そもそも、バラモンや仏者たちは、なぜ梵我一如や諸法無我の悟りを追い求めるのかといって、
それによって思考の構造(イデア)を構築していくことに執着することによる、個我の苦しみから脱却するため。
雑念雑考(イデア)への執着こそは、思考者の個我を苦しめる元凶中の元凶であり、その苦しみを紛らわす
ためにこそ、数多の他人を不幸や非業な死に追いやってまでもの、精神障害カルトや重権力犯罪を通じた
放辟邪侈までもが繰り返されるのだから、そもそもそのような、あらゆる災禍の元凶となる濁念(イデア)
への執着を断ち切るために、梵我一如や諸法無我の自覚的な悟りまでもが追い求められている。
濁悪な煩悩(イデア)への執着を、梵我一如や諸法無我の自覚的な悟りによって断ち切った結果、
個我が根本的な悩乱の苦しみから解き放たれて、カルト信仰や権力犯罪を通じての迷惑千万な放辟邪侈などを
志すこともなくなる。それが引いては世界平和や、人類の繁栄にも最大級に貢献することとなるために、
そのような梵我一如や諸法無我の把捉者の誕生が、「世界平和や人類繁栄の先駆者の誕生」としてめでたがられもする。
(シャンカラや竜樹菩薩も、「ウパディーシャ・サーハスリー」や「中論」で梵我一如や空の悟りを「めでたいこと」と言っている)
カルト信仰や、権力犯罪を通じての放辟邪侈をより推進するためにこそ、その原動力となる個我の苦しみを
思考の構造(イデア)の構築によって肥大化させようとするのに対し、そのような害悪の元凶となる悪念(イデア)への
執着を断ち切ることで、個我の苦しみを立ち消えにさせるために、梵我一如や諸法無我の悟りもまた追い求められるのだから、
悪念の構築によってこそ梵我一如や諸法無我を悟って、それをさらなる有害無益な放辟邪侈の推進に悪用しよう
などとするのは、そもそもの梵我一如や諸法無我の悟りを追い求める目的にも反しているといえる。
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