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聖書 Part6


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001 2011/03/10(木) 10:43:57 ID:3RmoF4GXTs
世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。

一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。

そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。

仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。

人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

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002 2011/03/10(木) 10:44:25 ID:3RmoF4GXTs
ちなみに、「鼻ほじり聖書」とか「ゴキブリ聖書」とか「ウ●コ聖書」とかの、
適当な意味で名づけられる聖書までをも「聖書である」と認めるのならば、本来は儒学用語である
「聖書」という言葉を剽窃して、目的語抜きの「聖書」扱いをも受けている「新旧約聖書」などが、
“ある種”の聖書として多大なる支持を未だ取り付けてもいるわけだが、新旧約聖書にもちゃんと目的があり、
目的語をちゃんと冠するのならば、新旧約聖書は「権力犯罪聖書」であるといえる。

対して、四書五経のほうを、目的語を冠した聖書として呼ぶならば、こちらは「権力道徳聖書」
であるといえ、権力犯罪の聖書である新旧約聖書よりは、まだ世の中をマシなほうへと持って行く
ことのできる点が特徴となっている。そんなに程度の高いことを書いているわけでもないが、
権力犯罪の聖書である新旧約よりはまだマシなことを書いている点もまた、権力道徳の聖書である四書五経が、
くそみそな「聖書」という言葉の定義に即したとしても、聖書中の聖書と呼ぶに値する証拠になっている。

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003 2011/03/10(木) 11:37:32 ID:PQqjB0iwY2:DoCoMo
「爾の靈龜を舎てて、我を觀て頤を朶る、凶なり。我れを觀て頤を朶るるは、亦た貴ぶに足らざるなり」
「自分自身の霊亀を捨てて、間抜けに口を開いておとがいを垂れ、こちらばかりを見ている、甚だ凶である。
こちらを見て、口を開いておとがいを垂れているようなままでは、貴ぶに足る存在ともなり得ない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・頤卦・初九−象伝)

人類最古の古典「易」に基づけば、霊魂はあたかも、何日も飲まず食わずのままでいられる亀のように
自存自明の存在であり、自分以外の誰かからもらい受けたりするような代物ではないという。

それこそ紙切れか藁人形のようなモノであれば、「霊魂を注入する」という体裁がまだ通用するものだが、
自らが霊魂を自得している人間のような生き物に、霊魂をさらに注入するというのは、全くおかしなこと。

自らに自明に霊魂が自存し、霊魂が自存する生命体の中でも最も高貴なる「万物の霊長」ですらあるのが
人間なのに、その人間に自存する霊魂(霊亀)を捨て去らせて、外部的に霊を注入したりすること、
それが、ありのままに不祥(凶)なことであり、霊亀を喪失して、おとがいが垂れ下がるほどにも
間抜けに口が開いたままの状態となってしまっていることが、貴ぶにも値しない下賤な姿であるとされる。

神が泥土をこねて霊魂を注入しアダムを作っただの、キリスト信者が神から新たな聖霊を授かっただのの
聖書教義よりも、何千年も昔から存在している「易」の判断。「サルが進化してヒトになった」だのの、
進化論などが提唱される以前に、易学のような人類の英知が、後々に退化して聖書教義などともなっている。

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004 2011/03/10(木) 11:38:03 ID:PQqjB0iwY2:DoCoMo
新スレのスレ画に誤表記があったので、新たに立て直した。
自分のレスを除けば、まだクズみたいなレスしかされてなかったので、別にいいだろう。

万物の霊長たる人間にとって、霊魂は自得のものであり、外からもらい受けたりすべきものではない。
霊魂は先天的に内在しているものだから、その霊魂が楽しむことは当然、内面からの楽しみとなる。
一方で、自らの霊魂(霊亀)を捨てて他者から霊魂をもらおうとしているような賤人にとっては、
「顔」のような外面が楽しみの輝きに満ちていることが重要となり、それを「心の内の輝き」
だなどとも倒錯する。実際には、霊亀を捨ててでも外部からの霊魂を欲しようとするような
賤人の内面は空っぽの暗闇であり、いくら外側から光を注いでも、暗闇のままである。
だから、そのような賤人同士の間には、卑しみや偽りや侮りばかりが横行する。
おとがいが垂れ下がるほどにも口の緩んだ、魂の抜けきった輩などに貴さは微塵もないから。

「心中斯くも和せず樂しまざるときは、鄙詐の心之れに入る。外貌斯くも莊ならず敬ならざれば、
易慢の心之れに入る。故に樂は内に動く者なり、禮は外に動く者なり。樂は和を極め、禮は順を極む。
内和らぎて外順なれば、則ち民其の顏色を瞻て與に爭わず、其の容貌を望みて民易慢を生ぜず。
故に 輝は内に動きて、民に承け聽かざる莫く、理は外に發して、民に承け順わざる莫し」
「心中に少しでも楽しくないところがあれば、卑しみ偽りの心が生ずる。
外貌に少しでも荘重でないところがあれば、侮りの心が生ずる。そのため楽しみは
内面にあるべきものであり、礼儀正しさは外面にあるべきものだといえる。
楽しみは和やかさを極め、礼儀正しさは貞順さを極める。内面が和らいで外面が貞順であったなら、
民たちもその顔色を見て闘争心を燃やすこともなければ、その姿を見て侮りの心を抱くこともない。
徳性の光輝が内面に躍動することで民も言うことを聞かないことがなくなり、
条理の正しさが外面に発することで民も受け従わないことがなくなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)

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005 2011/03/11(金) 13:07:26 ID:D12IcFJT6.
殷周革命を嫌い、首陽山に引きこもって餓死した
伯夷・叔斉兄弟の話はすでにここでも何度も述べた。

二人が半ば過剰なほどもの潔癖主義で、素行の不善な諸侯からの招きなどは決して
受けなかったことが、「孟子」公孫丑章句上・九などでも取り上げられている。

その伯夷・叔斉の評価を、弟子の子路が孔子に尋ねたところ、「古えの賢人だ」と答えた。
(伯夷・叔斉は孔子の代からもさらに500年以上遡る古えの人物である)
さらに「(周の武王に放伐革命を思いとどまるように諌めたが聞き入れられず、放伐の不義に
満ちた世での仕官を嫌って山にこもり、餓死したことを)怨んでいたでしょうか」と子路が聞くと、
「(道義を守って仕官を求めなかったことなどで)仁を求めて仁を得たのだから、
なぜ怨んだりすることがあろうか」と答えた。(述而第七・一四を参照)

仁を求めるための手段は、「不義の栄華を求めない」とかの禁欲的な要求の実践による所が大きく、
不義に根ざした富貴栄達を求めたりすれば、そもそもそれは「仁を求めない」ことにも直結する。

求めて得たりする以前に、そもそも誰も「求める段階」にすら進めないのが仁であり、仁を求めて
得ることもできないから、仁以外のあらゆるものを求め、貪って止まないザマとも化すのである。

「仁を欲して仁を得たり、又た焉をか貪らん」
「仁を求めて仁を得たのだから、これ以上なにを貪る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・四より)

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006 2011/03/12(土) 12:32:16 ID:oYdWmHR/3s
あんまり能弁をたれてたい気分でもないが、あっちが書いてるからこっちも書くしかない。

乳飲み子を抱いて非難してきた母子の映像なども多数放映されているし、
多少、今回の震災にちなんでの引用であるかのような感がなきにしもあらずだが、
仮にそうであるというのなら、

自分たちの引き起こした人災によって何億もの人々を犠牲に追いやっている連中が、
避けようのなかった天災などに対する憐憫の情などをひけらかすことからして、欺瞞にも程がある。

天の作せる災いはなお避くべきも、自らの作せる災いからは逃るべからず(書経)。
天災ですらこれほどにも避けようがないのに、どうして自業自得の災禍から逃れられようか。

「武王は邇きを泄ず、遠きを忘れず」
「武王は近親のものだからといって馴れ合ったりはせず、疎遠のものだからといって忘れ去ったりもしなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・二一より)

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007 2011/03/13(日) 14:13:58 ID:bTAZ6uW/mI
多くの人々が災難によって命を落としている中で「雄雄しくあれ」なんてのも、不謹慎にもほどがある。
被害に遭った人々への、悼み悔やみの念を湛えて、彼らの気持ちを逆立てないための配慮と共に援助などにも臨むこと。
そうでもなければ、まだいないほうがマシなぐらいの、火事場泥棒にすらなりかねない。

「晉侯、屠蒯をして周に如き、雒と三塗に事有らんことを請う。
萇弘、劉子謂いて曰く、客の容猛し、祭りに非ざるなり。其れ戎を伐たんか。(中略)乃ち戎の備えを警しむ」
「晋候が屠蒯をに命じて周に遣り、洛水と三途山で霊を鎮める祭りをしたいと請わしめた。応対した周の大夫の萇弘は、
公卿の劉子にこう報告した。『客人(蒯)の容貌は随分と雄雄しく、とても鎮祭の共催が目的であるとは思えません。
おそらく蛮族を討伐するのが本当の目的でしょう』 そこで劉子は蛮族を討伐する用意を推し進めた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十八年より)

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008 2011/03/14(月) 12:49:10 ID:gq8wShs0bw
放任主義でも雁字搦めでもない、適度な作為の介入による生育の助成という、
今の世の教育論すら全く及んでいない中正な成育論を、孟子が述べている。

これは、子供に対する教育などにも応用できるだろう一方で、孟子の論旨とおりに、
個々人の人々自身が浩然の気などを養うための手法としても参考にできるもの。

自らに内在する浩然の気を、何の考えもなく放置しているだけでは、雑念に養分を吸われて萎える
だけだし、逆に無理に「助長」しようとしても、全てを枯らしてしまうようなことにすらなってしまう。

精神不安定状態の人間なんてのも、自らの精神的安定を全くのほっぽらかしにした躁状態となったり、
逆に完全に精神の躍動が滞った鬱状態となったりの、双極に振れきることでさらに病状を悪化させる。

全く抑制しないわけでもなければ、完全に抑制しきるのでもない、適度な精神の躍動こそは
健康な精神状態をも育むのであるからして、精神に対する無理な助長を施すことも禁物である。

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009 2011/03/14(月) 12:49:19 ID:gq8wShs0bw
「宋人に其の苗の長ぜざるを閔えて之れを揠く者有り。芒芒然として歸り、其の人に謂いて曰く、
今日は病れん、予れ苗を助けて長ぜしめたり。其の子趨りて往きて之れを視れば、苗は則ち槁れたり。
天下の苗を助けて長ぜしむる者は寡なし。以て益無しと為して之れを舍つる者は、苗を耘らざる者なり。
之れを助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而って又た之れを害う」
「昔、宋に、田んぼの苗がなかなか成長しないのを憂えて、苗を自らの手で引き伸ばす者がいた。
茫然と疲れきって家に帰り、家族に語って言った。『ああ、今日は疲れた。何しろ全ての苗を助けて
伸長してやったのだから』 それを聞いて不審に思った息子が田んぼに行ってみると、苗は全て枯れていた。
この世に苗を助長してやろうとする人間は少なく、全くの無益としてこれを顧みないのは、あたかも
雑草抜きなどの田畑の手入れすらしないようなもので、これもよくない。かといって、件の宋人のように、
無理に助長してやろうとするのも、あたかも苗を手で引き伸ばして、全て枯らしてしまうような結果を招く。
これらのうちのいずれもが、ただ無益であるばかりでなく、積極的に害を招く行為ですらあるのだ。
(孟子は浩然の気を暗に『苗』に例えているが、浩然の気もまた上記の苗の場合と同じように、
全く打ち棄てて雑草ボウボウの状態にすれば生育しない一方で、無理に苗を引っ張るような
強引な手法によって助長しようとしても、全ての苗を枯らすようにして生育を妨げることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・二より)

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010 2011/03/15(火) 11:50:02 ID:3P6lyHfVrI
これから途方もない労力をかけて復興を目指していく被災者たちに、
「立ち返れば救われる」などとほざくのは、それこそ現実逃避を促すのみとなる。

現実逃避をするということは、完全に絶望しきるということであり、
一抹の希望すら捨て去ってしまった朦朧状態と化すことを、
「救い」であるのだとキリスト狂徒たちが倒錯していることがわかる。

絶望を救いに摩り替えさせる洗脳の強制は、特にアフリカの聖書教末端被害教徒などに対して顕著であり、
欧米社会からの酷烈な侵略征服被害によって、どうあっても救いようのないような惨状に置かれているのに、
アフリカの黒人たちはよくヘラヘラと笑っている。あれも希望があるからではなく、絶望を救いだと
倒錯しているから笑っているだけで、決してあの姿を「健気だ」などと思ったりしてはならない。

日本人の中でも、特に実直な性格の持ち主であるのが東北人であることもあって、
あまりにも大きな被害に遭った東北の被災者たちは、今みんな泣いている。
あれこそは苦難に対する健全な反応であり、家族を喪ったり家を失ったりしてまで
ヘラヘラ笑ったりしているほうが明らかにおかしい。苦難に相応の悲しみをこそバネとして
これからの復興にも努めていくのだから、決して絶望を促すような甘言を弄してはならない。

「凡そ民に喪有るときは、扶服して之れを救う。(中略)天下其れ孰れか能く之れに當たらんや」
「自国の国民に大きな不幸があったときには、国を司る者などは、(口先でごまかしたりはせず)
はいつくばってでもこれを救わねばならない。天下にそれが可能なものが果たしてどれだけいようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

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011 2011/03/16(水) 11:18:48 ID:wZ/ifX.sOo:DoCoMo
明和水産も今、ネットからのアクセスができない。
サーバが計画停電中の区域にあるのか。



今回の地震では、車に乗って逃げたりする間もなく、津波に巻き込まれて命を落とした人々が多い。
迫り来る波から車で逃げ惑う映像なども相当数撮影されているが、車に乗れたかどうかではなく、
震源地から近かったか遠かったかで、命運を左右した場合が多いようだ。

陸地に乗り上げた頃の津波は時速40km程度となり、走って逃げるのは
無理にしても、震源地から十分遠かった場合に、車で逃げるのは効果的なようだ。

GPSのカーナビがまだ使える場合もあるだろうが、万全を期すのなら、読みなれた地図や
方位磁石なども車内に常備しておき、地理関係を把握できる準備をよく整えておいて、
地震が起これば即、海岸線とは真逆の方向に逃げ、高台があれば直ちにそこに乗り上げる。
そのような適切な処断が可能であれば、車による逃走なども一定の効果を持つようだ。

以下、地震関係に照らし合わせるには不謹慎な、戦闘行為に関する引用だが、
本当に今回の地震が、単なる天災ではなく、戦争級の人災である可能性も出てきたので、
仮に戦争であった場合には、東北人が下の孟之反のような、戦役の功労者であったのだ
という認識を、事後に広められたならと思う。今はまだ、その時期でもないが。

「孟之反伐らず。奔りて殿す。將に門に入らんとき、
其の馬を策ちて曰く、敢えて後るるに非ざるなり、馬進まざるなり」
「魯国の大夫である孟之反は自慢をしない人だった。昔、魯軍が斉軍と戦って敗走し、
最後尾で追っ手を迎撃する殿軍の長という難役を彼が務めた。見事迎撃を果たし、
安全な陣地の門にたどり着いたときに、自らが乗っていた馬を叩きつつこう言った。
『別にあえて殿(しんがり)を務めたのではありませぬ。ただ馬がなかなか進みませんでな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・一五より)

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012 2011/03/17(木) 13:10:41 ID:SIIoqZ5EFk:DoCoMo
ここにも、PCからアクセスできる人間はできているようだな。
ウチから明和へのアクセス系統だけに、特定して不具合が出ているのか。


超越神だと勘違いした脳内自我の肥大化に陶酔して、我執にまみれた自意識過剰な
言行に走ることが、親族兄弟までをも辟易させて、挙句には殺し合いにまで発展させる
自業自得の原因となっていることが、下の真正聖書の記述などからも明らか。

俺個人の意見だとすれば、「若造が何をいう」などということにもなりかねないが、
犯罪聖書よりも遥かに成立の古い真正聖書=四書五経にこそ書かれていることだから、
後からやってきた脳内超越神などに、言葉の信頼度の優越を微塵たりとも許すものではない。

「志し自慢すれば、九族も乃ち離る」
「自らの志しをやたらと披瀝することでいい気になっているようでは、親族兄弟ですら背き離れていく。
(この引用は、1700年前の永嘉の乱における『書経』全文散逸後の、断片の寄せ集め修復部分にあたる
『偽古文尚書』からのものだが、孟子も永嘉の乱や焚書坑儒以前に、今の偽古文尚書にあたる『書経』の
一部を引用したりしているため、偽古文部分もまた2300年以上前から存在していたことが明らかである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・仲虺之誥より)

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013 2011/03/18(金) 12:29:07 ID:1QSnMovw3w
またPCからも読み書きできるようになった。

とはいえ、今の自分の気持ちは、下の真正聖書の言葉にほぼ尽くされているので、あえて自ら長く語るまい。
強いて言えば、「天地は滅びなくていいから、犯罪聖書だけが滅びろ」とだけ思うのみだ。

「天は喪亂を降して、我が立王を滅ぼさんとす。
此の蟊賊を降して、稼穡して卒に痒なわしむ。
哀恫たる中國、具贅して卒に荒みぬ。
旅力以て、穹蒼を念ふもの有る靡し。

維れ此の惠君は、民人の瞻ぐ所。
心を秉りて宣く猶り、其の相を考え慎めり。
維れ彼の順わざるは、自から獨り臧からしむ。
自から肺腸有りて、民をして卒く狂わしむ。

彼の中林を瞻れば、甡甡たる其の鹿。
朋友にして已に譖り、胥い以て穀せず。
人亦た言える有り、進むも退くも維れ谷まれりと。

維れ此の聖人、百里の言を瞻る。
維れ彼の愚人、覆狂して以て喜ぶ。
言の能わざるに匪ず、斯の畏忌を胡んせん」

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014 2011/03/18(金) 12:31:20 ID:1QSnMovw3w
削除(by投稿者)

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015 2011/03/18(金) 17:08:23 ID:qJgjOhSEOg:DoCoMo
訳文を一部訂正。

「天はいま大いなる争乱を下して、我らが建てた王国すらをも滅ぼさんとしている。
作物を根絶やしにする甚大なる虫害を下し、五穀をも全て萎えさせんとす。
傷ましき我が中つ国、みなで力を上げて災害に臨むも、その中に余裕を以って復興を期待するものもいない。

かの道義に従順なる元君は、今でも民たちの仰ぎ見るところ。
真心を尽くしてよく慮り、忠臣の助けを借りて悪臣の助けを借りぬ所まで、考えを行き届かせられている。
一方で、道義に従わぬ彼の輩は、今でもただ自分独りの独善ばかりに執心する。
『自分にこそ義があるのだ』などとうそぶいて、民をことごとく狂乱に陥らせて憚らぬ。

今でも林野に目を向けてみれば、鹿たちが心置きなく群れ遊んでいるというのに、
ただ人間ばかりは互いに偽り合って、食料を均等に分け合うことすらしない。
今や人々はこう言っている、『もはや進むも退くも極まるときが来たのだ』と。

かの聖人君子は、百里の先への憂患すらも尽くしている。
一方でかの愚人は、災禍を福音だなどと倒錯して、完全に狂いながら喜んでいる。
この正邪曲直の分断を、告発しないでいることが怠りとなるのを恐れるばかり。
(害虫分子による賊害がある意味天災であるとは言える。天は害虫の蠢動などよりも、さらなる形而上に位置するから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・桑柔より)

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016 2011/03/19(土) 12:27:36 ID:wDVIQr0BKQ
神霊ってのは、不動不変なものであり、人間に多動をけしかけるようなものではない。

たとえば、天台宗の千日回峰行では、ほとんどろくな栄養も摂らないままで
地球半周分以上(21000Km)もの距離を歩き続ける荒行が行われる。
行者はこのような荒行に臨むことによってこそ、不動明王との一体化を図るという。
その心は、最大級の多動による苦しみすらも克服して、霊の加護も受けた不動への安住を
企図するということであり、やはり不動不変の境地における神霊の介在こそを認めている。

無軌道状態の多動こそは、霊的な加護をかなぐり捨てた「失神」状態を招くものであり、
その失神状態にあえて身を置くことで、不動不変の霊威を背理法的に把捉することを
試みる苦行者などもいるが、多動それ自体が神霊と共にあるなどということはない。

「臣、其の股肱の力を竭くして、之れに加うるに忠貞を以ってせん。
其れ濟らば君の靈なり、濟らずんば則ち死を以って之れに繼がん」
「私は自らの股肱の力の限りを尽くし、なおかつ忠順と貞良を以って公室に仕えていく所存です。
もしそれが成功いたしましたならば、君の霊による加護があったものといえますし、
もし成功できなかったとしても、その時は私自身が死を以って責任を取る所存です。
(臨終間際の晋の献公に対する護衛者荀息の言葉。全力をかけての仕事が忠貞さによって
霊の加護を受けることを期待している。霊の加護を受ける根拠となるのは、あくまで
行動に一定の制限を設ける忠貞さのほうであって、無軌道な多動であったりはしない)」
「権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公九年より」

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017 2011/03/19(土) 21:30:55 ID:8wpS5Kg4c.:DoCoMo
四書五経の中でも、特に名言名句の引用元としては利用しにくいのが、
原文は簡素な年譜のみである「春秋経(孔子作)」や、その注釈書であり、
今日では経書の一部として認められてもいる「春秋左氏伝(左丘明作、通称:左伝)」だといえる。

「論語」が、宇宙でも随一の名言の宝庫であることは誰しもが知るところだし、
「孟子」や「易経」や「詩経」「書経」なども、名言集として扱えるだけの内容を持っている。
礼制の記録が本分である「礼記」も、知る人ぞ知る名言の弾薬庫であり、中でも
最重要部分とされる「大学」と「中庸」は、抜書きされて「四書」のうちにも入れられている。

しかし、「左伝」だけは、名言の宝庫として扱うのは難しいような内容になっている。
「大学」や「中庸」は「礼記」からの抜書きであり、その分量も突出して些少なものだから、
引用回数が少なくなるのも仕方がないが、「左伝」は四書五経中でも最大級の分量を
持っているというのに、なかなか引用するにも相応しいような名句を見つけにくい。

これは、「左伝」が「勧善懲悪」の意味を込めて書かれた「春秋経」の注釈書だからで、
その内容自体が、「懲悪」の意味を込めて春秋時代の権力者たちの不行跡をありのままに
書き留めていたりしているために、それをそのまま模範の対象にはできないから。

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018 2011/03/19(土) 21:31:29 ID:8wpS5Kg4c.:DoCoMo
>>16の引用部分なども、この後に晋の献公が「忠貞とは何を意味するのか」と問うと、
荀息は「忠とは、君公のための利益になることはどんなことでもやることです」と答えている。
どんなことでもやるってんなら、それこそ悪行すらやりかねず、利益をもたらすつもりで
損害すらも及ぼしかねない。これこそは、忠義を単なる奴隷的奉仕などと混同する「任侠」
の起源であるといえ、正しい手法によって君公を補佐する分別には欠けていたことから、
荀息は直後に献公の子息である公子卓を死なせてしまい、自らも責任を取って自決している。

とはいえ、>>16の引用部分の荀息の物言いは、夏・殷・周と続いてきた古代中国の
王朝文化の影響をも受けており、まだ周による王道統治が傾いて間もなかったころの風潮に
合わせてものを言おうとした結果、荀息もこの引用部分まではいいことを言っている。
(そのあとの「君公の利益になることはどんなことでもします」云々で馬脚を表している)
個人としての徳性の高さではなく、古代中国という時代の風潮が、荀息にもある程度までは模範とするに
値する言葉を言わしめたのであり、一部の言葉だけを鑑みて、人を評してはいけない例にもなっている。

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019 2011/03/20(日) 12:59:47 ID:.kzZELedB2
孟子も「五覇は三王の罪人なり(告子章句下・七)」というとおり、
春秋時代に覇権を争っていた諸侯ってのも、相当に悪辣な権力犯罪者だったわけで、
荀息を含む当時の諸侯の臣下が、「この君にしてこの臣あり」程度の
愚臣であったのも、仕方がないといえば仕方がない。

湯王には伊尹が、武王には太公望が、成王には周公がといった風に、
名臣の助けを借りて主君が成功するということは歴史上に数多い一方で、
それと同じぐらいに、愚臣悪臣佞臣にたぶらかされて哀れな末路を辿った君公も多い。
名臣が、儒学道徳に基づいても評価され得る、適正な君臣の義を保てている一方で、
愚臣や悪臣の場合はそれができず、無理に主君に服従しようとしたところで、
無粋なの奴隷的奉仕に終始する、侠客まがいに止まってしまったりする。

もちろん主君が相応の人物であって初めて、名臣の力量も活かされるところがあり、
范増のような名臣を持ちながらも、全くその力量を活かせずに敗れた項羽のような
覇王もいる。「この名君にしてこの名臣あり」といわれるほどにも、
君臣関係がうまくいくことも、なかなかに難しいことだといえる。

「君子は泰らかにして驕らず、小人は驕りて泰らかならず」
「君子は落ち着きがあって誇り高ぶることがないが、小人は誇り高ぶってばかりで落ち着きがない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二六より)

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020 2011/03/21(月) 12:55:32 ID:8XekUExb1A
もう誰も、キリスト教徒を憎んですらいない。

「ただ、この廃人集団をどうやって、暴発させないままに
権能剥奪状態へと追い込もうか」と、事務的に考えるのみ。

野生の有害鳥獣なども、憎もうが許そうが、結局こちらの気持ちなんか
何も分かっちゃくれないから、ただ人間に危害を及ぼさないようにする
ための事務的な駆除処理に徹する以外の、何らの意図を差し挟む術もない。

仮に本当に聖書信仰をこの世から駆逐するなら、億人レベルの人々の
助けをも借りていかなければならなくなるだろうが、それらの人々にも、
「いっぱしの人間が廃人を憎んだりしてちゃいけない」ということを、
重々諭し尽くしてから、ことに臨んでもらうようにもする。

「昊天の不傭にして、此の鞠言凶を降さん。
昊天の不惠にして、此の大戻を降さん。
君子如し屆しければ、俾民の心をして闋んぜしむ。
君子如し夷らげれば、、惡むも怒るも是こに違れり」
「上天も常ある姿を変えられ、この窮凶を降したまう。
恵み深き姿も一転して、大いなる災いを降せる。
君子がもし正しくあれば、下民の心までをも安んずる。
さらに君子が天下を平らげたならば、憎しみも怒りも全て去り止むだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・節南山より)

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021 2011/03/21(月) 15:35:17 ID:n2malI.RoE
聖書って・・・バイブルって
 
 ありがたいお経や教えの本というよりは
 人類の恥ずかしい勘違いの歴史書ですよね。

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022 2011/03/21(月) 18:44:18 ID:8XekUExb1A
フィクションのな。

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023 2011/03/21(月) 20:02:03 ID:8XekUExb1A
ただただ無鉄砲に強圧的であることが、共に言行するに値しない
自暴自棄・自廃さ加減の披瀝になることはあっても、健常さの証拠になることはない。

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024 2011/03/21(月) 23:23:12 ID:8XekUExb1A
廃人として生き延びるぐらいなら、たとえ来世からでも、
まともな人間に生まれ変わることのほうを欲すべきだ。

そのほうが死ぬ以上にも、生を苦しむ以上にも楽しい。

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025 2011/03/22(火) 11:56:22 ID:/09yjXm5c.
自らの、自業自得の犯罪行為の責任を全て神に押し付けて、
自分自身は全くの無罪であることを自認することを許可するような
邪教信仰に耽溺して来たことこそは、反省して悔い改めなければならないに違いない。

悔い改めた結果、逆にそのような邪教信仰に陥ってしまうのでは、
毒を食んだ過ちを悔い改めたからといって、毒を盛った皿まで嘗め尽くすようなもの。

悔い改めた結果落ち着くべきなのが、人間たち自身の自己責任を重んずる
四書五経のような道徳学であり、神仏信仰などは副次的なものとして考えねばならない。

人としての最善も尽くさないうちから、他者への責任の押し付けばかりに依存する、
その思い上がりこそは害悪の元凶ともなっているのだから、決して他者依存の
深刻化などによって、現状の悲惨さが少しでも改善に向かうようなことはない。

「禍福は己れ自り之れを求めざる者無し」
「禍福に自らそれを招かなかったものは、何一つとしてない」
(権力道徳聖——通称四書五経——孟子・公丑孫章句上・四より)

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026 2011/03/23(水) 12:28:49 ID:Ym4N/DPpXs
「人は自分では何も善いことをすることができない」とした上で、
「キリスト・イエスの下でなら善いことができる」としているのか。

事実は逆であり、人は自力によってでしか善を為すことはできず、
他力依存を高めれば高めるほど、善を為すことからは遠ざかってしまう。

だから浄土教なども、自力作善の覚束ない煩悩愚縛の凡夫が、
他力本願によって悪因苦果の苦しみから救われることを促している。

「他力本願だから善行ができる」なんてことは、ちっとも言っていない。
真宗の坊主なども生臭だらけだが、それこそは確かに他力信仰者の有り様。

他力でいて善行を為そうだなんて時点で、
一概な罪悪ばかりが積み重ねられることとなる。
人間精神の位相関係が、そうなるように造られてもいるから。

「天誅を造攻れるは牧宮自りす、朕れは載めて亳に自る」
「天誅が下される原因は(暴君桀王の住処である)牧宮において造られた。
だからこそ、我(湯王)もまた亳の都で、伊尹らと誅罰のことを相談したのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・七より)

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027 2011/03/23(水) 14:02:13 ID:Ym4N/DPpXs
人を木柱の上にはりつけにした状態をかたどっているのが、「桀」という文字。
一般に用いられる「磔(はりつけ)」という字訓も、この桀に由来している。

湯王が興したとされる殷王朝の実在はすでに考古学的に明らかになっているし、
さらに遡った夏王朝の実在も、遺跡の発掘などによって明らかになりつつある。
ただ、夏の桀王に関する悪逆無道な振る舞いの記録は、殷の紂王の暴虐にも
共通する点が多々あり、仮に夏王朝が実在していたとしても、桀王に関する
暴虐の逸話などは、その幾分かが後世の創作である可能性が高い。

ただ、それにしたって、紀元前数世紀頃の学者である孟子などが、すでに夏の桀王
などに関する具体的な逸話を取り上げているわけで、「はりつけ」という意味と共に、
「凶暴残虐」や「わるもの」といった意味も持つ「桀」という言葉で以って、
はりつけ信仰が悪者どもの凶暴残虐な振る舞いと合致する可能性が示唆されている。

「桀」という文字がそれだけでもすでに、十字架信仰の本質を看破しきっている。

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028 2011/03/24(木) 12:14:47 ID:u15Sax6uvs:DoCoMo
人知を超えた神仏の領域ってのも確かにあるわけだが、それはあくまで人間以上の品性を持つ
神仏に限っての話で、人間以下の品性しか持たない鬼畜や妖怪については、全くその限りでない。

廃人たちが「人知を超えたもの」と呼ぶキリストの愛なども、親しき仲における礼節すら廃した
禽獣同然と化しての溺愛のことでしかなく、そのような溺愛に陥った廃人たちに限って、
我れを見失って、まともな思考も働かなくなるから、さも人知を超えたように思われるだけ。

心神喪失や精神障害に陥ったりはしていない、まともな人間からすれば、全くの人知の範囲内。
あくまで人知を超えた領域があるのも認められた上で、それはその中に入らないというだけのこと。

「國家を為むる者は、惡を見ては農夫の務めて草を去るが如くし、芟り夷げて之れを
蘊み崇め、其の本根を絶ち、能く殖えしむること勿くんば、則ち善なる者も信びん」
「国家を治めるものは、悪を見れば農夫が雑草を除き去るようにせよ。刈り取って摘み集め、
その本から根絶やしにして、増殖できないようにすれば、それによって善いものもまた伸び育つようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隠公六年より)

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029 2011/03/24(木) 19:38:42 ID:mhsC8UeMFM
しかし、夏の桀王にしろ殷の紂王にしろ、一時は湯王や文王を幽閉状態にまで
追い込んでおきながら、解放して捲土重来の機会を与えた挙句に、湯王や
文王の跡継ぎである武王らに放伐されるという、間抜けをやらかしている。

どうしてそんな間抜けを冒したのかといえば、そこには複合的な理由が備わっている。

第一には、湯王や文王のような善玉格の為政者こそは、心から民を愛して、
その養生にも努めることで世の中を盛り立てている中心核だから、
彼らを亡ぼすことが、世の中全体の衰亡を招くこととなってしまう、
それは世の中から多大なる暴利を駆り立てての放辟邪侈に耽っていたがる、
桀王や紂王のような悪玉の暴君にとっても都合の悪いことだから、
悪玉として善玉を滅ぼし尽くすことを躊躇ってしまうというのがある。

第二には、悪玉の暴君というのは、自分や自分の気に入った間柄だけでの
狭隘な利得を貪ることを第一目的としていて、その結果として世の中を
荒廃に導くことは、決して第一の目的でまであるわけではないから、
善玉の賢君を滅ぼし尽くすことで、あえて世の中を破滅へと導く
ほどまでの気概には欠けているからというのがある。

第三には、自分たちが暴利を貪りつつの放辟邪侈を極めた結果、世の中が
破滅へと陥れられることすら厭いはしないが、たとえ世を破滅へと導いた
暴君としてであっても、歴史に名を止めたいというような名利欲が少なからずあって、
完全に世の中が滅亡してしまったのでは、後世に悪名を轟かせることすら
叶わなくなるから、自分たちの放辟邪侈の後始末をしてくれることで、歴史を
完全には断絶させずに済ませてくれる相手を本能的に欲しているというのがある。

特に複雑なのが第三の理由で、世を破滅に陥れる悪玉格であるにも関わらず、
最低限の世の中の保全を欲したがるのは、やもすれば単なる人間肯定の根拠にでも
してしまいがちになるが、決して悪玉は、世の中の福利厚生を願っているから
最低限の世の中の保全を企図したりしているのではなく、たとえ最悪の悪者として
であっても、歴史に名を轟かせてみたいという、無様ながらの名誉欲があるから
最低限の世の中の保全を欲しているのだという、特殊な事情を見逃してはならない。

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030 2011/03/25(金) 13:51:10 ID:vK7pQfIna2
人は完全な他力本願による善行は為し得ず、自己責任による自力作善しか為し得ない。

ただもちろん、自力作善に至るまでの環境の整備はある程度必要となるわけで、
先祖代々の徳行の積み重ねや、それによる秘伝的な教育などが特に決定的な影響を及ぼす。

善行は、自己責任によってでしか為し得ない一方で、より大きな善行を為すためには
外部からの大いなる助成が必要となるわけで、自得の能力だけによって
何をしようとしたところで、人はほとんど大した善行などを為し得ない。

だから、自分個人に対して最も大きな影響を及ぼす、先祖に対する供養などが特に重要なものとなるし、
もしも臣下として立ち回ったりするのであれば、自らが配下となる主君への忠義を尽くす必要も出てくる。
自らが人事を尽くす所に始めて善も行われるが、人事を尽くすためにこそ尊重すべき天命というものもまたある。

「父子、君臣、長幼の道を得て、而して國治まる。
(古)語に曰く、樂正業を司り、父師成を司る、一元良有らば、萬國以て貞し、と」
「父子、君臣、長幼といった上下の序列が徹底されることで、初めて国も治まる。
昔の言葉にもこうある。『楽正として臣下の領分を正式に得たものが、詩書礼楽などの
学業の推進を司り、父親に教育の代行を正式に任せられた教師が、学業の成就を司る。
それほどにも恵まれた境遇にある元君が一人いれば、それだけで万国が正される』と。
(奉仕の業による成熟にも、正式な君臣父子長幼の序が備わっていなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・文王世子第八より)

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031 2011/03/25(金) 17:42:38 ID:vK7pQfIna2
浄土教のような善玉の他力信仰であっても、別にそれのおかげで
善行ができるようになったりするわけではない。あくまでも、積極的な
悪行による、悪因苦果に苦しむ自業自得を抑制してくれる効果を持つだけ。

積極的に善行を為していくためには、どうしたって自力でなければならない。
神も仏も頼りにはせず、それでいて神仏への畏敬をも欠かさないでいる、
自力と他力の両面における最善が尽くされたときに初めて、善が行われるのだ。

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032 2011/03/26(土) 12:36:59 ID:a0i5e14Q3A
「礼記」には、親族の喪に服すときの悲哀があらんばかりに記し尽くされているし、
「詩経」にも、未だ夫に会えない子女の悲しみなどが存分に描き尽くされている。

喜怒哀楽、その全てが人に授けられた真っ当な感情であり、
ただ喜んだり楽しんだりするだけではなく、怒るべきものには怒り、
悲しむべきことは悲しむぐらいの感情の豊かさがあって初めて、人として健全だといえる。

悲しみや怒りを廃絶するというのなら、同時に喜びや楽しみをも廃絶し、
人間的な感情全般から解脱する仏道でも目指せばいいのであって、悲しみや怒りだけを捨て去って
喜びや楽しみばかりを貪るのなら、その感情的不均衡のしわ寄せが必ずどこかに行き、
最後の最後には必ず自分たち自身に返ってくる。躁への振れ切りが甚大であればあるほど、
その跳ね返りとしての鬱もまた、度し難いものとなる。

「杕の杜有りて、其の葉萋萋と。
王事の盬む靡く、我が心傷み悲しむ。
卉木も萋れど、女心を悲しましむ、征夫よ歸らん」
「ヤマナシの木が実をつけて、その葉もよく生い茂っているというのに、
戦争はまだ終わる目処も立たず、(出征した夫を持つ)私の心は痛み悲しむばかり。
草木もももうそこかしこに茂っているというのに、女心を悲しませるばかり。我が夫よ、早く戦争から帰ってきておくれ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・鹿鳴之什・杕杜より)

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033 2011/03/26(土) 19:49:28 ID:ADEDiD7iKY:DoCoMo
男がめそめそしてばかりいるのは頼りない限りだが、
夫の不在ゆえの悲哀に明け暮れる女というのも、悪くはないもんだ。

ふんぞり返って亭主の帰りを待ってたり、待ちもせずに
浮気してたりする妻のいる家などに、誰も帰りたくはないだろうし。

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034 2011/03/27(日) 13:42:22 ID:Oa1IBd01.k
他力依存のままに力をつけようとすれば、それは自律性を欠いた単なる暴力となって、
善用することもままならず、もっぱら悪用するしかできなくなるんだろうな。

ほんの微力からでもいいから、悪用せずに善用できる自力を身に着けていくことこそが重要だ。

「勢に依りて威を作すこと無かれ」
「権勢に依り頼んで、威力を振りかざすようなことがないように」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・君陳より)

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035 2011/03/27(日) 23:51:56 ID:oNH2If/8a2:DoCoMo
おばちゃんかわいい

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036 2011/03/28(月) 14:31:24 ID:Kfg/Q9A6Ls

何一つとして善を行えない邪神の、どこが全能なんだか。


「大宰子貢に問うて曰く、夫子は聖者か。何ぞ其れ多能なるやと。
子貢曰く、固より天之れに將聖なること、又た多能なることを許せり。
子之れを聞いて曰く、大宰我れを知れり。吾れ少なるに賤し、
故に鄙事に多能なり。君子は多ならんや、多ならざるなり」
「ある国の首相が子貢にたずねた。『おたくの先生は本当に聖者なのだろうか。だとしたら、
なぜあれほどにも多能なのか』 子貢は答えた。『確かに先生は聖者の中の聖者であると共に、
多能多芸であることをも天分としています』 先生はそれを聞いて言った。『首相は私の
ことをよく知っている。私は年若い頃に卑賤な身分であったから、色々と下賤な物事に
ついても多能でいる。君子が多能である必要があろうか。決してその必要はあるまい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・六)

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037 2011/03/28(月) 14:44:19 ID:Xx08aCUnYc:DoCoMo
善を行うことにかけてすら有能であればいいから、君子が多能や全能である必要はないのだろう。
むしろ悪行にかけては無能であるほうが、炉心溶融が原理的に起こらない核融合炉のような、高い安全性にも繋がる。

仮に全能であるものがあるとすれば、それは必ず悪行にかけても有能なものとなるのだから、
善悪みそくその行いもまた一概な悪行であることを踏まえれば、
全能であることの魅力などからして、単なるまやかしであることが分かる。

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038 2011/03/29(火) 13:03:23 ID:QSO7dmqqOY
万人を利して我が利ともする仁こそは、人が天から与えられた本物の天分である、
しかし、自らそこに止まろうとしないのでは、いくらでも仁から離れていってしまうともいう。
人事と天命、自力と他力の両面における最善が尽くされて初めて、仁に安んずることもできる。
そこにしか仁に止まる術はなく、あらゆる善を行う術も備わってはいない。
たとえ全能者であったところで、止至善を選択しないのなら、決して善は行えない。

「矢人は豈に函人よりも不仁ならんや。矢人は唯だ人を傷つけざることを恐れ、函人は唯だ人を傷つけることを恐る。
巫匠も亦た然り。故に術は慎しまざる可からざるなり。孔子曰く、仁に里るを美と為す。擇びて仁に處らず、
焉んぞ智たるを得んと。夫れ仁は、天の尊爵なり、人の安宅なり。之れを禦むる莫くして不仁なるは、是れ不智なり」
「矢を作る職人は何も、鎧を作る職人よりも不仁であるというわけではない。しかし、矢を作る職人は自らの作製した矢が
人を傷つける攻撃力に欠けることを恐れ、鎧を作る職人は自らの作製した鎧が防御力に欠けていて、着用者を傷つけてしまうことを恐れる。
人の病気を治そうとする祈祷者と、人が死ねば儲かる棺桶屋の関係などもこれと同じことであり、本人自身の仁不仁などとはまた別に、
技術職が人を守る仁に与したり、人を損なう不仁に与したりすることがあるわけだから、職業を選択するところから慎重でなければならない。
孔子も言っている。『自身を仁に居らせることこそは美徳だといえるが、自ら仁を選択しないのでは、どうして知者といえようか』と。
仁こそは人が天から与えられた貴い爵位であり、人が安住すべき所である。にもかかわらず自ら仁に止まろうとしないのは、無知だからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・七より)

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039 2011/03/30(水) 11:54:41 ID:qlPTtx3bUs
「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風をくわうれば、必ず偃す」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一九より)

これはもう既出の引用だが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ともいうし、
「衣食足りて礼節を知る」ともいう。君子への帰服を心から喜べるほどにも
心の余裕を抱けることが、小人に甘んずる人々にとっての至福ともなろうに。

「天下猶お未だ平らかならず、洪水銫流し、天下に氾濫す。草木暢茂し、禽獸繁殖し、五穀登らず」
「天下は未だ泰平には至らず、大水が人々を脅かし、天下に氾濫し続けて止まない。箸にも棒にも
かからないような雑草や雑木ばかりが繁茂し、害獣もそこら中にたむろして、肝心の五穀は実らない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——滕文公章句上・四より)

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040 2011/03/31(木) 13:55:59 ID:i0/YaIeVzs
富の出所が、アフリカ人の生命エネルギーや、アラブ人から不当に強奪した石油利権だったりするのでは、
その富によってどんな欲望や必要性をまかなったところで、必ず悪であり、善であることはあり得ない。

ということはつまり、善に対する欲求や、善にとっての必要性を満たすこともできないということ。
常に必ず、悪を実現する欲望や、悪の実現にとっての必要性しか満たすことはできないということ。

ちなみに善は楽しく悪はつまらない、これが「善」とか「悪」とか「楽しい」とか「つまらない」
とかいった言葉に対して、人間自身が本能的に付与している、自明な関係性の定義でもある。

「富めりとせずして其の鄰と以にす。用て侵伐するに利ろしく、利ろしからざる無し」
「富んでいながら、なおかつ富んでいないかのようにして人に接するぐらいの謙虚さがあるのなら、
それほどもの謙虚さにすら感応できない無神経者などは、もはや放伐したって全くかまいやしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・謙・六五)

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041 2011/03/31(木) 19:15:36 ID:i0/YaIeVzs
思わず、引用しているこっちのほうがあっけにとられるほどにも、
辛らつで皮肉たっぷりな記述が、詩書や易には多々見られる。

これらは、孔孟の生きた春秋末期や戦国期よりもさらに昔の、周代やそれ以前に原型が作られたものであり、
比較的政情が安定していた時期に作られたものが多い。そのため、歯に衣着せぬあからさまな表現なども多く、
それと比べれば、失言がそのまま自身の命をも危うからしめていた、春秋戦国時代に作られた四書や「礼記」
などの記述は、どこか聞き手の顔色を伺っているような、それこそ薄氷を踏むように慎重なものが非常に多い。

「邦に道あれば言を危しくし行を危しくす。邦に道なければ行は危しくするも言は孫う」
「国に道があれば言行共に厳しくして自己を高める。国に道がなければ行いは厳しくするも発言は慎重にする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・四より)

明哲保身(詩経・烝民)の一辺倒なのかと思いきや、やはり乱世にも行いだけは正していくという。
その心は、発言はしようがするまいが自由だが、生きている以上は一定の行いだけは付きまとう。
人として生きている限りにおいて、どうしても不可避となる行いについては正していくしかないが、
発言はしないでもいられるものだから、失言によって命を落としたりするのでは全くの無駄死に
となるだけなので、ものを言うことに関してはやはり慎重でいたほうがいいということだろう。

失言を羅列しまくった挙句に、磔にされてしまうのでは、
明哲保身の逆をいく上に、単なる道化にしかならない。

言葉よりも行いのほうを第一義として捉える考え方が、明哲保身のような保守的な部分にまで行き届いている。
これは、絶対的な言行一致を唱える陽明学などよりは、一定の言行不一致を認める朱子学のほうが、本来の
儒学の正統に近い証拠にもなっている。口から発せられたことよりも、本人自身のほうが重要であることは、
発言が積極的である場合だけでなく、消極的な場合にすら当てはまるのだと、孔子から認めているのだから。

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042 2011/04/03(日) 22:08:41 ID:2BmZuyvS/6
では、乱世にあるべき「孫(したが)う言」とは一体どんなもので、
治世にだけ披露すべき「危(はげ)しい言」とは一体どんなものを指すのだろうか。

それこそ、仁義を厳守する言こそは「孫う言」であり、仁義を逸脱したり、
仁義に反していたり、多少そう見えたりする言こそは「危しい言」であるといえる。

別に、時の権力者の顔色ばかりをうかがって、相手に媚びを売るような発言が「孫う言」
になるのではなく、孟子の発言のように峻烈ではあっても、天下万人にとって有益無害で
あることが確実に明らかな、完全に仁義にねざした発言こそは「孫う言」であるといえる。

一方で、あからさまに仁義に反し、自他を害する有害無益さにまみれていることが
明らかな言のほうが「危しい言」のうちの一種であり、このような発言を試みる人間は、
危険人物と見なされて、謀殺や刑死などの末路を辿ることにもなりかねない。

詩書や易に数多載せられている言葉は、決して仁義に反しているわけではなく、
聖王や賢臣の発言である中には、仁義中の仁義に根ざしたような名言すら多々見られる。
ただ、詩書や易の言葉はもはや仁義を傍観すらしておらず、発言そのものが仁義を実行する
言葉ですらあるため、孔孟の論述に見られるような、概括的な仁義の説明にすらなっていない。
だから、それだけをゴロリと投げ出せば、四書程度の説明口調に慣れている仁義研究者など
からすれば、どこがどういう風に仁義道徳であるのか容易に分かりかねる場合もあるかもしれない。

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043 2011/04/03(日) 23:31:01 ID:2BmZuyvS/6
孔子や孟子の場合は、乱世に身を置く立場上、発言により慎重を期すために、学者としての
分析的な仁義解釈を述べ立てる場合が多かったわけで、絶対無謬な仁義の理論的解説にも
徹したからこそ、大諸侯を言い負かすほどもの大論弁を触れ回った孟子も、諸侯からの
怨みを買って謀殺されるようなことがなかった。完全に非があるのは自分たち戦国諸侯の
側のみであり、ただ口先で正論をのべているだけの学者風情などに本気で腹を立てて報復に
及んだりすれば、それこそ千年の先まで天下の笑い者とされ続けることがあまりにも自明で
あったために、微塵の封土も持たない一介の学者を、どうしたって見返すことができなかった。

発言がおとなしいことすなわち言が孫うことになるのではなく、たとえ峻烈であっても完全に
仁義にすら根ざしていれば、それこそは言が孫うことにもなる。乱世に言を孫わせるという
ことの真髄は、その提唱者である孔子よりはむしろ、孟子こそが如実にしたところがある。

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044 2011/04/04(月) 13:19:28 ID:ggohxkjm8c
久々の引用だな。もう辞めるもんかとすら思ったが。

ここでの四書五経からの引用は、犯罪聖書からの引用が終焉するまで続ける。
あっちの引用が終焉した時点でこっちの引用も停止し、後はここ以外での自主勉強を続けていくのみ。
勧善懲悪の体裁ではなく、もはや悪が断滅されて後の善学の修習に邁進していくのみ。

別に犯罪聖書や洋学のような敵性概念が存在しなくたって、東洋学全般は独立して自存し続けるだけの
絶大な度量を擁している。四書五経はそのごくごく一部に過ぎず、ちょうど犯罪聖書一冊に対して
ぶつけていくのにちょうどいい程度の「矮小さ」に止まっているから、ここでの専らな引用元ともしている。
決してそれが、東洋学全般の全貌の披露であるなどとは勘違いしないようにしてもらいたい。

「子高曰く、吾れ之れを聞くなり。生きては人に益を有らしめ、死しては人を害せずと。
吾れ縱え生きて人に益無かりしも、吾れ死を以て人を害すべけんや。我死すれば、則ち不食の地を擇びて我れを葬れと」
「斉の大夫の成子高が危篤時にこういった。『私はこのような確言を耳にしている。“生きている間は人に利益を
及ぼすようにし、死んでからも人に危害を及ぼすようなことがないようにする”と。私は例え存命中に人々に利益を
及ぼすことはできなかったとしても、せめてでも死んでから人に危害を及ぼすようなことだけは避けるように努めたい。
だから私が死んだら、あえて(何の役にも立たないような)不毛の地を選んで、そこにでも葬ってもらいたい』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

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045 2011/04/04(月) 13:45:01 ID:ggohxkjm8c
だいたい、より劣悪な世界最低級のカルト文書との対照を試みることで、
経書の記述の比較的な優良さをあげつらうだなんて試みからして、
儒学の中ですら特に程度の低い、「犬儒」あたりの行いでしかないといえる。

そこに止まってたんじゃ、四書五経以外の経書や、二十五史や漢詩や
朱子語類などの、より本格的な儒学研究へと進むこともできやしない。

ほんとは犯罪聖書レベルの低俗文書の権威的価値などはさっさと無効化されて、
(もちろん存在性からの根絶はできないので、十八禁のエログロ本などと同等の扱いとする)
四書五経こそは、その権威性が認められる世界最低限度の古典として扱われるように
なったほうがいいわけで、それでこそ四書五経以上にも高尚な学究対象にあたる上記のような儒書や、
神典や道蔵やヴェーダやウパニシャッド、そして仏典などへの進学の目処も立つというもの。

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046 2011/04/05(火) 12:19:48 ID:bO5ob13e72
生身の存在であり、尾籠な部分も必ずや備わっている
人間という生き物が存在する以上は、エロとか、グロとか、
権力犯罪とかいったものを貪る余地が、どうしたって生まれてしまう。

そのような非道行為の指針となる価値を持った、エログロ本であるとか
犯罪聖書とか洋学とかいったような劣悪文化もまた、その存在性を完全に
根絶することは不可能であり、またそこまですべきものであるともいえない。

しかし、そのような低俗な内容を持った非道文化から、
高尚な権威性などを剥奪することは、今すぐにでも全く可能なことであり、
また誰しもが今すぐにでもすべきことだといえる。

犯罪聖書や洋学に対する、エログロ本並みの低俗な扱いを
徹底することができず、思わず高尚なものとして扱ってしまったせいで
権力犯罪の増長を助長してしまい、人類を滅亡させるほどもの災禍が
巻き起こされるのだとすれば、それは聖書信仰者や洋学者以外の人々にもまた、
災禍の深刻化を見逃していたことに対する程度の責任はあったのだといえる。

もはや聖書信仰や洋学の理念的権威などは一切認めず、存在性までは
全否定しないにしても、エログロ並みに卑俗なものであるという
一致した見解の下で、災禍の抑制に努めていけるようになってから初めて、
聖書信仰者や洋学者ばかりに非があるのだと断じることもできるようになる。

「二三子、我れを以って隱せりと為すか。吾れ爾に隱すこと無し。吾れ行うとして二三子と與にせざる者なし、是れ丘なり」
「諸君は、私が何か隠し事でもしているのではないかと疑っているのではないかね。私は何も隠し事などはしていない。
私には諸君と共に為さなかった言行などは一つもない。これこそは丘(孔子の自称)なのだ。(隠し事がないことをこそ自負!)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二三より)

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047 2011/04/06(水) 12:09:15 ID:pmntskeapc
四書五経には、書道のお題にもできるような、飾り立てられた美麗な言葉は少ない。
もちろん膨大な格言の宝庫にはなっているわけだが、その一つ一つの言葉の意味が
あまりにも明瞭過ぎて、格好付けにも用いられるような荘厳さには欠けているから。

それこそ、仏道や神道などのほうが荘厳を利かせた格言は数多く、
四書五経に載っている程度の格言は、その意味をよくわきまえさえすれば後は放っておいて
おけばいい程度のものばかり。四書五経の記述にすら反するような劣悪なカルト教義を
思わず実行してしまったりすることもないぐらいに、無意識からのわきまえが行き届けば、
後はより荘厳に勝れた精神的な言葉の勉強などへと進んでいくようにすればいい。

「子曰く、予れ言う無からんことを欲す。子貢曰く、子如し言わずんば、則ち小子
何をか述べん。子曰く、天何をか言わんや。四時行われて、百物生ず。天何をか言わんや」
「先生が言われた。『もう何も言わないでおきたいものだなあ』 それを聞いて弟子の
子貢が言った。『もし先生が何も言われないのでしたら、我々門下の弟子たちは人々に
何を述べ伝えていけばよいのでしょうか』 先生。『天が果たして何を言っただろうか。
何も言わずに四六時中あって、それでいて万物を生じさせている。天が一体何を言おうか』
(乱世の道徳者として口舌を生業とした孔子も、本当は天のような不言実行者でありたかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一九)

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048 2011/04/06(水) 18:01:55 ID:pmntskeapc
ちなみに>>47の孔子の天論は

「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。
やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」
(権力犯罪聖書——通称聖書——損世記1:1-3)

というような、ロゴス中毒に侵された犯罪聖書の記述の否定にもなっている。
易学の勉強によって天地万物の創生についても深く考究しぬいていた孔子が、
万物が言葉によって創造されたりはしていないことを始めから見抜いていた。

2500年の、遠回り。
あまりにも恥ずかしすぎて、なかなか受け入れもしがたいのだろうが、
過ちてその過ちが看破された以上は、改むるに憚らぬ以外に余地はない。

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049 2011/04/07(木) 12:16:45 ID:iEr9EU3r5o
人が抱く「おそれ」には、最低でも二種類ある。

・目上の相手に対する敬いが帯びる畏れ
・害獣やキ○ガイなどの警戒対象への恐れ

四書五経が提示する、主君や父祖や夫などに対して抱くべきとされる「おそれ」は前者であるのに対し、
犯罪聖書が提示する、神に対して抱くべきだとする「おそれ」は後者にあたる。

前者の「おそれ」は漢字で「畏れ」と書くべきで、これは「かしこまり」という意味がある。
後者の「おそれ」は漢字で「恐れ」と書くべきで、これは「こわがり」という意味がある。

かしこまるということと、こわがるということは全くの別物であり、君父へのかしこまりが
害獣やキ○ガイに対するようなこわがりであっていいはずはなく、肩の力を抜いた
落ち着いた状態で接するのが、正式な礼法に適った君臣父子の関係でもある。

決して両者の「おそれ」を混同してはならず、害獣やキ○ガイに対して、
君父に対するような畏敬を抱いたりする過ちを犯してもならない。

「天の威を畏れて、時こに之れを保んずる」
「天の威光に畏れかしこまることで、よく国を保つことができる。
(天地すら自分が創造しただなどとうそぶく虚言家を超越神として
畏敬したりしていたのでは、一国を保つことすら危ぶまれることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・我将より)

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050 2011/04/07(木) 18:23:28 ID:g/FzXDUWcY:DoCoMo
「かしこまる」という意味でも使われる「畏れる」は、善悪の分別もよくわきまえた聖賢などを、
その言行もよく慮って、適切に言うことを聞いたり、その行いを見習ったりするためになされるべきもの。

「こわがる」という意味でも使われる「恐れる」は、善悪の分別もつかないような狂人や獣などが、
他者や人間などに危害を加えてくる危険性を察知して、警戒の対象とするためになされるべきもの。

畏れかしこまって言うことを聞いたり、行いを見習ったりすべき相手というのはそれはそれでいるが、
それは決して、善悪の分別も付かないままに暴力の濫用に走るような邪神だったりするわけはなく、
それこそそのような邪神に対してこそ、キ○ガイや害獣に対する場合と同じような「恐れ」を抱く必要がある。

ただただ莫大な危害をもたらすばかりの邪神に対して「畏れ」を抱き、ちゃんと善悪の分別も付けて、
善言や徳行に専念できる聖賢などに対しては、かえって「恐れ」を抱いていたりする現代人。
人の態度姿勢の一種としての「おそれ」を、全く間違った扱い方ばかりに集約してしまっている。

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051 2011/04/11(月) 15:13:36 ID:L4g0N7hc3k
欧米聖書圏の重権力犯罪者たちが、全財産を放棄して公平分配に帰し、
本人たち自身もまた地獄の業火に焼かれるような重罰を受けたとしても、
心からの反省による改悛がないのでは、微塵の慈愛による救いにも与れまい。

当然、もう二度と聖書信仰のような劣悪なカルト教義を嗜好しようともせず、
自分たちから進んで完全なる棄教を宣言するぐらいでなければ、
心の底からの反省の気持ちなどというものも、決して湧いてきやしないから。
聖書信仰のペースで何をしようとしたって、救いはないと知らねばならない。

「厩焚けたり。子朝より退きて曰く、人の傷えるか。馬を問わず」
「ある馬小屋が大火災を起こして焼け落ちた。先生は朝廷から退出してから
『人に怪我はなかったか』とだけ質問され、馬の安否は一切問われなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一三)

馬小屋といえば、イエスの生れ落ちた場所としても有名だが、
聖徳太子も馬小屋の門戸の前で生まれたことから「厩戸王子」と呼ばれていた。
馬小屋の内で産まれたか外かで産まれたかの違いが、安否を気遣うにも値しない
獣も同然の品性が、当人に宿るか否かの分かれ目ともなったのだろうか。

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052 2011/04/11(月) 15:50:29 ID:L4g0N7hc3k
聖徳太子の場合は、父母共に皇族であり、その素性も完全に明らかなわけで、
母の穴穂部間人皇女が馬小屋の前でたまたま産気づいたという、その由来もほぼ明らか。

イエスのほうはといえば、マリアが馬小屋ないし家畜小屋でイエスを産んだという
ところだけが明らかで、なぜマリアが家畜小屋でイエスを産んだのかは定かでない。

敷地内に馬小屋があるほどにも富貴な家で、出産間際の女性がたまたま馬小屋の前で
産気づくぐらいのことは、全く想像がつく。しかし、わざわざ不潔な家畜小屋の中で
あえて我が子を産むなどというのは、よっぽどおかしな理由がないとあり得ないこと。

自分の家や、実家で産むことも憚られるような不義の子を、ちょうど密通相手との野合の
場でもあった家畜小屋あたりで産み落としたというのが、本当のところだったのだろう。

もちろんマリアが馬と獣姦して半人半獣の子を産んだなどというわけでもないだろうが、
家畜小屋での密通が相応であるような、いかがわしい相手との子ではあったのだろう。

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053 2011/04/11(月) 19:07:37 ID:L4g0N7hc3k
仮に「馬小屋」というものを、イエスの産まれた場所であるにちなんで「キリスト教圏」としてみよう。

その、キリスト教圏であるところの馬小屋が焼け落ちたとして、馬小屋の戸口の前で生まれ、
儒学や道教や仏教などの東洋学の自主勉強によっていっぱしの人間らしさをも身に付けた
聖徳太子に当たるような人間は、馬小屋の中ではなく戸の外で生まれたのでもあるからして、
馬小屋が焼け落ちたとしても助かるだろうし、助かったかどうかはまた別にしても、
人間第一主義である孔子に当たるような賢人にも、その安否を気遣われることだろう。

一方で、まさにその馬小屋の中で産まれ、馬小屋での交合で母親が孕んだらしいことからも
度しがたい獣臭さを帯び、なおかつ自分自身でその下劣さを克服しようともしなかった
イエスにあたるような人間は、馬小屋が焼け落ちると共に本人自身も焼け死ぬだろうし、
焼け死んだところで、人としての最低限の品性を重んじる孔子などが、その安否を気遣う
ことすらないだろう。なにしろ、馬か何かと同等の品性しか持ち合わせてはいないのだから。

孔子もまた、父母の野合によって産まれた子であり、父親の素性を知らされることもないままに
育った経歴の持ち主であるからして、イエスのような畜生同然の品性の持ち主になる可能性すらあった。
にもかかわらず、自力作善によって道徳者として大成したのだから、馬小屋に生れ落ちた環境の不遇さ
ばかりに責任を押し付けるわけにもいかない。馬小屋に生まれ落ち、なおかつ馬小屋の環境の下賤さに
順応して、そこからの脱却すらも志そうとはしなかった本人自身の向上心の乏しさこそは、たとえ馬小屋
が焼け落ちようともその安否が気遣われないほどにも、己が生を卑しめた根本要因に他ならないのだから。

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054 2011/04/12(火) 12:31:57 ID:NrSq82XocU
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために 来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書10:34‐36)

という本尊の暴言を忘れ去って、平和の徳を乱す不埒な感傷をばら撒き続けるカルト文書。

実際の世界史を見れば、最も平和状態を貫き通しているのはインドで、
外界からの侵略を除けば、内乱などの紛もほとんど存在しない。

次いで平和を最低限守っているのが、中国や日本などの極東社会であり、
一時の戦国時代と長期の泰平統治を順繰りにする歴史を紡いで来ている。

その次がイスラム圏で、内紛以外の戦乱にはかなり積極的でいる。

そして最悪が聖書圏であり、自他を害する内外争乱に没頭し続けている。

アブラハム教がやたらと好戦的であることは、もはや間違いのないことで、
真の平和を導くのなら、アブラハム教増長の収拾が必須であることが確か。

その精神原理となっている犯罪聖書なども、戦乱を企図しようが平和を企図しようが
やたらと感傷的であり、感情の焼け付きを抑えることで真の平和が獲得されるという
「礼記」楽記第十九の元祖平和論にも悖っている。アブラハム教の中では比較的優良な
イスラムもまた修羅道であるには違いなく、平和を実行する主体にだけはアブラハム教はなり得ない。

「其の以てする所を視、其の由る所を觀、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋さんや、人焉んぞ廋さんや」
「己れの義とするところやより所とするところ、安んじようとするところを観察すれば、どんな人でも隠し事はできない。
(人類を滅亡へと導く邪義に安んじているようでは、剣呑さの隠蔽なども全く覚束ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・一〇より)

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055 2011/04/13(水) 12:29:59 ID:NhbHGyc6XU
「自分ひとりで何でもできる」というような思い上がりを、ちゃんと父祖の身元も調べ上げた妾腹の私生児(孔子)ではなく、
父親に認知されなかったことに憤って、あらゆる血族上の父権を否定しようとした私生児(イエス)こそが抱いた。

これまた「個人主義」などという言葉で正当化される、実際問題、実在している君父らからの
恩恵すらも無視しての自意識過剰こそが、この世に救いようのない災禍をこそ撒き散らしているのであり、
その災禍からのマッチポンプな救済を企図して、これまた偽善の行いによるによる自己満足を増長させている。

人間たちの思い上がりに神からの天罰が下されるのではなく、人間たち自身の思い上がりが自業自得の災禍を巻き起こすのであり、
自業自得の受難までいちいち救ってやったりするのは教育上よくないから、神仏もあえて救わずにいようとするのみ。
他力本願の形での神仏帰依の体裁すら整えることなく、五逆や誹謗正法にまで走りつつの受難、これを自業自得という。

「彼の蒼天よ、我が良人を殲くす。
如し贖う可くんば、人其の身を百にもせん」
「ああ、蒼蒼たる上天よ、なぜ善人をこの世から滅ぼし尽くしたのか。
もしこの責任を贖うというのならば、百人の犠牲によっでも足りはすまい。
(秦の穆公が亡くなったときの嘆きの歌。実際に万億の民の命を預かっていたような主君の命が失われたことは
百人やそこらの命とも引き換えにならないほどの損失となり得るわけだが、君父の尊位もわきまえぬ娼婦の私生児の、
自意識過剰な思い上がりにかられた自殺行為が、万人の贖いに匹敵するようなことも、もちろんない。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・秦風・黄鳥より)

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056 2011/04/14(木) 12:39:53 ID:3EdNCv5wGI
こちらは、「儒学」という学問の冷徹な研究を、ここでの主題としているわけで、
信仰対象としての儒教や、神仏への信仰それ自体などをここでの主題としているわけではない。

カルト教義を正当化する邪神を信じていたいってんなら、別に信じてりゃいいのであって、
ただ、世の中に多大なる危害や迷惑を撒き散らす邪義の狂信者である以上は、
受刑や強制入院や禁治産や参政権剥奪などの、それぞれの病状に応じた処分を受けるべきだということ。

もちろん俺自身はそんな処分を受けたくないから、カルト教義を信仰対象にしないのはもちろんのこと、
肯定的な研究対象にすらすることはない。人々を福利厚生へと導く純粋正学=儒学などに対照しての
検察目的の研究対象にすることはあっても、信仰や実践の対象としての研究対象にすることもない。

信仰という点において、俺自身はカルト信仰の敵になるつもりもなれば、味方になるつもりもない。

「君子の讒を信ずるや、之れに醻いること或るが如くす。
君子の惠ならざるや、舒むろに之れを究めず。
木を伐るには掎よせてきり、薪を析くにも杝よせてさく。
彼の有罪を舍てて、予にのみ之れを佗わしむ」
「為政者たちまでもが卑しい讒言を信じ込み、その信仰に報いがあるかの如く思い込んでいる。
それによって為政者たちが薄情になることにも、おもむろに極まることすらない。
木を切るにも木を引き寄せて切り、薪を割るにも薪を引き寄せて割るほどにも、視野が狭くなっている始末。
罪ある者をも罪なしとして、私のような無辜の市民にばかり重荷を担わせようとする。
(詩経には、過信の弊害を説く歌が多数載せられているが、決して不信を助長させようというのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)

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057 2011/04/15(金) 13:18:31 ID:IScrJQEuK6
生まれたものは必ず死ぬ、諸行無常の法則はキリスト教徒やキリスト自身にとってですら
絶対的なものであり、不滅の命などというものが本当に得られたためしもない。これが第一。

そもそも永遠の命などを得ようと願うことからして、煩悩に侵された妄執であり、
輪廻転生の業を菩薩として徐々に減らして行き、最後には二度と生まれ変わることのない如来へと
なることを、自力で画策まではできずとも、そこにこそ「あるべき姿」を認めなければならない。これが第二。

自分自身が菩薩行や成道を企図せずとも、断悪修善や勧善懲悪を「生の本質」であると捉え、
悪逆非道や善悪みそくそは、生の中でも特に「悪因苦果」という特殊な現象の種子となるばかりで、
それは「人の命が生きる」という方向性に限ってみても、至極瑣末なものにすぎない。これが第三。

自分自身がキリスト教徒であるような人間は、せいぜい第一の問題点にまでしか頭が回らず、
第一の問題を乗り越えたところで、さらにその先に第二第三の問題が山積していることにまでは頭が回らない。
あまりにも多くの勘違いを積み重ねてしまっているが故に、その払拭を想定するのも気が重くなる。
これが、一度キリスト信仰に陥ってしまった人間が、他の教学理解にまでは頭が回らなくなる原因でもある。

「神は飲食を嗜めたまい、君を使て壽考らしむ。
孔いなる惠みと孔いなるさいわい、維れ其れ之れを盡くさん。
子子孫孫まで、替わること勿く之れを引かしめん」
「神さまもお供えの飲食物を受け取られまして、あなたの長寿を保証せられます。
大いなる恵みと大いなる福徳とを、あらん限りに尽くされまして、
子子孫孫の代代に至るまで、その恩恵を末永く引かせ給います。
(個々人の長寿と、子子孫孫の永久なる繁栄は事実あり得ることだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・楚茨より)

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058 2011/04/15(金) 22:57:36 ID:IScrJQEuK6
先祖や君父への畏敬を欠かさない者は、決して自ら自身を誇り高ぶったりすることはなく、
それでいて相応な畏敬を抱くことで卑屈になったりはせず、
人としての最大級の思い切りのよさと共に善行を為し、
以て自らの長寿と、先祖代代から子子孫孫に至るまでの永久なる安泰とを企図する。

先祖や君父への畏敬をかなぐり捨てたカルト信者は、自意識過剰の思い上がりを
「主への敬服」などにすり替えて卑屈の極みと化し、
人としての最大級の思い切りのよさと共に悪行を為し、
以て自らの短命と、家庭の崩壊とを「不滅の命の獲得」にすり替える。

先祖代代の正統な家系の存続というのも、後世に福徳をもたらす素養である以前に、
大いなる福徳がもたらされ続けてきた結果なのであり、この上なく安泰な
家であったからこそ、代々の系譜が厳重に保管されていたりもするのである。

そこに不平を抱いたりすることがあるとすれば、それは自分の先祖が不行跡の持ち主であるが故に、
不幸の種子までもが自分に受け継がれている可能性に対するコンプレックスが原因だったりするわけだが、
先祖代々の系譜が厳重に受け継がれていくほどにも、安泰だった系譜が羨ましいというのなら、自分自身
こそは安泰な家系の始祖となればいいのであって、だったらただただコンプレックスばかりに取り込まれて、
後々の子孫の不幸の種子にもなるような、自分勝手な放蕩ばかりに明け暮れていたりしてもいいわけがない。

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059 2011/04/16(土) 01:27:07 ID:U8nGDXRc9E:DoCoMo
条理はいつも他力本願であり、ご先祖さまのおかげ。

不条理はいつも自業自得であり、自分のせい。

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060 2011/04/16(土) 12:32:25 ID:RHn6fHxd1k
「夫れ道は大路の若く然り。豈知り難からんや。人求めざるを病うるのみ」
「聖賢の説く人倫の道は、大道のごとく誰でも見つけられ、誰でも歩むことができるのに、誰もこれを求めない。残念なことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)

むしろ誰しもが狭隘な獣道へと押しかけて、広大にたたずむ人道を顧みようともしないのが乱世。
儒学の本場である極東社会ですら、人道を打ち捨てての戦乱に没頭する時期はそれなりにあったわけだが、
ちゃんと四書五経などを参考にして泰平を堅持していく、大道を歩み続けてきた歴史のほうが遥かに長い。
最悪級の乱世を経験してもなお、泰平を持ち直した経験も数多く、「人工的な大道闊歩の復元」
すらもが可能であることを、総出を挙げての実践によって、幾度となく証明し続けてきている。

「迺こに皐門を立てるに、皐門の有れ伉き。
迺こに應門を立てるに、應門の將將たり。
迺こに冢土を立てるに、戎醜も攸て行たれり」
「王宮の外郭の門を建てるに際しては、できる限り高く広くし、
内郭の正門を建てるに際しても、できる限り広大にした。
地霊を祭る大社も建てるから、できる限り多くの人々が祭りに集ってくれるように。
(文王の祖父古公亶父による周建国伝説の歌。誰しもが集える広大な門をあえて作ることにも、
一部の人間しか集えない狭隘な門をあえて作ることにも、それぞれそれなりの意味がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・緜より)

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061 2011/04/17(日) 13:19:26 ID:DvNZAcNmas
「書して不法なれば、後嗣何をか觀ん」
「記録の仕方に不法な部分があれば、後世の人々は何をそこから見習えるだろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公二十三年より)

ヘロドトスの「歴史」よりもさらにその成立年代が古く、記録の正確さでも遥かに上を行く
「春秋左氏伝」が四書五経の一書として今では認められていて、孔子やその門徒であった左丘明が
この「左伝」を世界初の本格的な歴史書としても成立させたから、後世にも「史記」や「漢書」
「後漢書」などの数多の正史が中国では編纂され続け、明らかに正統な筆法に則った
史書を律儀に成立させていく伝統が根付きもしたのだった。

先述のヘロドトス「歴史」もフィクションや誇張だらけの小説文学止まりな上、
何といっても、全くのフィクション史としてのイスラエル史を記録した旧約聖書が
正統な歴史書扱いされてきたのが西洋なわけで、そのせいもあって、正統な記録に則って
過去の歴史から学ぶという慣習が西洋には全く根付いておらず、大昔の先祖がどんな行状の
持ち主であったのかもほとんどがうやむやにされて、先祖供養がなされることももちろんない。

「政、法に率わずして心に於いて制す、民各おの心有り、何の上か之れ有らん」
「政治が古えからの法規に則らず、心の赴くままにやっつけられるばかりとなれば、
民も政治家への信用を無くして、それぞれ勝手気ままに振る舞うようになるばかりである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公四年より)

各々が勝手気ままに振る舞う民ばかりが生じてしまうのも、不法な歴史記録ばかりしか遺さずして、
後世に見習うべき教訓を伝えようともしなかった西洋の為政者たち自身の失策でもあるのであり、
それが何も、民たちにとっての不可避なる有り様なのでもなければ、もちろん神の業などでもない。

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062 2011/04/19(火) 13:14:45 ID:.jpc0OZzys
いま、世界で最も荒廃した地域に当たるのが、中南部のブラックアフリカ。

イギリスによる植民地化加害を蒙ったインドをも上回る貧困状態と、
アメリカやロシアに武器を売り付けられている中東をも上回る戦乱状態との
両方に動じ同時に見舞われており、あまりにも事態が深刻すぎることから、
数万人規模の殺戮が起ころうとも、大メディアではほとんどまともに取り上げられることすらない。

今のブラックアフリカは、宗教圏でいえばキリスト教圏(カトリックとプロテスタント)であり、
大航海時代に植民地侵略を加えた英欧諸国が、莫大な地産資源や奴隷をアフリカから収奪する過程で
土着宗教からキリスト教に強制改宗させており、邪教信仰による洗脳被害も仇となって、今のブラック
アフリカは、非キリスト教圏である中東(北アフリカ含む)やインド以上もの荒廃に見舞われている。

信じるものこそは、世界でも最悪級の破滅に見舞われているのがキリスト教。
富める者と餓える者との両極に人々を二極化し、人を餓えさせることによって
一部の人間を富ませる重権力犯罪構造全般を確立していく、鬼畜宗教。

「郲高なる惟の嶽、峻く天に極れり。惟の嶽神を降し、甫及び申を生む。
惟れ申及び甫は、惟れ周の翰たり。四國于こに蕃し、四方于こに宣ぶ」
「崇高なるかの嵩山は、高く天にまで至るほど。かの嵩山が神霊を降したまいて、仲山甫と申伯とを産ませた。
仲山甫と申伯とが周の大黒柱となって、四方の国も周に帰服することでの安定を得、周から四方の国へと
布令が宣べ伝えられるようにもなった。(権力道徳者は、ちゃんと国単位での全国の安定を保障している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・郲高より)

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063 2011/04/20(水) 12:07:39 ID:FXcSWHcfXI
実在しない脳内超越神への畏敬に摩り替えることで、自分たち自身の自意識過剰を肥大化させる聖書信仰と、
もはや信仰や畏敬は捨て去りながらも、なにもかもを天邪鬼や疑心暗鬼によって塗り固めようとする洋学と、
いずれもが「自意識過剰の思い上がり」に囚われていることには変わりなく、その思い上がりを根本から
払拭できてこそ到達できる三善道や四乗に、未だかつてただの一度も到達できたことがありゃしない。

信仰か無信仰かなどということは大した問題でなく、むしろ適切な畏敬の持ち主であるかどうかのほうが
遥かに問題であり、聖書信仰者と洋学者とは、人並みの畏敬をかなぐり捨ててまでの自意識過剰に
陥っている点では全く同じであり、故に地獄餓鬼畜生の三悪趣に止まっている点も共通する。

極端に狭隘な領域ばかりに、自分たち自身の自業自得によって没入しているのであり、
それがより一般的、普遍的な信仰姿勢や学究姿勢だなどと思い込んでいるのも、ただの勘違いに過ぎない。

「勤を以て之れを撫で、𨛗を以て之れを待ち、堅疆を以て之れを御し、
明神を以て之れを要し、服するを柔んじて貳あるを伐つは、鄹の次なり」
「努めて人々をなつけ、寛容に服するのを待ち、時には堅く強い態度で抑え付けもし、
天地神明への畏敬によって人々の心を一つにし、帰服したものには優しく接する一方で、
未だ二心のあるものを断固討伐していくことが、最上の徳とまではいかずとも、その次ぐらいだとはいえる。
(堅強であることも手段の一つとしては認めるが、信が五常〔仁義礼知信〕のうちの一つに
過ぎないのと同じように、堅強さや頑なな信仰ばかりに全てを還元するものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公九年より)

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064 2011/04/21(木) 12:35:23 ID:8FBzQCqL/Y
江戸時代のキリシタン禁教期に、儒者などとの論戦に敗北して棄教した数多の宣教師のうちで、
特に棄教の理由として多かったのが、「奇跡や救いなどちっとも起こっていない」という点。
特に儒学や仏教によって、実際論や実相論が篤く重んじられてきたこの日本で、
脳内の妄想だけでの、奇跡だの救いだのが通用することはなかった。

あと、犯罪聖書で規定されている「神」なるものが、ただの、一段階限りの形而上に
存在する神であるに過ぎない点。一段階だけ形而上の神が存在するのなら、そのまた形而上、
さらにそのまた形而上といった入れ子構造が、考えてみるだけでも想定しうるわけで、
しかもそのような形而上への探求の重畳が、荘子の思想の一部などとしてとっくの昔に
展開されていたり、密教の曼荼羅構造として本格的な信仰対象ともされていたりするために、
ただの一段階限りの形而上であるに過ぎない神などへの信仰が全く魅力にも欠けている点。

人間という生き物自体、先祖代代の系統の存続によって生まれ付いているわけで、
父母や祖父や曽祖父といった風に、何代も前にまで親族を遡っていくことができる。
先祖代代仕えている主君なども、由緒の正しさによっては何十代と遡れるわけで、せいぜい
一段階上の上司までにしか考慮が働かないのは、それこそ主人に仕える奴隷ぐらいのもの。

ただの一段階だけ形而上であるに過ぎない神への服従を説く
聖書信仰は、まさに奴隷制の信教化そのものであるといえる。

「鄹を執りて弘からず、道を信じて篤からざれば、
焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡しと為さん」
「善徳を取り成そうとしても決して広きに渡ってはおらず、道義を信じても
薄情なままであるようなら、そんなものは生きようが死のうが大した価値はない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二より)

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065 2011/04/22(金) 12:44:20 ID:n7ItN7.kx2
キリスト教圏である、サハラ以南ブラックアフリカにおける大量の餓死者の直接的な死因は、
干ばつなどによる飲食物の不足である場合が多い。しかし、まともな自給自足も叶わないような
難民を増大させるほどにも、個々の国々の国情が不安定化しているのも、かつての奴隷貿易や
今の利権売買などにかまけて、英欧侵略勢力の側について権力を得た一部の支配者が、
文明社会に相応の自他に対する徳化や教育も行わず、それでいて劣悪なカルト信仰ばかりを
蔓延させることで戦乱を巻き起こし続けているからで、決して単なる天災などではなく、
邪教信仰者の文明を悪用した放辟邪侈が原因となって引き起こされている人災にこそ当たる。

いま、リビアやらエジプトやらの北アフリカ社会の動乱が大きく取り沙汰されているが、
元よりサハラ以南のブラックアフリカは、イスラム圏である北アフリカなどとも比べ物に
ならないほどの荒廃に見舞われ続けているのであり、それはもはや手も付けられないほどの惨状で
ある上に、欧米聖書圏こそが引き起こした大失態であるからして、人災としてのブラックアフリカ
荒廃の実情を、欧米聖書圏によって支配されている今の大メディアなどが報道することはない。

非キリスト教圏であり、キリスト教圏であるブラックアフリカと比べればまだ国情を保てていた
ほうである、北アフリカの情勢が悪化しているから、大メディアなども報道しているのであり、真の
荒廃から目を背けての脳内妄想にふける、邪教信仰の悪癖がメディアをも支配しているのだといえる。

「七八月の間、旱すれば則ち苗は槁れん。
天油然として雲を作し、沛然として雨を下せば、則ち苗は浡然として興きん」
「夏の七、八月ごろに干ばつが続けばたちまち苗は枯れる。このとき天空に叢叢と雲が巻き起こり、
ザーザーと大雨を降らせたならば、苗もたちまちのうちに生気を取り戻して、元気になるのである。
(苛政に喘いでいた民が、仁に篤い聖君の統治によって息を吹き返す譬え。これと比べれば、
水路の際の植物が潤うという譬えが、いかに狭量な我田引水を暗示しているのかがよくわかる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・六より)

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066 2011/04/22(金) 22:48:54 ID:n7ItN7.kx2
俺の、ここ(明和水産)での書き込みで特に専念しているのは、このスレだけだ。

あとはウパニシャッドスレぐらいで、ウパニシャッド自体、
あまり日本国内での注釈や邦訳込みの研究も進んでいないので、
冒険的な探索よりは吟味や実践を第一とする俺自身の方針にも従って、
この四書五経(聖書)スレほどには本腰を入れていくつもりもない。

他のスレやそれへの書き込みなどは、ログを保存することもないような適当な捨て書きばかり。
雑多なスレへの雑多な書き込みを自粛しろというのなら、別にそれでも構わない。
「君子は思うところその位を出でず(憲問第十四・二八)」でもあるべきなのだから。

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067 2011/04/28(木) 10:55:00 ID:b27ZNLz2PE
恐るべきものは恐れねばならないし、畏れるべものも畏れねばならない。
そして、恐るべきものと畏れるべきものとを混同してしまってもいけない。

目の前に野生のトラやクマやゴリラがいれば、それは人間にとっての恐怖の対象になる。
あるいは小学校に包丁を持って乱入してきた無差別殺人鬼なども恐怖の対象になるし、
大地震や大津波などの自然災害だって恐怖の対象にはなる。でもそれらは、純粋に
危険な警戒対象に対する、健全な防御本能の発露の一つとしての「恐れ」であって、
目上の相手に対する敬いを込めた「畏れ」などであるわけでは決してない。

一切の権力を剥奪されている今の天皇陛下などに、恐るべき所などは微塵もないが、
やはりそこには畏敬すべきあらゆる要素が備わっていて、自らが人としての最低限の品位を
保つ目的によっても、「畏れ」を抱かねばならない相手であるという義務感がわいてくる。

野獣や天災や殺人鬼などを警戒対象として恐れる必要は確かにあるが、畏れ敬う必要などは微塵もなく、
逆に天皇陛下などを恐れたりする必要は少しもないが、自分自身のためにも畏れ敬う意義が多分にある。

野獣や天災や殺人鬼こそを畏怖の対象として、いま少しも恐怖すべきところがないことにことかけて
天皇陛下などを畏敬しようともしないような人間ってのは、「恐れ」と「畏れ」を完全に混同しており、
恐怖と畏怖を同一視してしまっている以上は、恐怖する必要のない相手には、畏怖することすらない。

体罰を加えてくる暴力教師などを畏怖していれば、己の修身による治人を旨とする
道徳的な教師への畏怖などにまでは当然頭は回らない。さらには、
そもそも教師ですらないただの犯罪集団を畏怖したりしているのであれば、なおさら。

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068 2011/04/28(木) 13:03:50 ID:b27ZNLz2PE
機運に乗じて大悪を為す不埒者を、だからといって羨望の的にしたり、
挙句には畏敬の対象にしたりしているようなやからは、
聖人の善徳になびき伏せることもあれば、罪人の悪徳になびき伏せもする、
自分たち自身でなびき伏せる相手を全く選べない、はかない小人止まりであり、
だからといってさほど罪になるわけでもないが、同時に権力者をねたむ
資格すらも微塵も持たない、自業自得での下民格であるのだとわきまえねばならない。

「紂の不善や、是くの如く之れ甚しからざるなり。
是こを以て君子は下流に居るを惡む。天下の惡皆な焉れに歸す」
「殷の暴君だった紂王の不善も、いまあげつらわれている程にひどいものではなかっただろう。
(ただ、悪人としてのパブリックイメージが定着して、諸悪の根源というほどもの扱いを受けるようになった。
それはもちろん多少は風評被害でもあるのだが、善いものをより善いように、悪いものをより悪いように
言い広めたがるのも民心の常なので、瓜田に冠を正さず、李下に靴紐を結び直さないように心がける要領で)
君子は下等な悪人として扱われることを一貫して忌み嫌う。天下の諸悪が全てそこに帰することにすらなってしまうから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二〇より)

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069 2011/05/04(水) 16:55:47 ID:4jydPro71.
久しぶりだな。もう滅亡したものかと思っていたが。

「君子の道は闇然として而も日に章らかに、小人の道は的然として日に亡ぶ」
「君子の道は始めは暗がりのようだが、日々の積み重ねで次第に明らかになり、
小人の道は始めは明るげでも、風化によって次第に衰亡していく。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三三より)

これはすでに既出の引用だが、君子の場合は始めのうちにこそ暗中模索の努力を積み重ね、
次第に結実の明るみへと進んでいくから「暗闇から光明へ」であるのに対し、小人の場合は
始めから空手形で遊び回って、仕舞いには信用が尽きるから「光明から暗闇へ」となる。

聖書信者は、聖書の信用性が尽きればそれまでだが、四書五経の勉強者の場合は、
四書五経を勉強し尽くした時点でもまだ始まりでしかなく、ここからさらに進学先がある。
それは、膨大な経書群であったりもする一方で、実社会における聖人や賢人との交流、
さらには自らが聖賢となっての、天の理法や仏法などの独力による追求でもあり得る。
だから佐藤一斎も「言志四録」で「太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は
経を師とす(言志録・二)」ともいっている。犯罪聖書のようなカルト文書を絶対的な
模範に掲げる場合だけでなく、比較的優良な書物である四書五経などを模範にすることもまた
最上どころか、中ぐらいの手立てですらない、一切皆悪の濁世に限っての非常手段でしかない。

「篤いなる公劉、居らず康らわず。乃ち場に乃ち疆に、乃ち積み乃ち倉に。
乃ち餱糧を裹みて、橐に于れ囊に于れて、思れ戢ぎて用て光あり」
「偉大なる公劉(文王の先祖)は、自らの安らぎばかりを求めることもなく、糧食を田や畦道にもどっさりと
積み上げて、穀倉も大袋も小袋も満杯にした。そのために民も和らいで、光明に当てられたかのようだった。
(『光明』は良くも悪しくも利益的な富裕を象徴する。もちろん我田引水によって富裕になることもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・公劉より)

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070 2011/05/05(木) 18:30:55 ID:D1T.MU4yIY
「譬えば山を為すが如し、未だ一簣を成さざるも、止むは吾が止むなり。
譬えば地を平らかにするが如し、一簣を覆すと雖も、進むは吾が往くなり」
「たとえば山を盛り立てていく場合にも、あと一もっこで完成という時点で
辞めたならば、それは自分が辞めたことになるし、地を平らにする場合にも、
ただの一もっこでも均した時点で、すでに自分が始めたことになるのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一九より)

儒者と聖書信者とは、無限の希望に安んじるか、無限の絶望に安んじるかという違いはあるにしろ、
希望とか絶望とかいった一定の心の趣きに安んじて、全くの揺るぎない状態に落ち着いている点が共通する。

心の趣くところに揺るぎがないから、その思考や言動も一貫して筋の通ったものとなる。
ただ、無限の希望に安んじている儒者が、勧善懲悪で思考や言動が一貫して筋が通るのに対し、
無限の絶望に安んじている聖書信者の場合は、思考も言動も悪逆非道であることで一貫する。

儒者による勧善懲悪の実践が極めて一概であり、時系列の発展によって山のような勧善懲悪の実践が積み立て
られるのに対し、聖書信者の悪逆非道の実践もまた、一概なものとして山のように積み立てられることとなる。

ただ、それはあくまで無限の希望や絶望といった、自分たちの心の安んずるところに基づく、多大なる
自業自得の実践の結実なのであって、寸分たりとも、不可思議な神だ悪魔だのの介在があったわけではない。

山のような悪逆非道の積み立てがあったとしても、それらも全て自業自得のものでしかなく、
悪逆非道の積み立てをやめて平地に均していくことも、一もっこやそこらのわずかな実践からしか
始めていくことしかできない。全ての所業は自業自得のものでしかない以上は、山のような
悪逆非道の積み重ねが、一転して山のような勧善懲悪の積み重ねに変質することなどを期待できないのは
もちろんのこと、一瞬や短期間で帳消しになることも期待できない。それこそ、山のようであるから。

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071 2011/05/06(金) 17:49:36 ID:jLwmrrj8mo
聖書信仰がまかり通っているような世の中では、何をやってもむなしい。

行動即犯罪の総員テロリスト状態と化した重権力犯罪社会で、
最高度に充実した部類の栄華ですら、泰平社会でのどんな苦役以上にもつまらない。

つまらなくて辛く苦しいから、聖書圏である現ブラックアフリカの人間なども、
苦しみを紛らわすために愛欲を貪って、人口爆発やエイズの蔓延といった、
人類の滅亡にすら繋がる社会問題を肥大化させ続けている。

聖書信仰のような邪教を貪り続けることによる、悪因苦果の自業自得は、
確かに人類の滅亡にすら直結していて、虚しさを充実に摩り替える転倒夢想など
に逃げ込んだところでやはり、寸分たりとも破滅が食い止められることはない。

「忠信の人は、以て禮を學ぶ可し。苟くも忠信の人無きときは、
則ち禮虚しくして道おこなわれず。是れを以て其の人を得るを之れ貴しと為すなり」
「忠義や信義に篤い者こそは礼儀を学ぶべきである。忠義や信義がないのならば、礼儀もまたむなしいものとなって、
天下に道が行われることもない。そのため、忠信を持つ人材が得られることもまた貴ばれるべきなのである。
(礼儀がむなしいもののように思われるのも、本人たち自身に忠信が欠けていることによる自業自得でしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)

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072 2011/05/07(土) 10:31:41 ID:/lDEA2dYzM
正直、俺がこうして犯罪聖書の劣悪な記述を逐一懲罰し続けているのも、
犯罪聖書や犯罪聖書信仰に対する憤りを原動力としているところがある。

今の世界におけるあらゆる害悪の元凶となり、致命的な規模の悪因苦果を撒き散らす
ことで人類を滅亡の危機にすら追い込みながら、未だ改悛の兆しすら見せようとも
しない犯罪聖書信者どもの所業に対する憤り、もっと言えば「怒り」がある。

しかし、だからといって教会にダンプカーで突入したり、アルカイダのように聖書圏への
テロ攻撃を試みたりするわけでもなく、自らに非があるとされない範囲の対抗措置として、
ここへの書き込みを行っている。つまり、聖書信仰者による害悪の撒き散らしに対する怒りを、
犯罪聖書の記述に対する逐一の懲罰のための動機付けという、正当な手段にのみ善用している。

「怒りを抱いたりしない」などというのは、出家して俗世のしがらみとも完全に縁を
切った、本格の宗教者などであって初めてよくするところであり、俗世には実際問題、
怒らねばならないような濁悪な事象がいくらでも介在している。親殺しや主君殺しにも
値するような悪行に対して、子や臣下に値するような人間が激怒しなかったりすれば、
そのほうが腰抜けの恥晒しであり、俗世の罪悪を何もかも、俗世の在籍者が怒りもせずに
容認したりすれば、それは罪悪を増長させる共犯者となるばかりであり、正式な出家者として
俗世を完全に諦観する過程で、怒りをも解脱する場合などとは、全く逆の悪影響しか及ぼさないのである。

「一人天下に衡行するも、武王之れを恥ず。此れ武王の勇なり。而して武王亦た一たび怒りて天下の民を安んぜり」
「ただの一人でも天下に無道を横行させる者がいれば、それだけでも武王は恥とした。これが武王の大勇であった。
そのため武王が一たびでも怒れば、それだけで天下の民全てを安んずるほどもの効果があった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)

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073 2011/05/08(日) 14:35:51 ID:/BwD9XQS96
「言を易ろんずる無かれ。曰うこと無かれ、苟くも朕が舌を捫づる莫しと。言は逝ぶ可からず。
言として讎いざる無く、鄹として報いざる無し。朋友も、庶民小子をも惠めば、子孫も繩繩として、萬民も承けざる靡し」
「出だす言葉を少しも軽んじてはならない。わが舌を抑えきれず、思わず発してしまうような無駄口を叩いてはならない。
一度発した言葉は二度と追い戻すことはできず、仇を報わぬ悪言も無ければ、福徳を報わぬ善言もない。もし、
友人も一般庶民も共に慈しむような善言を呈したなら、子子孫孫代代の世継ぎも栄え、万民もそれを仰ぐことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・抑より)

言葉には善言と悪言とがあり、よく制動の効いた善言には福徳の報いがあり、制動の振り切れた悪言には災禍の報いがある。
「発言即ち毒だから何もいうべきでない」などという極論ではなく、薬になる善言と、毒になる悪言との分別がそこにある。

一方で、抑制の利いた善言を発することが可能なのは大丈夫だけであり、婦人や小人などには、
言葉に抑制を利かせることからして不可能なので、以下のような言もある。

「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾く(ここまで既出)。
懿、哲婦こそは、梟たり鴟たり。婦に長舌有るは、維れ﨤いの階ざはしなる。
亂は天より降るに匪ず、婦人より生ず。匪の教え匪の誨うるは、時に維れ婦寺なる」
「聡明な男子は国を成す一方で、聡明な婦人は国を傾ける。
ああ、小賢しい婦人こそは、フクロウかミミズクのごとき悪鳥にも等しい。
婦女に長広舌のあることは、これこそ大いなる禍いのきざはしとなるもの。
この世の争乱も決して天が下したものではなく、婦人こそが生じさせたもの。
かの忌まわしい教えこそは、婦女に教えを乞うたものに違いなく」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・瞻卬より)

「匪の教え」ってのは、実際には西周の末帝幽王が、愛妾褒姒に溺れつつ乱発していた蒙昧な政令のことなわけだが、
「発言即ち毒」という決め付けを行う犯罪聖書が、女系民族ユダヤ人の創作物であればこそ、そんな決め付けを行うに
至った実証的な論拠ともなっているから、「匪の教え」を「犯罪聖書の教え」に類推することも不可能ではない。

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074 2011/05/10(火) 21:42:49 ID:SFbn6ivYu.
「之れを知る者は之れを好む者に如かず。之れを好む者は之れを楽しむものに如かず」
「知っているということは、好きだということに及ばないし、
好きだということも、ありのままに楽しんでいることには及ばない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・二〇より)

人類の滅亡をももたらすカルト教義を、知るということもできるし、好むということもできる。
しかし、重権力犯罪者の懲罰のような、真の善事を楽しむようにして、カルト教義を楽しむことはできない。

それは、カルト教義が本質的に辛く苦しくつまらない悪であるからで、
善いものだからではなく、悪いものだからこそつまらない。

信者に、自らの楽しみのための欲求を控えるように促す犯罪聖書の記述が、一見奇麗事に見えたところで、
それは「悪だからこそつまらないカルト教義」を容認する低能な思考回路を信者に植え付けるためであって、
善を楽しむことは大いに推奨する一方で、淫楽に耽ることだけは戒める、真の道徳規律などとは全く似て非なるもの。

人は本来、善を楽しみ悪を苦しがる生き物だが、善悪の分別が概念論やカルト教義などで濁されるに及んで、
善を苦しんだり悪を楽しんだりするようになってしまう場合がある。楽しむべきものを楽しませず、
苦しむべきものを楽しませるのは「洗脳」の常套手段でもあり、挙句には「楽しみ即ち悪」とまで
決め付けようとすらし始める。決してそれを、道徳規律の一種だなどと見なしてはならず、
人々を破滅にすら追い込むまっさらなカルト教義であるのだと、ちゃんとわきまえねばならない。

「參差たる荇菜、左右に之れを芼く。窈宨たる淑女とし、鍾鼓を之れ樂しまん」
「水辺には長短さまざまな野菜が繁茂し、右へ左へとこれを摘み取っていく。
そのようにして貞潔な良家の子女を求め得て、鐘や太鼓を鳴らしつつ楽しみたいものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・周南・關雎より)

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075 2011/05/11(水) 10:43:08 ID:timYgV4F76
どんなに無益な徒労にもガマンする、体のいい絶対服従の奴隷が完成するということだ。

「羝羊藩に觸れ、退くこと能わず、遂むこと能わず。利ろしき攸無し。艱しめば則ち吉なり。
退くこと能わず、遂むこと能わずとは、祥らかならざるなり。艱めば則ち吉とは、咎長からざるなり」
「猛進した羊が牧場の策に角をめり込ませて抜けなくなって苦しんでいるように、
進むことも退くこともできなくなっている。どこにもいいところはないが、
己れの蒙昧さを是正する苦しみを乗り越えられれば、不吉から転じて吉となる。
進むことも退くこともできないのは、進退の方法を自分ではよくわきまえられていないからだ。
是正の苦しみを乗り越えることが吉となるのは、進んで是正を受け入れた場合の咎はそんなに後を引かないからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・大壯・上六・象伝)

絶対服従の奴隷と化すための試練を乗り越えること以上にも、そのような劣悪な行状から
脱却していく自主性を獲得することのほうが、聖書信者のような小人にはより苦しいことともなるだろうが、
突発的には隷従の持続以上にも苦しい、隷従からの脱却を乗り越えた先に、あらゆる不当な隷従から解き放たれた、
真に自由で健全な精神が獲得されるのでもある。しかも、そのための試練も、そんなに長引きはしないそうな。

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076 2011/05/12(木) 12:36:00 ID:wl8vH2mKPE
ニーチェは「ツァラトゥストラ」で「神は死んだ」と宣言し、
これが近代以降の文明発展の指針の一つともなった。

しかし、神が死ぬというのなら、神が生きているということもあるわけで、
近代以前にキリスト教の神が生きていたり、また生き返ったりするかのような含みがまだある。
これはやはり、プロテスタントの家に生まれたドイツ人であるニーチェながらの落ち度であり、
その反キリスト的な姿勢もまた、実在する事物としてのキリストに
対するかのような、感情的な焼け付きをともなっている。

しかし、自業自得の災禍を外部的に救ってくれるとされる聖書信仰上の神など
始めから存在せず、一度だって生きていたこともないから死ぬこともない。
死んで生き返ることだってもちろんないのだから、キリストなりエホバなりを
あたかも実在する人物や神として扱って、そこに反意を催すのはこれまた蒙昧なことだ。

キリストもエホバも始めから実在しない。しかしそんなものの実在を信じ込んで、
自業自他得の悪因苦果を撒き散らす精神障害者たちが地球上に溢れ返ってしまっている、
そうであること全般が劣悪な犯罪現象であるが故に鼻つまみものであり、
特に劣悪さが極まる場合に憤慨すら催すということはある。

あくまで「現象」としての劣悪さに対する憤りであり、実在する神や人としての
キリストなりエホバなりなりに対する憤りがあるわけではない。そんなものは実在しない
のだから、実在しないものに対して実在する劣悪さへの憤りを擦り付けても仕方がない。

「鬼神は常に享くること無し、克く誠なるに享く」
「神は、常に必ず特定の相手からの祭りを受けたり、福徳を授けたりするものではない。
ただ至誠の持ち主の祭りを受けて、それに見合った福徳を授けるのみである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)

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077 2011/05/12(木) 21:44:54 ID:AWRepkmrQo:SoftBank
>>近代以前にキリスト教の神が生きていたり、また生き返ったりするかのような含みがまだある。

今の哲学会を全否定するような発言だな?
ディオニソス的ではなくて?具体的に引用してみな。

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078 2011/05/12(木) 22:59:57 ID:wl8vH2mKPE
別に、哲学や思想がキリスト教のためにあるわけでもないし、
宗教信仰ですら、本来はキリのようなカルト信仰のためにあるわけではない。

聖書信仰侵入以前や、一旦は侵入したものの完全に廃絶した
江戸時代のような良質な時代においては、神道とか仏教とか儒教とかが
磐石な思想哲学とも完全に不可分な状態にあったから、それらが
「宗教(religion)」などというおかしなカテゴリーで括られることもなかった。

それが宗教と学術、信仰と学知とが完全な統合失調状態にある
聖書信仰や洋学が侵入してくるに及んで、仏教や儒教や神道までもが
「宗教」という矮小な括りに押し込められて、そこで展開されている
思想や哲学までもが正統な扱いを剥奪されて、デカルトだのカントだの
ヘーゲルだのニーチェだのの、聖書圏で捏造された間違いだらけの
エセ思想哲学が正統扱いまでされるようになってしまった。

日本や中国やインドなどの非聖書圏では、思想哲学と宗教信仰の
統合失調などが歴史的に存在しないから、儒であるものや仏神であるもの
などを宗教として扱ったり、思想哲学として扱ったりの曖昧さがあった。
しかしそれは決して、仏儒や神道が正統の思想哲学に中たらないからではなく、
むしろ正統中の正統の思想哲学であればこそ、正統な宗教信仰との分裂などを
来たすこともなく、哲学であったり宗教であったりする歴史を歩んで来れたのだ。

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079 2011/05/16(月) 12:37:52 ID:zPcLI422I2
善のために苦しんだのではなく、悪のために苦しんだのだ。

悪こそは本質的に苦しみであり、善こそは本質的に楽しみでもある。
善が苦しかったり、悪が楽しかったりすることからしてまやかし。
そのような転倒夢想をけしかける妄言はもちろんのこと、
確信的にけしかけているわけではないが、善が苦しみであったり、
悪が楽しみであったりすることを大前提としているような
無明(根本的無知)に囚われた物言いもまた、善のつもりで
悪を推し進めるような過ちを増長させる元凶となってしまう。

悪を悪だと把握して悪を為すものなど、実際にはほとんど皆無といってよく、
巨悪を為しているものですら、そのほぼ全てが、悪を善だと思い込みながら
悪を為したり、「善も悪もない」などと思い込みながら悪を為したりしている。
真に悪を悪だと把握できたものは、悪こそは本質的な苦しみであることをも
大悟するから、わざわざあて悪を為す気概などを二度と持たなくなるから。

「苦節は貞にすべからず。(中略)苦節は貞にすべからずとは、その道窮まればなり」
「度を越した苦しみを伴う節制は常道とすべきでない。苦しんでいること自体が行き詰まりの証拠だから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・節・彖伝より)

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080 2011/05/18(水) 10:39:37 ID:2iCyAonZYw
正義も邪悪も超越した、超俗に居ます仙人や仏者であるならともかく、実際問題として
情念入り乱れる世俗社会において、情念も情欲も全く持たないだなんてのはまず不可能。
ただ、その情欲がせいぜい、正義に即して邪悪を排する方向性を持つように努めることで、
邪悪という火種に情欲という油を注いでの災禍の肥大化によって、
自業自得による自滅を招いてしまうようなことを避けるようにするまで。

正義は元より、純粋な清浄さの中にあるものではなく、情欲や邪悪も多々
入り混じる清濁混交の世の中で、せいぜい早死にしない程度に健康を保てるだけの、
最低限の清浄さを保つぐらいのところに、その真髄すらもが存在している。

だから、正義にも喜怒哀楽のような旺盛な情念が伴っていて、ただその情念が
正義によって規律されている点だけが、情欲と邪悪の相乗の悪循環に落ち込んでいる
カルト信仰者などとは違うところ。出家や隠遁などの正式な手続きも踏まえることなく、
情念入り乱れる世の中で情欲を捨て去るのも不健全なことであり、また情欲を捨て去る
ための正式な超俗の徒になれたところで、それが正義の代表者たる根拠になるわけでもない。

俗世での邪欲への落ち込みと、俗世全体からの逃避と、いずれも正義とは全く関係がない。

「情は信ならんことを欲し、辭は巧ならんことを欲す」
「情念は信義に基づいていることを欲し、言葉はその情欲をつぶさに表現できていることを欲する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十三より)

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081 2011/05/19(木) 12:11:32 ID:xdDFINw37Q
「言うことを聞かなければ報復する」などという脅迫に屈することからして、すでに
濁悪の極み。しかも絶対服従を強要する側から「論じ合おう」などとほざく大欺瞞。
言ってることが完全に矛盾している統合失調症患者であり、しかも唯一絶対の神だという。
そんな神を信じても、服従しても何もいいことはなく、対等に論じ合うことすらやめて、
一方的な治療対象として扱ってあげることだけが、正当な扱いとなるだろう。

「厥の渠魁を殲して、脅從は治むる罔れ」
「(国家社会をも巻き込んでの大権力犯罪などは)率先して罪を為した巨魁をこそ殺し尽くし、
脅し付けられて仕方なく犯行に従ったものについては、重い罪に問うてはならない。
(脅迫による従犯を増産しての、懲罰しきれない規模と化した大権力犯罪などの処分方法)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)

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082 2011/05/20(金) 12:11:48 ID:B2OzC.LvCU
「今の王たらんと欲する者は、猶ほ七年の病に三年の艾を求むるがごときなり。
苟くも畜えを為さずんば、終身得ず。苟くも仁に志さずんば、終身憂辱し、以て死亡に陷らん」
「いま王者たることを欲するものは誰しもが、七年越しの長患いの重病(極刑級の大権力犯罪)を
治すのに、三年間よく乾された良質なもぐさ(良質な権力道徳のわきまえ)を急に求めるようなもの。
(もぐさを用意するのにも三年かかるから、治療に取り掛かるにもまだ三年待たねばならない)
あまりにも手遅れで気も遠くなりそうだが、さりとてもぐさの蓄えを始めなければ、
いつまで経ってももぐさは得られない。それと同じように、今からでも仁を志さなければ、
いつまでも憂辱にまみれたままでいて、身は殺され国は亡びる最悪の結果に陥るしかない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・九より)

二千三百年以上前にも、もぐさを使ったお灸が皮膚病治療などに使われることもあったようだが、
そこにもやはりそれなりの手順を必要とし、思い付いたからといってすぐに治せるなどということもなかった。

それは、患者自身が自重を怠って患いを深刻化させて来たせいもあるし、治療のための自主的な用意を
怠ってきたからというのもある。そこは、やはり自業自得なところであって、多分に甘えによる所もあるから、
その甘えにまで応じてやって、すぐに治してやるなんてのも教育上よくないし、事実それは不可能なことでもある。

重い病は、たとえ治せるとしたところでも、大掛かりな治療を必要とするのが常であり、
これ以上病状を悪化させるような不摂生を、患者自身が取り止める程度の自助努力も必要になる。
患者自身が好んで悪化させ続けている病を、その場から即効で治療していくような徒労にまでは付き合いきれない。

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083 2011/05/21(土) 11:52:01 ID:NgJ8JxBA/A
たとえば、

「齊の景公、政を孔子に問う。孔子對えて曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり。公曰く、善なるかな」
「斉国の景公が孔先生に政治のことを尋ねた。孔先生は答えて言われた。『君臣父子の上下関係が
よく定まることです』 これを聞いて景公は言われた。『確かに、それこそは善であるだろうな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一一より)

とあるから、親子兄弟の殺し合いを信者に奨めるイエスの物言いは、儒学における不善=悪を善とするものだといえる。
そして君臣父子夫婦の三綱によるたがが外れたカルト信者たちは、君父を敬うことによる情欲の制御も振れきって、
同年代の異性に対する愛欲ばかりを貪って、世界人口を爆発させて人類を滅亡へと導きつつもある。そして、

「如し其れ善にして之れに違うこと莫くんば、亦た善からずや。
如し不善にして之れに違うこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや」
「善であることに従って異論を唱えることがなければ、これは善いに決まっています。
しかし、不善であることにも隷従して異論を唱えることがないというのなら、
それこそ一言に従うだけでも、一国を亡ぼすほどもの災禍を招くのではないでしょうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一五より)

とあり、不善こそは国家社会規模での破滅の元凶となることまでもが、ちゃんと把握されている。
善こそは福徳の、悪こそは破滅の種子であることが儒学の側では太古の昔からわきまえられている。
それこそ、カルト信仰による災禍の肥大化が勃発し始めるよりも五百年以上昔から。

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084 2011/05/22(日) 11:41:52 ID:SmMbYQJA7o
正常な人間にはより壮健たることを促し、病人もなるべく健康となるように促し、
罪人にも自分自身の自主的な贖罪による罪障の緩和を促すのが正しいあり方。

正常な人間までもが異常になるように促し、病人もより重症となるように手回しし、
自らが冤罪を引き受けることで、罪人の罪障をより重からしめたりするのが間違ったあり方。

病人や罪人に対する処方にも正しいものと間違ったものがあり、病人や罪人を
相手にしていることすなわち、過ちの正当化などにはもちろんならない。

医者とか刑吏とかいった仕事が善いものか悪いものかはともかくとして(東洋では、病人や罪人
からして元からいないほうがいいものであるために、医者や刑吏が先賤業扱いされてもいた)、
医者である以上は名医であり、刑吏である以上は厳粛な刑吏であるに越したことはなく、
大金せしめて患者の様態をかえって深刻化させるやぶ医者だったり、罪人に脱獄も
逃亡もやりたい放題やらせる、ヤクザな刑吏だったりしてはならない。

「太甲湯の典刑を顛覆す。伊尹之れを桐に放つ。太甲過ちを悔い、自ら怨み自ら艾めて、
仁に處り義に遷ること三年、以て伊尹の己れの訓えを聽くなり。亳に復歸せり」
「昔、湯王の後を継いで殷の主君となった太甲は、自らの都合で湯王の定めた刑法を反故にして回った。
そのため湯王の重臣でもあった宰相の伊尹が、殷の都である亳から太甲を追放し、湯王の墓のある
桐に謹慎させた。太甲は自らの過ちを悔い、よく自責して自修に努め、仁義を守るように志して三年、
(刑法を勝手に覆してはならないという)伊尹の教訓も聞き入れられるようになったために、亳に復帰した」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・六より)

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085 2011/05/24(火) 11:52:03 ID:Bxj6l3UHd6
ついに出た、「罪悪の辛苦の自業自得からの言い逃れ」。

罪を犯すのも悪魔のせいだから、悪魔を滅ぼす神によって罪も清められると。

先がた台東区の路上で殺人未遂事件を起こした男が、
逮捕後に「スーパーサイヤ人に殺せと言われた」と供述しているのと同レベル。
男は「心神喪失とまではいかない統合失調症」扱いで執行猶予の判決を受けたようだが、
この男の言ってることと同レベルの邪義を狂信しているカルト宗教が公然と公認されている
現代社会では、この男に適切な処分を科すことも、再発防止のための適切な治療を施すことも適うまい。

「天、有罪を討つ。五刑、五用せんかな。政事、懋まんかな懋まんかな」
「天が罪あるものに罰を下されようとしているのだから、五つの刑罰(処刑、服役、強制入院、禁治産、参政権剥奪)を
それぞれに的確に用いるようにし、政事にもよくよく励んでいかなければなりません(天罰こそは真の天意なり)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)

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086 2011/05/24(火) 18:03:55 ID:vY3OkzHdPc:DoCoMo
これから、中国が世界のトップにのし上がる。

アメリカもイギリスも、悪逆非道な権力犯罪の無理が祟って自滅し、
誰にも選べない力の論理のありのままの押し通しによって、
名実共に中国が世界の頂点に君臨し始める。
 
 
 
これほどもの、人類に対する天罰が、他にあろうか? 
 
 
 

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087 2011/05/24(火) 18:32:04 ID:Bxj6l3UHd6
聖書圏の洋学(マルクス主義)を受け入れて、共産圏と化して
しまっている今の中国などが決していい国だなどとは思わないし、
絶大な人口に対する資源配分の少なさからなる物的荒廃も、
目を蔽いたくなるような陰惨さであることが、日本海越しにすら伺える。

俺自身も生粋の日本人であり、中国に対する親身な思い入れ
などもないから、あんな国が、あんなままで世界のトップに
のし上がることを、心の底から「厭なことだ」と感じている。

しかし、にももかかわらずではなくだからこそ、それが、
放辟邪侈を極めすぎたあまり、何もかもを地獄・餓鬼・畜生の
三悪趣に染め上げてしまった、今の人類に対する天罰であると
いうのなら、それは確かに、納得せざるを得ないものがある。

心の底からイヤだと思うものが、有無を言わさず押し付けられて、
否応なく甘受させられる、だからこそ本物の罰であるといえる。

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088 2011/05/25(水) 11:59:19 ID:nHCqcsdXQI
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」という完全誤謬信仰が、
「そんなものすら信じられる自分ってすごい!」という独善的な自己陶酔を
カルト宗教の信者にもたらし、悪い意味での「ゆるぎない心持ち」を硬直化させる。

もっとも代表的なカルト信仰であるキリスト信仰の場合には、十字架に張り付けられた
長髪ヒゲに半裸のおっさんが「自分の罪を償ってくれた」などと信じ込む過程で、
自他の区別も付かなくなる「鏡映認知障害」に罹患し、知能をIQ20〜30程度にまで低下させる。
他人が自分の罪を償ってくれることを信じ込むこともまた典型的な完全誤謬信仰であり、
「そんなものすら信じられる自分ってすごい!」というアホな自己陶酔を糧にして、
キリスト信者はいつでもIQ20〜30程度の重度知的障害に自らを陥らせることができる。

しかし、常時IQ20〜30程度の重度知的障害のままでは、最低限の日常生活すらままならないから、
日常生活などを営む過程において、キリスト信者もIQを100程度にまで持ち上げることがある。
罪を罪だと認識もできないIQ20〜30程度の低能の場合には、悪因苦果による苦しみからも免れるが、
生活を営むためにIQを100程度にまで持ち直したときには、やはり悪因苦果の苦しみを味わわされる。
その瞬間にこそ無軌道な愛欲をも貪って、人口爆発や性病の蔓延などの致命的な問題をも引き起こす。

罪を罪とも思わずにいられるキリスト信者である以上は、ほんの少しでも行為能力を実用するような
人並みの生活を自分で営もうとしてはならず、営もうとする限りにおいては必ず過ちを犯すのだ。

「私に惠みて鄹に歸らざるときは、君子は自ら留めず。(詩に)云く、人の我を好する、我れに周行を示せと」
「私的に利益を恵んでくるものがあって、それが仁徳に違っている場合には、君子はそれを自らにとどめておかない。
詩経(小雅・鹿鳴)にも『私を好む者があるなら、広くあまねき施しによってこそ、その意思を示せ』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)

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089 2011/05/25(水) 17:47:26 ID:z5bsi.vB0w:DoCoMo
完全な誤謬を信仰することは、その信仰自体もまた完全な誤謬となる。

彼も誤謬なら、我も誤謬。
誤謬を信じるという誤謬によって、狂信者は狂信対象との連帯感を抱く。

アホ臭いっちゃあアホ臭いが、そうやって信者数を稼いで来たのが
キリスト教徒でもあるわけだから、いくらアホ臭いといえども、
人間の底抜けの愚かさを見くびっちゃいけない。

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090 2011/05/26(木) 11:45:12 ID:dvcgNtusQc
端的にいえば、神は「家元」のようなものだ。

武道であれ茶道であれ華道であれ、ある種の道理を家系によって
引き継ぐもの、現実社会上で言えば家元に相当するものが神であり、
実際の家元よりは遥かに抽象的な道理を扱っている場合が多い。

中でも特に、高尚な道理を司っているのが「天道」の神々であり、
ギリシャ神話の神々が司るとされているような、瑣末な概念よりも
遥かに実相に即して重要な意味をもつ道理を司っている場合が多く、
司っている道理の意味が高尚過ぎて難解でもあるからこそ、
神の形を借りての畏敬対象としての形式を取ってもいる。

犯罪聖書の神もまた、「邪神」という意味での神であるのは確かであり、
ある種の道理を司る家元的な意味を持っているのも確か。
しかし、その道理が天道に配分できるような代物ではなく、
地獄道や畜生道に当てはまるもの——犯罪道でこそあるから、
犯罪聖書の邪神もまた天道に配分されることはない。

高尚な愛を司る天道の神だって存在しないわけではなく、
日本神道の最高神であり、皇祖神でもあるアマテラスこそは、
愛を高尚な理念に昇華した上で司っている、真の「愛の神」にも当たる。
それと比べれば、アフロディーテやクピドーが司る愛ですら下劣なものであり、
ましてや、罪悪の辛苦を紛らわすための無軌道な愛欲への耽溺を促す、
犯罪聖書の神の、愛に対する姿勢は、想定しうる限りでも最悪の部類に入る。

全ての神が愛を司っているわけでもない上に、
あらゆる愛の中でも最も下劣な濁愛を司っているのが犯罪聖書の神と来た。

「夫の禮は必ず天に本づき、地に殽い、鬼神に列し、喪祭射御冠昏朝聘に達す」
「礼儀が必ず天道に基づき、かつ地の風土に合わせられることで神との調和を図り、
冠婚葬祭から武芸や馬術、朝廷での招聘に至るまでの全てにかけて通達する。
(礼儀こそは、人が神との調和を図る上での、真に正式な手立てである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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091 2011/05/27(金) 14:38:58 ID:DSxyUNbfnc
ただの妾腹の私生児を「神の子」と呼ぶことが、それだけでも大欺瞞の発端になるから、
ただそうするだけですでに、自意識過剰の思い上がりを肥大化させていく機縁に差し掛かる。

妾腹の私生児は、あくまで妾腹の私生児止まりであり、自身が妾腹の私生児だった孔子も、
自らの出自が賤しいものであることを認めた上で(子罕第九・六参照)、その卑しさ
からなる劣等感をバネに「下学して上達(憲門第十四・三七)」したことを認めている。

決して、妾腹の私生児などという賤しい身分それ自体を正当化したりはせずに、
その賤しさを真っ向から受け止めて、それを乗り越えることによって聖人君子として
大成したのだから、同じ妾腹の私生児という境遇の賤しさに取り込まれた挙句に、
自らの賤しさを正当化する妄言妄動に走ったイエスなどとは、天と地の程もの格差があるといえる。

生まれつきの身分ではなく、生まれ付いて後の本人たち自身の自助努力の有無こそが、
孔子とイエスとの間に、天と地ほどもの、品性の厳然たる格差を決定付けたのである。

「聘すれば則ち妻と為り、奔れば則ち妾と為る」
「正式な礼儀に即して相手に招聘された女が妻となる一方で、礼儀に基づかないままに囲い込まれた女が妾となる。
(父母の野合によって産まれた孔子も妾の子なら、マリアの密通によって産まれたイエスもそれだけで妾の子だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)

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092 2011/05/28(土) 23:35:36 ID:O9M5v.3Qzk:DoCoMo
反社会勢力としての、犯行宣言も程ほどに。

「易簡にして天下の理を得」
「物事を難しいものとして考えず、簡単に理解できるものと
見なすことで、天地万物を司る道理までもが理解できる。
(そもそも普遍的な道理自体を難しく捉える必要がないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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093 2011/05/29(日) 23:56:45 ID:gQMv/9V/8w
「人皆な人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの心有り、斯ち人に忍びざるの政有り。
人に忍びざるの心有りて、行ち人に忍びざるの政有れば、天下を治めること、之れを掌の上に運らすべし。
人皆な人に忍びざるの心有れば、今人乍かに孺子の將に井に入らんといるを見れば、皆な怵酡惻隱の心有り。
交わりを孺子の父母に結ばんとする所以にも非ず、誉れを郷黨朋友に要むる所以に非ず、其の聲を
悪みて然るにも非ざるなり。是れに由りて之れを觀れば、惻隱の心無きは、人に非ざるなり」
「人は誰にでも、他者を憐れむ心が備わっている。昔の賢明な王者なども、人を憐れむ心があればこそ、
その哀れみを以って政事を為したのである。本当に人を憐れむ心があって、その憐れみによって
政事を行う場合にのみ、人は掌の上で世の中を転がすようにして、政事を行うことまでもが許される。
 誰しもに人を憐れむ心が備わっているからこそ、たとえば今、目の前で赤ん坊が井戸の底に転落
しようとしている姿を見れば、誰しもが思わず反射的に『赤ん坊を助けてやらなければ』という気になる。
それは、全くの哀れみの気持ちからなる反射的な反応であり、赤ん坊の親に恩を売って取り入りたいからでも、
赤ん坊を助けた名誉を故郷や友だちに知らしめたいからでも、助けなかったことによる不名誉を避けるためでもない。
このような事実を以ってしてみれば、こういった憐れみの心すら捨て去ってしまった人間は、もはや人ではないといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・六より)

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094 2011/05/29(日) 23:57:41 ID:gQMv/9V/8w
誰しもが、何の考えもないところに、
目の前で危機に陥っている赤ん坊を見た瞬間に、それを助けようとする心を抱く。
どんな打算にも先んじて赤ん坊を助けようとする惻隠の情の実在を以って、
孟子は「人の本性は善である」とも主張する。

見返りを欲するから憐れみを抱くのではなく、何よりもまず憐れみの心が先んじている。
見返りのために抱かれる憐れみなどは、あらゆる見返りに先んじる本物の憐れみと比べれば、
捏造された紛い物の憐れみであり、本物の憐れみとは全くの別物である。

打算が先んじる紛い物の憐れみに固執するあまり、打算にすら先んずる、
人間の本性としての善性から発する憐れみを疎かにしてしまったような人間は、
もはや決して本物の善思善言善行を為すことは叶わなくなる。だからこそ孟子は、
本性の善性からの憐れみを失った人間は、もはや人ですらないと断じたのだ。

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095 2011/05/30(月) 12:07:29 ID:DtmXxfSwGA
削除(by投稿者)

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096 2011/05/30(月) 12:11:26 ID:DtmXxfSwGA
だいぶ長文を引用し始めたが、ただ切れ切れの複数の主張の組み合わせになっているだけなので、
こちらはただの長文よりは、いくつかの引用の組み合わせで応対したほうがいいだろう。
真正聖書と贋聖書と、記述の順序までは完全に一致していないから。

「公曰く、衣食を安んずる所、敢えて專らにせざるなり、必ず以て人に分けんがためなり。
對えて曰く、小惠にして未だ遍からざるなり、民は從ざるなり」
「(日ごろ旺盛な肉食などの奢侈な生活を送っていることで知られる)魯の荘公が言った。
『わしがこんなに豪華な衣食生活をしているのも、別に独り占めにしたいからではない。
できるだけ多くの人々に分け与えられるだけの、多くの衣食を蓄えているからなのだ』
聞き手の曹劌が答えていった。『そんなのはせいぜい、隣人に対する小さな恵みになる程度で、
決して万民に広く衣食を提供するつもりの所業ではありません。それでは大多数の民は従いません』
(聖書信仰者が相当な数に上りながらも、どうしても人間社会の大多数にはなれない根拠の一)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公十年より)

「(詩に)云く、明發まで寐られず、二人を懷う有りと。文王の詩なり。祭の明日に、明發まで寐られず、饗して之れを致し、
又た從って之れを思う。祭の明日に樂と共に哀半ばす。之れを饗するときは必ず樂しみ、已でに至るときは必ず哀しむ」
「詩経(小雅・小宛)に『二人のことを想うと、明くる日の朝まで寝付けなくなる』とある。これは文王が父母を
追慕する心境を歌った詩である。(これが由来となって当時の中国では)先祖祭りの明日の朝まで寝付くことなく、
徹夜で祭りを行う。来客を饗応するという事務に携わりつつ、心中では本当に先祖への思いをはせる。
すると祭りの明日には楽しみと悲しみが相半ばした心境になる。客を饗応するときには精一杯楽しもうとし、
そうでないときには精一杯悲しんでいたからだ。(記述姿勢自体が明日の想い悩みの予想になっているが、
先祖や父母に対する孝心の厚さを養うための手順を挙げた、非常に重要な記述にもなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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097 2011/05/31(火) 12:36:20 ID:B/qvlVszYg
孔子も「君子は見るときにはちゃんと見たいと思う(季氏第十六・一〇)」とはいうが、
別に修己治人のための最大級かつ必須の条件が「目がよく見えること」なわけでもない。

むしろ人を裁く限りにおいて、自分までもが相手と同等の罪を犯していたために、
相手に厳罰を科したことで、そのしっぺ返しが自分にまで及ぶような事態を避けるのが第一であり、
そのためには出歯亀行為や盗聴行為を含む、あらゆる反道徳行為の自粛こそが必要なのだ。

「工尹商陽、與陳棄疾と呉師を追うて之れに及ぶ。陳棄疾、工尹商陽に謂いて曰く、王事なり、子、
弓を手りて可なりと。弓を手る。子、諸れを射よ。之れを射る。一人を斃し、弓を韔にす。又た及ぶ。之れに謂う。
又た二人を斃す。一人を斃す毎に、其の目を掩う。其の御を止めて曰く、朝には坐せず、燕には與からず。
三人を殺すも、亦た以て反命するに足らんと。孔子曰く、人を殺すの中にも、又た禮有りと」
「楚の統率官である商陽が、陳棄疾と共に逃走している呉の要人たちを追跡して、これに追いついた。
陳棄疾は商陽に言った。『これは王命である。汝に弓を取ることを許可する』 商陽は弓を取った。
陳棄疾『あれを射よ』 逃走する呉の要人を射て一人を殺し、商陽はこれ以上の殺生を忌む意志を表するために
弓を袋にしまい込んだ。しかしまた他の逃走者に追いつき、陳棄疾はまた商陽にこれを射るように言った。
商陽は今度は二人を射殺し、一人を射殺すごとに我が目を蔽い、人を殺すことの忍びなさを表した。
追撃を一旦中止して商陽は言った。『私はもう朝廷には上がらず、燕の禄を食むことも致しません。
三人もの命を奪ったことは、やはり王命に反することが明らかですから(明らかな王命によって人を
射殺しながらも、王に殺人の罪を被せまいとして、あえて王命に反して三人を殺したのだと主張している)』
孔先生は言われた。『人を殺すような凶事の中にすら、礼儀を尽くす道は備わっているのだ』
(弓で逃走する相手を射殺すほどもの眼力を備えながら、射殺の瞬間にはあえて相手から目をそらし、
王の裁きに基づく命令で行った誅殺であるにもかかわらず、自らがその咎を進んで受けようとしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

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098 2011/06/01(水) 09:47:08 ID:o5bA7X1sjY
「罪に陷いるに及びて、然る後に從いて之れを刑す。是れ民を罔するなり。
焉んぞ仁人位に在りて、民を罔して為む可けんや。是の故に賢君は必ず恭儉下を禮し、
民に取るに制有り。陽虎曰く、富まんと為せば仁ならず、仁を為せば富まずと」
「民をあえて、罪を犯さざるを得ないような苦境に追いやっておきながら、自分たちでそこに刑罰を加える、
これこそは民を漁で網にかける魚も同然の扱いとするものである。どうして仁者が権力者としての
有力な立場にあった場合に、このような所業を為すことができようか。そのため賢明な主君は、
常に恭しさと慎ましやかさを保ち、どんなに身分の低い相手にも礼節を以て接し、
民から税を取り立てる場合などにも一定の制限を設ける。そのため昔、魯の重臣だった
陽虎も『金を稼ごうとすれば仁は為せないし、仁を為そうとすれば金は稼げない』といったのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)

自他の国民から法外な暴利を貪るためのマッチポンプを正当化する地獄の邪教もある一方で、
そのようなマッチポンプの有害無益さを完膚なきまでに看破した上で、そのような悪行に
手を染めることなく、善良な統治行為を行っていくための指針までもが体系的に用意されてもいる。

しかも、どちらかといえば、民を網するマッチポンプを排する権力道徳統治の体系のほうが、
甚大なマッチポンプで人類を滅亡にすら導く権力犯罪支配の体系よりも、質でも量でも古さでも
発行部数でも、あらゆる面において上回っており、仮に権力犯罪支配を今すぐ完全に取り止めて、
完全な権力道徳統治に切り替えたとしても、その体系消費におつりが来るぐらいのものだ。

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099 2011/06/02(木) 13:00:58 ID:jF4U4sFmA.
「君子の過ちや、日月の蝕するが如し。過つや皆な之れを見、更むるや人皆な之れを仰ぐ」
「為政者の過ちというものは、まるで日食や月食のようなものだ。
過ちを犯せば誰しもがこれを見るし、改めれば誰しもがこれを仰ぐのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二一より)

犯罪聖書信仰の蔓延によって、何もかもが過ちで塗り固められている今の世の中は、
あたかも日食と月食が同時に起こったかのように、真っ暗闇と化した世の中だといえる。

そこから急に、蝕が終わって日月の光が差し込めば、暗闇に慣れ過ぎた人々の目は、
あたかも何倍もの日光や月光が差し込んできたかのように勘違いして面食らうかも知れないが、
それはあくまで錯覚であり、日月に相当する為政者たち自身は、ごくごく小さな部分からの
更正の積み立てから始めていく。真っ暗闇から急に最大級の光へと転換するのでは、
誰も付いてくることもできないから、闇が光に裏返るような安易な短絡を期待するのは、
二度と政事行為に手出しすることのない、参政権被剥奪希望者に限るがいい。

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100 2011/06/03(金) 11:43:21 ID:qjWLZlUCaY
「子曰く、孝なるかな、閔子騫。人其の父母昆弟を間する言あらず」
「先生が言われた。『孝行者なことだな、閔子騫は。人が彼の父母兄弟を謗る言葉を聞いたことがない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・五より)

先天性の父母兄弟は、自分では選べない。にもかかわらずではなくだからこそ
儒学は、否応なく自分を産み育ててくれた父母への孝心を大事にせよ、と促す。

しかるに、上記の批評対象である、孔子の門弟の一人だった閔子騫は、
実父が実母と別れて後妻を娶り、閔子騫とは腹違いの弟二人が産まれるという
冷ややかな境遇に置かれていた。よくありがちな継母からのいじめなどにも遭って、
普通なら反発して継母の悪口なども言いそうなものを、実父の面目を守るためにも、
閔子騫はいじめにも耐え抜いて、かえって継母や腹違いの弟を弁護するような
発言を行ったために、周囲の人々も継母や弟を影で謗るようなこともしなかった。
そのことを以て孔子は、「閔子騫はなんと孝行者なことだろう」と評したわけだ。

たとえ血のつながりがなくたって、自分で母兄弟を選んだりはしないのが孝だ。

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101 2011/06/03(金) 21:54:13 ID:btVn55rtO2
簡単には人類仲良し計画書物だろ
常識に疎いからそんなものを必要とするんだよ

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102 2011/06/03(金) 22:14:59 ID:qjWLZlUCaY
小人の常識、か。

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103 2011/06/04(土) 12:38:00 ID:s/DjwIOBOY
賢人だろうとだめ人間だろうと犬や猫や虫は分けて認識しない
それが本来の生き物の姿だ
小人だとか言ってる時点で劣った認識をしているんだよ

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104 2011/06/04(土) 12:41:31 ID:jErmETyQ0o
「書経」虞書・舜典に、舜が「贖刑」という刑を制定したことが
載っている。ここにはあまり詳しい贖刑の内実は述べられていないが、
同じ「書経」の周書・呂刑に、贖刑に関する詳しい解説が載っている。
それによると、まず重大な犯罪行為を犯したものに対する重罰としての
「五刑(入れ墨、鼻削ぎ、足切り、去勢、死刑)」があり、犯した罪が
全くの故意によるものである場合には、やはりこれらの刑を科すという。
一方で、犯した罪が過失であった場合には、それぞれの刑に対応する
罰金刑としての「五過」があり、これが舜の定めた「贖刑」にも当たる。

司馬遷なども、皇帝に対する失言によって去勢刑相当の罪に定められ、
過失であることが明らかなために罰金刑(贖刑)をも提示されたが、
罰金を支払いきるだけの貯金がなかったために、仕方なく去勢刑を呑んでいる。

あくまで罪が「過失」である場合にのみ、罰金で罪を贖うことも認められるのであり、
罪が明らかな故意である場合には、金で罪を贖うことも決して認められない。
何千兆円と溜め込まれているユダヤ財閥の不当利得なども、ユダヤ人の不正行為が
故意である以上は、罪を贖う上での糧になるなどということも決してない。

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105 2011/06/04(土) 12:45:07 ID:jErmETyQ0o
「宋人兵車百乘と文馬百駟を以て、以て華元を鄭より贖う。半ば入りて、華元逃げ歸る。(中略)宋城く。
華元植を為し、功を巡す。城く者謳いて曰く、睅たる其の目、皤たる其の腹、甲を棄てて復れり、于思于思、甲を棄てて
復た來れり。其驂の乘をして之れに謂いて曰く、牛に則ち皮有り、犀兕も尚お多し。甲を棄つるに則ち那かあらん。
役人曰く、從え其れ皮有れども、丹漆を若何にせん。華元曰く、之れを去れ。夫は其の口眾く、我れは寡なしと」
「宋国の人々は戦車百乗と、よく飾り立てた馬四百頭を供物として鄭に送ることで、先方の戦いで捕虜となった
華元の贖いを試みた。贖いの供物が半分程度まで送られたところで、華元が自分から逃げ帰ってきた。
(莫大な贖いの供物によって自分が釈放されることを恥じ入って、無理にでも自力で逃げ帰ってきたのだろう)
後に宋が城普請を行ったときに、華元は監督として工事現場を車で巡回して回った。すると工事に携わっている人夫たちが
『甲冑を脱ぎ捨てて、出目と太鼓腹を晒しつつ逃げ帰って来たとさ。ヒゲも伸び放題になった大将が、甲冑も捨てて
逃げ帰って来たとさ』とからかう歌を謳った。華元は車に同席していた者に代弁させて答えた。『牛には甲冑に
使う皮があり、犀も野牛もそこら中に多くいる。甲冑程度を失ったところでどうだ、また作れるじゃないか』
人夫は皮肉気味に言い返した。『皮はどうにかなっても、甲冑に塗る漆はどうしますかね』 華元は言った。
『もういい捨て置け。言い争いでは、こっちが多勢に無勢だ』(母国による贖いを恥じて逃げ帰った華元の心意気も、
下賤な人夫には理解されずにからかわれている。上知と下愚の無移行は、立場の違いによる責任感の有無が原因ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公二年より)

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106 2011/06/04(土) 18:38:32 ID:uVb78EVnu2
なにが罪なものか
役人の都合に合わせなければ罪になるんだろう
あんたたちの正邪も都合いい解釈をプラスした認識なんだよ

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107 2011/06/04(土) 19:47:13 ID:jErmETyQ0o
四書五経の記述は、どれも直観的なものばかりであり、
抽象的な概念性に帰納してから現実へと演繹する、洋学的な手法には即さない。
なおかつ、仏教の絶対真理ほどには、細部まで厳密ではない世俗の道理を取り扱っており、
「礼記」に書かれている古代中国の礼制なども、時代も風土も大幅に異なる
今の日本などに、その全てを直接適用することなどが相応しいようにはなっていない。

しかし、直観的に把握された、細部までは厳密でない世俗の道理なりの
大まかな普遍性を記述した書物が四書五経であるために、その記述内容に大まかに
だけでも遵えば、人類の存続や繁栄が約束される一方で、大まかな部分からすら
極端に相反すれば、人類の破滅や滅亡が決定付けられることともなる。

人間が普通に暮らしている限りにおいて、四書五経に書かれてあるような最低限の
常識からすら極端に相反するなんてことはまずあり得ないんだが、四書五経の内容にこそ
決定的に相反しているカルト宗教の邪義を好き好んで狂信したりする場合に限って、
最低限の当たり前な常識からすら脱線した、非常識の推進による人類の衰滅までもがあり得る。

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108 2011/06/04(土) 21:52:49 ID:jErmETyQ0o
司馬遷は、自らの知人であり、匈奴を討つ命を科されていた将軍李陵が
北伐に失敗して捕虜となったのを受けて、援軍を送らなかった武帝の責任である
ようなことを述べたために、武帝の怒りを買って逮捕幽閉されることとなった。

審議の結果、その罪は「宮刑(去勢刑)」相当と裁決され、ただし失言で
あることの過失も認められて、罰金を支払えば放免されるということになった。

しかし前記のとおり、司馬家には十分な貯金がないために罰金を支払いきれない。
支払えない以上は宮刑が強制的に行われる。宮刑ほどもの男にとっての恥も他にないから、
おそらく司馬遷は獄中で、服毒死などの自殺の選択肢も暗に提示されたものと思われる。

法家の雄である韓非なども、獄中で服毒自殺するなど、罪人が獄中で自殺することを
許可するのは、当時の中国では暗黙の了解とされていたようで、にもかかわらず司馬遷が
自殺を拒んで宮刑を選択したのは、ひとえに父から受け継いだ正史編纂の任務を果たすためだった。

これをして中国では、宮刑を呑んででも自らの責務を果たさんとした、司馬遷に連なる
正史編纂事業を、さっさと獄中自殺してしまった韓非が唱えた法律万能主義よりも、伝統的に
上のものとして扱ってきている。(そのため「経史子集」がこの順番に分類されもする)

法律なんて、恥を忍んで生き延びなければならないほどもの責務を負わされているもの同士には
全く通用しないおままごとだってことが、とっくの昔に白日の下にさらけ出されているから。

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109 2011/06/05(日) 11:21:56 ID:sdTnk7Rxag
「公田に雨ふり、遂には我が私(田)に及べ(詩経・大田)」とあるとおり、
まず誰しもに利益の水が行き届いてから、結果として自らも相応の利益を得るというのが
「仁義」の理念であり、この仁義を念頭に置くことが、本物の「正義」の大前提ともなる。

そのため、誰かの利益を蔑ろにしながらでも、自らが利益を得ようなどとする、
仁義に反する我田引水すなわち「偽りの正義」ともなり、正義を行うどころの話ではない。

それは、利益を蔑ろにする相手が、大量の不当利得を貯め込んだ極悪人などである場合にも
同じことであり、最悪の極悪人に対してですら、適当な慎罰をあてがうことで
全くの蔑ろにしたりはしないでいて初めて、自らもまた正義を行える。

根本のところから念頭に置かれている理念が、仁義であるか我田引水であるかが、
正義を行えるか否かの決定的な分かれ目となるのであり、まず私利私欲を念頭に置くような
我田引水一辺倒の性向から脱却できないことには、正義を行うもへったくれもないのである。

「台が四方に正たるに以て、惟だ鄹の類からざるを恐る。茲の故に言わず。恭み默して道を思う」
「私は自らに四方の国々全てを正していく上での徳が足りないことばかりを恐怖している。そのため
身の程知らずになりかねないようなまっすぐ過ぎる発言は避け、慎み黙っては道徳を思い直している」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説命上より)

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110 2011/06/06(月) 12:27:16 ID:IwM/iMF.bQ
「色﨤しくして内荏らか、諸れを小人に譬うれば、其れ猶お穿窬の盜のごときなるか」
「外面だけはいかめしく取り繕っているが、肝心の内心はといえばもうグニャグニャのヘタレも同然。
これを下賤な者に喩えてみるなら、まあ、人の家に忍び込む盗人のようなものだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一ニより)

まさに忍び込みの盗人こそは、自らの行いが白日の下にさらけ出されることを最も恐れている。

「爾は爾なり、我は我なり、我が側らに袒裼裸裎すると雖も、爾焉んぞ我れを浼さんや」
「おまえはおまえ、俺は俺だ。たとえ俺のそばで(当時の中国で無礼とされる)肩脱ぎになったり、
素っ裸になったりする者がいたところで、どうして俺の名誉をを汚すことができようか。
(孔子に比べれば知性が足りないが、そこそこの偉人だと孟子が評した柳下恵の言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・一より)

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111 2011/06/07(火) 13:13:02 ID:BBvb5Zgbkg
日本の、皇祖神アマテラスを祭る伊勢系の神社や、歴代天皇を祭る神社は、
どれも神殿が南向きに開かれている。(大戦期の英霊を祭っている靖国などは東向き)
やはりこれも「皇帝は南面して政務を執る」という易学由来の風水に即していて、
太陽が南側に昇る北半球で、日当たりのよい南側を用いるという意図も備わっている。

中国以東の極東社会の風水はもっぱら易学に依存しているが、インドなどにも風水に
相当する思想があって、今から約4000年前に建造されたモヘンジョダロの遺跡群にも
日当たりのよさなどを考慮する風水学的な配慮がなされていたことが判明している。

日月星辰の運行にこそ普遍性を見出して、その法則性との調和を図ることで、
人間社会までもがその普遍的な安寧にあやかるという志しが風水をも派生した。
その体系は確かに曖昧で、迷信扱いされても仕方ないような部分もあるのだが、
現実に実在している日月星辰の普遍法則を取り扱っている風水が迷信だというのなら、
そのような実在する普遍法則からすら逃避した所に普遍的な超越神を認めよう
などとするカルト信仰のほうが、さらなる迷信であることにも違いはない。

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112 2011/06/07(火) 13:13:14 ID:BBvb5Zgbkg
「昔吾れに先正有り、其言明かに且つ清く、國家以て寧く、都邑以て成り、庶民以て生る。
誰れか能く國成を秉る。自から正を為さず。卒に百姓を勞すと。君雅に曰く、夏日暑くして
雨ふる、小民惟れに怨みを曰い資くと。冬祁いに寒く、小民亦た惟れに怨みを曰うと」
「昔我われには正直を旨とした賢王がいて、その言葉は白日の下にさらけ出されても
何ら疚しいところのない、明らかで清廉なものであったために、全ての国家は安寧に与り、
都や村々も繁栄を成し、庶民もみな生き生きとしていた。いま、どこにそれほどもの
隆盛を司ることのできる者がいるだろうか。己れが正直であることに励まないために、
ついには庶民にまで多大なる労苦を課してしまっている。君雅(周の古書)にあるとおり、
夏には強烈な日照りと豪雨に見舞われて、民はこれに怨みを言いながら嘆き、冬には
強烈な寒さが襲って来て、民はまた怨みをいうという、かの有り様そのものではないか。
(昔の賢王が、国家や都市の構造から自然法則との調和を図っていたことがうかがえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)

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113 2011/06/08(水) 11:40:11 ID:d2IeEEDVUM
正直、儒者の口は悪い。

天道や仏道の従事者のように、「勧善」ばかりを語れば口汚さも免れるものを、
実在する諸悪に対する具体的な「懲悪」の言葉までも述べるから、
決して誰しもに好かれたりはせず、悪人には憎まれる宿命を帯びている。

孔子の弟子の子貢も「人の悪を称するを悪む(陽貨第十七・ニ四)」とはいうものの、
その師匠である孔子からして、堕落した当時の諸侯の汚点を的確すぎるほどに
よく突く悪言家であったことが「史記」孔子世家に記録されている。

「君子は○○、小人は××」という露骨な比較によって善悪の優劣を如実化する、
嫌らしいけれども誰かがやらねばならない汚れ役をも儒家は買って出ているのであり、
それが、何もかもが「勧善」ばかりで尽くされている天道や仏道と人道の
違うところであると同時に、人道が天道や仏道には一目置く所以でもある。

「焉んぞ佞を用いん。人に禦るに口給を以てすれば、
屢ば人に憎まるる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん」
「どうして口先だけで阿ったりする必要があろうか。人に接するのに口先だけの
奇麗事を用いたところで、やはり人々からの怨みを買うような結果になるだけだ。
言葉ばかりでは本当に仁者であるともしれないのに、どうして口先で阿る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・五より)

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114 2011/06/09(木) 12:27:23 ID:FJMlhanymI
事実問題として、聖書信仰がこの世にもたらしているのは、
人類史上にも未曾有の「わざわい(災い、禍)」であって、平和ではない。

別に、アメリカやロシアが今も大量備蓄している核兵器による全面戦争が開始されて
人類が即座な滅亡に追いやられまではせずとも、現時点ですでに、聖書信仰こそが
人類史上にも未曾有の格差社会をもたらし(欧米聖書圏の富豪とアフリカ聖書圏の貧困者)、
何十億人という人々を不幸まみれな苦役に追いやった結果、その反動としての愛欲の貪りが
破滅級の人口爆発を引き起こし、もはや全人類が即座に聖書信仰を全面棄教でもしない
ことには、否応なく人類が滅亡へと追いやられるほどものわざわいを招いている。

犯罪聖書中で神がもたらすといっている平和が全くの偽りであり、せいぜい全世界が
破滅に陥る中で信者たちが金満によって最期まで虚栄を謳歌することを「平和」と
呼んでいるだけのことであり、「礼記」楽記第十九に初出している、「徳性による感化
によって誰しもを安寧へと導く」という「平和」の本来の定義からも真っ向から反している。

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115 2011/06/09(木) 12:28:25 ID:FJMlhanymI
「(孟子曰く)若くのごとく為す所を以て、若くのごとく欲する所を求むるは、猶お木に縁りて魚を求むるがごとし。
王曰く、若くのごとく其れ甚だしきか。曰く、殆ど有た焉れより甚だし。木に縁りて魚を求むるは、魚を得ずと雖も、
後に災い無し。若くのごとく為す所を以て、若くのごとく欲する所を求むるは、心力を盡くして之れを為して、後必ず災い有り」
「(斉の宣王に対して孟子)『このようなやり方をして、そのような希望を叶えようとするのは、あたかも木に登って
魚を得ようとするようなものです』 宣王『それほどにもひどいのか』 孟子『いや、それ以上にもひどいと
言っても過言ではありません。木の上に魚を求めて得られなかったからといって災いになるわけでもありませんが、
莫大な権力や行為能力を掌握して、なお木の上に魚を得ようとするような愚行を求めているあなた様のやり方だと、
全身全霊を尽くして願いをかなえようとすればするほど、さらに大きな災いを招くばかりとなりますから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)

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116 2011/06/10(金) 11:16:41 ID:h.RvXSGkzk
ユダヤ人の条件は「母親が旧約信者であること」だし、
欧米のキリスト教徒が後付けで改宗した信者であることも知ってのこと。
今のキリスト教徒やユダヤ教徒のうちに、犯罪聖書中の登場人物の「実の子孫」などはいない。

「子」だの「子孫」だのという表現を用いたところで、所詮はどこまでも比喩表現止まりであり、
皇祖神アマテラスを始めとする、本物のご先祖さまを祭っている日本神道などと比べれば、全くの紛い物。

日本人と比べれはだいぶ系図の粉飾が甚だしいが、孔子や孟子や諸葛孔明といった
歴史上の実在の人物が、同郷であることなどを根拠に先祖であることを主張する中国人のほうが、
「あり得ること」を根拠に子孫であることを標榜していたりするぶん、まだ誠実であるといえる。

「祿の公室を去ること、五世なり。政の大夫に逮ぶこと、四世なり。故に夫の三桓の子孫は微なり」
「今の魯では、爵禄を授与する権限が公室を離れてから五代目になるし、政治の実権が大夫に
乗っ取られてから四代目になる。そのため三桓(魯の先祖)の子孫も衰えることとなってしまったのだ。
(国家としての体裁を蔑ろにしたことなど、子孫が衰亡したのにも確かな理由が備わっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・三より)

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117 2011/06/11(土) 11:40:41 ID:S6NKkrnZdY
「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ルカ禍音書9:25)

我と世界とを対立項として捉えているところからして、すでに「ガン細胞」の性向を帯びている。

世界の安寧を保つことで我れをも保つ、仁義の理念とは真っ向から相反していて、
どちらかを立てる以上はもう一方が絶対に立たない。

究極的なことを言えば、本当に真なのは仁義のほうであって、自らを世界のガン細胞として
捉える犯罪聖書のものの考え方のほうが間違っているために、最終的には成り立たない。

犯罪聖書中のカルト教義は、信者をガン細胞も同然の振る舞いに陥らせはするものの、
やはり犯罪聖書の信者もまた一種の人間であり、人間社会に寄生することでこそ
生き延び、人間社会が滅亡すれば自分たちも滅亡する運命を負わされているから。

とこまでも、完全に誤りであるのは犯罪聖書中のカルト教義であって、
信者がどんなにそれを信じても、信者がその内容に完全に遵うことができるわけでもなく、
自分たちを保つために世界をも滅ぼそうとした結果、自分たちもまた滅ぶしかないのだ。

「鳥獣は与に群れを同じくす可からず。吾れ斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にかせん」
「鳥や獣とは一緒に群れを成して生活するわけにもいかない。人として産まれついた私にとって、
この世界の人々と共に暮らしていくのを拒絶して、一体誰と共に暮らしていくことができようか。
(人としての仁義の不可避さを説く言葉。儒家が『人道』であることの高らかな宣言でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・六より)

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118 2011/06/11(土) 23:53:39 ID:S6NKkrnZdY
人は所詮は、人と人との間にしか生きられない、だから「人間」という。

当然のことではあるが、「人は誰しもいつかは死ぬ」
ということ並みに、忘れがちな現実だといえる。

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119 2011/06/12(日) 13:30:14 ID:40p.IZI4x.
冤罪で精神薄弱者(イエス)を処刑して、代わりに強盗殺人犯(バラバ)を放免した
ローマ総督ピラトの裁定が不当だというのなら、その不当判決や、不当に放免された
強盗殺人犯への懲罰を申し立てるべきなのであって、冤罪で刑死した精神薄弱者が
三日後に蘇ったなどという与太話への狂信で対抗したりしても、全くの無駄。
それこそ不当判決を修正しようともしない怠惰な法務官や、不当に放免された
強盗殺人犯の思う壺なのであり、罪を消し去るどころか無闇に増長させる従犯となるのみだ。

精神薄弱者を生け贄にして自分たちの放免を図る、ユダヤやプロテスタントが最重度の
罪状の持ち主なままであることはもちろんだが、不当判決で刑死した精神薄弱者の
復活を信じることで、ユダヤやプロテスタントの精神病質を助長してきた正教や
カトリックにも、ユダヤやプロテスタントの親密な従犯としての罪状が確かにある。

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120 2011/06/12(日) 13:30:26 ID:40p.IZI4x.
「瞻卬する昊天の、則ち我れに惠まざる。孔と填みて寧からず、此の大いなる﨤いを降せる。
邦の靡ち定まる有らず、士民も其れ瘵みつかる。蟊賊蟊疾して、その屆み有る靡く、罪罟は收まらず、
その瘳ゆる有る靡し。人の土田有るを、女じ反りて之れを有り、人の民人有るを、女じ覆りて之れを奪えり。
此の宜しく罪無かるべきを、女じ反りて之れを收え、彼の宜しく罪有るべきを、女じ覆りて之れを説せり」
「高空にまします上天も、我われに恵みを与えてくださることなく、長年病に喘いで安らぐこともできないほどの、
大いなるこの災いばかりを降された。どこの国も内政が安定することもなく、為政者たちもみな病み疲れている。
害虫の大繁殖にも等しい盗賊や精神薄弱者の暴れ回りが横行し、その極みも無く、罪悪の辛苦は収まることがなく、
精神病質も癒える兆しすら見られない。人が田畑を所有しているのを見ればこれを奪い、他国に民が多くいれば
奴隷人員などとしてこれを奪う。罪のない者は捕らえて罰し、罪ある者はこれを許して放免するといった有り様。
(後半はイエスの刑死にまつわる権力犯罪の描写とほぼ同じだが、それが『罪と病』の国中への蔓延によるもの
であるという冷静な分析が行き届いており、さらにはそれが上天のもたらした災いであるとすら見なしている)」
(権力犯罪聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・瞻卬より)

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121 2011/06/13(月) 12:03:55 ID:uKIsP6Mhg.
犯罪聖書(新旧約聖書)を質でも量でも古さでも発行部数でも上回る道徳聖書(四書五経)が、
犯罪聖書全文の偽証性を実証している。イエスの救世主としての真偽以前に、犯罪聖書自体が、
人類にとっての根本聖典=聖書の中の聖書であるという考えからして偽りである。

今まであったものが刷新されて新しいものに鞍替えするのではなく、
より根本的で基本的な部分にまで立ち返って、人類全体が身を固めなおすだけのことだ。
温故知新をも志さずに、とにかく何か新しいものに取っ付こうとする姿勢からして誤りなのだ。

「哀公社を宰我に問う。宰我對えて曰く、夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗を以てす。
民をして戰栗せしむと曰う。子之れを聞きて曰く、成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず」
「哀公が社殿に植える神木のことについて、孔子の弟子の宰我に尋ねた。宰我は答えて言った。
『夏王朝の頃には松の木を用い、殷王朝の頃には柏の木を用い、周代になってからは栗の木を用いています。
(周で栗の木が神木に使われるのは)民を戦栗(せんりつの語呂合わせ)させる意図が込められているからです』
孔子はこのことを聞いて、『既に成されたことに説教はするまい。遂げられたことは諌めまい。すでにやって
しまったことは咎めても仕方がない』と、宰我を許すような言葉を三度も繰り返すことで、宰我が哀公の機嫌を
取るために(周の神木が栗であるのは民を戦慄させるためなどという)適当な偽証を行ったことを暗に嘆いた。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・ニ一)

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122 2011/06/14(火) 13:23:12 ID:m8w8OeFhEw
現実問題として、形而上の実体性とは何らの関係もない自己完結装置である
この世界この宇宙において、妾腹の私生児であり、精神薄弱である冤罪犯のカルト教祖が、
鞭打ちや唾吐きなどの酷い虐待を受けながら刑死していくような不条理による激情を発しても、
当然形而上との連絡が取れるわけでもなく、ただ形而下での人類滅亡級の権力犯罪を推進するのみとなった。

イエスが妾腹の私生児として生を受けたことは先天的なことだし、当時のイスラエルやローマ帝国が
政治的な腐敗にまみれた濁世だったことも先天的なことであり、その責任までをもイエスに
押し付けるのは確かにおかしい。しかし、同じく妾腹の私生児として産まれ、春秋時代後期という、
諸侯勢力の権謀術数渦巻く乱世に生きながらも、自学自修によって周代以前の伝統文化の修得や
その保全に励むことで、聖人君子として大成した孔子のような例もあるわけだから、ことにイエス自身が
堅実な自学自修も怠ることで精神薄弱を深刻化させ、自前のカルト教義を方々に触れ回った挙句に
冤罪犯となって強盗殺人犯の釈放と引き換えに自らが十字架上で犬死にしたことは、生まれや時代
ではなくイエス本人の全くの自己責任なわけだから、全く言い逃れようもない本人自身の落ち度だといえる。

故に、天の為せる災いはなお避くべきも、自らの為せる災いは逃るべからずともいう(書経)。
生まれつきや時代の不遇ではなく、孔子や孟子と比べてあまりにも愚か過ぎたイエス自身の行いが、
いくら他者から咎められずとも、逃れようもなく自らに返ってくる自業自得の災いとなるのだ。

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123 2011/06/14(火) 13:24:58 ID:m8w8OeFhEw
孟子には、特に妾腹の子だったとか私生児だったとかの伝承はないが、司馬遷もその身元を
調べ上げられないほどに低い身分の出身だったらしく、なおかつ戦国時代という、孔子が生きた
春秋時代後期以上にも政情が不安定と化していた、魑魅魍魎同士の共食いが横行する時代に生を受けた。

それでも孟子は、賢婦だった実の母や、孔子の孫である子思などの助けを通じて儒学の猛勉強に励み、
戦車千乗を有する大諸侯を圧倒するほどもの仁義道徳を携えて世を駆け回り、決して当時の社会に
特有の汚辱などに汚されることもなく人生を全うした。その血筋も後世にまで称えられて、
忠臣蔵四十七士の一人である武林唯七なども、孟子の末裔であることを誇りにしていたほど。

生まれの賤しさだとか、生まれ育った環境の悪さだとかをものともせず、偉人として
大成した実例は確かにあるわけで、それは孔子とか孟子とかいった人々のことであり、
決してペテンで世の中を騙しおおせることで名を上げた、イエスなどであるわけではない。

「仁なれば則ち栄え、不仁なれば則ち辱めらる。今辱めらるるを悪みて不仁に居るは、
是れ猶お湿りを悪みて下きに居るがごとし。如し之れを悪まば、徳を貴びて士を尊ぶに如くは莫し」
「仁徳を修めれば順当に栄えられる一方で、仁徳を修めなければ侮辱にまみれることとなる。
いま侮辱にまみれることを忌み嫌いながら、仁徳を修めることも怠るような連中がいるとすれば、
それはまるで湿気を嫌いながら、好き好んで低地の湿地帯にいようとするなものだ。そのような
痴態を晒すのが嫌ならば、仁徳を貴んで、仁士を尊ぶに越したことはないのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・四より)

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124 2011/06/15(水) 12:24:42 ID:CObUGi9Ync
「人は神の子である」という考え方は神道にだってあるが、それは
史実上に実在するご先祖様を「神(鬼神)」とみなしているからで、
一般人が先祖の墓を参るようにして、皇族も伊勢神宮に参詣している。

そうではなく、この世界この宇宙の形而上に実在すると見なした
架空の超越神を「父」であるとして、その架空神の子としての「神の子」が、
妾腹の私生児であるために実の父親の身元も知れないイエスであると
見なしているわけだから、そんな欺瞞上の神の子に対して罪の悔い改めを
試みたところで、全く悔い改められることもなく、ただイエスを狂信しない
場合以上にも、罪を開き直って推進する精神薄弱が深刻化するのみである。

実際に自分の親だったご先祖さまに対して、「先祖の恥にならぬように努めます」
という思いを込めてこそ、罪の推進を押し止める気持ちも生ずるが、現実には実在しない
架空神を「父」だなどとみなしてしまえば、そんな気持ちが生ずるわけもなく、かえって
父などが実在しないにことかけてのやりたい放題が推し進められるだけとなるのだから。

「樂正子春の母死す。五日にして食わず。曰く、吾れ之れを悔ゆ。
吾が母よりして吾が情を得ずんば、吾れ惡くにか吾が情を用いん」
「楽正子春の母が亡くなった。楽生子は悲しみのあまり、礼法上三日と決められている
死後三日の断食を超えて、五日間も断食をしてしまった。本人曰く、『私はあのことを
悔いている。わが父母への親情によらなければ、他のあらゆる情けも真心のこもったものには
ならないというのに、私は三日と定められている断食を五日も行ってしまったのだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

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125 2011/06/16(木) 12:18:41 ID:mUtR5vUrZ.
手乗りサイズ程度の、彫刻や漆塗りなどを施した木板に
故人の名前や戒名などを記して仏壇の中央に据えたりする、
いわゆる「位牌」という風習は、元はといえば仏教ではなく儒教から来ている。

日本に入ってきたのは江戸時代、黄檗宗などの禅仏教を通じてであり、
儒学は輸入しても儒教信仰は受け入れない日本の伝統が保たれたままで、
「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす(八佾第三・一二)」
という純粋な礼儀道徳に合致する範囲での、位牌文化のみを受け入れている。

とはいえ、やはり礼法上の取り決めとしても位牌は重要なものであり、
地震や火事などが起こればとりあえず位牌を仏壇から持ち出すというぐらいに、
位牌を祭る家においては、位牌を大切にすることが必要とされている。

宗教信仰ではなく、純粋な礼儀作法としても位牌のような伝統文化には
十分な価値があるものであり、神道や浄土真宗のように位牌を祭らない宗派が
あるにしても、だからといって位牌を祭ることを否定するものでもない。

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126 2011/06/16(木) 12:20:57 ID:mUtR5vUrZ.
「六月、衛侯孔悝に酒を平陽に於いて飲ませ、重く之れに酬う。大夫皆な納るること有り。
醉はせて之れを送り、夜半にして之れを遣る。伯姫を平陽より載せて行く。西門に及び、貳車を使て
反って西圃より祏せしむ。子伯季子、初め孔氏の臣為り。新たに公に登る。之れを追わんと請う。
祏を載せる者に遇い、殺して其の車に乘る。許公為、反りて祏し、之れに遇いて曰く、
不仁の人と爭いて、勝たざる無しは明らかなり。必ず先ず射しむ。三たび射發つも、皆な許為に遠ざかる。
許為之れを射れば、殪れん。或るひと以て其の車に從う。祏を橐中に得たり。孔悝出でて宋に奔す」
「(この年の四月に孔子が亡くなり、同姓のよしみで厚遇されていた孔氏が衛で酷いお払い箱扱いを受ける話し。)
六月に、衛候は孔悝を平陽で饗応し、大酒を飲ませて引き出物まで送った。諸々の大夫も多くの引き出物を送り、
泥酔させた挙句に、夜中に国外へと追放した。孔悝は母の伯姫を車に乗せて共に平陽を去った。西門を出たところで、
連れの車を引き換えさせて、西圃に置いたままの位牌を取り戻しに行かせた。——子伯季子という、孔氏の臣下だったが
今は昇進していち大夫になったものが、亡命する孔氏を追って殺すことを願い出た。位牌を取りに引き返してきた者に
出会うとこれを殺し、位牌を載せたままのその車に乗って孔悝を追いかけた。孔悝の代わりに、位牌を取り戻しにいった
者を迎えようとしていた許公為は、車に載っているのが追い討ちをかけに来た子伯であることに気づき、憤慨していった。
『人でなしと争って、勝てないはずが無い』 そのため許為はまず子伯に弓を射させた。三度び射たが全て外れた。
今度は許為が子伯を射ると、たった一矢で子伯に命中し、子伯は倒れ伏せて死んだ。子伯に付いていた車のうちの
一台の車中から位牌が見つかり、孔悝はこの位牌を携えて衛国を出奔し、宋に亡命したのだった。(実話である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・哀公十六年より)

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127 2011/06/17(金) 03:39:49 ID:YAvj25Qgys
神頼み。神は絶対にいる。いなくてもとりあいず信じろ。そして片っ端からすべての宗教の
経典を調べ正しいやつを見抜け!僕はキリスト教(プロテスタント)がお勧め。聖書は世界中
の3分の2?(5分の4?)の人が使ってる。聖書の登場人物は白人でも韓国人でもなく有色人

のヘブライ人、イスラエル人。敵と同じ宗教であっても宗教戦争ではなく資源略奪戦争、
金略奪戦争、民族絶滅戦争なのだから友好的に振舞ってはならない。敵を知るにはキリス
ト教、ユダヤ人、聖書の知識を身につけるべし。日本のキリスト教団は白人と韓国人無し
で独自に発展させるべき。


著名人の聖書観
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/pisgah/myweb/bible.ht...
聖書は万物の書物。日本社会で毎年100万冊売り上げてる永遠のベストセラー。人間の取
扱説明書。この世の宝。神の叡智。全てを超越した書物。世界最高峰の小説。人類の宝。
聖書を読めば欧米価値観と欧米サタニストが理解できる。聖書を手に入れロックミュージ
ックを捨てるべき。欧米ミュージックは日本に必要なく聖書が重要。聖書を読むとハリウ
ッド映画が理解できる。欧米小説が発展してたのも聖書のおかげ。神道(古代ユダヤ教の名
残)とキリスト教を手にいれて仏教を捨てるべき。神道にとってキリスト教は必ず融合でき
るはず。聖書を読めばキリスト教が正しくキリスト教の皮をかぶったサタニストが邪悪であることが理解できる。
キリスト教を批判してサタニストを批判しない奴はただのアホ。

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128 2011/06/17(金) 10:33:50 ID:mQ0UOMJjwY
>>127
すでに何度も何度も論駁しぬいているような、陳腐な意見の塊ではあるが、
これから自分たちの全文化文明を捨てさせられる連中に対して、
あんまりぞんざいに応対するのも酷なんで、復讐もかねて逐一返答しておこう。

>神頼み。神は絶対にいる。いなくてもとりあいず信じろ。
神にも色々あるが、自分自身のご先祖さまの「鬼神」ってのは確かに
実在していて、その家の人々の思考規範や言動規範から深く深く司っている。
そういう神はいるとして、聖書信仰にあるような「形而上の超越神」は、逆にいない。
いても形而下のこの世界とは何の関係もないものだから、そんな不実な神を信じることで
現実に実在する先祖の鬼神への配慮などを疎かにするぐらいなら、そんな神は信じるべきではない。

>経典を調べ正しいやつを見抜け!僕はキリスト教(プロテスタント)がお勧め。
代表的なものはほぼ全て読みぬいたが、キリスト教やユダヤ教の聖典である新旧約聖書こそは、
あらゆる人類の聖典の中でも「最低最悪の書」、それ以上下がもはやあり得ない、
下劣の極みの書であることを確認した。それほどにも新旧約聖書が下劣の極みであるからこそ、
それ自体もそんなに大したことを書いているわけではない四書五経のほうが、「まだマシなもの」
として特に推薦することができ、四書五経よりも優良な聖典が、いくらでもあるのも確かなことだ。

>敵を知るにはキリスト教、ユダヤ人、聖書の知識を身につけるべし。
>日本のキリスト教団は白人と韓国人無し で独自に発展させるべき。
犯罪集団の精神原理としての新旧約聖書を、「捜査対象」として研究するのは確かにありだが、
自分たち自身がキリスト教徒になるのでは「ミイラ採りがミイラ」であり、邪義に取り込まれて
自分たちが廃人と化してしまうぐらいなら、犯罪聖書を一行だって読むべきではない。

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129 2011/06/17(金) 10:34:03 ID:mQ0UOMJjwY
>聖書は万物の書物。(中略)人類の宝。
犯罪集団や廃人の精神原理となっている、最低最悪の下劣の極みである文集を
そこまで褒め称える神経がすでにおかしく、完全に犯罪信仰の邪義に取り込まれている。
質でも量でも古さでも発行部数でも、あらゆる面において新旧約聖書を完全に上回っている四書五経に
対しても全くの無視を決め込み、事実誤認の脳内お花畑で遊びまわることなどが思想哲学板の主旨ではない。

>キリスト教を批判してサタニストを批判しない奴はただのアホ。
キリスト教も悪魔信仰も五十歩百歩。地獄・餓鬼・畜生の三悪趣のみを住処とし、
その中から決して出てくることのできない井の中の蛙と化してしまっている。
修羅・人・天の三善趣も知った上で三悪趣を選択するのならまだしも、三善趣の存在を
全く察知しないままに、自分たちが知っている唯一無二の世界としての三悪道を
定立しまくっているのだから、その知見にも数多の事実誤認が入り混じってしまって、
もはや手の施しようもなくなっている。だからもはや、自分たちの知見の全てを
捨て去るしかなく、一旦だけでも全ての文化文明を手放す必要すらもがあるのだ。

「其の節の志しを明らかにし、以て其の事を失わざれば、則ち功成りて鄹行立つ。鄹行立てば則ち暴亂の禍い無し」
「自らの節度に即した志しを明確にし、少しも喪失することがないのなら、功を成して立派な徳行となる。
徳行が立派であれば暴乱のわざわいも起こらない。(自らの節度もわきまえられずに志しを疎かにし、一旦試みた
ところですぐに喪失したりしてるもんだから、徳行も立たなくて暴乱の禍を為す。少しも貴ぶべきことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・射義第四十六より)

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130 2011/06/17(金) 11:30:39 ID:4/3SuELksI:DoCoMo
「何らの権威も持たない下劣な通俗書」としての、
新旧約犯罪聖書の存在性ぐらいは、これからも保たれる。

コンビニに置いてある犯罪マニュアルムックだとか、
青テープで封じられた18禁本だとか並みの扱いとしての、
新旧約犯罪聖書の市民権はこれからも保障されて、ただ「普遍的な権威」
としての扱いだけが剥奪されて、一家ぐるみや本気での帰依などが
近親相姦や獣姦並みの禁忌として扱われるようになるのみ。

それでこそ、日本のド田舎程度の人口に過ぎなかった古代ヘブライ人が、
自分たちの拙い知識を歪めに歪めて捏造した駄文集に対する扱いとしても
しごく適正なものとなり、自分たちの駄文ごときに大した意味を込めようなど
という気もなかった、古代ヘブライ人たちの意向にも完璧にかなうことだろう。

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131 2011/06/17(金) 11:50:13 ID:4/3SuELksI:DoCoMo
あと、日本神道の注連縄信仰の痕跡である、縄目文様を施した縄文式土器が
10000年前の遺構からも発見されており、伝説上ですら約7000年前にまでしか
その起源を遡ることができないユダヤ教よりも、日本神道の考古学的な起源のほうが確実に3000年は古い。

百歩譲って、ユダヤ教が日本神道の支流であることはあっても、
(バラモン教の支流である拝火教の支流である可能性のほうが遥かに高いが)
神道がユダヤ教の支流や名残りであるだなんてことは、時系列上、絶対にあり得ないことだ。

これで、>>127への回答は一通り済んだ。
これからも、カルト信仰による精神障害への処方箋が欲しいのなら、
どしどし書き込んでくるがいい。もちろん、自首や入院のほうが先決なら、そちらを優先してな。

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132 2011/06/18(土) 12:17:26 ID:arHeaS1Zuw
生きた人間として、我が家をも背負って社会的に大成することはほっぽらかして、死後に
生まれ変わることでやり直そうだなんてしている時点で、すでに「後ろ向き」の極みだ。

「それが実際にできる」ということを信じることも、すでに後ろ向きな信仰に過ぎない。
信じるにしたって、我が家の祖神こそを信じて、現世での成功を志すほうがよっぽど前向きなこと。

母子家庭で生まれ育った私生児でありながら、父親の身元を親戚に問いただすなどして自力で調べ上げ、
宋の名臣の血を引く孔氏としての家系を正式に継ぐことで、孔子もいち民間人としての立場から、
一時は衛の宰相にまで出世していた。同じ妾腹の私生児として産まれながらも、父方の身元を調べる
ことも怠って、自らを「神の子」だなどと触れ回った(少なくともそう呼ばれることを拒まなかった)
のはあくまでイエス自身の落ち度であって、そのイエスの刑死後の復活などを信じたりするのも、
イエス自身の落ち度の正当化を信じようとしているだけなのだから、これまた後ろ向き極まりないことだ。
だったら、俗臭芬々でもあるにしろ、正式な社会的成功をこそ志していた
孔子の生き方を信認するほうが、まだ前向きなことだ。

「子貢問うて曰く、何如なるか斯れを之れ士と謂ふ可き。子曰く、己れの行いに恥有り」
「子貢が問うた。『どのようであれば立派な士人(社会的高位者)であるといえるでしょうか』
先生は言われた。『自らの行いに恥じを知ることだ』(恥知らずに士人となる資格はない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二〇より)

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133 2011/06/20(月) 12:20:01 ID:J.f9y1QdgM
仮に、犯罪聖書の神を「古代ユダヤ人」が崇め立てるのなら、
どんなに稚拙な内容の聖典であるにしたって、自分たちの「祖神」を崇め立てる
ことになるわけだから、「我が家の祖神でもないのに祭るのはへつらいである(為政第二・二四)」
という道徳的な規範にも即して、決して間違ったものとはならない。

しかし、古代ユダヤ人などというものは、もはやとっくの昔に絶滅していて、当時の
ユダヤ人にまで系譜を遡ることができる自称ユダヤ人なども、今の地球社会には一人も存在しない。
確認し得る限りで、今のユダヤ人の最古級の系譜となるのも、約千年前にキリスト教圏と
イスラム圏の狭間でユダヤ教に集団改宗したハザール人までであり、当然これは古代ユダヤ人とは無縁。
しかも、今の欧米での「ユダヤ人」の定義と来たら、「母親がユダヤ教徒であること」と来ている。
母親が旧約信者ですらあれば誰でもなれるユダヤ人などが、旧約聖書の神を崇め立てたり
しているのだから、それこそ孔子の言った「へつらい」そのものの有り様だといえる。

ただ、新約犯罪聖書のローマ人への脅迫文1:16などにも、ギリシャ人などの異邦人が
犯罪聖書の神に帰依することを奨励する記述があるため、我が家の祖神でもないのに
これを祭るへつらいの増長は、新約を含む犯罪聖書全体にとっては確信犯なことでも
あるため、やはり犯罪聖書の権威をどんな形でも認めるわけにはいかないのも確かなことだ。

犯罪聖書の権威を認めないことで何もかもを正すか、
その権威を認めることで何もかもを過つかの、二つに一つしかない。

「地を倍にして仁政を行わざるは、是れ天下の兵を動かしむるなり」
「仁政に努めることもないままに、(侵略などで)領地を二倍に広げたなら、それだけでも
自ら巨万の兵を動かす戦乱を招いたも同然のことである(地の果てに及ぶどころではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一一より)

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134 2011/06/21(火) 12:06:28 ID:thJRsFX5oI
支配者が被支配者に対して「担う」だの「背負う」だのと恩着せがましいことを言うのは、
せいぜい支配者が被支配者の「安全」や「生活」を保障するぐらいのところまでしか考えていないからだ。

真正福音書(論語)の顔淵第十二・七で、子貢が孔子に「為政に臨んで、食糧と軍備と信義の三つのうち、
どれかを捨てなければならないとすればどうしますか」と問えば、孔子はまず「軍備を捨てよう」と答え、
「では残りの二つ(食糧と信義)のうちでどちらかを捨てるとすればどうしますか」とまた問われれば、
「食糧を捨てよう」と答えている。つまり孔子は、為政者であるのなら、軍備や食糧の十分な確保によって
民の安全や生活を保障すること以上にも、信義を守る道徳教育をこそ至上のものとすべきだと説いている。

軍備による安全保障だけを保障したところで、民は他国との戦乱を好き好むような暴民となりかねないし、
食糧などの確保で生活だけを保障したところで、他国民を大量餓死に追いやるような権力犯罪すらよしとしかねぬ。
ただ安全や生活を保障すること以上にも、社会構成員としての自分たちの正しいあり方をわきまえる道徳教育こそが、
戦乱や飢餓のような社会問題を根本から絶やしめる「健康維持」の要となるのであり、世の中を戦乱や飢餓に
追い込むような不道徳まみれにしておいてから、自国民の生活や安全だけを保障するのは「対症療法」止まりであり、
道徳教育を怠る自分たち支配者こそは飢餓や戦乱の元凶でもあるからして、「マッチポンプ」の対症療法でもある。

一切合財が本来無用な、有害無益な劣悪現象の一旦として、民の生活や安全ばかりの保障までもがある。

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135 2011/06/21(火) 12:07:03 ID:thJRsFX5oI
削除(by投稿者)

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136 2011/06/21(火) 13:07:45 ID:2xoqO0Q.tM:DoCoMo
孟子とて、「民の生活を最低限保障や助成しておいてから、仕上げとしての道徳教育を施すべきだ」とは言っているわけで、
時系列上の「衣食足りて礼節を知る(管子)」という優先順位までをも否定しているわけではない。

しかし、「道徳教育こそは仁政の要であり、民の生活や安全を保障することなどは、
そのための前準備に過ぎない」という風には言っているわけで、年金保障や雇用確保ばかりに論点が終始して、
学校での道徳教育など「ついでのついで」ぐらいにしか論題に挙げられることがない
今の日本政治の体たらくなどとは、完全に一線を画したものとなっている。

しかも、孟子が重視する道徳教育は、仁義忠孝を第一とする正統な人間道徳の教育であり、
親子兄弟の殺し合いをも画策するカルト教義や異端の学の教育などでは、決してない。

道徳のふりした犯罪寓意(moral)、その犯罪寓意を体系化したカルト教義や異端の学までもが
道徳教育の内にすら組み込まれかねないほどに、人間社会全体の知見までもがみそくそと化してしまっている昨今、
小中高といった一般教育下の学生だけでなく、あらゆる専門教育下の学生や、社会人にまで
最低限の人間道徳の再教育を施すことまでもが必要になりかねない。というか、必須だ。

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137 2011/06/21(火) 13:15:14 ID:2xoqO0Q.tM:DoCoMo
一部修正。

「庠序の教えを謹み、之れを申しめるに孝悌の養を以てせば、頒白の者道路に負戴わず。
七十の者帛を衣、肉を食らい、黎民も飢えず寒えず、然うして王たらざる者は未だ之れ有らざるなり」
「(民の本業である農産などの邪魔をせず、なおかつその事業を滞りなくやらせるように助けた上で)
学校などでの道徳教育をよく重んじて、特に親や目上の者への忠孝意識を根付かせるように努めたなら、
白髪を生やしたような老人が重荷を背負わされて道を行くような労役を担わされることもなくなるし、
七十過ぎの者でも絹服を着たり肉を食ったりできるほどに豊かになり、民が餓え凍えたりすることもなくなる。
このようにして天下の王者たりえなかった者は一人もない。(孟子はあくまで自分の意見として述べているだけだが、
孟子以前に湯王や武王などが同様の徳治を試みて成功し、孟子以後にも漢帝国や唐帝国、日本の平安朝や
江戸幕府などが同様の仁政を試みて、数百万〜数千万人規模の大社会なりの泰平統治を実現している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・三より)

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138 2011/06/22(水) 11:11:19 ID:/BwD9XQS96
「旧約の律法は無効だ」などといったところで、
その律法の代替になるような社会規範をイエスやその弟子が拵えたわけでもない。
ただ「律法の取り決めを守りきれなくても、罪を咎められたりはしなくていい」
といってるだけで、結局、キリスト教徒も基本は旧約の律法を自分たちの規範として、
守りきれない場合に「アーメン」となるだけの、ユダヤに毛が生えた程度の体たらくのままでいる。

イスラムの聖典コーランのように、「アダムは楽園追放を許されている」とか、
「イエスは始めから刑死もしていなければ、復活もしていない」とかいった、具体的な指摘によって
新旧約聖書の記述を具体的かつ的確に否定して、その代替となる社会規範をコーラン自体や
ハディースなどに依拠したならば、もはや新旧約が「潜在的な社会規範」になることすらなくなって、
カルト教義に取り込まれての精神障害や権力犯罪を深刻化させていくようなことまでもが未然に防げるようになる。

ただ律法などの劣悪な構造体系を否定するだけでなく、その完全な代替となる優良な体系構築が
また別にあって初めて、潜在的な規範としての、劣悪な構造体系の価値が完全に無効化される。

新旧約の完全な代替になるだけの体系構築といえば、中国なら四書五経、インドならヴェーダやウパニシャッド、
イスラムならコーランやハディースなどが挙げられる。このうちで、誰でもすぐに鞍替えできるほどに汎用的で、
さして高尚なことが書いてあるわけでもないからこそ、取っ付きやすいのが四書五経であり、正式な入信などを
待つまでもなく、今すぐにここで新旧約信仰を全廃する代替にもなるからこそ、ここで奨めているわけだ。

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139 2011/06/22(水) 11:11:59 ID:/BwD9XQS96
「法語の言は、能く從うこと無からんや。之れに改むるを貴しと為す。巽與の言は、能く説ぶこと無からんや。
之れに繹ねるを貴しと為す。説びて繹ねず、從いて改むずんば、吾れ末だ之れを如何ともせざるのみ」
「規範を示した言葉には従おうと思うが、それによって自分をちゃんと改められてこそ貴いことだといえる。
無条件に恵みを与えるような甘い言葉には喜ばずにいられないが、なぜそれが可能であるのかを自分から
尋ねてこそ貴いことだといえる。ただ喜んでばかりで尋ねようともせず、そこそこに規範に従っても
それで自分の過ちを正したりまではしないのならば、こりゃあどあしようもないことだといえる。
(規範となる法語は規範とするためにあるのであり、都合のいいところにだけ従って、他は反故にしたりするために
あるのではない。だったらそのような法語と、『守ろうが守るまいが自由』などという甘言の両方を捨て去ったがマシ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二四より)

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140 2011/06/23(木) 11:11:02 ID:fJncAwCOwk
是非善悪は人間自身が定めたもの、だからこそ、
神が後付けで正義や悪の定義を摩り替えることもできない。

人間自身が1+1=2と定めて、その定義上の算術に則って金融計算などもこなそうとしているのに、
そこに神が「1+1=3が正義だ」などという定義を後付けで加えて、その正義に則って神の信者が
金融計算をも行って、粉飾決算などを犯したなら、その神が「虚偽邪悪の神」だということになる。

人間自身が定めた是非善悪に、神が後付けの定義を加えたりしたなら、神ですらもが邪神の烙印を
捺されることになりかねない。だから天道に住まう諸々の正統な神さまも、是非善悪については
人間が定めた基準にそのまま従い、たいていの場合は善悪に対する無為自然を決め込んで、
どうしても善悪のために作為する場合には、人間の定義に即した勧善懲悪を施すのみ。
人の決めた善悪すら捻じ曲げて、人道以下の鬼畜道に陥ることだけは避けるところ。

「既に心と思いとを竭くし、之れを繼ぐに人に忍びざるの政を以てして仁天下を覆う」
「よく真心と思慮を尽くして、人の苦しみを静観するのも耐え忍びがたい惻隠の心によって
政治を施せば、仁徳が天下全土を覆い尽くすようになる。(忍耐してはならない具体例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)

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141 2011/06/24(金) 13:16:09 ID:kBWR1SXWNI
自分の罪を、自分以外の誰かになすり付けようとすることが、
一貫して「冤罪」という不義にあたり、それは冤罪被害にあった相手が
刑死して生き返るようなことがあろうとも、変わりはしない。

自分の罪責を自分が負わないことが、人間が定義するところの「罪悪」にあたり、
罪悪に当たるから「苦果」を生む。たとえ自分の罪をなすりつけて刑死させられた
相手が復活しようとも、自分自身が罪を償わなかった罪悪が自業自得で良心の呵責
という心痛を生じ、人口爆発によって地球人類を滅亡させるほどに、無軌道な
愛欲を貪り続けることで、己れの苦しみを紛らわそうとしないではいられなくなる。

自分の罪を自分以外の誰かになすり付けようとする冤罪現象が、
人間にとっての自明なる不義であり、極重の罪悪であるが故に悪因苦果を生じ、
引いては人類を滅亡にすら陥れる。それは、冤罪による刑死者の蘇生などが
後付けで付け加えられたところで決して埋め合わせられはしない、
神の定義以前に遍在する、人間自身の定義に基づく不義であるから。

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142 2011/06/24(金) 13:17:24 ID:kBWR1SXWNI
仮に、自分が強盗などの犯罪被害に遭ったとしよう。
その強盗を行った相手が、ヒゲ面半裸のおっさんを連れて目の前に現れて、
「こいつが俺の代わりに罪を背負ってくれるから許してくれヘヘヘ」と言ってきたとしよう。

許せるもんかよ。

たとえその、代わりに罪を負ったヒゲ面半裸のおっさんが、民間人に対する刑罰
としては最重度にあたる磔刑で殺されようが、殺されてまた生き返ろうが(爆)、
罪を犯した張本人が罪を償わないのなら、決して許せるわけがない。

この程度のことは、自分が犯罪被害者の身になって考えてみればすぐに分かることなのに、
「アダムのあばら骨を一本とってイヴが作られた」と旧約に書いてあるもんだから、
「男のあばら骨は女よりも一本少ない」などという迷信を、ろくに調べることもなく
頑なに信じ続けていたキリスト教徒などには、その程度の注意力すらもが欠けているわけだ。

「性を成し存すべきを存するは、道義の門なり」
「人に天分として具わっている本性を成就させ、保存に努めるべき判断を
保存していくことが、道義に適うための唯一無二の門戸であるといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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143 2011/06/25(土) 11:51:23 ID:niLrykuXgc
「一つことに打ち込みすぎた人間は長生きできない」とは、
清少納言の「枕草子」の言葉だったろうか。

これは、良くも悪しくも事実であることだ。
何も、権力犯罪のような悪行に限らず、諸々の荒行に打ち込む密教僧や、
座禅一つに一生をかける禅宗の僧侶などにも、無理がたたって早死にするものが多い。

しかし、専業を持つことは人にとっての常であり、行為能力的にはほとんど何もしていない俺だって、
ここ数年は四書五経などの優良な学問の勉強に打ち込んでいる。ただ、そこには「学者としての大成」
という目的が具わっていて、有能な学者となって世のため人のために貢献するという先行きが見定まっている。

バラモンの求道者なども、立派な祭司となるためにヴェーダやウパニシャッドを勉強するのだし、
念仏者も凡俗における往生という目的があって念仏を唱える。ただ勉強のための勉強、念仏のための念仏
ばかりに没頭して他が見えなくなったりするのでは、かえって何もしない以上もの害にすらなりかねない。

柳生宗矩とか宮本武蔵とかいった名武術家なども、剣の道で大成すると共に、参禅や芸術、芸能や政治などへの
造詣も極めて深く、多芸多能の人としての側面をも持ち合わせている。もちろん本業が疎かになっているのではなく、
本業に打ち込んだことの功徳を、他分野にすら振り向けられているということ。そのような余裕をもって
打ち込める本業こそは、真に道理や真理へも通ずる道たり得るのであり、他道を徹底的に排斥してまで
そればかりに没頭したりするのなら、おそらく落とし穴への落ち込みであるに違いないといえる。

「詩を誦すること三百、之れに授くるに政を以てして達せず、
四方に使いして專對する能わざれば、多しと雖も、亦た奚を以て為さん」
「たとえ詩を三百篇暗誦できるほどに勉強に努めたとしても、内政を担当して詩の精神を応用した
仁政を達成することができず、外交を担当しても詩の知識を応用して渡り合うことができないのでは、
どんなに多くの詩を学んでいたところで、それは取るに足りないことだ。(専らであることに成果を要求する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・五より)

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144 2011/06/26(日) 13:30:52 ID:o8o/fLIEL2
「子貢曰く、我れ人の諸れを我れに加うるを欲せざるや、吾れも亦た諸れを
人に加うること無からんと欲す。子曰く、賜や、爾じの及ぶ所に非ざるなり」
「(孔子の弟子の)子貢が言われた。『私は己の欲せざるところを人に施さないように
したいと思います』 孔先生は言われた。『賜よ、それはおまえにできることではない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一二)

孔子の弟子の中でも修辞弁舌に優れ、見た目で人を判断するような人間には「孔子よりも優れている」
というほどもの賛辞を受けたことのある(子張第十九・二五参照)子貢が、真正福音書(論語)中でも
特に有名な「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」の実践を志す旨を孔子に述べたところ、
「おまえには無理なことだ」と返された。もしかしたら、儒家道徳において賤業とされる投機で大金を
稼いでいた子貢の行状をも見越して、「おまえには所詮無理なことだ」と孔子も苦言を呈したのかもしれない。

ただ、この一文だけを根拠にするなら、孔子が子貢の「〜を欲する」という欲求不満を晒しつつ
同態加害忌避を志したところが矛盾じみているのを見抜いて、即座に「無理だ」と私的した可能性もある。

「孔子は老子に道家の奥義を教わった」という伝説があるが、道家の実践は無為自然であり、
欲求を消極化する点に集約されている。仕官を志して青い鳥状態の人生を送った孔子の有り様は、
決して道家の「絶対消極」の実践などにはなっていない。しかし、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」
という儒家の徳目を究極化したところには、道家や仏教における欲求の捨離が確かにあるわけで、
欲求を捨て去ることと、欲求たらたらであることの中庸を行くために、孔子が道家の欲求捨離の
理念を学び、そのわきまえによって、子貢の欲求不満をも見抜いた可能性は確かにある。

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145 2011/06/28(火) 11:49:43 ID:P73AuaNC3Y
「顏淵、喟然と歎じて曰く、之れを仰げば彌よ高く、之れを鑽れば彌よ堅し。
之れを瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。夫子循循然として善く人を誘う。
我れを博むるに文を以てし、我れを約するに禮を以てす。罷めんと欲すれども能わず、
既でに吾が才を竭くせば、立つに所有りて卓爾たるが如し。之れに從わんと欲すと雖も、由る末きのみ」
「顔淵は嘆息しながら孔先生のことを評した。『仰ぎ見れば仰ぎ見るほどにさらに高く、
深く切り込もうとすれば切り込もうとするほどさらに堅いことが分かる。前にいるのを見たかと思えば、
次の瞬間には後ろにいるかというように捉えがたい。それでいて先生はよく手順を踏んで我われを教導してくれる。
我われを博識にするためには文章を教えてくださり、知識を要約して実践するためには礼儀を教えてくださる。
そのため、もう勉強をやめようかと思っても勿体なくてやめられず、私もすでにありとあらゆる才能を凝らして
先生に付いて行こうとした。それでやっと先生の泰然としたあり方が漠然ながらに把握できるようにも
なったが、ただそのあり方に従えばいいだけにも関わらず、全く付いていくことができない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一一)

東洋学のうちでは、初歩中の初歩に当たる人間道徳を体系化した孔子からして、やはり超人的なところがあり、
常人でありながら必死で孔子に付き従おうとした孔門の雄である顔淵も、夭折のうれき目に遭っている

修己治人は、治められる側が治める側に付き従いきれないほどにも、治める側の自助努力が究極的であるところに
達成されるものであり、治める側が治められる側に絶対服従を要求していられるほど、治める側が怠惰まみれと
化しているところでは決して達成され得ず、治める側の怠惰が治められる側にまで落とし込まれることともなる。

当然それは、修己治人が達成される場合と比べてより悪い結果しかもたらさず、治人に最善を尽くしていない
ことともなるから、権力道徳か権力犯罪かでいえば、権力犯罪に該当する所業とも原理的になるわけだ。

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146 2011/06/29(水) 11:57:30 ID:Da5cHU7wNA
脚本家の橋田壽賀子が昔、講演中に子供連れの母親から「良い母親になるためにはどうすれば」
と質問されたとき、その母親はまだ幼い子供をほっぽらかして講演に聞き入り、
子供は泣き喚いたり走り回ったりのわがまま放題で周囲に大迷惑をかけていたために、
「こんな講演には来ないで自分のお子さんをしっかり育て上げることです」と返答したそうな。

「金払って自分の講演を聴きに来た相手に言うようなことか」とも思うが、
言辞やその指し示すところの概念に囚われて、実践が疎かになるぐらいなら、
むしろ言葉や概念のほうを棄てて実践に努めたほうがよい。それは儒学とて同じことであり、
文の勉強ばかりに耽って、実践を疎かにするようなことがあってはならぬと、
孔子も以下のように述べている。仮に実践以上にも言葉や概念への耽溺を促すような
教義があるとすれば、それだけでも人間道徳に反する異端の邪学であるということがいえる。

「弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、
汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば、則ち以て文を学べ」
「若者たちよ、家に入るときは親への孝行を尽くし、外出したときにも悌順であり、
慎んで信実であるように。広く偏ることなく大衆を愛することで仁徳に親しみ、
それだけの実践を尽くしてなお余力が残っているようなら、そこで初めて文章を学ぶことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・六より)

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147 2011/06/29(水) 21:44:23 ID:Da5cHU7wNA
学識ってのは、本を読めば読むだけ身に付く。
今の薄っぺらい教科書+ノートへの書き込みが主流な学校での勉強は、
ただの「記号試験」に受かるための能力が身に付くだけで、
学識は全く身に付かない上に、生きる上で何の役にも立たない
記号操作の勉強ばかりをやらされるせいで、勉学が嫌いになる原因にばかりなる。

学識は、本を読みさえすれば身に付くが、当然学識を身に付けるばかりが人生でもなく、
学んだ知識に相応の実践が追いつかなければならない。もっと言えば、勉学すら抜きにした
実践が、自然と学識の理に適うぐらいであるほうがいいわけで、ただ本能に赴くままでいて
完全に理に適うなんてこともなかなかないことだから、学識による実践の修正をも
踏まえるというのが、文武両道もとい、文と実践の両立の理想的な姿だといえる。

もちろん、「強盗殺人を成功させるための学識」なんてものも中にはあるわけで、
そういう劣悪な学識を決して実践せず、できることなら始めから取り入れもせず、
世のため人のためとなる優良な学識だけをよく取り入れて、実践するようにしなければならない。

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148 2011/06/30(木) 11:53:24 ID:Zl8O9lAB2E
肉体上は重犯罪を犯し続けている人間に対して、重度精神障害への
罹患を促し、罪を犯し続ける状態のままでいて、罪悪感だけを取り除く。

本人たち自身は罪に定められなくなったつもりでいても、現実問題として
極重の罪悪が積み重ねられ続け、それにより人類が破滅や滅亡へとも陥れられる。

「信者の罪を清める宗教」という看板を掲げているキリスト教の正体は、
「罪悪極重の犯罪者から罪悪感だけを取り除くサイコパス増進宗教」であり、
「それにより人類を破滅や滅亡へとも陥れる重権力犯罪宗教」であった。

精神障害者が、自分たちの脳内だけで通用させている「キリスト教は信者
から罪を取り除く宗教である」という思い込みを、最低でも非キリスト教徒
ぐらいは「全くの誤謬である」のだとわきまえて、そのような致命的な
誤認識を、世の中に通用させていかないように努めていかなければならない。

「今之の時に當たりて、萬乘の國仁政を行わば、民の之れを酇ぶこと、猶お倒懸を解かるるがごとし。
故に事は古の人の半ばにして、功は必ず之の倍となる、惟だ此の時を然りと為さんのみ」
「今のような(重権力犯罪が横行することで民が皆な極度の疲弊に追い込まれている)時代
だからこそ、領地が万乗に及ぶような大国が(権力犯罪を駆逐する)仁政を行えば、民はそれを、
まるで逆さ吊りの苦しみから解放されたかのように喜ぶであろう。そのため仁政を施す側としても、
古人の半分程度の労力だけで、昔の倍以上もの成果が期待できる。今こそはまさにその時なのだ。
(罪悪感だけを取り除かれて現実には罪を犯させられ続けることは、逆さ吊りほどもの苦しみである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・一より)

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149 2011/07/01(金) 12:45:47 ID:1r.iBYcd0w
「身体が光る」という表現は、比喩表現にしろ神秘にしろ、
古今東西で不偏的に好んで用いられるもの。

ただ、陰陽解釈の行き届いている東洋においては、自力の修行や修養が達成された者こそが
自身の身体から光を発するようになり、未だ未熟な凡夫の場合は光り輝くどころか、
かえって闇に取り込まれて無明をさまようこととされる。

だから、自力作善の菩薩業を達成して仏となった阿弥陀如来が、
無量の光によって闇をさまよう凡夫を照らし出すなどともされるのであり、
修養も怠ったままの凡夫が光を発するなどという解釈は行われない。

自意識過剰にまみれたただの女が、無明にまみれた陰湿な性格の持ち主となる一方で、
良妻賢母となることでアマテラスの如く家を照らし出す光ともなるように、
自力修養というよりは受動が本分である女にも、女であるなりの身の程のわきまえによって
光り輝く身体を手に入れることのできる途が開かれている。

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150 2011/07/01(金) 12:46:21 ID:1r.iBYcd0w
自力修養によって光り輝く身となったり、貞順な女であることで家の光となったりすることは
確かにあることだが、ただの凡夫のままであったり、よそ様の子を身ごもる淫蕩な娼婦だったりすることで
身体が光り輝くなどということは陰陽の法則に根ざしておらず、従って実際にはあり得ないことだ。
それは真っ暗闇を光明だと勘違いするような、錯覚によって思い込んでしまったりしているだけのことだ。

「季氏の祭は、暗に逮びて祭る。日足らず、之れを繼ぐに燭を以てす。強力の容、肅敬の心有りと雖も、皆な倦怠す」
「魯の家老の季孫子は、夜暗くなってから祭りを執り行っていた。当然明かりが足りないので、蝋燭を用いて祭事場を照らしていた。
するといくらいかめしい容貌をしようが、粛々とした敬いの気持ちを持とうが、誰しもが倦怠心を抱かざるを得なくなった。
(『暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう』ではなく、まず暗い状況から好き好むべきでない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)

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151 2011/07/02(土) 12:12:59 ID:TmyCVgFwio
侮辱や名誉毀損ってのは、法的に無罪である場合もあれば、戦術上有効である場合もある。

相手を執拗に侮辱することで憤慨させ、冷静さを見失わせて妄動に走らせることで自滅に追い込むという戦法が
太古の昔から中国や日本などで行われていて、そのような戦法の有効さが武経七書中の「六韜」や「尉繚子」
などにも載っている。しかし、その「六韜」や「尉繚子」からして、相手を侮辱して妄動に走らせるような
戦法はあくまで有事に限っての非常手段であり、平時にはこのような非道な戦法は破棄して、侮辱や悪口
全般を立ち消えにさせていく仁政に励まなければならないとも述べている。また、その志があればこそ、
侮辱級の非道戦法を有事に限って特用することにも正当性が具わるのであり、平時にも悪口雑言を
垂れ流し続ける程度の軟弱な心持ちで入れば、侮辱戦法も本当に非道極まりないものと化してしまう。
だから、最大級の非道戦法に正当性を具わらせるためにも、日ごろの道徳の修練から欠かせないといえる。

「君子は衆寡と無く、小大と無く、敢えて慢ること無し」
「君子は支持者の多少や権勢の大小などに関わらず、自らを驕ったり他者を侮ったりはしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十より)

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152 2011/07/03(日) 13:02:09 ID:OjBQNbAsOc
>>144の孔子と子貢のやり取りや、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」という
教条からも分かるとおり、儒学にも多少は欲望に対する抑制的な姿勢が具わっている。

しかし、決して「禁欲主義」ではなく、「道義に適った富はいただきます(里仁第四・五)」ともいう。
周の武王への仕官も諦めて餓死した伯夷・叔斉兄弟の禁欲的な姿勢と、周囲が悪臣ばかりでも
「人は人、我は我>>110」と歯牙にもかけず仕官を続けた柳下恵の欲求まみれな姿勢と、
いずれもが中庸に適ってはおらず、そこそこに道義が通用する場合に限って
仕官を志した孔子の姿勢こそは中庸に適っていて、欲求が棄てられまではしない
範囲で適度に抑制された理想的な姿だったと、孟子も評している。

柳下恵並みかそれ以上にも、欲求ばかりを肯定しまくる犯罪聖書の志向と完全な対蹠関係に
あるのは、伯夷・叔斉並みかそれ以上もの欲求の捨て去りを旨とする道家や小乗仏教であり、
欲求を全否定もしなければ全肯定もしない、儒家や大乗仏教の中正志向とは対蹠関係にすらない。

そこは、確かに「欲望は貪り尽くすものか捨て去るもの」という単細胞にまみれている
現代人などには理解しがたいところであり、むしろ欲求を完全に捨て去って、道家や上座部の
徒となるほうが想像も付きやすいものであるのかもしれない。しかし、犯罪聖書が信者に
強要している欲望肥大化志向が、人類をいま破滅の危機に陥れている一方で、欲求を完全に
捨て去って結婚や子作りすらやめてしまう隠退志向もまた、別の意味で世を衰退させかねないもの。

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153 2011/07/03(日) 13:02:22 ID:OjBQNbAsOc
「仕事は執拗に欲しようとすべきものでも、殊更に拒絶しようと
すべきものでもない(言志四録)」という佐藤一斎の言葉のとおり、
欲求が過剰でも貧困でもない適度な状態においてこそ、よい仕事もなされるものだ。

「王曰く、寡人疾有り、寡人貨を好めり。對えて曰く、(中略)
王如し貨を好むも、百姓と之れを與すれば、王たるに於いて何の不可か有らん」
「斉の宣王が孟子に問うた。『わしには一つ病が有ってな、財産を集めるのが大好きなのだ。
これを一体どうしたらよかろう』 孟子は答えて言った。『王様が仮に財産収集を好むとしても、
その財産を万民と共に用いるのであれば、どうして王であることの支障になりましょうや』
(富貴への欲求を『病』と見なしている宣王のわきまえも、過剰な欲望を病とすら見なさない
犯罪聖書の著者などよりは達観したものだといえるが、その欲求が仁義にすら根ざしていれば、
王たるにおいて何らの支障を来たすこともないという孟子の見解は、さらにその上を行っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・五より)

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154 2011/07/04(月) 13:04:12 ID:o9bQTmD1BM
削除(by投稿者)

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155 2011/07/04(月) 13:05:57 ID:o9bQTmD1BM
「君子は食飽かんことを求むること無く、居安からんことを求むること無し。
事に敏にして言に慎しみ、有道に就きて正す。学を好むと謂うべきのみ(既出の引用)」
「君子は自らの衣食住が専らに充実していることなどを求めたりはせず、
物事を行うには敏速であり、ものを言うことにも慎みを持ち、ただ勉学を好むばかりである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一四より)

欲求を全肯定するわけでもなければ全否定するわけでもなく、適度に抑制する儒家としては、
欲求すべきものと欲求すべきでないものの分別を付けることが第一義に置かれる。

そこで、儒家において欲求すべきとされるもの、欲求されるべきでないとされるものを示した
上記の引用を鑑みるに、これは犯罪聖書の教条とあべこべになっている。犯罪聖書が信者に
対して自らの衣食住の専らな充実を欲求するように促し、自力作善が敏速であったり、
言葉に慎みがあったり勉学を好んだりすることは決して欲求するものではないとしている
のに対し、儒家の聖書である四書五経においては、その真逆であるように促されている。

これこそは、欲求を適度に制御した結実であり、制御された欲求と、制御を振り切って
無制限の貪りと化した欲求とは、その位相が逆転する。制御された適度な欲求が、人間に
より優良な思考規範や言動規範を具わらせる一方で、無制限の貪りと化した欲求は、
かえって人間に対してより劣悪な思考規範や言動規範を具わらせることとなってしまう。

あらゆる欲求を捨て去る過程において、勉学すら辞め去っての「絶学無憂(老子)」を促す
道家の教条などは、儒家においても受け入れられるものではないが、さりとてあらゆる欲求の
捨て去りを促す道家や小乗仏教の教理なども、無制限の欲求の貪りによって最低最悪の
思考規範や言動規範を信者に植え付ける、犯罪聖書ほどにも悪いものであるわけではない。

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156 2011/07/04(月) 13:08:50 ID:jQVdVfX892:DoCoMo
「賤しき丈夫有り、必ず龍斷を求めて之れに登り、以て左右を望みて市利を罔せり。
人皆な以て賤しと為す、故に從いて之れを征せり。商に征するは、此の賤しき丈夫より始まれり」
「昔、それはそれは品性の下劣な男がいて、市場があれば、必ずその市場を見渡せる小高い丘を
探し求めて、そこから市場を見下ろして、こちらで安く売ってるものをあちらでは高く売り、
あちらで安く売ってるものをこちらでは高く売ったりする、投機によって利息を儲けていいた。
そのため誰しもがこの男を卑しみ、役人もこの男の振る舞いを見かねて、この男に高い税金をかける
ようにした。商売人に税金をかける制度も、まさにこの恥知らずで欲深い男の所業により始まったのだ。
(品性下劣な欲求の過剰が自業自他得で迷惑を及ぼすことに至った例。孟子は市場課税緩和論者でもあり、
このような下劣な欲求の行き過ぎすらなければ、市場への課税も店舗税などの限られたものだけで済むという)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・一〇より)

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157 2011/07/05(火) 11:48:33 ID:VQ8McAuLVs
虐げからの解放を望んでいたりしながらも、結局は新たな服従対象を
探し求めようとするだけの「心の奴隷」、そのような性向全般が
小人か、さもなくば女子に特有の性分であり、そういう性分にしか
止まっていられない人種がいるのも確かではあるにしろ、そのような
性向をこそ好き好んで標榜するようなことからして、あるべきではない。

「君子は○○、小人は××」という比較を存命中に展開していた孔子も、
自らは専ら士大夫などの君子階級としての成功を志し、民間での隠遁に
甘んずることを奨励する道家的な隠者の誘いなども蹴っている。

孟子ともなれば、もはや小人の卑俗な行状すら論おうとはせず、
君子階級の中で特に優秀であったものと、そこまではいかないもの、
君子として失格であったものなどの比較に止めるばかりで、実社会上の
小人=被支配者に関する言及をほとんど辞め去ってしまっている。

四書五経は社会的被支配者に関する積極的な論及に乏しく、
専ら君主や君子といった支配階級のあり方ばかりをあげつらっている、
にもかかわらずではなくだからこそ、従うを以てよしとなす小人女子の
性向ばかりをやたらに論うことで、万民に奴隷根性を植え付けて
しまう犯罪聖書の上位互換的な代替としても、最適なのである。

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158 2011/07/05(火) 11:50:16 ID:VQ8McAuLVs
商売に従事する民間人ですら、>>156のような身勝手な投機を戒める「孟子」
中の記述をよしとして、放辟邪侈に走ることを自重したなら、今ではまだ
非現実的に思える孟子の急進的な税制緩和策なども、実現の目処が立ってくる。
とはいえ>>156の記述も、為政者の側から民間を鑑みた形式の記述であり、
徴税人を「賤しい職業」だなどと見なす、民間人の側に立ったイエスの
ものの考え方などとは一線を画している。だからこそ、十分に民間人の放逸を
戒めて、かえってそれにより減税などの民間優遇をも可能ならしめてもいる。

民の自意識を、民の側に立ったものの考え方でさらに肥大化させて、イヤでも
民の放蕩をトップダウンに抑え付けなければならなくなるような事態が生ずる
ことから、為政者の立場に立ったものの考え方でこそ、なくすことができる。

「而の拇を解く。(中略)君子維れを解く有りて吉なり。小人に孚あり。君子解く有りとは、小人退けばなり。
公を用いて隼を高墉の上に射る。之れを獲て利ろしからざる無し。公を用いて隼を射るとは、以て悖れるを解くなり」
「手指にはめられたかせを、君子が誠実な小人から解いてやれば吉である。君子が拘束を解いてやるのは、
小人のほうに身の程をわきまえて、一歩引いた所でおとなしくしている徳が芽生えた場合のことである。
小人の分際で未だ退くこともわきまえないような輩がいるのなら、高い塀の上に止まっている隼を
弓矢で射殺すようにして、それらを誅戮してしまったとしても特に問題はない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・九四‐上六および象伝より)

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159 2011/07/05(火) 22:50:49 ID:VQ8McAuLVs
為政者が急進的で、民間人が隠退的であるところに、世の平穏の秘訣があり、
民間人が主導的で、為政者が隷従的であるところに、世の破滅の元凶がある。

なればこそ、為政者の理想的なあり方ばかりを記した四書五経こそは、
民間人の放辟邪侈ばかりを標榜した犯罪聖書の完全互換として相応しい。

為政哲学、にもかかわらずではなくだからこそ、標榜するのに相応しく、
小人肯定、にもかかわらずではなくだからこそ、標榜するのに相応しくない。

四書五経の記述姿勢(為政の標榜)と犯罪聖書の記述姿勢(民間の標榜)、
そこからすでに、実相の吉凶禍福を選り分ける根本的な精神原理に根ざしており、
四書五経の記述姿勢が、吉相を呼び込んで福徳を増す効果を帯びている一方で、
犯罪聖書の記述姿勢は、凶相に基づく災いばかりを呼び込むようにできている。

為政者の主観ばかりしか載っていないからこそ、四書五経はその存在性から大吉であり、
民間人の主観ばかりしか載っていないからこそ、犯罪聖書はその存在性から大凶である。

為政者の積極性と、民間人の消極性を殊更に定立しているからこそ、
存在性の根本から吉祥なのが四書五経であるという、現実から逃げるんじゃない。

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160 2011/07/06(水) 12:43:58 ID:byzG2HQgNk
「何もかもが重権力犯罪で塗り固められた、罪悪深重の濁世において、
何をするよりも何もしないでいたほうがマシである」という、俺が何度も
何度もここで展開して来た自論は、儒家よりはむしろ道家の教理に根ざしている。

国に道が有れば仕え、道が無ければ仕えないのが儒家の教理なわけで、
道が無いから仕えないことに専らであることは、儒家の教理に反している
わけではなくとも、儒学のいち側面を実践しているだけに過ぎない。

中国の春秋戦国時代並みか、それ以上もの社会腐敗が横行している現代において、
たとえ孔子や孟子並みの聖人君子が現れたところで、それが時宜に適って
いないのなら大した成果も挙げられないだろうことが、孔子や孟子の、
"いち政治家として"の、大成功とまではいかない業績からも明らかである。
(もちろん孔子や孟子も"学者として"は空前の大成功を修めている)

もはや自分たちの理想主義的な仁義論が、腐敗まみれの諸侯などに受け入れられは
しないことを半ば察しつつも、遊説で自分たちの説が広まり、孔子も孟子も荀子も
亡くなってから、秦楚漢戦争を通じてやっと春秋戦国時代にも終止符が打たれ、
漢帝国の主導によって初めて儒学の仁義道徳が国教的な扱いを受けるまでになった。

儒学国教化後の漢代の中国においては、もはや孔子や孟子ほどもの大儒は現れず、
もっぱら春秋戦国時代には机上の空論扱いをされていた儒学の資料(五経等)の整理や、
その体系的な実践に務められ、以て前漢と後漢併せて400年もの泰平統治を実現したのだった。

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161 2011/07/06(水) 12:45:50 ID:byzG2HQgNk
机上の空論扱いではあったものの、後世にも末永く享受される仁義道徳が生成された春秋戦国時代の乱世、
もはや仁義道徳の新造は控えられたものの、実際に仁義が実践されて長期の泰平が実現された漢代や唐代。

乱世には乱世なりの、治世には治世なりの相応の振る舞いがあって、その振る舞いに
よって相応の功績が挙げられている。一方で、乱世にこそ権力掌握を志して腐敗にまみれ、後世に
汚名を残した輩もいれば、治世になっても性懲りもなく隠退を続けて怠け者扱いされるようなのも
いただろう。欲求が正義に根ざすことで、悪を退けて善を進取する場合と、欲求が正義から逸脱して、
善を退けて悪を進取する場合と、行動の位相が逆転するのであり、専らに何もかもしようとする、
何もかもしようとしないなどというところに、儒学の本分はないのである。

「吾れ之れを聞くなり、官守有る者は、其の職を得ずんば則ち去り、言責有る者は、其の言を得ずんば
則ち去ると。我れに官守無し、我れに言責無きなり、則ち吾が進退、豈に綽綽然として餘裕有らざらんや」
「私はこう聞いている。『正式な官職にある者は、職務を果たせなければ即座に引責辞任し、発言に責任の
ある者は、自らの進言が聞き入れられなければその場を去る』と。今の私は正式な官職に就いている
わけでもなければ、発言に責任があるわけでもない。だからこそ私の出処進退はのびのびとして、
余裕に満ちたものでもいられるのだ。(孟子はどうやら、乱世には到底聞き入れられないような
理想主義的な仁義論を、無責任に遊説して回ることを心の底から楽しんでいたようである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句下・五より)

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162 2011/07/07(木) 13:09:34 ID:OHLgzUfWak
「悪意悪食を恥ずる者は、未だともに義するに足らず(理仁第四・九)」と
いいながら、「君子は其の衣冠を正しくす(堯曰第二十・四)」ともいう、
一見矛盾しているようにも思える孔子の言葉。其の心は以下のとおり。

「敝れたる縕袍を衣、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざる者は、其れ由なるか」
「敗れた綿入りの衣を着ながら、皮衣を着た貴人と共にいても恥じないのは、子路だろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二七より)

粗野な蛮勇に突出した弟子の子路が、礼法に適わない服装で、礼法に適った
服装をしている人々と共にあっても恥にしないだろうことを皮肉っている。
「衣冠を正す」の「冠」も官人の正装であり、礼法に適った装束で宮仕えに臨むことを戒めている。

一方で「悪意悪食も恥じぬ」というのは、「国に道が無ければ仕えぬ」という、道家とも共通する
教理に即して、在野でいる時には「深山の野人(孟子が在野中の舜の様相を表した言葉)」も
同然の卑賤な装束すら厭わないという意味。出処進退にメリハリをつけるのが儒家だから、
仕官中と在野中の風体にも大きな違いが生ずるわけで、決して二枚舌なわけではない。

国に道が有るときもあれば無いときもあるから、装束の貴賤にも一定の融通を利かせる。
結局、最原初の儒者である孔子からして、儒家が貴ぶ仁義道徳が、恒久普遍に通用するほどにも
金剛不壊なものであるなどとは考えておらず、ただ「なるべくそれを目指したほうがいいもの」
として仁義道徳を奨励しているわけで、道徳を絶対的なものと思い込むのも儒家の本分ではない。

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163 2011/07/08(金) 10:54:48 ID:K9thDsGWSY
自分たちだけの平和、自分たちだけの恵み、
自分たちだけの救いや自分たちだけの栄誉ばかりを追い求めて、
かえって外部の人々を戦乱や飢餓や破滅や不名誉ばかりに
追いやる、我田引水型の部落信仰。

これもまた閉鎖的であり、決して褒められたものではないものの、
他人に恵まない代わりに人からも恵まれようとしない、
日蓮宗の不施不受施派などのほうが、他人の恵みまで
奪い取ろうとはしないぶんだけ、まだマシなほうだといえる。

平和や恵みや救いや栄誉の追求が、天下全土に渡るか
いち部落に止まるかでその存在性は全く逆転し、
片や仁義道徳に根ざし、片や我田引水に根ざすこととなる。

天下全土を利することを共産主義や独裁主義に結び付けて、
「全体主義」として批判する輩もいるが、元より共産主義や
独裁主義は仁義道徳の着実な実践にはなっておらず、
一つ一つの家族を単位として、順当に社会秩序を構築していく
封建主義に根ざした仁義道徳の実践などと比べれば、
遥かに危ういものであり、これまた褒められたものではない。

何もかもを我田引水型の部落信仰や、資本主義や共産主義や
独裁主義ばかりに結びつけて考えることからして「最低最悪の
思考規範」であり、そのような思考規範全般からの脱却が
果たされてから初めて、最悪の破滅から脱け出せることもある。

「徒善は以て政を為すに足らず、徒法は以て行いを自ること能わず」
「稚拙な偽善はそれに基づいて天下を治める政を為すにも値せず、
拙劣な悪法はそれに基づいて己れの言行を規律するにも値しない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)

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164 2011/07/09(土) 13:56:26 ID:lD/mga78KQ
「君子終わりあり(易経・謙九三)」とあり、「小人始めありて終わりなし(晋書)」ともある。
これは、誰しもがいつかは死んで灰燼に帰する、諸行無常の真理を大前提とした言葉だといえる。

実際のところ、誰しもにいつかは終わりがある。その終わりがあるなりに、燦然たる有終の美を
飾れることを「終わりあり」といい、陰惨な終焉しか迎えられないことを「終わりなし」という。

陰惨で醜悪な終焉であるが故に、「終わりなし」であることを「永遠の命」だなどと美化する小人。
小人であることまではさすがに否定できないので、絶対的な神に仕える身であるからと開き直る。

しかし、その絶対神からして実在せず、ただの自意識過剰の思い上がりを神に見立てているだけ。

今さら先祖に顔向けもできないほどに、陰惨な思い違いを尽くしているからといって、
限りある命が永遠となるわけでもなく、やはりいつかは老いて死ぬ身であるに止まる。

「終わりを慎み遠きを追えば、民の徳も厚きに帰す」
「親の死をよく慎んで弔い、自らの先祖にまで遠く配慮を行き届かせれば、
君子階級ではない民間人の徳性までもが篤く養われていくこととなる。
(人の命には必ず終わりがあることをわきまえることで、連綿と続く先祖の系譜にも配慮が働く)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・九より)

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165 2011/07/10(日) 15:49:51 ID:gaBY0DJ75w
「君子は易に居て以て命を俟ち、小人は険を行ないて以て幸を徼む(既出)」
「君子は平易中正な道に従いながら天命を待ち、小人はわざわざ危険を冒してまで僥倖を追い求める」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・一四より)

権力者は万民の命運を握っているわけだから、奇妙な離れ業などに頼ることなく、
信頼度120%の磐石な古訓のみを拠り所として世を司っていくべきだ。

一方で、在野の民間人には確かに、それなりに奇術にも手を出すような無責任からなる余裕がある。
しかし、その奇術への手出しにも成功する場合と失敗する場合があり、王位を捨てての苦行に挑んだ
釈迦が菩提樹の下で啓いた悟りなどは成功(成道)の部類であり、成功であるがゆえに、君子が
万全を期す目的で、最初から安んじ続ける中正(中庸)とも似通った結論(中道)に至った。

一方で、奇術に挑むことでの大失敗を積み重ねたイエスはといえば、今までの引用比較のとおり、
四書五経に書かれてあるような純正道徳からはことこどく相反するような邪義ばかりを触れ回り、
元から純正道徳などが根付いていなかった当時のイスラエルにおいてですら鼻つまみ者としての扱い
を受け、在野の民間人に対する処刑手段である磔刑によって殺され、二度と生き返ることもなかった。

最初から正道を歩み続ける君子と、苦行という奇道を通じて成道に至った聖者とが
「中正(中庸、中道)」という同様な理念を結果的に是とした一方で、奇術に失敗して
死刑にすらなった変人だけが、中正を欠いたおかしな極論ばかりを是としている。
単なる多数決でも、中正が正しくて極論が誤っているということになるし、事実、
道理上からも真理上からも、奇術の失敗者が得た神秘などは実在しなかった。

何もかもを無かったことにするのも極論であり、失敗者の無様さだけを、あえて標榜する
ようなことを避けて、功績としてはなかったことにしてやるのが、道義ってもんだ。

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166 2011/07/10(日) 16:19:13 ID:DFuvuWkaFg:DoCoMo
「言を析き律を破り、名を乱して作を改め、左道を執りて以て政を乱すものは、殺す。
淫声、異服、奇技、奇器を作りて、以て衆を疑わしむるものは、殺す。偽を行いて堅く、
偽を言いて弁じ、非を学びて博く、非に順いて沢に、以て衆を疑わしむるものは、殺す。
鬼神、時日、卜筮に仮りて、以て衆を疑わしむるものは、殺す。此の四誅の者は、以て聴かず」
「虚言を弄して法律を犯し、名辞を乱して制度を改悪し、邪道によって政治を乱すものは、死刑に処する。
淫靡な音楽や奇抜な衣服、奇妙な技芸や奇妙な器械を用いて大衆を惑わすものは、死刑に処する。
偽りを行って頑なに改めようとせず、偽証を放言してそれを根拠に弁じ、おかしな邪義を学んで
その方面ばかりについて博識となり、実践上も邪義に遵って、あたかもそれを正しい行いであるかのように
見せ掛けることで大衆を惑わすものは、死刑に処する。神の加護や時日の吉凶、占いなどに仮託して
大衆を惑わすものは、死刑に処する。この四つの死罪に相当するものには、言い訳も聞かない。
(法律ではなく道徳律に基づけば、イエスの言行は紛れもなく死罪に相当するものである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

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167 2011/07/11(月) 13:33:38 ID:m8w8OeFhEw
「古えの愚や直、今の愚や詐のみ(既出)」
「昔は愚かさとは愚直さのことだったが、今は嘘偽りに巧みであるだけのことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一六より)

国に道が行われていない時代に仕官することを嫌って愚か者でいようとした郃武子など、
愚かさを善用しようとする側面は儒家にもあり、弘法大師が儒家の住心とした
「"愚"童持斎心」という名称も、あえて否定しようとまで思うものではない。

しかし、儒家の愚かさは、決して聖書信仰の愚かさと同一のものであるわけでもない。
世のため人のため、天下万民の福利厚生の実現のために、権力犯罪撃退の目的で
愚者であることすら厭わないのが儒者である一方、そもそも自分たち自身が
権力犯罪者の一員と化して強奪利権の甘い汁を吸い、強奪によって破滅に追い込まれた
天下を「聖書を信仰しないせいだ」などと開き直って、自分たちの罪状から
目を背ける蒙昧さこそは、聖書信仰に特有の愚かさでこそある。

儒学の成立も聖書信仰の成立も、今からすれば太古に当たるが(もちろん儒家のほうがより古い)、
儒学の愚こそは愚直であることである一方で、聖書信仰の愚こそはウソ偽りの愚であるといえる。

「斉人女楽を帰る、季桓子之れを受く。三日朝せず、孔子行る」
「孔子が魯の重臣として活躍し、魯の国力が伸び始めたために、これ追い落とす目的で、
斉の人間が魯に美女の楽団を贈呈した。魯の最高権力者だった季桓子はこれを受け入れ、
舞楽にうつつを抜かして三日間も朝廷に登らなかった。そのため孔子は魯を去った。
(美女の舞楽のよさも分からんではないが、位ある身でそれにうつつを抜かすのは受け入れられない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・四)

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168 2011/07/12(火) 12:50:23 ID:XtiYgkKZiQ
「三日にして食らひ、三月にして沐し、期にして練し、毀するも性を滅せざるは、死を以て生を傷らざるなり」
「(昔の礼法で)親の死後三日目に初めて粥などの軽食をし、三ヶ月目に沐浴し、期日の年になれば喪服を脱いで通常の衣服を着け、
不幸を悼み哀しみながらも、性情を著しく損ない尽くすことを避けるのは、死によって生までをも損なわないためだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・喪服四制第四十九より)

親の死を"悔い"てから、その"悔い"をまた"改めて"るね。それで性情の破滅を避けている。

そういう意味で「悔い改める」という言葉を用いているのなら、キリスト教徒は自分たちの罪を一旦は悔いておいて、
別に行いから改めるのではなく、悔いていること自体を改めて、また普通の生活に戻るということになる。

親の死への悔いを改めて、後追いまではすることなく家を継いでいくことは孝行になるわけだが、
罪を犯したことの悔いを改めて、行いは改めないというのでは、単なる現行逃亡犯のサイコパス患者の量産にしかならないな。

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169 2011/07/13(水) 13:17:15 ID:DdB5i0r3lw
「腹」は、東洋の身体論においては、頭(脳)や胸(心臓)並みか
それ以上にも貴ばれる、全身のうちでも最重要の部位とされる。

太極拳や合気道やヨガなどにおいて、へその下三寸に位置する腹部の「丹田」が
安定していることが、全身の安定を左右する最重要項目となり、いくら頭部や胸部だけを
安定させようとしてたところで、腹部の丹田が安定していないことには極めて不安定となる。

これは、身体構造上からの力学的な理にも適っている解釈であり、腹部の丹田に相当する部位こそは
人体の「重心」に該当しているために、この重心の安定こそが、全身の安定をも司ることとなる。

婦人も丹田に相当する部位で胎児を身ごもるから、我が子をまるでわが身の中心のように捉えることで
母性本能が養われることとなる(もしも背部や臀部などで子を身ごもるのなら、そんなこともない)。

そんな重要な意味を持つ、丹田の存在位置でもある腹部を「亡きもの」にしようなどとすれば、
本当に亡きものにしたときに人体の全てが滅ぶのはもちろんのこと、亡きものにしようと試みる
過程においても、「人間の重心」を損なおうとする過ちからなる、数多くの破滅が頻発することとなる。

「君の臣を視ること手足の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。
君の臣を視ること犬馬の如くなれば、則ち臣の君を視ること國人の如し。
君の臣を視ること土芥の如くなれば、則ち臣の君を視ること寇讎の如し」
「主君が臣下を我が手足のように大切に扱えば、臣下も主君を我が腹や心臓のように重要なものとして捉えるようになる。
主君が臣下を犬馬のように賤しいものとして扱えば、臣下も主君をそこいらの他人のようにどうでもいいものとして捉える
ようになる。主君が臣下を塵か芥のように価値の無いものとして扱えば、臣下も主君を仇や敵も同然として捉えるようになる。
(我が腹心のように大切に扱うべき主がいないのは、配下を犬馬か塵芥のように扱う主しかいないからだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句下・三より)

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170 2011/07/14(木) 13:57:46 ID:Uk0gpsAT2k
間違った知識を、正しい知識の持ち主もありのままに得ることができる。
そこにそれなりの意味も見出すことができるが、間違った知識の意味などよりも
正しい知識の意味のほうが遥かに味わい深く、普遍的に美味なものであるために、
意味はあってもクソまずいだけな間違った知識の積極的な享受などは退けられる。

普遍的な尺度から言えば、クソまずい上に毒入りであるような、
間違った知識を専らに貪ろうとするような輩ってのは、絶対に正しい知識を
得たこともなければ、その美味さを味わったこともなく、正しい知識こそを
享受することでの健康の増進のすがすがしさなどにも与ったことはないのだ。

正しい知識の支持者は、間違った知識もそれなりに得た上で、間違った知識を
退ける一方で、間違った知識の支持者は、正しい知識を一度たりとも享受する
こともないままに、間違った知識ばかりを貪っているから、正しい知識を退ける。
正しい知識を支持する者もいれば、間違った知識を支持する者もいるが、ことに、
それぞれがその知識を支持する理由には、絶対的な非可換性が備わっている。

「(正しい知識を)知らないから支持しない」というのは、間違った知識の
支持者に特有の事情なのであって、正しい知識の支持者が、間違った知識を
知らないから支持しないなどということは微塵もない。むしろ間違った知識をも
知り尽くしたところにこそ、間違った知識に対する絶対的な拒絶が確立されもする。

「蓋し知らずして之れを作る者有らん。我れは是れ無きなり。多くを聞きて
其の善き者を擇びて之れに從う。多くを見て之れを識るは、知るの次なり」
「何も知らないくせに我流の創作ばかりを志すものがいるが、私はそんなことはしない。
なるべく多くのことを聞いておいて、その中でも特によさげなものに遵おうとする。
なるべく多くの知識を得ておくのは、そのための下準備に過ぎないのだ。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二七より)

聖書信仰も単なる知識としては得ておいたが、
あくまでそれを捨てて儒学に専念するための下準備であるに過ぎない。
そう結論付けざるを得ないほどにも、聖書信仰のほうが劣悪至極なものだったから。

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171 2011/07/15(金) 13:16:25 ID:LtlumVTpmU
思考規範や言動規範の根本性が消極性に根ざしているか、
積極性に根ざしているかという点で、儒家と聖書信仰とでは全く相反している。

>>144の「論語」引用部分では、子貢が「己れに欲せざるところを人に施すことなかれ」を
積極的に実践していきたい旨を宣言して、孔子が「おまえには無理だ」と苦言を呈していて、
欲せざることを欲する以前に、まず何物をも欲しない消極性による初期条件の一律化を暗に推奨している。

一方で、子罕第九・二八では、弟子の子路が「損なわず求めもしなければ、どうして善くないことがあろうか」
と終身のたまい続けていたことに対して、「それでなぜ善いことがあろうか」と孔子が反問してもいる。
絶対消極を旨とする、道家や小乗仏教などに見られる姿勢は、悪いようなことがない変わりに善いこともない。
社会での積極的な善行をも旨とする儒家においては、決して止悪一辺倒に止まっていることもよしとされない。

では、儒家の理想的な思考規範や言動規範はといえば、根本的には必ず消極性に
根ざしていて、悪行への十分な制動が効いた後に、善行に対してのみ段階的に積極性を備わらせる。
まず悪行への消極性があって、その次に善行への積極性を抱く。この順序を取り違えてしまったならば、
どんなに善行への積極性が旺盛だろうとも、多動の蒙昧さからなる甚大な悪行の付帯が避けられなくなる。

どちらかといえば善行のほうが行いにくく、悪行のほうが行いやすいものでもあるために、
どんなに善行を為そうとしても、必ずそれ以上の悪行が付きまとう「マッチポンプ」のザマとなる。

「君子の消息盈虚を尚ぶは、天の行なればなり」
「君子が常に消息盈虚の緩急を貴ぶのは、それが天の運行にも根ざした普遍的な道理だからである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・剥より)

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172 2011/07/16(土) 12:57:25 ID:ivN9yWBD0k
万人を利して我が利ともする、「仁」という理念。

この仁を、儒家は主要な命題とする一方で、必ずしも「絶対のもの」ともしていない。
孔子も「仁を好みて学を学ばざれば、その弊や愚(陽貨第十七・八)」といい、
孟子も「親を親しみて民を仁し、民を仁して物を愛す(尽心章句上・四五)」という。
仁に「人間社会上の最高理念」としての価値を認める一方で、それが「人間社会」を司ること
に限って最重要ともなる理念だから、個人としての勉学だとか、家族同士での親愛だとかを
別個のものとして捉えて、それすら蔑ろにするようなら、仁もまた有効に果たされないとする。

人間社会を司る理念としての「仁」を主要命題に掲げる儒学自体を、人間社会の遥か外側にまで通じた、
宇宙万有を司る教学などとして見なすこともまた行き過ぎなことであり、仁などを必要ともしない
ほどに小規模な片田舎の村落にすら、儒学による支配が隅々まで行き届いたりすることもない。
三千大千世界のようなマクロの極限も、個々の家内や片田舎の村落のようなミクロの極限も、
儒学や仁によってどうこうしようなどというものでもなく、それはむしろ神仏の領域に属する。
神仏とはまた別個の領域としての、ある程度の数が稼がれた人間社会においてこそ、仁義も王道となる。

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173 2011/07/16(土) 12:57:37 ID:ivN9yWBD0k
「子貢曰く、如し能く博く民に施して能く衆を済わば、何如。仁と謂う可きか。
子曰く、何ぞ仁を事とせん、必ずや聖か。堯舜も其れ猶お諸れを病めり。夫れ仁者は己れを立たせんと
欲して人を立て、己れを達せんと欲して達人を達す。能く近く取りて譬ふ、仁の方と謂う可きのみ」
「子貢が問うた。『もしも万民に広く施して大衆を救えたならどうでしょう。仁と呼べましょうか』
先生は言われた。『どうして仁どころのことだろう。それがすでに達成できているというのなら、
もはや聖と呼んでもいいぐらいだ。かの堯や舜ですらもが、それを達成することに大変な苦心をした。
(いわんや、それに遠く及ばない我らともなれば、聖を達するための正当な手段としての仁を論ずるに
止まるわけだが、)仁者としては、自分が成功することを欲すれば人を成功させることを第一とし、
自分が大成したいと思えばまず人を大成させることを第一とする。そのため遠方の他人のことですら、
自分やごく近縁のことに譬えられもする。ここに聖を達するための仁のあり方が集約されてもいる』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・三〇)

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174 2011/07/19(火) 13:05:25 ID:2dCk4hqIOM
愛にも色々ある。

十分な畏敬と共に父母兄弟を愛する親愛もあれば、
家畜を養うも同然なほどに敬意を欠いた濁愛もある。
万人を最低限以上の福徳へと導こうとする仁愛もあれば、
世を破滅に導いてでも自分たちだけが肥え太ろうとする偏愛もある。

総合的には、愛は勇気や臆病などとも同じ「諸刃の剣」であるといえ、
それによって最善をも最悪をも尽くせるものだから、まず最善を尽くす
前準備があって、それから初めて愛を標榜することまでもが認められる。

勧善懲悪を尽くす前準備もないままに、愛そのものばかりを掲げるのでは、
それによって何らの有益な結実が見込まれる保証もなされない。だから、
愛にどんなに有益な要素が含まれているにしたって、愛そのものを
何ものにも先駆けて至上命題とすることは、吉祥なことだとはいえない。

性向上、愛こそを至上命題とせざるを得ない女性が伝統的に、必ずしも愛を
至上命題としてはならない、一人前の男に随順すべきものとされてきたのも、
愛を最優先することの危うさを先人たちがわきまえていたからだといえる。
(西洋などでは、ただ男が女よりも体力的に強いからそうしてただけのようだが)

「仁者は愛せざること無きなるも、賢を親しむを之れ急と為すを務む(既出)。
(中略)堯舜の仁にして遍く人を愛せざるも、賢に親しむを急とすればなり」
「仁者は誰しもを愛せないわけではないが、それ以上にも賢者に親しむことを急務とする。
堯舜ですら、仁者でありながらも、誰しもを遍く愛することばかりを先決とはしなかった。
それも賢者に親しむことをより優先して、仁を有効に実行することを急務としたからだった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・四六より)

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175 2011/07/20(水) 12:13:05 ID:Dk2qhH53vI
キリスト教徒の「身」は、全く清くない。
四人がかりで一人の相手を餓死に追い込む強盗リンチ殺人に、
欧米資本主義国のキリスト教徒たち全員が手を染めている。
総員テロリスト、行動即犯罪という形容が冗談にすらなっていない。

異教徒や他民族などと比べても、突出して濁悪なキリスト教徒の身の程、
それも決して内面の濁悪と可分なものではなく、やはり内面にも豚か何かのように
利権ばかりを貪って止まない救いがたい濁悪さを抱えている。その濁悪さを自覚して
良心の呵責にさいなまれることから逃れるために、件の「十字架の魔術」によって
知能指数をチンパンジー以下(IQ20〜35)にまで低下させ、罪の意識を喪失させる。
それを犯罪聖書の著者は「心が清められた」といい、「神を見ている姿」だという。

絵に描いたような転等夢想であり、濁悪さからの逃避の先にあるチンパン以下への
知能の低下を「心の清さ」とも呼ぶあたり、おそらくそう指摘していた本人たち自身も
転等夢想のからくりを察知してはいなかっただろうと思われる。こんなにお粗末な
からくりを把握していてなお、大真面目でいられるようなことからしてあり得ないから。

「維れ清く緝熙なる、文王の典。肇に禋りて、迄れ用て成わる有り、維れ周の禎いなる」
「文王の定めし典礼の、なんと清く輝けること。天神を祭る用意も、全てここに備わる。
周の国のなんと幸いなことか。(社会現象全般の清さ正しさを典礼によって実現している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・周頌・清廟之什・維清)

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176 2011/07/21(木) 12:46:02 ID:zZAR5ArXRs
易の陰陽説に基づけば、「天」は「陽」、「地」は「陰」に当たる。
他にも「日」が「陽」、「月」が「陰」、「君」が「陽」、「臣」が「陰」など
色々あるが、これら全て「陽」であるほうを優先し、「陰」であるほうを劣後する
「陽唱陰和」を吉祥の相とし、この陽唱陰和が破れることを凶悪の相ともしている。

たとえば「易経」こと周易においても、乾(陽)→坤(陰)→屯(陽)→蒙(陰)→・・・
といった風に、互いに相反する卦同士を陽卦が先、陰卦が後になる順序で解説していっている。
これによって「易経」という書物自体が、その存在性から吉相を帯びるように編纂されてもいる。

しかるに、新旧約犯罪聖書のほうはといえば、記述順序でも歴史的な順序でも
地(陽)を象ったとされるアダムを先として、天(陽)を象ったとされるイエスを後とし、
アダムの登場する旧約犯罪聖書を先とし、イエスが主人公である新約犯罪聖書を後としている。
そうであることがすでに、「新旧約聖書」という書物自体の凶相の極まりなさを
決定付けており、その存在性が根本から罪過ばかりを呼び込む作りにもなっている。

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177 2011/07/21(木) 12:47:35 ID:zZAR5ArXRs
書物としての体裁が吉相を保っているか凶相に陥っているかで、確かにその記述内容の
細部まで変わってくる。その記述姿勢から陽唱陰和を保っている四書五経の登場人物である
堯舜禹湯文武周公、春秋時代の諸侯や孔孟やその弟子などは全て厳重な実在性に根ざしており、
その伝承通りの遺跡群なども出土する上、日付なども完全に史実に即したものとなっている。
「詩経」などで描写される季節や風土に根ざした自然描写、日食などの事件の記録も全て
現実の自然や史実などにピッタリと合致している。一方で、新旧約犯罪聖書の記述たるや、
旧約については全くの御伽噺であり、史実にも根ざしていなければ実相にも根ざしていない。
新約には多少史実に根ざしたような記録もあるが、他でもないイエスの復活劇が全くの架空。

その記述姿勢から陽唱陰和を心がけているからこそ、四書五経は深く現実の実相に根ざすことが
できている一方で、記述姿勢から陽唱陰和が破れまくっているからこそ、犯罪聖書は現実の
実相から乖離した空想上においてでしか記述を展開していくことができない。現実の実相が
必ずしも陰惨なのではなく、陽唱陰和に即していないから陰惨であり、実相が陰惨であるが故に
現実からかけ離れた空想に逃げ込むことしかできない。現実のせいではなく、自分が悪い。

「天地は順を以て動く、故に日月過たずして四時忒わず。聖人順を以て動けば、則ち刑罰清くして民服す」
「天地万物の現象は正しい順序に即して動作している。そのため日月も間違いなく運行し、
四季もその順序を間違えたりすることなく巡っている。それと同じように聖人が天地の順序に則って
言動を正せば、刑罰のような凶事ですらもが清く正しく行われ、民も心から納得して帰服するようになる。
(天地の順序を違えたならば、空想上ですら冤罪による磔刑のような不当処罰にしか行き着けない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・豫・彖伝より)

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178 2011/07/22(金) 13:31:19 ID:SmfrxmKoD2
「キリストと結びつく」ということは、十字架に張り付けられた長髪半裸ひげのおっさんを
見て自分自身の罪が償われたような気になる、「鏡映認知障害への罹患」を意味している。

鏡映認知障害への罹患を欲しているのは、カルト信者自身であり、実際に鏡映認知障害に
罹患するのは、「自分が罰を受けたくない」という恐怖感が極まっているから。つまり、
「信者をキリストに結び付けている神」というのは、他でもない「信者たち自身の恐怖」のことだ。

キリスト教徒たちが「神」と呼んでいるものは、自分たちが刑罰に処されることから
必死で逃れようとする恐怖感でしかない。その正体が完全に明らかなものであるからこそ、
キリスト教の神は決して本物の神ではないことが分かる。神だ仏だといったものが本当に
実在しているかどうかはともかくとして、少なくともキリスト教の神は本物の神ではない。

どこにも不可思議な要素などがなく、「信者たち自身の恐怖」というこの一言で完全に
説明が付くものだから、わざわざそこに本物の神性を付与する意味がどこにもない。

「今商王受、五常を狎侮し、荒怠して敬せず。自ら天に絶ち、怨みを民に結ぶ」
「いま殷の紂王は、五常(仁義礼智信ではなく、君臣父子夫婦兄弟朋友の天下の達道に相当する)の教えを
侮って、何者を敬うことをも怠っている。自ら天神との関係を絶ち、民たちを深刻な怨恨に結び付けている」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・泰誓下より)

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179 2011/07/22(金) 15:17:25 ID:I6O8uCuZIg:DoCoMo
「恐怖」も、神格として象徴化できなくはないだろうが。

たとえ象徴化できたところで、子羊を痛め付ける屠畜屋あたりと何も変わらない。

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180 2011/07/23(土) 11:18:16 ID:MrUoulpWr2
鏡映認知障害によって、IQ20〜35程度のチンパンジー以下の低能に陥ってしまっているとき、
その間中は文字を理解することもできない。チンパンジーにだって簡単な記号を理解する
程度の能力は備わっているようだが、「十字架」はそれ以外のあらゆる記号に対する理解を
不能と化せしめるドグマの記号であり、記号の集成である文章の理解をも不能とならしめる。

一方で、十字架こそは最大級の「死の記号」でもある。同じぐらいに高い強度を持つ
死の記号としては白骨などがあるが、いずれにしろ「死」を象徴する記号の最たるもの。
記号にもいろいろあり、剣や玉、竜や虎のような生命力を象徴する記号も多々ある。
にもかかわらず、十字架のような死の記号を特定して尊崇するところに、
死文ばかりを殊更に偏重する性向までもが吹き溜まることとなる。

むろん、生命力の記号としての文を用いる場合にも、文辞ばかりの偏重によって、孝養などの
実践を疎かにすることはよくないこととされ、十分な実践の後についでに文をも学ぶぐらいが
丁度よいとされる(学而第一・六)。ただ、それはもちろん、チンパン以下への知能の低下
によってまともな文章理解力もなくなるようなのとは、全く異なる。文学以下の賤業に
陥るためではなく、文学以上の偉業を成すために、初めて文学も劣後されてよいのだ。

「大なるかな、堯の君たるや。巍巍として唯だ天を大と為し、唯だ堯は之れに則る。
蕩蕩として民能く名すること無し。巍巍として其れ功を成す有り。煥として其れ文章有り」
「偉大なものだ、堯帝の主君としての有り様は。ただ堂々として天こそを偉大なものと見なし、
ただその偉大さに則ろうとばかりされた。その大らかさは民が褒め称える言葉も見つからなかったほど。
堂々として大きな業績を打ち立てられ、その業績を磐石なものとするための聖文もまた輝かしかった。
(天の業に則った真に偉大な業績であるのなら、それを記した尚書もまた輝かしいものとなるだろうに)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一九より)

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181 2011/07/24(日) 13:04:16 ID:47GCzOrX1E
キリスト教や民主主義のような邪義が流布されることで、かえって覆い隠されてしまっているものがある。
それは、賢人の真の聡明さであったり、少数の賢聖に多数の愚人が素直に聞き従うことの有用さだったりする。
それによる害はあきらかに、キリスト教が禁教化されたり、民主主義が廃止されたりする場合以上のものとなっている。

重度精神障害者にまで一人前の行為能力が付与されたり、自意識過剰の思い上がりの塊と化している小人に
主権が与えられたりすることは、確かに当の精神障害者や小人らにとっては都合のいいことに違いない。
しかし、それにより逆に精神的健常者や賢人の立場が奪われて、自分たちの能力を十分どころか微塵たりとも
発揮できなくなってしまい、それにより精神障害者や小人たちがいま呼び込んでいる人類滅亡の危機も、
それを回避して救済へと導く能力があるにもかかわらず、その能力自体を活用することができなくなってしまっている。

あっちを立てればこっちが立たず、こっちを立てればあっちが立たない。二律背反の完全な相反性が
儒学とキリスト教、封建主義と民主主義、精神健常者と精神障害者、賢人と小人の間などには伴っており、
劣悪なほうを採って優良なほうを覆い隠す以上は、優良な側の能力が実在していたところで発揮されることはない。

「罪有るは敢えて赦さず、帝の臣を蔽わず、簡ぶこと帝の心に在り」
「罪のあるものの放蕩を敢えて赦さず、それにより、上帝の忠臣となるに相応しい賢人が覆い隠されることを防ぎ、
上帝の御心のままに臣下を選び出すことができるようにいたします(殷の湯王の上帝に対する誓いの言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・堯曰第二十・一より)

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182 2011/07/26(火) 12:15:13 ID:WErE7VEbjY
冤罪にしろ、それによる不当な放免にしろ、立派な権力犯罪に当たる。
それはたとえ、冤罪で刑死した人間が後に生き返ったところで
全く変わりないことが、>>142の思考実験によっても明らか。

キリスト教徒には、罪の放免によって大迷惑を被る、犯罪被害者への配慮が全く欠けている。

だから、冤罪やそれによる放免などをやらかした権力犯罪者との和解までをも促す。
向こうには、このまま和解などすればあまりにも多くの怨みを呼び込んでしまう事情があり、
罪を敢えて許さず、冤罪や不当放免に対する十全な処分によって、怨みを呼び込む原因を解消していく
ところから期されねばならないのであり、冤罪刑死者の復活などという、何ら罪障緩和の手立てにも
なっていない偽証などをエサに和解を呼びかけたりしてはならない。仮にその復活が偽証ではなく
真実であったところで、犯罪被害者の怨みが解消される何らの理由にもなっていないのだから。

「禮の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為すも、小大之れに由れば、
行われざる所有り。和を知りて和すれども、禮を以て之れを節せざれば、亦た行う可からざるなり」
「礼儀礼節を実践する上でも、そこに和やかさが保たれていることが貴ばれるべきである。古えの聖王たちも
それを美徳としたが、小事から大事に至るまで、何もかもを和み一色で塗り固めようとするなれ合い志向では、
何もうまくいかなくなってしまう。たとえ和やかであることに努めるのであっても、礼儀作法などによって
そこに節度を保たせるのでなければ、むしろそうしないでいたほうがよいということにすらなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一二より)

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183 2011/07/27(水) 13:41:03 ID:lxO38WhjCI
「悲しみ」とは、亡びに対する感傷のことだ。それが悲しみというものの定義だ。

親の死を悲しんだりするのも、それが一つの大きな亡びであるから。
古代の儒家の礼法に即せば、親の死を悲しむに際しては一切我慢などをしようとはせず、
大泣きに泣いて絶食などにも及べばいいとする(ただし自分自身が死なない程度に)。
それが「悲しみ」という名辞にかなったことだから、そうする。

一方で、「子供は老人よりも長生きだ」などの詭弁に基づく逍遥遊すらありとする道家の荘子などは、
老子の葬式で弟子たちが踊っていたのを評し、自らも妻の死に際して歌を唄って楽しんだという。
道家の場合は全くの「無憂」であり、超俗者ならではの特権として悲哀全般を捨て去ってしまう。
(これは死への悲しみなどをより体系的に克服していく仏教などとも類似している)

どちらでなければならないなどということはないが、少なくともどちらかであったほうがいい。
悲しみを亡び以外の何かに転用するような蒙昧を、世俗に持ち込んだりするようなことだけはすべきでない。

「少連、大連善く喪に居す。三日怠らず、三月解らず、期に悲哀し、三年憂ふ。東夷の子なり」
「少連や大連は東方の蛮夷の人ではあるが、善く誠実に喪に服している。三日間の哀痛を怠らず、
三ヶ月間の喪殯も卒なくこなし、ことあるごとによく悲しんで、三年間憂いを解くことがなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・雑記下第二十一より)

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184 2011/07/28(木) 12:14:00 ID:/AosaiA8cs
イエスが禍音書で信者に促している、不当利得での友愛や親子兄弟での殺し合いなどは、
本人としてもあくまで「愚かな振る舞い」であることを承知しているという。

「何も知らない児童のように愚かであってこそ、天の国に導かれる」
これと似たような教説は道家などにもあって、百発百中の弓の名手であったり、
多くの人々からの人望も厚かったりする列御寇が、伯昏無人のような先輩格の賢人に
「まだまだだな」と叱咤されて、誰にも会わずにただひたすら家の中に
ひきこもることで大成するなどの逸話が「列子」にも記載されている。これなども、
見た目にはかえって愚かな振る舞いによって、見るからに大業であるような
行い以上もの成果を挙げるという例になっているが、道家が説く「聖なる愚行」は、
引きこもりや飲んだくれなどの、どれも消極的なものばかりで、犯罪行為などに対して
積極的であるなどということではない。たしかに、そのほうが本当に「子供のように愚か」
なのであり、たいそうな知能犯罪を為したりするのは、あくまで大人の知見でこそできること。

道家のように消極的ではなく、カルト信者のように犯罪行為に対してまで積極的で
あったりはしない、儒家の中庸に根ざした振る舞いがまあ「賢者の行い」であるとして、
その賢者の行い以上もの成果を挙げられる場合がある「聖なる愚行」は、あくまで
道家の消極志向であって、カルト信仰に特有の、犯罪をも辞さない積極志向などではない。

賢者以上の愚者というのも確かにあり得るが、賢者以下の愚者も当然あって、
賢者以下の愚者については、だからといって何かの成果に結実するということもない。
強いて言えば、二度と一人前の大人として振る舞うことができなくなるのが成果だとはいえる。

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185 2011/07/28(木) 12:14:13 ID:/AosaiA8cs
「子曰く、賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。
人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」
「先生は言われた。『なんと顔回は賢いことだろう。茶碗一杯の飯に、湯のみ一杯の飲み物、
せまい路地での暮らしを続けているが、普通はそんなひもじい生活には耐えられないというのに、
顔回はそれを楽しむことをやめようとすらしない。なんと顔回は賢いことだろう』
(イエスのほざく『賢いこの世の子』などは、しょせんは悪事に直接を手を染めもせずに
いい暮らしをしている人間などを言っているのだろうが、そんな程度ではただ小賢しいだけである。
投機で得た富で裕福な生活を送っていた子貢なども、『顔回には到底かなわない』と言っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第八・一一)

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186 2011/07/29(金) 16:32:56 ID:5Kcgxf7k/Y
神道家は獣肉を食わない。道術者も「霞を食う」というように粗食を旨とする。
聖道門の仏僧も肉食は避け、インドのヒンズー教徒も基本は肉(特に牛肉)を食わず、
中東などのイスラム教徒も豚肉を徹底して食わず、牛肉などもあまり食べない。

「血肉の穢れを避ける」という感覚を肯定する人々は数多く、実に人類の半数程度に及ぶ。
何の肉を食うことを避けるかとかの、程度の違いこそあれど、実際にそれなりの実践にも移している。
もちろんそんな必要が必ずしもあるわけではなく、肉食を大々的に肯定する正統な文化だってもちろんある。

儒家も親の死後、三年は肉を食わないほうがよいとする一方で「年寄りは肉を食ったほうがよい(礼記)」といい、
昔の慣習では確かに犬肉や罪人の人肉を食する場合すらあった(これは日本の儒者などは一切取り入れていない)。
他力の浄土門である親鸞和尚も、「肉食妻帯」というあまりにも露骨な破戒行為をあえて為している。そこには
「肉への欲」へのウソ偽りのない肯定意識があり、なおかつ最低限の人としての品性の保全が伴たれている。

餓死児童の血肉すら、本人たちに振り分ける前から奪い去って自分たちの利得とし、人類史上最悪級の
物質的な我田引水に及んでいる(欧米の)キリスト教徒こそは、「肉が主ではない」みたいな詭弁をほざく。

肉欲まみれというのなら、かえってその肉欲を真正面から肯定して、その上で人としての最低限の品性を
保っていこうとするほうが誠実なことであり、肉欲を捨て去らない範囲における、マシな選択だといえる。
口先だけで肉欲を否定して、その実未曾有の肉欲まみれなどであるほうが、ムッツリもいいところだ。

「肉多しと雖も、食の氣に勝たしめず」
「(孔先生は)肉を多く食べるときにも、米などの主食よりも多く食べることはなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・八より)

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187 2011/07/30(土) 14:05:47 ID:s5BakGk/8Y
断罪や死への恐怖からなる鏡映認知障害が進行して、十字架上の半裸のおっさんと
自分との区別も付かなくなって、罪責の重さからなる良心の呵責も喪失してしまうという
犯罪聖書信者たちの自己洗脳は、IQ20〜35程度までへの知能指数の低下がそのタネになっている。

道家の秘奥の教義などにも、自分自身が痴呆も同然の状態と化すことで
天地万物の道理と一体化するようなものがいくらかある。ただ、それは本当に完全に
知的障害者も同然の状態に固定化されてしまうということであり、知的障害レベルにまで
知能が低下しておきながら、知能犯罪に及ぶことにかけては有能であるような
犯罪聖書信仰などにこそ特有のカルト的な機能性は伴っていない。

というよりも、そのような機能性から完全に捨て去ってしまうのが無為の本義であり、
そのために道術者は肉欲すら捨て去って、霞を食うような粗末な暮らしに徹したりする。
重度知的障害レベルにまで知能を低下させる「逃げ場」を用意しておきながら、
肉欲を満たすための知能犯罪能力などはそのままにしておくのが、犯罪聖書信仰にこそ
特有の病理であり、道家は認められても聖書信仰は二度と認められない根拠ともなっている。

「臘肉を噬み、毒に遇う。小しく吝なれども咎無し。毒に遇うは、位當たらざればなり。
乾肉を噬み、黄金を得。貞﨤なれば咎無し。貞﨤なれば咎無しとは、當を得ればなり」
「蝋のようにガチガチに固まった骨付きの乾肉を噛んで毒にあたるようにして、獄中に罪人を
収めることに苦心する。色々ともったいぶられて面倒ではあるが、だからといって咎はない。
毒にあたるというのは、罪人が身の程をわきまえずに思い上がっている姿に辟易するからである。
 まともに食せる程度の堅さの乾肉を噛んで黄金を得るように、獄中に罪人を収めることがうまくいく。
貞正を守ってよく警戒に努めつつことを行えば、なんら問題となるようなことは生じない。
問題が生じないのは、罪人までもが身の程をわきまえて素直に収監を受け入れるからである。
(罪人が身の程もわきまえずに放蕩しているようでは、肉も毒を宿した蝋肉のようで美味くない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・噬嗑・六三と六五及び象伝)

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188 2011/07/30(土) 18:51:27 ID:eoSRKe8K42:au
神は…130年ぐらい前に死んだと聞いたが…

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189 2011/07/30(土) 21:10:11 ID:s5BakGk/8Y
「鬼神」とは、「死者の霊魂」のことだが。

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190 2011/07/31(日) 14:30:36 ID:peP9uKcyfo
gooの和英辞書では「悔い改める」の英文は「acknowledge one's mistakes [misdeeds] and reform」としている。
他にも色々な「悔い改める」の英訳はあるようだが、やはり何を「改める(reform)」かが明示されていない。

日本人なら当然、「過ちを犯すような劣悪な思考規範や言動規範を改める」と考える。
「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ(学而第一・八)」というから、中国人だってそう考えるだろうし、
「悪いことをしてしまったとしても二度と繰り返さない(法句経・一一七)」という仏教文化が
(現ヒンズー教なども通じて)根付いているインドや東南アジアの人々だってそう考えるだろう。
(日本人もまた、儒学や仏教を通じてこそこのような常識的な考え方を育んできている)
戒律主義であり、破戒行為に対しては断固たる厳罰で臨むイスラム教徒も、過ちの繰り返しなどは決して認めない。
実に世界の三分の二以上の人間が、「悔い改める」といえば「悔いて行いを改める」という風に常識的に捉える。

聖書信者だけはそうではなく、「悔い改める」といえば、「悔いてその悔いを改める」と捉える。
悔いたからといって過ちだらけの行いを改めるのではなく、過ちを悔いることだけを改めて、過ちは犯し続ける。
そんなおかしなサイコパス患者と化したことが赦免の条件になると、自分たちの聖書に書いてあるんだから、
信じている以上はそうあろうとする。それが聖書信仰というものなのであり、そうであることを完全に看破して、
「邪宗門」として完全な禁教対象としていた江戸時代の日本などのほうが、ごくごく健全な対応をしていたのであり、
聖書信仰の救いようのない邪悪さから目を背けて十分な警察の対象ともせず、「信教の自由」の法文の下で
その横行までもが大々的に容認されている現代社会の対応のほうが、あまりにもおかしくて不健全すぎるのだ。

「凡そ禁を執りて以て衆を齊ふるときは、過ちを赦さず」
「禁忌に相当するような邪義によって大衆をたぶらかし囲い込んだときには、あらゆる過ちを赦さない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

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191 2011/08/01(月) 13:35:44 ID:mFsGTL7Xqw
富は、所有者自身とは離れたところで貯められたり使われたり、増えたり減ったりしている。
仁徳のように完全に自得のものではないから、使い切ってなくなってしまえばそれまでのもの。

一方で、善人が仁徳を完全に自得するようにして、悪人もまたその悪行によって罪障を完全に自得する。
膨大な不当利得を貯め込むことで多くの人々を苦しめた大悪人が、仮にその全ての富を今すぐに手離して
本来の所有者に返還したりしても、不当に富を奪い取って、一定期間以上独占していたことで、飢餓や
戦乱などで数多の命を亡きものにしてしまったりした場合の罪障が即座に消えたりすることもない。

太公望呂尚が殷への仕官を蹴って隠遁していた頃に、生活のひもじさに耐え切れなくて逃げ去った妻が、
周の重臣として大成功を収めて後の呂尚に復縁を願ったところ、呂尚は「覆水盆に返らず」という例えを
引いてその願いを断ったという。一番必要な貧窮の時期には逃げ去って、妻妾などにはこと欠かなくなった
成功後に復縁を要求してくるような厚かましさを、太公望もその要求を断ることで戒めたが、必要な富を
必要なときに奪い去って、散々な荒廃に追いやっておいてから赦免を要求したりするのならば、たとえ全ての
富を被害者に返還するのであっても、「覆水盆に返らず」ということがいえる。全ての富を返還するだけでなく、
服役や禁治産などの処分までもがあてがわれて初めて、盆上の水を覆した全ての責任が償われることとなる。

「季氏は周公より富めり。而して求は之れが為めに聚斂して之れを附益す。
子曰く、吾が徒に非ざるなり。小子は鼓を鳴らして之れを攻めて可なり」
「季氏は魯の家老であるにもかかわらず、周朝の重臣だった周公よりも多くの富を私的に得ていた。
にもかかわらず孔子の弟子だった冉求は、仕官相手である季氏の機嫌をとる目的で、
民に重税を課すことでさらにその富を殖やした。孔先生はいわれた。『もう求は私たちの仲間ではないね。
みんな、軍勢を駆って太鼓を鳴らしながらこれに攻め入ったって構いやしないよ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——先進第十一・一七)

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192 2011/08/01(月) 17:47:11 ID:vJqQvhU6Fo:au
>>189
おまえ中国人ダロ?

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193 2011/08/01(月) 20:13:04 ID:LDlD44OQYg:DoCoMo
ここ千年来、家系に外人の血筋が混入した形跡は一切ない。

もちろん、平安時代以前の貴族にだって、渡来人の末裔は数多いのだから、
そこに中国系の血筋が流れているといえば、そうかもしれない。
桓武天皇などの皇族にすら渡来系の血が流れているのだから、
日本人が古代の中国文化に「懐かしみ」を覚えたとしても、何もおかしくはない。

それどころか、蒙古族や女真族や英仏人といった異民族による征服支配をたて続けに被ってきた
今の中国人などよりも、日本人のほうが遥かに、古代の中国文化を
よりその原型を止めた形で継承しているとすらいえる。

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194 2011/08/02(火) 13:02:22 ID:9C3yguBOIg
仁の実践だって愛の実践だし、それどころか、
あらゆる愛の実践の中でも最大級のものですらある。

親愛と異性愛との、両方の要素を兼ね備えつつ、万人への慈しみをも欠かさぬ仁。
そこに「社会規範」としての最高の理念までもが備わっており、出家行によって愛全般を捨て去る
ことの実践に努める沙門でもないかぎりは、誰しもが仁の実践をこそ最優先して然るべきもの。

しかるに、イエスを含む犯罪聖書の登場人物や、犯罪聖書の著者たちは「仁」という理念を
始めから知らない。仁やそれに相当する理念を全く察知もしないままに、神の愛を騙る自己愛や、
近隣の利益を共有する者同士だけでの偏愛を促し、一方で人として当然貴ぶべき親族への
愛などは蔑ろにしてもよいとする。早い話しが、「愛の悪用の実践」ばかりを促している。

愛や勇気が善用も悪用も可能な諸刃の剣であることは重ね重ね説いてきたことだが、
蛮勇や匹夫の勇を棄てて、大勇のみの実践を心がけることが勇気の悪用の禁止と善用の推進となる一方で、
自己愛や偏愛を棄てて、仁の実践を心がけることこそが愛の悪用の禁止と善用の推進ともなる。

「事を作すに威が其の愛に克てば、小と雖も必ず済ふ」
「軍事を為すに際しては、威武が愛着に打ち克ってすらいれば、小勢であっても必ず功を成す。
(軍事的には、愛着に溺れてヘタレと化すことは禁物であり、そうなれば必ず負ける。
古来から、戦闘に及ぶ前に異性と交合すると必ず負けるともされている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十三年より)

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195 2011/08/03(水) 12:02:14 ID:sLjGl7C2oc
西洋人は文明の「既製品」ばかりを見て、その設計や工作の用意には目を向けようとしない。

孟子や墨子や荀子や韓非子といった、中国諸子百家の思想家が重要理念として掲げていた
「規矩準縄(定規とコンパスと水準器と墨縄。それぞれの思想家によって内容の異同あり)」が、
実際の文明構造物を建造する上での必須な設計製造用具となっており、このうちの定規とコンパス
については、易の考案者とされる伏羲氏とその妻である女媧氏が携えていたとされる。
そして、水準器と墨縄に利用される「縄」は、10000年前から日本人がその重要性に着目し、
土器に独特の文様を施す道具として用いることで、土器の貯蔵物や所有者を識別するのに用いていた。
これは奇しくも、「ストリング(縄)」とあだ名される今のプログラミングソースの用途にも近似していて、
現代における最先端の情報化文明の出現すらをも、10000年前の日本人がすでに見越していたといえる。

日本人や中国人は太古の昔から、文明や文化の創作の大前提として用意される道具などのほうをより重視し、
しかもその重視を始めた時期たるや、西洋人や古代オリエント人が甚大な物質文明を構築していこうと
し始めた時代よりもさらに昔にまで遡る。そこに、東洋人の文明や文化に対する透徹したわきまえを
確立する秘訣があったのであり、逆に言えば、既製品ばかりを偏重してその製作の過程を軽んずる
西洋人の俗悪な即物志向が、今における西洋文明の衰退の原因にすらなってしまったのだといえる。

「命を為すに、裨韑之れを草創し、世叔之れを討論し、行人子羽之れを脩飾し、東里の子産之れを潤色す」
「(昔、鄭の外交文書は非常に優れていてどこにも落ち度がなかった。そこにはこういった理由があった)
諸々の口上書を作成する場合に、裨韑がまずその草案を新造し、世叔がその内容について討論を重ね、外交官
である子羽がその文体を聞こえの良いように修飾し、最後に東里にいる子産が全体の色づきを整えていたからだ。
(口上書をまず新造したのが裨韑だからといって、世叔や子羽や子産の仕事がそれに劣っているとはいえない。
むしろ、最後の仕上げを行った子産こそは、口上書作成の上でも最大級の役割を果たしていたとすらいえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・九より)

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196 2011/08/04(木) 13:25:09 ID:Uk0gpsAT2k
ダンテも「神曲」天国篇で、地獄から煉獄を通じて、
最後に天国に昇った自らが、「もはや神を信じていない」といっている。
キリスト教徒が神を信じるのは、神がやってくるその瞬間までのことであり、
新約の「契約」が履行された時点で、契約志向に基づく信仰は終結するという。

キリスト教徒にとって何よりも恐ろしいのは、神がやってこない限り、
契約が履行されない限りにおいて、信仰を捨てさせられてしまうこと。

冤罪で十字架にかけられたからといって、刑死後三日目に生き返るような
珍妙な生き物が現れるまでは、キリスト教徒は信仰を捨てることができないが、
さりとてそんな奇怪な生き物は実際問題として実在しないので、キリスト教徒は
キリスト教徒である限りにおいて、永遠の信仰を続けさせられるはめとなる。

契約志向に基づく、「契約が履行すらされればもはや捨て去ってしまって構わない」
などというような「信」のほうが、むしろ不誠実な「信」であり、契約の履行や
不履行などに関係なく信実であることこそが真に誠実な「信」であるわけだから、
絶対に履行されない契約を信じさせられた結果、生きてる限りにおける永久の「信」を
存続させることとなったキリスト教徒の姿勢は、結果としてそれ自体は誠実なものとなっている。

あとは、「絶対に履行されない契約を信じさせられているから」などという不純な理由には
基づかず、自らの自律性に根ざした、見返りなどを顧みない永久不変の「信」をすら獲得できたなら、
それでこそ「信」の誠実さが確立されるわけで、そしたら信すら持たないただの常人などよりも
よっぽど誠実ですらあるわけで、かえってより信愛に値する相手にすらなれるわけだから。

「子張、徳を崇くし惑いを弁ぜんことを問う。子曰く、忠信を主として義に徒れば、徳を崇くするなり」
「子張が徳性を高めて迷いを晴らす方法を尋ねた。先生は言われた。『忠誠と信実さとを第一として、
それによって正義に移っていけたなら自らの徳性を高めることができるだろう』(契約すら履行されれば
それで捨て去られる信仰などではなく、これからも存続される信実さこそを価値あるものとすべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一〇より)

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197 2011/08/04(木) 14:07:16 ID:Uk0gpsAT2k
イスラム教徒なども、アラーとの契約に基づく信仰を固持しているわけだから、
もしもその契約が履行されたなら、契約に根ざした数々の戒律をも解除することだろう。

豚食や飲酒も可能となり、女性がヴェールをまとったりすることもなく、
毎日五回行われる神への礼拝も、毎年九月に行われる断食もやめてしまう。

始めのうちはやめてしまうことに戸惑って、躊躇したりするかもしれないが、
神との契約が履行されたことが実証すらされれば、実際に本当にやめてしまえる。
あとは、処女膜が何度でも再生される処女との乱交ができたりするような、
えげつない天国での生活が待っているとするのが、イスラムというものなのだから。

それよりはある意味、たとえ自分たちが禁治産者などになるのであっても、キリストや
エホバを信仰する過程で身に付けた強靭な「信」を、神への信には依らない汎用的な信実さ
へと振り向けることを聖書信者が選択できたならば、そのことが、それを選択しなかった
場合のイスラム教徒などよりも、元聖書信者が信愛に値する存在である根拠になるといえる。
(もちろん、イスラム教徒がアラー信仰で培った信仰力を汎用的な信実さに振り向ける場合もある)

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198 2011/08/05(金) 13:46:03 ID:FJcJbUVJJc
罪人たちへの憐れみに基づく赦しは、ちゃんと放辟邪侈に終止符が打たれて、
「悔いて過ちを改める」という意味での悔い改めが遂げられた後にこそ行われる。
「悔いてその悔いを改める」という意味の珍奇な悔い改めばかりに終始して、
あいもかわらず放辟邪侈を続けるようなら、憐れみも赦しもありゃしない。

成就する目処も立たない聖書信仰などは早く捨て去って、なおかつ聖書信仰
並みの強固な信実さに根ざしてこれからの処分を受け入れる。そうすれば、
今までの罪の重さに対してですら、憐れみによる赦しが期待できる。
順当な公正さに即しすらすれば、主上の寛大さも大河の流れの如くなり、
あらゆる罪と穢れとを押し流し去って下さるに違いないから。

「君王、敝邑の罪を討ちて、又た矜れみて之れを赦さば、師や名無き有らん」
「もしも、主君がわが国の罪を討ち滅ぼして、その上で罪人たちを憐れみ、以前の
罪過を赦したならば、討伐に従事した軍団の長にまで、善き評判が及ぶことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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199 2011/08/06(土) 12:07:40 ID:SmfrxmKoD2
仮に、一つの城を建てるとして、天守閣や本丸のような最上等の部位になる材料もあれば、
石垣や白洲のような最下等の部位になる材料もある。石垣の材料になる石なども必要なものでは
あるにしろ、城郭の最底辺で、常に雨風に晒されるその有り様は、お世辞にも「優遇」と形容するには値しない。

人類社会がこれから封建されるにいたって、キリスト教徒やユダヤ教徒などにあたる人間は、
この石垣のような役割を負わされることとなるわけで、決して全人類の中で優遇された立場に置かれたりはしない。
ただまあ、それはそれで必要なものとして用いられる上に、石垣の造りの手堅さにこそ評価の目を向ける
人間もそれなりにいるから、最底辺であることを理由にそんなに悲観する必要もない。
城は城全体が一戸の城であり、石垣のない城なんてのも、荘厳に欠けるもんだから。

「君子の道は諸れを身に本づけ、諸れを庶民に徴し、諸れを三王に考えて繆らず、
諸れを天地に建てて悖らず、諸れを鬼神に質して疑い無く、百世を以て聖人を俟って惑わず」
「天下の王者となる君子の道は、君主の身を根本に位置づけて、その信じ従う姿を庶民にまで見習わせる。
夏殷周の聖王のあり方に照らし合わせて考えてみても誤りがなく、その統治支配を天地に封建しても
悖るところがなく、先祖代代の祖霊に問うてみても疑うところがなく、百世の後の聖人の批評にすら惑うことがない。
(ことごとくキリストやエホバのあり方には反しているが、もはや委細まで指摘する必要もあるまい)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・二九より)

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200 2011/08/07(日) 13:35:23 ID:xrzL.yF8Lo
キリスト信仰に基づいて、神に近づくことは許されない。その信仰を捨て去った結果、
大胆に神に近づくことができなくなるというのなら、それでもいい。

昔の中国で、帝位に就くもののしきたりとして、まずは自分以外の誰かから即位の勧めを受け、
それをまずは断った上で、「どうしても」と嘆願される場合に限って引き受けるというのがある。

前漢の初代皇帝劉邦は、群臣に皇帝への即位を勧められたが三たび辞退し、
その上で「君らがそこまでいうのなら、そのほうが便利なのだろう」といって引き受けた。
前漢五代皇帝であり、高祖劉邦の庶子である文帝などは、群臣に即位を勧められても
西を向いて三回、南を向いて二回辞退し、劉邦の重臣でもあった陳平らの必死の説得を
受けることで、やっと即位を受け入れてもいる。(「史記」高祖本紀、孝文本紀を参照)

一方で、秦帝国への反旗を最初期に翻した陳勝などは、一度も人からの即位の勧めを
辞退せずに王に即位した結果、章邯などの有能な秦の将兵による返り討ちに遭い、
動揺した味方同士での内乱に巻き込まれて死んでいる。漢軍の大将軍として
天をも抜くような大活躍を果たした韓信も、自分から斉の仮王になりたいだなどと
劉邦に志願して不信を買い、漢帝国の創立後に九族皆殺しの刑に処されている。

帝位や王位などというものは、最高級の聖賢にとってすら即位することが畏れ多いものだから、
誰であれその勧めをおいそれと承諾してはならず、自分から望むことなどはもってのほかである。
この世には、積極的であったほうがいいことと消極的であったほうがいいことの両方があるが、
ことに、偉大さへの接近やその掌握などは、消極的でなければならないものの最たるものだといえる。
大胆に偉大さに近づこうとする、分不相応な厚かましさなども、むしろ捨て去ったほうがいいのだ。

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201 2011/08/07(日) 13:35:36 ID:xrzL.yF8Lo
「信、義に近ければ、言を復んで可なり。恭、禮に近ければ、恥辱を遠ざくなり。
(ここまで既出)因ること其の親を失わざれば、亦た宗とするも可なり」
「信実さが正義に根ざしていれば、その言葉を信用してもよい。恭敬が礼節を伴っていれば、恥辱を
被るようなことがなくて済む。頼るべき相手を取り違えてすらいなければ、全幅の信頼を置いてもよい。
(邪義を司る神などによりも、正義や礼節にこそ近づこうとすべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・一三より)

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202 2011/08/08(月) 12:16:06 ID:sy4OeYshBo
因果関係で言えば、不吉だから悩みがあり、吉祥だから悩みがなく、酒も美味い。
悩みがないから吉祥なのでもなければ、悩みがあるから不吉なのでもない。
それは基本が唯心論である仏教の唯識思想に即してですら、是認されていること。

IQ40以下への、知能の乱高下を伴う重度精神障害によって、悩みを生ずるような不吉な
出来事の罪深さにだけは理解を働かせなかった結果、悩みを感じないなどということがあっても、
無痛症の人間が致命傷を負っても何も感じないでいるようなもので、現実の破綻は確実に迫ってくる。
本人自身がそのまま死んでしまったとしても、罪障は数多の人間の怨恨などの形で後の世にまで
持ち越され続け、子子孫孫にまで降りかかる、多大なる禍となってやってくる。

むしろ、自然の中での素朴な生活のほうが良さそうなものも、それすら叶わなくなり、
イヤでも強制的に、ある種の「人工的な矯正」に浴さなければならなくなってしまう。
それも本当はないほうがいいぐらいのものなわけだが、人類の滅亡という最悪のシナリオを
回避するための、どうしても避けられない消去法的選択肢として、それがある。

「益者に三楽、損者に三楽。礼楽を節せんを楽しみ、人の善を道うことを楽しみ、
賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽を楽しみ、佚遊を楽しみ、宴楽を楽しむは、損なり」
「益となる楽しみが三つ、損となる楽しみが三つある。礼楽を規則正しく行うことを楽しむのと、
人の美点を褒め称えることを楽しむのと、賢明な友人を持つことを楽しむのが、益になる楽しみ。
わがままや好き放題を楽しむのと、怠けて遊び呆けるのを楽しむのと、宴会を楽しむのが、損になる楽しみ。
(楽しみを原因の結果として捉え、原因が損となる楽しみを戒め、原因が益となる楽しみを推奨している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・五より)

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203 2011/08/09(火) 14:33:26 ID:qOMFo4B7wo
実力を用いた有為な統治支配を、道家は否定するし、「大道廃れて仁義あり(老子)」という風に、
自覚的な仁愛によって、これまた有為で世の中を統治していこうとすることをも否定している。

本当はこのような、無為自然の統治を心がけるほうが民にとっては気ままなものであり、
作為によって頭ごなしに押さえつけられる実力的支配は、民はできる限り受けたくないもの。

ただ、そのうちの作為による実力支配のうちで、実力支配であるなりの正義を保とうとするのが
儒家の仁徳統治であるのに対し、正義か悪かなどによらず、とにかく実力で徹底的に押さえつけるのが
法家支配、そしてカルト信仰によって一概に劣悪な実力支配を画策するのが犯罪聖書支配だといえる。

品質の優劣で言えば、道家統治>儒家統治>法家支配>カルト支配とでも言ったところで、
道家と儒家には少なからず、強権的な「支配」を忌避する純粋「統治」志向が見られるのに対し、
法家支配とカルト支配には、無為の「統治」をあえて退けてまでの「支配」一辺倒の傾向が見られる。

儒家も、それなりに実力での有為支配を講ずるものではあるが、あくまでより優良とする
ところは無為なる統治であり、有為による統治支配はそれが無理である場合の必要悪とされる。

その必要悪をできるかぎりマシなものにしていこうとするのが儒家の本分でもある辺り、
儒家が優柔不断のそしりを被る原因となると共に、中庸に根ざした正善さの端緒ともなっている。

「驥は其の力を稱せず。其の徳を稱するなり」
「名馬はその力の強さを褒められるのではない。その徳の高さを褒められるのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・三五より)

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204 2011/08/10(水) 12:37:57 ID:K2ku6L.YHk
自分で他者に損失を与えておいて自分で救う、マッチポンプも大概にしなければならない。

元禄以降、士人の威厳が弱まって商人の営みにたがが外れ始めた江戸時代中期からは、
私服を肥やす悪徳商人を誅罰するという名目を掲げた、義賊的な盗賊行為が横行するようになった。
とはいえもちろん、それも名目どおりなばかりではなく、盗賊たち自身が私欲を満たすために
強盗に及ぶこともあり、特に世相の乱れた時期にはそのような畜生働きのほうが多くなった。

その世相の乱れによる盗賊の跋扈に歯止めをかけていたのが、鬼平こと長谷川平蔵も
一時長官を勤めていた火盗改のような公儀の刑事組織で、当然、義賊か否かなどに依らず、
盗賊行為全般を取り締まりの対象とした。ただ、元禄期の悪貨製造や赤穂事件以降、非合法ではない
商人による悪徳経営もまかり通り始めていたことから、それによって私服を肥やしていような悪徳商人を、
大量虐殺などの度を越した暴行には及ばない範囲で窃盗対象としていた、義賊然とした盗賊などに対しては
島流しなどの比較的軽い刑を科した一方で、別に悪徳経営に乗じているわけでもない普通の商家などに対して
強盗殺人や放火などの重罪加害を及ぼす鬼畜然とした盗賊に対しては、斬首や火あぶりなどの断固たる重罰で望んだ。

初代江戸幕府将軍・徳川家康の貯蓄も尽きて、幕府全体の威徳が衰えた結果、盗賊行為全般を
根絶することまではできなくなって、盗賊行為の軽重によって罰に手心を加えるようになったことは、
確かにマッチポンプに相当するような側面がなかったとはいえない。さりとて、別に幕府や火盗改も好き好んで
マッチポンプをやっていたのではなく、自分たちの威徳が衰えたせいで仕方なくそうさせていただけのこと。
決してマッチポンプを信仰対象にまでして、あえてそれを推し進めようなどとしていたわけでないのは確か。

「約を以て之れを失する者は鮮なし」
「節度を守っていながら何かを失うようなことは、ほとんどない。
(節度を失って暴れまわるもんだから、何もかもを失う)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・二三より)

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205 2011/08/11(木) 11:50:52 ID:MJ0eB6zg76
聖書信仰によってこそ、荒廃させられた世界を修繕するぐらいは当たり前のこと。
犯罪聖書が存在しなかったころぐらいに、平和な世の中を立ち戻らせて、
マイナスプラスゼロの穴埋めを完遂させるなんてのは大前提に過ぎず、
しかもその実動者は、犯罪聖書の信仰者や実践者自身ともなる。

犯罪聖書による荒廃の穴埋めぐらいは済んでから、世の中をさらに繁栄させていくこと、
そこにこそ人としての道義があり、そこで何がなされるのかということを、現時点においては
まだ世界中の誰しもが見据えられてはいない。まずは聖書信仰による世の荒廃を救って
もらわなければ、盲目と化してしまっている今の人々には先にあるものが見えない。

だから、何をしてもらいたいかなどということも今の人々にはまだ見えておらず、
何をしてもらえるのかも分からないような相手に対して、信頼を置くことも
できなければ、その出現に素直な喜びを抱くこともできない。

盲目の苦しみを科す聖書信仰によるマッチポンプが完遂して後に、
望まれること喜べることは、マッチポンプの最中に望んだり喜んだりすることとは
全くの別物となるため、犯罪聖書の記述に即して望まれたり喜ばれたりすることもない。
また、蒙昧に欲望を募らせることも立ち消え、飼い主にじゃれて喜ぶ犬っころみたいな
喜びよりは、人としての品位を保った畏敬などのほうがより重要なものとされていくようになる。

犯罪聖書が回す天下と、それが終焉して後の天下とでは、
人々の志向や言動の規範から、何もかもが刷新される。犯罪聖書中の
ただ一つの記述だって、世の中に通用することはなくなるのである。

「子路、人之れに告ぐるに過ち有るを以てすれば、則ち喜べり」
「孔子の弟子の子路は、人が自分に過ちがあることを指摘してくれると、大変喜んだ。
(蛮勇の徒でもあった子路だが、喜怒哀楽などの感情を正義によって律しようとする程度の徳はあった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・八より)

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206 2011/08/12(金) 11:06:45 ID:mUtR5vUrZ.
無戒律であり、行不退よりも信不退のほうを重んずる浄土教の自力仏教に対する姿勢と、
旧約の戒律を絶対としないキリスト信仰のユダヤ信仰に対する姿勢は似ている。

しかし、そもそもの自力作善のための律とされる聖道門の仏教の戒律が
自他を害することを体系的に禁止した真の「止至善」の戒律となっているのに対し、
ユダヤの戒律は、それを守ることによってかえって自他を害すること
ばかりが推進される「止偽善」の戒律の羅列となっている。

止至善の戒律の実践と同等か、それ以上の効能を伴う信不退の信教が浄土教であるのに対し、
止偽善の戒律の実践と同等か、それ以上の効能を伴う信教がキリスト信仰となっている。

無戒律の信仰にだって、それなりの心構えがあるわけで、それは浄土教なら浄土三部経や
「選択本願念仏集」「歎異抄」などに書かれてあるし、キリ信仰なら新約犯罪に書いてある。
絶対に守らなければならない戒律などは皆無ないし些少であるにしろ(五逆や誹謗正法の禁ぐらいはある)、
そこに書かれてあるような心構えに基づいての信仰に徹した結果、止至善の自力仏教の実践に近似
するような効能が得られたり、至偽善のユダヤ教の実践に近似するような効能が得られたりする。

戒律よりも信仰のほうが重要とされているからといって、信仰に戒律主義と別個の効用が
期待されたりするものではなく、やはり戒律の厳守と同等かそれ以上の効果が得られることこそが期待される。
その意味ではやはり、自力仏教と浄土教が同根であるように、キリ信仰とユダ信仰も同じ穴の狢であるといえる。

「如何や昊天。辟言の信ぜざる。彼の行き邁きて、則ち臻る所靡きが如し。
凡百の君子、各おの爾の身を敬せよ。胡ぞ相い畏れざる、天を畏れざるなり」
「ああ、上天よ。なぜ法度のある言葉が信ぜられないのだろうか。まるで誰しもが往く当てもなく彷徨っているかのよう。
(浄土教の信とて正法に結び付く信だが、キリの信は際限のない妄念妄動を正当化して推進する信である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・雨無正より)

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207 2011/08/13(土) 13:33:10 ID:VlT8hnxnpg
>>200で書いた、中国の伝統的な帝王への即位方法は、即位を請うのが、
これから自分が臣従させることになるだろう群臣であることをも大前提としている。
「君らの上に立つことが畏れ多いから即位を忌避する」という意味もあって、
人間同士の譲り合い求め合いであればこそ、帝王となるものは即位を忌避する。

ただ、その伝統が根付いている中国で、神からの信認を得たりすることが全く無いなんてこともなく、
すでに皇帝などに即位した主君が「封禅」という形で、泰山などの霊山に自らへの信認を祈願することがある。

始皇帝はこの、泰山での封禅を試みて失敗し、弾圧を受けていた儒者たちからの冷笑をも買った。
漢の高祖劉邦は、自らの代では封禅を行わず、呂氏専横の頃や文帝、景帝の代になってもまだ行わず、
匈奴征討も完遂された武帝の代になって初めて封禅が秘密裏に執り行われ、無事成功を果たしたという。

「人事」である皇帝への即位など、それ自体を神霊に要求して頂こうしたりするのは世間外れなことで、
皇帝王覇の現実的なあり方を徹底的に研鑽しぬいている東洋においてこそ、王権神授などは認められていない。
仮に諸国が統一されて皇帝が即位したところで、世の平穏が保たれることが磐石となるまでは封禅も
行わないほうがよいとされ、法家支配で人々を最悪の疲弊に晒していた始皇帝なども封禅に失敗した。

神から授かるべきものと、神に要求してはならないものとの両方があり、特に今のような乱世において、
実利の伴う事物を神から賜るなどということを欲してはならない。乱世はそのほとんど全ての事物が
自業自得の法則に根ざしており、神助を請うべき不確定性などは介在していないから。乱世こそは
迷信などの差し挟みようのない、完全な必然性だけが全てを支配している社会だから。

「衛音は趨數にして志しを煩わしめる」
「衛の音楽は押し付けがましくてせわしないため、自らの志しを煩わしめる。
(神による救済ばかりをせわしなく押し付けてくる犯罪聖書も、
人間自身の自主的な志しを煩わせて不能ならしめる悪影響を及ぼす)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)

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208 2011/08/14(日) 11:39:58 ID:arHeaS1Zuw
他力本願の依存気質では、自主的な作善によってこそ叶えられる多くのことがどうしても叶えられない。
自力作善の積み重ねによってこそ実現できる理想というものがあって、
そこに神仏への畏敬はあろうとも、精神的怠惰に根ざした依存などは介在のしようがない。

ただ、そこまでいかない範囲、未だ他力本願が主流である範囲において、その本願が他力であるなりに
勧善懲悪である場合と、悪逆非道である場合と、善悪みそくそである場合とがあり、
「望みは何でも叶えられる」ということが前面に押し出されている以上は、
その望みは善悪みそくそか、悪逆非道である場合かのいずれかであるのがほぼ全てとなる。

たとえ他力本願であっても、その本願が勧善懲悪や断悪修善であることがより重要であり、
悪逆非道や善悪みそくそでもいいから、どんな望みでも叶えてくれることなどを
本願とする他力信仰は「邪信」であり、邪信を司る宗教はやはり「邪教」であるといえる。

「志しは滿たしむ可からず」
「大志が安易に満たされることなどを期待してはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)

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209 2011/08/15(月) 11:44:57 ID:3pbHW0KctM
「回や其れ庶きか、屢しば空し。賜は命を受けずして貨殖す。億れば則ち屢しば中る」
「(孔子自身による弟子の評価)顔淵はほぼ理想に近い生き方をしている。理想を追い求めて
瑣末な豊かさなどに目もくれないから、しばしば窮乏することがある。子貢は官命を受けもせずに
金儲けに奔走している。投機などの予測がよく当たるところが長所だとはいえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・一九より)

自分たちで国家を形成して営んでいく責任を持たないユダ人にしろ、カルト教祖として
邪義を触れ回った挙句に、民間人に対する処刑方法である磔刑で処刑されたイエキリにしろ、
正式な官職に則ることでの天命を受けていない。何をするにしろ民間の分際止まりであり、
何を享受するにしろ民間の資産家止まりとして。人が享受し得るものとしては最高級の
賜り物に当たる、「正式な官職に則った天命」を受けることなどが決してない。

そこに、本質的な言辞からの「君子」と「小人」の違いまでもがあり、小人として
何もかもを受けることでの豊かさを貪るあまり、君子としての天命を受けることにより、
物質的な豊かさ以上にも価値のある、善徳の安楽を賜ることが全くの不能と化してしまっている。

>>167の季桓子の例からも分かるように、天命を受けた君子としては、小人なら享受し放題な
美女の舞楽の観覧なども、ときに自制せねばならなかったりする。それでこそ、卑俗な小人に
甘んずる場合以上もの楽しみに与ることができるのだから、真の楽しみを知るものこそは、
あえて小人としての豊かさの享受を棄ててでも、君子としての天命の享受を採るのだといえる。

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210 2011/08/16(火) 13:27:55 ID:A9CrnPECps
どんなに強く信じて祈ったりしたところで、
重権力犯罪者や重度精神障害のカルト信者である以上は、
徳治社会での正式な官職に就いたりすることは、到底かなわない。

もちろん、権力犯罪者やカルト信者がそんなものに就きたがることからして
まずないことだが、カルトの邪神を信じて祈ったからといって、決して
得ることができないものがこの世に実在していることの証拠になっている。

だからこそ、徳治社会の官職への正式な就業を志すものが、
カルト信仰や権力犯罪などに頼ってはならない。のみならず、
「信じて祈る」などというような、他力本願的な姿勢から自粛して、
その職務に就いたときに実力を発揮するための勉学研鑽にこそ励まねばならない。

そもそも、帝王級に高位な重職を得ることからして、どんなに高等な聖賢に
とっても畏れ多いことだから、そんなものを、エサを目前にした空腹状態の
犬のように執拗に欲したりするようなことからして、絶対にあってはならない。

カルト信仰に依存すること自体はもちろんのこと、カルト信仰に依存した
場合の人間規範にも全く相容れない、原理的に相互不可侵かつ高位な立場が実在する。
早い話しが、小人に対する君子。職務上の立場としても、人としての賢愚としても。

「祭祀は祈らず、蚤やかなることを麾しとせず、
葆大を楽しまず、嘉事を善せず、牲は肥大を及さず、薦は多品を美とせず」
「およそ正式な祭祀というものは、私的な利得を祈ったりはせず、霊験が速やかに現れる
ことなどを期待もせず、効果が甚大であることを喜んだりもせず、絶対によい効果があるなどと
信じ込んだりもせず、無闇に大きな生け贄を用いたりせず(もちろん人間を用いたりするのは
もってのほか)、供え物がやたらと雑多であることを良いことだなどとするものでもない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)

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211 2011/08/17(水) 12:46:09 ID:xhb1a2Mtsk
戦国時代から楚漢戦争にかけての古代中国で、口先三寸の口舌だけで
諸侯に国際紛争への介入を奨めて、戦局が悪化したどさくさに紛れて
中間マージンなどの形で巨万の私利を得ることを目的とした実践学派がいた。

その名を「縦横家」という。

諸国を縦横無尽に歩き回って弁舌を振るうその姿から名づけられたものだが、
ちょうど縦横に切るクロスを貴んだり、世界中へと縦横無尽に侵略の
魔の手を広げていったキリスト教徒の姿にも、非常に似通っている。

戦国時代の著名な縦横家としては蘇秦や張儀、
楚漢戦争時のそれとしては蒯通や侯公(平国君)などが挙げられる。
しかし、そのいずれもが車裂きの刑に処されたり、諸侯の怨みを買って逃亡生活の中に命を終えたり、
自分を韓信の飼い犬扱いすることで高祖からの誅殺を免れたり、新たな戦争の火種となり兼ねない
和解案を楚と漢の間に組ませた直後に逐電したりの、ろくでもないような生涯ばかりを送っている。

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212 2011/08/17(水) 12:52:47 ID:xhb1a2Mtsk
キリスト教圏では、縦横家すなわち聖職者であり、そこに思想信条の理想すらもがあると
思い込まれてきたわけだが、縦横家のほかに儒家や道家もあって、それらの優良さと比較した場合の、
縦横家の思想信条としての劣悪さが如実となったために、漢代にはあっさりと滅び去ってしまった。

舌禍で諸国を狂乱に陥れた挙句に私欲を満たすなどという、縦横家のろくでもない有り様を、
儒家よりは道家への憧憬が強いことを明言している司馬遷までもが「史記」で強く非難しており、
貨殖功利を生業とする民間の素封家などに対する扱いのほうが、まだ優しげなほど。

縦横家は、東洋では二千年以上もの昔に絶やされているので、今は批判対象としてあげつらわれる
ことすらほとんどないが、キリスト教徒はこの縦横家に相当するような邪義を、逆に二千年前
あたりから振りかざし始めた輩なわけで、すでにそのあり方を実体験レベルで記憶している人間も
ほとんどいないのが縦横家なもんだから、キリスト教徒と縦横家の有り様が酷似していて、縦横家を
厳正な吟味の元に廃絶してきた東洋の伝統にも則って、キリスト教をも根絶していかなければ
ならないというところまで考えを働かせられている人間も、まだほとんどいないといえる。

「荏染たる柔木を、君子が之れ樹う。往来の行言は、心に之れを数るべし。
蛇蛇たる碩言の、口自り出ずる。巧言の簧くが如く、顔の之れ厚きこと」
「なよなよの弱弱しい細木を、為政者ともあろうものが好んで植え付けているような有り様。
縦横無尽に諸国を往来する讒言の聞き入れは、あたかもそのようなものだと知らねばならない。
詐欺や欺瞞にまみれた讒言が口から出任せる。その巧みさは笛でも吹いているかの如くで、その厚顔さも極まりない。
(この詩が編まれた春秋時代の頃にも、すでに厚顔無恥な縦横家同然の輩がいたようだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・巧言より)

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213 2011/08/18(木) 12:30:24 ID:xPlcU7Je6Q
「如し其の情を得ば、則ち哀矜して喜ぶこと勿かれ(既出)」
「もし犯罪の実情をつかんだりした時には、ただ哀れむばかりで、決して喜んだりしてはならない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一九より)

この世に喜んではならないこと、喜ぶべきでないことは数多く、
そのような凶事まで喜ぶことは「不謹慎」となる。個々の文化によって不謹慎であることの
異同はあるが、大半の伝統的な文化には少なからず不謹慎と特定するものがある。

お互いに喜ぶことを慎む要素を持つ文化同士なら、その対象に異同があるにしても、
「不謹慎」というものを慮れる神経の持ち主同士であることから、意思の疎通が図れもする。
仏教の戒律とイスラムの戒律にも多くの異同があるが、特に戒律厳守の厳しい上座部仏教などは、
破戒行為の不謹慎さをよくわきまえているために、同じ破戒行為を慎む慣習の持ち主同士として、
上座部仏教徒とムスリムが仲良くしたりすることがあるのが、その例だといえる。

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214 2011/08/18(木) 12:30:37 ID:xPlcU7Je6Q
喜ぶべきでない対象などと共に、不謹慎という考え方を完全に捨て去ってしまうキリスト教徒などには、
そのような他者の不謹慎行為への慮りも根本的にないから、不謹慎というものをわきまえている
大半の異教徒とも根本的に分かり合うことができない。人の死だろうが重大犯罪行為だろうが、
何もかもを嬉しがる自分たちのいかれた神経を他者にまで押し付けるか、もしくはそのような
神経全般を自制するかのいずれかによってでしか、異教徒と接することもできない。

自分たちでは対等に付き合っているつもりでも、何もかもをウレシで塗り固める自分たちの
ガサツな品性に迷惑させられている人々も多いと知らねばならない。不浄のウレシがりを極端に忌む
神道などが、「信教の自由」の名の下にキリスト信仰までが大々的に推進され始めた戦後にひどく衰亡して、
大多数の中小規模の社の宮司が、副業でもしなければ食えなくなっているのもその例の一つだといえる。

「父母之れを愛すれば、喜びて忘れず。父母之れを悪めば、労えて怨みず」
「父母が自分を愛してくれたならば、これを喜んで忘れないようにせよ。
父母が自分を憎むようなことがあれば、それを憂えはしても怨んではならない。
(父母に憎まれることを喜んだり、長年の怨みにしたりしてももちろんいけない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・一より)

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215 2011/08/19(金) 11:57:33 ID:XaIPks2SiE

      失礼します。     

  「アル中を癒され」「脳梗塞より生還」「倒産によるサラ金地獄」
より、御言葉によって「癒され・救われた者」の「証」です。

  その「証」として以下の小冊子を制作いたしました。ご希望の方、
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216 2011/08/19(金) 12:18:12 ID:XSaTNmBu2o
真理そのものは愛執愛着などの通用するものではなく、
正統な顕教に則る以上は、情愛をも捨てての修行に励まなければ
ならないとするのが仏教。ただ、その情愛を積極的に活用することでの
即身成仏を実現する離れ業が、大乗の自力仏教では密教などにあり、
他力仏教には念仏などがある。

むかし、一遍上人が興国寺の法灯国師の前で歌を詠んだ。
「となふれは 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」
国師は「もう少し下の句を工夫されてはいかがですか」といった。
一遍上人は一度その場を退いて、しばらく修行をしてから
また国師の前に現れ、「こう詠み直しました」といって
「となふれは 仏も我も なかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
という句を披露した。国師は「そうそう、まさにこれです」と絶賛した。
(沢庵著「玲瓏集」より)

阿弥陀仏自体は歴史上に実在しない仏だし、他力信仰という浄土教の姿勢自体が、
虚構的な方便を一心不乱に信ずることで、結果的に真理の悟りを得ることを目的としている。
その割り切りこそは悟りに至る秘訣でもあるのだから、「南無阿弥陀仏の声ばかりして」
という半ば観察的な下の句を、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と
詠みかえることで、一遍上人も自らの歌を完成させている。

情愛や愛欲といったもの自体が惑いの一種であり、その惑い自体が真理と
合致するなどということはないが、惑いを虚構的な方便に乗せることで、
−1×−1=1的な要領による、結果的な真理への漸近を果たすことはある。
真理そのものを愛しようなどとすれば、かえって真理から遠ざかるにしろ。

「知者は惑わず。(良くも悪しくも、正確な良知こそは人を不惑へと導くものであり、
愛執はかえって人々を邪信による惑いへと陥らせかねないものですらある。ただ、悪人正機などの
巧みな方便によって、執着的な情念が無意識なままでの真理の悟りへと振り向けられることもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・三〇より)

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217 2011/08/20(土) 13:48:27 ID:ATVC/EDae.
兎にも角にも、中国思想の本題は「真理」ではない。
その最大派閥の儒家からして、現実社会の実情から乖離した高遠な形而上論を遠ざけているし、
比較的真理にまつわる考察の多い道家でも、真理把捉の実践手段としての社会的な
無為自然が強く標榜され、真理そのものに対する分析的な説明には乏しい。

そこが、西洋人などが中国思想を軽んずる理由にもなっており、
基本、あまり取っ付きたがらない東洋の思想哲学をあえて論じようとするときには、
真理に対する形而上的で分析的な論及も豊富な仏教哲学などのほうをあげつらいたがる。

しかし、仏教哲学が論じているような本物の絶対真理を、世俗の言葉に置き換えているのが
儒家の説く道理であるわけだし、絶対真理を自力で把捉するための最も基本意的な実践手段
となるのが、道家の説く社会的無為自然でもある。(仏教の場合はこれに出家修行が加わる)

真理そのものを積極的に論じているわけではないにしても、儒家や道家のような代表的な
中国思想は、絶対真理とも親しい関係にあり、根本のところでは不可分な関係にすらある。
そもそも絶対真理とは何の関係もなく、絶対真理に180度背くことを「真理だ」などと妄言する
邪義邪説などと比べれば、見た目には素朴な中国思想のほうが、まだ真理に近い所にあるといえる。

「子貢曰く、夫子の文章は得て聞く可きなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞く可からざるなり」
「子貢がいった。『孔先生の、表層的な文学などに関する話は、分かりやすくて誰にでも聞くことができた。
しかし、形而上的な性情論や天道論についての話は、あまりにも難解でそうそうに聞くことはできなかった』
(ここでいう『天道』が『真理』にも当たり、孔子が本物の真理把捉者でもあったことは、
『易経』繋辞伝における形而上論の秀逸さからも察することができる。ただ、それは明日の
生活の糧こそが至上命題であるような、俗人に説いて聞かせるべきようなものではなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一三)

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218 2011/08/21(日) 14:06:01 ID:J.f9y1QdgM
人類や諸生物の歴史には、必然性と共にそれなりの恣意も伴っている。

約6500年前の巨大隕石の衝突による地球環境の大きな変化によって、
図体ばかりを大きくしすぎた恐竜のほとんどが絶滅した一方、
その頃はまだネズミのような小動物に限られていた哺乳類は生き延びて、
今になっては人類のような地球上の覇者を輩出するところにまで至っている。

人間以外の動物にはあまり高度な知能がないから、その生死存亡が甚大な
状況変化などの中で、個々の恣意によってどうにかできたりすることが少ない。
それと全く同じように、カルト信仰で知能をチンパン以下にまで低下させる
クセが付いてしまっているキリスト教徒なども、自分たちの恣意によって
これからの運命を切り開いていったりするようなことができない。

しかし、東洋の場合、外界侵略を蒙る以前の宋代までの中国や、上代以降の日本の歴史などは、高度に
賢明な為政者などによる自助努力で彩られていて、だからこそ数百年規模の泰平社会を何度も実現している。
確かに人為によってはどうにもならない部分もあって、だからこそ帝国や幕府などが数百年ごとに政権を交代する
「易姓革命」なども起こってしまっている。それにしたって、泰平を画策する自助努力を全く怠っているせいで、
万年戦乱状態であり続けてしまっているキリスト教圏の歴史などと比べれば、確実に自力で泰平を獲得してきた
頻度が高く、まさに「人事を尽くして天命を待つ」と呼ぶにふさわしい歴史を積み重ねてきているといえる。
(これと比べれば、キリスト教圏の歴史などは「人事も尽くさずに天命ばかりを待つ」の体現だといえる)

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219 2011/08/21(日) 14:09:56 ID:J.f9y1QdgM
もうそろそろ、キリスト教圏全体が経済破綻によって崩壊する時期にさしかかっているが、
もしも地球社会の主導権をキリスト教徒が東洋人などに明け渡せば、キリスト教圏の人間も相当な自由の制限
などを蒙るとはいえ、核戦争によって全滅してしまう場合などよりは遥かに無難な将来に与ることができる。
それもあくまで、非キリスト教徒である東洋人などに、自助努力で世の中を最悪の破綻から救い上げられる
能力があるからで、決してキリスト教の邪神の意思による必然だったりするわけではない。

史上最悪級の破綻の元凶に自分たちキリ教徒がなっておきながら、それでも自分たちが救われることを、
キリスト教の神に感謝したりするのは全くのお門違いであり、東洋人ないし人類という種族全体の、
自力での生存能力の高さにこそ感謝や賞賛の意を向けねばならない。仮にその自力での生存すらもが
生物学上の必然性に根ざしていると捉えたとしても、その必然性が進化論などの当たり前な
生物学すら否定するような邪義を触れ回る、インチキ神のもたらした必然などでないのが確か。

「其の位に在ざれば、其の政を謀らず」
「それ相応の地位に就くのでなければ、その地位でこそ行うべき政務の計画もしない。
(自力によって泰平を画策していくためにこそ、地位などの体裁にもメリハリを付ける)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二七より)

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220 2011/08/22(月) 13:09:19 ID:dVy/Hu53Qo
人が着実に善を行う秘訣は、あらゆる行動を自制できた上で、
為すべきことのみを為す分別を付けてことに臨む点にある。

遠く離れたところにある小さな的に対して、めくらめっぽうに多数の矢を射れば、
そのほとんどが的を外れる。一矢や二矢ぐらいはまぐれで的に命中することもあるかもしれないが、
めくらめっぽうである以上は、そのほとんどが確率上からして的を外すことになってしまう。

とにかく何もかもをやる能力を身に付けて、それによって善行を為そうなどとするのは
このようなもので、そのほとんどが善行という的を外して、みそくその「くそ」に当たる悪行と化してしまう。
それでは結局、善を為すという以前に、自分が何かを為そうとした試み全般が、大局的な悪行だった
ことになってしまうので、やはり本当に善行を為すためには、何もかもを為せる能力などよりも、
あえて何もしないでいて、そこから確実に善だけを行っていく能力のほうが必要であるといえる。

「君子は徳に進みて業を修む。忠信は徳に進む所以なり。辞を修め其の誠を立つるは、業に居る所以なり。
至るを知りて之れに至り、與に幾ばく可きなり。終わるを知りて之れに終わり、與に義を存す可きなり」
「君子は善徳を進取することで大業を修める。忠節と信実さこそが善徳を進取する原動力となり、文辞を整えて
誠意を立てることで大業を引き立てる。行いを始めるときを見計らってそのときに始めることで、共にことを計るに
値するものとなり、行いを終えるときを見計らってそのときに終えることで、共に道義を守るに値するものとなる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・文言伝・九三より)

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221 2011/08/22(月) 20:20:54 ID:dVy/Hu53Qo
歴史的に、儒者や儒学道徳を敵に回した権力者ってのは、ことごとく自滅の道を辿っている。

仏法のように、敵に回して対抗することすらできないほどに儒学道徳は「最勝」ではないし、
武士でもないような専門の儒者は武術も嗜まないので、焚書坑儒のような虐げの対象にもできなくはない。

しかし、儒学が司っているのが、天地万物に永久普遍の道理であり、
その儒学を忠実な実践の対象としているのが儒者でもあるために、儒書を焼き捨てたり、
儒者を虐げの対象にしたりすれば、そのぶんだけの災禍が本人自身に降りかかる。

焚書や坑儒まではいかなくても、儒学の司る道理に致命的に反するような言行などに
自分が及んだならば、そのぶんだけの自業自得の災禍が本人自身にも降りかかる。

大乗仏教の唯識思想に基づいて「善」とされるものと、儒学で「善」とされるものとが本質的に等価であり、
両者が「悪」とするものもまた本質的に等価であるから、善因楽果悪因苦果の罪福異熟という仏法上の絶対真理
にも即して、儒学で「善」とされるものを行えば楽果に結びつき、「悪」とされるものを行えば苦果に結びつく。

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222 2011/08/22(月) 20:21:06 ID:dVy/Hu53Qo
善悪というものを、儒学の定義とは全く転倒した尺度で定義することもまた可能であるのが、
儒家道徳に真っ向から反する邪義だけを触れ回っている新旧約の実在などからも明らかだが、
そのような邪義の定義する善悪は、仏教の唯識思想が定義する善悪などとは等価ではなく、
儒学の善悪と相反しているのと同じように、仏教の定義する善悪とも180度相反している。

そのため、新旧約に書かれてあるような定義に基づく「善」を行えば災禍に見舞われ、
行わなければ災禍に見舞われることもない。そもそも新旧約には本物の「善」に相当する物事が
ほとんど記載されていないため、新旧約で「悪」とされるものを行えば福徳に与れるなどということも
ほとんどないが、結果的に犯罪聖書の信者や実践者が「悪」と定義しているものの中には、
むしろそれをやったほうが福徳に与れるようなものが多々散見される。(武道や精神修養など)

聖書信仰の場合は、儒学とは逆で、その記述上で「善」とされる行いによってこそ確実な
災禍に見舞われ、信仰上や記述上で「悪」とされる行いによってこそ福徳に与れる場合が多い。
もっとも、犯罪聖書中には福徳に与れるような要素を記した記述自体が元から甚だしく乏しいので、
犯罪聖書の記述に倣わないことよりは、福徳に与れる善良な要素の記述こそが豊富な儒学の正典・
真正聖書=四書五経の記述に倣うことのほうを第一義としたほうがいいに決まっている。

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223 2011/08/23(火) 13:14:43 ID:1r.iBYcd0w
日々善行に努めている人間は、そもそも自分で不法行為から自粛するはずなのに、
「善い業に努めている人間の不法を贖う」という物言いからして、すでに矛盾している。

おそらくその心は、「邪神信仰によって知能をチンパン以下にまで低下させることで
罪の意識からなる良心の呵責を停止させること」を犯罪聖書中では「善い業」と呼んでいて、
そのような善い業に努めている人間の不法を、実際にもキリストのような邪神が贖うという意味。

もちろんそんなことは決してなく、カルト信仰で良心の呵責を騙し騙ししつつ罪業に及ぶことが
「善い業」だったりするわけもなく、悪業の極みであるとすらいえ、そのような悪業によって
積み重ねられた不法行為を、自分たちカルト信者の代わりに贖ってくれる邪神なども実在しない。

というわけで、カルト信仰に耽溺することで餓鬼畜生の行いを「善い業」だなどと勘違いしつつ
積み重ねてきた聖書信者たちは、そのほとんどが禁治産などの処分を通じて地獄へと突き落とされる。
それは仏教の六道輪廻にも即した俗界の絶対法則であり、餓鬼畜生でありながら地獄の苦しみだけは
免れてきた今までのほうがまぐれ当たりだっただけのこと。後はもう、地獄餓鬼畜生の三悪趣全体を浄化
してお浄土へと導いてくださる正信などによって、できる限り早期の内の三悪趣からの脱却を目指すのみ。
餓鬼畜生の狂乱を貪りつつ浄土を欣求することはできないから、あくまで三悪趣全体を厭離する覚悟で。

「金、贖刑を作す。眚災は肆赦し、怙終は賊刑す。
欽しまんかな、欽しまんかな。惟れ刑は之れ恤れまんかな」
「(舜帝は)過失で罪を犯したものに対しては、罰金による贖いをも認めるようにし、
過失には寛大な姿勢で臨み、故意の確信犯には死刑などの重刑を以て臨む姿勢を固められた。
舜帝『慎まんかな、慎まんかな。刑罰を執り行うに際しては、片時も油断のないように』
(あまり見た目に美しくない罰金刑なども、架空神による架空の贖いなどよりは堅実である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・舜典第二より)

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224 2011/08/24(水) 13:25:12 ID:hSIuQ5.L8U
「季氏、泰山に旅す。子、冉有に謂いて曰く、女じ救うこと能わざるか。
對えて曰く、能わず。子曰く、嗚呼、曾ち泰山は林放に如かざると謂えるか」
「魯の家老の季氏が、本当は諸侯以上の身分の持ち主のみが執り行える山川を祀る祭を、
こともあろうに中国一の名山とされる泰山で執り行おうとした。孔先生はそれを聞いて、
当時季氏に仕えていた門弟の冉有に訴えた。『おまえは、大きな過ちを犯そうとしている
主人を救うことができないのか』 冉有は答えた。『残念ですが、救うことができません』
先生は嘆いて言った。『ああ、林放のようないち書生ですら礼儀をわきまえているというのに、
泰山がその林放にすら及ばない(林放ほどにも礼儀を知らない)とでも思っているのだろうか』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・六より)

古えの中国の王侯などが、山川を司るとされる神々を祀る「封禅」の儀式を執り行っていたことが
伝承上からも、各種の史跡からも伺える。特に、内陸国である中国では、名山の神を祭る封禅が
権力を誇示する目的などでよく執り行われていたようで、始皇帝も上記の泰山での封禅を試みて、
大風が吹くなどしたために失敗している。泰山などの、名山での封禅の成功条件は相当に厳しかった
らしく、権力を誇示する目的というよりは、その権力によって獲得された泰平が長続きすることなどを
祈願するために、相応の手続きを踏まえた上で行った場合にこそ、封禅も成功したことになったらしい。

始皇帝はこの泰山での封禅に失敗したが、中原を平定して、匈奴の撃退をも完遂した前漢の武帝は、
天下泰平の永続の祈願を目的としたからこそ、泰山での封禅にも成功している。皇帝ですらもが、
その行状の是非如何によっては、封禅に失敗するような高山すらもがあるのだから、いわんや、
民間の小人が奢り高ぶりの永続を期待したりするために、高い所に上ったりしてなるものかと。
それでは傷が癒されるどころか、傷口に塩を塗って強風に当てるかのようにして、救われることがない。

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225 2011/08/25(木) 12:34:16 ID:J./o4UMT9I
「揚れる之の水は、束楚をも流さず。
終に兄弟も鮮なし、維れ予れと女じとなり。
人の言を信ずる無かれ、人は實に女じを迋かす。
揚れる之の水は、束薪をも流さず。
終に兄弟も鮮なし、維れ予れと二人なり。
人の言を信ずる無かれ、人は實に信ならず」
「障害物にせき止められた川の水が、その水圧を増しながらも薪束ひとつ流せないように、
他人に隔てられたわれら兄弟の思いも日々募るばかり。ほかに兄弟もなく、親しきは我と汝とばかり。
決して他人の言うことなどを信ずるな。他人は汝をたぶらかすことしか考えていないのだから。
障害物にせき止められた川の水が、その水圧を増しながらも薪束ひとつ流せないように、
他人に隔てられたわれら兄弟の思いも日々募るばかり。ほかに兄弟もなく、親しきは我と汝とばかり。
決して他人の言うことなどを信ずるな。他人は実に信用のならないものだから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄭風・揚之水)

元より「言」というもの自体が、「前言を覆す」などともいうように、信用性の低い媒体の最たるものであり、
そこに絶対の信頼を置こうなどとすること自体が、腐った木に彫刻を施したり、糞を混ぜた土壁に漆喰を
塗ったりするような儚い徒労でしかないと、孔子も真正福音書・公冶長第五・一〇で言っている。

善にしろ悪にしろ、後戻りができなくなるのは「行い」に及んでからのことで、ただ言ってただけなら
全く信用がならないと同時に、すぐに改められもする。そのような「言」と「行」の性質の違いをよくわきまえて、
信用の対象は全面的に行いのほうとして、その行いの前準備などとしての、言の価値のみを認めるようにせねばならない。

言ってることに全く行いが伴っておらず、むしろ発言に相反する行いばかりやらかしていたりしたならば、
そのような輩の発言から信用してはならない。刑死して三日後に生き返るみたいな、ペテン師の虚言を信じ込んだ結果、
親族兄弟での殺し合いにまで及んだりするのなら、これほどに人として不幸なこともほかにないのだから。

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226 2011/08/26(金) 13:10:14 ID:0oSyfYp/Iw:DoCoMo
「形而上なるものを之れ道と謂い、形而下なるものを之れ器と謂う(既出)」
「形になって現れているものの上位にあるものを道といい、形になって現れている範囲内のものを器という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

天地万物のような形になっているものをより上位から司っているものこそは道理であり、
万物流転の法則すらをも道理が司っているからこそ、道理それ自体は滅びることがない。

一方で、天地万物の一部である人間社会に、癌細胞や寄生虫のように寄生することで食い扶持を
得る権力犯罪カルトの邪義もまた、天地万物や人間社会を司る道理が普遍的なものであるからこそ、
あたかも光に寄り添う影が、光が照らし出すものと全く同じ形をしているかのようにして、
一定の不変的な法則を持っている。確かに癌細胞や寄生虫のような生物が一定数生ずることも
物理的な法則に根ざしたことであり、その普遍性は物質の安定性などよりも安定的ですらある。

しかし、癌細胞や寄生虫が生き延びるためのカルトの邪義は、その寄生対象ともなる天地万物や
人間社会全体を健全に運営していくための、道理そのものの法則にはことごとく相反しており、
どちらかを優先する以上は必ずもう一方を劣後せざるを得ない。本体である人間社会全体を
蝕むことで自分たちが繁栄する寄生体の生存法則を優先しすぎれば、世の中全体が破綻して、
寄生体もろともの滅亡にすら至りかねない。一方で、寄生生物の生存を完全に禁止して、
人間社会全体の健全な運営ばかりを徹底して行けば、それはほとんどの人間にとっては
有り難い繁栄の糧となるが、寄生生物がある程度は存在して、その内のいくらかとは共存を
計ることも可能であるという、実相に根ざした総合的な法則に即するなら、寄生生物を
完全に絶やしつくして、人類全体の利益ばかりを徹底して優先するということもまた、
あまりにも清濁の併せ呑みを排しすぎた、潔癖に過ぎる過剰反応であるともいえる。

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227 2011/08/26(金) 13:10:48 ID:0oSyfYp/Iw:DoCoMo
寄生生物の都合ばかりがあまりにも優先されて、種族全体の存亡までもが危ぶまれるような時機には、
多少は過剰に寄生的生存の邪義を廃絶しようとする動きが生じたとしても仕方がない。しかし、
その先に共産主義的な無理のある絶対平等志向を確立しようとすることも、人間がそのまま飲めば
腹を壊す純水のようなもので、もう少し諸法の実相の有機性に根ざした融通を利かしたほうがよい。

「天地の道は、恒久にして已まず」「天地を司る道理は恒久普遍にして止まることもない」(易経・恆・彖伝)
「天地の化育に賛ずべし」「天地をその道理に基づいて化育することにこそ協賛すべきである」(中庸・二二)
「天地を経緯するを文と曰う」「天地の法則を言葉によって記録してこそ人間の文化である」(左伝・昭公二十八年)
(権力道徳聖書——通称四書五経より)

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228 2011/08/27(土) 13:42:29 ID:/QN9DHtYHk
言葉が絶対的な信用の対象となることもおかしければ、
絶対的な不信の対象となることもおかしい。

ペテン師の物言いを一辺倒に信じきって、騙され奪われ傷めつけられ殺され滅ぼされる
なんてことは歴史的にも現代的にもよくある話。一方で、もはやペテン的な曲芸戦法を確信犯的に
多用しまくっていたが故に、敵軍からは一方的な不信の対象とされていた蜀漢の軍師諸葛孔明が、
あえてその通りに行う予定の作戦計画を大っぴらにすることで「これは欺瞞工作だ」と敵軍に思い込ませ、
その通りにしない場合の対策を講じていた相手を、その通りの作戦で打ち破るなどということもあった。

言葉とか概念とかいったものは、実相の現実よりも、現実上においてはうつろなものであり、
「概念が根本で、現実が末節だ」などという転倒夢想を哲学者にけしかけたプラトンのイデア論もまた、
思想哲学上の致命的な病理の一つだった。そもそも概念的な言葉を発することから避けて、現実に根ざした
ことだけを語る中国思想が「思想」の健全な姿である一方で、ある程度は概念的な言葉を語りはするものの、
あくまで現実の実相との連絡を緊密に保つインド哲学こそは「哲学」の健全な姿でもあった。現実の実相から
乖離したところで空想的な概念論を垂れ流す哲学が不健全であるなら、そのような空想の病理に即して
現実から乖離しきった言葉を執拗に信じさせる信教もまた、不健全極まりないカルト信仰なのであり、
元から不健全だった人間がそのようなカルト哲学やカルト宗教に溺れるというよりは、むしろそのような
カルト哲学やカルト宗教のせいで、後天的に精神を病むなどの不健全な疾患を被っている場合のほうが多い。

だからこそ、カルト信者やカルト学者を糾弾の対象とするよりは、カルト教学
そのものを適正な排除対象として見据えることのほうが重要なのだといえる。

「至徳の光を奮い、四気の和を動かして、以て万物の理を著す」
「大徳に到れる光を放ち、春夏秋冬の気運をも味方に付けて、万物を司る天理を現す。
(個人的に光を持つなどという輩は差し詰め、万物を司る天理から放たれた
無量の光明を掠め取って我が物扱いしているこそ泥とでもいったところか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・楽記第十九より)

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229 2011/08/28(日) 13:43:09 ID:3pbHW0KctM
正統宗教の信者にしろカルトの信者にしろ、当然信じている対象がある。

「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と念仏ばかりを唱えて他を見ない浄土信者も、
「浄土への往生」という対象を信じて、そのために「阿弥陀仏」に帰依(南無)する。

犯罪聖書の信者なら、「天国への昇天」という対象を信じて、
そのために「キリスト」や「エホバ」に服従する。

歴史上に実在しない仏である阿弥陀仏を信じて、実在の確認されていない浄土への往生を
信仰した結果、浄土信者は、その「方便」に基づいた信仰によって、他力本願なりの悟りを得、
凡夫が浄土への往生の先に期待するのとも等価の精神の安楽を得る。それは事実、可能であること。

実在しない形而上の超越神であるキリストやエホバを信じたところで、
天国に昇天することも絶対にできないし、浄土往生という方便に
即して念仏者が得るような、精神の安楽を得られることもない。

帰依の対象が阿弥陀様であるかキリエホであるかで、実際に浄土や天国に至れるかどうか
という点で大きな違いはないが、ことにそれを「方便」として捉えた場合、その方便に即して
浄土信者が精神の安楽を得ることが可能な一方で、犯罪信者が精神の安楽を得ることは不能である。

一心不乱に信仰することが必ずしも悪いことなわけではないが、悪いものを狂信して
自業自得の破滅に陥ることも多いので、信仰の対象とするものをよく吟味せねばならない。

「君子は微を知り彰を知り、柔を知り剛を知る。萬夫の望みなり」
「君子は物事の機微をよく察知し、明らかなことの成り行きをも真っ直ぐに見据え、
柔弱なものから剛強なものにまで配慮を利かせる。そこにこそ、万人が真に望むものがある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)

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230 2011/08/29(月) 14:43:40 ID:8KVMBGGnUY
懲らしめられ、むち打たれ、苦しめに苦しめ抜かれて、
挙句には弱り果てて、極重の不幸や苦痛の中で早死にして、二度と生き返らない。

かわいそうだが、それが邪神信仰に執心し過ぎてきた者たちの末路。
仮にそこに懲罰者が介在したところで、あくまで当人たちのやつあたりや冤罪の拡散によって
これ以上の災禍の拡大が引き起こるのを防ぐための「自己懲罰」の支援であるのみ。
カルト信仰者が、破滅的で悲劇的な最期を迎えるのは、完全に自業自得ゆえなのであり、キリエホみたいな
実在しない邪神への狂信もまた、自業自得の災禍を増長させるための「悪巧方便」でこそあった。

念仏信仰が、信者に他力本願での悟りを開かせて、
無意識なうちからの断悪修善を助成する「善巧方便」であったのに対し、逆に信者の
蒙昧さこそを募らせて、無意識(カトリック、正教)と意識(プロテスタント、ユダヤ)の
両面からの悪逆非道の推進を助長する悪巧方便であるのが、キリエホ信仰だった。

念仏信仰が、尊属殺人を含む五逆の実行者の帰依を認めない一方で、
キリスト信仰のほうは親子兄弟同士での殺し合いを推奨しているように、
善巧方便への帰依と悪巧方便への帰依は互いに相容れず、どちらかを採る以上はもう一方を棄てるしかない。

悪巧方便であるキリエホ信仰を選択してきた連中は、それによって自動的に念仏信仰を打ち棄ててもきた。
だからこそ自業自得での最悪の破滅にも陥りつつある。ただ、今からでも悪巧方便への狂信を打ち棄てて、
善巧方便である念仏を信仰したり、自力での善の実践学である儒学などの修練に勤めたならば、まだ
救われる余地のある人間は相当に救われて、もはや救われない人間も相当に末期の苦しみを緩和できる。
あくまで、悪巧方便である犯罪聖書への信仰を打ち棄ててこそ、
それが適い、打ち棄てないのなら最悪の結末しか待っていない。

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231 2011/08/29(月) 14:43:52 ID:8KVMBGGnUY
「戎狄を是こに膺ち、荊舒を適こに懲らす、則ち我れを敢えて承むる莫らしむ。
爾をして昌に熾んならしめ、爾をして壽く富ましめる。黄髪も台背なるも、壽くして胥與に試いて、
爾をして昌に大いならしむ。爾をして耆く艾しからめ、萬有千歳までも、眉壽の害わるること有る無けん」
「夷狄をここに討ち取り、蛮族をここに懲らしめる。それでいてもはや我に抵抗しようとする者もいない。
かくして君が代は大いに隆盛し、長寿と富貴とに与れる。髪が黄色くなり、背も丸まったような衰えさらばえた
者にいたるまで、長寿を感謝して君を仰ぎ見、君をさらに大いならしめる。君の長寿と福徳とを祈り、
万有の千歳の後に至るまで、君が代の福寿の損なわれることがないようにと願い奉られる。
(異端の蛮行を容赦なく討ち滅ぼしてこそ、後の天下の千代に八千代に至るまでの福寿が達せらる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・魯頌・閟宮より)

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232 2011/08/30(火) 12:02:51 ID:QrsH73rCW.
一定量の炭素を含有した鋼なら、打ち据えることで不純物が取り除かれて硬度を増した強靭な鋼鉄となるが、
炭素をほとんど含有しないただの軟鉄なら、どんなに打ち据えたところで硬度や強靭さが向上することもない。

孟子が告子章句下・一五で述べているような、「天が大任を任せようとする者に対して与える試練」があったとして、
その試練を与えられる者が、「論語」に書かれてあるような君子道徳を十分に学んでいる者だったとする。
だとすれば、十分に炭素を含んだ鋼が打ち鍛えられることで名刀になるようにして、
王道の覇道に対する優位をも心からわきまえる、孟子のような賢人となれるだろう。

もしも君子道徳のわきまえが不十分なら、炭素の含有量が少し足りない鋼が打ち鍛えられるようにして、
名刀となるのは無理でも、それなりに硬度や靭度を向上させた鋼になる。これがちょうど、
覇道政治にすら価値を見出そうとしていた荀子あたりに相当する練達度となる。

もしも君子道徳のわきまえなどが全くないんなら、あたかも炭素をほとんど含まない軟鉄を打ち据えても
全く硬度が上がらないようにして、いくら試練を加えても全く向上練達の見られない下愚止まりとなる。
これがちょうど、覇道をカルト信仰によってまで推進しようとしたイエスなどに相当する有様となる。

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233 2011/08/30(火) 12:03:03 ID:QrsH73rCW.
軟鉄を打ち据えたところで、どこまでも軟鉄のままであり、そも打ち据えられることでの向上などを
欲することからして身の程知らずである。軟鉄には軟鉄で、それなりの用途があるのであり、日本刀などの
ごくごく少量の用途にのみ用いられる高炭素鋼などと比べても、その物量的な用途も遥かに多大である。

何万トンもの排水量になる巨船の構造材なども、そのほとんどが軟鉄であり、大きな
ストレスがかかる一部の部位にだけ、多少炭素やニッケルを含有した特殊な鋼材が用いられるのみ。
打ち据えられることでの向上が望めないから用済みだなんてことは決してないから、心配は要らない。

「乃じの弓矢を備え、乃の戈矛を鍛え、乃じの鋒刃を礪ぎ、敢えて善からざること無かれ」
「汝らの弓矢の数を十分に備え、鉾の刃を十分に打ち鍛え、鉾先をよく研ぎ澄まして、いくさの備えに万全を期すように。
(『荘子』にも『研ぎ澄まされた刃物から使い込まれて磨り減っていく』とある通り、刃物が打ち鍛えられて
研ぎ澄まされるのも、それによっていくさなどのために利用されて消費されるために他ならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・周書・費誓より)

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234 2011/08/31(水) 13:12:44 ID:mgodEClixA
キリの言うことに聞き従えば死んでも生き返られて、天国にも昇ることができる、
やはりそこには俗人特有の下劣な見返り志向が深く根ざしている。

それは事実、あり得ないことで、キリエホへの服従を誓ったり、
その雑言(×御言葉)の数々を無理にでも聞き込んで体得しようなどとすればするほど、
何も信じず、何もしないでいる場合以上もの不幸や破滅が待っているのみ。

また、言葉には相反性が伴っている場合が多く、たとえば「親子兄弟で殺し合え」など
という雑言に聞き従おうなどとすれば、「親族への孝養を篤くせよ」などという金言に
聞き従うことはできなくなる。そのためキリエホのいかれた雑言ばかりに聞き従おうと
している犯罪聖書信者は、人の言うことに耳を貸さない事例も数多く、道理に適った
真に正しい言葉ほどに聞き従うことができないという、最悪の視聴規範をも帯びている。

自力の修養を大成させた聖賢でもないのなら、自分が何かの事業をこなす上で、その精神的、
行動的な拠り所となる他者の言葉や理念にすがるというのも、必ずしも許されないことではない。

しかし、その拠り所となる言葉や理念が、何もしない以上にも劣悪な悪業をけしかけて、
何もしないでいた場合以上もの不幸や破滅を呼び込むような邪義を帯びている場合には、
むしろそんな言葉には聞き従わないほうがマシである。だったらむしろ、何もしないでいる
隠者なりニートなりが、何もしないでいることの精神的な拠り所ともしている言葉なり理念なりを
拠り所としたほうが、過剰な行動を制御するなどの良質な効果が望めて、まだ好ましくすらある。

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235 2011/08/31(水) 13:13:43 ID:mgodEClixA
「子路聞くこと有りて、未だ之れ行うこと能わずんば、唯だ聞く有らんことを恐る」
「子路は聞いたことのうちで、まだ自分で行えないでいることがあれば、さらに新たなことを聞くのを恐れた」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一四)

とあり、

「子路問う、聞くままに斯れ行なわんや。子の曰わく、父兄の在すこと有り、これを如何ぞ、其れ聞くままにこれを行なわんや。
冉有問う、聞くままに斯れ行なわんや。子の曰わく、聞くままに斯れを行なえ。公西華が曰わく、由や問う、聞くままに斯れ
行なわんやと。子の曰わく、父兄の在すこと有りと。求や問う、聞くままに斯れ行なわんやと。子の曰わく、聞くままに斯れ
行なえと。赤や惑う。敢えて問う。子の曰わく、求や退く、故にこれを進む。由や人を兼ぬ、故にこれを退く(既出)」
「子路『助言されたままに行ないましょうか』孔子『家族もいるのだから、無鉄砲に助言に従ってもなあ』
冉有『助言されたままに行ないましょうか』孔子『ぜひ助言されたとおりに行ないなさい』
公西華『先生は、子路へは助言に従うことを咎め、冉有へは助言に従うことを勧められた。私には不可解なのですが、
どちらが果たして正しいのでしょうか』孔子『冉有は引っ込み思案だから勧めたが、子路は積極的すぎるから咎めたのだ』
(個々の弟子の性格にあわせた臨機応変な孔子の助言。相手の短所を抑え、長所を伸ばす真の憐れみ深さが窺え、
自分の利益のために相手に助言するような下劣さは微塵も垣間見られない。そも真に誠実な人間はそんなことを思いつかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二二)

とあるから、子路や聖書信者のように、言われたことを全てそのまま行おうとするような蛮行の徒に対しては、
孔子は「もうちょっと思慮を働かせよ」と苦言を呈するだろうことが予想される。元より、聖書信者の場合は、
刑死して三日後に生き返るという、現実には不能なペテンを聞いたままに行おうとしているわけで、それは絶対に不可能なこと
であるために、それの実現を志している以上は、犯罪信者が他者の言うことに耳を傾けることもまた絶対に不可能なわけだが。

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236 2011/09/01(木) 11:57:51 ID:Cy5sFicGQ.
「去るものは追わず、来たるものは拒まず(尽心章句下・三〇)」という、
孟子が自らの学団の本旨としていた人間関係、これは当然、親族兄弟の間柄の話などではない。
文字通り、もっとも「親密」な間柄である親族同士の関係に関しては、過ちを隠してでも
その親密さを堅守せよと儒者はいう一方で、血のつながりがあるわけでもない他人同士での
友好関係に際しては、くっ付くも離れるも全くの自由というのが儒者の心得でもある。

確かに、全ての人間関係が「去るものは追わず、来たるものは拒まず」では寂しいわけで、
そのような孤独志向に陥ることを決して儒者もよしとしない。ただ、孤独を紛らわすために
他人同士での友人関係ばかりを緊密化させるような優先順位の取り違えは決してよしとせず、
友人関係の簡便さはそのままにして、限られた親族同士での親密さこそを磐石なものとさせる。

古代の中国社会であれ、今の世界や日本社会であれ、全ての他人を友人にできるほど
その規模が小さくはない。利害を共にする友人関係などを偏重すれば、どこかに必ず利害の
反する友人ですらない他人=敵性勢力の派閥を作ってしまう。全ての他人を友人にはできない
からこそ一部の友人を作るのでもあり、そこに関係性の緊密さなどを付与すればするほど
敵との対立もより深刻なものとなる。だから友好関係については簡略なものであることを
是とし、自分では選ぶこともできない親子関係などを、だからこそ緊密さを貴ぶ対象ともする。
全ての人間には先天的に親族関係が備わっているから、親族関係を緊密にすることにまで
不平を唱えるようなことは、どんな人間にとっても根本的に筋の通らないこととなるから。

「(伯夷の)悪を悪むの心を推すに、思れ郷人と立つとき、
其の冠の正しからざれば、望望然として之れを去り、將に浼されんとするが若し」
「伯夷が悪を憎んだその心を推し量ってみるなら、それはあたかも、同郷の人間と共に立ち並んでいるときでも、
冠の被り方が間違っていれば深々と恥じ入ってその場を立ち去り、志しを汚されることを避けるかのようだった。
(隣人との癌細胞的な癒着による腐敗は、正義を志すものであれば徹底して拒絶し、近寄りもしない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・九より)

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237 2011/09/07(水) 12:26:18 ID:0oDYhglI5o
自力作善が本分な君子であれば神仏に依存したりはせず、祈るにしても、人事を尽くした先にある天命の福徳
こそを祈る。その福徳の内容は、天命の長寿であったり、武運の長久であったり、万民の福寿安寧であったりする。

他力本願の小人なら本当に神仏ばかりに依り縋り、それによって現実上の君子階級への貞順さをも養う。
神仏への祈りの内容も、家内安全だったり無病息災だったり商売繁盛だったりと、個人的な願望の側面が強くなる。

君子の祈りと小人の祈り、いずれも上記のようであるのなら何も問題はないが、世界の破滅を強弁する邪神に
対して、破滅後の自分たちだけの救済だけを祈ったりするのは、元はといえば世界の破滅をも祈っているわけで、
それは天下安泰などの健全な君子の祈りとも、無病息災などの健全な小人の祈りとも相容れることがない。
そもそも世界が破滅に陥るようなことからないように祈るのが健全な祈りであり、まず世界の破滅を祈って
おいてから、自分たちだけの救済を祈ったりすることが不健全な祈りだから、どちらかといえば、マッチポンプ
込みの不健全な祈りが劣後されて、マッチポンプ自体を未然に排する健全な祈りのほうが優先されねばならない。

全世界的にも、世界の一時的な破滅を必要もなく欲して、その実現を執拗に祈っているキリエホ信者などよりも、
そんな珍奇な祈りが叶うことを心の底から嫌がっている真っ当な人間のほうが遥かに多数派でもある。
世界の恒久な安寧を願う大多数の人々の健全な祈りが、世界の破滅を願う少数派の不健全で珍奇な祈りなどよりも
優先されて然るべきなのはもちろんのことで、その結果、破滅後の自分たちだけの救済などを祈っていたキリエホ
信者のほうが、禁治産や参政権剥奪などの処分を被ることになったとしても、それも当たり前のことだといえる。

「祭りは祈ること有り、報いること有り、由りて辟むること有り」
「祭りでは何かを祈ることがあり、それによる報いを期待することがあり、より縋って災厄を遠ざけることがある。
(苦難を期待することではなく、苦難を元から遠ざけようとすることが正しい祈りの姿だといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)

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238 2011/09/08(木) 15:01:02 ID:VH0fQg19MA:DoCoMo
マッチポンプはそれ自体が一種の不義であり、プラスマイナスゼロ以下の悪影響のみをもたらすもの。
そのマッチポンプを講ずる神もまた、プラマイゼロの有害無益な悪影響をもたらす邪神でしかない。

プラマイゼロ以上の好影響をもたらすことと、プラマイゼロ以下の悪影響をもたらすこととは互いに
相容れることではなく、どちらかを司る以上はもう一方を破棄せざるを得ない。だからプラマイゼロ
以下の悪影響をもたらしていた邪神などが、プラマイゼロ以上の好影響に満ちた世界を司ることも
できなければ、そこに赴くための先導者になることすらできない。プラマイゼロ以下の
マッチポンプ災禍を完全に収拾するまでが、せいぜい邪神に課された使命であり、
その使命が果たされた時点で、邪神自身もまた完全な引退を余儀なく果たす。

悪影響が好影響に転じた、万物の位相が根本からひっくり返った世の中は、
それをこそ司るのに相応しいものが、根本から司っていくこととなる。

「君子理無ければ動かず、節無ければ作さず」
「君子は道理が無ければ動かず、節操が無ければ何もしない。
(マッチポンプのような無理無節と共に、君子が何を動作することがあろうか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)

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239 2011/09/09(金) 13:18:29 ID:J307xAs7pU
天地万物の真理からも、俗世の道理からもかけ離れた所で、
がん細胞増殖の原理にも似た邪義邪説ばかりを触れ回ってきた犯罪聖書信仰、
それしか知らないところで、仕方なくそれを選択した人々が、
あたかも屠殺場に連れて行かれているのを知りもしないでいる家畜のように、
青天の霹靂ともいうべき未曾有の不遇にこれから遭わされる心外さは、察するに余りある。

しかし、邪義邪説に付き従ってきたことが、優先的な昇天に好転するなんてことが
あったとしても、それはおかしな話で、無痛症患者が痛みを感じないからといって、
致命傷を好んで受け続けることが、決して健康の増進などにはならないのと同じように、
邪義邪説への耽溺がプラマイゼロ以下の悪影響を及ぼすことはあっても、
プラマイゼロ以上の好影響を及ぼすことなどは決してありはしない。

真に天地の真理を悟り、俗世の道理をも察せたならば、それはその人間が
結構な福徳の増進に与ったりの、プラマイゼロ以上の好影響をもたらす機縁ともなる。
しかし、犯罪聖書信仰は決してその機縁のうちに入ってはおらず、むしろ真理の悟りや
道理のわきまえから遠ざかっての、無知蒙昧な放辟邪侈をけしかけるものでしかなかった。

全てが全て、そこまでもの邪教邪信だったわけではなく、世界的に見ても、
真理や道理からの遠ざかりを極大級に増進するほどもの邪教なんて、ごく一部の珍種に限る。
日本の仏教でも、創価あたりが半ばその気を帯びているが、あれもあくまで新興宗教であり、
何百年、何千年という伝統を持ち合わせているわけではない。人々にプラマイゼロ以下の
有害無益な悪影響のみをもたらす邪教でいて、約二千年もの間その存在が容認されてきた
信教などは、世界広しといえども、ユダヤ=キリスト両聖書信仰だけでしかない。

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240 2011/09/09(金) 13:18:47 ID:J307xAs7pU
イスラムも一応、ユダキリ信仰と同じアブラハム系の信教ではあるが、その本義である
コーランの内容が、ユダキリの原典である新旧約の毒性を中和することに特化したものと
なっていたため、ユダキリほどにも猛烈な災禍をこの世界におよぼすことはなかった。
「ユダキリほどにはひどくなかった」という消去法的な判断により、最後の審判後に
イスラムは方面の対象となる一方で、ユダキリは色々な制限を課される対象となる。
同じアブラハム教という土俵においてですら、ユダキリこそはイスラム以下ですらある。

「子曰く、賜や、女じは予れを以て多くを学びて之れを識る者と為すか。
對えて曰く、然り非なるか。曰く、非なり。予れは一を以て之れを貫けり」
「先生は言われた。『子貢よ、おまえはわしを多くを学んでそれを認識しているものと見なすか』
子貢は答えた。『はい、違うのですか』 孔子。『違うよ。ただ私は首尾一貫を心がけているだけのものだ』
(犯罪聖書信仰の根本原理の一つともなっている、認識主義グノーシズムの価値の否定や劣後)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・衛霊公第十五・三)

ログが若返りして近ごろのレスがとんでしまっているが、とりあえず書いておく。

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241 2011/09/10(土) 13:48:42 ID:Q79uoQbeFs:DoCoMo
「罪を犯さない」「もし犯しても許される」などといういい加減な心構えでは、
罪を犯さないでいられるわけがない。それは、罪を犯しまくるための心がけでしかない。

ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たるが、その砲撃のほとんどは大ハズレともなる。
善行ってのはこの内のアタリのようなもので、悪行はこの内のハズレのようなもの。
なんでもやりまくった挙句に多少は善行ともなったところで、それを遥かに上回る規模の
甚大な悪行が必ず付随する。だからこそ「ヘタな鉄砲〜」は総合的には悪行であり、
百発百中の名射撃ばりの純善行であってこそ、総合的にも善行となる。

ヘタな鉄砲〜は誰にでもできるが、百発百中は誰にでもできはしない。だからこそ、
人が何かをすることが善行と呼ぶに値するものとなるのは困難である一方で、
悪行となるのは容易いだけでなく、純善行の自助努力に努めない以上は、
行為能力を帯びた人の行いは、イヤでも悪行としての性格を持つ。

だから「罪を犯さない」「もし犯しても許される」なんていう中途半端な心がけで
人の行いが犯罪行為にならないで済むわけがなく、何かをする以上は必ず犯罪になる。

「断固として罪は犯さない」「もし犯したなら相応の罰に甘んじる」というほどもの覚悟が
あって初めて、人は総合的にも善行を為すことができる。人が善行を為すことが不可能
なのではなく、善行など行えず、悪行しか行えなくなるような、しごく特殊な行動規範を
犯罪聖書信仰こそのみが特定して個別的に信者へとけしかけているのであり、それが
不変的な法則であるなどと思い込むのもまた、全くの思い違いであるに他ならない。

「弁舌は其の当を失う(中略)とき、凡そ衆の動くも其の宜しきを失う」
「諸方に流布された諸々の弁じたてが真っ当さを失ったときに、大衆もまた自分たちの正しい有り方を見失うこととなる。
(罪を無制限に許そうなどとするイエスの蒙昧な弁護や、それを流布する
犯罪聖書自体の弁じたてが、大衆の妄動をけしかける元凶となっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)

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242 2011/09/11(日) 13:54:20 ID:HcaUHkSykc
人の欲望こそは、世の中を形作ってもいる。
一人一人に限っての欲望は、老齢などによって衰退していくことがあっても、
欲望にまみれた人間が入れ代わり立ち代わりすることでこそ世の中が形成されている。
世の中すなわち欲望の塊であり、世の中が存在する以上はそこに欲望が遍在している。

だから、欲望から離れるためには世の中そのものを厭い離れる必要があり、
世の中から距離を置いてこそ初めて、欲望以外の何物かを知ることができる。
だから儒家も世俗志向である一方で、濁世からは身を引くことの意義を
伯夷・叔斉の実例なども挙げつつ謳っている。

これを許さない諸子百家も古代の中国にはいて、始皇帝がその思想を厚遇した
韓非の法家思想などがそれに当たる。その主著「韓非子」においては、首陽山
に引きこもることで餓死した伯夷・叔斉両兄弟を、勤労の義務を怠ったとして
罪人も同然の扱いとしている。実際には殷を滅ぼして周朝を打ち立てた武王も、
伯夷・叔斉の偉業を称えて、首陽山一帯を両兄弟の領地扱いともしているわけだが、
隠遁の価値を認めない法家の場合は、このような事実関係もあるまじきこととする。

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243 2011/09/11(日) 13:54:31 ID:HcaUHkSykc
旧約冒頭の損世記ですでに神による労働の義務化が強弁され、
キリ教徒であれユダ教徒であれ労働を寸分でも怠ることが、いかなる場合であれ
罪と見なされている点に変わりはない。もちろん労働が善行になることもあるが、
公益を損なう我田引水活動が労働と見なされる場合もあり、そのような仕事を
するぐらいなら何もしないでいたほうが事実マシである。そのような事実関係も
全く無視して、とにかく働いとけとする犯罪聖書信仰や法家思想は、世の中と
不可分な欲望を客観的に捉えることもあたわず、常に何もかもが欲望まみれで
あることをも大前提とする。その欲望を脳内超越神に洗脳支配させるか、実定法
に支配させるかだけが、キリエホ信仰と法家思想の異なる点であり、世の中を
隠遁級の実践を伴いつつ客観する視点が全く欠けている点や、だからこそ人間の
欲望を全く客観的に捉えることができないという点までもが共通している。

「子、善を欲すれば、民善ならん」
「(魯の家老の季康子に)あなたのような政治に携わっている人間が善を欲すれば、
それだけでも、人民がそれに倣って善良になりますでしょうに。(欲望を善用する実例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一九より)

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244 2011/09/12(月) 13:22:34 ID:a4THbzyhqc:DoCoMo
犯罪聖書の伝承上では、イエスは死刑囚であるバラバの代わりに刑場に引き出され、
他の二人の死刑囚と共に磔刑に処されて死んだという。全ての死刑囚を放免させたのではなく、
一人の死刑囚の刑死を免れさせて、二人の死刑囚を道連れに死なせている。

イエスは別に、当時のイスラエルやローマの法律に触れる罪などを犯したわけではなかった。
ただ、重度の精神障害によって邪義邪説を触れ回り、世界を破滅に陥れる決定的な温床を作った。
それは確かに善くない行いであり、儒学のような正しい学説に即して糾弾廃絶されるべきものだった。
しかし当時のイスラエルには儒学がなく、旧約犯罪聖書のような蒙昧な邪説の塊を自分たちでも
本是と見なしていたものだから、蒙昧な社会で蒙昧な邪説を垂れ流したイエスをどうやって処分すれば
いいのか見当も付かなかった。それで他の死刑囚の代わりに処刑してしまったが、イエスは別に
法律違反という意味での犯罪をやらかしたわけでもなし。本人自身もそれはそれでかわいそうな
精神障害者の一員であり、処分を課すというのなら禁治産や強制入院などの民事処分を課すべきだった。
にも関わらず処刑したのは不当処分であり、死刑囚の代わりに処刑したあたり、重大な冤罪でもある。

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245 2011/09/12(月) 13:23:08 ID:a4THbzyhqc:DoCoMo
犯罪者も精神障害者も、人として劣悪な存在であることには代わりはない。しかし、精神障害者だから
といってすなわち犯罪者であるとも限らず、何も社会的に悪いことをしていないのなら当然犯罪者ではない。
犯罪者なら相応の刑事処分を科すべきである一方で、精神障害者なら相応の民事処理を適用する必要があり、
その方法は具体的には、禁治産だったり強制入院だったり参政権の剥奪だったりする。確かにそれらも
「不遇」に相当するものだが、懲役や処刑などの刑罰行為とは断じて異なるものだといえる。世の中に
多大なる迷惑を加えたから犯罪者、迷惑は加えてないが蒙昧の程度がひどすぎるので精神障害者。
本人たち自身に大した違いが見いだせなくても、世の中の側から見れば決定的な相違を帯びている。

「下殤は土周して園に葬る。遂に機を輿きて往く、途邇きが故なり」
「(昔の礼法では)八歳から十一歳程度の未熟な年頃で亡くなったものは、果樹園(パラダイス)に土葬した。
そんなに遠い場所でもないので、担架のような簡易な道具で遺体を運んで、パラダイスに埋葬した」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曾子問第七より)

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246 2011/09/13(火) 14:00:06 ID:jxeNd2YPZQ
イエスが刑死したとされる西暦28年に、イスラエル付近で日食は起こっていない。
7月10日に太平洋南部で皆既日食が、1月15日に南極付近で金環日食、12月4日に南極付近で
部分日食が発生しているが、いずれもイスラエルから遠く離れたところでの日食。

西暦29年の11月24日、9時31分〜14時15分までの間にイスラエル付近でも皆既日食が
発生していて、おそらく禍音書もこの日食を記録しているのだと思われる。犯罪聖書も
全くのでたらめばかりを羅列しているのではなく、それなりの事実関係を踏まえつつ、
致命的な虚偽を方々に織り交ぜていることが分かる。

西暦29年11月24日は、ユリウス暦29年11月26日であり、陰暦の11月3日に当たる。
これは、ユリウス暦か陰暦の14日か15日にイエスが刑死したとされる、禍音書の記述と
明らかに食い違っている。イエスが西暦28年ごろに刑死したのが事実だったとしても、
ちょうど刑死した日に日食が起こったのではなく、後付けで刑死した日に
日食が起こったのだと虚飾したのだろうことがうかがえる。

かっこわるっ

全くの夢物語ならまだよさそうなものを、日食とかの事実関係を
無理に引き合いに出したもんだから、事実関係と折り合わせつつの、
みみっちい小細工込みな虚偽虚構であることが、かえって明らかになっちまった。

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247 2011/09/13(火) 14:00:28 ID:jxeNd2YPZQ
「詩経」小雅・十月之交にも日食の記録があることは述べたが、その時には紀元前885年説を挙げた。
実際にはこの、西暦前775年9月6日=幽王六年十月朔日辛卯に発生した金環食のほうが有力なようで、
西周の首都である鎬京ではこの日食が観測されないことから、この説を退ける学者も近年いるようだが、
未だ周の配下にあった斉の北部や燕では辛うじてこの日食の観測が可能だったため、周朝を中原一帯を
平定する帝国と見なした場合には、この前775年9月6日説を推すことも未だ可能であることが分かる。

西周の末王である幽王の政治が乱れに乱れ、王自身、愛妾におぼれるなどの蒙昧にかまけて自業自得の
亡国を招きつつあったことが「史記」などにも書かれているが、十月之交の内容も、まさにその濁世を
嘆く姿として見れば筋の通る内容になっている。乱世に生まれて嘆かわしいという、その内容は暗いもの
であっても、そうであることを真摯に書きとめているぶん、実際には同日ではなかったイエスの刑死と
日食とを無理やり掛け合わせたりするような、禍音書の著者の不誠実さと比べての誠実さが際立っている。

「十月の交、朔の辛卯の日。日に之れ食有り、亦た孔とも之れ醜くきなる。
彼の月の微るる、此れ日の微るる。今此の下民の、亦た孔とも之れ哀れなる。
日月凶を告げ、其の行いを用いず。四國に政無く、其の良を用いず。
彼の月の食あるは、則ち維これ其の常なるも、此の日の食あるは、于何ぞ不臧なる」
「十月に月が代わった、朔の辛卯の日、日食が起こった。なんと縁起の悪いことか。
月が隠れて、日まで隠れるとは、今の民たちの、なんと哀れな境遇に置かれたことか。
日月が共に不吉を告げるのも、四方の国にまともな政治が無いのも、善人や善行が用いられないから。
月の満ち欠けはいつものことであるにしても、日が欠けるなどとは、なんと不吉なことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・祈父之什・十月之交より)

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248 2011/09/13(火) 15:28:32 ID:WomOylhYtA:DoCoMo
西暦29年11月24日は、「土曜日」だ。

仮にこの日にイエスが刑死したとして、「三日後に復活する」というイエスの予言に
即するなら、イエスは土曜日の明々後日である「火曜日」に復活したことになる。

しかし、日食の日に刑死したイエスが、週明けの初めの日、日曜日に復活したと
共観禍音書には明記されている。ここからイエスが刑死した曜日を、三日遡って
「木曜日」とする説と、数え年形式で二日遡って「金曜日」とする説がある。
しかし、いずれの数え方に即しても、土曜日に刑死したイエスが三日後に復活
するとして、土曜日の翌日である日曜日に復活したと見なすことはできない。

そもそも土曜日はユダヤ教の安息日であり、ユダヤ教の慣例に即してこの日に
罪人を処刑するとも考えにくい。禍音書にほぼ書かれているとおりの日食が、
イエスが刑死したとされる時期に起こっていたのも事実だが、その日食が、
ちょうどイエスが刑死した当日に起こったということは、禍音書の記述上の矛盾
からも完全否定される。このように、犯罪聖書は虚偽虚言の塊となっているのだ、

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249 2011/09/14(水) 12:48:57 ID:o5RCZKCEMg
「共観福音書」を始めとする犯罪聖書の記録姿勢からして、決して信用の置けるものではない。
事実関係を巧妙に捻じ曲げて、絶対にあり得ないことをさもありげに書き記したりする、
その姑息な記録態度からしてサイコパス系の精神障害者のそれであり、登場人物が
精神障害だとかいう以前に、まず著者自身からして重度の精神障害だったことが明らか。

マタイ禍音書27:25などには、「イエスを十字架につける責任は我々とその子孫が負う」と群集が
述べているが、偽証まみれの故に、全く信用のならない禍音書の記録者ども自身にこそ最大の罪責
があるのであり、本当にいたかどうかも知れない群集やその子孫の罪責などは、それに次ぐもの。

共観禍音書の著者は三人いることになっているが、責任が一ところに集約されるのを避けるために、
一人のサイコパス患者があえて三人分の名義で、ほぼ同内容の記録を残した可能性も高い。
それこそ禍音書の記録者が真性の分裂病患者だった根拠であり、それでいて三度もほぼ同じ
妄想を確言したことが、世界を破滅に陥れる上での確信犯だったことの根拠とすらなっている。

虚言癖の持ち主が健忘症を併発しているとも限らず、むしろ自らの発言が虚言だったことを忘れて、
虚言を真実と見なしてかたく記憶しておくなどということもあり得る。虚言癖の持ち主こそは、
自らの蒙昧さからなる危うさを埋め合わせる目的で、一部の記憶を徹底して忘れずにおく脳機能などが
発達することも、今の精神障害者の症例などからも確認されていることであり、重度の精神障害者
だからといって、犯罪行為に及ぶ上での確信犯になることがないなどとは決して断ずることができない。

累犯障害者、確信犯の精神障害者などに、健常者に対するような刑事処分を適用することは確かに
不当処分となる可能性がある。しかし、人さまに危害を加えることにかけての悪性の性向を宿している
サイコパス患者に対しては、精神障害者なりの厳重な処分を科す必要がある。すなわち、行為能力制限や
参政権剥奪や強制入院。サイコパス即殺処分とまではいかずとも、人並みに値しない扱いはやはり必要だ。

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250 2011/09/14(水) 12:51:27 ID:5cxJ7Oq0AM:DoCoMo
「君子は(略)褻裘を長くして、右の袂を短くす」
「君子は長袖長ズボンを着用するが、右袖の袂は仕事の利便のために分かつ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・六より)

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251 2011/09/15(木) 13:14:10 ID:zBOJpt1Wk2
玉鋼が、幾重にも打ち据えられて日本刀となるのは、それでこそ名刀になるためだ。
別に玉鋼が幸せになるためではなく、むしろ絶妙な硬度と強靭さを兼ね備えた名刀となるため。

幸せになることが目的であるのなら、始めからおかしな難儀などを引っかぶる必要もない。
ただひたすら一貫して事なかれ主義であること、それが良くも悪しくも本人が幸せでいる秘訣であり、
試練とか難儀とかいったものが本人の錬度の向上に寄与することはあっても、別に福徳に寄与することはない。
本人の錬度が向上することによって、他者を福徳へと導く聖賢となれる場合もあるが、
それにしたって、自分自身の福徳を増進する目的で試練に臨んだりするもんではない。

安楽無上な極楽浄土への往生を本願とする浄土信仰こそは他力本願、自分では何も苦労を心がけたり
しないでいて、浄土門の坊主なども100歳ぐらいまで長生きしたりする。一方で、自力での厳しい仏道修行に
励む聖道門の仏者の中には、無理がたたって早死にするものも多く、弘法大師なども、ほとんど自殺に等しい
ような穴篭りによって入定してもいる。(ただし、密教的な解釈に即して「今でも生きている」ともされる)

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252 2011/09/15(木) 13:14:23 ID:zBOJpt1Wk2
善行はどこまでも善行であって、その心は自利ではなく利他にある一方、悪行もどこまでも悪行であって、
その心は利他ではなく自利にある。己れを立たせんと欲して人を立たせたところで、それは利他が結果的に
自利にもつながる因果法則を順当にわきまえているからで、少しでも姑息な見返りを欲したりしたなら、
エセと化した利他が自利にまで結びつくことも、現実問題として期待できるもんじゃない。

それによって自分が幸せになれなくてもいい、不幸や早死にしたってかまわないぐらいの心持ちでの、
全身全霊を投げ打っての、進んで難儀をも引っかぶる本物の利他であってこそ、その利他による結果的な
自利までもが見込める。そうもいかない場合もあるにしろ、少なくとも利他による自利が期待できるようになる。

「(世子曰く)吾れ他日未だ嘗て学問せず、馬を馳せて剣を試みることを好めり。今、父兄百官我れを足るとせず」
「滕の定公の世継ぎが言った。『私は未だかつてまともに勉学をこころがけたことがなく、馬で荒野を駆け巡って
危険を試みるようなことばかりを好んできた。そのせいで、今でも親族や役人たちは私を未熟者扱いしている』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・二より)

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253 2011/09/16(金) 14:03:14 ID:RoxjWmSpPc
愛と勇気と信念あたりが、人間にとっての最も原始的な感情であると共に、
善用も悪用も自在な諸刃の剣に当たる。愛は偏愛に、勇気は蛮勇に、信念は狂信に
限定されることなどで悪用され、仁愛や大勇や正信などに限定されることで善用される。

偏愛や蛮勇や狂信を排して、仁愛や大勇や正信などを選取することは、愛や勇気や信念よりは
むしろ後天的な智識や礼節などによって可能となることであり、愛や勇気自体を専らに
偏重したなら、その蒙昧な偏重がむしろ、偏愛や蛮勇や狂信をけしかける元凶となる。

だから、人が仁愛や大勇や正信を選取するためには、むしろ一旦だけでも愛や勇気や信念から
遠ざかって、それらを十分に俯瞰する客観性が必要なのであり、始めから終わりまで一貫して
愛や勇気や信念と共にしかいられないなどというのでは、かえって偏愛や蛮勇や狂信の病因となる。

愛も勇気も信念も完全に捨て去って、一生を涅槃静寂のうちに終えるのも、常人からすれば味気ない。
だから、そのような濁念を排し去った領域の求道は専門の仏者に任せきって、常人はその仏者を
遠ざけながらも畏敬することで、ほんの少しでも愛や勇気を客観できる余地を持たせておけばそれでよし。
誰も彼もが坊主に袈裟と化して気味悪がられていた、鎌倉時代後期のようになるのもどうかと思う。

「若し傷を重ねるを愛しまば、則ち傷つけること勿きに如かず。其の二毛を愛しまば、則ち服するに如かず」
「わざわざ相手を傷つけてからその負傷者を哀れみ愛しむぐらいなら、初めから傷つけないで
いるに越したことは無い。白髪交じりの老人にまで我が子に対するような愛を振り向けるぐらいなら、
むしろその年功に敬服したほうがよい。(愛よりも優先すべきことは現実上にいくらでもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・僖公二十二年より)

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254 2011/09/17(土) 13:08:49 ID:g/tZaMzzfg
「康子薬を饋る。拝して之れを受く。曰く、丘未だ達せず、敢えて嘗めず」
「魯の家老の季康子が孔子に薬を贈った。孔子はこれを拝礼して受け取った。
しかし、『私は薬のことはよく存じませんので、嘗めるのは避けさせて頂きます』
といって、目上の者から食品を頂いた場合の慣例である味見を行わなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一二)

一見何気ない贈与の記録。しかし、人の命や健康に関わることについては、
礼儀よりも安全のほうを優先させることがある実例になっている。

目上の者からの贈与に関してですら、上記のように礼儀よりも安全のほうを優先する場合があるのだから、
対等のものや格下のものからの贈与であれば、なおのこと。贈与する側のほうが、される側に何らかの
強要をするなんてのは、朝鮮人の民主党議員に対する献金もいいとこ。贈与である以上は最悪の場合、
贈り物を受け取ってもらえなかったり、贈ったからといって何の見返りもなかったりしても、決して
怒ったりしてはならない。それでも何らかの効果を期待して行うのが、贈与というものだから。

そもそも贈り物である以前に、借金のカタだったりもするのだし。

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255 2011/09/18(日) 12:45:10 ID:Q4alRsUrOA
削除(by投稿者)

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256 2011/09/18(日) 12:55:56 ID:Q4alRsUrOA
キリスト教とかユダヤ教とか言ったものは、
その素性を一言でいえば「累犯障害者同盟」だ。

「廃人同盟」ともいえなくもないが、他民族に寄生したり、 他民族を
迫害して暴利をふんだくったりしながらなら生き延びられなくもないから、
全く何らの生活力も持たない、完全な廃人の同盟であるとも言い難い。

それで、他民族に対する吸血が行き過ぎた結果、他民族の精神的物質的苦痛に対する拒絶反応としての
人口爆発をも招き、いい加減自分たちの思想信条である犯罪聖書への信仰を強制的に厳禁しなければ、
人類を確実に滅亡させてしまう事態をも招いた。しかし、累犯障害を邪義によって推し進めることでなんとか
生き延びてきた連中が、邪義の嗜みを剥奪されるとなれば、並みの廃人同然と化して、あっという間に
死に絶えてしまうに違いない。その恐れからなる暴動なども招きかねないから、麻薬が切れた麻薬中毒者
に対するような保護措置を他民族が執り行うことが急務となる。それはそれで、世の致命的な乱れを未然に
防ぐための義務であり、累犯障害の邪義による正当化を現キリスト教徒やユダヤ教徒が完全に禁止される
ことと、禁止された後の完全廃人と化した元聖書信者に対する手厚い保護とが、共に義務的な措置となる。

「孔子曰く、我が門を過ぎ、我が室に入らざるも、我れ憾まざるは、其れ惟だ卿原か。郷原は徳の賊なりと」
「孔子はこう言ったという。『たとえうちの門を通り過ぎ、家に寄ってくれなくても少しも残念に思わないで済むのは、
(イスラエル人のような)田舎者の偽善者あたりかな。田舎の偽善者こそは、徳をそこなう最たるものだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・三七より)

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257 2011/09/18(日) 18:22:30 ID:7.JNUwFHwE:DoCoMo
西楚の覇王項羽も、中国の中心地の人間からすれば田舎者の偽善者(郷原)だった。
近隣の気に入った人間を手厚くもてなしたりする一方で、遠方の他人や敵兵なら平気で虐殺した。
そのせいで総体的な兵力や大衆からの支持を失い、兵力も支持も増大させた漢王の劉邦に敗れた。

その劉邦のほうはといえば、これまた項羽並みかそれ以上の田舎者だったが、ただ、偽善者ではなかった。
自らの卑しさなども公然とさらけ出し、近隣の親族や友人も、遠方の他人や敵兵もほぼ等しく扱った。
それでこそ兵力や支持をも養ったのだから、偽善者であるよりは卑しさをさらけ出すほうがまだマシなのだといえる。

漢の高祖劉邦も田舎者なら、殷の湯王や周の文王も田舎の中小国の君主。
夏の桀王や殷の紂王、秦の始皇帝や隋の煬帝などの、古くからの都会者や大国の君主のほうが
暴君と化した例は多いのだから、田舎者や中小国の君主であること自体を恥じる必要などはない。

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258 2011/09/19(月) 13:00:49 ID:C94YDGK9Xg
「君子は思うことその位を出でず(既出)」
「君子はその立場においてすべきこと以外は考えない」
(真正福音書・憲問第十四・二八)

国家権力や地方権力、公権力全般に携わる者は必ず、公益だけを目的とした事業のみに専念しなければ
ならない。国益などの公益を蔑ろにする、カルト教祖に付いていく徴税人などがいてもならないし、
王侯相将などが公益を蔑ろにするカルト宗教を、私的に崇拝することすら許されるものではない。
そのような人間は「公務不適合者」であり、あらゆる公共事業への参画を厳重に取り締まらねばならない。

では、ちゃんと自分たちが社会的な治産活動から身を引いた上で、超国家的な視野をも手に入れる
道家や仏門までもが許されないかといえば、決してそんなことはない。それどころか、自分たちが
公務や治産に携わるべきでないことをちゃんとわきまえた上での超国家的な探求に及ぶ道統については、
国家や社会の側からの手厚い扶助すらもが行われてもかまわない。隠遁や出家などの超俗の実践が十分で
あった上で超国家的でもあるものは、社会的利権に介入することで、国益を蔑ろにするような劣悪な邪教の
存在価値を、民衆のガス抜き目的の必要悪としてですら、皆無に帰する好影響すらをも及ぼすものだから、
むしろ上記のような良性の超国家志向の道統を、国家の側がすすんで一定の保護下に置くべきですらある。

もちろん、国家自体は国益を目的として存在し、自分たち自身の実践対象とするのも、儒学のような
完全な世俗志向の学統でなければならない。世俗の公益を守るために、自分たちは儒学のような正学を学び、
キリスト教やユダヤ教のような公益を害する反国家宗教を根絶の対象とし、公益を害さない限りでの
超国家思想を育む仏教や道家などの良性の教学を、他力本願の範囲での扶助の対象とする。

自分たちがすべきことと、自分たちがすべきではないが尊重すべきことと、
自他の誰しもが排除すべきことの三つが、これからの公人には課せられていく。

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259 2011/09/19(月) 13:01:07 ID:C94YDGK9Xg
「(詩に)云く、邦畿千里、惟れ民の止まる所と。(詩に)云く、緡蠻たる黄鳥、丘隅に止まると。
子曰く、止まるに於いて、其の止まる所を知る。人を以てして鳥に如かざる可けんやと。(詩に)云く、
穆穆たる文王、於あ緝熙にして敬いて止まると。人の君と為っては仁に止まり、人の臣と為っては敬に
止まり、人の子と為っては孝に止まり、人の父と為っては慈に止まり、国人と交われば信に止まる」
「詩経に『天子の治められる幾千里の邦家こそは、数多の民の止まるところ(商頌・玄鳥)』といい、
『美声のウグイスも樹木生い茂る丘の片隅に止まる(小雅・緡蠻)』とある。孔先生は言われた。
『鳥ですら自分の居場所に止まるというのに、人が鳥にすら及ばないなどということがあろうか』
また『偉大なる文王も、光明に覆われて敬いに止まる(大雅・文王)』ともある。人の君主となっては
仁徳に止まり、臣下となっては畏敬に止まり、人の子としては親への孝心に止まり、人の親としては
我が子への慈しみに止まり、国民と交わるに際しては信実に止まるようにする。(一国に住まう
人としての己れの立場をよくわきまえて、その国にいる以上は国人に対しても信実であろうとする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・三より)

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260 2011/09/20(火) 16:17:22 ID:Yk.Cn5/20I
犯罪聖書の信者がこれから被る禁治産や参政権剥奪などの措置は、
言うなれば「差別」であり、しかも聖書信者が非聖書信者の格下として扱われる大差別だ。

社会不適合者や公務不適合者として、法経済活動を厳しく制限されるその姿は、明らかに不名誉なものであり、
そこに安住の場を見出すよりは、その不名誉を心から恥じ入って、真人間としての社会復帰や公務復帰をも志すべきだ。

そのためには、人でなし扱いによる禁治産処分なぞを「昇天」も同然のものと見なす犯罪聖書への
憧憬などは根本から捨て去った上で、真っ当な勤労を奨励する儒学などの正学の勉強すらをも心がけねばならない。
そしたら、邪信による累犯障害への罹患が軽度である人間は、存命中に社会復帰や公務復帰を果たせる可能性があるし、
障害が重度の人間も、本人自身の復帰は無理でも、子孫の復帰を促進する程度の貢献を果たすことはできる。

仏門や道家の人間のように、自主的に超俗志向を実践するのではなく、強制的に社会の
第一線からの退場を余儀なくされるのだから、当然僧侶や仙人のような崇敬の対象とされることもない。
犯罪聖書への信仰を捨て去った上で、社会復帰ではなく仏門や仙道を志すことも許されないわけではないが、
サイコパスとADHDを併発した累犯障害者が社会活動を禁止制限されたからといって、超俗での
涅槃静寂に到る近道が開けたわけでもなく、むしろ最大級の遠回りの折り返し地点に到ったのみ。

他の誰よりも涅槃から遠い所から、涅槃を強制されることも最大級の苦痛に違いなく、
どこまでも残酷無惨で、なくて済むならそのほうがマシな悲劇であることでは一貫している。

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261 2011/09/20(火) 16:17:46 ID:Yk.Cn5/20I
しかもそれを、犯罪聖書の信者たちは自主的に選択した。
キリスト教徒もユダヤ教徒も、辞めようと思えばいつでも辞められたものを、
あえてそれを選択することでの悲劇的な末路を招いた。家族や友人がそうしていることの
しがらみなどもあっただろうにしろ、むしろ致命的な過ちを犯そうとする家族や友人をなだめ改めさせてこそ
孝行や友情ともなるのであり、あえてその家族や友人に同調したこともまた、不孝や薄情に過ぎなかった。

日陰る北方や、日没する西方への安住を志した欧米のキリスト教徒にとっては、
それが深く血筋に根差した必然的な選択でもあったのかもしれないが、その、
あまりにも見る影もない有り様を認めてやる余地が、この日出ずる極東への定住を志した日本人にこそ、
寸分たりとも持ち合わせられているものではない。寸分たりとも同情してやる余地もまたないが、ただ、
できる限りの最善の処理によって、その非業極まりない運命から、元聖書信者たちをも救い上げていく志しだけがある。

「父母に事うるには幾く諫め、志しの従わざるを見ては、又た敬して違わず、労して怨まず」
「父母に仕える場合には、過ちがあれば慎重に諌め、志しに従ってくれない
場合にもよく敬って逆らおうとせず、どんなに労苦しても怨んだりはしない。
(父母が聖書信者であることを諌めもせず、自分もそれに合わせて聖書信者に
なったような人間は、当然この正学の金言を実行しようとしたこともなかった)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・一八より)

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262 2011/09/21(水) 12:36:49 ID:17u2Eu7klY
わざわいをもたらす邪神からの迫害を免れるために、自らまでもが邪神のグルと化すぐらいならば、
徹底して邪神とは無縁であったり、邪神の敵対者であったりすることで迫害を被るほうがまだマシだ。

それは別に、潔癖を守ることで不遇に置かれることが儚くも美しいなどというナルシシズムが満たされるからではなく、
邪神の介在や到来それ自体を有害無益な「ないほうがマシ」なものと見なし、それに与することで自分までもが
「ないほうがマシ」な存在と化してしまうことが危ういからであり、事実、新旧約の犯罪聖書に根ざした
累犯障害者同盟を形成している欧米社会がこれから一挙に摘発を受けるのに対し、半ば過激派の様相まで
呈しつつも、犯罪聖書に根ざした累犯障害に味方していないイスラム圏の人間などは、今回の摘発は免れる。

今までさんざん殺し合いを積み重ねてきた相手である欧米聖書圏が、人類の生存を目的に無能力のウサギの群れと
化してなお、イスラム圏が多くの過激派勢力を輩出したり、一部の石油富豪などを野放しにし続けたりするようならば、
今度はイスラムのほうが摘発対象となる可能性もある。しかし、イスラム過激派にしろ石油富豪にしろ、
欧米との対立や貿易によってこそ生じてしまったスケープゴートなので、欧米のほうすら大人しくなれば、
イスラムもそれに呼応して平静さを取り戻す可能性のほうが高い。イスラム圏における諸々の災禍も、
その元凶であるのは真性の累犯障害者同盟である欧米聖書圏でしかないからこそ、欧米聖書圏こそが
総体からの摘発を被る一方で、イスラム圏はそこまでものトガを背負わされはしないのでもある。

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263 2011/09/21(水) 12:37:00 ID:17u2Eu7klY
これと全く同じような理由で、日本の隣国の中国も今回の摘発は免れるが、相も変わらずチベット迫害や尖閣侵略
などの妄動を続けるようであれば、今後の摘発の対象ともなる。今の中国が政治的文化的に荒廃してしまっているのも、
旧約犯罪聖書信者であるマルクスが提唱した共産主義などを国是に据え置いて、自分たちが生み出した儒学のような
良質な正学を打ち棄ててしまっているからであり、やはりその元凶は犯罪聖書のほうにあるから、伝統的に犯罪聖書を
狂信対象としてきた欧米聖書圏のほうにこそ、今の中国の荒廃の最高責任すらもがある。こうして、世界中を鑑みてみるなら、
近現代の世界中の問題の元凶はいつも欧米聖書圏であり、欧米人が犯罪聖書への信奉を廃棄せずにいたことが、あらゆる
害悪の根本となったことが明らかだから、目に見えて荒廃が明らかな中国やイスラムやブラックアフリカの問題責任までをも、
邪神とのグルを確信することで救われようとした、欧米犯罪聖書圏が第一に背負っていかなければならないことが確かだといえる。

欧米露聖書圏がその罪を十全に償ってから後に初めて、非聖書圏の人間の問題責任までもが問われていくこととなる。
マッチポンプを推進する邪神とのグルを確信した連中こそは、グルを拒んで災禍などに見舞われた人々よりも率先して
「害悪の元凶」としての罪を償っていかなければならない。その順序を取り違えて、非聖書圏にばかり責任を転嫁
しているうちは、地球社会の総体的な災禍の分量が増大することこそあれど、少しも目減りすることすらないのだ。

「赤の斉に適くや、肥馬に乗りて軽裘を衣たり。吾れ之れを聞く、君子は急を周いて富めるに継がずと」
「子華が斉に赴く姿といえば、よく肥えた馬に乗って高級な軽衣を羽織る始末。私はこう聞いている。
『君子は貧窮しているものは救うが、富み栄えているものにさらに利得を継ぎ足すような真似はしない』と」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・四より)

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264 2011/09/21(水) 13:10:47 ID:5DyTAMFKIU:DoCoMo
上記の論説には、>>263の「論語」からの引用がぴったりだが、近ごろ「論語」からの引用ばかりだし、
四書五経中でも「論語」だけは現代人にも相当に研究し抜かれて、半ば陳腐化してしまっているので、
(もちろん、四書五経全体を研究対象とすることで初めて見えてくる「論語」の真価もまたある)
「論語」よりは遥かに研究の遅れている「礼記」からも、一つ引用しておくとしよう。

「凡そ技を執るものは力を論ず。四方に適くときは股肱を裸して射御を決す」
「技法を司るものはその技量が試される。そのため、四方の諸国などに赴いても、
股肱を丸裸にするような軽便な格好で射術や御馬の技量の優劣をも決する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・王制第五より)

儒者は武技などを本職とはしない文化人だから、それを前面に押し出す目的で長衣を羽織る。
しかし、それはいざ武技の力量が問われるに際しては、実力を発揮する妨げにもなりかねないから、
全力を挙げていることをみせしめる目的で、裸に近い格好で技能を披露することがよしとされる。

弓道の五段位以上の男性が必ずやらされる肌脱ぎでの射的も、この礼法に則っているのだろうし、
儀礼と共に神事でもある相撲の力士がマワシ一張羅となるのも、実は古代中国の礼法にも適っている。
近ごろの中国人には日本の相撲を嫌うものが多いようだが、どうやら四書五経よりも犯罪聖書のほうに
自分たちの精神性を侵食されて、自分たちの古来からの文化の骨太さをも見失ってしまっているようだ。

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265 2011/09/22(木) 14:06:31 ID:GDyoJ34Ft.
「苗にして秀でざるものあり。秀でて実らざるものあり(既出)」
「苗のままで成長しないものもいる。成長しても結実しないものもいる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二二より)

ただ、苗が成長して実を結ぶことだって約束されたものとも限らないのに、
少数の種から無数の実が結ばれることを期待したりするのは、そのものの考え方自体が
「孟子」に出てくる、穀物の苗を助長してすっかり枯らし尽くしてしまう匹夫の考え方そのものだといえる。

農産に限らず、実物を司る生産業がそんなに容易く利益を上げられるものでないのは、
実際に世の中での生産業に携わったことのある人間なら、誰でも知っていること。
その生産物の流通だけを司る実体経済も、そんなに法外なあぶく銭なんかを生み出せるものではなく、
それこそ「士農工商」の「商」の立場に見合った程度の利益ぐらいしか、商売人も上げられはしない。

実物生産や実体経済からかけ離れたところで、不実なあぶく銭を貪る場合などにだけ
1万ドルが30万ドルに、60万ドルや100万ドルに跳ね上がるようなことも可能となる。
それはまさに不実なことであり、美味として味わえるものがどこにもない。味わって満足できるものが
どこにもないものだから、欲求不満となってさらなる貪りに走るが、その対象が不実なあぶく銭で
ある以上は、どこまでも欲求不満ばかりを助長させてしまう悪循環にしかならない。

個々の苗を着実に結実させていくことを怠って、不正に基づく結実の爆発的増大などを助長しようと
したところで、着実な結実を心がけていく場合以上にも不実な結果を招くことにしかならないのだ。

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266 2011/09/22(木) 14:08:06 ID:GDyoJ34Ft.
「仁の実は、親に事うる是れなり。義の実は、兄に従う是れなり。智の実は、斯の二者を知りて去らざる
是れなり。礼の実は、斯の二者を節文する是れなり。楽の実は、斯の二者を楽しむ。楽しめば則ち生くる。
生くれば則ち悪くんぞ已む可けんや。悪くんぞ已むべくんば、則ち足の蹈み、手の舞いを知らず」
「仁の結実は、親によくつかえることとなり、義の結実は、それ以外の上位者によく従うこととなり、
智の結実は、この二つをよくわきまえて疎かにしないこととなり、礼の結実は、この二つを節度を以て
うまく実践することとなり、楽の結実は、まさにこの二つをたのしむこととなる。仁義を礼智によって
楽しむところまでいけば、もはや死んだように生きることもなく、本当に生き生きとしていられるようになる。
そうして生き生きとしていられるようになったならば、どうしてそれを押し止めたりすることができようか。
もはや押し止めることも叶わず、手拍子足拍子での舞楽にすら及ぶばかりではないか。
(本当は不実でしかないような結実の乱発よりも、わずかながらでも着実な結実を)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・二七より)

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267 2011/09/23(金) 13:52:57 ID:ytKgZZ9.ck
「夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。人求めざるを病うるのみ(既出)」
「人の道はあたかも大道のように広々としている。ただ誰もこれを求ようとしないことばかりが問題だ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)

救いに至る真っ当な人の道こそは広々としていて、元から門すらありゃしない。
滅びに至る鬼畜の門こそはやたらと狭く、その定員もごく少数に限られている。

必要もなく、わざわざ、あえて、好き好んで、性懲りもなく選択する、
累犯障害のカルト教義による正当化と、その体系的な実践の深刻化。
それこそは激烈に狭い門でいて、確実な滅びに至る自殺行為の選択肢。

その選択によって滅びに至るものに対し、誰も同情を寄せる気にもなれないほどに、
その選択自体があまりにも奇特すぎる、大馬鹿なド変態の選択。目の前に満漢全席が
用意されているにもかかわらず、自ら好き好んで犬糞を食するような、お花畑の選択。

全く誰からも救いの手を差し伸べてもらえなくなるように、カルトの邪義自体が
元からできている。だから、その邪義への帰服を棄て去ることが、救いの要にもなる。

「賢人に見えんと欲して其の道を以てせざるは、猶お其の入らんことを欲して之れ門をとざすがごとし。
夫れ義は路なり、禮は門なり。惟だ君子は能く是の路に由り、是の門を出入するなり」
「賢人に会うことを欲しながらそれ相応の体裁を整えないのは、あたかも我が室に入って
もらうことを欲しながら、その門を狭く閉ざしているようなものだ。道の体裁が義にかない、
門の体裁が礼にかなっていて初めて、君子もその道を行き、門を出入することが可能となるだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・七より)

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268 2011/09/24(土) 13:32:27 ID:BzSuSzDrJs
「君子は(略)之れを言えば必ず行うべし」(論語・子路第十三・三より)
「大人は言必ずしも信ならず、行い必ずしも果たさず」(孟子・離婁章句下・一一より)

言えば必ずその通りにやる、それだけなら君子の徳目にも大外れなわけでもないが、
「言が本、行が末」なんていう思い込みにまで陥って、大山をあっちからこっちへと
移動させることですら、「そうしろ」と言いさえすれば実現されるなどとまで思い込めば大間違い。
言ったからといって必ずしもその通りにせず、やったからといって必ずしも結果を出すとも限らない、
それでいて言ったことはなるべく言ったとおりにして、やるからにはできるだけの結果を出そうともする、
その姿勢はあたかも「絶対に」というほどに真摯であるのが君子大人であると捉えた場合に初めて、
上記の孔子の言葉と孟子の言葉との間に、大きな矛盾があるわけではないことが分かる。

「論語」と「孟子」および「大学」「中庸」を併せて「四書」とし、儒学の入門書として推薦したのは
南宋の朱子だが、その朱子も「近思録」における易の解釈で、「まず直観的な実相の把握があってから、
その次に初めて数的、言語的な解釈が易に付与された」としている。言葉や数が絶対なのではなく、
漠然とした実相のほうが絶対であり、そこに言葉や数に即した後付けの解釈が備わるという優劣先後の
関係が孔子と孟子の見解、およびその整合性を認める近世最大の儒学派・朱子学によって定立されている。
そしてそれは事実、本当だった。実相か言葉かでいえば実相が先であり、言葉は後。実相ほどに言葉が
優先されて然るべきものではないことが明らかになったから、上記の孔孟の一見矛盾的な言葉同士にも
完全な整合性が確証され、儒者の外見上の優柔不断さが道理に適っていることまでもが証明された。

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269 2011/09/24(土) 13:32:48 ID:BzSuSzDrJs
「苓を采る苓を采る、首陽の嶺に。人の為言を、苟くも信ずる無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟くも然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん。(ここまで既出)
苦を采る苦を采る、首陽の下に。人之為言に、苟くも亦た與する無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟くも亦た然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん。
葑を采る葑を采る、首陽の東に。人の為言に、苟くも亦た従う無かれ。
旃を舎てよ旃を舎てよ、苟くも亦た然りとする無かれ。人の為言を、胡ぞ焉りとするを得ん」
「首陽山の頂きで、アマクサを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉を、本当のことだなどと信じるな。アマクサは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも『しかり』などとはするな。偽りだらけの人の言葉を、なぜ『しかり』などとできようか。
首陽山の頂きで、イタドリを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉に、決して与しようなどとは思うな。イタドリは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも与しようなどとは思うな。偽りだらけの人の言葉に、なぜ与することなどできようか。
首陽山の頂きで、カブラを摘み摘み想う。偽りだらけの人の言葉に、決してしたがったりるな。カブラは摘んでも、
人の言葉は捨て去り、仮にも従ったりはするな。偽りだらけの人の言葉に、なぜ従ったりすることができようか。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・唐風・采苓より)

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270 2011/09/26(月) 14:18:21 ID:AF4C.3qrXU
行動即犯罪の極大級の乱世を画策する邪神の下での、あらゆる思考や言動がつまらなく、
どんなに面白がろうとしても一定以上に面白いことが決してあり得ない。それは、
邪神による支配を完全に廃絶した江戸時代の侍の活躍を描いた「鬼平」のような時代小説が、
邪神の介在を念頭に置いたどんな三文小説や、実際に邪神が介在している今の世での
どんな出来事よりも遥かに面白いという、現実上の把握からだけでも推断することができる。

「小説で面白いからといって、現実でもそうだとは限らないじゃないか」といえば、
それも確かにその通りで、邪神が一切介在しないことが小説ですら面白いのだから、
現実でも邪神が介在しなければ、小説なんかよりもさらに面白いことこれ請け合い。
曾子も現実に根ざした忠告として「悪行を摘発したからってあんまり楽しんでばかりいちゃ
いけないよ(子張第十九・一九)」などと述べており、政治の乱れからなる世の乱れが
悪人の多発をももたらしてしまっていることを忘れてまで、勧善懲悪の楽しみばかりに
ふけってちゃいけないよという、よく事実関係をわきまえた助言を施してくれている。

邪神が一切介在しない健全な世の中は、邪神の介在する世の中よりも遥かに面白い。
それは、別に悟りを啓いたりしているわけでもない普通の庶民にとっても通用的なことであり、
儒学のわきまえすらない庶民こそは、曾子の制動なども振り切って、最大級に邪神の不在を楽しむ。
邪神の介在を根絶する直接的な役割を担う君子などは、むしろそのクリエーターとしての
裏役的な任務に徹すべきであり、もはや享楽の主体は庶民の側となるものだとわきまえたほうがいい。

庶民の楽しみを奪い去ってまで、自分たちばかりが楽しんでいようとしたのが邪神どもでも
あったのだから、その二の轍を踏まず、自他を共に楽しませる仁の楽しみだけを楽しむように。

「徳に於いて薄ければ、礼に於いて虚し」
「仁徳のわきまえが薄弱ならば、礼儀礼節を正したところで虚しいだけだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・仲尼燕居第二十八より)

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271 2011/09/27(火) 12:59:33 ID:zkcwncmvRk
イエスは、人間の心中における普遍的な理性の実在を、一切察しなかった。
朱子学でいうところの「性」、唯識思想でいうところの「阿頼耶識」にあたる普遍的理性の
心中における実在を全く察知せず、元から皆無であるとした上での言行に終始した。

仮に普遍的理性を不在とした場合、人間の心中に何があるということになるのかといえば、
ただの「情」だけがあることになる。朱子学でいうところの「情」、唯識でいうところの「末那識」
だけが心中にあることになり、イエスはこの情や末那識に相当する部分だけを心の全てと見なして、
情や末那識が濁悪に汚損されることを「神の愛」の名の下に深刻化させることだけに与した。

情や末那識に相当する濁念が人間の心中に存在することを、朱子学や唯識思想も決して否定してはいない。
性と情、阿頼耶識と末那識の総合こそは「心」であり、場合によっては情や末那識ばかりに人間の心身が
取り込まれて、性や阿頼耶識による制御が効かなくなる場合があることすらをも認めている。しかし、人間の
心中に普遍的理性としての性や阿頼耶識が実在し、そこに道理や真理の普遍的な判断基準が存在することをも認め、
朱子学に至っては、性による十分な制御を受けた情をも兼ね備えた心が抱く仁愛こそは、至上の愛ともする。

そこら辺、情の濁悪をまんま「神の愛」などと見なすイエスの考えよりも圧倒的に深く、イエスが把握
していた範囲の心よりも遥かに広い範囲の心を捉えられているといえる。故にこそより普遍的な人の心の
理解であるといえ、イエスの心に対する理解を完全な「偏見」と見なすに値する確実な証拠でもあるといえる。

「維れ此の王季は、帝其の心を度り、其の徳音を貊らぐ」
「ああかの文王こそは、帝としてよく人々の心を推し量り、それぞれに
天分として備わっている徳性を鳴り響かせることで、その心を和らげたものだった。
(性と情の総合としての人の心をよく推し量っていたから、天性の善徳を鳴り響かせられた)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・皇矣より)

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272 2011/09/28(水) 12:29:32 ID:B7WjNQnbYg
闇の快楽に溺れたものが、最終的な破滅に陥るのはどこまでも自業自得であり、
そうなったことの憎悪を光明の側に転嫁したりするのも逆恨みだといえる。
逆恨みだから、憎しみが解消されることもなく、日ごとに憎悪の業火の苦しみばかりを募らせる。
全ては自分たちの責任だったことをわきまえて、憎むなら自分たちを憎み、
光明の側に対してはむしろ自分たち自身の断罪やそれによる救いを希わねばならない。

その時に仮に、光による裁きの表徴が、十字架に張り付けられた半裸にヒゲのおっさんだったとする。
それはもちろん自分自身ではなく、自分の代わりに罪を背負って死ぬ野郎だとされる。
だとすれば、そこに救いを求める罪人の憎悪はまだ自分自身に対して振り向けられてはおらず、
未だ自分以外の誰かに対して、自分自身の罪を擦り付ける逆恨み志向が残存していることが明らか。
十字架信仰もその、罪人の逆恨みを助長するばかりで、本人自身に自業自得の愚かさへの
わきまえを喪失させることの元凶となるばかりなので、それが救いになるなどということも決してない。
一時は救われたような気になれたところで、後々までその罪過を引きずり続けるだけとなり、
自分自身が罪を償わずに死んだところで、子々孫々代々に至る罪障の積み重ねはやはり進行していく。

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273 2011/09/28(水) 12:31:15 ID:B7WjNQnbYg
聖書信者に孝悌意識が全く欠けているのも、先祖や親が自分たちばかりに責任を押し付けてきた前科が
あるからで、自分たちもまたその親の過ちに倣って、後代や他人へと罪を押し付けて済ませようとしている。
しかし、そんな自転車操業がいつまでも続けられるわけがないことも半ば察知していたから、聖書信者自身、
いつかは終末の裁きがやって来るとも予想していた。そして今がその時であり、罪のなすり付けが自分たち自身を
含む全人類の滅亡に直結し、罪が自分以外の誰かになすり付けられることで解消されたりすることも絶対に
ないというのが結末となった。故に、今さらながら、聖書信者は自分たちや、自分たちの先祖が犯してきた
全ての罪を自分たちで背負い、自分たちこそはその償いに努めていかなければならない。その上での教義的な
拠り所となるのも、自業自得の罪過を他人への憎しみに転嫁することを是とする犯罪聖書などでは決して
あってはならない。それが、聖書信者たち自身も予め期待し尽くしていた、最後の審判の判決であるのだから。

「必ず亡びん。宴語を懐わず、寵光を宣べず、令徳を知らず、同福を受けずんば、將た何を以てか在らん」
「かならず亡びるだろう。語らいを楽しもうともせず、光の尊貴さを称えもせず、まともに仁徳も心得ず、
人々と共なる福徳に与ろうともしないのなら、どうしてこれからも生存していくことができようか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十二年より)

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274 2011/09/29(木) 13:27:08 ID:Cc.mtTDLaA
キリストによってだけは絶対に救われない。他の八百万の神々のうちの誰に縋ったところで、
キリストに縋る場合以上の救いぐらいは期待できるが、ことにキリストやエホバに縋る以上は、
人間が想定しうる限りでも最悪級の破滅へと自分たちを陥らせることしか絶対に出来ない。

この事実を完全にひっくり返せば、「キリストによってでなければ救われない」となり、
「キリストによってだけは救われない」という命題が永久不変の真実だからこそ、その真逆である
「キリストによってでなければ救われない」という転倒夢想も、一種の不変性を帯びることとなる。

孔子が「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」といったとき、確かに普遍的な道徳律がそこに
定立された。しかしそれと同時に、それとは真逆となる「己の欲せざる所を人に施せ」という
犯罪律の定立までもが暗に示唆されることとなった。自分がされていやなことは人にもするな
などという当たり前な教訓をわざわざ言うまでもなく実践できればそれに越したことはないのに、
わざわざそんなことを強弁したもんだから、その反対としての非常識な犯罪律までもが示唆された。

孔子の生きた春秋時代や、現代のような、非常識な罪悪まみれの世の中に生を受けたからには、
「当たり前な道徳律の定立から始めていかなければ」という気になるのも人情というものだが、
もちろんその道徳律は本来、言うまでもなく当たり前なものばかりであり、あんまり学識として
ひけらかしてもしょうがないような自明さを多々帯びている。だから老荘などの道家の徒は、
わざわざ当たり前な道徳律の強弁などにすら及ぶべきでないとし、孔子もまたそのような
道術者の境地をより高度な達観であるとして、自分のほうがそこまではいかない未熟者である
ことを自覚した上での、当たり前な道徳律としての「儒学」の体系化やその流布に及んでいる。

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275 2011/09/29(木) 13:30:08 ID:Cc.mtTDLaA
「キリストによってでなければ救われない」などというような、絶対不能の転倒夢想を強弁して
いる側にとっては、その強弁ばかりが自らの拠り所となっている。しかし、「キリストなんかで
救われるわけがない」という当たり前な真実を定立している側にとっては、別にそんな物言い
自体が唯一絶対な自らの拠り所になっているわけでもない。犯罪聖書みたいな珍奇なカルト文書を
完全に眼中から離し去った上での四書五経の勉強、さらには四書五経みたいな当たり前な常識
ばかりを強弁している文書すらうっちゃっての無為自然などにこそ、自らの同一性を見出しており、
「キリストなんかでは絶対救われない」などという当たり前中の当たり前の事実を是とする
ことなんて、ついでのついでの暇つぶしぐらいにしかなっていないのだから、転倒夢想だけが
自分たちにとっての全てである累犯障害カルト信者などとは、余裕の度合いから桁外れであるといえる。

相手よりも必死だからといって、絶対不能の完全誤謬がひっくり返るわけでもなし。

「悪を長じて悛めずんば、従って自らに及ばん。之れを救わんと欲すと雖も、其れ将た能くせん」
「罪悪を積み重ねて改めもしないのなら、いつかはそれによる自業自得の禍いが自らに降りかかる。
そうなってから救ってやろうなどとしたところで、どうしてそんなことが可能だろうか(断じて不可能だ)。
(何度も何度も説き尽くしてきたことと全く同じ内容だが、罪悪の積み重ねを内心で悔いただけで改めた
気になりながら、さらなる罪悪を積み重ねるキリスト信仰が、絶対救済不可な代物であることを確証している。
過ちを行いから改めていく規範を喪失するキリ信仰を破棄しない限りは、絶対に救われることがないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・隱公九年より)

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276 2011/09/30(金) 11:22:15 ID:QZCJMVY5Go
精神薄弱の累犯障害者が、カルト信仰を通じて異教徒へと振り向ける憎しみや、
自分たちが脳内で捏造した超越神が異教徒に止めるとされる怒りは、
「憎しみ」や「怒り」としては、偽物である。

十分な善悪の分別を身に付けた道徳者が罪悪に対して抱く憎しみ、
その罪悪を性懲りもなく積み重ねようとする悪人に対して抱く怒りこそは、
「憎しみ」や「怒り」としての純正な方向性を伴っており、本来憎んだり怒ったりは
すべきでない相手に対する、カルト信者の憎しみやカルト神の怒りは、「憎しみ」や
「怒り」としての方向性が根本的に偽りであり、故に偽物の憎しみや怒りであるといえる。

「憎しみ」や「怒り」としては偽物だが、「気狂い」としては確かに本物だ。

隣国である日本や中国に、国力でも国風でも及ばない朝鮮の人間が、強烈な劣等感を溜め込んだ
挙句に、急激にその鬱屈を爆発させる「火病(ファビョン)」という精神疾患の症例があるが、
カルト信者が異教徒に対して振り向けるとされる怒りや憎しみも、本質的にはこの火病と同じであり、
鬱屈からなる気狂いとしては確かに真性である一方で、それが隣国の日本人に対する憎しみや怒りなど
として表出したりするのは仮性だ。とにかく劣等感で鬱屈して今にも爆発しそう、それは確かに本当
のことだが、その爆発力をどうやって発散するかということに、原初からの方向性は定まっていない。

カルト信者の怒りや憎しみが異教徒に振り向けられたり、朝鮮人の怒りや憎しみが日本人に
向けられたりすることに、やはり異教徒や日本人としては心外さや嫌悪感を抱かざるを得ない。
しかし、彼らの怒りや憎しみが本来無軌道なところが、ある種の情報洗脳で異教徒や日本人に
向けられているのが欺瞞であるのも確かな一方で、カルト信者や朝鮮人が、劣等感からなる
膨大な鬱屈を溜め込んでいるのも事実であり、その鬱屈をどうにか噴出させたいという火病の
病巣を抱えているのも本当のこと。その火病の爆発がたまたま異教徒や日本人に振り向けられて
いることとはまた別に、彼らにとっての真性の病としての火病を、どうやって快方に向かわせて
いくべきなのかを、より達観した境地にある異教徒や日本人であれば、考えてやらねばならない。

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277 2011/09/30(金) 11:22:30 ID:QZCJMVY5Go
「天の怒りをを敬みて、敢えて戲予する無かれ。
天の渝るを敬みて、敢えて馳駆する無かれ」
「天の怒りによく慎んで、放逸にうかれたりすることがないように。
天の心の動きをよく推し量り、その思いを蔑ろにすることがないように。
(ここでいう『天』は犯罪聖書の邪神などではもちろんないが、天が機嫌を良くしたり損ねたり
するものであり、誰にでも怒りをも振り向けるものであり、むしろその怒りによってこそ自分たちが
身を慎んでいくべきだとする。この主張は天を『謹厳な父君』と見なす陰陽思想にも根ざしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)

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278 2011/10/01(土) 11:56:12 ID:KXdXiS9nd.
湿潤なモンスーン気候に覆われている東洋社会には、ほとんど水不足という問題がない。
近ごろでは、人口爆発によって一人頭の水資源の量が減少したせいでの水不足などが
取り上げられてもいるが、それも上下水道が発達した贅沢な水利用を当たり前とした上でのこと。

実物の「水」でも東洋社会は恵まれているほうだが、それ以上に、「渇望」全般をよく制御して、
なんでもかんでも際限なく欲しがるような意地汚さを非と見なす文化が多く提唱されてきている。
カルトではない正統な仏教や道教がその代表格であり、ある程度は俗世での活躍を目論む儒家や
ヒンズー教にも、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」という程度のわきまえが備わっている。

「欲はほしいままにすべからず」であってこそ、餓鬼ではない人間となり、畜生ではない天人となる。
潜在的に渇望まみれな人間こそは餓鬼であり、欲求まみれの天人こそは畜生である。もちろん両者はそれぞれ
全くの別物であり、際限のない渇欲の有無こそは、人と餓鬼、天と畜生を断絶する普遍基準にも当たる。

渇欲を自主的に制御する自律性が具わりすらすれば、どこまでも渇欲を叶え続けてあげようとする邪神の
誘惑なども断ち切れる。何も欲望を棄て去りきらなくたって、「欲はほしいいままにしない」という程度の
わきまえすら備えられたなら、渇望をどこまでも叶え続けようとするような極端志向には走らなくなる。

犯罪聖書では、「服従者に対して神は怒らない」ことが誘惑材料になっているが、>>277の真正聖書の
引用などでは、むしろ「天神の怒りを自重の材料とせよ」とすらしている。これも、喜怒哀楽という
人間的な感情の、全否定しない限りでの善用の判例となっており、とかく極端に走ることで何もかもを
ダメにしているのが犯罪聖書である一方で、できるかぎり極端を避けることで優良な言動規範を
人々に備わらせているのが真正聖書=四書五経であるという法則性が一貫していることがわかる。

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279 2011/10/01(土) 11:56:26 ID:KXdXiS9nd.
「間關と車の舝が兮き、ああ孌わしの季女の逝く。飢えず渇かず、
徳音の来たり括れる。好友の無しと雖も、式れ燕げ且れ喜しまん」
「御車の車音もカンカンと鳴り響いて、麗しの乙女が嫁入りに行く。
それでこそ飢え渇くこともなく、善いことの訪れであるともいえる。
あまり交友関係が広くなくたって、それだけでも十分に楽しめる。
(飢渇を癒すのが花嫁であるというのは、『男が乾、女が湿』という陰陽法則にも根ざした見解。
父なる神が渇きを癒すなどとは、陰陽法則に根ざして考えれば、おぞましいことこの上ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・車舝より)

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280 2011/10/01(土) 13:27:57 ID:Yt4SxVY6ao:DoCoMo
「嫁だけもらう。後はいらーん」との、3000年前の大先生からのお達しだ。

(詩経・車舝は、ただの結婚祝賀の歌にしては学術的な思弁性に富むため、
貴族や庶民ではなく、学者の作品である可能性が古来から指摘されている)

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281 2011/10/02(日) 14:04:44 ID:6TF2XIWeoI
イエス坊やが「主から遣わされた業」と強弁しているものの内容は、原理的に絶対に
実現が不可能なものである上に、道義的にもその実現を欲したりすべきものではない。
ただ、不埒にもその実現をあえて欲し、そのための試みにも耽溺していったとすれば、
その実現が絶対に不能であることから、いつまでも延々と試みだけを続けていくことになる。

武術や工芸などの技術の研鑽も、極めようとすれば全くキリがない。どこまでも際限なく
その技能が向上していくものだから、完全なる完成などというものはない。ただ、ちゃんと
研鑽を心がけていけば、自らの技能がどこまでも向上していくのも確かだから、研鑽を続けて
いくに連れて、一定の達成というものが見込める。それが武術における免状の取得であったり、
工芸作品の美観の一定的な達成であったり、工業技術における一定精度の確保であったりする。

そのような一定の達成も見込めた上で、さらなる向上を無限に試み続けていけるのが、
技術の研鑽である一方、「キリストの業」のような絶対不能条件を実現しようとする試みは、
それ自体が実現されることがないのはもちろんのこと、実現を試みる過程で一定の成果を
達成できることすらない。軟鉄をいくら打ち据えても軟鉄のままでいて、鋼にはならないように、
何かが向上するなどということが全く期待できず、それでいて本来の目的も達成されない。

仮にそのような無益な徒労を「生きる糧」にしたならば、それは人間が生きる上での最も
低劣な生活規範としかなり得ない。ただ人間が生きるということにも、いくらでも向上の
余地が見込めるにも関わらず、必要もなくわざわざあえて好き好んで、全く向上を欲しもせず、
なおかつ何の希望も達成されない、何の魅力もない、泥人形同然の人生だけがあることになる。

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282 2011/10/02(日) 14:04:58 ID:6TF2XIWeoI
故に、「目的の達成を志していくことを生きる糧とする」という意味すら持つイエス坊やの
ストイックじみた物言いも、その目的が全くの実現不能である上に、実現を試みる過程で
何らの一定的な成果を期待できるものでもないから、決して評価するに値するものではない。
どこまでも上を目指し続けられる求道というのは、それはそれで技術研鑽上の分野などに
多々あるが、それも決して実現不能な目的の達成などではなく、原理的に実現可能な目的を
達成していこうとする試みだからこそ意義を持つもの。原理的に達成不能な目的を実現しようとする
試みには何の意義もなく、何らの一定的な達成も見込めない、味気ない徒労依存症としかならない。

「久しかる可きは則ち賢人の徳、大いなる可きは則ち賢人の業なり」
「どこまでも恒久不変であるのが賢人の湛える徳であり、どこまでも広大なのが賢人の成す業である。
(業を成そうとすることなどではなく、自らが着実に大業を成していくことこそを賢人は本望とする)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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283 2011/10/03(月) 11:55:32 ID:EqRM9WEtrw
>>274-275のおさらいでもあるが、

「Aという教条が絶対に真である場合、Aに反する内容を持つ教条A´は偽であることが絶対に真である」

という法則が成り立つ。儒学と聖書信仰、四書五経と犯罪聖書はまさにこの
AとA´の関係にあり、儒学や四書五経こそは世界を平和や繁栄へと導く絶対的な教理であり、
その儒学や四書五経と決定的に相反する背理の陳列でしかないのが聖書信仰や犯罪聖書であるからこそ、
聖書信仰や犯罪聖書は、人類を破滅や滅亡へと追いやる邪義邪見としては絶対に真である。そして、

「転倒夢想者は、絶対に偽であるものを絶対に真であると見なす」

という法則に即して、転倒夢想者である聖書信者は、人類を滅亡に陥れる邪義の陳列として
絶対的な意味を持つ犯罪聖書を、世界を平和や繁栄へと導く絶対的な正義であると確信する。
犯罪聖書が、人類を平和や繁栄とは逆の方向へと陥れる究極の邪義である、にもかかわらずではなく
だからこそ、犯罪聖書こそは人類を平和や繁栄へと導く純良な正義であると完全に誤解する。

最悪の邪義A´こそは狂信の対象とされることがあるのも、結局は最良の正義Aもまた確実に実在するからであり、
その正義Aのほうをありのままに体系化しているのが、儒学や四書五経でもある。儒学や四書五経のような
光明Aが存在するからこそ、その光明に照らし出された闇黒A´としての、聖書信仰や犯罪聖書も存在する。
儒学や四書五経が正義として真に真正だからこそ、その倒置である聖書信仰や犯罪聖書も邪義として真に真邪である。

「真に真○だから信じられる」というような意味合いを、犯罪聖書が持っていることもまた確かなことで、
ただ「邪義として真に真邪である」のを、「正義として真に真正である」と勘違いしてしまったのが
聖書信者なわけで、イスラエル以西のド田舎で世間知らずなままに奇形的な文化だけを発展させ続けてきた
欧米人同士での間なら、その勘違いも通用していたのだ。ただ、あくまでそれは勘違いでしかなかったから、
そのような勘違いが真の正義の前では、鉄球に打ち付けられるガラス球のようにして、粉々に砕け散るしかないのだ。

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284 2011/10/03(月) 11:55:47 ID:EqRM9WEtrw
「孟子〜曰く、仲尼の徒に桓・文の事を道とする者無し。是れを以て後世に伝うる無く、臣も未だ之れ聞かざるなり」
「孟子は言った。『孔子の学門に学んだものに、斉の桓公や晋の文公のような覇道を専らとした
輩の事跡を専攻の対象としている者はいない。だからそれを後世に伝えようとする者もいないし、
(孔子の孫の子思に学んだ)私自身も専門的な話を聞かされたことはないし、別に聞く気もない』
(邪義邪曲は始めから伝え聞いたり、聞き伝えたりすることから自粛していかなければならない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)

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285 2011/10/03(月) 15:10:11 ID:m1cHeBAzz.:DoCoMo
「桓公や文公のことなど関知しない」などといいながらも、孟子は春秋戦国時代の諸侯の
覇道政治を相当に細密な部分にまで渡って批判しているし、春秋五覇の盟約の内容などの貴重な
資料すらをも、孟子自身やその弟子が編纂したとされる思想書「孟子」中に遺してくれている。

ただ、孟子の場合は、春秋戦国時代の覇者に対する扱いがほぼ完全に否定的であり、
堯舜禹や湯文武のような(孟子の時代から見ても)古代の聖王の徳治と比べて、
諸侯の覇道政治を「少しも評価するに値しないもの」として、痛烈に批判している。

これが、孟子よりもやや後輩の儒者に当たる荀子であれば違っていて、諸侯の覇道政治を
やはり古代の王政よりも劣ったものと見なしてはいるが、それでも聖王賢臣には至らない
凡人などが便宜的に覇道に介入していくことは是認してしまっている。ここが荀子と孟子の
決定的に食い違うところであり、考え方によってどうとでもいえる性善性悪の人性論争など
よりも遥かに切実な実践面において、孟子と荀子とが互いに相容れない部分だったといえる。

おそらく荀子は、諸侯による覇権主義がいつまでも続き、もう二度と古代の王政が復権すること
はないといったような、一種の諦めを付けていたのではないかと思う。だからこそ覇道政治にも
一定のリップサービスを贈っておこうと思ったのだろうが、荀子が没してまもなく、秦によって
中国が統一され、民からの甚大な怨恨を被る姿勢で全中国を支配しようとした秦や西楚に代わって、
漢が中国全土を治めるようになるやいなや、長期の王政がついに復活してしまった。諸侯の権限を
大幅に弱めて、漢王朝への権限集中を強化するなどの新規策もあったにしろ、孔子や孟子が頑なに
主張していた「覇道を上回る王政」が復権して、中国を当時世界一の大帝国にすら押し上げてしまった。

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286 2011/10/03(月) 15:10:44 ID:m1cHeBAzz.:DoCoMo
楚漢戦争時、儒者でありながら漢軍方の説客をつとめていた酈生が、当時の漢王劉邦に対して
「秦帝国によって王位を剥奪された、各国の諸侯を元の位に付けることで味方に付けましょう」
と進言し、劉邦も「それはいい考えだ」とうなずいて実行に移そうとした。すると、参謀の張良が
「そんなことをすれば、諸侯の台頭を招いて乱世を激化させるだけです」と反対し、劉邦も結局
この意見のほうを聞き入れて、戦時中からの諸侯制の復興という酈生の意見を後から蹴っている。

諸侯による覇道政治の復興を目論んだあたり、酈生は儒者ではあっても、荀子学派の儒者だったと思われる。
一方、張良は儒者ではなく、兵術をもよくする道術家であり、時に敵軍を巧妙な策謀にかけて打ち負かしたりの、
冷徹な軍略の手堅さによってこそ劉邦にも重用されていた人物。しかし、旧諸侯の戦時中からの復権という
酈生の意見に戦略目的で反対を唱えた張良の考えほうが結果的には、諸侯の覇道政治を否定する孟子の
考えとも一致している。もはや覇権主義社会に半ば順応してしまっていた儒者だった荀子や酈生よりも、
濁世への順応をキッパリと拒絶した儒者である孟子のほうが、漢帝国の創建に最大級の貢献を果たした兵法家である
張良とも同じ意見を唱え、孟子と同じ「諸侯の強権の否定」という考えに即してこそ、張良も軍略を成功させている。

文と武は、妥協を排した徹底的な求道の先にこそ、同じ頂きに至っていて、緩慢な妥協の範囲だけで物事を
どうにかしようとしていた連中よりも、遥かに偉大な成果を挙げてもいる。「極端である」ということは、
えてして悪い結果を招きやすいものだが、儒家や仏門のような中正を重んずる学門において、徹底した研鑽を
し抜くことは、それも一種の極端と取れなくもないが、良い結果をも招いてくれるようで、そこに姑息な妥協などを
差し挟んだほうが、完成間近のジグソーパズルを壊し去ってしまうような、何にもならない徒労にしかならないようだ。

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287 2011/10/04(火) 12:49:05 ID:eTTKj.ahR6
結局人は、安逸ばかりを貪ろうとするところで余計な苦労をさせられ、
常日頃からの自主的な努力に励むことでこそ、無駄な労力をも省ける。

常日頃から、合理的な身体躁法を研鑽しぬいてきたヨガ行者や合気道家が、
高齢になってからも腰痛などの関節痛には悩まされず、きびきびとした動作でも
いられるのに対し、若い頃にふんぞり返ってのデスクワークばかりに執心して
来たような人間は、年取ってから一気に背骨が折れ曲がり、腰痛やリュウマチや
ヘルニアなどにも悩まされ、最寄りの商店に歩いて買い物に行くことすら覚束なくなる。

それと同じように、キリシタンが完全禁教されていた江戸時代の日本では、
キリスト教が奨励するような「精神の惰弱化」が許されず、常日頃からこまめな
勤労を心がけることが奨励されていた。それぞれの自主的な勤労を促進するために
七日間の曜日制も撤廃されて、勤労の効率化や合理性が精神面から追求されていた。だから
世界中が氷河期状態の不況に晒されている今の状態でも、日本経済は最大級の安定度を保ち、
低賃金だが作業精度の低い外国人労働者と、日本の労働者との一定の差別化も図れている。

その一方で、今の世界不況の元凶ともなっている欧米キリスト教圏のほうはといえば、
不況の元凶なだけに最悪の苦境に立たされて、なおかつ長年のキリスト信仰によって
深刻な精神の惰弱化を進行させてきたものだから、低賃金でこき使える外国人との間に、
労働作業のクオリティなどの面での差別化を図ることもできず、一方的な移民労働者による
侵食をも招いて、旧来の自国民の失業率や少子化を致命的な規模にまで増大化してしまっている。

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288 2011/10/04(火) 12:49:24 ID:eTTKj.ahR6
今の日本の、中下層の労働者も相当な苦境に立たされているため、決して今の日本ばかりを
褒め上げるわけにもいかないが、近い将来の崩壊がもはや決定的となっている欧米資本主義諸国
などと比べて、まだ日本のほうが一定の経済的な安定度を保てているのも、精神性の根本的な
惰弱化を促進する犯罪聖書信仰を、江戸時代の頃から徹底して廃絶して来た実績があるからで、
野田だ管だの今の日本の政治家ではなく、最底辺の下民からの勤勉さの底上げをコツコツと積み重ねて
いた徳川将軍家にこそ、欧米キリスト教圏もいま、決定的な敗北を被りつつあるのだといえる。

今の日本の政財界だって、徳川幕府が長年かけて積み上げてきた、「日本人の根本精神からの
勤勉さ」という埋蔵金を、ただひたすら食いつぶし続けることで富裕を保てているだけなのだ。

「之れを堯舜の道よりも軽くせんと欲する者は、大貉小貉なり。
之れを堯舜の道よりも重くせんと欲する者は、大桀小桀なり」
「租税のような民に対する負担を、理想の徳治を施した堯帝や舜帝よりも軽くしようとする者は、
大なり小なりといえども、為政にそれなりの費用が必要となることをわきまえぬ貉のような蛮族であるし、
逆に堯舜よりも重くしようとするものもまた、大なり小なりに関係なく、夏の桀王のような暴君だといえる。
(ただただ信者の負担を軽くして甘やかそうとするイエスの物言いは、蛮行の一種である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・一〇より)

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289 2011/10/05(水) 13:10:09 ID:JAaEe7Yvls
人はみないつかは死ぬ、それは当然であると同時に絶対不変の真理であるとして、
問題は死ぬまでの生がどうであるか。満足や納得のいく人生であったかどうかという点で、
やはり人それぞれに違いが生ずる。ちっとも納得のいかない不満だらけのままに人生を
終えることもあれば、ほとんど生きてるうちから涅槃状態というほどにも、納得ずくの
人生を送るものもいる。それは環境よりも、本人の心持ちに支配される面のほうが大きく、
悪意悪食貧賤の中に納得ずくの心持ちであることもあれば、巨万の富を得ながらも
不満たらたらで、ちっとも達観できるところがないような心持ちである場合もある。

だからその点で、本当に満足や納得の心持ちに満ちていた人生は素晴らしかったといえる一方、
どうしたって納得が得られずに、際限のない渇望の中で尽きた人生などは哀しかったといえる。
仏教の六道輪廻なども結局はその、存命中の納得の有無軽重を分かりやすく提示した方便で
あるわけで、地獄のどん底に失墜した亡者が、何千何万回という輪廻転生を重ねることで
初めて品性を向上させられるという説も、それほどにも地獄のどん底に落ち込んだ亡者の
不満が満たされることが困難であることを、分かりやすく解説したものであるといえる。

六道の輪廻転生も方便であるように、キリストの復活や救済も一種の方便であったとする。
六道論のほうは、あくまで輪廻を濁悪なものと見なし、早急な輪廻からの解脱を推奨する一方、
キリストは死後の復活や永遠の生を奨励する。生まれ変わったり生き返ったりするということが
前生の不満の現われなのだから、それはなくて済むのなら無いに越したことはないと考えるのが
まともな考え方であり、仏教はこの考え方にこそ根ざしている。一方で、死後の復活や永遠の生を
「そうあるべきもの」として断ずるキリストの物言いは、人生の不満を深刻化すらさせるべきもので
あるとし、ここがすでに間違っており、仮に方便であると見なしたところで、やはり宜しきものでない。

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290 2011/10/05(水) 13:11:29 ID:JAaEe7Yvls
「人はいつかは必ず死ぬ」という実際問題とはまた別に、「存命中に上等な人生を送るか、それとも
下劣な人生を送るか」ということを方便として述べているのだとしても、仏教の六道論が上等な人生
の送り方を指し示した方便であるのに対し、キリストの復活論は下劣な人生の送り方を指し示した
方便であるということになるため、方便としてのキリスト信仰ですら、やはりよくないものだ。
現実問題を語った学術書などではないとしたところで、やはり嗜むに値しないのが犯罪聖書だ。

「鼠を相ても皮あるに、人に而て儀無し。人に而て儀無くんば、死なずして何をか為さん。
鼠を相ても歯あるに、人に而て止無し。人に而て止無くんば、死なすして何をか俟たん。
鼠を相ても体あるに、人に而て礼無し。人に而て礼無くんば、胡ぞ遄やかに死せざらん。
(古代中国語の発音で『皮』と『儀』、『歯』と『止』、『体』と『礼』が語呂合わせになっている)」
「鼠にも毛皮があるのに、人でありながら威儀がない。人でありながら威儀がないのなら、死にもせずに何をするというのか。
鼠にも歯があるのに、人でありながら節度がない。人でありながら節度がないのなら、死にもせずに何を待つというのか。
鼠にも体躯があるのに、人でありながら礼節がない。人でありながら礼節がないのに、なぜ早く死なないのか。
(永遠の命などという節度のないものを欲するようなものは、何もせず何も待たずに、さっさと死ぬべきである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・鄘風・相鼠)

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291 2011/10/05(水) 14:15:47 ID:uDsz8blN7k:DoCoMo
>>269六段目訂正:
×悪意悪食貧賤の中に
○悪衣悪食貧賤の中に

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292 2011/10/06(木) 15:30:16 ID:WlUy4JCR/A
ある教義上の言葉を信仰することで、その言葉の定立をより強固なものとならしめる。
それは例えば、念仏宗における「南無阿弥陀仏」という唱名などについても言えることであり、
仏法について丸っきりド素人な庶民などであっても、ただ「南無阿弥陀仏」と
唱えることで、我が仏法の定立を強固なものとならしめたことになる。

そういう、教義の強定立などからは一旦かけ離れたところで、単なる恣意的な
吟味の対象として儒学や四書五経を鑑みれば、別に執拗な信仰や強定立の対象にしなくとも、
自然と「もっともだな」と納得させられるような内容ばかりであることがわかる。

自分から無理に定立しようとしなくても、自らの本性が自然と「是」と見なしてしまう道理。
その道理をありのままに体系化したのが儒学や四書五経であり、さらにその道理を深部まで突き詰めて
絶対真理にまで昇華した上で、信仰による強定立の対象とするにも相応しい荘厳を施したのが仏教であり、
道理を完全に転倒させた無理を執拗な信仰による強定立の対象としたのが聖書信仰だったといえる。

儒学や四書五経には信仰による強定立は全く必要なく、
かえってそれを信仰の対象とした「儒教」のほうが劣化したものとなりやすい。
(官僚腐敗を招いた明代中国の儒教や、古代中国の礼習を杓子定規に実践しようとした朝鮮儒教など)
仏教も、必ずしも信仰を第一とするものではなく、他力本願の信仰一辺倒よりは、
自力での自主的な求道のほうが上等であるとされる。一方で、犯罪聖書のほうはといえば、
こちらは信仰の対象でしかあり得ない。その内容が道理に反する無理であり、
道理のような、自然と納得してしまう意味合いを全く持ち合わせてはいないから、
信仰によって無理に強定立する以外に、それをたしなむ手だてが存在しない。

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293 2011/10/06(木) 15:30:26 ID:WlUy4JCR/A
信仰などとは全く無関係に、自然なままに物事を納得するという繊細な感覚は、
無理を無理に狂信しようとするような感情の焼け付きによってはかえって鈍り、
当たり前なことを当たり前なうちに納得することへの理解を、時に完全に喪失させる。
だから無理の狂信者こそは道理がなかなか理解できず、自分たちの都合だけで道理を否定し去りもする。

否定したところでこの世から道理が無くなるわけでもなく、逆らい続ければいつかは
自分たち自身が破滅に陥るのが道理なわけだが、その道理を無理の狂信によって否定し去って
しまっているような連中が、道理を直接的に理解し直すのもなかなか無理なことであり、
だったらまだ、道理を昇華させた絶対真理を信仰の対象として整備した仏教に帰依するほうが、
「急がば回れ」形式での道理理解への近道となるだろう。本当は道理を直接理解できれば、
それだけでも十分なわけだが、道理に反する無理が狂信の対象となったりもするからこそ、
それ自体が信仰の対象としにくい道理以上にも、信仰の対象としての絶対真理が意味を持つこともある。

絶対真理のほうは、結局は両極端を排した中正の道理を是ともするため、
全く中正を欠いた無理信仰の場合のような、排除の対象とする必要もない。
そのため、これからも「信仰」という行為自体が根本から完全否定されたりすることはない。

「恭儉は、豈に声音笑貌を以て為す可けんや」
「真の恭敬や倹約といったものは、口先だけの声色や上っ面だけの容貌などでは、どうにもできないものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一六より)

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294 2011/10/07(金) 12:25:07 ID:iFRITKkxz.
とにもかくにも、誰に認められる以上にも、自分が自分を認められるかどうかが最重要課題。
ほとんど他の誰よりも激烈な批判の目で自分を見て、なおのこと自分を認められるぐらいに
自分自身が相応の修練に努めていたならば、それでもう、この世界この宇宙、三千大千世界に
このわたくしを認めないでいられるものは、原理的にどこにもありはしない。

「自分が自分を認められるかどうか」という根本命題を打ち棄てて、自分以外の誰かに
認められることばかりに執着したとき、人は「演技」をする。自らが全身全霊をなげうって
最善を尽くすことよりも、上っ面が他人から見てよさげに見えることばかりに執心する。
そのぶんだけ全身全霊をなげうっての修練は疎かとなり、人に見せるつもりでもない部分の
堕落は極まって、餓鬼畜生の振る舞いですら「演技の疲れを癒す」などの名目で正当化される。

まず自分が自分を認められてから、その次に自分以外の誰かに認められようとすることと、
自分を認めることは完全に打ち棄てて、他人に認められることばかりに耽溺する場合とでは
根本的な位相が異なり、同じ「認められる」という方向性を持つにも関わらす、全く真逆の
結果を招きすらする。前者は人としての真の大成を実現するのに対し、後者は上っ面だけの
虚飾の肥大化を促進すると共に、全身全霊にわたる本物の自己の、餓鬼畜生化をも助長する。

まず自分が自分を認めることを優先したものは、人から認められるということは相対的に劣後している。
だから、いま仮に誰にも認められないとしたところで、それでもどうということはないし、仮に認めて
くれる相手がいたとしても、その相手が権威のある査定者などでなかったところで、全く構わない。

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295 2011/10/07(金) 12:26:18 ID:iFRITKkxz.
もちろん、より冷徹な分析と、より普遍的な基準に即して認めてくれるほうが栄誉には違いないが、
その、最も厳正な査定に匹敵する批評眼で自らを観察した上で、自己研鑽によってやっと自分が自分を
認められる段階にまで至れたような人間にとっては、もはや自分以外の査定者が厳正であるかどうか
ということは、「ついで」である。むしろそのとき、外部的な査定者の側こそは、査定の厳正さを査定
される側にすら回ってしまっていて、自分たちの査定水準が認められて、査定させていただくことを
許可されることを、栄誉とすらすべき状況にある。この世界、この宇宙に絶対的な監視者や査定者
などは存在せず、誰しもがその視力をできる限り高めていくことで、なるべく自らの査定水準がより
厳正であるように努めるしかない立場にある。それは、自分も他人も全く変わりはしないことなので、
自分が自分をより厳正な基準に即して査定することにも、最大級の厳正さが備わりもするのだ。

「天爵なる者あり、人爵なる者あり。仁義忠信、善を楽しみて倦まざるは、此れ天爵なり。公卿大夫、此れ人爵なり。
古えの人は其の天爵を修めて、而かも人爵之れに従えり。今の人は其の天爵を修めて、以て人爵を要む。
既に人爵を得て而かも其の天爵を棄つるは、則ち惑えるの甚しき者なり。終には亦た必ず亡いて已まん」
「この世には天から認められて授かる天爵と、人から認められて授かる人爵とがある。仁義忠信のような
善徳を楽しんで、決して疎かにすることがなければ、それがもはや天爵である(自力作善すなわち天爵)。
公卿や高官のような社会上の立場が人爵である。昔の人々はただひたすら天爵を追い求めて、それにたまに
人爵が付いてくるぐらいのものだった。今の人間はたとえ天爵を修めるにしても、ただ人爵を得るためだけに
限っている。しかも人爵を得た途端に天爵のほうは棄て去ってしまうような有様で、これは本末転倒の惑乱も
甚だしいことだ。その程度の心がけでは、せっかく得た人爵すらをも、いつかは必ず失ってしまうことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・一六より)

返信する

296 2011/10/08(土) 13:43:35 ID:q9bm4PEO.s
「陳成子、簡公を弑す。孔子沐浴して朝し、哀公に告げて曰く、陳恒、其の君を弑す。請う、之れを討たん。
公曰く、夫の三子に告げよ。孔子曰く、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げずんばならず。君の曰うに、
夫の三子に告げよと。之れを三子に告ぐ。可とせず。孔子曰く、吾れ大夫の後に従えるを以て、敢えて告げねばならず」
「斉国の大夫である陳恒が、その主君である簡公を殺した。(乱世といえども主君殺しは大罪なので、)孔子は
斎戒沐浴などの万全の準備を尽くした上で魯の朝廷に出仕し、自らの主君である哀公に告げて言った。『陳恒が
主君殺しの大罪を犯しました。ここにこの討伐を請願致します』 哀公は言った。『私ではなく、三家老に告げなさい』
請願を聞き入れられなかった孔子は『私も魯の高官の末席に連なる身分として、請願しないわけにはいかなかったのだ。
ただ、主君が三家老に告げておけと仰せられたので、そうしよう』と言い、三家老である孟孫・叔孫・季孫に同様の
誓願を告げた。しかし、そこでも請願は聞き入れられなかった。孔子はまた言った。『私も魯の高官の末席に連なる
立場である以上は、(主君殺しという大罪を犯した陳恒の討伐請願を)告げないでいるわけにはいかなかったのだ』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・憲問第十四・二二)

官僚腐敗も相当に深刻なものと化していた春秋時代末期に、孔子は半ば青い鳥状態での、諸国での遊説を兼ねた
仕官を試みていた。ちょうどこの時には、故郷の魯国の下級大夫を務めていたようで、「三子」と呼ばれていた
孟孫・叔孫・季孫らの家老などと比べれば遥かに身分の低い、外野的な立場に置かれていたことがうかがえる。

返信する

297 2011/10/08(土) 13:43:46 ID:q9bm4PEO.s
ただ、魯の大夫として少なからず禄を食む立場であった以上は、主君殺しという、権力道徳を決定的に危ぶむ
過ちを犯した斉の陳恒の討伐を請願しないではいられなかった。同じような過ちが魯国でも犯される可能性があるから、
その魯の主君である哀公に陳恒の討伐を進めておくことにも、一定の義務性が生じていた。斉は魯よりも遥かに
大国であり、内乱状態とはいえ、太公望兵法をも受け継いだ強力な兵員をも擁していたわけだから、そこに討伐隊を
送るなど哀公としては恐れ極まりないことだったに違いない。孔子もそれを半ば察していたから「私も請願を告げ
ないでいるわけにはいかない立場だから」というような、半ば請願が聞き入れられないことを始めから見越して
いたかのような嘆息の言葉を、二度にもわたって述べている。

この、告げたところで叶いもしなければ聞き入れられもしないが、自らの落とし前として告げておかねばならない
という感覚は、僭越ながら、今の自分が抱いている感覚とも全く酷似している。今どき仁義道徳を実践しようと
するものもいなければ、その価値を推し量ろうとするものすらほとんどいない。道徳は法律とは違って、誰しもに
遵守を強制すべきものではなく、強制すればかえってそれが「法律的な道徳の享受」ということになってしまい、
道徳の享受としての道を誤ることにすらなってしまう。だから誰かに道徳の価値を見直すことを強制したり、道徳の
実践を強制したりすることもない。ただ、道徳は認めないよりも認めたほうが、実践しないよりも実践したほうが
後々にいい結果を招くものだから、最低限「道徳の奨励」という役目だけを果たしておこうという心持ちでいる。

主君殺しの討伐の請願を、どうせ聞き入れられはしないだろうが告げておかないではいられないという、かの孔子の
心持ちが痛いほどよく分かり、告げたことが叶えられることなんかより、告げておくことで自らに最低限の落とし前が
付けられることのほうが、人としての根本的な納得を磐石ならしめるものであることをも、さらにさらに確信するものだ。

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298 2011/10/09(日) 15:35:45 ID:carDQdJ286
書いてある通りの実践も不能なら、行間の寓意に従っての切実な実践も
不健全で有害無益この上ないものとなる犯罪聖書の記述。

それでも事実、その雑文がこの世界に存在してしまい、長らくの間における服毒の対象ともなって来た。
未だ中毒状態にある狂信者から急激に犯罪聖書を取り上げて、そのままほったらかしにしたりすれば、
麻薬が切れた中毒患者のような最悪の苦痛に見舞われることにもなりかねない。
だから、巨大な脳腫瘍を取り除いた後の空隙に生理食塩水を注入するようにして、
犯罪聖書を没収した元犯罪信者に、四書五経や仏書をあてがうなどの緩和ケアを施したほうがよい。

摘出した脳腫瘍に当たる所の犯罪聖書は、当然その大部分が裁断処分などの対象になる。
ただ、大学病院の標本室に特大の脳腫瘍のホルマリン漬けが保管されるようにして、
ごく一部の犯罪聖書が標本扱いとして保管されることにはなる。

あくまで「よくないもの」、文面的にも寓意的にも実践の対象などにしてはならないものとしての扱いで保管される。
それは、中国諸子百家の内でも特に劣悪な思想を記録している「韓非子」や「墨子」がすでに通った道でもあり、
「韓非子」は生まれ故郷の中国では完全に打ち捨てられたために、日本の江戸時代の
貧乏儒者である太田方全斎が校注書「韓非子翼毳」を書いているし、
「墨子」もほんのこの前まで完全に打ち捨てられていたために、原本すら所在不明となっていた始末。
その程度の扱いとしての犯罪聖書はこれからも遺るし、また、
完全な犯罪マニュアルムックとして、開き直った体裁でゲリラ的に世に出回る可能性もある。

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299 2011/10/09(日) 15:37:08 ID:carDQdJ286
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300 2011/10/09(日) 15:52:38 ID:g85dAMw/8A:DoCoMo
「表現の自由」なんてものを保護したいからなんてのではなく、
儒家も儒家で「韓非子」の愛読者だった秦始皇帝に焚書坑儒の憂き目にも遭ったことがあるので、
「目には目を、歯には歯を(ハムラビ法典)」ではなく、「直きを以て怨みに報う(論語)」を実践する目的でも、
犯罪聖書自体を完全な根絶の対象にまではしない。ただ、犯罪聖書の記述を「是」と見なして、
忠実な信仰や実践の材料としていく「犯罪聖書信仰」だけが根絶の対象となるわけで、ただ、
正体が犯罪マニュアルムックでしかない雑文集の扱いを、相応に適正化するだけなのだといえる。

「蔡公、二子を召して、将に之れを納れんとし、之れと盟いて、之れを遣れり。將に師して之れに従わんとす」
「蔡公は子干と子皙の二人を招聘し、この二人を一旦楚に帰国させるため、二人と盟約を結んでから、実際に
この二人を楚に遣わした。これはまさに、蔡公が二人を師として仰ぎ、これに服従しようとした姿だといえる。
(『遣い』は目下の者が目上の者に服従を誓う体裁を意味する。日本も一時は中華帝国に服従する倭王の
体裁を取っていたため中国に遣使を送っていたが、聖徳太子が遣隋使で隋の煬帝に対する対等外交を試み、
菅原道真が遣唐使を廃止したことで、中華帝国の柵封体制からの完全な離脱を果たしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公十三年より)

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301 2011/10/10(月) 14:10:50 ID:VxQTrGFMFc
精神は、それ自体がそんなに独り歩き状態の上ずった言行などを司ったりするものじゃない。

頭部の中脳付近に位置する上丹田、胸部の心臓付近に位置する中丹田、腹部のへそ下三寸あたりに位置する下丹田、
この三つが個々の人間の精神力の主要な中枢部位であり、これらの丹田を中枢と見なして為される言行が
自然と精神性に根ざしたものともなる。それは結局、折り目正しい礼節にかなった言行となり、
無礼に相当するような粗雑な言行を自然と立ち消えにしてしまうものともなる。

上中下、三つの丹田を中枢と見なした言行が精神的となり、自然と礼節にもかなうようになるのに対し、
この三つの丹田による制御を振り切って、左右の大脳の思考ばかりが上ずった結果生ずるような言行が、
精神性を欠いた不埒で無礼まみれな言行となる。それは個々の人間の精神に司られていないのはもちろんのこと、
何らの絶対的な制御者を持たない、微風が吹いただけでも舞い上がって飛んでいく羽毛のように不安定なもの。

風が吹けば飛んでいく羽毛ほどにも不安定な大脳一辺倒の思考が、「妾腹の私生児」という不遇の暴風に
晒された結果、イエスは未曾有の不埒まみれな言行に走った。それは何ら「超越神の介在」などを想定する
必要のない機械的な自己完結現象であり、あまりにも動機が明らか尽くしであればこそ、本物の神仏の場合の
ような神秘性を付与する必要も全くない。そう言い切れるのは、イエスと同じ「妾腹の私生児」という不遇に
晒されながらも、自学自習によって大脳思考の暴れ回りを抑制し、丹田を中枢とした精神的な言行を守り通す
能力を自力で手に入れた孔子の事績などもあるからで、ただ「孔子の失敗例」と見なすだけで、イエスの
数々の奇怪な言行その全てが、何らの神秘性も想定に入れることなく、説明しきれるものでしかないからだ。

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302 2011/10/10(月) 14:15:00 ID:PWE4dPyUZ.:DoCoMo
「夫れ人の子為る者は(略)恒の言を老と稱せず」
「人の子としての立場を大事にするものは、自らの言行が長者の老獪さに根ざしているようには決して自称しない。
(自らの言行を『父なる神』などに付託しようとするイエスの物言い自体が、本当に
人の子である者としての礼節上のわきまえを決定的に欠いたものであり、本物の父親が
誰であるとも知れない、妾腹の私生児の自暴自棄の稚拙な虚飾でしかないことが明らか)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼上第一より)

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303 2011/10/11(火) 17:38:46 ID:vcnImTRAPk
食欲を抑制できる心持ちの有無が、人としての品性の上下をも決定的に断絶してしまう。

老子が「霞を食って生きる」といったとき、別に霞が美味なものとも、
栄養豊富なものとも主張されたのでもない。むしろ味も栄養も皆無な
霞を食すという皮肉によって、食欲全般を否定する志向が是とされた。

人は食べ物を必要とする生き物であり、実際に食や食欲を全否定してしまうのでは、
自殺にもつながる。それすら否定し去りはしない天道や聖道門の宗教もありはするにしろ、
世俗の常人までもが食欲全般を否定し尽くしたりするのは、現実的でない。

ただ、食欲を必ずしも絶対とはしない心持ち、道徳や礼節や神仏への畏敬などのためには、
食欲を劣後することも辞さないぐらいの心持ちでいられるかどうかが、
世俗の常人としての現実的な品性の上下を決定的に左右する。

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304 2011/10/11(火) 17:40:35 ID:vcnImTRAPk
俗人としても、時には絶食すら辞さないぐらいの心持ちでいられたほうが上等であり、
常に何かを食べ続けていなければいられないような心持ちでいるほうが下等だ。

実は、前者の食欲を劣後できる心持ちのほうが健康上も安全であり、
後者の食欲を劣後できない心持ちのほうが、健康を損なわせる危険を孕んでもいる。
だから食欲を劣後できるほうが上等であり、劣後できないほうが下等でもある。

「上等」とか「下等」とかいった言葉の正しい使い方もかようなものであり、
他者を蹴り落としてでも勝者になるような貪欲さを上等とし、その蹴り落とし合いの敗者を
下等としたりするほうが、「上等」とか「下等」とかいった言葉の使い方としても間違っている。

間違った言葉の使い方に則して「上等」とか「下等」とかいった言葉を
毛嫌いするのも、誤謬だけで自己完結した脳内妄想同士での闘争でしかないのだ。

「其れ笠を伊れ糾り、其れ鎛と趙もち、以て荼蓼を薅う。荼蓼は朽ちて、黍稷は茂る」
「菅笠を被り、鋤鍬を持って、夏のうちに生い茂った田の雑草を刈り取る。
刈り取った雑草が朽ちて枯れ果てた頃には、黍や稲といった穀物も実っている。
(まるで雑草が犯罪聖書の邪義で、穀物が四書五経の仁義道徳を指しているようだ。
邪義を排して仁徳を広めていくことにも、相当な尽力が必要となることをも示唆している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・良耜より)

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305 2011/10/12(水) 12:00:05 ID:VVCsosDWwQ
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306 2011/10/12(水) 14:40:41 ID:VVCsosDWwQ
「信じて知る」というのは、おおよそ「知」が偽物で、「信」が狂信の場合。
「知ってから信じる」というのは、「知」が本物で、「信」が正信の場合に限る。

悪人正機のからくりを唯識思想などによって知ってしまっても、やはり念仏信仰は
その正体から優良なものであると知るので、知ってもなお信じることができる。

十字架信仰のからくりなども、朱子学やウパニシャッド哲学などに即して完全に
暴くことができるが、暴いた途端にその中身が空っぽな不実の塊だと知ってしまう。
知った途端に、もう二度と十字架なんか信用する気にもなれず、少しでも信奉
しようなどと考えたことがあったなら、それすらをもひどく恥じ入るようになる。

本物の知との両立が可能なのが念仏信仰である一方で、真知との両立が絶対に
不可能なのが十字架信仰であり、偽物の知との並存しかできないからこそ、
信が知による抑制を振り切った狂信とも化してしまう場合が多い。

本堂の阿弥陀像を枕に昼寝していた沢庵禅師に、「俺の商売道具に何をする!」と
叱り飛ばして、沢庵と共にに笑い飛ばしたという蓮如上人のシラフさ加減も、たとえ
そのカラクリを知らされたところで全く揺らぐことがない浄土教学の優良さがあればこそ。
聖書信者なら、十字架信仰のからくりを目前に付き付けられたって見て見ぬフリをし、
適当に話しをはぐらかしてその場を逃げおおせるぐらいのことしかできない。

十字架を信奉するような欺瞞を続けている限りは、真知をシラフで受容することもできない。
だから、どんなに正確な知識を目前に突きつけてやったところで、馬耳東風でしかいられない。
真知の価値を信者の脳内では無効化させてしまう十字架信仰などが取り払われてから初めて、
正しい知識を理解したり、人とその知識を共有したりすることもできるようになる。

「未だ知ならず、焉んぞ仁なることを得ん」
「未だ知者ではないのに、どうして仁者であるなどということがあろうか。
(人は、一人前にものを知ることで自然と仁者になる。聖書信者は
狂信によって知の成長を妨げているから、自然と仁者にもなれない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一九より)

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307 2011/10/16(日) 13:23:23 ID:1kps2496hc
今という時代、今この世界、この世の中という「環境」が地獄であることは、完全に承知している。
犯罪聖書の信仰や実践に基づいて全人類が破滅に陥れられ、誰一人として真の救いを受けられなくなっている。

その事実からまったく目を背けて、地獄を天国だなどと転倒夢想して、偽りの救いの虚しい悦に入ったり
することも決してせず、今という時代のどうしようもなさ加減を、地獄そのものであると正しく認識している。

だからといって絶望したりもせず、何もかもが救いのない地獄と化してしまっているこの穢土を厭離して、
まったく今の世が刷新された後の浄土を欣求している。しかもそこに至るための具体的な考究も尽くしている。

犯罪聖書の信仰や実践の根絶、洋学からの最高権威の剥奪と、儒学や正統な仏学などに対する最高権威の付与、
そして儒学や仏学といった正学の実践による、泰平と繁栄に満ち溢れた権力道徳社会の復興。

全くの夢物語などではなく、極めて具体的で、現実に実現が可能な範囲での浄土社会の企図であり、
だからこそ夢物語に過ぎない場合のような、現実を直視した場合における絶望や幻滅などもあり得ない。

現実に根ざした、実現可能な希望であるから、地獄同然の現実を
眼前にしてですら、全くへこたれることがない。どうだ、まいったか。

「険前に在るなるも、剛健にして陥らざれば、其の義は困窮せず」
「たとえ険難を眼前にしようとも、剛健さを貫いて絶望に陥るようなことがなければ、その義が困窮したりすることもない。
(艱難を前にしても壮健さを貫けることが、ありのままに義である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・需・彖伝より)

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308 2011/10/16(日) 13:47:32 ID:1kps2496hc
険前でも剛健でいられるから、正義なのではない。
正義だから、険前でも剛健なままでいられるのだ。

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309 2011/10/17(月) 13:56:58 ID:faYKnBXSyI
罪を罪であると認識し、そこに罪悪感を抱けるだけの
一人前の倫理意識を持てないことが、人間にとっての畜生化となる。

知能がIQ40程度のチンパンジーでも具えている鏡映認知能力を喪失して、
自分とは全く別個の存在である十字架上の半裸ヒゲのおっさんを視認しただけで
自分自身の罪までもが浄化されたような気になる。そこでその人間は明らかに、
チンパンジー以下の知能指数しか持たない、畜生同然の品性に落ちぶれたことになる。

だからキリスト信仰によって罪が浄化されたような気分になることは、それ自体は
「畜生界への堕落」ということになる。ただ、畜生界に落ちぶれたから即座に累犯に
至るとも限らず、畜生界への堕落こそをキリスト信仰の正統とするカトリックや正教と、
地獄界や餓鬼界への堕落をもキリスト信仰の一式であると捉えるプロテスタントや
ユダヤの場合では、いささか罪を犯す度合いが異なり、人類史上最悪級の重権力犯罪に
直接及んでいるのはプロテスタントやユダヤのほうである一方、やはり従犯ではあるにしろ、
カトリックや正教のほうは、最悪級の権力犯罪からは一歩身を引いた所にいるといえる。

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310 2011/10/17(月) 13:57:12 ID:faYKnBXSyI
直接罪を犯すことに特化しているのは地獄界だが、その地獄界ですら、根本的な理念と
見なしているのは畜生界の邪義。キリスト信者を自認しないユダヤ教徒も、キリストが
救世主の雛形であることは全く認めており、自分たちの救世主が新約聖書の記録のような
体裁を取って降臨すると固く信じている。だからやはり、犯罪聖書への信仰自体を禁止する
ことで、地獄界や餓鬼界の蠢動を絶やす必要があり、犯罪聖書信仰を禁止すれば自動的に
畜生界への居付きも絶やされることになる。宗門宗派の違いなどに関係なく聖書信仰全般が
絶やされる必要があるため、ベネディクトだってもう、廃業の用意をしておく必要がある。

「君子は成徳を以て行いを為し、日びに之れを行いに見わす可きなり。(略)
隠れて未だ見われず、行いて未だ成らざれば、是れを以て君子は用いざるなり」
「君子は完成された仁徳による行いを心がけ、常日ごろからその行いを隠し立てしない
ようにも心がける。未だ隠れて公けに現されることがなく、行いが成就しないというのなら、
それを理由として君子は自らをまだ実用しないでおく。(君子の成徳に満たされた盛大な
行いは隠されず現されることを目指し、小人の罪悪まみれな行いは隠されることを目指す)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・文言伝より)

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311 2011/10/18(火) 14:06:51 ID:NYqSoOOQbo
自分が罪を免れることばかり考えているような連中には、犯罪被害者に対する配慮がまったく欠けている。

被害者の立場としては、加害者自身が罪責を負って相応の刑罰を受けるのでなければ、絶対に許す気になどなれない。
冤罪で別の人間が罰を受けたからといって許せるわけがなく、むしろその欺瞞によってさらなる怒りを募らせるばかり。
さらには冤罪で刑死した人間が蘇生したなどとすれば、罪が償われる体裁すら反故にされたことになり、
その許し難さも金剛不壊なものとなる。

極刑級の重罪を犯したのならば、その責任を取るためには完全に死ななければならない。
蘇生することもなく、完全に死亡する。もちろん罪を犯した本人自身が。
それでこそ、「罪が罰によって償われる」という体裁が成就したことになる。

「冤罪の刑死者が復活して誰しもの罪が許される」という物語構造は、「罪が罰によって償われる」という体裁を
全く反故にしており、それによって罪が償われると考えることは完全な論理破綻に当たる。刑死した人間が三日後に
蘇ったなどという話がフィクションかノンフィクションかなどによらず、その物語構造で罪が償われるなどということが、
「罪」とか「罰」とかいった言葉の定義に即して絶対にありえないようになっている。イエスが刑死後に蘇ったことを
信じたからといって、自分たちの罪がそれによって償われるなどと信じるのも全く筋が通っておらず、何一つとして
そこに論理的な筋が通っていないが故に、現実上の背景などとは無関係な、自己完結した物語構造として間違っている。

だから何よりも、自己完結した過ちの塊りとしての犯罪聖書そのものの存在価値を否定することに意義があり、史実や
科学的根拠などとも無関係に、犯罪聖書の記録構造の自己完結した劣悪さを認定することが、道理に適っているといえる。
歴史や科学などで対抗する以前に、存在性の根本からの犯罪聖書の無価値さをわきまえることが、一番重要だ。

「自らの作せる孽いに活くる可からず」
「自らの犯した過ちからなる禍いに、活路を見出そうなどとしてはいけない。
(冤罪刑死者イエスの復活などとは無関係に、犯罪加害者が罪を免れようなどとすることが道義的に許されない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・八より)

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312 2011/10/19(水) 14:19:33 ID:uqNpCH2zQA
キリスト教徒は、何か根拠があるからキリストを信じているのではなく、
キリストを信じているから、キリストを信じている。信仰のための信仰である以上、
信仰の対象が真実であるか誤謬であるかなどはどうでもいいことであり、仮に
真実であるとしたところで、その根拠が磐石であるかどうかなども、どうでもいいこと。

だから、聖書中の登場人物が「キリストは復活した」と証言したからなどという
いい加減な理由だけでも復活を信じるし、もはや証言にすら拠らず、ただ自分が
復活を信じていることだけを根拠として、復活はあったなどとも信じ込む。

そういう、根拠がどうかなどということよりも、自分がそれを信じているかどうか
ということのほうが優先事項と化してしまっている痴人に対して、科学的根拠や
歴史的根拠などを示しつつ「キリストの復活は実在しない」などと反証したところで、
相手のほうが「信じるから信じる」の思い上がりに逃げ込んでしまえば、全くの徒労となる。

「1+1は3や4である」という計算が誤りであることを指摘することだって、
「1+1が3や4であることを信じるから信じる」の前では、全くの無意味と化す。

そういった、「信じるから信じる」の完全誤謬信仰に陥っている痴人が、
「信じるから信じる」すらをも遂には改めなければならなくなることがあるとすれば、
それは、自分たちが完全誤謬信仰のせいで、絶体絶命の命の危機に晒された時だといえる。

完全誤謬信仰である聖書信仰の蔓延が全世界を破滅に陥れ、聖書信仰者自身を含む
全人類を本物の滅亡へと突き進ませている。それが事実である根拠も色々と提示すること
はできるが、何しろ相手は「信じるから信じる」の徒。たとえ「1+1=2」ほどにも自明な
根拠を眼前に提示したところで、「1+1は3や4である」を信じるから信じるようにして、
聖書信仰があらゆる害悪の元凶となっていることをも、決して認めようなどとはしない。

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313 2011/10/19(水) 14:19:46 ID:uqNpCH2zQA
だからこの際、根拠の正確さなどはどうでもいい、痴人としての相手の事情に応じて、正確な根拠を
提示することなどよりも、「おまえらが聖書信仰を辞めないのなら、それが唯一無二の元凶となって、
おまえらを含む全人類が滅亡するぞ」という事実関係の警告のみを最優先事項とする。1+1=2の正しさ
や1+1=3の誤りを論ずることなどは一旦おいておいて、「信じるから信じる」の突き進みによってこそ
破滅へとひた走り続けている、カルト信者の「生存本能」を最大級に引き出すことに特化する。

それでも「信じるから信じる」を突き進んだ結果、カルト信者が全人類を滅亡へと追いやる可能性
もあるし、いい加減命の危険を悟って、命惜しさに「信じるから信じる」を放棄する可能性もある。

このうちの後者の場合にしか、「信じるから信じる」の狂信に陥ってしまっている
カルト信者を根本的に改悛させる手立てはあり得ず、正確な根拠を提示することに
よって「信じるから信じる」を放棄させたりすることのほうが、無理がある。

科学や歴史を引き合いにすることで、「信じるから信じる」を放棄させることのほうが
所詮は徒労だった。カルト信者たち自身を自業自得での絶対絶命の危機に追い込むことで、
「信じるから信じる」を完全に放棄させることこそは、完全誤謬信仰の病理を帯びた狂信者に
対する棄教措置として、始めから唯一無二にして、確実かつ純正な手立てだったのだといえる。

完全誤謬信仰自体も徒労なら、それを正確な根拠によって淘汰しようなどとする試みもまた、徒労だったのだ。

「天の方に齋れるとき、夸田比を為すこと無かれ。威儀卒く迷ちて、善人も載ち尸となす」
「天神の怒りを表せるときに、その怒りの嵩にかかって誇り高ぶるようなことは決してするな。
それにより天下を司る威儀はことごとく乱れて、善人すら身を危ぶんで公けには口をつぐむようになる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・板より)

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314 2011/10/19(水) 15:33:41 ID:u50MivgAQU:DoCoMo
悪と偽善で塗り固められた今この世界に、
真善は「微妙不可思議な仏」か、さもなくば「痛快至極な鬼」となって現れる。

断じて「聖なる神」などとして現れたりはしない点もまた、
元々の発想からして貧困だった聖書信者にとっての、大きな誤算だったといえる。

返信する

315 2011/10/20(木) 12:43:19 ID:9MFnOfSz2w
水が人間にとって必要不可欠なものであるのは当然のこと。人間の体重の
60%以上も水分であり、ほんの数日水分を摂取しないだけでも、人間は渇死する。

じゃあ、水がいくらでもありゃあそれでいいのかっていえば、決してそんな
こともないのが、今年の国内外での多くの水害の悲惨さからも分かるとおり。

今年の日本の運勢である「兌為沢」も、水を湛えた象を持ち合わせているが、
だからといって総運が吉祥というわけでもなく、水運が過剰であるが故に
「過ぎたるは及ばざるが如し」で、景気の悪化などを招くことまでもが予言されていた。

砂漠の慢性的な水不足からなるひどい渇きが一挙に満たされようとした結果、
今度は逆に多くの害をもたらすような大水を招く。どちらも害悪であることには変わりなく、
水の扱いが適正であるためにも、慢性的な渇きから根絶していく必要があるといえる。

「強有力の者、将に以て礼を行わんとするや、酒清み、人渇けども敢えて飲まず、
肉乾き、人飢うれども敢えて食せず、日莫れ人倦めども、斎荘正斎にしても敢えて解惰せず」
「強力勇敢の者が大礼を行おうとするときには、たとえ目前に清酒があって、自分が渇して
いようとも敢えて飲まずにおき、乾肉があって、自分が飢えていようとも敢えて食べずにおき、
日が暮れて人々が休みに入ってからも、荘厳正直でいて、あえて怠惰せずにいようとする。
(大礼に際しては、だらしない飢渇なども押し殺す。儀礼は邪神信仰よりも遥かに謹厳である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・聘義第四十八より)

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316 2011/10/21(金) 14:09:05 ID:KO9b54YfyA
件の大津波でも、地下にしっかりとコンクリートの基礎を打ち込んで、その上に
建てられた鉄筋コンクリート造の建物などは波に押し流されずにその場に止まり、
木造の一軒家などが家屋丸ごと押し流されて火災を起こしたりすることが多かった。

ただ、建物自体は押し流されずとも、あまりにも巨大な津波に飲み込まれたために
建物の中にまで大水が入り込んで、そこに避難をしておきながら溺死するような例も多かった。
被災者の命運を決定的に分けたのは高台への避難の有無であり、建物の基礎などではなかった。

確かに、高額な費用をかけて磐石な基礎の上に建てられた鉄筋造の建物などのほうが、
被災後にも修繕が可能な程度に原型を止めたというのもあるが、避難者を大水で全員
溺死させてしまいながら原型だけを止めている小学校などは、もはや廃校も免れ得ない。

建物だの気候だのの環境以前に、個々の人間の心構えがどうであるかのほうが、
その命運をも決定的に左右する。最新鋭の軍備で重武装した米軍の兵士も、命を捨てて
かかって来るイスラムのテロリストからの攻撃によって、数多の死傷被害を受け続けている。

人間自身か、その人間が置かれている環境かでいえば、人間が本であり環境が末、
さらには、人の心と身体でいえば、心が本で身体が末。末節に当たる環境や身体の
充実ばかりにこだわって、根本である人間自身やその心を蔑ろにしたのならば、どんなに
末節の充実度が高かったところで、根本の部分の充実に長けている者に敵うことはない。

「命を知る者は、巖牆の下に立たず」
「天命を知る者は、硬くてもろい岩の上や、崩れかかった
石塀の上のような、危なっかしい場所には立たとうとしない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句上・二より)

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317 2011/10/22(土) 13:24:50 ID:GEJViFlL92
とうぜん誰しもに本物の親があり、その親がいればこそ自分が本物の子や孫でもある。
そこに比ゆ表現でない親子関係があり、親子関係を大事にするというのなら、
当然その血族関係を尊重することを最優先とすべきである。

たとえ妾腹の私生児のような、親を敬いにくい境遇に置かれたとしても、
尊重すらくは実の親であり、脳内で捏造した偽りの親などでは決してない。
確かに、私生児として産まれながら、父親の身元を探し出してその墓にも参った孔子の
努力加減たるや半端なものではなく、それにすらあやかるというのはなかなか難しいことだろう。
しかし、たとえば自分が妾腹の私生児として産まれた場合に、父親が誰とも知れないことから
脳内で全くの偽りの父親を捏造したりするよりは、まだ親を語ろうとしたりしないほうがいい。
特段、親孝行を推奨しているわけでもない道家の教義などに即して、忠孝などを根こそぎ無視してればいい。
そしたら少なくとも、脳内で捏造した偽りの親への狂信によって、実の親子関係を損なうようなことにまでは至らないから。

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318 2011/10/22(土) 13:25:05 ID:GEJViFlL92
実の親子関係に嫌悪感すら抱いてしまう感覚は、ただ「親不孝である」というだけで蓄えられるものではなく、
脳内に偽りの親を規定したりするカルト教義による、自意識過剰の思い上がりの極大化を介したところにこそ生ずる。
血族関係に嫌悪感すら抱いてしまっているような精神病質者が、急に親孝行を心がけたりするのも一段抜かしや
二段飛ばしなことで、まず自分たちの自意識が、偽りの親を脳内に捏造するカルト教義によって無闇に肥大化して
しまっていることを具さに自覚して、その自意識過剰をカルト信仰の意識的な破棄などによって十分に抑制した上で、
その先にこそ親孝行などをも志すべきなのであり、忠孝と自意識過剰を両立させるような無理をすべきではない。
自分たちがどうして忠孝などに励む気になれないのかをまずよく突き詰めて、その矯正に努めていかなければならない。

「人未だ自ら致す者あらざるなり、必ずや、親の喪か」
「人が本当に全力を尽くすということはなかなかないものだ。ただ、あるとすればそれは親の喪に服する時だろうか。
(孝行は人として全力を尽くすための原動力ともなる。孝心を欠いた人間は何事にも全力を尽くすことができない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・一七)

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319 2011/10/23(日) 14:20:26 ID:x1GGgnoK1k
「充実して光輝あるを之れ大と謂う(既出)」
「気分が充実して光輝に満ち溢れていることを大という」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・尽心章句下・二五より)

善徳の堅持からなる浩然の気に満たされて、気分が充実していることを
孟子は「光輝に満ち溢れている」と表現している。しからば、一概な罪悪の貪りに
よって気分を損ね通しである累犯障害者などは、光輝を失って暗闇に落ち込んでいるといえる。
そしてその上で、罪悪感を喪失させるカルト信仰によって、暗闇を光輝と転倒夢想する。
孟子も強く非難している、「民を網する(罪に陥れてそれをどうかする)」所業の一つであるといえる。

浩然の気によって、自ずからなる光輝に満たされている者にこそ、そのようなマッチポンプ系の
明暗転倒夢想が全くの不必要であることを断言することができる。善徳の堅持が放つ光輝こそは、
罪悪の暗闇への陥りを転倒夢想したところにある光輝よりも、さらに明るい。暗闇を光輝と
倒錯することも大概ではあるが、その大概なる倒錯によって捏造された偽りの光輝を光輝と
見なしたとしても、その光輝を遥かに上回る明るさを、善徳が放つ真の光輝が湛えているのである。

「維あ予が小子、聡り敬めざらんや。
日びに就し月づきに将みて、学びて緝熙にして光明有らん。
仏いに時れ仔肩し、我れに顕らかなる徳行を示せ」
「ああ、青年たちよ、聡明と畏敬とを追い求めていくがよい。
日進月歩の着実な勉学によって、燦然たる光明を得られるように。
大いなる誉れをかち得て、どこに出しても恥ずかしくない徳行を示すがいい。
(自力作善による光明の獲得を外的に奨励していて、外的な態度としても優良である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・閔予小子之什・敬之より)

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320 2011/10/24(月) 13:54:53 ID:FCMzWmTjV2
まだキリスト教圏による世界侵略が飽和レベルにまで至っていなかったころ、
ブラックアフリカを植民地としての極端な収奪対象などとしたところで、
まだそれが人口爆発による人類の滅亡などに直結していなかったころには、
キリスト信仰からなる自己欺瞞によって、権力犯罪者が罪を免れたような気でもいられていた。

キリスト信仰それ自体が信者の自殺行為を誘発するものなので、アウグスチヌスがマニ教を
通じて上座部仏教から自殺禁止の教義を剽窃して、キリスト教徒にあてがうなどしたからこそ
劣悪なキリスト信仰が2000年もの間保たれてきた所もあるが、自分たちは害さずとも異教徒や
異民族には平気で迫害を加える、害為正法外道としてのその有様が、遂には他害の側面においても
限界に達したために、「何ものをも害さず(無賊害心)」という上座部仏教の正統教義に鞍替え
しなければならないことになってしまい、それはもはや、キリスト信仰の滅亡とすら同義である。

いくらキリストを「在る」などと思い込んで、実在するキリスト信仰によって罪が免れた
ようなつもりになったところで、邪義としてのキリスト信仰による人類の滅亡が目前に迫っており、
もはや悪因苦果の因果応報の絶対真理の前で、人類史上最大級の完全誤謬信仰だったキリスト教までもが
潰えざるを得ない時期に至っている。これはある意味、キリスト教にとっての絶対的な宿命であり、
いつまでも延々と狂信を続けていられるわけがないように、キリスト教が元からできていたのだといえる。

「在る」と信じていられるうちは罪が免れられたような気にもなれる。しかしそもそも、
「在る」と信じていられなくなる時期が必ず来るように、キリスト信仰というシステムが元からできていた。
信心が足りないから信じられなくなるのではなく、信じることが即ち死滅に直結するために、
否応なく信仰を棄てざるを得ない時期が必ず来るように、キリスト教が元からできていたのだ。

儒学の道理に負ける、仏教の真理に敗けるという以前に、
キリスト教の誤謬自体に、最終的な敗北を決定付ける因子が埋め込まれていたのだ。

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321 2011/10/24(月) 13:55:04 ID:FCMzWmTjV2
「魯の荘公、宋人と乗丘に戦う。縣賁父御し、卜国右たる。馬驚き、敗績し、公隊つ。佐車綏を授く。
公曰く、末なるかな之れ卜やと。縣賁父曰く、他日敗績せず、今敗績するは、是れ勇無きなりと。遂に之れに死す。
圉人馬を浴せしに、流矢の白肉に在る有り。公曰く、其の罪に非ざるなり。遂に之れを誄す。士の誄有るは、此れより始まれり」
「魯の荘公が乗丘で宋の軍隊と戦ったとき、縣賁父がその車馬の御者を務め、卜国が助手席に座った。あるとき馬が驚いて
車馬が転覆し、荘公も転落する事故が起こった。荘公は予備の車馬に乗り直してから言った。『なんと情けないことだろう』
縣賁父は『他日責任を取るのではなく、いま責任を取るのでは、さらに意気地の無さが蔑まれることとなってしまう』といい、
後日、激闘の末に戦死した。また、馬取の者が転覆した車馬を引いていた馬を洗っていると、その腿内に矢が刺さっているのが
見つかったため、荘公も『あれは御者の罪ではなかったのだ』といい、遂には縣賁父を非業の英雄として哀れみ称えまでした。
死士を哀れみ称える儀礼は、このときに始まった。(勇猛さによって罪状を濯ぎ、さらには賞賛までをも獲得した例。戦前の
日本の特攻隊員なども、アメリカ人ですら『本人たちには罪はなかったのだ』というような感想を述べる場合があるが、もはや
実在を信じようのないキリストなどではなく、己の勇気の奮発によって罪を埋め合わせる余地は、元聖書信者にも残されている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓上第三より)

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322 2011/10/25(火) 13:06:44 ID:2L.XbnWWRg
完全に一切、犯罪聖書を信仰していられなくなるときが、あるとき突然、速やかにやって来る。
「今がまさにその時だ」とまでは言わないが、確かにその瞬間は、もうまもなくやって来る。

「信仰存続すなわち人類滅亡」となるその時、人類を存続させるためには当然信仰を棄てねばならないし、
仮に信仰を存続させたところで、やはり人類が滅亡するから、もはや聖書を信じていられる人間がいない。
いずれの選択によろうとも、絶対に誰も犯罪聖書を信じていられなくなるときがやって来る。

「聖書を信じるのは辞めました」と、ただ宣言すればそれでいいのかといえば、そういうわけでもない。
聖書信仰の麻薬性からなる、自意識過剰の思い上がりの異常な肥大化から完全に棄て去ってこそ、
犯罪聖書への信仰を完全に辞めたことにもなるわけで、信仰即滅亡の瞬間までカルト信仰にドップリ
浸かっていたような人間が、急にそのレベルの棄教を選択することには、重度の麻薬中毒患者が
一挙に麻薬の服用を取り止めた場合にも匹敵するほどの苦痛を伴うことが避けられない。

だからまだ、その瞬間が来ていない今のうちから、なるべく聖書信仰を破棄しておくようにも促して
いたわけで、棄教の奨励がそのまま、その瞬間のショックによる死傷者を減らす役目も果たしていた。
逆にそれをしなければ、明日の多くの死傷者を見殺しにすることにもなってしまいかねなかったのだから、
聖書信仰の劣悪さを口汚く罵り続けてきたことにも、それなりの理由があったことを了解してもらいたい。
甘い言葉による殺人よりは、厳しい言葉による救命のほうが、道義的にも認められて然るべきなのだから。

「子夏、莒父の宰と為りて、政を問う。子曰く、速やかならんと欲すること無かれ。
小利を見ること無かれ。速やかならんと欲すれば則ち達せず。小利を見れば則ち大事は成せず」
「子夏が莒父の市長となった時に、孔先生に政治のあり方を問うた。先生は言われた。
『速やかにやってしまおうとするな。小利に囚われるな。速やかにやろうとすれば決して
完全には達成できず、小利に囚われれば決して大事を成し遂げることはできないから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一七)

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323 2011/10/25(火) 13:18:51 ID:4sbexIwmkc
↑「ショックによる死傷者」ってフレーズが良いね。
教養が滲み出てる。

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324 2011/10/25(火) 13:44:08 ID:2L.XbnWWRg
削除(by投稿者)

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325 2011/10/25(火) 15:14:18 ID:zlEVaaP2jA:DoCoMo
ショックで死ぬとも限らないだろ。
大きな心の傷を負うこともあるだろ。
むしろそのほうが多いだろ。

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326 2011/10/26(水) 12:13:34 ID:G5r4oY3fWk
もしも、今すぐに誰しもが犯罪聖書を信じることを辞められたなら、累犯障害の
蔓延にも即座に歯止めがかかって、人類滅亡の危機も未然に食い止めることができる。
しかし、実際問題として多数の犯罪聖書信者がいるものだから、深刻な累犯障害にも歯止めがかからず、
以って人類滅亡の危機を不可避に招きつつある。だからこそ犯罪聖書を信じていられなくなるのだから、
犯罪聖書を信じるものが、全くの自業自得によって、信じていられなくなる状況を招くのだといえる。

犯罪聖書を信じていられなくなるのは、上記の通り、人類が滅亡の危機に晒されるからで、
滅亡の危機を招くのが犯罪聖書の信者である。どこまでも、何もかもが、犯罪聖書信者自身の自己責任。
責任をとるのなら、もちろん聖書信者が責任をとって、服役や強制入院や禁治産などの処分に甘んずる必要がある。
そうしなければ人類が滅亡するため、その場合にも犯罪聖書を信じていられるものは一人もいないが、罪責が
償われて人類の滅亡が食い止められる場合には、必ず聖書信者の側が責任をとって処分を受けることになる。

受けるか受けないかで言えば、受けないで済むに越したことはないような酷烈な処分を聖書信者が受けて、
非聖書信者は受けない。以って、聖書など信じていないほうがよかったということになり、聖書を信じていた者は
必ず、自分が聖書信仰を選択したことを後悔させられる羽目になる。その逆の結果を確証していたのが犯罪聖書の
記述であり、それを信じていたから後悔させられることとなる。まったく同情の余地もないことである。

「予れを信ぜずと謂えるか、閌日の如く有るに」
「空に輝く太陽ほどにも明らかな、この私の言い分すら信じぬというのか。
(暗闇を光とする転倒夢想を信じている時点で、本物の光明への信用を完全に棄て去っている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・王風・大車より)

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327 2011/10/27(木) 12:41:18 ID:woMfc8z34.
たとえば、人間の骨格の関節の自由度は、一般的な力学構造の観点からいえば、かなり自由度が低い。
肘や膝の関節も、脱臼でもしない限りは逆関節の方向には曲がらないようにできていて、
そこにこそ身体の安定度を保つための重要な意味までもが備わっている。

それと同じように、「人は誰しもいつかは死に、二度と生き返らない」というような真理、
「自分で犯した罪の責任は、自分で負わなければならない」というような道理が存在し、
その限定を守った範囲での論理展開や思想展開こそが、生の人間に最大級の自由を与えもする。

人が不死であったり死んでも生き返ったり、自分が犯した罪が他人によって償われたりといったことを
概念上に夢想するだけならいくらでもできる。しかし、それらはまったく真理でも道理でもないから、
現実上においても全くの不能であるために、現実の人間に対してより大きな不自由を課すものですらある。

人は誰しもいつかは死ぬというわきまえがあればこそ、寿命では確実に自分よりも早く死ぬ親に対しての
孝行などを心がけようという気にもなり、その孝行の心がけこそが、人としての全力を尽くす上での
原動力ともなる(>>318参照)。その逆に、諸行無常のわきまえを欠いて孝心をも疎かにしたならば、
あらゆる物事に対して全力を尽くすことができなくなる。だから、真理であるところの諸行無常を
わきまえないよりはわきまえたほうが、人としての全力を尽くすことによる自由度が生まれるとも言える。

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328 2011/10/27(木) 12:41:30 ID:woMfc8z34.
概念夢想の無制限な自由は、かえって現実上における人ととしての自由を損なうものであり、真理や道理に
即した一定の制限をかけた概念であるところの堅実な理念こそが、人に最大級の自由を与えられもする。
その道理や真理を人為的に体系化しているのが儒学や仏教である一方で、道理や真理に反する完全誤謬を
並べ立てて、あたかも真理であるかのようにわめきたてているのがキリスト教やユダヤ教にあたる。

必ずしも「人為的な体系」などに由らずとも、自然と道理や真理をわきまえられればそれでもいいが、
既成の体系に依拠する以上は、本物の真理や道理の体系に則ることで、人としての高い自由度を
得るべきであり、真理にも道理にも反する完全誤謬の猥褻な陳列などに惑わされて、かえって人としての
自由度を狭めるようなことがないようにしたほうがよい。そのほうがより自由な上に、より優良なのだから。

「言うべからざるは言う勿れ、由るべからざるは語る勿れ。醉の言に由らぱ、童羖にも俾出さしむ」
「言うべきでないことを言うな。由るべきでもないようなことを語るな。酩酊した妄言などを
由りどころにすれば、(角のない)黒羊に角を生やさせるようなことまで要求されることとなる。
(由るべきでない戯れ言を由りどころにしてさらなる不自由に見舞われるようなことがないように)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・桑扈之什・賓之初筵より)

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329 2011/10/28(金) 13:37:21 ID:prw6ewRcR.
端的にいって、幼稚なことだ。
自分や自分の周り程度までにしか配慮が働かず、大局の利害を慮れないのは、幼稚なこと。
ド田舎の少数の集落ぐらいならその程度の感覚だけでも済むが、何万何億という
大衆の群がる都市社会でそのような狭量な感覚を振りかざすことは、許されない。

共産主義や独裁主義が全体主義であったことを以て、全体の利益を慮ることを
資本主義者などが嫌悪対象にするが、共産主義にも独裁主義にも仁徳はなく、
個々の家族を基本単位として全体の統率を積み立てていくような、公利を体系的に慮る
志向は存在せず、ただ資本主義やユダヤ信仰の特権志向を感情的に糾弾するばかりの、
これまた幼稚な試みに終始してしまっている。結局のところ、聖書圏には公益保護を
体系的に積み立てていく儒学並みの権力道徳の体系化が皆無であるため、全くの未知なる
存在としての仁徳志向を、全くの無知のままに毛嫌いしているような状態にある。

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330 2011/10/28(金) 13:37:41 ID:prw6ewRcR.
現状の歴史学では、西洋にも封建主義があったように言われているが、西洋で封建主義と
されていたものは、領主が資本家と結託して狭隘な利権を貪って、それで支配者を気取る、
長宗我部の一両具足に相当するようなシステムであり、それは政財の癒着を徹底して禁ずる
儒学道徳に即して「封建統治」と定義できるものではない。権力者すなわち自分たちの利益
ばかりを貪るものという感覚からすれば、その定義によって「封建主義」とされていたものを
嫌悪するのも当然のことであり、そんな封建主義を復活させるべきだなどということも決してない。

儒学道徳に根ざした、政財の癒着を禁ずる封建統治こそが、世界的に見ても、大社会の
大局的な公益を十分に保護することを可能とする統治理念としてほぼ唯一無二のものであり、
それは宋代までの中国や江戸時代までの日本ではそれなりに機能していたものだが、今では全く
機能しておらず、聖書圏にいたってはそのような統治理念が未だかつて存在していたことすらない。

この地球上から消滅してからすでに久しい、仁徳に根ざした封建統治の復旧は、それなりの労力や
研究を要するものではあるが、現実に実現が可能ではあるもの。もちろん、ムラ社会レベルの狭隘な
土族意識によって大社会を支配しようとするような、カルトの邪義の廃絶はまったくの大前提だが。

「維れ桑と梓にも、必ずや恭み敬まいて止まん。
瞻るとして父に匪ざるは靡、依るとして母に匪ざるは靡し。
毛もてにも属さず、裹にも罹かず。天の我れを生むも、我れ辰の安くにか在らん」
「(神前に供えたりもする)桑や梓を見るだけでも、慎み敬う心を募らせる。
実父ほどに見習うべきものはなく、実母ほどにより所とすべきものは本来ほかにない。もし実父にも属せず、
実母に添うこともできないというのなら、仮に天神が我れを産んだのだとしても、全くの不遇というもの」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)

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331 2011/10/29(土) 13:38:09 ID:CTEKlL14fs
大航海時代には、酒色を絶って方々を侵略掠奪してまわる北欧の海賊などもいたらしいが。
小悪を自制する偽善によって、大悪を犯しまくることから目を背ける欺瞞は、カルト信仰の常套手段だといえる。

自力仏教の比丘戒でも飲酒は禁じられているが、強盗殺人のような大悪を徹底して禁ずる戒律もあった上でのことで、
異教徒や異民族、遠方の他人らが相手ならいくらでも殺しまわり奪いまわって構わないというような、
聖書信仰などのカルト信仰に特有の落ち度は事前に完全に絶やされている。その上で飲酒や邪淫の
禁止までもが取り決められているのだから、仏戒の禁酒などは決して偽善でも欺瞞でもないといえる。

飲酒も淫行も節度を持って行えばよいとする儒学道徳も、何事にも節度を持たせる中庸の一環としてあるため、
小悪は厳禁して大悪は黙認する両極端に陥っている犯罪聖書の邪義などよりはまだマシなものだといえる。
酒色を否定せず、場合によっては奨励すらするところが、儒学の信教としての低劣さの根拠と見なされもするが、
結果として聖書信仰のようなカルト信仰よりはまだ優良な言動規範を実践者に具えさせるようにもなっている。
逆に言えば、儒学の実践並みのまともさすら保てない信教や学術こそは、ありのままにカルトの邪教邪学なのだといえる。

「賢を賢とし色に易う(学而第一・七)」
「賢者が賢者であることを素直に認めて、まるで色を好むかのように慕う」
「惟だ酒は量無くも、乱には及ばず(郷党第十・八)」
「酒も『絶対にこの量まで』と決めるのでは楽しめないのでそこまでは決めないが、ただ酒乱に及ぶまでは飲まないようにする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語より)

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332 2011/10/30(日) 13:26:55 ID:AF4C.3qrXU
「陪臣国命を執れば三世にして失わざること希なし」
「国君でもないような下賤の身分の者が国運を握るような業務を
執り成し続けたならば、三代のうちに亡国のわざわいを招かないことはない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・二より)

とあり、正式な公人でもないイエスのような卑人が、自分を通じて国レベルの人数の
人間の命運を執り成したりしたならば、大きな禍いを招かないはずがない。そして、

「徳を執りて弘からずんば(略)焉んぞ有りと為さん、焉んぞ亡しと為さん」
「徳を施すことがさして広くもないようならば、いてもいなくてもどうでもいいようなものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二より)

とあるため、ごく一部の相手にしか救いを施さないような選民志向の邪義を本来、
大して有り難がるべきでもないのに、国を挙げて犯罪聖書を国是としていたりする
欧米諸国などの聖書信仰の享受姿勢もまた、大誤りであることが断定できる。

犯罪聖書を大々的に流布しようとする試みも過ちならば、大々的に享受しようとする試みも過ち。
少なくとも、儒学道徳に即して完全なる過ちと見なされる行いであり、儒学を実践しようと
心がけるのであれば、もう二度と大々的な犯罪聖書の享受などを認めてはならない。

18禁のエログロ本のような、十分な村八分扱いを世の中から受けた上での享受ならばまだしも、
公然と大々的に、犯罪聖書のような有害図書が享受されることまでをも許すわけには決して行かない。
それを許してしまった時点で、決して儒学が実践されたことにはならない。「儒学の実践」という
選択肢は決して選ばれたことにならない。少しでもそれで、儒学が実践できたなどと思ってはならない。

別に「絶対に儒学を実践しろ」などと強制もしないが、仮に儒学の実践を選択する以上は、
犯罪聖書の大々的な享受の根絶ぐらいは、大大前提となることを覚悟しなければならない。

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333 2011/10/31(月) 12:51:54 ID:nO9EuD39gs
寛容さにだって、節度というものがある。
一度過ちを犯した者を「今度からは気をつけろよ」と諭して許してやる程度の寛容さは必要でも、
何度も何度も同じ過ちを繰り返しながら改めようともしない相手までをも許すような義理はさすがにない。

昨今の欧米聖書圏によるイラクやアフガン、パレスチナやリビアなどへの侵攻も、アレクサンドロスの
東征や十字軍遠征を模した意味をもある程度備えていて、自分たちの行いを過去の歴史になぞらえて権威化
しようとする意図がある。それでは過去の中東社会などに対する聖書圏の征服行為が正当だったとされる
根拠は何かといえば、それこそは聖書信仰に当たる。犯罪聖書にそれが正しい行いとなると啓示されているから、
正しいとされるドグマ。犯罪聖書の存在性が根本から過ちであったことが明らかとなった時点で、聖書中の正当性は全て
不当性に反転し、正しい行いの積み重ねだと思ってやってきたことが全て、大きな過ちの繰り返しだったということになる。

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334 2011/10/31(月) 12:56:36 ID:Y0VD8mCUa6:DoCoMo
カルト信者が正しいと思い込んで繰り返してきた過ちが全て、一つの大きな過ちであったと見なすことも出来なくはない。
その上で「今度からは間違いを繰り返すなよ」と諭して今回だけは許すということも、絶対にできないわけではない。
ただ、そのためには、個別の過ちの繰り返しの元凶となってきた、犯罪聖書への信仰の完全破棄が絶対条件となる。
ただ「信仰するのを辞めました」と宣言するだけではなく、救いようのない邪義の塊りでしかなかった有害図書などを
国を挙げての金科玉条にすら祭り上げてきた、自分たちの無様なあり方を大いに反省して、もう二度と犯罪聖書の
邪義などを信仰したりはしないと自他に確約し、実際にそうであるように努め続けて行く必要がある。

一旦「聖書信仰は辞めました」などと宣言したとしても、まるで麻薬中毒者がヤク禁を振り切って麻薬の服毒を
再開してしまうようにして、聖書信者が犯罪信仰を再開してしまう可能性もあるわけで、それはもはや完全に
過ちの繰り返しである。持続的な聖書信仰の範疇における過ちの繰り返しを丸々ひとつの過ちと見なしたとしても、
それが新たな純一の過ちとなるために、完全な過ちの繰り返しと見なされて、二度と許されることはないだろう。
聖書信仰の範疇で個別的な過ちが繰り返されるときではなく、「聖書信仰」という根本的な過ちが繰り返されたときに、
もう二度と元聖書信者が許されることもないのだと、これから聖書信仰を破棄する者たちも覚悟しなければならない。

「今、殷民は乃ち神祇の犧牷牲用を攘竊し、以て容れて将に食らいて災無し」
「紂王が暴政を行う昨今、殷の民たちは神祇祭祀のための供え物である犠牲や穀物すらも私的に掠め取り、
その罪すらもお互いに受け入れあって盗品を貪り食らい、罰を受けもしない。(受け入れてはならない重罪の例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・微子第十七より)

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335 2011/11/01(火) 16:28:05 ID:hsIdPm6ppg
神といい、仏といい、至上の尊格であればあるほど、最良の善行から最低の悪行までをも網羅する。
その上で、最良の善行に最大の福徳が、最低の悪行に最大の災禍が自業自得で及ぶことの磐石さを司る。
禍福をもたらすのはそれぞれの善行や悪行そのものであり、絶対普遍の神仏ほど罪福異熟をただ見守ることに特化する。

罪悪を積み重ねようとも自らに帰依すらすれば救いをもたらし、善徳を積み重ねようとも自らに帰依しなければ
災禍をもたらすというような作為の塊りである神は、神であるとしたところで「邪神」であり、本地垂迹に基づけば
魑魅魍魎の妖怪や地獄の亡者にすら相当するもの。善行には福徳が、悪行には災禍がもたらされるのが無為自然に根ざした
普遍的な道理である一方、悪行に福徳を、善行に災禍をもたらそうとするのは無為自然の道理に反する危うい無理に当たる。
普遍性に根ざさない無理を司るものだから、そのような邪神も、それ自体が危うい存在にあたり、道理を司る真に
上等な神仏などと比べれば、その権威が失墜するなどの形での、衰亡の危機に晒されることが免れ得ない。

返信する

336 2011/11/01(火) 16:28:18 ID:hsIdPm6ppg
道理を司る上等な神仏とて、社会的な権威がある程度失墜することはあるが、何しろ司っているのが普遍的な道理なものだから、
どんなに人工的な権威の剥奪を被ったところで、いつでもその権威の規矩準縄に根ざした復興が可能である。一方で、
罪福異熟を捻じ曲げようとするような無理を司る邪神の場合は、一旦その権威を喪失すれば、その復興は二度と叶わない。
道理はどんなに捻じ曲げられたところで最後には通されるものだから、いくらでも復興が可能である一方、無理のほうは、
始めから実は通っていないものを無理に通そうとし続けた挙句に、いい加減通しているフリすらできなくなって衰亡するもの
であるから、何も筋を通したところがなくて、挙句にブラフごと倒壊するというその無様さを以て、二度と復興も叶わなくなる。

道理を司る上等な神仏を敬うことには、その普遍性に信念を託すことで信念を貫くという意味が備わるが、
無理を無理やり通そうとする邪神への敬意は、それこそ無理を無理やり通そうとする我の張り通しとなるばかりで、
そこにもまた、普遍性に根ざして貫こうとする信念などとは別個の危うさが帯びている。両者の敬意は根本的に全くの
別物であり、普遍性に根ざした信念を育てる正統な神仏への畏敬はぜひ行うべきである一方で、ただ我の張り通しを助長する
ばかりである、邪神に対する狂信まみれな敬いなどは棄て去るべきである。別に邪神に唾棄する嫌悪者になれというのでもなく、
邪神に心を囚われるようなこと自体をなくすべきであり、好悪も畏敬も侮蔑も何もない、ただのゴミ扱いをすることが妥当である。

「其の上に事うるや敬」
「(君子は)目上の者に仕える場合に敬いを抱く。
(六道論で人間以下とされる地獄餓鬼畜生を敬ったりもしない。
人間以上とされる天界の神や仏界の仏だけが敬うにも値する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一六より)

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337 2011/11/02(水) 18:36:13 ID:Ja2t5IuCZo:au
なぜ、俺ばかりが正しくなければならない?

正しさは何も、俺ばかりの専売特許ではないのだぞ?

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338 2011/11/03(木) 13:39:47 ID:DtLDPQvP8.
①まず始めに、善でも悪でもないものがあった。
善悪が人間という知能生物に特有の尺度である以上、自然に善悪は存在しないが、
その無為なる自然にありのままに適応して生きていた原初の人類にもまた、善悪はなかった。

②その次に、殊更な善悪を未だ察知しないままに、とりあえず作為を積極化しておく試みが生じた。
古代中国における農作の発明や、古代の極東社会で土器文明として発達していた貯蔵の慣習、
古代オリエント社会における文字文化や土建の発達などがそれに当たり、未だそこに善悪などという
基準が遍在しているしていることも察知されていなければ、善悪を推し進めていくような意識もなかった。

③その次に、文明に善悪という倫理基準が遍在していることを察知して、「勧善懲悪」という
方向性に即して文明を潤色していく試みが生じた。堯舜禹らによる権力道徳の実践がそれであり、
ただ馬鹿でかいことをやろうとする場合などには決して見られない、世の中を着実な
平和や繁栄へと導こうとする、優良な文明の体系性がそこから備わり始めた。

④そしてその次に、巨大化した文明社会の中で、少数の部落民がガン細胞的な悪性の性向を
蓄えて、他民族や異教徒を迫害や収奪の対象にしてまで自分たちが生きて繁栄しようとする、
「悪逆非道」の方向性を一概化しようとする試みが生じた。古代ユダヤ人にとってのユダヤ教の
発症などがそれであり、迫害されて当然なほどにも劣悪な選民志向が案の定弾圧を受け、全く
民族としての血統なども継承されないままに、信仰形態だけが辛うじて存続していくこととなった。

⑤さらにその次に、ユダヤ信仰級の悪逆非道すらをも「それでもいいじゃないか」と開き直ることを
詭弁によって潤色する「偽善」の試みが生じた。それがイエスによるキリスト信仰の触れ回りであり、
その肝要は「悪からの救い」などではなく、「悪を無制限に受け入れる偽善の深刻化」にこそあった。

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339 2011/11/03(木) 13:40:25 ID:DtLDPQvP8.
まず善でも悪でもない自然の状態①があり、次に善悪を察知しないままに作為をただ積極化する試み②があり、
その次に作為によって大規模化した文明を勧善懲悪によって規律していこうとする試み③があり、その次に
大規模化した文明社会の中で自分たちばかりが我田引水によって繁栄しようとする悪逆非道の試み④があり、
さらにその次に、我田引水の悪逆非道を一般にまで赦させようとする偽善の深刻化の試み⑤があった。

善でも悪でもないものが一番、善悪を知らぬままの作為が二番、勧善懲悪が三番、悪逆非道が四番、
そして悪逆非道の寛容という偽善が五番。イエキリの試みは五番目という極めて遅い順番であり、
しかもイエキリ自身は一番目から三番目を知らず、四番目しか知らなかった。四番目の悪逆非道が
人類社会のデフォルトだとすら思い込んでいたものだから、「神の前には救いはない」などという
全くトンチンカンな物言いにも及んだ。神以前の世界に救いがないのではなく、イエキリがデフォルト
だと思い込んでいた悪逆非道常套化④以降の世界にこそ救いがないのであり、イエキリがデフォルトと
していたものからイエキリ自身の妄言までを根こそぎ摘み取るのが、人間にとっての真の救いとなる。

④と⑤を完全に摘み取ったからといって、この世界に何も残らないなんてことも決してなく、
純良な①と③が②を着実に統御していく、この上なく優良な文明社会が築き上げられていくこととなる。
それはちょうど、④と⑤が伝統的に存在しなかった、聖書信仰流入以前の東洋社会に近似するものともなる。

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340 2011/11/03(木) 17:58:20 ID:7QmLUJLO7Y
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341 2011/11/03(木) 18:05:57 ID:7QmLUJLO7Y
「牛山の木は嘗て美なるも、其の大国に郊たるを以て、斧斤之れを伐る。以て美と為す可けんや。是れ其の日夜の
息する所、雨露の潤す所、萌櫱の生ずる無きに非ざるも、牛羊又た従いて之れを牧す。是れを以て彼の若く濯濯たるなり。
人其の濯濯たるを見、以て未だ嘗て材有らずと為すも、此れ豈に山の性ならんや。人に存る者と雖も、豈に仁義の心無からんや。
其の良心を放つ所以の者も、亦た猶お斧斤の木に於けるが如きなり。旦旦と之れを伐らば、以て美と為す可けんや」
「昔、斉国の牛山は美しい木々の生茂る名山として知られていたが、都市の近郊にあったせいで誰しもがその植生の木々を
斧まさかりで伐って取ったため裸山となってしまい、到底美しいとは呼べない外見になってしまった。日々の自然風土や
雨水も新たな木々の芽を生やさせようとはするものの、木を伐った跡地にさらに人が牛羊を放牧したりするものだから、
やはり木々が生長するだけの余裕もない。大雨の雨水を受け止めることもできずに、よく土石流を巻き起こしてもいるが、
それを以て『牛山には始めから木材になるような木などなかった』としたりする。どうしてこれが山の本来ある通りの姿だなどと
いうことがあろうか。これと同じような言いがかりで、生まれながらの人間には仁義を志す心がないなどと決め付けてしまって
いいものか。決してそんなはずはなく、人に良心が欠けているのも、元はといえば木々の生い茂っていた山を後から開墾して
禿山にしてしまっているようなもの。毎日良心の芽を刈り取ってばかりいて、どうしてかつての牛山のような美しさになれようか。
(ちょうどユダヤの行いは牛山の木々を刈り取る行いに、キリストの行いは禿山となった牛山に家畜を放牧する行いに該当する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句上・八より)

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342 2011/11/04(金) 13:33:36 ID:nV0bHEYniM
>>341の孟子の言葉に従うなら、牧畜は元から森林の生い茂っている山岳などではなく、
平地の草原や砂漠などで行うべきだということになる。「牧畜なんかやめてしまえ」というのでは、
「それなりに大規模化した文明社会を勧善懲悪によって司る」という儒家の理念にも即さないので、
農牧もそれなりに奨励はするが、ちゃんと規定された区画の範囲だけでの農牧に専念させることが、
儒家の理念に即すことにもなるし、百姓の警護者兼統率者としての武家の本懐にも沿うことになる。

他にも、孟子は市場にかける税率などについても色々と細かい論及を行っているし、工業従事者が
あまりにも凝った技巧によって為政者を誘惑するようなことがあってはならないと「礼記」月令第六にもある。
総じて民間人の分をわきまえぬ放辟邪侈を十全に取り押さえることを士人道徳たる儒学は旨としていて、
民間人の放辟邪侈をありのままに大肯定する自由主義の民主主義とは全く真逆の志向性を備えているといえる。

じゃあ、民間人の放辟邪侈を取り押さえにかかる士人のほうはどうかといって、それこそどんなに清廉な
民間人よりもさらに清廉な聖人賢人でなければならず、そうでなければ民間人を取り押さえる名分も立たない。
今の日本やギリシャの公務員みたいな、民間人以上にもだらけきっている有様では、到底そんな名分は立たない。

じゃあ今の民間人並みにモーレツに働きまくればいいのかといえばそんなこともなく、やって善いことと悪いこと
との分別を厳格に付けて、善いことは進んで行い、悪いことは断じて行わない行動規範の優良さによってこそ
民間の小人に対しても差をつけるべきで、政財界の癒着による重権力犯罪は黙認しておきながら、飲酒運転や
刃物携帯みたいな、それ自体は誰にも迷惑のかからない軽罪ばかりを取り締まっている今の警察や検察なども、
このような士人としての素質を全く欠いているため、全員クビにして新たに採用をやり直すべきだとすらいえる。

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343 2011/11/04(金) 13:49:20 ID:nV0bHEYniM
民間人も今までのような無制限な放辟邪侈が一切許されないし、公務員だって今は士人としての素質を全く欠いた
者ばかりだから、全員クビになって一からやり直すぐらいのつもりでいるべきだ。今の世の中の誰一人として、
聖書信仰が根絶されて儒学道徳が流布されるこれからの時代に、今のままでいられることはないと知れ。

「伐冰の家は、牛羊を畜せず。(略)国家に長として財用を務むる者は必ず小人自りす。
小人をして国家を為めしめれば、災害並び至る。善者ありと雖もまたこれを如何ともするなし」
「葬祭に遺体や供物の腐敗防止のための氷を用いる卿大夫階級の家では、すでに財産が十分である
ことをわきまえて、牧牛や牧羊による利殖を行ったりはしない。国家に長たらんとしながら利殖財用を
追い求める者は、必ずくだらない小人としての本性を宿している。そのような小人に国運をも担わせたならば、
ありとあらゆる災害が巻き起こり、たとえ最善を尽くす者がいたとて、どうすることもできない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——大学・十より)

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344 2011/11/04(金) 15:34:12 ID:sFcwMB2OSY:au
最初の内に厳しい態度でいたほうが、後々になって寛大な恩赦を加えていける。

始めの内ばかり寛大な態度でいて、最後にはFEMAみたいな絶対隷従を強いたりするほうが、
それこそさんざん可愛がって来た牧畜を最後には精肉にする、屠殺屋の所業だといえる。

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345 2011/11/05(土) 11:40:57 ID:Z4FtFenNao
大規模な徳治社会の権力機構には、必ず君臣関係が伴う。
私見によって政務を取り仕切る立場にあるのが君主である一方、あくまで君命に即して政務を執り行うのが臣下。
政務を主観的に執り行う代わりに君主は実務を直接執り行わず、私情を排した臣下こそが直接的に民衆をも統治する。

君主が私情によって直接民を統治するのでは、気に入った民を厚遇して気に入らない民を冷遇するようなこと
にもなりかねないので、本人自身は私情を排した臣下が「君子(君主の弟子)」として民の直接統治に携わる。

天皇や将軍に直接お目通りできる臣下も昔はごくごく限られていて、民はおろか、下級の士人ですら
みだりに主君に接することは許されなかった。そこまでして為政者同士での階級差別を重んじていたのも、
民に対する私情のうつろいが君主に備わってしまうことを避けるためでこそあった。

封建社会は、民のうちでも商家や部落を差別下に置くが、それは商家や部落こそが、主君にとって好意を持たれやすい
誘惑的な要素を備えているからで、楽して大金を稼ぐその生業としての安易さに主君が籠絡されてしまったなら、
それこそ致命的な傾国の元凶ともなってしまうから、あえて民の中でも商家や部落に相当するような職業を下賤扱いした。

商家や部落が嫌いだからではなく、客を堕落からなる破滅へと追いやる娼婦も同然の職分であるからこそ、
清廉を旨とする権力道徳者にとっての忌避対象とされていた。私情によってはむしろ好みやすい安易さを
帯びているからこそ、私見によって政務を取り仕切る主君が直接接することは禁じられていたのだ。

「父母存すれば、友を以て死せるを許さず、私財を有せず」
「父母が存命であるというのなら、友人のために命を賭すようなことはせず、財貨をわたくしするようなこともしない。
(父がいることを豪語しながら磔刑によって刑死し、私的に囲い込んだ信者への
友愛を果たそうとしたイエスの行いは、自己完結した現象として非礼に当たる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・曲礼第一より)

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346 2011/11/05(土) 11:56:58 ID:Z4FtFenNao
ロックフェラーやロスチャイルドが、キリスト教圏20億人を破滅に追いやった手管が
畜獣の屠殺まんまなものだから、部落出身者も向こう800年は世間様に対して大きな顔ができない。
こっちのほうが、松本ドラゴンのヤクザ会見なんかよりよっぽど致命的。

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347 2011/11/08(火) 11:32:40 ID:nV0bHEYniM
重罪を犯したために責任をとって死なねばならない者がいる。
大きな使命を帯びているために生き続けねばならない者がいる。

そういった、正当な人間の運命を特定的に、概念夢想に
よって破綻させようとする試みが、十字架信仰に当たる。

つまり、重罪を犯した人間は責任を取らせずに生き延びさせようとし、
大きな使命を帯びた人間には活躍の余地も与えずに死なせようとする。

それが十字架信仰によって実現しようとするものであり、まったく
もって、不正の実現によって正義を反故にする試みであるといえる。

それ以外に十字架を信仰する意義はないので、大きな使命を帯びて正義を
実現しようとする者は十字架を信仰しない。十字架を信仰しないものだから、
十字架を信仰するものからすれば「生きなくてよい者」ということにもなる。
だから十字架信者は自明に、正義の反故を惜しみなく進めていくことになる。

十字架信仰は悪と偽善の味方である一方で、真の正義の宿敵であり、
決して味方などではあり得ない。正義の味方たり得ない要素を十字架信仰が
自明に帯びているにも関わらず、十字架信者が正義との親和を求めたりするのも
薄ら馬鹿げたことで、十字架信仰だけは絶対に破棄するのでなければ、正義や
正義を実現する者の味方になれることは永遠にないのだと知らねばならない。

マッチポンプのポンプで味方のフリなどをしたところで、必ずそれ以上の
マッチ災禍によって、ポンプで埋め合わせきれない規模の損害を同時に与えている。
どこまでいっても、正義に対して利益以上の損害を与え続けるのが十字架信仰であり、
十字架信仰を破棄しないことには、正義に利する味方たり得る可能性すら生じない。

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348 2011/11/08(火) 11:34:26 ID:nV0bHEYniM
「民に好悪喜怒哀楽有り、六気に生ず。是の故に則を審かにして類を宜しくし、以て六志を制す。
哀に哭泣有り、楽に歌舞有り、喜に施舍有り、怒に戦有り。喜に於いては好を生じ、怒に於にては悪を生ず。
是の故に行いを審かにして令を信し、禍福に賞罰し、以て死生を制す。生は好物なり、死は悪物なり。
好物は楽しみ、悪物は哀しむ。哀楽失わざれば、乃ち能く天地の性に協う。是れを以て長久なり」
「人民には好悪喜怒哀楽といった感情があり、これら六つが天の気から生じた普遍的なものである。
そのため仁者はその法則を詳らかによく分類し、六つの心がけによってよく統制していくのである。
哀しみに対しては哭泣を心がけ、楽しみに対しては歌舞を心がけ、喜びに対しては節制を心がけ、
怒りに対しても節度を守った体系的な臨戦を心がける。この内の喜びが愛好の因子となり、怒りが憎悪
の因子となる。そのため人民の喜怒に配慮を効かせつつも、為政者としては善人の徳業や悪人の罪業を
詳らかに調べ上げ、慎重な命令によって善悪禍福に相応の順当な賞罰を下し、善人を生かしたり、悪人を
死なせたりすることに節度を持たせる。生かされることは愛好に値し、死なされることは憎悪に値する。
愛好できる者は嬉しがりにならない程度にその活躍を楽しみ、憎悪の対象となる者にもなるべく哀悼を
心がける。喜怒を制した哀楽を失うことがなければ天地の性情にも適い、天下国家の福徳も長久となる。
(人民の好悪を参考にした善人の出世や、悪人の処刑が世の中の福徳の長久にもつながる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公二十五年より)

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349 2011/11/09(水) 13:31:33 ID:1OlUIypcQs
「黙してこれを識し、学びて厭わず、人を誨えて倦まず。何か我れに有らんや(一部既出)」
「いいことを学んでもひけらかさずに自分で覚えておき、成果がなかなか見られなくても学び続けることを厭わず、
分からず屋を教誨し続けても倦み疲れたりはしない。それぐらいのことは、私には別に何でもないことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・述而第七・二より)

教学に対する儒者の絶倫加減は、自分たちが学問の対象としている権力道徳が永久不変の道理であることを
主因としている。どんな詭弁やごまかしによっても突き崩すことのできない絶対普遍の道理だからこそ、
学び教え続けても決して倦み疲れたりすることがない。無理な運動は身体に祟って、イヤでも疲れるが、
呼吸を乱さない程度の適度な運動なら、疲れてやめるような気になったりはしないのとも同じ。

その、儒者の学問対象である絶対普遍の道理に真っ向から反する完全誤謬の無理を羅列しているのが
新旧約聖書こと権力犯罪聖書で、絶対普遍の道理の反転であるだけに、そこに書かれている無理も
また絶対普遍の方向性を備えているのは確か。絶対普遍の道理の「絶対普遍」だけを借りとって、
列車がレールの上を走り続けるような容易さで以て、無理だらけな権力犯罪を進行させ続ける。

絶対普遍のレールに乗っかって、まるで息をするように無理もなく学び続けたり、狂信し続けたりしていられる
点では四書五経と犯罪聖書は確かに共通している。四書五経の引用を延々と続けても全く倦み疲れないからこそ、
犯罪聖書を引用し続けることも狂信者にとっては全く倦み疲れないことなのだろうと個人的にも察知できる。
「倦み疲れて負ける」ということは、四書五経の勉学者と犯罪聖書の狂信者、いずれにも決してあることではない。

ただ、勉強しているものが道理であるが故に、現実社会を破綻させずに繁栄させるか、狂信しているものが無理で
あるが故に、現実社会を繁栄させずに破綻させるかという違いだけが、四書五経の勉学を存続させて、犯罪聖書の
狂信を途絶させる決定的な分かれ目となる。どちらかがダウンするまでではなく、聖書信者が死ぬまで続けられる決闘。
儒者のほうが自業自得で死んだりすることはないので、聖書信者の自業自得での自滅だけが終末として予定される。

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350 2011/11/09(水) 13:31:46 ID:1OlUIypcQs
「神農氏没して、黄帝、堯、舜氏作る。其の変を通じて、民を使わして倦ましめず、神をして之れを化し、民を使わして
之れを宜しくせしむ。易は窮まれば則ち変じ、変ずれば則ち通る。通れば則ち久し。是れを以て天より之れを祐け、
吉にして利ろしからざる无からしむ。黄帝、堯、舜、衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸れを乾坤に取ればなり」
「(基本は無為自然によって天下を治め、部分的に易に根ざした技巧によって統治も行っていた)神農が没して、
黄帝や堯、舜らが治める代となると、作為的な物事の変化を加えることで、民を使役しても倦み疲れないようにさせた。
形而上的な神妙さによって変化を起こすことで、民をよく楽しませるようにした。易の法則では行き詰まりの先に
変化が起こり、その変化によって道理が通り、それによって長らく泰平が開かれるが、その法則に則って天からの
神助をも受け、吉祥にして、縁起の悪いことがないようにした。黄帝や堯舜が、垂れ下がりのあるような非実用的な
服装のままで政治を行っても天下がよく治まったのは、その政治を易の陰陽乾坤の法則によく則らせたからである。
(易の法則に真っ向から反する暴政を行うことで、民を最悪の苦痛に追いやりながらも、倦み疲れさせないこともまた可能
である。ただしその場合には天下は治まらず、垂れ下がりのないような実用的な服を着て対策を尽くしても破綻は免れ得ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞下伝より)

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351 2011/11/10(木) 13:47:55 ID:pj7/z0tA0I
正統な神仏を崇める純正な信教でも、神仏による加護を期待するということは当然ある。
ただ、その崇敬対象が神である以上は、たとえ最高級の大神であろうとも「絶対的な加護」などは期待しない。
神のフリした鬼畜などではない、本物の神々の住まう天界もまた、絶対的な普遍性を供えた世界ではなく、
それなりの盛衰を伴うものであり、長寿と大きな福徳を保証されながらも、天人五衰もまたあるものだから、
その神に対して加護を期待する者もまた、自力作善に後付けで施す潤色ぐらいのものとして神護を嗜む。

では、仏に加護を期待する場合はどうかといえば、確かにその加護は絶対普遍にして金剛不壊となる。
ただ、本質的に仏は人格神ではなく、純粋かつ優秀なある種の哲理なのであり、その哲理を理解し体得すること
でこそ絶対的な加護を期待できるものであるため、人格者に依存するアブラハム教のような格好は似つかわしくない。
ただ、仏法への他力本願の体裁を取ることもまた一応は可能なことであり、念仏による浄土信仰などがそれに当たる。
最も簡素で容易い仏護の得方が念仏であり、他力本願なりの荘厳は加えられているにしても、やはりあらゆる仏門の
中でも、最も本格的な荘厳にも欠けているため、余裕があれば念仏以上に高尚な聖道門への帰依を目指したくなる。
ただ、そんな余裕がないという状態、世が地獄の業火に晒されて仏道修行どころではないという時代に
おける消火栓代わりの役目などを、念仏のような他力本願型の仏門が負うことができる。

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352 2011/11/10(木) 13:48:17 ID:pj7/z0tA0I
「困ったときの神頼み」という通り、他力本願による神仏の加護などをやたらと欲するような人間は、元から困っている。
常日頃から絶えず大きな苦悩に晒され続けているから、自分以外の誰かに依存していなければ居ても立ってもいられない。
それは絶対に無かるべきことだとも言いはしないが、あるかないかでいえば無いに越したことはない。浄土教であれ
拝火教であれアブラハム教であれそれ以外の他力信仰であれ、他力信仰を卒業して自力作善を目指していけるのなら、
それに越したことはないのであって、「他力信仰こそは自力作善よりも優等なものだ」などというような転倒夢想は決して
許されるものではない。浄土信者も自分が煩悩具縛の凡夫であったり、今という時代が自力作善どころではない乱世で
あったりすることを理由として他力信仰に帰依するのであり、自力作善が可能ならそっちを選択するぐらいのつもりでいる。
浄土系の坊主が生臭なのも全くもって上等なことであり、他力信仰ごときをやたらと聖化しようとするほうが頭がおかしい。

「天は下民を降し、之の君を作て、之の師を作つ。惟れ其の上帝を助け之れを寵する曰なり。
四方の罪有るも罪無きも、惟だ我れに在り、天下曷ぞ敢えて厥の志しを越すもの有らんや」
「天はこの世によろずの民たちを生み降して、そこに一人の主君を立て、その師となる者を立てた。
これは天の上帝の事業を助けて、世に住まう民たちをよく安んじようとするためであった。
天下の四方の果てに至るまで、罪有るものを罰して罪なきものを賞する責任が、我らにこそある。
この天下に誰一人として、我々の志しを越える気概の持ち主はいない。(『書経』遺失部分の
孟子による引用。易の法則に根ざしたこの世界の様相を整えることを政治の根幹としていた
古代中国の為政者にとっては、自分たちの為政が天帝の事業を助け整えるものと考えられていた。
天上の神による加護を受けるどころか、天神の試みを自分たちが助けていくのだとすら考えて
いたわけで、それほどもの自助努力を心がける志があってこそ、仁政もまた達成できるのだといえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)

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353 2011/11/11(金) 14:37:41 ID:3knC.FYel6
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354 2011/11/11(金) 15:11:36 ID:3knC.FYel6
「周公の才の美なるも、驕り且つ吝かならしめば、其の余も観るに足らざるなるのみ(既出)」
「周公ほどの優れた才知があろうとも、おごり高ぶってけち臭いようなら、見る影もない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・泰伯第八・一一より)

知識を得たからといっておごり高ぶるのは何も絶対条件ではなく、知識以前の精神的な
修養を欠いた未熟者に限っての不手際でこそある。そういう未熟者は本質的に「餓鬼」であり、
常日ごろ飢渇にあえいでいるところに水をもらった時のように、知識を淫らに貪ろうとする。
知識以前の自己が十分に堅実であり、知識を得ることも満たされた状態のデフォルトに対する
付加要素程度に考えられたなら、知識を得たからといっておごり高ぶるようなこともなくなる。

愛は創造にも破壊にも与する情念だが、ことに全くの無軌道である愛情は、概ね創造以上の破壊を招く。
理知に根ざした仁愛であってこそ破壊以上の創造や、創造したものの維持にも務めることができ、
そのような仁愛は大人だけが抱くことができるもの。恋人か夫か我が子あたりにしか愛を振り向ける
ことができない女子供などの場合には、朝廷に出仕する夫の上衣を喜んで何度も作り直す、「詩経」
緇衣の作者の女のようであるべきだ。いい年した男であっても、仁を志せない以上は同じように。

「飛龍天に在り、大人を見るに利ろし。/飛龍天に在るは、大人の造なり」
「飛龍が天を舞っている、まさに大人にお目にかかれるときである。
飛龍が天を舞うのは、大人の偉業が造り上げられるときに限るからだ。
(偏愛にまみれた小人が造り上げるものと共に飛龍は天を舞わない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・乾・九五−象伝)

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355 2011/11/12(土) 13:20:04 ID:2qlNPZTncQ
有り体に言って、仁は「万有愛護」に当たる。
天下万人に対して最低限の配慮を利かせる程度の愛。
それは親族に対する愛ほどにも親密ではない一方で、全くの他人ともなれば
飢え渇こうが、殺されようが全くお構いなしというほどもの薄情でもない。

仁は完全なものであるが故に、一度得られたなら棄て去れもしない一方で、
さらにその上を追い求めていくということもない。無限は数学的には規定しにくいものとされるが、
人間の思考が漠然と無限を規定することは全く可能なことであり、その無限に即した愛を仁とする。
故に、さらにそれ以上やそれ以外を規定してそれを愛したりしなかったりすることがない。

もちろん、そんな愛は漠然とし過ぎて散漫になりがちなのも確かなので、仁者は
親族への親愛をまず第一として、そこから天下万人への程度を保った仁愛を施す。
親族への親愛もまた、狭く深いことにかけては絶対的に無限なものであり、
「追い求めていく」なんていう悠長な情緒を差し挟む余地はない。

自らの愛が狭く深いことにかけても、広く浅いことにかけても絶対的に無限なものだから、
「愛を追い求めていく」などという幼稚な情緒は、仁者には存在しないのである。

「往く者は諌むべからず、来たる者は猶お追うべし」
「すでに犯された過ちを諌めても仕方がないが、未だに犯され続けて
いる過ちは、そのまま見逃したりせずに糾弾を追い求めていくべきだ。
(聖書信仰を破棄した後ならともかく、未だに聖書信仰という大きな過ちを続けていく以上は、
それに対する糾弾を追い求め続けてやまない。この発言は、無益な社会活動を続けようとする
孔子に対する隠者の諌めの言葉であり、無為自然の隠遁を是とする道家の立場からも、
犯され続けている過ちを諌めることまでもが否とはされない根拠にもなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・五より)

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356 2011/11/14(月) 14:07:59 ID:u0ns0Q5Xcc
「売り手良し、買い手良し、世間良し」の三方よしが近江商人の心得だったといい、
公益を図ることが最高目的ではない商売人なりにも、最低限の仁義があったという。

もちろん商売人の最高目的は私益の追求であり、仁義を慮るとしたところで、
迷惑をかけない程度に世間様から利益をせしめるように注意するぐらいが商売人としては関の山。
本当に仁徳を志すのなら始めから商売人などにはならずに、君子になろうとする。
商売人のうちで私益にしか目がいかないか、公益にもある程度の配慮が働くかは、
最悪かマシか程度の違いであり、非商人の立場からすれば五十歩百歩、目くそ鼻くそとすら言えるもの。

ただ、それにしたって「三方よし」を心がけるマシな商売人と、私益のためには亡国の画策すら
厭わないような最悪の悪徳商人とであれば、まだ前者を優遇して後者を冷遇ないし根絶すべきだといえる。
寄生国を敗戦や崩壊に追い込むほどに私益しか念頭に置かないユダヤ商人と、一応三方よしを
念頭に置いておく近江商人とであれば、近江商人を残してユダヤ商人を捨てるべきだといえる。
商売全体が治世では劣後されるべき職業ではあるにしろ、その商業の内側にも選別すべき余地がある。

「天地交わらざるは否なり。君子以て徳を倹にし難を辟く。栄するに禄を以てすべからず」
「天地が相交わらぬ『否』の相の時、君子は己れの才徳をひけらかさずに難を避ける。
(君子としては本望の成就である)禄を食むことすら栄光としてはならない。
(君子は栄光とすべきでないものを栄光としないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・否・象伝)

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357 2011/11/15(火) 12:14:19 ID:itGcNpzhFg
日本で敗者復活を容認する慣習が根深いのは、チェスで禁止されている
手駒の利用が将棋では可能であることなどからもうかがえる。

閉鎖的な島国で人間関係が息苦しくなりすぎないための便宜でもあったのだろうが、
それにしたって、復活した敗者が途端に勝者以上の厚遇を受けるなんてことはない。
長い長い懲罰の先に、初めて人並みの扱いを受けるようになったりするだけで、
敗者だから即勝者以上になれるだなんてことはもちろんない。

後の大勝に結び付けるために、擬似的に敗北を受け入れるなどということもあるが、
それは綿密な計画があって初めて可能となること。未だ権勢の豊かな項羽に対して面従腹背を
尽くしていた劉邦が、暴挙からなる自業自得で項羽が支持を失ってからは一気に攻めかかって
勝利を勝ち得たのも、参謀の張良らによる穏健な策略があって初めて可能となったこと。

チンパンジー以下に知能を低下させる、精神薄弱化洗脳がトリックだった聖書信仰に
そんな綿密な推し量りは毛頭なく、禁治産処分のサナトリウム生活あたりが
信者救済の関の山でもあった。明らかにそれは人並み以下の扱いを受ける事態であり、
敗者復活を認めても敗者ゆえの厚遇までは認めない日本の伝統的なシステムにも則っているし、
十分な計算があって初めて可能となる、擬似的な敗北を通じての勝利なわけでもない。

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358 2011/11/15(火) 12:14:30 ID:itGcNpzhFg
聖書圏にもいくらかの策謀を企図する慣習がありはするようだが、その発祥も近世以降で、
カトリックなどからの弾圧を受けたせいで陰湿なひがみの持ち主のたまり場にもなり、
あまり理性に根ざした優秀な策謀をこしらえることもできなかった。つまり、
「陰謀」止まりになったということで、それは策謀として下手であったからこその結果だった。

遥か3100年前、太公望の時代から策謀を一種の兵法として厳格に捉え、その深化にも
努めてきたのが東洋人であればこそ、一時の負けを通じて恒久的な勝利を得るような離れ業をも
可能としたのであって、それはむしろできないほうが普通なこと。勝つためには勝たねば
ならないと考えるのがごく普通なことで、負けて勝つことすら可能とするような超絶技巧を、
チンパン以下の知能指数であるキリスト教徒などが実現し得なかったのも、当たり前の至りだといえる。

「苟くも仁を志せば、悪むこと無し」
「少しでも仁を志せたなら、憎む気持ちというのは自然となくなるものだ。
(仁者が憎しみを抱くのも、仁をうっかり忘れた時。『仁者こそはよく人を憎めもする〔里仁第四・三〕』
とあるのは、普段憎しみに囚われていない仁者が急激に抱く憎しみこそが最大級の憎しみともなるから)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・里仁第四・四より)

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359 2011/11/16(水) 13:41:49 ID:cmK6u3o/hk
光を光と見なすものは、闇を闇と見なし、闇を光と見なすものは、光を闇と見なす。
まさに光と闇こそは、正邪善悪の正しい認識と、その転倒夢想とを表徴する
最たるものであり、易学も正邪善悪の分別法を「陰陽」に見立てて提示してもいる。

光と闇ほど相違が明白なものは他になく、「光は闇である」「闇は光である」
というような混同が、生まれつきの全盲者でもなければありはしない。
視力を持つ生物は必ず光と闇を見分け、光と闇を見分けるためにこそ視力を持ってもいる。

光と闇を見分けないのなら元から視力などいらないのだから、視力を肯定する以上は
明暗の区別をつける。仏教のように眼識の普遍性を否定して善悪を超越する
のならともかく、視力を肯定するのなら必ずそこに明暗の区別がある。

明暗の区別がある以上は、正しい区別と間違った区別とがある。
光が光であり、闇が闇であることは、視力の肯定者である以上は普遍性を付与すること。
しからばなぜ、光を闇とし闇を光とする過ちが生ずるのかといえば、それは見た者の
脳内での錯覚による。暗いところで見た多少明るいものが、明るいところではむしろ
暗い部類のものに見えたりするように、視覚情報を処理する大脳後頭葉が明暗の区別を錯覚する。

それと同じように、本当は悪の部類に入るものを、善であるかのように錯覚させる
洗脳情報が大脳側頭葉に一時保存され、自我がその情報を是と見なせば前頭葉に長期保存される。
そのような反倫理洗脳が日々蓄積されていけば、本人自身が自発的に善悪を転倒させた
劣悪な思考や言動ばかりをこなすようになって、正しい思考や言動ができなくなってしまう。

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360 2011/11/16(水) 13:42:53 ID:cmK6u3o/hk
若いうちなら、そのような洗脳からの脱却もまだ可能だったりするが、寿命の大半を
洗脳状態に置かれ続けてきた高年者などの場合には、もはや完全な洗脳からの脱却も不可能。
せいぜい本人たちが光と見なしているものを無理やり闇とさせ、闇と見なしているものを
無理やり光とさせるぐらいしか、本人たちを洗脳の蒙昧からなる破滅から引き止めるすべはない。

本人たち自身はまだ光を闇と、闇を光と強固に思い込んでいるのだから、嫌がるところを無理やり
闇から引き剥がして光に繋ぎ止めるしかない。本人たち自身は、光から引き離されて闇に
つなぎとめられる仕打ちだと誤認識するような処置こそは、本当に被洗脳者を救う手立てとなる。

「坤は厚く物を載せ、徳は无疆に合し、含弘光大にして、
品物ことごとく亨る。(略)王事に従うとは、知光大なればなり」
「全陰の坤卦は極めて多くの事物をその上に湛え、全陽の乾卦と同等の聖徳で以て
万物を光が満たすようにことごとく包含してその使命を成就させる。
王君に臣従する形でことを行えばうまくいくが、これはその知恵が光大であるからだ。
(全陰の坤卦は確かに、全陽の乾卦と似たような性質を持ってはいるが、
万物を地の底から突き上げる縁の下の力持ち的な存在であり、
主導者ではなく追従者としてやっていってこそうまくいく。
全知全能とされる聖書の神なども、追従者ですらあれば吉祥なのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・坤・彖伝、六三象伝より)

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361 2011/11/17(木) 13:22:04 ID:NadLcE6lVg
>>359の図でいえば、棒の影になっているところが、一切皆罪の聖書圏。
その中では比較的明るいBの部分がキリスト信仰。
BとAは同じ明るさなのでAもキリスト信仰と同等だが、
非聖書圏である棒の影の外では、キリスト信仰もまた一種の暗がりに相当する。

精神薄弱による不能状態が、かつて「白痴」という差別語で呼ばれていた。
これは精神薄弱の蒙昧にあるものが、全くつまらないようなことでもいちいちウレシ
がったりしていたことから来ている。それと同じように、全くトンチンカンな実定法の
違反者を容赦なくコロし尽くしていく旧約のユダヤ教義に強迫観念を抱いてしまった
被洗脳者が、そこでキリストを信仰した時にこそ、キリストが光明であるかのように映る。

本当は元から精神薄弱でない状態、ユダヤ教義からなる強迫観念なんかに囚われていない
状態こそは真に明るい状態であり、その状態から鑑みれば、白痴がウレシがっているような
ものはみな全くつまらないものばかりだし、キリスト信仰だって陰湿な暗がりのうちに入る。
暗闇の中で比較的明るく見える暗がりは、本当の明るみの中では真っ暗闇にも等しいのだ。

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362 2011/11/17(木) 13:22:18 ID:NadLcE6lVg
「季子然問う、仲由、冉求は大臣と謂う可きか。子曰く、吾れ子を以って異なるを之れ問うと為せり。
曾ち由と求を之れ問う。所謂大臣なる者は、道を以て君に事え、不可なれば則ち止む。今の由と求や、
具臣と謂う可きか。曰く、然れば則ち之れ従う者か。子曰く父と君を弑するには、亦た従わざるなり」
「魯の家老の身内である季子然が問うた。『あなたの弟子で、いま私に仕えております子路と冉求とでは、
どちらのほうが優れた臣下と呼べるでしょうか』 先生は言われた。『私はあなたがもっとマシなことを
聞いてくるものかと思っていましたが、子路や冉求のことですか。大臣というものは、道義に即して
主君に仕え、それが不可能であれば辞職も辞さないものです。しかし、あの二人はただあなたに
くっ付いていってるだけの存在です』 季子然『では私に対して常に絶対服従でいるのでしょうか』
『さすがに親や主君を殺すような真似をすれば、服従もしないでしょう』 (凡庸な臣下である子路や
冉求ですら、親子兄弟での殺し合いを画策するような者には従わない。キリストに服従するということは、
ユダヤ洗脳の外側で見れば、まさに下の下の下の、奴隷人畜と化すどす黒い真っ暗闇であることが分かる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・二四)

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363 2011/11/18(金) 13:10:31 ID:8rAWJXeAMk
イエスは、ユダヤ洗脳という真っ暗闇の中に「心神喪失の気休め」という
多少光っぽいものをもたらしただけで、それもユダヤ洗脳の外側から見れば暗闇である。

ユダヤ洗脳を全くの抜きにして、キリスト信仰だけを見てみれば、それは一つの暗闇である。
マッチポンプの脆弱なポンプであり、マッチの大火を少しも消しとめはしない小水である。

ユダヤ洗脳とキリスト信仰とが、マッチポンプという暗闇のセットであるため、
この世から「暗闇の標準」を絶やすというのなら、この二つを絶やすべきだ。
ユダキリを絶やしたからといって、この世から暗闇が消え去るなんてこともなく、
ヤクザやマフィアみたいな宗教性を持たない闇組織が存続することはあり得る。
しかし、そういった闇組織は宗教信仰などによる正当化を受けずに、始めから
村八分扱いを受けるため、社会的な多数派にはなり得ない。「犯罪稼業」という
暗闇がカルト信仰によって正当化推進されたときにこそ致命的な災禍を招くが、
それは同時に、当該のカルト信仰が犯罪稼業の標準を捉えている場合にも当たる。

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364 2011/11/18(金) 13:10:46 ID:8rAWJXeAMk
浄土信仰の悪人正機も犯罪稼業の正当化にすら見えなくもないが、実際のところ、
悪人正機も仏法の標準を捉えた正確な仏説であり、仏説であることのほうが
主体となって、信者を無意識から断悪修善へと導くようになっている。
だから浄土信仰は犯罪稼業を推進しないが、ユダキリ信仰はそうではない。

仏法に即していないのはもちろんのことだが、犯罪稼業を正当化する邪念の標準としては
えらく出来たもので、その点に関して疑いを差し挟む余地はない。この世に暗闇をもたらす
邪教の標準としてユダキリがピッタシカンカンなのは間違いないので、その負の名誉に即して、
まともな倫理観に基づいた場合の標準としての根絶措置をも受け入れるべきなのである。

「蟄蟲咸な俯して内に在り、皆な其の戸を墐る。
乃ち獄刑を趣し、有罪を留むる毋し。祿秩の當たらず、供養の宜しからざる者を收む」
「寒気が増して虫たちがみな内に入ろうとするため、戸を塗り固めて侵入を防ぐようになったころ、
王者は処刑を促して、もはや重罪人を牢屋の暗闇にとどめておかない。収入が不正に多かったり、
身だしなみが分不相応に華美であったりする者に対しても、矯正を講ずる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・月令第六より)

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365 2011/11/19(土) 13:46:12 ID:lvnCLGZIiA
孔子の言うことと、イエスの言うことは漏れなく全て相反しているため、
どちらかを師とする以上は必ずもう一方を反面教師としなければならない。
一方の師のいうことをよく聞いてその実践に務め、もう一方の反面教師の
言うことはいい加減に聞いておいて、絶対に実践なんかしないように努める。

仏教でいう「顕教」に即するなら、反面教師の言うことは元から聞くべきですらない。
悪の規範を聞くだけ有害無益なことであり、最初から完全に無視し去ってしまう。

「密教」に即するなら、反面教師の言うことも一応は聞いておいて、それを実践する
誘惑に対しては、絶対不動の姿勢を貫くことが修行の一環として認められもする。

清濁併せ呑んだ上で断悪修善に持ち込む密教のほうが、もし修行が成就できたなら、
始めから清濁併せ呑まずに断悪修善を始める顕教よりも、より優位になれるという。
ただ、密教の修行を成就させることは不可能にも等しいほど困難なことであるために、
弘法大師の興した真言密教ですら、大師に匹敵するほどもの後継者が未だ現れていない。

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366 2011/11/19(土) 13:46:25 ID:lvnCLGZIiA
今ここでは、権力犯罪聖書(通称聖書)の邪悪な記述をしらみつぶしに潰しつつ、
権力道徳聖書(通称四書五経)の記述の正しさを確認するという、密教的な作業を
試みているが、これも決して容易いことではなく、ヘタすれば犯罪聖書の邪義に
取り込まれて、劣悪な思考規範や言動規範が身に付くことにすらなってしまいかねない。

だから誰しもにこんな荒行を勧めるようなことは決してせず、世間一般の多くの人々に
対しては、始めから犯罪聖書なんか読まずに四書五経だけを勉強する、顕教的な修学の
ほうを推奨していく。もちろんここでの密教的な勉学も「誰にも教えない」なんてことは
ないが、修学を希望するものには、全人生をふいにするぐらいの覚悟を必ずしてもらう。

孔子が正義の教師として極めて優れている一方で、イエスが邪悪の教師として極めて
秀でているのも確かなことなので、イエスのほざく邪義には絶対に取り込まれず、
取り込まれた場合には禁治産にすら甘んずるというぐらいの覚悟でいてもらう。

「父母舅姑の所に在るとき、(略)足垢つくときは、湯を沸かして洗わんと請う」
「父母や舅、姑の所にいる時は、その足に垢が付けば、自分から湯を沸かして洗おうとする」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)

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367 2011/11/21(月) 13:55:37 ID:20KSST9XKg
ただ「愛する」ということは、人間にとって最低レベルの情念であることが
孔子や孟子によって再三に渡って指摘されている。「愛しても敬いがないんなら獣畜も同然だ」
と孟子もいい、人間なら愛という感情に高い品性の備わった体系性を持たせるべきだとする。

たとえるなら、ボノボやチンパンジーも同然の、獣的に無軌道な愛が「洪水」である一方で、
親愛や仁愛といった志向性の備わった愛は、「治水によって自在に扱えるようになった用水」だといえる。

親愛や仁愛が人間精神に制御されて、その糧として自在に用いることができるようになった愛である一方で、
獣愛は人間精神の制御を全く受けない愛で、発露が行き過ぎると人間精神のほうを阻害すらするものである。

人間精神の部下となった親愛や仁愛こそは世の中に有益な影響をもたらす一方で、それ自体が一個の
至高価値と化した状態の仁愛は、世の中に氾濫すればするほど有害な影響を招く。獣愛も夫婦の営みや程度を
守った色遊びに用いられるぐらいなら許されても、人間社会を司る原理などとしては絶対に用いてはならない。

獣愛がメディアなどでも大々的にもてはやされて、それ以上の価値など存在しないような風潮にまで
持っていかれている点では、今の日本も聖書圏と様相を一にしている。君父への敬愛や万有愛護の仁愛を
蚊帳の外に追いやって、獣愛を原動力とする強欲ばかりを煽って、奴隷や牛馬も同然の過酷な経済活動に
従事させる。その原動力となっているのが一応は愛の一種であり、愛ゆえに多少は気休めともなるから、
民衆も自分たちが酷い迫害下に置かれていることを自覚しながらも、今の世の中の根本的なあり方に
疑義を呈するところまでには頭が回らない。まさに、愛の「鎮痛剤」としての悪用の最たるもの。

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368 2011/11/21(月) 13:55:55 ID:20KSST9XKg
愛は愛で、これからもあるのである。親愛や仁愛はおろか、獣愛だって完全に否定されはしない。
ただ、獣愛に関しては、今のような至上の存在としての地位は剥奪されて、公けには劣後されるべき
ものとなり、愛を語るなら親愛や仁愛を語るべきだということになる。親愛や仁愛は人間道徳に調律
された愛であるため、結局それら自体よりも「人間道徳」という枠組みのほうが総体的な理念ともなる。

今の世界人口爆発の元凶ともなっている、目的性抜きの単なる愛を至高の理念として世の中に押し付けることが、
もう許されない。単なる愛を至上命題として掲げるのはアブラハム教の特性なので、単なる愛を世の中の
至高理念にしないことは自動的に、地球社会での、アブラハム教の多神教に対する劣後ともなる。

「男女別ありて然る後に父子親しみ、父子親しみて然る後に義生る。
義生りて然る後に礼作り、礼作りて然る後に万物安し。別なく義なきは、禽獣の道なり」
「情愛が押し殺せるぐらいに男女の分別が付けられて初めて父子すらもが親しめるようになり、
父子が親しめるようになって初めて偽りでない道義心が起こる。本物の道義心が備わってから初めて
本気で礼節を嗜むようになり、本気で礼節が嗜めるようになってから初めて、何もかもが安泰となる。
男女の分別も付けられなくて女々しい情愛にまみれ、道義心も持てずにいるのでは禽獣も同然だ。
(父子の心は男女の情愛などよりも嗜み難いものだからこそ、情愛の総体的な劣後が必須となる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・郊特牲第十一より)

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369 2011/11/21(月) 15:40:57 ID:Rl0utfhgGw:au
>>367訂正:
×至高価値と化した状態の仁愛は
○至高価値と化した状態の獣愛は

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370 2011/11/21(月) 22:53:57 ID:Rl0utfhgGw:au
容量オーバー寸前なので、次スレへ移動。

四書五経 Part7
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132188235...

どこかで経験したような流れだな。

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371 2011/11/23(水) 12:43:30 ID:0XLHgQuyi2:au
>>370はスレ名を間違っていたので立て直し。

聖書 Part7
http://bbs77.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/thought/132195047...

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372 2015/03/19(木) 23:55:08 ID:y3q/3ypOsY
↑「ショックによる死傷者」ってフレーズが良いね。
教養が滲み出てる。

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スレッドタイトル:聖書 Part6

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