

「信者の罪を清める宗教」という看板を掲げているキリスト教の正体は、
「罪悪極重の犯罪者から罪悪感だけを取り除くサイコパス増進宗教」であり、
「それにより人類を破滅や滅亡へとも陥れる重権力犯罪宗教」であった。

精神障害者が、自分たちの脳内だけで通用させている「キリスト教は信者
から罪を取り除く宗教である」という思い込みを、最低でも非キリスト教徒
ぐらいは「全くの誤謬である」のだとわきまえて、そのような致命的な
誤認識を、世の中に通用させていかないように努めていかなければならない。

「今之の時に當たりて、萬乘の國仁政を行わば、民の之れを酇ぶこと、猶お倒懸を解かるるがごとし。
故に事は古の人の半ばにして、功は必ず之の倍となる、惟だ此の時を然りと為さんのみ」
「今のような(重権力犯罪が横行することで民が皆な極度の疲弊に追い込まれている)時代
だからこそ、領地が万乗に及ぶような大国が(権力犯罪を駆逐する)仁政を行えば、民はそれを、
まるで逆さ吊りの苦しみから解放されたかのように喜ぶであろう。そのため仁政を施す側としても、
古人の半分程度の労力だけで、昔の倍以上もの成果が期待できる。今こそはまさにその時なのだ。
(罪悪感だけを取り除かれて現実には罪を犯させられ続けることは、逆さ吊りほどもの苦しみである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)

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149 2011/07/01(金) 12:45:47 ID:1r.iBYcd0w
「身体が光る」という表現は、比喩表現にしろ神秘にしろ、
古今東西で不偏的に好んで用いられるもの。

ただ、陰陽解釈の行き届いている東洋においては、自力の修行や修養が達成された者こそが
自身の身体から光を発するようになり、未だ未熟な凡夫の場合は光り輝くどころか、
かえって闇に取り込まれて無明をさまようこととされる。

だから、自力作善の菩薩業を達成して仏となった阿弥陀如来が、
無量の光によって闇をさまよう凡夫を照らし出すなどともされるのであり、
修養も怠ったままの凡夫が光を発するなどという解釈は行われない。

自意識過剰にまみれたただの女が、無明にまみれた陰湿な性格の持ち主となる一方で、
良妻賢母となることでアマテラスの如く家を照らし出す光ともなるように、
自力修養というよりは受動が本分である女にも、女であるなりの身の程のわきまえによって
光り輝く身体を手に入れることのできる途が開かれている。

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150 2011/07/01(金) 12:46:21 ID:1r.iBYcd0w
自力修養によって光り輝く身となったり、貞順な女であることで家の光となったりすることは
確かにあることだが、ただの凡夫のままであったり、よそ様の子を身ごもる淫蕩な娼婦だったりすることで
身体が光り輝くなどということは陰陽の法則に根ざしておらず、従って実際にはあり得ないことだ。
それは真っ暗闇を光明だと勘違いするような、錯覚によって思い込んでしまったりしているだけのことだ。

「季氏の祭は、暗に逮びて祭る。日足らず、之れを繼ぐに燭を以てす。強力の容、肅敬の心有りと雖も、皆な倦怠す」
「魯の家老の季孫子は、夜暗くなってから祭りを執り行っていた。当然明かりが足りないので、蝋燭を用いて祭事場を照らしていた。
するといくらいかめしい容貌をしようが、粛々とした敬いの気持ちを持とうが、誰しもが倦怠心を抱かざるを得なくなった。
(『暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう』ではなく、まず暗い状況から好き好むべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)

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151 2011/07/02(土) 12:12:59 ID:TmyCVgFwio
侮辱や名誉毀損ってのは、法的に無罪である場合もあれば、戦術上有効である場合もある。

相手を執拗に侮辱することで憤慨させ、冷静さを見失わせて妄動に走らせることで自滅に追い込むという戦法が
太古の昔から中国や日本などで行われていて、そのような戦法の有効さが武経七書中の「六韜」や「尉繚子」
などにも載っている。しかし、その「六韜」や「尉繚子」からして、相手を侮辱して妄動に走らせるような
戦法はあくまで有事に限っての非常手段であり、平時にはこのような非道な戦法は破棄して、侮辱や悪口
全般を立ち消えにさせていく仁政に励まなければならないとも述べている。また、その志があればこそ、
侮辱級の非道戦法を有事に限って特用することにも正当性が具わるのであり、平時にも悪口雑言を
垂れ流し続ける程度の軟弱な心持ちで入れば、侮辱戦法も本当に非道極まりないものと化してしまう。
だから、最大級の非道戦法に正当性を具わらせるためにも、日ごろの道徳の修練から欠かせないといえる。

「君子は衆寡と無く、小大と無く、敢えて慢ること無し」
「君子は支持者の多少や権勢の大小などに関わらず、自らを驕ったり他者を侮ったりはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十より)

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152 2011/07/03(日) 13:02:09 ID:OjBQNbAsOc
>>144の孔子と子貢のやり取りや、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」という
教条からも分かるとおり、儒学にも多少は欲望に対する抑制的な姿勢が具わっている。

しかし、決して「禁欲主義」ではなく、「道義に適った富はいただきます(里仁第四・五)」ともいう。
周の武王への仕官も諦めて餓死した伯夷・叔斉兄弟の禁欲的な姿勢と、周囲が悪臣ばかりでも
「人は人、我は我>>110」と歯牙にもかけず仕官を続けた柳下恵の欲求まみれな姿勢と、
いずれもが中庸に適ってはおらず、そこそこに道義が通用する場合に限って
仕官を志した孔子の姿勢こそは中庸に適っていて、欲求が棄てられまではしない
範囲で適度に抑制された理想的な姿だったと、孟子も評している。

柳下恵並みかそれ以上にも、欲求ばかりを肯定しまくる犯罪聖書の志向と完全な対蹠関係に
あるのは、伯夷・叔斉並みかそれ以上もの欲求の捨て去りを旨とする道家や小乗仏教であり、
欲求を全否定もしなければ全肯定もしない、儒家や大乗仏教の中正志向とは対蹠関係にすらない。

そこは、確かに「欲望は貪り尽くすものか捨て去るもの」という単細胞にまみれている
現代人などには理解しがたいところであり、むしろ欲求を完全に捨て去って、道家や上座部の
徒となるほうが想像も付きやすいものであるのかもしれない。しかし、犯罪聖書が信者に
強要している欲望肥大化志向が、人類をいま破滅の危機に陥れている一方で、欲求を完全に
捨て去って結婚や子作りすらやめてしまう隠退志向もまた、別の意味で世を衰退させかねないもの。

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153 2011/07/03(日) 13:02:22 ID:OjBQNbAsOc
「仕事は執拗に欲しようとすべきものでも、殊更に拒絶しようと
すべきものでもない(言志四録)」という佐藤一斎の言葉のとおり、
欲求が過剰でも貧困でもない適度な状態においてこそ、よい仕事もなされるものだ。

「王曰く、寡人疾有り、寡人貨を好めり。對えて曰く、(中略)
王如し貨を好むも、百姓と之れを與すれば、王たるに於いて何の不可か有らん」
「斉の宣王が孟子に問うた。『わしには一つ病が有ってな、財産を集めるのが大好きなのだ。
これを一体どうしたらよかろう』 孟子は答えて言った。『王様が仮に財産収集を好むとしても、
その財産を万民と共に用いるのであれば、どうして王であることの支障になりましょうや』
(富貴への欲求を『病』と見なしている宣王のわきまえも、過剰な欲望を病とすら見なさない
犯罪聖書の著者などよりは達観したものだといえるが、その欲求が仁義にすら根ざしていれば、
王たるにおいて何らの支障を来たすこともないという孟子の見解は、さらにその上を行っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・五より)

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154 2011/07/04(月) 13:04:12 ID:o9bQTmD1BM
削除(by投稿者)

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155 2011/07/04(月) 13:05:57 ID:o9bQTmD1BM
「君子は食飽かんことを求むること無く、居安からんことを求むること無し。
事に敏にして言に慎しみ、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ(既出の引用)」
「君子は自らの衣食住が専らに充実していることなどを求めたりはせず、
物事を行うには敏速であり、ものを言うことにも慎みを持ち、ただ勉学を好むばかりである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一四より)

欲求を全肯定するわけでもなければ全否定するわけでもなく、適度に抑制する儒家としては、
欲求すべきものと欲求すべきでないものの分別を付けることが第一義に置かれる。

そこで、儒家において欲求すべきとされるもの、欲求されるべきでないとされるものを示した
上記の引用を鑑みるに、これは犯罪聖書の教条とあべこべになっている。犯罪聖書が信者に
対して自らの衣食住の専らな充実を欲求するように促し、自力作善が敏速であったり、
言葉に慎みがあったり勉学を好んだりすることは決して欲求するものではないとしている
のに対し、儒家の聖書である四書五経においては、その真逆であるように促されている。

これこそは、欲求を適度に制御した結実であり、制御された欲求と、制御を振り切って
無制限の貪りと化した欲求とは、その位相が逆転する。制御された適度な欲求が、人間に
より優良な思考規範や言動規範を具わらせる一方で、無制限の貪りと化した欲求は、
かえって人間に対してより劣悪な思考規範や言動規範を具わらせることとなってしまう。

あらゆる欲求を捨て去る過程において、勉学すら辞め去っての「絶学無憂(老子)」を促す
道家の教条などは、儒家においても受け入れられるものではないが、さりとてあらゆる欲求の
捨て去りを促す道家や小乗仏教の教理なども、無制限の欲求の貪りによって最低最悪の
思考規範や言動規範を信者に植え付ける、犯罪聖書ほどにも悪いものであるわけではない。

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156 2011/07/04(月) 13:08:50 ID:jQVdVfX892:DoCoMo
「賤しき丈夫有り、必ず龍斷を求めて之れに登り、以て左右を望みて市利を罔せり。
人皆な以て賤しと為す、故に從いて之れを征せり。商に征するは、此の賤しき丈夫より始まれり」
「昔、それはそれは品性の下劣な男がいて、市場があれば、必ずその市場を見渡せる小高い丘を
探し求めて、そこから市場を見下ろして、こちらで安く売ってるものをあちらでは高く売り、
あちらで安く売ってるものをこちらでは高く売ったりする、投機によって利息を儲けていいた。
そのため誰しもがこの男を卑しみ、役人もこの男の振る舞いを見かねて、この男に高い税金をかける
ようにした。商売人に税金をかける制度も、まさにこの恥知らずで欲深い男の所業により始まったのだ。
(品性下劣な欲求の過剰が自業自他得で迷惑を及ぼすことに至った例。孟子は市場課税緩和論者でもあり、
このような下劣な欲求の行き過ぎすらなければ、市場への課税も店舗税などの限られたものだけで済むという)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一〇より)

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157 2011/07/05(火) 11:48:33 ID:VQ8McAuLVs
虐げからの解放を望んでいたりしながらも、結局は新たな服従対象を
探し求めようとするだけの「心の奴隷」、そのような性向全般が
小人か、さもなくば女子に特有の性分であり、そういう性分にしか
止まっていられない人種がいるのも確かではあるにしろ、そのような
性向をこそ好き好んで標榜するようなことからして、あるべきではない。

「君子は○○、小人は××」という比較を存命中に展開していた孔子も、
自らは専ら士大夫などの君子階級としての成功を志し、民間での隠遁に
甘んずることを奨励する道家的な隠者の誘いなども蹴っている。

孟子ともなれば、もはや小人の卑俗な行状すら論おうとはせず、
君子階級の中で特に優秀であったものと、そこまではいかないもの、
君子として失格であったものなどの比較に止めるばかりで、実社会上の
小人=被支配者に関する言及をほとんど辞め去ってしまっている。

四書五経は社会的被支配者に関する積極的な論及に乏しく、
専ら君主や君子といった支配階級のあり方ばかりをあげつらっている、
にもかかわらずではなくだからこそ、従うを以てよしとなす小人女子の
性向ばかりをやたらに論うことで、万民に奴隷根性を植え付けて
しまう犯罪聖書の上位互換的な代替としても、最適なのである。

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158 2011/07/05(火) 11:50:16 ID:VQ8McAuLVs
商売に従事する民間人ですら、>>156のような身勝手な投機を戒める「孟子」
中の記述をよしとして、放辟邪侈に走ることを自重したなら、今ではまだ
非現実的に思える孟子の急進的な税制緩和策なども、実現の目処が立ってくる。
とはいえ>>156の記述も、為政者の側から民間を鑑みた形式の記述であり、
徴税人を「賤しい職業」だなどと見なす、民間人の側に立ったイエスの
ものの考え方などとは一線を画している。だからこそ、十分に民間人の放逸を
戒めて、かえってそれにより減税などの民間優遇をも可能ならしめてもいる。

民の自意識を、民の側に立ったものの考え方でさらに肥大化させて、イヤでも
民の放蕩をトップダウンに抑え付けなければならなくなるような事態が生ずる
ことから、為政者の立場に立ったものの考え方でこそ、なくすことができる。

「而の拇を解く。(中略)君子維れを解く有りて吉なり。小人に孚あり。君子解く有りとは、小人退けばなり。
公を用いて隼を高墉の上に射る。之れを獲て利ろしからざる無し。公を用いて隼を射るとは、以て悖れるを解くなり」
「手指にはめられたかせを、君子が誠実な小人から解いてやれば吉である。君子が拘束を解いてやるのは、
小人のほうに身の程をわきまえて、一歩引いた所でおとなしくしている徳が芽生えた場合のことである。
小人の分際で未だ退くこともわきまえないような輩がいるのなら、高い塀の上に止まっている隼を
弓矢で射殺すようにして、それらを誅戮してしまったとしても特に問題はない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・九四‐上六および象伝より)

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159 2011/07/05(火) 22:50:49 ID:VQ8McAuLVs
為政者が急進的で、民間人が隠退的であるところに、世の平穏の秘訣があり、
民間人が主導的で、為政者が隷従的であるところに、世の破滅の元凶がある。

なればこそ、為政者の理想的なあり方ばかりを記した四書五経こそは、
民間人の放辟邪侈ばかりを標榜した犯罪聖書の完全互換として相応しい。

為政哲学、にもかかわらずではなくだからこそ、標榜するのに相応しく、
小人肯定、にもかかわらずではなくだからこそ、標榜するのに相応しくない。

四書五経の記述姿勢(為政の標榜)と犯罪聖書の記述姿勢(民間の標榜)、
そこからすでに、実相の吉凶禍福を選り分ける根本的な精神原理に根ざしており、
四書五経の記述姿勢が、吉相を呼び込んで福徳を増す効果を帯びている一方で、
犯罪聖書の記述姿勢は、凶相に基づく災いばかりを呼び込むようにできている。

為政者の主観ばかりしか載っていないからこそ、四書五経はその存在性から大吉であり、
民間人の主観ばかりしか載っていないからこそ、犯罪聖書はその存在性から大凶である。

為政者の積極性と、民間人の消極性を殊更に定立しているからこそ、
存在性の根本から吉祥なのが四書五経であるという、現実から逃げるんじゃない。

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160 2011/07/06(水) 12:43:58 ID:byzG2HQgNk
「何もかもが重権力犯罪で塗り固められた、罪悪深重の濁世において、
何をするよりも何もしないでいたほうがマシである」という、俺が何度も
何度もここで展開して来た自論は、儒家よりはむしろ道家の教理に根ざしている。

国に道が有れば仕え、道が無ければ仕えないのが儒家の教理なわけで、
道が無いから仕えないことに専らであることは、儒家の教理に反している
わけではなくとも、儒学のいち側面を実践しているだけに過ぎない。

中国の春秋戦国時代並みか、それ以上もの社会腐敗が横行している現代において、
たとえ孔子や孟子並みの聖人君子が現れたところで、それが時宜に適って
いないのなら大した成果も挙げられないだろうことが、孔子や孟子の、
"いち政治家として"の、大成功とまではいかない業績からも明らかである。
(もちろん孔子や孟子も"学者として"は空前の大成功を修めている)

もはや自分たちの理想主義的な仁義論が、腐敗まみれの諸侯などに受け入れられは
しないことを半ば察しつつも、遊説で自分たちの説が広まり、孔子も孟子も荀子も
亡くなってから、秦楚漢戦争を通じてやっと春秋戦国時代にも終止符が打たれ、
漢帝国の主導によって初めて儒学の仁義道徳が国教的な扱いを受けるまでになった。

儒学国教化後の漢代の中国においては、もはや孔子や孟子ほどもの大儒は現れず、
もっぱら春秋戦国時代には机上の空論扱いをされていた儒学の資料(五経等)の整理や、
その体系的な実践に務められ、以て前漢と後漢併せて400年もの泰平統治を実現したのだった。

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161 2011/07/06(水) 12:45:50 ID:byzG2HQgNk
机上の空論扱いではあったものの、後世にも末永く享受される仁義道徳が生成された春秋戦国時代の乱世、
もはや仁義道徳の新造は控えられたものの、実際に仁義が実践されて長期の泰平が実現された漢代や唐代。

乱世には乱世なりの、治世には治世なりの相応の振る舞いがあって、その振る舞いに
よって相応の功績が挙げられている。一方で、乱世にこそ権力掌握を志して腐敗にまみれ、後世に
汚名を残した輩もいれば、治世になっても性懲りもなく隠退を続けて怠け者扱いされるようなのも
いただろう。欲求が正義に根ざすことで、悪を退けて善を進取する場合と、欲求が正義から逸脱して、
善を退けて悪を進取する場合と、行動の位相が逆転するのであり、専らに何もかもしようとする、
何もかもしようとしないなどというところに、儒学の本分はないのである。

「吾れ之れを聞くなり、官守有る者は、其の職を得ずんば則ち去り、言責有る者は、其の言を得ずんば
則ち去ると。我れに官守無し、我れに言責無きなり、則ち吾が進退、豈に綽綽然として餘裕有らざらんや」
「私はこう聞いている。『正式な官職にある者は、職務を果たせなければ即座に引責辞任し、発言に責任の
ある者は、自らの進言が聞き入れられなければその場を去る』と。今の私は正式な官職に就いている
わけでもなければ、発言に責任があるわけでもない。だからこそ私の出処進退はのびのびとして、
余裕に満ちたものでもいられるのだ。(孟子はどうやら、乱世には到底聞き入れられないような
理想主義的な仁義論を、無責任に遊説して回ることを心の底から楽しんでいたようである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・五より)

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162 2011/07/07(木) 13:09:34 ID:OHLgzUfWak
「悪意悪食を恥ずる者は、未だともに義するに足らず(理仁第四・九)」と
いいながら、「君子は其の衣冠を正しくす(堯曰第二十・四)」ともいう、
一見矛盾しているようにも思える孔子の言葉。其の心は以下のとおり。

「敝れたる縕袍を衣、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざる者は、其れ由なるか」
「敗れた綿入りの衣を着ながら、皮衣を着た貴人と共にいても恥じないのは、子路だろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二七より)

粗野な蛮勇に突出した弟子の子路が、礼法に適わない服装で、礼法に適った
服装をしている人々と共にあっても恥にしないだろうことを皮肉っている。
「衣冠を正す」の「冠」も官人の正装であり、礼法に適った装束で宮仕えに臨むことを戒めている。

一方で「悪意悪食も恥じぬ」というのは、「国に道が無ければ仕えぬ」という、道家とも共通する
教理に即して、在野でいる時には「深山の野人(孟子が在野中の舜の様相を表した言葉)」も
同然の卑賤な装束すら厭わないという意味。出処進退にメリハリをつけるのが儒家だから、
仕官中と在野中の風体にも大きな違いが生ずるわけで、決して二枚舌なわけではない。

国に道が有るときもあれば無いときもあるから、装束の貴賤にも一定の融通を利かせる。
結局、最原初の儒者である孔子からして、儒家が貴ぶ仁義道徳が、恒久普遍に通用するほどにも
金剛不壊なものであるなどとは考えておらず、ただ「なるべくそれを目指したほうがいいもの」
として仁義道徳を奨励しているわけで、道徳を絶対的なものと思い込むのも儒家の本分ではない。

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163 2011/07/08(金) 10:54:48 ID:K9thDsGWSY
自分たちだけの平和、自分たちだけの恵み、
自分たちだけの救いや自分たちだけの栄誉ばかりを追い求めて、
かえって外部の人々を戦乱や飢餓や破滅や不名誉ばかりに
追いやる、我田引水型の部落信仰。

これもまた閉鎖的であり、決して褒められたものではないものの、
他人に恵まない代わりに人からも恵まれようとしない、
日蓮宗の不施不受施派などのほうが、他人の恵みまで
奪い取ろうとはしないぶんだけ、まだマシなほうだといえる。

平和や恵みや救いや栄誉の追求が、天下全土に渡るか
いち部落に止まるかでその存在性は全く逆転し、
片や仁義道徳に根ざし、片や我田引水に根ざすこととなる。

天下全土を利することを共産主義や独裁主義に結び付けて、
「全体主義」として批判する輩もいるが、元より共産主義や
独裁主義は仁義道徳の着実な実践にはなっておらず、
一つ一つの家族を単位として、順当に社会秩序を構築していく
封建主義に根ざした仁義道徳の実践などと比べれば、
遥かに危ういものであり、これまた褒められたものではない。

何もかもを我田引水型の部落信仰や、資本主義や共産主義や
独裁主義ばかりに結びつけて考えることからして「最低最悪の
思考規範」であり、そのような思考規範全般からの脱却が
果たされてから初めて、最悪の破滅から脱け出せることもある。

「徒善は以て政を為すに足らず、徒法は以て行いを自ること能わず」
「稚拙な偽善はそれに基づいて天下を治める政を為すにも値せず、
拙劣な悪法はそれに基づいて己れの言行を規律するにも値しない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)

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164 2011/07/09(土) 13:56:26 ID:lD/mga78KQ
「君子終わりあり(易経・謙九三)」とあり、「小人始めありて終わりなし(晋書)」ともある。
これは、誰しもがいつかは死んで灰燼に帰する、諸行無常の真理を大前提とした言葉だといえる。

実際のところ、誰しもにいつかは終わりがある。その終わりがあるなりに、燦然たる有終の美を
飾れることを「終わりあり」といい、陰惨な終焉しか迎えられないことを「終わりなし」という。

陰惨で醜悪な終焉であるが故に、「終わりなし」であることを「永遠の命」だなどと美化する小人。
小人であることまではさすがに否定できないので、絶対的な神に仕える身であるからと開き直る。

しかし、その絶対神からして実在せず、ただの自意識過剰の思い上がりを神に見立てているだけ。

今さら先祖に顔向けもできないほどに、陰惨な思い違いを尽くしているからといって、
限りある命が永遠となるわけでもなく、やはりいつかは老いて死ぬ身であるに止まる。

「終わりを慎み遠きを追えば、民の徳も厚きに帰す」
「親の死をよく慎んで弔い、自らの先祖にまで遠く配慮を行き届かせれば、
君子階級ではない民間人の徳性までもが篤く養われていくこととなる。
(人の命には必ず終わりがあることをわきまえることで、連綿と続く先祖の系譜にも配慮が働く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・九より)

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165 2011/07/10(日) 15:49:51 ID:gaBY0DJ75w
「君子は易に居て以て命を俟ち、小人は険を行ないて以て幸を徼む(既出)」
「君子は平易中正な道に従いながら天命を待ち、小人はわざわざ危険を冒してまで僥倖を追い求める」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)

権力者は万民の命運を握っているわけだから、奇妙な離れ業などに頼ることなく、
信頼度120%の磐石な古訓のみを拠り所として世を司っていくべきだ。

一方で、在野の民間人には確かに、それなりに奇術にも手を出すような無責任からなる余裕がある。
しかし、その奇術への手出しにも成功する場合と失敗する場合があり、王位を捨てての苦行に挑んだ
釈迦が菩提樹の下で啓いた悟りなどは成功(成道)の部類であり、成功であるがゆえに、君子が
万全を期す目的で、最初から安んじ続ける中正(中庸)とも似通った結論(中道)に至った。

一方で、奇術に挑むことでの大失敗を積み重ねたイエスはといえば、今までの引用比較のとおり、
四書五経に書かれてあるような純正道徳からはことこどく相反するような邪義ばかりを触れ回り、
元から純正道徳などが根付いていなかった当時のイスラエルにおいてですら鼻つまみ者としての扱い
を受け、在野の民間人に対する処刑手段である磔刑によって殺され、二度と生き返ることもなかった。

最初から正道を歩み続ける君子と、苦行という奇道を通じて成道に至った聖者とが
「中正(中庸、中道)」という同様な理念を結果的に是とした一方で、奇術に失敗して
死刑にすらなった変人だけが、中正を欠いたおかしな極論ばかりを是としている。
単なる多数決でも、中正が正しくて極論が誤っているということになるし、事実、
道理上からも真理上からも、奇術の失敗者が得た神秘などは実在しなかった。

何もかもを無かったことにするのも極論であり、失敗者の無様さだけを、あえて標榜する
ようなことを避けて、功績としてはなかったことにしてやるのが、道義ってもんだ。

返信する

166 2011/07/10(日) 16:19:13 ID:DFuvuWkaFg:DoCoMo
「言を析き律を破り、名を乱して作を改め、左道を執りて以て政を乱すものは、殺す。
淫声、異服、奇技、奇器を作りて、以て衆を疑わしむるものは、殺す。偽を行いて堅く、
偽を言いて弁じ、非を学びて博く、非に順いて沢に、以て衆を疑わしむるものは、殺す。
鬼神、時日、卜筮に仮りて、以て衆を疑わしむるものは、殺す。此の四誅の者は、以て聴かず」
「虚言を弄して法律を犯し、名辞を乱して制度を改悪し、邪道によって政治を乱すものは、死刑に処する。
淫靡な音楽や奇抜な衣服、奇妙な技芸や奇妙な器械を用いて大衆を惑わすものは、死刑に処する。
偽りを行って頑なに改めようとせず、偽証を放言してそれを根拠に弁じ、おかしな邪義を学んで
その方面ばかりについて博識となり、実践上も邪義に遵って、あたかもそれを正しい行いであるかのように
見せ掛けることで大衆を惑わすものは、死刑に処する。神の加護や時日の吉凶、占いなどに仮託して
大衆を惑わすものは、死刑に処する。この四つの死罪に相当するものには、言い訳も聞かない。
(法律ではなく道徳律に基づけば、イエスの言行は紛れもなく死罪に相当するものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

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167 2011/07/11(月) 13:33:38 ID:m8w8OeFhEw
「古えの愚や直、今の愚や詐のみ(既出)」
「昔は愚かさとは愚直さのことだったが、今は嘘偽りに巧みであるだけのことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一六より)

国に道が行われていない時代に仕官することを嫌って愚か者でいようとした郃武子など、
愚かさを善用しようとする側面は儒家にもあり、弘法大師が儒家の住心とした
「"愚"童持斎心」という名称も、あえて否定しようとまで思うものではない。

しかし、儒家の愚かさは、決して聖書信仰の愚かさと同一のものであるわけでもない。
世のため人のため、天下万民の福利厚生の実現のために、権力犯罪撃退の目的で
愚者であることすら厭わないのが儒者である一方、そもそも自分たち自身が
権力犯罪者の一員と化して強奪利権の甘い汁を吸い、強奪によって破滅に追い込まれた
天下を「聖書を信仰しないせいだ」などと開き直って、自分たちの罪状から
目を背ける蒙昧さこそは、聖書信仰に特有の愚かさでこそある。

儒学の成立も聖書信仰の成立も、今からすれば太古に当たるが(もちろん儒家のほうがより古い)、
儒学の愚こそは愚直であることである一方で、聖書信仰の愚こそはウソ偽りの愚であるといえる。

「斉人女楽を帰る、季桓子之れを受く。三日朝せず、孔子行る」
「孔子が魯の重臣として活躍し、魯の国力が伸び始めたために、これ追い落とす目的で、
斉の人間が魯に美女の楽団を贈呈した。魯の最高権力者だった季桓子はこれを受け入れ、
舞楽にうつつを抜かして三日間も朝廷に登らなかった。そのため孔子は魯を去った。
(美女の舞楽のよさも分からんではないが、位ある身でそれにうつつを抜かすのは受け入れられない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・四)

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168 2011/07/12(火) 12:50:23 ID:XtiYgkKZiQ
「三日にして食らひ、三月にして沐し、期にして練し、毀するも性を滅せざるは、死を以て生を傷らざるなり」
「(昔の礼法で)親の死後三日目に初めて粥などの軽食をし、三ヶ月目に沐浴し、期日の年になれば喪服を脱いで通常の衣服を着け、
不幸を悼み哀しみながらも、性情を著しく損ない尽くすことを避けるのは、死によって生までをも損なわないためだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・喪服四制第四十九より)

親の死を"悔い"てから、その"悔い"をまた"改めて"るね。それで性情の破滅を避けている。

そういう意味で「悔い改める」という言葉を用いているのなら、キリスト教徒は自分たちの罪を一旦は悔いておいて、
別に行いから改めるのではなく、悔いていること自体を改めて、また普通の生活に戻るということになる。

親の死への悔いを改めて、後追いまではすることなく家を継いでいくことは孝行になるわけだが、
罪を犯したことの悔いを改めて、行いは改めないというのでは、単なる現行逃亡犯のサイコパス患者の量産にしかならないな。

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169 2011/07/13(水) 13:17:15 ID:DdB5i0r3lw
「腹」は、東洋の身体論においては、頭(脳)や胸(心臓)並みか
それ以上にも貴ばれる、全身のうちでも最重要の部位とされる。

太極拳や合気道やヨガなどにおいて、へその下三寸に位置する腹部の「丹田」が
安定していることが、全身の安定を左右する最重要項目となり、いくら頭部や胸部だけを
安定させようとしてたところで、腹部の丹田が安定していないことには極めて不安定となる。

これは、身体構造上からの力学的な理にも適っている解釈であり、腹部の丹田に相当する部位こそは
人体の「重心」に該当しているために、この重心の安定こそが、全身の安定をも司ることとなる。

婦人も丹田に相当する部位で胎児を身ごもるから、我が子をまるでわが身の中心のように捉えることで
母性本能が養われることとなる(もしも背部や臀部などで子を身ごもるのなら、そんなこともない)。

そんな重要な意味を持つ、丹田の存在位置でもある腹部を「亡きもの」にしようなどとすれば、
本当に亡きものにしたときに人体の全てが滅ぶのはもちろんのこと、亡きものにしようと試みる
過程においても、「人間の重心」を損なおうとする過ちからなる、数多くの破滅が頻発することとなる。

「君の臣を視ること手足の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。
君の臣を視ること犬馬の如くなれば、則ち臣の君を視ること國人の如し。
君の臣を視ること土芥の如くなれば、則ち臣の君を視ること寇讎の如し」
「主君が臣下を我が手足のように大切に扱えば、臣下も主君を我が腹や心臓のように重要なものとして捉えるようになる。
主君が臣下を犬馬のように賤しいものとして扱えば、臣下も主君をそこいらの他人のようにどうでもいいものとして捉える
ようになる。主君が臣下を塵か芥のように価値の無いものとして扱えば、臣下も主君を仇や敵も同然として捉えるようになる。
(我が腹心のように大切に扱うべき主がいないのは、配下を犬馬か塵芥のように扱う主しかいないからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三より)

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170 2011/07/14(木) 13:57:46 ID:Uk0gpsAT2k
間違った知識を、正しい知識の持ち主もありのままに得ることができる。
そこにそれなりの意味も見出すことができるが、間違った知識の意味などよりも
正しい知識の意味のほうが遥かに味わい深く、普遍的に美味なものであるために、
意味はあってもクソまずいだけな間違った知識の積極的な享受などは退けられる。

普遍的な尺度から言えば、クソまずい上に毒入りであるような、
間違った知識を専らに貪ろうとするような輩ってのは、絶対に正しい知識を
得たこともなければ、その美味さを味わったこともなく、正しい知識こそを
享受することでの健康の増進のすがすがしさなどにも与ったことはないのだ。

正しい知識の支持者は、間違った知識もそれなりに得た上で、間違った知識を
退ける一方で、間違った知識の支持者は、正しい知識を一度たりとも享受する
こともないままに、間違った知識ばかりを貪っているから、正しい知識を退ける。
正しい知識を支持する者もいれば、間違った知識を支持する者もいるが、ことに、
それぞれがその知識を支持する理由には、絶対的な非可換性が備わっている。

「(正しい知識を)知らないから支持しない」というのは、間違った知識の
支持者に特有の事情なのであって、正しい知識の支持者が、間違った知識を
知らないから支持しないなどということは微塵もない。むしろ間違った知識をも
知り尽くしたところにこそ、間違った知識に対する絶対的な拒絶が確立されもする。

「蓋し知らずして之れを作る者有らん。我れは是れ無きなり。多くを聞きて
其の善き者を擇びて之れに從う。多くを見て之れを識るは、知るの次なり」
「何も知らないくせに我流の創作ばかりを志すものがいるが、私はそんなことはしない。
なるべく多くのことを聞いておいて、その中でも特によさげなものに遵おうとする。
なるべく多くの知識を得ておくのは、そのための下準備に過ぎないのだ。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二七より)

聖書信仰も単なる知識としては得ておいたが、
あくまでそれを捨てて儒学に専念するための下準備であるに過ぎない。
そう結論付けざるを得ないほどにも、聖書信仰のほうが劣悪至極なものだったから。

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171 2011/07/15(金) 13:16:25 ID:LtlumVTpmU
思考規範や言動規範の根本性が消極性に根ざしているか、
積極性に根ざしているかという点で、儒家と聖書信仰とでは全く相反している。

>>144の「論語」引用部分では、子貢が「己れに欲せざるところを人に施すことなかれ」を
積極的に実践していきたい旨を宣言して、孔子が「おまえには無理だ」と苦言を呈していて、
欲せざることを欲する以前に、まず何物をも欲しない消極性による初期条件の一律化を暗に推奨している。

一方で、子罕第九・二八では、弟子の子路が「損なわず求めもしなければ、どうして善くないことがあろうか」
と終身のたまい続けていたことに対して、「それでなぜ善いことがあろうか」と孔子が反問してもいる。
絶対消極を旨とする、道家や小乗仏教などに見られる姿勢は、悪いようなことがない変わりに善いこともない。
社会での積極的な善行をも旨とする儒家においては、決して止悪一辺倒に止まっていることもよしとされない。

では、儒家の理想的な思考規範や言動規範はといえば、根本的には必ず消極性に
根ざしていて、悪行への十分な制動が効いた後に、善行に対してのみ段階的に積極性を備わらせる。
まず悪行への消極性があって、その次に善行への積極性を抱く。この順序を取り違えてしまったならば、
どんなに善行への積極性が旺盛だろうとも、多動の蒙昧さからなる甚大な悪行の付帯が避けられなくなる。

どちらかといえば善行のほうが行いにくく、悪行のほうが行いやすいものでもあるために、
どんなに善行を為そうとしても、必ずそれ以上の悪行が付きまとう「マッチポンプ」のザマとなる。

「君子の消息盈虚を尚ぶは、天の行なればなり」
「君子が常に消息盈虚の緩急を貴ぶのは、それが天の運行にも根ざした普遍的な道理だからである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・剥より)

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172 2011/07/16(土) 12:57:25 ID:ivN9yWBD0k
万人を利して我が利ともする、「仁」という理念。

この仁を、儒家は主要な命題とする一方で、必ずしも「絶対のもの」ともしていない。
孔子も「仁を好みて学を学ばざれば、その弊や愚(陽貨第十七・八)」といい、
孟子も「親を親しみて民を仁し、民を仁して物を愛す(尽心章句上・四五)」という。
仁に「人間社会上の最高理念」としての価値を認める一方で、それが「人間社会」を司ること
に限って最重要ともなる理念だから、個人としての勉学だとか、家族同士での親愛だとかを
別個のものとして捉えて、それすら蔑ろにするようなら、仁もまた有効に果たされないとする。

人間社会を司る理念としての「仁」を主要命題に掲げる儒学自体を、人間社会の遥か外側にまで通じた、
宇宙万有を司る教学などとして見なすこともまた行き過ぎなことであり、仁などを必要ともしない
ほどに小規模な片田舎の村落にすら、儒学による支配が隅々まで行き届いたりすることもない。
三千大千世界のようなマクロの極限も、個々の家内や片田舎の村落のようなミクロの極限も、
儒学や仁によってどうこうしようなどというものでもなく、それはむしろ神仏の領域に属する。
神仏とはまた別個の領域としての、ある程度の数が稼がれた人間社会においてこそ、仁義も王道となる。

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173 2011/07/16(土) 12:57:37 ID:ivN9yWBD0k
「子貢曰く、如し能く博く民に施して能く衆を済わば、何如。仁と謂う可きか。
子曰く、何ぞ仁を事とせん、必ずや聖か。堯舜も其れ猶お諸れを病めり。夫れ仁者は己れを立たせんと
欲して人を立て、己れを達せんと欲して達人を達す。能く近く取りて譬ふ、仁の方と謂う可きのみ」
「子貢が問うた。『もしも万民に広く施して大衆を救えたならどうでしょう。仁と呼べましょうか』
先生は言われた。『どうして仁どころのことだろう。それがすでに達成できているというのなら、
もはや聖と呼んでもいいぐらいだ。かの堯や舜ですらもが、それを達成することに大変な苦心をした。
(いわんや、それに遠く及ばない我らともなれば、聖を達するための正当な手段としての仁を論ずるに
止まるわけだが、)仁者としては、自分が成功することを欲すれば人を成功させることを第一とし、
自分が大成したいと思えばまず人を大成させることを第一とする。そのため遠方の他人のことですら、
自分やごく近縁のことに譬えられもする。ここに聖を達するための仁のあり方が集約されてもいる』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・三〇)

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174 2011/07/19(火) 13:05:25 ID:2dCk4hqIOM
愛にも色々ある。

十分な畏敬と共に父母兄弟を愛する親愛もあれば、
家畜を養うも同然なほどに敬意を欠いた濁愛もある。
万人を最低限以上の福徳へと導こうとする仁愛もあれば、
世を破滅に導いてでも自分たちだけが肥え太ろうとする偏愛もある。

総合的には、愛は勇気や臆病などとも同じ「諸刃の剣」であるといえ、
それによって最善をも最悪をも尽くせるものだから、まず最善を尽くす
前準備があって、それから初めて愛を標榜することまでもが認められる。

勧善懲悪を尽くす前準備もないままに、愛そのものばかりを掲げるのでは、
それによって何らの有益な結実が見込まれる保証もなされない。だから、
愛にどんなに有益な要素が含まれているにしたって、愛そのものを
何ものにも先駆けて至上命題とすることは、吉祥なことだとはいえない。

性向上、愛こそを至上命題とせざるを得ない女性が伝統的に、必ずしも愛を
至上命題としてはならない、一人前の男に随順すべきものとされてきたのも、
愛を最優先することの危うさを先人たちがわきまえていたからだといえる。
(西洋などでは、ただ男が女よりも体力的に強いからそうしてただけのようだが)

「仁者は愛せざること無きなるも、賢を親しむを之れ急と為すを務む(既出)。
(中略)堯舜の仁にして遍く人を愛せざるも、賢に親しむを急とすればなり」
「仁者は誰しもを愛せないわけではないが、それ以上にも賢者に親しむことを急務とする。
堯舜ですら、仁者でありながらも、誰しもを遍く愛することばかりを先決とはしなかった。
それも賢者に親しむことをより優先して、仁を有効に実行することを急務としたからだった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・四六より)

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175 2011/07/20(水) 12:13:05 ID:Dk2qhH53vI
キリスト教徒の「身」は、全く清くない。
四人がかりで一人の相手を餓死に追い込む強盗リンチ殺人に、
欧米資本主義国のキリスト教徒たち全員が手を染めている。
総員テロリスト、行動即犯罪という形容が冗談にすらなっていない。

異教徒や他民族などと比べても、突出して濁悪なキリスト教徒の身の程、
それも決して内面の濁悪と可分なものではなく、やはり内面にも豚か何かのように
利権ばかりを貪って止まない救いがたい濁悪さを抱えている。その濁悪さを自覚して
良心の呵責にさいなまれることから逃れるために、件の「十字架の魔術」によって
知能指数をチンパンジー以下(IQ20〜35)にまで低下させ、罪の意識を喪失させる。
それを犯罪聖書の著者は「心が清められた」といい、「神を見ている姿」だという。

絵に描いたような転等夢想であり、濁悪さからの逃避の先にあるチンパン以下への
知能の低下を「心の清さ」とも呼ぶあたり、おそらくそう指摘していた本人たち自身も
転等夢想のからくりを察知してはいなかっただろうと思われる。こんなにお粗末な
からくりを把握していてなお、大真面目でいられるようなことからしてあり得ないから。

「維れ清く緝熙なる、文王の典。肇に禋りて、迄れ用て成わる有り、維れ周の禎いなる」
「文王の定めし典礼の、なんと清く輝けること。天神を祭る用意も、全てここに備わる。
周の国のなんと幸いなことか。(社会現象全般の清さ正しさを典礼によって実現している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・周頌・清廟之什・維清)

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176 2011/07/21(木) 12:46:02 ID:zZAR5ArXRs
易の陰陽説に基づけば、「天」は「陽」、「地」は「陰」に当たる。
他にも「日」が「陽」、「月」が「陰」、「君」が「陽」、「臣」が「陰」など
色々あるが、これら全て「陽」であるほうを優先し、「陰」であるほうを劣後する
「陽唱陰和」を吉祥の相とし、この陽唱陰和が破れることを凶悪の相ともしている。

たとえば「易経」こと周易においても、乾(陽)→坤(陰)→屯(陽)→蒙(陰)→・・・
といった風に、互いに相反する卦同士を陽卦が先、陰卦が後になる順序で解説していっている。
これによって「易経」という書物自体が、その存在性から吉相を帯びるように編纂されてもいる。

しかるに、新旧約犯罪聖書のほうはといえば、記述順序でも歴史的な順序でも
地(陽)を象ったとされるアダムを先として、天(陽)を象ったとされるイエスを後とし、
アダムの登場する旧約犯罪聖書を先とし、イエスが主人公である新約犯罪聖書を後としている。
そうであることがすでに、「新旧約聖書」という書物自体の凶相の極まりなさを
決定付けており、その存在性が根本から罪過ばかりを呼び込む作りにもなっている。

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177 2011/07/21(木) 12:47:35 ID:zZAR5ArXRs
書物としての体裁が吉相を保っているか凶相に陥っているかで、確かにその記述内容の
細部まで変わってくる。その記述姿勢から陽唱陰和を保っている四書五経の登場人物である
堯舜禹湯文武周公、春秋時代の諸侯や孔孟やその弟子などは全て厳重な実在性に根ざしており、
その伝承通りの遺跡群なども出土する上、日付なども完全に史実に即したものとなっている。
「詩経」などで描写される季節や風土に根ざした自然描写、日食などの事件の記録も全て
現実の自然や史実などにピッタリと合致している。一方で、新旧約犯罪聖書の記述たるや、
旧約については全くの御伽噺であり、史実にも根ざしていなければ実相にも根ざしていない。
新約には多少史実に根ざしたような記録もあるが、他でもないイエスの復活劇が全くの架空。

その記述姿勢から陽唱陰和を心がけているからこそ、四書五経は深く現実の実相に根ざすことが
できている一方で、記述姿勢から陽唱陰和が破れまくっているからこそ、犯罪聖書は現実の
実相から乖離した空想上においてでしか記述を展開していくことができない。現実の実相が
必ずしも陰惨なのではなく、陽唱陰和に即していないから陰惨であり、実相が陰惨であるが故に
現実からかけ離れた空想に逃げ込むことしかできない。現実のせいではなく、自分が悪い。

「天地は順を以て動く、故に日月過たずして四時忒わず。聖人順を以て動けば、則ち刑罰清くして民服す」
「天地万物の現象は正しい順序に即して動作している。そのため日月も間違いなく運行し、
四季もその順序を間違えたりすることなく巡っている。それと同じように聖人が天地の順序に則って
言動を正せば、刑罰のような凶事ですらもが清く正しく行われ、民も心から納得して帰服するようになる。
(天地の順序を違えたならば、空想上ですら冤罪による磔刑のような不当処罰にしか行き着けない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豫・彖伝より)

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178 2011/07/22(金) 13:31:19 ID:SmfrxmKoD2
「キリストと結びつく」ということは、十字架に張り付けられた長髪半裸ひげのおっさんを
見て自分自身の罪が償われたような気になる、「鏡映認知障害への罹患」を意味している。

鏡映認知障害への罹患を欲しているのは、カルト信者自身であり、実際に鏡映認知障害に
罹患するのは、「自分が罰を受けたくない」という恐怖感が極まっているから。つまり、
「信者をキリストに結び付けている神」というのは、他でもない「信者たち自身の恐怖」のことだ。

キリスト教徒たちが「神」と呼んでいるものは、自分たちが刑罰に処されることから
必死で逃れようとする恐怖感でしかない。その正体が完全に明らかなものであるからこそ、
キリスト教の神は決して本物の神ではないことが分かる。神だ仏だといったものが本当に
実在しているかどうかはともかくとして、少なくともキリスト教の神は本物の神ではない。

どこにも不可思議な要素などがなく、「信者たち自身の恐怖」というこの一言で完全に
説明が付くものだから、わざわざそこに本物の神性を付与する意味がどこにもない。

「今商王受、五常を狎侮し、荒怠して敬せず。自ら天に絶ち、怨みを民に結ぶ」
「いま殷の紂王は、五常(仁義礼智信ではなく、君臣父子夫婦兄弟朋友の天下の達道に相当する)の教えを
侮って、何者を敬うことをも怠っている。自ら天神との関係を絶ち、民たちを深刻な怨恨に結び付けている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)

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179 2011/07/22(金) 15:17:25 ID:I6O8uCuZIg:DoCoMo
「恐怖」も、神格として象徴化できなくはないだろうが。

たとえ象徴化できたところで、子羊を痛め付ける屠畜屋あたりと何も変わらない。

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180 2011/07/23(土) 11:18:16 ID:MrUoulpWr2
鏡映認知障害によって、IQ20〜35程度のチンパンジー以下の低能に陥ってしまっているとき、
その間中は文字を理解することもできない。チンパンジーにだって簡単な記号を理解する
程度の能力は備わっているようだが、「十字架」はそれ以外のあらゆる記号に対する理解を
不能と化せしめるドグマの記号であり、記号の集成である文章の理解をも不能とならしめる。

一方で、十字架こそは最大級の「死の記号」でもある。同じぐらいに高い強度を持つ
死の記号としては白骨などがあるが、いずれにしろ「死」を象徴する記号の最たるもの。
記号にもいろいろあり、剣や玉、竜や虎のような生命力を象徴する記号も多々ある。
にもかかわらず、十字架のような死の記号を特定して尊崇するところに、
死文ばかりを殊更に偏重する性向までもが吹き溜まることとなる。

むろん、生命力の記号としての文を用いる場合にも、文辞ばかりの偏重によって、孝養などの
実践を疎かにすることはよくないこととされ、十分な実践の後についでに文をも学ぶぐらいが
丁度よいとされる(学而第一・六)。ただ、それはもちろん、チンパン以下への知能の低下
によってまともな文章理解力もなくなるようなのとは、全く異なる。文学以下の賤業に
陥るためではなく、文学以上の偉業を成すために、初めて文学も劣後されてよいのだ。

「大なるかな、堯の君たるや。巍巍として唯だ天を大と為し、唯だ堯は之れに則る。
蕩蕩として民能く名すること無し。巍巍として其れ功を成す有り。煥として其れ文章有り」
「偉大なものだ、堯帝の主君としての有り様は。ただ堂々として天こそを偉大なものと見なし、
ただその偉大さに則ろうとばかりされた。その大らかさは民が褒め称える言葉も見つからなかったほど。
堂々として大きな業績を打ち立てられ、その業績を磐石なものとするための聖文もまた輝かしかった。
(天の業に則った真に偉大な業績であるのなら、それを記した尚書もまた輝かしいものとなるだろうに)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一九より)

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181 2011/07/24(日) 13:04:16 ID:47GCzOrX1E
キリスト教や民主主義のような邪義が流布されることで、かえって覆い隠されてしまっているものがある。
それは、賢人の真の聡明さであったり、少数の賢聖に多数の愚人が素直に聞き従うことの有用さだったりする。
それによる害はあきらかに、キリスト教が禁教化されたり、民主主義が廃止されたりする場合以上のものとなっている。

重度精神障害者にまで一人前の行為能力が付与されたり、自意識過剰の思い上がりの塊と化している小人に
主権が与えられたりすることは、確かに当の精神障害者や小人らにとっては都合のいいことに違いない。
しかし、それにより逆に精神的健常者や賢人の立場が奪われて、自分たちの能力を十分どころか微塵たりとも
発揮できなくなってしまい、それにより精神障害者や小人たちがいま呼び込んでいる人類滅亡の危機も、
それを回避して救済へと導く能力があるにもかかわらず、その能力自体を活用することができなくなってしまっている。

あっちを立てればこっちが立たず、こっちを立てればあっちが立たない。二律背反の完全な相反性が
儒学とキリスト教、封建主義と民主主義、精神健常者と精神障害者、賢人と小人の間などには伴っており、
劣悪なほうを採って優良なほうを覆い隠す以上は、優良な側の能力が実在していたところで発揮されることはない。

「罪有るは敢えて赦さず、帝の臣を蔽わず、簡ぶこと帝の心に在り」
「罪のあるものの放蕩を敢えて赦さず、それにより、上帝の忠臣となるに相応しい賢人が覆い隠されることを防ぎ、
上帝の御心のままに臣下を選び出すことができるようにいたします(殷の湯王の上帝に対する誓いの言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)

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182 2011/07/26(火) 12:15:13 ID:WErE7VEbjY
冤罪にしろ、それによる不当な放免にしろ、立派な権力犯罪に当たる。
それはたとえ、冤罪で刑死した人間が後に生き返ったところで
全く変わりないことが、>>142の思考実験によっても明らか。

キリスト教徒には、罪の放免によって大迷惑を被る、犯罪被害者への配慮が全く欠けている。

だから、冤罪やそれによる放免などをやらかした権力犯罪者との和解までをも促す。
向こうには、このまま和解などすればあまりにも多くの怨みを呼び込んでしまう事情があり、
罪を敢えて許さず、冤罪や不当放免に対する十全な処分によって、怨みを呼び込む原因を解消していく
ところから期されねばならないのであり、冤罪刑死者の復活などという、何ら罪障緩和の手立てにも
なっていない偽証などをエサに和解を呼びかけたりしてはならない。仮にその復活が偽証ではなく
真実であったところで、犯罪被害者の怨みが解消される何らの理由にもなっていないのだから。

「禮の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為すも、小大之れに由れば、
行われざる所有り。和を知りて和すれども、禮を以て之れを節せざれば、亦た行う可からざるなり」
「礼儀礼節を実践する上でも、そこに和やかさが保たれていることが貴ばれるべきである。古えの聖王たちも
それを美徳としたが、小事から大事に至るまで、何もかもを和み一色で塗り固めようとするなれ合い志向では、
何もうまくいかなくなってしまう。たとえ和やかであることに努めるのであっても、礼儀作法などによって
そこに節度を保たせるのでなければ、むしろそうしないでいたほうがよいということにすらなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一二より)

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183 2011/07/27(水) 13:41:03 ID:lxO38WhjCI
「悲しみ」とは、亡びに対する感傷のことだ。それが悲しみというものの定義だ。

親の死を悲しんだりするのも、それが一つの大きな亡びであるから。
古代の儒家の礼法に即せば、親の死を悲しむに際しては一切我慢などをしようとはせず、
大泣きに泣いて絶食などにも及べばいいとする(ただし自分自身が死なない程度に)。
それが「悲しみ」という名辞にかなったことだから、そうする。

一方で、「子供は老人よりも長生きだ」などの詭弁に基づく逍遥遊すらありとする道家の荘子などは、
老子の葬式で弟子たちが踊っていたのを評し、自らも妻の死に際して歌を唄って楽しんだという。
道家の場合は全くの「無憂」であり、超俗者ならではの特権として悲哀全般を捨て去ってしまう。
(これは死への悲しみなどをより体系的に克服していく仏教などとも類似している)

どちらでなければならないなどということはないが、少なくともどちらかであったほうがいい。
悲しみを亡び以外の何かに転用するような蒙昧を、世俗に持ち込んだりするようなことだけはすべきでない。

「少連、大連善く喪に居す。三日怠らず、三月解らず、期に悲哀し、三年憂ふ。東夷の子なり」
「少連や大連は東方の蛮夷の人ではあるが、善く誠実に喪に服している。三日間の哀痛を怠らず、
三ヶ月間の喪殯も卒なくこなし、ことあるごとによく悲しんで、三年間憂いを解くことがなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・雑記下第二十一より)

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184 2011/07/28(木) 12:14:00 ID:/AosaiA8cs
イエスが禍音書で信者に促している、不当利得での友愛や親子兄弟での殺し合いなどは、
本人としてもあくまで「愚かな振る舞い」であることを承知しているという。

「何も知らない児童のように愚かであってこそ、天の国に導かれる」
これと似たような教説は道家などにもあって、百発百中の弓の名手であったり、
多くの人々からの人望も厚かったりする列御寇が、伯昏無人のような先輩格の賢人に
「まだまだだな」と叱咤されて、誰にも会わずにただひたすら家の中に
ひきこもることで大成するなどの逸話が「列子」にも記載されている。これなども、
見た目にはかえって愚かな振る舞いによって、見るからに大業であるような
行い以上もの成果を挙げるという例になっているが、道家が説く「聖なる愚行」は、
引きこもりや飲んだくれなどの、どれも消極的なものばかりで、犯罪行為などに対して
積極的であるなどということではない。たしかに、そのほうが本当に「子供のように愚か」
なのであり、たいそうな知能犯罪を為したりするのは、あくまで大人の知見でこそできること。

道家のように消極的ではなく、カルト信者のように犯罪行為に対してまで積極的で
あったりはしない、儒家の中庸に根ざした振る舞いがまあ「賢者の行い」であるとして、
その賢者の行い以上もの成果を挙げられる場合がある「聖なる愚行」は、あくまで
道家の消極志向であって、カルト信仰に特有の、犯罪をも辞さない積極志向などではない。

賢者以上の愚者というのも確かにあり得るが、賢者以下の愚者も当然あって、
賢者以下の愚者については、だからといって何かの成果に結実するということもない。
強いて言えば、二度と一人前の大人として振る舞うことができなくなるのが成果だとはいえる。

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185 2011/07/28(木) 12:14:13 ID:/AosaiA8cs
「子曰く、賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。
人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」
「先生は言われた。『なんと顔回は賢いことだろう。茶碗一杯の飯に、湯のみ一杯の飲み物、
せまい路地での暮らしを続けているが、普通はそんなひもじい生活には耐えられないというのに、
顔回はそれを楽しむことをやめようとすらしない。なんと顔回は賢いことだろう』
(イエスのほざく『賢いこの世の子』などは、しょせんは悪事に直接を手を染めもせずに
いい暮らしをしている人間などを言っているのだろうが、そんな程度ではただ小賢しいだけである。
投機で得た富で裕福な生活を送っていた子貢なども、『顔回には到底かなわない』と言っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第八・一一)

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186 2011/07/29(金) 16:32:56 ID:5Kcgxf7k/Y
神道家は獣肉を食わない。道術者も「霞を食う」というように粗食を旨とする。
聖道門の仏僧も肉食は避け、インドのヒンズー教徒も基本は肉(特に牛肉)を食わず、
中東などのイスラム教徒も豚肉を徹底して食わず、牛肉などもあまり食べない。

「血肉の穢れを避ける」という感覚を肯定する人々は数多く、実に人類の半数程度に及ぶ。
何の肉を食うことを避けるかとかの、程度の違いこそあれど、実際にそれなりの実践にも移している。
もちろんそんな必要が必ずしもあるわけではなく、肉食を大々的に肯定する正統な文化だってもちろんある。

儒家も親の死後、三年は肉を食わないほうがよいとする一方で「年寄りは肉を食ったほうがよい(礼記)」といい、
昔の慣習では確かに犬肉や罪人の人肉を食する場合すらあった(これは日本の儒者などは一切取り入れていない)。
他力の浄土門である親鸞和尚も、「肉食妻帯」というあまりにも露骨な破戒行為をあえて為している。そこには
「肉への欲」へのウソ偽りのない肯定意識があり、なおかつ最低限の人としての品性の保全が伴たれている。

餓死児童の血肉すら、本人たちに振り分ける前から奪い去って自分たちの利得とし、人類史上最悪級の
物質的な我田引水に及んでいる(欧米の)キリスト教徒こそは、「肉が主ではない」みたいな詭弁をほざく。

肉欲まみれというのなら、かえってその肉欲を真正面から肯定して、その上で人としての最低限の品性を
保っていこうとするほうが誠実なことであり、肉欲を捨て去らない範囲における、マシな選択だといえる。
口先だけで肉欲を否定して、その実未曾有の肉欲まみれなどであるほうが、ムッツリもいいところだ。

「肉多しと雖も、食の氣に勝たしめず」
「(孔先生は)肉を多く食べるときにも、米などの主食よりも多く食べることはなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・八より)

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187 2011/07/30(土) 14:05:47 ID:s5BakGk/8Y
断罪や死への恐怖からなる鏡映認知障害が進行して、十字架上の半裸のおっさんと
自分との区別も付かなくなって、罪責の重さからなる良心の呵責も喪失してしまうという
犯罪聖書信者たちの自己洗脳は、IQ20〜35程度までへの知能指数の低下がそのタネになっている。

道家の秘奥の教義などにも、自分自身が痴呆も同然の状態と化すことで
天地万物の道理と一体化するようなものがいくらかある。ただ、それは本当に完全に
知的障害者も同然の状態に固定化されてしまうということであり、知的障害レベルにまで
知能が低下しておきながら、知能犯罪に及ぶことにかけては有能であるような
犯罪聖書信仰などにこそ特有のカルト的な機能性は伴っていない。

というよりも、そのような機能性から完全に捨て去ってしまうのが無為の本義であり、
そのために道術者は肉欲すら捨て去って、霞を食うような粗末な暮らしに徹したりする。
重度知的障害レベルにまで知能を低下させる「逃げ場」を用意しておきながら、
肉欲を満たすための知能犯罪能力などはそのままにしておくのが、犯罪聖書信仰にこそ
特有の病理であり、道家は認められても聖書信仰は二度と認められない根拠ともなっている。

「臘肉を噬み、毒に遇う。小しく吝なれども咎無し。毒に遇うは、位當たらざればなり。
乾肉を噬み、黄金を得。貞﨤なれば咎無し。貞﨤なれば咎無しとは、當を得ればなり」
「蝋のようにガチガチに固まった骨付きの乾肉を噛んで毒にあたるようにして、獄中に罪人を
収めることに苦心する。色々ともったいぶられて面倒ではあるが、だからといって咎はない。
毒にあたるというのは、罪人が身の程をわきまえずに思い上がっている姿に辟易するからである。
 まともに食せる程度の堅さの乾肉を噛んで黄金を得るように、獄中に罪人を収めることがうまくいく。
貞正を守ってよく警戒に努めつつことを行えば、なんら問題となるようなことは生じない。
問題が生じないのは、罪人までもが身の程をわきまえて素直に収監を受け入れるからである。
(罪人が身の程もわきまえずに放蕩しているようでは、肉も毒を宿した蝋肉のようで美味くない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・噬嗑・六三と六五及び象伝)

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188 2011/07/30(土) 18:51:27 ID:eoSRKe8K42:au
神は…130年ぐらい前に死んだと聞いたが…

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スレッドタイトル:聖書 Part6

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