ウパニシャッド哲学 世界最古の哲学にして、人類哲学の本流


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001 2011/03/04(金) 18:34:31 ID:Z/yErBN3aA
まるで当たり前の事実であるかのように、「哲学発祥の地はギリシャ」だの、
「詩文学の発祥地もギリシャ」だのの、全くの思い違いが公然とまかり通り続けているが、
世界最古の本格的な詩文学は、ギリシャのホメロスなどではなく、インドのヴェーダであり、
そのヴェーダに注解を施す形式で編み出された「ウパニシャッド」こそは、
ギリシャ哲学よりも数百年程度は先んじて発祥した、世界最古の哲学にあたる。

古代中国の諸子百家が、政治行為などに関連する実際論に終始した素朴な「思想」止まりで
あったのに対し、ウパニシャッドは、理念に昇華された思索を重んじる純粋な「哲学」であり、
その内容も、「人類哲学の先駆け」としての存在性にも見合った、極めて上質なものとなっている。

その、哲学的根幹に値する「梵我一如」は、日本人などには、密教や禅などの仏教哲学を通じて
知られている場合が多いが、元はといえば、ヴェーダの解釈学でもあるウパニシャッドの根本教理であり、
ヴェーダの絶対的権威を否定した釈迦が説いた「諸法無我」とも決定的な相違を伴っている。

思索が「ネーティ、ネーティ(〜ではない、〜ではない)」と、否定を重畳していくことによって
アートマン(真我)を把捉し、そのアートマンこそは最高真理ブラフマン(梵)とも同一であるとみなす
ところなどは、「思索の構造が真我であったり梵であったりすることはない」ということを定立しているわけで、
思考が自我であることはウパニシャッドによっては否定されるため、「我れ思う、ゆえに我れあり」の
デカルトのコギト論も、ウパニシャッドによってとっくの昔に完全否定されていることになる。

ヘーゲルが、インド哲学批判の論拠とした「構造体系の欠如」も、「思考それ自体が真我であったり
梵であったりすることはない」という、明確な理念に即して徹底されていることであり、批判材料にはあたらない。
もちろん、思考の絶対性を否定するインド哲学の姿勢が、思考を絶対化する西洋哲学の価値を一切合切無効化
してしまうものだから、西洋哲学者などにとっては特に受け入れがたいものでもあるのだろうが、思考の絶対性を
否定するインドのウパニシャッド哲学こそは、全地球人類にとっての、哲学の源流であると共に本流でもある。

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094 2011/08/24(水) 20:57:53 ID:bwdyP3dQ9w
>>93
いや、そうでなくて。
梵と我が一如だとするなら、それを証明する言葉はあるのかなと。

例えば、
<1>物を落とすと下に落ちるのはなぜ?と言われれば、
重力があるから、と答えられる。
では、
<2>重力があるのはなぜ?と聞かれれば…
世界がそのように出来てるから、としか言いようがないと思うけど、
専門的知識があればもう少し深く答えられるのかな。
でも、
<3>重力がある事の証明してよ、と言われれば、
物を落としてみればわかるわけ。

このような問答を梵我一如に当てはめると、
<1>は答え自体が梵我一如
<2>は多分、アートマンを把握してない凡人には理解できない、とか
それを問うこと自体肥大した自意識の現れ、とか言われるんだろうけど
専門的な理解をお持ちの>>1なら、深い答えを持っているのかな、と期待してる。
で<3>のように、梵我一如の証明となるような言葉があるならそれにも期待、と。

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095 2011/08/24(水) 22:38:17 ID:hSIuQ5.L8U
「夢すら見ない熟睡状態が梵我一如」とは、ウパニシャッドの方々に散見される記述。
その記述に即するなら、人間は夢すら見ない熟睡状態となって、また起きることができるから、
その「人間は熟睡が可能な生物である」という事実を以て、梵我一如もまた実在するという結論を導き出すことができる。

これと同じように、すべての生きとし生けるものはいつかは死んで、必ず個我と共に無に帰すから、
この「諸行無常」という事実を以て、諸法無我もまた真実であると結論付けることができる。

問題は、人が生存中の覚醒中に、梵我一如や諸法無我を悟れるかどうかであって、
それはやはり、自分自身が悟らないことには、悟れない。

そもそも、覚醒中の人間の個我が、思考の構造への帰納によって梵我一如や諸法無我を悟ることは、
思考の構造が真理ではないことを定立しているウパニシャッドや仏法とも矛盾している。
個我が思考の構造への執着を捨て去ったところにこそ、梵我一如や諸法無我があるとされているのだから、
思考の構造への帰納によって梵我一如や諸法無我が把握されることは、原理的に不能(インポ)だといえる。
画像削除(by投稿者)

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096 2011/08/24(水) 23:56:48 ID:hSIuQ5.L8U
そもそも、バラモンや仏者たちは、なぜ梵我一如や諸法無我の悟りを追い求めるのかといって、
それによって思考の構造(イデア)を構築していくことに執着することによる、個我の苦しみから脱却するため。

雑念雑考(イデア)への執着こそは、思考者の個我を苦しめる元凶中の元凶であり、その苦しみを紛らわす
ためにこそ、数多の他人を不幸や非業な死に追いやってまでもの、精神障害カルトや重権力犯罪を通じた
放辟邪侈までもが繰り返されるのだから、そもそもそのような、あらゆる災禍の元凶となる濁念(イデア)
への執着を断ち切るために、梵我一如や諸法無我の自覚的な悟りまでもが追い求められている。

濁悪な煩悩(イデア)への執着を、梵我一如や諸法無我の自覚的な悟りによって断ち切った結果、
個我が根本的な悩乱の苦しみから解き放たれて、カルト信仰や権力犯罪を通じての迷惑千万な放辟邪侈などを
志すこともなくなる。それが引いては世界平和や、人類の繁栄にも最大級に貢献することとなるために、
そのような梵我一如や諸法無我の把捉者の誕生が、「世界平和や人類繁栄の先駆者の誕生」としてめでたがられもする。
(シャンカラや竜樹菩薩も、「ウパディーシャ・サーハスリー」や「中論」で梵我一如や空の悟りを「めでたいこと」と言っている)

カルト信仰や、権力犯罪を通じての放辟邪侈をより推進するためにこそ、その原動力となる個我の苦しみを
思考の構造(イデア)の構築によって肥大化させようとするのに対し、そのような害悪の元凶となる悪念(イデア)への
執着を断ち切ることで、個我の苦しみを立ち消えにさせるために、梵我一如や諸法無我の悟りもまた追い求められるのだから、
悪念の構築によってこそ梵我一如や諸法無我を悟って、それをさらなる有害無益な放辟邪侈の推進に悪用しよう
などとするのは、そもそもの梵我一如や諸法無我の悟りを追い求める目的にも反しているといえる。

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097 2011/08/25(木) 22:19:30 ID:y6ocdrjKVk
>>95 >>96 いいね。期待したいい答え。ありがと。

で、またいろいと疑問が出てきたんだけど、とりあえず
>そもそも、覚醒中の人間の個我が、思考の構造への帰納によって梵我一如や諸法無我を悟ることは、
>思考の構造が真理ではないことを定立しているウパニシャッドや仏法とも矛盾している。
このへんについて教えを請いたい…んだけど、どう聞けばいいか上手く思いつかんので
たとえ話にして見る。気が向いたら答えてみて。

俺が御飯を食べるとする。
御飯食べなきゃ餓死す事を知っているし、食べたいと言う欲求もある。
そこに「真に美味しい御飯の食べ方は、口を開かない事」という真理が説かれたとする。
俺はこの真理を手に入れるにはどうすればいいか考える。
(栄養素抽出して点滴とか、テクノロジーによる解決は無しね)
一つは、ご飯を口の中にテレポートさせる、オカルト的手法。
そのためには己の中の超能力を目覚めさせる修行にふけることになるが、
まぁこれは論外。

続く

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098 2011/08/25(木) 22:19:43 ID:y6ocdrjKVk
一つは、ただひたすら口を開かずご飯を食べることについて考え続ける。
常識的には不可能な「真理」に挑み続けて、やがて俺は絶望するだろう。
しかしそれでもなお挑む事をやめなければ、いずれ俺の脳はその絶望から逃れるために、
記憶の中から御飯の味を再現して「食べたような気に」なってくるかもしれない。
実際、人の脳にはそのような機能もあるようだし、それが高じれば、
俺は、実際の御飯の味よりはるかに美味しいご飯を食べたような経験と手法を
臨場感をもって会得するかもしれない。
でもこれはカルト的手法。
実際はご飯は俺の体に入っては訳だし、こんなこと続けてりゃいずれ餓死する。
俺が自分の得た錯覚を「これが真理だ」と世に広めたりしたら、
多くの人間が餓死することになるだけだ。
結局、真理に基づいた食べ方の会得は、
世間的な常識や、そもそもそれを求める原因となった欲求からすら離れた
「悟り」を持ってしか為し得ない、と言うことになるのか。
そこでだ。
俺が悟りを経て、真理に基づいて御飯食べるとき、現象として茶碗のご飯は減って、
俺の体体重がその分増え、俺の体を維持するための栄養素になるんだろうか。
またその時の俺の姿は、そもそも御飯と俺には境界など無く、
ただ美味しいという感覚が御飯の本質として俺に追加されるだけで、
現象としての俺と言う存在の口が開いたとか開かないとか、栄養になったとか餓死したとかは
全て等価(もしくは無)である。という態度に、他者からは見えるんだろうか。

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099 2011/08/25(木) 23:05:12 ID:J./o4UMT9I
絵に描いた餅ではなく、本物の餅を食え。
そしたら空腹も癒される。

思考の構造には執着せず、処方の実相に帰一せよ。
そしたら実相の一介に過ぎない自己も満足する。

絵に描いた餅に満腹感を期待してもそれは満たされず、
思考の構造という虚構に自己の満足を追い求めても、どこまでも不満なまま。

粗食や断食も含めた、厳しい修行に励む出家者なども、
完全な虚構と、完全に不虚なる真実との明瞭な区別を付けて、
真実の不虚にのみ安んじて、無上の満足を得ることをこそ
根本目的としていることを勘違いしてはならない。

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100 2011/08/25(木) 23:50:41 ID:J./o4UMT9I
たかがジョブズの辞任報道だけで、ダウもNASDAQもみるみる下がる。

今のアメリカ人が、どれほど実経済に餓えているかということ。

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101 2011/08/27(土) 01:14:41 ID:pKQKrF8jEE:DoCoMo
ジョブズ引退で、日本の携帯産業をも圧迫している
スマートフォンの先行きが暗くなった。

そしたら日本の株価が上昇。それに釣られてアメリカの株価までもが上昇。
さらにそれに釣られて、全般的に下がり気味だった欧州の株価まで急上昇。

虚構でない実質がどこにあるのか、もう欧米人も気づいてんだよ。

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102 2011/11/15(火) 07:16:27 ID:pkxbb3Sq/Q
ちょっとちょっと、
根本聖典が消えかかっていますよ!
一体、インド人は、今まで何をやっていたのですか?

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103 2011/12/28(水) 16:52:53 ID:mC9gT5QqeE:au
インド人自身、最古級のヴェーダやウパニシャッドは象牙の塔に閉じ籠らせて、
マハーバーラタなどの比較的新規な聖典を広く受容するようになっているからなあ。

イギリスによる植民地支配の禍根で、アフリカ並みの荒廃に晒されたままの現状では、
古代の最優等文化を再興していく気にもなれはしないのだろうな。
日本だって武家時代以降は仏教文化が簡素化しているのだし。

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104 2012/05/09(水) 11:37:17 ID:W83gZujAQc:au
105 2012/05/09(水) 18:57:23 ID:W83gZujAQc:au
・大乗仏教は、仏教思想のウパニシャッド哲学による理論的補強。
・小乗仏教は仏教思想(阿含経典)、大乗仏教は仏教哲学(大乗経典)を司る。

と考えれば、それぞれの根本的な存在性を悟りやすいかと思う。

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106 2018/02/14(水) 20:45:16 ID:Kx.Ylss/bQ
古過ぎてわからん

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107 2018/02/14(水) 20:49:30 ID:Kx.Ylss/bQ
ギリシャうざいわな

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