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聖書 Part6


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001 2011/03/10(木) 10:43:57 ID:3RmoF4GXTs
世に、「聖書」の名に値する書物は数多く、その分量もほぼ、無尽蔵にのぼる。

特に、仏教の聖書である「大蔵経」や、ヒンズー教の聖書である「ウパニシャッド」、
道教の聖書である「道蔵」などは、一人の人間が一生かけても研究しきれない
ほどもの分量にのぼっており、その内容も極めて優良なものとなっている。

一方で、「新唐書」巻四十五・志第三十五・選舉下に書かれてあるような、厳密な「聖書」の定義には
基づかず、「その道の聖人が書いた書物」という、国語辞典にも載っている程度の一般的な意味に即して、
半ば、冗談交じりや比喩表現止まりの範囲で「聖書(バイブル)」と呼ばれている書物も数多くあり、
仮に著そうと思うのなら、鼻ほじりの聖人が書いた「鼻ほじり聖書」だって著せないことはない。

そこで、そのような適当な定義に即して勝手に名づけられた「聖書」は、すべて一旦排除して、
人類が著した聖書の中でも、最も聖書らしい聖書を挙げるとすれば、それは「四書五経」だといえる。

仏教などの本格的な聖道宗教が、書物ばかりに頼らない実践からの修養を重んじるのに対し、
四書五経などを聖書とする儒学の場合には、公務員などとして旺盛に働きながら勉強すること
をも念頭に置いているため、自然と教義的な実践以上にも、文献への依存性が高まっている。

人が聖道を目指す上で、聖書のような書物に依存することは、まったく程度の低いことであり、
程度の高い学問や宗教であればあるほど、聖書自体への依存も軽減されていくわけだが、ことに、
書物依存を脱け出せない範囲での、聖書に即した求道を目指す場合に、最大級の模範となるのが四書五経であり、
だからこそ四書五経こそは、より程度の高い教学の聖書以上にも、聖書らしい聖書であるのだともいえる。

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048 2011/04/06(水) 18:01:55 ID:pmntskeapc
ちなみに>>47の孔子の天論は

「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。
やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」
(権力犯罪聖書——通称聖書——損世記1:1-3)

というような、ロゴス中毒に侵された犯罪聖書の記述の否定にもなっている。
易学の勉強によって天地万物の創生についても深く考究しぬいていた孔子が、
万物が言葉によって創造されたりはしていないことを始めから見抜いていた。

2500年の、遠回り。
あまりにも恥ずかしすぎて、なかなか受け入れもしがたいのだろうが、
過ちてその過ちが看破された以上は、改むるに憚らぬ以外に余地はない。

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049 2011/04/07(木) 12:16:45 ID:iEr9EU3r5o
人が抱く「おそれ」には、最低でも二種類ある。

・目上の相手に対する敬いが帯びる畏れ
・害獣やキ○ガイなどの警戒対象への恐れ

四書五経が提示する、主君や父祖や夫などに対して抱くべきとされる「おそれ」は前者であるのに対し、
犯罪聖書が提示する、神に対して抱くべきだとする「おそれ」は後者にあたる。

前者の「おそれ」は漢字で「畏れ」と書くべきで、これは「かしこまり」という意味がある。
後者の「おそれ」は漢字で「恐れ」と書くべきで、これは「こわがり」という意味がある。

かしこまるということと、こわがるということは全くの別物であり、君父へのかしこまりが
害獣やキ○ガイに対するようなこわがりであっていいはずはなく、肩の力を抜いた
落ち着いた状態で接するのが、正式な礼法に適った君臣父子の関係でもある。

決して両者の「おそれ」を混同してはならず、害獣やキ○ガイに対して、
君父に対するような畏敬を抱いたりする過ちを犯してもならない。

「天の威を畏れて、時こに之れを保んずる」
「天の威光に畏れかしこまることで、よく国を保つことができる。
(天地すら自分が創造しただなどとうそぶく虚言家を超越神として
畏敬したりしていたのでは、一国を保つことすら危ぶまれることとなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・頌・周頌・我将より)

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050 2011/04/07(木) 18:23:28 ID:g/FzXDUWcY:DoCoMo
「かしこまる」という意味でも使われる「畏れる」は、善悪の分別もよくわきまえた聖賢などを、
その言行もよく慮って、適切に言うことを聞いたり、その行いを見習ったりするためになされるべきもの。

「こわがる」という意味でも使われる「恐れる」は、善悪の分別もつかないような狂人や獣などが、
他者や人間などに危害を加えてくる危険性を察知して、警戒の対象とするためになされるべきもの。

畏れかしこまって言うことを聞いたり、行いを見習ったりすべき相手というのはそれはそれでいるが、
それは決して、善悪の分別も付かないままに暴力の濫用に走るような邪神だったりするわけはなく、
それこそそのような邪神に対してこそ、キ○ガイや害獣に対する場合と同じような「恐れ」を抱く必要がある。

ただただ莫大な危害をもたらすばかりの邪神に対して「畏れ」を抱き、ちゃんと善悪の分別も付けて、
善言や徳行に専念できる聖賢などに対しては、かえって「恐れ」を抱いていたりする現代人。
人の態度姿勢の一種としての「おそれ」を、全く間違った扱い方ばかりに集約してしまっている。

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051 2011/04/11(月) 15:13:36 ID:L4g0N7hc3k
欧米聖書圏の重権力犯罪者たちが、全財産を放棄して公平分配に帰し、
本人たち自身もまた地獄の業火に焼かれるような重罰を受けたとしても、
心からの反省による改悛がないのでは、微塵の慈愛による救いにも与れまい。

当然、もう二度と聖書信仰のような劣悪なカルト教義を嗜好しようともせず、
自分たちから進んで完全なる棄教を宣言するぐらいでなければ、
心の底からの反省の気持ちなどというものも、決して湧いてきやしないから。
聖書信仰のペースで何をしようとしたって、救いはないと知らねばならない。

「厩焚けたり。子朝より退きて曰く、人の傷えるか。馬を問わず」
「ある馬小屋が大火災を起こして焼け落ちた。先生は朝廷から退出してから
『人に怪我はなかったか』とだけ質問され、馬の安否は一切問われなかった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・郷党第十・一三)

馬小屋といえば、イエスの生れ落ちた場所としても有名だが、
聖徳太子も馬小屋の門戸の前で生まれたことから「厩戸王子」と呼ばれていた。
馬小屋の内で産まれたか外かで産まれたかの違いが、安否を気遣うにも値しない
獣も同然の品性が、当人に宿るか否かの分かれ目ともなったのだろうか。

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052 2011/04/11(月) 15:50:29 ID:L4g0N7hc3k
聖徳太子の場合は、父母共に皇族であり、その素性も完全に明らかなわけで、
母の穴穂部間人皇女が馬小屋の前でたまたま産気づいたという、その由来もほぼ明らか。

イエスのほうはといえば、マリアが馬小屋ないし家畜小屋でイエスを産んだという
ところだけが明らかで、なぜマリアが家畜小屋でイエスを産んだのかは定かでない。

敷地内に馬小屋があるほどにも富貴な家で、出産間際の女性がたまたま馬小屋の前で
産気づくぐらいのことは、全く想像がつく。しかし、わざわざ不潔な家畜小屋の中で
あえて我が子を産むなどというのは、よっぽどおかしな理由がないとあり得ないこと。

自分の家や、実家で産むことも憚られるような不義の子を、ちょうど密通相手との野合の
場でもあった家畜小屋あたりで産み落としたというのが、本当のところだったのだろう。

もちろんマリアが馬と獣姦して半人半獣の子を産んだなどというわけでもないだろうが、
家畜小屋での密通が相応であるような、いかがわしい相手との子ではあったのだろう。

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053 2011/04/11(月) 19:07:37 ID:L4g0N7hc3k
仮に「馬小屋」というものを、イエスの産まれた場所であるにちなんで「キリスト教圏」としてみよう。

その、キリスト教圏であるところの馬小屋が焼け落ちたとして、馬小屋の戸口の前で生まれ、
儒学や道教や仏教などの東洋学の自主勉強によっていっぱしの人間らしさをも身に付けた
聖徳太子に当たるような人間は、馬小屋の中ではなく戸の外で生まれたのでもあるからして、
馬小屋が焼け落ちたとしても助かるだろうし、助かったかどうかはまた別にしても、
人間第一主義である孔子に当たるような賢人にも、その安否を気遣われることだろう。

一方で、まさにその馬小屋の中で産まれ、馬小屋での交合で母親が孕んだらしいことからも
度しがたい獣臭さを帯び、なおかつ自分自身でその下劣さを克服しようともしなかった
イエスにあたるような人間は、馬小屋が焼け落ちると共に本人自身も焼け死ぬだろうし、
焼け死んだところで、人としての最低限の品性を重んじる孔子などが、その安否を気遣う
ことすらないだろう。なにしろ、馬か何かと同等の品性しか持ち合わせてはいないのだから。

孔子もまた、父母の野合によって産まれた子であり、父親の素性を知らされることもないままに
育った経歴の持ち主であるからして、イエスのような畜生同然の品性の持ち主になる可能性すらあった。
にもかかわらず、自力作善によって道徳者として大成したのだから、馬小屋に生れ落ちた環境の不遇さ
ばかりに責任を押し付けるわけにもいかない。馬小屋に生まれ落ち、なおかつ馬小屋の環境の下賤さに
順応して、そこからの脱却すらも志そうとはしなかった本人自身の向上心の乏しさこそは、たとえ馬小屋
が焼け落ちようともその安否が気遣われないほどにも、己が生を卑しめた根本要因に他ならないのだから。

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054 2011/04/12(火) 12:31:57 ID:NrSq82XocU
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために 来たからである。
人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」
(権力犯罪聖書——通称聖書——マタイ禍音書10:34‐36)

という本尊の暴言を忘れ去って、平和の徳を乱す不埒な感傷をばら撒き続けるカルト文書。

実際の世界史を見れば、最も平和状態を貫き通しているのはインドで、
外界からの侵略を除けば、内乱などの紛もほとんど存在しない。

次いで平和を最低限守っているのが、中国や日本などの極東社会であり、
一時の戦国時代と長期の泰平統治を順繰りにする歴史を紡いで来ている。

その次がイスラム圏で、内紛以外の戦乱にはかなり積極的でいる。

そして最悪が聖書圏であり、自他を害する内外争乱に没頭し続けている。

アブラハム教がやたらと好戦的であることは、もはや間違いのないことで、
真の平和を導くのなら、アブラハム教増長の収拾が必須であることが確か。

その精神原理となっている犯罪聖書なども、戦乱を企図しようが平和を企図しようが
やたらと感傷的であり、感情の焼け付きを抑えることで真の平和が獲得されるという
「礼記」楽記第十九の元祖平和論にも悖っている。アブラハム教の中では比較的優良な
イスラムもまた修羅道であるには違いなく、平和を実行する主体にだけはアブラハム教はなり得ない。

「其の以てする所を視、其の由る所を觀、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋さんや、人焉んぞ廋さんや」
「己れの義とするところやより所とするところ、安んじようとするところを観察すれば、どんな人でも隠し事はできない。
(人類を滅亡へと導く邪義に安んじているようでは、剣呑さの隠蔽なども全く覚束ない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・為政第二・一〇より)

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055 2011/04/13(水) 12:29:59 ID:NhbHGyc6XU
「自分ひとりで何でもできる」というような思い上がりを、ちゃんと父祖の身元も調べ上げた妾腹の私生児(孔子)ではなく、
父親に認知されなかったことに憤って、あらゆる血族上の父権を否定しようとした私生児(イエス)こそが抱いた。

これまた「個人主義」などという言葉で正当化される、実際問題、実在している君父らからの
恩恵すらも無視しての自意識過剰こそが、この世に救いようのない災禍をこそ撒き散らしているのであり、
その災禍からのマッチポンプな救済を企図して、これまた偽善の行いによるによる自己満足を増長させている。

人間たちの思い上がりに神からの天罰が下されるのではなく、人間たち自身の思い上がりが自業自得の災禍を巻き起こすのであり、
自業自得の受難までいちいち救ってやったりするのは教育上よくないから、神仏もあえて救わずにいようとするのみ。
他力本願の形での神仏帰依の体裁すら整えることなく、五逆や誹謗正法にまで走りつつの受難、これを自業自得という。

「彼の蒼天よ、我が良人を殲くす。
如し贖う可くんば、人其の身を百にもせん」
「ああ、蒼蒼たる上天よ、なぜ善人をこの世から滅ぼし尽くしたのか。
もしこの責任を贖うというのならば、百人の犠牲によっでも足りはすまい。
(秦の穆公が亡くなったときの嘆きの歌。実際に万億の民の命を預かっていたような主君の命が失われたことは
百人やそこらの命とも引き換えにならないほどの損失となり得るわけだが、君父の尊位もわきまえぬ娼婦の私生児の、
自意識過剰な思い上がりにかられた自殺行為が、万人の贖いに匹敵するようなことも、もちろんない。)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・秦風・黄鳥より)

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056 2011/04/14(木) 12:39:53 ID:3EdNCv5wGI
こちらは、「儒学」という学問の冷徹な研究を、ここでの主題としているわけで、
信仰対象としての儒教や、神仏への信仰それ自体などをここでの主題としているわけではない。

カルト教義を正当化する邪神を信じていたいってんなら、別に信じてりゃいいのであって、
ただ、世の中に多大なる危害や迷惑を撒き散らす邪義の狂信者である以上は、
受刑や強制入院や禁治産や参政権剥奪などの、それぞれの病状に応じた処分を受けるべきだということ。

もちろん俺自身はそんな処分を受けたくないから、カルト教義を信仰対象にしないのはもちろんのこと、
肯定的な研究対象にすらすることはない。人々を福利厚生へと導く純粋正学=儒学などに対照しての
検察目的の研究対象にすることはあっても、信仰や実践の対象としての研究対象にすることもない。

信仰という点において、俺自身はカルト信仰の敵になるつもりもなれば、味方になるつもりもない。

「君子の讒を信ずるや、之れに醻いること或るが如くす。
君子の惠ならざるや、舒むろに之れを究めず。
木を伐るには掎よせてきり、薪を析くにも杝よせてさく。
彼の有罪を舍てて、予にのみ之れを佗わしむ」
「為政者たちまでもが卑しい讒言を信じ込み、その信仰に報いがあるかの如く思い込んでいる。
それによって為政者たちが薄情になることにも、おもむろに極まることすらない。
木を切るにも木を引き寄せて切り、薪を割るにも薪を引き寄せて割るほどにも、視野が狭くなっている始末。
罪ある者をも罪なしとして、私のような無辜の市民にばかり重荷を担わせようとする。
(詩経には、過信の弊害を説く歌が多数載せられているが、決して不信を助長させようというのでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・小旻之什・小弁より)

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057 2011/04/15(金) 13:18:31 ID:IScrJQEuK6
生まれたものは必ず死ぬ、諸行無常の法則はキリスト教徒やキリスト自身にとってですら
絶対的なものであり、不滅の命などというものが本当に得られたためしもない。これが第一。

そもそも永遠の命などを得ようと願うことからして、煩悩に侵された妄執であり、
輪廻転生の業を菩薩として徐々に減らして行き、最後には二度と生まれ変わることのない如来へと
なることを、自力で画策まではできずとも、そこにこそ「あるべき姿」を認めなければならない。これが第二。

自分自身が菩薩行や成道を企図せずとも、断悪修善や勧善懲悪を「生の本質」であると捉え、
悪逆非道や善悪みそくそは、生の中でも特に「悪因苦果」という特殊な現象の種子となるばかりで、
それは「人の命が生きる」という方向性に限ってみても、至極瑣末なものにすぎない。これが第三。

自分自身がキリスト教徒であるような人間は、せいぜい第一の問題点にまでしか頭が回らず、
第一の問題を乗り越えたところで、さらにその先に第二第三の問題が山積していることにまでは頭が回らない。
あまりにも多くの勘違いを積み重ねてしまっているが故に、その払拭を想定するのも気が重くなる。
これが、一度キリスト信仰に陥ってしまった人間が、他の教学理解にまでは頭が回らなくなる原因でもある。

「神は飲食を嗜めたまい、君を使て壽考らしむ。
孔いなる惠みと孔いなるさいわい、維れ其れ之れを盡くさん。
子子孫孫まで、替わること勿く之れを引かしめん」
「神さまもお供えの飲食物を受け取られまして、あなたの長寿を保証せられます。
大いなる恵みと大いなる福徳とを、あらん限りに尽くされまして、
子子孫孫の代代に至るまで、その恩恵を末永く引かせ給います。
(個々人の長寿と、子子孫孫の永久なる繁栄は事実あり得ることだ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・小雅・北山之什・楚茨より)

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058 2011/04/15(金) 22:57:36 ID:IScrJQEuK6
先祖や君父への畏敬を欠かさない者は、決して自ら自身を誇り高ぶったりすることはなく、
それでいて相応な畏敬を抱くことで卑屈になったりはせず、
人としての最大級の思い切りのよさと共に善行を為し、
以て自らの長寿と、先祖代代から子子孫孫に至るまでの永久なる安泰とを企図する。

先祖や君父への畏敬をかなぐり捨てたカルト信者は、自意識過剰の思い上がりを
「主への敬服」などにすり替えて卑屈の極みと化し、
人としての最大級の思い切りのよさと共に悪行を為し、
以て自らの短命と、家庭の崩壊とを「不滅の命の獲得」にすり替える。

先祖代代の正統な家系の存続というのも、後世に福徳をもたらす素養である以前に、
大いなる福徳がもたらされ続けてきた結果なのであり、この上なく安泰な
家であったからこそ、代々の系譜が厳重に保管されていたりもするのである。

そこに不平を抱いたりすることがあるとすれば、それは自分の先祖が不行跡の持ち主であるが故に、
不幸の種子までもが自分に受け継がれている可能性に対するコンプレックスが原因だったりするわけだが、
先祖代々の系譜が厳重に受け継がれていくほどにも、安泰だった系譜が羨ましいというのなら、自分自身
こそは安泰な家系の始祖となればいいのであって、だったらただただコンプレックスばかりに取り込まれて、
後々の子孫の不幸の種子にもなるような、自分勝手な放蕩ばかりに明け暮れていたりしてもいいわけがない。

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059 2011/04/16(土) 01:27:07 ID:U8nGDXRc9E:DoCoMo
条理はいつも他力本願であり、ご先祖さまのおかげ。

不条理はいつも自業自得であり、自分のせい。

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060 2011/04/16(土) 12:32:25 ID:RHn6fHxd1k
「夫れ道は大路の若く然り。豈知り難からんや。人求めざるを病うるのみ」
「聖賢の説く人倫の道は、大道のごとく誰でも見つけられ、誰でも歩むことができるのに、誰もこれを求めない。残念なことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・告子章句下・二より)

むしろ誰しもが狭隘な獣道へと押しかけて、広大にたたずむ人道を顧みようともしないのが乱世。
儒学の本場である極東社会ですら、人道を打ち捨てての戦乱に没頭する時期はそれなりにあったわけだが、
ちゃんと四書五経などを参考にして泰平を堅持していく、大道を歩み続けてきた歴史のほうが遥かに長い。
最悪級の乱世を経験してもなお、泰平を持ち直した経験も数多く、「人工的な大道闊歩の復元」
すらもが可能であることを、総出を挙げての実践によって、幾度となく証明し続けてきている。

「迺こに皐門を立てるに、皐門の有れ伉き。
迺こに應門を立てるに、應門の將將たり。
迺こに冢土を立てるに、戎醜も攸て行たれり」
「王宮の外郭の門を建てるに際しては、できる限り高く広くし、
内郭の正門を建てるに際しても、できる限り広大にした。
地霊を祭る大社も建てるから、できる限り多くの人々が祭りに集ってくれるように。
(文王の祖父古公亶父による周建国伝説の歌。誰しもが集える広大な門をあえて作ることにも、
一部の人間しか集えない狭隘な門をあえて作ることにも、それぞれそれなりの意味がある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・文王之什・緜より)

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061 2011/04/17(日) 13:19:26 ID:DvNZAcNmas
「書して不法なれば、後嗣何をか觀ん」
「記録の仕方に不法な部分があれば、後世の人々は何をそこから見習えるだろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公二十三年より)

ヘロドトスの「歴史」よりもさらにその成立年代が古く、記録の正確さでも遥かに上を行く
「春秋左氏伝」が四書五経の一書として今では認められていて、孔子やその門徒であった左丘明が
この「左伝」を世界初の本格的な歴史書としても成立させたから、後世にも「史記」や「漢書」
「後漢書」などの数多の正史が中国では編纂され続け、明らかに正統な筆法に則った
史書を律儀に成立させていく伝統が根付きもしたのだった。

先述のヘロドトス「歴史」もフィクションや誇張だらけの小説文学止まりな上、
何といっても、全くのフィクション史としてのイスラエル史を記録した旧約聖書が
正統な歴史書扱いされてきたのが西洋なわけで、そのせいもあって、正統な記録に則って
過去の歴史から学ぶという慣習が西洋には全く根付いておらず、大昔の先祖がどんな行状の
持ち主であったのかもほとんどがうやむやにされて、先祖供養がなされることももちろんない。

「政、法に率わずして心に於いて制す、民各おの心有り、何の上か之れ有らん」
「政治が古えからの法規に則らず、心の赴くままにやっつけられるばかりとなれば、
民も政治家への信用を無くして、それぞれ勝手気ままに振る舞うようになるばかりである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・昭公四年より)

各々が勝手気ままに振る舞う民ばかりが生じてしまうのも、不法な歴史記録ばかりしか遺さずして、
後世に見習うべき教訓を伝えようともしなかった西洋の為政者たち自身の失策でもあるのであり、
それが何も、民たちにとっての不可避なる有り様なのでもなければ、もちろん神の業などでもない。

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062 2011/04/19(火) 13:14:45 ID:.jpc0OZzys
いま、世界で最も荒廃した地域に当たるのが、中南部のブラックアフリカ。

イギリスによる植民地化加害を蒙ったインドをも上回る貧困状態と、
アメリカやロシアに武器を売り付けられている中東をも上回る戦乱状態との
両方に動じ同時に見舞われており、あまりにも事態が深刻すぎることから、
数万人規模の殺戮が起ころうとも、大メディアではほとんどまともに取り上げられることすらない。

今のブラックアフリカは、宗教圏でいえばキリスト教圏(カトリックとプロテスタント)であり、
大航海時代に植民地侵略を加えた英欧諸国が、莫大な地産資源や奴隷をアフリカから収奪する過程で
土着宗教からキリスト教に強制改宗させており、邪教信仰による洗脳被害も仇となって、今のブラック
アフリカは、非キリスト教圏である中東(北アフリカ含む)やインド以上もの荒廃に見舞われている。

信じるものこそは、世界でも最悪級の破滅に見舞われているのがキリスト教。
富める者と餓える者との両極に人々を二極化し、人を餓えさせることによって
一部の人間を富ませる重権力犯罪構造全般を確立していく、鬼畜宗教。

「郲高なる惟の嶽、峻く天に極れり。惟の嶽神を降し、甫及び申を生む。
惟れ申及び甫は、惟れ周の翰たり。四國于こに蕃し、四方于こに宣ぶ」
「崇高なるかの嵩山は、高く天にまで至るほど。かの嵩山が神霊を降したまいて、仲山甫と申伯とを産ませた。
仲山甫と申伯とが周の大黒柱となって、四方の国も周に帰服することでの安定を得、周から四方の国へと
布令が宣べ伝えられるようにもなった。(権力道徳者は、ちゃんと国単位での全国の安定を保障している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・郲高より)

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063 2011/04/20(水) 12:07:39 ID:FXcSWHcfXI
実在しない脳内超越神への畏敬に摩り替えることで、自分たち自身の自意識過剰を肥大化させる聖書信仰と、
もはや信仰や畏敬は捨て去りながらも、なにもかもを天邪鬼や疑心暗鬼によって塗り固めようとする洋学と、
いずれもが「自意識過剰の思い上がり」に囚われていることには変わりなく、その思い上がりを根本から
払拭できてこそ到達できる三善道や四乗に、未だかつてただの一度も到達できたことがありゃしない。

信仰か無信仰かなどということは大した問題でなく、むしろ適切な畏敬の持ち主であるかどうかのほうが
遥かに問題であり、聖書信仰者と洋学者とは、人並みの畏敬をかなぐり捨ててまでの自意識過剰に
陥っている点では全く同じであり、故に地獄餓鬼畜生の三悪趣に止まっている点も共通する。

極端に狭隘な領域ばかりに、自分たち自身の自業自得によって没入しているのであり、
それがより一般的、普遍的な信仰姿勢や学究姿勢だなどと思い込んでいるのも、ただの勘違いに過ぎない。

「勤を以て之れを撫で、𨛗を以て之れを待ち、堅疆を以て之れを御し、
明神を以て之れを要し、服するを柔んじて貳あるを伐つは、鄹の次なり」
「努めて人々をなつけ、寛容に服するのを待ち、時には堅く強い態度で抑え付けもし、
天地神明への畏敬によって人々の心を一つにし、帰服したものには優しく接する一方で、
未だ二心のあるものを断固討伐していくことが、最上の徳とまではいかずとも、その次ぐらいだとはいえる。
(堅強であることも手段の一つとしては認めるが、信が五常〔仁義礼知信〕のうちの一つに
過ぎないのと同じように、堅強さや頑なな信仰ばかりに全てを還元するものでもない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・成公九年より)

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064 2011/04/21(木) 12:35:23 ID:8FBzQCqL/Y
江戸時代のキリシタン禁教期に、儒者などとの論戦に敗北して棄教した数多の宣教師のうちで、
特に棄教の理由として多かったのが、「奇跡や救いなどちっとも起こっていない」という点。
特に儒学や仏教によって、実際論や実相論が篤く重んじられてきたこの日本で、
脳内の妄想だけでの、奇跡だの救いだのが通用することはなかった。

あと、犯罪聖書で規定されている「神」なるものが、ただの、一段階限りの形而上に
存在する神であるに過ぎない点。一段階だけ形而上の神が存在するのなら、そのまた形而上、
さらにそのまた形而上といった入れ子構造が、考えてみるだけでも想定しうるわけで、
しかもそのような形而上への探求の重畳が、荘子の思想の一部などとしてとっくの昔に
展開されていたり、密教の曼荼羅構造として本格的な信仰対象ともされていたりするために、
ただの一段階限りの形而上であるに過ぎない神などへの信仰が全く魅力にも欠けている点。

人間という生き物自体、先祖代代の系統の存続によって生まれ付いているわけで、
父母や祖父や曽祖父といった風に、何代も前にまで親族を遡っていくことができる。
先祖代代仕えている主君なども、由緒の正しさによっては何十代と遡れるわけで、せいぜい
一段階上の上司までにしか考慮が働かないのは、それこそ主人に仕える奴隷ぐらいのもの。

ただの一段階だけ形而上であるに過ぎない神への服従を説く
聖書信仰は、まさに奴隷制の信教化そのものであるといえる。

「鄹を執りて弘からず、道を信じて篤からざれば、
焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡しと為さん」
「善徳を取り成そうとしても決して広きに渡ってはおらず、道義を信じても
薄情なままであるようなら、そんなものは生きようが死のうが大した価値はない。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二より)

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065 2011/04/22(金) 12:44:20 ID:n7ItN7.kx2
キリスト教圏である、サハラ以南ブラックアフリカにおける大量の餓死者の直接的な死因は、
干ばつなどによる飲食物の不足である場合が多い。しかし、まともな自給自足も叶わないような
難民を増大させるほどにも、個々の国々の国情が不安定化しているのも、かつての奴隷貿易や
今の利権売買などにかまけて、英欧侵略勢力の側について権力を得た一部の支配者が、
文明社会に相応の自他に対する徳化や教育も行わず、それでいて劣悪なカルト信仰ばかりを
蔓延させることで戦乱を巻き起こし続けているからで、決して単なる天災などではなく、
邪教信仰者の文明を悪用した放辟邪侈が原因となって引き起こされている人災にこそ当たる。

いま、リビアやらエジプトやらの北アフリカ社会の動乱が大きく取り沙汰されているが、
元よりサハラ以南のブラックアフリカは、イスラム圏である北アフリカなどとも比べ物に
ならないほどの荒廃に見舞われ続けているのであり、それはもはや手も付けられないほどの惨状で
ある上に、欧米聖書圏こそが引き起こした大失態であるからして、人災としてのブラックアフリカ
荒廃の実情を、欧米聖書圏によって支配されている今の大メディアなどが報道することはない。

非キリスト教圏であり、キリスト教圏であるブラックアフリカと比べればまだ国情を保てていた
ほうである、北アフリカの情勢が悪化しているから、大メディアなども報道しているのであり、真の
荒廃から目を背けての脳内妄想にふける、邪教信仰の悪癖がメディアをも支配しているのだといえる。

「七八月の間、旱すれば則ち苗は槁れん。
天油然として雲を作し、沛然として雨を下せば、則ち苗は浡然として興きん」
「夏の七、八月ごろに干ばつが続けばたちまち苗は枯れる。このとき天空に叢叢と雲が巻き起こり、
ザーザーと大雨を降らせたならば、苗もたちまちのうちに生気を取り戻して、元気になるのである。
(苛政に喘いでいた民が、仁に篤い聖君の統治によって息を吹き返す譬え。これと比べれば、
水路の際の植物が潤うという譬えが、いかに狭量な我田引水を暗示しているのかがよくわかる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・六より)

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066 2011/04/22(金) 22:48:54 ID:n7ItN7.kx2
俺の、ここ(明和水産)での書き込みで特に専念しているのは、このスレだけだ。

あとはウパニシャッドスレぐらいで、ウパニシャッド自体、
あまり日本国内での注釈や邦訳込みの研究も進んでいないので、
冒険的な探索よりは吟味や実践を第一とする俺自身の方針にも従って、
この四書五経(聖書)スレほどには本腰を入れていくつもりもない。

他のスレやそれへの書き込みなどは、ログを保存することもないような適当な捨て書きばかり。
雑多なスレへの雑多な書き込みを自粛しろというのなら、別にそれでも構わない。
「君子は思うところその位を出でず(憲問第十四・二八)」でもあるべきなのだから。

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067 2011/04/28(木) 10:55:00 ID:b27ZNLz2PE
恐るべきものは恐れねばならないし、畏れるべものも畏れねばならない。
そして、恐るべきものと畏れるべきものとを混同してしまってもいけない。

目の前に野生のトラやクマやゴリラがいれば、それは人間にとっての恐怖の対象になる。
あるいは小学校に包丁を持って乱入してきた無差別殺人鬼なども恐怖の対象になるし、
大地震や大津波などの自然災害だって恐怖の対象にはなる。でもそれらは、純粋に
危険な警戒対象に対する、健全な防御本能の発露の一つとしての「恐れ」であって、
目上の相手に対する敬いを込めた「畏れ」などであるわけでは決してない。

一切の権力を剥奪されている今の天皇陛下などに、恐るべき所などは微塵もないが、
やはりそこには畏敬すべきあらゆる要素が備わっていて、自らが人としての最低限の品位を
保つ目的によっても、「畏れ」を抱かねばならない相手であるという義務感がわいてくる。

野獣や天災や殺人鬼などを警戒対象として恐れる必要は確かにあるが、畏れ敬う必要などは微塵もなく、
逆に天皇陛下などを恐れたりする必要は少しもないが、自分自身のためにも畏れ敬う意義が多分にある。

野獣や天災や殺人鬼こそを畏怖の対象として、いま少しも恐怖すべきところがないことにことかけて
天皇陛下などを畏敬しようともしないような人間ってのは、「恐れ」と「畏れ」を完全に混同しており、
恐怖と畏怖を同一視してしまっている以上は、恐怖する必要のない相手には、畏怖することすらない。

体罰を加えてくる暴力教師などを畏怖していれば、己の修身による治人を旨とする
道徳的な教師への畏怖などにまでは当然頭は回らない。さらには、
そもそも教師ですらないただの犯罪集団を畏怖したりしているのであれば、なおさら。

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068 2011/04/28(木) 13:03:50 ID:b27ZNLz2PE
機運に乗じて大悪を為す不埒者を、だからといって羨望の的にしたり、
挙句には畏敬の対象にしたりしているようなやからは、
聖人の善徳になびき伏せることもあれば、罪人の悪徳になびき伏せもする、
自分たち自身でなびき伏せる相手を全く選べない、はかない小人止まりであり、
だからといってさほど罪になるわけでもないが、同時に権力者をねたむ
資格すらも微塵も持たない、自業自得での下民格であるのだとわきまえねばならない。

「紂の不善や、是くの如く之れ甚しからざるなり。
是こを以て君子は下流に居るを惡む。天下の惡皆な焉れに歸す」
「殷の暴君だった紂王の不善も、いまあげつらわれている程にひどいものではなかっただろう。
(ただ、悪人としてのパブリックイメージが定着して、諸悪の根源というほどもの扱いを受けるようになった。
それはもちろん多少は風評被害でもあるのだが、善いものをより善いように、悪いものをより悪いように
言い広めたがるのも民心の常なので、瓜田に冠を正さず、李下に靴紐を結び直さないように心がける要領で)
君子は下等な悪人として扱われることを一貫して忌み嫌う。天下の諸悪が全てそこに帰することにすらなってしまうから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二〇より)

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069 2011/05/04(水) 16:55:47 ID:4jydPro71.
久しぶりだな。もう滅亡したものかと思っていたが。

「君子の道は闇然として而も日に章らかに、小人の道は的然として日に亡ぶ」
「君子の道は始めは暗がりのようだが、日々の積み重ねで次第に明らかになり、
小人の道は始めは明るげでも、風化によって次第に衰亡していく。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——中庸・三三より)

これはすでに既出の引用だが、君子の場合は始めのうちにこそ暗中模索の努力を積み重ね、
次第に結実の明るみへと進んでいくから「暗闇から光明へ」であるのに対し、小人の場合は
始めから空手形で遊び回って、仕舞いには信用が尽きるから「光明から暗闇へ」となる。

聖書信者は、聖書の信用性が尽きればそれまでだが、四書五経の勉強者の場合は、
四書五経を勉強し尽くした時点でもまだ始まりでしかなく、ここからさらに進学先がある。
それは、膨大な経書群であったりもする一方で、実社会における聖人や賢人との交流、
さらには自らが聖賢となっての、天の理法や仏法などの独力による追求でもあり得る。
だから佐藤一斎も「言志四録」で「太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は
経を師とす(言志録・二)」ともいっている。犯罪聖書のようなカルト文書を絶対的な
模範に掲げる場合だけでなく、比較的優良な書物である四書五経などを模範にすることもまた
最上どころか、中ぐらいの手立てですらない、一切皆悪の濁世に限っての非常手段でしかない。

「篤いなる公劉、居らず康らわず。乃ち場に乃ち疆に、乃ち積み乃ち倉に。
乃ち餱糧を裹みて、橐に于れ囊に于れて、思れ戢ぎて用て光あり」
「偉大なる公劉(文王の先祖)は、自らの安らぎばかりを求めることもなく、糧食を田や畦道にもどっさりと
積み上げて、穀倉も大袋も小袋も満杯にした。そのために民も和らいで、光明に当てられたかのようだった。
(『光明』は良くも悪しくも利益的な富裕を象徴する。もちろん我田引水によって富裕になることもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・生民之什・公劉より)

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070 2011/05/05(木) 18:30:55 ID:D1T.MU4yIY
「譬えば山を為すが如し、未だ一簣を成さざるも、止むは吾が止むなり。
譬えば地を平らかにするが如し、一簣を覆すと雖も、進むは吾が往くなり」
「たとえば山を盛り立てていく場合にも、あと一もっこで完成という時点で
辞めたならば、それは自分が辞めたことになるし、地を平らにする場合にも、
ただの一もっこでも均した時点で、すでに自分が始めたことになるのである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一九より)

儒者と聖書信者とは、無限の希望に安んじるか、無限の絶望に安んじるかという違いはあるにしろ、
希望とか絶望とかいった一定の心の趣きに安んじて、全くの揺るぎない状態に落ち着いている点が共通する。

心の趣くところに揺るぎがないから、その思考や言動も一貫して筋の通ったものとなる。
ただ、無限の希望に安んじている儒者が、勧善懲悪で思考や言動が一貫して筋が通るのに対し、
無限の絶望に安んじている聖書信者の場合は、思考も言動も悪逆非道であることで一貫する。

儒者による勧善懲悪の実践が極めて一概であり、時系列の発展によって山のような勧善懲悪の実践が積み立て
られるのに対し、聖書信者の悪逆非道の実践もまた、一概なものとして山のように積み立てられることとなる。

ただ、それはあくまで無限の希望や絶望といった、自分たちの心の安んずるところに基づく、多大なる
自業自得の実践の結実なのであって、寸分たりとも、不可思議な神だ悪魔だのの介在があったわけではない。

山のような悪逆非道の積み立てがあったとしても、それらも全て自業自得のものでしかなく、
悪逆非道の積み立てをやめて平地に均していくことも、一もっこやそこらのわずかな実践からしか
始めていくことしかできない。全ての所業は自業自得のものでしかない以上は、山のような
悪逆非道の積み重ねが、一転して山のような勧善懲悪の積み重ねに変質することなどを期待できないのは
もちろんのこと、一瞬や短期間で帳消しになることも期待できない。それこそ、山のようであるから。

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071 2011/05/06(金) 17:49:36 ID:jLwmrrj8mo
聖書信仰がまかり通っているような世の中では、何をやってもむなしい。

行動即犯罪の総員テロリスト状態と化した重権力犯罪社会で、
最高度に充実した部類の栄華ですら、泰平社会でのどんな苦役以上にもつまらない。

つまらなくて辛く苦しいから、聖書圏である現ブラックアフリカの人間なども、
苦しみを紛らわすために愛欲を貪って、人口爆発やエイズの蔓延といった、
人類の滅亡にすら繋がる社会問題を肥大化させ続けている。

聖書信仰のような邪教を貪り続けることによる、悪因苦果の自業自得は、
確かに人類の滅亡にすら直結していて、虚しさを充実に摩り替える転倒夢想など
に逃げ込んだところでやはり、寸分たりとも破滅が食い止められることはない。

「忠信の人は、以て禮を學ぶ可し。苟くも忠信の人無きときは、
則ち禮虚しくして道おこなわれず。是れを以て其の人を得るを之れ貴しと為すなり」
「忠義や信義に篤い者こそは礼儀を学ぶべきである。忠義や信義がないのならば、礼儀もまたむなしいものとなって、
天下に道が行われることもない。そのため、忠信を持つ人材が得られることもまた貴ばれるべきなのである。
(礼儀がむなしいもののように思われるのも、本人たち自身に忠信が欠けていることによる自業自得でしかない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼器第十より)

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072 2011/05/07(土) 10:31:41 ID:/lDEA2dYzM
正直、俺がこうして犯罪聖書の劣悪な記述を逐一懲罰し続けているのも、
犯罪聖書や犯罪聖書信仰に対する憤りを原動力としているところがある。

今の世界におけるあらゆる害悪の元凶となり、致命的な規模の悪因苦果を撒き散らす
ことで人類を滅亡の危機にすら追い込みながら、未だ改悛の兆しすら見せようとも
しない犯罪聖書信者どもの所業に対する憤り、もっと言えば「怒り」がある。

しかし、だからといって教会にダンプカーで突入したり、アルカイダのように聖書圏への
テロ攻撃を試みたりするわけでもなく、自らに非があるとされない範囲の対抗措置として、
ここへの書き込みを行っている。つまり、聖書信仰者による害悪の撒き散らしに対する怒りを、
犯罪聖書の記述に対する逐一の懲罰のための動機付けという、正当な手段にのみ善用している。

「怒りを抱いたりしない」などというのは、出家して俗世のしがらみとも完全に縁を
切った、本格の宗教者などであって初めてよくするところであり、俗世には実際問題、
怒らねばならないような濁悪な事象がいくらでも介在している。親殺しや主君殺しにも
値するような悪行に対して、子や臣下に値するような人間が激怒しなかったりすれば、
そのほうが腰抜けの恥晒しであり、俗世の罪悪を何もかも、俗世の在籍者が怒りもせずに
容認したりすれば、それは罪悪を増長させる共犯者となるばかりであり、正式な出家者として
俗世を完全に諦観する過程で、怒りをも解脱する場合などとは、全く逆の悪影響しか及ぼさないのである。

「一人天下に衡行するも、武王之れを恥ず。此れ武王の勇なり。而して武王亦た一たび怒りて天下の民を安んぜり」
「ただの一人でも天下に無道を横行させる者がいれば、それだけでも武王は恥とした。これが武王の大勇であった。
そのため武王が一たびでも怒れば、それだけで天下の民全てを安んずるほどもの効果があった」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・三より)

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073 2011/05/08(日) 14:35:51 ID:/BwD9XQS96
「言を易ろんずる無かれ。曰うこと無かれ、苟くも朕が舌を捫づる莫しと。言は逝ぶ可からず。
言として讎いざる無く、鄹として報いざる無し。朋友も、庶民小子をも惠めば、子孫も繩繩として、萬民も承けざる靡し」
「出だす言葉を少しも軽んじてはならない。わが舌を抑えきれず、思わず発してしまうような無駄口を叩いてはならない。
一度発した言葉は二度と追い戻すことはできず、仇を報わぬ悪言も無ければ、福徳を報わぬ善言もない。もし、
友人も一般庶民も共に慈しむような善言を呈したなら、子子孫孫代代の世継ぎも栄え、万民もそれを仰ぐことだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・抑より)

言葉には善言と悪言とがあり、よく制動の効いた善言には福徳の報いがあり、制動の振り切れた悪言には災禍の報いがある。
「発言即ち毒だから何もいうべきでない」などという極論ではなく、薬になる善言と、毒になる悪言との分別がそこにある。

一方で、抑制の利いた善言を発することが可能なのは大丈夫だけであり、婦人や小人などには、
言葉に抑制を利かせることからして不可能なので、以下のような言もある。

「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾く(ここまで既出)。
懿、哲婦こそは、梟たり鴟たり。婦に長舌有るは、維れ﨤いの階ざはしなる。
亂は天より降るに匪ず、婦人より生ず。匪の教え匪の誨うるは、時に維れ婦寺なる」
「聡明な男子は国を成す一方で、聡明な婦人は国を傾ける。
ああ、小賢しい婦人こそは、フクロウかミミズクのごとき悪鳥にも等しい。
婦女に長広舌のあることは、これこそ大いなる禍いのきざはしとなるもの。
この世の争乱も決して天が下したものではなく、婦人こそが生じさせたもの。
かの忌まわしい教えこそは、婦女に教えを乞うたものに違いなく」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・瞻卬より)

「匪の教え」ってのは、実際には西周の末帝幽王が、愛妾褒姒に溺れつつ乱発していた蒙昧な政令のことなわけだが、
「発言即ち毒」という決め付けを行う犯罪聖書が、女系民族ユダヤ人の創作物であればこそ、そんな決め付けを行うに
至った実証的な論拠ともなっているから、「匪の教え」を「犯罪聖書の教え」に類推することも不可能ではない。

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074 2011/05/10(火) 21:42:49 ID:SFbn6ivYu.
「之れを知る者は之れを好む者に如かず。之れを好む者は之れを楽しむものに如かず」
「知っているということは、好きだということに及ばないし、
好きだということも、ありのままに楽しんでいることには及ばない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・雍也第六・二〇より)

人類の滅亡をももたらすカルト教義を、知るということもできるし、好むということもできる。
しかし、重権力犯罪者の懲罰のような、真の善事を楽しむようにして、カルト教義を楽しむことはできない。

それは、カルト教義が本質的に辛く苦しくつまらない悪であるからで、
善いものだからではなく、悪いものだからこそつまらない。

信者に、自らの楽しみのための欲求を控えるように促す犯罪聖書の記述が、一見奇麗事に見えたところで、
それは「悪だからこそつまらないカルト教義」を容認する低能な思考回路を信者に植え付けるためであって、
善を楽しむことは大いに推奨する一方で、淫楽に耽ることだけは戒める、真の道徳規律などとは全く似て非なるもの。

人は本来、善を楽しみ悪を苦しがる生き物だが、善悪の分別が概念論やカルト教義などで濁されるに及んで、
善を苦しんだり悪を楽しんだりするようになってしまう場合がある。楽しむべきものを楽しませず、
苦しむべきものを楽しませるのは「洗脳」の常套手段でもあり、挙句には「楽しみ即ち悪」とまで
決め付けようとすらし始める。決してそれを、道徳規律の一種だなどと見なしてはならず、
人々を破滅にすら追い込むまっさらなカルト教義であるのだと、ちゃんとわきまえねばならない。

「參差たる荇菜、左右に之れを芼く。窈宨たる淑女とし、鍾鼓を之れ樂しまん」
「水辺には長短さまざまな野菜が繁茂し、右へ左へとこれを摘み取っていく。
そのようにして貞潔な良家の子女を求め得て、鐘や太鼓を鳴らしつつ楽しみたいものだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——詩経・国風・周南・關雎より)

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075 2011/05/11(水) 10:43:08 ID:timYgV4F76
どんなに無益な徒労にもガマンする、体のいい絶対服従の奴隷が完成するということだ。

「羝羊藩に觸れ、退くこと能わず、遂むこと能わず。利ろしき攸無し。艱しめば則ち吉なり。
退くこと能わず、遂むこと能わずとは、祥らかならざるなり。艱めば則ち吉とは、咎長からざるなり」
「猛進した羊が牧場の策に角をめり込ませて抜けなくなって苦しんでいるように、
進むことも退くこともできなくなっている。どこにもいいところはないが、
己れの蒙昧さを是正する苦しみを乗り越えられれば、不吉から転じて吉となる。
進むことも退くこともできないのは、進退の方法を自分ではよくわきまえられていないからだ。
是正の苦しみを乗り越えることが吉となるのは、進んで是正を受け入れた場合の咎はそんなに後を引かないからだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・大壯・上六・象伝)

絶対服従の奴隷と化すための試練を乗り越えること以上にも、そのような劣悪な行状から
脱却していく自主性を獲得することのほうが、聖書信者のような小人にはより苦しいことともなるだろうが、
突発的には隷従の持続以上にも苦しい、隷従からの脱却を乗り越えた先に、あらゆる不当な隷従から解き放たれた、
真に自由で健全な精神が獲得されるのでもある。しかも、そのための試練も、そんなに長引きはしないそうな。

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076 2011/05/12(木) 12:36:00 ID:wl8vH2mKPE
ニーチェは「ツァラトゥストラ」で「神は死んだ」と宣言し、
これが近代以降の文明発展の指針の一つともなった。

しかし、神が死ぬというのなら、神が生きているということもあるわけで、
近代以前にキリスト教の神が生きていたり、また生き返ったりするかのような含みがまだある。
これはやはり、プロテスタントの家に生まれたドイツ人であるニーチェながらの落ち度であり、
その反キリスト的な姿勢もまた、実在する事物としてのキリストに
対するかのような、感情的な焼け付きをともなっている。

しかし、自業自得の災禍を外部的に救ってくれるとされる聖書信仰上の神など
始めから存在せず、一度だって生きていたこともないから死ぬこともない。
死んで生き返ることだってもちろんないのだから、キリストなりエホバなりを
あたかも実在する人物や神として扱って、そこに反意を催すのはこれまた蒙昧なことだ。

キリストもエホバも始めから実在しない。しかしそんなものの実在を信じ込んで、
自業自他得の悪因苦果を撒き散らす精神障害者たちが地球上に溢れ返ってしまっている、
そうであること全般が劣悪な犯罪現象であるが故に鼻つまみものであり、
特に劣悪さが極まる場合に憤慨すら催すということはある。

あくまで「現象」としての劣悪さに対する憤りであり、実在する神や人としての
キリストなりエホバなりなりに対する憤りがあるわけではない。そんなものは実在しない
のだから、実在しないものに対して実在する劣悪さへの憤りを擦り付けても仕方がない。

「鬼神は常に享くること無し、克く誠なるに享く」
「神は、常に必ず特定の相手からの祭りを受けたり、福徳を授けたりするものではない。
ただ至誠の持ち主の祭りを受けて、それに見合った福徳を授けるのみである」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・太甲下より)

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077 2011/05/12(木) 21:44:54 ID:AWRepkmrQo:SoftBank
>>近代以前にキリスト教の神が生きていたり、また生き返ったりするかのような含みがまだある。

今の哲学会を全否定するような発言だな?
ディオニソス的ではなくて?具体的に引用してみな。

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078 2011/05/12(木) 22:59:57 ID:wl8vH2mKPE
別に、哲学や思想がキリスト教のためにあるわけでもないし、
宗教信仰ですら、本来はキリのようなカルト信仰のためにあるわけではない。

聖書信仰侵入以前や、一旦は侵入したものの完全に廃絶した
江戸時代のような良質な時代においては、神道とか仏教とか儒教とかが
磐石な思想哲学とも完全に不可分な状態にあったから、それらが
「宗教(religion)」などというおかしなカテゴリーで括られることもなかった。

それが宗教と学術、信仰と学知とが完全な統合失調状態にある
聖書信仰や洋学が侵入してくるに及んで、仏教や儒教や神道までもが
「宗教」という矮小な括りに押し込められて、そこで展開されている
思想や哲学までもが正統な扱いを剥奪されて、デカルトだのカントだの
ヘーゲルだのニーチェだのの、聖書圏で捏造された間違いだらけの
エセ思想哲学が正統扱いまでされるようになってしまった。

日本や中国やインドなどの非聖書圏では、思想哲学と宗教信仰の
統合失調などが歴史的に存在しないから、儒であるものや仏神であるもの
などを宗教として扱ったり、思想哲学として扱ったりの曖昧さがあった。
しかしそれは決して、仏儒や神道が正統の思想哲学に中たらないからではなく、
むしろ正統中の正統の思想哲学であればこそ、正統な宗教信仰との分裂などを
来たすこともなく、哲学であったり宗教であったりする歴史を歩んで来れたのだ。

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079 2011/05/16(月) 12:37:52 ID:zPcLI422I2
善のために苦しんだのではなく、悪のために苦しんだのだ。

悪こそは本質的に苦しみであり、善こそは本質的に楽しみでもある。
善が苦しかったり、悪が楽しかったりすることからしてまやかし。
そのような転倒夢想をけしかける妄言はもちろんのこと、
確信的にけしかけているわけではないが、善が苦しみであったり、
悪が楽しみであったりすることを大前提としているような
無明(根本的無知)に囚われた物言いもまた、善のつもりで
悪を推し進めるような過ちを増長させる元凶となってしまう。

悪を悪だと把握して悪を為すものなど、実際にはほとんど皆無といってよく、
巨悪を為しているものですら、そのほぼ全てが、悪を善だと思い込みながら
悪を為したり、「善も悪もない」などと思い込みながら悪を為したりしている。
真に悪を悪だと把握できたものは、悪こそは本質的な苦しみであることをも
大悟するから、わざわざあて悪を為す気概などを二度と持たなくなるから。

「苦節は貞にすべからず。(中略)苦節は貞にすべからずとは、その道窮まればなり」
「度を越した苦しみを伴う節制は常道とすべきでない。苦しんでいること自体が行き詰まりの証拠だから」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・節・彖伝より)

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080 2011/05/18(水) 10:39:37 ID:2iCyAonZYw
正義も邪悪も超越した、超俗に居ます仙人や仏者であるならともかく、実際問題として
情念入り乱れる世俗社会において、情念も情欲も全く持たないだなんてのはまず不可能。
ただ、その情欲がせいぜい、正義に即して邪悪を排する方向性を持つように努めることで、
邪悪という火種に情欲という油を注いでの災禍の肥大化によって、
自業自得による自滅を招いてしまうようなことを避けるようにするまで。

正義は元より、純粋な清浄さの中にあるものではなく、情欲や邪悪も多々
入り混じる清濁混交の世の中で、せいぜい早死にしない程度に健康を保てるだけの、
最低限の清浄さを保つぐらいのところに、その真髄すらもが存在している。

だから、正義にも喜怒哀楽のような旺盛な情念が伴っていて、ただその情念が
正義によって規律されている点だけが、情欲と邪悪の相乗の悪循環に落ち込んでいる
カルト信仰者などとは違うところ。出家や隠遁などの正式な手続きも踏まえることなく、
情念入り乱れる世の中で情欲を捨て去るのも不健全なことであり、また情欲を捨て去る
ための正式な超俗の徒になれたところで、それが正義の代表者たる根拠になるわけでもない。

俗世での邪欲への落ち込みと、俗世全体からの逃避と、いずれも正義とは全く関係がない。

「情は信ならんことを欲し、辭は巧ならんことを欲す」
「情念は信義に基づいていることを欲し、言葉はその情欲をつぶさに表現できていることを欲する」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・表記第三十三より)

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081 2011/05/19(木) 12:11:32 ID:xdDFINw37Q
「言うことを聞かなければ報復する」などという脅迫に屈することからして、すでに
濁悪の極み。しかも絶対服従を強要する側から「論じ合おう」などとほざく大欺瞞。
言ってることが完全に矛盾している統合失調症患者であり、しかも唯一絶対の神だという。
そんな神を信じても、服従しても何もいいことはなく、対等に論じ合うことすらやめて、
一方的な治療対象として扱ってあげることだけが、正当な扱いとなるだろう。

「厥の渠魁を殲して、脅從は治むる罔れ」
「(国家社会をも巻き込んでの大権力犯罪などは)率先して罪を為した巨魁をこそ殺し尽くし、
脅し付けられて仕方なく犯行に従ったものについては、重い罪に問うてはならない。
(脅迫による従犯を増産しての、懲罰しきれない規模と化した大権力犯罪などの処分方法)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・夏書・胤征より)

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082 2011/05/20(金) 12:11:48 ID:B2OzC.LvCU
「今の王たらんと欲する者は、猶ほ七年の病に三年の艾を求むるがごときなり。
苟くも畜えを為さずんば、終身得ず。苟くも仁に志さずんば、終身憂辱し、以て死亡に陷らん」
「いま王者たることを欲するものは誰しもが、七年越しの長患いの重病(極刑級の大権力犯罪)を
治すのに、三年間よく乾された良質なもぐさ(良質な権力道徳のわきまえ)を急に求めるようなもの。
(もぐさを用意するのにも三年かかるから、治療に取り掛かるにもまだ三年待たねばならない)
あまりにも手遅れで気も遠くなりそうだが、さりとてもぐさの蓄えを始めなければ、
いつまで経ってももぐさは得られない。それと同じように、今からでも仁を志さなければ、
いつまでも憂辱にまみれたままでいて、身は殺され国は亡びる最悪の結果に陥るしかない」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・九より)

二千三百年以上前にも、もぐさを使ったお灸が皮膚病治療などに使われることもあったようだが、
そこにもやはりそれなりの手順を必要とし、思い付いたからといってすぐに治せるなどということもなかった。

それは、患者自身が自重を怠って患いを深刻化させて来たせいもあるし、治療のための自主的な用意を
怠ってきたからというのもある。そこは、やはり自業自得なところであって、多分に甘えによる所もあるから、
その甘えにまで応じてやって、すぐに治してやるなんてのも教育上よくないし、事実それは不可能なことでもある。

重い病は、たとえ治せるとしたところでも、大掛かりな治療を必要とするのが常であり、
これ以上病状を悪化させるような不摂生を、患者自身が取り止める程度の自助努力も必要になる。
患者自身が好んで悪化させ続けている病を、その場から即効で治療していくような徒労にまでは付き合いきれない。

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083 2011/05/21(土) 11:52:01 ID:NgJ8JxBA/A
たとえば、

「齊の景公、政を孔子に問う。孔子對えて曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり。公曰く、善なるかな」
「斉国の景公が孔先生に政治のことを尋ねた。孔先生は答えて言われた。『君臣父子の上下関係が
よく定まることです』 これを聞いて景公は言われた。『確かに、それこそは善であるだろうな』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・顔淵第十二・一一より)

とあるから、親子兄弟の殺し合いを信者に奨めるイエスの物言いは、儒学における不善=悪を善とするものだといえる。
そして君臣父子夫婦の三綱によるたがが外れたカルト信者たちは、君父を敬うことによる情欲の制御も振れきって、
同年代の異性に対する愛欲ばかりを貪って、世界人口を爆発させて人類を滅亡へと導きつつもある。そして、

「如し其れ善にして之れに違うこと莫くんば、亦た善からずや。
如し不善にして之れに違うこと莫くんば、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや」
「善であることに従って異論を唱えることがなければ、これは善いに決まっています。
しかし、不善であることにも隷従して異論を唱えることがないというのなら、
それこそ一言に従うだけでも、一国を亡ぼすほどもの災禍を招くのではないでしょうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・一五より)

とあり、不善こそは国家社会規模での破滅の元凶となることまでもが、ちゃんと把握されている。
善こそは福徳の、悪こそは破滅の種子であることが儒学の側では太古の昔からわきまえられている。
それこそ、カルト信仰による災禍の肥大化が勃発し始めるよりも五百年以上昔から。

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084 2011/05/22(日) 11:41:52 ID:SmMbYQJA7o
正常な人間にはより壮健たることを促し、病人もなるべく健康となるように促し、
罪人にも自分自身の自主的な贖罪による罪障の緩和を促すのが正しいあり方。

正常な人間までもが異常になるように促し、病人もより重症となるように手回しし、
自らが冤罪を引き受けることで、罪人の罪障をより重からしめたりするのが間違ったあり方。

病人や罪人に対する処方にも正しいものと間違ったものがあり、病人や罪人を
相手にしていることすなわち、過ちの正当化などにはもちろんならない。

医者とか刑吏とかいった仕事が善いものか悪いものかはともかくとして(東洋では、病人や罪人
からして元からいないほうがいいものであるために、医者や刑吏が先賤業扱いされてもいた)、
医者である以上は名医であり、刑吏である以上は厳粛な刑吏であるに越したことはなく、
大金せしめて患者の様態をかえって深刻化させるやぶ医者だったり、罪人に脱獄も
逃亡もやりたい放題やらせる、ヤクザな刑吏だったりしてはならない。

「太甲湯の典刑を顛覆す。伊尹之れを桐に放つ。太甲過ちを悔い、自ら怨み自ら艾めて、
仁に處り義に遷ること三年、以て伊尹の己れの訓えを聽くなり。亳に復歸せり」
「昔、湯王の後を継いで殷の主君となった太甲は、自らの都合で湯王の定めた刑法を反故にして回った。
そのため湯王の重臣でもあった宰相の伊尹が、殷の都である亳から太甲を追放し、湯王の墓のある
桐に謹慎させた。太甲は自らの過ちを悔い、よく自責して自修に努め、仁義を守るように志して三年、
(刑法を勝手に覆してはならないという)伊尹の教訓も聞き入れられるようになったために、亳に復帰した」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句上・六より)

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085 2011/05/24(火) 11:52:03 ID:Bxj6l3UHd6
ついに出た、「罪悪の辛苦の自業自得からの言い逃れ」。

罪を犯すのも悪魔のせいだから、悪魔を滅ぼす神によって罪も清められると。

先がた台東区の路上で殺人未遂事件を起こした男が、
逮捕後に「スーパーサイヤ人に殺せと言われた」と供述しているのと同レベル。
男は「心神喪失とまではいかない統合失調症」扱いで執行猶予の判決を受けたようだが、
この男の言ってることと同レベルの邪義を狂信しているカルト宗教が公然と公認されている
現代社会では、この男に適切な処分を科すことも、再発防止のための適切な治療を施すことも適うまい。

「天、有罪を討つ。五刑、五用せんかな。政事、懋まんかな懋まんかな」
「天が罪あるものに罰を下されようとしているのだから、五つの刑罰(処刑、服役、強制入院、禁治産、参政権剥奪)を
それぞれに的確に用いるようにし、政事にもよくよく励んでいかなければなりません(天罰こそは真の天意なり)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・虞書・皋陶謨より)

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086 2011/05/24(火) 18:03:55 ID:vY3OkzHdPc:DoCoMo
これから、中国が世界のトップにのし上がる。

アメリカもイギリスも、悪逆非道な権力犯罪の無理が祟って自滅し、
誰にも選べない力の論理のありのままの押し通しによって、
名実共に中国が世界の頂点に君臨し始める。
 
 
 
これほどもの、人類に対する天罰が、他にあろうか? 
 
 
 

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087 2011/05/24(火) 18:32:04 ID:Bxj6l3UHd6
聖書圏の洋学(マルクス主義)を受け入れて、共産圏と化して
しまっている今の中国などが決していい国だなどとは思わないし、
絶大な人口に対する資源配分の少なさからなる物的荒廃も、
目を蔽いたくなるような陰惨さであることが、日本海越しにすら伺える。

俺自身も生粋の日本人であり、中国に対する親身な思い入れ
などもないから、あんな国が、あんなままで世界のトップに
のし上がることを、心の底から「厭なことだ」と感じている。

しかし、にももかかわらずではなくだからこそ、それが、
放辟邪侈を極めすぎたあまり、何もかもを地獄・餓鬼・畜生の
三悪趣に染め上げてしまった、今の人類に対する天罰であると
いうのなら、それは確かに、納得せざるを得ないものがある。

心の底からイヤだと思うものが、有無を言わさず押し付けられて、
否応なく甘受させられる、だからこそ本物の罰であるといえる。

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088 2011/05/25(水) 11:59:19 ID:nHCqcsdXQI
「私は自分の信じているものが完全に間違っていてもそれを信じます」という完全誤謬信仰が、
「そんなものすら信じられる自分ってすごい!」という独善的な自己陶酔を
カルト宗教の信者にもたらし、悪い意味での「ゆるぎない心持ち」を硬直化させる。

もっとも代表的なカルト信仰であるキリスト信仰の場合には、十字架に張り付けられた
長髪ヒゲに半裸のおっさんが「自分の罪を償ってくれた」などと信じ込む過程で、
自他の区別も付かなくなる「鏡映認知障害」に罹患し、知能をIQ20〜30程度にまで低下させる。
他人が自分の罪を償ってくれることを信じ込むこともまた典型的な完全誤謬信仰であり、
「そんなものすら信じられる自分ってすごい!」というアホな自己陶酔を糧にして、
キリスト信者はいつでもIQ20〜30程度の重度知的障害に自らを陥らせることができる。

しかし、常時IQ20〜30程度の重度知的障害のままでは、最低限の日常生活すらままならないから、
日常生活などを営む過程において、キリスト信者もIQを100程度にまで持ち上げることがある。
罪を罪だと認識もできないIQ20〜30程度の低能の場合には、悪因苦果による苦しみからも免れるが、
生活を営むためにIQを100程度にまで持ち直したときには、やはり悪因苦果の苦しみを味わわされる。
その瞬間にこそ無軌道な愛欲をも貪って、人口爆発や性病の蔓延などの致命的な問題をも引き起こす。

罪を罪とも思わずにいられるキリスト信者である以上は、ほんの少しでも行為能力を実用するような
人並みの生活を自分で営もうとしてはならず、営もうとする限りにおいては必ず過ちを犯すのだ。

「私に惠みて鄹に歸らざるときは、君子は自ら留めず。(詩に)云く、人の我を好する、我れに周行を示せと」
「私的に利益を恵んでくるものがあって、それが仁徳に違っている場合には、君子はそれを自らにとどめておかない。
詩経(小雅・鹿鳴)にも『私を好む者があるなら、広くあまねき施しによってこそ、その意思を示せ』とある」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)

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089 2011/05/25(水) 17:47:26 ID:z5bsi.vB0w:DoCoMo
完全な誤謬を信仰することは、その信仰自体もまた完全な誤謬となる。

彼も誤謬なら、我も誤謬。
誤謬を信じるという誤謬によって、狂信者は狂信対象との連帯感を抱く。

アホ臭いっちゃあアホ臭いが、そうやって信者数を稼いで来たのが
キリスト教徒でもあるわけだから、いくらアホ臭いといえども、
人間の底抜けの愚かさを見くびっちゃいけない。

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090 2011/05/26(木) 11:45:12 ID:dvcgNtusQc
端的にいえば、神は「家元」のようなものだ。

武道であれ茶道であれ華道であれ、ある種の道理を家系によって
引き継ぐもの、現実社会上で言えば家元に相当するものが神であり、
実際の家元よりは遥かに抽象的な道理を扱っている場合が多い。

中でも特に、高尚な道理を司っているのが「天道」の神々であり、
ギリシャ神話の神々が司るとされているような、瑣末な概念よりも
遥かに実相に即して重要な意味をもつ道理を司っている場合が多く、
司っている道理の意味が高尚過ぎて難解でもあるからこそ、
神の形を借りての畏敬対象としての形式を取ってもいる。

犯罪聖書の神もまた、「邪神」という意味での神であるのは確かであり、
ある種の道理を司る家元的な意味を持っているのも確か。
しかし、その道理が天道に配分できるような代物ではなく、
地獄道や畜生道に当てはまるもの——犯罪道でこそあるから、
犯罪聖書の邪神もまた天道に配分されることはない。

高尚な愛を司る天道の神だって存在しないわけではなく、
日本神道の最高神であり、皇祖神でもあるアマテラスこそは、
愛を高尚な理念に昇華した上で司っている、真の「愛の神」にも当たる。
それと比べれば、アフロディーテやクピドーが司る愛ですら下劣なものであり、
ましてや、罪悪の辛苦を紛らわすための無軌道な愛欲への耽溺を促す、
犯罪聖書の神の、愛に対する姿勢は、想定しうる限りでも最悪の部類に入る。

全ての神が愛を司っているわけでもない上に、
あらゆる愛の中でも最も下劣な濁愛を司っているのが犯罪聖書の神と来た。

「夫の禮は必ず天に本づき、地に殽い、鬼神に列し、喪祭射御冠昏朝聘に達す」
「礼儀が必ず天道に基づき、かつ地の風土に合わせられることで神との調和を図り、
冠婚葬祭から武芸や馬術、朝廷での招聘に至るまでの全てにかけて通達する。
(礼儀こそは、人が神との調和を図る上での、真に正式な手立てである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・礼運第九より)

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091 2011/05/27(金) 14:38:58 ID:DSxyUNbfnc
ただの妾腹の私生児を「神の子」と呼ぶことが、それだけでも大欺瞞の発端になるから、
ただそうするだけですでに、自意識過剰の思い上がりを肥大化させていく機縁に差し掛かる。

妾腹の私生児は、あくまで妾腹の私生児止まりであり、自身が妾腹の私生児だった孔子も、
自らの出自が賤しいものであることを認めた上で(子罕第九・六参照)、その卑しさ
からなる劣等感をバネに「下学して上達(憲門第十四・三七)」したことを認めている。

決して、妾腹の私生児などという賤しい身分それ自体を正当化したりはせずに、
その賤しさを真っ向から受け止めて、それを乗り越えることによって聖人君子として
大成したのだから、同じ妾腹の私生児という境遇の賤しさに取り込まれた挙句に、
自らの賤しさを正当化する妄言妄動に走ったイエスなどとは、天と地の程もの格差があるといえる。

生まれつきの身分ではなく、生まれ付いて後の本人たち自身の自助努力の有無こそが、
孔子とイエスとの間に、天と地ほどもの、品性の厳然たる格差を決定付けたのである。

「聘すれば則ち妻と為り、奔れば則ち妾と為る」
「正式な礼儀に即して相手に招聘された女が妻となる一方で、礼儀に基づかないままに囲い込まれた女が妾となる。
(父母の野合によって産まれた孔子も妾の子なら、マリアの密通によって産まれたイエスもそれだけで妾の子だ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・内則第十二より)

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092 2011/05/28(土) 23:35:36 ID:O9M5v.3Qzk:DoCoMo
反社会勢力としての、犯行宣言も程ほどに。

「易簡にして天下の理を得」
「物事を難しいものとして考えず、簡単に理解できるものと
見なすことで、天地万物を司る道理までもが理解できる。
(そもそも普遍的な道理自体を難しく捉える必要がないのである)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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093 2011/05/29(日) 23:56:45 ID:gQMv/9V/8w
「人皆な人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの心有り、斯ち人に忍びざるの政有り。
人に忍びざるの心有りて、行ち人に忍びざるの政有れば、天下を治めること、之れを掌の上に運らすべし。
人皆な人に忍びざるの心有れば、今人乍かに孺子の將に井に入らんといるを見れば、皆な怵酡惻隱の心有り。
交わりを孺子の父母に結ばんとする所以にも非ず、誉れを郷黨朋友に要むる所以に非ず、其の聲を
悪みて然るにも非ざるなり。是れに由りて之れを觀れば、惻隱の心無きは、人に非ざるなり」
「人は誰にでも、他者を憐れむ心が備わっている。昔の賢明な王者なども、人を憐れむ心があればこそ、
その哀れみを以って政事を為したのである。本当に人を憐れむ心があって、その憐れみによって
政事を行う場合にのみ、人は掌の上で世の中を転がすようにして、政事を行うことまでもが許される。
 誰しもに人を憐れむ心が備わっているからこそ、たとえば今、目の前で赤ん坊が井戸の底に転落
しようとしている姿を見れば、誰しもが思わず反射的に『赤ん坊を助けてやらなければ』という気になる。
それは、全くの哀れみの気持ちからなる反射的な反応であり、赤ん坊の親に恩を売って取り入りたいからでも、
赤ん坊を助けた名誉を故郷や友だちに知らしめたいからでも、助けなかったことによる不名誉を避けるためでもない。
このような事実を以ってしてみれば、こういった憐れみの心すら捨て去ってしまった人間は、もはや人ではないといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・六より)

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094 2011/05/29(日) 23:57:41 ID:gQMv/9V/8w
誰しもが、何の考えもないところに、
目の前で危機に陥っている赤ん坊を見た瞬間に、それを助けようとする心を抱く。
どんな打算にも先んじて赤ん坊を助けようとする惻隠の情の実在を以って、
孟子は「人の本性は善である」とも主張する。

見返りを欲するから憐れみを抱くのではなく、何よりもまず憐れみの心が先んじている。
見返りのために抱かれる憐れみなどは、あらゆる見返りに先んじる本物の憐れみと比べれば、
捏造された紛い物の憐れみであり、本物の憐れみとは全くの別物である。

打算が先んじる紛い物の憐れみに固執するあまり、打算にすら先んずる、
人間の本性としての善性から発する憐れみを疎かにしてしまったような人間は、
もはや決して本物の善思善言善行を為すことは叶わなくなる。だからこそ孟子は、
本性の善性からの憐れみを失った人間は、もはや人ですらないと断じたのだ。

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095 2011/05/30(月) 12:07:29 ID:DtmXxfSwGA
削除(by投稿者)

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096 2011/05/30(月) 12:11:26 ID:DtmXxfSwGA
だいぶ長文を引用し始めたが、ただ切れ切れの複数の主張の組み合わせになっているだけなので、
こちらはただの長文よりは、いくつかの引用の組み合わせで応対したほうがいいだろう。
真正聖書と贋聖書と、記述の順序までは完全に一致していないから。

「公曰く、衣食を安んずる所、敢えて專らにせざるなり、必ず以て人に分けんがためなり。
對えて曰く、小惠にして未だ遍からざるなり、民は從ざるなり」
「(日ごろ旺盛な肉食などの奢侈な生活を送っていることで知られる)魯の荘公が言った。
『わしがこんなに豪華な衣食生活をしているのも、別に独り占めにしたいからではない。
できるだけ多くの人々に分け与えられるだけの、多くの衣食を蓄えているからなのだ』
聞き手の曹劌が答えていった。『そんなのはせいぜい、隣人に対する小さな恵みになる程度で、
決して万民に広く衣食を提供するつもりの所業ではありません。それでは大多数の民は従いません』
(聖書信仰者が相当な数に上りながらも、どうしても人間社会の大多数にはなれない根拠の一)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・荘公十年より)

「(詩に)云く、明發まで寐られず、二人を懷う有りと。文王の詩なり。祭の明日に、明發まで寐られず、饗して之れを致し、
又た從って之れを思う。祭の明日に樂と共に哀半ばす。之れを饗するときは必ず樂しみ、已でに至るときは必ず哀しむ」
「詩経(小雅・小宛)に『二人のことを想うと、明くる日の朝まで寝付けなくなる』とある。これは文王が父母を
追慕する心境を歌った詩である。(これが由来となって当時の中国では)先祖祭りの明日の朝まで寝付くことなく、
徹夜で祭りを行う。来客を饗応するという事務に携わりつつ、心中では本当に先祖への思いをはせる。
すると祭りの明日には楽しみと悲しみが相半ばした心境になる。客を饗応するときには精一杯楽しもうとし、
そうでないときには精一杯悲しんでいたからだ。(記述姿勢自体が明日の想い悩みの予想になっているが、
先祖や父母に対する孝心の厚さを養うための手順を挙げた、非常に重要な記述にもなっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・祭義第二十四より)

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097 2011/05/31(火) 12:36:20 ID:B/qvlVszYg
孔子も「君子は見るときにはちゃんと見たいと思う(季氏第十六・一〇)」とはいうが、
別に修己治人のための最大級かつ必須の条件が「目がよく見えること」なわけでもない。

むしろ人を裁く限りにおいて、自分までもが相手と同等の罪を犯していたために、
相手に厳罰を科したことで、そのしっぺ返しが自分にまで及ぶような事態を避けるのが第一であり、
そのためには出歯亀行為や盗聴行為を含む、あらゆる反道徳行為の自粛こそが必要なのだ。

「工尹商陽、與陳棄疾と呉師を追うて之れに及ぶ。陳棄疾、工尹商陽に謂いて曰く、王事なり、子、
弓を手りて可なりと。弓を手る。子、諸れを射よ。之れを射る。一人を斃し、弓を韔にす。又た及ぶ。之れに謂う。
又た二人を斃す。一人を斃す毎に、其の目を掩う。其の御を止めて曰く、朝には坐せず、燕には與からず。
三人を殺すも、亦た以て反命するに足らんと。孔子曰く、人を殺すの中にも、又た禮有りと」
「楚の統率官である商陽が、陳棄疾と共に逃走している呉の要人たちを追跡して、これに追いついた。
陳棄疾は商陽に言った。『これは王命である。汝に弓を取ることを許可する』 商陽は弓を取った。
陳棄疾『あれを射よ』 逃走する呉の要人を射て一人を殺し、商陽はこれ以上の殺生を忌む意志を表するために
弓を袋にしまい込んだ。しかしまた他の逃走者に追いつき、陳棄疾はまた商陽にこれを射るように言った。
商陽は今度は二人を射殺し、一人を射殺すごとに我が目を蔽い、人を殺すことの忍びなさを表した。
追撃を一旦中止して商陽は言った。『私はもう朝廷には上がらず、燕の禄を食むことも致しません。
三人もの命を奪ったことは、やはり王命に反することが明らかですから(明らかな王命によって人を
射殺しながらも、王に殺人の罪を被せまいとして、あえて王命に反して三人を殺したのだと主張している)』
孔先生は言われた。『人を殺すような凶事の中にすら、礼儀を尽くす道は備わっているのだ』
(弓で逃走する相手を射殺すほどもの眼力を備えながら、射殺の瞬間にはあえて相手から目をそらし、
王の裁きに基づく命令で行った誅殺であるにもかかわらず、自らがその咎を進んで受けようとしている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

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098 2011/06/01(水) 09:47:08 ID:o5bA7X1sjY
「罪に陷いるに及びて、然る後に從いて之れを刑す。是れ民を罔するなり。
焉んぞ仁人位に在りて、民を罔して為む可けんや。是の故に賢君は必ず恭儉下を禮し、
民に取るに制有り。陽虎曰く、富まんと為せば仁ならず、仁を為せば富まずと」
「民をあえて、罪を犯さざるを得ないような苦境に追いやっておきながら、自分たちでそこに刑罰を加える、
これこそは民を漁で網にかける魚も同然の扱いとするものである。どうして仁者が権力者としての
有力な立場にあった場合に、このような所業を為すことができようか。そのため賢明な主君は、
常に恭しさと慎ましやかさを保ち、どんなに身分の低い相手にも礼節を以て接し、
民から税を取り立てる場合などにも一定の制限を設ける。そのため昔、魯の重臣だった
陽虎も『金を稼ごうとすれば仁は為せないし、仁を為そうとすれば金は稼げない』といったのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・滕文公章句上・三より)

自他の国民から法外な暴利を貪るためのマッチポンプを正当化する地獄の邪教もある一方で、
そのようなマッチポンプの有害無益さを完膚なきまでに看破した上で、そのような悪行に
手を染めることなく、善良な統治行為を行っていくための指針までもが体系的に用意されてもいる。

しかも、どちらかといえば、民を網するマッチポンプを排する権力道徳統治の体系のほうが、
甚大なマッチポンプで人類を滅亡にすら導く権力犯罪支配の体系よりも、質でも量でも古さでも
発行部数でも、あらゆる面において上回っており、仮に権力犯罪支配を今すぐ完全に取り止めて、
完全な権力道徳統治に切り替えたとしても、その体系消費におつりが来るぐらいのものだ。

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099 2011/06/02(木) 13:00:58 ID:jF4U4sFmA.
「君子の過ちや、日月の蝕するが如し。過つや皆な之れを見、更むるや人皆な之れを仰ぐ」
「為政者の過ちというものは、まるで日食や月食のようなものだ。
過ちを犯せば誰しもがこれを見るし、改めれば誰しもがこれを仰ぐのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子張第十九・二一より)

犯罪聖書信仰の蔓延によって、何もかもが過ちで塗り固められている今の世の中は、
あたかも日食と月食が同時に起こったかのように、真っ暗闇と化した世の中だといえる。

そこから急に、蝕が終わって日月の光が差し込めば、暗闇に慣れ過ぎた人々の目は、
あたかも何倍もの日光や月光が差し込んできたかのように勘違いして面食らうかも知れないが、
それはあくまで錯覚であり、日月に相当する為政者たち自身は、ごくごく小さな部分からの
更正の積み立てから始めていく。真っ暗闇から急に最大級の光へと転換するのでは、
誰も付いてくることもできないから、闇が光に裏返るような安易な短絡を期待するのは、
二度と政事行為に手出しすることのない、参政権被剥奪希望者に限るがいい。

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100 2011/06/03(金) 11:43:21 ID:qjWLZlUCaY
「子曰く、孝なるかな、閔子騫。人其の父母昆弟を間する言あらず」
「先生が言われた。『孝行者なことだな、閔子騫は。人が彼の父母兄弟を謗る言葉を聞いたことがない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・先進第十一・五より)

先天性の父母兄弟は、自分では選べない。にもかかわらずではなくだからこそ
儒学は、否応なく自分を産み育ててくれた父母への孝心を大事にせよ、と促す。

しかるに、上記の批評対象である、孔子の門弟の一人だった閔子騫は、
実父が実母と別れて後妻を娶り、閔子騫とは腹違いの弟二人が産まれるという
冷ややかな境遇に置かれていた。よくありがちな継母からのいじめなどにも遭って、
普通なら反発して継母の悪口なども言いそうなものを、実父の面目を守るためにも、
閔子騫はいじめにも耐え抜いて、かえって継母や腹違いの弟を弁護するような
発言を行ったために、周囲の人々も継母や弟を影で謗るようなこともしなかった。
そのことを以て孔子は、「閔子騫はなんと孝行者なことだろう」と評したわけだ。

たとえ血のつながりがなくたって、自分で母兄弟を選んだりはしないのが孝だ。

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101 2011/06/03(金) 21:54:13 ID:btVn55rtO2
簡単には人類仲良し計画書物だろ
常識に疎いからそんなものを必要とするんだよ

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102 2011/06/03(金) 22:14:59 ID:qjWLZlUCaY
小人の常識、か。

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103 2011/06/04(土) 12:38:00 ID:s/DjwIOBOY
賢人だろうとだめ人間だろうと犬や猫や虫は分けて認識しない
それが本来の生き物の姿だ
小人だとか言ってる時点で劣った認識をしているんだよ

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104 2011/06/04(土) 12:41:31 ID:jErmETyQ0o
「書経」虞書・舜典に、舜が「贖刑」という刑を制定したことが
載っている。ここにはあまり詳しい贖刑の内実は述べられていないが、
同じ「書経」の周書・呂刑に、贖刑に関する詳しい解説が載っている。
それによると、まず重大な犯罪行為を犯したものに対する重罰としての
「五刑(入れ墨、鼻削ぎ、足切り、去勢、死刑)」があり、犯した罪が
全くの故意によるものである場合には、やはりこれらの刑を科すという。
一方で、犯した罪が過失であった場合には、それぞれの刑に対応する
罰金刑としての「五過」があり、これが舜の定めた「贖刑」にも当たる。

司馬遷なども、皇帝に対する失言によって去勢刑相当の罪に定められ、
過失であることが明らかなために罰金刑(贖刑)をも提示されたが、
罰金を支払いきるだけの貯金がなかったために、仕方なく去勢刑を呑んでいる。

あくまで罪が「過失」である場合にのみ、罰金で罪を贖うことも認められるのであり、
罪が明らかな故意である場合には、金で罪を贖うことも決して認められない。
何千兆円と溜め込まれているユダヤ財閥の不当利得なども、ユダヤ人の不正行為が
故意である以上は、罪を贖う上での糧になるなどということも決してない。

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105 2011/06/04(土) 12:45:07 ID:jErmETyQ0o
「宋人兵車百乘と文馬百駟を以て、以て華元を鄭より贖う。半ば入りて、華元逃げ歸る。(中略)宋城く。
華元植を為し、功を巡す。城く者謳いて曰く、睅たる其の目、皤たる其の腹、甲を棄てて復れり、于思于思、甲を棄てて
復た來れり。其驂の乘をして之れに謂いて曰く、牛に則ち皮有り、犀兕も尚お多し。甲を棄つるに則ち那かあらん。
役人曰く、從え其れ皮有れども、丹漆を若何にせん。華元曰く、之れを去れ。夫は其の口眾く、我れは寡なしと」
「宋国の人々は戦車百乗と、よく飾り立てた馬四百頭を供物として鄭に送ることで、先方の戦いで捕虜となった
華元の贖いを試みた。贖いの供物が半分程度まで送られたところで、華元が自分から逃げ帰ってきた。
(莫大な贖いの供物によって自分が釈放されることを恥じ入って、無理にでも自力で逃げ帰ってきたのだろう)
後に宋が城普請を行ったときに、華元は監督として工事現場を車で巡回して回った。すると工事に携わっている人夫たちが
『甲冑を脱ぎ捨てて、出目と太鼓腹を晒しつつ逃げ帰って来たとさ。ヒゲも伸び放題になった大将が、甲冑も捨てて
逃げ帰って来たとさ』とからかう歌を謳った。華元は車に同席していた者に代弁させて答えた。『牛には甲冑に
使う皮があり、犀も野牛もそこら中に多くいる。甲冑程度を失ったところでどうだ、また作れるじゃないか』
人夫は皮肉気味に言い返した。『皮はどうにかなっても、甲冑に塗る漆はどうしますかね』 華元は言った。
『もういい捨て置け。言い争いでは、こっちが多勢に無勢だ』(母国による贖いを恥じて逃げ帰った華元の心意気も、
下賤な人夫には理解されずにからかわれている。上知と下愚の無移行は、立場の違いによる責任感の有無が原因ともなる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・宣公二年より)

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106 2011/06/04(土) 18:38:32 ID:uVb78EVnu2
なにが罪なものか
役人の都合に合わせなければ罪になるんだろう
あんたたちの正邪も都合いい解釈をプラスした認識なんだよ

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107 2011/06/04(土) 19:47:13 ID:jErmETyQ0o
四書五経の記述は、どれも直観的なものばかりであり、
抽象的な概念性に帰納してから現実へと演繹する、洋学的な手法には即さない。
なおかつ、仏教の絶対真理ほどには、細部まで厳密ではない世俗の道理を取り扱っており、
「礼記」に書かれている古代中国の礼制なども、時代も風土も大幅に異なる
今の日本などに、その全てを直接適用することなどが相応しいようにはなっていない。

しかし、直観的に把握された、細部までは厳密でない世俗の道理なりの
大まかな普遍性を記述した書物が四書五経であるために、その記述内容に大まかに
だけでも遵えば、人類の存続や繁栄が約束される一方で、大まかな部分からすら
極端に相反すれば、人類の破滅や滅亡が決定付けられることともなる。

人間が普通に暮らしている限りにおいて、四書五経に書かれてあるような最低限の
常識からすら極端に相反するなんてことはまずあり得ないんだが、四書五経の内容にこそ
決定的に相反しているカルト宗教の邪義を好き好んで狂信したりする場合に限って、
最低限の当たり前な常識からすら脱線した、非常識の推進による人類の衰滅までもがあり得る。

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108 2011/06/04(土) 21:52:49 ID:jErmETyQ0o
司馬遷は、自らの知人であり、匈奴を討つ命を科されていた将軍李陵が
北伐に失敗して捕虜となったのを受けて、援軍を送らなかった武帝の責任である
ようなことを述べたために、武帝の怒りを買って逮捕幽閉されることとなった。

審議の結果、その罪は「宮刑(去勢刑)」相当と裁決され、ただし失言で
あることの過失も認められて、罰金を支払えば放免されるということになった。

しかし前記のとおり、司馬家には十分な貯金がないために罰金を支払いきれない。
支払えない以上は宮刑が強制的に行われる。宮刑ほどもの男にとっての恥も他にないから、
おそらく司馬遷は獄中で、服毒死などの自殺の選択肢も暗に提示されたものと思われる。

法家の雄である韓非なども、獄中で服毒自殺するなど、罪人が獄中で自殺することを
許可するのは、当時の中国では暗黙の了解とされていたようで、にもかかわらず司馬遷が
自殺を拒んで宮刑を選択したのは、ひとえに父から受け継いだ正史編纂の任務を果たすためだった。

これをして中国では、宮刑を呑んででも自らの責務を果たさんとした、司馬遷に連なる
正史編纂事業を、さっさと獄中自殺してしまった韓非が唱えた法律万能主義よりも、伝統的に
上のものとして扱ってきている。(そのため「経史子集」がこの順番に分類されもする)

法律なんて、恥を忍んで生き延びなければならないほどもの責務を負わされているもの同士には
全く通用しないおままごとだってことが、とっくの昔に白日の下にさらけ出されているから。

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109 2011/06/05(日) 11:21:56 ID:sdTnk7Rxag
「公田に雨ふり、遂には我が私(田)に及べ(詩経・大田)」とあるとおり、
まず誰しもに利益の水が行き届いてから、結果として自らも相応の利益を得るというのが
「仁義」の理念であり、この仁義を念頭に置くことが、本物の「正義」の大前提ともなる。

そのため、誰かの利益を蔑ろにしながらでも、自らが利益を得ようなどとする、
仁義に反する我田引水すなわち「偽りの正義」ともなり、正義を行うどころの話ではない。

それは、利益を蔑ろにする相手が、大量の不当利得を貯め込んだ極悪人などである場合にも
同じことであり、最悪の極悪人に対してですら、適当な慎罰をあてがうことで
全くの蔑ろにしたりはしないでいて初めて、自らもまた正義を行える。

根本のところから念頭に置かれている理念が、仁義であるか我田引水であるかが、
正義を行えるか否かの決定的な分かれ目となるのであり、まず私利私欲を念頭に置くような
我田引水一辺倒の性向から脱却できないことには、正義を行うもへったくれもないのである。

「台が四方に正たるに以て、惟だ鄹の類からざるを恐る。茲の故に言わず。恭み默して道を思う」
「私は自らに四方の国々全てを正していく上での徳が足りないことばかりを恐怖している。そのため
身の程知らずになりかねないようなまっすぐ過ぎる発言は避け、慎み黙っては道徳を思い直している」
(権力道徳聖書——通称四書五経——書経・商書・説命上より)

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110 2011/06/06(月) 12:27:16 ID:IwM/iMF.bQ
「色﨤しくして内荏らか、諸れを小人に譬うれば、其れ猶お穿窬の盜のごときなるか」
「外面だけはいかめしく取り繕っているが、肝心の内心はといえばもうグニャグニャのヘタレも同然。
これを下賤な者に喩えてみるなら、まあ、人の家に忍び込む盗人のようなものだろう」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・陽貨第十七・一ニより)

まさに忍び込みの盗人こそは、自らの行いが白日の下にさらけ出されることを最も恐れている。

「爾は爾なり、我は我なり、我が側らに袒裼裸裎すると雖も、爾焉んぞ我れを浼さんや」
「おまえはおまえ、俺は俺だ。たとえ俺のそばで(当時の中国で無礼とされる)肩脱ぎになったり、
素っ裸になったりする者がいたところで、どうして俺の名誉をを汚すことができようか。
(孔子に比べれば知性が足りないが、そこそこの偉人だと孟子が評した柳下恵の言葉)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・万章章句下・一より)

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111 2011/06/07(火) 13:13:02 ID:BBvb5Zgbkg
日本の、皇祖神アマテラスを祭る伊勢系の神社や、歴代天皇を祭る神社は、
どれも神殿が南向きに開かれている。(大戦期の英霊を祭っている靖国などは東向き)
やはりこれも「皇帝は南面して政務を執る」という易学由来の風水に即していて、
太陽が南側に昇る北半球で、日当たりのよい南側を用いるという意図も備わっている。

中国以東の極東社会の風水はもっぱら易学に依存しているが、インドなどにも風水に
相当する思想があって、今から約4000年前に建造されたモヘンジョダロの遺跡群にも
日当たりのよさなどを考慮する風水学的な配慮がなされていたことが判明している。

日月星辰の運行にこそ普遍性を見出して、その法則性との調和を図ることで、
人間社会までもがその普遍的な安寧にあやかるという志しが風水をも派生した。
その体系は確かに曖昧で、迷信扱いされても仕方ないような部分もあるのだが、
現実に実在している日月星辰の普遍法則を取り扱っている風水が迷信だというのなら、
そのような実在する普遍法則からすら逃避した所に普遍的な超越神を認めよう
などとするカルト信仰のほうが、さらなる迷信であることにも違いはない。

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112 2011/06/07(火) 13:13:14 ID:BBvb5Zgbkg
「昔吾れに先正有り、其言明かに且つ清く、國家以て寧く、都邑以て成り、庶民以て生る。
誰れか能く國成を秉る。自から正を為さず。卒に百姓を勞すと。君雅に曰く、夏日暑くして
雨ふる、小民惟れに怨みを曰い資くと。冬祁いに寒く、小民亦た惟れに怨みを曰うと」
「昔我われには正直を旨とした賢王がいて、その言葉は白日の下にさらけ出されても
何ら疚しいところのない、明らかで清廉なものであったために、全ての国家は安寧に与り、
都や村々も繁栄を成し、庶民もみな生き生きとしていた。いま、どこにそれほどもの
隆盛を司ることのできる者がいるだろうか。己れが正直であることに励まないために、
ついには庶民にまで多大なる労苦を課してしまっている。君雅(周の古書)にあるとおり、
夏には強烈な日照りと豪雨に見舞われて、民はこれに怨みを言いながら嘆き、冬には
強烈な寒さが襲って来て、民はまた怨みをいうという、かの有り様そのものではないか。
(昔の賢王が、国家や都市の構造から自然法則との調和を図っていたことがうかがえる)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・緇衣第三十三より)

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113 2011/06/08(水) 11:40:11 ID:d2IeEEDVUM
正直、儒者の口は悪い。

天道や仏道の従事者のように、「勧善」ばかりを語れば口汚さも免れるものを、
実在する諸悪に対する具体的な「懲悪」の言葉までも述べるから、
決して誰しもに好かれたりはせず、悪人には憎まれる宿命を帯びている。

孔子の弟子の子貢も「人の悪を称するを悪む(陽貨第十七・ニ四)」とはいうものの、
その師匠である孔子からして、堕落した当時の諸侯の汚点を的確すぎるほどに
よく突く悪言家であったことが「史記」孔子世家に記録されている。

「君子は○○、小人は××」という露骨な比較によって善悪の優劣を如実化する、
嫌らしいけれども誰かがやらねばならない汚れ役をも儒家は買って出ているのであり、
それが、何もかもが「勧善」ばかりで尽くされている天道や仏道と人道の
違うところであると同時に、人道が天道や仏道には一目置く所以でもある。

「焉んぞ佞を用いん。人に禦るに口給を以てすれば、
屢ば人に憎まるる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん」
「どうして口先だけで阿ったりする必要があろうか。人に接するのに口先だけの
奇麗事を用いたところで、やはり人々からの怨みを買うような結果になるだけだ。
言葉ばかりでは本当に仁者であるともしれないのに、どうして口先で阿る必要があろうか」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・五より)

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114 2011/06/09(木) 12:27:23 ID:FJMlhanymI
事実問題として、聖書信仰がこの世にもたらしているのは、
人類史上にも未曾有の「わざわい(災い、禍)」であって、平和ではない。

別に、アメリカやロシアが今も大量備蓄している核兵器による全面戦争が開始されて
人類が即座な滅亡に追いやられまではせずとも、現時点ですでに、聖書信仰こそが
人類史上にも未曾有の格差社会をもたらし(欧米聖書圏の富豪とアフリカ聖書圏の貧困者)、
何十億人という人々を不幸まみれな苦役に追いやった結果、その反動としての愛欲の貪りが
破滅級の人口爆発を引き起こし、もはや全人類が即座に聖書信仰を全面棄教でもしない
ことには、否応なく人類が滅亡へと追いやられるほどものわざわいを招いている。

犯罪聖書中で神がもたらすといっている平和が全くの偽りであり、せいぜい全世界が
破滅に陥る中で信者たちが金満によって最期まで虚栄を謳歌することを「平和」と
呼んでいるだけのことであり、「礼記」楽記第十九に初出している、「徳性による感化
によって誰しもを安寧へと導く」という「平和」の本来の定義からも真っ向から反している。

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115 2011/06/09(木) 12:28:25 ID:FJMlhanymI
「(孟子曰く)若くのごとく為す所を以て、若くのごとく欲する所を求むるは、猶お木に縁りて魚を求むるがごとし。
王曰く、若くのごとく其れ甚だしきか。曰く、殆ど有た焉れより甚だし。木に縁りて魚を求むるは、魚を得ずと雖も、
後に災い無し。若くのごとく為す所を以て、若くのごとく欲する所を求むるは、心力を盡くして之れを為して、後必ず災い有り」
「(斉の宣王に対して孟子)『このようなやり方をして、そのような希望を叶えようとするのは、あたかも木に登って
魚を得ようとするようなものです』 宣王『それほどにもひどいのか』 孟子『いや、それ以上にもひどいと
言っても過言ではありません。木の上に魚を求めて得られなかったからといって災いになるわけでもありませんが、
莫大な権力や行為能力を掌握して、なお木の上に魚を得ようとするような愚行を求めているあなた様のやり方だと、
全身全霊を尽くして願いをかなえようとすればするほど、さらに大きな災いを招くばかりとなりますから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・七より)

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116 2011/06/10(金) 11:16:41 ID:h.RvXSGkzk
ユダヤ人の条件は「母親が旧約信者であること」だし、
欧米のキリスト教徒が後付けで改宗した信者であることも知ってのこと。
今のキリスト教徒やユダヤ教徒のうちに、犯罪聖書中の登場人物の「実の子孫」などはいない。

「子」だの「子孫」だのという表現を用いたところで、所詮はどこまでも比喩表現止まりであり、
皇祖神アマテラスを始めとする、本物のご先祖さまを祭っている日本神道などと比べれば、全くの紛い物。

日本人と比べれはだいぶ系図の粉飾が甚だしいが、孔子や孟子や諸葛孔明といった
歴史上の実在の人物が、同郷であることなどを根拠に先祖であることを主張する中国人のほうが、
「あり得ること」を根拠に子孫であることを標榜していたりするぶん、まだ誠実であるといえる。

「祿の公室を去ること、五世なり。政の大夫に逮ぶこと、四世なり。故に夫の三桓の子孫は微なり」
「今の魯では、爵禄を授与する権限が公室を離れてから五代目になるし、政治の実権が大夫に
乗っ取られてから四代目になる。そのため三桓(魯の先祖)の子孫も衰えることとなってしまったのだ。
(国家としての体裁を蔑ろにしたことなど、子孫が衰亡したのにも確かな理由が備わっている)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・季氏第十六・三より)

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117 2011/06/11(土) 11:40:41 ID:S6NKkrnZdY
「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」
(権力犯罪聖書——通称聖書——ルカ禍音書9:25)

我と世界とを対立項として捉えているところからして、すでに「ガン細胞」の性向を帯びている。

世界の安寧を保つことで我れをも保つ、仁義の理念とは真っ向から相反していて、
どちらかを立てる以上はもう一方が絶対に立たない。

究極的なことを言えば、本当に真なのは仁義のほうであって、自らを世界のガン細胞として
捉える犯罪聖書のものの考え方のほうが間違っているために、最終的には成り立たない。

犯罪聖書中のカルト教義は、信者をガン細胞も同然の振る舞いに陥らせはするものの、
やはり犯罪聖書の信者もまた一種の人間であり、人間社会に寄生することでこそ
生き延び、人間社会が滅亡すれば自分たちも滅亡する運命を負わされているから。

とこまでも、完全に誤りであるのは犯罪聖書中のカルト教義であって、
信者がどんなにそれを信じても、信者がその内容に完全に遵うことができるわけでもなく、
自分たちを保つために世界をも滅ぼそうとした結果、自分たちもまた滅ぶしかないのだ。

「鳥獣は与に群れを同じくす可からず。吾れ斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にかせん」
「鳥や獣とは一緒に群れを成して生活するわけにもいかない。人として産まれついた私にとって、
この世界の人々と共に暮らしていくのを拒絶して、一体誰と共に暮らしていくことができようか。
(人としての仁義の不可避さを説く言葉。儒家が『人道』であることの高らかな宣言でもある)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・微子第十八・六より)

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118 2011/06/11(土) 23:53:39 ID:S6NKkrnZdY
人は所詮は、人と人との間にしか生きられない、だから「人間」という。

当然のことではあるが、「人は誰しもいつかは死ぬ」
ということ並みに、忘れがちな現実だといえる。

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119 2011/06/12(日) 13:30:14 ID:40p.IZI4x.
冤罪で精神薄弱者(イエス)を処刑して、代わりに強盗殺人犯(バラバ)を放免した
ローマ総督ピラトの裁定が不当だというのなら、その不当判決や、不当に放免された
強盗殺人犯への懲罰を申し立てるべきなのであって、冤罪で刑死した精神薄弱者が
三日後に蘇ったなどという与太話への狂信で対抗したりしても、全くの無駄。
それこそ不当判決を修正しようともしない怠惰な法務官や、不当に放免された
強盗殺人犯の思う壺なのであり、罪を消し去るどころか無闇に増長させる従犯となるのみだ。

精神薄弱者を生け贄にして自分たちの放免を図る、ユダヤやプロテスタントが最重度の
罪状の持ち主なままであることはもちろんだが、不当判決で刑死した精神薄弱者の
復活を信じることで、ユダヤやプロテスタントの精神病質を助長してきた正教や
カトリックにも、ユダヤやプロテスタントの親密な従犯としての罪状が確かにある。

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120 2011/06/12(日) 13:30:26 ID:40p.IZI4x.
「瞻卬する昊天の、則ち我れに惠まざる。孔と填みて寧からず、此の大いなる﨤いを降せる。
邦の靡ち定まる有らず、士民も其れ瘵みつかる。蟊賊蟊疾して、その屆み有る靡く、罪罟は收まらず、
その瘳ゆる有る靡し。人の土田有るを、女じ反りて之れを有り、人の民人有るを、女じ覆りて之れを奪えり。
此の宜しく罪無かるべきを、女じ反りて之れを收え、彼の宜しく罪有るべきを、女じ覆りて之れを説せり」
「高空にまします上天も、我われに恵みを与えてくださることなく、長年病に喘いで安らぐこともできないほどの、
大いなるこの災いばかりを降された。どこの国も内政が安定することもなく、為政者たちもみな病み疲れている。
害虫の大繁殖にも等しい盗賊や精神薄弱者の暴れ回りが横行し、その極みも無く、罪悪の辛苦は収まることがなく、
精神病質も癒える兆しすら見られない。人が田畑を所有しているのを見ればこれを奪い、他国に民が多くいれば
奴隷人員などとしてこれを奪う。罪のない者は捕らえて罰し、罪ある者はこれを許して放免するといった有り様。
(後半はイエスの刑死にまつわる権力犯罪の描写とほぼ同じだが、それが『罪と病』の国中への蔓延によるもの
であるという冷静な分析が行き届いており、さらにはそれが上天のもたらした災いであるとすら見なしている)」
(権力犯罪聖書——通称四書五経——詩経・大雅・蕩之什・瞻卬より)

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121 2011/06/13(月) 12:03:55 ID:uKIsP6Mhg.
犯罪聖書(新旧約聖書)を質でも量でも古さでも発行部数でも上回る道徳聖書(四書五経)が、
犯罪聖書全文の偽証性を実証している。イエスの救世主としての真偽以前に、犯罪聖書自体が、
人類にとっての根本聖典=聖書の中の聖書であるという考えからして偽りである。

今まであったものが刷新されて新しいものに鞍替えするのではなく、
より根本的で基本的な部分にまで立ち返って、人類全体が身を固めなおすだけのことだ。
温故知新をも志さずに、とにかく何か新しいものに取っ付こうとする姿勢からして誤りなのだ。

「哀公社を宰我に問う。宰我對えて曰く、夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗を以てす。
民をして戰栗せしむと曰う。子之れを聞きて曰く、成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず」
「哀公が社殿に植える神木のことについて、孔子の弟子の宰我に尋ねた。宰我は答えて言った。
『夏王朝の頃には松の木を用い、殷王朝の頃には柏の木を用い、周代になってからは栗の木を用いています。
(周で栗の木が神木に使われるのは)民を戦栗(せんりつの語呂合わせ)させる意図が込められているからです』
孔子はこのことを聞いて、『既に成されたことに説教はするまい。遂げられたことは諌めまい。すでにやって
しまったことは咎めても仕方がない』と、宰我を許すような言葉を三度も繰り返すことで、宰我が哀公の機嫌を
取るために(周の神木が栗であるのは民を戦慄させるためなどという)適当な偽証を行ったことを暗に嘆いた。」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・八佾第三・ニ一)

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122 2011/06/14(火) 13:23:12 ID:m8w8OeFhEw
現実問題として、形而上の実体性とは何らの関係もない自己完結装置である
この世界この宇宙において、妾腹の私生児であり、精神薄弱である冤罪犯のカルト教祖が、
鞭打ちや唾吐きなどの酷い虐待を受けながら刑死していくような不条理による激情を発しても、
当然形而上との連絡が取れるわけでもなく、ただ形而下での人類滅亡級の権力犯罪を推進するのみとなった。

イエスが妾腹の私生児として生を受けたことは先天的なことだし、当時のイスラエルやローマ帝国が
政治的な腐敗にまみれた濁世だったことも先天的なことであり、その責任までをもイエスに
押し付けるのは確かにおかしい。しかし、同じく妾腹の私生児として産まれ、春秋時代後期という、
諸侯勢力の権謀術数渦巻く乱世に生きながらも、自学自修によって周代以前の伝統文化の修得や
その保全に励むことで、聖人君子として大成した孔子のような例もあるわけだから、ことにイエス自身が
堅実な自学自修も怠ることで精神薄弱を深刻化させ、自前のカルト教義を方々に触れ回った挙句に
冤罪犯となって強盗殺人犯の釈放と引き換えに自らが十字架上で犬死にしたことは、生まれや時代
ではなくイエス本人の全くの自己責任なわけだから、全く言い逃れようもない本人自身の落ち度だといえる。

故に、天の為せる災いはなお避くべきも、自らの為せる災いは逃るべからずともいう(書経)。
生まれつきや時代の不遇ではなく、孔子や孟子と比べてあまりにも愚か過ぎたイエス自身の行いが、
いくら他者から咎められずとも、逃れようもなく自らに返ってくる自業自得の災いとなるのだ。

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123 2011/06/14(火) 13:24:58 ID:m8w8OeFhEw
孟子には、特に妾腹の子だったとか私生児だったとかの伝承はないが、司馬遷もその身元を
調べ上げられないほどに低い身分の出身だったらしく、なおかつ戦国時代という、孔子が生きた
春秋時代後期以上にも政情が不安定と化していた、魑魅魍魎同士の共食いが横行する時代に生を受けた。

それでも孟子は、賢婦だった実の母や、孔子の孫である子思などの助けを通じて儒学の猛勉強に励み、
戦車千乗を有する大諸侯を圧倒するほどもの仁義道徳を携えて世を駆け回り、決して当時の社会に
特有の汚辱などに汚されることもなく人生を全うした。その血筋も後世にまで称えられて、
忠臣蔵四十七士の一人である武林唯七なども、孟子の末裔であることを誇りにしていたほど。

生まれの賤しさだとか、生まれ育った環境の悪さだとかをものともせず、偉人として
大成した実例は確かにあるわけで、それは孔子とか孟子とかいった人々のことであり、
決してペテンで世の中を騙しおおせることで名を上げた、イエスなどであるわけではない。

「仁なれば則ち栄え、不仁なれば則ち辱めらる。今辱めらるるを悪みて不仁に居るは、
是れ猶お湿りを悪みて下きに居るがごとし。如し之れを悪まば、徳を貴びて士を尊ぶに如くは莫し」
「仁徳を修めれば順当に栄えられる一方で、仁徳を修めなければ侮辱にまみれることとなる。
いま侮辱にまみれることを忌み嫌いながら、仁徳を修めることも怠るような連中がいるとすれば、
それはまるで湿気を嫌いながら、好き好んで低地の湿地帯にいようとするなものだ。そのような
痴態を晒すのが嫌ならば、仁徳を貴んで、仁士を尊ぶに越したことはないのだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・公孫丑章句上・四より)

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124 2011/06/15(水) 12:24:42 ID:CObUGi9Ync
「人は神の子である」という考え方は神道にだってあるが、それは
史実上に実在するご先祖様を「神(鬼神)」とみなしているからで、
一般人が先祖の墓を参るようにして、皇族も伊勢神宮に参詣している。

そうではなく、この世界この宇宙の形而上に実在すると見なした
架空の超越神を「父」であるとして、その架空神の子としての「神の子」が、
妾腹の私生児であるために実の父親の身元も知れないイエスであると
見なしているわけだから、そんな欺瞞上の神の子に対して罪の悔い改めを
試みたところで、全く悔い改められることもなく、ただイエスを狂信しない
場合以上にも、罪を開き直って推進する精神薄弱が深刻化するのみである。

実際に自分の親だったご先祖さまに対して、「先祖の恥にならぬように努めます」
という思いを込めてこそ、罪の推進を押し止める気持ちも生ずるが、現実には実在しない
架空神を「父」だなどとみなしてしまえば、そんな気持ちが生ずるわけもなく、かえって
父などが実在しないにことかけてのやりたい放題が推し進められるだけとなるのだから。

「樂正子春の母死す。五日にして食わず。曰く、吾れ之れを悔ゆ。
吾が母よりして吾が情を得ずんば、吾れ惡くにか吾が情を用いん」
「楽正子春の母が亡くなった。楽生子は悲しみのあまり、礼法上三日と決められている
死後三日の断食を超えて、五日間も断食をしてしまった。本人曰く、『私はあのことを
悔いている。わが父母への親情によらなければ、他のあらゆる情けも真心のこもったものには
ならないというのに、私は三日と定められている断食を五日も行ってしまったのだから』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・檀弓下第四より)

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125 2011/06/16(木) 12:18:41 ID:mUtR5vUrZ.
手乗りサイズ程度の、彫刻や漆塗りなどを施した木板に
故人の名前や戒名などを記して仏壇の中央に据えたりする、
いわゆる「位牌」という風習は、元はといえば仏教ではなく儒教から来ている。

日本に入ってきたのは江戸時代、黄檗宗などの禅仏教を通じてであり、
儒学は輸入しても儒教信仰は受け入れない日本の伝統が保たれたままで、
「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす(八佾第三・一二)」
という純粋な礼儀道徳に合致する範囲での、位牌文化のみを受け入れている。

とはいえ、やはり礼法上の取り決めとしても位牌は重要なものであり、
地震や火事などが起こればとりあえず位牌を仏壇から持ち出すというぐらいに、
位牌を祭る家においては、位牌を大切にすることが必要とされている。

宗教信仰ではなく、純粋な礼儀作法としても位牌のような伝統文化には
十分な価値があるものであり、神道や浄土真宗のように位牌を祭らない宗派が
あるにしても、だからといって位牌を祭ることを否定するものでもない。

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126 2011/06/16(木) 12:20:57 ID:mUtR5vUrZ.
「六月、衛侯孔悝に酒を平陽に於いて飲ませ、重く之れに酬う。大夫皆な納るること有り。
醉はせて之れを送り、夜半にして之れを遣る。伯姫を平陽より載せて行く。西門に及び、貳車を使て
反って西圃より祏せしむ。子伯季子、初め孔氏の臣為り。新たに公に登る。之れを追わんと請う。
祏を載せる者に遇い、殺して其の車に乘る。許公為、反りて祏し、之れに遇いて曰く、
不仁の人と爭いて、勝たざる無しは明らかなり。必ず先ず射しむ。三たび射發つも、皆な許為に遠ざかる。
許為之れを射れば、殪れん。或るひと以て其の車に從う。祏を橐中に得たり。孔悝出でて宋に奔す」
「(この年の四月に孔子が亡くなり、同姓のよしみで厚遇されていた孔氏が衛で酷いお払い箱扱いを受ける話し。)
六月に、衛候は孔悝を平陽で饗応し、大酒を飲ませて引き出物まで送った。諸々の大夫も多くの引き出物を送り、
泥酔させた挙句に、夜中に国外へと追放した。孔悝は母の伯姫を車に乗せて共に平陽を去った。西門を出たところで、
連れの車を引き換えさせて、西圃に置いたままの位牌を取り戻しに行かせた。——子伯季子という、孔氏の臣下だったが
今は昇進していち大夫になったものが、亡命する孔氏を追って殺すことを願い出た。位牌を取りに引き返してきた者に
出会うとこれを殺し、位牌を載せたままのその車に乗って孔悝を追いかけた。孔悝の代わりに、位牌を取り戻しにいった
者を迎えようとしていた許公為は、車に載っているのが追い討ちをかけに来た子伯であることに気づき、憤慨していった。
『人でなしと争って、勝てないはずが無い』 そのため許為はまず子伯に弓を射させた。三度び射たが全て外れた。
今度は許為が子伯を射ると、たった一矢で子伯に命中し、子伯は倒れ伏せて死んだ。子伯に付いていた車のうちの
一台の車中から位牌が見つかり、孔悝はこの位牌を携えて衛国を出奔し、宋に亡命したのだった。(実話である)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——春秋左氏伝・哀公十六年より)

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127 2011/06/17(金) 03:39:49 ID:YAvj25Qgys
神頼み。神は絶対にいる。いなくてもとりあいず信じろ。そして片っ端からすべての宗教の
経典を調べ正しいやつを見抜け!僕はキリスト教(プロテスタント)がお勧め。聖書は世界中
の3分の2?(5分の4?)の人が使ってる。聖書の登場人物は白人でも韓国人でもなく有色人

のヘブライ人、イスラエル人。敵と同じ宗教であっても宗教戦争ではなく資源略奪戦争、
金略奪戦争、民族絶滅戦争なのだから友好的に振舞ってはならない。敵を知るにはキリス
ト教、ユダヤ人、聖書の知識を身につけるべし。日本のキリスト教団は白人と韓国人無し
で独自に発展させるべき。


著名人の聖書観
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/pisgah/myweb/bible.ht...
聖書は万物の書物。日本社会で毎年100万冊売り上げてる永遠のベストセラー。人間の取
扱説明書。この世の宝。神の叡智。全てを超越した書物。世界最高峰の小説。人類の宝。
聖書を読めば欧米価値観と欧米サタニストが理解できる。聖書を手に入れロックミュージ
ックを捨てるべき。欧米ミュージックは日本に必要なく聖書が重要。聖書を読むとハリウ
ッド映画が理解できる。欧米小説が発展してたのも聖書のおかげ。神道(古代ユダヤ教の名
残)とキリスト教を手にいれて仏教を捨てるべき。神道にとってキリスト教は必ず融合でき
るはず。聖書を読めばキリスト教が正しくキリスト教の皮をかぶったサタニストが邪悪であることが理解できる。
キリスト教を批判してサタニストを批判しない奴はただのアホ。

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128 2011/06/17(金) 10:33:50 ID:mQ0UOMJjwY
>>127
すでに何度も何度も論駁しぬいているような、陳腐な意見の塊ではあるが、
これから自分たちの全文化文明を捨てさせられる連中に対して、
あんまりぞんざいに応対するのも酷なんで、復讐もかねて逐一返答しておこう。

>神頼み。神は絶対にいる。いなくてもとりあいず信じろ。
神にも色々あるが、自分自身のご先祖さまの「鬼神」ってのは確かに
実在していて、その家の人々の思考規範や言動規範から深く深く司っている。
そういう神はいるとして、聖書信仰にあるような「形而上の超越神」は、逆にいない。
いても形而下のこの世界とは何の関係もないものだから、そんな不実な神を信じることで
現実に実在する先祖の鬼神への配慮などを疎かにするぐらいなら、そんな神は信じるべきではない。

>経典を調べ正しいやつを見抜け!僕はキリスト教(プロテスタント)がお勧め。
代表的なものはほぼ全て読みぬいたが、キリスト教やユダヤ教の聖典である新旧約聖書こそは、
あらゆる人類の聖典の中でも「最低最悪の書」、それ以上下がもはやあり得ない、
下劣の極みの書であることを確認した。それほどにも新旧約聖書が下劣の極みであるからこそ、
それ自体もそんなに大したことを書いているわけではない四書五経のほうが、「まだマシなもの」
として特に推薦することができ、四書五経よりも優良な聖典が、いくらでもあるのも確かなことだ。

>敵を知るにはキリスト教、ユダヤ人、聖書の知識を身につけるべし。
>日本のキリスト教団は白人と韓国人無し で独自に発展させるべき。
犯罪集団の精神原理としての新旧約聖書を、「捜査対象」として研究するのは確かにありだが、
自分たち自身がキリスト教徒になるのでは「ミイラ採りがミイラ」であり、邪義に取り込まれて
自分たちが廃人と化してしまうぐらいなら、犯罪聖書を一行だって読むべきではない。

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129 2011/06/17(金) 10:34:03 ID:mQ0UOMJjwY
>聖書は万物の書物。(中略)人類の宝。
犯罪集団や廃人の精神原理となっている、最低最悪の下劣の極みである文集を
そこまで褒め称える神経がすでにおかしく、完全に犯罪信仰の邪義に取り込まれている。
質でも量でも古さでも発行部数でも、あらゆる面において新旧約聖書を完全に上回っている四書五経に
対しても全くの無視を決め込み、事実誤認の脳内お花畑で遊びまわることなどが思想哲学板の主旨ではない。

>キリスト教を批判してサタニストを批判しない奴はただのアホ。
キリスト教も悪魔信仰も五十歩百歩。地獄・餓鬼・畜生の三悪趣のみを住処とし、
その中から決して出てくることのできない井の中の蛙と化してしまっている。
修羅・人・天の三善趣も知った上で三悪趣を選択するのならまだしも、三善趣の存在を
全く察知しないままに、自分たちが知っている唯一無二の世界としての三悪道を
定立しまくっているのだから、その知見にも数多の事実誤認が入り混じってしまって、
もはや手の施しようもなくなっている。だからもはや、自分たちの知見の全てを
捨て去るしかなく、一旦だけでも全ての文化文明を手放す必要すらもがあるのだ。

「其の節の志しを明らかにし、以て其の事を失わざれば、則ち功成りて鄹行立つ。鄹行立てば則ち暴亂の禍い無し」
「自らの節度に即した志しを明確にし、少しも喪失することがないのなら、功を成して立派な徳行となる。
徳行が立派であれば暴乱のわざわいも起こらない。(自らの節度もわきまえられずに志しを疎かにし、一旦試みた
ところですぐに喪失したりしてるもんだから、徳行も立たなくて暴乱の禍を為す。少しも貴ぶべきことではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——礼記・射義第四十六より)

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130 2011/06/17(金) 11:30:39 ID:4/3SuELksI:DoCoMo
「何らの権威も持たない下劣な通俗書」としての、
新旧約犯罪聖書の存在性ぐらいは、これからも保たれる。

コンビニに置いてある犯罪マニュアルムックだとか、
青テープで封じられた18禁本だとか並みの扱いとしての、
新旧約犯罪聖書の市民権はこれからも保障されて、ただ「普遍的な権威」
としての扱いだけが剥奪されて、一家ぐるみや本気での帰依などが
近親相姦や獣姦並みの禁忌として扱われるようになるのみ。

それでこそ、日本のド田舎程度の人口に過ぎなかった古代ヘブライ人が、
自分たちの拙い知識を歪めに歪めて捏造した駄文集に対する扱いとしても
しごく適正なものとなり、自分たちの駄文ごときに大した意味を込めようなど
という気もなかった、古代ヘブライ人たちの意向にも完璧にかなうことだろう。

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131 2011/06/17(金) 11:50:13 ID:4/3SuELksI:DoCoMo
あと、日本神道の注連縄信仰の痕跡である、縄目文様を施した縄文式土器が
10000年前の遺構からも発見されており、伝説上ですら約7000年前にまでしか
その起源を遡ることができないユダヤ教よりも、日本神道の考古学的な起源のほうが確実に3000年は古い。

百歩譲って、ユダヤ教が日本神道の支流であることはあっても、
(バラモン教の支流である拝火教の支流である可能性のほうが遥かに高いが)
神道がユダヤ教の支流や名残りであるだなんてことは、時系列上、絶対にあり得ないことだ。

これで、>>127への回答は一通り済んだ。
これからも、カルト信仰による精神障害への処方箋が欲しいのなら、
どしどし書き込んでくるがいい。もちろん、自首や入院のほうが先決なら、そちらを優先してな。

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132 2011/06/18(土) 12:17:26 ID:arHeaS1Zuw
生きた人間として、我が家をも背負って社会的に大成することはほっぽらかして、死後に
生まれ変わることでやり直そうだなんてしている時点で、すでに「後ろ向き」の極みだ。

「それが実際にできる」ということを信じることも、すでに後ろ向きな信仰に過ぎない。
信じるにしたって、我が家の祖神こそを信じて、現世での成功を志すほうがよっぽど前向きなこと。

母子家庭で生まれ育った私生児でありながら、父親の身元を親戚に問いただすなどして自力で調べ上げ、
宋の名臣の血を引く孔氏としての家系を正式に継ぐことで、孔子もいち民間人としての立場から、
一時は衛の宰相にまで出世していた。同じ妾腹の私生児として産まれながらも、父方の身元を調べる
ことも怠って、自らを「神の子」だなどと触れ回った(少なくともそう呼ばれることを拒まなかった)
のはあくまでイエス自身の落ち度であって、そのイエスの刑死後の復活などを信じたりするのも、
イエス自身の落ち度の正当化を信じようとしているだけなのだから、これまた後ろ向き極まりないことだ。
だったら、俗臭芬々でもあるにしろ、正式な社会的成功をこそ志していた
孔子の生き方を信認するほうが、まだ前向きなことだ。

「子貢問うて曰く、何如なるか斯れを之れ士と謂ふ可き。子曰く、己れの行いに恥有り」
「子貢が問うた。『どのようであれば立派な士人(社会的高位者)であるといえるでしょうか』
先生は言われた。『自らの行いに恥じを知ることだ』(恥知らずに士人となる資格はない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・二〇より)

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133 2011/06/20(月) 12:20:01 ID:J.f9y1QdgM
仮に、犯罪聖書の神を「古代ユダヤ人」が崇め立てるのなら、
どんなに稚拙な内容の聖典であるにしたって、自分たちの「祖神」を崇め立てる
ことになるわけだから、「我が家の祖神でもないのに祭るのはへつらいである(為政第二・二四)」
という道徳的な規範にも即して、決して間違ったものとはならない。

しかし、古代ユダヤ人などというものは、もはやとっくの昔に絶滅していて、当時の
ユダヤ人にまで系譜を遡ることができる自称ユダヤ人なども、今の地球社会には一人も存在しない。
確認し得る限りで、今のユダヤ人の最古級の系譜となるのも、約千年前にキリスト教圏と
イスラム圏の狭間でユダヤ教に集団改宗したハザール人までであり、当然これは古代ユダヤ人とは無縁。
しかも、今の欧米での「ユダヤ人」の定義と来たら、「母親がユダヤ教徒であること」と来ている。
母親が旧約信者ですらあれば誰でもなれるユダヤ人などが、旧約聖書の神を崇め立てたり
しているのだから、それこそ孔子の言った「へつらい」そのものの有り様だといえる。

ただ、新約犯罪聖書のローマ人への脅迫文1:16などにも、ギリシャ人などの異邦人が
犯罪聖書の神に帰依することを奨励する記述があるため、我が家の祖神でもないのに
これを祭るへつらいの増長は、新約を含む犯罪聖書全体にとっては確信犯なことでも
あるため、やはり犯罪聖書の権威をどんな形でも認めるわけにはいかないのも確かなことだ。

犯罪聖書の権威を認めないことで何もかもを正すか、
その権威を認めることで何もかもを過つかの、二つに一つしかない。

「地を倍にして仁政を行わざるは、是れ天下の兵を動かしむるなり」
「仁政に努めることもないままに、(侵略などで)領地を二倍に広げたなら、それだけでも
自ら巨万の兵を動かす戦乱を招いたも同然のことである(地の果てに及ぶどころではない)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句下・一一より)

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134 2011/06/21(火) 12:06:28 ID:thJRsFX5oI
支配者が被支配者に対して「担う」だの「背負う」だのと恩着せがましいことを言うのは、
せいぜい支配者が被支配者の「安全」や「生活」を保障するぐらいのところまでしか考えていないからだ。

真正福音書(論語)の顔淵第十二・七で、子貢が孔子に「為政に臨んで、食糧と軍備と信義の三つのうち、
どれかを捨てなければならないとすればどうしますか」と問えば、孔子はまず「軍備を捨てよう」と答え、
「では残りの二つ(食糧と信義)のうちでどちらかを捨てるとすればどうしますか」とまた問われれば、
「食糧を捨てよう」と答えている。つまり孔子は、為政者であるのなら、軍備や食糧の十分な確保によって
民の安全や生活を保障すること以上にも、信義を守る道徳教育をこそ至上のものとすべきだと説いている。

軍備による安全保障だけを保障したところで、民は他国との戦乱を好き好むような暴民となりかねないし、
食糧などの確保で生活だけを保障したところで、他国民を大量餓死に追いやるような権力犯罪すらよしとしかねぬ。
ただ安全や生活を保障すること以上にも、社会構成員としての自分たちの正しいあり方をわきまえる道徳教育こそが、
戦乱や飢餓のような社会問題を根本から絶やしめる「健康維持」の要となるのであり、世の中を戦乱や飢餓に
追い込むような不道徳まみれにしておいてから、自国民の生活や安全だけを保障するのは「対症療法」止まりであり、
道徳教育を怠る自分たち支配者こそは飢餓や戦乱の元凶でもあるからして、「マッチポンプ」の対症療法でもある。

一切合財が本来無用な、有害無益な劣悪現象の一旦として、民の生活や安全ばかりの保障までもがある。

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135 2011/06/21(火) 12:07:03 ID:thJRsFX5oI
削除(by投稿者)

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136 2011/06/21(火) 13:07:45 ID:2xoqO0Q.tM:DoCoMo
孟子とて、「民の生活を最低限保障や助成しておいてから、仕上げとしての道徳教育を施すべきだ」とは言っているわけで、
時系列上の「衣食足りて礼節を知る(管子)」という優先順位までをも否定しているわけではない。

しかし、「道徳教育こそは仁政の要であり、民の生活や安全を保障することなどは、
そのための前準備に過ぎない」という風には言っているわけで、年金保障や雇用確保ばかりに論点が終始して、
学校での道徳教育など「ついでのついで」ぐらいにしか論題に挙げられることがない
今の日本政治の体たらくなどとは、完全に一線を画したものとなっている。

しかも、孟子が重視する道徳教育は、仁義忠孝を第一とする正統な人間道徳の教育であり、
親子兄弟の殺し合いをも画策するカルト教義や異端の学の教育などでは、決してない。

道徳のふりした犯罪寓意(moral)、その犯罪寓意を体系化したカルト教義や異端の学までもが
道徳教育の内にすら組み込まれかねないほどに、人間社会全体の知見までもがみそくそと化してしまっている昨今、
小中高といった一般教育下の学生だけでなく、あらゆる専門教育下の学生や、社会人にまで
最低限の人間道徳の再教育を施すことまでもが必要になりかねない。というか、必須だ。

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137 2011/06/21(火) 13:15:14 ID:2xoqO0Q.tM:DoCoMo
一部修正。

「庠序の教えを謹み、之れを申しめるに孝悌の養を以てせば、頒白の者道路に負戴わず。
七十の者帛を衣、肉を食らい、黎民も飢えず寒えず、然うして王たらざる者は未だ之れ有らざるなり」
「(民の本業である農産などの邪魔をせず、なおかつその事業を滞りなくやらせるように助けた上で)
学校などでの道徳教育をよく重んじて、特に親や目上の者への忠孝意識を根付かせるように努めたなら、
白髪を生やしたような老人が重荷を背負わされて道を行くような労役を担わされることもなくなるし、
七十過ぎの者でも絹服を着たり肉を食ったりできるほどに豊かになり、民が餓え凍えたりすることもなくなる。
このようにして天下の王者たりえなかった者は一人もない。(孟子はあくまで自分の意見として述べているだけだが、
孟子以前に湯王や武王などが同様の徳治を試みて成功し、孟子以後にも漢帝国や唐帝国、日本の平安朝や
江戸幕府などが同様の仁政を試みて、数百万〜数千万人規模の大社会なりの泰平統治を実現している)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・梁恵王章句上・三より)

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138 2011/06/22(水) 11:11:19 ID:/BwD9XQS96
「旧約の律法は無効だ」などといったところで、
その律法の代替になるような社会規範をイエスやその弟子が拵えたわけでもない。
ただ「律法の取り決めを守りきれなくても、罪を咎められたりはしなくていい」
といってるだけで、結局、キリスト教徒も基本は旧約の律法を自分たちの規範として、
守りきれない場合に「アーメン」となるだけの、ユダヤに毛が生えた程度の体たらくのままでいる。

イスラムの聖典コーランのように、「アダムは楽園追放を許されている」とか、
「イエスは始めから刑死もしていなければ、復活もしていない」とかいった、具体的な指摘によって
新旧約聖書の記述を具体的かつ的確に否定して、その代替となる社会規範をコーラン自体や
ハディースなどに依拠したならば、もはや新旧約が「潜在的な社会規範」になることすらなくなって、
カルト教義に取り込まれての精神障害や権力犯罪を深刻化させていくようなことまでもが未然に防げるようになる。

ただ律法などの劣悪な構造体系を否定するだけでなく、その完全な代替となる優良な体系構築が
また別にあって初めて、潜在的な規範としての、劣悪な構造体系の価値が完全に無効化される。

新旧約の完全な代替になるだけの体系構築といえば、中国なら四書五経、インドならヴェーダやウパニシャッド、
イスラムならコーランやハディースなどが挙げられる。このうちで、誰でもすぐに鞍替えできるほどに汎用的で、
さして高尚なことが書いてあるわけでもないからこそ、取っ付きやすいのが四書五経であり、正式な入信などを
待つまでもなく、今すぐにここで新旧約信仰を全廃する代替にもなるからこそ、ここで奨めているわけだ。

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139 2011/06/22(水) 11:11:59 ID:/BwD9XQS96
「法語の言は、能く從うこと無からんや。之れに改むるを貴しと為す。巽與の言は、能く説ぶこと無からんや。
之れに繹ねるを貴しと為す。説びて繹ねず、從いて改むずんば、吾れ末だ之れを如何ともせざるのみ」
「規範を示した言葉には従おうと思うが、それによって自分をちゃんと改められてこそ貴いことだといえる。
無条件に恵みを与えるような甘い言葉には喜ばずにいられないが、なぜそれが可能であるのかを自分から
尋ねてこそ貴いことだといえる。ただ喜んでばかりで尋ねようともせず、そこそこに規範に従っても
それで自分の過ちを正したりまではしないのならば、こりゃあどあしようもないことだといえる。
(規範となる法語は規範とするためにあるのであり、都合のいいところにだけ従って、他は反故にしたりするために
あるのではない。だったらそのような法語と、『守ろうが守るまいが自由』などという甘言の両方を捨て去ったがマシ)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・二四より)

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140 2011/06/23(木) 11:11:02 ID:fJncAwCOwk
是非善悪は人間自身が定めたもの、だからこそ、
神が後付けで正義や悪の定義を摩り替えることもできない。

人間自身が1+1=2と定めて、その定義上の算術に則って金融計算などもこなそうとしているのに、
そこに神が「1+1=3が正義だ」などという定義を後付けで加えて、その正義に則って神の信者が
金融計算をも行って、粉飾決算などを犯したなら、その神が「虚偽邪悪の神」だということになる。

人間自身が定めた是非善悪に、神が後付けの定義を加えたりしたなら、神ですらもが邪神の烙印を
捺されることになりかねない。だから天道に住まう諸々の正統な神さまも、是非善悪については
人間が定めた基準にそのまま従い、たいていの場合は善悪に対する無為自然を決め込んで、
どうしても善悪のために作為する場合には、人間の定義に即した勧善懲悪を施すのみ。
人の決めた善悪すら捻じ曲げて、人道以下の鬼畜道に陥ることだけは避けるところ。

「既に心と思いとを竭くし、之れを繼ぐに人に忍びざるの政を以てして仁天下を覆う」
「よく真心と思慮を尽くして、人の苦しみを静観するのも耐え忍びがたい惻隠の心によって
政治を施せば、仁徳が天下全土を覆い尽くすようになる。(忍耐してはならない具体例)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——孟子・離婁章句上・一より)

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141 2011/06/24(金) 13:16:09 ID:kBWR1SXWNI
自分の罪を、自分以外の誰かになすり付けようとすることが、
一貫して「冤罪」という不義にあたり、それは冤罪被害にあった相手が
刑死して生き返るようなことがあろうとも、変わりはしない。

自分の罪責を自分が負わないことが、人間が定義するところの「罪悪」にあたり、
罪悪に当たるから「苦果」を生む。たとえ自分の罪をなすりつけて刑死させられた
相手が復活しようとも、自分自身が罪を償わなかった罪悪が自業自得で良心の呵責
という心痛を生じ、人口爆発によって地球人類を滅亡させるほどに、無軌道な
愛欲を貪り続けることで、己れの苦しみを紛らわそうとしないではいられなくなる。

自分の罪を自分以外の誰かになすり付けようとする冤罪現象が、
人間にとっての自明なる不義であり、極重の罪悪であるが故に悪因苦果を生じ、
引いては人類を滅亡にすら陥れる。それは、冤罪による刑死者の蘇生などが
後付けで付け加えられたところで決して埋め合わせられはしない、
神の定義以前に遍在する、人間自身の定義に基づく不義であるから。

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142 2011/06/24(金) 13:17:24 ID:kBWR1SXWNI
仮に、自分が強盗などの犯罪被害に遭ったとしよう。
その強盗を行った相手が、ヒゲ面半裸のおっさんを連れて目の前に現れて、
「こいつが俺の代わりに罪を背負ってくれるから許してくれヘヘヘ」と言ってきたとしよう。

許せるもんかよ。

たとえその、代わりに罪を負ったヒゲ面半裸のおっさんが、民間人に対する刑罰
としては最重度にあたる磔刑で殺されようが、殺されてまた生き返ろうが(爆)、
罪を犯した張本人が罪を償わないのなら、決して許せるわけがない。

この程度のことは、自分が犯罪被害者の身になって考えてみればすぐに分かることなのに、
「アダムのあばら骨を一本とってイヴが作られた」と旧約に書いてあるもんだから、
「男のあばら骨は女よりも一本少ない」などという迷信を、ろくに調べることもなく
頑なに信じ続けていたキリスト教徒などには、その程度の注意力すらもが欠けているわけだ。

「性を成し存すべきを存するは、道義の門なり」
「人に天分として具わっている本性を成就させ、保存に努めるべき判断を
保存していくことが、道義に適うための唯一無二の門戸であるといえる」
(権力道徳聖書——通称四書五経——易経・繋辞上伝より)

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143 2011/06/25(土) 11:51:23 ID:niLrykuXgc
「一つことに打ち込みすぎた人間は長生きできない」とは、
清少納言の「枕草子」の言葉だったろうか。

これは、良くも悪しくも事実であることだ。
何も、権力犯罪のような悪行に限らず、諸々の荒行に打ち込む密教僧や、
座禅一つに一生をかける禅宗の僧侶などにも、無理がたたって早死にするものが多い。

しかし、専業を持つことは人にとっての常であり、行為能力的にはほとんど何もしていない俺だって、
ここ数年は四書五経などの優良な学問の勉強に打ち込んでいる。ただ、そこには「学者としての大成」
という目的が具わっていて、有能な学者となって世のため人のために貢献するという先行きが見定まっている。

バラモンの求道者なども、立派な祭司となるためにヴェーダやウパニシャッドを勉強するのだし、
念仏者も凡俗における往生という目的があって念仏を唱える。ただ勉強のための勉強、念仏のための念仏
ばかりに没頭して他が見えなくなったりするのでは、かえって何もしない以上もの害にすらなりかねない。

柳生宗矩とか宮本武蔵とかいった名武術家なども、剣の道で大成すると共に、参禅や芸術、芸能や政治などへの
造詣も極めて深く、多芸多能の人としての側面をも持ち合わせている。もちろん本業が疎かになっているのではなく、
本業に打ち込んだことの功徳を、他分野にすら振り向けられているということ。そのような余裕をもって
打ち込める本業こそは、真に道理や真理へも通ずる道たり得るのであり、他道を徹底的に排斥してまで
そればかりに没頭したりするのなら、おそらく落とし穴への落ち込みであるに違いないといえる。

「詩を誦すること三百、之れに授くるに政を以てして達せず、
四方に使いして專對する能わざれば、多しと雖も、亦た奚を以て為さん」
「たとえ詩を三百篇暗誦できるほどに勉強に努めたとしても、内政を担当して詩の精神を応用した
仁政を達成することができず、外交を担当しても詩の知識を応用して渡り合うことができないのでは、
どんなに多くの詩を学んでいたところで、それは取るに足りないことだ。(専らであることに成果を要求する)」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子路第十三・五より)

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144 2011/06/26(日) 13:30:52 ID:o8o/fLIEL2
「子貢曰く、我れ人の諸れを我れに加うるを欲せざるや、吾れも亦た諸れを
人に加うること無からんと欲す。子曰く、賜や、爾じの及ぶ所に非ざるなり」
「(孔子の弟子の)子貢が言われた。『私は己の欲せざるところを人に施さないように
したいと思います』 孔先生は言われた。『賜よ、それはおまえにできることではない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・公冶長第五・一二)

孔子の弟子の中でも修辞弁舌に優れ、見た目で人を判断するような人間には「孔子よりも優れている」
というほどもの賛辞を受けたことのある(子張第十九・二五参照)子貢が、真正福音書(論語)中でも
特に有名な「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」の実践を志す旨を孔子に述べたところ、
「おまえには無理なことだ」と返された。もしかしたら、儒家道徳において賤業とされる投機で大金を
稼いでいた子貢の行状をも見越して、「おまえには所詮無理なことだ」と孔子も苦言を呈したのかもしれない。

ただ、この一文だけを根拠にするなら、孔子が子貢の「〜を欲する」という欲求不満を晒しつつ
同態加害忌避を志したところが矛盾じみているのを見抜いて、即座に「無理だ」と私的した可能性もある。

「孔子は老子に道家の奥義を教わった」という伝説があるが、道家の実践は無為自然であり、
欲求を消極化する点に集約されている。仕官を志して青い鳥状態の人生を送った孔子の有り様は、
決して道家の「絶対消極」の実践などにはなっていない。しかし、「欲はほしいままにすべからず(礼記)」
という儒家の徳目を究極化したところには、道家や仏教における欲求の捨離が確かにあるわけで、
欲求を捨て去ることと、欲求たらたらであることの中庸を行くために、孔子が道家の欲求捨離の
理念を学び、そのわきまえによって、子貢の欲求不満をも見抜いた可能性は確かにある。

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145 2011/06/28(火) 11:49:43 ID:P73AuaNC3Y
「顏淵、喟然と歎じて曰く、之れを仰げば彌よ高く、之れを鑽れば彌よ堅し。
之れを瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。夫子循循然として善く人を誘う。
我れを博むるに文を以てし、我れを約するに禮を以てす。罷めんと欲すれども能わず、
既でに吾が才を竭くせば、立つに所有りて卓爾たるが如し。之れに從わんと欲すと雖も、由る末きのみ」
「顔淵は嘆息しながら孔先生のことを評した。『仰ぎ見れば仰ぎ見るほどにさらに高く、
深く切り込もうとすれば切り込もうとするほどさらに堅いことが分かる。前にいるのを見たかと思えば、
次の瞬間には後ろにいるかというように捉えがたい。それでいて先生はよく手順を踏んで我われを教導してくれる。
我われを博識にするためには文章を教えてくださり、知識を要約して実践するためには礼儀を教えてくださる。
そのため、もう勉強をやめようかと思っても勿体なくてやめられず、私もすでにありとあらゆる才能を凝らして
先生に付いて行こうとした。それでやっと先生の泰然としたあり方が漠然ながらに把握できるようにも
なったが、ただそのあり方に従えばいいだけにも関わらず、全く付いていくことができない』」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・子罕第九・一一)

東洋学のうちでは、初歩中の初歩に当たる人間道徳を体系化した孔子からして、やはり超人的なところがあり、
常人でありながら必死で孔子に付き従おうとした孔門の雄である顔淵も、夭折のうれき目に遭っている

修己治人は、治められる側が治める側に付き従いきれないほどにも、治める側の自助努力が究極的であるところに
達成されるものであり、治める側が治められる側に絶対服従を要求していられるほど、治める側が怠惰まみれと
化しているところでは決して達成され得ず、治める側の怠惰が治められる側にまで落とし込まれることともなる。

当然それは、修己治人が達成される場合と比べてより悪い結果しかもたらさず、治人に最善を尽くしていない
ことともなるから、権力道徳か権力犯罪かでいえば、権力犯罪に該当する所業とも原理的になるわけだ。

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146 2011/06/29(水) 11:57:30 ID:Da5cHU7wNA
脚本家の橋田壽賀子が昔、講演中に子供連れの母親から「良い母親になるためにはどうすれば」
と質問されたとき、その母親はまだ幼い子供をほっぽらかして講演に聞き入り、
子供は泣き喚いたり走り回ったりのわがまま放題で周囲に大迷惑をかけていたために、
「こんな講演には来ないで自分のお子さんをしっかり育て上げることです」と返答したそうな。

「金払って自分の講演を聴きに来た相手に言うようなことか」とも思うが、
言辞やその指し示すところの概念に囚われて、実践が疎かになるぐらいなら、
むしろ言葉や概念のほうを棄てて実践に努めたほうがよい。それは儒学とて同じことであり、
文の勉強ばかりに耽って、実践を疎かにするようなことがあってはならぬと、
孔子も以下のように述べている。仮に実践以上にも言葉や概念への耽溺を促すような
教義があるとすれば、それだけでも人間道徳に反する異端の邪学であるということがいえる。

「弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、
汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば、則ち以て文を学べ」
「若者たちよ、家に入るときは親への孝行を尽くし、外出したときにも悌順であり、
慎んで信実であるように。広く偏ることなく大衆を愛することで仁徳に親しみ、
それだけの実践を尽くしてなお余力が残っているようなら、そこで初めて文章を学ぶことだ」
(権力道徳聖書——通称四書五経——論語・学而第一・六より)

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147 2011/06/29(水) 21:44:23 ID:Da5cHU7wNA
学識ってのは、本を読めば読むだけ身に付く。
今の薄っぺらい教科書+ノートへの書き込みが主流な学校での勉強は、
ただの「記号試験」に受かるための能力が身に付くだけで、
学識は全く身に付かない上に、生きる上で何の役にも立たない
記号操作の勉強ばかりをやらされるせいで、勉学が嫌いになる原因にばかりなる。

学識は、本を読みさえすれば身に付くが、当然学識を身に付けるばかりが人生でもなく、
学んだ知識に相応の実践が追いつかなければならない。もっと言えば、勉学すら抜きにした
実践が、自然と学識の理に適うぐらいであるほうがいいわけで、ただ本能に赴くままでいて
完全に理に適うなんてこともなかなかないことだから、学識による実践の修正をも
踏まえるというのが、文武両道もとい、文と実践の両立の理想的な姿だといえる。

もちろん、「強盗殺人を成功させるための学識」なんてものも中にはあるわけで、
そういう劣悪な学識を決して実践せず、できることなら始めから取り入れもせず、
世のため人のためとなる優良な学識だけをよく取り入れて、実践するようにしなければならない。

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スレッドタイトル:聖書 Part6

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